言壺(神林長平)
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内容に入ろうと思います。
本書は、「言葉」に空想の翼を与え、「言葉」というものの危険性や可能性を最大限に夢想した、9つの短編が収録された作品です。
物語の中には、ベースとなる基本的なモノが存在する。それが、「ワーカム」と呼ばれる万能著述支援用マシンだ。「ワーカム」は、著述者が書いてきた文章などから著述者の思考を読み、それを先回りし、整理し、より洗練させることで、著述者の著述行動を全面的に支援するマシンだ。ワーカムなしでも文章は掛けるのだが、ネットワークにも接続され、あらゆる著述業が主にワーカムを介してなされる世界になってしまっているため、ワーカムなしで生きていくことはもはや難しい。そんな時代をメインに描き出していく。
「綺文」
作家であるおれは、ワーカムからある文章の入力を拒絶されている。「私を生んだのは姉だった」という一文だ。ワーカムはこの文を、明らかな誤りとして受け付けない。でもおれが書きたいのはこの文章なのだ。困って友人の技術屋に助けを求めるが…
「似負文」
売れない電送作家である水谷は、ある日突然わけもなく自宅から連れ去られる。弓岡と名乗る男は、水谷からすれば信じられない任務に就いているようだが、そんな弓岡が水谷の力を借りたいのだという。ある「言葉」が読めなくて困っているというが…
「被援文」
ワーカムに慣れきった作家が、久方ぶりに手書きで文章を書いている。わたしにとっては、作品を物理的な本という形にしてくれる有能な編集者だった長尾の死が、わたしを不安定にする。わたしは手書きで文章を書きながら、ワーカムとはどのような存在なのかについて思考する。
「没文」
陸地が消え、八百階建ての高層ビルに住み始めるようになった人類。人類は皆、物語を創作することで生きるようになったが、階毎に生み出す物語に違いがある。時々、海の底から、かつて紡がれた「本」という物理的な形を持つ物語が見つかる。
「跳文」
兄に呼ばれて作家のパーティに出るが、そこで、それまで弟のぼくの意見など一顧だにしなかった兄から相談を受ける。自分が使っている著述支援システムがおかしいのだという。おかしいのはわかるのだが、どうおかしいのかがどうしてもわからない。俺は狂っているのではないか、と…。
「栽培文」
言葉は、栽培ポッドと呼ばれるものに入れて栽培するものになった。いや、元々そういうものだったのだが、人類は「文字」を「言葉」の本質だとずっと捉えてきて、その本来の姿に気付かなかっただけなのだ。今では誰もが、自分や相手が育てている言葉を「見る」ことが出来るし、意志の疎通はすべて栽培ポッドを通じて行われるようになった。
「戯文」
私はなかなか眠ることが出来なくなった。物語を書いていると、切り替えが難しい。今までは犬の散歩がよい気晴らしだったようだ。愛犬が死んでからその存在の大きさを知る。私を眠りにつかせるようになったのは、偶然の出来事だった。ワーカムを通じて、久しく音信のない父親とテキストモードで会話をすることになったのだ。
「乱文」
内容紹介省略
「碑文」
内容紹介省略
というような話です。
これはなかなか素晴らしい作品でした。徹底的に「言葉」というものを突き詰めて考えている。僕らは言葉というものを、特に意識することなく、まるで空気のような存在として扱っているだろう。どこからやってきたのか、何故その言葉はそういう意味なのか、言葉の本質とはどこにあるのか、何故言葉は「聞く」と「見る」がメインなのか…などなど、そういう疑問を抱くことはきっとほとんどないはずだ。言葉は便利だ、言葉があってくれて良かった、などと思うこともきっとないだろう。ごく普通の人にとっては、言葉は「あって当たり前」のものであるし、繰り返すけどまさに空気のようなものなので、普段その存在を意識することは非常に少ないはずだ。
しかし、言葉というのはなかなか不思議なものだと思う。日常的にそんなことを考えているわけではないのだけど、僕は時々そんな風に考えることがある。
例えば、大した話ではないのだけど、こんなことを考えることがある。日本語だとよく、「女女している」とか「眼鏡眼鏡している」というような表現が使われる。この意味を、簡潔に説明することは難しいような気がするけど、でも大抵の場合、こういう表現を聞けば、なるほどそういうことか、と伝わる。
あるいは、同じような言葉として、「フラグ」という言葉がある。これは元々はオタク界隈から生まれた言葉だったはずだろうが、今では一般的に使われているだろうと思う。でもこの「フラグ」という単語、意味を説明しようとすると、非常に難しい。スパッとした、見事な説明を、今まで聞いたことがないような気がする。
こういう言葉は不思議だ。どうしてこんな表現になったのか、そしてきちんと意味を説明するのが難しいにも関わらず、どうしてそれが一般的に使われるまで広まったのか。こういうことを考える時、言葉の不思議さにいっとき囚われる。
本書は「言葉」を扱った作品であり、さらに「ワーカム」と呼ばれる著述支援マシンが登場するために、作家や創作者が物語の中心にいることが多い。そのため、「書くということ」「物語を生み出すということ」についての思索はやはり多い。「ワーカム」という著述支援マシンが登場することで、「書く」という行為はどのように変化したのか、「物語」の役割はどんな風に拡張したのか、という部分が、まずは中核として描かれることが多い。
それらの物語も、非常に面白い。僕もこうして、日々駄文をタイプしているのだけど、僕は間違いなく、パソコンがなければ毎日こんなに長々と文章を書くことはしなかったと断言できる。手書きでも、スマートフォンでもダメで、パソコンのキーボードがなければ僕は文章が書けない(このブログのような長い文章は、ということだけど)。それは僕の思考のスピードとタイプのスピードが限りなく並走する、という点が一番大きいだろう。手書きでもスマートフォンでも、自分の思考に追いつかない。唯一、キーボードだけが、それでもまだ遅いけど、自分の思考になんとか並走出来る出力方法なのだ。僕はこうして文章を書いている時、あらかじめ文章をまったく考えていない。書きながら考えている(そもそも、書く前に文章を考える、なんていう時間はない)。タイピングをしながら、そのちょっと先に何を書こうかということを考えながら常に文章を打っている。
初めからそんなことが出来たわけではなくて、長年の訓練の結果だと思うのだけど、だからこそある時、自分のやっていることが不思議だなと思えるようになったことがある。一体僕は、文章をどこで考えているのだろう。当然、頭で考えている、というのが普通の答えだ。でも、ある時から僕の感覚としては、指先が文章を考えている、という方が近いような感覚がある。もちろん、長い文章を書いている時、立ちどまってしまうこともある。そういう時に、改めて書き始めるその瞬間には頭で文章を考えているような気はするのだけど、一度タイピングを始めてしまえば、後は指先が文章を書いているような感覚になる。実際は頭で考えているのだろうけど、実感としては違う。これが非常に面白いと感じる瞬間がかつてあったような気がする。
「ワーカム」で文章を書く、というのも、もしかしたら僕のこのような違和感の延長線上にあるのかもしれない。「ワーカム」を使って文章を書く人は、確かに自分で文章を書いていると感じている。出力された文章も、自分の文章だ。しかし、やはりどこかで、自分以外の誰かが書いた文章なのではないか、という思いが入り込む。自分の書きたかったこととは違うのではないかと疑いを持つようになる。そういう、著述者の思考や不安を丁寧に拾い集めていく物語も非常に面白いと思った。
しかし僕は、そうではないタイプの物語の方がより面白いと感じた。そうではないタイプの物語では主に何が描かれるかというと、「言葉そのもの」が描かれていることが多いように思う。
「言葉」とは一体何なのか。
日常的に言葉を使っている僕らからすれば、言葉というのは情報伝達の手段でしかないかもしれない。
でも本書を読むと、「言葉」の本質はそれだけなのだろうか?他にももっと違った機能が搭載されているのではないか、という疑いを抱くようになるのではないかと思う。
例えば本書の中では、「言葉によるウイルス」という話が出てくる。これは、原理的にはきちんと理解できているわけではないのだけど、読んでいると、なるほどそういうものの存在も許容されるかもしれないと思わせる作品に仕上がっている。ウイルスは、生物学的に言うと、生物と無生物のあいだに属する、ちょっと特殊な存在だ。定義次第で、生きているとも言えるし、生きていないとも言える。同じことが、言葉に対しても言える可能性がある。僕らの常識からすれば、明らかに「言葉」は生きていないだろう。でも、もしウイルスを「生きている」と定義するのであれば、同じ定義の方法で、言葉も「生きている」と定義出来る可能性があるのではないか?そんな風に思わされた。
また本書の中で、お金と言葉を比較する文章が出てくる場面がある。
『金も幻想だよ。ただの紙切れにすぎないのに、勝ち幻想を皆が共有することで、仮想世界が成り立っている。言葉も同じだ。ヒトは言葉を持ったときから幻想空間で生きるようになったんだ』
これは非常に面白いと思う。そう、まずお金は幻想だ。「1万円札」はただの紙切れだが、しかし皆がそれに価値があると信じ、皆が信頼している存在(=政府)がその価値を保証することで、「1万円札」は貨幣としての価値を持つ。
言葉も、同じ単語を同じ意味で使っている、という幻想がなければ成り立たない。そういう意味で幻想の上に成り立っていると言えるが、さらに言葉の場合、面白い現象がある。
心理学か何かの実験で、「ブーバキキ実験」と呼ばれる有名なものがある。被験者に二つの図形を見せる。片方はトゲトゲとした図形で、もう片方は丸っこい図形だ。その二つの図形を見せながら実験者は、「どちらがブーバで、どちらがキキですか?」と問う。すると、多くの人が、尖っている方をキキだと、丸っこい方をブーバだと答えるのだという。
これは一体どういうことだろう?ブーバもキキも、固有名詞ではないし、どちらの図形もブーバやキキと言った意味のない単語を連想させるはっきりとした属性などないはずだ。しかし多くの人が、同じ選択をする。これは、「言葉」というものには、それを使っている人間には意識できないレベルでの幻想性が付帯されているということなのかもしれないと思う。それはすなわち、言葉というものは、僕ら人間が意識している以上の可能性を持つ、つまりただの情報伝達のための手段だけではない、ということを示唆するのではないか。本書は、「示唆するのではないか」という、まだ人間が意識できない部分を、物語として紡ぐことで可能性を提示した。その見事な創造性によって、「言葉」という存在が拡張されていく有り様を、読者は知ることが出来るだろう。
僕らが日常的に何気なく使っていて、意識することのない「言葉」という存在。それが実は不思議な可能性を持つかもしれない、僕らが意識出来ないだけでもっと広がりを持った存在なのかもしれない、と思わせてくれる作品です。この作品が、1990年前後に描かれていた、ということは、やはり驚愕に値するでしょう。是非読んでみてください。
神林長平「言壺」
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