流星の絆(東野圭吾)
図書館の人ってのは、どれぐらい本のことを知っているのだろうか、なんて考えてしまうことがある。というより、まさに今がその場面なのであった。
図書館という空間は比較的好きで、本を読むわけでも借りるわけでもない時でもふらっと立ち寄ったりする。真夏には冷房を求めて、真冬には暖房を求めてということももちろんあるのだけど、あの周囲すべてが本で圧倒されている空間というのがただ単純に好きなのだと思う。
この図書館に通うようになってもう3年近くになると思うが、やはりその全体を把握しきることはなかなか難しいものがある。私は、誰だったか忘れたのだけど昔の偉人の、図書館の本を全部読んでしまった、というエピソードに強く惹かれるのだ。もちろん私の場合、全部読むことなど到底出来ない。だからこそ、せめて図書館のどこに何があるのかを見て、そのすべてのタイトルと目次と著者紹介だけでもすべて目を通そう、という目標を持っているのだ。本当に、他人からすればどうでもいい目標でも、私は結構真剣なのだ。
ただこれがなかなか進まない。面白そうな本があるとつい読み始めてしまったり、もちろん時々借りたりもする。その間、次の本に進むことは出来ないので(これは私が決めたルール)、遅々として進まないというのが実際のところだ。
しかしそうやって棚に並んでいるものを一冊一冊丁寧に見ていったことが思わぬ発見に繋がった、とも言えるだろう。
それは、料理本のコーナーに挿してあった一冊だった。確かにタイトルに「作り方」という言葉が入っているけど、それにしたってこの間違いは酷いだろう、と思った。だから初めは、誰かがきっと戻し間違えたに違いない、と思ったのだ。
「流れ星の作り方」というその本は、しかし普通ではなかった。まず図書館のものであることを示すシールやはんこが押されていない。また、本のどこを調べてみても、奥付と呼ばれる発行年や発行者の書かれたページがないし、裏表紙にISBNと呼ばれる発行されるすべての本につけられるはずのコードもない。つまりこれは、誰かが個人的に作った本だ、ということだ。普通の出版流通にはそもそも乗ってない本。それが何故ここにあるかと言えば、作った誰かが多くの人に読んでもらいたくて勝手に図書館の棚に挿した、ということなのだろう。だから私は思ったのだ。図書館の人は、館内にある本についてどこまで知っているのだろう、と。
その本は、地味だけど味のある絵が表紙で、大きさといい雰囲気といい絵本のような趣があった。タイトルと併せて考えてみても、本当に絵本なのかもしれない。
しかし中を開いてみると、どちらかと言えば設計図という雰囲気の本であることがわかった。右側のページに説明書きがあり、左のページにその図説が載っている、というもので、パラパラと捲って見る限り、本当に流れ星の作り方について解説している本だと分かった。
この本は面白そうだ、と思った。本当に流れ星が作れるのかどうかは別にしても、ここに書かれているやり方でちょっと作ってみたい。でも一つ大きな問題がある。この本が図書館の蔵書ではなさそうだ、ということだ。
この本をカウンターに持っていったらどうなるだろう。図書館の蔵書ではないけど貸し出してくれるだろうか。いやきっとそうはならない気がする。かと言って勝手に持ち出すのもどうかと思う。見咎められても、図書館の本であることを示すものは何もないのだから大丈夫だとは思うが、しかし万引きをしているようで気分が悪い。
だから結局私はすべて書き写すことにした。幸いそんなに分量はない。省略しながら書けば20分ぐらいで何とかなるだろう。
それから私は買い物をしてから家に戻った。買ったものはもちろん、流れ星を作るのに必要な材料である。もちろん流れ星が作れるなんて思ってもいないが、しかし遊びとしてやってみるのも面白いじゃない、と思う。
作り方は、材料が多いことを除けばそんなに難しいことはなかった。例えばこんな風なことが書いてある。
『砂糖と塩をそれぞれ100グラムずつフライパンに入れ、3分ほどよくかき混ぜながら熱してください。熱し終わったらトレイに移し、しばらく冷蔵庫で冷やしてください』
『硫化水素ナトリウムに亜鉛を加え、密閉した容器の中へいれて下さい。1時間ほどするとガスが出終わると思うので、最後の段階までそのまま置いておいてください』
『テニスボールを除光液に浸しておいてください。10個ぐらいあるといいです』
とにかく私は、そんなよくわからない指示に律儀に従いながら、レシピ通りに流れ星を完成させた。時間は掛かったが、どこにもミスはないはずだし、あの本が正しければこれは流れ星になるはずだった。
最後の仕上げは、その出来上がった『玉』を出来るだけ高いところから下に向かって投げろ、というものだった。私の部屋はマンションの14階にあるので、窓からその『玉』を放り投げてみた。
するとその『玉』は落ちながら輪郭がどんどん薄くなっていき、それを見た私は慌てて空を見上げた。
すーっと流れ星が流れて行った。
やった、成功だ。本当に流れ星って作れるんだ。私は嬉しくなって、これからもたくさん流れ星を作ろう、と決めた。何だかそれが自分で作った偽者だったとしても、流れ星を眺めるのは結構爽快なのだ。
しかし、この決断が世界を少しだけ不幸にするということに、私はまだ気づいていなかった。
「流れ星の作り方」という本をきちんと最後まで読んでいれば、流れ星を作ろうなんて思わなかったかもしれない。レシピを書き写すことだけに夢中で、その部分より後は読んでいなかったのだ。
「流れ星の作り方」の終わりの方には、こんなことが書かれている。
『人工の流れ星に祈った場合、願い事とが逆のことが叶うという性質が知られています。作る際にはその点よく注意してください』
一銃「流れ星の作り方」
そろそろ内容に入ろうと思います。
14年前、その事件は起きた。ある三兄弟の運命を完全に変えてしまった事件だった。
功一と泰輔は、流星を見ようと夜中抜け出すことにした。妹の静奈はまだ小さいから置いていくつもりだったのだが、起きてしまったので一緒に連れて行くことにした。
結局曇り空で流星を見ることが出来なかった。残念だったなぁ、と思いながら帰ると、両親が殺されていたのだった。
彼らは児童施設に入れられることになった。そうしてそれらか、彼らは三人で力を併せて生きていかなくてはいけなくなったのだ。
大人になった彼らは、常習の詐欺師になっていた。功一が作戦を練り、泰輔と静奈が実行するというやり方は、完璧なぐらい常に上手くいった。これまで騙されてきたばっかりの彼らは、どうせなら常に騙す側に回るしかない、と思って生きていた。
功一がある男をターゲットに絞った。功一はその詐欺を最後に足を洗うことに決めていて、それは泰輔と静奈にも伝えってあった。
その男は、「とがみ亭」という洋食屋チェーンの社長の息子で、彼から一千万円ふんだくろう、という計画だった。
しかしある時「とがみ亭」の社長の姿を見た泰輔が驚くようなことを口にした。なんと、両親の殺害された夜裏口から出てきた男そのものだ、というのだ。かくして彼らは、詐欺ではなく社長をいかにして警察に逮捕させるかという計略を練ることにしたのだが…。
というような作品です。
結構面白かったです。もちろん東野圭吾と言えば、「白夜行」や「時生」や「秘密」や「手紙」などのようなずば抜けた傑作をたくさん書いている作家なんで、そういう作品と比べるとやや落ちる感じだけど、でも僕は結構いいなと思いました。そもそも、最近出した「夜明けの街で」と「ダイイングアイ」があまりにもつまらなかったので、そういう意味でもまあよかったかなと思いました。
話は単純で、両親を殺した犯人だと思われる男をいかに追い詰めるか、というものなんだけど、やっぱり東野圭吾は上手いなと思いました。話の展開のさせかたが巧みなんですね。やっぱり東野圭吾はミステリを書かせたら一流だなと思いました。
とにかく細かいところにまで気を配っていることはすごくよく分かる感じでした。東野圭吾のミステリというのはそういう特徴があって、何でもないと思っていたことが実は伏線だったというのはまあ普通にしても、本筋とはあんまり関係ないけど、物語に厚みを持たせるという意味では非常に効果的な様々な描写というのが多くて感心させられます。具体的にどうこう書くのがすごく難しいんで説明しづらいんですけど、ちょっとした行動の理由とか、些細な感情の揺れとか、過去との関わりとか、やっぱ上手く説明できないけど、要するにそういういろんな部分について的確に理由を用意したり、必要な整合性を持たせるのがすごい上手い作家で、本作でもその力が遺憾なく発揮されていたように思いました。
本作は、「ゲームの名は誘拐」にかなり近い雰囲気を持つ作品だと思います。「ゲームの名は誘拐」は犯人側の視点しか描かれないのに対して、本作では罠を仕掛ける側と掛けられる側、そして警察と様々な視点が入り乱れているのが違うといえば違いますが、何らかの計略を相手に仕掛け、それが成功するかどうかという興味で読者をひっぱる辺りはかなり近いかなと思いました。
今回計画を練る功一というのがやっぱりなかなか頭が良くて、東野圭吾はこう言う緻密な頭の良さを持った登場人物を書くのが結構上手い気がします。天才みたいなキャラクターを描くのはあんまり得意ではないかもしれませんが、理詰めで考えて結果を出せる秀才タイプのキャラクターを描くのは得意だろうなと思います。
また、静奈も結構よくて、常に男を手玉に取る役回りなんだけど、ちゃんと男を観察してそれに応じてやり方を変える辺りなかなかだなと思います。そんな静奈も、実は本気で恋に落ちちゃったりなんかして、まあいろいろあって面白いです。
泰輔もいいキャラしてます。泰輔は、変装の達人、というキャラクターで、どんな人間にでも成りすますことが出来るわけです。銀行員や宝石商や刑事など、とにかくその役にぴたっと嵌まるところが重宝されます。
もともと一千万の詐欺のターゲットにされた「とがみ亭」の社長の息子というのが戸神行成というのだけど、この行成のキャラも相当よかったですね。仕事のことばかりに頭が向いていて、他のことはてんでダメなんだけど、すごくちゃんとした好青年で素晴らしいですね。まあそりゃ静奈も惚れるでしょうよ、という感じです。
最後もなかなか驚かせる展開になっているし、途中この計略が一体どうなるのかという部分もすごく読ませます。静奈と行成の関係も気になるし、それ以上に行成の父親の出方が気になるわけで、まあ普通のエンターテイメントとして十分楽しめる作品に仕上がっていると思います。東野圭吾の本領発揮とは言えないと思いますが、水準以上の作品であることは確かだと思います。結構面白いです。読んでみてください。
東野圭吾「流星の絆」
図書館という空間は比較的好きで、本を読むわけでも借りるわけでもない時でもふらっと立ち寄ったりする。真夏には冷房を求めて、真冬には暖房を求めてということももちろんあるのだけど、あの周囲すべてが本で圧倒されている空間というのがただ単純に好きなのだと思う。
この図書館に通うようになってもう3年近くになると思うが、やはりその全体を把握しきることはなかなか難しいものがある。私は、誰だったか忘れたのだけど昔の偉人の、図書館の本を全部読んでしまった、というエピソードに強く惹かれるのだ。もちろん私の場合、全部読むことなど到底出来ない。だからこそ、せめて図書館のどこに何があるのかを見て、そのすべてのタイトルと目次と著者紹介だけでもすべて目を通そう、という目標を持っているのだ。本当に、他人からすればどうでもいい目標でも、私は結構真剣なのだ。
ただこれがなかなか進まない。面白そうな本があるとつい読み始めてしまったり、もちろん時々借りたりもする。その間、次の本に進むことは出来ないので(これは私が決めたルール)、遅々として進まないというのが実際のところだ。
しかしそうやって棚に並んでいるものを一冊一冊丁寧に見ていったことが思わぬ発見に繋がった、とも言えるだろう。
それは、料理本のコーナーに挿してあった一冊だった。確かにタイトルに「作り方」という言葉が入っているけど、それにしたってこの間違いは酷いだろう、と思った。だから初めは、誰かがきっと戻し間違えたに違いない、と思ったのだ。
「流れ星の作り方」というその本は、しかし普通ではなかった。まず図書館のものであることを示すシールやはんこが押されていない。また、本のどこを調べてみても、奥付と呼ばれる発行年や発行者の書かれたページがないし、裏表紙にISBNと呼ばれる発行されるすべての本につけられるはずのコードもない。つまりこれは、誰かが個人的に作った本だ、ということだ。普通の出版流通にはそもそも乗ってない本。それが何故ここにあるかと言えば、作った誰かが多くの人に読んでもらいたくて勝手に図書館の棚に挿した、ということなのだろう。だから私は思ったのだ。図書館の人は、館内にある本についてどこまで知っているのだろう、と。
その本は、地味だけど味のある絵が表紙で、大きさといい雰囲気といい絵本のような趣があった。タイトルと併せて考えてみても、本当に絵本なのかもしれない。
しかし中を開いてみると、どちらかと言えば設計図という雰囲気の本であることがわかった。右側のページに説明書きがあり、左のページにその図説が載っている、というもので、パラパラと捲って見る限り、本当に流れ星の作り方について解説している本だと分かった。
この本は面白そうだ、と思った。本当に流れ星が作れるのかどうかは別にしても、ここに書かれているやり方でちょっと作ってみたい。でも一つ大きな問題がある。この本が図書館の蔵書ではなさそうだ、ということだ。
この本をカウンターに持っていったらどうなるだろう。図書館の蔵書ではないけど貸し出してくれるだろうか。いやきっとそうはならない気がする。かと言って勝手に持ち出すのもどうかと思う。見咎められても、図書館の本であることを示すものは何もないのだから大丈夫だとは思うが、しかし万引きをしているようで気分が悪い。
だから結局私はすべて書き写すことにした。幸いそんなに分量はない。省略しながら書けば20分ぐらいで何とかなるだろう。
それから私は買い物をしてから家に戻った。買ったものはもちろん、流れ星を作るのに必要な材料である。もちろん流れ星が作れるなんて思ってもいないが、しかし遊びとしてやってみるのも面白いじゃない、と思う。
作り方は、材料が多いことを除けばそんなに難しいことはなかった。例えばこんな風なことが書いてある。
『砂糖と塩をそれぞれ100グラムずつフライパンに入れ、3分ほどよくかき混ぜながら熱してください。熱し終わったらトレイに移し、しばらく冷蔵庫で冷やしてください』
『硫化水素ナトリウムに亜鉛を加え、密閉した容器の中へいれて下さい。1時間ほどするとガスが出終わると思うので、最後の段階までそのまま置いておいてください』
『テニスボールを除光液に浸しておいてください。10個ぐらいあるといいです』
とにかく私は、そんなよくわからない指示に律儀に従いながら、レシピ通りに流れ星を完成させた。時間は掛かったが、どこにもミスはないはずだし、あの本が正しければこれは流れ星になるはずだった。
最後の仕上げは、その出来上がった『玉』を出来るだけ高いところから下に向かって投げろ、というものだった。私の部屋はマンションの14階にあるので、窓からその『玉』を放り投げてみた。
するとその『玉』は落ちながら輪郭がどんどん薄くなっていき、それを見た私は慌てて空を見上げた。
すーっと流れ星が流れて行った。
やった、成功だ。本当に流れ星って作れるんだ。私は嬉しくなって、これからもたくさん流れ星を作ろう、と決めた。何だかそれが自分で作った偽者だったとしても、流れ星を眺めるのは結構爽快なのだ。
しかし、この決断が世界を少しだけ不幸にするということに、私はまだ気づいていなかった。
「流れ星の作り方」という本をきちんと最後まで読んでいれば、流れ星を作ろうなんて思わなかったかもしれない。レシピを書き写すことだけに夢中で、その部分より後は読んでいなかったのだ。
「流れ星の作り方」の終わりの方には、こんなことが書かれている。
『人工の流れ星に祈った場合、願い事とが逆のことが叶うという性質が知られています。作る際にはその点よく注意してください』
一銃「流れ星の作り方」
そろそろ内容に入ろうと思います。
14年前、その事件は起きた。ある三兄弟の運命を完全に変えてしまった事件だった。
功一と泰輔は、流星を見ようと夜中抜け出すことにした。妹の静奈はまだ小さいから置いていくつもりだったのだが、起きてしまったので一緒に連れて行くことにした。
結局曇り空で流星を見ることが出来なかった。残念だったなぁ、と思いながら帰ると、両親が殺されていたのだった。
彼らは児童施設に入れられることになった。そうしてそれらか、彼らは三人で力を併せて生きていかなくてはいけなくなったのだ。
大人になった彼らは、常習の詐欺師になっていた。功一が作戦を練り、泰輔と静奈が実行するというやり方は、完璧なぐらい常に上手くいった。これまで騙されてきたばっかりの彼らは、どうせなら常に騙す側に回るしかない、と思って生きていた。
功一がある男をターゲットに絞った。功一はその詐欺を最後に足を洗うことに決めていて、それは泰輔と静奈にも伝えってあった。
その男は、「とがみ亭」という洋食屋チェーンの社長の息子で、彼から一千万円ふんだくろう、という計画だった。
しかしある時「とがみ亭」の社長の姿を見た泰輔が驚くようなことを口にした。なんと、両親の殺害された夜裏口から出てきた男そのものだ、というのだ。かくして彼らは、詐欺ではなく社長をいかにして警察に逮捕させるかという計略を練ることにしたのだが…。
というような作品です。
結構面白かったです。もちろん東野圭吾と言えば、「白夜行」や「時生」や「秘密」や「手紙」などのようなずば抜けた傑作をたくさん書いている作家なんで、そういう作品と比べるとやや落ちる感じだけど、でも僕は結構いいなと思いました。そもそも、最近出した「夜明けの街で」と「ダイイングアイ」があまりにもつまらなかったので、そういう意味でもまあよかったかなと思いました。
話は単純で、両親を殺した犯人だと思われる男をいかに追い詰めるか、というものなんだけど、やっぱり東野圭吾は上手いなと思いました。話の展開のさせかたが巧みなんですね。やっぱり東野圭吾はミステリを書かせたら一流だなと思いました。
とにかく細かいところにまで気を配っていることはすごくよく分かる感じでした。東野圭吾のミステリというのはそういう特徴があって、何でもないと思っていたことが実は伏線だったというのはまあ普通にしても、本筋とはあんまり関係ないけど、物語に厚みを持たせるという意味では非常に効果的な様々な描写というのが多くて感心させられます。具体的にどうこう書くのがすごく難しいんで説明しづらいんですけど、ちょっとした行動の理由とか、些細な感情の揺れとか、過去との関わりとか、やっぱ上手く説明できないけど、要するにそういういろんな部分について的確に理由を用意したり、必要な整合性を持たせるのがすごい上手い作家で、本作でもその力が遺憾なく発揮されていたように思いました。
本作は、「ゲームの名は誘拐」にかなり近い雰囲気を持つ作品だと思います。「ゲームの名は誘拐」は犯人側の視点しか描かれないのに対して、本作では罠を仕掛ける側と掛けられる側、そして警察と様々な視点が入り乱れているのが違うといえば違いますが、何らかの計略を相手に仕掛け、それが成功するかどうかという興味で読者をひっぱる辺りはかなり近いかなと思いました。
今回計画を練る功一というのがやっぱりなかなか頭が良くて、東野圭吾はこう言う緻密な頭の良さを持った登場人物を書くのが結構上手い気がします。天才みたいなキャラクターを描くのはあんまり得意ではないかもしれませんが、理詰めで考えて結果を出せる秀才タイプのキャラクターを描くのは得意だろうなと思います。
また、静奈も結構よくて、常に男を手玉に取る役回りなんだけど、ちゃんと男を観察してそれに応じてやり方を変える辺りなかなかだなと思います。そんな静奈も、実は本気で恋に落ちちゃったりなんかして、まあいろいろあって面白いです。
泰輔もいいキャラしてます。泰輔は、変装の達人、というキャラクターで、どんな人間にでも成りすますことが出来るわけです。銀行員や宝石商や刑事など、とにかくその役にぴたっと嵌まるところが重宝されます。
もともと一千万の詐欺のターゲットにされた「とがみ亭」の社長の息子というのが戸神行成というのだけど、この行成のキャラも相当よかったですね。仕事のことばかりに頭が向いていて、他のことはてんでダメなんだけど、すごくちゃんとした好青年で素晴らしいですね。まあそりゃ静奈も惚れるでしょうよ、という感じです。
最後もなかなか驚かせる展開になっているし、途中この計略が一体どうなるのかという部分もすごく読ませます。静奈と行成の関係も気になるし、それ以上に行成の父親の出方が気になるわけで、まあ普通のエンターテイメントとして十分楽しめる作品に仕上がっていると思います。東野圭吾の本領発揮とは言えないと思いますが、水準以上の作品であることは確かだと思います。結構面白いです。読んでみてください。
東野圭吾「流星の絆」
はじめての<超ひも理論> 宇宙・力・時間の謎を解く(川合光)
もうダメだわ。
自分の中でも、何がダメなのかいまいちはっきりと言葉にすることは出来ないが、しかし僕はもうダメなんだということだけがくっきりと明確に心に浮かび上がってくる。もうどうしようもない。生きていたって仕方ない。ここのところ、毎日そんなことばかり考えて生きてきた。
何もかもがうまくいかない。何もかもがよくない方向へ進んでいく。僕の人生はまさにその連続で、30数年経った今でもまったく変わることはない。もうダメだ、ともう何回思ったかわからないことをまた考えてしまう。
もう死ぬしかないな、こりゃ。
僕はホームセンターで買ってきたロープを木の枝に通した。本当は自分の部屋で死ぬつもりだったのだが、ロープを引っ掛ける時になって無理だと気づいた。部屋の天井にはロープを引っ掛けるようなところがどこにもなかったのだ。仕方ないなと思い、踏み台として使うつもりの分厚い本を何冊か持って、近くにある神社の裏手の森までやってきたのだった。そこは森というほど大きくはないのだけど、辺り一面木や草が生い茂り、ちょっと奥に入れば視界すべてが木に覆われるような、そんな場所である。
この世に未練はない。守るべきものも何もないし、やりたいことだって何もない。今の状況で出来ることなど何一つないし、僕が死んで哀しむ人間だってそういないはずだ。ロープをしっかりと木に括りつけ、片方を輪っかに結ぶ。初めてなので勝手が分からないが、首吊り自殺をするほとんどの人は初めての経験のはずだ、と思うと何だか気が楽になった。
準備は出来た。地面に本を重ねて置き、その上に乗る。あとはロープの輪っかに首を通して本を崩せば、それで終わりだ。
目を閉じながらロープの輪っかに首を通す。その瞬間、どこからか声が聞こえた。
「やぁ」
まずい、見つかったと思った。反射的に身体が固まってしまい、動けなくなった。しかし、とりあえず目だけは開けることが出来た。
目の前には近未来的な都市が広がっていた。
自分が何を目にしているのかさっぱり理解できないまま、その光景に目を奪われてしまった。それはまさに、19世紀の人々が想像した未来そのものと言った感じで、車は空を飛ぶし、見たこともないほどの高層ビルが何棟も立ち並んでいる。僕はその中で、横断歩道の前に立っているのだった。道路の反対側にはパン屋があった。こんな近未来的な都市の中で、パン屋っていうのはちょっと浮いているな、などと冷静に思ったりもした。
そういえばロープがないような気がする。僕の首に巻きついているはずのロープはどうなったのだろう。
「ねぇおじさん、ここの人じゃないでしょ?」
声の存在のことをすっかり忘れていた。右を向くとそこには、小学生ぐらいの男の子が立っていた。僕の方を見て、何だか楽しそうに笑っている。
「どっか違うところから来たんでしょ?僕そういうのすぐ分かっちゃうんだ」
まあ確かにそうだ。こんな都市は見たこともないし、ここがどこなのかもさっぱり分からない。
「僕が案内してあげようか?」
少年は屈託がない。僕が誰なのかも分からないはずなのに、案内をしてくれるというのだ。まあ確かに、突然こんな世界に放り出されて、どうしていいのか分からないのも確かだ。しかしそもそも僕は死のうとしていたんじゃなかったのか、と思い出してなおさら混乱してしまう。どうなっているのだろう。
「ほらおじさん。青になったよ」
今気づいたが、少年の顔はどうも見覚えがあるような気がする。しかし、頭が混乱しているせいなのか、記憶には浮かばない。
「ねぇ、青信号になったら渡れるっていうの知らないわけ?ほら行くよ」
そう言って少年は僕の右手を引っ張る。つられて僕は右足を前に一歩出す。
その瞬間、足元が崩れた。目の前の風景は瞬時に木々生い茂る森に変わり、さらに次の瞬間にはもう真っ暗になっていた。
そういえばあの少年は、僕自身に似ているのかもしれない。僕は未来の子孫に殺されたということになるのだろうか。何が何だか分からない、と途切れる寸前の意識の中で僕はそんなことを考えた。
一銃「自殺者の夢」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、物理学で今最も注目されている「超ひも理論」について書いている本です。
「超ひも理論」というのは大雑把に言えば、すべてのものは粒子ではなく振動するひもから出来ている、というものです。この振動するひもという概念を取り入れると、それまでの物理学では解明されなかった様々な問題を一挙に解決することが出来るかもしれない、と目されていて、また世の中のすべての理論を説明する「セオリー・オブ・エブリシング(万物の理論)」にもなりうるのではないか、と期待されているわけです。
本作ではそんな超ひも理論について、どういう成り立ちで出来たのか、超ひも理論ではどんなことが解決される可能性があるのか、今何がわかっているのかというようなことについて書いてあります。
しかし、僕としてはあんまり面白くない内容でした。それは、簡単すぎたとかそういう話じゃ全然ありません。本作ももちろん読むのは結構難しかったんですけど、つい最近読んだ「ワープする宇宙」と比べると大きく落ちる内容だなと思いました。
本作と「ワープする宇宙」の差は何かというと、難しい部分を省いているかどうか、ということになります。
本作を含め、大抵の理系的な入門書というのは、基本的に難しい部分を省くという形で書かれることが多いです。つまり、「難しいものを省いたもの=入門書」というような図式が見られるように思います。
ただ僕はこういうのは好きではありません。本当に、ある物理理論について概略をざっと知りたいという人にはいいかもしれませんが、ただこういう本を読もうという人にはそういう人は少ないような気が僕にはするんです。なんとなく知った気になりたいというよりは、難しくてもいいから深いところまで知りたいという人の方が多いような気がします。
僕としては、難しいかどうかはこっちで決めるから、書く方としては省略をせず出来る限り説明をするべきだと思っています。読む側が難しくて理解できないと判断すればそこは飛ばせばいいだけの話です。
どうも、「分かりやすく説明すること=難しい部分を省略すること」と勘違いをしているのではないかと思います。確かにパッと見の難しさは軽減するかもしれませんが、しかし面白さも同時にかなり失われてしまうと思うわけです。
一方の「ワープする宇宙」は超ひも理論だけではなく、近年のありとあらゆる物理学的な進展について書かれた本ですが、とにかく難しい部分を一切省かずに書いています。ただちゃんと説明をしながらも、この部分は難しいので読まなくてもいいですよ、というようなことが書いてあります。こっちの方が入門書としてはよほど親切だと僕は思うわけです。とにかく、難しい理解しにくい部分も含めて全部書く。理解出来るかどうかは読者が判断すればいい。そういう本が僕は好きです。
実際近年の物理学的な進歩というのは、誰がどう書いたって難しいに決まっているわけなんです。そもそも物理学というのは、世間一般の常識とはかけ離れた理論や解釈を持ち出す世界になってしまっているわけで、難しいに決まっているわけです。だから、どうやったってどうせ難しいなら、難しい部分も省かずにきちんと丁寧に書いて欲しいなと思ったりします。
本作は、だから何だかぼんやりした感じでした。それぞれの章の要点がいまいち掴めないし、全体の流れとしてもいまいちスムーズではないような気がしました。僕は「ワープする宇宙」を読んで超ひも理論について漠然と知っていたのでまだ分かりましたが、そうじゃない人には漠然としすぎていて掴み所がないんじゃないかなと思ったりしました。
というわけで僕としてはオススメしません。とにかく、一般性相対性理論以降の近年の物理学の変遷について知りたければ、リサ・ランドールの「ワープする宇宙」を読んでください。これまで読んできた本の中でも「ワープする宇宙」はとにかくトップクラスに面白い理系学術作品でした。確かに難しいですけど、本作を読むより遥かに知的好奇心が満たされることと思います。
川合光「はじめての<超ひも理論> 宇宙・力・時間の謎を解く」
自分の中でも、何がダメなのかいまいちはっきりと言葉にすることは出来ないが、しかし僕はもうダメなんだということだけがくっきりと明確に心に浮かび上がってくる。もうどうしようもない。生きていたって仕方ない。ここのところ、毎日そんなことばかり考えて生きてきた。
何もかもがうまくいかない。何もかもがよくない方向へ進んでいく。僕の人生はまさにその連続で、30数年経った今でもまったく変わることはない。もうダメだ、ともう何回思ったかわからないことをまた考えてしまう。
もう死ぬしかないな、こりゃ。
僕はホームセンターで買ってきたロープを木の枝に通した。本当は自分の部屋で死ぬつもりだったのだが、ロープを引っ掛ける時になって無理だと気づいた。部屋の天井にはロープを引っ掛けるようなところがどこにもなかったのだ。仕方ないなと思い、踏み台として使うつもりの分厚い本を何冊か持って、近くにある神社の裏手の森までやってきたのだった。そこは森というほど大きくはないのだけど、辺り一面木や草が生い茂り、ちょっと奥に入れば視界すべてが木に覆われるような、そんな場所である。
この世に未練はない。守るべきものも何もないし、やりたいことだって何もない。今の状況で出来ることなど何一つないし、僕が死んで哀しむ人間だってそういないはずだ。ロープをしっかりと木に括りつけ、片方を輪っかに結ぶ。初めてなので勝手が分からないが、首吊り自殺をするほとんどの人は初めての経験のはずだ、と思うと何だか気が楽になった。
準備は出来た。地面に本を重ねて置き、その上に乗る。あとはロープの輪っかに首を通して本を崩せば、それで終わりだ。
目を閉じながらロープの輪っかに首を通す。その瞬間、どこからか声が聞こえた。
「やぁ」
まずい、見つかったと思った。反射的に身体が固まってしまい、動けなくなった。しかし、とりあえず目だけは開けることが出来た。
目の前には近未来的な都市が広がっていた。
自分が何を目にしているのかさっぱり理解できないまま、その光景に目を奪われてしまった。それはまさに、19世紀の人々が想像した未来そのものと言った感じで、車は空を飛ぶし、見たこともないほどの高層ビルが何棟も立ち並んでいる。僕はその中で、横断歩道の前に立っているのだった。道路の反対側にはパン屋があった。こんな近未来的な都市の中で、パン屋っていうのはちょっと浮いているな、などと冷静に思ったりもした。
そういえばロープがないような気がする。僕の首に巻きついているはずのロープはどうなったのだろう。
「ねぇおじさん、ここの人じゃないでしょ?」
声の存在のことをすっかり忘れていた。右を向くとそこには、小学生ぐらいの男の子が立っていた。僕の方を見て、何だか楽しそうに笑っている。
「どっか違うところから来たんでしょ?僕そういうのすぐ分かっちゃうんだ」
まあ確かにそうだ。こんな都市は見たこともないし、ここがどこなのかもさっぱり分からない。
「僕が案内してあげようか?」
少年は屈託がない。僕が誰なのかも分からないはずなのに、案内をしてくれるというのだ。まあ確かに、突然こんな世界に放り出されて、どうしていいのか分からないのも確かだ。しかしそもそも僕は死のうとしていたんじゃなかったのか、と思い出してなおさら混乱してしまう。どうなっているのだろう。
「ほらおじさん。青になったよ」
今気づいたが、少年の顔はどうも見覚えがあるような気がする。しかし、頭が混乱しているせいなのか、記憶には浮かばない。
「ねぇ、青信号になったら渡れるっていうの知らないわけ?ほら行くよ」
そう言って少年は僕の右手を引っ張る。つられて僕は右足を前に一歩出す。
その瞬間、足元が崩れた。目の前の風景は瞬時に木々生い茂る森に変わり、さらに次の瞬間にはもう真っ暗になっていた。
そういえばあの少年は、僕自身に似ているのかもしれない。僕は未来の子孫に殺されたということになるのだろうか。何が何だか分からない、と途切れる寸前の意識の中で僕はそんなことを考えた。
一銃「自殺者の夢」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、物理学で今最も注目されている「超ひも理論」について書いている本です。
「超ひも理論」というのは大雑把に言えば、すべてのものは粒子ではなく振動するひもから出来ている、というものです。この振動するひもという概念を取り入れると、それまでの物理学では解明されなかった様々な問題を一挙に解決することが出来るかもしれない、と目されていて、また世の中のすべての理論を説明する「セオリー・オブ・エブリシング(万物の理論)」にもなりうるのではないか、と期待されているわけです。
本作ではそんな超ひも理論について、どういう成り立ちで出来たのか、超ひも理論ではどんなことが解決される可能性があるのか、今何がわかっているのかというようなことについて書いてあります。
しかし、僕としてはあんまり面白くない内容でした。それは、簡単すぎたとかそういう話じゃ全然ありません。本作ももちろん読むのは結構難しかったんですけど、つい最近読んだ「ワープする宇宙」と比べると大きく落ちる内容だなと思いました。
本作と「ワープする宇宙」の差は何かというと、難しい部分を省いているかどうか、ということになります。
本作を含め、大抵の理系的な入門書というのは、基本的に難しい部分を省くという形で書かれることが多いです。つまり、「難しいものを省いたもの=入門書」というような図式が見られるように思います。
ただ僕はこういうのは好きではありません。本当に、ある物理理論について概略をざっと知りたいという人にはいいかもしれませんが、ただこういう本を読もうという人にはそういう人は少ないような気が僕にはするんです。なんとなく知った気になりたいというよりは、難しくてもいいから深いところまで知りたいという人の方が多いような気がします。
僕としては、難しいかどうかはこっちで決めるから、書く方としては省略をせず出来る限り説明をするべきだと思っています。読む側が難しくて理解できないと判断すればそこは飛ばせばいいだけの話です。
どうも、「分かりやすく説明すること=難しい部分を省略すること」と勘違いをしているのではないかと思います。確かにパッと見の難しさは軽減するかもしれませんが、しかし面白さも同時にかなり失われてしまうと思うわけです。
一方の「ワープする宇宙」は超ひも理論だけではなく、近年のありとあらゆる物理学的な進展について書かれた本ですが、とにかく難しい部分を一切省かずに書いています。ただちゃんと説明をしながらも、この部分は難しいので読まなくてもいいですよ、というようなことが書いてあります。こっちの方が入門書としてはよほど親切だと僕は思うわけです。とにかく、難しい理解しにくい部分も含めて全部書く。理解出来るかどうかは読者が判断すればいい。そういう本が僕は好きです。
実際近年の物理学的な進歩というのは、誰がどう書いたって難しいに決まっているわけなんです。そもそも物理学というのは、世間一般の常識とはかけ離れた理論や解釈を持ち出す世界になってしまっているわけで、難しいに決まっているわけです。だから、どうやったってどうせ難しいなら、難しい部分も省かずにきちんと丁寧に書いて欲しいなと思ったりします。
本作は、だから何だかぼんやりした感じでした。それぞれの章の要点がいまいち掴めないし、全体の流れとしてもいまいちスムーズではないような気がしました。僕は「ワープする宇宙」を読んで超ひも理論について漠然と知っていたのでまだ分かりましたが、そうじゃない人には漠然としすぎていて掴み所がないんじゃないかなと思ったりしました。
というわけで僕としてはオススメしません。とにかく、一般性相対性理論以降の近年の物理学の変遷について知りたければ、リサ・ランドールの「ワープする宇宙」を読んでください。これまで読んできた本の中でも「ワープする宇宙」はとにかくトップクラスに面白い理系学術作品でした。確かに難しいですけど、本作を読むより遥かに知的好奇心が満たされることと思います。
川合光「はじめての<超ひも理論> 宇宙・力・時間の謎を解く」
仏果を得ず(三浦しをん)
「本当にすごい映画だったんだ」
三日前、居酒屋でばったり会ったかつての友人は、ほろ酔い加減の口調でそう口にした。
「まさか、自分が出てくる映画を見せられることになるとはなぁ」
ノボルは今映画館の前にいる。友人が見たという映画を、自分も観てみるつもりなのだ。
「初めはさ、いつも見てる映画と大して変わらなかったんだよ。いつも通り予告があってさ、携帯電話を切れよみたいなのがあって、それから本編が始まるわけだ。タイトルが出てさ、どっかの工場地帯を背景に役者の名前がポツポツ出てくるわけだ」
その映画のことは、ノボルも知っていた。ただ知っていることは友人には告げなかった。
「で話が始まるわけなんだけどさ、どうもおかしいんだよな。見ている風景に、どうも見覚えがあるんだよ。あれっとか思ってさ。だってそんなわけないだろ?そりゃあさ、ロケ地が俺の地元だったということはありえるかもしれないよ。でもそういうんじゃないんだ。なんかこう、懐かしさを伴うっていうのかな。見覚えがあるっていうか、その風景と自分が分かちがたく関係しているっていうか、そんな感じなんだよ」
その映画は、ジワジワと話題を集め、今日も映画館には行列が出来ていた。これは危険だな、と思いながらノボルは最後尾につく。
「初めは風景が続くんだな。人なんかほとんど出てこないの。まあ、通行人Aみたいなやつらはいるけどな。これ何の話なんだろうなぁ、ってちょっと痺れを切らしそうになった頃に、やっと登場人物が出てくるわけなんだけどさ、それが驚いたのなんのって」
ここに並んでいる人々は、この映画についてどれだけの知識を持っているのだろうか。きっと何も考えていないのだろう。ちょっと面白そうだから見てみようよ、なんてそんなことしか考えていないに違いない。
「出てきたのはさ、まさしく俺だったんだよね」
きっと、つい先日「個人情報保護法」の条項が改定されたこともほとんど知らないに違いない。ノボルには関係ないことだから構わないが、お気樂なものだ、と思う。
「えっ、って声を上げたよ。それがさ、不思議なことに、館内にいた客のほとんどが声を上げてたんだな。でもその時はそんなことに気は回らんよ。何で俺が映画に出てるんだって、もう混乱するしかなかったよ」
行列は次第に進んでいき、ノボルはチケットを買った。上映される劇場を確認してから、すぐそこへ向かう。
「それからのストーリーはさ、まあ要するに俺の話だったわけなんだな。なんていうかまとまりのないストーリーではあったんだけど、俺の小さい頃のことからの成長とか、初めて彼女が出来た時のこと、学校での思い出、万引きして見つかった時のこと、そういうのをさ淡々と描くんだよ。ありゃ参ったね」
ノボルは自分の両親のことを考えている。恐らくだが、この映画を考案したのは両親に違いないと思う。彼らの目的が手に取るようにして分かるので、正直うんざりするのだ。
「一緒に映画を観に行った女の子がいるんだけどさ、まさかこんなのを見せられることになるなんて思わなかったから恥ずかしくって、ちょうど初恋の話になった時、いや俺あそこまでかっこ悪くなかったよ、って言ってみたのよ。そしたらさ、えっ何の話?っていうわけだよ。聞いてみるとさ、その映画は彼女には彼女の話として映ってるらしいんだな」
映画の上映が始まる。予告や注意事項が画面から流れ、ようやく本編が始まる。しかしノボルには、何の映像も見えない。ただ真っ白な画面がひたすらに続くだけだ。やっぱりな、とノボルは確信した。しばらくすると、会場のあちこちから「えっ」という声が上がる。
「たぶん皆観てるものが違ったんだろうけどさ、でもそんな映画ありえるか?映画が終わってからもさ、みんな狐につままれたような顔をしてたよ。まあ俺もきっとそうだったんだろうけどな」
ノボルの目に映画が映らない理由は明白だ。ノボルはロボットなのだ。そしてこの映画は、ロボットには見えない映画なのだ。
この映画の仕組みは、単純に言ってしまえば記憶の投影装置ということになる。映写機からは、客席に向けて人の目には見えない波長の光が放出されていて、それが人間の脳の記憶にぶつかり反射することで、スクリーンに映像が浮かび上がる仕組みになっている。だから映画を観に行った人は当然それぞれの記憶を見ていることになるし、ロボットであり人間のような形では記憶を持たないノボルにはこの映画は見えないのだ。
両親はアメリカ最大の機械メーカーで研究員として働いている。彼らは、人間と同じ機能を持ち、かつ一般に普及しうるロボットのプロトタイプとしてノボルを作り出した。世界中での展開を考えているため、アメリカのみならず世界各国に同じようなプロトタイプが送られて、実験データが取られている。日本に送られたのがノボルだ。
両親の働く機械メーカーは最終的にロボットを世界中に普及させるのが目的だ。しかしそれには一つの問題が生じる。人間と見分けのつかないロボットであるほど、人間との区別が必要な時に困ることになる。それを見越していた彼らは、人間とロボットを非接触で区別する方式を生み出す必要があったのだ。
それがこの映画だ。この人間とロボットを区別するシステムの実験のために、このシステムを映画と謳って実験をしているのだろう。
また、このシステムは既に政財界への根回しも済んでいるはずだ。政府としては、別の目的でこのシステムを使いたいのだ。つまり、人間の記憶を映写出来るこのシステムは、警察での取調べやスパイの尋問などに大いに役に立つ。ロボットを普及させたいメーカーと、システムを別の目的で使いたい各国政府の思惑が一致して、これほど大々的な展開になっているのだろうと思う。
先日「個人情報保護法」の条項が改定されたのも、このシステムの導入を見越してのことだろう。つまり、記憶というものの扱いについて新たに付け加えたのだ。このシステムのことを知らない人々には、何のための改定なのかさっぱり分からなかったから話題にもならなかったが、しかし恐らく近い将来、自分の記憶を勝手に覗き見られる社会が実現してしまうことだろう。
劇場内は未だ驚きの声で満ちている。驚くのはまだ早いよ、とノボルは彼らに言ってやりたくなった。
一銃「自分主演映画」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は文楽を舞台にした作品です。文楽というのは僕もちゃんと理解できたわけではないので説明は難しいんですけど、人形遣いと三味線と語り部(義太夫)とが一体となって物語を語るという形式の芸だそうです。まあ歌舞伎とか落語とか、そういう昔の演芸という感じなんでしょうね。
健は、銀太夫という人間国宝にして義太夫の名手に弟子入りしている。もう十年以上も銀太夫について稽古をつけてもらっている。銀太夫というのはプライベートではちゃらんぽらんな男だが、芸となると神がかっている。かつてその義太夫の姿に圧倒され、健は文楽の道を歩み始めたのだ。
日々銀太夫のお世話をしながら稽古に励む。まだまだうまくいかない。もっとやらないといけない。芸の道は本当に厳しいと痛感させられる。
そんなある日のこと、突然健の相方が決定した。義太夫というのは三味線とコンビを組むのが普通だ。これまで健には特定の三味線というのはいなかったのだが、銀太夫のひと言で決まったのだ。
それが兎一郎だった。
兎一郎の評判をひと言で集約すれば、変人、ということになる。なんやかんやと噂は絶えない。が一方で、三味線にかけては一流だという評価は一定している。健は実は兎一郎とほとんど喋ったことがない。何だか気が重いが、しかし師匠の決めたことは絶対である。
案の定兎一郎は厄介な人間だった。しかしそれでも、芸の道を邁進しようと、健は兎一郎と共に稽古に励んでいく。
芸の精進に悩む健と、その周辺の日常を面白おかしく描いた作品です。
三浦しをんというのはやっぱすごい作家だなと思うわけです。どういう点でかと言えば、読んだ人間に興味を持たせるのである。
例えば、同じく三浦しをんの著作に「風が強く吹いている」というのがあるけど、これは駅伝の話でした。僕はそれまで駅伝というのはつまらないと思っていたわけです。何でただ走っているだけの映像を正月ひたすら流しとるねん、みたいな風にしか思っていなかったし、それを見るなんて発想は全然ありませんでした。
でも、「風が~」を読んで、おぉ駅伝っていうのも面白そうだなぁ、とか思ったわけです。それでそれを読んだ年は駅伝をテレビで見てしまうほどでした。
他の作家だとなかなかこうはいかないわけです。例えば、同じ年に話題になった、佐藤多佳子の「一瞬の風になれ」と森絵都の「DIVE!!」ですが、共にスポーツを題材に扱った作品です。でも、もちろんこの二作もずば抜けて面白かったわけですが、でもそこで扱われているスポーツそのものには興味が向かないんですよね。「一瞬の風になれ」では陸上を、「DIVE!!」では飛び込みを扱っているんですけど、どっちもやりたいとか観たいという風にはならなかったわけです。三浦しをんの「風が強く吹いている」だけが、その対象そのものに興味を起こさせたわけです。
本作も同じですね。例えば古典芸能を扱った作品だと、佐藤多佳子の「しゃべれどもしゃべれども」とか、田中啓文の「ハナシがちがう!」なんかがパッと思い浮かびます。共に落語を扱っているんですけど、それらの作品はもちろん面白かったんですけど、でも落語自体には興味は向かなかったんです。
でも本作では、どんなものなのかもさっぱり分からない文楽というものに、やっぱりちょっと惹かれている自分がいますね。ほんと不思議だなと思います。たぶん文楽は観にいくことはないと思うけど、でも古典芸能なんか絶対僕には理解できないだろうなと思っているのに、文楽はちょっと観てみたいなんて風に思うわけですね。
恐らくこの違いは、三浦しをんの持つその対象への愛みたいなものが深いからだと思うんですよね。駅伝の方はどうか知りませんけど、三浦しをんは一時期(今もかもしれないけど)文楽にかなりはまったみたいですね。文楽の観賞記みたいな本も出てるみたいですし。本を書くために選んだ題材ではなくて、心の底から本当に好きになってしまったものを描いているからこそ、読者によりその愛みたいなものを伝えることになって、結果読んだ人がその対象に興味を持つようになるのではないかなと思います。
本作では、文楽特有なんだと思われる用語やモノなんかが説明もなく出てきたりするのでよくわからない部分もあったんですけど、それでも文楽というものの熱っぽい雰囲気みたいなものがひしひしと伝わって来てアツアツって感じでした。正直、健や銀太夫や兎一郎が文楽のどこにそんなに惚れ込んでいるのかっていうのはよく分からなかったですけど、でも彼らがその世界に異常なまでに惚れ込んでいて、そして生涯を掛けて少しでも高みに上りたいという思いがすごくよく伝わってきます。だけどストーリーはそれだけじゃなくて、脱力するようなヘナヘナな出来事が起きたり、どうしようもない登場人物が出てきたり、健は何故かラブホテルに住んでたりと、三浦しをんっぽい変な世界観も混じっているので、読みやすいなと思います。
夫婦喧嘩もあり、恋愛もあり、ちょっとした事件もあり、謎めいた人間関係もあり、とまあ結構盛りだくさんなストーリーだと思います。
あと本作は、内容的には全然ミステリじゃないんですけど、構造的にはミステリだなと思いました。ミステリというか、「名探偵コナン」的とか「金田一」的っていう感じですけど。
「コナン」とか「金田一」話って、まず事件が起こって、それから日常の些細な出来事にそれぞれの探偵がヒントを得て事件を解決する、というパターンを踏襲しますよね。本作もそういうパターンになっているわけなんです。ただ本作で解決されるのは、文楽の解釈になります。
健は日々あらゆる話の稽古をするわけなんですが、文楽というのはその話の内容をいかに自分なりに解釈するかで出来が変わってきたりするわけですね。少なくとも健は、自分の中でストーリーが未消化の状態ではちゃんとした語りが出来ないくちなんです。
文楽の話には、現代の感覚からするとよくわからない登場人物が出てきます。健は、彼らに感情移入しようとするんですが、どうしても出来ないわけです。
でも、日常の些細な出来事がきっかけになって、健に新たな解釈が生まれるわけです。なるほど、彼らはこういうことでこういう行動をしていたのか!と膝を打つわけです。そういう構成が、僕はミステリっぽいなという感じがしました。本作が連載されてたのも「小説推理」っていう名前の雑誌みたいですしね。
というわけで、「風が強く吹いている」と比べると僕の中では落ちますが、でも面白い作品でした。文楽というものにちょっと興味が出てくるかもしれませんよ。個人的には、ミラちゃんと真智さんがすごいいいなと思いました。健としては大変だったでしょうけど。
まあそんなわけで、是非是非読んでみてください。
三浦しをん「仏果を得ず」
三日前、居酒屋でばったり会ったかつての友人は、ほろ酔い加減の口調でそう口にした。
「まさか、自分が出てくる映画を見せられることになるとはなぁ」
ノボルは今映画館の前にいる。友人が見たという映画を、自分も観てみるつもりなのだ。
「初めはさ、いつも見てる映画と大して変わらなかったんだよ。いつも通り予告があってさ、携帯電話を切れよみたいなのがあって、それから本編が始まるわけだ。タイトルが出てさ、どっかの工場地帯を背景に役者の名前がポツポツ出てくるわけだ」
その映画のことは、ノボルも知っていた。ただ知っていることは友人には告げなかった。
「で話が始まるわけなんだけどさ、どうもおかしいんだよな。見ている風景に、どうも見覚えがあるんだよ。あれっとか思ってさ。だってそんなわけないだろ?そりゃあさ、ロケ地が俺の地元だったということはありえるかもしれないよ。でもそういうんじゃないんだ。なんかこう、懐かしさを伴うっていうのかな。見覚えがあるっていうか、その風景と自分が分かちがたく関係しているっていうか、そんな感じなんだよ」
その映画は、ジワジワと話題を集め、今日も映画館には行列が出来ていた。これは危険だな、と思いながらノボルは最後尾につく。
「初めは風景が続くんだな。人なんかほとんど出てこないの。まあ、通行人Aみたいなやつらはいるけどな。これ何の話なんだろうなぁ、ってちょっと痺れを切らしそうになった頃に、やっと登場人物が出てくるわけなんだけどさ、それが驚いたのなんのって」
ここに並んでいる人々は、この映画についてどれだけの知識を持っているのだろうか。きっと何も考えていないのだろう。ちょっと面白そうだから見てみようよ、なんてそんなことしか考えていないに違いない。
「出てきたのはさ、まさしく俺だったんだよね」
きっと、つい先日「個人情報保護法」の条項が改定されたこともほとんど知らないに違いない。ノボルには関係ないことだから構わないが、お気樂なものだ、と思う。
「えっ、って声を上げたよ。それがさ、不思議なことに、館内にいた客のほとんどが声を上げてたんだな。でもその時はそんなことに気は回らんよ。何で俺が映画に出てるんだって、もう混乱するしかなかったよ」
行列は次第に進んでいき、ノボルはチケットを買った。上映される劇場を確認してから、すぐそこへ向かう。
「それからのストーリーはさ、まあ要するに俺の話だったわけなんだな。なんていうかまとまりのないストーリーではあったんだけど、俺の小さい頃のことからの成長とか、初めて彼女が出来た時のこと、学校での思い出、万引きして見つかった時のこと、そういうのをさ淡々と描くんだよ。ありゃ参ったね」
ノボルは自分の両親のことを考えている。恐らくだが、この映画を考案したのは両親に違いないと思う。彼らの目的が手に取るようにして分かるので、正直うんざりするのだ。
「一緒に映画を観に行った女の子がいるんだけどさ、まさかこんなのを見せられることになるなんて思わなかったから恥ずかしくって、ちょうど初恋の話になった時、いや俺あそこまでかっこ悪くなかったよ、って言ってみたのよ。そしたらさ、えっ何の話?っていうわけだよ。聞いてみるとさ、その映画は彼女には彼女の話として映ってるらしいんだな」
映画の上映が始まる。予告や注意事項が画面から流れ、ようやく本編が始まる。しかしノボルには、何の映像も見えない。ただ真っ白な画面がひたすらに続くだけだ。やっぱりな、とノボルは確信した。しばらくすると、会場のあちこちから「えっ」という声が上がる。
「たぶん皆観てるものが違ったんだろうけどさ、でもそんな映画ありえるか?映画が終わってからもさ、みんな狐につままれたような顔をしてたよ。まあ俺もきっとそうだったんだろうけどな」
ノボルの目に映画が映らない理由は明白だ。ノボルはロボットなのだ。そしてこの映画は、ロボットには見えない映画なのだ。
この映画の仕組みは、単純に言ってしまえば記憶の投影装置ということになる。映写機からは、客席に向けて人の目には見えない波長の光が放出されていて、それが人間の脳の記憶にぶつかり反射することで、スクリーンに映像が浮かび上がる仕組みになっている。だから映画を観に行った人は当然それぞれの記憶を見ていることになるし、ロボットであり人間のような形では記憶を持たないノボルにはこの映画は見えないのだ。
両親はアメリカ最大の機械メーカーで研究員として働いている。彼らは、人間と同じ機能を持ち、かつ一般に普及しうるロボットのプロトタイプとしてノボルを作り出した。世界中での展開を考えているため、アメリカのみならず世界各国に同じようなプロトタイプが送られて、実験データが取られている。日本に送られたのがノボルだ。
両親の働く機械メーカーは最終的にロボットを世界中に普及させるのが目的だ。しかしそれには一つの問題が生じる。人間と見分けのつかないロボットであるほど、人間との区別が必要な時に困ることになる。それを見越していた彼らは、人間とロボットを非接触で区別する方式を生み出す必要があったのだ。
それがこの映画だ。この人間とロボットを区別するシステムの実験のために、このシステムを映画と謳って実験をしているのだろう。
また、このシステムは既に政財界への根回しも済んでいるはずだ。政府としては、別の目的でこのシステムを使いたいのだ。つまり、人間の記憶を映写出来るこのシステムは、警察での取調べやスパイの尋問などに大いに役に立つ。ロボットを普及させたいメーカーと、システムを別の目的で使いたい各国政府の思惑が一致して、これほど大々的な展開になっているのだろうと思う。
先日「個人情報保護法」の条項が改定されたのも、このシステムの導入を見越してのことだろう。つまり、記憶というものの扱いについて新たに付け加えたのだ。このシステムのことを知らない人々には、何のための改定なのかさっぱり分からなかったから話題にもならなかったが、しかし恐らく近い将来、自分の記憶を勝手に覗き見られる社会が実現してしまうことだろう。
劇場内は未だ驚きの声で満ちている。驚くのはまだ早いよ、とノボルは彼らに言ってやりたくなった。
一銃「自分主演映画」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は文楽を舞台にした作品です。文楽というのは僕もちゃんと理解できたわけではないので説明は難しいんですけど、人形遣いと三味線と語り部(義太夫)とが一体となって物語を語るという形式の芸だそうです。まあ歌舞伎とか落語とか、そういう昔の演芸という感じなんでしょうね。
健は、銀太夫という人間国宝にして義太夫の名手に弟子入りしている。もう十年以上も銀太夫について稽古をつけてもらっている。銀太夫というのはプライベートではちゃらんぽらんな男だが、芸となると神がかっている。かつてその義太夫の姿に圧倒され、健は文楽の道を歩み始めたのだ。
日々銀太夫のお世話をしながら稽古に励む。まだまだうまくいかない。もっとやらないといけない。芸の道は本当に厳しいと痛感させられる。
そんなある日のこと、突然健の相方が決定した。義太夫というのは三味線とコンビを組むのが普通だ。これまで健には特定の三味線というのはいなかったのだが、銀太夫のひと言で決まったのだ。
それが兎一郎だった。
兎一郎の評判をひと言で集約すれば、変人、ということになる。なんやかんやと噂は絶えない。が一方で、三味線にかけては一流だという評価は一定している。健は実は兎一郎とほとんど喋ったことがない。何だか気が重いが、しかし師匠の決めたことは絶対である。
案の定兎一郎は厄介な人間だった。しかしそれでも、芸の道を邁進しようと、健は兎一郎と共に稽古に励んでいく。
芸の精進に悩む健と、その周辺の日常を面白おかしく描いた作品です。
三浦しをんというのはやっぱすごい作家だなと思うわけです。どういう点でかと言えば、読んだ人間に興味を持たせるのである。
例えば、同じく三浦しをんの著作に「風が強く吹いている」というのがあるけど、これは駅伝の話でした。僕はそれまで駅伝というのはつまらないと思っていたわけです。何でただ走っているだけの映像を正月ひたすら流しとるねん、みたいな風にしか思っていなかったし、それを見るなんて発想は全然ありませんでした。
でも、「風が~」を読んで、おぉ駅伝っていうのも面白そうだなぁ、とか思ったわけです。それでそれを読んだ年は駅伝をテレビで見てしまうほどでした。
他の作家だとなかなかこうはいかないわけです。例えば、同じ年に話題になった、佐藤多佳子の「一瞬の風になれ」と森絵都の「DIVE!!」ですが、共にスポーツを題材に扱った作品です。でも、もちろんこの二作もずば抜けて面白かったわけですが、でもそこで扱われているスポーツそのものには興味が向かないんですよね。「一瞬の風になれ」では陸上を、「DIVE!!」では飛び込みを扱っているんですけど、どっちもやりたいとか観たいという風にはならなかったわけです。三浦しをんの「風が強く吹いている」だけが、その対象そのものに興味を起こさせたわけです。
本作も同じですね。例えば古典芸能を扱った作品だと、佐藤多佳子の「しゃべれどもしゃべれども」とか、田中啓文の「ハナシがちがう!」なんかがパッと思い浮かびます。共に落語を扱っているんですけど、それらの作品はもちろん面白かったんですけど、でも落語自体には興味は向かなかったんです。
でも本作では、どんなものなのかもさっぱり分からない文楽というものに、やっぱりちょっと惹かれている自分がいますね。ほんと不思議だなと思います。たぶん文楽は観にいくことはないと思うけど、でも古典芸能なんか絶対僕には理解できないだろうなと思っているのに、文楽はちょっと観てみたいなんて風に思うわけですね。
恐らくこの違いは、三浦しをんの持つその対象への愛みたいなものが深いからだと思うんですよね。駅伝の方はどうか知りませんけど、三浦しをんは一時期(今もかもしれないけど)文楽にかなりはまったみたいですね。文楽の観賞記みたいな本も出てるみたいですし。本を書くために選んだ題材ではなくて、心の底から本当に好きになってしまったものを描いているからこそ、読者によりその愛みたいなものを伝えることになって、結果読んだ人がその対象に興味を持つようになるのではないかなと思います。
本作では、文楽特有なんだと思われる用語やモノなんかが説明もなく出てきたりするのでよくわからない部分もあったんですけど、それでも文楽というものの熱っぽい雰囲気みたいなものがひしひしと伝わって来てアツアツって感じでした。正直、健や銀太夫や兎一郎が文楽のどこにそんなに惚れ込んでいるのかっていうのはよく分からなかったですけど、でも彼らがその世界に異常なまでに惚れ込んでいて、そして生涯を掛けて少しでも高みに上りたいという思いがすごくよく伝わってきます。だけどストーリーはそれだけじゃなくて、脱力するようなヘナヘナな出来事が起きたり、どうしようもない登場人物が出てきたり、健は何故かラブホテルに住んでたりと、三浦しをんっぽい変な世界観も混じっているので、読みやすいなと思います。
夫婦喧嘩もあり、恋愛もあり、ちょっとした事件もあり、謎めいた人間関係もあり、とまあ結構盛りだくさんなストーリーだと思います。
あと本作は、内容的には全然ミステリじゃないんですけど、構造的にはミステリだなと思いました。ミステリというか、「名探偵コナン」的とか「金田一」的っていう感じですけど。
「コナン」とか「金田一」話って、まず事件が起こって、それから日常の些細な出来事にそれぞれの探偵がヒントを得て事件を解決する、というパターンを踏襲しますよね。本作もそういうパターンになっているわけなんです。ただ本作で解決されるのは、文楽の解釈になります。
健は日々あらゆる話の稽古をするわけなんですが、文楽というのはその話の内容をいかに自分なりに解釈するかで出来が変わってきたりするわけですね。少なくとも健は、自分の中でストーリーが未消化の状態ではちゃんとした語りが出来ないくちなんです。
文楽の話には、現代の感覚からするとよくわからない登場人物が出てきます。健は、彼らに感情移入しようとするんですが、どうしても出来ないわけです。
でも、日常の些細な出来事がきっかけになって、健に新たな解釈が生まれるわけです。なるほど、彼らはこういうことでこういう行動をしていたのか!と膝を打つわけです。そういう構成が、僕はミステリっぽいなという感じがしました。本作が連載されてたのも「小説推理」っていう名前の雑誌みたいですしね。
というわけで、「風が強く吹いている」と比べると僕の中では落ちますが、でも面白い作品でした。文楽というものにちょっと興味が出てくるかもしれませんよ。個人的には、ミラちゃんと真智さんがすごいいいなと思いました。健としては大変だったでしょうけど。
まあそんなわけで、是非是非読んでみてください。
三浦しをん「仏果を得ず」
永遠を旅する者 ロストオデッセイ 千年の夢(重松清)
ある日タタンの元に悪魔がやってきた。
「俺は悪魔だ」
第一声がそれだった。ちょっと天然なのかもしれない。
悪魔は人間のような姿に見えた。最も悪魔には、決まった姿かたちというものはないらしい。見る側の人間が適切なイメージをはめ込むことで、悪魔というのは目に見える存在になるのだという。
「ただの人間にしか見えませんけど」
部屋で本を読んでいたタタンは、突然クローゼットから出てきた変な男に驚いた。何でそんなところから、と聞くと、ここはドアじゃないのか、と悪魔は言った。何ともとぼけた奴だった。
自分は悪魔だと名乗る男に、タタンはそう返したのだ。
「まあ信じてくれなくてもいいが。ただもし信じるのなら、お前の願いを一つだけ何でも叶えてやろう」
タタンは、もちろん悪魔のことを信じてなんかいなかった。何でクローゼットから出てきたのかという謎はともかくとして、タタンにとってそこにいる悪魔はただの不審者でしかなかった。
だから、悪魔に向かって願い事を告げたのは、ただの気まぐれだ。もちろん、叶うなんて思っちゃいない。願い事を言いさえすれば、悪魔はすぐに去っていくのではないか。まあそんな風には考えたかもしれない。
「永遠の命を手に入れたい」
叶うとは思っていないが、願い事は本物だ。タタンにはやりたいことがたくさんあった。そして何よりも、死ぬことを恐れていた。
「わかった。永遠の命をお前にあげよう」
そう言って悪魔は去って行った。
それから、何か劇的な変化があったわけではない。身体が強くなったような気がするわけでも、不思議な力がみなぎってくるように感じられることもなかった。悪魔はタタンに永遠の命を与えてくれたのだろうか。それとも、今その準備をしているところなのか。
いかんいかん、あんな頭のおかしいやつの言葉を真に受けてしまっている。どうせ茶番なんだ。どうってことはない。
それからもタタンは変わらない日常を過ごした。学校に行き、会社に勤め、結婚し、子供を産み、子供と酒を酌み交わし、親を看取り、そうやって長い年月が過ぎていった。
ある日、それは見つかった。腹部に激痛を感じた翌日、病院で検査をして分かったのだった。
ガンだった。
既に広く転移しており、手術は不可能。薬による治療を始めることになった。
この時タタンは、かつての悪魔の言葉を思い出していた。なるほど、ようやくあの話の真偽を検証できるってわけか。
タタンはもちろん、悪魔の言葉など信じていなかった。今の今まですっかり忘れていたことだし、そんな細い望みにすがるほど落ちぶれていないとも思っている。自分は間違いなく死ぬだろう。今でも不死を願う気持ちには変わりはない。何よりも、娘の成長をもう見ることが出来なくなるのかと思うと、悪魔の言葉に一瞬すがりつきたくなってしまう。
症状はどんどんと悪化していった。もはや完治する望みはないようだ。医者も妻も直接は言わないが、自分の身体のことだ、それぐらいのことは分かる。思い残すことはたくさんある。やりたかったこともまだまだ残っている。ただ、死ぬ時ぐらい穏やかで静かにいたいものだ。
もはや、息をするのも苦しくなってきた。モルヒネの効きも弱くなり、痛みがさらに増している。終わりは近いということなのだろう、病室がバタバタした雰囲気に包まれているのが分かる。妻だろうか、タタンの手を握り締め、必死で何か伝えようとしている。あぁ、もう終わってしまうのだな。タタンは覚悟を決めた。
それから、長い時間が過ぎた。
タタンはまだ死んでいなかった。どれぐらいの時間が経ったのか検討もつかない。しかし、もうあれから一週間は過ぎているのではないか。病室の緊張状態も、今では解かれているようだ。いつ死んでもおかしくないはずなのに、タタンはまだ死なない。
病室に誰かがやってくる気配があった。何となく勘が働いた。きっと悪魔に違いない。
「願いは叶えたぞ」
タタンに向かってそんなことを言うやつは悪魔以外にいない。
「どういうことだ。もう俺はこのまま死ぬんだろう?」
タタンはもはや喋ることの出来ない身体だ。しかし、思考がそのままの形で悪魔に伝わるようだ。
「いや、お前は死なない」
「どういうことだ」
「お前の時間を、死ぬ一歩手前で止めたのだ」
時計の秒針で言うと、と悪魔は続けた。お前の時計は今59秒で止まっているんだ。あと1秒をカウントすればお前は死ぬ。でもその1秒は永遠にカウントされることはない。即ちお前は永遠の命を手に入れたのだ、と。
「ふざけるな!」
「何を言う。永遠の命を手に入れたいというお前の願い、叶えてあげたではないか」
ダメだ。きっとこの悪魔に何を言っても理解できないだろう。生きているということがどういうことなのか。永遠の命というものがどういうものなのか。
タタンは、永遠に動くことのない身体を抱えて、永遠のような時間を過ごさなくてはいけない。モルヒネは効かなくなってきているから、鈍痛がタタンを突き刺すように襲ってくる。これにも耐えなくてはいけない。しかしそれ以上に辛いのが、妻と娘だ。永遠に死ぬこともない、しかし永遠に起き上がることのないタタンの存在は、いつまでも彼女らの負担となるだろう。
タタンはかつての自分を責めた。そうやって、過去の自分を責め続けることでしか、もう時間をやり過ごすことは出来なくなっているのだ。
一銃「永遠の命」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作はかなり珍しい形で出版された本です。まずその辺の経緯を書こうと思います。
本作は、「ロストオデッセイ」というゲームのために書かれた作品です。「ロストオデッセイ」というゲームがどんなゲームなのか僕は知らないんですけど、「ファイナルファンタジー」を作った人が手掛けたゲームであること、「スラムダンク」の井上雅彦が作画担当であること、カイムという永遠に死ぬことのない傭兵が主人公である、ということは知っています。
さてそのゲームの中で主人公であるカイムは夢を見ます。その夢というのは、千年もの間生き続けて来たカイムが、いつかどこかで見たり経験したりした記憶そのものです。
重松清は、その夢を書くように依頼されたわけです。そのようにして書かれた作品が、一冊の本にまとまって出版された、というわけです。
それぞれの話は短く、長くても15Pぐらい、短いと6Pぐらいという感じです。そういう短い話が31編収録されています。もちろん全部内容を書くのは大変なんで、僕がかなり気に入ったものだけ紹介しようと思います。
「天国にいちばん近い村」
その村では、子供がたくさん生まれる。しかし同時に、大人も子供もあっけなく死んでしまう。だからこそ、たくさん子供を産んで、一人でも長生きしてくれるように願う。
カイムは知っている。何故その村の人々が早死にしてしまうのかを。それを伝えることは優しさかもしれない。しかしこの村では、生きることと死ぬことが同じに扱われている。真実を告げることが優しさになるのか、カイムには分からない…。
「さらば、相棒」
村に着いた時から兄貴兄貴と言ってつきまとう青年がいる。彼は村から出たがっている。カイムが村を出る時には絶対声を掛けてくれよな、そう言う。
彼は知らない。この村での生活がどれだけ幸せなものなのかを。彼はもうすぐ父親になる。子供が生まれそうな時期に旅立つつもりだと敢えて彼に告げる。分かった、絶対連れてってくれよな、と彼も言う…
「嘘つきの少女」
その村には、嘘ばかりついている少女がいる。その子は母親をなくし、父親は出稼ぎに出て行ってしまい、一人ぼっちで暮している。初めこそ、市場のみんなが親代わりになろう、と思っていた。でも、あまりにも嘘ばかりつくので、今では嫌われ者だ。
カイムはそんな少女の嘘に付き合ってあげる。そのどれもが哀しい嘘だということを知っているから。
そしてある日、彼女は本当のことを口にするのだけど…。
「待ち人、来りて」
船着場でカイムは老女に話し掛けられた。その老女は、都で成功したからと、母親を迎えに来てくれるというのだ。それを毎日待っているのだけど、まだ来ない。カイムも人待ちの身だったから、毎日待ちぼうけを食らわされながら、二人は日々船着場で顔を合わせることになるのだけど…。
というような感じです。
他にももちろんいい話はたくさんあったんですけど、あれもこれもと書いていると時間がなくなってしまうので四つだけにします。
重松清がこの仕事を依頼された時、とにかく自由に書いてくれて構わない、といわれたそうです。ただ一つだけ、
「一千年を生きることの哀しみが感じられるようなものにしてほしい」
とだけ言われたんだそうです。
確かにどの話も、カイムが永遠に死ぬことの出来ない身体を持っているからこその悲哀みたいなものがすごくよく出ています。もう誰もが忘れてしまった過去の出来事を覚えている、普通の人よりもさらに多くの人を看取らなくてはならない、家族も帰る場所も持たない自分は一体なんのために生きているのだろうかという自問、人は限りある命を精一杯生きるからこそ輝けるのだという羨望。そうした、永遠を生きることを宿命付けられた男が背負っているものを、本当に丁寧に描き出しているような感じのする作品でした。
カイムは様々な人に触れ、様々な価値観に触れることになります。様々な時代を生き、あらゆる感情にさらされていきます。しかしその中にあって、カイムという男の印象は揺らぐことがありません。カイムは、いつどんな時でも、自分の芯にあるものを基本的に曲げずに生きていきます。それが、その時代のその場所の価値観と相容れないものであっても、カイムが正しいと信じることをカイムはする。そんな強い意志の感じられるところがすごくいいですね。ある意味不器用で、永遠を背負っていなければすぐに死んでしまったかもしれない優しい男なのだけど、時にその優しさは厳しさという形で発揮され、何だかかっこいいやんという感じがしました。
僕はまあ昔から言っていますが、出来ることなら早く死にたいと思っている人間で、とにかく生きてるのがめんどくさいんですけど、だからホント永遠の命とか手に入れちゃったら最悪だなとか思ったりします。周りにも、出来るだけ長生きしたいという人はいるんですけど、僕にはそういう感覚は全然なくて理解できないんですね。カイムのようにとはいかないまでも、長生きするということはそれだけ苦労が重なるというわけで、ほんとめんどくさいだけだよなと思ったりします。ただカイムのように、死なないだけでなく身体もまったく老いないというのであれば、まあちょっとは考えてもいいかもしれないのだけど。
昔の為政者なんかも不老不死を目指したりしていたようだけど、不老不死なんかになって何がしたかったんですかね。カイムも作中で語りますが、やはり生命というのは限りある時間の中に閉じ込められているからこそ輝けるんだろうなと思います。花火のようなもので、花火だっていつ空を見上げてもそこに張り付いているものだったら、誰も綺麗だなんて思わないでしょうね。逆に、星が見えなくなって邪魔だよ、なんて思われるかもしれません。
長く生きるということを突き詰めて考えて物語という形に昇華したからこそ、逆に時間の短さの意味を感じさせてくれる、そんな作品だなと思いました。
普段の重松清の作品とは大分趣が違います。まえがきでも重松清はそう書いています。これまでは、時間の短さを根底においた作品ばかりを書いてきた。しかしこの作品は、永遠の時間を根底においたものだ。だから普段とは違う筋肉を動かさなくてはいけなくて大変だった、と書いている。
僕は思うのだけど、よく重松清に依頼したなという感じです。これまでの作風とは違うものを求めることになるわけで、まあちょっとした冒険だったのかもしれません。ただ、その冒険は成功だったと言えるでしょうね。さすが重松清です。自分がフィールドとしている舞台以外の場所でも素晴らしい作品を書くことが出来るということをこの作品で見事に証明してくれました。
というわけで、なかなかいい作品だと思います。生きるということ、について強く迫る作品です。かと言って、別段思い作品というわけでもありません。カイムのクールな視点が作品を重くしていないんだと思います。ゲームを知っている人も知らない人も普通に読める作品です。是非読んでみてください。
重松清「永遠を旅する者 ロストオデッセイ 千年の夢」
「俺は悪魔だ」
第一声がそれだった。ちょっと天然なのかもしれない。
悪魔は人間のような姿に見えた。最も悪魔には、決まった姿かたちというものはないらしい。見る側の人間が適切なイメージをはめ込むことで、悪魔というのは目に見える存在になるのだという。
「ただの人間にしか見えませんけど」
部屋で本を読んでいたタタンは、突然クローゼットから出てきた変な男に驚いた。何でそんなところから、と聞くと、ここはドアじゃないのか、と悪魔は言った。何ともとぼけた奴だった。
自分は悪魔だと名乗る男に、タタンはそう返したのだ。
「まあ信じてくれなくてもいいが。ただもし信じるのなら、お前の願いを一つだけ何でも叶えてやろう」
タタンは、もちろん悪魔のことを信じてなんかいなかった。何でクローゼットから出てきたのかという謎はともかくとして、タタンにとってそこにいる悪魔はただの不審者でしかなかった。
だから、悪魔に向かって願い事を告げたのは、ただの気まぐれだ。もちろん、叶うなんて思っちゃいない。願い事を言いさえすれば、悪魔はすぐに去っていくのではないか。まあそんな風には考えたかもしれない。
「永遠の命を手に入れたい」
叶うとは思っていないが、願い事は本物だ。タタンにはやりたいことがたくさんあった。そして何よりも、死ぬことを恐れていた。
「わかった。永遠の命をお前にあげよう」
そう言って悪魔は去って行った。
それから、何か劇的な変化があったわけではない。身体が強くなったような気がするわけでも、不思議な力がみなぎってくるように感じられることもなかった。悪魔はタタンに永遠の命を与えてくれたのだろうか。それとも、今その準備をしているところなのか。
いかんいかん、あんな頭のおかしいやつの言葉を真に受けてしまっている。どうせ茶番なんだ。どうってことはない。
それからもタタンは変わらない日常を過ごした。学校に行き、会社に勤め、結婚し、子供を産み、子供と酒を酌み交わし、親を看取り、そうやって長い年月が過ぎていった。
ある日、それは見つかった。腹部に激痛を感じた翌日、病院で検査をして分かったのだった。
ガンだった。
既に広く転移しており、手術は不可能。薬による治療を始めることになった。
この時タタンは、かつての悪魔の言葉を思い出していた。なるほど、ようやくあの話の真偽を検証できるってわけか。
タタンはもちろん、悪魔の言葉など信じていなかった。今の今まですっかり忘れていたことだし、そんな細い望みにすがるほど落ちぶれていないとも思っている。自分は間違いなく死ぬだろう。今でも不死を願う気持ちには変わりはない。何よりも、娘の成長をもう見ることが出来なくなるのかと思うと、悪魔の言葉に一瞬すがりつきたくなってしまう。
症状はどんどんと悪化していった。もはや完治する望みはないようだ。医者も妻も直接は言わないが、自分の身体のことだ、それぐらいのことは分かる。思い残すことはたくさんある。やりたかったこともまだまだ残っている。ただ、死ぬ時ぐらい穏やかで静かにいたいものだ。
もはや、息をするのも苦しくなってきた。モルヒネの効きも弱くなり、痛みがさらに増している。終わりは近いということなのだろう、病室がバタバタした雰囲気に包まれているのが分かる。妻だろうか、タタンの手を握り締め、必死で何か伝えようとしている。あぁ、もう終わってしまうのだな。タタンは覚悟を決めた。
それから、長い時間が過ぎた。
タタンはまだ死んでいなかった。どれぐらいの時間が経ったのか検討もつかない。しかし、もうあれから一週間は過ぎているのではないか。病室の緊張状態も、今では解かれているようだ。いつ死んでもおかしくないはずなのに、タタンはまだ死なない。
病室に誰かがやってくる気配があった。何となく勘が働いた。きっと悪魔に違いない。
「願いは叶えたぞ」
タタンに向かってそんなことを言うやつは悪魔以外にいない。
「どういうことだ。もう俺はこのまま死ぬんだろう?」
タタンはもはや喋ることの出来ない身体だ。しかし、思考がそのままの形で悪魔に伝わるようだ。
「いや、お前は死なない」
「どういうことだ」
「お前の時間を、死ぬ一歩手前で止めたのだ」
時計の秒針で言うと、と悪魔は続けた。お前の時計は今59秒で止まっているんだ。あと1秒をカウントすればお前は死ぬ。でもその1秒は永遠にカウントされることはない。即ちお前は永遠の命を手に入れたのだ、と。
「ふざけるな!」
「何を言う。永遠の命を手に入れたいというお前の願い、叶えてあげたではないか」
ダメだ。きっとこの悪魔に何を言っても理解できないだろう。生きているということがどういうことなのか。永遠の命というものがどういうものなのか。
タタンは、永遠に動くことのない身体を抱えて、永遠のような時間を過ごさなくてはいけない。モルヒネは効かなくなってきているから、鈍痛がタタンを突き刺すように襲ってくる。これにも耐えなくてはいけない。しかしそれ以上に辛いのが、妻と娘だ。永遠に死ぬこともない、しかし永遠に起き上がることのないタタンの存在は、いつまでも彼女らの負担となるだろう。
タタンはかつての自分を責めた。そうやって、過去の自分を責め続けることでしか、もう時間をやり過ごすことは出来なくなっているのだ。
一銃「永遠の命」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作はかなり珍しい形で出版された本です。まずその辺の経緯を書こうと思います。
本作は、「ロストオデッセイ」というゲームのために書かれた作品です。「ロストオデッセイ」というゲームがどんなゲームなのか僕は知らないんですけど、「ファイナルファンタジー」を作った人が手掛けたゲームであること、「スラムダンク」の井上雅彦が作画担当であること、カイムという永遠に死ぬことのない傭兵が主人公である、ということは知っています。
さてそのゲームの中で主人公であるカイムは夢を見ます。その夢というのは、千年もの間生き続けて来たカイムが、いつかどこかで見たり経験したりした記憶そのものです。
重松清は、その夢を書くように依頼されたわけです。そのようにして書かれた作品が、一冊の本にまとまって出版された、というわけです。
それぞれの話は短く、長くても15Pぐらい、短いと6Pぐらいという感じです。そういう短い話が31編収録されています。もちろん全部内容を書くのは大変なんで、僕がかなり気に入ったものだけ紹介しようと思います。
「天国にいちばん近い村」
その村では、子供がたくさん生まれる。しかし同時に、大人も子供もあっけなく死んでしまう。だからこそ、たくさん子供を産んで、一人でも長生きしてくれるように願う。
カイムは知っている。何故その村の人々が早死にしてしまうのかを。それを伝えることは優しさかもしれない。しかしこの村では、生きることと死ぬことが同じに扱われている。真実を告げることが優しさになるのか、カイムには分からない…。
「さらば、相棒」
村に着いた時から兄貴兄貴と言ってつきまとう青年がいる。彼は村から出たがっている。カイムが村を出る時には絶対声を掛けてくれよな、そう言う。
彼は知らない。この村での生活がどれだけ幸せなものなのかを。彼はもうすぐ父親になる。子供が生まれそうな時期に旅立つつもりだと敢えて彼に告げる。分かった、絶対連れてってくれよな、と彼も言う…
「嘘つきの少女」
その村には、嘘ばかりついている少女がいる。その子は母親をなくし、父親は出稼ぎに出て行ってしまい、一人ぼっちで暮している。初めこそ、市場のみんなが親代わりになろう、と思っていた。でも、あまりにも嘘ばかりつくので、今では嫌われ者だ。
カイムはそんな少女の嘘に付き合ってあげる。そのどれもが哀しい嘘だということを知っているから。
そしてある日、彼女は本当のことを口にするのだけど…。
「待ち人、来りて」
船着場でカイムは老女に話し掛けられた。その老女は、都で成功したからと、母親を迎えに来てくれるというのだ。それを毎日待っているのだけど、まだ来ない。カイムも人待ちの身だったから、毎日待ちぼうけを食らわされながら、二人は日々船着場で顔を合わせることになるのだけど…。
というような感じです。
他にももちろんいい話はたくさんあったんですけど、あれもこれもと書いていると時間がなくなってしまうので四つだけにします。
重松清がこの仕事を依頼された時、とにかく自由に書いてくれて構わない、といわれたそうです。ただ一つだけ、
「一千年を生きることの哀しみが感じられるようなものにしてほしい」
とだけ言われたんだそうです。
確かにどの話も、カイムが永遠に死ぬことの出来ない身体を持っているからこその悲哀みたいなものがすごくよく出ています。もう誰もが忘れてしまった過去の出来事を覚えている、普通の人よりもさらに多くの人を看取らなくてはならない、家族も帰る場所も持たない自分は一体なんのために生きているのだろうかという自問、人は限りある命を精一杯生きるからこそ輝けるのだという羨望。そうした、永遠を生きることを宿命付けられた男が背負っているものを、本当に丁寧に描き出しているような感じのする作品でした。
カイムは様々な人に触れ、様々な価値観に触れることになります。様々な時代を生き、あらゆる感情にさらされていきます。しかしその中にあって、カイムという男の印象は揺らぐことがありません。カイムは、いつどんな時でも、自分の芯にあるものを基本的に曲げずに生きていきます。それが、その時代のその場所の価値観と相容れないものであっても、カイムが正しいと信じることをカイムはする。そんな強い意志の感じられるところがすごくいいですね。ある意味不器用で、永遠を背負っていなければすぐに死んでしまったかもしれない優しい男なのだけど、時にその優しさは厳しさという形で発揮され、何だかかっこいいやんという感じがしました。
僕はまあ昔から言っていますが、出来ることなら早く死にたいと思っている人間で、とにかく生きてるのがめんどくさいんですけど、だからホント永遠の命とか手に入れちゃったら最悪だなとか思ったりします。周りにも、出来るだけ長生きしたいという人はいるんですけど、僕にはそういう感覚は全然なくて理解できないんですね。カイムのようにとはいかないまでも、長生きするということはそれだけ苦労が重なるというわけで、ほんとめんどくさいだけだよなと思ったりします。ただカイムのように、死なないだけでなく身体もまったく老いないというのであれば、まあちょっとは考えてもいいかもしれないのだけど。
昔の為政者なんかも不老不死を目指したりしていたようだけど、不老不死なんかになって何がしたかったんですかね。カイムも作中で語りますが、やはり生命というのは限りある時間の中に閉じ込められているからこそ輝けるんだろうなと思います。花火のようなもので、花火だっていつ空を見上げてもそこに張り付いているものだったら、誰も綺麗だなんて思わないでしょうね。逆に、星が見えなくなって邪魔だよ、なんて思われるかもしれません。
長く生きるということを突き詰めて考えて物語という形に昇華したからこそ、逆に時間の短さの意味を感じさせてくれる、そんな作品だなと思いました。
普段の重松清の作品とは大分趣が違います。まえがきでも重松清はそう書いています。これまでは、時間の短さを根底においた作品ばかりを書いてきた。しかしこの作品は、永遠の時間を根底においたものだ。だから普段とは違う筋肉を動かさなくてはいけなくて大変だった、と書いている。
僕は思うのだけど、よく重松清に依頼したなという感じです。これまでの作風とは違うものを求めることになるわけで、まあちょっとした冒険だったのかもしれません。ただ、その冒険は成功だったと言えるでしょうね。さすが重松清です。自分がフィールドとしている舞台以外の場所でも素晴らしい作品を書くことが出来るということをこの作品で見事に証明してくれました。
というわけで、なかなかいい作品だと思います。生きるということ、について強く迫る作品です。かと言って、別段思い作品というわけでもありません。カイムのクールな視点が作品を重くしていないんだと思います。ゲームを知っている人も知らない人も普通に読める作品です。是非読んでみてください。
重松清「永遠を旅する者 ロストオデッセイ 千年の夢」
ムーン・パレス(ポール・オースター)
図書館の前にいて、きちんと返すべき本を持っているのに、入るかどうか悩んでいる人間、というのを想像することは出来るだろうか。僕自身そんな状況に陥っていなかったとしたら、そんな状況はまず理解できなかったことだろう。図書館の前にいるなら、速やかに本を返却すればいい。それが世の中の道理であり、正しい行いである。
しかし、現実に僕は今、図書館の前でどうしようかと迷っている。最終的には本を返しに行くしかないし、それ以外の選択肢はありえない。しかし、少しでもそれを先延ばしにしてしまいたい、という思いが僕の足を押し留めるのだ。目の前にあるのが、普段僕が働いている図書館とは別だ、というのもなんとなく緊張に拍車をかけているのかもしれない。
僕がこの状況に陥ることになったきっかけは二週間前に遡る。
僕はとある大きな街にある図書館で司書をしている。館長ではないがかなり裁量権のある立場であり、比較的自由に物事を決めることが出来る。本が好きなこともあり、普段であれば自分がそんな立場でいられることは誇らしいことであるのだけれども、しかし自分がそういう立場だったからこそこんな事態を招いたのだとも言える。
二週間前の夜。閉館後、一人で残務処理をしている時のことだった。その日は夕方から雨が降り始め、だんだん強くなってきていた。どうせ仕事も溜まっていることだし、雨が落ち着くことを期待してしばらく仕事を続けてみよう、そんな風に考えて残っていたある晩のことである。
どこからか、ドンドンという鈍い音が聞こえてくる。雨の音に紛れて聞きづらいが、どうもドアか窓を叩いているように聞こえる。とりあえず様子を見ようと館内を回ってみると、一人の少女がずぶ濡れになりながら弱々しく窓を叩いているのが見えた。事情はまったくわからないが、とりあえず中に入れてやるしかない。少なくとも、その判断は間違っていなかったはずだ。
外にいる少女に入口に回るように手振りをする。鍵を開けて少女を出迎えると、その顔は真っ青で、体も小刻みに震えていた。とりあえず事情を聞くのは後にしようと決め、タオルを渡し、暖かい飲み物を出した。あまり期待はしていなかったが、事務所を漁ってみると、サンタクロースのコスチュームが出てきた。そういえば職場でクリスマスの飲み会をした時に誰かが着ていたなと思い出しながら、もしこんなものでよければ、と少女に差し出した。驚いたことに、少女はおもむろ服を着替え始めた。咄嗟に背を向けたが、少女は僕の視線など特に気にもしていないように思えた。
夜の図書館にサンタクロースの格好をした美しい少女という、何とも場違いな取り合わせに、少なからず心の高ぶりを覚えていた。だからなのかもしれない。言い訳をするつもりはないが、結局あんな決断をしてしまったのには、そんな理由もあるのかもしれないと思う。
「ここに、泊めてもらえませんか?」
少女は、結局一切の事情を口にしなかった。僕としても、あまり無理に問いつめることも出来なかった。少女の申し出には、もちろん戸惑いもした。しかし、もう僕は既に踏み込んでしまったのだという自覚もあったし、それに僕の裁量でうまく隠し通すことは出来るかもしれないとも思っていた。昼間の内は普通の来館者のように振舞えばいいし、夜は一人ぐらい何とか匿うことは出来るだろう。正しくないことは分かっていたし、バレれば大変な問題になることもきちんと理解できていたが、しかし少女の雰囲気に飲み込まれたのかもしれない、何となく気持ちが大きくなっていて、何もかも大丈夫な気がしたのだった。
それから彼女を匿う日々が続いた。危ない場面は何度かあった。残業する職員は時々いたし、また少女の生活に必要な持ち物が見つかりそうになったこともある。その度に巧いこと切り抜けながら、僕と少女の生活は続いていった。
不思議だったのは、少女が一切食事を摂らないことだった。何か食べるものを買い与えてもいらないと言うし、かと言って自分で何か買っているような様子もない。どうしているのかその時はわからなかったのだが、しかし大丈夫だというなら放っておくしかない。事実彼女は、特に衰弱することもなく、普段通り生活を続けていたのだ。
少女は、とにかくたくさんの本を読んだ。しかし、彼女が本を読む姿を目にしたことは一度もない。私が本を読んでいる姿を見ないで欲しいと言われていたし、少女も隠れて読むようにしていたからだ。昼間はどうしていたのかと言えば、図鑑や絵本を読んでいた。図鑑や絵本を読むのは見られていても大丈夫だ、と少女は言った。何のことかよくわからなかったが、特に少女のやることに口を挟むようなことはしなかった。
少女は夜様々な本を読んでいるようで、読んだ本の内容についてよく僕に語って聞かせた。少女の読む本は、ほとんど誰も読まないようなマイナーと言っていい本に限られていた。一年に一回借り出されるかどうか、というような本ばかりを読んでいたのだ。面白いのか、と聞くと面白くないと答える。じゃあ何で読んでるんだと聞いても答えない。まったくわけがわからない。
少女は一度読んだ本の内容は完璧に覚えてしまえるらしい。今となっては納得出来る話だが、その時はすごい記憶力だなと思ったものだ。
ある夜のことである。いつものように少女はどこかで読書をし、僕は事務所で仕事をしていた。そしてトイレに行こうとして、偶然彼女が本を読んでいる光景を目にしてしまったのだ。
あれほど驚いたことはかつてなかったと言ってもいいすぎではないだろう。
少女は本を開いて文字を目で追っているのだが、その文字が少女の目に吸い込まれていくのである。何がどうなっているのかわからなかったし、自分が寝ぼけているのだとも思った。その日はとりあえず何も見なかったことにして、とりあえず家に帰って寝てしまうことにした。
翌日、少女がこれまで読んでいた本を片っ端からチェックしてみると、なんとその本からすべての文字が消えていたのだ。まったくの白紙であり、まるで本としての体裁を保っていなかったのである。
僕は茫然とするしかなかった。とりあえず夜になるのを待って、少女の言い分を聞くことなく少女を追い出した。もう二度と来るな、と言い含めて。少女もどうして追い出されることになったのか思いあたるようで、また別のところを探すかと言ったような雰囲気を漂わせながら去って行った。
今から考えてみれば、あれが少女にとっての食事なのだろう。文字を食べることでしか生きていくことが出来ないのだ。しかし、日々本を買ってそれを食べていくのではなかなか大変である。だから図書館に狙いを定めて放浪しているのかもしれない。
そんなわけで僕は、見知らぬ土地の図書館の前にいる。既に偽名でカードを作り、数日前にその図書館から本を借り出していた。やることは単純だ。その図書館で借りた本と少女に白紙にされた本を入れ替えるのだ。整理番号を入れ替えたりするのが厄介だが、しかしやるしかない。僕の手の中にあるのは、中身が白紙の本なのだ。返却してもバレないだろうか、と不安になる。なかなか中に入る勇気が出ない。
しかし考えてみればあの少女も不幸なものだ。人とは違う生き方を余儀なくされ、人とは違う選択をしなくてはいけない。図書館の本をダメにするのは勘弁して欲しいものだが、同情の余地はあるなと思う。
さて、ぐずぐずしてても仕方ない。僕は意を決して図書館の入り口をくぐる。
一銃「図書館に住むことになる少女の話」
そろそろ内容に入ろうと思います。
僕は幼い頃に両親を事故で失い、残った唯一の血縁が伯父だけだった。伯父は音楽団に所属し、あちこちを転々としていたからなかなか会えなかったけど、それでも僕と世界を唯一結ぶ絆だったのだ。
その伯父が死んでしまった。人類が初めて月を歩いた夏だった。大学生だった僕は打ちひしがれ、すべてに無気力になった。それから僕は、何もせずに暮らすことを選択した。
幸い両親の事故の際の保証金が残っている。それを食いつぶしながら、僕は伯父がくれた大量の本を読みながら暮した。しかしそれも限界に近づき、いつしか部屋を終われ、外で暮らすようになる。やがて餓死寸前になるが、幸いそこで友人に救出された。
しばらく友人宅に落ち着いたが、それから僕は仕事を探すことにした。見つけたのは奇妙な仕事だった。ある体の不自由な老人の相手をする仕事だった。老人との奇妙な時間を過ごすうちに、僕は自らの家系の謎に辿り着くことになるのだが…。
というような話です。
外国人作家の作品は結構苦手なんですけど、何だかんだでポールオースターは結構読んでます。これまで本作を含めて四作読みましたが、その中で本作が一番いいと思いました。
とにかく話自体が非常に分かりやすいですね。これまでの作品も結構面白かったんですけど、でも話は何だか奇妙なものだったり曖昧なものだったりして掴み所に欠ける部分がありました。それは決して欠点ではないのだけど、でも小説として読む時にちょっとした壁になりうる類のものなわけです。
でも本作は、その壁がない、非常に分かりやすい話です。話自体を要約すれば、まさに裏表紙の内容紹介通りであって、話の流れも明確だし、何がどうなっているのかもすごく分かりやすいわけです。まずそこがすごく馴染みやすかったですね。
あと、ストーリーは大まかに言って三つに分かれているんですけど、そのどのパートも特徴的な印象を残す運びで面白いです。冒頭は、伯父を亡くした主人公がいかに絶望しいかに人生を捨て始めるかを緻密に描いていて、それが最終的に餓死寸前というところまでいってしまいます。真ん中では、奇妙な老人が出てきます。とにかくこの老人が強烈で、冒頭とは違った印象になります。さらに最後のパートでは、主人公の家系の謎が明かされることになります。
それぞれがかなり偶然によって繋がっていて、到底現実には起こり得ないだろうと思わせる話です。特に最後の家系の謎に至る偶然なんかはちょっと無理がありすぎるんじゃないかなとか思ったりします。でも読んでいると、そのありえなさを敢えて隠していないような雰囲気を感じます。ありえないことを積み重ねてありえない話を生み出してみました。お気に召さないならそれでも構いません。何だかそんな雰囲気を感じるんです。敢えてリアリティーみたいなものを追い求めようとしていないところがいいなと思いました。
それでいて一方では、細かい部分の描写はかなりしっかりしているわけです。なんというか、最低限なりたちうることだけは示していますよ、と言った感じで、そのバランスがすごくいいなと思いました。
個人的にはキティとミセス・ヒュームがいいなと思いました。キティというのは主人公が付き合うことになる彼女なんだけど、何だかしっかりしていて前向きで、すごく印象のいい女の子でした。こんな子に好かれた主人公は羨ましいですね。
ミセス・ヒュームは、主人公が相手をすることになる老人の生活全般の世話をずっとしている女性です。かなり気難しい老人なんですが、それをかなりうまいこと操っているところなんかすごいなと思いました。僕なら主人公と同じで、あんな老人とずっと一緒に暮すことなんかできないだろうな、と思ったりしますが、ミセス・ヒュームはどんなに罵倒されても大らかな気持ちでお世話を続けるわけなんですね。すばらしい女性です。
どちらもストーリー上は脇役ですけど、なかなか印象に残る二人でした。
伯父が死んでからの主人公のめまぐるしく変化する人生を丁寧に緻密に描き取った作品です。かなり面白く読めました。魅力的な登場人物と偶然に作用された様々な出来事、そして染み込むように入り込んでくる語りがなかなか素晴らしい作品だと思います。ポール・オースターの作品を全部読んでいるわけではないんですけど、でもポール・オースターの作品を一番初めに読むならこれがいいんじゃないかなと思ったりします。ちょっと長いかもしれないけど、是非是非読んでみてください。
ポール・オースター「ムーン・パレス」
しかし、現実に僕は今、図書館の前でどうしようかと迷っている。最終的には本を返しに行くしかないし、それ以外の選択肢はありえない。しかし、少しでもそれを先延ばしにしてしまいたい、という思いが僕の足を押し留めるのだ。目の前にあるのが、普段僕が働いている図書館とは別だ、というのもなんとなく緊張に拍車をかけているのかもしれない。
僕がこの状況に陥ることになったきっかけは二週間前に遡る。
僕はとある大きな街にある図書館で司書をしている。館長ではないがかなり裁量権のある立場であり、比較的自由に物事を決めることが出来る。本が好きなこともあり、普段であれば自分がそんな立場でいられることは誇らしいことであるのだけれども、しかし自分がそういう立場だったからこそこんな事態を招いたのだとも言える。
二週間前の夜。閉館後、一人で残務処理をしている時のことだった。その日は夕方から雨が降り始め、だんだん強くなってきていた。どうせ仕事も溜まっていることだし、雨が落ち着くことを期待してしばらく仕事を続けてみよう、そんな風に考えて残っていたある晩のことである。
どこからか、ドンドンという鈍い音が聞こえてくる。雨の音に紛れて聞きづらいが、どうもドアか窓を叩いているように聞こえる。とりあえず様子を見ようと館内を回ってみると、一人の少女がずぶ濡れになりながら弱々しく窓を叩いているのが見えた。事情はまったくわからないが、とりあえず中に入れてやるしかない。少なくとも、その判断は間違っていなかったはずだ。
外にいる少女に入口に回るように手振りをする。鍵を開けて少女を出迎えると、その顔は真っ青で、体も小刻みに震えていた。とりあえず事情を聞くのは後にしようと決め、タオルを渡し、暖かい飲み物を出した。あまり期待はしていなかったが、事務所を漁ってみると、サンタクロースのコスチュームが出てきた。そういえば職場でクリスマスの飲み会をした時に誰かが着ていたなと思い出しながら、もしこんなものでよければ、と少女に差し出した。驚いたことに、少女はおもむろ服を着替え始めた。咄嗟に背を向けたが、少女は僕の視線など特に気にもしていないように思えた。
夜の図書館にサンタクロースの格好をした美しい少女という、何とも場違いな取り合わせに、少なからず心の高ぶりを覚えていた。だからなのかもしれない。言い訳をするつもりはないが、結局あんな決断をしてしまったのには、そんな理由もあるのかもしれないと思う。
「ここに、泊めてもらえませんか?」
少女は、結局一切の事情を口にしなかった。僕としても、あまり無理に問いつめることも出来なかった。少女の申し出には、もちろん戸惑いもした。しかし、もう僕は既に踏み込んでしまったのだという自覚もあったし、それに僕の裁量でうまく隠し通すことは出来るかもしれないとも思っていた。昼間の内は普通の来館者のように振舞えばいいし、夜は一人ぐらい何とか匿うことは出来るだろう。正しくないことは分かっていたし、バレれば大変な問題になることもきちんと理解できていたが、しかし少女の雰囲気に飲み込まれたのかもしれない、何となく気持ちが大きくなっていて、何もかも大丈夫な気がしたのだった。
それから彼女を匿う日々が続いた。危ない場面は何度かあった。残業する職員は時々いたし、また少女の生活に必要な持ち物が見つかりそうになったこともある。その度に巧いこと切り抜けながら、僕と少女の生活は続いていった。
不思議だったのは、少女が一切食事を摂らないことだった。何か食べるものを買い与えてもいらないと言うし、かと言って自分で何か買っているような様子もない。どうしているのかその時はわからなかったのだが、しかし大丈夫だというなら放っておくしかない。事実彼女は、特に衰弱することもなく、普段通り生活を続けていたのだ。
少女は、とにかくたくさんの本を読んだ。しかし、彼女が本を読む姿を目にしたことは一度もない。私が本を読んでいる姿を見ないで欲しいと言われていたし、少女も隠れて読むようにしていたからだ。昼間はどうしていたのかと言えば、図鑑や絵本を読んでいた。図鑑や絵本を読むのは見られていても大丈夫だ、と少女は言った。何のことかよくわからなかったが、特に少女のやることに口を挟むようなことはしなかった。
少女は夜様々な本を読んでいるようで、読んだ本の内容についてよく僕に語って聞かせた。少女の読む本は、ほとんど誰も読まないようなマイナーと言っていい本に限られていた。一年に一回借り出されるかどうか、というような本ばかりを読んでいたのだ。面白いのか、と聞くと面白くないと答える。じゃあ何で読んでるんだと聞いても答えない。まったくわけがわからない。
少女は一度読んだ本の内容は完璧に覚えてしまえるらしい。今となっては納得出来る話だが、その時はすごい記憶力だなと思ったものだ。
ある夜のことである。いつものように少女はどこかで読書をし、僕は事務所で仕事をしていた。そしてトイレに行こうとして、偶然彼女が本を読んでいる光景を目にしてしまったのだ。
あれほど驚いたことはかつてなかったと言ってもいいすぎではないだろう。
少女は本を開いて文字を目で追っているのだが、その文字が少女の目に吸い込まれていくのである。何がどうなっているのかわからなかったし、自分が寝ぼけているのだとも思った。その日はとりあえず何も見なかったことにして、とりあえず家に帰って寝てしまうことにした。
翌日、少女がこれまで読んでいた本を片っ端からチェックしてみると、なんとその本からすべての文字が消えていたのだ。まったくの白紙であり、まるで本としての体裁を保っていなかったのである。
僕は茫然とするしかなかった。とりあえず夜になるのを待って、少女の言い分を聞くことなく少女を追い出した。もう二度と来るな、と言い含めて。少女もどうして追い出されることになったのか思いあたるようで、また別のところを探すかと言ったような雰囲気を漂わせながら去って行った。
今から考えてみれば、あれが少女にとっての食事なのだろう。文字を食べることでしか生きていくことが出来ないのだ。しかし、日々本を買ってそれを食べていくのではなかなか大変である。だから図書館に狙いを定めて放浪しているのかもしれない。
そんなわけで僕は、見知らぬ土地の図書館の前にいる。既に偽名でカードを作り、数日前にその図書館から本を借り出していた。やることは単純だ。その図書館で借りた本と少女に白紙にされた本を入れ替えるのだ。整理番号を入れ替えたりするのが厄介だが、しかしやるしかない。僕の手の中にあるのは、中身が白紙の本なのだ。返却してもバレないだろうか、と不安になる。なかなか中に入る勇気が出ない。
しかし考えてみればあの少女も不幸なものだ。人とは違う生き方を余儀なくされ、人とは違う選択をしなくてはいけない。図書館の本をダメにするのは勘弁して欲しいものだが、同情の余地はあるなと思う。
さて、ぐずぐずしてても仕方ない。僕は意を決して図書館の入り口をくぐる。
一銃「図書館に住むことになる少女の話」
そろそろ内容に入ろうと思います。
僕は幼い頃に両親を事故で失い、残った唯一の血縁が伯父だけだった。伯父は音楽団に所属し、あちこちを転々としていたからなかなか会えなかったけど、それでも僕と世界を唯一結ぶ絆だったのだ。
その伯父が死んでしまった。人類が初めて月を歩いた夏だった。大学生だった僕は打ちひしがれ、すべてに無気力になった。それから僕は、何もせずに暮らすことを選択した。
幸い両親の事故の際の保証金が残っている。それを食いつぶしながら、僕は伯父がくれた大量の本を読みながら暮した。しかしそれも限界に近づき、いつしか部屋を終われ、外で暮らすようになる。やがて餓死寸前になるが、幸いそこで友人に救出された。
しばらく友人宅に落ち着いたが、それから僕は仕事を探すことにした。見つけたのは奇妙な仕事だった。ある体の不自由な老人の相手をする仕事だった。老人との奇妙な時間を過ごすうちに、僕は自らの家系の謎に辿り着くことになるのだが…。
というような話です。
外国人作家の作品は結構苦手なんですけど、何だかんだでポールオースターは結構読んでます。これまで本作を含めて四作読みましたが、その中で本作が一番いいと思いました。
とにかく話自体が非常に分かりやすいですね。これまでの作品も結構面白かったんですけど、でも話は何だか奇妙なものだったり曖昧なものだったりして掴み所に欠ける部分がありました。それは決して欠点ではないのだけど、でも小説として読む時にちょっとした壁になりうる類のものなわけです。
でも本作は、その壁がない、非常に分かりやすい話です。話自体を要約すれば、まさに裏表紙の内容紹介通りであって、話の流れも明確だし、何がどうなっているのかもすごく分かりやすいわけです。まずそこがすごく馴染みやすかったですね。
あと、ストーリーは大まかに言って三つに分かれているんですけど、そのどのパートも特徴的な印象を残す運びで面白いです。冒頭は、伯父を亡くした主人公がいかに絶望しいかに人生を捨て始めるかを緻密に描いていて、それが最終的に餓死寸前というところまでいってしまいます。真ん中では、奇妙な老人が出てきます。とにかくこの老人が強烈で、冒頭とは違った印象になります。さらに最後のパートでは、主人公の家系の謎が明かされることになります。
それぞれがかなり偶然によって繋がっていて、到底現実には起こり得ないだろうと思わせる話です。特に最後の家系の謎に至る偶然なんかはちょっと無理がありすぎるんじゃないかなとか思ったりします。でも読んでいると、そのありえなさを敢えて隠していないような雰囲気を感じます。ありえないことを積み重ねてありえない話を生み出してみました。お気に召さないならそれでも構いません。何だかそんな雰囲気を感じるんです。敢えてリアリティーみたいなものを追い求めようとしていないところがいいなと思いました。
それでいて一方では、細かい部分の描写はかなりしっかりしているわけです。なんというか、最低限なりたちうることだけは示していますよ、と言った感じで、そのバランスがすごくいいなと思いました。
個人的にはキティとミセス・ヒュームがいいなと思いました。キティというのは主人公が付き合うことになる彼女なんだけど、何だかしっかりしていて前向きで、すごく印象のいい女の子でした。こんな子に好かれた主人公は羨ましいですね。
ミセス・ヒュームは、主人公が相手をすることになる老人の生活全般の世話をずっとしている女性です。かなり気難しい老人なんですが、それをかなりうまいこと操っているところなんかすごいなと思いました。僕なら主人公と同じで、あんな老人とずっと一緒に暮すことなんかできないだろうな、と思ったりしますが、ミセス・ヒュームはどんなに罵倒されても大らかな気持ちでお世話を続けるわけなんですね。すばらしい女性です。
どちらもストーリー上は脇役ですけど、なかなか印象に残る二人でした。
伯父が死んでからの主人公のめまぐるしく変化する人生を丁寧に緻密に描き取った作品です。かなり面白く読めました。魅力的な登場人物と偶然に作用された様々な出来事、そして染み込むように入り込んでくる語りがなかなか素晴らしい作品だと思います。ポール・オースターの作品を全部読んでいるわけではないんですけど、でもポール・オースターの作品を一番初めに読むならこれがいいんじゃないかなと思ったりします。ちょっと長いかもしれないけど、是非是非読んでみてください。
ポール・オースター「ムーン・パレス」
シグナル(関口尚)
幽霊屋敷の噂というのは、どの地方のどんな場所にもあるものなのだろうか。7年ぶりに実家に戻った譲二は、昨日弟からその話を聞いてそんな風に思った。
父方の祖父の葬式のために、東京から戻ってきた。正直なところ、実家はあまり心地よい場所ではない。子供の頃の不愉快な記憶がまざまざと蘇ってきて、くつろげる場所ではない。だからこそ地元を捨てて東京へと向かったのだし、それから7年も実家に帰らないでいたのだ。こうして誰かが死んだりしない限り、これからも実家には寄り付かない生活が続くことだろう。
久々に会った両親は、やはり年を取ったなという印象だった。お互い何でもない風に会話を交わしはしたが、両親共が過去のことは水に流してまたうまいことやっていこう、というような目をしていたのがどうにも気に食わなかった。こんな風にしたのはあんたらが悪いんだろう、という思いが今でも強く残っていた。
そんな据わりの悪い時間の中で、唯一気が紛れるのが弟の剛志の存在だ。別に仲がよかったわけでも悪かったわけでもないのだが、こうして久々に実家に戻ってきて見た時に相手をしようという気になるのが弟しかいなかった。弟は地元の大学に通っているため、地元の噂話にはさすがに強い。自分がいなかった7年間に誰がどんなことをしたのか、何が変わったのか、変わらずに残っているものはなんなのか、そんな話をずっと弟としていたのだった。
その中で弟の口から出てきたのが、幽霊屋敷の話だった。譲二がこっちにいる頃にはなかったはずの噂だから、最近出来たのだろうと思う。弟に確認してみるとやはりそうで、ここ数年の間によく聞くようになった、ということだった。
これ特にどうということのない噂話であったら聞き流していたことだろう。しかし、弟の話を聞いている内にそうはいかないと思うようになった。
その家は、高校時代譲二が好きだった女の子が住んでいる家だったからだ。その子と特に付き合っていたということはなくただの片想いだったのだが、それでも高校時代のいい思い出として未だに譲二の心には深く刻まれている。その彼女の家がまさに幽霊屋敷と呼ばれているのである。
詳しく話を聞いてみるとこういうことのようだ。その家は両親と娘の三人家族だったが、ある時両親が何かの事情でいっぺんに亡くなった。娘はそれなりの年齢に達していたので親戚に預けられると言ったようなことはなく、その家に一人で住み続けることにしたらしい。
らしい、というのは、近所で誰もその娘の姿を見た者がいないからだ。昼も夜も一切外に出ない生活をしているらしい。実はもう誰も住んでいないのではないか、という話も時折出るのだが、家の電気が点いていたりシャワーの音が聞こえたりという話もあるので、きっと誰かが住んでいるのだろう、という意見も出る。結局はよくわからないのだが、あまりにも不気味なので周りはそこを幽霊屋敷と呼んでいる、とのことだった。
なんだ、それぐらいのことで幽霊屋敷だなんて騒いでいるのか、と思った。何かの事情で家から出られないだけかもしれないし、それにそもそも誰も住んでいないのかもしれない。電気やシャワーの件だって大した話ではない。そう言うと、いやそれだけじゃないんだと弟は言う。
何でもこの噂には続きがあって、幽霊屋敷では人が消えるのだという。幽霊屋敷の噂が出始めてから、大学生なんかが勝手に心霊スポットにして幽霊屋敷の中に入ったりしているようなのだけど、その誰もが行方不明になっているというのだ。馬鹿馬鹿しい。それこそただの噂だろうが。そんな人が簡単に消えてたまるか、と譲二は弟を詰るようにして言った。
そんなこともあって、今譲二は幽霊屋敷と呼ばれている、かつて好きだった女の子の家の前にいる。どのみち噂どおりのわけがないんだし、これにかこつけて旧友に会うというのも悪くないかなと思ったのだ。
とりあえず呼び鈴を鳴らしてみる。やっぱり誰も住んでないのかなと思い始めた頃、玄関のドアががちゃと音を立てて開いた。
玄関には一人の女性がいた。異常なくらい色が白く、また髪も長い。寝巻きのようなざっくりとした服を着ているが、それでもかなり痩せているのが分かる。あの頃の面影はほとんどなかったが、それでも目の前にいる女性が彼女なのだろう。
「譲二君?」
向こうは譲二のことが分かったようだ。7年ぶりに会うのによく分かるなと思うが、確かに譲二は高校時代からさほど変化がない。その後彼女は小さく何かを呟いたようだったが聞こえなかった。「オイソウ」とかなんとか、そんな風なことを言ったようだったのだけど。
「久しぶり。ちょっと実家に戻る用があって、それでついでに」
何がついでなのか自分でも分からないが、彼女はそれに突っ込むようなことはしなかった。
「上がってく?」
彼女はそう言うと、譲二の返事を待つでもなく家の中に戻って行った。確かに彼女の姿を何かの形で見れば幽霊に見えなくないかもしれないと思いながら、彼女の後を追うようにして譲二も家に入り込んだ。
入ってすぐ左手がキッチンになっていて、そこから居間に続いている。勝手が分からずしばらく立ち止まっていたが、麦茶を入れ終えた彼女が居間に入ってという風に手招きしたので、さてどうしたものかと思いながら中に入る。ここまで来てみたものの、どうしようかなんてことは特に考えていなかったのだ。
小さなテーブルを挟んで向き合うようにして座ったのだけど、会話の切り出し方が分からない。譲二は、幽霊屋敷の噂が本当か確かめたかったのだけど、いきなりその話をするのもどうかと思う。かと言って、彼女と共通の話題があるわけでもない。彼女の方はと言えば、特に何か話そうというつもりもないように見える。
とりあえず麦茶に口をつけ、そうしてからおもむろに切り出す。
「幽霊屋敷の話を聞いたんだ」
「ああ、ウチのこと」
やはり知らないわけではないようだ。インターネットか何かでそういう噂を見かけたのだろうか。
「で、悪いなって思ったんだけど、ちょっと確認しに来ちゃった。でも、やっぱ噂は噂だな。全然幽霊屋敷じゃねーもんな」
「そうかしら。案外間違ってもいないと思うけど」
何が言いたいのかよくわからないし、微妙に会話もかみ合っていない気もする。あまり長居したくもないな、と思いながら、ふと浮かんだ疑問を口にする。
「じゃあ、家から全然出てないってのはホントなの?それならさ、食事とかはどうしてるの?」
「そうね。食事はその噂のお陰でなんとかなってるって感じかな」
また意味の分からない返答をする。噂のお陰でご飯を食べられるってどういうことだろうか。
「それに、今日も夕飯の食材がもう手に入ったしね」
家に出るネズミでも捕まえて食べているというのだろうか。案外ありえないこともないかもしれない。誰もこの家には寄り付かないはずだから、ピザや食材の配達の人間も来ないだろう。だとすればなんとか自力で食料を調達するしかない。
そんな風に思っていると、突然体中にしびれを感じた。自分の体なのに自分の意思では動かせないような感じ。何だこれ。どう考えても、さっきの麦茶しか考えられない。
「どういうことあこえ。ないかくすいでおいえたんか」
口の筋肉も上手く動かせなくなっている。
「美味しそう」
彼女はポツリとそう呟く。そうか、玄関先で彼女が呟いたのもこれと同じ言葉だったのか、と思い至る。
「さてと、夕飯の支度でもしようかな」
幽霊屋敷で人が消えるという噂は本当だったのかと、ようやく思い至った。
一銃「幽霊屋敷」
そろそろ内容に入ろうと思います。
お金がないために大学を休学し、一旦実家に戻ってきた恵介。子供の頃から父親のせいでお金に苦労する生活だったのだが、それは未だに恵介を苦しめる。
とりあえず授業料などまとまった額のお金を稼がなくてはいけない。そんな時に見つけたのが映写技師の募集案内だった。
子供の頃から通っていた昔ながらの映画館で、時給千五百円という破格のバイトを募集していた。早速応募することにしたのだが、オーナーに不可思議な三つのルールを約束させられた。それは、3年前から映写室に閉じこもったままの映写技師・ルカに関してのものだった。
1、ルカの過去について質問してはいけない
2、ルカは月曜日になると神経質になるから、そっとしておくこと
3、ルカとの恋愛は禁止
これらすべての条件を理由もよくわからないまま了承した恵介は、早速働くことになった。
ルカはものすごく綺麗で、見惚れるほどだった。さらに、仕事は神業かと思うぐらい速い。どんどんルカに惹かれていく自分に気づくが、しかしオーナーとの三つの約束がある。もどかしい思いを抱えながら日々仕事をこなしていくのだが…。
というような話です。
決して面白くないわけではないんですが、期待通りの作品ではなくてちょっとがっかりしました。
この作品、帯の文句を読む限り無茶苦茶面白そうなんです。映写室から三年間も出ないで生活している女性、そしてその女性に深く触れてはいけないと言い含められてバイトを始める男。この設定だけ見れば、なんかすごく面白い作品だと期待してもおかしくないと思うんです。
でも読んでみて、まあ決して悪くはないんだけど、どうも僕が期待していたほどの面白さではないな、と思いました。まあ僕の期待が高すぎただけなのかもしれませんが、なんか残念な感じでした。
なんというかですね、映写室に閉じこもっている理由がもっと面白かったらよかったのに、と思ったわけです。それに、恵介が約束させられることになる三つの事柄ももっと面白くからんでくれたらよかったのに、という感じです。正直、この二点についてはかなり平凡でなぁという感じがしました。じゃあどういうのを望んでいたんだ、といわれても答えられませんが、なんか違うんですよね。
ルカという女性はなかなか魅力的に描かれていていいなと思ったし、恵介も恵介の弟の春人もなかなかいいキャラクターで、ストーリーにはちょっと不満はあるけど、キャラクターには結構満足でした。恵介と春人が母親を思う気持ちだとか、恵介が持っている夢だとか、春人が何でする女の子と分かれちゃうのかっていうこととか、ルカの職人としての存在と少女としての存在の混じり具合だとか、そういう部分は読んでて面白かったです。恵介と春人の兄弟については、なんとなく「重力ピエロ」の兄弟を思い出しました。まあ「重力ピエロ」の兄弟の方がはるかにいいんですけどね。
たぶんこの作品、もっと別の作家が同じ設定で書いたらもう少し面白くなったような気がします。それがなんか残念ですね。キャラクターはかなり良かったんだから、もう少しストーリーの方をどうにか出来なかったかなぁ、と思います。面白くないわけではないですが、ちょっと僕の中では残念な作品でした。
でももしかしたら、今年どこかで話題になる一作かもしれないとも思いました。一応分かりやすい恋愛小説だし、幻冬舎って出版社はそういうのうまいからなぁ。「ダヴィンチ」とか「王様のブランチ」とかで紹介される可能性は、ないでもないかも。
関口尚「シグナル」
父方の祖父の葬式のために、東京から戻ってきた。正直なところ、実家はあまり心地よい場所ではない。子供の頃の不愉快な記憶がまざまざと蘇ってきて、くつろげる場所ではない。だからこそ地元を捨てて東京へと向かったのだし、それから7年も実家に帰らないでいたのだ。こうして誰かが死んだりしない限り、これからも実家には寄り付かない生活が続くことだろう。
久々に会った両親は、やはり年を取ったなという印象だった。お互い何でもない風に会話を交わしはしたが、両親共が過去のことは水に流してまたうまいことやっていこう、というような目をしていたのがどうにも気に食わなかった。こんな風にしたのはあんたらが悪いんだろう、という思いが今でも強く残っていた。
そんな据わりの悪い時間の中で、唯一気が紛れるのが弟の剛志の存在だ。別に仲がよかったわけでも悪かったわけでもないのだが、こうして久々に実家に戻ってきて見た時に相手をしようという気になるのが弟しかいなかった。弟は地元の大学に通っているため、地元の噂話にはさすがに強い。自分がいなかった7年間に誰がどんなことをしたのか、何が変わったのか、変わらずに残っているものはなんなのか、そんな話をずっと弟としていたのだった。
その中で弟の口から出てきたのが、幽霊屋敷の話だった。譲二がこっちにいる頃にはなかったはずの噂だから、最近出来たのだろうと思う。弟に確認してみるとやはりそうで、ここ数年の間によく聞くようになった、ということだった。
これ特にどうということのない噂話であったら聞き流していたことだろう。しかし、弟の話を聞いている内にそうはいかないと思うようになった。
その家は、高校時代譲二が好きだった女の子が住んでいる家だったからだ。その子と特に付き合っていたということはなくただの片想いだったのだが、それでも高校時代のいい思い出として未だに譲二の心には深く刻まれている。その彼女の家がまさに幽霊屋敷と呼ばれているのである。
詳しく話を聞いてみるとこういうことのようだ。その家は両親と娘の三人家族だったが、ある時両親が何かの事情でいっぺんに亡くなった。娘はそれなりの年齢に達していたので親戚に預けられると言ったようなことはなく、その家に一人で住み続けることにしたらしい。
らしい、というのは、近所で誰もその娘の姿を見た者がいないからだ。昼も夜も一切外に出ない生活をしているらしい。実はもう誰も住んでいないのではないか、という話も時折出るのだが、家の電気が点いていたりシャワーの音が聞こえたりという話もあるので、きっと誰かが住んでいるのだろう、という意見も出る。結局はよくわからないのだが、あまりにも不気味なので周りはそこを幽霊屋敷と呼んでいる、とのことだった。
なんだ、それぐらいのことで幽霊屋敷だなんて騒いでいるのか、と思った。何かの事情で家から出られないだけかもしれないし、それにそもそも誰も住んでいないのかもしれない。電気やシャワーの件だって大した話ではない。そう言うと、いやそれだけじゃないんだと弟は言う。
何でもこの噂には続きがあって、幽霊屋敷では人が消えるのだという。幽霊屋敷の噂が出始めてから、大学生なんかが勝手に心霊スポットにして幽霊屋敷の中に入ったりしているようなのだけど、その誰もが行方不明になっているというのだ。馬鹿馬鹿しい。それこそただの噂だろうが。そんな人が簡単に消えてたまるか、と譲二は弟を詰るようにして言った。
そんなこともあって、今譲二は幽霊屋敷と呼ばれている、かつて好きだった女の子の家の前にいる。どのみち噂どおりのわけがないんだし、これにかこつけて旧友に会うというのも悪くないかなと思ったのだ。
とりあえず呼び鈴を鳴らしてみる。やっぱり誰も住んでないのかなと思い始めた頃、玄関のドアががちゃと音を立てて開いた。
玄関には一人の女性がいた。異常なくらい色が白く、また髪も長い。寝巻きのようなざっくりとした服を着ているが、それでもかなり痩せているのが分かる。あの頃の面影はほとんどなかったが、それでも目の前にいる女性が彼女なのだろう。
「譲二君?」
向こうは譲二のことが分かったようだ。7年ぶりに会うのによく分かるなと思うが、確かに譲二は高校時代からさほど変化がない。その後彼女は小さく何かを呟いたようだったが聞こえなかった。「オイソウ」とかなんとか、そんな風なことを言ったようだったのだけど。
「久しぶり。ちょっと実家に戻る用があって、それでついでに」
何がついでなのか自分でも分からないが、彼女はそれに突っ込むようなことはしなかった。
「上がってく?」
彼女はそう言うと、譲二の返事を待つでもなく家の中に戻って行った。確かに彼女の姿を何かの形で見れば幽霊に見えなくないかもしれないと思いながら、彼女の後を追うようにして譲二も家に入り込んだ。
入ってすぐ左手がキッチンになっていて、そこから居間に続いている。勝手が分からずしばらく立ち止まっていたが、麦茶を入れ終えた彼女が居間に入ってという風に手招きしたので、さてどうしたものかと思いながら中に入る。ここまで来てみたものの、どうしようかなんてことは特に考えていなかったのだ。
小さなテーブルを挟んで向き合うようにして座ったのだけど、会話の切り出し方が分からない。譲二は、幽霊屋敷の噂が本当か確かめたかったのだけど、いきなりその話をするのもどうかと思う。かと言って、彼女と共通の話題があるわけでもない。彼女の方はと言えば、特に何か話そうというつもりもないように見える。
とりあえず麦茶に口をつけ、そうしてからおもむろに切り出す。
「幽霊屋敷の話を聞いたんだ」
「ああ、ウチのこと」
やはり知らないわけではないようだ。インターネットか何かでそういう噂を見かけたのだろうか。
「で、悪いなって思ったんだけど、ちょっと確認しに来ちゃった。でも、やっぱ噂は噂だな。全然幽霊屋敷じゃねーもんな」
「そうかしら。案外間違ってもいないと思うけど」
何が言いたいのかよくわからないし、微妙に会話もかみ合っていない気もする。あまり長居したくもないな、と思いながら、ふと浮かんだ疑問を口にする。
「じゃあ、家から全然出てないってのはホントなの?それならさ、食事とかはどうしてるの?」
「そうね。食事はその噂のお陰でなんとかなってるって感じかな」
また意味の分からない返答をする。噂のお陰でご飯を食べられるってどういうことだろうか。
「それに、今日も夕飯の食材がもう手に入ったしね」
家に出るネズミでも捕まえて食べているというのだろうか。案外ありえないこともないかもしれない。誰もこの家には寄り付かないはずだから、ピザや食材の配達の人間も来ないだろう。だとすればなんとか自力で食料を調達するしかない。
そんな風に思っていると、突然体中にしびれを感じた。自分の体なのに自分の意思では動かせないような感じ。何だこれ。どう考えても、さっきの麦茶しか考えられない。
「どういうことあこえ。ないかくすいでおいえたんか」
口の筋肉も上手く動かせなくなっている。
「美味しそう」
彼女はポツリとそう呟く。そうか、玄関先で彼女が呟いたのもこれと同じ言葉だったのか、と思い至る。
「さてと、夕飯の支度でもしようかな」
幽霊屋敷で人が消えるという噂は本当だったのかと、ようやく思い至った。
一銃「幽霊屋敷」
そろそろ内容に入ろうと思います。
お金がないために大学を休学し、一旦実家に戻ってきた恵介。子供の頃から父親のせいでお金に苦労する生活だったのだが、それは未だに恵介を苦しめる。
とりあえず授業料などまとまった額のお金を稼がなくてはいけない。そんな時に見つけたのが映写技師の募集案内だった。
子供の頃から通っていた昔ながらの映画館で、時給千五百円という破格のバイトを募集していた。早速応募することにしたのだが、オーナーに不可思議な三つのルールを約束させられた。それは、3年前から映写室に閉じこもったままの映写技師・ルカに関してのものだった。
1、ルカの過去について質問してはいけない
2、ルカは月曜日になると神経質になるから、そっとしておくこと
3、ルカとの恋愛は禁止
これらすべての条件を理由もよくわからないまま了承した恵介は、早速働くことになった。
ルカはものすごく綺麗で、見惚れるほどだった。さらに、仕事は神業かと思うぐらい速い。どんどんルカに惹かれていく自分に気づくが、しかしオーナーとの三つの約束がある。もどかしい思いを抱えながら日々仕事をこなしていくのだが…。
というような話です。
決して面白くないわけではないんですが、期待通りの作品ではなくてちょっとがっかりしました。
この作品、帯の文句を読む限り無茶苦茶面白そうなんです。映写室から三年間も出ないで生活している女性、そしてその女性に深く触れてはいけないと言い含められてバイトを始める男。この設定だけ見れば、なんかすごく面白い作品だと期待してもおかしくないと思うんです。
でも読んでみて、まあ決して悪くはないんだけど、どうも僕が期待していたほどの面白さではないな、と思いました。まあ僕の期待が高すぎただけなのかもしれませんが、なんか残念な感じでした。
なんというかですね、映写室に閉じこもっている理由がもっと面白かったらよかったのに、と思ったわけです。それに、恵介が約束させられることになる三つの事柄ももっと面白くからんでくれたらよかったのに、という感じです。正直、この二点についてはかなり平凡でなぁという感じがしました。じゃあどういうのを望んでいたんだ、といわれても答えられませんが、なんか違うんですよね。
ルカという女性はなかなか魅力的に描かれていていいなと思ったし、恵介も恵介の弟の春人もなかなかいいキャラクターで、ストーリーにはちょっと不満はあるけど、キャラクターには結構満足でした。恵介と春人が母親を思う気持ちだとか、恵介が持っている夢だとか、春人が何でする女の子と分かれちゃうのかっていうこととか、ルカの職人としての存在と少女としての存在の混じり具合だとか、そういう部分は読んでて面白かったです。恵介と春人の兄弟については、なんとなく「重力ピエロ」の兄弟を思い出しました。まあ「重力ピエロ」の兄弟の方がはるかにいいんですけどね。
たぶんこの作品、もっと別の作家が同じ設定で書いたらもう少し面白くなったような気がします。それがなんか残念ですね。キャラクターはかなり良かったんだから、もう少しストーリーの方をどうにか出来なかったかなぁ、と思います。面白くないわけではないですが、ちょっと僕の中では残念な作品でした。
でももしかしたら、今年どこかで話題になる一作かもしれないとも思いました。一応分かりやすい恋愛小説だし、幻冬舎って出版社はそういうのうまいからなぁ。「ダヴィンチ」とか「王様のブランチ」とかで紹介される可能性は、ないでもないかも。
関口尚「シグナル」
かび(山本甲士)
ダルい。
日差しの強さもあるかもしれない。寝不足もあるかもしれない。でも、それだけじゃないと頭のどこかが警告を発している。何かおかしい。体に異常が起こっていることは間違いないように思える。立っているだけでもしんどい。動けないほどではない、というのがまた厄介だ。
やらなければいけないことはたくさんある。幼稚園に持っていくぞうきんも作らないといけないし、洗濯物だって溜まっている。夫に頼まれて市役所に行かなくてはいけな手続きもある。結婚する前は専業主婦なんかもっと楽だと思っていた。優雅にランチを食べて、カルチャースクールに通って、井戸端会議でくだらない話が出来るものだと思っていた。でも、現実はどうも違う。何が間違っているのか分からないが、ここ数年で専業主婦というのもかなり大変なのだと分かってきた。娘が生まれたこともあるかもしれないが、やることが増えたというよりも、どちらかと言えば人間関係が厄介であるように思える。気疲れするというのだろうか。たぶんそうしたストレスの蓄積が、今この不調の原因の一つになっているのだろうと思う。
何だかぼんやりする。車を運転しているのも危ないかもしれない。しかし、今日このタイミングで買い物に出かけないと、夕食を作る材料がない。今日は夫は早く帰ってくる予定の日だし、そこでありあわせの夕食しかなかったらまたキレるだろう。普段は優しいのだが、ふとした拍子に豹変するのだけはどうにかして欲しいと思っている。
ぐったりと重い体を引きずるようにしながらスーパーに辿り着く。幸いにも駐車場はかなり余裕がある。バックで駐車するのが苦手で、駐車場が混んでいるとかなりてこずることになる。車を何とか停め、ようやく店内に入ったところだった。
車から降りて店内に入るまでの間だけでも汗をかいてしまった。それを店内の冷房が冷やしてくれる。心地よいが、これでまた体調が悪化することになるだろうな、と気が重い。
手早く買い物を済ませてしまわなくてはいけない。今日の夕食は何にすればいいだろう。そうめんとかなら楽なのだが、夫は手抜き料理にはうるさい。しかしかと言って、この体調で作れるものなどたかが知れていると思う。結局夫の好物ということもあってカレーに決めた。これならしばらくもつし、作るのも簡単だ。材料を思い浮かべて手早くカートに入れていく。サラダもつければいいか。そういえばドレッシングが切れてたっけ?
店内の一角に、京都産の野菜の特設コーナーが設けられていた。あれ、こんなのあったっけ?一昨日まではなかったと思ったけど。まあこうやって新しい試みをしてくれるのはいいことだ、と思う一方で、でもこの辺の主婦でわざわざ高い京都産の野菜を買う人なんているんだろうか、とも思った。
娘のお菓子もカートに入れたところで、買うべきものはあらかた揃った。体調は相変わらずで、収まる気配はない。すぐにでも家に帰って一眠りしないと、ちょっとこれは本当にまずい。
レジに向かって通路を歩く。卵売り場の前まで行けば、そこを左に曲がればすぐレジに行き当たる。
「ウソ…。んなアホな…」
自分が見ている光景が信じられなかった。
レジに向かおうと左に曲がった。曲がれば目の前にレジが見えるはずだった。
しかし、ない。目の前には通路が広がり、その両端には缶詰やカップラーメンの類が並んでいる。
いや、もしかしたら売り場の配置が変わったのかもしれない。さっきも京都産の野菜売り場が新設されてたくらいだ。今自分はボーっとしてるから、普段の習慣のままでいたが、実は卵売り場も別の場所に移動になったのではないか。
とりあえずそう思うことにした。それ以外に筋の通った説明は思いつかなかった。とりあえず缶詰やカップラーメンを横目に見ながらカートを押す。売り場を変えるならその表示ぐらいしたらどうなのさ、と心の中でぐじぐじ思った。もしかしたら口に出していたかもしれない。
外周部に当たる通路に出た。
「どうなってるわけ…」
その通路は、左右に無限に伸びていた。無限に、というのが大げさな表現だということは自分でも分かっていた。しかし、そう言うしかないぐらい、それはありえない光景だった。昔何かで、外国の図書館の写真を見たことがある。世界一の敷地を持つというその図書館は、とにかくうんざりするほど通路が長かった。しかし、今自分が見ているのは、それよりも明らかに長い通路である。通路の先が霞んで見えない。
ありえないでしょ。何これ、どういうこと?普通に考えてこの店こんな広いわけないじゃない。
とにかく歩くしかなかった。重いカートを無理矢理押しながら、とにかく売り場をうろうろと彷徨った。無限に続くように思える通路を永遠歩く気にはなれなかったので、時折通路を曲がるのだが、もはやスーパーの常識ではありえないくらい通路が複雑にうねっていた。こんな売り場、ドンキホーテでもやらないだろう、というぐらいで、一時期大流行した巨大迷路の中にいる気分になった。
歩きながら店員の姿を探すも、何故かまったく見つからない。どこを探してもいないのだ。その内もう諦めた気分になって、とりあえず何も考えずにただ歩くに任せた。どうして私がこんな目に遭わなくてはいけないんだろう。
「あの、お客様」
後ろから声を掛けられた。振り向くと、そこにスーパーのスタッフらしき人がいた。
「あぁ、助かりました。ちょっと教えて欲しいんですけど…」
「そちらの商品はお会計はお済みですか?」
「そう、だから今レジを探していたんですけど…」
そう言った瞬間、私の目の前の景色が瞬時に変わった。まるで映画のシーンが切り替わるのを見ているかのようだった。私は、満載のカートを押したまま、スーパーの店内から外に出ていたのだ。
「お客様、事務所まで来ていただいてもよろしいでしょうか」
一銃「迷路」
そろそろ内容に入ろうと思います。
伊崎友希江は、サラリーマンの夫と一人娘を持つごくごく普通の専業主婦。日々家事に追われる毎日で、また夫との関係も良くも悪くもないという微妙な関係。生きている充足感を求めて時折パートに出たりロゴマークのデザインに応募したりなどしているが、やはり専業主婦特有の鬱屈感いたいなものを振り払うことは出来ない。幼稚園での無神経な母親や、マナーの悪い運転手、また怒るほどでもないがイライラする姑からの厭味などに耐えながら、それでも昔からいい子を演じてしまう癖は抜けず、まあ自分が我慢すればいいかと思って過ごしてきた。
そんなある日、会社から夫が仕事中に倒れたという連絡が入った。急いで病院に駆けつけると、脳梗塞だということだった。夫はまだ30代なのに脳梗塞だなんて…。しかし夫への心配よりは、いろいろ煩わしいことが増えそうだという思いが先に立ってしまったりする。
夫の会社の人もやってきて、これからについて話をする。どうやら労災申請させたくないようだが、保険も会社が出してくれるようだし、忙しくない部署への異動を考えているということだったので、とりあえずまあ大丈夫だろうと思った。
しかしその後、とある筋から、夫は計画的に自主退職するように追い込まれている、と警告された。調べてみると、確かにそれらしい動きがあるようだ。夫をこき使っておいて、使えなくなればゴミのように捨てるのか。そう思うと、友希江は怒りを抑えることが出来なくなった。
でも、労災を申請しても裁判で疲れるだけだし、うまく話が進んで元の職場に戻れたとしても、またいつ辞めさせられるかビクビクしているしかない。一介の主婦に出来ることなどそう多くはない。しかし、このまま引き下がってたまるか…。
というような話です。
とにかくこの話をひと言で要約すれば、「主婦、キレる」となります。もうこれそのままPOPの文句にして売ろうかなと今思っています。
普通にエンターテイメントとして楽しめる作品です。どこにでもいるような普通の主婦が、夫の勤める巨大企業に一人で立ち向かうというまあ無茶苦茶な話ですが、同じ無茶苦茶なら、ハリウッド映画のような突拍子もない無茶苦茶さより、こういう地に足のついた(?)無茶苦茶さの方がいいかなと思います。
本作で一番うまいと思わせるのは、友希江が感じる日常での些細なイライラです。これは本作のいたるところに散りばめられているんですけど、なるほどそういうことはあるだろうなと普通に共感させるようなものがぎっしり詰まっています。僕にはもちろん主婦の経験はないので分かりませんが、幼稚園におけるイライラみたいなものは実際ありそうだし、僕は車もほとんど運転しないんでわかんないんですけど、でも車に関するイライラも乗っている人からすればよく分かるんだろうなと思います。
また、そういう特徴的な場面でなくても、人と接する際に友希江が密かに心の中で思っている負の感情みたいなものが常に溢れかえっているような感じで、読んでいて痛快な感じがします。普段何かによくイライラしているような人は、これを読んだらそうそうと膝を打ってしまうのではないか、と思ったりします。
そしてさらに、そうした日常の些細なイライラが募って、そのタイミングで夫が倒れ会社の不実な対応を目の当たりにすることになって、プッツン来てしまうという流れがすごく自然な感じで、主婦が大企業に楯突くという無茶苦茶さがなんとなく違和感なく感じられるから不思議なものです。
企業への復讐を実行に移す友希江は、それまでとはうって変わってあまりイライラしなくなります。それまではストレスを発散しようがなかったわけだけど、今は企業への復讐という面白いことをやっているので、日常のイライラを感じる余裕がないし、またそういうことが遭ってもこれまでとは違う対応が出来るようになります。その辺の変化も読んでて面白いなと思いました。
あと、本作ではヤサカというある地域の地場産業にもなっている大企業が相手となっているんですけど、でもやり方は酷いですね。でも、実際こういうのはありそうな気がします。表沙汰になっていないだけで、企業が従業員を蔑ろにするというのはやっぱり現実に起きているんでしょうね。結婚退職を半ば強制的に勧めるとか、病気になったら労災申請を出させないように動くとか、自殺者が出ても最小限に揉み消すとか、まあそういうことですね。これを読んで、戸梶圭太の「牛乳アンタッチャブル」とか、池井戸潤の「空飛ぶタイヤ」とかを思い出しました。どっちも実際の企業(雪印乳業と三菱自動車)をモデルにした小説ですけど、企業というのが裏でどれだけ酷いことをしているのかを描いています。本作では特にモデルはないような気はしますが、日本の企業全体の体質みたいなものをきっと上手いこと描いているのだろうなと思いました。
ただ、ラストなんですけど、ああするしかなかったんだろうとは思うんですけど、僕としてはあんまり好きな終わり方じゃなかったですね。じゃあどういうのがよかったのか、と聞かれても困りますけど。もうちょっと悪い(正義とは遠いという意味)終わり方でもよかったんじゃないかな、と僕なんかは思ったりしましたけど。
なかなか面白いし、かなり読ませる作品だと思います。この作家はもう少し注目してみようと思います。この作品は「どろ」や「とげ」など、「巻き込まれ型小説」というシリーズになっているみたいなので(登場人物が共通しているわけではないみたいですが)、そっちも読んでみようかなと思います。
山本甲士「かび」
日差しの強さもあるかもしれない。寝不足もあるかもしれない。でも、それだけじゃないと頭のどこかが警告を発している。何かおかしい。体に異常が起こっていることは間違いないように思える。立っているだけでもしんどい。動けないほどではない、というのがまた厄介だ。
やらなければいけないことはたくさんある。幼稚園に持っていくぞうきんも作らないといけないし、洗濯物だって溜まっている。夫に頼まれて市役所に行かなくてはいけな手続きもある。結婚する前は専業主婦なんかもっと楽だと思っていた。優雅にランチを食べて、カルチャースクールに通って、井戸端会議でくだらない話が出来るものだと思っていた。でも、現実はどうも違う。何が間違っているのか分からないが、ここ数年で専業主婦というのもかなり大変なのだと分かってきた。娘が生まれたこともあるかもしれないが、やることが増えたというよりも、どちらかと言えば人間関係が厄介であるように思える。気疲れするというのだろうか。たぶんそうしたストレスの蓄積が、今この不調の原因の一つになっているのだろうと思う。
何だかぼんやりする。車を運転しているのも危ないかもしれない。しかし、今日このタイミングで買い物に出かけないと、夕食を作る材料がない。今日は夫は早く帰ってくる予定の日だし、そこでありあわせの夕食しかなかったらまたキレるだろう。普段は優しいのだが、ふとした拍子に豹変するのだけはどうにかして欲しいと思っている。
ぐったりと重い体を引きずるようにしながらスーパーに辿り着く。幸いにも駐車場はかなり余裕がある。バックで駐車するのが苦手で、駐車場が混んでいるとかなりてこずることになる。車を何とか停め、ようやく店内に入ったところだった。
車から降りて店内に入るまでの間だけでも汗をかいてしまった。それを店内の冷房が冷やしてくれる。心地よいが、これでまた体調が悪化することになるだろうな、と気が重い。
手早く買い物を済ませてしまわなくてはいけない。今日の夕食は何にすればいいだろう。そうめんとかなら楽なのだが、夫は手抜き料理にはうるさい。しかしかと言って、この体調で作れるものなどたかが知れていると思う。結局夫の好物ということもあってカレーに決めた。これならしばらくもつし、作るのも簡単だ。材料を思い浮かべて手早くカートに入れていく。サラダもつければいいか。そういえばドレッシングが切れてたっけ?
店内の一角に、京都産の野菜の特設コーナーが設けられていた。あれ、こんなのあったっけ?一昨日まではなかったと思ったけど。まあこうやって新しい試みをしてくれるのはいいことだ、と思う一方で、でもこの辺の主婦でわざわざ高い京都産の野菜を買う人なんているんだろうか、とも思った。
娘のお菓子もカートに入れたところで、買うべきものはあらかた揃った。体調は相変わらずで、収まる気配はない。すぐにでも家に帰って一眠りしないと、ちょっとこれは本当にまずい。
レジに向かって通路を歩く。卵売り場の前まで行けば、そこを左に曲がればすぐレジに行き当たる。
「ウソ…。んなアホな…」
自分が見ている光景が信じられなかった。
レジに向かおうと左に曲がった。曲がれば目の前にレジが見えるはずだった。
しかし、ない。目の前には通路が広がり、その両端には缶詰やカップラーメンの類が並んでいる。
いや、もしかしたら売り場の配置が変わったのかもしれない。さっきも京都産の野菜売り場が新設されてたくらいだ。今自分はボーっとしてるから、普段の習慣のままでいたが、実は卵売り場も別の場所に移動になったのではないか。
とりあえずそう思うことにした。それ以外に筋の通った説明は思いつかなかった。とりあえず缶詰やカップラーメンを横目に見ながらカートを押す。売り場を変えるならその表示ぐらいしたらどうなのさ、と心の中でぐじぐじ思った。もしかしたら口に出していたかもしれない。
外周部に当たる通路に出た。
「どうなってるわけ…」
その通路は、左右に無限に伸びていた。無限に、というのが大げさな表現だということは自分でも分かっていた。しかし、そう言うしかないぐらい、それはありえない光景だった。昔何かで、外国の図書館の写真を見たことがある。世界一の敷地を持つというその図書館は、とにかくうんざりするほど通路が長かった。しかし、今自分が見ているのは、それよりも明らかに長い通路である。通路の先が霞んで見えない。
ありえないでしょ。何これ、どういうこと?普通に考えてこの店こんな広いわけないじゃない。
とにかく歩くしかなかった。重いカートを無理矢理押しながら、とにかく売り場をうろうろと彷徨った。無限に続くように思える通路を永遠歩く気にはなれなかったので、時折通路を曲がるのだが、もはやスーパーの常識ではありえないくらい通路が複雑にうねっていた。こんな売り場、ドンキホーテでもやらないだろう、というぐらいで、一時期大流行した巨大迷路の中にいる気分になった。
歩きながら店員の姿を探すも、何故かまったく見つからない。どこを探してもいないのだ。その内もう諦めた気分になって、とりあえず何も考えずにただ歩くに任せた。どうして私がこんな目に遭わなくてはいけないんだろう。
「あの、お客様」
後ろから声を掛けられた。振り向くと、そこにスーパーのスタッフらしき人がいた。
「あぁ、助かりました。ちょっと教えて欲しいんですけど…」
「そちらの商品はお会計はお済みですか?」
「そう、だから今レジを探していたんですけど…」
そう言った瞬間、私の目の前の景色が瞬時に変わった。まるで映画のシーンが切り替わるのを見ているかのようだった。私は、満載のカートを押したまま、スーパーの店内から外に出ていたのだ。
「お客様、事務所まで来ていただいてもよろしいでしょうか」
一銃「迷路」
そろそろ内容に入ろうと思います。
伊崎友希江は、サラリーマンの夫と一人娘を持つごくごく普通の専業主婦。日々家事に追われる毎日で、また夫との関係も良くも悪くもないという微妙な関係。生きている充足感を求めて時折パートに出たりロゴマークのデザインに応募したりなどしているが、やはり専業主婦特有の鬱屈感いたいなものを振り払うことは出来ない。幼稚園での無神経な母親や、マナーの悪い運転手、また怒るほどでもないがイライラする姑からの厭味などに耐えながら、それでも昔からいい子を演じてしまう癖は抜けず、まあ自分が我慢すればいいかと思って過ごしてきた。
そんなある日、会社から夫が仕事中に倒れたという連絡が入った。急いで病院に駆けつけると、脳梗塞だということだった。夫はまだ30代なのに脳梗塞だなんて…。しかし夫への心配よりは、いろいろ煩わしいことが増えそうだという思いが先に立ってしまったりする。
夫の会社の人もやってきて、これからについて話をする。どうやら労災申請させたくないようだが、保険も会社が出してくれるようだし、忙しくない部署への異動を考えているということだったので、とりあえずまあ大丈夫だろうと思った。
しかしその後、とある筋から、夫は計画的に自主退職するように追い込まれている、と警告された。調べてみると、確かにそれらしい動きがあるようだ。夫をこき使っておいて、使えなくなればゴミのように捨てるのか。そう思うと、友希江は怒りを抑えることが出来なくなった。
でも、労災を申請しても裁判で疲れるだけだし、うまく話が進んで元の職場に戻れたとしても、またいつ辞めさせられるかビクビクしているしかない。一介の主婦に出来ることなどそう多くはない。しかし、このまま引き下がってたまるか…。
というような話です。
とにかくこの話をひと言で要約すれば、「主婦、キレる」となります。もうこれそのままPOPの文句にして売ろうかなと今思っています。
普通にエンターテイメントとして楽しめる作品です。どこにでもいるような普通の主婦が、夫の勤める巨大企業に一人で立ち向かうというまあ無茶苦茶な話ですが、同じ無茶苦茶なら、ハリウッド映画のような突拍子もない無茶苦茶さより、こういう地に足のついた(?)無茶苦茶さの方がいいかなと思います。
本作で一番うまいと思わせるのは、友希江が感じる日常での些細なイライラです。これは本作のいたるところに散りばめられているんですけど、なるほどそういうことはあるだろうなと普通に共感させるようなものがぎっしり詰まっています。僕にはもちろん主婦の経験はないので分かりませんが、幼稚園におけるイライラみたいなものは実際ありそうだし、僕は車もほとんど運転しないんでわかんないんですけど、でも車に関するイライラも乗っている人からすればよく分かるんだろうなと思います。
また、そういう特徴的な場面でなくても、人と接する際に友希江が密かに心の中で思っている負の感情みたいなものが常に溢れかえっているような感じで、読んでいて痛快な感じがします。普段何かによくイライラしているような人は、これを読んだらそうそうと膝を打ってしまうのではないか、と思ったりします。
そしてさらに、そうした日常の些細なイライラが募って、そのタイミングで夫が倒れ会社の不実な対応を目の当たりにすることになって、プッツン来てしまうという流れがすごく自然な感じで、主婦が大企業に楯突くという無茶苦茶さがなんとなく違和感なく感じられるから不思議なものです。
企業への復讐を実行に移す友希江は、それまでとはうって変わってあまりイライラしなくなります。それまではストレスを発散しようがなかったわけだけど、今は企業への復讐という面白いことをやっているので、日常のイライラを感じる余裕がないし、またそういうことが遭ってもこれまでとは違う対応が出来るようになります。その辺の変化も読んでて面白いなと思いました。
あと、本作ではヤサカというある地域の地場産業にもなっている大企業が相手となっているんですけど、でもやり方は酷いですね。でも、実際こういうのはありそうな気がします。表沙汰になっていないだけで、企業が従業員を蔑ろにするというのはやっぱり現実に起きているんでしょうね。結婚退職を半ば強制的に勧めるとか、病気になったら労災申請を出させないように動くとか、自殺者が出ても最小限に揉み消すとか、まあそういうことですね。これを読んで、戸梶圭太の「牛乳アンタッチャブル」とか、池井戸潤の「空飛ぶタイヤ」とかを思い出しました。どっちも実際の企業(雪印乳業と三菱自動車)をモデルにした小説ですけど、企業というのが裏でどれだけ酷いことをしているのかを描いています。本作では特にモデルはないような気はしますが、日本の企業全体の体質みたいなものをきっと上手いこと描いているのだろうなと思いました。
ただ、ラストなんですけど、ああするしかなかったんだろうとは思うんですけど、僕としてはあんまり好きな終わり方じゃなかったですね。じゃあどういうのがよかったのか、と聞かれても困りますけど。もうちょっと悪い(正義とは遠いという意味)終わり方でもよかったんじゃないかな、と僕なんかは思ったりしましたけど。
なかなか面白いし、かなり読ませる作品だと思います。この作家はもう少し注目してみようと思います。この作品は「どろ」や「とげ」など、「巻き込まれ型小説」というシリーズになっているみたいなので(登場人物が共通しているわけではないみたいですが)、そっちも読んでみようかなと思います。
山本甲士「かび」
サイン会はいかが? 成風堂書店事件メモ(大崎梢)
「あった。あったった。お兄ちゃん。あったよ」
「しー。ミチもっと静かに」
「だってあったんだってばー」
「分かったからもう少し声抑えろって」
「ほらここ読んでみて。これ絶対そうだよ」
『…街の灯りはゆっかりと落ち、辺りはゆっくりと暗闇に包み込まれていった。…』
「ほらこれおかしいでしょ。『ゆっかり』じゃなくて『すっかり』でしょ?」
「そうだな。こりゃ間違いないわ」
「やったー。順調順調」
「ってお前、まだまだ先は長いぞ」
僕らはとある本屋にいる。ここがなんという街なのかは忘れてしまった。地名や人名になるとまだまだ補強しなくてはいけない部分が多いな、と感じる。しかし、とりあえずボロを出すようなことはこれまでなかったので、まあ大丈夫だろう。
しかし、本屋では静かにしなくてはいけない、とあれほど教えられたのに、ミチはもうすっかり忘れてしまっているのだ。確かにこれだけの本がずらりと並んでいるところなど身近にはないのだから仕方ないのかもしれないが、それにしてももう少し落ち着いて欲しいものだと思う。しかし、回収率についてはミチの方がはるかにいいのだから、あまり強くも言えない。辛い立場だな、と思う。
ミチはまた売り場をふらふらと歩いている。次の獲物を探しているのだろう。どういう基準で何を感じるのか分からないが、とにかくミチはセンサーとしての才能がある。僕たちが探しているものを、少なくとも僕よりは高い精度で見つけることが出来る。まあ言ってみれば僕はそのお守りということになる。初めはこんなはずじゃなかったのにな、とため息をつく。
まあ僕も探すか。そういえばミチに声を掛けられるまで目を通していた本をまだ精査し終わっていない。しかし、僕が何をやっても焼け石に水なのではないか、と思う。ポケットに入れたセンサーは相変わらず反応しない。正直、僕に出来ることはあまり多くない。
「お兄ちゃぁん。また見つけたよ」
またミチが大きな声で僕を呼ぶ。その度に店内にいるスタッフやお客さんの視線が僕を突き刺す。何度注意しても聞きはしないだろうが、しかし周囲の手前、やはりまた言って聞かせなくてはいけないだろう。お守りは楽じゃない。
僕らには探しているものがある。それは、僕らの言葉で言えば『万物の最小』となるが、こちらの言葉で言えば『誤植』ということになる。しかし、この両者は決してイコールの存在ではない。
僕らはそもそもこの地上界に生きる存在ではない。僕らは天上界に生きる存在で、地上界に降りる際に習った知識によれば、『天使』という概念に最も近い存在なのだという。まあ僕らは羽根があるわけでも、頭の上に輪っかがあるわけでもないんだけど。
天上界というのは地上界とはまるで違った場所なのだけど、まるっきり無関係というわけでもない。大雑把に噛み砕いて言ってしまえば、地上界の出来事は天上界に影響を及ぼすことはないのだけど、天上界での出来事が地上界に影響を与えることはある、ということになる。もっと言えば、地上界を管理するために天上界がある、という言い方でも間違ってはいないかもしれない。
さてそんな天上界には、地上界のそれぞれに対応するものが存在する。それは、車のブレーキペダルとブレーキの関係のようなもので、天上界でブレーキペダルを押すと、地上界でブレーキが作用する、というようなものだ。その一つに『万物の最小』がある。
これは何かと言えば、地上界での文字全般と対応するものである。地上界では物質の存在が大きく、『万物の最小』と言えば原子などを指すのかもしれないが、天上界では物質よりも表現の存在が大きく、その中でも文字情報が最も重要とされる。
僕らの父親が、その『万物の最小』を管理する役職のトップに就いているのだが、ある時とんでもないミスをやらかしてしまったのだ。父親はなんと、厳重に管理すべき『万物の最小』を紛失してしまったのだ。絵画のレプリカのように、『万物の最小』にも多数スペアが存在し、実質的な機能はそちらのスペアが担っているので実用上の問題はないのだが、天上界で最も重視される『万物の最小』のオリジナルを紛失したとあれば、父親の責任は免れない。
そこで父親は、極秘裏の内にその『万物の最小』を回収するように僕らに命じたのだった。様々な調査の結果、天上界での『万物の最小の紛失』という出来事は、地上界における『書物の誤植』に対応するということが判明した。即ち、帰納的に言えば、地上界での『書物の誤植』をすべて回収しきれば、必然的に『万物の最小』は取り戻せるということになる。
しかし、これは考えていたほど容易なものではない。何故なら地上界で書物というものが生まれてからこの方すべての時代における誤植が対象となってしまうためだ。それらをすべて発見・回収しなくては、『万物の最小』を取り戻すことは出来ない。しかも、地上界におけるありとあらゆる言語での書物が対象なのだ。
とりあえず僕らは、地上界におけるそれぞれの時代の風習や常識、様々な国の言葉や歴史などを突貫で詰め込まれ、そうして地上界に送り出されたのだった。昨日までは第二次世界大戦中のドイツで誤植探しをしていたのだけど、あまりにも状況が酷くなり、今日からは21世紀前半の日本を歩き回っているのである。
しかし誤植というのは見つけるのが大変だ。ありとあらゆる言語についてはネイティブ並にマスターしたとは言え、どうしても見逃してしまいがちになる。そこで、地上界で誤植を発見しやすいようにと、誤植センサーなるものを作ってもらったのだが、このセンサーが屁の突っ張りにもならない使えない代物で、今まで一度も反応したことがない。
ただ、妹のミチが特異な才能を発揮し始めた。彼女には何故だか、どの辺りに誤植がありそうなのかなんとなく分かるというのだ。まさにセンサーそのもので、渡された機械なんかよりもよっぽど性能がいい。しかし、その能力には僕にはまったくないようで、必然的に僕はミチのお守りということに成り下がってしまった。
「お兄ちゃぁん。また見つけたよ」
ミチは楽しそうだ。もう声が大きいのをたしなめる気にもならなくなってきた。しかしミチは分かっているのだろうか。ありとあらゆる時代のありとあらゆる地域の書物に、どれだけ誤植が存在しているのかを。正直、いつになったら天上界に戻れるのだろうかと考えると、僕は気が滅入る。
一銃「万物の最小」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、リアルな書店描写で話題を呼んでいる、成風堂書店事件メモシリーズの第三弾です。前作は長編で、場所も成風堂とは違うところを舞台にしていたわけですが、本作はデビュー作と同じ形態で、本屋で謎を解くという短編集になっています。
しかしまあ相変わらず面白い話ばかりで、しかも書店の話があまりにもリアルなのでグイグイ読んでしまいますね。今回も、それぞれの短編の内容を紹介すると同時に、そこで扱われているトピックについてダラダラ書こうと思います。
全体の設定だけ先に書いておきます。
駅ビルの6階に位置する成風堂書店には、多絵という書店限定の名探偵がいる。書店で起きる不可解な出来事に見事な解決をもたらすのだ。社員で、多絵にいつも謎解きを頼むことになる杏子と共に、今日も名探偵は謎を解く…。
「取り寄せトラップ」
短期間に別々のお客さんから同一の本の客注を受けた。客注というのは店内に在庫がないものを出版社から取り寄せることだ。あいにくその本は出版社に在庫がなかったので、その旨四人のお客さんに連絡をしたのだが、しかしその四人は一様に同じ反応をした。
「そんな本頼んだ覚えはない」
そんなことが二度ほど起こった後で、もしかしたら私と関係あるのかもしれない、と事情を説明しに来てくれた女性がいた。多絵と共にその話を聞くことになったのだが…。
この客注の話が、書店の話としては一番わかるわかる、という感じでした。
もうですね、とにかく書店というのはですね、客注が無茶苦茶大変なんですね。そりゃあもちろん、世の中に出ている本を全部売り場に並べられるわけもなく、かと言ってもちろん欲しい本は出来るだけお客さんに渡したいわけで、なので客注というのはありがたいんですけど、しかしこの客注にまつわる話はいくらでも話せるぐらいトラブルが起きやすいんですね。これは、スタッフが悪かったり出版社が悪かったり時にはお客さんが悪かったりといろんなパターンがあって、もう大変なんです。
例えばベタなところだと、客注品が入荷していたのに気づかずに売り場に出してしまった(時にはそれを別のお客さんに買われてしまうことも…)、出版社から届いた本がものすごく汚かった、予約品ということで注文を出していたのに発売日に入ってこなかった、出版社の手違いで本が出庫されていなかった、お客さんから聞いた電話番号が違っていた(スタッフの聞き間違え、お客さんのいい間違えなどいろんなパターンがある)、「コ」なのか「ユ」なのか分からずお客さんの名前を間違える(基本的に台帳には、後で電話をする際に困らないようにお客さんの名前をカタカナで書く)などなど、もうこれでもかというくらいいろいろあります。少し前までは僕のいる店では、客注品なのに気づかず売り場に出してしまう、あるいは担当者が返品してしまうということが頻発していたんですけど、僕がとにかく口を酸っぱくして言いまくったお陰(のはず)で、ようやくそういうことが少なくなりました。
あとは、客注の場合は本を必ず特定しないといけないんだけど、ここでもいろいろあります。「○○についての本が欲しい」と言われて注文ということになるんですけど、でもお客さんとしては特別これと決まった本があるわけでもない。時には、「どれでもいいから頼んどいて」とか言われたりする。それでは困るので、パソコンの画面を見せながらなんとか選んでもらう。あるいは前に、こっちはお客さんの言っている本が間違っていないかパソコンの画面上で確認してもらおうと思ったのに、何故だが全然見てくれなかったということもあったなぁ。
あと困るのが、雑誌ですね。月に一回出るような月刊誌ならまだ問題は多くないですが(それでも、「○月号」みたいな表記の雑誌ならまだいいですが、「No.○○」みたいな表記の雑誌だとちょっと困ることもある)、月二回出るようなのは困りますね。何故ならそういう雑誌は、例えば「クロワッサン 3/19日号」みたいな表記がされてるんですけど、この雑誌は実際は3/19日には出てない分けです。雑誌というのは何だかそういう、実際の発売日と表紙に表記されている日付が全然違うわけです。
だから例えばあるスタッフが、「クロワッサン 3/19日号」とか書いてあると、これは3/19日号と表紙に書かれているものなのか、あるいは3/19日に発売されているものなのかが分からなくなるわけです。もちろんスタッフにはそういうことを確認するよういつも言っていますが、出来ない人がいたりするわけです。
あとはジャニーズ系の予約品はいつも緊張します。ジャニーズ系のものは、写真集だのカレンダーだの毎年いろんなものが出るんですけど、時々入ってこないみたいなことになったりします。ついこの間も、「FREESTYLE」っていう本で散々な目に遭いました。
まあホントにこの客注というのは鬼門です。すぐトラブルになります。なのにウチの店ではこの客注に神経を使っている人があんまりいないのが僕には納得いかないんですけどねぇ。まあ客注についてはまだまだいろいろ書けますが、とりあえずこの辺で。
「君と語る永遠」
小学校の社会科見学とかでぞろぞろと小学生がやってきた。よくわからない質問に答え、ガヤガヤと騒がしい子ども達の中に、一人ぽつんと離れている少年がいた。少し話をして様子を見ていると、なんと棚からあの広辞苑を抜き出そうとふんばっている。どう見ても不安定な体勢で、今にも落ちてきそう。杏子は慌てて止めに入り、まあとりあえず子供は無事だった。
それからその少年は度々やってくるようになった。まあ普通の子だ。たまに変な質問をしてくるけど。でもしばらくしてその少年の担任の先生がやってきて…。
この話は書店の日常のキーワードみたいなものはあんまりないんですけど、敢えて言えば『子供』ですかね。
まあ本屋というのは子供も結構きて、それなりに騒がしい存在ですね。音の出る絵本を鳴らしたり、売り場を走り回ったり。高校生が集団で来たりするけど、10人とかがかたまっていたりするとちょっとどいてくれとか思ったりしますね。
あとはやっぱり万引きでしょうか。正確にはわかりませんが、やはり中高生にかなりやられているような気がします。本当に止めてほしいですね。
「バイト金森くんの告白」
飲み会の席。やる気はあるのだろうがなかなか仕事が身に付いていかない入ったばかりの金森くんが、何か面白い話はないかと振られて、「成風堂で恋をしました」と口にした。周りはやんやの大騒ぎである。
話を聞くと、一年ほど前、この成風堂で一人の少女を見かけたのだそうだ。まあ要するに一目ぼれをしたわけだけど、その子は誰かにバレンタインのチョコを手作りであげるみたいだったし、男と一緒にいるのも見かけたことがある。そして最後に付録だ。何故だかある雑誌の付録をその少女からもらったのだ。確認してみたら、その雑誌の特集は「ストーカーの心理」だった。それから彼は、もうダメだと思ってその少女とも会ったりしていないのだという。
その話を聞いて多絵は、この話はおかしいですよ、というのだが…。
この話のトピックは『付録』ですね。
付録については本当に出版社の方是非考えていただきたい。
まず書店員以外の人は恐らく知らないと思うのだけど、あの雑誌に挟まっている付録、あれは全部書店員がつけているのだ。ゴムをつけたり紐をかけたりというのは、出版社がやってくれるわけではないのだ。とにかくあれはものすごい手間で、僕は雑誌開けはたまにしかやらないのだけど、それでもイライラする。
例えば冊子みたいな付録があるけど、あれぐらい本誌に組み込みなさいよ、と思う。どうしても冊子みたいな形にしたいなら、切り取り線でつながった形にでもすればどうとでもなるでしょうに。何でわざわざ冊子を別にするのかがさっぱりわからない。
もっと言いたいのはモノの付録だ。これは、どんな付録かによってゴムだったり紐だったりするのだけど(盗られやすそうなものは紐、そうでないものはゴム)、でも考えて見て欲しい。ゴムやら紐やらで雑誌を閉じてしまったら、立ち読みできない雑誌になってしまうではないか。
僕は基本的な発想として、雑誌だろうが本だろうが、中身が見えるようになっていなければ売れない、と思っている。雑誌なんか特にそうで、少しでも中を読んでいいかなと思ったら買うという感じが普通ではないだろうか(雑誌をほとんど買わないのでわかんないけど)。でも、付録を入れるためにゴムや紐をしてしまえば中身は読めない。そうなると、表紙に書かれた見出しとどんな付録がついているかで判断しなくてはいけなくなる。付録がついている方が売れるのだろうけど、でも最終的にはマイナスの効果しかないような気が僕はするんだけどどうなんだろう。
あと販促ももう少し考えた方がいいような気がする。例えば最近「HERS」という女性誌が創刊されたのだけど、そのロゴが入った白いレジ袋が販促として送られたきた。でも僕はそのサイズがちょっとおかしいと思う。
「HERS」というのは女性誌で、女性誌というのはちょっと大きいし厚みもある。それに付録がつけばさらに厚くなるし、二冊も買えばもちろん厚くなる。販促というのは宣伝のためのもので、だったらその「HERS」のロゴの入ったレジ袋も、女性誌を買っていくような女性を対象に使ったほうがいいに決まっているのだけど、でもその「HERS」のロゴの入ったレジ袋は若干小さいのだ。付録のないそこまで厚くない女性誌一冊ならなんとか入るけど、付録がついてたり二冊以上買っていく場合はもう入らない。だから、結局その「HERS」のレジ袋は、「HERS」を絶対買わなそうな週刊誌だとか男性誌だとかを買っていくお客さんに使うしかなかった。なんかおかしいと思いながら、まあ入らないんだから仕方ない。もうちょっと大きかったらよかったのにな、と思ったわけです。
まあそんなわけで雑誌の付録の話ですけど、これはたぶんいろんな書店員が思っていて、実際そういう声も出版社に届いているはずなんだけどそれでも変わらないということは、恐らくこれからも変わることはないでしょう。まあ仕方ないですね。
僕なんかは、文芸書とかに小冊子を挟み込んだりしたら面白いのにな、とか思ったりしますけど。その作家と似た雰囲気を持つ別の作家の小説の冒頭部分だけを小冊子にして挟む、とか。結構宣伝になりそうな気がするんだけどなぁ。
「サイン会はいかが?」
ベストセラーを連発している影平紀真のサイン会をもしかしたらうちでやれるかもしれない、という話が舞い込んで来た。取次ぎの担当者がポロっともらした話を店長が勝手に話を大きくして行ったのだけど、でも条件が一つある。影平は、ある熱心なファンを探し出してくれる書店でサイン会をしたいと言うのだ。そのヒントはあるから、是非それを解いて欲しいとのこと。
こうなればもちろん多絵の出番だが、しかしそのヒントを解いた多絵は、サイン会はやらない方がいいかもしれませんよ、なんていう…。
サイン会というのはやってみたいところですけど、でもやっぱりウチぐらいの規模の本屋では難しいんでしょうね。それに段取りもよくわからないし、場所もないし。まあ恐らくサイン会を自分の手でやることはないでしょう。
ただ以前ある作家にサイン本を書いてもらったことがあります。あれは緊張しましたね。サイン色紙も書いてもらって売り場に飾りました。それぐらいならまだ機会はあるかもしれません。まあガンバロ。
「ヤギさんの忘れもの」
常連のおじいさんでいつも来てくれる蔵本さんが来てくれたのだけど、でも残念なことを伝えなくてはいけない。蔵本さんが懇意にしていた名取という女性スタッフが辞めてしまったのである。蔵本さんは残念そうにしていたが、まあ仕方ないよな、またこれからもよろしくと言って帰っていった。
しかししばらくしてその蔵本さんから電話が掛かってきた。何でも封筒に入れた写真をどこかでなくしてしまったのだけど見当たらないか、という問い合わせだった。杏子はかなり熱心に探してみるのだが見つからない。こういう時はやっぱり多絵が頼りになるのだ…。
落し物というのも結構多いですね。手袋だの帽子だの、まあ忘れて行ってもおかしくないようなものもありますが、前はマネキンの首だけ忘れて行ったみたいなこともありました。美容師さんなんでしょうね。しばらく置いておきましたが問い合わせがなかったので捨ててしまいましたが、ちょっと不気味でした。会計時に床に置きっぱなしにしたバッグとか傘なんかも結構多いです。
あと、会計した本を持っていくのを忘れるというケースもよくありますね。時々追いかけて渡したりします。最近ではレジにイヤホンをはめたままで来るお客さんが多いんで(これは本当に止めて欲しい)、呼び止めても気づかれないこともあったりします。困ったものです。
携帯・財布・定期券なんかもよく落ちています。
まあそんなわけでだらだら書きましたが、やっぱこの人の書店の話は面白いですねぇ。ホントリアルで、そうそうそんな感じ、わかるわかるという部分がかなりありました。ただこれを書店員以外の人が読んだらどうなんだろう、というのはいまいち分からないですね。書店員が読むのと同じぐらい面白く読んでくれているでしょうか。
本作にはあと、「成風堂通信」という書店が発行している新聞みたいなのがはさまっていました。面白い企画ですね。僕もこんなん作りたいなと思ったりしますが、しかし現状ではとてもじゃないけど無理かなと思います。時間がないです。
まあそんわけで、面白い作品でした。書店員の方には是非是非読んで欲しいですね。そうでない人にも十分楽しめると思います。書店ってこんな感じなのか、と思ってもらえればいいかなと思います。是非読んでみてください。
大崎梢「サイン会はいかが? 成風堂書店事件メモ」
「しー。ミチもっと静かに」
「だってあったんだってばー」
「分かったからもう少し声抑えろって」
「ほらここ読んでみて。これ絶対そうだよ」
『…街の灯りはゆっかりと落ち、辺りはゆっくりと暗闇に包み込まれていった。…』
「ほらこれおかしいでしょ。『ゆっかり』じゃなくて『すっかり』でしょ?」
「そうだな。こりゃ間違いないわ」
「やったー。順調順調」
「ってお前、まだまだ先は長いぞ」
僕らはとある本屋にいる。ここがなんという街なのかは忘れてしまった。地名や人名になるとまだまだ補強しなくてはいけない部分が多いな、と感じる。しかし、とりあえずボロを出すようなことはこれまでなかったので、まあ大丈夫だろう。
しかし、本屋では静かにしなくてはいけない、とあれほど教えられたのに、ミチはもうすっかり忘れてしまっているのだ。確かにこれだけの本がずらりと並んでいるところなど身近にはないのだから仕方ないのかもしれないが、それにしてももう少し落ち着いて欲しいものだと思う。しかし、回収率についてはミチの方がはるかにいいのだから、あまり強くも言えない。辛い立場だな、と思う。
ミチはまた売り場をふらふらと歩いている。次の獲物を探しているのだろう。どういう基準で何を感じるのか分からないが、とにかくミチはセンサーとしての才能がある。僕たちが探しているものを、少なくとも僕よりは高い精度で見つけることが出来る。まあ言ってみれば僕はそのお守りということになる。初めはこんなはずじゃなかったのにな、とため息をつく。
まあ僕も探すか。そういえばミチに声を掛けられるまで目を通していた本をまだ精査し終わっていない。しかし、僕が何をやっても焼け石に水なのではないか、と思う。ポケットに入れたセンサーは相変わらず反応しない。正直、僕に出来ることはあまり多くない。
「お兄ちゃぁん。また見つけたよ」
またミチが大きな声で僕を呼ぶ。その度に店内にいるスタッフやお客さんの視線が僕を突き刺す。何度注意しても聞きはしないだろうが、しかし周囲の手前、やはりまた言って聞かせなくてはいけないだろう。お守りは楽じゃない。
僕らには探しているものがある。それは、僕らの言葉で言えば『万物の最小』となるが、こちらの言葉で言えば『誤植』ということになる。しかし、この両者は決してイコールの存在ではない。
僕らはそもそもこの地上界に生きる存在ではない。僕らは天上界に生きる存在で、地上界に降りる際に習った知識によれば、『天使』という概念に最も近い存在なのだという。まあ僕らは羽根があるわけでも、頭の上に輪っかがあるわけでもないんだけど。
天上界というのは地上界とはまるで違った場所なのだけど、まるっきり無関係というわけでもない。大雑把に噛み砕いて言ってしまえば、地上界の出来事は天上界に影響を及ぼすことはないのだけど、天上界での出来事が地上界に影響を与えることはある、ということになる。もっと言えば、地上界を管理するために天上界がある、という言い方でも間違ってはいないかもしれない。
さてそんな天上界には、地上界のそれぞれに対応するものが存在する。それは、車のブレーキペダルとブレーキの関係のようなもので、天上界でブレーキペダルを押すと、地上界でブレーキが作用する、というようなものだ。その一つに『万物の最小』がある。
これは何かと言えば、地上界での文字全般と対応するものである。地上界では物質の存在が大きく、『万物の最小』と言えば原子などを指すのかもしれないが、天上界では物質よりも表現の存在が大きく、その中でも文字情報が最も重要とされる。
僕らの父親が、その『万物の最小』を管理する役職のトップに就いているのだが、ある時とんでもないミスをやらかしてしまったのだ。父親はなんと、厳重に管理すべき『万物の最小』を紛失してしまったのだ。絵画のレプリカのように、『万物の最小』にも多数スペアが存在し、実質的な機能はそちらのスペアが担っているので実用上の問題はないのだが、天上界で最も重視される『万物の最小』のオリジナルを紛失したとあれば、父親の責任は免れない。
そこで父親は、極秘裏の内にその『万物の最小』を回収するように僕らに命じたのだった。様々な調査の結果、天上界での『万物の最小の紛失』という出来事は、地上界における『書物の誤植』に対応するということが判明した。即ち、帰納的に言えば、地上界での『書物の誤植』をすべて回収しきれば、必然的に『万物の最小』は取り戻せるということになる。
しかし、これは考えていたほど容易なものではない。何故なら地上界で書物というものが生まれてからこの方すべての時代における誤植が対象となってしまうためだ。それらをすべて発見・回収しなくては、『万物の最小』を取り戻すことは出来ない。しかも、地上界におけるありとあらゆる言語での書物が対象なのだ。
とりあえず僕らは、地上界におけるそれぞれの時代の風習や常識、様々な国の言葉や歴史などを突貫で詰め込まれ、そうして地上界に送り出されたのだった。昨日までは第二次世界大戦中のドイツで誤植探しをしていたのだけど、あまりにも状況が酷くなり、今日からは21世紀前半の日本を歩き回っているのである。
しかし誤植というのは見つけるのが大変だ。ありとあらゆる言語についてはネイティブ並にマスターしたとは言え、どうしても見逃してしまいがちになる。そこで、地上界で誤植を発見しやすいようにと、誤植センサーなるものを作ってもらったのだが、このセンサーが屁の突っ張りにもならない使えない代物で、今まで一度も反応したことがない。
ただ、妹のミチが特異な才能を発揮し始めた。彼女には何故だか、どの辺りに誤植がありそうなのかなんとなく分かるというのだ。まさにセンサーそのもので、渡された機械なんかよりもよっぽど性能がいい。しかし、その能力には僕にはまったくないようで、必然的に僕はミチのお守りということに成り下がってしまった。
「お兄ちゃぁん。また見つけたよ」
ミチは楽しそうだ。もう声が大きいのをたしなめる気にもならなくなってきた。しかしミチは分かっているのだろうか。ありとあらゆる時代のありとあらゆる地域の書物に、どれだけ誤植が存在しているのかを。正直、いつになったら天上界に戻れるのだろうかと考えると、僕は気が滅入る。
一銃「万物の最小」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、リアルな書店描写で話題を呼んでいる、成風堂書店事件メモシリーズの第三弾です。前作は長編で、場所も成風堂とは違うところを舞台にしていたわけですが、本作はデビュー作と同じ形態で、本屋で謎を解くという短編集になっています。
しかしまあ相変わらず面白い話ばかりで、しかも書店の話があまりにもリアルなのでグイグイ読んでしまいますね。今回も、それぞれの短編の内容を紹介すると同時に、そこで扱われているトピックについてダラダラ書こうと思います。
全体の設定だけ先に書いておきます。
駅ビルの6階に位置する成風堂書店には、多絵という書店限定の名探偵がいる。書店で起きる不可解な出来事に見事な解決をもたらすのだ。社員で、多絵にいつも謎解きを頼むことになる杏子と共に、今日も名探偵は謎を解く…。
「取り寄せトラップ」
短期間に別々のお客さんから同一の本の客注を受けた。客注というのは店内に在庫がないものを出版社から取り寄せることだ。あいにくその本は出版社に在庫がなかったので、その旨四人のお客さんに連絡をしたのだが、しかしその四人は一様に同じ反応をした。
「そんな本頼んだ覚えはない」
そんなことが二度ほど起こった後で、もしかしたら私と関係あるのかもしれない、と事情を説明しに来てくれた女性がいた。多絵と共にその話を聞くことになったのだが…。
この客注の話が、書店の話としては一番わかるわかる、という感じでした。
もうですね、とにかく書店というのはですね、客注が無茶苦茶大変なんですね。そりゃあもちろん、世の中に出ている本を全部売り場に並べられるわけもなく、かと言ってもちろん欲しい本は出来るだけお客さんに渡したいわけで、なので客注というのはありがたいんですけど、しかしこの客注にまつわる話はいくらでも話せるぐらいトラブルが起きやすいんですね。これは、スタッフが悪かったり出版社が悪かったり時にはお客さんが悪かったりといろんなパターンがあって、もう大変なんです。
例えばベタなところだと、客注品が入荷していたのに気づかずに売り場に出してしまった(時にはそれを別のお客さんに買われてしまうことも…)、出版社から届いた本がものすごく汚かった、予約品ということで注文を出していたのに発売日に入ってこなかった、出版社の手違いで本が出庫されていなかった、お客さんから聞いた電話番号が違っていた(スタッフの聞き間違え、お客さんのいい間違えなどいろんなパターンがある)、「コ」なのか「ユ」なのか分からずお客さんの名前を間違える(基本的に台帳には、後で電話をする際に困らないようにお客さんの名前をカタカナで書く)などなど、もうこれでもかというくらいいろいろあります。少し前までは僕のいる店では、客注品なのに気づかず売り場に出してしまう、あるいは担当者が返品してしまうということが頻発していたんですけど、僕がとにかく口を酸っぱくして言いまくったお陰(のはず)で、ようやくそういうことが少なくなりました。
あとは、客注の場合は本を必ず特定しないといけないんだけど、ここでもいろいろあります。「○○についての本が欲しい」と言われて注文ということになるんですけど、でもお客さんとしては特別これと決まった本があるわけでもない。時には、「どれでもいいから頼んどいて」とか言われたりする。それでは困るので、パソコンの画面を見せながらなんとか選んでもらう。あるいは前に、こっちはお客さんの言っている本が間違っていないかパソコンの画面上で確認してもらおうと思ったのに、何故だが全然見てくれなかったということもあったなぁ。
あと困るのが、雑誌ですね。月に一回出るような月刊誌ならまだ問題は多くないですが(それでも、「○月号」みたいな表記の雑誌ならまだいいですが、「No.○○」みたいな表記の雑誌だとちょっと困ることもある)、月二回出るようなのは困りますね。何故ならそういう雑誌は、例えば「クロワッサン 3/19日号」みたいな表記がされてるんですけど、この雑誌は実際は3/19日には出てない分けです。雑誌というのは何だかそういう、実際の発売日と表紙に表記されている日付が全然違うわけです。
だから例えばあるスタッフが、「クロワッサン 3/19日号」とか書いてあると、これは3/19日号と表紙に書かれているものなのか、あるいは3/19日に発売されているものなのかが分からなくなるわけです。もちろんスタッフにはそういうことを確認するよういつも言っていますが、出来ない人がいたりするわけです。
あとはジャニーズ系の予約品はいつも緊張します。ジャニーズ系のものは、写真集だのカレンダーだの毎年いろんなものが出るんですけど、時々入ってこないみたいなことになったりします。ついこの間も、「FREESTYLE」っていう本で散々な目に遭いました。
まあホントにこの客注というのは鬼門です。すぐトラブルになります。なのにウチの店ではこの客注に神経を使っている人があんまりいないのが僕には納得いかないんですけどねぇ。まあ客注についてはまだまだいろいろ書けますが、とりあえずこの辺で。
「君と語る永遠」
小学校の社会科見学とかでぞろぞろと小学生がやってきた。よくわからない質問に答え、ガヤガヤと騒がしい子ども達の中に、一人ぽつんと離れている少年がいた。少し話をして様子を見ていると、なんと棚からあの広辞苑を抜き出そうとふんばっている。どう見ても不安定な体勢で、今にも落ちてきそう。杏子は慌てて止めに入り、まあとりあえず子供は無事だった。
それからその少年は度々やってくるようになった。まあ普通の子だ。たまに変な質問をしてくるけど。でもしばらくしてその少年の担任の先生がやってきて…。
この話は書店の日常のキーワードみたいなものはあんまりないんですけど、敢えて言えば『子供』ですかね。
まあ本屋というのは子供も結構きて、それなりに騒がしい存在ですね。音の出る絵本を鳴らしたり、売り場を走り回ったり。高校生が集団で来たりするけど、10人とかがかたまっていたりするとちょっとどいてくれとか思ったりしますね。
あとはやっぱり万引きでしょうか。正確にはわかりませんが、やはり中高生にかなりやられているような気がします。本当に止めてほしいですね。
「バイト金森くんの告白」
飲み会の席。やる気はあるのだろうがなかなか仕事が身に付いていかない入ったばかりの金森くんが、何か面白い話はないかと振られて、「成風堂で恋をしました」と口にした。周りはやんやの大騒ぎである。
話を聞くと、一年ほど前、この成風堂で一人の少女を見かけたのだそうだ。まあ要するに一目ぼれをしたわけだけど、その子は誰かにバレンタインのチョコを手作りであげるみたいだったし、男と一緒にいるのも見かけたことがある。そして最後に付録だ。何故だかある雑誌の付録をその少女からもらったのだ。確認してみたら、その雑誌の特集は「ストーカーの心理」だった。それから彼は、もうダメだと思ってその少女とも会ったりしていないのだという。
その話を聞いて多絵は、この話はおかしいですよ、というのだが…。
この話のトピックは『付録』ですね。
付録については本当に出版社の方是非考えていただきたい。
まず書店員以外の人は恐らく知らないと思うのだけど、あの雑誌に挟まっている付録、あれは全部書店員がつけているのだ。ゴムをつけたり紐をかけたりというのは、出版社がやってくれるわけではないのだ。とにかくあれはものすごい手間で、僕は雑誌開けはたまにしかやらないのだけど、それでもイライラする。
例えば冊子みたいな付録があるけど、あれぐらい本誌に組み込みなさいよ、と思う。どうしても冊子みたいな形にしたいなら、切り取り線でつながった形にでもすればどうとでもなるでしょうに。何でわざわざ冊子を別にするのかがさっぱりわからない。
もっと言いたいのはモノの付録だ。これは、どんな付録かによってゴムだったり紐だったりするのだけど(盗られやすそうなものは紐、そうでないものはゴム)、でも考えて見て欲しい。ゴムやら紐やらで雑誌を閉じてしまったら、立ち読みできない雑誌になってしまうではないか。
僕は基本的な発想として、雑誌だろうが本だろうが、中身が見えるようになっていなければ売れない、と思っている。雑誌なんか特にそうで、少しでも中を読んでいいかなと思ったら買うという感じが普通ではないだろうか(雑誌をほとんど買わないのでわかんないけど)。でも、付録を入れるためにゴムや紐をしてしまえば中身は読めない。そうなると、表紙に書かれた見出しとどんな付録がついているかで判断しなくてはいけなくなる。付録がついている方が売れるのだろうけど、でも最終的にはマイナスの効果しかないような気が僕はするんだけどどうなんだろう。
あと販促ももう少し考えた方がいいような気がする。例えば最近「HERS」という女性誌が創刊されたのだけど、そのロゴが入った白いレジ袋が販促として送られたきた。でも僕はそのサイズがちょっとおかしいと思う。
「HERS」というのは女性誌で、女性誌というのはちょっと大きいし厚みもある。それに付録がつけばさらに厚くなるし、二冊も買えばもちろん厚くなる。販促というのは宣伝のためのもので、だったらその「HERS」のロゴの入ったレジ袋も、女性誌を買っていくような女性を対象に使ったほうがいいに決まっているのだけど、でもその「HERS」のロゴの入ったレジ袋は若干小さいのだ。付録のないそこまで厚くない女性誌一冊ならなんとか入るけど、付録がついてたり二冊以上買っていく場合はもう入らない。だから、結局その「HERS」のレジ袋は、「HERS」を絶対買わなそうな週刊誌だとか男性誌だとかを買っていくお客さんに使うしかなかった。なんかおかしいと思いながら、まあ入らないんだから仕方ない。もうちょっと大きかったらよかったのにな、と思ったわけです。
まあそんなわけで雑誌の付録の話ですけど、これはたぶんいろんな書店員が思っていて、実際そういう声も出版社に届いているはずなんだけどそれでも変わらないということは、恐らくこれからも変わることはないでしょう。まあ仕方ないですね。
僕なんかは、文芸書とかに小冊子を挟み込んだりしたら面白いのにな、とか思ったりしますけど。その作家と似た雰囲気を持つ別の作家の小説の冒頭部分だけを小冊子にして挟む、とか。結構宣伝になりそうな気がするんだけどなぁ。
「サイン会はいかが?」
ベストセラーを連発している影平紀真のサイン会をもしかしたらうちでやれるかもしれない、という話が舞い込んで来た。取次ぎの担当者がポロっともらした話を店長が勝手に話を大きくして行ったのだけど、でも条件が一つある。影平は、ある熱心なファンを探し出してくれる書店でサイン会をしたいと言うのだ。そのヒントはあるから、是非それを解いて欲しいとのこと。
こうなればもちろん多絵の出番だが、しかしそのヒントを解いた多絵は、サイン会はやらない方がいいかもしれませんよ、なんていう…。
サイン会というのはやってみたいところですけど、でもやっぱりウチぐらいの規模の本屋では難しいんでしょうね。それに段取りもよくわからないし、場所もないし。まあ恐らくサイン会を自分の手でやることはないでしょう。
ただ以前ある作家にサイン本を書いてもらったことがあります。あれは緊張しましたね。サイン色紙も書いてもらって売り場に飾りました。それぐらいならまだ機会はあるかもしれません。まあガンバロ。
「ヤギさんの忘れもの」
常連のおじいさんでいつも来てくれる蔵本さんが来てくれたのだけど、でも残念なことを伝えなくてはいけない。蔵本さんが懇意にしていた名取という女性スタッフが辞めてしまったのである。蔵本さんは残念そうにしていたが、まあ仕方ないよな、またこれからもよろしくと言って帰っていった。
しかししばらくしてその蔵本さんから電話が掛かってきた。何でも封筒に入れた写真をどこかでなくしてしまったのだけど見当たらないか、という問い合わせだった。杏子はかなり熱心に探してみるのだが見つからない。こういう時はやっぱり多絵が頼りになるのだ…。
落し物というのも結構多いですね。手袋だの帽子だの、まあ忘れて行ってもおかしくないようなものもありますが、前はマネキンの首だけ忘れて行ったみたいなこともありました。美容師さんなんでしょうね。しばらく置いておきましたが問い合わせがなかったので捨ててしまいましたが、ちょっと不気味でした。会計時に床に置きっぱなしにしたバッグとか傘なんかも結構多いです。
あと、会計した本を持っていくのを忘れるというケースもよくありますね。時々追いかけて渡したりします。最近ではレジにイヤホンをはめたままで来るお客さんが多いんで(これは本当に止めて欲しい)、呼び止めても気づかれないこともあったりします。困ったものです。
携帯・財布・定期券なんかもよく落ちています。
まあそんなわけでだらだら書きましたが、やっぱこの人の書店の話は面白いですねぇ。ホントリアルで、そうそうそんな感じ、わかるわかるという部分がかなりありました。ただこれを書店員以外の人が読んだらどうなんだろう、というのはいまいち分からないですね。書店員が読むのと同じぐらい面白く読んでくれているでしょうか。
本作にはあと、「成風堂通信」という書店が発行している新聞みたいなのがはさまっていました。面白い企画ですね。僕もこんなん作りたいなと思ったりしますが、しかし現状ではとてもじゃないけど無理かなと思います。時間がないです。
まあそんわけで、面白い作品でした。書店員の方には是非是非読んで欲しいですね。そうでない人にも十分楽しめると思います。書店ってこんな感じなのか、と思ってもらえればいいかなと思います。是非読んでみてください。
大崎梢「サイン会はいかが? 成風堂書店事件メモ」
パパとムスメの七日間(五十嵐貴久)
「ねぇねぇ、ちょっと思ったんだけどね」
「なになに~」
「もしもさ、もしもだよ、うちらの体が入れ替わっちゃったとしたら、どうする?」
「えー、それって超楽しそうなんですけどぉ。でもずっとはヤだよねぇ。ギリで1週間とか?」
「アタシなら一ヶ月はいけるかな」
「うっそー。いやでも何とかなるかもだよね」
「お姉ちゃんだったら、アタシと替わったらどうする?」
「えー、だってモヨコと入れ替わるってことはさ、ムサシ先輩と付き合うってことでしょー。アタシマッチョな男はちょっとなぁって感じだしぃ」
「ムサシのこと悪く言わないでよぉ。ほら、それに案外よかったりするかも。違った自分を見つけれるっていうかさ」
「確かにね。エッチはちょっと興味あるかも。あんなマッチョな男だとどうなっちゃうわけ?」
「お姉ちゃん、エッチぃ。でもそうだよね。エッチの相手も替わっちゃうんだよね」
「ちょっとドキドキするかも」
「アタシの場合だったら、アッ君か。アッ君のことは嫌いじゃないけど、ちょっと神経質そうだからなぁ。でも経験してみるのもいいかもね」
「でももしモヨコと入れ替わったら、アタシはノブ先輩にアタックするよ」
「それはダメだって!」
「何でよ。どう考えてもムサシ先輩よりノブ先輩の方がいいじゃん。それにモヨコ、ノブ先輩からコクられてたりしたんでしょ。アタシはノブ先輩の方がタイプだしね」
「そうだけどさぁ。でも、ノブ先輩はダメなんだってば」
「どうして?」
「どうしても!」
「分かった分かった。こんなもしもの話で喧嘩するのなんか止めよう」
「だよね」
「もしモヨコと入れ替わったら、アレやってみたい。水中サッカー!」
「お姉ちゃん、運動音痴だからねぇ。でも、入れ替わっても運動出来るようにはならないと思うけど」
「げっ、マジ。何で?」
「体が入れ替わってもさ、ほらなんていうの、経験がないわけじゃん?だから入れ替わった相手が出来ても、本人が出来なかったらやっぱ運動とか出来ないと思うよ」
「なんだぁ。そんなのツマンナイじゃん。じゃあ何、今のアタシのまんま、見た目だけモヨコになるってわけ」
「そうそう、そういうこと」
「じゃあモヨコもアタシと入れ替わっても勉強が出来るようになったりはしないんだ」
「たぶんねぇ。そうだと思うよ」
「もうちょっとね、気を利かせてくれてもいいんじゃないかなって思うんだけどさ」
「お姉ちゃんおかしい。それ誰に言ってるの?」
「わかんないけどさ、ほらそういう入れ替わりとかをやっちゃう存在みたいな。いれば、だけどさ」
「まあいないだろうねぇ」
「でもさ、ウチらの場合、こんな話意味ないよね」
「あっ、お姉ちゃんの言いたいこと分かった」
「何?」
「ウチらが双子だからってことでしょ?双子だから入れ替わっても変わんないじゃん、みたいな」
「それもあるよ。でもさ、もっと重要なとこあるっしょ」
「何?」
「そもそもウチらさ、ただのメダカだよ」
一銃「もしもウチらが」
会話だけの話の場合、分量を多くするのがすごく難しいですね。しかもいつもオチしか考えないで話を書き始めるので、途中が浅すぎます。まあ、やっぱ難しいぞという話です。あと、一応女子高生っぽい会話になるように頑張ったつもりですけど、でも女子高生が読んだら噴飯ものなんでしょうね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
どこにでもいるイマドキの女子高生である小梅16歳と、まあどこにでもいるイマドキの冴えないサラリーマンであるパパ47歳。どこにでもあるような普通の家庭で、どこにでもあるように思春期の娘とパパはまったく会話がない。パパの方としてはどうにかしようと思っているのだが、しかし正直なところどうにもならない。世間一般的にこうなってしまうのだと分かっていても、やはり娘から嫌われるのはなかなか辛いものがある。
小梅としては、特別理由があるわけじゃないけど、やっぱ何となくパパはウザい。周りのみんなもそう言ってるし、何より不潔だ。パパの後にお風呂に入るなんてありえない。だから、まあ何となくパパを避けるようになっちゃった。
まあそんなどこにでもいる父娘だったのだが、ある時その状況は一変する。なんと電車に乗っている時に地震に見舞われてしまったのだ。
しかし、それは災難の序章に過ぎなかった。病院のベッドの上で目を覚ました二人は驚いたのなんの。
なんと、小梅とパパの体が入れ替わっていたのだ!
小梅は避けていたパパの体に入ってサラリーマンをやらなきゃいけないし、パパはセーラー服を着て女子高生をしなくっちゃいけない。これホント、どうなるわけ?
というような話です。
まあ、よくある設定だし、よくある展開なんですけど、でもやっぱこの作家はストーリーテリングが巧いですね。そくあるはずの話なのに、やっぱり読ませます。
まあホントに、大体予想通りの展開で進んで行きます。初めはお互い避けていたのだけど、体が入れ替わっちゃったから仕方なく協力するしかなくて、んでこの期に相手の状況をちょっと悪くしてやろうなんて考えるんだけど、それが結果オーライになっていく、みたいな感じです。
ただ、まあありきたりではあるんですけど、やっぱり細部がきちんとしているからでしょうかね。面白いですね。基本的なことだけど、サラリーマンの視点からみた女子高生の変なところとか、女子高生からみたサラリーマンの変なところも結構きちんと書き込んでいるし、ボロを出しそうになった時の対処なんかも自然な感じで、なかなかよかったと思います。
本作で何よりも一番面白いのが、サラリーマンの体になってしまった小梅が見た、サラリーマンの変なところ、ですね。これはちょっと最高です。もちろんサラリーマンとして働いている人も、小梅が感じるような疑問は常に感じているのだろうと思います。だから、小梅がいちいち色んなところに変だなぁ、と感じる描写は結構共感できるんじゃないでしょうか。
僕も、まあ本作では多少誇張されてはいるのでしょうが(でも本当に封建的な体質の会社だったら、本作そのまんまの感じというのもありえるかも)、サラリーマンってやっぱりおかしいよな、って思いました。僕はかなり昔からサラリーマンになるのは不可能だ、って思っていたわけですけど、その理由もきちんと本作に書いてありました。小梅の姿になったパパが、
『結局のところサラリーマンとは、どこまで理不尽さに耐える能力を持っているかということに尽きる』
と思う場面があるんですけど、まさにそうだと思うし、だから僕にはサラリーマンは無理だよなぁ、と思えてしまうわけです。僕は理不尽なことというのにはかなり潔癖で、耐えられないんですよね。
サラリーマンの体にいる小梅は、会社にいる中で本当にいろんな変なことを知ることになります。小梅の体にいるパパは常に、大人には大人の事情があるんだ、と言い聞かせます。サラリーマンの体にいる小梅は常に、自分が感じる疑問はコドモの理屈なのかな、と自問します。ただ、どちらが正しいかと言えば、そりゃサラリーマンの体にいる小梅の視点の方が正しい。まあ一番おかしいのは組織そのもので、サラリーマン自身には責任はないのかもだけど、でもサラリーマンってやっぱ大変だなとか思います。
本作で一番共感したのが、会社がお客さんの方を向いていない、という話ですね。パパは化粧品会社でとある新プロジェクトのリーダーを任されているのだけど、このプロジェクトというのがなかなか酷くて、初めは社長の肝いりで始まったのに、いろんな理由があって窓際的なプロジェクトになってしまった経緯があります。まあそもそも上はあんまり乗り気ではなかったんですが。
でそこで作ろうとしていたのが、女子高生向けに絞ったフレグランスなんだけど、これが専門店でしか販売しない、単価2000円という代物なわけです。この企画を見た小梅は、こんなん売れるわけない、と至極当然のことを思います。一応体はパパのものなのでその辺のことを口に出さないように気をつけるのだけど、どう考えても売れない。
で、会社にしばらくいて分かったことは、誰もが会議に通るかどうか、そして自分が責任を取らなくてもいいのかどうか、ということしか考えていない、ということなわけです。誰も、女子高生がどんなものを求めているのか、ということには興味がないわけですね。これは、多少は誇張されているのかもしれないけど、でも実際大企業と言われる会社ほどこういう感じになってしまうような気がします。まあそりゃ業績も落ちるでしょう。でもこればっかりは上がどうにか変わってくれないとどうにもならない問題で、ホント一介の社員にはどうにもならないんでしょうけどね。
まあそんなわけで、小梅から見た「ここが変だよサラリーマン」編(そんな名前はついてないけど)が一番面白いですね。
後は、最後の展開がなかなか僕は好きでした。結局二人は元の体に戻らないといけなくて、でこういう設定のお約束としてその状況になった時と同じような経験をもう一度しないといけないわけなんですけど、その経験の仕方が最高ですね。まさかあんな展開になるとは思いませんでした。これは結構予想外で、ありきたりではない感じでよかったです。
見た目は薄い本なんですが、分量は案外あります(これは紙の薄さの問題なんでしょうかね。例えば昨日読んだ光文社の「ラットマン」って本が290Pで、本作が370Pなんですけど、「ラットマン」の方が厚いですからね。見た目が薄い方が本は売れそうな気がするんだけどなぁ、とか僕は思うんだけど)。でも一気に読めてしまう面白さがあります。さすが、エンターテイメント小説を書かせたらこの作家は一級ですね。面白いです。テレビドラマにもなったようで、ドラマの方を知ってる人もいるかもしれません。まあかなり面白いので読んでみてください。
五十嵐貴久「パパとムスメの七日間」
「なになに~」
「もしもさ、もしもだよ、うちらの体が入れ替わっちゃったとしたら、どうする?」
「えー、それって超楽しそうなんですけどぉ。でもずっとはヤだよねぇ。ギリで1週間とか?」
「アタシなら一ヶ月はいけるかな」
「うっそー。いやでも何とかなるかもだよね」
「お姉ちゃんだったら、アタシと替わったらどうする?」
「えー、だってモヨコと入れ替わるってことはさ、ムサシ先輩と付き合うってことでしょー。アタシマッチョな男はちょっとなぁって感じだしぃ」
「ムサシのこと悪く言わないでよぉ。ほら、それに案外よかったりするかも。違った自分を見つけれるっていうかさ」
「確かにね。エッチはちょっと興味あるかも。あんなマッチョな男だとどうなっちゃうわけ?」
「お姉ちゃん、エッチぃ。でもそうだよね。エッチの相手も替わっちゃうんだよね」
「ちょっとドキドキするかも」
「アタシの場合だったら、アッ君か。アッ君のことは嫌いじゃないけど、ちょっと神経質そうだからなぁ。でも経験してみるのもいいかもね」
「でももしモヨコと入れ替わったら、アタシはノブ先輩にアタックするよ」
「それはダメだって!」
「何でよ。どう考えてもムサシ先輩よりノブ先輩の方がいいじゃん。それにモヨコ、ノブ先輩からコクられてたりしたんでしょ。アタシはノブ先輩の方がタイプだしね」
「そうだけどさぁ。でも、ノブ先輩はダメなんだってば」
「どうして?」
「どうしても!」
「分かった分かった。こんなもしもの話で喧嘩するのなんか止めよう」
「だよね」
「もしモヨコと入れ替わったら、アレやってみたい。水中サッカー!」
「お姉ちゃん、運動音痴だからねぇ。でも、入れ替わっても運動出来るようにはならないと思うけど」
「げっ、マジ。何で?」
「体が入れ替わってもさ、ほらなんていうの、経験がないわけじゃん?だから入れ替わった相手が出来ても、本人が出来なかったらやっぱ運動とか出来ないと思うよ」
「なんだぁ。そんなのツマンナイじゃん。じゃあ何、今のアタシのまんま、見た目だけモヨコになるってわけ」
「そうそう、そういうこと」
「じゃあモヨコもアタシと入れ替わっても勉強が出来るようになったりはしないんだ」
「たぶんねぇ。そうだと思うよ」
「もうちょっとね、気を利かせてくれてもいいんじゃないかなって思うんだけどさ」
「お姉ちゃんおかしい。それ誰に言ってるの?」
「わかんないけどさ、ほらそういう入れ替わりとかをやっちゃう存在みたいな。いれば、だけどさ」
「まあいないだろうねぇ」
「でもさ、ウチらの場合、こんな話意味ないよね」
「あっ、お姉ちゃんの言いたいこと分かった」
「何?」
「ウチらが双子だからってことでしょ?双子だから入れ替わっても変わんないじゃん、みたいな」
「それもあるよ。でもさ、もっと重要なとこあるっしょ」
「何?」
「そもそもウチらさ、ただのメダカだよ」
一銃「もしもウチらが」
会話だけの話の場合、分量を多くするのがすごく難しいですね。しかもいつもオチしか考えないで話を書き始めるので、途中が浅すぎます。まあ、やっぱ難しいぞという話です。あと、一応女子高生っぽい会話になるように頑張ったつもりですけど、でも女子高生が読んだら噴飯ものなんでしょうね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
どこにでもいるイマドキの女子高生である小梅16歳と、まあどこにでもいるイマドキの冴えないサラリーマンであるパパ47歳。どこにでもあるような普通の家庭で、どこにでもあるように思春期の娘とパパはまったく会話がない。パパの方としてはどうにかしようと思っているのだが、しかし正直なところどうにもならない。世間一般的にこうなってしまうのだと分かっていても、やはり娘から嫌われるのはなかなか辛いものがある。
小梅としては、特別理由があるわけじゃないけど、やっぱ何となくパパはウザい。周りのみんなもそう言ってるし、何より不潔だ。パパの後にお風呂に入るなんてありえない。だから、まあ何となくパパを避けるようになっちゃった。
まあそんなどこにでもいる父娘だったのだが、ある時その状況は一変する。なんと電車に乗っている時に地震に見舞われてしまったのだ。
しかし、それは災難の序章に過ぎなかった。病院のベッドの上で目を覚ました二人は驚いたのなんの。
なんと、小梅とパパの体が入れ替わっていたのだ!
小梅は避けていたパパの体に入ってサラリーマンをやらなきゃいけないし、パパはセーラー服を着て女子高生をしなくっちゃいけない。これホント、どうなるわけ?
というような話です。
まあ、よくある設定だし、よくある展開なんですけど、でもやっぱこの作家はストーリーテリングが巧いですね。そくあるはずの話なのに、やっぱり読ませます。
まあホントに、大体予想通りの展開で進んで行きます。初めはお互い避けていたのだけど、体が入れ替わっちゃったから仕方なく協力するしかなくて、んでこの期に相手の状況をちょっと悪くしてやろうなんて考えるんだけど、それが結果オーライになっていく、みたいな感じです。
ただ、まあありきたりではあるんですけど、やっぱり細部がきちんとしているからでしょうかね。面白いですね。基本的なことだけど、サラリーマンの視点からみた女子高生の変なところとか、女子高生からみたサラリーマンの変なところも結構きちんと書き込んでいるし、ボロを出しそうになった時の対処なんかも自然な感じで、なかなかよかったと思います。
本作で何よりも一番面白いのが、サラリーマンの体になってしまった小梅が見た、サラリーマンの変なところ、ですね。これはちょっと最高です。もちろんサラリーマンとして働いている人も、小梅が感じるような疑問は常に感じているのだろうと思います。だから、小梅がいちいち色んなところに変だなぁ、と感じる描写は結構共感できるんじゃないでしょうか。
僕も、まあ本作では多少誇張されてはいるのでしょうが(でも本当に封建的な体質の会社だったら、本作そのまんまの感じというのもありえるかも)、サラリーマンってやっぱりおかしいよな、って思いました。僕はかなり昔からサラリーマンになるのは不可能だ、って思っていたわけですけど、その理由もきちんと本作に書いてありました。小梅の姿になったパパが、
『結局のところサラリーマンとは、どこまで理不尽さに耐える能力を持っているかということに尽きる』
と思う場面があるんですけど、まさにそうだと思うし、だから僕にはサラリーマンは無理だよなぁ、と思えてしまうわけです。僕は理不尽なことというのにはかなり潔癖で、耐えられないんですよね。
サラリーマンの体にいる小梅は、会社にいる中で本当にいろんな変なことを知ることになります。小梅の体にいるパパは常に、大人には大人の事情があるんだ、と言い聞かせます。サラリーマンの体にいる小梅は常に、自分が感じる疑問はコドモの理屈なのかな、と自問します。ただ、どちらが正しいかと言えば、そりゃサラリーマンの体にいる小梅の視点の方が正しい。まあ一番おかしいのは組織そのもので、サラリーマン自身には責任はないのかもだけど、でもサラリーマンってやっぱ大変だなとか思います。
本作で一番共感したのが、会社がお客さんの方を向いていない、という話ですね。パパは化粧品会社でとある新プロジェクトのリーダーを任されているのだけど、このプロジェクトというのがなかなか酷くて、初めは社長の肝いりで始まったのに、いろんな理由があって窓際的なプロジェクトになってしまった経緯があります。まあそもそも上はあんまり乗り気ではなかったんですが。
でそこで作ろうとしていたのが、女子高生向けに絞ったフレグランスなんだけど、これが専門店でしか販売しない、単価2000円という代物なわけです。この企画を見た小梅は、こんなん売れるわけない、と至極当然のことを思います。一応体はパパのものなのでその辺のことを口に出さないように気をつけるのだけど、どう考えても売れない。
で、会社にしばらくいて分かったことは、誰もが会議に通るかどうか、そして自分が責任を取らなくてもいいのかどうか、ということしか考えていない、ということなわけです。誰も、女子高生がどんなものを求めているのか、ということには興味がないわけですね。これは、多少は誇張されているのかもしれないけど、でも実際大企業と言われる会社ほどこういう感じになってしまうような気がします。まあそりゃ業績も落ちるでしょう。でもこればっかりは上がどうにか変わってくれないとどうにもならない問題で、ホント一介の社員にはどうにもならないんでしょうけどね。
まあそんなわけで、小梅から見た「ここが変だよサラリーマン」編(そんな名前はついてないけど)が一番面白いですね。
後は、最後の展開がなかなか僕は好きでした。結局二人は元の体に戻らないといけなくて、でこういう設定のお約束としてその状況になった時と同じような経験をもう一度しないといけないわけなんですけど、その経験の仕方が最高ですね。まさかあんな展開になるとは思いませんでした。これは結構予想外で、ありきたりではない感じでよかったです。
見た目は薄い本なんですが、分量は案外あります(これは紙の薄さの問題なんでしょうかね。例えば昨日読んだ光文社の「ラットマン」って本が290Pで、本作が370Pなんですけど、「ラットマン」の方が厚いですからね。見た目が薄い方が本は売れそうな気がするんだけどなぁ、とか僕は思うんだけど)。でも一気に読めてしまう面白さがあります。さすが、エンターテイメント小説を書かせたらこの作家は一級ですね。面白いです。テレビドラマにもなったようで、ドラマの方を知ってる人もいるかもしれません。まあかなり面白いので読んでみてください。
五十嵐貴久「パパとムスメの七日間」
ラットマン(道尾秀介)
「…イチロウくん、こんばんわ。元気にしてるかな~…」
そう聞こえて来た時は本当に驚いた。
高校に行かなくなって三ヶ月が過ぎようとしていた。いわゆる登校拒否というやつで、いわゆる引きこもりというやつだった。ありきたりだけど、学校でいじめられていて、それに耐えられなくなって学校に行かなくなった。
先生は何度かやってきてくれたし、仲のよかった友達も顔を見せに来てくれる。それでも、どうしても僕の心は学校へは向かわなかった。母親は、休みたいなら無理に行くことはない、と言ってくれるが、本当はどう思っているかわからない。最近では、僕とどう接していいのかわからないようだ。
そして昨日、友人の一人がラジオをくれたのだ。何故ラジオをくれたのかよくわからないが、一人で部屋にいても退屈だろうと思ってくれたのだろう。正直なところ、僕は退屈していた。家にいてもやることがない。やることがあっても、積極的にやろうという気力が出てこない。それは、学校を休んでいるという罪悪感から、自分はあまり日々を楽しんではいけないのだ、という風に感じてしまうからだと思う。
そんな僕には、確かにラジオというのはうってつけだった。テレビは居間にしかなかったから、母親となるべく顔を合わせたくない僕は見ることができないでいた。自分の部屋で楽しむことが出来、しかも積極的な娯楽というわけでもないところが僕の気持ちを向かわせたのだろうと思う。
ラジオなどこれまで聞いたことがなかったのでイマイチ勝手が分からないが、まあチャンネルをどこかに合わせればいいだろうと思ってつまみを適当に回していた。ラジオにも様々な番組があるようで、小さな箱からいろんな声が聞こえてきた。僕はどれか一つに決めることなく、とりあえずいろんなチャンネルを聞いてみようと思ってつまみを回していた。
そんな時に聞こえてきたのだった。
初めは、イチロウというリスナーがどこかにいて、その番組によく葉書なんかを送っているのだと思った。いくら自分の名前と同じだからと言って、まさか自分に呼びかけているわけではないだろうし、だったらそう考えるしかない。
しかし、気になって聞いているうちに、これは僕一人に向けた放送なのかもしれないと思うようになってきた。いや、頭の中ではそんなことあるはずがない、ときちんと分かっている。分かっているのだが、しかしそうとしか考えられない放送内容なのだ。
「…今○○高校の学食には、特別メニューとしてパフェがあるそうです。1ヶ月だけの期間限定みたいですよ。早く行かないとなくなっちゃうかも!…」
「…街を歩いていると、イチロウ君のお気に入りの本屋があったので入ってみることにしました。今旅フェアなんてのをやっていて、旅行に行きたくなってしまいました…」
「…目玉焼きにはソースなのか醤油なのか、あるいは他の調味料なのか、っていう質問よくありますよね。イチロウ君は何派ですか?って知ってるんだけどね。珍しい、ケチャプ派と見た!…」
こんなことばかりをひたすら言い続けているのだ。
これは何なんだろう。その疑問はずっと頭の片隅に残り続けたのだけど、一方で細かいことはどうでもいいじゃないか、と思うようにもなった。ラジオで言っているイチロウ君というのはどう考えても僕のことだ。誰が何の目的でこんなことをしているにしろ、誰かが自分のことを話題にしてくれているのは何だか嬉しかった。ここ三ヶ月、時折訪ねてくる先生や友達と僅かに話すだけで、ほとんど交流と言ったものがなかった。ラジオ越しではあるけれども、こうして誰かと交流を持つことが出来るのは悪くないな、と思った。
それから僕は毎日この番組を聞くのが習慣になった。何故か始まる時間と終わる時間は結構不規則だったのだけど、大体夜の8時頃から10時頃までやっていた。毎日よく僕のことだけでこれだけ喋れるものだよな、と感心しながら聞いていたのだった。
ある日その番組の放送中トイレに行きたくなった。ラジオもビデオみたいに録音できればいいのになぁ、あれやろうと思えば出来るのかな、とか思いながらトイレに向かった。
声が聞こえる。
二階から降りてきて左手突き当たりにトイレはあるのだけど、右手にある客間から声が聞こえる。母親が電話でもしているのだろうと思ったのだけど、何となく気になって耳をすませてみた。
まさにそれは、ラジオから流れてくる内容そのものだった。ボイスチェんジャーのようなもので声を変えているようだが、それは母親の声だった。どんな仕組みになっているのかきちんとは分からないが、母親がここで喋った声があのラジオから出るような仕掛けが施されているのだろう。
何となく僕は恥ずかしくなった。そして、明日はなんとかして学校に行こう、と思った。それ以外に、母親にあの放送を止めてもらえる手段はないように思えたのだ。
一銃「自分ラジオ」
今回の話はイケてないですねぇ。いろいろ考えたんですけど、どうもうまい話が思いつきませんでした。今ではショートショートを考えるリズムは日常生活の中でそれなりに出来てきたんですけど、やっぱり土曜から月曜に掛けては普段よりも多く感想を書くことが多いので、それだけショートショートも多く考えなくてはいけなくなります。それがちょっとキツイと言えばキツイですね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
姫川は30歳になる会社員である。彼は、高校時代の同級生である竹内と谷尾の三人と、同じく同級生であるひかりの妹の桂の四人で、「Sundowner」というコピーバンドを組んで、今でも集まって練習やライブをしている。もともとはひかりがメンバーだったのだが、途中から妹の桂に代わったのだ。
ライブも二週間後に迫った練習の日。姫川はいつものように昔のことに思いを馳せていた。小学1年生の頃、姉が死んだあの時のことを。
警察では事故だと処理された。誤って二階から落ちたのだ、と。しかし、あれはそうではなかったはずだ。事故ではなかったはずだ。今さら言ったところでどうなるものでもない。姉に続けて脳腫瘍を患っていた父親も死に、それ以来母は廃人のようになった。考えないようにしようと思っても、どうしてもあの時のことを思い出してしまう。
あの時、父親がしたことを。
ひかりが妊娠したらしい。常に自分は避妊をしていた。間違いない。避妊具も完璧ではないことを知っている。しかし、あれは本当に俺の子なのか?
姫川は過去を振り返りながら考える。俺に、出来るだろうか…。
というような話です。
まず一番に思うのは、この作家は文章が格段に巧くなったなぁ、ということです。この作家の作品は結構読んでいるんですけど(読んでないのはたぶん一作だけだと思う)、デビュー間もない頃は(ってまだデビューして2、3年の作家だと思うけど)結構文章が稚拙だなという印象がありました。ストーリーには意外性や驚きがあって、ストーリーのミステリとしてのレベルであるとか、全体の構成力、伏線の張り方なんかは巧い作家だなと思っていたのだけど、ただ文章がちょっとなぁ、と思っていました。
でも、前作「ソロモンの犬」を読んで、あれこの作家変わったな、と感じて、で本作を読んで、レベル上がったなぁ、という風に思いました。
これまでの作風は、トリッキーな舞台設定を最新の注意を払って慎重に進めていくという感じで、そのトリッキーさにすべての重心が置かれているような感じでした。それはそれで悪くはなかったのですが、どことなくギリギリの感じもあって、もっと言えば無理矢理すぎないかというようなストーリーが多かったです。もう一度言うけど、別にそれも嫌いだったわけではないんですけど。
でも「ソロモンの犬」や本作は大分雰囲気が変わりました。まず、ストーリーのトリッキーさが格段に薄まった変わりに、登場人物の内面描写に重きを置くスタイルに変わりました。それでいて、やっぱりちゃんとミステリっぽい展開で、最後もうまくまとまっているという感じで、これまでの作品はかなり人を選ぶものだったと思いますが、「ソロモンの犬」や本作はかなり一般ウケする内容になっているなと思いました。
本作も、ストーリー自体はこれまでの著者の作風からしても一般的な基準に照らしても、まあ地味と言ってしまっていいと思います。現在進行形の出来事が過去の出来事とオーバーラップするというのもありがちだし、人が死ぬ事件自体にも特別なトリックや仕掛けがあるというわけでもありません。
それでも、文章が巧くなっているのでかなり読ませるわけです。基本的に姫川という男の視点でストーリーが構成されるわけですが、姫川自身の葛藤や過去との折り合いのつけかた、周囲の人間との関係や事件に関わる展開など、どれもが自然な感じでいいなと思いました。しかもラストの展開はなかなか見事です。なるほどこれは巧いな、と思いました。
あと、これはこれまでの作品どれを読んでも思うことなんだけど、この作家は割と幅広く知識を持っていて、それをストーリーの要となる部分に巧く配置するんですよね。僕はホントどうやってストーリーを考えてるんだろうなっていつも思います。つまり、ネタが先にあってそれをストーリーに組み込むのか、あるいはストーリーの大枠が決まってからネタを探すのか、ということです。前者の場合はストーリーを作る上では自然ですが、しかしあらかじめかなり広範囲の知識を持っていなくてはいけなくなります。後者の場合は、あるかどうか分からないネタを前提にストーリーを組むことになるわけで、それは難しいんじゃないかなと思ったりします。細かい部分にいろんなネタを挟んでくるので(ストーリーには直接大きく関係しないものもあるわけですが)、いつも不思議だなと思いながら読んでいます。
初期の道尾秀介の作品を読んでちょっとダメだったなという方、とりあえず「ソロモンの犬」か本作を読んでみてください。かなり作風が違っていて驚くかもしれません。これから道尾秀介の作品を読もうという方にも、やっぱりその二作の内のどっちかを奨めます。それから初期の作品を読むかどうかはまあ自分の判断ということで。僕は、初期の作品のようなトリッキーさ重視の作品も嫌いではないのでまた書いて欲しい気がします。今は格段に文章が巧くなっているので、もう少し違った感じになるかもしれないな、と期待してもいます。ただ、しばらくはこの路線で作品を書いていった方がきちんとファンがつくような気がします。これからどういう作品を出すのか楽しみな作家です。帯にある「最高傑作」というのは、確かに言い過ぎの感はありますが間違ってもいないですね。少なくともこれまでの著者の作品の中で一番いいのは確かだと思います。
道尾秀介「ラットマン」
そう聞こえて来た時は本当に驚いた。
高校に行かなくなって三ヶ月が過ぎようとしていた。いわゆる登校拒否というやつで、いわゆる引きこもりというやつだった。ありきたりだけど、学校でいじめられていて、それに耐えられなくなって学校に行かなくなった。
先生は何度かやってきてくれたし、仲のよかった友達も顔を見せに来てくれる。それでも、どうしても僕の心は学校へは向かわなかった。母親は、休みたいなら無理に行くことはない、と言ってくれるが、本当はどう思っているかわからない。最近では、僕とどう接していいのかわからないようだ。
そして昨日、友人の一人がラジオをくれたのだ。何故ラジオをくれたのかよくわからないが、一人で部屋にいても退屈だろうと思ってくれたのだろう。正直なところ、僕は退屈していた。家にいてもやることがない。やることがあっても、積極的にやろうという気力が出てこない。それは、学校を休んでいるという罪悪感から、自分はあまり日々を楽しんではいけないのだ、という風に感じてしまうからだと思う。
そんな僕には、確かにラジオというのはうってつけだった。テレビは居間にしかなかったから、母親となるべく顔を合わせたくない僕は見ることができないでいた。自分の部屋で楽しむことが出来、しかも積極的な娯楽というわけでもないところが僕の気持ちを向かわせたのだろうと思う。
ラジオなどこれまで聞いたことがなかったのでイマイチ勝手が分からないが、まあチャンネルをどこかに合わせればいいだろうと思ってつまみを適当に回していた。ラジオにも様々な番組があるようで、小さな箱からいろんな声が聞こえてきた。僕はどれか一つに決めることなく、とりあえずいろんなチャンネルを聞いてみようと思ってつまみを回していた。
そんな時に聞こえてきたのだった。
初めは、イチロウというリスナーがどこかにいて、その番組によく葉書なんかを送っているのだと思った。いくら自分の名前と同じだからと言って、まさか自分に呼びかけているわけではないだろうし、だったらそう考えるしかない。
しかし、気になって聞いているうちに、これは僕一人に向けた放送なのかもしれないと思うようになってきた。いや、頭の中ではそんなことあるはずがない、ときちんと分かっている。分かっているのだが、しかしそうとしか考えられない放送内容なのだ。
「…今○○高校の学食には、特別メニューとしてパフェがあるそうです。1ヶ月だけの期間限定みたいですよ。早く行かないとなくなっちゃうかも!…」
「…街を歩いていると、イチロウ君のお気に入りの本屋があったので入ってみることにしました。今旅フェアなんてのをやっていて、旅行に行きたくなってしまいました…」
「…目玉焼きにはソースなのか醤油なのか、あるいは他の調味料なのか、っていう質問よくありますよね。イチロウ君は何派ですか?って知ってるんだけどね。珍しい、ケチャプ派と見た!…」
こんなことばかりをひたすら言い続けているのだ。
これは何なんだろう。その疑問はずっと頭の片隅に残り続けたのだけど、一方で細かいことはどうでもいいじゃないか、と思うようにもなった。ラジオで言っているイチロウ君というのはどう考えても僕のことだ。誰が何の目的でこんなことをしているにしろ、誰かが自分のことを話題にしてくれているのは何だか嬉しかった。ここ三ヶ月、時折訪ねてくる先生や友達と僅かに話すだけで、ほとんど交流と言ったものがなかった。ラジオ越しではあるけれども、こうして誰かと交流を持つことが出来るのは悪くないな、と思った。
それから僕は毎日この番組を聞くのが習慣になった。何故か始まる時間と終わる時間は結構不規則だったのだけど、大体夜の8時頃から10時頃までやっていた。毎日よく僕のことだけでこれだけ喋れるものだよな、と感心しながら聞いていたのだった。
ある日その番組の放送中トイレに行きたくなった。ラジオもビデオみたいに録音できればいいのになぁ、あれやろうと思えば出来るのかな、とか思いながらトイレに向かった。
声が聞こえる。
二階から降りてきて左手突き当たりにトイレはあるのだけど、右手にある客間から声が聞こえる。母親が電話でもしているのだろうと思ったのだけど、何となく気になって耳をすませてみた。
まさにそれは、ラジオから流れてくる内容そのものだった。ボイスチェんジャーのようなもので声を変えているようだが、それは母親の声だった。どんな仕組みになっているのかきちんとは分からないが、母親がここで喋った声があのラジオから出るような仕掛けが施されているのだろう。
何となく僕は恥ずかしくなった。そして、明日はなんとかして学校に行こう、と思った。それ以外に、母親にあの放送を止めてもらえる手段はないように思えたのだ。
一銃「自分ラジオ」
今回の話はイケてないですねぇ。いろいろ考えたんですけど、どうもうまい話が思いつきませんでした。今ではショートショートを考えるリズムは日常生活の中でそれなりに出来てきたんですけど、やっぱり土曜から月曜に掛けては普段よりも多く感想を書くことが多いので、それだけショートショートも多く考えなくてはいけなくなります。それがちょっとキツイと言えばキツイですね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
姫川は30歳になる会社員である。彼は、高校時代の同級生である竹内と谷尾の三人と、同じく同級生であるひかりの妹の桂の四人で、「Sundowner」というコピーバンドを組んで、今でも集まって練習やライブをしている。もともとはひかりがメンバーだったのだが、途中から妹の桂に代わったのだ。
ライブも二週間後に迫った練習の日。姫川はいつものように昔のことに思いを馳せていた。小学1年生の頃、姉が死んだあの時のことを。
警察では事故だと処理された。誤って二階から落ちたのだ、と。しかし、あれはそうではなかったはずだ。事故ではなかったはずだ。今さら言ったところでどうなるものでもない。姉に続けて脳腫瘍を患っていた父親も死に、それ以来母は廃人のようになった。考えないようにしようと思っても、どうしてもあの時のことを思い出してしまう。
あの時、父親がしたことを。
ひかりが妊娠したらしい。常に自分は避妊をしていた。間違いない。避妊具も完璧ではないことを知っている。しかし、あれは本当に俺の子なのか?
姫川は過去を振り返りながら考える。俺に、出来るだろうか…。
というような話です。
まず一番に思うのは、この作家は文章が格段に巧くなったなぁ、ということです。この作家の作品は結構読んでいるんですけど(読んでないのはたぶん一作だけだと思う)、デビュー間もない頃は(ってまだデビューして2、3年の作家だと思うけど)結構文章が稚拙だなという印象がありました。ストーリーには意外性や驚きがあって、ストーリーのミステリとしてのレベルであるとか、全体の構成力、伏線の張り方なんかは巧い作家だなと思っていたのだけど、ただ文章がちょっとなぁ、と思っていました。
でも、前作「ソロモンの犬」を読んで、あれこの作家変わったな、と感じて、で本作を読んで、レベル上がったなぁ、という風に思いました。
これまでの作風は、トリッキーな舞台設定を最新の注意を払って慎重に進めていくという感じで、そのトリッキーさにすべての重心が置かれているような感じでした。それはそれで悪くはなかったのですが、どことなくギリギリの感じもあって、もっと言えば無理矢理すぎないかというようなストーリーが多かったです。もう一度言うけど、別にそれも嫌いだったわけではないんですけど。
でも「ソロモンの犬」や本作は大分雰囲気が変わりました。まず、ストーリーのトリッキーさが格段に薄まった変わりに、登場人物の内面描写に重きを置くスタイルに変わりました。それでいて、やっぱりちゃんとミステリっぽい展開で、最後もうまくまとまっているという感じで、これまでの作品はかなり人を選ぶものだったと思いますが、「ソロモンの犬」や本作はかなり一般ウケする内容になっているなと思いました。
本作も、ストーリー自体はこれまでの著者の作風からしても一般的な基準に照らしても、まあ地味と言ってしまっていいと思います。現在進行形の出来事が過去の出来事とオーバーラップするというのもありがちだし、人が死ぬ事件自体にも特別なトリックや仕掛けがあるというわけでもありません。
それでも、文章が巧くなっているのでかなり読ませるわけです。基本的に姫川という男の視点でストーリーが構成されるわけですが、姫川自身の葛藤や過去との折り合いのつけかた、周囲の人間との関係や事件に関わる展開など、どれもが自然な感じでいいなと思いました。しかもラストの展開はなかなか見事です。なるほどこれは巧いな、と思いました。
あと、これはこれまでの作品どれを読んでも思うことなんだけど、この作家は割と幅広く知識を持っていて、それをストーリーの要となる部分に巧く配置するんですよね。僕はホントどうやってストーリーを考えてるんだろうなっていつも思います。つまり、ネタが先にあってそれをストーリーに組み込むのか、あるいはストーリーの大枠が決まってからネタを探すのか、ということです。前者の場合はストーリーを作る上では自然ですが、しかしあらかじめかなり広範囲の知識を持っていなくてはいけなくなります。後者の場合は、あるかどうか分からないネタを前提にストーリーを組むことになるわけで、それは難しいんじゃないかなと思ったりします。細かい部分にいろんなネタを挟んでくるので(ストーリーには直接大きく関係しないものもあるわけですが)、いつも不思議だなと思いながら読んでいます。
初期の道尾秀介の作品を読んでちょっとダメだったなという方、とりあえず「ソロモンの犬」か本作を読んでみてください。かなり作風が違っていて驚くかもしれません。これから道尾秀介の作品を読もうという方にも、やっぱりその二作の内のどっちかを奨めます。それから初期の作品を読むかどうかはまあ自分の判断ということで。僕は、初期の作品のようなトリッキーさ重視の作品も嫌いではないのでまた書いて欲しい気がします。今は格段に文章が巧くなっているので、もう少し違った感じになるかもしれないな、と期待してもいます。ただ、しばらくはこの路線で作品を書いていった方がきちんとファンがつくような気がします。これからどういう作品を出すのか楽しみな作家です。帯にある「最高傑作」というのは、確かに言い過ぎの感はありますが間違ってもいないですね。少なくともこれまでの著者の作品の中で一番いいのは確かだと思います。
道尾秀介「ラットマン」
ザ・万歩計(万城目学)
「やっぱり仕事を辞めて、家事に専念してくれないか」
昨日の夜悟に言われた言葉を思い返して、私はまた不愉快な気分をぶり返してしまう。昼休み、こうして何気なく同僚と会話をしながらご飯を食べていても、ふと気づくとこのことばかり考えてしまう。
「女性が家庭に入らないといけないなんて、そんな古いことは言わないよ。智子と一緒にいられるだけでいいんだ。もちろんこれまで通り仕事は続けてくれていいよ」
1年前、プロポーズされた時、私はどうしても仕事を辞めたくなくて彼にそれを伝えた。その時彼はこう言ってくれたのだ。それが結婚してからというもの、家事を十分にこなせないことを詰るようになり、かと言って手伝ってくれるわけでもなく、不機嫌な態度を隠しもしなくなった。結婚生活は比較的順調と言えなくもないが、この問題だけは根深い。悟が子どもを欲しがるようになったということもあるのかもしれない。しばらく仕事を続けたいから、子どもはもう少し考えましょう、と結婚前にちゃんと話し合ったのに。何で男ってこうも自分勝手なのかしら。
そうやってイライラしている自分にふと気づくと、私は腰につけた「悪意計」のことを思い出す。自分が他人に発する悪意についてはカウントされないとは言え、やはりこうやって悪意を意識的に抑制できるというのも、この悪意計の一つの副産物といえるかもしれない。
悪意計は、見た目も機能もほぼ万歩計に近いものである。一応体のどこにつけてもいいのだが、やはり腰につけるのが一番フィットする形になっているし、画面にデジタルで数字が表記されるというのも同じだ。
ただ、計測する対象だけが違う。万歩計は歩いた歩数をカウントするが、悪意計は周囲の人間が自分に向ける悪意をカウントしてくれるのである。これと対になる「善意計」というものの発売されていて、こちらは周囲の人間が自分に向ける善意をカウントするものである。悪意計は黒、善意計は白のボディカラーで判りやすい。
実はこの悪意計と善意計は、悟が勤める会社で作っているものだ。とは言え、まだ販売には至っていない。悟はその会社で悪意計・善意計の開発を担当しているのだが、現在では販売に向けた最終調整段階なのだそうで、サンプルデータを取るためにいろんな人に実験的に使ってもらっているのだという。このサンプルデータと使用者の感想から採集的な調整をし、販売にこぎつける予定なのだという。
実際この悪意計は便利だと思う。様々な設定を取ることができ、例えば悪意を検出したと同時にカウントを上げることも、一時間毎や一日毎に数字を表示することも出来る。どの距離範囲までを対象にするかも設定することも出来るし、またある特定の人物からの悪意・善意を測定することだって可能だ。使い方次第でいかようにも面白く使うことが出来る。現在ではまだ試験中なのでダメだが、もしこの悪意計・善意計が広まれば、相手がもしかしたら悪意計・善意計を持っているかもしれないという気持ちが、人間の気持ちを大らかにするかもしれないし、またあるいは恋愛を促進するようになるかもしれない。いずれにしても、実際に販売されればかなり評判になるのではないか、と私は思っている。
私は日々悪意計をつけて仕事をしているが、どうやら幸いなことに、周囲には私に特別悪意を持った人とというのはいないようだ。私は一日毎にカウントを見られる設定にしているのだが、毎日家に帰ってから確認しても、数字はかなり低い。さすがにゼロということはないが、誰からも悪意を受けずに仕事をしていくなど、さすがに無理だろうと思う。概ね私の会社生活は順調だと言えるだろう。
午後の仕事を片付け、なるべく早めに家に帰った。悟との話し合いが待っているのだ。あまり嬉しくない予定ではあるが、しかし嫌なことは早めに済ませてしまいたいとも思う。絶対に仕事を辞めるつもりはないし、悟にもそれを認めさせたいと意気込みながら、私は家に向かった。
家に帰るなり、いつもの習慣で悪意計を確認する。
「えっ、ウソ…」
悪意計には、信じられない数字がカウントされていた。普段の100倍近い数字である。何で?私今日何かした?こんなに周りの人から悪意を受けるようなことした?会社で悪い噂でも出回ってるの?
私は考えがまとまらないまま、のろのろと食事の支度を始めた。悟が帰宅し食事をしながら私の仕事の話になったのだが、会社から帰る前に抱いていた意気込みはとうに萎んでいた。もしかしたら会社で私は嫌われているのかもしれない。だとしたら、意地になって仕事を続けるのも辛いかもしれない。
翌日ももちろんいつも通り出社した。周りの人の様子を窺いながら仕事をするも、これまでと変わった様子は見られなかった。昨日とも一昨日とも、もっと言えば半年前とも変わらない、いつもの仕事場の風景だった。私が特別浮いていることもないし、誰かが影でこそこそ噂話をしている雰囲気もない。しかしそれでも、昨日私の悪意計は間違いなく大量の悪意を計測したのだ。見た目に騙されてはいけない、と私は思った。
そうした帰ってから悪意計の数字を確認すると、やはりその数字はとんでもない数字だった。昨日とほぼ同じぐらいで、もはや会社の人間が私に対して明確な悪意を持っていることは間違いなかった。
それから私はどんどんと落ち込み、仕事に対する意欲を失っていった。会社では私のことを気づかって声を掛けてくれる人がたくさんいたが、しかし心の中ではどうせ私を嫌ってるんでしょ、と思うとなお一層落ち込んでしまった。次第にうつ病に近い症状が出始め、まもなく私は自ら会社を辞める決心をした。図らずも、悟の望む通りの結末に落ち着いたのだ。
それからは専業主婦として、私は夫のために献身的に動き回った。案外専業主婦も自分に向いていたようで、しばらくして子どもが出来ると、名実共にお母さんとなり、私の日常はどんどんと忙しくなっていった。
しかし、ある時ふと思いついてしまった。
悪意計がとんでもない数字をたたき出した日は、悟に仕事を辞めて欲しいと言われた翌日だった。よく考えてみればこのタイミングはおかしいような気がする。もしかしたら、その日私がつけていたのは善意計だったのかもしれない。見た目は黒のまま、内部の回路だけ善意計に組替えることなど、開発者であった悟には訳もないことだっただろう。つまり、あの異常な数値は周囲からの悪意だったのではなく、周囲からの善意だったのではないだろうか。
この考えが芽生えてからも、悟にはそのことを問いただすことが出来ていない。悟はよき父親であり、よき夫であった。今さら過去のことであれこれ問い詰めたところでどうにかなるものでもない。それに、専業主婦だって、案外悪いものではないと今ではそう思えるのだ。
一銃「悪意計」
こういう話を書いていると、どの段階でネタはバレてしまうのかな、と思ったりします。今回の話も、結構初めの段階でもうオチが分かったという人は多いような気がします。ストンとうまく落としながら、しかし必要なデータはきちんとあらかじめ示せている、というのはやはり難しいなと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「鴨川ホルモー」でデビューし、「鹿男あをによし」や「ホルモー六景」などで出版界の話題を大いにかっさらった、万城目学の初エッセイ集となります。
僕は個人的に、小説家がエッセイを書いてもあんまり面白くはならない、と思っています。小説の巧さとエッセイの巧さというのはやはり別物みたいで、小説が巧いからと言ってエッセイが巧いということにはならないわけです。東野圭吾なんかはそんなところをきちんと自覚(?)していて、小説家は言いたいことがあるなら小説を通じて言うべきである、という持論の元、もうエッセイは出さないよ、という宣言をしていたりするくらいである。
僕が例外だと思うのは、三浦しをんと乙一である。この二人はとにかく別格で、小説家としても素晴らしいけど、エッセイも素晴らしいものがある。とにかく面白い。三浦しをんのエッセイ全般と、乙一の「小生物語」は必読である。
さてそんな中で、万城目学も小説家でありながらエッセイも面白いタイプになりえるかもしれないな、と思ったりしました。正直今の段階ではまだ、三浦しをんや乙一のレベルまでの面白さには達していないと思いますが、少なくともエッセイでもなんか面白いことをやってくれそうだ、という予感を感じさせる作品になっています。
エッセイの面白さというのは結局、その書き手のキャラクターの面白さに比例するのだと思います。小説の場合であれば、書き手がどれだけ普通の人間であっても、奇天烈な物語や登場人物をいくらでも生み出すことが出来ると思います。しかしエッセイの場合、やはり基本的に自分のことを書くことになるわけで、必然的に書き手のキャラクターに応じた面白さになってしまいます。乙一や三浦しをんのエッセイが面白いのはやはり、書き手のキャラクターが面白いからです。そしてこの万城目学も、なかなかに面白いキャラクターを持っています。結局のところ、独特の視点、独特の感受性でもって世の中を見て、そしてそれら感じたことをきちんと自分の中にしまっておくことの出来る人間の書くエッセイは面白くなるのだろうな、と思います。
本作では、万城目学が日常に感じる疑問や日常での変なことなどエッセイにありがちなものから、万城目学が作家になるまでのストーリーや小説を生み出す時のあれこれなんかも載っていて面白い。前の職場での話や実家の話なんかもあって、しかも結構変な話も多くて、なかなかに読ませるなと思いました。
僕が一番面白いなと思ったのが「b理論」です。これは、体内時計というのは普通一日単位でカウントされるものと思われがちだが、本当にそうなのだろうか、という疑問から辿り着いた理論で、何故「b」なのかという説明がなかなか面白いなと思いました。しかし38歳の万城目学がどんな機会で「b」を書くことがあるのか、ちょっと考えてみると楽しいですね。それがまさに小説の誤植として見つかったら最高だなと思います。まあ意味がわからないでしょうが、まあ読んでみてください。
あと、もしタイムスリップで過去にいけるとしたら何をするかという話も、読んでてなるほどなと思いました。競馬や株なんかで安易にお金を稼ぐことは出来るけど、でもよくよく考えてみるとそんな方法でお金を稼いでみても面白くない。じゃあどうするか、という話なんですけど、なるほどなという感じでした。
万城目学は結構一人旅にも行っているようで、これは僕の中の勝手なイメージとは外れていたんですけど(なんとなくもっと狭い世界を好んでいそうなイメージがあった)、その旅先でも結構いろんな経験をしているようで、そういう話も多いです。トナカイの話なんかホントかよ、とか思いますが、まあホントなんでしょうね。
あと、京都の自転車の話も面白いと思いました。京都では学生という学生は皆どこへ行くにも自転車を使うのだけど、実は京都の学生の自転車には特殊な蛍光塗料が仕込んであって、道を走る度にそれが道路に付着する。その付着した蛍光塗料は、大震災などの非常時に光源として活躍するのだ、というホラ話なんですけど、何だか万城目学が書くとホントにありそうな感じがして、まあオニと遊んだり鹿を喋らせたりする作家だからなぁ、と妙な納得をしたりしました。
まあそんなわけで、なかなか面白いと思います。まだ殻を破れてはいない気はしますが(何様だ、って感じの言い方ですね 笑)、ただもっともっと面白いエッセイを書ける素養のある人だなと感じました。本作もそれなりには面白いですが、まあ今後に大いに期待という感じです。読んでみたらなかなか面白いんじゃないかなと思います。
万城目学「ザ・万歩計」
昨日の夜悟に言われた言葉を思い返して、私はまた不愉快な気分をぶり返してしまう。昼休み、こうして何気なく同僚と会話をしながらご飯を食べていても、ふと気づくとこのことばかり考えてしまう。
「女性が家庭に入らないといけないなんて、そんな古いことは言わないよ。智子と一緒にいられるだけでいいんだ。もちろんこれまで通り仕事は続けてくれていいよ」
1年前、プロポーズされた時、私はどうしても仕事を辞めたくなくて彼にそれを伝えた。その時彼はこう言ってくれたのだ。それが結婚してからというもの、家事を十分にこなせないことを詰るようになり、かと言って手伝ってくれるわけでもなく、不機嫌な態度を隠しもしなくなった。結婚生活は比較的順調と言えなくもないが、この問題だけは根深い。悟が子どもを欲しがるようになったということもあるのかもしれない。しばらく仕事を続けたいから、子どもはもう少し考えましょう、と結婚前にちゃんと話し合ったのに。何で男ってこうも自分勝手なのかしら。
そうやってイライラしている自分にふと気づくと、私は腰につけた「悪意計」のことを思い出す。自分が他人に発する悪意についてはカウントされないとは言え、やはりこうやって悪意を意識的に抑制できるというのも、この悪意計の一つの副産物といえるかもしれない。
悪意計は、見た目も機能もほぼ万歩計に近いものである。一応体のどこにつけてもいいのだが、やはり腰につけるのが一番フィットする形になっているし、画面にデジタルで数字が表記されるというのも同じだ。
ただ、計測する対象だけが違う。万歩計は歩いた歩数をカウントするが、悪意計は周囲の人間が自分に向ける悪意をカウントしてくれるのである。これと対になる「善意計」というものの発売されていて、こちらは周囲の人間が自分に向ける善意をカウントするものである。悪意計は黒、善意計は白のボディカラーで判りやすい。
実はこの悪意計と善意計は、悟が勤める会社で作っているものだ。とは言え、まだ販売には至っていない。悟はその会社で悪意計・善意計の開発を担当しているのだが、現在では販売に向けた最終調整段階なのだそうで、サンプルデータを取るためにいろんな人に実験的に使ってもらっているのだという。このサンプルデータと使用者の感想から採集的な調整をし、販売にこぎつける予定なのだという。
実際この悪意計は便利だと思う。様々な設定を取ることができ、例えば悪意を検出したと同時にカウントを上げることも、一時間毎や一日毎に数字を表示することも出来る。どの距離範囲までを対象にするかも設定することも出来るし、またある特定の人物からの悪意・善意を測定することだって可能だ。使い方次第でいかようにも面白く使うことが出来る。現在ではまだ試験中なのでダメだが、もしこの悪意計・善意計が広まれば、相手がもしかしたら悪意計・善意計を持っているかもしれないという気持ちが、人間の気持ちを大らかにするかもしれないし、またあるいは恋愛を促進するようになるかもしれない。いずれにしても、実際に販売されればかなり評判になるのではないか、と私は思っている。
私は日々悪意計をつけて仕事をしているが、どうやら幸いなことに、周囲には私に特別悪意を持った人とというのはいないようだ。私は一日毎にカウントを見られる設定にしているのだが、毎日家に帰ってから確認しても、数字はかなり低い。さすがにゼロということはないが、誰からも悪意を受けずに仕事をしていくなど、さすがに無理だろうと思う。概ね私の会社生活は順調だと言えるだろう。
午後の仕事を片付け、なるべく早めに家に帰った。悟との話し合いが待っているのだ。あまり嬉しくない予定ではあるが、しかし嫌なことは早めに済ませてしまいたいとも思う。絶対に仕事を辞めるつもりはないし、悟にもそれを認めさせたいと意気込みながら、私は家に向かった。
家に帰るなり、いつもの習慣で悪意計を確認する。
「えっ、ウソ…」
悪意計には、信じられない数字がカウントされていた。普段の100倍近い数字である。何で?私今日何かした?こんなに周りの人から悪意を受けるようなことした?会社で悪い噂でも出回ってるの?
私は考えがまとまらないまま、のろのろと食事の支度を始めた。悟が帰宅し食事をしながら私の仕事の話になったのだが、会社から帰る前に抱いていた意気込みはとうに萎んでいた。もしかしたら会社で私は嫌われているのかもしれない。だとしたら、意地になって仕事を続けるのも辛いかもしれない。
翌日ももちろんいつも通り出社した。周りの人の様子を窺いながら仕事をするも、これまでと変わった様子は見られなかった。昨日とも一昨日とも、もっと言えば半年前とも変わらない、いつもの仕事場の風景だった。私が特別浮いていることもないし、誰かが影でこそこそ噂話をしている雰囲気もない。しかしそれでも、昨日私の悪意計は間違いなく大量の悪意を計測したのだ。見た目に騙されてはいけない、と私は思った。
そうした帰ってから悪意計の数字を確認すると、やはりその数字はとんでもない数字だった。昨日とほぼ同じぐらいで、もはや会社の人間が私に対して明確な悪意を持っていることは間違いなかった。
それから私はどんどんと落ち込み、仕事に対する意欲を失っていった。会社では私のことを気づかって声を掛けてくれる人がたくさんいたが、しかし心の中ではどうせ私を嫌ってるんでしょ、と思うとなお一層落ち込んでしまった。次第にうつ病に近い症状が出始め、まもなく私は自ら会社を辞める決心をした。図らずも、悟の望む通りの結末に落ち着いたのだ。
それからは専業主婦として、私は夫のために献身的に動き回った。案外専業主婦も自分に向いていたようで、しばらくして子どもが出来ると、名実共にお母さんとなり、私の日常はどんどんと忙しくなっていった。
しかし、ある時ふと思いついてしまった。
悪意計がとんでもない数字をたたき出した日は、悟に仕事を辞めて欲しいと言われた翌日だった。よく考えてみればこのタイミングはおかしいような気がする。もしかしたら、その日私がつけていたのは善意計だったのかもしれない。見た目は黒のまま、内部の回路だけ善意計に組替えることなど、開発者であった悟には訳もないことだっただろう。つまり、あの異常な数値は周囲からの悪意だったのではなく、周囲からの善意だったのではないだろうか。
この考えが芽生えてからも、悟にはそのことを問いただすことが出来ていない。悟はよき父親であり、よき夫であった。今さら過去のことであれこれ問い詰めたところでどうにかなるものでもない。それに、専業主婦だって、案外悪いものではないと今ではそう思えるのだ。
一銃「悪意計」
こういう話を書いていると、どの段階でネタはバレてしまうのかな、と思ったりします。今回の話も、結構初めの段階でもうオチが分かったという人は多いような気がします。ストンとうまく落としながら、しかし必要なデータはきちんとあらかじめ示せている、というのはやはり難しいなと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「鴨川ホルモー」でデビューし、「鹿男あをによし」や「ホルモー六景」などで出版界の話題を大いにかっさらった、万城目学の初エッセイ集となります。
僕は個人的に、小説家がエッセイを書いてもあんまり面白くはならない、と思っています。小説の巧さとエッセイの巧さというのはやはり別物みたいで、小説が巧いからと言ってエッセイが巧いということにはならないわけです。東野圭吾なんかはそんなところをきちんと自覚(?)していて、小説家は言いたいことがあるなら小説を通じて言うべきである、という持論の元、もうエッセイは出さないよ、という宣言をしていたりするくらいである。
僕が例外だと思うのは、三浦しをんと乙一である。この二人はとにかく別格で、小説家としても素晴らしいけど、エッセイも素晴らしいものがある。とにかく面白い。三浦しをんのエッセイ全般と、乙一の「小生物語」は必読である。
さてそんな中で、万城目学も小説家でありながらエッセイも面白いタイプになりえるかもしれないな、と思ったりしました。正直今の段階ではまだ、三浦しをんや乙一のレベルまでの面白さには達していないと思いますが、少なくともエッセイでもなんか面白いことをやってくれそうだ、という予感を感じさせる作品になっています。
エッセイの面白さというのは結局、その書き手のキャラクターの面白さに比例するのだと思います。小説の場合であれば、書き手がどれだけ普通の人間であっても、奇天烈な物語や登場人物をいくらでも生み出すことが出来ると思います。しかしエッセイの場合、やはり基本的に自分のことを書くことになるわけで、必然的に書き手のキャラクターに応じた面白さになってしまいます。乙一や三浦しをんのエッセイが面白いのはやはり、書き手のキャラクターが面白いからです。そしてこの万城目学も、なかなかに面白いキャラクターを持っています。結局のところ、独特の視点、独特の感受性でもって世の中を見て、そしてそれら感じたことをきちんと自分の中にしまっておくことの出来る人間の書くエッセイは面白くなるのだろうな、と思います。
本作では、万城目学が日常に感じる疑問や日常での変なことなどエッセイにありがちなものから、万城目学が作家になるまでのストーリーや小説を生み出す時のあれこれなんかも載っていて面白い。前の職場での話や実家の話なんかもあって、しかも結構変な話も多くて、なかなかに読ませるなと思いました。
僕が一番面白いなと思ったのが「b理論」です。これは、体内時計というのは普通一日単位でカウントされるものと思われがちだが、本当にそうなのだろうか、という疑問から辿り着いた理論で、何故「b」なのかという説明がなかなか面白いなと思いました。しかし38歳の万城目学がどんな機会で「b」を書くことがあるのか、ちょっと考えてみると楽しいですね。それがまさに小説の誤植として見つかったら最高だなと思います。まあ意味がわからないでしょうが、まあ読んでみてください。
あと、もしタイムスリップで過去にいけるとしたら何をするかという話も、読んでてなるほどなと思いました。競馬や株なんかで安易にお金を稼ぐことは出来るけど、でもよくよく考えてみるとそんな方法でお金を稼いでみても面白くない。じゃあどうするか、という話なんですけど、なるほどなという感じでした。
万城目学は結構一人旅にも行っているようで、これは僕の中の勝手なイメージとは外れていたんですけど(なんとなくもっと狭い世界を好んでいそうなイメージがあった)、その旅先でも結構いろんな経験をしているようで、そういう話も多いです。トナカイの話なんかホントかよ、とか思いますが、まあホントなんでしょうね。
あと、京都の自転車の話も面白いと思いました。京都では学生という学生は皆どこへ行くにも自転車を使うのだけど、実は京都の学生の自転車には特殊な蛍光塗料が仕込んであって、道を走る度にそれが道路に付着する。その付着した蛍光塗料は、大震災などの非常時に光源として活躍するのだ、というホラ話なんですけど、何だか万城目学が書くとホントにありそうな感じがして、まあオニと遊んだり鹿を喋らせたりする作家だからなぁ、と妙な納得をしたりしました。
まあそんなわけで、なかなか面白いと思います。まだ殻を破れてはいない気はしますが(何様だ、って感じの言い方ですね 笑)、ただもっともっと面白いエッセイを書ける素養のある人だなと感じました。本作もそれなりには面白いですが、まあ今後に大いに期待という感じです。読んでみたらなかなか面白いんじゃないかなと思います。
万城目学「ザ・万歩計」
ワープする宇宙 五次元時空の謎を解く(リサ・ランドール)
両親が突然いなくなった。
昨日まで僕は北海道に旅行に出かけていた。ふらりと一人旅だったのだが、旅ならではの面白さを十分堪能できた満足感を抱えたまま帰ってきたのだ。
すると、家中ががらんとしている。人がいないというだけの意味ではなく、物も結構なくなっていたのだ。冷蔵庫や洗濯機など生活必需品は残っていたのだけど、母親が使っていた鏡台や、父親が使っていたゴルフバッグなんかがごっそりとなくなっている。事情はさっぱり判らないが、要するに僕は捨てられたということなのだろう、と理解した。
しかしどんな事情であれ、僕の二十歳の誕生日のまさに前日にいなくなることはないんじゃないか、と思った。今さら誕生日に固執するような年齢ではないが、しかし成人した息子を少しは祝ってくれてもいいのではないか、と思う。
これまで僕は両親に大切に育てられてきたと思う。かなり過保護な両親だったと言ってもいいかもしれない。特に怪我や病気の時などは手厚く看護してくれたし、僕のどんな願いでも大抵は叶えてくれた。それでも一人で生きて行けというならそれは全然無理な話ではないだろうし、この状況からして一人で生きて行かなくてはいけないのはまず間違いのないことだが、それにしても納得がいかない、と僕は思った。
しかしまあ、今さら両親がいなくなったからと言っておたおたしていても仕方がない。両親が事故や犯罪に巻き込まれているというなら話は別だが、家から物がなくなっているとは言っても強盗に入られたような痕跡はないし、であれば物がなくなっているのは両親がどこかに運び出したということであって、そこには誰か他人の意思が介在する余地はなさそうである。一応親戚とかには連絡をしてみた方がいいんだろうか。警察には言った方がいいのか。そういう思考が一瞬浮かびはしたものの、最終的にはまあいいやと思うようにした。
さて、当面考えなくてはいけないことはお金の問題だ。誰かに話すと怪訝な顔をされるが、僕は父親がどんな仕事をしていたのかよく知らない。しかし、我が家は一般よりは多少裕福と言える生活水準だったと僕は思っている。子どもの頃から欲しかったオモチャはなんでも買ってもらえたし、家には絵画や骨董のような安くはないだろうと思わせるものが少なからずあった。しかしそう言った類のものは両親が持っていってしまったようだ。現金の類はどうも残されていないようで、僕の銀行預金に残る僅かな額しかない。まだ大学生である僕としては、少なくとも就職するまでの生活を何とかするだけのお金を手に入れることが急務だった。
そこで思い出したのが「未納質屋」の存在だ。これについて両親が話していたのをたまたま耳にしたことがあるのだ。
この未納質屋は面白い質屋で、物を預けることなくお金が借りられる仕組みになっている。例えば指輪を質に入れることにするとして、しかしその指輪は自分の手元に置いておくことが出来る。質に入れるものによって借りられる期間と金額が決まるのだが、重要な点はその期間が過ぎてもお金を返済できなければその指輪は消失してしまう、ということだ。指輪を失いたくなければお金を返すしかない、という仕組みである。またもう一つのルールは、指輪を壊してしまったり亡くしてしまった場合には、その時点で返済が迫られるということである。この返済の取立てがヤクザよりも厳しいと評判であるようだった。
両親の話を耳にした後、これはいつか使えるかもしれないと思って家中を漁り、未納質屋との契約書を探し出したことがある。何を預けたのかきちんと見なかったが、両親は時折未納質屋を利用していたようだった。お金に困っているように見えなかったのだが、それは僕の勘違いだったのかもしれない、と感じたがまあそれはどうでもいい。重要なのはその契約書に、未納質屋の電話番号が記載されていたということだ。僕は、とりあえず冷蔵庫や洗濯機と言った生活必需品を含め、僕の周りにあるものほとんどをこの未納質屋に質に入れようと考えていた。とりあえず就職するまでの間なんとかなりさえすれば、お金を返せなくなってそれらが消えてしまってもまあなんとかなるだろう。そう考えたのだった。
未納質屋との交渉は簡単なものだった。電話一本で済むのである。僕が質に入れたいものを電話越しに伝えると、すぐさま借り入れ年数と金額の上限が提示される。そのやり取りで僕は、当面生活に困らないだけのお金を手にすることが出来た。電話をしながら僕はぼんやりと空想を働かせていた。例えば自分の所有ではないもの、つまり会社所有の車とか嫌いな人間そのものとかを質に入れることは出来るのだろうか。将来確実に手に入る予定の物を質に入れることは出来るだろうか。あるいは、生まれたばかりの子どもを質に入れたらどうなるだろうか。
時計を見るともうすぐ12時だ。あと数分で二十歳の誕生日だ。
そこで僕はふと思いついたことがあった。いやいやまさか、と思おうとしたが、ダメだった。確認する手段はある。たぶん両親はアレを持ち出してはいないだろう。いや寧ろ、僕がこういう思考に辿り着くことを見越して、敢えて残しているということだってありうる。
僕は両親が未納質屋と交わした契約書を探すことにした。それは前と変わらない場所にしまわれていた。以前は両親が何を預けたのか気にも止めなかったのだが、今ではほぼ確信を持って何を預けたのか断言できる。何の仕事をしているのか判らない両親。過保護だった両親。僕の誕生日の直前に忽然と姿を消した両親。答えはもう明らかだ。
『契約内容
父・前川和夫 母・登志子の息子・俊哉(0歳)
契約期間
20年
貸付金
3億円』
ふと思いついて契約書を裏返してみた。そこには父親の字でこう書かれていた。
「あばよ」
くそったれが!
時計の針は12時を越えた。
一銃「未納質屋」
そろそろ内容に入ろうと思います。
というわけで久々に書く感想になりますが、それには理由があります。とにかく本作は難しくて、簡単には読み進められなかったんです。ページ数も600ページ以上となかなかの分量ですが、しかし分量以上に内容の難しさの方が障壁で、久々に大変な読書となりました。
しかし一方で、もう無茶苦茶面白かったわけです。最新の物理学についてここまで詳しく、そして難しいとは言えここまで判りやすく書かれた本はないのではないかと思えるくらいでした。
本作は、著者であるリサ・ランドール氏が1999年に提唱した「ワープした余剰次元」という考え方について書かれた本、ということになります。しかしそれについて書かれているのは全六章構成中僅か一章だけです。では残りは何が書かれているかと言えば、近年の最新物理についてです。
もう少し詳しく書きましょう。第一章では、これからどんな物理学の驚異について触れるのかというガイドラインのような役割の章です。第二章から第四章に掛けて、相対性理論や量子論やひも理論を初めとした、近年の物理学の進展の歴史をかなり深いところまで説明してくれます。そしてようやく第五章で、本作のメインとなる「ワープする余剰次元」の話になり、第六章が結びの章という展開になります。
ではまず、その「ワープする余剰次元」という発想について僕の理解の及ぶ範囲で説明をしようと思います。
まず要約するとこうなります。
『二枚の性質の異なるブレーンによって、第五番目の時空(バルク)を挟み込んだ余剰次元理論で、素粒子物理学の最も重要な問題である階層性問題を解消出来る』
まあこういう話になるわけですけど、これじゃあ意味不明ですよね。もちろんそれはそうなんです。つまり、第二章から第四章で何故最新の物理学の進展について書いたかというと、その前提がなければ基本的にこの「ワープする余剰次元」の話を理解することが出来ないからです。まあそんなわけで僕がこれを今から何となく説明しようというのも無謀なんですけど(この無謀という意味には、僕がそもそもちゃんと理解できているわけではない、という意味も含まれるのだけど)、まあなんとか頑張ってみようと思います。
まず『ブレーン』の説明からですね。これは、今物理学者がもっとも期待している『ひも理論』というものから導き出される概念です。どういう点でひも理論が注目されているかと言えば、一般性相対性理論と量子論を統合できる唯一の理論であるように今のところ思える、という点です。一般性相対性理論と量子論というのはスケールの大きさによって影響力に違いがあって、大きなスケール(天体などのようなもの)には一般性相対性理論の効力が強く量子論の効力は弱く、また小さなスケールでは量子論の効力が強く一般性相対性理論の効力は弱くなります。しかし、ある特定のスケールにおいては、どちらの効力も無視できなくなるようなのです(これは、小さいスケールよりもさらに小さなスケールでの話です)。そこでは、一般性相対性理論と量子論のどちらの効力も有効であるはずなのに、その二つの理論が矛盾した結果を導き出します。それをうまいこと解消して、二つの理論をまとめる最も有効な理論としてひも理論が注目されているわけです。
さてそのブレーンですが、ある特定の次元を持った膜というようなイメージです。僕らは三次元の空間に住んでいますが、ブレーンはある一定の範囲内のどの次元の値でも取ることが出来ます。まあそういう膜だと思って下さい。
さてこのブレーンというのは、力と粒子をその内部に留めておくことの出来る性質を持っています。イメージとしては、風船の中に粒子や力が閉じ込められてると思って下さい。ひも理論によれば、ほとんどのもの(粒子や力やエネルギー)はこのブレーンから外に出ることは出来ません。ブレーンの外にはバルクという別の空間が広がっているとされますが、ブレーンに閉じ込められた粒子たちはそのバルクに行くことは出来ないし、またその先にあるかもしれない別のブレーンともなんらかの相互作用をすることは出来ません。
ただ、唯一重力だけはブレーンの内外を自由に行き来することが出来るとされます。これは、重力を伝えるとされるグラビトンという粒子(まだ実験によってその存在が確認されたことはない粒子です)が、『閉じたひも』の振動によって生まれるためです。ひも理論によれば粒子には二種類あって、『開いたひも』から生まれるものと『閉じたひも』から生まれるものです。開いたひもの場合、その両端は必ずどこかのブレーンに捉われているため(これがそもそもブレーンというものの定義です。つまり、ひもの両端が接して捉われている場所というのがブレーンなわけです)、開いたひもから生まれる粒子はブレーンから出ることは出来ません。しかし、閉じたひもはブレーンに捉われていないために、ブレーンの外にも自由に行き来することが出来るわけです。
さてこの「ワープする余剰次元」理論では、このブレーンが二枚向き合っている状況を考えます(それ以外のモデルもあるわけですが、とりあえず素粒子物理学でもっとも重要な階層性問題を解消するモデルについて書きます)。ブレーンが向き合っているというのは想像し難いかもですが、簡単にするために鏡のような二次元の板(これをブレーンの代わりと考える)が二枚向き合っていると考えてください。僕らが住んでいる(とされる)ブレーンは四次元の時空次元に見えるわけですが、実際はブレーンからブレーンへと進む方向にももう一つ次元があるとされます。これが余剰次元と呼ばれるもので、僕らが住んでいる世界は実際は五次元なのだけど、ある事情によってその五番目の次元が見えなくなっているために、この世界は四次元に見える、というわけです。
さてここで、書く順番を間違えたような気もしますがそこはまあ気にせず、『階層性問題』について書こうと思います。この階層性問題というのは素粒子物理学の最大の問題で、これまでこの問題を綺麗に説明できる理論やモデルを考えた人はいないようです。
さてこの階層性問題というのはどういうことかと言えば、重力はなぜこんなにも微弱なのか、ということになります。しかしこの階層性問題は僕もイマイチちゃんとは理解出来ていないので、なんとなくの説明になると思います。
世の中には四つの力があるとされていて、それが『電磁気力』『重力』『弱い力』『強い力』となります。この内問題となるのは『重力』と『弱い力』です。
でここから僕にはうまく説明できないんですけど、そもそもの発想として、この四つの力は高エネルギーでは一つの同じ力にまとまるはずだ、と考えられています。となると、最終的に重力も弱い力も同じ程度の条件で作用しなくてはならないと考えられます。
しかし、それがうまくいきません。重力の強さは「プランクスケール質量」というものによって決まり、弱い力の強さは「ウィークスケール質量」というものによって決まるわけですが、その両者の質量は実に10の16乗ほども大きさが違うのだそうです。つまりこれは、弱い力と比べると重力がとんでもなく小さい、という風に説明できるんですけど、これがどうしてそうなるのかということに具体的に答えが与えられたことはこれまでなかったわけです。
しかし、リサ・ランドールは「ワープする余剰次元」理論によってこの階層性問題を解消したわけです。
というわけで話を元に戻します。二枚の二次元の板をむき合わせ、その間にバルクという五番目の時空が広がっている、というところまで来たはずでした。さてここでもう一つブレーンの持つある性質を考えます。それは、ブレーン自体もエネルギーを帯びている、という性質です。一般性相対性理論によれば、エネルギーというのは時空を歪ませる働きをします。その効果を「ワープする余剰次元理論」に適応すると、一方のブレーンからもう一方のブレーンに向かって、トランペットの口(あるいはじょうご)のような形に時空が歪曲(ワープ)されるということが判りました。これこそが、階層性問題を解消する構造なわけです。
ブレーンが二つ向き合っているといいましたが、この二つのブレーンはそれぞれに性質が違います。一方は『重力ブレーン』と呼ばれていて、要するにそこで重力が生み出されるわけです。しかしここで生まれる重力は、僕らが四次元の世界で感じる重力ではなくて、五次元の世界での重力ということになります。そしてもう一方のブレーンが『ウィークブレーン』と呼ばれていて、このブレーンこそが僕らが住んでいる世界になります。
さて、重力ブレーンで作られた重力(たぶんこの表現は適切ではないと思うけど、まあわかりやすい説明ということでいいかなと)は、歪曲(ワープ)された時空を通る中でその力が指数関数的に減少して行くわけです。この効果により、自然な形で重力が弱いことに説明がつく、というわけです。まあこれが「ワープする余剰次元」理論の大体の大枠という感じですね。
しかしやっぱり、一般性相対性理論や量子論やひも理論の理解なしにこの余剰次元の理論を理解することは難しいだろうと思います。僕は、本作で一般性相対性理論なんかの進展をちゃんと読んで、なんとかついていけたかなというレベルです。
まあしかし、とにかく面白い本でした。何よりもすごいのは、出来る限り判りやすく説明しようとしている部分です。
とにかく現代の物理学というのは、一般人が(僕を含めてですが)その概要を理解することがそもそもほとんど不可能なくらい難しすぎる学問になってしまいました。一般性相対性理論や量子論なんかは、もちろんそれはそれで難しいわけですが、まだ判った気になれるレベルではあります。等価原理はエレベーターを使った説明で理解した気になれるし、速度が速いと時間が遅く流れるというのも光子時計の説明で十分理解できます。量子論の不確定性原理も観測という観点から考えればまだ理解できないこともないし、波と粒子の二重性や波動収束なんかも意味はよくわかりませんが、まあそういうものかという風に割り切ることは不可能ではありません。
しかし素粒子物理学はさらに先に進んでいて、もはやその先の領域は何だかイメージしたり割り切って理解したりすることすら困難なところに入って行きます。存在しないかあるいは存在してもほんの一瞬しか存在できない仮想粒子というものを考えたり、対称性だの対象性の破れだのヒッグス機構だの階層性問題だのと、とにかく難しいわけです。で何故これらが難しく見えるかというと、そもそも実験によって確認するのがほぼ不可能だという点があると思います。
一般性相対性理論や量子論なんかはそれでも、実験によって確認できる事実が多数あるし、実際にカーナビの技術に一般性相対性理論が、精密機械の根本的な部分には量子論が使われたりしていて、僕らがきちんと理解することが出来なくても、それを実際に実用的に使っている人もいるし、実験によって目に見える形でそれを確認している人がまあいるわけです。
しかしひも理論だの大統一理論だの余剰次元理論だのと言ったものは、そもそも目に見える形での痕跡がありません。一応ようやく完成したらしい高エネルギー大型ハドロン加速器という実験施設によって、余剰次元理論が正しいのかという検出が出来るかもしれないと期待されているようですが、しかしそれも何かの粒子の痕跡が残るというだけの話であり、ひも理論におけるひもそのものや、あれいは余剰次元理論におけるブレーンが直接見えるというわけではありません。そういう意味で、とにかくとっつきにくいのだろうなと思います。
また物理というのは昔と比べてどんどん変わっているわけです。昔は、目の前に現れた現象を説明するために何らかの理論を導き出す、というのが普通だっただろうと思います。しかし最近ではそうではなくて、まずこういうモデルだったら現実の世界をうまく説明できるよ、という理論を構築し、もしこれが正しいとしたらこうなるだろうという予言をし、それを実験で確認するという感じになっています。何でそうなるかと言えば、さっきも書いたとおり、とにかく最新の物理学は実験によって検出できるレベルを超えたところで進んでいるわけで、目の前に出てくる現象というのがなくなりつつあるからだと思います。アインシュタインもそうやって一般性相対性理論を創り上げたし、ひも理論というのもそうやって生まれたようです。量子論の場合は、ある説明のつかない現象をなんとか説明するためにやけっぱちになって考えたある仮説から生まれたようですが、しかしそれもどんどん進展するにつれて同じような道を辿って行ったようです。
そもそも最近の物理というのは僕らの直感に反する事実ばかり提示してくれるわけです。一般性相対性理論であれば、光速度はどんな条件下でも変わらないと言うし、量子論では粒子の位置を正確につかむことは出来ないというし、余剰次元理論では僕らの目に見えない別の次元が存在すると言います。もちろん、僕らの目に見えるものが正しいとは思わないし、人間の直感ほど当てにならないものはないと思うけど、でもここまで直感と大きくずれてしまうと、なかなか理解するのが難しくなって行きますね。
しかし、だからこそ面白いという風にも思えるわけです。僕が本作を読んでてとにかくずっと感じていたのは、これほどまでに複雑な(しかし一方でシンプルで美しい)世界は誰が作ったんだろう、ということです。僕は別に神様だとは創造主だとかいうのは信じていませんが、しかしそういう存在がいたとするならすごいなと思うわけです。どうやってこんな見事な仕組みを思いつけたんだろうか、なんて思ってしまいました。
まあそんなわけで長々と書きましたが、とにかく本作は難しいです。しかしその難しさの責任は著者にはありません。とにかく最新の物理学が異様に理解し難いというだけで、リサ・ランドールはその無茶苦茶に難しい物理学をかなり噛み砕いて判りやすく説明してくれます。しかも、他の物理の本では、この部分は難しいから飛ばしましょう、という扱いをされてしまうだろう部分さえも、省かずになんとか判りやすく説明しようとしています。これはすごいなと思いました。最新の物理学について細かいところまで含めてちゃんと知りたいという人にはまさにうってつけの本だと思います。しかし一方で、一般性相対性理論や量子論についてその大まかなところだけ知りたいという人には向かないでしょう。本作ははっきり言って難しすぎると思います。かなり時間をかけて丁寧に読まないと厳しいと思うけど、でも本作を読み通せば最新の物理学についてかなり分かった気になれるのは間違いありません。かなり前に「エレガントな宇宙」という本を読みましたが(たぶん高校の頃でしょうか)、それと匹敵するくらい面白かったです。是非読んで欲しいなと思います。
最後に。著者の顔写真が載ってますが、この人美人ですね。女優みたいです。天は二物を与えず、というのは嘘だよなぁ、とあらためて思いました。
リサ・ランドール「ワープする宇宙 五次元宇宙の謎を解く」
昨日まで僕は北海道に旅行に出かけていた。ふらりと一人旅だったのだが、旅ならではの面白さを十分堪能できた満足感を抱えたまま帰ってきたのだ。
すると、家中ががらんとしている。人がいないというだけの意味ではなく、物も結構なくなっていたのだ。冷蔵庫や洗濯機など生活必需品は残っていたのだけど、母親が使っていた鏡台や、父親が使っていたゴルフバッグなんかがごっそりとなくなっている。事情はさっぱり判らないが、要するに僕は捨てられたということなのだろう、と理解した。
しかしどんな事情であれ、僕の二十歳の誕生日のまさに前日にいなくなることはないんじゃないか、と思った。今さら誕生日に固執するような年齢ではないが、しかし成人した息子を少しは祝ってくれてもいいのではないか、と思う。
これまで僕は両親に大切に育てられてきたと思う。かなり過保護な両親だったと言ってもいいかもしれない。特に怪我や病気の時などは手厚く看護してくれたし、僕のどんな願いでも大抵は叶えてくれた。それでも一人で生きて行けというならそれは全然無理な話ではないだろうし、この状況からして一人で生きて行かなくてはいけないのはまず間違いのないことだが、それにしても納得がいかない、と僕は思った。
しかしまあ、今さら両親がいなくなったからと言っておたおたしていても仕方がない。両親が事故や犯罪に巻き込まれているというなら話は別だが、家から物がなくなっているとは言っても強盗に入られたような痕跡はないし、であれば物がなくなっているのは両親がどこかに運び出したということであって、そこには誰か他人の意思が介在する余地はなさそうである。一応親戚とかには連絡をしてみた方がいいんだろうか。警察には言った方がいいのか。そういう思考が一瞬浮かびはしたものの、最終的にはまあいいやと思うようにした。
さて、当面考えなくてはいけないことはお金の問題だ。誰かに話すと怪訝な顔をされるが、僕は父親がどんな仕事をしていたのかよく知らない。しかし、我が家は一般よりは多少裕福と言える生活水準だったと僕は思っている。子どもの頃から欲しかったオモチャはなんでも買ってもらえたし、家には絵画や骨董のような安くはないだろうと思わせるものが少なからずあった。しかしそう言った類のものは両親が持っていってしまったようだ。現金の類はどうも残されていないようで、僕の銀行預金に残る僅かな額しかない。まだ大学生である僕としては、少なくとも就職するまでの生活を何とかするだけのお金を手に入れることが急務だった。
そこで思い出したのが「未納質屋」の存在だ。これについて両親が話していたのをたまたま耳にしたことがあるのだ。
この未納質屋は面白い質屋で、物を預けることなくお金が借りられる仕組みになっている。例えば指輪を質に入れることにするとして、しかしその指輪は自分の手元に置いておくことが出来る。質に入れるものによって借りられる期間と金額が決まるのだが、重要な点はその期間が過ぎてもお金を返済できなければその指輪は消失してしまう、ということだ。指輪を失いたくなければお金を返すしかない、という仕組みである。またもう一つのルールは、指輪を壊してしまったり亡くしてしまった場合には、その時点で返済が迫られるということである。この返済の取立てがヤクザよりも厳しいと評判であるようだった。
両親の話を耳にした後、これはいつか使えるかもしれないと思って家中を漁り、未納質屋との契約書を探し出したことがある。何を預けたのかきちんと見なかったが、両親は時折未納質屋を利用していたようだった。お金に困っているように見えなかったのだが、それは僕の勘違いだったのかもしれない、と感じたがまあそれはどうでもいい。重要なのはその契約書に、未納質屋の電話番号が記載されていたということだ。僕は、とりあえず冷蔵庫や洗濯機と言った生活必需品を含め、僕の周りにあるものほとんどをこの未納質屋に質に入れようと考えていた。とりあえず就職するまでの間なんとかなりさえすれば、お金を返せなくなってそれらが消えてしまってもまあなんとかなるだろう。そう考えたのだった。
未納質屋との交渉は簡単なものだった。電話一本で済むのである。僕が質に入れたいものを電話越しに伝えると、すぐさま借り入れ年数と金額の上限が提示される。そのやり取りで僕は、当面生活に困らないだけのお金を手にすることが出来た。電話をしながら僕はぼんやりと空想を働かせていた。例えば自分の所有ではないもの、つまり会社所有の車とか嫌いな人間そのものとかを質に入れることは出来るのだろうか。将来確実に手に入る予定の物を質に入れることは出来るだろうか。あるいは、生まれたばかりの子どもを質に入れたらどうなるだろうか。
時計を見るともうすぐ12時だ。あと数分で二十歳の誕生日だ。
そこで僕はふと思いついたことがあった。いやいやまさか、と思おうとしたが、ダメだった。確認する手段はある。たぶん両親はアレを持ち出してはいないだろう。いや寧ろ、僕がこういう思考に辿り着くことを見越して、敢えて残しているということだってありうる。
僕は両親が未納質屋と交わした契約書を探すことにした。それは前と変わらない場所にしまわれていた。以前は両親が何を預けたのか気にも止めなかったのだが、今ではほぼ確信を持って何を預けたのか断言できる。何の仕事をしているのか判らない両親。過保護だった両親。僕の誕生日の直前に忽然と姿を消した両親。答えはもう明らかだ。
『契約内容
父・前川和夫 母・登志子の息子・俊哉(0歳)
契約期間
20年
貸付金
3億円』
ふと思いついて契約書を裏返してみた。そこには父親の字でこう書かれていた。
「あばよ」
くそったれが!
時計の針は12時を越えた。
一銃「未納質屋」
そろそろ内容に入ろうと思います。
というわけで久々に書く感想になりますが、それには理由があります。とにかく本作は難しくて、簡単には読み進められなかったんです。ページ数も600ページ以上となかなかの分量ですが、しかし分量以上に内容の難しさの方が障壁で、久々に大変な読書となりました。
しかし一方で、もう無茶苦茶面白かったわけです。最新の物理学についてここまで詳しく、そして難しいとは言えここまで判りやすく書かれた本はないのではないかと思えるくらいでした。
本作は、著者であるリサ・ランドール氏が1999年に提唱した「ワープした余剰次元」という考え方について書かれた本、ということになります。しかしそれについて書かれているのは全六章構成中僅か一章だけです。では残りは何が書かれているかと言えば、近年の最新物理についてです。
もう少し詳しく書きましょう。第一章では、これからどんな物理学の驚異について触れるのかというガイドラインのような役割の章です。第二章から第四章に掛けて、相対性理論や量子論やひも理論を初めとした、近年の物理学の進展の歴史をかなり深いところまで説明してくれます。そしてようやく第五章で、本作のメインとなる「ワープする余剰次元」の話になり、第六章が結びの章という展開になります。
ではまず、その「ワープする余剰次元」という発想について僕の理解の及ぶ範囲で説明をしようと思います。
まず要約するとこうなります。
『二枚の性質の異なるブレーンによって、第五番目の時空(バルク)を挟み込んだ余剰次元理論で、素粒子物理学の最も重要な問題である階層性問題を解消出来る』
まあこういう話になるわけですけど、これじゃあ意味不明ですよね。もちろんそれはそうなんです。つまり、第二章から第四章で何故最新の物理学の進展について書いたかというと、その前提がなければ基本的にこの「ワープする余剰次元」の話を理解することが出来ないからです。まあそんなわけで僕がこれを今から何となく説明しようというのも無謀なんですけど(この無謀という意味には、僕がそもそもちゃんと理解できているわけではない、という意味も含まれるのだけど)、まあなんとか頑張ってみようと思います。
まず『ブレーン』の説明からですね。これは、今物理学者がもっとも期待している『ひも理論』というものから導き出される概念です。どういう点でひも理論が注目されているかと言えば、一般性相対性理論と量子論を統合できる唯一の理論であるように今のところ思える、という点です。一般性相対性理論と量子論というのはスケールの大きさによって影響力に違いがあって、大きなスケール(天体などのようなもの)には一般性相対性理論の効力が強く量子論の効力は弱く、また小さなスケールでは量子論の効力が強く一般性相対性理論の効力は弱くなります。しかし、ある特定のスケールにおいては、どちらの効力も無視できなくなるようなのです(これは、小さいスケールよりもさらに小さなスケールでの話です)。そこでは、一般性相対性理論と量子論のどちらの効力も有効であるはずなのに、その二つの理論が矛盾した結果を導き出します。それをうまいこと解消して、二つの理論をまとめる最も有効な理論としてひも理論が注目されているわけです。
さてそのブレーンですが、ある特定の次元を持った膜というようなイメージです。僕らは三次元の空間に住んでいますが、ブレーンはある一定の範囲内のどの次元の値でも取ることが出来ます。まあそういう膜だと思って下さい。
さてこのブレーンというのは、力と粒子をその内部に留めておくことの出来る性質を持っています。イメージとしては、風船の中に粒子や力が閉じ込められてると思って下さい。ひも理論によれば、ほとんどのもの(粒子や力やエネルギー)はこのブレーンから外に出ることは出来ません。ブレーンの外にはバルクという別の空間が広がっているとされますが、ブレーンに閉じ込められた粒子たちはそのバルクに行くことは出来ないし、またその先にあるかもしれない別のブレーンともなんらかの相互作用をすることは出来ません。
ただ、唯一重力だけはブレーンの内外を自由に行き来することが出来るとされます。これは、重力を伝えるとされるグラビトンという粒子(まだ実験によってその存在が確認されたことはない粒子です)が、『閉じたひも』の振動によって生まれるためです。ひも理論によれば粒子には二種類あって、『開いたひも』から生まれるものと『閉じたひも』から生まれるものです。開いたひもの場合、その両端は必ずどこかのブレーンに捉われているため(これがそもそもブレーンというものの定義です。つまり、ひもの両端が接して捉われている場所というのがブレーンなわけです)、開いたひもから生まれる粒子はブレーンから出ることは出来ません。しかし、閉じたひもはブレーンに捉われていないために、ブレーンの外にも自由に行き来することが出来るわけです。
さてこの「ワープする余剰次元」理論では、このブレーンが二枚向き合っている状況を考えます(それ以外のモデルもあるわけですが、とりあえず素粒子物理学でもっとも重要な階層性問題を解消するモデルについて書きます)。ブレーンが向き合っているというのは想像し難いかもですが、簡単にするために鏡のような二次元の板(これをブレーンの代わりと考える)が二枚向き合っていると考えてください。僕らが住んでいる(とされる)ブレーンは四次元の時空次元に見えるわけですが、実際はブレーンからブレーンへと進む方向にももう一つ次元があるとされます。これが余剰次元と呼ばれるもので、僕らが住んでいる世界は実際は五次元なのだけど、ある事情によってその五番目の次元が見えなくなっているために、この世界は四次元に見える、というわけです。
さてここで、書く順番を間違えたような気もしますがそこはまあ気にせず、『階層性問題』について書こうと思います。この階層性問題というのは素粒子物理学の最大の問題で、これまでこの問題を綺麗に説明できる理論やモデルを考えた人はいないようです。
さてこの階層性問題というのはどういうことかと言えば、重力はなぜこんなにも微弱なのか、ということになります。しかしこの階層性問題は僕もイマイチちゃんとは理解出来ていないので、なんとなくの説明になると思います。
世の中には四つの力があるとされていて、それが『電磁気力』『重力』『弱い力』『強い力』となります。この内問題となるのは『重力』と『弱い力』です。
でここから僕にはうまく説明できないんですけど、そもそもの発想として、この四つの力は高エネルギーでは一つの同じ力にまとまるはずだ、と考えられています。となると、最終的に重力も弱い力も同じ程度の条件で作用しなくてはならないと考えられます。
しかし、それがうまくいきません。重力の強さは「プランクスケール質量」というものによって決まり、弱い力の強さは「ウィークスケール質量」というものによって決まるわけですが、その両者の質量は実に10の16乗ほども大きさが違うのだそうです。つまりこれは、弱い力と比べると重力がとんでもなく小さい、という風に説明できるんですけど、これがどうしてそうなるのかということに具体的に答えが与えられたことはこれまでなかったわけです。
しかし、リサ・ランドールは「ワープする余剰次元」理論によってこの階層性問題を解消したわけです。
というわけで話を元に戻します。二枚の二次元の板をむき合わせ、その間にバルクという五番目の時空が広がっている、というところまで来たはずでした。さてここでもう一つブレーンの持つある性質を考えます。それは、ブレーン自体もエネルギーを帯びている、という性質です。一般性相対性理論によれば、エネルギーというのは時空を歪ませる働きをします。その効果を「ワープする余剰次元理論」に適応すると、一方のブレーンからもう一方のブレーンに向かって、トランペットの口(あるいはじょうご)のような形に時空が歪曲(ワープ)されるということが判りました。これこそが、階層性問題を解消する構造なわけです。
ブレーンが二つ向き合っているといいましたが、この二つのブレーンはそれぞれに性質が違います。一方は『重力ブレーン』と呼ばれていて、要するにそこで重力が生み出されるわけです。しかしここで生まれる重力は、僕らが四次元の世界で感じる重力ではなくて、五次元の世界での重力ということになります。そしてもう一方のブレーンが『ウィークブレーン』と呼ばれていて、このブレーンこそが僕らが住んでいる世界になります。
さて、重力ブレーンで作られた重力(たぶんこの表現は適切ではないと思うけど、まあわかりやすい説明ということでいいかなと)は、歪曲(ワープ)された時空を通る中でその力が指数関数的に減少して行くわけです。この効果により、自然な形で重力が弱いことに説明がつく、というわけです。まあこれが「ワープする余剰次元」理論の大体の大枠という感じですね。
しかしやっぱり、一般性相対性理論や量子論やひも理論の理解なしにこの余剰次元の理論を理解することは難しいだろうと思います。僕は、本作で一般性相対性理論なんかの進展をちゃんと読んで、なんとかついていけたかなというレベルです。
まあしかし、とにかく面白い本でした。何よりもすごいのは、出来る限り判りやすく説明しようとしている部分です。
とにかく現代の物理学というのは、一般人が(僕を含めてですが)その概要を理解することがそもそもほとんど不可能なくらい難しすぎる学問になってしまいました。一般性相対性理論や量子論なんかは、もちろんそれはそれで難しいわけですが、まだ判った気になれるレベルではあります。等価原理はエレベーターを使った説明で理解した気になれるし、速度が速いと時間が遅く流れるというのも光子時計の説明で十分理解できます。量子論の不確定性原理も観測という観点から考えればまだ理解できないこともないし、波と粒子の二重性や波動収束なんかも意味はよくわかりませんが、まあそういうものかという風に割り切ることは不可能ではありません。
しかし素粒子物理学はさらに先に進んでいて、もはやその先の領域は何だかイメージしたり割り切って理解したりすることすら困難なところに入って行きます。存在しないかあるいは存在してもほんの一瞬しか存在できない仮想粒子というものを考えたり、対称性だの対象性の破れだのヒッグス機構だの階層性問題だのと、とにかく難しいわけです。で何故これらが難しく見えるかというと、そもそも実験によって確認するのがほぼ不可能だという点があると思います。
一般性相対性理論や量子論なんかはそれでも、実験によって確認できる事実が多数あるし、実際にカーナビの技術に一般性相対性理論が、精密機械の根本的な部分には量子論が使われたりしていて、僕らがきちんと理解することが出来なくても、それを実際に実用的に使っている人もいるし、実験によって目に見える形でそれを確認している人がまあいるわけです。
しかしひも理論だの大統一理論だの余剰次元理論だのと言ったものは、そもそも目に見える形での痕跡がありません。一応ようやく完成したらしい高エネルギー大型ハドロン加速器という実験施設によって、余剰次元理論が正しいのかという検出が出来るかもしれないと期待されているようですが、しかしそれも何かの粒子の痕跡が残るというだけの話であり、ひも理論におけるひもそのものや、あれいは余剰次元理論におけるブレーンが直接見えるというわけではありません。そういう意味で、とにかくとっつきにくいのだろうなと思います。
また物理というのは昔と比べてどんどん変わっているわけです。昔は、目の前に現れた現象を説明するために何らかの理論を導き出す、というのが普通だっただろうと思います。しかし最近ではそうではなくて、まずこういうモデルだったら現実の世界をうまく説明できるよ、という理論を構築し、もしこれが正しいとしたらこうなるだろうという予言をし、それを実験で確認するという感じになっています。何でそうなるかと言えば、さっきも書いたとおり、とにかく最新の物理学は実験によって検出できるレベルを超えたところで進んでいるわけで、目の前に出てくる現象というのがなくなりつつあるからだと思います。アインシュタインもそうやって一般性相対性理論を創り上げたし、ひも理論というのもそうやって生まれたようです。量子論の場合は、ある説明のつかない現象をなんとか説明するためにやけっぱちになって考えたある仮説から生まれたようですが、しかしそれもどんどん進展するにつれて同じような道を辿って行ったようです。
そもそも最近の物理というのは僕らの直感に反する事実ばかり提示してくれるわけです。一般性相対性理論であれば、光速度はどんな条件下でも変わらないと言うし、量子論では粒子の位置を正確につかむことは出来ないというし、余剰次元理論では僕らの目に見えない別の次元が存在すると言います。もちろん、僕らの目に見えるものが正しいとは思わないし、人間の直感ほど当てにならないものはないと思うけど、でもここまで直感と大きくずれてしまうと、なかなか理解するのが難しくなって行きますね。
しかし、だからこそ面白いという風にも思えるわけです。僕が本作を読んでてとにかくずっと感じていたのは、これほどまでに複雑な(しかし一方でシンプルで美しい)世界は誰が作ったんだろう、ということです。僕は別に神様だとは創造主だとかいうのは信じていませんが、しかしそういう存在がいたとするならすごいなと思うわけです。どうやってこんな見事な仕組みを思いつけたんだろうか、なんて思ってしまいました。
まあそんなわけで長々と書きましたが、とにかく本作は難しいです。しかしその難しさの責任は著者にはありません。とにかく最新の物理学が異様に理解し難いというだけで、リサ・ランドールはその無茶苦茶に難しい物理学をかなり噛み砕いて判りやすく説明してくれます。しかも、他の物理の本では、この部分は難しいから飛ばしましょう、という扱いをされてしまうだろう部分さえも、省かずになんとか判りやすく説明しようとしています。これはすごいなと思いました。最新の物理学について細かいところまで含めてちゃんと知りたいという人にはまさにうってつけの本だと思います。しかし一方で、一般性相対性理論や量子論についてその大まかなところだけ知りたいという人には向かないでしょう。本作ははっきり言って難しすぎると思います。かなり時間をかけて丁寧に読まないと厳しいと思うけど、でも本作を読み通せば最新の物理学についてかなり分かった気になれるのは間違いありません。かなり前に「エレガントな宇宙」という本を読みましたが(たぶん高校の頃でしょうか)、それと匹敵するくらい面白かったです。是非読んで欲しいなと思います。
最後に。著者の顔写真が載ってますが、この人美人ですね。女優みたいです。天は二物を与えず、というのは嘘だよなぁ、とあらためて思いました。
リサ・ランドール「ワープする宇宙 五次元宇宙の謎を解く」
一千一秒物語(稲垣足穂)
「今日は楽しかったね」
「ホント楽しかった。咲ちゃんとも出会えたしね」
「私も、直さんと出会えてホントよかった」
「たまには合コンとかも行ってみるもんだよね」
「またまた、結構行ってるくせに」
「嘘じゃないって。ホントにたまにしか行かないんだよ」
「まあいいけどね。ねぇ、カラオケとか行かない?」
「カラオケはちょっとダメなんだ。ホント音痴なんだよ」
「わかった。でも歩いてるの疲れちゃった」
「じゃあどっかで休憩しようか。この辺にあったと思ったんだけど」
「今日は月がキレイだよね。ほら、合コンやったお店でもさ窓から見えてたんだけど、キレイな満月だなって」
「東京は空が汚いっていうけどさ、それでも月だけはそれなりにちゃんと見えるもんだよね。そっか、今日は満月かぁ」
「明日とかって予定ある?」
「昼間はダメだけど、夜なら空いてるよ」
「この前テレビで見たんだけど、ランチタイムにすっごい美味しいオムライスを出すお店があるみたいで、一緒に行きたいなぁ、なんて。明日じゃなくてもいいんだけどね」
「ゴメン、昼間はちょっとダメなんだ」
「何で?そんなに毎日忙しいの?そんなことってある?」
「学校に行かなきゃいけないし」
「お昼休みとかにひょいっと行けるわよ。直さんの予定に合わせるし」
「いや、それにおばあちゃんの看病とかもあって。近くの病院に入院してるんだ」
「そうなんだ。でもそれでも昼間全然会えないなんて、そんなのちょっとおかしいよ」
「ごめん。でもホント昼間はダメなんだ」
「二股掛けてるとか?」
「そんなことないって!」
「でもおかしいじゃない。ちゃんと理由があるなら納得できるけど、昼間はダメだなんて何か都合の悪いことを隠してるとしか思えないじゃない」
「…分かった。じゃあ話すよ。でも、絶対信じてくれないと思う」
「そんなことないよ。直さんがちゃんと話してくれるっていうなら信じるよ」
「分かった。実は僕は狼男なんだ」
「狼男ってあの狼男。そんなわけないじゃない。だって狼男は月を見ると狼に変身するんでしょ?直さん今普通じゃない」
「だから僕の場合ちょっと特殊なんだ。太陽の光を浴びると狼の姿になってしまうんだ」
「…ねぇ、直さん。まさかそれ本気で言ってるの?」
「ホントなんだ。だから昼間にはちょっと会えないんだよ」
「分かったわ」
「分かってくれてありがとう」
「直さんが私とはちゃんと付き合う気がないんだってことがよくわかったわ」
「えっ、ちょっと待って、もっとちゃんと話し合おうよ。ホントにホント何だって」
はぁ、またやっちまった。やっぱ僕には恋愛とかって無理なのかなぁ。
だってホントのことなんか言えるわけないじゃないか。
実は僕は狼で、月の光を浴びている時だけ人間の姿でいられるんだ、なんて。
一銃「狼男」
今日は時間がないのと、書いてた文章が一回消えてやる気がなくなったのと、あと作品が面白くなかったという理由で、ショートショートもいつもより短めになっています。発想は悪くないと思ったんですけど、やっぱりストーリーにするのが得意ではないなと思いました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は稲垣足穂のデビュー作を含む作品集なんですけど、僕にはイマイチよくわからない作品でした。短編集という感じでいくつかの作品が収録されているんですけど、ほとんど最後まで読みきれませんでした。唯一「チョコレット」だけは読みきって、まあそれなりに面白いと思いましたが、他は初めの方をちゃんと読んで、後は流し読み。さらに途中で読むのを止めてしまうみたいなパターンでした。何の話なのかもよく分かっていないので、内容紹介もほとんど出来ません。「一千一秒物語」と「チョコレット」だけ内容を書きましょうか。
「一千一秒物語」
最短で2行ぐらいで終わってしまうショートショートを幾つも組み合わせた作品集。
「チョコレット」
ポンピイはロビン・グッドフェロウという丘の住人に出会いました。彼は今ではほうき星になったのだといい、また何にでも変身できると言ったので、ポンピイは自分が持っていたチョコレートの中に入るように彼に言いました。
まあ時間がないので感想も何も書きませんが、とにかく僕には合わない作品でした。ちょっと面白そうだなぁと思ってたのに残念です。まあでも、古典(に分類されると思うんだけど)にしては結構斬新な雰囲気の作品だと思ったので、人によっては楽しく読めるのではないかと。でも基本的に僕はオススメしません。
稲垣足穂「一千一秒物語」
「ホント楽しかった。咲ちゃんとも出会えたしね」
「私も、直さんと出会えてホントよかった」
「たまには合コンとかも行ってみるもんだよね」
「またまた、結構行ってるくせに」
「嘘じゃないって。ホントにたまにしか行かないんだよ」
「まあいいけどね。ねぇ、カラオケとか行かない?」
「カラオケはちょっとダメなんだ。ホント音痴なんだよ」
「わかった。でも歩いてるの疲れちゃった」
「じゃあどっかで休憩しようか。この辺にあったと思ったんだけど」
「今日は月がキレイだよね。ほら、合コンやったお店でもさ窓から見えてたんだけど、キレイな満月だなって」
「東京は空が汚いっていうけどさ、それでも月だけはそれなりにちゃんと見えるもんだよね。そっか、今日は満月かぁ」
「明日とかって予定ある?」
「昼間はダメだけど、夜なら空いてるよ」
「この前テレビで見たんだけど、ランチタイムにすっごい美味しいオムライスを出すお店があるみたいで、一緒に行きたいなぁ、なんて。明日じゃなくてもいいんだけどね」
「ゴメン、昼間はちょっとダメなんだ」
「何で?そんなに毎日忙しいの?そんなことってある?」
「学校に行かなきゃいけないし」
「お昼休みとかにひょいっと行けるわよ。直さんの予定に合わせるし」
「いや、それにおばあちゃんの看病とかもあって。近くの病院に入院してるんだ」
「そうなんだ。でもそれでも昼間全然会えないなんて、そんなのちょっとおかしいよ」
「ごめん。でもホント昼間はダメなんだ」
「二股掛けてるとか?」
「そんなことないって!」
「でもおかしいじゃない。ちゃんと理由があるなら納得できるけど、昼間はダメだなんて何か都合の悪いことを隠してるとしか思えないじゃない」
「…分かった。じゃあ話すよ。でも、絶対信じてくれないと思う」
「そんなことないよ。直さんがちゃんと話してくれるっていうなら信じるよ」
「分かった。実は僕は狼男なんだ」
「狼男ってあの狼男。そんなわけないじゃない。だって狼男は月を見ると狼に変身するんでしょ?直さん今普通じゃない」
「だから僕の場合ちょっと特殊なんだ。太陽の光を浴びると狼の姿になってしまうんだ」
「…ねぇ、直さん。まさかそれ本気で言ってるの?」
「ホントなんだ。だから昼間にはちょっと会えないんだよ」
「分かったわ」
「分かってくれてありがとう」
「直さんが私とはちゃんと付き合う気がないんだってことがよくわかったわ」
「えっ、ちょっと待って、もっとちゃんと話し合おうよ。ホントにホント何だって」
はぁ、またやっちまった。やっぱ僕には恋愛とかって無理なのかなぁ。
だってホントのことなんか言えるわけないじゃないか。
実は僕は狼で、月の光を浴びている時だけ人間の姿でいられるんだ、なんて。
一銃「狼男」
今日は時間がないのと、書いてた文章が一回消えてやる気がなくなったのと、あと作品が面白くなかったという理由で、ショートショートもいつもより短めになっています。発想は悪くないと思ったんですけど、やっぱりストーリーにするのが得意ではないなと思いました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は稲垣足穂のデビュー作を含む作品集なんですけど、僕にはイマイチよくわからない作品でした。短編集という感じでいくつかの作品が収録されているんですけど、ほとんど最後まで読みきれませんでした。唯一「チョコレット」だけは読みきって、まあそれなりに面白いと思いましたが、他は初めの方をちゃんと読んで、後は流し読み。さらに途中で読むのを止めてしまうみたいなパターンでした。何の話なのかもよく分かっていないので、内容紹介もほとんど出来ません。「一千一秒物語」と「チョコレット」だけ内容を書きましょうか。
「一千一秒物語」
最短で2行ぐらいで終わってしまうショートショートを幾つも組み合わせた作品集。
「チョコレット」
ポンピイはロビン・グッドフェロウという丘の住人に出会いました。彼は今ではほうき星になったのだといい、また何にでも変身できると言ったので、ポンピイは自分が持っていたチョコレートの中に入るように彼に言いました。
まあ時間がないので感想も何も書きませんが、とにかく僕には合わない作品でした。ちょっと面白そうだなぁと思ってたのに残念です。まあでも、古典(に分類されると思うんだけど)にしては結構斬新な雰囲気の作品だと思ったので、人によっては楽しく読めるのではないかと。でも基本的に僕はオススメしません。
稲垣足穂「一千一秒物語」
零崎曲識の人間人間(西尾維新)
「あんたが殺し屋か」
「あぁ、そうだ」
「なら要件だけ言おう。ある男を殺してもらいたい」
「了解した」
「本日18時ちょうどに、目黒タワー3階の男子トイレ、一番奥の個室のドアを開けろ。開けた時目の前にいた男がお前の標的だ」
「殺し方は?」
「任せる。好きにしろ。それからもう一つ」
「標的は二人か」
「いや、そうじゃない。もう一つは、任務終了後、20時ちょうどに自宅に戻りドアを開けること」
「は?それは何か任務と関係あるのか?」
「質問はなしだ。報酬は、あんたが約束を履行したことが確認され次第入金する」
「分かった分かった。言われた通りにするよ」
「では以上だ。なおこの電話は通話が終了すると同時に爆発する」
どかん
まったく、いつの時代のスパイ映画だよ。しかも、何でわざわざ電話ぶっ壊さなきゃいけないってんだ。
殺し屋はぶつぶつと悪態を吐く。しかし、仕事なんてこんなものだという諦めも同時にある。まあいいさ。所詮仕事なんてお金を得るための行為に過ぎない。好きも嫌いも、猫も柄杓もあったもんじゃないさ。
しかし、と殺し屋は先ほどの電話を回想する。何だか妙な依頼だったよなぁ。そもそも何で18時ちょうどにトイレに標的がいるって分かるんだ。相手を誘い込むにしたって、もう少し条件のいい場所がありそうなものなのに。しかも、その後がさらにわかんねぇ。20時ちょうどに自宅のドアを開けろか。何だそりゃ。
まあいいさ。それでお金がもらえるってんならやるまでだ。
殺し屋は、目黒タワーへと向かった。今から行けば18時には十分間に合うだろう。しかし、18時に標的を殺した後、どうやって時間を潰そうか。二時間かなぁ。映画には少し短いし、一人カラオケには少し長い。何とも微妙な時間だ。まあいいさ、本屋にでも寄ってナイフの雑誌でも立ち読みするか。
17時50分。殺し屋は指定されたトイレのすぐ隣の個室にいた。あとは時間までここで待てばいいだろう。とは言え、今のところ隣の個室から人の気配はしない。あと十分で標的が来るということだろうか。まあいいさ。殺し屋が頭を使う必要はない。殺し屋の仕事は、標的を殺すだけだ。
18時ちょうど。殺し屋は一番奥の個室の扉を開く。
そこに背中を向けた男が一人いた。個室にいるのに何故背中を向けているのだろう、という疑問は過ぎったし、そもそも周りの光景が何だかおかしいとも感じていたのだけれども、しかし殺し屋は殺すことが仕事である。殺し屋は持っていたナイフを標的へと突きつけた。
ナイフが標的の身体に突き刺さる瞬間、標的はなにやら裏返ったような声を上げる。
「待て待て、話せば分かる。お前と俺は…」
標的の個人的なプロフィールには興味はないし、標的と死の間際に会話をする趣味もない。ナイフが間違いなく心臓に突き刺さったのを確認し、死体を一瞥することもなく殺し屋はその場を立ち去る。
まあ楽な仕事だったな。さて、本屋にでも行くか。返り血は、うん大丈夫だな。この程度なら目立たないだろう。先にメシを食うってのもアリか。報酬も入ってくるし、晩餐としけこもうかな。
20時少し前。殺し屋はマンションの自分の部屋のドアの前に佇んでいた。本当はもう部屋に入ってもいいかと思っているのだけど、元来几帳面な性格なのだ。20時ちょうどと言っていたのだからその通りにするべきだろう。ちょうどに入らなかったせいでケチをつけられて報酬がもらえなくなってもつまらない。
そして20時ちょうど。殺し屋は普通にドアを開け、普通に中に入り、普通にドアを閉めた。あの指示は結局なんだったんだろうな。まあ考えることはないか。
がちゃ
閉めたはずのドアがまた開いた。あれ、俺鍵閉めるの忘れたか?いやいや、そんなことはないだろう。ちゃんと閉めたはずだ。ならなぜ今ドアが開く?
その瞬間殺し屋は、自分の後ろにいるのが誰なのかはっきり悟った。
18時の自分だ。18時の自分が今後ろにいて、ナイフを構えているのだ!
振り返ろうとして首を振りながら、殺し屋は裏返った声を出す。
「待て待て、話せば分かる。お前と俺は…」
一銃「ターゲット」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、西尾維新の<人間>シリーズと呼ばれているシリーズの第三弾です。このシリーズは、零崎一族という殺し屋の中でもかなり特異な四人、零崎双識・零崎軋識・零崎曲識・零崎人識の四人をそれぞれメインに据えた作品となっています。「人間試験」では双識が、「人間ノック」では軋識が、そして本作「人間人間」では曲識がそれぞれメインとして扱われています。またあとがきで、タイトルは未定ですが、人識をメインにした最終章を出す予定だと書いています。
零崎一族というのは、そもそも西尾維新の<戯言>シリーズに出てくるキャラクターです。この<人間>シリーズはそのスピンオフ作品ということになります。零崎一族は、殺し屋集団としては珍しく、一族の家族としての絆が強く、家族の誰かが被害を受けたら、必ずその復讐に行くという集団です。
さてそんな零崎一族の中にあって、特異中の特異な存在なのがこの零崎曲識です。表にはほとんど名前の上らない、よく言えば秘中の秘、悪く言えば影の薄い存在なわけですが、しかしその実力は折り紙つき。あの人識でさえ、曲識に逆らっても意味はないと完全服従しているくらいの存在です。
天然で音楽家であり、しかも条件付でしか人を殺さない菜食主義者。<少女趣味(ボトルキープ)>という二つ名を持つ彼は、その性格故物語の主人公になることはほとんどありません。常に添え物的な脇役の存在ということになります。
本作は、そんな曲識の脇役としての存在を、いくつかの時代にまたがった四つのエピソードによって浮かび上がらせるという趣向の作品になっています。確かに、ほとんど表に出ず、ほとんどその名が知られることがない曲識という存在をメインに据えて物語を書くにはこういう形式がぴったりだっただろうなと思います。
曲識は、兄弟を助けるために遊園地で張り込んだり、後に「大きな戦争」と呼ばれることになるその渦中にあって最も真実に肉薄したり、人識の頼みを聞いてあげたり、家族を助けるために戦ったりといろんなことをしていますが、やはりどの話でも主人公にはなりきれていない感じがします。しかし、だからこそ余計に曲識という特異な存在が浮き彫りにされる感じがあって、悪くない(笑)と思いました。
四つの物語はひと繋がりの話ではなくて、かなりいろんな時代を行ったり来たりする感じです。その過程で、<人間>シリーズや<戯言>シリーズのいろんな場面と繋がっていたりして、面白かったです。まあ過去の作品の内容をかなり忘れちゃってるんで覚えてないことだらけですけど。これまでの<人間>シリーズの中で、最も<戯言>シリーズと関連の深い作品ではないかなと思いました。
個人的には、二番目の話が好きですね。ある人物との因縁が生まれたり、そもそもそこから曲識という人間が始まったというのもあり、バトルにしてもかなり不利な状況をひっくり返すという感じで結構好きでした。
あと、三番目の話の人識も結構いいです。この三番目の話なんかホント曲識は完全に脇役で、ほとんど人識の話になっちゃってます。伊織の世話をする人識っていう構図はかなり見ものですね。
というわけで、まあ標準的に面白いという感じです。<戯言>シリーズとの関連も多少あるので、<人間>シリーズを読んだことがないという人もとりあえず読んでみたら面白いかもしれません。ただ短編集であり、それぞれの話も全体としても分量としては短いので物足りないと感じる人もいるかもしれません。まあでもいつも通り面白い作品なので読んでみてください。
西尾維新「零崎曲識の人間人間」
「あぁ、そうだ」
「なら要件だけ言おう。ある男を殺してもらいたい」
「了解した」
「本日18時ちょうどに、目黒タワー3階の男子トイレ、一番奥の個室のドアを開けろ。開けた時目の前にいた男がお前の標的だ」
「殺し方は?」
「任せる。好きにしろ。それからもう一つ」
「標的は二人か」
「いや、そうじゃない。もう一つは、任務終了後、20時ちょうどに自宅に戻りドアを開けること」
「は?それは何か任務と関係あるのか?」
「質問はなしだ。報酬は、あんたが約束を履行したことが確認され次第入金する」
「分かった分かった。言われた通りにするよ」
「では以上だ。なおこの電話は通話が終了すると同時に爆発する」
どかん
まったく、いつの時代のスパイ映画だよ。しかも、何でわざわざ電話ぶっ壊さなきゃいけないってんだ。
殺し屋はぶつぶつと悪態を吐く。しかし、仕事なんてこんなものだという諦めも同時にある。まあいいさ。所詮仕事なんてお金を得るための行為に過ぎない。好きも嫌いも、猫も柄杓もあったもんじゃないさ。
しかし、と殺し屋は先ほどの電話を回想する。何だか妙な依頼だったよなぁ。そもそも何で18時ちょうどにトイレに標的がいるって分かるんだ。相手を誘い込むにしたって、もう少し条件のいい場所がありそうなものなのに。しかも、その後がさらにわかんねぇ。20時ちょうどに自宅のドアを開けろか。何だそりゃ。
まあいいさ。それでお金がもらえるってんならやるまでだ。
殺し屋は、目黒タワーへと向かった。今から行けば18時には十分間に合うだろう。しかし、18時に標的を殺した後、どうやって時間を潰そうか。二時間かなぁ。映画には少し短いし、一人カラオケには少し長い。何とも微妙な時間だ。まあいいさ、本屋にでも寄ってナイフの雑誌でも立ち読みするか。
17時50分。殺し屋は指定されたトイレのすぐ隣の個室にいた。あとは時間までここで待てばいいだろう。とは言え、今のところ隣の個室から人の気配はしない。あと十分で標的が来るということだろうか。まあいいさ。殺し屋が頭を使う必要はない。殺し屋の仕事は、標的を殺すだけだ。
18時ちょうど。殺し屋は一番奥の個室の扉を開く。
そこに背中を向けた男が一人いた。個室にいるのに何故背中を向けているのだろう、という疑問は過ぎったし、そもそも周りの光景が何だかおかしいとも感じていたのだけれども、しかし殺し屋は殺すことが仕事である。殺し屋は持っていたナイフを標的へと突きつけた。
ナイフが標的の身体に突き刺さる瞬間、標的はなにやら裏返ったような声を上げる。
「待て待て、話せば分かる。お前と俺は…」
標的の個人的なプロフィールには興味はないし、標的と死の間際に会話をする趣味もない。ナイフが間違いなく心臓に突き刺さったのを確認し、死体を一瞥することもなく殺し屋はその場を立ち去る。
まあ楽な仕事だったな。さて、本屋にでも行くか。返り血は、うん大丈夫だな。この程度なら目立たないだろう。先にメシを食うってのもアリか。報酬も入ってくるし、晩餐としけこもうかな。
20時少し前。殺し屋はマンションの自分の部屋のドアの前に佇んでいた。本当はもう部屋に入ってもいいかと思っているのだけど、元来几帳面な性格なのだ。20時ちょうどと言っていたのだからその通りにするべきだろう。ちょうどに入らなかったせいでケチをつけられて報酬がもらえなくなってもつまらない。
そして20時ちょうど。殺し屋は普通にドアを開け、普通に中に入り、普通にドアを閉めた。あの指示は結局なんだったんだろうな。まあ考えることはないか。
がちゃ
閉めたはずのドアがまた開いた。あれ、俺鍵閉めるの忘れたか?いやいや、そんなことはないだろう。ちゃんと閉めたはずだ。ならなぜ今ドアが開く?
その瞬間殺し屋は、自分の後ろにいるのが誰なのかはっきり悟った。
18時の自分だ。18時の自分が今後ろにいて、ナイフを構えているのだ!
振り返ろうとして首を振りながら、殺し屋は裏返った声を出す。
「待て待て、話せば分かる。お前と俺は…」
一銃「ターゲット」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、西尾維新の<人間>シリーズと呼ばれているシリーズの第三弾です。このシリーズは、零崎一族という殺し屋の中でもかなり特異な四人、零崎双識・零崎軋識・零崎曲識・零崎人識の四人をそれぞれメインに据えた作品となっています。「人間試験」では双識が、「人間ノック」では軋識が、そして本作「人間人間」では曲識がそれぞれメインとして扱われています。またあとがきで、タイトルは未定ですが、人識をメインにした最終章を出す予定だと書いています。
零崎一族というのは、そもそも西尾維新の<戯言>シリーズに出てくるキャラクターです。この<人間>シリーズはそのスピンオフ作品ということになります。零崎一族は、殺し屋集団としては珍しく、一族の家族としての絆が強く、家族の誰かが被害を受けたら、必ずその復讐に行くという集団です。
さてそんな零崎一族の中にあって、特異中の特異な存在なのがこの零崎曲識です。表にはほとんど名前の上らない、よく言えば秘中の秘、悪く言えば影の薄い存在なわけですが、しかしその実力は折り紙つき。あの人識でさえ、曲識に逆らっても意味はないと完全服従しているくらいの存在です。
天然で音楽家であり、しかも条件付でしか人を殺さない菜食主義者。<少女趣味(ボトルキープ)>という二つ名を持つ彼は、その性格故物語の主人公になることはほとんどありません。常に添え物的な脇役の存在ということになります。
本作は、そんな曲識の脇役としての存在を、いくつかの時代にまたがった四つのエピソードによって浮かび上がらせるという趣向の作品になっています。確かに、ほとんど表に出ず、ほとんどその名が知られることがない曲識という存在をメインに据えて物語を書くにはこういう形式がぴったりだっただろうなと思います。
曲識は、兄弟を助けるために遊園地で張り込んだり、後に「大きな戦争」と呼ばれることになるその渦中にあって最も真実に肉薄したり、人識の頼みを聞いてあげたり、家族を助けるために戦ったりといろんなことをしていますが、やはりどの話でも主人公にはなりきれていない感じがします。しかし、だからこそ余計に曲識という特異な存在が浮き彫りにされる感じがあって、悪くない(笑)と思いました。
四つの物語はひと繋がりの話ではなくて、かなりいろんな時代を行ったり来たりする感じです。その過程で、<人間>シリーズや<戯言>シリーズのいろんな場面と繋がっていたりして、面白かったです。まあ過去の作品の内容をかなり忘れちゃってるんで覚えてないことだらけですけど。これまでの<人間>シリーズの中で、最も<戯言>シリーズと関連の深い作品ではないかなと思いました。
個人的には、二番目の話が好きですね。ある人物との因縁が生まれたり、そもそもそこから曲識という人間が始まったというのもあり、バトルにしてもかなり不利な状況をひっくり返すという感じで結構好きでした。
あと、三番目の話の人識も結構いいです。この三番目の話なんかホント曲識は完全に脇役で、ほとんど人識の話になっちゃってます。伊織の世話をする人識っていう構図はかなり見ものですね。
というわけで、まあ標準的に面白いという感じです。<戯言>シリーズとの関連も多少あるので、<人間>シリーズを読んだことがないという人もとりあえず読んでみたら面白いかもしれません。ただ短編集であり、それぞれの話も全体としても分量としては短いので物足りないと感じる人もいるかもしれません。まあでもいつも通り面白い作品なので読んでみてください。
西尾維新「零崎曲識の人間人間」
ひねくれアイテム(江坂遊)
「突然だったのにありがとうね」
「いやいや、全然大丈夫だよ。困った時はお互い様ってもんさ」
「でも明日試験なのに本当に大丈夫なの?」
「平気さ。もう十分勉強は出来てるからね。洋子の勉強を教えてあげるぐらいのこと、何でもないさ」
「ありがとう。ホント助かるわ。授業にはそれなりに出てるつもりなんだけど、どうしても経済学って分からなくなっちゃうんだよね」
「まあ僕もそんなに得意だってわけでもないんだけどさ」
「またまたぁ。でもホント悠哉って、勉強だけじゃなくって何でも出来るからホントすごいよね」
「そんなことないと思うけどなぁ」
「ううん、だってピアノやバイオリンは弾けるし、簿記と英検1級の資格も持ってるし、スポーツだって大抵のことは出来るし、料理だって上手じゃない」
「まあ別にどれも人並みじゃないかな。時間があれば誰だってそれぐらいのことは出来るさ。特別な能力があるってわけじゃないからね」
「でも、時間をうまく使えるっていうのもやっぱり大きな才能だと思うわ。私なんて、あれもやらなきゃこれもやらなきゃっていつも焦ってばっかで、結局何にも終わらないんだから。今日だって、随分前から勉強しなくちゃって思ってたんだけど、結局うまくいかなかったしね」
「時間の使い方はね、まあちょっとした秘密があるんだよ」
「何それ。私にも教えて」
「ホントはあんまり言いたくないんだけどね」
「そこをなんとか」
「まあわかったよ。洋子にだけは特別に教えてあげる」
「やったー。ありがとう」
「実はね、僕は時間を預けてるんだ」
「時間を預ける?」
「そう。銀行にお金を預けるみたいに、僕は時間銀行に時間を預けてるんだ」
「へぇ、そんなことが出来るんだ」
「これって結構便利なんだよ。例えばさ、どうしても何にもやる気の出ない時とかあるじゃん。そういう時の時間を預けちゃうわけ。で、やばい時間がないなぁっていう時に、その預けていた時間を引き出すってわけ。そうすると、自分の使いたいように時間を使えるようになるんだよね」
「なるほど。それは便利だね」
「他にも、電車に乗ってる時間とか、行列に並んでる時間とか、そういうちょっと無駄だなって思う時間も預けることが出来るのさ。そうするとね、電車に乗ってる時間とか行列に並んでる時間があっという間に過ぎちゃうし、しかもその間の時間をどこか別の時に使えるしで、使い方によってはものすごいことが出来るんだ」
「だったらあれだね、寝てる時間とかも預けちゃえばいいよね」
「やっぱりそう思う?僕もそう思ってやってみたことがあるんだけど、それはやらない方がいいみたい。睡眠の時間はちゃんと残しておかないと、どうも身体が疲れちゃうみたいでね」
「ふーん、そうなんだ。私もやってみようかなぁ。ねぇ、その時間銀行ってどこにあるの?何て名前?」
「○○市に本店があって、支店は結構いろんなとこにあるんじゃないかな。××タイムバンクって名前だよ」
「あれ?その名前今日のニュースで私聞いたよ」
「えっ、何で?」
「何かね、初めにお年寄りがたくさん原因不明の症状で亡くなってる、ってニュースが流れてて。一週間ぐらい前からそういうことがあちこちで起こっていて。これが何か犯罪に絡んでるならまだ分かるんだけど、どう調べてみても全部自然死なんだって。外傷はないし、毒物によるものとも思えないし、それまで病気を持ってたかどうかなんてことも関係なくって、いろんなお年寄りが亡くなってるって」
「あぁ、確かそのニュースは僕も見たような気がするな。ウチのじいちゃんとかばあちゃんも気にしてたっけ。でもそれって時間銀行と何か関係があるの?」
「うん。それでね、その後でまた別のニュースになって。私はずっとそれ、普通の銀行の話だって思ってたんだけど…」
「うん、それで」
「なんかね、銀行が運用に失敗して多額の負債を抱えたっていうニュースでね。それで、公的資金の投入が決定されたってそういうニュースだったんだけど」
「そのニュースの時に、××タイムバンクの名前を聞いたんだね?」
「そうなの。ねぇ、これってどういうことだろう」
「あっ、そうだ。そういえば出掛けにポストに入ってた郵便をそのままバッグに入れて持ってきてたんだった。確か××タイムバンクのものが混じってたと思うんだけど」
「ねぇ、なんて書いてあるの」
「…こんなことになると知ってたら、時間銀行なんか使わなかったのに…」
『山口悠哉様
いつも××タイムバンクをご利用いただきましてありがとございます。
ニュースなどで既にご存知かとは思いますが、この度当行は時間の資産運用に不手際がありまして、お客様からお預かりした相当量の時間を損失いたしました。しかしその後政府から公的時間の投入が決定されました。余命幾ばくもないお年寄りから時間をかき集めることで、損失した時間を補填する形になります。
つきましてはお客様からお預かりしております時間はすべて正常通りとなりますので、今後とも××タイムバンクをどうぞよろしくお願いいたします
××タイムバンク』
一銃「時間銀行」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ショートショート集です。僕は今こうして感想を書く度にショートショートもどきを書いていますが、これまでちゃんとショートショートを読んだことがなかったので読んでみることにしました。とは言え、日本でショートショートを専門に書いている作家というのは、星新一と阿刀田高(たぶんこの人もそうだったはず)と、あと本作の著者である江坂遊くらいだとは思いますが。
そもそもまずショートショートというのは何かということですが、まあ要するに短い小説ということです。短編小説が大体原稿用紙で80枚とかそれぐらいだと思いますが、ショートショートというのは20枚以下の作品という感じです。本作に収録されている作品はどれも、大体原稿用紙7枚から10枚くらいの作品ではないかと思います。ちなみに僕が普段書いているのは原稿用紙5枚から6枚くらいです。
本作にはそういうショートショートが48編も収録されています。もちろん全部内容紹介するわけにもいかないので、今回は内容紹介は省略ということにします。
そもそもこの江坂遊という作家ですが、かなり本を読んでいる人でも聞き覚えのない人が多いのではないかと思います。僕もほとんど知りませんでした。ほとんどというのは、何かでチラリとこの作家の名前だけ目にしたことがあるからです。それが何だったのかまったく思い出せないのですけど、星新一にその才能を見出されて、「花火」という作品でデビューした、ということだけは知っていました。星新一の愛弟子というような作家のようで(直接教わったなんていうことはたぶんないんでしょうが)、これまでに800編を超えるショートショートを書いてきたのだそうです。ショートショート1編が原稿用紙で10枚として、800編だと8000枚。原稿用紙500枚も書けば長編1作になるので、長編に換算すれば16作ぐらい書いている計算になるわけで、かなりの分量だと言えるでしょう。星新一は1001話(たぶん累計ではもっと行ったでしょうけど)書いたといわれているので、それを追い越すのも夢ではないかもしれません。
僕はショートショートもどきを日々書いているわけですが、これは結構大変なわけです。アイデアの核になる部分が思い浮かばない時はものすごくキツイですけど、でも核になる部分が思い浮かんでも、そこから作品に仕立て上げるのが難しいわけです。短い枚数の中で(というか僕の場合短い枚数しか書けないだけですが)、何を書いてどう話を展開させるか、一人称がいいか三人称がいいか、みたいなところまでなかなか考えられないわけですけど、でもまあそういうことを考えながら一つの話にまとめるというのはなかなか大変ですね。だから時々、オチも何もないような一層つまらないような話を書いたりするわけですけど。
ショートショートというのはやっぱりオチが命だよな、と思っています。短い話の中でいかにうまく落とすか。これが見せ所だと思います。
そういう意味で、やっぱり本作に収録された作品はなかなか秀逸なものばかりだなと思いました。全部が全部というわけではありませんが、どの作品にもオチがちゃんとあって、しかもうまいんですね。例えば、みたいな風にして作品の内容を書いてしまうとネタバレになってしまうので止めますが、思いもつかなかった展開になると、なるほどさすがだなぁ、という風に思ったりします。
また、この発想だったら僕でも思いつけるかな、というのはそこそこありましたが、しかしやはりなんと言ってもそのアイデアを作品という形に昇華させる力が全然違いますね。アイデアは思いつけても、本作のような形にはまとめられないだろうなと思えるものが多くて、やっぱり本職は違うな、という感じがしました。
あと、解説でも触れられていましたが、会話のみのショートショートがかなり多いですね。これは解説氏によればかなり珍しいのだそうです(解説氏はショートショート研究家なんだそうです)。確かに読んでても、会話のみの作品が多くて、で解説氏も会話のみで作品を構成するのはなかなか難しいと言っていたので、今回の僕のショートショートもどきもほぼ会話のみという感じにしてみました。まあうまく言っているとは思っていませんが。
個人的に好きな作品をざっと書いてみましょう。
「B組の転校生」転校生がクラスを変える話です。
「オリジナルオイル」年を取ってしまうオイルの話です。「退屈になってきたので」夢で人が殺されるのを目撃する祖母の話です。
「ビデオ予約」テレビを買い換えた男の話です。
「とっかえべえ」何でも取り替えてくれる男の話です。
「死闘販売機」変な自動販売機の話です。
「ハンノキの話」ある画家とその妻の話です。
つまらない作品もありましたが、全体的にはなかなか面白い作品だなと思いました。
ショートショートを読んだことがないとい人は、まあ星新一でもいいんですけど、機会があったら江坂遊も読んでみてはどうでしょうか。僕も機会があったら星新一を読もうと思います。あとは、僕も自分のショートショートもどきをもう少しレベルを高く出来るように頑張ります。
江坂遊「ひねくれアイテム」
「いやいや、全然大丈夫だよ。困った時はお互い様ってもんさ」
「でも明日試験なのに本当に大丈夫なの?」
「平気さ。もう十分勉強は出来てるからね。洋子の勉強を教えてあげるぐらいのこと、何でもないさ」
「ありがとう。ホント助かるわ。授業にはそれなりに出てるつもりなんだけど、どうしても経済学って分からなくなっちゃうんだよね」
「まあ僕もそんなに得意だってわけでもないんだけどさ」
「またまたぁ。でもホント悠哉って、勉強だけじゃなくって何でも出来るからホントすごいよね」
「そんなことないと思うけどなぁ」
「ううん、だってピアノやバイオリンは弾けるし、簿記と英検1級の資格も持ってるし、スポーツだって大抵のことは出来るし、料理だって上手じゃない」
「まあ別にどれも人並みじゃないかな。時間があれば誰だってそれぐらいのことは出来るさ。特別な能力があるってわけじゃないからね」
「でも、時間をうまく使えるっていうのもやっぱり大きな才能だと思うわ。私なんて、あれもやらなきゃこれもやらなきゃっていつも焦ってばっかで、結局何にも終わらないんだから。今日だって、随分前から勉強しなくちゃって思ってたんだけど、結局うまくいかなかったしね」
「時間の使い方はね、まあちょっとした秘密があるんだよ」
「何それ。私にも教えて」
「ホントはあんまり言いたくないんだけどね」
「そこをなんとか」
「まあわかったよ。洋子にだけは特別に教えてあげる」
「やったー。ありがとう」
「実はね、僕は時間を預けてるんだ」
「時間を預ける?」
「そう。銀行にお金を預けるみたいに、僕は時間銀行に時間を預けてるんだ」
「へぇ、そんなことが出来るんだ」
「これって結構便利なんだよ。例えばさ、どうしても何にもやる気の出ない時とかあるじゃん。そういう時の時間を預けちゃうわけ。で、やばい時間がないなぁっていう時に、その預けていた時間を引き出すってわけ。そうすると、自分の使いたいように時間を使えるようになるんだよね」
「なるほど。それは便利だね」
「他にも、電車に乗ってる時間とか、行列に並んでる時間とか、そういうちょっと無駄だなって思う時間も預けることが出来るのさ。そうするとね、電車に乗ってる時間とか行列に並んでる時間があっという間に過ぎちゃうし、しかもその間の時間をどこか別の時に使えるしで、使い方によってはものすごいことが出来るんだ」
「だったらあれだね、寝てる時間とかも預けちゃえばいいよね」
「やっぱりそう思う?僕もそう思ってやってみたことがあるんだけど、それはやらない方がいいみたい。睡眠の時間はちゃんと残しておかないと、どうも身体が疲れちゃうみたいでね」
「ふーん、そうなんだ。私もやってみようかなぁ。ねぇ、その時間銀行ってどこにあるの?何て名前?」
「○○市に本店があって、支店は結構いろんなとこにあるんじゃないかな。××タイムバンクって名前だよ」
「あれ?その名前今日のニュースで私聞いたよ」
「えっ、何で?」
「何かね、初めにお年寄りがたくさん原因不明の症状で亡くなってる、ってニュースが流れてて。一週間ぐらい前からそういうことがあちこちで起こっていて。これが何か犯罪に絡んでるならまだ分かるんだけど、どう調べてみても全部自然死なんだって。外傷はないし、毒物によるものとも思えないし、それまで病気を持ってたかどうかなんてことも関係なくって、いろんなお年寄りが亡くなってるって」
「あぁ、確かそのニュースは僕も見たような気がするな。ウチのじいちゃんとかばあちゃんも気にしてたっけ。でもそれって時間銀行と何か関係があるの?」
「うん。それでね、その後でまた別のニュースになって。私はずっとそれ、普通の銀行の話だって思ってたんだけど…」
「うん、それで」
「なんかね、銀行が運用に失敗して多額の負債を抱えたっていうニュースでね。それで、公的資金の投入が決定されたってそういうニュースだったんだけど」
「そのニュースの時に、××タイムバンクの名前を聞いたんだね?」
「そうなの。ねぇ、これってどういうことだろう」
「あっ、そうだ。そういえば出掛けにポストに入ってた郵便をそのままバッグに入れて持ってきてたんだった。確か××タイムバンクのものが混じってたと思うんだけど」
「ねぇ、なんて書いてあるの」
「…こんなことになると知ってたら、時間銀行なんか使わなかったのに…」
『山口悠哉様
いつも××タイムバンクをご利用いただきましてありがとございます。
ニュースなどで既にご存知かとは思いますが、この度当行は時間の資産運用に不手際がありまして、お客様からお預かりした相当量の時間を損失いたしました。しかしその後政府から公的時間の投入が決定されました。余命幾ばくもないお年寄りから時間をかき集めることで、損失した時間を補填する形になります。
つきましてはお客様からお預かりしております時間はすべて正常通りとなりますので、今後とも××タイムバンクをどうぞよろしくお願いいたします
××タイムバンク』
一銃「時間銀行」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ショートショート集です。僕は今こうして感想を書く度にショートショートもどきを書いていますが、これまでちゃんとショートショートを読んだことがなかったので読んでみることにしました。とは言え、日本でショートショートを専門に書いている作家というのは、星新一と阿刀田高(たぶんこの人もそうだったはず)と、あと本作の著者である江坂遊くらいだとは思いますが。
そもそもまずショートショートというのは何かということですが、まあ要するに短い小説ということです。短編小説が大体原稿用紙で80枚とかそれぐらいだと思いますが、ショートショートというのは20枚以下の作品という感じです。本作に収録されている作品はどれも、大体原稿用紙7枚から10枚くらいの作品ではないかと思います。ちなみに僕が普段書いているのは原稿用紙5枚から6枚くらいです。
本作にはそういうショートショートが48編も収録されています。もちろん全部内容紹介するわけにもいかないので、今回は内容紹介は省略ということにします。
そもそもこの江坂遊という作家ですが、かなり本を読んでいる人でも聞き覚えのない人が多いのではないかと思います。僕もほとんど知りませんでした。ほとんどというのは、何かでチラリとこの作家の名前だけ目にしたことがあるからです。それが何だったのかまったく思い出せないのですけど、星新一にその才能を見出されて、「花火」という作品でデビューした、ということだけは知っていました。星新一の愛弟子というような作家のようで(直接教わったなんていうことはたぶんないんでしょうが)、これまでに800編を超えるショートショートを書いてきたのだそうです。ショートショート1編が原稿用紙で10枚として、800編だと8000枚。原稿用紙500枚も書けば長編1作になるので、長編に換算すれば16作ぐらい書いている計算になるわけで、かなりの分量だと言えるでしょう。星新一は1001話(たぶん累計ではもっと行ったでしょうけど)書いたといわれているので、それを追い越すのも夢ではないかもしれません。
僕はショートショートもどきを日々書いているわけですが、これは結構大変なわけです。アイデアの核になる部分が思い浮かばない時はものすごくキツイですけど、でも核になる部分が思い浮かんでも、そこから作品に仕立て上げるのが難しいわけです。短い枚数の中で(というか僕の場合短い枚数しか書けないだけですが)、何を書いてどう話を展開させるか、一人称がいいか三人称がいいか、みたいなところまでなかなか考えられないわけですけど、でもまあそういうことを考えながら一つの話にまとめるというのはなかなか大変ですね。だから時々、オチも何もないような一層つまらないような話を書いたりするわけですけど。
ショートショートというのはやっぱりオチが命だよな、と思っています。短い話の中でいかにうまく落とすか。これが見せ所だと思います。
そういう意味で、やっぱり本作に収録された作品はなかなか秀逸なものばかりだなと思いました。全部が全部というわけではありませんが、どの作品にもオチがちゃんとあって、しかもうまいんですね。例えば、みたいな風にして作品の内容を書いてしまうとネタバレになってしまうので止めますが、思いもつかなかった展開になると、なるほどさすがだなぁ、という風に思ったりします。
また、この発想だったら僕でも思いつけるかな、というのはそこそこありましたが、しかしやはりなんと言ってもそのアイデアを作品という形に昇華させる力が全然違いますね。アイデアは思いつけても、本作のような形にはまとめられないだろうなと思えるものが多くて、やっぱり本職は違うな、という感じがしました。
あと、解説でも触れられていましたが、会話のみのショートショートがかなり多いですね。これは解説氏によればかなり珍しいのだそうです(解説氏はショートショート研究家なんだそうです)。確かに読んでても、会話のみの作品が多くて、で解説氏も会話のみで作品を構成するのはなかなか難しいと言っていたので、今回の僕のショートショートもどきもほぼ会話のみという感じにしてみました。まあうまく言っているとは思っていませんが。
個人的に好きな作品をざっと書いてみましょう。
「B組の転校生」転校生がクラスを変える話です。
「オリジナルオイル」年を取ってしまうオイルの話です。「退屈になってきたので」夢で人が殺されるのを目撃する祖母の話です。
「ビデオ予約」テレビを買い換えた男の話です。
「とっかえべえ」何でも取り替えてくれる男の話です。
「死闘販売機」変な自動販売機の話です。
「ハンノキの話」ある画家とその妻の話です。
つまらない作品もありましたが、全体的にはなかなか面白い作品だなと思いました。
ショートショートを読んだことがないとい人は、まあ星新一でもいいんですけど、機会があったら江坂遊も読んでみてはどうでしょうか。僕も機会があったら星新一を読もうと思います。あとは、僕も自分のショートショートもどきをもう少しレベルを高く出来るように頑張ります。
江坂遊「ひねくれアイテム」
えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる(小山田咲子)
それは「ブログ裁判」と総称されている。あるいは、一番初めの裁判の当事者の名前を取って、「松本裁判」と呼ばれるようなこともある。今では異常な社会現象にまでなってしまった問題であり、今ではブログ登場時の法整備の不備が指摘されたり、新たな家族論が展開されたりと、方々で様々な余波を見せている。
そもそもの発端は、後に「松本裁判」と呼ばれ有名になるある裁判であった。それは、当時26歳だった女性が両親を訴えるという形で起こった。
松本靖子さんは、当時交際していた男性と結婚間近であった。既に両家の両親とも顔合わせが住んでおり、結納の日取りや式場の検討などもされていたのである。
しかしある時突然、相手方から結婚を取りやめて欲しいと要請があった。婚約者を問いつめても、両親がダメだというとの一点張りで埒があかない。結局状況が改善されることはなく結婚はご破算となったのだが、納得のいかなかった松本さんはいろんな人に話を聞いてようやく事実を知ることが出来たのである。それは松本さん自身も知らなかったある事実によっていたのだった。
松本さんは子どもの頃、とある血液の難病に罹っていたことがあるようだった。その病気は治癒が困難であり、また遺伝によって高い確率で子どもに受け継がれるものだった。幸い松本さんは治療の甲斐あって病気を克服し、現在に至っている。もちろん子どもに受け継がれてしまうこともない。
しかし、松本さんも知らなかったその事実を、婚約者の家族が知ってしまったのである。完治しているということだが、子どもに遺伝する病気にかつて罹っていたという事実は見過ごせなかったということなのだろう。婚約者の意向を無視し、断固反対の立場を取るようになったのだった。
ここまでなら、避けられない不幸であったということで終わっていたかもしれない。もちろんこれだけの状況であれば、誰を訴えるということにもならないはずである。しかしこの騒動には、もう一つ重要な要素が絡んでいたのである。
それがブログである。
松本さんは様々な人に聞き込みを続ける中で、婚約者の家族が自分のかつての罹患について知った経緯が、松本さんの両親が過去に書いていたブログによっていたことを知ったのだった。婚約者の家族は念のために興信所に調査を依頼しており、その興信所がそのブログを探し当てたのだという。そこには、松本さんが生まれてからある程度の年齢に達するまでの様々な出来事が文章と写真で綴られていて、もちろんその中に病気治療の話もあったのである。
それを知った松本さんは、自分に許可なく自分のプライバシーをインターネット上に晒した、という名目で両親を訴えることにしたのである。
この裁判は、初めからメディアで大きく取り上げられることになった。何故なら、これがもし有罪と判定されれば、同じように子どもに訴えられる親が急増すると思われたからである。
ブログというのは世に出始めてから日が浅いメディアである。しかし、その登場時から爆発的に広まり、今では一人一ブログどころではない状況になっている。ちょうど20代前半の子どもを持つ親が大学生ぐらいの頃にブログが流行り始めて、そのため本件のように子どもの成長記としてブログを活用していた人はかなりの数に上ると思われる。「松本裁判」は、だからこそ人々の注目を浴びることになったのである。
争点となったのは、やはり本人による許可の問題である。通常、本人の許可なく写真を掲載などすれば罪に問われることになるが、しかし赤ちゃんには許可の取りようがない。これは、赤ちゃん雑誌や赤ちゃん用品のCMなどにも波及しそうな問題であるとして、さらに注目を集めることになったのだ。
結果的には「松本裁判」は無罪の判決だった。しかし予想に反して、それから同様の裁判を起こす人が増えてきたのである。それは、正当な立場から親と対立したい、という今の若者の本末転倒な発想から起こされるものばかりであるととある社会学者は看破したが、状況は悪化する一方だった。裁判によっては有罪の判決が出るようなこともあり、この裁判は「ブログ裁判」として社会問題となり、その年の流行語大賞にもノミネートされた。
私も、24歳の息子を持つ親である。周りの親と同じく、やはり息子が小さかった頃はブログで成長記をつけていた。いつ息子に訴えられるか、気が気ではない。
一銃「ブログ裁判」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ひと言で言ってしまえば「ブログ本」です。一時期ブームになって、最近は多少下火になったとは言え時折ポツポツと出てくる感じのあるブログ本ですが、本作はそういう軽いものとは大分赴きが違います。
このブログ本は、両親が編集して出版したものです。「海鳥社」という出版社は聞いたことがないですけど、もしかしたらかなり自費出版に近い形での本なのかもしれないと思ったりします。というのも、装丁とかにあんまりお金が掛かっていないような感じのする本なので。
で何故両親が出したのかというと、それはこのブログを書いていた本人が既に故人だからです。24歳という若さで亡くなってしまったわけです。
まあそういう、なかなか珍しい形のブログ本です。2002年の10月から2005年の9月までの約3年間の日常の出来事なんかをいろいろ書いています。
さて本作を読みましたが、かなり驚きました。文章がうますぎますね。以前「私を見て、ぎゅっと愛して」という同じくブログ本を読んだ時にも文章がうまくて驚きましたけど、本作はまたちょっと違った感じのうまさがありました。「私を見て、ぎゅっと愛して」の場合は、小説作品も超えるぐらいの展開を引き立たせる文章のうまさでしたが、本作の場合かなりきちんとエッセイになっているという感じの文章のうまさでした。
そもそも、日記とエッセイは何が違うんだ、という話を書きましょう。
まず日記は起こった出来事を書くけど、エッセイは思ったことを書くという違いがある気がします。
本作では、とにかく自分の思ったことをきちんと捕まえてそれを言葉にしています。これは出来そうでなかなか出来ないことだと思います。自分がどう感じているのかを積極的に自覚してみて、さらにそれにぴったりの言葉を引っ張ってくるというのは相当に大変です。僕もこのブログで散々いろいろ書いていますが、でも大抵「よかった」とか「すごかった」とか「かんどうした」みたいなことしか書いていません。語彙が少ないというのもあるかもしれないけど、それよりもまず自分の感じたことをしっかり捕まえられていないのだろうと思うわけです。
また、人に見せるのかどうかという違いも大きいと思います。
日記というのはすごく個人的なものなので、大抵の場合は自分個人で完結します。最近ブログで日記を公開している人も多いと思うけど、でもそういう場合でも日記というのは酷く狭いものなわけです。人に見せられる状態になっているのだけど、でも中身はそうなっていないわけです。
どういうことかと言えば、人に見せる文章を書くにはある一定の技術が必要だということです。以前森博嗣という作家が自身のブログの中でこれについて書いていたのでその話をしようと思います。
森博嗣は、対談したことをそのまま文章にしても伝わる文章にはならない、ということを言っていました。誰かと目の前で話す場合、お互いの間でかなり省略が行われるわけです。言わなくても分かることや、あるいは身振り手振りなんかを加えて伝わってしまうことは敢えて言葉にしないみたいな感じです。だからこそ、対談をそのまま文章に起こしても意味の通る文章にはなりにくいわけです。
僕のブログも含めて多くのブログの文章というのはそういう文章なわけです。大勢の人間に読んでもらおうと思っていながら、書いている本人には自覚できない省略が多すぎて、その省略を理解できない人が読んでも面白くない文章になってしまうわけです。例えばですが、僕が「四大」という言葉をブログに書く時、僕の友人はそれが何か分かります。しかし、ほとんどの人にはその言葉の意味は分からないわけです。だから多くの人に読んで欲しいと思っているならそれについて説明をしなくてはいけないのだけど、でも多くの人に読んで欲しいと思っている人でもそういう部分を無意識の内に省略してしまうわけです。
一方で作家のエッセイというのは、人に読まれることを意識して書かれた文章なわけで、そういう意味で日記とはやはり大きく違うわけです。
本作はだから、どうしたって個人のブログの粋を出ないはずなのに、限りなくエッセイに近い文章になっているのがすごいなと思うわけです。ちゃんと人に読ませる文章になっている。将来文章を書く仕事に就きたい、だから練習だと思ってブログを書いていると言っていたようですが、それにしても巧いなと思いました。
また日記とエッセイの違いで言えば、主観的なのか客観的なのかという違いもあると思います。日記というのはどこまでも主観的なものでいいと思いますが、エッセイは自分自身のことを客観的に見ていなくてはなかなか書けません。本作は、自分自身を含めた様々なものを客観的な視点で見ていて、しかも文章が抑制されている。なかなか出来ないと思います。僕の友人で一人、かなりいろんなものを客観的に見て文章を書ける(と僕が思っている)のがいますが、でもやはり本作の文章には及ばないだろうなと思いました。
この小山田咲子さんという人はなかなかすごくて、高校の時に詩が何かに入選して本に収録されたり、趣味でやってる写真で個展を開いたり、学生CMコンクールのラジオ部門で入賞したり、何故だか岩波新書の表紙写真のモデルをやったり、学生演劇でヒロインをやったり、前年度の功績によって決まる早稲田学生文化賞を受賞したりと、かなり多才な人だったようです。本作の序文は、演出家の鴻上奈直史氏によるものなのですが(鴻上氏は一時期早稲田で演劇を教えていたことがあり、その時ティーチングアシスタントを小山田さんがやっていた縁で知っていたのだそうです)、彼女の才能について褒め、こう言った形で本が出なくても、いつか必ず世に出ていた人だろう、と言っています。故人を悪く言うことはないだろう、ということを差っぴいてもかなり評価の高い女性だったのだろうなと思わせる文章で、なかなかすごいなと思いました。
本作で書いている内容は本当に日常的な些細な出来事が多くて、だから内容的にはそこらにあるようなブログと大して変わらないと思うんだけど、でもやっぱり視点が違う。一番印象に残ったのが、歩いている時に見かけたある親子について書いている部分です。スイミングスクールか何かの帰りのようで、娘が父親に「クロールよりも背泳ぎが好きなんだよ」と言っていて、それに対する父親の返答が「ゆっくり泳ぐのが好きなんだね」というものです。
こんなすぐ忘れてしまうような出来事に小山田さんは感銘を受けるわけです。親というのは子どものことを一番に知っているつもりになっていて、あんまり子どもの性格とか嗜好について考える機会がない。この父親は、娘がゆっくり泳ぐのが好きだということを褒めたわけでも同意したわけでもなくて、でもそんな娘のことをちゃんと知って、そんな娘のことが好きだときっちり伝えていたと思う、という風に書いている。すごい。なかなかこういうことは、考えられるようで考えられない。そういう視点の鋭さみたいなものと文章の巧さがミックスして、エッセイとしてすごくレベルの高いものになっているような気がする。
そんなわけで、すごく面白い作品でした。一人の女性の何気ない日常を通して、何だか自分の心が少しだけ広くなったようなそんな気がしました。新しい視点とか新しい感じ方とか、そういうものは人に教えてもらうものではないと思うけど、でも時々ハッとするような視点とか感じ方に接すると何だか自分まで少し偉くなったような錯覚に陥ることが出来る。まあ一方で、ほぼ同年代なのにこの差は何なんだろう、とへこんだりもするんだけど。
とにかく読んでみて欲しいですね。なかなか新鮮な感じで読めると思います。才能というのはこういうことを言うんだろうな、という感じです。羨ましいですね。是非生きていて文章を書き続けてほしかったなと思います。
小山田咲子「えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる」
そもそもの発端は、後に「松本裁判」と呼ばれ有名になるある裁判であった。それは、当時26歳だった女性が両親を訴えるという形で起こった。
松本靖子さんは、当時交際していた男性と結婚間近であった。既に両家の両親とも顔合わせが住んでおり、結納の日取りや式場の検討などもされていたのである。
しかしある時突然、相手方から結婚を取りやめて欲しいと要請があった。婚約者を問いつめても、両親がダメだというとの一点張りで埒があかない。結局状況が改善されることはなく結婚はご破算となったのだが、納得のいかなかった松本さんはいろんな人に話を聞いてようやく事実を知ることが出来たのである。それは松本さん自身も知らなかったある事実によっていたのだった。
松本さんは子どもの頃、とある血液の難病に罹っていたことがあるようだった。その病気は治癒が困難であり、また遺伝によって高い確率で子どもに受け継がれるものだった。幸い松本さんは治療の甲斐あって病気を克服し、現在に至っている。もちろん子どもに受け継がれてしまうこともない。
しかし、松本さんも知らなかったその事実を、婚約者の家族が知ってしまったのである。完治しているということだが、子どもに遺伝する病気にかつて罹っていたという事実は見過ごせなかったということなのだろう。婚約者の意向を無視し、断固反対の立場を取るようになったのだった。
ここまでなら、避けられない不幸であったということで終わっていたかもしれない。もちろんこれだけの状況であれば、誰を訴えるということにもならないはずである。しかしこの騒動には、もう一つ重要な要素が絡んでいたのである。
それがブログである。
松本さんは様々な人に聞き込みを続ける中で、婚約者の家族が自分のかつての罹患について知った経緯が、松本さんの両親が過去に書いていたブログによっていたことを知ったのだった。婚約者の家族は念のために興信所に調査を依頼しており、その興信所がそのブログを探し当てたのだという。そこには、松本さんが生まれてからある程度の年齢に達するまでの様々な出来事が文章と写真で綴られていて、もちろんその中に病気治療の話もあったのである。
それを知った松本さんは、自分に許可なく自分のプライバシーをインターネット上に晒した、という名目で両親を訴えることにしたのである。
この裁判は、初めからメディアで大きく取り上げられることになった。何故なら、これがもし有罪と判定されれば、同じように子どもに訴えられる親が急増すると思われたからである。
ブログというのは世に出始めてから日が浅いメディアである。しかし、その登場時から爆発的に広まり、今では一人一ブログどころではない状況になっている。ちょうど20代前半の子どもを持つ親が大学生ぐらいの頃にブログが流行り始めて、そのため本件のように子どもの成長記としてブログを活用していた人はかなりの数に上ると思われる。「松本裁判」は、だからこそ人々の注目を浴びることになったのである。
争点となったのは、やはり本人による許可の問題である。通常、本人の許可なく写真を掲載などすれば罪に問われることになるが、しかし赤ちゃんには許可の取りようがない。これは、赤ちゃん雑誌や赤ちゃん用品のCMなどにも波及しそうな問題であるとして、さらに注目を集めることになったのだ。
結果的には「松本裁判」は無罪の判決だった。しかし予想に反して、それから同様の裁判を起こす人が増えてきたのである。それは、正当な立場から親と対立したい、という今の若者の本末転倒な発想から起こされるものばかりであるととある社会学者は看破したが、状況は悪化する一方だった。裁判によっては有罪の判決が出るようなこともあり、この裁判は「ブログ裁判」として社会問題となり、その年の流行語大賞にもノミネートされた。
私も、24歳の息子を持つ親である。周りの親と同じく、やはり息子が小さかった頃はブログで成長記をつけていた。いつ息子に訴えられるか、気が気ではない。
一銃「ブログ裁判」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ひと言で言ってしまえば「ブログ本」です。一時期ブームになって、最近は多少下火になったとは言え時折ポツポツと出てくる感じのあるブログ本ですが、本作はそういう軽いものとは大分赴きが違います。
このブログ本は、両親が編集して出版したものです。「海鳥社」という出版社は聞いたことがないですけど、もしかしたらかなり自費出版に近い形での本なのかもしれないと思ったりします。というのも、装丁とかにあんまりお金が掛かっていないような感じのする本なので。
で何故両親が出したのかというと、それはこのブログを書いていた本人が既に故人だからです。24歳という若さで亡くなってしまったわけです。
まあそういう、なかなか珍しい形のブログ本です。2002年の10月から2005年の9月までの約3年間の日常の出来事なんかをいろいろ書いています。
さて本作を読みましたが、かなり驚きました。文章がうますぎますね。以前「私を見て、ぎゅっと愛して」という同じくブログ本を読んだ時にも文章がうまくて驚きましたけど、本作はまたちょっと違った感じのうまさがありました。「私を見て、ぎゅっと愛して」の場合は、小説作品も超えるぐらいの展開を引き立たせる文章のうまさでしたが、本作の場合かなりきちんとエッセイになっているという感じの文章のうまさでした。
そもそも、日記とエッセイは何が違うんだ、という話を書きましょう。
まず日記は起こった出来事を書くけど、エッセイは思ったことを書くという違いがある気がします。
本作では、とにかく自分の思ったことをきちんと捕まえてそれを言葉にしています。これは出来そうでなかなか出来ないことだと思います。自分がどう感じているのかを積極的に自覚してみて、さらにそれにぴったりの言葉を引っ張ってくるというのは相当に大変です。僕もこのブログで散々いろいろ書いていますが、でも大抵「よかった」とか「すごかった」とか「かんどうした」みたいなことしか書いていません。語彙が少ないというのもあるかもしれないけど、それよりもまず自分の感じたことをしっかり捕まえられていないのだろうと思うわけです。
また、人に見せるのかどうかという違いも大きいと思います。
日記というのはすごく個人的なものなので、大抵の場合は自分個人で完結します。最近ブログで日記を公開している人も多いと思うけど、でもそういう場合でも日記というのは酷く狭いものなわけです。人に見せられる状態になっているのだけど、でも中身はそうなっていないわけです。
どういうことかと言えば、人に見せる文章を書くにはある一定の技術が必要だということです。以前森博嗣という作家が自身のブログの中でこれについて書いていたのでその話をしようと思います。
森博嗣は、対談したことをそのまま文章にしても伝わる文章にはならない、ということを言っていました。誰かと目の前で話す場合、お互いの間でかなり省略が行われるわけです。言わなくても分かることや、あるいは身振り手振りなんかを加えて伝わってしまうことは敢えて言葉にしないみたいな感じです。だからこそ、対談をそのまま文章に起こしても意味の通る文章にはなりにくいわけです。
僕のブログも含めて多くのブログの文章というのはそういう文章なわけです。大勢の人間に読んでもらおうと思っていながら、書いている本人には自覚できない省略が多すぎて、その省略を理解できない人が読んでも面白くない文章になってしまうわけです。例えばですが、僕が「四大」という言葉をブログに書く時、僕の友人はそれが何か分かります。しかし、ほとんどの人にはその言葉の意味は分からないわけです。だから多くの人に読んで欲しいと思っているならそれについて説明をしなくてはいけないのだけど、でも多くの人に読んで欲しいと思っている人でもそういう部分を無意識の内に省略してしまうわけです。
一方で作家のエッセイというのは、人に読まれることを意識して書かれた文章なわけで、そういう意味で日記とはやはり大きく違うわけです。
本作はだから、どうしたって個人のブログの粋を出ないはずなのに、限りなくエッセイに近い文章になっているのがすごいなと思うわけです。ちゃんと人に読ませる文章になっている。将来文章を書く仕事に就きたい、だから練習だと思ってブログを書いていると言っていたようですが、それにしても巧いなと思いました。
また日記とエッセイの違いで言えば、主観的なのか客観的なのかという違いもあると思います。日記というのはどこまでも主観的なものでいいと思いますが、エッセイは自分自身のことを客観的に見ていなくてはなかなか書けません。本作は、自分自身を含めた様々なものを客観的な視点で見ていて、しかも文章が抑制されている。なかなか出来ないと思います。僕の友人で一人、かなりいろんなものを客観的に見て文章を書ける(と僕が思っている)のがいますが、でもやはり本作の文章には及ばないだろうなと思いました。
この小山田咲子さんという人はなかなかすごくて、高校の時に詩が何かに入選して本に収録されたり、趣味でやってる写真で個展を開いたり、学生CMコンクールのラジオ部門で入賞したり、何故だか岩波新書の表紙写真のモデルをやったり、学生演劇でヒロインをやったり、前年度の功績によって決まる早稲田学生文化賞を受賞したりと、かなり多才な人だったようです。本作の序文は、演出家の鴻上奈直史氏によるものなのですが(鴻上氏は一時期早稲田で演劇を教えていたことがあり、その時ティーチングアシスタントを小山田さんがやっていた縁で知っていたのだそうです)、彼女の才能について褒め、こう言った形で本が出なくても、いつか必ず世に出ていた人だろう、と言っています。故人を悪く言うことはないだろう、ということを差っぴいてもかなり評価の高い女性だったのだろうなと思わせる文章で、なかなかすごいなと思いました。
本作で書いている内容は本当に日常的な些細な出来事が多くて、だから内容的にはそこらにあるようなブログと大して変わらないと思うんだけど、でもやっぱり視点が違う。一番印象に残ったのが、歩いている時に見かけたある親子について書いている部分です。スイミングスクールか何かの帰りのようで、娘が父親に「クロールよりも背泳ぎが好きなんだよ」と言っていて、それに対する父親の返答が「ゆっくり泳ぐのが好きなんだね」というものです。
こんなすぐ忘れてしまうような出来事に小山田さんは感銘を受けるわけです。親というのは子どものことを一番に知っているつもりになっていて、あんまり子どもの性格とか嗜好について考える機会がない。この父親は、娘がゆっくり泳ぐのが好きだということを褒めたわけでも同意したわけでもなくて、でもそんな娘のことをちゃんと知って、そんな娘のことが好きだときっちり伝えていたと思う、という風に書いている。すごい。なかなかこういうことは、考えられるようで考えられない。そういう視点の鋭さみたいなものと文章の巧さがミックスして、エッセイとしてすごくレベルの高いものになっているような気がする。
そんなわけで、すごく面白い作品でした。一人の女性の何気ない日常を通して、何だか自分の心が少しだけ広くなったようなそんな気がしました。新しい視点とか新しい感じ方とか、そういうものは人に教えてもらうものではないと思うけど、でも時々ハッとするような視点とか感じ方に接すると何だか自分まで少し偉くなったような錯覚に陥ることが出来る。まあ一方で、ほぼ同年代なのにこの差は何なんだろう、とへこんだりもするんだけど。
とにかく読んでみて欲しいですね。なかなか新鮮な感じで読めると思います。才能というのはこういうことを言うんだろうな、という感じです。羨ましいですね。是非生きていて文章を書き続けてほしかったなと思います。
小山田咲子「えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる」
鍵のかかった部屋(ポール・オースター)
たぶん今日が一週間目だと思う。カレンダーのない生活というものが、これほどまでに日にちの感覚を失わせるものなのか、と驚くほどだが、それでもまだ一週間だ。これから自分がどうしようというつもりなのか、僕には未だにはっきりとは分かっていない。
埃っぽい。
僕は自分の家の屋根裏部屋にいて、そしてそこに失踪している。僕は正しいことを正しい表現で言っているつもりだ。僕は自宅の屋根裏部屋にいて、そこに失踪している。屋根裏部屋と言ってもここはちゃんとした部屋ではなく、押入れの天上板を外して入り込んだ空間というだけなのだが。
「ねぇ、お父さんは?」
「お父さんは病気で入院しちゃったんだって、この前説明したでしょ」
下から子どもと妻の声が聞こえてくる。もう一週間も子どもとも妻とも会話をしていない。しかし考えてみれば、それは僕のかつての日常とさして変わらないはずだった。日々仕事に追われ、家族と話す機会などほとんどなかったといっていい。それなのに、今無性に彼らの声を遠く感じる。以前から遠かったはずのものが、その遠ささえ感じることが出来ないくらい遠くに行ってしまったように感じられるのだ。
一週間前、僕は家族を捨てた。家族だけではない。僕の生活に付属していたありとあらゆるものを捨てることにしたのだ。ちっぽけな会社の経理という立場、一人の息子の父親という立場、一人の妻の夫という立場、一つの国に住むとある国民という立場。僕はそういうもろもろをすべて捨て去ってしまいたい衝動に突然駆られたのだった。
僕はこの一週間というもの、何故自分がそんな衝動に襲われたのか真剣に考えることに時間を費やした。しかし、結局のところ何の答えも浮かばなかった。仕事に不満があったわけではない。家族を嫌悪していたわけでもない。世界に対し漠然とした不安を感じていたということもない。神経の病気だとも思えないし、何か被害妄想があるわけでもない。それでも僕は、今ここにいてはいけないと感じ、それが無二の正しさを持っていると信じ、そしてそれを実行に移すために失踪したのだった。
失踪する先に何故屋根裏部屋を選んだのか、それも僕には理解の出来ないことだった。しかし同時に、この世界にはここ以外には僕に居場所がないという直感も僕にはあったのだ。僕はどこにも誰にも受け入れられることはないに違いない。だからこそ僕は、外側へ深く失踪するのではなく、より内側へと失踪することにしたのではないかと思う。
恐らく妻は、僕が屋根裏部屋にいることには気づいていないはずだ。僕は用心して、音を立てるようなことも、何かの痕跡を残すようなこともしていないはずだった。食料や水は出来る限り大量に買って置いてある。携帯トイレの買い置きもたくさんある。まだしばらくはこの屋根裏部屋に居座ることは出来るぐらいの量はある。ずっとここでバレずに生活をしていくことは不可能であるとしても、今はま大丈夫なはずだ。そもそも妻がこのことに気づいているのなら、真っ先に屋根裏部屋を見に来るはずなのだ。
僕はまたしばらく考えに耽ることだろう。自分の正しさを支える言葉を生み出したり、自分の行動の意味を見出すための思索に忙しい。それにしても、屋根裏部屋での生活は快適で、どうして僕は今まであくせくと仕事なんかしなくてはいけなかったんだろう、とよく思う。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「ねぇ、お父さんは?」
「お父さんは病気で入院しちゃったんだって、この前説明したでしょ」
息子には何度この説明をしたか分からない。普段夫は帰ってくるのが遅いのだけど、でも夫を起こすのは息子の役割だったのだ。当然今は、毎朝起こすべき相手がいないということになる。その度にこう聞かれるのだが、嘘を突き通すしかない。
しかし、何故嘘を突き通すしかないのだろう。たぶんもっと単純で明快な解決方法があるはずなのだ。
そう、夫はたぶん屋根裏部屋にいる。
特になんの根拠もあるわけではない。音がするわけでも、何かがなくなっていたりというようなことがあるわけでもない。しかしそれでも、私には何となくわかるのだ。夫は、いなくなったその日から、きっと屋根裏部屋に失踪しているに違いない。
であれば、私が屋根裏部屋に行き夫をを見つけてくればいい。たぶんそれが最も手っ取り早い。どうして私はそれをしないのだろう。
わたしには、いくら考えても分からない。
この一週間というもの、私に出来たことはただ考えることだけだった。夫が何故失踪してしまったのか、ということももちろん時々意識には上った。その度ごとに、夫が失踪する理由を思いつけず悩んだものだが、しかしそれ以上に私を悩ませたのは、何故私は夫に会いに屋根裏部屋に行かないのか、という疑問だった。
このままでいいと思っているのだろうか。
夫に特に不満があったわけではない。毎日仕事で帰りが遅いけれども、それは仕方のないことだし、会話を交わす機会があまりなかったとしても、やはり彼は夫としてそして父親として間違ったことは何一つしていなかったと思う。
それなのに、その夫がすぐ近くに失踪してしまっているというのに、私はそれにどうして知らないフリをしているのだろう。
今だって、夫が屋根裏部屋にいると知っていながら、夫が失踪した直後警察に失踪届を出したし、夫の会社や知人に連絡をして行き先を聞いたりもした。私が働いている会社に事情を話してしばらく休ませてもらってもいる。そのすべてが徒労であることを私は知っているのだ。
屋根裏部屋にいる夫は日々何を考えているのだろう。それまでとは違った充実した生活を送ることが出来ているだろうか。しばらくは屋根裏部屋で生活できるとして、それからは一体どうするつもりなのだろうか。
失踪から七年が経過すると死亡とみなされる。もし夫がこの屋根裏部屋でその日を迎えるのだとしたら、その日に声を掛けてあげようかしら。
「あなた、死んじゃったみたいですよ」
さて、何か料理でも作って持っていってあげようかな。
一銃「夫はたぶん…」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、現代アメリカ文学の作家としてかなり高い名声を獲得しているポール・オースターの、<ニューヨーク三部作>と言われる作品の第三部です。三部作と言ってもそれぞれの作品は完全に独立していて関連がなく、どれから読んでも問題ありません(たぶん。解説で訳者がそう書いています)。
物語は、「僕」の元にかつての友人だった男の妻と名乗る女性から手紙が届くところから始まります。
ソフィー・ファンショーというその女性は、僕にとってはいささか困惑するような話を持ってきました。
ソフィーは、かつての僕の友人のファンショーの妻でした。過去形なのは、そのファンショーが失踪してしまったからです。ファンショーは、子どもを身篭ったソフィーを置き去りにして、どこかに姿を消してしまったのです。
ソフィーはファンショーの行方を尋ねたくて僕に連絡をしてきたわけではありません。失踪から半年経った今では、ソフィーは既にファンショーの生存を諦めている風でした。彼女は別の件で僕に話があったのでした。
それが、ファンショーの小説を読んではもらえないか、というものでした。
ファンショーはこれまで多くの作品を書き溜めてきたけど、出版したくないと頑なに拒んでいました。しかし失踪する直前、彼はようやく、原稿は近い内にどうにかする。もし何らかの事情でそれが出来なくなったら、「僕」に連絡をしてくれ。あいつが原稿をどうにかしてくれるはずだ。ファンショーはそうソフィーに語ったというのです。
僕は困惑したのだけれど、しかし結局はソフィーから原稿を預かりました。それはファンショーのためというよりもむしろソフィーと自分のためでした。
ファンショーの作品は陽の目を見ることになり、世の中に好意的に受け入れられることになりました。しかし、実際僕の物語が始まるのはそこからです。僕は、ある時から少しずつおかしくなっていってしまったのです…。
というような話です。
本作はよく、探偵小説の枠組みを借りた文学だというような表現がされるんですけど、僕にはその点はよくわかりませんでした。まあ確かに探偵小説的な展開にはなるし、タイトルもそれっぽいですけどね。
作品全体としては面白かったです。こういう作品を読むといつもこういう感想が浮かびますが、非常に村上春樹の作品に雰囲気の近い作品でした。抑制の利いた語り口と、緊張感のあるストーリー展開、そして何よりも言葉で何かを掴もうとするその表現みたいなものが近いものを感じるなと思いました。
ストーリーとしては本当に平凡なんですけど、でも読ませる作品だと思います。主人公である「僕」の苦悩みたいなものが、どんな立場の人であれかなり手に取るようにわかるだろうし、自分がもし同じ立場だったらと想像しやすいような気がします。また一方で、どうしても説明のつかない理解できない部分もあって、そういう分かりやすい部分と分からない部分とを巧く織り合わせているので、作品としての深みが増しているような気がします。
ファンショーというのが思っていた以上に謎めいた人物だったというのも面白い要因の一つかもしれないですね。ファンショーについては様々な形で言及されることになるわけですけど、非常に興味深い人間で、普通一般とはかなりかけ離れた価値観を持った男です。そんな男と関わらなくてはならなくなった人間の悲哀みたいなものがうまく漂っているような気がしました。
全体のストーリーよりも、個々の細部に惹き込まれていく感じでした。村上春樹が好きなら結構合うんじゃないかと思ったりします。外国人作家の作品が苦手な人の中には、登場人物の名前が覚えられないという人もいると思いますが、本作はちゃんと名前を覚えるべき人物は数人なので、結構楽に読めると思います。すごく雰囲気が好きな作品でした。なかなかいいです。読んでみてください。
ポール・オースター「鍵のかかった部屋」
埃っぽい。
僕は自分の家の屋根裏部屋にいて、そしてそこに失踪している。僕は正しいことを正しい表現で言っているつもりだ。僕は自宅の屋根裏部屋にいて、そこに失踪している。屋根裏部屋と言ってもここはちゃんとした部屋ではなく、押入れの天上板を外して入り込んだ空間というだけなのだが。
「ねぇ、お父さんは?」
「お父さんは病気で入院しちゃったんだって、この前説明したでしょ」
下から子どもと妻の声が聞こえてくる。もう一週間も子どもとも妻とも会話をしていない。しかし考えてみれば、それは僕のかつての日常とさして変わらないはずだった。日々仕事に追われ、家族と話す機会などほとんどなかったといっていい。それなのに、今無性に彼らの声を遠く感じる。以前から遠かったはずのものが、その遠ささえ感じることが出来ないくらい遠くに行ってしまったように感じられるのだ。
一週間前、僕は家族を捨てた。家族だけではない。僕の生活に付属していたありとあらゆるものを捨てることにしたのだ。ちっぽけな会社の経理という立場、一人の息子の父親という立場、一人の妻の夫という立場、一つの国に住むとある国民という立場。僕はそういうもろもろをすべて捨て去ってしまいたい衝動に突然駆られたのだった。
僕はこの一週間というもの、何故自分がそんな衝動に襲われたのか真剣に考えることに時間を費やした。しかし、結局のところ何の答えも浮かばなかった。仕事に不満があったわけではない。家族を嫌悪していたわけでもない。世界に対し漠然とした不安を感じていたということもない。神経の病気だとも思えないし、何か被害妄想があるわけでもない。それでも僕は、今ここにいてはいけないと感じ、それが無二の正しさを持っていると信じ、そしてそれを実行に移すために失踪したのだった。
失踪する先に何故屋根裏部屋を選んだのか、それも僕には理解の出来ないことだった。しかし同時に、この世界にはここ以外には僕に居場所がないという直感も僕にはあったのだ。僕はどこにも誰にも受け入れられることはないに違いない。だからこそ僕は、外側へ深く失踪するのではなく、より内側へと失踪することにしたのではないかと思う。
恐らく妻は、僕が屋根裏部屋にいることには気づいていないはずだ。僕は用心して、音を立てるようなことも、何かの痕跡を残すようなこともしていないはずだった。食料や水は出来る限り大量に買って置いてある。携帯トイレの買い置きもたくさんある。まだしばらくはこの屋根裏部屋に居座ることは出来るぐらいの量はある。ずっとここでバレずに生活をしていくことは不可能であるとしても、今はま大丈夫なはずだ。そもそも妻がこのことに気づいているのなら、真っ先に屋根裏部屋を見に来るはずなのだ。
僕はまたしばらく考えに耽ることだろう。自分の正しさを支える言葉を生み出したり、自分の行動の意味を見出すための思索に忙しい。それにしても、屋根裏部屋での生活は快適で、どうして僕は今まであくせくと仕事なんかしなくてはいけなかったんだろう、とよく思う。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「ねぇ、お父さんは?」
「お父さんは病気で入院しちゃったんだって、この前説明したでしょ」
息子には何度この説明をしたか分からない。普段夫は帰ってくるのが遅いのだけど、でも夫を起こすのは息子の役割だったのだ。当然今は、毎朝起こすべき相手がいないということになる。その度にこう聞かれるのだが、嘘を突き通すしかない。
しかし、何故嘘を突き通すしかないのだろう。たぶんもっと単純で明快な解決方法があるはずなのだ。
そう、夫はたぶん屋根裏部屋にいる。
特になんの根拠もあるわけではない。音がするわけでも、何かがなくなっていたりというようなことがあるわけでもない。しかしそれでも、私には何となくわかるのだ。夫は、いなくなったその日から、きっと屋根裏部屋に失踪しているに違いない。
であれば、私が屋根裏部屋に行き夫をを見つけてくればいい。たぶんそれが最も手っ取り早い。どうして私はそれをしないのだろう。
わたしには、いくら考えても分からない。
この一週間というもの、私に出来たことはただ考えることだけだった。夫が何故失踪してしまったのか、ということももちろん時々意識には上った。その度ごとに、夫が失踪する理由を思いつけず悩んだものだが、しかしそれ以上に私を悩ませたのは、何故私は夫に会いに屋根裏部屋に行かないのか、という疑問だった。
このままでいいと思っているのだろうか。
夫に特に不満があったわけではない。毎日仕事で帰りが遅いけれども、それは仕方のないことだし、会話を交わす機会があまりなかったとしても、やはり彼は夫としてそして父親として間違ったことは何一つしていなかったと思う。
それなのに、その夫がすぐ近くに失踪してしまっているというのに、私はそれにどうして知らないフリをしているのだろう。
今だって、夫が屋根裏部屋にいると知っていながら、夫が失踪した直後警察に失踪届を出したし、夫の会社や知人に連絡をして行き先を聞いたりもした。私が働いている会社に事情を話してしばらく休ませてもらってもいる。そのすべてが徒労であることを私は知っているのだ。
屋根裏部屋にいる夫は日々何を考えているのだろう。それまでとは違った充実した生活を送ることが出来ているだろうか。しばらくは屋根裏部屋で生活できるとして、それからは一体どうするつもりなのだろうか。
失踪から七年が経過すると死亡とみなされる。もし夫がこの屋根裏部屋でその日を迎えるのだとしたら、その日に声を掛けてあげようかしら。
「あなた、死んじゃったみたいですよ」
さて、何か料理でも作って持っていってあげようかな。
一銃「夫はたぶん…」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、現代アメリカ文学の作家としてかなり高い名声を獲得しているポール・オースターの、<ニューヨーク三部作>と言われる作品の第三部です。三部作と言ってもそれぞれの作品は完全に独立していて関連がなく、どれから読んでも問題ありません(たぶん。解説で訳者がそう書いています)。
物語は、「僕」の元にかつての友人だった男の妻と名乗る女性から手紙が届くところから始まります。
ソフィー・ファンショーというその女性は、僕にとってはいささか困惑するような話を持ってきました。
ソフィーは、かつての僕の友人のファンショーの妻でした。過去形なのは、そのファンショーが失踪してしまったからです。ファンショーは、子どもを身篭ったソフィーを置き去りにして、どこかに姿を消してしまったのです。
ソフィーはファンショーの行方を尋ねたくて僕に連絡をしてきたわけではありません。失踪から半年経った今では、ソフィーは既にファンショーの生存を諦めている風でした。彼女は別の件で僕に話があったのでした。
それが、ファンショーの小説を読んではもらえないか、というものでした。
ファンショーはこれまで多くの作品を書き溜めてきたけど、出版したくないと頑なに拒んでいました。しかし失踪する直前、彼はようやく、原稿は近い内にどうにかする。もし何らかの事情でそれが出来なくなったら、「僕」に連絡をしてくれ。あいつが原稿をどうにかしてくれるはずだ。ファンショーはそうソフィーに語ったというのです。
僕は困惑したのだけれど、しかし結局はソフィーから原稿を預かりました。それはファンショーのためというよりもむしろソフィーと自分のためでした。
ファンショーの作品は陽の目を見ることになり、世の中に好意的に受け入れられることになりました。しかし、実際僕の物語が始まるのはそこからです。僕は、ある時から少しずつおかしくなっていってしまったのです…。
というような話です。
本作はよく、探偵小説の枠組みを借りた文学だというような表現がされるんですけど、僕にはその点はよくわかりませんでした。まあ確かに探偵小説的な展開にはなるし、タイトルもそれっぽいですけどね。
作品全体としては面白かったです。こういう作品を読むといつもこういう感想が浮かびますが、非常に村上春樹の作品に雰囲気の近い作品でした。抑制の利いた語り口と、緊張感のあるストーリー展開、そして何よりも言葉で何かを掴もうとするその表現みたいなものが近いものを感じるなと思いました。
ストーリーとしては本当に平凡なんですけど、でも読ませる作品だと思います。主人公である「僕」の苦悩みたいなものが、どんな立場の人であれかなり手に取るようにわかるだろうし、自分がもし同じ立場だったらと想像しやすいような気がします。また一方で、どうしても説明のつかない理解できない部分もあって、そういう分かりやすい部分と分からない部分とを巧く織り合わせているので、作品としての深みが増しているような気がします。
ファンショーというのが思っていた以上に謎めいた人物だったというのも面白い要因の一つかもしれないですね。ファンショーについては様々な形で言及されることになるわけですけど、非常に興味深い人間で、普通一般とはかなりかけ離れた価値観を持った男です。そんな男と関わらなくてはならなくなった人間の悲哀みたいなものがうまく漂っているような気がしました。
全体のストーリーよりも、個々の細部に惹き込まれていく感じでした。村上春樹が好きなら結構合うんじゃないかと思ったりします。外国人作家の作品が苦手な人の中には、登場人物の名前が覚えられないという人もいると思いますが、本作はちゃんと名前を覚えるべき人物は数人なので、結構楽に読めると思います。すごく雰囲気が好きな作品でした。なかなかいいです。読んでみてください。
ポール・オースター「鍵のかかった部屋」
オブ・ザ・ベースボール(円城塔)
僕んちの家の天井は畳が敷かれている。
けどこれは全然珍しいことじゃない。僕が住んでいるこの街オムランでは、極々普通のことだ。メイナスの家だって畳だ。ただやっぱり一般的にはフローリングというのが普通だ。オムランでも日本は大人気で、僕とメイナスの家は無理して日本から畳を取り寄せているのだ。あんまり居心地はよくないのだけど。
「ねぇねぇ、いつだっけ?今日?」
「そう、今日だよ。だから外に出ちゃダメ」
「じゃあその前にちょっとだけ買い物!」
「ちょっと待って!まったくもぉ」
母親のそんな声を背中に聞きながら、僕は玄関を飛び出す。まあ大丈夫。アレが来るのが分かってさえいれば、いつ家に戻らなきゃいけないかなんて分かってる。もう子どもじゃないんだから。
オムランの街は、すべてのものが上下対称に作られている。こんな街は世界中探したって他にはないだろう。独特の景観美だと言って写真家が時折やって来たりもするんだけど、生まれてからずっとここに住んでる僕からすれば、どこが美しいのか分からない。そもそも、他の街は写真でしか見たことがないのだから、この街のおかしさみたいなものも実はちゃんとは分かっていなかったりするのだけど。
立ち並ぶ家には屋根というものはなく、すべて平に作られている。郵便ポストはただの四角い箱だし、信号機はポールのちょうど真ん中で三色の光を放っている。鉄塔だって、砂時計みたいな形をしているのだ。この街で車を持っている人はいない。持っていても、なかなか管理するのが難しい。屋根にもタイヤをつけようと試みた人もいるらしいけど、やはりうまくいかなかったらしい。
「あっ、リョーマスじゃんかよ。お前家にいなくていいのかよ」
「お前だって同じだろ」
「俺は買い物を頼まれたんだよ。ほら、ウチ子どもが生まれただろ。ちょっと危ないからってさ、一応ロープみたいなの買って来いって言われてさ」
同じ学校に通うナナムズだ。全校生徒86人という中学校では仲が悪くなりようがないが、しかしこのナナムズとは特に一緒にいることが多い。そういえば自分も何か買おうかと思っていたのを思い出して、ナナムズと一緒にスーパーに行くことにする。
「なぁ、アレって何で起こるんだろうな」と僕はナナムズに聞いてみる。
「まだそんなこと言ってんのかよ。そんなん今時小学生でも聞かねぇぞ」
「でもさ、不思議だと思わない?何のためにそんなことが起こるわけ?しかもこの町だけさ」
「知るかよ、んなこと。」
そうしてまた僕らはとりとめのない話をする。
「バベルの塔ってあるだろ」
ナナムズが突然そんなことを言い出す。
「あぁ、知ってる知ってる。天まで届く塔って話でしょ」
「そうそう。俺思うんだけどさ、そのバベルの塔って昔オムランにあったんじゃないかって」
「何で?」
「いやだからさ、昔天まで行きたいと願った人がいるわけだろ。その時は神様は怒ったんだけどさ、よくよく考えたらまあ分からんでもないかなって心変わりしてさ。だからこうしてさ、地面と空を入れ替えたりしてるのかな、ってね」
僕らの住んでいる町オムランは、年に一回天と地がひっくり返る。
まさにそのままの意味であり、それ以上の意味はない。ある瞬間この町はすべての物質と人が浮き上がり、それがいつのまにか降下に転換し、空だったはずのところが地面になる。毎年それを繰り返すものだから、町にあるすべてのものは上下対称に作っておかないと、この転換の際にうまくシフトできないのである。
「なるほどね、バベルの塔か。面白いこと考えるね」
「だろ。他にもさ、人間もその内上下対称になるんじゃねぇかって考えたりね」
「うげっ、なんか気持ちわる」
「肩からさ足が余分に生えてきて、股の間から頭と腕が生えてくればさ、まあ上下対称だわな。いつかオムロンに住む人がみんなそんな人間になってたりしてな」
学者の中には、天と地の転換を住民の錯覚だとする意見もある。僕たちが集団催眠に掛かって、天と地が入れ替わっているように錯覚しているだけなのだ、と。根拠はもちろんあって、オムロンだけしか天と地が転換しないという事実もそうであるが、それ以上に、僕らが空にいるはずの時期にもオムロンの街は外界と繋がっているという事実が挙げられる。天と地の転換が毎年起こっているのなら、空にいるはずの間オムロンの町には誰も近づけないはずである。しかし、決してそうはならない。確かにそう言われると、僕らもおかしいなと思わないでもない。しかし一方で、空にいる時期のオムロンの気圧や酸素濃度は周囲の町と比べて著しく違うという報告もある。結局、どうなっているのか僕らには分からない。分かるのは、僕らは一年に一回ふわっと浮き上がり、しばらくすると昨日まで天上だった場所に座っているという事実だけである。
「やべっ、そろそろ帰らないと。始まっちゃうぜ」
買い物を終えた僕らは帰り道を急ぐ。今日もまた、その意義がまったく理解できない天と地の転換が、僕らの生活に何ほどの影響も与えることなく実行されるのだ。
一銃「バベルの塔」
やっぱこれぐらい短い話だと、何かオチがないと厳しいですね。ただオチのある話はなかなか思いつかないんだよなぁ。
そろそろ内容に入ります。
本作は二編の短編が収録された短編集ですが、そのうちの一方は内容についてほぼ理解できなかったので内容紹介は省きます。
「オブ・ザ・ベースボール」
俺はファウルズって町でレスキューチームを組んでいる。レスキューと言っても怪我人を看護したりするわけじゃない。空から降ってくるやつを救うのだ。
ここファウルズは、空から人が降って来る。学者はあれこれと仮説を繰り出しては来るが、とりあえず俺らにとっては現実に人が降って来るのだからなんとかするしかない。
レスキューチームは9人。与えられているのはユニフォームとバット。空から降って来る奴を救うのに何でバットなんだという意見は空に届いた試しはない。とりあえず日々走りこみをし素振りをし、人が降って来る日に備えている。
人が振ってくるのは大体年一回。これまでの打率、ゼロ。
「つぎの著者に続く」
難しすぎて内容が掴めませんでした。
というような話です。
さてこの「オブ・ザ・ベースボール」という短編が、実質の円城塔のデビュー作ということになります。単行本では「Self Reference ENGINE」でデビューしていますが、この「オブ・ザ・ベースボール」で文学界新人賞を受賞してデビューという形です。またこの「オブ・ザ・ベースボール」は芥川賞の候補にもなったようです。
「オブ・ザ・ベースボール」はなかなか面白い話でした。ただひたすらに、空から人が降って来る理屈やら学者の話やらというようなことについてゴタクを並べているだけの話なんだけど、語り口調がなんとも言えずおかしさを醸し出しているし、そもそも空から降って来る人間をバットを持って迎える、しかも打率はこれまでゼロなのに何故か町の英雄というシュールさが、すごく面白いなと思いました。
しかしよくもまあ人が降って来るというだけのことでこれだけあれこれ書けるな、と感心するくらいですね。あれこれ書いているくせにリアリティを追究しているわけではなく、別の何かを追究するためにあれこれゴタクを並べている、そんな雰囲気があります。むしろ、どんどんリアリティを失わせるためにあれこれ書いているような、そんな印象さえあります。何とも言えない、不思議な感じですね。僕も、「天と地が入れ替わるオムランという町」という設定であれこれゴタクを並べようと思ったんですけど、やっぱ無理でした。思った以上に難しいですね、これは。ストーリーを進展させるために文章があるのではなく、ストーリーを停滞させるために文章がある、そんな感じです。
さてそれで問題の「つぎの著者に続く」ですが、これはもうさっぱりわけわからん、という感じです。雑誌に載った時はなかった、著者による註というのが載っているんだけど、これがもうすごいのなんの。注釈のページも含めて70Pくらいの短編なんだけど、その内注釈が10Pもあります。しかもそれが、吉本隆明「言語にとって美とはなにか」、ヴィドケンシュタイン「哲学探究」、クラウス・ヴァーゲンバッハ「カフカの城はどこにあったのか?」、ホルヘ・ルイス・ボルヘス「バベルの図書館」だのと言ったような、何すかその本?みたいな本の名前がずらずら並んでたりして、もうわけわからんって感じでした。話は、R氏と呼ばれている作家の著作を、その著作を読まずに完全にコピーする、みたいな話で、なんのことやらよく分かりませんでした。難しすぎます。もう少し読者の方へと歩み寄ってもらえればなぁ、と思います。完全に置き去りにされてしまいました。
まあそんなわけで、「オブ・ザ・ベースボール」はなかなかいいんですけど、でも正直「オブ・ザ・ベースボール」を読むためだけにこの本を買うのはちょっと高いような気もします。もう少し作品数がまとまってから本にしてもらいたかったですね。全体で150Pぐらいの作品で1200円はちょっとやっぱり高いでしょう。だから何とも勧め難いですけど、まあ機会があれば読んでみてください。
円城塔「オブ・ザ・ベースボール」
けどこれは全然珍しいことじゃない。僕が住んでいるこの街オムランでは、極々普通のことだ。メイナスの家だって畳だ。ただやっぱり一般的にはフローリングというのが普通だ。オムランでも日本は大人気で、僕とメイナスの家は無理して日本から畳を取り寄せているのだ。あんまり居心地はよくないのだけど。
「ねぇねぇ、いつだっけ?今日?」
「そう、今日だよ。だから外に出ちゃダメ」
「じゃあその前にちょっとだけ買い物!」
「ちょっと待って!まったくもぉ」
母親のそんな声を背中に聞きながら、僕は玄関を飛び出す。まあ大丈夫。アレが来るのが分かってさえいれば、いつ家に戻らなきゃいけないかなんて分かってる。もう子どもじゃないんだから。
オムランの街は、すべてのものが上下対称に作られている。こんな街は世界中探したって他にはないだろう。独特の景観美だと言って写真家が時折やって来たりもするんだけど、生まれてからずっとここに住んでる僕からすれば、どこが美しいのか分からない。そもそも、他の街は写真でしか見たことがないのだから、この街のおかしさみたいなものも実はちゃんとは分かっていなかったりするのだけど。
立ち並ぶ家には屋根というものはなく、すべて平に作られている。郵便ポストはただの四角い箱だし、信号機はポールのちょうど真ん中で三色の光を放っている。鉄塔だって、砂時計みたいな形をしているのだ。この街で車を持っている人はいない。持っていても、なかなか管理するのが難しい。屋根にもタイヤをつけようと試みた人もいるらしいけど、やはりうまくいかなかったらしい。
「あっ、リョーマスじゃんかよ。お前家にいなくていいのかよ」
「お前だって同じだろ」
「俺は買い物を頼まれたんだよ。ほら、ウチ子どもが生まれただろ。ちょっと危ないからってさ、一応ロープみたいなの買って来いって言われてさ」
同じ学校に通うナナムズだ。全校生徒86人という中学校では仲が悪くなりようがないが、しかしこのナナムズとは特に一緒にいることが多い。そういえば自分も何か買おうかと思っていたのを思い出して、ナナムズと一緒にスーパーに行くことにする。
「なぁ、アレって何で起こるんだろうな」と僕はナナムズに聞いてみる。
「まだそんなこと言ってんのかよ。そんなん今時小学生でも聞かねぇぞ」
「でもさ、不思議だと思わない?何のためにそんなことが起こるわけ?しかもこの町だけさ」
「知るかよ、んなこと。」
そうしてまた僕らはとりとめのない話をする。
「バベルの塔ってあるだろ」
ナナムズが突然そんなことを言い出す。
「あぁ、知ってる知ってる。天まで届く塔って話でしょ」
「そうそう。俺思うんだけどさ、そのバベルの塔って昔オムランにあったんじゃないかって」
「何で?」
「いやだからさ、昔天まで行きたいと願った人がいるわけだろ。その時は神様は怒ったんだけどさ、よくよく考えたらまあ分からんでもないかなって心変わりしてさ。だからこうしてさ、地面と空を入れ替えたりしてるのかな、ってね」
僕らの住んでいる町オムランは、年に一回天と地がひっくり返る。
まさにそのままの意味であり、それ以上の意味はない。ある瞬間この町はすべての物質と人が浮き上がり、それがいつのまにか降下に転換し、空だったはずのところが地面になる。毎年それを繰り返すものだから、町にあるすべてのものは上下対称に作っておかないと、この転換の際にうまくシフトできないのである。
「なるほどね、バベルの塔か。面白いこと考えるね」
「だろ。他にもさ、人間もその内上下対称になるんじゃねぇかって考えたりね」
「うげっ、なんか気持ちわる」
「肩からさ足が余分に生えてきて、股の間から頭と腕が生えてくればさ、まあ上下対称だわな。いつかオムロンに住む人がみんなそんな人間になってたりしてな」
学者の中には、天と地の転換を住民の錯覚だとする意見もある。僕たちが集団催眠に掛かって、天と地が入れ替わっているように錯覚しているだけなのだ、と。根拠はもちろんあって、オムロンだけしか天と地が転換しないという事実もそうであるが、それ以上に、僕らが空にいるはずの時期にもオムロンの街は外界と繋がっているという事実が挙げられる。天と地の転換が毎年起こっているのなら、空にいるはずの間オムロンの町には誰も近づけないはずである。しかし、決してそうはならない。確かにそう言われると、僕らもおかしいなと思わないでもない。しかし一方で、空にいる時期のオムロンの気圧や酸素濃度は周囲の町と比べて著しく違うという報告もある。結局、どうなっているのか僕らには分からない。分かるのは、僕らは一年に一回ふわっと浮き上がり、しばらくすると昨日まで天上だった場所に座っているという事実だけである。
「やべっ、そろそろ帰らないと。始まっちゃうぜ」
買い物を終えた僕らは帰り道を急ぐ。今日もまた、その意義がまったく理解できない天と地の転換が、僕らの生活に何ほどの影響も与えることなく実行されるのだ。
一銃「バベルの塔」
やっぱこれぐらい短い話だと、何かオチがないと厳しいですね。ただオチのある話はなかなか思いつかないんだよなぁ。
そろそろ内容に入ります。
本作は二編の短編が収録された短編集ですが、そのうちの一方は内容についてほぼ理解できなかったので内容紹介は省きます。
「オブ・ザ・ベースボール」
俺はファウルズって町でレスキューチームを組んでいる。レスキューと言っても怪我人を看護したりするわけじゃない。空から降ってくるやつを救うのだ。
ここファウルズは、空から人が降って来る。学者はあれこれと仮説を繰り出しては来るが、とりあえず俺らにとっては現実に人が降って来るのだからなんとかするしかない。
レスキューチームは9人。与えられているのはユニフォームとバット。空から降って来る奴を救うのに何でバットなんだという意見は空に届いた試しはない。とりあえず日々走りこみをし素振りをし、人が降って来る日に備えている。
人が振ってくるのは大体年一回。これまでの打率、ゼロ。
「つぎの著者に続く」
難しすぎて内容が掴めませんでした。
というような話です。
さてこの「オブ・ザ・ベースボール」という短編が、実質の円城塔のデビュー作ということになります。単行本では「Self Reference ENGINE」でデビューしていますが、この「オブ・ザ・ベースボール」で文学界新人賞を受賞してデビューという形です。またこの「オブ・ザ・ベースボール」は芥川賞の候補にもなったようです。
「オブ・ザ・ベースボール」はなかなか面白い話でした。ただひたすらに、空から人が降って来る理屈やら学者の話やらというようなことについてゴタクを並べているだけの話なんだけど、語り口調がなんとも言えずおかしさを醸し出しているし、そもそも空から降って来る人間をバットを持って迎える、しかも打率はこれまでゼロなのに何故か町の英雄というシュールさが、すごく面白いなと思いました。
しかしよくもまあ人が降って来るというだけのことでこれだけあれこれ書けるな、と感心するくらいですね。あれこれ書いているくせにリアリティを追究しているわけではなく、別の何かを追究するためにあれこれゴタクを並べている、そんな雰囲気があります。むしろ、どんどんリアリティを失わせるためにあれこれ書いているような、そんな印象さえあります。何とも言えない、不思議な感じですね。僕も、「天と地が入れ替わるオムランという町」という設定であれこれゴタクを並べようと思ったんですけど、やっぱ無理でした。思った以上に難しいですね、これは。ストーリーを進展させるために文章があるのではなく、ストーリーを停滞させるために文章がある、そんな感じです。
さてそれで問題の「つぎの著者に続く」ですが、これはもうさっぱりわけわからん、という感じです。雑誌に載った時はなかった、著者による註というのが載っているんだけど、これがもうすごいのなんの。注釈のページも含めて70Pくらいの短編なんだけど、その内注釈が10Pもあります。しかもそれが、吉本隆明「言語にとって美とはなにか」、ヴィドケンシュタイン「哲学探究」、クラウス・ヴァーゲンバッハ「カフカの城はどこにあったのか?」、ホルヘ・ルイス・ボルヘス「バベルの図書館」だのと言ったような、何すかその本?みたいな本の名前がずらずら並んでたりして、もうわけわからんって感じでした。話は、R氏と呼ばれている作家の著作を、その著作を読まずに完全にコピーする、みたいな話で、なんのことやらよく分かりませんでした。難しすぎます。もう少し読者の方へと歩み寄ってもらえればなぁ、と思います。完全に置き去りにされてしまいました。
まあそんなわけで、「オブ・ザ・ベースボール」はなかなかいいんですけど、でも正直「オブ・ザ・ベースボール」を読むためだけにこの本を買うのはちょっと高いような気もします。もう少し作品数がまとまってから本にしてもらいたかったですね。全体で150Pぐらいの作品で1200円はちょっとやっぱり高いでしょう。だから何とも勧め難いですけど、まあ機会があれば読んでみてください。
円城塔「オブ・ザ・ベースボール」
夕凪の街 桜の国(こうの史代)
「大切なものを、預かっていただけると聞いてきたんですけど」
定休日の翌日に当たる水曜日は、世間でいう月曜日のようなものだ。僕はサラリーマンではないからそこまでではないが、しかしやっぱり休みの次の日というのはどうも普段と比べて仕事への意欲が欠けているように思える。
やってきたのは、60代ぐらいだと思われる初老の女性だった。小柄であるのに、少し折り曲がった腰のために余計に小さく見える、そんな女性だ。
「えぇ、何でもお預かりさせていただいています」
僕は『保管室』を経営している。『保管室』などという、まさにそのままの名前をつけたのは、ただでさえ分かり難い僕の仕事を、少しでも分かりやすくしよう、という配慮からである。
仕事は単純である。お客様が大切に思っているものをきちんと保管する、そういう仕事だ。有人のトランクルームみたいなもの、と言えなくもないが、トランクルームとはいささか趣は異なる。
トランクルームの場合は、形ある物しか保管できないし、物によっては取り扱えないものもある。しかし僕の『保管室』の場合、文字通り何でも構わない。北極の雪だろうが、雀の涙だろうが、記憶と言ったようなものまで、何でも保管する。どうやって保管しているかは企業秘密だ。また『保管室』には人間もいる。法律的にどうなっているのか、という質問にはお答えできない。
過去どんな依頼も断ったことがない、というのが僕の自慢でもあり、『保管室』の信頼でもある。仕事を始めて15年近くなるが、ようやく固定客もつき、信頼も得られ、安定した経営を維持することが出来るようになった。
「何をお預かりいたしましょうか」
そうご婦人に尋ねるが、しかしすぐには返事は返ってこない。
「あの、まだそれはわたくしの手元にはないのです。近い将来必ず手に入ることは分かっているのですが、今はまだお預け出来ないのです」
妙な依頼だなと思った。別にこちらとしては保管物をいつ受け取ろうが構わない。しかしならば、その保管物が手に入ってからくればいいのではないか、と思える。それでもビジネスチャンスを逃すようなことはもちろんしない。
「えぇ、もちろん結構です。手に入り次第お持ちいただければ結構ですよ」
そういうとご婦人はホッとしたような表情を浮かべた。
「先にいくつかお聞きしてもいいでしょうか」
「はい、何でも聞いてください」
「一度預けたものは二度と外には出られないのですか?」
これも変な質問だ、と思った。大切なものを預けるのだから、もちろん取り出すことはいつでも可能だ。そうでなければ預ける意味がない。中には、元恋人との思い出の品をどうしても捨てられずにここに預けるというような依頼人もいることはいるのだが。
「基本的に依頼人ご本人様の要望がございましたらいつでも取り出すことは可能です。また依頼人様から間違いなく委託されたということが証明できれば、依頼人ご本人様以外の方でも取り出すことは可能です」
「いつまで預かっていただけるのでしょう?」
「基本的に半永久とお考えください。お預かりするものに物理的な寿命がある場合を除き、いつまでもお預かりさせていただきます」
「あの、その申し上げ難いのですけど、もしも管理人であるあなた様がいなくなられたような場合にはどうなるのでしょうか?」
これも時々受ける質問だ。とにかくかなり長期的に預けたいと考える人は、僕が死んだりした場合のことを気にしたがる。
「『保管室』の管理人には、常にサブが二人つくことになっています。もし管理人、今はわたくしですが、わたくしに何かあった場合でも、すぐさまその管理人の権限がサブに委譲することになっておりますので、ご心配なさることはないと思いますよ」
そこまで説明すると、ご婦人は納得されたようだった。
「わかりました。思った通りのところのようです。安心しました。それで、大変不躾ではありますが、もう一つお願いを聞いて頂きたいのですが」
「はい、なんなりと」
「わたくしの話を聞いてはいただけないでしょうか?」
そうして僕は、事情はよく分からないがそのご婦人の話とやらを聞くことになった。僕としては、ある一つの事柄に関することを聞くだけなのだろうと思っていたのだけど、そうではなかった。ご婦人は、毎週きっかり水曜日にやってきては、雑談としかいいようのないとりとめのない話をして帰っていくのである。
それは、戦争の話であったり、学校の話であったり、亡くなった旦那さんとの馴れ初めであったり、初めて聞いた音楽の話であったり、娘や孫の話であったりと、脈絡のない捉えどころのない話であった。しかし、ご婦人の語り口がなかなか巧いのと、定休日明けの水曜日でなかなか仕事をする気にならないというのとがあって、僕は割合面白くご婦人の話を聞いていたのだった。
その中で、僕の心を揺さぶる話が一つあった。
「息子は、ひき逃げで亡くなったんです」
それを聞いて僕は、かつての自分を思い出していた。僕は昔、人を轢いてしまったことがあるのだ。怖くなってそのまま逃げた。運良く、警察に見つかることはなかった。しかしそれからしばらく、あの時の青年は死んだだろうか、すぐに連絡すれば助かったあろうか、と悩む日が続いた。
ご婦人は話し終わると必ず、今日話したこと、是非覚えていてくださいね、と付け加えて帰っていった。『保管室』なんていう仕事をやっているせいか、人より記憶力はいい。言われなくても、ご婦人の話はすべて覚えていた。
ご婦人と出会ってから3ヶ月ほどが過ぎた頃のこと。水曜日にやってきたご婦人は、
「ようやくお預けするものが揃いました」
とそう告げたのだった。
「それはよかったです。何をお預かりすればよろしいでしょうか」
するとご婦人は、真っ直ぐに僕を指差したのだった。
「私の大切な記憶をたくさん持っているあなたを、保管して頂きたいのですが」
その瞬間、僕は分かったような気がした。たぶん、いや絶対、あのご婦人は僕がひき逃げした青年の母親なのだろう。どうやって見つけたかは知らないが、僕がその犯人であることを突き止めたのだ。
「この『保管室』は、依頼を一度も断ったことがないという評判を聞いております。まさかお断りにはならないですよね」
一銃「保管室」
今回は、設定は小川洋子の「薬指の標本」の『標本室』をパクりました。今回は話が思いつかなくて結構苦労しましたが、最終的にはそこそこ悪くない話になったかなと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、マンガです。ヒロシマの原爆をモチーフにした作品ですが、原爆そのものを一切描くことなくヒロシマの現実を描いたということで話題になった作品です。帯には、
『実にマンガ界この十年の最大の収穫だと思います』
と書かれています。
本作は、三つに分かれています。それぞれの内容をざっと紹介しようと思います。
「夕凪の街」
原爆投下から10年後の広島。平野皆実という女性の何気ない日々の日常を描きながら、原爆が広島にもたらしたものを描き出す。
「桜の国 1」
舞台は、1987年の東京中野区。石川七波という小学生が主人公。野球をしたり、隣人で友人の東子と遊んだりという日常を描く。
「桜の国 2」
2004年の東京の話。同じく石川七波が主人公。病弱だった弟の旭と父親と一緒に暮している。父親は最近どうも変。ボケてるのかもしれないと思って尾行してみることにするのだけど、父親は何故か広島まで足を伸ばし…。
というような話です。
この作品無茶苦茶評価が高くて、あと他にも事情があってとりあえず読んでみることにしました。
しかしこれ、感想は結構難しいなと思いました。
一読して、分からない部分が結構ありました。僕が読んでるマンガと言えば他に「名探偵コナン」ぐらいなものですが、そういうエンタメ系のマンガと比べると、スラスラ理解出来るというストーリーではないような気がします。
だから二回読みました。そうすると、一度目ではよくわからなかった部分が分かるようになってきました。
本作を二回読んで僕が強く感じたことは、
『原爆はまだ過去じゃない』
ということです。
僕は広島や長崎に親類はいない(はず)だし、誰か知り合いが広島や長崎出身だったというようなこともありません(あったとしても、そこまでの話をする間柄ではなかったという感じです)。だから、原爆の話はほとんど何も知らないと言っても言い過ぎではないですね。正直、8月6日と8月9日のどっちが広島でどっちが長崎なのか、ということさえ僕は怪しいです(本作を読んだ直後なので、広島が8月6日だと知っていますが)。だから、こういう言い方は絶対に間違ってると思いますが、僕にとって原爆というのは過去だとか風化だとか言う前に、そもそも僕の前を通りすぎてもいない存在だったりします。存在自体は知っているけど、僕とはものすごく離れた距離にあって、その存在を肌で感じることは出来ないわけです。知識がないことの方には特に言い訳はしませんが、しかしやはりその物理的な距離感が、関心のなさに繋がっているのだと思います。
事情があって、原爆についてインターネットであれこれ調べていた時に、とある大学の教授だと思われる人のページに辿り着きました。そこでは授業で原爆について講義しているそうで、そこで
『原爆症で苦しんでいる人はどのくらいいると思うか』
という質問をしてみるのだそうです。
そうすると、五千人というような答えが多くて、多くても一万人ぐらいの認識のようで唖然とする、というようなことが書かれていました。
それを読んで僕も、正直何人ぐらいなんだろう、と思いました。僕は今でもその数字を知りません。原爆で亡くなった人がたくさんいるのだろう、というのは想像が出来ます。しかし、今も原爆症で苦しんでいる人となると、ちょっと想像がつかないなと思います。
本作を読むと、今現在も原爆の余波みたいなものは脈々と続いているのだな、ということがすごく実感できます。原爆症に冒されているかどうか、ということとも関係ないわけです。原爆症の二世、あるいは三世であるかどうか、そうしたことさえも未だに残っているのだそうです。考えてみれば確かにそうかもしれません。原爆症で死んだ親を持つ子どもは、もしかしたら同じく原爆症で死んでしまうかもしれません。そうした、可能性の差別みたいなものが未だに残っているということも僕は全然知らなかったので、この作品を読んでびっくりしました。
原爆というのは、もちろん投下された直後が最も被害が大きかっただろうと思います。ただもちろん僕も、知識としては原爆の被害というのが長く続くものだということは知っていました。原爆症という名前も知っていました。しかしそれでも、原爆投下から60年近く経っているのに、未だに原爆によって苦しんでいる人がいる、原爆による直接的な被害ではなく、原爆症になるかもしれないという可能性による被害が存在しているというのは、やはり僕としては驚きました。
本作ではそういう、原爆そのものの悲惨さではなく、言い方はおかしいかもしれないけど、『原爆』という言葉がもたらす悲惨さみたいなものを描いていて、原爆を扱った作品はほとんど読んだことはないのだけど、それでもこの作品はそういう意味で異質なのだろうな、と思いました。
僕は二回しか読んでないですけど、繰り返して読むとそれまで気づかなかったことに気づく作品だと思います。ページ数はすごく短いのですけど、ページ数以上の何かが詰め込まれていて、繰り返し読むことでそれが少しずつ見えてくる、そんな作品であるような気がします。
ただ、一方でそれが欠点にもなりえるかな、という気が僕はしました。
本作みたいな作品を貶すようなことを言うのはなかなか勇気がいりますが、一読しただけでは完全には伝わらないという部分が、本作のとっつきにくさに繋がるような気がします。
僕はあらかじめこの作品の評判は知っていたし、傑作だという評価をよく目にしていたので、だから二回読んでみよう、と思ったわけです。でも、そういう評判を知らずに本作を読んだら、一読しただけで、何だ大したことないじゃん、という風に思われてしまうかもしれません。そういう意味で、読み手の意識が作品の評価に影響を与えてしまうような気がします。まあそれが作品の欠点なのかどうなのか、僕には何とも言えませんが。
同じ作品を繰り返して読むことのほとんどない僕にしては珍しく、何度でも読めそうな作品です。たぶん、読むたびに新鮮さを感じるのではないかな、という気がします。不思議な作品ですね。いやでも、確かにこの作品は読み継がれるべき作品かもしれません。既に原爆について知らない人の方が多い世の中になってしまいました。その中で、原爆のきっかけにするにはすごくいい作品ではないか、という気が僕はします。
こうの史代「夕凪の街 桜の国」
定休日の翌日に当たる水曜日は、世間でいう月曜日のようなものだ。僕はサラリーマンではないからそこまでではないが、しかしやっぱり休みの次の日というのはどうも普段と比べて仕事への意欲が欠けているように思える。
やってきたのは、60代ぐらいだと思われる初老の女性だった。小柄であるのに、少し折り曲がった腰のために余計に小さく見える、そんな女性だ。
「えぇ、何でもお預かりさせていただいています」
僕は『保管室』を経営している。『保管室』などという、まさにそのままの名前をつけたのは、ただでさえ分かり難い僕の仕事を、少しでも分かりやすくしよう、という配慮からである。
仕事は単純である。お客様が大切に思っているものをきちんと保管する、そういう仕事だ。有人のトランクルームみたいなもの、と言えなくもないが、トランクルームとはいささか趣は異なる。
トランクルームの場合は、形ある物しか保管できないし、物によっては取り扱えないものもある。しかし僕の『保管室』の場合、文字通り何でも構わない。北極の雪だろうが、雀の涙だろうが、記憶と言ったようなものまで、何でも保管する。どうやって保管しているかは企業秘密だ。また『保管室』には人間もいる。法律的にどうなっているのか、という質問にはお答えできない。
過去どんな依頼も断ったことがない、というのが僕の自慢でもあり、『保管室』の信頼でもある。仕事を始めて15年近くなるが、ようやく固定客もつき、信頼も得られ、安定した経営を維持することが出来るようになった。
「何をお預かりいたしましょうか」
そうご婦人に尋ねるが、しかしすぐには返事は返ってこない。
「あの、まだそれはわたくしの手元にはないのです。近い将来必ず手に入ることは分かっているのですが、今はまだお預け出来ないのです」
妙な依頼だなと思った。別にこちらとしては保管物をいつ受け取ろうが構わない。しかしならば、その保管物が手に入ってからくればいいのではないか、と思える。それでもビジネスチャンスを逃すようなことはもちろんしない。
「えぇ、もちろん結構です。手に入り次第お持ちいただければ結構ですよ」
そういうとご婦人はホッとしたような表情を浮かべた。
「先にいくつかお聞きしてもいいでしょうか」
「はい、何でも聞いてください」
「一度預けたものは二度と外には出られないのですか?」
これも変な質問だ、と思った。大切なものを預けるのだから、もちろん取り出すことはいつでも可能だ。そうでなければ預ける意味がない。中には、元恋人との思い出の品をどうしても捨てられずにここに預けるというような依頼人もいることはいるのだが。
「基本的に依頼人ご本人様の要望がございましたらいつでも取り出すことは可能です。また依頼人様から間違いなく委託されたということが証明できれば、依頼人ご本人様以外の方でも取り出すことは可能です」
「いつまで預かっていただけるのでしょう?」
「基本的に半永久とお考えください。お預かりするものに物理的な寿命がある場合を除き、いつまでもお預かりさせていただきます」
「あの、その申し上げ難いのですけど、もしも管理人であるあなた様がいなくなられたような場合にはどうなるのでしょうか?」
これも時々受ける質問だ。とにかくかなり長期的に預けたいと考える人は、僕が死んだりした場合のことを気にしたがる。
「『保管室』の管理人には、常にサブが二人つくことになっています。もし管理人、今はわたくしですが、わたくしに何かあった場合でも、すぐさまその管理人の権限がサブに委譲することになっておりますので、ご心配なさることはないと思いますよ」
そこまで説明すると、ご婦人は納得されたようだった。
「わかりました。思った通りのところのようです。安心しました。それで、大変不躾ではありますが、もう一つお願いを聞いて頂きたいのですが」
「はい、なんなりと」
「わたくしの話を聞いてはいただけないでしょうか?」
そうして僕は、事情はよく分からないがそのご婦人の話とやらを聞くことになった。僕としては、ある一つの事柄に関することを聞くだけなのだろうと思っていたのだけど、そうではなかった。ご婦人は、毎週きっかり水曜日にやってきては、雑談としかいいようのないとりとめのない話をして帰っていくのである。
それは、戦争の話であったり、学校の話であったり、亡くなった旦那さんとの馴れ初めであったり、初めて聞いた音楽の話であったり、娘や孫の話であったりと、脈絡のない捉えどころのない話であった。しかし、ご婦人の語り口がなかなか巧いのと、定休日明けの水曜日でなかなか仕事をする気にならないというのとがあって、僕は割合面白くご婦人の話を聞いていたのだった。
その中で、僕の心を揺さぶる話が一つあった。
「息子は、ひき逃げで亡くなったんです」
それを聞いて僕は、かつての自分を思い出していた。僕は昔、人を轢いてしまったことがあるのだ。怖くなってそのまま逃げた。運良く、警察に見つかることはなかった。しかしそれからしばらく、あの時の青年は死んだだろうか、すぐに連絡すれば助かったあろうか、と悩む日が続いた。
ご婦人は話し終わると必ず、今日話したこと、是非覚えていてくださいね、と付け加えて帰っていった。『保管室』なんていう仕事をやっているせいか、人より記憶力はいい。言われなくても、ご婦人の話はすべて覚えていた。
ご婦人と出会ってから3ヶ月ほどが過ぎた頃のこと。水曜日にやってきたご婦人は、
「ようやくお預けするものが揃いました」
とそう告げたのだった。
「それはよかったです。何をお預かりすればよろしいでしょうか」
するとご婦人は、真っ直ぐに僕を指差したのだった。
「私の大切な記憶をたくさん持っているあなたを、保管して頂きたいのですが」
その瞬間、僕は分かったような気がした。たぶん、いや絶対、あのご婦人は僕がひき逃げした青年の母親なのだろう。どうやって見つけたかは知らないが、僕がその犯人であることを突き止めたのだ。
「この『保管室』は、依頼を一度も断ったことがないという評判を聞いております。まさかお断りにはならないですよね」
一銃「保管室」
今回は、設定は小川洋子の「薬指の標本」の『標本室』をパクりました。今回は話が思いつかなくて結構苦労しましたが、最終的にはそこそこ悪くない話になったかなと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、マンガです。ヒロシマの原爆をモチーフにした作品ですが、原爆そのものを一切描くことなくヒロシマの現実を描いたということで話題になった作品です。帯には、
『実にマンガ界この十年の最大の収穫だと思います』
と書かれています。
本作は、三つに分かれています。それぞれの内容をざっと紹介しようと思います。
「夕凪の街」
原爆投下から10年後の広島。平野皆実という女性の何気ない日々の日常を描きながら、原爆が広島にもたらしたものを描き出す。
「桜の国 1」
舞台は、1987年の東京中野区。石川七波という小学生が主人公。野球をしたり、隣人で友人の東子と遊んだりという日常を描く。
「桜の国 2」
2004年の東京の話。同じく石川七波が主人公。病弱だった弟の旭と父親と一緒に暮している。父親は最近どうも変。ボケてるのかもしれないと思って尾行してみることにするのだけど、父親は何故か広島まで足を伸ばし…。
というような話です。
この作品無茶苦茶評価が高くて、あと他にも事情があってとりあえず読んでみることにしました。
しかしこれ、感想は結構難しいなと思いました。
一読して、分からない部分が結構ありました。僕が読んでるマンガと言えば他に「名探偵コナン」ぐらいなものですが、そういうエンタメ系のマンガと比べると、スラスラ理解出来るというストーリーではないような気がします。
だから二回読みました。そうすると、一度目ではよくわからなかった部分が分かるようになってきました。
本作を二回読んで僕が強く感じたことは、
『原爆はまだ過去じゃない』
ということです。
僕は広島や長崎に親類はいない(はず)だし、誰か知り合いが広島や長崎出身だったというようなこともありません(あったとしても、そこまでの話をする間柄ではなかったという感じです)。だから、原爆の話はほとんど何も知らないと言っても言い過ぎではないですね。正直、8月6日と8月9日のどっちが広島でどっちが長崎なのか、ということさえ僕は怪しいです(本作を読んだ直後なので、広島が8月6日だと知っていますが)。だから、こういう言い方は絶対に間違ってると思いますが、僕にとって原爆というのは過去だとか風化だとか言う前に、そもそも僕の前を通りすぎてもいない存在だったりします。存在自体は知っているけど、僕とはものすごく離れた距離にあって、その存在を肌で感じることは出来ないわけです。知識がないことの方には特に言い訳はしませんが、しかしやはりその物理的な距離感が、関心のなさに繋がっているのだと思います。
事情があって、原爆についてインターネットであれこれ調べていた時に、とある大学の教授だと思われる人のページに辿り着きました。そこでは授業で原爆について講義しているそうで、そこで
『原爆症で苦しんでいる人はどのくらいいると思うか』
という質問をしてみるのだそうです。
そうすると、五千人というような答えが多くて、多くても一万人ぐらいの認識のようで唖然とする、というようなことが書かれていました。
それを読んで僕も、正直何人ぐらいなんだろう、と思いました。僕は今でもその数字を知りません。原爆で亡くなった人がたくさんいるのだろう、というのは想像が出来ます。しかし、今も原爆症で苦しんでいる人となると、ちょっと想像がつかないなと思います。
本作を読むと、今現在も原爆の余波みたいなものは脈々と続いているのだな、ということがすごく実感できます。原爆症に冒されているかどうか、ということとも関係ないわけです。原爆症の二世、あるいは三世であるかどうか、そうしたことさえも未だに残っているのだそうです。考えてみれば確かにそうかもしれません。原爆症で死んだ親を持つ子どもは、もしかしたら同じく原爆症で死んでしまうかもしれません。そうした、可能性の差別みたいなものが未だに残っているということも僕は全然知らなかったので、この作品を読んでびっくりしました。
原爆というのは、もちろん投下された直後が最も被害が大きかっただろうと思います。ただもちろん僕も、知識としては原爆の被害というのが長く続くものだということは知っていました。原爆症という名前も知っていました。しかしそれでも、原爆投下から60年近く経っているのに、未だに原爆によって苦しんでいる人がいる、原爆による直接的な被害ではなく、原爆症になるかもしれないという可能性による被害が存在しているというのは、やはり僕としては驚きました。
本作ではそういう、原爆そのものの悲惨さではなく、言い方はおかしいかもしれないけど、『原爆』という言葉がもたらす悲惨さみたいなものを描いていて、原爆を扱った作品はほとんど読んだことはないのだけど、それでもこの作品はそういう意味で異質なのだろうな、と思いました。
僕は二回しか読んでないですけど、繰り返して読むとそれまで気づかなかったことに気づく作品だと思います。ページ数はすごく短いのですけど、ページ数以上の何かが詰め込まれていて、繰り返し読むことでそれが少しずつ見えてくる、そんな作品であるような気がします。
ただ、一方でそれが欠点にもなりえるかな、という気が僕はしました。
本作みたいな作品を貶すようなことを言うのはなかなか勇気がいりますが、一読しただけでは完全には伝わらないという部分が、本作のとっつきにくさに繋がるような気がします。
僕はあらかじめこの作品の評判は知っていたし、傑作だという評価をよく目にしていたので、だから二回読んでみよう、と思ったわけです。でも、そういう評判を知らずに本作を読んだら、一読しただけで、何だ大したことないじゃん、という風に思われてしまうかもしれません。そういう意味で、読み手の意識が作品の評価に影響を与えてしまうような気がします。まあそれが作品の欠点なのかどうなのか、僕には何とも言えませんが。
同じ作品を繰り返して読むことのほとんどない僕にしては珍しく、何度でも読めそうな作品です。たぶん、読むたびに新鮮さを感じるのではないかな、という気がします。不思議な作品ですね。いやでも、確かにこの作品は読み継がれるべき作品かもしれません。既に原爆について知らない人の方が多い世の中になってしまいました。その中で、原爆のきっかけにするにはすごくいい作品ではないか、という気が僕はします。
こうの史代「夕凪の街 桜の国」
風紋(乃南アサ)
「ねぇ、お母さん。ご飯は?」
「はいはい、ちょっと待ってね。直ちゃんもまだお腹空くのね」
「どうせ食い意地張ってますよーだ」
いつもと変わらない夕方。私は制服のままリビングに座ってテレビを見ている。芸能人が料理を食べてコメントをしたり、これから始まるドラマの宣伝をしたり、いつものように大して中身のない番組をダラダラと見続けた。
お母さんはキッチンで料理を続けている。今日はカレーみたいだ。お母さんは料理が得意な方ではないけど、お母さんが作るカレーは世界で一番美味しいと思っている。野菜やお肉を炒めている音を聞きながら、私は少しだけ幸せな気分になった。
「なぁ、トイレットペーパーってどこにあるんだっけ?」
これはお父さん。普段仕事が忙しくって、帰ってくるのが夜中になることも多いのに、夕方に家にいるなんてホント珍しい。たぶんこれからもずっとお父さんと一緒にいられるだろう。それは嬉しいし、お母さんだって嬉しいに違いない。でも、もう少し早くそうなってくれたらな、と思わないでもない。
「もう、お父さんったら全然家のこと知らないんだから」
ついお母さんの口調を真似てそんな言い方をしてしまう。お母さんが二人いるみたいだ、なんてお父さんには言われるけど、私は密かにそう言われるのが嬉しかったりする。
お父さんのためにトイレの横にある物入れからトイレットペーパーを持っていってあげる。お父さんにありがとうと言われて、私はまたちょっとだけ幸せに思う。
「直ちゃん、ご飯出来たわよ。お父さん呼んできて。ついでにあの人も呼んできてくれる?」
お父さんにご飯だよと声を掛けてから、私はお風呂場に向かった。あの人は何故だか、ずっとお風呂場から出てこないのだ。正直あんまり話したくないんだけど、でもしょうがない。何だかんだ言って、同じ家の中にいるんだから。
「ねぇ、ご飯みたいですよ。食べませんか?」
その男の人はだらしなく髭を生やして、ざっくりと着たトレーナーにジーンズという格好でお風呂場に座っていた。何を考えているのか分からない目で見られ、私は少し怯む。しかし、彼がもう私たちに何かすることは出来ないのだ、と自分に言い聞かせ、私は彼から目を逸らさなかった。
「ありがとう。行くよ」
そう言われて私はホッとした。なんとなくさっきよりは穏やかな感じになっているような気がした。
「いただきます」
四人で声を揃えてそう言うと、腹ペコだった私は夢中でカレーをかき込んだ。お母さんのカレーはやっぱり美味しい。付け合せのサラダには見向きもせずに食べていると、野菜も食べなきゃダメでしょ、とお母さんに言われた。そういうところは、やっぱり厳しい。
皆が食べるのに一段落した頃、お母さんが口を開いた。
「これから私たち、どうしたらいいのかしらね」
それはここにいる誰もが感じていることだった。それに、私たち家族三人に、見知らぬ男の人がいるというのもやはりどうしても慣れなかった。いつまでこうした生活を続ければいいのかよく分からない。
「まあ、早く見つけてもらうしかないんだろうけど」
お父さんがそう言って二階に視線を向ける。思わずと言った感じで、私たちも二階へ目を向けてしまった。
「俺なんかのせいで、ホントすいません。今さらこんなこと言ったって仕方ないんだろうけど」
名前も知らない男の人がそう続ける。初めて彼を見た時、そのあまりの無表情さに心が凍りつきそうになったけど、今は憔悴しているという表現がぴったりくる表情をしていた。彼もまさかこんな展開になるとは思ってもいなかっただろう。
「そうなのよね。何だか不思議なんだけど、どうしてもあなたのことを憎いとかって思えないのよね」
お母さんがそういうと、私も頷いた。お父さんもそう感じているようだった。
私たちがこうなってしまったすべての原因はこの男の人にある。それは間違いないんだけど、どうしても憎いという感じにはならないのだった。それはもうすべてが終わってしまっているからなのか、もう取り返しがつかないからなのか、あるいは結局彼も同じ境遇になってしまったという親近感みたいなものが生まれつつあるのか、私にはイマイチ説明が出来なかった。
「まあとにかく、一度しっかり確認してみないか。もしかしたら、何か勘違いしてるだけなのかもしれないし」
お父さんだってそんなこと全然信じていないはずだけど、でももう一回確かめてみるというのは悪くない気がした。正直二階に行くのは気が進まないのだけれど。
お父さんを先頭にして、私たちは二階へ向かう階段を昇った。二階には私の部屋と両親の寝室とお父さんの書斎があって、お父さんは迷わず私の部屋のドアを開けた。
そこには、私が血まみれになって倒れていた。
それを見て、やっぱり私は間違いなく死んでるんだって確認出来た。フローリングの床の上には、まだ固まりきっていない血が鮮やかに広がっていた。私はうつぶせになっているからその表情は分からない。どうせいろんな人に見られるんだから、口紅ぐらいは塗っておきたかったなぁ、妙なことを考えたりもした。
「やっぱり、そうだよな」
お父さんは私の死体を確認して、力なくそう呟いた。それから私たちは、両親の寝室に向かった。
そこには、両親と男の人がやはり血まみれになって倒れていた。男の人の胸にナイフが刺さっていた。それは、私と両親を死に至らしめたナイフでもあった。
「一番初めに気づくのは誰かな」
「そろそろ実家から宅配便が届くはずですけど、配達の方もすぐには気づかないでしょうね」
「やっぱり学校の先生か、お父さんの会社の人なんだろうね」
私は、自分がや両親が死んでしまったのを見てどうして哀しくならないのか不思議でたまらなかった。
一銃「一家団欒」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ある殺人事件を被害者家族と加害者家族の両面から描いた作品です。
私立M女高校に通う真裕子はその日、特別いつもと変わりなくすごした。その日は私の進路のこともあって学校で父母会が開かれるため、真裕子たちは早く帰れることになっていた。ちょっと寄り道して帰ると、父母会に行った母の書置きがあった。洗濯物を取り込んで、キャベツを千切りにしておいてね、と。
しかし、その日母は帰ってこなかった。一郎して予備校に通っている姉も、姉の家庭内暴力が酷くなってから何だかんだと理由をつけて家に帰るのが遅くなっていた父も一向に帰ってこなかった。真裕子は初めて一人で夜を明かすことになった。
それからしばらくして、母が殺されていることを知ることになる。そこから真裕子と家族は、犯罪被害者という立場で扱われることになった。報道陣が周りを囲み、警察と関わり、学校での立場も微妙に変化していった。真裕子は、しばらくはお母さんが死んでしまったことを信じられず、それからもすべてのことがお母さんを無視する形で進んで行くことに納得がいかなかった…。
一方で、加害者の家族もまた翻弄されることになる。早期に容疑者が捕まり、その取調べが進む一方で、加害者の家族は加害者の家族という視線で周りから見られることになる。それまでの生活が一変し、すべての人が信じられなくなる。どうして、ただ家族だっていうだけの理由でこんな目に遭わなくてはいけないのだろう…。
一つの事件を起点として広がる『風紋』を、様々な方向から丁寧に追い続ける形で物語が進んで行きます。事件発生から裁判の判決までをひたすらに追うその先に、被害者加害者両家族は、一体どのような変化を受け入れることになるのか…。
というような話です。
さてこの作品の話をする前に、ついこの間の土曜日にテレビで見たある映画の話をしましょう。
「それでもボクはやってない」という映画ですが、なかなかすごい映画だな、と思いました。とにかく、痴漢の冤罪と間違われてから判決が下されるまでを、ひたすらリアルに描いている作品で、とてもフィクションだとは思えませんでした。記録映画を見ているような感じで、ひたすら怖くなりました。映画として良いか悪いかというのはなかなか評価しづらい作品だと思いましたけど、見ていて妙に引き込まれる作品でした。
本作も似たような印象があります。本作は、事件自体は結構ありきたりだったりします。新聞を見ていればいつでも載っているようなそんな平凡な事件です。ただ、僕らが新聞やテレビを見て、また同じような事件が起こったなぁ、としか思えないその事件にだって、被害者と加害者、また彼らを取り巻く様々な人がいるわけです。僕らからすれば『似たような事件』で済まされてしまうその事件一つひとつに、その事件によって影響を与えられる人がたくさんいるわけです。
本作では、そういう一つの事件によって誰がどういう形で影響を受けるのか、それをつぶさに描いている感じがします。まさに記録しているという雰囲気で、もっと言えば紙の上で実験しているのだ、という感じもしました。
例えばよく、東京で震度8の大地震が起きたら、みたいなシュミレーションがあったりしますよね。小説や映画なんかでもそういう作品があります。ただそういう場合、小説や映画だとやはり、それ以外のストーリーというのもどうしても盛り込みたくなってしまいます。現実にはありえないような奇跡だとか、そういう非日常の中での恋愛とか、そういうことです。
でも本作はそういう感じじゃないんですよね。それより、例えばどこかの省庁とかが東京で震度8の大地震が起きた際のリアルなシュミレーションを映像で作って出したりしますよね?あぁいう感じに近いです。一つの殺人事件の周りで誰がどんな影響を被るのか、それは実際に実験することはまず不可能な事柄ですけど、でも紙の上でならやれる。それをきちんと最初から最後までやってみたというのが本作という感じがしました。
だから「それでもボクはやってない」という映画と同様、小説としてどうなのかという評価はなかなか難しい気がします。面白くないというわけでは決してないのですけど、やはりエンターテイメントとしてはちょっと弱さが残る気がします。でも、読んでいると引き込まれてしまう部分がやはりあります。それは、細かい部分も含めてあまりにリアルに描かれているために(もちろん実際取り調べや裁判がどう進むか知らないから、あくまでもリアルっぽいということでしかないですが)、もし自分が彼らのようになったら、という風に自然に想像出来るからではないかなと思いました。
まあとにかく長い作品なので重厚ではありますね。普通のミステリだと、事件が起こって犯人が捕まるまでで終わってしまいますけど、本作では早い段階で犯人が特定されるのだけど、どちらかと言えばメインはそこからという感じです。犯人を知った後の被害者家族のあり方、また突然犯人の家族だと突きつけられた加害者家族のあり方、それらを時間を追って一つひとつ丁寧に描いています。
もちろん本作で描かれているのは、一つのパターンにすぎないのだろうとは思います。実際本作のような経験をした人が読んだら、こんな生易しくはないとか、もっと大変だったみたいに思うかもしれないし、その逆もあるかもしれません。でも僕は、この作品はこの作品として一つの真実になりえるかな、とそんな風に思ったりしました。
ストーリーは淡々と進んで行きますが、起伏がないかというとそんなこともありません。物語の中盤で、なかなか面白い展開になっていきます。裁判の場面はなかなか面白いと思いました。
本作では、被害者家族である真裕子と、加害者の家族(一応ネタバレになると思うので、その家族がどんな立場の人なのかは書きませんが)の視点がメインになるわけですが、僕が本作の登場人物で気になったのは、建部という新聞記者ですね。どこがどうというわけではないし、実際こんな新聞記者はいないだろうなという気もするんですけど、それでも被害者家族と個人的にコンタクトを取って、まさにその時間を見つめているという雰囲気を感じさせる建部は、僕の中でなんとなく印象が強い存在でした。仕事とは離れたところで被害者家族と関わって行こうというその姿勢は好感が持てるし、実際こんな人がいたら少しは救われる人がいるのかもしれないな、と思いました。
決して軽い話ではないし、読んでいてワクワクするような話でももちろんないわけですが、普段テレビや新聞で見慣れてしまったありきたりの殺人事件の向こう側に、一つひとつドラマがあるのだということを改めて確認できる作品だと思います。僕らは、日々起こり続ける事件そのものを記憶しておくことも出来ないし、事件自体はすぐに風化してしまうのだけど、でもせめてその事件が話題に上っているうちぐらいは、その向こう側にいる人のことを少しは考えてあげられるようになるのかもしれません。
この作品についてはまだまだ書こうと思えばいろいろ書けそうですが、時間がないのでこの辺で。長い話ですけど、読んでみてください。
そういえばどうでもいい偶然ですが、本作中で裁判が結審する日がちょうど今日(3/3)だったりします。
乃南アサ「風紋」
「はいはい、ちょっと待ってね。直ちゃんもまだお腹空くのね」
「どうせ食い意地張ってますよーだ」
いつもと変わらない夕方。私は制服のままリビングに座ってテレビを見ている。芸能人が料理を食べてコメントをしたり、これから始まるドラマの宣伝をしたり、いつものように大して中身のない番組をダラダラと見続けた。
お母さんはキッチンで料理を続けている。今日はカレーみたいだ。お母さんは料理が得意な方ではないけど、お母さんが作るカレーは世界で一番美味しいと思っている。野菜やお肉を炒めている音を聞きながら、私は少しだけ幸せな気分になった。
「なぁ、トイレットペーパーってどこにあるんだっけ?」
これはお父さん。普段仕事が忙しくって、帰ってくるのが夜中になることも多いのに、夕方に家にいるなんてホント珍しい。たぶんこれからもずっとお父さんと一緒にいられるだろう。それは嬉しいし、お母さんだって嬉しいに違いない。でも、もう少し早くそうなってくれたらな、と思わないでもない。
「もう、お父さんったら全然家のこと知らないんだから」
ついお母さんの口調を真似てそんな言い方をしてしまう。お母さんが二人いるみたいだ、なんてお父さんには言われるけど、私は密かにそう言われるのが嬉しかったりする。
お父さんのためにトイレの横にある物入れからトイレットペーパーを持っていってあげる。お父さんにありがとうと言われて、私はまたちょっとだけ幸せに思う。
「直ちゃん、ご飯出来たわよ。お父さん呼んできて。ついでにあの人も呼んできてくれる?」
お父さんにご飯だよと声を掛けてから、私はお風呂場に向かった。あの人は何故だか、ずっとお風呂場から出てこないのだ。正直あんまり話したくないんだけど、でもしょうがない。何だかんだ言って、同じ家の中にいるんだから。
「ねぇ、ご飯みたいですよ。食べませんか?」
その男の人はだらしなく髭を生やして、ざっくりと着たトレーナーにジーンズという格好でお風呂場に座っていた。何を考えているのか分からない目で見られ、私は少し怯む。しかし、彼がもう私たちに何かすることは出来ないのだ、と自分に言い聞かせ、私は彼から目を逸らさなかった。
「ありがとう。行くよ」
そう言われて私はホッとした。なんとなくさっきよりは穏やかな感じになっているような気がした。
「いただきます」
四人で声を揃えてそう言うと、腹ペコだった私は夢中でカレーをかき込んだ。お母さんのカレーはやっぱり美味しい。付け合せのサラダには見向きもせずに食べていると、野菜も食べなきゃダメでしょ、とお母さんに言われた。そういうところは、やっぱり厳しい。
皆が食べるのに一段落した頃、お母さんが口を開いた。
「これから私たち、どうしたらいいのかしらね」
それはここにいる誰もが感じていることだった。それに、私たち家族三人に、見知らぬ男の人がいるというのもやはりどうしても慣れなかった。いつまでこうした生活を続ければいいのかよく分からない。
「まあ、早く見つけてもらうしかないんだろうけど」
お父さんがそう言って二階に視線を向ける。思わずと言った感じで、私たちも二階へ目を向けてしまった。
「俺なんかのせいで、ホントすいません。今さらこんなこと言ったって仕方ないんだろうけど」
名前も知らない男の人がそう続ける。初めて彼を見た時、そのあまりの無表情さに心が凍りつきそうになったけど、今は憔悴しているという表現がぴったりくる表情をしていた。彼もまさかこんな展開になるとは思ってもいなかっただろう。
「そうなのよね。何だか不思議なんだけど、どうしてもあなたのことを憎いとかって思えないのよね」
お母さんがそういうと、私も頷いた。お父さんもそう感じているようだった。
私たちがこうなってしまったすべての原因はこの男の人にある。それは間違いないんだけど、どうしても憎いという感じにはならないのだった。それはもうすべてが終わってしまっているからなのか、もう取り返しがつかないからなのか、あるいは結局彼も同じ境遇になってしまったという親近感みたいなものが生まれつつあるのか、私にはイマイチ説明が出来なかった。
「まあとにかく、一度しっかり確認してみないか。もしかしたら、何か勘違いしてるだけなのかもしれないし」
お父さんだってそんなこと全然信じていないはずだけど、でももう一回確かめてみるというのは悪くない気がした。正直二階に行くのは気が進まないのだけれど。
お父さんを先頭にして、私たちは二階へ向かう階段を昇った。二階には私の部屋と両親の寝室とお父さんの書斎があって、お父さんは迷わず私の部屋のドアを開けた。
そこには、私が血まみれになって倒れていた。
それを見て、やっぱり私は間違いなく死んでるんだって確認出来た。フローリングの床の上には、まだ固まりきっていない血が鮮やかに広がっていた。私はうつぶせになっているからその表情は分からない。どうせいろんな人に見られるんだから、口紅ぐらいは塗っておきたかったなぁ、妙なことを考えたりもした。
「やっぱり、そうだよな」
お父さんは私の死体を確認して、力なくそう呟いた。それから私たちは、両親の寝室に向かった。
そこには、両親と男の人がやはり血まみれになって倒れていた。男の人の胸にナイフが刺さっていた。それは、私と両親を死に至らしめたナイフでもあった。
「一番初めに気づくのは誰かな」
「そろそろ実家から宅配便が届くはずですけど、配達の方もすぐには気づかないでしょうね」
「やっぱり学校の先生か、お父さんの会社の人なんだろうね」
私は、自分がや両親が死んでしまったのを見てどうして哀しくならないのか不思議でたまらなかった。
一銃「一家団欒」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ある殺人事件を被害者家族と加害者家族の両面から描いた作品です。
私立M女高校に通う真裕子はその日、特別いつもと変わりなくすごした。その日は私の進路のこともあって学校で父母会が開かれるため、真裕子たちは早く帰れることになっていた。ちょっと寄り道して帰ると、父母会に行った母の書置きがあった。洗濯物を取り込んで、キャベツを千切りにしておいてね、と。
しかし、その日母は帰ってこなかった。一郎して予備校に通っている姉も、姉の家庭内暴力が酷くなってから何だかんだと理由をつけて家に帰るのが遅くなっていた父も一向に帰ってこなかった。真裕子は初めて一人で夜を明かすことになった。
それからしばらくして、母が殺されていることを知ることになる。そこから真裕子と家族は、犯罪被害者という立場で扱われることになった。報道陣が周りを囲み、警察と関わり、学校での立場も微妙に変化していった。真裕子は、しばらくはお母さんが死んでしまったことを信じられず、それからもすべてのことがお母さんを無視する形で進んで行くことに納得がいかなかった…。
一方で、加害者の家族もまた翻弄されることになる。早期に容疑者が捕まり、その取調べが進む一方で、加害者の家族は加害者の家族という視線で周りから見られることになる。それまでの生活が一変し、すべての人が信じられなくなる。どうして、ただ家族だっていうだけの理由でこんな目に遭わなくてはいけないのだろう…。
一つの事件を起点として広がる『風紋』を、様々な方向から丁寧に追い続ける形で物語が進んで行きます。事件発生から裁判の判決までをひたすらに追うその先に、被害者加害者両家族は、一体どのような変化を受け入れることになるのか…。
というような話です。
さてこの作品の話をする前に、ついこの間の土曜日にテレビで見たある映画の話をしましょう。
「それでもボクはやってない」という映画ですが、なかなかすごい映画だな、と思いました。とにかく、痴漢の冤罪と間違われてから判決が下されるまでを、ひたすらリアルに描いている作品で、とてもフィクションだとは思えませんでした。記録映画を見ているような感じで、ひたすら怖くなりました。映画として良いか悪いかというのはなかなか評価しづらい作品だと思いましたけど、見ていて妙に引き込まれる作品でした。
本作も似たような印象があります。本作は、事件自体は結構ありきたりだったりします。新聞を見ていればいつでも載っているようなそんな平凡な事件です。ただ、僕らが新聞やテレビを見て、また同じような事件が起こったなぁ、としか思えないその事件にだって、被害者と加害者、また彼らを取り巻く様々な人がいるわけです。僕らからすれば『似たような事件』で済まされてしまうその事件一つひとつに、その事件によって影響を与えられる人がたくさんいるわけです。
本作では、そういう一つの事件によって誰がどういう形で影響を受けるのか、それをつぶさに描いている感じがします。まさに記録しているという雰囲気で、もっと言えば紙の上で実験しているのだ、という感じもしました。
例えばよく、東京で震度8の大地震が起きたら、みたいなシュミレーションがあったりしますよね。小説や映画なんかでもそういう作品があります。ただそういう場合、小説や映画だとやはり、それ以外のストーリーというのもどうしても盛り込みたくなってしまいます。現実にはありえないような奇跡だとか、そういう非日常の中での恋愛とか、そういうことです。
でも本作はそういう感じじゃないんですよね。それより、例えばどこかの省庁とかが東京で震度8の大地震が起きた際のリアルなシュミレーションを映像で作って出したりしますよね?あぁいう感じに近いです。一つの殺人事件の周りで誰がどんな影響を被るのか、それは実際に実験することはまず不可能な事柄ですけど、でも紙の上でならやれる。それをきちんと最初から最後までやってみたというのが本作という感じがしました。
だから「それでもボクはやってない」という映画と同様、小説としてどうなのかという評価はなかなか難しい気がします。面白くないというわけでは決してないのですけど、やはりエンターテイメントとしてはちょっと弱さが残る気がします。でも、読んでいると引き込まれてしまう部分がやはりあります。それは、細かい部分も含めてあまりにリアルに描かれているために(もちろん実際取り調べや裁判がどう進むか知らないから、あくまでもリアルっぽいということでしかないですが)、もし自分が彼らのようになったら、という風に自然に想像出来るからではないかなと思いました。
まあとにかく長い作品なので重厚ではありますね。普通のミステリだと、事件が起こって犯人が捕まるまでで終わってしまいますけど、本作では早い段階で犯人が特定されるのだけど、どちらかと言えばメインはそこからという感じです。犯人を知った後の被害者家族のあり方、また突然犯人の家族だと突きつけられた加害者家族のあり方、それらを時間を追って一つひとつ丁寧に描いています。
もちろん本作で描かれているのは、一つのパターンにすぎないのだろうとは思います。実際本作のような経験をした人が読んだら、こんな生易しくはないとか、もっと大変だったみたいに思うかもしれないし、その逆もあるかもしれません。でも僕は、この作品はこの作品として一つの真実になりえるかな、とそんな風に思ったりしました。
ストーリーは淡々と進んで行きますが、起伏がないかというとそんなこともありません。物語の中盤で、なかなか面白い展開になっていきます。裁判の場面はなかなか面白いと思いました。
本作では、被害者家族である真裕子と、加害者の家族(一応ネタバレになると思うので、その家族がどんな立場の人なのかは書きませんが)の視点がメインになるわけですが、僕が本作の登場人物で気になったのは、建部という新聞記者ですね。どこがどうというわけではないし、実際こんな新聞記者はいないだろうなという気もするんですけど、それでも被害者家族と個人的にコンタクトを取って、まさにその時間を見つめているという雰囲気を感じさせる建部は、僕の中でなんとなく印象が強い存在でした。仕事とは離れたところで被害者家族と関わって行こうというその姿勢は好感が持てるし、実際こんな人がいたら少しは救われる人がいるのかもしれないな、と思いました。
決して軽い話ではないし、読んでいてワクワクするような話でももちろんないわけですが、普段テレビや新聞で見慣れてしまったありきたりの殺人事件の向こう側に、一つひとつドラマがあるのだということを改めて確認できる作品だと思います。僕らは、日々起こり続ける事件そのものを記憶しておくことも出来ないし、事件自体はすぐに風化してしまうのだけど、でもせめてその事件が話題に上っているうちぐらいは、その向こう側にいる人のことを少しは考えてあげられるようになるのかもしれません。
この作品についてはまだまだ書こうと思えばいろいろ書けそうですが、時間がないのでこの辺で。長い話ですけど、読んでみてください。
そういえばどうでもいい偶然ですが、本作中で裁判が結審する日がちょうど今日(3/3)だったりします。
乃南アサ「風紋」