「ラーゲリより愛を込めて」を観に行ってきました
最終的には良い映画だったと思う。ラスト近くは、観客からすすり泣きの声も聴こえてきた。確かに、山本幡男という人物の人生に接した4人の決断と行動には確かに感動させられる。また、二宮和也はじめ、役者の演技も凄く良い。
ただ、どうしても最初に書いておきたいことがある。映画の冒頭についてだ。なんというか、もの凄く「ショボかった」のだ。
満洲国・ハルビンで突然ソ連から空襲を受け、山本幡男が家族と離れ離れになるシーン。ハルビンの街に空襲が落ち、長男が瓦礫の中に倒れ、助けようとした山本幡男が怪我をし、その後拘束されシベリア抑留となるわけだが、全体的に「セット感」と「安いCG感」が凄まじい。
僕は別に、「映像の綺麗さ」や「照明や衣装や音響がなんちゃら」みたいなことにはあまり関心がない。それよりも、ストーリーが面白いかどうかの方が重要だ。ただこの作品では、そんな僕でも看過できないくらいに、冒頭のシーンがショボかった。映画を観ながらずーっと、「冒頭以外は全体的にとても力が入った作品なのに、どうして冒頭だけあんなにチープなのか」と、折に触れて考えてしまった。
もちろん、予算の制約はあるのだろうし、仕方ないのだと思う。ただ、映画の冒頭でああいうクオリティの映像が出てくると、作品全体に対する信頼感が揺らぐ。僕は映画館でしか映画を観ないから別にいいけど、配信で映画を観る人は、もしかしたら冒頭のシーンで消したりする人もいるんじゃないだろうか。そんな風に感じてしまうほど、「えっ、いいの、こんな映像で?」と僕には感じられてしまった。なんでかこの映画の場合、とにかく冒頭のシーンのことばかに思い出されてしまう。うーむ。
メインとなる役者は、二宮和也・松坂桃李・桐谷健太・中島健人・安田顕の5人だと思うが、この5人が全員良かった。鬼気迫る状況下での鬼気迫る人間のあり方を、それぞれがそれぞれなりに体現していたと思う。
特に二宮和也はなかなか凄まじかった。相当に追い詰められる役柄だということもあるが、ギリギリまで追い詰められながらも、人間であることを決して捨てない様を実に見事に演じていたと思う。役者の演技についてあーだこーだ言えるほど知識がない僕は、普段の二宮和也の演技に対してはさほど何かを感じることはないのだけど、この映画での二宮和也はちょっと凄かったなと思う。
松坂桃李・桐谷健太・安田顕は、そりゃあ上手いですわ、という感じの演技だったけど、割と意外だったのが中島健人だ。意外と言ったら失礼かもしれないけど、メチャクチャ良かった。彼が演技をしている姿を単純に見たことがなかっただけで、既に頭角を現していたのかもだけど、かなり難しいだろう役柄を、「そういう人物である」という雰囲気がふんだんに溢れるような演技で、ちょっと驚かされた。『ラーゲリより愛を込めて』は冒頭で「実話を基にしている」と表記されるが、中島健人演じる新谷健雄にも、モデルとなった人物がいるのだろうか? ほとんど絶望で塗り込められたような日常の中で、新谷健雄のような存在は、ある意味で一筋の光のようなものだと言っていい気がする。そして、そんな一筋の光を、中島健人がとても素敵に演じていると思う。
ストーリーは、概ね予想の範囲内と言った感じだが、恐らくそれは、僕が映画館で散々予告編を観ているからだと思う。予告で流れるのは、映画の中でも重要なシーンばかりで、感覚的には、「これから、予告で流れるあのシーンだな」と分かるような感じだった。たぶん、僕がずっと感じていた既視感みたいなものは、予告を観ていたからだと思う。予告の印象を持たずに映画を観ると、また違った印象になるかもしれない。
個人的には、どんな状況下に置かれても、山本幡男のように生きたいものだと思う。ただ、それは相当に難しいだろうとも思う。だから僕は、山本幡男のような生き方を「デフォルト」にしてはいけないと思う。彼のように生きられたら称賛に値するが、そう生きられなかったとしても、それは決してダメではない。そんな風に思っておかないとなかなかしんどいだろう。
少し気になったのは、役者の顔。表情とかではなく、汚れというのか、疲れ具合というのか。映画冒頭、貨車でシベリアまで送られ、しばらく内陸の収容所で過ごしていた時は、役者の顔が全員赤黒かった。けどその後しばらくして、その赤黒さがなくなり、それは最後まで続いたように思う。何か僕の中で知識が不足しているのかもしれないが、基本的には「抑留生活が長引けば長引くほど、顔が赤黒くなっていく」という方が自然なように思う。まあ、役者たちのファンもいるし、「綺麗な顔を観たい」みたいな需要を意識してのことなのか、分からないけど、ちょっとその辺りは気になった。
全体的には、良い映画だったと思う。後半の二宮和也は、凄かった。
「ラーゲリより愛を込めて」を観に行ってきました
ただ、どうしても最初に書いておきたいことがある。映画の冒頭についてだ。なんというか、もの凄く「ショボかった」のだ。
満洲国・ハルビンで突然ソ連から空襲を受け、山本幡男が家族と離れ離れになるシーン。ハルビンの街に空襲が落ち、長男が瓦礫の中に倒れ、助けようとした山本幡男が怪我をし、その後拘束されシベリア抑留となるわけだが、全体的に「セット感」と「安いCG感」が凄まじい。
僕は別に、「映像の綺麗さ」や「照明や衣装や音響がなんちゃら」みたいなことにはあまり関心がない。それよりも、ストーリーが面白いかどうかの方が重要だ。ただこの作品では、そんな僕でも看過できないくらいに、冒頭のシーンがショボかった。映画を観ながらずーっと、「冒頭以外は全体的にとても力が入った作品なのに、どうして冒頭だけあんなにチープなのか」と、折に触れて考えてしまった。
もちろん、予算の制約はあるのだろうし、仕方ないのだと思う。ただ、映画の冒頭でああいうクオリティの映像が出てくると、作品全体に対する信頼感が揺らぐ。僕は映画館でしか映画を観ないから別にいいけど、配信で映画を観る人は、もしかしたら冒頭のシーンで消したりする人もいるんじゃないだろうか。そんな風に感じてしまうほど、「えっ、いいの、こんな映像で?」と僕には感じられてしまった。なんでかこの映画の場合、とにかく冒頭のシーンのことばかに思い出されてしまう。うーむ。
メインとなる役者は、二宮和也・松坂桃李・桐谷健太・中島健人・安田顕の5人だと思うが、この5人が全員良かった。鬼気迫る状況下での鬼気迫る人間のあり方を、それぞれがそれぞれなりに体現していたと思う。
特に二宮和也はなかなか凄まじかった。相当に追い詰められる役柄だということもあるが、ギリギリまで追い詰められながらも、人間であることを決して捨てない様を実に見事に演じていたと思う。役者の演技についてあーだこーだ言えるほど知識がない僕は、普段の二宮和也の演技に対してはさほど何かを感じることはないのだけど、この映画での二宮和也はちょっと凄かったなと思う。
松坂桃李・桐谷健太・安田顕は、そりゃあ上手いですわ、という感じの演技だったけど、割と意外だったのが中島健人だ。意外と言ったら失礼かもしれないけど、メチャクチャ良かった。彼が演技をしている姿を単純に見たことがなかっただけで、既に頭角を現していたのかもだけど、かなり難しいだろう役柄を、「そういう人物である」という雰囲気がふんだんに溢れるような演技で、ちょっと驚かされた。『ラーゲリより愛を込めて』は冒頭で「実話を基にしている」と表記されるが、中島健人演じる新谷健雄にも、モデルとなった人物がいるのだろうか? ほとんど絶望で塗り込められたような日常の中で、新谷健雄のような存在は、ある意味で一筋の光のようなものだと言っていい気がする。そして、そんな一筋の光を、中島健人がとても素敵に演じていると思う。
ストーリーは、概ね予想の範囲内と言った感じだが、恐らくそれは、僕が映画館で散々予告編を観ているからだと思う。予告で流れるのは、映画の中でも重要なシーンばかりで、感覚的には、「これから、予告で流れるあのシーンだな」と分かるような感じだった。たぶん、僕がずっと感じていた既視感みたいなものは、予告を観ていたからだと思う。予告の印象を持たずに映画を観ると、また違った印象になるかもしれない。
個人的には、どんな状況下に置かれても、山本幡男のように生きたいものだと思う。ただ、それは相当に難しいだろうとも思う。だから僕は、山本幡男のような生き方を「デフォルト」にしてはいけないと思う。彼のように生きられたら称賛に値するが、そう生きられなかったとしても、それは決してダメではない。そんな風に思っておかないとなかなかしんどいだろう。
少し気になったのは、役者の顔。表情とかではなく、汚れというのか、疲れ具合というのか。映画冒頭、貨車でシベリアまで送られ、しばらく内陸の収容所で過ごしていた時は、役者の顔が全員赤黒かった。けどその後しばらくして、その赤黒さがなくなり、それは最後まで続いたように思う。何か僕の中で知識が不足しているのかもしれないが、基本的には「抑留生活が長引けば長引くほど、顔が赤黒くなっていく」という方が自然なように思う。まあ、役者たちのファンもいるし、「綺麗な顔を観たい」みたいな需要を意識してのことなのか、分からないけど、ちょっとその辺りは気になった。
全体的には、良い映画だったと思う。後半の二宮和也は、凄かった。
「ラーゲリより愛を込めて」を観に行ってきました
「そばかす」を観に行ってきました
メチャクチャ良い映画だった。正直、観ないつもりでいた映画だったのだが、観て良かった。
最近はもう会う機会はないのだが、15年以上前だろうか、友人女性から「私アセクシャルなんです」と教えてもらったことがある。それで初めて「アセクシャル」という単語を知った。アセクシャルとは、「他者に対して恋愛感情も性的欲求も抱かないセクシャリティ」のことである。
最近、友人女性から、「調べてみたら、私はデミセクシャルだって分かった」と教えてもらった。それで初めて「デミセクシャル」という単語を知った。デミセクシャルは説明が難しいが、ざっくり書くと「まったくゼロではないが、ほとんど恋愛感情も性的欲求も抱くことがないセクシャリティ」のことを指す。
また、最近知り合ったトランスジェンダー(身体は男性、心は女性)は、「性的対象は女性で、女性から女性として好かれたい」と言っていた。身体の性で捉えれば「異性愛」だが、心の性で捉えれば「レズビアン」というわけだ。
僕は決して人間関係が幅広いわけではない。それなのに、いわゆる「ノーマルな異性愛」(あまり良い表現ではないが、とりあえずこう書くしかない)ではない人と3人も出会ったことがある。しかもこれは、単に「認知件数」に過ぎない。実際には、僕が知らないだけでもっといるかもしれないのだ。確かに僕は、割と普通から外れた人(性的志向がということではなく、生き方とか価値観とか全体的に)が好きなので、サンプルに偏りがあるとは言えるかもしれないが、しかし、大体の人がそういう自身のセクシャリティをあまり周囲に開示していないことを踏まえると(先に挙げた3人も、周囲に積極的には話していないようだ)、社会にはそういうセクシャリティの人がもっといてもおかしくないだろう、と感じる。
僕は、「性的志向」という括りで言うなら「ノーマルな異性愛者」だと思う。ただ、今までの色んな経験を踏まえた上で、「恋愛より友人関係を目指す方がいいな」と判断するに至った。僕の場合、「恋愛感情」みたいなものは抱くのでアセクシャルやデミセクシャルみたいなことではないが、ただ、意識的に恋愛から遠ざかろうと思っている。
まあ、僕も含めて、色んな人間がいるものだ。
どうしてこんな話を書いているのか。それは、映画『そばかす』の主人公・蘇畑佳純がそのようなセクシャリティの人物だからだ。作中で「アセクシャル」という単語は出て来ないが、間違いなく彼女は「アセクシャル」である。
さて、映画の内容に触れていく前に、この映画の全体的なスタンスについて書いておきたいと思う。
それがどういうものであれ、「マイノリティ」や「弱者」に分類されるだろう人々を物語の中で描いたり扱ったりする場合、「極端」だと感じてしまうことがある。「極端」というのはちょっと説明の難しい感覚なのだが、「『マイノリティに対して偏見を抱いていないこと』を明確に示そうと意識しすぎてオーバー気味に描いてしまう」とか、「『マイノリティの主張を広く伝えたい』という気持ちが強すぎて、逆にマイノリティの側が悪い印象で見られる描写になってしまう」など、「ちょっとやり過ぎなんだよなぁ」と感じることが度々ある。
もちろん、気持ちは分からないではない。ということを説明するために、まず僕自身のスタンスに触れておこう。
僕は、「社会の普通や当たり前」に馴染めないなという感覚をずっと昔から抱いてきた人間だけど、ただ、「性的マイノリティ」や「障害者」みたいな、何か大きな括りで分類されるような意味でのマイノリティでは別にない。単に「マジョリティって好きになれないわー」と日々感じているだけの人間だ。だから僕には、「自分はマイノリティだ」という意識はない。これからあれこれ書くが、決して「自分がマイノリティだと認識していて、マイノリティの立場からあれこれ書いている」みたいなことではないと理解してほしい。
というようなことを書いたのは、マイノリティや弱者を物語の中で扱う制作陣の話に通じるとも思うのだが、「どういう立場でどういうスタンスを持って今この発言をしているのか」を明確にしておかないと、「世間」からややこしい矢が飛んできたりするからだ。早い話、「ネットで炎上する」から、あれこれ注釈を入れないといけない気分になってしまうのである。
そして、そういう気分が社会に蔓延しているから、マイノリティや弱者を描く物語においても、「過剰な注意」が散見されることになる。電化製品の説明書みたいなもので、どうでもいいようなことを長々と書いているのは、「一部の口うるさいクレーマー対策」だと僕は思っている。世の中のあらゆる注意書きは、絶対にもっとシンプルに出来るはずなのだが、ごく僅かに存在する、ほとんど難癖としか言いようがないクレームをつけてくる奴らからの攻撃に対してあらかじめ防衛しておくために、細々とした注意書きが必要になるのだ。
そんなわけで、マイノリティや弱者を描く物語の場合、どうしても「極端さ」が目についてしまう場合がある。
しかし、映画『そばかす』はまったくそんなことがなかった。僕が「余計」だと感じてしまうような注釈もなかったし、かと言って、極端に「ポリティカル・コレクトネス」に寄せているという感じでもない。先程書いた通り、僕自身は別に特定のマイノリティに分類される人間ではないのであくまで想像にすぎないが、そういうマイノリティに属する人たちの「リアル」を、かなり精度の高い空気感で描き出しているように感じられた。監督や脚本など、映画制作の中核に関わる人物が、何らかのマイノリティに属する人だったりするのかもしれないなぁ、と思う。僕が普段抱いてしまうような「違和感」を一切感じさせずにマイノリティ・弱者の物語を描いている点が、まずは素晴らしいと感じた。もちろん、実際にマイノリティに属する人が観たらまた別の感想になるかもしれないが(←こういう余計な注釈がない映画というわけだ)。
映画の中では基本的に、三浦透子演じる蘇畑佳純が、「『アセクシャル』のことをまったく理解しない人たちによる干渉・アプローチによって苦しむ」という描かれ方をされる。蘇畑佳純は、自身が「アセクシャル」であることを家族にも明かしていないので仕方ないと言えば仕方ないのだが、ただ、明かしたところで理解されると思えないからこそ彼女は言っていないわけで、明かしていない蘇畑佳純が悪い、と単純に言い切るのも難しい。
蘇畑佳純はある場面で、彼女からすれば思いもよらなかった人物からアプローチを受ける。彼女はさぞがっかりしただろう。何故なら、「自分と同じ感覚で関われる人に出会えた」と思っていたはずだからだ。しかし、それは幻想だった。
彼女は、その男性に恋愛感情を抱くことは出来ないが、友人としては仲良くやっていきたいと思っている。だから、恐らく人生で初めてなんじゃないだろうか、「自分は他人に恋愛感情を持てない人間なんだ」と必死に訴える。しかし男は、「そんな嘘つかなくていいよ」「馬鹿にするな」と、彼女の主張をまったく受け入れない。
そう、これが「世間」の一般的な感覚なのだろう。そして、こういう世界の中で、蘇畑佳純は苦痛を味わい続けてきたのである。
僕も、彼女と同程度とはまったく思わないが、似たような経験をした記憶がある。
僕は、「恋愛はもういいか」と思うようになってから、女性とは「友達になろう」と思って関わってきた。そんなスタンスが伝わったのかどうなのか、当時地方に住んでいた僕がたまに東京に出てくる用事がある時に、「ウチに泊まっていいよ」と言ってくれる女性が何人かいたのだ。元々寝れれば何でもいいと思っている僕は、ホテルを取ったりせず、マンガ喫茶で寝泊まりしてしまうことが多い。だから、「お、ありがたい」と思って、よく泊めてもらっていた。もちろんだが、別に相手の女性とは何もない。
で、そういう話を、大人数の飲み会の時に話の流れでしてみたことがあるのだが、そこで僕が非難されることになったのだ。一番印象的だった言葉は、「SEXしてあげないのは可哀想」という男の意見だった。それはまあその場においてもかなり極端な意見だったが、意外だったのは、男からだけではなく女性からも「それはちょっと良くないんじゃないの」という反応が返ってきたことだ。まあ、僕は今39歳で、その泊めてもらったり、その話を飲み会でしていたのが数年前。飲み会にいたのは僕と同年代か上の世代の人が多かった気がするから、そういうものなのかもしれない。
いずれにせよ、その飲み会の場で生まれた「世間」の判断では、「友人女性の家に泊まりに行って何もしなかった僕」はダメなのだそうだ。僕には未だに、その辺りの感覚はよく分からない。
自分のことを「普通だ」と思っている人の無邪気さは怖い。例えば映画の中では、蘇畑佳純の母親が、僕には「異常者」に見える。娘が「結婚なんかしたくない」とはっきり言っているのに(「アセクシャル」だとは伝えていないが、「結婚に興味はない」とは伝えている)、「結婚しない娘は不憫だ」とでも考えているのだろう、騙し討ちのような形でお見合いをさせるのだ。僕には「ザ・異常者」でしかなかった。怖っ!ああいう人は、世の中から駆逐されてほしい。
家族の中で唯一救いなのが、救急救命士だが鬱病を患っている父だろう。蘇畑佳純にとって恐らく、家族の中で唯一話が通じる相手なのではないかと思う。彼が、恋愛や結婚をしない娘に対してどう感じているのか、それは描かれないから分からない。ただとにかく父親は、自身の考えを一切押し付けはしない。それでいて、決して放置するわけでもない。相手にとって「適切」だと感じられる距離感で見守り、相手の決断を自身の判断基準で捉えず、「相手の人格を信頼しているから」という形で言動を肯定する。素晴らしい。
映画の中で蘇畑佳純は、ある人物から「俺ゲイなんだよね」と告白される。その告白にさほど驚きを見せなかった蘇畑佳純に対して男は、「みんながお前みたいだったら、こっちに戻って来なくても良かったんだけどなぁ」と口にするのだ。それ以上具体的なことは描かれないが、「ゲイであること」を隠しながら生きていくには、周囲の「圧」みたいなものが強かったということだろう。自分のことを「普通だ」と思っている人の「無邪気さ」は、こんな風に、思いもよらないところで誰かを傷つけているのだ。もちろんそれは、僕自身も常に気をつけなければならないことではあるが。
映画の途中で、前田敦子が出てくる。彼女がどんなスタンスの人物として登場するのかは触れないことにするが、映画全体の中でも特に良いキャラだったと思う。僕は、彼女がある場面で、「弱者は主張したらダメなのかよ!」と叫ぶシーンがとても好きだった。先程少し「極端さ」についての話をしたが、彼女はこの作品の中で唯一「極端さ」を少しだけ担う人物と言えるかもしれない。
映画の中で一番好きなセリフがこれだ。
『同じようなことを考えている人がいて、どっかで生きているなら、それでいいやって思いました』
メチャクチャ分かる。僕はそういう感覚を、芸能人などに対して感じることがある。例えば僕は、乃木坂46の齋藤飛鳥が好きなのだが、その理由は「彼女の『世間への馴染めなさ』」にある。インタビューなどを読むと、彼女が「普通」というものとどう適正な距離を取ろうともがいてきたのかが、なんとなく理解できる気がする。確か小学校から不登校で、世の中のことは全部本を読んで学んだ、みたいなことを言っていたはずだ。
僕は齋藤飛鳥のことが好きだが、ただあまり「会いたい」という気持ちにはならない。いや、もちろん、会って長々話せるなら会いたいが、握手会やライブやオンラインミーティングなどにはあまり興味が持てない。それより、「齋藤飛鳥のような人が、生きてこの社会のどこかにいるのだ」という感覚の方が、僕にとっては大事な気がする。僕は齋藤飛鳥に対して割と近い感覚を覚えるのだが、そういう人が、この社会のどこかでちゃんと生きているんだよなぁ、と思えると、そのことが自分にとって、少しだけ「希望」に感じられるのだ。
だから僕は、「同じようなことを考えている人がいて、どっかで生きているなら、それでいいやって思いました」というセリフに、完璧に共感してしまった。
というわけで、とても良い映画だった。
さて最後にいくつか、どうでも良いことに触れて終わろう。
まず、エンドロールに「坂井真紀」という名前が表示されて驚いた。まさか蘇畑佳純の母親役が坂井真紀だったとは。
あと、映画が始まってすぐ、「あれ、言葉が静岡っぽいかも」と思った。僕は静岡県出身なのだけど、静岡って正直そこまで方言っぽいのがないから、「言葉が静岡っぽい」という印象がまず意外だった。その後、セリフの中に「だもんで」という言葉が出てきたので、「絶対静岡だわ」と確信した。高校の先生に「だもんで」が口癖の人がいて、陰で「だもんで」と呼ばれていたことも思い出した。でその後、蘇畑佳純の履歴書に「浜松市」と書かれていたので、やっぱり、と思った。ただ、静岡県東部出身(静岡県は大体、西武・中部・東部・伊豆の4つに分けられる)の僕にはあんまり聞き馴染みのない言い方なんかもあって、西武と東部でちょっと違うんだろうなぁ、とも思ったりした。やっぱり西武の方は、ちょっと名古屋っぽい方言になるんだろうなぁ。
「そばかす」を観に行ってきました
最近はもう会う機会はないのだが、15年以上前だろうか、友人女性から「私アセクシャルなんです」と教えてもらったことがある。それで初めて「アセクシャル」という単語を知った。アセクシャルとは、「他者に対して恋愛感情も性的欲求も抱かないセクシャリティ」のことである。
最近、友人女性から、「調べてみたら、私はデミセクシャルだって分かった」と教えてもらった。それで初めて「デミセクシャル」という単語を知った。デミセクシャルは説明が難しいが、ざっくり書くと「まったくゼロではないが、ほとんど恋愛感情も性的欲求も抱くことがないセクシャリティ」のことを指す。
また、最近知り合ったトランスジェンダー(身体は男性、心は女性)は、「性的対象は女性で、女性から女性として好かれたい」と言っていた。身体の性で捉えれば「異性愛」だが、心の性で捉えれば「レズビアン」というわけだ。
僕は決して人間関係が幅広いわけではない。それなのに、いわゆる「ノーマルな異性愛」(あまり良い表現ではないが、とりあえずこう書くしかない)ではない人と3人も出会ったことがある。しかもこれは、単に「認知件数」に過ぎない。実際には、僕が知らないだけでもっといるかもしれないのだ。確かに僕は、割と普通から外れた人(性的志向がということではなく、生き方とか価値観とか全体的に)が好きなので、サンプルに偏りがあるとは言えるかもしれないが、しかし、大体の人がそういう自身のセクシャリティをあまり周囲に開示していないことを踏まえると(先に挙げた3人も、周囲に積極的には話していないようだ)、社会にはそういうセクシャリティの人がもっといてもおかしくないだろう、と感じる。
僕は、「性的志向」という括りで言うなら「ノーマルな異性愛者」だと思う。ただ、今までの色んな経験を踏まえた上で、「恋愛より友人関係を目指す方がいいな」と判断するに至った。僕の場合、「恋愛感情」みたいなものは抱くのでアセクシャルやデミセクシャルみたいなことではないが、ただ、意識的に恋愛から遠ざかろうと思っている。
まあ、僕も含めて、色んな人間がいるものだ。
どうしてこんな話を書いているのか。それは、映画『そばかす』の主人公・蘇畑佳純がそのようなセクシャリティの人物だからだ。作中で「アセクシャル」という単語は出て来ないが、間違いなく彼女は「アセクシャル」である。
さて、映画の内容に触れていく前に、この映画の全体的なスタンスについて書いておきたいと思う。
それがどういうものであれ、「マイノリティ」や「弱者」に分類されるだろう人々を物語の中で描いたり扱ったりする場合、「極端」だと感じてしまうことがある。「極端」というのはちょっと説明の難しい感覚なのだが、「『マイノリティに対して偏見を抱いていないこと』を明確に示そうと意識しすぎてオーバー気味に描いてしまう」とか、「『マイノリティの主張を広く伝えたい』という気持ちが強すぎて、逆にマイノリティの側が悪い印象で見られる描写になってしまう」など、「ちょっとやり過ぎなんだよなぁ」と感じることが度々ある。
もちろん、気持ちは分からないではない。ということを説明するために、まず僕自身のスタンスに触れておこう。
僕は、「社会の普通や当たり前」に馴染めないなという感覚をずっと昔から抱いてきた人間だけど、ただ、「性的マイノリティ」や「障害者」みたいな、何か大きな括りで分類されるような意味でのマイノリティでは別にない。単に「マジョリティって好きになれないわー」と日々感じているだけの人間だ。だから僕には、「自分はマイノリティだ」という意識はない。これからあれこれ書くが、決して「自分がマイノリティだと認識していて、マイノリティの立場からあれこれ書いている」みたいなことではないと理解してほしい。
というようなことを書いたのは、マイノリティや弱者を物語の中で扱う制作陣の話に通じるとも思うのだが、「どういう立場でどういうスタンスを持って今この発言をしているのか」を明確にしておかないと、「世間」からややこしい矢が飛んできたりするからだ。早い話、「ネットで炎上する」から、あれこれ注釈を入れないといけない気分になってしまうのである。
そして、そういう気分が社会に蔓延しているから、マイノリティや弱者を描く物語においても、「過剰な注意」が散見されることになる。電化製品の説明書みたいなもので、どうでもいいようなことを長々と書いているのは、「一部の口うるさいクレーマー対策」だと僕は思っている。世の中のあらゆる注意書きは、絶対にもっとシンプルに出来るはずなのだが、ごく僅かに存在する、ほとんど難癖としか言いようがないクレームをつけてくる奴らからの攻撃に対してあらかじめ防衛しておくために、細々とした注意書きが必要になるのだ。
そんなわけで、マイノリティや弱者を描く物語の場合、どうしても「極端さ」が目についてしまう場合がある。
しかし、映画『そばかす』はまったくそんなことがなかった。僕が「余計」だと感じてしまうような注釈もなかったし、かと言って、極端に「ポリティカル・コレクトネス」に寄せているという感じでもない。先程書いた通り、僕自身は別に特定のマイノリティに分類される人間ではないのであくまで想像にすぎないが、そういうマイノリティに属する人たちの「リアル」を、かなり精度の高い空気感で描き出しているように感じられた。監督や脚本など、映画制作の中核に関わる人物が、何らかのマイノリティに属する人だったりするのかもしれないなぁ、と思う。僕が普段抱いてしまうような「違和感」を一切感じさせずにマイノリティ・弱者の物語を描いている点が、まずは素晴らしいと感じた。もちろん、実際にマイノリティに属する人が観たらまた別の感想になるかもしれないが(←こういう余計な注釈がない映画というわけだ)。
映画の中では基本的に、三浦透子演じる蘇畑佳純が、「『アセクシャル』のことをまったく理解しない人たちによる干渉・アプローチによって苦しむ」という描かれ方をされる。蘇畑佳純は、自身が「アセクシャル」であることを家族にも明かしていないので仕方ないと言えば仕方ないのだが、ただ、明かしたところで理解されると思えないからこそ彼女は言っていないわけで、明かしていない蘇畑佳純が悪い、と単純に言い切るのも難しい。
蘇畑佳純はある場面で、彼女からすれば思いもよらなかった人物からアプローチを受ける。彼女はさぞがっかりしただろう。何故なら、「自分と同じ感覚で関われる人に出会えた」と思っていたはずだからだ。しかし、それは幻想だった。
彼女は、その男性に恋愛感情を抱くことは出来ないが、友人としては仲良くやっていきたいと思っている。だから、恐らく人生で初めてなんじゃないだろうか、「自分は他人に恋愛感情を持てない人間なんだ」と必死に訴える。しかし男は、「そんな嘘つかなくていいよ」「馬鹿にするな」と、彼女の主張をまったく受け入れない。
そう、これが「世間」の一般的な感覚なのだろう。そして、こういう世界の中で、蘇畑佳純は苦痛を味わい続けてきたのである。
僕も、彼女と同程度とはまったく思わないが、似たような経験をした記憶がある。
僕は、「恋愛はもういいか」と思うようになってから、女性とは「友達になろう」と思って関わってきた。そんなスタンスが伝わったのかどうなのか、当時地方に住んでいた僕がたまに東京に出てくる用事がある時に、「ウチに泊まっていいよ」と言ってくれる女性が何人かいたのだ。元々寝れれば何でもいいと思っている僕は、ホテルを取ったりせず、マンガ喫茶で寝泊まりしてしまうことが多い。だから、「お、ありがたい」と思って、よく泊めてもらっていた。もちろんだが、別に相手の女性とは何もない。
で、そういう話を、大人数の飲み会の時に話の流れでしてみたことがあるのだが、そこで僕が非難されることになったのだ。一番印象的だった言葉は、「SEXしてあげないのは可哀想」という男の意見だった。それはまあその場においてもかなり極端な意見だったが、意外だったのは、男からだけではなく女性からも「それはちょっと良くないんじゃないの」という反応が返ってきたことだ。まあ、僕は今39歳で、その泊めてもらったり、その話を飲み会でしていたのが数年前。飲み会にいたのは僕と同年代か上の世代の人が多かった気がするから、そういうものなのかもしれない。
いずれにせよ、その飲み会の場で生まれた「世間」の判断では、「友人女性の家に泊まりに行って何もしなかった僕」はダメなのだそうだ。僕には未だに、その辺りの感覚はよく分からない。
自分のことを「普通だ」と思っている人の無邪気さは怖い。例えば映画の中では、蘇畑佳純の母親が、僕には「異常者」に見える。娘が「結婚なんかしたくない」とはっきり言っているのに(「アセクシャル」だとは伝えていないが、「結婚に興味はない」とは伝えている)、「結婚しない娘は不憫だ」とでも考えているのだろう、騙し討ちのような形でお見合いをさせるのだ。僕には「ザ・異常者」でしかなかった。怖っ!ああいう人は、世の中から駆逐されてほしい。
家族の中で唯一救いなのが、救急救命士だが鬱病を患っている父だろう。蘇畑佳純にとって恐らく、家族の中で唯一話が通じる相手なのではないかと思う。彼が、恋愛や結婚をしない娘に対してどう感じているのか、それは描かれないから分からない。ただとにかく父親は、自身の考えを一切押し付けはしない。それでいて、決して放置するわけでもない。相手にとって「適切」だと感じられる距離感で見守り、相手の決断を自身の判断基準で捉えず、「相手の人格を信頼しているから」という形で言動を肯定する。素晴らしい。
映画の中で蘇畑佳純は、ある人物から「俺ゲイなんだよね」と告白される。その告白にさほど驚きを見せなかった蘇畑佳純に対して男は、「みんながお前みたいだったら、こっちに戻って来なくても良かったんだけどなぁ」と口にするのだ。それ以上具体的なことは描かれないが、「ゲイであること」を隠しながら生きていくには、周囲の「圧」みたいなものが強かったということだろう。自分のことを「普通だ」と思っている人の「無邪気さ」は、こんな風に、思いもよらないところで誰かを傷つけているのだ。もちろんそれは、僕自身も常に気をつけなければならないことではあるが。
映画の途中で、前田敦子が出てくる。彼女がどんなスタンスの人物として登場するのかは触れないことにするが、映画全体の中でも特に良いキャラだったと思う。僕は、彼女がある場面で、「弱者は主張したらダメなのかよ!」と叫ぶシーンがとても好きだった。先程少し「極端さ」についての話をしたが、彼女はこの作品の中で唯一「極端さ」を少しだけ担う人物と言えるかもしれない。
映画の中で一番好きなセリフがこれだ。
『同じようなことを考えている人がいて、どっかで生きているなら、それでいいやって思いました』
メチャクチャ分かる。僕はそういう感覚を、芸能人などに対して感じることがある。例えば僕は、乃木坂46の齋藤飛鳥が好きなのだが、その理由は「彼女の『世間への馴染めなさ』」にある。インタビューなどを読むと、彼女が「普通」というものとどう適正な距離を取ろうともがいてきたのかが、なんとなく理解できる気がする。確か小学校から不登校で、世の中のことは全部本を読んで学んだ、みたいなことを言っていたはずだ。
僕は齋藤飛鳥のことが好きだが、ただあまり「会いたい」という気持ちにはならない。いや、もちろん、会って長々話せるなら会いたいが、握手会やライブやオンラインミーティングなどにはあまり興味が持てない。それより、「齋藤飛鳥のような人が、生きてこの社会のどこかにいるのだ」という感覚の方が、僕にとっては大事な気がする。僕は齋藤飛鳥に対して割と近い感覚を覚えるのだが、そういう人が、この社会のどこかでちゃんと生きているんだよなぁ、と思えると、そのことが自分にとって、少しだけ「希望」に感じられるのだ。
だから僕は、「同じようなことを考えている人がいて、どっかで生きているなら、それでいいやって思いました」というセリフに、完璧に共感してしまった。
というわけで、とても良い映画だった。
さて最後にいくつか、どうでも良いことに触れて終わろう。
まず、エンドロールに「坂井真紀」という名前が表示されて驚いた。まさか蘇畑佳純の母親役が坂井真紀だったとは。
あと、映画が始まってすぐ、「あれ、言葉が静岡っぽいかも」と思った。僕は静岡県出身なのだけど、静岡って正直そこまで方言っぽいのがないから、「言葉が静岡っぽい」という印象がまず意外だった。その後、セリフの中に「だもんで」という言葉が出てきたので、「絶対静岡だわ」と確信した。高校の先生に「だもんで」が口癖の人がいて、陰で「だもんで」と呼ばれていたことも思い出した。でその後、蘇畑佳純の履歴書に「浜松市」と書かれていたので、やっぱり、と思った。ただ、静岡県東部出身(静岡県は大体、西武・中部・東部・伊豆の4つに分けられる)の僕にはあんまり聞き馴染みのない言い方なんかもあって、西武と東部でちょっと違うんだろうなぁ、とも思ったりした。やっぱり西武の方は、ちょっと名古屋っぽい方言になるんだろうなぁ。
「そばかす」を観に行ってきました
「フラッグ・デイ 父を想う日」を観に行ってきました
昔、偽札を見つけたことがある。書店でアルバイトをしている時だ。
お客さんから受け取ったのは僕じゃない。前の人と交代でレジに入り、レジの中のお札を数えている時に、手触りで違和感を覚えたのだ。まさかな、と思いつつ取り出し、一応透かしをチェックしてみたら、やっぱりなかった。おいおいマジかよ、って感じだ。夜のシフトで働いていており、当時夜の時間帯には社員がいなかったので、先輩バイトに相談してみたら、「自販機に入れてみたら?」と言われた。なるほど、確かに。で、やってみると、やっぱり通らない。
というわけで僕は、閉店後、その偽札を持って近くの警察署へ行き、あーだこーだ話してきた。ちなみに、その時に対応した警察官が配属されたばかりの新人で、マジでクソみたいな訳わからん質問しか繰り出さなかったことにイライラしたことも覚えている。
しかし、何よりも不思議だったのは、その偽札が千円札だったことだ。僕は手触りで気づいたが、受け取っただろうスタッフは気づかなかったはずだし、僕としても、微妙な手触りの違和感と透かし以外に、偽札だと思わせる所見は見つけられなかった。それだけの技術があるなら、なぜ一万円札を作らなかったのか。それが謎である。
何故こんな話しから始めるのか。それは、映画『フラッグ・デイ 父を想う日』の主人公の父親が、アメリカ史上最大級の偽札事件の犯人だったからだ。この映画は実話を基にしている。原作は、ジャーナリストであり、偽札犯の娘であるジェニファー・ヴォーゲルの回顧録。今、公式HPを見ながらこれらの情報を書いているのだが、映画を観る時点では知らなかった驚きの情報も書かれていた。この映画の監督は、偽札犯である父親を演じた俳優ショーン・ペンなのだが、その娘であるジェニファーを演じたのが、ショーン・ペンの娘であるディラン・ペンなのだそうだ。なるほど、実の親子が親子役を演じているのか。その重ね合わせも、なかなか面白い作品だと想う。
映画のタイトルになっている「フラッグ・デイ」というのは、アメリカにおける記念日、6月14日の「国旗制定記念日」のことを指すそうだ。この映画の予告の中で、「フラッグ・デイに生まれた人間はロクでなしだ」みたいなセリフがある。まさにその偽札犯がフラッグ・デイに生まれたことにちなんでつけられたタイトルなのだが、何故「フラッグ・デイに生まれた人間はロクでなしだ」みたいな話が出てくるのかは日本人である僕にはイマイチよく分からないままだった。「フラッグ・デイに生まれたこと」が、人間の資質に何か影響を及ぼす、少なくとも偽札犯はそうだった、ということを示唆するためにこのタイトルにしたはずで、その理由については映画の中で語られていた。
「フラッグ・デイ」は国民的な祝日であり、街中ではその日を祝うパレードやお祭りなどが開かれる。日本の場合、ちょっと比較できるような記念日がないように思うが、ひな祭りを行う3月3日や、こいのぼりを飾る5月5日みたいな雰囲気が近いかもしれない。
いずれにせよ大事なことは、「自分の誕生日に、世間がお祭りをやっている」という状況だ。「フラッグ・デイ」に生まれたすべての人がそうではないだろうが、少なくとも偽札犯は、「フラッグ・デイに生まれた自分は『祝福されて当然の存在』だ」と感じるようになった、と映画の中で触れられていた。娘のジェニファーは、そんな父親の感覚を「歪んだ自尊心」と表現していた。『フラッグ・デイ』というタイトルを誰が考えたのか知らないが、もし娘が書いた回顧録のタイトルが『フラッグ・デイ』なのだとしたら、「フラッグ・デイにさえ生まれていなければ」みたいな気持ちが込められているのかもしれない。
偽札犯であるジョンは、なかなかヤバい奴である。そして、こういう奴いるよなぁ、と思わされる存在でもある。僕も1人知っている。
ジョンの妻(ジェニファーの母)は、大人になったジェニファーにこんな風に言う。「あの人は、自分の嘘を信じ込む」。本当に僕は、身近にそういう人間が1人いるので、なんとなく分かる。
そういう人は、自分が嘘をついているつもりはない。自分が発するすべての言葉は、発した時点では「本当のこと」のつもりである。それが過去の出来事であれば、視点や捉え方を歪ませることで「本当のこと」であるように見せようとするし、それが未来のことであれば、言葉を発した時点では未来が確実にそうなる予感を抱いている。そういう人間は、結果的に「嘘」が積み上がっていくことになるのだが、詭弁を弄したり、あるいはジョンのように現実逃避したりすることで、自分の中のつじつまを無理やり合わせようとする。
しかし、破綻を先送りにするのが上手い彼らのような存在は、パッと見とても魅力的に映る。娘のジェニファーも、父・ジョンのことをヒーローのように考えていた。子ども時代の彼女は、父親が「平凡な日々を見違えるような日常に変えてくれる魔法のような人」だと思っていたのだ。しかしその魔法は、借金によって賄われていた。そして、支払いが滞るようになったためジョンは逃亡、母親は送られてくる請求書に絶望する日々を送ることになる。
『無謀で衝動的な行動の裏に、完璧な計画が思わせる魅力が備わっている』
ジェニファーだったか、彼女の母親だったか忘れたが、ジョンについてこんなふうに語る場面もあった。つまらない舞台裏やお金の話は全部未来に先送りして、「純粋な楽しさ」だけを抽出して見せるのだから、そりゃあ「魔法」にも見えただろう。先送りされたものを押し付けられる妻も大変だ。
そして映画で描かれるのは、そんなロクでなしな父親を、「ロクでなし」だと気付かされた後も愛情深く感じてしまうジェニファーなのである。子ども時代からややこしい両親の元で育てられ、大人になってからも苦労が耐えなかった彼女が、それでも「父親への愛情」を消すことができなかった、その苦しみみたいなものが強く描き出されていると感じた。
内容に入ろうと思います。
1992年。史上最大と言われる偽札事件を起こしたジョンは、裁判を目前に逃亡した。娘のジェニファーは警察に呼ばれ、状況の説明を受ける。そして彼女の記憶は、子供時代に遡っていく。
父は借金で家を飾り立てたが、支払いが出来ずに行方知れずとなる。父親は昔から、度々姿を消し、自分の存在を認めてほしい時にだけ再び顔をだすような人物だった。ジェニファーは弟のニックと母親の元で生活するが、仕事もなかなか上手くいかず、請求書の山に埋もれる母は酒に溺れてしまう。そんな状況に嫌気が指したジェニファーは、幼いながらも母親に「お父さんと暮らす」と宣言。ニックと共に、若い恋人と暮らす父親の元へと移り住んだ。
しかしその後も、彼らの生活は不安定なままであり、やがてジェニファーとニックは、母の再婚相手と4人で生活を始める。
その再婚相手に寝ているところを襲われたジェニファーは、こんなところにはいられないと、家を出る決意をするが……。
というような話です。
全編に渡って「家族であることのややこしさ」が描かれる作品であり、父親への親愛の情を捨てられるにいるジェニファーが露わになる。僕には彼女の感覚は分からないが、きっと分かる人もいるだろう。比較していい話ではないかもしれないが、自分に暴力を振るう男性に愛想をつかしたり嫌いになったりできない女性の話を聞くこともある。目の前に存在するマイナス以上に、プラスの何かが認識されてしまうということなのだと思う。同じような葛藤に晒されている人は、結構いるんだろうと思う。
正直僕は、「家族の話」にさほど関心が持てないので、映画全体を貫く「家族とは何か?」みたいな問いかけにはさほど興味を持てなかった。ただ、ジョンという人間の異常っぷりや、ジェニファーが独力で人生を立て直していく過程はなかなか面白かった。
個人的にとても気になるのが、ジョンは一体どのように精巧な偽札を作ったのか、だ。映画の冒頭で刑事が、「とても高度な技術だ」と語っていた。インク・紙質・重さ・透かし・印板・金属箔、そのすべてが完璧だったそうだ。ジョンは半年間で5万ドル分を流通させたが、実際に印刷したのは2200万ドル分だそうだ。最長75年の懲役刑が課される可能性があった。
以前、真保裕一『奪取』という小説を読んだことがある。まさに、偽札作りをモチーフにした小説だ。日本の一万円札を作る話であり、お札の紙にはどんな素材が使われているのかや、印刷にどのような技術が用いられているのかなど、かなり詳細に書かれていた。すぐにはバレない程度の偽札を作るのには相当な労力が必要だと感じさせられたし、よほどの覚悟がなければ割に合う作業じゃないと思う。
そんな『奪取』を読んだ経験があったので、ジョンの偽札作りのやり方が気になってしまった。アメリカの紙幣だってかなりの技術で作られているのだろうし、そう簡単には偽造できないだろう。『フラッグ・デイ』の中では、偽札作りについてはほぼ描かれないので、仲間と共謀して行ったのかなどさっぱり分からないが、正直なところ、「そんな根気があるなら、他のところで発揮すればよかったのになぁ」と思わされてしまった。
ちなみに、レジで偽札を見つけた後、それがニュースになった記憶がない。結局あれはなんだったんだろう?
「フラッグ・デイ 父を想う日」を観に行ってきました
お客さんから受け取ったのは僕じゃない。前の人と交代でレジに入り、レジの中のお札を数えている時に、手触りで違和感を覚えたのだ。まさかな、と思いつつ取り出し、一応透かしをチェックしてみたら、やっぱりなかった。おいおいマジかよ、って感じだ。夜のシフトで働いていており、当時夜の時間帯には社員がいなかったので、先輩バイトに相談してみたら、「自販機に入れてみたら?」と言われた。なるほど、確かに。で、やってみると、やっぱり通らない。
というわけで僕は、閉店後、その偽札を持って近くの警察署へ行き、あーだこーだ話してきた。ちなみに、その時に対応した警察官が配属されたばかりの新人で、マジでクソみたいな訳わからん質問しか繰り出さなかったことにイライラしたことも覚えている。
しかし、何よりも不思議だったのは、その偽札が千円札だったことだ。僕は手触りで気づいたが、受け取っただろうスタッフは気づかなかったはずだし、僕としても、微妙な手触りの違和感と透かし以外に、偽札だと思わせる所見は見つけられなかった。それだけの技術があるなら、なぜ一万円札を作らなかったのか。それが謎である。
何故こんな話しから始めるのか。それは、映画『フラッグ・デイ 父を想う日』の主人公の父親が、アメリカ史上最大級の偽札事件の犯人だったからだ。この映画は実話を基にしている。原作は、ジャーナリストであり、偽札犯の娘であるジェニファー・ヴォーゲルの回顧録。今、公式HPを見ながらこれらの情報を書いているのだが、映画を観る時点では知らなかった驚きの情報も書かれていた。この映画の監督は、偽札犯である父親を演じた俳優ショーン・ペンなのだが、その娘であるジェニファーを演じたのが、ショーン・ペンの娘であるディラン・ペンなのだそうだ。なるほど、実の親子が親子役を演じているのか。その重ね合わせも、なかなか面白い作品だと想う。
映画のタイトルになっている「フラッグ・デイ」というのは、アメリカにおける記念日、6月14日の「国旗制定記念日」のことを指すそうだ。この映画の予告の中で、「フラッグ・デイに生まれた人間はロクでなしだ」みたいなセリフがある。まさにその偽札犯がフラッグ・デイに生まれたことにちなんでつけられたタイトルなのだが、何故「フラッグ・デイに生まれた人間はロクでなしだ」みたいな話が出てくるのかは日本人である僕にはイマイチよく分からないままだった。「フラッグ・デイに生まれたこと」が、人間の資質に何か影響を及ぼす、少なくとも偽札犯はそうだった、ということを示唆するためにこのタイトルにしたはずで、その理由については映画の中で語られていた。
「フラッグ・デイ」は国民的な祝日であり、街中ではその日を祝うパレードやお祭りなどが開かれる。日本の場合、ちょっと比較できるような記念日がないように思うが、ひな祭りを行う3月3日や、こいのぼりを飾る5月5日みたいな雰囲気が近いかもしれない。
いずれにせよ大事なことは、「自分の誕生日に、世間がお祭りをやっている」という状況だ。「フラッグ・デイ」に生まれたすべての人がそうではないだろうが、少なくとも偽札犯は、「フラッグ・デイに生まれた自分は『祝福されて当然の存在』だ」と感じるようになった、と映画の中で触れられていた。娘のジェニファーは、そんな父親の感覚を「歪んだ自尊心」と表現していた。『フラッグ・デイ』というタイトルを誰が考えたのか知らないが、もし娘が書いた回顧録のタイトルが『フラッグ・デイ』なのだとしたら、「フラッグ・デイにさえ生まれていなければ」みたいな気持ちが込められているのかもしれない。
偽札犯であるジョンは、なかなかヤバい奴である。そして、こういう奴いるよなぁ、と思わされる存在でもある。僕も1人知っている。
ジョンの妻(ジェニファーの母)は、大人になったジェニファーにこんな風に言う。「あの人は、自分の嘘を信じ込む」。本当に僕は、身近にそういう人間が1人いるので、なんとなく分かる。
そういう人は、自分が嘘をついているつもりはない。自分が発するすべての言葉は、発した時点では「本当のこと」のつもりである。それが過去の出来事であれば、視点や捉え方を歪ませることで「本当のこと」であるように見せようとするし、それが未来のことであれば、言葉を発した時点では未来が確実にそうなる予感を抱いている。そういう人間は、結果的に「嘘」が積み上がっていくことになるのだが、詭弁を弄したり、あるいはジョンのように現実逃避したりすることで、自分の中のつじつまを無理やり合わせようとする。
しかし、破綻を先送りにするのが上手い彼らのような存在は、パッと見とても魅力的に映る。娘のジェニファーも、父・ジョンのことをヒーローのように考えていた。子ども時代の彼女は、父親が「平凡な日々を見違えるような日常に変えてくれる魔法のような人」だと思っていたのだ。しかしその魔法は、借金によって賄われていた。そして、支払いが滞るようになったためジョンは逃亡、母親は送られてくる請求書に絶望する日々を送ることになる。
『無謀で衝動的な行動の裏に、完璧な計画が思わせる魅力が備わっている』
ジェニファーだったか、彼女の母親だったか忘れたが、ジョンについてこんなふうに語る場面もあった。つまらない舞台裏やお金の話は全部未来に先送りして、「純粋な楽しさ」だけを抽出して見せるのだから、そりゃあ「魔法」にも見えただろう。先送りされたものを押し付けられる妻も大変だ。
そして映画で描かれるのは、そんなロクでなしな父親を、「ロクでなし」だと気付かされた後も愛情深く感じてしまうジェニファーなのである。子ども時代からややこしい両親の元で育てられ、大人になってからも苦労が耐えなかった彼女が、それでも「父親への愛情」を消すことができなかった、その苦しみみたいなものが強く描き出されていると感じた。
内容に入ろうと思います。
1992年。史上最大と言われる偽札事件を起こしたジョンは、裁判を目前に逃亡した。娘のジェニファーは警察に呼ばれ、状況の説明を受ける。そして彼女の記憶は、子供時代に遡っていく。
父は借金で家を飾り立てたが、支払いが出来ずに行方知れずとなる。父親は昔から、度々姿を消し、自分の存在を認めてほしい時にだけ再び顔をだすような人物だった。ジェニファーは弟のニックと母親の元で生活するが、仕事もなかなか上手くいかず、請求書の山に埋もれる母は酒に溺れてしまう。そんな状況に嫌気が指したジェニファーは、幼いながらも母親に「お父さんと暮らす」と宣言。ニックと共に、若い恋人と暮らす父親の元へと移り住んだ。
しかしその後も、彼らの生活は不安定なままであり、やがてジェニファーとニックは、母の再婚相手と4人で生活を始める。
その再婚相手に寝ているところを襲われたジェニファーは、こんなところにはいられないと、家を出る決意をするが……。
というような話です。
全編に渡って「家族であることのややこしさ」が描かれる作品であり、父親への親愛の情を捨てられるにいるジェニファーが露わになる。僕には彼女の感覚は分からないが、きっと分かる人もいるだろう。比較していい話ではないかもしれないが、自分に暴力を振るう男性に愛想をつかしたり嫌いになったりできない女性の話を聞くこともある。目の前に存在するマイナス以上に、プラスの何かが認識されてしまうということなのだと思う。同じような葛藤に晒されている人は、結構いるんだろうと思う。
正直僕は、「家族の話」にさほど関心が持てないので、映画全体を貫く「家族とは何か?」みたいな問いかけにはさほど興味を持てなかった。ただ、ジョンという人間の異常っぷりや、ジェニファーが独力で人生を立て直していく過程はなかなか面白かった。
個人的にとても気になるのが、ジョンは一体どのように精巧な偽札を作ったのか、だ。映画の冒頭で刑事が、「とても高度な技術だ」と語っていた。インク・紙質・重さ・透かし・印板・金属箔、そのすべてが完璧だったそうだ。ジョンは半年間で5万ドル分を流通させたが、実際に印刷したのは2200万ドル分だそうだ。最長75年の懲役刑が課される可能性があった。
以前、真保裕一『奪取』という小説を読んだことがある。まさに、偽札作りをモチーフにした小説だ。日本の一万円札を作る話であり、お札の紙にはどんな素材が使われているのかや、印刷にどのような技術が用いられているのかなど、かなり詳細に書かれていた。すぐにはバレない程度の偽札を作るのには相当な労力が必要だと感じさせられたし、よほどの覚悟がなければ割に合う作業じゃないと思う。
そんな『奪取』を読んだ経験があったので、ジョンの偽札作りのやり方が気になってしまった。アメリカの紙幣だってかなりの技術で作られているのだろうし、そう簡単には偽造できないだろう。『フラッグ・デイ』の中では、偽札作りについてはほぼ描かれないので、仲間と共謀して行ったのかなどさっぱり分からないが、正直なところ、「そんな根気があるなら、他のところで発揮すればよかったのになぁ」と思わされてしまった。
ちなみに、レジで偽札を見つけた後、それがニュースになった記憶がない。結局あれはなんだったんだろう?
「フラッグ・デイ 父を想う日」を観に行ってきました
「ケイコ 目を澄ませて」を観に行ってきました
良い映画だった。何が起こるというわけでもない映画なのだが、耳の聴こえない女性の淡々としながらも激しい日常を丁寧に描き出している。ちょっとザラッとした感じの画質で荒川の街を映し出し、幸せとも不幸せとも言い難い、そのあわいのような場所を行ったり来たりしながら生きる女性の姿に、静かに胸打たれる人は多いだろう。
さて、そんなわけで、「観てよかった」と感じる映画だということは間違いない。ただ同時に、感想として特に書くことが思い浮かばないんだよなぁ、とも思う。これは、僕の特殊さと言えるだろう。僕は映画でも本でも人との会話でも、「思考が刺激される」とテンションが上がる。別に、知識とか教養みたいなものだけを求めているわけではなく、想像したこともなかった価値観とか、触れたことのない思考なんかに出会えると嬉しい。
そして、『ケイコ 目を澄ませて』には、そういうものはあまりない。ないから駄目ということはもちろんまったくないのだが、やはりどうしても僕のテンションはそこまで上がらないし、頭から湧き出るような思考もないことになる。そういう意味では、僕にとって少し残念な作品であるとも言える。
映画を観ながらずっと考えていたことは、主演を務めた岸井ゆきのについてだ。以前、『神は見返りを求める』の感想にも同じことを書いたが、彼女は、美人側も不美人側もまったく違和感を抱かせない形で演じられると思っていて、それがとても稀有な存在だと感じられる。あまり容姿のことをあーだこーだ言うのは好きではないのだけど、岸井ゆきのに対してはホント、出演作を観る度にいつも同じようなことを感じる。
だから、と繋げるのが正しいのか分からないが、顔をボコボコに殴られるボクサーの役もしっくりくる。いや、現実の世界では別にどんな人がボクサーになろうがいいのだが、物語の世界では「顔を殴られた感を出すメイク」を美人にすると、なんか凄く「演出感」が出るような気がしてしまう。岸井ゆきのも美人なのだが、「顔を殴られた感を出すメイク」が何故か「演出感」に繋がらない。少なくとも僕はそんな風に感じる。そういうことも、この物語のリアルさに繋がっているのではないかと感じた。
あと、映画の中で印象的だったことが、まあこれは聴覚障害者を描く際には当然の描写と言えばそうなのかもしれないけど、「聴こえていないこと」が強調されるような場面が多かった。ボクシングジムで練習生の一人がコーチからボロクソに怒鳴られている中、ケイコは鏡に向かってシャドーボクシングをする、みたいな。そのような描写が結構多かったこともあり、恐らく、「聞きたくないことを聞かずに済むのは悪くない」みたいな意味が込められているように感じた。ケイコは、耳が聴こえないことでもちろん様々な不便があるし、耳が聴こえるかどうかに関係ない部分でも生きづらさを感じているだろう。その一方で、「聴く必要のないことに気を取られる必要がない」というのは決して悪くはないという描かれ方になっているように感じられた。
障害を持つ人を描く場合、どうしても「大変だ」という方向からしか捉えられないことも多いだろうが、この映画はそのようなスタンスをもって作られたわけではないと明確に示している気がした。僕は病名がつくような障害を診断されたことはないし、だから障害を持つ人がこの映画を観てどう感じるか分からないが、僕の想像では、より実態に近しい形で描かれていると感じるのではないかと思った。
「ケイコ 目を澄ませて」を観に行ってきました
さて、そんなわけで、「観てよかった」と感じる映画だということは間違いない。ただ同時に、感想として特に書くことが思い浮かばないんだよなぁ、とも思う。これは、僕の特殊さと言えるだろう。僕は映画でも本でも人との会話でも、「思考が刺激される」とテンションが上がる。別に、知識とか教養みたいなものだけを求めているわけではなく、想像したこともなかった価値観とか、触れたことのない思考なんかに出会えると嬉しい。
そして、『ケイコ 目を澄ませて』には、そういうものはあまりない。ないから駄目ということはもちろんまったくないのだが、やはりどうしても僕のテンションはそこまで上がらないし、頭から湧き出るような思考もないことになる。そういう意味では、僕にとって少し残念な作品であるとも言える。
映画を観ながらずっと考えていたことは、主演を務めた岸井ゆきのについてだ。以前、『神は見返りを求める』の感想にも同じことを書いたが、彼女は、美人側も不美人側もまったく違和感を抱かせない形で演じられると思っていて、それがとても稀有な存在だと感じられる。あまり容姿のことをあーだこーだ言うのは好きではないのだけど、岸井ゆきのに対してはホント、出演作を観る度にいつも同じようなことを感じる。
だから、と繋げるのが正しいのか分からないが、顔をボコボコに殴られるボクサーの役もしっくりくる。いや、現実の世界では別にどんな人がボクサーになろうがいいのだが、物語の世界では「顔を殴られた感を出すメイク」を美人にすると、なんか凄く「演出感」が出るような気がしてしまう。岸井ゆきのも美人なのだが、「顔を殴られた感を出すメイク」が何故か「演出感」に繋がらない。少なくとも僕はそんな風に感じる。そういうことも、この物語のリアルさに繋がっているのではないかと感じた。
あと、映画の中で印象的だったことが、まあこれは聴覚障害者を描く際には当然の描写と言えばそうなのかもしれないけど、「聴こえていないこと」が強調されるような場面が多かった。ボクシングジムで練習生の一人がコーチからボロクソに怒鳴られている中、ケイコは鏡に向かってシャドーボクシングをする、みたいな。そのような描写が結構多かったこともあり、恐らく、「聞きたくないことを聞かずに済むのは悪くない」みたいな意味が込められているように感じた。ケイコは、耳が聴こえないことでもちろん様々な不便があるし、耳が聴こえるかどうかに関係ない部分でも生きづらさを感じているだろう。その一方で、「聴く必要のないことに気を取られる必要がない」というのは決して悪くはないという描かれ方になっているように感じられた。
障害を持つ人を描く場合、どうしても「大変だ」という方向からしか捉えられないことも多いだろうが、この映画はそのようなスタンスをもって作られたわけではないと明確に示している気がした。僕は病名がつくような障害を診断されたことはないし、だから障害を持つ人がこの映画を観てどう感じるか分からないが、僕の想像では、より実態に近しい形で描かれていると感じるのではないかと思った。
「ケイコ 目を澄ませて」を観に行ってきました
「A」(森達也)を観に行ってきました
まさか森達也『A』を観る機会があるとは思わなかった。上映終了が23時、家に帰ってこの文章を書き始めたのが23時45分と言ったところだが、何にせよ観て良かった。
映画を観ながら、昨日やっていた「M-1グランプリ」の決勝で「さや香」が披露したネタのことを思い出した。ざっくり説明するとこんな感じ。冒頭で一方が、「男女の友情は成立する」と語り、長年友人関係にある女性がいるという話をする。もう一方が「大人の関係はないんだな」とツッコむと、「一度だけ」と答える。「いやいや、一度でもあったらもうそれは友情ではないじゃん」というところから、「『男女の友情は成立する』と主張する男」のおかしさを、もう一方があげつらうような展開になっていく。しかし面白いことに、ネタの展開と共にいつの間にか、糾弾していた側が糾弾されるような展開になる。そのスライドのさせ方は実に見事だったと思う。ごく自然に、今まで相手を馬鹿にしていた側が「気持ち悪い」風に見られるようになる、という展開を見せるのだ。「ルビンの壺」でも見ているような鮮やかさだった。
さて、どうしてこのネタのことを思い出したのか。それは、まさに『A』がそのようなこと、つまり「物事は、ほんのちょっとした見方の差によってまったく違った風に映る」ということを如実に示す映画だからだ。
映画の上映前、自著の出版に併せてドキュメンタリー映画の名作の再上映を企画した大島新と『A』の監督である森達也の25分程度のトークショーがあった。その中で大島新は、『A』に対する非常に印象的な「異なる」捉え方を提示していた。
1つは、まだ「ポレポレ東中野」という名前になる前、「BOX東中野」という映画館だった頃に『A』を観た大島新の感想だ。「大げさではなく、椅子から立ち上がれないほどのショックを受けた」と言っていた。決してそれだけが理由ではないが、『A』を観たことがフジテレビを辞めるきっかけの1つにもなったそうだ。それほどの衝撃を受けたのである。
一方、自身がドキュメンタリー映画作家となった視点で改めて『A』を観て、「実にオーソドックスな取材をされていますよね」と、トークイベントで森達也に言っていた。確かに、そのトークイベントを観た後で本編を観た僕の目にも、「とてもオーソドックスな取材をしている」ように映った。
「オーソドックスな取材」にも拘わらず「椅子から立ち上がれなくなるほどの衝撃」を受けた理由は何か。その間を埋めるものこそ、「オウム真理教」の異端さを物語っていると言えるだろう。トークイベントの中で大島新も森達也も似たようなことを言っていたが、地下鉄サリン事件が起こった当時は、「オウム真理教は絶対悪」「朝から晩まですべてのメディアがオウム真理教を取り上げるのが半年から1年ぐらい続いた」という状況だったのだ。
僕にもその記憶がちゃんとある。と、わざわざここで宣言するのは、今日劇場には若い観客が多かったらしいからだ(壇上からはそう見えたらしい)。また、大島新が客席に向かって、「『A』を初めて観るという方」と質問していて、僕も含めて多くの人が手を挙げていた。
個人的に、「オウム真理教が引き起こした社会の狂乱を知らないだろう若い世代」が『A』をどう観るのか聞いてみたい。
僕は、富士山の麓近くで生まれ育った。上九一色村や富士宮など、教団施設があった場所が物理的にかなり近い距離にあったので、そのこともあって報道合戦が凄まじかった。子どもの頃のことはほとんど覚えていないのだが、「地下鉄サリン事件が起こった日が小学校の卒業式だったこと」「麻原彰晃が逮捕された日が中学校の遠足の日だったこと」は、妙に覚えている。その後、「9.11同時多発テロ」「東日本大震災」と、メディアを埋め尽くすような大事件は度々起こるわけだが、僕にとって「地下鉄サリン事件」や「オウム真理教」は、別格の記憶として残っている。
恐らくそれは、「テレビの力がまだまだ強い時代だった」からということもあると思う。現代は、あらゆるメディアが世の中に存在する。それは、「世の中のほとんどの人が当然のように見ているメディアが限定的に絞られることがない社会」であるとも言える。「地下鉄サリン事件」が起こった1995年は、「Windows95」が出た年だからインターネットはあまり普及していなかったはずだし、当然スマホもなかっただろう。YouTubeもSNSもなかった。人々が何か情報を得たり娯楽に興じたりするツールとして、やはりテレビが最強だった時代なのである。
SNSがある世の中では、良いか悪いかはともかくとして、ありとあらゆる情報が同じ土俵に乗る。政府が隠しているかもしれない真実も、命を救うのに役立つ情報も、誰かがテキトーに広めたデマも、同じように拡散される。良いかどうかは別として、「多種多様な情報から選択できる社会」と言える。
しかし、情報源がテレビや新聞だけの場合、情報は「テレビ・新聞が流したいもの」しか拡散されない。この違いはとても大きい。そして、まさにその間隙をついたのが『A』と言える。オウム真理教の報道が凄まじかった時代に、オウム真理教を「絶対悪」として扱わない捉え方は、確かに「椅子から立ち上がれないほどの衝撃」を与えるだろう。
さて、今の若い世代には、このような『A』の下敷きとなる土台が血肉化されていないはずだ。そもそもオウム真理教の報道が凄まじかった状況が想像できないだろうし、「ネットもSNSもYouTubeも存在しない世界での情報収集」もイメージできないだろう。もしかしたら、そういう人が『A』を観たら、「何が凄いのか分からない」という感覚になるかもしれない。
それは、私が『七人の侍』を観た時の感想に近いだろう。「不朽の名作だ」という情報以外何も知らないまま映画館で観たのだが(4時間もある映画だということさえ知らずに驚いた)、正直「何が凄いのか分からない」という感想になった。後で調べて、その理由は理解した。要するに、「私たちが今当たり前のように触れている『物語のフォーマット』みたいなもの」を生み出したのが『七人の侍』なのであり、そのフォーマットが存在しない世の中では衝撃をもたらしたが、そのフォーマットが当たり前になってしまった時代に生きる僕には凄さが伝わらなかったのだ。
そういう意味で、若い世代にももしかしたら『A』の凄さが伝わらないかもしれない、と思ったりする。どうなんだろう。
さて、どんどん脱線しまくっているが、何の話をしていたかと言えば、「さら香」のネタがどう関係するかだ。当時のマスコミは、「オウム真理教は絶対悪だ」という決めつけの元、そのような枠をあらかじめ嵌め込んでオウム真理教という対象を捉えようとした。それは、『A』を制作することになった森達也の経緯からも明らかだ。元々はフジテレビの番組の企画として始まった撮影なのだが、撮影が始まって2日後、フジテレビと、森達也が所属していた共同テレビジョンという制作会社で議論になったそうだ。森達也が撮っている映像はマズいぞ、と。
どうマズいのか。それは、「オウム真理教が悪く描かれていないこと」だ。そして、それを理由に、撮影の中止が決定した。しかし森達也は休みの日を使って独自に撮影を継続、それが会社にバレてクビとなり、仕方なく自主制作のドキュメンタリー映画として完成させたのが『A』なのである。
まさに『A』が生まれた背景にも、どっしりと「オウム真理教は絶対悪だ」という感覚が横たわっているのである。
さて、有名な作品だからざっくりした内容・設定は知っているだろうが、『A』はオウム真理教の内部を撮影する映画だ。しかしそれだけではない。森達也はメディアで唯一教団の施設内部に入り込むことを許されていた。そして必然的に、教団内部から「社会」と「マスコミ」を映し出すことにもなったのである。
森達也はトークイベントの中で、「マスコミの醜悪さを殊更に暴き立てるつもりなどなかった」と語っていた。森達也は荒木浩という信者に密着しており、彼は広報副部長として、逮捕された上祐史浩の代わりにマスコミ対応を一手に担っていた。つまり、荒木浩を撮ることは、必然的にマスコミを撮ることにもなるのである。
脱線しまくるが、森達也が面白いことを言っていた。大島新が「映画の中に映ったマスコミ関係者から文句を言われたことはないんですか?」と質問したのだが、「直接的にはない」と答えていた。しかし初対面の相手との会話で、ちょっとした雑談程度の話で「私、『A』にちょっとだけ出てるんですよね」と苦笑されたり、あるいは飲みの席で「身内(マスコミ)に刃物を突きつけやがって」と笑い話みたいに突っかかられることはある、とも言っていた。映画の中ではNHKの女性リポーターが「個人のプライバシーが明らかにならないように配慮しますので」と言いながら信者の1人にインタビューをする様が映し出されるのだが、その様子を信者も含めてモザイクなしで森達也は切り取っていく。書籍の方の『A』に書かれていたが、森達也は撮影に際して「モザイクはかけない」と最初から伝えていたそうだ。だからそんな変な状況が生まれるわけだが、とにかく「オウム真理教がマスコミに取材される様子」を森達也が撮影している、というわけなのだ。
そして、そんな風に「オウム真理教の内部からマスコミを映し出す」という視点に立つことで、「さや香」のネタのように、「あれ? どっちの方がヤバいんだっけ?」という感覚になっていく、というわけだ。そういう感覚をもたらすという点が、映画『A』が内包する最大の異端さだと僕は感じた。
さて、誤解を受けないように僕のスタンスをざっくり書いておこうと思うが、僕は「日本犯罪史に残る凶悪事件を引き起こしたこと」に弁解の余地はないと思っているし、結局全体像は明らかにされなかったものの、「麻原彰晃を筆頭に、幹部たちが凶悪事件を計画・実行した」ことも間違いないだろうと考えている。彼らがどんな思想を持っていようが、何を目的にしていようが、「凶悪事件を引き起こした」という点において、擁護の余地は一切ないと思う。
ただ僕は、それを「オウム真理教」という全体に対して感じるわけではない。「オウム真理教の中の個人」が悪いのだと判断している。もちろん、違う状況では違う判断、つまり「組織全体が悪い」と考える場合もあると思う。例えば、トランプ元大統領を筆頭にした「Qアノン」については、「Qアノン全体が悪い」と感じる。その辺りの境界は、自分の中でも上手く説明はできない。ただ、オウム真理教が大バッシングされていた当時から、「『オウム真理教の信者だから悪い』という発想はあまりにも短絡的すぎやしないか」と考えていたような気がする。
ちょっと違う話だが、子どもが何か悪いことをした際に、その親が非難される状況も、僕には謎に感じられる。もちろん、親子で電車や公園など公共の場にいて、わが子の悪い振る舞いを親が目にしているのに注意や制止をしない、という状況は駄目だと思うが、親の目の届かない場所で子どもが何かした場合にも、大体親が責められる。それに意味があるのか、僕にはイマイチよく分からない。
とにかく状況次第ではあるが、大体において僕は、「個人がした行為」と「その個人が属する何か」は切り離して考えている。だから、「オウム真理教の信者だから悪い」という発想にはならない。
そしてその感覚は、『A』を観てさらに補強されたと言っていい。
カメラに映し出される人たちの印象は、「真面目な努力家」というものだ。確かに、彼らが信じている価値観は、簡単に共感できるようなものではない。あらゆる欲を手放し、修行によってカルマの解放を目指す、みたいなこと(なのかな?)は、一般的にスッと理解できるものではないと思う。ただ、「目指すべきところが明確に存在し、そのための努力を惜しむつもりがない」という意味でとても誠実な人たちであるように見えた。
僕がとても印象的に感じられたのは、「してはいけないこと」がとても少ないように見えたことだ。以前、カズレーザーが司会を務める教養番組でマインドコントロールが扱われていた際に、カルト宗教についても触れられていた。一般的な宗教とカルト宗教の大きな違いは、「社会と断絶させるかどうか」にあると専門家が語っていた記憶がある。家族と離れさせ、社会的な繋がりも断ち切らせることで、どんどんと孤立状態に陥り、それによって思考を硬直させていくというのがカルト宗教の特徴なのだそうだ。
一方、『A』を観る限り、オウム真理教の信者たちには「こういうことをしてはいけない」というような雰囲気を感じない。もちろん、「殺生はしてはいけない」など、大きなルールはあるだろう。しかし、そういうルールを守ってさえいれば、何をしてても問題ないと扱われているように見えた。
この辺りの感覚は上手く説明できないので、ある人物の発言をざっくりと引用してみようと思う。森達也がある信者に対して、「仮の話ですけど、(逮捕された)麻原彰晃が土下座して『自分だけは助けてくれ』と命乞いをしたって情報が入ってきたとしたらどうですか?」と聞く場面がある。それに対して信者は、概ね次のような答えを返していた。
『それでも、全然大丈夫ですね。
―それは、そういう情報を信じないということ? それとも、信じた上でも大丈夫ということ?
もし自分の目の前で土下座したとしても、僕の考えは変わらないです。最終的な解脱に導いてくれるのは、尊師しかいないと確信しているので』
これは、とても狂信的な主張に感じられるかもしれないが、僕が気になったのは「もし自分の目の前で土下座したとしても」という発言だ。なんとなくだが、特にカルト宗教においては、こういう発言は許容されないように思う。つまり、「尊師は土下座などするはずがない」と、強く否定しなければならないような雰囲気があるのではないか、と想像しているのだ。カルト宗教というのはそういう風に、「してはいけないこと」を明文化、あるいは暗黙の了解の内に浸透させることで、人々の思考を縛り付けているように思う。
しかしオウム真理教の信者からは、あまりそういうことを感じない。
もう1人、麻原彰晃が逮捕された後に代表代行を務めた村岡達子の発言も興味深いと感じた。こちらも森達也から、「(地下鉄サリン事件などの)事件に(教団の関与が)あったんだって想いますか?」と聞かれて、こんな風に答えている。
『今は「あったかもしれない」ぐらいにしか言えない。ただ、林さんの証言なんかを聞いているとかなり具体的で、だから林さんはきっとそういう行為を実際に行ったんだろうなと』
これも、普通にはなかなか発言できないことのように感じられる。もちろん、先の信者にしても村岡達子にしても、「カメラの向こうの大衆」を如実に意識し、「聞こえの良いこと」を言っている可能性もあるかもしれない。ただ、「聞こえの良いこと」を言うのなら、もう少し良い方はあるように思う。彼ら彼女らの発言は決して、「カメラの向こうの大衆」を納得・安心させるようなものではないはずだ。だからなんとなく、「聞かれたことに本心で答えている」みたいな感じがする。
村岡達子は、自身の信仰についてもこんな風に語っていた。
『人間の社会っていうのは矛盾があるわけじゃないですか。(戦争に勝てば人を殺しても裁かれない、みたいな事柄に対する違和感を口にする) そういうことに、子どもの頃から疑問を抱き続けてきたんですけど、それに納得の行く答えをくれたのは、これまで尊師しかいないんです。
まあ、こういうことを言うと『マインドコントロールされてる』なんて言われちゃうんですけどね(笑)
ただ、(尊師が逮捕されたからと言って)自分の体験・経験として体得してきたことがあるから、そういう信仰が揺らぐことはないですね』
旧統一教会の法整備において「マインドコントロールの定義が難しい」みたいな話が出てきたし、映画に映し出された人たちがマインドコントロール下にあるのかどうか、判断は難しいだろう。ただ、映画に出てくる何人かの人が、同じようなことを言っているのが印象的だった。ある人物は、「グルがどんな人物であっても構わない」と断言していた。それは、「どんなことがあっても麻原彰晃についていく」という狂信さというよりは、「依って立つものは自身の内部にもうあるから、麻原彰晃の存在に頼る必要がない」という宣言のように感じられた。
ただ、やはり「これはちょっと狂信的だなぁ」と感じる場面もあった。その1つが、「麻原彰晃が逮捕されたことをどう捉えているのか」についての話だ。ある信者は、「弟子たちがあまりに修行しないから、修行を促すために演技をしているのだ」と言っていた。つまり、世間からオウム真理教が猛烈に批判されるような状況を作り出すことで、「それで諦めてしまうような人間」をあぶり出そうとしている、というのだ。あるいは別の信者は、「世間から批判されているこの状況は、自分がオウム真理教の教えをどれだけ体得しているか、どれだけ体得し得るかの実地訓練のようで、良かった」みたいにも語っていた。さすがにそれは、なかなか無理のある解釈だなぁ、と感じてしまった。
映画のラスト付近で、森達也が荒木浩に問い掛ける場面がある。「確定はしていないが、事件にオウム真理教が関わっていることはほぼ間違いない。そして、どんな形であれ社会の中で生きているのだから、社会の規範は守るべきだ。だから、『社会の規律を蔑ろにした』という点で、社会は君たちに謝罪を求めているというのが現状だと思うがどうか?」というようなことを聞かれた荒木浩は、長い沈黙の後こう答える。
『1つ受け入れると、オウム真理教に対する世間のイメージすべてを受け入れることになりませんか?
「色々あったけど云々」みたいな中途半端な対応は私には出来ませんよ。「じゃあなんでまだ教団に留まってるんだ」って聞かれたら、答えられなくなるじゃないですか』
荒木浩は映画の中で、大体の場合平静のまま対応している。しかし森達也にこう問われた場面では、振り絞るようにして言葉を返していた印象がある。彼は、「オウム真理教に出家する前より『社会』に深く関わっているから、今からさらに出家したい」とも言っていたが、広報副部長としての難しい立ち位置を感じさせる場面だったと思う。
街中で刑事と揉め、最終的に「転び公妨」で逮捕に至るという一連の流れは凄いリアリティだなと思うし、リアリティという意味で言えば、服装に頓着しない荒木浩がスーツ姿なのにサンダルで来てしまい、公の場に立つ直前に隣に人から革靴を借りるシーンなんかは結構好きだなと思う。そういう、普通ならなんでもない些細な場面が、「オウム真理教は絶対悪だ」という強烈な土台の上に乗るととても奇妙なものに感じられる、その「視点の変遷」みたいなものを感じさせられる作品だった。
いやはや、観れて良かった。
「A」(森達也)を観に行ってきました
映画を観ながら、昨日やっていた「M-1グランプリ」の決勝で「さや香」が披露したネタのことを思い出した。ざっくり説明するとこんな感じ。冒頭で一方が、「男女の友情は成立する」と語り、長年友人関係にある女性がいるという話をする。もう一方が「大人の関係はないんだな」とツッコむと、「一度だけ」と答える。「いやいや、一度でもあったらもうそれは友情ではないじゃん」というところから、「『男女の友情は成立する』と主張する男」のおかしさを、もう一方があげつらうような展開になっていく。しかし面白いことに、ネタの展開と共にいつの間にか、糾弾していた側が糾弾されるような展開になる。そのスライドのさせ方は実に見事だったと思う。ごく自然に、今まで相手を馬鹿にしていた側が「気持ち悪い」風に見られるようになる、という展開を見せるのだ。「ルビンの壺」でも見ているような鮮やかさだった。
さて、どうしてこのネタのことを思い出したのか。それは、まさに『A』がそのようなこと、つまり「物事は、ほんのちょっとした見方の差によってまったく違った風に映る」ということを如実に示す映画だからだ。
映画の上映前、自著の出版に併せてドキュメンタリー映画の名作の再上映を企画した大島新と『A』の監督である森達也の25分程度のトークショーがあった。その中で大島新は、『A』に対する非常に印象的な「異なる」捉え方を提示していた。
1つは、まだ「ポレポレ東中野」という名前になる前、「BOX東中野」という映画館だった頃に『A』を観た大島新の感想だ。「大げさではなく、椅子から立ち上がれないほどのショックを受けた」と言っていた。決してそれだけが理由ではないが、『A』を観たことがフジテレビを辞めるきっかけの1つにもなったそうだ。それほどの衝撃を受けたのである。
一方、自身がドキュメンタリー映画作家となった視点で改めて『A』を観て、「実にオーソドックスな取材をされていますよね」と、トークイベントで森達也に言っていた。確かに、そのトークイベントを観た後で本編を観た僕の目にも、「とてもオーソドックスな取材をしている」ように映った。
「オーソドックスな取材」にも拘わらず「椅子から立ち上がれなくなるほどの衝撃」を受けた理由は何か。その間を埋めるものこそ、「オウム真理教」の異端さを物語っていると言えるだろう。トークイベントの中で大島新も森達也も似たようなことを言っていたが、地下鉄サリン事件が起こった当時は、「オウム真理教は絶対悪」「朝から晩まですべてのメディアがオウム真理教を取り上げるのが半年から1年ぐらい続いた」という状況だったのだ。
僕にもその記憶がちゃんとある。と、わざわざここで宣言するのは、今日劇場には若い観客が多かったらしいからだ(壇上からはそう見えたらしい)。また、大島新が客席に向かって、「『A』を初めて観るという方」と質問していて、僕も含めて多くの人が手を挙げていた。
個人的に、「オウム真理教が引き起こした社会の狂乱を知らないだろう若い世代」が『A』をどう観るのか聞いてみたい。
僕は、富士山の麓近くで生まれ育った。上九一色村や富士宮など、教団施設があった場所が物理的にかなり近い距離にあったので、そのこともあって報道合戦が凄まじかった。子どもの頃のことはほとんど覚えていないのだが、「地下鉄サリン事件が起こった日が小学校の卒業式だったこと」「麻原彰晃が逮捕された日が中学校の遠足の日だったこと」は、妙に覚えている。その後、「9.11同時多発テロ」「東日本大震災」と、メディアを埋め尽くすような大事件は度々起こるわけだが、僕にとって「地下鉄サリン事件」や「オウム真理教」は、別格の記憶として残っている。
恐らくそれは、「テレビの力がまだまだ強い時代だった」からということもあると思う。現代は、あらゆるメディアが世の中に存在する。それは、「世の中のほとんどの人が当然のように見ているメディアが限定的に絞られることがない社会」であるとも言える。「地下鉄サリン事件」が起こった1995年は、「Windows95」が出た年だからインターネットはあまり普及していなかったはずだし、当然スマホもなかっただろう。YouTubeもSNSもなかった。人々が何か情報を得たり娯楽に興じたりするツールとして、やはりテレビが最強だった時代なのである。
SNSがある世の中では、良いか悪いかはともかくとして、ありとあらゆる情報が同じ土俵に乗る。政府が隠しているかもしれない真実も、命を救うのに役立つ情報も、誰かがテキトーに広めたデマも、同じように拡散される。良いかどうかは別として、「多種多様な情報から選択できる社会」と言える。
しかし、情報源がテレビや新聞だけの場合、情報は「テレビ・新聞が流したいもの」しか拡散されない。この違いはとても大きい。そして、まさにその間隙をついたのが『A』と言える。オウム真理教の報道が凄まじかった時代に、オウム真理教を「絶対悪」として扱わない捉え方は、確かに「椅子から立ち上がれないほどの衝撃」を与えるだろう。
さて、今の若い世代には、このような『A』の下敷きとなる土台が血肉化されていないはずだ。そもそもオウム真理教の報道が凄まじかった状況が想像できないだろうし、「ネットもSNSもYouTubeも存在しない世界での情報収集」もイメージできないだろう。もしかしたら、そういう人が『A』を観たら、「何が凄いのか分からない」という感覚になるかもしれない。
それは、私が『七人の侍』を観た時の感想に近いだろう。「不朽の名作だ」という情報以外何も知らないまま映画館で観たのだが(4時間もある映画だということさえ知らずに驚いた)、正直「何が凄いのか分からない」という感想になった。後で調べて、その理由は理解した。要するに、「私たちが今当たり前のように触れている『物語のフォーマット』みたいなもの」を生み出したのが『七人の侍』なのであり、そのフォーマットが存在しない世の中では衝撃をもたらしたが、そのフォーマットが当たり前になってしまった時代に生きる僕には凄さが伝わらなかったのだ。
そういう意味で、若い世代にももしかしたら『A』の凄さが伝わらないかもしれない、と思ったりする。どうなんだろう。
さて、どんどん脱線しまくっているが、何の話をしていたかと言えば、「さら香」のネタがどう関係するかだ。当時のマスコミは、「オウム真理教は絶対悪だ」という決めつけの元、そのような枠をあらかじめ嵌め込んでオウム真理教という対象を捉えようとした。それは、『A』を制作することになった森達也の経緯からも明らかだ。元々はフジテレビの番組の企画として始まった撮影なのだが、撮影が始まって2日後、フジテレビと、森達也が所属していた共同テレビジョンという制作会社で議論になったそうだ。森達也が撮っている映像はマズいぞ、と。
どうマズいのか。それは、「オウム真理教が悪く描かれていないこと」だ。そして、それを理由に、撮影の中止が決定した。しかし森達也は休みの日を使って独自に撮影を継続、それが会社にバレてクビとなり、仕方なく自主制作のドキュメンタリー映画として完成させたのが『A』なのである。
まさに『A』が生まれた背景にも、どっしりと「オウム真理教は絶対悪だ」という感覚が横たわっているのである。
さて、有名な作品だからざっくりした内容・設定は知っているだろうが、『A』はオウム真理教の内部を撮影する映画だ。しかしそれだけではない。森達也はメディアで唯一教団の施設内部に入り込むことを許されていた。そして必然的に、教団内部から「社会」と「マスコミ」を映し出すことにもなったのである。
森達也はトークイベントの中で、「マスコミの醜悪さを殊更に暴き立てるつもりなどなかった」と語っていた。森達也は荒木浩という信者に密着しており、彼は広報副部長として、逮捕された上祐史浩の代わりにマスコミ対応を一手に担っていた。つまり、荒木浩を撮ることは、必然的にマスコミを撮ることにもなるのである。
脱線しまくるが、森達也が面白いことを言っていた。大島新が「映画の中に映ったマスコミ関係者から文句を言われたことはないんですか?」と質問したのだが、「直接的にはない」と答えていた。しかし初対面の相手との会話で、ちょっとした雑談程度の話で「私、『A』にちょっとだけ出てるんですよね」と苦笑されたり、あるいは飲みの席で「身内(マスコミ)に刃物を突きつけやがって」と笑い話みたいに突っかかられることはある、とも言っていた。映画の中ではNHKの女性リポーターが「個人のプライバシーが明らかにならないように配慮しますので」と言いながら信者の1人にインタビューをする様が映し出されるのだが、その様子を信者も含めてモザイクなしで森達也は切り取っていく。書籍の方の『A』に書かれていたが、森達也は撮影に際して「モザイクはかけない」と最初から伝えていたそうだ。だからそんな変な状況が生まれるわけだが、とにかく「オウム真理教がマスコミに取材される様子」を森達也が撮影している、というわけなのだ。
そして、そんな風に「オウム真理教の内部からマスコミを映し出す」という視点に立つことで、「さや香」のネタのように、「あれ? どっちの方がヤバいんだっけ?」という感覚になっていく、というわけだ。そういう感覚をもたらすという点が、映画『A』が内包する最大の異端さだと僕は感じた。
さて、誤解を受けないように僕のスタンスをざっくり書いておこうと思うが、僕は「日本犯罪史に残る凶悪事件を引き起こしたこと」に弁解の余地はないと思っているし、結局全体像は明らかにされなかったものの、「麻原彰晃を筆頭に、幹部たちが凶悪事件を計画・実行した」ことも間違いないだろうと考えている。彼らがどんな思想を持っていようが、何を目的にしていようが、「凶悪事件を引き起こした」という点において、擁護の余地は一切ないと思う。
ただ僕は、それを「オウム真理教」という全体に対して感じるわけではない。「オウム真理教の中の個人」が悪いのだと判断している。もちろん、違う状況では違う判断、つまり「組織全体が悪い」と考える場合もあると思う。例えば、トランプ元大統領を筆頭にした「Qアノン」については、「Qアノン全体が悪い」と感じる。その辺りの境界は、自分の中でも上手く説明はできない。ただ、オウム真理教が大バッシングされていた当時から、「『オウム真理教の信者だから悪い』という発想はあまりにも短絡的すぎやしないか」と考えていたような気がする。
ちょっと違う話だが、子どもが何か悪いことをした際に、その親が非難される状況も、僕には謎に感じられる。もちろん、親子で電車や公園など公共の場にいて、わが子の悪い振る舞いを親が目にしているのに注意や制止をしない、という状況は駄目だと思うが、親の目の届かない場所で子どもが何かした場合にも、大体親が責められる。それに意味があるのか、僕にはイマイチよく分からない。
とにかく状況次第ではあるが、大体において僕は、「個人がした行為」と「その個人が属する何か」は切り離して考えている。だから、「オウム真理教の信者だから悪い」という発想にはならない。
そしてその感覚は、『A』を観てさらに補強されたと言っていい。
カメラに映し出される人たちの印象は、「真面目な努力家」というものだ。確かに、彼らが信じている価値観は、簡単に共感できるようなものではない。あらゆる欲を手放し、修行によってカルマの解放を目指す、みたいなこと(なのかな?)は、一般的にスッと理解できるものではないと思う。ただ、「目指すべきところが明確に存在し、そのための努力を惜しむつもりがない」という意味でとても誠実な人たちであるように見えた。
僕がとても印象的に感じられたのは、「してはいけないこと」がとても少ないように見えたことだ。以前、カズレーザーが司会を務める教養番組でマインドコントロールが扱われていた際に、カルト宗教についても触れられていた。一般的な宗教とカルト宗教の大きな違いは、「社会と断絶させるかどうか」にあると専門家が語っていた記憶がある。家族と離れさせ、社会的な繋がりも断ち切らせることで、どんどんと孤立状態に陥り、それによって思考を硬直させていくというのがカルト宗教の特徴なのだそうだ。
一方、『A』を観る限り、オウム真理教の信者たちには「こういうことをしてはいけない」というような雰囲気を感じない。もちろん、「殺生はしてはいけない」など、大きなルールはあるだろう。しかし、そういうルールを守ってさえいれば、何をしてても問題ないと扱われているように見えた。
この辺りの感覚は上手く説明できないので、ある人物の発言をざっくりと引用してみようと思う。森達也がある信者に対して、「仮の話ですけど、(逮捕された)麻原彰晃が土下座して『自分だけは助けてくれ』と命乞いをしたって情報が入ってきたとしたらどうですか?」と聞く場面がある。それに対して信者は、概ね次のような答えを返していた。
『それでも、全然大丈夫ですね。
―それは、そういう情報を信じないということ? それとも、信じた上でも大丈夫ということ?
もし自分の目の前で土下座したとしても、僕の考えは変わらないです。最終的な解脱に導いてくれるのは、尊師しかいないと確信しているので』
これは、とても狂信的な主張に感じられるかもしれないが、僕が気になったのは「もし自分の目の前で土下座したとしても」という発言だ。なんとなくだが、特にカルト宗教においては、こういう発言は許容されないように思う。つまり、「尊師は土下座などするはずがない」と、強く否定しなければならないような雰囲気があるのではないか、と想像しているのだ。カルト宗教というのはそういう風に、「してはいけないこと」を明文化、あるいは暗黙の了解の内に浸透させることで、人々の思考を縛り付けているように思う。
しかしオウム真理教の信者からは、あまりそういうことを感じない。
もう1人、麻原彰晃が逮捕された後に代表代行を務めた村岡達子の発言も興味深いと感じた。こちらも森達也から、「(地下鉄サリン事件などの)事件に(教団の関与が)あったんだって想いますか?」と聞かれて、こんな風に答えている。
『今は「あったかもしれない」ぐらいにしか言えない。ただ、林さんの証言なんかを聞いているとかなり具体的で、だから林さんはきっとそういう行為を実際に行ったんだろうなと』
これも、普通にはなかなか発言できないことのように感じられる。もちろん、先の信者にしても村岡達子にしても、「カメラの向こうの大衆」を如実に意識し、「聞こえの良いこと」を言っている可能性もあるかもしれない。ただ、「聞こえの良いこと」を言うのなら、もう少し良い方はあるように思う。彼ら彼女らの発言は決して、「カメラの向こうの大衆」を納得・安心させるようなものではないはずだ。だからなんとなく、「聞かれたことに本心で答えている」みたいな感じがする。
村岡達子は、自身の信仰についてもこんな風に語っていた。
『人間の社会っていうのは矛盾があるわけじゃないですか。(戦争に勝てば人を殺しても裁かれない、みたいな事柄に対する違和感を口にする) そういうことに、子どもの頃から疑問を抱き続けてきたんですけど、それに納得の行く答えをくれたのは、これまで尊師しかいないんです。
まあ、こういうことを言うと『マインドコントロールされてる』なんて言われちゃうんですけどね(笑)
ただ、(尊師が逮捕されたからと言って)自分の体験・経験として体得してきたことがあるから、そういう信仰が揺らぐことはないですね』
旧統一教会の法整備において「マインドコントロールの定義が難しい」みたいな話が出てきたし、映画に映し出された人たちがマインドコントロール下にあるのかどうか、判断は難しいだろう。ただ、映画に出てくる何人かの人が、同じようなことを言っているのが印象的だった。ある人物は、「グルがどんな人物であっても構わない」と断言していた。それは、「どんなことがあっても麻原彰晃についていく」という狂信さというよりは、「依って立つものは自身の内部にもうあるから、麻原彰晃の存在に頼る必要がない」という宣言のように感じられた。
ただ、やはり「これはちょっと狂信的だなぁ」と感じる場面もあった。その1つが、「麻原彰晃が逮捕されたことをどう捉えているのか」についての話だ。ある信者は、「弟子たちがあまりに修行しないから、修行を促すために演技をしているのだ」と言っていた。つまり、世間からオウム真理教が猛烈に批判されるような状況を作り出すことで、「それで諦めてしまうような人間」をあぶり出そうとしている、というのだ。あるいは別の信者は、「世間から批判されているこの状況は、自分がオウム真理教の教えをどれだけ体得しているか、どれだけ体得し得るかの実地訓練のようで、良かった」みたいにも語っていた。さすがにそれは、なかなか無理のある解釈だなぁ、と感じてしまった。
映画のラスト付近で、森達也が荒木浩に問い掛ける場面がある。「確定はしていないが、事件にオウム真理教が関わっていることはほぼ間違いない。そして、どんな形であれ社会の中で生きているのだから、社会の規範は守るべきだ。だから、『社会の規律を蔑ろにした』という点で、社会は君たちに謝罪を求めているというのが現状だと思うがどうか?」というようなことを聞かれた荒木浩は、長い沈黙の後こう答える。
『1つ受け入れると、オウム真理教に対する世間のイメージすべてを受け入れることになりませんか?
「色々あったけど云々」みたいな中途半端な対応は私には出来ませんよ。「じゃあなんでまだ教団に留まってるんだ」って聞かれたら、答えられなくなるじゃないですか』
荒木浩は映画の中で、大体の場合平静のまま対応している。しかし森達也にこう問われた場面では、振り絞るようにして言葉を返していた印象がある。彼は、「オウム真理教に出家する前より『社会』に深く関わっているから、今からさらに出家したい」とも言っていたが、広報副部長としての難しい立ち位置を感じさせる場面だったと思う。
街中で刑事と揉め、最終的に「転び公妨」で逮捕に至るという一連の流れは凄いリアリティだなと思うし、リアリティという意味で言えば、服装に頓着しない荒木浩がスーツ姿なのにサンダルで来てしまい、公の場に立つ直前に隣に人から革靴を借りるシーンなんかは結構好きだなと思う。そういう、普通ならなんでもない些細な場面が、「オウム真理教は絶対悪だ」という強烈な土台の上に乗るととても奇妙なものに感じられる、その「視点の変遷」みたいなものを感じさせられる作品だった。
いやはや、観れて良かった。
「A」(森達也)を観に行ってきました
「戦場記者」を観に行ってきました
TBSに所属する中東担当の特派員・須賀川拓が見た世界のリアルを映し出す映画である。
映画『戦場記者』ではもちろん、紛争や社会問題が切り取られる。ガザ地区を舞台にしたパレスチナとイスラエルの闘いやウクライナ侵攻、あるいは米軍撤退後のアフガニスタンの薬物中毒の現実など、その映像から伝わる現実の凄まじさには驚かされる。
それらについても後で触れるが、僕はこの映画を見て、それら以上に「『報じること』に対する須賀川拓の葛藤」に惹かれた。そして映画を観ながらずっと、ヨリス・ライエンダイクの『こうして世界は誤解する』という本のことを思い返していた。
『こうして世界は誤解する』の中で、印象的な例え話が出てきた。例えばシロクマを狭い檻の中に閉じ込めるとする。すると、自然とはまったく異なる環境に置かれたシロクマは、自然界にいる時とはまったく異なる挙動を見せるだろう。イライラしたり、凶暴になったりするかもしれない。
では、その「檻」を映さないようにして、その中にいるシロクマの様子だけを撮り、その映像を誰かに見せたらどんな感想になるだろうか。恐らく、「シロクマというのは、イライラいつもイライラしている凶暴な動物なんだ」という印象になるはずだ。
自身も中東で取材を続けていたヨリス・ライエンダイクは、「自分がやっている『報道』は、まさに『檻を映さずにシロクマだけを撮っているようなもの』だ」と、『こうして世界は誤解する』の中で書いていた。
同じような葛藤を、須賀川拓も抱いているのではないかと映画を観ながら感じた。
【伝える側も、考えなきゃいけないじゃないですか。どうしたらいいんだろう、って。伝え続けてると、どうしてもマンネリ化する部分もある。でも、『伝えない』って選択肢はないわけじゃん】
彼がこれまで最も取材に赴いたのはガザ地区だそうだが、「ガザ地区で空爆がありました」というニュースを報じたとしても、残念ながら世の中は「またか」と感じて終わってしまう。須賀川拓はそう捉えている。その感覚は確かに正しいだろう。『こうして世界は誤解する』の中でも、「ニュースに乗る情報は『変化』だけだ」と指摘していた。本当であれば、「そういう『状態』にあるという事実」を報じなければならないのに、「変化」がなければニュースとしては扱われない。「状態」だけでは、公共の電波を専有できるほどのニュースにはならないのだ。
ガザ地区でパレスチナの人から話を聞く度に感じることは、「忘れられることの恐怖」なのだそうだ。彼はパレスチナの人たちに、核心を衝くような質問や失礼に当たるようなことを聞いたりするのだが、それでも何でも答えてくれるのだそうだ。「忘れられるのが怖い」と直接口にする人もいるという。だから彼も、「自分もちゃんと応えないと」と気を引き締めるのだそうだ。
また彼は、別の葛藤も抱いている。
【取材した人のことを助けられてんのかっていったら、出来てないわけじゃん。直接的には。しかもこれで金稼いでるっていうか、直接利益を得てるんじゃないにしても、自分の生業にしてるわけじゃん。
それって意味あんのかなって思うことはあるよ】
もちろん彼自身、自分のやっていることに意味がないなんて思ってはいないだろう。「本当に彼らを助けてあげられる人に、自分が見たことを聞いたことを伝えるのが自分の役割だ」と言っていたし、それはとてつもなく重要な存在意義だと思う。ただ、無力感に苛まれてしまうことも分からないではない。彼は「報道」という大義名分を掲げて、他人のプライベートな部分にズカズカ入っていくのに、自分の行動が直接誰かを救えているわけではないという現実にもどかしいものを感じている。必要な役割だし、誰かがやらないといけないと思うが、色んな感情をねじ伏せて無理やり麻痺させているような彼の姿には、色々と考えさせられる。
【一週間とか一ヶ月とか、取材に行ったとしても、結局はロンドンに(彼はTBSロンドン市局にデスクがある)戻ってくるわけじゃん。家族もいるし。当たり前だけど、自分の子どもと妻が何よりも最優先なわけだし。
偽善偽善ってよく言われるけど、偽善は偽善なんだって思う。聖人君子なわけじゃないし、世の中にはそういう、自分を犠牲にして人を助けられる人もいるけど、自分はそんなふうにはなれないし。
だから、やれる範囲の中で出来ることをやるしかないなって。】
危険地帯に赴くという身体的な大変さもあるけど、須賀川拓からはむしろ、精神的な大変さの方をより強く感じさせられた。
映画の中で扱われるのは先に紹介した3つだが、その中でも最も長く扱われるのがガザ地区の空爆の話である。イスラエル軍が、「世界一の人口密度」と呼ばれるガザ地区にある軍事施設やハマス(イスラエルに対抗している組織)の軍人を攻撃するために、最新鋭の精密兵器を使って空爆を行っているのだが、それらが、まったく無関係としか思えない市民の住宅に落ち、10人の民間人が死亡した、その出来事をメインに紛争の実態を描き出していく。
10人の民間人が死亡した空爆は、決して誤爆ではない。何故なら、イスラエル軍が持つ兵器はもの凄く精度が高いからだ。驚かされるのは、「マンションの1室」だけをピンポイントで狙った空爆も可能だということ。それほどの正確さで空爆が行えるのだから、「深夜1時2時に、軍事施設も何もないただの住宅密集地を空爆する」ことの必然性を説明するのは困難に思える。
須賀川拓はイスラエル軍に取材を行っている。彼らは、「空爆の前にはドローンで民間人がいないことを確認し、さらに警告を発して民間人の退避を促している」と説明するが、空爆で妻と4人の子どもを失ったアルハディディ氏やその隣人は、「そんな警告は聞いていない」と口にする。その点をさらに質すと、「タイム・クリティカル・ターゲットだった可能性はある」と口にした。これは、警告を与えることで逃走の余地が生まれてしまうような標的に対して警告なしで空爆を行うことを指す。
いずれにしてもイスラエル軍は、「民間人を狙って攻撃した事実はない」と繰り返す。住民も知らなかったのだろうが、確かにそこにはハマスの軍人がいたはずであり、だから我々がそこをターゲットにしているのだ、という立場を崩さない。しかし、空爆の被害者を受け入れた病院の医師は、「700人以上の怪我人が運ばれてきたが、軍服を着ている者は1人もいなかった」と語っている。
イスラエル軍は、「不幸にもミスが起こる可能性もある」と認めている。その場合は、失敗からきちんと学び、更に次回以降の教訓にしていくという。とはいえ、10人の民間人が死亡した空爆については、「ハマスの軍人を狙った」という主張を変えはしなかったと思う。
そもそも難しいのは、「ハマスとは誰を指すのか?」という認識の違いであるようにも思われた。イスラエルの首相は、「ハマスは誰であっても殺す」と主張し、イスラエル軍の広報も「ハマスの者を狙って攻撃している」と語っている。しかし、ハマスの広報は、「ハマスとはガザ地区における社会運動のようなもので、軍事部門以外にも教育・慈善活動など幅広く活動している」と言っていた。イスラエル軍が言う「ハマス」が、軍事部門以外の者も含むのであれば、ガザ地区に住む者と認識が食い違って当然だと感じた。
一方、ハマスはイスラエルのテルアビブに向けて無誘導弾を撃ち続けている。無誘導弾は当然、どこに着弾するのか分からないわけで、無誘導弾を使用することは、国際的には即「無差別殺人」と判断される。ハマスはその点を批判されることも多いそうだ。
須賀川拓がハマスの広報にその点について問うと、「『イスラエルが空爆を止めれば、こちらはすぐに砲撃を止める』とイスラエル側に伝えたが、拒否されたのだ」と自身の立場を擁護した。さらに、「イスラエルがガザ地区の封鎖を解き、ガザ地区にも精密部品が入ってくれば、精度の高い攻撃が出来る兵器を作りますよ。その方が私たちとしても望ましい」みたいにも口にする。「精密兵器を作らせないようにしているお前たちが悪い」という主張なわけだ。
このように須賀川拓は、パレスチナ・イスラエル双方の主張を取り上げる。一般的にガザ地区での紛争については、「イスラエルが絶対的に悪い」という報じられ方になることが多いそうだ。確かに彼は、「イスラエルのオーバーキルは大いに問題だ」と言うが、そう単純な話ではない。パレスチナ側にも問題は多い。須賀川拓は、パレスチナ人の友人から、「ハマスは最悪だ」と文句を聞く機会が多いという。パレスチナのために闘っているはずのハマスは、必ずしもパレスチナ人から支持されているというわけではないそうだ。
須賀川拓は、「当事者同士ではもう解決はできないと思う」と語っていた。確かにその通りだろう。僕は、『クレッシェンド』という、実在するパレスチナ・イスラエル混合楽団をモデルにした映画を観たことがあるが、そこでも、両者の対立のあまりの根深さが描かれており、「世界で最も解決が難しい問題」と言われる理由も分かる気がする。
続いて触れられるのは、ウクライナ侵攻だ。映画では、3月にウクライナ入りした際の様子が映し出されていた。数日前に激しい空爆が行われた地で、屋根にロケットが突き刺さった家や、病院の敷地内が空爆された現場、さらにはオスロ条約で使用が禁止されているクラスター爆弾が使用された住宅地などを取材する。ちなみにロシアもウクライナもオスロ条約を批准していないため、クラスター爆弾を使用しても国際法上の罪になるという状況ではないそうである。
また須賀川拓は、少し前までロシア軍に選挙されていたチョルノーブィリ原発にも向かう。10マイクロシーベルトを超えるとアラームが鳴るように設定した線量計を手に、「赤い森」と呼ばれる地帯を通り抜ける。「赤い森」は、チェルノブイリ原発事故が起こった際、放射性物質を取り込んだために真っ赤になった針葉樹林を伐採し、そのまま地面に埋めた土地であり、だから線量がとても高い。そしてウクライナ侵攻においては、そんな「赤い森」に派遣された、放射性物質に関する知識などあまり持たされていないロシア兵が塹壕を掘るなどしていたことが明らかになった。ロシア兵が被爆したことも問題だし、塹壕を掘るための重機などが出入りしたことで放射性物質が拡散したことも問題だ。そういう現実をリポートする。
最後に、20年という過去最長の戦争から手を引いたアメリカ軍がいなくなったアフガニスタンの現状が映し出される。タリバンが暫定政権を担っているアフガニスタンでは、まさに今薬物中毒がとんでもないことになっているのである。
アフガニスタンの市街のある橋の下に、とんでもない数のアフガニスタン人が暮らしている。そこに近づいた須賀川拓は、その信じがたい悪臭に悲鳴を上げる。何かを燃やす臭いと腐敗臭が混ざったものだそうだ。そこでは、安価だが粗悪なヘロイン・アヘン・覚醒剤を摂取する者ばかりが屯しており、横になっているだけなのか死体なのかも判然としない人が無数に存在している。
当然、イスラム教では薬物の使用は禁止されているのだが、その橋を頻繁に通るというタリバンの者たちは、橋の下の住人を完全に無視している。市としても、死体を回収したり、住んでいる者たちに何か勧告したりすることを諦めているのだ。彼らは、完全に放置されているのである。須賀川拓は、「世界から見捨てられたアフガニスタンという国で、そのアフガニスタンからも見捨てられた者たちがこれだけたくさんいる」と、その驚きと現状認識を表現していた。
そして、この問題を踏まえた上で彼は、日本を含めた西側諸国に対してある問いを投げかける。「アフガニスタンに対する経済制裁は、果たして真っ当な論理によって行われていると言えるのだろうか?」と。
西側諸国は今アフガニスタンに対して経済制裁を行っている。その理由は、「女性の権利の侵害」や「犯罪者の扱い」などである。須賀川拓は、アフガニスタンで女性の権利が以前にも増して制約されている現実も取材している。しかしやはり、橋の下に住む者たちの姿を見て、「彼らのような存在を生んでしまっているのは、結局のところ、アフガニスタンを見捨てた世界なのではないか」と感じたのだろう。確かに女性の権利も大切だ。しかし、それ以上に大事であるはずの「命」を一層救えなくするような経済制裁に、果たして意味などあるのだろうか、と。とてもむずかしい問題だ。
映画の中で須賀川拓は、「戦場に行きたいわけではない」と語っていた。現場に出るのは好きだが、戦場を見たいというよりは、そこに生きる人々の顔が見たいのだ、と。ただ一方で、やはりニュースであるためには、「日常が破壊され、人々が亡くなっている現状」を映し出す必要があり、必然的に前線に向かうことになる。ただ、決して前線に行きたいわけではないのだ、と言っていた。
またもう一つ興味深かったのは、「喋りすぎ」という自身のリポーターとしての資質についてだ。彼は、「今の時代で良かった」と言っていた。どういうことか。5~6年前であれば、リポーターとして喋りすぎる彼の報道は、地上波の与えられた時間の中で収まらず、使いにくいと判断されていた。しかし、今の時代は、テレビ以外にも様々な媒体が存在する。地上波の電波を狙うだけが戦略ではなくなった以上、彼の「喋りすぎ」というスタンスも活かせるようになってきたのだそうだ。また、テレビ以外の媒体で報じることでコメントを読む機会も増え、そこで「知らなかった現実を知ることができた」みたいに言ってもらえると、やりがいを感じられる、みたいなことも言っていた。
映画では、取材に行く前の荷物のパッキングの様子も映し出されていた。応急処置のキットについては、須賀川拓とカメラマン男性のものとで、同じものが同じ場所に入っている必要がある、みたいに説明していた。どちらかが怪我をした際に、相手のキットを開けて、すぐに何がどこにあるか分からなければ使えないから、そのような準備も怠らないのだ、と。
大変な仕事だと思う。無理しない範囲で、これからも世界のリアルを伝えて欲しいと思う。
「戦場記者」を観に行ってきました
映画『戦場記者』ではもちろん、紛争や社会問題が切り取られる。ガザ地区を舞台にしたパレスチナとイスラエルの闘いやウクライナ侵攻、あるいは米軍撤退後のアフガニスタンの薬物中毒の現実など、その映像から伝わる現実の凄まじさには驚かされる。
それらについても後で触れるが、僕はこの映画を見て、それら以上に「『報じること』に対する須賀川拓の葛藤」に惹かれた。そして映画を観ながらずっと、ヨリス・ライエンダイクの『こうして世界は誤解する』という本のことを思い返していた。
『こうして世界は誤解する』の中で、印象的な例え話が出てきた。例えばシロクマを狭い檻の中に閉じ込めるとする。すると、自然とはまったく異なる環境に置かれたシロクマは、自然界にいる時とはまったく異なる挙動を見せるだろう。イライラしたり、凶暴になったりするかもしれない。
では、その「檻」を映さないようにして、その中にいるシロクマの様子だけを撮り、その映像を誰かに見せたらどんな感想になるだろうか。恐らく、「シロクマというのは、イライラいつもイライラしている凶暴な動物なんだ」という印象になるはずだ。
自身も中東で取材を続けていたヨリス・ライエンダイクは、「自分がやっている『報道』は、まさに『檻を映さずにシロクマだけを撮っているようなもの』だ」と、『こうして世界は誤解する』の中で書いていた。
同じような葛藤を、須賀川拓も抱いているのではないかと映画を観ながら感じた。
【伝える側も、考えなきゃいけないじゃないですか。どうしたらいいんだろう、って。伝え続けてると、どうしてもマンネリ化する部分もある。でも、『伝えない』って選択肢はないわけじゃん】
彼がこれまで最も取材に赴いたのはガザ地区だそうだが、「ガザ地区で空爆がありました」というニュースを報じたとしても、残念ながら世の中は「またか」と感じて終わってしまう。須賀川拓はそう捉えている。その感覚は確かに正しいだろう。『こうして世界は誤解する』の中でも、「ニュースに乗る情報は『変化』だけだ」と指摘していた。本当であれば、「そういう『状態』にあるという事実」を報じなければならないのに、「変化」がなければニュースとしては扱われない。「状態」だけでは、公共の電波を専有できるほどのニュースにはならないのだ。
ガザ地区でパレスチナの人から話を聞く度に感じることは、「忘れられることの恐怖」なのだそうだ。彼はパレスチナの人たちに、核心を衝くような質問や失礼に当たるようなことを聞いたりするのだが、それでも何でも答えてくれるのだそうだ。「忘れられるのが怖い」と直接口にする人もいるという。だから彼も、「自分もちゃんと応えないと」と気を引き締めるのだそうだ。
また彼は、別の葛藤も抱いている。
【取材した人のことを助けられてんのかっていったら、出来てないわけじゃん。直接的には。しかもこれで金稼いでるっていうか、直接利益を得てるんじゃないにしても、自分の生業にしてるわけじゃん。
それって意味あんのかなって思うことはあるよ】
もちろん彼自身、自分のやっていることに意味がないなんて思ってはいないだろう。「本当に彼らを助けてあげられる人に、自分が見たことを聞いたことを伝えるのが自分の役割だ」と言っていたし、それはとてつもなく重要な存在意義だと思う。ただ、無力感に苛まれてしまうことも分からないではない。彼は「報道」という大義名分を掲げて、他人のプライベートな部分にズカズカ入っていくのに、自分の行動が直接誰かを救えているわけではないという現実にもどかしいものを感じている。必要な役割だし、誰かがやらないといけないと思うが、色んな感情をねじ伏せて無理やり麻痺させているような彼の姿には、色々と考えさせられる。
【一週間とか一ヶ月とか、取材に行ったとしても、結局はロンドンに(彼はTBSロンドン市局にデスクがある)戻ってくるわけじゃん。家族もいるし。当たり前だけど、自分の子どもと妻が何よりも最優先なわけだし。
偽善偽善ってよく言われるけど、偽善は偽善なんだって思う。聖人君子なわけじゃないし、世の中にはそういう、自分を犠牲にして人を助けられる人もいるけど、自分はそんなふうにはなれないし。
だから、やれる範囲の中で出来ることをやるしかないなって。】
危険地帯に赴くという身体的な大変さもあるけど、須賀川拓からはむしろ、精神的な大変さの方をより強く感じさせられた。
映画の中で扱われるのは先に紹介した3つだが、その中でも最も長く扱われるのがガザ地区の空爆の話である。イスラエル軍が、「世界一の人口密度」と呼ばれるガザ地区にある軍事施設やハマス(イスラエルに対抗している組織)の軍人を攻撃するために、最新鋭の精密兵器を使って空爆を行っているのだが、それらが、まったく無関係としか思えない市民の住宅に落ち、10人の民間人が死亡した、その出来事をメインに紛争の実態を描き出していく。
10人の民間人が死亡した空爆は、決して誤爆ではない。何故なら、イスラエル軍が持つ兵器はもの凄く精度が高いからだ。驚かされるのは、「マンションの1室」だけをピンポイントで狙った空爆も可能だということ。それほどの正確さで空爆が行えるのだから、「深夜1時2時に、軍事施設も何もないただの住宅密集地を空爆する」ことの必然性を説明するのは困難に思える。
須賀川拓はイスラエル軍に取材を行っている。彼らは、「空爆の前にはドローンで民間人がいないことを確認し、さらに警告を発して民間人の退避を促している」と説明するが、空爆で妻と4人の子どもを失ったアルハディディ氏やその隣人は、「そんな警告は聞いていない」と口にする。その点をさらに質すと、「タイム・クリティカル・ターゲットだった可能性はある」と口にした。これは、警告を与えることで逃走の余地が生まれてしまうような標的に対して警告なしで空爆を行うことを指す。
いずれにしてもイスラエル軍は、「民間人を狙って攻撃した事実はない」と繰り返す。住民も知らなかったのだろうが、確かにそこにはハマスの軍人がいたはずであり、だから我々がそこをターゲットにしているのだ、という立場を崩さない。しかし、空爆の被害者を受け入れた病院の医師は、「700人以上の怪我人が運ばれてきたが、軍服を着ている者は1人もいなかった」と語っている。
イスラエル軍は、「不幸にもミスが起こる可能性もある」と認めている。その場合は、失敗からきちんと学び、更に次回以降の教訓にしていくという。とはいえ、10人の民間人が死亡した空爆については、「ハマスの軍人を狙った」という主張を変えはしなかったと思う。
そもそも難しいのは、「ハマスとは誰を指すのか?」という認識の違いであるようにも思われた。イスラエルの首相は、「ハマスは誰であっても殺す」と主張し、イスラエル軍の広報も「ハマスの者を狙って攻撃している」と語っている。しかし、ハマスの広報は、「ハマスとはガザ地区における社会運動のようなもので、軍事部門以外にも教育・慈善活動など幅広く活動している」と言っていた。イスラエル軍が言う「ハマス」が、軍事部門以外の者も含むのであれば、ガザ地区に住む者と認識が食い違って当然だと感じた。
一方、ハマスはイスラエルのテルアビブに向けて無誘導弾を撃ち続けている。無誘導弾は当然、どこに着弾するのか分からないわけで、無誘導弾を使用することは、国際的には即「無差別殺人」と判断される。ハマスはその点を批判されることも多いそうだ。
須賀川拓がハマスの広報にその点について問うと、「『イスラエルが空爆を止めれば、こちらはすぐに砲撃を止める』とイスラエル側に伝えたが、拒否されたのだ」と自身の立場を擁護した。さらに、「イスラエルがガザ地区の封鎖を解き、ガザ地区にも精密部品が入ってくれば、精度の高い攻撃が出来る兵器を作りますよ。その方が私たちとしても望ましい」みたいにも口にする。「精密兵器を作らせないようにしているお前たちが悪い」という主張なわけだ。
このように須賀川拓は、パレスチナ・イスラエル双方の主張を取り上げる。一般的にガザ地区での紛争については、「イスラエルが絶対的に悪い」という報じられ方になることが多いそうだ。確かに彼は、「イスラエルのオーバーキルは大いに問題だ」と言うが、そう単純な話ではない。パレスチナ側にも問題は多い。須賀川拓は、パレスチナ人の友人から、「ハマスは最悪だ」と文句を聞く機会が多いという。パレスチナのために闘っているはずのハマスは、必ずしもパレスチナ人から支持されているというわけではないそうだ。
須賀川拓は、「当事者同士ではもう解決はできないと思う」と語っていた。確かにその通りだろう。僕は、『クレッシェンド』という、実在するパレスチナ・イスラエル混合楽団をモデルにした映画を観たことがあるが、そこでも、両者の対立のあまりの根深さが描かれており、「世界で最も解決が難しい問題」と言われる理由も分かる気がする。
続いて触れられるのは、ウクライナ侵攻だ。映画では、3月にウクライナ入りした際の様子が映し出されていた。数日前に激しい空爆が行われた地で、屋根にロケットが突き刺さった家や、病院の敷地内が空爆された現場、さらにはオスロ条約で使用が禁止されているクラスター爆弾が使用された住宅地などを取材する。ちなみにロシアもウクライナもオスロ条約を批准していないため、クラスター爆弾を使用しても国際法上の罪になるという状況ではないそうである。
また須賀川拓は、少し前までロシア軍に選挙されていたチョルノーブィリ原発にも向かう。10マイクロシーベルトを超えるとアラームが鳴るように設定した線量計を手に、「赤い森」と呼ばれる地帯を通り抜ける。「赤い森」は、チェルノブイリ原発事故が起こった際、放射性物質を取り込んだために真っ赤になった針葉樹林を伐採し、そのまま地面に埋めた土地であり、だから線量がとても高い。そしてウクライナ侵攻においては、そんな「赤い森」に派遣された、放射性物質に関する知識などあまり持たされていないロシア兵が塹壕を掘るなどしていたことが明らかになった。ロシア兵が被爆したことも問題だし、塹壕を掘るための重機などが出入りしたことで放射性物質が拡散したことも問題だ。そういう現実をリポートする。
最後に、20年という過去最長の戦争から手を引いたアメリカ軍がいなくなったアフガニスタンの現状が映し出される。タリバンが暫定政権を担っているアフガニスタンでは、まさに今薬物中毒がとんでもないことになっているのである。
アフガニスタンの市街のある橋の下に、とんでもない数のアフガニスタン人が暮らしている。そこに近づいた須賀川拓は、その信じがたい悪臭に悲鳴を上げる。何かを燃やす臭いと腐敗臭が混ざったものだそうだ。そこでは、安価だが粗悪なヘロイン・アヘン・覚醒剤を摂取する者ばかりが屯しており、横になっているだけなのか死体なのかも判然としない人が無数に存在している。
当然、イスラム教では薬物の使用は禁止されているのだが、その橋を頻繁に通るというタリバンの者たちは、橋の下の住人を完全に無視している。市としても、死体を回収したり、住んでいる者たちに何か勧告したりすることを諦めているのだ。彼らは、完全に放置されているのである。須賀川拓は、「世界から見捨てられたアフガニスタンという国で、そのアフガニスタンからも見捨てられた者たちがこれだけたくさんいる」と、その驚きと現状認識を表現していた。
そして、この問題を踏まえた上で彼は、日本を含めた西側諸国に対してある問いを投げかける。「アフガニスタンに対する経済制裁は、果たして真っ当な論理によって行われていると言えるのだろうか?」と。
西側諸国は今アフガニスタンに対して経済制裁を行っている。その理由は、「女性の権利の侵害」や「犯罪者の扱い」などである。須賀川拓は、アフガニスタンで女性の権利が以前にも増して制約されている現実も取材している。しかしやはり、橋の下に住む者たちの姿を見て、「彼らのような存在を生んでしまっているのは、結局のところ、アフガニスタンを見捨てた世界なのではないか」と感じたのだろう。確かに女性の権利も大切だ。しかし、それ以上に大事であるはずの「命」を一層救えなくするような経済制裁に、果たして意味などあるのだろうか、と。とてもむずかしい問題だ。
映画の中で須賀川拓は、「戦場に行きたいわけではない」と語っていた。現場に出るのは好きだが、戦場を見たいというよりは、そこに生きる人々の顔が見たいのだ、と。ただ一方で、やはりニュースであるためには、「日常が破壊され、人々が亡くなっている現状」を映し出す必要があり、必然的に前線に向かうことになる。ただ、決して前線に行きたいわけではないのだ、と言っていた。
またもう一つ興味深かったのは、「喋りすぎ」という自身のリポーターとしての資質についてだ。彼は、「今の時代で良かった」と言っていた。どういうことか。5~6年前であれば、リポーターとして喋りすぎる彼の報道は、地上波の与えられた時間の中で収まらず、使いにくいと判断されていた。しかし、今の時代は、テレビ以外にも様々な媒体が存在する。地上波の電波を狙うだけが戦略ではなくなった以上、彼の「喋りすぎ」というスタンスも活かせるようになってきたのだそうだ。また、テレビ以外の媒体で報じることでコメントを読む機会も増え、そこで「知らなかった現実を知ることができた」みたいに言ってもらえると、やりがいを感じられる、みたいなことも言っていた。
映画では、取材に行く前の荷物のパッキングの様子も映し出されていた。応急処置のキットについては、須賀川拓とカメラマン男性のものとで、同じものが同じ場所に入っている必要がある、みたいに説明していた。どちらかが怪我をした際に、相手のキットを開けて、すぐに何がどこにあるか分からなければ使えないから、そのような準備も怠らないのだ、と。
大変な仕事だと思う。無理しない範囲で、これからも世界のリアルを伝えて欲しいと思う。
「戦場記者」を観に行ってきました
「理大囲城」を観に行ってきました
凄い映画だった。こういう映像を観られるから、ドキュメンタリー映画を観るのは止められない。
今日僕が観たのが、世界初の劇場公開回だったようだ。山形国際ドキュメンタリー映画祭など、単発での上映はこれまでにもあったが、今日12時からポレポレ東中野で上映されたのが、劇場で公開された世界初の回だったのである。ちなみにこの『理大囲城』、当初は香港国内でも上映が出来たそうだが、去年3月頃に上映禁止と決まったそうだ。だから、外国の観客からの反応に勇気づけられると、上映後のトークイベントで語られていた。
ちなみに、トークイベントは、香港からオンラインで繋いだ画面は真っ黒で、音声のみ。映画のクレジットには、「監督:香港ドキュメンタリー映画工作者」と書かれている。映画に映し出される者は、記者や高校の校長など一部を除いて全員の顔にモザイクが掛けられている。暴動罪での逮捕の恐れがあるからだ。緊迫感が今もリアルタイムで進行していることを痛感させられた。
『理大囲城』は、2019年6月から始まった香港民主化デモにおいて、11月16日から11月29日の13日間に渡り、香港の名門・香港理工大学に籠城した(させられた)若者たちをその内部から記録した衝撃のドキュメンタリー映画だ。日本で喩えるなら、最高学府・東京大学で起こった安田講堂事件のようなものだろうか。
正直、映画そのものについて説明することはあまり意味がない。衝撃的な88分間であり、それは言葉を尽くしたところで表現できるような何かではないのだ。後でざっくりと経緯には触れようと思うが、その凄まじさは体感してもらうしかない。
ちなみに、映画のラストで表示された数字を紹介しておこう。香港理工大学の籠城事件において、逮捕者は1377人に上った。その内、途中で大学を抜け出して逮捕に至ったのが567人、そして最後まで大学に残って逮捕されたのが810人。また、18歳未満で、ID登録を条件に帰宅を許された者たちが318人いたという。もちろん、香港民主化デモにおいて、最大の逮捕者を出した事件となった。
さて、この記事では、上映後のトークイベントで語られた話についてまず触れていきたいと思う。何故ならその内容は、この映画を観る前に知っておくとより衝撃が増すことになるだろう情報だからだ。
映画『理大囲城』を撮影した者たちは、6月に始まった民主化デモの当初から様々な場所に出向いてカメラを回していた。その過程で、香港理工大学での籠城計画が明らかになり、彼らも大学内部に先に入って撮影を行うことに決めた。そうして生まれた映画なのだが、彼らもまさか、13日間に渡って外部と遮断されるとは思ってもみなかったのだそうだ。
ちなみに、籠城からしばらくして、救護班の一部と大勢の記者が大学を離れた。その後、彼らが後ろ手で縛られ逮捕された様子がSNSにアップされた。香港警察は、救護班も記者も容赦なく逮捕したのである。この事実は、大学に残った者たちにとって大きな衝撃をもたらすことになる。救護班・記者も逮捕されるのであれば、自分たちは大学を出れば間違いなく逮捕される。そのことによって、中にいる者たちは追い詰められていくのである。
さて、記者の多くが早い段階で大学を離れたことで、大学内部に留まって撮影を続けた者は、映画『理大囲城』の撮影を行っていた者たちだけとなった。そういう意味でもこの映画は非常に貴重なものと言える。衝撃の最前線を、唯一映像で記録し続けたものだからだ。
しかし、その撮影はとてつもなく過酷なものだった。映画『理大囲城』は主に、11月17日・18日の2日間の出来事がメインで構成されている。それ以降の映像もあるのだが、決して多くはないという。そしてその理由が、「撮影した者たちも、精神的に追い詰められていたからだ」というのだ。それは、映像を観れば納得である。とてもまともな理性を保てるような状況ではない。
しかし、トークイベントで匿名の監督は、「撮る動機も気力も失っていた」と語っていた。これはなかなか凄い表現だと感じる。ドキュメンタリーを撮影するぐらいだから、やはり、「事実を記録すること」に対する使命感や意欲みたいなものは人一倍強いはずだと思う。にも拘わらず、そういう人たちが「撮る動機さえ失った」と語るほどの状況なのだ。その壮絶さは推して知るべしと言ったところだろう。
トークイベントで司会と通訳を担当していた映画監督のリム・カーワイ(彼が何故司会と通訳をやっていたのかは分からない)が、「撮影した映像をどうやって大学の外に持ち出したのか聞いてみますね」と言って質問を始めた。その時に初めて、「なるほど、確かにそういう懸念もあったか」と思い至った。映像があまりにも衝撃的すぎて、そんな疑問さえ頭に浮かばなかったのだ。確かに、彼らも恐らく最後まで大学に残っていただろうし、逮捕されたのかどうかは不明だが、いずれにせよ一時的な拘束や取り調べは避けられなかっただろう。その過程で、撮影したテープが見つかったら、まず没収されてしまうに違いない。確かにどうやったのだろう。
匿名の監督は、その質問に、明確な答えを返さなかった。「あらゆる方法を駆使して持ち出した」としか言っていない。まあ確かに、それを明言するのは危険だろう。籠城中の撮影の問題点として、「カメラのバッテリー切れ」があったそうで、後半はスマホで撮影したと語っていた。スマホで撮影したものであれば、その撮影データをいかようにでも保存できるだろう。ただ、カメラのデータに記録されたものは、物理的にそのデータを持ち出さなければならない。それらを危険を犯して持ち出すという点でも困難があったわけで、そういう意味でもこの映画はなかなか奇跡的な存在だと感じさせられた。
トークイベントでは、映画の編集に際しての話についても触れられていた。籠城中の撮影時には、監督たちは「感情を入れずに撮影を行うことと心がけた」そうだ。映画ではとにかく、悲惨としか言いようがない状況が映し出されていく。それらに怒りや同情などを抱いていたら、心が持たないだろう。自分の感情を切り離し、「無心で眼の前の現実を撮影する」ということに専念するしかなかったというのは、なんとなく理解できる気がする。
しかしその後、どうにか持ち出したデータを編集のために見返していると、彼らは「超現実的」な感覚に襲われたのだそうだ。自分たちがまさにその現場に立ち会い、自ら経験した出来事を映像として記録しているのに、「リアルに起こったことではない」ような感覚になってしまったのだという。なるほど、その感覚は、体験したものにしかなかなか想像が難しいだろう。だから彼らは編集に入る前にまず、映像を見返して、「これが実際に起こったリアルの出来事なのだ」という感覚を取り戻すことから始めた、と語っていた。カメラに映し出された者たちの姿も壮絶だったが、撮影し編集した者たちもまた、凄まじい葛藤を闘っていたのである。
ちなみに映画『理大囲城』は、ほとんど説明らしい説明がないまま、ひたすら衝撃的な映像を積み上げていくように構成されている。僕は、以前『時代革命』という映画を観て、この香港理工大学の籠城についても大雑把な経緯を知っていたので特に混乱はなかったが、何も知らないままこの映画を観たら、何がどうなっているのか理解できない部分が多いだろう。
トークイベントでは、その点についても触れられていた。監督たちは、当然だが、この映画をまずは香港人に観てほしいと思って作ったのだ。だから、香港人なら当然知っているだろう説明は省かれ、ひたすら「香港理工大学内部で何が起こっていたのか」を描き出す構成に決めたという。香港理工大学の外で何が起こっていたのかについては一切触れず、大学構内から撮影した映像のみで映画が構成されている。だから、事実を理解する上での説明不足は確かに否めないが、このような構成にしたことによって、「映像が持つ凄まじさ」を最大限全面に活かす作品に仕上がっていると感じた。
というわけで、映画『理大囲城』で描かれているわけではない事件の経緯について、映画『時代革命』を観て僕なりに理解した点を踏まえてまとめてみたいと思う。
最初にきっかけは、勇武派と呼ばれる武力行使を厭わないグループが、11月11日に「交通障害スト」に踏み切ったことだ。それまでは、なるべく市民生活に影響を与えないようにデモを進めてきた勇武派だったが、状況が変化しないことに業を煮やし、ついに、市民生活を巻き込むことを覚悟に、道路や線路を塞ぎ、交通網を麻痺させる手段に打って出たのだ。
そしてこの「交通障害スト」をきっかけに1つの案が生まれる。それが、香港中文大学への籠城だ。デモに参加する者に中文大学の学生が多かったこと、そして中文大学に至る3つの経路をすべて塞げば、警察の侵入を防いで籠城が可能だという理由で、彼らは大学での籠城を決める。
この香港中文大学での籠城は長くは続かなかったのだが、その後彼らは舞台を香港理工大学へと移し、それまで以上に念入りに準備をし籠城を行う計画を立てる。そしてそれを実行に移したというわけだ。
籠城からしばらくの間、彼らは包囲する警察官を挑発したり、投石を行ったりして抵抗を続ける。しかしやがて彼らは、香港理工大学が完全に包囲され、どこにも逃げ場がないことを悟る。逮捕されれば、暴動罪で最大10年の懲役を食らう可能性がある。だから外には出られない。しかし、装備や食料はどんどんと底を突く。幾度か警察の包囲を突破し脱出を試みるも、その度に怪我人や逮捕者が出てしまう。彼らは「籠城している」はずだったが、次第に「籠城させられている」という状態になってしまったのだ。
状況は完全に膠着状態に陥った。警察は大学を包囲するのみで、構内にまで入ってこない。大学内部では、状況を打破するための話し合いが続く。選択肢は多くはない。外に出れば逮捕、このまま残れば撃たれて死ぬか逮捕されるか。話し合いは次第に、怒号のやり取りとなる。外に出ようとする者と、もう少し様子を見ようと主張する者。内部に裏切り者がいるのではないかという疑心暗鬼も加わり、混沌とした状況になっていく。
さらにそこに、ある意味でややこしい要素が加わってくる。大学内部に、警察の許可を受けて高校の校長の集団が入ってきたのだ。籠城していた者たちは状況が理解できない。校長の代表は、「警察と交渉し、できるだけのことをする」と口にするが、彼らの提案は大筋で「ID登録をすれば家に帰れる」というものだった。これを学生たちは「自首」と捉えた。確かに家には帰れる。しかし、警察はID登録した者を起訴する権利を持つ。無罪放免とはならない。だったら、どうにか自力で脱出できる道を探すべきではないか。
校長の説得に応じて大学を去る者もいれば、そういう人を説得して押し留めようとする者もいる。校長たちを「警察のイヌ」のように扱って非難する者もおり、さらに状況は混沌としていく、というわけだ。
校長の説得を受けて大学を去ると決めた者の中には、「俺は弱い」「見捨てないと誓ったのに先に出るなんて」と号泣する者もいた。彼らにしてもギリギリの判断が迫られる。同じ志を持つとは言え、全員で一枚岩になれるわけもない。残酷だが、若者たちのそんなリアルな姿が如実に映し出されていた。
僕が映画を観て理解できなかったのは、「なぜ警察は大学構内に突入しなかったのだろうか」ということだ。まあ、色々可能性は考えられる。なるべく死者・怪我人を出さずに解決したかったのかもしれないし、警察側の被害を最小限に抑えたかったのかもしれない。籠城している者が諦めて投降する姿をメディアが映し出すことによってデモの機運を削ごうとしたのかもしれないし、単に中の様子を正確に把握できなかったから躊躇していただけなのかもしれない。正確には分からないが、「警察が踏み込めば、もっと早く事態が収まったのではないか」という気もした。その辺りのことは、やはり部外者にはなかなかイメージできないなと感じさせられた。
とにかく、凄まじい映像だった。ロシアによるウクライナ侵攻にも驚かされたが、自分が生きているまさに同時代にこんなことが起こるなんてという衝撃を、香港民主化デモに対しては感じたし、その中でもやはりこの香港理工大学の籠城事件には驚かされた。そのすさまじい事実を知るために、多くの人に観てほしい映画だ。
「理大囲城」を観に行ってきました
今日僕が観たのが、世界初の劇場公開回だったようだ。山形国際ドキュメンタリー映画祭など、単発での上映はこれまでにもあったが、今日12時からポレポレ東中野で上映されたのが、劇場で公開された世界初の回だったのである。ちなみにこの『理大囲城』、当初は香港国内でも上映が出来たそうだが、去年3月頃に上映禁止と決まったそうだ。だから、外国の観客からの反応に勇気づけられると、上映後のトークイベントで語られていた。
ちなみに、トークイベントは、香港からオンラインで繋いだ画面は真っ黒で、音声のみ。映画のクレジットには、「監督:香港ドキュメンタリー映画工作者」と書かれている。映画に映し出される者は、記者や高校の校長など一部を除いて全員の顔にモザイクが掛けられている。暴動罪での逮捕の恐れがあるからだ。緊迫感が今もリアルタイムで進行していることを痛感させられた。
『理大囲城』は、2019年6月から始まった香港民主化デモにおいて、11月16日から11月29日の13日間に渡り、香港の名門・香港理工大学に籠城した(させられた)若者たちをその内部から記録した衝撃のドキュメンタリー映画だ。日本で喩えるなら、最高学府・東京大学で起こった安田講堂事件のようなものだろうか。
正直、映画そのものについて説明することはあまり意味がない。衝撃的な88分間であり、それは言葉を尽くしたところで表現できるような何かではないのだ。後でざっくりと経緯には触れようと思うが、その凄まじさは体感してもらうしかない。
ちなみに、映画のラストで表示された数字を紹介しておこう。香港理工大学の籠城事件において、逮捕者は1377人に上った。その内、途中で大学を抜け出して逮捕に至ったのが567人、そして最後まで大学に残って逮捕されたのが810人。また、18歳未満で、ID登録を条件に帰宅を許された者たちが318人いたという。もちろん、香港民主化デモにおいて、最大の逮捕者を出した事件となった。
さて、この記事では、上映後のトークイベントで語られた話についてまず触れていきたいと思う。何故ならその内容は、この映画を観る前に知っておくとより衝撃が増すことになるだろう情報だからだ。
映画『理大囲城』を撮影した者たちは、6月に始まった民主化デモの当初から様々な場所に出向いてカメラを回していた。その過程で、香港理工大学での籠城計画が明らかになり、彼らも大学内部に先に入って撮影を行うことに決めた。そうして生まれた映画なのだが、彼らもまさか、13日間に渡って外部と遮断されるとは思ってもみなかったのだそうだ。
ちなみに、籠城からしばらくして、救護班の一部と大勢の記者が大学を離れた。その後、彼らが後ろ手で縛られ逮捕された様子がSNSにアップされた。香港警察は、救護班も記者も容赦なく逮捕したのである。この事実は、大学に残った者たちにとって大きな衝撃をもたらすことになる。救護班・記者も逮捕されるのであれば、自分たちは大学を出れば間違いなく逮捕される。そのことによって、中にいる者たちは追い詰められていくのである。
さて、記者の多くが早い段階で大学を離れたことで、大学内部に留まって撮影を続けた者は、映画『理大囲城』の撮影を行っていた者たちだけとなった。そういう意味でもこの映画は非常に貴重なものと言える。衝撃の最前線を、唯一映像で記録し続けたものだからだ。
しかし、その撮影はとてつもなく過酷なものだった。映画『理大囲城』は主に、11月17日・18日の2日間の出来事がメインで構成されている。それ以降の映像もあるのだが、決して多くはないという。そしてその理由が、「撮影した者たちも、精神的に追い詰められていたからだ」というのだ。それは、映像を観れば納得である。とてもまともな理性を保てるような状況ではない。
しかし、トークイベントで匿名の監督は、「撮る動機も気力も失っていた」と語っていた。これはなかなか凄い表現だと感じる。ドキュメンタリーを撮影するぐらいだから、やはり、「事実を記録すること」に対する使命感や意欲みたいなものは人一倍強いはずだと思う。にも拘わらず、そういう人たちが「撮る動機さえ失った」と語るほどの状況なのだ。その壮絶さは推して知るべしと言ったところだろう。
トークイベントで司会と通訳を担当していた映画監督のリム・カーワイ(彼が何故司会と通訳をやっていたのかは分からない)が、「撮影した映像をどうやって大学の外に持ち出したのか聞いてみますね」と言って質問を始めた。その時に初めて、「なるほど、確かにそういう懸念もあったか」と思い至った。映像があまりにも衝撃的すぎて、そんな疑問さえ頭に浮かばなかったのだ。確かに、彼らも恐らく最後まで大学に残っていただろうし、逮捕されたのかどうかは不明だが、いずれにせよ一時的な拘束や取り調べは避けられなかっただろう。その過程で、撮影したテープが見つかったら、まず没収されてしまうに違いない。確かにどうやったのだろう。
匿名の監督は、その質問に、明確な答えを返さなかった。「あらゆる方法を駆使して持ち出した」としか言っていない。まあ確かに、それを明言するのは危険だろう。籠城中の撮影の問題点として、「カメラのバッテリー切れ」があったそうで、後半はスマホで撮影したと語っていた。スマホで撮影したものであれば、その撮影データをいかようにでも保存できるだろう。ただ、カメラのデータに記録されたものは、物理的にそのデータを持ち出さなければならない。それらを危険を犯して持ち出すという点でも困難があったわけで、そういう意味でもこの映画はなかなか奇跡的な存在だと感じさせられた。
トークイベントでは、映画の編集に際しての話についても触れられていた。籠城中の撮影時には、監督たちは「感情を入れずに撮影を行うことと心がけた」そうだ。映画ではとにかく、悲惨としか言いようがない状況が映し出されていく。それらに怒りや同情などを抱いていたら、心が持たないだろう。自分の感情を切り離し、「無心で眼の前の現実を撮影する」ということに専念するしかなかったというのは、なんとなく理解できる気がする。
しかしその後、どうにか持ち出したデータを編集のために見返していると、彼らは「超現実的」な感覚に襲われたのだそうだ。自分たちがまさにその現場に立ち会い、自ら経験した出来事を映像として記録しているのに、「リアルに起こったことではない」ような感覚になってしまったのだという。なるほど、その感覚は、体験したものにしかなかなか想像が難しいだろう。だから彼らは編集に入る前にまず、映像を見返して、「これが実際に起こったリアルの出来事なのだ」という感覚を取り戻すことから始めた、と語っていた。カメラに映し出された者たちの姿も壮絶だったが、撮影し編集した者たちもまた、凄まじい葛藤を闘っていたのである。
ちなみに映画『理大囲城』は、ほとんど説明らしい説明がないまま、ひたすら衝撃的な映像を積み上げていくように構成されている。僕は、以前『時代革命』という映画を観て、この香港理工大学の籠城についても大雑把な経緯を知っていたので特に混乱はなかったが、何も知らないままこの映画を観たら、何がどうなっているのか理解できない部分が多いだろう。
トークイベントでは、その点についても触れられていた。監督たちは、当然だが、この映画をまずは香港人に観てほしいと思って作ったのだ。だから、香港人なら当然知っているだろう説明は省かれ、ひたすら「香港理工大学内部で何が起こっていたのか」を描き出す構成に決めたという。香港理工大学の外で何が起こっていたのかについては一切触れず、大学構内から撮影した映像のみで映画が構成されている。だから、事実を理解する上での説明不足は確かに否めないが、このような構成にしたことによって、「映像が持つ凄まじさ」を最大限全面に活かす作品に仕上がっていると感じた。
というわけで、映画『理大囲城』で描かれているわけではない事件の経緯について、映画『時代革命』を観て僕なりに理解した点を踏まえてまとめてみたいと思う。
最初にきっかけは、勇武派と呼ばれる武力行使を厭わないグループが、11月11日に「交通障害スト」に踏み切ったことだ。それまでは、なるべく市民生活に影響を与えないようにデモを進めてきた勇武派だったが、状況が変化しないことに業を煮やし、ついに、市民生活を巻き込むことを覚悟に、道路や線路を塞ぎ、交通網を麻痺させる手段に打って出たのだ。
そしてこの「交通障害スト」をきっかけに1つの案が生まれる。それが、香港中文大学への籠城だ。デモに参加する者に中文大学の学生が多かったこと、そして中文大学に至る3つの経路をすべて塞げば、警察の侵入を防いで籠城が可能だという理由で、彼らは大学での籠城を決める。
この香港中文大学での籠城は長くは続かなかったのだが、その後彼らは舞台を香港理工大学へと移し、それまで以上に念入りに準備をし籠城を行う計画を立てる。そしてそれを実行に移したというわけだ。
籠城からしばらくの間、彼らは包囲する警察官を挑発したり、投石を行ったりして抵抗を続ける。しかしやがて彼らは、香港理工大学が完全に包囲され、どこにも逃げ場がないことを悟る。逮捕されれば、暴動罪で最大10年の懲役を食らう可能性がある。だから外には出られない。しかし、装備や食料はどんどんと底を突く。幾度か警察の包囲を突破し脱出を試みるも、その度に怪我人や逮捕者が出てしまう。彼らは「籠城している」はずだったが、次第に「籠城させられている」という状態になってしまったのだ。
状況は完全に膠着状態に陥った。警察は大学を包囲するのみで、構内にまで入ってこない。大学内部では、状況を打破するための話し合いが続く。選択肢は多くはない。外に出れば逮捕、このまま残れば撃たれて死ぬか逮捕されるか。話し合いは次第に、怒号のやり取りとなる。外に出ようとする者と、もう少し様子を見ようと主張する者。内部に裏切り者がいるのではないかという疑心暗鬼も加わり、混沌とした状況になっていく。
さらにそこに、ある意味でややこしい要素が加わってくる。大学内部に、警察の許可を受けて高校の校長の集団が入ってきたのだ。籠城していた者たちは状況が理解できない。校長の代表は、「警察と交渉し、できるだけのことをする」と口にするが、彼らの提案は大筋で「ID登録をすれば家に帰れる」というものだった。これを学生たちは「自首」と捉えた。確かに家には帰れる。しかし、警察はID登録した者を起訴する権利を持つ。無罪放免とはならない。だったら、どうにか自力で脱出できる道を探すべきではないか。
校長の説得に応じて大学を去る者もいれば、そういう人を説得して押し留めようとする者もいる。校長たちを「警察のイヌ」のように扱って非難する者もおり、さらに状況は混沌としていく、というわけだ。
校長の説得を受けて大学を去ると決めた者の中には、「俺は弱い」「見捨てないと誓ったのに先に出るなんて」と号泣する者もいた。彼らにしてもギリギリの判断が迫られる。同じ志を持つとは言え、全員で一枚岩になれるわけもない。残酷だが、若者たちのそんなリアルな姿が如実に映し出されていた。
僕が映画を観て理解できなかったのは、「なぜ警察は大学構内に突入しなかったのだろうか」ということだ。まあ、色々可能性は考えられる。なるべく死者・怪我人を出さずに解決したかったのかもしれないし、警察側の被害を最小限に抑えたかったのかもしれない。籠城している者が諦めて投降する姿をメディアが映し出すことによってデモの機運を削ごうとしたのかもしれないし、単に中の様子を正確に把握できなかったから躊躇していただけなのかもしれない。正確には分からないが、「警察が踏み込めば、もっと早く事態が収まったのではないか」という気もした。その辺りのことは、やはり部外者にはなかなかイメージできないなと感じさせられた。
とにかく、凄まじい映像だった。ロシアによるウクライナ侵攻にも驚かされたが、自分が生きているまさに同時代にこんなことが起こるなんてという衝撃を、香港民主化デモに対しては感じたし、その中でもやはりこの香港理工大学の籠城事件には驚かされた。そのすさまじい事実を知るために、多くの人に観てほしい映画だ。
「理大囲城」を観に行ってきました
「MEN 同じ顔の男たち」を観に行ってきました
久々に、極度に意味不明な映画だった。ただ、思ったほど「残念感」はない。むしろ、「悪くない」という感覚さえある。「映画って、これほどまでに説明を放棄してもいいんだ」と感じた作品であり、僕は大体そういう作品をあまり好きになれないのだけど、『MEN 同じ顔の男たち』は、「つまらない映画を観てしまった」みたいな感覚にはならなかった。いや、「面白かったか」と聞かれると、頷き難い。決して面白くはないし、人にも勧めないだろう。ただ、決して悪くはない。不思議な映画だ。
映画の内容そのものよりも僕が驚いたのは、副題である「同じ顔の男たち」の意味が最後まで理解できなかったことだ。公式HPを読んでようやく、管理人役を演じた俳優(ロリー・キニアと言うらしい)が、他の「怪しげな男たち」も演じていた、ということを理解した。
たぶん普通の人には何を言っているのか理解できないだろう。説明すると、僕は「人の顔を覚える能力」が極端に低い。まあ、人の顔に限らず、視覚的な情報を記憶する力が極端に無いのだが、とにかく人の顔は覚えられない。日常的に会う人の顔も無理だ。例えば僕が、似顔絵描きの人に声を掛けられて、「誰でもいいからあなたの身近な誰かの顔をタダで描きますので、特徴を口頭で教えてください」と言われても、僕は何も答えられない。そもそも、脳内に映像として浮かばないからだ(これも、人の顔に限らない。例えば「頭の中でリンゴを思い浮かべてください」と言われても、僕には出来ない。どんな意味においても、「頭の中で映像を呼び起こす」みたいなことができない)。
なので、僕は結局映画を最後まで観ても、「ロリー・キニアが1人7役を演じていた」ことに気づかなかった。まあこれは、僕だけの特殊事例だろう。普通は気づくんだと思う。僕も、「なんか似てるな」とは思ったけど、同じ人が演じているとは思わなかった。ビックリだぜ。
というわけで、僕は「普通の観客が感じているだろう『不気味さ』を感じずに映画を観ていた」ということになる。なかなか稀な存在と言えるだろう。
しかしだな、そうだとしたら、主人公の女性の反応はちょっと薄くないか? 僕には、彼女が「うわっ、管理人と同じ顔してるやん!」みたいな反応を示すような場面があったようには思えなかったんだけど、どうなんだろう。
映画の内容はさっぱり分からなかったが、全体を貫くテーマはもしかしたら『月の満ち欠け』と同じなんじゃないだろうか、と思ったりした。だとしたら、同じテーマを据えて、よくもここまでまったく異なる作品に仕上がるものだと感じた。
しかし、ラストの展開はマジでイカれてるな。どんな意味が込められているかはともかく、「生理的な嫌悪感全開」でお送りするラストは、映画館の椅子に座ってしまっているなら必見だ(配信で観ているなら、観るのを止める人もいるかもしれない)。
「MEN 同じ顔の男たち」を観に行ってきました
映画の内容そのものよりも僕が驚いたのは、副題である「同じ顔の男たち」の意味が最後まで理解できなかったことだ。公式HPを読んでようやく、管理人役を演じた俳優(ロリー・キニアと言うらしい)が、他の「怪しげな男たち」も演じていた、ということを理解した。
たぶん普通の人には何を言っているのか理解できないだろう。説明すると、僕は「人の顔を覚える能力」が極端に低い。まあ、人の顔に限らず、視覚的な情報を記憶する力が極端に無いのだが、とにかく人の顔は覚えられない。日常的に会う人の顔も無理だ。例えば僕が、似顔絵描きの人に声を掛けられて、「誰でもいいからあなたの身近な誰かの顔をタダで描きますので、特徴を口頭で教えてください」と言われても、僕は何も答えられない。そもそも、脳内に映像として浮かばないからだ(これも、人の顔に限らない。例えば「頭の中でリンゴを思い浮かべてください」と言われても、僕には出来ない。どんな意味においても、「頭の中で映像を呼び起こす」みたいなことができない)。
なので、僕は結局映画を最後まで観ても、「ロリー・キニアが1人7役を演じていた」ことに気づかなかった。まあこれは、僕だけの特殊事例だろう。普通は気づくんだと思う。僕も、「なんか似てるな」とは思ったけど、同じ人が演じているとは思わなかった。ビックリだぜ。
というわけで、僕は「普通の観客が感じているだろう『不気味さ』を感じずに映画を観ていた」ということになる。なかなか稀な存在と言えるだろう。
しかしだな、そうだとしたら、主人公の女性の反応はちょっと薄くないか? 僕には、彼女が「うわっ、管理人と同じ顔してるやん!」みたいな反応を示すような場面があったようには思えなかったんだけど、どうなんだろう。
映画の内容はさっぱり分からなかったが、全体を貫くテーマはもしかしたら『月の満ち欠け』と同じなんじゃないだろうか、と思ったりした。だとしたら、同じテーマを据えて、よくもここまでまったく異なる作品に仕上がるものだと感じた。
しかし、ラストの展開はマジでイカれてるな。どんな意味が込められているかはともかく、「生理的な嫌悪感全開」でお送りするラストは、映画館の椅子に座ってしまっているなら必見だ(配信で観ているなら、観るのを止める人もいるかもしれない)。
「MEN 同じ顔の男たち」を観に行ってきました
「少年たちの時代革命」を観に行ってきました
とても良い映画だった。
相変わらず僕は、映画についてほぼ調べずに映画館に行くので、この『少年たちの時代革命』のことを、ドキュメンタリー映画だと思いこんでいた。映画が始まってすぐ、あれ?ドキュメンタリー映画じゃなさそうだ、と思ったが、ただ、しばらく確証は持てなかった。随所に、恐らく実際のものだろうデモ映像が挟み込まれ、それが実に上手く作品に馴染んでいるからだ。また、『時代革命』というタイトルのドキュメンタリー映画を観ていたことも関係しているだろう。
『時代革命』感想
とにかく、途中からフィクションだと分かったわけだが、映画で描かれているのは、実際に香港の民主化運動で起こっていた知られざる動きである。
というわけでまずはざっくり内容を紹介しておこう。
2019年6月、1人の男性が香港政府への抗議を込めて自殺した。それ以降、香港では、若者の自殺が増えていく。
YYとジーユーは、香港に住む18歳の少女たちだ。普段は、ゲームセンターのUFOキャッチャーでぬいぐるみを取る様子をSNSに上げるなど、普通の女の子だ。当時の中国では「穏健派」と「勇武派」に分類されており、名前の通り「穏健派」はデモなどには参加せずに反対の意思を示し、「勇武派」はデモに積極的に参加して闘っている。YYもジーユーも、「穏健派」だ。
YYは、自殺した男性の慰霊碑まで出向き、手を合わせた。彼女の父親は中国で働いており、離婚した母親はイギリスで暮らしている。彼女は香港で1人だ。
7月21日、デモに参加していた勇武派の多くが逮捕された。その混乱に巻き込まれる形で、YYとジーユーも逮捕されてしまう。YYはジーユーから、「人助けなんてしてないで逃げてれば、私たちは捕まらずに済んだ」と非難されてしまう。そしてジーユーは、父親と相談し、香港以外のどこかに留学する決断をした。YYは親友とも離れ離れになってしまうのだ。
勇武派であるナムと、勇武派の後方支援を行っている恋人のベルは、他の仲間達と日々闘争に明け暮れている。彼らもまた、7月21日に逮捕されており、有志で協力してくれている弁護士からは「しばらく行動を抑えるように」と言われているのだが、ナムはそんな言葉を聞くつもりはなく、再び最前線に飛び出している。
そんなある日、ナムは仲間が乗った車から降りて、1人の少女の元へ駆け寄る。YYだ。彼らは短く会話を交わし、ナムが気晴らしにとお菓子を差し出して別れるのだが、その後YYの消息が分からなくなる。SNSには、別れを示唆するようなメッセージを投稿した。もしかして、自殺するかもしれない。そう考えた彼らは、デモの最前線に合流するのではなく、協力してくれるソーシャルワーカーと共に、香港の街からYYを探し出そうと奮闘するが……。
というような話です。
この映画は、民主化運動の最中、自殺者を救い出そうと結成されたボランティアの捜索隊に着想を得て創作されたという。上映後に、監督とナムを演じた俳優によるトークイベントが行われたのだが、その中で監督は、この映画の制作のきっかけについて話していた。民主化運動の最中に、自殺者を救う捜索隊の存在を知り、監督もボランティアとしてその活動に加わったことがあったそうだ。どうしても民主化運動においては、デモ最前線で闘うものやオピニオンリーダーばかりが賞賛されてしまいがちだが、監督は、あまり広く知られていなかったこの捜索隊の実情も知られるべきだと考え、映画の制作を決めたのだという。
先程少し名前を出した『時代革命』というドキュメンタリー映画を観て、香港の民主化運動についてはかなり知った気になっていたが、やはりあれだけの規模の出来事について、映画1本観たぐらいで理解できることなどたかが知れていると、この映画を観て改めて理解できた。
映画が始まってからしばらくの間は、ほぼ説明らしい説明がないまま物語が進むので、状況を正確に捉えることが出来なかった。映画の中で、真っ黒な画面に文字だけがカタカタ入力されていく場面があるのだが、後から振り返ってようやく、それが「YYがSNSに書き込んだメッセージ」だと理解できたぐらいだ。正直僕は、「登場人物たちが、どうしてYYが自殺しようとしていることを知ったのか」をちゃんと理解していなかった。なるほど、あの文字カタカタが「YYがSNSに投稿したメッセージ」だとしたら、そりゃあ自殺を疑うよな、と。
ソーシャルワーカーが登場し、YYを探そうという話にまとまった辺りからようやく物語の整理が出来た。そしてそこからはかなりシンプルな展開だ。とにかく、みんなで一生懸命YYを探す、というだけの話だ。
ただ、その合間合間に、YYを探す者たちの様々な葛藤についても描かれていく。
そもそも、「YYを探す」というのはほぼナムの独断であり、他の面々は「何故ナムがそこまでYY探しに没頭するのか」を理解できない。他のメンバーとすれば、「そりゃあ1人の少女の命は大事だけど、YYが自殺すると確定したわけではないし、デモの最前線だって大変なんだから、こんなことしてていいのか」みたいな感覚になっている。恋人のベルも、ナムの真意を知らないわけで、ヤキモチ的な感情も少し入り混じっているだろう複雑な内心を抱えている。
ナムの真意については、映画の最後の最後で明かされるので、メンバーも観客も、その理由が判然としないままナムの決断についていくことになる。そしてだからこそ、内紛のような言い争いが度々起こることになる。
特に突っかかってくるのが、ナムを兄貴分として慕い、ナムがいるからデモに参加していると語るルイスだ。彼は何度もナムに当たる。ナムのことを慕いつつも、「ナムが可愛い女の子のためにメンバーを振り回している」とも感じているのだ。
ただ、メンバーの中に、母親を投身自殺で亡くしている者がいる。ドライバーの兄と後方支援の妹の兄妹だ。彼らは、母親の死に負い目を抱えていることもあり、ナムの真意を理解してはいないももの、YY探しに積極的になってくれるし、彼らの存在が「メンバーをYY探しに向かわせる」上で重要になっている。
メンバーには、15歳のバーニズムもいる。偵察役である。彼は父親が警察官であり、「ブラック警察」とその存在を忌み嫌っている。デモに参加していることは当然親には内緒で、「友達の家でゲームする」と嘘をついている。彼はある場面で、「大人はすぐに意見を変える。だったら僕は大人になんかなりたくない」と口にしていた。彼が「YY探し」をどう捉えているのか分からないが、やはりデモの最前線に関わっていたいという気持ちを持っていることは確かだと思う。
そしてやはり、ナムとその恋人であるベルが物語の中心になってくる。彼らがどんな境遇にいるのかについては、中盤以降に具体的に語られるが、映画の冒頭で「薄暗い部屋で寝起きするナム」と「高級そうな住宅で優雅に過ごすベル」という描写がなされるので、彼らの関係に格差があることが分かる。公式HPのキャラクター紹介に書かれているので触れていいと思うが、ナムは大学受験に失敗し建設作業員として働いており、ベルは香港の名門中文大学の学生で、イギリスへの留学の予定がある。この関係性も、なかなか難しい。
映画の中で他に興味深かったのは、デモに関わる若者たち以外の反応だ。例えば、ルイスの父親だったと思うが、「親中で何が悪い。金儲けの方が大事だ」と息子に言ったりするし、また見張りをしていたベルが通行人から「犯罪だよ、こんなこと良くない」と怒られたりする場面が描かれる。あるいは、彼らが食堂で食事をしていると、デモの様子を映し出したテレビ画面に向かって、「子どもたちがアメリカ人からお金をもらって暴れてるよ。みんな死んじゃえばいいのに」と聞こえよがしに言ったりもするのだ。香港の民主化運動では、若い世代が多く立ち上がったことは知っていたし、旧い世代がそれにあまり同調しなかったこともなんとなく知っているが、ここまであからさまに非難の対象になっているという事実は知らなかったので、なかなか驚かされた。
トークイベントでは、監督が撮影で苦労したエピソードについて語っていた。撮影中も、香港の警察から尋問されたりすることもあったが、それが一番大変だったわけではないそうだ。一番大変だったのは、屋上でのシーン。当時コロナのために外出制限がかかっていたこともあり、撮影のために貸してもらえる屋上を探すのが困難だったそうだ。ようやくイギリス人から借りれたのだが、撮影予定日に台風がやってきて大雨だった。そこで予備の日に撮影を回したのだが、その予備の日により大型の台風がやってきてしまったそうだ。とにかく、撮るしかないと決めて、なんとか撮影を終わらせたそうだ。
トークイベントでは、質問も受け付けていたので、「監督や出演者が逮捕される危険性はないんでしょうか?」と聞いてみた。『時代革命』の監督が以前、逮捕も覚悟していると語っていたのを聞いていたからだ。それを受けて監督は、「確かにその可能性もある」と言っていたのだが、さらにこんな話を続けた。映画制作は、1人であれこれ考える時間も多く、それこそ牢獄に閉じ込められているような時間を過ごすことになる、だから実際に逮捕されて数年刑務所に入るとしたら、その間に数本の素晴らしい脚本を書けるだろうから、悪くないかもね、と。とても興味深い受け答えだった。
「少年たちの時代革命」を観に行ってきました
相変わらず僕は、映画についてほぼ調べずに映画館に行くので、この『少年たちの時代革命』のことを、ドキュメンタリー映画だと思いこんでいた。映画が始まってすぐ、あれ?ドキュメンタリー映画じゃなさそうだ、と思ったが、ただ、しばらく確証は持てなかった。随所に、恐らく実際のものだろうデモ映像が挟み込まれ、それが実に上手く作品に馴染んでいるからだ。また、『時代革命』というタイトルのドキュメンタリー映画を観ていたことも関係しているだろう。
『時代革命』感想
とにかく、途中からフィクションだと分かったわけだが、映画で描かれているのは、実際に香港の民主化運動で起こっていた知られざる動きである。
というわけでまずはざっくり内容を紹介しておこう。
2019年6月、1人の男性が香港政府への抗議を込めて自殺した。それ以降、香港では、若者の自殺が増えていく。
YYとジーユーは、香港に住む18歳の少女たちだ。普段は、ゲームセンターのUFOキャッチャーでぬいぐるみを取る様子をSNSに上げるなど、普通の女の子だ。当時の中国では「穏健派」と「勇武派」に分類されており、名前の通り「穏健派」はデモなどには参加せずに反対の意思を示し、「勇武派」はデモに積極的に参加して闘っている。YYもジーユーも、「穏健派」だ。
YYは、自殺した男性の慰霊碑まで出向き、手を合わせた。彼女の父親は中国で働いており、離婚した母親はイギリスで暮らしている。彼女は香港で1人だ。
7月21日、デモに参加していた勇武派の多くが逮捕された。その混乱に巻き込まれる形で、YYとジーユーも逮捕されてしまう。YYはジーユーから、「人助けなんてしてないで逃げてれば、私たちは捕まらずに済んだ」と非難されてしまう。そしてジーユーは、父親と相談し、香港以外のどこかに留学する決断をした。YYは親友とも離れ離れになってしまうのだ。
勇武派であるナムと、勇武派の後方支援を行っている恋人のベルは、他の仲間達と日々闘争に明け暮れている。彼らもまた、7月21日に逮捕されており、有志で協力してくれている弁護士からは「しばらく行動を抑えるように」と言われているのだが、ナムはそんな言葉を聞くつもりはなく、再び最前線に飛び出している。
そんなある日、ナムは仲間が乗った車から降りて、1人の少女の元へ駆け寄る。YYだ。彼らは短く会話を交わし、ナムが気晴らしにとお菓子を差し出して別れるのだが、その後YYの消息が分からなくなる。SNSには、別れを示唆するようなメッセージを投稿した。もしかして、自殺するかもしれない。そう考えた彼らは、デモの最前線に合流するのではなく、協力してくれるソーシャルワーカーと共に、香港の街からYYを探し出そうと奮闘するが……。
というような話です。
この映画は、民主化運動の最中、自殺者を救い出そうと結成されたボランティアの捜索隊に着想を得て創作されたという。上映後に、監督とナムを演じた俳優によるトークイベントが行われたのだが、その中で監督は、この映画の制作のきっかけについて話していた。民主化運動の最中に、自殺者を救う捜索隊の存在を知り、監督もボランティアとしてその活動に加わったことがあったそうだ。どうしても民主化運動においては、デモ最前線で闘うものやオピニオンリーダーばかりが賞賛されてしまいがちだが、監督は、あまり広く知られていなかったこの捜索隊の実情も知られるべきだと考え、映画の制作を決めたのだという。
先程少し名前を出した『時代革命』というドキュメンタリー映画を観て、香港の民主化運動についてはかなり知った気になっていたが、やはりあれだけの規模の出来事について、映画1本観たぐらいで理解できることなどたかが知れていると、この映画を観て改めて理解できた。
映画が始まってからしばらくの間は、ほぼ説明らしい説明がないまま物語が進むので、状況を正確に捉えることが出来なかった。映画の中で、真っ黒な画面に文字だけがカタカタ入力されていく場面があるのだが、後から振り返ってようやく、それが「YYがSNSに書き込んだメッセージ」だと理解できたぐらいだ。正直僕は、「登場人物たちが、どうしてYYが自殺しようとしていることを知ったのか」をちゃんと理解していなかった。なるほど、あの文字カタカタが「YYがSNSに投稿したメッセージ」だとしたら、そりゃあ自殺を疑うよな、と。
ソーシャルワーカーが登場し、YYを探そうという話にまとまった辺りからようやく物語の整理が出来た。そしてそこからはかなりシンプルな展開だ。とにかく、みんなで一生懸命YYを探す、というだけの話だ。
ただ、その合間合間に、YYを探す者たちの様々な葛藤についても描かれていく。
そもそも、「YYを探す」というのはほぼナムの独断であり、他の面々は「何故ナムがそこまでYY探しに没頭するのか」を理解できない。他のメンバーとすれば、「そりゃあ1人の少女の命は大事だけど、YYが自殺すると確定したわけではないし、デモの最前線だって大変なんだから、こんなことしてていいのか」みたいな感覚になっている。恋人のベルも、ナムの真意を知らないわけで、ヤキモチ的な感情も少し入り混じっているだろう複雑な内心を抱えている。
ナムの真意については、映画の最後の最後で明かされるので、メンバーも観客も、その理由が判然としないままナムの決断についていくことになる。そしてだからこそ、内紛のような言い争いが度々起こることになる。
特に突っかかってくるのが、ナムを兄貴分として慕い、ナムがいるからデモに参加していると語るルイスだ。彼は何度もナムに当たる。ナムのことを慕いつつも、「ナムが可愛い女の子のためにメンバーを振り回している」とも感じているのだ。
ただ、メンバーの中に、母親を投身自殺で亡くしている者がいる。ドライバーの兄と後方支援の妹の兄妹だ。彼らは、母親の死に負い目を抱えていることもあり、ナムの真意を理解してはいないももの、YY探しに積極的になってくれるし、彼らの存在が「メンバーをYY探しに向かわせる」上で重要になっている。
メンバーには、15歳のバーニズムもいる。偵察役である。彼は父親が警察官であり、「ブラック警察」とその存在を忌み嫌っている。デモに参加していることは当然親には内緒で、「友達の家でゲームする」と嘘をついている。彼はある場面で、「大人はすぐに意見を変える。だったら僕は大人になんかなりたくない」と口にしていた。彼が「YY探し」をどう捉えているのか分からないが、やはりデモの最前線に関わっていたいという気持ちを持っていることは確かだと思う。
そしてやはり、ナムとその恋人であるベルが物語の中心になってくる。彼らがどんな境遇にいるのかについては、中盤以降に具体的に語られるが、映画の冒頭で「薄暗い部屋で寝起きするナム」と「高級そうな住宅で優雅に過ごすベル」という描写がなされるので、彼らの関係に格差があることが分かる。公式HPのキャラクター紹介に書かれているので触れていいと思うが、ナムは大学受験に失敗し建設作業員として働いており、ベルは香港の名門中文大学の学生で、イギリスへの留学の予定がある。この関係性も、なかなか難しい。
映画の中で他に興味深かったのは、デモに関わる若者たち以外の反応だ。例えば、ルイスの父親だったと思うが、「親中で何が悪い。金儲けの方が大事だ」と息子に言ったりするし、また見張りをしていたベルが通行人から「犯罪だよ、こんなこと良くない」と怒られたりする場面が描かれる。あるいは、彼らが食堂で食事をしていると、デモの様子を映し出したテレビ画面に向かって、「子どもたちがアメリカ人からお金をもらって暴れてるよ。みんな死んじゃえばいいのに」と聞こえよがしに言ったりもするのだ。香港の民主化運動では、若い世代が多く立ち上がったことは知っていたし、旧い世代がそれにあまり同調しなかったこともなんとなく知っているが、ここまであからさまに非難の対象になっているという事実は知らなかったので、なかなか驚かされた。
トークイベントでは、監督が撮影で苦労したエピソードについて語っていた。撮影中も、香港の警察から尋問されたりすることもあったが、それが一番大変だったわけではないそうだ。一番大変だったのは、屋上でのシーン。当時コロナのために外出制限がかかっていたこともあり、撮影のために貸してもらえる屋上を探すのが困難だったそうだ。ようやくイギリス人から借りれたのだが、撮影予定日に台風がやってきて大雨だった。そこで予備の日に撮影を回したのだが、その予備の日により大型の台風がやってきてしまったそうだ。とにかく、撮るしかないと決めて、なんとか撮影を終わらせたそうだ。
トークイベントでは、質問も受け付けていたので、「監督や出演者が逮捕される危険性はないんでしょうか?」と聞いてみた。『時代革命』の監督が以前、逮捕も覚悟していると語っていたのを聞いていたからだ。それを受けて監督は、「確かにその可能性もある」と言っていたのだが、さらにこんな話を続けた。映画制作は、1人であれこれ考える時間も多く、それこそ牢獄に閉じ込められているような時間を過ごすことになる、だから実際に逮捕されて数年刑務所に入るとしたら、その間に数本の素晴らしい脚本を書けるだろうから、悪くないかもね、と。とても興味深い受け答えだった。
「少年たちの時代革命」を観に行ってきました
「ジョン・レノン 音楽で世界を変えた男の真実」を観に行ってきました
僕は別に、ザ・ビートルズにもジョン・レノンにもさほど興味はない。ただ、「人物の過去」には興味がある。世界中、恐らく知らぬ者などいないだろう人物が、どのような来歴で頂点へと上り詰めたのか、その軌跡には関心が持てる。
ジョン・レノンの名が世界に知られるまでの歴史は、なかなか興味深いものだった。何よりこの映画では、「音楽」に関わる話が少ないのが印象的だった。僕はジョン・レノンが、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートという芸術大学で美術コースに所属していたことも初めて知った。カリカチュア(風刺画)が特に上手く、学生時代には同級生をモデルにカリカチュアをよく描いていたそうだ。
ジョン・レノンの人生を語る上で外せないのが、その複雑な幼少期の家庭環境についてだ。
18世紀、じゃがいもの病気被害が深刻なため、多くのアイルランド人がリヴァプールに逃れてきた。ジョン・レノンの祖父もその1人。当時リヴァプールはペストの街であり、「アイルランドの墓/病院」と呼ばれるほどだったそうだ。
この町で、ジョン・レノンの両親であるアレフとジュリアは出会う。1939年に第二次世界大戦が始まったことで、生活は激変する。ロンドン空襲では、リヴァプールでも4000人ほどが命を喪ったという。そんな中、1940年にジュリアが第一子となるジョンと出産する。
父親のアレフは従軍商船の船員として、長く家を空けていた。当時はその仕事に就くしか選択肢がなかったのだろうと語られる。より良い稼ぎを得ようと船を変えたことが、アレフにとって最悪の結末を迎える要因となってしまった。アメリカで、不法移民として逮捕されてしまったのだ。
父親の収入が途絶えることを覚悟したジュリアは、2軒のパブでアルバイトを始めた。そしてそこで、不倫相手であるボビー・ダイキンズと知り合う。アレフがリヴァプールに戻ってきた時には、ジュリアは不倫相手との間に子供をもうけていた。
その後、ジュリア、ボビー、ジョンの3人での生活が始まる。ちなみに、アレフは離婚を拒否していたので、ジュリアとボビーの関係はずっと不倫のままだった。ジュリアが母親として不適格だとアレフが児童福祉局に通報したことで、最終的にジョンは、ジュリアの姉であるミミとその夫ジョージに育てられることになった。アレフは1度ジョンを旅へと連れ出し、そのままオーストラリアへの移住を計画したのだが、色々あって断念、その後姿を消したという。
映画には、ジョン・レノン本人の肉声が使われることはほとんどなかったが、子供の頃のことを振り返って、「父母に欲されなかった。そのことは事実。とても大きなトラウマになった」みたいに語る場面が使われていた。
映画には、学生時代の友人たちも数多く登場した。ダヴデイル・ロード小学校時代からの友人であるアイヴァンは、後にザ・ビートルズにとって重大な役割を果たすことになる。ジョン・レノンとポール・マッカトニーを引き合わせたのだ。11歳で受ける「イレブンプラス」という試験で好成績を取ったジョン・レノンは、クオリー・バンクという評判の良い公立中学校に入学する。1年目は「天使期」と呼ばれるほどの優等生だったようだが、その後5年目までに成績は最低の最低まで落ちたそうだ。
学校でのジョン・レノンは、多くの人に嫌われていたと様々な人物が語っていた。好かれるか嫌われるかの2択しかない、と評する人物もいた。カリスマ的な存在感はあったが、嫌悪感を抱く者も多く、というかそういう人の方が大半だったという。
さらに中学時代、敬愛していた叔父・ジョージが急死してしまう。ジョン・レノンは、有名になるまでに多くの死を経験することになるが、彼が最初に衝撃を受けた死がジョージのものだった。ある人物はその死を境にした変化についてこんな風に語っていた。
【ジョンの世の中に対する怒りが、叔父の死によって決定的になってしまったのだと思う。14歳にして気持ちが振り切れて、すべてのことに対する興味を失ってしまった。
その怒りの一部は教育制度にも向けられた。権威嫌いであり、「何かしろ」と言われるとすぐに天邪鬼になる】
この頃、母ジュリアとの関係が回復したジョンは、共に音楽が好きだったこともあり、音楽に触れる機会が増える。万年金欠だった彼は、新聞配達のアルバイトをしていた友人宅でレコードを聞き、最新の音楽に触れていたのだ。
よくつるんでいた仲間4人の内3人がアメリカへ旅行することになった。ジョンがなぜ一緒じゃなかったのか、その人物はもう覚えていないと言っていた。彼らはアメリカであるレコードに出会う。後で知ったそうだが、アメリカでは発売して2日しか経っていなかったという。同じレコードをイギリスで手に入れる場合、9ヶ月待たなければならなかった。3人はそのレコードを買い、戻ってからジョンに聞かせた。3人はジョンがどんな反応をするだろうかを見ていたのだが、彼はまったくの無反応だった。あまりの衝撃に呆然としていたのだ。その数週間後、ジョンはギターを買ったという。
そんな風にして生まれたのが、バンド・クオリーメンである。このバンドの結成が、後のザ・ビートルズに繋がっていくことになる。
彼らは度々、呼ばれて演奏をした。教会主催の園遊会での演奏が決まったのだが、その日1957年7月6日は世界にとって記念すべき日になった。ジョン・レノンとポール・マッカトニーが初めて顔を合わせたのだ。
2人を会わせたアイヴァンは、ジョンたちとは1つ下の代で、彼自身も「イレブンプラス」を突破して、クオリー・バンクに入学してまた仲間内でつるみたいと考えていた。しかしアイヴァンの両親が、ジョン・レノンと同じ学校に入学させたくないと考えたそうだ。どれだけジョン・レノンが嫌われていたか分かろうというものだ。そこでアイヴァンは、リヴァプール学院へ進学した。そして彼はそこでポール・マッカトニーと仲良くなったのである。
そして園遊会での演奏の日、アイヴァンがポール・マッカトニーを連れてきてジョン・レノンと会わせた。その日までクオリーメンのバンドはお遊びに過ぎなかったが、その日からバンドは真剣なものに変わった。5ヶ月後には、クオリーメンの結成メンバーはジョン・レノン以外全員が抜け、幾度も名前を変えながら、やがて「ザ・ビートルズ」として知られるようになっていく。
不真面目な学生時代を過ごしたジョン・レノンだったが、ミミの尽力により、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートに入学することが出来た。ここで彼は最初の妻であるシンシアと出会っているのだが、もう1人重要な人物と邂逅している。スチュワート・サトクリフ。ザ・ビートルズに詳しい人なら知っているのだろうが、僕はこの映画で初めてその存在を知った。初期の「ザ・ビートルズ」のベーシストである。
スチュワートは指導教授たちから、アートの世界で大成する人物だと考えられていた。非常に良い画家だったからだ。だから彼がミュージシャンになると聞いて怒っている人もいたほどだそうだ。
彼らは、自身の運命を決する旅に出た。ハンブルグの赤線地帯にあるナイトクラブで演奏を始めたのだ。ある人物はその当時のザ・ビートルズについて、演奏は他のバンドより下手だったと語っていた。しかし、週6日、1日6時間の演奏をし続けたことが彼らの血肉となり、バンドは大きく変わったそうだ。しかし、そんな演奏漬けの毎日を送るために、ジョンは薬と酒に頼らざるを得なくなってしまった。
ドイツから戻った彼らを迎えた者たちは、スチュワートの不在に驚く。なんとスチュワートは弱冠21歳にして脳卒中で命を落としてしまったのだ。彼の死も、ジョン・レノンに大きな影響を与えた。
そしてもう1人。ジュリアも悲劇の死を遂げている。芸術大学時代に、ジュリアはなんと非番の警官に轢かれて命を落としてしまったのだ。その直前まで一緒にいたジョン・レノンの友人の話がとてもリアルだった。芸術大学の友人たちは、母親の死にショックを受け、殻に閉じこもってしまったジョンの様子について語っていた。
こんな風にして、「誰もが知るジョン・レノン」になる以前の彼の人生が深掘りされていく。特別ファンというわけではない僕でもかなり興味深く観ることが出来たし、「世界的スーパースターであるジョン・レノン」しか知らない人には、知らない話満載なのではないかと思う。個人的には、後に世界的スーパースターになる人物が、学生時代には周囲からかなり嫌われていたという話が面白かった。まあ、変人はなかなか受け入れられないから仕方ないよね。
「ジョン・レノン 音楽で世界を変えた男の真実」を観に行ってきました
ジョン・レノンの名が世界に知られるまでの歴史は、なかなか興味深いものだった。何よりこの映画では、「音楽」に関わる話が少ないのが印象的だった。僕はジョン・レノンが、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートという芸術大学で美術コースに所属していたことも初めて知った。カリカチュア(風刺画)が特に上手く、学生時代には同級生をモデルにカリカチュアをよく描いていたそうだ。
ジョン・レノンの人生を語る上で外せないのが、その複雑な幼少期の家庭環境についてだ。
18世紀、じゃがいもの病気被害が深刻なため、多くのアイルランド人がリヴァプールに逃れてきた。ジョン・レノンの祖父もその1人。当時リヴァプールはペストの街であり、「アイルランドの墓/病院」と呼ばれるほどだったそうだ。
この町で、ジョン・レノンの両親であるアレフとジュリアは出会う。1939年に第二次世界大戦が始まったことで、生活は激変する。ロンドン空襲では、リヴァプールでも4000人ほどが命を喪ったという。そんな中、1940年にジュリアが第一子となるジョンと出産する。
父親のアレフは従軍商船の船員として、長く家を空けていた。当時はその仕事に就くしか選択肢がなかったのだろうと語られる。より良い稼ぎを得ようと船を変えたことが、アレフにとって最悪の結末を迎える要因となってしまった。アメリカで、不法移民として逮捕されてしまったのだ。
父親の収入が途絶えることを覚悟したジュリアは、2軒のパブでアルバイトを始めた。そしてそこで、不倫相手であるボビー・ダイキンズと知り合う。アレフがリヴァプールに戻ってきた時には、ジュリアは不倫相手との間に子供をもうけていた。
その後、ジュリア、ボビー、ジョンの3人での生活が始まる。ちなみに、アレフは離婚を拒否していたので、ジュリアとボビーの関係はずっと不倫のままだった。ジュリアが母親として不適格だとアレフが児童福祉局に通報したことで、最終的にジョンは、ジュリアの姉であるミミとその夫ジョージに育てられることになった。アレフは1度ジョンを旅へと連れ出し、そのままオーストラリアへの移住を計画したのだが、色々あって断念、その後姿を消したという。
映画には、ジョン・レノン本人の肉声が使われることはほとんどなかったが、子供の頃のことを振り返って、「父母に欲されなかった。そのことは事実。とても大きなトラウマになった」みたいに語る場面が使われていた。
映画には、学生時代の友人たちも数多く登場した。ダヴデイル・ロード小学校時代からの友人であるアイヴァンは、後にザ・ビートルズにとって重大な役割を果たすことになる。ジョン・レノンとポール・マッカトニーを引き合わせたのだ。11歳で受ける「イレブンプラス」という試験で好成績を取ったジョン・レノンは、クオリー・バンクという評判の良い公立中学校に入学する。1年目は「天使期」と呼ばれるほどの優等生だったようだが、その後5年目までに成績は最低の最低まで落ちたそうだ。
学校でのジョン・レノンは、多くの人に嫌われていたと様々な人物が語っていた。好かれるか嫌われるかの2択しかない、と評する人物もいた。カリスマ的な存在感はあったが、嫌悪感を抱く者も多く、というかそういう人の方が大半だったという。
さらに中学時代、敬愛していた叔父・ジョージが急死してしまう。ジョン・レノンは、有名になるまでに多くの死を経験することになるが、彼が最初に衝撃を受けた死がジョージのものだった。ある人物はその死を境にした変化についてこんな風に語っていた。
【ジョンの世の中に対する怒りが、叔父の死によって決定的になってしまったのだと思う。14歳にして気持ちが振り切れて、すべてのことに対する興味を失ってしまった。
その怒りの一部は教育制度にも向けられた。権威嫌いであり、「何かしろ」と言われるとすぐに天邪鬼になる】
この頃、母ジュリアとの関係が回復したジョンは、共に音楽が好きだったこともあり、音楽に触れる機会が増える。万年金欠だった彼は、新聞配達のアルバイトをしていた友人宅でレコードを聞き、最新の音楽に触れていたのだ。
よくつるんでいた仲間4人の内3人がアメリカへ旅行することになった。ジョンがなぜ一緒じゃなかったのか、その人物はもう覚えていないと言っていた。彼らはアメリカであるレコードに出会う。後で知ったそうだが、アメリカでは発売して2日しか経っていなかったという。同じレコードをイギリスで手に入れる場合、9ヶ月待たなければならなかった。3人はそのレコードを買い、戻ってからジョンに聞かせた。3人はジョンがどんな反応をするだろうかを見ていたのだが、彼はまったくの無反応だった。あまりの衝撃に呆然としていたのだ。その数週間後、ジョンはギターを買ったという。
そんな風にして生まれたのが、バンド・クオリーメンである。このバンドの結成が、後のザ・ビートルズに繋がっていくことになる。
彼らは度々、呼ばれて演奏をした。教会主催の園遊会での演奏が決まったのだが、その日1957年7月6日は世界にとって記念すべき日になった。ジョン・レノンとポール・マッカトニーが初めて顔を合わせたのだ。
2人を会わせたアイヴァンは、ジョンたちとは1つ下の代で、彼自身も「イレブンプラス」を突破して、クオリー・バンクに入学してまた仲間内でつるみたいと考えていた。しかしアイヴァンの両親が、ジョン・レノンと同じ学校に入学させたくないと考えたそうだ。どれだけジョン・レノンが嫌われていたか分かろうというものだ。そこでアイヴァンは、リヴァプール学院へ進学した。そして彼はそこでポール・マッカトニーと仲良くなったのである。
そして園遊会での演奏の日、アイヴァンがポール・マッカトニーを連れてきてジョン・レノンと会わせた。その日までクオリーメンのバンドはお遊びに過ぎなかったが、その日からバンドは真剣なものに変わった。5ヶ月後には、クオリーメンの結成メンバーはジョン・レノン以外全員が抜け、幾度も名前を変えながら、やがて「ザ・ビートルズ」として知られるようになっていく。
不真面目な学生時代を過ごしたジョン・レノンだったが、ミミの尽力により、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートに入学することが出来た。ここで彼は最初の妻であるシンシアと出会っているのだが、もう1人重要な人物と邂逅している。スチュワート・サトクリフ。ザ・ビートルズに詳しい人なら知っているのだろうが、僕はこの映画で初めてその存在を知った。初期の「ザ・ビートルズ」のベーシストである。
スチュワートは指導教授たちから、アートの世界で大成する人物だと考えられていた。非常に良い画家だったからだ。だから彼がミュージシャンになると聞いて怒っている人もいたほどだそうだ。
彼らは、自身の運命を決する旅に出た。ハンブルグの赤線地帯にあるナイトクラブで演奏を始めたのだ。ある人物はその当時のザ・ビートルズについて、演奏は他のバンドより下手だったと語っていた。しかし、週6日、1日6時間の演奏をし続けたことが彼らの血肉となり、バンドは大きく変わったそうだ。しかし、そんな演奏漬けの毎日を送るために、ジョンは薬と酒に頼らざるを得なくなってしまった。
ドイツから戻った彼らを迎えた者たちは、スチュワートの不在に驚く。なんとスチュワートは弱冠21歳にして脳卒中で命を落としてしまったのだ。彼の死も、ジョン・レノンに大きな影響を与えた。
そしてもう1人。ジュリアも悲劇の死を遂げている。芸術大学時代に、ジュリアはなんと非番の警官に轢かれて命を落としてしまったのだ。その直前まで一緒にいたジョン・レノンの友人の話がとてもリアルだった。芸術大学の友人たちは、母親の死にショックを受け、殻に閉じこもってしまったジョンの様子について語っていた。
こんな風にして、「誰もが知るジョン・レノン」になる以前の彼の人生が深掘りされていく。特別ファンというわけではない僕でもかなり興味深く観ることが出来たし、「世界的スーパースターであるジョン・レノン」しか知らない人には、知らない話満載なのではないかと思う。個人的には、後に世界的スーパースターになる人物が、学生時代には周囲からかなり嫌われていたという話が面白かった。まあ、変人はなかなか受け入れられないから仕方ないよね。
「ジョン・レノン 音楽で世界を変えた男の真実」を観に行ってきました
「マッドゴッド」を観に行ってきました
ヤバかった。意味が分からんかった。超絶眠かった。マジなんだこれ。84分の映画だったけど、眠気に耐えつつ頑張って目を開けていたのもあって、もっと長く感じた。2時間以上の体感。
ストップモーションアニメだと、少し前に観た『JUNK HEAD』が素晴らしすぎたので、どうしてもそれと比較してしまう。『JUNK HEAD』は、本職が内装業だという堀貴秀が、たった1人で7年掛けて作ったストップモーションアニメで、とにかくそのクオリティに驚かされた。とんでもない人間が世の中にはいるものだ、と感じさせられた。
『マッドゴッド』は、「特殊効果の神フィル・ティペット監督作」「30年の時をかけ、執念と狂気が生み出した奇蹟のストップモーションアニメ」と公式HPに書かれている。フィル・ティペットのことを知らなかったが、「ストップモーション」という手法を、確固たる映像撮影技術として昇華させた、特殊撮影を語る上で外せない人物なのだそうだ。なるほど、よく分からんが凄そうな人だ。まあフィル・ティペットのことは知らなかったわけだが、「30年も掛けて作ったストップモーションアニメ」というだけで、なかなか期待を持たせるだろう。
しかしなぁ。もうなんのこっちゃという感じだった。とにかく、何も理解できなかった。
今回映画を観て、1つ発見したことがある。それは、「『マッドゴッド』のエンドロールが始まった瞬間、眠気が一気に消えた」ということ。だからたぶん僕は、「目で見ているモノへの拒絶反応が『眠気』として発露する」のだろうと思う。
とりあえず、そのことが発見できたことを収穫としようと思う。
「マッドゴッド」を観に行ってきました
ストップモーションアニメだと、少し前に観た『JUNK HEAD』が素晴らしすぎたので、どうしてもそれと比較してしまう。『JUNK HEAD』は、本職が内装業だという堀貴秀が、たった1人で7年掛けて作ったストップモーションアニメで、とにかくそのクオリティに驚かされた。とんでもない人間が世の中にはいるものだ、と感じさせられた。
『マッドゴッド』は、「特殊効果の神フィル・ティペット監督作」「30年の時をかけ、執念と狂気が生み出した奇蹟のストップモーションアニメ」と公式HPに書かれている。フィル・ティペットのことを知らなかったが、「ストップモーション」という手法を、確固たる映像撮影技術として昇華させた、特殊撮影を語る上で外せない人物なのだそうだ。なるほど、よく分からんが凄そうな人だ。まあフィル・ティペットのことは知らなかったわけだが、「30年も掛けて作ったストップモーションアニメ」というだけで、なかなか期待を持たせるだろう。
しかしなぁ。もうなんのこっちゃという感じだった。とにかく、何も理解できなかった。
今回映画を観て、1つ発見したことがある。それは、「『マッドゴッド』のエンドロールが始まった瞬間、眠気が一気に消えた」ということ。だからたぶん僕は、「目で見ているモノへの拒絶反応が『眠気』として発露する」のだろうと思う。
とりあえず、そのことが発見できたことを収穫としようと思う。
「マッドゴッド」を観に行ってきました
「月の満ち欠け」を観に行ってきました
これは良い映画だったなぁ。時系列的にはかなり複雑な物語で、例えば「回想シーンの中に、さらに回想シーンがある」なんて場面もあるぐらい。かなり上手く構成しないとストーリーに置き去りにされそうな話だけど、その辺の処理もとても上手い。あらゆる時代の、あらゆる物語にストーリーが飛びまくる物語でありながら、観客はきちんと追えると思う。
「生まれ変わり」という物語の根幹となる設定についても、主人公の小山内堅(大泉洋)が、とにかくずっと否定派というか、「俺はそんな話信じない」という立ち位置で物語が展開されていくので、生まれ変わりなんて話を信じない人でも別に違和感なく物語を追っていける。これでもし小山内堅が物語の早い段階で「生まれ変わり」を受け入れる人物だとしたらちょっと話は変わってくるが、「普通には信じられない『生まれ変わり』をどうにか小山内堅に信じさせようとする」という設定になっているので、生まれ変わりに対してどんな感覚を持っている人にも受け入れられやすい物語と言っていいと思う。
さらに、この物語が良いと思う点は、「『生まれ変わり』という設定を仮に無視したとしても、それぞれの人間関係がとても良い」という点にある。小山内堅と梢の夫婦の物語も、その娘である瑠璃と親友ゆいの物語も、あるいはもう1人の瑠璃と三角哲彦の物語も、それぞれ単独でとても良い。そしてそれらが、「もしかしたらあり得るかもしれない『生まれ変わり』という可能性で繋がっている」という構成がとても良いと思う。
また、「生まれ変わり」という設定を描く物語である以上、かなり長い年月を要するストーリーに必然的になるが、それ故に「スマホのない時代の恋愛」を違和感なく組み込めている辺りも良いと思う。スマホがあっても無くても恋愛は描けるが、「スマホが無いからこそ成立する物語」は間違いなくあると思うし、そういう良さもこの物語には含まれている。
役者も、こういう「映画会社が力を入れている、ヒットが期待されている映画」に求められる「役者の人気度」もありつつ、演技の実力も抜群という絶妙なラインナップな感じがあって、色んな点で良く出来ていると感じさせられる映画だった。
さて、ここで僕の「生まれ変わり」に対する基本的な考え方を書いておきたいと思う。
僕は「生まれ変わり」とか「前世」みたいな話は、まったく一切信じない。だが、映画『月の満ち欠け』のような状況が起こってもおかしくはない、とも考えている。というのも、「記憶のバグ」という可能性があるからだ。
人間の記憶のメカニズムは、まだ完全には解明されていないはずだ。そもそも、「人類にとっての未開のフロンティアは、脳・宇宙・深海しかない」とも言われるぐらい「脳」というのはまだまだ謎の対象であるし、その「脳」が司っている「記憶」についても、まだまだ謎めいたことはたくさんあるはずだと思う。だから僕は、「何らかの現象が存在し、その現象によって『誰かの記憶(の一部)が、別の誰かに移動する』という可能性」は否定できないと思っている。
「そんなことあるはずないだろう」と感じる方は、恐らく、現代科学についてあまり詳しくない人だろう。現代科学の最先端で研究されていることを知れば知るほど、僕らが知っている常識とはかけ離れた世界が広がっていることが分かる。例えば、ここでは詳しく説明しないが、量子力学の世界でよく知られた「二重スリット実験」などは、僕らが当たり前に理解している常識ではまったく捉えられない謎現象である(気になる方はネットで調べてほしい。なかなか難しい話だけど、頑張れば理解できると思う)。
僕は科学が好きで、だからこそ「そんなわけないだろう」と感じるような様々な科学的知見の存在を知っている。だから、「誰かの記憶(の一部)が、別の誰かに移動する」ぐらいのことが起こるとしても、別に不思議だとは思わない。
「記憶が移動する現象」がもし存在するのなら、それに「前世」や「生まれ変わり」と名前をつけるのは自由だ。そういうわけで僕は、「生まれ変わり」は信じないが、「『月の満ち欠け』で描かれるような状況」は全然信じられる。
そして、もし「記憶が移動する現象」が存在するなら、それに「生まれ変わり」なんて名前をつけない方がいいだろうとも思う。何故なら、「生まれ変わり」だとしたら、意識的に再現することは不可能だからだ。もし科学的に「記憶が移動する現象」を解明できるなら、科学的な手法でそれを再現することができるかもしれない。まあ、そういう技術が実用化出来るとして、かなり倫理的な問題があるので難しいだろうが、「誰かの記憶を、そのままAIに移植する」という風にできるなら、可能性は広がるだろう。
なんてことを考えたりする。
内容に入ろうと思います。
東京の大学に進学し、そのまま東京で就職した小山内堅は、今は地元である青森県八戸市の実家に戻っている。高齢の母をヘルパーさんに見てもらいながら、漁港で働いているのだ。
地元に戻ってきた理由は、愛する妻と娘を交通事故で喪ったことにある。高校時代の後輩・梢と東京の大学で再会した小山内は、彼女と交際することになり、その後ジョン・レノンが殺された年に結婚、一人娘である瑠璃が生まれた。「瑠璃」という名前は梢が考えたのだが、梢は「夢の中でこの子が『瑠璃って名前にして』と言ってきた」と話していた。「瑠璃も玻璃も照らせば光るの瑠璃だよ」と。
ある日、高熱を出した瑠璃。病院でも原因が分からなかったが、その後回復。しかし、瑠璃の様子に少し変化があった。それに気づいたのは梢だ。知らない英語の歌を口ずさんでいるし、ジッポのライターの石を交換したりもしたという。さらにその後、まだ小学生だった瑠璃が1人で電車に乗り、高田馬場にあるレコード店まで行ってしまうという事件があった。小山内は瑠璃に、高校を卒業するまでは1人で遠くにはいかないと約束し、それからは瑠璃におかしなことが起こることはなかった。
事故後、失意の内に八戸に戻った小山内を尋ねてきた男がいる。三角哲彦と名乗ったその男は、1980年、ジョン・レノンが殺された年に出会った1人の女性の話を語り始めた。大学生だった三角はレコード店で働いており、雨の日に店先で雨宿りしていた、名前も知らぬ女性に一目惚れしたのだ。連絡先を交換することもなく別れた2人だが、その後偶然に再会、三角は益々彼女に惹かれていくが、瑠璃という名前だと分かったその女性には、何かのっぴきならない事情があるようだった。三角の想いは、なかなか形にならない。
彼は何故そんな話を小山内にしているのか。それは、梢と瑠璃が事故に遭ったのは、2人が自分に会いに来る途中のことだったからだ。瑠璃から連絡をもらったのだという。
小山内は、三角に「君は、何を言いたいんだ?」と問う。三角は答える。「あなたの娘さんは、瑠璃の生まれ変わりなのではないか」と。
とにかくストーリーが良く出来てるなぁ、という感じ。原作は未読だけど、さすが佐藤正午といったところだろう。どこまで原作に忠実なのかは分からないが、とにかく全体的に物語の構成が抜群に上手いなと思う。
冒頭でも書いたけど、とにかく時系列がかなり複雑怪奇な物語で、それなのに全然するっと観れる。物語が結構入れ子構造になってるので、上手く構成しないと迷子になりそうな話なのに、全然そんなことになってないのがとても上手いと思った。
描かれる関係性としては、まずやっぱり三角哲彦(目黒蓮)と正木瑠璃(有村架純)の話が非常に良かった。特に、「有村架純の、何か抱えているんだろうけどそれが何か分からず、そのことが逆に魅力にもなっていて、大学生の三角はそりゃあやられちゃうよねー」という感じが、演技からも絶妙に伝わってきて、凄く良かった。たぶんこの、三角と瑠璃の話だけでも、物語1本分の展開を作れるだろうなってぐらい魅力的な関係性になっている。
そして小山内堅(大泉洋)と梢(柴咲コウ)も良い。大泉洋は、「幸せな家族の時間」と「最愛の家族を喪ってからの時間」のどちらも描かれるわけだが、振れ幅のメチャクチャ大きいその役柄を絶妙に描き出す。さらに、冒頭でも書いた通り、小山内堅が頑なに「生まれ変わり」を信じないことが、どういう価値観を持つ観客でも映画から離れさせないような効果を生んでいるので、それも作品全体としては重要な立ち位置だったと思う。
柴咲コウがまた良い。柴咲コウってなんとなく、クールというか厳しい感じの役柄のことが多い印象があるんだけど、『月の満ち欠け』では超柔らかい感じの役で、そこに柴咲コウが結構ハマってた感じがあるんだよなぁ。梢のその雰囲気は、物語のラストにも関わる部分で結構重要になってくるので、そういう意味でも柴咲コウの雰囲気も見事だったと思う。
あと、やっぱり伊藤沙莉って良いよなぁと思う。物語が始まってしばらくは、伊藤沙莉演じる緑坂ゆいがそこまで重要な存在だと思ってなかったんだけど、結果としては、『月の満ち欠け』という物語におけるある意味での「起点」とも言える人物であり、結構重要だった。伊藤沙莉が絶妙なのは、主役もやれるし、ちゃんと脇役でもハマるということにあると思う。『月の満ち欠け』では決して主役ではないけど、脇役と言えるほどでもない。ただ、どういう立ち位置にも違和感なくハマれる伊藤沙莉が演じているからこそ、「彼女が演じる役柄がどの程度の重要度なのか分からない」という雰囲気になるし、そのことは、物語の展開がどうなっていくのかという関心でストーリーを追う観客にとっては、ある種の「目くらまし」的な効果も生む。結果として「小山内堅 VS 緑坂ゆい」みたいな状況になるため、緑坂ゆいを演じる女優は、大泉洋に対抗できなきゃいけない。それでいて、最初から重要人物に見えない方が面白いし、そういう意味で伊藤沙莉は抜群のハマり役という感じがした。
あと、公式HPには役柄とか設定が書いてあるから伏せる必要はないのだけど、ここでは田中圭がどんな役なのかには触れないでおこう。しかしまあ、田中圭(の役)が酷い酷い。以前観た『哀愁しんでれら』でも似たような感じの立ち位置だったけど、田中圭、こういうヤバい感じの役似合うよなぁ。『月の満ち欠け』を観てると、「田中圭、全部お前やん!!!」ってツッコミたくなるような役回りで、やっぱりこの役も物語を支える上でかなり重要だったりする。いやーしかし、田中圭(の役)は酷かった。
映画は、「些細なエピソードを継ぎ接ぎのように繋ぎ合わせて、そこに『生まれ変わり』という可能性を現出させる」という構成になっているのだが、そういう物語だからこそ、「客観的に残る証拠」みたいなものが結構重要になってくる。「誰々がこんなことを言っていた」とか「あの時にこういうのを見た」という記憶だけではなく、それらを客観的に証明するような様々な要素が多数登場する。そしてその使い方が上手い。絵・ビデオカメラ・写真・テープレコーダーなど様々なツールを組み合わせて、「『生まれ変わり』を示唆する客観的な証拠」を積み上げていく。これもまた、スマホが無い時代だからこそと言えるだろう。今ならほぼスマホで済んでしまうようなことが、様々なツールに分解されていた時代だったからこその趣きみたいなものが映像から滲んでくる感じがあった。
そしてその上でさらに、「客観的ではない証拠」によって観客の心を揺さぶる。「駅前でずっと待ってる」とか「心配させてごめんね」みたいな「誰かの記憶の中にしか存在しない言葉」によって「生まれ変わり」を示唆し、そのことが作中の登場人物の気持ちを動かし揺らし、さらに観客を揺り動かしていく。分かりやすい姑息な手と言えばそう言えるかもしれないけど、僕は上手いなぁと思った。確かに、仮に自分が「誰かの生まれ変わりだ」と思っていて、外から見える自分とは違う誰かの記憶を持っているとしたら、その記憶によって「生まれ変わり」を証明したいと考えるだろうし、だからこそ積極的にそういう言葉を口にしていくと思う。普通の物語であれば「ベタで姑息な手」に映るかもしれない場面が、「生まれ変わり」という要素を組み込むことで逆に自然になると感じたし、とても良かったと思う。
ちなみに、少し前にテレビで見たが、イギリスだかどこだかの女性(A)が、「病院で亡くなった女性(B)の記憶を持っている」ということに気づき、記憶を頼りにその記憶の場所へ行き確かめたという話を紹介していた。番組には記憶に関する研究者も出ており、「非常に驚かされた事例」として紹介していた。女性(A)は、最終的に女性(B)の子どもたちと接点を持つことになり、女性(B)の子どもたちは女性(A)を「母の生まれ変わり」だと信じている、みたいにまとめられていた。母しか知らないはずの記憶を、全然関係ない遠くの地に住む女性が知っているのだから、そう信じたくもなるだろう。現にそういう事例が報告されているのだ。
まあ僕は、それを「生まれ変わり」だとは信じないが、『月の満ち欠け』の物語が決して荒唐無稽なものだとは思わない。
「月の満ち欠け」を観に行ってきました
「生まれ変わり」という物語の根幹となる設定についても、主人公の小山内堅(大泉洋)が、とにかくずっと否定派というか、「俺はそんな話信じない」という立ち位置で物語が展開されていくので、生まれ変わりなんて話を信じない人でも別に違和感なく物語を追っていける。これでもし小山内堅が物語の早い段階で「生まれ変わり」を受け入れる人物だとしたらちょっと話は変わってくるが、「普通には信じられない『生まれ変わり』をどうにか小山内堅に信じさせようとする」という設定になっているので、生まれ変わりに対してどんな感覚を持っている人にも受け入れられやすい物語と言っていいと思う。
さらに、この物語が良いと思う点は、「『生まれ変わり』という設定を仮に無視したとしても、それぞれの人間関係がとても良い」という点にある。小山内堅と梢の夫婦の物語も、その娘である瑠璃と親友ゆいの物語も、あるいはもう1人の瑠璃と三角哲彦の物語も、それぞれ単独でとても良い。そしてそれらが、「もしかしたらあり得るかもしれない『生まれ変わり』という可能性で繋がっている」という構成がとても良いと思う。
また、「生まれ変わり」という設定を描く物語である以上、かなり長い年月を要するストーリーに必然的になるが、それ故に「スマホのない時代の恋愛」を違和感なく組み込めている辺りも良いと思う。スマホがあっても無くても恋愛は描けるが、「スマホが無いからこそ成立する物語」は間違いなくあると思うし、そういう良さもこの物語には含まれている。
役者も、こういう「映画会社が力を入れている、ヒットが期待されている映画」に求められる「役者の人気度」もありつつ、演技の実力も抜群という絶妙なラインナップな感じがあって、色んな点で良く出来ていると感じさせられる映画だった。
さて、ここで僕の「生まれ変わり」に対する基本的な考え方を書いておきたいと思う。
僕は「生まれ変わり」とか「前世」みたいな話は、まったく一切信じない。だが、映画『月の満ち欠け』のような状況が起こってもおかしくはない、とも考えている。というのも、「記憶のバグ」という可能性があるからだ。
人間の記憶のメカニズムは、まだ完全には解明されていないはずだ。そもそも、「人類にとっての未開のフロンティアは、脳・宇宙・深海しかない」とも言われるぐらい「脳」というのはまだまだ謎の対象であるし、その「脳」が司っている「記憶」についても、まだまだ謎めいたことはたくさんあるはずだと思う。だから僕は、「何らかの現象が存在し、その現象によって『誰かの記憶(の一部)が、別の誰かに移動する』という可能性」は否定できないと思っている。
「そんなことあるはずないだろう」と感じる方は、恐らく、現代科学についてあまり詳しくない人だろう。現代科学の最先端で研究されていることを知れば知るほど、僕らが知っている常識とはかけ離れた世界が広がっていることが分かる。例えば、ここでは詳しく説明しないが、量子力学の世界でよく知られた「二重スリット実験」などは、僕らが当たり前に理解している常識ではまったく捉えられない謎現象である(気になる方はネットで調べてほしい。なかなか難しい話だけど、頑張れば理解できると思う)。
僕は科学が好きで、だからこそ「そんなわけないだろう」と感じるような様々な科学的知見の存在を知っている。だから、「誰かの記憶(の一部)が、別の誰かに移動する」ぐらいのことが起こるとしても、別に不思議だとは思わない。
「記憶が移動する現象」がもし存在するのなら、それに「前世」や「生まれ変わり」と名前をつけるのは自由だ。そういうわけで僕は、「生まれ変わり」は信じないが、「『月の満ち欠け』で描かれるような状況」は全然信じられる。
そして、もし「記憶が移動する現象」が存在するなら、それに「生まれ変わり」なんて名前をつけない方がいいだろうとも思う。何故なら、「生まれ変わり」だとしたら、意識的に再現することは不可能だからだ。もし科学的に「記憶が移動する現象」を解明できるなら、科学的な手法でそれを再現することができるかもしれない。まあ、そういう技術が実用化出来るとして、かなり倫理的な問題があるので難しいだろうが、「誰かの記憶を、そのままAIに移植する」という風にできるなら、可能性は広がるだろう。
なんてことを考えたりする。
内容に入ろうと思います。
東京の大学に進学し、そのまま東京で就職した小山内堅は、今は地元である青森県八戸市の実家に戻っている。高齢の母をヘルパーさんに見てもらいながら、漁港で働いているのだ。
地元に戻ってきた理由は、愛する妻と娘を交通事故で喪ったことにある。高校時代の後輩・梢と東京の大学で再会した小山内は、彼女と交際することになり、その後ジョン・レノンが殺された年に結婚、一人娘である瑠璃が生まれた。「瑠璃」という名前は梢が考えたのだが、梢は「夢の中でこの子が『瑠璃って名前にして』と言ってきた」と話していた。「瑠璃も玻璃も照らせば光るの瑠璃だよ」と。
ある日、高熱を出した瑠璃。病院でも原因が分からなかったが、その後回復。しかし、瑠璃の様子に少し変化があった。それに気づいたのは梢だ。知らない英語の歌を口ずさんでいるし、ジッポのライターの石を交換したりもしたという。さらにその後、まだ小学生だった瑠璃が1人で電車に乗り、高田馬場にあるレコード店まで行ってしまうという事件があった。小山内は瑠璃に、高校を卒業するまでは1人で遠くにはいかないと約束し、それからは瑠璃におかしなことが起こることはなかった。
事故後、失意の内に八戸に戻った小山内を尋ねてきた男がいる。三角哲彦と名乗ったその男は、1980年、ジョン・レノンが殺された年に出会った1人の女性の話を語り始めた。大学生だった三角はレコード店で働いており、雨の日に店先で雨宿りしていた、名前も知らぬ女性に一目惚れしたのだ。連絡先を交換することもなく別れた2人だが、その後偶然に再会、三角は益々彼女に惹かれていくが、瑠璃という名前だと分かったその女性には、何かのっぴきならない事情があるようだった。三角の想いは、なかなか形にならない。
彼は何故そんな話を小山内にしているのか。それは、梢と瑠璃が事故に遭ったのは、2人が自分に会いに来る途中のことだったからだ。瑠璃から連絡をもらったのだという。
小山内は、三角に「君は、何を言いたいんだ?」と問う。三角は答える。「あなたの娘さんは、瑠璃の生まれ変わりなのではないか」と。
とにかくストーリーが良く出来てるなぁ、という感じ。原作は未読だけど、さすが佐藤正午といったところだろう。どこまで原作に忠実なのかは分からないが、とにかく全体的に物語の構成が抜群に上手いなと思う。
冒頭でも書いたけど、とにかく時系列がかなり複雑怪奇な物語で、それなのに全然するっと観れる。物語が結構入れ子構造になってるので、上手く構成しないと迷子になりそうな話なのに、全然そんなことになってないのがとても上手いと思った。
描かれる関係性としては、まずやっぱり三角哲彦(目黒蓮)と正木瑠璃(有村架純)の話が非常に良かった。特に、「有村架純の、何か抱えているんだろうけどそれが何か分からず、そのことが逆に魅力にもなっていて、大学生の三角はそりゃあやられちゃうよねー」という感じが、演技からも絶妙に伝わってきて、凄く良かった。たぶんこの、三角と瑠璃の話だけでも、物語1本分の展開を作れるだろうなってぐらい魅力的な関係性になっている。
そして小山内堅(大泉洋)と梢(柴咲コウ)も良い。大泉洋は、「幸せな家族の時間」と「最愛の家族を喪ってからの時間」のどちらも描かれるわけだが、振れ幅のメチャクチャ大きいその役柄を絶妙に描き出す。さらに、冒頭でも書いた通り、小山内堅が頑なに「生まれ変わり」を信じないことが、どういう価値観を持つ観客でも映画から離れさせないような効果を生んでいるので、それも作品全体としては重要な立ち位置だったと思う。
柴咲コウがまた良い。柴咲コウってなんとなく、クールというか厳しい感じの役柄のことが多い印象があるんだけど、『月の満ち欠け』では超柔らかい感じの役で、そこに柴咲コウが結構ハマってた感じがあるんだよなぁ。梢のその雰囲気は、物語のラストにも関わる部分で結構重要になってくるので、そういう意味でも柴咲コウの雰囲気も見事だったと思う。
あと、やっぱり伊藤沙莉って良いよなぁと思う。物語が始まってしばらくは、伊藤沙莉演じる緑坂ゆいがそこまで重要な存在だと思ってなかったんだけど、結果としては、『月の満ち欠け』という物語におけるある意味での「起点」とも言える人物であり、結構重要だった。伊藤沙莉が絶妙なのは、主役もやれるし、ちゃんと脇役でもハマるということにあると思う。『月の満ち欠け』では決して主役ではないけど、脇役と言えるほどでもない。ただ、どういう立ち位置にも違和感なくハマれる伊藤沙莉が演じているからこそ、「彼女が演じる役柄がどの程度の重要度なのか分からない」という雰囲気になるし、そのことは、物語の展開がどうなっていくのかという関心でストーリーを追う観客にとっては、ある種の「目くらまし」的な効果も生む。結果として「小山内堅 VS 緑坂ゆい」みたいな状況になるため、緑坂ゆいを演じる女優は、大泉洋に対抗できなきゃいけない。それでいて、最初から重要人物に見えない方が面白いし、そういう意味で伊藤沙莉は抜群のハマり役という感じがした。
あと、公式HPには役柄とか設定が書いてあるから伏せる必要はないのだけど、ここでは田中圭がどんな役なのかには触れないでおこう。しかしまあ、田中圭(の役)が酷い酷い。以前観た『哀愁しんでれら』でも似たような感じの立ち位置だったけど、田中圭、こういうヤバい感じの役似合うよなぁ。『月の満ち欠け』を観てると、「田中圭、全部お前やん!!!」ってツッコミたくなるような役回りで、やっぱりこの役も物語を支える上でかなり重要だったりする。いやーしかし、田中圭(の役)は酷かった。
映画は、「些細なエピソードを継ぎ接ぎのように繋ぎ合わせて、そこに『生まれ変わり』という可能性を現出させる」という構成になっているのだが、そういう物語だからこそ、「客観的に残る証拠」みたいなものが結構重要になってくる。「誰々がこんなことを言っていた」とか「あの時にこういうのを見た」という記憶だけではなく、それらを客観的に証明するような様々な要素が多数登場する。そしてその使い方が上手い。絵・ビデオカメラ・写真・テープレコーダーなど様々なツールを組み合わせて、「『生まれ変わり』を示唆する客観的な証拠」を積み上げていく。これもまた、スマホが無い時代だからこそと言えるだろう。今ならほぼスマホで済んでしまうようなことが、様々なツールに分解されていた時代だったからこその趣きみたいなものが映像から滲んでくる感じがあった。
そしてその上でさらに、「客観的ではない証拠」によって観客の心を揺さぶる。「駅前でずっと待ってる」とか「心配させてごめんね」みたいな「誰かの記憶の中にしか存在しない言葉」によって「生まれ変わり」を示唆し、そのことが作中の登場人物の気持ちを動かし揺らし、さらに観客を揺り動かしていく。分かりやすい姑息な手と言えばそう言えるかもしれないけど、僕は上手いなぁと思った。確かに、仮に自分が「誰かの生まれ変わりだ」と思っていて、外から見える自分とは違う誰かの記憶を持っているとしたら、その記憶によって「生まれ変わり」を証明したいと考えるだろうし、だからこそ積極的にそういう言葉を口にしていくと思う。普通の物語であれば「ベタで姑息な手」に映るかもしれない場面が、「生まれ変わり」という要素を組み込むことで逆に自然になると感じたし、とても良かったと思う。
ちなみに、少し前にテレビで見たが、イギリスだかどこだかの女性(A)が、「病院で亡くなった女性(B)の記憶を持っている」ということに気づき、記憶を頼りにその記憶の場所へ行き確かめたという話を紹介していた。番組には記憶に関する研究者も出ており、「非常に驚かされた事例」として紹介していた。女性(A)は、最終的に女性(B)の子どもたちと接点を持つことになり、女性(B)の子どもたちは女性(A)を「母の生まれ変わり」だと信じている、みたいにまとめられていた。母しか知らないはずの記憶を、全然関係ない遠くの地に住む女性が知っているのだから、そう信じたくもなるだろう。現にそういう事例が報告されているのだ。
まあ僕は、それを「生まれ変わり」だとは信じないが、『月の満ち欠け』の物語が決して荒唐無稽なものだとは思わない。
「月の満ち欠け」を観に行ってきました
「ミスター・ランズベルギス」を観に行ってきました
普段映画館でしか映画を観ない僕は、基本的にそんなことしないのだが、今回は途中で映画館を出てしまった。途中で休憩があったから、ということもあるが。
予告で知って観ようと思ったが、4時間超えの映画だと知ったのは直前だった。それでも全然最後まで観るつもりでいたが、休憩に入る前の前半部分で、とんでもない睡魔に襲われてしまう。もう、「どうやってこの睡魔と闘うか」という思考になってしまったので、休憩のタイミングで映画館を出た。
前提となる知識が僕の中に無さすぎること、そして議会での演説や、特段動きがあるわけではない市民の映像などが僕には退屈に感じられてしまった。現在のランズベルギスが過去を回想して語るインタビューはなかなか興味深かったのだけど、過去映像にあまり興味が持てず、睡魔と戦いながらどうにか目を開けていたという感じ。
しかし、独立の先頭に立ったらしいランズベルギスが、元々国立音楽院の教授だったという点には驚かされた。
「ミスター・ランズベルギス」を観に行ってきました
予告で知って観ようと思ったが、4時間超えの映画だと知ったのは直前だった。それでも全然最後まで観るつもりでいたが、休憩に入る前の前半部分で、とんでもない睡魔に襲われてしまう。もう、「どうやってこの睡魔と闘うか」という思考になってしまったので、休憩のタイミングで映画館を出た。
前提となる知識が僕の中に無さすぎること、そして議会での演説や、特段動きがあるわけではない市民の映像などが僕には退屈に感じられてしまった。現在のランズベルギスが過去を回想して語るインタビューはなかなか興味深かったのだけど、過去映像にあまり興味が持てず、睡魔と戦いながらどうにか目を開けていたという感じ。
しかし、独立の先頭に立ったらしいランズベルギスが、元々国立音楽院の教授だったという点には驚かされた。
「ミスター・ランズベルギス」を観に行ってきました
「セールスマン」を観に行ってきました
なるほど、確かに面白そうな設定だし、撮り方だし、人物だと思う。現在の物価に換算すると350ドル相当になる豪華版の「聖書」を訪問販売で売り歩く4人の男たちに密着した、1969年の映画だ。2017年にG・ルーカス・ファミリー財団の支援で修復された映画だそうだ。
映画は僕にはあまり合わず、睡魔に襲われながらの鑑賞だったが、ずっと気になっていたことがある。それは、「どうしてこれほど『カメラ』の存在を誰もが無視できるのか」ということだ。もちろん、「カメラが意識されるような場面はすべてカットしているだけ」という身も蓋もない理由かもしれないが、メインとなる4人だけではなく、「聖書」の訪問販売を受ける一般人も、カメラの存在をまったく意識していない。
それはなかなか異常なことのように思える。
映画では、「聖書」をすんなり買う人ばかりが出てくるわけではない。むしろ、粘って粘って買わない人も多い。玄関口で門前払いというケースもあるわけで、家の中に入れてくれているだけまだ「買う気はある」と言えるかもしれないが、しかし決して乗り気でもないという人が出てくるわけだ。
そういう家にも、カメラは当たり前に入っていき、しかも誰の意識も向けられずに、「交渉」の様子を坦々と映し出している。その様がとても不思議に感じられた。現代なら、素人をターゲットにしたドッキリ企画や、街中でのYouTuberによる撮影など、「何らかの形で被写体になる機会」は多いし、だからさほどカメラの存在を気にしないでいられるのは分かる。しかし、白黒で撮影された1969年のこの映画でも、映し出される者たちが皆カメラの存在に意識を向けないことは、なんかすごいことに感じられた。
映画全体として、とにかくその点だけ、強く印象に残った。
「セールスマン」を観に行ってきました
映画は僕にはあまり合わず、睡魔に襲われながらの鑑賞だったが、ずっと気になっていたことがある。それは、「どうしてこれほど『カメラ』の存在を誰もが無視できるのか」ということだ。もちろん、「カメラが意識されるような場面はすべてカットしているだけ」という身も蓋もない理由かもしれないが、メインとなる4人だけではなく、「聖書」の訪問販売を受ける一般人も、カメラの存在をまったく意識していない。
それはなかなか異常なことのように思える。
映画では、「聖書」をすんなり買う人ばかりが出てくるわけではない。むしろ、粘って粘って買わない人も多い。玄関口で門前払いというケースもあるわけで、家の中に入れてくれているだけまだ「買う気はある」と言えるかもしれないが、しかし決して乗り気でもないという人が出てくるわけだ。
そういう家にも、カメラは当たり前に入っていき、しかも誰の意識も向けられずに、「交渉」の様子を坦々と映し出している。その様がとても不思議に感じられた。現代なら、素人をターゲットにしたドッキリ企画や、街中でのYouTuberによる撮影など、「何らかの形で被写体になる機会」は多いし、だからさほどカメラの存在を気にしないでいられるのは分かる。しかし、白黒で撮影された1969年のこの映画でも、映し出される者たちが皆カメラの存在に意識を向けないことは、なんかすごいことに感じられた。
映画全体として、とにかくその点だけ、強く印象に残った。
「セールスマン」を観に行ってきました