すすれ!麺の甲子園(椎名誠)
全国麺協会による全国大会、というものが開かれている。大会とは言うものの何か競技があるわけではなく、会議のようなものである。年に一度、全国の様々な麺が一同に介し、今後の麺の行く末について話し合ったり、あるいは解釈の違いなどを裁いたりする場である。
今年も全国各地から、1800種を越える麺たちが一同に介した。場所は、廃工場である。工場萌えの方々が、時々この会議を目撃してしまう。廃工場の一面に様々な麺が処狭しとひしめき合っている光景は、なかなか悪夢であるそうだ。
「第56回、全国麺協会大会を開始します」
麺界のドンであるさぬきうどんの開会宣言により、大会は始まる。
まずは、毎年恒例の議題からである。これを問い掛けるのは毎年へぎそばであるということも決まっている。
「そもそも麺とはなんぞや?」
そう、全国麺協会であっても、麺とは何かという明確な定義を未だ持っていないのである。全国麺協会はその発足当初から、希望者はすべて加盟する方針を取っていた。なので現在では、しらたきや糸コンニャクはもちろん、さしみのつま状の大根やベビスタラーメン、果ては素材が同じであるという理由で餃子なんかもこの麺協会に加盟していたりする。もはやグチャグチャである。当初からこの麺協会に加盟していた古参幹部は、麺とは何かを定義し、その定義にあった者のみを加盟者とすべく毎年働きかけていたのだが、政治的な理由からなかなかうまくいかない。当然今年もうまくいかないのであった。
次はサンマーメンからの指摘であった。
「吉田うどんが四万十川水系の水を使用して麺を打っている。これは違反ではないのか」
麺には土地に根ざしたものがかなりあり、さぬきうどんや長崎ちゃんぽんなどがその例である。吉田うどんもそうである。これら土地系の麺は、基本的にその土地の水を使って打つのがよい、という暗黙の了解がある。明文化されているわけでもないので違反とも言えないだろうが、しかし見過ごすことも出来ないというなかなか微妙な問題ではある。結局解決することなく次の話に。
今度はきしめんからの意見であった。
「抹茶小倉スパゲッティが可哀相で見ていられない。どうにかならないものか」
名古屋には、「抹茶小倉スパゲッティ」という珍妙な食べ物がある。うまいかまずいかは個人の判断であろうが、しかし麺からすれば、抹茶を練り込まれるのはよしとしても、小倉あんをかけられるのは屈辱に等しいものがある。これは麺同盟すべての者が同感ではあったが、しかしだからと言って何か出来るわけでもない。きしめんの心優しい提言は、しかし活かされることはないのであった。
その後もいくつかの話題が出ては議論になるが、しかしどれもこれも結論は出ない。それもそうで、人間で考えてみれば1800人を一同に集めて会議をしているようなものなので、会議になるわけがない。ことここに至って、麺の定義を明確にしてこなかったことが悔やまれるのであるが、しかしやはりそれはどうにもならない問題なのであった。
その内議論は出尽くし、というか長時間の会議のために皆カピカピに干からびてしまったために、散会となる。最後はやはり麺界のドンであるさぬきうどんによるありがたいお言葉である。
「麺類皆兄弟」
一銃「全国麺協会大会」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、椎名誠が勝手に作った「爆裂麺喰いがしがし団」(しかしこの名称も時々変わっているような気がする。構成メンバー5人+α)によって行われた、全国の麺の中でどれがうまいのかを決める「全国麺類公式選手権大会」(この名称も結構ガンガン変わる)の始まりから終わりまでを描いた作品です。
椎名誠ご一行は、とにかく全国各地を飛び回り、その地の有名なあるいは無名な麺を食べまくっては勝敗を決めまず地方代表を選び、それからその代表同士を戦わせて最終的な勝者を決める、ということをやったのである。まあ激しく下らない企画で、激しくユルい(どっちなんだ!)作品でした。気合を入れて読むような本じゃないですね。
僕の中で世の中の食べ物は二種類に大別出来て、それはうどんかうどん以外か、というものなんだけど、とにかくそれぐらいうどんが好きです。積極的に食べたいと思える食物はうどんしかありません。しかし一歩譲って、その幅を麺類というところまで広げてもいいでしょう。とにかく、麺は大好きです。
麺の何がいいかと言えば、食べるのがめんどくさくない、ということですね。僕は現代人らしく噛むのが好きじゃないんですけど、その点麺はあんまり噛まなくても食べられますね。逆に、例えば蟹なんかは食べ難いというただその一点のみで嫌いです。味とかは別に嫌いじゃないんですけど、食べ難いですよね、あれ。麺は食べやすい上に美味しいという素晴らしい食べ物なわけです。
本作ではそんな麺たちがこれでもかと紹介されていきます。以下僕が気になった、食べに行ってみたいなぁ、と思った麺を書き連ねましょう(自分用のメモですね)。
福島:高遠そば(三澤屋)
三澤屋の高遠そばは、箸の代わりに葱を使ってそばを食べる。それだけでも食べてみたいではないか。しかもこの高遠そば、福島県代表として決勝トーナメントに出場しています。
岩手(盛岡って岩手だっけ?):わんこそば
本物のわんこそばは一回でいいから食べてみたい、というかチャレンジしてみたいですね。
青森:温泉もやし(大鰐温泉)
今回彼らは麺の定義として、
①細くて長いこと(七センチ以上)
②大勢仲間がいること(一本ではダメ)
③すすれること
という大会規定を設けたわけで、それにより純正の麺だけでなく亜麺とも呼ぶべき様々なものも入ってきた。
その内の一つがこの温泉もやしである。温泉の熱を利用してグングン育てるため、長さが四十センチにも及ぶらしい。食べてみたいものである。
山形:酒田のワンタンメン
世の中できちんとしたワンタンメンを出すのはここ酒田しかない、と著者は言い切っていた(と思う)。
宇治山田(って何県だ?):伊勢うどん
とにかくすごいらしい。写真で見る限り確かにすごい。見た目は、うどんに泥がついているようにしか見えない。とてもうまそうには見えないのだが、うまいらしいぞ。
山梨:かぼちゃほうとう
ほうとうって多分食べたことないんだよなぁ。
東京:武蔵野うどん
今確実に話題になりつつあるらしい、新興のうどんであるらしい。うどん好きとしては食べたいところである。
沖縄:沖縄そば(亀かめそば)
亀かめそばは、沖縄ブロックの代表となりました。
福岡:沖食堂の支那うどん
なんとこれ、今回の麺の甲子園で、さぬきうどんを押さえて優勝してしまった麺です。さぬきうどんを制したとあらば食べぬわけにはいくまい。
大阪:肉吸いうどん
よくわからないが大阪には「肉吸い」という食べ物があり、その中にうどんが入っている、という一品らしい。
静岡:吉田うどん
彼ら一行はちょっと間違った店に入ってしまったがために今回の麺の甲子園ではほとんど取り上げられることはなかったのだけど、しかしこの吉田うどん、なかなかいいらしいぞ。
しかし本作を読んで思ったことは、やはりさぬきうどんは麺界のドンであるのだなぁ、ということである。また行きたいなぁ、香川。
とりあえず近場の「武蔵野うどん」ぐらいはなんとか行ってみたいものであるなぁ。
というわけで本作は、まあユルい作品なので、そんなに読むほどの本でもないかと思いますね。僕は、麺通団による「超麺通団」という本の方が面白いなぁ、と思いました。
椎名誠「すすれ!麺の甲子園」
今年も全国各地から、1800種を越える麺たちが一同に介した。場所は、廃工場である。工場萌えの方々が、時々この会議を目撃してしまう。廃工場の一面に様々な麺が処狭しとひしめき合っている光景は、なかなか悪夢であるそうだ。
「第56回、全国麺協会大会を開始します」
麺界のドンであるさぬきうどんの開会宣言により、大会は始まる。
まずは、毎年恒例の議題からである。これを問い掛けるのは毎年へぎそばであるということも決まっている。
「そもそも麺とはなんぞや?」
そう、全国麺協会であっても、麺とは何かという明確な定義を未だ持っていないのである。全国麺協会はその発足当初から、希望者はすべて加盟する方針を取っていた。なので現在では、しらたきや糸コンニャクはもちろん、さしみのつま状の大根やベビスタラーメン、果ては素材が同じであるという理由で餃子なんかもこの麺協会に加盟していたりする。もはやグチャグチャである。当初からこの麺協会に加盟していた古参幹部は、麺とは何かを定義し、その定義にあった者のみを加盟者とすべく毎年働きかけていたのだが、政治的な理由からなかなかうまくいかない。当然今年もうまくいかないのであった。
次はサンマーメンからの指摘であった。
「吉田うどんが四万十川水系の水を使用して麺を打っている。これは違反ではないのか」
麺には土地に根ざしたものがかなりあり、さぬきうどんや長崎ちゃんぽんなどがその例である。吉田うどんもそうである。これら土地系の麺は、基本的にその土地の水を使って打つのがよい、という暗黙の了解がある。明文化されているわけでもないので違反とも言えないだろうが、しかし見過ごすことも出来ないというなかなか微妙な問題ではある。結局解決することなく次の話に。
今度はきしめんからの意見であった。
「抹茶小倉スパゲッティが可哀相で見ていられない。どうにかならないものか」
名古屋には、「抹茶小倉スパゲッティ」という珍妙な食べ物がある。うまいかまずいかは個人の判断であろうが、しかし麺からすれば、抹茶を練り込まれるのはよしとしても、小倉あんをかけられるのは屈辱に等しいものがある。これは麺同盟すべての者が同感ではあったが、しかしだからと言って何か出来るわけでもない。きしめんの心優しい提言は、しかし活かされることはないのであった。
その後もいくつかの話題が出ては議論になるが、しかしどれもこれも結論は出ない。それもそうで、人間で考えてみれば1800人を一同に集めて会議をしているようなものなので、会議になるわけがない。ことここに至って、麺の定義を明確にしてこなかったことが悔やまれるのであるが、しかしやはりそれはどうにもならない問題なのであった。
その内議論は出尽くし、というか長時間の会議のために皆カピカピに干からびてしまったために、散会となる。最後はやはり麺界のドンであるさぬきうどんによるありがたいお言葉である。
「麺類皆兄弟」
一銃「全国麺協会大会」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、椎名誠が勝手に作った「爆裂麺喰いがしがし団」(しかしこの名称も時々変わっているような気がする。構成メンバー5人+α)によって行われた、全国の麺の中でどれがうまいのかを決める「全国麺類公式選手権大会」(この名称も結構ガンガン変わる)の始まりから終わりまでを描いた作品です。
椎名誠ご一行は、とにかく全国各地を飛び回り、その地の有名なあるいは無名な麺を食べまくっては勝敗を決めまず地方代表を選び、それからその代表同士を戦わせて最終的な勝者を決める、ということをやったのである。まあ激しく下らない企画で、激しくユルい(どっちなんだ!)作品でした。気合を入れて読むような本じゃないですね。
僕の中で世の中の食べ物は二種類に大別出来て、それはうどんかうどん以外か、というものなんだけど、とにかくそれぐらいうどんが好きです。積極的に食べたいと思える食物はうどんしかありません。しかし一歩譲って、その幅を麺類というところまで広げてもいいでしょう。とにかく、麺は大好きです。
麺の何がいいかと言えば、食べるのがめんどくさくない、ということですね。僕は現代人らしく噛むのが好きじゃないんですけど、その点麺はあんまり噛まなくても食べられますね。逆に、例えば蟹なんかは食べ難いというただその一点のみで嫌いです。味とかは別に嫌いじゃないんですけど、食べ難いですよね、あれ。麺は食べやすい上に美味しいという素晴らしい食べ物なわけです。
本作ではそんな麺たちがこれでもかと紹介されていきます。以下僕が気になった、食べに行ってみたいなぁ、と思った麺を書き連ねましょう(自分用のメモですね)。
福島:高遠そば(三澤屋)
三澤屋の高遠そばは、箸の代わりに葱を使ってそばを食べる。それだけでも食べてみたいではないか。しかもこの高遠そば、福島県代表として決勝トーナメントに出場しています。
岩手(盛岡って岩手だっけ?):わんこそば
本物のわんこそばは一回でいいから食べてみたい、というかチャレンジしてみたいですね。
青森:温泉もやし(大鰐温泉)
今回彼らは麺の定義として、
①細くて長いこと(七センチ以上)
②大勢仲間がいること(一本ではダメ)
③すすれること
という大会規定を設けたわけで、それにより純正の麺だけでなく亜麺とも呼ぶべき様々なものも入ってきた。
その内の一つがこの温泉もやしである。温泉の熱を利用してグングン育てるため、長さが四十センチにも及ぶらしい。食べてみたいものである。
山形:酒田のワンタンメン
世の中できちんとしたワンタンメンを出すのはここ酒田しかない、と著者は言い切っていた(と思う)。
宇治山田(って何県だ?):伊勢うどん
とにかくすごいらしい。写真で見る限り確かにすごい。見た目は、うどんに泥がついているようにしか見えない。とてもうまそうには見えないのだが、うまいらしいぞ。
山梨:かぼちゃほうとう
ほうとうって多分食べたことないんだよなぁ。
東京:武蔵野うどん
今確実に話題になりつつあるらしい、新興のうどんであるらしい。うどん好きとしては食べたいところである。
沖縄:沖縄そば(亀かめそば)
亀かめそばは、沖縄ブロックの代表となりました。
福岡:沖食堂の支那うどん
なんとこれ、今回の麺の甲子園で、さぬきうどんを押さえて優勝してしまった麺です。さぬきうどんを制したとあらば食べぬわけにはいくまい。
大阪:肉吸いうどん
よくわからないが大阪には「肉吸い」という食べ物があり、その中にうどんが入っている、という一品らしい。
静岡:吉田うどん
彼ら一行はちょっと間違った店に入ってしまったがために今回の麺の甲子園ではほとんど取り上げられることはなかったのだけど、しかしこの吉田うどん、なかなかいいらしいぞ。
しかし本作を読んで思ったことは、やはりさぬきうどんは麺界のドンであるのだなぁ、ということである。また行きたいなぁ、香川。
とりあえず近場の「武蔵野うどん」ぐらいはなんとか行ってみたいものであるなぁ。
というわけで本作は、まあユルい作品なので、そんなに読むほどの本でもないかと思いますね。僕は、麺通団による「超麺通団」という本の方が面白いなぁ、と思いました。
椎名誠「すすれ!麺の甲子園」
名探偵はもういない(霧舎巧)
日本に戻るのは実に七年ぶりだ。仕事が忙しかった、というわけでもないのだが、特に用事もないのにわざわざ帰国するのも億劫だったということもある。飛行機というのが苦手なのだ。滅多なことでは乗りたくないものだ。結局転勤でアメリカに移ることになってから丸々七年日本を留守にしてしまった。
両親や友人などとはそれなりに連絡を取ってはいたものの、やはりしばらくは変化についていくことは出来ないだろうな、と思う。僕の中では、日本は未だに七年前の姿で止まっている。どれだけの変化があったのか、楽しみというものだ。
苦手な飛行機を降り、空港内に足を踏み入れた時、最初の違和感に襲われた。
(人がいない?)
もちろん飛行機から降りてきた乗客はいるが、空港の職員らしき人がまったく見当たらないのだ。税関もすべて機械化されているようだし、カウンター内にも人の姿はない。他の乗客の中にもこの状況を戸惑っている人がチラホラ見られる。これは一体どうなっているのだろうか。
とりあえず訝りながらも、空港から出る。とりあえずさっさとタクシーでも拾ってホテルに向かおう、と思ったのだが、空港前の敷地にタクシーが一台も停まっていないのだ。その代わり、かなりの数の自動車が停まっている。また周りを見渡しても人の姿はやっぱりない。
(どうなってるんだ、ホント)
かつてタクシー乗り場だったと思しきスペースに、『貸し自動車』という看板があった。
(『貸し自動車』ってなんだ?)
説明を読んでみると字の如くで、要するに敷地内に停まっている自動車を自分で運転し、全国各地にある所定の場所にまた戻す、という仕組みらしい。
(こんなことをするよりタクシーの方が効率がいいんじゃないかな)
そうは思ったものの、移動手段がないのではどうしようもない。僕は貸し自動車に乗ることにした。奇妙なことに敷地内にある自動車の窓はすべて、外から中が覗けないようにシートが貼られているようだった。何の意味があるというのだろう。
自動車を走らせていても、歩道に人の姿はない。これはさすがに異常ではないか、と僕は思い始めていた。東京に、これだけ人がいないなんてことがありえるだろうか?
また不可思議なのは、街中にある店舗が軒並みシャッターを閉めていることだ。コンビニさえも閉まっているのだ。飲み物や煙草は自動販売機で買えるにしても、他のものはどうやって手に入れたらいいのだろうか。
ここに至って僕は恐ろしい想像をしてしまう。まさか、日本という国は滅んでしまったとでもいうのだろうか。
目的地であるホテルに辿り着いた。さすがにホテルは営業しているようだ。しかし相変わらずカウンターには従業員の姿はない。タッチパネル式の機械があり、それで部屋の予約をするようである。
部屋に入り落ち着いたところで、両親や友人の電話をしようと思った。日本の携帯電話は持っていないので、部屋の電話から掛けることにする。
しかし、掛ける番号すべて、『現在使われておりません』という案内が流れるのであった。そんなバカな。ついこの間まで普通に連絡をしていた相手なのに、どうして電話が繋がらないというのだろうか。僕はこの異常事態にどんどんと不安を増していった。
テレビをつけることにした。この時間なら夜のニュースをやっているだろう。
確かにニュースはやっていた。しかしそれは、酷く奇妙な番組だった。
アナウンサーがまったく出てこないのである。映像と声のみで、アナウンサーの姿が画面に映ることがまったくない。しかもその声も、機械で加工されたような変なもので、何かの冗談のような構成であった。しかしどの局でもそんな番組しか流していなかった。
そのニュースで、ようやく僕は状況を理解することが出来た。もちろんそれは、何が起こっているのかが分かったというだけのことであり、その理屈に納得できたわけではなかったのだけど。
機械で加工された声でニュースが読み上げられる。
『昨日から施行された個人保護法により、様々な影響が出ています。街中の店は閉じられ、電車やバスなどの交通機関はストップ、また国民すべての電話が不通になりました』
この状況は、昨日から施行された個人保護法という法律のせいらしい。
ニュースによればこの個人保護法は、かつて制定された個人情報保護法をさらに強化した内容になっているという。個人情報保護法では、個人に付帯する情報について保護されることになっていたが、今度の法律では個人そのものの情報が保護されるということのようだ。即ち、個人の顔や存在と言ったものまで保護の対象にしよう、というものだ。そのため、人前に姿を現すことが基本的に出来なくなってしまった、ということらしい。
僕は、もしやと思って、引き出しの中にある聖書を取り出してみた。予想通りだった。すべての個人名が黒塗りにされている。
(そりゃやりすぎじゃないか…)
とんでもない国に戻ってきてしまったものだ、と僕は思った。
一銃「誰もいない」
そろそろ内容に入ろうと思います。
犯罪学者である木岬研吾は、義弟である敬二を連れて旅行に出かけることにした。雪深い山奥までやってきたところで、通ってきた道が雪崩によって塞がってしまったことをラジオのニュースで知る。二人はとりあえず近くのペンションに避難することにした。
そこはどう考えても繁盛するとは思えない立地にあるのだけど、その日は何故か満室だった。無理を言って泊めてもらうことにしたが、日本語の話せない外国人がやってきたり、誰彼構わず傲慢な態度で接するおばさんがいたりと、変なメンバーばかりだった。木岬はそこで、積年の名残りだったある問題を解決し満足した気分であった。
そのペンションで殺人事件が発生する。「名探偵」が事件を解くことになるのだが…。
というような話です。
霧舎巧というのはまあ本格ミステリ作家で、これまでも探偵が出てきて密室だのなんだのという話を数多く出してきました。
本作は、まあそこそこ面白いかな、という感じの作品でした。最近僕はどうも、本格ミステリに対する熱みたいなものが薄れていて(昔はこういう作品ばっかり読んでたんですけどね)、だからそこそこという評価なのかもしれないと思ったりもしますけど。
舞台設定や伏線はなかなか巧いと思いました。ペンションに閉じ込められてしまう人々が本来の身分を隠していて、それが次々に明かされていくところであるとか、複雑に絡み合った人間関係、個人の特徴を巧く使ったミスリード、ストーリーに関係ないと思わせる出来事が実は伏線だったり、と本格ミステリらしいスピリットに溢れている感じはします。
でも、僕的には解決編がそこまでグッと来るものじゃなかったんですよね。もちろん、それまでの伏線はちゃんと回収され、矛盾のないきちんとした論理が示されるわけなんですけど、でもなんか物足りなかったんですよね。どこがというのは説明できないんですけど、例えば最近読んだ有栖川有栖の「女王国の城」なんかと比べてしまうと、やっぱり劣るよなぁ、という感じがしてしまうわけです。
細かくいろんなところに仕掛けられた『論理』は、なかなかお見事という感じでした。冒頭で木岬が看破してみせる過去の事故の真相だとか、滞在者の一人が別の滞在者に向けて仕掛ける論争だとか、そういう部分でも論理のやり取りがあって、それがきっちりとしていて、すごいなと思いますね。
まあそんなわけでですね、それなりに面白い作品でした。この作品よりは、霧舎巧のデビュー作シリーズである、<あかずの扉研究会>シリーズの方が僕は面白いと思います。
霧舎巧「名探偵はもういない」
両親や友人などとはそれなりに連絡を取ってはいたものの、やはりしばらくは変化についていくことは出来ないだろうな、と思う。僕の中では、日本は未だに七年前の姿で止まっている。どれだけの変化があったのか、楽しみというものだ。
苦手な飛行機を降り、空港内に足を踏み入れた時、最初の違和感に襲われた。
(人がいない?)
もちろん飛行機から降りてきた乗客はいるが、空港の職員らしき人がまったく見当たらないのだ。税関もすべて機械化されているようだし、カウンター内にも人の姿はない。他の乗客の中にもこの状況を戸惑っている人がチラホラ見られる。これは一体どうなっているのだろうか。
とりあえず訝りながらも、空港から出る。とりあえずさっさとタクシーでも拾ってホテルに向かおう、と思ったのだが、空港前の敷地にタクシーが一台も停まっていないのだ。その代わり、かなりの数の自動車が停まっている。また周りを見渡しても人の姿はやっぱりない。
(どうなってるんだ、ホント)
かつてタクシー乗り場だったと思しきスペースに、『貸し自動車』という看板があった。
(『貸し自動車』ってなんだ?)
説明を読んでみると字の如くで、要するに敷地内に停まっている自動車を自分で運転し、全国各地にある所定の場所にまた戻す、という仕組みらしい。
(こんなことをするよりタクシーの方が効率がいいんじゃないかな)
そうは思ったものの、移動手段がないのではどうしようもない。僕は貸し自動車に乗ることにした。奇妙なことに敷地内にある自動車の窓はすべて、外から中が覗けないようにシートが貼られているようだった。何の意味があるというのだろう。
自動車を走らせていても、歩道に人の姿はない。これはさすがに異常ではないか、と僕は思い始めていた。東京に、これだけ人がいないなんてことがありえるだろうか?
また不可思議なのは、街中にある店舗が軒並みシャッターを閉めていることだ。コンビニさえも閉まっているのだ。飲み物や煙草は自動販売機で買えるにしても、他のものはどうやって手に入れたらいいのだろうか。
ここに至って僕は恐ろしい想像をしてしまう。まさか、日本という国は滅んでしまったとでもいうのだろうか。
目的地であるホテルに辿り着いた。さすがにホテルは営業しているようだ。しかし相変わらずカウンターには従業員の姿はない。タッチパネル式の機械があり、それで部屋の予約をするようである。
部屋に入り落ち着いたところで、両親や友人の電話をしようと思った。日本の携帯電話は持っていないので、部屋の電話から掛けることにする。
しかし、掛ける番号すべて、『現在使われておりません』という案内が流れるのであった。そんなバカな。ついこの間まで普通に連絡をしていた相手なのに、どうして電話が繋がらないというのだろうか。僕はこの異常事態にどんどんと不安を増していった。
テレビをつけることにした。この時間なら夜のニュースをやっているだろう。
確かにニュースはやっていた。しかしそれは、酷く奇妙な番組だった。
アナウンサーがまったく出てこないのである。映像と声のみで、アナウンサーの姿が画面に映ることがまったくない。しかもその声も、機械で加工されたような変なもので、何かの冗談のような構成であった。しかしどの局でもそんな番組しか流していなかった。
そのニュースで、ようやく僕は状況を理解することが出来た。もちろんそれは、何が起こっているのかが分かったというだけのことであり、その理屈に納得できたわけではなかったのだけど。
機械で加工された声でニュースが読み上げられる。
『昨日から施行された個人保護法により、様々な影響が出ています。街中の店は閉じられ、電車やバスなどの交通機関はストップ、また国民すべての電話が不通になりました』
この状況は、昨日から施行された個人保護法という法律のせいらしい。
ニュースによればこの個人保護法は、かつて制定された個人情報保護法をさらに強化した内容になっているという。個人情報保護法では、個人に付帯する情報について保護されることになっていたが、今度の法律では個人そのものの情報が保護されるということのようだ。即ち、個人の顔や存在と言ったものまで保護の対象にしよう、というものだ。そのため、人前に姿を現すことが基本的に出来なくなってしまった、ということらしい。
僕は、もしやと思って、引き出しの中にある聖書を取り出してみた。予想通りだった。すべての個人名が黒塗りにされている。
(そりゃやりすぎじゃないか…)
とんでもない国に戻ってきてしまったものだ、と僕は思った。
一銃「誰もいない」
そろそろ内容に入ろうと思います。
犯罪学者である木岬研吾は、義弟である敬二を連れて旅行に出かけることにした。雪深い山奥までやってきたところで、通ってきた道が雪崩によって塞がってしまったことをラジオのニュースで知る。二人はとりあえず近くのペンションに避難することにした。
そこはどう考えても繁盛するとは思えない立地にあるのだけど、その日は何故か満室だった。無理を言って泊めてもらうことにしたが、日本語の話せない外国人がやってきたり、誰彼構わず傲慢な態度で接するおばさんがいたりと、変なメンバーばかりだった。木岬はそこで、積年の名残りだったある問題を解決し満足した気分であった。
そのペンションで殺人事件が発生する。「名探偵」が事件を解くことになるのだが…。
というような話です。
霧舎巧というのはまあ本格ミステリ作家で、これまでも探偵が出てきて密室だのなんだのという話を数多く出してきました。
本作は、まあそこそこ面白いかな、という感じの作品でした。最近僕はどうも、本格ミステリに対する熱みたいなものが薄れていて(昔はこういう作品ばっかり読んでたんですけどね)、だからそこそこという評価なのかもしれないと思ったりもしますけど。
舞台設定や伏線はなかなか巧いと思いました。ペンションに閉じ込められてしまう人々が本来の身分を隠していて、それが次々に明かされていくところであるとか、複雑に絡み合った人間関係、個人の特徴を巧く使ったミスリード、ストーリーに関係ないと思わせる出来事が実は伏線だったり、と本格ミステリらしいスピリットに溢れている感じはします。
でも、僕的には解決編がそこまでグッと来るものじゃなかったんですよね。もちろん、それまでの伏線はちゃんと回収され、矛盾のないきちんとした論理が示されるわけなんですけど、でもなんか物足りなかったんですよね。どこがというのは説明できないんですけど、例えば最近読んだ有栖川有栖の「女王国の城」なんかと比べてしまうと、やっぱり劣るよなぁ、という感じがしてしまうわけです。
細かくいろんなところに仕掛けられた『論理』は、なかなかお見事という感じでした。冒頭で木岬が看破してみせる過去の事故の真相だとか、滞在者の一人が別の滞在者に向けて仕掛ける論争だとか、そういう部分でも論理のやり取りがあって、それがきっちりとしていて、すごいなと思いますね。
まあそんなわけでですね、それなりに面白い作品でした。この作品よりは、霧舎巧のデビュー作シリーズである、<あかずの扉研究会>シリーズの方が僕は面白いと思います。
霧舎巧「名探偵はもういない」
解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯(ウェンディ・ムーア)
伝記によれば、江戸時代の解剖学者土井垣伊之助は、生涯で2000体を超える死体の解剖をした、とされている。しかしその生涯はちゃんとは分かっていない。彼は、その解剖の記録をまったく残さなかったようなのだ。学術的な探求から解剖を行っていたのだとすれば到底考えられない話である。
この話はその、伝記に載ることのなかった、一生を解剖に捧げたと言っても過言ではない男の、数奇な生涯の話である。
(あと一つだけなのに)
土井垣伊之助は、死体の腹を掻っ捌きながら、いつものようにそう思っていた。彼は焦っていた。どうしても見つけなくてはいけないのに、それがどうしても見つからないのだ。
彼は、腸を肝臓を子宮を膀胱を切り裂き、また肋骨を折っては肺や心臓まで切り開いて行った。後で臓器を標本にしたり、何か理屈を持って解剖に当たっているのではないことは明白だった。事実彼は生涯に一つも標本を作製しなかったし、散々切り刻んだ死体の始末は助手にやらせ興味がなかったのだ。人々は、彼が学術的な探求から死体の解剖をしているのだ、と思っていた。杉田玄白による「解体新書」が世に出始めていた頃でもあったし、死体を解剖するということについて世間の理解が若干得られているような時期だった。しかし、彼のごく近くにいた人々は彼を畏れていた。彼の近くにいたのは、医学者や解剖学者の卵であったが、彼らは一様に、伊之助の解剖についていぶかしんでいた。目的がまったく分からない中、彼らは伊之助は悪魔にとりつかれてしまったのではないか、と噂をしていた。
(早くしないと間に合わない)
伊之助は、ナイフを握る手に力を込めながら、人体の内部を引っ掻き回していた。まだメスなどない時代のことである。切れ味のいいナイフを使い、血まみれになりながら、真冬でも真夏でも解剖を続けた。真夏の解剖は地獄のようだった、と助手は証言している。あの臭いは、地獄でも嗅がせることはないだろう、と。そんな環境の中、伊之助は平然と解剖を続けるのであった。
伊之助は、死体さえ手に入ればいつどんな時でも解剖を続けたものだったが、しかし日に日に体は弱っていった。当時治療法が確立されていなかった重篤な病に冒されていたのだった。普通であれば、激しい運動や長時間の労働などは絶対にダメであった。しかし伊之助は、解剖をすることが自分の死期を早める可能性があると知った上で、それでもなお解剖を続けるのだった。
(これは生きている人間を襲うしかないのだろうか)
探せども探せども、あの一つがどうしても見つからない。6つまでは見つけたそのs戦利品は、床下に厳重に保管してある。あと一つ見つけさえすれば、自分の命は助かるはずだ。死んだ人間だけを相手に悠長に探しているわけにもいかない。もう自分の死はすぐそこまで迫っているのだ。これまで、生きている人間に手を出すのはダメだ、と思っていた。しかし、その考えを改める時期に来ているのかもしれない。
そんな野蛮な考えを抱いていた矢先の話だった。いつものように腸を漁り心臓を切り裂いていた伊之助は、肺を切り開いた時にようやくそれを見つけた。
(星が4つ。まさに四星球だ!これで7個すべて揃った!)
一部の人には説明が必要であろう。この「四星球」というのは、かの有名な漫画「ドラゴンボール」に出てくるもので、7つすべて揃えると願いが叶う、と言われているものである。7つ揃えると、神龍(シェンロン)という神様が出てきて、一つだけ願いを叶えてくれる。一星球から七星球まであり、それぞれにそれぞれの数字の分だけ星型のマークが入っている。
伊之助が探していたのはこれだった。彼はとあるきっかけで人体の解剖をした際、人間の体内から六星球を見つけたのだった。古い伝記や逸話などが好きだった彼は、後に「ドラゴンボール」という名前で有名になるこの球は、七つ集めると願いが叶うことを知っていた。そこで、解剖の度に気まぐれに探すことにしたのだ。当初は病を患っていなかったため急いで探してはいなかったのだが、病気が発覚してからは他のすべてのことを差し置いてこのドラゴンボール探しに熱中したのだった。
ようやく集め終わった伊之助は、早速神龍を呼ぶことにした。
「出でよ、神龍!」
すると巨大な龍が空を多い尽くした。神龍は言う。
「願いを一つ叶えてやろう」
伊之助は待ちに待ったこの瞬間、自分の病気を治して欲しい、と言おうと思い息を吸ったその瞬間だった。
「おなごのパンティが欲しい!」
町人の誰かがそう叫んだと伝えられている。どこにでもそういう輩はいるものである。
結局伊之助の願いは叶わず、そのショックもあったのだろう、伊之助はその直後火が消えるようにして死んだのだった。
一銃「伊之助の不幸」
なかなか酷い出来ですね。最近はホントこんなんしか思い浮かばないんだよなぁ。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、18世紀のイギリスに生きた、ジョン・ハンターという解剖学者の生涯を描いたノンフィクションです。このジョン・ハンターは、「ドリトル先生」や「ジキル博士とハイド氏」のモデルになった人物であると言われていて、帯の文句をそのまま写せば、
『奇人まみれの英国でも群を抜いた奇人!』
ということになるようです。
僕はこの前情報を読んで、こんな印象を抱きました。解剖医としては飛び切りの腕を持つのだけど死体にしか興味がなく、腕はいいんだけど周囲からは気味悪がられて変人扱いされている、というようなイメージです。どうでしょう、この帯の文句と、「ジキル博士とハイド氏」のモデルになったというところから、なんとなくそんなイメージを持ちませんか?
でも実際は全然違いました。このジョン・ハンターという解剖医は、まさに近代医療の基礎を作ったと言っても過言ではない男で、解剖医としてだけではなく外科医や生物学者としても一流で、また周囲の人間にはかなり慕われていて、世間的な地位もメチャクチャ高かったようです。僕のイメージとは全然違った、全然奇人じゃないがな、と思いましたが、内容は非常に面白かったですね。
ジョン・ハンターは子どもの頃は出来損ないだったのだけど、医者として活躍し、解剖学教室を開いた兄ウィリアムに誘われて彼の助手になったことが人生の転機になりました。初心者とは思えないメス捌きで完璧な解剖をして見せたジョンは、死体の調達という闇の部分も含めて、ウィリアムの助手として大いに腕を振るいました。ジョンの解剖は完璧で、技術が高かったこともあるのだけど、それ以上に観察したことしか信じない、という主義を明確に持っていたことが、後々彼を名声に導くことになります。ジョンはかなり多くの発見をすることになりますが、そのほとんどの功績はウィリアムに奪われてしまいました。
それからジョンは、外科医になります。たった200年前の話ですが、当時の医療というのは恐ろしいぐらいお粗末なもので、科学的とは言いがたい様々な治療が行われていました。蟹の目が薬であるとして処方されたり、病気は体内の体液のバランスの問題である、という古来からの学説を鵜呑みにし、まったく効果のない瀉血(血を抜くこと)を繰り返したりと言った有り様でした。免許を持った医者であろうがいかさま師であろうが与える治療に大差はなく、根拠のない迷信を信じて民間医療が大流行するようなそんな時代でした。
そんな医学界にあってジョンは、これまでのやり方というのを一切信じませんでした。彼は動物実験から始め、その後人体でも様々な実験をするようになり(自分を被験者にすることもあった)、その観察と記録によってより効果的な治療法を様々開発してきたわけです。冒頭で、膝の裏に動脈瘤が出来てしまった御者の話があるんですけど、当時この動脈瘤の手術は、足を切るというものしかありませんでした(もちろん麻酔はありません)。この動脈瘤は放って置くと死に至るようなものだったので、結局足を切るという選択をするしかなかったわけです。
しかしジョンは、足を切らなくても動脈瘤を取ることの出来る手術を生み出します。もちろん一発で見つけることが出来たわけではないですが、推論と実験と観察によって、効果的な治療法を生み出しました。
しかし当時の医学界では、こんなジョンのやり方は異端であるとされました。たまたまうまくいったのだ、というような嘲笑をされることが多く、彼は生涯多くの同業者と敵対することになりました。当時の医者は、効果があるか分からない治療や手術をしてお金を稼いでいたわけですが、しかしジョンは、なるべく治療も手術もしない、という自然治癒力に任せた医療というのを既に提案していました。もちろんこれも、当時の医学界では受け入れられないわけですが。
しかし一方で、民衆の間でのジョンの評価はどんどんと高まっていきます。ジョンに治療や手術をして欲しいとやってくる患者、またジョンの解剖学の講義を聞きたいとやってくる医者の卵などが列をなし、ジョンの名声は否が応でも高まっていきました。
そんなジョンですが、唯一趣味だったのが標本蒐集です。もちろん実益を兼ねた趣味ですが、最終的に彼は博物館まで作ってしまうほどの標本をたった一人で集めてしまいます。珍しい動物や人間の臓器などはもちろん、奇形の動物や珍しい症例の病気など様々な生物学的に有益な標本を集めた博物館であり、また、当時まだ神が世界を創り、すべての生き物は現在の形のまま生み出されたと信じられていた時に、進化論のさきがけのような主張をし、また人類の祖先は黒人だったという驚くべき意見を口にして周囲を驚かせました。
そんな、現代医学の父と言っても言いすぎではないだろうジョン・ハンターという男の、情熱に満ちた生涯を描いた作品です。
なかなか面白いノンフィクションで満足しました。当時の医療のお粗末さと、そんな環境の中で提示したジョンの画期的な治療法の数々の対比が素晴らしいと思ったし、医学の向上のためにまさに自分の人生を捧げたその生き方は賞賛に値する、と思いました。一日19時間仕事をしたそうで、それは晩年でも変わらなかったそうです。もう尋常ではないですね。また、後年は様々なところからお金が入ってきて収入的にはかなり裕福だったはずなのに、そのお金のほとんどを標本集めのために使ってしまったというのもすごいものだな、と思いました。彼は、いいところのお嬢さんと結婚したんですけど、よく結婚生活が続いたものだよなぁ、と思いました。
本作を読んで驚いたのが、解剖のための死体をいかに集めるか、という部分です。基本的には墓泥棒に頼んで持ってきてもらうわけなんだけど、時には死刑囚の死体を手に入れることもあります。
しかしこの死刑囚の死体を手に入れる話、現代人の感覚からするともう無茶苦茶なんですね。
当時死刑は公開されていたようで、周囲には死刑囚の家族や観客が大勢いるわけです。その中にもちろん解剖学者や解剖学者に雇われた人間もいるわけなんですけど、ここでちょっとしたバトルが起きるわけです。
死刑が執行された直後、解剖学者と死刑囚の家族は我先にと死体の元に走ります。解剖学者は、死者を安静に眠らせてあげたいと考える家族の手から力ずくで死体を奪うわけです。そんなんアリかよ、とか思いますけど、実際にそうやって死体集めが行われていたようですね。凄まじい光景だろうなと思います。
帯では「奇人」と紹介されていますが、読んでみるとかなり素晴らしい人物であることが分かると思います。信念を持って医学の向上に努めその生涯のすべてを捧げた男の生涯をドラマティックに描いています。なかなか面白い作品だと思います。是非読んでみてください。
ウェンディ・ムーア「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」
この話はその、伝記に載ることのなかった、一生を解剖に捧げたと言っても過言ではない男の、数奇な生涯の話である。
(あと一つだけなのに)
土井垣伊之助は、死体の腹を掻っ捌きながら、いつものようにそう思っていた。彼は焦っていた。どうしても見つけなくてはいけないのに、それがどうしても見つからないのだ。
彼は、腸を肝臓を子宮を膀胱を切り裂き、また肋骨を折っては肺や心臓まで切り開いて行った。後で臓器を標本にしたり、何か理屈を持って解剖に当たっているのではないことは明白だった。事実彼は生涯に一つも標本を作製しなかったし、散々切り刻んだ死体の始末は助手にやらせ興味がなかったのだ。人々は、彼が学術的な探求から死体の解剖をしているのだ、と思っていた。杉田玄白による「解体新書」が世に出始めていた頃でもあったし、死体を解剖するということについて世間の理解が若干得られているような時期だった。しかし、彼のごく近くにいた人々は彼を畏れていた。彼の近くにいたのは、医学者や解剖学者の卵であったが、彼らは一様に、伊之助の解剖についていぶかしんでいた。目的がまったく分からない中、彼らは伊之助は悪魔にとりつかれてしまったのではないか、と噂をしていた。
(早くしないと間に合わない)
伊之助は、ナイフを握る手に力を込めながら、人体の内部を引っ掻き回していた。まだメスなどない時代のことである。切れ味のいいナイフを使い、血まみれになりながら、真冬でも真夏でも解剖を続けた。真夏の解剖は地獄のようだった、と助手は証言している。あの臭いは、地獄でも嗅がせることはないだろう、と。そんな環境の中、伊之助は平然と解剖を続けるのであった。
伊之助は、死体さえ手に入ればいつどんな時でも解剖を続けたものだったが、しかし日に日に体は弱っていった。当時治療法が確立されていなかった重篤な病に冒されていたのだった。普通であれば、激しい運動や長時間の労働などは絶対にダメであった。しかし伊之助は、解剖をすることが自分の死期を早める可能性があると知った上で、それでもなお解剖を続けるのだった。
(これは生きている人間を襲うしかないのだろうか)
探せども探せども、あの一つがどうしても見つからない。6つまでは見つけたそのs戦利品は、床下に厳重に保管してある。あと一つ見つけさえすれば、自分の命は助かるはずだ。死んだ人間だけを相手に悠長に探しているわけにもいかない。もう自分の死はすぐそこまで迫っているのだ。これまで、生きている人間に手を出すのはダメだ、と思っていた。しかし、その考えを改める時期に来ているのかもしれない。
そんな野蛮な考えを抱いていた矢先の話だった。いつものように腸を漁り心臓を切り裂いていた伊之助は、肺を切り開いた時にようやくそれを見つけた。
(星が4つ。まさに四星球だ!これで7個すべて揃った!)
一部の人には説明が必要であろう。この「四星球」というのは、かの有名な漫画「ドラゴンボール」に出てくるもので、7つすべて揃えると願いが叶う、と言われているものである。7つ揃えると、神龍(シェンロン)という神様が出てきて、一つだけ願いを叶えてくれる。一星球から七星球まであり、それぞれにそれぞれの数字の分だけ星型のマークが入っている。
伊之助が探していたのはこれだった。彼はとあるきっかけで人体の解剖をした際、人間の体内から六星球を見つけたのだった。古い伝記や逸話などが好きだった彼は、後に「ドラゴンボール」という名前で有名になるこの球は、七つ集めると願いが叶うことを知っていた。そこで、解剖の度に気まぐれに探すことにしたのだ。当初は病を患っていなかったため急いで探してはいなかったのだが、病気が発覚してからは他のすべてのことを差し置いてこのドラゴンボール探しに熱中したのだった。
ようやく集め終わった伊之助は、早速神龍を呼ぶことにした。
「出でよ、神龍!」
すると巨大な龍が空を多い尽くした。神龍は言う。
「願いを一つ叶えてやろう」
伊之助は待ちに待ったこの瞬間、自分の病気を治して欲しい、と言おうと思い息を吸ったその瞬間だった。
「おなごのパンティが欲しい!」
町人の誰かがそう叫んだと伝えられている。どこにでもそういう輩はいるものである。
結局伊之助の願いは叶わず、そのショックもあったのだろう、伊之助はその直後火が消えるようにして死んだのだった。
一銃「伊之助の不幸」
なかなか酷い出来ですね。最近はホントこんなんしか思い浮かばないんだよなぁ。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、18世紀のイギリスに生きた、ジョン・ハンターという解剖学者の生涯を描いたノンフィクションです。このジョン・ハンターは、「ドリトル先生」や「ジキル博士とハイド氏」のモデルになった人物であると言われていて、帯の文句をそのまま写せば、
『奇人まみれの英国でも群を抜いた奇人!』
ということになるようです。
僕はこの前情報を読んで、こんな印象を抱きました。解剖医としては飛び切りの腕を持つのだけど死体にしか興味がなく、腕はいいんだけど周囲からは気味悪がられて変人扱いされている、というようなイメージです。どうでしょう、この帯の文句と、「ジキル博士とハイド氏」のモデルになったというところから、なんとなくそんなイメージを持ちませんか?
でも実際は全然違いました。このジョン・ハンターという解剖医は、まさに近代医療の基礎を作ったと言っても過言ではない男で、解剖医としてだけではなく外科医や生物学者としても一流で、また周囲の人間にはかなり慕われていて、世間的な地位もメチャクチャ高かったようです。僕のイメージとは全然違った、全然奇人じゃないがな、と思いましたが、内容は非常に面白かったですね。
ジョン・ハンターは子どもの頃は出来損ないだったのだけど、医者として活躍し、解剖学教室を開いた兄ウィリアムに誘われて彼の助手になったことが人生の転機になりました。初心者とは思えないメス捌きで完璧な解剖をして見せたジョンは、死体の調達という闇の部分も含めて、ウィリアムの助手として大いに腕を振るいました。ジョンの解剖は完璧で、技術が高かったこともあるのだけど、それ以上に観察したことしか信じない、という主義を明確に持っていたことが、後々彼を名声に導くことになります。ジョンはかなり多くの発見をすることになりますが、そのほとんどの功績はウィリアムに奪われてしまいました。
それからジョンは、外科医になります。たった200年前の話ですが、当時の医療というのは恐ろしいぐらいお粗末なもので、科学的とは言いがたい様々な治療が行われていました。蟹の目が薬であるとして処方されたり、病気は体内の体液のバランスの問題である、という古来からの学説を鵜呑みにし、まったく効果のない瀉血(血を抜くこと)を繰り返したりと言った有り様でした。免許を持った医者であろうがいかさま師であろうが与える治療に大差はなく、根拠のない迷信を信じて民間医療が大流行するようなそんな時代でした。
そんな医学界にあってジョンは、これまでのやり方というのを一切信じませんでした。彼は動物実験から始め、その後人体でも様々な実験をするようになり(自分を被験者にすることもあった)、その観察と記録によってより効果的な治療法を様々開発してきたわけです。冒頭で、膝の裏に動脈瘤が出来てしまった御者の話があるんですけど、当時この動脈瘤の手術は、足を切るというものしかありませんでした(もちろん麻酔はありません)。この動脈瘤は放って置くと死に至るようなものだったので、結局足を切るという選択をするしかなかったわけです。
しかしジョンは、足を切らなくても動脈瘤を取ることの出来る手術を生み出します。もちろん一発で見つけることが出来たわけではないですが、推論と実験と観察によって、効果的な治療法を生み出しました。
しかし当時の医学界では、こんなジョンのやり方は異端であるとされました。たまたまうまくいったのだ、というような嘲笑をされることが多く、彼は生涯多くの同業者と敵対することになりました。当時の医者は、効果があるか分からない治療や手術をしてお金を稼いでいたわけですが、しかしジョンは、なるべく治療も手術もしない、という自然治癒力に任せた医療というのを既に提案していました。もちろんこれも、当時の医学界では受け入れられないわけですが。
しかし一方で、民衆の間でのジョンの評価はどんどんと高まっていきます。ジョンに治療や手術をして欲しいとやってくる患者、またジョンの解剖学の講義を聞きたいとやってくる医者の卵などが列をなし、ジョンの名声は否が応でも高まっていきました。
そんなジョンですが、唯一趣味だったのが標本蒐集です。もちろん実益を兼ねた趣味ですが、最終的に彼は博物館まで作ってしまうほどの標本をたった一人で集めてしまいます。珍しい動物や人間の臓器などはもちろん、奇形の動物や珍しい症例の病気など様々な生物学的に有益な標本を集めた博物館であり、また、当時まだ神が世界を創り、すべての生き物は現在の形のまま生み出されたと信じられていた時に、進化論のさきがけのような主張をし、また人類の祖先は黒人だったという驚くべき意見を口にして周囲を驚かせました。
そんな、現代医学の父と言っても言いすぎではないだろうジョン・ハンターという男の、情熱に満ちた生涯を描いた作品です。
なかなか面白いノンフィクションで満足しました。当時の医療のお粗末さと、そんな環境の中で提示したジョンの画期的な治療法の数々の対比が素晴らしいと思ったし、医学の向上のためにまさに自分の人生を捧げたその生き方は賞賛に値する、と思いました。一日19時間仕事をしたそうで、それは晩年でも変わらなかったそうです。もう尋常ではないですね。また、後年は様々なところからお金が入ってきて収入的にはかなり裕福だったはずなのに、そのお金のほとんどを標本集めのために使ってしまったというのもすごいものだな、と思いました。彼は、いいところのお嬢さんと結婚したんですけど、よく結婚生活が続いたものだよなぁ、と思いました。
本作を読んで驚いたのが、解剖のための死体をいかに集めるか、という部分です。基本的には墓泥棒に頼んで持ってきてもらうわけなんだけど、時には死刑囚の死体を手に入れることもあります。
しかしこの死刑囚の死体を手に入れる話、現代人の感覚からするともう無茶苦茶なんですね。
当時死刑は公開されていたようで、周囲には死刑囚の家族や観客が大勢いるわけです。その中にもちろん解剖学者や解剖学者に雇われた人間もいるわけなんですけど、ここでちょっとしたバトルが起きるわけです。
死刑が執行された直後、解剖学者と死刑囚の家族は我先にと死体の元に走ります。解剖学者は、死者を安静に眠らせてあげたいと考える家族の手から力ずくで死体を奪うわけです。そんなんアリかよ、とか思いますけど、実際にそうやって死体集めが行われていたようですね。凄まじい光景だろうなと思います。
帯では「奇人」と紹介されていますが、読んでみるとかなり素晴らしい人物であることが分かると思います。信念を持って医学の向上に努めその生涯のすべてを捧げた男の生涯をドラマティックに描いています。なかなか面白い作品だと思います。是非読んでみてください。
ウェンディ・ムーア「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」
ファストフードが世界を食いつくす(エリック・シュローサー)
科学技術の進歩は著しく、それは食品の世界においても同じことである。
アメリカのニューハンプシャー州で、「ロストビーフ」というファストフード店がオープンした。この店は開店するや大繁盛し、またたくまにアメリカ全土にチェーン展開することになった。
その秘密は、値段の異常な安さにあった。
ロストビーフのハンバーガーは、なんと一つ10セント、日本円にしておよそ10円程度という破格の値段だったのだ。この値段設定に子ども達が飛びついた。有名なハンバーガーチェーンのどこよりも安い。それにそこそこ美味しい。ファストフードをこよなく愛するアメリカの子ども達は、すぐさまロストビーフへと乗り換えた。
しかし、もちろん大人は不信感を抱く。どんな風にすれば、ハンバーガーをたったの10セントで販売することが出来るのだろうか。恐らく何かが間違っている。しかし彼らも、ロストビーフのハンバーガーは美味しいと感じていた。何が使われているのか分からない不安は確かにある。しかし安くて美味しいものを食べられるなら問題ないと、彼らも目をつぶってしまったのだった。
この驚異のハンバーガーを実現したのは、ドイツの科学者が開発したある食品にある。
それは、科学者の間では「食用粘土」と呼ばれるものであった。
ドイツの科学者グループは、粘土から食肉に近い食感と味をを生み出すことに成功したのだ。これに香料を加えることで、食肉とほぼ変わらない製品を作り出すことが出来るようになった。もちろん、ロストビーフ社はこの事実を巧みに隠している。ダミーの食肉工場を持っているし、偽りの報告書をいくつも書いてこれをごまかしている。消費者は、食肉と食用粘土の違いなど分かるわけがない。むしろ、細菌に汚染される心配が皆無なのでより安全であるとさえ言えるかもしれない。また、脂肪分も含まれていないので、肥満問題を解消することも出来るかもしれない。しかしもちろんロストビーフ社は、自分達が粘土を食わされていると知って喜ぶ消費者がいないということは分かっている。徹底的に隠すつもりだ。
ロストビーフ社は、第二のアイデアも持っている。それは、食用プラスティックからフライドポテトを作る計画で、既に実現に向けて動き出しているという。
一銃「ロストビーフ」
ショートショートがまったく思い浮かびませんですねぇ。困った。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、世界に急速に広がっていった、マクドナルドやケンタッキーフライドチキンなどのいわゆるファストフード業界を調べ、その業界が生み出す悪循環について警鐘を鳴らしている本です。
著者は、マクドナルドなどの最終小売店についてだけではなく、ファストフード業界に肉やポテトを卸す業界や、安全基準を満たさない肉を出し続ける精肉業界と、その業界と癒着し続ける代議士達、あるいは大手ファストフード企業が展開するコマーシャルまで、ファストフード業界を取り巻く様々な状況を取材し、それらについて書いています。
本作を読むと、ファストフード業界の卑劣なやり方が浮き彫りになってきます。小売店ではティーンエイジャーを雇い酷使する。残業代を払わないようにするため、多くのスタッフを雇い、それぞれのスタッフの週労働時間が30時間以内になるように調整する。政府に圧力を掛けて、ティーンエイジャーの最低賃金を上げないように働きかける。強盗などに狙われる可能性が高い状況を放置している。なんとしてでも労働組合を作らせないように働きかけ、どうしてもその動きを止められなそうな時には無理矢理店を閉店に追い込むこともする。
ファストフード業界の宣伝もなかなかあくどい。彼らは、学校内部に広告を出す、という手法を確立した。多くの場合、子どもから搾取しているという批判を受けるが、しかし彼らは子どもを標的にするのが売上を伸ばすのに最も手っ取り早いということを知っている。
精肉加工工場での現状もなかなか酷いものだ。とにかく生産性を上げるために、ものすごいスピードでの処理を要求される。そのため、事故が多発する。腕や指を欠損するなど日常茶飯事で、死亡事故だって頻発する。しかし、よほどのことがない限り、現場監督は怪我人を病院にはいかせない。事故率が自身の査定に響く給与体系になっているからだ。散々言いくるめて酷使するだけ酷使し、もう使えないと分かったら捨てる。事故の記録もごまかし、外部からの監査を欺いている。
農業従事者も悲惨な目に遭っている。現在食品業界というのは、一部の超大手企業のほぼ寡占という状況になっており、そのため値段を不当に引き下げられている。農業従事者は現在、超大手企業の傘下となるか、あるいは土地を手放すかのどちらかの選択を強いられることになっている。
衛生基準も酷いものである。精肉業界は政府と癒着し、細菌に感染している精肉であっても、うまくごまかして回収しないことも多い。そもそも法律上、政府は精肉業界に対して回収を強制することが出来ない仕組みになっているのだ。安全対策を実施しようという試みも何度もされようとしたが、その度に大手各社が反発し実行に移されることはなかった。現在でもアメリカの精肉の安全性は著しく低く、毎年病原菌の感染により多くの人が死んでいる。
そんな、ありとあらゆる産業の構造を変えてしまったファストフード業界の影響力と現状について書かれている作品です。
本作は、どうも僕にはあんまりな作品でした。僕が思うに、本作は構成があんまりよくないんだと思うんです。僕は編集者ではないので、どこをどうしたらよくなるのかという提案は出来ないんですけど、でも読んでて何だか分かりづらいんです。
各章毎にいろんなテーマで話を進めていくんだけど、それぞれの章で結局何を問題としているのかがイマイチ見えてこないような気がするんですね。僕の理解力の問題かもしれないけど、一つのテーマに対して周辺的なことを書きすぎているということ、そして革新となる事柄を章の前半に配置していないことがわかりづらさの原因ではないか、と思うんですけどどうでしょうか。
一方で評価できるなと思うのは、具体例がかなり詳細に載っているということです。精肉加工工場における事故や、小売店での犯罪などいろんな点で、著者は被害者などの実名を出してその被害を詳細に書いています。これは綿密な取材をしないと書けないことだと思うので、その点はかなり評価できるのではないかな、という風に思いました。実際、多くの名前のある個人がファストフード業界の犠牲者であるということが分かる内容で、悪くないと思いました。
本作はある意味で、現在結構議論されている格差社会的な問題に警鐘を鳴らしている作品でもあるのだと思います。アメリカと日本では状況に違いはあるでしょうが、似たような構造的な問題を抱えているのではないかな、という気がします。まあ僕も、週一でマクドナルドに行きますし、これからもその習慣が変わることはないでしょうけど、でもやっぱり、これだけあくどい企業ってのはいかんよなぁ、って思いながら食べると思います。結局食べるのかよ、って感じですけどね。
追記)amazonでのカスタマーレビューでは、非常に評価が高いです。
エリック・シュローサー「ファストフードが世界を食いつくす」
アメリカのニューハンプシャー州で、「ロストビーフ」というファストフード店がオープンした。この店は開店するや大繁盛し、またたくまにアメリカ全土にチェーン展開することになった。
その秘密は、値段の異常な安さにあった。
ロストビーフのハンバーガーは、なんと一つ10セント、日本円にしておよそ10円程度という破格の値段だったのだ。この値段設定に子ども達が飛びついた。有名なハンバーガーチェーンのどこよりも安い。それにそこそこ美味しい。ファストフードをこよなく愛するアメリカの子ども達は、すぐさまロストビーフへと乗り換えた。
しかし、もちろん大人は不信感を抱く。どんな風にすれば、ハンバーガーをたったの10セントで販売することが出来るのだろうか。恐らく何かが間違っている。しかし彼らも、ロストビーフのハンバーガーは美味しいと感じていた。何が使われているのか分からない不安は確かにある。しかし安くて美味しいものを食べられるなら問題ないと、彼らも目をつぶってしまったのだった。
この驚異のハンバーガーを実現したのは、ドイツの科学者が開発したある食品にある。
それは、科学者の間では「食用粘土」と呼ばれるものであった。
ドイツの科学者グループは、粘土から食肉に近い食感と味をを生み出すことに成功したのだ。これに香料を加えることで、食肉とほぼ変わらない製品を作り出すことが出来るようになった。もちろん、ロストビーフ社はこの事実を巧みに隠している。ダミーの食肉工場を持っているし、偽りの報告書をいくつも書いてこれをごまかしている。消費者は、食肉と食用粘土の違いなど分かるわけがない。むしろ、細菌に汚染される心配が皆無なのでより安全であるとさえ言えるかもしれない。また、脂肪分も含まれていないので、肥満問題を解消することも出来るかもしれない。しかしもちろんロストビーフ社は、自分達が粘土を食わされていると知って喜ぶ消費者がいないということは分かっている。徹底的に隠すつもりだ。
ロストビーフ社は、第二のアイデアも持っている。それは、食用プラスティックからフライドポテトを作る計画で、既に実現に向けて動き出しているという。
一銃「ロストビーフ」
ショートショートがまったく思い浮かびませんですねぇ。困った。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、世界に急速に広がっていった、マクドナルドやケンタッキーフライドチキンなどのいわゆるファストフード業界を調べ、その業界が生み出す悪循環について警鐘を鳴らしている本です。
著者は、マクドナルドなどの最終小売店についてだけではなく、ファストフード業界に肉やポテトを卸す業界や、安全基準を満たさない肉を出し続ける精肉業界と、その業界と癒着し続ける代議士達、あるいは大手ファストフード企業が展開するコマーシャルまで、ファストフード業界を取り巻く様々な状況を取材し、それらについて書いています。
本作を読むと、ファストフード業界の卑劣なやり方が浮き彫りになってきます。小売店ではティーンエイジャーを雇い酷使する。残業代を払わないようにするため、多くのスタッフを雇い、それぞれのスタッフの週労働時間が30時間以内になるように調整する。政府に圧力を掛けて、ティーンエイジャーの最低賃金を上げないように働きかける。強盗などに狙われる可能性が高い状況を放置している。なんとしてでも労働組合を作らせないように働きかけ、どうしてもその動きを止められなそうな時には無理矢理店を閉店に追い込むこともする。
ファストフード業界の宣伝もなかなかあくどい。彼らは、学校内部に広告を出す、という手法を確立した。多くの場合、子どもから搾取しているという批判を受けるが、しかし彼らは子どもを標的にするのが売上を伸ばすのに最も手っ取り早いということを知っている。
精肉加工工場での現状もなかなか酷いものだ。とにかく生産性を上げるために、ものすごいスピードでの処理を要求される。そのため、事故が多発する。腕や指を欠損するなど日常茶飯事で、死亡事故だって頻発する。しかし、よほどのことがない限り、現場監督は怪我人を病院にはいかせない。事故率が自身の査定に響く給与体系になっているからだ。散々言いくるめて酷使するだけ酷使し、もう使えないと分かったら捨てる。事故の記録もごまかし、外部からの監査を欺いている。
農業従事者も悲惨な目に遭っている。現在食品業界というのは、一部の超大手企業のほぼ寡占という状況になっており、そのため値段を不当に引き下げられている。農業従事者は現在、超大手企業の傘下となるか、あるいは土地を手放すかのどちらかの選択を強いられることになっている。
衛生基準も酷いものである。精肉業界は政府と癒着し、細菌に感染している精肉であっても、うまくごまかして回収しないことも多い。そもそも法律上、政府は精肉業界に対して回収を強制することが出来ない仕組みになっているのだ。安全対策を実施しようという試みも何度もされようとしたが、その度に大手各社が反発し実行に移されることはなかった。現在でもアメリカの精肉の安全性は著しく低く、毎年病原菌の感染により多くの人が死んでいる。
そんな、ありとあらゆる産業の構造を変えてしまったファストフード業界の影響力と現状について書かれている作品です。
本作は、どうも僕にはあんまりな作品でした。僕が思うに、本作は構成があんまりよくないんだと思うんです。僕は編集者ではないので、どこをどうしたらよくなるのかという提案は出来ないんですけど、でも読んでて何だか分かりづらいんです。
各章毎にいろんなテーマで話を進めていくんだけど、それぞれの章で結局何を問題としているのかがイマイチ見えてこないような気がするんですね。僕の理解力の問題かもしれないけど、一つのテーマに対して周辺的なことを書きすぎているということ、そして革新となる事柄を章の前半に配置していないことがわかりづらさの原因ではないか、と思うんですけどどうでしょうか。
一方で評価できるなと思うのは、具体例がかなり詳細に載っているということです。精肉加工工場における事故や、小売店での犯罪などいろんな点で、著者は被害者などの実名を出してその被害を詳細に書いています。これは綿密な取材をしないと書けないことだと思うので、その点はかなり評価できるのではないかな、という風に思いました。実際、多くの名前のある個人がファストフード業界の犠牲者であるということが分かる内容で、悪くないと思いました。
本作はある意味で、現在結構議論されている格差社会的な問題に警鐘を鳴らしている作品でもあるのだと思います。アメリカと日本では状況に違いはあるでしょうが、似たような構造的な問題を抱えているのではないかな、という気がします。まあ僕も、週一でマクドナルドに行きますし、これからもその習慣が変わることはないでしょうけど、でもやっぱり、これだけあくどい企業ってのはいかんよなぁ、って思いながら食べると思います。結局食べるのかよ、って感じですけどね。
追記)amazonでのカスタマーレビューでは、非常に評価が高いです。
エリック・シュローサー「ファストフードが世界を食いつくす」
スカイクロラオフィシャルガイド
クロウはだだっ広い平原に立っている。彼は、時間さえあればいつでもここに来る。そして、周りに人を寄せ付けない、神聖とも言える雰囲気を漂わせながら、長いことそこに立ち続けているのだ。時々何かを期待するように空を見上げる以外、身じろぎもしない。
そして私は、そんなクロウを遠目に見ている。私も、なるべくここに来て、クロウのことを見るようにしている。私は、クロウが何をしたいのか知っている。何故立ち続けているのか知っている。そして、私はクロウを裏切っている。その事実のために、私はクロウにあまり近づくことが出来ないでいる。
私たちは、二つの種に分けることが出来る。それは、空を飛ぶ種と飛べない種である。この世界には、その二種類の人間がいる。
これはすべて、先天的なものに依存する、と言われている。生まれつき、飛べる者は飛べるし、飛べない者は飛べない。もちろん、例外がないとは言わない。生まれつき飛べなかったものが、何かのきっかけで飛べるようになった、という報告は確かに存在する。しかし一方で科学者は、それは先天的な能力が眠っていただけである、と指摘する。すなわちこの飛ぶ能力は、決して後天的に身につけることは出来ない、ということだ。まだその議論に決着がついているわけではないが、私も概ねその意見が正しいのだろう、と思っている。
クロウと私が住んでいる国は、風の国、とも呼ばれている。これには二つの意味があるとされている。
一つは、その名の通り、吹き付ける風が強いことに由来している。一年中、どこかしらから強く数が吹くこの国は、まさに風の国という名が相応しい国である。
そしてもう一つは、飛ぶ人間の出生率が世界中で最も高い、ということに由来する。理由は定かではないが、この国に生まれた人間が飛ぶ能力を持っている割合はかなり高い。一般に、飛ぶ者と飛べない物の割合は五分五分であるといわれている。しかし私たちの国では、その比は8:2ほどにもなる。この異常とも思える飛ぶ能力を持つ者の出生率のために、風の国と称されている。
そんな国であるから、飛ぶ能力を持つ者の力が強い。飛ぶ能力を持たないものが肩身の狭い思いをすることも度々である。国民の8割が飛ぶ能力を持つものであるから、この状況を社会問題だと認識する人間も少ない。飛ぶ能力を持たない者は、この国では生きづらいのだ。
そして、クロウは不幸にも、飛ぶ能力を持たずに生まれてきてしまった一人だった。
クロウは、そんな自分を認めることが出来ないでいる。幼馴染みである私にはそのことは手にとるように分かる。どうして飛ぶ能力を持って生まれなかったのか、両親と喧嘩したという話も聞いたことがある。この国で、飛ぶ能力を持たない者は確かに少数派であるが、その中でもクロウは、切実に飛ぶ能力を求めている男なのである。
だから彼は、こうして平原で佇んでいる。数少ない、後天的に飛ぶ能力を獲得した物の多くが、広い空間で飛びたいと願った時に飛ぶことが出来た、と証言しているのだ。私は正直、そんな証言を信じるのは止めた方がいいと思っている。でも、そんなことクロウには言えない。愛するクロウを絶望させるようなことは、私にはどうしても言えない。それなら、たとえそれが望みのないものであっても、希望を持って生きていく方が幸せなのではないかと思う。
クロウは、当然今日も飛ぶことは出来なかった。そのとぼとぼとした後ろ姿を見るのは辛い。クロウも、私には見られたくないだろうから、声を掛けたりはしない。
かつてクロウに聞かれたことがある。
「お前は飛べない自分のことを悔しいと思ったことはないのか?」
私は、そう口にしたクロウの目を見ることが出来ない。私は真剣に見つめているだろうクロウの視線を巧みに避けながら答える。
「ないわ。クロウだって、飛べなくたってどうってことないのよ。飛べるだけが能力じゃないんだから」
私はそうクロウに言葉を返す。
嘘だった。私はこうやってクロウに嘘をつき続けている。たぶんこれからもずっと。その罪悪感が私を苦しめる。
私は、空を飛ぶことが出来る。8割の方の人間なのだ。ただ、子どもの頃からクロウが空を飛べないことで悩んでいることを知っていた。そして、私は彼のことが好きだった。だから嘘をついた。子どもの時は、些細な嘘だと思った。私も飛べないの。一緒だね。ただクロウに近づきたかっただけだ。仲間だと思ってもらえたら、それでよかったのだ。そのせいで、まさか未来の自分がこんなに苦労するなんて思いもしなかった。
クロウはとぼとぼと歩きながら家を目指す。自転車や車に乗ることも出来るが、それらは飛べない者であるという烙印そのものだった。飛べるものは、移動するのも空を飛ぶからだ。彼は人から飛べない者と思われるのが悔しくて、自転車や車を使うことはないのだった。
クロウが切り立った崖沿いの道を歩いている時だった。突然、地をつんざくような轟音と共に、地面が激しく揺れ出したのだ。
(地震!)
私は咄嗟にクロウの方に目をやった。すると、山側から巨大な岩が転がり落ちてくるのが目に入った。そのまま行けば、クロウが押しつぶされてしまうのは間違いなかった。私が空を飛んでいけば、まだクロウを救うことが出来る。でも、そんなことをすれば、私は永遠にクロウを失うことになるだろう。本当は空を飛べるのに、飛べないと嘘をついて自分のことをあざ笑っていたんだろうと思われるに違いない。でも、このままじゃあクロウは間違いなく死んでしまう。
私は決心した。空を飛び、クロウの元へと向かう。クロウの背中側から回ってクロウを抱き締め、そしてそのまま空へ飛び去って行く。
「お願い!振り向かないで!」
クロウは声で私だと分かったことだろう。そして、私がずっと嘘をつき続けてきたことも悟っただろう。これですべては終わってしまった。私は、クロウを抱き締めたまま、涙を流し続けた。
クロウ、さようなら。
一銃「クロウ、さようなら」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、森博嗣の「スカイクロラ」シリーズを原作として映画化される、押井守監督作品「スカイクロラ」のオフィシャル公式ガイドブックです。
内容としては、メインとなるのは二つの対談でしょうか。森博嗣×京極夏彦と、押井守×よしもとばなな、というものです。その他、森博嗣や押井守と関係のある何人かの人に行ったインタビューや、スカイクロラの設定原画などが載っています。
まあこういう本にありがちではありますが、実際大した内容ではないですね。まあ、よほど森博嗣が好きか、「スカイクロラ」という作品が好きか、押井守作品が好きかという人の一部が買うような本だろうな、と思いました。
本作では、映画で使われる絵が結構載っているんですけど、なかなかすごいですね。僕はそもそもあんまり映画を観ないし、押井守作品も観たことがないので他の何かと比較してものをいうことは出来ませんけど、CGの出来みたいなものがすごいと思いました。普段映画は観ない僕ですが、この「スカイクロラ」は元々観ようかと思っていたわけです。それが本作を読んで、さらに観たいという気になりましたね。
あと、森博嗣の写真をちゃんと見たことがないので、それが見られるという利点もあるでしょうか。名刺交換会とか、行こうと思えば行けるところでやってたこともあったんですけど、結局行かなかったんですよねぇ。出不精はダメですねぇ。
インタビューとかいくつかありますが、一番気になったのは佐伯日菜子という女優へのインタビューです。この女優は、押井守監督作品である「真・女立喰師列伝」に主演した人みたいなんですけど、ちょっとその作品を見てみたいな、と思いました。なんか面白そうですね。
さてオフィシャルガイドは夏にもまた出るようです。よく分かりませんが、この「スカイクロラ」という映画に関してはかなりの宣伝費を使っているイメージがありますねぇ。グッズなんかもかなり充実しているようです。まあ僕としては、映画がヒットして本がバンバン売れてくれればとりあえずオッケーなんですけどね。期待してますよ~、森博嗣×押井守!
中央公論新社編「The Sky Cralers Official Guide "Surface"」
そして私は、そんなクロウを遠目に見ている。私も、なるべくここに来て、クロウのことを見るようにしている。私は、クロウが何をしたいのか知っている。何故立ち続けているのか知っている。そして、私はクロウを裏切っている。その事実のために、私はクロウにあまり近づくことが出来ないでいる。
私たちは、二つの種に分けることが出来る。それは、空を飛ぶ種と飛べない種である。この世界には、その二種類の人間がいる。
これはすべて、先天的なものに依存する、と言われている。生まれつき、飛べる者は飛べるし、飛べない者は飛べない。もちろん、例外がないとは言わない。生まれつき飛べなかったものが、何かのきっかけで飛べるようになった、という報告は確かに存在する。しかし一方で科学者は、それは先天的な能力が眠っていただけである、と指摘する。すなわちこの飛ぶ能力は、決して後天的に身につけることは出来ない、ということだ。まだその議論に決着がついているわけではないが、私も概ねその意見が正しいのだろう、と思っている。
クロウと私が住んでいる国は、風の国、とも呼ばれている。これには二つの意味があるとされている。
一つは、その名の通り、吹き付ける風が強いことに由来している。一年中、どこかしらから強く数が吹くこの国は、まさに風の国という名が相応しい国である。
そしてもう一つは、飛ぶ人間の出生率が世界中で最も高い、ということに由来する。理由は定かではないが、この国に生まれた人間が飛ぶ能力を持っている割合はかなり高い。一般に、飛ぶ者と飛べない物の割合は五分五分であるといわれている。しかし私たちの国では、その比は8:2ほどにもなる。この異常とも思える飛ぶ能力を持つ者の出生率のために、風の国と称されている。
そんな国であるから、飛ぶ能力を持つ者の力が強い。飛ぶ能力を持たないものが肩身の狭い思いをすることも度々である。国民の8割が飛ぶ能力を持つものであるから、この状況を社会問題だと認識する人間も少ない。飛ぶ能力を持たない者は、この国では生きづらいのだ。
そして、クロウは不幸にも、飛ぶ能力を持たずに生まれてきてしまった一人だった。
クロウは、そんな自分を認めることが出来ないでいる。幼馴染みである私にはそのことは手にとるように分かる。どうして飛ぶ能力を持って生まれなかったのか、両親と喧嘩したという話も聞いたことがある。この国で、飛ぶ能力を持たない者は確かに少数派であるが、その中でもクロウは、切実に飛ぶ能力を求めている男なのである。
だから彼は、こうして平原で佇んでいる。数少ない、後天的に飛ぶ能力を獲得した物の多くが、広い空間で飛びたいと願った時に飛ぶことが出来た、と証言しているのだ。私は正直、そんな証言を信じるのは止めた方がいいと思っている。でも、そんなことクロウには言えない。愛するクロウを絶望させるようなことは、私にはどうしても言えない。それなら、たとえそれが望みのないものであっても、希望を持って生きていく方が幸せなのではないかと思う。
クロウは、当然今日も飛ぶことは出来なかった。そのとぼとぼとした後ろ姿を見るのは辛い。クロウも、私には見られたくないだろうから、声を掛けたりはしない。
かつてクロウに聞かれたことがある。
「お前は飛べない自分のことを悔しいと思ったことはないのか?」
私は、そう口にしたクロウの目を見ることが出来ない。私は真剣に見つめているだろうクロウの視線を巧みに避けながら答える。
「ないわ。クロウだって、飛べなくたってどうってことないのよ。飛べるだけが能力じゃないんだから」
私はそうクロウに言葉を返す。
嘘だった。私はこうやってクロウに嘘をつき続けている。たぶんこれからもずっと。その罪悪感が私を苦しめる。
私は、空を飛ぶことが出来る。8割の方の人間なのだ。ただ、子どもの頃からクロウが空を飛べないことで悩んでいることを知っていた。そして、私は彼のことが好きだった。だから嘘をついた。子どもの時は、些細な嘘だと思った。私も飛べないの。一緒だね。ただクロウに近づきたかっただけだ。仲間だと思ってもらえたら、それでよかったのだ。そのせいで、まさか未来の自分がこんなに苦労するなんて思いもしなかった。
クロウはとぼとぼと歩きながら家を目指す。自転車や車に乗ることも出来るが、それらは飛べない者であるという烙印そのものだった。飛べるものは、移動するのも空を飛ぶからだ。彼は人から飛べない者と思われるのが悔しくて、自転車や車を使うことはないのだった。
クロウが切り立った崖沿いの道を歩いている時だった。突然、地をつんざくような轟音と共に、地面が激しく揺れ出したのだ。
(地震!)
私は咄嗟にクロウの方に目をやった。すると、山側から巨大な岩が転がり落ちてくるのが目に入った。そのまま行けば、クロウが押しつぶされてしまうのは間違いなかった。私が空を飛んでいけば、まだクロウを救うことが出来る。でも、そんなことをすれば、私は永遠にクロウを失うことになるだろう。本当は空を飛べるのに、飛べないと嘘をついて自分のことをあざ笑っていたんだろうと思われるに違いない。でも、このままじゃあクロウは間違いなく死んでしまう。
私は決心した。空を飛び、クロウの元へと向かう。クロウの背中側から回ってクロウを抱き締め、そしてそのまま空へ飛び去って行く。
「お願い!振り向かないで!」
クロウは声で私だと分かったことだろう。そして、私がずっと嘘をつき続けてきたことも悟っただろう。これですべては終わってしまった。私は、クロウを抱き締めたまま、涙を流し続けた。
クロウ、さようなら。
一銃「クロウ、さようなら」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、森博嗣の「スカイクロラ」シリーズを原作として映画化される、押井守監督作品「スカイクロラ」のオフィシャル公式ガイドブックです。
内容としては、メインとなるのは二つの対談でしょうか。森博嗣×京極夏彦と、押井守×よしもとばなな、というものです。その他、森博嗣や押井守と関係のある何人かの人に行ったインタビューや、スカイクロラの設定原画などが載っています。
まあこういう本にありがちではありますが、実際大した内容ではないですね。まあ、よほど森博嗣が好きか、「スカイクロラ」という作品が好きか、押井守作品が好きかという人の一部が買うような本だろうな、と思いました。
本作では、映画で使われる絵が結構載っているんですけど、なかなかすごいですね。僕はそもそもあんまり映画を観ないし、押井守作品も観たことがないので他の何かと比較してものをいうことは出来ませんけど、CGの出来みたいなものがすごいと思いました。普段映画は観ない僕ですが、この「スカイクロラ」は元々観ようかと思っていたわけです。それが本作を読んで、さらに観たいという気になりましたね。
あと、森博嗣の写真をちゃんと見たことがないので、それが見られるという利点もあるでしょうか。名刺交換会とか、行こうと思えば行けるところでやってたこともあったんですけど、結局行かなかったんですよねぇ。出不精はダメですねぇ。
インタビューとかいくつかありますが、一番気になったのは佐伯日菜子という女優へのインタビューです。この女優は、押井守監督作品である「真・女立喰師列伝」に主演した人みたいなんですけど、ちょっとその作品を見てみたいな、と思いました。なんか面白そうですね。
さてオフィシャルガイドは夏にもまた出るようです。よく分かりませんが、この「スカイクロラ」という映画に関してはかなりの宣伝費を使っているイメージがありますねぇ。グッズなんかもかなり充実しているようです。まあ僕としては、映画がヒットして本がバンバン売れてくれればとりあえずオッケーなんですけどね。期待してますよ~、森博嗣×押井守!
中央公論新社編「The Sky Cralers Official Guide "Surface"」
MAMA(紅玉いづき)
久しぶりに見つけた。
「君には、私の助けが必要みたいだね」
相手は、私に気づくと、そして私の姿を目にすると、声にならない悲鳴を上げて逃げていった。
(君のこと助けてあげられたのにね)
私は、逃げられることには慣れている。もう傷つくようなことはない。それでも、助けてあげられる誰かを救うことが出来ないことに対して、鋭い痛みを感じる。
(逃げなくてもよかったのにね)
その思いは同時に、かつての自分への姿を呼び覚ますことになる。
私は生まれつき耳の機能に障害を持っていた。赤ん坊の頃は周囲の大人も気づかなかったそうだ。耳の機能というのは確かに、外から見てあまり分かるものでもない。私がちゃんと障害を持っていると分かったのは、4歳ぐらいのことだったそうだ。
生まれつき耳が聞こえづらいという障害だった。まったく聞こえないというのでもないのだが、水の中での話し声を聞くみたいにくぐもって聞こえた。耳が聞こえないことが不自由だったのかどうか、私にはよくわからなかった。生まれついてからずっとそうだったから、何かと比較することが出来なかったのだ。
幸い両親は、障害を持った子どもでも十分に愛情を注いでくれた。内心はどうだったのかわからない。それでも、ちゃんとした子どもとして育ててくれた両親には感謝をしている。
だから、今の姿は両親には見せることが出来ない。私にとってこの姿は神聖なものだけど、それを両親に理解してもらうのか難しいだろう。
私が心の中で師と呼ぶようになったあの人と出会ったのは、私が18歳になるかならないかという頃だったと思う。
その時の状況を、私はどうしても正確に思い出すことが出来ない。夢だったのではないか、というのは確信を持って否定できるが、しかしそのあまりの頼りなさは夢だと言われても信じてしまいそうになるほどだった。
周りを木に取り囲まれた場所だった、と思う。何故自分がそんな場所にいたのか、そこにどうやって辿り着いたのか、そこで何をしていたのか。私には一向に分からない。風に揺られる木の葉と不愉快に響く葉ずりの音が、辺りを一層不気味に演出していた。
そこで私は、あの人と対面しているのだった。
「俺の姿を見ても逃げないんだね」
あの人は一番初めにそう言った。いや、正確に言うなら、私が覚えているあの人の第一声がそれだったのだ。その言葉は、何故か私の耳に鮮明に届いた。耳の機能が回復したのかとも思ったけどそうでもないようだった。あの人の声だけが、私の耳に馴染むのだ。
あの人は、確かに恐ろしい姿をしていた。右足と左手がなく、また体中に手術跡のような傷があった。そして何よりも不気味だったのが顔だった。目と鼻がなく、歯もほとんど存在していなかった。頭髪もなく、その頭蓋には痛ましいほどの傷がついていたのだった。
それでも、怖いとは思わなかった。あの人の声がそうさせたのかもしれない。不思議と、私の心は平静だった。
「怖くはないわ。私も不思議だけれど」
あの人は笑ったようだった。口の動きだけではそうと断言することは難しいけど、確かに笑ったように私には見えた。
「君のことを助けてあげるよ」
あの人はそう言うと、自分の両耳を引きちぎった。両手に耳を持ったまま、私の方に近づいてくる。
「君は耳が聞こえないんだろう。僕の耳をあげるよ」
そう言うとあの人は、私の耳を引きちぎり、代わりに自分の耳をつけた。その瞬間、まるで何かのスイッチを入れたかのように、私は音を感じた。まるで嘘みたいだった。世界が音に満ちていることも初めて知った。こんなにも騒がしいだなんて思ってもみなかった。私は完全に耳の機能を取り戻したのだった。
「ありがとう」
私はあの人にそう言った。しかし、どうしてかあの人の声だけもう聞くことが出来なくなっていた。あの人は、何やら口を動かして私に何かを伝えようとしていたけれども、その声は私の耳にはどうしても届かないのだった。
そして次に気づいた時には、私は自分の部屋のベッドに横になっていた。すべては夢なのだろうか、と思った。しかし、私の耳の機能は完璧にだった。あの人から耳をもらったからに違いない。私は両親にこのことを告げた。両親は大いに喜んでくれたのだった。
それから私はずっと、普通の女性として生きてきた。
34歳になった私は、癌を宣告された。突然のことだった。手術でも回復の見込みは薄いと言われ、私はある一つのことを決心した。
夜私は病院を抜け出し、そのまま二度と戻らなかった。
何をすればいいかは分かっていた。自分にその能力があるのかどうか自信はなかったけど、それでも、正しいことをしていれば大丈夫だ、と言い聞かせた。
目の見えない少女を見つけた。私は彼女に近寄って行き、
「君を助けてあげる」
と言った。自分の目を彼女にあげた。彼女は目が見えるようになったようだった。
それから私は、命の続く限り自分の体の一部を人に与え続けている。私の姿はどんどん醜くなっていき、それにつれて私を見て逃げる人も多くなっていった。しかし私はめげることはなかった。私の心の師であるあの人のようになりたい、と願っているのだ。
私は、まだ両耳を残している。この両耳を手放すのは最後にしたい、と思っている。
一銃「あげるわ」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、中編と短編で構成されています。
「MAMA」
海沿いの王国であるガーダルシア。その国には、サルバドールと呼ばれる魔術師集団が国を治めていた。その純血の子どもであるトトは、しかし残念ながら魔術の能力には恵まれなかった。
サルバドールの落ちこぼれ、とさえ言われるトトは、このままではサルバドールを追い出されてしまう、と思った。母親と喧嘩した夜、咄嗟に逃げ込んだ神殿の書庫で、トトは人喰いの魔物であるアベルダインと出会った。
アベルダインは、数百年前からそこに封印されていた。耳だけが欠損しており、それを埋めるために人をおびき寄せる、と言われており、神殿の書庫には近づくなと言われていたのだ。
トトはアベルダインと出会い、そして両耳を失った。その代わりにトトは、アベルダインを使い魔として持つことになり…
「AND」
怪盗であるダミアンは、ガーダルシアにあるサルバドールの宮殿に忍び込んだ。サルバドールの秘宝を盗み出すためだった。そこで手に入れたのは、赤い石の耳飾りだった。
その部屋の主であるティーランに見つかり覚悟を決めたが、しかし彼女はおかしなことを言う。その耳飾りはサルバドールのものではないのです。あなたの手で、元の持ち主に返してはもらえませんか…。
というような話です。
紅玉いづきは、「ミミズクと夜の王」で電撃大賞を受賞しデビュー。その作品でかなり多方面で評価された作家で、本作は二作目に当たる作品です。
正直に言うと、期待外れだったな、という感じです。
「MAMA」も「AND」も、あんまり面白くはなかったですね。「ミミスク~」はかなり泣かせる話でしたが、本作はあんまりこれと言って褒めるところがない話でした。
「MAMA」の方はまだ悪くはないかな、という感じはあります。落ちこぼれだったトトが、成り行きで最強の魔術を持つ魔物を使い魔として持つことになる話ですが、トトとアベルダインの歪んだ関係性がまあ読めなくもないかな、という感じでした。
でも「AND」の方はちょっと退屈でしたね。イマイチどんな話だったのかもよくわかりませんでした。
ただ、この作家は筆力はあるな、と思いました。本作はあんまり面白くないと思いましたが、でも著者の作家としての力量は感じられました。ベースとなる部分はちゃんとしている感じがするので、物語とうまく波長が合えばいい作品が書けるような気がします。
紅玉いづきという作家は、有川浩や桜庭一樹みたいに一般小説の方にも行きそうな感じがしますね。まあそう簡単にはいかないかもしれませんが、そんな可能性を秘めた作家ではあると思いました。本作はあんまりオススメ出来ませんが、紅玉いづきという作家はもう少し追いかけてみてもいいかな、と思いました。
紅玉いづき「MAMA」
「君には、私の助けが必要みたいだね」
相手は、私に気づくと、そして私の姿を目にすると、声にならない悲鳴を上げて逃げていった。
(君のこと助けてあげられたのにね)
私は、逃げられることには慣れている。もう傷つくようなことはない。それでも、助けてあげられる誰かを救うことが出来ないことに対して、鋭い痛みを感じる。
(逃げなくてもよかったのにね)
その思いは同時に、かつての自分への姿を呼び覚ますことになる。
私は生まれつき耳の機能に障害を持っていた。赤ん坊の頃は周囲の大人も気づかなかったそうだ。耳の機能というのは確かに、外から見てあまり分かるものでもない。私がちゃんと障害を持っていると分かったのは、4歳ぐらいのことだったそうだ。
生まれつき耳が聞こえづらいという障害だった。まったく聞こえないというのでもないのだが、水の中での話し声を聞くみたいにくぐもって聞こえた。耳が聞こえないことが不自由だったのかどうか、私にはよくわからなかった。生まれついてからずっとそうだったから、何かと比較することが出来なかったのだ。
幸い両親は、障害を持った子どもでも十分に愛情を注いでくれた。内心はどうだったのかわからない。それでも、ちゃんとした子どもとして育ててくれた両親には感謝をしている。
だから、今の姿は両親には見せることが出来ない。私にとってこの姿は神聖なものだけど、それを両親に理解してもらうのか難しいだろう。
私が心の中で師と呼ぶようになったあの人と出会ったのは、私が18歳になるかならないかという頃だったと思う。
その時の状況を、私はどうしても正確に思い出すことが出来ない。夢だったのではないか、というのは確信を持って否定できるが、しかしそのあまりの頼りなさは夢だと言われても信じてしまいそうになるほどだった。
周りを木に取り囲まれた場所だった、と思う。何故自分がそんな場所にいたのか、そこにどうやって辿り着いたのか、そこで何をしていたのか。私には一向に分からない。風に揺られる木の葉と不愉快に響く葉ずりの音が、辺りを一層不気味に演出していた。
そこで私は、あの人と対面しているのだった。
「俺の姿を見ても逃げないんだね」
あの人は一番初めにそう言った。いや、正確に言うなら、私が覚えているあの人の第一声がそれだったのだ。その言葉は、何故か私の耳に鮮明に届いた。耳の機能が回復したのかとも思ったけどそうでもないようだった。あの人の声だけが、私の耳に馴染むのだ。
あの人は、確かに恐ろしい姿をしていた。右足と左手がなく、また体中に手術跡のような傷があった。そして何よりも不気味だったのが顔だった。目と鼻がなく、歯もほとんど存在していなかった。頭髪もなく、その頭蓋には痛ましいほどの傷がついていたのだった。
それでも、怖いとは思わなかった。あの人の声がそうさせたのかもしれない。不思議と、私の心は平静だった。
「怖くはないわ。私も不思議だけれど」
あの人は笑ったようだった。口の動きだけではそうと断言することは難しいけど、確かに笑ったように私には見えた。
「君のことを助けてあげるよ」
あの人はそう言うと、自分の両耳を引きちぎった。両手に耳を持ったまま、私の方に近づいてくる。
「君は耳が聞こえないんだろう。僕の耳をあげるよ」
そう言うとあの人は、私の耳を引きちぎり、代わりに自分の耳をつけた。その瞬間、まるで何かのスイッチを入れたかのように、私は音を感じた。まるで嘘みたいだった。世界が音に満ちていることも初めて知った。こんなにも騒がしいだなんて思ってもみなかった。私は完全に耳の機能を取り戻したのだった。
「ありがとう」
私はあの人にそう言った。しかし、どうしてかあの人の声だけもう聞くことが出来なくなっていた。あの人は、何やら口を動かして私に何かを伝えようとしていたけれども、その声は私の耳にはどうしても届かないのだった。
そして次に気づいた時には、私は自分の部屋のベッドに横になっていた。すべては夢なのだろうか、と思った。しかし、私の耳の機能は完璧にだった。あの人から耳をもらったからに違いない。私は両親にこのことを告げた。両親は大いに喜んでくれたのだった。
それから私はずっと、普通の女性として生きてきた。
34歳になった私は、癌を宣告された。突然のことだった。手術でも回復の見込みは薄いと言われ、私はある一つのことを決心した。
夜私は病院を抜け出し、そのまま二度と戻らなかった。
何をすればいいかは分かっていた。自分にその能力があるのかどうか自信はなかったけど、それでも、正しいことをしていれば大丈夫だ、と言い聞かせた。
目の見えない少女を見つけた。私は彼女に近寄って行き、
「君を助けてあげる」
と言った。自分の目を彼女にあげた。彼女は目が見えるようになったようだった。
それから私は、命の続く限り自分の体の一部を人に与え続けている。私の姿はどんどん醜くなっていき、それにつれて私を見て逃げる人も多くなっていった。しかし私はめげることはなかった。私の心の師であるあの人のようになりたい、と願っているのだ。
私は、まだ両耳を残している。この両耳を手放すのは最後にしたい、と思っている。
一銃「あげるわ」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、中編と短編で構成されています。
「MAMA」
海沿いの王国であるガーダルシア。その国には、サルバドールと呼ばれる魔術師集団が国を治めていた。その純血の子どもであるトトは、しかし残念ながら魔術の能力には恵まれなかった。
サルバドールの落ちこぼれ、とさえ言われるトトは、このままではサルバドールを追い出されてしまう、と思った。母親と喧嘩した夜、咄嗟に逃げ込んだ神殿の書庫で、トトは人喰いの魔物であるアベルダインと出会った。
アベルダインは、数百年前からそこに封印されていた。耳だけが欠損しており、それを埋めるために人をおびき寄せる、と言われており、神殿の書庫には近づくなと言われていたのだ。
トトはアベルダインと出会い、そして両耳を失った。その代わりにトトは、アベルダインを使い魔として持つことになり…
「AND」
怪盗であるダミアンは、ガーダルシアにあるサルバドールの宮殿に忍び込んだ。サルバドールの秘宝を盗み出すためだった。そこで手に入れたのは、赤い石の耳飾りだった。
その部屋の主であるティーランに見つかり覚悟を決めたが、しかし彼女はおかしなことを言う。その耳飾りはサルバドールのものではないのです。あなたの手で、元の持ち主に返してはもらえませんか…。
というような話です。
紅玉いづきは、「ミミズクと夜の王」で電撃大賞を受賞しデビュー。その作品でかなり多方面で評価された作家で、本作は二作目に当たる作品です。
正直に言うと、期待外れだったな、という感じです。
「MAMA」も「AND」も、あんまり面白くはなかったですね。「ミミスク~」はかなり泣かせる話でしたが、本作はあんまりこれと言って褒めるところがない話でした。
「MAMA」の方はまだ悪くはないかな、という感じはあります。落ちこぼれだったトトが、成り行きで最強の魔術を持つ魔物を使い魔として持つことになる話ですが、トトとアベルダインの歪んだ関係性がまあ読めなくもないかな、という感じでした。
でも「AND」の方はちょっと退屈でしたね。イマイチどんな話だったのかもよくわかりませんでした。
ただ、この作家は筆力はあるな、と思いました。本作はあんまり面白くないと思いましたが、でも著者の作家としての力量は感じられました。ベースとなる部分はちゃんとしている感じがするので、物語とうまく波長が合えばいい作品が書けるような気がします。
紅玉いづきという作家は、有川浩や桜庭一樹みたいに一般小説の方にも行きそうな感じがしますね。まあそう簡単にはいかないかもしれませんが、そんな可能性を秘めた作家ではあると思いました。本作はあんまりオススメ出来ませんが、紅玉いづきという作家はもう少し追いかけてみてもいいかな、と思いました。
紅玉いづき「MAMA」
量子力学の解釈問題(コリン・ブルース)
僕はマンションに住んでいる。それは、どの街にでもある、どんな場所にでもある、普通のマンションを思い浮かべていただければいい。階数や部屋番号を特定する必要はないのだが、6階の618号室である。
外廊下の端から端までドアがずらりと並び、当然のことながらその内の一つが僕の部屋のドアとなる。
さて、今僕は自分の部屋のドアの前に立っているわけだ。
もしドアノブを握り、それを手前に引くなら、普段僕が見慣れた部屋がそこに展開されることだろう。入ったところに小さな沓脱ぎがあり、フローリングの廊下が続く。右手にトイレと風呂と洗面台があり、左手に小さなキッチンがある。そして奥に一部屋あるだけのワンルームマンションである。
片付けの出来ていない汚い部屋だ。床にはゴミが散乱し、テレビのリモコンやら敷きっぱなしの布団やらがある。冷蔵庫やパソコンやオーディオやテレビや扇風機やギターや本なんかが部屋中にあって、見た目よりかなり狭く見える。窓に掛かっているカーテンだけが何故か高級そうで、部屋全体から浮いてしまっている。
ドアを開ければ、そんな部屋を目にすることになるのは明白だ。これまでこのドアを何度開いてきたというのだろうか。その度に、僕はまったく同じ部屋を見てきたのだ。そこに、違う部屋が展開しているなどということはもちろんありえない。
しかし、じゃあ、今こうしてドアが閉まっている時、部屋の内部はどうなっているのだろうか。本当に、僕がドアを開けた時に見る部屋の光景と同じ姿であり続けているのだろうか。それとも、僕が見ている部屋の光景は僕が見ている時だけに存在するのであって、僕が見ていない時はまったく別の姿になっていたりするのではないだろうか。
物理の世界には、量子論というかなり変わった分野がある。詳しいことはもちろん僕も知らないけど、その量子論の世界では奇妙な現象が次々に起こるのだという。
その中に、状態の収縮と呼ばれるものがある。
量子論では、例えば電子などの粒子は、位置を正確に確定することが出来ない、としている。それは、確率的にどこにあると主張できるだけである、と。
しかし、もしその粒子を観測した場合、僕らはその粒子が空間上のある一点を占めていることを知る。観測する前は確率的にしか知ることの出来なかった粒子の位置が、観測することによって一点に決まるのである。
これが状態の収縮と言われる。
僕の部屋も、こうではないという根拠はどこにもないのではないか。僕がドアを開ければ、部屋の姿は僕が普段見ている状態に収縮する。しかし、僕が見ていない時は、様々な姿に移り変わっているのではないか。少なくとも、そうではないと否定することは出来ない。何故なら、僕が『見る』ことで状態の収縮が起こるのだから、僕にはいつも見ている姿しか見ることが出来ないはずだ。
でも例えばこう考えたらどうなるだろう。僕の部屋に泥棒が侵入したとする。泥棒が入ったという痕跡を一切残すことなく(つまり何も盗むことも残すこともなく)立ち去ったとしよう。これは要するに、僕が泥棒に入られたと確信出来る根拠はない、即ち泥棒が僕の部屋を『見た』と確信できないということである。
その時、その泥棒は一体どんな部屋の姿を見るのだろうか。状態の収縮は、個人によって差があるのだろうか。もし僕が永遠に気づかない形で誰か別の人が僕の部屋を『見た』時、それが僕が普段見ているのと同じ姿であると確信出来る理由は一つもない。泥棒は僕が普段見ている部屋とはほんの僅か違った部屋、あるいはまったく違ってしまった部屋を見ているかもしれない。
あるいは、こういう風に考えることは出来ないだろうか。
僕の部屋には、僕が見ていない時だけ存在している住人がいるかもしれない、という発想だ。つまり僕らは、こうしてドアを挟んで向き合っているなんていう可能性だってあるかもしれない。
僕が観測するまで部屋の姿が確定ではないのなら、その僕が普段見ている部屋ではない部屋に住む住人を仮定しても一向におかしくはないかもしれない。その住人は、僕の分身と考えることは可能なのだろうか?あるいは僕とはまったく無関係な存在なのだろうか。ただ一つ言えることは、その存在とは永遠に友達になることは出来ないということだ。僕が観測することで状態の収縮が起こり、その結果その存在は消えてしまうのだから。
しかし、ならばこうも考えることが出来る。部屋の向こうに、僕が永遠に接触することの出来ない住人の存在(Aと名付けることにしよう)を仮定するのなら、その住人からしてみれば状態の収縮によって消えるのは僕の方だ。
つまり、Aの視点から見てみよう。Aは僕が部屋を観測していない時だけ僕の部屋に住んでいる。僕が部屋のドアを開けると、Aの視点からではどうなるだろうか。結局、Aの視点からすれば、Aのいる世界は消えることなくそのまま続いて行くのだろう。そうでなければ整合性が取れない。即ち、Aの視点から考えた時に消えるのは僕の方なのだ。
だとすれば、僕の存在というのは一体どうなるのだろうか。僕は、僕の観測できる世界ではきちんと存在している。それだけは間違いない。しかし一方で僕の存在していない世界が無限にあって、当然のことながらその世界に僕は関わることは出来ない。これは一体何を意味するのだろうか。
いずれにしても、僕は部屋に入るためにドアを開けないわけにはいかない。そして開ければそこに見慣れた部屋の姿を確かに見ることになるだろう。重要な問題は、そこに何か不都合があるだろうか、ということで、観測されない世界についてあれこれ考える必要は、日常生活の中ではないのかもしれない。
一銃「量子論的僕の部屋」
最近どうもショートショートを思いつけなくなっています。かなり苦しいですねぇ。半年で止めちゃおうかなぁ、とか思い始めてますが、どうなることやら。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、物理の中でもかなり異常に思える分野である量子力学の、その異常とも思える最たるものの解釈に挑んだ作品です。
量子力学というのは、これがなければ精密機械を作ることは出来ないというほど実用的で信頼の置ける物理の一分野なのですが、同時にそれは、僕らの通常の概念をいとも簡単に打ち破ってしまうほど奇妙な結論や解釈に満ちた分野でもあります。
その中で、本作で扱われているのは、
①量子の非局所性
②状態の収縮
という二つについて、これまでどんな説が唱えられてきたのか、そして著者が最も有力だと考える「多世界解釈」ではどういう風に解釈することが出来るのか、というようなことについて書かれています。
というわけで、この二つについての説明をまずしようと思います。ただ、僕の理解力には限界があるので、僕の分かる範囲での説明ということになります。何か間違いがあったら、すいません。
まず①の量子の非局所性についてです。これまで量子論の世界では、②を説明するために様々なアイデアが出されましたが、しかしそのどれもが①を説明するのに不十分だったわけです。唯一多世界解釈のみが、①も含めて説明可能だという点で、多世界解釈は有力だと言われています。
さてこの量子の非局所性というのは、一対の量子(光子や電子など何でもいいんでしょうけど、ここでは光子で説明します)についての実験によって既に明らかにされているものです。
二つの光子A・Bが正面衝突して、互いに自分が飛んできた方向に跳ね飛ばされる、ということを考えます。さて、充分時間が経った後に、光子Aの偏光という性質を測定することにします。この偏光というのは、垂直や水平など、角度によって表される量なんですけど、光子Aの偏光をある時刻Tに測定したところ、垂直だったとしましょう。
すると奇妙なことに、光子Aの偏光を測定した時間Tの瞬間に、光子Bの偏光も垂直に決定するわけです。例えば時刻Tに光子の偏光が水平だったら、まさにその瞬間に光子Bの偏光も水平になるし、時刻Tに光子Aの偏光が角度θだけずれていれば、その瞬間光子Bの偏光も角度θだけずれていることになるわけです。
これがどう奇妙なのかというと、光子A・Bが光速以上のスピードで情報のやりとりをしているように見えることです。光子Aの偏光が観測されたまさにその瞬間に光子Bの偏光が決定しているとなれば、光子AとBが光速を超える情報の伝達をしていなければ説明がつかなくなります。一般性相対性理論によれば、光速を超えるスピードは存在しないわけで、アインシュタインはこの、光子同士が光速を超えたスピードで情報伝達をしているように見える非局所性を以って、量子力学は間違っている、と主張したわけです。
これが、量子力学の中で解釈の難しい量子の非局所性です。
さてもう一方である②の状態の収縮について説明しましょう。これは上記のショートショートでも少しだけ触れましたが、出来は相変わらず悪いですね。
この状態の収縮については、量子力学がその当初から抱える不思議な現象だったわけです。
この状態の収縮について最も有名な話が、「シュレディンガーの猫」と呼ばれるものですね。
ある一定の時間内にランダムな確率で毒ガスが発生するような仕組みを備えた箱の中に猫を入れます。この仕組みは完全にランダムなので、ある一定時間後に毒ガスが発生している確率は五分五分です。この箱をある一定時間後に開けたとすれば、そこには死んでいる猫か生きている猫のどちらかが観測されることになります。では、箱を開けるまでは箱の中の状態はどうなっているでしょうか。
量子力学的発想では、この箱の中の猫は、生きている状態と死んでいる状態が交じり合った状態にある、とされます(しかし一般に量子力学は電子などのミクロの世界にしか適応出来ないので、猫などのマクロな話ではこれは成立しません。しかしシュレディンガーは、もし量子力学が正しいとすれば最終的にはマクロな世界にも適応できる理論になるべきであり、だとすればこのような猫のパラドックスが生まれてしまうことになる、という主張をしたかったようです)。観測することによって、その交じり合った状態から『状態の収縮』が起こり、観測者にはある一つの結果が示される、というプロセスです。この、観測によって状態が一つに定まるように見える不思議な現象を、『状態の収縮』と呼ぶわけです。
量子力学には他にも様々に奇妙な解釈があるわけですが、この量子の非局所性と状態の収縮は中でもかなり難しい解釈問題であり、特に状態の収縮についてはこれまでも様々な解釈が試みられたわけです。
その中で最も古いのが、コペンハーゲン解釈と呼ばれるものです。これは、観測するまで物事は不確定なのだから、それについて深く考えちゃいかん、というようなものです。つまり状態の収縮なんてものは考えないようにしよう、というようなものです。これは量子力学の誕生初期にかなり流行った考え方だったようです。物理学者の態度としてどうかなと思ったりはしますけど、しかしこの量子力学というのは、現実をうまく説明することは出来るけど感覚的には受け入れがたいという理論だったわけで、こういう思考停止も仕方なかったのかもしれない、と思います。
また、ガイド波理論というのも登場しました。これは、この世に存在する粒子はすべて、ガイド波という波を引き連れている、というものです。粒子はガイド波によって空間を移動するわけですが、このガイド波というのは粒子を運ぶという以外の性質を一切持たず、他の一切と相互作用はしません。そして粒子が観測されると、その粒子はガイド波からたたき出され、その結果状態の収縮が起こる、というものでした。
しかし、ガイド波理論もコペンハーゲン解釈も、結局は①の量子の非局所性を説明することが出来ずにいました。状態の収縮を引き起こす何らかの未発見の物理法則があるのだ、という解釈もあるようですが、それでも①を説明することは困難ではないか、と思われているようです。
そこで登場するのが、現在最も有力ではないかと思われている(少なくとも著者はそう思っている)、「多世界解釈」というものです。これはSFを読んでいる人には馴染み深いだろ「並行世界」を基本的には同じ発想で、つまりこの世の中には、自分が住んでいるのとは別の世界が並行してたくさん存在するのだ、という解釈です。物理学者が提唱するような理屈ではないように思われるかもしれませんが、しかしこれが最も有力なわけです。
ではまずこれによって、②の状態の収縮がどう説明されるのかを書きましょう。
多世界解釈によれば、状態の収縮は起こらないことになります。相互反応によっていくつかの「持続的なパターン」が生まれ、それぞれが「一貫した歴史」を持つ、と説明されるわけです。要するに、ありえる可能性すべてが実際に並行世界として存在し、僕らはその一つを見ているにすぎない、という解釈です。この解釈により、状態の収縮という不気味な発想は不要になるわけです。
では、多世界解釈によって、①の量子の非局所性はどのように解釈されるのでしょうか。
光子同士が衝突して正反対の方向に飛んで行く、という実験の話を思い出してください。ここで非局所性の不可思議なところは、超光速の情報伝達は不可能なはずなのに、光子Aの偏光を観測したまさにその瞬間に光子Bの偏光も決定されているように見える、ということでした。しかし多世界解釈ではこういう風になります。
光子同士は、相互作用によってエンタングルメントという状態になっています。これは要するに、光子A・Bの偏光が同じである、ということです。光子同士は相互作用(衝突)によって、この偏光が同じであるという情報のみを共有することになります。
さてこの状態で、光子Aの偏光を測定するとどうなるでしょうか。光子Aの偏光が垂直であったら、エンタングルメントしているわけですから、光子Bの偏光ももちろん垂直です。光子Aの偏光が水平だったら、同じく光子Bの偏光も水平なわけです。
多世界解釈のでは、この(光子A:光子B)=(垂直:垂直)と言う状態と、(光子A:光子B)=(水平:水平)という状態が同時に存在する、と解釈するわけです。僕らはその一方の世界を観測しているに過ぎない、と。こう解釈することで、超光速の情報伝達は不要になります。量子の非局所性というのは、観測する前には光子の偏光が決まっていない、という前提の元に生まれる問題です。観測する前に光子の偏光が決まっていなければ、光子Aの偏光を測定したまさにその瞬間に光子Bと情報伝達を行い、その結果光子Bの偏光を決定しなくてはいけないということになるからです。
しかし多世界解釈では、光子の偏光は元から決まっている、とします。ただし、(垂直:垂直)(水平:水平)(角度θ:角度θ)などの状態がすべて同時に存在している、と考えるわけです。光子の偏光は元から決まっているわけなので、超光速の情報伝達は不要です。ただ僕らは、その元から決まっている偏光の組み合わせのどれかを観測しているにすぎない、というわけです。
この辺りの話が、本作でのメインになります。
しかし、ホント難しい本でした。本作は、訳者のあとがきでも触れられていますが、読者の側に量子力学の基本的な知識が備わっている、という前提で話が始まります。もちろんかなり省いているわけではないですけど、やはり読むには量子力学の前提的な知識は持っていないとなかなか厳しいだろうと思います。ただその量子力学の前提となる知識もなかなか難しかったりするので、ハードルの高い分野だよなぁ、といつも思います。ちなみに、僕にしても量子力学については前提となる話さえきちんと分かっているとは言いがたいです。当然のことですけど。
多世界解釈という話も知っていましたが、非局所性と状態の収縮をどのように説明するのか、という点については知らなかったので面白かったです。特に非局所性を多世界解釈で解釈出来るというのは、なかなか目から鱗っていう感じでした。
多世界解釈にもまだ解決すべき点があるようですが、しかしその点についてはもはや難しすぎてイマイチ理解することが出来ませんでした。とにかく量子論というのはなかなか実験の難しい分野で、自然哲学的な思考に進みがちなので、非常に理解が難しくなっていきますね。多世界解釈の問題の一つに、「眠り姫問題」というのがあって、これは非常に面白いと思いました。少しだけ説明します。
あなたは被験者となって科学者の実験に付き合います。科学者はあなたに説明をします。あなたにこれから眠り薬を飲んでもらいます。それから私は、これから100個の数字の書かれたルーレットを回します。ある特定の数字(例えば0)以外の数字が出れば、あなたを起こして実験終了となります。しかし、もし0が出れば、あなたを起こすたびに眠り薬を渡し(この眠り薬は、起きている時の記憶さえ消去してしまうものです)、それを一万回繰り返してからあなたを殺します。
さてあなたは実験前に、この実験は99/100の確率で死ぬことはない、と理解して臨みます(ルーレットの数字は全部で100個であり、その内0が出なければあなたは死ぬことはないのだから)。しかし起こされた回数ベースで考えた場合、あなたが死ぬ確率は10000/10099(実験のありうる総数は、0が出た場合あなたを起こす回数である一万回と、0以外の数字が出た場合あなたを起こす99回の和であり、その内あなたが死ぬのは、0が出たときに起こされる一万回のケースである)であるからほとんど死ぬしかないのではないか、と考えることも出来る。これが多世界解釈においてどう問題なのかはイマイチよく理解できなかったのだけど、発生確率をいかに結びつけるか、というような解釈の部分での問題のようです。
本作はまた、多世界解釈以外のものについてもかなり詳しく描かれます。コペンハーゲン解釈にしてもガイド波理論にしても、またペンローズという天才物理学者の解釈にしても、結構詳しく描かれます。まだ実際にどれが正しいのか分かっていないわけで、他の理論について知ることももちろん有益です。
しかし、先ほども書きましたけど、量子力学というのは実験によって証明するのが非常に難しい分野なんですね。それはペンローズの解釈にしてもそうで、ペンローズは自分の解釈の正しさを証明する実験を日々考えてはいるようですが、しかしどれも現実的には難しいものばかりなんだそうです。多世界解釈にしても、並行世界を利用しているようにしか見えない実験、というのが行われているわけですが、しかしそれだけを取って多世界解釈が正しいということは出来ないようです。ならどういう形でこの論争に終止符が打たれるのか、難しいだろうな、と思いました。
でも、過去にも似たような論争があり、それが実験によって証明されたわけです。マクスウェルは、光は電磁波の一種であると論じましたが、そうなると一つ問題が起こることになります。波というのは伝播するための物質を必要とするわけで、では真空であるはずの宇宙空間を光が伝播できるのは何故だろう、というものです。
当時、エーテルという物質が考えられました。宇宙にはエーテルという物質が満たされていて、これが光を伝播させるのである、と。しかしこれは、後にノーベル賞を受賞することになる(確かそうだったはず)実験によって、エーテルの不在が証明されました。その後アインシュタインが相対性理論を発表し、それにより光が伝播のために物質を必要とせず空間を移動することが示されたのでした。
恐らく長い年月が経ってから今の論争を見返せば、エーテル論争のように見えるのだろうな、と思います。僕らは宇宙空間にエーテルなんてないことを知っているからこそ、当時のエーテル論争が奇妙に思えますけど、後世僕らも同じように見られるんだろうな、と思います。何らかの形でこの解釈問題に終止符が打たれたら、かつてこんな論争があったんだよ、という風に科学史に書かれることになるでしょうね。
まあそんなわけで、未だに決着のついていない量子力学の解釈問題について、決して分かりやすくはないけど魅力溢れる形で描いている作品だと思います。実際結構難しいですけど、量子力学に興味のある人は読んでみたら面白いと思います。
コリン・ブルース「量子力学の解釈問題」
外廊下の端から端までドアがずらりと並び、当然のことながらその内の一つが僕の部屋のドアとなる。
さて、今僕は自分の部屋のドアの前に立っているわけだ。
もしドアノブを握り、それを手前に引くなら、普段僕が見慣れた部屋がそこに展開されることだろう。入ったところに小さな沓脱ぎがあり、フローリングの廊下が続く。右手にトイレと風呂と洗面台があり、左手に小さなキッチンがある。そして奥に一部屋あるだけのワンルームマンションである。
片付けの出来ていない汚い部屋だ。床にはゴミが散乱し、テレビのリモコンやら敷きっぱなしの布団やらがある。冷蔵庫やパソコンやオーディオやテレビや扇風機やギターや本なんかが部屋中にあって、見た目よりかなり狭く見える。窓に掛かっているカーテンだけが何故か高級そうで、部屋全体から浮いてしまっている。
ドアを開ければ、そんな部屋を目にすることになるのは明白だ。これまでこのドアを何度開いてきたというのだろうか。その度に、僕はまったく同じ部屋を見てきたのだ。そこに、違う部屋が展開しているなどということはもちろんありえない。
しかし、じゃあ、今こうしてドアが閉まっている時、部屋の内部はどうなっているのだろうか。本当に、僕がドアを開けた時に見る部屋の光景と同じ姿であり続けているのだろうか。それとも、僕が見ている部屋の光景は僕が見ている時だけに存在するのであって、僕が見ていない時はまったく別の姿になっていたりするのではないだろうか。
物理の世界には、量子論というかなり変わった分野がある。詳しいことはもちろん僕も知らないけど、その量子論の世界では奇妙な現象が次々に起こるのだという。
その中に、状態の収縮と呼ばれるものがある。
量子論では、例えば電子などの粒子は、位置を正確に確定することが出来ない、としている。それは、確率的にどこにあると主張できるだけである、と。
しかし、もしその粒子を観測した場合、僕らはその粒子が空間上のある一点を占めていることを知る。観測する前は確率的にしか知ることの出来なかった粒子の位置が、観測することによって一点に決まるのである。
これが状態の収縮と言われる。
僕の部屋も、こうではないという根拠はどこにもないのではないか。僕がドアを開ければ、部屋の姿は僕が普段見ている状態に収縮する。しかし、僕が見ていない時は、様々な姿に移り変わっているのではないか。少なくとも、そうではないと否定することは出来ない。何故なら、僕が『見る』ことで状態の収縮が起こるのだから、僕にはいつも見ている姿しか見ることが出来ないはずだ。
でも例えばこう考えたらどうなるだろう。僕の部屋に泥棒が侵入したとする。泥棒が入ったという痕跡を一切残すことなく(つまり何も盗むことも残すこともなく)立ち去ったとしよう。これは要するに、僕が泥棒に入られたと確信出来る根拠はない、即ち泥棒が僕の部屋を『見た』と確信できないということである。
その時、その泥棒は一体どんな部屋の姿を見るのだろうか。状態の収縮は、個人によって差があるのだろうか。もし僕が永遠に気づかない形で誰か別の人が僕の部屋を『見た』時、それが僕が普段見ているのと同じ姿であると確信出来る理由は一つもない。泥棒は僕が普段見ている部屋とはほんの僅か違った部屋、あるいはまったく違ってしまった部屋を見ているかもしれない。
あるいは、こういう風に考えることは出来ないだろうか。
僕の部屋には、僕が見ていない時だけ存在している住人がいるかもしれない、という発想だ。つまり僕らは、こうしてドアを挟んで向き合っているなんていう可能性だってあるかもしれない。
僕が観測するまで部屋の姿が確定ではないのなら、その僕が普段見ている部屋ではない部屋に住む住人を仮定しても一向におかしくはないかもしれない。その住人は、僕の分身と考えることは可能なのだろうか?あるいは僕とはまったく無関係な存在なのだろうか。ただ一つ言えることは、その存在とは永遠に友達になることは出来ないということだ。僕が観測することで状態の収縮が起こり、その結果その存在は消えてしまうのだから。
しかし、ならばこうも考えることが出来る。部屋の向こうに、僕が永遠に接触することの出来ない住人の存在(Aと名付けることにしよう)を仮定するのなら、その住人からしてみれば状態の収縮によって消えるのは僕の方だ。
つまり、Aの視点から見てみよう。Aは僕が部屋を観測していない時だけ僕の部屋に住んでいる。僕が部屋のドアを開けると、Aの視点からではどうなるだろうか。結局、Aの視点からすれば、Aのいる世界は消えることなくそのまま続いて行くのだろう。そうでなければ整合性が取れない。即ち、Aの視点から考えた時に消えるのは僕の方なのだ。
だとすれば、僕の存在というのは一体どうなるのだろうか。僕は、僕の観測できる世界ではきちんと存在している。それだけは間違いない。しかし一方で僕の存在していない世界が無限にあって、当然のことながらその世界に僕は関わることは出来ない。これは一体何を意味するのだろうか。
いずれにしても、僕は部屋に入るためにドアを開けないわけにはいかない。そして開ければそこに見慣れた部屋の姿を確かに見ることになるだろう。重要な問題は、そこに何か不都合があるだろうか、ということで、観測されない世界についてあれこれ考える必要は、日常生活の中ではないのかもしれない。
一銃「量子論的僕の部屋」
最近どうもショートショートを思いつけなくなっています。かなり苦しいですねぇ。半年で止めちゃおうかなぁ、とか思い始めてますが、どうなることやら。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、物理の中でもかなり異常に思える分野である量子力学の、その異常とも思える最たるものの解釈に挑んだ作品です。
量子力学というのは、これがなければ精密機械を作ることは出来ないというほど実用的で信頼の置ける物理の一分野なのですが、同時にそれは、僕らの通常の概念をいとも簡単に打ち破ってしまうほど奇妙な結論や解釈に満ちた分野でもあります。
その中で、本作で扱われているのは、
①量子の非局所性
②状態の収縮
という二つについて、これまでどんな説が唱えられてきたのか、そして著者が最も有力だと考える「多世界解釈」ではどういう風に解釈することが出来るのか、というようなことについて書かれています。
というわけで、この二つについての説明をまずしようと思います。ただ、僕の理解力には限界があるので、僕の分かる範囲での説明ということになります。何か間違いがあったら、すいません。
まず①の量子の非局所性についてです。これまで量子論の世界では、②を説明するために様々なアイデアが出されましたが、しかしそのどれもが①を説明するのに不十分だったわけです。唯一多世界解釈のみが、①も含めて説明可能だという点で、多世界解釈は有力だと言われています。
さてこの量子の非局所性というのは、一対の量子(光子や電子など何でもいいんでしょうけど、ここでは光子で説明します)についての実験によって既に明らかにされているものです。
二つの光子A・Bが正面衝突して、互いに自分が飛んできた方向に跳ね飛ばされる、ということを考えます。さて、充分時間が経った後に、光子Aの偏光という性質を測定することにします。この偏光というのは、垂直や水平など、角度によって表される量なんですけど、光子Aの偏光をある時刻Tに測定したところ、垂直だったとしましょう。
すると奇妙なことに、光子Aの偏光を測定した時間Tの瞬間に、光子Bの偏光も垂直に決定するわけです。例えば時刻Tに光子の偏光が水平だったら、まさにその瞬間に光子Bの偏光も水平になるし、時刻Tに光子Aの偏光が角度θだけずれていれば、その瞬間光子Bの偏光も角度θだけずれていることになるわけです。
これがどう奇妙なのかというと、光子A・Bが光速以上のスピードで情報のやりとりをしているように見えることです。光子Aの偏光が観測されたまさにその瞬間に光子Bの偏光が決定しているとなれば、光子AとBが光速を超える情報の伝達をしていなければ説明がつかなくなります。一般性相対性理論によれば、光速を超えるスピードは存在しないわけで、アインシュタインはこの、光子同士が光速を超えたスピードで情報伝達をしているように見える非局所性を以って、量子力学は間違っている、と主張したわけです。
これが、量子力学の中で解釈の難しい量子の非局所性です。
さてもう一方である②の状態の収縮について説明しましょう。これは上記のショートショートでも少しだけ触れましたが、出来は相変わらず悪いですね。
この状態の収縮については、量子力学がその当初から抱える不思議な現象だったわけです。
この状態の収縮について最も有名な話が、「シュレディンガーの猫」と呼ばれるものですね。
ある一定の時間内にランダムな確率で毒ガスが発生するような仕組みを備えた箱の中に猫を入れます。この仕組みは完全にランダムなので、ある一定時間後に毒ガスが発生している確率は五分五分です。この箱をある一定時間後に開けたとすれば、そこには死んでいる猫か生きている猫のどちらかが観測されることになります。では、箱を開けるまでは箱の中の状態はどうなっているでしょうか。
量子力学的発想では、この箱の中の猫は、生きている状態と死んでいる状態が交じり合った状態にある、とされます(しかし一般に量子力学は電子などのミクロの世界にしか適応出来ないので、猫などのマクロな話ではこれは成立しません。しかしシュレディンガーは、もし量子力学が正しいとすれば最終的にはマクロな世界にも適応できる理論になるべきであり、だとすればこのような猫のパラドックスが生まれてしまうことになる、という主張をしたかったようです)。観測することによって、その交じり合った状態から『状態の収縮』が起こり、観測者にはある一つの結果が示される、というプロセスです。この、観測によって状態が一つに定まるように見える不思議な現象を、『状態の収縮』と呼ぶわけです。
量子力学には他にも様々に奇妙な解釈があるわけですが、この量子の非局所性と状態の収縮は中でもかなり難しい解釈問題であり、特に状態の収縮についてはこれまでも様々な解釈が試みられたわけです。
その中で最も古いのが、コペンハーゲン解釈と呼ばれるものです。これは、観測するまで物事は不確定なのだから、それについて深く考えちゃいかん、というようなものです。つまり状態の収縮なんてものは考えないようにしよう、というようなものです。これは量子力学の誕生初期にかなり流行った考え方だったようです。物理学者の態度としてどうかなと思ったりはしますけど、しかしこの量子力学というのは、現実をうまく説明することは出来るけど感覚的には受け入れがたいという理論だったわけで、こういう思考停止も仕方なかったのかもしれない、と思います。
また、ガイド波理論というのも登場しました。これは、この世に存在する粒子はすべて、ガイド波という波を引き連れている、というものです。粒子はガイド波によって空間を移動するわけですが、このガイド波というのは粒子を運ぶという以外の性質を一切持たず、他の一切と相互作用はしません。そして粒子が観測されると、その粒子はガイド波からたたき出され、その結果状態の収縮が起こる、というものでした。
しかし、ガイド波理論もコペンハーゲン解釈も、結局は①の量子の非局所性を説明することが出来ずにいました。状態の収縮を引き起こす何らかの未発見の物理法則があるのだ、という解釈もあるようですが、それでも①を説明することは困難ではないか、と思われているようです。
そこで登場するのが、現在最も有力ではないかと思われている(少なくとも著者はそう思っている)、「多世界解釈」というものです。これはSFを読んでいる人には馴染み深いだろ「並行世界」を基本的には同じ発想で、つまりこの世の中には、自分が住んでいるのとは別の世界が並行してたくさん存在するのだ、という解釈です。物理学者が提唱するような理屈ではないように思われるかもしれませんが、しかしこれが最も有力なわけです。
ではまずこれによって、②の状態の収縮がどう説明されるのかを書きましょう。
多世界解釈によれば、状態の収縮は起こらないことになります。相互反応によっていくつかの「持続的なパターン」が生まれ、それぞれが「一貫した歴史」を持つ、と説明されるわけです。要するに、ありえる可能性すべてが実際に並行世界として存在し、僕らはその一つを見ているにすぎない、という解釈です。この解釈により、状態の収縮という不気味な発想は不要になるわけです。
では、多世界解釈によって、①の量子の非局所性はどのように解釈されるのでしょうか。
光子同士が衝突して正反対の方向に飛んで行く、という実験の話を思い出してください。ここで非局所性の不可思議なところは、超光速の情報伝達は不可能なはずなのに、光子Aの偏光を観測したまさにその瞬間に光子Bの偏光も決定されているように見える、ということでした。しかし多世界解釈ではこういう風になります。
光子同士は、相互作用によってエンタングルメントという状態になっています。これは要するに、光子A・Bの偏光が同じである、ということです。光子同士は相互作用(衝突)によって、この偏光が同じであるという情報のみを共有することになります。
さてこの状態で、光子Aの偏光を測定するとどうなるでしょうか。光子Aの偏光が垂直であったら、エンタングルメントしているわけですから、光子Bの偏光ももちろん垂直です。光子Aの偏光が水平だったら、同じく光子Bの偏光も水平なわけです。
多世界解釈のでは、この(光子A:光子B)=(垂直:垂直)と言う状態と、(光子A:光子B)=(水平:水平)という状態が同時に存在する、と解釈するわけです。僕らはその一方の世界を観測しているに過ぎない、と。こう解釈することで、超光速の情報伝達は不要になります。量子の非局所性というのは、観測する前には光子の偏光が決まっていない、という前提の元に生まれる問題です。観測する前に光子の偏光が決まっていなければ、光子Aの偏光を測定したまさにその瞬間に光子Bと情報伝達を行い、その結果光子Bの偏光を決定しなくてはいけないということになるからです。
しかし多世界解釈では、光子の偏光は元から決まっている、とします。ただし、(垂直:垂直)(水平:水平)(角度θ:角度θ)などの状態がすべて同時に存在している、と考えるわけです。光子の偏光は元から決まっているわけなので、超光速の情報伝達は不要です。ただ僕らは、その元から決まっている偏光の組み合わせのどれかを観測しているにすぎない、というわけです。
この辺りの話が、本作でのメインになります。
しかし、ホント難しい本でした。本作は、訳者のあとがきでも触れられていますが、読者の側に量子力学の基本的な知識が備わっている、という前提で話が始まります。もちろんかなり省いているわけではないですけど、やはり読むには量子力学の前提的な知識は持っていないとなかなか厳しいだろうと思います。ただその量子力学の前提となる知識もなかなか難しかったりするので、ハードルの高い分野だよなぁ、といつも思います。ちなみに、僕にしても量子力学については前提となる話さえきちんと分かっているとは言いがたいです。当然のことですけど。
多世界解釈という話も知っていましたが、非局所性と状態の収縮をどのように説明するのか、という点については知らなかったので面白かったです。特に非局所性を多世界解釈で解釈出来るというのは、なかなか目から鱗っていう感じでした。
多世界解釈にもまだ解決すべき点があるようですが、しかしその点についてはもはや難しすぎてイマイチ理解することが出来ませんでした。とにかく量子論というのはなかなか実験の難しい分野で、自然哲学的な思考に進みがちなので、非常に理解が難しくなっていきますね。多世界解釈の問題の一つに、「眠り姫問題」というのがあって、これは非常に面白いと思いました。少しだけ説明します。
あなたは被験者となって科学者の実験に付き合います。科学者はあなたに説明をします。あなたにこれから眠り薬を飲んでもらいます。それから私は、これから100個の数字の書かれたルーレットを回します。ある特定の数字(例えば0)以外の数字が出れば、あなたを起こして実験終了となります。しかし、もし0が出れば、あなたを起こすたびに眠り薬を渡し(この眠り薬は、起きている時の記憶さえ消去してしまうものです)、それを一万回繰り返してからあなたを殺します。
さてあなたは実験前に、この実験は99/100の確率で死ぬことはない、と理解して臨みます(ルーレットの数字は全部で100個であり、その内0が出なければあなたは死ぬことはないのだから)。しかし起こされた回数ベースで考えた場合、あなたが死ぬ確率は10000/10099(実験のありうる総数は、0が出た場合あなたを起こす回数である一万回と、0以外の数字が出た場合あなたを起こす99回の和であり、その内あなたが死ぬのは、0が出たときに起こされる一万回のケースである)であるからほとんど死ぬしかないのではないか、と考えることも出来る。これが多世界解釈においてどう問題なのかはイマイチよく理解できなかったのだけど、発生確率をいかに結びつけるか、というような解釈の部分での問題のようです。
本作はまた、多世界解釈以外のものについてもかなり詳しく描かれます。コペンハーゲン解釈にしてもガイド波理論にしても、またペンローズという天才物理学者の解釈にしても、結構詳しく描かれます。まだ実際にどれが正しいのか分かっていないわけで、他の理論について知ることももちろん有益です。
しかし、先ほども書きましたけど、量子力学というのは実験によって証明するのが非常に難しい分野なんですね。それはペンローズの解釈にしてもそうで、ペンローズは自分の解釈の正しさを証明する実験を日々考えてはいるようですが、しかしどれも現実的には難しいものばかりなんだそうです。多世界解釈にしても、並行世界を利用しているようにしか見えない実験、というのが行われているわけですが、しかしそれだけを取って多世界解釈が正しいということは出来ないようです。ならどういう形でこの論争に終止符が打たれるのか、難しいだろうな、と思いました。
でも、過去にも似たような論争があり、それが実験によって証明されたわけです。マクスウェルは、光は電磁波の一種であると論じましたが、そうなると一つ問題が起こることになります。波というのは伝播するための物質を必要とするわけで、では真空であるはずの宇宙空間を光が伝播できるのは何故だろう、というものです。
当時、エーテルという物質が考えられました。宇宙にはエーテルという物質が満たされていて、これが光を伝播させるのである、と。しかしこれは、後にノーベル賞を受賞することになる(確かそうだったはず)実験によって、エーテルの不在が証明されました。その後アインシュタインが相対性理論を発表し、それにより光が伝播のために物質を必要とせず空間を移動することが示されたのでした。
恐らく長い年月が経ってから今の論争を見返せば、エーテル論争のように見えるのだろうな、と思います。僕らは宇宙空間にエーテルなんてないことを知っているからこそ、当時のエーテル論争が奇妙に思えますけど、後世僕らも同じように見られるんだろうな、と思います。何らかの形でこの解釈問題に終止符が打たれたら、かつてこんな論争があったんだよ、という風に科学史に書かれることになるでしょうね。
まあそんなわけで、未だに決着のついていない量子力学の解釈問題について、決して分かりやすくはないけど魅力溢れる形で描いている作品だと思います。実際結構難しいですけど、量子力学に興味のある人は読んでみたら面白いと思います。
コリン・ブルース「量子力学の解釈問題」
のぼうの城(和田竜)
『天神記』によれば、現在東京タワーがある辺りに、天神城と呼ばれる城があった、とされる。この天神城についてはあまりにも資料が乏しいため、実在を疑っている歴史学者も多い。資料が乏しいというのは、数が少ないというのではなく、内容の信憑性に乏しいのである。天神城はこれまで多くの書物に書かれてきたが、しかしそのあまりの突飛な記述に、これは何らかの意図をもって書かれた偽りなのではないか、と言われることが多い。実際、天神城について書かれた書物は偽物だ、とさえ言われていた時期があるほどである。
この天神城、いつからあったのか定かではないが、少なくとも書物に描かれる限り、かつて一度も落城したことのない城のようである。名のある武将がことごとく敗走し、また名のある武将の多くが、天神城だけには手を出すな、と言ったとされている。実際、天神城は攻め入る価値のあるような城でなかったということもあるだろう。天神城という城はただそこにあるだけの城であり、それ以上の価値はまるでなかった。要塞であったわけでも、天下統一の支障になるわけでも、なんでもない。攻め入る者は二度と戻ってこなかったとされているので、天神城に人がいたのかさえ分かっていないほどだ。一時、天神城を落とせば名が上がるとして、この落とす価値のない城に多くの武将が集ったことがあったが、そのあまりの難攻不落ぶりに、次第に禁忌のような扱いをされるようになったと言う。
現在でも歴史学者は、この天神城が一体どんな存在であったのか、あるいはそもそも本当に存在したのか、ある程度まとまった意見さえ提示できないでいる。しかしそれは無理もないのだ。この天神城は、他の多くの城とは一線を画す存在であったのだから。
ここからは、歴史書にも書かれていない、私しか知らない事実も織り込みながら話を進めることとしよう。
天神城が姿を現したのは1542年のことであった。周りに住んでいた人々は、まるで突然城が現れたかのようだった、と証言をしている。城が出来た場所は、それまでは田畑でも何でもない、ただの草むらであったという。
突然現れた天神城の威容に人々は恐れながらも、基本的にはその城を無視するようにして生活を続けた。百姓にとっては城があろうがなかろうがどうでもいいことであるし、武将達にとっても取るに足らない城などに構っているような余裕はまったくなかったのである。
そんな状況を一変させたある事件が起こる。物語の主役は宇部上仲達という男であり、その土地を治める豪農の一人であった。
仲達は近在の住民に、あの城(その当時まだ名前はなかったものと思われる。何故天神城という名になったのかも不明だ)に入ってみよう、と声を掛けたのだ。真実は分からないが、要するに暇だったのだろう。同じく暇つぶしにいいか、と思って多くの人々がその話に乗ったという。出来てからしばらくしても、その中に人がいる気配がまったくしなかったことも、彼らを後押しさせたのであろう。
『天神記』には、この時城を訪れた人間が何人で、城の内部でどんなことがあったのか、ということについて触れられていない。それは当然だ。何しろ、仲達以下、城を訪れたすべての人間が帰ってこなかったのだから。
その噂は諸国に流れた。この間に、どこかで天神城という呼称に決まったものと思われる。人を飲み込む城がある、と伝えられたその噂は、全国各地の武将達を奮い立たせ、この地に赴かせることとなった。
しかし、そのすべての来襲を、天神城はものともしなかった。これについてももちろん詳しい記述が残っているわけでは決してないが、一万の兵が大挙してやってきた時も、そのすべてを飲み込んでしまったのだ、という。さらに天神城の名は諸国に知られるようになり、同時に手を出してはいけない禁忌であるという認識も広まっていったのである。
その天神城は、いつしかその姿を消していた。正確に言えば、1766年のことであった。この時も近くに住むものは、いつの間にか消えていた、と証言をしている。結局人々にとってこの天神城というのは謎の存在のままであったのだ。
一体天神城とは何だったのか。その答えは、恐らく私以外には知る由もなかろう。
天神城は、生物であったのだ。城の姿を借りた生き物である。つまり天神城は、まさにその言葉通りに、人々を飲み込んで食料にしていたのである。そうだとすれば、何故消えたのかの説明も簡単だ。つまり、寿命である。
天神城は、地球での言葉で言えば宇宙人のような存在であった。とある目的のために宇宙から遣わされたのであり、当時最も馴染みやすい形として、城が選ばれたに過ぎない。もしさらに古代に地球に遣わされるとしたら、古墳などが選ばれただろうか。
天神城は、ある目的を果たすべくそこに居座り続け、そして結局目的を達することが出来ずにその天寿を全うした。
では、その目的とは何であったのか。
それは、口にすることが出来ないのである。何故なら、私がその任務を現在負っており、まさに遂行中であるからだ。
私は現在東京タワーに姿を借りている。さしずめ、天神城の二代目と言ったところだろうか。天神城の情報については、歴史の授業で習った。我が星の者なら誰でも知っている話である。
私は、天神城のように野蛮ではない。東京タワーにも日々山ほどの人が押し寄せるが、しかしそれをとって喰おうなどと思うことはない。私の願いは、私に課せられた目的を達成することだけであり、むしろそのためには東京タワーにやってくる人々の存在は都合がいいとも言える。
しかし、私の命もあと僅か。新東京タワーの建設が決まり、私の存在が不必要となるのである。結局私も目的を果たすことは出来なかった。後継である新東京タワーに、今後のことは譲るとしよう。
一銃「天神城」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、天下統一を目指す秀吉の時代の話です。
世は乱世。秀吉が天下統一まであと一歩というところまで迫り、残るは関東を支配する北条家を倒すのみという時であった。
北条家の支城で唯一落ちなかった城がある。武州にある、周囲を湖で囲まれた『忍城』。この忍城が物語の舞台となる。
忍城の城主である氏長は、秀吉が北条家を倒すと知り、投降することを既に決していた。五百の兵で二万の兵と戦って勝てるわけがない。ただ、体面だけは保たなくてはいけない。合戦の準備だけは整え、いざ兵がやってきたらその数に圧倒されて投降した、という風にしなくてはいけない。武闘派でならした家臣たちには不満も多かったが、しかしそうするしか仕方ないということも十分に分かっていた。
そんな緊迫した状況の中で、一人のんびりとした男がいた。城主の嫡男である長親である。彼は百姓からも「のぼう様」と呼ばれるほどの男で、これは「でくのぼう」に様をつけただけの呼称であった。長親は百姓仕事が大好きですぐ手伝おうとするのだが、あまりの不器用さに百姓が閉口することの方が多かった。しかしそののんびりとした性格故、長親は百姓たちから絶大なる信頼を得ていたのだ。
そしてこの長親という男こそが、この忍城を、後世の歴史に残すことになるある決断をするのである…。
というような話です。
さて本作は、最近なかなか話題だったりします。「王様のブランチ」で哲ちゃんも絶賛してたとかなんとか。
さて僕の評価としては、まあまあかな、という感じでした。
そもそも僕は、歴史の知識がほぼゼロなので、この戦国時代がどんな時代だったのかとか、秀吉やら信長やら北条なんとかやらが何をしたのかとか、そういう常識的なことからして知らないわけで、だから結構時代・歴史小説が苦手だったりするわけです。
そんなわけで、まず名前を覚えるのが大変だったし、普通の人なら常識的に知っている(のかもしれない)時代背景とかその当時の情勢なんてのもまったく知らないので、基本的に時代・歴史小説を読む時にはそういうハンデがありますね。だからまあ僕の評価は、それを踏まえた上で読んでもらえればと思います。
本作は、前半と後半で大分雰囲気が変わります。前後半は、戦闘の前後という形で区切ることが出来ます。
前半はもうすこぶるつまらないわけです。要するに、忍城がいかに戦闘に至るかという過程を描いているんですけど、これがまあ面白くないわけです。歴史に興味のある人ならまた評価は別かもしれないけど、僕のように歴史にまったくもって興味のない人間としては、前半はホント退屈でしたね。裏工作をしたり内部の揉め事があったりと、まあ出来事はそれなりにいろいろあるわけなんですけど、どうしてもやっぱり説明的なことが多くなりますね。僕のように歴史の知識がゼロの人間でも読めるように配慮してくれているんだろうし、その点で言えば確かに僕は助かったんですけど、でもやっぱり前半部は小説としては面白くないですね。
でも後半、戦闘が開始されると、俄然面白くなってきます。そもそも五百人で二万人の兵をやっつけようとしてるわけで、当然いろんな策略が必要となるんですけど、それがなかなか面白いわけです。
主に三人の武将に絞って焦点を当て、その戦闘を描いています。その三人というのが、正木丹波守利英(丹波)・酒巻靭負(靭負)・柴崎和泉守(和泉)の三人です。
丹波というのは、戦闘における実質的な大将です。総大将は、「のぼう様」こと長親ですが、長親はもちろん戦闘なんて出来ないので、丹波が大将という感じです。鬼気迫る迫力で鉄砲隊を蹴散らして行きます。
靭負は、これが初戦です。しかし、これまでに様々な兵法を読み漁ってきている策略家であり、この戦いでもその策略を大いに活用して敵を蹴散らします。
和泉はかなり野戦的な男で血の気たっぷりなんだけど、敵方一の鉄砲隊の大軍を相手にしなくてはならなくて苦戦します。しかし、これも策略で相手を一掃してしまいます。
そして何よりもすごいのが、やっぱり長親ですね。
長親は、戦闘はまるっきりダメなくせに、人あしらいがうまくて人々をうまくまとめあげてしまうし、それに石田三成の奥の手の秘策すら打ち破ってしまう、そんな奇策を繰り出します。それは、誰もが予想だにしなかったあっと驚くような奇策で、長親の幼馴染みで彼をずっと見続けてきた丹波でさえも、まさかこれほどの将器があるとは、と感嘆することになります。
この後半はなかなか読みどころがあると思いますね。もちろん僕は時代小説をほとんど読んだことがないので、本作よりももっと面白い戦闘シーンを描く作品がたくさんあるのかもしれないのですけど、まあ僕は他の作品については知らないので、本作の戦闘シーンはなかなかよかったんじゃないかな、と思います。
というわけで、まあ全体的に総合して、まあまあかな、という感じでした。
文体は、非常に司馬遼太郎っぽい感じがしました。僕は司馬遼太郎の作品は「燃えよ剣」しか読んでないんですけど、『資料によれば~』とか、『筆者は○○の墓を探しに~』みたいな感じの司馬遼太郎独特の文章の雰囲気を漂わせる作品でした。
まあそんなわけで、オススメするというほどではないですが、まあ読んで損はないんじゃないかなと思う作品ではあります。
和田竜「のぼうの城」
この天神城、いつからあったのか定かではないが、少なくとも書物に描かれる限り、かつて一度も落城したことのない城のようである。名のある武将がことごとく敗走し、また名のある武将の多くが、天神城だけには手を出すな、と言ったとされている。実際、天神城は攻め入る価値のあるような城でなかったということもあるだろう。天神城という城はただそこにあるだけの城であり、それ以上の価値はまるでなかった。要塞であったわけでも、天下統一の支障になるわけでも、なんでもない。攻め入る者は二度と戻ってこなかったとされているので、天神城に人がいたのかさえ分かっていないほどだ。一時、天神城を落とせば名が上がるとして、この落とす価値のない城に多くの武将が集ったことがあったが、そのあまりの難攻不落ぶりに、次第に禁忌のような扱いをされるようになったと言う。
現在でも歴史学者は、この天神城が一体どんな存在であったのか、あるいはそもそも本当に存在したのか、ある程度まとまった意見さえ提示できないでいる。しかしそれは無理もないのだ。この天神城は、他の多くの城とは一線を画す存在であったのだから。
ここからは、歴史書にも書かれていない、私しか知らない事実も織り込みながら話を進めることとしよう。
天神城が姿を現したのは1542年のことであった。周りに住んでいた人々は、まるで突然城が現れたかのようだった、と証言をしている。城が出来た場所は、それまでは田畑でも何でもない、ただの草むらであったという。
突然現れた天神城の威容に人々は恐れながらも、基本的にはその城を無視するようにして生活を続けた。百姓にとっては城があろうがなかろうがどうでもいいことであるし、武将達にとっても取るに足らない城などに構っているような余裕はまったくなかったのである。
そんな状況を一変させたある事件が起こる。物語の主役は宇部上仲達という男であり、その土地を治める豪農の一人であった。
仲達は近在の住民に、あの城(その当時まだ名前はなかったものと思われる。何故天神城という名になったのかも不明だ)に入ってみよう、と声を掛けたのだ。真実は分からないが、要するに暇だったのだろう。同じく暇つぶしにいいか、と思って多くの人々がその話に乗ったという。出来てからしばらくしても、その中に人がいる気配がまったくしなかったことも、彼らを後押しさせたのであろう。
『天神記』には、この時城を訪れた人間が何人で、城の内部でどんなことがあったのか、ということについて触れられていない。それは当然だ。何しろ、仲達以下、城を訪れたすべての人間が帰ってこなかったのだから。
その噂は諸国に流れた。この間に、どこかで天神城という呼称に決まったものと思われる。人を飲み込む城がある、と伝えられたその噂は、全国各地の武将達を奮い立たせ、この地に赴かせることとなった。
しかし、そのすべての来襲を、天神城はものともしなかった。これについてももちろん詳しい記述が残っているわけでは決してないが、一万の兵が大挙してやってきた時も、そのすべてを飲み込んでしまったのだ、という。さらに天神城の名は諸国に知られるようになり、同時に手を出してはいけない禁忌であるという認識も広まっていったのである。
その天神城は、いつしかその姿を消していた。正確に言えば、1766年のことであった。この時も近くに住むものは、いつの間にか消えていた、と証言をしている。結局人々にとってこの天神城というのは謎の存在のままであったのだ。
一体天神城とは何だったのか。その答えは、恐らく私以外には知る由もなかろう。
天神城は、生物であったのだ。城の姿を借りた生き物である。つまり天神城は、まさにその言葉通りに、人々を飲み込んで食料にしていたのである。そうだとすれば、何故消えたのかの説明も簡単だ。つまり、寿命である。
天神城は、地球での言葉で言えば宇宙人のような存在であった。とある目的のために宇宙から遣わされたのであり、当時最も馴染みやすい形として、城が選ばれたに過ぎない。もしさらに古代に地球に遣わされるとしたら、古墳などが選ばれただろうか。
天神城は、ある目的を果たすべくそこに居座り続け、そして結局目的を達することが出来ずにその天寿を全うした。
では、その目的とは何であったのか。
それは、口にすることが出来ないのである。何故なら、私がその任務を現在負っており、まさに遂行中であるからだ。
私は現在東京タワーに姿を借りている。さしずめ、天神城の二代目と言ったところだろうか。天神城の情報については、歴史の授業で習った。我が星の者なら誰でも知っている話である。
私は、天神城のように野蛮ではない。東京タワーにも日々山ほどの人が押し寄せるが、しかしそれをとって喰おうなどと思うことはない。私の願いは、私に課せられた目的を達成することだけであり、むしろそのためには東京タワーにやってくる人々の存在は都合がいいとも言える。
しかし、私の命もあと僅か。新東京タワーの建設が決まり、私の存在が不必要となるのである。結局私も目的を果たすことは出来なかった。後継である新東京タワーに、今後のことは譲るとしよう。
一銃「天神城」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、天下統一を目指す秀吉の時代の話です。
世は乱世。秀吉が天下統一まであと一歩というところまで迫り、残るは関東を支配する北条家を倒すのみという時であった。
北条家の支城で唯一落ちなかった城がある。武州にある、周囲を湖で囲まれた『忍城』。この忍城が物語の舞台となる。
忍城の城主である氏長は、秀吉が北条家を倒すと知り、投降することを既に決していた。五百の兵で二万の兵と戦って勝てるわけがない。ただ、体面だけは保たなくてはいけない。合戦の準備だけは整え、いざ兵がやってきたらその数に圧倒されて投降した、という風にしなくてはいけない。武闘派でならした家臣たちには不満も多かったが、しかしそうするしか仕方ないということも十分に分かっていた。
そんな緊迫した状況の中で、一人のんびりとした男がいた。城主の嫡男である長親である。彼は百姓からも「のぼう様」と呼ばれるほどの男で、これは「でくのぼう」に様をつけただけの呼称であった。長親は百姓仕事が大好きですぐ手伝おうとするのだが、あまりの不器用さに百姓が閉口することの方が多かった。しかしそののんびりとした性格故、長親は百姓たちから絶大なる信頼を得ていたのだ。
そしてこの長親という男こそが、この忍城を、後世の歴史に残すことになるある決断をするのである…。
というような話です。
さて本作は、最近なかなか話題だったりします。「王様のブランチ」で哲ちゃんも絶賛してたとかなんとか。
さて僕の評価としては、まあまあかな、という感じでした。
そもそも僕は、歴史の知識がほぼゼロなので、この戦国時代がどんな時代だったのかとか、秀吉やら信長やら北条なんとかやらが何をしたのかとか、そういう常識的なことからして知らないわけで、だから結構時代・歴史小説が苦手だったりするわけです。
そんなわけで、まず名前を覚えるのが大変だったし、普通の人なら常識的に知っている(のかもしれない)時代背景とかその当時の情勢なんてのもまったく知らないので、基本的に時代・歴史小説を読む時にはそういうハンデがありますね。だからまあ僕の評価は、それを踏まえた上で読んでもらえればと思います。
本作は、前半と後半で大分雰囲気が変わります。前後半は、戦闘の前後という形で区切ることが出来ます。
前半はもうすこぶるつまらないわけです。要するに、忍城がいかに戦闘に至るかという過程を描いているんですけど、これがまあ面白くないわけです。歴史に興味のある人ならまた評価は別かもしれないけど、僕のように歴史にまったくもって興味のない人間としては、前半はホント退屈でしたね。裏工作をしたり内部の揉め事があったりと、まあ出来事はそれなりにいろいろあるわけなんですけど、どうしてもやっぱり説明的なことが多くなりますね。僕のように歴史の知識がゼロの人間でも読めるように配慮してくれているんだろうし、その点で言えば確かに僕は助かったんですけど、でもやっぱり前半部は小説としては面白くないですね。
でも後半、戦闘が開始されると、俄然面白くなってきます。そもそも五百人で二万人の兵をやっつけようとしてるわけで、当然いろんな策略が必要となるんですけど、それがなかなか面白いわけです。
主に三人の武将に絞って焦点を当て、その戦闘を描いています。その三人というのが、正木丹波守利英(丹波)・酒巻靭負(靭負)・柴崎和泉守(和泉)の三人です。
丹波というのは、戦闘における実質的な大将です。総大将は、「のぼう様」こと長親ですが、長親はもちろん戦闘なんて出来ないので、丹波が大将という感じです。鬼気迫る迫力で鉄砲隊を蹴散らして行きます。
靭負は、これが初戦です。しかし、これまでに様々な兵法を読み漁ってきている策略家であり、この戦いでもその策略を大いに活用して敵を蹴散らします。
和泉はかなり野戦的な男で血の気たっぷりなんだけど、敵方一の鉄砲隊の大軍を相手にしなくてはならなくて苦戦します。しかし、これも策略で相手を一掃してしまいます。
そして何よりもすごいのが、やっぱり長親ですね。
長親は、戦闘はまるっきりダメなくせに、人あしらいがうまくて人々をうまくまとめあげてしまうし、それに石田三成の奥の手の秘策すら打ち破ってしまう、そんな奇策を繰り出します。それは、誰もが予想だにしなかったあっと驚くような奇策で、長親の幼馴染みで彼をずっと見続けてきた丹波でさえも、まさかこれほどの将器があるとは、と感嘆することになります。
この後半はなかなか読みどころがあると思いますね。もちろん僕は時代小説をほとんど読んだことがないので、本作よりももっと面白い戦闘シーンを描く作品がたくさんあるのかもしれないのですけど、まあ僕は他の作品については知らないので、本作の戦闘シーンはなかなかよかったんじゃないかな、と思います。
というわけで、まあ全体的に総合して、まあまあかな、という感じでした。
文体は、非常に司馬遼太郎っぽい感じがしました。僕は司馬遼太郎の作品は「燃えよ剣」しか読んでないんですけど、『資料によれば~』とか、『筆者は○○の墓を探しに~』みたいな感じの司馬遼太郎独特の文章の雰囲気を漂わせる作品でした。
まあそんなわけで、オススメするというほどではないですが、まあ読んで損はないんじゃないかなと思う作品ではあります。
和田竜「のぼうの城」
夏の名残りの薔薇(恩田陸)
始まりは唐突だった。その日は、前日と変わりなく始まったように思えた。特別な予兆も、嫌な予感も、一切ないまま、僕は突然その日の前にやってきたのだった。
会社に行こうと家を出て、駅まで向かう。駅までは10分程度の道のりだ。音楽を聞くでもなく、僕はいつもぼんやりと歩いている。
違和感を感じて視線を上げると、空中に人影があった。道の片側がマンションになっていて、その壁面に沿って女性が落ちているのだ。僕は一歩を踏み出すことが出来なかった。いや、もちろん僕が努力すれば間に合ったというようなことはなかっただろう。どのみちあの女性はそのまま地面に叩きつけられていたに違いない。しかしそれでも、咄嗟の事態に何もすることが出来なかった自分を僕は嫌悪した。
時間にして一呼吸。彼女が地面に落ちてしまってから、ようやく僕の足は動いた。まだ生きているかもしれない。走りながら携帯電話で救急車を呼ぶ。
落ちた女性の下に駆け寄る。僕は、絶望することはないかもしれない、と思った。助かるか助からないか、かなり際どいのではないか、と思った。とにかく救急車が来るまで、女性に声を掛け続けた。あとは何をしていいのかわからなかった。
救急車が来ると、なりゆきで一緒に乗ることになった。救急隊員の人も、なんとか助かるかもしれません、というようなことを言ってくれた。気休めだったのかもしれないけど、若干罪悪感を持っていた僕としては、気休め程度でも安心できた。
病院に着いた時点で、さすがにこれ以上関わるのも変だと思い、立ち去ることにした。会社に連絡を入れ、今日はそのまま現場に向かうことを告げる。滅多にないかもしれないが、まあこんな日もあるかもしれない。そんな風に考えていた。
翌朝。いつもの時間にまた家を出て駅に向かう。昨日のマンション近くに差し掛かると、昨日の朝のドタバタが思い出されて、そういえばあの女性は結局どうなったのだろうか、と思考が掠めた。
空中に人影があった。
まさか、と僕は思った。昨日の彼女が、また命を断とうと飛び降り自殺をしているのだろうか。僕はまたしても動くことが出来なかった。一呼吸置いて走り出し、落下地点へと向かった。
小学生の男の子がそこに横たわっていた。まだ息はある。昨日と同じく声掛けを続けながら救急車を待つ。しかしこれは偶然なのだろうか。
それからこれは毎朝続くことになった。僕がそのマンションを通りかかる瞬間を見計らっているかのように、そのマンションから人が飛び降りるのだった。飛び降りるのは、常に違う人だった。ありとあらゆる人々が飛び降り自殺を図っていた。まるで僕に何かを訴え掛けようとでもするかのように。最近では僕は、救急車を呼ぶだけ呼んで、自分はそのまま会社に行くことにした。毎朝飛び降り自殺をする人の介抱をするから遅刻しているなんて言い訳は利かないし、毎朝そんなことに関わっている余裕もないからだ。
これは偶然なのだろうか。
一銃「偶然の朝」
そろそろ内容に入ろうと思います。
資産家である老女三姉妹が、毎年自社グループのホテルで行うパーティ。そのパーティに誘われた、三姉妹の身内やゆかりのある人物たち。彼らは、年に一度ここで顔を合わせる。望んでくるものもいれば、義務感で来ているものもいる。時折緊張感の走るそのパーティは、三姉妹の存在感によって構成されていると言って言いすぎではない。
そんなパーティで、参加者の変死事件が起こる。これは現実なのだろうか。それとも…。
というような話…です。
えーと、僕は毎回言っているように、恩田陸は嫌いなんです。どうにも相性が悪くて、これまで20冊弱恩田陸の作品を読んできましたが、面白いと思ったのは4冊ぐらいですね。
それでも、何となく恩田陸の作品を読んでしまうんですね。どうせまたダメなんだろうな、と思っても、もしかしたら傑作があるかもしれない、と思ってしまうんです。不思議な作家ですね。僕は、はっきりと恩田陸のことは嫌いだと自覚しているわけですけど、それでもこれだけ作品を読んでしまう作家というのは他にいないですね。大抵、この作家は嫌いだなと思うと、他の作品を読まなくなってしまうので。そういう意味で僕にとって恩田陸というのはかなり特殊な作家です。
僕にとって恩田陸というのはこういう印象があります。時々僕は、小説をジグソーパズルに喩えるんですけど、恩田陸の小説はピースを組み上げた時の絵柄というのは特に僕にはアピールしないんですね。でも、バラバラにした時のピースの何片かが、まるで芸術作品のようなきらめきを放つわけです。そのいくつかのピースが、ちゃんとした位置にはめ込まれてしまうとそのきらめきが消えてしまうんだけど、そのピース単体で存在するなら素晴らしい、というような感じです。
僕は恩田陸の作品全体の構成や雰囲気みたいなものとはどうも相性がよくないんですけど、でも細部(というかもっと細かく箇所という言い方をしてもいいですけど)の中にはいくつかさすがだなと思わせる部分があったりして、それが僕を恩田陸の作品を読ませるのではないかなと思ったりします。
本作は、正直言って全体の構成は僕には意味不明です。何がやりたかったのか、どうにもはっきりしません。恩田陸の作品にはこういうのが結構あって、どんな話にまとめたいのかイマイチよくわからない雰囲気に包まれていたりします。あるいは他に恩田陸の作品でよくあるのが、ラストさえ違った形なら素晴らしい傑作なのに、どうもラストがしっくりこない、みたいなパターンで、このパターンも結構あるんですよね。
一応殺人が出てくるし、ミステリということにもなってるんだろうけど、でもミステリとして読むのはなかなか難しいんじゃないかな、と思ったりします。間あいだに挟み込まれる、何かの小説の引用は酷く読みづらいし、それを挿入することで何がしたかったのかも僕にはさっぱり分かりませんでした。
というわけで僕は恩田陸が嫌いで相性が悪いので、本作はオススメ出来ません。しかし世間的には恩田陸の評価って高いんだよなぁ。その辺りが、イマイチ僕には理解できないんだけど。
恩田陸「夏の名残りの薔薇」
会社に行こうと家を出て、駅まで向かう。駅までは10分程度の道のりだ。音楽を聞くでもなく、僕はいつもぼんやりと歩いている。
違和感を感じて視線を上げると、空中に人影があった。道の片側がマンションになっていて、その壁面に沿って女性が落ちているのだ。僕は一歩を踏み出すことが出来なかった。いや、もちろん僕が努力すれば間に合ったというようなことはなかっただろう。どのみちあの女性はそのまま地面に叩きつけられていたに違いない。しかしそれでも、咄嗟の事態に何もすることが出来なかった自分を僕は嫌悪した。
時間にして一呼吸。彼女が地面に落ちてしまってから、ようやく僕の足は動いた。まだ生きているかもしれない。走りながら携帯電話で救急車を呼ぶ。
落ちた女性の下に駆け寄る。僕は、絶望することはないかもしれない、と思った。助かるか助からないか、かなり際どいのではないか、と思った。とにかく救急車が来るまで、女性に声を掛け続けた。あとは何をしていいのかわからなかった。
救急車が来ると、なりゆきで一緒に乗ることになった。救急隊員の人も、なんとか助かるかもしれません、というようなことを言ってくれた。気休めだったのかもしれないけど、若干罪悪感を持っていた僕としては、気休め程度でも安心できた。
病院に着いた時点で、さすがにこれ以上関わるのも変だと思い、立ち去ることにした。会社に連絡を入れ、今日はそのまま現場に向かうことを告げる。滅多にないかもしれないが、まあこんな日もあるかもしれない。そんな風に考えていた。
翌朝。いつもの時間にまた家を出て駅に向かう。昨日のマンション近くに差し掛かると、昨日の朝のドタバタが思い出されて、そういえばあの女性は結局どうなったのだろうか、と思考が掠めた。
空中に人影があった。
まさか、と僕は思った。昨日の彼女が、また命を断とうと飛び降り自殺をしているのだろうか。僕はまたしても動くことが出来なかった。一呼吸置いて走り出し、落下地点へと向かった。
小学生の男の子がそこに横たわっていた。まだ息はある。昨日と同じく声掛けを続けながら救急車を待つ。しかしこれは偶然なのだろうか。
それからこれは毎朝続くことになった。僕がそのマンションを通りかかる瞬間を見計らっているかのように、そのマンションから人が飛び降りるのだった。飛び降りるのは、常に違う人だった。ありとあらゆる人々が飛び降り自殺を図っていた。まるで僕に何かを訴え掛けようとでもするかのように。最近では僕は、救急車を呼ぶだけ呼んで、自分はそのまま会社に行くことにした。毎朝飛び降り自殺をする人の介抱をするから遅刻しているなんて言い訳は利かないし、毎朝そんなことに関わっている余裕もないからだ。
これは偶然なのだろうか。
一銃「偶然の朝」
そろそろ内容に入ろうと思います。
資産家である老女三姉妹が、毎年自社グループのホテルで行うパーティ。そのパーティに誘われた、三姉妹の身内やゆかりのある人物たち。彼らは、年に一度ここで顔を合わせる。望んでくるものもいれば、義務感で来ているものもいる。時折緊張感の走るそのパーティは、三姉妹の存在感によって構成されていると言って言いすぎではない。
そんなパーティで、参加者の変死事件が起こる。これは現実なのだろうか。それとも…。
というような話…です。
えーと、僕は毎回言っているように、恩田陸は嫌いなんです。どうにも相性が悪くて、これまで20冊弱恩田陸の作品を読んできましたが、面白いと思ったのは4冊ぐらいですね。
それでも、何となく恩田陸の作品を読んでしまうんですね。どうせまたダメなんだろうな、と思っても、もしかしたら傑作があるかもしれない、と思ってしまうんです。不思議な作家ですね。僕は、はっきりと恩田陸のことは嫌いだと自覚しているわけですけど、それでもこれだけ作品を読んでしまう作家というのは他にいないですね。大抵、この作家は嫌いだなと思うと、他の作品を読まなくなってしまうので。そういう意味で僕にとって恩田陸というのはかなり特殊な作家です。
僕にとって恩田陸というのはこういう印象があります。時々僕は、小説をジグソーパズルに喩えるんですけど、恩田陸の小説はピースを組み上げた時の絵柄というのは特に僕にはアピールしないんですね。でも、バラバラにした時のピースの何片かが、まるで芸術作品のようなきらめきを放つわけです。そのいくつかのピースが、ちゃんとした位置にはめ込まれてしまうとそのきらめきが消えてしまうんだけど、そのピース単体で存在するなら素晴らしい、というような感じです。
僕は恩田陸の作品全体の構成や雰囲気みたいなものとはどうも相性がよくないんですけど、でも細部(というかもっと細かく箇所という言い方をしてもいいですけど)の中にはいくつかさすがだなと思わせる部分があったりして、それが僕を恩田陸の作品を読ませるのではないかなと思ったりします。
本作は、正直言って全体の構成は僕には意味不明です。何がやりたかったのか、どうにもはっきりしません。恩田陸の作品にはこういうのが結構あって、どんな話にまとめたいのかイマイチよくわからない雰囲気に包まれていたりします。あるいは他に恩田陸の作品でよくあるのが、ラストさえ違った形なら素晴らしい傑作なのに、どうもラストがしっくりこない、みたいなパターンで、このパターンも結構あるんですよね。
一応殺人が出てくるし、ミステリということにもなってるんだろうけど、でもミステリとして読むのはなかなか難しいんじゃないかな、と思ったりします。間あいだに挟み込まれる、何かの小説の引用は酷く読みづらいし、それを挿入することで何がしたかったのかも僕にはさっぱり分かりませんでした。
というわけで僕は恩田陸が嫌いで相性が悪いので、本作はオススメ出来ません。しかし世間的には恩田陸の評価って高いんだよなぁ。その辺りが、イマイチ僕には理解できないんだけど。
恩田陸「夏の名残りの薔薇」
Google誕生 ガレージから生まれたサーチ・モンスター(デビッド・ヴァイス)
出掛けに見た番組で、戸籍のない女性が子供を生む、というニュースを報道していた。
その女性は、母親が離婚後300日以内に出産してしまい、そのため戸籍が得られなかったらしい。以後戸籍のないままでの生活を続けていたわけだが、その女性が子供を生むのだという。
女性は生まれてくる子供の戸籍がどうなるのか問い合わせたところ、戸籍のない親からの出生届を受理することは出来ない、という回答だったようだ。女性は、自分と同じ運命を背負わせたくない、と語っているようで、今国としても対応を検討中なのだそうだ。
このニュースを見た時、世の中にはそんな女性もいるのか、と思った。まさか日本に生まれたのに戸籍のない人がいるなんて、と思った。離婚後300日問題というのは、お腹の子供の父親が正確に確定できないことから生まれた法律のようだけど、今ならDNA検査だってあるし、もはや意味のない法律なんじゃないかなぁ、とか思ったのだけど、でもだからと言って特に気になるニュースというわけではなかった。いつものようにただ何となく耳に入れている、たくさんある内の一つでしかなかった。
しかし、その日一日を終えた僕は、嫌でもこのニュースのことを思い返さないではいられなかった。
家を出て、まず会社に向かう。今日から一人での営業が始まるのだ。これまでは、先輩社員について行って、営業の流れを学ぶ時期だった。これからは、自分で新しい営業先を開拓していかなくてはいけない。自分に出来るだろうか、という不安はあるが、しかし同時にやってやろうじゃないの、という気概も感じていた。
会社で事務的な事項の確認と、必要な書類を集め終わると、僕は早速営業へと向かうことになった。
「すみません。○○の者なんですけど、店長の方はどちらでしょうか?」
やはりなかなか緊張する。初めは、契約を取る事はできないだろう。そこまで期待できるほど、自分に自信があるわけではない。でも、なるべく一刻も早く慣れなくては、と思う。
「初めまして。わたくし○○の営業の田中と申します」
そう言って、名刺を差し出す。先輩に付き添っていた時ももちろん名刺を渡したが、こうして一人で営業を始めることになって初めての名刺交換だ。なんだか自分がすごいことをしているようなそんな気もしてくる。
「あぁ、ちょっと待ってていただけますか」
そういうと店長は店の奥へと引っ込んでいった。
これは先輩と回っていた時も同じだった。どこに行っても、担当者は名刺を受け取ると、一旦店の奥に引っ込む。何をしているのか分からないけど、しばらくすると、お待たせしました、と言って戻ってきて、営業の話になるのだ。
「お待たせしました」
そう言って店長は戻ってきた。
「申し訳ありませんが、お引取り願えませんか?」
「えっ?」
僕は頓狂な声を上げてしまった。営業をしてそれで断られるなら分かるが、営業をし始める前から門前払いである。
「お話だけでも聞いていただけないでしょうか?」
「いえ、申し訳ないですけど、お引取りください」
店長の口調はにべもなかった。それでなくとも僕はまだ営業の駆け出しだ。ここで強く出るべきなのか引くべきなのかもうまく判断できない。しかし、生来の気の弱さが出て、そのまますごすごと引き下がってしまった。
「はぁ、初っ端からこれじゃあ、先が思いやられるなぁ」
しかしへこんでばかりもいられない。僕は気を取り直して、別の店に当たることにした。
しかし、である。
それから、まわる店まわる店、すべて同じように門前払いだったのだ。流れはすべて同じで、名刺交換をすると責任者は店の奥へと引っ込む。そしてしばらくして戻ってくると、お引取りいただけませんか、と言って完全に拒絶するのだ。
10数件まわったところで、僕はもう気力を失いかけていた。誰も話すら聞いてくれない。何がマズイんだろうか。見た目の清潔感にはかなり気をつけたはずだし、完璧ではないかもしれないが敬語だってそこまで悪くないはずだ。やはり、名刺を持って奥に引っ込む、あれが何か関係しているというんだろうか。
何とか自分を奮い立たせて次の店に入った。やはり同じく名刺交換の後門前払いであった。このままでは事態は動かない、と思った僕は、思い切って聞くことにした。
「これまでまわったお店でも、すべて同じ対応でした。僕に悪いところがあるなら直します。ですので、どうしてお話を聞いていただけないのか教えてはもらえないでしょうか?」
店長は少し悩んだ風に見えたが、やがて口を開いてくれた。
「Googleでね、君の名前を検索したんだ。ほら、名刺をもらうでしょう?でもね、君についての情報が何一つ出てこないんだ。何一つだよ。だからさ」
僕には意味が分からなかった。Googleの検索で情報が出てこないからと行って、だから何なんだろうか。
「それと営業と、何か関係があるんでしょうか?」
「他の店の人がどうかは知らないよ。でもね、僕は人を判断する時にGoogleを使うことにしてるんだ。大抵はね、何か情報が出てくるものだよ。個人のブログ、写真、何かの大会での受賞歴、そう言ったものだよ。もちろんいい情報も悪い情報も出てくる。でもそれを見て、一応どんな人間化分かる。自分の中で、あらかじめイメージを持って相手と対峙できるんだ。でもね、君の場合、なんにも出てこなかった。いいかい、なんにも、だよ。このネット社会に生きている人間で、名前を検索しても何も情報が出てこない人間がどれだけいると思う?正直言って、そういう人は私はあんまり信用出来ないんだよ」
確かに僕は、僕らの世代としてはかなり稀だけど、ほとんどインターネットと関わらずに生きてきた。普段自分でも使わないし、僕の情報が載っていなくても別におかしくはないかもしれない。
でも、今の世の中ではそれではダメなのだ、と僕は思った。この社会では、ネットに自分の情報が存在するかどうかで、まず人間性が判断されてしまうようになってしまったのだ。
なるほど、僕はネット上に戸籍がないのと同じなのだな、と僕は悲しい事実を理解した。
一銃「Google」
そろそろ内容に貼ろうと思います。
本作は、世界的企業であるGoogleの創業前から現在に至るまでの過程を追ったノンフィクションです。
Googleは、スタンフォード大学の学生だったラリー・ペイジとサーゲイ・ブリンという二人の若者が興した会社です。しかし彼らはそもそも、会社を興したいと思っていたわけではありませんでした。
ペイジとブリンは、スタンフォード大学で様々な研究に手を出す学生でした。二人は共に天才と言われるほど頭脳明晰で、また人間としても魅力溢れる存在でした。
そんなある日、ペイジはある画期的な検索システムの開発に成功しました。当時インターネットは始まったばかりで、いくつかの検索サイトが存在しましたが、いずれもお粗末なもので、ユーザーを満足させるには程遠いものでした。当時あった検索サイトは、サイトの重要度に関わらず雑多な情報を引き上げるだけで、ユーザーは目的のサイトに辿りつくまでに、様々なジャンクなサイトをサーフするしかなかったわけです。
ペイジは、ページリンクというまったく新しい着想から検索システムを組み上げました。それは、サイトの重要度を、どれだけ他のサイトからリンクが張られているか、ということで判断をし、そのサイトの重要度に従ってページの表示をしよう、というものでした。このシステムは公開されるや、まずスタンフォード内で人気が出て、その後口コミだけで広範囲に広がって行きました。
しかしペイジとブリンは会社を興す気はありませんでした。彼らがしたかったことはただ一つ。検索システムをもっと改良し、もっと使いやすくすることだけでした。
しかし、そのためには金が必要であることもまた明白でした。彼らは、システムを進化させるのに必要な金を得るには会社を興すしかない、と判断し、Googleを立ち上げたわけです。
そうして生まれた会社は、業界内でもかなり異端でした。そもそも彼らは会社を興したはいいけど、検索システムから利益を得ようとは思っていませんでした。彼らがやりたかったのは、より早く正確に検索できるシステムを作り上げることだったのです。しかし、投資家から金を預かった以上、利益を上げる仕組みを生み出す必要もありました。彼らは、彼ら独自のやり方で検索結果のページに広告を載せ、それによって収益を上げることに成功したわけです。
その後もGoogleは異端であり続けました。Googleが生まれた時期は、検索よりポータルサイトという流れがメインでした。検索なんか金にならない、よりユーザーを引き寄せるポータルサイトを運営することが、より利益に直結する、と考えられていた時期でした。しかし彼らは、検索にこだわりました。素晴らしい検索システムを提供できれば、いつか正しい方向に道は開ける、と信じていたわけです。結果的にそれは正しく、今ではマイクロソフトをも脅かす存在になっています。
また、社内環境についてもかなり独自のポリシーを持っています。Googleは、一流の料理人を雇って昼食を無料で提供したり、個人に請求のいかないクレジットカードを社員に渡していたり(これはたぶん創業間もない頃だけだと思うけど)、会社の中をオモチャだらけにしたり、子供のいる女性でも働きやすいようにしたりと、とにかく働く環境を整えることにかなり熱心にやってきました。そのためGoogleに入りたいと思うエンジニアが増え、その件でマイクロソフトと係争になったりしたこともありました。
また仕事の進め方も独特で、なるべく中間管理職をなくし、3人から5人単位でいくつものプロジェクトを同時に進めるというやり方が取られていました。また、「20パーセントタイムルール」というのがあって、一日の時間の内20パーセントは、自分の興味のあるテーマについて研究するように、と奨励されています。奨励されているというか、これは義務みたいですけどね。その20パーセントタイムルールから生まれたアイデアがメインプロジェクトになることもあるわけで、とにかくこういう形で社員のやる気を引き上げているわけです。
「グーグル・ニュース」の開発者であるバラットも、20パーセントタイムでそのアイデアを温め、それをメインプロジェクトまで持っていった一人です。そのバラットはこんな風に言います。
「グーグルでは、行う価値のあるものには、資金が提供されるのです。そして、その製品がどのように利益を生み出すかについては、今まで誰にも質問されたことがありません」
利益の追求は後回し。ユーザーにとってそれが必要なら、とりあえずそれはやろう。そんな姿勢で突き進んできた会社なのです。
また、Googleは株式上場もするわけですけど、ここでもウォール街の常識を覆すことをやってのけます。というか、この部分に関してはどこがどういう風に常識外れだったのか僕にはよく分からなかったんですけど、とにかくそれまでの慣習を全部無視して、自分達独自のやり方を押し通したんだそうです。
まだ創業から10年しか経っていないのに、パソコンに疎い僕でさえその名前をずっと前から知っているGoogle。過去、これほどまでに急速に成長をし、急速に名前を知られることになった会社はなかっただろうと言われています。そんな会社の、これまでの足跡を辿ることの出来る一冊です。
本作を読んで一貫して感じることが出来るのは、創業者であるペイジとブリンという二人のポリシーです。彼らのポリシーが、彼らが生み出すシステム、彼らのビジョン、彼らの経営方法、彼らの判断、彼らの職場環境、そしてGoogleという会社そのものにすべて明確に反映されているな、ということです。創業者の二人を賞賛する言葉はたぶんたくさん見つけることが出来ると思いますけど、何よりもこの、独自のポリシーを持ち続け、そしてそれを反映させ続けているということこそが最も評価されるのではないかな、と思いました。
ペイジとブリンは、経営者としてはかなり異端なのだろうと思います。彼らは、金儲けにはあまり興味がありません。ライバルを意識して対抗したりというようなことにもさほど興味がありません。彼らにとって興味があるのは、自らの好奇心を満たすこと、そしてGoogleという会社をもっと広く知ってもらうこと、この二つだけです。だから、利益を考えないプロジェクトを進行させるし、Googleの名前を広めるためなら自分の資産を投げ打つこともします。そうやって彼らは成功してきました。
彼らは元々エンジニアで、ずっと大学で研究を続けたい、と思っていたくらいです。それなのに、経営についてもかなりのやり手なわけです。また人間としても優れていて、そして正しいことをしたいと常に思っているわけです。これだけ明確なポリシーを持って生きていけるというのはホントすごいなと思いました。ペイジは、未だに新たな社員を雇う時には、その履歴書や面接資料などにすべて目を通すんだそうです。そんなことをやってる社長がこの世の中にいるでしょうか?
一方で本作では、Googleの悪い面にも触れています。悪い面というか、世間が悪いと思っている面、ということですけど、プライバシーの問題や商標の問題です。
Googleは常にこの、プライバシーや商標の問題につきまとわれました。これは、検索をメインとするサイトの宿命のようなもので仕方ないと言えます。特に商標に関しては様々な裁判を起こされ、そのために多くのお金をつぎ込むことになりました。
しかし、このGoogleという会社がすごいのは、そういう問題に対してかなり楽観的でいる、という点です。例えば、Gメールというサービスを提供すると発表した際、かなり多くの人々からプライバシーについて不安がある、と叩かれました。しかし、ペイジとブリンは、人々のそんな不安に惑わされることなく、このシステムを使ってもらえればその良さは絶対に分かる、と信じて特別対策を取ることはしませんでした。商標の問題についても、彼らは自分達のやり方は公平であると考えていて、裁判に関しては全力で戦ったけど、他の部分では特にこれと言って影響を受けていない感じです。やはりペイジとブリンに明確なポリシーがあるからこそこうしたことが押し通せるわけで、すごいなと思いました。
僕はこれまで検索にはヤフーをよく使ってたし、トップページもヤフーに設定してるんだけど、本作を読んで、Googleで検索するようにしようかな、とか思うようになりました。あと、まあ無理ですけど、Googleで働けたらいいなぁ、とか思いました。とにかくGoogleは本当に職場環境が素晴らしくて、ここで働くことが出来たら無茶苦茶面白いだろうな、と思ったりしました。本作は、僕のようにパソコンやネットの知識がほぼないような人間でも十分に楽しめる作品です。Googleという、ほとんど奇跡みたいな会社の、密度の詰まった10数年の神話を、是非読んでみてください。
デビッド・ヴァイス「Google誕生 ガレージから生まれたサーチ・モンスター」
その女性は、母親が離婚後300日以内に出産してしまい、そのため戸籍が得られなかったらしい。以後戸籍のないままでの生活を続けていたわけだが、その女性が子供を生むのだという。
女性は生まれてくる子供の戸籍がどうなるのか問い合わせたところ、戸籍のない親からの出生届を受理することは出来ない、という回答だったようだ。女性は、自分と同じ運命を背負わせたくない、と語っているようで、今国としても対応を検討中なのだそうだ。
このニュースを見た時、世の中にはそんな女性もいるのか、と思った。まさか日本に生まれたのに戸籍のない人がいるなんて、と思った。離婚後300日問題というのは、お腹の子供の父親が正確に確定できないことから生まれた法律のようだけど、今ならDNA検査だってあるし、もはや意味のない法律なんじゃないかなぁ、とか思ったのだけど、でもだからと言って特に気になるニュースというわけではなかった。いつものようにただ何となく耳に入れている、たくさんある内の一つでしかなかった。
しかし、その日一日を終えた僕は、嫌でもこのニュースのことを思い返さないではいられなかった。
家を出て、まず会社に向かう。今日から一人での営業が始まるのだ。これまでは、先輩社員について行って、営業の流れを学ぶ時期だった。これからは、自分で新しい営業先を開拓していかなくてはいけない。自分に出来るだろうか、という不安はあるが、しかし同時にやってやろうじゃないの、という気概も感じていた。
会社で事務的な事項の確認と、必要な書類を集め終わると、僕は早速営業へと向かうことになった。
「すみません。○○の者なんですけど、店長の方はどちらでしょうか?」
やはりなかなか緊張する。初めは、契約を取る事はできないだろう。そこまで期待できるほど、自分に自信があるわけではない。でも、なるべく一刻も早く慣れなくては、と思う。
「初めまして。わたくし○○の営業の田中と申します」
そう言って、名刺を差し出す。先輩に付き添っていた時ももちろん名刺を渡したが、こうして一人で営業を始めることになって初めての名刺交換だ。なんだか自分がすごいことをしているようなそんな気もしてくる。
「あぁ、ちょっと待ってていただけますか」
そういうと店長は店の奥へと引っ込んでいった。
これは先輩と回っていた時も同じだった。どこに行っても、担当者は名刺を受け取ると、一旦店の奥に引っ込む。何をしているのか分からないけど、しばらくすると、お待たせしました、と言って戻ってきて、営業の話になるのだ。
「お待たせしました」
そう言って店長は戻ってきた。
「申し訳ありませんが、お引取り願えませんか?」
「えっ?」
僕は頓狂な声を上げてしまった。営業をしてそれで断られるなら分かるが、営業をし始める前から門前払いである。
「お話だけでも聞いていただけないでしょうか?」
「いえ、申し訳ないですけど、お引取りください」
店長の口調はにべもなかった。それでなくとも僕はまだ営業の駆け出しだ。ここで強く出るべきなのか引くべきなのかもうまく判断できない。しかし、生来の気の弱さが出て、そのまますごすごと引き下がってしまった。
「はぁ、初っ端からこれじゃあ、先が思いやられるなぁ」
しかしへこんでばかりもいられない。僕は気を取り直して、別の店に当たることにした。
しかし、である。
それから、まわる店まわる店、すべて同じように門前払いだったのだ。流れはすべて同じで、名刺交換をすると責任者は店の奥へと引っ込む。そしてしばらくして戻ってくると、お引取りいただけませんか、と言って完全に拒絶するのだ。
10数件まわったところで、僕はもう気力を失いかけていた。誰も話すら聞いてくれない。何がマズイんだろうか。見た目の清潔感にはかなり気をつけたはずだし、完璧ではないかもしれないが敬語だってそこまで悪くないはずだ。やはり、名刺を持って奥に引っ込む、あれが何か関係しているというんだろうか。
何とか自分を奮い立たせて次の店に入った。やはり同じく名刺交換の後門前払いであった。このままでは事態は動かない、と思った僕は、思い切って聞くことにした。
「これまでまわったお店でも、すべて同じ対応でした。僕に悪いところがあるなら直します。ですので、どうしてお話を聞いていただけないのか教えてはもらえないでしょうか?」
店長は少し悩んだ風に見えたが、やがて口を開いてくれた。
「Googleでね、君の名前を検索したんだ。ほら、名刺をもらうでしょう?でもね、君についての情報が何一つ出てこないんだ。何一つだよ。だからさ」
僕には意味が分からなかった。Googleの検索で情報が出てこないからと行って、だから何なんだろうか。
「それと営業と、何か関係があるんでしょうか?」
「他の店の人がどうかは知らないよ。でもね、僕は人を判断する時にGoogleを使うことにしてるんだ。大抵はね、何か情報が出てくるものだよ。個人のブログ、写真、何かの大会での受賞歴、そう言ったものだよ。もちろんいい情報も悪い情報も出てくる。でもそれを見て、一応どんな人間化分かる。自分の中で、あらかじめイメージを持って相手と対峙できるんだ。でもね、君の場合、なんにも出てこなかった。いいかい、なんにも、だよ。このネット社会に生きている人間で、名前を検索しても何も情報が出てこない人間がどれだけいると思う?正直言って、そういう人は私はあんまり信用出来ないんだよ」
確かに僕は、僕らの世代としてはかなり稀だけど、ほとんどインターネットと関わらずに生きてきた。普段自分でも使わないし、僕の情報が載っていなくても別におかしくはないかもしれない。
でも、今の世の中ではそれではダメなのだ、と僕は思った。この社会では、ネットに自分の情報が存在するかどうかで、まず人間性が判断されてしまうようになってしまったのだ。
なるほど、僕はネット上に戸籍がないのと同じなのだな、と僕は悲しい事実を理解した。
一銃「Google」
そろそろ内容に貼ろうと思います。
本作は、世界的企業であるGoogleの創業前から現在に至るまでの過程を追ったノンフィクションです。
Googleは、スタンフォード大学の学生だったラリー・ペイジとサーゲイ・ブリンという二人の若者が興した会社です。しかし彼らはそもそも、会社を興したいと思っていたわけではありませんでした。
ペイジとブリンは、スタンフォード大学で様々な研究に手を出す学生でした。二人は共に天才と言われるほど頭脳明晰で、また人間としても魅力溢れる存在でした。
そんなある日、ペイジはある画期的な検索システムの開発に成功しました。当時インターネットは始まったばかりで、いくつかの検索サイトが存在しましたが、いずれもお粗末なもので、ユーザーを満足させるには程遠いものでした。当時あった検索サイトは、サイトの重要度に関わらず雑多な情報を引き上げるだけで、ユーザーは目的のサイトに辿りつくまでに、様々なジャンクなサイトをサーフするしかなかったわけです。
ペイジは、ページリンクというまったく新しい着想から検索システムを組み上げました。それは、サイトの重要度を、どれだけ他のサイトからリンクが張られているか、ということで判断をし、そのサイトの重要度に従ってページの表示をしよう、というものでした。このシステムは公開されるや、まずスタンフォード内で人気が出て、その後口コミだけで広範囲に広がって行きました。
しかしペイジとブリンは会社を興す気はありませんでした。彼らがしたかったことはただ一つ。検索システムをもっと改良し、もっと使いやすくすることだけでした。
しかし、そのためには金が必要であることもまた明白でした。彼らは、システムを進化させるのに必要な金を得るには会社を興すしかない、と判断し、Googleを立ち上げたわけです。
そうして生まれた会社は、業界内でもかなり異端でした。そもそも彼らは会社を興したはいいけど、検索システムから利益を得ようとは思っていませんでした。彼らがやりたかったのは、より早く正確に検索できるシステムを作り上げることだったのです。しかし、投資家から金を預かった以上、利益を上げる仕組みを生み出す必要もありました。彼らは、彼ら独自のやり方で検索結果のページに広告を載せ、それによって収益を上げることに成功したわけです。
その後もGoogleは異端であり続けました。Googleが生まれた時期は、検索よりポータルサイトという流れがメインでした。検索なんか金にならない、よりユーザーを引き寄せるポータルサイトを運営することが、より利益に直結する、と考えられていた時期でした。しかし彼らは、検索にこだわりました。素晴らしい検索システムを提供できれば、いつか正しい方向に道は開ける、と信じていたわけです。結果的にそれは正しく、今ではマイクロソフトをも脅かす存在になっています。
また、社内環境についてもかなり独自のポリシーを持っています。Googleは、一流の料理人を雇って昼食を無料で提供したり、個人に請求のいかないクレジットカードを社員に渡していたり(これはたぶん創業間もない頃だけだと思うけど)、会社の中をオモチャだらけにしたり、子供のいる女性でも働きやすいようにしたりと、とにかく働く環境を整えることにかなり熱心にやってきました。そのためGoogleに入りたいと思うエンジニアが増え、その件でマイクロソフトと係争になったりしたこともありました。
また仕事の進め方も独特で、なるべく中間管理職をなくし、3人から5人単位でいくつものプロジェクトを同時に進めるというやり方が取られていました。また、「20パーセントタイムルール」というのがあって、一日の時間の内20パーセントは、自分の興味のあるテーマについて研究するように、と奨励されています。奨励されているというか、これは義務みたいですけどね。その20パーセントタイムルールから生まれたアイデアがメインプロジェクトになることもあるわけで、とにかくこういう形で社員のやる気を引き上げているわけです。
「グーグル・ニュース」の開発者であるバラットも、20パーセントタイムでそのアイデアを温め、それをメインプロジェクトまで持っていった一人です。そのバラットはこんな風に言います。
「グーグルでは、行う価値のあるものには、資金が提供されるのです。そして、その製品がどのように利益を生み出すかについては、今まで誰にも質問されたことがありません」
利益の追求は後回し。ユーザーにとってそれが必要なら、とりあえずそれはやろう。そんな姿勢で突き進んできた会社なのです。
また、Googleは株式上場もするわけですけど、ここでもウォール街の常識を覆すことをやってのけます。というか、この部分に関してはどこがどういう風に常識外れだったのか僕にはよく分からなかったんですけど、とにかくそれまでの慣習を全部無視して、自分達独自のやり方を押し通したんだそうです。
まだ創業から10年しか経っていないのに、パソコンに疎い僕でさえその名前をずっと前から知っているGoogle。過去、これほどまでに急速に成長をし、急速に名前を知られることになった会社はなかっただろうと言われています。そんな会社の、これまでの足跡を辿ることの出来る一冊です。
本作を読んで一貫して感じることが出来るのは、創業者であるペイジとブリンという二人のポリシーです。彼らのポリシーが、彼らが生み出すシステム、彼らのビジョン、彼らの経営方法、彼らの判断、彼らの職場環境、そしてGoogleという会社そのものにすべて明確に反映されているな、ということです。創業者の二人を賞賛する言葉はたぶんたくさん見つけることが出来ると思いますけど、何よりもこの、独自のポリシーを持ち続け、そしてそれを反映させ続けているということこそが最も評価されるのではないかな、と思いました。
ペイジとブリンは、経営者としてはかなり異端なのだろうと思います。彼らは、金儲けにはあまり興味がありません。ライバルを意識して対抗したりというようなことにもさほど興味がありません。彼らにとって興味があるのは、自らの好奇心を満たすこと、そしてGoogleという会社をもっと広く知ってもらうこと、この二つだけです。だから、利益を考えないプロジェクトを進行させるし、Googleの名前を広めるためなら自分の資産を投げ打つこともします。そうやって彼らは成功してきました。
彼らは元々エンジニアで、ずっと大学で研究を続けたい、と思っていたくらいです。それなのに、経営についてもかなりのやり手なわけです。また人間としても優れていて、そして正しいことをしたいと常に思っているわけです。これだけ明確なポリシーを持って生きていけるというのはホントすごいなと思いました。ペイジは、未だに新たな社員を雇う時には、その履歴書や面接資料などにすべて目を通すんだそうです。そんなことをやってる社長がこの世の中にいるでしょうか?
一方で本作では、Googleの悪い面にも触れています。悪い面というか、世間が悪いと思っている面、ということですけど、プライバシーの問題や商標の問題です。
Googleは常にこの、プライバシーや商標の問題につきまとわれました。これは、検索をメインとするサイトの宿命のようなもので仕方ないと言えます。特に商標に関しては様々な裁判を起こされ、そのために多くのお金をつぎ込むことになりました。
しかし、このGoogleという会社がすごいのは、そういう問題に対してかなり楽観的でいる、という点です。例えば、Gメールというサービスを提供すると発表した際、かなり多くの人々からプライバシーについて不安がある、と叩かれました。しかし、ペイジとブリンは、人々のそんな不安に惑わされることなく、このシステムを使ってもらえればその良さは絶対に分かる、と信じて特別対策を取ることはしませんでした。商標の問題についても、彼らは自分達のやり方は公平であると考えていて、裁判に関しては全力で戦ったけど、他の部分では特にこれと言って影響を受けていない感じです。やはりペイジとブリンに明確なポリシーがあるからこそこうしたことが押し通せるわけで、すごいなと思いました。
僕はこれまで検索にはヤフーをよく使ってたし、トップページもヤフーに設定してるんだけど、本作を読んで、Googleで検索するようにしようかな、とか思うようになりました。あと、まあ無理ですけど、Googleで働けたらいいなぁ、とか思いました。とにかくGoogleは本当に職場環境が素晴らしくて、ここで働くことが出来たら無茶苦茶面白いだろうな、と思ったりしました。本作は、僕のようにパソコンやネットの知識がほぼないような人間でも十分に楽しめる作品です。Googleという、ほとんど奇跡みたいな会社の、密度の詰まった10数年の神話を、是非読んでみてください。
デビッド・ヴァイス「Google誕生 ガレージから生まれたサーチ・モンスター」
ぼくたちと駐在さんの700日戦争(ママチャリ)
地元に戻るのは、実に20年ぶりになる。忙しいということももちろんあったが、それだけじゃない。やはり、地元に置いてきた様々なものと距離を置きたかったのだろうと思う。家族や友達や思い出と言ったものたちと。後悔はない。正しいと思ったこともないけれども。
父親が入院したとのことで、いい加減顔を出せ、と母親に言われての帰郷だった。正直乗り気ではない。ただ、病気を持ち出されると弱い。両親に会うなんて今さらだと僕は思うけれども、しかしまあ、仕方ない。
電車に揺られながら、僕は地元に住んでいた頃のことを思い出していた。既に大分昔の話だ。どんどんと忘れてしまっている。しかし、その中でもかなり印象に残っている出来事がある。
僕は子供の頃、イタズラばかりして遊んでいた。あちこちに落とし穴を仕掛ける、なんていうのは常習で、他にも賽銭箱にカエルを百匹詰め込んだり、狛犬を壊して代わりに本物の犬を接着剤で固定したりと、無茶苦茶なことばっかりやっていた。僕のイタズラに引っかかる人はたくさんいて、その度僕と僕の両親は怒られることになった。それでも僕はイタズラを止めなかった。楽しくて仕方なかったからだ。
そんなある日のこと。いつものように僕はイタズラに励んでいると、一人のおじさんが近づいてきたのだった。見たことのない顔だった。田舎っていうのは、大抵の人と面識がある。それでも知らないっていうことは、他所から来た人なのか、あるいはこの辺に住んでいる人の遠縁か何かなんだろうな、とぼんやり思った。
「人を傷つけることになるからイタズラはもう止めろ」
知らないおじさんにまで言われるなんて、よほど僕は有名なんだな、なんて呑気に考えていた。
それからよく覚えていないが、僕はイタズラを止めた。どうしてだっただろうか。何かきっかけがあったようにも思うけど、どうも思い出せない。
実家の最寄り駅についた。最寄り駅と言っても駅からはかなり遠い。幸い父親が入院している病院はまだ駅に近いところにあるので、ブラブラと歩きながら行こう、と思った。
駅を出た僕は唖然とした。目の前の光景が、20年前に実家を出た時とまったく同じだったからだ。いくらなんでももっと変化してるはずだろう。まさかこの町は時間が止まっているんだろうか。
病院の方へと向かう途中も同じことを思った。この町はあまりに変わらなさ過ぎる。おかしい。何が起こっているんだろう。
病院への近道となる公園に差し掛かった。懐かしい場所だった。よくここに落とし穴を作ったものだ。多くの人が落ちてくれた。それを見るのが楽しくて仕方なかった。
懐かしさもあって、自分が落とし穴をよく作った辺りを歩いてみることにした。
えっ。
足元が崩れ、体が地面の下に落下した。まさか、と思ったが、自分が落とし穴に落ちていることは間違いないようだ。20年以上前に自分が作ったものがまだ残っていたなんてことはありえないだろう。となれば、この町には今、落とし穴を継承する人間がいるということだろう。
しかし、僕のその仮説はあっさりと打ち崩れた。何故なら落とし穴の中に、それを作ったのが僕だという証拠が残っていたからだ。それは落とし穴の壁にはめ込まれた一枚の板切れだった。僕は当時イタズラを作り上げると、そこに自分の痕跡を残すことにしていた。その板切れには、僕の名前と作った日がかかれている。
(まさか僕が作って以来ずっと残ってるんじゃないだろうんぁ)
そこで僕は思い出したのだった。何故僕がイタズラを止めたのだったか、を。
友達の一人に大怪我をさせてしまったのだ。彼女は僕の作った落とし穴に落ちて、運悪く半身不随になった。それから僕は地元にいづらくなったのだった。そして逃げるようにして、東京にやってきた…。
そうだったのだ。僕がこれほどまでに地元を忌避しているのには、そんな理由もあったのだった。もうすっかり忘れてしまっていた。まさかこんな場所で思い出すなんて、思ってもみなかった。
とりあえず腑に落ちないことは多いけど、病院にまた向かうことにした。しかしその途中で僕は信じられない人に出会うことになる。
20数年前、イタズラに精を出していた頃の僕だった。
僕はそこようやく理解した。いや、ちゃんと理解できたわけではなかっただ、それしか考えようがなかった。つまり、僕は何故か過去へとやってきてしまったのであり、そして僕が子供の頃にあったことがあるおじさんというのは、自分自身だったっていうことを。
このまま落とし穴を作り続けていれば、いつか友達を怪我させてしまう。止めさせないと。
「人を傷つけることになるからイタズラはもう止めろ」
僕は僕に向かってそう言うと、その場を立ち去った。どうせ、あの当時の自分に何を言って聞かせたところで、イタズラを止めるとは思えない。結局何も変えることが出来ないのだろう。
病院に行ったら父親は入院しているだろうか?あるいは、実家で20数年前の姿で生きているのだろうか?どっちとも判断がつかず、とりあえず病院に行くか、と決めた僕でした。
一銃「イタズラを振り返る」
まあありがちなパターンですけどね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、元々ブログで連載されていた小説だったそうですが、やがて人気になり書籍化されたものです。半分実話も織り交ぜた小説、なんだそうです。
舞台は1970年代。田舎に住むヤンチャな高校生が主人公です。
きっかけは、友人の一人がバイクの速度違反で捕まったこです。これに復讐してやろうと、レーダー測定(ねずみ捕り)で自転車は捕まるのか、という実験をすることにしまいした。それにより駐在さんの不興を買い、そして大人気ないことになんと駐在さんは高校生の彼らに復讐をしてきたのです!
やられたらやり返す、をモットーに、頭脳のすべてをイタズラに費やすおバカな高校生たちの、青春の一幕なのです。
というような話です。
いやはや、爆笑しました。面白かったですねぇ。やっぱブログから出てくる作品っていうのは僕は結構好きだなと思いました。
本作は一応小説という形式ですけど、まあ小説として評価するのは難しいですね。文章がどうとか、ストーリーがどうとか、そういう部分はもちろん小説として弱いわけで、そういう部分での評価をしようとすると、なかなか厳しくなると思います。
でも例えばですけど、誰かの日記を読んでる、みたいな雰囲気で読めばすごく楽しめると思います。とにかく、馬鹿馬鹿しいイタズラのオンパレードで、僕は爆笑の連続でした。こういうことばっかりに知恵が回るやつってのは確かにいたなぁ、なんて思いながら読んでいました。
本作を読んでて、何となく、宗田理の「ぼくらの」シリーズのことを思い出しました。「ぼくらの」シリーズは、中学生(だったよな、確か)のあるグループが、いろんな悪巧みを仕掛けながらトラブルも解決するみたいな話で、僕は中学時代にド嵌まりしました。小説としてはもちろん「ぼくらの」シリーズの方が遥かに上ですが、ただイタズラのテイストみたいなものは結構近いんじゃないかなぁ、とか思ったりしました。
彼らのイタズラは、やっぱり駐在さんに対するものが一番面白いです。とにかくこの攻防は長くて、まさにやられたらやり返す、という感じです。駐在さんもホント大人気なくて、大人として、そして駐在さんとしてそんなことしていいわけ!?というようなことさえ臆することなくやっちゃうんですね。とてもまともな大人とは思えませんが、それがストーリーを面白くしています。
やっぱり白眉なのは、「セクシーな下着を駐在所のあちこちに仕掛ける」というイタズラで、これほど綿密でかつ大規模な作戦を成功させた手腕は天才的だなぁ、と思いました。何せ、駐在さんへの「お土産」が、「チョコレート・ノート・三角定規」ですからね。僕も初め意味がわかりませんでしたけど、しばらくして納得しました。ホント頭のいい連中です。
彼らのイタズラは、実は駐在さんだけに留まりません。彼らはとある事情から書店での万引きを疑われるわけだけど、その後「彼らならやりかねないなぁ」的な発言をした商店街の人間がいる、という噂を耳にするわけです。これは復讐するしかねぇ!と彼らは立ち上がります。
レコード屋と電気屋をターゲットにするわけだけど、この復讐もお見事ですね。特に、レコード屋の方の復讐は、単純でいて効果抜群という感じがしました。まあ実はレコード屋の方のイタズラは、事情があって彼ら自身も被害を被ることになっちゃったんだけど。
イタズラを仕掛けるメンバーも強烈な個性の持ち主ばかりで、その中でもエロくて天然な西条君というのが相当いいキャラしてます。巻末ではこの西条君の意外な姿が描かれたりして面白いですね。
たぶんこの作品、書籍化されてるのは全2巻なんだけど、2巻目も読んでみようかなぁ、とか思います。馬鹿馬鹿しくて僕は好きですね。未だにブログの方でも更新が続いているようなんで、機会があればそっちも見てみようと思います。馬鹿馬鹿しい話を読みたいという方、読んだら結構面白いと思いますよ。
ママチャリ「ぼくたちと駐在さんの700日戦争」
父親が入院したとのことで、いい加減顔を出せ、と母親に言われての帰郷だった。正直乗り気ではない。ただ、病気を持ち出されると弱い。両親に会うなんて今さらだと僕は思うけれども、しかしまあ、仕方ない。
電車に揺られながら、僕は地元に住んでいた頃のことを思い出していた。既に大分昔の話だ。どんどんと忘れてしまっている。しかし、その中でもかなり印象に残っている出来事がある。
僕は子供の頃、イタズラばかりして遊んでいた。あちこちに落とし穴を仕掛ける、なんていうのは常習で、他にも賽銭箱にカエルを百匹詰め込んだり、狛犬を壊して代わりに本物の犬を接着剤で固定したりと、無茶苦茶なことばっかりやっていた。僕のイタズラに引っかかる人はたくさんいて、その度僕と僕の両親は怒られることになった。それでも僕はイタズラを止めなかった。楽しくて仕方なかったからだ。
そんなある日のこと。いつものように僕はイタズラに励んでいると、一人のおじさんが近づいてきたのだった。見たことのない顔だった。田舎っていうのは、大抵の人と面識がある。それでも知らないっていうことは、他所から来た人なのか、あるいはこの辺に住んでいる人の遠縁か何かなんだろうな、とぼんやり思った。
「人を傷つけることになるからイタズラはもう止めろ」
知らないおじさんにまで言われるなんて、よほど僕は有名なんだな、なんて呑気に考えていた。
それからよく覚えていないが、僕はイタズラを止めた。どうしてだっただろうか。何かきっかけがあったようにも思うけど、どうも思い出せない。
実家の最寄り駅についた。最寄り駅と言っても駅からはかなり遠い。幸い父親が入院している病院はまだ駅に近いところにあるので、ブラブラと歩きながら行こう、と思った。
駅を出た僕は唖然とした。目の前の光景が、20年前に実家を出た時とまったく同じだったからだ。いくらなんでももっと変化してるはずだろう。まさかこの町は時間が止まっているんだろうか。
病院の方へと向かう途中も同じことを思った。この町はあまりに変わらなさ過ぎる。おかしい。何が起こっているんだろう。
病院への近道となる公園に差し掛かった。懐かしい場所だった。よくここに落とし穴を作ったものだ。多くの人が落ちてくれた。それを見るのが楽しくて仕方なかった。
懐かしさもあって、自分が落とし穴をよく作った辺りを歩いてみることにした。
えっ。
足元が崩れ、体が地面の下に落下した。まさか、と思ったが、自分が落とし穴に落ちていることは間違いないようだ。20年以上前に自分が作ったものがまだ残っていたなんてことはありえないだろう。となれば、この町には今、落とし穴を継承する人間がいるということだろう。
しかし、僕のその仮説はあっさりと打ち崩れた。何故なら落とし穴の中に、それを作ったのが僕だという証拠が残っていたからだ。それは落とし穴の壁にはめ込まれた一枚の板切れだった。僕は当時イタズラを作り上げると、そこに自分の痕跡を残すことにしていた。その板切れには、僕の名前と作った日がかかれている。
(まさか僕が作って以来ずっと残ってるんじゃないだろうんぁ)
そこで僕は思い出したのだった。何故僕がイタズラを止めたのだったか、を。
友達の一人に大怪我をさせてしまったのだ。彼女は僕の作った落とし穴に落ちて、運悪く半身不随になった。それから僕は地元にいづらくなったのだった。そして逃げるようにして、東京にやってきた…。
そうだったのだ。僕がこれほどまでに地元を忌避しているのには、そんな理由もあったのだった。もうすっかり忘れてしまっていた。まさかこんな場所で思い出すなんて、思ってもみなかった。
とりあえず腑に落ちないことは多いけど、病院にまた向かうことにした。しかしその途中で僕は信じられない人に出会うことになる。
20数年前、イタズラに精を出していた頃の僕だった。
僕はそこようやく理解した。いや、ちゃんと理解できたわけではなかっただ、それしか考えようがなかった。つまり、僕は何故か過去へとやってきてしまったのであり、そして僕が子供の頃にあったことがあるおじさんというのは、自分自身だったっていうことを。
このまま落とし穴を作り続けていれば、いつか友達を怪我させてしまう。止めさせないと。
「人を傷つけることになるからイタズラはもう止めろ」
僕は僕に向かってそう言うと、その場を立ち去った。どうせ、あの当時の自分に何を言って聞かせたところで、イタズラを止めるとは思えない。結局何も変えることが出来ないのだろう。
病院に行ったら父親は入院しているだろうか?あるいは、実家で20数年前の姿で生きているのだろうか?どっちとも判断がつかず、とりあえず病院に行くか、と決めた僕でした。
一銃「イタズラを振り返る」
まあありがちなパターンですけどね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、元々ブログで連載されていた小説だったそうですが、やがて人気になり書籍化されたものです。半分実話も織り交ぜた小説、なんだそうです。
舞台は1970年代。田舎に住むヤンチャな高校生が主人公です。
きっかけは、友人の一人がバイクの速度違反で捕まったこです。これに復讐してやろうと、レーダー測定(ねずみ捕り)で自転車は捕まるのか、という実験をすることにしまいした。それにより駐在さんの不興を買い、そして大人気ないことになんと駐在さんは高校生の彼らに復讐をしてきたのです!
やられたらやり返す、をモットーに、頭脳のすべてをイタズラに費やすおバカな高校生たちの、青春の一幕なのです。
というような話です。
いやはや、爆笑しました。面白かったですねぇ。やっぱブログから出てくる作品っていうのは僕は結構好きだなと思いました。
本作は一応小説という形式ですけど、まあ小説として評価するのは難しいですね。文章がどうとか、ストーリーがどうとか、そういう部分はもちろん小説として弱いわけで、そういう部分での評価をしようとすると、なかなか厳しくなると思います。
でも例えばですけど、誰かの日記を読んでる、みたいな雰囲気で読めばすごく楽しめると思います。とにかく、馬鹿馬鹿しいイタズラのオンパレードで、僕は爆笑の連続でした。こういうことばっかりに知恵が回るやつってのは確かにいたなぁ、なんて思いながら読んでいました。
本作を読んでて、何となく、宗田理の「ぼくらの」シリーズのことを思い出しました。「ぼくらの」シリーズは、中学生(だったよな、確か)のあるグループが、いろんな悪巧みを仕掛けながらトラブルも解決するみたいな話で、僕は中学時代にド嵌まりしました。小説としてはもちろん「ぼくらの」シリーズの方が遥かに上ですが、ただイタズラのテイストみたいなものは結構近いんじゃないかなぁ、とか思ったりしました。
彼らのイタズラは、やっぱり駐在さんに対するものが一番面白いです。とにかくこの攻防は長くて、まさにやられたらやり返す、という感じです。駐在さんもホント大人気なくて、大人として、そして駐在さんとしてそんなことしていいわけ!?というようなことさえ臆することなくやっちゃうんですね。とてもまともな大人とは思えませんが、それがストーリーを面白くしています。
やっぱり白眉なのは、「セクシーな下着を駐在所のあちこちに仕掛ける」というイタズラで、これほど綿密でかつ大規模な作戦を成功させた手腕は天才的だなぁ、と思いました。何せ、駐在さんへの「お土産」が、「チョコレート・ノート・三角定規」ですからね。僕も初め意味がわかりませんでしたけど、しばらくして納得しました。ホント頭のいい連中です。
彼らのイタズラは、実は駐在さんだけに留まりません。彼らはとある事情から書店での万引きを疑われるわけだけど、その後「彼らならやりかねないなぁ」的な発言をした商店街の人間がいる、という噂を耳にするわけです。これは復讐するしかねぇ!と彼らは立ち上がります。
レコード屋と電気屋をターゲットにするわけだけど、この復讐もお見事ですね。特に、レコード屋の方の復讐は、単純でいて効果抜群という感じがしました。まあ実はレコード屋の方のイタズラは、事情があって彼ら自身も被害を被ることになっちゃったんだけど。
イタズラを仕掛けるメンバーも強烈な個性の持ち主ばかりで、その中でもエロくて天然な西条君というのが相当いいキャラしてます。巻末ではこの西条君の意外な姿が描かれたりして面白いですね。
たぶんこの作品、書籍化されてるのは全2巻なんだけど、2巻目も読んでみようかなぁ、とか思います。馬鹿馬鹿しくて僕は好きですね。未だにブログの方でも更新が続いているようなんで、機会があればそっちも見てみようと思います。馬鹿馬鹿しい話を読みたいという方、読んだら結構面白いと思いますよ。
ママチャリ「ぼくたちと駐在さんの700日戦争」
公認会計士vs特捜検察(細野祐二)
日曜日。天気のいい日は公園で過ごすことにしている。住宅街にある、申し訳程度に遊具が設置されているだけの寂れた公園だが、そのせいか昼間でも人気がなく、それで気に入っている。休日はアクティブに過ごしたい、という人もたくさんいるんだろうけど、僕はそんなタイプじゃなくて、時間を後ろから追いかけるくらいのんびりと過ごしたいと思っている。公園での読書は、僕にとって最高の休日の過ごし方と言える。
僕はいつものように本とペットボトル飲料を持って公園にやってきた。日差しがきついが、風があるので過ごしにくいということはない。
ペンキの剥げたベンチに座って本を読んでいると、公園に人が入ってくる気配があった。顔を上げると、そこにはよく見かけるホームレスがいた。ボロボロの服にボロボロのずた袋のようなものを持ってその辺をウロウロしている。この公園を根城にしているようで、見かけることも多い。
特に関心があるわけでもないのでまた読書に戻る。しばらくは何事もなく、ゆっくりと時間が過ぎて行った。読んでいる小説がなかなか面白く、次第に僕はのめり込んで行った。
悲鳴が聞こえたのは、ホームレスがやってきてから1時間ぐらい経った頃だっただろうか。
悲鳴のする方を見ると、一人の男が血まみれのナイフを持って立っていた。その前には、胸元を真っ赤に染めたホームレスが横たわっている。まだ生きているようであるが、男はとどめを差すつもりなのか、またナイフを突き出そうとしている。
「何してるんだ!」
僕はそうやって大声を上げながらそちらに向かって行った。自分でもなかなか勇気のある行動だと思う。何せ相手はナイフを持ってまさに殺人を終えた男なのだ。
男は僕の静止の声に一瞬気を取られたものの、すぐにホームレスに向き直りナイフを突き立てた。ホームレスは横たわったまま動かなくなってしまった。
僕はとりあえず救急車を呼ぶことにした。電話を掛けるが、しかし男はゆっくりとその場を立ち去ろうとしている。このままでは逃げられてしまう。電話が繋がると僕は、「○○公園で男性が刺されて血塗れです!」とだけ叫んで電話を切り、すぐに男を追いかけた。
「待て!逃げるんじゃない?」
男は振り向くと、何を言ってるんだ、という顔をした。
「逃げる?俺は別に逃げようなんて思っちゃいないさ。ただ家に帰るだけだ」
「何言ってるんだ!人を殺したくせに、このまま帰れるわけがないじゃないか!」
男は、さも不思議なことを聞いた、というような表情を浮かべて言った。
「君は一体何を言ってるんだね。人を殺すことの、どこが一体悪いというんだ」
その言葉に僕は唖然としてしまった。人を殺したことを悪いと思っていない。こいつはダメだ。話して通じる相手じゃない。僕はとりあえず男の足を蹴り払って地面に倒し、背中から馬乗りになって腕をねじ上げ、男からナイフを奪った。
「何をするんだ、お前は!」
男は執拗に逃れようとしたが、僕も必死でそれに対抗した。僕はなんとか警察に電話を掛け、「殺人犯を捕まえたんで一刻も早く○○公園に来てください!」とだけ叫び電話を切った。とてもじゃないが、電話をしながら男を押さえるのが困難だったのだ。
しばらくするとサイレン音が聞こえてきた。どうやら救急車がやってきたようだ。
救急隊員が僕に向かってやってきた。何だか複雑な表情をしているが、その意味は僕にはわからない。
「怪我人はどこに?」
「あっちです。血まみれで倒れているはずです」
救急隊員は手際よくホームレスを救急車に収容した。それから僕の方へと戻ってきた。
「君、そんなことをしてると警察に捕まるよ」
初め何を言われたのかよく分からなかったが、僕が殺人犯の男の上に乗っかっていることを言っているらしかった。
「でも、この男が人を刺したんですよ。逃すわけには行きません」
救急隊員は、こいつは何を言ってるんだ、という顔をしたが、しかしすぐに救急車を出さなければいけないからだろう。それ以上追及することなく去って行った。
それからすぐに警察がやってきた。
「おまわりさん、この男がホームレスを刺したんです。早く逮捕してください!」
男を拘束し続けるのもそろそろ限界だった。警察がきてくれて助かった、と思った。これで解放される。
警官は僕らをしばらく眺めていた。早く捕まえてくれよ、と僕は思った。
やがて警官は手錠を取り出すと、僕らの方へと向かってきた。
「14時36分、現行犯逮捕」
逮捕されたのは、何故か僕の方だった。
僕は手錠を掛けられ、そして殺人犯の男は解放された。警官と殺人犯の男は少しだけ会話を交わし、恐らく殺人犯の男の住所と名前をメモしたようだ。それだけで帰してしまった。
「おまわりさん!あの男は殺人を犯したんですよ!何であの男が帰れて、僕が逮捕されないといけないんですか!」
警官は、僕が何を言っているのかさっぱり理解できない、という顔をした。
「まあ、詳しいことは署で聞くから」
そう言って僕は警察署に連れて行かれることになった。僕はあまりのわけのわからなさに茫然とするだけだった。
取調室に連れて行かれた僕は、強面の刑事から話を聞かれることになった。
「君は、自分が何故逮捕されたのか理解出来ているよね?」
「いえ、まったく分かりません」
正直なところ、まったく理解できなかった。何故殺人をおかした人間が解放され、その男を善意から捕まえた僕が逮捕されなくてはいけないのだろうか。
「君は男性に対して暴行をしていた。暴行とまでいかなくても、拘束していたことは間違いないね。逮捕の理由はそれで十分だと思うが」
もしかしたら、僕が捕まえていたのが殺人犯だったというのが伝わっていないのかもしれない、と僕は思った。
「相手は殺人犯だったんですよ?その男を捕まえるために多少荒っぽいことをしても仕方ないじゃないですか!」
そう説明すると、刑事は妙なことを聞いたという顔をするのだった。僕は何だか得体の知れない不安に襲われた。
「じゃあ聞くが、どうしてホームレスを殺すことが悪いことなんだね?」
僕は唖然として、開いた口が塞がらなかった。
「あなたは、ホームレスだから殺してもいいって言うんですか!刑事のあなたがそんなんでいいんですか!」
そういうと刑事は苦笑し、
「あぁ、ごめんごめん。言い方がまずかったかな。要するに私はね、何で人を殺すのが悪いことなんだろう、って聞きたかったんだ」
「…」
僕には意味が分からなかった。人を殺すことはどう考えても悪いことだし、法律にもそう明記されているはずではないか。
「君はそう言うけど、じゃあきちんと法律を読んだことがあるのかね?人を殺すことが法律上いけないことだという文章を読んだことがあるのかね?」
そう言われれば、ないと答えるしかない。でも、普通に考えて、人を殺すことは悪いに決まってるじゃないか!
「君が、どうして人を殺すことが悪いと主張するのか、私には理解できなくて申し訳ないが、法律にはそんな記載はない。つまり、悪くもない人間の自由を奪っていた君こそが、本当の犯罪者だ、ということなんだ」
信じられなかった。いつからこの国は人を殺してもいい国になったのだろうか。そう言えば、殺人犯を捕まえてから僕が受けた視線は、すべて困惑を含んでいた。本当に僕は間違っているのだろうか?
もうよくわからなくなってきた。ただ、もし人を殺すことが罪にならないのなら、今目の前にいるこの刑事を殺して逃げたらどうなるだろう、と僕は思った。
一銃「殺人事件」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、とある公認会計士が巻き込まれたある事件の顛末が描かれています。
キャッツという会社が粉飾決算をしたということで摘発された折、その粉飾決算を指示したという共同正犯の罪で本作の著者である細野祐二公認会計士も逮捕されてしまうのである。細野氏は任意での取調べ時から一貫して無罪を主張し続けた。しかし、既に捕まっていたキャッツの経営者らから不当なやり方で自白を強要した警察官が、真実を大幅にねじ曲げたストーリーを描き、そのストーリーに沿ってすべてが進んで行ってしまっている。ありとあらゆる手を尽くして証拠や証言を集めたにも関わらず、一審二審とも有罪判決が下ってしまった。
細野氏は、自分は無罪であり、本件は警察官による冤罪捏造事件であると主張する。これから細野氏は最高裁での争いを続けることになるのだが、その裁判のことも見据えて、自分がこの事件・裁判に関して経験したすべてのことを記録しておこう、として書かれたのが本作である。
本作では、時系列順ではないが、細野氏がキャッツという会社と関わったいきさつから、摘発を受けるまでの詳細な経緯、執拗な取調べと裁判と、すべての過程を詳細に記録している。国策によって作られた事件で有罪を受けることになってしまった著者の真実の叫びである。
本作で描かれる事件は会計の問題であって、本作でもかなり詳しい(だろうと思う)会計の話がボンボン出てくる。正直、簿記の基礎さえも知らない僕にはちんぷんかんぷんのやりとりが多かった。でも、本作を最後まで読み通せば、確かに会計的な部分についてはまったく理解できないものの、細野氏が無実であることは明白だと思う。これは、以前痴漢冤罪についての本を読んだ時も感じたことだが、裁判でこれだけのことが明らかになっているのに、どうして有罪になるのだろうか判断に苦しむ展開になっている。
事件自体の概要を説明するのは僕の知識では難しいけど、僕なりに理解した限りでは問題は次の二点に集約されるようだ。
①キャッツの社長等は、自社株の値段を吊り上げる株価操作をするために、会社の金60億を使ったが、株価操作に失敗した。その60億を、返済の見込みがないと分かっていながら社長個人に貸付たという処理をした疑い。
②60億円の穴を埋めるために、本来6億円程度しか価値のないある会社を60億円の資産価値があるとして買収しごまかした疑い
間違ってるかもしれないけど、大体こういうことのようです。
これに対し細野氏は、まず会計上の原則から考えてそもそも犯罪行為はなかった、と主張しています。詳しいことは理解できませんでしたが、とにかく会計原則に則る限り、自分の会計処理は正しかった、という主張です。問題は、検察官や裁判官の側に会計的な知識が乏しいために、細野氏の主張が理解されない、ということです。
さてしかし、まあこれは仕方ないかもしれない、と僕は思うわけです。仕方ないで済ませてはいけないと思いますけど、法律のプロに、会計の知識も完璧に身につけろというのは酷だし、会計的な認識の部分で食い違いがあっても、まあまだ理解できなくもない、という風には思いました。
でもすごいのはここからです。
例えば検察官は、ある特定の日の会議で細野氏がこの事件全体の共謀を行った、という風にストーリーを描いています。この共謀があったとされる会議は3回指摘されています。
しかしその内一回は、細野氏に完全なアリバイがあります。海外にいたことがパスポートの記録によって証明されているのです。
またもう一回については、共謀の相手とされる人物がその会議にはいなかったことが証明されています。
また最後の一回については、共謀を目論んでいたなら出てくるはずのない発言が議事録にちゃんと残っている、という証拠があるわけです。
検察官が描いたストーリーでは、この3回の会議での共謀なしに、細野氏を共同正犯に仕立て上げる根拠はないのです。細野氏は自力で、この3回の会議について共謀はありえなかったという証明を提示したわけです。
それでも有罪なのです。これは会計がどうのという話とは無関係なので僕にも理解できます。ありえないですね、こんなのは。
また別の話もあります。本事件では、細野氏の自宅から一千万円が見つかっています。検察官はこの一千万円を、粉飾決算のお礼にキャッツの社長が細野氏にあげたものだ、としました。しかし、それが間違いであると細野氏は証明をしました。
細野氏は、銀行の帯封についている番号から、いつ銀行から引き出された金なのかを調べました。その時期はもちろん、検察官がお金の受け渡しがあったはずだと主張する時期とはまったく違っていたわけです。それなのに、その点も判決では無視されました。
本作では、一審と二審の裁判の様子がかなり細かく描かれるわけですが、二審について読む限り、細野氏が有罪になることはまずありえないだろう、という議論になっていると僕は思います。細野氏の側から、これでもかというぐらいの証拠が提示されているし、細野氏側の証言や論証に対して検察官は特に有効な反証や反論などは出来ていないわけです。会計の原則上も犯罪ではありえない、またアリバイ上も共謀はありえない、また多くの証言により、この事件は検察官が真実をねじ曲げているという指摘までされているわけです。
それなのに、細野氏は有罪です。これはまずありえないでしょう。もしこの裁判が裁判員制度の元で行われていたら(まあ裁判員制度はこういう経済事件にも適応されるのかどうか知りませんけど)、まず間違いなく無罪だと思います。検察官の側には具体的な証拠はほとんどなく、検察官の主張はキャッツの経営者らの証言に拠っているわけです。しかしその証言も、検察官がストーリーを作り上げ、それに無理矢理署名されたのだと証言が出ています。一方で細野氏の側は、これでもかというほど証拠を提示し、検察官のストーリーをことごとく叩き潰しているわけです。
それにも関わらず、細野氏は有罪なわけです。
日本の刑事裁判では、裁判に掛けられてしまうと99.9%有罪と認定されてしまいます。だからこそ、裁判に掛けられたのだから有罪に違いない、という暗黙の了解のような物が存在することになります。検察官は、起訴した事件はどんなことがあっても有罪に持ち込むようにしますし、裁判官は裁判官で無罪を出すことに臆病になります。
しかしそんな理由で、無実の人間が罪に問われていたらたまりません。司法の闇は深い、と著者は語りますがまさにその通りだと思います。誰かが歯止めを掛けなければ、日本の裁判というのは魔女裁判になってしまうのではないでしょうか。
しかし検察官というのはホント嫌な人間ですね。検察官の呆れる話を二つほど書きましょう。
まず、細野氏の一審での裁判でのことです。証人としてキャッツの経営者らが呼ばれたわけですけど、検察官は彼らに証人の特訓を繰り返していた、と言います。
それは、検察官が作った原稿を丸暗記させ、一字一句でも間違えるとやり直しをさせる、というものです。弁護士との想定問答集も用意され、検察官の用意した答えの通りに答えるように言われます。これを40回~50回もやっていたというのですから、もう異常としかいいようがありません。検察官が証人にプレッシャーを掛けるというのは通常の裁判でもよくあるようで、ホント酷いなと思います。
次は二審でのことです。最終弁論での検察官からの反対尋問でのこと。検察官は細野氏に向かって、
『最後に一つ聞いておきたいが、関係者はすべて罪を認めて刑が確定しているにもかかわらず、専門家であるあなただけがなぜいつまでも争っているのか?』
なんてことを言うわけです。
こんなこと言われたらキレますよね。だって!そもそもこの事件は検察官が生み出した冤罪事件なわけで、謂れなき罪と戦うのは当然でしょう。その状況を生み出した張本人から、何故あなただけは未だに争ってるんですか?なんて聞かれて、平静でいられる人間がいるでしょうか?ホント、検察官というのは頭がおかしいんだろうな、と思いました。っていうか、人間なんですかね、ホント。
とにかく本作を読むと、日本の裁判がいかに酷いかということがよくわかります。とにかく日本では、刑事事件で逮捕されたらほぼ終わりだと思えば間違いありません。本事件のように、無実であることの証明を明確にしても、それでもなお有罪にされてしまうわけです。
僕だったらどうするかな、と考えてしまいますね。痴漢の冤罪の本を読んだ時も考えましたけど、自分が無実の罪で捕まったとした時、やってもいない罪を認めてさっさと終わらせるか、あるいはやってないと主張して戦うか。僕は、性格的には間違いなく後者です。やってもいないことをやったと認めることはどうしても出来ないし、それをするぐらいなら死んでやりたいとも思います。ただ、後者の選択はホントに救いがないんです。裁判できっと真実が明らかになるはずだ、ということも期待できないわけです。裁判で真実が明らかになる可能性が少しでもあるなら、刑事や検察官の取り調べにも耐えられそうですけど、結局裁判でをやっても無実だと証明されないなら突っ張る意味はないのかもしれない、と思えてしまいます。まあ何にしても、無実の罪で捕まらないようにするしかないんでしょうけど、こればっかりは何がどうなるか分からないですからね。ホント怖いですね。
大した話ではありませんが、本作で二箇所誤植を見つけました。僕にしては珍しいです。
P380に、『本を正せば、今回の被告人尋問は…』という文章があるんですけど、これって『元を正せば、』が正しいですよね、たぶん。
あと本作には、『開發』という名前の人物が出てくるんですけど、これがP393では『開発』になっています。本作は既に四刷まで行っているので、この段階でもまだ誤植ってあるんだなぁ、とか思いました。
そんなわけで、非常に恐ろしい本だと思います。本作を読めば、細野氏が真面目な公認会計士であり、細野氏は明らかに無実であることは分かると思います。それでも、日本の司法においては有罪おされてしまう。とんでもない国に住んでいるんだな、ということを自覚することの出来る一冊だと思います。伊坂幸太郎の「ゴールデンスランバー」ほどではないですけど、国によって嵌められるっていうのはホントにあるんだな、と思いました。佐藤優氏の「国家の罠」も読んでみようかな、と思いました。本作は、経営者や公認会計士は読んだ方がいいと思うし、司法関係者には是非読んでもらいたいし、そして何よりも酷い司法制度しか持つことの出来ないこの国に住むすべての人が読んだ方がいい作品だなと思いました。
細野祐二「公認会計士vs特捜検察」
僕はいつものように本とペットボトル飲料を持って公園にやってきた。日差しがきついが、風があるので過ごしにくいということはない。
ペンキの剥げたベンチに座って本を読んでいると、公園に人が入ってくる気配があった。顔を上げると、そこにはよく見かけるホームレスがいた。ボロボロの服にボロボロのずた袋のようなものを持ってその辺をウロウロしている。この公園を根城にしているようで、見かけることも多い。
特に関心があるわけでもないのでまた読書に戻る。しばらくは何事もなく、ゆっくりと時間が過ぎて行った。読んでいる小説がなかなか面白く、次第に僕はのめり込んで行った。
悲鳴が聞こえたのは、ホームレスがやってきてから1時間ぐらい経った頃だっただろうか。
悲鳴のする方を見ると、一人の男が血まみれのナイフを持って立っていた。その前には、胸元を真っ赤に染めたホームレスが横たわっている。まだ生きているようであるが、男はとどめを差すつもりなのか、またナイフを突き出そうとしている。
「何してるんだ!」
僕はそうやって大声を上げながらそちらに向かって行った。自分でもなかなか勇気のある行動だと思う。何せ相手はナイフを持ってまさに殺人を終えた男なのだ。
男は僕の静止の声に一瞬気を取られたものの、すぐにホームレスに向き直りナイフを突き立てた。ホームレスは横たわったまま動かなくなってしまった。
僕はとりあえず救急車を呼ぶことにした。電話を掛けるが、しかし男はゆっくりとその場を立ち去ろうとしている。このままでは逃げられてしまう。電話が繋がると僕は、「○○公園で男性が刺されて血塗れです!」とだけ叫んで電話を切り、すぐに男を追いかけた。
「待て!逃げるんじゃない?」
男は振り向くと、何を言ってるんだ、という顔をした。
「逃げる?俺は別に逃げようなんて思っちゃいないさ。ただ家に帰るだけだ」
「何言ってるんだ!人を殺したくせに、このまま帰れるわけがないじゃないか!」
男は、さも不思議なことを聞いた、というような表情を浮かべて言った。
「君は一体何を言ってるんだね。人を殺すことの、どこが一体悪いというんだ」
その言葉に僕は唖然としてしまった。人を殺したことを悪いと思っていない。こいつはダメだ。話して通じる相手じゃない。僕はとりあえず男の足を蹴り払って地面に倒し、背中から馬乗りになって腕をねじ上げ、男からナイフを奪った。
「何をするんだ、お前は!」
男は執拗に逃れようとしたが、僕も必死でそれに対抗した。僕はなんとか警察に電話を掛け、「殺人犯を捕まえたんで一刻も早く○○公園に来てください!」とだけ叫び電話を切った。とてもじゃないが、電話をしながら男を押さえるのが困難だったのだ。
しばらくするとサイレン音が聞こえてきた。どうやら救急車がやってきたようだ。
救急隊員が僕に向かってやってきた。何だか複雑な表情をしているが、その意味は僕にはわからない。
「怪我人はどこに?」
「あっちです。血まみれで倒れているはずです」
救急隊員は手際よくホームレスを救急車に収容した。それから僕の方へと戻ってきた。
「君、そんなことをしてると警察に捕まるよ」
初め何を言われたのかよく分からなかったが、僕が殺人犯の男の上に乗っかっていることを言っているらしかった。
「でも、この男が人を刺したんですよ。逃すわけには行きません」
救急隊員は、こいつは何を言ってるんだ、という顔をしたが、しかしすぐに救急車を出さなければいけないからだろう。それ以上追及することなく去って行った。
それからすぐに警察がやってきた。
「おまわりさん、この男がホームレスを刺したんです。早く逮捕してください!」
男を拘束し続けるのもそろそろ限界だった。警察がきてくれて助かった、と思った。これで解放される。
警官は僕らをしばらく眺めていた。早く捕まえてくれよ、と僕は思った。
やがて警官は手錠を取り出すと、僕らの方へと向かってきた。
「14時36分、現行犯逮捕」
逮捕されたのは、何故か僕の方だった。
僕は手錠を掛けられ、そして殺人犯の男は解放された。警官と殺人犯の男は少しだけ会話を交わし、恐らく殺人犯の男の住所と名前をメモしたようだ。それだけで帰してしまった。
「おまわりさん!あの男は殺人を犯したんですよ!何であの男が帰れて、僕が逮捕されないといけないんですか!」
警官は、僕が何を言っているのかさっぱり理解できない、という顔をした。
「まあ、詳しいことは署で聞くから」
そう言って僕は警察署に連れて行かれることになった。僕はあまりのわけのわからなさに茫然とするだけだった。
取調室に連れて行かれた僕は、強面の刑事から話を聞かれることになった。
「君は、自分が何故逮捕されたのか理解出来ているよね?」
「いえ、まったく分かりません」
正直なところ、まったく理解できなかった。何故殺人をおかした人間が解放され、その男を善意から捕まえた僕が逮捕されなくてはいけないのだろうか。
「君は男性に対して暴行をしていた。暴行とまでいかなくても、拘束していたことは間違いないね。逮捕の理由はそれで十分だと思うが」
もしかしたら、僕が捕まえていたのが殺人犯だったというのが伝わっていないのかもしれない、と僕は思った。
「相手は殺人犯だったんですよ?その男を捕まえるために多少荒っぽいことをしても仕方ないじゃないですか!」
そう説明すると、刑事は妙なことを聞いたという顔をするのだった。僕は何だか得体の知れない不安に襲われた。
「じゃあ聞くが、どうしてホームレスを殺すことが悪いことなんだね?」
僕は唖然として、開いた口が塞がらなかった。
「あなたは、ホームレスだから殺してもいいって言うんですか!刑事のあなたがそんなんでいいんですか!」
そういうと刑事は苦笑し、
「あぁ、ごめんごめん。言い方がまずかったかな。要するに私はね、何で人を殺すのが悪いことなんだろう、って聞きたかったんだ」
「…」
僕には意味が分からなかった。人を殺すことはどう考えても悪いことだし、法律にもそう明記されているはずではないか。
「君はそう言うけど、じゃあきちんと法律を読んだことがあるのかね?人を殺すことが法律上いけないことだという文章を読んだことがあるのかね?」
そう言われれば、ないと答えるしかない。でも、普通に考えて、人を殺すことは悪いに決まってるじゃないか!
「君が、どうして人を殺すことが悪いと主張するのか、私には理解できなくて申し訳ないが、法律にはそんな記載はない。つまり、悪くもない人間の自由を奪っていた君こそが、本当の犯罪者だ、ということなんだ」
信じられなかった。いつからこの国は人を殺してもいい国になったのだろうか。そう言えば、殺人犯を捕まえてから僕が受けた視線は、すべて困惑を含んでいた。本当に僕は間違っているのだろうか?
もうよくわからなくなってきた。ただ、もし人を殺すことが罪にならないのなら、今目の前にいるこの刑事を殺して逃げたらどうなるだろう、と僕は思った。
一銃「殺人事件」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、とある公認会計士が巻き込まれたある事件の顛末が描かれています。
キャッツという会社が粉飾決算をしたということで摘発された折、その粉飾決算を指示したという共同正犯の罪で本作の著者である細野祐二公認会計士も逮捕されてしまうのである。細野氏は任意での取調べ時から一貫して無罪を主張し続けた。しかし、既に捕まっていたキャッツの経営者らから不当なやり方で自白を強要した警察官が、真実を大幅にねじ曲げたストーリーを描き、そのストーリーに沿ってすべてが進んで行ってしまっている。ありとあらゆる手を尽くして証拠や証言を集めたにも関わらず、一審二審とも有罪判決が下ってしまった。
細野氏は、自分は無罪であり、本件は警察官による冤罪捏造事件であると主張する。これから細野氏は最高裁での争いを続けることになるのだが、その裁判のことも見据えて、自分がこの事件・裁判に関して経験したすべてのことを記録しておこう、として書かれたのが本作である。
本作では、時系列順ではないが、細野氏がキャッツという会社と関わったいきさつから、摘発を受けるまでの詳細な経緯、執拗な取調べと裁判と、すべての過程を詳細に記録している。国策によって作られた事件で有罪を受けることになってしまった著者の真実の叫びである。
本作で描かれる事件は会計の問題であって、本作でもかなり詳しい(だろうと思う)会計の話がボンボン出てくる。正直、簿記の基礎さえも知らない僕にはちんぷんかんぷんのやりとりが多かった。でも、本作を最後まで読み通せば、確かに会計的な部分についてはまったく理解できないものの、細野氏が無実であることは明白だと思う。これは、以前痴漢冤罪についての本を読んだ時も感じたことだが、裁判でこれだけのことが明らかになっているのに、どうして有罪になるのだろうか判断に苦しむ展開になっている。
事件自体の概要を説明するのは僕の知識では難しいけど、僕なりに理解した限りでは問題は次の二点に集約されるようだ。
①キャッツの社長等は、自社株の値段を吊り上げる株価操作をするために、会社の金60億を使ったが、株価操作に失敗した。その60億を、返済の見込みがないと分かっていながら社長個人に貸付たという処理をした疑い。
②60億円の穴を埋めるために、本来6億円程度しか価値のないある会社を60億円の資産価値があるとして買収しごまかした疑い
間違ってるかもしれないけど、大体こういうことのようです。
これに対し細野氏は、まず会計上の原則から考えてそもそも犯罪行為はなかった、と主張しています。詳しいことは理解できませんでしたが、とにかく会計原則に則る限り、自分の会計処理は正しかった、という主張です。問題は、検察官や裁判官の側に会計的な知識が乏しいために、細野氏の主張が理解されない、ということです。
さてしかし、まあこれは仕方ないかもしれない、と僕は思うわけです。仕方ないで済ませてはいけないと思いますけど、法律のプロに、会計の知識も完璧に身につけろというのは酷だし、会計的な認識の部分で食い違いがあっても、まあまだ理解できなくもない、という風には思いました。
でもすごいのはここからです。
例えば検察官は、ある特定の日の会議で細野氏がこの事件全体の共謀を行った、という風にストーリーを描いています。この共謀があったとされる会議は3回指摘されています。
しかしその内一回は、細野氏に完全なアリバイがあります。海外にいたことがパスポートの記録によって証明されているのです。
またもう一回については、共謀の相手とされる人物がその会議にはいなかったことが証明されています。
また最後の一回については、共謀を目論んでいたなら出てくるはずのない発言が議事録にちゃんと残っている、という証拠があるわけです。
検察官が描いたストーリーでは、この3回の会議での共謀なしに、細野氏を共同正犯に仕立て上げる根拠はないのです。細野氏は自力で、この3回の会議について共謀はありえなかったという証明を提示したわけです。
それでも有罪なのです。これは会計がどうのという話とは無関係なので僕にも理解できます。ありえないですね、こんなのは。
また別の話もあります。本事件では、細野氏の自宅から一千万円が見つかっています。検察官はこの一千万円を、粉飾決算のお礼にキャッツの社長が細野氏にあげたものだ、としました。しかし、それが間違いであると細野氏は証明をしました。
細野氏は、銀行の帯封についている番号から、いつ銀行から引き出された金なのかを調べました。その時期はもちろん、検察官がお金の受け渡しがあったはずだと主張する時期とはまったく違っていたわけです。それなのに、その点も判決では無視されました。
本作では、一審と二審の裁判の様子がかなり細かく描かれるわけですが、二審について読む限り、細野氏が有罪になることはまずありえないだろう、という議論になっていると僕は思います。細野氏の側から、これでもかというぐらいの証拠が提示されているし、細野氏側の証言や論証に対して検察官は特に有効な反証や反論などは出来ていないわけです。会計の原則上も犯罪ではありえない、またアリバイ上も共謀はありえない、また多くの証言により、この事件は検察官が真実をねじ曲げているという指摘までされているわけです。
それなのに、細野氏は有罪です。これはまずありえないでしょう。もしこの裁判が裁判員制度の元で行われていたら(まあ裁判員制度はこういう経済事件にも適応されるのかどうか知りませんけど)、まず間違いなく無罪だと思います。検察官の側には具体的な証拠はほとんどなく、検察官の主張はキャッツの経営者らの証言に拠っているわけです。しかしその証言も、検察官がストーリーを作り上げ、それに無理矢理署名されたのだと証言が出ています。一方で細野氏の側は、これでもかというほど証拠を提示し、検察官のストーリーをことごとく叩き潰しているわけです。
それにも関わらず、細野氏は有罪なわけです。
日本の刑事裁判では、裁判に掛けられてしまうと99.9%有罪と認定されてしまいます。だからこそ、裁判に掛けられたのだから有罪に違いない、という暗黙の了解のような物が存在することになります。検察官は、起訴した事件はどんなことがあっても有罪に持ち込むようにしますし、裁判官は裁判官で無罪を出すことに臆病になります。
しかしそんな理由で、無実の人間が罪に問われていたらたまりません。司法の闇は深い、と著者は語りますがまさにその通りだと思います。誰かが歯止めを掛けなければ、日本の裁判というのは魔女裁判になってしまうのではないでしょうか。
しかし検察官というのはホント嫌な人間ですね。検察官の呆れる話を二つほど書きましょう。
まず、細野氏の一審での裁判でのことです。証人としてキャッツの経営者らが呼ばれたわけですけど、検察官は彼らに証人の特訓を繰り返していた、と言います。
それは、検察官が作った原稿を丸暗記させ、一字一句でも間違えるとやり直しをさせる、というものです。弁護士との想定問答集も用意され、検察官の用意した答えの通りに答えるように言われます。これを40回~50回もやっていたというのですから、もう異常としかいいようがありません。検察官が証人にプレッシャーを掛けるというのは通常の裁判でもよくあるようで、ホント酷いなと思います。
次は二審でのことです。最終弁論での検察官からの反対尋問でのこと。検察官は細野氏に向かって、
『最後に一つ聞いておきたいが、関係者はすべて罪を認めて刑が確定しているにもかかわらず、専門家であるあなただけがなぜいつまでも争っているのか?』
なんてことを言うわけです。
こんなこと言われたらキレますよね。だって!そもそもこの事件は検察官が生み出した冤罪事件なわけで、謂れなき罪と戦うのは当然でしょう。その状況を生み出した張本人から、何故あなただけは未だに争ってるんですか?なんて聞かれて、平静でいられる人間がいるでしょうか?ホント、検察官というのは頭がおかしいんだろうな、と思いました。っていうか、人間なんですかね、ホント。
とにかく本作を読むと、日本の裁判がいかに酷いかということがよくわかります。とにかく日本では、刑事事件で逮捕されたらほぼ終わりだと思えば間違いありません。本事件のように、無実であることの証明を明確にしても、それでもなお有罪にされてしまうわけです。
僕だったらどうするかな、と考えてしまいますね。痴漢の冤罪の本を読んだ時も考えましたけど、自分が無実の罪で捕まったとした時、やってもいない罪を認めてさっさと終わらせるか、あるいはやってないと主張して戦うか。僕は、性格的には間違いなく後者です。やってもいないことをやったと認めることはどうしても出来ないし、それをするぐらいなら死んでやりたいとも思います。ただ、後者の選択はホントに救いがないんです。裁判できっと真実が明らかになるはずだ、ということも期待できないわけです。裁判で真実が明らかになる可能性が少しでもあるなら、刑事や検察官の取り調べにも耐えられそうですけど、結局裁判でをやっても無実だと証明されないなら突っ張る意味はないのかもしれない、と思えてしまいます。まあ何にしても、無実の罪で捕まらないようにするしかないんでしょうけど、こればっかりは何がどうなるか分からないですからね。ホント怖いですね。
大した話ではありませんが、本作で二箇所誤植を見つけました。僕にしては珍しいです。
P380に、『本を正せば、今回の被告人尋問は…』という文章があるんですけど、これって『元を正せば、』が正しいですよね、たぶん。
あと本作には、『開發』という名前の人物が出てくるんですけど、これがP393では『開発』になっています。本作は既に四刷まで行っているので、この段階でもまだ誤植ってあるんだなぁ、とか思いました。
そんなわけで、非常に恐ろしい本だと思います。本作を読めば、細野氏が真面目な公認会計士であり、細野氏は明らかに無実であることは分かると思います。それでも、日本の司法においては有罪おされてしまう。とんでもない国に住んでいるんだな、ということを自覚することの出来る一冊だと思います。伊坂幸太郎の「ゴールデンスランバー」ほどではないですけど、国によって嵌められるっていうのはホントにあるんだな、と思いました。佐藤優氏の「国家の罠」も読んでみようかな、と思いました。本作は、経営者や公認会計士は読んだ方がいいと思うし、司法関係者には是非読んでもらいたいし、そして何よりも酷い司法制度しか持つことの出来ないこの国に住むすべての人が読んだ方がいい作品だなと思いました。
細野祐二「公認会計士vs特捜検察」
心臓と左手(石持浅海)
「高橋じゃないか?久しぶりだな」
仕事を終え、家に戻る途中だった。関わっていた事件が、被疑者死亡のまま書類送検され、事実上捜査が終了した直後のことだった。幸いなことにまだ大きな事件も起きていない。久しぶりに早めの帰宅となったのだ。
「もしかして山下か?ホント久しぶりだ」
高橋は正直、嫌な奴に出会ったな、と思った。山下とは大学時代の友人で、そしてテレビ局に入った。今でも恐らくそこで働いているだろう。大学時代はそれなりに付き合いもあったが、卒業後はまったく連絡を取り合うこともなかった。実に十数年ぶりと言える再会だった。
山下は一度、世間をあっと驚かせるようなことをやってのけた。そのため、刑事である高橋にとっては苦々しい思い出と結びつく存在なのだった。
それは3年前のこと。山下はあるドラマの撮影で天才的な手腕を発揮し、それにより業界では伝説としてささやかれている、と聞く。一方で警察としては、まんまとしてやられたという立場であり、未だに山下への苛立ちを露にする人間も多い。
山下は、本物の刑事と機動隊を動因させた立て篭もりシーンの撮影をやってのけたのだった。
初めはコンビニからの通報で、銃を持った二人組の男が金を寄越せとやってきたが、結局お金を取ることなく逃げた、というものだった。その後犯人が近くにある市民体育館に逃げ込んだとの情報があり、まもなく立て篭もり事件と判断された。
人質は、当時体育館を使用していたバスケットリームのメンバーというところまでは分かったが、しかし受付時に虚偽の記載をしたようで、人質がどこの誰なのかは分からなかった。
刑事と機動隊が市民体育館を包囲し、しばらく緊迫した状況が続いた。しかししばらくすると、上層部から撤退の命令が下された。テレビ局からの連絡があり、これがドラマの撮影であることが告げられたのだった。
警察は、ドラマの撮影のために駆り出されたと知って憤ったが、しかし彼らを罪に問うことは困難だった。テレビ局側はその市民体育館を撮影のためということで一日借り受けていたし、犯人と人質も皆エキストラと俳優であった。武器はすべて模造であり、表向き問題はないと言えた。問うことが出来たのは、公務執行妨害ぐらいなもので、初めに通報したコンビニの店長も元々計画を知っていたということで、強盗未遂という線での立件も見送られた。警察としては未だに記憶に残る苦々しい事件だった。
その首謀者が山下であり、だからこそ高橋は山下にいい印象を持っていないのだ。
どちらからともなく飲みに行くかという話になり、近くの居酒屋へ向かった。
「最近は大人しくしてるのか?」
山下は苦笑し、
「まああん時のことは許してくれ。お陰でいいのが撮れたよ」
と悪びれない。まあ直接関わっていたわけではないからいいけどな、といい、そこでつい先ほどまで関わっていた事件を思い出した。
「廃工場の立て篭もり事件、知ってるか?」
「あぁ、ちょっと前までニュースでやってたな」
「つい最近その事件が決着してな。お前の顔を見ると何だか立て篭もりのことしか浮かばないな」
そういうと、またしても山下は苦笑した。
廃工場での立て篭もり事件が起きたのは、今からひと月ほど前のこと。犯人の男が、当時たまたま廃工場にいた大学生数人を人質に取り立て篭もった事件で、犯人の目的は今になっても不明。持っていた銃で人質の一人を殺し、刑事の一人を重症に陥れ、最後には特殊班の人間に射殺されたのだった。
「しかしあの事件も不自然なところが多すぎるよね」
山下がそう言ったのを、高橋は怪訝に思った。どこがおかしいというのだろうか。
「まずなぜ廃工場にそもそも人がいたのか。彼らは、自分達は廃墟マニアで、だからそこにいたのだと主張したようだけど、僕にはどうにも不自然に感じられるんだ。あの日たまたまあそこに人質となる人間がいたというのが」
言われてみればそうかもしれないが、しかしたまたま人質がいたから事件が起きたのだ、ということでしかないだろうと思う。そんなに大したことではないだろう、と高橋は言った。
「それに犯人もおかしい。僕も中継を見てたけど、犯人は初めの内はずっと沈黙していたけど、人質の一人を殺してから急に饒舌になった。しきりに、自分は違うんだ、というようなことを言っていなかったか。まあその直後、銃を持ったまま刑事の方に向かって行ったから射殺されてしまったんだけど。その行動も、おかしいだろう」
それについては確かに捜査本部内でも意見があったが、しかし被疑者がが犯行を行っていたことは間違いないし、既に被疑者は死亡しているので仕方ない、と判断されたのだ。
「お前は何が言いたいんだ」
「要するに、真相は別にあるってこと」
「お前なら分かるっていうのか」
「まあね。分かるっていうか、知っているって感じだけど」
高橋は山下を見つめる。まさか、という思いが過ぎる。あさかそんなことがありえるだろうか。
「まさか、お前が首謀者だ、なんて言うんじゃないだろうな」
「案外冴えてるじゃないか。そう、俺があいつをそそのかしたんだよ。どうやったかは簡単さ。俺なら、また立て篭もりの撮影をやるんだ、と言いさえすれば信用される。銃は偽物だと言って本物を渡せばいいし、後は勝手にやってくれるってわけさ」
「…なんでそんなことをした」
「まあ、暇つぶしかな」
高橋は目の前にいる男を見つめた。既に事件は終わっている。被疑者死亡ということでカタがついているのだ。既に終わった事件を再捜査することは難しい。しかも、証拠もないだろう。結局こいつを逮捕することは困難だ。高橋は、この厄介な友人を殴りたくなった。
一銃「立て篭もり」
今回の話はちょっと酷いですね。ミステリ的な話を書こうかと思ったんですけど、やっぱ全然無理でした。ミステリとか思いつかないですね。ミステリ作家は改めてすごいな、と思います。
そろそろないように入ろうと思います。
本作は、7編の短編が収録されている短編集になっています。
全体の構成だけ先に書いておきましょう。本作は、「月の扉」の番外編のような作品で、「月の扉」で活躍をした「座間味くん」という愛称の男が、警察関係者から聞いた話から、その裏に隠された真相を暴くという安楽椅子探偵ものです。
「貧者の軍隊」
世直しのために、社会的地位の高い悪人を殺すテロ組織である「貧者の軍隊」。そのアジトで、密室から死体が発見された。アジトにいた人間も「貧者の軍隊」のメンバーと考えられているのだがその証拠が見つからず、また彼らが殺人を犯したという証拠もなかったため、結局彼らを逮捕することは出来なかったのだが…。
「心臓と左手」
とある新興宗教で殺し合いが起きた。きっかけは教祖の遺言であり、ガンのため自分の死を知っていた教祖は幹部に宛てて、自分の心臓を食べたものが後継者となる、という内容だ。教祖の心臓を巡って四人の幹部の内三人が殺し合いを演じることになり…
「罠の名前」
過激派組織「PW」は、過激派と穏健派に分かれており、その過激派のリーダーが穏健派の弁護士を拉致した。室内に踏み込んだ警察だが、リーダーは窓から逃げようとして落下、そして拉致された弁護士もリーダーによって仕掛けられた罠を警察が作動させてしまったために死亡してしまい…
「水際で防ぐ」
在来種を保護しようと活動する団体で殺人事件が起きた。死体の傍らには、外国産のカブトムシがいた。その団体は、外来種を排除しようと相当荒っぽいことをやっていたようだが…。
「地下のビール工場」
輸入会社社長が、自宅の地下室で殺されていた。その地下室には、自家製ビール醸造キットが多数置かれており、実際ビールが作られていた。警察はその社長を、輸出が制限されている自家製ビール醸造キットを不正に輸出しようとしているとしてマークしていたのだが…。
「沖縄心中」
沖縄の米兵と、米軍で通訳のアルバイトをしていた薬科大学の先生が心中しているのが発見された。米兵は前日、ふとしたはずみで人をひとり殺してしまっており、それを悔いた自殺であると判断されたが…。
「再会」
11年前、沖縄でのハイジャック事件で当時1歳だった私は犯人に人質にされたそうだ。父親は事件以後すべてに無気力になり、酒に溺れるだけの人間になった。従姉妹の真由美姉さんは、あの時飛行機に乗って私のことを助けてくれた男性が私の父親をダメにしたんだ、と言っていたけど…。
というような話です。
作品によって出来のバラつきがあるように感じられたけど、全体的にはまあまあ悪くないなという感じの作品でした。
本作の中で最も評価できるのは、「地下のビール工場」でしょうね。これはまさに、最後にすべてをひっくり返すという素晴らしい典型で、見事な出来栄えだと思いました。初めは、そのそも物語のスタートがちょっと無理があるんじゃないかなと思って読み始めていたんですけど、でも最後まで読むと、そのアクロバティックな展開が素晴らしいなと思えました。
他には、「貧者の軍隊」「心臓と左手」なんかがなかなかいいですね。「貧者の軍隊」は、密室のトリックは大したことはないんですけど、でもその裏に隠された真実がなかなか見事なもので秀逸だと思います。「心臓と左手」は、完全に予想外の展開を提示してみせることで、奇抜さを演出しているように思いました。
一方、これはダメだなと思ったのが、「水際で防ぐ」と「沖縄心中」です。「水際で防ぐ」は、さすがの座間味くんでもそこまで推測するには材料が足りなすぎるんじゃないかと思わせる推理の展開で、さすがに想像の部分が多すぎると思いました。また真相もそこまでどうってこともなかったですからね。「沖縄心中」も、不確定な要素が多すぎる推測で、やはりちょっと無理があるかなと思いました。
「罠の名前」と「再会」は、まあまあかなという感じでした。
あと思ったのが、ちょっとくどいなということです。それぞれの短編の始まりは、刑事である大迫が座間味くんを飲みに誘う、というところから始まるんだけど、これが全部同じパターンです。しかも話の最中に、必ずかつてのハイジャック事件の回想が出てくる。本作はもともと雑誌連載だったので、連載時はそれでもよかったかもしれないけど(読者が必ずしも一番初めの話から順番に読んでいるとは限らないから)、でも本にする時はそこを修正してもよかったんじゃないかな、と思ったりしました。さすがに毎回同じパターンを読まされると飽きますね。
石持浅海という作家は、ミステリ界ではかなり評価の高い作家なんですけど、僕的にはそこまですごい作家だろうか、というような印象です。その作家の中でも、まあ普通より下ぐらいのレベルの作品だと思うので、あんまりオススメはしません。この作家の作品なら、これまで僕が読んだ中では「扉は閉ざされたまま」がなかなかよいかと思います。
石持浅海「心臓と左手」
仕事を終え、家に戻る途中だった。関わっていた事件が、被疑者死亡のまま書類送検され、事実上捜査が終了した直後のことだった。幸いなことにまだ大きな事件も起きていない。久しぶりに早めの帰宅となったのだ。
「もしかして山下か?ホント久しぶりだ」
高橋は正直、嫌な奴に出会ったな、と思った。山下とは大学時代の友人で、そしてテレビ局に入った。今でも恐らくそこで働いているだろう。大学時代はそれなりに付き合いもあったが、卒業後はまったく連絡を取り合うこともなかった。実に十数年ぶりと言える再会だった。
山下は一度、世間をあっと驚かせるようなことをやってのけた。そのため、刑事である高橋にとっては苦々しい思い出と結びつく存在なのだった。
それは3年前のこと。山下はあるドラマの撮影で天才的な手腕を発揮し、それにより業界では伝説としてささやかれている、と聞く。一方で警察としては、まんまとしてやられたという立場であり、未だに山下への苛立ちを露にする人間も多い。
山下は、本物の刑事と機動隊を動因させた立て篭もりシーンの撮影をやってのけたのだった。
初めはコンビニからの通報で、銃を持った二人組の男が金を寄越せとやってきたが、結局お金を取ることなく逃げた、というものだった。その後犯人が近くにある市民体育館に逃げ込んだとの情報があり、まもなく立て篭もり事件と判断された。
人質は、当時体育館を使用していたバスケットリームのメンバーというところまでは分かったが、しかし受付時に虚偽の記載をしたようで、人質がどこの誰なのかは分からなかった。
刑事と機動隊が市民体育館を包囲し、しばらく緊迫した状況が続いた。しかししばらくすると、上層部から撤退の命令が下された。テレビ局からの連絡があり、これがドラマの撮影であることが告げられたのだった。
警察は、ドラマの撮影のために駆り出されたと知って憤ったが、しかし彼らを罪に問うことは困難だった。テレビ局側はその市民体育館を撮影のためということで一日借り受けていたし、犯人と人質も皆エキストラと俳優であった。武器はすべて模造であり、表向き問題はないと言えた。問うことが出来たのは、公務執行妨害ぐらいなもので、初めに通報したコンビニの店長も元々計画を知っていたということで、強盗未遂という線での立件も見送られた。警察としては未だに記憶に残る苦々しい事件だった。
その首謀者が山下であり、だからこそ高橋は山下にいい印象を持っていないのだ。
どちらからともなく飲みに行くかという話になり、近くの居酒屋へ向かった。
「最近は大人しくしてるのか?」
山下は苦笑し、
「まああん時のことは許してくれ。お陰でいいのが撮れたよ」
と悪びれない。まあ直接関わっていたわけではないからいいけどな、といい、そこでつい先ほどまで関わっていた事件を思い出した。
「廃工場の立て篭もり事件、知ってるか?」
「あぁ、ちょっと前までニュースでやってたな」
「つい最近その事件が決着してな。お前の顔を見ると何だか立て篭もりのことしか浮かばないな」
そういうと、またしても山下は苦笑した。
廃工場での立て篭もり事件が起きたのは、今からひと月ほど前のこと。犯人の男が、当時たまたま廃工場にいた大学生数人を人質に取り立て篭もった事件で、犯人の目的は今になっても不明。持っていた銃で人質の一人を殺し、刑事の一人を重症に陥れ、最後には特殊班の人間に射殺されたのだった。
「しかしあの事件も不自然なところが多すぎるよね」
山下がそう言ったのを、高橋は怪訝に思った。どこがおかしいというのだろうか。
「まずなぜ廃工場にそもそも人がいたのか。彼らは、自分達は廃墟マニアで、だからそこにいたのだと主張したようだけど、僕にはどうにも不自然に感じられるんだ。あの日たまたまあそこに人質となる人間がいたというのが」
言われてみればそうかもしれないが、しかしたまたま人質がいたから事件が起きたのだ、ということでしかないだろうと思う。そんなに大したことではないだろう、と高橋は言った。
「それに犯人もおかしい。僕も中継を見てたけど、犯人は初めの内はずっと沈黙していたけど、人質の一人を殺してから急に饒舌になった。しきりに、自分は違うんだ、というようなことを言っていなかったか。まあその直後、銃を持ったまま刑事の方に向かって行ったから射殺されてしまったんだけど。その行動も、おかしいだろう」
それについては確かに捜査本部内でも意見があったが、しかし被疑者がが犯行を行っていたことは間違いないし、既に被疑者は死亡しているので仕方ない、と判断されたのだ。
「お前は何が言いたいんだ」
「要するに、真相は別にあるってこと」
「お前なら分かるっていうのか」
「まあね。分かるっていうか、知っているって感じだけど」
高橋は山下を見つめる。まさか、という思いが過ぎる。あさかそんなことがありえるだろうか。
「まさか、お前が首謀者だ、なんて言うんじゃないだろうな」
「案外冴えてるじゃないか。そう、俺があいつをそそのかしたんだよ。どうやったかは簡単さ。俺なら、また立て篭もりの撮影をやるんだ、と言いさえすれば信用される。銃は偽物だと言って本物を渡せばいいし、後は勝手にやってくれるってわけさ」
「…なんでそんなことをした」
「まあ、暇つぶしかな」
高橋は目の前にいる男を見つめた。既に事件は終わっている。被疑者死亡ということでカタがついているのだ。既に終わった事件を再捜査することは難しい。しかも、証拠もないだろう。結局こいつを逮捕することは困難だ。高橋は、この厄介な友人を殴りたくなった。
一銃「立て篭もり」
今回の話はちょっと酷いですね。ミステリ的な話を書こうかと思ったんですけど、やっぱ全然無理でした。ミステリとか思いつかないですね。ミステリ作家は改めてすごいな、と思います。
そろそろないように入ろうと思います。
本作は、7編の短編が収録されている短編集になっています。
全体の構成だけ先に書いておきましょう。本作は、「月の扉」の番外編のような作品で、「月の扉」で活躍をした「座間味くん」という愛称の男が、警察関係者から聞いた話から、その裏に隠された真相を暴くという安楽椅子探偵ものです。
「貧者の軍隊」
世直しのために、社会的地位の高い悪人を殺すテロ組織である「貧者の軍隊」。そのアジトで、密室から死体が発見された。アジトにいた人間も「貧者の軍隊」のメンバーと考えられているのだがその証拠が見つからず、また彼らが殺人を犯したという証拠もなかったため、結局彼らを逮捕することは出来なかったのだが…。
「心臓と左手」
とある新興宗教で殺し合いが起きた。きっかけは教祖の遺言であり、ガンのため自分の死を知っていた教祖は幹部に宛てて、自分の心臓を食べたものが後継者となる、という内容だ。教祖の心臓を巡って四人の幹部の内三人が殺し合いを演じることになり…
「罠の名前」
過激派組織「PW」は、過激派と穏健派に分かれており、その過激派のリーダーが穏健派の弁護士を拉致した。室内に踏み込んだ警察だが、リーダーは窓から逃げようとして落下、そして拉致された弁護士もリーダーによって仕掛けられた罠を警察が作動させてしまったために死亡してしまい…
「水際で防ぐ」
在来種を保護しようと活動する団体で殺人事件が起きた。死体の傍らには、外国産のカブトムシがいた。その団体は、外来種を排除しようと相当荒っぽいことをやっていたようだが…。
「地下のビール工場」
輸入会社社長が、自宅の地下室で殺されていた。その地下室には、自家製ビール醸造キットが多数置かれており、実際ビールが作られていた。警察はその社長を、輸出が制限されている自家製ビール醸造キットを不正に輸出しようとしているとしてマークしていたのだが…。
「沖縄心中」
沖縄の米兵と、米軍で通訳のアルバイトをしていた薬科大学の先生が心中しているのが発見された。米兵は前日、ふとしたはずみで人をひとり殺してしまっており、それを悔いた自殺であると判断されたが…。
「再会」
11年前、沖縄でのハイジャック事件で当時1歳だった私は犯人に人質にされたそうだ。父親は事件以後すべてに無気力になり、酒に溺れるだけの人間になった。従姉妹の真由美姉さんは、あの時飛行機に乗って私のことを助けてくれた男性が私の父親をダメにしたんだ、と言っていたけど…。
というような話です。
作品によって出来のバラつきがあるように感じられたけど、全体的にはまあまあ悪くないなという感じの作品でした。
本作の中で最も評価できるのは、「地下のビール工場」でしょうね。これはまさに、最後にすべてをひっくり返すという素晴らしい典型で、見事な出来栄えだと思いました。初めは、そのそも物語のスタートがちょっと無理があるんじゃないかなと思って読み始めていたんですけど、でも最後まで読むと、そのアクロバティックな展開が素晴らしいなと思えました。
他には、「貧者の軍隊」「心臓と左手」なんかがなかなかいいですね。「貧者の軍隊」は、密室のトリックは大したことはないんですけど、でもその裏に隠された真実がなかなか見事なもので秀逸だと思います。「心臓と左手」は、完全に予想外の展開を提示してみせることで、奇抜さを演出しているように思いました。
一方、これはダメだなと思ったのが、「水際で防ぐ」と「沖縄心中」です。「水際で防ぐ」は、さすがの座間味くんでもそこまで推測するには材料が足りなすぎるんじゃないかと思わせる推理の展開で、さすがに想像の部分が多すぎると思いました。また真相もそこまでどうってこともなかったですからね。「沖縄心中」も、不確定な要素が多すぎる推測で、やはりちょっと無理があるかなと思いました。
「罠の名前」と「再会」は、まあまあかなという感じでした。
あと思ったのが、ちょっとくどいなということです。それぞれの短編の始まりは、刑事である大迫が座間味くんを飲みに誘う、というところから始まるんだけど、これが全部同じパターンです。しかも話の最中に、必ずかつてのハイジャック事件の回想が出てくる。本作はもともと雑誌連載だったので、連載時はそれでもよかったかもしれないけど(読者が必ずしも一番初めの話から順番に読んでいるとは限らないから)、でも本にする時はそこを修正してもよかったんじゃないかな、と思ったりしました。さすがに毎回同じパターンを読まされると飽きますね。
石持浅海という作家は、ミステリ界ではかなり評価の高い作家なんですけど、僕的にはそこまですごい作家だろうか、というような印象です。その作家の中でも、まあ普通より下ぐらいのレベルの作品だと思うので、あんまりオススメはしません。この作家の作品なら、これまで僕が読んだ中では「扉は閉ざされたまま」がなかなかよいかと思います。
石持浅海「心臓と左手」
とげ(山本甲士)
―公務員・滝本一郎の話―
滝本一郎は、市役所庁舎から外に出ると、思わずため息をもらした。
(まったく、役人ってのはアホばっかりやな)
毎日そう思う。上司も部下もアホばっかりだ。滝本自身も分かってはいるのだ。そういうアホどもも、人間としては決して悪くはない、と。しかし、役所という組織の中にあっては、よほど強い意志がない限りだらけてしまうのだ。アホを養成することにかけては役所というのはプロだな、と改めて思う。
(いい加減辞めるべきだろうか)
何だか日々イライラする。熟睡出来なくなったような気がするし、疲れも取れ難くなった。それもこれも、アホな部下とくそったれな上司のせいだ、と思うとまたイライラしてきてしまう。
昼休みということもあって、周辺は市職員やサラリーマンで賑わっている。滝本も、普段行くことにしているデパートに入る。そこに入っているパン屋で昼食を買うことが多い。
しかし滝本はそのままパン屋に向かうのではなく、デパート内のトイレに向かった。そのまま個室に向かう。これはここ最近の習慣と言ってよかった。
中間管理職になってストレスにさらされるようになって、滝本はどこかに逃げ場を見つけなくては、と思った。喫茶店や公園などいくつか試してみたが、このデパートのトイレが一番落ち着くのだった。今では、昼休みの内の15分近くをここで過ごす。本を読んだり音楽を聞いたりしながら、ただぼんやりと過ごすのである。これが、リフレッシュには最適である、と分かったのだ。昼休みでなくても、適当に外出の理由を作ってここに来ることも多い。
4階の奥の個室が指定席だ。大抵いつも空いている。タイミングがいいのか使用率が低いのか分からないが、滝本にとっては喜ばしいことである。
とりあえず用を足そうと便器に座ると、ドアの内側の悪戯書きが目に入った。よくあることで、携帯電話の番号が書かれていたり、こんな人物を見かけたら連絡くださいなんていうのもあったりする。まあ他愛もないものである。
しかし今日の悪戯書きはなかなか珍しかった。なんと数学の問題である。
問題のレベルは、中学生程度のものだろうか。図形が書かれていて、面積を求めるものと角度を求めるものと二問用意されている。幾何はあんまり得意じゃなかったなぁ、と思いながら滝本はその問題を頭の中で考えていた。
巧い具合に補助線を引けば解ける問題であると分かり、実際胸ポケットに挿していたペンで大まかな回答を作ってみた。懐かしいものだ。学生時代は数学は決して嫌いではなかったけど、自分から積極的に問題を解こうなんて考えたことはなかっただろう。それが今では、ストレス解消のための暇つぶしとして数学の問題を解いている。
用を足したこともあるだろうが、それ以上の充足感が得られたような気がした。なるほど、たまにはこうして頭を使ってみるのも悪くないかもしれないな。またこんな悪戯書きがあったらいいな、と不謹慎なことを考えてしまう滝本であった。
―中学生・中村太一の話―
この世で嫌いなものをいくつか挙げろと言われれば結構いろんなものを挙げることが出来る。ピーマンは嫌いだし、カエルもダメだ。お母さんのキツすぎる香水とか、ヤスト君の嫌がらせとかも嫌だ。
でも、それよりも何よりも嫌なのが、数学の授業だ。何で数学なんてのがこの世に存在するんだろう。計算機があれば計算は出来るし、方程式なんて絶対日常生活で使わない。図形の面積が求められなくても、√2のゴロ合わせを知らなくても、絶対に困らないと思う。なのに、何で数学なんてやらないといけないんだろう…。
今も、まさにその数学の授業中なのだ。
僕は、先生が黒板に書いていることを、意味も分からずただ写している。その内飽きてくると、ノートに悪戯書きが増えてくる。しばらくすると先生の声が遠くなり、眠気が襲ってくるのだ。これはもうどうしようもないのだ。
「中村。この問題、前に来てやりなさい」
だからこうやって指されると、僕の心臓はバクバクしちゃうんだ。どうせ、解けるわけがない。先生だってそれぐらい分かってるはずなのに、嫌がらせなんだろうか。
とりあえず黒板に向かう。図形が書かれていて、面積を求めなさいとか、角度を求めなさい、とか書いてある。分かるかよ、と思うけど、もちろん口には出さない。
あぁ、トイレに行きたくなってきた。嫌なことがあるとそうなる。でも、ウンコしたいですなんて授業中に言えるわけがないし、そもそも学校でウンコなんか出来ない。我慢するしかない。
チョークを手に持つんだけど、もちろん手は動かない。何から考えればいいのかさっぱり分からないのだ。じぃーっと黒板を見つめる。まるでそこに答えでも書いてあるかのように。もちろんそんなことはないのだけど。
すると、僕の手が勝手に動き出した。図形の中に一本線を引いているようだ。「ほぉ」という先生の声が聞こえるから、たぶん正しい方向に進んでいるのだろう。確か補助線、とか言うやつだったと思う。しかし、どうして自分がその補助線を引けたのかが分からない。
それからも僕の手は勝手に動き続けた。自分ではさっぱり理解できない記号やらアルファベットやらを、スラスラと黒板に書いている。しばらくすると手が止まり、それで解答を書き終わったのだと分かった。
「中村、やるじゃないか。正解だ。この補助線を引くというのがポイントでなかなか難しいと思ったんだが、よくできたな」
僕はさっきの出来事がさっぱり理解できなくて困惑していたけど、とりあえず先生に褒められて嬉しかった。もしかしたら自分には数学の才能が眠っているのかもしれない。まだその実力が出ていないだけなのかもしれない。その僕のどこかにある数学の実力が、あまりに数学の出来ない僕を見かねてとりあえず顔を出してくれたのかもしれない。そう思うと、ちょっとは数学を頑張って見てもいいかもしれないな、と思えたりするから不思議だ。
不思議だと言えばもう一つ。あんなにウンコをしたかったのに、いつのまにかスッキリしていた。漏らしたんじゃないよな、と何度も確認したけど、大丈夫そうだった。何だかよく分からない不思議なことが続くもんだなぁ、と思った。
一銃「ラクガキ」
そろそろ内容に入ろうと思います。
倉永晴之は南海市の市役所で主査(企業で言えば係長)として働く公務員である。まさに中間管理職であり、日々ストレスにさらされている。
倉永は市民相談室にいる。ここはその名の通り市民からの相談を受け付けるところなのだが、実に様々な問題が持ち込まれる。そもそも見当違いの話も多く、隣の住人がヤクザみたいだからなんとかしてくれとか、昨日取り忘れたビデオを録画してくれた人を紹介してくれだのと言った明らかに役所の仕事ではない対応にも追われる。もちろんまともな相談もあるのだが、こっちはこっちで役所の側が動かない。公園の敷地内にある池でワニを見かけたという通報に対して、対応を求めるべく公園管理課に連絡すると、河川課に言ってくれ、河川課では環境課に言ってくれ、実は環境課は二つあってもう一個の方に言ってくれ、さらに保健所に言ってくれとたらい回しにされ、結局最後には公園管理課に言ってくれと一巡。市民からの相談の窓口でしかない市民相談室にいる倉永はこの状況にキレる。
家に帰ると、タイヤがパンクさせられていた。誰かに嫌がらせらしい。以後もこうした嫌がらせは続き、些細なことながら倉永夫婦を追い詰める。
翌日、上司がバスの回数券をカラーコピーして使用したとして逮捕されたという話が入り、その対応に追われる。子どもが喧嘩して頭を切ったために病院に連れて行くと、医師から虐待を疑われる。体調が悪いと言って半休を取った部下がラブホテルに入るのをたまたま見かけたので注意すると、労働組合の人間を連れてきて難癖をつける…。そして挙句の果てには妻が警察に呼ばれることになってしまう…。
倉永を襲う、日常の些細なトラブルの集積。やがて倉永はその状況にキレ、真っ向から立ち向かっていくことになるのだが…。
というような話です。
本作は、巻き込まれ型小説三部作と言われる、「どろ」「かび」に続く三作目です。僕は「どろ」は読んでない、というか山本甲士の著作を読むのはこれで二作目なんですけど、この巻き込まれ型小説シリーズは非常に面白いですね。シリーズとは言っても主人公は違うわけで、前作「かび」では主婦がキレる話でしたけど、本作同様リアルな狂気が描かれていて面白かったです。
まだ二作しか読んでいませんが、この山本甲士という作家、非常にベースのしっかりした作家だなと思います。基礎体力があるという感じで、作品自体が非常に安定しています。基礎がしっかりしているために、その上にどんな建物を建てても安定する、というイメージで、どんな作品を書いても常に一定以上の水準の作品を出してくるんだろうな、と思わせる作家です。
とにかく「日常」を描くのが非常に巧いと思いました。本作では、倉永を襲う様々なトラブルがメインになっているわけなんですけど、しかしそれがきちんと浮き上がって見えるのは、きちんと日常を描いているからだろう、と思うわけです。些細なことを軽視せず書き込み、それでいてくどくなることはないという、絶妙なバランスだなと思います。倉永という主人公がしっかりと日常を生きている、という描写がしっかりしているからこそ、次々に巻き込まれていくトラブルが映えるんだろうな、と思いました。
とにかく倉永を襲うトラブルはもう凄いです。凄いとしかいいようがありません。前作「かび」もなかなかのものでしたけど、それとは比較にならないですね。まさにドミノ倒しのように、次から次へと舞い込んで来る感じで、しかも後々それぞれのトラブルがいろいろ重なったりして面白いです。どんなトラブルに見舞われるのか是非読んで欲しいところですけど、ワニの話の顛末もすごいし、ある雑草を除去しようとして役人にしては珍しくチームを組んで取り組んだのもつかの間、結局はそれに顔を出したせいでまた別のトラブルに巻き込まれたりと、もう踏んだり蹴ったりです。
でも途中から倉永は腹を括ります。とにかく、これまでのように役人らしくなあなあで行くのではなく、間違っていることは間違っていると主張しよう、と思うわけです。そのせいでさらに大変な状況に陥りますが、でも倉永としては吹っ切れたせいか、多少気持ちが楽になったりします。
本作は公務員小説としても面白いですね。僕がこれまで読んだ公務員小説で覚えているのは、荻原浩の「メリーゴーランド」ですけど、本作の方が遥かに悲惨ですね。どこまで現状に即して描かれているのか分かりませんが、でもこういうことが行われていてもまったく不思議ではないのだろうな、と思ったりします。とにかく、たらい回しはしょちゅうだし、問題は常に先送り、しかし外部からの批判には敏感、備品を持ち帰ったりバスの定期を申請してマイカーで通うなんてのはほぼ常識で、悪いことをしているという自覚がない。仕事は適当でやる気がなく、やる気がある人間のやる気を削ぐようにしか働かない。僕は昔から公務員にだけはなるまい、と思っていましたが、本作を読んでさらにそう思いましたね。こんなところにいたら、一週間で上司を殴って首になることは間違いないと思います。
まあ、上司の使えなさで言えば、僕のバイト先と大差はないと思いますけど、しかしやっぱ役所ってのは権力があったりしますからね。権力い楯突くのはなかなかハードルが高かったりします。世の中の公務員の人は、一体どんな気持ちで働いているのか、聞いてみたくなりますね。よくもまあそんなんで我慢できるな、と。
本作は、ラストの展開が非常にいいです。もちろんここには書きませんが、伏線をきちんと回収しつつ(なるほど、ここであの話が出てくるのか、と感心しました。お見事です)、ある計画を成功させ、それにより自分がやりたいと思っていたことを叶えます。倉永が作ることになるシステムはかなり上出来で、これは実際に採用できるアイデアなんではないかな、と思います。もしかしたら実際どこかでもうやってたりするのかもしれないですけどね。ホント、この最後の展開は秀逸だと思います。
そんなわけで、非常に面白い作品でした。ちょっと長い小説ですけど、スラスラ読めるので長いという感じはしませんでした。普段イライラしている方、下には下がいるなんて風に思いながら自分のイライラを解消する、なんて読み方も出来るかもしれないですよ。いずれにしてもエンターテイメントとして非常に上出来です。是非読んでみてください。
しかしこの作家、非常に面白いし実力もある作家なんでもっと売れてもいいと思うんですけど、売れ行き的にはあんまり芳しくなんですよね。まあちょっと推してみようとは思っていますけどね。
山本甲士「とげ」
滝本一郎は、市役所庁舎から外に出ると、思わずため息をもらした。
(まったく、役人ってのはアホばっかりやな)
毎日そう思う。上司も部下もアホばっかりだ。滝本自身も分かってはいるのだ。そういうアホどもも、人間としては決して悪くはない、と。しかし、役所という組織の中にあっては、よほど強い意志がない限りだらけてしまうのだ。アホを養成することにかけては役所というのはプロだな、と改めて思う。
(いい加減辞めるべきだろうか)
何だか日々イライラする。熟睡出来なくなったような気がするし、疲れも取れ難くなった。それもこれも、アホな部下とくそったれな上司のせいだ、と思うとまたイライラしてきてしまう。
昼休みということもあって、周辺は市職員やサラリーマンで賑わっている。滝本も、普段行くことにしているデパートに入る。そこに入っているパン屋で昼食を買うことが多い。
しかし滝本はそのままパン屋に向かうのではなく、デパート内のトイレに向かった。そのまま個室に向かう。これはここ最近の習慣と言ってよかった。
中間管理職になってストレスにさらされるようになって、滝本はどこかに逃げ場を見つけなくては、と思った。喫茶店や公園などいくつか試してみたが、このデパートのトイレが一番落ち着くのだった。今では、昼休みの内の15分近くをここで過ごす。本を読んだり音楽を聞いたりしながら、ただぼんやりと過ごすのである。これが、リフレッシュには最適である、と分かったのだ。昼休みでなくても、適当に外出の理由を作ってここに来ることも多い。
4階の奥の個室が指定席だ。大抵いつも空いている。タイミングがいいのか使用率が低いのか分からないが、滝本にとっては喜ばしいことである。
とりあえず用を足そうと便器に座ると、ドアの内側の悪戯書きが目に入った。よくあることで、携帯電話の番号が書かれていたり、こんな人物を見かけたら連絡くださいなんていうのもあったりする。まあ他愛もないものである。
しかし今日の悪戯書きはなかなか珍しかった。なんと数学の問題である。
問題のレベルは、中学生程度のものだろうか。図形が書かれていて、面積を求めるものと角度を求めるものと二問用意されている。幾何はあんまり得意じゃなかったなぁ、と思いながら滝本はその問題を頭の中で考えていた。
巧い具合に補助線を引けば解ける問題であると分かり、実際胸ポケットに挿していたペンで大まかな回答を作ってみた。懐かしいものだ。学生時代は数学は決して嫌いではなかったけど、自分から積極的に問題を解こうなんて考えたことはなかっただろう。それが今では、ストレス解消のための暇つぶしとして数学の問題を解いている。
用を足したこともあるだろうが、それ以上の充足感が得られたような気がした。なるほど、たまにはこうして頭を使ってみるのも悪くないかもしれないな。またこんな悪戯書きがあったらいいな、と不謹慎なことを考えてしまう滝本であった。
―中学生・中村太一の話―
この世で嫌いなものをいくつか挙げろと言われれば結構いろんなものを挙げることが出来る。ピーマンは嫌いだし、カエルもダメだ。お母さんのキツすぎる香水とか、ヤスト君の嫌がらせとかも嫌だ。
でも、それよりも何よりも嫌なのが、数学の授業だ。何で数学なんてのがこの世に存在するんだろう。計算機があれば計算は出来るし、方程式なんて絶対日常生活で使わない。図形の面積が求められなくても、√2のゴロ合わせを知らなくても、絶対に困らないと思う。なのに、何で数学なんてやらないといけないんだろう…。
今も、まさにその数学の授業中なのだ。
僕は、先生が黒板に書いていることを、意味も分からずただ写している。その内飽きてくると、ノートに悪戯書きが増えてくる。しばらくすると先生の声が遠くなり、眠気が襲ってくるのだ。これはもうどうしようもないのだ。
「中村。この問題、前に来てやりなさい」
だからこうやって指されると、僕の心臓はバクバクしちゃうんだ。どうせ、解けるわけがない。先生だってそれぐらい分かってるはずなのに、嫌がらせなんだろうか。
とりあえず黒板に向かう。図形が書かれていて、面積を求めなさいとか、角度を求めなさい、とか書いてある。分かるかよ、と思うけど、もちろん口には出さない。
あぁ、トイレに行きたくなってきた。嫌なことがあるとそうなる。でも、ウンコしたいですなんて授業中に言えるわけがないし、そもそも学校でウンコなんか出来ない。我慢するしかない。
チョークを手に持つんだけど、もちろん手は動かない。何から考えればいいのかさっぱり分からないのだ。じぃーっと黒板を見つめる。まるでそこに答えでも書いてあるかのように。もちろんそんなことはないのだけど。
すると、僕の手が勝手に動き出した。図形の中に一本線を引いているようだ。「ほぉ」という先生の声が聞こえるから、たぶん正しい方向に進んでいるのだろう。確か補助線、とか言うやつだったと思う。しかし、どうして自分がその補助線を引けたのかが分からない。
それからも僕の手は勝手に動き続けた。自分ではさっぱり理解できない記号やらアルファベットやらを、スラスラと黒板に書いている。しばらくすると手が止まり、それで解答を書き終わったのだと分かった。
「中村、やるじゃないか。正解だ。この補助線を引くというのがポイントでなかなか難しいと思ったんだが、よくできたな」
僕はさっきの出来事がさっぱり理解できなくて困惑していたけど、とりあえず先生に褒められて嬉しかった。もしかしたら自分には数学の才能が眠っているのかもしれない。まだその実力が出ていないだけなのかもしれない。その僕のどこかにある数学の実力が、あまりに数学の出来ない僕を見かねてとりあえず顔を出してくれたのかもしれない。そう思うと、ちょっとは数学を頑張って見てもいいかもしれないな、と思えたりするから不思議だ。
不思議だと言えばもう一つ。あんなにウンコをしたかったのに、いつのまにかスッキリしていた。漏らしたんじゃないよな、と何度も確認したけど、大丈夫そうだった。何だかよく分からない不思議なことが続くもんだなぁ、と思った。
一銃「ラクガキ」
そろそろ内容に入ろうと思います。
倉永晴之は南海市の市役所で主査(企業で言えば係長)として働く公務員である。まさに中間管理職であり、日々ストレスにさらされている。
倉永は市民相談室にいる。ここはその名の通り市民からの相談を受け付けるところなのだが、実に様々な問題が持ち込まれる。そもそも見当違いの話も多く、隣の住人がヤクザみたいだからなんとかしてくれとか、昨日取り忘れたビデオを録画してくれた人を紹介してくれだのと言った明らかに役所の仕事ではない対応にも追われる。もちろんまともな相談もあるのだが、こっちはこっちで役所の側が動かない。公園の敷地内にある池でワニを見かけたという通報に対して、対応を求めるべく公園管理課に連絡すると、河川課に言ってくれ、河川課では環境課に言ってくれ、実は環境課は二つあってもう一個の方に言ってくれ、さらに保健所に言ってくれとたらい回しにされ、結局最後には公園管理課に言ってくれと一巡。市民からの相談の窓口でしかない市民相談室にいる倉永はこの状況にキレる。
家に帰ると、タイヤがパンクさせられていた。誰かに嫌がらせらしい。以後もこうした嫌がらせは続き、些細なことながら倉永夫婦を追い詰める。
翌日、上司がバスの回数券をカラーコピーして使用したとして逮捕されたという話が入り、その対応に追われる。子どもが喧嘩して頭を切ったために病院に連れて行くと、医師から虐待を疑われる。体調が悪いと言って半休を取った部下がラブホテルに入るのをたまたま見かけたので注意すると、労働組合の人間を連れてきて難癖をつける…。そして挙句の果てには妻が警察に呼ばれることになってしまう…。
倉永を襲う、日常の些細なトラブルの集積。やがて倉永はその状況にキレ、真っ向から立ち向かっていくことになるのだが…。
というような話です。
本作は、巻き込まれ型小説三部作と言われる、「どろ」「かび」に続く三作目です。僕は「どろ」は読んでない、というか山本甲士の著作を読むのはこれで二作目なんですけど、この巻き込まれ型小説シリーズは非常に面白いですね。シリーズとは言っても主人公は違うわけで、前作「かび」では主婦がキレる話でしたけど、本作同様リアルな狂気が描かれていて面白かったです。
まだ二作しか読んでいませんが、この山本甲士という作家、非常にベースのしっかりした作家だなと思います。基礎体力があるという感じで、作品自体が非常に安定しています。基礎がしっかりしているために、その上にどんな建物を建てても安定する、というイメージで、どんな作品を書いても常に一定以上の水準の作品を出してくるんだろうな、と思わせる作家です。
とにかく「日常」を描くのが非常に巧いと思いました。本作では、倉永を襲う様々なトラブルがメインになっているわけなんですけど、しかしそれがきちんと浮き上がって見えるのは、きちんと日常を描いているからだろう、と思うわけです。些細なことを軽視せず書き込み、それでいてくどくなることはないという、絶妙なバランスだなと思います。倉永という主人公がしっかりと日常を生きている、という描写がしっかりしているからこそ、次々に巻き込まれていくトラブルが映えるんだろうな、と思いました。
とにかく倉永を襲うトラブルはもう凄いです。凄いとしかいいようがありません。前作「かび」もなかなかのものでしたけど、それとは比較にならないですね。まさにドミノ倒しのように、次から次へと舞い込んで来る感じで、しかも後々それぞれのトラブルがいろいろ重なったりして面白いです。どんなトラブルに見舞われるのか是非読んで欲しいところですけど、ワニの話の顛末もすごいし、ある雑草を除去しようとして役人にしては珍しくチームを組んで取り組んだのもつかの間、結局はそれに顔を出したせいでまた別のトラブルに巻き込まれたりと、もう踏んだり蹴ったりです。
でも途中から倉永は腹を括ります。とにかく、これまでのように役人らしくなあなあで行くのではなく、間違っていることは間違っていると主張しよう、と思うわけです。そのせいでさらに大変な状況に陥りますが、でも倉永としては吹っ切れたせいか、多少気持ちが楽になったりします。
本作は公務員小説としても面白いですね。僕がこれまで読んだ公務員小説で覚えているのは、荻原浩の「メリーゴーランド」ですけど、本作の方が遥かに悲惨ですね。どこまで現状に即して描かれているのか分かりませんが、でもこういうことが行われていてもまったく不思議ではないのだろうな、と思ったりします。とにかく、たらい回しはしょちゅうだし、問題は常に先送り、しかし外部からの批判には敏感、備品を持ち帰ったりバスの定期を申請してマイカーで通うなんてのはほぼ常識で、悪いことをしているという自覚がない。仕事は適当でやる気がなく、やる気がある人間のやる気を削ぐようにしか働かない。僕は昔から公務員にだけはなるまい、と思っていましたが、本作を読んでさらにそう思いましたね。こんなところにいたら、一週間で上司を殴って首になることは間違いないと思います。
まあ、上司の使えなさで言えば、僕のバイト先と大差はないと思いますけど、しかしやっぱ役所ってのは権力があったりしますからね。権力い楯突くのはなかなかハードルが高かったりします。世の中の公務員の人は、一体どんな気持ちで働いているのか、聞いてみたくなりますね。よくもまあそんなんで我慢できるな、と。
本作は、ラストの展開が非常にいいです。もちろんここには書きませんが、伏線をきちんと回収しつつ(なるほど、ここであの話が出てくるのか、と感心しました。お見事です)、ある計画を成功させ、それにより自分がやりたいと思っていたことを叶えます。倉永が作ることになるシステムはかなり上出来で、これは実際に採用できるアイデアなんではないかな、と思います。もしかしたら実際どこかでもうやってたりするのかもしれないですけどね。ホント、この最後の展開は秀逸だと思います。
そんなわけで、非常に面白い作品でした。ちょっと長い小説ですけど、スラスラ読めるので長いという感じはしませんでした。普段イライラしている方、下には下がいるなんて風に思いながら自分のイライラを解消する、なんて読み方も出来るかもしれないですよ。いずれにしてもエンターテイメントとして非常に上出来です。是非読んでみてください。
しかしこの作家、非常に面白いし実力もある作家なんでもっと売れてもいいと思うんですけど、売れ行き的にはあんまり芳しくなんですよね。まあちょっと推してみようとは思っていますけどね。
山本甲士「とげ」
アマゾンの秘密 世界最大のネット書店はいかに日本で成功したか(松本晃一)
ネットサーフィンをしていた僕は、とあるサイトを見つけた。そこは、インターネット上のショッピングサイトであるようなのだが、そのサイトで扱っているものが大分変わっていた。
(ドラえもんの秘密道具?)
『ドラショッピング』と名付けられたそのサイトは、その名の通り、ドラえもんの秘密道具を販売していたのである。
(いやいや、まさかね)
まさか本当にドラえもんの秘密道具が買えるわけがないだろう。そこまで技術が進歩しているわけもないし、というかそもそもドラえもんの道具というのは技術の進歩だけではいかんともしがたいものばかりである。恐らく未来永劫実現不可能なものばかりで、そんなものが売られるわけがないのである。
(しかしサイトのどこにも、なんの注意書きもないなぁ)
あらかじめジョークとしてやっているならいいのだが、しかしこのサイトを真に受けてしまう人もいないとは限らないだろう。特に子どもなんか、本当かもと思うかもしれない。
(まあでも物は試しだ。買うフリでもしてみようかな)
というわけで僕は、そのドラショッピング内をうろうろすることにしたのだ。
(とりあえずタケコプターは欲しいでしょ。空飛びたいしね。これは買い)
(もちろんタイムマシンも、っと)
(四次元ポケット…ってのはさすがにないのかな。まあそうだろうね。それがあったら全部揃っちゃうもんね)
(そうそう、忘れちゃいけないどこでもドア…、ってあれ?どこでもドアはないのかなぁ。あれあったら便利なんだけどなぁ。まあいいか、他のを捜そう)
(あぁ、これはいいよね、もしもボックス。ちょっと大きいのが難点だけどなぁ…)
(逆時計…へぇ、時間を逆戻りさせられるんだ。でも、まあこれはタイムマシンがあれば十分か)
(エアコンボールね。その周りの温度を調節してくれる、と。これはいいなぁ。買うか)
こんな感じで僕はカートにどんどん商品を放り込んでいったわけです。ふと気づけば、合計金額は50万円に達しようとしています。
(まあこれぐらいでいいか。どうせ買えるわけないしな)
僕はカートをクリックし、清算の画面にします。
(名前と電話番号とメールアドレスを入力して、と。住所は書かなくていいのかな)
そして次の画面に進むと、なんとクレジットカードの番号入力のフォームが出てきました。
(まさか、ホントに買えるのか?)
そんなわけがないだろう、と思って、僕は画面の隅々まで見てみることにしました。すると下の方に小さくこんなことが書いてあります。
『商品の発送はいたしませんので、お客様ご自身で受け取りに来ていただくようお願いいたします。当社ははくちょう座の惑星X58695にあり、お越しの際はどこでもドアをご利用いただくのがよいかと存じ上げます。』
なんというか、イタズラなのか新手の詐欺なのか、イマイチよくわからないサイトである。
一銃「ドラショッピング」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、アマゾンジャパン設立時に在籍していた(今はアマゾンジャパンにはいない)著者が、アマゾンジャパン立ち上げから軌道に乗るまでの出来事を著者自身が見たままを描いた作品です。超極秘裏に進められていたアマゾンジャパンの設立計画、アマゾンの風変わりな社風、サイト構築における哲学、創業者の理念、トラブルや試行錯誤。そうした、秘密主義として有名なアマゾンの内部について書いている作品です。
本作はちょっとレベルの低い作品でした。まあ本の薄さと文字の大きさから大体分かっていましたけど、表面をさっと撫でたような構成で、別段面白くもなんともないですね。
本作はアマゾンという会社についてのノンフィクションではありません。著者がアマゾンにいた頃の日記、のようなものだと思えばかなり近いと思います。別に日記形式というわけではないんですけど。
普通ノンフィクションというのは、自分が取材をし、その中から厳選したものについてだけ書く、というスタイルになると思います。でも本作は取材など一切せず、著者がアマゾンジャパンに在籍していた頃、彼が見聞きしたことを書いているだけの本で、彼が見なかった部分についてはまったく書かれていないし、彼が見ていた部分についても非常に浅い説明になっているので、一冊の企業本としてはまったく面白くない作品でした。まあアマゾンという会社は超をいくつつけても違和感のないくらいの秘密主義を貫く会社なので、普通の企業本みたいなものを出すのは難しいのかもしれませんけど、それにしてもお粗末であることよ、と思ったりしました。
アマゾンという会社を語る上で切り口となるものはたくさんあります。日本の出版社の商習慣との軋轢、流通をどうするのか、ネット環境に浅い当時の日本人にどうアピールするか、などです。でも本作は基本的には、アマゾンという会社そのものと、アマゾンの生み出すサイトそのものにほとんどの焦点が当てられています。著者がマーケティングの相談役というような位置で、さらにサイト構築にも顔を出していたような人だったからそういう構成になっているのでしょう。僕としては、アマゾンについて最も知りたいのは流通についてだったので(アマゾンの流通はホント信じられないぐらい早いので、出版業界は見習って欲しい)、期待外れだったなという感じでした。
アマゾン色んな意味で書店を脅かす存在ですけど、まあただ敵対しているだけではどうしようもないからとある計画が明日から始まるはずだったんですけど、どうも延期になったようです。まあここからはただの愚痴ですが、ウチの社員は、当初明日から始まる予定だったその計画に対して、一昨日ぐらいまでまったく何の準備もしていませんでした。なんといいますか、お粗末な感じだなと思いました。
僕自身はアマゾンで買い物をしたことは一回しかありません。僕は基本的に、何か明確に欲しい本がある、というわけではないので、やっぱり書店で本を探す方が好きですね。思いがけない一冊に出会いたい、と思うわけです。しかし一方で、確かに書店で思いがけない一冊に出会うことはなかなか難しくなっているのが現状です。書店も売上のことを考えなければいけないので、どうしても世間的に売れているものを中心に揃えることになるのだけど、そうするとどうしても他の店と同じような品揃えになってしまう。それにそもそも、書店員が扱うべき情報が膨大すぎるので(今出版業界では、1日200点の新刊が出るといわれています。これはたぶん雑誌を除いた数字です。その中で把握すべき重要な書籍は2、3割ぐらいかもしれませんが、それでも毎日これだけ膨大な本の情報をアップデートしていくのは並大抵なことではありません。というか僕は出来ていません)、書店員でさえどの膨大な本の中から何を選んで売り場に置くべきかもはや判断が出来なかったりするわけです。
そういう状況の中では、確かにアマゾンというネット書店は有用なツールであるように思います。
僕は今後、こういうような展開になったら面白いのにな、と思います。
それは、既存のネット書店内(アマゾンやbk1など)に、リアル書店の出張所みたいなものを出す、というアイデアです。書店の中にも、かなり独自色を強く出しているところも多くあって、そういうお店の売り場をネット書店内で再現する、というものです。各店で独自にサイトを作るのは難しいだろうし、かと言って面白い売り場の本屋があるからと言って遠くからお客さんが来れるわけでもないので、なかなか面白いかもしれません。
もちろんネット書店側はリアル書店側に情報料みたいな形でお金を出し、その代わりにリアル書店は自店の独自のフェアや棚構成なんかのノウハウをリアル書店に提示する、みたいな感じです。たぶんですけど、ネット書店を真っ向から敵扱いしていては、リアル書店は生き残ることは難しいような気がします。ネット書店をいかに利用して生き残るか、その模索をする時期に来ているのかもしれないですね。
まあそんなわけで適当なことをいろいろ書きましたが、とにかくこの本は面白くないので読まなくていいと思います。近い内に「Google誕生」という本を読む予定なので、こっちに期待します。
追記)僕の予想に反して、アマゾンのレビューではそれなりに評価がよかったです。ホントかよ、とか思いますけど。
松本晃一「アマゾンの秘密 世界最大のネット書店はいかに日本で成功したか」
(ドラえもんの秘密道具?)
『ドラショッピング』と名付けられたそのサイトは、その名の通り、ドラえもんの秘密道具を販売していたのである。
(いやいや、まさかね)
まさか本当にドラえもんの秘密道具が買えるわけがないだろう。そこまで技術が進歩しているわけもないし、というかそもそもドラえもんの道具というのは技術の進歩だけではいかんともしがたいものばかりである。恐らく未来永劫実現不可能なものばかりで、そんなものが売られるわけがないのである。
(しかしサイトのどこにも、なんの注意書きもないなぁ)
あらかじめジョークとしてやっているならいいのだが、しかしこのサイトを真に受けてしまう人もいないとは限らないだろう。特に子どもなんか、本当かもと思うかもしれない。
(まあでも物は試しだ。買うフリでもしてみようかな)
というわけで僕は、そのドラショッピング内をうろうろすることにしたのだ。
(とりあえずタケコプターは欲しいでしょ。空飛びたいしね。これは買い)
(もちろんタイムマシンも、っと)
(四次元ポケット…ってのはさすがにないのかな。まあそうだろうね。それがあったら全部揃っちゃうもんね)
(そうそう、忘れちゃいけないどこでもドア…、ってあれ?どこでもドアはないのかなぁ。あれあったら便利なんだけどなぁ。まあいいか、他のを捜そう)
(あぁ、これはいいよね、もしもボックス。ちょっと大きいのが難点だけどなぁ…)
(逆時計…へぇ、時間を逆戻りさせられるんだ。でも、まあこれはタイムマシンがあれば十分か)
(エアコンボールね。その周りの温度を調節してくれる、と。これはいいなぁ。買うか)
こんな感じで僕はカートにどんどん商品を放り込んでいったわけです。ふと気づけば、合計金額は50万円に達しようとしています。
(まあこれぐらいでいいか。どうせ買えるわけないしな)
僕はカートをクリックし、清算の画面にします。
(名前と電話番号とメールアドレスを入力して、と。住所は書かなくていいのかな)
そして次の画面に進むと、なんとクレジットカードの番号入力のフォームが出てきました。
(まさか、ホントに買えるのか?)
そんなわけがないだろう、と思って、僕は画面の隅々まで見てみることにしました。すると下の方に小さくこんなことが書いてあります。
『商品の発送はいたしませんので、お客様ご自身で受け取りに来ていただくようお願いいたします。当社ははくちょう座の惑星X58695にあり、お越しの際はどこでもドアをご利用いただくのがよいかと存じ上げます。』
なんというか、イタズラなのか新手の詐欺なのか、イマイチよくわからないサイトである。
一銃「ドラショッピング」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、アマゾンジャパン設立時に在籍していた(今はアマゾンジャパンにはいない)著者が、アマゾンジャパン立ち上げから軌道に乗るまでの出来事を著者自身が見たままを描いた作品です。超極秘裏に進められていたアマゾンジャパンの設立計画、アマゾンの風変わりな社風、サイト構築における哲学、創業者の理念、トラブルや試行錯誤。そうした、秘密主義として有名なアマゾンの内部について書いている作品です。
本作はちょっとレベルの低い作品でした。まあ本の薄さと文字の大きさから大体分かっていましたけど、表面をさっと撫でたような構成で、別段面白くもなんともないですね。
本作はアマゾンという会社についてのノンフィクションではありません。著者がアマゾンにいた頃の日記、のようなものだと思えばかなり近いと思います。別に日記形式というわけではないんですけど。
普通ノンフィクションというのは、自分が取材をし、その中から厳選したものについてだけ書く、というスタイルになると思います。でも本作は取材など一切せず、著者がアマゾンジャパンに在籍していた頃、彼が見聞きしたことを書いているだけの本で、彼が見なかった部分についてはまったく書かれていないし、彼が見ていた部分についても非常に浅い説明になっているので、一冊の企業本としてはまったく面白くない作品でした。まあアマゾンという会社は超をいくつつけても違和感のないくらいの秘密主義を貫く会社なので、普通の企業本みたいなものを出すのは難しいのかもしれませんけど、それにしてもお粗末であることよ、と思ったりしました。
アマゾンという会社を語る上で切り口となるものはたくさんあります。日本の出版社の商習慣との軋轢、流通をどうするのか、ネット環境に浅い当時の日本人にどうアピールするか、などです。でも本作は基本的には、アマゾンという会社そのものと、アマゾンの生み出すサイトそのものにほとんどの焦点が当てられています。著者がマーケティングの相談役というような位置で、さらにサイト構築にも顔を出していたような人だったからそういう構成になっているのでしょう。僕としては、アマゾンについて最も知りたいのは流通についてだったので(アマゾンの流通はホント信じられないぐらい早いので、出版業界は見習って欲しい)、期待外れだったなという感じでした。
アマゾン色んな意味で書店を脅かす存在ですけど、まあただ敵対しているだけではどうしようもないからとある計画が明日から始まるはずだったんですけど、どうも延期になったようです。まあここからはただの愚痴ですが、ウチの社員は、当初明日から始まる予定だったその計画に対して、一昨日ぐらいまでまったく何の準備もしていませんでした。なんといいますか、お粗末な感じだなと思いました。
僕自身はアマゾンで買い物をしたことは一回しかありません。僕は基本的に、何か明確に欲しい本がある、というわけではないので、やっぱり書店で本を探す方が好きですね。思いがけない一冊に出会いたい、と思うわけです。しかし一方で、確かに書店で思いがけない一冊に出会うことはなかなか難しくなっているのが現状です。書店も売上のことを考えなければいけないので、どうしても世間的に売れているものを中心に揃えることになるのだけど、そうするとどうしても他の店と同じような品揃えになってしまう。それにそもそも、書店員が扱うべき情報が膨大すぎるので(今出版業界では、1日200点の新刊が出るといわれています。これはたぶん雑誌を除いた数字です。その中で把握すべき重要な書籍は2、3割ぐらいかもしれませんが、それでも毎日これだけ膨大な本の情報をアップデートしていくのは並大抵なことではありません。というか僕は出来ていません)、書店員でさえどの膨大な本の中から何を選んで売り場に置くべきかもはや判断が出来なかったりするわけです。
そういう状況の中では、確かにアマゾンというネット書店は有用なツールであるように思います。
僕は今後、こういうような展開になったら面白いのにな、と思います。
それは、既存のネット書店内(アマゾンやbk1など)に、リアル書店の出張所みたいなものを出す、というアイデアです。書店の中にも、かなり独自色を強く出しているところも多くあって、そういうお店の売り場をネット書店内で再現する、というものです。各店で独自にサイトを作るのは難しいだろうし、かと言って面白い売り場の本屋があるからと言って遠くからお客さんが来れるわけでもないので、なかなか面白いかもしれません。
もちろんネット書店側はリアル書店側に情報料みたいな形でお金を出し、その代わりにリアル書店は自店の独自のフェアや棚構成なんかのノウハウをリアル書店に提示する、みたいな感じです。たぶんですけど、ネット書店を真っ向から敵扱いしていては、リアル書店は生き残ることは難しいような気がします。ネット書店をいかに利用して生き残るか、その模索をする時期に来ているのかもしれないですね。
まあそんなわけで適当なことをいろいろ書きましたが、とにかくこの本は面白くないので読まなくていいと思います。近い内に「Google誕生」という本を読む予定なので、こっちに期待します。
追記)僕の予想に反して、アマゾンのレビューではそれなりに評価がよかったです。ホントかよ、とか思いますけど。
松本晃一「アマゾンの秘密 世界最大のネット書店はいかに日本で成功したか」
禁断のパンダ(拓未司)
これは、僕が彼女と別れるまでの話である。
『グルメ界仰天!神の舌を持つ男!』
これはある有名な雑誌に書かれた、僕に関する記事の見出しだ。僕は少し前からこうして、メディアと呼ばれるものに露出するようになってきた。
もともとはただ食べるのが好きなだけの人間だった。食べることが好きで好きで、美味しいと称されるものは何でも食べたかった。美味しいものを求めて日本全国、いや世界中を飛び回ったと言っても決して言い過ぎではないだろう。実家が多少裕福だったことも僕には幸いだった。そうでなければとてもお金が続かなかっただろう。
そうやって僕はずっと食べるために人生を捧げてきた。他のことはほとんど二の次、仕事も趣味も恋愛もまったく無視して生きてきたのだ。
訪れるお店で、店のご主人と話すような機会が時々あった。そこで僕は、これは隠し味に何々を使っていますねだの、さしでがましいようですがこの料理には、どこどこ産の魚よりもどこどこ産の魚の方が合っているように思うんですが、というような話をしたのだった。もちろん、これは純水に僕の興味からであった。旨いものを作る人達と話をしたい、何かを共有したい、あるいはもっと旨いものを作る手助けをしたい。純粋なそうした欲求から、僕は思いついたことを料理人に伝えていたのだ。
そんなことをしていく内に、僕の名前は勝手に広まっていったようだ。すごい舌を持つ男がいる、と料理人の間で評判になっていった。それはとりもなおさず、僕が口にしたことが料理人に受け入れられたということであるから、僕としては嬉しいことだった。そしてそれと同時に、マスコミにも注目をされるようになったのだ。
僕は雑誌に連載を持つことになり、またグルメ番組にも時々顔を出すようになった。バラエティ番組で、料理を一口食べてそれに使われている材料をすべて答える、というようなこともやったことがある。テレビや雑誌の世界は華やかで、僕は依頼があればどんどんと引き受け、やがていっぱしの料理評論家として認識されるようになったのだった。
桃子と出会ったのは、僕が料理評論家として認識され始めた頃のことだったと思う。僕はいつものようにテレビ番組の収録に参加していた。その番組は、料理人や主婦らと共に、ハンバーグやオムライスなどの定番料理の進化版を作ろう、という主旨の番組で、僕はアドバイザーの一人として参加していたのだ。
その日はカレーの回であり、出来上がった試作品を僕が食べる、という段階に来ていた。そこで事件は起きたのだ。
カレーを口に入れた瞬間、違和感を感じた。口の中に異物が入っているのだ。それは指輪だった。
「あの、カレーの中に指輪が入っていたんですけど」
そう言うとスタッフが飛んできて、申し訳ありません、と大仰に頭を下げた。
「いや、僕は全然気にしてないよ。でも、この持ち主に伝えて欲しいことがあるんだ。もしかしたら余計なお世話かもしれないけど、このダイヤたぶんニセモノですよ」
「宝石の鑑定も出来るんですか?」
「いや違うんだ。味がちょっとおかしいなと思って。もしこれが本物のダイヤだったら、こんなおかしな味はしないような気がするから」
この出来事は、僕の人生をささやかに変えてくれた。しかも二つの意味で。
一つは、僕はさらにいろんな番組に取り上げられるようになった、ということだ。僕は、ただ料理の味が分かるというだけの料理評論家ではなく、まさしく何でも見分けることの出来る舌を持つ男として知られるようになっていった。実際僕は舌に載せれば、食べ物でなくてもその物の構成要素が大体分かる。だから、再生紙を使っていると謳っているのに使われていない紙も判別出来るし、割り箸に使われている木がどんな種類のものなのかも分かる。まさに奇跡の舌だ、としてさらにもてはやされることになった。
そしてもう一つは、桃子と出会ったことである。
カレーの中に指輪を落としたのが、その日収録にやってきていたOLの桃子で、ブログで自身の料理日記を載せていて一部では有名な女性だった。桃子には当時付き合っている彼氏がいたのだけど、ダイヤがニセモノであるということを知ったために別れてしまい、そして僕と付き合うことになったのだった。
それまで僕には彼女がいたことがなかった。ずっと美味しいものだけを求めて生きてきたし、マスコミに注目されるようになってからはなかなか時間がなかったということもある。だから、僕は非常に奥手だった。手を繋ぐのにひと月も掛かったくらいだ。でも桃子は、そんな僕を優しく見守ってくれていた。二人とも、慌てずにゆっくり行こう、と思っていたのだ。
付き合いは順調で、僕は忙しい合間を縫って無理矢理にでも彼女と会う時間を見つけた。桃子は優しくて綺麗で、一緒にいると和んだ雰囲気になったものだ。僕はこのまま桃子と順調に進んでいくものだと思っていた。
だが僕は、あの日を迎えてしまう。彼女と別れることになった日だ。それは同時に、僕が彼女と初めてキスした日でもあるのだ。
夜暗い公園で二人で座っている時、僕は勇気を出して彼女にキスをしてみた。彼女は驚いた様子もなく、恐らく内心ではやっとしてくれたのね、なんて思っていたことだろう。僕にとっては初めてのキスで勝手が分からなかったが、しかし戸惑っている僕を襲ったのは信じられない衝撃だった。
キスをし終えた僕は混乱した。どうしたらいいのだろうか。その時僕は、もう彼女との付き合いを続けることが出来ない、と確信をしていた。しかし、桃子のことを嫌いになったわけではない。けどどう考えても、彼女を傷つけずに伝えることは不可能だった。
「…ゴメン、桃子とはもう付き合いを続けていけないと思う」
桃子は目に涙を浮かべながら、しかし同時に納得したという風な表情を浮かべた。
「やっぱり分かってしまうのね。いつかこんな日が来るかもしれないとは思っていたのよ」
「本当にゴメン。でもやっぱり僕には、男性と付き合うことは出来ない」
「いいのよ。仕方がないもの。あなたが奥手だったお陰で、楽しい時間が長く過ごすことが出来たわ。ありがとう。じゃあね」
桃子は、男性だった。キスをした瞬間に僕にはそれが分かってしまった。桃子は人間としては素晴らしいと思う。でもやっぱり、異性として見ることは僕には出来ない。
神の舌を持つことを恨んだのは、後にも先にもこの時限りだった。
一銃「絶対舌感」
そろそろ内容に入ろうと思います。
神戸でフレンチスタイルのビストロを営む柴山幸太は、妻の友人の結婚式に出席することにした。その結婚式が行われるチャペルは、とあるガイドブックで最高の評価がされているレストランの隣にあり、披露宴で出される料理もそこのレストランのものだと思われるからだ。
幸太はその披露宴の会場で、新郎の祖父である中島という老人と知り合いになる。この中島、かつて『ゴッド中島』という名で活躍していた料理評論家で、その舌はまさに神のものだと言われいた。幸太はその中島に気に入られ、中島が幸太のビストロを訪れるようになる。
一方その結婚式の翌日、新郎の父親が経営する運送会社の社員の一人が死体となって発見された。新郎の父親も結婚式の途中から行方不明になっており、事件に関わっているのではないかと疑われている。この事件を担当する青山という下っ端の刑事は、捜査本部の方針に逆らって自説を証明しようと独自の捜査をし…。
というような話です。
本作は、このミステリーがすごい大賞の大賞受賞作で、美食ミステリーと言われてます。
本作に関する選評が巻末に載っているんですけど、基本的にどれもミステリ部分への評価がかなり低いです。恐らくかなり書き直しをしていると思うので、出版されているものはそれなりになっているとは思うんですけど、でも確かに僕もミステリの部分は弱いなと思いました。
というのも、僕にしてはかなり珍しく、大体どんな結末になるのか予想が出来たからです。僕はミステリを読んでても、大体こんな感じかなぁ、という仮説すらまったく思い浮かばない人間なんですけど、でも本作は、まあこの流れならこれしかないかな、と思う仮設が浮かび、で細かいところまで考えていたわけではないんですけど、その大筋の流れはやっぱり合ってました。
そんなわけで、ミステリとしてはそこまで評価出来ないと思うんですけど、でも選考委員の全員が評価しているのが、食の部分ですね。とにかくこの作品、料理が無茶苦茶旨そうなんですね。
著者自身が料理人だっていうこともあると思うんですけど、食べることにほぼまったく興味のない僕でさえすごいなと思うような描写が目白押しです。しかも本作の設定が、中島という神の舌を持つ料理評論家の舌を常に感動させ続ける石国という超天才料理人が作った料理、というもので、その描写は確かに圧巻ですね。食べてみたくなる、というよりは、実際に今自分は食べているんじゃないか、と思わせるような、そんな文章でした。
だから本作は、他の新人賞だったら通らなかっただろうなと思います。何故なら、ミステリの部分が弱いからですね。でもこのミス大賞は、どこか一点でもズバ抜けている部分があれば、多少欠点があっても賞を与える、という性格なので、こういう作品も出てくるわけです。僕はそういうチャレンジ精神はなかなかいいなと思っています。
ミステリーとして弱い、と書きましたけど、ミステリの核心部分とか関係ない部分で、伏線の回収がなかなかうまいな、と思いました。これは別に後々関係する話じゃないだろ、と思っていたことが後で使われたりとかしたんで、こんな感じで伏線の回収が出来るなら、ミステリーとしてもっと高いレベルの物が書ける作家なんじゃないかな、と思ったりしました。本作はそこまで推せる作品ではないですが、でも今後に期待することが出来そうな作家かなと思いました。
というわけで、ミステリーとして読まなければ結構面白いと思います。あくまでミステリーはクレソンのようなおまけで、美食の部分がメインディッシュである、という読み方をすれば、かなり堪能できるのではないかと思います。
さてそんなわけで最後に私事ですが、この作品で、これまで読んだ本の冊数の累計が1500冊になりました。1500冊と言うとなかなかの冊数だとは思いますが、でも世の中にどんだけ本があるんだよ、ということを考えると、まだ1500冊しか読んでないんだぁ、と思ったりします。これからもまあバリバリ読んでいこうと思います。
拓未司「禁断のパンダ」
『グルメ界仰天!神の舌を持つ男!』
これはある有名な雑誌に書かれた、僕に関する記事の見出しだ。僕は少し前からこうして、メディアと呼ばれるものに露出するようになってきた。
もともとはただ食べるのが好きなだけの人間だった。食べることが好きで好きで、美味しいと称されるものは何でも食べたかった。美味しいものを求めて日本全国、いや世界中を飛び回ったと言っても決して言い過ぎではないだろう。実家が多少裕福だったことも僕には幸いだった。そうでなければとてもお金が続かなかっただろう。
そうやって僕はずっと食べるために人生を捧げてきた。他のことはほとんど二の次、仕事も趣味も恋愛もまったく無視して生きてきたのだ。
訪れるお店で、店のご主人と話すような機会が時々あった。そこで僕は、これは隠し味に何々を使っていますねだの、さしでがましいようですがこの料理には、どこどこ産の魚よりもどこどこ産の魚の方が合っているように思うんですが、というような話をしたのだった。もちろん、これは純水に僕の興味からであった。旨いものを作る人達と話をしたい、何かを共有したい、あるいはもっと旨いものを作る手助けをしたい。純粋なそうした欲求から、僕は思いついたことを料理人に伝えていたのだ。
そんなことをしていく内に、僕の名前は勝手に広まっていったようだ。すごい舌を持つ男がいる、と料理人の間で評判になっていった。それはとりもなおさず、僕が口にしたことが料理人に受け入れられたということであるから、僕としては嬉しいことだった。そしてそれと同時に、マスコミにも注目をされるようになったのだ。
僕は雑誌に連載を持つことになり、またグルメ番組にも時々顔を出すようになった。バラエティ番組で、料理を一口食べてそれに使われている材料をすべて答える、というようなこともやったことがある。テレビや雑誌の世界は華やかで、僕は依頼があればどんどんと引き受け、やがていっぱしの料理評論家として認識されるようになったのだった。
桃子と出会ったのは、僕が料理評論家として認識され始めた頃のことだったと思う。僕はいつものようにテレビ番組の収録に参加していた。その番組は、料理人や主婦らと共に、ハンバーグやオムライスなどの定番料理の進化版を作ろう、という主旨の番組で、僕はアドバイザーの一人として参加していたのだ。
その日はカレーの回であり、出来上がった試作品を僕が食べる、という段階に来ていた。そこで事件は起きたのだ。
カレーを口に入れた瞬間、違和感を感じた。口の中に異物が入っているのだ。それは指輪だった。
「あの、カレーの中に指輪が入っていたんですけど」
そう言うとスタッフが飛んできて、申し訳ありません、と大仰に頭を下げた。
「いや、僕は全然気にしてないよ。でも、この持ち主に伝えて欲しいことがあるんだ。もしかしたら余計なお世話かもしれないけど、このダイヤたぶんニセモノですよ」
「宝石の鑑定も出来るんですか?」
「いや違うんだ。味がちょっとおかしいなと思って。もしこれが本物のダイヤだったら、こんなおかしな味はしないような気がするから」
この出来事は、僕の人生をささやかに変えてくれた。しかも二つの意味で。
一つは、僕はさらにいろんな番組に取り上げられるようになった、ということだ。僕は、ただ料理の味が分かるというだけの料理評論家ではなく、まさしく何でも見分けることの出来る舌を持つ男として知られるようになっていった。実際僕は舌に載せれば、食べ物でなくてもその物の構成要素が大体分かる。だから、再生紙を使っていると謳っているのに使われていない紙も判別出来るし、割り箸に使われている木がどんな種類のものなのかも分かる。まさに奇跡の舌だ、としてさらにもてはやされることになった。
そしてもう一つは、桃子と出会ったことである。
カレーの中に指輪を落としたのが、その日収録にやってきていたOLの桃子で、ブログで自身の料理日記を載せていて一部では有名な女性だった。桃子には当時付き合っている彼氏がいたのだけど、ダイヤがニセモノであるということを知ったために別れてしまい、そして僕と付き合うことになったのだった。
それまで僕には彼女がいたことがなかった。ずっと美味しいものだけを求めて生きてきたし、マスコミに注目されるようになってからはなかなか時間がなかったということもある。だから、僕は非常に奥手だった。手を繋ぐのにひと月も掛かったくらいだ。でも桃子は、そんな僕を優しく見守ってくれていた。二人とも、慌てずにゆっくり行こう、と思っていたのだ。
付き合いは順調で、僕は忙しい合間を縫って無理矢理にでも彼女と会う時間を見つけた。桃子は優しくて綺麗で、一緒にいると和んだ雰囲気になったものだ。僕はこのまま桃子と順調に進んでいくものだと思っていた。
だが僕は、あの日を迎えてしまう。彼女と別れることになった日だ。それは同時に、僕が彼女と初めてキスした日でもあるのだ。
夜暗い公園で二人で座っている時、僕は勇気を出して彼女にキスをしてみた。彼女は驚いた様子もなく、恐らく内心ではやっとしてくれたのね、なんて思っていたことだろう。僕にとっては初めてのキスで勝手が分からなかったが、しかし戸惑っている僕を襲ったのは信じられない衝撃だった。
キスをし終えた僕は混乱した。どうしたらいいのだろうか。その時僕は、もう彼女との付き合いを続けることが出来ない、と確信をしていた。しかし、桃子のことを嫌いになったわけではない。けどどう考えても、彼女を傷つけずに伝えることは不可能だった。
「…ゴメン、桃子とはもう付き合いを続けていけないと思う」
桃子は目に涙を浮かべながら、しかし同時に納得したという風な表情を浮かべた。
「やっぱり分かってしまうのね。いつかこんな日が来るかもしれないとは思っていたのよ」
「本当にゴメン。でもやっぱり僕には、男性と付き合うことは出来ない」
「いいのよ。仕方がないもの。あなたが奥手だったお陰で、楽しい時間が長く過ごすことが出来たわ。ありがとう。じゃあね」
桃子は、男性だった。キスをした瞬間に僕にはそれが分かってしまった。桃子は人間としては素晴らしいと思う。でもやっぱり、異性として見ることは僕には出来ない。
神の舌を持つことを恨んだのは、後にも先にもこの時限りだった。
一銃「絶対舌感」
そろそろ内容に入ろうと思います。
神戸でフレンチスタイルのビストロを営む柴山幸太は、妻の友人の結婚式に出席することにした。その結婚式が行われるチャペルは、とあるガイドブックで最高の評価がされているレストランの隣にあり、披露宴で出される料理もそこのレストランのものだと思われるからだ。
幸太はその披露宴の会場で、新郎の祖父である中島という老人と知り合いになる。この中島、かつて『ゴッド中島』という名で活躍していた料理評論家で、その舌はまさに神のものだと言われいた。幸太はその中島に気に入られ、中島が幸太のビストロを訪れるようになる。
一方その結婚式の翌日、新郎の父親が経営する運送会社の社員の一人が死体となって発見された。新郎の父親も結婚式の途中から行方不明になっており、事件に関わっているのではないかと疑われている。この事件を担当する青山という下っ端の刑事は、捜査本部の方針に逆らって自説を証明しようと独自の捜査をし…。
というような話です。
本作は、このミステリーがすごい大賞の大賞受賞作で、美食ミステリーと言われてます。
本作に関する選評が巻末に載っているんですけど、基本的にどれもミステリ部分への評価がかなり低いです。恐らくかなり書き直しをしていると思うので、出版されているものはそれなりになっているとは思うんですけど、でも確かに僕もミステリの部分は弱いなと思いました。
というのも、僕にしてはかなり珍しく、大体どんな結末になるのか予想が出来たからです。僕はミステリを読んでても、大体こんな感じかなぁ、という仮説すらまったく思い浮かばない人間なんですけど、でも本作は、まあこの流れならこれしかないかな、と思う仮設が浮かび、で細かいところまで考えていたわけではないんですけど、その大筋の流れはやっぱり合ってました。
そんなわけで、ミステリとしてはそこまで評価出来ないと思うんですけど、でも選考委員の全員が評価しているのが、食の部分ですね。とにかくこの作品、料理が無茶苦茶旨そうなんですね。
著者自身が料理人だっていうこともあると思うんですけど、食べることにほぼまったく興味のない僕でさえすごいなと思うような描写が目白押しです。しかも本作の設定が、中島という神の舌を持つ料理評論家の舌を常に感動させ続ける石国という超天才料理人が作った料理、というもので、その描写は確かに圧巻ですね。食べてみたくなる、というよりは、実際に今自分は食べているんじゃないか、と思わせるような、そんな文章でした。
だから本作は、他の新人賞だったら通らなかっただろうなと思います。何故なら、ミステリの部分が弱いからですね。でもこのミス大賞は、どこか一点でもズバ抜けている部分があれば、多少欠点があっても賞を与える、という性格なので、こういう作品も出てくるわけです。僕はそういうチャレンジ精神はなかなかいいなと思っています。
ミステリーとして弱い、と書きましたけど、ミステリの核心部分とか関係ない部分で、伏線の回収がなかなかうまいな、と思いました。これは別に後々関係する話じゃないだろ、と思っていたことが後で使われたりとかしたんで、こんな感じで伏線の回収が出来るなら、ミステリーとしてもっと高いレベルの物が書ける作家なんじゃないかな、と思ったりしました。本作はそこまで推せる作品ではないですが、でも今後に期待することが出来そうな作家かなと思いました。
というわけで、ミステリーとして読まなければ結構面白いと思います。あくまでミステリーはクレソンのようなおまけで、美食の部分がメインディッシュである、という読み方をすれば、かなり堪能できるのではないかと思います。
さてそんなわけで最後に私事ですが、この作品で、これまで読んだ本の冊数の累計が1500冊になりました。1500冊と言うとなかなかの冊数だとは思いますが、でも世の中にどんだけ本があるんだよ、ということを考えると、まだ1500冊しか読んでないんだぁ、と思ったりします。これからもまあバリバリ読んでいこうと思います。
拓未司「禁断のパンダ」
医学のたまご(海堂尊)
「それでは手術を始めます。メス」
「今日はこれで何件目?」
「三件目。ホント疲れた」
「昨日は?」
「お察しの通り新人の歓迎会。まあ二日酔いってほどでもないけど」
「新人、嫌いだもんねぇ」
「そんなことはないさ。ただ未熟な人間が嫌いなだけだ」
「それって同じだと思うけど」
「そういえばそれで思い出した。昨日院長の息子が入院したとか言ってたな」
「何呑気なこと言ってるの。今あなたが切ってるお腹が、その息子よ」
「へぇ、そうなんだ。全然知らなかった」
「あなたもいい加減、院内の事情に疎いわよね。さっきだって医局が丸々ピリピリしてたじゃないの」
「あぁ、そうだっけ?気づかなかったなぁ。だったら院長自ら執刀すればいいのに。確かこれ、専門じゃなかった?」
「院内の冬眠ゼミって噂は本当だったのね。ホント何にも知らないんだから」
「冬眠ゼミなんて呼ばれてるのか、俺」
「院長はもっぱら研究で上がった人だからね。実技はほぼ無理。まあそれでも院長になれるっていうんだから、大学病院ってホント謎だけどさ」
「まあまさか自分の息子が発症するとも思わなかっただろうしねぇ」
「でも院長、奥さんに詰られてるらしいわよ。自分の息子なのに、あんたは何もしないのか、って」
「ねぇ君、何でそんなことまで知ってるんだい?」
「あなたは冬眠ゼミだから言っても大丈夫かしらね。でも人に言っちゃダメよ。実は私、院長と付き合ってるの」
「ええっっっーーー」
「ほらほら、周りに気づかれるでしょ。それにペアン、落ちそうよ」
「いやだって、そんな驚かすようなこと言うから」
「もう二年ぐらいになるのかな。まあ院長と付き合ってて損はないしさ、案外アッチの方も健在だしね」
「でも、奥さんにバレたりしないの?」
「院長はバレてないって思ってるみたいだけどね」
「じゃあバレてるんだ」
「っていうかまあ、あたしが教えてあげたっていうか」
「は?」
「だからね、奥さんに、『わたし院長と付き合ってますけど、家庭を壊すつもりはありませんのでご心配なく』って」
「なんていうか、君のことがどんどんわからなくなってきたよ」
「実はね、陶芸教室で一緒だったのよ」
「へぇ、陶芸なんてやってるんだ」
「まあその時は院長の奥さんだなんて知らなかったんだけど、何だかウマが合ってね。時々お茶したり買い物したりなんていう仲になってたんだけど」
「うん、それで?」
「まだ私が院長と付き合う前のことよ。ある時奥さんがね、『もう疲れたわ』なんてことを言うのよ」
「なんか嫌な予感がするね」
「奥さんはね、旦那と息子に辟易していたそうよ。院長になるために家庭を顧みなかった夫、医者になるために勉強ばっかりしてる息子。なんか息が詰まるんだってさ」
「なるほどね。それなら夫を奪われても気にならないってか」
「そう。わたしもそう思ったからね、ちゃんと教えておいてあげたの。そしたら、ありがとう、これで少しは自由になれるわ、って感謝されちゃった」
「でもさっき、『自分の息子なのに何もしないのか』って奥さんは院長を詰ったとか言ってなかったっけ?まあさすがに息子にはまだちゃんと愛情があるってことかな」
「あぁ、それはたぶん演技なんじゃないかな。奥さんの方からもうすぐ離婚を突きつけるつもりらしから」
「どういうこと?」
「つまりね、自分で息子の養育権を得れば、養育費と称してたんまりお金をせしめられるでしょう?そのための準備なんだと思うわ。それに、自分で引き取れば、勉強ばっかりしてる子どもから変えられるかもしれない、って思ってもいるみたいね」
「はぁ。女って怖いね」
「わたしも早いとこ院長からトンズラしないと。奥さんが離婚を切り出す時まで付き合ってたりすると、結婚してくれとか言われかねないしね」
「はぁ。女って怖いね、ホント」
「あの、すいません、全部聞こえてるんですけど…」
「…メス」
一銃「手術中」
会話だけのストーリーは、やっぱり長く書くのが難しいですね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
桜宮中学に通う曽根崎薫14歳。僕は歴史は大の得意だけど数学と英語は致命的っていう、まあどっちかっていうと落ちこぼれ気味な生徒なんだけど、なんとその僕が、東城大学の医学部で研究をすることになっちゃったんだ!
何でそんなことになっちゃったかっていうと、これはもう僕のうっかりっていうかなんていうかね。
この前、潜在能力試験ってのがあったんだ。これで僕は1位を取ってしまったんだよ。でもこれにはもちろんトリックがある。なんと、その試験問題を作ったのが、世界的なゲーム理論の権威である僕のパパだったんだ!そんなこととは誰も知らないから、僕がとんでもない能力を持ってるってことになっちゃって、それで大学で研究するなんてことになっちゃったんだ。
でも、課題として渡された本は10冊もあるし、しかも中身だってどう考えたって難しい。言ってることもさっぱり理解できない。参ったぞ、これは。でも、中学の同じクラスには強い味方がいる。英語の学術論文でもスラスラ読んじゃう美智子と、将来医者になりたいと思っている医学オタクの三田村が、僕をサポートしてくれるんだ。
で、登場大学での研究なんだけど、もうこれがとんでもないことになっちゃって。初めの内はそんなに大きくない話だったはずなんだけどなぁ…。
というような感じです。
感想に入る前に、本作は各章のタイトルがなかなかイケてるので、それを全部書いてみようと思います。
「世界は呪文と魔方陣からできている」とパパは言った。
「扉を開けたときには、勝負がついている」とパパは言った。
「初めての場所でまず捜すべきは、見を隠す場所だ」とパパは言った。
「エラーは気づいた瞬間に直すのが、最速で最良だ」とパパは言った。
「ムダにはムダの意味がある」とパパは言った。
「閉じた世界は必ず腐っていく」とパパは言った。
「名前が立派なものほど、中身は空っぽ」と藤田教授は言った。
「悪意と無能は区別がつかないし、つける必要もない」とパパは言った。
「一度できた流れは、簡単には変わらない」とオアオアは言った。
「世の中で一番大変なのは、ゴールの見えない我慢だ」とパパは言った。
「心に飼ってるサソリを解き放て」とパパは言った。
「道は自分の目の前に広がっている」と僕は言った。
なかなかいいセンスだと思いませんか?
さて本作ですが、相変わらず海堂尊はレベルの高い作品を書きますね。本作は「ミステリーYA」と言って、講談社の「ミステリーランド」のように、メインのターゲットを中高生かそれより下辺りに考えているシリーズで、本作も漢字にはほとんどルビが振ってあります。横書きのスタイルなのはこのシリーズの特徴なのかあるいは本作だけなのかよくわからないけど、僕は横書きだろうが縦書きだろうが違和感なく読めるので問題はありません。
まず、中学生が大学病院で研究をする、という設定が荒唐無稽でいいですね。その設定を割とうまいこと組み込んでしまう構成力は相変わらずさすがです。薫が大学で研究するようになってからも、まあとにかくいろんなすったもんだがあるわけですけど、それをうまいこと乗り越えさせているわけで、この無茶苦茶な設定をリアルな感じにストーリーに組みこむのは、やっぱりかなり手腕が必要だろうなと思いました。
また、バリバリの英語力を誇る美智子や医学オタクの三田村っていう設定は相当無理があるけど、でも面白いからそんなことはまあいいか、と思えてしまいます。
大学でも、後で極悪人だと判明する藤田教授を始め、桃倉さんや佐々木さんという人達と会うんだけど、みんな役割がちゃんとしてて、それにキャラクターもよくて面白いなと思いました。そして同時に、大学病院の中というのをきっとうまいこと捉えているんだろうし、それにバチスタに出てくる登場人物もチラッと出てきたりと、なかなか面白いです。
そんな中にあって、最も存在感が大きいのは、やっぱり薫のパパでしょう。薫のパパはマサチューセッツに住んでいて、本作には人物としては登場しない。けど、毎日薫とメールのやり取りをしていて、そのメールという形でパパは作中に出てくるわけです。
各章のタイトルもほとんどパパの言葉なわけで、パパの言葉っていうのはなかなか示唆に富んでいますね。ゲーム理論の権威でありながら、自分の身の回りのことをゲーム理論で予測するのが苦手だ、と息子に言われてしまうようなパパだし、どっか抜けてるところも否めないパパだけど、でもやっぱり一番頼りになるし、メールでのやり取りだけでもちゃんと父親っぽい。なかなかいいキャラだなと思いました。
「バチスタ」から始まる一連のシリーズと比べるとスピード感もシャッフル感(今僕がふと思いついた言葉だけど、でも何となくこの『シャッフル感』って言葉、「バチスタ」シリーズには合ってると思う)は少ないんだけど、医学を通じ、また大人の世界を通じて少年が成長する物語としてはなかなか面白いと思いました。是非読んでみてください。
海堂尊「医学のたまご」
「今日はこれで何件目?」
「三件目。ホント疲れた」
「昨日は?」
「お察しの通り新人の歓迎会。まあ二日酔いってほどでもないけど」
「新人、嫌いだもんねぇ」
「そんなことはないさ。ただ未熟な人間が嫌いなだけだ」
「それって同じだと思うけど」
「そういえばそれで思い出した。昨日院長の息子が入院したとか言ってたな」
「何呑気なこと言ってるの。今あなたが切ってるお腹が、その息子よ」
「へぇ、そうなんだ。全然知らなかった」
「あなたもいい加減、院内の事情に疎いわよね。さっきだって医局が丸々ピリピリしてたじゃないの」
「あぁ、そうだっけ?気づかなかったなぁ。だったら院長自ら執刀すればいいのに。確かこれ、専門じゃなかった?」
「院内の冬眠ゼミって噂は本当だったのね。ホント何にも知らないんだから」
「冬眠ゼミなんて呼ばれてるのか、俺」
「院長はもっぱら研究で上がった人だからね。実技はほぼ無理。まあそれでも院長になれるっていうんだから、大学病院ってホント謎だけどさ」
「まあまさか自分の息子が発症するとも思わなかっただろうしねぇ」
「でも院長、奥さんに詰られてるらしいわよ。自分の息子なのに、あんたは何もしないのか、って」
「ねぇ君、何でそんなことまで知ってるんだい?」
「あなたは冬眠ゼミだから言っても大丈夫かしらね。でも人に言っちゃダメよ。実は私、院長と付き合ってるの」
「ええっっっーーー」
「ほらほら、周りに気づかれるでしょ。それにペアン、落ちそうよ」
「いやだって、そんな驚かすようなこと言うから」
「もう二年ぐらいになるのかな。まあ院長と付き合ってて損はないしさ、案外アッチの方も健在だしね」
「でも、奥さんにバレたりしないの?」
「院長はバレてないって思ってるみたいだけどね」
「じゃあバレてるんだ」
「っていうかまあ、あたしが教えてあげたっていうか」
「は?」
「だからね、奥さんに、『わたし院長と付き合ってますけど、家庭を壊すつもりはありませんのでご心配なく』って」
「なんていうか、君のことがどんどんわからなくなってきたよ」
「実はね、陶芸教室で一緒だったのよ」
「へぇ、陶芸なんてやってるんだ」
「まあその時は院長の奥さんだなんて知らなかったんだけど、何だかウマが合ってね。時々お茶したり買い物したりなんていう仲になってたんだけど」
「うん、それで?」
「まだ私が院長と付き合う前のことよ。ある時奥さんがね、『もう疲れたわ』なんてことを言うのよ」
「なんか嫌な予感がするね」
「奥さんはね、旦那と息子に辟易していたそうよ。院長になるために家庭を顧みなかった夫、医者になるために勉強ばっかりしてる息子。なんか息が詰まるんだってさ」
「なるほどね。それなら夫を奪われても気にならないってか」
「そう。わたしもそう思ったからね、ちゃんと教えておいてあげたの。そしたら、ありがとう、これで少しは自由になれるわ、って感謝されちゃった」
「でもさっき、『自分の息子なのに何もしないのか』って奥さんは院長を詰ったとか言ってなかったっけ?まあさすがに息子にはまだちゃんと愛情があるってことかな」
「あぁ、それはたぶん演技なんじゃないかな。奥さんの方からもうすぐ離婚を突きつけるつもりらしから」
「どういうこと?」
「つまりね、自分で息子の養育権を得れば、養育費と称してたんまりお金をせしめられるでしょう?そのための準備なんだと思うわ。それに、自分で引き取れば、勉強ばっかりしてる子どもから変えられるかもしれない、って思ってもいるみたいね」
「はぁ。女って怖いね」
「わたしも早いとこ院長からトンズラしないと。奥さんが離婚を切り出す時まで付き合ってたりすると、結婚してくれとか言われかねないしね」
「はぁ。女って怖いね、ホント」
「あの、すいません、全部聞こえてるんですけど…」
「…メス」
一銃「手術中」
会話だけのストーリーは、やっぱり長く書くのが難しいですね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
桜宮中学に通う曽根崎薫14歳。僕は歴史は大の得意だけど数学と英語は致命的っていう、まあどっちかっていうと落ちこぼれ気味な生徒なんだけど、なんとその僕が、東城大学の医学部で研究をすることになっちゃったんだ!
何でそんなことになっちゃったかっていうと、これはもう僕のうっかりっていうかなんていうかね。
この前、潜在能力試験ってのがあったんだ。これで僕は1位を取ってしまったんだよ。でもこれにはもちろんトリックがある。なんと、その試験問題を作ったのが、世界的なゲーム理論の権威である僕のパパだったんだ!そんなこととは誰も知らないから、僕がとんでもない能力を持ってるってことになっちゃって、それで大学で研究するなんてことになっちゃったんだ。
でも、課題として渡された本は10冊もあるし、しかも中身だってどう考えたって難しい。言ってることもさっぱり理解できない。参ったぞ、これは。でも、中学の同じクラスには強い味方がいる。英語の学術論文でもスラスラ読んじゃう美智子と、将来医者になりたいと思っている医学オタクの三田村が、僕をサポートしてくれるんだ。
で、登場大学での研究なんだけど、もうこれがとんでもないことになっちゃって。初めの内はそんなに大きくない話だったはずなんだけどなぁ…。
というような感じです。
感想に入る前に、本作は各章のタイトルがなかなかイケてるので、それを全部書いてみようと思います。
「世界は呪文と魔方陣からできている」とパパは言った。
「扉を開けたときには、勝負がついている」とパパは言った。
「初めての場所でまず捜すべきは、見を隠す場所だ」とパパは言った。
「エラーは気づいた瞬間に直すのが、最速で最良だ」とパパは言った。
「ムダにはムダの意味がある」とパパは言った。
「閉じた世界は必ず腐っていく」とパパは言った。
「名前が立派なものほど、中身は空っぽ」と藤田教授は言った。
「悪意と無能は区別がつかないし、つける必要もない」とパパは言った。
「一度できた流れは、簡単には変わらない」とオアオアは言った。
「世の中で一番大変なのは、ゴールの見えない我慢だ」とパパは言った。
「心に飼ってるサソリを解き放て」とパパは言った。
「道は自分の目の前に広がっている」と僕は言った。
なかなかいいセンスだと思いませんか?
さて本作ですが、相変わらず海堂尊はレベルの高い作品を書きますね。本作は「ミステリーYA」と言って、講談社の「ミステリーランド」のように、メインのターゲットを中高生かそれより下辺りに考えているシリーズで、本作も漢字にはほとんどルビが振ってあります。横書きのスタイルなのはこのシリーズの特徴なのかあるいは本作だけなのかよくわからないけど、僕は横書きだろうが縦書きだろうが違和感なく読めるので問題はありません。
まず、中学生が大学病院で研究をする、という設定が荒唐無稽でいいですね。その設定を割とうまいこと組み込んでしまう構成力は相変わらずさすがです。薫が大学で研究するようになってからも、まあとにかくいろんなすったもんだがあるわけですけど、それをうまいこと乗り越えさせているわけで、この無茶苦茶な設定をリアルな感じにストーリーに組みこむのは、やっぱりかなり手腕が必要だろうなと思いました。
また、バリバリの英語力を誇る美智子や医学オタクの三田村っていう設定は相当無理があるけど、でも面白いからそんなことはまあいいか、と思えてしまいます。
大学でも、後で極悪人だと判明する藤田教授を始め、桃倉さんや佐々木さんという人達と会うんだけど、みんな役割がちゃんとしてて、それにキャラクターもよくて面白いなと思いました。そして同時に、大学病院の中というのをきっとうまいこと捉えているんだろうし、それにバチスタに出てくる登場人物もチラッと出てきたりと、なかなか面白いです。
そんな中にあって、最も存在感が大きいのは、やっぱり薫のパパでしょう。薫のパパはマサチューセッツに住んでいて、本作には人物としては登場しない。けど、毎日薫とメールのやり取りをしていて、そのメールという形でパパは作中に出てくるわけです。
各章のタイトルもほとんどパパの言葉なわけで、パパの言葉っていうのはなかなか示唆に富んでいますね。ゲーム理論の権威でありながら、自分の身の回りのことをゲーム理論で予測するのが苦手だ、と息子に言われてしまうようなパパだし、どっか抜けてるところも否めないパパだけど、でもやっぱり一番頼りになるし、メールでのやり取りだけでもちゃんと父親っぽい。なかなかいいキャラだなと思いました。
「バチスタ」から始まる一連のシリーズと比べるとスピード感もシャッフル感(今僕がふと思いついた言葉だけど、でも何となくこの『シャッフル感』って言葉、「バチスタ」シリーズには合ってると思う)は少ないんだけど、医学を通じ、また大人の世界を通じて少年が成長する物語としてはなかなか面白いと思いました。是非読んでみてください。
海堂尊「医学のたまご」
阪急電車(有川浩)
恐らくご存知の方は多くはないだろう。日本が戦時中に開発したある特殊兵器のことを。
この特殊兵器は、理由は定かではないが、詳細が歴史の闇に埋もれてしまったものである。開発者は終戦直後謎の死を遂げ、それに伴い研究はストップ、戦後のゴタゴタで資料も散逸し、そのためその存在を知る者はいなくなってしまったのである。
じゃあ、そんな誰も知らないはずの特殊兵器の話をこうやってしているのは一体誰なのか。まあそれは追々ということで。
その特殊兵器は、『電車鳩』と呼ばれていた。
どんな兵器なのかと言えば、まさに呼び名の通りである、と言える。つまり、線路の上を飛ぶように訓練された鳩、なのである。
いや、訓練された、という言い方は実は正確ではない。これは当時でも極秘の技術であったのだが、遺伝子操作により、線路を飛ぶ性質を遺伝によって受け継ぐことを可能にした種、だったのである。つまり、電車鳩いうのは既に新しい種の一つであり、電車鳩同士での交配により必ず電車場とが生まれるように設計された種だったのである。
この電車鳩、一体どのように使われていたのだろうか。
残酷な話ではあるが、この電車鳩、やはり爆弾として使用されていたのである。
鉄道というのは国家のライフラインの一つとも言えるものであり、鉄道や駅を中心に街は発展していく。即ち、鉄道に沿って爆弾を仕掛けることは効率よく他国を壊滅させられるということになる。
電車鳩は、その体に爆弾を括り付けられ、そして放たれた。向かってくる電車を爆破してもいいし、途中の駅を爆破してもいい。そういう形で試用された生物兵器だったのである。
もちろん、この電車鳩は研究がメインであり、実地で使用されたことはあまりない。鉄道というものがまだそこまで普及していなかったということもある。当時としても、将来使える技術として研究を続けていたようである。戦時中とは言え、なかなか余裕がある研究所だったのだろう。
研究がメインとは言え、電車鳩はどんどん生み出されていった。そして研究者の死により研究がストップすると、電車鳩は解放され、他の鳩と同じように生きていくことになった。
しかし、電車鳩は生きていくのにあまりにも不幸な種であった。
基本的に電車鳩は、線路の上を飛ぶことしか出来ない。元々兵器として開発されたためそうなっているのだが、しかしこれは生物としては致命的過ぎた。いかんせん、食料を確保することが困難であった。線路上を飛ぶだけでは、種に行き渡るほど十分な食料を得ることは出来ない。
また、近代化により鉄道がどんどんと発達すると、必然的に電車鳩の危険性が増して行った。即ち、走行中の車両と衝突する事故が多くなったのだ。
この二つの要因により、電車鳩はその数をどんどんと減らして言った。もともとその存在さえ正式には認識されていなかった種ではあるのだが、しかし電車鳩はどんどんと絶滅の危機に瀕したのである。
そしてついに電車鳩は、最後の一匹になってしまった。そして何を隠そう、僕がその最後の一匹なのである。
僕が生き延びることが出来た理由は二つある。
一つは餌のとり方だ。僕は川の多い地域を中心に住んでいるのだけど、橋の下で餌をとる事にしたのだ。他の仲間は、線路の上しか走ることが出来ない、と思い込んでしまったために、橋の下に行くということに思い至らなかったのだ。僕だけが唯一、電車鳩の観念を破って川から餌をとることにしたので、他の個体よりは生存の確率が上がったのである。
そしてもう一つは、電車のやり過ごし方である。
真正面から電車がやってきた時、他の個体は慌てて高く飛ぼうとする。しかしこれは危険だ。何故なら線路の上には送電線があるからだ。これに引っかかったり、パンタグラフにやられたりという輩が多い。
だから僕は考えたのだ。車両を避けるのではなく、車両の上に乗っかってしまえばいいのだ、と。それは多少技術を要したが、しかし僕はそれを習得し、迫り来る車両の危機から逃れることが出来るようになった。
なので、お出かけの際は近くを走っている電車の屋根を見てみて欲しい。もしそこに鳩が乗っていたら、それは僕かもしれません。
一銃「電車鳩」
今日の話はダメダメすぎですね。これでもいろんな話を考えたんだけどなぁ。海を泳ぐ電車とか、電車が宇宙そのものになるとか、電車の墓場とか。でもどれもうまいこと話にならなかったんだよなぁ。難しい。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作はなかなか面白い構成になっている作品です。
本作では、阪急電車の中でもかなりマイナーらしい、今津線という路線を舞台にした作品です。阪急電車というのはあずき色をした車両だそうで、なかなか可愛いと評判らしいですね。バイト先に、実家が阪急の路線上にあったという人がいて、これまで乗ったどの電車よりも阪急が一番いい、みたいなことを言っていました。
今津線というのは、宝塚駅から西宮北口駅までの8駅を繋ぐ路線で、片道15分というなかなかコンパクトな路線なわけです。
本作の構成の面白いのは、宝塚駅から出て西宮北口駅までの一駅ずつが各章のタイトルになり、さらに西宮北口駅から宝塚まで折り返す、という構成になっています。つまり、
『宝塚駅―宝塚南口駅―逆瀬川駅―小林駅ー仁川駅―甲東園駅―門戸厄神駅―西宮北口駅』
という8つの話が先にあり、さらに西宮北口駅から宝塚駅まで折り返す8つの話がある、計16の話で構成されているわけです。
本当ならそのすべての内容紹介をするのがいいんでしょうけどなかなか大変だし、連作短編のような形でそれぞれ繋がっていたりするので、行きと帰りの話の二つに分けて大雑把に説明をしようと思います。
「宝塚駅→西宮北口駅」
よく図書館で見かける女性を偶然電車の中で見かけた征志。好みのタイプだったけど、もちろん話し掛けられるわけもないのだけど、彼女に釣られて外の風景を見ていたことがきっかけで会話を交わすようになる。
会社の後輩に結婚相手を寝取られた翔子。新郎とは結婚式の式場の話もするほどの段階だったのに、翔子の後輩を妊娠させておじゃん。別れる条件として翔子は、結婚式には必ず呼ぶように、といい、花嫁をも圧倒するような純白のドレスを着て結婚式に出かけてやった。
時江は孫娘と一緒にお出かけ中、純白のドレスを着た気の張った女性を見かける。まあ何かあったのだろう、と思い声を掛けてみる。余計なお世話かもしれないけど、ちょっとしたアドバイスも。孫娘が犬を飼いたいなんて言っている。そういえば、犬好きの私が犬を飼ってないのはどうしてだったかしら。
ミサは彼氏のカツヤに、結婚式に白いドレスはタブーなのだ、と教えている。カツヤはイマイチ納得できない。そこからちょっとした喧嘩に発展し、カツヤは怒って電車を降りてしまった。今日これから同棲するための物件を探しに行こうと思っていたのに。もう疲れた、あんな男…。
そのミサは、彼氏と別れようかどうしようか迷っている時、電車の中で女子高生の会話を聞いた。社会人の彼と付き合っている子の話がメインで、いかにその男がアホか、ということで盛り上がっていた。ミサは、アホな彼氏だけど好きなんだろうな、と感じ、さっさと別れよう、と決意した。
圭一はちょっとしたきっかけで電車の中で同じ大学の女性と出会う。自衛隊のヘリの話がきっかけで、なんか合いそうな感じだって思った。
『西宮北口駅→宝塚駅』
ミサはとんでもない光景を目撃する。キャリアウーマン風の女性が座ろうとしていた席に、うるさいオバサン集団の一人がブランド物のバッグを投げたのだ。
???
それが友人のために席を取る行為だと分かって、ミサはイライラすると同時に、昔の自分のことを思い出す。ミサは思わず、「信じられへん。おばさんってサイテー」と小声で口に出してしまう。
その席を取ってもらったオバサンは、ミサのその呟きを聞いていた。私だってあの人達と一緒にいたいわけじゃない。でも何でか付き合わないといけない感じだ。急に胃が痛くなってきて、隣に座っていた女性と一緒に電車から降りることになった。
うるさいオバサンの話し声に邪魔されながらも、悦子は単語カードを捲っている。アホな彼氏とは順調だ。彼は優しい。一度だけ、自棄を起こしそうになったけど…。
圭一と美帆は、電車の中でワラビの話をしている。電車から見える急角度の斜面にワラビが生えていて、美帆はそれを採りに行きたいと主張するが、圭一は危ないからダメだ、と言って止める。お互い恋愛初心者の二人は、少しずつ近づいていく。
翔子は、突然飛んできたバッグにたじろいだ。席取りのためだと分かって呆れた。あんなオバサンどもは相手にしないことだ。
ホームに降りると、小学生の女子たちがなにやら揉めている。そこで気丈な態度を取った少女に共感した翔子は、彼女に話し掛ける。
時江は、べちゃくちゃうるさいオバサン集団と同じ車両になってしまった。念願だった犬を連れて、孫娘とまたお出かけである。途中オバサン集団とやりあう羽目になるのだが、そこに若い女性が加勢する。
オバサン集団との戦いに参戦したユキと征志。図書館デートなんかを繰り返しながら、穏やかな恋愛を続けている。
何だかんだ結局長くなりましたけど、大体こんな感じの話です。
有川浩はやっぱりうまいなと思いますね。この作家にエンターテイメントを書かせたらやっぱり一級だなと思います。
まず構成がお見事、という感じです。今津駅という路線を繋ぎながらという構成もそうですが、一つ一つの話をリンクさせていくその手腕は素晴らしいですね。こっちの話があっちの話のきっかけになり、こっちの出来事があっちでまた別の出来事を生み出す、という感じで、基本的にお互い他人なんだけど、少しずつ関わっているというような幹事でした。
そしてさらに、その他人同士が阪急電車という舞台で少しずつ関係を持っていくわけですね。知り合い程度の関係性から恋愛関係になるものまでいろいろですけど、どれも電車の中で起こっても不思議ではない程度に抑制されているストーリーで、さすがだなという感じがしました。もちろん本作のような展開にはならないだろうな、ということは僕だってわかりますが、でも例えばイメージ的にですよ、山手線の車内では無理だけど、ここで描かれる阪急電車の車内ならありえるんじゃないか、と思わせるような感じでした。あとがきで著者が書いていましたけど、この今津線の沿線というのは、田舎と都会のブレンド具合が絶妙だそうで(今まさに著者はこの沿線に住んでいるそうです)、確かに作中でも田舎的な描写がふんだんになされていて、そういう素朴な舞台設定が、こういう物語を『アリ』にする土壌になっているんだろうな、という感じにさせてくれました。
それに有川浩のうまいのは、これはどの作品でもそうですけど、人物の内面描写ですね。これがうまいこと書くんです。相手の細かい反応や言動なんかをどう捉えるか、何に対して不安や喜びを感じるのか、そういったことをですね、実に的確に文章にするんですね。本作は全体としても長い話ではないし、それぞれの話自体も短いんですけど、でもその短い話の中で、かなり多くの登場人物を描き、しかもそれぞれについてきちんと描いているわけで、これはすごいな、と思いました。特に恋愛に揺れる男女の描き方なんて、この人もう主婦ですよね、こう言っちゃあ申し訳ないっすけど、本作に出てくるような若さ溢れる恋愛とか結構昔の話ですよね、とか思ってしまうくらいで(ホント失礼な言い方ですね。すいません)、「クジラの彼」とか「図書館戦争」シリーズなんかでもそうですけど、恋愛の要素っていうのはこの著者の強みだな、と改めて思いました。
そんなわけで、阪急電車をまったく知らない人でももちろん十分楽しめる作品です。僕なんか、ちょっと乗ってみたくなりましたもんね。小林駅で降りてみたいですもんね。かなり面白いと思います。是非読んでみてください。
有川浩「阪急電車」
この特殊兵器は、理由は定かではないが、詳細が歴史の闇に埋もれてしまったものである。開発者は終戦直後謎の死を遂げ、それに伴い研究はストップ、戦後のゴタゴタで資料も散逸し、そのためその存在を知る者はいなくなってしまったのである。
じゃあ、そんな誰も知らないはずの特殊兵器の話をこうやってしているのは一体誰なのか。まあそれは追々ということで。
その特殊兵器は、『電車鳩』と呼ばれていた。
どんな兵器なのかと言えば、まさに呼び名の通りである、と言える。つまり、線路の上を飛ぶように訓練された鳩、なのである。
いや、訓練された、という言い方は実は正確ではない。これは当時でも極秘の技術であったのだが、遺伝子操作により、線路を飛ぶ性質を遺伝によって受け継ぐことを可能にした種、だったのである。つまり、電車鳩いうのは既に新しい種の一つであり、電車鳩同士での交配により必ず電車場とが生まれるように設計された種だったのである。
この電車鳩、一体どのように使われていたのだろうか。
残酷な話ではあるが、この電車鳩、やはり爆弾として使用されていたのである。
鉄道というのは国家のライフラインの一つとも言えるものであり、鉄道や駅を中心に街は発展していく。即ち、鉄道に沿って爆弾を仕掛けることは効率よく他国を壊滅させられるということになる。
電車鳩は、その体に爆弾を括り付けられ、そして放たれた。向かってくる電車を爆破してもいいし、途中の駅を爆破してもいい。そういう形で試用された生物兵器だったのである。
もちろん、この電車鳩は研究がメインであり、実地で使用されたことはあまりない。鉄道というものがまだそこまで普及していなかったということもある。当時としても、将来使える技術として研究を続けていたようである。戦時中とは言え、なかなか余裕がある研究所だったのだろう。
研究がメインとは言え、電車鳩はどんどん生み出されていった。そして研究者の死により研究がストップすると、電車鳩は解放され、他の鳩と同じように生きていくことになった。
しかし、電車鳩は生きていくのにあまりにも不幸な種であった。
基本的に電車鳩は、線路の上を飛ぶことしか出来ない。元々兵器として開発されたためそうなっているのだが、しかしこれは生物としては致命的過ぎた。いかんせん、食料を確保することが困難であった。線路上を飛ぶだけでは、種に行き渡るほど十分な食料を得ることは出来ない。
また、近代化により鉄道がどんどんと発達すると、必然的に電車鳩の危険性が増して行った。即ち、走行中の車両と衝突する事故が多くなったのだ。
この二つの要因により、電車鳩はその数をどんどんと減らして言った。もともとその存在さえ正式には認識されていなかった種ではあるのだが、しかし電車鳩はどんどんと絶滅の危機に瀕したのである。
そしてついに電車鳩は、最後の一匹になってしまった。そして何を隠そう、僕がその最後の一匹なのである。
僕が生き延びることが出来た理由は二つある。
一つは餌のとり方だ。僕は川の多い地域を中心に住んでいるのだけど、橋の下で餌をとる事にしたのだ。他の仲間は、線路の上しか走ることが出来ない、と思い込んでしまったために、橋の下に行くということに思い至らなかったのだ。僕だけが唯一、電車鳩の観念を破って川から餌をとることにしたので、他の個体よりは生存の確率が上がったのである。
そしてもう一つは、電車のやり過ごし方である。
真正面から電車がやってきた時、他の個体は慌てて高く飛ぼうとする。しかしこれは危険だ。何故なら線路の上には送電線があるからだ。これに引っかかったり、パンタグラフにやられたりという輩が多い。
だから僕は考えたのだ。車両を避けるのではなく、車両の上に乗っかってしまえばいいのだ、と。それは多少技術を要したが、しかし僕はそれを習得し、迫り来る車両の危機から逃れることが出来るようになった。
なので、お出かけの際は近くを走っている電車の屋根を見てみて欲しい。もしそこに鳩が乗っていたら、それは僕かもしれません。
一銃「電車鳩」
今日の話はダメダメすぎですね。これでもいろんな話を考えたんだけどなぁ。海を泳ぐ電車とか、電車が宇宙そのものになるとか、電車の墓場とか。でもどれもうまいこと話にならなかったんだよなぁ。難しい。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作はなかなか面白い構成になっている作品です。
本作では、阪急電車の中でもかなりマイナーらしい、今津線という路線を舞台にした作品です。阪急電車というのはあずき色をした車両だそうで、なかなか可愛いと評判らしいですね。バイト先に、実家が阪急の路線上にあったという人がいて、これまで乗ったどの電車よりも阪急が一番いい、みたいなことを言っていました。
今津線というのは、宝塚駅から西宮北口駅までの8駅を繋ぐ路線で、片道15分というなかなかコンパクトな路線なわけです。
本作の構成の面白いのは、宝塚駅から出て西宮北口駅までの一駅ずつが各章のタイトルになり、さらに西宮北口駅から宝塚まで折り返す、という構成になっています。つまり、
『宝塚駅―宝塚南口駅―逆瀬川駅―小林駅ー仁川駅―甲東園駅―門戸厄神駅―西宮北口駅』
という8つの話が先にあり、さらに西宮北口駅から宝塚駅まで折り返す8つの話がある、計16の話で構成されているわけです。
本当ならそのすべての内容紹介をするのがいいんでしょうけどなかなか大変だし、連作短編のような形でそれぞれ繋がっていたりするので、行きと帰りの話の二つに分けて大雑把に説明をしようと思います。
「宝塚駅→西宮北口駅」
よく図書館で見かける女性を偶然電車の中で見かけた征志。好みのタイプだったけど、もちろん話し掛けられるわけもないのだけど、彼女に釣られて外の風景を見ていたことがきっかけで会話を交わすようになる。
会社の後輩に結婚相手を寝取られた翔子。新郎とは結婚式の式場の話もするほどの段階だったのに、翔子の後輩を妊娠させておじゃん。別れる条件として翔子は、結婚式には必ず呼ぶように、といい、花嫁をも圧倒するような純白のドレスを着て結婚式に出かけてやった。
時江は孫娘と一緒にお出かけ中、純白のドレスを着た気の張った女性を見かける。まあ何かあったのだろう、と思い声を掛けてみる。余計なお世話かもしれないけど、ちょっとしたアドバイスも。孫娘が犬を飼いたいなんて言っている。そういえば、犬好きの私が犬を飼ってないのはどうしてだったかしら。
ミサは彼氏のカツヤに、結婚式に白いドレスはタブーなのだ、と教えている。カツヤはイマイチ納得できない。そこからちょっとした喧嘩に発展し、カツヤは怒って電車を降りてしまった。今日これから同棲するための物件を探しに行こうと思っていたのに。もう疲れた、あんな男…。
そのミサは、彼氏と別れようかどうしようか迷っている時、電車の中で女子高生の会話を聞いた。社会人の彼と付き合っている子の話がメインで、いかにその男がアホか、ということで盛り上がっていた。ミサは、アホな彼氏だけど好きなんだろうな、と感じ、さっさと別れよう、と決意した。
圭一はちょっとしたきっかけで電車の中で同じ大学の女性と出会う。自衛隊のヘリの話がきっかけで、なんか合いそうな感じだって思った。
『西宮北口駅→宝塚駅』
ミサはとんでもない光景を目撃する。キャリアウーマン風の女性が座ろうとしていた席に、うるさいオバサン集団の一人がブランド物のバッグを投げたのだ。
???
それが友人のために席を取る行為だと分かって、ミサはイライラすると同時に、昔の自分のことを思い出す。ミサは思わず、「信じられへん。おばさんってサイテー」と小声で口に出してしまう。
その席を取ってもらったオバサンは、ミサのその呟きを聞いていた。私だってあの人達と一緒にいたいわけじゃない。でも何でか付き合わないといけない感じだ。急に胃が痛くなってきて、隣に座っていた女性と一緒に電車から降りることになった。
うるさいオバサンの話し声に邪魔されながらも、悦子は単語カードを捲っている。アホな彼氏とは順調だ。彼は優しい。一度だけ、自棄を起こしそうになったけど…。
圭一と美帆は、電車の中でワラビの話をしている。電車から見える急角度の斜面にワラビが生えていて、美帆はそれを採りに行きたいと主張するが、圭一は危ないからダメだ、と言って止める。お互い恋愛初心者の二人は、少しずつ近づいていく。
翔子は、突然飛んできたバッグにたじろいだ。席取りのためだと分かって呆れた。あんなオバサンどもは相手にしないことだ。
ホームに降りると、小学生の女子たちがなにやら揉めている。そこで気丈な態度を取った少女に共感した翔子は、彼女に話し掛ける。
時江は、べちゃくちゃうるさいオバサン集団と同じ車両になってしまった。念願だった犬を連れて、孫娘とまたお出かけである。途中オバサン集団とやりあう羽目になるのだが、そこに若い女性が加勢する。
オバサン集団との戦いに参戦したユキと征志。図書館デートなんかを繰り返しながら、穏やかな恋愛を続けている。
何だかんだ結局長くなりましたけど、大体こんな感じの話です。
有川浩はやっぱりうまいなと思いますね。この作家にエンターテイメントを書かせたらやっぱり一級だなと思います。
まず構成がお見事、という感じです。今津駅という路線を繋ぎながらという構成もそうですが、一つ一つの話をリンクさせていくその手腕は素晴らしいですね。こっちの話があっちの話のきっかけになり、こっちの出来事があっちでまた別の出来事を生み出す、という感じで、基本的にお互い他人なんだけど、少しずつ関わっているというような幹事でした。
そしてさらに、その他人同士が阪急電車という舞台で少しずつ関係を持っていくわけですね。知り合い程度の関係性から恋愛関係になるものまでいろいろですけど、どれも電車の中で起こっても不思議ではない程度に抑制されているストーリーで、さすがだなという感じがしました。もちろん本作のような展開にはならないだろうな、ということは僕だってわかりますが、でも例えばイメージ的にですよ、山手線の車内では無理だけど、ここで描かれる阪急電車の車内ならありえるんじゃないか、と思わせるような感じでした。あとがきで著者が書いていましたけど、この今津線の沿線というのは、田舎と都会のブレンド具合が絶妙だそうで(今まさに著者はこの沿線に住んでいるそうです)、確かに作中でも田舎的な描写がふんだんになされていて、そういう素朴な舞台設定が、こういう物語を『アリ』にする土壌になっているんだろうな、という感じにさせてくれました。
それに有川浩のうまいのは、これはどの作品でもそうですけど、人物の内面描写ですね。これがうまいこと書くんです。相手の細かい反応や言動なんかをどう捉えるか、何に対して不安や喜びを感じるのか、そういったことをですね、実に的確に文章にするんですね。本作は全体としても長い話ではないし、それぞれの話自体も短いんですけど、でもその短い話の中で、かなり多くの登場人物を描き、しかもそれぞれについてきちんと描いているわけで、これはすごいな、と思いました。特に恋愛に揺れる男女の描き方なんて、この人もう主婦ですよね、こう言っちゃあ申し訳ないっすけど、本作に出てくるような若さ溢れる恋愛とか結構昔の話ですよね、とか思ってしまうくらいで(ホント失礼な言い方ですね。すいません)、「クジラの彼」とか「図書館戦争」シリーズなんかでもそうですけど、恋愛の要素っていうのはこの著者の強みだな、と改めて思いました。
そんなわけで、阪急電車をまったく知らない人でももちろん十分楽しめる作品です。僕なんか、ちょっと乗ってみたくなりましたもんね。小林駅で降りてみたいですもんね。かなり面白いと思います。是非読んでみてください。
有川浩「阪急電車」
百瀬、こっちを向いて。(中田永一)
「佐藤さん、お久しぶりです」
営業のためにとあるスーパーを回っている時、顔見知りの他社の営業マンに声を掛けられた。
「おぉ、久しぶりだね。最近どう?」
「相変わらずダメですね。佐藤さんの方はどうですか?」
佐藤雅兼。これが僕の本名であり、普通に仕事をしている時に使っている名前だ。
「こっちも同じだよ。参ったね。あれでしょ、おたくも石油のせいでしょ?」
「そうですね。アレの値上げがキツくって。まあどこも一緒なんでしょうけど」
スーパーの担当者が捕まらなかったりする時、営業マン同士でこうした他愛もない雑談をする。特に中身のある話ではなく、天気の話とさして変わらない。
佐藤雅兼としての僕は、どこにでもいる平凡な営業マンで、可もなく不可もなく。喋りがうまいわけでも押し出しが強いわけでもなく、かといって契約が取れないわけでもない、それなりの男である。
「吉岡さん、ちょっと忙しくて無理そうですね。じゃあ僕は他を回ることにします」
そういって佐藤雅兼はスーパーを後にした。まあどうせ僕はそこそこの営業マンだ。そんなに頑張ることはないさ。
車に乗り込もうとした時、携帯電話が鳴った。
「もしもし、吉田さんですか?」
吉田友成。僕のペンネームの一つである。
「明後日締め切りのやつが一本あるんですけど、ダメっすかね?」
吉田友成としての僕は、フリーのライターをしている。署名記事を書くわけではない。大抵どこかの週刊誌の、あってもなくてもさして変わりのないような、スペースを埋めるための記事を書いている。まあそれでも、それなりにお金にはなるから悪くはない。
「明後日ですか。まあ大丈夫だと思いますよ。今出先なんですけど、メールで送っといてもらえば後で見ますよ」
「助かります」
吉田友成は、締め切りを常に守る男だ。それだけが取り得だと言っていい。しかし出版業界でそこそこ仕事をもらうには、それだけで十分だとも言える。文章の上手い下手はさほど関係ないのだ。
さて、明後日までか。早めに予定を切り上げて家に帰らないといけないな。とりあえず、昼飯でも食うか。
普段よく行く定食屋へと向かう。味はそこそこだが、早くて安いと評判の店である。
「市川先生じゃないですかぁ」
店に入るなり、客の一人からそう声を掛けられた。
市川忠雄。これも僕のペンネームの一つである。
「ちょうどよかった。田中先生が病気で倒れちゃって、どうしようかと思ってたんですよ」
市川忠雄としての僕は、ちょっとしたイラストを描いている。新聞連載の小説や雑誌の片隅に載るような挿絵で、あってもなくてもさほど影響はないようなものだが、それでも仕事の依頼はそこそこにある。悪くない仕事だ。
「明日締め切りなんですけど、ダメでしょうか?」
田中というイラストレーターの代わりに、動物の絵を何点か描いて欲しい、ということだった。明日まで、という締め切りはなかなかハードだが、まあやってやれないことはないだろう。
「ありがとうございます!助かりましたよ、ホント」
さて、いよいよ忙しくなってきたぞ、と思ってきた。急いで昼飯を平らげ(彼が奢ると言い張ったが、それは断った)、すぐ車に戻ろうとした時、後ろから誰かに呼び止められた。
「立岡さんじゃないですか?」
立岡…、そんなペンネームを持っていただろうか。
「連絡が取れなくて困ってたんですよ。今日の18時締め切りのコピー、忘れてないですよね?」
ある飲料メーカーが次に行う大きなキャンペーンのメイン広告のキャッチコピーを考える仕事を立岡某は受けたのだ、という。人違いではないのか、と一瞬考えはしたが、そういえば立岡という名前を使ったような気がしないでもない。なるほど、今日締め切りだったか。それは危ないところだった。とにかく時間はないが、急いで考えなくては。
「頼みましたよ。立岡さんは締め切りを破らない人だから大丈夫でしょうけど」
さて、とにかく急いで営業に回らないと。運転席に乗り込むと、またしても電話がなった。
「稲垣さんですか?」
稲垣…、そんなペンネームもあっただろうか。
「お願いしていた試薬の検査、あれ今日の朝締め切りだったはずですよね?どうしちゃったんですか?このままだとプレゼンに間に合わないんですけど!」
どこかの研究所が家庭用洗剤として開発したものの安全検査を稲垣某に外注した、というのだ。試薬の安全検査?僕はそもそもそんな仕事が出来たのだろうか?学生時代の化学の成績はあまり褒められたものではなかったと思うのだけど。しかし、稲垣という名前も、使ったような気がしないでもないな。仕方ない。引き受けてしまった仕事はやるしかない。申し訳ないが、後数時間待って欲しい、と告げる。
「ホント頼みますよ!明日プレゼンなんですから!」
電話を切った僕は、何だか疲れてしまっていた。そういえば本当の自分の名前はなんだっただろうか…。
あぁ、あの人ですか。この辺じゃ有名な人なんですよ。どんな名前で呼んでも返事をしてくれる人だって。それにかこつけて、依頼してもいない仕事を無理矢理押し付けたりする人が結構いるみたいですね。奇特な人ですよね。僕らは、「変人二十面相」って呼んでますよ。
一銃「変人二十面相」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、漢字二文字のとある有名作家がまた別名で出した短編集です。
「百瀬、こっちを向いて。」
高校生になった僕は、とある三年生の女生徒の噂を聞いた。神林先輩は、とにかく学校一綺麗な女性としてみんなに憧れられていた。
そんな神林先輩が、宮崎先輩と付き合っていると知って僕は驚いた。宮崎先輩は僕の兄のような存在で、昔から良く知っていたからということもあるのだけど、ついこの間宮崎先輩が別の女性と歩いているのを見かけたのだ。そう言うと宮崎先輩は、僕を一人の女性と合わせたのだった。
それが百瀬だった。その日から僕は百瀬の彼氏ということになった。神林先輩と百瀬の両方と付き合っている宮崎先輩を助けるために…。
「なみうちぎわ」
高校一年になった私は、その年海で溺れて昏睡状態に陥り、それから五年後に目覚めた。
高校一年の私は、小学六年生の灰谷小太郎君の家庭教師をすることになった。彼は四月から登校拒否をしているのだという。
生意気な少年に勉強を教えるのは初めはイライラしたが、しかしすぐに慣れた。じゃれているようで楽しくなってきたのだ。
ある日学校からの帰り道、その小太郎君が海で溺れているのが目に入った。私は海に飛び込み、彼を助けようとした。しかし逆に自分が溺れ、それ以来ずっと昏睡状態に陥ることになる。
目が覚めた私は、世界から取り残されているような気がした。高校三年生になった小太郎君が毎日私に会いに来てくれたけど…。
「キャベツ畑に彼の声」
本田先生は国語の教師で、女生徒から人気がある。わたしも先生のことが気になっているけど、取り巻きの子が多すぎてあんまり話したことはない。
わたしは出版社に勤める叔父の手伝いで、テープ起こしのアルバイトをしていた。その中の一本に、つい最近書店で著作を見かけた、北川誠二というミステリ作家の対談のものがあった。
その声を聞いてわたしはドキリとした。何故ならその声は、紛れもなく本田先生のものだったからだ。
それがきっかけで私は本田先生と交流を持つことになるのだけど…。
「小梅が通る」
わたしはクラスの中で地味で目立たない存在でありたいといつも思っている。松代さんと土田さんという友人と三人で、教室の片隅で小さくなりながら、存在感を消している。男の子と喋ることもなければ、女子に嫌われることもない。
わたしはいつも学校にブスメイクをして行く。ホクロを描き、分厚いメガネを掛け、脱脂綿を頬に含んで顔を変えていた。すべては自分を守るためだった。
自分を隠していない時のわたしは、男の子からは絶大な人気があり、そして女子からはこれでもかというくらい嫌われた。わたしは目立ちたいと思ったことなんてないのに、この顔のせいで周りの人の態度が変わる。わたしはそれで人を信じられなくなった。
ある日たまたま、ブスメイクをしていない時の顔をクラスメイトの男の子に見られてしまった。咄嗟に妹の小梅だと言ってごまかしたが、その後その男の子から、小梅ちゃんに会わせてくれ、と言われるようになり…。
というような話です。
本作の四つのどの話も、地味で目立たない人達が主人公になっています。僕は恋愛小説をそこまで読む方ではないけど、割とこういうのは珍しいんではないかな、と思います。よくあるのは、シンデレラみたいなストーリーで、地味な女の子だったんだけど何でか超かっこいい先輩に好かれて…、みたいな感じだろうけど、本作はそういうのでもないんですね。ちょっと地味でなんの取り得もないような少年少女が、ちょっとした恋心に触れたり振り回されたりするという話で、まあこの作家らしい作品だな、と思いました。
僕は、「百瀬、こっちを向いて。」という話は、アンソロジー小説「I LOVE YOU」で読んでいたんですけど、その時はこの「中田永一」という作家があの作家だとは知らなくて、随分後に知ってビックリしたものでした。っていうか、この作家は何やってるんでしょうね。これでペンネーム三つ目ですからね。メインの名前で新刊を出しなさい!って感じです。
「百瀬、こっちを向いて。」は、演技でカップルのフリをしなくてはいけない男女の話で、人間レベルが低いと思っている主人公が、つかの間綺麗な女子と付き合っているフリをしなくてはいけない苦しさがいい味出していると思います。最後も、まあまあな感じの終わり方です。
「なみうちぎわ」は、小太郎少年が何を考えていたのか、というところがメインになってきますね。しかしこういう風に普通ではない形で結びついてしまった人達というのは、自分の感情が罪悪感なのかそれともちゃんとした愛情なのか見極めるのは難しいのだろうな、と思ったりしますね。
「キャベツ畑に彼の声」は、本作中で最もミステリっぽい感じかなと思います。まあそれが前面に出てるわけではないですけど。本田先生がなかなかいいキャラかなと思います。
「小梅が通る」が書き下ろし作品ですけど、僕はこれが一番好きかもですね。本当は通り過ぎる人が目を瞠るほどの美人なんだけど、そんな反応をされるのが嫌でブスメイクをし、素顔を隠している主人公。まずその設定だけでちょっといいですね。それで、クラスの男の子に素顔を見られて、咄嗟に妹だと嘘をついてしまう。妹に会いたいと付きまとってくる男の子と一緒にいる内に彼のことが気になりだしている自分に気づく、みたいな感じで、最後もうまいことまとまっていると思いました。しかし、無茶苦茶美人なのにブスメイクをするなんてもったいないなぁ、と思ってしまいますね。でも、外見だけでしか判断されないというのも辛いんだろうなぁ、と思ったりもします。世の美女たちはこの難題をいかにして乗り越えてきたんでしょうか。まあ、派手好きで目立ちたがりの性格なら問題ないんでしょうけど。
この作家は、漢字と平仮名の使い分けが特徴的だな、といつも思います。あんまり漢字を多用せず、これは漢字で書いてもいいんじゃないかなという言葉も平仮名で書いていたりします。それによって、この著者独特の雰囲気が出ているなといつも思います。柔らかい感じ、というんでしょうか。一見簡単に真似できそうですけど、これは案外難しいんだろうなぁ、と僕なんかは思っています。
装丁がやたらシンプルで、金城一樹の「映画篇」みたいな感じです。こういう方が、書店の売り場では逆に目立つかもしれないですね。
そんなわけで、まあまあいいかなという感じの作品でした。すごくオススメというわけではないですけど、時間がゆっくり流れるような、気持ちが穏やかになるような、そんな作品でした。読んでみてください。
中田永一「百瀬、こっちを向いて。」
営業のためにとあるスーパーを回っている時、顔見知りの他社の営業マンに声を掛けられた。
「おぉ、久しぶりだね。最近どう?」
「相変わらずダメですね。佐藤さんの方はどうですか?」
佐藤雅兼。これが僕の本名であり、普通に仕事をしている時に使っている名前だ。
「こっちも同じだよ。参ったね。あれでしょ、おたくも石油のせいでしょ?」
「そうですね。アレの値上げがキツくって。まあどこも一緒なんでしょうけど」
スーパーの担当者が捕まらなかったりする時、営業マン同士でこうした他愛もない雑談をする。特に中身のある話ではなく、天気の話とさして変わらない。
佐藤雅兼としての僕は、どこにでもいる平凡な営業マンで、可もなく不可もなく。喋りがうまいわけでも押し出しが強いわけでもなく、かといって契約が取れないわけでもない、それなりの男である。
「吉岡さん、ちょっと忙しくて無理そうですね。じゃあ僕は他を回ることにします」
そういって佐藤雅兼はスーパーを後にした。まあどうせ僕はそこそこの営業マンだ。そんなに頑張ることはないさ。
車に乗り込もうとした時、携帯電話が鳴った。
「もしもし、吉田さんですか?」
吉田友成。僕のペンネームの一つである。
「明後日締め切りのやつが一本あるんですけど、ダメっすかね?」
吉田友成としての僕は、フリーのライターをしている。署名記事を書くわけではない。大抵どこかの週刊誌の、あってもなくてもさして変わりのないような、スペースを埋めるための記事を書いている。まあそれでも、それなりにお金にはなるから悪くはない。
「明後日ですか。まあ大丈夫だと思いますよ。今出先なんですけど、メールで送っといてもらえば後で見ますよ」
「助かります」
吉田友成は、締め切りを常に守る男だ。それだけが取り得だと言っていい。しかし出版業界でそこそこ仕事をもらうには、それだけで十分だとも言える。文章の上手い下手はさほど関係ないのだ。
さて、明後日までか。早めに予定を切り上げて家に帰らないといけないな。とりあえず、昼飯でも食うか。
普段よく行く定食屋へと向かう。味はそこそこだが、早くて安いと評判の店である。
「市川先生じゃないですかぁ」
店に入るなり、客の一人からそう声を掛けられた。
市川忠雄。これも僕のペンネームの一つである。
「ちょうどよかった。田中先生が病気で倒れちゃって、どうしようかと思ってたんですよ」
市川忠雄としての僕は、ちょっとしたイラストを描いている。新聞連載の小説や雑誌の片隅に載るような挿絵で、あってもなくてもさほど影響はないようなものだが、それでも仕事の依頼はそこそこにある。悪くない仕事だ。
「明日締め切りなんですけど、ダメでしょうか?」
田中というイラストレーターの代わりに、動物の絵を何点か描いて欲しい、ということだった。明日まで、という締め切りはなかなかハードだが、まあやってやれないことはないだろう。
「ありがとうございます!助かりましたよ、ホント」
さて、いよいよ忙しくなってきたぞ、と思ってきた。急いで昼飯を平らげ(彼が奢ると言い張ったが、それは断った)、すぐ車に戻ろうとした時、後ろから誰かに呼び止められた。
「立岡さんじゃないですか?」
立岡…、そんなペンネームを持っていただろうか。
「連絡が取れなくて困ってたんですよ。今日の18時締め切りのコピー、忘れてないですよね?」
ある飲料メーカーが次に行う大きなキャンペーンのメイン広告のキャッチコピーを考える仕事を立岡某は受けたのだ、という。人違いではないのか、と一瞬考えはしたが、そういえば立岡という名前を使ったような気がしないでもない。なるほど、今日締め切りだったか。それは危ないところだった。とにかく時間はないが、急いで考えなくては。
「頼みましたよ。立岡さんは締め切りを破らない人だから大丈夫でしょうけど」
さて、とにかく急いで営業に回らないと。運転席に乗り込むと、またしても電話がなった。
「稲垣さんですか?」
稲垣…、そんなペンネームもあっただろうか。
「お願いしていた試薬の検査、あれ今日の朝締め切りだったはずですよね?どうしちゃったんですか?このままだとプレゼンに間に合わないんですけど!」
どこかの研究所が家庭用洗剤として開発したものの安全検査を稲垣某に外注した、というのだ。試薬の安全検査?僕はそもそもそんな仕事が出来たのだろうか?学生時代の化学の成績はあまり褒められたものではなかったと思うのだけど。しかし、稲垣という名前も、使ったような気がしないでもないな。仕方ない。引き受けてしまった仕事はやるしかない。申し訳ないが、後数時間待って欲しい、と告げる。
「ホント頼みますよ!明日プレゼンなんですから!」
電話を切った僕は、何だか疲れてしまっていた。そういえば本当の自分の名前はなんだっただろうか…。
あぁ、あの人ですか。この辺じゃ有名な人なんですよ。どんな名前で呼んでも返事をしてくれる人だって。それにかこつけて、依頼してもいない仕事を無理矢理押し付けたりする人が結構いるみたいですね。奇特な人ですよね。僕らは、「変人二十面相」って呼んでますよ。
一銃「変人二十面相」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、漢字二文字のとある有名作家がまた別名で出した短編集です。
「百瀬、こっちを向いて。」
高校生になった僕は、とある三年生の女生徒の噂を聞いた。神林先輩は、とにかく学校一綺麗な女性としてみんなに憧れられていた。
そんな神林先輩が、宮崎先輩と付き合っていると知って僕は驚いた。宮崎先輩は僕の兄のような存在で、昔から良く知っていたからということもあるのだけど、ついこの間宮崎先輩が別の女性と歩いているのを見かけたのだ。そう言うと宮崎先輩は、僕を一人の女性と合わせたのだった。
それが百瀬だった。その日から僕は百瀬の彼氏ということになった。神林先輩と百瀬の両方と付き合っている宮崎先輩を助けるために…。
「なみうちぎわ」
高校一年になった私は、その年海で溺れて昏睡状態に陥り、それから五年後に目覚めた。
高校一年の私は、小学六年生の灰谷小太郎君の家庭教師をすることになった。彼は四月から登校拒否をしているのだという。
生意気な少年に勉強を教えるのは初めはイライラしたが、しかしすぐに慣れた。じゃれているようで楽しくなってきたのだ。
ある日学校からの帰り道、その小太郎君が海で溺れているのが目に入った。私は海に飛び込み、彼を助けようとした。しかし逆に自分が溺れ、それ以来ずっと昏睡状態に陥ることになる。
目が覚めた私は、世界から取り残されているような気がした。高校三年生になった小太郎君が毎日私に会いに来てくれたけど…。
「キャベツ畑に彼の声」
本田先生は国語の教師で、女生徒から人気がある。わたしも先生のことが気になっているけど、取り巻きの子が多すぎてあんまり話したことはない。
わたしは出版社に勤める叔父の手伝いで、テープ起こしのアルバイトをしていた。その中の一本に、つい最近書店で著作を見かけた、北川誠二というミステリ作家の対談のものがあった。
その声を聞いてわたしはドキリとした。何故ならその声は、紛れもなく本田先生のものだったからだ。
それがきっかけで私は本田先生と交流を持つことになるのだけど…。
「小梅が通る」
わたしはクラスの中で地味で目立たない存在でありたいといつも思っている。松代さんと土田さんという友人と三人で、教室の片隅で小さくなりながら、存在感を消している。男の子と喋ることもなければ、女子に嫌われることもない。
わたしはいつも学校にブスメイクをして行く。ホクロを描き、分厚いメガネを掛け、脱脂綿を頬に含んで顔を変えていた。すべては自分を守るためだった。
自分を隠していない時のわたしは、男の子からは絶大な人気があり、そして女子からはこれでもかというくらい嫌われた。わたしは目立ちたいと思ったことなんてないのに、この顔のせいで周りの人の態度が変わる。わたしはそれで人を信じられなくなった。
ある日たまたま、ブスメイクをしていない時の顔をクラスメイトの男の子に見られてしまった。咄嗟に妹の小梅だと言ってごまかしたが、その後その男の子から、小梅ちゃんに会わせてくれ、と言われるようになり…。
というような話です。
本作の四つのどの話も、地味で目立たない人達が主人公になっています。僕は恋愛小説をそこまで読む方ではないけど、割とこういうのは珍しいんではないかな、と思います。よくあるのは、シンデレラみたいなストーリーで、地味な女の子だったんだけど何でか超かっこいい先輩に好かれて…、みたいな感じだろうけど、本作はそういうのでもないんですね。ちょっと地味でなんの取り得もないような少年少女が、ちょっとした恋心に触れたり振り回されたりするという話で、まあこの作家らしい作品だな、と思いました。
僕は、「百瀬、こっちを向いて。」という話は、アンソロジー小説「I LOVE YOU」で読んでいたんですけど、その時はこの「中田永一」という作家があの作家だとは知らなくて、随分後に知ってビックリしたものでした。っていうか、この作家は何やってるんでしょうね。これでペンネーム三つ目ですからね。メインの名前で新刊を出しなさい!って感じです。
「百瀬、こっちを向いて。」は、演技でカップルのフリをしなくてはいけない男女の話で、人間レベルが低いと思っている主人公が、つかの間綺麗な女子と付き合っているフリをしなくてはいけない苦しさがいい味出していると思います。最後も、まあまあな感じの終わり方です。
「なみうちぎわ」は、小太郎少年が何を考えていたのか、というところがメインになってきますね。しかしこういう風に普通ではない形で結びついてしまった人達というのは、自分の感情が罪悪感なのかそれともちゃんとした愛情なのか見極めるのは難しいのだろうな、と思ったりしますね。
「キャベツ畑に彼の声」は、本作中で最もミステリっぽい感じかなと思います。まあそれが前面に出てるわけではないですけど。本田先生がなかなかいいキャラかなと思います。
「小梅が通る」が書き下ろし作品ですけど、僕はこれが一番好きかもですね。本当は通り過ぎる人が目を瞠るほどの美人なんだけど、そんな反応をされるのが嫌でブスメイクをし、素顔を隠している主人公。まずその設定だけでちょっといいですね。それで、クラスの男の子に素顔を見られて、咄嗟に妹だと嘘をついてしまう。妹に会いたいと付きまとってくる男の子と一緒にいる内に彼のことが気になりだしている自分に気づく、みたいな感じで、最後もうまいことまとまっていると思いました。しかし、無茶苦茶美人なのにブスメイクをするなんてもったいないなぁ、と思ってしまいますね。でも、外見だけでしか判断されないというのも辛いんだろうなぁ、と思ったりもします。世の美女たちはこの難題をいかにして乗り越えてきたんでしょうか。まあ、派手好きで目立ちたがりの性格なら問題ないんでしょうけど。
この作家は、漢字と平仮名の使い分けが特徴的だな、といつも思います。あんまり漢字を多用せず、これは漢字で書いてもいいんじゃないかなという言葉も平仮名で書いていたりします。それによって、この著者独特の雰囲気が出ているなといつも思います。柔らかい感じ、というんでしょうか。一見簡単に真似できそうですけど、これは案外難しいんだろうなぁ、と僕なんかは思っています。
装丁がやたらシンプルで、金城一樹の「映画篇」みたいな感じです。こういう方が、書店の売り場では逆に目立つかもしれないですね。
そんなわけで、まあまあいいかなという感じの作品でした。すごくオススメというわけではないですけど、時間がゆっくり流れるような、気持ちが穏やかになるような、そんな作品でした。読んでみてください。
中田永一「百瀬、こっちを向いて。」
傷物語(西尾維新)
―ヴァンパイアハンターの話―
朝、目が覚める。今日も一日が始まった。布団から出て、支度をする。今日も、吸血鬼狩りをしなくてはいけない。
住んでいるアパートを出る。俺はヴァンパイアハンターだが、姿かたちは人間と大差ない。街を歩いていても、奇異に思う人間はいないはずだ。
吸血鬼は普段日中は行動しない。日の光を浴びることが出来ないからだ。ヴァンパイアハンターとしては活動し難い時間だと言われているけど、俺はそうは思わない。どっかで寝ている吸血鬼を見つけ出してそのまま狩り出してしまう方が楽に決まっている。そういうわけで俺は、朝早くからこうして出かけるのだ。
俺には、どうにも不満がある。それは、自分のすぐ近くにいるはずの吸血鬼を一向に狩り出すことが出来ない、ということだ。
ヴァンパイアハンターには独特の嗅覚があり、それによって吸血鬼を識別することが出来る。俺は、そうやって幾人もの吸血鬼を狩り出してきたが、しかしある吸血鬼だけは一向に姿を見せないのだ。その吸血鬼は大胆にも、俺のすぐ傍まで近寄っているようなのだ。それは、その吸血鬼の匂いが強いことからも分かる。他の吸血鬼の姿を追いながら、俺はずっとその吸血鬼を探しているのだが、一向に見つかる気配がないのだ。自分のハンターとしての腕に自信を持っているが故に、今の状況には満足できないのである。
吸血鬼がいそうな暗がりを重点的に回りながら、同時に生け贄を探している。俺はヴァンパイアハンターであると同時に、殺人鬼でもあるのだ。特に、むしゃくしゃした時人間を殺したくなる。一匹の吸血鬼も見つけられないような時だ。そういう時は、人間を殺すことで自分を落ち着かせている。
今日もそんな日だった。どうにもむしゃくしゃして、つい人間を殺してしまった。とりあえず身体をバラバラにして部屋まで持って帰ることにする。
とりあえず冷蔵庫に腕だけ入れる。基本的にあまり使わないので、うちにある冷蔵庫は小さいのだ。腕ぐらいしか入らない。仕方ないから他の部位は自分で食べることにする。ヴァンパイアハンターは元々吸血鬼であることが多い。俺もそんな輩の一人だ。
追い続けている吸血鬼はどうにも見つけることが出来ない。常にその不満を抱えたまま、仕方なく俺は眠りにつく。
―ヴァンパイアの話―
僕の一日は、日没と共に始まる。
もちろん、僕が吸血鬼で、日光を浴びることが出来ないからだ。何とも不便な身体だ…、なんて思うことは特にない。生まれた時から僕はずっと吸血鬼だったのだし、これからも吸血鬼であり続けるのだろうから。
布団から這い出し、洗面所で顔を洗う。当然鏡はない。トイレで用を足し、人工血液(現代に生きる吸血鬼の主食だ。さすがに人間の血ばかり吸っているわけにはいかない。しかしこの人工血液、マズイのだ)を飲みながらテレビを見る。
僕ら吸血鬼の生活は、人間と大して変わらない。ちゃんとしたアパートに住み、それなりに近所の住人と接触を持ちながら、目立たないように生きている。住みにくい世の中になったものだ、と思う。僕はもう長いこと生きているわけだけど、例えば戦国時代なんかどれだけ生きやすかったことか。吸血鬼も歩けば瀕死の人間に当たる、と言った具合で、食料には事欠かなかったのだから。逆に言えば明治時代なんかはかなりきつかったな。何故なら人工血液なんてものがまだ開発されていなかったからだ。そういう意味では、現代はまだ生きやすいと言える。
テレビでは、お笑い番組をやっている。もう人間のように生きて久しい。人間と同じポイントで笑えるようになってきたものだ。
テレビを見ながら僕は、ぼんやりと考える。ずっと感じていることだが、僕の周りにはヴァンパイアハンターがいるようなのだ。決して姿を見せることはないし、何故か僕を狩り出すこともないのだが、そのヴァンパイアハンターは僕の周囲に付きまとっているようなのだ。そいつが何を考えて僕を狩り出さないのか、僕にはさっぱりわからない。しかし、恐らくそうできない理由があるのだろう、と僕は高を括っていて、それでそんなヴァンパイアハンターの存在を無視し続けている。
そういえば、と思いついて冷蔵庫を開ける。期待通りそこには、人間の腕が入っている。ラッキー、と思いながら、僕はその腕に齧りつく。
不思議なことではあるが、こういうことが時々ある。自分で入れた記憶はまったくないのだ。どういう経緯でこの冷蔵庫の中に入ってきたのか不明だが、人工血液に飽きた僕には格好のごちそうになる。やっぱり人間の血はうまい。
さて今日も一日平和だった。特にすることもないし、寝るか。
一銃「ヴァンパイア氏とヴァンパイアハンター氏」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、西尾維新が100%趣味で書いたという「化物語」という作品の前日譚に当たる物語です。「化物語」で語り部であった阿良々木暦がまた主人公となり、廃墟の元学習塾に住んでいた吸血鬼にまつわる話になっています。
阿良々木暦は、高校三年生にならんとする春休み中、瀕死の吸血鬼に出会った。その吸血鬼は、阿良々木の血を吸えば助かるのだ、という。彼はその吸血鬼を見捨てることが出来ず、自分の命と引き換えにその吸血鬼を助けてあげることにした…。
つもりだったが、何故だか阿良々木は生きていた。しかし残念ながら吸血鬼になっていた。彼が救った吸血鬼は、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードという。長いので阿良々木はキスショットと呼んでいる。
キスショットは完全な形で快復することは出来なかった。そこで阿良々木に手助けを求めたのだ。それは、奪われた両手足を奪い返すこと。そうすれば、君を人間に戻してあげるよ、と。
そんなわけで阿良々木は、人外としかいいようのない三人の敵と戦うことになったのだが…。
というような話です。
正直、本作はちょっと残念な感じでした。
前作「化物語」は、西尾維新史上に残る傑作でした。それは僕の周囲にいる西尾維新ファン達も異口同音に言っていて、とにかくあれは最高に面白い、という評価でした。僕もその通りだと思うし、あれほど言葉遊びをしながらテンポのいい面白い作品を書けるとは、と思ったりしました。
でも本作では、前作「化物語」の良さみたいなものがまったく出ていないなぁ、という感じがしました。
たぶんですが、物語の帰結が決まってしまっていたから、という理由もあるのかもしれません。本作に出てくるキスショットという吸血鬼は、「化物語」でも出てくるものです。つまり、最終的にどうなるか、ということが既に前作で提示されてしまっているので、物語はどうしてもそこに向けて収束させていかなくてはいけません。その縛りに勝てなかったのではないか、という感じがしました。
本作を読んでて一番面白いのは、なんと言っても委員長羽川翼の存在ですね。とにかくこの羽川はとんでもない善人で、常に阿良々木のことを助けてくれるわけです、もう聖人としかいいようのないキャラなんだけど、本人は全然そんな風に思ってないようで、そのギャップがなかなか凄まじいです。「化物語」でももちろん主要なキャラクターとして出てきてましたが、本作では羽川はほぼ主役級という感じで登場するので、羽川節を思う存分味わうことが出来ます。
しかしそうは言っても、「化物語」で炸裂させていた言葉遊びと会話の異常なまでの面白さが本作では見られなかったのでちょっと残念な感じでした。「化物語」のような感じをイメージして本作を読むと、ちょっと拍子抜けという感じになるかもしれません。
まあそんなわけで、そこまでオススメできる作品ではありません。ただ、「化物語」は最高に傑作なので是非読んでみてください。ホント、また「化物語」のような感じの話を書いて欲しいんだけどなぁ。
西尾維新「傷物語」
朝、目が覚める。今日も一日が始まった。布団から出て、支度をする。今日も、吸血鬼狩りをしなくてはいけない。
住んでいるアパートを出る。俺はヴァンパイアハンターだが、姿かたちは人間と大差ない。街を歩いていても、奇異に思う人間はいないはずだ。
吸血鬼は普段日中は行動しない。日の光を浴びることが出来ないからだ。ヴァンパイアハンターとしては活動し難い時間だと言われているけど、俺はそうは思わない。どっかで寝ている吸血鬼を見つけ出してそのまま狩り出してしまう方が楽に決まっている。そういうわけで俺は、朝早くからこうして出かけるのだ。
俺には、どうにも不満がある。それは、自分のすぐ近くにいるはずの吸血鬼を一向に狩り出すことが出来ない、ということだ。
ヴァンパイアハンターには独特の嗅覚があり、それによって吸血鬼を識別することが出来る。俺は、そうやって幾人もの吸血鬼を狩り出してきたが、しかしある吸血鬼だけは一向に姿を見せないのだ。その吸血鬼は大胆にも、俺のすぐ傍まで近寄っているようなのだ。それは、その吸血鬼の匂いが強いことからも分かる。他の吸血鬼の姿を追いながら、俺はずっとその吸血鬼を探しているのだが、一向に見つかる気配がないのだ。自分のハンターとしての腕に自信を持っているが故に、今の状況には満足できないのである。
吸血鬼がいそうな暗がりを重点的に回りながら、同時に生け贄を探している。俺はヴァンパイアハンターであると同時に、殺人鬼でもあるのだ。特に、むしゃくしゃした時人間を殺したくなる。一匹の吸血鬼も見つけられないような時だ。そういう時は、人間を殺すことで自分を落ち着かせている。
今日もそんな日だった。どうにもむしゃくしゃして、つい人間を殺してしまった。とりあえず身体をバラバラにして部屋まで持って帰ることにする。
とりあえず冷蔵庫に腕だけ入れる。基本的にあまり使わないので、うちにある冷蔵庫は小さいのだ。腕ぐらいしか入らない。仕方ないから他の部位は自分で食べることにする。ヴァンパイアハンターは元々吸血鬼であることが多い。俺もそんな輩の一人だ。
追い続けている吸血鬼はどうにも見つけることが出来ない。常にその不満を抱えたまま、仕方なく俺は眠りにつく。
―ヴァンパイアの話―
僕の一日は、日没と共に始まる。
もちろん、僕が吸血鬼で、日光を浴びることが出来ないからだ。何とも不便な身体だ…、なんて思うことは特にない。生まれた時から僕はずっと吸血鬼だったのだし、これからも吸血鬼であり続けるのだろうから。
布団から這い出し、洗面所で顔を洗う。当然鏡はない。トイレで用を足し、人工血液(現代に生きる吸血鬼の主食だ。さすがに人間の血ばかり吸っているわけにはいかない。しかしこの人工血液、マズイのだ)を飲みながらテレビを見る。
僕ら吸血鬼の生活は、人間と大して変わらない。ちゃんとしたアパートに住み、それなりに近所の住人と接触を持ちながら、目立たないように生きている。住みにくい世の中になったものだ、と思う。僕はもう長いこと生きているわけだけど、例えば戦国時代なんかどれだけ生きやすかったことか。吸血鬼も歩けば瀕死の人間に当たる、と言った具合で、食料には事欠かなかったのだから。逆に言えば明治時代なんかはかなりきつかったな。何故なら人工血液なんてものがまだ開発されていなかったからだ。そういう意味では、現代はまだ生きやすいと言える。
テレビでは、お笑い番組をやっている。もう人間のように生きて久しい。人間と同じポイントで笑えるようになってきたものだ。
テレビを見ながら僕は、ぼんやりと考える。ずっと感じていることだが、僕の周りにはヴァンパイアハンターがいるようなのだ。決して姿を見せることはないし、何故か僕を狩り出すこともないのだが、そのヴァンパイアハンターは僕の周囲に付きまとっているようなのだ。そいつが何を考えて僕を狩り出さないのか、僕にはさっぱりわからない。しかし、恐らくそうできない理由があるのだろう、と僕は高を括っていて、それでそんなヴァンパイアハンターの存在を無視し続けている。
そういえば、と思いついて冷蔵庫を開ける。期待通りそこには、人間の腕が入っている。ラッキー、と思いながら、僕はその腕に齧りつく。
不思議なことではあるが、こういうことが時々ある。自分で入れた記憶はまったくないのだ。どういう経緯でこの冷蔵庫の中に入ってきたのか不明だが、人工血液に飽きた僕には格好のごちそうになる。やっぱり人間の血はうまい。
さて今日も一日平和だった。特にすることもないし、寝るか。
一銃「ヴァンパイア氏とヴァンパイアハンター氏」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、西尾維新が100%趣味で書いたという「化物語」という作品の前日譚に当たる物語です。「化物語」で語り部であった阿良々木暦がまた主人公となり、廃墟の元学習塾に住んでいた吸血鬼にまつわる話になっています。
阿良々木暦は、高校三年生にならんとする春休み中、瀕死の吸血鬼に出会った。その吸血鬼は、阿良々木の血を吸えば助かるのだ、という。彼はその吸血鬼を見捨てることが出来ず、自分の命と引き換えにその吸血鬼を助けてあげることにした…。
つもりだったが、何故だか阿良々木は生きていた。しかし残念ながら吸血鬼になっていた。彼が救った吸血鬼は、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードという。長いので阿良々木はキスショットと呼んでいる。
キスショットは完全な形で快復することは出来なかった。そこで阿良々木に手助けを求めたのだ。それは、奪われた両手足を奪い返すこと。そうすれば、君を人間に戻してあげるよ、と。
そんなわけで阿良々木は、人外としかいいようのない三人の敵と戦うことになったのだが…。
というような話です。
正直、本作はちょっと残念な感じでした。
前作「化物語」は、西尾維新史上に残る傑作でした。それは僕の周囲にいる西尾維新ファン達も異口同音に言っていて、とにかくあれは最高に面白い、という評価でした。僕もその通りだと思うし、あれほど言葉遊びをしながらテンポのいい面白い作品を書けるとは、と思ったりしました。
でも本作では、前作「化物語」の良さみたいなものがまったく出ていないなぁ、という感じがしました。
たぶんですが、物語の帰結が決まってしまっていたから、という理由もあるのかもしれません。本作に出てくるキスショットという吸血鬼は、「化物語」でも出てくるものです。つまり、最終的にどうなるか、ということが既に前作で提示されてしまっているので、物語はどうしてもそこに向けて収束させていかなくてはいけません。その縛りに勝てなかったのではないか、という感じがしました。
本作を読んでて一番面白いのは、なんと言っても委員長羽川翼の存在ですね。とにかくこの羽川はとんでもない善人で、常に阿良々木のことを助けてくれるわけです、もう聖人としかいいようのないキャラなんだけど、本人は全然そんな風に思ってないようで、そのギャップがなかなか凄まじいです。「化物語」でももちろん主要なキャラクターとして出てきてましたが、本作では羽川はほぼ主役級という感じで登場するので、羽川節を思う存分味わうことが出来ます。
しかしそうは言っても、「化物語」で炸裂させていた言葉遊びと会話の異常なまでの面白さが本作では見られなかったのでちょっと残念な感じでした。「化物語」のような感じをイメージして本作を読むと、ちょっと拍子抜けという感じになるかもしれません。
まあそんなわけで、そこまでオススメできる作品ではありません。ただ、「化物語」は最高に傑作なので是非読んでみてください。ホント、また「化物語」のような感じの話を書いて欲しいんだけどなぁ。
西尾維新「傷物語」