東京難民(福澤徹三)
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最近「生き方」について考える機会が多い。
っていうか正直、そんなのもっと早くから考えとけよ、って感じではあるだろう。普通の人は、就活の時にでも嫌っていうほど考えるんだろうし、折々の人生の転機や節目で、そういうことについて思いを巡らすに違いない。
でも僕は正直、今までそういうことを考えたことが全然なかった。というか、意識して考えないようにしてきた。
うまく説明できないんだけど、どうしても、今の自分の「生き方」に違和感がある。それは、もっと良い生き方が出来るはずなのに、という方向の違和感ではない。そうではなくてむしろ、どうして必死こいて働かないといけないんだろうなぁ、という方向の違和感だ。いや、別に仕事が嫌いなわけではない。僕は、かなり奇跡的に、面白いしストレスもあまりない仕事をしている。そういう意味では、今の仕事に不満があるわけではない。ただ、「どうしてこんな風に働いているんだろう」と思うことはある。
『ひとは幸福を金であがなおうとする。金があれば幸福になれると信じている。だが金で買えるのは快楽であって、真の幸福ではない。快楽を幸福だとすれば、それを得られないと不幸になる。だから、いまの世の中は不幸な人間だらけだ』
作中である人物が、大学生からホームレスに転落した主人公にそう言う場面がある。
僕は、やりたことも欲しいことも極端に少ない。ほとんどないと言っていいと思う。これがなければ生きていけないというものはないし、何を食べたって不満はないし、こんな風に遊びたいという欲求も特にない。マイホームが欲しいわけでも、海外旅行をしたいわけでも、何か名を残したいわけでもない。本当に、「やりたいこと」なんていうのはほとんどない。ただ、もし自分にそこまで努力しないでも発揮できる能力があるとして、それを誰かのために使うことでその人の役に立つのであれば、まあそれは割といいかもしれない、と思う。でもホント、それぐらいなものだ。
基本的に、やる気も気力もない。自分でも、何やってるんだろうなぁ、というぐらいグデグデした人生なんだけど、グデグデしていることが不満なわけではない。なんというか、そこまで欲求がない人間が、「お金を稼ぐ」ことの虚しさみたいなものを感じているのだろうか。何か目標や欲しいものややりたいことがあるなら、それを実現するためにお金を稼げばいい。ただ僕には、特にそれはない。だったら、もっと違う生き方が模索出来るのではないか、というようなことを考え始めている。
ちょっと前に、福島に行ったことも、一つ大きなきっかけだっただろう。
「人生の豊かさ」ってなんだろう、と考えさせられた。僕は、お金を使わなければ実現できない欲求は、あまり持っていない。だから、生活が成り立ちさえすれば、お金はあまり要らないと言っていい。逆に、福島に行った時には、田植えもさせてもらったし(ずっとやるとなると大変だろうけど)、人との距離も近かったし(まあツアーだったわけで、お客さんだから当然かもしれないけど)、それになんと言っても、会う人会う人がみんな自分の人生に充足感を持っているように見えたのだ(錯覚かもしれないけど)。
福島は、未だに原発の影響で様々に厳しい環境にある。働く場所としても、住む場所としても、辛い現実が横たわっている。その上で、福島に住み続けている人がいる。それは、他に選択肢がなく仕方なくという人もきっと多くいるのだろう。しかし、「自分はここに生きるのだ」という強い意思で住み続けている人も多くいるはずだ。
つい先日、「ナガサレーテ イエタテール」という、津波で流された実家を建て直すコミックエッセイを読んだ。実家を建て直す直接的なきっかけになったのは、祖母の有り様だ。川崎に避難してきた祖母は、みるみる弱っていく。しかし、地元に戻ると人が変わったように元気になる。祖母の中で、そこに戻りたいという意思があまりにも強く、周りの人間が折れた形だ。
その思いの強さはきっと、どれだけお金を出しても手に入らないものだろうと思う。
僕は少しずつ、そういう生き方に気を取られ始めている。お金ではない何かを介すことで成立するコミュニティに目が向いている。もちろん、想像だけならどんな生活でも描ける。きっと、現実は厳しいだろう。そう簡単に行くはずがない。
しかし一方で、少しずつ今、若者が地方へと移住し始めている。そこには様々な要因があって、一つの理由だけで説明できるようなものではないだろうけど、いずれにしても若者たちはきっと、今の社会への違和感を敏感に感じ取って、それに取り込まれないようにと地方へと目を向けるのかもしれない。
『そう。新商品とか流行とかいえば聞こえはいいけど、あらたな不幸を生産してるんだ。幸せになるためには、それを手に入れるしかない。その結果、消費でしか幸せを感じられない人間ばかりになってしまった』
自分もモノを売っているから、「不幸を生産してる」人間の一人だ。実際に、自分の仕事とは関係のない部分でも、「こんなモノが売れちゃう社会って、おかしくないかなぁ」と思うことはある。今の社会は、「必要でない人に必要だと思わせてお金を使わせる」一方で、「必要な人間には必要なものが行き届きにくい」社会だと思う。こういう社会の一員として生きていていいのか。そういう違和感が、少しずつ降り積もっている。
状況はこれからどんどん悪化していくことだろう。今売れているものでもいずれ売れなくなるし、今売れていないものはこれからもっと売れなくなっていくだろう。それは、努力だけで太刀打ち出来るような現実ではないと思ってしまう。モノはサービスは増え続けている(だろう)のに、人口は減り続けるのだ。みんな、そういう現実に目を瞑って全力で駆け抜けるしかない、と思っているのだろう。まあ、その通りだ。この社会の一員として生きていくなら、そうする以外に方法はない。でも、自分がそういう生き方をしたいかと聞かれると、答えに窮する。
その時代を生きている人間には、その時代の特異さは気付けないだろう。高度経済成長期の日本の労働者の勤労時間は恐らく異常だったはずだが、しかしその当時それをおかしいと思っていた人間がどれだけいたか。少なくとも、それが大多数ではなかったからこそ、高度経済成長期という時代が成立したのだろう。今だって、僕のような違和感を抱いている人が大多数ではないからこそ、今という時代が成立しているのだろうと思う。でもいずれどこかで、パラダイムシフトが起こるだろうと思う。一気にとはいかないかもしれないけど、どこかで価値観が転換するきっかけがやってくるだろう。その時、それまで築いてきた足場はすぐに崩れるかもしれない。本書の主人公の修のように、あっさりと足元を掬われるかもしれない。
内容に入ろうと思います。
主人公の修は、漢字で名前が書ければ入学できると噂されるほどの私立大学の三年生。授業はサボリ気味で、自堕落な生活を続けてきた。
夏休み明け、友人から、クラス担任が連絡を取りたがっていると聞かされる。ケータイを変えたばかりで伝えていなかったのだ。どうせ課題の話だろうと避けていたが、ある日ばったり会ってしまう。そして修はそこで、衝撃の事実を聞かされることになるのだ。
学費未納で除籍。
もう学生ではないと告げられ絶句する修。一体何がどうなっているのか分からない。北九州の親は何をしているんだ?実家に電話を掛けても繋がらない。さらに、仕送りが入らず家賃を滞納し即座に追い出され、友人宅に身を寄せる修は、出来るだけ現金を早く手にしたくて日払いのアルバイトを転々とするが、あらゆるトラブルが起こり金は一向に貯まらない。そうこうしている内に修は、底なし沼に嵌るかのようにまったく抜け出せない現実に放り込まれ…。
というような話です。
自分の未来の人生を見せられているようで、なんとも言えない気分になりました(笑)。ここで描かれていることが「リアル」なのかどうかは、経験のない僕には分からないけど、ただ誰しもが修のようになりうると思わされる作品でした。非常に身につまされたし、面白い作品でした。
さっきも書いたけど、本当に修に降りかかった現実は、誰にでも起こりうることだと思う。都会に住んでいればいるほど、セーフティーネットがない。それは、人との繋がりの薄さという自由を求めたが故の代償だ。都会は、人と関わらなくて済む代わりに、困った時に助けになってくれる人もとても少ない。修は、そうなって初めてその状況に気付かされるのだ。
これはきっと、誰しもがそうだろう。人との繋がりの薄さという自由に甘えて、それがどんな代償をもたらすのか理解できていない。だからこそ、そうならなければその現実に気付けない。修もまさにその通りで、そうなってみて初めて、これまで自分が立っていた足場の不安定さに気付かされるのだ。
だからこそ、これは、都会に住むあらゆる人に関わる物語だろう。どれだけ立派な仕事についていようが、どれだけ素晴らしい家に住んでいようが、たぶん関係ない。修と同じ形で転落していくかは別として、都会には様々な罠があるし、一旦そこに捕まったら、這い上がるのは容易ではない。
敷金礼金ゼロ物件についても、本書を読んで初めて詳しく知ることができた。
普通家賃をひと月滞納したぐらいでは部屋を追い出すことはできない。法律でそうなっているようだ。しかし、敷金礼金ゼロ物件は、合法的に法律の穴をくぐり抜けて、すぐに追い出せる仕組みになっているのだ。だから修は、すぐに宿なしになってしまった。これも、知ってさえいればまだどうにかなったかもしれない。巧妙に隠された罠だなぁと思う。
宿を失った修は、一時友人宅に身を寄せるが、ちょっとしたプライドが邪魔をして飛び出すハメになる。そこからの転落っぷりは、目を覆いたくなるぐらいだ。
『いまの社会そのものがいけないんだよ。椅子そのものが足りないのに、努力しろといわれたって、どうにもならない。だから必要以上に自分を責めることはない。責められるべきなのは、こういう世の中を作りだした連中なんだ』
これを負け犬の遠吠えと呼ぶかどうかは同時代では判断できないだろうけど、僕も似たようなことを思う。仕事の数と人の数が釣り合っていない。働きたくても働けない現実がある。それは、つい先日読んだ、「助けてと言えない」というノンフィクションを読んでも思った。「助けてと言えない」は、激増する若者のホームレスの問題にメスを入れたNHKクローズアップ現代のドキュメンタリーを書籍化したもので、まさに本書は「助けてと言えない」を小説に落とし込んだような作品でした。自己責任という言葉に縛られ、他人を頼ることが出来ない。自分をホームレスだと認めることが出来ずに、助けの手を差し伸べられてもその手を掴むことが出来ない。修もまさにそういう人間であり、本書を読んだ若者の多くが、「もし自分がこんな風に転落したら、修みたいになってしまうかも」と思うことだろう。もっと早くに、誰かに助けを求めればよかったかもしれないし、差し伸べてくれた手を掴めばよかったかもしれない。でも、なかなかそれが出来ない。そういう現実の有り様を、うまく描き出しているように思いました。
『まじめにコツコツやれば、なんとかなるって時代じゃないんや。それなのにそう思いこんどる奴が多いから、おれたちが怠け者みたいにいわれる』
目の前の現実が厳しくなかった時代なんて、これまでなかったかもしれない。でもやっぱり、今を生きる僕らは、目の前の現実がこれまでのどの時代よりも厳しく見えてしまう。「普通の人生」というものが崩れ、目指すべきモデルケースが失われ、それでも前に進み続けなければならない時代に生きている僕たち。常に面積の小さくなっていくパイを奪い合いながら、自分が生き抜くために誰かを貶めたり不幸にしたりせざるを得なくなっていく僕たち。僕たちには、輝くような未来もないし、手触りのいい今もない。まずそこに立つしかない。そしてそこから、自分の進むべき道を探し出していく。本書の主人公の姿は、決して他人事ではない。普段はあらゆるものに隠されているだけで、実はすぐそこにぽっかりと空いている落とし穴。どこでどう生きるか。それを強く問われているように感じました。是非読んでみて下さい。
福澤徹三「東京難民」
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