名もなき毒(宮部みゆき)
生きている限り、何かの毒から逃れることは難しい。
それは、本来的な意味の毒、というものももちろん含んではいる。わかりやすく、フグの毒や毒キノコなんてものに毒されることもあれば、薬物などに溺れることもあるだろうし、あるいは病気なども一種の毒と言ってしまっていいだろう。突然襲ってきては避けようもない毒が世の中には多く、またその被害に遭う人間は殊の外多い。
しかし、さらに厄介な毒がある。やはりそれは、人間の悪意だろう。
生きていれば、様々な人間と出会いもするし、意図しなくても何らかの関わりが出来てしまうものである。そういった人間関係の中で、お互いの不一致から、あるいは不運な食い違いから、なんらかの悪意を抱かれることというのはなくはない。僕も、自分の評価では割と人当たりがいい人間だと思っているのだけど、それでも、意図しないで人を苛立たせていることもあるだろうし、時には意図的に人を不愉快にすることだってある。だから、常に何らかの形で悪意を持たれている可能性があると意識しているし、自分が認識できる範囲の事柄に対して、何らかの報復があったりしたら、まあそれは仕方ないかもしれないな、と諦めることが出来るだろうと思うのだ。
しかし、世の中には、そんな分かりやすいだけの毒以外のものもあるのだ。
例えば、時々ニュースで騒がれる通り魔なんか、それに当たるだろう。被害に遭う人間に、何か特別な理由があるわけではない。こういう類のものは、いくら自分が注意していても、避けられるものではない。不運だった、と言うしかないようなもので、災厄である。
こういう毒に対して、本当に僕らは無力である。解毒剤のようなものは、ないではないのかもしれないが、毒を飲まないようにする、という対処法はまず不可能だ。それは、意識できないほど突然に僕らの日常にやってきて、飲んでしまったという実感もないままにその毒を飲まされてしまう。僕らはただ、それが自分の元にやってこないことだけを、ただ祈るしかないのである。
本作中に、権力とはなんだろうか、という問いが何度か発せられる。ある大企業の会長を務める男がそれを発するのだ。彼曰く、権力とは虚しい、と。大企業の会長などという権力など、ちっぽけなものだ、と。
彼は言う。人を殺すことが、最大の権力である、と。人の生殺与奪の権を握ることこそが、最大の権力である、と。禁忌を犯して手に入れる権力には、誰も逆らうことができない。そう言って、自分の持つ権力の無力さを嘆くのである。
認めたくはないが、それは事実だ。この世の中で、最大の毒を撒くことが出来る権力者は、殺人者なのである。僕は、そんな権力は欲しいとは思わないが、それに魅入られてしまう人はやはりいるのだろう。何がそうさせるのかわからないけども、まっとうな権力を望んで欲しいものだ、と思う。
世の中に毒は溢れている。溢れかえっている。外を歩けば肩で触れ合うくらいの近くに、常にそれは漂っているのである。その気配をかぎ分けることは、難しい。僕らは、やはり祈るしかないのである。毒にぶち当たったりしませんように、と。
そろそろ内容に入ろうと思います。
杉山三郎は、今多コンツェルンという財閥企業で社内報を編集している。彼が今多コンツェルンで働くようになった経緯はなかなかのもので、小さな児童書を作る出版社にいた際に、今多コンツェルンの会長の娘と映画館で知り合い、そんな身分を知らぬままに結婚をしたがための、今の居場所である。俗に言う逆玉であるが、妻は今多コンツェルンの経営に一切関知しないことが決まっているので、そうゴタゴタしているわけでもない。しかしそれでも、周りからの目というのは難しいもので、時折居心地の悪い思いを味わっている。
その杉山は、ひょんなことから大きな二つの事件に巻き込まれていくことになる。
一つは、世間を騒がせている、無差別連続殺人事件だ。コンビニなどに置かれているパック飲料に毒を仕込むというやり口で無差別に人が死んでおり、マスコミでも大きく取り上げられている。
とある事情から、北見という私立探偵だという男を訪ねた際に、部屋に女子高生がいた。杉山自身が気付くのは大分後になるのだが、その時に出会った女子高生が、連続無差別毒殺事件で祖父を亡くしていたのである。その女子高生と関わるうちに、その毒殺事件にも関わることになっていく。
もう一つの事件は、杉村が在籍している社内報の編集部内からの毒だった。原田という若い女性スタッフをアルバイトとして採用していたのだが、要領が悪い上に言い訳だけはするという女で、スタッフ全員が手を焼いていた。止めてもらうしかない、という判断をし、実際そうしたのだが、原田は納得せずに、嫌がらせとも取れる行動を繰り返す。
原田の過去を知るにつけ、生来の嘘つき女、という姿がどんどんと浮かび上がってくる。どんどんと巧妙で悪質になっていく嫌がらせのその手口に、杉村は翻弄されることになる。
二つの事件を主軸とし、杉村という男を真ん中に据え、その事件や杉村の周辺を描いていきながら、最後に事件の真相を暴きだす、宮部みゆき久々の現代ミステリー。
僕の中で宮部みゆきというのは、5点満点で言えば3点とか4点とかが多い作家で、悪くはないんだけど、決してずば抜けてよくもない、という感じでした。今までで5点なのは「模倣犯」だけで、評判のいい「火車」「理由」「レベル7」「龍は眠る」なんかも、まあ3点とか4点とかです。
でも本作は、久々に5点でもいいかな、と思える作品でした。
本作は、ミステリとして読むと、ちょっとどうだろうか、という感じはあります。ミステリとしてのインパクトや雰囲気というのは、ちょっと弱い感じがします。まあ、宮部みゆきのミステリというのは元来そんな感じなのでいいのだけど、本作は、連続無差別毒殺事件という、割とミステリっぽい題材を扱っている割にはミステリ色があんまり強くないな、という風に思います。
しかし、小説として読むと、なかなかいいと思いますね。
まず何がいいかって、その安定感です。宮部みゆきの作品を読んであまりそれを感じたことはなかったけど、本作ではその安定感というものをばっちり感じました。
読んでいて、うまいなぁ、と思うんですね。細かい部分のテクニックだとか処理の仕方みたいなものがすごくきちんとしてて、さすが長いこと小説を書いているだけのことはあるな、という感じです。まあ、僕も長いことたくさん小説を読んできたから、そういう細かい部分にも多少気がつくようになったのかもしれないけど。だから読んでいて、これはいい意味でいうのだけど、そつがないな、と思いました。
また、ストーリー運びも、うまくやらないと不自然になってしまいかねないシーンが何度かあったにも関わらず、どこを読んでもやっぱり自然な感じで入り込めて、さすがだな、と思いました。最後の最後のシーンも、ちょっとタイミング良すぎだろ、とか思いますけど、でも全然それを不自然に思わせない感じで、よかったです。
キャラクターも丁寧に描かれていて、好感を持てる人ばかりでした。それぞれに立場があって、そのそれぞれの立場から誰が何をどう感じているのか、ということがきちんと伝わるように描かれていて、いいと思いました。
挙げればキリがないですが、やっぱり一番いいキャラクターは杉村でしょうかね。人のことがほっとけなくて、ちょっと手を貸すつもりで首を突っ込むのに、それが大事になってしまう、ということを繰り返す男で、まあ反省がないと言えばないのだけど、でも実直で素直なそのあり方みたいなのは、読んでいて安心できる好感さで、いいと思いました。
本作は、宮部みゆきの「誰か」という作品の続編らしいのだけど、僕は「誰か」を読まずに本作を読みました。それでも全然楽しめたので、大丈夫だと思います。もちろん、「誰か」を読んでからの方が、より面白いのかもしれないけど。
宮部みゆきの時代モノは読んだことがないし、ファンタジーもどうも合いません。そんな人には久々の現代ミステリーですね。ストーリー自体に大きなものを求める作品ではないけど、気楽な感じで読めるいい作品だと思います。読んでみてください。
あと、私事ですが、本作をもって、今まで読んできた本の累計が1000冊になりました。ここまで来るのに、4年くらい掛かったでしょうか(ちゃんとは覚えてないですが)。これからも、ガシガシ本を読んでいこうと思います。
宮部みゆき「名もなき毒」
それは、本来的な意味の毒、というものももちろん含んではいる。わかりやすく、フグの毒や毒キノコなんてものに毒されることもあれば、薬物などに溺れることもあるだろうし、あるいは病気なども一種の毒と言ってしまっていいだろう。突然襲ってきては避けようもない毒が世の中には多く、またその被害に遭う人間は殊の外多い。
しかし、さらに厄介な毒がある。やはりそれは、人間の悪意だろう。
生きていれば、様々な人間と出会いもするし、意図しなくても何らかの関わりが出来てしまうものである。そういった人間関係の中で、お互いの不一致から、あるいは不運な食い違いから、なんらかの悪意を抱かれることというのはなくはない。僕も、自分の評価では割と人当たりがいい人間だと思っているのだけど、それでも、意図しないで人を苛立たせていることもあるだろうし、時には意図的に人を不愉快にすることだってある。だから、常に何らかの形で悪意を持たれている可能性があると意識しているし、自分が認識できる範囲の事柄に対して、何らかの報復があったりしたら、まあそれは仕方ないかもしれないな、と諦めることが出来るだろうと思うのだ。
しかし、世の中には、そんな分かりやすいだけの毒以外のものもあるのだ。
例えば、時々ニュースで騒がれる通り魔なんか、それに当たるだろう。被害に遭う人間に、何か特別な理由があるわけではない。こういう類のものは、いくら自分が注意していても、避けられるものではない。不運だった、と言うしかないようなもので、災厄である。
こういう毒に対して、本当に僕らは無力である。解毒剤のようなものは、ないではないのかもしれないが、毒を飲まないようにする、という対処法はまず不可能だ。それは、意識できないほど突然に僕らの日常にやってきて、飲んでしまったという実感もないままにその毒を飲まされてしまう。僕らはただ、それが自分の元にやってこないことだけを、ただ祈るしかないのである。
本作中に、権力とはなんだろうか、という問いが何度か発せられる。ある大企業の会長を務める男がそれを発するのだ。彼曰く、権力とは虚しい、と。大企業の会長などという権力など、ちっぽけなものだ、と。
彼は言う。人を殺すことが、最大の権力である、と。人の生殺与奪の権を握ることこそが、最大の権力である、と。禁忌を犯して手に入れる権力には、誰も逆らうことができない。そう言って、自分の持つ権力の無力さを嘆くのである。
認めたくはないが、それは事実だ。この世の中で、最大の毒を撒くことが出来る権力者は、殺人者なのである。僕は、そんな権力は欲しいとは思わないが、それに魅入られてしまう人はやはりいるのだろう。何がそうさせるのかわからないけども、まっとうな権力を望んで欲しいものだ、と思う。
世の中に毒は溢れている。溢れかえっている。外を歩けば肩で触れ合うくらいの近くに、常にそれは漂っているのである。その気配をかぎ分けることは、難しい。僕らは、やはり祈るしかないのである。毒にぶち当たったりしませんように、と。
そろそろ内容に入ろうと思います。
杉山三郎は、今多コンツェルンという財閥企業で社内報を編集している。彼が今多コンツェルンで働くようになった経緯はなかなかのもので、小さな児童書を作る出版社にいた際に、今多コンツェルンの会長の娘と映画館で知り合い、そんな身分を知らぬままに結婚をしたがための、今の居場所である。俗に言う逆玉であるが、妻は今多コンツェルンの経営に一切関知しないことが決まっているので、そうゴタゴタしているわけでもない。しかしそれでも、周りからの目というのは難しいもので、時折居心地の悪い思いを味わっている。
その杉山は、ひょんなことから大きな二つの事件に巻き込まれていくことになる。
一つは、世間を騒がせている、無差別連続殺人事件だ。コンビニなどに置かれているパック飲料に毒を仕込むというやり口で無差別に人が死んでおり、マスコミでも大きく取り上げられている。
とある事情から、北見という私立探偵だという男を訪ねた際に、部屋に女子高生がいた。杉山自身が気付くのは大分後になるのだが、その時に出会った女子高生が、連続無差別毒殺事件で祖父を亡くしていたのである。その女子高生と関わるうちに、その毒殺事件にも関わることになっていく。
もう一つの事件は、杉村が在籍している社内報の編集部内からの毒だった。原田という若い女性スタッフをアルバイトとして採用していたのだが、要領が悪い上に言い訳だけはするという女で、スタッフ全員が手を焼いていた。止めてもらうしかない、という判断をし、実際そうしたのだが、原田は納得せずに、嫌がらせとも取れる行動を繰り返す。
原田の過去を知るにつけ、生来の嘘つき女、という姿がどんどんと浮かび上がってくる。どんどんと巧妙で悪質になっていく嫌がらせのその手口に、杉村は翻弄されることになる。
二つの事件を主軸とし、杉村という男を真ん中に据え、その事件や杉村の周辺を描いていきながら、最後に事件の真相を暴きだす、宮部みゆき久々の現代ミステリー。
僕の中で宮部みゆきというのは、5点満点で言えば3点とか4点とかが多い作家で、悪くはないんだけど、決してずば抜けてよくもない、という感じでした。今までで5点なのは「模倣犯」だけで、評判のいい「火車」「理由」「レベル7」「龍は眠る」なんかも、まあ3点とか4点とかです。
でも本作は、久々に5点でもいいかな、と思える作品でした。
本作は、ミステリとして読むと、ちょっとどうだろうか、という感じはあります。ミステリとしてのインパクトや雰囲気というのは、ちょっと弱い感じがします。まあ、宮部みゆきのミステリというのは元来そんな感じなのでいいのだけど、本作は、連続無差別毒殺事件という、割とミステリっぽい題材を扱っている割にはミステリ色があんまり強くないな、という風に思います。
しかし、小説として読むと、なかなかいいと思いますね。
まず何がいいかって、その安定感です。宮部みゆきの作品を読んであまりそれを感じたことはなかったけど、本作ではその安定感というものをばっちり感じました。
読んでいて、うまいなぁ、と思うんですね。細かい部分のテクニックだとか処理の仕方みたいなものがすごくきちんとしてて、さすが長いこと小説を書いているだけのことはあるな、という感じです。まあ、僕も長いことたくさん小説を読んできたから、そういう細かい部分にも多少気がつくようになったのかもしれないけど。だから読んでいて、これはいい意味でいうのだけど、そつがないな、と思いました。
また、ストーリー運びも、うまくやらないと不自然になってしまいかねないシーンが何度かあったにも関わらず、どこを読んでもやっぱり自然な感じで入り込めて、さすがだな、と思いました。最後の最後のシーンも、ちょっとタイミング良すぎだろ、とか思いますけど、でも全然それを不自然に思わせない感じで、よかったです。
キャラクターも丁寧に描かれていて、好感を持てる人ばかりでした。それぞれに立場があって、そのそれぞれの立場から誰が何をどう感じているのか、ということがきちんと伝わるように描かれていて、いいと思いました。
挙げればキリがないですが、やっぱり一番いいキャラクターは杉村でしょうかね。人のことがほっとけなくて、ちょっと手を貸すつもりで首を突っ込むのに、それが大事になってしまう、ということを繰り返す男で、まあ反省がないと言えばないのだけど、でも実直で素直なそのあり方みたいなのは、読んでいて安心できる好感さで、いいと思いました。
本作は、宮部みゆきの「誰か」という作品の続編らしいのだけど、僕は「誰か」を読まずに本作を読みました。それでも全然楽しめたので、大丈夫だと思います。もちろん、「誰か」を読んでからの方が、より面白いのかもしれないけど。
宮部みゆきの時代モノは読んだことがないし、ファンタジーもどうも合いません。そんな人には久々の現代ミステリーですね。ストーリー自体に大きなものを求める作品ではないけど、気楽な感じで読めるいい作品だと思います。読んでみてください。
あと、私事ですが、本作をもって、今まで読んできた本の累計が1000冊になりました。ここまで来るのに、4年くらい掛かったでしょうか(ちゃんとは覚えてないですが)。これからも、ガシガシ本を読んでいこうと思います。
宮部みゆき「名もなき毒」
キャットシッターの君に。(喜多嶋隆)
ペットとは、ほとんど縁のない人生だったな、と思う。基本的に、僕はペットはあまり好きではない。
むかしむかし、まだ僕が実家にいる頃の話。我が家にはウサギが一匹いた。一体どこから手に入れたのかわからないけど(まあたぶん、学校からもらってきたんだろうけど。誰がもらってきたか不明)、とにかくいた。少なくとも、僕がもらってきたわけではないと思う。妹か、弟か、どっちかだろう。
妹も弟も飽きっぽい人間なので、ウサギの世話をすぐ放棄し、結局母親が面倒を見ることになった。鳥籠みたいな狭い中にずっと押し込めて、あんまり外に出したりしてあげることもなく、ウサギからすればかなり劣悪な環境だっただろう。僕自身も、あまり世話をした記憶がない。
さて、ある時期からウサギはいなくなったわけで、ということは恐らく死んだのだと思うのだけど、その記憶がまったくない。本当に死んだかどうかわからないけど、誰かにあげた記憶もなく、きっと死んでしまったのだろう。うーん、さすがに飼ってるペットが死んだら覚えていると思うのだけど、全然記憶にない。愛着がなかったからかなぁ。
まあそんなわけで、僕のペットライフというのはそんなもんである。それ以降、我が家で生き物と名のつくものを飼ったことはない。小学校なんかでウサギの飼育みたいなことはしていたし、たまにお祭りなんかにいって金魚を釣ってきたりなんていうことはあったかもしれないし、そういえばクワガタとかカブトムシとかを捕まえたような記憶もないではないので、まあ多少生き物の出入りはあったのかもしれないけど、でもそんなものである。
ペットというのは、なんというか、すぐ家族になってしまうところが苦手なのである。なんと言っても僕は、家族というものがすこぶる苦手な男である。深い繋がり、みたいなものが苦手で、そういうものから逃げるようにして生きてきたわけで、だから、あっさりと家族になってしまうペットというのは、苦手である。
それに実際的な問題として、世話がめんどくさい。僕は、自分の世話さえしたくないような超ズボラな人間なのに、他の世話などしている精神的な余裕が僕にはないのだ。定期的にえさをあげて、定期的に運動させ、定期的にトイレ尾替えたり、いやいやそんなこと出来ませんって。
それに、死んでしまうのも嫌です。鶴は千年、亀は万年とかいうけど、普通に考えて人間より寿命の長い生き物なんていないわけで、だから絶対自分が生きている間に死ぬわけです。それは嫌ですね。どうせ最後に死んでしまうなら、初めから飼わない方がいいや、という風に思ってしまいます。
とまあそんなことを考える人間なので、一生ペットとは縁がないだろうな、と思うけど、まあペットを飼っている人の気持ちもわからないではない。つまり、僕が欠点として挙げた、すぐに家族になってしまう、という点が、人によってはすごくいいのだろう。
人間の家族というのは、かなり一大イベント的なものを経ないと増えないのに対して、ペットを飼うことで、いつでも家族を増やすことが出来る。自分の相棒のように接してもいいし、子供のように接してもいいし、話し相手だと見てもいい。そういうのは、孤独と否が応でも向き合わなくてはいけない現代にあって、重宝するのだろう。
ペットを見ていると思うことがある。あぁ、俺もペットみたいに生きたいな、と。望めばえさをもらえて、望めば遊んでもらえて、望めばトイレを替えてくれる。優雅な生活ではないか。僕も、誰かのペットになりたいものである…。なんて書くと、ちょっと別の話になってしまいますけど。
動物好きに悪い人はいない、とかいうけど、そんなことはないだろ、と突っ込みたくなる、そんな僕でした。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、目次を見ると短編集っぽいですが、章分けされているだけの長編と捉えたほうがよさそうなので、長編として内容紹介を書きます。
中川芹は、ヨットハーバーでアルバイトをしながら、同時にキャットシッターもこなし、日々生活をしている。キャットシッターというのは、数日家を空ける人が猫の面倒を見てもらうのに頼むもので、今では常連さんが結構ついて、それなりに仕事としての体裁も整いつつある。
そのキャットシッターの仕事を通じて、一郎とも出会った。
自宅が近かったこともあって、頼まれなくても猫の面倒を見ているうちに、一緒に部屋で飲んだりするような関係になった。お酒の勢いも借りて、過去のあまり思い出したくない話をしたりもした。肩の凝らない、一緒にいて楽な相手だ。
時々舞い込むキャットシッターの仕事を通じて、様々な人と出会う。自分が飼っていた猫のことや、過去の辛い出来事なんかを回想しながら、そういう出会いを通じて感じた何かが、染み入るようにして芹の人生に深く関わってくる…。
というような話です。
本作は、内容はまあともかくとして、僕はちょっとどうしても、この著者の文体があんまり好きじゃないなぁ、と思いました。
巻末の著者紹介のところには、「スピード感溢れる映像的な文体」というような表現がされているのだけど、僕にはどうにもそうは思えませんでした。
例えばこんな感じ。
「横山さんは言った。わたしは、キッチンにいった。冷蔵庫を開けた。キュウリがあった。それを洗い、スティックに切った。そして、味噌を皿のわきに盛った。新しいビールと一緒に、お盆に載せる。縁側に持っていった。」
こういう、なんていうのかぶつ切りの感じがすごく苦手でした。ずっとこうじゃないんだけど、たまにこんな文章があって、むしろこういう文章は下手なんじゃないかな、と僕は思ったりします。上の文章にしたって、
「横山さんは言った。わたしはキッチンに行き、冷蔵を開けた。キュウリがあったのでそれを洗い、スティックに切った。味噌を皿のわきに盛ると、ビールと一緒にお盆に載せ、縁側に持っていった。」
というような文章にすれば別に僕は普通だと思うのだけど(いやまあ僕の文章だってよくはないけど。一例ということで)、どうしてぶつ切りにして不自然な感じにするのだろう、とそんなとこばかり気になってしまった。映像ディレクターっぽい前歴だったみたいで、だからかもしれないけど、僕はあんまり馴染めない文体だな、と思いました。
ストーリーは、まあ悪くなくて、キャットシッターというあんまり耳慣れないものを主軸にして、猫を介することで芹自身の人生が少しずつ動き出していくというその構造は、なかなかうまいなと思いました。まあそういう全体的な目で見ると、例えば美樹さんはどうして出てきたんだろう、とか思うけど、まあそういうところが気になるくらいですかね。
猫の描き方とかもそれぞれに違っていて、一番よかったのは堀さんとこのデブ猫ですかね。やっぱ、デブ猫と言われると、すっごい分かりやすく想像できちゃいますもんね。まあ、ウルメなんて名前の猫もいて、面白いです。
芹と一郎の恋模様みたいなものには、正直あんまり関心が持てなかったのだけど(なんでだろうか。芹という女性にあんまり関心が持てなかったからかなぁ)、でも芹と一郎の生き方とか辿ってきた人生みたいなものはそれぞれにいろいろと面白くて、よかったと思います。
まあ僕としては、文体というか文章があんまりダメだったのでそこまでオススメはしないのだけど、こういう文体でも大丈夫ということならまあ大丈夫だと思います。猫好きなら、結構読んだら楽しいかもです。
喜多嶋隆「キャットシッターの君に。」
むかしむかし、まだ僕が実家にいる頃の話。我が家にはウサギが一匹いた。一体どこから手に入れたのかわからないけど(まあたぶん、学校からもらってきたんだろうけど。誰がもらってきたか不明)、とにかくいた。少なくとも、僕がもらってきたわけではないと思う。妹か、弟か、どっちかだろう。
妹も弟も飽きっぽい人間なので、ウサギの世話をすぐ放棄し、結局母親が面倒を見ることになった。鳥籠みたいな狭い中にずっと押し込めて、あんまり外に出したりしてあげることもなく、ウサギからすればかなり劣悪な環境だっただろう。僕自身も、あまり世話をした記憶がない。
さて、ある時期からウサギはいなくなったわけで、ということは恐らく死んだのだと思うのだけど、その記憶がまったくない。本当に死んだかどうかわからないけど、誰かにあげた記憶もなく、きっと死んでしまったのだろう。うーん、さすがに飼ってるペットが死んだら覚えていると思うのだけど、全然記憶にない。愛着がなかったからかなぁ。
まあそんなわけで、僕のペットライフというのはそんなもんである。それ以降、我が家で生き物と名のつくものを飼ったことはない。小学校なんかでウサギの飼育みたいなことはしていたし、たまにお祭りなんかにいって金魚を釣ってきたりなんていうことはあったかもしれないし、そういえばクワガタとかカブトムシとかを捕まえたような記憶もないではないので、まあ多少生き物の出入りはあったのかもしれないけど、でもそんなものである。
ペットというのは、なんというか、すぐ家族になってしまうところが苦手なのである。なんと言っても僕は、家族というものがすこぶる苦手な男である。深い繋がり、みたいなものが苦手で、そういうものから逃げるようにして生きてきたわけで、だから、あっさりと家族になってしまうペットというのは、苦手である。
それに実際的な問題として、世話がめんどくさい。僕は、自分の世話さえしたくないような超ズボラな人間なのに、他の世話などしている精神的な余裕が僕にはないのだ。定期的にえさをあげて、定期的に運動させ、定期的にトイレ尾替えたり、いやいやそんなこと出来ませんって。
それに、死んでしまうのも嫌です。鶴は千年、亀は万年とかいうけど、普通に考えて人間より寿命の長い生き物なんていないわけで、だから絶対自分が生きている間に死ぬわけです。それは嫌ですね。どうせ最後に死んでしまうなら、初めから飼わない方がいいや、という風に思ってしまいます。
とまあそんなことを考える人間なので、一生ペットとは縁がないだろうな、と思うけど、まあペットを飼っている人の気持ちもわからないではない。つまり、僕が欠点として挙げた、すぐに家族になってしまう、という点が、人によってはすごくいいのだろう。
人間の家族というのは、かなり一大イベント的なものを経ないと増えないのに対して、ペットを飼うことで、いつでも家族を増やすことが出来る。自分の相棒のように接してもいいし、子供のように接してもいいし、話し相手だと見てもいい。そういうのは、孤独と否が応でも向き合わなくてはいけない現代にあって、重宝するのだろう。
ペットを見ていると思うことがある。あぁ、俺もペットみたいに生きたいな、と。望めばえさをもらえて、望めば遊んでもらえて、望めばトイレを替えてくれる。優雅な生活ではないか。僕も、誰かのペットになりたいものである…。なんて書くと、ちょっと別の話になってしまいますけど。
動物好きに悪い人はいない、とかいうけど、そんなことはないだろ、と突っ込みたくなる、そんな僕でした。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、目次を見ると短編集っぽいですが、章分けされているだけの長編と捉えたほうがよさそうなので、長編として内容紹介を書きます。
中川芹は、ヨットハーバーでアルバイトをしながら、同時にキャットシッターもこなし、日々生活をしている。キャットシッターというのは、数日家を空ける人が猫の面倒を見てもらうのに頼むもので、今では常連さんが結構ついて、それなりに仕事としての体裁も整いつつある。
そのキャットシッターの仕事を通じて、一郎とも出会った。
自宅が近かったこともあって、頼まれなくても猫の面倒を見ているうちに、一緒に部屋で飲んだりするような関係になった。お酒の勢いも借りて、過去のあまり思い出したくない話をしたりもした。肩の凝らない、一緒にいて楽な相手だ。
時々舞い込むキャットシッターの仕事を通じて、様々な人と出会う。自分が飼っていた猫のことや、過去の辛い出来事なんかを回想しながら、そういう出会いを通じて感じた何かが、染み入るようにして芹の人生に深く関わってくる…。
というような話です。
本作は、内容はまあともかくとして、僕はちょっとどうしても、この著者の文体があんまり好きじゃないなぁ、と思いました。
巻末の著者紹介のところには、「スピード感溢れる映像的な文体」というような表現がされているのだけど、僕にはどうにもそうは思えませんでした。
例えばこんな感じ。
「横山さんは言った。わたしは、キッチンにいった。冷蔵庫を開けた。キュウリがあった。それを洗い、スティックに切った。そして、味噌を皿のわきに盛った。新しいビールと一緒に、お盆に載せる。縁側に持っていった。」
こういう、なんていうのかぶつ切りの感じがすごく苦手でした。ずっとこうじゃないんだけど、たまにこんな文章があって、むしろこういう文章は下手なんじゃないかな、と僕は思ったりします。上の文章にしたって、
「横山さんは言った。わたしはキッチンに行き、冷蔵を開けた。キュウリがあったのでそれを洗い、スティックに切った。味噌を皿のわきに盛ると、ビールと一緒にお盆に載せ、縁側に持っていった。」
というような文章にすれば別に僕は普通だと思うのだけど(いやまあ僕の文章だってよくはないけど。一例ということで)、どうしてぶつ切りにして不自然な感じにするのだろう、とそんなとこばかり気になってしまった。映像ディレクターっぽい前歴だったみたいで、だからかもしれないけど、僕はあんまり馴染めない文体だな、と思いました。
ストーリーは、まあ悪くなくて、キャットシッターというあんまり耳慣れないものを主軸にして、猫を介することで芹自身の人生が少しずつ動き出していくというその構造は、なかなかうまいなと思いました。まあそういう全体的な目で見ると、例えば美樹さんはどうして出てきたんだろう、とか思うけど、まあそういうところが気になるくらいですかね。
猫の描き方とかもそれぞれに違っていて、一番よかったのは堀さんとこのデブ猫ですかね。やっぱ、デブ猫と言われると、すっごい分かりやすく想像できちゃいますもんね。まあ、ウルメなんて名前の猫もいて、面白いです。
芹と一郎の恋模様みたいなものには、正直あんまり関心が持てなかったのだけど(なんでだろうか。芹という女性にあんまり関心が持てなかったからかなぁ)、でも芹と一郎の生き方とか辿ってきた人生みたいなものはそれぞれにいろいろと面白くて、よかったと思います。
まあ僕としては、文体というか文章があんまりダメだったのでそこまでオススメはしないのだけど、こういう文体でも大丈夫ということならまあ大丈夫だと思います。猫好きなら、結構読んだら楽しいかもです。
喜多嶋隆「キャットシッターの君に。」
モノレールねこ(加納朋子)
人間と人間の繋がりとかって、ホント不思議なもので、いろんなことが紙一重だな、と思う。
隣の芝は青い、とかよく言われるけど、結局自分が人生の中で出会える人というのは限られているわけで、誰かと比較できるようなものでもない。いろんな縁や運命が、今の自分の繋がりみたいなものを作り上げてくれているのである。
僕は、交友関係が激しく狭い人間だけど、それでもこれまで生きてきた中で、それなりにいろんな人と知り合ってきてはいる。同じクラスにいた、というようなものから、家族として生活していた、というところまで、その幅はもう様々にあるけど、同時に、もう出会ったことすら忘れてしまっている人もたくさんいるわけだ。幼稚園が一緒だったとか、学校は違ったけど塾で一緒だったとか、もうそういう人間なんか、記憶から消え去ってしまっているし、僕なんかは記憶力がすこぶる悪いので、比較的近くにいた人間でさえ、あっさりと忘れてしまうのである。
だから今は、今僕の近くにいる人間との繋がりを日々考えているのだけど、でももったいないかもしれない、とも思う。
一度は縁があって出会ったのに、それが続かなくて消えてしまうというのは、もちろん仕方のないことだし、僕は人間関係を持続させるのが苦手だから余計にダメなんだけど、そうやって出会った人と何らかの関わりが今もあれば、また違ったものになっているかもな、と思ったりするのだ。
ネットワーク理論、みたいなものが世の中にはあって、友だちの友だちの友だち、みたいに辿っていけば、6回くらいで日本中の誰にでも辿り着く、みたいな話があるようだ。ある意味で世界は狭いものなのかもしれないけど、出会える人間には限りがある。僕は、別段人間関係を広げたいと思っているわけではないけど、縁みたいなものは大切にしていきたいな、と思う。
何を書きたいのかよくわからなくなってきたので、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、8編の短編が収録された短編集になっています。それぞれの内容を紹介します。
「モノレールねこ」
ある日、我が家にデブ猫がやってきた。どう見てもブッサイクな、ダメ猫だ。猫が嫌いな母親の嫌がることばかりをし続けるため、僕とお父さんと二人で、そのデブ猫を捨ててこなくてはいけないことになった。
しかし、しばらくしてそのデブ猫は再び姿を現した。なんと、首輪をつけているではないか。誰かの飼い猫になったのか。
なんとなく僕は、その首輪に手紙をつけてみた。すると返事が返ってくる。
こうして、僕と「タカキ」との奇妙な文通が始まる。
「パズルの中の犬」
私は、何かを待つ、というのが嫌いだ。家事なら、何かをしながら別のことをする、なんてことはお手の物なのだが、待ちながら何かをするということが出来ない。
最近は、ジグソーパズルに嵌まっている。夫からは、よく続くな、といわれるのだけど。
ある日フリーマーケットで、真っ白なジグソーパズルを買った。絵も写真も何もない、ただの真っ白なジグソーパズル。挑戦すると、さすがになかなか難しい。
ある日、ふとした気配に気付く。真っ白で柄のないはずのそのパズルの中に、犬の気配がするのである…。
「マイ・フーリッシュ・アンクル」
突然先生に呼ばれ、家族が死んだことを聞かされる。香港旅行に行ったそのホテルが火事になったのだという。
呆然としながら家に帰ると、ただ一人生き残った叔父がいた。父の年の離れた弟である叔父は、とにかくダメ男で、家族が死んだことを聞いて、子供のように泣きじゃくっていた。
それから、仕事も火事も何もしないダメ叔父との共同生活が始まった。
「シンデレラのお城」
独りが好きなだけなのに、結婚しないことをグジグジと周りから言われうんざりしていた私は、飲み屋なんかで時々顔を合わせては会話をするようになった男性と、偽装結婚をすることにした。
その男性は、綺麗好きで几帳面で、共同生活をするにはもってこいだったのだが、一点変わっているところがあった。
それは、死んでしまった元婚約者の亡霊が見える、というのだ。だから、私としては彼との二人の生活だが、彼からすれば、亡霊も含めて三人の共同生活という、真に奇妙な生活が始まったのだ…。
「セイムタイム・ネクストイヤー」
娘を失って傷心していた私は、渋る夫を説き伏せて、娘の七五三をしたホテルに一人で泊まることにした。
その日。娘と本当によく似た子供の姿を、ホテル内で見かけたのだ。ちょうどホテルのスタッフが彼女をバーに連れて行ってくれ、ここでは年に一度死者に会うことが出来ると噂されるホテルなのだ、という話を聞いた。
それから彼女は十年間、毎年同じ日に同じ部屋を予約した。毎年その日に、きっちり一年分年を重ねた娘と会い、一日を過ごすのである。
「ちょうちょう」
人気ラーメン店を立ち上げた叔父の存在のお陰で、俺はラーメン店の店主になれた。バイトを決め、いざ開店となる。お客が入る。みんな、美味しいと言ってくれる。嬉しい。スタッフも、まあいろいろあるけど、よくやってくれる。
ある日、ガラの悪い客がやってきて、俺はその客をあしらった。そのために悪い噂が広まって、客の入りが悪くなってしまう。それに、気落ちするような話も聞かされて…。
「ポトスの樹」
俺の親父は、もう最低最悪の親父だ。もう、思い出すのも嫌になるくらいの最低のダメ親父なのだ。一度は、俺のことを見殺しにしようとしたのだ。
しかし、婚約者と結婚することになって、しばらく会ってなかった親父と会わなくてはいけなくなって…。
「バルタン最期の日」
俺は池のザリガニだ。フータとかいう小学生のガキに捕まえられて、水槽で飼われることになってしまった。
一時は死にそうになったが、なんとか持ち直した。そうしてそのフータの家族を見てみると、なんだか大変そうだ。皆それぞれに何か抱えていて、お互いにそれを打ち明けない。それでいてみんな、俺にその愚痴を言うんだもんなぁ。俺はザリガニだっての。
というような感じです。
本作は、ミステリではありません。だから、加納朋子の作品だと思って買った人は、割とあれ?という感じになってしまうかもしれません。新しい方向を目指しているというのも分からなくはないのだけど、やはり加納朋子と言えば、日常の謎系のミステリ、という印象が強いので、こういう作品を読むのはちょっと慣れないところです。
だから僕としては本作はちょっと物足りなかったんですけど、でもこれは、読む側のイメージが先行しているからだろう、と思います。作品自体はたぶん悪くないと思うのだけど、読む側が、加納朋子らしくないな、という風に思ってしまうために、物足りなさを感じるのだろうと思います。
だから、本作で加納朋子の作品を始めて読む、という人には、悪くない作品かもしれません。
僕が一番好きな作品は、「セイムタイム・ネクストイヤー」です。ちょっとだけミステリ的な要素も絡んでいて、何よりも終わり方がすごくいいです。こういうホテルならいいなぁ、と思いました。
あと表題作である「モノレールねこ」も悪くないですね。この作品は確か、メディアファクトリーの文庫の「君へ。」「秘密」「ありがと。」のどれかに収録されていたのを読んでいたのだけど、ダメなデブ猫が文通を介す、という設定は、好きな感じでした。
あとは、「シンデレラのお城」も結構いいですね。ああいう、結婚ではない共同生活みたいなのは、憧れたりしますね。いやでも、やっぱ難しいかな。人と一緒に生活するのは、割と大変ですね。
そこまではオススメしませんが、悪い作品ではありません。加納朋子らしい作品を読みたいということなら別の作品を読んだ方がいいけど、のんびりほんわりとした作品を読みたいければ悪くないかもです。
加納朋子「モノレールねこ」
隣の芝は青い、とかよく言われるけど、結局自分が人生の中で出会える人というのは限られているわけで、誰かと比較できるようなものでもない。いろんな縁や運命が、今の自分の繋がりみたいなものを作り上げてくれているのである。
僕は、交友関係が激しく狭い人間だけど、それでもこれまで生きてきた中で、それなりにいろんな人と知り合ってきてはいる。同じクラスにいた、というようなものから、家族として生活していた、というところまで、その幅はもう様々にあるけど、同時に、もう出会ったことすら忘れてしまっている人もたくさんいるわけだ。幼稚園が一緒だったとか、学校は違ったけど塾で一緒だったとか、もうそういう人間なんか、記憶から消え去ってしまっているし、僕なんかは記憶力がすこぶる悪いので、比較的近くにいた人間でさえ、あっさりと忘れてしまうのである。
だから今は、今僕の近くにいる人間との繋がりを日々考えているのだけど、でももったいないかもしれない、とも思う。
一度は縁があって出会ったのに、それが続かなくて消えてしまうというのは、もちろん仕方のないことだし、僕は人間関係を持続させるのが苦手だから余計にダメなんだけど、そうやって出会った人と何らかの関わりが今もあれば、また違ったものになっているかもな、と思ったりするのだ。
ネットワーク理論、みたいなものが世の中にはあって、友だちの友だちの友だち、みたいに辿っていけば、6回くらいで日本中の誰にでも辿り着く、みたいな話があるようだ。ある意味で世界は狭いものなのかもしれないけど、出会える人間には限りがある。僕は、別段人間関係を広げたいと思っているわけではないけど、縁みたいなものは大切にしていきたいな、と思う。
何を書きたいのかよくわからなくなってきたので、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、8編の短編が収録された短編集になっています。それぞれの内容を紹介します。
「モノレールねこ」
ある日、我が家にデブ猫がやってきた。どう見てもブッサイクな、ダメ猫だ。猫が嫌いな母親の嫌がることばかりをし続けるため、僕とお父さんと二人で、そのデブ猫を捨ててこなくてはいけないことになった。
しかし、しばらくしてそのデブ猫は再び姿を現した。なんと、首輪をつけているではないか。誰かの飼い猫になったのか。
なんとなく僕は、その首輪に手紙をつけてみた。すると返事が返ってくる。
こうして、僕と「タカキ」との奇妙な文通が始まる。
「パズルの中の犬」
私は、何かを待つ、というのが嫌いだ。家事なら、何かをしながら別のことをする、なんてことはお手の物なのだが、待ちながら何かをするということが出来ない。
最近は、ジグソーパズルに嵌まっている。夫からは、よく続くな、といわれるのだけど。
ある日フリーマーケットで、真っ白なジグソーパズルを買った。絵も写真も何もない、ただの真っ白なジグソーパズル。挑戦すると、さすがになかなか難しい。
ある日、ふとした気配に気付く。真っ白で柄のないはずのそのパズルの中に、犬の気配がするのである…。
「マイ・フーリッシュ・アンクル」
突然先生に呼ばれ、家族が死んだことを聞かされる。香港旅行に行ったそのホテルが火事になったのだという。
呆然としながら家に帰ると、ただ一人生き残った叔父がいた。父の年の離れた弟である叔父は、とにかくダメ男で、家族が死んだことを聞いて、子供のように泣きじゃくっていた。
それから、仕事も火事も何もしないダメ叔父との共同生活が始まった。
「シンデレラのお城」
独りが好きなだけなのに、結婚しないことをグジグジと周りから言われうんざりしていた私は、飲み屋なんかで時々顔を合わせては会話をするようになった男性と、偽装結婚をすることにした。
その男性は、綺麗好きで几帳面で、共同生活をするにはもってこいだったのだが、一点変わっているところがあった。
それは、死んでしまった元婚約者の亡霊が見える、というのだ。だから、私としては彼との二人の生活だが、彼からすれば、亡霊も含めて三人の共同生活という、真に奇妙な生活が始まったのだ…。
「セイムタイム・ネクストイヤー」
娘を失って傷心していた私は、渋る夫を説き伏せて、娘の七五三をしたホテルに一人で泊まることにした。
その日。娘と本当によく似た子供の姿を、ホテル内で見かけたのだ。ちょうどホテルのスタッフが彼女をバーに連れて行ってくれ、ここでは年に一度死者に会うことが出来ると噂されるホテルなのだ、という話を聞いた。
それから彼女は十年間、毎年同じ日に同じ部屋を予約した。毎年その日に、きっちり一年分年を重ねた娘と会い、一日を過ごすのである。
「ちょうちょう」
人気ラーメン店を立ち上げた叔父の存在のお陰で、俺はラーメン店の店主になれた。バイトを決め、いざ開店となる。お客が入る。みんな、美味しいと言ってくれる。嬉しい。スタッフも、まあいろいろあるけど、よくやってくれる。
ある日、ガラの悪い客がやってきて、俺はその客をあしらった。そのために悪い噂が広まって、客の入りが悪くなってしまう。それに、気落ちするような話も聞かされて…。
「ポトスの樹」
俺の親父は、もう最低最悪の親父だ。もう、思い出すのも嫌になるくらいの最低のダメ親父なのだ。一度は、俺のことを見殺しにしようとしたのだ。
しかし、婚約者と結婚することになって、しばらく会ってなかった親父と会わなくてはいけなくなって…。
「バルタン最期の日」
俺は池のザリガニだ。フータとかいう小学生のガキに捕まえられて、水槽で飼われることになってしまった。
一時は死にそうになったが、なんとか持ち直した。そうしてそのフータの家族を見てみると、なんだか大変そうだ。皆それぞれに何か抱えていて、お互いにそれを打ち明けない。それでいてみんな、俺にその愚痴を言うんだもんなぁ。俺はザリガニだっての。
というような感じです。
本作は、ミステリではありません。だから、加納朋子の作品だと思って買った人は、割とあれ?という感じになってしまうかもしれません。新しい方向を目指しているというのも分からなくはないのだけど、やはり加納朋子と言えば、日常の謎系のミステリ、という印象が強いので、こういう作品を読むのはちょっと慣れないところです。
だから僕としては本作はちょっと物足りなかったんですけど、でもこれは、読む側のイメージが先行しているからだろう、と思います。作品自体はたぶん悪くないと思うのだけど、読む側が、加納朋子らしくないな、という風に思ってしまうために、物足りなさを感じるのだろうと思います。
だから、本作で加納朋子の作品を始めて読む、という人には、悪くない作品かもしれません。
僕が一番好きな作品は、「セイムタイム・ネクストイヤー」です。ちょっとだけミステリ的な要素も絡んでいて、何よりも終わり方がすごくいいです。こういうホテルならいいなぁ、と思いました。
あと表題作である「モノレールねこ」も悪くないですね。この作品は確か、メディアファクトリーの文庫の「君へ。」「秘密」「ありがと。」のどれかに収録されていたのを読んでいたのだけど、ダメなデブ猫が文通を介す、という設定は、好きな感じでした。
あとは、「シンデレラのお城」も結構いいですね。ああいう、結婚ではない共同生活みたいなのは、憧れたりしますね。いやでも、やっぱ難しいかな。人と一緒に生活するのは、割と大変ですね。
そこまではオススメしませんが、悪い作品ではありません。加納朋子らしい作品を読みたいということなら別の作品を読んだ方がいいけど、のんびりほんわりとした作品を読みたいければ悪くないかもです。
加納朋子「モノレールねこ」
デブになってしまった男の話(鈴木剛介)
デブは嫌だな、とやっぱり思うわけである。
もちろん、仕方なくデブになってしまっている人もいるのだろう。病気でとか、あるいは遺伝的にとか。
しかしやっぱり基本的には、太っているというのは、その人個人の責任だろう、と思ってしまうのである。だから、太っているというのは、ちょっと僕的にないな、と思う。
アメリカでは、タバコを吸う人と太っている人は管理職になれない、という話もあるくらいだ。つまり、自己管理の出来ない人間に管理職は出来ない、という判断なのだが、それもすごい話だ。しかし同時に、確かにな、と思ってしまう。太ったことがないから、痩せるための辛さというのはわからないけど、しかし努力すればいくらでもクリアできることだろうと思う。きっと、自分に甘いのだろう。
しかし思うが、そんな僕でも、太ってしまう可能性がないわけではない、と思う。今僕は、身長180センチ(数年前に測った数字だから、正確ではないかもだけど)で、体重は56キロ前後(こちらはほぼ毎日測っているので正確です)という、超ガリガリな体格なのだが、しかし、何かが間違って、将来的に太ってしまうこともないではないかもしれない。
それは、恐ろしいな、と思うのである。
自分が太った姿を想像できないし、したくもない。太ったら、周りがどんな風に思うのかも、想像したくないところである。元から太っているならともかく、太っていなかった人が太ると、それはそれでインパクトがあるだろう。そうならないようにしたいところであるが、昔からいくら食べても太らない体質だったために、そういう気遣いは一切していない。運動も、まったくと言っていいほどしていない。そんな生活が祟って、太ってしまう可能性が、ないではないだろう。
人は外見ではない、と言うけども、しかし外見というのはすごく重要な要素である。「人は見た目が9割」という本があったりするくらいである。
普段人は、なるべく自分をよく見せよう、とするだろう。どの部分についてよく見せようとするかは、人それぞれだろう。目に見える顔や服装なんかをきちんとする人もいるだろうし、あまり目に入らない下着や部屋なんかをきちんとする人もいるだろう。また、性格的に自分をうまく装ったりすることもあるだろう。僕も、まあ外見的なことにはあまり気を遣わないけど、でも自分をうまいこと見せよう、という心理は、常に持っている。
でも、太ってしまうと、そういう発想がすべてなしになってしまうのである。それが、どうにも哀しい、と思うのだ。太ってしまうことで、他人に対して自分をよく見せよう、という努力の余地が、かなり減ってしまう。それどころか、どうしても悪い印象を与えてしまう部分をなんとかフォローしなくてはならなくなってしまったりもするだろう。
そういうのは、なんだか哀しいな、と思う。病気や障害であれば、事故のようなものだと諦めるしかないけど、太っているというのは、やりよう次第ではどうにでもなることなわけで、それでもその位置に甘んじているというのは、すごく哀しいことだろう。
しかし同時に思うのだ。例えば僕が、何らかの理由で太ってしまったとするだろう。それは、すごく嫌だし、哀しいと思いもするだろう。
しかし一方で、痩せる努力をするかと言われれば、しないと思うのである。めんどくさい、というのもそうだが、痩せた状態でも特別いいことがあるわけではないのだから、いっそ最初からすべてを諦める方便として、太ったままでい続けるのも悪いことではないかもしれない、という風に考えるかもしれない。
何にしても、とにかく太りたくない。太った人を見るのも、なんとなく哀しくなるから嫌なのだが、自分が太るのはもっと嫌だ。
本作は、太ることで逆に真実の愛を、みたいな話である。そういうことも、ないではないかもしれない。いや、あってもいい。それでも、太りたくない。例え神様に、太れば真実の愛を与えてあげよう、と言われても嫌だ。真実の愛と引き換えでも、太りたくない。
太った人を、太っているというだけの理由で嫌悪することはないけども、やはりそれなりに思うところはあるし、なんとなく哀しくなってしまう。あぁそうだ、女性は結婚すると太るとかいうけど、あれも嫌ですね。とにかく、皆さん太らないようにしましょう。太っている人は、痩せる努力をしましょう。でも友人に、太った人が好き、というような女性がいるのも確かで、それはまあ難しいところなのだけど…。
そろそろ内容に入ろうと思います。
稲葉大介は、かなりイケメンで、女に不自由したことのない男だ。自分にベタ惚れの彼女がいて、それ以外に、肉体関係はないけど付き合いのある女性が5人ほどいる。そんな大学生だ。
ある日、瀬戸内直美という女性と出会った。初めは、それまでと同じゲーム感覚だったが、次第に直美という女性に真剣に惚れていることに気付く。
しかし、今までそんな経験がなかった大介は、臆病になり、自分の気持ちを素直に伝えられないでいる。
さて、そこから激しく紆余曲折があって、大介はデブになってしまったのである。
一ヶ月、鏡を見ないでやけ食いをしていた結果がこれだ。イケメンだった自分がデブになってしまった。もう恋なんか出来ないだろうし、周りからの目もどんどん変わっていくだろう。大介はどんどんと卑屈になっていく自分を抑え切れなかった…。
というような話です。
一応イロイロぼかして内容紹介を書いているけど、基本的にハッピーエンドな話です。
本作の中で一番何が面白かったかって、それは、デブになる前の大介です。
何がって、このデブになる前の大介というのが、本当に僕とシンクロするんです。僕は全然イケメンではないし、女にも不自由しているんでそういう点は違うんですけど、でも直美との会話がもう自分そっくりで、あぁこの会話は、僕の中にあるな、と思いました。同じ状況で僕が直美という女性と一緒にいたら、同じような会話を交わしただろう、ということが容易にイメージできるような感じで、そこが本当に驚きました。もう一人の自分を見ているようで、驚きましたね。
そして大介はデブになってしまうんですけど、こういう小説は、ありそうでなかったような気がします。大抵恋愛もののストーリーにはデブは出てこないし、出てきても脇役という感じなので、デブメインのラブストーリーというのは新鮮だな、と思いました。
デブになってからの大介の葛藤というのも、すごく分かって、もし自分がデブになったら、同じようなことを考えるんだろうな、という感じでした。どんどん卑屈になっていくだろうし、人前になるべく出たくないだろうし、動きたくないだろうし、いろんなことをさらに諦めていくんだろうな、とそういう想像が容易に出来る感じでした。
まあストーリー自体は、ちょっと都合よすぎるっしょー、という感じはありましたけど、でも直美という女性が割とリアリティーのある女性で、あぁいうタイプの女性は結構好きなので、よかったです。
帯にもちょっと書いてあるんだけど、愛ってなんだろうな、とちょっと考えさせられる作品でしょう。僕なんかは、もうフリーターで将来もどうよ、っていうような人間で金持ちになれる見込みもなく、かつ別に容姿がいいわけではありません。世の中、金かルックスで恋愛は決まるんだろうな、と思ったりしているので、そういう意味では僕も卑屈なんだろうけど、でもこういう話を読むと、それでもどこかに僕を見てくれる人がいるかもしれないな、と思ったりもします。いや、そううまくはいかないのは分かってますけどね。
本作は、すっごい短い小説で(文庫にしたら100Pくらいになるんじゃないか、というくらいです)、しかも文章も読みやすいので、誰にでもオススメできる作品です。確か最近、誰か有名人が本作をオススメしてる、みたいな帯になっていたような気がします。値段も、単行本にしては安く1200円なんで、お手軽です。さらっとした小説を読みたいな、と思うときには、いいかもしれません。
鈴木剛介「デブになってしまった男の話」
もちろん、仕方なくデブになってしまっている人もいるのだろう。病気でとか、あるいは遺伝的にとか。
しかしやっぱり基本的には、太っているというのは、その人個人の責任だろう、と思ってしまうのである。だから、太っているというのは、ちょっと僕的にないな、と思う。
アメリカでは、タバコを吸う人と太っている人は管理職になれない、という話もあるくらいだ。つまり、自己管理の出来ない人間に管理職は出来ない、という判断なのだが、それもすごい話だ。しかし同時に、確かにな、と思ってしまう。太ったことがないから、痩せるための辛さというのはわからないけど、しかし努力すればいくらでもクリアできることだろうと思う。きっと、自分に甘いのだろう。
しかし思うが、そんな僕でも、太ってしまう可能性がないわけではない、と思う。今僕は、身長180センチ(数年前に測った数字だから、正確ではないかもだけど)で、体重は56キロ前後(こちらはほぼ毎日測っているので正確です)という、超ガリガリな体格なのだが、しかし、何かが間違って、将来的に太ってしまうこともないではないかもしれない。
それは、恐ろしいな、と思うのである。
自分が太った姿を想像できないし、したくもない。太ったら、周りがどんな風に思うのかも、想像したくないところである。元から太っているならともかく、太っていなかった人が太ると、それはそれでインパクトがあるだろう。そうならないようにしたいところであるが、昔からいくら食べても太らない体質だったために、そういう気遣いは一切していない。運動も、まったくと言っていいほどしていない。そんな生活が祟って、太ってしまう可能性が、ないではないだろう。
人は外見ではない、と言うけども、しかし外見というのはすごく重要な要素である。「人は見た目が9割」という本があったりするくらいである。
普段人は、なるべく自分をよく見せよう、とするだろう。どの部分についてよく見せようとするかは、人それぞれだろう。目に見える顔や服装なんかをきちんとする人もいるだろうし、あまり目に入らない下着や部屋なんかをきちんとする人もいるだろう。また、性格的に自分をうまく装ったりすることもあるだろう。僕も、まあ外見的なことにはあまり気を遣わないけど、でも自分をうまいこと見せよう、という心理は、常に持っている。
でも、太ってしまうと、そういう発想がすべてなしになってしまうのである。それが、どうにも哀しい、と思うのだ。太ってしまうことで、他人に対して自分をよく見せよう、という努力の余地が、かなり減ってしまう。それどころか、どうしても悪い印象を与えてしまう部分をなんとかフォローしなくてはならなくなってしまったりもするだろう。
そういうのは、なんだか哀しいな、と思う。病気や障害であれば、事故のようなものだと諦めるしかないけど、太っているというのは、やりよう次第ではどうにでもなることなわけで、それでもその位置に甘んじているというのは、すごく哀しいことだろう。
しかし同時に思うのだ。例えば僕が、何らかの理由で太ってしまったとするだろう。それは、すごく嫌だし、哀しいと思いもするだろう。
しかし一方で、痩せる努力をするかと言われれば、しないと思うのである。めんどくさい、というのもそうだが、痩せた状態でも特別いいことがあるわけではないのだから、いっそ最初からすべてを諦める方便として、太ったままでい続けるのも悪いことではないかもしれない、という風に考えるかもしれない。
何にしても、とにかく太りたくない。太った人を見るのも、なんとなく哀しくなるから嫌なのだが、自分が太るのはもっと嫌だ。
本作は、太ることで逆に真実の愛を、みたいな話である。そういうことも、ないではないかもしれない。いや、あってもいい。それでも、太りたくない。例え神様に、太れば真実の愛を与えてあげよう、と言われても嫌だ。真実の愛と引き換えでも、太りたくない。
太った人を、太っているというだけの理由で嫌悪することはないけども、やはりそれなりに思うところはあるし、なんとなく哀しくなってしまう。あぁそうだ、女性は結婚すると太るとかいうけど、あれも嫌ですね。とにかく、皆さん太らないようにしましょう。太っている人は、痩せる努力をしましょう。でも友人に、太った人が好き、というような女性がいるのも確かで、それはまあ難しいところなのだけど…。
そろそろ内容に入ろうと思います。
稲葉大介は、かなりイケメンで、女に不自由したことのない男だ。自分にベタ惚れの彼女がいて、それ以外に、肉体関係はないけど付き合いのある女性が5人ほどいる。そんな大学生だ。
ある日、瀬戸内直美という女性と出会った。初めは、それまでと同じゲーム感覚だったが、次第に直美という女性に真剣に惚れていることに気付く。
しかし、今までそんな経験がなかった大介は、臆病になり、自分の気持ちを素直に伝えられないでいる。
さて、そこから激しく紆余曲折があって、大介はデブになってしまったのである。
一ヶ月、鏡を見ないでやけ食いをしていた結果がこれだ。イケメンだった自分がデブになってしまった。もう恋なんか出来ないだろうし、周りからの目もどんどん変わっていくだろう。大介はどんどんと卑屈になっていく自分を抑え切れなかった…。
というような話です。
一応イロイロぼかして内容紹介を書いているけど、基本的にハッピーエンドな話です。
本作の中で一番何が面白かったかって、それは、デブになる前の大介です。
何がって、このデブになる前の大介というのが、本当に僕とシンクロするんです。僕は全然イケメンではないし、女にも不自由しているんでそういう点は違うんですけど、でも直美との会話がもう自分そっくりで、あぁこの会話は、僕の中にあるな、と思いました。同じ状況で僕が直美という女性と一緒にいたら、同じような会話を交わしただろう、ということが容易にイメージできるような感じで、そこが本当に驚きました。もう一人の自分を見ているようで、驚きましたね。
そして大介はデブになってしまうんですけど、こういう小説は、ありそうでなかったような気がします。大抵恋愛もののストーリーにはデブは出てこないし、出てきても脇役という感じなので、デブメインのラブストーリーというのは新鮮だな、と思いました。
デブになってからの大介の葛藤というのも、すごく分かって、もし自分がデブになったら、同じようなことを考えるんだろうな、という感じでした。どんどん卑屈になっていくだろうし、人前になるべく出たくないだろうし、動きたくないだろうし、いろんなことをさらに諦めていくんだろうな、とそういう想像が容易に出来る感じでした。
まあストーリー自体は、ちょっと都合よすぎるっしょー、という感じはありましたけど、でも直美という女性が割とリアリティーのある女性で、あぁいうタイプの女性は結構好きなので、よかったです。
帯にもちょっと書いてあるんだけど、愛ってなんだろうな、とちょっと考えさせられる作品でしょう。僕なんかは、もうフリーターで将来もどうよ、っていうような人間で金持ちになれる見込みもなく、かつ別に容姿がいいわけではありません。世の中、金かルックスで恋愛は決まるんだろうな、と思ったりしているので、そういう意味では僕も卑屈なんだろうけど、でもこういう話を読むと、それでもどこかに僕を見てくれる人がいるかもしれないな、と思ったりもします。いや、そううまくはいかないのは分かってますけどね。
本作は、すっごい短い小説で(文庫にしたら100Pくらいになるんじゃないか、というくらいです)、しかも文章も読みやすいので、誰にでもオススメできる作品です。確か最近、誰か有名人が本作をオススメしてる、みたいな帯になっていたような気がします。値段も、単行本にしては安く1200円なんで、お手軽です。さらっとした小説を読みたいな、と思うときには、いいかもしれません。
鈴木剛介「デブになってしまった男の話」
きらきら研修医(織田うさこ)
さて、クリスマスイブになりました。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。
とまあ、一応クリスマスイブなんで、こんな始まりにしてみました。すぐさま、話題を変えましょう。
今でこそ僕は、風邪すら滅多にひかない、かなり健康な人間ですが、昔は本当によく病院にはお世話になったものです。
まあ実際、仮病的な理由で病院に行ったこともなんどかあるんですが(学校ってあんまり得意じゃなかったんですよね。特に、小学生の頃とか。高校は、確か皆勤ですけど)、実際的な理由で病院に通うことも本当に多かったです。
一番多かったのは、骨折の類ですね。もうホント、ボキボキ言わすくらいの勢いで、どんどん骨を折ってました。記憶にある限りでも、中学生くらいまでに、左腕を三回、左足を二回骨折してるし、骨折ではない打撲だとか捻挫だとかがさらに加わります。右手を怪我したことがなかったのがある意味で救いでしたが(利き腕を骨折すると、ホント大変だろうなと思います)、でも松葉杖のお世話には何度もなったし、夏場だとギブスが蒸れてホント大変だし、ギブスを取ると、つけてた方の手や足がもう一方と比べて明らかに細くなってたりして、いろいろ大変なんです。
あと、入院も何度もしましたね。膝の半月板が生まれつき少し大きかった、という理由でそれを削る手術をした時は、大変でした。まず、あれですよ、剃毛とかするんですよ。あれは、ホント恥ずかしいですよ。もちろん女性の看護婦さんがするんだけど、子供でも恥ずかしいですね。あれは、大人になったらもっと恥ずかしいだろうな、と思います。
また、手術後も大変でした。膝に水が溜まるので、すっごい太い注射を刺されて水を抜いたり(これがもう悶絶するほど痛い)、歩くリハビリをしたりと、それはもう大変でございました。
あとは、結局原因不明だったんだけど、謎の腹痛に襲われてそのまま入院したこともあるし、なんで入院したのか覚えてないけど、結構長い期間入院していたこともありました。
入院の思い出はいろいろあるんですけど、やっぱクラスメイトからの手紙とかは嬉しいですよね。未だに、探せば見つかると思います。ああいうのは、先生とかに書かされるんだろうけど、それでも嬉しいものです。友だちがお見舞いにきてくれたりすると、恥ずかしいのもあるけど、やっぱ嬉しいものですね。
小児病棟には、プレイルームみたいなのがあって、ちょっとした玩具やマンガが置いてあるんだけど、そこで「ドカベン」を読んでたことも思い出しました。「ドカベン」、面白かったなぁ。
一方悪いことももちろんあって、まず食事が美味しくないんですね。栄養的にはいいんだろうけど、やっぱり美味しくない。特に、腹痛で入院した時なんかは大変で、仕方ないのは分かっているんだけど、初めに食べれるのが、ほとんど液体じゃないですか?というようなドロドロのお粥で、これがべらぼうにまずいんですね。食べなきゃいけないんだけど、あれはきつかったです。
また、消灯が早かったり、あとテレビもテレビカードを入れないと見れなかったりで不自由がいろいろあって、あと一人部屋だったこともあるけど相部屋のほうがやっぱ多くて、相部屋とかはやっぱ大変なんですね。
まあそんなわけで、病院とは縁が深かったんですが(すっごく近くに大きな病院があったので、子供の時は遊び場でもありました。結局しなかったけど、霊安室を探してみようと言ってみたりとか、あと病院の自販機の下から落ちてるお金を探してみたりなんてことをしてました)、本作とちょっと関わるような、研修医との思い出というのも少しあったりするわけです。
正直ちゃんとは覚えてないんですけど、小児病棟に入院していた頃に研修医の人がやってきました。とここまで書いて思い出しましたが、違いました。研修医じゃなくて、新人の看護婦だったような気がします。
まあとにかく、その新人のナースというのは、ナース服がピンクなんですね。普通の人は白なんですけど、新人はピンクで、やっぱり初々しい感じがあって(って子供の時にそんな風に思ったかは疑問だけど)、なんとなくだけど記憶に残っています。
病院というのは本当に大変なとこで、そこで従事している人は素晴らしいな、と思います。「Dr.コトー」や「ナースのお仕事」みたいにほのぼのしてないだろうし、3Kと言われるくらいのハードな仕事です。かと言って、「白い巨塔」や「女医」みたいにドロドロしているだけのところでもなくて、何を書きたいのかよくわからなくなってきたけど、病院は大変なんです。
今深刻な医者不足で、状況はさらに悪化していると言えるでしょう。研修医は、眼科などの楽なところに行きたがり、小児科が潰れる病院も多くなってきていると言います。人が来なければそれだけ忙しくなり、さらに人がこなくなる、という悪循環の中で、医者という人々は頑張っているわけです。
ホント、素晴らしいと思います。もちろん、悪い医者もダメな医者もいるんだろうけど、今医者の人も、これから医者になろうと思っている人も、是非頑張って欲しいものです。って、無責任ですけどね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「童顔のSサイズ、ドジでノロマ、どんくさい。失敗だらけのわたし、うさこ26歳。女医です。」という、研修医であるうさこが、病院でのあれこれをブログに書いていたものを本にまとめたものです。
今年は本当に何作も、いわゆるブログ本と呼ばれるものを読んできましたけど、どれも大当たりという感じです。こういうブログ初の本を読んでいると、文芸という世界も、そろそろ頭打ちになっているのかな、と思わざるおえません。在野(つまり作家ではない一般の人々)でも、面白い文章を書ける人はたくさんいるわけで、そういうところから、文芸の裾野がどんどんと広がっていったらいいなぁ、と今は思っています。今はまだ、ブログや携帯小説から出ているものが、ちょっと色物扱いされている感じはあるけど、そのうち、ブログ発、携帯発というのが、一つのステイタスになるような、そんな時代になったりするような気がします。
そんなわけで内容ですが、本作では、うさこが新人研修で、内科・産婦人科・皮膚科でいろいろ学ぶ、その時の話がいろいろと描かれています。
内科での研修の描写はあまりなく、メインは、産婦人科と皮膚科です。どっちも、本当に面白いんです。
基本的に、変な患者がいる、というようなネタはあまりなく(いろいろあって敢えて制限しているのかもしれないけど)、メインは、一緒に働くスタッフの奇行、みたいなものに向けられています。産婦人科の方ではガチャピン先生が、皮膚科の方ではムック先生が登場し、うさこを初め、周りの人間をどんどんと混乱の渦に巻き込んでいき、また、美人女医であるみかこ先生や、その他名前の与えられていない様々なスタッフの行動が、もう面白くて仕方ありません。
僕は、もう変人が大好きなんですけど、病院というのはやあり、変人がオンパレードなんだろうな、と思います。明らかに理不尽で筋の通らないことを言うガチャピン先生みたいな人もいれば、手術中BGMの曲に突っ込みを入れてしまうムック先生もいて、美人なんだけどトリッキーなみかこ先生がいれば、「精子を下さい!」とドクターに言ってしまう看護婦がいたりと、もうなんというか、大変だろうけど、ある意味で吉本の芸人が見学に押し寄せてもいいのではないかというような変人がたくさんいて、ある意味で楽しいだろうな、と思ったりもします。
変人なのはうさこも同じで、みかこ先生に度々注意されたりします。まあそれは手に、「尿測 便ヘモ」とかメモしてたらダメだし、陰嚢から切り取った皮の入ったビニール袋を持ったままウロウロしたらいかんですけど、でもそういうの、僕的には結構よかったりしますね。女性らしくない、ってところに惹かれる、ちょっと変な人間なんで。
というわけで、ネタの宝庫みたいな日常ですけど、でもきちんと頑張っている姿や真摯な姿勢なんかも時々書いていて、好感が持てる内容だと思います。
本作は、知ってる人も多いかもだけど、小西真奈美主演でドラマ(か映画)になるわけで、まあ見ないだろうけど楽しみですね(って意味不明ですけど)。小西真奈美が髪を短くしたとかで話題になりましたけどね。いいですね、小西真奈美は。笑ってないと、もっといいですね。
そんなわけで、軽~く読めるので、すごくいいと思います。ブログ本になんとなく嫌悪感を持っている人は多いかもしれないけど、僕が今年読んだものは、本当にどれもレベルが高くて面白いものばかりでした。これからもどんどんブログ本を読んでいこうと思います。みなさんも、是非読んでみてください。
織田うさこ「きらきら研修医」
とまあ、一応クリスマスイブなんで、こんな始まりにしてみました。すぐさま、話題を変えましょう。
今でこそ僕は、風邪すら滅多にひかない、かなり健康な人間ですが、昔は本当によく病院にはお世話になったものです。
まあ実際、仮病的な理由で病院に行ったこともなんどかあるんですが(学校ってあんまり得意じゃなかったんですよね。特に、小学生の頃とか。高校は、確か皆勤ですけど)、実際的な理由で病院に通うことも本当に多かったです。
一番多かったのは、骨折の類ですね。もうホント、ボキボキ言わすくらいの勢いで、どんどん骨を折ってました。記憶にある限りでも、中学生くらいまでに、左腕を三回、左足を二回骨折してるし、骨折ではない打撲だとか捻挫だとかがさらに加わります。右手を怪我したことがなかったのがある意味で救いでしたが(利き腕を骨折すると、ホント大変だろうなと思います)、でも松葉杖のお世話には何度もなったし、夏場だとギブスが蒸れてホント大変だし、ギブスを取ると、つけてた方の手や足がもう一方と比べて明らかに細くなってたりして、いろいろ大変なんです。
あと、入院も何度もしましたね。膝の半月板が生まれつき少し大きかった、という理由でそれを削る手術をした時は、大変でした。まず、あれですよ、剃毛とかするんですよ。あれは、ホント恥ずかしいですよ。もちろん女性の看護婦さんがするんだけど、子供でも恥ずかしいですね。あれは、大人になったらもっと恥ずかしいだろうな、と思います。
また、手術後も大変でした。膝に水が溜まるので、すっごい太い注射を刺されて水を抜いたり(これがもう悶絶するほど痛い)、歩くリハビリをしたりと、それはもう大変でございました。
あとは、結局原因不明だったんだけど、謎の腹痛に襲われてそのまま入院したこともあるし、なんで入院したのか覚えてないけど、結構長い期間入院していたこともありました。
入院の思い出はいろいろあるんですけど、やっぱクラスメイトからの手紙とかは嬉しいですよね。未だに、探せば見つかると思います。ああいうのは、先生とかに書かされるんだろうけど、それでも嬉しいものです。友だちがお見舞いにきてくれたりすると、恥ずかしいのもあるけど、やっぱ嬉しいものですね。
小児病棟には、プレイルームみたいなのがあって、ちょっとした玩具やマンガが置いてあるんだけど、そこで「ドカベン」を読んでたことも思い出しました。「ドカベン」、面白かったなぁ。
一方悪いことももちろんあって、まず食事が美味しくないんですね。栄養的にはいいんだろうけど、やっぱり美味しくない。特に、腹痛で入院した時なんかは大変で、仕方ないのは分かっているんだけど、初めに食べれるのが、ほとんど液体じゃないですか?というようなドロドロのお粥で、これがべらぼうにまずいんですね。食べなきゃいけないんだけど、あれはきつかったです。
また、消灯が早かったり、あとテレビもテレビカードを入れないと見れなかったりで不自由がいろいろあって、あと一人部屋だったこともあるけど相部屋のほうがやっぱ多くて、相部屋とかはやっぱ大変なんですね。
まあそんなわけで、病院とは縁が深かったんですが(すっごく近くに大きな病院があったので、子供の時は遊び場でもありました。結局しなかったけど、霊安室を探してみようと言ってみたりとか、あと病院の自販機の下から落ちてるお金を探してみたりなんてことをしてました)、本作とちょっと関わるような、研修医との思い出というのも少しあったりするわけです。
正直ちゃんとは覚えてないんですけど、小児病棟に入院していた頃に研修医の人がやってきました。とここまで書いて思い出しましたが、違いました。研修医じゃなくて、新人の看護婦だったような気がします。
まあとにかく、その新人のナースというのは、ナース服がピンクなんですね。普通の人は白なんですけど、新人はピンクで、やっぱり初々しい感じがあって(って子供の時にそんな風に思ったかは疑問だけど)、なんとなくだけど記憶に残っています。
病院というのは本当に大変なとこで、そこで従事している人は素晴らしいな、と思います。「Dr.コトー」や「ナースのお仕事」みたいにほのぼのしてないだろうし、3Kと言われるくらいのハードな仕事です。かと言って、「白い巨塔」や「女医」みたいにドロドロしているだけのところでもなくて、何を書きたいのかよくわからなくなってきたけど、病院は大変なんです。
今深刻な医者不足で、状況はさらに悪化していると言えるでしょう。研修医は、眼科などの楽なところに行きたがり、小児科が潰れる病院も多くなってきていると言います。人が来なければそれだけ忙しくなり、さらに人がこなくなる、という悪循環の中で、医者という人々は頑張っているわけです。
ホント、素晴らしいと思います。もちろん、悪い医者もダメな医者もいるんだろうけど、今医者の人も、これから医者になろうと思っている人も、是非頑張って欲しいものです。って、無責任ですけどね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「童顔のSサイズ、ドジでノロマ、どんくさい。失敗だらけのわたし、うさこ26歳。女医です。」という、研修医であるうさこが、病院でのあれこれをブログに書いていたものを本にまとめたものです。
今年は本当に何作も、いわゆるブログ本と呼ばれるものを読んできましたけど、どれも大当たりという感じです。こういうブログ初の本を読んでいると、文芸という世界も、そろそろ頭打ちになっているのかな、と思わざるおえません。在野(つまり作家ではない一般の人々)でも、面白い文章を書ける人はたくさんいるわけで、そういうところから、文芸の裾野がどんどんと広がっていったらいいなぁ、と今は思っています。今はまだ、ブログや携帯小説から出ているものが、ちょっと色物扱いされている感じはあるけど、そのうち、ブログ発、携帯発というのが、一つのステイタスになるような、そんな時代になったりするような気がします。
そんなわけで内容ですが、本作では、うさこが新人研修で、内科・産婦人科・皮膚科でいろいろ学ぶ、その時の話がいろいろと描かれています。
内科での研修の描写はあまりなく、メインは、産婦人科と皮膚科です。どっちも、本当に面白いんです。
基本的に、変な患者がいる、というようなネタはあまりなく(いろいろあって敢えて制限しているのかもしれないけど)、メインは、一緒に働くスタッフの奇行、みたいなものに向けられています。産婦人科の方ではガチャピン先生が、皮膚科の方ではムック先生が登場し、うさこを初め、周りの人間をどんどんと混乱の渦に巻き込んでいき、また、美人女医であるみかこ先生や、その他名前の与えられていない様々なスタッフの行動が、もう面白くて仕方ありません。
僕は、もう変人が大好きなんですけど、病院というのはやあり、変人がオンパレードなんだろうな、と思います。明らかに理不尽で筋の通らないことを言うガチャピン先生みたいな人もいれば、手術中BGMの曲に突っ込みを入れてしまうムック先生もいて、美人なんだけどトリッキーなみかこ先生がいれば、「精子を下さい!」とドクターに言ってしまう看護婦がいたりと、もうなんというか、大変だろうけど、ある意味で吉本の芸人が見学に押し寄せてもいいのではないかというような変人がたくさんいて、ある意味で楽しいだろうな、と思ったりもします。
変人なのはうさこも同じで、みかこ先生に度々注意されたりします。まあそれは手に、「尿測 便ヘモ」とかメモしてたらダメだし、陰嚢から切り取った皮の入ったビニール袋を持ったままウロウロしたらいかんですけど、でもそういうの、僕的には結構よかったりしますね。女性らしくない、ってところに惹かれる、ちょっと変な人間なんで。
というわけで、ネタの宝庫みたいな日常ですけど、でもきちんと頑張っている姿や真摯な姿勢なんかも時々書いていて、好感が持てる内容だと思います。
本作は、知ってる人も多いかもだけど、小西真奈美主演でドラマ(か映画)になるわけで、まあ見ないだろうけど楽しみですね(って意味不明ですけど)。小西真奈美が髪を短くしたとかで話題になりましたけどね。いいですね、小西真奈美は。笑ってないと、もっといいですね。
そんなわけで、軽~く読めるので、すごくいいと思います。ブログ本になんとなく嫌悪感を持っている人は多いかもしれないけど、僕が今年読んだものは、本当にどれもレベルが高くて面白いものばかりでした。これからもどんどんブログ本を読んでいこうと思います。みなさんも、是非読んでみてください。
織田うさこ「きらきら研修医」
キャッチャー・イン・ザ・ライ(J・D・サリンジャー 村上春樹訳)
全然関係ないことはわかっているのだけど、書くことがないので、先日京都に行った話を書こうと思います。というか、別のブログに書いているものをそのまま転記するだけという、手抜きですけどね。
というわけで、京都旅行記です。
京都に行ってきました。というわけで、京都旅行記的なものを書いてみようか、と。
京都駅に着いたのが昼頃で、そこからまず、1001体の仏像がある三十三間堂に行きました。
あの三十三間堂は素晴らしいですね。たぶん修学旅行でも行ったような気がするけど、あそこは格別だと思います。1001体の仏像もそうだけど、あのちょっと薄暗くて、そして無茶苦茶静かな空間というのがいいんですよね。厳か、という感じがします。観光地化してしまっている寺(金閣寺や竜安寺)なんかは、もう人がいすぎてうるさいから、お寺の静けさみたいなものを味わう余裕はないのだけど、三十三間堂はそれがちゃんと保たれているところで、よかったです。堂内を二周しようかとも思ったけど、やめました。
仏像の修復なのか、まるで担架で人が運ばれるようにして仏像が搬出されていって、ちょっと奇妙な光景でした。あと、掃除をしているらしく、普段は見えない裏側を表にして仏像が置かれていて、なるほど背中には一体一体番号が振ってあるのだな、と思ったりしました。
さて次に向かったのが、四条・河原町周辺ですね。ここでは行きたいとこがありまして、それが「アスタルテ書房」です。普通のマンション(アパート?)の二階でやっている古書店で、初め場所が全然わからなくてうろうろしたほど、看板も何もない本屋でした。見たことがないような古い本や、「15万」という値段のついた(もしかしたら「150万」だったかも)本が無造作にあったりで、かなり独特の雰囲気を醸し出している本屋でした。何も買わなかったけど、画集とかそういうものをなんか買ってもよかったかな、と思いました。
四条・河原町というのは割と繁華街なんだけど、でも一歩奥へ入るとお寺さんがたくさんあって、その馴染みっぷりがさすが京都だな、と思いました。
大安という漬物屋があって、やまいもの漬物とか見たことないものがあって、試食したらうまかったから買おうと思ったのだけど、店の人に、今日冷蔵庫に入れられないなら止めたほうがいいといわれて、最終日に買うことにしました。
それから行ったのが、京都御所ですね。京都御所の目の前のホテルだったんだけど、とにかくこの京都御所というのがべらぼうな広さで、片側三車線の道路を作れるぐらいの道幅のど真ん中を一人で歩いていると、距離感がどんどんなくなってくなぁ、という感じがします。特に何があるというわけでもないのだけど、犬の散歩をしたり、部活か何かで走っている子供がいたりで、憩いの公園みたいな感じでした。普通の乗用車に赤いランプを載せて、腹に「皇軍警察」と書いてある車を見た時、なるほど御所なのだな、と思いました。
そこからブラブラと歩きながら、下鴨神社まで行きました。ここは、神社がどうというよりも、「糺の森」と呼ばれるところ目当てで行きました。下鴨神社のある森がそう呼ばれているのだけど、まだ紅葉もチラホラと残り、しかも近くを道路が走っているとは思えないほどの静けさで、すごくいいとこでした。もう少し晴れてたらもっとよかっただろうけど、まあ高望みでしょうかね。下鴨神社も人気のあまり多くないところで、静かでよかったです。
そこから同志社大学の方をぐるりと回って(途中また漬物屋を見つけたりして)、まあブラブラとしながらホテルに戻りました。
二日目は、京都御所から竜安寺まで歩く、という、まあ地図を見てもらえばわかるけど、かなりの強行軍を予定しました。実際、かなり疲れました。5時間くらい歩いたと思いますね。
まずしょっぱなから道を間違えて多少時間と体力をロスしたものの、とりあえず西陣と呼ばれる辺りに辿り着きました。今回行きたかったメインの場所で、特に何があるというわけでもないのだけど、町屋風の古い建物の中にお店があったり、昔ながらの建物が残ってたりと、ブラブラと歩くのに結構いい場所でした。別に何にもないけど、でも注意深くみてると、些細なことが目に止まるわけです。例えばある小さな寺の前に、達筆な字でなにやら書いてあるわけです。「悪がどうだの、正義がどうだの」。そしてその最後に、「映画、スター・ウォーズより」という文字と、ヨーダのシールが貼ってあったりするわけです。いいのかなぁ、とか思いながら笑えました。手ぬぐい屋さんにも入ったり、中古のカメラ屋でハーフサイズカメラ(一枚のフィルムに二枚取れる昔のカメラ。これ、実はかなり欲しい)を眺めたり、「饅頭屋」みたいな風に書いてあるんだけど、これ明らかに民家だよな、みたいなところの入口を開けるかどうしようかかなり悩んでみたり、そんなどうしようもないことをしてました。
こういうところにもお寺はいくつもあって、でもそういうところに入ると、なんだか人の家の庭に入り込んでいるような感じがしてくるんですね。それくらい、ちんまりとした家族的な寺があって、多少居心地悪いなとは思ったけど、でも好きな感じです。何故か寺の境内に入ると、外の音が全然聞こえなくなって、あれは不思議なものですね。お寺パワーです。
ここでのメインは、昼食です。「鳥岩楼」という、とにかく親子丼が無茶苦茶うまい店があるわけで、そこに行きました。夜は無茶苦茶高い店らしいけど、昼だけ親子丼をやってるとかで、12時から14時までしかやってません。12時ジャトくらいに行くと、二階で待っててくださいね、と言われて、なかなか風情のある庭なんかを横目に二階へ。先客が一人いたけど、まあそこは当然別のテーブルに坐ると、店の人が、相席をお願いしているとかでみんな相席になりました。
注文をとるわけでもなく、二階に上がった人には自動的に親子丼が運ばれてくるシステムらしく、しばらく待っていると親子丼が届きました。味噌汁を飲むお椀をちょっと大きくしてちょっと深くしたくらいの小さめのどんぶりだったのだけど、これがもう無茶苦茶うまいわけで、京都に行かれるかた、これを是非食べましょう。
でもその親子丼だけではちょっと足りないので、すぐ近くにある「にこら」というそばやに行きました。後で聞くところによると、京都はにしんそばというのが有名らしいく、そこのメニューにもあったのだけど、かぶらそば、というものを注文しました。かぶらというのかかぶのことだそうで、かぶを摩り下ろしたものが入ったそばでした。これも美味しかったですね。
さてまた移動を開始して、大きな通り沿いなのにも関わらずまた町屋風のお店があったりして、でもなかなか入れなかったりということは何度かあったけど、それで北野天満宮につきました。
やっぱ、人が多いとこはダメですね。学問の神様を目当てに、学生が無茶苦茶いました。まあざっと見て、退散しました。
そこからまたブラブラしつつ、おぉ湯豆腐屋なんてのもあるなぁとか思い、選挙のポスターがやけにあるな、と思ったり、そんな感じで歩きました。今回はとにかく、細い道があればそっちを選んでいこう、というようなテーマがあって、だから、ここを真っ直ぐ行けば金閣寺に着けるんだろうけど、でもちょっと曲がってみよう、みたいなことをして時間を食ったりしました。でもまあ、細い道というのはいろいろあって、面白いものです。
そんなわけで金閣寺に辿り着きましたけど、やっぱ観光地化したとこはいかんですね。金閣自体はいいかもだけで、人が多すぎてうざい。あれを、もっと回りに人がいない状態で見れたらなぁ、と思うのだけど、まあ無理でしょうね。三島由紀夫の「金閣寺」を思い出しました…というのはウソで、全然思い出しませんでした。
金閣寺とは関係ない話だけど、京都全般がそうなのかわからないけど、トイレに紙がついてないんですね。自販機みたいので買うシステムで、もうどこに行ってもそんなトイレばっかでした。いやいや、トイレくらいもっとちゃんとしようよ、観光地だからってトイレでも商売できると思うなよ、と思ったりしました。
そこから、まあ割と近くにある竜安寺へ足を伸ばす。ここまで来るともう疲労も限界という感じなのだが、なんとか辿り着く。
金閣寺も竜安寺も、修学旅行で行ったけど、でもやっぱ忘れてましたね。改めて行って、あぁこんなんだったな、と思うとこもあったけど、ほとんど、こんなだったかな、と思うようなことばっかでした。
竜安寺も同じく、人が多くて嫌ですね。あの石庭を、本当に周りに誰もいない状態で見てみたいな、と思うけど、全然ダメですね。まあしょうがないですけど。でも、あの石庭は、結構好きです。
さてもう疲労も限界ピークなので、さすがにバスで帰ろうと思うのだけど、どれに乗ったらいいかわからない。幸い京都は、通りの名前で場所が分かるので、まあ乗ればなんとかなるだろうと思って適当に乗ったら、うまいことホテル周辺まで行く奴で助かりました。なんとかなるものですね。
そうそう夕飯ですが、一日目は鳥を食べて、で二日目は豆腐・湯葉を食べました。この豆腐・湯葉の店は、まあそこそこ有名なお店のようで、確かに美味しかったですね。豆腐は基本的に好きなわけで、結構満足でした。小さめに切った豆腐をご飯に乗せて、それをグチャグチャ混ぜて食べるみたいな豆腐丼というのがあって、これはやってみようかなと思ったりしました。
まず、長江家住宅、というところに行きました。四条の辺りにある普通の民家なんだけど、京都市指定有形文化財みたいなものに指定されているわけで、これは行かないわけにはいかないと思って行きました。ホントにただの民家で、別に中に入れるわけではないのだけど、でもなんとなく満足しました。
最終日は祇園周辺が目的。まず、六波羅蜜寺を尻目に、六道珍皇寺というとこに行きました。ここは、あの世と冥界の境があると言われるところで、閻魔様とかがいました。小さくて静かな雰囲気のお寺でよかったです。
そこから、清水寺を尻目に(まあ行かなくてもいいか、と思ったのである)、祇園をグルグル回ってました。人力車の姿を尻目に(尻目にしてばっかだけど、でもあの人力車というのは、乗るには勇気がいると思う)、石畳の道や三年坂なんかを登りながら、風情あるお店を流し、舞妓さんの姿を時々見ながら、うろうろしてました。こう、なんでもないところを散歩するというのはやっぱいいもので、祇園の周辺も、お店が建ち並んでて時々お寺的なものがあるだけだけど、でもそんなところをウロウロしてるのは、やっぱりなかなかいいものでした。
さてそれで八坂神社に辿り着くわけですが、なんと結婚式をやってました(ちなみに、泊まったホテルでも二回くらい結婚式が行われてました)。和装をして、まっかな傘を掲げて、後ろに従者みたいにして人を引き連れた嫁婿が、鐘の音だかに合わせてゆっくり歩いていて、おぉと思いました。八坂神社で結婚式とか、なんとなくだけど、離婚とかしたらバチ当たりそうだな、なんて思いながら見てました。
八坂神社は、まあ普通の神社ですね。かなりデカイというだけで、特に変わったものはないと思います。おみくじを引きましたが、吉でした。
それから、どうせならにしんそばを食べようと蕎麦屋に行くのだけど、でも結局そこのメニューにあった「はまぐりそば」を注文してしまいました。おいしかったけど、お店の主人が従業員みたいな人に厳しくて、可哀相だな、なんて思いながら見てました。
あと、油取り紙で有名な「よーじや」にも行きました。まあ一応、お土産的なものをということで。
でそれから、また街並みをブラブラと歩きながら、すっごい細くて趣のある道とかもあってなかなか面白くて、そうして駅へと向かいました。
京都は、散歩するのにいいと思います。観光地的なところもいいけど、人が多いし。街並みを見てると、いろいろ発見があっていいですね。まあ、そんな旅行でした。
というわけで、以上京都旅行記でした。
なんのブログだったのか忘れそうになるけど、そろそろ本の話でもしましょうか。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の話ですね。
もともと別訳のものを読んでいて、で村上春樹訳だからという理由で本作を読んだのですが、やっぱりダメでしたね。
別訳の方でも村上春樹訳の方でも、一体何が面白いのかもうまるでさっぱり理解できない、という感じでした。本作も、もう後半は諦めて、すっごい流し読みをしながら、まあいっかという感じで読んでいました。
ダメな点はまず、あのホールデンの語り口調ですね。全編、ホールデンが誰かに語りかけている、という設定で話が進んでいくんだけど、その語りがどうにも好きになれないわけです。村上春樹訳なら、もっと違った形の文体になってるかな、と期待しもしたんだけど、でもやっぱり同じような感じで、ダメだったですね。
あと、ストーリーが全然進まないというか、というかストーリーなんてないかも、という感じで、ダメですね。脱線だけで物語が出来ているような感じでした。ホールデンが学校を追い出されて、でも家に帰るのを先延ばしにしたいからブラブラするという話なんだけど、そのブラブラがひたすら続いてて、何がなんだか、という感じでした。
というわけで、結局「ライ麦」のよさがわからずじまいですが、まあ仕方のでしょう。作品との相性みたいなものは必ずあるわけで、「ライ麦」とはどうしようもなく合わなかった、ということでしょう。
というわけでオススメはしませんが、もともとの方を読んでて面白いなと思って、で村上春樹訳ならどうなんだろうな、と気になっているような人はまあ読んでみてもいいかもしれないな、という感じです。
J・D・サリンジャー(村上春樹訳)「キャッチャー・イン・ザ・ライ」
というわけで、京都旅行記です。
京都に行ってきました。というわけで、京都旅行記的なものを書いてみようか、と。
京都駅に着いたのが昼頃で、そこからまず、1001体の仏像がある三十三間堂に行きました。
あの三十三間堂は素晴らしいですね。たぶん修学旅行でも行ったような気がするけど、あそこは格別だと思います。1001体の仏像もそうだけど、あのちょっと薄暗くて、そして無茶苦茶静かな空間というのがいいんですよね。厳か、という感じがします。観光地化してしまっている寺(金閣寺や竜安寺)なんかは、もう人がいすぎてうるさいから、お寺の静けさみたいなものを味わう余裕はないのだけど、三十三間堂はそれがちゃんと保たれているところで、よかったです。堂内を二周しようかとも思ったけど、やめました。
仏像の修復なのか、まるで担架で人が運ばれるようにして仏像が搬出されていって、ちょっと奇妙な光景でした。あと、掃除をしているらしく、普段は見えない裏側を表にして仏像が置かれていて、なるほど背中には一体一体番号が振ってあるのだな、と思ったりしました。
さて次に向かったのが、四条・河原町周辺ですね。ここでは行きたいとこがありまして、それが「アスタルテ書房」です。普通のマンション(アパート?)の二階でやっている古書店で、初め場所が全然わからなくてうろうろしたほど、看板も何もない本屋でした。見たことがないような古い本や、「15万」という値段のついた(もしかしたら「150万」だったかも)本が無造作にあったりで、かなり独特の雰囲気を醸し出している本屋でした。何も買わなかったけど、画集とかそういうものをなんか買ってもよかったかな、と思いました。
四条・河原町というのは割と繁華街なんだけど、でも一歩奥へ入るとお寺さんがたくさんあって、その馴染みっぷりがさすが京都だな、と思いました。
大安という漬物屋があって、やまいもの漬物とか見たことないものがあって、試食したらうまかったから買おうと思ったのだけど、店の人に、今日冷蔵庫に入れられないなら止めたほうがいいといわれて、最終日に買うことにしました。
それから行ったのが、京都御所ですね。京都御所の目の前のホテルだったんだけど、とにかくこの京都御所というのがべらぼうな広さで、片側三車線の道路を作れるぐらいの道幅のど真ん中を一人で歩いていると、距離感がどんどんなくなってくなぁ、という感じがします。特に何があるというわけでもないのだけど、犬の散歩をしたり、部活か何かで走っている子供がいたりで、憩いの公園みたいな感じでした。普通の乗用車に赤いランプを載せて、腹に「皇軍警察」と書いてある車を見た時、なるほど御所なのだな、と思いました。
そこからブラブラと歩きながら、下鴨神社まで行きました。ここは、神社がどうというよりも、「糺の森」と呼ばれるところ目当てで行きました。下鴨神社のある森がそう呼ばれているのだけど、まだ紅葉もチラホラと残り、しかも近くを道路が走っているとは思えないほどの静けさで、すごくいいとこでした。もう少し晴れてたらもっとよかっただろうけど、まあ高望みでしょうかね。下鴨神社も人気のあまり多くないところで、静かでよかったです。
そこから同志社大学の方をぐるりと回って(途中また漬物屋を見つけたりして)、まあブラブラとしながらホテルに戻りました。
二日目は、京都御所から竜安寺まで歩く、という、まあ地図を見てもらえばわかるけど、かなりの強行軍を予定しました。実際、かなり疲れました。5時間くらい歩いたと思いますね。
まずしょっぱなから道を間違えて多少時間と体力をロスしたものの、とりあえず西陣と呼ばれる辺りに辿り着きました。今回行きたかったメインの場所で、特に何があるというわけでもないのだけど、町屋風の古い建物の中にお店があったり、昔ながらの建物が残ってたりと、ブラブラと歩くのに結構いい場所でした。別に何にもないけど、でも注意深くみてると、些細なことが目に止まるわけです。例えばある小さな寺の前に、達筆な字でなにやら書いてあるわけです。「悪がどうだの、正義がどうだの」。そしてその最後に、「映画、スター・ウォーズより」という文字と、ヨーダのシールが貼ってあったりするわけです。いいのかなぁ、とか思いながら笑えました。手ぬぐい屋さんにも入ったり、中古のカメラ屋でハーフサイズカメラ(一枚のフィルムに二枚取れる昔のカメラ。これ、実はかなり欲しい)を眺めたり、「饅頭屋」みたいな風に書いてあるんだけど、これ明らかに民家だよな、みたいなところの入口を開けるかどうしようかかなり悩んでみたり、そんなどうしようもないことをしてました。
こういうところにもお寺はいくつもあって、でもそういうところに入ると、なんだか人の家の庭に入り込んでいるような感じがしてくるんですね。それくらい、ちんまりとした家族的な寺があって、多少居心地悪いなとは思ったけど、でも好きな感じです。何故か寺の境内に入ると、外の音が全然聞こえなくなって、あれは不思議なものですね。お寺パワーです。
ここでのメインは、昼食です。「鳥岩楼」という、とにかく親子丼が無茶苦茶うまい店があるわけで、そこに行きました。夜は無茶苦茶高い店らしいけど、昼だけ親子丼をやってるとかで、12時から14時までしかやってません。12時ジャトくらいに行くと、二階で待っててくださいね、と言われて、なかなか風情のある庭なんかを横目に二階へ。先客が一人いたけど、まあそこは当然別のテーブルに坐ると、店の人が、相席をお願いしているとかでみんな相席になりました。
注文をとるわけでもなく、二階に上がった人には自動的に親子丼が運ばれてくるシステムらしく、しばらく待っていると親子丼が届きました。味噌汁を飲むお椀をちょっと大きくしてちょっと深くしたくらいの小さめのどんぶりだったのだけど、これがもう無茶苦茶うまいわけで、京都に行かれるかた、これを是非食べましょう。
でもその親子丼だけではちょっと足りないので、すぐ近くにある「にこら」というそばやに行きました。後で聞くところによると、京都はにしんそばというのが有名らしいく、そこのメニューにもあったのだけど、かぶらそば、というものを注文しました。かぶらというのかかぶのことだそうで、かぶを摩り下ろしたものが入ったそばでした。これも美味しかったですね。
さてまた移動を開始して、大きな通り沿いなのにも関わらずまた町屋風のお店があったりして、でもなかなか入れなかったりということは何度かあったけど、それで北野天満宮につきました。
やっぱ、人が多いとこはダメですね。学問の神様を目当てに、学生が無茶苦茶いました。まあざっと見て、退散しました。
そこからまたブラブラしつつ、おぉ湯豆腐屋なんてのもあるなぁとか思い、選挙のポスターがやけにあるな、と思ったり、そんな感じで歩きました。今回はとにかく、細い道があればそっちを選んでいこう、というようなテーマがあって、だから、ここを真っ直ぐ行けば金閣寺に着けるんだろうけど、でもちょっと曲がってみよう、みたいなことをして時間を食ったりしました。でもまあ、細い道というのはいろいろあって、面白いものです。
そんなわけで金閣寺に辿り着きましたけど、やっぱ観光地化したとこはいかんですね。金閣自体はいいかもだけで、人が多すぎてうざい。あれを、もっと回りに人がいない状態で見れたらなぁ、と思うのだけど、まあ無理でしょうね。三島由紀夫の「金閣寺」を思い出しました…というのはウソで、全然思い出しませんでした。
金閣寺とは関係ない話だけど、京都全般がそうなのかわからないけど、トイレに紙がついてないんですね。自販機みたいので買うシステムで、もうどこに行ってもそんなトイレばっかでした。いやいや、トイレくらいもっとちゃんとしようよ、観光地だからってトイレでも商売できると思うなよ、と思ったりしました。
そこから、まあ割と近くにある竜安寺へ足を伸ばす。ここまで来るともう疲労も限界という感じなのだが、なんとか辿り着く。
金閣寺も竜安寺も、修学旅行で行ったけど、でもやっぱ忘れてましたね。改めて行って、あぁこんなんだったな、と思うとこもあったけど、ほとんど、こんなだったかな、と思うようなことばっかでした。
竜安寺も同じく、人が多くて嫌ですね。あの石庭を、本当に周りに誰もいない状態で見てみたいな、と思うけど、全然ダメですね。まあしょうがないですけど。でも、あの石庭は、結構好きです。
さてもう疲労も限界ピークなので、さすがにバスで帰ろうと思うのだけど、どれに乗ったらいいかわからない。幸い京都は、通りの名前で場所が分かるので、まあ乗ればなんとかなるだろうと思って適当に乗ったら、うまいことホテル周辺まで行く奴で助かりました。なんとかなるものですね。
そうそう夕飯ですが、一日目は鳥を食べて、で二日目は豆腐・湯葉を食べました。この豆腐・湯葉の店は、まあそこそこ有名なお店のようで、確かに美味しかったですね。豆腐は基本的に好きなわけで、結構満足でした。小さめに切った豆腐をご飯に乗せて、それをグチャグチャ混ぜて食べるみたいな豆腐丼というのがあって、これはやってみようかなと思ったりしました。
まず、長江家住宅、というところに行きました。四条の辺りにある普通の民家なんだけど、京都市指定有形文化財みたいなものに指定されているわけで、これは行かないわけにはいかないと思って行きました。ホントにただの民家で、別に中に入れるわけではないのだけど、でもなんとなく満足しました。
最終日は祇園周辺が目的。まず、六波羅蜜寺を尻目に、六道珍皇寺というとこに行きました。ここは、あの世と冥界の境があると言われるところで、閻魔様とかがいました。小さくて静かな雰囲気のお寺でよかったです。
そこから、清水寺を尻目に(まあ行かなくてもいいか、と思ったのである)、祇園をグルグル回ってました。人力車の姿を尻目に(尻目にしてばっかだけど、でもあの人力車というのは、乗るには勇気がいると思う)、石畳の道や三年坂なんかを登りながら、風情あるお店を流し、舞妓さんの姿を時々見ながら、うろうろしてました。こう、なんでもないところを散歩するというのはやっぱいいもので、祇園の周辺も、お店が建ち並んでて時々お寺的なものがあるだけだけど、でもそんなところをウロウロしてるのは、やっぱりなかなかいいものでした。
さてそれで八坂神社に辿り着くわけですが、なんと結婚式をやってました(ちなみに、泊まったホテルでも二回くらい結婚式が行われてました)。和装をして、まっかな傘を掲げて、後ろに従者みたいにして人を引き連れた嫁婿が、鐘の音だかに合わせてゆっくり歩いていて、おぉと思いました。八坂神社で結婚式とか、なんとなくだけど、離婚とかしたらバチ当たりそうだな、なんて思いながら見てました。
八坂神社は、まあ普通の神社ですね。かなりデカイというだけで、特に変わったものはないと思います。おみくじを引きましたが、吉でした。
それから、どうせならにしんそばを食べようと蕎麦屋に行くのだけど、でも結局そこのメニューにあった「はまぐりそば」を注文してしまいました。おいしかったけど、お店の主人が従業員みたいな人に厳しくて、可哀相だな、なんて思いながら見てました。
あと、油取り紙で有名な「よーじや」にも行きました。まあ一応、お土産的なものをということで。
でそれから、また街並みをブラブラと歩きながら、すっごい細くて趣のある道とかもあってなかなか面白くて、そうして駅へと向かいました。
京都は、散歩するのにいいと思います。観光地的なところもいいけど、人が多いし。街並みを見てると、いろいろ発見があっていいですね。まあ、そんな旅行でした。
というわけで、以上京都旅行記でした。
なんのブログだったのか忘れそうになるけど、そろそろ本の話でもしましょうか。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の話ですね。
もともと別訳のものを読んでいて、で村上春樹訳だからという理由で本作を読んだのですが、やっぱりダメでしたね。
別訳の方でも村上春樹訳の方でも、一体何が面白いのかもうまるでさっぱり理解できない、という感じでした。本作も、もう後半は諦めて、すっごい流し読みをしながら、まあいっかという感じで読んでいました。
ダメな点はまず、あのホールデンの語り口調ですね。全編、ホールデンが誰かに語りかけている、という設定で話が進んでいくんだけど、その語りがどうにも好きになれないわけです。村上春樹訳なら、もっと違った形の文体になってるかな、と期待しもしたんだけど、でもやっぱり同じような感じで、ダメだったですね。
あと、ストーリーが全然進まないというか、というかストーリーなんてないかも、という感じで、ダメですね。脱線だけで物語が出来ているような感じでした。ホールデンが学校を追い出されて、でも家に帰るのを先延ばしにしたいからブラブラするという話なんだけど、そのブラブラがひたすら続いてて、何がなんだか、という感じでした。
というわけで、結局「ライ麦」のよさがわからずじまいですが、まあ仕方のでしょう。作品との相性みたいなものは必ずあるわけで、「ライ麦」とはどうしようもなく合わなかった、ということでしょう。
というわけでオススメはしませんが、もともとの方を読んでて面白いなと思って、で村上春樹訳ならどうなんだろうな、と気になっているような人はまあ読んでみてもいいかもしれないな、という感じです。
J・D・サリンジャー(村上春樹訳)「キャッチャー・イン・ザ・ライ」
古城駅の奥の奥(山口雅也)
将来何になりたいか、という質問は、いつも僕を悩ませてきた。
どの年代の自分にも、それに答えられるだけの何かは存在しなかった。小学生の頃の自分も今の自分も、何になりたいか、ということについて、明確に出せる答えはない。
それは、なりたいものはあるけど、でもなれないだろうなぁ、というような、プラマイゼロみたいなものではなくて、本当にゼロなのである。昔から、なりたいものなど、何一つなかったと思う。
サッカー選手やケーキ屋さん、というようなありきたりの答えを書くような小学生時代にも、就職セミナーや自己分析など、就職のためのあれこれをやるべき時期に差しか掛かった頃まで(まあ僕は、就職に関するあれこれをやらずに来た人間なのですが)、一貫して、なりたいものはなかった。
怖いな、と思った。
将来なりたいものが何一つ浮かばない自分は、怖いな、と思った。
まるで、ゴールが設定されていないマラソンを走るようなものじゃないか、とそんな気分がした。
僕も、周りの人間のように、時に無邪気に、時に深刻に、将来なりたいものというものを抱ければよかったと思う。それがサッカー選手みたいな荒唐無稽なものでも、あるいは公務員なんていう堅実すぎてつまらないものでも、なんでもよかった。何か目指すべきものがあるという状態が、やはり望ましかっただろうな、と思う。
今の僕は、作家になれればいいな、と思っている。しかし、これも別になりたいと思っているわけではない。宝くじみたいなもので、まあ当たれば儲けもの、くらいにしか考えていない。宝くじを真剣に当てようとしている人が滑稽に見えるように、僕も真剣に作家を目指すのは、なんだか滑稽気がしてしまうのだ。
それくらい、なりたい自分というのがない。
別に、人生をどんな姿で歩こうが、まあいいや、と思ってしまう。
どうしてこんな人間なんだろうな、と思う。もっと、夢や希望みたいなものがあってもよさそうなのに、それが全然ないのだ。周りの人間が、お金持ちになりたいとか世界一周したいとか結婚したいとか言っているのを聞いても、ふーん、そんなものか、としか思えないのである。
昔から、諦めることが癖になっていて、やりもしないのに端から諦めるというようなことを繰り返していたから、今こんな風になっているのかもしれないけど、だからと言って今さらどうにかできるような話でもない。
どんな形でもいいし、それが叶いそうもないものでもいいのだけど、でもやはり、将来を何らかの形で描けるというのは羨ましいと思う。
僕も、まだこれから何か見つかるだろうか。どうやっても真剣にも熱心にもなれない僕にも、何か形ある未来を描くことができるだろうか。
あぁ、でも一つだけあるかな。早死にでもいいから死ぬまで病気や障害や金欠などで不自由しないで、死ぬ時は一瞬であっさり死ぬ。これが、まあ最終的に僕が望んでいる未来と言えば未来ですね。
自分が終わる瞬間のことにしか未来を描けないというのは、やはり寂しいものですね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
神野陽太は小学6年生で、今度中学生になる。その陽太が、将来なりたいもの、というテーマで書いた作文が、学校で少し問題になったのである。
陽太はその作文の中で、将来吸血鬼になりたい、と書いてしまったのだ。ブラム・ストーカーの小説を読んで影響を受けたわけだけど、血を吸うなどの表現がどうなんだ、という話になり、陽太はカウンセリングを受けることになってしまった。
一緒にカウンセリングを受けるのは、叔父の夜之介である。陽太の父親の弟で、事情があって一つ屋根の下(屋根裏部屋なのでまさに屋根の下)に住んでいる。小太りで顔色が悪く、多少欝気味引きこもり気味の叔父だが、でも陽太に面白い本をいっぱい教えてくれる、陽太にしたらいい叔父だ。
カウンセリングでも特に問題ないと判断された陽太の次の問題は、夏休みの塾だった。母親が、どうしても塾に通わせるといい、そのために、夏休みの自由研究を、前倒しでしかも特急でやらなくてはいけなくなったのだ。
テレビを見ていて閃いた(閃いたのは叔父だったが)、改築される東京駅の今の姿をレポートにまとめる、というものをテーマに選んだ陽太は、さっそく叔父と共に東京駅へと向かうのだが、そこで二人は、思いがけず死体を発見することになってしまって…。
というような話です。
これはちょっと難しいですね。僕は、悪くない話だと思いましたが(すごくいいというわけではないですが)、でもこの作品をダメだと感じる人はいるでしょうね。本格ミステリファンであればあるほど、そう感じるような気がします。僕は、本格ミステリも好きだけど、普通のミステリも、他のいろんなジャンルの小説も好きなので大丈夫だけど、本作を本作ミステリとして読んでいると、ちょっと最後あれ?という感じになるような気がします。
まあ、この「ミステリーランド」というシリーズは、表向き子供向けのシリーズということになっているわけで(表向きと言ったのは、値段設定が明らかに子供向けでないのと、やはり子供には馴染みの薄いだろう作家がずらっと並んでいるので認知度が低いだろうということ。実際このシリーズは、ホントに子供が読んでいるんだろうか)、だからこういう着地の仕方もアリなんだろうということだと思うけど、評価が分かれそうな気がします。
冒頭で吸血鬼の話が取り上げられて以降はその話題がどこかに追いやられてしまっている感じがして、あれ?という感じになるのですが、まあ最終的には、なるほど、というところです。
まあ、ストーリーもやはり子供を意識してということもあってゆるい感じなので、まあ重厚な感じを求める人には合わないかもしれないですね。
東京駅に関する豆知識的な話は、結構面白かったです。どこまで本当の話なのかよくわからないけど、まあ実際ああいう場所はあるんだろうな、という感じです。東京駅の改築の話は、聞いたことがあるようなないようなという感じだし、東京駅自体にそこまで行かないのであんまり感慨もないですが、でもレトロな雰囲気の建物というのは、残っていて欲しいものだ、という風に思います。
まあ、ミステリーランドのシリーズ作を読むのはこれで三作目ですが、その中では一番レベルが低いですね(でも、読んだ二作というのが、今年このミス5位にランクインした乙一の「銃とチョコレート」と、僕が大好きな森博嗣の「探偵伯爵と僕」なので、比べるには可哀相な気もしますが)。ミステリーランドのシリーズは高いので、本作を読むには、ちょっと値段と相応という感じにはならないような気がします。1200円前後ならまあ悪くないかな、という感じですけど。
そんなわけで、買って読むにはオススメしないですけど、軽い感じの本が読みたくて、かつ図書館で借りるというなら、まあ悪くはないかな、という感じです。読みたいというかたはどうぞ。
山口雅也「古城駅の奥の奥」
どの年代の自分にも、それに答えられるだけの何かは存在しなかった。小学生の頃の自分も今の自分も、何になりたいか、ということについて、明確に出せる答えはない。
それは、なりたいものはあるけど、でもなれないだろうなぁ、というような、プラマイゼロみたいなものではなくて、本当にゼロなのである。昔から、なりたいものなど、何一つなかったと思う。
サッカー選手やケーキ屋さん、というようなありきたりの答えを書くような小学生時代にも、就職セミナーや自己分析など、就職のためのあれこれをやるべき時期に差しか掛かった頃まで(まあ僕は、就職に関するあれこれをやらずに来た人間なのですが)、一貫して、なりたいものはなかった。
怖いな、と思った。
将来なりたいものが何一つ浮かばない自分は、怖いな、と思った。
まるで、ゴールが設定されていないマラソンを走るようなものじゃないか、とそんな気分がした。
僕も、周りの人間のように、時に無邪気に、時に深刻に、将来なりたいものというものを抱ければよかったと思う。それがサッカー選手みたいな荒唐無稽なものでも、あるいは公務員なんていう堅実すぎてつまらないものでも、なんでもよかった。何か目指すべきものがあるという状態が、やはり望ましかっただろうな、と思う。
今の僕は、作家になれればいいな、と思っている。しかし、これも別になりたいと思っているわけではない。宝くじみたいなもので、まあ当たれば儲けもの、くらいにしか考えていない。宝くじを真剣に当てようとしている人が滑稽に見えるように、僕も真剣に作家を目指すのは、なんだか滑稽気がしてしまうのだ。
それくらい、なりたい自分というのがない。
別に、人生をどんな姿で歩こうが、まあいいや、と思ってしまう。
どうしてこんな人間なんだろうな、と思う。もっと、夢や希望みたいなものがあってもよさそうなのに、それが全然ないのだ。周りの人間が、お金持ちになりたいとか世界一周したいとか結婚したいとか言っているのを聞いても、ふーん、そんなものか、としか思えないのである。
昔から、諦めることが癖になっていて、やりもしないのに端から諦めるというようなことを繰り返していたから、今こんな風になっているのかもしれないけど、だからと言って今さらどうにかできるような話でもない。
どんな形でもいいし、それが叶いそうもないものでもいいのだけど、でもやはり、将来を何らかの形で描けるというのは羨ましいと思う。
僕も、まだこれから何か見つかるだろうか。どうやっても真剣にも熱心にもなれない僕にも、何か形ある未来を描くことができるだろうか。
あぁ、でも一つだけあるかな。早死にでもいいから死ぬまで病気や障害や金欠などで不自由しないで、死ぬ時は一瞬であっさり死ぬ。これが、まあ最終的に僕が望んでいる未来と言えば未来ですね。
自分が終わる瞬間のことにしか未来を描けないというのは、やはり寂しいものですね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
神野陽太は小学6年生で、今度中学生になる。その陽太が、将来なりたいもの、というテーマで書いた作文が、学校で少し問題になったのである。
陽太はその作文の中で、将来吸血鬼になりたい、と書いてしまったのだ。ブラム・ストーカーの小説を読んで影響を受けたわけだけど、血を吸うなどの表現がどうなんだ、という話になり、陽太はカウンセリングを受けることになってしまった。
一緒にカウンセリングを受けるのは、叔父の夜之介である。陽太の父親の弟で、事情があって一つ屋根の下(屋根裏部屋なのでまさに屋根の下)に住んでいる。小太りで顔色が悪く、多少欝気味引きこもり気味の叔父だが、でも陽太に面白い本をいっぱい教えてくれる、陽太にしたらいい叔父だ。
カウンセリングでも特に問題ないと判断された陽太の次の問題は、夏休みの塾だった。母親が、どうしても塾に通わせるといい、そのために、夏休みの自由研究を、前倒しでしかも特急でやらなくてはいけなくなったのだ。
テレビを見ていて閃いた(閃いたのは叔父だったが)、改築される東京駅の今の姿をレポートにまとめる、というものをテーマに選んだ陽太は、さっそく叔父と共に東京駅へと向かうのだが、そこで二人は、思いがけず死体を発見することになってしまって…。
というような話です。
これはちょっと難しいですね。僕は、悪くない話だと思いましたが(すごくいいというわけではないですが)、でもこの作品をダメだと感じる人はいるでしょうね。本格ミステリファンであればあるほど、そう感じるような気がします。僕は、本格ミステリも好きだけど、普通のミステリも、他のいろんなジャンルの小説も好きなので大丈夫だけど、本作を本作ミステリとして読んでいると、ちょっと最後あれ?という感じになるような気がします。
まあ、この「ミステリーランド」というシリーズは、表向き子供向けのシリーズということになっているわけで(表向きと言ったのは、値段設定が明らかに子供向けでないのと、やはり子供には馴染みの薄いだろう作家がずらっと並んでいるので認知度が低いだろうということ。実際このシリーズは、ホントに子供が読んでいるんだろうか)、だからこういう着地の仕方もアリなんだろうということだと思うけど、評価が分かれそうな気がします。
冒頭で吸血鬼の話が取り上げられて以降はその話題がどこかに追いやられてしまっている感じがして、あれ?という感じになるのですが、まあ最終的には、なるほど、というところです。
まあ、ストーリーもやはり子供を意識してということもあってゆるい感じなので、まあ重厚な感じを求める人には合わないかもしれないですね。
東京駅に関する豆知識的な話は、結構面白かったです。どこまで本当の話なのかよくわからないけど、まあ実際ああいう場所はあるんだろうな、という感じです。東京駅の改築の話は、聞いたことがあるようなないようなという感じだし、東京駅自体にそこまで行かないのであんまり感慨もないですが、でもレトロな雰囲気の建物というのは、残っていて欲しいものだ、という風に思います。
まあ、ミステリーランドのシリーズ作を読むのはこれで三作目ですが、その中では一番レベルが低いですね(でも、読んだ二作というのが、今年このミス5位にランクインした乙一の「銃とチョコレート」と、僕が大好きな森博嗣の「探偵伯爵と僕」なので、比べるには可哀相な気もしますが)。ミステリーランドのシリーズは高いので、本作を読むには、ちょっと値段と相応という感じにはならないような気がします。1200円前後ならまあ悪くないかな、という感じですけど。
そんなわけで、買って読むにはオススメしないですけど、軽い感じの本が読みたくて、かつ図書館で借りるというなら、まあ悪くはないかな、という感じです。読みたいというかたはどうぞ。
山口雅也「古城駅の奥の奥」
きみの友だち(重松清)
友だち、という言葉は、昔はすごく怖い言葉だった。
ちゃんと使うことは、出来なかったと思う。
自分の周りにいる人間を、友だち、と呼ぶことは、昔は出来なかった。
今でも振り返ると思うのだけど、学校での人間関係というのは、本当に難しかったな、と思う。些細なきっかけで嫌われ、なんでもないことで孤立する。そうかと思えば、いつの間にか人気者になっていたりもする。もう、ホント難しい。人間として全然未熟な人間がわさっと集まって共同で学校生活を送ろうというのだから、それはもう大変なはずだ。
想像では、こういう人間関係は、今の方がより複雑なんだろう、と思う。僕らでさえ、そんなことで?と聞きたくなるようなことで喧嘩別れし、あっけなくイジメが生まれる。今の時代に学生でいるっていうのは、本当にキツいと思う。
だから、という言葉で繋げるのは、普通の人にはなかなか難しいかもしれないけど、でも僕からすれば、だから、という言葉で繋げるほど、それは明快な論理だった。
みんなから、嫌われていると思うことにしよう、と僕は決めたんだ。
今考えてみても、僕の性格から考えて、あの発想は素晴らしかったな、と思う。
僕は、学生時代はホント日々不安だった。理由もなく不安だったわけではないけど、でも何が不安なのかちゃんとわからないところもあった。
でも、考えてみるうちに、その不安の根元が分かったような気がしたのだ。
つまり、周りの人間から嫌われているかどうか分からないところが不安なのだ、と。
人によって不安に思うポイントはいろいろだろうけど、とにかく僕の不安はこれだったのだろう、と当時も思ったし、今でも思う。
なら、と僕は思った。
周りの人間から、既に嫌われていると思うことにすれば、嫌われているかどうかで悩むことはないだろうな、と。そうして僕は、根本的な部分で、周りの人間から嫌われている、と思うようにして生きてきたのである。
ある意味で、自分を守るための手段であった。そう考えるせいで、性格的にいろいろ難点のある人間になったけど、でも少なくても、その発想は間違ってなかったな、と今でも思う。そう発想することで、僕はなんとか人生をやってこれたのだな、と。
高校までで、友だち、と呼べるような人がいたかな、と考える。少なくとも、今は誰とも連絡は取っていないし、同窓会にもまったく顔を出さないけど、でも当時は、そこそこ喋るし、そこそこ遊んでいたと思う。
でも、友だち、と自信を持って言える関係は、なかったかもしれない。いや、2,3人はいただろうか。
わからない。
結局、相手が自分のことを友だちだと思ってくれているのか分からないのだ。自分と同じ意味で、自分のことを友だちだと思ってくれているのか、が。
今は、違う。相変わらず、向こうがどう思っているかは分からないけど、少なくても、友だちだと自信を持っていえる人間は、ちゃんといる。それが、僕には嬉しい。
友だちって、なんだろう。答えはないんだろうけど、でも、わかったフリはしたくないな、と思う。友だちって、なんだか分かってないよ、とちゃんとアピールしたい。でも、友だちは大切だし、大事だよ、とアピールしたい。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、10編の短編を収録した短編集になっています。
それぞれの短編の内容を紹介する前に、ざっと大まかな構成を書きます。
本作は、全編を通じて恵美という女の子が主人公になっています。小学4年の時に事故で片足を不自由にし、以後松葉杖での生活を余儀なくされている。それ以来、無愛想になって、由香という、ちょっとトロいというかニブい、病気がちな女の子といつも一緒にいるような、そんな女の子だ。
どの作品も、恵美か恵美の周囲の人間にスポットを当てて物語が進んでいく。「友だち」との関係であれこれごたごたしている人々が、「みんな」を否定し、「友だち」である由香を大切にしようとする恵美と触れることで、何かしら変わっていく、というようなストーリーを、「きみ」という二人称で描いている作品です。
ではそれぞれの内容をざっと書きます。10編もあるので、ホントざっとになると思いますが。
「あいあい傘」
恵美が事故に遭い、そこからクラスで孤立するようになって、そして由香と仲良くなっていく、物語の一番の始まりを描いた作品。
「ねじれの位置」
恵美の弟で、クラスで何でも一番を譲らない人気者のブン。だけど、転校生の中西くんが、ブンを上回る実力を持っていることがわかって、今までトップを譲ったことがないブンが揺さぶられる、という話。
「ふらふら」
恵美と同じクラスの堀田ちゃんは、クラスの中でいつも笑いをとっている人気者だ。でも、ホントにふとした些細なきっかけで、ハブられることに。その中で、恵美と由香の二人の世界に少し触れ合う話。
「ぐりこ」
小学校の頃はブンの一番の親友だった三好。今はその地位をモト(転校生の中西)が奪って、三好の存在はブンの目にはあんまり入らないみたいだ。ブンの隣にいたいのにそれが出来ない三好の話。
「にゃんこの目」
時々視界がぼやけると言って眼科に通うハナ。親友のはずの志保が彼氏とべったりで付き合いが悪くなってから…なんて、全然関係ない。関係ないはずだ。そんなハナちゃんの話。
「別れの曲」
サッカー部を卒業したのに、先輩だからという理由で威張りちらしている佐藤。サッカー部には、ブンとモトがいる。レギュラーになれなかった自分と、あっさり一年でレギュラーになった黄金コンビ。なんかなぁ…。そんな佐藤の、バレンタインデーを巡る物語。
「千羽鶴」
入院している由香のために千羽鶴を折ろう―。いじめが原因で転校してきた西村さん。その提案はすぐに受け入れられ、みんな折り始めたのだけど、でもなんだか違う。周囲と合わせることに極度に気を遣いながら、自分のために千羽鶴を折り続ける西村さんの話。
「かげふみ」
ブンとはずっと親友でライバルだったモト。生徒会で付き合いがあって好きになった石川美紀に告白したんだけど、でも石川はもうブンと付き合ってて…。対等で負けっぱなしなんてことありえなかったブンとの差が、どんどん開いていってしまっているのではないかと不安になる、そんなモトの話。
「花いちもんめ」
由香が、もうダメかもしれない。受験を間近に控えているのに、恵美は毎晩夜更かしして、連絡を待っている。いや、連絡がこないことを待っている。由香の最後の最後、今まで「みんな」でしかなかった人が、最後の奇跡を見せてくれている。よかったね、由香。そんな、恵美の物語。
「きみの友だち」
ささやかだけど、恵美の撮りためてきた写真を飾ってギャラリーにした。かつての友人も呼んだし、中には、僕が小説にした子たちもいる。恵美から話を聞いて知っている人がたくさんいる。今日は、恵美の晴れの日だ。由香も、きっと見守ってくれてるだろう。そんな、ある一人の作家を主人公にした物語。
という感じです。
いやこれはホントによかったです。つい最近読んだ「卒業」もかなり好きですけど、それを超えるかもしれないですね。
とにかくこの作品は、学生だったことがあるすべての人に、等しく似たような経験がある、というようなそんな物語ではないかと思います。いやもしかしたら、割と昔の学校とかは、今みたいなそんな複雑なことを考えなくてよかったのかもしれないけど、でも僕の世代でも充分当てはまると思うし、今学生だっていう世代には、まさにドンピシャというような、そんな学校の世界というのを完璧に描いているような気がします。
まず、「みんな」を完全に否定している恵美という女の子が主軸にいる、という構造が面白いな、と思います。
恵美という女の子は、事故を境に考え方や性格が変わって、「みんな」と仲良くするのを止めます。「みんな」というのは、特定の誰かではない友だち、みたいな感じのもので、平たく言えば、八方美人的にいろんな人と付き合ったり、興味もないのに興味があるフリをしたり、仲良くもないのに一人になるのは嫌だから一緒にいたり、みたいな関係のことです。
何か、グサっときますね。誰もが同じようなことをしてるだろうけど、でもそれでもちょっと胸が痛いというか。恵美が嫌っているものはすごくよくわかるけど、でも恵美のように生きていくのは絶対に無理だよな、とも思います。「みんな」を否定したら、やっぱ寂しいよな、と思うし。だから、恵美は強いな、と思います。恵美からすれば、普通のことなんだろうけど。
で、その恵美というのを主軸として、その周囲にいる、「みんな」を否定できない人々というものにスポットを当てていく感じになります。
そうやって、「みんな」と「友だち」というものを、作品の中で対立させることで、「友だち」って一体なんだろうな、と考えさせられる作品ではないか、と思いました。さっきも書いたけど、きっとそれには答えがなくて、でも自分なりの理解の仕方みたいなのは持っていてもいいと思います。そこに至るヒントみたいなものを、本作が与えてくれるような気がします。
どの作品も、あー分かる分かる、というようなものばかりでした。自分そっくりな子がいたり、こんなやついたな、というような子がいたりと、そういう見方でも楽しめるし、今の学生はこんな大変な中で頑張ってるんだな、と思ってみたりもします。そうそう、やっぱ学校って、それなりに楽しくもあったけど、でもやっぱ大変なとこだったよな、と思います。
由香というキャラクターも、本作の中ではすごく重要で、すごく地味で目立たないんだけどでも大事みたいな、そんなキャラクターでした。何をやってもうまく出来なくて、恵美に怒られてばっかりなんだけど、いつもふんわりした笑顔を見せて、別に悪くもないのに謝っているようなオドオドとした態度をするそのあり方は、見る人をイラつかせたりするのだろうけど、でも恵美と由香というその結束の強さもまた感じられて、寂しそうに見えるけど、羨ましくもあるな、なんてそんなことを思いました。
「きみ」という二人称での小説という形態も、すごく作品に合っている気がしました。呼びかけるようにして物語が進んでいって、優しい感じになっています。でも、これだけ本を読んできて、二人称の小説を読んだのはこれで3作目ですからね。やっぱ二人称で小説を書くのは難しいんだろうな、と思う反面、ハマればすごく効果的になるな、とも思いました。
本作については、やろうと思えばいくらでも書けそうだし、実際書き足りないことが一杯あるような気がするのだけど、でももうそろそろ止めておきましょう。
とにかく、是非とも読んでみてください。これはいいです。もう、重松清の作品は、どれを読めばいいのかオススメするのに悩むほど傑作ばかりですけど、本作はその中でもかなり傑作です。学生だった自分を思い起こさせるだろうし、今の自分自身と重ねてしまう何かも見つかるかもしれません。多くの人に読んでもらいたいなと思います。イジメが広がっている今だからこそ読むべき作品かもしれません。是非読んでみてください。
重松清「きみの友だち」
ちゃんと使うことは、出来なかったと思う。
自分の周りにいる人間を、友だち、と呼ぶことは、昔は出来なかった。
今でも振り返ると思うのだけど、学校での人間関係というのは、本当に難しかったな、と思う。些細なきっかけで嫌われ、なんでもないことで孤立する。そうかと思えば、いつの間にか人気者になっていたりもする。もう、ホント難しい。人間として全然未熟な人間がわさっと集まって共同で学校生活を送ろうというのだから、それはもう大変なはずだ。
想像では、こういう人間関係は、今の方がより複雑なんだろう、と思う。僕らでさえ、そんなことで?と聞きたくなるようなことで喧嘩別れし、あっけなくイジメが生まれる。今の時代に学生でいるっていうのは、本当にキツいと思う。
だから、という言葉で繋げるのは、普通の人にはなかなか難しいかもしれないけど、でも僕からすれば、だから、という言葉で繋げるほど、それは明快な論理だった。
みんなから、嫌われていると思うことにしよう、と僕は決めたんだ。
今考えてみても、僕の性格から考えて、あの発想は素晴らしかったな、と思う。
僕は、学生時代はホント日々不安だった。理由もなく不安だったわけではないけど、でも何が不安なのかちゃんとわからないところもあった。
でも、考えてみるうちに、その不安の根元が分かったような気がしたのだ。
つまり、周りの人間から嫌われているかどうか分からないところが不安なのだ、と。
人によって不安に思うポイントはいろいろだろうけど、とにかく僕の不安はこれだったのだろう、と当時も思ったし、今でも思う。
なら、と僕は思った。
周りの人間から、既に嫌われていると思うことにすれば、嫌われているかどうかで悩むことはないだろうな、と。そうして僕は、根本的な部分で、周りの人間から嫌われている、と思うようにして生きてきたのである。
ある意味で、自分を守るための手段であった。そう考えるせいで、性格的にいろいろ難点のある人間になったけど、でも少なくても、その発想は間違ってなかったな、と今でも思う。そう発想することで、僕はなんとか人生をやってこれたのだな、と。
高校までで、友だち、と呼べるような人がいたかな、と考える。少なくとも、今は誰とも連絡は取っていないし、同窓会にもまったく顔を出さないけど、でも当時は、そこそこ喋るし、そこそこ遊んでいたと思う。
でも、友だち、と自信を持って言える関係は、なかったかもしれない。いや、2,3人はいただろうか。
わからない。
結局、相手が自分のことを友だちだと思ってくれているのか分からないのだ。自分と同じ意味で、自分のことを友だちだと思ってくれているのか、が。
今は、違う。相変わらず、向こうがどう思っているかは分からないけど、少なくても、友だちだと自信を持っていえる人間は、ちゃんといる。それが、僕には嬉しい。
友だちって、なんだろう。答えはないんだろうけど、でも、わかったフリはしたくないな、と思う。友だちって、なんだか分かってないよ、とちゃんとアピールしたい。でも、友だちは大切だし、大事だよ、とアピールしたい。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、10編の短編を収録した短編集になっています。
それぞれの短編の内容を紹介する前に、ざっと大まかな構成を書きます。
本作は、全編を通じて恵美という女の子が主人公になっています。小学4年の時に事故で片足を不自由にし、以後松葉杖での生活を余儀なくされている。それ以来、無愛想になって、由香という、ちょっとトロいというかニブい、病気がちな女の子といつも一緒にいるような、そんな女の子だ。
どの作品も、恵美か恵美の周囲の人間にスポットを当てて物語が進んでいく。「友だち」との関係であれこれごたごたしている人々が、「みんな」を否定し、「友だち」である由香を大切にしようとする恵美と触れることで、何かしら変わっていく、というようなストーリーを、「きみ」という二人称で描いている作品です。
ではそれぞれの内容をざっと書きます。10編もあるので、ホントざっとになると思いますが。
「あいあい傘」
恵美が事故に遭い、そこからクラスで孤立するようになって、そして由香と仲良くなっていく、物語の一番の始まりを描いた作品。
「ねじれの位置」
恵美の弟で、クラスで何でも一番を譲らない人気者のブン。だけど、転校生の中西くんが、ブンを上回る実力を持っていることがわかって、今までトップを譲ったことがないブンが揺さぶられる、という話。
「ふらふら」
恵美と同じクラスの堀田ちゃんは、クラスの中でいつも笑いをとっている人気者だ。でも、ホントにふとした些細なきっかけで、ハブられることに。その中で、恵美と由香の二人の世界に少し触れ合う話。
「ぐりこ」
小学校の頃はブンの一番の親友だった三好。今はその地位をモト(転校生の中西)が奪って、三好の存在はブンの目にはあんまり入らないみたいだ。ブンの隣にいたいのにそれが出来ない三好の話。
「にゃんこの目」
時々視界がぼやけると言って眼科に通うハナ。親友のはずの志保が彼氏とべったりで付き合いが悪くなってから…なんて、全然関係ない。関係ないはずだ。そんなハナちゃんの話。
「別れの曲」
サッカー部を卒業したのに、先輩だからという理由で威張りちらしている佐藤。サッカー部には、ブンとモトがいる。レギュラーになれなかった自分と、あっさり一年でレギュラーになった黄金コンビ。なんかなぁ…。そんな佐藤の、バレンタインデーを巡る物語。
「千羽鶴」
入院している由香のために千羽鶴を折ろう―。いじめが原因で転校してきた西村さん。その提案はすぐに受け入れられ、みんな折り始めたのだけど、でもなんだか違う。周囲と合わせることに極度に気を遣いながら、自分のために千羽鶴を折り続ける西村さんの話。
「かげふみ」
ブンとはずっと親友でライバルだったモト。生徒会で付き合いがあって好きになった石川美紀に告白したんだけど、でも石川はもうブンと付き合ってて…。対等で負けっぱなしなんてことありえなかったブンとの差が、どんどん開いていってしまっているのではないかと不安になる、そんなモトの話。
「花いちもんめ」
由香が、もうダメかもしれない。受験を間近に控えているのに、恵美は毎晩夜更かしして、連絡を待っている。いや、連絡がこないことを待っている。由香の最後の最後、今まで「みんな」でしかなかった人が、最後の奇跡を見せてくれている。よかったね、由香。そんな、恵美の物語。
「きみの友だち」
ささやかだけど、恵美の撮りためてきた写真を飾ってギャラリーにした。かつての友人も呼んだし、中には、僕が小説にした子たちもいる。恵美から話を聞いて知っている人がたくさんいる。今日は、恵美の晴れの日だ。由香も、きっと見守ってくれてるだろう。そんな、ある一人の作家を主人公にした物語。
という感じです。
いやこれはホントによかったです。つい最近読んだ「卒業」もかなり好きですけど、それを超えるかもしれないですね。
とにかくこの作品は、学生だったことがあるすべての人に、等しく似たような経験がある、というようなそんな物語ではないかと思います。いやもしかしたら、割と昔の学校とかは、今みたいなそんな複雑なことを考えなくてよかったのかもしれないけど、でも僕の世代でも充分当てはまると思うし、今学生だっていう世代には、まさにドンピシャというような、そんな学校の世界というのを完璧に描いているような気がします。
まず、「みんな」を完全に否定している恵美という女の子が主軸にいる、という構造が面白いな、と思います。
恵美という女の子は、事故を境に考え方や性格が変わって、「みんな」と仲良くするのを止めます。「みんな」というのは、特定の誰かではない友だち、みたいな感じのもので、平たく言えば、八方美人的にいろんな人と付き合ったり、興味もないのに興味があるフリをしたり、仲良くもないのに一人になるのは嫌だから一緒にいたり、みたいな関係のことです。
何か、グサっときますね。誰もが同じようなことをしてるだろうけど、でもそれでもちょっと胸が痛いというか。恵美が嫌っているものはすごくよくわかるけど、でも恵美のように生きていくのは絶対に無理だよな、とも思います。「みんな」を否定したら、やっぱ寂しいよな、と思うし。だから、恵美は強いな、と思います。恵美からすれば、普通のことなんだろうけど。
で、その恵美というのを主軸として、その周囲にいる、「みんな」を否定できない人々というものにスポットを当てていく感じになります。
そうやって、「みんな」と「友だち」というものを、作品の中で対立させることで、「友だち」って一体なんだろうな、と考えさせられる作品ではないか、と思いました。さっきも書いたけど、きっとそれには答えがなくて、でも自分なりの理解の仕方みたいなのは持っていてもいいと思います。そこに至るヒントみたいなものを、本作が与えてくれるような気がします。
どの作品も、あー分かる分かる、というようなものばかりでした。自分そっくりな子がいたり、こんなやついたな、というような子がいたりと、そういう見方でも楽しめるし、今の学生はこんな大変な中で頑張ってるんだな、と思ってみたりもします。そうそう、やっぱ学校って、それなりに楽しくもあったけど、でもやっぱ大変なとこだったよな、と思います。
由香というキャラクターも、本作の中ではすごく重要で、すごく地味で目立たないんだけどでも大事みたいな、そんなキャラクターでした。何をやってもうまく出来なくて、恵美に怒られてばっかりなんだけど、いつもふんわりした笑顔を見せて、別に悪くもないのに謝っているようなオドオドとした態度をするそのあり方は、見る人をイラつかせたりするのだろうけど、でも恵美と由香というその結束の強さもまた感じられて、寂しそうに見えるけど、羨ましくもあるな、なんてそんなことを思いました。
「きみ」という二人称での小説という形態も、すごく作品に合っている気がしました。呼びかけるようにして物語が進んでいって、優しい感じになっています。でも、これだけ本を読んできて、二人称の小説を読んだのはこれで3作目ですからね。やっぱ二人称で小説を書くのは難しいんだろうな、と思う反面、ハマればすごく効果的になるな、とも思いました。
本作については、やろうと思えばいくらでも書けそうだし、実際書き足りないことが一杯あるような気がするのだけど、でももうそろそろ止めておきましょう。
とにかく、是非とも読んでみてください。これはいいです。もう、重松清の作品は、どれを読めばいいのかオススメするのに悩むほど傑作ばかりですけど、本作はその中でもかなり傑作です。学生だった自分を思い起こさせるだろうし、今の自分自身と重ねてしまう何かも見つかるかもしれません。多くの人に読んでもらいたいなと思います。イジメが広がっている今だからこそ読むべき作品かもしれません。是非読んでみてください。
重松清「きみの友だち」
一瞬の風になれ(佐藤多佳子)
10秒という時間で出来ることは限られている。
何が出来るだろう。
本だと1ページも読めないだろうし、500mlのペットボトルの飲料を飲み干すのも難しいかもしれない。生まれたての子馬が立つのにもそれ以上時間は掛かるだろうし、横になってから寝るまでだってもう少し掛かるだろう。
よくわからないが、とにかく10秒で出来ることなど限られている。
しかし、その10秒という僅かな時間に詰め込まれた世界というものも、世の中には存在する。一瞬とも言えるような10秒という時間を、さらに短く感じさせるだけの世界が。
それが、短距離の世界である。
僕は陸上を少しだけやったことがあるけど、長距離だったので短距離のことはわからない。学校のスポーツテストで50mを走るくらいである。50mのタイムは忘れたけど、確か8秒台とかいう絶望的に遅いタイムだったような気がする。どう頑張っても、あの50mという距離を、それ以上早く走ることが出来ないのである。
短距離というのは、残酷なスポーツである。
才能が、適性がないと、まず勝ち進むことの出来ない種目らしい。そういった分野は世の中にたくさんあるのだろうけども、やはり選ばれなかった人間というのは哀しいものがある。
ただ早く走るだけ、である。ただ、誰よりも早く、過去のどの自分よりも早く、0.01秒でも早く走るためだけに、苦しく地味な練習を重ねて、試合の場数を踏み、コンディションを整え、そうして、完璧な「10秒」という時間を迎える。
ある意味で、ものすごく贅沢なスポーツでもあるだろう。ありとあらゆる時間と努力を、たった10秒という時間のためだけに費やすのだから。
彼らが見る世界が、どんなものなのかは、僕には永遠にわからないだろう。視覚だけでなく、自らが生み出す風の感覚や、世界の聞こえ方まで、トップアスリートでしか体験することの出来ない極限の世界というものが、あるのだろうと思う。
たった0.1秒差ですべてが決まってしまうような世界。まばたきするくらいの時間をなんとか掴み取るために、あらゆる努力を惜しまない世界。そこで、走るということに突き進んでいく人間は、一体何をどう感じているのだろうか。
記録との戦いでもあり、ライバルとの戦いでもある陸上競技だが、何よりもまず、自分との戦いに勝たなくてはいけない。自分を知り、自分を見つめ、自分と対話し、自分を認め、そうやって内側へとどんどん入り込んでいく姿勢は、ある意味で人生みたいなものなのかもしれない。
強く、そして早くなるということ。負けを経験し、負けを認め、そして勝つということ。10秒という世界のすべてを自分のものにすること。ただ走るだけなのではないのだな、と短距離の深さを知ったような気がします。
そろそろ内容に入ろうと思います。
神谷は、超天才的なFWで、プロからも注目されている兄を持つ普通の中学生だ。兄に影響されてか、というかサッカーバカである家族に影響されてか、神谷もサッカーをやってはいるが、兄のようにうまくはいかない。まあ、それはしょうがねえな。
サッカーを続けるかで家族と一悶着あったが、それを振り切って公立高校に入学した。さて、どうしようか。サッカーから逃げたと言われたくはない。でも、サッカー以外に何をしようか。
幼馴染に、連という男がいる。いつもフラフラしているようなおどけた奴で、足がメチャクチャ速いのに中学の陸上部を辞めた奴。高校に入って、連のことで声を掛けられた。陸上部らしい。やっぱ、陸上で連は有名なんだな。
陸上、か。
連を誘って、陸上でもやってみようか。連がグズるかもしれないけど、なんとかやってみよう。
そうして入った陸上部。天性のアスリートで超有名人の連と、陸上経験ゼロででも練習するガッツと体力はある神谷が、高校の三年間を通して、ひたすらに陸上にのめりこんでいく過程を描いた、青春小説。
とまあそんな感じです。
「イチニツイテ」「ヨーイ」「ドン」の3巻からなる小説なのですごく長くて、内容紹介がこれくらいしか出来ないけど、神谷と連を中心とした、高校三年間の陸上を描き切っている作品です。
本作は、この番組で紹介されると本が売れると有名な「王様のブランチ」でブックナビを担当している松田さんが、今年の1位に推している作品で、確か今年の何かのランキングでも1位になっていたような気がします。
前評判どおりのいい作品です。神谷の語り口調で物語は進んでいくのですごく読みやすくて、しかも男子というものを結構うまく描いているので楽しいです。高校生の男子らしさと、アスリートの卵という両方の側面を綺麗に描いていて、まあその分だけ長くなっているのだろうけど、いいと思いました。
やはり比較をしてしまいますが、今年は「走る系」の作品が面白くて、
三浦しをん「風が強く吹いている」
桂望実「Run!Run!Run!」
佐藤多佳子「一瞬の風になれ」
と言ったところですが、それぞれにやはり特色がありますね。
「風が~」はとにかく、キャラクターの面白さではもう抜群です。その点で他の二作を圧倒しています。また、設定が面白い、というのも挙げられると思います。
「Run!~」は、テーマ性が深いというところが特徴ですね。走る、ということを突き詰める作品ではなくて、走るという中で人生を考える、というようなそんな作品です。
で本作はどんな特徴があるかというと、とにかく、何といえばいいのだろう、「皮膚感覚」とでも言うべきものがとにかくすごいです。
要するに、走っている人間のその全感覚が、見事なくらい表現されている、という感じです。
だから、走る前の緊張や、走っている時の後悔や快感、また走り終わった後の疲労や混乱と言ったものが、もうこれでもかという感じで言葉で表現されていて、そのすべてを自分の感覚のように感じることが出来るほどです。たぶん、現職のアスリートでもうまく言葉にすることが出来ないような、そんなレベルの「皮膚感覚」を、あらゆる言葉と(しかもそれを、高校生の語りの中でやってのけているところがさらにすごい)、そこに至るまでの流れの中できちんと表現していて、そこがもう際立っているな、と僕は思いました。
外から描写するのではなく、走っている人間そのものの視点からの感覚を描くので、走っている間の描写がほとんどなくて、「いつの間にかゴールにいた」というようなところもあるのだけど、それもまたリアルな感じがして、すごいと思いました。
また、「現場感」とでも呼ぶようなものも、素晴らしく表現されていたように思います。
つまり、監督や選手が作り出す陸上部という空間、または試合という場面が生み出す空間。そうしたものを本当にうまく切り取っていたなと思います。
特に圧巻だと思うのが、監督や個々の選手から出るアドバイスの類です。これはホントに見事だなと思いました。問題点を指摘し、それを改善する方策を提示するということなんだけど、本作でのそれは、ホントに実際その場にいて隣で聞いているようなそんなリアルさがあって、もちろん本作を書くのにあたって取材はしたんだろうけど(巻末に、何年も取材をした、というようなニュアンスのことが書いてあるけど)、それだけで本当にあそこまでの描写が出来るのだろうか、と思うほどでした。実際陸上を経験している人でもたぶんそれは難しいんじゃないか、と思います。陸上を経験し、かつ監督や指導者として何年も教えているような人でないと発想できないのではないかな、というような描写がいくつもあって、陸上未経験だと言う著者は、本当に頑張ったんだろうな、と思います。
他の二作とは、そういったところで大きく違うと思います。本当にその場にいるかのような臨場感がありありと迫ってくるようで、素晴らしいなと思いました。
ストーリーは、まあ怪我があったり挫折があったり不仲があったりとトラブルがありながらも、でも頑張るというような、まあ青春小説の王道ですけど、その王道を、これだけの枚数で、かつ丹念な取材を重ねて描くと、こうも面白いものになるのだな、と関心するような作品でした。
本作では、4継と呼ばれるリレーも扱われているのだけど、この4継の話が特にいいですね。陸上は基本的に個人種目で孤独な戦いなんだけど、4継というのは4人で走るリレーで、もうドラマがありまくり。それぞれの思い入れみたいなものがガンガンあって、この4継の話を読んでいる時は、なんか揺さぶられるものがあったなぁ、という感じです。
キャラクターでは、とにかくみっちゃんが一番好きですね。名前は三輪先生と言って、あだ名がみっちゃん。陸上部の顧問であり監督です。
このみっちゃんのキャラクターが、とにかくほんわりしていて、そのまったり感がすごくいいですね。9割脱力しているような雰囲気を醸し出す人で、でも締めるところはきちんと締める。出来ないことは言わないし、選手のことを第一に考えているので、とにかく誰からも信頼されるし、誰もが信頼する、そんな先生です。連が最後まで陸上部で頑張れたのも、陸上部の雰囲気を作り上げているみっちゃんの存在があってこそ、だと思いますね。
あと、連もいいですね。というか、連みたいに生きたいな、と思います。連は、陸上ではもう天性の才能があってすごいのだけど、でも基本的にはグダグダのダメ人間で、だけど全然周りを気にしないで生きていて、羨ましい。自分の得意なフィールドである陸上でも周りを気にしないし、陸上以外でも周りを気にしないというそのスタンスがすごく羨ましくて、あんな生き方が出来ればいいのに、と思います。
神谷はまあ言わずもがなで好きですね。才能を持った兄への劣等感や、努力を惜しまないひたむきな性格や、大舞台で極度に緊張するところなど、もうひたすらに人間らしくて、すごく身近に感じられるキャラクターではないかと思います。神谷がいかに成長していくか、というのを読んでいくのは、すごく楽しかったです。
あと、根岸もいいですね。神谷と連を陸上部に引き入れた人間で、とにかく努力をするし、いい決断をする。陸上部という、基本的に個人の戦いの場において、チームというものを強く意識させる存在で、すごくいいなと思いました。
こう書くと本作にもいいキャラクターが一杯出てるけど、でもキャラクターで言うならやっぱり「風が~」の方が上だよな、と思ってしまったりもしますが。
とにかくいい作品でした。今年の1位という評価は、まあなんとも分かりませんが、僕の中でもかなり上位にランクインされる作品だろうと思います。長いですが、すごく読みやすいし、陸上のことがさっぱり分からなくても全然楽しめる作品です。佐藤多佳子の作品は初めて読みましたけど、注目してもいいかもしれないな、と思います。是非読んでみてください。
佐藤多佳子「一瞬の風になれ」
何が出来るだろう。
本だと1ページも読めないだろうし、500mlのペットボトルの飲料を飲み干すのも難しいかもしれない。生まれたての子馬が立つのにもそれ以上時間は掛かるだろうし、横になってから寝るまでだってもう少し掛かるだろう。
よくわからないが、とにかく10秒で出来ることなど限られている。
しかし、その10秒という僅かな時間に詰め込まれた世界というものも、世の中には存在する。一瞬とも言えるような10秒という時間を、さらに短く感じさせるだけの世界が。
それが、短距離の世界である。
僕は陸上を少しだけやったことがあるけど、長距離だったので短距離のことはわからない。学校のスポーツテストで50mを走るくらいである。50mのタイムは忘れたけど、確か8秒台とかいう絶望的に遅いタイムだったような気がする。どう頑張っても、あの50mという距離を、それ以上早く走ることが出来ないのである。
短距離というのは、残酷なスポーツである。
才能が、適性がないと、まず勝ち進むことの出来ない種目らしい。そういった分野は世の中にたくさんあるのだろうけども、やはり選ばれなかった人間というのは哀しいものがある。
ただ早く走るだけ、である。ただ、誰よりも早く、過去のどの自分よりも早く、0.01秒でも早く走るためだけに、苦しく地味な練習を重ねて、試合の場数を踏み、コンディションを整え、そうして、完璧な「10秒」という時間を迎える。
ある意味で、ものすごく贅沢なスポーツでもあるだろう。ありとあらゆる時間と努力を、たった10秒という時間のためだけに費やすのだから。
彼らが見る世界が、どんなものなのかは、僕には永遠にわからないだろう。視覚だけでなく、自らが生み出す風の感覚や、世界の聞こえ方まで、トップアスリートでしか体験することの出来ない極限の世界というものが、あるのだろうと思う。
たった0.1秒差ですべてが決まってしまうような世界。まばたきするくらいの時間をなんとか掴み取るために、あらゆる努力を惜しまない世界。そこで、走るということに突き進んでいく人間は、一体何をどう感じているのだろうか。
記録との戦いでもあり、ライバルとの戦いでもある陸上競技だが、何よりもまず、自分との戦いに勝たなくてはいけない。自分を知り、自分を見つめ、自分と対話し、自分を認め、そうやって内側へとどんどん入り込んでいく姿勢は、ある意味で人生みたいなものなのかもしれない。
強く、そして早くなるということ。負けを経験し、負けを認め、そして勝つということ。10秒という世界のすべてを自分のものにすること。ただ走るだけなのではないのだな、と短距離の深さを知ったような気がします。
そろそろ内容に入ろうと思います。
神谷は、超天才的なFWで、プロからも注目されている兄を持つ普通の中学生だ。兄に影響されてか、というかサッカーバカである家族に影響されてか、神谷もサッカーをやってはいるが、兄のようにうまくはいかない。まあ、それはしょうがねえな。
サッカーを続けるかで家族と一悶着あったが、それを振り切って公立高校に入学した。さて、どうしようか。サッカーから逃げたと言われたくはない。でも、サッカー以外に何をしようか。
幼馴染に、連という男がいる。いつもフラフラしているようなおどけた奴で、足がメチャクチャ速いのに中学の陸上部を辞めた奴。高校に入って、連のことで声を掛けられた。陸上部らしい。やっぱ、陸上で連は有名なんだな。
陸上、か。
連を誘って、陸上でもやってみようか。連がグズるかもしれないけど、なんとかやってみよう。
そうして入った陸上部。天性のアスリートで超有名人の連と、陸上経験ゼロででも練習するガッツと体力はある神谷が、高校の三年間を通して、ひたすらに陸上にのめりこんでいく過程を描いた、青春小説。
とまあそんな感じです。
「イチニツイテ」「ヨーイ」「ドン」の3巻からなる小説なのですごく長くて、内容紹介がこれくらいしか出来ないけど、神谷と連を中心とした、高校三年間の陸上を描き切っている作品です。
本作は、この番組で紹介されると本が売れると有名な「王様のブランチ」でブックナビを担当している松田さんが、今年の1位に推している作品で、確か今年の何かのランキングでも1位になっていたような気がします。
前評判どおりのいい作品です。神谷の語り口調で物語は進んでいくのですごく読みやすくて、しかも男子というものを結構うまく描いているので楽しいです。高校生の男子らしさと、アスリートの卵という両方の側面を綺麗に描いていて、まあその分だけ長くなっているのだろうけど、いいと思いました。
やはり比較をしてしまいますが、今年は「走る系」の作品が面白くて、
三浦しをん「風が強く吹いている」
桂望実「Run!Run!Run!」
佐藤多佳子「一瞬の風になれ」
と言ったところですが、それぞれにやはり特色がありますね。
「風が~」はとにかく、キャラクターの面白さではもう抜群です。その点で他の二作を圧倒しています。また、設定が面白い、というのも挙げられると思います。
「Run!~」は、テーマ性が深いというところが特徴ですね。走る、ということを突き詰める作品ではなくて、走るという中で人生を考える、というようなそんな作品です。
で本作はどんな特徴があるかというと、とにかく、何といえばいいのだろう、「皮膚感覚」とでも言うべきものがとにかくすごいです。
要するに、走っている人間のその全感覚が、見事なくらい表現されている、という感じです。
だから、走る前の緊張や、走っている時の後悔や快感、また走り終わった後の疲労や混乱と言ったものが、もうこれでもかという感じで言葉で表現されていて、そのすべてを自分の感覚のように感じることが出来るほどです。たぶん、現職のアスリートでもうまく言葉にすることが出来ないような、そんなレベルの「皮膚感覚」を、あらゆる言葉と(しかもそれを、高校生の語りの中でやってのけているところがさらにすごい)、そこに至るまでの流れの中できちんと表現していて、そこがもう際立っているな、と僕は思いました。
外から描写するのではなく、走っている人間そのものの視点からの感覚を描くので、走っている間の描写がほとんどなくて、「いつの間にかゴールにいた」というようなところもあるのだけど、それもまたリアルな感じがして、すごいと思いました。
また、「現場感」とでも呼ぶようなものも、素晴らしく表現されていたように思います。
つまり、監督や選手が作り出す陸上部という空間、または試合という場面が生み出す空間。そうしたものを本当にうまく切り取っていたなと思います。
特に圧巻だと思うのが、監督や個々の選手から出るアドバイスの類です。これはホントに見事だなと思いました。問題点を指摘し、それを改善する方策を提示するということなんだけど、本作でのそれは、ホントに実際その場にいて隣で聞いているようなそんなリアルさがあって、もちろん本作を書くのにあたって取材はしたんだろうけど(巻末に、何年も取材をした、というようなニュアンスのことが書いてあるけど)、それだけで本当にあそこまでの描写が出来るのだろうか、と思うほどでした。実際陸上を経験している人でもたぶんそれは難しいんじゃないか、と思います。陸上を経験し、かつ監督や指導者として何年も教えているような人でないと発想できないのではないかな、というような描写がいくつもあって、陸上未経験だと言う著者は、本当に頑張ったんだろうな、と思います。
他の二作とは、そういったところで大きく違うと思います。本当にその場にいるかのような臨場感がありありと迫ってくるようで、素晴らしいなと思いました。
ストーリーは、まあ怪我があったり挫折があったり不仲があったりとトラブルがありながらも、でも頑張るというような、まあ青春小説の王道ですけど、その王道を、これだけの枚数で、かつ丹念な取材を重ねて描くと、こうも面白いものになるのだな、と関心するような作品でした。
本作では、4継と呼ばれるリレーも扱われているのだけど、この4継の話が特にいいですね。陸上は基本的に個人種目で孤独な戦いなんだけど、4継というのは4人で走るリレーで、もうドラマがありまくり。それぞれの思い入れみたいなものがガンガンあって、この4継の話を読んでいる時は、なんか揺さぶられるものがあったなぁ、という感じです。
キャラクターでは、とにかくみっちゃんが一番好きですね。名前は三輪先生と言って、あだ名がみっちゃん。陸上部の顧問であり監督です。
このみっちゃんのキャラクターが、とにかくほんわりしていて、そのまったり感がすごくいいですね。9割脱力しているような雰囲気を醸し出す人で、でも締めるところはきちんと締める。出来ないことは言わないし、選手のことを第一に考えているので、とにかく誰からも信頼されるし、誰もが信頼する、そんな先生です。連が最後まで陸上部で頑張れたのも、陸上部の雰囲気を作り上げているみっちゃんの存在があってこそ、だと思いますね。
あと、連もいいですね。というか、連みたいに生きたいな、と思います。連は、陸上ではもう天性の才能があってすごいのだけど、でも基本的にはグダグダのダメ人間で、だけど全然周りを気にしないで生きていて、羨ましい。自分の得意なフィールドである陸上でも周りを気にしないし、陸上以外でも周りを気にしないというそのスタンスがすごく羨ましくて、あんな生き方が出来ればいいのに、と思います。
神谷はまあ言わずもがなで好きですね。才能を持った兄への劣等感や、努力を惜しまないひたむきな性格や、大舞台で極度に緊張するところなど、もうひたすらに人間らしくて、すごく身近に感じられるキャラクターではないかと思います。神谷がいかに成長していくか、というのを読んでいくのは、すごく楽しかったです。
あと、根岸もいいですね。神谷と連を陸上部に引き入れた人間で、とにかく努力をするし、いい決断をする。陸上部という、基本的に個人の戦いの場において、チームというものを強く意識させる存在で、すごくいいなと思いました。
こう書くと本作にもいいキャラクターが一杯出てるけど、でもキャラクターで言うならやっぱり「風が~」の方が上だよな、と思ってしまったりもしますが。
とにかくいい作品でした。今年の1位という評価は、まあなんとも分かりませんが、僕の中でもかなり上位にランクインされる作品だろうと思います。長いですが、すごく読みやすいし、陸上のことがさっぱり分からなくても全然楽しめる作品です。佐藤多佳子の作品は初めて読みましたけど、注目してもいいかもしれないな、と思います。是非読んでみてください。
佐藤多佳子「一瞬の風になれ」
卒業(重松清)
僕はあと何回卒業を経験するだろうか?
その度に僕は、少しずつ前へと進んでいけるだろうか?
何か新しい自分を残せるだろうか?
新しいスタートを、切ることが出来るだろうか。
明確な形で「卒業」というのが打ち出されるのは、やはり学生時代だけだろう。卒業式、という形でやってくるそれは、一つの時代の終わりでもあって、新しい時代の始まりでもあって、いつだって不安や期待を滲ませていたものだ。卒業式の度に、次こそは自分の性格を変えてやろう、と意気込むのだけど、結局ずっと人見知りだったり、卒業式という、あまりに形式的過ぎるその卒業の形にしっくりいかなかったりと、まあいい思い出ばかりではないけど、でも、今社会というものに放り出されている身としては、ああやって分かりやすい形で卒業を経験させてくれる場は、やはり貴重だったかな、と思う。大学を卒業していないので、都合3回の経験しかないし、それぞれについて深く覚えていることがあるわけでもないのだけど、それまでの何かが終わり、これからの何かが始まる予感と言ったものは、いつでもそこに潜んでいたように思う。
これからの人生、卒業を何度かは経験するのだろう。しかし、それは決して明確な形では訪れないだろう。突然心の準備もないまま卒業を言い渡されることもあるだろうし、後から振り返ってみて、あぁそういえばあれが卒業だったのだろうな、と思うこともあるだろう。
まだまだ短い人生、経験した卒業も大したものではないけど、半ば本気で死のうと決意した自分と、そこからちゃんと社会の中で生きていこうと決めた自分への転換点は、ある意味で卒業を経験したと言えるだろう。
それまでの古い自分を捨て、新しい自分を迎える。
完全に古い自分を捨てられたわけでも、完全に新しい自分になれたわけでもない。しかし、その転換点を境に、大分僕自身は変わっただろうな、と思う。その過程で、多くの人に迷惑を掛け、傷つけ、心を砕かせたことは今でも申し訳なく思うけど、卒業には何らかの悲しみが付きものだろう、と勝手に解釈して、今に至っている。
僕は、自分で言うのもなんだけど、既に普通の人生というものから外れてしまっているのだけど、でも普通の人生を歩んでいれば、これからもっと多くの卒業を経験しなくてはいけないのだろう。
家族からの卒業。
友人からの卒業。
会社からの卒業。
人生からの卒業。
そして、
自分からの卒業。
それが、どんな形で訪れるのか、誰にも予想できないし、わからない。新たなスタートを切ることの出来る素敵な卒業かもしれないし、すべてが終わってしまう絶望の卒業からもしれない。
それでも、と僕は思う。
卒業というのは、いいものだ。自分で決断した卒業であっても、時間が切り取っていく卒業であっても、そこには、残しきれない何かが漂っている。たとえ、卒業によって失うことがあっても、それは卒業アルバムのように、どこかに何らかの形で残る。辛くても哀しくても、いつか乗り越える日が来るし、それがまた新たな卒業になる。
長い長い人生なのだ。ここではい一区切り、というものがないと、やっていけないではないか。卒業、という響きが、何かしら深いものを感じさせてくれる間は、たまには卒業を経験するのも、まあいいだろう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、4編の短編が収録された短編集になっています。それぞれの内容を紹介しようと思います。
「まゆみのマーチ」
母がもうすぐ死ぬ。連絡を受けて、飛行機に飛び乗って、病院にやってきた。
病院で、久々に妹に会った。詳しい話は、聞かない。仲のいい兄妹でもなかった。どこかで、それなりに暮らしてるんだろう、なら、いい。
妹に、息子が葬式に来られないかもしれないんだ、と話す。引きこもり、とはちょっと違うんだけど、不安定だ。理由は、よくわからない。学校には、行きたいらしいのだが、行けなくなってしまう。電車や飛行機がダメそうだから、ちょっと葬式に出るのは難しいかもしれない。
かつての妹のことを思い出す。妹も、かつて同じようなことがあった。歌うことが大好きな、ただ歌っているだけで幸せだったはずの妹が、学校に行けなくなってしまったあの時のことを。
母は、妹に甘かったのだろう。愚かな母だったとは思いたくないが、いつでも辛くあたってしまっていた。
妹が言う。
『まゆみのマーチ』を歌ってあげたら、お母さん、ぽろぽろ涙を流したんだ―。
『まゆみのマーチ』。母と妹だけが知っている、これまで何度聞いても教えてくれなかった、二人だけの歌が、ある。
徹底的に優しすぎる母親、という姿が描かれています。その母親の死に際し、自分の息子の現状と、かつての妹のことを重ね合わせることで、同時に、母親と自分を重ね合わせて見る、という感じです。
母親のしていたことの全部が正しかったわけではないのだろうとは思うのだけど、でも、言うほど悪くもなかったのかも、という感じです。僕にとって、まあいろんな意味で母親というのは難しいので、なんとも言えませんが。
「あおげば尊し」
父は、もうすぐ死ぬ。治療を拒み、在宅治療を選択した父は、僕と同じ、教師だった。校長まで勤め上げた、筋金入りと言っていいほどの教師だった。その父が、今まさに死のうとしている。
子供は、未完成なんだ、というのが、父の持論だった。そんな未完成の存在に受け入れられることなんか気にしなくていいといわんばかりに、父は冷たく厳しい教師だった。学校という場で教えることのできるすべてを与えようとして、そんな自分のあり方に誇りを持っていた、そんな父だった。
父の教え子から、同窓会や結婚式の案内状が届いたことはない。寂しい人生だったのかもしれない。わからない。
自分のクラスでは今、ちょっとした問題がある。ある転校生が死というものに異常に興味を持っていて、動物の死体の載ったサイトを見たり、葬儀場をうろついていたりする。その雰囲気がクラスにも徐々に蔓延している。
いいのか、と思ったが、もう喋れない父がなんとかして答えた、その言葉で決めた。
クラスの連中を、課外授業と称して家に来させ、父の姿を見せる。
非難は覚悟の上だったし、実際非難の声は上がった。しかし、正しいと信じた。父は、死ぬ間際まで教師なのだ。誰かに、何かを教えたいのだ。そう信じて。
同じく、死というものを扱った話です。子供たちに、死ぬ間際の父の姿を見せる、というのは正しいことかどうかなんとも言えないですが、しかし小学生が受け止めるには、なかなか難しいことだとも思います。自分が小学生だった頃、死を間近に見せられたらどうだっただろうか、と思いました。
死ぬまで教師であり続けたいという父親の姿は、それがどんなに冷たく厳しい教師であっても、いいと思いました。ラストは、結構好きです。
「卒業」
突然会社に、中学生がやってきた。どう対応していいかわからなくて、いつもの習慣で名刺を渡してしまった。
26歳で自殺して死んだ、大学時代の友人だった男の娘、だそうだ。
初めはよくわからなかったのだが、話を聞いてみると、友人の思い出を聞きたがっているようだった。少し前に、リスカした。遺伝するとは思えないけどさ、ほら知っとかないとさ、ヤバイじゃん。そんなことを言っていた。
大学を出てからはあんまり会ってなかった。会社の友人に当たった方がいいんじゃないのか。そう言うと、サイテー、と言っていなくなってしまった。親友じゃなかったの、と。
家に帰って、戯れに友人の名前をHPで検索してみた。自殺、というキーワードも入れてみると、あるサイトに行き着いた。
あの中学生が開いたHPだった。友人の過去を知りたい。どんなことでもいいから書き込んで欲しい。そんなメッセージが貼り付いていた。
だから、掲示板に書いた。友人との思い出を毎日。妻には、そんなことして何になるの、と言われた。それでも、続けた。
こちらは、友人の死を扱ったものですね。大学を出て会わなくなれば、確かに親友と呼ぶのは気が引けるというのもわかるし、大学時代の友人なのに忘れたの、という少女の言い分も分かる。
個人的には、野口さんのキャラクターが好きでした。どっしりしている感じが、いいですね。経験がないからわからないけど、やっぱ血の繋がりってのは重要なんだろうか、とか思ってしまう話でした。僕は、あんまり関係ないよな、とか思いますけど。
「追伸」
母が死んだのは、6歳の頃だった。弱った姿を見られたくない、という母親の意思で、入院していた最後の最後は、顔を見ることもなかった。死んだ、ということも、よくわからなかった。
父が再婚するに当たって、母が遺してくれたノートを読んだ。僕のことが大好きで、毎日考えている。お母さんのことを出来れば忘れないで。そんな風な同じようなことが、言葉を変えて書き連ねられていた。
新しくうちに来た父の妻は、僕の母にはなれなかった。僕は、どうしても受け入れられなかったし、向こうもそんなつもりがないように思えた。今ならわかるけど、ほんの少し、タイミングが悪かっただけなんだ。
今の僕は、作家という肩書きになっている。とある有名な文学賞を受賞し、まさに今旬の作家でもある。受賞後依頼の来たエッセイに、エッセイを書いたことのない僕は悩んだが、編集者からのアドバイスにより、母親の話を書くことにした。
死んでしまった母親との、あるはずのない偽りの話を、かってにでっちあげてエッセイにした。
読者や編集者からの反応はいい。しかし、妻は苦い顔だ。お母さんのこと、考えてるの?こんなこと書かれたら、立場がないじゃない、と。
そうかもしれない。でも、誰がなんと言おうと、僕の母は、死んでしまったあの母だけなのだ。
母親の死に絡んだ話です。素直になれない息子と後妻の関係が哀しいのと、作家になり、偽りのエピソードを書いてしまうその心情が哀しい作品ですね。とにかく、ラストがいい感じでした。
どの話もすごくよくて、いい作品でした。どの作品も、誰かしらの死を扱っていて、そこから前に進めなかったり、それに引きずられたりしている人間が、いかにそこから卒業するか、という形式で物語が進んでいく感じです。
読んでいて、じんわりしんみりしてくる感じです。なんというか、風船を少しずつ膨らませていくような、心の中でしぼんでいた何かがゆっくりと膨らんでいくように、感動が押し寄せてきます。膨らみすぎた風船のような緊張感みたいなものも時にはあったりして、よんでいて深い感動に浸れる作品だと思います。「あおげば尊し」と「追伸」は、ラストでちょっと泣きそうになりましたね。
本作は、男の優柔不断さを描いた作品、と言うことも出来ると思います。4編とも、出てくる男誰もが優柔不断で、どこか行きつ戻りつ、と言った雰囲気があります。一方で、作中出てくる女性というのは本当にしっかりしていて強くて、その対比が面白いな、と思いました。
個人的には、女性というのは失うものがないからこそ、ひたすらに真っ直ぐに進んでいけるのだろうな、と思います。いや、守るべきものがきちんと分かっているから、でしょうか。それと違って男というのは、失うものは多すぎるし(まあ自分で勝手にそう思っているだけだけど)、守るべきものがなんなのかもはっきり決められないので、どうしても優柔不断になってしまいます。こういう、何か重大ごとに直面した時の男の弱さというものがしっかりと描かれていて、まいったなぁ、と思うのと同時に、やっぱそうだよなぁ、と思ったりしてしまいます。
あとがきで重松清は、本作は「ゆるす/ゆるされる」を描いた作品でもある、と書いています。そう言われればなるほど、誰かをどんな形でか許すということが、ある意味で卒業ということなのかもしれません。あるいは、誰かに許されるということが。
重松清の作品は、テーマ的にも雰囲気的にも似た作品ばかり書いているはずなんだけど、でもどの作品を読んでも、それにしかないものというのがきちんとあって、だからすごいなと思うんです。同じようなものだけど微妙に違うものをずっと生み出し続けていられるというのは、素敵なことだと思います。これからも、どんどんとこういう素晴らしい作品を書いて欲しいものです。是非読んでみてください。
重松清「卒業」
その度に僕は、少しずつ前へと進んでいけるだろうか?
何か新しい自分を残せるだろうか?
新しいスタートを、切ることが出来るだろうか。
明確な形で「卒業」というのが打ち出されるのは、やはり学生時代だけだろう。卒業式、という形でやってくるそれは、一つの時代の終わりでもあって、新しい時代の始まりでもあって、いつだって不安や期待を滲ませていたものだ。卒業式の度に、次こそは自分の性格を変えてやろう、と意気込むのだけど、結局ずっと人見知りだったり、卒業式という、あまりに形式的過ぎるその卒業の形にしっくりいかなかったりと、まあいい思い出ばかりではないけど、でも、今社会というものに放り出されている身としては、ああやって分かりやすい形で卒業を経験させてくれる場は、やはり貴重だったかな、と思う。大学を卒業していないので、都合3回の経験しかないし、それぞれについて深く覚えていることがあるわけでもないのだけど、それまでの何かが終わり、これからの何かが始まる予感と言ったものは、いつでもそこに潜んでいたように思う。
これからの人生、卒業を何度かは経験するのだろう。しかし、それは決して明確な形では訪れないだろう。突然心の準備もないまま卒業を言い渡されることもあるだろうし、後から振り返ってみて、あぁそういえばあれが卒業だったのだろうな、と思うこともあるだろう。
まだまだ短い人生、経験した卒業も大したものではないけど、半ば本気で死のうと決意した自分と、そこからちゃんと社会の中で生きていこうと決めた自分への転換点は、ある意味で卒業を経験したと言えるだろう。
それまでの古い自分を捨て、新しい自分を迎える。
完全に古い自分を捨てられたわけでも、完全に新しい自分になれたわけでもない。しかし、その転換点を境に、大分僕自身は変わっただろうな、と思う。その過程で、多くの人に迷惑を掛け、傷つけ、心を砕かせたことは今でも申し訳なく思うけど、卒業には何らかの悲しみが付きものだろう、と勝手に解釈して、今に至っている。
僕は、自分で言うのもなんだけど、既に普通の人生というものから外れてしまっているのだけど、でも普通の人生を歩んでいれば、これからもっと多くの卒業を経験しなくてはいけないのだろう。
家族からの卒業。
友人からの卒業。
会社からの卒業。
人生からの卒業。
そして、
自分からの卒業。
それが、どんな形で訪れるのか、誰にも予想できないし、わからない。新たなスタートを切ることの出来る素敵な卒業かもしれないし、すべてが終わってしまう絶望の卒業からもしれない。
それでも、と僕は思う。
卒業というのは、いいものだ。自分で決断した卒業であっても、時間が切り取っていく卒業であっても、そこには、残しきれない何かが漂っている。たとえ、卒業によって失うことがあっても、それは卒業アルバムのように、どこかに何らかの形で残る。辛くても哀しくても、いつか乗り越える日が来るし、それがまた新たな卒業になる。
長い長い人生なのだ。ここではい一区切り、というものがないと、やっていけないではないか。卒業、という響きが、何かしら深いものを感じさせてくれる間は、たまには卒業を経験するのも、まあいいだろう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、4編の短編が収録された短編集になっています。それぞれの内容を紹介しようと思います。
「まゆみのマーチ」
母がもうすぐ死ぬ。連絡を受けて、飛行機に飛び乗って、病院にやってきた。
病院で、久々に妹に会った。詳しい話は、聞かない。仲のいい兄妹でもなかった。どこかで、それなりに暮らしてるんだろう、なら、いい。
妹に、息子が葬式に来られないかもしれないんだ、と話す。引きこもり、とはちょっと違うんだけど、不安定だ。理由は、よくわからない。学校には、行きたいらしいのだが、行けなくなってしまう。電車や飛行機がダメそうだから、ちょっと葬式に出るのは難しいかもしれない。
かつての妹のことを思い出す。妹も、かつて同じようなことがあった。歌うことが大好きな、ただ歌っているだけで幸せだったはずの妹が、学校に行けなくなってしまったあの時のことを。
母は、妹に甘かったのだろう。愚かな母だったとは思いたくないが、いつでも辛くあたってしまっていた。
妹が言う。
『まゆみのマーチ』を歌ってあげたら、お母さん、ぽろぽろ涙を流したんだ―。
『まゆみのマーチ』。母と妹だけが知っている、これまで何度聞いても教えてくれなかった、二人だけの歌が、ある。
徹底的に優しすぎる母親、という姿が描かれています。その母親の死に際し、自分の息子の現状と、かつての妹のことを重ね合わせることで、同時に、母親と自分を重ね合わせて見る、という感じです。
母親のしていたことの全部が正しかったわけではないのだろうとは思うのだけど、でも、言うほど悪くもなかったのかも、という感じです。僕にとって、まあいろんな意味で母親というのは難しいので、なんとも言えませんが。
「あおげば尊し」
父は、もうすぐ死ぬ。治療を拒み、在宅治療を選択した父は、僕と同じ、教師だった。校長まで勤め上げた、筋金入りと言っていいほどの教師だった。その父が、今まさに死のうとしている。
子供は、未完成なんだ、というのが、父の持論だった。そんな未完成の存在に受け入れられることなんか気にしなくていいといわんばかりに、父は冷たく厳しい教師だった。学校という場で教えることのできるすべてを与えようとして、そんな自分のあり方に誇りを持っていた、そんな父だった。
父の教え子から、同窓会や結婚式の案内状が届いたことはない。寂しい人生だったのかもしれない。わからない。
自分のクラスでは今、ちょっとした問題がある。ある転校生が死というものに異常に興味を持っていて、動物の死体の載ったサイトを見たり、葬儀場をうろついていたりする。その雰囲気がクラスにも徐々に蔓延している。
いいのか、と思ったが、もう喋れない父がなんとかして答えた、その言葉で決めた。
クラスの連中を、課外授業と称して家に来させ、父の姿を見せる。
非難は覚悟の上だったし、実際非難の声は上がった。しかし、正しいと信じた。父は、死ぬ間際まで教師なのだ。誰かに、何かを教えたいのだ。そう信じて。
同じく、死というものを扱った話です。子供たちに、死ぬ間際の父の姿を見せる、というのは正しいことかどうかなんとも言えないですが、しかし小学生が受け止めるには、なかなか難しいことだとも思います。自分が小学生だった頃、死を間近に見せられたらどうだっただろうか、と思いました。
死ぬまで教師であり続けたいという父親の姿は、それがどんなに冷たく厳しい教師であっても、いいと思いました。ラストは、結構好きです。
「卒業」
突然会社に、中学生がやってきた。どう対応していいかわからなくて、いつもの習慣で名刺を渡してしまった。
26歳で自殺して死んだ、大学時代の友人だった男の娘、だそうだ。
初めはよくわからなかったのだが、話を聞いてみると、友人の思い出を聞きたがっているようだった。少し前に、リスカした。遺伝するとは思えないけどさ、ほら知っとかないとさ、ヤバイじゃん。そんなことを言っていた。
大学を出てからはあんまり会ってなかった。会社の友人に当たった方がいいんじゃないのか。そう言うと、サイテー、と言っていなくなってしまった。親友じゃなかったの、と。
家に帰って、戯れに友人の名前をHPで検索してみた。自殺、というキーワードも入れてみると、あるサイトに行き着いた。
あの中学生が開いたHPだった。友人の過去を知りたい。どんなことでもいいから書き込んで欲しい。そんなメッセージが貼り付いていた。
だから、掲示板に書いた。友人との思い出を毎日。妻には、そんなことして何になるの、と言われた。それでも、続けた。
こちらは、友人の死を扱ったものですね。大学を出て会わなくなれば、確かに親友と呼ぶのは気が引けるというのもわかるし、大学時代の友人なのに忘れたの、という少女の言い分も分かる。
個人的には、野口さんのキャラクターが好きでした。どっしりしている感じが、いいですね。経験がないからわからないけど、やっぱ血の繋がりってのは重要なんだろうか、とか思ってしまう話でした。僕は、あんまり関係ないよな、とか思いますけど。
「追伸」
母が死んだのは、6歳の頃だった。弱った姿を見られたくない、という母親の意思で、入院していた最後の最後は、顔を見ることもなかった。死んだ、ということも、よくわからなかった。
父が再婚するに当たって、母が遺してくれたノートを読んだ。僕のことが大好きで、毎日考えている。お母さんのことを出来れば忘れないで。そんな風な同じようなことが、言葉を変えて書き連ねられていた。
新しくうちに来た父の妻は、僕の母にはなれなかった。僕は、どうしても受け入れられなかったし、向こうもそんなつもりがないように思えた。今ならわかるけど、ほんの少し、タイミングが悪かっただけなんだ。
今の僕は、作家という肩書きになっている。とある有名な文学賞を受賞し、まさに今旬の作家でもある。受賞後依頼の来たエッセイに、エッセイを書いたことのない僕は悩んだが、編集者からのアドバイスにより、母親の話を書くことにした。
死んでしまった母親との、あるはずのない偽りの話を、かってにでっちあげてエッセイにした。
読者や編集者からの反応はいい。しかし、妻は苦い顔だ。お母さんのこと、考えてるの?こんなこと書かれたら、立場がないじゃない、と。
そうかもしれない。でも、誰がなんと言おうと、僕の母は、死んでしまったあの母だけなのだ。
母親の死に絡んだ話です。素直になれない息子と後妻の関係が哀しいのと、作家になり、偽りのエピソードを書いてしまうその心情が哀しい作品ですね。とにかく、ラストがいい感じでした。
どの話もすごくよくて、いい作品でした。どの作品も、誰かしらの死を扱っていて、そこから前に進めなかったり、それに引きずられたりしている人間が、いかにそこから卒業するか、という形式で物語が進んでいく感じです。
読んでいて、じんわりしんみりしてくる感じです。なんというか、風船を少しずつ膨らませていくような、心の中でしぼんでいた何かがゆっくりと膨らんでいくように、感動が押し寄せてきます。膨らみすぎた風船のような緊張感みたいなものも時にはあったりして、よんでいて深い感動に浸れる作品だと思います。「あおげば尊し」と「追伸」は、ラストでちょっと泣きそうになりましたね。
本作は、男の優柔不断さを描いた作品、と言うことも出来ると思います。4編とも、出てくる男誰もが優柔不断で、どこか行きつ戻りつ、と言った雰囲気があります。一方で、作中出てくる女性というのは本当にしっかりしていて強くて、その対比が面白いな、と思いました。
個人的には、女性というのは失うものがないからこそ、ひたすらに真っ直ぐに進んでいけるのだろうな、と思います。いや、守るべきものがきちんと分かっているから、でしょうか。それと違って男というのは、失うものは多すぎるし(まあ自分で勝手にそう思っているだけだけど)、守るべきものがなんなのかもはっきり決められないので、どうしても優柔不断になってしまいます。こういう、何か重大ごとに直面した時の男の弱さというものがしっかりと描かれていて、まいったなぁ、と思うのと同時に、やっぱそうだよなぁ、と思ったりしてしまいます。
あとがきで重松清は、本作は「ゆるす/ゆるされる」を描いた作品でもある、と書いています。そう言われればなるほど、誰かをどんな形でか許すということが、ある意味で卒業ということなのかもしれません。あるいは、誰かに許されるということが。
重松清の作品は、テーマ的にも雰囲気的にも似た作品ばかり書いているはずなんだけど、でもどの作品を読んでも、それにしかないものというのがきちんとあって、だからすごいなと思うんです。同じようなものだけど微妙に違うものをずっと生み出し続けていられるというのは、素敵なことだと思います。これからも、どんどんとこういう素晴らしい作品を書いて欲しいものです。是非読んでみてください。
重松清「卒業」
誘拐ラプソディー(荻原浩)
完全犯罪が出来るなら、犯罪をしてみたい、と思う。
基本的に僕の中では、犯罪は法律があるから犯さない、という考えがある。もちろん、実際犯罪を犯すことが出来るかどうかは別としても、法律がなければ、なんらかの犯罪を犯すことにやぶさかではないだろう。
だから、捕まらない保証があるならば、犯罪をしてみたいと思う。道徳的な自制心みたいなものは特になくて、困る人はいるのだろうけど、でもそのスリルみたいなものはちょっと体験してみたいと思う。
しかし、こんなことを書いておきながらだけど、結局僕には犯罪を犯す勇気はないだろう、と思う。
なんというか、犯罪は理屈で犯すではダメだろうな、と思うのだ。もっと短絡的で考えなしの方が、案外いいと思う。
理屈で犯罪を犯すということは、その筋道を誰かに容易に辿られる可能性があるということだ。緻密な計画を立てれば立てるほど、詳細に細部を詰めれば詰めるほど、同時にそれは、追う側に辿る道筋を与えていることになる。ヘンゼルとグレーテルがパン屑を落としながら道を歩いたようにして、犯罪の軌跡と言ったものが容易に刻まれてしまうのである。
行き当たりばったりで、時々間一髪の危ない場面を挟みつつ、時には意味のない不可解な行動も挟みながらも、なんとか犯罪をやりおおす、みたいな方が、案外辿られなかったりするのではないだろうか。まあ、適当に言っているけど。
何か犯罪をやるとしたら、誘拐というのはちょっとやってみたい気がする。
誘拐というのは、古今東西を問わず、密室と並んでミステリではもはや定番中の定番で、その手法というのは、紙の上でだけだけど、ありとあらゆるものが検討されてきている。現実世界では、身代金誘拐が成立したことはまだないそうで、かなりハードルの高い犯罪であることは間違いないのだけど、だからこそ、そこに知的ゲームのような性質を感じてしまうのだ。
オレオレ詐欺で濡れ手で粟のようにお金が手に入る時代になってしまったので、身代金目的の誘拐というのは、犯罪として割りに合わなくなってきているのだろうけど、でもゲームとして考えれば、相当面白い。
いかにして身代金を奪い取り、
いかにして警察に捕まらないようにやるか。
まあ不謹慎で悪趣味ではあるけど、それはゲームとしてかなり面白いだろう。テレビゲームのソフトでどっか作ったりしないかなぁ。二人対戦で、一方が誘拐役で、一方が警察役。二人はお互いに、ある限られたフィールド内で、逃げては追うというのを繰り返し、どっちが勝つか、みたいな。まあ、そういうゲームが出たとしても、ゲームをやらない僕としてはどうしょもないけど。
犯罪者になるというのは、今の僕の生活から考えれば想像はつかないけど、でもどうせ犯罪者になるなら、望んでそうなりたいものだ、と思う。つまり、飲酒運転やひき逃げなんかで捕まるくらいなら、誘拐や殺人で捕まりたいな、ということだ。どうせ刑務所に行かなくてはいけないなら、犯罪者というものをきちんと経験してみたい。そんな不謹慎なことを考えてみる。
理屈でしかものを考えられない僕には、犯罪者とそうでない人間を隔てる境界を越えることはたぶんかなり難しいだろうと思う。それは、まあそれでいいと思う。僕には、人を殺すことも出来ないし、誘拐も出来ない。ついでに言えば、自殺も出来ない。うん、まあそれでいい。どうせそんなに頭のいい人間でもないのだから、大人しく普通の人間として生きていこう、と思うのであった。
そろそろ内容に入ろうと思います。
伊達秀吉は、大宮市のある一角にある寂れた公園にいる。そこで彼は、さんざん悩んでいるのだ。
もう死ぬしかない。
首吊り用にロープを持ってきた。けど、桜の枝が折れそうだから止めよう。飛び降りも、うまく落ちないとダメそうだから止めよう。そうだ、排気ガスを車に引き込んでそれで…、と考えている。
彼が死のうとしているのには理由がある。
前科三犯で身寄りもない自分を引き取ってくれた工務店の親方がいる。競馬だの競艇だのの金をつぎ込んでしまう自分に給料を前借させてくれたり、いろいろと面倒を見てくれた。
そんな親方を殴って、しかも車を盗んで来てしまった。サラ金から借りたお金も、既に返せない額になっている。もう行き場も失ってしまった。死ぬしかないのだ。
死ぬしかないと思いながら、決心がつかずウダウダしていた彼の前に、一人の子供が現れた。重そうなリュックサックを背負った、小学1年生くらいの子供だ。話を聞いてみると、どうやら金持ちの子供で、しかも家出をしてきたのだという。
おー神様仏様。カモネギとはこのことだ。この子を誘拐して身代金をせしめてしまえばいいではないか。素晴らしいことに、ムショ仲間だったある人から、誘拐の極意だって教わっている。完璧だ。一発逆転の大チャンスだ!
そうして秀吉は、伝助というその子供をうまいこと騙してどこか旅に出る風に思わせておきながら、同時に伝助の家と連絡を取り、身代金を奪い取る算段を始めるのだが…。
どこで歯車が狂ったか、秀吉はなんと警察だけでなく、ヤクザやチャイニーズマフィアにも追われる身になってしまった。しかも、殺すはずだった伝助との間にも、友情めいたものが生まれつつある。どうすればいいんだ、俺は…。
というような話です。
本作も、これまでの荻原作品同様、素晴らしくいいですね。
ミステリーではもはや常套となった誘拐ものの作品だけど、本作は全然ミステリーと言った感じではありません。もちろん、秀吉としては本気で身代金誘拐を企んでいるのだし、伝助の家族は憔悴するのだけど、でも全然誘拐らしい緊張感がありません。どころか、やはりいつもの荻原作品らしく、ほんわかしてしまうんですね。
それはまず一つに、秀吉と伝助のキャラクターにあります。
秀吉は、もう凶悪な犯罪者とは対極というようなダメ誘拐犯で、怖くもなければ脅しもしない、むしろ伝助に振り回される感じで、全然犯罪をしているという感じではありません。本当に、伝助と一緒に旅に出ながら、ついでに誘拐もしてる、みたいな雰囲気が出ているんです。
そしてさらに、伝助のキャラがかなりいいですね。
荻原浩という作家は、男にしても女にしても、とにかく魅力溢れる子供を描くのがすごくうまくて、本作でも伝助というのは本当にいいキャラでした。
緊張感なくどこでも寝るし、漢字や英語はわからないのにスペイン語は分かるし、人のいうことを何でも信じるバカだし、でも全然憎めない、そんな素敵なキャラクターでした。時々、金持ち(という表現は多少間違っているのだけど)に生まれた寂しさみたいなのを醸し出してしんみりさせたかと思えば、いつもはヘニャとしてて役に立たないくせに、大大大ピンチにはなんとかしちゃうよくわからなさとか、とにかく、どの場面で出てきても飽きない感じで、前に読んだ「なかよし小鳩組」でもそうだったし、さらに「四度目の氷河期」でもそうだったけど、本作もとにかく子供の魅力でかなり物語を引っ張っているな、という感じでした。もちろん、ストーリーも面白いんですけど、キャラクターがそれを上回っていいですね。
で、誘拐の緊張感がない話ですけど、もう一つの理由は、誘拐犯を追っているのが警察ではなくヤクザだ、ということですね。
僕は、それなりに誘拐小説を読んできたと思いますけど、でも追う側が警察ではなくヤクザなんていう小説は、今までなかったと思います。
ヤクザというのは、機動力だけは警察並みかそれ以上持っているくせに、警察が持っているべき倫理だのに縛られないわけで、追われる方としてはさらにたちの悪い相手なわけです。しかし、警察のような、緻密で繊細なやり方をするわけではないので、どうしても動きが滑稽になって、誘拐だというような緊張感がなくなっていくんですね。
そうやって物語の随所で、誘拐であるという緊張感を削いでいき、ユーモアたっぷりにしたところが、本作の魅力なんだと思います。
タイトルの「誘拐」という文字を見て、あぁミステリーか、ちょっと苦手だから止めようかな、と思ったような人、いやいや全然違いますよ。いつもの荻原節が前回炸裂な作品になっていますよ。泣ける、というところまで行く作品ではないと思うけど、ほんわかするし、あったかくなれる感じの作品です。これは、かなりオススメですね。書店員的な視点から言えば、同じ双葉社の文庫だと「ハードボイルド・エッグ」の方が売れているんだけど、断然本作の方がいいですね。是非とも読んでみてください。いい話ですよ。
荻原浩「誘拐ラプソディー」
基本的に僕の中では、犯罪は法律があるから犯さない、という考えがある。もちろん、実際犯罪を犯すことが出来るかどうかは別としても、法律がなければ、なんらかの犯罪を犯すことにやぶさかではないだろう。
だから、捕まらない保証があるならば、犯罪をしてみたいと思う。道徳的な自制心みたいなものは特になくて、困る人はいるのだろうけど、でもそのスリルみたいなものはちょっと体験してみたいと思う。
しかし、こんなことを書いておきながらだけど、結局僕には犯罪を犯す勇気はないだろう、と思う。
なんというか、犯罪は理屈で犯すではダメだろうな、と思うのだ。もっと短絡的で考えなしの方が、案外いいと思う。
理屈で犯罪を犯すということは、その筋道を誰かに容易に辿られる可能性があるということだ。緻密な計画を立てれば立てるほど、詳細に細部を詰めれば詰めるほど、同時にそれは、追う側に辿る道筋を与えていることになる。ヘンゼルとグレーテルがパン屑を落としながら道を歩いたようにして、犯罪の軌跡と言ったものが容易に刻まれてしまうのである。
行き当たりばったりで、時々間一髪の危ない場面を挟みつつ、時には意味のない不可解な行動も挟みながらも、なんとか犯罪をやりおおす、みたいな方が、案外辿られなかったりするのではないだろうか。まあ、適当に言っているけど。
何か犯罪をやるとしたら、誘拐というのはちょっとやってみたい気がする。
誘拐というのは、古今東西を問わず、密室と並んでミステリではもはや定番中の定番で、その手法というのは、紙の上でだけだけど、ありとあらゆるものが検討されてきている。現実世界では、身代金誘拐が成立したことはまだないそうで、かなりハードルの高い犯罪であることは間違いないのだけど、だからこそ、そこに知的ゲームのような性質を感じてしまうのだ。
オレオレ詐欺で濡れ手で粟のようにお金が手に入る時代になってしまったので、身代金目的の誘拐というのは、犯罪として割りに合わなくなってきているのだろうけど、でもゲームとして考えれば、相当面白い。
いかにして身代金を奪い取り、
いかにして警察に捕まらないようにやるか。
まあ不謹慎で悪趣味ではあるけど、それはゲームとしてかなり面白いだろう。テレビゲームのソフトでどっか作ったりしないかなぁ。二人対戦で、一方が誘拐役で、一方が警察役。二人はお互いに、ある限られたフィールド内で、逃げては追うというのを繰り返し、どっちが勝つか、みたいな。まあ、そういうゲームが出たとしても、ゲームをやらない僕としてはどうしょもないけど。
犯罪者になるというのは、今の僕の生活から考えれば想像はつかないけど、でもどうせ犯罪者になるなら、望んでそうなりたいものだ、と思う。つまり、飲酒運転やひき逃げなんかで捕まるくらいなら、誘拐や殺人で捕まりたいな、ということだ。どうせ刑務所に行かなくてはいけないなら、犯罪者というものをきちんと経験してみたい。そんな不謹慎なことを考えてみる。
理屈でしかものを考えられない僕には、犯罪者とそうでない人間を隔てる境界を越えることはたぶんかなり難しいだろうと思う。それは、まあそれでいいと思う。僕には、人を殺すことも出来ないし、誘拐も出来ない。ついでに言えば、自殺も出来ない。うん、まあそれでいい。どうせそんなに頭のいい人間でもないのだから、大人しく普通の人間として生きていこう、と思うのであった。
そろそろ内容に入ろうと思います。
伊達秀吉は、大宮市のある一角にある寂れた公園にいる。そこで彼は、さんざん悩んでいるのだ。
もう死ぬしかない。
首吊り用にロープを持ってきた。けど、桜の枝が折れそうだから止めよう。飛び降りも、うまく落ちないとダメそうだから止めよう。そうだ、排気ガスを車に引き込んでそれで…、と考えている。
彼が死のうとしているのには理由がある。
前科三犯で身寄りもない自分を引き取ってくれた工務店の親方がいる。競馬だの競艇だのの金をつぎ込んでしまう自分に給料を前借させてくれたり、いろいろと面倒を見てくれた。
そんな親方を殴って、しかも車を盗んで来てしまった。サラ金から借りたお金も、既に返せない額になっている。もう行き場も失ってしまった。死ぬしかないのだ。
死ぬしかないと思いながら、決心がつかずウダウダしていた彼の前に、一人の子供が現れた。重そうなリュックサックを背負った、小学1年生くらいの子供だ。話を聞いてみると、どうやら金持ちの子供で、しかも家出をしてきたのだという。
おー神様仏様。カモネギとはこのことだ。この子を誘拐して身代金をせしめてしまえばいいではないか。素晴らしいことに、ムショ仲間だったある人から、誘拐の極意だって教わっている。完璧だ。一発逆転の大チャンスだ!
そうして秀吉は、伝助というその子供をうまいこと騙してどこか旅に出る風に思わせておきながら、同時に伝助の家と連絡を取り、身代金を奪い取る算段を始めるのだが…。
どこで歯車が狂ったか、秀吉はなんと警察だけでなく、ヤクザやチャイニーズマフィアにも追われる身になってしまった。しかも、殺すはずだった伝助との間にも、友情めいたものが生まれつつある。どうすればいいんだ、俺は…。
というような話です。
本作も、これまでの荻原作品同様、素晴らしくいいですね。
ミステリーではもはや常套となった誘拐ものの作品だけど、本作は全然ミステリーと言った感じではありません。もちろん、秀吉としては本気で身代金誘拐を企んでいるのだし、伝助の家族は憔悴するのだけど、でも全然誘拐らしい緊張感がありません。どころか、やはりいつもの荻原作品らしく、ほんわかしてしまうんですね。
それはまず一つに、秀吉と伝助のキャラクターにあります。
秀吉は、もう凶悪な犯罪者とは対極というようなダメ誘拐犯で、怖くもなければ脅しもしない、むしろ伝助に振り回される感じで、全然犯罪をしているという感じではありません。本当に、伝助と一緒に旅に出ながら、ついでに誘拐もしてる、みたいな雰囲気が出ているんです。
そしてさらに、伝助のキャラがかなりいいですね。
荻原浩という作家は、男にしても女にしても、とにかく魅力溢れる子供を描くのがすごくうまくて、本作でも伝助というのは本当にいいキャラでした。
緊張感なくどこでも寝るし、漢字や英語はわからないのにスペイン語は分かるし、人のいうことを何でも信じるバカだし、でも全然憎めない、そんな素敵なキャラクターでした。時々、金持ち(という表現は多少間違っているのだけど)に生まれた寂しさみたいなのを醸し出してしんみりさせたかと思えば、いつもはヘニャとしてて役に立たないくせに、大大大ピンチにはなんとかしちゃうよくわからなさとか、とにかく、どの場面で出てきても飽きない感じで、前に読んだ「なかよし小鳩組」でもそうだったし、さらに「四度目の氷河期」でもそうだったけど、本作もとにかく子供の魅力でかなり物語を引っ張っているな、という感じでした。もちろん、ストーリーも面白いんですけど、キャラクターがそれを上回っていいですね。
で、誘拐の緊張感がない話ですけど、もう一つの理由は、誘拐犯を追っているのが警察ではなくヤクザだ、ということですね。
僕は、それなりに誘拐小説を読んできたと思いますけど、でも追う側が警察ではなくヤクザなんていう小説は、今までなかったと思います。
ヤクザというのは、機動力だけは警察並みかそれ以上持っているくせに、警察が持っているべき倫理だのに縛られないわけで、追われる方としてはさらにたちの悪い相手なわけです。しかし、警察のような、緻密で繊細なやり方をするわけではないので、どうしても動きが滑稽になって、誘拐だというような緊張感がなくなっていくんですね。
そうやって物語の随所で、誘拐であるという緊張感を削いでいき、ユーモアたっぷりにしたところが、本作の魅力なんだと思います。
タイトルの「誘拐」という文字を見て、あぁミステリーか、ちょっと苦手だから止めようかな、と思ったような人、いやいや全然違いますよ。いつもの荻原節が前回炸裂な作品になっていますよ。泣ける、というところまで行く作品ではないと思うけど、ほんわかするし、あったかくなれる感じの作品です。これは、かなりオススメですね。書店員的な視点から言えば、同じ双葉社の文庫だと「ハードボイルド・エッグ」の方が売れているんだけど、断然本作の方がいいですね。是非とも読んでみてください。いい話ですよ。
荻原浩「誘拐ラプソディー」
カフーを待ちわびて(原田マハ)
幸せは、待っているだけでは手に入らないのだろう。
それは、まあ分かっているのだけど、でも幸せを掴むために自分から動くというのも、なかなか難しいのだ。
何が幸せなのか、僕にはよくわからない。
どこを目指せば幸せだと感じるのか、それがよくわからないのだ。
これを探さなくてはいけない、と分かっているならば、まだ動きようもある。しかし、何を探せばいいのか分からないという状態では、動きようがない、と思ってしまう。
だから、幸せを素直に感じられる人は羨ましいと思うし、幸せの予感を捉えられる人も、また羨ましいと思うのだ。
割と多くの人は、結婚するということを、幸せの一つの基準にしている、ように思う。
それはそれで全然いいのだが、しかし僕には、結婚願望というものがまるでない。どうして人々はそんなに、結婚というものを大きな幸せとして捉えているのかが、よくわからないのである。
変だなと思うのは、結婚するということが一つの目的になってしまっている、ということだ。
もちろん僕だって、すごく気の合う人がいて、一緒にいて楽しくて、みたいな人がいれば、結婚したら幸せだろうな、と思ったりもする。誰かと一緒に人生を過ごす、というのも悪くない、と思えるだろう。
しかしそれは、結婚というものがそもそも前提になっていない話だ。結果的に結婚という話になれば、それはまあそれでいい、という風に僕は思っているわけで、結婚という結果を求めているわけではない。
しかし多くの人は、結婚することそのものが幸せだ、と思い込んでいるように思う。だから、見合いもすれば、合コンにも行く。
そもそも僕は、結婚相手を見つけるために見合いをしたり合コンしたりするのは、なんて本末転倒なんだろう、と思ったりするのだ。結婚する、というゴールがまずあってすべてを始めるなんて、面白くもなんともないし、それが結局幸せなのか、と思う。結婚というのは一つの結果であって、それ以外にもどんな方向にも進みうる、という方が、僕は楽しいと思うし健全ではないかと思うのだ。
そんな風に考えている僕だから、幸せというものを目指すことがなかなか難しいのである。こうなれば幸せだ、というような目標というかゴールが、特に自分にはない。お金持ちになろうが結婚しようが、美人と付き合おうが世界一周をしようが、それが僕の求めた幸せなのか、というとそうではないような気がする。
いっそもっと分かりやすい人間だったらよかったのにな、と思わないでもない。周りの人間は、金持ちになりたい、ということをよく言う。僕は、金持ちになることに特に興味はないのだけど、でもその友人達は、金持ちになれば、とりあえず幸せを感じることが出来るのだろうし、金持ちになれないとしても、そこを目指している自分に充足できるのだろうと思う。そういう生き方は、あまり得意ではないし好きではないのだけど、しかし、進むべき方向を失っている今の僕と比べれば、断然いいのではないか、と思う。
さながらそれは、ジョギングのようなものだろう。ゴールがあるわけではない。走ることを止めるのは、いつでもどこでも出来る。ただ、どこに辿り着くわけでもない。常に、ただ走っているだけの自分がそこにいるだけで、走り終えても、そこには何も残らない。
僕も、マラソンのように、ゴールのきちんとある人生を勧めればよかったのだ。たとえそのゴールがどんなに遠くても、その道のりがどんなに辛くても、ゴールがある限り、走り続けることに意味がある。
幸せを目指すために走ることの出来る人間は羨ましい。ただ無意味に走っているだけの僕の人生とは大違いだ。僕だって、走れないわけではないのだ。しかし、ゴールがどこにもない。それは虚しいし、走り甲斐がない。
僕は、常に願っているのだ。
ゴールが突然目の前に現れることを。
曲がり角をひょいと曲がると、自分でも思ってもみなかったところにゴールが現れるのを、待ち望んでいるのである。
それは、都合のいい話だし、きっとそんなことは起こらないだろう。
しかしそれでも、願わずにはいられない。
カフーを待ちわびる僕の元に、幸せがふいに舞い込んでくることを。
そろそろ内容に入ろうと思います。
明青は、沖縄の離島である与那喜島で雑貨店を営んでいる。父を事故で亡くし、母は突然行方知れずになり、もう長いこと一人で暮らしている。裏の家に住むおばあに食事の世話をしてもらいながら、カフーという名の愛犬と共に、穏やかな毎日を過ごしている。
幼馴染の俊一が持ちかけたリゾート開発の話が、今島での一番の話題だ。
この与那喜島をリゾート地にする計画があり、そのために明青にも立ち退いてもらいたい、という話がある。リゾート開発に反対する声はまだ多少あるも、少しずつだが計画に飲み込まれていってしまう。
そうやって、穏やかながらも少し慌しい夏がやってきた。
明青の元に一通の手紙が来たのは、そんなある日のことだった。
『拝啓
初めてお便りを差し上げます。そして、初めてのお便りで、このような唐突なお願いをすることをどうかお許しください。
遠久島の飛泡神社で、あなたの絵馬を拝見しました。そして、迷いながらもひとすじの希望を持って、この手紙をしたためています。
あの絵馬に書いてあったあなたの言葉が本当ならば、私をあなたのお嫁さんにしてくださいますか。
あなたにお目にかかりたく、近々お訪ねしようと決心しています。
かしこ
幸』
俊一による説得の一環として、かつて俊一が開発を手がけたという遠久島という北陸の孤島を訪れたことがあった。そこで訪れた神社で、確かに絵馬に書いた。
『嫁に来ないか。幸せにします
与那喜島 友寄明青』
書いたけど、いやでもまさか、まさかねぇ…。
しばらくして、本当に、幸と名乗る女性が明青を訪ねて与那喜島へとやってきて…。
というような話です。
いやー、これはよかったですね。号泣とまではいかないけど、割と涙腺に来る話でしたね。これも今年の結構掘り出し物だなぁ、と思っています。
本作は、今年が第一回となる、日本ラブストーリー大賞の大賞受賞作です。ラブストーリーというのは、昔は苦手だったけど、いろいろ読んでいく中で結構読めるようになってきて、今でもちょくちょく読んだりするんだけど、本作はいやホントよかったと思います。
まず、設定がうまい。
初めの、絵馬を見てどうの、というのはちょっとどうかなぁ、と思いながら読んでいたんだけど(でも…とまあそれは書かないで置いておくとして)、最後のあの場面に至るまでの設定の妙というのは、本当にうまいと思いました。その背景のど真ん中に、与那喜島の開発というものが横たわっているのだけど、まああんまり多くを語りはしませんが、うまいと思いました。
それに、なんと言っても幸のキャラクターがすごくいいです。
突然(まあ手紙を出したから突然ではないかもだけど)明青の家にやってきて、今日からお世話になります、と来る。それからは、何事もなかったかのように一緒に暮らし、与那喜島の生活にも慣れていく。花が咲いたような明るさを持っているし、一方で壊れてしまいそうなはかなさも持っている。男勝りな部分もあれば、女性らしい部分もあったりで、印象がくるくると変わっていくようなそんな感じでした。
とにかく、幸のキャラクターがすごくよくて、まああんな人がいたらそりゃあ惚れるわなぁ、と思いながら、明青羨ましいなぁ、なんて思いながら読んでました。
明青の方は、奥手も奥手という感じで、全然何にも出来ないのだけど(幸の名前を呼ぶことさえ出来ない)、それでも幸に心をどんどん奪われていって、突然風のようにやってきた闖入者なのに、すごく大切な存在になっていくわけです。
そんな二人が、もうあんなことになっちゃって…。あの場面はちょっと、涙腺に来ますね。マジかよ…、って感じです。恋愛ものをそんなに読みなれてないので、もしかしたらよくあるパターンなのかもだけど、でもあの場面は、ぐっとくると思います。
また、沖縄の暮らしの素晴らしいこと素晴らしいこと。
今年僕は沖縄に旅行に行っきまして、主に本島ではなく離島を中心に行ったのだけど、本作を読んでいるとその時に見た沖縄の光景がパァーッと蘇ってくる感じでした。どこまでも青い空と、遠浅で水平線の先まで行けるんじゃないかと思う透き通った海、そして白砂に覆われた輝くようなビーチと、つやつやとした鮮やかな緑がまぶしい木々が視界のすべてというような場所の中で、それが子供の頃から当たり前の光景として育った人々の暮らしというのは、本島に憧れます。沖縄語や島の文化なんかもきちんと織り込んで、沖縄という雰囲気を存分に味わうことのできる作品です。
恋愛小説として読むのももちろんだけど、穏やかな日常を綴った作品とも読めるし、青春小説とも言えるだろうと思います。新人とは思えないほど文章はしっかりしているし、物語の構成なんかもよくて、いい小説を読んだな、という気分に浸れる作品です。
最後に。本作の著者の経歴を書いてみましょう。なんか、よくわからないけど、すごいんです。
大手総合商社、大手都市開発企業美術館開設室、ニューヨーク近代美術館を経て、2002年より独立し、フリーのキュレーターとして活躍。また、カルチャーライターと呼ばれるような執筆活動もしているそうですが、小説は本作が初挑戦。
そして、もう一つ驚かされる経歴は、なんとあの原田宗典の実の妹、らしいです。なるほど、文章がうまいのも納得、というような感じもします。
まあそんなわけで、割と僕は、破格の新人、と呼んでしまっていいと思います。作品も経歴も、なかなか破格です。作品は、かなりホンモノだと僕は思います。ベタベタした恋愛小説ではなくさらりとしている感じなんで、恋愛小説があんまり得意ではないという人にも勧められる作品です。是非読んでみてください。
原田マハ「カフーを待ちわびて」
それは、まあ分かっているのだけど、でも幸せを掴むために自分から動くというのも、なかなか難しいのだ。
何が幸せなのか、僕にはよくわからない。
どこを目指せば幸せだと感じるのか、それがよくわからないのだ。
これを探さなくてはいけない、と分かっているならば、まだ動きようもある。しかし、何を探せばいいのか分からないという状態では、動きようがない、と思ってしまう。
だから、幸せを素直に感じられる人は羨ましいと思うし、幸せの予感を捉えられる人も、また羨ましいと思うのだ。
割と多くの人は、結婚するということを、幸せの一つの基準にしている、ように思う。
それはそれで全然いいのだが、しかし僕には、結婚願望というものがまるでない。どうして人々はそんなに、結婚というものを大きな幸せとして捉えているのかが、よくわからないのである。
変だなと思うのは、結婚するということが一つの目的になってしまっている、ということだ。
もちろん僕だって、すごく気の合う人がいて、一緒にいて楽しくて、みたいな人がいれば、結婚したら幸せだろうな、と思ったりもする。誰かと一緒に人生を過ごす、というのも悪くない、と思えるだろう。
しかしそれは、結婚というものがそもそも前提になっていない話だ。結果的に結婚という話になれば、それはまあそれでいい、という風に僕は思っているわけで、結婚という結果を求めているわけではない。
しかし多くの人は、結婚することそのものが幸せだ、と思い込んでいるように思う。だから、見合いもすれば、合コンにも行く。
そもそも僕は、結婚相手を見つけるために見合いをしたり合コンしたりするのは、なんて本末転倒なんだろう、と思ったりするのだ。結婚する、というゴールがまずあってすべてを始めるなんて、面白くもなんともないし、それが結局幸せなのか、と思う。結婚というのは一つの結果であって、それ以外にもどんな方向にも進みうる、という方が、僕は楽しいと思うし健全ではないかと思うのだ。
そんな風に考えている僕だから、幸せというものを目指すことがなかなか難しいのである。こうなれば幸せだ、というような目標というかゴールが、特に自分にはない。お金持ちになろうが結婚しようが、美人と付き合おうが世界一周をしようが、それが僕の求めた幸せなのか、というとそうではないような気がする。
いっそもっと分かりやすい人間だったらよかったのにな、と思わないでもない。周りの人間は、金持ちになりたい、ということをよく言う。僕は、金持ちになることに特に興味はないのだけど、でもその友人達は、金持ちになれば、とりあえず幸せを感じることが出来るのだろうし、金持ちになれないとしても、そこを目指している自分に充足できるのだろうと思う。そういう生き方は、あまり得意ではないし好きではないのだけど、しかし、進むべき方向を失っている今の僕と比べれば、断然いいのではないか、と思う。
さながらそれは、ジョギングのようなものだろう。ゴールがあるわけではない。走ることを止めるのは、いつでもどこでも出来る。ただ、どこに辿り着くわけでもない。常に、ただ走っているだけの自分がそこにいるだけで、走り終えても、そこには何も残らない。
僕も、マラソンのように、ゴールのきちんとある人生を勧めればよかったのだ。たとえそのゴールがどんなに遠くても、その道のりがどんなに辛くても、ゴールがある限り、走り続けることに意味がある。
幸せを目指すために走ることの出来る人間は羨ましい。ただ無意味に走っているだけの僕の人生とは大違いだ。僕だって、走れないわけではないのだ。しかし、ゴールがどこにもない。それは虚しいし、走り甲斐がない。
僕は、常に願っているのだ。
ゴールが突然目の前に現れることを。
曲がり角をひょいと曲がると、自分でも思ってもみなかったところにゴールが現れるのを、待ち望んでいるのである。
それは、都合のいい話だし、きっとそんなことは起こらないだろう。
しかしそれでも、願わずにはいられない。
カフーを待ちわびる僕の元に、幸せがふいに舞い込んでくることを。
そろそろ内容に入ろうと思います。
明青は、沖縄の離島である与那喜島で雑貨店を営んでいる。父を事故で亡くし、母は突然行方知れずになり、もう長いこと一人で暮らしている。裏の家に住むおばあに食事の世話をしてもらいながら、カフーという名の愛犬と共に、穏やかな毎日を過ごしている。
幼馴染の俊一が持ちかけたリゾート開発の話が、今島での一番の話題だ。
この与那喜島をリゾート地にする計画があり、そのために明青にも立ち退いてもらいたい、という話がある。リゾート開発に反対する声はまだ多少あるも、少しずつだが計画に飲み込まれていってしまう。
そうやって、穏やかながらも少し慌しい夏がやってきた。
明青の元に一通の手紙が来たのは、そんなある日のことだった。
『拝啓
初めてお便りを差し上げます。そして、初めてのお便りで、このような唐突なお願いをすることをどうかお許しください。
遠久島の飛泡神社で、あなたの絵馬を拝見しました。そして、迷いながらもひとすじの希望を持って、この手紙をしたためています。
あの絵馬に書いてあったあなたの言葉が本当ならば、私をあなたのお嫁さんにしてくださいますか。
あなたにお目にかかりたく、近々お訪ねしようと決心しています。
かしこ
幸』
俊一による説得の一環として、かつて俊一が開発を手がけたという遠久島という北陸の孤島を訪れたことがあった。そこで訪れた神社で、確かに絵馬に書いた。
『嫁に来ないか。幸せにします
与那喜島 友寄明青』
書いたけど、いやでもまさか、まさかねぇ…。
しばらくして、本当に、幸と名乗る女性が明青を訪ねて与那喜島へとやってきて…。
というような話です。
いやー、これはよかったですね。号泣とまではいかないけど、割と涙腺に来る話でしたね。これも今年の結構掘り出し物だなぁ、と思っています。
本作は、今年が第一回となる、日本ラブストーリー大賞の大賞受賞作です。ラブストーリーというのは、昔は苦手だったけど、いろいろ読んでいく中で結構読めるようになってきて、今でもちょくちょく読んだりするんだけど、本作はいやホントよかったと思います。
まず、設定がうまい。
初めの、絵馬を見てどうの、というのはちょっとどうかなぁ、と思いながら読んでいたんだけど(でも…とまあそれは書かないで置いておくとして)、最後のあの場面に至るまでの設定の妙というのは、本当にうまいと思いました。その背景のど真ん中に、与那喜島の開発というものが横たわっているのだけど、まああんまり多くを語りはしませんが、うまいと思いました。
それに、なんと言っても幸のキャラクターがすごくいいです。
突然(まあ手紙を出したから突然ではないかもだけど)明青の家にやってきて、今日からお世話になります、と来る。それからは、何事もなかったかのように一緒に暮らし、与那喜島の生活にも慣れていく。花が咲いたような明るさを持っているし、一方で壊れてしまいそうなはかなさも持っている。男勝りな部分もあれば、女性らしい部分もあったりで、印象がくるくると変わっていくようなそんな感じでした。
とにかく、幸のキャラクターがすごくよくて、まああんな人がいたらそりゃあ惚れるわなぁ、と思いながら、明青羨ましいなぁ、なんて思いながら読んでました。
明青の方は、奥手も奥手という感じで、全然何にも出来ないのだけど(幸の名前を呼ぶことさえ出来ない)、それでも幸に心をどんどん奪われていって、突然風のようにやってきた闖入者なのに、すごく大切な存在になっていくわけです。
そんな二人が、もうあんなことになっちゃって…。あの場面はちょっと、涙腺に来ますね。マジかよ…、って感じです。恋愛ものをそんなに読みなれてないので、もしかしたらよくあるパターンなのかもだけど、でもあの場面は、ぐっとくると思います。
また、沖縄の暮らしの素晴らしいこと素晴らしいこと。
今年僕は沖縄に旅行に行っきまして、主に本島ではなく離島を中心に行ったのだけど、本作を読んでいるとその時に見た沖縄の光景がパァーッと蘇ってくる感じでした。どこまでも青い空と、遠浅で水平線の先まで行けるんじゃないかと思う透き通った海、そして白砂に覆われた輝くようなビーチと、つやつやとした鮮やかな緑がまぶしい木々が視界のすべてというような場所の中で、それが子供の頃から当たり前の光景として育った人々の暮らしというのは、本島に憧れます。沖縄語や島の文化なんかもきちんと織り込んで、沖縄という雰囲気を存分に味わうことのできる作品です。
恋愛小説として読むのももちろんだけど、穏やかな日常を綴った作品とも読めるし、青春小説とも言えるだろうと思います。新人とは思えないほど文章はしっかりしているし、物語の構成なんかもよくて、いい小説を読んだな、という気分に浸れる作品です。
最後に。本作の著者の経歴を書いてみましょう。なんか、よくわからないけど、すごいんです。
大手総合商社、大手都市開発企業美術館開設室、ニューヨーク近代美術館を経て、2002年より独立し、フリーのキュレーターとして活躍。また、カルチャーライターと呼ばれるような執筆活動もしているそうですが、小説は本作が初挑戦。
そして、もう一つ驚かされる経歴は、なんとあの原田宗典の実の妹、らしいです。なるほど、文章がうまいのも納得、というような感じもします。
まあそんなわけで、割と僕は、破格の新人、と呼んでしまっていいと思います。作品も経歴も、なかなか破格です。作品は、かなりホンモノだと僕は思います。ベタベタした恋愛小説ではなくさらりとしている感じなんで、恋愛小説があんまり得意ではないという人にも勧められる作品です。是非読んでみてください。
原田マハ「カフーを待ちわびて」
インド旅行記2 南インド編(中谷美紀)
近々、エジプトに旅行に行く予定があったりする。
外国など一度も行ったことのない人間が、どれくらいの時間乗るのかしらないが、果てしなく長い時間だろう飛行機の時間をなんとか耐え、8日間という長きにわたり外国を旅行するというのは、まあ不安がいっぱいというものである。
そもそもまず、どう考えても言葉が通じるわけがない。現地語なんかもちろん喋れるわけがないし、英語にしたところで会話が出来るほど素晴らしく出来るわけもなく、また学生時代ならともかくも、すでに英語から久しく離れてしまった身としては、いささかどころか心許ないものがある。
さらに、文化がまるで違うだろう。チップ一つにしたところで、あげるべきなのか、あげるならどのくらいあげるべきなのかさっぱりだし、料金をふっかけられたり騙されたりしそうになっても、それに気付かないかもしれない。まあ、たぶんツアーか何かで行くのだろうから、そこまで心配するようなことでもないかもしれないが、しかし水が合わないとか、まあ問題は尽きないのである。
さてまあそんなわけで、外国に行くというのはなかなか大変なことなのだけど、まあある意味で面白くもあるだろう。
人々は、写真なんかで知ってはいるけど、実際見たことのない風景や遺跡なんかを見たい、ということで外国とかに行くのかもしれないけど、僕としてはまあ別にそんなのは特にいい。もちろん、見たら見たで「おぉ」という感じになるのだろうけど、特別それを望んでいるわけでもない。
僕としてはむしろ、幻想がどんどんと崩れていくところが面白いだろうな、と思っている。
例えば、僕がエジプトに行くというと、大抵に人が口にすることだけど、スフィンクスの近くにはケンタッキーがあるらしい。これは、幻滅だろう。ガイドブックや歴史の教科書なんかには、まず間違いなく載っていないが、そこには確実に、あの白髭のおっさんとともに、ケンタッキーの店があるのである。こういう、写真を見ただけでは気付かない、写真では綺麗に装っているものの、その裏側を見るというか、幻想を剥ぐというか、そういう方が行って楽しいと思う。
ピラミッドも、なんだ行ってみたら大してでかくないな、とか、
ナイル川も、見てみたらなんだ、ただの河じゃん、とか、
なんかそういう方が楽しいと思えてしまう、天邪鬼である。
だから僕としては、観光客用の綺麗な面だけを見たいなんて思わないし、どんどん幻想は消え去ってくれればいいと思っているのだけど、でもまあやっぱり、綺麗な面しか見せないだろうな、とも思う。
考えてみれば、
ピラミッドはすごいよ、とは写真を見ただけで言えるけど、
ピラミッドは大したことない、とは現地に行かないと言えないわけで、
だったら後者の方が価値があるだろう、という発想である。つくづく変な考え方をする人間だけど、それが僕という人間である。
だから旅行中は、どんどん幻滅するような場面を見られればいいと思うし、いい面だけ見ていきたいなどとも思わない。さすがに、犯罪的な何かに巻き込まれるのは勘弁して欲しいけど、トラブルや幻滅が多いほうが、まあ何かと楽しいだろう。
例えば芸能人にしても、テレビで見るとすごそうだけど、実際会って見ると普通の人だね、という方がいい。どんどん幻滅させてほしい。その方が、会うだけの価値があるというものである。
まあそんなわけで、エジプトでは、いろんな面を見て、いろんな幻滅をしようと思うのである。正しい旅行のあり方ではないかもしれないけど、旅行というものにそもそも大層な理屈をつけたくない僕としては、そのくらいの構えの方が何かといいだろう、と勝手に思っています。
インドや中谷美紀とはまるで関係ない話をしましたが、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、中谷美紀の「インド旅行記全4部作」の第二弾であり、今回は南インド編となっています。
前回の北インド旅行から1ヶ月と経たないうちにまたインドへと単身乗り込んでいくわけで、そりゃあマネージャーも文句を言うだろうけど、中谷美紀というのはそんなのにめげる人間ではない。前回よりもさらに少ない荷物でインドへと向かい、今回も約1ヶ月という、長期一人旅を敢行したのである。
相変わらず中谷美紀というのは行動的で筋が通っていて、そのきちんとしている様は読んでいて気持ちがいいです。ダメなものはダメとして譲らないし、それでいて望んだことは多少ワガママでも通す。狡猾なインド人たちにも負けることなく、また同じく狡猾な物乞いにも揺らぐことなく、自分が正しいと思ったやり方できちんとしていられるという辺り、やはり惹かれますね。
とにかく全編、女性らしさというものがあまりなく、女性らしくない女性が大好きな僕としては、やっぱ中谷美紀は素晴らしい、と再確認したところです。アーユルヴェーダと呼ばれるエステみたいなものを体験したり、相変わらずヨガをやったり、という辺りが女性らしいと言えば言えるけど、そもそもインドを一人で旅行できる辺り女性らしくないわけで、素晴らしいものだと思います。
インドの文化や歴史についても様々に記述があるのだけど、これを中谷美紀はどうやって書いているのだろう、といつも思います。現地でそこそこ名前なんかを覚えておいて、帰ってきてからきちんと調べるのか、あるいは聞いたことをその場でメモしているのか。そもそも、文章で一度読んでも覚えられないような名前が頻出するインドの伝承なんかをスラスラと書いているわけで、ちゃんと聞き取り、かつ記憶しているのだろうか?と思ってしまいます。すごいものです。自分が同じ事をしようと思ったら、まず出来ないだろうと思います。
カースト制についても面白い話が載っていました。インドでは未だにカースト制というものが残っているのだけど、それは単純に、階級が上だからいい、とも言えないようなのです。
例えば、医療費なんかは階級が高くなればなるほど高いし、また試験の合格基準なんかも、階級が高いほど高いわけです。なら、階級が下ならいいのかというとそうでもなく、階級が下だと不可触民と呼ばれ、それはそれで軽蔑をされるのだそうです。難しいものです。カースト制なんかなくしてしまえばいいと思うんですけど、それは学校の中でいじめをなくそう、みたいに言っているわけで、難しいんでしょうね。でも日本はかつて、武士だの町人だのエタヒニン(漢字が分からない)だのというのをなくした運動(なんて名前だか覚えてないけど)があったわけで、やってやれないことはないのだろうな、とも思いますけど。
インドを一ヶ月も旅行するなんて羨ましいと思うかもしれないけど、でも実際やろうと思ったら、これ結構大変だと思いますよ。言葉だとか料理だとかそういう問題ではなく、僕は三日で飽きるだろうな、と思います。誰か一緒にいれば別だけど、一人でずっと旅行し続けることが出来るというのも、ある種の才能だろうな、と思います。そういえば、昔バイトしてたファミレスにいた女性で、バイトして貯めまくったお金で半年くらいアジアにバックパックするみたいな人がいたけど、それもすごいなぁ、と思ったりしたものでした。僕には、きっと出来ないでしょうね。
まあそんな、女優中谷美紀の、相変わらずの珍道中を記した旅行記です。一巻目を読んだ人はもう惰性で買ってしまうだろうし(笑)、一巻目を読んでない人でも、まあどの巻から読んでも別に問題ないので好きなとこから読んでくれればいいわけで、中谷美紀が好きでなくても、インドに特に興味がなくても、それなりに楽しめる内容だと思います。ガイドブック的な役には立たないだろうけど、旅行の雰囲気というのは大きく味わえると思います。読んでみてください。
中谷美紀「インド旅行記2 南インド編」
外国など一度も行ったことのない人間が、どれくらいの時間乗るのかしらないが、果てしなく長い時間だろう飛行機の時間をなんとか耐え、8日間という長きにわたり外国を旅行するというのは、まあ不安がいっぱいというものである。
そもそもまず、どう考えても言葉が通じるわけがない。現地語なんかもちろん喋れるわけがないし、英語にしたところで会話が出来るほど素晴らしく出来るわけもなく、また学生時代ならともかくも、すでに英語から久しく離れてしまった身としては、いささかどころか心許ないものがある。
さらに、文化がまるで違うだろう。チップ一つにしたところで、あげるべきなのか、あげるならどのくらいあげるべきなのかさっぱりだし、料金をふっかけられたり騙されたりしそうになっても、それに気付かないかもしれない。まあ、たぶんツアーか何かで行くのだろうから、そこまで心配するようなことでもないかもしれないが、しかし水が合わないとか、まあ問題は尽きないのである。
さてまあそんなわけで、外国に行くというのはなかなか大変なことなのだけど、まあある意味で面白くもあるだろう。
人々は、写真なんかで知ってはいるけど、実際見たことのない風景や遺跡なんかを見たい、ということで外国とかに行くのかもしれないけど、僕としてはまあ別にそんなのは特にいい。もちろん、見たら見たで「おぉ」という感じになるのだろうけど、特別それを望んでいるわけでもない。
僕としてはむしろ、幻想がどんどんと崩れていくところが面白いだろうな、と思っている。
例えば、僕がエジプトに行くというと、大抵に人が口にすることだけど、スフィンクスの近くにはケンタッキーがあるらしい。これは、幻滅だろう。ガイドブックや歴史の教科書なんかには、まず間違いなく載っていないが、そこには確実に、あの白髭のおっさんとともに、ケンタッキーの店があるのである。こういう、写真を見ただけでは気付かない、写真では綺麗に装っているものの、その裏側を見るというか、幻想を剥ぐというか、そういう方が行って楽しいと思う。
ピラミッドも、なんだ行ってみたら大してでかくないな、とか、
ナイル川も、見てみたらなんだ、ただの河じゃん、とか、
なんかそういう方が楽しいと思えてしまう、天邪鬼である。
だから僕としては、観光客用の綺麗な面だけを見たいなんて思わないし、どんどん幻想は消え去ってくれればいいと思っているのだけど、でもまあやっぱり、綺麗な面しか見せないだろうな、とも思う。
考えてみれば、
ピラミッドはすごいよ、とは写真を見ただけで言えるけど、
ピラミッドは大したことない、とは現地に行かないと言えないわけで、
だったら後者の方が価値があるだろう、という発想である。つくづく変な考え方をする人間だけど、それが僕という人間である。
だから旅行中は、どんどん幻滅するような場面を見られればいいと思うし、いい面だけ見ていきたいなどとも思わない。さすがに、犯罪的な何かに巻き込まれるのは勘弁して欲しいけど、トラブルや幻滅が多いほうが、まあ何かと楽しいだろう。
例えば芸能人にしても、テレビで見るとすごそうだけど、実際会って見ると普通の人だね、という方がいい。どんどん幻滅させてほしい。その方が、会うだけの価値があるというものである。
まあそんなわけで、エジプトでは、いろんな面を見て、いろんな幻滅をしようと思うのである。正しい旅行のあり方ではないかもしれないけど、旅行というものにそもそも大層な理屈をつけたくない僕としては、そのくらいの構えの方が何かといいだろう、と勝手に思っています。
インドや中谷美紀とはまるで関係ない話をしましたが、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、中谷美紀の「インド旅行記全4部作」の第二弾であり、今回は南インド編となっています。
前回の北インド旅行から1ヶ月と経たないうちにまたインドへと単身乗り込んでいくわけで、そりゃあマネージャーも文句を言うだろうけど、中谷美紀というのはそんなのにめげる人間ではない。前回よりもさらに少ない荷物でインドへと向かい、今回も約1ヶ月という、長期一人旅を敢行したのである。
相変わらず中谷美紀というのは行動的で筋が通っていて、そのきちんとしている様は読んでいて気持ちがいいです。ダメなものはダメとして譲らないし、それでいて望んだことは多少ワガママでも通す。狡猾なインド人たちにも負けることなく、また同じく狡猾な物乞いにも揺らぐことなく、自分が正しいと思ったやり方できちんとしていられるという辺り、やはり惹かれますね。
とにかく全編、女性らしさというものがあまりなく、女性らしくない女性が大好きな僕としては、やっぱ中谷美紀は素晴らしい、と再確認したところです。アーユルヴェーダと呼ばれるエステみたいなものを体験したり、相変わらずヨガをやったり、という辺りが女性らしいと言えば言えるけど、そもそもインドを一人で旅行できる辺り女性らしくないわけで、素晴らしいものだと思います。
インドの文化や歴史についても様々に記述があるのだけど、これを中谷美紀はどうやって書いているのだろう、といつも思います。現地でそこそこ名前なんかを覚えておいて、帰ってきてからきちんと調べるのか、あるいは聞いたことをその場でメモしているのか。そもそも、文章で一度読んでも覚えられないような名前が頻出するインドの伝承なんかをスラスラと書いているわけで、ちゃんと聞き取り、かつ記憶しているのだろうか?と思ってしまいます。すごいものです。自分が同じ事をしようと思ったら、まず出来ないだろうと思います。
カースト制についても面白い話が載っていました。インドでは未だにカースト制というものが残っているのだけど、それは単純に、階級が上だからいい、とも言えないようなのです。
例えば、医療費なんかは階級が高くなればなるほど高いし、また試験の合格基準なんかも、階級が高いほど高いわけです。なら、階級が下ならいいのかというとそうでもなく、階級が下だと不可触民と呼ばれ、それはそれで軽蔑をされるのだそうです。難しいものです。カースト制なんかなくしてしまえばいいと思うんですけど、それは学校の中でいじめをなくそう、みたいに言っているわけで、難しいんでしょうね。でも日本はかつて、武士だの町人だのエタヒニン(漢字が分からない)だのというのをなくした運動(なんて名前だか覚えてないけど)があったわけで、やってやれないことはないのだろうな、とも思いますけど。
インドを一ヶ月も旅行するなんて羨ましいと思うかもしれないけど、でも実際やろうと思ったら、これ結構大変だと思いますよ。言葉だとか料理だとかそういう問題ではなく、僕は三日で飽きるだろうな、と思います。誰か一緒にいれば別だけど、一人でずっと旅行し続けることが出来るというのも、ある種の才能だろうな、と思います。そういえば、昔バイトしてたファミレスにいた女性で、バイトして貯めまくったお金で半年くらいアジアにバックパックするみたいな人がいたけど、それもすごいなぁ、と思ったりしたものでした。僕には、きっと出来ないでしょうね。
まあそんな、女優中谷美紀の、相変わらずの珍道中を記した旅行記です。一巻目を読んだ人はもう惰性で買ってしまうだろうし(笑)、一巻目を読んでない人でも、まあどの巻から読んでも別に問題ないので好きなとこから読んでくれればいいわけで、中谷美紀が好きでなくても、インドに特に興味がなくても、それなりに楽しめる内容だと思います。ガイドブック的な役には立たないだろうけど、旅行の雰囲気というのは大きく味わえると思います。読んでみてください。
中谷美紀「インド旅行記2 南インド編」
セックスボランティア(河合香織)
このブログでは、なるべくいい顔をしないようにしようと思っている。ネットの匿名性というものを大いに利用させてもらっているわけで、そのことに気が咎めないでもないが、それでも、聞こえのいいことを言って自分を偽るくらいなら、ブログを続けている意味はあんまりないだろう。
やはり、障害者の性というのは、なかなか考え難いものである。
僕らがこういう考えを持っているからこそ、何も変わらないのだろうし、障害者の方も苦しむのだろうが、しかしこれは理屈でどうにかなるようなものでもない。
なんとなく、言ってしまえば生理的な嫌悪感というものが湧き上がってくるのである。
どうしてだろう?それは、小学生がセックスするのを想像するようなものだろうか?あるいは、老人がセックスするのを想像するようなものだろうか?よくわからない。
障害者も一人の人間で、だから性についてだって考えなくてはいけない、という理屈は、当然頭の中では理解できる
。そりゃそうだ。障害者になったからと言って、性欲がなくなるなんてことがあるわけがない。そんなことは当然だし、考えるべき問題ですらない。
しかし、実際は、障害者の性というものはかなり不当に扱われているし、障害者の側からも言い出しづらいという状況になっている。一般の人の、障害者が性について考えるなんて、という不当な発想により、障害者は壁の向こうに追いやられているのである。
しかし、僕らとしても言い訳をしたいところである。
誰でもそうだと思うけど、性についてとか関係なく、障害者というものとどう接していいのかわからないところがあると思う。現実的に障害者の姿を見かけることはあまりないけど、でも例えば、目の見えない人が街中にいる、車椅子に乗った人が街中にいる、という状況で、僕らがどうすれば適切なのかが、よくわからないのである。
言われなくても手助けをするのが適切かもしれないし、でもそれはありがた迷惑かもしれない。手助けを申し出たときだけ助けて欲しいというかもしれないけど、でも障害者の誰もが助けを求めることが出来るわけでもないだろうし、また助けを求められた人が必ず助けてくれるとも限らない。
知っている人間ならば、こういう時はこうする、というのが分かっているのだろうけど、でも障害者というものを大枠で捉えた時に、そこにはルールや定石なんてものは存在しない。その接し方が統一できないからこそ、僕たちは障害者への対応に戸惑うし、だからこそ、だったら障害者を自分から遠ざけよう、と思ってしまうのである。
もちろん、そういう状況になっているのは、別に障害者の方が悪いわけではない。ただ、どうしようもなく悪いのである。誰も悪くないのに、状況だけが悪化する。そういうものだ。
そうやって僕らは、意識的にせよ無意識的にせよ、障害者という存在を遠ざけてしまうのである。
障害者が性について考えるのは、犯罪者の動機と似ているものがあるのかもしれない、と思う。
例えば、殺人を犯した人間がいるとする。人々は、その殺人犯はこういうトラウマがあってこんな人間だったからこそ、だから人を殺したのだ。自分とは違うのだから、自分は殺人を犯すことはないだろう。あの殺人者とは違うのである。そう思いたいがために、殺人者の動機を知りたがる。
一方で僕らは、障害者という存在を遠ざけてしまう。それはある種、酷い言い方をしてしまえば、犯罪者と同じような扱いをしてしまうということだ。自分から遠い存在には、自分と同じことをしていたくない、という発想がある。障害者が性について考えるというのは、遠ざけているはずの障害者が、僕らと同じだということを示していることになる。彼らも、僕らと同じ人間だったということだ。でも、そう考えるのは嫌だ。だから、障害者の性について考えるのは止めよう。そんな発想に行き着くのではないかと思う。
かなり酷い書き方をしたと思うのだが、しかし恐らくこういった現状が今はあるのだと思う。少なくとも、僕の中にないとは言い切れない。障害者の性を考えることで同じ人間だと考えなくてはいけないなら、それは考えたくない、という発想が、ないとはいえない。
しかし、同時に考えてしまうのだ。もし僕が障害者になったとしたら、どうだろうか、と。
それは、やはり辛いだろう。障害がなくて彼女が出来ないのと、障害を持って彼女が出来ないのとでは、やはり差は大きい。今の僕は、別段セックスをするような環境にないのだけど、まあ別にそれでも特にどうということはない。しかしそれは、まあするチャンスはいくらでもあるだろう、と思っているからこその余裕である。
障害者になってしまえば、一生できないかもしれない、ということを覚悟しなくてはいけないだろう。
やはり、それは辛いことだろう。
状況は、改善されなくてはいけないとは思う。しかし、それはなかなか難しい。障害者の側が望んでも、障害者ではない人の持つ壁が厚いからである。
いつかはその壁がなくなるだろうとは思う。しかし、それにはかなりの時間が掛かるだろう。本作のような本の登場は、その流れに拍車を掛けるかもしれないし、あるいはブレーキになってしまうかもしれない。しかし、現状を知ることは、何にしても大切だ。
障害者のタブーとさえ言われている、性の問題。あなたは、考えたことがありますか?
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、障害者の性というものを突き詰めて取材をした作品になっています。
著者に何か特別なきっかけというようなものがあったわけではないけど、でも障害者の性が美化されすぎているな、とは感じていた。そうやって、障害者の性というものに深く入り込んでいった。
ある美大の学生が卒業制作で作成した障害者の性を扱ったビデオを見る。生きるために必要な酸素ボンベを外してまで、風俗店でセックスをしようとする障害者がいる。ネットで性処理を手伝ってくれる女性を募集する障害者がいる。障害者の性処理を手伝おうとする主婦がいる。障害者専門の風俗店があるかと思えば、そこで働く障害者の女性がいて、出張ホストを待ちわびる女性障害者がいれば、障害者に性知識を教える講師がいたりする。
また、その分野ではかなり進んでいる、オランダにも取材をしに言っている。有償ボランティア機関が性処理を手伝ってくれる女性を派遣してくれたり、市が障害者の性処理のための資金を出していたり、「代理恋人療法」なる障害者向けの治療が存在していたりと、幅広い受け皿が存在している。
日本での障害者への性の取り組みに共通しているのは、誰もが個人レベルで活動をしている、ということである。公的機関や国が動いているのではなく、NPOやまったくの個人が、独自の考えでもって障害者の性と向き合っている。それは、まだ試行錯誤と呼ぶしかない段階で、特別な成果を上げることが出来ているわけではない。しかし、そういう動きがあるということ、そしてその動きをこういう作品で広く知らせることが、大事なことなのだと思う。
障害者の性を考える上で難しいのは、障害者にとってそれは、ただの快楽ではないということだ。
僕ら障害を持たない人間からすれば、セックスはただの娯楽というかただの快楽というか、言ってみれば特別な意味を持つようなものでもない。
しかし障害者からすれば、それはただの快楽ではなく、癒しなのである。障害を持っているというだけで失ってしまったあらゆるものを埋め合わせるだけの、そういう力がある。
しかし、セックスはセックスで、現象だけ見れば癒しとはほど遠いものだ。ただのセックスだし、快楽にしか見えない。
その、現実と現象の間の差が、障害者の性を考える上で難しいのだろうと思う。
僕は、障害者の性について、積極的に関わるつもりはない。だから無責任なことはいえないし、だから無責任なことがいえる、とどちらの立場も取れるけれども、しかし偽善でもなく、少なくてもこうは思う。
障害者にとってベストな形になればいいな、と。
本作でも、性を押し付けるみたいな形になっているケースがいくつもある。性処理というものだけに目が行き過ぎて、人間的な触れ合いというものが忘れられている、という感じだ。障害者にとって何がベストなのか、それはそれぞれに違うだろうけど、だからこそ、いろんな選択肢の中から選べるようになればいい、と思う。
難しい問題だ。と言って僕は逃げるのだが、きちんとそれに向き合っている人もいる。心無い批判もあるだろうし、周囲の無理解もあるなかで、それでも障害者のことを考えて活動をしている人がいる。それは、純粋に素晴らしい。
日本という国が特別遅れているわけではないだろう。障害者の性という問題は、どこでも難しい問題のはずだ。豊かな国であればあるほど同じ問題を抱えていることだろう。どうすればいいか分からないけど、でもこうやって少しでも意識をすることが大切なのかもしれない。
障害者の性という、普段絶対に考えることのないことについて考えるきっかけになる本です。そういう意味で、読むべき本だと思います。読んで何かが変わるわけではないけど、読む人が増え、それにつれて意見が出てくれば、少なくとも議論にはなるのではないでしょうか。楽観的過ぎますけど。読んでみてください。
河合香織「セックスボランティア」
やはり、障害者の性というのは、なかなか考え難いものである。
僕らがこういう考えを持っているからこそ、何も変わらないのだろうし、障害者の方も苦しむのだろうが、しかしこれは理屈でどうにかなるようなものでもない。
なんとなく、言ってしまえば生理的な嫌悪感というものが湧き上がってくるのである。
どうしてだろう?それは、小学生がセックスするのを想像するようなものだろうか?あるいは、老人がセックスするのを想像するようなものだろうか?よくわからない。
障害者も一人の人間で、だから性についてだって考えなくてはいけない、という理屈は、当然頭の中では理解できる
。そりゃそうだ。障害者になったからと言って、性欲がなくなるなんてことがあるわけがない。そんなことは当然だし、考えるべき問題ですらない。
しかし、実際は、障害者の性というものはかなり不当に扱われているし、障害者の側からも言い出しづらいという状況になっている。一般の人の、障害者が性について考えるなんて、という不当な発想により、障害者は壁の向こうに追いやられているのである。
しかし、僕らとしても言い訳をしたいところである。
誰でもそうだと思うけど、性についてとか関係なく、障害者というものとどう接していいのかわからないところがあると思う。現実的に障害者の姿を見かけることはあまりないけど、でも例えば、目の見えない人が街中にいる、車椅子に乗った人が街中にいる、という状況で、僕らがどうすれば適切なのかが、よくわからないのである。
言われなくても手助けをするのが適切かもしれないし、でもそれはありがた迷惑かもしれない。手助けを申し出たときだけ助けて欲しいというかもしれないけど、でも障害者の誰もが助けを求めることが出来るわけでもないだろうし、また助けを求められた人が必ず助けてくれるとも限らない。
知っている人間ならば、こういう時はこうする、というのが分かっているのだろうけど、でも障害者というものを大枠で捉えた時に、そこにはルールや定石なんてものは存在しない。その接し方が統一できないからこそ、僕たちは障害者への対応に戸惑うし、だからこそ、だったら障害者を自分から遠ざけよう、と思ってしまうのである。
もちろん、そういう状況になっているのは、別に障害者の方が悪いわけではない。ただ、どうしようもなく悪いのである。誰も悪くないのに、状況だけが悪化する。そういうものだ。
そうやって僕らは、意識的にせよ無意識的にせよ、障害者という存在を遠ざけてしまうのである。
障害者が性について考えるのは、犯罪者の動機と似ているものがあるのかもしれない、と思う。
例えば、殺人を犯した人間がいるとする。人々は、その殺人犯はこういうトラウマがあってこんな人間だったからこそ、だから人を殺したのだ。自分とは違うのだから、自分は殺人を犯すことはないだろう。あの殺人者とは違うのである。そう思いたいがために、殺人者の動機を知りたがる。
一方で僕らは、障害者という存在を遠ざけてしまう。それはある種、酷い言い方をしてしまえば、犯罪者と同じような扱いをしてしまうということだ。自分から遠い存在には、自分と同じことをしていたくない、という発想がある。障害者が性について考えるというのは、遠ざけているはずの障害者が、僕らと同じだということを示していることになる。彼らも、僕らと同じ人間だったということだ。でも、そう考えるのは嫌だ。だから、障害者の性について考えるのは止めよう。そんな発想に行き着くのではないかと思う。
かなり酷い書き方をしたと思うのだが、しかし恐らくこういった現状が今はあるのだと思う。少なくとも、僕の中にないとは言い切れない。障害者の性を考えることで同じ人間だと考えなくてはいけないなら、それは考えたくない、という発想が、ないとはいえない。
しかし、同時に考えてしまうのだ。もし僕が障害者になったとしたら、どうだろうか、と。
それは、やはり辛いだろう。障害がなくて彼女が出来ないのと、障害を持って彼女が出来ないのとでは、やはり差は大きい。今の僕は、別段セックスをするような環境にないのだけど、まあ別にそれでも特にどうということはない。しかしそれは、まあするチャンスはいくらでもあるだろう、と思っているからこその余裕である。
障害者になってしまえば、一生できないかもしれない、ということを覚悟しなくてはいけないだろう。
やはり、それは辛いことだろう。
状況は、改善されなくてはいけないとは思う。しかし、それはなかなか難しい。障害者の側が望んでも、障害者ではない人の持つ壁が厚いからである。
いつかはその壁がなくなるだろうとは思う。しかし、それにはかなりの時間が掛かるだろう。本作のような本の登場は、その流れに拍車を掛けるかもしれないし、あるいはブレーキになってしまうかもしれない。しかし、現状を知ることは、何にしても大切だ。
障害者のタブーとさえ言われている、性の問題。あなたは、考えたことがありますか?
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、障害者の性というものを突き詰めて取材をした作品になっています。
著者に何か特別なきっかけというようなものがあったわけではないけど、でも障害者の性が美化されすぎているな、とは感じていた。そうやって、障害者の性というものに深く入り込んでいった。
ある美大の学生が卒業制作で作成した障害者の性を扱ったビデオを見る。生きるために必要な酸素ボンベを外してまで、風俗店でセックスをしようとする障害者がいる。ネットで性処理を手伝ってくれる女性を募集する障害者がいる。障害者の性処理を手伝おうとする主婦がいる。障害者専門の風俗店があるかと思えば、そこで働く障害者の女性がいて、出張ホストを待ちわびる女性障害者がいれば、障害者に性知識を教える講師がいたりする。
また、その分野ではかなり進んでいる、オランダにも取材をしに言っている。有償ボランティア機関が性処理を手伝ってくれる女性を派遣してくれたり、市が障害者の性処理のための資金を出していたり、「代理恋人療法」なる障害者向けの治療が存在していたりと、幅広い受け皿が存在している。
日本での障害者への性の取り組みに共通しているのは、誰もが個人レベルで活動をしている、ということである。公的機関や国が動いているのではなく、NPOやまったくの個人が、独自の考えでもって障害者の性と向き合っている。それは、まだ試行錯誤と呼ぶしかない段階で、特別な成果を上げることが出来ているわけではない。しかし、そういう動きがあるということ、そしてその動きをこういう作品で広く知らせることが、大事なことなのだと思う。
障害者の性を考える上で難しいのは、障害者にとってそれは、ただの快楽ではないということだ。
僕ら障害を持たない人間からすれば、セックスはただの娯楽というかただの快楽というか、言ってみれば特別な意味を持つようなものでもない。
しかし障害者からすれば、それはただの快楽ではなく、癒しなのである。障害を持っているというだけで失ってしまったあらゆるものを埋め合わせるだけの、そういう力がある。
しかし、セックスはセックスで、現象だけ見れば癒しとはほど遠いものだ。ただのセックスだし、快楽にしか見えない。
その、現実と現象の間の差が、障害者の性を考える上で難しいのだろうと思う。
僕は、障害者の性について、積極的に関わるつもりはない。だから無責任なことはいえないし、だから無責任なことがいえる、とどちらの立場も取れるけれども、しかし偽善でもなく、少なくてもこうは思う。
障害者にとってベストな形になればいいな、と。
本作でも、性を押し付けるみたいな形になっているケースがいくつもある。性処理というものだけに目が行き過ぎて、人間的な触れ合いというものが忘れられている、という感じだ。障害者にとって何がベストなのか、それはそれぞれに違うだろうけど、だからこそ、いろんな選択肢の中から選べるようになればいい、と思う。
難しい問題だ。と言って僕は逃げるのだが、きちんとそれに向き合っている人もいる。心無い批判もあるだろうし、周囲の無理解もあるなかで、それでも障害者のことを考えて活動をしている人がいる。それは、純粋に素晴らしい。
日本という国が特別遅れているわけではないだろう。障害者の性という問題は、どこでも難しい問題のはずだ。豊かな国であればあるほど同じ問題を抱えていることだろう。どうすればいいか分からないけど、でもこうやって少しでも意識をすることが大切なのかもしれない。
障害者の性という、普段絶対に考えることのないことについて考えるきっかけになる本です。そういう意味で、読むべき本だと思います。読んで何かが変わるわけではないけど、読む人が増え、それにつれて意見が出てくれば、少なくとも議論にはなるのではないでしょうか。楽観的過ぎますけど。読んでみてください。
河合香織「セックスボランティア」
ビフォア・ラン(重松清)
ほんとうとかほんとうじゃないとか、そういうことはさんざん考えた。
まあ、もう今となっては、そんなことどうでもいいや、と思えるようになった。
昔は、やっぱそうでもなかったなぁ、と思う。振り返ってみると、ほんとうとかほんとうじゃないとかってことに、随分悩まされたな、と思う。
誰しもそうかもしれない。それでも、悩まないわけにはいかないことというのはある。
どの自分がほんとうなんだろう、なんて悩みは、ありきたりで普通過ぎて悩みともいえないようなものだけど、でも結構、誰だって悩むもんなんじゃないかと思う。
ほんとうに自分って奴が、どこにいるんだろうかって思ってた。
誰の前にいる自分がほんとうなんだろう、って思ってた。
僕は、親の前で、家族の中で、ほんとうじゃない自分としてずっと生きていた。それを始めたのは、まあ小学生くらいだったかな。まあいろいろあって、それなりに大変だったりで、だからそんなことを決めた。ある意味処世術だったし、それがなかったら僕はちょっとダメだったと思う。
ほんとうじゃない自分というのは、親のウケはよかった。まあそりゃそうだろう。親からの煩わしいことをはねのけようとして設定した自分なんだから当然だ。親に対しては、分かりやすいいい子を装った。それがほんとうの自分じゃないってことはちゃんと知ってたけど。
親からの煩わしさから逃れるための方便だったはずなのに、ほんとうの自分じゃない自分でいることは、また別の問題を引き起こしたりもする。簡単に言ってしまえば、俺は何してるんだろうな、ってことだ。
こうやって、ほんとうじゃない自分で生きてて、別にそれが面白いわけでもなくて、そんな自分が嫌になってくるのである。
けど、止めるわけにもいかない。ほんとうの自分を今さら出すわけにはいかない。まあ、そんな袋小路みたいな感じで悩んでいたわけだ。
分かりやすいけど、でもまあ当時としては、そこそこ大変だったのだ。
まあそんなひねくれた子供時代だったから、ほんとうとかほんとうじゃないとかってことについては、さんざん考えて、もういいかなって感じになった。
今ではこんな風に思っている。
ほんとうの自分がたくさんいるんだし、
ほんとうじゃない自分がたくさんいるんだろうな、と。
そうやって、無理矢理かどうかはなんともいえないけど、自分なりに折り合いをつけてきた。
時には他人に嘘をつくし、時には自分にも嘘をつく。曲げられないことを持っているけど、でもそれを曲げなきゃいけない状況になったりもする。優しい自分の影には冷たい自分が潜んでいるし、笑っている自分の奥には吐き出したい言葉が無数に淀んでいる。
僕は、そんな自分をきちんと自覚することが出来るようになった。それは、決して悪いことじゃない。いろんな自分がいることも、悪いことを隠しておくことも、都合のいい部分だけ見せるのも、全然悪いことじゃない。
そうやって、間違ったものを積み重ねていくなかで、自然と正しいものに変わっていくんじゃないかって、そんな幻想が抱けるようになった。
きっと、これを成長と呼ぶんだろうし、大人になったと評価されるんだろう。
でも、やっぱり思うのだ。裏表のない、ほんとうもほんとうじゃないも何にもない、そんな人間になれたらいいだろうな、と。
そんな人間はいないかもしれない。そう見える人にだって、裏はあるのかもしれない。
でも、自分には裏表がないと自分で信じている人はいるんじゃないかと思う。それが他人から見て事実でなくたって、自分でそう信じられることは、決して悪いことではない。
性格というのは、初めから与えられているものかもしれないし、自分自身が作ってきたものかもしれない。まあきっとその両方なのだろう。だから、何を責めるというわけにもいかない。
僕は、今の僕を認めている。それなりに、という言葉はつくけど。以前は、自分のことを認められていなかった。今でも、自分のことは嫌いだけど、でも認めることはできる。自分を認める課程で、何か大切なものを失ったような気もするのだけど、それもまあ仕方ない。
人生なんて、なるようにしかならないのだから。
いろんなことを諦め、いろんなことを呑み込み、そうやって生きていくしかない。
今の僕は、これまでの人生の中でもいちばんほんとうっぽい感じがする。何かを隠そうとあまり思わないし、悩んでいることも特別にない。昔の自分に見せてあげたいくらいだ。将来こうなるんだから、うだうだ悩むな、と。
まあでも、悩んできた道筋のその先に今の僕があるのだろう。悩むことだって、大切だ。それがどんなに馬鹿馬鹿しくって、笑っちゃうようなことでも、悩めるときに悩んでおいたほうがいいのだろう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
舞台は、明示されているわけではないけど、間違いなく広島県。解説では、呉市だろう、と書かれている。
ぼくは高校三年生になったばかり。洋介と誠一という仲間とともに、毎日特に何をするわけでもなく、普通の高校生をしている。
授業で初めて耳にした「トラウマ」という言葉に心を奪われた。ぼくは、特に何でもない平凡な高校生、という自分が悩みだったのだ。そうだ、トラウマだ。なければ、トラウマを作ろうじゃないか!
というわけで、ぼくら三人は、同級生の一人を殺すことにした。と言っても、本当に殺すわけではない。自分達のせいで同級生の一人が死んでしまった、と自分達で芝居をするのである。
死なせた相手は、久保田まゆみ。一年の頃同じクラスだったけど、印象もなにもないような暗い女子。それが、二年になって突如話題になった。
どうやら、ちょっとおかしくなっちゃったらしい、ということで。
そうやって、ちょっとおかしくなってしまって、入院するために学校を離れたまゆみが、僕たちのせいで自殺をしてしまったことにしよう。そういう遊び。お墓もちゃんと作って、機会があれば、きちんと墓参りをしている。
そんなことばっかやっている、どうしょもない三人。三年になったって、それは変わらないと誰もが思っていた。
しかし、久保田まゆみは、また僕らの前に姿を現した。それは、考えうる限り最悪な形での再会だった。
学校にいた頃とは比べ物にならないくらい明るい調子で、ハンバーガーショップでアルバイトをしていたまゆみは、なんとぼくと一年の頃付き合っていたと言い出したのだ!微妙に歪んだ思い出を口にするまゆみを、かつての恋人として接しなくてはいけなくなったぼく。
まゆみとの再会から、どうも周りがおかしくなっていって…。
というような話です。
本作は、今でこそ大人気作家になった重松清のデビュー作なんだそうです。KKベストセラーズという、あんまり小説を出すようなとこではない出版社から出たために、親本は文庫になる以前から入手不可能になっていて、ファンとしては、あの重松清のデビュー作が読めない、という事態に陥っていたわけだが、それが幻冬社から出ることになったという感じらしい。
確かに、デビュー作という感じで、偉そうなことを言わせてもらえれば、以後の重松作品と比べてしまうと、やはり若干甘いというか弱いというか、そんな作品である。
しかし同時に、デビュー作からここまでの作品を書けていたのか、という驚きもあったりする。デビュー以降、重松清が発表する作品のレベルが高いために、このデビュー作が弱く見えてしまうけども、純粋にデビュー作としてみれば、新人とは思えないような作品であるとも思う。
設定がまずいい。
ちょっとおかしくなって学校を辞めた同級生を一回「殺してしまう」遊びをしていたところに、主人公であるぼく(優)と付き合っていたという妄想を抱えて戻ってきました、はいどうしましょう、という内容で、まあ多少オカルトチックと言えなくもないけど、でも重松清が描くと、さらりとした、しかし時にはほろりとさせられる学園ドラマになる。
どの作品でもそうだけど、中学生・高校生の描き方は抜群で、それは本作でも変わるところはない。バカでやんちゃでどうしようもないのに、でも憎めない子供というのをうまく書く。以降の作品では、子供というものを残酷なものと捉えて描いた作品もたくさんあるけど、本作では、かつての田舎の子供という感じで、悪ぶっているけどどこまでも純粋というキャラクターがたくさん出てきて、いいなと思えてしまう。
でも、キャラクターでちょっと哀しいなと思ったのが、矢島紀子である。
僕は、彼女のことはすごく共感できるし、わかる。周りからいい子だと思われると、なかなかそこから抜け出せなくなって、自分でもそこに固定してなくちゃって思って、結局孤独になるっていうのはすごくわかる。
わかるんだけど、でも紀子にはああなってほしくなかったな、と思うのである。現実から逃げてもいいけど、でも現実を否定しちゃダメだよな、と思ってしまった。そこが、なんというかちょっと哀しかったな、という風に思いました。
やはり、デビュー作ということもあって、すごくいいというところまではいかないし、重松清の作品でどれがいいかと聞かれれば、他の作品になってしまうけども、でもこのデビュー作も読んでみて欲しいとは思う。デビュー作が作家の原点だというつもりはないけど、でもスタートの段階で既にここにいたのだな、という風に思えるのは、いいことだと思います。彼らと同じ年代に高校生だった人が読めば、一層当時のことを思い出せるんではないでしょうか。オススメとまではいかないですけど、読んでみてください。まさに、重松清の「ビフォア・ラン」って感じです。
重松清「ビフォア・ラン」
まあ、もう今となっては、そんなことどうでもいいや、と思えるようになった。
昔は、やっぱそうでもなかったなぁ、と思う。振り返ってみると、ほんとうとかほんとうじゃないとかってことに、随分悩まされたな、と思う。
誰しもそうかもしれない。それでも、悩まないわけにはいかないことというのはある。
どの自分がほんとうなんだろう、なんて悩みは、ありきたりで普通過ぎて悩みともいえないようなものだけど、でも結構、誰だって悩むもんなんじゃないかと思う。
ほんとうに自分って奴が、どこにいるんだろうかって思ってた。
誰の前にいる自分がほんとうなんだろう、って思ってた。
僕は、親の前で、家族の中で、ほんとうじゃない自分としてずっと生きていた。それを始めたのは、まあ小学生くらいだったかな。まあいろいろあって、それなりに大変だったりで、だからそんなことを決めた。ある意味処世術だったし、それがなかったら僕はちょっとダメだったと思う。
ほんとうじゃない自分というのは、親のウケはよかった。まあそりゃそうだろう。親からの煩わしいことをはねのけようとして設定した自分なんだから当然だ。親に対しては、分かりやすいいい子を装った。それがほんとうの自分じゃないってことはちゃんと知ってたけど。
親からの煩わしさから逃れるための方便だったはずなのに、ほんとうの自分じゃない自分でいることは、また別の問題を引き起こしたりもする。簡単に言ってしまえば、俺は何してるんだろうな、ってことだ。
こうやって、ほんとうじゃない自分で生きてて、別にそれが面白いわけでもなくて、そんな自分が嫌になってくるのである。
けど、止めるわけにもいかない。ほんとうの自分を今さら出すわけにはいかない。まあ、そんな袋小路みたいな感じで悩んでいたわけだ。
分かりやすいけど、でもまあ当時としては、そこそこ大変だったのだ。
まあそんなひねくれた子供時代だったから、ほんとうとかほんとうじゃないとかってことについては、さんざん考えて、もういいかなって感じになった。
今ではこんな風に思っている。
ほんとうの自分がたくさんいるんだし、
ほんとうじゃない自分がたくさんいるんだろうな、と。
そうやって、無理矢理かどうかはなんともいえないけど、自分なりに折り合いをつけてきた。
時には他人に嘘をつくし、時には自分にも嘘をつく。曲げられないことを持っているけど、でもそれを曲げなきゃいけない状況になったりもする。優しい自分の影には冷たい自分が潜んでいるし、笑っている自分の奥には吐き出したい言葉が無数に淀んでいる。
僕は、そんな自分をきちんと自覚することが出来るようになった。それは、決して悪いことじゃない。いろんな自分がいることも、悪いことを隠しておくことも、都合のいい部分だけ見せるのも、全然悪いことじゃない。
そうやって、間違ったものを積み重ねていくなかで、自然と正しいものに変わっていくんじゃないかって、そんな幻想が抱けるようになった。
きっと、これを成長と呼ぶんだろうし、大人になったと評価されるんだろう。
でも、やっぱり思うのだ。裏表のない、ほんとうもほんとうじゃないも何にもない、そんな人間になれたらいいだろうな、と。
そんな人間はいないかもしれない。そう見える人にだって、裏はあるのかもしれない。
でも、自分には裏表がないと自分で信じている人はいるんじゃないかと思う。それが他人から見て事実でなくたって、自分でそう信じられることは、決して悪いことではない。
性格というのは、初めから与えられているものかもしれないし、自分自身が作ってきたものかもしれない。まあきっとその両方なのだろう。だから、何を責めるというわけにもいかない。
僕は、今の僕を認めている。それなりに、という言葉はつくけど。以前は、自分のことを認められていなかった。今でも、自分のことは嫌いだけど、でも認めることはできる。自分を認める課程で、何か大切なものを失ったような気もするのだけど、それもまあ仕方ない。
人生なんて、なるようにしかならないのだから。
いろんなことを諦め、いろんなことを呑み込み、そうやって生きていくしかない。
今の僕は、これまでの人生の中でもいちばんほんとうっぽい感じがする。何かを隠そうとあまり思わないし、悩んでいることも特別にない。昔の自分に見せてあげたいくらいだ。将来こうなるんだから、うだうだ悩むな、と。
まあでも、悩んできた道筋のその先に今の僕があるのだろう。悩むことだって、大切だ。それがどんなに馬鹿馬鹿しくって、笑っちゃうようなことでも、悩めるときに悩んでおいたほうがいいのだろう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
舞台は、明示されているわけではないけど、間違いなく広島県。解説では、呉市だろう、と書かれている。
ぼくは高校三年生になったばかり。洋介と誠一という仲間とともに、毎日特に何をするわけでもなく、普通の高校生をしている。
授業で初めて耳にした「トラウマ」という言葉に心を奪われた。ぼくは、特に何でもない平凡な高校生、という自分が悩みだったのだ。そうだ、トラウマだ。なければ、トラウマを作ろうじゃないか!
というわけで、ぼくら三人は、同級生の一人を殺すことにした。と言っても、本当に殺すわけではない。自分達のせいで同級生の一人が死んでしまった、と自分達で芝居をするのである。
死なせた相手は、久保田まゆみ。一年の頃同じクラスだったけど、印象もなにもないような暗い女子。それが、二年になって突如話題になった。
どうやら、ちょっとおかしくなっちゃったらしい、ということで。
そうやって、ちょっとおかしくなってしまって、入院するために学校を離れたまゆみが、僕たちのせいで自殺をしてしまったことにしよう。そういう遊び。お墓もちゃんと作って、機会があれば、きちんと墓参りをしている。
そんなことばっかやっている、どうしょもない三人。三年になったって、それは変わらないと誰もが思っていた。
しかし、久保田まゆみは、また僕らの前に姿を現した。それは、考えうる限り最悪な形での再会だった。
学校にいた頃とは比べ物にならないくらい明るい調子で、ハンバーガーショップでアルバイトをしていたまゆみは、なんとぼくと一年の頃付き合っていたと言い出したのだ!微妙に歪んだ思い出を口にするまゆみを、かつての恋人として接しなくてはいけなくなったぼく。
まゆみとの再会から、どうも周りがおかしくなっていって…。
というような話です。
本作は、今でこそ大人気作家になった重松清のデビュー作なんだそうです。KKベストセラーズという、あんまり小説を出すようなとこではない出版社から出たために、親本は文庫になる以前から入手不可能になっていて、ファンとしては、あの重松清のデビュー作が読めない、という事態に陥っていたわけだが、それが幻冬社から出ることになったという感じらしい。
確かに、デビュー作という感じで、偉そうなことを言わせてもらえれば、以後の重松作品と比べてしまうと、やはり若干甘いというか弱いというか、そんな作品である。
しかし同時に、デビュー作からここまでの作品を書けていたのか、という驚きもあったりする。デビュー以降、重松清が発表する作品のレベルが高いために、このデビュー作が弱く見えてしまうけども、純粋にデビュー作としてみれば、新人とは思えないような作品であるとも思う。
設定がまずいい。
ちょっとおかしくなって学校を辞めた同級生を一回「殺してしまう」遊びをしていたところに、主人公であるぼく(優)と付き合っていたという妄想を抱えて戻ってきました、はいどうしましょう、という内容で、まあ多少オカルトチックと言えなくもないけど、でも重松清が描くと、さらりとした、しかし時にはほろりとさせられる学園ドラマになる。
どの作品でもそうだけど、中学生・高校生の描き方は抜群で、それは本作でも変わるところはない。バカでやんちゃでどうしようもないのに、でも憎めない子供というのをうまく書く。以降の作品では、子供というものを残酷なものと捉えて描いた作品もたくさんあるけど、本作では、かつての田舎の子供という感じで、悪ぶっているけどどこまでも純粋というキャラクターがたくさん出てきて、いいなと思えてしまう。
でも、キャラクターでちょっと哀しいなと思ったのが、矢島紀子である。
僕は、彼女のことはすごく共感できるし、わかる。周りからいい子だと思われると、なかなかそこから抜け出せなくなって、自分でもそこに固定してなくちゃって思って、結局孤独になるっていうのはすごくわかる。
わかるんだけど、でも紀子にはああなってほしくなかったな、と思うのである。現実から逃げてもいいけど、でも現実を否定しちゃダメだよな、と思ってしまった。そこが、なんというかちょっと哀しかったな、という風に思いました。
やはり、デビュー作ということもあって、すごくいいというところまではいかないし、重松清の作品でどれがいいかと聞かれれば、他の作品になってしまうけども、でもこのデビュー作も読んでみて欲しいとは思う。デビュー作が作家の原点だというつもりはないけど、でもスタートの段階で既にここにいたのだな、という風に思えるのは、いいことだと思います。彼らと同じ年代に高校生だった人が読めば、一層当時のことを思い出せるんではないでしょうか。オススメとまではいかないですけど、読んでみてください。まさに、重松清の「ビフォア・ラン」って感じです。
重松清「ビフォア・ラン」
猫の建築家(森博嗣)
少しだけ、数学の話をしようと思う。しかし大丈夫だ、数式が出てくるわけでも、難しい理論が出てくるわけでもない。
数学は、神様が創ったものなのか、あるいは人間が創ったものなのか。数学者の間で、そんな議論がされることがある。
数学というのは、とにかく美しく完結している。深めれば深めるほど、新しいものを見つければ見つけるほど、その美しさはどんどんと増していく。新しい理論の照明など、その美しさを見れば正しいかどうかわかる、と言われるほどだ。
例えば、完全数というものがある。これは、「博士の愛した数式」の中でも紹介されていたもので、比較的有名だろう。
28という数字がある。この数字の約数を以下に書き上げる。約数というのは、28という数字を割ることの出来る数字のことである。
1,2,4,7,14,28
このうち、それ自身(この場合は28)を除いたすべての約数を足し合わせてみる。
1+2+4+7+14=28
このように、それ自身を除いたすべての約数を足し合わせるとそれ自身になるような数字を、完全数というのである。
他にも、「博士の愛した数式」の中では、友愛数というものが取り上げられていたと思う。詳しくは自分で調べてほしい。
さてこの完全数にしろ友愛数にしろ、素晴らしく美しく完璧なものである。このような美しさを兼ね備えた数学というものは、神様が創ったものに違いない。まずそう考える人々がいる。
しかし考えてみよう。完全数という概念が出てくるにはまず約数という概念が必要だし、約数という概念には除数(つまり割り算)の概念が必要である。この、約数や除数と言ったものも、神様が創ったのだろうか?
例えば、1mという長さを考えてみる。この長さは、自然の中に存在する長さではない。人間が、これを1mとする、と定義したその長さが1mなのである。つまり、1mは神様が創った長さではないことになる。
同じように、約数や割り算も、人間が生み出した概念ではないのだろうか?こういう数学上の操作を割り算と定義する。割り算というものから派生して生み出されるこういう数字を約数と定義する。そうやって数学というものは、人間が都合よく定義づけたものによって成り立っているのではないか、と考える人がいる。
これは、どちらも結論が出ていない話しだし、まあ結論が出ることはないだろうと思う。
さてここまでは一応前フリのつもりで、ここからである。
人間は、美しさを感じることの出来る生き物である。人それぞれ何を見て美しいと感じるか、それは多少の差はあるとは言え、共通してこれは間違いなく美しいと言えるようなものも世の中に存在したりする。
さてここで考えてみよう。美しさというものは、神様が与えたものなのだろうか、それとも、人間が勝手に生み出したものなのだろうか。
僕たちは例えば、夕日を見て美しいと思う。そう感じない人間もいるかもしれないが、これは人種や国籍を問わず、かなり共通しているのではないか、と思う。
つまり、これだけ多くの人々が、誰からも教わることなく夕日を美しいと感じるのだから、夕日というものには本質的な美しさが備わっているのだ、と考えることも出来るだろう。
しかし、例えばこういう解釈も出来なくはない。
太古の昔から、夕日というのは一日の終わりを意味していた。明かりなどない世界でのこと、日が沈めば一日は終わりである。朝から働き詰で疲れたところに、あの夕日が現れる。今日も一日頑張った、これでやっと一日も終わりか、というその安堵の瞬間に、それはやってくるのである。必然的に条件反射的に、人々はその夕日を好意的に解釈する。大変だった一日を終わりに導いてくれる、またそんな自分を祝福してくれる存在として、夕日を見ることになる。そこに美しさを感じることは、人間として共通かもしれない。
それが、遺伝子というものに乗って、脈々と受け継がれているのだ。だから、夕日に本質的な美しさなどない。我々は、太古の昔の人々がその美しさを感じ取った夕日を見て、反射的に美しいと思っているだけだ、と。
どちらの解釈も、合っているといえるだろうし、間違っていると言えるかもしれない。答えは誰にもわからないし、証明など出来る話ではないだろう。
しかし、僕は思う。どちらかと言えば、世界には本質的に美しいものが存在していると考える方がいいな、と。
夕日も、あれは夕日そのものが美しいから僕らもその美しさを感じているわけで、例え夕日など一度も見たことがない宇宙人が地球にやってきてそれを見たとしても、同じように美しさを感じるはずだ、とそう考える方がいいな、と思う。
本質が訴えかけてくる美しさというものは、直接的に人間を揺さぶる。理屈も言い訳も一切許さない状況の中で、心の深いところでそれを感じることが出来る。それは、すべてを許すことの出来るくらい、優しいのだ。
美しさが人間の幻想だと考えるのは、少しだけ寂しい。例えそれが人間が生み出したものでも、どうしようもなく美しさを兼ね備えたものは存在する。それはきっと、それを生み出した人間が本質を取り込んでしまったということなのだ。だから、人間にも、美しいものを生み出すことが出来るのだ。美しいと感じる心が人間の幻想だとしたら、人間が生み出したものに永続的な美しさを感じることなど、ありえないということになってしまう。
出来れば、より多くの美しさを感じることの出来る人間でありたいと思う。僕に、世界のどこかに隠された美しさを見つけ出す能力はないけど、でも現れてしまった美しさに対して真っ直ぐでいられたら、幸せだろうな、と思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、森博嗣が文を、佐久間真人が絵を担当した絵本になっています。
猫は建築家である。何度か生まれ変わったのだけど、その度に建築家になってしまう。
建築家である自分は、何かを造りたいと思っている。しかしそのためにはまず考えなくてはならないことがあることも知る。
造られるべき形とは、一体どんなものか。
造られるべき機能とは、一体どんなものか。
猫は、自分を取り巻く「自然」を観察する中で、それぞれが持つ「形」や「機能」に想いを巡らせる。そうしてそのうちに考えることになる。
「美」とは、一体なんだろうか、と。
というような話です。
相変わらず森博嗣らしい作品で、僕はかなり好きです。
森博嗣はこれまでも何作か絵本を書いているけども(自分で絵を描いたりそうでなかったりするけど)、それらとはかなり趣の違う作品でした。
それは、絵本の絵というものについて、まるで逆の発想をしているからではないか、と僕は勝手に分析をしました。
本作は、猫視点になっているために、「猫」以外の物を形容する名詞が出てきません。「猫」以外のすべてのものを「自然」と呼び、その「自然」の中にあるものを「形」と呼びます。猫が、人間が勝手に名付けた名前を知っているはずがない、という、森博嗣なりのリアリティの追求の仕方なのだと思います。
そこで本作では絵が非常に重要になってきます。本作での絵の役割は、名詞を用いないことで抽象的になっている世界を補完するためのもの、と言えると思います。
僕のイメージでは、絵本の絵というのはある意味でオマケのようなもので、そこにある文章を拡大するため、あるいはより分かりやすくするためのもの、だと思っています。つまり、絵本の絵というのは、本質的な話をすれば不必要だ、と僕は思っているのです(つまり、物語を伝えるという意味で、絵本の絵は不要だろう、ということです)。
しかし本作の場合、絵がそれ単体として必要になっています。物語を伝えるという意味において、文章と絵が同列に配されていて、非常に珍しいのではないか、と思いました。
名詞を用いないことで、森博嗣らしい非常に抽象的な世界観が生み出されるのと同時に、一方でその抽象性を損なわない形で、しかし物語を補完する意味で絵が配されていて、非常に挑戦的で実験的な絵本だな、という風に感じました。
森博嗣の文章は、読めば読むほど抽象性が増してくる感じで、まとまりそうでまとまらない、わかりそうでわからないという、モヤモヤとした感じがすごくいいです。「形」や「機能」と言ったものを観察する中で、「美」とは存在するのだろうか、という難しい部分へと踏み込んでいくあたり、さすがだと思いました。読む人によって、いろいろ考えることの出来る作品ではないか、と思います。
僕が一番好きな文章はこれです。
『何故なら、造ることは、立ち向かうことではなく、
造ることは、何かを許すことなのだ、と感じているからだった。
我々が許すべき「形」が、つまり「美」だろうか?
「形」を眺めることで、少しずつ優しくなれるかもしれない。
それが、
我々の造るべき「形」の「機能」ではないだろうか。』
佐久間真人の絵は、なるほどどこかで見たことがあると思ったら、森博嗣の「ZOKU」の絵の人らしい。本作では、背景をほぼ茶(黄土色)で統一した作品で、僕の好きな感じの絵でした。本屋で見つけたらパラパラ見て欲しいのだけど、結構好きになる絵じではないかな、と僕は思います。色的な派手さは全然ないのに、たぶん人工的なものを描くときの精密さが、作品を深くしているのではないか、という風に思います。いい感じです。
森博嗣の絵本を読むといつも思うのだけど、人にあげられる本だと思います。「悪戯王子と猫の物語」も「STAR EGG」も本作も、プレゼントとして人にあげられる作品だと思います。自分で読むのもいいですけど、人に読ませるためにあげるというのも、いいんではないでしょうか?オススメです。読んでみてください。
森博嗣「猫の建築家」
数学は、神様が創ったものなのか、あるいは人間が創ったものなのか。数学者の間で、そんな議論がされることがある。
数学というのは、とにかく美しく完結している。深めれば深めるほど、新しいものを見つければ見つけるほど、その美しさはどんどんと増していく。新しい理論の照明など、その美しさを見れば正しいかどうかわかる、と言われるほどだ。
例えば、完全数というものがある。これは、「博士の愛した数式」の中でも紹介されていたもので、比較的有名だろう。
28という数字がある。この数字の約数を以下に書き上げる。約数というのは、28という数字を割ることの出来る数字のことである。
1,2,4,7,14,28
このうち、それ自身(この場合は28)を除いたすべての約数を足し合わせてみる。
1+2+4+7+14=28
このように、それ自身を除いたすべての約数を足し合わせるとそれ自身になるような数字を、完全数というのである。
他にも、「博士の愛した数式」の中では、友愛数というものが取り上げられていたと思う。詳しくは自分で調べてほしい。
さてこの完全数にしろ友愛数にしろ、素晴らしく美しく完璧なものである。このような美しさを兼ね備えた数学というものは、神様が創ったものに違いない。まずそう考える人々がいる。
しかし考えてみよう。完全数という概念が出てくるにはまず約数という概念が必要だし、約数という概念には除数(つまり割り算)の概念が必要である。この、約数や除数と言ったものも、神様が創ったのだろうか?
例えば、1mという長さを考えてみる。この長さは、自然の中に存在する長さではない。人間が、これを1mとする、と定義したその長さが1mなのである。つまり、1mは神様が創った長さではないことになる。
同じように、約数や割り算も、人間が生み出した概念ではないのだろうか?こういう数学上の操作を割り算と定義する。割り算というものから派生して生み出されるこういう数字を約数と定義する。そうやって数学というものは、人間が都合よく定義づけたものによって成り立っているのではないか、と考える人がいる。
これは、どちらも結論が出ていない話しだし、まあ結論が出ることはないだろうと思う。
さてここまでは一応前フリのつもりで、ここからである。
人間は、美しさを感じることの出来る生き物である。人それぞれ何を見て美しいと感じるか、それは多少の差はあるとは言え、共通してこれは間違いなく美しいと言えるようなものも世の中に存在したりする。
さてここで考えてみよう。美しさというものは、神様が与えたものなのだろうか、それとも、人間が勝手に生み出したものなのだろうか。
僕たちは例えば、夕日を見て美しいと思う。そう感じない人間もいるかもしれないが、これは人種や国籍を問わず、かなり共通しているのではないか、と思う。
つまり、これだけ多くの人々が、誰からも教わることなく夕日を美しいと感じるのだから、夕日というものには本質的な美しさが備わっているのだ、と考えることも出来るだろう。
しかし、例えばこういう解釈も出来なくはない。
太古の昔から、夕日というのは一日の終わりを意味していた。明かりなどない世界でのこと、日が沈めば一日は終わりである。朝から働き詰で疲れたところに、あの夕日が現れる。今日も一日頑張った、これでやっと一日も終わりか、というその安堵の瞬間に、それはやってくるのである。必然的に条件反射的に、人々はその夕日を好意的に解釈する。大変だった一日を終わりに導いてくれる、またそんな自分を祝福してくれる存在として、夕日を見ることになる。そこに美しさを感じることは、人間として共通かもしれない。
それが、遺伝子というものに乗って、脈々と受け継がれているのだ。だから、夕日に本質的な美しさなどない。我々は、太古の昔の人々がその美しさを感じ取った夕日を見て、反射的に美しいと思っているだけだ、と。
どちらの解釈も、合っているといえるだろうし、間違っていると言えるかもしれない。答えは誰にもわからないし、証明など出来る話ではないだろう。
しかし、僕は思う。どちらかと言えば、世界には本質的に美しいものが存在していると考える方がいいな、と。
夕日も、あれは夕日そのものが美しいから僕らもその美しさを感じているわけで、例え夕日など一度も見たことがない宇宙人が地球にやってきてそれを見たとしても、同じように美しさを感じるはずだ、とそう考える方がいいな、と思う。
本質が訴えかけてくる美しさというものは、直接的に人間を揺さぶる。理屈も言い訳も一切許さない状況の中で、心の深いところでそれを感じることが出来る。それは、すべてを許すことの出来るくらい、優しいのだ。
美しさが人間の幻想だと考えるのは、少しだけ寂しい。例えそれが人間が生み出したものでも、どうしようもなく美しさを兼ね備えたものは存在する。それはきっと、それを生み出した人間が本質を取り込んでしまったということなのだ。だから、人間にも、美しいものを生み出すことが出来るのだ。美しいと感じる心が人間の幻想だとしたら、人間が生み出したものに永続的な美しさを感じることなど、ありえないということになってしまう。
出来れば、より多くの美しさを感じることの出来る人間でありたいと思う。僕に、世界のどこかに隠された美しさを見つけ出す能力はないけど、でも現れてしまった美しさに対して真っ直ぐでいられたら、幸せだろうな、と思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、森博嗣が文を、佐久間真人が絵を担当した絵本になっています。
猫は建築家である。何度か生まれ変わったのだけど、その度に建築家になってしまう。
建築家である自分は、何かを造りたいと思っている。しかしそのためにはまず考えなくてはならないことがあることも知る。
造られるべき形とは、一体どんなものか。
造られるべき機能とは、一体どんなものか。
猫は、自分を取り巻く「自然」を観察する中で、それぞれが持つ「形」や「機能」に想いを巡らせる。そうしてそのうちに考えることになる。
「美」とは、一体なんだろうか、と。
というような話です。
相変わらず森博嗣らしい作品で、僕はかなり好きです。
森博嗣はこれまでも何作か絵本を書いているけども(自分で絵を描いたりそうでなかったりするけど)、それらとはかなり趣の違う作品でした。
それは、絵本の絵というものについて、まるで逆の発想をしているからではないか、と僕は勝手に分析をしました。
本作は、猫視点になっているために、「猫」以外の物を形容する名詞が出てきません。「猫」以外のすべてのものを「自然」と呼び、その「自然」の中にあるものを「形」と呼びます。猫が、人間が勝手に名付けた名前を知っているはずがない、という、森博嗣なりのリアリティの追求の仕方なのだと思います。
そこで本作では絵が非常に重要になってきます。本作での絵の役割は、名詞を用いないことで抽象的になっている世界を補完するためのもの、と言えると思います。
僕のイメージでは、絵本の絵というのはある意味でオマケのようなもので、そこにある文章を拡大するため、あるいはより分かりやすくするためのもの、だと思っています。つまり、絵本の絵というのは、本質的な話をすれば不必要だ、と僕は思っているのです(つまり、物語を伝えるという意味で、絵本の絵は不要だろう、ということです)。
しかし本作の場合、絵がそれ単体として必要になっています。物語を伝えるという意味において、文章と絵が同列に配されていて、非常に珍しいのではないか、と思いました。
名詞を用いないことで、森博嗣らしい非常に抽象的な世界観が生み出されるのと同時に、一方でその抽象性を損なわない形で、しかし物語を補完する意味で絵が配されていて、非常に挑戦的で実験的な絵本だな、という風に感じました。
森博嗣の文章は、読めば読むほど抽象性が増してくる感じで、まとまりそうでまとまらない、わかりそうでわからないという、モヤモヤとした感じがすごくいいです。「形」や「機能」と言ったものを観察する中で、「美」とは存在するのだろうか、という難しい部分へと踏み込んでいくあたり、さすがだと思いました。読む人によって、いろいろ考えることの出来る作品ではないか、と思います。
僕が一番好きな文章はこれです。
『何故なら、造ることは、立ち向かうことではなく、
造ることは、何かを許すことなのだ、と感じているからだった。
我々が許すべき「形」が、つまり「美」だろうか?
「形」を眺めることで、少しずつ優しくなれるかもしれない。
それが、
我々の造るべき「形」の「機能」ではないだろうか。』
佐久間真人の絵は、なるほどどこかで見たことがあると思ったら、森博嗣の「ZOKU」の絵の人らしい。本作では、背景をほぼ茶(黄土色)で統一した作品で、僕の好きな感じの絵でした。本屋で見つけたらパラパラ見て欲しいのだけど、結構好きになる絵じではないかな、と僕は思います。色的な派手さは全然ないのに、たぶん人工的なものを描くときの精密さが、作品を深くしているのではないか、という風に思います。いい感じです。
森博嗣の絵本を読むといつも思うのだけど、人にあげられる本だと思います。「悪戯王子と猫の物語」も「STAR EGG」も本作も、プレゼントとして人にあげられる作品だと思います。自分で読むのもいいですけど、人に読ませるためにあげるというのも、いいんではないでしょうか?オススメです。読んでみてください。
森博嗣「猫の建築家」
ぼくと1ルピーの神様(ヴィカス・スワラップ)
結局人生を決めるのは、努力でも運でもなく、生まれた境遇なのだろうと思う。まあ、そこに生まれたことを運がいい、というのかもしれないけど。
僕は日本という国に生まれ、日本という国で育っている。この国の中では別段裕福なわけでもなく、というかむしろ下から数えたほうが早いかもしれない下流社会に住む人間だけど、しかしそれにしたって豊かであることは疑いようがない。日本で生まれた、ということそれだけで、既に裕福だと言えるのである。
諸外国の現状を僕は目の当たりにしたことはないが、しかし、時々入ってくる情報と、勝手なイメージによって、ある程度分かったつもりになっている。
世の中には、明日が来ることと幸せがイコールで結ばれているような、そんな人生もある。
日々生きていくだけで精一杯という暮らしは、今の僕には想像できない。日本にも、生きていくだけで精一杯という人はたくさんいるだろうけど、しかしそれともレベルが大きく違うだろう。
日本の場合、日々生きていくのに苦労するだけである。しかし、貧しい国に生きる人々は、常に死と隣り合わせで生活をしているのだ。
そんな人生を生きることが、どれだけの意味を持つのだろうか。
今日という日をなんとか乗り越え、ほんの僅かな希望だけを胸に、明日がやってくることを望む日々。楽しいことも嬉しいこともやってこず、日々苦しさに耐えながら、それでも生きていくことに疲れてしまわないのだろうか、と思う。
僕は今、豊かな生活をしている。不満はないではないけど、しかし決して不自由ではない。これ以上上を目指すことは、何かよほどの幸運でもない限り難しいだろうけど、しかし絶望的に下に下がるということも特になさそうな、そんな人生をのうのうと過ごしている。そんな僕の人生にだって、特別な意味はどこにもない。ただ、飯を食ってクソをして寝るだけの人生に変わりはない。
しかし、この明らかな差は一体なんなんだろうな、と思う。これは、別に同情ではない。貧しい生活をしている人を哀れんでいるわけではない。よく知りもしないことに、部外者が勝手に感情を差し挟むのは、傲慢だし軽率だと思うからだ。
そうではなくて、これは単純な疑問なのだ。どうしてこんな差が生み出され、それが常に存在し続けているのだろうか、と思ってしまう。
最近みたニュースで、こんなものがあった。
世界の人口の2%が、全世界の冨の半分を占めている。一方で、世界の過半数を占める貧困層が持つ冨をすべて合わせても、全世界の冨の半分にもいかない、と。多少数字に間違いはあるかもしれないけど、そんな感じである。
人間の欲望に限りがない限り、この格差が埋まることは永遠にないのだろう。そんな世界にあって、僕は純粋に、日本という恵まれた国に生まれた幸運を思う。どんな生き方をしても、それに見合った幸せがあるというのは、それもそれなりに間違ってはいないかもしれないが、しかしやはり自分のいる環境によって変わる幸せの差というのは大きい。
日本よりも貧しい国に住む人間が、一生をかけても手にすることが出来ないものを、僕は既に持っているかもしれない。しかしそれでも僕は、充分満足と言える人生とはいえない。幸せというのは難しいものだ、と今さらながら思うのである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
ぼくは、ラム・ムハンマド・トーマスなんていう、ヒンドゥー教とイスラム教とキリスト教の名前の混じった名前を持っている。インドの貧しい街中でウエイターをして暮らしている。
そんな僕はある日警察に捕まってしまった。僕は特に驚きはしなかった。警察が誰かを捕まえにやってくるなんて、日常茶飯事なんだ。それに、これまでの人生でいろいろやってきたこともあるし。
でも、逮捕された理由は驚くものだった。
それは、僕がつい最近出演したクイズ番組で、史上最高額の賞金を勝ち取ってしまったから、なんだ。どうやら、学のないウエイターごときが全問正解できるわけがない、何か不正をしたに違いないんだ、ってことらしい。
違うんだ。僕は正真正銘、不正なんかしてないんだ。しかし、誰もそれを信じてはくれない。
警察で拷問まがいの取調べを受けていた僕の元に、弁護士だと名乗る一人の女性がやってきた。僕を助けてくれるという。それで僕は、どうしてクイズに全問正解し、史上最高額の賞金を手にすることが出来たのか、彼女に語ることになったのだが…。
というような話です。
本作はとにかく、初めの設定が無茶苦茶よくて、それに惹かれて買ってしまいました。クイズで全問正解したから逮捕、という、魅力溢れる始まりです。僕としては、何故少年は全問正解することが出来たのか、という謎を中心に物語が進んでいくミステリーだと勝手に思ったんだけど、まあそれは間違ってるとは言わないけど、でも僕の予想したのとは大分趣の違う作品でした。
少年が辿ってきた数奇な人生を回想する、そういう物語でした。
なので、なんというか多少期待はずれという感じでした。導入部分がものすごく魅力溢れる謎だったんで、それで引っ張るのかと思えばそうではなく、どちらかと言えばヒューマンドラマチックな物語だったので、ちょっと拍子抜けという感じです。
物語自体はきっと悪くないのだろうけど、ちょっと僕には合わない作品でした。
僕からすれば、それぞれの少年の過去に特に盛り上がりがあるというわけでもなく、もちろん辛い経験を様々にするのだけど、それをあまりにも淡々とした文章で描いているからか、どうにも悲壮感というのがあまり伝わってこない感じで、どうにも入り込めない感じがしました。
たぶんこういう、少年の成長の物語とか、あるいは辛い人生の回想録みたいな話が好きな人には結構いいんだろうけど、ちょっと僕には退屈な物語でした。
本作はインド出身の作家によるもので、これがデビュー作だそうです。イギリスで大人気となり、映画化も決定しているとか。うーん、それほどすごい話とは思えないですけど、まあ映画にしたらそこそこよくなるような感じもします。でも言ってしまえば、かなり平均的でありきたりの話だと僕は思いました。
あんまりオススメは出来ないですけど、ヒューマン系の話が好きな人ならアリかもです。
ヴィカス・スワラップ「ぼくと1ルピーの神様」
僕は日本という国に生まれ、日本という国で育っている。この国の中では別段裕福なわけでもなく、というかむしろ下から数えたほうが早いかもしれない下流社会に住む人間だけど、しかしそれにしたって豊かであることは疑いようがない。日本で生まれた、ということそれだけで、既に裕福だと言えるのである。
諸外国の現状を僕は目の当たりにしたことはないが、しかし、時々入ってくる情報と、勝手なイメージによって、ある程度分かったつもりになっている。
世の中には、明日が来ることと幸せがイコールで結ばれているような、そんな人生もある。
日々生きていくだけで精一杯という暮らしは、今の僕には想像できない。日本にも、生きていくだけで精一杯という人はたくさんいるだろうけど、しかしそれともレベルが大きく違うだろう。
日本の場合、日々生きていくのに苦労するだけである。しかし、貧しい国に生きる人々は、常に死と隣り合わせで生活をしているのだ。
そんな人生を生きることが、どれだけの意味を持つのだろうか。
今日という日をなんとか乗り越え、ほんの僅かな希望だけを胸に、明日がやってくることを望む日々。楽しいことも嬉しいこともやってこず、日々苦しさに耐えながら、それでも生きていくことに疲れてしまわないのだろうか、と思う。
僕は今、豊かな生活をしている。不満はないではないけど、しかし決して不自由ではない。これ以上上を目指すことは、何かよほどの幸運でもない限り難しいだろうけど、しかし絶望的に下に下がるということも特になさそうな、そんな人生をのうのうと過ごしている。そんな僕の人生にだって、特別な意味はどこにもない。ただ、飯を食ってクソをして寝るだけの人生に変わりはない。
しかし、この明らかな差は一体なんなんだろうな、と思う。これは、別に同情ではない。貧しい生活をしている人を哀れんでいるわけではない。よく知りもしないことに、部外者が勝手に感情を差し挟むのは、傲慢だし軽率だと思うからだ。
そうではなくて、これは単純な疑問なのだ。どうしてこんな差が生み出され、それが常に存在し続けているのだろうか、と思ってしまう。
最近みたニュースで、こんなものがあった。
世界の人口の2%が、全世界の冨の半分を占めている。一方で、世界の過半数を占める貧困層が持つ冨をすべて合わせても、全世界の冨の半分にもいかない、と。多少数字に間違いはあるかもしれないけど、そんな感じである。
人間の欲望に限りがない限り、この格差が埋まることは永遠にないのだろう。そんな世界にあって、僕は純粋に、日本という恵まれた国に生まれた幸運を思う。どんな生き方をしても、それに見合った幸せがあるというのは、それもそれなりに間違ってはいないかもしれないが、しかしやはり自分のいる環境によって変わる幸せの差というのは大きい。
日本よりも貧しい国に住む人間が、一生をかけても手にすることが出来ないものを、僕は既に持っているかもしれない。しかしそれでも僕は、充分満足と言える人生とはいえない。幸せというのは難しいものだ、と今さらながら思うのである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
ぼくは、ラム・ムハンマド・トーマスなんていう、ヒンドゥー教とイスラム教とキリスト教の名前の混じった名前を持っている。インドの貧しい街中でウエイターをして暮らしている。
そんな僕はある日警察に捕まってしまった。僕は特に驚きはしなかった。警察が誰かを捕まえにやってくるなんて、日常茶飯事なんだ。それに、これまでの人生でいろいろやってきたこともあるし。
でも、逮捕された理由は驚くものだった。
それは、僕がつい最近出演したクイズ番組で、史上最高額の賞金を勝ち取ってしまったから、なんだ。どうやら、学のないウエイターごときが全問正解できるわけがない、何か不正をしたに違いないんだ、ってことらしい。
違うんだ。僕は正真正銘、不正なんかしてないんだ。しかし、誰もそれを信じてはくれない。
警察で拷問まがいの取調べを受けていた僕の元に、弁護士だと名乗る一人の女性がやってきた。僕を助けてくれるという。それで僕は、どうしてクイズに全問正解し、史上最高額の賞金を手にすることが出来たのか、彼女に語ることになったのだが…。
というような話です。
本作はとにかく、初めの設定が無茶苦茶よくて、それに惹かれて買ってしまいました。クイズで全問正解したから逮捕、という、魅力溢れる始まりです。僕としては、何故少年は全問正解することが出来たのか、という謎を中心に物語が進んでいくミステリーだと勝手に思ったんだけど、まあそれは間違ってるとは言わないけど、でも僕の予想したのとは大分趣の違う作品でした。
少年が辿ってきた数奇な人生を回想する、そういう物語でした。
なので、なんというか多少期待はずれという感じでした。導入部分がものすごく魅力溢れる謎だったんで、それで引っ張るのかと思えばそうではなく、どちらかと言えばヒューマンドラマチックな物語だったので、ちょっと拍子抜けという感じです。
物語自体はきっと悪くないのだろうけど、ちょっと僕には合わない作品でした。
僕からすれば、それぞれの少年の過去に特に盛り上がりがあるというわけでもなく、もちろん辛い経験を様々にするのだけど、それをあまりにも淡々とした文章で描いているからか、どうにも悲壮感というのがあまり伝わってこない感じで、どうにも入り込めない感じがしました。
たぶんこういう、少年の成長の物語とか、あるいは辛い人生の回想録みたいな話が好きな人には結構いいんだろうけど、ちょっと僕には退屈な物語でした。
本作はインド出身の作家によるもので、これがデビュー作だそうです。イギリスで大人気となり、映画化も決定しているとか。うーん、それほどすごい話とは思えないですけど、まあ映画にしたらそこそこよくなるような感じもします。でも言ってしまえば、かなり平均的でありきたりの話だと僕は思いました。
あんまりオススメは出来ないですけど、ヒューマン系の話が好きな人ならアリかもです。
ヴィカス・スワラップ「ぼくと1ルピーの神様」
化物語(西尾維新)
僕は、結構いい人だという風に思われがちである。というようなことを、自分で言うものでもないと思うのだが。
いい人、という評価が、される側にとっていいものなのか、あるいは悪いものなのか、その辺りは難しいところだけど、でも、する方としてはいい意味で言っていたとしても、される方としては悪い意味に捉える、ということが結構多いのではないだろうか、と思います。
僕の場合も、まあ周囲の人間は、好意的な意味で僕をいい人だと思ってるのではないか、という風に思います。まあ、人にとって貌を使い分けているので、様々な評価がありましょうが、あまり深くない関係の相手ほど、僕のことをいい人だと評価する傾向にあるような気がします。
しかし、まあここまで書いた流れでなんとなくわかるとは思うのですが、僕は決していい人なんかではないのですね。
基本的に、自分のことを中心にして考えている人間です。
ただ、一般に言われるような、自己中心的な人間というのとも、また少し違ったりするわけです。
自己中心的な人間というのは、真っ直ぐに自分の欲求や希望というものを求めようとします。それは、真っ白な紙の上にコンパスで円を書いて自らの陣地を決めるようなものであって、どうやってある世界の中で自分の陣地を獲得しようか、という発想に基づいています。
しかし僕の場合は、いろんな人が真っ白な紙の上で円を書き奪い合った陣地のその残りの部分をいかに奪おうか、という発想なのです。自己中心的な人間は、円を書くことで陣地を獲得しようとするのに対して、僕はその隙間を縫うようにして陣地を獲得することで、より多くの陣地を獲得しよう、という発想をします。円でしか陣地を取れない人間は、紙の余白が少なくなるにつれて取れる円がなくなっていくのに大して、円で陣地を取ろうと思っていない僕は、まあいくらでも陣地を奪える、というわけです。
僕は、まあそういう形で、自分のことばかり考えて行動をしているわけです。
しかしこれは、一見すると協調性のある人間に見られます。それは、真っ白な紙という世界の隙間を埋めるような働きを進んでしているからです。僕とすればそれは、より多く陣地を奪うための布石でしかないのですが、その意図に気付かない人からすれば、僕のやっている行為は、すごくいいことをしている風に受け取られるわけです。
まあこうやって書いたことは、全部僕の推測でしかなですが、恐らくこういう風にして僕は、周囲の人間からいい人だと思われているのだろうな、という風に思います。
基本的に僕は、こういう自分が悪いという風には思いません。基本的に自分のことは嫌いだけど、でも別段悪いことをしているとも思わないです。僕のような人間がきちんと社会の中で生きていくためには、比較的必要な手段だと僕の中では思っています。
しかし、時々思うのです。人のために、誰かのために、本当にそれだけを考えて行動できる人間というのは、羨ましいものだな、と。
誰にでも優しく出来るというのは、羨ましいものだな、と。
本作では、阿良々木という、本当に誰にでも優しい、困っている人間がいると助けずにはいられない、というキャラクターが出てきます。彼は、様々な経験をすることによって、誰にでも優しいというのは時に人を傷つけてしまうものなのだ、ということを知っていきます。誰にでも優しいというのは、決していいだけのものではないのだ、と。
しかしそれでも僕は思うのです。たとえ、誰にでも優しいことで人を傷つけてしまうことがあったとしても、それでも、人に優しく出来ない人間よりは遥かに素晴らしいな、と。
僕は、人のために親身になってあげる、というのが、本当に出来ない人間です。もちろん、表面上それを装うことは非常に簡単なんですが、心の奥深くから、この人のために何かをしてあげなくては、という風に思うことというのがないわけです。それが、どれだけ大事な友達であろうと、どれだけ世話になった人であろうと、僕の心の深いところからその人に対して何かをしてあげる、ということが出来ないのです。
これは、ちょっと不幸だな、と思います。誰にでも優しいことで人を傷つけるよりも、優しく出来ないのにそう装っている方が、どれだけ罪が重いことでしょう。
だから僕は、あまり人と関わりたくないな、と思うのです。
誰かに何かを与えることは、僕の中では問題ありません。問題といえば、僕が誰かにあげられるものなどたかが知れている、ということですが、それでも僕は、相手に無償で何かをする、みたいなことは、特別苦手ではありません(こう書くと、今まで書いていることと矛盾するじゃないか、と言われそうだけど、ここで言っているのは、ちょっとした手助けとかそういうレベルで、誰かのためにとかいう重いものではない)。
しかし僕が何よりも苦手なのは、誰かに何かをしてもらう、ということなのだ。嫌な言い方をすれば、誰かに借りがある状態というのが苦手で仕方がない。誰かに助けられるとか、誰かに救われるとか、そういう状況は嫌だ。そうなれば僕は、何かを返さなくてはならなくなってしまう。感謝も恩返しも、誰かに優しくしたり親身になったりできない僕としては、酷く難しいことなのだ。自分が無償で与える分にはいいのだけど、誰か何かを与えられることは、苦手だ。
そんな風に思ってしまうからこそ、他人との関係が煩わしいのだろう。正直、例えばものすごく些細なことだけど、年賀状のやり取りだけでも苦手だし(だから僕は、ここ何年も出してないし、来ても返さないというポリシーを貫いている)、実際僕自身やったことはないけど、お歳暮だのといったものも苦手だ。そういう小さなレベルからして苦手なのだから、もうまともではないだろう。
本当に優しいということがどういうことなのか、それはそれだけでまた文章が書けてしまうくらい深い問題だけど、でもわかりやすい優しさを表に出せる人間というのは、やはり羨ましく思える。僕は何もかもが足りない人間だけども、一番何が足りないかって、やはり他人への優しさではないか、と思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
まず本作の評価を漠然と書くと、もう最高に楽しかったです。さすが西尾維新と言ったところです。相変わらず、全開ですね。
僕はこの作品は、これまでの西尾維新の作品の中でもっともライトノベル寄りの作品であるのと同時に、西尾維新入門としても非常にいい、という風に思いました。これまで西尾維新の作品で最もライトノベル的だと僕が思っていたのは、「きみとぼくの壊れた世界」だけど、それを遥かに上回る萌えっぷりでありながら、同時にこれまでのどの作品よりも読みやすく世界観も親しみやすく、西尾維新を初めて読む、という人にもオススメです。西尾維新の小説というのは、合う人には無茶苦茶合うけど、合わない人にはその世界観を享受できない、みたいな、癖のある作品が結構多いのだけど、本作は、西尾維新の持ち味というのが全開フルパワーで発揮されていながら(つまり、言葉遊び的な部分が最高だということ)、一方でそれまでのどの作品よりもすんなりとした世界観で(まあやはり多少特殊ではあるのだけど)、例えば西尾維新を初めて読む人だけでなく、<戯言シリーズ>を読んだけどダメだった、というような人にも、再チャレンジのきっかけを与えられるような、そんな作品だと思います。
さてそんなわけで、内容紹介です。
本作は、ざっと言ってしまえば、西尾維新がノベライズを担当したコミックである「ホリック」に似たような感じかな、という気がします。ちょっと不可思議なことが起こる。それは、この世ならぬ怪異の仕業であって、その怪異を解消するために、特殊な人間の力を借りる、みたいな設定です。
上下で計5つの短編が収録された作品なので、それぞれざっと紹介しましょう。
「ひたぎクラブ」
高校三年生である阿良々木暦には、三年間クラスが同じという女子がいる。戦場ヶ原ひたぎという名前だが、しかし会話を交わしたことは一度もない。常に、他人を拒絶しているというその姿勢は、まあなかなか近づけるものではないし、まあ別に近づくような理由も特にはないわけで。
しかし、階段から足を滑らせた戦場ヶ原を偶然受け止めた時から、阿良々木は戦場ヶ原と深く関わることになる。
戦場ヶ原には、体重と呼べるものがほとんどなかった。人間として、まるでありえない軽さだ。
そうして、一悶着(と軽々しく言ってしまうに憚るようなことが)あって、阿良々木は戦場ヶ原を救うために、彼女を忍野の元へと連れて行った。
忍野メメ。阿良々木の恩人でありながら、同時に変人でもある、廃墟に住んでいるアロハ野郎である。
なんでも、怪異の方面の専門家だとかで、春休みに吸血鬼に襲われた際助けてもらった。忍野なら、戦場ヶ原のこの状況をなんとか出来るのではないか…。
「まよいマイマイ」
母の日のこと。妹との絡みもあって家にいずらい阿良々木は、マウンテンバイクであてどもなくうろうろし、そうしてある公園へと辿り着いた。
そこで、同じクラスの委員長で、戦場ヶ原と偶然会う。しばらく話をしていると、気になる小学生の姿を見かけた。
どうやら、迷子らしい。
案内板を見続ける、リュックをしょった小学生女子を助けてあげようと声を掛けたはいいが、まあまた一悶着あった末、八九寺真宵と名乗るその少女は、母親の住む家に行きたいのだがどうしても辿り着けないのだ、とわかった。確かに、阿良々木と戦場ヶ原がその住所を目指しても、辿り着けない。これもまた、忍野に依頼すべき案件か…。
「するがモンキー」
神原駿河は、学校の超有名人である。何せ、弱小だったバスケットボール部を、入部したその年に全国大会へと導いてしまうような、そんな尋常ではない天才なのだ。
その天才少女が、どういう理由かわからないが、ここ数日阿良々木に付きまとっている。はっきり言って、ストーカーのようなものだ。相手の意図がわからないからなんとも言えないが、これはどうしたものだろう。
そんなある夜のこと、阿良々木は雨合羽を着た何者かに襲われた。吸血鬼もどきとしての回復力を備えていたから助かったものの、普通の人間なら死んでいてもおかしくないほどだった。
翌日、神原は阿良々木を、話があるからと言って自宅に招くのである。
「なでこスネイク」
千石撫子は、妹の小学校の頃の同級生であり、昔一緒に遊んだことのあるというぐらいの関係だ。その千石を、事情があって向かっていた山寺から降りてくる形で見つけた。いや、正確に言えば、その時に千石であると気付いたわけではないのだが、翌日書店で会った時に確信をしたのだ。
昨日山寺の周辺に散らばっていた、蛇の惨殺死体のことを思い出して不吉な予感に襲われた阿良々木は、神原を伴って千石を追うことに決めた。
確かに彼女も、怪異に囚われていたのだった。
「つばさキャット」
羽川翼は、委員長の中の委員長であるのと同時に、阿良々木の恩人でもある。吸血鬼に襲われた際、冗談でも誇張でもなく、羽川に助けられた。だからこそ、羽川に何か恩返しをしたいと思っているのだが、あまりに完璧すぎる羽川に恩返しをするのは、なかなか難しい。
ある日、そんな羽川からメールが来た。どうも、のっぴきならない事情のようだ。とすれば、あの忌まわしいゴールデンウィークに起こったことの続きだろう。
果たして、羽川はまたも猫の怪異に囚われているのであった。
こんな感じの話です。
本作は、もうとにもかくにも、会話が最強に面白いです。大げさかもしれないですけど、本作から地の分をすべて除いて、会話文だけになったとしても、充分に楽しめると思います。もちろんそれだと、ストーリーは意味不明になるだろうけど。
出てくる女子のキャラクターがもうとにかく素晴らしくて、それぞれの女子との、まるで掛け合い漫才のような会話がとにかく面白いんですね。こんな女子が周りに一人でもいたら、もう毎日楽しいだろうな、と思いますね。それには、阿良々木並みの突っ込みの素養が必要なので、僕では難しいのかもしれないですけど。
誰が好きなキャラかと言われればものすごく難しいですけど、僕としては神原駿河がいいですかね。僕はライトノベルというのはほとんど読んだことがないんでわからないですけど、あのどうしようもないエロっぷりと、永久に続きそうな阿良々木への忠誠心みたいなものが、とにかく萌えでした。
もちろん、戦場ヶ原もいいですね。あれだけの暴言・毒舌を日々食らっていればかなりへこみもするだろうけど、それでも、どうしようもなく不器用で、そこはかとなく愛すべきキャラクターで、よかったです。
また、小学生とは言えかなり大人びた楽しい会話を繰り広げる八九寺もいいし、超優等生で委員長の中の委員長で隙のない羽川もいいし、大人しいのに笑い上戸である千石なんかもかなりツボだし、とにかく男なら、少なくても誰か一人には萌えるんではないか、という気はします。あぁ、違いますね。本作では新しい言葉が生まれたんでした。『萌え』ではなく『蕩れ』。流行るでしょうか?
というわけで、会話とキャラクターの魅力だけで充分、いや最強に楽しく読めてしまう小説ですけど、だからと言ってストーリーが疎かなわけがありません。
西尾維新版京極夏彦というような内容で、怪異を中心にした話ですが、さすがというべきかやはりというべきか、ミステリー的な要素もきちんと組み込んできているし、ただ怪異が起きてそれを解決するだけではなく、その裏にもいろいろありまっせ、という感じで、ストーリーも充分楽しいです。
あとがきで西尾維新は、本作を100%趣味で書いた、と書いていますけど、なるほど楽しんで書いたんだろうな、tおいうような感じが窺える作品でした。異常にライトノベル色が強いにも関わらず、西尾維新的な部分がきっちりと残っているので、初心者にも安心設計です。講談社BOXという新レーベルで出ていて、まだその性格はなんとも言えないとこだけど、この作品はその新レーベルを引っ張る起爆剤でしょうね、やっぱり。
というわけで、是非とも読んで頂きたいさくひんです。もう、素晴らしく最高の娯楽作品です。肩の凝らない軽い作品です。もう是非是非読んでみてください。オススメです!
西尾維新「化物語」
いい人、という評価が、される側にとっていいものなのか、あるいは悪いものなのか、その辺りは難しいところだけど、でも、する方としてはいい意味で言っていたとしても、される方としては悪い意味に捉える、ということが結構多いのではないだろうか、と思います。
僕の場合も、まあ周囲の人間は、好意的な意味で僕をいい人だと思ってるのではないか、という風に思います。まあ、人にとって貌を使い分けているので、様々な評価がありましょうが、あまり深くない関係の相手ほど、僕のことをいい人だと評価する傾向にあるような気がします。
しかし、まあここまで書いた流れでなんとなくわかるとは思うのですが、僕は決していい人なんかではないのですね。
基本的に、自分のことを中心にして考えている人間です。
ただ、一般に言われるような、自己中心的な人間というのとも、また少し違ったりするわけです。
自己中心的な人間というのは、真っ直ぐに自分の欲求や希望というものを求めようとします。それは、真っ白な紙の上にコンパスで円を書いて自らの陣地を決めるようなものであって、どうやってある世界の中で自分の陣地を獲得しようか、という発想に基づいています。
しかし僕の場合は、いろんな人が真っ白な紙の上で円を書き奪い合った陣地のその残りの部分をいかに奪おうか、という発想なのです。自己中心的な人間は、円を書くことで陣地を獲得しようとするのに対して、僕はその隙間を縫うようにして陣地を獲得することで、より多くの陣地を獲得しよう、という発想をします。円でしか陣地を取れない人間は、紙の余白が少なくなるにつれて取れる円がなくなっていくのに大して、円で陣地を取ろうと思っていない僕は、まあいくらでも陣地を奪える、というわけです。
僕は、まあそういう形で、自分のことばかり考えて行動をしているわけです。
しかしこれは、一見すると協調性のある人間に見られます。それは、真っ白な紙という世界の隙間を埋めるような働きを進んでしているからです。僕とすればそれは、より多く陣地を奪うための布石でしかないのですが、その意図に気付かない人からすれば、僕のやっている行為は、すごくいいことをしている風に受け取られるわけです。
まあこうやって書いたことは、全部僕の推測でしかなですが、恐らくこういう風にして僕は、周囲の人間からいい人だと思われているのだろうな、という風に思います。
基本的に僕は、こういう自分が悪いという風には思いません。基本的に自分のことは嫌いだけど、でも別段悪いことをしているとも思わないです。僕のような人間がきちんと社会の中で生きていくためには、比較的必要な手段だと僕の中では思っています。
しかし、時々思うのです。人のために、誰かのために、本当にそれだけを考えて行動できる人間というのは、羨ましいものだな、と。
誰にでも優しく出来るというのは、羨ましいものだな、と。
本作では、阿良々木という、本当に誰にでも優しい、困っている人間がいると助けずにはいられない、というキャラクターが出てきます。彼は、様々な経験をすることによって、誰にでも優しいというのは時に人を傷つけてしまうものなのだ、ということを知っていきます。誰にでも優しいというのは、決していいだけのものではないのだ、と。
しかしそれでも僕は思うのです。たとえ、誰にでも優しいことで人を傷つけてしまうことがあったとしても、それでも、人に優しく出来ない人間よりは遥かに素晴らしいな、と。
僕は、人のために親身になってあげる、というのが、本当に出来ない人間です。もちろん、表面上それを装うことは非常に簡単なんですが、心の奥深くから、この人のために何かをしてあげなくては、という風に思うことというのがないわけです。それが、どれだけ大事な友達であろうと、どれだけ世話になった人であろうと、僕の心の深いところからその人に対して何かをしてあげる、ということが出来ないのです。
これは、ちょっと不幸だな、と思います。誰にでも優しいことで人を傷つけるよりも、優しく出来ないのにそう装っている方が、どれだけ罪が重いことでしょう。
だから僕は、あまり人と関わりたくないな、と思うのです。
誰かに何かを与えることは、僕の中では問題ありません。問題といえば、僕が誰かにあげられるものなどたかが知れている、ということですが、それでも僕は、相手に無償で何かをする、みたいなことは、特別苦手ではありません(こう書くと、今まで書いていることと矛盾するじゃないか、と言われそうだけど、ここで言っているのは、ちょっとした手助けとかそういうレベルで、誰かのためにとかいう重いものではない)。
しかし僕が何よりも苦手なのは、誰かに何かをしてもらう、ということなのだ。嫌な言い方をすれば、誰かに借りがある状態というのが苦手で仕方がない。誰かに助けられるとか、誰かに救われるとか、そういう状況は嫌だ。そうなれば僕は、何かを返さなくてはならなくなってしまう。感謝も恩返しも、誰かに優しくしたり親身になったりできない僕としては、酷く難しいことなのだ。自分が無償で与える分にはいいのだけど、誰か何かを与えられることは、苦手だ。
そんな風に思ってしまうからこそ、他人との関係が煩わしいのだろう。正直、例えばものすごく些細なことだけど、年賀状のやり取りだけでも苦手だし(だから僕は、ここ何年も出してないし、来ても返さないというポリシーを貫いている)、実際僕自身やったことはないけど、お歳暮だのといったものも苦手だ。そういう小さなレベルからして苦手なのだから、もうまともではないだろう。
本当に優しいということがどういうことなのか、それはそれだけでまた文章が書けてしまうくらい深い問題だけど、でもわかりやすい優しさを表に出せる人間というのは、やはり羨ましく思える。僕は何もかもが足りない人間だけども、一番何が足りないかって、やはり他人への優しさではないか、と思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
まず本作の評価を漠然と書くと、もう最高に楽しかったです。さすが西尾維新と言ったところです。相変わらず、全開ですね。
僕はこの作品は、これまでの西尾維新の作品の中でもっともライトノベル寄りの作品であるのと同時に、西尾維新入門としても非常にいい、という風に思いました。これまで西尾維新の作品で最もライトノベル的だと僕が思っていたのは、「きみとぼくの壊れた世界」だけど、それを遥かに上回る萌えっぷりでありながら、同時にこれまでのどの作品よりも読みやすく世界観も親しみやすく、西尾維新を初めて読む、という人にもオススメです。西尾維新の小説というのは、合う人には無茶苦茶合うけど、合わない人にはその世界観を享受できない、みたいな、癖のある作品が結構多いのだけど、本作は、西尾維新の持ち味というのが全開フルパワーで発揮されていながら(つまり、言葉遊び的な部分が最高だということ)、一方でそれまでのどの作品よりもすんなりとした世界観で(まあやはり多少特殊ではあるのだけど)、例えば西尾維新を初めて読む人だけでなく、<戯言シリーズ>を読んだけどダメだった、というような人にも、再チャレンジのきっかけを与えられるような、そんな作品だと思います。
さてそんなわけで、内容紹介です。
本作は、ざっと言ってしまえば、西尾維新がノベライズを担当したコミックである「ホリック」に似たような感じかな、という気がします。ちょっと不可思議なことが起こる。それは、この世ならぬ怪異の仕業であって、その怪異を解消するために、特殊な人間の力を借りる、みたいな設定です。
上下で計5つの短編が収録された作品なので、それぞれざっと紹介しましょう。
「ひたぎクラブ」
高校三年生である阿良々木暦には、三年間クラスが同じという女子がいる。戦場ヶ原ひたぎという名前だが、しかし会話を交わしたことは一度もない。常に、他人を拒絶しているというその姿勢は、まあなかなか近づけるものではないし、まあ別に近づくような理由も特にはないわけで。
しかし、階段から足を滑らせた戦場ヶ原を偶然受け止めた時から、阿良々木は戦場ヶ原と深く関わることになる。
戦場ヶ原には、体重と呼べるものがほとんどなかった。人間として、まるでありえない軽さだ。
そうして、一悶着(と軽々しく言ってしまうに憚るようなことが)あって、阿良々木は戦場ヶ原を救うために、彼女を忍野の元へと連れて行った。
忍野メメ。阿良々木の恩人でありながら、同時に変人でもある、廃墟に住んでいるアロハ野郎である。
なんでも、怪異の方面の専門家だとかで、春休みに吸血鬼に襲われた際助けてもらった。忍野なら、戦場ヶ原のこの状況をなんとか出来るのではないか…。
「まよいマイマイ」
母の日のこと。妹との絡みもあって家にいずらい阿良々木は、マウンテンバイクであてどもなくうろうろし、そうしてある公園へと辿り着いた。
そこで、同じクラスの委員長で、戦場ヶ原と偶然会う。しばらく話をしていると、気になる小学生の姿を見かけた。
どうやら、迷子らしい。
案内板を見続ける、リュックをしょった小学生女子を助けてあげようと声を掛けたはいいが、まあまた一悶着あった末、八九寺真宵と名乗るその少女は、母親の住む家に行きたいのだがどうしても辿り着けないのだ、とわかった。確かに、阿良々木と戦場ヶ原がその住所を目指しても、辿り着けない。これもまた、忍野に依頼すべき案件か…。
「するがモンキー」
神原駿河は、学校の超有名人である。何せ、弱小だったバスケットボール部を、入部したその年に全国大会へと導いてしまうような、そんな尋常ではない天才なのだ。
その天才少女が、どういう理由かわからないが、ここ数日阿良々木に付きまとっている。はっきり言って、ストーカーのようなものだ。相手の意図がわからないからなんとも言えないが、これはどうしたものだろう。
そんなある夜のこと、阿良々木は雨合羽を着た何者かに襲われた。吸血鬼もどきとしての回復力を備えていたから助かったものの、普通の人間なら死んでいてもおかしくないほどだった。
翌日、神原は阿良々木を、話があるからと言って自宅に招くのである。
「なでこスネイク」
千石撫子は、妹の小学校の頃の同級生であり、昔一緒に遊んだことのあるというぐらいの関係だ。その千石を、事情があって向かっていた山寺から降りてくる形で見つけた。いや、正確に言えば、その時に千石であると気付いたわけではないのだが、翌日書店で会った時に確信をしたのだ。
昨日山寺の周辺に散らばっていた、蛇の惨殺死体のことを思い出して不吉な予感に襲われた阿良々木は、神原を伴って千石を追うことに決めた。
確かに彼女も、怪異に囚われていたのだった。
「つばさキャット」
羽川翼は、委員長の中の委員長であるのと同時に、阿良々木の恩人でもある。吸血鬼に襲われた際、冗談でも誇張でもなく、羽川に助けられた。だからこそ、羽川に何か恩返しをしたいと思っているのだが、あまりに完璧すぎる羽川に恩返しをするのは、なかなか難しい。
ある日、そんな羽川からメールが来た。どうも、のっぴきならない事情のようだ。とすれば、あの忌まわしいゴールデンウィークに起こったことの続きだろう。
果たして、羽川はまたも猫の怪異に囚われているのであった。
こんな感じの話です。
本作は、もうとにもかくにも、会話が最強に面白いです。大げさかもしれないですけど、本作から地の分をすべて除いて、会話文だけになったとしても、充分に楽しめると思います。もちろんそれだと、ストーリーは意味不明になるだろうけど。
出てくる女子のキャラクターがもうとにかく素晴らしくて、それぞれの女子との、まるで掛け合い漫才のような会話がとにかく面白いんですね。こんな女子が周りに一人でもいたら、もう毎日楽しいだろうな、と思いますね。それには、阿良々木並みの突っ込みの素養が必要なので、僕では難しいのかもしれないですけど。
誰が好きなキャラかと言われればものすごく難しいですけど、僕としては神原駿河がいいですかね。僕はライトノベルというのはほとんど読んだことがないんでわからないですけど、あのどうしようもないエロっぷりと、永久に続きそうな阿良々木への忠誠心みたいなものが、とにかく萌えでした。
もちろん、戦場ヶ原もいいですね。あれだけの暴言・毒舌を日々食らっていればかなりへこみもするだろうけど、それでも、どうしようもなく不器用で、そこはかとなく愛すべきキャラクターで、よかったです。
また、小学生とは言えかなり大人びた楽しい会話を繰り広げる八九寺もいいし、超優等生で委員長の中の委員長で隙のない羽川もいいし、大人しいのに笑い上戸である千石なんかもかなりツボだし、とにかく男なら、少なくても誰か一人には萌えるんではないか、という気はします。あぁ、違いますね。本作では新しい言葉が生まれたんでした。『萌え』ではなく『蕩れ』。流行るでしょうか?
というわけで、会話とキャラクターの魅力だけで充分、いや最強に楽しく読めてしまう小説ですけど、だからと言ってストーリーが疎かなわけがありません。
西尾維新版京極夏彦というような内容で、怪異を中心にした話ですが、さすがというべきかやはりというべきか、ミステリー的な要素もきちんと組み込んできているし、ただ怪異が起きてそれを解決するだけではなく、その裏にもいろいろありまっせ、という感じで、ストーリーも充分楽しいです。
あとがきで西尾維新は、本作を100%趣味で書いた、と書いていますけど、なるほど楽しんで書いたんだろうな、tおいうような感じが窺える作品でした。異常にライトノベル色が強いにも関わらず、西尾維新的な部分がきっちりと残っているので、初心者にも安心設計です。講談社BOXという新レーベルで出ていて、まだその性格はなんとも言えないとこだけど、この作品はその新レーベルを引っ張る起爆剤でしょうね、やっぱり。
というわけで、是非とも読んで頂きたいさくひんです。もう、素晴らしく最高の娯楽作品です。肩の凝らない軽い作品です。もう是非是非読んでみてください。オススメです!
西尾維新「化物語」
月魚(三浦しをん)
友人はいるか、と聞かれれば、まあ大抵の人は肯定の返事を返すだろう。僕は、まあ正直自信がなくて、被害妄想的に、僕は友達だと思われていないのではないか、と思ったりもするのだけど、でもまあ友人はいると思う。
しかし、親友はいるか、と聞かれて、いると即答できる人間は、そうは多くないだろう。僕も、親友はいないと思う(なんて書くと、僕を親友だと思ってくれている人がいたら残念がるのだろうけど)。
親友という繋がりは、一体どのように生まれるんだろうな、と不思議に思う。
僕が親友と聞いて思い出してしまうのは、金田一一と七瀬みゆきである。まあ彼らは親友だと言っていいでしょう(とりあえず付き合ってもないみたいだし)。幼馴染という繋がりから親友になっているわけだけど、でもこの幼馴染から親友へ、という流れは、実際現実的じゃないだろうと思う。大人になるに連れて、人間関係というのはどんどん変わっていく。子供の頃は大切だった関係が、時と共に次第に薄れていくというのは自然なことだ。
さらに今の時代、深い人間関係というものをあまり求めないようになってきた。それが自然な流れなのか、あるいは孤独の裏返しなのかはなんとも言えないけど、他人とあまり深く関わらなくなってきた。そう考えると、子供時代はまあとにかくとして、大人になってから親友を作ろうと思ったら、これもかなり難しいということになる。
何をもって親友と呼ぶのかも難しいところではあるのだけど、でも親友同士を繋ぐものが一体なんなのか、よくわからない。お互いを助け合い、お互いを認め合い、お互いを許し合っていくような関係。いつまでもその関係が壊れないだろうなと思わせるその距離感。どうしてそんなものが存在できるのだろう。
もしかしたら彼らを繋ぐものは、前向きで正しいものだけではないのかもしれない。
大胆にお互いに歩み寄れるほどの前向きさを常に持ち続けながら、一方で近寄り過ぎないだけの絶妙な距離感を保つ。その近寄り過ぎないために必要なものが、ある種のマイナスの何かではないのだろうか、とも思わなくはない。
これ以上近づいたらこの関係性が壊れてしまう、という何かを常に持ち続けていること。お互いがそれを認め、二人の間に常に横たわっていると確認しつつ、それでもなお繋がっていたいと希求する。それが、親友という関係性の間にあるものなのかもしれない。
その存在すべてを包み込むことの出来る、親友という存在を羨ましく思う。恐らくこの先、新しく出会う人間の中から親友を見つけ出すのは無理だろう。これまでの人間関係はあらかた固定してしまっているので、これから親友側にシフトするとも思えない。難しいものである。異性のパートナーと同じで、望んでいるだけでは手に入れることができない存在なんだろう。
深い人間関係を本能的に忌避する現代にあって、親友という存在は素晴らしいものではないかと思う。どんどんと失われていきそうなものだからこそ、いつまでも残って欲しいものだ、と思う。
今日はなかなか筆が乗らないので、そろそろ内容に入ろうと思います。
古書店「無窮堂」の三代目当主である真志喜と、その友人で同じく古書店業界に身をおいている瀬名垣の物語である。共に20代前半という、若き古書店主だ。
瀬名垣の父は、「せどり屋」と呼ばれていた。二束三文で買い叩いた古書を転売することで利益をあげる「せどり屋」は、古書店業界から疎まれる。父もそうであった。
しかし父は同時に、「せどり屋」を続ける中で本というものに目覚め始めた。どこで聞き及んだか、古書店業界に勇名を轟かせる老舗「無窮堂」の初代当主である本田翁が瀬名垣の父を気に入り、その噂は古書店業界に広まっていく。
そうして、真志喜と瀬名垣は出会った。父が「無窮堂」に通う中で一緒についていった瀬名垣は、そこで青白い肌をした一つ年下の真志喜と出会う。二人は気が合ったのか、まるで兄弟のように一緒に過ごしていった。
しかし、ある事件が二人の関係を大きく変えることになってしまった。それは、瀬名垣の古書店主としての才能を大きく知らしめる事件であったが、同時に、自分自身や周囲の人間を無自覚に傷つける結果となり、それが今でも、真志喜と瀬名垣の間に深く横たわっている。
二人はその事件以降もお互いを必要とし求め合った。しかしそれは、同時に常に罪悪感を呼び起こすものであった。あの事件をなかったことにすることは出来ないし、二人とも忘れているわけがないのだが、それに触れないようにしながら、二人はお互いへの罪悪感を密に募らせているのである。
ある日、瀬名垣の元に依頼のあった、山奥の豪邸での古書の買取に、真志喜がついて行くことになったのだけど…。
というような話です。
実際は、真志喜と瀬名垣の高校時代を描いた「水に沈んだ私の村」と、文庫書き下ろしの「名前のないもの」が収録されているのだけど、全体の8割くらいが、内容紹介をした「月魚」の物語になっています。
さて僕は、声を大にして言いたいことがあるのである。
三浦しをんよ、ボーイズラブの世界を、文芸に持ち込まないでくれ!
僕は思うのだけど、この話、男には向かないだろうな、と思うんです。何故なら、全体的にボーイズラブ(わかるとは思うけど、つまり男同士がなんとやらというような話です)の雰囲気がどことなく漂ってくる感じで、男としては、本能的に忌避したい感じではないか、と思うからです。
別に真志喜と瀬名垣のそういうシーンがあるわけではないけど、明らかに妖しい淫靡な雰囲気を二人は湛えているし、お互いに抱く感情もまあ明らかという感じで、やっぱどう評価しても本作はボーイズラブだよな、と思います。同じく三浦しをんの直木賞受賞作「まほろ駅前多田便利軒」も、まあ男二人が同居する話ではあったけど、本作ほど淫靡な感じはありませんでした。ちょっとこれは、確信犯的にボーイズラブを文芸の世界でやろうとしたんだろうな、と思います。
まあ、女性的には、文芸でこういうのが読めるのはいいんでしょうけど(ボーイズラブと言えば、イラストが表紙の、明らかにそういう話です、みたいな奴しかなかなかないですからね)、男としては、こういうのを文芸でやられちゃうと参ったなぁ、という感じの作品だったりします。
まあ、そのボーイズラブ的な部分を除けば(まあ厳密に言えば、そこを除いてしまうと物語として成立しなくなるので、適度に残す感じになるけど)、物語としてはなかなかいいと思いました。
真志喜と瀬名垣が共に抱える罪。その罪を軸としてではないと語りえなくなってしまった二人の関係。その関係性を残念に思う一方で、一緒にいられる悦びをもち続けることのできる、そういう微妙で複雑な関係を描くことを主軸としながらも、古書の世界や、あるいは二人が対峙すべき世界というものについて丁寧に描写がされていて、いいと思いました。
圧巻なのは文体で、これがすごく綺麗な感じなんですね。本自体に書かれてる内容紹介の中で、
「透明な硝子の文体」
と表現されているのだけど、まさにその通りで、透き通った池の底を覗き込んでいるような、美しい揺らめきとひそやかな賛美とかうまく織り合わされた文章でした。三浦しをんというのは、何人もいるんじゃないだろうかと思うくらいです。作品によって結構文体が変わります。「風が強く吹いている」のようにアップテンポな楽しい感じの文体もあれば、「私が語りはじめた彼は」のように固く引き締まった文体もあり、また一方で本作のように美しさのたゆたうような文体だったりと、その多様性は見事だなと思いました。
また、本好きの三浦しをんらしく、古書業界を扱った珍しい作品ですけど、業界の奥の深さが伝わる描き方をしていて、さすがだという感じです。本というものに愛着を持ち、また愛着を持つ人を愛で、無限の知識の闇の中で、必死に良書を見つけ出しては、それをきちんとした人の手まで届ける役割をしようとする古書店のあり方に、素晴らしいものを感じます。ブックオフのような古本屋にはよくいくのだけど、古書店というのはなかなか踏み入れたことのない領域です。興味はあるけど、敷居は高いですね、やっぱり。
併録された二つの短編の方も、真志喜と瀬名垣の関係がよくわかる感じで好ましいです。特に、高校時代の二人というのは、なかなかに魅力溢れる感じでしたよ。
まあそんなわけで、ボーイズラブ的な部分を除けば、僕としてはいい作品だったなと思います。三浦しをんのさらなる新しさを見たような気がしました。三浦しをんの作品はそもそも女性に人気だと思うけど、中でもこれは女性向けでしょうね。読んでみてください。
三浦しをん「月魚」
しかし、親友はいるか、と聞かれて、いると即答できる人間は、そうは多くないだろう。僕も、親友はいないと思う(なんて書くと、僕を親友だと思ってくれている人がいたら残念がるのだろうけど)。
親友という繋がりは、一体どのように生まれるんだろうな、と不思議に思う。
僕が親友と聞いて思い出してしまうのは、金田一一と七瀬みゆきである。まあ彼らは親友だと言っていいでしょう(とりあえず付き合ってもないみたいだし)。幼馴染という繋がりから親友になっているわけだけど、でもこの幼馴染から親友へ、という流れは、実際現実的じゃないだろうと思う。大人になるに連れて、人間関係というのはどんどん変わっていく。子供の頃は大切だった関係が、時と共に次第に薄れていくというのは自然なことだ。
さらに今の時代、深い人間関係というものをあまり求めないようになってきた。それが自然な流れなのか、あるいは孤独の裏返しなのかはなんとも言えないけど、他人とあまり深く関わらなくなってきた。そう考えると、子供時代はまあとにかくとして、大人になってから親友を作ろうと思ったら、これもかなり難しいということになる。
何をもって親友と呼ぶのかも難しいところではあるのだけど、でも親友同士を繋ぐものが一体なんなのか、よくわからない。お互いを助け合い、お互いを認め合い、お互いを許し合っていくような関係。いつまでもその関係が壊れないだろうなと思わせるその距離感。どうしてそんなものが存在できるのだろう。
もしかしたら彼らを繋ぐものは、前向きで正しいものだけではないのかもしれない。
大胆にお互いに歩み寄れるほどの前向きさを常に持ち続けながら、一方で近寄り過ぎないだけの絶妙な距離感を保つ。その近寄り過ぎないために必要なものが、ある種のマイナスの何かではないのだろうか、とも思わなくはない。
これ以上近づいたらこの関係性が壊れてしまう、という何かを常に持ち続けていること。お互いがそれを認め、二人の間に常に横たわっていると確認しつつ、それでもなお繋がっていたいと希求する。それが、親友という関係性の間にあるものなのかもしれない。
その存在すべてを包み込むことの出来る、親友という存在を羨ましく思う。恐らくこの先、新しく出会う人間の中から親友を見つけ出すのは無理だろう。これまでの人間関係はあらかた固定してしまっているので、これから親友側にシフトするとも思えない。難しいものである。異性のパートナーと同じで、望んでいるだけでは手に入れることができない存在なんだろう。
深い人間関係を本能的に忌避する現代にあって、親友という存在は素晴らしいものではないかと思う。どんどんと失われていきそうなものだからこそ、いつまでも残って欲しいものだ、と思う。
今日はなかなか筆が乗らないので、そろそろ内容に入ろうと思います。
古書店「無窮堂」の三代目当主である真志喜と、その友人で同じく古書店業界に身をおいている瀬名垣の物語である。共に20代前半という、若き古書店主だ。
瀬名垣の父は、「せどり屋」と呼ばれていた。二束三文で買い叩いた古書を転売することで利益をあげる「せどり屋」は、古書店業界から疎まれる。父もそうであった。
しかし父は同時に、「せどり屋」を続ける中で本というものに目覚め始めた。どこで聞き及んだか、古書店業界に勇名を轟かせる老舗「無窮堂」の初代当主である本田翁が瀬名垣の父を気に入り、その噂は古書店業界に広まっていく。
そうして、真志喜と瀬名垣は出会った。父が「無窮堂」に通う中で一緒についていった瀬名垣は、そこで青白い肌をした一つ年下の真志喜と出会う。二人は気が合ったのか、まるで兄弟のように一緒に過ごしていった。
しかし、ある事件が二人の関係を大きく変えることになってしまった。それは、瀬名垣の古書店主としての才能を大きく知らしめる事件であったが、同時に、自分自身や周囲の人間を無自覚に傷つける結果となり、それが今でも、真志喜と瀬名垣の間に深く横たわっている。
二人はその事件以降もお互いを必要とし求め合った。しかしそれは、同時に常に罪悪感を呼び起こすものであった。あの事件をなかったことにすることは出来ないし、二人とも忘れているわけがないのだが、それに触れないようにしながら、二人はお互いへの罪悪感を密に募らせているのである。
ある日、瀬名垣の元に依頼のあった、山奥の豪邸での古書の買取に、真志喜がついて行くことになったのだけど…。
というような話です。
実際は、真志喜と瀬名垣の高校時代を描いた「水に沈んだ私の村」と、文庫書き下ろしの「名前のないもの」が収録されているのだけど、全体の8割くらいが、内容紹介をした「月魚」の物語になっています。
さて僕は、声を大にして言いたいことがあるのである。
三浦しをんよ、ボーイズラブの世界を、文芸に持ち込まないでくれ!
僕は思うのだけど、この話、男には向かないだろうな、と思うんです。何故なら、全体的にボーイズラブ(わかるとは思うけど、つまり男同士がなんとやらというような話です)の雰囲気がどことなく漂ってくる感じで、男としては、本能的に忌避したい感じではないか、と思うからです。
別に真志喜と瀬名垣のそういうシーンがあるわけではないけど、明らかに妖しい淫靡な雰囲気を二人は湛えているし、お互いに抱く感情もまあ明らかという感じで、やっぱどう評価しても本作はボーイズラブだよな、と思います。同じく三浦しをんの直木賞受賞作「まほろ駅前多田便利軒」も、まあ男二人が同居する話ではあったけど、本作ほど淫靡な感じはありませんでした。ちょっとこれは、確信犯的にボーイズラブを文芸の世界でやろうとしたんだろうな、と思います。
まあ、女性的には、文芸でこういうのが読めるのはいいんでしょうけど(ボーイズラブと言えば、イラストが表紙の、明らかにそういう話です、みたいな奴しかなかなかないですからね)、男としては、こういうのを文芸でやられちゃうと参ったなぁ、という感じの作品だったりします。
まあ、そのボーイズラブ的な部分を除けば(まあ厳密に言えば、そこを除いてしまうと物語として成立しなくなるので、適度に残す感じになるけど)、物語としてはなかなかいいと思いました。
真志喜と瀬名垣が共に抱える罪。その罪を軸としてではないと語りえなくなってしまった二人の関係。その関係性を残念に思う一方で、一緒にいられる悦びをもち続けることのできる、そういう微妙で複雑な関係を描くことを主軸としながらも、古書の世界や、あるいは二人が対峙すべき世界というものについて丁寧に描写がされていて、いいと思いました。
圧巻なのは文体で、これがすごく綺麗な感じなんですね。本自体に書かれてる内容紹介の中で、
「透明な硝子の文体」
と表現されているのだけど、まさにその通りで、透き通った池の底を覗き込んでいるような、美しい揺らめきとひそやかな賛美とかうまく織り合わされた文章でした。三浦しをんというのは、何人もいるんじゃないだろうかと思うくらいです。作品によって結構文体が変わります。「風が強く吹いている」のようにアップテンポな楽しい感じの文体もあれば、「私が語りはじめた彼は」のように固く引き締まった文体もあり、また一方で本作のように美しさのたゆたうような文体だったりと、その多様性は見事だなと思いました。
また、本好きの三浦しをんらしく、古書業界を扱った珍しい作品ですけど、業界の奥の深さが伝わる描き方をしていて、さすがだという感じです。本というものに愛着を持ち、また愛着を持つ人を愛で、無限の知識の闇の中で、必死に良書を見つけ出しては、それをきちんとした人の手まで届ける役割をしようとする古書店のあり方に、素晴らしいものを感じます。ブックオフのような古本屋にはよくいくのだけど、古書店というのはなかなか踏み入れたことのない領域です。興味はあるけど、敷居は高いですね、やっぱり。
併録された二つの短編の方も、真志喜と瀬名垣の関係がよくわかる感じで好ましいです。特に、高校時代の二人というのは、なかなかに魅力溢れる感じでしたよ。
まあそんなわけで、ボーイズラブ的な部分を除けば、僕としてはいい作品だったなと思います。三浦しをんのさらなる新しさを見たような気がしました。三浦しをんの作品はそもそも女性に人気だと思うけど、中でもこれは女性向けでしょうね。読んでみてください。
三浦しをん「月魚」
なかよし小鳩組(荻原浩)
子供は、苦手である。
これは、僕自身が他人から見てわかりずらい子供だったからじゃないかな、と勝手に思っている。
僕は子供の頃すごく曲がっていて(まあ今でも充分曲がっているのだけど、でも昔に比べたら大分落ち着いたと思う)、すごくめんどくさい子供だった。しかも、そのめんどくささを表に出すとさらにめんどくさいことになる、ということをきちんと知っていたので、外面上僕はすごく大人しいごく普通の子供に見えるように努力した。
いやな子供である。
まあとにかく、歪んだものを歪んでないように見せかけるような、割と際どく、かつ不自然な生活を自分の中ではしていたので(周囲からすれば、すごく自然に見えたであろうが)、もちろんそんな生活がいつまでも出来るわけもなく、まあそれに関して親といろいろあって、それを多少引きずりながら今に至っているわけだけど、まあその辺はいいか。
つまり、僕自身がそういう嫌な変な子供だったのである。
だから、子供を見ると、コイツもそうなんじゃないか、と無意識のうちに思ってしまって、だから苦手に思うんではないか、と思うのだ。
考えすぎだろうか?
しかしそれを抜きにしても、子供というのは扱いづらい。書店で働いている身としては、まあ頻繁とは言わないまでも子供(一応高校生くらいまでを含んでいるつもり)を相手にすることがあるのだけど、なかなか意思の疎通が出来ない。高校生辺りだと、タルそうな話し方をしたり、それで人に話が通じると思っているわけ?というような内容しか口にしないような人間もいて、それはそれでムカツクのだけど、でもそれはまだ、ムカツクなりにやっていることを理解できるのでいい。
問題は、それよりも小さい子供だ。
あれは不思議なものだ。大抵そういう子供は親と一緒に来るのだけど、僕が子供に質問しているのに、何故か親を介した会話になるのだ。
例えばこんな風に。
僕「カバーは掛けますか?(子供視線で言う)」
親「カバー掛けるの?(もちろん子供視線)」
子「うん(親視線で返事)」
親「お願いします(僕視線)」
なんだこの会話は、とか思う。そんな非効率的な会話はないだろう、とか思うのだが、でも子供の時とかそんな感じだったかな、とも思わないでもない。
逆に、無茶苦茶元気な子供もいる。親の言っていることを意味もわからないまま復唱したり(カードの一括払いって何?みたいなことを聞いてみたり)、動き回ったり喋り倒したり、その辺のものを触ってバンバンしてみたり、もうよくわからない。
まあそんなわけで、子供というのは苦手なのだ、という話である。どうも話がどんどん脱線していくような気がする。
それが自分の子供であればなおさらだよな、と僕は思うのだ。
よく人は、人の子供が可愛く思えなくても、自分の子供なら絶対可愛いと思うよ、と言ったりする。
いやいや、そうか?僕なんかは、自分と血の繋がった子供がいる、というのが、なんとなく気持ち悪く感じてしまうのだが、そんな風に感じるのは普通じゃないのだろうか?
うまく表現できないのだけど、自分と血が繋がっていることで、拒否できないな、という感じがあるのだ。自分の子供を否定すれば、自分自身を否定するような気がして、その拘束感が僕としては窮屈なんだと思う。がん細胞のように、自分の中でどんどん増殖しては、切り離そうとしても完全に切り離すのは難しい存在というか、そういう感覚というのが嫌なんじゃないかな、と思うのだ。
だから僕は今の段階では、あんまり結婚はしたくないし(まあ出来ないとは思うけど)、万が一結婚しても子供は欲しくないよな、と思う。
ただ、本作の早苗みたいな子供ならいいなぁ、と思う。というか、小説を読んでいると、こんな子供が自分の子供ならいいかもしれない、というキャラクターに時々出逢うような気がする。
本作の早苗は、子供らしさという枠から完全に外れている。僕は、子供に子供らしさを押し付ける大人も、子供らしさを出そうとする子供も嫌いで、そういう枠から外れた人間がいいのだけど、早苗というのはそういうキャラクターで好感が持てる。
なんというか、対等になれる気がするのだ。親と子という関係ではなく、一人と一人という関係でいられそうなキャラクターだ。それは僕にとってすごく大事なことで、関係性に縛られるのではなく、出来れば一人一人と、一人一人として接したいと思っている。
だから、これは僕がいろんなところでよく書いていることだけど、もし万が一結婚して子供が生まれるようなことがあれば、僕は子供に、パパとか親父とかは呼ばせないで、絶対に名前で呼ばせるように教育しようと思う。早苗というキャラクターは、それを不思議に思うことなく普通にやってしまえるような感じで、そこがいいなと思う。
しかしやはり、全体的な視点で見れば、子供が苦手であることには変わりないのだけど。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、荻原浩のデビュー作「なかよし小鳩組」の続編であり、前作で大活躍したユニバーサル広告社がまた活躍する話です。
ユニバーサル広告社は、まあいつものように綱渡りのような経営をしているわけで、今も杉山が抱えている結婚式場の仕事ぐらいしかない。しかし、その式場の社長が捕まり、あっさり仕事はなくなってしまう。
これは参った…。そこで社長の石井は、他の代理店からうまく回ってきた仕事に二つ返事で答えた。仕事の内容もロクに確認もしないで。
その仕事とは、小鳩組のCIを作ること。CIとは、社内ロゴやシンボルマークのことで、一時期企業の中でこのCIを製作するのが流行ったものだ。小鳩組というのは聞いたことはないけど、しかしまあどこかの建築会社だろう…。
ホンモノのヤクザなのであった。
まさしくヤクザであろう身なりをした人間に囲まれながら、なかば脅されるようにして仕事を引き受けざるおえなかったユニバーサル広告社の面々は、とりあえず相手がヤクザだろうと仕事をしないわけにはいかないと、必死でCI製作に取り組むのだが…。
一方で、杉山の私生活にも多少の変化が起きる。アル中が原因で離婚をした妻の再婚相手と、娘の早苗が、どうしてもソリが合わないのだという。家を抜け出して自力で杉山の家までやってきた早苗は、しばらく杉山と共に暮らすことに。
相変わらず酒と縁を切ることの出来ない杉山だが、いつのまにか、社の命運を賭けて走ることになったりして…。
なんていう話です。
相変わらず、面白いです。
まずもう、ヤクザのCIを考えるっていう設定が、もう秀逸じゃないですか。前回の、過疎の村のPRをするというのもよかったけど、前回はその村の人間のキャラクターで勝負をしていたのを、今回はヤクザとCIという設定の意外性で勝負してきた感じで、違う種類の面白さがありました。
ヤクザを相手にしているのに妙に度胸が据わっているユニバーサル広告社の面々も面白いし、一方で、いろんな意味でヤクザらしくないヤクザが出てきたりして、そっちの方も面白かったです。また、なぜヤクザがCIを考えようとしたのかや、鷺沢という、ヤクザ側のキレ者の思惑など、細かいところまでしっかり考えていて、とにかく隅々まで面白いですね。
前作では、あんまり広告代理店っぽいことはやってなかったのだけど、今回はCI作成ということで、広告の仕事(の一部、をさらに大げさにしたもの)がよくわかる感じになっていて、広告の世界というのは大変なんだろうな、と思いました。
登場人物にしても、どれも個性的で、ユニバーサル広告社のメンバーなら、やはり石井がいいですかね。口だけで生きてる人間は、現実世界では嫌いだけど、小説の中なら好きです。
そして何よりもよかったのが、早苗というキャラクターですね。杉山の娘なんだけど、これがホントにいい。冒頭でも書いたけど、こんな子供なら欲しいかも、と思わせる子供で、以前誰かが指摘していたけど、荻原浩の「四度目の氷河期」に出てくる女の子に感じがちょっと似てました。
というわけで、本当に気楽に読める小説です。だからと言って軽いわけではなく、充分に笑える中にも、なかなかいろいろ考えさせられる部分や深い部分があったりして、いい小説です。荻原浩の減点とも言えるシリーズでしょう。是非、「オロロ畑でつかまえて」から読んでみてください。
荻原浩「なかよし小鳩組」
これは、僕自身が他人から見てわかりずらい子供だったからじゃないかな、と勝手に思っている。
僕は子供の頃すごく曲がっていて(まあ今でも充分曲がっているのだけど、でも昔に比べたら大分落ち着いたと思う)、すごくめんどくさい子供だった。しかも、そのめんどくささを表に出すとさらにめんどくさいことになる、ということをきちんと知っていたので、外面上僕はすごく大人しいごく普通の子供に見えるように努力した。
いやな子供である。
まあとにかく、歪んだものを歪んでないように見せかけるような、割と際どく、かつ不自然な生活を自分の中ではしていたので(周囲からすれば、すごく自然に見えたであろうが)、もちろんそんな生活がいつまでも出来るわけもなく、まあそれに関して親といろいろあって、それを多少引きずりながら今に至っているわけだけど、まあその辺はいいか。
つまり、僕自身がそういう嫌な変な子供だったのである。
だから、子供を見ると、コイツもそうなんじゃないか、と無意識のうちに思ってしまって、だから苦手に思うんではないか、と思うのだ。
考えすぎだろうか?
しかしそれを抜きにしても、子供というのは扱いづらい。書店で働いている身としては、まあ頻繁とは言わないまでも子供(一応高校生くらいまでを含んでいるつもり)を相手にすることがあるのだけど、なかなか意思の疎通が出来ない。高校生辺りだと、タルそうな話し方をしたり、それで人に話が通じると思っているわけ?というような内容しか口にしないような人間もいて、それはそれでムカツクのだけど、でもそれはまだ、ムカツクなりにやっていることを理解できるのでいい。
問題は、それよりも小さい子供だ。
あれは不思議なものだ。大抵そういう子供は親と一緒に来るのだけど、僕が子供に質問しているのに、何故か親を介した会話になるのだ。
例えばこんな風に。
僕「カバーは掛けますか?(子供視線で言う)」
親「カバー掛けるの?(もちろん子供視線)」
子「うん(親視線で返事)」
親「お願いします(僕視線)」
なんだこの会話は、とか思う。そんな非効率的な会話はないだろう、とか思うのだが、でも子供の時とかそんな感じだったかな、とも思わないでもない。
逆に、無茶苦茶元気な子供もいる。親の言っていることを意味もわからないまま復唱したり(カードの一括払いって何?みたいなことを聞いてみたり)、動き回ったり喋り倒したり、その辺のものを触ってバンバンしてみたり、もうよくわからない。
まあそんなわけで、子供というのは苦手なのだ、という話である。どうも話がどんどん脱線していくような気がする。
それが自分の子供であればなおさらだよな、と僕は思うのだ。
よく人は、人の子供が可愛く思えなくても、自分の子供なら絶対可愛いと思うよ、と言ったりする。
いやいや、そうか?僕なんかは、自分と血の繋がった子供がいる、というのが、なんとなく気持ち悪く感じてしまうのだが、そんな風に感じるのは普通じゃないのだろうか?
うまく表現できないのだけど、自分と血が繋がっていることで、拒否できないな、という感じがあるのだ。自分の子供を否定すれば、自分自身を否定するような気がして、その拘束感が僕としては窮屈なんだと思う。がん細胞のように、自分の中でどんどん増殖しては、切り離そうとしても完全に切り離すのは難しい存在というか、そういう感覚というのが嫌なんじゃないかな、と思うのだ。
だから僕は今の段階では、あんまり結婚はしたくないし(まあ出来ないとは思うけど)、万が一結婚しても子供は欲しくないよな、と思う。
ただ、本作の早苗みたいな子供ならいいなぁ、と思う。というか、小説を読んでいると、こんな子供が自分の子供ならいいかもしれない、というキャラクターに時々出逢うような気がする。
本作の早苗は、子供らしさという枠から完全に外れている。僕は、子供に子供らしさを押し付ける大人も、子供らしさを出そうとする子供も嫌いで、そういう枠から外れた人間がいいのだけど、早苗というのはそういうキャラクターで好感が持てる。
なんというか、対等になれる気がするのだ。親と子という関係ではなく、一人と一人という関係でいられそうなキャラクターだ。それは僕にとってすごく大事なことで、関係性に縛られるのではなく、出来れば一人一人と、一人一人として接したいと思っている。
だから、これは僕がいろんなところでよく書いていることだけど、もし万が一結婚して子供が生まれるようなことがあれば、僕は子供に、パパとか親父とかは呼ばせないで、絶対に名前で呼ばせるように教育しようと思う。早苗というキャラクターは、それを不思議に思うことなく普通にやってしまえるような感じで、そこがいいなと思う。
しかしやはり、全体的な視点で見れば、子供が苦手であることには変わりないのだけど。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、荻原浩のデビュー作「なかよし小鳩組」の続編であり、前作で大活躍したユニバーサル広告社がまた活躍する話です。
ユニバーサル広告社は、まあいつものように綱渡りのような経営をしているわけで、今も杉山が抱えている結婚式場の仕事ぐらいしかない。しかし、その式場の社長が捕まり、あっさり仕事はなくなってしまう。
これは参った…。そこで社長の石井は、他の代理店からうまく回ってきた仕事に二つ返事で答えた。仕事の内容もロクに確認もしないで。
その仕事とは、小鳩組のCIを作ること。CIとは、社内ロゴやシンボルマークのことで、一時期企業の中でこのCIを製作するのが流行ったものだ。小鳩組というのは聞いたことはないけど、しかしまあどこかの建築会社だろう…。
ホンモノのヤクザなのであった。
まさしくヤクザであろう身なりをした人間に囲まれながら、なかば脅されるようにして仕事を引き受けざるおえなかったユニバーサル広告社の面々は、とりあえず相手がヤクザだろうと仕事をしないわけにはいかないと、必死でCI製作に取り組むのだが…。
一方で、杉山の私生活にも多少の変化が起きる。アル中が原因で離婚をした妻の再婚相手と、娘の早苗が、どうしてもソリが合わないのだという。家を抜け出して自力で杉山の家までやってきた早苗は、しばらく杉山と共に暮らすことに。
相変わらず酒と縁を切ることの出来ない杉山だが、いつのまにか、社の命運を賭けて走ることになったりして…。
なんていう話です。
相変わらず、面白いです。
まずもう、ヤクザのCIを考えるっていう設定が、もう秀逸じゃないですか。前回の、過疎の村のPRをするというのもよかったけど、前回はその村の人間のキャラクターで勝負をしていたのを、今回はヤクザとCIという設定の意外性で勝負してきた感じで、違う種類の面白さがありました。
ヤクザを相手にしているのに妙に度胸が据わっているユニバーサル広告社の面々も面白いし、一方で、いろんな意味でヤクザらしくないヤクザが出てきたりして、そっちの方も面白かったです。また、なぜヤクザがCIを考えようとしたのかや、鷺沢という、ヤクザ側のキレ者の思惑など、細かいところまでしっかり考えていて、とにかく隅々まで面白いですね。
前作では、あんまり広告代理店っぽいことはやってなかったのだけど、今回はCI作成ということで、広告の仕事(の一部、をさらに大げさにしたもの)がよくわかる感じになっていて、広告の世界というのは大変なんだろうな、と思いました。
登場人物にしても、どれも個性的で、ユニバーサル広告社のメンバーなら、やはり石井がいいですかね。口だけで生きてる人間は、現実世界では嫌いだけど、小説の中なら好きです。
そして何よりもよかったのが、早苗というキャラクターですね。杉山の娘なんだけど、これがホントにいい。冒頭でも書いたけど、こんな子供なら欲しいかも、と思わせる子供で、以前誰かが指摘していたけど、荻原浩の「四度目の氷河期」に出てくる女の子に感じがちょっと似てました。
というわけで、本当に気楽に読める小説です。だからと言って軽いわけではなく、充分に笑える中にも、なかなかいろいろ考えさせられる部分や深い部分があったりして、いい小説です。荻原浩の減点とも言えるシリーズでしょう。是非、「オロロ畑でつかまえて」から読んでみてください。
荻原浩「なかよし小鳩組」