自分探しと楽しさについて(森博嗣)
内容に入ろうと思います。
本書は、森博嗣の最新作で、集英社新書から出ている三部作(森博嗣は「自由」「工作」「小説」と呼んでいる)を出版した後、読者から多数相談があり、まあそれにちょっとは反応しないとかな、という感じで書いたもの、らしいです。
内容はまさにタイトルの通りで、各章のタイトルを書きだせば(これは森博嗣がつけたわけではなく、出版社の人間がつけたようですが)、
「自分はどこにあるのか」
「楽しさはどこにあるのか」
「他者はどこにあるのか」
「自分は社会のどこにあるのか」
「ぶらりとどこかへ行こう」
となります。
森博嗣のこういうエッセイを読むと、少なくとも僕には、『物凄く当たり前のことが書かれているな』と感じます。これは人によって捉え方が違うでしょうけど、でもそう感じる人は決して少なくはないだろう、と思います。
でも、それを読んで「目から鱗が落ちた」とか「物事の本質が掴めたような気がする」という気分になれるのは、たぶんだけど、『その当たり前のことが、どうして正しいのか』という理屈を説明してくれるから、だと思います。
僕らは普段、『当たり前だ』と思うことについて深く思考しないですよね。というか、深く思考しないで済むために、『当たり前だ』という箱の中に入れて考えないようにするわけです。それが効率がいいからですけど、でもそうなると、『何故その当たり前のことは正しいのか』といことについて、自分でも説明できなかったりぴったりくる言葉を見つけられなかったりするんですね。
でも森博嗣はそれを、的確な言葉や論理で説明してくれるんです。自分が『当たり前だ』と思ってきたことを、ちゃんと論理で補強してくれる。そんな気がします。だから読んでて、うんうん頷いてしまうことが多いんだろうなと思います。
どんな感じで話が展開されていくのか、部分部分を若干かいつまみながら書いてみようと思います。
まず森博嗣は、若者が自分探しをする傾向は昔からあったことで最近に特化したことではないと書きます(ただ、自分探しを容易にしやすくなったというような環境上の変化はある、と書いています)。結局若者が(あるいは最近は年配者もらしいけど)悩んでいるのは、『他者に見られたい「自分」と本来の「自分」とのギャップだ』と言います。
まあそうですよね。僕も昔はこれで大分悩みました。自分が他者からどう見られているのか、ということがとても重要だと感じられたし(今は別にそこまででもない)、自分をどう見せるのが最適なのかということばかり考えていました(これは今でもそうだけど、でも昔より強迫的な感覚ではない)。
ある時僕は、『自分が他者からどう見られているのか』ということを考えるのが限界で、『自分は世界中の人間から嫌われているのだ』という思考に切り替えることで生きやすさを手に入れました。どっちつかずの状態だからこそ悩むのであって、他者から嫌われているのだ、と信じることさえ出来れば、そういう悩みは軽減される、と今では冷静に分析できますが、まあ当時そこまでは考えてなかったでしょうね。
結果的に僕は、『周囲からどう見られるか』ということに鈍感になることは出来なかったです。それは今でもそうですが、それでは生きづらいんで、僕はどうしたかといえば、『なるべく期待されない人間になる』という戦略を取りました。周囲から期待されるからこそ、周囲に対してそういう自分を見せようとして辛くなるわけで、自分がなるべく期待されない存在になりさえすれば、『周囲からどう見られるか』という点について鈍感になれなくても、辛さは軽減されるだろう、とこれもその当時はそんな風に考えていたわけではないでしょうけど、今振り返って冷静に分析してみると、そうだったんだろうなぁ、と思います。
さて森博嗣は、ちょっと前の若者と今の若者の悩みがどう違うのか、という分析に入ります。昔の若者は、自分を高める手法として、『知識をたくさんインプットする』ということを重視しました。本を読んだり、知見を広めたり、ということですね。
しかし現代は、情報をインプットすることにさほど重点は置かれない世の中です。少し調べればどんな有益な情報も手に入るようになってしまったためです。そういう世の中では若者は、『用意されているシステムの中へ自分をインプットする』というやり方で自分をアピールするようになりました(この話は説明しにくいので詳しく書かないとして、具体例として森博嗣はコスプレを挙げていました)。
するとこうなる。『用意されているシステムの中へ自分をインプットする』ことで(例えばコスプレをすることで)、他者から見た自分を劇的に変化させることが出来る。しかし実際には中身の自分は何も変わっていない。変わっていたとしても本の僅かだ。情報を自分にインプットするタイプなら自分の成長を実感できるけど、用意されているシステムの中へ自分をインプットする場合は自身の成長が掴みにくい。そこが、今の若者たちが悩む大きなポイントになっている、と言います。
なるほどなぁ、と思いました。この議論は、「自分」というものが対象だとなかなか理解しづらいかもだけど、その次の「楽しさ」について書いた章では、もう少し理解しやすいと思う。
森博嗣はこの本の中で、「自分を探す」ことと「楽しさを探す」ことはほぼ同義だ、と書いています。そして、先程の話を「楽しさ」の議論で捉えれば、もう少し分かりやすくなると思います。
今世の中には、簡単にラジオを作れるキットと言ったような、用意されている「楽しさ」に溢れている。楽に、一番楽しい部分だけをいいとこ取り出来るように、多くの人がそういうものを提供してくれているのだ。もちろん、そういう用意された「楽しさ」でも十分楽しさを感じられる人はいるし、森博嗣はそれを否定していない。でも中には、そういう「楽しさ」には楽しさを感じられない人もいる。そういう人が結局自分探しをする傾向が大きい。
結局楽しさというのは自分で見つけ出すしかないし、そして時間を掛けなければ得られない楽しさもたくさんある、ということだ。
この章で、本書の中で僕が一番お気に入りのフレーズが出てくる。それが、
『道ばかり歩いていると、ついつい、道しか歩けないと思い込んでしまう。道以外も歩けることを、すっかり忘れてしまうのだ。』
というもの。これはそのままPOPのフレーズに使おうと思ってるんだけど、まさにそういうことだ。
また楽しさについては、犠牲がつきものである、とも書いている。現代人は、既に様々なものを生活の中に取り入れている。新しいことをやろうとすれば、必ず今ある何か(お金や時間など)を犠牲にしなくてはいけない。待っていても幸せはやってこない、ということを自覚しておかなくてはいけない。
僕は、みんなが「幸せだ」「楽しい」と感じることを、そう感じられないことが多い、ということにある時気づいた(別に天啓があったわけでもなくて、今振り返ってみればそういう風に考えたんだろうなぁ、というぐらいなんだけど)。ここで僕がいう「みんな」というのは、大体「マスコミ」という言葉と置き換えられるんだけど、マスコミが良いよ良いよと言ってくることの大半は、僕にはどうにも楽しいと思えないものばかりだった。特に子供の頃は、テレビもそうだけど、周囲の人間が「楽しい」と言うことに乗らざるおえない状況はよくあった。僕には楽しいと思えないことばかりだったけど、当時は楽しいと思えない自分の方が間違っているんだろう、と思っていたはずなので周りに合わせていたけど、大人になって、自分の判断で色々出来るようになると、わざわざ自分が楽しいと思えないことを周りに合わせてやることはないよな、と徐々に思えてきました。森博嗣も、「楽しさ」(自分の趣味など)になるべく他者を関わらせない方がいい、と書いています。僕もそう思います。他者と張り合ったり、認められたいと思ったり、勝ち負けにこだわったりすると、結局楽しめなくなることの方が多い気がする。まあ、まだ僕には邪念があって、「他者から認められたい」っていう部分についてはそう思ってしまうことがあるのだけども。
次に「他者」についての話になる。ここでの結論は実にはっきりしている。それは、
『君と僕の意見は違う。しかし、僕は君を認める』
ということだ。他者を認めるスタンスこそが、自分を確立することに繋がっていくのだ、と言います。なるほどな、という感じです。
この章で、マスコミが何かを伝えることに関して、こんな比喩が書かれていた。
ある人は5時間の睡眠で十分だった。しかし「睡眠時間は7時間以上必要だ」と教えられれば、「もっと寝なくては」という発想に囚われる。そう考えることで体調を崩すことにもなりかねない。
なるほど確かにその通り、という感じですね。他者を意識する度合いを減らした方がいいですよ、とアドバイスしている。
次の章では「自分」について書かれているけど、ここで僕が一番興味深かった話は「自殺」についてだ。森博嗣は、
『生きていても「楽しくない」から死ぬ、という理屈は、非常に正しい。これを論破することはかなり難しいだろう。』
と書いています。
僕は今こんな風に考えています。生きてても死んでても、まあどっちでもいいんだけど、でも死ぬのは「痛い」から嫌だな、と。死にたくない理由は、突き詰めて考えてみると(他の雑多な要因がちょっとずつ含まれるにせよ)、「死ぬと痛いから」だけに収斂しています。だからもし、手間もまったく掛からない(お金も時間も他者の手も掛からない)、そしてまったく無痛のやり方で死ぬことができる(僕が妄想しているのは、悪魔かなんかがやってきて、何かと引き換えに今すぐ無痛で死なせてやる、というような取引なんだけど)なら、それですぐ死んでしまってもいいかなぁ、という想いは漠然とあります。もちろん、実際そういう場面になっても「死にたくない」と思うかもしれないし、どうかわかりませんけど、少なくとも自分が頭で思考する範囲では、今の僕はそう考えています。
そして最後の章は全体のまとめ、という感じでしょうか。
冒頭でも書いたように、全体的にはやっぱり「すごく当たり前のこと」が書かれているという印象ではないかと思います。でも、それが何故正しいのかという理屈をつけてくれるのはやっぱり爽快で、読んでて頷いてしまいます。
僕自身は今、自分の生き方や自分自身に対しては、ほとんど悩んではいません。長い時間を掛けて、自分をこういうところに持ってくることに成功しました。森博嗣は、『他者に見られたい「自分」と本来の「自分」とのギャップ』を解消する方法は、他者に見られたい「自分」を低くするか、本来の「自分」を引き上げる努力をするしかない、と書いています。
僕はどちらかと言えば、他者に見られたい「自分」を大幅に引き下げた、という感じでしょうか。その過程で、さっきも書いたけど、自分がなるべく期待されない存在になるように努力をして、その結果ようやく他者に見られたい「自分」を引き下げることが出来たわけです。
人によっては、僕の生き方は『不幸』に映るかもしれません。でも僕は、少なくとも今は大いに満足しています。自分がやりたいと感じることはなるべくやれ、かつ、自分がやりたくないと感じることはなるべくやらずに済んでいるからです。
森博嗣はこんなことを書いています。
『金がかかる楽しみを目指す人は、金を得るだろう。金のかからない楽しみを目指す人は、金がなくても楽しめるだろう。金を目指す人や、金がないから楽しめないと諦める人は、楽しみは得られない。』
なるほど確かにそうかもしれない、という気がします。僕は金がなくても楽しめる人間で、わざわざ苦労してお金を稼ごうとは思いません。今の僕自身の生活で十分満足出来るし、もっとお金があったらこうしたいなぁ、と思うことはゼロではないけど、結局お金を手に入れたとしてもそんなことはやらないような気もします。今の僕の生き方は、将来的にはかなり酷いものになるかもしれないけど、将来のことを心配して今我慢する、なんていう生き方はしたくないんで、まあこれでいいや、と思っています。
本書を読んで顕著に感じることは、森博嗣のある種の『諦念』です。森博嗣は、自分の言葉が自分の望んだ通り受け取られることをかなり諦めている感じで(もちろん森博嗣は昔からそう思っていただろうけど、さらにその期待を下方修正した、という意味です)、そう思わせる【注意書き】のような文章が時々出てきます。まあ確かに森博嗣ほどの知能だと、自分が考えていることを相手に受け取ってもらうことはなかなか難しいだろうなぁ、という感じはします。僕は森博嗣ほどの知能はまるでありませんが、『言葉が通じない』ということについてなんとなく分かる部分もあります。
相変わらず森博嗣らしさに溢れた作品です。もちろん、森博嗣の文章を受け付けない人もいるだろうし、その考え方に憤慨する人も中にはいるのかもだけど、僕は凄く近いものを感じるし、物事の本質を衝いているなと思います。『もしかしたら役に立つかもしれないアドバイス』ぐらいの感じで読んでみるのがいいと思います。漠然とした悩みを持っている人(というのはかなり該当する人がいるでしょうけど)は是非読んでみてください。
森博嗣「自分探しと楽しさについて」
本書は、森博嗣の最新作で、集英社新書から出ている三部作(森博嗣は「自由」「工作」「小説」と呼んでいる)を出版した後、読者から多数相談があり、まあそれにちょっとは反応しないとかな、という感じで書いたもの、らしいです。
内容はまさにタイトルの通りで、各章のタイトルを書きだせば(これは森博嗣がつけたわけではなく、出版社の人間がつけたようですが)、
「自分はどこにあるのか」
「楽しさはどこにあるのか」
「他者はどこにあるのか」
「自分は社会のどこにあるのか」
「ぶらりとどこかへ行こう」
となります。
森博嗣のこういうエッセイを読むと、少なくとも僕には、『物凄く当たり前のことが書かれているな』と感じます。これは人によって捉え方が違うでしょうけど、でもそう感じる人は決して少なくはないだろう、と思います。
でも、それを読んで「目から鱗が落ちた」とか「物事の本質が掴めたような気がする」という気分になれるのは、たぶんだけど、『その当たり前のことが、どうして正しいのか』という理屈を説明してくれるから、だと思います。
僕らは普段、『当たり前だ』と思うことについて深く思考しないですよね。というか、深く思考しないで済むために、『当たり前だ』という箱の中に入れて考えないようにするわけです。それが効率がいいからですけど、でもそうなると、『何故その当たり前のことは正しいのか』といことについて、自分でも説明できなかったりぴったりくる言葉を見つけられなかったりするんですね。
でも森博嗣はそれを、的確な言葉や論理で説明してくれるんです。自分が『当たり前だ』と思ってきたことを、ちゃんと論理で補強してくれる。そんな気がします。だから読んでて、うんうん頷いてしまうことが多いんだろうなと思います。
どんな感じで話が展開されていくのか、部分部分を若干かいつまみながら書いてみようと思います。
まず森博嗣は、若者が自分探しをする傾向は昔からあったことで最近に特化したことではないと書きます(ただ、自分探しを容易にしやすくなったというような環境上の変化はある、と書いています)。結局若者が(あるいは最近は年配者もらしいけど)悩んでいるのは、『他者に見られたい「自分」と本来の「自分」とのギャップだ』と言います。
まあそうですよね。僕も昔はこれで大分悩みました。自分が他者からどう見られているのか、ということがとても重要だと感じられたし(今は別にそこまででもない)、自分をどう見せるのが最適なのかということばかり考えていました(これは今でもそうだけど、でも昔より強迫的な感覚ではない)。
ある時僕は、『自分が他者からどう見られているのか』ということを考えるのが限界で、『自分は世界中の人間から嫌われているのだ』という思考に切り替えることで生きやすさを手に入れました。どっちつかずの状態だからこそ悩むのであって、他者から嫌われているのだ、と信じることさえ出来れば、そういう悩みは軽減される、と今では冷静に分析できますが、まあ当時そこまでは考えてなかったでしょうね。
結果的に僕は、『周囲からどう見られるか』ということに鈍感になることは出来なかったです。それは今でもそうですが、それでは生きづらいんで、僕はどうしたかといえば、『なるべく期待されない人間になる』という戦略を取りました。周囲から期待されるからこそ、周囲に対してそういう自分を見せようとして辛くなるわけで、自分がなるべく期待されない存在になりさえすれば、『周囲からどう見られるか』という点について鈍感になれなくても、辛さは軽減されるだろう、とこれもその当時はそんな風に考えていたわけではないでしょうけど、今振り返って冷静に分析してみると、そうだったんだろうなぁ、と思います。
さて森博嗣は、ちょっと前の若者と今の若者の悩みがどう違うのか、という分析に入ります。昔の若者は、自分を高める手法として、『知識をたくさんインプットする』ということを重視しました。本を読んだり、知見を広めたり、ということですね。
しかし現代は、情報をインプットすることにさほど重点は置かれない世の中です。少し調べればどんな有益な情報も手に入るようになってしまったためです。そういう世の中では若者は、『用意されているシステムの中へ自分をインプットする』というやり方で自分をアピールするようになりました(この話は説明しにくいので詳しく書かないとして、具体例として森博嗣はコスプレを挙げていました)。
するとこうなる。『用意されているシステムの中へ自分をインプットする』ことで(例えばコスプレをすることで)、他者から見た自分を劇的に変化させることが出来る。しかし実際には中身の自分は何も変わっていない。変わっていたとしても本の僅かだ。情報を自分にインプットするタイプなら自分の成長を実感できるけど、用意されているシステムの中へ自分をインプットする場合は自身の成長が掴みにくい。そこが、今の若者たちが悩む大きなポイントになっている、と言います。
なるほどなぁ、と思いました。この議論は、「自分」というものが対象だとなかなか理解しづらいかもだけど、その次の「楽しさ」について書いた章では、もう少し理解しやすいと思う。
森博嗣はこの本の中で、「自分を探す」ことと「楽しさを探す」ことはほぼ同義だ、と書いています。そして、先程の話を「楽しさ」の議論で捉えれば、もう少し分かりやすくなると思います。
今世の中には、簡単にラジオを作れるキットと言ったような、用意されている「楽しさ」に溢れている。楽に、一番楽しい部分だけをいいとこ取り出来るように、多くの人がそういうものを提供してくれているのだ。もちろん、そういう用意された「楽しさ」でも十分楽しさを感じられる人はいるし、森博嗣はそれを否定していない。でも中には、そういう「楽しさ」には楽しさを感じられない人もいる。そういう人が結局自分探しをする傾向が大きい。
結局楽しさというのは自分で見つけ出すしかないし、そして時間を掛けなければ得られない楽しさもたくさんある、ということだ。
この章で、本書の中で僕が一番お気に入りのフレーズが出てくる。それが、
『道ばかり歩いていると、ついつい、道しか歩けないと思い込んでしまう。道以外も歩けることを、すっかり忘れてしまうのだ。』
というもの。これはそのままPOPのフレーズに使おうと思ってるんだけど、まさにそういうことだ。
また楽しさについては、犠牲がつきものである、とも書いている。現代人は、既に様々なものを生活の中に取り入れている。新しいことをやろうとすれば、必ず今ある何か(お金や時間など)を犠牲にしなくてはいけない。待っていても幸せはやってこない、ということを自覚しておかなくてはいけない。
僕は、みんなが「幸せだ」「楽しい」と感じることを、そう感じられないことが多い、ということにある時気づいた(別に天啓があったわけでもなくて、今振り返ってみればそういう風に考えたんだろうなぁ、というぐらいなんだけど)。ここで僕がいう「みんな」というのは、大体「マスコミ」という言葉と置き換えられるんだけど、マスコミが良いよ良いよと言ってくることの大半は、僕にはどうにも楽しいと思えないものばかりだった。特に子供の頃は、テレビもそうだけど、周囲の人間が「楽しい」と言うことに乗らざるおえない状況はよくあった。僕には楽しいと思えないことばかりだったけど、当時は楽しいと思えない自分の方が間違っているんだろう、と思っていたはずなので周りに合わせていたけど、大人になって、自分の判断で色々出来るようになると、わざわざ自分が楽しいと思えないことを周りに合わせてやることはないよな、と徐々に思えてきました。森博嗣も、「楽しさ」(自分の趣味など)になるべく他者を関わらせない方がいい、と書いています。僕もそう思います。他者と張り合ったり、認められたいと思ったり、勝ち負けにこだわったりすると、結局楽しめなくなることの方が多い気がする。まあ、まだ僕には邪念があって、「他者から認められたい」っていう部分についてはそう思ってしまうことがあるのだけども。
次に「他者」についての話になる。ここでの結論は実にはっきりしている。それは、
『君と僕の意見は違う。しかし、僕は君を認める』
ということだ。他者を認めるスタンスこそが、自分を確立することに繋がっていくのだ、と言います。なるほどな、という感じです。
この章で、マスコミが何かを伝えることに関して、こんな比喩が書かれていた。
ある人は5時間の睡眠で十分だった。しかし「睡眠時間は7時間以上必要だ」と教えられれば、「もっと寝なくては」という発想に囚われる。そう考えることで体調を崩すことにもなりかねない。
なるほど確かにその通り、という感じですね。他者を意識する度合いを減らした方がいいですよ、とアドバイスしている。
次の章では「自分」について書かれているけど、ここで僕が一番興味深かった話は「自殺」についてだ。森博嗣は、
『生きていても「楽しくない」から死ぬ、という理屈は、非常に正しい。これを論破することはかなり難しいだろう。』
と書いています。
僕は今こんな風に考えています。生きてても死んでても、まあどっちでもいいんだけど、でも死ぬのは「痛い」から嫌だな、と。死にたくない理由は、突き詰めて考えてみると(他の雑多な要因がちょっとずつ含まれるにせよ)、「死ぬと痛いから」だけに収斂しています。だからもし、手間もまったく掛からない(お金も時間も他者の手も掛からない)、そしてまったく無痛のやり方で死ぬことができる(僕が妄想しているのは、悪魔かなんかがやってきて、何かと引き換えに今すぐ無痛で死なせてやる、というような取引なんだけど)なら、それですぐ死んでしまってもいいかなぁ、という想いは漠然とあります。もちろん、実際そういう場面になっても「死にたくない」と思うかもしれないし、どうかわかりませんけど、少なくとも自分が頭で思考する範囲では、今の僕はそう考えています。
そして最後の章は全体のまとめ、という感じでしょうか。
冒頭でも書いたように、全体的にはやっぱり「すごく当たり前のこと」が書かれているという印象ではないかと思います。でも、それが何故正しいのかという理屈をつけてくれるのはやっぱり爽快で、読んでて頷いてしまいます。
僕自身は今、自分の生き方や自分自身に対しては、ほとんど悩んではいません。長い時間を掛けて、自分をこういうところに持ってくることに成功しました。森博嗣は、『他者に見られたい「自分」と本来の「自分」とのギャップ』を解消する方法は、他者に見られたい「自分」を低くするか、本来の「自分」を引き上げる努力をするしかない、と書いています。
僕はどちらかと言えば、他者に見られたい「自分」を大幅に引き下げた、という感じでしょうか。その過程で、さっきも書いたけど、自分がなるべく期待されない存在になるように努力をして、その結果ようやく他者に見られたい「自分」を引き下げることが出来たわけです。
人によっては、僕の生き方は『不幸』に映るかもしれません。でも僕は、少なくとも今は大いに満足しています。自分がやりたいと感じることはなるべくやれ、かつ、自分がやりたくないと感じることはなるべくやらずに済んでいるからです。
森博嗣はこんなことを書いています。
『金がかかる楽しみを目指す人は、金を得るだろう。金のかからない楽しみを目指す人は、金がなくても楽しめるだろう。金を目指す人や、金がないから楽しめないと諦める人は、楽しみは得られない。』
なるほど確かにそうかもしれない、という気がします。僕は金がなくても楽しめる人間で、わざわざ苦労してお金を稼ごうとは思いません。今の僕自身の生活で十分満足出来るし、もっとお金があったらこうしたいなぁ、と思うことはゼロではないけど、結局お金を手に入れたとしてもそんなことはやらないような気もします。今の僕の生き方は、将来的にはかなり酷いものになるかもしれないけど、将来のことを心配して今我慢する、なんていう生き方はしたくないんで、まあこれでいいや、と思っています。
本書を読んで顕著に感じることは、森博嗣のある種の『諦念』です。森博嗣は、自分の言葉が自分の望んだ通り受け取られることをかなり諦めている感じで(もちろん森博嗣は昔からそう思っていただろうけど、さらにその期待を下方修正した、という意味です)、そう思わせる【注意書き】のような文章が時々出てきます。まあ確かに森博嗣ほどの知能だと、自分が考えていることを相手に受け取ってもらうことはなかなか難しいだろうなぁ、という感じはします。僕は森博嗣ほどの知能はまるでありませんが、『言葉が通じない』ということについてなんとなく分かる部分もあります。
相変わらず森博嗣らしさに溢れた作品です。もちろん、森博嗣の文章を受け付けない人もいるだろうし、その考え方に憤慨する人も中にはいるのかもだけど、僕は凄く近いものを感じるし、物事の本質を衝いているなと思います。『もしかしたら役に立つかもしれないアドバイス』ぐらいの感じで読んでみるのがいいと思います。漠然とした悩みを持っている人(というのはかなり該当する人がいるでしょうけど)は是非読んでみてください。
森博嗣「自分探しと楽しさについて」
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