塗仏の宴<宴の支度・宴の始末>(京極夏彦)
えーっと、うーんと、あぁ・・・
これ誰だっけ・・・
何と何が対立?
塗仏・・・付喪神・・・くんほう様ぁ?
読んでいる最中の俺。
作品自体が化け物としかいいようのないもの。
読んでいて思った。
この作品を書くためだけに、これまでのシリーズ五作を書いたんではないか、と。
恐らく2004年最後になるだろう読了本(というのも次に読むつもりなのが模倣犯なんで)。大分ありえないぐらい長くて(どれくらい長いかと言えば、今まで読んできた中で三番目に長い)、それはそれは長く楽しい道のりだったけど、内容も構造も論理も、それはそれはわかりずらいなという感想。
京極の<京極堂シリーズ>は売れてるんです。でもこの作品が一般ウケするとは俺には思えないんです。俺みたいな生粋のミステリー好きだとか、他には妖怪や民俗習慣が好きとかいう人にもいいかもしれないけど、さぁてなぁ、一般ウケしているのが奇跡のような作品だと思う。
さて、出来るだけ内容と構造に触れようかと思う。
まずは構造から。
京極夏彦は上下に作品を分けるのを嫌うらしいが、今回はさすがに一つにまとめることはできずに、<宴の支度>と<宴の始末>の二巻に分かれている。<支度>の方は6編の短編(まあ中篇といったほうがいい分量だろうかな)で構成されている。それぞれの作品はどうみても関連があるとは思えない。消えてしまった村・自殺し続ける奇妙な来歴を持つ男・お祖父さんの記憶が改竄されてしまったと主張する女性・自分の意志で喋ったことではないことが何故か当たる占い師・気配も機会もはないはずなのに何故か生活全てを覗かれているという女性・家神をきちんとした場所に祀ろうとする女性。
そして、女性を殺害し木に吊り下げたとして逮捕されたあの男(まあそいつの正体は特に隠してないから書いてしまってもいいんだけど)。
一応まだ<支度>の方は、それぞれの話がそれなりに完結しているように見えるし、論理的だし、妖怪の話もまあなんとかなるように思う。ただ、この短編がどう繋がってどう一枚の画が描かれるのかがわからない。一番の謎はそこだろう。
あと、今までのシリーズ作に出てきた登場人物達がオンパレードで登場する。だから余計にどうなることやらわからない。
さて<始末>の方はというと。
もうこっちになると説明できることは何一つない。
視点がめまぐるしく変わる。まず誰だったのか思い出すのがとても大変。
状況が次々に変わっていき、でも事件らしい事件は何一つ起きず、京極堂は動かず、時に難解な妖怪談義に花が咲き、木場が榎木津が敦子がいなくなり、という感じ。
自分の記憶が信じられなくなったとき、過去を信じられなくなった時、どこに真実を見出せばいいのか。真実がどこかにあることを信じていたらいいのか、あるいは全ては自分で選び取るものだ、と開き直れるか。見ているもの・聞いていること・感じていること・蓄積してきたこと・記憶していること、そうしたこと全てが間違っていると分かった時、人はどうすればいいのか。
さて、俺はこの内容について、中心だけはわかった(まあ最後に京極堂が説明してくれるわけだからわかって当然だけど)。ただもはや謎がなんなのかすらわからなくなってきてしまっている身には、細かな部分はすでによくわかっていない。
まあ難しいですよ。
それでもやっぱ面白いんですけどね。
まあ、普通の人は厚さを見ただけで読まないだろうけど、読んでみてくださいな。
京極夏彦「塗仏の宴<宴の支度・宴の始末>」
これ誰だっけ・・・
何と何が対立?
塗仏・・・付喪神・・・くんほう様ぁ?
読んでいる最中の俺。
作品自体が化け物としかいいようのないもの。
読んでいて思った。
この作品を書くためだけに、これまでのシリーズ五作を書いたんではないか、と。
恐らく2004年最後になるだろう読了本(というのも次に読むつもりなのが模倣犯なんで)。大分ありえないぐらい長くて(どれくらい長いかと言えば、今まで読んできた中で三番目に長い)、それはそれは長く楽しい道のりだったけど、内容も構造も論理も、それはそれはわかりずらいなという感想。
京極の<京極堂シリーズ>は売れてるんです。でもこの作品が一般ウケするとは俺には思えないんです。俺みたいな生粋のミステリー好きだとか、他には妖怪や民俗習慣が好きとかいう人にもいいかもしれないけど、さぁてなぁ、一般ウケしているのが奇跡のような作品だと思う。
さて、出来るだけ内容と構造に触れようかと思う。
まずは構造から。
京極夏彦は上下に作品を分けるのを嫌うらしいが、今回はさすがに一つにまとめることはできずに、<宴の支度>と<宴の始末>の二巻に分かれている。<支度>の方は6編の短編(まあ中篇といったほうがいい分量だろうかな)で構成されている。それぞれの作品はどうみても関連があるとは思えない。消えてしまった村・自殺し続ける奇妙な来歴を持つ男・お祖父さんの記憶が改竄されてしまったと主張する女性・自分の意志で喋ったことではないことが何故か当たる占い師・気配も機会もはないはずなのに何故か生活全てを覗かれているという女性・家神をきちんとした場所に祀ろうとする女性。
そして、女性を殺害し木に吊り下げたとして逮捕されたあの男(まあそいつの正体は特に隠してないから書いてしまってもいいんだけど)。
一応まだ<支度>の方は、それぞれの話がそれなりに完結しているように見えるし、論理的だし、妖怪の話もまあなんとかなるように思う。ただ、この短編がどう繋がってどう一枚の画が描かれるのかがわからない。一番の謎はそこだろう。
あと、今までのシリーズ作に出てきた登場人物達がオンパレードで登場する。だから余計にどうなることやらわからない。
さて<始末>の方はというと。
もうこっちになると説明できることは何一つない。
視点がめまぐるしく変わる。まず誰だったのか思い出すのがとても大変。
状況が次々に変わっていき、でも事件らしい事件は何一つ起きず、京極堂は動かず、時に難解な妖怪談義に花が咲き、木場が榎木津が敦子がいなくなり、という感じ。
自分の記憶が信じられなくなったとき、過去を信じられなくなった時、どこに真実を見出せばいいのか。真実がどこかにあることを信じていたらいいのか、あるいは全ては自分で選び取るものだ、と開き直れるか。見ているもの・聞いていること・感じていること・蓄積してきたこと・記憶していること、そうしたこと全てが間違っていると分かった時、人はどうすればいいのか。
さて、俺はこの内容について、中心だけはわかった(まあ最後に京極堂が説明してくれるわけだからわかって当然だけど)。ただもはや謎がなんなのかすらわからなくなってきてしまっている身には、細かな部分はすでによくわかっていない。
まあ難しいですよ。
それでもやっぱ面白いんですけどね。
まあ、普通の人は厚さを見ただけで読まないだろうけど、読んでみてくださいな。
京極夏彦「塗仏の宴<宴の支度・宴の始末>」
西の魔女が死んだ(梨木果歩)
かなり毛色の違う作品を読んだ。どのくらい違うのかは、本作が受賞している賞の名前を見ればわかるだろうと思う。
日本児童文学者協会新人賞
新美南吉児童文学賞
小学館文学賞
まあ読書のはばは広い方がいいですね。
始まりは、「西の魔女」ことおばあちゃんが倒れた、という一報。ママとまいは急いで駆けつける。
そしてそこから、二年前の回想シーン。
まいはどうしても学校に行けなくなり、どうせ休むなら、とおばあちゃんの家に泊まることになった。「おばあちゃん大好き」と言えば「アイノウ」と答える、英国人の血の混じったおばあちゃん。二人暮しが始まる。
都会から離れた、自然に囲まれた環境。裏山があり、庭があり、庭には畑があり、山では野いちごが採れ、鶏を飼っていて、そうした喧騒や窮屈さの一切ない世界での生活に、次第にまいの心は鎮まっていく。
ある時おばあちゃんはある告白をする。自分の血筋は魔女なのだと。まいはそれを信じる。魔女になるためには訓練が必要であることを知り、その日からまいの魔女訓練が始まる。
規則正しい生活をし、何でも自分で決めること。
まいに与えられた課題はそれだけだった。ただ、それだけのはずの課題は、まいにとってはなかなか難しい。少しずつ努力しながらおばあちゃんとの生活を続けていく。
その生活の中で唯一の邪魔者、ゲンジさん。隣に住むゲンジさんのことをまいは好きになることができない。
そんな平穏でありながら時折心をかき乱される生活の中、まいが成長していく。
そういった感じの話。
この梨木果歩という作家、今なかなか人気で、本作かどうかは知らないけれど、新潮社がネットで行っている「読者が選ぶ文庫」みたいので、この人の作品が一位になっていたりしました。文体は加納朋子や光原百合のように静かで透明でゆったりしていて、心地いい。ミステリーからは大分遠いけど、内容はともかく、文体は結構好きな作家です。
短いしサクっと読めるので、気軽に読んでみてください。
梨木果歩「西の魔女が死んだ」
日本児童文学者協会新人賞
新美南吉児童文学賞
小学館文学賞
まあ読書のはばは広い方がいいですね。
始まりは、「西の魔女」ことおばあちゃんが倒れた、という一報。ママとまいは急いで駆けつける。
そしてそこから、二年前の回想シーン。
まいはどうしても学校に行けなくなり、どうせ休むなら、とおばあちゃんの家に泊まることになった。「おばあちゃん大好き」と言えば「アイノウ」と答える、英国人の血の混じったおばあちゃん。二人暮しが始まる。
都会から離れた、自然に囲まれた環境。裏山があり、庭があり、庭には畑があり、山では野いちごが採れ、鶏を飼っていて、そうした喧騒や窮屈さの一切ない世界での生活に、次第にまいの心は鎮まっていく。
ある時おばあちゃんはある告白をする。自分の血筋は魔女なのだと。まいはそれを信じる。魔女になるためには訓練が必要であることを知り、その日からまいの魔女訓練が始まる。
規則正しい生活をし、何でも自分で決めること。
まいに与えられた課題はそれだけだった。ただ、それだけのはずの課題は、まいにとってはなかなか難しい。少しずつ努力しながらおばあちゃんとの生活を続けていく。
その生活の中で唯一の邪魔者、ゲンジさん。隣に住むゲンジさんのことをまいは好きになることができない。
そんな平穏でありながら時折心をかき乱される生活の中、まいが成長していく。
そういった感じの話。
この梨木果歩という作家、今なかなか人気で、本作かどうかは知らないけれど、新潮社がネットで行っている「読者が選ぶ文庫」みたいので、この人の作品が一位になっていたりしました。文体は加納朋子や光原百合のように静かで透明でゆったりしていて、心地いい。ミステリーからは大分遠いけど、内容はともかく、文体は結構好きな作家です。
短いしサクっと読めるので、気軽に読んでみてください。
梨木果歩「西の魔女が死んだ」
さまよう刃(東野圭吾)
まずは、自分の少年法に対する考えから書こうかと思う。
言い訳から。
人にはそれぞれ、よって立つ立場というものがあって、その立場に立って物事を見、判断することしか出来ない。だから、今まで少年法を肯定していた人が家族を少年に殺されて、あるいは少年法を否定していた人の息子や何かが犯罪に加担してなお同じ主張が出来るか、ということはなんとも言えない。もちろんどちらの立場にも立ったことのない自分には、より不明瞭な基準でしかこの少年法というのを見ることが出来ない。
その上で。
存在の是非については、必要だと思う。確かに環境に左右されやすく、また善悪の判断も覚束ない可能性のある子供の犯罪に対して、大人と同様の処罰を下す、というのは難しいと思う。更生を目的としている、という主張もわからないでもない。
ただ、犯罪の程度と年齢の設定には納得がいかない。
犯罪の程度については、確かに窃盗だとか傷害だとか、まだ軽いと思われるものについては少年法を適応してしかるべきだとは思う。ただ、人を殺す、ということについては、その重みをもっと法律に反映すべきだろうと思う。加害者には望んでなれるけれど、被害者はそうもいかない。天災のようなもので、ならば災害補償のような、つまり被害者の加害者に対する感情を尊重するような処罰を、殺人という犯罪については適応すべきだろうと思う。
年齢については、やはり二十歳未満を少年とするのは、もはや無理があるように思う。先の長崎で起きた小学六年生による殺人、あるいは来年1月に退院する、犯行当時中学生だったあの少年A。そのくらいの年齢なら、まだその後の教育環境やサポートによって構成する可能性があるようにも思える。ただ高校生、大学生くらいの年齢になれば、もはや少年法を隠れ蓑にしていると印象しかない。もちろん年齢を何歳に設定すればいいのかというのは難しい問題なので、俺はこう思う。例えば16歳から20までをグレーゾーンとして、その範囲の年齢なら、犯罪の程度や状況、養育環境やトラウマなど、裁判の過程で出される様々な事柄から判断し、少年法を適応するか否か、から裁判で争えばいいのではないかと思う。
これが俺の少年法に対する考え方。
前置きが随分長くなった。
今回の作品は、まさに少年法をテーマに据えていて、一人娘を少年に蹂躙された父親の復讐劇を描いている。場面や視点がくるくると入れ替わり、展開が早い。それぞれの立場における葛藤が描かれ、同情や賛同、無関心や非難、共感や叫喚、慟哭や後悔など、加害者・加害者家族・被害者・被害者家族・警察・世間・協力者・マスコミ、そういった様々な立場の人間が様々な感情を様々な形で表出させていく物語。
なるほど、最後にやっぱりミステリーなんだな、とも思わせてくれる。
個人的には、結末は残念だと思う。悪いという意味ではなく、やはりそうなのかという残念。
しかし、好きな作家だからこそ厳しく書くけど、今回の作品は厚みが無かったように思う。白夜行・幻夜は言うに及ばず、最近の作品、片想い・トキオ・手紙・殺人の門、などは、積み重ねられた過去や感情や想いのようなものが作品自体に相当の厚みを与えていたと思うけど、今回の作品は、悪く言えば、二時間ドラマを見ているような(見たことはないけど)、そんなあっさり終わってしまったような感じがする。場面転換によるテンポのよさもあっただろうし、そもそも短い期間の話を描いているから仕方ないのかもしれないけど、最近の作品に見られるような重厚感をあまり感じなくて、少し物足りなかったかな。
まあ少年による事件が多発している現代だからこそ読むべき作品ではあると思います。注意して欲しいのは、殺人の門並に重いので、東野氏の他の爽やかな作品を読んで、その流れで本作を読もうとしたら、なかなかギャップがあるのではないかと思います。読む際は、そういう作品だということを念頭に置いてから読み進めてください。
東野圭吾「さまよう刃」
言い訳から。
人にはそれぞれ、よって立つ立場というものがあって、その立場に立って物事を見、判断することしか出来ない。だから、今まで少年法を肯定していた人が家族を少年に殺されて、あるいは少年法を否定していた人の息子や何かが犯罪に加担してなお同じ主張が出来るか、ということはなんとも言えない。もちろんどちらの立場にも立ったことのない自分には、より不明瞭な基準でしかこの少年法というのを見ることが出来ない。
その上で。
存在の是非については、必要だと思う。確かに環境に左右されやすく、また善悪の判断も覚束ない可能性のある子供の犯罪に対して、大人と同様の処罰を下す、というのは難しいと思う。更生を目的としている、という主張もわからないでもない。
ただ、犯罪の程度と年齢の設定には納得がいかない。
犯罪の程度については、確かに窃盗だとか傷害だとか、まだ軽いと思われるものについては少年法を適応してしかるべきだとは思う。ただ、人を殺す、ということについては、その重みをもっと法律に反映すべきだろうと思う。加害者には望んでなれるけれど、被害者はそうもいかない。天災のようなもので、ならば災害補償のような、つまり被害者の加害者に対する感情を尊重するような処罰を、殺人という犯罪については適応すべきだろうと思う。
年齢については、やはり二十歳未満を少年とするのは、もはや無理があるように思う。先の長崎で起きた小学六年生による殺人、あるいは来年1月に退院する、犯行当時中学生だったあの少年A。そのくらいの年齢なら、まだその後の教育環境やサポートによって構成する可能性があるようにも思える。ただ高校生、大学生くらいの年齢になれば、もはや少年法を隠れ蓑にしていると印象しかない。もちろん年齢を何歳に設定すればいいのかというのは難しい問題なので、俺はこう思う。例えば16歳から20までをグレーゾーンとして、その範囲の年齢なら、犯罪の程度や状況、養育環境やトラウマなど、裁判の過程で出される様々な事柄から判断し、少年法を適応するか否か、から裁判で争えばいいのではないかと思う。
これが俺の少年法に対する考え方。
前置きが随分長くなった。
今回の作品は、まさに少年法をテーマに据えていて、一人娘を少年に蹂躙された父親の復讐劇を描いている。場面や視点がくるくると入れ替わり、展開が早い。それぞれの立場における葛藤が描かれ、同情や賛同、無関心や非難、共感や叫喚、慟哭や後悔など、加害者・加害者家族・被害者・被害者家族・警察・世間・協力者・マスコミ、そういった様々な立場の人間が様々な感情を様々な形で表出させていく物語。
なるほど、最後にやっぱりミステリーなんだな、とも思わせてくれる。
個人的には、結末は残念だと思う。悪いという意味ではなく、やはりそうなのかという残念。
しかし、好きな作家だからこそ厳しく書くけど、今回の作品は厚みが無かったように思う。白夜行・幻夜は言うに及ばず、最近の作品、片想い・トキオ・手紙・殺人の門、などは、積み重ねられた過去や感情や想いのようなものが作品自体に相当の厚みを与えていたと思うけど、今回の作品は、悪く言えば、二時間ドラマを見ているような(見たことはないけど)、そんなあっさり終わってしまったような感じがする。場面転換によるテンポのよさもあっただろうし、そもそも短い期間の話を描いているから仕方ないのかもしれないけど、最近の作品に見られるような重厚感をあまり感じなくて、少し物足りなかったかな。
まあ少年による事件が多発している現代だからこそ読むべき作品ではあると思います。注意して欲しいのは、殺人の門並に重いので、東野氏の他の爽やかな作品を読んで、その流れで本作を読もうとしたら、なかなかギャップがあるのではないかと思います。読む際は、そういう作品だということを念頭に置いてから読み進めてください。
東野圭吾「さまよう刃」
絡新婦の理(京極夏彦)
京極夏彦の五作目。作品ごとにどんどん進化しているように感じる。
いつものように、京極作品のあらすじを書くことはまず不可能。前前作の「狂骨の夢」よりはまだわかりやすく、「鉄鼠の檻」ほど難解なテーマが出てくるわけではないけれども、それでもあまりに複雑すぎる。
とにかく鑿で眼を潰して人を殺して回る「目潰し魔」と、首を締めて人を殺して回る「絞殺魔」が出てくる。しかし両者はそれぞれの事象で見る限り交わらない。一方ではある学園が関わり、ある旧家が関わり、もう一方では木場修が関わり、彼の知人が関わる。
偶然が、いや、偶然に見える様々な事象が飛び交う。
山口雅也の作品に、「奇偶」というのがあって、これもさまざまな偶然を題材にした作品だが、こちらはそれぞれに対して論理的な(あくまで実現可能な範囲での)解決はなされない。
一方、この「絡新婦の理」の中での偶然は、全て(ほとんど?)偶然ではないことがわかっていく。蜘蛛が巣を張り巡らせるかのように、そして全ての不確定要素を足したり引いたりしてもなお機能してしまうような罠、仕掛け。そうした「偶然」とそれらを繋ぐ「糸」と「意図」が絡み合い、糸を辿った先に真実はなく、中心を求めようとすれば迂回するしかなく、結局何が起こっているのか、そして何をするべきなのか、その「蜘蛛の巣」に掛かっている人間にはわからない。
そういうお話。
結局何も説明していないけど、説明出来ないのだから仕方ない。正直、わからない部分も多くある。それは京極堂の演説で、知識がないからわからない、とかいう類のものではなく、あえて説明されないでいる部分がいくつかあって、そうした点がどうなっているのかわからない。
とにかくアホみたいに長いし、確かに複雑だけど、読んでいてそこまで辛くはないと思う(まあ人によるとは思うけど)。今までの五作の中では圧倒的に長いし、偶然を取り込んだ作品の複雑さには煩悶するけど、それでも一気に読めてしまうし、読後感も悪くない。
どうも、このくそ長い話しを、第一作目から映画化するらしいけど、まあ原作でも映画でもなんでもいいから、とにかく京極夏彦の世界を一度でもいいから堪能して欲しいな、と思います。
ちなみに、第一作目の「姑獲鳥の夏」だけで判断して欲しくないな、と。それを読んだ上で、第二作目の「魍魎の匣」を読んで判断して欲しいな、と。そこまで読んでダメなら、まあ合わないんでしょう。
本作の感想とかにはあまりなってないけど、そんな感じで。
京極夏彦「絡新婦の理」
いつものように、京極作品のあらすじを書くことはまず不可能。前前作の「狂骨の夢」よりはまだわかりやすく、「鉄鼠の檻」ほど難解なテーマが出てくるわけではないけれども、それでもあまりに複雑すぎる。
とにかく鑿で眼を潰して人を殺して回る「目潰し魔」と、首を締めて人を殺して回る「絞殺魔」が出てくる。しかし両者はそれぞれの事象で見る限り交わらない。一方ではある学園が関わり、ある旧家が関わり、もう一方では木場修が関わり、彼の知人が関わる。
偶然が、いや、偶然に見える様々な事象が飛び交う。
山口雅也の作品に、「奇偶」というのがあって、これもさまざまな偶然を題材にした作品だが、こちらはそれぞれに対して論理的な(あくまで実現可能な範囲での)解決はなされない。
一方、この「絡新婦の理」の中での偶然は、全て(ほとんど?)偶然ではないことがわかっていく。蜘蛛が巣を張り巡らせるかのように、そして全ての不確定要素を足したり引いたりしてもなお機能してしまうような罠、仕掛け。そうした「偶然」とそれらを繋ぐ「糸」と「意図」が絡み合い、糸を辿った先に真実はなく、中心を求めようとすれば迂回するしかなく、結局何が起こっているのか、そして何をするべきなのか、その「蜘蛛の巣」に掛かっている人間にはわからない。
そういうお話。
結局何も説明していないけど、説明出来ないのだから仕方ない。正直、わからない部分も多くある。それは京極堂の演説で、知識がないからわからない、とかいう類のものではなく、あえて説明されないでいる部分がいくつかあって、そうした点がどうなっているのかわからない。
とにかくアホみたいに長いし、確かに複雑だけど、読んでいてそこまで辛くはないと思う(まあ人によるとは思うけど)。今までの五作の中では圧倒的に長いし、偶然を取り込んだ作品の複雑さには煩悶するけど、それでも一気に読めてしまうし、読後感も悪くない。
どうも、このくそ長い話しを、第一作目から映画化するらしいけど、まあ原作でも映画でもなんでもいいから、とにかく京極夏彦の世界を一度でもいいから堪能して欲しいな、と思います。
ちなみに、第一作目の「姑獲鳥の夏」だけで判断して欲しくないな、と。それを読んだ上で、第二作目の「魍魎の匣」を読んで判断して欲しいな、と。そこまで読んでダメなら、まあ合わないんでしょう。
本作の感想とかにはあまりなってないけど、そんな感じで。
京極夏彦「絡新婦の理」
黒冷水(羽田圭介)
さて、記念すべき500冊目。
今回の話しは、兄弟の崩壊の物語。兄・正気(まさき)と弟・修作の二人の攻防を描いた作品だ。
いきなり弟・修作が正気の部屋をあさるシーンから始まる。ありとあらゆるところを大胆にそれでいて繊細に暴き、エロ本や無修正ビデオなど、正気の隠したがっているものを掘り出し、その戦利品を使い満足する。
一方の兄は、そんな弟のあさりを知っている。弟はうまく騙せていると思っていてもアラばかりなのだ。一方的にやられているわけにはいかないし、でも弟と同じ方法は取りたくない。正気は母親に弟の行動を告げ口することで憂さ晴らしをする。
比較的優等生の兄と、堕ちきった弟。二人の意地の張り合いというか、冷戦の継続とか、とにかくそういったことが永遠続いていく。
兄は兄で解決を図ろうといろいろ試してみるのだが、黒冷水が心臓を覆う感覚を拭い去ることができない。弟は日ごとに壊れていく(ように見える)。お互いの限界まで達し、膨らみきった風船が爆発しようか、という時、くるっと引っくり返される。
言っておくが、ミステリーではない。まあだからというかどこまで気合入れて面白いとはいえないけど、二人の行動が妙にリアルで、その不気味さが逆に爽快だったような気がする。
さて、意図的に作者についての情報を隠してきたけど、奥付けにある作者の経歴を抜き出してみることにする。
「羽田圭介(はだ けいすけ)
1985年生まれ。
現在、明治大学付属明治高等学校在学中。
本作で、第40回文藝賞を、
史上最年少17歳で受賞」
素晴らしいですね。他に17歳でデビューした作家というのは、乙一・綿矢りさ・あと名前がわからないけど「飛行症候群」とかいう小説を書いていた人、の三人しか知らない。なかなかすごいものです。
17歳の作品だ、と後から知らされたら、それならすごいかもな、と思うかもしれない、そんな作品です。
羽田圭介「黒冷水」
今回の話しは、兄弟の崩壊の物語。兄・正気(まさき)と弟・修作の二人の攻防を描いた作品だ。
いきなり弟・修作が正気の部屋をあさるシーンから始まる。ありとあらゆるところを大胆にそれでいて繊細に暴き、エロ本や無修正ビデオなど、正気の隠したがっているものを掘り出し、その戦利品を使い満足する。
一方の兄は、そんな弟のあさりを知っている。弟はうまく騙せていると思っていてもアラばかりなのだ。一方的にやられているわけにはいかないし、でも弟と同じ方法は取りたくない。正気は母親に弟の行動を告げ口することで憂さ晴らしをする。
比較的優等生の兄と、堕ちきった弟。二人の意地の張り合いというか、冷戦の継続とか、とにかくそういったことが永遠続いていく。
兄は兄で解決を図ろうといろいろ試してみるのだが、黒冷水が心臓を覆う感覚を拭い去ることができない。弟は日ごとに壊れていく(ように見える)。お互いの限界まで達し、膨らみきった風船が爆発しようか、という時、くるっと引っくり返される。
言っておくが、ミステリーではない。まあだからというかどこまで気合入れて面白いとはいえないけど、二人の行動が妙にリアルで、その不気味さが逆に爽快だったような気がする。
さて、意図的に作者についての情報を隠してきたけど、奥付けにある作者の経歴を抜き出してみることにする。
「羽田圭介(はだ けいすけ)
1985年生まれ。
現在、明治大学付属明治高等学校在学中。
本作で、第40回文藝賞を、
史上最年少17歳で受賞」
素晴らしいですね。他に17歳でデビューした作家というのは、乙一・綿矢りさ・あと名前がわからないけど「飛行症候群」とかいう小説を書いていた人、の三人しか知らない。なかなかすごいものです。
17歳の作品だ、と後から知らされたら、それならすごいかもな、と思うかもしれない、そんな作品です。
羽田圭介「黒冷水」
回転木馬のデッドヒート(村上春樹)
ごくたまに、という接頭語をつければ、こういった経験をしたことがある人はいるだろうか。
「友達にクイズを出されたんだけど、わかんなくて。考えてくれない?」
そうやって誰かに出されたクイズ。この作品はなんかそんな感じがする。つまり、答えのわからないクイズを手にしてしまったような、そんな少しやっかいな感じ。もちろんそんなことはすぐ忘れてしまう類のものだけど、なんらかの際にふと記憶が刺激されて、また気になってしまうようなもの。
あるいは、的を得た表現ではないかもしれないけど、カラオケの歌詞のバックの映像のような。歌っている間は歌詞を見ていて映像は意識しないけど、後になってふと思い出したりして少し気になってしまう類のもの。
うまく表現できない。
なんというか、著者が「スケッチ」と称しているように、この作品に収められた短編はどれも、どこか風景を切り取ったような印象があって、なんというかそこに時間の流れが存在しないかのような、そんな奇妙な感覚すら抱く。何も現象せず、何も変化せず、湖のような、いつまでも同じ水が循環し続けるような、そんな感じ。
面白いか、と言われれば答えに窮する。とりあえず、今の俺にはよくわからない、という逃げを自分の中に認めることで、自分の評価にしようとしている。
ただ、この本を読んでいる時、なかなか集中できないのは事実だ。かなり薄い本なのに、普通の小説と同じぐらいの時間が掛かったような気がする。
それをまあ説明しようとすると、一枚の絵画を想像してみてほしい。その絵画は、遠めに見れば、あああれは森で川で人で空で鳥で建物で車でライトで飛行機で、そういったものが判別できる。けど近付いてもっと細部を見ようとする時、それがただの絵の具の線の集まりであることに気づいてしまうような絵画。
つまり、境界が曖昧で、べったりとした筆のラインが、曖昧なまま絵を構成している、そんな絵画。
要するに、そういった絵画を見ているような気になる。
全体としては何を書いているのかわかる。著者が何を言いたいのかがわかる、ということではなくて、話の筋という意味だけど。でも細部をよく観察することで全体を理解しようとしても、その細部が全体に繋がっていかない。筆のラインだけ見ていても絵画全体を理解出来ないように、細部の集合が必ずしも全体にならない、というような不安定感があって、その違和感で話に集中できなかったのかもしれない、と分析してみる。
とにかく、どの話も、答えのわからないクイズのように、何を言いたいのやらわからない。ただ、そういう気持ちになるかもしれない、というレベルでは理解できるかもしれない。そんな感じ。
とにかくこの作品が499冊目。次が記念すべき500冊目。
村上春樹「回転木馬のデッドヒート」
「友達にクイズを出されたんだけど、わかんなくて。考えてくれない?」
そうやって誰かに出されたクイズ。この作品はなんかそんな感じがする。つまり、答えのわからないクイズを手にしてしまったような、そんな少しやっかいな感じ。もちろんそんなことはすぐ忘れてしまう類のものだけど、なんらかの際にふと記憶が刺激されて、また気になってしまうようなもの。
あるいは、的を得た表現ではないかもしれないけど、カラオケの歌詞のバックの映像のような。歌っている間は歌詞を見ていて映像は意識しないけど、後になってふと思い出したりして少し気になってしまう類のもの。
うまく表現できない。
なんというか、著者が「スケッチ」と称しているように、この作品に収められた短編はどれも、どこか風景を切り取ったような印象があって、なんというかそこに時間の流れが存在しないかのような、そんな奇妙な感覚すら抱く。何も現象せず、何も変化せず、湖のような、いつまでも同じ水が循環し続けるような、そんな感じ。
面白いか、と言われれば答えに窮する。とりあえず、今の俺にはよくわからない、という逃げを自分の中に認めることで、自分の評価にしようとしている。
ただ、この本を読んでいる時、なかなか集中できないのは事実だ。かなり薄い本なのに、普通の小説と同じぐらいの時間が掛かったような気がする。
それをまあ説明しようとすると、一枚の絵画を想像してみてほしい。その絵画は、遠めに見れば、あああれは森で川で人で空で鳥で建物で車でライトで飛行機で、そういったものが判別できる。けど近付いてもっと細部を見ようとする時、それがただの絵の具の線の集まりであることに気づいてしまうような絵画。
つまり、境界が曖昧で、べったりとした筆のラインが、曖昧なまま絵を構成している、そんな絵画。
要するに、そういった絵画を見ているような気になる。
全体としては何を書いているのかわかる。著者が何を言いたいのかがわかる、ということではなくて、話の筋という意味だけど。でも細部をよく観察することで全体を理解しようとしても、その細部が全体に繋がっていかない。筆のラインだけ見ていても絵画全体を理解出来ないように、細部の集合が必ずしも全体にならない、というような不安定感があって、その違和感で話に集中できなかったのかもしれない、と分析してみる。
とにかく、どの話も、答えのわからないクイズのように、何を言いたいのやらわからない。ただ、そういう気持ちになるかもしれない、というレベルでは理解できるかもしれない。そんな感じ。
とにかくこの作品が499冊目。次が記念すべき500冊目。
村上春樹「回転木馬のデッドヒート」
五十円玉二十枚の謎(若竹七海他)
なんとも奇妙な小説だ。内容よりも(といってしまっては失礼だが)、この本が出来上がった過程の方が面白いのではないか、という気さえする。
発端は若竹七海が学生時代に体験したある「事件」だ。当時本屋に勤めていた女史は、ある日両替をする変わったおじさんに出会う。ある土曜日の夕方、そのおじさんは五十円玉を20枚持ってきて、千円札に替えてくれというのだった。不思議に思いながらも両替するのだが、まさかその後ほぼ毎週土曜日の夕方に、同じように両替を頼みに来るとは思いもしなかった。
かくして「両替おじさんの謎」というのが女史には気に掛かっていたのだけれども、お客をあまり詮索しないように、と店長に言われ、さらにわけあってバイトを辞めてしまったために、結局真相は闇のなか、ということになってしまう。
さて、女史が作家になり、新人作家同士の集まりでのこと、この長年の難問をそうか作家の皆さんに解いて貰おう、と思い話をするのだが、みないいアイデアが出ない。と、その場にいたミステリ界では知らぬ者はいない有名編集長戸川氏が、「それではこれを企画にしてみませんか」と一声。居並ぶ作家たちは尻込みするも、そこは押しの戸川、どんどんと話しを進めてしまう。一般から原稿を応募し、それを選考しよう、という話にまで広がり、ようやく形になったのがこの「五十円玉二十枚の謎」というアンソロジー小説なのである。
問題編に次いで、雑誌掲載時に「解等編」を受け持った法月綸太郎・依井貴裕両氏の作品、そして一般から選ばれた六作品、このアンソロジーのための作家書き下ろしが三作品と、なんといしいひさいちの漫画のおまけ付き、という割と豪華にして空前絶後のアンソロジー。プロ・アマ入り混じっての作品など、これ以外にないのではないか?
とにかく皆同じ設定を与えられているにも関わらず、考えること。よくこれだけのバリエーションを設定できたものだ、と感心するばかりです。
もちろん謎は謎のまま、これといった決定打はでないままです。これを、当時両替をしていた人が見ていてくれれば、あるいはそっと教えてくれるのかもしれませんが。それとも、あまりにもくだらない理由過ぎて、教えてはくれないでしょうかね。
珍しい、という意味で手にしてみる価値はあるかと思います。
若竹七海他「五十円玉二十枚の謎」
発端は若竹七海が学生時代に体験したある「事件」だ。当時本屋に勤めていた女史は、ある日両替をする変わったおじさんに出会う。ある土曜日の夕方、そのおじさんは五十円玉を20枚持ってきて、千円札に替えてくれというのだった。不思議に思いながらも両替するのだが、まさかその後ほぼ毎週土曜日の夕方に、同じように両替を頼みに来るとは思いもしなかった。
かくして「両替おじさんの謎」というのが女史には気に掛かっていたのだけれども、お客をあまり詮索しないように、と店長に言われ、さらにわけあってバイトを辞めてしまったために、結局真相は闇のなか、ということになってしまう。
さて、女史が作家になり、新人作家同士の集まりでのこと、この長年の難問をそうか作家の皆さんに解いて貰おう、と思い話をするのだが、みないいアイデアが出ない。と、その場にいたミステリ界では知らぬ者はいない有名編集長戸川氏が、「それではこれを企画にしてみませんか」と一声。居並ぶ作家たちは尻込みするも、そこは押しの戸川、どんどんと話しを進めてしまう。一般から原稿を応募し、それを選考しよう、という話にまで広がり、ようやく形になったのがこの「五十円玉二十枚の謎」というアンソロジー小説なのである。
問題編に次いで、雑誌掲載時に「解等編」を受け持った法月綸太郎・依井貴裕両氏の作品、そして一般から選ばれた六作品、このアンソロジーのための作家書き下ろしが三作品と、なんといしいひさいちの漫画のおまけ付き、という割と豪華にして空前絶後のアンソロジー。プロ・アマ入り混じっての作品など、これ以外にないのではないか?
とにかく皆同じ設定を与えられているにも関わらず、考えること。よくこれだけのバリエーションを設定できたものだ、と感心するばかりです。
もちろん謎は謎のまま、これといった決定打はでないままです。これを、当時両替をしていた人が見ていてくれれば、あるいはそっと教えてくれるのかもしれませんが。それとも、あまりにもくだらない理由過ぎて、教えてはくれないでしょうかね。
珍しい、という意味で手にしてみる価値はあるかと思います。
若竹七海他「五十円玉二十枚の謎」
掌の中の小鳥(加納朋子)
加納朋子の作品はいつだって綺麗で、透明で、優しく、そして何より美しい。
本作は連作短編集で、ある男とある女と「エッグスタンド」という名のバーのお話。なんというか、これ以上内容にはちょっと踏み込めない。何を書いてもネタばれに繋がりそうだし、何より、俺の言葉では氏の作品をうまく説明できないような気がする。氏の作品を一枚の絵画とするなら、俺のような人間の解説は、ただその絵画に上から塗りつぶすような行為なんではないか、とすら思わされる。
何にしても素晴らしい。全ての話が、まずミステリーとして最高で、さらにその上で優しい気持ちになれてしまうような、そんな話が盛り込まれている。
いつも思うのだが、もっともっと評価されてもいい作家だし、作品だと思う。是非是非、もう本当にお勧めです。そうですね、本多孝好が好きならまず間違いなく好きになれることでしょう。
加納朋子「掌の中の小鳥」
本作は連作短編集で、ある男とある女と「エッグスタンド」という名のバーのお話。なんというか、これ以上内容にはちょっと踏み込めない。何を書いてもネタばれに繋がりそうだし、何より、俺の言葉では氏の作品をうまく説明できないような気がする。氏の作品を一枚の絵画とするなら、俺のような人間の解説は、ただその絵画に上から塗りつぶすような行為なんではないか、とすら思わされる。
何にしても素晴らしい。全ての話が、まずミステリーとして最高で、さらにその上で優しい気持ちになれてしまうような、そんな話が盛り込まれている。
いつも思うのだが、もっともっと評価されてもいい作家だし、作品だと思う。是非是非、もう本当にお勧めです。そうですね、本多孝好が好きならまず間違いなく好きになれることでしょう。
加納朋子「掌の中の小鳥」
沙羅は和子の名を呼ぶ(加納朋子)
かなり素晴らしい。傑作かもしれない。
加納朋子と言えば、もはや1ジャンルと言ってもいい「日常の謎」を生み出す短編作家だ。なんらかのテーマで揃えられた珠玉の短編は、これまで読んだ女史の作品でもかなりよかったと思っている。
が、今回のもなかなかのものだ。
今回のテーマは、解説者の言葉を借りれば、「いたはずの誰か。いたかもしれない誰か。いなかったかもしれない誰か。いないはずの誰か。そんな誰かと出会うことで、異界が開かれ、物語が始まる」ということです。
この作品で加納氏は少し飛躍した。今までは現実世界で、現実的に論理的にありえることを解き明かす、というスタイルだったのに、今回は、どちらかと言えば、論理的に説明しようと思えば出来なくもない不思議な話、といった感じ。美しい詩のような文章や、優しい羽ばたくようなリズムを持った文章はそのままに、新たな地平へと踏み出しているような気がする。
非日常、という空間を、独自の筆致で見事に描き出している。あえて結末をどこかに収束させずに、想像の翼を広げさせてくれる。いつもの優しい眼差しはそのままに、違う世界へと僕たちを連れて行ってくれるようだ。
10編ある短編の中でいいなと思ったのが四編。「海を見に行く日」「商店街の夜」「オレンジの半分」そして表題作である「沙羅は和子の名を呼ぶ」。中でも素晴らしいのは「オレンジの半分」と「沙羅は和子の名を呼ぶ」。どちらも是非読んで欲しい作品です。
短編集の感想を書く場合、それぞれの短編の紹介や感想を書くことが出来ない(出来ないというかめんどくさいだけだけど)のが残念です。本当に、最高です。
加納朋子「沙羅は和子の名を呼ぶ」
加納朋子と言えば、もはや1ジャンルと言ってもいい「日常の謎」を生み出す短編作家だ。なんらかのテーマで揃えられた珠玉の短編は、これまで読んだ女史の作品でもかなりよかったと思っている。
が、今回のもなかなかのものだ。
今回のテーマは、解説者の言葉を借りれば、「いたはずの誰か。いたかもしれない誰か。いなかったかもしれない誰か。いないはずの誰か。そんな誰かと出会うことで、異界が開かれ、物語が始まる」ということです。
この作品で加納氏は少し飛躍した。今までは現実世界で、現実的に論理的にありえることを解き明かす、というスタイルだったのに、今回は、どちらかと言えば、論理的に説明しようと思えば出来なくもない不思議な話、といった感じ。美しい詩のような文章や、優しい羽ばたくようなリズムを持った文章はそのままに、新たな地平へと踏み出しているような気がする。
非日常、という空間を、独自の筆致で見事に描き出している。あえて結末をどこかに収束させずに、想像の翼を広げさせてくれる。いつもの優しい眼差しはそのままに、違う世界へと僕たちを連れて行ってくれるようだ。
10編ある短編の中でいいなと思ったのが四編。「海を見に行く日」「商店街の夜」「オレンジの半分」そして表題作である「沙羅は和子の名を呼ぶ」。中でも素晴らしいのは「オレンジの半分」と「沙羅は和子の名を呼ぶ」。どちらも是非読んで欲しい作品です。
短編集の感想を書く場合、それぞれの短編の紹介や感想を書くことが出来ない(出来ないというかめんどくさいだけだけど)のが残念です。本当に、最高です。
加納朋子「沙羅は和子の名を呼ぶ」
ぼくのミステリな日常(若竹七海)
若竹七海のデビュー作。なかなか凝った構成だ。
始まりは、登場人物である「若竹七海」が社内報の担当になったことから始まる。創刊に向け着々と準備を進めていくが、読みものとして面白く、という上司の意向から、毎月短編小説を載せることに決まってしまった。さてプロに頼むお金はない。さりとて自分で書くのも・・・迷った挙句先輩に相談したところ、匿名でいいなら引き受ける、という人物を紹介してくれることに。そして、会ったこともない「匿名作家」から送られてくる12編の短編が本書の大半を占める。
一つ一つの作品はミステリータッチで、それぞれの話もしっかりしているように思う。設定としては、誰かの話を聞き、その情報だけで推理していこう、みたいな感じ。まあどうなんだろう?と思うような話もあったりするけど、概ねそれなりにまとまった短編を12編楽しめると思う。
そして最後に。「若竹七海」はある決意を持ってその「匿名作家」に会いに行く。今までの12編の短編が全て絡み合い、伏線ではないだろうと思っていた細かい描写なんかが一気に伏線へと変化していき、最後に作品全体としてのミステリーが完成していく。
なるほど、新人にしては(とかなり偉そうだけど)大分凝った構成だし、すごいものだな、と思った。
ライトにさらっと読めると思うので、気軽にミステリーを楽しみたい方にはいいのではないでしょうか?
若竹七海「ぼくのミステリな日常」
始まりは、登場人物である「若竹七海」が社内報の担当になったことから始まる。創刊に向け着々と準備を進めていくが、読みものとして面白く、という上司の意向から、毎月短編小説を載せることに決まってしまった。さてプロに頼むお金はない。さりとて自分で書くのも・・・迷った挙句先輩に相談したところ、匿名でいいなら引き受ける、という人物を紹介してくれることに。そして、会ったこともない「匿名作家」から送られてくる12編の短編が本書の大半を占める。
一つ一つの作品はミステリータッチで、それぞれの話もしっかりしているように思う。設定としては、誰かの話を聞き、その情報だけで推理していこう、みたいな感じ。まあどうなんだろう?と思うような話もあったりするけど、概ねそれなりにまとまった短編を12編楽しめると思う。
そして最後に。「若竹七海」はある決意を持ってその「匿名作家」に会いに行く。今までの12編の短編が全て絡み合い、伏線ではないだろうと思っていた細かい描写なんかが一気に伏線へと変化していき、最後に作品全体としてのミステリーが完成していく。
なるほど、新人にしては(とかなり偉そうだけど)大分凝った構成だし、すごいものだな、と思った。
ライトにさらっと読めると思うので、気軽にミステリーを楽しみたい方にはいいのではないでしょうか?
若竹七海「ぼくのミステリな日常」