科学の現在を問う(村上陽一郎)
内容に入ろうと思います。
本書は、『「科学」の科学の本』、あるいは、『「科学が組み込まれた社会」の科学の本』という感じの作品です。科学という学問分野が、どういう成り立ちを経て現在のような立ち位置となり、それが社会にどんな恵鏡を与える結果になっているのか、というようなことについて書かれている作品です。科学の専門分野に関する記述は多くなくて、社会と科学の関わり、という感じの本なので、むしろ非理系の人にも関わってくる話だったりします。
科学という学問分野が生まれたのは割と最近のことなのだけど、元々は、個人の知的好奇心を満たすための分野であった。つまり、芸術などと同じである。自身の好奇心や満足のために自然を相手に研究をする、というのが科学者という集団であった。
他の分野との決定的な違いは、クライアントが存在しない、ということである。例えば法律や経済の分野であれば、外側に必ずクライアントが存在した。しかし科学というのは、学問として生まれた当初は、クライアントが存在しなかった。そういう特殊な条件の中で、科学というのは進歩し、歴史を積み重ねてきた。
しかし、現在の科学はかなり状況が変わってきている。クライアントがいない、という状況に大きな変化があるわけではないものの、科学という学問分野は、科学者の知的好奇心を満たすためのものばかりではなくなった。科学というのは、社会の成員の一人ひとりの生から死まで、直接間接に管理するような力を持つ存在として社会の中で機能するようになった。
そうした中で、科学というのは変わらざるを得ない。これまでの、知的好奇心を満たすだけの活動であり、社会に対して責任などない、という立ち位置ではいられなくなった。
そしてさらにその一方で、非理系の人たちにとっても、科学というのは無関心ではいられなくなった。科学というものが、科学者の知的好奇心を満たすだけに留まっていた頃ならそれでもよかったのだけど、現在は、科学の動向が自分たちの生活に直結するようなことばかりである。そういう中にあって、理系的な知識を読み解くリテラシーというのは、非理系の人たちであっても決定的に必要なのではないか。
などなど、科学という分野の社会的機能の変遷が、科学という学問分野に、そして僕達の生活にどういう影響を及ぼすことになったのか、という話をメインに、科学の行く末や科学的知識との関わり方などについて書かれた作品です。
なかなか良い内容の本だなと思いました。これは、まさに今の状況だからこそそう思う、というのもあるかもしれませんが。
というのも本書では、「技術と安全」という項で、1999年に起こった東海村の臨界事故について、何故それが起こったのか、そして問題の本質はどこにあったのか、という部分について詳しく書かれているからです。これは、福島の原発の問題を抱える今の日本の状況によく合うのではないかと思いました。
東海村の臨界事故では、現場のマニュアルが勝手に作り替えられていたことによって事故が起こったのだ、という報道のされ方だったようだけど、著者は、それ自体は日本の良きシステムだ、という風に言います。現場から改善案がどんどん出され、それによってマニュアルが改良されていくという仕組みは、欧米でも定着させたかったようだけど、やはりなかなか難しいようで、こういうことがきちんと出来る国というのは少ないと。では、何が問題の本質だったのか、というような部分から、東海村の臨界事故が扱われています、
その章には、まさに予言のように、こんな文章が書かれている。
『(東海村の臨界事故のあと、原子力関係の研究は不人気となり、かつ投資も減りつつあるという状況を紹介した後で)しかし、原子力発電のような国策と直結するような産業では、人材を含むリソースに対する、基礎的な国の支援は恒常的には必要であり、社会的な流行のなかで、その支援を怠ることは、より厳しいしっぺ返しを食らうことになるだろう。そのとき起こる被害は、1999年9月の東海村起こったそれをはるかに凌駕するものとなることを警告しておきたい。』
他にも、社会への影響力という点で最も大きいかもしれない遺伝子工学(遺伝子組換えやクローンなど)の分野での、科学の進捗とそれに対する社会の反応などが描かれたり、あるいは、日本における理科離れの現状を分析したりと、そう多くはない分量の新書にしては、なかなかに広範囲の話題を扱っています。それぞれで、理系の人にとっては、科学という世界の中で生きるための倫理や行動指針みたいなものが学べ、非理系の人にとっては、科学と社会の関わり、あるいは科学と自身の生活との関わりに触れることが出来る内容になっていると思います。
ちょっと今日は時間がないのでこれぐらいの短い感想で終わりにしようと思いますが、科学という器がどうあるべきか、そして科学という器が社会というテーブルの上でどんな位置づけであるべきかというようなことについて、具体例を多く出しながら書いている作品です。1999年の東海村の臨界事故の話題も詳しく描かれているし、福島の原発事故をきっかけとして、科学的知識に対するリテラシー能力を求められることも多々あると思うので、そういう意識を変えるきっかけとしても、読んでみるのはいいかもしれません。
村上陽一郎「科学の現在を問う」
本書は、『「科学」の科学の本』、あるいは、『「科学が組み込まれた社会」の科学の本』という感じの作品です。科学という学問分野が、どういう成り立ちを経て現在のような立ち位置となり、それが社会にどんな恵鏡を与える結果になっているのか、というようなことについて書かれている作品です。科学の専門分野に関する記述は多くなくて、社会と科学の関わり、という感じの本なので、むしろ非理系の人にも関わってくる話だったりします。
科学という学問分野が生まれたのは割と最近のことなのだけど、元々は、個人の知的好奇心を満たすための分野であった。つまり、芸術などと同じである。自身の好奇心や満足のために自然を相手に研究をする、というのが科学者という集団であった。
他の分野との決定的な違いは、クライアントが存在しない、ということである。例えば法律や経済の分野であれば、外側に必ずクライアントが存在した。しかし科学というのは、学問として生まれた当初は、クライアントが存在しなかった。そういう特殊な条件の中で、科学というのは進歩し、歴史を積み重ねてきた。
しかし、現在の科学はかなり状況が変わってきている。クライアントがいない、という状況に大きな変化があるわけではないものの、科学という学問分野は、科学者の知的好奇心を満たすためのものばかりではなくなった。科学というのは、社会の成員の一人ひとりの生から死まで、直接間接に管理するような力を持つ存在として社会の中で機能するようになった。
そうした中で、科学というのは変わらざるを得ない。これまでの、知的好奇心を満たすだけの活動であり、社会に対して責任などない、という立ち位置ではいられなくなった。
そしてさらにその一方で、非理系の人たちにとっても、科学というのは無関心ではいられなくなった。科学というものが、科学者の知的好奇心を満たすだけに留まっていた頃ならそれでもよかったのだけど、現在は、科学の動向が自分たちの生活に直結するようなことばかりである。そういう中にあって、理系的な知識を読み解くリテラシーというのは、非理系の人たちであっても決定的に必要なのではないか。
などなど、科学という分野の社会的機能の変遷が、科学という学問分野に、そして僕達の生活にどういう影響を及ぼすことになったのか、という話をメインに、科学の行く末や科学的知識との関わり方などについて書かれた作品です。
なかなか良い内容の本だなと思いました。これは、まさに今の状況だからこそそう思う、というのもあるかもしれませんが。
というのも本書では、「技術と安全」という項で、1999年に起こった東海村の臨界事故について、何故それが起こったのか、そして問題の本質はどこにあったのか、という部分について詳しく書かれているからです。これは、福島の原発の問題を抱える今の日本の状況によく合うのではないかと思いました。
東海村の臨界事故では、現場のマニュアルが勝手に作り替えられていたことによって事故が起こったのだ、という報道のされ方だったようだけど、著者は、それ自体は日本の良きシステムだ、という風に言います。現場から改善案がどんどん出され、それによってマニュアルが改良されていくという仕組みは、欧米でも定着させたかったようだけど、やはりなかなか難しいようで、こういうことがきちんと出来る国というのは少ないと。では、何が問題の本質だったのか、というような部分から、東海村の臨界事故が扱われています、
その章には、まさに予言のように、こんな文章が書かれている。
『(東海村の臨界事故のあと、原子力関係の研究は不人気となり、かつ投資も減りつつあるという状況を紹介した後で)しかし、原子力発電のような国策と直結するような産業では、人材を含むリソースに対する、基礎的な国の支援は恒常的には必要であり、社会的な流行のなかで、その支援を怠ることは、より厳しいしっぺ返しを食らうことになるだろう。そのとき起こる被害は、1999年9月の東海村起こったそれをはるかに凌駕するものとなることを警告しておきたい。』
他にも、社会への影響力という点で最も大きいかもしれない遺伝子工学(遺伝子組換えやクローンなど)の分野での、科学の進捗とそれに対する社会の反応などが描かれたり、あるいは、日本における理科離れの現状を分析したりと、そう多くはない分量の新書にしては、なかなかに広範囲の話題を扱っています。それぞれで、理系の人にとっては、科学という世界の中で生きるための倫理や行動指針みたいなものが学べ、非理系の人にとっては、科学と社会の関わり、あるいは科学と自身の生活との関わりに触れることが出来る内容になっていると思います。
ちょっと今日は時間がないのでこれぐらいの短い感想で終わりにしようと思いますが、科学という器がどうあるべきか、そして科学という器が社会というテーブルの上でどんな位置づけであるべきかというようなことについて、具体例を多く出しながら書いている作品です。1999年の東海村の臨界事故の話題も詳しく描かれているし、福島の原発事故をきっかけとして、科学的知識に対するリテラシー能力を求められることも多々あると思うので、そういう意識を変えるきっかけとしても、読んでみるのはいいかもしれません。
村上陽一郎「科学の現在を問う」
バタス 刑務所の掟(藤野眞功)
内容に入ろうと思います。
本書は、大沢努という一人の日本人を描いたノンフィクションです。
大沢努は、フィリピン最大の刑務所に入るまでは、一介の旅行代理店の人間でした。しかし、刑務所に入って彼は、外国人で初めて、刑務所を統べる「王」として刑務所内に君臨したのでした。
大沢努は日本のとある旅行会社で、ある件をきっかけとして、瞬く間にトップセールスマンとして駆け上がっていきます。海外ツアーを独断で催行できる権限を手にした彼は、売春ツアーをメインに、他にも独創的なアイデアを駆使してお客を呼びこみ、次々と成功を収めていきます。
ある日、ちょっとしたことでフィリピンで逮捕されてしまった大沢は、親の金で保釈された後、一旦日本へと戻る。京都の有名サパークラブでウェイターとして働き始めた彼は、フィリピン時代の人脈を買われることになる。「ジャパゆきさん」をフィリピンから日本へ連れてくるビジネスに関わることになったのだ。
そうしてまたフィリピンへと戻ることに決めた大沢。そこで彼は、前回の逮捕を教訓として、一つの決意を固めます。それは、もっと政治に食い込むこと。
当時フィリピンはマルコスによる独裁政治が敷かれていた。大沢は色んな伝手を使ってマルコス政権の中枢にまで触手を伸ばし、権力によって守られる立場を築いてゆく。
しかし、マルコス政権が打倒され、アキノ派がマルコス政権の残党狩りをしている状況の中で、大沢は誘拐の容疑で逮捕されてしまう。マルコス政権の大物ということで処罰は厳しく、フィリピン最大の刑務所であるモンテンルパ刑務所に入れられることになる。
モンテンルパ刑務所は、パンカットと呼ばれる複数の集団によって管理されている。それは、刑務局からも黙認されている。
それぞれのパンカットは、大雑把に言えば日本の暴力団のようなもので、厳しい規律によって管理されている。絶対的な階級社会で、コマンダーと呼ばれるパンカットの頂点以下、明確な序列が存在する。刑務所内での生活は、どのパンカットに所属しているのかによって大きく左右されることになる。
そして大沢は、類まれな商才を発揮し(刑務所内では、これまた暴力団のシノギのように、各人がそれぞれに商売を見つけ金を稼がなくては生きていけない)、様々な要素が絡み合い、ついに刑務所内最大のパンカットであるスプートニクのコマンダーに選ばれることになる…。
というような話です。
いやー、これはメチャクチャ面白い話でした!すっげーメチャクチャな話。こんな日本人がホントにいるんだ、ってことが驚きですよ、ホントに。
まず、旅行代理店時代の話から面白い。決して褒められたやり方ではないけど、しかし絶妙に人の欲望を衝くアイデアを次々と出してきて、元々そういう方面での才能がずば抜けていたんだろうな、と思いました。結局フィリピンで、ちょっとあくどいことをしてちゃちゃっと小金を手にしようとして捕まっちゃうわけなんだけど、普通に旅行代理店の人間としてでも大成しただろうなぁ、と思います(とはいえ、相当飽きっぽいみたいだから、もしかしたら飽きちゃってそううまくは行かなかった、なんて可能性もあるけど)。
しかしまあもちろん、刑務所に入ってからの話がまー面白い!波乱万丈、なんて言い方じゃ全然追いつかないくらい、ハチャメチャですね。
そのハチャメチャの背景にあるのが、やっぱり大沢の商才なわけです。大沢は色んな場面で、それまで誰も思いつかなかったような独創的な商売を次々と思いつく。そしてそれが、ことごとく成功するんです。こういうのを山師っていうのか分からないけど、とにかく、商売のセンスが天才的です。パンカットというのは、ホント暴力団と同じで、それぞれが自分のシノギで金を稼ぎ、上の人間に上納金みたいな感じで金を収めないといけないんだけど、だからこそ、効率よく金を稼げる人間は上から取り立てられることになる。大沢も、その類まれな商才によって、上の人間から目を掛けられることになります。
ただ、商才だけではないんですね。これは恐らく、フィリピンでマルコス政権に食い込む過程で培って来たセンスなんだろうけど、相手の信頼をいかに勝ちとるか、という戦略が素晴らしい。もし大沢が、商才のあるだけの男であれば、ここまで上り詰めることは出来なかっただろうと思います。大沢は、どんな風にしたら相手が自分を信頼してくれるか、それを見極めるのが実にうまいと思う。それだけじゃなく、人間をどう動かすか、という手腕にも長けている。
一番なるほどと思ったのは、大沢がコマンダーに就任した直後の大沢の指示。大沢は、「スプートニクのコマンダー・大沢をハポンだと笑う奴を見つけたら、どの組織の誰であろうと即座に額をかち割れ。腹でなく、足でなく、額をかち割れ」という指示を出す。この指示は本当によく考えられている。普通スプートニクそのものへの文句は聞き流すのだけど、何故今回は聞き流さないのか。そして、何故額をかち割るのか。こういう細かな部分での配慮も凄いなと思いました。
とにかく、大沢がどんな風にして刑務所の中で立ち振舞ったのかというのは、是非本書を読んでください。僕の書く感想では、その空気感みたいなものはどうにも表現しようがありません。色々幸運もあったりした。しかし、本書に出てくる、外務省の中谷氏が、大沢をこんな風に評していたセリフが出来て、なるほど、と思う。
『あの刑務所で、本当に自分の力だけでやっていけたのは大沢さんだけです』
確かに幸運もあっただろうけど、基本的に大沢にしか不可能なことだっただろうと思う。
というわけで、大沢についてのあれこれは是非本書を読んでもらうとして、別の話を。日本の刑務所しか知らない普通の人(もちろん僕も。いや、アメリカの刑務所の本をちょっとだけ読んだことがあるか)には、モンテンルパ刑務所の内実にはなかなか驚かされるのではないかと思う。金で刑務官を買収すれば大抵のことはどうにかなるし(なにせ刑務所内の最大のビジネスが、覚せい剤の販売なのだ)、パンカットなんていう囚人による集団をある種黙認するような形になっているのも想像を絶する。
しかし、僕が最大級に驚いた箇所があるので、是非聞いて欲しいのだ。それは本書では、囚人窃盗団、と呼ばれている。
モンテンルパには、軽微犯刑務所(リビング・アウト)がある。そこに移送された囚人は、3年以内の出所が見込まれているし、家族と共に生活することも許される。しかし、このリビング・アウトのメンバーには、出所前に一仕事残されている。
それが、銀行強盗あるいは両替所襲撃だ。
これは、刑務局の人間がやらせるのだ。これは、完璧な略奪計画だ。銀行強盗が起きれば、警察は捜査を開始する。しかし実行犯はまた塀の中に戻っているのだから、見つかるわけがない。一方、銀行強盗の途中で実行犯が捕まっても、元々犯罪者であるし、刑務局だって白を切り通せばいいわけだ。奪ってきた金は、刑務局長に半分、そして残りを実行犯で山分けするらしい。ホント、腐敗ってのは留まることを知らないのだなぁ、と思いました。
そんなわけで、ちょっと凄過ぎるノンフィクションだと思います。作家の力量がどうとかっていう部分は、僕には判断できません。というのも、扱われている題材がとんでもなさすぎるからで、勝手なことを書きますが、どんな人が書いても、この大沢という男の存在感に捕まってしまうのではないか、と思いました。ホント、凄いと思います。凄いとしか言えませんが、濃密なノンフィクションだと思います。是非読んでみてください。
藤野眞功「バタス 刑務所の掟」
1995年のスモーク・オン・ザ・ウォーター(五十嵐貴久)
内容に入ろうと思います。
井口美恵子は、44歳の、どこにでもいる専業主婦。夫は、誰もが名前を知っている会社で研究職をしている。庭付きの一戸建て。申し分ない。今喫緊の問題と言えば、息子が高校受験に失敗して中学浪人をしているということだけど、まあそれだって、先だってあった阪神大震災とか地下鉄サリン事件に比べたら、と思わなくもない。基本的に、幸せな人生だ。
腐れ縁、としか表現のしようがない、昔からの友達のかおりは、相変わらず男の間を飛び回っているのだけど、かおりにしては珍しく厄介な男に捕まってまとまった額の借金を抱えることになって、それで美恵子に頼っていた。お金を貸すのはいつものことだけど、40万はやっぱりなかなか大きい。
で、美恵子はパートに出ることにしてみた。正直に言えば、高校受験に失敗した息子と一緒に家にいるのが気詰まりだったっていうのもある。近くの個人経営のコンビニでレジ打ちをすることに。
そこで、雪見という女と、とあるきっかけで知り合うことになるんだけど、どうしてそれが、みんなでバンドでもやろうなんて話になったんだか。
というような話です。
ホントに五十嵐貴久って、楽しく読める小説を書く作家としては一級だよなといつも思います。五十嵐貴久は、時代小説から恋愛小説までありとあらゆるジャンルの小説に手を掛け、しかもそれらすべてが面白いという、なかなか稀有な作家です。エンターテインメント作家として、本当に楽しく読ませる読みやすい作品を書くという意味では、東野圭吾にだって引けを取らないんじゃないかなと思うんです。ホント今まで、五十嵐貴久の本読んでハズレだったことないしなぁ(まあ若干の好みの差はあるにしても)。
本書も楽しく読ませてくれます。真面目な専業主婦の一人称の小説で、最終的にバンドまで組んで一曲披露してしまうことになる、という展開が本当に巧いと思う。どうやったら真面目な専業主婦が、数ヶ月かそこからで一曲披露するぐらいのところまで行くんだか、普通ならありえないだろうけど、それを、まあありえるかもなぁと思わせるぐらいの設定と展開で読ませるのはさすがです。
で、そのバンドの展開が、美恵子の家族の話とリンクしていくっていうのもいいですね。美恵子の家族は、特別不満があるわけではないけど、でも言葉にしがたいモヤモヤがある、というような、まあ割とどこの家庭もそうなんじゃないかなという家族です。息子の高校受験はイレギュラーな事態にしても、そもそも息子や夫とそこまで会話があったわけでもないし、それでもまあ幸せだと思える程度には幸せだけど、でももう少し良くなってくれてもいいんじゃないかなと思う程度には感じるところがある、という状況。
それが、美恵子がバンドをすることによって、何かが変わるんですね。
それはやっぱり、美恵子自身が一番変わった、ということなんでしょう。美恵子が家族の雰囲気を悪くしている、なんていうことはまったくないだろうけど、でも美恵子が変わることで、引きずられるようにして息子も夫も変わる。バンドと家族の再生にはどうも脈絡がないけど、でもそういうことなんだろうと思います。
特に、ある場面での夫のセリフは素晴らしかったなぁ。息子にピシャリと言うわけだ。カッコイイ。夫に限らずだけど、こう、さりげない場面で、人間性というか、その人間の地色が出ることがある。みんな色んな形で自分を追い詰めたり追い込んだりしている中で、普段は抑え込んでいることとか、敢えて見せずにいることとかが、チラッと出てきたりする。ベース要員として募集して引っかかった新子の話なんかも面白いし、何よりも、ライブの場面で美恵子が露にする姿は、なかなかのものです。あの場面は、結構ウルっときたなぁ。
ホント、五十嵐貴久は、楽しく読める小説を書く作家としては一級だと思います。何を読んでも、エンターテインメントとして本当に楽しく読ませます。是非読んでみてください。
五十嵐貴久「1995年のスモーク・オン・ザ・ウォーター」
井口美恵子は、44歳の、どこにでもいる専業主婦。夫は、誰もが名前を知っている会社で研究職をしている。庭付きの一戸建て。申し分ない。今喫緊の問題と言えば、息子が高校受験に失敗して中学浪人をしているということだけど、まあそれだって、先だってあった阪神大震災とか地下鉄サリン事件に比べたら、と思わなくもない。基本的に、幸せな人生だ。
腐れ縁、としか表現のしようがない、昔からの友達のかおりは、相変わらず男の間を飛び回っているのだけど、かおりにしては珍しく厄介な男に捕まってまとまった額の借金を抱えることになって、それで美恵子に頼っていた。お金を貸すのはいつものことだけど、40万はやっぱりなかなか大きい。
で、美恵子はパートに出ることにしてみた。正直に言えば、高校受験に失敗した息子と一緒に家にいるのが気詰まりだったっていうのもある。近くの個人経営のコンビニでレジ打ちをすることに。
そこで、雪見という女と、とあるきっかけで知り合うことになるんだけど、どうしてそれが、みんなでバンドでもやろうなんて話になったんだか。
というような話です。
ホントに五十嵐貴久って、楽しく読める小説を書く作家としては一級だよなといつも思います。五十嵐貴久は、時代小説から恋愛小説までありとあらゆるジャンルの小説に手を掛け、しかもそれらすべてが面白いという、なかなか稀有な作家です。エンターテインメント作家として、本当に楽しく読ませる読みやすい作品を書くという意味では、東野圭吾にだって引けを取らないんじゃないかなと思うんです。ホント今まで、五十嵐貴久の本読んでハズレだったことないしなぁ(まあ若干の好みの差はあるにしても)。
本書も楽しく読ませてくれます。真面目な専業主婦の一人称の小説で、最終的にバンドまで組んで一曲披露してしまうことになる、という展開が本当に巧いと思う。どうやったら真面目な専業主婦が、数ヶ月かそこからで一曲披露するぐらいのところまで行くんだか、普通ならありえないだろうけど、それを、まあありえるかもなぁと思わせるぐらいの設定と展開で読ませるのはさすがです。
で、そのバンドの展開が、美恵子の家族の話とリンクしていくっていうのもいいですね。美恵子の家族は、特別不満があるわけではないけど、でも言葉にしがたいモヤモヤがある、というような、まあ割とどこの家庭もそうなんじゃないかなという家族です。息子の高校受験はイレギュラーな事態にしても、そもそも息子や夫とそこまで会話があったわけでもないし、それでもまあ幸せだと思える程度には幸せだけど、でももう少し良くなってくれてもいいんじゃないかなと思う程度には感じるところがある、という状況。
それが、美恵子がバンドをすることによって、何かが変わるんですね。
それはやっぱり、美恵子自身が一番変わった、ということなんでしょう。美恵子が家族の雰囲気を悪くしている、なんていうことはまったくないだろうけど、でも美恵子が変わることで、引きずられるようにして息子も夫も変わる。バンドと家族の再生にはどうも脈絡がないけど、でもそういうことなんだろうと思います。
特に、ある場面での夫のセリフは素晴らしかったなぁ。息子にピシャリと言うわけだ。カッコイイ。夫に限らずだけど、こう、さりげない場面で、人間性というか、その人間の地色が出ることがある。みんな色んな形で自分を追い詰めたり追い込んだりしている中で、普段は抑え込んでいることとか、敢えて見せずにいることとかが、チラッと出てきたりする。ベース要員として募集して引っかかった新子の話なんかも面白いし、何よりも、ライブの場面で美恵子が露にする姿は、なかなかのものです。あの場面は、結構ウルっときたなぁ。
ホント、五十嵐貴久は、楽しく読める小説を書く作家としては一級だと思います。何を読んでも、エンターテインメントとして本当に楽しく読ませます。是非読んでみてください。
五十嵐貴久「1995年のスモーク・オン・ザ・ウォーター」
キネマの神様(原田マハ)
内容に入ろうと思います。
大企業で、課長としてシネマコンプレックス建設計画の中心的な役割を担っていた丸山歩は、ほんの些細なきっかけから、39歳にして会社を辞めざるおえなくなってしまう。ちょうどまさにそのタイミングで父が入院、父の仕事であるマンションの管理人の仕事を、一週間有給を取ると嘘をついて肩代わりすることになった。
この父が、実に厄介な男なのだった。
宵越しの金は持たないという主義で、麻雀と競馬に大金を突っ込むギャンブル狂。もうあちこちから借金をしまくって首が回らなくなっているのに、一向に改める気配もない。80歳になろうというのに、生き方はまるで変わっていない。
一方で、かなりのマニアックな映画ファンでもある。日に何本も映画を見て、管理人日誌に自分が見た映画の感想を書き連ねる。近所にある「テアトル銀幕」という名画座にも足しげく通い、テラシンと呼んでいるテアトル銀幕のオーナーとも昵懇だ。
歩は父のギャンブル狂を立て直そうと、母と必死になる。一方、再就職をしようにも、40歳目前という年齢も足かせとなって、なかなかうまくいかない。
そんなある日、転機が訪れる。自分の借金は自分で返すようにと母に年金を差し押さえられた父は、ネットカフェのパソコンで映画を見るようになっていた。そしてそこから、歩が戯れに書いた映画評論のような文章を、とあるサイトに宛てて送ったのだった。
それがきっかけで歩は、「映友」という、映画雑誌の超老舗編集部から声が掛かり、ライターとして雇ってもらえるようになった。しかし話はそれだけでは終わらず、なんと紆余曲折を経て、父親が「キネマの神様」というサイトで映画評論を書くことになったのだった。
というような話です。
いやー、泣きました!ボロボロ、って感じじゃないけど、ジワジワ泣いてましたよ!小説読んでこんなに泣いたのは久しぶりかもしれないなぁ。
タイトルからは、まあ映画の話なんだろうな、っていうイメージだと思います。まあ確かに映画の話だし、映画にほとんど興味のない僕には、よくわからない話(具体的な映画名とその内容や感想についての文章が出てくるんで、その映画を知らない人にはよく分からない部分も多いです)も結構出てくるんですけど、まあそんなことはどうでもいいやって思えるくらい良い話だなと思います。正直、映画小説(なんてジャンルがあるんだかわかりませんが)としてどうなのか僕には判断できませんし、そういう方面からこの作品を評価することはまるで出来ませんけど、家族小説として、そして家族だけではない、友情小説、とでもいうのかな(ちょっとニュアンスをうまく伝えられないんだけど)、そういう作品としては本当に素晴らしいと思います。
本書では、本当に、歩の父親(後々ゴウちゃんと呼ばれることになるのだけど)が本当に良い味を出していると思います。とにかく真っ直ぐな人なんですね。自分の欲望にも真っ直ぐだし、人の気持ちにも真っ直ぐ。それでいて四角四面なんてことはまったくなくて、だらしないし適当だったりもする。母や歩に散々迷惑を掛け通しで、それでも80年間まるで変わらないまま生きてきた父が、サイトで映画評論を書くことでどうなっていくのか、という部分は本当に面白いです。とにかく厄介者でしかなかった父が、凄い波を呼び起こすことになる。父を中心として、とんでもない渦が巻き起こることになる。その中で父は、色んな面を見せていくことになる。それは、長い付き合いである母や歩にさえ見せたことのなかった面だ。だからこそ母も歩も、その父の変化に驚き感動し、そしてそれが読み手にも伝わってくる。
本書の良さは、歩の父に限らず、本書に出てくる誰もが『強い想い』を抱いているから、そしてそれが伝わってくるからだ、という感じがする。まずは、映画への想い。映画という娯楽はどういうもので、それに関わる人たちが映画のどう言った部分を残そうとしているのか。その想いが凄く伝わってくる。
僕は書店員で、本に関わる仕事をしています。映画と本はまた違う部分は多々あるのだろうけど、本書を読んで、残したいと思う部分は近いんじゃないかな、と思いました。
映画の良さにしても本の良さにしても、これは青臭い意見だろうけど、『商売』と密接に結びついてしまうことで、どんどん薄れていってしまうと思うんです。もちろん、商売にしなければ伝わるものも伝わらないわけで、要はバランスの問題ですけども、商売でありすぎると、それぞれの中の良さみたいなものがどんどん損なわれていってしまうのだろう、と。
映画も音楽も本もそうだと思いますけど、大量生産大量消費という世の中で、その世の中に合わせた舵取りが必要とされてきたのだと思います。その過程で、良くなった部分、悪くなった部分と色々とあるんだと思いますけど、そういう世の中では損なわれてしまいがちなものをなんとか守りたいと、本書の登場人物たちは色々と奮闘することになります。変わった人ばかりだけど、映画への想いは皆同じで、それが人を繋いで行く。そこが凄くいいなと思いました。
あとは、人への想いですね。これは主に、歩の父と、ここではちゃんとは書かないとある人物との関係がメインですね。歩の父、そしてそのある人物とが、非常にお互いを想い合っている。その心のこもったやり取りは、なるほど多くの人を惹きつけるのだろうなと思わされるものでした。この話を詳しく書けないのが残念。
また、「映友」編集長の高峰さんとその息子の関係とか、あるいは歩と父、父と母の関係など、本書ではそれぞれの立場に立って相手を思いやり関わっていくという描写がかなり多くあります。そういう一つ一つの積み重ねがいいなぁと思いました。
本書のような物語の場合、リアリティがないって評価を下す人もいるだろうと思います。確かに、本書で描かれるのは、「相当にラッキー」な状況でしょう。そこに非現実さを感じ取ってしまうというのであれば、まあそれはそれで仕方ないかもしれません。ただ、僕はこういうことが現実にあってもおかしくはないとお申し、強い想いやこだわりを持った人間が陽の目を見るという展開は素敵なんじゃないかなと僕は思います。
あと本書を読んで僕が強く感じたことは、何かを深く深く好きになるって羨ましいなぁ、ということです。本書では映画好きのことが描かれますが、別になんだっていいんです。アニメのオタクとかでも、割と僕は羨ましかったりする。僕は、本は山ほど読んでるけど、正直、本好きだと言えるほど本が好きなわけでもない。他に強く関心のあることがあるわけでもないし、本にしたってそこまで深入りは出来ない。何かを心の底から深く好きになるって、ある種才能だよなぁ、と思っているのでした。
正直、あんまり期待してなかったんですけど、メチャクチャ良い作品でした!映画に興味があるとかないとか関係なしに(僕は基本ありません)楽しめる作品だと思います。是非是非読んでみてください!
原田マハ「キネマの神様」
大企業で、課長としてシネマコンプレックス建設計画の中心的な役割を担っていた丸山歩は、ほんの些細なきっかけから、39歳にして会社を辞めざるおえなくなってしまう。ちょうどまさにそのタイミングで父が入院、父の仕事であるマンションの管理人の仕事を、一週間有給を取ると嘘をついて肩代わりすることになった。
この父が、実に厄介な男なのだった。
宵越しの金は持たないという主義で、麻雀と競馬に大金を突っ込むギャンブル狂。もうあちこちから借金をしまくって首が回らなくなっているのに、一向に改める気配もない。80歳になろうというのに、生き方はまるで変わっていない。
一方で、かなりのマニアックな映画ファンでもある。日に何本も映画を見て、管理人日誌に自分が見た映画の感想を書き連ねる。近所にある「テアトル銀幕」という名画座にも足しげく通い、テラシンと呼んでいるテアトル銀幕のオーナーとも昵懇だ。
歩は父のギャンブル狂を立て直そうと、母と必死になる。一方、再就職をしようにも、40歳目前という年齢も足かせとなって、なかなかうまくいかない。
そんなある日、転機が訪れる。自分の借金は自分で返すようにと母に年金を差し押さえられた父は、ネットカフェのパソコンで映画を見るようになっていた。そしてそこから、歩が戯れに書いた映画評論のような文章を、とあるサイトに宛てて送ったのだった。
それがきっかけで歩は、「映友」という、映画雑誌の超老舗編集部から声が掛かり、ライターとして雇ってもらえるようになった。しかし話はそれだけでは終わらず、なんと紆余曲折を経て、父親が「キネマの神様」というサイトで映画評論を書くことになったのだった。
というような話です。
いやー、泣きました!ボロボロ、って感じじゃないけど、ジワジワ泣いてましたよ!小説読んでこんなに泣いたのは久しぶりかもしれないなぁ。
タイトルからは、まあ映画の話なんだろうな、っていうイメージだと思います。まあ確かに映画の話だし、映画にほとんど興味のない僕には、よくわからない話(具体的な映画名とその内容や感想についての文章が出てくるんで、その映画を知らない人にはよく分からない部分も多いです)も結構出てくるんですけど、まあそんなことはどうでもいいやって思えるくらい良い話だなと思います。正直、映画小説(なんてジャンルがあるんだかわかりませんが)としてどうなのか僕には判断できませんし、そういう方面からこの作品を評価することはまるで出来ませんけど、家族小説として、そして家族だけではない、友情小説、とでもいうのかな(ちょっとニュアンスをうまく伝えられないんだけど)、そういう作品としては本当に素晴らしいと思います。
本書では、本当に、歩の父親(後々ゴウちゃんと呼ばれることになるのだけど)が本当に良い味を出していると思います。とにかく真っ直ぐな人なんですね。自分の欲望にも真っ直ぐだし、人の気持ちにも真っ直ぐ。それでいて四角四面なんてことはまったくなくて、だらしないし適当だったりもする。母や歩に散々迷惑を掛け通しで、それでも80年間まるで変わらないまま生きてきた父が、サイトで映画評論を書くことでどうなっていくのか、という部分は本当に面白いです。とにかく厄介者でしかなかった父が、凄い波を呼び起こすことになる。父を中心として、とんでもない渦が巻き起こることになる。その中で父は、色んな面を見せていくことになる。それは、長い付き合いである母や歩にさえ見せたことのなかった面だ。だからこそ母も歩も、その父の変化に驚き感動し、そしてそれが読み手にも伝わってくる。
本書の良さは、歩の父に限らず、本書に出てくる誰もが『強い想い』を抱いているから、そしてそれが伝わってくるからだ、という感じがする。まずは、映画への想い。映画という娯楽はどういうもので、それに関わる人たちが映画のどう言った部分を残そうとしているのか。その想いが凄く伝わってくる。
僕は書店員で、本に関わる仕事をしています。映画と本はまた違う部分は多々あるのだろうけど、本書を読んで、残したいと思う部分は近いんじゃないかな、と思いました。
映画の良さにしても本の良さにしても、これは青臭い意見だろうけど、『商売』と密接に結びついてしまうことで、どんどん薄れていってしまうと思うんです。もちろん、商売にしなければ伝わるものも伝わらないわけで、要はバランスの問題ですけども、商売でありすぎると、それぞれの中の良さみたいなものがどんどん損なわれていってしまうのだろう、と。
映画も音楽も本もそうだと思いますけど、大量生産大量消費という世の中で、その世の中に合わせた舵取りが必要とされてきたのだと思います。その過程で、良くなった部分、悪くなった部分と色々とあるんだと思いますけど、そういう世の中では損なわれてしまいがちなものをなんとか守りたいと、本書の登場人物たちは色々と奮闘することになります。変わった人ばかりだけど、映画への想いは皆同じで、それが人を繋いで行く。そこが凄くいいなと思いました。
あとは、人への想いですね。これは主に、歩の父と、ここではちゃんとは書かないとある人物との関係がメインですね。歩の父、そしてそのある人物とが、非常にお互いを想い合っている。その心のこもったやり取りは、なるほど多くの人を惹きつけるのだろうなと思わされるものでした。この話を詳しく書けないのが残念。
また、「映友」編集長の高峰さんとその息子の関係とか、あるいは歩と父、父と母の関係など、本書ではそれぞれの立場に立って相手を思いやり関わっていくという描写がかなり多くあります。そういう一つ一つの積み重ねがいいなぁと思いました。
本書のような物語の場合、リアリティがないって評価を下す人もいるだろうと思います。確かに、本書で描かれるのは、「相当にラッキー」な状況でしょう。そこに非現実さを感じ取ってしまうというのであれば、まあそれはそれで仕方ないかもしれません。ただ、僕はこういうことが現実にあってもおかしくはないとお申し、強い想いやこだわりを持った人間が陽の目を見るという展開は素敵なんじゃないかなと僕は思います。
あと本書を読んで僕が強く感じたことは、何かを深く深く好きになるって羨ましいなぁ、ということです。本書では映画好きのことが描かれますが、別になんだっていいんです。アニメのオタクとかでも、割と僕は羨ましかったりする。僕は、本は山ほど読んでるけど、正直、本好きだと言えるほど本が好きなわけでもない。他に強く関心のあることがあるわけでもないし、本にしたってそこまで深入りは出来ない。何かを心の底から深く好きになるって、ある種才能だよなぁ、と思っているのでした。
正直、あんまり期待してなかったんですけど、メチャクチャ良い作品でした!映画に興味があるとかないとか関係なしに(僕は基本ありません)楽しめる作品だと思います。是非是非読んでみてください!
原田マハ「キネマの神様」
からまる(千早茜)
内容に入ろうと思います。
といつも書き出しますが、今日はちょっと内容紹介は省略します。凄く良い作品で、書きたいことが山ほどあるのに、時間がまったくないので。あと、これは言い訳だけど、本書はストーリーがどうっていう部分よりも、全体の雰囲気を感じ取るみたいな作品だから、まあそういう意味でも内容紹介は省いちゃってもいいかな、と。正直、実際に内容紹介を書くにしても、そんな大したことは書けないだろうと思います。
7編の短編が収録されている連作短編集です。それぞれの話が若干ずつ繋がっているような構成になっています。基本的に、恋愛だったり家族だったり、そういう近いようで遠い人間関係を中心に、自分の生き方を見つめたり、悩んだり諦めたり、そういうことをしていく話です。それぞれの短編には、モチーフとなる動物や虫なんかがいて、それが短編のタイトルに反映されています。たとえば「まいまい」はカタツムリです。
それぞれの短編のタイトルだけ書いておきます。
「まいまい」
「ゆらゆらと」
「からまる」
「あししげく」
「ほしつぶ」
「うみのはな」
「ひかりを」
もの凄く雰囲気の良い作品でした。さっきも書いたけど、本書は本当に、物語を楽しむ、というようなタイプの作品ではありません。たゆたうような文章とか、さざ波のような雰囲気とか、そういう部分を楽しむ作品という感じがします。海辺で波の音を聞いているような、そんな気分になれる作品です。
読んでいると、ロウソクの炎を眺めているようなゆらめきを感じます。人が、感情が、生き方が、そういうたくさんのものが安定していない感じ。ふらふらと、ゆらゆらと、たゆたっているような感じで、不安定なまま揺れている。記憶にはないけど、羊水の中で浮かんでるみたい、なんて表現をするとちょっと嫌らしいけど、そうやって何かふんわりとした液体に包まれている中で、少しずつ自分の中に何かが染みこんでくるような、そんな感じがしました。
それでいて、暴力的な部分もあります。液体の中でポワポワしているような感覚が基本なのだけど、時折、心の中に手を突っ込まれてグリグリされているような、そういう感じになります。
それは、僕自身の断片が、色んな登場人物の中に紛れているからだ、と僕は感じました。
一番初めの「まいまい」を読んで、主人公の筒井はホント自分とそっくりだな、と思ってびっくりしました。でも、それ以降のどの短編を読んでいても、そこで描かれる感情に見覚えがあるんですね。全部、僕の中にある。自分がこれまで言語化したことがないような感覚まで、きちんと言葉になっている。
じゃあどうしてそれが、心に手を突っ込まれてグリグリされているような感覚になるのか。
それは、本書で描かれる、自分のものだと思える感情のほとんどが、自分自身の嫌なところ、必死で隠しているところ、どうしようもないところ、だからです。僕は本当に嘘ばっかりの人間で、自分を守るために器用さばかりを特化させてきたような、そんな人間です。人にはそれぞれ、表には出さない感情とか人には見せない部分とかきっちりとあると思うんだけど、僕にもそういう部分が山ほどある。あまり直視したくないもの、向き合いたくないもので溢れている。
でも本書では、そういう感情がむき出しにされるんですね。もしかしたら僕が浸かっているのは羊水ではなくて、自分の体から滲み出した血液なのかもしれない。心をグリグリされて傷ついて流れでた血に浸っているだけなのかもしれない。なんだかそんな風にも思えてくる。
ちょっとだけ、泣きたい気分にもなってくる。僕もそうだし、本書の登場人物たちもそうだと思うのだけど、ちゃんと考えると、きちんと向き合うと自分自身がバラバラになってしまいそうなことがたくさんある。普段は、見て見ぬフリが出来る。もう大人だし、器用さだって身につけている。バラバラになることは回避出来るようにうまく自分の中で調整が出来る。
でも、ふとした瞬間に考える。考えるというか、突きつけられたりする。なんの脈絡のない場面で、するりと滲み出してくる。油断していると、それにやられてしまう。戦いたいわけでも、見つめたいわけでもない。僕は、ただ逃げたい。そうやってずっと生きてきた。
だから本書を読んで、泣きたい気分になるのと同時に、ちょっと安心もする。自分と同じ人間がいるんだな、という安心。ケモノ道だって通る人が多くなれば道になるように、多くの人が同じ場所を通ればそれは簡単には崩せない形を持つ。それは逃げ場としては最適だ。小説の中の話だけど、そんな風に生きている人たちのことを知ると、ちょっとホットする。外国旅行中に日本人に遭遇するみたいなものかな。
凄くぐちゃぐちゃしてくる。一つ言えることは、そんな価値観でも尊重されるべきだ、ということだ。どんな生き方も、どんな逃げ方も、どんなあり方も、肯定されていい。無条件で否定されるべき価値観は、存在してはいけないのではないかと思う。
それを強く感じさせてくれた話が、「ほしつぶ」だ。ここでは、学校の金魚を殺した少年が描かれる。この話は、なかなかにスリリングだと思う。何故少年は金魚を殺したのか。その理由は、傍目から見ている分には絶対に分からない。大人は色んな推測をする。間違った方向に。金魚を殺していいわけではない。しかしそれは無条件に否定されるべきでもない。どんな価値観であっても、肯定される余地はあるはずだと思う。これは自戒を込めて。僕も矮小な人間なので、なかなか人の価値観をするりと受け入れるだけの度量がない。
凄い小説だということは分かる。読んでいると、ビシビシと感じる。でも、何がどう凄いのかを言語化するのが本当に難しい。そもそも、分解して評価することを拒絶する作品な気がする。キャラクターがどうの、文章がどうの、構成がどうのといった要素への分解は、意味を成さない気がする。全体を全体のまま捉えて受け入れる。なんだかそういうやり方でしかこの小説と向きあうことは出来ないのではないか、と思った(言い訳ですけど)。
とにかく、物語を読んでいる、という感覚とは違う作品です。雰囲気を楽しむ、雰囲気に浸る、ゆらめきを捉える、そういう感じの作品だと思います。ちょっとこれは凄い。実は時間がなくて、若干急ぎ目に読んでしまったんだけど、またじっくり読みたいと思わされる作品。これはホント、凄い新人だと思います。是非是非読んでみてください。
千早茜「からまる」
きょうの私は、どうかしている(越智月子)
内容に入ろうと思います。
本書は、11編の短編が収録された短篇集です。
主人公はみな違う作品ですが、ただ、主人公の特徴は共通しています。解説にそれがうまくまとまっているんで、それをそのまま抜き出してみます。
『各編のヒロインたちはみな、三十九歳か四十歳。田舎から出てきて東京でひとり暮らしをしている未婚女性で、フリーライターやイラストレーター、デザイン事務所の電話番など、雑誌関係の仕事に就いている。かなりの美人か、美人じゃなくても見た目は悪くなくて、実年齢よりずっと若く見られるようなタイプばかり。でも恋人と呼べるような相手はいない。「結婚しなくたって大丈夫」「まだまだキレイだから大丈夫」「いずれ産めばいいんだから大丈夫」と言われ、あるいは思い込み、人生の半ばまで来た。それなのに、自分は本当は何が欲しくて、何がしたくて、何を求めて年齢を重ねてきたのかわからなくなっている女たち。』
こういう主人公たちの物語が11編収録されています。
「取り扱い注意」
昔の男から、ライター志望だという女の子を紹介され、会いに行く。
「楽屋裏」
実家で母親から、ひたすら愚痴を聞かされすぎて、全然落ち着かない。
「真実」
嘘ばかりついて仕事を休み、妹に呆れられ、それでもまた嘘をついて男と肌を合わせる。
「カモと鍋」
かつて付き合いそうだった男を、大学時代のゼミ仲間にとられた。男だけじゃなく、色んなものをとられている。
「揺れ」
一週間前に会った男のことばかり頭に浮かぶ。連絡は、来ない。
「警告音」
婚約者を友人に紹介したが、翌朝その婚約者の姿は見えない。記憶がない。何をやらかしたんだろう…。
「手」
実家から母が東京にやってきた。50にもなって母親の脛をかじって生きている姉と共に。
「月」
友人の出産祝いを買って家へ向かう。その旦那とは、昔付き合っていた。赤ちゃんに会うと、子どもが欲しくなってきた。
「宵待草」
やっぱり私とのことは遊びだったのだろうか。待てども待てども、連絡はこない。
「物食う男」
同じことばかり繰り返しいい、甘いものばかり勧めてくる父。子供の頃好きだったあの父親は一体どこに…。
「見る」
年上の男とは体を重ねる気のない男。今隣に、年に数回しか会うことのない姪がいる。
というような感じです。
うーん、ちょっと苦手方面だったかも。
僕は自分では、女性向けの作品を相当読める人間だと認識してるんですけど、でも合うタイプの作品と合わないタイプの作品があるんですね。
合わないタイプの作品の代表格は、唯川恵とか林真理子とか、そういう感じだと思います(両者とも、ほぼ未読なんで、ただのイメージなんですけど)。うまく言葉には出来ないんですけど、オンナオンナしすぎているというか、オンナの部分を何かの装置を使って余計に増幅してみましたみたいな、そういうタイプの作品っていうのは、正直僕的にはあんまり得意じゃないんですね。一方で、例えば宮下奈都の作品とか、本屋大賞2位の「ふがいない僕は空を見た」のような作品は、女性向けだけど、オンナオンナしいわけではないと思うんです(やっぱり言葉にするのは難しいなぁ)。
この作品は、僕の感覚からするとオンナオンナしい感じの作品で、ちょっと合うタイプの作品ではなかったなぁ、という感じがしました。ただ、こういう作品が好きだっていう人は絶対いるだろうなぁ、ということは思います。
本書を読んで一番強く感じたのは、これほどタイトルが内容とピッタリ合ってる作品ってのも珍しいな、ということです。もちろん世の中には、タイトルがジャストフィットしている作品って色々あるんだろうけど、本書もその一つに挙げてもいいんじゃないかと思うんです。
僕が感じたのは、本書で描かれる女性たちの、『これまでの人生を否定したくない』という強い思いです。子供の頃はなるべく親の期待に応え、容姿も良いからそれなりにチヤホヤもされ、仕事にもやりがいを感じられている彼女たち(まあそれらはどれも、全員に当てはまるわけじゃないけども)は、しかし『未婚』というだけで特殊な立ち位置に追いやられている自分の存在を強く認識している。どうすれば良かったのか、何か間違っていたのか。でも、実際はそんな風には考えたくない。今までの人生のどこかで重大な間違いをしていたなんて思いたくない。
だから私は正しい。そう、そうだよ、これは、きょうの私がたまたまどうかしてるだけなんだよ。
そういう気持ちが、どの作品からも結構伝わってくるんですね。普段の私からは、こんな行動考えられない、こんな風に思うなんてありえない。それは実際、自分の人生や足跡みたいなものに対する不安、積み重ねてきたと思ってきたはずのものが実はちょっとした衝撃でドンと崩れ去ってしまうものだと気づいたというような、そういう感覚から来ているはずなんだけど、でも彼女たちはそれを認めたがらない。いや、そうじゃないよ、これは、たまたま、たまたま今日の私がちょっとどうかしてるだけなんだ。そんな風に言い訳をしながら、どこにも辿り着けない道を歩いている彼女たちの後ろ姿が凄くよく見えてくる作品だな、と思います。
やっぱり、本書の主人公たちの年代と近い人には、より共感なり反発なりを感じ取ることが出来る作品なんだろうと思います。
あと、この作家のデビューの経緯がなかなか凄いです。最近の新人にしては珍しく、新人賞を受賞してのデビューというわけではありません。作家・白石一文さんに、あなたは小説を書かなくてはいけない人、と明言されたことをきっかけに小説を書き始めた、という経緯があるそうです。なんだか不思議なデビューの仕方ですけど、まだまだ色んなところに才能が転がってるってことなんだろうなぁ、と思います。
あと残念なのが、誤植。普段誤植なんか見つけない僕でも分かったかなり大きな誤植です。P82から始まる「揺れ」って短編、実は左上に書かれている短編の名前が前ページ「カモと鍋」になってるんですね。まあ作品そのものとは関係ない部分での誤植なんで、どうでもいいんですけどね。
僕には残念ながらちょっと合わない作品だったんですが、こういう作品を好きだという人がいるというのは十分理解できます。タイトルが内容とドンピシャで合っている作品だと思いました。興味がある方は読んでみてください。
越智月子「きょうの私は、どうかしている」
本書は、11編の短編が収録された短篇集です。
主人公はみな違う作品ですが、ただ、主人公の特徴は共通しています。解説にそれがうまくまとまっているんで、それをそのまま抜き出してみます。
『各編のヒロインたちはみな、三十九歳か四十歳。田舎から出てきて東京でひとり暮らしをしている未婚女性で、フリーライターやイラストレーター、デザイン事務所の電話番など、雑誌関係の仕事に就いている。かなりの美人か、美人じゃなくても見た目は悪くなくて、実年齢よりずっと若く見られるようなタイプばかり。でも恋人と呼べるような相手はいない。「結婚しなくたって大丈夫」「まだまだキレイだから大丈夫」「いずれ産めばいいんだから大丈夫」と言われ、あるいは思い込み、人生の半ばまで来た。それなのに、自分は本当は何が欲しくて、何がしたくて、何を求めて年齢を重ねてきたのかわからなくなっている女たち。』
こういう主人公たちの物語が11編収録されています。
「取り扱い注意」
昔の男から、ライター志望だという女の子を紹介され、会いに行く。
「楽屋裏」
実家で母親から、ひたすら愚痴を聞かされすぎて、全然落ち着かない。
「真実」
嘘ばかりついて仕事を休み、妹に呆れられ、それでもまた嘘をついて男と肌を合わせる。
「カモと鍋」
かつて付き合いそうだった男を、大学時代のゼミ仲間にとられた。男だけじゃなく、色んなものをとられている。
「揺れ」
一週間前に会った男のことばかり頭に浮かぶ。連絡は、来ない。
「警告音」
婚約者を友人に紹介したが、翌朝その婚約者の姿は見えない。記憶がない。何をやらかしたんだろう…。
「手」
実家から母が東京にやってきた。50にもなって母親の脛をかじって生きている姉と共に。
「月」
友人の出産祝いを買って家へ向かう。その旦那とは、昔付き合っていた。赤ちゃんに会うと、子どもが欲しくなってきた。
「宵待草」
やっぱり私とのことは遊びだったのだろうか。待てども待てども、連絡はこない。
「物食う男」
同じことばかり繰り返しいい、甘いものばかり勧めてくる父。子供の頃好きだったあの父親は一体どこに…。
「見る」
年上の男とは体を重ねる気のない男。今隣に、年に数回しか会うことのない姪がいる。
というような感じです。
うーん、ちょっと苦手方面だったかも。
僕は自分では、女性向けの作品を相当読める人間だと認識してるんですけど、でも合うタイプの作品と合わないタイプの作品があるんですね。
合わないタイプの作品の代表格は、唯川恵とか林真理子とか、そういう感じだと思います(両者とも、ほぼ未読なんで、ただのイメージなんですけど)。うまく言葉には出来ないんですけど、オンナオンナしすぎているというか、オンナの部分を何かの装置を使って余計に増幅してみましたみたいな、そういうタイプの作品っていうのは、正直僕的にはあんまり得意じゃないんですね。一方で、例えば宮下奈都の作品とか、本屋大賞2位の「ふがいない僕は空を見た」のような作品は、女性向けだけど、オンナオンナしいわけではないと思うんです(やっぱり言葉にするのは難しいなぁ)。
この作品は、僕の感覚からするとオンナオンナしい感じの作品で、ちょっと合うタイプの作品ではなかったなぁ、という感じがしました。ただ、こういう作品が好きだっていう人は絶対いるだろうなぁ、ということは思います。
本書を読んで一番強く感じたのは、これほどタイトルが内容とピッタリ合ってる作品ってのも珍しいな、ということです。もちろん世の中には、タイトルがジャストフィットしている作品って色々あるんだろうけど、本書もその一つに挙げてもいいんじゃないかと思うんです。
僕が感じたのは、本書で描かれる女性たちの、『これまでの人生を否定したくない』という強い思いです。子供の頃はなるべく親の期待に応え、容姿も良いからそれなりにチヤホヤもされ、仕事にもやりがいを感じられている彼女たち(まあそれらはどれも、全員に当てはまるわけじゃないけども)は、しかし『未婚』というだけで特殊な立ち位置に追いやられている自分の存在を強く認識している。どうすれば良かったのか、何か間違っていたのか。でも、実際はそんな風には考えたくない。今までの人生のどこかで重大な間違いをしていたなんて思いたくない。
だから私は正しい。そう、そうだよ、これは、きょうの私がたまたまどうかしてるだけなんだよ。
そういう気持ちが、どの作品からも結構伝わってくるんですね。普段の私からは、こんな行動考えられない、こんな風に思うなんてありえない。それは実際、自分の人生や足跡みたいなものに対する不安、積み重ねてきたと思ってきたはずのものが実はちょっとした衝撃でドンと崩れ去ってしまうものだと気づいたというような、そういう感覚から来ているはずなんだけど、でも彼女たちはそれを認めたがらない。いや、そうじゃないよ、これは、たまたま、たまたま今日の私がちょっとどうかしてるだけなんだ。そんな風に言い訳をしながら、どこにも辿り着けない道を歩いている彼女たちの後ろ姿が凄くよく見えてくる作品だな、と思います。
やっぱり、本書の主人公たちの年代と近い人には、より共感なり反発なりを感じ取ることが出来る作品なんだろうと思います。
あと、この作家のデビューの経緯がなかなか凄いです。最近の新人にしては珍しく、新人賞を受賞してのデビューというわけではありません。作家・白石一文さんに、あなたは小説を書かなくてはいけない人、と明言されたことをきっかけに小説を書き始めた、という経緯があるそうです。なんだか不思議なデビューの仕方ですけど、まだまだ色んなところに才能が転がってるってことなんだろうなぁ、と思います。
あと残念なのが、誤植。普段誤植なんか見つけない僕でも分かったかなり大きな誤植です。P82から始まる「揺れ」って短編、実は左上に書かれている短編の名前が前ページ「カモと鍋」になってるんですね。まあ作品そのものとは関係ない部分での誤植なんで、どうでもいいんですけどね。
僕には残念ながらちょっと合わない作品だったんですが、こういう作品を好きだという人がいるというのは十分理解できます。タイトルが内容とドンピシャで合っている作品だと思いました。興味がある方は読んでみてください。
越智月子「きょうの私は、どうかしている」
六月の輝き(乾ルカ)
内容に入ろうと思います。
本書は、7編の短編が収録された連作短編集です。それぞれの短編の内容を紹介しようかと思いましたが、後の方の展開を明かす形になるのは良くないと思ったんで、長編小説のような紹介をします。
幼なじみの美耶と美奈子は、本当にお互いが唯一の親友という感じの関係で、家も隣同士生まれた日も同じという仲だった。
しかしそんな関係は、ある事件を境に一変していく。
美耶の左手には驚異的な力がある。そんな噂が一瞬にして田舎町に駆け巡る。確かに美耶は、他の誰にもない特別な力を持っていた。
しかし、その力を持っていたがために、美奈子は美耶と決別することになってしまったのだ。
親しく会話をすることもなくなり、しかし時々その能力を使わせようと美耶に命令する美奈子。クラスの優等生・渡辺史恵や、非行少女になった美奈子を助けた高田洋行など、美耶の能力を垣間見た人たちの視点から、美耶の儚い能力を、そして美耶と美奈子の関係を描いた作品です。
まあまあ面白かった、という感じでしょうか。僕は個人的に、乾ルカという作家に非常に大きな期待をしていて、その期待が大きかった分、まあまあという感じに落ち着いたような気もします。
僕は乾ルカの作品は、「メグル」「夏光」についで三作目だったんですが、個人的には「メグル」「夏光」の方がよかったなぁ、と思いました。
一風変わった能力や状況が描かれる、というのは、乾ルカ作品に通底しているものだと思います。本書でも、美耶という少女の持つ特殊な能力が物語の軸になっています。その能力を通じて色んな人と関わりあうのだけども、個人的には、美耶の感情がもっと作品の中で描かれているとよかったような気がします。
美耶自身が望んだわけではない特殊な能力を獲得してしまった美耶という少女は、幼いながら人間の嫌な部分をこれでもかと見せつけられることになります。その辺りの心の内が、もう少しくっきりと描かれているとよかった気がするんです。
美耶の内面は基本的に、美奈子の視点から描かれることになります。ただ美奈子という女の子は、物語の結構冒頭の時点で美耶と決別してしまうんですね。もちろん、本人が心の底からそうしたいと望んだわけではないのだけど、でもそういう態度を取る以外自分の気持ちを落ち着かせることが出来なかったわけです。
そんな美奈子視点からの美耶の描写だと、ちょっと足りないような気がしてしまったんです。本書は美耶と美奈子という両輪が描かれていてこそ、ではないかと思うんですけど、美奈子の方はそれなりにきちんと描かれている感じがしたんですが、どうも美耶の方の内面が作品の奥に隠されてしまっているように感じられて、ちょっともったいない気がしました。
話としては、なかなかいいなと思うものがあるんです。クラスの優等生で犬好きの渡辺史恵の飼い犬に関わる話、高田に保護された美奈子が美耶を呼びつけてまで関わらせた話、美耶の母親の望みを叶えた話、どれも、それぞれの場面での美耶の心の動きがもっと読んでいる人間にはっきりと伝わるような構成に出来れば、もっともっとよかったんじゃないかなぁ、と偉そうなことを言ってみるわけです。
乾ルカは僕の中でかなり期待の作家なので、もっと素晴らしい作品を書けるんじゃないかなぁ、と期待が高くなってしまうんだろうなぁ、と思います。個人的には「メグル」とか「夏光」の方がいいなぁ、と思います。
乾ルカ「六月の輝き」
本書は、7編の短編が収録された連作短編集です。それぞれの短編の内容を紹介しようかと思いましたが、後の方の展開を明かす形になるのは良くないと思ったんで、長編小説のような紹介をします。
幼なじみの美耶と美奈子は、本当にお互いが唯一の親友という感じの関係で、家も隣同士生まれた日も同じという仲だった。
しかしそんな関係は、ある事件を境に一変していく。
美耶の左手には驚異的な力がある。そんな噂が一瞬にして田舎町に駆け巡る。確かに美耶は、他の誰にもない特別な力を持っていた。
しかし、その力を持っていたがために、美奈子は美耶と決別することになってしまったのだ。
親しく会話をすることもなくなり、しかし時々その能力を使わせようと美耶に命令する美奈子。クラスの優等生・渡辺史恵や、非行少女になった美奈子を助けた高田洋行など、美耶の能力を垣間見た人たちの視点から、美耶の儚い能力を、そして美耶と美奈子の関係を描いた作品です。
まあまあ面白かった、という感じでしょうか。僕は個人的に、乾ルカという作家に非常に大きな期待をしていて、その期待が大きかった分、まあまあという感じに落ち着いたような気もします。
僕は乾ルカの作品は、「メグル」「夏光」についで三作目だったんですが、個人的には「メグル」「夏光」の方がよかったなぁ、と思いました。
一風変わった能力や状況が描かれる、というのは、乾ルカ作品に通底しているものだと思います。本書でも、美耶という少女の持つ特殊な能力が物語の軸になっています。その能力を通じて色んな人と関わりあうのだけども、個人的には、美耶の感情がもっと作品の中で描かれているとよかったような気がします。
美耶自身が望んだわけではない特殊な能力を獲得してしまった美耶という少女は、幼いながら人間の嫌な部分をこれでもかと見せつけられることになります。その辺りの心の内が、もう少しくっきりと描かれているとよかった気がするんです。
美耶の内面は基本的に、美奈子の視点から描かれることになります。ただ美奈子という女の子は、物語の結構冒頭の時点で美耶と決別してしまうんですね。もちろん、本人が心の底からそうしたいと望んだわけではないのだけど、でもそういう態度を取る以外自分の気持ちを落ち着かせることが出来なかったわけです。
そんな美奈子視点からの美耶の描写だと、ちょっと足りないような気がしてしまったんです。本書は美耶と美奈子という両輪が描かれていてこそ、ではないかと思うんですけど、美奈子の方はそれなりにきちんと描かれている感じがしたんですが、どうも美耶の方の内面が作品の奥に隠されてしまっているように感じられて、ちょっともったいない気がしました。
話としては、なかなかいいなと思うものがあるんです。クラスの優等生で犬好きの渡辺史恵の飼い犬に関わる話、高田に保護された美奈子が美耶を呼びつけてまで関わらせた話、美耶の母親の望みを叶えた話、どれも、それぞれの場面での美耶の心の動きがもっと読んでいる人間にはっきりと伝わるような構成に出来れば、もっともっとよかったんじゃないかなぁ、と偉そうなことを言ってみるわけです。
乾ルカは僕の中でかなり期待の作家なので、もっと素晴らしい作品を書けるんじゃないかなぁ、と期待が高くなってしまうんだろうなぁ、と思います。個人的には「メグル」とか「夏光」の方がいいなぁ、と思います。
乾ルカ「六月の輝き」
この女(森絵都)
内容に入ろうと思います。
本書は、森絵都の最新刊です。
舞台は、1994年の年の瀬から年明けに掛けての神戸・大阪。そう、まさにその直後、阪神淡路大震災が起ころうという、まさにその直前の時点が舞台になっています。
物語自体は、甲坂礼司という男が書いた小説、という体裁になっています。まず冒頭で、その甲坂礼司が書いた小説がどういう経緯で見つかったのか、が描かれる。とある大学の研究室に埋れていた小説を実に15年ぶりに見つけ、それをずっと探していた誰かに宛てた手紙、という形でその辺りの事情が紹介されます。
そしてすぐ、甲坂礼司が書いた『ある女』というタイトルの小説が始まります。
これがなかなか奇妙な小説なのです。まずもって、甲坂礼司というのは小説家ではない。大阪の日雇い労働者が集まる釜ヶ崎、通称あいりん地区で生活をする、20代の若者だ。
何故甲坂礼司は小説を書くことになったのか。それには、大輔という男が関わってくる。
およそ一年前、大輔は釜ヶ崎にやってきた。20代の若者が極端に少ない釜ヶ崎で二人は意気投合する。大輔は初めの内は碌に仕事も出来ない男だったのだけど、その人の良い性格ですぐに馴染んだ。
その大輔は、神戸に住むお坊ちゃん大学生であり、釜ヶ崎に来て働いているのは、小説を書くためだ、という。大学のゼミで小説を書く課題があり、いっちょ平成のプロレタリア文学を物してやろうと、日雇い労働者として働くことにしたのだった。
しかし大輔は結局小説を書かなかった。甲坂礼司に書いてもらうことにしたのだ。
そして一年後、大輔はまた釜ヶ崎にやってきた。神戸の金持ちが、あんたに小説を書いて欲しいらしいぞ、というアルバイトを携えて。
甲坂礼司に小説を依頼したのは、とあるホテルチェーンを経営する二谷啓太という男だ。二谷は礼司に、妻・結子を主役にした小説を書いて欲しいという。しかしその結子は、出生や生い立ちを聞けばデタラメばかり口にする掴みどころのない女。生真面目に結子と関わり合いを持つ礼司だったが、しかし…。
というような話です。
これは面白かったです。森絵都の意欲作、という感じがしました。森絵都といえば、割と少年少女向けの、ヤングアダルトとでもいうのかな、ちょっとうまく言えないけど、そういう世代に向けた小説がうまいという印象があります。もちろん大人が読んでも面白いし、大人が主人公の小説もあったけど、でも本書のような作風の小説は今までなかったと思います。そういう意味で、既存の森絵都ファンが本書をどう評価するのかは、僕にはよく分かりません。もしかしたら、森絵都らしくない!とか言ってあんまり良い評価にならない人もいるかもしれません。僕はこの作品は素晴らしいと思いますけども。
設定がまず実に面白いと思うんです。ある人物が書いた小説という体裁で物語が進んでいく小説は他にもたくさんあるだろうけど、本書の場合、まず書いてる人間が小説家ではないということ、そして小説を書く動機がおかしいこと、この二点が相当に作品を面白くしているという感じがしました。
甲坂礼司は、小説家でもないのに頼まれて小説を書くことになる。初めは金目当てだったのだけど、次第に小説を書き続ける動機が変化していくことになる。何故その状況で小説を書き続けるのか、というところに、甲坂礼司の個性が凄く強く現れている感じがします。
しかも、甲坂礼司には、この『この女』という小説をまともな小説に仕上げることが出来ない理由があるわけです。それが、結子がまったく本当のことを話してくれない、というジレンマ。結子を主人公にした小説ということであれば、生まれた時からの生い立ちを書いていくことになるはずなのだけど、昔の話は聞くたびに変わっていくデタラメさ。結局のところ甲坂礼司は、結子の生い立ちを追うというごく一般的なやり方を諦めて、自身がどう結子と関わっていったのか、その過程を小説にする、という手法でこの課題に取り組むことになります。
そしてそれが、物語がどういう方向に進んでいくのかさっぱり読めない、という面白さを引き出すことになるんですね。本当に、甲坂礼司が小説を書くというその事が、一体どこにどう繋がっていくのか、初めの内はさっぱりわからない。分からないのだけど、不思議とグイグイ読まされてしまう、という感じなんですね。
そのグイグイ読まされてしまう理由の多くは、登場人物が相当個性的だからだろうと思うんです。釜ヶ崎の住人にしても、結子に関わる人たちにしても、一癖も二癖もあるような濃い人間ばっかりで、しかもみんななかなかに愛すべき人たちなんだよなぁ。
それぞれ、グッと来る部分があったんで、ちょっと抜き出してみようと思います。
まず、釜ヶ崎の名物男、松ちゃんのセリフ。
『かまへん、かまへん。はよ飲み始めたほうが一日がはよ終わる。一日がはよ終わったほうが一生がはよ終わる』
これは、仕事にありつくのが難しくなり、末期的な暗影に彩られた釜ヶ崎の現状とそこに住む人たちの悲壮感みたいなものを見事に表しているなと思いました。
次は、結子のセリフ二つ。
『一回セックスするだけで、なんや簡単に気安うなれるっちゅうか、嘘のいらへんあいだになるっちゅうか、自分のまんまやあいてのまんまでええようになるちゅうか…。どこ触ってもかまへん関係なんて、まるで家族みたいやん』
『あんた、言うたやん。家族にならんでも、他人のままでも、なんや強いもんがあったら繋がっていけるんやないかって。家族に負けへん何かがあるんやないかって。』
結子というのは本当に掴みどころのない女で、礼司も散々振り回されるんだけど、ところどころこういうセリフから、深い孤独みたいなものが透けて見えるところがいい。本書ではそう深く描かれているわけではないけど、結子の生い立ちは決して楽なものではなかったはず。でも、その辛い生活の中から、結子が自発的に身につけていった、獲得していったものというのは結構あって、それが結子の持つ一風変わった優しさみたいなものに繋がっている。本書は、この結子というキャラクターをどこまで好きになれるか、で大分変わってくるだろうという感じがしました。
また結子についてはこんな文章もあります。
『真の意味での強さとは違う。言うなればある種の回復力だ。何があっても起き上がる。そこから何かを学ぶでも人として成長するでもなく、ただすぐに起き上がる。恐らく難解でも、何十回でも。』
本書は、強さを描いている物語、という風にも言えるかもしれないと思います。それは、決して結子だけではない。ただ生きていくこと、そのことに必死にならざるを得なかった人たちが、いかにして、生きていく上で必要な『強さ』を獲得していったのか。それは、上で引用したように、『真の意味での強さ』ではない。強さの代わりになる何か、なのだと思う。みな、実は弱い。でも弱いままで生きるのは難しい。だからこそ、強くはなれないなりに、強さの代替え品を探し求めてきた。そういう人たちが結構描かれることになります。僕は、甲坂礼司が持つ『強さ』も、なかなかのものだと思います。その礼司と結子が邂逅することで、物語が展開していく。
引用の最後は、大輔。
『そら表向きはへらへらしとったし、まわりに調子を合わせるのも俺はうまかった。そやけど、ほんまのところ…。こんなん誰にも言わんかったけど、子供の頃から、なんや心ん中はすかすかしとってん。ずっと、昔から、生きとる実感が薄かった。いつも自分を演じとる気がして、何をやっても本気になれへんで、ほんまの自分はえらい白けとって。』
これは、なんだかんだみんなそうなんだろうなぁ、という気が僕はします。僕も、まあそうだったよなぁ。まさにこの言葉通りでした、子供の頃は。もしかしたら今でもそうかもしれません。僕の勝手な感じ方だと、今の若い世代だと、こういう人はもっと多いような気がします。僕は大輔のようにはならないと思うけど、でも等身大の自分が描かれているような、そんな感じがしました。
物語は、どんどんと錯綜していきます。甲坂礼司が、『自らの意思』で小説を書き続けるようになって以降、それはますます進行していきます。色々なことが明らかになりつつ、収拾がつかなくなっていく。小説を書くことが、現実にフィードバックされていく。それまで隠されていた大きな物語が少しずつ見えてくる過程はなかなか見事だし、また甲坂礼司が小説を書くということを通じて変化していく過程も良い。結子という暴走機関車みたいな女がどうなっていくのかを見届けたい気持ちになる。
さて、僕はこの小説を4/11に読み始めた。震災からちょうどひと月後だ。本書には、直接的に地震のシーンが出てくるわけではない。冒頭で、震災により甲坂礼司が行方不明になった、というようなことが書かれているだけだ。
その冒頭に、こんな文章がある。
『然しながら君は何時ぞや告白してくれました。廃墟と化した街で生々しい生と死に直面し、そこから神なくして起き上がる人間の底力に触れなければ、君はこの現実に立ち返れなかった、我々と同じ地平へ戻ってくる事が出来なかった、と。』
この文章が、今被災地の方にどう届くか、また阪神淡路大震災を経験した人にどう届くか。僕には想像も出来ませんが、何かしら響くものがあるのかもしれない、と思ったりします。
これまでの森絵都の作風とは大分違うので、戸惑う人はいるかもしれません。が、これはなかなかに素晴らしい作品だと思います。どう展開していくのかさっぱり読めない物語と、必死で生きていく過程で『強さに似た何か』を身につけていった人たちの描写が、凄くグッと来る作品だと思いました。是非読んでみてください。
森絵都「この女」
本書は、森絵都の最新刊です。
舞台は、1994年の年の瀬から年明けに掛けての神戸・大阪。そう、まさにその直後、阪神淡路大震災が起ころうという、まさにその直前の時点が舞台になっています。
物語自体は、甲坂礼司という男が書いた小説、という体裁になっています。まず冒頭で、その甲坂礼司が書いた小説がどういう経緯で見つかったのか、が描かれる。とある大学の研究室に埋れていた小説を実に15年ぶりに見つけ、それをずっと探していた誰かに宛てた手紙、という形でその辺りの事情が紹介されます。
そしてすぐ、甲坂礼司が書いた『ある女』というタイトルの小説が始まります。
これがなかなか奇妙な小説なのです。まずもって、甲坂礼司というのは小説家ではない。大阪の日雇い労働者が集まる釜ヶ崎、通称あいりん地区で生活をする、20代の若者だ。
何故甲坂礼司は小説を書くことになったのか。それには、大輔という男が関わってくる。
およそ一年前、大輔は釜ヶ崎にやってきた。20代の若者が極端に少ない釜ヶ崎で二人は意気投合する。大輔は初めの内は碌に仕事も出来ない男だったのだけど、その人の良い性格ですぐに馴染んだ。
その大輔は、神戸に住むお坊ちゃん大学生であり、釜ヶ崎に来て働いているのは、小説を書くためだ、という。大学のゼミで小説を書く課題があり、いっちょ平成のプロレタリア文学を物してやろうと、日雇い労働者として働くことにしたのだった。
しかし大輔は結局小説を書かなかった。甲坂礼司に書いてもらうことにしたのだ。
そして一年後、大輔はまた釜ヶ崎にやってきた。神戸の金持ちが、あんたに小説を書いて欲しいらしいぞ、というアルバイトを携えて。
甲坂礼司に小説を依頼したのは、とあるホテルチェーンを経営する二谷啓太という男だ。二谷は礼司に、妻・結子を主役にした小説を書いて欲しいという。しかしその結子は、出生や生い立ちを聞けばデタラメばかり口にする掴みどころのない女。生真面目に結子と関わり合いを持つ礼司だったが、しかし…。
というような話です。
これは面白かったです。森絵都の意欲作、という感じがしました。森絵都といえば、割と少年少女向けの、ヤングアダルトとでもいうのかな、ちょっとうまく言えないけど、そういう世代に向けた小説がうまいという印象があります。もちろん大人が読んでも面白いし、大人が主人公の小説もあったけど、でも本書のような作風の小説は今までなかったと思います。そういう意味で、既存の森絵都ファンが本書をどう評価するのかは、僕にはよく分かりません。もしかしたら、森絵都らしくない!とか言ってあんまり良い評価にならない人もいるかもしれません。僕はこの作品は素晴らしいと思いますけども。
設定がまず実に面白いと思うんです。ある人物が書いた小説という体裁で物語が進んでいく小説は他にもたくさんあるだろうけど、本書の場合、まず書いてる人間が小説家ではないということ、そして小説を書く動機がおかしいこと、この二点が相当に作品を面白くしているという感じがしました。
甲坂礼司は、小説家でもないのに頼まれて小説を書くことになる。初めは金目当てだったのだけど、次第に小説を書き続ける動機が変化していくことになる。何故その状況で小説を書き続けるのか、というところに、甲坂礼司の個性が凄く強く現れている感じがします。
しかも、甲坂礼司には、この『この女』という小説をまともな小説に仕上げることが出来ない理由があるわけです。それが、結子がまったく本当のことを話してくれない、というジレンマ。結子を主人公にした小説ということであれば、生まれた時からの生い立ちを書いていくことになるはずなのだけど、昔の話は聞くたびに変わっていくデタラメさ。結局のところ甲坂礼司は、結子の生い立ちを追うというごく一般的なやり方を諦めて、自身がどう結子と関わっていったのか、その過程を小説にする、という手法でこの課題に取り組むことになります。
そしてそれが、物語がどういう方向に進んでいくのかさっぱり読めない、という面白さを引き出すことになるんですね。本当に、甲坂礼司が小説を書くというその事が、一体どこにどう繋がっていくのか、初めの内はさっぱりわからない。分からないのだけど、不思議とグイグイ読まされてしまう、という感じなんですね。
そのグイグイ読まされてしまう理由の多くは、登場人物が相当個性的だからだろうと思うんです。釜ヶ崎の住人にしても、結子に関わる人たちにしても、一癖も二癖もあるような濃い人間ばっかりで、しかもみんななかなかに愛すべき人たちなんだよなぁ。
それぞれ、グッと来る部分があったんで、ちょっと抜き出してみようと思います。
まず、釜ヶ崎の名物男、松ちゃんのセリフ。
『かまへん、かまへん。はよ飲み始めたほうが一日がはよ終わる。一日がはよ終わったほうが一生がはよ終わる』
これは、仕事にありつくのが難しくなり、末期的な暗影に彩られた釜ヶ崎の現状とそこに住む人たちの悲壮感みたいなものを見事に表しているなと思いました。
次は、結子のセリフ二つ。
『一回セックスするだけで、なんや簡単に気安うなれるっちゅうか、嘘のいらへんあいだになるっちゅうか、自分のまんまやあいてのまんまでええようになるちゅうか…。どこ触ってもかまへん関係なんて、まるで家族みたいやん』
『あんた、言うたやん。家族にならんでも、他人のままでも、なんや強いもんがあったら繋がっていけるんやないかって。家族に負けへん何かがあるんやないかって。』
結子というのは本当に掴みどころのない女で、礼司も散々振り回されるんだけど、ところどころこういうセリフから、深い孤独みたいなものが透けて見えるところがいい。本書ではそう深く描かれているわけではないけど、結子の生い立ちは決して楽なものではなかったはず。でも、その辛い生活の中から、結子が自発的に身につけていった、獲得していったものというのは結構あって、それが結子の持つ一風変わった優しさみたいなものに繋がっている。本書は、この結子というキャラクターをどこまで好きになれるか、で大分変わってくるだろうという感じがしました。
また結子についてはこんな文章もあります。
『真の意味での強さとは違う。言うなればある種の回復力だ。何があっても起き上がる。そこから何かを学ぶでも人として成長するでもなく、ただすぐに起き上がる。恐らく難解でも、何十回でも。』
本書は、強さを描いている物語、という風にも言えるかもしれないと思います。それは、決して結子だけではない。ただ生きていくこと、そのことに必死にならざるを得なかった人たちが、いかにして、生きていく上で必要な『強さ』を獲得していったのか。それは、上で引用したように、『真の意味での強さ』ではない。強さの代わりになる何か、なのだと思う。みな、実は弱い。でも弱いままで生きるのは難しい。だからこそ、強くはなれないなりに、強さの代替え品を探し求めてきた。そういう人たちが結構描かれることになります。僕は、甲坂礼司が持つ『強さ』も、なかなかのものだと思います。その礼司と結子が邂逅することで、物語が展開していく。
引用の最後は、大輔。
『そら表向きはへらへらしとったし、まわりに調子を合わせるのも俺はうまかった。そやけど、ほんまのところ…。こんなん誰にも言わんかったけど、子供の頃から、なんや心ん中はすかすかしとってん。ずっと、昔から、生きとる実感が薄かった。いつも自分を演じとる気がして、何をやっても本気になれへんで、ほんまの自分はえらい白けとって。』
これは、なんだかんだみんなそうなんだろうなぁ、という気が僕はします。僕も、まあそうだったよなぁ。まさにこの言葉通りでした、子供の頃は。もしかしたら今でもそうかもしれません。僕の勝手な感じ方だと、今の若い世代だと、こういう人はもっと多いような気がします。僕は大輔のようにはならないと思うけど、でも等身大の自分が描かれているような、そんな感じがしました。
物語は、どんどんと錯綜していきます。甲坂礼司が、『自らの意思』で小説を書き続けるようになって以降、それはますます進行していきます。色々なことが明らかになりつつ、収拾がつかなくなっていく。小説を書くことが、現実にフィードバックされていく。それまで隠されていた大きな物語が少しずつ見えてくる過程はなかなか見事だし、また甲坂礼司が小説を書くということを通じて変化していく過程も良い。結子という暴走機関車みたいな女がどうなっていくのかを見届けたい気持ちになる。
さて、僕はこの小説を4/11に読み始めた。震災からちょうどひと月後だ。本書には、直接的に地震のシーンが出てくるわけではない。冒頭で、震災により甲坂礼司が行方不明になった、というようなことが書かれているだけだ。
その冒頭に、こんな文章がある。
『然しながら君は何時ぞや告白してくれました。廃墟と化した街で生々しい生と死に直面し、そこから神なくして起き上がる人間の底力に触れなければ、君はこの現実に立ち返れなかった、我々と同じ地平へ戻ってくる事が出来なかった、と。』
この文章が、今被災地の方にどう届くか、また阪神淡路大震災を経験した人にどう届くか。僕には想像も出来ませんが、何かしら響くものがあるのかもしれない、と思ったりします。
これまでの森絵都の作風とは大分違うので、戸惑う人はいるかもしれません。が、これはなかなかに素晴らしい作品だと思います。どう展開していくのかさっぱり読めない物語と、必死で生きていく過程で『強さに似た何か』を身につけていった人たちの描写が、凄くグッと来る作品だと思いました。是非読んでみてください。
森絵都「この女」
連続殺人鬼カエル男(中山七里)
内容に入ろうと思います。
本書は、このミス大賞の最終選考に、このミス大賞を受賞した「さよなら、ドビュッシー」と一緒に残った作品です。新人賞の選考会の最終選考に、同じ著者の作品が二作残るというのは異例中の異例でしょう。
飯能市に、カエル男と名付けられたとんでもなく凶悪な殺人犯が現れた。
第一の犠牲者である女性は、マンションの13階から全裸で吊り下げられていた。そして傍には、子供が書いたような稚拙な犯行声明文。その犯行声明文の内容から、カエル男と名付けられたのだった。
カエル男の犯行は続くが、警察の捜査は進展しない。被害者同士には、飯能市に住んでいる、以外の共通項を見つけることが出来ず、現場に犯人の痕跡らしきものも残されていない。
被害者同士の繋がりが見えない殺人事件は、飯能市民に多大なる影響を与えた。いつ自分が標的になるかもわからないという恐怖が、市民を混乱の渦へと巻き込んでいく。その犯行形態から、精神障害者の犯行ではないかと疑われ、市民による精神障害者への弾圧が日増しに激しくなっていくが…。
というような話です。
これは凄いなぁ。面白かった。解説でも書かれていたけど、物語の序盤から中盤に掛けては、よくありがちなサイコスリラーの体裁を取っているんです。だから初めの内は、まあ確かに面白いけど、よくあるタイプの作品だなぁと思いながら読んでました。異常な殺人形態、心神喪失者の責任能力を問う刑法第三十九条、カエル男というマスコミが好きそうな名称、遅々として進まない捜査など、まあよくある感じだよね、とか思いながら読んでました。
でも、中盤から徐々に、なんかこれは違うぞ、という感じになってきました。
普通のサイコスリラーと一番違うかなというところは(まあ別にサイコスリラー的な小説を結構読んでるわけでもないんですけど)、市民の感情の変化でしょうか。本書では、殺人と捜査が描かれるのと並行で、殺人の舞台となっている飯能市の市民たちの反応というのが逐一描かれていく。その変化が、物語の中で非常に重要な役割を担うことになるんですね。
ここの部分は、物語の中でも結構重要だと思うから詳しくは書かないけど、非常に面白いと思いました。小説中で殺人事件が起こった際、新聞記者がどんな反応をするか、あるいはネット上でどんな反応があるか、みたいなことを描写することはわりかしあると思いますけど、そうではない一般市民の反応をここまで追った作品ってなかなかないような気がするんです。僕は、斬新だなと感じました。もちろん、一般市民の反応で、これはどうかなぁ、と感じる部分もありましたけど、でもそういう描写が物語の展開上必要だというのは凄くよく分かりました。
実際に、ここまで市民が恐慌を来たすことがあるのかどうか、それはあくまでも想像することしか出来ないけど、でも、地震以降の、テレビやネットで僕が知りうる限りの人々の混乱を目にすると、こういう風な流れになることも考えられるよな、という風に思いました。
そして、ストーリー自体もお見事という感じです。正直読んでて、これどんな風に終わらせるんだろう、って思ってたんですけど、ラスト付近でのあれやこれやは見事だと思いました。まあこの部分についても、ちょっとそこはやりすぎじゃ、という感もなくはなかったし、そこにリアリティのなさを感じてしまう人もいるかもしれないけど、僕は単純に面白く読みました。最後の最後は、なるほどそう終わらせるのか、という感じで、巧いなぁと思いました。
しかしあれだな。ストーリーについて詳しく書けないから、どうしても表現とかが漠然とした感じになってしまうな。
新人の賞への投稿作としては、なかなかに重いテーマを扱っていて、それがまたかなりきちんと描かれているんで、素晴らしいと思いました。刑法第三十九条というのが本書の一つの大きなテーマになっているんですけど、精神障害者の話が出てくるからちょっと付け足してみました、みたいな感じではまったくなくて、この刑法第三十九条の存在が物語の大きな核の一つになっている、という感じなんですね。責任能力を問う刑法第三十九条って、小説なんかで扱うのには結構難しいと思うんですけど、それを新人賞への投稿作で見事に調理しきっているので、本当にレベルが高いなと感じました。
あと本書ではとにかく、渡瀬という刑事が素晴らしいんです!メチャクチャかっこいい!本書は、警察小説っていう括りに入れるほど警察の存在感というのは大きくはない気がするけど(っていうか、カエル男の存在感がでかすぎるってことなんだけど)、警察小説の中でもそうはお目に書かれないような気骨や不器用な優しさを持つ刑事で、かっこいいなんてもんじゃない。主人公は、渡瀬の部下の古手川で、この古手川もなかなか色々見せ場があるんだけど、しかしそんなに吹っ飛ぶぐらい、渡瀬の存在感がとてつもない。渡瀬がいるだけでその場が引き締まる感じで、何人寄りかかっても倒れないような大樹という感じがしました。こんな上司がいたらいいなぁという感じがするし、自分もこんな人間になれたらいいなぁ、という感じもしました。
渡瀬のセリフはいちいち響きますが、一番良かったのがこれ。
『胸の辺りが痛いだろうが、その痛みを大事にしろ。刑事の仕事を続けるうちは絶対に忘れるんじゃない。いいか。褒章や自己満足じゃなく、お前はお前の泣いている人間のために闘え。手錠も拳銃もお上から与えられたんじゃない。かよわき者、声なき者がお前に託したんだ。それを忘れない限り、お前は自分を赦せないような間違いを起こさずに済む。たとえそれでまた手痛い裏切りやしっぺ返しに遭ったとしても、愚かかも知れんが恥ずべきことじゃあない』
痺れますね、ホント。最高です、この上司。
というわけで、ちょっと新人の作品とは思えない、かなり上質な作品だと思います。もちろん、突っ込みたくなるような部分も若干はあるでしょうけど、それを補って余りあるほど魅力の詰まった作品だと思います。読み始めは、よくあるサイコスリラーだと思うでしょうが、読み進めていく内に段々と違いが分かってきて、引きこまれていくと思います。是非読んでみてください。
中山七里「連続殺人鬼カエル男」
本書は、このミス大賞の最終選考に、このミス大賞を受賞した「さよなら、ドビュッシー」と一緒に残った作品です。新人賞の選考会の最終選考に、同じ著者の作品が二作残るというのは異例中の異例でしょう。
飯能市に、カエル男と名付けられたとんでもなく凶悪な殺人犯が現れた。
第一の犠牲者である女性は、マンションの13階から全裸で吊り下げられていた。そして傍には、子供が書いたような稚拙な犯行声明文。その犯行声明文の内容から、カエル男と名付けられたのだった。
カエル男の犯行は続くが、警察の捜査は進展しない。被害者同士には、飯能市に住んでいる、以外の共通項を見つけることが出来ず、現場に犯人の痕跡らしきものも残されていない。
被害者同士の繋がりが見えない殺人事件は、飯能市民に多大なる影響を与えた。いつ自分が標的になるかもわからないという恐怖が、市民を混乱の渦へと巻き込んでいく。その犯行形態から、精神障害者の犯行ではないかと疑われ、市民による精神障害者への弾圧が日増しに激しくなっていくが…。
というような話です。
これは凄いなぁ。面白かった。解説でも書かれていたけど、物語の序盤から中盤に掛けては、よくありがちなサイコスリラーの体裁を取っているんです。だから初めの内は、まあ確かに面白いけど、よくあるタイプの作品だなぁと思いながら読んでました。異常な殺人形態、心神喪失者の責任能力を問う刑法第三十九条、カエル男というマスコミが好きそうな名称、遅々として進まない捜査など、まあよくある感じだよね、とか思いながら読んでました。
でも、中盤から徐々に、なんかこれは違うぞ、という感じになってきました。
普通のサイコスリラーと一番違うかなというところは(まあ別にサイコスリラー的な小説を結構読んでるわけでもないんですけど)、市民の感情の変化でしょうか。本書では、殺人と捜査が描かれるのと並行で、殺人の舞台となっている飯能市の市民たちの反応というのが逐一描かれていく。その変化が、物語の中で非常に重要な役割を担うことになるんですね。
ここの部分は、物語の中でも結構重要だと思うから詳しくは書かないけど、非常に面白いと思いました。小説中で殺人事件が起こった際、新聞記者がどんな反応をするか、あるいはネット上でどんな反応があるか、みたいなことを描写することはわりかしあると思いますけど、そうではない一般市民の反応をここまで追った作品ってなかなかないような気がするんです。僕は、斬新だなと感じました。もちろん、一般市民の反応で、これはどうかなぁ、と感じる部分もありましたけど、でもそういう描写が物語の展開上必要だというのは凄くよく分かりました。
実際に、ここまで市民が恐慌を来たすことがあるのかどうか、それはあくまでも想像することしか出来ないけど、でも、地震以降の、テレビやネットで僕が知りうる限りの人々の混乱を目にすると、こういう風な流れになることも考えられるよな、という風に思いました。
そして、ストーリー自体もお見事という感じです。正直読んでて、これどんな風に終わらせるんだろう、って思ってたんですけど、ラスト付近でのあれやこれやは見事だと思いました。まあこの部分についても、ちょっとそこはやりすぎじゃ、という感もなくはなかったし、そこにリアリティのなさを感じてしまう人もいるかもしれないけど、僕は単純に面白く読みました。最後の最後は、なるほどそう終わらせるのか、という感じで、巧いなぁと思いました。
しかしあれだな。ストーリーについて詳しく書けないから、どうしても表現とかが漠然とした感じになってしまうな。
新人の賞への投稿作としては、なかなかに重いテーマを扱っていて、それがまたかなりきちんと描かれているんで、素晴らしいと思いました。刑法第三十九条というのが本書の一つの大きなテーマになっているんですけど、精神障害者の話が出てくるからちょっと付け足してみました、みたいな感じではまったくなくて、この刑法第三十九条の存在が物語の大きな核の一つになっている、という感じなんですね。責任能力を問う刑法第三十九条って、小説なんかで扱うのには結構難しいと思うんですけど、それを新人賞への投稿作で見事に調理しきっているので、本当にレベルが高いなと感じました。
あと本書ではとにかく、渡瀬という刑事が素晴らしいんです!メチャクチャかっこいい!本書は、警察小説っていう括りに入れるほど警察の存在感というのは大きくはない気がするけど(っていうか、カエル男の存在感がでかすぎるってことなんだけど)、警察小説の中でもそうはお目に書かれないような気骨や不器用な優しさを持つ刑事で、かっこいいなんてもんじゃない。主人公は、渡瀬の部下の古手川で、この古手川もなかなか色々見せ場があるんだけど、しかしそんなに吹っ飛ぶぐらい、渡瀬の存在感がとてつもない。渡瀬がいるだけでその場が引き締まる感じで、何人寄りかかっても倒れないような大樹という感じがしました。こんな上司がいたらいいなぁという感じがするし、自分もこんな人間になれたらいいなぁ、という感じもしました。
渡瀬のセリフはいちいち響きますが、一番良かったのがこれ。
『胸の辺りが痛いだろうが、その痛みを大事にしろ。刑事の仕事を続けるうちは絶対に忘れるんじゃない。いいか。褒章や自己満足じゃなく、お前はお前の泣いている人間のために闘え。手錠も拳銃もお上から与えられたんじゃない。かよわき者、声なき者がお前に託したんだ。それを忘れない限り、お前は自分を赦せないような間違いを起こさずに済む。たとえそれでまた手痛い裏切りやしっぺ返しに遭ったとしても、愚かかも知れんが恥ずべきことじゃあない』
痺れますね、ホント。最高です、この上司。
というわけで、ちょっと新人の作品とは思えない、かなり上質な作品だと思います。もちろん、突っ込みたくなるような部分も若干はあるでしょうけど、それを補って余りあるほど魅力の詰まった作品だと思います。読み始めは、よくあるサイコスリラーだと思うでしょうが、読み進めていく内に段々と違いが分かってきて、引きこまれていくと思います。是非読んでみてください。
中山七里「連続殺人鬼カエル男」
宇宙は何でできているのか 素粒子物理学で解く宇宙の謎(村山斉)
内容に入ろうと思います。
本書は、文部科学省が世界トップレベルの研究拠点として発足させた、東京大学数物連携宇宙機構(IPMU)の初代機構長に就任した著者による、素粒子物理学から見た宇宙論、という感じの作品です。著者は、物理の楽しさを教えるために市民講座などで積極的に講演活動を行っているようで、物理学者の書いた本にしては相当易しく描かれている作品です。
本書は、かなり初心者向けとして書かれている、入門的な作品です。これまで色んな物理の本を読んできた僕には、これまで読んだことがあること基本的なことがメインで描かれているなぁという感じでした(とはいえ、『読んだことがある』のと『理解していること』は違うのでご注意を)。
本書で迫ろうとしている命題は大きく二つ。一つは、「宇宙はどんな物質で出来ているのか」、そしてもう一つは、「それらにどんな力が働いているのか」です。
さて、宇宙の話なのに、何故素粒子の話が出てくるのか、という部分から話は始まります。主にそれは、ビッグバンが関係しています。COBEという衛星によって観測された、マイクロ波宇宙背景放射の異方性によって、宇宙がビッグバンから始まったことはほぼ証明されました。そしてビッグバンが起こった頃というのは、宇宙は極小のサイズ、つまり素粒子のレベルだったわけです。著者も元々は素粒子物理学で学位を取ったようですが、今は宇宙論の研究をしています。
また本書では、相対性理論や量子論なんかについても、本書の流れに必要な部分だけを抜き出して、その概略を随時説明しています。本書の主眼は相対性理論や量子論にはないので、あくまでも補足的な部分の説明になりますが、それらについてごく入り口を大雑把にイメージしたい、ということであれば、なかなか分かりやすい説明になっていると思います。
そして話は第一の命題、「宇宙はどんな物質で出来ているのか」という話になります。ここで説明されるのが、20世紀物理学の金字塔と言ってもいい、「標準模型」と呼ばれる理論です。
これは、物質の最小単位が原子ではなく実はクォークと呼ばれるものであり、それらクォークの様々な性質を分類、あるいは組み合わせることによって、様々な事柄に説明がつく、というものなんだけど、僕はこの標準模型がどの本で読んでも受け付けないんですね。それは、著者の力量とかの問題ではなく、標準模型という理論に、固有名詞が山ほど出てくるからです。
トップクォークだのダウンクォークだのニュートリノだのといった名前に加え、スピンやら色やらと言った性質までわらわら出てきて、これは本当に難しいと思うのです。
それは、第二の命題である「物質にどんな力が働いているのか」という部分でも同じです。ここでは四つの力(重力・電磁気力・強い力・弱い力)について説明されるんだけど、その説明の基本となっているのが標準模型なんですね。それぞれの力は、物質間でそれぞれの力に対応した粒子がキャッチボールされることで説明されるんですけど、やっぱり相変わらず固有名詞が山ほど出てくるんで、かなり気合を入れて読まないと分からないんですよね。
そしてその後で、ノーベル賞を受賞した小林・益川理論と南部理論について話が進んでいきます。本書の僕の収穫としては、小林・益川理論がどういう部分で重要な貢献をしたのかがなんとなく分かった、ということですね。
弱い力はパリティ保存則を破る、という、とんでもない現象が見つかり(これがどうとんでもなかったのか、はなかなか実感しにくいですが)、これをどう説明すべきか物理学者は頭を悩ませました。その中で
小林・益川理論は、クォークは第二世代までではなく、第三世代以上あるはずだ、そうだとすればパリティ保存則の破れを説明できる可能性がある、と説明しました。そして実際それが実験で証明されたため、小林・益川理論はノーベル賞を受賞することになったわけです。
また、ノーベル賞を受賞した南部理論の南部陽一郎さんは、独創的なアイデアを相当昔から思いついていた凄い人なんだなぁ、ということもなんとなく分かりました。
これまで結構物理系の本を読んでいる僕には、さほど目新しいところのない作品ではありましたが、物理学の初心者でもなんとかついていけるように書かれている入門に近い作品だと思いました。理論の込み入ったところには敢えて触れず、難しい理論は全体の流れに必要な部分だけ抜き出し、なるべく難しい表現を使わないで書かれていると思います。とはいえそれでも、標準模型理論は固有名詞が頻発するんで、ここの部分の難解さは、著者の力量ではなく、理論の難しさ(というか煩雑さかな)だと思ってもらえればいいかなと思います。中盤以降、ちょとと難しいなと感じる部分が増えてくるかもですけど、真ん中ぐらいまでは結構読めると思うので、物理はちょっと…、という方も是非読んでみて欲しいなと思います。
村山斉「宇宙は何でできているのか 素粒子物理学で解く宇宙の謎」
本書は、文部科学省が世界トップレベルの研究拠点として発足させた、東京大学数物連携宇宙機構(IPMU)の初代機構長に就任した著者による、素粒子物理学から見た宇宙論、という感じの作品です。著者は、物理の楽しさを教えるために市民講座などで積極的に講演活動を行っているようで、物理学者の書いた本にしては相当易しく描かれている作品です。
本書は、かなり初心者向けとして書かれている、入門的な作品です。これまで色んな物理の本を読んできた僕には、これまで読んだことがあること基本的なことがメインで描かれているなぁという感じでした(とはいえ、『読んだことがある』のと『理解していること』は違うのでご注意を)。
本書で迫ろうとしている命題は大きく二つ。一つは、「宇宙はどんな物質で出来ているのか」、そしてもう一つは、「それらにどんな力が働いているのか」です。
さて、宇宙の話なのに、何故素粒子の話が出てくるのか、という部分から話は始まります。主にそれは、ビッグバンが関係しています。COBEという衛星によって観測された、マイクロ波宇宙背景放射の異方性によって、宇宙がビッグバンから始まったことはほぼ証明されました。そしてビッグバンが起こった頃というのは、宇宙は極小のサイズ、つまり素粒子のレベルだったわけです。著者も元々は素粒子物理学で学位を取ったようですが、今は宇宙論の研究をしています。
また本書では、相対性理論や量子論なんかについても、本書の流れに必要な部分だけを抜き出して、その概略を随時説明しています。本書の主眼は相対性理論や量子論にはないので、あくまでも補足的な部分の説明になりますが、それらについてごく入り口を大雑把にイメージしたい、ということであれば、なかなか分かりやすい説明になっていると思います。
そして話は第一の命題、「宇宙はどんな物質で出来ているのか」という話になります。ここで説明されるのが、20世紀物理学の金字塔と言ってもいい、「標準模型」と呼ばれる理論です。
これは、物質の最小単位が原子ではなく実はクォークと呼ばれるものであり、それらクォークの様々な性質を分類、あるいは組み合わせることによって、様々な事柄に説明がつく、というものなんだけど、僕はこの標準模型がどの本で読んでも受け付けないんですね。それは、著者の力量とかの問題ではなく、標準模型という理論に、固有名詞が山ほど出てくるからです。
トップクォークだのダウンクォークだのニュートリノだのといった名前に加え、スピンやら色やらと言った性質までわらわら出てきて、これは本当に難しいと思うのです。
それは、第二の命題である「物質にどんな力が働いているのか」という部分でも同じです。ここでは四つの力(重力・電磁気力・強い力・弱い力)について説明されるんだけど、その説明の基本となっているのが標準模型なんですね。それぞれの力は、物質間でそれぞれの力に対応した粒子がキャッチボールされることで説明されるんですけど、やっぱり相変わらず固有名詞が山ほど出てくるんで、かなり気合を入れて読まないと分からないんですよね。
そしてその後で、ノーベル賞を受賞した小林・益川理論と南部理論について話が進んでいきます。本書の僕の収穫としては、小林・益川理論がどういう部分で重要な貢献をしたのかがなんとなく分かった、ということですね。
弱い力はパリティ保存則を破る、という、とんでもない現象が見つかり(これがどうとんでもなかったのか、はなかなか実感しにくいですが)、これをどう説明すべきか物理学者は頭を悩ませました。その中で
小林・益川理論は、クォークは第二世代までではなく、第三世代以上あるはずだ、そうだとすればパリティ保存則の破れを説明できる可能性がある、と説明しました。そして実際それが実験で証明されたため、小林・益川理論はノーベル賞を受賞することになったわけです。
また、ノーベル賞を受賞した南部理論の南部陽一郎さんは、独創的なアイデアを相当昔から思いついていた凄い人なんだなぁ、ということもなんとなく分かりました。
これまで結構物理系の本を読んでいる僕には、さほど目新しいところのない作品ではありましたが、物理学の初心者でもなんとかついていけるように書かれている入門に近い作品だと思いました。理論の込み入ったところには敢えて触れず、難しい理論は全体の流れに必要な部分だけ抜き出し、なるべく難しい表現を使わないで書かれていると思います。とはいえそれでも、標準模型理論は固有名詞が頻発するんで、ここの部分の難解さは、著者の力量ではなく、理論の難しさ(というか煩雑さかな)だと思ってもらえればいいかなと思います。中盤以降、ちょとと難しいなと感じる部分が増えてくるかもですけど、真ん中ぐらいまでは結構読めると思うので、物理はちょっと…、という方も是非読んでみて欲しいなと思います。
村山斉「宇宙は何でできているのか 素粒子物理学で解く宇宙の謎」
苦役列車(西村賢太)
内容に入ろうと思います。
本書は、芥川賞を受賞した表題作と、「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」という二編が収録された作品です。
「苦役列車」
19歳、中卒の貫多は、港湾の人足として日銭を稼ぐ暮らしをしている。小学生の頃、父親が性犯罪者として逮捕され、以来世間から隠れるようにして生きざるおえなくなる。友もなく、女もなく、一杯のコップ酒だけを心の慰めに、時々仕事に出かけては五千五百円を得る、そんな孤独な生活を送っている。
普段港湾の仕事場ではほとんど誰とも関わらない貫多だが、ある日バスの中で、その日初めて日雇いの仕事にやってきた日下部という男に声を掛けられ、貫多にしては珍しく、その日下部と案外に親しくなる。休憩時間に一緒に昼飯を食べたり、仕事終わりで一緒に酒を飲みに行ったりと、久しぶりに話す相手が出来た。
日下部に釣られて、これまで時折行くだけだった仕事にも毎日行くようになり、仕事ももう少し待遇の良いところへと代わり、何事も順調に進んでいくかに思えたが…。
「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」
貫多は、とんでもないぎっくり腰にやられ、立ち上がるのもままならないという苦行に喘いでいる。糞をひり出すのもままならず、なるべく食事を制限しなくてはならないほどだった。
貫多は小説を書いている。ある一編が、川端康成文学賞の候補になった、という話を、編集者から知らされたのだ。その編集者とは、主に貫多の不義理によって色々因縁があり、悪い知らせを聞かされるものだとばかり思っていた貫多はホッとし、またどうしても獲りたいと願っている賞でもあったので、大いに喜んだのだった。
ようよう外に出られる状態にまで回復したある日、病院の帰りに一軒の古本屋に立ち寄るのだが…。
というような話です。
なかなか面白いですね。芥川賞受賞作品を時々読むんですが、芥川賞受賞作品とはどうも相性があんまりよくなくて、僕にはよく分からないなぁ、という作品が結構多いんですが、この作品は普通に面白かったです。
西村賢太の作品を読んだのは初めてです。私小説作家、と呼ばれています。私小説、というのがどういうものなのか、正確には知らないんですけど、基本的に、自身の経験をそのまま小説仕立てにする、ということなんだろうと思います。
本書の主人公の貫多は、父親が性犯罪を犯したために人生を狂わされた男なわけですが、実際著者自身もそうなようで、本当に著者自身のことをベースにしている作品なんだろうと思います。
なんだか、小説を読んでいる感じではない、というと、どんな風に伝わるか分かりませんが、私小説だから、という先入観があるからかもしれませんが、誰かが自分の経験を傍で語っているのを聞いているような、そんな感じがしてくる作品だなと思います。
貫多というのは、家賃はそもそも払う気がないし、酒とタバコを確保し、風俗に行くための貯金が出来れば、まあ後は働く気力も湧いてこない、というような男です。で、そういう生き方から強く脱したいと思っているかというと、そうでもない。まあこれならこれで、というような感じで、もちろん諦めが大半でしょうけど、そういう生活を受け入れてしまっている、というか、染み付いてしまっている、という感じです。元々だったのか、身につけたのかわからないけど、貫多の怠惰な性格には、その日暮らしという生き方は合っていなくもない、ということなんだろうと思います。
でも、完全に受け入れられているかというと、そうでもない。それは、同い年の日下部という男と親しくなることで、少しずつ見え隠れしていくことになります。同じ19歳なのに、自分と日下部とではこんなにも違う。それまで誰とも親しく付き合わず、会話することもほとんどなかった貫多は、親しく付き合う友と出会うことで、今まで見なかった部分、見て見ぬふりをしてきた部分を引き摺り出されることになります。
そういう過程や貫多の性格なんかが、本当に良く描かれているなぁ、という感じがしました。貫多自身(そしてそれは著者自身でもあるんだろうけど)のダメな部分、弱い部分を隠すことなく描いていて、普段そういう部分を必死で隠しながら生きている僕らには、一部分だけかもしれないけど、なんとなく分かってしまうような部分ってあるんじゃないかなと思います。普通だったら恥ずかしくて表に出したくないというような部分を惜しげもなくさらけ出しているからこそ、読者を惹きつけるんだろうなぁ。
「落ちぶれて~」の方は、個人的にはそこまで面白くないかなぁという感じがしたんだけど、貫多と編集者との関わりは、これ実際ホントの話なんだろうか、と思ってしまった。貫多の編集者に対する不義理っぷりはちょっとハンパなくて、これを実際著者自身がやっているのだとしたら(やってるんだろうなぁ)、よくもまあそれが通ったなというか許されてきたなというか、そこがちょっと凄いなという感じがしました。
芥川賞受賞作とは普段そこまで相性の良くない僕ですが、これは面白く読めました。西村賢太の色んな作品で貫多のことが描かれているようなんで、時々読んでみようかと思います。是非読んでみてください。
西村賢太「苦役列車」
本書は、芥川賞を受賞した表題作と、「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」という二編が収録された作品です。
「苦役列車」
19歳、中卒の貫多は、港湾の人足として日銭を稼ぐ暮らしをしている。小学生の頃、父親が性犯罪者として逮捕され、以来世間から隠れるようにして生きざるおえなくなる。友もなく、女もなく、一杯のコップ酒だけを心の慰めに、時々仕事に出かけては五千五百円を得る、そんな孤独な生活を送っている。
普段港湾の仕事場ではほとんど誰とも関わらない貫多だが、ある日バスの中で、その日初めて日雇いの仕事にやってきた日下部という男に声を掛けられ、貫多にしては珍しく、その日下部と案外に親しくなる。休憩時間に一緒に昼飯を食べたり、仕事終わりで一緒に酒を飲みに行ったりと、久しぶりに話す相手が出来た。
日下部に釣られて、これまで時折行くだけだった仕事にも毎日行くようになり、仕事ももう少し待遇の良いところへと代わり、何事も順調に進んでいくかに思えたが…。
「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」
貫多は、とんでもないぎっくり腰にやられ、立ち上がるのもままならないという苦行に喘いでいる。糞をひり出すのもままならず、なるべく食事を制限しなくてはならないほどだった。
貫多は小説を書いている。ある一編が、川端康成文学賞の候補になった、という話を、編集者から知らされたのだ。その編集者とは、主に貫多の不義理によって色々因縁があり、悪い知らせを聞かされるものだとばかり思っていた貫多はホッとし、またどうしても獲りたいと願っている賞でもあったので、大いに喜んだのだった。
ようよう外に出られる状態にまで回復したある日、病院の帰りに一軒の古本屋に立ち寄るのだが…。
というような話です。
なかなか面白いですね。芥川賞受賞作品を時々読むんですが、芥川賞受賞作品とはどうも相性があんまりよくなくて、僕にはよく分からないなぁ、という作品が結構多いんですが、この作品は普通に面白かったです。
西村賢太の作品を読んだのは初めてです。私小説作家、と呼ばれています。私小説、というのがどういうものなのか、正確には知らないんですけど、基本的に、自身の経験をそのまま小説仕立てにする、ということなんだろうと思います。
本書の主人公の貫多は、父親が性犯罪を犯したために人生を狂わされた男なわけですが、実際著者自身もそうなようで、本当に著者自身のことをベースにしている作品なんだろうと思います。
なんだか、小説を読んでいる感じではない、というと、どんな風に伝わるか分かりませんが、私小説だから、という先入観があるからかもしれませんが、誰かが自分の経験を傍で語っているのを聞いているような、そんな感じがしてくる作品だなと思います。
貫多というのは、家賃はそもそも払う気がないし、酒とタバコを確保し、風俗に行くための貯金が出来れば、まあ後は働く気力も湧いてこない、というような男です。で、そういう生き方から強く脱したいと思っているかというと、そうでもない。まあこれならこれで、というような感じで、もちろん諦めが大半でしょうけど、そういう生活を受け入れてしまっている、というか、染み付いてしまっている、という感じです。元々だったのか、身につけたのかわからないけど、貫多の怠惰な性格には、その日暮らしという生き方は合っていなくもない、ということなんだろうと思います。
でも、完全に受け入れられているかというと、そうでもない。それは、同い年の日下部という男と親しくなることで、少しずつ見え隠れしていくことになります。同じ19歳なのに、自分と日下部とではこんなにも違う。それまで誰とも親しく付き合わず、会話することもほとんどなかった貫多は、親しく付き合う友と出会うことで、今まで見なかった部分、見て見ぬふりをしてきた部分を引き摺り出されることになります。
そういう過程や貫多の性格なんかが、本当に良く描かれているなぁ、という感じがしました。貫多自身(そしてそれは著者自身でもあるんだろうけど)のダメな部分、弱い部分を隠すことなく描いていて、普段そういう部分を必死で隠しながら生きている僕らには、一部分だけかもしれないけど、なんとなく分かってしまうような部分ってあるんじゃないかなと思います。普通だったら恥ずかしくて表に出したくないというような部分を惜しげもなくさらけ出しているからこそ、読者を惹きつけるんだろうなぁ。
「落ちぶれて~」の方は、個人的にはそこまで面白くないかなぁという感じがしたんだけど、貫多と編集者との関わりは、これ実際ホントの話なんだろうか、と思ってしまった。貫多の編集者に対する不義理っぷりはちょっとハンパなくて、これを実際著者自身がやっているのだとしたら(やってるんだろうなぁ)、よくもまあそれが通ったなというか許されてきたなというか、そこがちょっと凄いなという感じがしました。
芥川賞受賞作とは普段そこまで相性の良くない僕ですが、これは面白く読めました。西村賢太の色んな作品で貫多のことが描かれているようなんで、時々読んでみようかと思います。是非読んでみてください。
西村賢太「苦役列車」
ツリーハウス(角田光代)
内容に入ろうと思います。
藤代家は、祖父の代からずっと、翡翠飯店という中華料理屋を営んでいる。家族は、多い。三世代の家族が狭い建物の中で、ひしめき合うようにして暮らしている。
良嗣には、この家族が奇妙に映る。もちろん、昔はそんな風には思わなかった。自分の家族のことしか知らなかったからだ。しかし、少しずつ、その違和感を覚えるようになっていった。
ウチの家族は、互いに干渉しなさ過ぎる。
食べ物屋をやっていたからというのはあるだろうけど、家族揃って食卓を囲むことなんてほとんどなかった。家族の誰かがしばらくいなくなっても気にしない、突然戻ってきても何事もなく受け入れる。時には、まるで見知らぬ人が一緒に生活していたりする。
親戚についても、良嗣はほとんど知らない。祖父母は、自分たちの生い立ちについてまるで語ってこなかったし、彼らがどこで出会ってどうやってこの店を構えるまでになったのか、まるで知らない。
ウチの家族には、根っこがないような、そんな気がしてしまう。
ある日、祖父が静かに死んだ。もう長くないと分かっていたから慌てることはなかったのだけど、家族の不在をあっさり受け入れるウチの家族は、やっぱり何かおかしいんじゃないかと思った。
祖父の死後、祖母の様子がめっきり変わった。「帰りたい」という祖母の呟きが満州のことなのではないか、という叔母の指摘から、良嗣は祖母を満州へ連れていこうと決める。何故か一緒についてきた叔父と共に中国へと向かうが…。
というようなところから始まる、藤代家の一代記、と言った感じの作品です。
なかなか壮大な作品でした。基本的に角田光代の作品とあまり相性の良くない僕なんですけど、本書はなかなか良かったと思います。
物語は、良嗣が祖母を中国へ連れて行く、というようなところから始まるんですが、基本となるのは、藤代家の様々な人物の視点で描かれる、その時々の藤代家の有り様です。満州で出会った祖父母の苦難の道程、祖父母の子供たちである漫画家を目指した慎之輔、真面目一辺倒が祟ったかトラブルを持ち込むことになる太二郎、小さな店を構える今日子、学生運動に身を投じることになる基三郎などの、一筋縄ではいかない人生が描かれ、その過程で、藤代家を覆う、普通の過程とは違う違和感みたいなものが少しずつ描かれていく感じになります。
藤代家を一言で表現するのにもっとも的確な表現を、祖父のセリフから抜き出してみます。
『そこにいるのがしんどいと思ったら逃げろ。逃げるのは悪いことじゃない、逃げたことを自分でわかっていれば、そう悪いことじゃない。闘うばっかりがえらいんじゃない』
これこそが、祖父母を結びつけ翡翠飯店を回転させた根底であり、祖父母の子供たちの人生に深く関わっていくことになるものなわけです。
僕も、ずっと逃げ続けてきた人生だった。
僕にとって、生きていくことはイコール逃げることだった。それはもう、ずっとずっと子供の頃からきちんと認識していて、常にどの方向が逃げ道になりうるのかきちんと把握しながらその場にとどまっているような、そんな生き方をしてきた。
今でもそうだ。今でも、僕はずっと逃げ回っている。逃げることでしか、自分を守ることが出来ない。その『何か』に追いすがられてしまえば、自分が耐えられなくなることが分かっている。だから、必死で逃げる。
でも、人間さもしいもので、逃げることこそが自分の人生だと思っているのに、周りからはあんまり逃げいると見られたくはなかったりするのだ。ここが、ズルイ。どうやったら、逃げていないように見せながら逃げるか、ということばかり考えてきた。まあ、ズルイ。でも、もうそれでいいや、と思っている。ズルイけど、もう仕方ないよ、と。いつか色んなことが露見して色んなことがダメになるだろうけど、まあそれまでは、砂上の楼閣って感じで、必死で逃げようと思う。
そんな人間だからこそ、この祖父の考え方は凄く分かる。
逃げずに踏ん張って抵抗していく生き方は、潔いしカッコイイ。もちろん、闘って勝てればもっとカッコイイんだろうけど、闘って負けたって、逃げなかったという理由で賞賛されるかもしれない。
でも、致命的な負け、というのだって存在する。闘って勝つことは出来るかもしれない、でも負ければそれが即致命的な状況を引き寄せる、というような状況で、果たして闘うことは正しいのだろうか?
祖父は、戦争というものから逃げた。それは、当時の価値観では、万死に値するものだっただろう。しかし、逃げずに闘って死んだら元も子もないというのは、当たり前すぎる発想だと思う。
僕自身が逃げている理由が、致命的な負けを呼び起こすようなものなのかどうか、それはまあ僕にはうまく判断できないけど、でも僕は、そう信じている。逃げ続けないと、僕は致命的な状況になる、とそう信じている。もちろん、そう信じていることが間違っているのかもしれないけど、まあそれならそれでもいい。僕はもう、逃げるような生き方を選び取ってしまっているのだ。
一方で、祖母がこんなことをいう場面がある。
『あの人も私もね、逃げて逃げて生き延びたろう。逃げるってことしか、時代に抗う方法を知らなかったんだよ。もちろんそんな頭はない。、何か考えがあってのことじゃない、ただ馬鹿だから逃げたってだけだ。だけどさ、そんなだったから、子どもたちに、あんたの親たちにね、逃げること以外教えられなかった、あの子たちは逃げてばっかり。私たちは抗うために逃げた。生きるために逃げたんだ。でも今はそんな時代じゃない。逃げるってのはオイソレと受け入れることになった。それしかできないような大人になっちまった。だからあんたたちも、逃げるしかできない。それは申し訳ないと思うよ。それしか教えられること、なかったんだからね』
これはなかなかグサッと来るセリフだった。さっき書いたように、僕自身の逃げる理由がどうなのかという話、まさにここと繋がってくる。祖母も祖父と同じく、逃げること自体を否定しているわけではない。でも、何故逃げなければならないのか、その理由の違いを指摘している。祖父母たちは、逃げる以外の選択肢を取ることは出来なかった。逃げなければ、死ぬしかなかったからだ。しかし今は、そんな状況はなかなかない。逃げなくたって、死ぬことはない。そんな時代に、逃げることしか教えられなくて申し訳ない、っていう祖母のセリフは、なかなか僕みたいな人間にはキツいですね。
まあ逃げる話はこれぐらいにしておきましょうか。
満州で出会った祖父母の話から始まって、その子供たちのドタバタなんかを、途中途中で良嗣と祖母の中国行きの話を挟みながら、時系列に沿って描いていきます。祖父母も祖父母の子どもたちも、なかなかに一筋縄ではいかない生き方で、それぞれに面白い。祖父母の満州での話は、まあやっぱり僕には想像外の世界だけで、子どもたちの生き方はぶっ飛んでいると表現したくなるほど無茶苦茶なものはない。どれも、その時代その時代の中で、選び取る選択肢の一つとしてはありえただろうと思わせるような生き方だと思います。でも、そういうなかなか珍妙な生き方をしている人が集まっていて、しかも家族としての干渉を持たないという部分が、藤代家という全体を本当に奇妙なものにしているな、という感じがしました。
家族って、まあ誰でもそうだと思うんだけど、初めの内はやっぱり自分の家族のことしか知らなくて、で人によっては徐々に、自分の家族の変わっているところに気づくようになる。良嗣にしても同じで、これだけ奇妙な家族でも、やっぱり初めの内はそのおかしさに気づかない。その違和感が彼を中国に向かわせるのだけど、中国でもなんだかよく分からないまま、という状態が続くわけです。まあ、本書を読んだ読者にしてみれば、藤代家で起こったことをちゃんと追えるわけだけど、良嗣は本当に何も知らないわけで、自分の家族にこんな過去があったっていうのはちょっと驚きだろうなぁ、という感じがします。
とかなんとか色々書いてるんですけど、なかなかうまく感想を書けない作品です。阿部和重の「ピストルズ」を読んだ時も似たようなことを思いました。作品としては結構違ったタイプだけど、どちらも家族の年代記というスタイルの作品で、家族の色んな人たちの話が盛りだくさんで描かれていく。そういう作品は、なかなかうまく感想を書くのが難しいんだよなぁ。という言い訳。
僕はそこまで角田光代の作品を読んでるわけではないんですけど、なんとなく女性を主人公に女性の生き方を描く的な作品が多い、というイメージがあります。そうだとすると、本書はあんまり角田光代的な作品ではないかもしれない、という感じがします。だから、普段あんまり角田光代の作品と相性がよくない僕でも結構楽しめたのかもしれない、とも思います。なかなか壮大な物語だと思います。是非読んでみてください。
角田光代「ツリーハウス」
藤代家は、祖父の代からずっと、翡翠飯店という中華料理屋を営んでいる。家族は、多い。三世代の家族が狭い建物の中で、ひしめき合うようにして暮らしている。
良嗣には、この家族が奇妙に映る。もちろん、昔はそんな風には思わなかった。自分の家族のことしか知らなかったからだ。しかし、少しずつ、その違和感を覚えるようになっていった。
ウチの家族は、互いに干渉しなさ過ぎる。
食べ物屋をやっていたからというのはあるだろうけど、家族揃って食卓を囲むことなんてほとんどなかった。家族の誰かがしばらくいなくなっても気にしない、突然戻ってきても何事もなく受け入れる。時には、まるで見知らぬ人が一緒に生活していたりする。
親戚についても、良嗣はほとんど知らない。祖父母は、自分たちの生い立ちについてまるで語ってこなかったし、彼らがどこで出会ってどうやってこの店を構えるまでになったのか、まるで知らない。
ウチの家族には、根っこがないような、そんな気がしてしまう。
ある日、祖父が静かに死んだ。もう長くないと分かっていたから慌てることはなかったのだけど、家族の不在をあっさり受け入れるウチの家族は、やっぱり何かおかしいんじゃないかと思った。
祖父の死後、祖母の様子がめっきり変わった。「帰りたい」という祖母の呟きが満州のことなのではないか、という叔母の指摘から、良嗣は祖母を満州へ連れていこうと決める。何故か一緒についてきた叔父と共に中国へと向かうが…。
というようなところから始まる、藤代家の一代記、と言った感じの作品です。
なかなか壮大な作品でした。基本的に角田光代の作品とあまり相性の良くない僕なんですけど、本書はなかなか良かったと思います。
物語は、良嗣が祖母を中国へ連れて行く、というようなところから始まるんですが、基本となるのは、藤代家の様々な人物の視点で描かれる、その時々の藤代家の有り様です。満州で出会った祖父母の苦難の道程、祖父母の子供たちである漫画家を目指した慎之輔、真面目一辺倒が祟ったかトラブルを持ち込むことになる太二郎、小さな店を構える今日子、学生運動に身を投じることになる基三郎などの、一筋縄ではいかない人生が描かれ、その過程で、藤代家を覆う、普通の過程とは違う違和感みたいなものが少しずつ描かれていく感じになります。
藤代家を一言で表現するのにもっとも的確な表現を、祖父のセリフから抜き出してみます。
『そこにいるのがしんどいと思ったら逃げろ。逃げるのは悪いことじゃない、逃げたことを自分でわかっていれば、そう悪いことじゃない。闘うばっかりがえらいんじゃない』
これこそが、祖父母を結びつけ翡翠飯店を回転させた根底であり、祖父母の子供たちの人生に深く関わっていくことになるものなわけです。
僕も、ずっと逃げ続けてきた人生だった。
僕にとって、生きていくことはイコール逃げることだった。それはもう、ずっとずっと子供の頃からきちんと認識していて、常にどの方向が逃げ道になりうるのかきちんと把握しながらその場にとどまっているような、そんな生き方をしてきた。
今でもそうだ。今でも、僕はずっと逃げ回っている。逃げることでしか、自分を守ることが出来ない。その『何か』に追いすがられてしまえば、自分が耐えられなくなることが分かっている。だから、必死で逃げる。
でも、人間さもしいもので、逃げることこそが自分の人生だと思っているのに、周りからはあんまり逃げいると見られたくはなかったりするのだ。ここが、ズルイ。どうやったら、逃げていないように見せながら逃げるか、ということばかり考えてきた。まあ、ズルイ。でも、もうそれでいいや、と思っている。ズルイけど、もう仕方ないよ、と。いつか色んなことが露見して色んなことがダメになるだろうけど、まあそれまでは、砂上の楼閣って感じで、必死で逃げようと思う。
そんな人間だからこそ、この祖父の考え方は凄く分かる。
逃げずに踏ん張って抵抗していく生き方は、潔いしカッコイイ。もちろん、闘って勝てればもっとカッコイイんだろうけど、闘って負けたって、逃げなかったという理由で賞賛されるかもしれない。
でも、致命的な負け、というのだって存在する。闘って勝つことは出来るかもしれない、でも負ければそれが即致命的な状況を引き寄せる、というような状況で、果たして闘うことは正しいのだろうか?
祖父は、戦争というものから逃げた。それは、当時の価値観では、万死に値するものだっただろう。しかし、逃げずに闘って死んだら元も子もないというのは、当たり前すぎる発想だと思う。
僕自身が逃げている理由が、致命的な負けを呼び起こすようなものなのかどうか、それはまあ僕にはうまく判断できないけど、でも僕は、そう信じている。逃げ続けないと、僕は致命的な状況になる、とそう信じている。もちろん、そう信じていることが間違っているのかもしれないけど、まあそれならそれでもいい。僕はもう、逃げるような生き方を選び取ってしまっているのだ。
一方で、祖母がこんなことをいう場面がある。
『あの人も私もね、逃げて逃げて生き延びたろう。逃げるってことしか、時代に抗う方法を知らなかったんだよ。もちろんそんな頭はない。、何か考えがあってのことじゃない、ただ馬鹿だから逃げたってだけだ。だけどさ、そんなだったから、子どもたちに、あんたの親たちにね、逃げること以外教えられなかった、あの子たちは逃げてばっかり。私たちは抗うために逃げた。生きるために逃げたんだ。でも今はそんな時代じゃない。逃げるってのはオイソレと受け入れることになった。それしかできないような大人になっちまった。だからあんたたちも、逃げるしかできない。それは申し訳ないと思うよ。それしか教えられること、なかったんだからね』
これはなかなかグサッと来るセリフだった。さっき書いたように、僕自身の逃げる理由がどうなのかという話、まさにここと繋がってくる。祖母も祖父と同じく、逃げること自体を否定しているわけではない。でも、何故逃げなければならないのか、その理由の違いを指摘している。祖父母たちは、逃げる以外の選択肢を取ることは出来なかった。逃げなければ、死ぬしかなかったからだ。しかし今は、そんな状況はなかなかない。逃げなくたって、死ぬことはない。そんな時代に、逃げることしか教えられなくて申し訳ない、っていう祖母のセリフは、なかなか僕みたいな人間にはキツいですね。
まあ逃げる話はこれぐらいにしておきましょうか。
満州で出会った祖父母の話から始まって、その子供たちのドタバタなんかを、途中途中で良嗣と祖母の中国行きの話を挟みながら、時系列に沿って描いていきます。祖父母も祖父母の子どもたちも、なかなかに一筋縄ではいかない生き方で、それぞれに面白い。祖父母の満州での話は、まあやっぱり僕には想像外の世界だけで、子どもたちの生き方はぶっ飛んでいると表現したくなるほど無茶苦茶なものはない。どれも、その時代その時代の中で、選び取る選択肢の一つとしてはありえただろうと思わせるような生き方だと思います。でも、そういうなかなか珍妙な生き方をしている人が集まっていて、しかも家族としての干渉を持たないという部分が、藤代家という全体を本当に奇妙なものにしているな、という感じがしました。
家族って、まあ誰でもそうだと思うんだけど、初めの内はやっぱり自分の家族のことしか知らなくて、で人によっては徐々に、自分の家族の変わっているところに気づくようになる。良嗣にしても同じで、これだけ奇妙な家族でも、やっぱり初めの内はそのおかしさに気づかない。その違和感が彼を中国に向かわせるのだけど、中国でもなんだかよく分からないまま、という状態が続くわけです。まあ、本書を読んだ読者にしてみれば、藤代家で起こったことをちゃんと追えるわけだけど、良嗣は本当に何も知らないわけで、自分の家族にこんな過去があったっていうのはちょっと驚きだろうなぁ、という感じがします。
とかなんとか色々書いてるんですけど、なかなかうまく感想を書けない作品です。阿部和重の「ピストルズ」を読んだ時も似たようなことを思いました。作品としては結構違ったタイプだけど、どちらも家族の年代記というスタイルの作品で、家族の色んな人たちの話が盛りだくさんで描かれていく。そういう作品は、なかなかうまく感想を書くのが難しいんだよなぁ。という言い訳。
僕はそこまで角田光代の作品を読んでるわけではないんですけど、なんとなく女性を主人公に女性の生き方を描く的な作品が多い、というイメージがあります。そうだとすると、本書はあんまり角田光代的な作品ではないかもしれない、という感じがします。だから、普段あんまり角田光代の作品と相性がよくない僕でも結構楽しめたのかもしれない、とも思います。なかなか壮大な物語だと思います。是非読んでみてください。
角田光代「ツリーハウス」
冤罪の軌跡 弘前大学教授夫人殺害事件(井上安正)
内容に入ろうと思います。
本書は1949年8月6に起こった、通称「弘前大学教授夫人殺害事件」の顛末を追った作品です。裁判の過程で、この事件に深く関わった、当時新聞記者だった著者によるノンフィクションです。
その日、自宅で寝ていた弘前大学教授夫人は、何者かに首を刃物で刺され、死亡した。犯人は、滝谷福松という、当時19歳の男。ヒロポン漬けになっていた滝谷は、女性に触れたいという邪な気持ちから家宅侵入し、殺人を犯したのだ。
捜査はなかなか進展しなかった。被害者には特段恨まれるような理由は見当たらず、決定的な目撃者も出なかった。凶器も、結局最後まで発見されなかった。
那須隆は、那須与一宗隆の直系の子孫であり、長男だった隆は父親に厳しくしつけられた。警察官にとりたててもらいたいと考えていた隆は、自ら血痕を探したり、目撃証言の裏を取ったりという行動を取っていた。隆としては、警察にアピールしているつもりだった。
しかし警察はそうは見なかった。隆の行動を不審に思った警察は隆をマーク。しばらくして警察の心証が固まり、隆を逮捕するに至ったのだ。
隆は取り調べでも一貫して否認を続けた。しかし、素人目にも無茶苦茶ではないかと思わされる裁判を経て、隆は有罪判決を下されてしまう。
滝谷の方で動きがあり、ギリギリの細い線を辿るようにして、再審請求のチャンスが巡ってくる。しかし…。
というような話です。
事件モノの作品は結構読んでて、僕がこれまで読んできた作品と比べると、インパクトという点ではちょっと落ちるけど、これはこれでなかなか凄い作品でした。冤罪というのは本当に最低最悪の事柄だと思うんだけど、この事件はちょっとどう考えても酷い。
これとまったく同じ事件が今起こり、同じような過程で捜査が進んだ場合、同じような流れになっただろうか、と思う部分はある。これは、この事件が起こった当時だったからこそ起こったのではないか、と。特に僕は、隆が裁判に掛けられることになった、という点でそう思う。現在では、公判維持が出来ないという理由で、少なくとも本書と同じような状況のままでは裁判には踏み切らないのではないか、と思う。少なくとも、もう少し物証なり証言なりを集めてからでないと厳しいという判断になるのではないか。
なにせ、隆は結局自白せず、動機は不明、凶器も見つかっていない、唯一の物証は、『血がついたとされるシャツ』なのだけど、これは素人目に見てもどう考えてもおかしいいわく付きの証拠で、裁判は、この唯一の物証だけを根拠に進められていくのだ。
そこに、法医学界の天皇と呼ばれた古畑という人物が絡んでくるのだ。検察は、古畑の権威を利用して、唯一の物証であるシャツの怪しさを払拭しようとする。こんなやり方も、どうだろう、今ではなかなか通用しないんじゃないかな、という気がする。でも現在の場合は、法医学者ではなく精神科医で似たようなことが行われている気がするけど。
この古畑という法医学者は、なかなか凄い。戦後の四大冤罪事件と呼ばれる、「財田川事件」「島田事件」「松山事件」「免田事件」の内、初めの三つの事件は、この古畑の血液鑑定が有力な決めてとなって有罪が確定し、死刑となったのだ。古畑は、「捜査陣が挙げ得なかった犯人を、法医学の力で挙げた」と言ってはばからなかったそうだけど、本当に、ちょっと酷過ぎるのではないかと思う。
とまあ、時代性にかなり左右された事件だ、ということも出来ると思うんだけど、でもやっぱりそれだけじゃない。結局のところ、警察が捜査のやり方を改めない限り、冤罪はなくならないのだろうと思う。
警察とすれば、口には出さないけど、「ちょっとぐらい冤罪があったって、凶悪犯をきちんと捕まえさえすればいいんだ」という感覚なのかもしれない。すべての刑事がそうではない、ということはもちろん分かっているけど、でもそういう発想の刑事もいるはずだと思う。また、個々人ではなく、警察という組織の体面を守ろうという意識も、やっぱり昔からずっとそうなのだと思う。これは、警察に限らず検察もだけど。
この基本的な部分がどうにかならないと、何をどうしたって冤罪はなくならないだろう。
本書でも、とりあえず捕まえてみた隆を自白させようと色んな手を使ったり、また『血がついたとされるシャツ』に関する作為など、警察のやり口は酷い。また裁判も、素人が考えたっておかしいと思うような論理が平気でまかり通る。そういう意味では、裁判員制度が作られたのは良かったのかもしれない、と思う。これまでの、裁判の中だけで通じる、被告人を無視した論理は通用させにくくなるだろうと思うから。
しかし本書のケースでは、隆に不利に働いたケースが本当に多くある。ある証言者は、とある理由で虚偽の証言をして警察の隆の印象を決定づけることになるし、一審の際裁判官が判決理由を簡潔に書きすぎたことが、後々の展開を生む一つのきっかけになった。他にも、ちょっとしたことが隆の不利に働くケースが積み重なった。こんなことを言ってはいけないと思うけど、そういう意味では本当に不運だったと思う。
再審が開かれるまでの過程は、本当に小説のようだと思う。滝谷が獄中で村山という男と出会うことからすべてが動き出すのだけど、しかしそこからが本当に大変だった。今でも、再審請求というのは本当に通りにくいのだろうけど、恐らく当時はもっと大変だっただろう。針の穴にラクダを通すようなものだ、と言われるぐらいだったらしい。実際、滝谷の動きがあり、隆が再審請求をしてから再審が認められるまで約5年掛かっている。再審請求は一度棄却されているのだけど、その時の隆の言葉は重い。
『再審制度があることがうらめしい』
つまり、再審制度があるからこそ期待してしまう、しかしその期待は華麗に裏切られる、だからこそうらめしい、ということなのだ。これは、有罪判決を受け手から、再審によって無罪を勝ち取るまで、実に27年掛けた男だからこそ言える、実に重い言葉である。
本書では、きちんとした形で事件と向きあう人間も出てくる。隆の弁護をする人たちはもちろんきちんとしているのだけど、刑事や裁判官の中にも、まっとうな判断の出来る人がいる。特に最後の三浦裁判長は素晴らしい。こういう、自分の頭で判断し、その判断に自分が責任を持つような、そういうきちんとした仕事の出来る人が多くなればいいんだろうと思います。
冤罪というのは、本当に恐ろしいです。防ぎようはないかもしれませんが、知識だけはあった方がいいかもしれません。そんなこと関係なしに、ノンフィクションとしてもなかなか面白い作品です。是非読んでみてください。
井上安正「冤罪の軌跡 弘前大学教授夫人殺害事件」
レヴォリューションNo.0(金城一紀)
本書は、「レヴォリューションNo.3」から始まるゾンビーズシリーズの最新刊です。
僕達のいる高校は、偏差値42。オチコボレたちの集まる高校だ。その高校が今年、新入生を200人多く取った。
どういうことか分かるだろうか?
屋上で決闘をしていたという理由で一斉に退学になった僕らは、一週間後学校に復帰して驚いた。教室から椅子と机が大分減っているのだ。聞けば、退学者が続出しているのだとか。
何が起こっている?
風紀の乱れが深刻だとかで、学校側が急遽三泊四日の合宿を決めた。参加しない者は退学だという。
その合宿は、まさに教師による虐待と言った方が正しく、高い壁の張り巡らされた脱出不可能な所に閉じ込められ、ひたすら山を登らされるのだ。
野口という体育教師の息子の暴露で、この合宿の裏を理解した僕らは、全力で抵抗することに決めた…。
というような話です。
僕が大好きなシリーズの最新刊で、もちろん面白かったんですが、分量が150ページちょっとと少なく、もう少し長い物語が読みたいなぁ、と思ってしまいました。あと、僕のとにかく弱点である、本を読んだらすぐ忘れてしまうという点が大きく邪魔をして、これまでのシリーズ作品のことをすっかり忘れてしまっているので、誰がどんなキャラだったかなぁ、みたいなことをあんまり理解出来ていないまま読んでしまったというのもちょっと残念でした。
この物語は、「No.0」とついているように、これまでのシリーズの前日譚的な位置づけです。で、シリーズの完結編だそうです。ゾンビーズ結成前夜の物語なのですね。
話としては、やっぱりもうちょっと長かったら良かったなぁと思ってしまう部分はありましたけど、いつものゾンビーズの感じが出ていてよかったです。こういう関係性って、羨ましいですよね。なんだろう、言葉ではない部分で繋がっている、名前の付けられない関係、っていう感じがします。こう、安心して誰かに何かを任せられるとか、体を預けられるとか、あるいは、こいつだったら絶対こうするっていう期待を裏切らなかったりとか、そういうことが気負う事なく自然体で出来てしまう関係性って凄いと思うんですね。全員が、前提となる『何か』を、言葉ではない形で共有できている、という感じです。こういう関係性に出会えるかは、もはや運だけど、彼らの素晴らしいのは、自分たちの関係性が比類ない大切なものだということを、なんとなくどこかで感じ取れている、ということだと思うんですね。
あと、本書に限らずこのシリーズで強く描かれているのが、学校という場の閉鎖性とか、無意味さとか、そういうものですね。僕も、特別人に話せるような何かがあったわけではないんだけど、中学高校時代はなかなか大変だったし、学校という場に似たような不信感を抱いていたりする人間です。その強烈なまでの違和感は、今では大切なものだったと思えるようになったけど、当時はもっと自然と学校という場に馴染めたらいいのになぁ、とどこかで思っている部分もあって、まあちょっと複雑だったかなぁ。飼いならされてしまうのは、恐ろしいと思います。
最後に、本書で僕が一番好きなフレーズを抜き出して終わろうと思います。
『いまの学校にいて分かったことがあるんだ。なにかが間違ってるのに、それが当たり前みたいになってたら、そのままにしておいちゃいけないんだ。間違ってるぞってちゃんと声を上げたり、間違いを気づかせるために行動する人間が必要だと思うんだ。僕はそのためにいまの学校にいたいと思ってるんだ』
これは、最後の方に出てくるセリフなんだけど、それまでの物語の流れを汲んで読むと、素晴らしいなぁという感じがします。学校だけじゃなく、どんな組織にも似たようなことが言えそうな気がしますしね。
というわけで、これはさすがに、シリーズを読んでない人にもオススメ出来ます、とは言えないですが、ゾンビーズシリーズは素晴らしい作品なんで是非シリーズを通じて読んでみて欲しいなと思います。
金城一紀「レヴォリューションNo.0」
僕達のいる高校は、偏差値42。オチコボレたちの集まる高校だ。その高校が今年、新入生を200人多く取った。
どういうことか分かるだろうか?
屋上で決闘をしていたという理由で一斉に退学になった僕らは、一週間後学校に復帰して驚いた。教室から椅子と机が大分減っているのだ。聞けば、退学者が続出しているのだとか。
何が起こっている?
風紀の乱れが深刻だとかで、学校側が急遽三泊四日の合宿を決めた。参加しない者は退学だという。
その合宿は、まさに教師による虐待と言った方が正しく、高い壁の張り巡らされた脱出不可能な所に閉じ込められ、ひたすら山を登らされるのだ。
野口という体育教師の息子の暴露で、この合宿の裏を理解した僕らは、全力で抵抗することに決めた…。
というような話です。
僕が大好きなシリーズの最新刊で、もちろん面白かったんですが、分量が150ページちょっとと少なく、もう少し長い物語が読みたいなぁ、と思ってしまいました。あと、僕のとにかく弱点である、本を読んだらすぐ忘れてしまうという点が大きく邪魔をして、これまでのシリーズ作品のことをすっかり忘れてしまっているので、誰がどんなキャラだったかなぁ、みたいなことをあんまり理解出来ていないまま読んでしまったというのもちょっと残念でした。
この物語は、「No.0」とついているように、これまでのシリーズの前日譚的な位置づけです。で、シリーズの完結編だそうです。ゾンビーズ結成前夜の物語なのですね。
話としては、やっぱりもうちょっと長かったら良かったなぁと思ってしまう部分はありましたけど、いつものゾンビーズの感じが出ていてよかったです。こういう関係性って、羨ましいですよね。なんだろう、言葉ではない部分で繋がっている、名前の付けられない関係、っていう感じがします。こう、安心して誰かに何かを任せられるとか、体を預けられるとか、あるいは、こいつだったら絶対こうするっていう期待を裏切らなかったりとか、そういうことが気負う事なく自然体で出来てしまう関係性って凄いと思うんですね。全員が、前提となる『何か』を、言葉ではない形で共有できている、という感じです。こういう関係性に出会えるかは、もはや運だけど、彼らの素晴らしいのは、自分たちの関係性が比類ない大切なものだということを、なんとなくどこかで感じ取れている、ということだと思うんですね。
あと、本書に限らずこのシリーズで強く描かれているのが、学校という場の閉鎖性とか、無意味さとか、そういうものですね。僕も、特別人に話せるような何かがあったわけではないんだけど、中学高校時代はなかなか大変だったし、学校という場に似たような不信感を抱いていたりする人間です。その強烈なまでの違和感は、今では大切なものだったと思えるようになったけど、当時はもっと自然と学校という場に馴染めたらいいのになぁ、とどこかで思っている部分もあって、まあちょっと複雑だったかなぁ。飼いならされてしまうのは、恐ろしいと思います。
最後に、本書で僕が一番好きなフレーズを抜き出して終わろうと思います。
『いまの学校にいて分かったことがあるんだ。なにかが間違ってるのに、それが当たり前みたいになってたら、そのままにしておいちゃいけないんだ。間違ってるぞってちゃんと声を上げたり、間違いを気づかせるために行動する人間が必要だと思うんだ。僕はそのためにいまの学校にいたいと思ってるんだ』
これは、最後の方に出てくるセリフなんだけど、それまでの物語の流れを汲んで読むと、素晴らしいなぁという感じがします。学校だけじゃなく、どんな組織にも似たようなことが言えそうな気がしますしね。
というわけで、これはさすがに、シリーズを読んでない人にもオススメ出来ます、とは言えないですが、ゾンビーズシリーズは素晴らしい作品なんで是非シリーズを通じて読んでみて欲しいなと思います。
金城一紀「レヴォリューションNo.0」
放課後はミステリーとともに(東川篤哉)
内容に入ろうと思います。
本書は、「謎解きはディナーのあとで」で本屋大賞を受賞した著者の最新作です。日常系のミステリの連作短編集です。まず大枠の設定だけ書いておきましょう。
霧ヶ峰涼は私立鯉ヶ窪学園高等部に通う高校生であり、探偵部の副部長だ。探偵部というのは、探偵小説研究部みたいなものではなく、学園内で起こる事件を実際に追いかける、そんな部活である。
霧ヶ峰涼はなんだかんだ様々な事件に関わることになるのだが…、実際に霧ヶ峰涼が事件を解くことはごく稀だ。たいてい、その場にいる霧ヶ峰涼以外の誰かが事件を解決する。そんな狂言回しのような役回りの、探偵部副部長。
「霧ヶ峰涼の屈辱」
Eの形をした特殊な建物で、泥棒。その泥棒を目撃した霧ヶ峰涼は追いかけるも、見失う。衆人環視の中消え失せた泥棒は、一体いずこへ?
「霧ヶ峰涼の逆襲」
廃屋の塀に隠れる怪しい男。芸能カメラマンらしい。有名芸能人が密会しているという向かいのマンションを張っているらしいのだが、よくわからない内にその芸能人が消え失せてしまい…。
「霧ヶ峰涼と見えない毒」
友人の高林奈緒子に頼まれて、彼女の居候先の屋敷へ。その屋敷の主の頭に瓦が落ちてきたのを、誰かが殺そうとしたのに違いないと考え、霧ヶ峰涼に推理を頼んだのだ。しかしまさにその日、主が毒殺されかかるという事件が…。
「霧ヶ峰涼とエックスの悲劇」
星空の観測会中、UFOらしきものを発見し、地学教師とともに追う。忽然と姿を消したエックス山で、首に締められた跡のある女性が倒れている。しかしその周囲には足跡がなく…。
「霧ヶ峰涼の放課後」
体育倉庫でタバコを吸っていた不良。霧ヶ峰涼たちは、見なかったことにしようと思ったのだが、運悪くそこへ生活指導の先生が。不良が所持していないタバコとライターを体育倉庫中から探すも、見つからず。しかし何故かその後、その不良は霧ヶ峰涼にお礼をするのだ…。
「霧ヶ峰涼の屋上密室」
教育実習に来ていた先生が、上から降ってきた女子生徒の下敷きに。すぐさまその女子生徒がいたと思われる建物を捜索する霧ヶ峰涼だったが、女子生徒の落下時、その建物は密室だったことが判明する…。
「霧ヶ峰涼の絶叫」
大言壮語の走り幅跳び選手である足立が、グラウンドの砂場で倒れていた。砂場には犯人のものらしき足跡はなく…。
「霧ヶ峰涼の二度目の屈辱」
さて、またあのEの形をした建物内で、今度は傷害未遂事件が起こる。学ランを来た犯人を追うも、またしても衆人環視の中消え失せてしまう…。
というような話です。
なかなかよく出来たミステリだと思いました。現象自体は、ちょっとさすがにそれは起こらないだろ、というような無茶な話もあったりしますけど、謎の設定とか謎解きの過程なんかはなかなか巧く出来ているなぁ、という感じがしました。
特によく出来てる話だなぁ、と思ったのが、
E形の建物から泥棒が消える「霧ヶ峰涼の屈辱」
芸能人が密会場所から消える「霧ヶ峰涼の逆襲」
不良が吸ってたタバコが見つからない「霧ヶ峰涼の放課後」
の三つかな。
「屈辱」は、「実は謎なんてなかった」というような現象が、なかなかうまく説明されると思いました。その過程でもう一つのネタが明かされるという趣向で、冒頭の話としてかなりいい役割をしたなという感じ。一番バッターって感じですね。
「逆襲」は、本書の中では四番バッター級のネタじゃないかと思いました。トリック自体もなかなか鮮やかだし、そのネタを最終的にどう読者に提示するかという料理の仕方も巧い。トリックを暴くことでさらなる真相が見えてくる、という展開がいいですね。
そういう意味では「放課後」も巧い趣向を取っていると思いました。野球には詳しくないんで間違ってるかもだけど、3番か5番バッターぐらいかな。トリックを暴くことでさらなる真相が見えてくるという点は先ほどと同じく見事だし、まずそもそも一体何が何が問題なのか、という部分で読者を振り回すところも巧いと思いました。
逆に、さすがにこれは厳しいんじゃなかろうか、と思ったのは、空から人が降ってくる「霧ヶ峰涼の屋上密室」。これはちょっと、色々と無理がありすぎるような気がして、辛いかなぁと思いました。
とにかく読みやすく、手軽によめる作品だと思います。ミステリーを読み慣れていない人でも、ミステリーの入門として結構読めるんじゃないかと思います。「謎解きはディナーのあとで」よりミステリ度は高い、という前評判を聞いてたんですけど、確かにそうで、コアなミステリファンが本書をどう読むかは分からないけど、僕みたいな、本格ミステリの古典はあんま読んでないけど、ミステリってジャンルは好きよ、みたいな人間なら割と楽しめるんじゃないかなと思います。読んでみてください。
東川篤哉「放課後はミステリーとともに」
本書は、「謎解きはディナーのあとで」で本屋大賞を受賞した著者の最新作です。日常系のミステリの連作短編集です。まず大枠の設定だけ書いておきましょう。
霧ヶ峰涼は私立鯉ヶ窪学園高等部に通う高校生であり、探偵部の副部長だ。探偵部というのは、探偵小説研究部みたいなものではなく、学園内で起こる事件を実際に追いかける、そんな部活である。
霧ヶ峰涼はなんだかんだ様々な事件に関わることになるのだが…、実際に霧ヶ峰涼が事件を解くことはごく稀だ。たいてい、その場にいる霧ヶ峰涼以外の誰かが事件を解決する。そんな狂言回しのような役回りの、探偵部副部長。
「霧ヶ峰涼の屈辱」
Eの形をした特殊な建物で、泥棒。その泥棒を目撃した霧ヶ峰涼は追いかけるも、見失う。衆人環視の中消え失せた泥棒は、一体いずこへ?
「霧ヶ峰涼の逆襲」
廃屋の塀に隠れる怪しい男。芸能カメラマンらしい。有名芸能人が密会しているという向かいのマンションを張っているらしいのだが、よくわからない内にその芸能人が消え失せてしまい…。
「霧ヶ峰涼と見えない毒」
友人の高林奈緒子に頼まれて、彼女の居候先の屋敷へ。その屋敷の主の頭に瓦が落ちてきたのを、誰かが殺そうとしたのに違いないと考え、霧ヶ峰涼に推理を頼んだのだ。しかしまさにその日、主が毒殺されかかるという事件が…。
「霧ヶ峰涼とエックスの悲劇」
星空の観測会中、UFOらしきものを発見し、地学教師とともに追う。忽然と姿を消したエックス山で、首に締められた跡のある女性が倒れている。しかしその周囲には足跡がなく…。
「霧ヶ峰涼の放課後」
体育倉庫でタバコを吸っていた不良。霧ヶ峰涼たちは、見なかったことにしようと思ったのだが、運悪くそこへ生活指導の先生が。不良が所持していないタバコとライターを体育倉庫中から探すも、見つからず。しかし何故かその後、その不良は霧ヶ峰涼にお礼をするのだ…。
「霧ヶ峰涼の屋上密室」
教育実習に来ていた先生が、上から降ってきた女子生徒の下敷きに。すぐさまその女子生徒がいたと思われる建物を捜索する霧ヶ峰涼だったが、女子生徒の落下時、その建物は密室だったことが判明する…。
「霧ヶ峰涼の絶叫」
大言壮語の走り幅跳び選手である足立が、グラウンドの砂場で倒れていた。砂場には犯人のものらしき足跡はなく…。
「霧ヶ峰涼の二度目の屈辱」
さて、またあのEの形をした建物内で、今度は傷害未遂事件が起こる。学ランを来た犯人を追うも、またしても衆人環視の中消え失せてしまう…。
というような話です。
なかなかよく出来たミステリだと思いました。現象自体は、ちょっとさすがにそれは起こらないだろ、というような無茶な話もあったりしますけど、謎の設定とか謎解きの過程なんかはなかなか巧く出来ているなぁ、という感じがしました。
特によく出来てる話だなぁ、と思ったのが、
E形の建物から泥棒が消える「霧ヶ峰涼の屈辱」
芸能人が密会場所から消える「霧ヶ峰涼の逆襲」
不良が吸ってたタバコが見つからない「霧ヶ峰涼の放課後」
の三つかな。
「屈辱」は、「実は謎なんてなかった」というような現象が、なかなかうまく説明されると思いました。その過程でもう一つのネタが明かされるという趣向で、冒頭の話としてかなりいい役割をしたなという感じ。一番バッターって感じですね。
「逆襲」は、本書の中では四番バッター級のネタじゃないかと思いました。トリック自体もなかなか鮮やかだし、そのネタを最終的にどう読者に提示するかという料理の仕方も巧い。トリックを暴くことでさらなる真相が見えてくる、という展開がいいですね。
そういう意味では「放課後」も巧い趣向を取っていると思いました。野球には詳しくないんで間違ってるかもだけど、3番か5番バッターぐらいかな。トリックを暴くことでさらなる真相が見えてくるという点は先ほどと同じく見事だし、まずそもそも一体何が何が問題なのか、という部分で読者を振り回すところも巧いと思いました。
逆に、さすがにこれは厳しいんじゃなかろうか、と思ったのは、空から人が降ってくる「霧ヶ峰涼の屋上密室」。これはちょっと、色々と無理がありすぎるような気がして、辛いかなぁと思いました。
とにかく読みやすく、手軽によめる作品だと思います。ミステリーを読み慣れていない人でも、ミステリーの入門として結構読めるんじゃないかと思います。「謎解きはディナーのあとで」よりミステリ度は高い、という前評判を聞いてたんですけど、確かにそうで、コアなミステリファンが本書をどう読むかは分からないけど、僕みたいな、本格ミステリの古典はあんま読んでないけど、ミステリってジャンルは好きよ、みたいな人間なら割と楽しめるんじゃないかなと思います。読んでみてください。
東川篤哉「放課後はミステリーとともに」