先着順採用、会議自由参加で「世界一の小企業」をつくった(松浦元男)
さて今日は時間がないので、本屋の話はなしで、内容に入ろうと思います。
本書は、樹研工業という愛知県豊橋市にある中小企業の社長が書いた本です。極小精密部品では国内トップメーカーであり、世界最小にして未だ使い道のない100万分の1グラムの歯車を製造し業界を震撼させた会社です。未だにこの100万分の1グラムの歯車は、世界でもこの会社でしか作ることが出来ません。
本書の著者は、技術者としても恐らく優れているんでしょうが、何よりも経営者として素晴らしいものがあります。財務などについて書かれている部分は僕にはよく分からなかったりするんだけど、人を動かすという点ではとにかく素晴らしいものがあります。
例えばタイトルにあるものから触れると、まず採用はすべて先着順です。学歴や年齢や能力などには一切関係なく、来てくれた人からどんどん採用していく、というとんでもないやり方をしています。いわゆるヤンキーのような人や外国人なんかもたくさん入ってくるけど、しかし彼らはどんどんと進化していく。
高校時代数学がまったく出来なかった女性が、働き初めて数年後まったくの独学で微積分を理解し、大学受験の問題が解けるようになっている。中卒の工場長は、歯車理論について本だけで勉強し、世界的権威から大学院卒だと思われるまでになった。ケバい化粧をした女性たちはいつの間にか英語をペラペラ操り外国人と交渉をしている。
著者は、そもそも今の若い人たちは潜在能力が高いと断言します。子供の頃から食べているものが違うし、育ってきた環境も違う。脳の作りからして違うのだ。ただ情報が多すぎて、自分の進むべき道を決めることが出来ない。だから、チャンスとモチベーションを与えてあげれば、誰だってどんなことだって出来る。重要なことはチャンスとモチベーションを与えることだ、と言っています。
ほとんどの企業は面接によって社員を採用しているけど、そうなると自分たちと合う人ばかり採用させることになる。どうしても画一的になるし、また指示されていないことをやるとどういう罰則があるのかきちんと理解している人だけを採用しているのだ、と言います。今の若者は個性がないと言われるけど、行儀がよくて規則をよく守る人ばかり採用しているのだから当たり前だ、と言います。
面白い発想だなと思います。しかし、実際それまでの経歴とは関係なく能力が向上しているという現実があるわけで、著者の言っていることが正しいのだろうなと思います。
また会議自由参加というのはこういうことです。昔は役員会議があったけど、ある日役員に意見を言いたいというスタッフがいたことをきっかけにして役員会議を止めた。会議は自由参加にして、誰でも意見を言えるようにする。というか、会議というよりただの雑談だけど、そういう場を設けている。これもなかなかすごいなと思います。
タイムカードなんかもないそうです。すべて自己申告。残業も自己申告。出張なんかは自己責任。樹研工業に於いては、出張というのは行かされるものではなく自分で行くもの。出張に行くかどうかという決定を自分でするわけです。かつてまだ社員が30人ぐらいだった頃(現在ではおそそ100人程度)、出張費だけで年間3000万円を超えていたこともあるそうです。それがどれぐらいすごいことなのか僕にはきちんと実感は出来ませんが、でも30人で3000万円ってことは一人年間100万円分出張しているというわけで、やっぱり凄いですね。
社員の出戻りは大いに歓迎。戻ってきたいと思えばいつでも戻ってくることが出来ます。出戻り社員は即戦力になる。ありがたい存在だと言います。
また定年はありません。働けるだけ働くことが出来ます。また、病気で入院をしても、その間給料を支払います。社員とその家族に安心を与えることが会社の使命である、という風に理解しているからです。
通常業務以外に新技術開発も同時並行してやるけど(例えば100万分の1グラムの歯車のような)、これには四つの原則があります。
①計画書は書かない
②開発責任者を置かない。開発は片手間に行う。
③開発の方向は行き当たりばったり。目的のものとは違っても結果的に新技術を生み出せればオーケー。
④予算は無制限。
普通の企業ではまずありえない原則でしょう。
とまあとにかく普通ではないやり方で会社を経営しているわけです。品質管理も、ISOなんかよりも遥かにレベルが高いものを大昔から維持している。パソコンやインターネットの導入なんかもいち早かった。家電製品に見切りをつけ、ナノテクノロジーに目を向けたのも早い。時には幸運もあったかもしれないけど、基本的に著者の的確な決断力によって、会社を正しい道に進ませてきたという感じです。
本書には、著者のこれまでの生い立ちみたいなものも書かれています。会社創業当時からどういう紆余曲折を経てここまでたどり着いたのかという感じですが、その中で一番驚いたのが、数年間サラリーマンとして働いていた会社での仕事っぷりです。
入社してすぐ事務の合理化の遅れに目をつけた著者は、会社には内緒でいろいろ調べ、勉強をし、ついには自分でシステムを考え、先輩社員をコキつかって、見事事務の合理化を達成してしまいました。そのために当時のお金で400万円掛かったけど、その合理化のおかげで年間数百万の増益になり、社長から特別ボーナスをもらった、とのことです。
それ以後も、とにかくまず行動、そして勉強。とにかく努力の人です。とても僕には真似できない人だ、と思いました。すごいです、ホント。
また後半では、経営者を取り巻く環境や、経営者に必要とされる資質なんかの話が書かれています。経営者を取り巻く環境というのは、税制の話から景気の話、不況を乗り切るために必要なことはなんなのか、というような話になります。経営者に必要な資質としては、財務を読む力を挙げています。財務とか僕にはもうさっぱりパーなのでよくわかりませんが、とにかく経営者は財務についてエキスパートでなくてはならない、という話でした。著者は恐らく、まったくの独学で財務の知識を身につけたのだろうと思います。まったく凄いものだなと思います。
ちょっと時間がないので急ぎ足になりましたが、実に面白い本だなと思いました。経営者はまず読むべきでしょう。そしてサラリーマンは読んだ方がいいかもしれません。自分の会社の環境と比較したり、仕事に対するスタンスが変わったりというようなことになるかもしれません。また就活をしている人なんかもいいかもしれないですね。会社を判断する際どこを見ればいいのかというのがおぼろげながらわかってくるかもしれません。
いずれにしても、こういう会社で働きたいなと思わせる本でした。ビジネス書としてではなく、こういう会社もあるんだ、というような興味で読んでもいいと思います。ぜひ読んでみてください。
松浦元男「先着順採用、会議自由参加で「世界一の小企業」をつくった」
本書は、樹研工業という愛知県豊橋市にある中小企業の社長が書いた本です。極小精密部品では国内トップメーカーであり、世界最小にして未だ使い道のない100万分の1グラムの歯車を製造し業界を震撼させた会社です。未だにこの100万分の1グラムの歯車は、世界でもこの会社でしか作ることが出来ません。
本書の著者は、技術者としても恐らく優れているんでしょうが、何よりも経営者として素晴らしいものがあります。財務などについて書かれている部分は僕にはよく分からなかったりするんだけど、人を動かすという点ではとにかく素晴らしいものがあります。
例えばタイトルにあるものから触れると、まず採用はすべて先着順です。学歴や年齢や能力などには一切関係なく、来てくれた人からどんどん採用していく、というとんでもないやり方をしています。いわゆるヤンキーのような人や外国人なんかもたくさん入ってくるけど、しかし彼らはどんどんと進化していく。
高校時代数学がまったく出来なかった女性が、働き初めて数年後まったくの独学で微積分を理解し、大学受験の問題が解けるようになっている。中卒の工場長は、歯車理論について本だけで勉強し、世界的権威から大学院卒だと思われるまでになった。ケバい化粧をした女性たちはいつの間にか英語をペラペラ操り外国人と交渉をしている。
著者は、そもそも今の若い人たちは潜在能力が高いと断言します。子供の頃から食べているものが違うし、育ってきた環境も違う。脳の作りからして違うのだ。ただ情報が多すぎて、自分の進むべき道を決めることが出来ない。だから、チャンスとモチベーションを与えてあげれば、誰だってどんなことだって出来る。重要なことはチャンスとモチベーションを与えることだ、と言っています。
ほとんどの企業は面接によって社員を採用しているけど、そうなると自分たちと合う人ばかり採用させることになる。どうしても画一的になるし、また指示されていないことをやるとどういう罰則があるのかきちんと理解している人だけを採用しているのだ、と言います。今の若者は個性がないと言われるけど、行儀がよくて規則をよく守る人ばかり採用しているのだから当たり前だ、と言います。
面白い発想だなと思います。しかし、実際それまでの経歴とは関係なく能力が向上しているという現実があるわけで、著者の言っていることが正しいのだろうなと思います。
また会議自由参加というのはこういうことです。昔は役員会議があったけど、ある日役員に意見を言いたいというスタッフがいたことをきっかけにして役員会議を止めた。会議は自由参加にして、誰でも意見を言えるようにする。というか、会議というよりただの雑談だけど、そういう場を設けている。これもなかなかすごいなと思います。
タイムカードなんかもないそうです。すべて自己申告。残業も自己申告。出張なんかは自己責任。樹研工業に於いては、出張というのは行かされるものではなく自分で行くもの。出張に行くかどうかという決定を自分でするわけです。かつてまだ社員が30人ぐらいだった頃(現在ではおそそ100人程度)、出張費だけで年間3000万円を超えていたこともあるそうです。それがどれぐらいすごいことなのか僕にはきちんと実感は出来ませんが、でも30人で3000万円ってことは一人年間100万円分出張しているというわけで、やっぱり凄いですね。
社員の出戻りは大いに歓迎。戻ってきたいと思えばいつでも戻ってくることが出来ます。出戻り社員は即戦力になる。ありがたい存在だと言います。
また定年はありません。働けるだけ働くことが出来ます。また、病気で入院をしても、その間給料を支払います。社員とその家族に安心を与えることが会社の使命である、という風に理解しているからです。
通常業務以外に新技術開発も同時並行してやるけど(例えば100万分の1グラムの歯車のような)、これには四つの原則があります。
①計画書は書かない
②開発責任者を置かない。開発は片手間に行う。
③開発の方向は行き当たりばったり。目的のものとは違っても結果的に新技術を生み出せればオーケー。
④予算は無制限。
普通の企業ではまずありえない原則でしょう。
とまあとにかく普通ではないやり方で会社を経営しているわけです。品質管理も、ISOなんかよりも遥かにレベルが高いものを大昔から維持している。パソコンやインターネットの導入なんかもいち早かった。家電製品に見切りをつけ、ナノテクノロジーに目を向けたのも早い。時には幸運もあったかもしれないけど、基本的に著者の的確な決断力によって、会社を正しい道に進ませてきたという感じです。
本書には、著者のこれまでの生い立ちみたいなものも書かれています。会社創業当時からどういう紆余曲折を経てここまでたどり着いたのかという感じですが、その中で一番驚いたのが、数年間サラリーマンとして働いていた会社での仕事っぷりです。
入社してすぐ事務の合理化の遅れに目をつけた著者は、会社には内緒でいろいろ調べ、勉強をし、ついには自分でシステムを考え、先輩社員をコキつかって、見事事務の合理化を達成してしまいました。そのために当時のお金で400万円掛かったけど、その合理化のおかげで年間数百万の増益になり、社長から特別ボーナスをもらった、とのことです。
それ以後も、とにかくまず行動、そして勉強。とにかく努力の人です。とても僕には真似できない人だ、と思いました。すごいです、ホント。
また後半では、経営者を取り巻く環境や、経営者に必要とされる資質なんかの話が書かれています。経営者を取り巻く環境というのは、税制の話から景気の話、不況を乗り切るために必要なことはなんなのか、というような話になります。経営者に必要な資質としては、財務を読む力を挙げています。財務とか僕にはもうさっぱりパーなのでよくわかりませんが、とにかく経営者は財務についてエキスパートでなくてはならない、という話でした。著者は恐らく、まったくの独学で財務の知識を身につけたのだろうと思います。まったく凄いものだなと思います。
ちょっと時間がないので急ぎ足になりましたが、実に面白い本だなと思いました。経営者はまず読むべきでしょう。そしてサラリーマンは読んだ方がいいかもしれません。自分の会社の環境と比較したり、仕事に対するスタンスが変わったりというようなことになるかもしれません。また就活をしている人なんかもいいかもしれないですね。会社を判断する際どこを見ればいいのかというのがおぼろげながらわかってくるかもしれません。
いずれにしても、こういう会社で働きたいなと思わせる本でした。ビジネス書としてではなく、こういう会社もあるんだ、というような興味で読んでもいいと思います。ぜひ読んでみてください。
松浦元男「先着順採用、会議自由参加で「世界一の小企業」をつくった」
Presents(角田光代)
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は今事情があって売らなくてはいけない本で、それでちょっと読んでみることにしました。読む前から予想はしていましたが、やはり僕には合わない作品でした。これは作品のせいというより、合う合わないの問題です。やはり本書は女性向けの作品だなということを確認しました。
12編の短編が収録された短編集です。タイトル通り、どれもプレゼントに関わる話になっています。それぞれの短編のタイトルが、もらったプレゼントになっています。
「名前」
自分の名前が嫌いだった女性の話。子供の頃からずっと嫌で、別の名前になりたかった。大人になって結婚して子供が生まれるという時、名前を考えることになったけど…。
「ランドセル」
他の子供が普通に出来ることが出来ない子供だった。幼稚園から小学校に上がる時も嫌だった。逃げたかった。またどうせきちんと出来ないのは分かっていた。そんな時にもらったランドセル。何でも入りそうなほど大きかった…。
「初キス」
それまで話したことなんてほとんどなかった男子から一緒に帰ろうと言われた。渡したいものがあるんだ、って。今日は私の誕生日。何かくれるつもりなんだろうけど…。
「鍋セット」
田舎から出てきて東京で一人暮らし。狭くて古い家に住まなくてはいけない不安から、上京して引っ越しを手伝ってくれた母に当たってしまう。母は突然、鍋セットを買わないとと言って店に向かうが…
「うに煎餅」
大学時代付き合っていた彼氏に冷たくされて、私は合コンに走った。そこで知り合った百点満点の男。高いレストラン、ホテルのバー、大人な振る舞い…。でもなんか違うような気がする…。
「合い鍵」
八年間付き合った彼に振られた。まさか振られるとは思っていなかった。この八年間、様々なことを乗り越えてきた。このままずっと続くと思っていたのが私だけだなんて恥ずかしい…。
「ヴェール」
結婚式当日。ヴェールだけがまだ届かない。高校時代の友人が作ってくれることになっていた。高校時代、席が近かったからというだけの理由で仲良くなって15年。これからも彼女たちと同じ時を過ごしていくのだろう…。
「記憶」
夫が浮気した。家事のストライキを始めて一週間。もうなんだかどうでもよくなってきた。そんな時、夫が温泉に行こうと言ってきた。付き合って初めて二人で行ったところだ…。
「絵」
結婚後の理想の生活とはほど遠い。私は毎日息子に怒っている。息子は泣くのをこらえたような眼で私を見る。夫に相談してもなしのつぶて。学校からも何度も呼び出しを受けているんだけど…。
「料理」
風邪を引いた。起きていられない。とにかく横になっていると、息子も娘も私の心配なんかまるでせずに夕飯の心配ばかりしている。夫よ、お前もか…。
「ぬいぐるみ」
一人娘の結婚式の朝。結局いつもと変わらない。バタバタしながら式場へと向かう。これでいいのかな、と夫は言う。娘のことではない。私たちのことについてだ…。
「涙」
目が覚めた時、自分がどこの誰で何をしていたのか、最近よく分からなくなる。過去の人生のあらゆる場面が時間続きのようにして目の前に現れることがある。そうか、もう夫は死んだし、幼馴染みもいないのか。形見分けはどうしたらいいだろう…。
というような感じです。
先ほども書きましたけど、ちょっと僕には合わない作品でした。角田光代の作品を読むのは三作目ですが、本書はちょっと合わないです。江國香織なんかは好きなんだけど、恋愛っぽい小説を書く他の女流作家はあんまり合わない。角田光代は別に恋愛に特化している作家というわけでもないんだけど、あんまり合わないです。「対岸の彼女」は結構よかったけど、評判の高い「八日目の蝉」はそこまで言うほどかなぁという感じだったし。だからこの作品も、僕にはダメだったけど、女性が読んだらわかるわかるというような作品なんではないかなと思います。
とにかく装丁が綺麗ですね。中の絵も素敵です。ジャケ買いしていく人も多いんだろうなと思います。
事情があって売らなくてはいけない本なんですが、ウチではなかなか順調に売れています。4/22から昨日(4/27)までで13冊売れています。まあ店の規模がどれくらいか分からないと判断できないでしょうが、ウチの店としてはかなりいいスタートという感じです。
本書を読んでいない時にPOPを作りましたが、しかしそのPOPが超適当なんです。僕が10分で作りました。読んでないから内容に触れられないので、POPの文章はこんな感じです。
『僕からのプレゼントです。
あ、でもお金は払ってください。すいません…』
まあこのPOPがついてるから売れてるなんてことはまずあり得ないでしょうけど、これからもバリバリ売れてくれればいいなと思います。
というわけで、僕はダメでしたが、女性受けする作品ではないかなと思います。装丁も可愛いので目を惹くんではないかと。気になったら読んでみてください。
角田光代「Presents」
本書は今事情があって売らなくてはいけない本で、それでちょっと読んでみることにしました。読む前から予想はしていましたが、やはり僕には合わない作品でした。これは作品のせいというより、合う合わないの問題です。やはり本書は女性向けの作品だなということを確認しました。
12編の短編が収録された短編集です。タイトル通り、どれもプレゼントに関わる話になっています。それぞれの短編のタイトルが、もらったプレゼントになっています。
「名前」
自分の名前が嫌いだった女性の話。子供の頃からずっと嫌で、別の名前になりたかった。大人になって結婚して子供が生まれるという時、名前を考えることになったけど…。
「ランドセル」
他の子供が普通に出来ることが出来ない子供だった。幼稚園から小学校に上がる時も嫌だった。逃げたかった。またどうせきちんと出来ないのは分かっていた。そんな時にもらったランドセル。何でも入りそうなほど大きかった…。
「初キス」
それまで話したことなんてほとんどなかった男子から一緒に帰ろうと言われた。渡したいものがあるんだ、って。今日は私の誕生日。何かくれるつもりなんだろうけど…。
「鍋セット」
田舎から出てきて東京で一人暮らし。狭くて古い家に住まなくてはいけない不安から、上京して引っ越しを手伝ってくれた母に当たってしまう。母は突然、鍋セットを買わないとと言って店に向かうが…
「うに煎餅」
大学時代付き合っていた彼氏に冷たくされて、私は合コンに走った。そこで知り合った百点満点の男。高いレストラン、ホテルのバー、大人な振る舞い…。でもなんか違うような気がする…。
「合い鍵」
八年間付き合った彼に振られた。まさか振られるとは思っていなかった。この八年間、様々なことを乗り越えてきた。このままずっと続くと思っていたのが私だけだなんて恥ずかしい…。
「ヴェール」
結婚式当日。ヴェールだけがまだ届かない。高校時代の友人が作ってくれることになっていた。高校時代、席が近かったからというだけの理由で仲良くなって15年。これからも彼女たちと同じ時を過ごしていくのだろう…。
「記憶」
夫が浮気した。家事のストライキを始めて一週間。もうなんだかどうでもよくなってきた。そんな時、夫が温泉に行こうと言ってきた。付き合って初めて二人で行ったところだ…。
「絵」
結婚後の理想の生活とはほど遠い。私は毎日息子に怒っている。息子は泣くのをこらえたような眼で私を見る。夫に相談してもなしのつぶて。学校からも何度も呼び出しを受けているんだけど…。
「料理」
風邪を引いた。起きていられない。とにかく横になっていると、息子も娘も私の心配なんかまるでせずに夕飯の心配ばかりしている。夫よ、お前もか…。
「ぬいぐるみ」
一人娘の結婚式の朝。結局いつもと変わらない。バタバタしながら式場へと向かう。これでいいのかな、と夫は言う。娘のことではない。私たちのことについてだ…。
「涙」
目が覚めた時、自分がどこの誰で何をしていたのか、最近よく分からなくなる。過去の人生のあらゆる場面が時間続きのようにして目の前に現れることがある。そうか、もう夫は死んだし、幼馴染みもいないのか。形見分けはどうしたらいいだろう…。
というような感じです。
先ほども書きましたけど、ちょっと僕には合わない作品でした。角田光代の作品を読むのは三作目ですが、本書はちょっと合わないです。江國香織なんかは好きなんだけど、恋愛っぽい小説を書く他の女流作家はあんまり合わない。角田光代は別に恋愛に特化している作家というわけでもないんだけど、あんまり合わないです。「対岸の彼女」は結構よかったけど、評判の高い「八日目の蝉」はそこまで言うほどかなぁという感じだったし。だからこの作品も、僕にはダメだったけど、女性が読んだらわかるわかるというような作品なんではないかなと思います。
とにかく装丁が綺麗ですね。中の絵も素敵です。ジャケ買いしていく人も多いんだろうなと思います。
事情があって売らなくてはいけない本なんですが、ウチではなかなか順調に売れています。4/22から昨日(4/27)までで13冊売れています。まあ店の規模がどれくらいか分からないと判断できないでしょうが、ウチの店としてはかなりいいスタートという感じです。
本書を読んでいない時にPOPを作りましたが、しかしそのPOPが超適当なんです。僕が10分で作りました。読んでないから内容に触れられないので、POPの文章はこんな感じです。
『僕からのプレゼントです。
あ、でもお金は払ってください。すいません…』
まあこのPOPがついてるから売れてるなんてことはまずあり得ないでしょうけど、これからもバリバリ売れてくれればいいなと思います。
というわけで、僕はダメでしたが、女性受けする作品ではないかなと思います。装丁も可愛いので目を惹くんではないかと。気になったら読んでみてください。
角田光代「Presents」
ZOKURANGER(森博嗣)
というわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、「ZOKU」「ZOKUDAM」と続く「ZOKU」シリーズの第三弾(で確か最終巻)です。「ZOKU」は二人の人間がお金を掛けてお互いにイタズラを仕掛け合うという話、「ZOKUDAM」は某有名テーマパークの地下で秘密裏に巨大ロボを作っているという話、そして今回は大学のある委員会のメンバーが戦隊ヒーローのようなユニフォームを着る、というような話です。
研究環境改善委員会のメンバーは、ロミ・品川(イエロー)、永良野乃(ピンク)、ケン・十河(ブルー)、バーブ・斎藤(グリーン)、揖斐純弥(レッド)の五人に、委員長の木曽川大安だ。本書は5つの章から成っていて、各章の主人公が委員長を除く研究環境改善委員会のメンバーになっている。
ロミ・品川は民間企業から大学にやってきた異色の人物だ。大学については右も左も分からない状態だが、実に奇妙な場所であるということはなんとなくわかってきた。委員会もその一つだ。大抵委員長が喋っているだけで議論はない。他のメンバーがいる必要性が感じられないが、しかしそんな委員会がたくさんある。ロミ・品川もいくつもの委員にさせられた。
その一つが研究環境改善委員会だ。この委員会も他の委員会とさほど変わらないと思われた。しかしどこか違う。何かがおかしい。永良野乃が体のサイズを測りに来た。ユニフォームがあるという。ユニフォーム?それを着て一体何をするというのだ。いくら大学が奇妙なところだからと言っても、この奇妙さはおかしいのではないか…。
というのが第一章の話で、それから続く章で他のメンバーの語りになる。永良野乃はちょっと変わった趣味がある。ケン・十河もちょっと変わった趣味がある。バーブ・斎藤にはちょっと変わった能力がある。揖斐純弥にもちょっと変わった能力があり…。
というような話です。
いやはや実に面白い。僕はこの「ZOKU」シリーズは大好きなんですけど、「ZOKU」よりも「ZOKUDAM」の方が、そして「ZOKUDAM」よりも「ZOKURANGER」の方が面白いなぁと思うわけなんです。
とにかく、実に馬鹿馬鹿しい話です。ここまでシュールな展開もないでしょう。大学の委員会の一つが、戦隊ヒーローのような格好をして何か奇妙なことをするだけ、基本的にそれだけの話なんですけど、何でこんなに面白いんでしょう。
本書の面白さの理由はいろいろあるでしょうが、まず大学というのが舞台になっているのが面白いですね。多少誇張している部分もあるんでしょうけど、本書を読むと大学というのは本当に変なところなんだな、というのがよく分かります。実際に国立大学の助教授(今は准教授というらしいですけど)だった著者だからこそ、この雰囲気が出せるのだと思います。いかに変わった人種が揃っているか、いかに無駄な仕事が多いか、というようなことがすごく良く分かるし、また大学に対する森博嗣のスタンスみたいなものも何となく透けて見える気がして(まあ森博嗣に言わせたら、小説に自分の主張や意見を盛り込んでいるつもりはない、となるでしょうが)、面白いと思います。
それに加えて、登場人物が非常に面白い。基本的にストーリーに関わるのは研究環境改善委員会のメンバーくらいですけど、実に多彩なメンバーです。ロミ・品川は研究環境改善委員会の奇妙さに健全な反応をしますが、他のメンバーは既に慣れ切っているために疑問を抱くことはありません。そればかりか、メンバーはもう妄想家ばかりで、その妄想力を駆使してとんでもないことばかり考えるような連中です。ネタばれになるので詳しいことは言えませんが、その妄想がとにかくすごい。しかもその妄想がそれぞれのキャラクターをよく表しているわけで、委員会のメンバーのキャラクターを楽しむという読み方も面白いです。
ストーリーは正直あってないようなものですけど、ラストに行くにしたがってどんどんと荒唐無稽な展開になっていきます。常識的な判断をするロミ・品川の章から物語に入った読者としては、初めと終わりのあまりの落差に驚くのではないでしょうか。あれ、いつの間にこんな話になったんだっけ?というような展開です。まったく変な話を書く作家ですけど、本当に本書も変な作品だなと思います。
実に脱力的な設定・展開の作品ではありますが、舞台となる大学の描写が実にリアルなので、そのギャップも面白い作品です。「ZOKU」シリーズの三作は一応シリーズではありますが、話自体はまったくつながっていないのでどれから読んでも問題ありません。森博嗣のミステリーを読んでダメだったという方も、再チャレンジしてみてはどうでしょうか。ユルユルの作品で面白いですよ。
森博嗣「ZOKURANGER」
本書は、「ZOKU」「ZOKUDAM」と続く「ZOKU」シリーズの第三弾(で確か最終巻)です。「ZOKU」は二人の人間がお金を掛けてお互いにイタズラを仕掛け合うという話、「ZOKUDAM」は某有名テーマパークの地下で秘密裏に巨大ロボを作っているという話、そして今回は大学のある委員会のメンバーが戦隊ヒーローのようなユニフォームを着る、というような話です。
研究環境改善委員会のメンバーは、ロミ・品川(イエロー)、永良野乃(ピンク)、ケン・十河(ブルー)、バーブ・斎藤(グリーン)、揖斐純弥(レッド)の五人に、委員長の木曽川大安だ。本書は5つの章から成っていて、各章の主人公が委員長を除く研究環境改善委員会のメンバーになっている。
ロミ・品川は民間企業から大学にやってきた異色の人物だ。大学については右も左も分からない状態だが、実に奇妙な場所であるということはなんとなくわかってきた。委員会もその一つだ。大抵委員長が喋っているだけで議論はない。他のメンバーがいる必要性が感じられないが、しかしそんな委員会がたくさんある。ロミ・品川もいくつもの委員にさせられた。
その一つが研究環境改善委員会だ。この委員会も他の委員会とさほど変わらないと思われた。しかしどこか違う。何かがおかしい。永良野乃が体のサイズを測りに来た。ユニフォームがあるという。ユニフォーム?それを着て一体何をするというのだ。いくら大学が奇妙なところだからと言っても、この奇妙さはおかしいのではないか…。
というのが第一章の話で、それから続く章で他のメンバーの語りになる。永良野乃はちょっと変わった趣味がある。ケン・十河もちょっと変わった趣味がある。バーブ・斎藤にはちょっと変わった能力がある。揖斐純弥にもちょっと変わった能力があり…。
というような話です。
いやはや実に面白い。僕はこの「ZOKU」シリーズは大好きなんですけど、「ZOKU」よりも「ZOKUDAM」の方が、そして「ZOKUDAM」よりも「ZOKURANGER」の方が面白いなぁと思うわけなんです。
とにかく、実に馬鹿馬鹿しい話です。ここまでシュールな展開もないでしょう。大学の委員会の一つが、戦隊ヒーローのような格好をして何か奇妙なことをするだけ、基本的にそれだけの話なんですけど、何でこんなに面白いんでしょう。
本書の面白さの理由はいろいろあるでしょうが、まず大学というのが舞台になっているのが面白いですね。多少誇張している部分もあるんでしょうけど、本書を読むと大学というのは本当に変なところなんだな、というのがよく分かります。実際に国立大学の助教授(今は准教授というらしいですけど)だった著者だからこそ、この雰囲気が出せるのだと思います。いかに変わった人種が揃っているか、いかに無駄な仕事が多いか、というようなことがすごく良く分かるし、また大学に対する森博嗣のスタンスみたいなものも何となく透けて見える気がして(まあ森博嗣に言わせたら、小説に自分の主張や意見を盛り込んでいるつもりはない、となるでしょうが)、面白いと思います。
それに加えて、登場人物が非常に面白い。基本的にストーリーに関わるのは研究環境改善委員会のメンバーくらいですけど、実に多彩なメンバーです。ロミ・品川は研究環境改善委員会の奇妙さに健全な反応をしますが、他のメンバーは既に慣れ切っているために疑問を抱くことはありません。そればかりか、メンバーはもう妄想家ばかりで、その妄想力を駆使してとんでもないことばかり考えるような連中です。ネタばれになるので詳しいことは言えませんが、その妄想がとにかくすごい。しかもその妄想がそれぞれのキャラクターをよく表しているわけで、委員会のメンバーのキャラクターを楽しむという読み方も面白いです。
ストーリーは正直あってないようなものですけど、ラストに行くにしたがってどんどんと荒唐無稽な展開になっていきます。常識的な判断をするロミ・品川の章から物語に入った読者としては、初めと終わりのあまりの落差に驚くのではないでしょうか。あれ、いつの間にこんな話になったんだっけ?というような展開です。まったく変な話を書く作家ですけど、本当に本書も変な作品だなと思います。
実に脱力的な設定・展開の作品ではありますが、舞台となる大学の描写が実にリアルなので、そのギャップも面白い作品です。「ZOKU」シリーズの三作は一応シリーズではありますが、話自体はまったくつながっていないのでどれから読んでも問題ありません。森博嗣のミステリーを読んでダメだったという方も、再チャレンジしてみてはどうでしょうか。ユルユルの作品で面白いですよ。
森博嗣「ZOKURANGER」
空ばかり見ていた(吉田篤弘)
さて今日はすこぶる疲れているので、本屋の話はサクッと終わらせようと思います。
今日は「延勘」について書こうと思います。
書店の担当者はよく、出版社の営業の人と話をして、そこで注文をしたりとかするんだけど、そこでよく「延勘」という言葉が出てきます。担当になりたての頃はその意味がわからなくて、正確には「のべかん」と読むのに、ずっと「えんかん」と呼んでいました。
延勘というのは、出版社から書店への請求を遅らせますよ、ということです。「三ヶ月延勘」とか書いてあると、その商品が書店に入ってきてから三ヶ月後にその商品の請求をしますよ、ということです。「三ヶ月延勘」というのを略して「さんのべ」なんていう言い方を営業の人がしたりします。
この延勘というやり方が出版業界独特なのか、あるいは一般的な商取引なのか僕にはよくわかりません。書店は昔から結構厳しい業界だったから、ある本を仕入れたくても仕入れるためのお金がない、というような状況はよくあるんだそうです(僕は経営者でも社員でもないので、そういう数字的な部分については全然知らないんですけど)。だから、本の代金の請求は遅らせますからとりあえず置いてください。そして、その本の売り上げで仕入れ分の支払いをしてくださいね、というようなことで出来たやり方なんだそうです。
僕は担当業務についてほぼ誰からも何も言われないので(これはウチの本屋の担当者全員にほぼ共通)、延勘だろうが延勘でなかろうが正直あんまり関係ないと思ってしまいます。延勘だから入れてください、というようなことは最近言われないですけど(僕にとって延勘はメリットではないと営業の人も気づいてくれたのでしょう)、まあ正直どっちでもいいなと思います。まあ、この延勘というのが一般的なものなのかは分からないけど、書店にはこんな取引がありますよ、という話でした。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書はホクトという名の流しの床屋を描いた短編集ですが、非常に変わった構成になっています。まず、ほとんどの短編でホクトは主人公ではありません。ストーリーにちょっとだけ関わるというぐらいの登場です。時には、主人公が訳している外国文学がホクトを主人公にしたものだ、というような設定もあります。また、舞台もどんどんと変化していきます。日本の小さな町だったり、外国のどこかの町だったり、あるいは僕らの生きている世界ではないファンタジーの世界が舞台だったりもします。こんな形の短編集を読んだのは初めてなのでうまく伝えられませんが、非常に変わった構成で、とにかく新鮮でした。内容もものすごく面白かったですし。
とりあえず出来る限り内容紹介をしたいと思います。
「七つの鋏」
子供だった私は、いつもホクトさんに髪を切ってもらっていた。若いころフランスでパントマイムを学んでいたが、父親が急逝したために床屋を継ぐことになった、と言われているホクトさん。酒瓶の蓋集めに熱中していた私は、時々二つ隣の駅でホクトさんを見かけたが、その内ホクトさんは、「しばらく休業します」という貼り紙を残していなくなってしまった…。
「彼女の冬の読書」
勤めていた手帳屋が、解散を宣言して店をたたむことになった。一緒に働いていたアヤトリからエリアシと呼ばれていた僕は、彼女と一緒にこの町に残った変わり者だ。彼女は冬、まるで冬眠するように読書に耽る。春から秋に掛けてお金を貯め、秋の終わりに好きな本を買いため、冬の間中何もせずに部屋で本だけ読むのである。彼女からはよく呼び出しが掛かる。ビンの蓋を開けてくれ、って。
彼女が読んでいる本をよく読んでいる。「どこへ行こうが天使だけはついてくる」という本は、ホクトという放浪の床屋を主人公にした作品で…。
「星はみな流れてしまった」
小さな町で屋台をやっているサキは、いつものように集まってくる猫たちに食事をあげている。その内の一匹にホクトという名前をつけている。
大抵デニーロ親方しかいない屋台に、珍しく客がやってきた。二人して盛大にもてなす。そこでサキとデニーロ親方は、この屋台を続けようと思ったきっかけになった、星がたくさん流れた夜のことを話して聞かせる…。
「モンローが泊まった部屋」
かのマリリン・モンローが泊まったとされるホテルで雨を待っている。わたしはある映画の主演女優で、雨が降らないと何も動けない。
ある日ホテルの前の元駐車場で、ホテルマンであるトキワさんが髪を切ってもらっているのを目撃する。聞くと髪を切っているのは、ホクトという名前の流しの床屋なんだそう。わたしは「墜落した天使の残骸」を見に美術館へ行く。
「海の床屋」
映画の買い付けに出かけたミサキは、観客のまったくいない「ある小さな床屋の冒険」というタイトルの映画を見ることにした。その映画を見ながら彼女は、かつての時間に引き戻される。
その時も今と同じように眼鏡の度が合わなくて苦労した夏だった。夏は家族で海の家に行ってすごく習慣があって、そこで知り合ったユウジ君に会いたいのだけど、眼鏡が変で会えない。
あの海辺で髪を切っている男の人に名前を聞いたのもユウジ君だった…。
「アルフレッド」
主人公はホクト。こじんまりとした国にしばらく滞在することに決める。ホテルマンとのよくわからないやり取り。ふと目に止まった、奇妙なたたずまいの美術館で男に声を掛けられる。ホクトの特技は妄想で、何も情報がないところから相手について様々なことを当てることが出来る。アルフレッドと呼ばれたその男が、その国の有名なアナウンサーだと知ることになるが…。
「ローストチキン・ダイアリー」
父親の病気のため故郷に戻ってしまったアンは、夫と娘のために一風変わったものを残して行ってくれた。毎年楽しみにしているクリスマスにいられないということで、ティーバッグに日ごとにそれらしいものを詰めたものを用意したのだ。リンと二人で毎日それを開けながらクリスマスを待つ翻訳家の主人公。今訳しているのは、「ノアという名の床屋」というタイトルで進めようと思っている古い小説なのだが、タイトルがぴたっと嵌まらない。どうしたものだろうか…。
「ワニが泣く夜」
アルジは最後の娼館の主人で、ホクトは毎月一回娼婦たちの髪を整えにやってくる。何故かボイラーの修理もしてくれる。
昔片耳を失ったアルジは、実に奇妙なことを言う。シリコン製の付け耳が音を聞くというのだ。その奇妙な話を聞かされたホクトは、ある一人の娼婦と話をすることになるのだが…。
「水平線を集める男」
波打ち際に置き忘れたようにしてある鞄を見て、ホクトはかつて出会った奇妙な男のことを思い出す。真鍮細工職人だった親方と空中チェスをして過ごしていたあの頃出会った、ドン・キホーテと名乗る男のことを…。
「永き水曜の休息」
デコと呼ばれる司書は、同じく司書で朝子二号と呼ばれる同僚と日々本と戯れている。「曇り空」という本に嵌まった。そういう宝物のような本に出会えるのがいい。
精神科医をしているという朝子二号の叔母さんを尋ねにいった。そこで、これまでずっと忘れていた出来事をふと思い出す。ホクトから連絡があったのはその次の日だった…。
「草原の向こうの神様」
風に七つの名前がある土地で、ホクトは束髪士として生きている。風の名の一つを与えられた驢馬とともに日々過ごしている。この土地では、父親から驢馬を与えられたら束髪士として生きていくことを意味するのだ。
ある日その風の名を与えられた驢馬の背中に短い矢が刺さった。ホクトはその矢を商人と物々交換してしまうのだが、ホクトの元を時折訪れる同じく束髪士のニムトは、それは神様から選ばれた証しだという…。
「リトル・ファンファーレ」
ニムトは撮影所のエキストラ衣装部で働いていて、よく余った服を回してくれた。僕らはフランスの片隅でアンヌ先生というパントマイマーに師事してパントマイムを習っていた。日々二人で、その時その時の感情や出会った言葉なんかを体で表現している。そもそもニムトと僕にはきちんとした共通語がないから、いつだってパントマイムで会話をしているようなものだ。結局父親が急逝したために、日本に帰ることになってしまうのだけど…。
というような話です。どうでしょうか。何となく、普通の連作短編集ではないということが伝わったでしょうか。流しの床屋・ホクトを描いた作品だけど、ホクトその人が主人公であることもあれば、ホクト自身が出てこない話もある。時には猫だったり、あるいはファンタジーの世界の登場人物だったりする。何とも奇妙な作品だなと思いました。
しかしこれは素晴らしいですね。僕は吉田篤弘が結構好きなのでよく読むんですけど、これまで読んだ中でもトップクラスに素晴らしい作品でした。今世間的には「つむじ風食堂の夜」という作品が売れているんですけど、是非本書も推したいところですね。
吉田篤弘の作品というのは、どことなく現実感が希薄な世界観の中で、一風変わった登場人物が穏やかながら奇妙な日常を送る、というような作品が多いけど、本書もまさにそんな感じの作品でした。舞台は様々で、基本的にホクトなんか全然関係ない話もたくさんあるんだけど、それでもどの話もホクトの物語という気がする。とにかくホクトというのが掴みどころがない男で、読むたびにどんどん分からなくなっていく。それも不思議な気がする。
先に書かないと忘れちゃいそうだから書くけど、タイトルもすごくいい。どの話も、「空ばかり見ていた」という状況に関わる話が組み込まれている。そもそもホクトが流しの床屋になろうと決めたのも、空を見ていた時に、もっといろんな人の髪を切ってみたい、と思ったことがきっかけだったし。
しかし僕はこの吉田篤弘の小説の雰囲気は好きだなぁ。いくらでも読めると思う。似た作家がなかなか思いつかない感じがして、独特な作風なんだなと改めて気づく。この雰囲気を出せる作家はなかなかいないだろうなと思う。でもどんな雰囲気なのかというのは、僕の寂しい語彙ではどうにも伝えきれない。とにかく読んでもらうしかないんだけど。
とは言え、やはりあんまり気に入らなかった作品もあります。「ワニが泣く夜」とか「水平線を集める男」なんかはあんまり好きじゃなかったです。どっちも、どうも物語に入り込めなかったです。
でも他は大体好きです。ホクトが流しの床屋になる前の話である「七つの鋏」はいいし、ちょっと変わった友人関係を築いている「彼女の冬の読書」もよかった。「星はみな流れてしまった」なんかは相当いいですね。屋台だけのワンシーンで完結する作品で、それなのに広がりがある気がしました。「モンローが泊まった部屋」とか「海の床屋」なんかは、流しの床屋の本領発揮というような話だし、「アルフレッド」や「リトル・ファンファーレ」のようにホクトが主人公の話も面白い。「草原の向こうの神様」も結構いいですね。完全にファンタジーの世界で、ラストがいいなと思いました。「ローストチキン・ダイアリー」は娘のリンとのやり取りがいいし、「永き水曜日の休息」は司書が結構いい味を出していると思います。
どの話も、現実感はどうしても薄くしか感じられないのに、でも世界のどこかにそんな人が住んでいそうな気がしてしまいます。そういう、絶妙に現実から浮遊した世界観を生み出すのがものすごくうまい作家なんだろうなと思います。とにかくこれは傑作です。今もずっと売場に置いているんだけど、どうもなかなか売れない。何かバシッとPOPでも作って売ってみようかな。是非読んで欲しい作品です。吉田篤弘はお勧めですよ。すごく好きな作家です。
吉田篤弘「空ばかり見ていた」
今日は「延勘」について書こうと思います。
書店の担当者はよく、出版社の営業の人と話をして、そこで注文をしたりとかするんだけど、そこでよく「延勘」という言葉が出てきます。担当になりたての頃はその意味がわからなくて、正確には「のべかん」と読むのに、ずっと「えんかん」と呼んでいました。
延勘というのは、出版社から書店への請求を遅らせますよ、ということです。「三ヶ月延勘」とか書いてあると、その商品が書店に入ってきてから三ヶ月後にその商品の請求をしますよ、ということです。「三ヶ月延勘」というのを略して「さんのべ」なんていう言い方を営業の人がしたりします。
この延勘というやり方が出版業界独特なのか、あるいは一般的な商取引なのか僕にはよくわかりません。書店は昔から結構厳しい業界だったから、ある本を仕入れたくても仕入れるためのお金がない、というような状況はよくあるんだそうです(僕は経営者でも社員でもないので、そういう数字的な部分については全然知らないんですけど)。だから、本の代金の請求は遅らせますからとりあえず置いてください。そして、その本の売り上げで仕入れ分の支払いをしてくださいね、というようなことで出来たやり方なんだそうです。
僕は担当業務についてほぼ誰からも何も言われないので(これはウチの本屋の担当者全員にほぼ共通)、延勘だろうが延勘でなかろうが正直あんまり関係ないと思ってしまいます。延勘だから入れてください、というようなことは最近言われないですけど(僕にとって延勘はメリットではないと営業の人も気づいてくれたのでしょう)、まあ正直どっちでもいいなと思います。まあ、この延勘というのが一般的なものなのかは分からないけど、書店にはこんな取引がありますよ、という話でした。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書はホクトという名の流しの床屋を描いた短編集ですが、非常に変わった構成になっています。まず、ほとんどの短編でホクトは主人公ではありません。ストーリーにちょっとだけ関わるというぐらいの登場です。時には、主人公が訳している外国文学がホクトを主人公にしたものだ、というような設定もあります。また、舞台もどんどんと変化していきます。日本の小さな町だったり、外国のどこかの町だったり、あるいは僕らの生きている世界ではないファンタジーの世界が舞台だったりもします。こんな形の短編集を読んだのは初めてなのでうまく伝えられませんが、非常に変わった構成で、とにかく新鮮でした。内容もものすごく面白かったですし。
とりあえず出来る限り内容紹介をしたいと思います。
「七つの鋏」
子供だった私は、いつもホクトさんに髪を切ってもらっていた。若いころフランスでパントマイムを学んでいたが、父親が急逝したために床屋を継ぐことになった、と言われているホクトさん。酒瓶の蓋集めに熱中していた私は、時々二つ隣の駅でホクトさんを見かけたが、その内ホクトさんは、「しばらく休業します」という貼り紙を残していなくなってしまった…。
「彼女の冬の読書」
勤めていた手帳屋が、解散を宣言して店をたたむことになった。一緒に働いていたアヤトリからエリアシと呼ばれていた僕は、彼女と一緒にこの町に残った変わり者だ。彼女は冬、まるで冬眠するように読書に耽る。春から秋に掛けてお金を貯め、秋の終わりに好きな本を買いため、冬の間中何もせずに部屋で本だけ読むのである。彼女からはよく呼び出しが掛かる。ビンの蓋を開けてくれ、って。
彼女が読んでいる本をよく読んでいる。「どこへ行こうが天使だけはついてくる」という本は、ホクトという放浪の床屋を主人公にした作品で…。
「星はみな流れてしまった」
小さな町で屋台をやっているサキは、いつものように集まってくる猫たちに食事をあげている。その内の一匹にホクトという名前をつけている。
大抵デニーロ親方しかいない屋台に、珍しく客がやってきた。二人して盛大にもてなす。そこでサキとデニーロ親方は、この屋台を続けようと思ったきっかけになった、星がたくさん流れた夜のことを話して聞かせる…。
「モンローが泊まった部屋」
かのマリリン・モンローが泊まったとされるホテルで雨を待っている。わたしはある映画の主演女優で、雨が降らないと何も動けない。
ある日ホテルの前の元駐車場で、ホテルマンであるトキワさんが髪を切ってもらっているのを目撃する。聞くと髪を切っているのは、ホクトという名前の流しの床屋なんだそう。わたしは「墜落した天使の残骸」を見に美術館へ行く。
「海の床屋」
映画の買い付けに出かけたミサキは、観客のまったくいない「ある小さな床屋の冒険」というタイトルの映画を見ることにした。その映画を見ながら彼女は、かつての時間に引き戻される。
その時も今と同じように眼鏡の度が合わなくて苦労した夏だった。夏は家族で海の家に行ってすごく習慣があって、そこで知り合ったユウジ君に会いたいのだけど、眼鏡が変で会えない。
あの海辺で髪を切っている男の人に名前を聞いたのもユウジ君だった…。
「アルフレッド」
主人公はホクト。こじんまりとした国にしばらく滞在することに決める。ホテルマンとのよくわからないやり取り。ふと目に止まった、奇妙なたたずまいの美術館で男に声を掛けられる。ホクトの特技は妄想で、何も情報がないところから相手について様々なことを当てることが出来る。アルフレッドと呼ばれたその男が、その国の有名なアナウンサーだと知ることになるが…。
「ローストチキン・ダイアリー」
父親の病気のため故郷に戻ってしまったアンは、夫と娘のために一風変わったものを残して行ってくれた。毎年楽しみにしているクリスマスにいられないということで、ティーバッグに日ごとにそれらしいものを詰めたものを用意したのだ。リンと二人で毎日それを開けながらクリスマスを待つ翻訳家の主人公。今訳しているのは、「ノアという名の床屋」というタイトルで進めようと思っている古い小説なのだが、タイトルがぴたっと嵌まらない。どうしたものだろうか…。
「ワニが泣く夜」
アルジは最後の娼館の主人で、ホクトは毎月一回娼婦たちの髪を整えにやってくる。何故かボイラーの修理もしてくれる。
昔片耳を失ったアルジは、実に奇妙なことを言う。シリコン製の付け耳が音を聞くというのだ。その奇妙な話を聞かされたホクトは、ある一人の娼婦と話をすることになるのだが…。
「水平線を集める男」
波打ち際に置き忘れたようにしてある鞄を見て、ホクトはかつて出会った奇妙な男のことを思い出す。真鍮細工職人だった親方と空中チェスをして過ごしていたあの頃出会った、ドン・キホーテと名乗る男のことを…。
「永き水曜の休息」
デコと呼ばれる司書は、同じく司書で朝子二号と呼ばれる同僚と日々本と戯れている。「曇り空」という本に嵌まった。そういう宝物のような本に出会えるのがいい。
精神科医をしているという朝子二号の叔母さんを尋ねにいった。そこで、これまでずっと忘れていた出来事をふと思い出す。ホクトから連絡があったのはその次の日だった…。
「草原の向こうの神様」
風に七つの名前がある土地で、ホクトは束髪士として生きている。風の名の一つを与えられた驢馬とともに日々過ごしている。この土地では、父親から驢馬を与えられたら束髪士として生きていくことを意味するのだ。
ある日その風の名を与えられた驢馬の背中に短い矢が刺さった。ホクトはその矢を商人と物々交換してしまうのだが、ホクトの元を時折訪れる同じく束髪士のニムトは、それは神様から選ばれた証しだという…。
「リトル・ファンファーレ」
ニムトは撮影所のエキストラ衣装部で働いていて、よく余った服を回してくれた。僕らはフランスの片隅でアンヌ先生というパントマイマーに師事してパントマイムを習っていた。日々二人で、その時その時の感情や出会った言葉なんかを体で表現している。そもそもニムトと僕にはきちんとした共通語がないから、いつだってパントマイムで会話をしているようなものだ。結局父親が急逝したために、日本に帰ることになってしまうのだけど…。
というような話です。どうでしょうか。何となく、普通の連作短編集ではないということが伝わったでしょうか。流しの床屋・ホクトを描いた作品だけど、ホクトその人が主人公であることもあれば、ホクト自身が出てこない話もある。時には猫だったり、あるいはファンタジーの世界の登場人物だったりする。何とも奇妙な作品だなと思いました。
しかしこれは素晴らしいですね。僕は吉田篤弘が結構好きなのでよく読むんですけど、これまで読んだ中でもトップクラスに素晴らしい作品でした。今世間的には「つむじ風食堂の夜」という作品が売れているんですけど、是非本書も推したいところですね。
吉田篤弘の作品というのは、どことなく現実感が希薄な世界観の中で、一風変わった登場人物が穏やかながら奇妙な日常を送る、というような作品が多いけど、本書もまさにそんな感じの作品でした。舞台は様々で、基本的にホクトなんか全然関係ない話もたくさんあるんだけど、それでもどの話もホクトの物語という気がする。とにかくホクトというのが掴みどころがない男で、読むたびにどんどん分からなくなっていく。それも不思議な気がする。
先に書かないと忘れちゃいそうだから書くけど、タイトルもすごくいい。どの話も、「空ばかり見ていた」という状況に関わる話が組み込まれている。そもそもホクトが流しの床屋になろうと決めたのも、空を見ていた時に、もっといろんな人の髪を切ってみたい、と思ったことがきっかけだったし。
しかし僕はこの吉田篤弘の小説の雰囲気は好きだなぁ。いくらでも読めると思う。似た作家がなかなか思いつかない感じがして、独特な作風なんだなと改めて気づく。この雰囲気を出せる作家はなかなかいないだろうなと思う。でもどんな雰囲気なのかというのは、僕の寂しい語彙ではどうにも伝えきれない。とにかく読んでもらうしかないんだけど。
とは言え、やはりあんまり気に入らなかった作品もあります。「ワニが泣く夜」とか「水平線を集める男」なんかはあんまり好きじゃなかったです。どっちも、どうも物語に入り込めなかったです。
でも他は大体好きです。ホクトが流しの床屋になる前の話である「七つの鋏」はいいし、ちょっと変わった友人関係を築いている「彼女の冬の読書」もよかった。「星はみな流れてしまった」なんかは相当いいですね。屋台だけのワンシーンで完結する作品で、それなのに広がりがある気がしました。「モンローが泊まった部屋」とか「海の床屋」なんかは、流しの床屋の本領発揮というような話だし、「アルフレッド」や「リトル・ファンファーレ」のようにホクトが主人公の話も面白い。「草原の向こうの神様」も結構いいですね。完全にファンタジーの世界で、ラストがいいなと思いました。「ローストチキン・ダイアリー」は娘のリンとのやり取りがいいし、「永き水曜日の休息」は司書が結構いい味を出していると思います。
どの話も、現実感はどうしても薄くしか感じられないのに、でも世界のどこかにそんな人が住んでいそうな気がしてしまいます。そういう、絶妙に現実から浮遊した世界観を生み出すのがものすごくうまい作家なんだろうなと思います。とにかくこれは傑作です。今もずっと売場に置いているんだけど、どうもなかなか売れない。何かバシッとPOPでも作って売ってみようかな。是非読んで欲しい作品です。吉田篤弘はお勧めですよ。すごく好きな作家です。
吉田篤弘「空ばかり見ていた」
パラドックス13(東野圭吾)
さて今日は、本屋って趣味がバレるよな、という話です。まあ当り前の話ですけど。
世の中にはいろんなものを売っている店がありますけど、本屋ほど趣味がバレてしまう場所はないな、と思います。少なくとも、店員には丸分かりです。
例えば他の小売店のことを考えてみます。食料品や日用品なんかではそこまで何かが透けて見えるようなことはないし、服とか雑貨とかだと初めからその店自体がある程度のコンセプトでまとめられているのでどうということもない。音楽や映画にしても、そういうのが好きなんだな、という程度です。
でも本屋は違います。
例えばホモ雑誌を買っていく人はやっぱりそういう人なんだと思うし、男なのに女性が読むようなボーイズラブ雑誌を買っていく人はそういう系なんだろうなと思うし、オタク雑誌を買っていく人はそっち系なんだろう、というような具合です。女性なのに官能小説を買っていくとか、好青年っぽいのにロリコン雑誌を買うとか、いいおっさんなのにライトノベルばっかり買うとか。趣味とは違うけど、おっさんなのにバイト情報誌を買っていくとか、離婚の手続きなんて本を買っていくとか、ダイエットがどうのなんて本を買っていくと、うーんそうなのかぁといろいろと透けて見えてしまうことが多いです。
いやまあ、だからと言ってそうやって知りえた情報を何かしようなんてもちろん全然思わないわけなんですけど、本屋で買い物をするっていうのはいろんな意味で結構恥ずかしいことだよなと思います。
そういう意味ではネット書店っていう存在は便利だろうなって思います。本屋の話とは全然関係ないんですけど、昔誰かからこんな話を聞いたことがあります。amazon(もしかしたらamazonではなくて何か別のネット販売サイトだったかもしれないけど)で一番売れているのは、実はバイブなんだそうです。そうやって買いにくいものをネットで買えるようになってきたというのはやっぱりすごく便利なことなんでしょうね。
僕が今していて一番悲しい会計は、さっきも書いたけど普通のサラリーマンっぽい人なのにバイト情報誌を買っていくってやつです。あと履歴書とかもかな。不況なんだなという気がします。
えーと、さらに本屋の話とは関係なくなりますが、腕時計の話をしたいと思います。
僕は普段から腕時計をしていて(風呂の中でも外さない)、その時計で一日の生活をコントロールしてるんだけど、その時計の電池が切れてしまったようで交換してもらいにいきました。
交換自体は15分ほどで終わり(メーカーに持っていかないと防水機能に保証は出来ないですよ云々という話はあったけど。これからは風呂に入るときは外さないといけないらしい。でも昨日は取るの忘れた)、時計はまた時間を刻むようになったんだけど、一つだけ問題が。
時計が正確な時間に調節されていたんです。
僕の腕時計というのは、元々5分遅れているんです。別にそれ自体に特に意味はないんだけど、その5分遅れた時計で生活をコントロールしてるんで、もうそれに慣れてしまっているんです。だから、腕時計の表示が正確になってしまうと、その5分のずれを頭の中で修正しながら行動しなくてはいけないのでものすごくめんどくさいんです。
時計屋のおっちゃんとしては好意でやってくれたんでしょうが、僕としてはすこぶる迷惑でした。サービスというのは難しいものだな、と無理矢理そんな話に持って行ってみました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、東野圭吾の最新刊です。
総理の元に、ある重要な情報がもたらされた。JAXA―宇宙航空研究開発機構というところが緊急にということだった。
それは、P-13現象と呼ばれる奇妙な予測についてのものだった。
3月13日13時13分13秒からの13秒間、宇宙全体がP-13現象と呼ばれる現象が起こるだろう、と科学者たちが予測した。P-13現象は、その変化を数学的に観測することが出来ないという意味ではほとんど取るに足らないものであるが、しかしそうとも言い切れない重要な事態なのだった。政府はこの情報を国民に公表しないことに決めるが、しかしその時刻の前後、様々な形で対策を取ることに決める…。
警視である久我誠哉は宝石店の強盗犯を逮捕すべく張り込んでいた。もうすぐ山場。捜査一課長から13時から20分間は危険な仕事に従事するなという指示が出たが、しかしここで犯人を取り逃がしたら捕まえるチャンスはない。
しかし弟であり所轄署の刑事である久我冬樹が現場をうろちょろしていたせいで逮捕劇は混乱を極めることになった…。
そして気づいたら冬樹は、荒廃した東京にいた。周囲には人の影が見当たらない。あちこちで事故や火災が起きているようだ。とりあえず周囲を歩きまわり、生存者を3名見つけた。どうなっているんだかもうさっぱり分からない。
どうみても、世界から人が消えてしまったようにしか見えない。何なんだこの世界は。
しばらくして、兄である誠哉が他の生存者を集め東京駅地下にいることが分かり、皆で集まった。誰ひとりこの状況を理解している人間はいない。混乱した状況の中で、誠哉は冷静に事態を見つめ、皆で生き延びるために最善の手を尽くすようリーダーシップを発揮する。
一体何が起こったのか?誰にも分からないまま、地震や台風に何度も襲われ崩壊していく東京で、彼らは必死で生き延びようとするが…。
というような話です。
かなり面白い作品だと思いました。東野圭吾は相変わらずうまいなと思います。時々ちょっと駄作はあるけど、まあ常に良作を書けるわけもないわけで、相変わらず基本的な水準の高い作家だなと思うわけです。
東野圭吾にしては、本作のようなエンターテイメントっていうのは珍しい気がします。大体ミステリーか、あるいはちょっと重いテーマを扱った作品というのが多い気がします。本書もミステリっぽい要素はもちろんありますが、それ以上に、荒廃した都市・東京でいかにして生き延びるかというサバイバルの部分がメインになっていきます。
生存者たちはとにかく苦境に立たされることになります。人が消えてしまったわけだから、システムが無人化しているものが多いとは言え、いずれ電気も水道も止まってしまう。食糧はコンビニやデパートやなんかから調達できるけど、生モノはすぐに痛んでしまう。火も起こせない状況が多いから、いきおいレトルトのものを生で食べることが多くなる。水が貴重だからトイレの問題も深刻だし、また度重なる地震や雨によって街そのものがどんどん崩壊して行って、居住できる建物もかなり制限されてくる。病気になっても薬を調達するのに困難を極める。瓦礫の山と化した都市では、数百メートル移動するのにも相当な苦労を要するのだ。
そんな様々な困難を乗り越えながら、彼ら生存者は何とか踏ん張って生きていく。彼らのリーダーとして信頼を集めている誠哉は、突然人が消えたんだから、突然人が戻ってくることだってあるかもしれない。皆それに希望を託して懸命に生きていく。
しかし何にせよ、誠哉の超人っぷりが際立つ作品です。とにかく思考力がハンパない。常に先の先まで読み、どうすれば生き延びることが出来るかということを常に優先して考える。それがどれだけ途方もないことに思えても、またどれだけ不合理なことに思えても、ほとんどの場合最終的に皆誠哉の意見に納得する。判断力や統率力が抜群で、誠哉がいなければ生き残りたちは早い段階で死んでいたでしょう。
しかし一方で、そんな誠哉の合理的な思考が、時には理想的すぎて受け入れられないという事態も引き起こす。いやこれがなかなか凄い。街と共に、これまでのすべての価値観が崩壊した世界の中で、一体何が善で何が悪なのかを常に問いかけ続ける作品なのだ。かつての世界で犯罪とされていた行為がこの世界ではどこまで悪なのか?そうしなければならないという理由で個人を捨てることが出来るのか?道徳とは何なのか?歩けなくなった人間をどうするか?危険に思える人間を仲間にすべきかどうか?セックスはどうするのか?そういう様々な出来事を通じて、様々な問いかけをするし、またいろいろと考えさせる。僕らが普段から正しい、当然だと思っていたことがいかに脆弱な土台の上に成り立っているのかということを思い知らされるし、特にその中で誠哉の合理的な思考・判断にはハッとさせられるものが多かったです。
僕は、誠哉ほど頭もよくないし判断力もないし統率力もないけど、でもその合理的な発想という点は近いものを感じました。先の先まで読むような思考は出来ないし、そもそも何としてでも生きてやろうなんていう気力に欠けるんで同じ状況に立たされても誠哉がしたような行動は取れないだろうけど、でも誠哉と似たようなことを考えるだろうなと思いました。
また僕は、河瀬という男にもかなり魅力を感じました。河瀬は元ヤクザで、元々仲間として受け入れるのに周囲が躊躇していたような存在でした。
しかしこの河瀬、場の雰囲気を変える力を持っているんです。頭はそこまでいい方ではないかもしれないけど、誠哉とは違った形で合理的な思考を持っているし、何が重要なのかも分かっている。行動力があり、無茶な行動によって何度も窮地を救うことになる。誠哉のようにリーダーとして周囲を引っ張っていく資質はないけど、でもいい意味でも悪い意味でも場を変える力を持つことの出来る河瀬の存在感はかなり大きかったと思います。
その他、登場人物をざっと書いてみましょうか。
ミオという名の娘を連れた白木栄美子。食べることが大好きな新藤太一。大手建設会社に勤めていたという技術屋のサラリーマン小峰義之と、同じ会社の専務である戸田正勝。女子高生で常に元気を失わないムードメーカー中原明日香。老夫婦である山西繁雄と春子。看護婦である富田菜々美。そして途中のマンションで見つけた赤ちゃん・勇人。と言ったようなメンバーです。
それぞれのメンバーが、過去にこだわっていたり、トラブルを起こしたり、助けたり助け合ったり、反発したり理解したり、名案を出したり力を貸したりと、それぞれの人々がいろんな形でメインとして描かれる形になります。そういう全体のバランスが凄くいい。特に僕は、山西春子のあの場面と、山西繁雄のシーンでの冬樹の行動と、常に冷静だったはずの小峰が最後の方で起こした大問題と、戸田と小峰のトラブルの際の誠哉の対応がすごく印象に残っています。それぞれが何なのかは是非読んでみてください。
あと、明日香っていうのはなかなかいいキャラでした。若さもあるんだろうけど、常に元気に振舞おうとして、諦めない。河瀬とはまた違った意味で雰囲気を掴む力を持っている。明日香と冬樹のやり取りも面白いなと思いました。
本書を読んでいると、危機に立たされた時に人間の本性というのは顕わになるのだろうなと思いました。僕なんかは、危機的な状況だと絶対に使い物にならないです。周囲に迷惑を掛けるような面倒なトラブルは起こさないと思うけど、別に可もなく不可もない、ただいるだけという存在になるでしょう。まあそれでも、周りに迷惑を掛けないだろう、という点ではマシだと思いますけど。
本書でも、前の世界での存在に依存して危機に立ち向かえない人がたくさん出てきます。それはつまり弱さなんだけど、でも誰もが誠哉のように強く生きていけるわけがないんです。僕もきっとそういう弱い側の人間でしょう。っていうか、誠哉が例外的に強すぎるだけだと思うけど、そういうようなことも考えさせる作品だなと思いました。
そういえばまだ書くことがあった。本書のミステリ的な部分は、P-13という現象そのものなんだけど、これはある作家のある作品にちょっとだけ似ているという気がしました。作家名は出してもいいかなと思ったけど、それだけでも読んだ人にはバレる気がするんでイニシャルだけ。K.Iです。何となく似ているなと思いました。いや似ていたからと言ってこの作品がダメなんてことはもちろん全然ないんですけどね。
というわけで非常に面白い作品でした。東野圭吾の作品らしく読みやすいし、ページ数は結構あるけどさらっと読めてしまいます。帯に「数学的矛盾」とか書いてありますけど、数学とかほとんど関係ないので安心してください。是非読んでみてください。
東野圭吾「パラドックス13」
世の中にはいろんなものを売っている店がありますけど、本屋ほど趣味がバレてしまう場所はないな、と思います。少なくとも、店員には丸分かりです。
例えば他の小売店のことを考えてみます。食料品や日用品なんかではそこまで何かが透けて見えるようなことはないし、服とか雑貨とかだと初めからその店自体がある程度のコンセプトでまとめられているのでどうということもない。音楽や映画にしても、そういうのが好きなんだな、という程度です。
でも本屋は違います。
例えばホモ雑誌を買っていく人はやっぱりそういう人なんだと思うし、男なのに女性が読むようなボーイズラブ雑誌を買っていく人はそういう系なんだろうなと思うし、オタク雑誌を買っていく人はそっち系なんだろう、というような具合です。女性なのに官能小説を買っていくとか、好青年っぽいのにロリコン雑誌を買うとか、いいおっさんなのにライトノベルばっかり買うとか。趣味とは違うけど、おっさんなのにバイト情報誌を買っていくとか、離婚の手続きなんて本を買っていくとか、ダイエットがどうのなんて本を買っていくと、うーんそうなのかぁといろいろと透けて見えてしまうことが多いです。
いやまあ、だからと言ってそうやって知りえた情報を何かしようなんてもちろん全然思わないわけなんですけど、本屋で買い物をするっていうのはいろんな意味で結構恥ずかしいことだよなと思います。
そういう意味ではネット書店っていう存在は便利だろうなって思います。本屋の話とは全然関係ないんですけど、昔誰かからこんな話を聞いたことがあります。amazon(もしかしたらamazonではなくて何か別のネット販売サイトだったかもしれないけど)で一番売れているのは、実はバイブなんだそうです。そうやって買いにくいものをネットで買えるようになってきたというのはやっぱりすごく便利なことなんでしょうね。
僕が今していて一番悲しい会計は、さっきも書いたけど普通のサラリーマンっぽい人なのにバイト情報誌を買っていくってやつです。あと履歴書とかもかな。不況なんだなという気がします。
えーと、さらに本屋の話とは関係なくなりますが、腕時計の話をしたいと思います。
僕は普段から腕時計をしていて(風呂の中でも外さない)、その時計で一日の生活をコントロールしてるんだけど、その時計の電池が切れてしまったようで交換してもらいにいきました。
交換自体は15分ほどで終わり(メーカーに持っていかないと防水機能に保証は出来ないですよ云々という話はあったけど。これからは風呂に入るときは外さないといけないらしい。でも昨日は取るの忘れた)、時計はまた時間を刻むようになったんだけど、一つだけ問題が。
時計が正確な時間に調節されていたんです。
僕の腕時計というのは、元々5分遅れているんです。別にそれ自体に特に意味はないんだけど、その5分遅れた時計で生活をコントロールしてるんで、もうそれに慣れてしまっているんです。だから、腕時計の表示が正確になってしまうと、その5分のずれを頭の中で修正しながら行動しなくてはいけないのでものすごくめんどくさいんです。
時計屋のおっちゃんとしては好意でやってくれたんでしょうが、僕としてはすこぶる迷惑でした。サービスというのは難しいものだな、と無理矢理そんな話に持って行ってみました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、東野圭吾の最新刊です。
総理の元に、ある重要な情報がもたらされた。JAXA―宇宙航空研究開発機構というところが緊急にということだった。
それは、P-13現象と呼ばれる奇妙な予測についてのものだった。
3月13日13時13分13秒からの13秒間、宇宙全体がP-13現象と呼ばれる現象が起こるだろう、と科学者たちが予測した。P-13現象は、その変化を数学的に観測することが出来ないという意味ではほとんど取るに足らないものであるが、しかしそうとも言い切れない重要な事態なのだった。政府はこの情報を国民に公表しないことに決めるが、しかしその時刻の前後、様々な形で対策を取ることに決める…。
警視である久我誠哉は宝石店の強盗犯を逮捕すべく張り込んでいた。もうすぐ山場。捜査一課長から13時から20分間は危険な仕事に従事するなという指示が出たが、しかしここで犯人を取り逃がしたら捕まえるチャンスはない。
しかし弟であり所轄署の刑事である久我冬樹が現場をうろちょろしていたせいで逮捕劇は混乱を極めることになった…。
そして気づいたら冬樹は、荒廃した東京にいた。周囲には人の影が見当たらない。あちこちで事故や火災が起きているようだ。とりあえず周囲を歩きまわり、生存者を3名見つけた。どうなっているんだかもうさっぱり分からない。
どうみても、世界から人が消えてしまったようにしか見えない。何なんだこの世界は。
しばらくして、兄である誠哉が他の生存者を集め東京駅地下にいることが分かり、皆で集まった。誰ひとりこの状況を理解している人間はいない。混乱した状況の中で、誠哉は冷静に事態を見つめ、皆で生き延びるために最善の手を尽くすようリーダーシップを発揮する。
一体何が起こったのか?誰にも分からないまま、地震や台風に何度も襲われ崩壊していく東京で、彼らは必死で生き延びようとするが…。
というような話です。
かなり面白い作品だと思いました。東野圭吾は相変わらずうまいなと思います。時々ちょっと駄作はあるけど、まあ常に良作を書けるわけもないわけで、相変わらず基本的な水準の高い作家だなと思うわけです。
東野圭吾にしては、本作のようなエンターテイメントっていうのは珍しい気がします。大体ミステリーか、あるいはちょっと重いテーマを扱った作品というのが多い気がします。本書もミステリっぽい要素はもちろんありますが、それ以上に、荒廃した都市・東京でいかにして生き延びるかというサバイバルの部分がメインになっていきます。
生存者たちはとにかく苦境に立たされることになります。人が消えてしまったわけだから、システムが無人化しているものが多いとは言え、いずれ電気も水道も止まってしまう。食糧はコンビニやデパートやなんかから調達できるけど、生モノはすぐに痛んでしまう。火も起こせない状況が多いから、いきおいレトルトのものを生で食べることが多くなる。水が貴重だからトイレの問題も深刻だし、また度重なる地震や雨によって街そのものがどんどん崩壊して行って、居住できる建物もかなり制限されてくる。病気になっても薬を調達するのに困難を極める。瓦礫の山と化した都市では、数百メートル移動するのにも相当な苦労を要するのだ。
そんな様々な困難を乗り越えながら、彼ら生存者は何とか踏ん張って生きていく。彼らのリーダーとして信頼を集めている誠哉は、突然人が消えたんだから、突然人が戻ってくることだってあるかもしれない。皆それに希望を託して懸命に生きていく。
しかし何にせよ、誠哉の超人っぷりが際立つ作品です。とにかく思考力がハンパない。常に先の先まで読み、どうすれば生き延びることが出来るかということを常に優先して考える。それがどれだけ途方もないことに思えても、またどれだけ不合理なことに思えても、ほとんどの場合最終的に皆誠哉の意見に納得する。判断力や統率力が抜群で、誠哉がいなければ生き残りたちは早い段階で死んでいたでしょう。
しかし一方で、そんな誠哉の合理的な思考が、時には理想的すぎて受け入れられないという事態も引き起こす。いやこれがなかなか凄い。街と共に、これまでのすべての価値観が崩壊した世界の中で、一体何が善で何が悪なのかを常に問いかけ続ける作品なのだ。かつての世界で犯罪とされていた行為がこの世界ではどこまで悪なのか?そうしなければならないという理由で個人を捨てることが出来るのか?道徳とは何なのか?歩けなくなった人間をどうするか?危険に思える人間を仲間にすべきかどうか?セックスはどうするのか?そういう様々な出来事を通じて、様々な問いかけをするし、またいろいろと考えさせる。僕らが普段から正しい、当然だと思っていたことがいかに脆弱な土台の上に成り立っているのかということを思い知らされるし、特にその中で誠哉の合理的な思考・判断にはハッとさせられるものが多かったです。
僕は、誠哉ほど頭もよくないし判断力もないし統率力もないけど、でもその合理的な発想という点は近いものを感じました。先の先まで読むような思考は出来ないし、そもそも何としてでも生きてやろうなんていう気力に欠けるんで同じ状況に立たされても誠哉がしたような行動は取れないだろうけど、でも誠哉と似たようなことを考えるだろうなと思いました。
また僕は、河瀬という男にもかなり魅力を感じました。河瀬は元ヤクザで、元々仲間として受け入れるのに周囲が躊躇していたような存在でした。
しかしこの河瀬、場の雰囲気を変える力を持っているんです。頭はそこまでいい方ではないかもしれないけど、誠哉とは違った形で合理的な思考を持っているし、何が重要なのかも分かっている。行動力があり、無茶な行動によって何度も窮地を救うことになる。誠哉のようにリーダーとして周囲を引っ張っていく資質はないけど、でもいい意味でも悪い意味でも場を変える力を持つことの出来る河瀬の存在感はかなり大きかったと思います。
その他、登場人物をざっと書いてみましょうか。
ミオという名の娘を連れた白木栄美子。食べることが大好きな新藤太一。大手建設会社に勤めていたという技術屋のサラリーマン小峰義之と、同じ会社の専務である戸田正勝。女子高生で常に元気を失わないムードメーカー中原明日香。老夫婦である山西繁雄と春子。看護婦である富田菜々美。そして途中のマンションで見つけた赤ちゃん・勇人。と言ったようなメンバーです。
それぞれのメンバーが、過去にこだわっていたり、トラブルを起こしたり、助けたり助け合ったり、反発したり理解したり、名案を出したり力を貸したりと、それぞれの人々がいろんな形でメインとして描かれる形になります。そういう全体のバランスが凄くいい。特に僕は、山西春子のあの場面と、山西繁雄のシーンでの冬樹の行動と、常に冷静だったはずの小峰が最後の方で起こした大問題と、戸田と小峰のトラブルの際の誠哉の対応がすごく印象に残っています。それぞれが何なのかは是非読んでみてください。
あと、明日香っていうのはなかなかいいキャラでした。若さもあるんだろうけど、常に元気に振舞おうとして、諦めない。河瀬とはまた違った意味で雰囲気を掴む力を持っている。明日香と冬樹のやり取りも面白いなと思いました。
本書を読んでいると、危機に立たされた時に人間の本性というのは顕わになるのだろうなと思いました。僕なんかは、危機的な状況だと絶対に使い物にならないです。周囲に迷惑を掛けるような面倒なトラブルは起こさないと思うけど、別に可もなく不可もない、ただいるだけという存在になるでしょう。まあそれでも、周りに迷惑を掛けないだろう、という点ではマシだと思いますけど。
本書でも、前の世界での存在に依存して危機に立ち向かえない人がたくさん出てきます。それはつまり弱さなんだけど、でも誰もが誠哉のように強く生きていけるわけがないんです。僕もきっとそういう弱い側の人間でしょう。っていうか、誠哉が例外的に強すぎるだけだと思うけど、そういうようなことも考えさせる作品だなと思いました。
そういえばまだ書くことがあった。本書のミステリ的な部分は、P-13という現象そのものなんだけど、これはある作家のある作品にちょっとだけ似ているという気がしました。作家名は出してもいいかなと思ったけど、それだけでも読んだ人にはバレる気がするんでイニシャルだけ。K.Iです。何となく似ているなと思いました。いや似ていたからと言ってこの作品がダメなんてことはもちろん全然ないんですけどね。
というわけで非常に面白い作品でした。東野圭吾の作品らしく読みやすいし、ページ数は結構あるけどさらっと読めてしまいます。帯に「数学的矛盾」とか書いてありますけど、数学とかほとんど関係ないので安心してください。是非読んでみてください。
東野圭吾「パラドックス13」
弁護側の証人(小泉喜美子)
さて今日は、昨日ふと思った疑問について書こうと思います。
最近取次が配送業者を変えたとかで、荷物が届く時間が変わりました。以前は朝5時くらいに来ていた荷物(実際5時に来ているのを見たことはないですが、そういう話でした)が前日の夜11時ぐらいに来るようになりました。なのでいつも運送業者の人が荷物を出し入れしているのを見ているんですけど、ふとこんなことを思いました。
『もしトラック一度で運べない量だったらどうするんだろう』と。
昨日の夜11時くらいに入ってきた荷物というのは、今日発売の雑誌がほとんどです。そして今日は、とんでもなく雑誌の量が多い日なんです。通常の二倍くらいの量が入ってきています。
ウチに荷物を運んでくれる運送業者は、ウチだけに荷物を運んでくるわけではないでしょう。近隣のいくつかの店を担当しているはずです。トラックの大きさを考えると、毎回一店舗分だけを運んでいるとは思えないサイズだからです。
しかし荷物の量というのは本当に日によって随分と差があるものです。何を基準に担当する店舗を決めているのか分かりませんが、昨日のように荷物が多い日なんかは、トラック一回では運びきれない量になってしまうのではないか、なんて思ったりしました。
これは、ウチくらいの規模の店だったらまだ大したことはないかもしれません。でも例えば、地方の大型店なんかの場合はどうでしょう。大型店であればあるほど、日ごとの荷物の量の違いというのはとんでもないものがあるでしょう。地方だと取次の倉庫からは遠いことが多いだろうから、何回も往復したりすることは出来ないかもしれません。毎回運ぶ量が大幅に変化するものを毎回正確に届けなくてはいけないわけで、どうやっているんだろうと気になりました。
何にせよ流通というのは経済活動の基本でしょうけど、書店を扱う流通業者というのは大変だろうなぁ、なんて思いました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書はつい先日集英社文庫から復刊された作品です。1974年に出た文庫が既に絶版だったものを、改めて復刊したものです。
しかし内容紹介が難しいなぁ。
ヌードダンサーのミミイ・ローイこと漣子は、矢島財閥のダメ息子と評判の御曹司に見初められ玉の輿に乗った。決して財産目当ての結婚ではなく、杉彦のことを心から愛しているのだけど、しかし周囲の反発は凄かった。半ば予想したものではあったけど、杉彦の父親には認めてもらえず、また矢島家の親族や使用人からも胡散臭げに見られながら、それでも周囲に理解してもらおうと健気に頑張ろうと思っていた矢先のことだった。
矢島財閥のトップであり、杉彦の父親である龍之介が何者かに殺害されたのだ。警察の捜査により容疑者は逮捕され、一審で死刑判決が下された。しかし漣子は諦めなかった。そこから漣子の、真犯人を指摘し、死刑判決をひっくり返す厳しい戦いが始まるのだが…。
というような話です。
帯ウラに、「絶対に騙されるぞ」とありますが、確かにこれは騙されますね。これを始めっから見抜ける人は相当すごいなと思います。僕はもちろん騙されましたよ。
内容についてはとにかく詳しいことが書けないので、感想の文章で書けることも非常に限定されてきます。内容について触れるのはかなり困難です。
しかし鮮やかな構成だなと思います。一瞬ですべてがひっくり返る。しかもそれまで伏線が(読んでる時は伏線だとは気付かないんだけど)すべて別の意味を持つことに気づくのだ。
真犯人は誰なのか?弁護側の証人とは誰なのか?事件の真相とは一体何なのか?そう言ったことを追いかけながら、そんな疑問を一気に崩壊させるようなカタルシスがなかなか爽快で、傑作と呼んでいいだろうと思います。
ただ正直なところ、その『驚きのカタルシス』以外には特に語る部分がない小説でもあります。最終章の法廷シーンはなかなか鮮やかな展開ではありますけど、事件当初の描写や漣子が矢島家に入るまでの経緯とか遺産争いとかそういうような部分はさほど面白くもないです。『驚きのカタルシス』にびっくりしてもらう、という作品ですね。
内容にほとんど触れられないのでこんな文章ですが、なかなかの傑作だと思います。『伝説の名作』という表現はちょっと大げさすぎると思うし、『驚きのカタルシス』以外の部分はさほど評価すべき点はないと思うけど、でも読む価値はある作品だと思います。そんなに長くない作品だし、是非読んでみて欲しいと思います。まず間違いなく騙されることでしょう。
小泉喜美子「弁護側の証人」
最近取次が配送業者を変えたとかで、荷物が届く時間が変わりました。以前は朝5時くらいに来ていた荷物(実際5時に来ているのを見たことはないですが、そういう話でした)が前日の夜11時ぐらいに来るようになりました。なのでいつも運送業者の人が荷物を出し入れしているのを見ているんですけど、ふとこんなことを思いました。
『もしトラック一度で運べない量だったらどうするんだろう』と。
昨日の夜11時くらいに入ってきた荷物というのは、今日発売の雑誌がほとんどです。そして今日は、とんでもなく雑誌の量が多い日なんです。通常の二倍くらいの量が入ってきています。
ウチに荷物を運んでくれる運送業者は、ウチだけに荷物を運んでくるわけではないでしょう。近隣のいくつかの店を担当しているはずです。トラックの大きさを考えると、毎回一店舗分だけを運んでいるとは思えないサイズだからです。
しかし荷物の量というのは本当に日によって随分と差があるものです。何を基準に担当する店舗を決めているのか分かりませんが、昨日のように荷物が多い日なんかは、トラック一回では運びきれない量になってしまうのではないか、なんて思ったりしました。
これは、ウチくらいの規模の店だったらまだ大したことはないかもしれません。でも例えば、地方の大型店なんかの場合はどうでしょう。大型店であればあるほど、日ごとの荷物の量の違いというのはとんでもないものがあるでしょう。地方だと取次の倉庫からは遠いことが多いだろうから、何回も往復したりすることは出来ないかもしれません。毎回運ぶ量が大幅に変化するものを毎回正確に届けなくてはいけないわけで、どうやっているんだろうと気になりました。
何にせよ流通というのは経済活動の基本でしょうけど、書店を扱う流通業者というのは大変だろうなぁ、なんて思いました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書はつい先日集英社文庫から復刊された作品です。1974年に出た文庫が既に絶版だったものを、改めて復刊したものです。
しかし内容紹介が難しいなぁ。
ヌードダンサーのミミイ・ローイこと漣子は、矢島財閥のダメ息子と評判の御曹司に見初められ玉の輿に乗った。決して財産目当ての結婚ではなく、杉彦のことを心から愛しているのだけど、しかし周囲の反発は凄かった。半ば予想したものではあったけど、杉彦の父親には認めてもらえず、また矢島家の親族や使用人からも胡散臭げに見られながら、それでも周囲に理解してもらおうと健気に頑張ろうと思っていた矢先のことだった。
矢島財閥のトップであり、杉彦の父親である龍之介が何者かに殺害されたのだ。警察の捜査により容疑者は逮捕され、一審で死刑判決が下された。しかし漣子は諦めなかった。そこから漣子の、真犯人を指摘し、死刑判決をひっくり返す厳しい戦いが始まるのだが…。
というような話です。
帯ウラに、「絶対に騙されるぞ」とありますが、確かにこれは騙されますね。これを始めっから見抜ける人は相当すごいなと思います。僕はもちろん騙されましたよ。
内容についてはとにかく詳しいことが書けないので、感想の文章で書けることも非常に限定されてきます。内容について触れるのはかなり困難です。
しかし鮮やかな構成だなと思います。一瞬ですべてがひっくり返る。しかもそれまで伏線が(読んでる時は伏線だとは気付かないんだけど)すべて別の意味を持つことに気づくのだ。
真犯人は誰なのか?弁護側の証人とは誰なのか?事件の真相とは一体何なのか?そう言ったことを追いかけながら、そんな疑問を一気に崩壊させるようなカタルシスがなかなか爽快で、傑作と呼んでいいだろうと思います。
ただ正直なところ、その『驚きのカタルシス』以外には特に語る部分がない小説でもあります。最終章の法廷シーンはなかなか鮮やかな展開ではありますけど、事件当初の描写や漣子が矢島家に入るまでの経緯とか遺産争いとかそういうような部分はさほど面白くもないです。『驚きのカタルシス』にびっくりしてもらう、という作品ですね。
内容にほとんど触れられないのでこんな文章ですが、なかなかの傑作だと思います。『伝説の名作』という表現はちょっと大げさすぎると思うし、『驚きのカタルシス』以外の部分はさほど評価すべき点はないと思うけど、でも読む価値はある作品だと思います。そんなに長くない作品だし、是非読んでみて欲しいと思います。まず間違いなく騙されることでしょう。
小泉喜美子「弁護側の証人」
Story Seller(新潮社ストーリーセラー編集部編)
さて今日は、昨日書いた返品の話とちょっと関連付けて、何故新刊はこんなにたくさん出るのか、という話を書こうと思います。もしかしたらこの話は一度書いてるかもしれませんけど。
昨日僕は、返品が多くなる原因の一つに、既刊を売ることで配本ランクが上がり、結果新刊がたくさん入ってくる、でも新刊は残念ながら売れない、というような話を書きました。そこで書いたのは、一点一点の入荷数が増えるという話ですが、今日は、じゃあ新刊の点数がどうしてこんなに多いのか、というような話です。
例えばですが、講談社文庫や文春文庫なんかは毎月25点くらい、新潮文庫は20点くらい出ます。他の大手出版社も毎月大体10~15点くらいは新刊を出すし、大手ではない出版社でもそこそこの新刊を出します。
何でこんなに新刊を出すのか。今日はそんな話です。
今日書く話は、もしかしたら間違っている部分もたくさんあるかもしれません。僕がこれまでに聞いた話を総合して、たぶんこういう理由だろうというようなことを書きます。
出版業界というのは、出版社→取次→書店という流通になるんですが、出版社は書店に本を送品すると、その総額分のお金が入ってきます。で書店が出版社に返品をすると、返品した分だけお金が戻ってくる、という仕組みになっています。
例えば出版社が書店に10万円分の本を送ったら、書店は出版社に10万円支払います。その後5万円分の返品をしたら出版社が5万円支払う、という形です。まあそのやり取りすべてを取次が仲介してるんだろうけど。
さてここで問題になるのは、書店が返品した時に支払わなくてはいけない5万円です。大手はそうでもないでしょうが、小さな出版社の場合(そして出版社は小さなところの方が圧倒的に多い)運転資金が多くないのでこの5万円を払えないということが起こります。
そういう時にどうするかというと、こういう手があります。何か本を作って、それを5万円分書店に送ればいいわけです。そうすると、現金で5万円支払う分を相殺することが出来るんです。
これが、新刊が増える仕組みです。出版社は、新刊を作って送りさえすればとりあえず現金を手に出来るし、あるいは書店からの返品分を相殺出来る。もちろんその送った新刊が売れなければまた返品がたくさん来るわけだけど、でもそれもまた新刊を作って送っちゃえば誤魔化せる。出版業界というのは、こんな自転車操業で成り立っている業界なわけです。
なので、出版社としては、書店からの返品が少なくなれば新刊だって少なく出来る、なんていう主張をするかもしれません(僕はそんな主張は聞いたことないですが)。ただ書店としては、新刊を減らしてくれれば返品は減るというしかないわけで、もはや卵が先かニワトリが先かという話に近いものがあります。
まあそんなわけで書店には売れない新刊がたくさん入ってくることになるわけです。売るための本ではなくて、現金を手に入れたりあるいは返品分を相殺するための本なわけです。実際以前ある大手出版社の方から話を聞いたことがありますが、新刊で入ってきた内半分は1、2週間ですぐ返していいよ、と言っていました。どうせ売れないから。出版社の人も売れないと思っているんですね。
まあそんなわけで、新刊は減らず、返品も減らずという悪循環はなくならないわけです。まあしょうがないという感じですね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、「Story Seller」といタイトルの雑誌をそのまま文庫にしたものです。7人の作家の作家の書き下ろし中編作品を集めたアンソロジーです。
伊坂幸太郎「首折り男の周辺」
とあるアパートに住む老夫婦はある時、テレビで紹介された凶悪犯の似顔絵が隣人に似ているということに気づく。好奇心旺盛な妻がいろいろと探りを入れようとするが…。
小笠原稔は増えすぎた借金から目を逸らすために街を歩いていると、大藪という男と間違われる。結局その大藪という男になり済ましてちょっとした仕事を引き受けることになるのだが…。
中島翔はいじめられている。ほんのささいな出来事がきっかけだ。金を持ってこいと脅されたんだけど、その時体の大きな大人が話しかけてきて…。
近藤史恵「プロトンの中の孤独」
スペインのロードレースのチームに所属していたが目が出ず、ある時日本から誘いが来てそれに飛びついた赤城は、しかしそのチームのエースである久米がどうしても気に食わない。エースであることを笠に着て威張り腐っているのだ。
しかも赤城と同じ時期に入った石尾豪という新人がチームの空気を不穏なものに変えている。山岳コースのプロフェッショナルみたいな男で、ツール・ド・ジャポンでも新人とは思えないような活躍をした。それで久米がいら立っているのだ。
赤城は監督から、石尾の相談相手になってやれ、と頼まれた。オーナーから、石尾を手放すなという命令が出たらしい。確かにこのままだと、来年石尾はチームからいなくなってしまうかもしれないが…。
有川浩「ストーリー・セラー」
世界でも例のない難病だと妻は診断された。致死性脳劣化症候群。思考することで生命に必要な脳の領域が奪われていくという病気。まさかこんなことになるなら、あの時あんなこと勧めなかったのに…。
デザイン事務所で働く同僚だった。他の多くのアシスタントが、アシスタントを足掛かりにデザイナーになろうとしているのに、彼女はアシスタントのプロとして仕事をしていた。会話の端々に出てくる言葉が聞きなれなかったり、おじさん転がしがうまかったりとで、ちょっと気になる存在ではあった。
ある日たまたま、本当にたまたま彼女が隠していることを知った。それを知って、余計に好きになった。こんなことが出来るなんて本当にすごいと思った。
だから、やってみればと勧めた。まさかそれがこんなことになるなんて…。
米澤穂信「玉野五十鈴の誉れ」
純香は旧家に生まれたお嬢様。その家では祖母が絶対的な権力を持っており、誰もそれには逆らえなかった。何人もの使用人を抱えた家で純香は、男児の生まれなかった家で次期当主として育てられていった。
ある日純香には贈り物として、一人の使用人がつくことになった。それが玉野五十鈴だった。これまで祖母の命により学校でも友達がまったく出来なかった純香は、同じ年の友人が出来たことを喜んだ。お嬢様と使用人という立場ではあったけれども、彼女は玉野と共に様々なことを楽しみ、笑い、喜び、素晴らしい時間を過ごした。
しかしある時、その幸せはもろくも崩れ去った。一瞬にして。玉野も、離れていった…。
佐藤友哉「333のテッペン」
東京タワーのてっぺんで死体が発見された。その謎めいた事件に人々は飛びつき、大ニュースになった。
東京タワーの売店「たいもん商会」で働くオレ(土江田)は、そんな周囲の喧噪とは真逆の反応を示した。脛に傷を持つ身としては、周囲に警官がいる状況は喜ばしいとは言えない。
事件にはほとんど興味がなかったし、関わりたくもなかったのだが、何故か探偵がやってきてオレを連れまわすし、否応なく事件に関わらざる負えなくなったりしていく。しかしどうやって東京タワーのてっぺんで人を殺したんだろう。
道尾秀介「光の箱」
童話作家になった圭介は、同級生から連絡のあった同窓会に顔を出すことにした。予定より早く会場についてしまった圭介は、来る間ずっと弥生も来るのだろうかと考えていたこともあって、昔のことを思い出していた。
貧しかった家庭。それを理由にからかわれた子供時代。そんな圭介を救ってくれたのは、小説とも物語ともつかないようなお話を書くことだった。
ある日圭介は、弥生という女の子と出会う。弥生は圭介の書いたお話に絵をつけてくれた。二人で絵本を作った。そのまま付き合うような感じになった。
あの日まで。
あの事件についてお互いに口に出さないからこそ、会っても気まずいだけだ。
しかしふとひらめいた。もしかしたら…。
本多孝好「ここじゃない場所」
高校生で受験生の私(リナ)は、何だかよく分からないで生きている。今が大切な時間だとも思えないし、さほど楽しいわけでもない。みんな、どうしてそうやって普通の人生を生きていられるの?
仲のいいつぐみと綾香に、「バレバレ」だと突っ込まれる。なんの話かと思えば、私が秋山のことが好きだと誤解しているらしい。確かに最近私は秋山のことばっかり見ている。しかしそれは好きとかそういう理由じゃない。私は見たのだ。秋山が消えるのを。
トラックに轢かれそうになった少年を秋山が助けた。どう考えても、テレポーテーションでもしない限り不可能な状況だった。実際秋山が消えるのを私は見た。それから私にとって秋山は興味の対象になった。
消える瞬間を見てやる。そう思いながらずっと秋山のことを見続けていた。しかしなかなかしっぽを現さない。その内私の周囲で不穏な出来事が起こるようになるのだが…。
こんな感じの作品です。アンソロジーは内容紹介を書くのが疲れます。
一冊のアンソロジーとして見た場合、水準以上の作品だと思います。表紙には、『読み応えは長編並、読みやすさは短編並』とあるけど、確かにその通りの作品で、どれも中編と呼べるような分量だけど、長編を読んだような満足感があるし、それでいて短編のように読みやすい。いいアンソロジーだと思います。
ただ残念なのは、これだけの豪華なラインナップを揃えてこれか、と思ってしまったところです。普通アンソロジーというのは、一人か二人くらいメジャー級の作家がいて、後は大した作家ではないというようなものが多いんだけど、本書は7人の内ほとんど全員がアンソロジーの主役を張れるような作家ばかりです。そんな超豪華なラインナップにしては、作品のレベルはそこそこかなぁという気がしました。作品全体の水準は一定以上のラインを超えているんですけど、この豪華な作家陣のアンソロジーであることを考えるとちょっと物足りない気がします。
伊坂幸太郎の「首折り男の周辺」は、伊坂幸太郎のレベルからするとそこそこという感じの作品です。アンソロジーに収録された作品では、「I LOVE YOU」という作品の中の「ポーラーベア」という作品が素晴らしいです。「首折り男の周辺」も悪くはないですけど、伊坂幸太郎にしてはさほどでもないかなという感じでした。
近藤史恵の「プロトンの中の孤独」は、本屋大賞2位を受賞した「サクリファイス」より時系列的に前の話だと思います。「サクリファイス」の中でチームのエースとして登場した石尾豪がまだ入りたての新人の頃のことが描かれています。まあこれもまあまあと言ったところでしょうか。そもそも僕的に「サクリファイス」はそこまで評価が高くないので。
余談ですが、この「Story Seller」の元本である雑誌は去年の本屋大賞(伊坂幸太郎が「ゴールデンスランバー」で本屋大賞を受賞した回)の直後に発売されました。その回の本屋大賞は、1位が伊坂幸太郎、2位が近藤史恵だったので、このアンソロジーも話題になりました。ちなみにですが、このアンソロジーを作った編集者は、伊坂幸太郎の「ゴールデンスランバー」を作った人と同じで、かつ恩田陸の「夜のピクニック」を作った人でもあるようです。一人で二度本屋大賞を受賞した編集者として有名なんだそうです。
有川浩の「ストーリー・セラー」は面白かったです。相変わらず有川浩は恋愛を描くのがうまい。人間の描き方も素晴らしいし、ストーリーもいいです。まあ、勝手に作った「致死性脳劣化症候群」はちょっとどうかなと思いましたけど。でも、穏やかとは言えない形で始まった恋愛が、いかにしてその「致死性脳劣化症候群」に至ることになるのかという流れは見事で、さすが有川浩健在という感じがしました。
米澤穂信の「玉野五十鈴の誉れ」は、正直読んでいる間さほど面白いとは思えなかったんだけど、最後の一文が見事だなと思いました。ストーリー自体はさほどでもないですが、このラストの落ちを感じるために読むというのも悪くないかもです。さすが米澤穂信、相変わらず爽やかにダークです。
佐藤友哉の「333のテッペン」は、うーんちょっとなぁという感じです。最後もやもやのまま終わる、という部分は別にそれはそれでいいと思うんだけど、やっぱり読んでてそんなに面白くないんです。佐藤友哉はこれまでもそこそこ読んでるけど、一番面白かったのはやっぱりデビュー作かな。
道尾秀介の「光の箱」は素晴らしいです。このアンソロジーの中で一番好きです。やっぱり道尾秀介は巧いなといつも感心します。ちょっと前に「七つの死者の囁き」というアンソロジーを読みましたけど、その時も道尾秀介が一番いいと思いました。
ストーリーもいいし、サプライズも相変わらずなんだけど、それよりも何よりも人物描写がどんどん巧くなって行きます。デビューしたての頃は、ストーリーの驚きだけで突き進んでいた感じがありましたけど、作品を出すにつれてどんどん人物描写が巧くなって行きました。ストーリー上のどんでん返しが魅力の作家ではあるけど、恐らくそれだけではここまでやっていけなかったでしょう。その裏に、ストーリーを邪魔しない読みやすい文章によって描かれる見事な人物描写があることは間違いありません。道尾秀介はやっぱり凄いと思う。タイトルも秀逸ですし。
本多孝好の「ここじゃない場所」は、まあこんなものかなという感じでした。「チェーン・ポイズン」や「真夜中の五分前」なんかよりは全然よかったと思いますけど、やっぱり本多孝好はデビュー当時の煌めきがなくなってしまっている気がします。デビュー当時はあんなに素晴らしい作品を書いてくれたのに…と思わずにはいられません。
ストーリーを読む分にはさほど問題はないですが、どうも文章が女子高生っぽくない気がしました。だって今時の女子高生が「つっかけを履く」なんて言葉使うわけないと思うんですよね。ものすごく気になったのはそこだけですけど、全体的に女子高生っぽい感じじゃなかったんで、なんとなく違和感を感じました。
まあそんな感じのアンソロジーです。道尾秀介と有川浩が秀逸。伊坂幸太郎が次点。近藤史恵と米澤穂信と本多孝好がその次で、佐藤友哉が最後という感じです。道尾秀介と有川浩の作品を読むために買うのでも十分お得だと思います。
新潮社ストーリーセラー編集部編「Story Seller」
昨日僕は、返品が多くなる原因の一つに、既刊を売ることで配本ランクが上がり、結果新刊がたくさん入ってくる、でも新刊は残念ながら売れない、というような話を書きました。そこで書いたのは、一点一点の入荷数が増えるという話ですが、今日は、じゃあ新刊の点数がどうしてこんなに多いのか、というような話です。
例えばですが、講談社文庫や文春文庫なんかは毎月25点くらい、新潮文庫は20点くらい出ます。他の大手出版社も毎月大体10~15点くらいは新刊を出すし、大手ではない出版社でもそこそこの新刊を出します。
何でこんなに新刊を出すのか。今日はそんな話です。
今日書く話は、もしかしたら間違っている部分もたくさんあるかもしれません。僕がこれまでに聞いた話を総合して、たぶんこういう理由だろうというようなことを書きます。
出版業界というのは、出版社→取次→書店という流通になるんですが、出版社は書店に本を送品すると、その総額分のお金が入ってきます。で書店が出版社に返品をすると、返品した分だけお金が戻ってくる、という仕組みになっています。
例えば出版社が書店に10万円分の本を送ったら、書店は出版社に10万円支払います。その後5万円分の返品をしたら出版社が5万円支払う、という形です。まあそのやり取りすべてを取次が仲介してるんだろうけど。
さてここで問題になるのは、書店が返品した時に支払わなくてはいけない5万円です。大手はそうでもないでしょうが、小さな出版社の場合(そして出版社は小さなところの方が圧倒的に多い)運転資金が多くないのでこの5万円を払えないということが起こります。
そういう時にどうするかというと、こういう手があります。何か本を作って、それを5万円分書店に送ればいいわけです。そうすると、現金で5万円支払う分を相殺することが出来るんです。
これが、新刊が増える仕組みです。出版社は、新刊を作って送りさえすればとりあえず現金を手に出来るし、あるいは書店からの返品分を相殺出来る。もちろんその送った新刊が売れなければまた返品がたくさん来るわけだけど、でもそれもまた新刊を作って送っちゃえば誤魔化せる。出版業界というのは、こんな自転車操業で成り立っている業界なわけです。
なので、出版社としては、書店からの返品が少なくなれば新刊だって少なく出来る、なんていう主張をするかもしれません(僕はそんな主張は聞いたことないですが)。ただ書店としては、新刊を減らしてくれれば返品は減るというしかないわけで、もはや卵が先かニワトリが先かという話に近いものがあります。
まあそんなわけで書店には売れない新刊がたくさん入ってくることになるわけです。売るための本ではなくて、現金を手に入れたりあるいは返品分を相殺するための本なわけです。実際以前ある大手出版社の方から話を聞いたことがありますが、新刊で入ってきた内半分は1、2週間ですぐ返していいよ、と言っていました。どうせ売れないから。出版社の人も売れないと思っているんですね。
まあそんなわけで、新刊は減らず、返品も減らずという悪循環はなくならないわけです。まあしょうがないという感じですね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、「Story Seller」といタイトルの雑誌をそのまま文庫にしたものです。7人の作家の作家の書き下ろし中編作品を集めたアンソロジーです。
伊坂幸太郎「首折り男の周辺」
とあるアパートに住む老夫婦はある時、テレビで紹介された凶悪犯の似顔絵が隣人に似ているということに気づく。好奇心旺盛な妻がいろいろと探りを入れようとするが…。
小笠原稔は増えすぎた借金から目を逸らすために街を歩いていると、大藪という男と間違われる。結局その大藪という男になり済ましてちょっとした仕事を引き受けることになるのだが…。
中島翔はいじめられている。ほんのささいな出来事がきっかけだ。金を持ってこいと脅されたんだけど、その時体の大きな大人が話しかけてきて…。
近藤史恵「プロトンの中の孤独」
スペインのロードレースのチームに所属していたが目が出ず、ある時日本から誘いが来てそれに飛びついた赤城は、しかしそのチームのエースである久米がどうしても気に食わない。エースであることを笠に着て威張り腐っているのだ。
しかも赤城と同じ時期に入った石尾豪という新人がチームの空気を不穏なものに変えている。山岳コースのプロフェッショナルみたいな男で、ツール・ド・ジャポンでも新人とは思えないような活躍をした。それで久米がいら立っているのだ。
赤城は監督から、石尾の相談相手になってやれ、と頼まれた。オーナーから、石尾を手放すなという命令が出たらしい。確かにこのままだと、来年石尾はチームからいなくなってしまうかもしれないが…。
有川浩「ストーリー・セラー」
世界でも例のない難病だと妻は診断された。致死性脳劣化症候群。思考することで生命に必要な脳の領域が奪われていくという病気。まさかこんなことになるなら、あの時あんなこと勧めなかったのに…。
デザイン事務所で働く同僚だった。他の多くのアシスタントが、アシスタントを足掛かりにデザイナーになろうとしているのに、彼女はアシスタントのプロとして仕事をしていた。会話の端々に出てくる言葉が聞きなれなかったり、おじさん転がしがうまかったりとで、ちょっと気になる存在ではあった。
ある日たまたま、本当にたまたま彼女が隠していることを知った。それを知って、余計に好きになった。こんなことが出来るなんて本当にすごいと思った。
だから、やってみればと勧めた。まさかそれがこんなことになるなんて…。
米澤穂信「玉野五十鈴の誉れ」
純香は旧家に生まれたお嬢様。その家では祖母が絶対的な権力を持っており、誰もそれには逆らえなかった。何人もの使用人を抱えた家で純香は、男児の生まれなかった家で次期当主として育てられていった。
ある日純香には贈り物として、一人の使用人がつくことになった。それが玉野五十鈴だった。これまで祖母の命により学校でも友達がまったく出来なかった純香は、同じ年の友人が出来たことを喜んだ。お嬢様と使用人という立場ではあったけれども、彼女は玉野と共に様々なことを楽しみ、笑い、喜び、素晴らしい時間を過ごした。
しかしある時、その幸せはもろくも崩れ去った。一瞬にして。玉野も、離れていった…。
佐藤友哉「333のテッペン」
東京タワーのてっぺんで死体が発見された。その謎めいた事件に人々は飛びつき、大ニュースになった。
東京タワーの売店「たいもん商会」で働くオレ(土江田)は、そんな周囲の喧噪とは真逆の反応を示した。脛に傷を持つ身としては、周囲に警官がいる状況は喜ばしいとは言えない。
事件にはほとんど興味がなかったし、関わりたくもなかったのだが、何故か探偵がやってきてオレを連れまわすし、否応なく事件に関わらざる負えなくなったりしていく。しかしどうやって東京タワーのてっぺんで人を殺したんだろう。
道尾秀介「光の箱」
童話作家になった圭介は、同級生から連絡のあった同窓会に顔を出すことにした。予定より早く会場についてしまった圭介は、来る間ずっと弥生も来るのだろうかと考えていたこともあって、昔のことを思い出していた。
貧しかった家庭。それを理由にからかわれた子供時代。そんな圭介を救ってくれたのは、小説とも物語ともつかないようなお話を書くことだった。
ある日圭介は、弥生という女の子と出会う。弥生は圭介の書いたお話に絵をつけてくれた。二人で絵本を作った。そのまま付き合うような感じになった。
あの日まで。
あの事件についてお互いに口に出さないからこそ、会っても気まずいだけだ。
しかしふとひらめいた。もしかしたら…。
本多孝好「ここじゃない場所」
高校生で受験生の私(リナ)は、何だかよく分からないで生きている。今が大切な時間だとも思えないし、さほど楽しいわけでもない。みんな、どうしてそうやって普通の人生を生きていられるの?
仲のいいつぐみと綾香に、「バレバレ」だと突っ込まれる。なんの話かと思えば、私が秋山のことが好きだと誤解しているらしい。確かに最近私は秋山のことばっかり見ている。しかしそれは好きとかそういう理由じゃない。私は見たのだ。秋山が消えるのを。
トラックに轢かれそうになった少年を秋山が助けた。どう考えても、テレポーテーションでもしない限り不可能な状況だった。実際秋山が消えるのを私は見た。それから私にとって秋山は興味の対象になった。
消える瞬間を見てやる。そう思いながらずっと秋山のことを見続けていた。しかしなかなかしっぽを現さない。その内私の周囲で不穏な出来事が起こるようになるのだが…。
こんな感じの作品です。アンソロジーは内容紹介を書くのが疲れます。
一冊のアンソロジーとして見た場合、水準以上の作品だと思います。表紙には、『読み応えは長編並、読みやすさは短編並』とあるけど、確かにその通りの作品で、どれも中編と呼べるような分量だけど、長編を読んだような満足感があるし、それでいて短編のように読みやすい。いいアンソロジーだと思います。
ただ残念なのは、これだけの豪華なラインナップを揃えてこれか、と思ってしまったところです。普通アンソロジーというのは、一人か二人くらいメジャー級の作家がいて、後は大した作家ではないというようなものが多いんだけど、本書は7人の内ほとんど全員がアンソロジーの主役を張れるような作家ばかりです。そんな超豪華なラインナップにしては、作品のレベルはそこそこかなぁという気がしました。作品全体の水準は一定以上のラインを超えているんですけど、この豪華な作家陣のアンソロジーであることを考えるとちょっと物足りない気がします。
伊坂幸太郎の「首折り男の周辺」は、伊坂幸太郎のレベルからするとそこそこという感じの作品です。アンソロジーに収録された作品では、「I LOVE YOU」という作品の中の「ポーラーベア」という作品が素晴らしいです。「首折り男の周辺」も悪くはないですけど、伊坂幸太郎にしてはさほどでもないかなという感じでした。
近藤史恵の「プロトンの中の孤独」は、本屋大賞2位を受賞した「サクリファイス」より時系列的に前の話だと思います。「サクリファイス」の中でチームのエースとして登場した石尾豪がまだ入りたての新人の頃のことが描かれています。まあこれもまあまあと言ったところでしょうか。そもそも僕的に「サクリファイス」はそこまで評価が高くないので。
余談ですが、この「Story Seller」の元本である雑誌は去年の本屋大賞(伊坂幸太郎が「ゴールデンスランバー」で本屋大賞を受賞した回)の直後に発売されました。その回の本屋大賞は、1位が伊坂幸太郎、2位が近藤史恵だったので、このアンソロジーも話題になりました。ちなみにですが、このアンソロジーを作った編集者は、伊坂幸太郎の「ゴールデンスランバー」を作った人と同じで、かつ恩田陸の「夜のピクニック」を作った人でもあるようです。一人で二度本屋大賞を受賞した編集者として有名なんだそうです。
有川浩の「ストーリー・セラー」は面白かったです。相変わらず有川浩は恋愛を描くのがうまい。人間の描き方も素晴らしいし、ストーリーもいいです。まあ、勝手に作った「致死性脳劣化症候群」はちょっとどうかなと思いましたけど。でも、穏やかとは言えない形で始まった恋愛が、いかにしてその「致死性脳劣化症候群」に至ることになるのかという流れは見事で、さすが有川浩健在という感じがしました。
米澤穂信の「玉野五十鈴の誉れ」は、正直読んでいる間さほど面白いとは思えなかったんだけど、最後の一文が見事だなと思いました。ストーリー自体はさほどでもないですが、このラストの落ちを感じるために読むというのも悪くないかもです。さすが米澤穂信、相変わらず爽やかにダークです。
佐藤友哉の「333のテッペン」は、うーんちょっとなぁという感じです。最後もやもやのまま終わる、という部分は別にそれはそれでいいと思うんだけど、やっぱり読んでてそんなに面白くないんです。佐藤友哉はこれまでもそこそこ読んでるけど、一番面白かったのはやっぱりデビュー作かな。
道尾秀介の「光の箱」は素晴らしいです。このアンソロジーの中で一番好きです。やっぱり道尾秀介は巧いなといつも感心します。ちょっと前に「七つの死者の囁き」というアンソロジーを読みましたけど、その時も道尾秀介が一番いいと思いました。
ストーリーもいいし、サプライズも相変わらずなんだけど、それよりも何よりも人物描写がどんどん巧くなって行きます。デビューしたての頃は、ストーリーの驚きだけで突き進んでいた感じがありましたけど、作品を出すにつれてどんどん人物描写が巧くなって行きました。ストーリー上のどんでん返しが魅力の作家ではあるけど、恐らくそれだけではここまでやっていけなかったでしょう。その裏に、ストーリーを邪魔しない読みやすい文章によって描かれる見事な人物描写があることは間違いありません。道尾秀介はやっぱり凄いと思う。タイトルも秀逸ですし。
本多孝好の「ここじゃない場所」は、まあこんなものかなという感じでした。「チェーン・ポイズン」や「真夜中の五分前」なんかよりは全然よかったと思いますけど、やっぱり本多孝好はデビュー当時の煌めきがなくなってしまっている気がします。デビュー当時はあんなに素晴らしい作品を書いてくれたのに…と思わずにはいられません。
ストーリーを読む分にはさほど問題はないですが、どうも文章が女子高生っぽくない気がしました。だって今時の女子高生が「つっかけを履く」なんて言葉使うわけないと思うんですよね。ものすごく気になったのはそこだけですけど、全体的に女子高生っぽい感じじゃなかったんで、なんとなく違和感を感じました。
まあそんな感じのアンソロジーです。道尾秀介と有川浩が秀逸。伊坂幸太郎が次点。近藤史恵と米澤穂信と本多孝好がその次で、佐藤友哉が最後という感じです。道尾秀介と有川浩の作品を読むために買うのでも十分お得だと思います。
新潮社ストーリーセラー編集部編「Story Seller」
永遠のジャック&ベティ(清水義範)
今日は返品の話を書こうかなと思います。
書店というのは、仕入れたものをほぼすべて返品できるという小売店としてはなかなか特殊な仕組みがあるんだけど、まあその必要性云々はどこかで書いたような気がするから省略。
問題は、どうしても最近返品が多くなってしまう、という点です。
基本的には売れなかったもの、あるいは売れそうにないと思ったものを返品するので、返品はなるべく少ない方がいい。そうでなくても、返品に掛かる人手も馬鹿にならないので、返品は減らすべきである。理屈はよく知らないんだけど、返品が増えると取次が困るらしい(出版社が困るのは当然だけど)。というわけで、出版・書店業界的に、返品は出来る限り減らすべきなのである。
しかし、売上が上がってくるにつれて、どうしても返品も増えていく。何故なら、パターン配本のランクが上がっていくからである。
パターン配本について説明をしましょう。出版社が書店に新刊を配本する際、どこに何冊送るのかということを各店ごとに決めていたらとてもじゃないけど大変な作業量になる。だから出版社は、各店にランクをつけ、そのランクに応じて新刊を配本するという仕組みを取っているのである。例えばAという新刊は、ランクが「1」の書店には50冊、ランクが「5」の書店には10冊、というような具合である。これがパターン配本です。
このパターン配本のランクというのは、基本的に年一回更新されることになっている。その更新は、前年度その出版社の本をどれだけ売ったか(新刊に限らず既刊も含めて)に依存することになる。なので、売上を上げれば上げるほど新刊の配本ランクは上がっていくことになる。
しかし、昔からその傾向はあったけど、ここ最近新刊がとにかく売れなくなってきている。また僕は、意識的に既刊を売ろうと思っているので(他の本屋が売っていないような本をたくさん売るというのが好きなのだ)、よりその傾向が強くなる。つまり、売上は上がるけど、それは既刊の売上が増えたことによる影響が大きく、新刊はビッグタイトルでもない限りそうそう売れないのである。
ここに返品が増えていく原因がある。新刊が売れているわけでもないので既刊が売れるので売上実績が上がる。そうなるとパターン配本のランクが上がる。売れない新刊がよりたくさん入ってくる。すると返品がどんどん増える、という仕組みである。
また返品が増える別の要因に、新レーベルの創刊がある。これは特に新書が厳しい。
ウチの店の新書売場はそこまで広くない。かなり限られたスペースで売場を作らなくてはいけない。もちろん、その売場で上げることのできる売上も限界がある。
しかし、新書は次から次へと創刊されるのである。売場が増えるわけでもなく、またそこで上げることの出来る売上にも限界があるのに、新創刊されることによって入荷数だけがどんどんと増えていく。新創刊される度に店の売上が増えてくれるならいいけど、そんなことはない。どのため返品が増えてしまうことになるのである。
もちろん返品が多くなってしまう原因には、僕がちゃんとした仕入れが出来ないという面ももちろんある。けど、上記のような構造的にそもそも返品が増えてしまう状況になっているというのも事実だと思います。
取次でも返品を減らそうといろいろやっているようです。詳しいことは知りませんが、僕のいる本屋が取引している取次では、コミックの新刊を適切に配本するみたいな仕組みを今実験中みたいです。成功しているのかどうかはよく分かりませんけど。ただ、返品が多い原因を書店だけに求めないで欲しいとも思います。新刊を作りすぎだったり、新レーベルを創刊しすぎだったり、あるいは新刊のパターン配本のシステムがもううまく行っていないという現実があったりと、出版社の側にも多分に問題はあると思います。
業界全体で返品を減らす取り組みをしなくてはいけないんでしょうが、どうしたもんでしょうね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、8編の短編が収録された短編集です。
「永遠のジャック&ベティ」
かつて英語の教科書でおなじみだったジャックとベティが50歳で再会した。二人とも突然、英語訳のようなぎこちない会話に逆戻り。
「あなたはベティ・スミスですか」
「はい。私はベティ・スミスです」
というような奇妙な会話で、お互いの近況を語る。
「ワープロ爺さん」
75歳になって初めてワープロに挑戦。漢字にうまく変換できなかったり、漢字にするべきでないところが漢字になったりするような文章で、長男宛ての手紙を書く。
「冴子」
元旦から日記を書くことにした。初めは孫や息子夫婦の話や老人会など他愛もない話ばかりだったが、その内アイドルや銀行の女子行員などに興味があることを告白し始め、あまつさえ息子の嫁である冴子さんについても…。
「インパクトの瞬間」
「インパクトの瞬間、ヘッドは回転する」や「ジンクピリチオン配合」など、意味は分からないが聞いただけでひれ伏しざるおえないような言葉について、論理的に、そして非論理的に追究する。
「四畳半調理の拘泥」
古文みたいな文章で読みにくかったので飛ばした。
「ナサニエルとフローレッタ」
映画のパンフレットそのものという小説。解説や物語の説明から始まって、スタッフやキャストの紹介、撮影秘話など一本の映画についてのパンフレットのみで構成されている小説。
「大江戸花見侍」
テレビの時代劇1時間分を丸々小説にしたような作品。遠山の金さんみたいな人が出てくる感じ。時代ものはあんまり好きではないので流し読みした。
「栄光の一日」
定年退職してから20年書き溜めた短歌を息子が本にしてくれた。すると、息子の嫁の弟でテレビ局に勤めているという男が取材に来るという。老人はそれで舞い上がり、周囲にその話ばかりしてうんざりされる、という話。
という感じです。
本作はちょっと全体的に微妙だったなという感じがします。清水義範らしい作品ではありますけど、ちょっと面白くない作品が多かったです。
冒頭の「永遠のジャック&ベティ」は傑作です。これはマジで面白い。僕はこのジャックとベティの出てくる英語の教科書を使っていたわけではないんだけど、まさしく英語の教科書に載っているような堅苦しい会話文のみで会話が進んでいくという斬新な小説です。しかも、会話は英語の教科書風なのに、その会話の内容はなかなかヘビィなものばかりで、そのギャップが面白いです。
「あなたの息子は野球をしますか」
「いいえ、彼は野球をしません」
「彼はフットボールをしますか」
「いいえ、彼はしません」
「彼はピアノをひきますか」
「いいえ、ひきません」
「彼は何をしますか」
「彼は時々麻薬と強姦をします」
気まずい沈黙が流れた。
なんていうようなのばっかりです。この馬鹿馬鹿しさは素晴らしいものがあります。面白かったです。
ただ残りの作品はちょっとなぁというようなものが多かったです。
まだ面白いかなと思えたのは、「冴子」と「インパクトの瞬間」。「冴子」は、まともなんだかまともじゃないんだかうまく判断できない老人が秘密の日記を書くという話で、どんどんエロくなっていくところが面白い。妄想的なものも膨らんできて、何だかよく分からないことになる。
「インパクトの瞬間」は、最後までまったく意味不明な小説なんだけど、これだけ意味の分からない話を大真面目に書けるというのが凄いと思った。「遠赤外線」だの、「コクがあるのにキレがある」なんていう言葉だけで話を作ってしまうわけで、凄いなと思いました。
後の作品は、うーんという感じ。なんとも言えない。正直面白くはないなぁという感じでした。
というわけで、もし書店で見つけたら(なかなか棚に置いているところは少ないでしょうが)、冒頭の「永遠のジャック&ベティ」だけ立ち読みしてみてください。これはオススメ出来ます。残念ながら、買うほどの本ではないかな、という感じです。
追記)amazonでは本全体の評価も割と高いです。年配の人の方が受けがいいのかもしれない、と勝手に思ったりします。
清水義範「永遠のジャック&ベティ」
書店というのは、仕入れたものをほぼすべて返品できるという小売店としてはなかなか特殊な仕組みがあるんだけど、まあその必要性云々はどこかで書いたような気がするから省略。
問題は、どうしても最近返品が多くなってしまう、という点です。
基本的には売れなかったもの、あるいは売れそうにないと思ったものを返品するので、返品はなるべく少ない方がいい。そうでなくても、返品に掛かる人手も馬鹿にならないので、返品は減らすべきである。理屈はよく知らないんだけど、返品が増えると取次が困るらしい(出版社が困るのは当然だけど)。というわけで、出版・書店業界的に、返品は出来る限り減らすべきなのである。
しかし、売上が上がってくるにつれて、どうしても返品も増えていく。何故なら、パターン配本のランクが上がっていくからである。
パターン配本について説明をしましょう。出版社が書店に新刊を配本する際、どこに何冊送るのかということを各店ごとに決めていたらとてもじゃないけど大変な作業量になる。だから出版社は、各店にランクをつけ、そのランクに応じて新刊を配本するという仕組みを取っているのである。例えばAという新刊は、ランクが「1」の書店には50冊、ランクが「5」の書店には10冊、というような具合である。これがパターン配本です。
このパターン配本のランクというのは、基本的に年一回更新されることになっている。その更新は、前年度その出版社の本をどれだけ売ったか(新刊に限らず既刊も含めて)に依存することになる。なので、売上を上げれば上げるほど新刊の配本ランクは上がっていくことになる。
しかし、昔からその傾向はあったけど、ここ最近新刊がとにかく売れなくなってきている。また僕は、意識的に既刊を売ろうと思っているので(他の本屋が売っていないような本をたくさん売るというのが好きなのだ)、よりその傾向が強くなる。つまり、売上は上がるけど、それは既刊の売上が増えたことによる影響が大きく、新刊はビッグタイトルでもない限りそうそう売れないのである。
ここに返品が増えていく原因がある。新刊が売れているわけでもないので既刊が売れるので売上実績が上がる。そうなるとパターン配本のランクが上がる。売れない新刊がよりたくさん入ってくる。すると返品がどんどん増える、という仕組みである。
また返品が増える別の要因に、新レーベルの創刊がある。これは特に新書が厳しい。
ウチの店の新書売場はそこまで広くない。かなり限られたスペースで売場を作らなくてはいけない。もちろん、その売場で上げることのできる売上も限界がある。
しかし、新書は次から次へと創刊されるのである。売場が増えるわけでもなく、またそこで上げることの出来る売上にも限界があるのに、新創刊されることによって入荷数だけがどんどんと増えていく。新創刊される度に店の売上が増えてくれるならいいけど、そんなことはない。どのため返品が増えてしまうことになるのである。
もちろん返品が多くなってしまう原因には、僕がちゃんとした仕入れが出来ないという面ももちろんある。けど、上記のような構造的にそもそも返品が増えてしまう状況になっているというのも事実だと思います。
取次でも返品を減らそうといろいろやっているようです。詳しいことは知りませんが、僕のいる本屋が取引している取次では、コミックの新刊を適切に配本するみたいな仕組みを今実験中みたいです。成功しているのかどうかはよく分かりませんけど。ただ、返品が多い原因を書店だけに求めないで欲しいとも思います。新刊を作りすぎだったり、新レーベルを創刊しすぎだったり、あるいは新刊のパターン配本のシステムがもううまく行っていないという現実があったりと、出版社の側にも多分に問題はあると思います。
業界全体で返品を減らす取り組みをしなくてはいけないんでしょうが、どうしたもんでしょうね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、8編の短編が収録された短編集です。
「永遠のジャック&ベティ」
かつて英語の教科書でおなじみだったジャックとベティが50歳で再会した。二人とも突然、英語訳のようなぎこちない会話に逆戻り。
「あなたはベティ・スミスですか」
「はい。私はベティ・スミスです」
というような奇妙な会話で、お互いの近況を語る。
「ワープロ爺さん」
75歳になって初めてワープロに挑戦。漢字にうまく変換できなかったり、漢字にするべきでないところが漢字になったりするような文章で、長男宛ての手紙を書く。
「冴子」
元旦から日記を書くことにした。初めは孫や息子夫婦の話や老人会など他愛もない話ばかりだったが、その内アイドルや銀行の女子行員などに興味があることを告白し始め、あまつさえ息子の嫁である冴子さんについても…。
「インパクトの瞬間」
「インパクトの瞬間、ヘッドは回転する」や「ジンクピリチオン配合」など、意味は分からないが聞いただけでひれ伏しざるおえないような言葉について、論理的に、そして非論理的に追究する。
「四畳半調理の拘泥」
古文みたいな文章で読みにくかったので飛ばした。
「ナサニエルとフローレッタ」
映画のパンフレットそのものという小説。解説や物語の説明から始まって、スタッフやキャストの紹介、撮影秘話など一本の映画についてのパンフレットのみで構成されている小説。
「大江戸花見侍」
テレビの時代劇1時間分を丸々小説にしたような作品。遠山の金さんみたいな人が出てくる感じ。時代ものはあんまり好きではないので流し読みした。
「栄光の一日」
定年退職してから20年書き溜めた短歌を息子が本にしてくれた。すると、息子の嫁の弟でテレビ局に勤めているという男が取材に来るという。老人はそれで舞い上がり、周囲にその話ばかりしてうんざりされる、という話。
という感じです。
本作はちょっと全体的に微妙だったなという感じがします。清水義範らしい作品ではありますけど、ちょっと面白くない作品が多かったです。
冒頭の「永遠のジャック&ベティ」は傑作です。これはマジで面白い。僕はこのジャックとベティの出てくる英語の教科書を使っていたわけではないんだけど、まさしく英語の教科書に載っているような堅苦しい会話文のみで会話が進んでいくという斬新な小説です。しかも、会話は英語の教科書風なのに、その会話の内容はなかなかヘビィなものばかりで、そのギャップが面白いです。
「あなたの息子は野球をしますか」
「いいえ、彼は野球をしません」
「彼はフットボールをしますか」
「いいえ、彼はしません」
「彼はピアノをひきますか」
「いいえ、ひきません」
「彼は何をしますか」
「彼は時々麻薬と強姦をします」
気まずい沈黙が流れた。
なんていうようなのばっかりです。この馬鹿馬鹿しさは素晴らしいものがあります。面白かったです。
ただ残りの作品はちょっとなぁというようなものが多かったです。
まだ面白いかなと思えたのは、「冴子」と「インパクトの瞬間」。「冴子」は、まともなんだかまともじゃないんだかうまく判断できない老人が秘密の日記を書くという話で、どんどんエロくなっていくところが面白い。妄想的なものも膨らんできて、何だかよく分からないことになる。
「インパクトの瞬間」は、最後までまったく意味不明な小説なんだけど、これだけ意味の分からない話を大真面目に書けるというのが凄いと思った。「遠赤外線」だの、「コクがあるのにキレがある」なんていう言葉だけで話を作ってしまうわけで、凄いなと思いました。
後の作品は、うーんという感じ。なんとも言えない。正直面白くはないなぁという感じでした。
というわけで、もし書店で見つけたら(なかなか棚に置いているところは少ないでしょうが)、冒頭の「永遠のジャック&ベティ」だけ立ち読みしてみてください。これはオススメ出来ます。残念ながら、買うほどの本ではないかな、という感じです。
追記)amazonでは本全体の評価も割と高いです。年配の人の方が受けがいいのかもしれない、と勝手に思ったりします。
清水義範「永遠のジャック&ベティ」
蕎麦ときしめん(清水義範)
先週残業ばっかりしてたからか、体力が劇的に奪われていて、どうも最近朝起きるのが大変です。体中がダルい。体力ないなぁと実感します。
今日は、最近多くなってきた、連続文庫化の話でも書こうと思います。
小説にはシリーズ作品がありますが、それが文庫になる際、単行本と同じような間隔で文庫化されるのが普通でした。例えばあるシリーズの単行本が大体1年間隔で出ていたとすると、文庫になるのもそれぐらいの間隔でなるという感じです。
でも最近、単行本の刊行間隔に関わらず、連続で文庫化するという傾向がちょっと出始めているなという感じがしました。数としては正直まだ多くはありませんが、ぽつぽつと増え始めています。
最近でパッと思いつくのは、中公文庫の「ジウ」という作品です。これは全3巻のシリーズ作品で、元々ノベルスで出ていたものです。ノベルスで出ていた時は普通通りの間隔で出ていたでしょう。
しかし文庫化される際、この3冊は三か月連続で刊行されました。同著者の光文社文庫の「ストロベリーナイト」という作品が話題になっていた時期に三冊連続で刊行されたので、これはなかなかうまいことやったなと僕は思いました。これまでの出版社の普通の感覚だと、「ストロベリーナイト」が話題になっているから、じゃあこのタイミングで「ジウ」の1巻を文庫にしよう、となるはずです。でも中央公論社は、シリーズ3作を一気に文庫化した。僕はいい戦略だったと思います。
というのも、最近は新刊の点数が山ほど増えていて書店の売り場がキツキツであり、かつ読者の興味が移ろいやすいからです。売場に余裕がないために、例えばシリーズ3巻を間隔を空けて文庫化した場合、2巻が出る時に1巻を並べておく余裕がなかったりすることが結構あります(僕は何とか頑張って置くようにしますが)。しかし三か月連続で発売されれば、前の巻と一緒に売ってもらえる可能性が断然高くなります。これはメリットが大きいと思います。
また最近は、読者の関心が長続きしない傾向にあります。一時話題になった作品もすぐに忘れ去られてしまうので、「ストロベリーナイト」が話題になっている時に「ジウ」の1巻だけ出しても、2巻を出す頃にはもうその作家・作品への興味が薄れているということになりかねません。鉄は熱いうちに打てといいますが、まさしくその通りだなぁという気がします。
他に例を挙げれば、角川文庫の「心霊探偵八雲」シリーズの1~3巻までは3か月間隔で出ていたし、講談社文庫の「戯言」シリーズは今も隔月で文庫化されています。講談社文庫の「百寺巡礼」シリーズも今毎月文庫化されています。
僕の勝手な予想では、この連続文庫化というのは今後もっと増えていくのではないかなという気がしています。わかりませんけどね。でも、単行本と文庫では性質や売れ方が違うのだから、違う戦略で売っていかないといけないだろうなという風に思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は6編の短編が収録された短編集です。パスティーシュと呼ばれる手法で書かれた、なかなかの奇書です。パスティーシュというのはフランス語で模倣作品という意味らしいです。
「蕎麦ときしめん」
この作品は、『清水義範が名古屋の地域雑誌「しゃちほこ」に掲載されていた「蕎麦ときしめん」と言うタイトルの名古屋文化論についての論文をそのまま転載しただけの作品である』という設定の作品です。東京から名古屋に転勤になった鈴木雄一郎という人物が、名古屋人がいかほどに変わった人間であるのかということを様々な観点から論じるのだ。家で見栄を張れないから車で見栄を張る、それが故に道路が広いのだとか、蕎麦はもともと麺とつゆが分かれていてそれが東京の人間関係を表しているが、きしめんはつゆにどっぷり浸かっていてそれがプライバシーのない名古屋の人間関係を象徴しているだとか…。
「商道をゆく」
一代でタジマールという寝装品メーカーを興した田島静夫についての自伝を、一社員である営業企画課係長である筆者が書くことになった、という設定の小説。田島静夫がいかにして発明の才だけによって会社を大きくしていったのか、ということが描かれていく。
「序文」
英語の語源は日本語である、という従来の常識をひっくり返す説を打ち出した吉原源三郎。氏が上梓した「英語語源日本語説」というタイトルの学術論文の序文だけで構成された小説。「初版本」「改訂版」「完全版」「全著作集」「文庫版」のそれぞれの序文だけで構成されるという奇怪な話。
「猿蟹の賦」
「猿蟹合戦」を史実として捉えた時、その細部はどうなっているのかということを突き詰めた小説。死んだ母蟹から生まれた兄弟が、いかに仲間を集め、いかなる戦略によって猿に仇討ちをしたのかを考察する。
「三人の雀鬼」
生前会ったことのなかった叔父が死んだということで、その遺産分けに駆り出されたおれは、最後に生前叔父とよく麻雀を打っていたという三人の老人の元へ行く。そこでおれはその老人と麻雀を打つことになるのだけど、しかし彼らがやるイカサマが見え見えで面白いことこの上ない。勝つとか負けるとかではなく、彼らのチンケなイカサマを楽しむことに徹するべきだろう…。
「きしめんの逆襲」
「蕎麦ときしめん」を発表した清水義範が様々な騒動に巻き込まれる、という話。清水義範としては、鈴木雄一郎という男の論文を紹介しただけなのに、何故か「蕎麦ときしめん」は清水義範が書いた名古屋批判だということになってしまった。名古屋出身の清水義範はもう名古屋に帰れないかもしれないと嘆く。弟からも連絡があり、知り合いが怒っているという。唯一救いなのは、父親が面白がってくれているらしいということぐらいだ。
新聞やラジオやテレビの取材もたくさん来て、そのせいでまた面倒なことに巻き込まれることになり…。
というような話です。
ずっと読もうと思っていたんですけど、なかなか手が伸びなかった作品です。読んでみて、なかなか面白い作品だなと思いました。
「三人の雀鬼」を除いて、他の作品はどれも何かのパロディっぽいというか、まあそれがパスティーシュということなんでしょうが、なかなかないタイプの小説だと思いました。
特に凄いなと思ったのは「序文」です。まさか、本の序文の文章だけで構成される小説があるとは、という感じです。こういうアホみたいなことにチャレンジ出来るというのは素晴らしいと思いました。またここで扱われている「英語の語源は日本語である」という珍説も結構面白くて、いろいろ考えるものだなぁ、と思いました。「下種のかんぐり」が「下種=かんぐり」になり、それから「guess(ゲス)が推量する(かんぐる)という意味になったのだ」、なんて言う話は、よくもまあ思いついたものだと感心しました。
「蕎麦ときしめん」も面白いです。本書で書かれていることがどこまで本当か分かりませんが、名古屋人が特殊なのだなということはなんとなく分かりました。本書は小説なので誇張が多々あるでしょうが、実際名古屋人というのがどういう生態を持っているのか興味が湧いてきました。
「きしめんの逆襲」なんかも、自分の作品をさらにパスティーシュするという、高度なのかどうなのか分からない構成になっていて、面白いと思いました。
「商道をゆく」なんかは、タイトルは「竜馬がゆく」から来てるんでしょうが、社長のアホみたいな発想と、それを冷静に観察する記述者という関係が面白かったです。最後のぶちまけなんかもいいですね。
「猿蟹の賦」と「三人の雀鬼」はそこまで好きではなかったですけど、でもクスリと笑えるところがあったりします。
清水義範の作品はこれまでにも何作か読んだことがありますが、まあ一筋縄ではいかない奇妙な作家です。面白いことを考えるものだなと思いました。軽く読める作品なので是非読んでみてください。たまにはこういう馬鹿馬鹿しい作品もいいですよ。
清水義範「蕎麦ときしめん」
今日は、最近多くなってきた、連続文庫化の話でも書こうと思います。
小説にはシリーズ作品がありますが、それが文庫になる際、単行本と同じような間隔で文庫化されるのが普通でした。例えばあるシリーズの単行本が大体1年間隔で出ていたとすると、文庫になるのもそれぐらいの間隔でなるという感じです。
でも最近、単行本の刊行間隔に関わらず、連続で文庫化するという傾向がちょっと出始めているなという感じがしました。数としては正直まだ多くはありませんが、ぽつぽつと増え始めています。
最近でパッと思いつくのは、中公文庫の「ジウ」という作品です。これは全3巻のシリーズ作品で、元々ノベルスで出ていたものです。ノベルスで出ていた時は普通通りの間隔で出ていたでしょう。
しかし文庫化される際、この3冊は三か月連続で刊行されました。同著者の光文社文庫の「ストロベリーナイト」という作品が話題になっていた時期に三冊連続で刊行されたので、これはなかなかうまいことやったなと僕は思いました。これまでの出版社の普通の感覚だと、「ストロベリーナイト」が話題になっているから、じゃあこのタイミングで「ジウ」の1巻を文庫にしよう、となるはずです。でも中央公論社は、シリーズ3作を一気に文庫化した。僕はいい戦略だったと思います。
というのも、最近は新刊の点数が山ほど増えていて書店の売り場がキツキツであり、かつ読者の興味が移ろいやすいからです。売場に余裕がないために、例えばシリーズ3巻を間隔を空けて文庫化した場合、2巻が出る時に1巻を並べておく余裕がなかったりすることが結構あります(僕は何とか頑張って置くようにしますが)。しかし三か月連続で発売されれば、前の巻と一緒に売ってもらえる可能性が断然高くなります。これはメリットが大きいと思います。
また最近は、読者の関心が長続きしない傾向にあります。一時話題になった作品もすぐに忘れ去られてしまうので、「ストロベリーナイト」が話題になっている時に「ジウ」の1巻だけ出しても、2巻を出す頃にはもうその作家・作品への興味が薄れているということになりかねません。鉄は熱いうちに打てといいますが、まさしくその通りだなぁという気がします。
他に例を挙げれば、角川文庫の「心霊探偵八雲」シリーズの1~3巻までは3か月間隔で出ていたし、講談社文庫の「戯言」シリーズは今も隔月で文庫化されています。講談社文庫の「百寺巡礼」シリーズも今毎月文庫化されています。
僕の勝手な予想では、この連続文庫化というのは今後もっと増えていくのではないかなという気がしています。わかりませんけどね。でも、単行本と文庫では性質や売れ方が違うのだから、違う戦略で売っていかないといけないだろうなという風に思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は6編の短編が収録された短編集です。パスティーシュと呼ばれる手法で書かれた、なかなかの奇書です。パスティーシュというのはフランス語で模倣作品という意味らしいです。
「蕎麦ときしめん」
この作品は、『清水義範が名古屋の地域雑誌「しゃちほこ」に掲載されていた「蕎麦ときしめん」と言うタイトルの名古屋文化論についての論文をそのまま転載しただけの作品である』という設定の作品です。東京から名古屋に転勤になった鈴木雄一郎という人物が、名古屋人がいかほどに変わった人間であるのかということを様々な観点から論じるのだ。家で見栄を張れないから車で見栄を張る、それが故に道路が広いのだとか、蕎麦はもともと麺とつゆが分かれていてそれが東京の人間関係を表しているが、きしめんはつゆにどっぷり浸かっていてそれがプライバシーのない名古屋の人間関係を象徴しているだとか…。
「商道をゆく」
一代でタジマールという寝装品メーカーを興した田島静夫についての自伝を、一社員である営業企画課係長である筆者が書くことになった、という設定の小説。田島静夫がいかにして発明の才だけによって会社を大きくしていったのか、ということが描かれていく。
「序文」
英語の語源は日本語である、という従来の常識をひっくり返す説を打ち出した吉原源三郎。氏が上梓した「英語語源日本語説」というタイトルの学術論文の序文だけで構成された小説。「初版本」「改訂版」「完全版」「全著作集」「文庫版」のそれぞれの序文だけで構成されるという奇怪な話。
「猿蟹の賦」
「猿蟹合戦」を史実として捉えた時、その細部はどうなっているのかということを突き詰めた小説。死んだ母蟹から生まれた兄弟が、いかに仲間を集め、いかなる戦略によって猿に仇討ちをしたのかを考察する。
「三人の雀鬼」
生前会ったことのなかった叔父が死んだということで、その遺産分けに駆り出されたおれは、最後に生前叔父とよく麻雀を打っていたという三人の老人の元へ行く。そこでおれはその老人と麻雀を打つことになるのだけど、しかし彼らがやるイカサマが見え見えで面白いことこの上ない。勝つとか負けるとかではなく、彼らのチンケなイカサマを楽しむことに徹するべきだろう…。
「きしめんの逆襲」
「蕎麦ときしめん」を発表した清水義範が様々な騒動に巻き込まれる、という話。清水義範としては、鈴木雄一郎という男の論文を紹介しただけなのに、何故か「蕎麦ときしめん」は清水義範が書いた名古屋批判だということになってしまった。名古屋出身の清水義範はもう名古屋に帰れないかもしれないと嘆く。弟からも連絡があり、知り合いが怒っているという。唯一救いなのは、父親が面白がってくれているらしいということぐらいだ。
新聞やラジオやテレビの取材もたくさん来て、そのせいでまた面倒なことに巻き込まれることになり…。
というような話です。
ずっと読もうと思っていたんですけど、なかなか手が伸びなかった作品です。読んでみて、なかなか面白い作品だなと思いました。
「三人の雀鬼」を除いて、他の作品はどれも何かのパロディっぽいというか、まあそれがパスティーシュということなんでしょうが、なかなかないタイプの小説だと思いました。
特に凄いなと思ったのは「序文」です。まさか、本の序文の文章だけで構成される小説があるとは、という感じです。こういうアホみたいなことにチャレンジ出来るというのは素晴らしいと思いました。またここで扱われている「英語の語源は日本語である」という珍説も結構面白くて、いろいろ考えるものだなぁ、と思いました。「下種のかんぐり」が「下種=かんぐり」になり、それから「guess(ゲス)が推量する(かんぐる)という意味になったのだ」、なんて言う話は、よくもまあ思いついたものだと感心しました。
「蕎麦ときしめん」も面白いです。本書で書かれていることがどこまで本当か分かりませんが、名古屋人が特殊なのだなということはなんとなく分かりました。本書は小説なので誇張が多々あるでしょうが、実際名古屋人というのがどういう生態を持っているのか興味が湧いてきました。
「きしめんの逆襲」なんかも、自分の作品をさらにパスティーシュするという、高度なのかどうなのか分からない構成になっていて、面白いと思いました。
「商道をゆく」なんかは、タイトルは「竜馬がゆく」から来てるんでしょうが、社長のアホみたいな発想と、それを冷静に観察する記述者という関係が面白かったです。最後のぶちまけなんかもいいですね。
「猿蟹の賦」と「三人の雀鬼」はそこまで好きではなかったですけど、でもクスリと笑えるところがあったりします。
清水義範の作品はこれまでにも何作か読んだことがありますが、まあ一筋縄ではいかない奇妙な作家です。面白いことを考えるものだなと思いました。軽く読める作品なので是非読んでみてください。たまにはこういう馬鹿馬鹿しい作品もいいですよ。
清水義範「蕎麦ときしめん」
ヤメ検 司法エリートが私欲に転ぶとき(森功)
さて今日は、検索しづらいタイトルについてと、BLの営業の話でも書こうかなと思います。
まず検索しづらいタイトルについて。
つい先日お客さんから、「『アイシテル』という本を探しているんですけど」という問い合わせが電話でありました。お客さん曰く、これからドラマになる(あるいは既になっている)ものの原作だということでした。
これは、僕が知識として持っていなかったのがダメだったんですが、そういうドラマが始まることを知りませんでした。それで調べてみることにしたんですが、ここでまず店内の在庫を検索するシステムについて話をしようと思います。
基本的には、タイトルを入力するところがあり、そこにタイトルやあるいはタイトルの一部をカタカナで入力すると検索できるようになっています。「前方一致」(入力した言葉からタイトルが始まる)や「完全一致」(入力した言葉だけでタイトルが構成されている)などを選択することが出来ますが、これは元のデータがどのように登録されているかによって使い勝手が変わってきます。例えば、「ワンピース」の1巻が、「1カン ワンピース」という風にという風に登録されている場合、前方一致で「ワンピース」と検索してもヒットしないんです。言ってること分かりますか?
まあそんなわけで話を戻すと、在庫検索の画面でとりあえず「アイシテル」と入力するんですが、「愛してる」という言葉がタイトルに入る本がすべてヒットしてしまうのでとんでもない数になります。前方一致でやっても、「愛してる」から始まるタイトルが相当多いので、やはりそれだけでは検索が出来ません。そこで別のシステムでまず何の本なのかを特定し、本の固有の番号であるISBNコードと呼ばれるものを調べてから、改めて在庫のデータを見るという形になります。
僕の拙い説明で理解してもらえるかどうか分かりませんが、そんなわけで、ありきたりのタイトルやよく使われる単語一語のみのタイトルなどの本というのは、在庫の検索が非常にしにくいんです。例えば「手紙」っていうタイトルはたくさんありますが、普通に検索すると、「気持ちが届く手紙の書き方」とか「郵便事情から見る手紙の歴史」(たぶんこんなタイトルの本はありませんけど)みたいな本もヒットしてしまうことになるし、特定するのに時間が掛かります。
なので是非とも本のタイトルは、検索しやすいような他とあまりかぶらない感じのものをつけてくれるといいです。最近の新書のタイトルとかはいいですね。島田紳助の「ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する」なんてタイトルは一発で検索出来ますからね。あと森博嗣の小説のタイトルとかもいいですね。「恋恋蓮歩の演習」なんてタイトル、他の本と被りようがないですからね。
作家や編集者の皆さん。タイトルをつける際は、こういう事情も勘案して、是非とも検索のしやすいものにしていただければと思います。まあ作家や編集者の方がこのブログを見ることはほぼないと思いますが。
あと一つ。つい先日ですが、何故か僕がBL(ボーイズラブ)の専門出版社の営業の人と話をするというようなことがありました。
元々コミックの担当者を訪ねて来たんですが、その日コミックの担当者は休み。それで何故かその営業の人に対応した僕が、オススメのコミックの案内とかを聞く羽目になりました。
しかしですね…。わかりませんがな。男に向かってボーイズラブコミックのマニアックな話をするんじゃない、と何度も思いました。「このアンソロジーのシリーズは、メガネとかひげのようなメジャーなものから、傷とか擬人化などのマニアックなものまで揃ってますので」とか言われてもわかんねぇっつーの!とりあえず、はいはいうんうんとか言っておきましたけど、あの営業の女の人は、男にそんな説明をするの恥ずかしくなかったのかなぁ。やっぱりボーイズラブを扱っている出版社の営業の人もそういうのは大好きなんだろうか、とかいろいろ考えてしまいました。
まあ営業の人も大変ですよね、というお話。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、一般にはそこまでその存在が詳しく知られていない、『ヤメ検弁護士』というものについて扱っている作品です。
ヤメ検弁護士と言えば、「反転」という著書が大ベストセラーになった田中森一が世間的には一番有名でしょうか。検察時代は特捜部の一員としてメジャーな事件をいくつも担当し、弁護士になってからは「闇社会の守護神」とまで言われた田中ですが、とある事件で逮捕され、今ではずっと刑務所にいます。
ヤメ検弁護士というのはその名の通り、検察官を辞めて弁護士になった人のことを指します。一般的には、定年まで検察官をやってそれから弁護士になったり、若くして検察官を辞めて弁護士に転身したりという人もヤメ検弁護士ではありますが、一般にヤメ検弁護士という場合、つまり大事件などで名前を耳にするような大物ヤメ検弁護士というのは、基本的に特捜部出身の人間です。ヤメ検弁護士というのは、特捜部上がりの弁護士のことを指す代名詞と言ってもいいでしょう。
僕は本書を読むまで、ヤメ検弁護士という言葉は知りませんでした。「反転」の著者である田中森一が検察官を辞めて弁護士になったというのは何となく知っていたんですけど、それは例外なんだと思っていました。例外だからこそ、あそこまで田中森一という人は騒がれたのだ、と。しかし本書を読む限り、ヤメ検弁護士というのは法曹界ではかなりメジャーな存在のようで、そのネットワークみたいなものもかなり確立されているということです。
ヤメ検弁護士は基本的に刑事事件を扱います。企業はヤメ検弁護士をこぞって顧問に迎えようとしますが、それはヤメ検弁護士が刑事事件に強いからです。特に脱税事件などは、プロパーの弁護士にはほとんど経験がなく、的確なアドバイスが出来ません。一方でヤメ検弁護士は特捜部時代に嫌というほど脱税事件を扱っているのでお手のものです。そんなわけでヤメ検弁護士はかなり需要があるようです。
ヤメ検弁護士はOBとなってからも古巣である検察との付き合いがかなり継続され、ある種馴れ合いのような関係になっているらしいです。しかし検察との関係だけでヤメ検弁護士としてうまくやっていけるというわけでもありません。ヤメ検弁護士の真価は、捜査や裁判の読みであり、事件の落とし所を探る能力に長けているという点です。だからこそ、検察組織の中でも捜査能力が抜群な人間だけが集められる特捜部出身のヤメ検弁護士が重宝されるわけです。
本書では、ヤメ検弁護士が陰で暗躍したとされる事件や、あるいはヤメ検弁護士自身が被告として提訴されたりした事件などを取り上げ、それらの経緯を詳しく追うことで、ヤメ検弁護士という存在を浮き彫りにしていくという構成です。本書で扱われている事件は、「朝鮮総連中央本部詐欺事件」「山田洋行事件」「和歌山県現職知事の談合・汚職事件」「福島県知事汚職事件」「中田カウス恐喝事件」「船場吉兆偽装事件」などで、ニュースをほとんどみない僕でも知っているようなニュースもあります。「山田洋行事件」や「中田カウス恐喝事件」「船場吉兆偽装事件」なんかは記憶に新しいです。
そうした世間を騒がせる大きな事件の陰には、常にヤメ検弁護士がちらちらしているんだそうです。本書を読んで、なるほど奥が深いなと思いました。僕なんか最近ヤフーのニュースぐらいしか見ないので、そもそも事件なんかがあっても深い部分について全然知らなかったりするんですけど、もし新聞やテレビニュースなんかを見ていてもこういう部分までは分からないだろうなということがいろいろ書かれていました。特に、そもそもその存在が広く知られているわけではないヤメ検弁護士というものについて正面から扱っている作品なので、僕としては非常に新鮮でした。
これまで警察モノとか裁判モノの小説とか読んでいても、ヤメ検弁護士みたいな存在は出てこなかったと思うんです。そういうノンフィクションを読んだこともなかったので、なるほど弁護士にもいろいろあるんだなと思いました。
しかし検察官時代は取り締まる側にいたのに、弁護士に転身してからはそうした企業の利益を守る立場に就くというのは本当に矛盾していて面白いです。著者がその点についてヤメ検弁護士に問いただすと、ほとんどの人は、「どちらの側から真相を究明するのかという違いだけだ」というような答えを返すんだそうです。しかし一方で、ヤメ検弁護士が暗躍する事件は、真相がうやむやになってしまうケースが多いんだそうです。ヤメ検弁護士と検察がまるで慣れ合いのように落とし所を決めてしまうので、真相解明に至らないのだと。著者は本書の中で、ヤメ検弁護士の存在意義やそのあり方について何度も疑問を呈することになります。最終的な結論が何かあるというわけではないけど、いろいろ考えさせられる作品だなと思います。
本書を読んで、田中森一の「反転」も読んでみようという気になりました。事件モノのノンフィクションはさほど読む方ではないんですけど、やっぱり読んでみると面白いものです。それが実際に起こったことだ、という意味でのリアリティは、どうしても小説には生み出すことは出来ないですからね。
なかなか面白い作品だと思いました。ニュースを漫然と見ているだけでは知りえない世界について知ることが出来る作品です。ぜひ読んでみてください。
森功「ヤメ検 司法エリートが私欲に転ぶとき」
まず検索しづらいタイトルについて。
つい先日お客さんから、「『アイシテル』という本を探しているんですけど」という問い合わせが電話でありました。お客さん曰く、これからドラマになる(あるいは既になっている)ものの原作だということでした。
これは、僕が知識として持っていなかったのがダメだったんですが、そういうドラマが始まることを知りませんでした。それで調べてみることにしたんですが、ここでまず店内の在庫を検索するシステムについて話をしようと思います。
基本的には、タイトルを入力するところがあり、そこにタイトルやあるいはタイトルの一部をカタカナで入力すると検索できるようになっています。「前方一致」(入力した言葉からタイトルが始まる)や「完全一致」(入力した言葉だけでタイトルが構成されている)などを選択することが出来ますが、これは元のデータがどのように登録されているかによって使い勝手が変わってきます。例えば、「ワンピース」の1巻が、「1カン ワンピース」という風にという風に登録されている場合、前方一致で「ワンピース」と検索してもヒットしないんです。言ってること分かりますか?
まあそんなわけで話を戻すと、在庫検索の画面でとりあえず「アイシテル」と入力するんですが、「愛してる」という言葉がタイトルに入る本がすべてヒットしてしまうのでとんでもない数になります。前方一致でやっても、「愛してる」から始まるタイトルが相当多いので、やはりそれだけでは検索が出来ません。そこで別のシステムでまず何の本なのかを特定し、本の固有の番号であるISBNコードと呼ばれるものを調べてから、改めて在庫のデータを見るという形になります。
僕の拙い説明で理解してもらえるかどうか分かりませんが、そんなわけで、ありきたりのタイトルやよく使われる単語一語のみのタイトルなどの本というのは、在庫の検索が非常にしにくいんです。例えば「手紙」っていうタイトルはたくさんありますが、普通に検索すると、「気持ちが届く手紙の書き方」とか「郵便事情から見る手紙の歴史」(たぶんこんなタイトルの本はありませんけど)みたいな本もヒットしてしまうことになるし、特定するのに時間が掛かります。
なので是非とも本のタイトルは、検索しやすいような他とあまりかぶらない感じのものをつけてくれるといいです。最近の新書のタイトルとかはいいですね。島田紳助の「ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する」なんてタイトルは一発で検索出来ますからね。あと森博嗣の小説のタイトルとかもいいですね。「恋恋蓮歩の演習」なんてタイトル、他の本と被りようがないですからね。
作家や編集者の皆さん。タイトルをつける際は、こういう事情も勘案して、是非とも検索のしやすいものにしていただければと思います。まあ作家や編集者の方がこのブログを見ることはほぼないと思いますが。
あと一つ。つい先日ですが、何故か僕がBL(ボーイズラブ)の専門出版社の営業の人と話をするというようなことがありました。
元々コミックの担当者を訪ねて来たんですが、その日コミックの担当者は休み。それで何故かその営業の人に対応した僕が、オススメのコミックの案内とかを聞く羽目になりました。
しかしですね…。わかりませんがな。男に向かってボーイズラブコミックのマニアックな話をするんじゃない、と何度も思いました。「このアンソロジーのシリーズは、メガネとかひげのようなメジャーなものから、傷とか擬人化などのマニアックなものまで揃ってますので」とか言われてもわかんねぇっつーの!とりあえず、はいはいうんうんとか言っておきましたけど、あの営業の女の人は、男にそんな説明をするの恥ずかしくなかったのかなぁ。やっぱりボーイズラブを扱っている出版社の営業の人もそういうのは大好きなんだろうか、とかいろいろ考えてしまいました。
まあ営業の人も大変ですよね、というお話。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、一般にはそこまでその存在が詳しく知られていない、『ヤメ検弁護士』というものについて扱っている作品です。
ヤメ検弁護士と言えば、「反転」という著書が大ベストセラーになった田中森一が世間的には一番有名でしょうか。検察時代は特捜部の一員としてメジャーな事件をいくつも担当し、弁護士になってからは「闇社会の守護神」とまで言われた田中ですが、とある事件で逮捕され、今ではずっと刑務所にいます。
ヤメ検弁護士というのはその名の通り、検察官を辞めて弁護士になった人のことを指します。一般的には、定年まで検察官をやってそれから弁護士になったり、若くして検察官を辞めて弁護士に転身したりという人もヤメ検弁護士ではありますが、一般にヤメ検弁護士という場合、つまり大事件などで名前を耳にするような大物ヤメ検弁護士というのは、基本的に特捜部出身の人間です。ヤメ検弁護士というのは、特捜部上がりの弁護士のことを指す代名詞と言ってもいいでしょう。
僕は本書を読むまで、ヤメ検弁護士という言葉は知りませんでした。「反転」の著者である田中森一が検察官を辞めて弁護士になったというのは何となく知っていたんですけど、それは例外なんだと思っていました。例外だからこそ、あそこまで田中森一という人は騒がれたのだ、と。しかし本書を読む限り、ヤメ検弁護士というのは法曹界ではかなりメジャーな存在のようで、そのネットワークみたいなものもかなり確立されているということです。
ヤメ検弁護士は基本的に刑事事件を扱います。企業はヤメ検弁護士をこぞって顧問に迎えようとしますが、それはヤメ検弁護士が刑事事件に強いからです。特に脱税事件などは、プロパーの弁護士にはほとんど経験がなく、的確なアドバイスが出来ません。一方でヤメ検弁護士は特捜部時代に嫌というほど脱税事件を扱っているのでお手のものです。そんなわけでヤメ検弁護士はかなり需要があるようです。
ヤメ検弁護士はOBとなってからも古巣である検察との付き合いがかなり継続され、ある種馴れ合いのような関係になっているらしいです。しかし検察との関係だけでヤメ検弁護士としてうまくやっていけるというわけでもありません。ヤメ検弁護士の真価は、捜査や裁判の読みであり、事件の落とし所を探る能力に長けているという点です。だからこそ、検察組織の中でも捜査能力が抜群な人間だけが集められる特捜部出身のヤメ検弁護士が重宝されるわけです。
本書では、ヤメ検弁護士が陰で暗躍したとされる事件や、あるいはヤメ検弁護士自身が被告として提訴されたりした事件などを取り上げ、それらの経緯を詳しく追うことで、ヤメ検弁護士という存在を浮き彫りにしていくという構成です。本書で扱われている事件は、「朝鮮総連中央本部詐欺事件」「山田洋行事件」「和歌山県現職知事の談合・汚職事件」「福島県知事汚職事件」「中田カウス恐喝事件」「船場吉兆偽装事件」などで、ニュースをほとんどみない僕でも知っているようなニュースもあります。「山田洋行事件」や「中田カウス恐喝事件」「船場吉兆偽装事件」なんかは記憶に新しいです。
そうした世間を騒がせる大きな事件の陰には、常にヤメ検弁護士がちらちらしているんだそうです。本書を読んで、なるほど奥が深いなと思いました。僕なんか最近ヤフーのニュースぐらいしか見ないので、そもそも事件なんかがあっても深い部分について全然知らなかったりするんですけど、もし新聞やテレビニュースなんかを見ていてもこういう部分までは分からないだろうなということがいろいろ書かれていました。特に、そもそもその存在が広く知られているわけではないヤメ検弁護士というものについて正面から扱っている作品なので、僕としては非常に新鮮でした。
これまで警察モノとか裁判モノの小説とか読んでいても、ヤメ検弁護士みたいな存在は出てこなかったと思うんです。そういうノンフィクションを読んだこともなかったので、なるほど弁護士にもいろいろあるんだなと思いました。
しかし検察官時代は取り締まる側にいたのに、弁護士に転身してからはそうした企業の利益を守る立場に就くというのは本当に矛盾していて面白いです。著者がその点についてヤメ検弁護士に問いただすと、ほとんどの人は、「どちらの側から真相を究明するのかという違いだけだ」というような答えを返すんだそうです。しかし一方で、ヤメ検弁護士が暗躍する事件は、真相がうやむやになってしまうケースが多いんだそうです。ヤメ検弁護士と検察がまるで慣れ合いのように落とし所を決めてしまうので、真相解明に至らないのだと。著者は本書の中で、ヤメ検弁護士の存在意義やそのあり方について何度も疑問を呈することになります。最終的な結論が何かあるというわけではないけど、いろいろ考えさせられる作品だなと思います。
本書を読んで、田中森一の「反転」も読んでみようという気になりました。事件モノのノンフィクションはさほど読む方ではないんですけど、やっぱり読んでみると面白いものです。それが実際に起こったことだ、という意味でのリアリティは、どうしても小説には生み出すことは出来ないですからね。
なかなか面白い作品だと思いました。ニュースを漫然と見ているだけでは知りえない世界について知ることが出来る作品です。ぜひ読んでみてください。
森功「ヤメ検 司法エリートが私欲に転ぶとき」
謎の会社、世界を変える エニグモの挑戦(須田将啓+田中禎人)
今日は、つい最近入った新人の話でも書こうかなと思います。
つい4日ぐらい前に、遅番に新人が入ってきました。年齢的には大学卒業したてというような感じで、フリーターだそうです。
仕事を覚えるのが驚異的に速くて、とにかく何でもガンガン教えちゃっています。すぐに一人前のスタッフとして使えそうな気がして非常に助かります。
が、その新人がウチで働くことにした理由というのが問題なんです。僕が直接聞いたわけではなく又聞きではありますが、その新人は出版社に就職したいようで、それで本屋で働くことにしたらしいです。
そもそも何故ウチの店なのか、という疑問もまずあります。割と近くに住んでいるようですが、それでも他に本屋なんかいくらでもあると思います。正直ウチの店はちょっといろいろと問題が多いので、出版社に就職したいという志で入ってきてくれてもあまり協力できないかなぁという感じがします。
しかしまあとりあえず、何故ウチの店だったのかという点は置いておくとして、そもそも本屋でバイトをしていると出版社への道が開けるのだろうか?というところを考えてみたいと思います。
本屋の店頭にいて出版社の人間と関わるのは、それぞれの担当者が出版社の営業の人間に会うくらいなものです。あるいは、出版社の人と電話をしたりしてやり取りをするぐらいなものでしょうか。いずれにしても担当者にならないとなかなか出版社の人間との接点はありませんが、他の店はどうか分かりませんが、やっぱり担当者というのはそうころころ変えるものではないんじゃないかという気がします。今ウチの店は担当者が結構不足しているんでタイミングとしてはいいかもしれないけど、ただすんなり担当者になれるかどうかというのは微妙なところだなと思います。
また担当者になれて出版社の人間と関わるようになったところで、それで出版社への道が開けるとは到底思えないんです。営業の人と、注文のやり取りをして終わりですからね。
本屋の店頭以外では、僕も時々機会があって行ったりしますけど、書店員や出版社の人間が集まる場みたいなのがあります。そういう場で出版社の人間と知りあうようなことが出来ればまだ可能性はあるかもしれませんが、しかしそういう場に出る機会というのはほぼないです。ウチの店では、いろいろあって僕は時々そういうものに行きますが、他の担当者は別にそんな機会があるわけではありません。
なので、書店でアルバイトをしていて出版社への道が開ける可能性というのは非常に低いと思うんです。
これをその新人に教えた方がいいのかどうか悩むところです。僕としては教えてあげたいんだけど、正直今本当に人手不足で、僕は毎日残業をしないと帰れないという日々なんですけど、だからいなくなられても困る。難しいものです。
出版社への道が開けそうなルートでは、出版社でアルバイトをするというのがあると思うんだけど、それはどうなんでしょうかね。やっぱりそういうのは人気ですぐ埋まっちゃうんでしょうか。でも書店で働いているより出版社で働いている方がまず間違いなく可能性は高いと思うんですよね。
ただ先日本屋大賞の授賞式の手伝いに行きましたが、その際、本の雑誌社という出版社でアルバイトをする学生と話をする機会がありました。彼らは出版社か本屋に就職したいという希望があるらしく、それもあって出版社でのバイトをしているということですが、その内の一人はその年一つも引っかからず、就職浪人をするということでした。厳しいものだなと思います。やっぱり出版社というのは狭き門なんですね。大学時代の同級生が某大手出版社で働いていますが、やっぱりすごいことなんだなぁと思いました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、「エニグモ」というベンチャー企業の創業者が、企業から現在までを描いた本です。
博報堂で働いていた田中は、ある時世界を変えられるかもしれないアイデアを思いついてしまいます。同じく博報堂で働いていた須田に声を掛けると、これは絶対いけるとなり、そのアイデアを実現するために奔走することになります。
初めはこのアイデアを形にしてくれるのなら自分たちがやらなくてもいい、と思っていた彼らですが、様々な経験から会社を立ち上げることにします。
そうして生まれたのが、個人をバイヤーにして世界中で取引が出来る世界初サイト「BuyMa」です。バイヤーは町中で気になった商品の写真を撮り、それを「BuyMa」にアップする。「BuyMa」を通じて欲しいという連絡があればそれを買い付け送る、という仕組みです。これによって、アラスカに行かないと手に入らない商品を日本にいながら買うことだって出来るし、あるいは、お花見の場所を取りますよと言って桜が満開の写真をアップすることだって出来る。その時そこにいる、という価値そのものを商品にすることが出来るという点でこの「BuyMa」というのは画期的な仕組みで、「ウェブ2.0大賞」なんかも受賞したようです。
以後エニグモは、世界初にこだわり、世界を変えてしまうような仕組みを次々と生み出すことになります。基本的には、インターネットを通じた個人の発信が直接個人に結びついたり、あるいはそれ自体が広告になったりするような、そんな仕組みです。「プレスブログ」は、特定の条件を満たしながらブログに商品の感想などを書くと謝礼金がもらえるという仕組み、「filmo」は個人が作ったCMを集める仕組み、そしてアメリカで開始した「rollmio」は、「プレスブログ」と「filmo」を組み合わせたような仕組みで、現在では似たような仕組みはたくさんあるんだろうけど、すべてエニグモが世界初のサービスとして提供したものです。
世界でも注目されているベンチャーのようで、これからも活躍が期待されます。世界を変えるなんて言う壮大な目標を元に楽しく仕事をしている人々の記録です。
ずっと気になっていた本ではあったんですけど、ようやく読んでみました。つい最近「明日の広告」という本を読んだのもよかったんでしょう、非常に面白い作品でした。
つい最近読んだ「明日の広告」という本の中で、消費者はもうとっくに変わっているよ、広告よりも知り合いの意見の方に重きを置いているんだよ、みたいな話がありましたが、エニグモはその感覚をいち早く掴み、マーケティングや広告の世界に「個人」を組み込んでいくサービスを次々にスタートさせます。これは、既にそういうサービスを知っているからでしょうけど、アイデア自体はさほど大したことはありません。恐らく多くの人が、自分にも思いつけたと感じるようなものばかりではないかなと思います。
ただ、思いつけただろうと思いつくこととは無限の隔たりがあるし、思いつくこととそれを実現することにも無限の隔たりがあります。彼らは世界初のサービスを次々に送り出しています。世界初ということは、世界中でそれを思いついて実行に移した最初の人間ということです。それをいくつもやってしまうというんだから、やっぱりすごいものです。
彼らはいろんなサービスを出していますが、やはり一番素晴らしいと僕が思うのは、一番初めに作った「BuyMa」ではないかなと思います。これは世界中の個人がバイヤーになれる仕組みを作ったわけで、例えば実際フランス在住のある日本人夫婦が、この「BuyMa」をメインに収入を安定させているという話がありました。買いたい人が現れてから買い付けに行けるので在庫を抱える必要もないし、「BuyMa」を通じて個人バイヤーになる人には非常にメリットの大きい(かつデメリットの少ない)仕組みだなと思います。
本書では、エニグモの社内の様子というのも少し描かれます。とにかく楽しそうに仕事をしています。何でも企画にしてしまって楽しんだり、ちょっとした工夫で職場の雰囲気をよくしようとしています。こんなところで働けたら楽しいだろうなと思います。
実際田中は本書で、「日曜の夜には、早く会社に行きたくなる」と書いています。仕事が楽しくて仕方がないらしいです。その理由として、「人に仕事をやらされていないから」「主体的に仕事をしているから」というのを挙げています。
これは僕もすごくよく分かります。僕も、ただのアルバイトでありながら、やらされる仕事はほとんど何もありません。文庫と新書の売場をすべて自分の判断で作り上げていくという非常に主体的な仕事をしています。だから仕事が楽しい。休み明けなんかは、どれぐらい売上がいっているか、何がどれだけ売れたかを確認するのが楽しみです。
後本書では、堀江貴文や藤田晋と言ったIT企業のメジャー経営者が出てきますが、彼らの話を読むと凄いなと思わされます。
須田と田中は当初、堀江貴文がやっていた会社と組んで「BuyMa」を出そうとしていて、そのためにプレゼンの時間をもらいました。10分で完璧にプレゼン出来るように資料も10枚に抑え、いざ堀江貴文にプレゼンを始めるのだが、堀江貴文はその10枚の資料をささっとめくり、ものの30秒で「これ、面白いですよ。やりましょう。で、どうやりましょう?」と聞いてきたという。ものすごい決断力である。須田と田中もその想像力とスピード感に圧倒されたようだ。
また、エニグモは専任の営業を雇いたくて、藤田晋が社長を勤めるサイバーエージェントに在籍していたある若手社員を引っ張ってきた。その若手社員はサイバーエージェントでも有能な営業部員だったため先方とも話し合いの場を持ち、丸くおさまった。
その後須田が藤田晋の講演を聞く機会があった。そこで藤田晋は、「人材採用はいかに大変か。一日のうち、自分の職務の8割を採用に割いている」と語っていた。その後主催者によって須田は藤田晋に引き合わされたのだが、その際「エニグモの須田です」というと、「ああ、○○(若手社員の名前)のね」と言ったという。サイバーエージェントほどの規模の会社で若手社員の転職先を把握しているとは、やはり人材採用に力を入れているのだなと須田は実感したという。
やっぱり名の知れた経営者というのはすごい人が多いんだなと再認識しました。
本書自体も、ミシマ社というなかなか注目されている出版社が出している本です。エニグモにしてもミシマ社にしても、こういう若い会社がいろいろと頑張ってくれるのは何だかいいなぁという感じがします。僕も頑張らないとなぁと思いますが、思うだけで何もしない人間なんでダメダメなんです。
まあそんなわけで、なかなか面白い本だと思います。企業を考えている人は参考になるでしょうし、上に挙げたサービスを知っているという人も結構いることでしょう(僕はほぼ知りませんでしたが)。不況で暗いニュースが多いですが、日本にも頑張っている会社があるぞという明るい話でも読んで気合いを入れなおしましょう。
須田将啓+田中禎人「謎の会社、世界を変える エニグモの挑戦」
つい4日ぐらい前に、遅番に新人が入ってきました。年齢的には大学卒業したてというような感じで、フリーターだそうです。
仕事を覚えるのが驚異的に速くて、とにかく何でもガンガン教えちゃっています。すぐに一人前のスタッフとして使えそうな気がして非常に助かります。
が、その新人がウチで働くことにした理由というのが問題なんです。僕が直接聞いたわけではなく又聞きではありますが、その新人は出版社に就職したいようで、それで本屋で働くことにしたらしいです。
そもそも何故ウチの店なのか、という疑問もまずあります。割と近くに住んでいるようですが、それでも他に本屋なんかいくらでもあると思います。正直ウチの店はちょっといろいろと問題が多いので、出版社に就職したいという志で入ってきてくれてもあまり協力できないかなぁという感じがします。
しかしまあとりあえず、何故ウチの店だったのかという点は置いておくとして、そもそも本屋でバイトをしていると出版社への道が開けるのだろうか?というところを考えてみたいと思います。
本屋の店頭にいて出版社の人間と関わるのは、それぞれの担当者が出版社の営業の人間に会うくらいなものです。あるいは、出版社の人と電話をしたりしてやり取りをするぐらいなものでしょうか。いずれにしても担当者にならないとなかなか出版社の人間との接点はありませんが、他の店はどうか分かりませんが、やっぱり担当者というのはそうころころ変えるものではないんじゃないかという気がします。今ウチの店は担当者が結構不足しているんでタイミングとしてはいいかもしれないけど、ただすんなり担当者になれるかどうかというのは微妙なところだなと思います。
また担当者になれて出版社の人間と関わるようになったところで、それで出版社への道が開けるとは到底思えないんです。営業の人と、注文のやり取りをして終わりですからね。
本屋の店頭以外では、僕も時々機会があって行ったりしますけど、書店員や出版社の人間が集まる場みたいなのがあります。そういう場で出版社の人間と知りあうようなことが出来ればまだ可能性はあるかもしれませんが、しかしそういう場に出る機会というのはほぼないです。ウチの店では、いろいろあって僕は時々そういうものに行きますが、他の担当者は別にそんな機会があるわけではありません。
なので、書店でアルバイトをしていて出版社への道が開ける可能性というのは非常に低いと思うんです。
これをその新人に教えた方がいいのかどうか悩むところです。僕としては教えてあげたいんだけど、正直今本当に人手不足で、僕は毎日残業をしないと帰れないという日々なんですけど、だからいなくなられても困る。難しいものです。
出版社への道が開けそうなルートでは、出版社でアルバイトをするというのがあると思うんだけど、それはどうなんでしょうかね。やっぱりそういうのは人気ですぐ埋まっちゃうんでしょうか。でも書店で働いているより出版社で働いている方がまず間違いなく可能性は高いと思うんですよね。
ただ先日本屋大賞の授賞式の手伝いに行きましたが、その際、本の雑誌社という出版社でアルバイトをする学生と話をする機会がありました。彼らは出版社か本屋に就職したいという希望があるらしく、それもあって出版社でのバイトをしているということですが、その内の一人はその年一つも引っかからず、就職浪人をするということでした。厳しいものだなと思います。やっぱり出版社というのは狭き門なんですね。大学時代の同級生が某大手出版社で働いていますが、やっぱりすごいことなんだなぁと思いました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、「エニグモ」というベンチャー企業の創業者が、企業から現在までを描いた本です。
博報堂で働いていた田中は、ある時世界を変えられるかもしれないアイデアを思いついてしまいます。同じく博報堂で働いていた須田に声を掛けると、これは絶対いけるとなり、そのアイデアを実現するために奔走することになります。
初めはこのアイデアを形にしてくれるのなら自分たちがやらなくてもいい、と思っていた彼らですが、様々な経験から会社を立ち上げることにします。
そうして生まれたのが、個人をバイヤーにして世界中で取引が出来る世界初サイト「BuyMa」です。バイヤーは町中で気になった商品の写真を撮り、それを「BuyMa」にアップする。「BuyMa」を通じて欲しいという連絡があればそれを買い付け送る、という仕組みです。これによって、アラスカに行かないと手に入らない商品を日本にいながら買うことだって出来るし、あるいは、お花見の場所を取りますよと言って桜が満開の写真をアップすることだって出来る。その時そこにいる、という価値そのものを商品にすることが出来るという点でこの「BuyMa」というのは画期的な仕組みで、「ウェブ2.0大賞」なんかも受賞したようです。
以後エニグモは、世界初にこだわり、世界を変えてしまうような仕組みを次々と生み出すことになります。基本的には、インターネットを通じた個人の発信が直接個人に結びついたり、あるいはそれ自体が広告になったりするような、そんな仕組みです。「プレスブログ」は、特定の条件を満たしながらブログに商品の感想などを書くと謝礼金がもらえるという仕組み、「filmo」は個人が作ったCMを集める仕組み、そしてアメリカで開始した「rollmio」は、「プレスブログ」と「filmo」を組み合わせたような仕組みで、現在では似たような仕組みはたくさんあるんだろうけど、すべてエニグモが世界初のサービスとして提供したものです。
世界でも注目されているベンチャーのようで、これからも活躍が期待されます。世界を変えるなんて言う壮大な目標を元に楽しく仕事をしている人々の記録です。
ずっと気になっていた本ではあったんですけど、ようやく読んでみました。つい最近「明日の広告」という本を読んだのもよかったんでしょう、非常に面白い作品でした。
つい最近読んだ「明日の広告」という本の中で、消費者はもうとっくに変わっているよ、広告よりも知り合いの意見の方に重きを置いているんだよ、みたいな話がありましたが、エニグモはその感覚をいち早く掴み、マーケティングや広告の世界に「個人」を組み込んでいくサービスを次々にスタートさせます。これは、既にそういうサービスを知っているからでしょうけど、アイデア自体はさほど大したことはありません。恐らく多くの人が、自分にも思いつけたと感じるようなものばかりではないかなと思います。
ただ、思いつけただろうと思いつくこととは無限の隔たりがあるし、思いつくこととそれを実現することにも無限の隔たりがあります。彼らは世界初のサービスを次々に送り出しています。世界初ということは、世界中でそれを思いついて実行に移した最初の人間ということです。それをいくつもやってしまうというんだから、やっぱりすごいものです。
彼らはいろんなサービスを出していますが、やはり一番素晴らしいと僕が思うのは、一番初めに作った「BuyMa」ではないかなと思います。これは世界中の個人がバイヤーになれる仕組みを作ったわけで、例えば実際フランス在住のある日本人夫婦が、この「BuyMa」をメインに収入を安定させているという話がありました。買いたい人が現れてから買い付けに行けるので在庫を抱える必要もないし、「BuyMa」を通じて個人バイヤーになる人には非常にメリットの大きい(かつデメリットの少ない)仕組みだなと思います。
本書では、エニグモの社内の様子というのも少し描かれます。とにかく楽しそうに仕事をしています。何でも企画にしてしまって楽しんだり、ちょっとした工夫で職場の雰囲気をよくしようとしています。こんなところで働けたら楽しいだろうなと思います。
実際田中は本書で、「日曜の夜には、早く会社に行きたくなる」と書いています。仕事が楽しくて仕方がないらしいです。その理由として、「人に仕事をやらされていないから」「主体的に仕事をしているから」というのを挙げています。
これは僕もすごくよく分かります。僕も、ただのアルバイトでありながら、やらされる仕事はほとんど何もありません。文庫と新書の売場をすべて自分の判断で作り上げていくという非常に主体的な仕事をしています。だから仕事が楽しい。休み明けなんかは、どれぐらい売上がいっているか、何がどれだけ売れたかを確認するのが楽しみです。
後本書では、堀江貴文や藤田晋と言ったIT企業のメジャー経営者が出てきますが、彼らの話を読むと凄いなと思わされます。
須田と田中は当初、堀江貴文がやっていた会社と組んで「BuyMa」を出そうとしていて、そのためにプレゼンの時間をもらいました。10分で完璧にプレゼン出来るように資料も10枚に抑え、いざ堀江貴文にプレゼンを始めるのだが、堀江貴文はその10枚の資料をささっとめくり、ものの30秒で「これ、面白いですよ。やりましょう。で、どうやりましょう?」と聞いてきたという。ものすごい決断力である。須田と田中もその想像力とスピード感に圧倒されたようだ。
また、エニグモは専任の営業を雇いたくて、藤田晋が社長を勤めるサイバーエージェントに在籍していたある若手社員を引っ張ってきた。その若手社員はサイバーエージェントでも有能な営業部員だったため先方とも話し合いの場を持ち、丸くおさまった。
その後須田が藤田晋の講演を聞く機会があった。そこで藤田晋は、「人材採用はいかに大変か。一日のうち、自分の職務の8割を採用に割いている」と語っていた。その後主催者によって須田は藤田晋に引き合わされたのだが、その際「エニグモの須田です」というと、「ああ、○○(若手社員の名前)のね」と言ったという。サイバーエージェントほどの規模の会社で若手社員の転職先を把握しているとは、やはり人材採用に力を入れているのだなと須田は実感したという。
やっぱり名の知れた経営者というのはすごい人が多いんだなと再認識しました。
本書自体も、ミシマ社というなかなか注目されている出版社が出している本です。エニグモにしてもミシマ社にしても、こういう若い会社がいろいろと頑張ってくれるのは何だかいいなぁという感じがします。僕も頑張らないとなぁと思いますが、思うだけで何もしない人間なんでダメダメなんです。
まあそんなわけで、なかなか面白い本だと思います。企業を考えている人は参考になるでしょうし、上に挙げたサービスを知っているという人も結構いることでしょう(僕はほぼ知りませんでしたが)。不況で暗いニュースが多いですが、日本にも頑張っている会社があるぞという明るい話でも読んで気合いを入れなおしましょう。
須田将啓+田中禎人「謎の会社、世界を変える エニグモの挑戦」
エドウィン・マルハウス(スティーヴン・ミルハウザー)
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書はなかなか変わった小説です。1990年に出たものが出版社を変えて復刊したもののようです。
本書は、11歳のジェフェリー・カートライトという少年が書いた伝記小説という設定の小説です。ジェフェリーの隣家に住んでいた、10歳でアメリカ文学史上に残る傑作『まんが』を書いて11歳で死んだエドウィン・マルハウスという作家についての伝記です。
二人の出会いは、エドウィン生後八日、ジェフェリー生後六か月と三日という日で、ジェフェリーはほとんどその出会いの瞬間からエドウィンの観察者となることを決意し、その後11年間エドウィンに影のように寄り添い、その驚異的な記憶力をもってして彼の一挙手一投足を観察し続ける。彼がどんなものに触れ、どんな経験を経て『まんが』を書くに至ったのか。若干11歳の伝記作家ジェフェリー・カートライトが、天才作家エドウィン・マルハウスを解体していく、という小説です。
11歳で死んだ天才少年について同い年の少年が書いた伝記、という設定が面白そうで読んでみました。感想としては、こういう作品を面白いと思える人間になりたいな、という感じでした。
文章がとにかく読みにくくて、昔の文学作品を読んでいるような感じでした。夏目漱石とか芥川龍之介とかそういう感じです。分量的には1日で読み終わってもおかしくないのに、普段の3倍ぐらいの時間が掛かりました。
つまらないということは決してないんです。6か月の時に出会ったその瞬間からエドウィンの観察者になろうと決意したジェフェリーのその執拗な観察やそこから生まれる分析なんかはとても11歳のものとは思えないほど緻密で、それによってエドウィンという人間がどんどんと丸裸にされていく過程は非常に興味深いと思いました。
ただ面白いとも言い難いんですよね。僕は、昔の文学作品とかを読んでも、読めないことはないしつまらないわけでもないけどでも面白くもないという感想になることが多くて、それと非常に似ています。別に僕にとって面白いと感じられる部分が特にあったわけではありません。ストーリーに起伏がないわけではないんだけど、その起伏を感じさせないくらい文章が淡々としているので、どうもストーリー上の起伏を感じ取りにくいみたいな感じがしました。
まあそんなわけで、そんな面白いわけでもない小説をよく三日間も読んでたなという感じではありますが、さっきも書いたけど、こういう小説を面白いと思える人になりたいですね。どうもミステリーとかエンターテイメントばっかり読んでると底が浅い人間みたいな感じがしてしまいます。まあ面白くないものは仕方ないんですけどね。
僕にはあんまり合わなかったですけど、こういう作品が好きという人はきっといると思います。
スティーヴン・ミルハウザー「エドウィン・マルハウス」
本書はなかなか変わった小説です。1990年に出たものが出版社を変えて復刊したもののようです。
本書は、11歳のジェフェリー・カートライトという少年が書いた伝記小説という設定の小説です。ジェフェリーの隣家に住んでいた、10歳でアメリカ文学史上に残る傑作『まんが』を書いて11歳で死んだエドウィン・マルハウスという作家についての伝記です。
二人の出会いは、エドウィン生後八日、ジェフェリー生後六か月と三日という日で、ジェフェリーはほとんどその出会いの瞬間からエドウィンの観察者となることを決意し、その後11年間エドウィンに影のように寄り添い、その驚異的な記憶力をもってして彼の一挙手一投足を観察し続ける。彼がどんなものに触れ、どんな経験を経て『まんが』を書くに至ったのか。若干11歳の伝記作家ジェフェリー・カートライトが、天才作家エドウィン・マルハウスを解体していく、という小説です。
11歳で死んだ天才少年について同い年の少年が書いた伝記、という設定が面白そうで読んでみました。感想としては、こういう作品を面白いと思える人間になりたいな、という感じでした。
文章がとにかく読みにくくて、昔の文学作品を読んでいるような感じでした。夏目漱石とか芥川龍之介とかそういう感じです。分量的には1日で読み終わってもおかしくないのに、普段の3倍ぐらいの時間が掛かりました。
つまらないということは決してないんです。6か月の時に出会ったその瞬間からエドウィンの観察者になろうと決意したジェフェリーのその執拗な観察やそこから生まれる分析なんかはとても11歳のものとは思えないほど緻密で、それによってエドウィンという人間がどんどんと丸裸にされていく過程は非常に興味深いと思いました。
ただ面白いとも言い難いんですよね。僕は、昔の文学作品とかを読んでも、読めないことはないしつまらないわけでもないけどでも面白くもないという感想になることが多くて、それと非常に似ています。別に僕にとって面白いと感じられる部分が特にあったわけではありません。ストーリーに起伏がないわけではないんだけど、その起伏を感じさせないくらい文章が淡々としているので、どうもストーリー上の起伏を感じ取りにくいみたいな感じがしました。
まあそんなわけで、そんな面白いわけでもない小説をよく三日間も読んでたなという感じではありますが、さっきも書いたけど、こういう小説を面白いと思える人になりたいですね。どうもミステリーとかエンターテイメントばっかり読んでると底が浅い人間みたいな感じがしてしまいます。まあ面白くないものは仕方ないんですけどね。
僕にはあんまり合わなかったですけど、こういう作品が好きという人はきっといると思います。
スティーヴン・ミルハウザー「エドウィン・マルハウス」
100年の難問はなぜ解けたのか 天才数学者の光と影(春日真人)
今「エドウィン・マルハウス」という本を読んでいるんですけど、時間が掛かりそうだったんで先に本作をサクッと読んでみました。
その前に今日の本屋の話。今日はちょっと時間がないので短めに。早川文庫の新刊について書こうと思います。
つい先日発売された早川文庫の新刊なんですけど、文庫の大きさが変わってました。
早川文庫というのはもともと二種類の大きさの文庫があります。一つは、他の出版社の文庫と同じ「普通サイズ」、そしてもう一つは、epi文庫やクリスティー文庫と呼ばれるような「ちょっと大きなサイズ」です。
これまでは、SF文庫やミステリー文庫なんかは「普通サイズ」の大きさだったんですけど、つい先日出た分のSF文庫やミステリー文庫はちょっと大きさが違っていました。いつも通りカバーを掛けようとしても、どうしても入らなかったんです。
初めは、店で作っているカバーの中に不良品が混じっててカバーの方が小さいのかと思ったんですけど、カバーを何度変えてもダメ。ようやく、なるほどサイズが変わったんだなと理解できました。
ネットでちょっと調べたところによると、あるサイトに同じようなことが書かれていました。そのサイトの人は出版関係(恐らく書店員?)のようで、早川書房の営業の人からサイズが大きくなるとという話を聞いたとか。何でも、字が小さいという声がこれまであったからフォントを大きくしようとしたんだけど、そうするとページ数が増えてしまう。さてどうしようかと考えた時に、じゃあサイズを大きくすればいいじゃないか、という発想になったとか。
これまでは「ちょっと大きいサイズ」の文庫は、全文庫レーベルの中でも本当に一部で、早川epi文庫やクリスティー文庫などの早川文庫の一部と、後は徳間edge文庫みたいな名前の文庫ぐらい。どれも全体からすればシェアは恐ろしく低いので、そういう「ちょっと大きいサイズ」の文庫カバーはあまり用意しておかなくても問題はありませんでした。せいぜい10枚ほどストックがあれば余裕で対応出来てしまう程度でした。
でも早川文庫すべてのサイズが大きくなるんだとすれば(上記のサイトによれば、現在「普通サイズ」の大きさのものも、重版分からはサイズを大きくしていく、みたいなことが書いてある)、「ちょっと大きなサイズ」のカバーを結構用意しておかなくてはいけなくなりますね。それがめんどくさい。
あと文庫のサイズが縦に長くなると、従来のままの棚の高さだと取り出しにくくなるので棚を高くしなくてはいけないというめんどくささがあります。
まあ文庫のサイズが変わることでそこまで大きな影響があるわけではないんだけど、やっぱりちょっとめんどうなことは増えます。まあ大きくしたいというならすればいいと思うんだけど、これは成功するかなぁ。縦にサイズをデカくするより、ページ数を増やした方が明らかにいいと思うんだけど、どうだろう。結構不評という結果になりそうな気がするんだけど、どうだろうなぁ。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「NHKスペシャル」という番組の、ポアンカレ予想について扱った回を書籍化したものです。数学についてさほど知識のあるわけではないスタッフが、世紀の難問と言われたポアンカレ予想やそれを解決したペレリマン博士を追うという内容です。
ポアンカレ予想は数学史上特に有名な問題ではありますが(フェルマーの最終定理やリーマン予想と同じくらいの知名度があると思う、たぶん)、しかし何故このポアンカレ予想だけで一つの番組になってしまうのかと言うと、それはポアンカレ予想を解決したペレリマン博士の存在が非常にセンセーショナルだったからです。
かつては普通に人と交流をし、明るい青年であったペレリマンは、しかしアメリカから故郷ロシアに戻るちょっと前頃からおかしくなっていきます。自分の研究を明かさず、ひたすらストイックに数学と向き合う。人と交流をせずに、かつ数学界からも距離を置くようになっていきました。
誰もその消息を知らなくなって久しいある日、数学界に一つの噂が駆け巡りました。インターネット上にポアンカレ予想の証明がある、というのです。これまでポアンカレ予想を解いたと言う話は聞いてきたので数学者も半信半疑でしたが、その証明を書いたのがペレリマンだと知り色めき立ちました。それほどペレリマンというのは信頼されている数学者だったのです。
最終的にペレリマンの証明は正しいことが確認され、四年に一度しか与えられない数学界のノーベル賞(ノーベル賞より価値があると言われますが)であるフィールズ賞を受賞します。
しかしペレリマンは、そのフィールズ賞の受賞を拒否します。長い歴史の中で、フィールズ賞を辞退した数学者はペレリマンを除いて一人もいません。このニュースは世界中を駆け巡り、一躍ペレリマンは超有名人になります。
しかしその後もペレリマンは数学の世界から距離を置き、現在はキノコ獲りをしながら日々を過ごしている、と言われています。ポアンカレ予想には1億円の懸賞金が掛けられていて、もちろんペレリマンにその権利があるのだけど、その受け取りも拒否したとか。ペレリマンの恩師が会いたいと言っても会おうとしないという頑なさで、誰もペレリマンに近づくことが出来ないでいます。
そんなドラマがあるからこそ、ポアンカレ予想だけで一つの番組が成り立つわけです。
本書は一応数学の本ではありますが、数学的な記述についてはかなり浅いです。なんて言うことを、数学の理解力の浅い僕に言われたくないでしょうが、本書はとにかく、ポアンカレ予想なんて一度も耳にしたことがないというような人向けに、ポアンカレ予想がどんなものなのか、そしてペレリマンは一体どういうようなことをしたのかというようなことを何となく分かった気にさせるようなそんな感じの作品です。どちらかと言えば、ペレリマンというのはどういう人なのかとか、あるいはポアンカレ予想というのはどういう歴史を持つ予想なのかというような背景的な部分がメインになる作品です。
しかしポアンカレ予想それ自体についての説明は非常に分かりやすかったです。以前「ポアンカレ予想」というタイトルの、数学者が書いた一般向けの本を読んだことがあるんですけど、結局ポアンカレ予想というのがどんな予想なのかという部分がきちんとは理解できませんでした。しかし本作を読めば大体分かります。
ポアンカレ予想は四次元の表面に関するものなんだけど、四次元というのは想像しにくいので三次元で考えることにしましょう。
地球を考えてみてください。地球は三次元の球です。であなたが原始人だとしましょう。原始人にはもちろんロケットなどのテクノロジーは何一つないわけで、地球の形について何か情報を得ることは不可能に思えます。
しかし、ロケットなんかのテクノロジーを持たない原始人でも、一本の長いロープ(と船)さえあれば地球の形を知ることが出来る、というのがポアンカレ予想なんです。
ここでまず、球である地球ではなく、南極から北極に掛けて穴の空いた地球を考えてみることにしましょう。原始人はまずロープの一端をある場所に結び、もう一端を船に載せて海へと出ます。そうして地球を一周してまた元の場所に戻ってくるとします。
さてここでロープの端っこを引っ張ってロープを回収できるかどうか考えてみましょう。今地球には南極から北極を貫く穴が空いていることに注意してください。ロープはその穴の中も通るのだから(地球を一周するというのが条件なので)、ロープの端っこを引っ張ってもロープを回収することが出来ないというのはすぐに分かると思います。
さて一方、僕らが住んでいる球形の地球の場合はどうでしょうか。同じく原始人がロープの一端をある場所に結び、地球を一周して元の場所に戻ってくるとしましょう。その場合、ロープの端っこを引っ張れば、ロープをすべて回収することが出来るというのは分かりますよね。
つまりこういうことです。
『地球を一周させたロープをすべて回収できるなら、地球は丸いと言えるだろう』
ポアンカレが考えたのは宇宙の形についてです。僕らは宇宙の外に出ることが出来ないから、外から見て宇宙の形を知ることは出来ない。地球にいる原始人と同じですね。でも、上記と同じように考えた時、同じようにロープを回収することが出来れば宇宙の形は丸いと言えるのではないか。
これが大雑把に言ったポアンカレ予想の概要です。この説明は非常に分かりやすかったので、前に別の本で読んだときにはよくわからなかった部分が非常にクリアになりました。
本書は、もちろんペレリマンを追うというのがメインの話ではありますが、それまでにポアンカレ予想に挑戦してきた様々な人々の話も書かれています。
その中で、これはすごいアプローチだなと思ったものを二つだけ。
一つは、高次元でのポアンカレ予想をまず解こうと考えた数学者。ポアンカレ予想は四次元の表面に関する予想なんだけど、まず五次元の表面、六次元の表面…という風に次元の高いポアンカレ予想を解こうという発想をしたわけです。しかもそれはものすごく簡単に証明できるんだそうです。まず高次元からという発想はすごいなと思いました。
そしてもう一つ。ポアンカレ予想では、「宇宙にロープを一周させてそのロープを回収出来れば宇宙は丸井と言えるはずだ」と言っているのだけど、ある数学者は、「じゃあもし宇宙が丸くないとしたらどんな形がありえるだろうか」という発想をしました。それが最終的に「幾何化予想」というものにまとめられ、宇宙はたとえどんな形であれ、それは必ず最大で八種類の断片から成り立っているはずだ、という主張をしました。この「幾何化予想」はポアンカレ予想を内包していて、幾何化予想が証明できればポアンカレ予想も証明できたことになる、ということが示されます。実際ペレリマンが証明したのがこの幾何化予想の方のようです。
すごいですよね。高次元という発想もすごいですけど、宇宙が丸いかどうかと聞かれているのに、じゃあ丸くなかったとしたらどんな形がありえるか、という発想はそうそう出来ないだろうと思います。実際この幾何化予想は、数学者に驚きをもって迎えられたそうです。この数学者はマジシャンと呼ばれるほど発想がすごいようです。
まあそんなわけで本書は、ポアンカレ予想の基本の基本という感じの本です。数学は全然得意じゃないけどポアンカレ予想はちょっと興味あるという人はまず本書を読みましょう。逆に、数学が得意だという人には物足りない作品だろうなと思います。僕は割と面白かったですけどね。ポアンカレ予想そのものの説明が非常に分かりやすくて助かりました。是非読んでみてください。
春日真人「100年の難問はなぜ解けたのか 天才数学者の光と影」
その前に今日の本屋の話。今日はちょっと時間がないので短めに。早川文庫の新刊について書こうと思います。
つい先日発売された早川文庫の新刊なんですけど、文庫の大きさが変わってました。
早川文庫というのはもともと二種類の大きさの文庫があります。一つは、他の出版社の文庫と同じ「普通サイズ」、そしてもう一つは、epi文庫やクリスティー文庫と呼ばれるような「ちょっと大きなサイズ」です。
これまでは、SF文庫やミステリー文庫なんかは「普通サイズ」の大きさだったんですけど、つい先日出た分のSF文庫やミステリー文庫はちょっと大きさが違っていました。いつも通りカバーを掛けようとしても、どうしても入らなかったんです。
初めは、店で作っているカバーの中に不良品が混じっててカバーの方が小さいのかと思ったんですけど、カバーを何度変えてもダメ。ようやく、なるほどサイズが変わったんだなと理解できました。
ネットでちょっと調べたところによると、あるサイトに同じようなことが書かれていました。そのサイトの人は出版関係(恐らく書店員?)のようで、早川書房の営業の人からサイズが大きくなるとという話を聞いたとか。何でも、字が小さいという声がこれまであったからフォントを大きくしようとしたんだけど、そうするとページ数が増えてしまう。さてどうしようかと考えた時に、じゃあサイズを大きくすればいいじゃないか、という発想になったとか。
これまでは「ちょっと大きいサイズ」の文庫は、全文庫レーベルの中でも本当に一部で、早川epi文庫やクリスティー文庫などの早川文庫の一部と、後は徳間edge文庫みたいな名前の文庫ぐらい。どれも全体からすればシェアは恐ろしく低いので、そういう「ちょっと大きいサイズ」の文庫カバーはあまり用意しておかなくても問題はありませんでした。せいぜい10枚ほどストックがあれば余裕で対応出来てしまう程度でした。
でも早川文庫すべてのサイズが大きくなるんだとすれば(上記のサイトによれば、現在「普通サイズ」の大きさのものも、重版分からはサイズを大きくしていく、みたいなことが書いてある)、「ちょっと大きなサイズ」のカバーを結構用意しておかなくてはいけなくなりますね。それがめんどくさい。
あと文庫のサイズが縦に長くなると、従来のままの棚の高さだと取り出しにくくなるので棚を高くしなくてはいけないというめんどくささがあります。
まあ文庫のサイズが変わることでそこまで大きな影響があるわけではないんだけど、やっぱりちょっとめんどうなことは増えます。まあ大きくしたいというならすればいいと思うんだけど、これは成功するかなぁ。縦にサイズをデカくするより、ページ数を増やした方が明らかにいいと思うんだけど、どうだろう。結構不評という結果になりそうな気がするんだけど、どうだろうなぁ。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「NHKスペシャル」という番組の、ポアンカレ予想について扱った回を書籍化したものです。数学についてさほど知識のあるわけではないスタッフが、世紀の難問と言われたポアンカレ予想やそれを解決したペレリマン博士を追うという内容です。
ポアンカレ予想は数学史上特に有名な問題ではありますが(フェルマーの最終定理やリーマン予想と同じくらいの知名度があると思う、たぶん)、しかし何故このポアンカレ予想だけで一つの番組になってしまうのかと言うと、それはポアンカレ予想を解決したペレリマン博士の存在が非常にセンセーショナルだったからです。
かつては普通に人と交流をし、明るい青年であったペレリマンは、しかしアメリカから故郷ロシアに戻るちょっと前頃からおかしくなっていきます。自分の研究を明かさず、ひたすらストイックに数学と向き合う。人と交流をせずに、かつ数学界からも距離を置くようになっていきました。
誰もその消息を知らなくなって久しいある日、数学界に一つの噂が駆け巡りました。インターネット上にポアンカレ予想の証明がある、というのです。これまでポアンカレ予想を解いたと言う話は聞いてきたので数学者も半信半疑でしたが、その証明を書いたのがペレリマンだと知り色めき立ちました。それほどペレリマンというのは信頼されている数学者だったのです。
最終的にペレリマンの証明は正しいことが確認され、四年に一度しか与えられない数学界のノーベル賞(ノーベル賞より価値があると言われますが)であるフィールズ賞を受賞します。
しかしペレリマンは、そのフィールズ賞の受賞を拒否します。長い歴史の中で、フィールズ賞を辞退した数学者はペレリマンを除いて一人もいません。このニュースは世界中を駆け巡り、一躍ペレリマンは超有名人になります。
しかしその後もペレリマンは数学の世界から距離を置き、現在はキノコ獲りをしながら日々を過ごしている、と言われています。ポアンカレ予想には1億円の懸賞金が掛けられていて、もちろんペレリマンにその権利があるのだけど、その受け取りも拒否したとか。ペレリマンの恩師が会いたいと言っても会おうとしないという頑なさで、誰もペレリマンに近づくことが出来ないでいます。
そんなドラマがあるからこそ、ポアンカレ予想だけで一つの番組が成り立つわけです。
本書は一応数学の本ではありますが、数学的な記述についてはかなり浅いです。なんて言うことを、数学の理解力の浅い僕に言われたくないでしょうが、本書はとにかく、ポアンカレ予想なんて一度も耳にしたことがないというような人向けに、ポアンカレ予想がどんなものなのか、そしてペレリマンは一体どういうようなことをしたのかというようなことを何となく分かった気にさせるようなそんな感じの作品です。どちらかと言えば、ペレリマンというのはどういう人なのかとか、あるいはポアンカレ予想というのはどういう歴史を持つ予想なのかというような背景的な部分がメインになる作品です。
しかしポアンカレ予想それ自体についての説明は非常に分かりやすかったです。以前「ポアンカレ予想」というタイトルの、数学者が書いた一般向けの本を読んだことがあるんですけど、結局ポアンカレ予想というのがどんな予想なのかという部分がきちんとは理解できませんでした。しかし本作を読めば大体分かります。
ポアンカレ予想は四次元の表面に関するものなんだけど、四次元というのは想像しにくいので三次元で考えることにしましょう。
地球を考えてみてください。地球は三次元の球です。であなたが原始人だとしましょう。原始人にはもちろんロケットなどのテクノロジーは何一つないわけで、地球の形について何か情報を得ることは不可能に思えます。
しかし、ロケットなんかのテクノロジーを持たない原始人でも、一本の長いロープ(と船)さえあれば地球の形を知ることが出来る、というのがポアンカレ予想なんです。
ここでまず、球である地球ではなく、南極から北極に掛けて穴の空いた地球を考えてみることにしましょう。原始人はまずロープの一端をある場所に結び、もう一端を船に載せて海へと出ます。そうして地球を一周してまた元の場所に戻ってくるとします。
さてここでロープの端っこを引っ張ってロープを回収できるかどうか考えてみましょう。今地球には南極から北極を貫く穴が空いていることに注意してください。ロープはその穴の中も通るのだから(地球を一周するというのが条件なので)、ロープの端っこを引っ張ってもロープを回収することが出来ないというのはすぐに分かると思います。
さて一方、僕らが住んでいる球形の地球の場合はどうでしょうか。同じく原始人がロープの一端をある場所に結び、地球を一周して元の場所に戻ってくるとしましょう。その場合、ロープの端っこを引っ張れば、ロープをすべて回収することが出来るというのは分かりますよね。
つまりこういうことです。
『地球を一周させたロープをすべて回収できるなら、地球は丸いと言えるだろう』
ポアンカレが考えたのは宇宙の形についてです。僕らは宇宙の外に出ることが出来ないから、外から見て宇宙の形を知ることは出来ない。地球にいる原始人と同じですね。でも、上記と同じように考えた時、同じようにロープを回収することが出来れば宇宙の形は丸いと言えるのではないか。
これが大雑把に言ったポアンカレ予想の概要です。この説明は非常に分かりやすかったので、前に別の本で読んだときにはよくわからなかった部分が非常にクリアになりました。
本書は、もちろんペレリマンを追うというのがメインの話ではありますが、それまでにポアンカレ予想に挑戦してきた様々な人々の話も書かれています。
その中で、これはすごいアプローチだなと思ったものを二つだけ。
一つは、高次元でのポアンカレ予想をまず解こうと考えた数学者。ポアンカレ予想は四次元の表面に関する予想なんだけど、まず五次元の表面、六次元の表面…という風に次元の高いポアンカレ予想を解こうという発想をしたわけです。しかもそれはものすごく簡単に証明できるんだそうです。まず高次元からという発想はすごいなと思いました。
そしてもう一つ。ポアンカレ予想では、「宇宙にロープを一周させてそのロープを回収出来れば宇宙は丸井と言えるはずだ」と言っているのだけど、ある数学者は、「じゃあもし宇宙が丸くないとしたらどんな形がありえるだろうか」という発想をしました。それが最終的に「幾何化予想」というものにまとめられ、宇宙はたとえどんな形であれ、それは必ず最大で八種類の断片から成り立っているはずだ、という主張をしました。この「幾何化予想」はポアンカレ予想を内包していて、幾何化予想が証明できればポアンカレ予想も証明できたことになる、ということが示されます。実際ペレリマンが証明したのがこの幾何化予想の方のようです。
すごいですよね。高次元という発想もすごいですけど、宇宙が丸いかどうかと聞かれているのに、じゃあ丸くなかったとしたらどんな形がありえるか、という発想はそうそう出来ないだろうと思います。実際この幾何化予想は、数学者に驚きをもって迎えられたそうです。この数学者はマジシャンと呼ばれるほど発想がすごいようです。
まあそんなわけで本書は、ポアンカレ予想の基本の基本という感じの本です。数学は全然得意じゃないけどポアンカレ予想はちょっと興味あるという人はまず本書を読みましょう。逆に、数学が得意だという人には物足りない作品だろうなと思います。僕は割と面白かったですけどね。ポアンカレ予想そのものの説明が非常に分かりやすくて助かりました。是非読んでみてください。
春日真人「100年の難問はなぜ解けたのか 天才数学者の光と影」
蛇神(今邑彩)
そろそろ内容に入ろうと思います。
新橋の老舗そば屋の若女将である倉橋日登美はある日どん底にたたき落とされることになる。住み込みで雇っていた少年に、父親と夫と息子を殺されてしまったのだ。
幼い娘と二人取り残され呆然とする日登美の元に、従兄と称する男がやってくる。彼は長野県の日の本村から来たといい、日登美の母が生まれたばかりの日登美を連れて村から失踪していたということを告げられる。顔も知らない母について何か分かるかもしれないと思って日の本村に行くことに決めるのだけど、どこでは大昔から歴然と続く古い因習に縛られた閉鎖的な空間であった…。
というような話です。
今邑彩というのは、たくさん著作がある割にほとんど品切れのものばかりで、書店の棚にはほとんど並んでいないでしょう。「よもつひらさか」という作品を読んでまあそこそこいいかもと思って、ちょっといろいろ読んでみようかなと思う作家ではあるんですけど、本作はちょっとあんまりダメでした。
山奥にあり、昔からの因習に縛られた閉鎖的な村、という非常に本格ミステリっぽい感じの舞台で、奇妙な祭りを中心として村の異常さが際立っていくというストーリーなんだけど、そこまで盛り上がるわけでもなく、まあ読めないことはないけどさほど面白くもない、という感じでした。
村の因習を存続させるという執念に囚われた人々の生き方は悲しいなと思ったし、その辺りの狂気はうまく描かれていたような気もしますが、いかんせんストーリーに厚みがないので取り立てて何か言うほどの部分はないなという感じがしました。日の本村には関わりたくないなと思いました。
ホラーはあんまり読みませんが、それでもホラーとしてもそこまで完成度は高くはないんじゃないかなという気がします。僕に合わなかっただけかもしれませんが、そんなに期待して読むような作品ではありません。
追記)amazonの評価は割と良いです。
今邑彩「蛇神」
新橋の老舗そば屋の若女将である倉橋日登美はある日どん底にたたき落とされることになる。住み込みで雇っていた少年に、父親と夫と息子を殺されてしまったのだ。
幼い娘と二人取り残され呆然とする日登美の元に、従兄と称する男がやってくる。彼は長野県の日の本村から来たといい、日登美の母が生まれたばかりの日登美を連れて村から失踪していたということを告げられる。顔も知らない母について何か分かるかもしれないと思って日の本村に行くことに決めるのだけど、どこでは大昔から歴然と続く古い因習に縛られた閉鎖的な空間であった…。
というような話です。
今邑彩というのは、たくさん著作がある割にほとんど品切れのものばかりで、書店の棚にはほとんど並んでいないでしょう。「よもつひらさか」という作品を読んでまあそこそこいいかもと思って、ちょっといろいろ読んでみようかなと思う作家ではあるんですけど、本作はちょっとあんまりダメでした。
山奥にあり、昔からの因習に縛られた閉鎖的な村、という非常に本格ミステリっぽい感じの舞台で、奇妙な祭りを中心として村の異常さが際立っていくというストーリーなんだけど、そこまで盛り上がるわけでもなく、まあ読めないことはないけどさほど面白くもない、という感じでした。
村の因習を存続させるという執念に囚われた人々の生き方は悲しいなと思ったし、その辺りの狂気はうまく描かれていたような気もしますが、いかんせんストーリーに厚みがないので取り立てて何か言うほどの部分はないなという感じがしました。日の本村には関わりたくないなと思いました。
ホラーはあんまり読みませんが、それでもホラーとしてもそこまで完成度は高くはないんじゃないかなという気がします。僕に合わなかっただけかもしれませんが、そんなに期待して読むような作品ではありません。
追記)amazonの評価は割と良いです。
今邑彩「蛇神」
2005年のロケットボーイズ(五十嵐貴久)
今日は、昨日は大変だったんですよ、という話を書こうと思います。
何度も書いていますが、僕は文庫と新書の担当をしているんですが、昨日は人を殺せそうなほど、まあつまり殺人的に忙しかったわけなんです。
とにかく、新刊出すぎ。
全国の文庫担当の皆様、昨日はなかなか大変じゃなかったでしたか?まあもちろん、昨日よりもさらにたくさんの新刊が出たこともありましたが、昨日の新刊の量もなかなかのものだったと思います。
文春文庫・幻冬舎文庫・ちくま文庫・早川文庫辺りの新刊がまとめて入ってきましたからね。これは厳しい。他にも、ロマンス系の文庫だとかだいわ文庫だとか細かなものもついてきて、新刊を出すのに一苦労でした。発売日が重なるのはまあ多少仕方ないとは言え、もう少しなんとかならないものでしょうかね。日によって新刊の量がまったく違うので、それによって仕事量も激変します。今日辺りはたぶんそんなに新刊は多くないと思うんだけどなぁ。
あと困ったのが、新書の創刊です。またかよ!って感じです。最近いろんな出版社が新書レーベルに参入してきて、比較的新しいところだと、小学館101新書とか朝日新書とかPHPビジネス新書とかがあるんだけど、新しいラインナップが加わりましたよ。今度はアフタヌーン新書、だそうです。マンガ雑誌のアフタヌーン発、らしいんだけど、これ売れないと思うんですよね。昔2ちゃんねる新書っていうのが出てたけど(今もあるのかな?ウチにはもう入ってこないけど)、あれと似たような雰囲気を感じます。創刊のラインナップが、
「僕秩プレミアム! 」「なぜ、腐女子は男尊女卑なのか? オタクの恋愛とセックス事情」「ヤリチン専門学校 ゼロ年代のモテ技術」「がっかり力」
という感じなんだけど、どうでしょう。僕は、売れないような気がします。というか僕は新書の売場をビジネスを中心にまとめているので、そこに置いても無理かなと。サブカル系の売場に置いたらまた違うかもしれませんけどね。
その創刊した新書に加えて、別の出版社の新書の新刊も大量にあって、これも出すのに一苦労でした。正直なところ、昨日はよく仕事が終わったな、という感じです(まあかなり残業しましたが。というか最近残業しないで仕事が終わることはないんですけどね)。
まあそりゃあ、入ってきたものは出すしかないわけで、まあそりゃあ頑張って出しますけど、あんなのはごくごくたまににして欲しいと思うのでした。
最近話題の「Ayuのデジデジ日記」はウチには入荷がありません。ネットのニュースで、初版分はすべて予約で埋まってしまったので、発売前に重版が決まった、というようなのを見た気がします。すごいですね。昨日もあるスタッフがお客さんに聞かれていたようですが、どこに行っても品切れだ、と言っていました。店頭にモノがないのに、渋谷でゲリライベントとかやってどうするんだ、とか思いましたけど。
あとたぶんそろそろ(今日かな?)、「スラムダンク「あれから10日後ー」完全版」が発売になります。さて売れますかどうか。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、一言で言ってしまえば高校生がキューブサットを作る、というストーリーです。
キューブサットとは何か。それは、10センチ四方の立方体で出来た人工衛星です。宇宙工学技術の底上げのために、このキューブサットを作るコンテストみたいなものが実際に開かれていて、大学や高校が参加しているんだそうです。
主人公は、文系なのにとある事情で工業高校に行かなくてはならなくなった高校生・梶屋信介(カジシン)。数学や物理はまったくダメ。授業も何を言ってるんだかさっぱり分からない。別の事情があって学校でも浮きまくっている状態で、毎日積もるほどの溜息をつきながら学校生活を送っている、そんな男です。
さてそんな彼が、これまたいろんな事情があってキューブサットを作らなくてはいけなくなった。キューブサットを作らないと退学、という事態に追い込まれたのだ。しかし、数学や物理の知識なんかカケラも持ち合わせていないカジシンに、んなこと出来るわけがない。
そこでやってくれる人間を探すことに奔走することになる。どうにかこうにか設計を引き受けてくれる人間を探し当て、そしてコンテストでもいい評価をもらったのだが、何の因果かカジシンはさらにキューブサット作りに励まなくてはいけない状況に追い込まれるのである。
何をやらせてもダメな幼馴染みのゴタンダ。同じく幼馴染みでパチスロのプロであるドラゴン、中学時代の元彼女の彩子と、その彩子に命令されるのが無上の喜びという変態大学生オーチャン、自分の能力に絶大な自信があって人を馬鹿にした尊大な態度しか取れないために嫌われている大先生、「ああ」と「おお」以外言葉を一切発しない翔さん、引退してはいるが町工場の一流技術者であるジジイと、現在は引きこもりの親父。引きこもった親父と離れてくらす母親。そんなトリッキーな面々で、すったもんだありながらキューブサット作りに励んでいくのだが…。
というような話です。
本書はキューブサットなんていう理系の素材が扱われていますが、難しいところなんてほぼありません。そもそも著者が文系の人みたいだし、主人公も数学や物理についての知識はゼロというのだから、なかなかすごい小説だと思います。結局主人公は将来、月に人類を送り込むというプロジェクトのリーダーになるんですが、しかしその時点でも数学や物理の知識は受付嬢よりないかもしれない、というレベル。なんで、キューブサットって何?物理とか数学とか全然分かんないんですけど、みたいな人でも全然問題なく楽しめる作品です。
本書を読んで僕は、大学時代にやっていた四大を思い出しました。四大とは何なのか?という部分については詳しく説明はしないけど、三か月以上に渡ってひたすら木を切ったりボンドでくっつけたりし続け、時には重いものを持って走り回り、しょっちゅう徹夜をし、金も吐き出し続けながら、皆で一つのものを作る、というような感じです。これを大学時代に計3回やりました。
本書で描かれるキューブサット作りと四大が非常に似てるなと感じたんですね。本書でも彼らは、別に誰のためになるでもなく、別に周囲に自慢できるわけでもないことのために、一日の休みもなく動き続け、金をかき集め続け、自分を限界まで追い込んでいくことになります。その気持ちが僕にはすごくよくわかる。僕らも四大で、周囲から見ればなんでこんなことを喜々としてやっているんだろう、というようなことをひたすらやり続けていました。もちろん、辛いこともたくさんありました。僕より辛い思いをした人もたくさんいたことでしょう。空中分解しそうになったこともあります。それでも皆、何だかんだ言って集まっては、大変な作業を日々こなしていくわけです。やっている当時は辛いこともたくさんあったでしょうが、今となっては本当にやってよかったと思います。別にその経験が何かに活かされているわけでもなんでもないんだけど、あの時あの空間にいられたことがよかった。僕の中ではずっと思い出深い記憶になることでしょう。もう今後僕の人生には、あれほど熱中できるような場は生まれないと思います。
本書でキューブサット作りに専念する面々は、正直言ってみんな変人で、しかもキューブサット作りに関わる部分で秀でている能力を持つ人間は本当にわずかです。キューブサット作りに関わる能力を持っているのは、筺体(外側の箱)を作る技術を持つジジイと、内部の設計を担当する大先生くらいなものでしょう(あと一人いるんだけど、まあこれは秘密です)。他の面々はさほどこれと言った能力を持っているわけではありません。彩子がパソコン関係に強いというくらいかな。
しかし、本書を読むと、この中の誰一人が欠けてもキューブサットは完成しなかっただろう、ロケットに載せて飛ばすことは出来なかっただろう、と断言できるんですね。何をやらせてもダメな男であるゴタンダでさえ、その存在価値を認められることになるわけです。
僕も大学時代にやってた四大では、まあ僕がいなくてもどうにでもなっただろうけど、でもいた方がよかったかなとは思っています。そんな風に思わせてくれる場所というのはそう多くはないと思うんで、よかったなと思います。
そもそも大学の研究室なんかが2年以上掛けてやることを三か月でやろうとしていたわけで(初めからそれを知っていたらやっていなかっただろうけど)、とにかくありとあらゆる部分で無茶があります。そういうキューブサットの技術的な側面の他にも、金銭面での問題も多数出てきます。こういう技術に関わらない部分に関してはカジシンが一手に引き受けてやっていくことになるんだけど、この金銭面の確保というのも本当に大変だったわけです。何せ、キューブサットをロケットに載せて飛ばすのに400万円掛かるんですからね。高校生に400万円揃えるのは、現実的には不可能。しかしそれを何とか潜り抜けて、彼らはプロジェクト完遂を目指すわけです。あらゆる部分で無茶苦茶だし、理系の視点で読んだらもしかしたらダメな部分も多々あるのかもしれないけど、面白い作品だと思います。
それにしても、これは五十嵐貴久の作品の感想では毎回書くんだけど、本当に上質なエンターテイメントを書く作家だなと思います。本書も、ただキューブサットを作るっていうだけの話なんだけど、ストーリーにきちんと波があるし、盛り上がる部分も多々ある。これはヤバいという場面をいくつも用意しては、それを解消するミラクルを発動させたり(しかも伏線がきちんとしているからトリッキーにはならない)、しかも何よりも、数学とか物理がまったく分からないという主人公の設定でここまでのストーリーを書けてしまうんだからすごいと思う。
本書は青春小説という分類でいいと思うんだけど、五十嵐貴久は本当にどんなタイプの小説でも一定の水準以上のものを書ける。デビュー作の「RIKA」はホラーだったし、「交渉人」はサスペンス、「誘拐」はミステリで、「TVJ」はちょっと無理がある分類かもだけど冒険、「年下の男の子」は恋愛だし、「1985年の軌跡」と本書は青春、で僕は読んでないけど「安政五年の大脱走」は時代ミステリと、本当に幅広い作品を書く。どれもずば抜けて面白いという作品にはならないけど、どんなジャンルも水準以上の作品だし、というかどれもエンターテイメントとしてものすごく面白いと思う。なかなかこういうオールラウンダーな作家というのはいないです。何でも書けるという意味で、非常に息の長い作家でいられるんじゃないかなと思ったりします。
本書は、毎日退屈だよ、生きてても楽しくないよ、変わらなきゃいけないかもしれないけどめんどくせぇよ、なんて思っている人に読んで欲しいですね。まあ本書を読んで何か変わるということはないかもしれないし、こんなん小説でしかありえねーよ、とか思うかもしれないけど、でもきっと彼らのことが羨ましくなるんじゃないかなと思います。僕も、また四大をやりたくなりました。正直、今やれって言われたらちょっと無理かもしれないけど。やっぱり学生の時の勢いみたいなものって必要ですよね。
まあそんなわけで、五十嵐貴久は非常に良質なエンターテイメントを書く作家です。本書に限らず、どの作品を読んでもまず外れることはないでしょう。本書は文庫で450ページを超える作品ですが、とにかく読みやすいのでスイスイ読めてしまうと思います。何か軽く読める小説を探している人にはうってつけです。是非読んでみてください。
五十嵐貴久「2005年のロケットボーイズ」
何度も書いていますが、僕は文庫と新書の担当をしているんですが、昨日は人を殺せそうなほど、まあつまり殺人的に忙しかったわけなんです。
とにかく、新刊出すぎ。
全国の文庫担当の皆様、昨日はなかなか大変じゃなかったでしたか?まあもちろん、昨日よりもさらにたくさんの新刊が出たこともありましたが、昨日の新刊の量もなかなかのものだったと思います。
文春文庫・幻冬舎文庫・ちくま文庫・早川文庫辺りの新刊がまとめて入ってきましたからね。これは厳しい。他にも、ロマンス系の文庫だとかだいわ文庫だとか細かなものもついてきて、新刊を出すのに一苦労でした。発売日が重なるのはまあ多少仕方ないとは言え、もう少しなんとかならないものでしょうかね。日によって新刊の量がまったく違うので、それによって仕事量も激変します。今日辺りはたぶんそんなに新刊は多くないと思うんだけどなぁ。
あと困ったのが、新書の創刊です。またかよ!って感じです。最近いろんな出版社が新書レーベルに参入してきて、比較的新しいところだと、小学館101新書とか朝日新書とかPHPビジネス新書とかがあるんだけど、新しいラインナップが加わりましたよ。今度はアフタヌーン新書、だそうです。マンガ雑誌のアフタヌーン発、らしいんだけど、これ売れないと思うんですよね。昔2ちゃんねる新書っていうのが出てたけど(今もあるのかな?ウチにはもう入ってこないけど)、あれと似たような雰囲気を感じます。創刊のラインナップが、
「僕秩プレミアム! 」「なぜ、腐女子は男尊女卑なのか? オタクの恋愛とセックス事情」「ヤリチン専門学校 ゼロ年代のモテ技術」「がっかり力」
という感じなんだけど、どうでしょう。僕は、売れないような気がします。というか僕は新書の売場をビジネスを中心にまとめているので、そこに置いても無理かなと。サブカル系の売場に置いたらまた違うかもしれませんけどね。
その創刊した新書に加えて、別の出版社の新書の新刊も大量にあって、これも出すのに一苦労でした。正直なところ、昨日はよく仕事が終わったな、という感じです(まあかなり残業しましたが。というか最近残業しないで仕事が終わることはないんですけどね)。
まあそりゃあ、入ってきたものは出すしかないわけで、まあそりゃあ頑張って出しますけど、あんなのはごくごくたまににして欲しいと思うのでした。
最近話題の「Ayuのデジデジ日記」はウチには入荷がありません。ネットのニュースで、初版分はすべて予約で埋まってしまったので、発売前に重版が決まった、というようなのを見た気がします。すごいですね。昨日もあるスタッフがお客さんに聞かれていたようですが、どこに行っても品切れだ、と言っていました。店頭にモノがないのに、渋谷でゲリライベントとかやってどうするんだ、とか思いましたけど。
あとたぶんそろそろ(今日かな?)、「スラムダンク「あれから10日後ー」完全版」が発売になります。さて売れますかどうか。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、一言で言ってしまえば高校生がキューブサットを作る、というストーリーです。
キューブサットとは何か。それは、10センチ四方の立方体で出来た人工衛星です。宇宙工学技術の底上げのために、このキューブサットを作るコンテストみたいなものが実際に開かれていて、大学や高校が参加しているんだそうです。
主人公は、文系なのにとある事情で工業高校に行かなくてはならなくなった高校生・梶屋信介(カジシン)。数学や物理はまったくダメ。授業も何を言ってるんだかさっぱり分からない。別の事情があって学校でも浮きまくっている状態で、毎日積もるほどの溜息をつきながら学校生活を送っている、そんな男です。
さてそんな彼が、これまたいろんな事情があってキューブサットを作らなくてはいけなくなった。キューブサットを作らないと退学、という事態に追い込まれたのだ。しかし、数学や物理の知識なんかカケラも持ち合わせていないカジシンに、んなこと出来るわけがない。
そこでやってくれる人間を探すことに奔走することになる。どうにかこうにか設計を引き受けてくれる人間を探し当て、そしてコンテストでもいい評価をもらったのだが、何の因果かカジシンはさらにキューブサット作りに励まなくてはいけない状況に追い込まれるのである。
何をやらせてもダメな幼馴染みのゴタンダ。同じく幼馴染みでパチスロのプロであるドラゴン、中学時代の元彼女の彩子と、その彩子に命令されるのが無上の喜びという変態大学生オーチャン、自分の能力に絶大な自信があって人を馬鹿にした尊大な態度しか取れないために嫌われている大先生、「ああ」と「おお」以外言葉を一切発しない翔さん、引退してはいるが町工場の一流技術者であるジジイと、現在は引きこもりの親父。引きこもった親父と離れてくらす母親。そんなトリッキーな面々で、すったもんだありながらキューブサット作りに励んでいくのだが…。
というような話です。
本書はキューブサットなんていう理系の素材が扱われていますが、難しいところなんてほぼありません。そもそも著者が文系の人みたいだし、主人公も数学や物理についての知識はゼロというのだから、なかなかすごい小説だと思います。結局主人公は将来、月に人類を送り込むというプロジェクトのリーダーになるんですが、しかしその時点でも数学や物理の知識は受付嬢よりないかもしれない、というレベル。なんで、キューブサットって何?物理とか数学とか全然分かんないんですけど、みたいな人でも全然問題なく楽しめる作品です。
本書を読んで僕は、大学時代にやっていた四大を思い出しました。四大とは何なのか?という部分については詳しく説明はしないけど、三か月以上に渡ってひたすら木を切ったりボンドでくっつけたりし続け、時には重いものを持って走り回り、しょっちゅう徹夜をし、金も吐き出し続けながら、皆で一つのものを作る、というような感じです。これを大学時代に計3回やりました。
本書で描かれるキューブサット作りと四大が非常に似てるなと感じたんですね。本書でも彼らは、別に誰のためになるでもなく、別に周囲に自慢できるわけでもないことのために、一日の休みもなく動き続け、金をかき集め続け、自分を限界まで追い込んでいくことになります。その気持ちが僕にはすごくよくわかる。僕らも四大で、周囲から見ればなんでこんなことを喜々としてやっているんだろう、というようなことをひたすらやり続けていました。もちろん、辛いこともたくさんありました。僕より辛い思いをした人もたくさんいたことでしょう。空中分解しそうになったこともあります。それでも皆、何だかんだ言って集まっては、大変な作業を日々こなしていくわけです。やっている当時は辛いこともたくさんあったでしょうが、今となっては本当にやってよかったと思います。別にその経験が何かに活かされているわけでもなんでもないんだけど、あの時あの空間にいられたことがよかった。僕の中ではずっと思い出深い記憶になることでしょう。もう今後僕の人生には、あれほど熱中できるような場は生まれないと思います。
本書でキューブサット作りに専念する面々は、正直言ってみんな変人で、しかもキューブサット作りに関わる部分で秀でている能力を持つ人間は本当にわずかです。キューブサット作りに関わる能力を持っているのは、筺体(外側の箱)を作る技術を持つジジイと、内部の設計を担当する大先生くらいなものでしょう(あと一人いるんだけど、まあこれは秘密です)。他の面々はさほどこれと言った能力を持っているわけではありません。彩子がパソコン関係に強いというくらいかな。
しかし、本書を読むと、この中の誰一人が欠けてもキューブサットは完成しなかっただろう、ロケットに載せて飛ばすことは出来なかっただろう、と断言できるんですね。何をやらせてもダメな男であるゴタンダでさえ、その存在価値を認められることになるわけです。
僕も大学時代にやってた四大では、まあ僕がいなくてもどうにでもなっただろうけど、でもいた方がよかったかなとは思っています。そんな風に思わせてくれる場所というのはそう多くはないと思うんで、よかったなと思います。
そもそも大学の研究室なんかが2年以上掛けてやることを三か月でやろうとしていたわけで(初めからそれを知っていたらやっていなかっただろうけど)、とにかくありとあらゆる部分で無茶があります。そういうキューブサットの技術的な側面の他にも、金銭面での問題も多数出てきます。こういう技術に関わらない部分に関してはカジシンが一手に引き受けてやっていくことになるんだけど、この金銭面の確保というのも本当に大変だったわけです。何せ、キューブサットをロケットに載せて飛ばすのに400万円掛かるんですからね。高校生に400万円揃えるのは、現実的には不可能。しかしそれを何とか潜り抜けて、彼らはプロジェクト完遂を目指すわけです。あらゆる部分で無茶苦茶だし、理系の視点で読んだらもしかしたらダメな部分も多々あるのかもしれないけど、面白い作品だと思います。
それにしても、これは五十嵐貴久の作品の感想では毎回書くんだけど、本当に上質なエンターテイメントを書く作家だなと思います。本書も、ただキューブサットを作るっていうだけの話なんだけど、ストーリーにきちんと波があるし、盛り上がる部分も多々ある。これはヤバいという場面をいくつも用意しては、それを解消するミラクルを発動させたり(しかも伏線がきちんとしているからトリッキーにはならない)、しかも何よりも、数学とか物理がまったく分からないという主人公の設定でここまでのストーリーを書けてしまうんだからすごいと思う。
本書は青春小説という分類でいいと思うんだけど、五十嵐貴久は本当にどんなタイプの小説でも一定の水準以上のものを書ける。デビュー作の「RIKA」はホラーだったし、「交渉人」はサスペンス、「誘拐」はミステリで、「TVJ」はちょっと無理がある分類かもだけど冒険、「年下の男の子」は恋愛だし、「1985年の軌跡」と本書は青春、で僕は読んでないけど「安政五年の大脱走」は時代ミステリと、本当に幅広い作品を書く。どれもずば抜けて面白いという作品にはならないけど、どんなジャンルも水準以上の作品だし、というかどれもエンターテイメントとしてものすごく面白いと思う。なかなかこういうオールラウンダーな作家というのはいないです。何でも書けるという意味で、非常に息の長い作家でいられるんじゃないかなと思ったりします。
本書は、毎日退屈だよ、生きてても楽しくないよ、変わらなきゃいけないかもしれないけどめんどくせぇよ、なんて思っている人に読んで欲しいですね。まあ本書を読んで何か変わるということはないかもしれないし、こんなん小説でしかありえねーよ、とか思うかもしれないけど、でもきっと彼らのことが羨ましくなるんじゃないかなと思います。僕も、また四大をやりたくなりました。正直、今やれって言われたらちょっと無理かもしれないけど。やっぱり学生の時の勢いみたいなものって必要ですよね。
まあそんなわけで、五十嵐貴久は非常に良質なエンターテイメントを書く作家です。本書に限らず、どの作品を読んでもまず外れることはないでしょう。本書は文庫で450ページを超える作品ですが、とにかく読みやすいのでスイスイ読めてしまうと思います。何か軽く読める小説を探している人にはうってつけです。是非読んでみてください。
五十嵐貴久「2005年のロケットボーイズ」
雨ン中の、らくだ(立川志らく)
今日は、本の売れ方について書いてみようかなと思います。
普段僕は文庫と新書の担当をしているんですけど、売れ方を見ていると気づくことがあります。ただこれは、他のどの店でも通用するような話なのかは分かりません。僕のいる店だけの特徴という可能性もないではないと思うので、あまり一般化しないでください。まあそれは、この書店の話で書いているどの話についてもそうなんですが。
まず、特に文庫に多いですが、一時ものすごく話題になる作品というのがあります。映画化だったり、あるいはどこかの書店が仕掛けたりというようなことだったりしますが、そういうある一時期にものすごく売れた作品というのは、その後めっきり売れなくなるものが多いです。棚に差して置いてももちろん売れないし、もう一度平積みにしても売れない、ということが多い。
映画化作品で一番印象が強いのが、福井晴敏の「亡国のイージス」「終戦のローレライ」です。これは映画になった時はもうハチャメチャに売れましたが、今はもう全然ダメです。棚でも全然売れないのでもう長いこと置いていないし、最近文春文庫から「オペレーションローズダスト」が出たんで「亡国のイージス」を隣に置いてみたんだけど、まったく動かない。僕の中では、「亡国のイージス」と「終戦のローレライ」は、これまでの読書人生の中でも5本の指に入ると思っている傑作なんで、ここまで売れなくなってしまうというのが非常に残念です。
また、書店の仕掛けから火がついた作品だと、志水辰夫の「行きずりの街」や安達千夏の「モルヒネ」なんかがありますが、これらもやっぱりもう売れないです。元々売れていなかった作品なんで、売れなくなったとは言っても昔の状態に戻ったということですけど、やっぱり尋常ではなく売れていた時期があったわけで、それを考えるとこの急激な落ち込みにはビックリします。
一時話題になって売れるというのは決して悪いことではないとは思うんだけど、でも僕の経験上それはほぼ長続きしません。文芸書であれば、いずれ文庫になってしまうのだから短期間で話題になって出来るだけたくさん売れる方がいいでしょうが、文庫の場合は長く売ることが目標になってくるのではないかなと思います。その場合、短期間で話題になって売れまくって消費されてしまうと、その後まったく売れないという状態になってしまうので、文庫の存在意義が薄くなってしまうのではないかと思います。
だから森博嗣なんかはうまいと思うんです。森博嗣は、確かに新刊が出た時は割とスピーディに売れていく作家ですが、しかし大きく話題になるとかいうことはありません。でも、棚でずっと売れるんです。未だに回転がいい。一時ものすごく売れて、その後文庫の棚から消えてしまうよりは、長く売れ続けて棚にずっと残っていくということの方が重要だろうなと思います。
売れ方で気になるというと、特別なことは何もしていないのにずっと売れ続けている本というものがあります。ひと月に売れる冊数はそこまで激しいものではないけど、でも1年とか2年とかずっと売れ続けているから売場から外せない、というものですね。こういう本が割と多いんです。
伊坂幸太郎の作品なんかは全点をもう2年近く平積みしていると思うし、森博嗣の「スカイクロラ」シリーズは、「スカイ・クロラ」が文庫になった時から一度も売場から外したことがありません。「スカイ・クロラ」の累計の販売数は、紀伊国屋の本店の数字に匹敵すると営業さんに言われたこともあります。東野圭吾の「時生」は、「探偵ガリレオ」がテレビドラマになった時からずっと平積みにしていますが、未だに毎月20冊以上はコンスタントに売れています。雑学系だと、「子どもの心のコーチング」という本が大ヒットしたし、「知っておきたい日本の仏教」「知っておきたい日本の神様」なんて本もずっと売れています。こういうずっと売れる作品をいかに発掘するかというのが僕の一つの目標になっているんですけど、こういういつまでも売れ行きが落ちない本というのはすごいものだと思います。
最後に気になる売れ方は、一旦店内在庫が品切れになってしまったものです。そういう場合、また売れ始めるまでに少々時間が掛かることが多いです。
例えば最近では、集英社新書の「共働き子育て入門」という本があります。僕はこの本を去年かなり売ったんですけど、2、3月辺りで一旦出版社の方で品切れてしまって、店頭の在庫も切れてしまったことがあります。幸い出版社が重版してくれたようなので4月にまた入荷したんですけど、まだ以前ほどの売れ行きを取り戻せていません。こういうことはまあよくあって、だから店内在庫を切らしてはいけないとうまいこと発注しなくてはいけないんだけど、なかなか難しいものです。
まあそんなわけで、とりとめもなく売れ方の話を書きました。何にせよ本屋としては、売れるものを売るしかない、ということなんですけどね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、立川談志の弟子であり、談志から「俺の狂気を受け継いでいる」と言わしめた立川志らくの、落語との出会いから現在に至るまでを立川談志との関わりをメインに据えながら描いた作品です。まあ要するに、立川談春の「赤めだか」みたいな作品です。冒頭で志らくもそう言っています。本書には「青めだか」なんて副題があるとかなんとか適当なことを言っていますけど。
志らくというのは、高田文夫に見出された才能なんです。大学の落研にいた志らくは、そのOBだった高田文夫に見込まれ、高田文夫自身も入門している立川流と引き合わせてくれます。立川談志は、高田文夫が面白いというなら引き受けようと言って弟子として受け入れます。
前座なのに前座らしいことが一切できず失敗ばかりして師匠を怒らせ、師匠の好きなものを好きになろうとして努力していたら周りの弟子に嫌われ、師匠に築地に修行に行けと言われて嫌だと答えたことが伝説になり、と入門当時からなかなか破格の存在だったようです。
しかし、師匠の好きな映画や歌謡曲を心底好きになり、師匠と同じ価値観を共有出来ていると確信できている志らくは、師匠の落語を間近で見てきたという自負もあり、師匠の一番の理解者だと自信を持っています。師匠と価値観を共有しているという点では、師匠からのお墨付きもあります。周囲からも大いに期待されている存在です。
しかしその人生は決して平坦なものではありませんでした。ぎっくり腰になったり、テレビでブレイクしてアイドルみたいになったはいいけど、誰も真面目に落語を聞きにきてくれなくなったり、そのファンを追い払って新たにシネマ落語を作り始めるも初めは評判がよくなかったり、その後映画を撮るんだけどこれで大失敗し、映画のための練習として始めた芝居が当たったけど、そのせいで落語が疎かになったりと、なかなか苦労して今の場所にたどり着いています。
近代落語中興の祖と言われる立川談志。この人を超える落語家は出ないと言われているようですが、しかしその壇志から、「俺のようになれ、そして俺を超えていけ」と言われる男。そんな男の自叙伝です。
全体的にはもうまるっきり「赤めだか」と雰囲気は同じです。どうして落語家になろうと思ったのか、何故立川談志の弟子になったのか、前座時代の失敗、それからいかにして落語家として精進していったのか、立川談志との関わり、などなど、本当に「青めだか」というタイトルでもいいかもしれないと思える作品でした。
まあ似てるとは言え、やはりタイプの違う二人が書いた作品。「赤めだか」も面白かったですが、本書もまた面白かったです。
立川志らくと談春は仲がいいようです。が、昔はそうでもなかったようです。確かに「赤めだか」の方でも、志らくが築地での修業を断ったという話を聞いて壇春がムカついたというような話があった気がします。また本書でも、一緒にテレビ番組に出ていて、それが原因でちょっと険悪な感じになってしまった、みたいなことが書いてありました。兄弟子である談春を差し置いて志らくが先に真打ちになってしまった、という部分もあるでしょうし。それでもいまではよきライバルとして互いに切磋琢磨しているようです。
一般には、「努力の談春、天才の志らく」と言われているようですが、志らくの側からすると違うみたいです。志らくは小心者で何かにつけて心配なんだけど、談春はそんなことはない。テレビのコントでも、志らくは必死で練習するんだけど、談春はへいちゃらだという感じでやらない。一度立川談春の落語を聞きに行ったことがありますが、その時の印象では、確かに豪胆というか動じない人っぽいなぁという感じはしました。
弟子というのは基本的に師匠を惚れ抜くものなんでしょうが、志らくは本当に突き抜けているという感じがしました。師匠と弟子というのは価値観の共有がなければ意味がない、と断言し、師匠と価値観を共有するために師匠が好きなものなら何でも好きになろうと思うような人間です。そのお陰もあって、師匠からお前は俺の狂気を受け継いでいると言われるほど価値観を共有することが出来るまでになったわけです。すごいものだなと思います。たぶん僕には出来ないですね。
志らくは映画評論家としても評価が高いようですが、映画監督としてはもう最低だったようです。最終的に四本撮ったようですが、周囲からはどれも駄作という評価。「映画さえ撮らなければ志らくはいい」と言われるくらいだったようです。やっぱり何でも出来るという風にはいかないということなんでしょうね。
本書を読んで思ったのは、立川談志の落語を生で聞きにいかないと後悔するんじゃないかっていうこと。だって、立川談志以上の落語家は今後出てこないかもしれない、と言われているような人なんです。そんな人と同時代に生きているのに生で聞きにいかないというのはものすごく損しているんじゃないかという気がしてくるんです。機会があったら聞きに行ってみたいですけど、どうなりますかねぇ。
まあそんなわけで、「赤めだか」を読んで面白いと思ったらこちらもどうぞ。どちらの作品も、落語にさほど興味がなくても十分楽しめる作品だと思います。是非読んでみてください。
立川志らく「雨ン中の、らくだ」
普段僕は文庫と新書の担当をしているんですけど、売れ方を見ていると気づくことがあります。ただこれは、他のどの店でも通用するような話なのかは分かりません。僕のいる店だけの特徴という可能性もないではないと思うので、あまり一般化しないでください。まあそれは、この書店の話で書いているどの話についてもそうなんですが。
まず、特に文庫に多いですが、一時ものすごく話題になる作品というのがあります。映画化だったり、あるいはどこかの書店が仕掛けたりというようなことだったりしますが、そういうある一時期にものすごく売れた作品というのは、その後めっきり売れなくなるものが多いです。棚に差して置いてももちろん売れないし、もう一度平積みにしても売れない、ということが多い。
映画化作品で一番印象が強いのが、福井晴敏の「亡国のイージス」「終戦のローレライ」です。これは映画になった時はもうハチャメチャに売れましたが、今はもう全然ダメです。棚でも全然売れないのでもう長いこと置いていないし、最近文春文庫から「オペレーションローズダスト」が出たんで「亡国のイージス」を隣に置いてみたんだけど、まったく動かない。僕の中では、「亡国のイージス」と「終戦のローレライ」は、これまでの読書人生の中でも5本の指に入ると思っている傑作なんで、ここまで売れなくなってしまうというのが非常に残念です。
また、書店の仕掛けから火がついた作品だと、志水辰夫の「行きずりの街」や安達千夏の「モルヒネ」なんかがありますが、これらもやっぱりもう売れないです。元々売れていなかった作品なんで、売れなくなったとは言っても昔の状態に戻ったということですけど、やっぱり尋常ではなく売れていた時期があったわけで、それを考えるとこの急激な落ち込みにはビックリします。
一時話題になって売れるというのは決して悪いことではないとは思うんだけど、でも僕の経験上それはほぼ長続きしません。文芸書であれば、いずれ文庫になってしまうのだから短期間で話題になって出来るだけたくさん売れる方がいいでしょうが、文庫の場合は長く売ることが目標になってくるのではないかなと思います。その場合、短期間で話題になって売れまくって消費されてしまうと、その後まったく売れないという状態になってしまうので、文庫の存在意義が薄くなってしまうのではないかと思います。
だから森博嗣なんかはうまいと思うんです。森博嗣は、確かに新刊が出た時は割とスピーディに売れていく作家ですが、しかし大きく話題になるとかいうことはありません。でも、棚でずっと売れるんです。未だに回転がいい。一時ものすごく売れて、その後文庫の棚から消えてしまうよりは、長く売れ続けて棚にずっと残っていくということの方が重要だろうなと思います。
売れ方で気になるというと、特別なことは何もしていないのにずっと売れ続けている本というものがあります。ひと月に売れる冊数はそこまで激しいものではないけど、でも1年とか2年とかずっと売れ続けているから売場から外せない、というものですね。こういう本が割と多いんです。
伊坂幸太郎の作品なんかは全点をもう2年近く平積みしていると思うし、森博嗣の「スカイクロラ」シリーズは、「スカイ・クロラ」が文庫になった時から一度も売場から外したことがありません。「スカイ・クロラ」の累計の販売数は、紀伊国屋の本店の数字に匹敵すると営業さんに言われたこともあります。東野圭吾の「時生」は、「探偵ガリレオ」がテレビドラマになった時からずっと平積みにしていますが、未だに毎月20冊以上はコンスタントに売れています。雑学系だと、「子どもの心のコーチング」という本が大ヒットしたし、「知っておきたい日本の仏教」「知っておきたい日本の神様」なんて本もずっと売れています。こういうずっと売れる作品をいかに発掘するかというのが僕の一つの目標になっているんですけど、こういういつまでも売れ行きが落ちない本というのはすごいものだと思います。
最後に気になる売れ方は、一旦店内在庫が品切れになってしまったものです。そういう場合、また売れ始めるまでに少々時間が掛かることが多いです。
例えば最近では、集英社新書の「共働き子育て入門」という本があります。僕はこの本を去年かなり売ったんですけど、2、3月辺りで一旦出版社の方で品切れてしまって、店頭の在庫も切れてしまったことがあります。幸い出版社が重版してくれたようなので4月にまた入荷したんですけど、まだ以前ほどの売れ行きを取り戻せていません。こういうことはまあよくあって、だから店内在庫を切らしてはいけないとうまいこと発注しなくてはいけないんだけど、なかなか難しいものです。
まあそんなわけで、とりとめもなく売れ方の話を書きました。何にせよ本屋としては、売れるものを売るしかない、ということなんですけどね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、立川談志の弟子であり、談志から「俺の狂気を受け継いでいる」と言わしめた立川志らくの、落語との出会いから現在に至るまでを立川談志との関わりをメインに据えながら描いた作品です。まあ要するに、立川談春の「赤めだか」みたいな作品です。冒頭で志らくもそう言っています。本書には「青めだか」なんて副題があるとかなんとか適当なことを言っていますけど。
志らくというのは、高田文夫に見出された才能なんです。大学の落研にいた志らくは、そのOBだった高田文夫に見込まれ、高田文夫自身も入門している立川流と引き合わせてくれます。立川談志は、高田文夫が面白いというなら引き受けようと言って弟子として受け入れます。
前座なのに前座らしいことが一切できず失敗ばかりして師匠を怒らせ、師匠の好きなものを好きになろうとして努力していたら周りの弟子に嫌われ、師匠に築地に修行に行けと言われて嫌だと答えたことが伝説になり、と入門当時からなかなか破格の存在だったようです。
しかし、師匠の好きな映画や歌謡曲を心底好きになり、師匠と同じ価値観を共有出来ていると確信できている志らくは、師匠の落語を間近で見てきたという自負もあり、師匠の一番の理解者だと自信を持っています。師匠と価値観を共有しているという点では、師匠からのお墨付きもあります。周囲からも大いに期待されている存在です。
しかしその人生は決して平坦なものではありませんでした。ぎっくり腰になったり、テレビでブレイクしてアイドルみたいになったはいいけど、誰も真面目に落語を聞きにきてくれなくなったり、そのファンを追い払って新たにシネマ落語を作り始めるも初めは評判がよくなかったり、その後映画を撮るんだけどこれで大失敗し、映画のための練習として始めた芝居が当たったけど、そのせいで落語が疎かになったりと、なかなか苦労して今の場所にたどり着いています。
近代落語中興の祖と言われる立川談志。この人を超える落語家は出ないと言われているようですが、しかしその壇志から、「俺のようになれ、そして俺を超えていけ」と言われる男。そんな男の自叙伝です。
全体的にはもうまるっきり「赤めだか」と雰囲気は同じです。どうして落語家になろうと思ったのか、何故立川談志の弟子になったのか、前座時代の失敗、それからいかにして落語家として精進していったのか、立川談志との関わり、などなど、本当に「青めだか」というタイトルでもいいかもしれないと思える作品でした。
まあ似てるとは言え、やはりタイプの違う二人が書いた作品。「赤めだか」も面白かったですが、本書もまた面白かったです。
立川志らくと談春は仲がいいようです。が、昔はそうでもなかったようです。確かに「赤めだか」の方でも、志らくが築地での修業を断ったという話を聞いて壇春がムカついたというような話があった気がします。また本書でも、一緒にテレビ番組に出ていて、それが原因でちょっと険悪な感じになってしまった、みたいなことが書いてありました。兄弟子である談春を差し置いて志らくが先に真打ちになってしまった、という部分もあるでしょうし。それでもいまではよきライバルとして互いに切磋琢磨しているようです。
一般には、「努力の談春、天才の志らく」と言われているようですが、志らくの側からすると違うみたいです。志らくは小心者で何かにつけて心配なんだけど、談春はそんなことはない。テレビのコントでも、志らくは必死で練習するんだけど、談春はへいちゃらだという感じでやらない。一度立川談春の落語を聞きに行ったことがありますが、その時の印象では、確かに豪胆というか動じない人っぽいなぁという感じはしました。
弟子というのは基本的に師匠を惚れ抜くものなんでしょうが、志らくは本当に突き抜けているという感じがしました。師匠と弟子というのは価値観の共有がなければ意味がない、と断言し、師匠と価値観を共有するために師匠が好きなものなら何でも好きになろうと思うような人間です。そのお陰もあって、師匠からお前は俺の狂気を受け継いでいると言われるほど価値観を共有することが出来るまでになったわけです。すごいものだなと思います。たぶん僕には出来ないですね。
志らくは映画評論家としても評価が高いようですが、映画監督としてはもう最低だったようです。最終的に四本撮ったようですが、周囲からはどれも駄作という評価。「映画さえ撮らなければ志らくはいい」と言われるくらいだったようです。やっぱり何でも出来るという風にはいかないということなんでしょうね。
本書を読んで思ったのは、立川談志の落語を生で聞きにいかないと後悔するんじゃないかっていうこと。だって、立川談志以上の落語家は今後出てこないかもしれない、と言われているような人なんです。そんな人と同時代に生きているのに生で聞きにいかないというのはものすごく損しているんじゃないかという気がしてくるんです。機会があったら聞きに行ってみたいですけど、どうなりますかねぇ。
まあそんなわけで、「赤めだか」を読んで面白いと思ったらこちらもどうぞ。どちらの作品も、落語にさほど興味がなくても十分楽しめる作品だと思います。是非読んでみてください。
立川志らく「雨ン中の、らくだ」
明日の広告 変化した消費者とコミュニケーションする方法(佐藤尚之)
さて本日二つ目。割と時間がなくなってきたのでなるべく急ぎ目に。
というわけで今回は、レジにやってくる親子連れの話を書こうかなと思います。
小学生とか中学生ぐらいの子供が母親なんかと一緒に買い物に来てる時、いつも気になってしまうやり取りがあります。でも思い返してみると、もしかしたら自分もそうだったのかもしれないなぁとも思うんですけど。
子供が買いたいものをレジに持って来て、母親は近くにいるという状況。僕が例えば「カバー掛けますか?」と子供に聞くと、子供はとりあえず母親の方を見るんです。そして母親が「カバー掛けるの?」と子供に聞く。子供は母親に向かって「うん、掛ける」と答える。そして母親が僕に向かって、「カバーお願いします」と伝えるわけです。
これは非常によくあるやり取りなんだけど、いつも気になってしまいます。僕としては子供に直接話しかけているつもりなんだけど、子供は僕に直接返事をくれない。一端母親に返事を迂回するという形で返すんです。
まあでも分からないでもないです。僕も昔は(というか今でもですが)引っ込み思案な人間だったんで、、同じようなシチュエーションだったら同じことをしていたかもしれません(あんまり覚えていないんですけど)。ただ自分が接客する側に回ってみると、やっぱり不思議なやり取りだよなぁという感じがします。まあ別に不都合があるわけではないんで全然問題ないんだけど、でも時々高校生ぐらいの人でも同じような光景を目にすることがあります。おいおい、高校生は自分でちゃんと返事しようよ、と突っ込みたくなります。
それとは対象的にものすごく元気に返事をしてくれる子供もいたりするんで、まあ面白いとは思いますね。あんまり子供は好きになれないんですけど。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、正確には覚えてないんですけど、どこかの書店チェーン(青山ブックセンターだったと思うんだけど忘れた)の2008年最も売れた新書として一時話題になった気がします。あ、違うかも。青山ブックセンターが、2008年最も面白い本(?)に選んだ、みたいな感じだったかな。まあちょっと忘れちゃったけど、そんな感じの作品です。
僕が本書を読もうと思ったきっかけは、広島で書店員をしている方の「尾道坂道書店事件簿」という作品で紹介されていたからです。その本の著者は、勤めている書店の社長から本書を勧められたそうで、以後折に触れて読み返しているということでした。
本書の著者は広告の世界でクリエイティブ・ディレクターをしている人です。広告の世界で有名な人なのかどうかは分かりませんが、でも「スラムダンク1億冊感謝キャンペーン」を手がけた人らしいんで、きっと有名な人なんでしょう。インターネットが始まった頃にホームページを作り、そこで書いていた文章が「さとなお」という名前で何冊か本になっているようです。
本書は、タイトルや著者の略歴なんかから「広告」についての話だと思われるでしょう。いや、まあその認識は基本的に間違ってはいないんですけど、もっと本質的な部分として「消費者」の話だと言った方が正確です。本書では、昔と比べていかに消費者が変化したのか、という部分に力点を置いて話を進めています。これまで広告というものと関わってきた経験を踏まえて、どれだけ大幅に消費者が変化したのか、ということを捉えています。そしてその中で、広告はいかに変わらなければいけないかという提言もしている、という感じです。
なので本書は、「消費者」に関わるすべての人にとって読む価値のある本でしょう。僕が書店で本を売っている人間ですが、僕も「消費者」と直接関わっている人間なのでなるほどと思わせる部分がたくさんありました。本書で読んだことを実際売場作りや接客なんかに活かせるかどうかはいろいろ考えないといけないでしょうが、「消費者が変わったのだから今までのやり方ではダメだ」ということはものすごくよく伝わりました。
本書はまず冒頭で、ラブレターの比喩を使って消費者がいかに変化したのか、という説明がされます。よくある比喩なんでしょうが、僕のように広告に関して無知な人間には分かりやすい説明でした。昔は書いたラブレターが相手に渡りやすかったし、他に楽しいことが少なかったのでラブレターは喜ばれたし、渡したラブレターをちゃんと読んでくれていた、つまりモテモテの状態だった。でも今は、ラブレターが届きにくくなったし、楽しいことがたくさんあってラブレターが届きにくくなったし、読んでくれたとしても口説き文句を信じてくれなくなったし、さらにラブレターを友達と仔細に検討し友達に判断を任せたりする、という風に変わってきています。広告はこの変化に対応できていますか?という問題提起。
じゃあどうすればいいのかという部分で著者は、コミュニケーション・デザインの重要さを説くことになります。消費者がどう変化したのか、という点と合わせて、このコミュニケーション・デザインの重要さというのも本書の柱になっています。
コミュニケーション・デザインというのは、簡単に言ってしまえば「消費者本位」ということです(たぶん。違ってたらごめんなさい)。これまでもマーケティングなどはしていただろうけど、しかしコミュニケーション・デザインとは元々の発想が違う。これまでは、「今度の広告のターゲットは○○だ」→「だからとりあえず○○についてのマーケティングやリサーチをしよう」という感じだったけど、コミュニケーション・デザインの場合違う。コミュニケーション・デザインの場合は、「この商品はどんな人が買いたがっているのか」「消費者はこの商品をどんな風に使うだろうか」「消費者は何をしたら喜んでくれるだろうか」というところから入るのだ。つまり、ラブレターを渡す相手である消費者について徹底的に研究をするのだ。そしてそれに合わせて広告をデザインする。
本書ではこんな例が載っていた。ある商品を高校生向けにアピールするという話で、じゃあ携帯をメインにしようということになった。いろんなリサーチ結果を見ても、高校生に最もアピールするのは携帯だというのは明白だったからだ。携帯を使った広告の準備を進めていた。
しかし他の企画のために高校生に話を聞く機会があった時、ついでに携帯についての質問も加えたところ、高校生が実は携帯をあまり使っていないということが分かったという。メインはメールで、あとは一部の無料コンテンツのみ。女子学生はともかく、男子学生はほとんど使っていないということが判明したという。一番接触するメディアを聞くとコンビニの店頭だということが判明したので、急遽やり直しを決めた、という話である。
これまでだったら、型どおりのマーケティングで通用したかもしれない。F1層M1層なんていう括りで通用したかもしれない。でももうそんな時代は終わった。ラブレターが届きにくくなったんだから、確実に届かせるために消費者についてとことんまで調べるのがまず先決。そこでの結果を元にどういう風にアピールするのかを決めていく。そういうようなやり方がコミュニケーション・デザインだ。
その後著者は、自らが手がけた「スラムダンク一億冊突破感謝キャンペーン」を例に、さらにコミュニケーションデザインの重要さについて説きます。このキャンペーンは確かに特殊な例かもしれないけど、でもコミュニケーション・デザインの重要さが広告の素人の僕にでも分かった気になれるようないい例だと思いました。
6章と7章は広告の技術的な話が多いので、僕のような広告の世界にいない人間にはちょっと興味の薄れる感じでしたが、しかし「コミュニケーション・デザインは既存のマスメディアをもう一度魅力的にする」という話は面白いと思いました。
最近、新聞広告やテレビCMがヤバイというような話がありますが、著者は「コミュニケーション・デザインが定着すれば」という前提つきではありますが、新聞やテレビが廃れていくことはないだろうと言っています。というのも、コミュニケーション・デザインというのは、消費者のリサーチを元に、それぞれのメディアのいい点を利用していくという手法だからだ。例えばあるリサーチの結果、ターゲットとなる消費者の多くがラジオを聞いているということが分かれば、その広告にはラジオが最も有効なメディアとなるわけです。消費者はいろんなメディアに分散してしまっているけど、逆に考えれば確実に伝えたい相手に伝えるための強力な手段となりえる。まだコミュニケーション・デザインというのが一般に広まってはいないけど、広まっていけば4大メディアと言われるものもそこまで衰退しないのではないか、というような話だと思います。
本書では、最大の広告はクチコミだという風に言っています。それは僕も書店の店頭で非常に強く実感します。確かにテレビで紹介された本がベストセラーになることは多いです。しかしそれは、テレビを直接見た人が買いに来ているだけでは説明できないぐらいの売上だったりするわけです。恐らくネットなんかで広まっているんだろうなと思ったりします。また最近では、書店発のベストセラーもたくさん生み出されているんだけど、恐らくそういうものもクチコミによって広がっているんだろうなという感じがします。
僕は最近、売場につけるPOPのフレーズはどんなものがいいんだろうと考えることがあります。本書を読んで、また重要なポイントを理解できたような気がします。どんなフレーズがいいのかという問題に直接まだ答えはないんですけど、とにかく、これを買うのはどんな人なのか、あるいはどんな人に買って欲しいのかというのをリアルにイメージしなくてはいけないんだろうなということは分かりました。まあ当り前のことなんだろうけど、本書を読んで再認識したという感じです。
書店では、POPやポスター、あるいは本の帯なんかが広告と捉えることが出来ると思います。でもそれだけじゃなくて、何をどこにどう並べるか、ということも一つの広告になりえるんだと思います。本書で著者は、どんなものでもメディアになりえる、というようなことを書いています。本屋でも、これまでなかった発想というのはきっとまだまだあるはずだと思います。こう売りたいからこうする、ではなく、消費者がこう望んでいるからこうする、ということをもっと洗練していけたらいいなと思います。
そんなわけで、初めの方でも書きましたが、本書は「消費者がいかに変化したのか」ということがメインの作品です。広告に関わる人だけではなく、消費者に関わるすべての人に読んで欲しい本です。本書をただ売場に置いてもビジネス書っぽい感じがしてしまうんで、上記のようなことをPOPに書いてアピールしようかなと思うんですけど、なかなかフレーズが決まらないですね。フレーズを考えている時間がそう取れないというところも問題ですが、まあ何とか頑張ってみようと思います。
広告の部分に関する記載については評価できませんが、消費者の変化という部分については非常に面白い作品だと思います。ぜひ読んでみてください。
佐藤尚之「明日の広告 変化した消費者とコミュニケーションする方法」
というわけで今回は、レジにやってくる親子連れの話を書こうかなと思います。
小学生とか中学生ぐらいの子供が母親なんかと一緒に買い物に来てる時、いつも気になってしまうやり取りがあります。でも思い返してみると、もしかしたら自分もそうだったのかもしれないなぁとも思うんですけど。
子供が買いたいものをレジに持って来て、母親は近くにいるという状況。僕が例えば「カバー掛けますか?」と子供に聞くと、子供はとりあえず母親の方を見るんです。そして母親が「カバー掛けるの?」と子供に聞く。子供は母親に向かって「うん、掛ける」と答える。そして母親が僕に向かって、「カバーお願いします」と伝えるわけです。
これは非常によくあるやり取りなんだけど、いつも気になってしまいます。僕としては子供に直接話しかけているつもりなんだけど、子供は僕に直接返事をくれない。一端母親に返事を迂回するという形で返すんです。
まあでも分からないでもないです。僕も昔は(というか今でもですが)引っ込み思案な人間だったんで、、同じようなシチュエーションだったら同じことをしていたかもしれません(あんまり覚えていないんですけど)。ただ自分が接客する側に回ってみると、やっぱり不思議なやり取りだよなぁという感じがします。まあ別に不都合があるわけではないんで全然問題ないんだけど、でも時々高校生ぐらいの人でも同じような光景を目にすることがあります。おいおい、高校生は自分でちゃんと返事しようよ、と突っ込みたくなります。
それとは対象的にものすごく元気に返事をしてくれる子供もいたりするんで、まあ面白いとは思いますね。あんまり子供は好きになれないんですけど。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、正確には覚えてないんですけど、どこかの書店チェーン(青山ブックセンターだったと思うんだけど忘れた)の2008年最も売れた新書として一時話題になった気がします。あ、違うかも。青山ブックセンターが、2008年最も面白い本(?)に選んだ、みたいな感じだったかな。まあちょっと忘れちゃったけど、そんな感じの作品です。
僕が本書を読もうと思ったきっかけは、広島で書店員をしている方の「尾道坂道書店事件簿」という作品で紹介されていたからです。その本の著者は、勤めている書店の社長から本書を勧められたそうで、以後折に触れて読み返しているということでした。
本書の著者は広告の世界でクリエイティブ・ディレクターをしている人です。広告の世界で有名な人なのかどうかは分かりませんが、でも「スラムダンク1億冊感謝キャンペーン」を手がけた人らしいんで、きっと有名な人なんでしょう。インターネットが始まった頃にホームページを作り、そこで書いていた文章が「さとなお」という名前で何冊か本になっているようです。
本書は、タイトルや著者の略歴なんかから「広告」についての話だと思われるでしょう。いや、まあその認識は基本的に間違ってはいないんですけど、もっと本質的な部分として「消費者」の話だと言った方が正確です。本書では、昔と比べていかに消費者が変化したのか、という部分に力点を置いて話を進めています。これまで広告というものと関わってきた経験を踏まえて、どれだけ大幅に消費者が変化したのか、ということを捉えています。そしてその中で、広告はいかに変わらなければいけないかという提言もしている、という感じです。
なので本書は、「消費者」に関わるすべての人にとって読む価値のある本でしょう。僕が書店で本を売っている人間ですが、僕も「消費者」と直接関わっている人間なのでなるほどと思わせる部分がたくさんありました。本書で読んだことを実際売場作りや接客なんかに活かせるかどうかはいろいろ考えないといけないでしょうが、「消費者が変わったのだから今までのやり方ではダメだ」ということはものすごくよく伝わりました。
本書はまず冒頭で、ラブレターの比喩を使って消費者がいかに変化したのか、という説明がされます。よくある比喩なんでしょうが、僕のように広告に関して無知な人間には分かりやすい説明でした。昔は書いたラブレターが相手に渡りやすかったし、他に楽しいことが少なかったのでラブレターは喜ばれたし、渡したラブレターをちゃんと読んでくれていた、つまりモテモテの状態だった。でも今は、ラブレターが届きにくくなったし、楽しいことがたくさんあってラブレターが届きにくくなったし、読んでくれたとしても口説き文句を信じてくれなくなったし、さらにラブレターを友達と仔細に検討し友達に判断を任せたりする、という風に変わってきています。広告はこの変化に対応できていますか?という問題提起。
じゃあどうすればいいのかという部分で著者は、コミュニケーション・デザインの重要さを説くことになります。消費者がどう変化したのか、という点と合わせて、このコミュニケーション・デザインの重要さというのも本書の柱になっています。
コミュニケーション・デザインというのは、簡単に言ってしまえば「消費者本位」ということです(たぶん。違ってたらごめんなさい)。これまでもマーケティングなどはしていただろうけど、しかしコミュニケーション・デザインとは元々の発想が違う。これまでは、「今度の広告のターゲットは○○だ」→「だからとりあえず○○についてのマーケティングやリサーチをしよう」という感じだったけど、コミュニケーション・デザインの場合違う。コミュニケーション・デザインの場合は、「この商品はどんな人が買いたがっているのか」「消費者はこの商品をどんな風に使うだろうか」「消費者は何をしたら喜んでくれるだろうか」というところから入るのだ。つまり、ラブレターを渡す相手である消費者について徹底的に研究をするのだ。そしてそれに合わせて広告をデザインする。
本書ではこんな例が載っていた。ある商品を高校生向けにアピールするという話で、じゃあ携帯をメインにしようということになった。いろんなリサーチ結果を見ても、高校生に最もアピールするのは携帯だというのは明白だったからだ。携帯を使った広告の準備を進めていた。
しかし他の企画のために高校生に話を聞く機会があった時、ついでに携帯についての質問も加えたところ、高校生が実は携帯をあまり使っていないということが分かったという。メインはメールで、あとは一部の無料コンテンツのみ。女子学生はともかく、男子学生はほとんど使っていないということが判明したという。一番接触するメディアを聞くとコンビニの店頭だということが判明したので、急遽やり直しを決めた、という話である。
これまでだったら、型どおりのマーケティングで通用したかもしれない。F1層M1層なんていう括りで通用したかもしれない。でももうそんな時代は終わった。ラブレターが届きにくくなったんだから、確実に届かせるために消費者についてとことんまで調べるのがまず先決。そこでの結果を元にどういう風にアピールするのかを決めていく。そういうようなやり方がコミュニケーション・デザインだ。
その後著者は、自らが手がけた「スラムダンク一億冊突破感謝キャンペーン」を例に、さらにコミュニケーションデザインの重要さについて説きます。このキャンペーンは確かに特殊な例かもしれないけど、でもコミュニケーション・デザインの重要さが広告の素人の僕にでも分かった気になれるようないい例だと思いました。
6章と7章は広告の技術的な話が多いので、僕のような広告の世界にいない人間にはちょっと興味の薄れる感じでしたが、しかし「コミュニケーション・デザインは既存のマスメディアをもう一度魅力的にする」という話は面白いと思いました。
最近、新聞広告やテレビCMがヤバイというような話がありますが、著者は「コミュニケーション・デザインが定着すれば」という前提つきではありますが、新聞やテレビが廃れていくことはないだろうと言っています。というのも、コミュニケーション・デザインというのは、消費者のリサーチを元に、それぞれのメディアのいい点を利用していくという手法だからだ。例えばあるリサーチの結果、ターゲットとなる消費者の多くがラジオを聞いているということが分かれば、その広告にはラジオが最も有効なメディアとなるわけです。消費者はいろんなメディアに分散してしまっているけど、逆に考えれば確実に伝えたい相手に伝えるための強力な手段となりえる。まだコミュニケーション・デザインというのが一般に広まってはいないけど、広まっていけば4大メディアと言われるものもそこまで衰退しないのではないか、というような話だと思います。
本書では、最大の広告はクチコミだという風に言っています。それは僕も書店の店頭で非常に強く実感します。確かにテレビで紹介された本がベストセラーになることは多いです。しかしそれは、テレビを直接見た人が買いに来ているだけでは説明できないぐらいの売上だったりするわけです。恐らくネットなんかで広まっているんだろうなと思ったりします。また最近では、書店発のベストセラーもたくさん生み出されているんだけど、恐らくそういうものもクチコミによって広がっているんだろうなという感じがします。
僕は最近、売場につけるPOPのフレーズはどんなものがいいんだろうと考えることがあります。本書を読んで、また重要なポイントを理解できたような気がします。どんなフレーズがいいのかという問題に直接まだ答えはないんですけど、とにかく、これを買うのはどんな人なのか、あるいはどんな人に買って欲しいのかというのをリアルにイメージしなくてはいけないんだろうなということは分かりました。まあ当り前のことなんだろうけど、本書を読んで再認識したという感じです。
書店では、POPやポスター、あるいは本の帯なんかが広告と捉えることが出来ると思います。でもそれだけじゃなくて、何をどこにどう並べるか、ということも一つの広告になりえるんだと思います。本書で著者は、どんなものでもメディアになりえる、というようなことを書いています。本屋でも、これまでなかった発想というのはきっとまだまだあるはずだと思います。こう売りたいからこうする、ではなく、消費者がこう望んでいるからこうする、ということをもっと洗練していけたらいいなと思います。
そんなわけで、初めの方でも書きましたが、本書は「消費者がいかに変化したのか」ということがメインの作品です。広告に関わる人だけではなく、消費者に関わるすべての人に読んで欲しい本です。本書をただ売場に置いてもビジネス書っぽい感じがしてしまうんで、上記のようなことをPOPに書いてアピールしようかなと思うんですけど、なかなかフレーズが決まらないですね。フレーズを考えている時間がそう取れないというところも問題ですが、まあ何とか頑張ってみようと思います。
広告の部分に関する記載については評価できませんが、消費者の変化という部分については非常に面白い作品だと思います。ぜひ読んでみてください。
佐藤尚之「明日の広告 変化した消費者とコミュニケーションする方法」
最後のパレード ディズニーランドで本当にあった心温まる話(中村克)
諸事情あって、こういう文章を加えます。
『本書は盗作疑惑があり、出版社が自主回収をした作品です。』
5/23 管理者
さて今日は感想を二つ書く予定で、まずその一つ目。
今回は、最近あった非常に困った話を書こうと思います。この話は、書店で文庫担当をしている人なら、あぁあの出版社かということがバレバレだとは思うんですけど、まあもちろん出版社は伏せて書きます。
とある出版社のフェアが3月の下旬に入荷しました。3/28ぐらいだったと思います。そのフェアは出版社もなかなか力を入れているようで、一冊買う毎にオリジナルのストラップを配る、というキャンペーンをやっているものでした。
そのフェアを出そうと思って箱をガンガン開けて行ったんですけど、しかしどこをどう見ても配布用のストラップがないんです。これでは売場にフェアを出すことは出来ません。ストラップをあげるということが帯に書いてあるので、ストラップがないままだと展開できないんです。まあ仕方ない。もしかしたらストラップだけ入荷が遅れているのかもしれない、と思って待つことにしました。
しかし週明けになっても一向に来ない。ウチの店は、入ってきた荷物が一時行方不明になることが結構あったりするんで、どこか店内で迷子になっているのではないかと思ってあちこち探したんだけど、やっぱり見つからない。これは恐らく入荷していないんだろうと思って出版社に電話をし、まあ送ってもらえることにはなりました。
しかしさらに困ったことがあります。その出版社は毎月頭に新刊が出るんですが、その新刊の帯にもフェアと同じくストラップをあげますということが書かれているわけです。新刊と連動したフェアというわけです。
フェアであれば、とりあえずバックヤードに置いておいてストラップが来てから展開するということは出来ますが、新刊はそうはいきません。新刊は出さないわけにはいかないんです。でもストラップはない。なので仕方なく、新刊についていた帯をとりあえずすべて一端外し、ストラップが入ってきてからその帯を戻すということにしました。
ミスを完全に無くすのは無理だし、お客さんに直接迷惑が掛かるようなものでもないので殊更に文句を言うつもりはないんですけど、まあめんどくせぇなぁとは思いました。出版社の人は、すぐに確認して送りますとは言っていましたが、電話した時点からウチにストラップが入ってくるまで1週間くらい掛かるみたいな返答でした。何に時間が掛かるのか分からないけど、直接持って来てくれるくらいのことはしてくれてもいいんじゃなかろうかと思ったりします。
あと、別に困った話ではありませんが短い話があるのでついでに。ついこの間、小学生ぐらいの女の子に「小学五年生ありませんか?」と聞かれました。すぐに雑誌売り場に行って「小学五年生」を見つけだして渡したんですが、「違います」と言われてしまいます。ここでもう一つの可能性にすぐ思い当たったというのは僕は結構頑張ったなと思います。「重松清の『小学五年生』ですか?」と聞くと、「そうです」と答えます。結局重松清の「小学五年生」は在庫はありませんでしたが。
問い合わせというのは難しいものだなと改めて思いました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、今巷で売れに売れまくっている本で、いろんな書店のベストセラーランキングに必ず入っている作品だろうと思います。まあウチの店はやっぱりやる気がないんで、未だに売場には一冊もないんですけど。出版社の方で品切れということもあるんだろうけど、たぶん発注もしてないんじゃないかなぁ。僕は、一件キャンセルになった客注があって、それを買いました。
著者は、ディズニーランドの開業に携わり、キャスト(従業員)をまとめるスーパーバイザーを15年務めたという方です。現在はオリエンタルランドを離れているようですが、恐らく長いこと現場に居続けた人なんだろうと思います。
本書は、ディズニーランドで起こった様々な感動的なエピソードをまとめたものです。主にゲスト(お客さん)から届いた手紙を元に構成しているようですが、中にはキャスト側の視点の話もあります。どの話も3ページぐらいと短く、それでいて副題にもあるように「心温まる」話が非常に多いです。泣きそうになった話もいくつかあります。見た感じ「スピリチュアル系」というか「泣かせよう系」の本というか、とにかく僕があんまり得意ではない分野っぽい感じの本ではあるんですが、これはいい作品だと思いました。
本作は、いかにディズニーの接客が凄いか、いかにディズニーという空間が凄いかという話です。特に接客については、度肝を抜くような話もいくつかありました。何が凄いって、まずそれをやろうという決断を下すことが凄い。そして何よりも、その決断をどのキャストも下す権限を持っているということが凄いなと思いました。普通では考えられないような決断を、末端のキャストでも下すことが出来る。困っているゲストを何とかするためであればありとあらゆる決断が許容される、例えそれが大きな費用が掛かるものであったとしても、ゲストを満足させるためなら実行してしまう。正直言ってやりすぎだろと思うものもありましたが、それがディズニーのクオリティなんでしょう。
本書は短いエピソードの積み重ねで成り立っているので、あんまりいろいろ紹介してしまっては買って読む興を削がれてしまうことになるでしょう。なので本書のエピソードで紹介するのは一つだけにします。僕がとにかく一番驚いたエピソードです。
あるゲストがレストランで何気なく指輪をいじっている時指輪を落としてしまった。入り込んでしまった場所が悪くて、高床になっているテラスの板と板の隙間に入り込んでしまいました。どう考えても取れないような場所です。
困っている様子に気づいたキャストに事情を説明すると、
「今すぐ取って差し上げることは出来ませんが、指輪は必ずお手元に届けます」
と言ってくれました。しかしキャストはこう続けます。
「この床は店内までそのままつながっているので、板を途中で切ってしまわなければいけません。それが可能な状態になるまで少々お時間をいただけますでしょうか?」
ゲストは、さすがにそこまでしてもらわなくてもいいと断りましたが、三週間後ディズニーから連絡があり、指輪は手元に戻ったそうです。
指輪を取るために床を切る、という判断が一キャストに許されている、ということが僕には衝撃的でした。世界中どこを探したって、ディズニー以外には不可能な応対ではないかなと思いました。たとえコストが掛かったとしてもゲストを助けることが優先される。凄いというより、凄まじいなと思いました。
また具体的な内容は紹介しませんが、本作では重度の病人や障害者の方への対応についてもいろいろと書かれています。そういう方が来る時は、園内の医療スタッフや近隣の病院なんかと連携を取り、いつ何が起こっても大丈夫なように準備をする。そのゲストについての情報を回る予定のアトラクション担当のキャストにすべて伝えておくということが徹底されているようです。またディズニーに障害者割引がないのは、障害者の方でも同じように楽しむことが出来る環境を整えているという自負があるからなんだそうです。障害者というのは様々に違いがあって、画一的なマニュアルではどうにもしようがない部分があります。マニュアルを超えた部分での対応がきちんとできているということです。
アメリカのディズニー社のテーマパークによるサービス教育はMBAのクラスの指導にも利用されているようですが、そのサービス教育に東京ディズニーランドが作り上げたマニュアルが大きく影響しているんだそうです。本家を超えた部分もある程の東京ディズニーランドのマニュアルの凄さは伊達じゃないなと思いました。
また接客だけではなく、ディズニーランドという空間の凄さについてもいろいろと書かれています。喧嘩していたカップルが仲直りしたとか、子供を失い離婚しそうな夫婦が元に戻ったり、お年寄りが楽しさに感激して帰ったりと、ディズニーランドという空間によって魔法を掛けられたような人々の話がたくさん載っています。
接客の究極の形が本書にはあると思います。もちろん、誰にでも出来るわけではないし、すべてのサービス業でここまで出来るというわけもありません。それでも、サービスというのは突き詰めればこうなるという視点でビジネス書っぽく読むことも出来ます。もちろんそんな読み方をしないで、普通に感動できる話でもあります。ベストセラーだからと言って手を出さないでいる人もきっと多いと思いますが、読んでみたら案外良かったということになる作品ではないかなと思います。普段本を読まない人にも読み易い作品なんで是非どうぞ。
中村克「最後のパレード ディズニーランドで本当にあった心温まる話」
『本書は盗作疑惑があり、出版社が自主回収をした作品です。』
5/23 管理者
さて今日は感想を二つ書く予定で、まずその一つ目。
今回は、最近あった非常に困った話を書こうと思います。この話は、書店で文庫担当をしている人なら、あぁあの出版社かということがバレバレだとは思うんですけど、まあもちろん出版社は伏せて書きます。
とある出版社のフェアが3月の下旬に入荷しました。3/28ぐらいだったと思います。そのフェアは出版社もなかなか力を入れているようで、一冊買う毎にオリジナルのストラップを配る、というキャンペーンをやっているものでした。
そのフェアを出そうと思って箱をガンガン開けて行ったんですけど、しかしどこをどう見ても配布用のストラップがないんです。これでは売場にフェアを出すことは出来ません。ストラップをあげるということが帯に書いてあるので、ストラップがないままだと展開できないんです。まあ仕方ない。もしかしたらストラップだけ入荷が遅れているのかもしれない、と思って待つことにしました。
しかし週明けになっても一向に来ない。ウチの店は、入ってきた荷物が一時行方不明になることが結構あったりするんで、どこか店内で迷子になっているのではないかと思ってあちこち探したんだけど、やっぱり見つからない。これは恐らく入荷していないんだろうと思って出版社に電話をし、まあ送ってもらえることにはなりました。
しかしさらに困ったことがあります。その出版社は毎月頭に新刊が出るんですが、その新刊の帯にもフェアと同じくストラップをあげますということが書かれているわけです。新刊と連動したフェアというわけです。
フェアであれば、とりあえずバックヤードに置いておいてストラップが来てから展開するということは出来ますが、新刊はそうはいきません。新刊は出さないわけにはいかないんです。でもストラップはない。なので仕方なく、新刊についていた帯をとりあえずすべて一端外し、ストラップが入ってきてからその帯を戻すということにしました。
ミスを完全に無くすのは無理だし、お客さんに直接迷惑が掛かるようなものでもないので殊更に文句を言うつもりはないんですけど、まあめんどくせぇなぁとは思いました。出版社の人は、すぐに確認して送りますとは言っていましたが、電話した時点からウチにストラップが入ってくるまで1週間くらい掛かるみたいな返答でした。何に時間が掛かるのか分からないけど、直接持って来てくれるくらいのことはしてくれてもいいんじゃなかろうかと思ったりします。
あと、別に困った話ではありませんが短い話があるのでついでに。ついこの間、小学生ぐらいの女の子に「小学五年生ありませんか?」と聞かれました。すぐに雑誌売り場に行って「小学五年生」を見つけだして渡したんですが、「違います」と言われてしまいます。ここでもう一つの可能性にすぐ思い当たったというのは僕は結構頑張ったなと思います。「重松清の『小学五年生』ですか?」と聞くと、「そうです」と答えます。結局重松清の「小学五年生」は在庫はありませんでしたが。
問い合わせというのは難しいものだなと改めて思いました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、今巷で売れに売れまくっている本で、いろんな書店のベストセラーランキングに必ず入っている作品だろうと思います。まあウチの店はやっぱりやる気がないんで、未だに売場には一冊もないんですけど。出版社の方で品切れということもあるんだろうけど、たぶん発注もしてないんじゃないかなぁ。僕は、一件キャンセルになった客注があって、それを買いました。
著者は、ディズニーランドの開業に携わり、キャスト(従業員)をまとめるスーパーバイザーを15年務めたという方です。現在はオリエンタルランドを離れているようですが、恐らく長いこと現場に居続けた人なんだろうと思います。
本書は、ディズニーランドで起こった様々な感動的なエピソードをまとめたものです。主にゲスト(お客さん)から届いた手紙を元に構成しているようですが、中にはキャスト側の視点の話もあります。どの話も3ページぐらいと短く、それでいて副題にもあるように「心温まる」話が非常に多いです。泣きそうになった話もいくつかあります。見た感じ「スピリチュアル系」というか「泣かせよう系」の本というか、とにかく僕があんまり得意ではない分野っぽい感じの本ではあるんですが、これはいい作品だと思いました。
本作は、いかにディズニーの接客が凄いか、いかにディズニーという空間が凄いかという話です。特に接客については、度肝を抜くような話もいくつかありました。何が凄いって、まずそれをやろうという決断を下すことが凄い。そして何よりも、その決断をどのキャストも下す権限を持っているということが凄いなと思いました。普通では考えられないような決断を、末端のキャストでも下すことが出来る。困っているゲストを何とかするためであればありとあらゆる決断が許容される、例えそれが大きな費用が掛かるものであったとしても、ゲストを満足させるためなら実行してしまう。正直言ってやりすぎだろと思うものもありましたが、それがディズニーのクオリティなんでしょう。
本書は短いエピソードの積み重ねで成り立っているので、あんまりいろいろ紹介してしまっては買って読む興を削がれてしまうことになるでしょう。なので本書のエピソードで紹介するのは一つだけにします。僕がとにかく一番驚いたエピソードです。
あるゲストがレストランで何気なく指輪をいじっている時指輪を落としてしまった。入り込んでしまった場所が悪くて、高床になっているテラスの板と板の隙間に入り込んでしまいました。どう考えても取れないような場所です。
困っている様子に気づいたキャストに事情を説明すると、
「今すぐ取って差し上げることは出来ませんが、指輪は必ずお手元に届けます」
と言ってくれました。しかしキャストはこう続けます。
「この床は店内までそのままつながっているので、板を途中で切ってしまわなければいけません。それが可能な状態になるまで少々お時間をいただけますでしょうか?」
ゲストは、さすがにそこまでしてもらわなくてもいいと断りましたが、三週間後ディズニーから連絡があり、指輪は手元に戻ったそうです。
指輪を取るために床を切る、という判断が一キャストに許されている、ということが僕には衝撃的でした。世界中どこを探したって、ディズニー以外には不可能な応対ではないかなと思いました。たとえコストが掛かったとしてもゲストを助けることが優先される。凄いというより、凄まじいなと思いました。
また具体的な内容は紹介しませんが、本作では重度の病人や障害者の方への対応についてもいろいろと書かれています。そういう方が来る時は、園内の医療スタッフや近隣の病院なんかと連携を取り、いつ何が起こっても大丈夫なように準備をする。そのゲストについての情報を回る予定のアトラクション担当のキャストにすべて伝えておくということが徹底されているようです。またディズニーに障害者割引がないのは、障害者の方でも同じように楽しむことが出来る環境を整えているという自負があるからなんだそうです。障害者というのは様々に違いがあって、画一的なマニュアルではどうにもしようがない部分があります。マニュアルを超えた部分での対応がきちんとできているということです。
アメリカのディズニー社のテーマパークによるサービス教育はMBAのクラスの指導にも利用されているようですが、そのサービス教育に東京ディズニーランドが作り上げたマニュアルが大きく影響しているんだそうです。本家を超えた部分もある程の東京ディズニーランドのマニュアルの凄さは伊達じゃないなと思いました。
また接客だけではなく、ディズニーランドという空間の凄さについてもいろいろと書かれています。喧嘩していたカップルが仲直りしたとか、子供を失い離婚しそうな夫婦が元に戻ったり、お年寄りが楽しさに感激して帰ったりと、ディズニーランドという空間によって魔法を掛けられたような人々の話がたくさん載っています。
接客の究極の形が本書にはあると思います。もちろん、誰にでも出来るわけではないし、すべてのサービス業でここまで出来るというわけもありません。それでも、サービスというのは突き詰めればこうなるという視点でビジネス書っぽく読むことも出来ます。もちろんそんな読み方をしないで、普通に感動できる話でもあります。ベストセラーだからと言って手を出さないでいる人もきっと多いと思いますが、読んでみたら案外良かったということになる作品ではないかなと思います。普段本を読まない人にも読み易い作品なんで是非どうぞ。
中村克「最後のパレード ディズニーランドで本当にあった心温まる話」
TOKYO YEAR ZERO(デイヴィッド・ピース)
さて、みなさん御存じかとは思いますが、今年度の本屋大賞が発表されました。今回は、湊かなえの「告白」に決まりました。後味が悪い、と言われながらもこれだけ支持されるのだから凄い作品だなと思います。
あんなに後味の悪い作品を書く作家はどんな人なんだろうと思っていましたが、これがかなり意外なことに、「可愛らしい」という表現がぴったりくるような人でした。あんな作品を書く作家とは想像出来ないですね。
去年と今年の二度、本屋大賞の準備の手伝いということで参加させてもらいましたが、今年は会場が広くてよかったです。去年は、立錐の余地もない、というのは言いすぎでしたが、動き回る余裕がほとんどないほどの密集っぷりでしたが、今年はかなり余裕がある感じでよかったと思います。年々参加者が増えているようですごいものです。第一回の時の写真がありましたが、ほんのわずかな書店員しかいなくて、それから考えると本当に本屋大賞というのはメジャーになっていっているんだなという感じがします。
手伝い自体は、本当に大したことは何もしていませんが、僕らのような当日だけの手伝いじゃなくて、本屋大賞を運営している実行委員の人は本当に大変だろうなと思いました。ほとんどが書店員の方のはずなので(出版社や取次の人もいるようですが)、普段の書店での業務をこなしながら準備を進めるわけで、大変でしょうね。まあでも、5回を目標に始めたという本屋大賞ですが、これだけメジャーで大きな存在になって、本屋大賞創立時のメンバーは感慨深いだろうなと思います。本屋大賞を真似て、「マンガ大賞」やら「映画館大賞」やらが最近創設されるようになってきていますけど、やっぱり本屋大賞ほどメジャーにはなりきれていないだろうなという気がします。本屋大賞は既に、直木賞・芥川賞と同じぐらいのレベルの知名度だと僕は思っていますからね。すごいものを作り上げたものだなと思います。
僕も書店業界の端っこにいる身として、自分から何か行動を起こすほどの力は持っていませんが、誰かの手助けになるようなことが出来ればいいなと思っています。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は外国人作家の作品ではありますが、珍しく日米同時発売という形が取られています。というか、著者はイギリス人ですが現在は東京在住で、本書も文藝春秋翻訳出版部が構想段階から関わった、日本発の作品だそうで、なかなか面白い試みだなと思います。
舞台は終戦直後の日本。1946年夏、芝・増上寺で女性の他殺死体が二体発見される。捜査本部の三波は、一年前の事件を思い出す。同じ手口で殺されているように思える事件。餓えた人々がはびこり、娼婦がアメリカ人に跪き、ヤクザが闇市を支配する占領の街で、三波は殺人犯を追って奔走する。
やがてその事件は、三波の過去を暴くきっかけへと変貌していくのだが…。
実在した連続殺人鬼・小平義雄の事件をモチーフに(本作にも小平義雄やその被害者が実名で出てくるし、他にも実在の人物が登場しているようです)、終戦直後の日本を描いた作品です。
僕にはちょっと合わない作品でした。とにかく文章が読みにくくて、半分ぐらいまでは頑張ってちゃんと読んでいたんだけど、その内無理になって、後半は流し読みして終わらせました。
僕は本を買うとき、著者の略歴とか内容紹介なんかは読むけど、中の文章とかは読まないんです。表紙が気に行ったり、なんとなく良さそうだったりという印象で買ったりします。最近は、家に読む本が山ほどあるので、そういう印象買いはなるべく控えようと思っているんだけど、本書はそんな印象買いをした作品です。表紙がなかなか好きな感じで、しかも時々は外国人作家を意識的に読もうと思っているので手に取ってみたわけです。
こういう印象買いの作品はまあ失敗することも多いので仕方ないんですけど、やっぱり本作もダメでした。普段読み終わるまでamazonの評価とかは見ないんだけど、本作はちょっとつまらなかったのでamazonの評価を先に見てみました。するとやっぱり駄目だという感想の方が多いですね。やっぱり文章が読みにくい、と。その独特な文体は、終戦直後の日本の雰囲気を写実するのにいい効果を生み出しているのかもしれないけど、それにしても読みにくいのでマイナスではないかという感じがします。
あと、ジェイムズ・エルロイの真似だという意見が結構ありました。僕はジェイムズ・エルロイの作品は読んだことがないんですが、バイト先にジェイムズ・エルロイ好きの人がいるので何となく知ってます。文体の雰囲気とか、実際の事件を扱っているところとか、またジェイムズ・エルロイには<ニューヨーク三部作>(でしたっけ?ちゃんと覚えてないですけど)と呼ばれるシリーズがあるんだけど、本書も<東京三部作>の第一作なんだそうです。そういう意味で、ジェイムズ・エルロイをパクりすぎなんじゃないかという意見がありました。まあパクってても面白ければいいんじゃないかと僕なんかは思いますが、面白くないんだからどうしようもないですね。著者略歴を読む限り、イギリスの若手作家としては割と評判はいいみたいですけどね。
まあそんなわけでオススメ出来る作品ではありません。ジェイムズ・エルロイやジム・トンプスンという作家の暗黒小説が好きらしいので、そういう作家が好きな人は読んでみたら面白いかもしれません。
デイヴィッド・ピース「TOKYO YEAR ZERO」
あんなに後味の悪い作品を書く作家はどんな人なんだろうと思っていましたが、これがかなり意外なことに、「可愛らしい」という表現がぴったりくるような人でした。あんな作品を書く作家とは想像出来ないですね。
去年と今年の二度、本屋大賞の準備の手伝いということで参加させてもらいましたが、今年は会場が広くてよかったです。去年は、立錐の余地もない、というのは言いすぎでしたが、動き回る余裕がほとんどないほどの密集っぷりでしたが、今年はかなり余裕がある感じでよかったと思います。年々参加者が増えているようですごいものです。第一回の時の写真がありましたが、ほんのわずかな書店員しかいなくて、それから考えると本当に本屋大賞というのはメジャーになっていっているんだなという感じがします。
手伝い自体は、本当に大したことは何もしていませんが、僕らのような当日だけの手伝いじゃなくて、本屋大賞を運営している実行委員の人は本当に大変だろうなと思いました。ほとんどが書店員の方のはずなので(出版社や取次の人もいるようですが)、普段の書店での業務をこなしながら準備を進めるわけで、大変でしょうね。まあでも、5回を目標に始めたという本屋大賞ですが、これだけメジャーで大きな存在になって、本屋大賞創立時のメンバーは感慨深いだろうなと思います。本屋大賞を真似て、「マンガ大賞」やら「映画館大賞」やらが最近創設されるようになってきていますけど、やっぱり本屋大賞ほどメジャーにはなりきれていないだろうなという気がします。本屋大賞は既に、直木賞・芥川賞と同じぐらいのレベルの知名度だと僕は思っていますからね。すごいものを作り上げたものだなと思います。
僕も書店業界の端っこにいる身として、自分から何か行動を起こすほどの力は持っていませんが、誰かの手助けになるようなことが出来ればいいなと思っています。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は外国人作家の作品ではありますが、珍しく日米同時発売という形が取られています。というか、著者はイギリス人ですが現在は東京在住で、本書も文藝春秋翻訳出版部が構想段階から関わった、日本発の作品だそうで、なかなか面白い試みだなと思います。
舞台は終戦直後の日本。1946年夏、芝・増上寺で女性の他殺死体が二体発見される。捜査本部の三波は、一年前の事件を思い出す。同じ手口で殺されているように思える事件。餓えた人々がはびこり、娼婦がアメリカ人に跪き、ヤクザが闇市を支配する占領の街で、三波は殺人犯を追って奔走する。
やがてその事件は、三波の過去を暴くきっかけへと変貌していくのだが…。
実在した連続殺人鬼・小平義雄の事件をモチーフに(本作にも小平義雄やその被害者が実名で出てくるし、他にも実在の人物が登場しているようです)、終戦直後の日本を描いた作品です。
僕にはちょっと合わない作品でした。とにかく文章が読みにくくて、半分ぐらいまでは頑張ってちゃんと読んでいたんだけど、その内無理になって、後半は流し読みして終わらせました。
僕は本を買うとき、著者の略歴とか内容紹介なんかは読むけど、中の文章とかは読まないんです。表紙が気に行ったり、なんとなく良さそうだったりという印象で買ったりします。最近は、家に読む本が山ほどあるので、そういう印象買いはなるべく控えようと思っているんだけど、本書はそんな印象買いをした作品です。表紙がなかなか好きな感じで、しかも時々は外国人作家を意識的に読もうと思っているので手に取ってみたわけです。
こういう印象買いの作品はまあ失敗することも多いので仕方ないんですけど、やっぱり本作もダメでした。普段読み終わるまでamazonの評価とかは見ないんだけど、本作はちょっとつまらなかったのでamazonの評価を先に見てみました。するとやっぱり駄目だという感想の方が多いですね。やっぱり文章が読みにくい、と。その独特な文体は、終戦直後の日本の雰囲気を写実するのにいい効果を生み出しているのかもしれないけど、それにしても読みにくいのでマイナスではないかという感じがします。
あと、ジェイムズ・エルロイの真似だという意見が結構ありました。僕はジェイムズ・エルロイの作品は読んだことがないんですが、バイト先にジェイムズ・エルロイ好きの人がいるので何となく知ってます。文体の雰囲気とか、実際の事件を扱っているところとか、またジェイムズ・エルロイには<ニューヨーク三部作>(でしたっけ?ちゃんと覚えてないですけど)と呼ばれるシリーズがあるんだけど、本書も<東京三部作>の第一作なんだそうです。そういう意味で、ジェイムズ・エルロイをパクりすぎなんじゃないかという意見がありました。まあパクってても面白ければいいんじゃないかと僕なんかは思いますが、面白くないんだからどうしようもないですね。著者略歴を読む限り、イギリスの若手作家としては割と評判はいいみたいですけどね。
まあそんなわけでオススメ出来る作品ではありません。ジェイムズ・エルロイやジム・トンプスンという作家の暗黒小説が好きらしいので、そういう作家が好きな人は読んでみたら面白いかもしれません。
デイヴィッド・ピース「TOKYO YEAR ZERO」
夏から夏へ(佐藤多佳子)
今回は、ちょっと前に店のFAXに来ていた、amazonの値引き販売の話をちょっと書いてみようと思います。
僕は昔ヤフーのニュースで見たことがありますが、amazonが早稲田大学と提携し、去年の12月から同大学の職員や学生などに専用のIDを発行し、そのIDで買う場合最大で8%の値引きをする、というサービスを始めたようです。
そのニュースをヤフーのニュースで見た時は、なるほどamazonがまた面白いことやってるなぁ、という程度の認識でしたけど、ちょっと前に店に来たFAXによれば、出版流通対策協議会というところがamazonに対して、この値引き販売の中止を求める声明を出した、というようなことが書かれていました。なるほど、あんまり深く考えてなかったけど、確かに値引き販売だなぁ、と思ったわけです。
詳しいことは僕は知らないんですけど、書籍には再販制度という仕組みがあって、これは即ち定価で売りますよ、値引きは出来ませんよ、というルールなわけです。だから本は、全国どこで買っても同じ値段なんです。稀に駅なんかで本を値引きして売ってたりするのもあるし(あれは確か何かの期限が切れた本だけが安く売れるみたいな感じだったと思う)、ブックオフなんかで、どこから入ってくるのか知らないけどお客さんから買い取ったわけではない新刊本を安く売ってたりするし(あれはどういうことなのかよくわからない)、また大学の生協なんかでは本が10%引きで買えたりするけど(あれは独占禁止法で再販制度の適用されない事業者として生協が指定されているからだそうです)、基本的に本は値引きが出来ないわけなんです。普通の新刊書店でも、ポイントカードを発行して実質値引きしているケースもあるし、普通の新刊書店でも洋書は値引きして売っても問題ないみたいなんだけど、とにかく再販制度によって値引きはダメということになっているんですね。
今回amazonがどういう理屈で早稲田大学との提携による値引きをやり始めたのか分かりませんが、確かに再販制度には抵触しているんだろうなという気はします。早稲田のIDを持っているという条件付きですけど、この仕組みがうまく行ってさらに広い範囲に広がっていけば、やっぱりamazonで本を買う人は増えるでしょうねぇ。
書店で働いている身としては、やっぱりamazonのようなネット書店は怖いなと思います。僕はそうは思いませんが、いずれリアル書店がなくなって、本は皆ネットで買うという時代が来ると思っている人も結構いるんじゃないかなと思います。だから、amazonにどんどん人が流れて行ってしまう仕組みというのは怖いと思います。
でも一方で、書店の側ももっと努力しないといけないだろうなと思ったりします。もちろん僕に出来ることは大したことはないでしょうが、amazonはいろいろと制約の厳しい日本の出版業界の中で、それでもいろんなアイデアを打ち出して売上を伸ばそうと頑張っているわけです。やはりサービスのいい方向にお客さんが流れて行ってしまうのは仕方ないと思います。リアル書店が頑張っていないということは決してないと思うんだけど、きっとまだ出来ることがたくさんあるんだろうなという気がします。
というわけで話は一気に飛びますが、今日は本屋大賞の授賞式が行われます。この本屋大賞というのは、書店が頑張っていることの一例でしょう。こういうようなことをもっとたくさんやって、リアル書店を盛り上げていければいいな、と思いますが、残念ながら僕は行動力ゼロの人間なので、誰かがやってくれないかなぁ、と思いながら傍観しているだけのダメ人間です。
最終的にネット書店がなくなることはありえないので、リアル書店が生き残っていくためには、どうにかしてネット書店と共存していかなくてはいけません。書店がもっと元気になれるように、微力ながら頑張っていきたいと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「一瞬の風になれ」で本屋大賞を受賞した小説作家・佐藤多佳子が、初めて挑んだノンフィクションです。「一瞬の風になれ」の取材のために陸上競技を見続けた著者は陸上競技の虜となり、そして大阪世界陸上でアジア新記録をマークした4継のメンバーを中心にしてノンフィクションを書くことになります。
日本の短距離走の期待を一身に背負う、塚原直貴・末續慎吾・高平慎士・朝原宜治の四人は、4継という100mずつを4人で走るリレーの代表となった。走力では諸外国に及ばない日本だが、しかしバトンパスなど技術的な側面もかなり大きい4継では上位に食い込むことも可能だ。そしてこの4人は大阪世界陸上において、アジア新記録となるとんでもない記録を叩きだすことになる。
この四人はこれまでどんな経験を積み重ね、そしてどんな風に陸上と向き合ってきたのか。走るという一瞬にすべてを賭け、その陰で地味な練習を積み重ねながら、彼らは何を考えているのか。小説作家・佐藤多佳子が、練習を見学したり取材を重ねる中で感じたことを素直に描いたノンフィクションです。
なかなか面白い作品でしたが、やっぱり佐藤多佳子は小説の方が遥かに面白いと思います。小説が書ける人には、やはり小説を書いてもらいたいものだ、と思ったりしました。本作を読むより、「一瞬の風になれ」を読む方が遥かに陸上についていろんなことを感じ取れるのではないかという気がしました。
とはいえ、なかなか興味深い作品であることは確かです。4継というリレーは、個人種目が多い陸上競技の中では珍しくチーム戦です。そこで必要とされるのは、もちろんここの力もありますが、コミュニケーションや信頼と言ったファジーな部分も実に深く関わってきます。佐藤多佳子は、タイプの違う四人の選手とそれぞれ関わりながら、4継という種目の奥深さや、短距離走者という人種の生き方なんかに肉薄していくことになります。
本書は前後半に分かれていて、前半が大阪世界陸上の4継の描写、そして後半が練習風景や様々な人へのインタビューなどをまとめて、4人それぞれの選手に向き合うという構成になっています。大阪世界陸上の4継の描写だけで122ページも割いているわけで、そういうところはさすが小説家という気がしました。なかなか普通のノンフィクション作家では、その一瞬の描写のためにこれだけのページを割くことはできないだろうと思います。
後半ではそれぞれの選手についてもっと深く突っ込んでいくことになりますが、全員本当にタイプが違うというのがよく分かります。特に、やはり朝原が凄いと思いました。他の3選手は皆20代なのに、朝原は既に35歳、引退していてもおかしくないような年齢です。それでも、未だに第一線で活躍する選手で居続けることが出来る。その凄さみたいなものを感じました。
そこまで強くオススメする作品でもないんですが、陸上にそこまで興味のない人でも十分に楽しめる作品だと思います。個人的にはやっぱり「一瞬の風になれ」を読んで欲しいですね。「夏から夏へ」を先に読んで、その後「一瞬の風になれ」を読むというのもいいかもしれません。
佐藤多佳子「夏から夏へ」
僕は昔ヤフーのニュースで見たことがありますが、amazonが早稲田大学と提携し、去年の12月から同大学の職員や学生などに専用のIDを発行し、そのIDで買う場合最大で8%の値引きをする、というサービスを始めたようです。
そのニュースをヤフーのニュースで見た時は、なるほどamazonがまた面白いことやってるなぁ、という程度の認識でしたけど、ちょっと前に店に来たFAXによれば、出版流通対策協議会というところがamazonに対して、この値引き販売の中止を求める声明を出した、というようなことが書かれていました。なるほど、あんまり深く考えてなかったけど、確かに値引き販売だなぁ、と思ったわけです。
詳しいことは僕は知らないんですけど、書籍には再販制度という仕組みがあって、これは即ち定価で売りますよ、値引きは出来ませんよ、というルールなわけです。だから本は、全国どこで買っても同じ値段なんです。稀に駅なんかで本を値引きして売ってたりするのもあるし(あれは確か何かの期限が切れた本だけが安く売れるみたいな感じだったと思う)、ブックオフなんかで、どこから入ってくるのか知らないけどお客さんから買い取ったわけではない新刊本を安く売ってたりするし(あれはどういうことなのかよくわからない)、また大学の生協なんかでは本が10%引きで買えたりするけど(あれは独占禁止法で再販制度の適用されない事業者として生協が指定されているからだそうです)、基本的に本は値引きが出来ないわけなんです。普通の新刊書店でも、ポイントカードを発行して実質値引きしているケースもあるし、普通の新刊書店でも洋書は値引きして売っても問題ないみたいなんだけど、とにかく再販制度によって値引きはダメということになっているんですね。
今回amazonがどういう理屈で早稲田大学との提携による値引きをやり始めたのか分かりませんが、確かに再販制度には抵触しているんだろうなという気はします。早稲田のIDを持っているという条件付きですけど、この仕組みがうまく行ってさらに広い範囲に広がっていけば、やっぱりamazonで本を買う人は増えるでしょうねぇ。
書店で働いている身としては、やっぱりamazonのようなネット書店は怖いなと思います。僕はそうは思いませんが、いずれリアル書店がなくなって、本は皆ネットで買うという時代が来ると思っている人も結構いるんじゃないかなと思います。だから、amazonにどんどん人が流れて行ってしまう仕組みというのは怖いと思います。
でも一方で、書店の側ももっと努力しないといけないだろうなと思ったりします。もちろん僕に出来ることは大したことはないでしょうが、amazonはいろいろと制約の厳しい日本の出版業界の中で、それでもいろんなアイデアを打ち出して売上を伸ばそうと頑張っているわけです。やはりサービスのいい方向にお客さんが流れて行ってしまうのは仕方ないと思います。リアル書店が頑張っていないということは決してないと思うんだけど、きっとまだ出来ることがたくさんあるんだろうなという気がします。
というわけで話は一気に飛びますが、今日は本屋大賞の授賞式が行われます。この本屋大賞というのは、書店が頑張っていることの一例でしょう。こういうようなことをもっとたくさんやって、リアル書店を盛り上げていければいいな、と思いますが、残念ながら僕は行動力ゼロの人間なので、誰かがやってくれないかなぁ、と思いながら傍観しているだけのダメ人間です。
最終的にネット書店がなくなることはありえないので、リアル書店が生き残っていくためには、どうにかしてネット書店と共存していかなくてはいけません。書店がもっと元気になれるように、微力ながら頑張っていきたいと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「一瞬の風になれ」で本屋大賞を受賞した小説作家・佐藤多佳子が、初めて挑んだノンフィクションです。「一瞬の風になれ」の取材のために陸上競技を見続けた著者は陸上競技の虜となり、そして大阪世界陸上でアジア新記録をマークした4継のメンバーを中心にしてノンフィクションを書くことになります。
日本の短距離走の期待を一身に背負う、塚原直貴・末續慎吾・高平慎士・朝原宜治の四人は、4継という100mずつを4人で走るリレーの代表となった。走力では諸外国に及ばない日本だが、しかしバトンパスなど技術的な側面もかなり大きい4継では上位に食い込むことも可能だ。そしてこの4人は大阪世界陸上において、アジア新記録となるとんでもない記録を叩きだすことになる。
この四人はこれまでどんな経験を積み重ね、そしてどんな風に陸上と向き合ってきたのか。走るという一瞬にすべてを賭け、その陰で地味な練習を積み重ねながら、彼らは何を考えているのか。小説作家・佐藤多佳子が、練習を見学したり取材を重ねる中で感じたことを素直に描いたノンフィクションです。
なかなか面白い作品でしたが、やっぱり佐藤多佳子は小説の方が遥かに面白いと思います。小説が書ける人には、やはり小説を書いてもらいたいものだ、と思ったりしました。本作を読むより、「一瞬の風になれ」を読む方が遥かに陸上についていろんなことを感じ取れるのではないかという気がしました。
とはいえ、なかなか興味深い作品であることは確かです。4継というリレーは、個人種目が多い陸上競技の中では珍しくチーム戦です。そこで必要とされるのは、もちろんここの力もありますが、コミュニケーションや信頼と言ったファジーな部分も実に深く関わってきます。佐藤多佳子は、タイプの違う四人の選手とそれぞれ関わりながら、4継という種目の奥深さや、短距離走者という人種の生き方なんかに肉薄していくことになります。
本書は前後半に分かれていて、前半が大阪世界陸上の4継の描写、そして後半が練習風景や様々な人へのインタビューなどをまとめて、4人それぞれの選手に向き合うという構成になっています。大阪世界陸上の4継の描写だけで122ページも割いているわけで、そういうところはさすが小説家という気がしました。なかなか普通のノンフィクション作家では、その一瞬の描写のためにこれだけのページを割くことはできないだろうと思います。
後半ではそれぞれの選手についてもっと深く突っ込んでいくことになりますが、全員本当にタイプが違うというのがよく分かります。特に、やはり朝原が凄いと思いました。他の3選手は皆20代なのに、朝原は既に35歳、引退していてもおかしくないような年齢です。それでも、未だに第一線で活躍する選手で居続けることが出来る。その凄さみたいなものを感じました。
そこまで強くオススメする作品でもないんですが、陸上にそこまで興味のない人でも十分に楽しめる作品だと思います。個人的にはやっぱり「一瞬の風になれ」を読んで欲しいですね。「夏から夏へ」を先に読んで、その後「一瞬の風になれ」を読むというのもいいかもしれません。
佐藤多佳子「夏から夏へ」