観光(ラッタウット・ラープチャルーンサップ)
内容に入ろうと思います。
本書は、タイ出身のアメリカ系の作家であり、最初の短編である「ガイジン(Farangs)」を発表するや英米から大絶賛された若き俊英による、7編の短編が収録された作品です。
「ガイジン」
ぼくは、クリント・イーストウッドと名付けた豚を飼っている。タイにやってくるアメリカ娘とセックスをしたらその豚を殺してしまうよ、と母親に言われている。僕は、タイ人の母とアメリカ人将校の父との間に生まれた。父は、僕が幼い頃にアメリカに戻ったきり、戻ってこない。
ぼくはどうしてもアメリカ娘に惹かれてしまう。リジーもそうだ。すごくキュート。彼氏と喧嘩しているらしい。ぼくはリジーを象に乗せ、浜辺に連れていく。でも結局アメリカ娘たちは、バカンスでちょっと羽目を外す相手としてしかみてくれない。
「カフェ・ラブリーで」
父親を事故で亡くして以来ちょっとおかしくなってしまった母と三人で暮らす兄弟。兄さんはぼくの誕生日に、モールに新しく出来たファストフード店に連れて行ってくれたけど、散々な結果になってしまった。
兄さんは今日もまた出かける。どうにか無理矢理、一緒に連れて行ってもらった。今日は、母親と二人で家にいたくはない。「カフェ・ラブリー」は、大人のための場所だという。何もするなと言われて、ついて行くことを許された。女の子がたくさんいる。
「徴兵の日」
ぼくとウィチュは祈った。お互いのために。でもぼくは、その祈りが不公平なことを知っていた。
寺で行われる年に一度の徴兵抽選会。ウィチュの兄は徴兵され、酷い有様で戻ってきた。ウィチュの母親は、どうにかウィチュが徴兵から逃れられるように祈っていた。
ぼくは大丈夫。両親がしかるべきところにお金を払っているから。
抽選当日。軍人に声を掛けられたぼくは、ウィチュがそのことを知っていたことを知った。「大丈夫なのか」
「観光」
母が何度も倒れていることが気がかりだったけど、そこまで重大なことではないだろうとも思っていた。
母は、失明しかけていた。あともう少ししたら、全部見えなくなってしまうだろうと。
母の上司がオフィスの連絡板に何年も貼りっぱなしにしているルクマクの写真。母はそこに観光に行くことに決めた。「ガイジンになるの」。列車で12時間、船で8時間。美しい光景の中、船は進む。
「プリシラ」
カンボジア難民が、団地の敷地内に勝手に家を建てている。ぼくとドンは、ある家の屋根に石を投げて遊んでいた。そうやって知り合ったのがプリシラだ。
プリシラの父は歯科医だった。自分が拘束されることを予見した父は、財産のすべてを金に替え、そのすべてをプリシラの歯に被せた。僕たちはその夏、プリシラと一緒に遊ぶようになった。
「こんなところで死にたくない」
ジャックは、タイ人と結婚した息子の元で世話になるために、アメリカからタイにやってきた。身体は思うように動かず、息子の嫁に食事を食べさせてもらっている。自分の尊厳が少しずつ失われていくのが、非常に屈辱だ。
混血の孫とは言葉が通じず、何を話しているのか分からない。自分の孫だと、強く感じることが出来ない。
「闘鶏師」
闘鶏師であるパパは、それまでは町で一番だった。でも、リトル・ジュイが来てから変わった。
町を支配するビッグ・ジュイの息子であるリトル・ジュイは、しばらくずっとパパに負けていた。しかし、暴力によって闘鶏場を支配し、さらに腕利きの闘鶏師を雇い、ついにパパを打ち負かす。
パパは、リトル・ジュイを倒すことしか考えていない。ママはそんなパパに苛立ちを隠さず、わたしはリトル・ジュイにつきまとわれる。
というような話です。
これは素敵な作品でした。淡々としていながら、貧しさの残る国で生きていかなければならない人々のどうしようもない悲哀を見事に描き出しているという感じがしました。
僕が一番好きなのは、「徴兵の日」。これは凄くよかった。ある一定年齢以上の男子に徴兵資格のあるタイでは、徴兵されるか否かが抽選によって決まる。この抽選によって、それからの人生がどうなるか決定的に決まる。家族も総出で抽選会場にやってきて、外れれば歓喜し当たれば落胆する。
そんな中にあって、お金があるというだけで徴兵を逃れる環境にいる主人公の圧倒的な後ろめたさが描かれる。
はっきり言って、子ども同士には、徴兵が抽選で決まることも、自分の親が金持ちであることも、自分で選べる環境ではない。どうにも手出しが出来ないものだ。そういうどうにもならない環境の違いによって、どうしようもなく運命が変わってしまう。ぼくは初めのうちは、ただ徴兵を逃れることが出来るという事実に単純に喜んでいた。しかし、親友であるウィチュのことを真剣に考えるようになってからは、自分がそういう境遇であること、そして何よりもあらかじめウィチュにそれを伝えていなかった自分の態度を後ろめたく思う。その辛さみたいなものが凄くいいなと思いました。
「プリシラ」も好きですね。金歯の少女であるカンボジア難民のプリシラと、タイで貧しい環境で暮らすぼくとドン。彼らにとって、国籍の違いとか、彼らを取り巻く環境とか関係なしに、子ども同士だっていう理由で仲良くなれる。けど、大人の世界ではそうじゃない。プリシラは「不法に土地を占拠する卑劣なカンボジア難民」であり、自分が知っているプリシラの姿と、自分たちの両親が捉えるカンボジア難民の姿の乖離に苦悩する少年たちの生き方が描かれる。これも、主人公自身にはどうにもしようがない環境だ。難民が発生する世の中も、彼らが自分たちの近くにバラックを建てていることも、主人公には全然どうにもしようがないことだ。そういう中で翻弄されていく姿がいい。
他の作品もほとんどそうなんだけど、基本的にどの話も、子どもが主人公だ(1作だけ老人が主人公だけど、後で書く理由により、置かれている環境としては似たようなもの)。彼ら子どもたちは、決して裕福とはいえない環境の中で、両親とささやかな生活をしている。彼らは貧しいが故に、選択できないが故に、色んなことを諦めなくてはいけない。その諦念が、彼らのささやかな日常生活の中にまるでずっとそうでしたと言わんばかりに張りついている、そういう日常を描いている作品が多い。
「ガイジン」もなかなかいい。外からやってくるものへの憧れ、もうずっと会っていない父親への憧憬、そういったものが主人公をアメリカ娘に向かわせるのかもしれないのだけど、でもその恋はなかなか成就しない。その恋は、タイの中だけで成立するもので、アメリカ娘がアメリカに戻ってしまえばもうおしまい。主人公も、何度もそういう経験をしているのに、友人にタイ娘も可愛いだろと忠告されるのに、でもどうしてかアメリカ娘に惹かれてしまう。そういう、滑稽なんだけど切実さもある姿を描いている。
「観光」は、ラストシーンが良かったと思う。母の決意と主人公の決意とが入り混じりながら、でも物凄く抑えた筆致で描かれるラストは、凄いなぁと思いました。
ラストと言えばこの作家は、そんなところで終わらせるんだ、というところで物語を切断する印象がある。特に「カフェ・ラブリーで」は、そんな感じが凄く強かった。「徴兵の日」や「こんなところで死にたくない」も、まだその後普通に文章が続いてもおかしくないようなタイミングで物語が終わっていて、唐突な余韻みたいな、なかなか小説を読んでいて感じることのない感覚になる感じがあって、それは好きだなと思いました。
ラストの「闘鶏師」は、個人的にはちょっと長かったかな、という感じがしました。著者のこのスタンスだと、今の僕には短い話の方が合う印象です。ちょっと長すぎて(っていっても100ページぐらいですけど)、うまく飲み込めない感じがありました。
外国人作家の作品をうまく読みこなせている自信がないんですけど、抑制の利いた筆致とぶつ切り感がとても印象の残るラストが凄くいい作品だなと思いました。是非読んでみてください。
ラッタウット・ラープチャルーンサップ「観光」
本書は、タイ出身のアメリカ系の作家であり、最初の短編である「ガイジン(Farangs)」を発表するや英米から大絶賛された若き俊英による、7編の短編が収録された作品です。
「ガイジン」
ぼくは、クリント・イーストウッドと名付けた豚を飼っている。タイにやってくるアメリカ娘とセックスをしたらその豚を殺してしまうよ、と母親に言われている。僕は、タイ人の母とアメリカ人将校の父との間に生まれた。父は、僕が幼い頃にアメリカに戻ったきり、戻ってこない。
ぼくはどうしてもアメリカ娘に惹かれてしまう。リジーもそうだ。すごくキュート。彼氏と喧嘩しているらしい。ぼくはリジーを象に乗せ、浜辺に連れていく。でも結局アメリカ娘たちは、バカンスでちょっと羽目を外す相手としてしかみてくれない。
「カフェ・ラブリーで」
父親を事故で亡くして以来ちょっとおかしくなってしまった母と三人で暮らす兄弟。兄さんはぼくの誕生日に、モールに新しく出来たファストフード店に連れて行ってくれたけど、散々な結果になってしまった。
兄さんは今日もまた出かける。どうにか無理矢理、一緒に連れて行ってもらった。今日は、母親と二人で家にいたくはない。「カフェ・ラブリー」は、大人のための場所だという。何もするなと言われて、ついて行くことを許された。女の子がたくさんいる。
「徴兵の日」
ぼくとウィチュは祈った。お互いのために。でもぼくは、その祈りが不公平なことを知っていた。
寺で行われる年に一度の徴兵抽選会。ウィチュの兄は徴兵され、酷い有様で戻ってきた。ウィチュの母親は、どうにかウィチュが徴兵から逃れられるように祈っていた。
ぼくは大丈夫。両親がしかるべきところにお金を払っているから。
抽選当日。軍人に声を掛けられたぼくは、ウィチュがそのことを知っていたことを知った。「大丈夫なのか」
「観光」
母が何度も倒れていることが気がかりだったけど、そこまで重大なことではないだろうとも思っていた。
母は、失明しかけていた。あともう少ししたら、全部見えなくなってしまうだろうと。
母の上司がオフィスの連絡板に何年も貼りっぱなしにしているルクマクの写真。母はそこに観光に行くことに決めた。「ガイジンになるの」。列車で12時間、船で8時間。美しい光景の中、船は進む。
「プリシラ」
カンボジア難民が、団地の敷地内に勝手に家を建てている。ぼくとドンは、ある家の屋根に石を投げて遊んでいた。そうやって知り合ったのがプリシラだ。
プリシラの父は歯科医だった。自分が拘束されることを予見した父は、財産のすべてを金に替え、そのすべてをプリシラの歯に被せた。僕たちはその夏、プリシラと一緒に遊ぶようになった。
「こんなところで死にたくない」
ジャックは、タイ人と結婚した息子の元で世話になるために、アメリカからタイにやってきた。身体は思うように動かず、息子の嫁に食事を食べさせてもらっている。自分の尊厳が少しずつ失われていくのが、非常に屈辱だ。
混血の孫とは言葉が通じず、何を話しているのか分からない。自分の孫だと、強く感じることが出来ない。
「闘鶏師」
闘鶏師であるパパは、それまでは町で一番だった。でも、リトル・ジュイが来てから変わった。
町を支配するビッグ・ジュイの息子であるリトル・ジュイは、しばらくずっとパパに負けていた。しかし、暴力によって闘鶏場を支配し、さらに腕利きの闘鶏師を雇い、ついにパパを打ち負かす。
パパは、リトル・ジュイを倒すことしか考えていない。ママはそんなパパに苛立ちを隠さず、わたしはリトル・ジュイにつきまとわれる。
というような話です。
これは素敵な作品でした。淡々としていながら、貧しさの残る国で生きていかなければならない人々のどうしようもない悲哀を見事に描き出しているという感じがしました。
僕が一番好きなのは、「徴兵の日」。これは凄くよかった。ある一定年齢以上の男子に徴兵資格のあるタイでは、徴兵されるか否かが抽選によって決まる。この抽選によって、それからの人生がどうなるか決定的に決まる。家族も総出で抽選会場にやってきて、外れれば歓喜し当たれば落胆する。
そんな中にあって、お金があるというだけで徴兵を逃れる環境にいる主人公の圧倒的な後ろめたさが描かれる。
はっきり言って、子ども同士には、徴兵が抽選で決まることも、自分の親が金持ちであることも、自分で選べる環境ではない。どうにも手出しが出来ないものだ。そういうどうにもならない環境の違いによって、どうしようもなく運命が変わってしまう。ぼくは初めのうちは、ただ徴兵を逃れることが出来るという事実に単純に喜んでいた。しかし、親友であるウィチュのことを真剣に考えるようになってからは、自分がそういう境遇であること、そして何よりもあらかじめウィチュにそれを伝えていなかった自分の態度を後ろめたく思う。その辛さみたいなものが凄くいいなと思いました。
「プリシラ」も好きですね。金歯の少女であるカンボジア難民のプリシラと、タイで貧しい環境で暮らすぼくとドン。彼らにとって、国籍の違いとか、彼らを取り巻く環境とか関係なしに、子ども同士だっていう理由で仲良くなれる。けど、大人の世界ではそうじゃない。プリシラは「不法に土地を占拠する卑劣なカンボジア難民」であり、自分が知っているプリシラの姿と、自分たちの両親が捉えるカンボジア難民の姿の乖離に苦悩する少年たちの生き方が描かれる。これも、主人公自身にはどうにもしようがない環境だ。難民が発生する世の中も、彼らが自分たちの近くにバラックを建てていることも、主人公には全然どうにもしようがないことだ。そういう中で翻弄されていく姿がいい。
他の作品もほとんどそうなんだけど、基本的にどの話も、子どもが主人公だ(1作だけ老人が主人公だけど、後で書く理由により、置かれている環境としては似たようなもの)。彼ら子どもたちは、決して裕福とはいえない環境の中で、両親とささやかな生活をしている。彼らは貧しいが故に、選択できないが故に、色んなことを諦めなくてはいけない。その諦念が、彼らのささやかな日常生活の中にまるでずっとそうでしたと言わんばかりに張りついている、そういう日常を描いている作品が多い。
「ガイジン」もなかなかいい。外からやってくるものへの憧れ、もうずっと会っていない父親への憧憬、そういったものが主人公をアメリカ娘に向かわせるのかもしれないのだけど、でもその恋はなかなか成就しない。その恋は、タイの中だけで成立するもので、アメリカ娘がアメリカに戻ってしまえばもうおしまい。主人公も、何度もそういう経験をしているのに、友人にタイ娘も可愛いだろと忠告されるのに、でもどうしてかアメリカ娘に惹かれてしまう。そういう、滑稽なんだけど切実さもある姿を描いている。
「観光」は、ラストシーンが良かったと思う。母の決意と主人公の決意とが入り混じりながら、でも物凄く抑えた筆致で描かれるラストは、凄いなぁと思いました。
ラストと言えばこの作家は、そんなところで終わらせるんだ、というところで物語を切断する印象がある。特に「カフェ・ラブリーで」は、そんな感じが凄く強かった。「徴兵の日」や「こんなところで死にたくない」も、まだその後普通に文章が続いてもおかしくないようなタイミングで物語が終わっていて、唐突な余韻みたいな、なかなか小説を読んでいて感じることのない感覚になる感じがあって、それは好きだなと思いました。
ラストの「闘鶏師」は、個人的にはちょっと長かったかな、という感じがしました。著者のこのスタンスだと、今の僕には短い話の方が合う印象です。ちょっと長すぎて(っていっても100ページぐらいですけど)、うまく飲み込めない感じがありました。
外国人作家の作品をうまく読みこなせている自信がないんですけど、抑制の利いた筆致とぶつ切り感がとても印象の残るラストが凄くいい作品だなと思いました。是非読んでみてください。
ラッタウット・ラープチャルーンサップ「観光」
独立国家のつくりかた(坂口恭平)
内容に入ろうと思います。
本書は、ホームレスの家は「生き方に合った家」という点で非常に面白いという着眼の元、ホームレスの0円ハウスを写真に撮ったものを卒業制作として作成。それをリトル・モアから出版し、また隅田川で出会った鈴木さんというホームレスとの話を中心に書いた「TOKYO 0円ハウス0円生活」で作家デビューし、絵を売ったり講演をしたりしながら収入を得、現在は熊本県に作った「新政府」において「初代内閣総理大臣」に就任。憲法が生存権を保障しているのに、金を稼がない人間が生きていけない世の中は憲法違反だと捉え、0円で生きていける環境(可能性)を提供しようという土台の元に様々な活動をしている著者による、今の世の中で生きていくための指南書とでも言うべき作品。
内容については後でウダウダ触れるけど、これは面白かったなぁ。やっぱり、自分の頭で考えている人は、凄く好きです。著者は、徹底して自分の頭で思考している。その過程が、本書でも描かれている。
僕は、「TOKYO 0円ハウス0円生活」を読んだ時、失礼だけどこの著者はホームレスの観察で一発当てた人なんだな、って思ってました。大学の卒業制作で作った奇抜なものがたまたま出版されてちょっと名前が売れて、それだけの人なんだろうなと思っていました。
でも、全然違いました。大学を卒業して社会に出る頃から、いやもっと言えば奨学生の頃からずっと、自分の頭で考え行動し、<常識>の圧力から抜けだしている人なのだろうなという感じがしました。
凄いなと思った言葉がある。
『あなたが「やりたいこと」など、社会には必要ない。今すぐ帰って家でやれ、と僕は言ってしまう。やりたいことをやって生きる?無人島か、ここは。芸術というのはそういうことを指すのではない』
『やりたいことほど無視して、自分がやらないと誰がやる、ということをやらないといけない。しかも、それは実はすべての人が持っているものだ』
これは凄いなと思いました。著者は、本書に書かれたことから判断すれば、確かにそういう風に行動している。自分の行動原理の根本に「お金」や「欲望」を置かない。これらを根本におくと、お金が手に入ると、欲望が満たされると、行動を止めてしまう。そうじゃない。自分がやらなければ誰もやる人間がいない、そういう使命感を伴ったことをやり続けることで、周りを巻き込み、少しずつ社会を変え、お金も得るけどそれに依存しない形で生きていく。凄いなと思いました。前に、山本弘「詩羽のいる街」という小説を読んで、その主人公である詩羽は、人と人とを繋げることでお金ではない何かを得、それによって家もお金も持たずに生きていく、ということを実践している女の子でした。なんか、それにちょっと近いものを感じました。
実際に著者がやっていることは、著者がやり始めなければ誰もやらなかったかもしれません。革命のためでなく新政府を樹立するなんて、なかなか思いつかないでしょう。しかもその活動は、様々な人に感染し、人口も領土もどんどんと増えている。これが凄い。ただ勝手に新政府を立ち上げることだったら、思いつけば出来るかもしれない。でも、それに人を巻き込んで、どんどん広げていく。それは、なかなか出来ることじゃない。
本書では、著者が繰り返す概念として<レイヤー>というものがある。
レイヤーというのは「層」のことで、著者は、匿名のレイヤーに支配されるのではなくて、独自のレイヤーを発見しなくてはいけない、という。本書のメインの話は、そこにあるだろう。
冒頭で、隅田川に住む鈴木さんの話が出てくる。彼は、自分の人生を考えた時、「生きる」というのをこう捉えたという。
『十分な食事をし、楽しい友人と過ごし、毎日酒を飲み、歌いたい時に歌う』
逆に言えば、これが実現できさえすれば既存の価値観に沿う必要もないし、その生き方に合わせてすべての選択をすることが出来る。そうして鈴木さんは、ホームレスとしての自分の生き方を確立していったのだ。
これは非常に重要な発想だと思う。僕たちは、「生きる」ということを、根本的なものとして考えることが出来ない。それは、「お金」や「家」や「土地」などと言った概念について、<匿名のレイヤー>からしか見ていないからだ。
それは、「お金はなくては生きていけない」し、「家は買った方がいい」し、「土地は所有できるなら所有した方が嬉しい」というような、ごく一般にそう思われているような価値観のことだ。僕らは、この価値観に、自らの生き方の選択を「邪魔」されている。前提として、お金は稼がないといけないし、家は買わないといけないと思わされているのだ。
僕は、<考える>というのは、<常識に違和感を持つ>ことだと思っている。それは決して、<常識を否定する>ということではない。常識に違和感を持ち、考えに考えた結果、その常識を受け入れる。それは<考える>という営みだろう。でも、常識だから、という理由でその常識を受け入れる態度は、駄目じゃないかなと思う。
著者が言いたいことも、そういうことなんだろうと思う。<匿名のレイヤー>、つまり誰もがそうだと思っていて疑問にも感じないような事柄をそのまま受け入れるのはよくない。そうではなくて、そのレイヤーがどんな風に成り立っているのか解体してみる。どんな層があるのかを見極めて、それを少しずつ剥ぎとっていってみる。そうすると、違ったものが見えてくる。
先の鈴木さんは、こんな風な生き方なら満足できる、というものをまず定め、それに合わせて自らの環境を構築した。一方僕たちは、「お金」や「家」という概念に囚われすぎていて、『自分がどんな風に生きたら一番満足度が高いのか』という根本的な思考をしない。
本書で著者は、自分は家や土地を買うことの喜びをまったく理解できない、と書いているのだけど、僕もまったく同じだ。
もちろん僕だって、家が100万円ぐらいで買えるなら買うだろう。でも、35年のローンを組んでまで欲しいとは思わない。家にそれだけの価値があるとは、全然思えないのだ。
僕はまだまだ、<匿名のレイヤー>に強く影響を受けている。自分なりに、常識だとされていることに対して違和感を持つように意識してはいるのだけど、なかなか難しい。でも、実際に出来ているかどうかはともかくとして、そういう態度で生きていくということは、凄く大事なことではないかなと思う。
本書で著者は、<匿名のレイヤー>をなくすことは出来ない、と書いている。それは、会社が潰れなければ銀行が潰れないようなものだ、と書いている。政府がなくならないと原発がなくならないのと同じようなものだ、と。
だから、<匿名のレイヤー>をなくす方向に動いても仕方ないという。そうではなくて、独自のレイヤーを見つけること。そして、それだけでは駄目で、それを元に交易をすること。そうして社会を拡張していくことが大事なんだ、と書く。
今書いた部分とかもそうだけど、若干抽象的な部分もある。あるいは、多少我田引水かなと思う部分や、そこの論理はちょっと飛躍しすぎていないかな、というような部分もあるように見える。でもそれは、ある意味でパイオニアの宿命みたいなものなのかな、という気がする。彼の行動は、彼の走っている道の上では現時点でトップランナーだろうし、これからもきっとそうだろう。だから、時代が彼に追いつくまでは、彼を判断する基準は明確にはない。彼は彼の判断によって突き進む。人を巻き込むために、自分の考えを外に出さなくてはいけないだろう。作中にも、『頭の中はよりカオスに、でもアウトプットはよりシンプルに』という言葉がある。でも、結局のところ、彼は自分の判断で突き進めばいい。だから、我田引水だろうが論理の飛躍だろうが抽象だろうが、そんなことは大した問題ではない。結果的に彼が行動をし、その結果社会が拡張すればいい。そういう意味で本書は、「彼が考えていることを読んでいる人に明確に伝える」という点ではちょっと駄目かもしれないけど、「著者の考えを感染させる」という点では非常に大きな力を持つな、という感じがします。
作中からいくつか、感染力の高いと思わせる文章を抜き出してみます。
『仕事というのは、かりにそういうお金がかからない生活ができたとして、それでもずっと続けていきたいと思うようなことをやるべきだ』
『必要とされること、それこそか生きのびるための技術なのだ』
『情報の服の脱がせ方、それがその人の態度である。』
『僕は別に自分の絵が50万円で売れたから嬉しいんじゃない。50万円と決めたレイヤーで仕事ができたことが嬉しい。』
『僕は断定する。わく断定する。それは違うとよく人は言う。いやいや、それが問題じゃないのだ。何を断定するのか、それがその人の責任なんだ。その断定が、思考なんだ。それが個人で生きることの責任何だ。』
そして、これが一番好きかな。
『大事なことは、何かに疑問を持ったかということだ。それがあれば生き延びられる。
今まで生きてきて一度も疑問を持ったことがなければ、今すぐ企業に走ったほうがいい。誰かに指示されていきていこう。そういう人は原発なんか気にしないでいいと思う。なも、何か「疑問」を持ったらチャンスだ。そこから「問い」にまで持っていく』
本書は、タイトルだけ見ると、個人で出来る新政府の作り方マニュアル、みたいな感じの内容な気がするけど、全然違う。それは、路上生活者の生き方を起点とし、様々なレイヤーが入り混じる社会の構造を観察し、そこから独自のレイヤーを見出し、自らの使命感に沿って行動するという、混沌とし先行きの不安定な現代社会を生きる僕達の新たな行動指針の一つと成りうるものを提示してくれている作品だと思いました。感染力の強い作品だと思います。是非読んでみてください。
坂口恭平「独立国家のつくりかた」
生きていてもいいかしら日記(北大路公子)
内容に入ろうと思います。
本書は、北海道在住、実家暮らし、体脂肪率40%で、時折文章を書く仕事をしながら基本的にグダグダだらだらと過ごしているフリーライター(と呼んでいいのか?)の著者による、グダグダな毎日を書き綴ったエッセイです。「サンデー毎日」に連載されていたものを書籍化したものの文庫化のようです。
この人は、基本的にはまあずっと酒を飲んでいる。昼酒なんてしょっちゅうで、夜は必ず飲んでいる。一人でも飲むし、友人とも飲むし、とりあえず酒が飲めればどんな状況でもいい。もうとにかく、酒を飲む話が出てくる出てくる。でも不思議と、酒を飲んで失敗したって話は、そんなにないのだ。著者にとって酒を飲むというのはもう日常の背景のようなもので、それを書かないということは、絵を描く時のキャンバス地が存在しないようなものなのかもしれない。
そして著者は、とにかく基本的にグダグダしている。物書き以外の仕事はしていないようである。実家ぐらしで、家事全般も特にするわけでもない。起きたい時に起き、寝たい時に寝、酒を飲みたい時に飲むという、なんとも優雅な生活を送っている。
かつてブログでも文章を書いており、やがてこうして雑誌連載や本に文章がまとまってくるのだけど、どの時にも、「そんなダラダラとした生き方が出来るはずがない」とお叱り(?)のコメントが来るそうだ。でも、実際著者に会った人は、「読んだイメージよりもさらにダラダラしていて驚いた」という反応になるらしい。どんだけグダグダなんだ!
そんな、本当に何をしているわけでもない著者は、日常の中で考えるアホらしい発想や思考、奇妙な友人たちとの出来事、両親についてなどなど、自分の半径5メートル以内で起こる事柄だけを中心に、週に一回エッセイを書いている。それまとめた作品です。
いやはや、面白かったなぁ。ホントに、こんなにダラダラ生きられるものなのか!っていう感動がある。子ども向けの伝記本の話から、キュリー夫人の「肉」の話になり、そこから、『世の中には努力して頑張っている人がこんなにたくさんいるのだから、私はそれほど頑張らなくてもいいや、という人生観をしたり確立した』なんていうぶっ飛んだ結論を引き出す話があるんだけど、これだけ力を抜いても生きていけるってのは羨ましいなぁと思います。
僕も、どちらかというとそういう、グダグダして努力しないで生きていきたい人間なんですけど、どうも駄目なんですね。それは、本書のあるエッセイの中で書かれていた、『風邪て学校を休んだ小学生がそれをきっかけに不登校になってしまう、という恐怖感に通じる』という話になんか近い気がする。一度堕落してしまうと、二度とは戻れないだろう、という予感がある。著者は、その予感を恐れなかったし、実際に堕落した今も(なんていう表現は、失礼かしら 笑)、そのことに後悔しているわけではない。いやー、羨ましいですなぁ。そこまで堕落を極められるというのは、ある種の才能だなという感じがします。羨ましい。
とにかく著者は、普通公開しちゃうのは恥ずかしいだろう話もバンバン出してくる。なんか、凄くホッとする。なんか、まだ自分大丈夫だな、なんて気がするんだよなぁ。まだまだ下がいるんだ、なんてことではなくて、なるほどこんな選択肢もありっちゃありなんだな、という風に思わせてくれるのがいい。もちろん、ダラダラ生活していることは、素晴らしいことばかりではなかろう。両親や妹など、身近にいる人の寛大な理解があってこそ成り立つ部分のあるだろうし、社会とまるで接点を持たないわけにはいかないから、その接点付近では色々と擦り切れもするだろう。でも、堕落した生活のリアルさみたいなものを垣間見れることで、どんな生き方もアリなんだなぁ、なんて感じがしてくる。
類は友を呼ぶなのか、著者の周囲にいる『友人』の話も凄い。なんでカッコに入れたかというと、本当にそれは友人?という感じがしちゃうような人が多いのだ。大分前に貸したお金を来月必ず返すから今10万貸してくれという人、相談事を親身に聞いてあげた挙句鍋を売りつけようとする人、一度飲むと三年間は会いたくなくなる人とか、ホントにそれ『友人』なの?と突っ込みたくなるような人がわんさか出てくる。凄いよなぁ。
とはいえ、著者もまたカッコに入れられる存在だろうとは思うよ。両親からすれば『娘』だし、妹からすれば『姉』だし、架空の夫からすれば『妻』だろう。これほど、何かに当てはまらない人間というのも、なかなか凄まじい。特に妹は、幼稚園の母仲間らから、「姉って何なの?」という疑問を常に投げかけられるそうな。すげぇな、姉。
読んでるとなんか、「大丈夫!」という気になれる作品です。タイトルの「生きていてもいいかしら」という問いに、「いいんだよ」と答えるまさにそれが、自分の心にも響いてくるような、そんな作品だなという感じがしました。是非読んでみてください。
北大路公子「生きていてもいいかしら日記」
神の手(久坂部羊)
内容に入ろうと思います。
本書は、『安楽死』をメインのテーマにし、『医療崩壊』の現実に鋭く斬りこみながら、現在の日本の医療について深く考えさせる作品。
市立京洛病院の外科部長として、患者やスタッフから絶大なる信頼を得ている白川は、21歳のがん患者を受け持っていた。古林という青年で、肛門がんの末期。手術によってガンを切除し、その後放射線治療もしたもののうまくいかず、ガンは全身に転移。もはや助かる見込みはほぼない、という状況だ。
古林の母親である康代は、テレビでよく顔を見かけるエッセイストであり、今薬害脳炎の裁判にかかりきりになっていて、息子の看病にもほとんどこない。古林の面倒を見ているのは康代の妹であり、その妹はもう看病の限界に来ていた。
古林は、極度の激痛に襲われている。白川はその苦痛を出来る限り和らげるためにあらゆる方策をとったが、既に打てる手は一つしかなく、それは薬で意識を薄れさせるというもの。しかしこの薬には、呼吸不全に陥る副作用があり、量を間違えると危険だ。白川はギリギリのラインを見極めながら、どうにか患者の苦痛を取り去ってやりたいという一心で必死の延命治療を続けていた。
実は康代の妹から、安楽死の打診を受けていた。しかし、白川には、それを決断することは出来ないでいた。
安楽死は一般に高齢者に必要だと思われているが、実は若者にこそ必要なものだ。高齢者は体力がないため、苦痛と闘っているうちに亡くなってしまう。しかし、耐え難い激痛に襲われ続けながら、体力だけは万全の若者には、そのまま死に至るという可能性がほぼない。治療の見込みがまったくない状況で、果たして患者にこの苦痛を味わわせる意味があるのだろうか?
そして結果的に白川は、安楽死に手を貸した。
この一件を機に、白川の人生は大きく変わることになった。
謎の怪文書が届いたために、院内で委員会が作られ、白川の案件について調査されることになった。さらに、ほとんど面会にも来なかった康代が、テレビで白川をまるで殺人者であるかのように告発したのだ。京都府警も捜査に乗り出し、白川も取り調べを受ける。そして結果的に白川は、謎の圧力のお陰で司法の裁きを受けずに済んだ。
しかしそれで終わらなかった。それは、日本に「安楽死法」を作ろうとする大きな流れの小さな小さな第一歩に過ぎなかった…。
というような話です。
これは凄かった!医療というのは、様々な問題が山ほど絡みあった分野だろうけど、本作では安楽死に限らず、医療全般の問題がストーリーの中で様々な形で埋め込まれていて、それが本当に考えさせる。もちろん、物語としてもべらぼうに面白くて、凄い作品を読んだなという感じです。
まずはやっぱり、安楽死に関する様々な事柄に触れようかな。
本作のメインのストーリーの一つが、やはり安楽死に関するもの。その背後にJAMAという組織の存在があって、そのJAMAがどんな風に旧態依然とした医療業界を改革しようとしているのか、というのがもう一つの柱になるのだけど、とにかくこの安楽死に関する議論がまず凄い。
白川が行った安楽死が一つの引き金になって、日本全体で安楽死に関する議論が巻き起こるのだけど、本書ではもちろん、賛成派・反対派両方の意見がまんべんなく語られることになる。
そのどちらともに、ある程度の納得が出来てしまうのですね。
本書を読む前の僕のスタンスは、安楽死は大歓迎。自分がもし治らない病気になったとしたら、延命治療は拒否して、可能なら安楽死して欲しい。そして、本書を読んだ今も、そのスタンスは決して変わってはいないんだけど、でも、以前ほど強くは断言できなくなったかもしれない。
僕のスタンスがそもそも安楽死賛成派なので、賛成派の意見にはそもそも凄く納得させられてしまう。オランダは世界で初めて安楽死を法律で制定した国らしいのだけど、そのオランダの事例なんかを作中に散りばめることで、安楽死を認める世の中がどれだけ素敵かという話には、凄く納得させられてしまう。
しかし、もちろんそれだけではない。反対派の意見にも、なるほどと思わされてしまうのだ。
特に、日本特有の問題がある。それは、『空気』で決まってしまうということだ。
安楽死法が制定された場合、周囲の「死んでくれたらいいのに」という『空気』に逆らいきれず、安楽死を申し出る患者が出てくるかもしれない、という意見だ。確かにこれは、ありうる。他にも、全部に賛同できるわけではないのだけど、反対派の意見にも納得出来るものがある。確かに、法律の存在が素晴らしくても、それをどう運用するかによって価値が変わってくる。僕は単純に、自分のことだけ考えて、安楽死が自由に出来るようになったらいいなー、なんて脳天気なことを考えてたんだけど、本書を読んで、『安楽死を法律で認める』ということへの様々なハードルの高さを実感させられることになった。
僕は一応まだ20代で(もうすぐ30歳だけど)、まだまだ自分が死ぬのは先だろうと思う。でも、僕個人の希望としては、死に方は選べたらいいな、と思う。本書では、延命治療を無理矢理続けたが故に悲惨な状況になってしまう、という話も出てくるのだけど、その部分を読んでいると、やっぱりこういう死に方は嫌だなと思ってしまう。生きていて欲しい、という周囲の気持ちも分からないことはないけど、でもやっぱり自分の意志で死を選べるだけの選択肢は欲しいな、と思ってしまう。
本作中、白川はずっと悩み続ける。古川を安楽死させた時は、白川には絶対の自信があった。自分は間違ったことをしていない、という確信が。でも、その後不可避的に巻き込まれることになった様々な経験の中で、白川は常に揺れ動き続ける。その揺れは、本書を読む読者の揺れと重なることだろう。現状の法律では、医師は安楽死をさせれば殺人の罪に問われてしまう。しかし、目の前にはどうにも手の施しようがない、苦痛だけが永遠に続く患者がいる。しかしそれでも、安楽死の問題を法律という俎上で明確にしてしまうことに、白川には強い違和感がある。答えの出ない問いを永遠に問われ続けているようなもので、それこそが安楽死という問題の難しさを表しているのだろうなと思う。
本書では、『医療新秩序』をモットーに、旧態依然とした医療業界に革新を起こすべく、新見というカリスマ的な医師をトップに据えたJAMAという組織が出てくる。この組織は、安楽死だけを問題にしているわけではない。安楽死問題においては、賛成派の急先鋒として表に出るが、新見の目指すところはもっと果てしない。
新見は、技術も知識もある日本の医師が、医療制度の不備によって満足の行く待遇を得られていない現状を打破しようとしていた。海外では、患者への診断や事務作業などを行う専門職があり、優秀な医師はあくせく働くこともなく、高給をもらい、そして周囲から尊敬されている。しかし日本では、患者の診断から様々な雑務までなんでもこなさねばならず、一般の人と比べて給料は高いが、仕事量に見合っているとはいえない。劣悪な環境に耐えかねて医師が辞め、それゆえにさらに一人の医師への負担が重くなる。
問題はまだある。日本の地方医療を支える仕組みとしてうまく回っていた医局制度が崩壊し始め、教授の権威が崩壊した。これまでは、教授の命令で医局に所属する医師はバランスよく地方に配置されたのだけど、医局制度の崩壊によって医師が都会に集まり過ぎている。また、医療に対する過度の安全神話のせいで、訴えられたり事前説明が煩雑になったりするし、また高額な医療設備を備えたために無駄な検査や治療をして金を稼がなくてはならない現状もある。
そうした、現在の日本の医療にはびこる様々な問題を、新見はJAMAを設立し、医療庁を設立するよう国に働きかけ、さらにありとあらゆる手を使って「安楽死法」を制定させようと世論を動かしていく。
この、「安楽死法」を制定させようと世論を動かしていくというのが、前半のメインの話になっていく。オランダで安楽死法が制定された時の『空気』を日本で再現しようとあらゆる手を尽くすのが、かなり恐ろしい。安楽死反対派の先を一歩も二歩も行く彼らの用意周到さは、恐ろしいものがある。現在安楽死法に関する議論は日本ではないけど、もし新見のような存在が現れ、本書のような様々な工作を仕掛ければ、全体の『空気』で物事が決まっていく日本なら、安楽死法は制定されるかもしれない。それに、安楽死法の話じゃなくても、恐らく今の日本でも、日々作り上げられる世論のいくつかには、本書で描かれるような大きな設計図があったりするんだろう。末端の末端にいるような僕みたいな人間には見えない全体像が描かれていて、僕らはその上を期待されたレールの上を歩く駒として扱われる。そういうのも怖いなぁ、という感じがしました。
そして後半は、JAMAの暗躍や裏側がメインとして描かれていく。日本に新たな医療秩序をもたらそうとしているJAMAは、内部から見るとかなり狂信的に思える。新見を絶対的存在とする組織が作り上げられ、新見の絶大なるカリスマ性を背景に、新見の信じる道を爆走していく。JAMAに関する描写を読めば読むほど、違和感は募る。JAMAが(それはつまり、新見がということになるのだけど)主張している内容そのものは、理解できる。しかし、新見がそれを成し遂げようとする時に使う手段・計略・判断基準に、違和感を隠せない。旧態依然とした医療業界に革新をもたらすためには、新見のような圧倒的なカリスマ性が必要だろう。だから、結果的に医療業界が革新されるなら、多少の犠牲は仕方ないだろうなと思う。僕は病院にあんまり行かないし、医療業界と関わってるわけでもないからなんとも言えないけど、でもやっぱり今の日本の医療はどんどん崩壊に向かっているような気がする。医療というのは、平時においては最も重要な問題であり、僕らの生活に直結する問題だ。僕らは、医師に多くを求めすぎる。それは自覚しなくてはいけない。しかしその一方で、悪徳で善意のない医者が多くはびこっているという事実もある。また、医療制度そのものに根本的な問題があるというのこともある。そういう中で最適解はなんなのか。それを探る見通しさえ、きっと立っていないだろう。その中にあっては、新見のようなカリスマ性を持つ人間が、強権的にあれこれ変えていくというのは、仕方のないことなのだろうと僕なんかは思う。しかし、それが多少の犠牲に留まるのかどうか、それが重要だし、本書はやっぱり、多少の犠牲には留まっていない。もちろんそれが、物語的には面白い部分になっているのだけど。
本書を読んでいると、医療に関する様々な問題について、何が正解なのかわからなくなってくる。それぐらい本書には、様々な立場の人が様々な意見を言い合い、議論になっていく。その狭間で悩む白川の存在が、読者にも揺さぶりを掛けてくるようだ。お前は一体どう思うんだ?って。
僕は、医療全体の問題については分からない。でも、一つだけ思うことは、医師にはもっとまともな環境が与えられるべきだと思う。それが、高給でも余裕のある生活でも能力を必要としない仕事からの解放でも何でもいい。とにかく、真面目で患者思いの医師が損しない仕組みになって欲しいと思う。そうでなければきっと、日本の医療は崩壊してしまうだろう。そのためには、僕ら医療を受ける側ももっと変わらなければならない。医療業界における様々な問題を、僕ら医療を受ける側も同じだけ知っていなければダメだろう。
そういう意味でも、本書は実に素晴らしい作品だと思います。物語も絶妙な面白さで、さらに考えさせられる。海堂尊の医療小説ほどエンターテインメントではないと思うけど、「もし安楽死法制定を目論む勢力が存在したら」というifを大前提にしたリアリティが圧倒的な物語だなと思います。長い物語ですけど、一気に読めます。自分だったらどうするか、問われる場面に溢れています。医師としてだったら、患者としてだったら、家族としてだったらどんな決断を下すか。場面場面でそのことを頭の片隅に置きながら読んでもらえるといいかもしれません。是非読んでみてください。
久坂部羊「神の手」
本書は、『安楽死』をメインのテーマにし、『医療崩壊』の現実に鋭く斬りこみながら、現在の日本の医療について深く考えさせる作品。
市立京洛病院の外科部長として、患者やスタッフから絶大なる信頼を得ている白川は、21歳のがん患者を受け持っていた。古林という青年で、肛門がんの末期。手術によってガンを切除し、その後放射線治療もしたもののうまくいかず、ガンは全身に転移。もはや助かる見込みはほぼない、という状況だ。
古林の母親である康代は、テレビでよく顔を見かけるエッセイストであり、今薬害脳炎の裁判にかかりきりになっていて、息子の看病にもほとんどこない。古林の面倒を見ているのは康代の妹であり、その妹はもう看病の限界に来ていた。
古林は、極度の激痛に襲われている。白川はその苦痛を出来る限り和らげるためにあらゆる方策をとったが、既に打てる手は一つしかなく、それは薬で意識を薄れさせるというもの。しかしこの薬には、呼吸不全に陥る副作用があり、量を間違えると危険だ。白川はギリギリのラインを見極めながら、どうにか患者の苦痛を取り去ってやりたいという一心で必死の延命治療を続けていた。
実は康代の妹から、安楽死の打診を受けていた。しかし、白川には、それを決断することは出来ないでいた。
安楽死は一般に高齢者に必要だと思われているが、実は若者にこそ必要なものだ。高齢者は体力がないため、苦痛と闘っているうちに亡くなってしまう。しかし、耐え難い激痛に襲われ続けながら、体力だけは万全の若者には、そのまま死に至るという可能性がほぼない。治療の見込みがまったくない状況で、果たして患者にこの苦痛を味わわせる意味があるのだろうか?
そして結果的に白川は、安楽死に手を貸した。
この一件を機に、白川の人生は大きく変わることになった。
謎の怪文書が届いたために、院内で委員会が作られ、白川の案件について調査されることになった。さらに、ほとんど面会にも来なかった康代が、テレビで白川をまるで殺人者であるかのように告発したのだ。京都府警も捜査に乗り出し、白川も取り調べを受ける。そして結果的に白川は、謎の圧力のお陰で司法の裁きを受けずに済んだ。
しかしそれで終わらなかった。それは、日本に「安楽死法」を作ろうとする大きな流れの小さな小さな第一歩に過ぎなかった…。
というような話です。
これは凄かった!医療というのは、様々な問題が山ほど絡みあった分野だろうけど、本作では安楽死に限らず、医療全般の問題がストーリーの中で様々な形で埋め込まれていて、それが本当に考えさせる。もちろん、物語としてもべらぼうに面白くて、凄い作品を読んだなという感じです。
まずはやっぱり、安楽死に関する様々な事柄に触れようかな。
本作のメインのストーリーの一つが、やはり安楽死に関するもの。その背後にJAMAという組織の存在があって、そのJAMAがどんな風に旧態依然とした医療業界を改革しようとしているのか、というのがもう一つの柱になるのだけど、とにかくこの安楽死に関する議論がまず凄い。
白川が行った安楽死が一つの引き金になって、日本全体で安楽死に関する議論が巻き起こるのだけど、本書ではもちろん、賛成派・反対派両方の意見がまんべんなく語られることになる。
そのどちらともに、ある程度の納得が出来てしまうのですね。
本書を読む前の僕のスタンスは、安楽死は大歓迎。自分がもし治らない病気になったとしたら、延命治療は拒否して、可能なら安楽死して欲しい。そして、本書を読んだ今も、そのスタンスは決して変わってはいないんだけど、でも、以前ほど強くは断言できなくなったかもしれない。
僕のスタンスがそもそも安楽死賛成派なので、賛成派の意見にはそもそも凄く納得させられてしまう。オランダは世界で初めて安楽死を法律で制定した国らしいのだけど、そのオランダの事例なんかを作中に散りばめることで、安楽死を認める世の中がどれだけ素敵かという話には、凄く納得させられてしまう。
しかし、もちろんそれだけではない。反対派の意見にも、なるほどと思わされてしまうのだ。
特に、日本特有の問題がある。それは、『空気』で決まってしまうということだ。
安楽死法が制定された場合、周囲の「死んでくれたらいいのに」という『空気』に逆らいきれず、安楽死を申し出る患者が出てくるかもしれない、という意見だ。確かにこれは、ありうる。他にも、全部に賛同できるわけではないのだけど、反対派の意見にも納得出来るものがある。確かに、法律の存在が素晴らしくても、それをどう運用するかによって価値が変わってくる。僕は単純に、自分のことだけ考えて、安楽死が自由に出来るようになったらいいなー、なんて脳天気なことを考えてたんだけど、本書を読んで、『安楽死を法律で認める』ということへの様々なハードルの高さを実感させられることになった。
僕は一応まだ20代で(もうすぐ30歳だけど)、まだまだ自分が死ぬのは先だろうと思う。でも、僕個人の希望としては、死に方は選べたらいいな、と思う。本書では、延命治療を無理矢理続けたが故に悲惨な状況になってしまう、という話も出てくるのだけど、その部分を読んでいると、やっぱりこういう死に方は嫌だなと思ってしまう。生きていて欲しい、という周囲の気持ちも分からないことはないけど、でもやっぱり自分の意志で死を選べるだけの選択肢は欲しいな、と思ってしまう。
本作中、白川はずっと悩み続ける。古川を安楽死させた時は、白川には絶対の自信があった。自分は間違ったことをしていない、という確信が。でも、その後不可避的に巻き込まれることになった様々な経験の中で、白川は常に揺れ動き続ける。その揺れは、本書を読む読者の揺れと重なることだろう。現状の法律では、医師は安楽死をさせれば殺人の罪に問われてしまう。しかし、目の前にはどうにも手の施しようがない、苦痛だけが永遠に続く患者がいる。しかしそれでも、安楽死の問題を法律という俎上で明確にしてしまうことに、白川には強い違和感がある。答えの出ない問いを永遠に問われ続けているようなもので、それこそが安楽死という問題の難しさを表しているのだろうなと思う。
本書では、『医療新秩序』をモットーに、旧態依然とした医療業界に革新を起こすべく、新見というカリスマ的な医師をトップに据えたJAMAという組織が出てくる。この組織は、安楽死だけを問題にしているわけではない。安楽死問題においては、賛成派の急先鋒として表に出るが、新見の目指すところはもっと果てしない。
新見は、技術も知識もある日本の医師が、医療制度の不備によって満足の行く待遇を得られていない現状を打破しようとしていた。海外では、患者への診断や事務作業などを行う専門職があり、優秀な医師はあくせく働くこともなく、高給をもらい、そして周囲から尊敬されている。しかし日本では、患者の診断から様々な雑務までなんでもこなさねばならず、一般の人と比べて給料は高いが、仕事量に見合っているとはいえない。劣悪な環境に耐えかねて医師が辞め、それゆえにさらに一人の医師への負担が重くなる。
問題はまだある。日本の地方医療を支える仕組みとしてうまく回っていた医局制度が崩壊し始め、教授の権威が崩壊した。これまでは、教授の命令で医局に所属する医師はバランスよく地方に配置されたのだけど、医局制度の崩壊によって医師が都会に集まり過ぎている。また、医療に対する過度の安全神話のせいで、訴えられたり事前説明が煩雑になったりするし、また高額な医療設備を備えたために無駄な検査や治療をして金を稼がなくてはならない現状もある。
そうした、現在の日本の医療にはびこる様々な問題を、新見はJAMAを設立し、医療庁を設立するよう国に働きかけ、さらにありとあらゆる手を使って「安楽死法」を制定させようと世論を動かしていく。
この、「安楽死法」を制定させようと世論を動かしていくというのが、前半のメインの話になっていく。オランダで安楽死法が制定された時の『空気』を日本で再現しようとあらゆる手を尽くすのが、かなり恐ろしい。安楽死反対派の先を一歩も二歩も行く彼らの用意周到さは、恐ろしいものがある。現在安楽死法に関する議論は日本ではないけど、もし新見のような存在が現れ、本書のような様々な工作を仕掛ければ、全体の『空気』で物事が決まっていく日本なら、安楽死法は制定されるかもしれない。それに、安楽死法の話じゃなくても、恐らく今の日本でも、日々作り上げられる世論のいくつかには、本書で描かれるような大きな設計図があったりするんだろう。末端の末端にいるような僕みたいな人間には見えない全体像が描かれていて、僕らはその上を期待されたレールの上を歩く駒として扱われる。そういうのも怖いなぁ、という感じがしました。
そして後半は、JAMAの暗躍や裏側がメインとして描かれていく。日本に新たな医療秩序をもたらそうとしているJAMAは、内部から見るとかなり狂信的に思える。新見を絶対的存在とする組織が作り上げられ、新見の絶大なるカリスマ性を背景に、新見の信じる道を爆走していく。JAMAに関する描写を読めば読むほど、違和感は募る。JAMAが(それはつまり、新見がということになるのだけど)主張している内容そのものは、理解できる。しかし、新見がそれを成し遂げようとする時に使う手段・計略・判断基準に、違和感を隠せない。旧態依然とした医療業界に革新をもたらすためには、新見のような圧倒的なカリスマ性が必要だろう。だから、結果的に医療業界が革新されるなら、多少の犠牲は仕方ないだろうなと思う。僕は病院にあんまり行かないし、医療業界と関わってるわけでもないからなんとも言えないけど、でもやっぱり今の日本の医療はどんどん崩壊に向かっているような気がする。医療というのは、平時においては最も重要な問題であり、僕らの生活に直結する問題だ。僕らは、医師に多くを求めすぎる。それは自覚しなくてはいけない。しかしその一方で、悪徳で善意のない医者が多くはびこっているという事実もある。また、医療制度そのものに根本的な問題があるというのこともある。そういう中で最適解はなんなのか。それを探る見通しさえ、きっと立っていないだろう。その中にあっては、新見のようなカリスマ性を持つ人間が、強権的にあれこれ変えていくというのは、仕方のないことなのだろうと僕なんかは思う。しかし、それが多少の犠牲に留まるのかどうか、それが重要だし、本書はやっぱり、多少の犠牲には留まっていない。もちろんそれが、物語的には面白い部分になっているのだけど。
本書を読んでいると、医療に関する様々な問題について、何が正解なのかわからなくなってくる。それぐらい本書には、様々な立場の人が様々な意見を言い合い、議論になっていく。その狭間で悩む白川の存在が、読者にも揺さぶりを掛けてくるようだ。お前は一体どう思うんだ?って。
僕は、医療全体の問題については分からない。でも、一つだけ思うことは、医師にはもっとまともな環境が与えられるべきだと思う。それが、高給でも余裕のある生活でも能力を必要としない仕事からの解放でも何でもいい。とにかく、真面目で患者思いの医師が損しない仕組みになって欲しいと思う。そうでなければきっと、日本の医療は崩壊してしまうだろう。そのためには、僕ら医療を受ける側ももっと変わらなければならない。医療業界における様々な問題を、僕ら医療を受ける側も同じだけ知っていなければダメだろう。
そういう意味でも、本書は実に素晴らしい作品だと思います。物語も絶妙な面白さで、さらに考えさせられる。海堂尊の医療小説ほどエンターテインメントではないと思うけど、「もし安楽死法制定を目論む勢力が存在したら」というifを大前提にしたリアリティが圧倒的な物語だなと思います。長い物語ですけど、一気に読めます。自分だったらどうするか、問われる場面に溢れています。医師としてだったら、患者としてだったら、家族としてだったらどんな決断を下すか。場面場面でそのことを頭の片隅に置きながら読んでもらえるといいかもしれません。是非読んでみてください。
久坂部羊「神の手」
窓の向こうのガーシュウィン(宮下奈都)
内容に入ろうと思います。
佐古は、未熟児で生まれたのに、保育器に入れられなかったせいか、体は小さいまま、白樺のような白い肌で、人の話の語尾が聞き取れない。会話に参加することは出来ないし、出来てもよくわからないまま相槌を打つぐらいだ。
父親は、突然フラッといなくなっては、三ヶ月ぐらいで帰ってくる、というのを繰り返していた。どこで何をしているのかは、全然わからない。いなくなってしばらくは、父親がいないことに慣れず、父親がいないことに慣れ始めた頃、父親は帰ってくる。
母親はがさつだ。大きくなるに連れて、それに気づいた。友達の家に行くようになって、自分の家がとても散らかっていることに気づいた。自分の家より友達の家の方が居心地がいいというのは、なんだか自分の家に対する裏切りみたいで、心が痛い。
佐古は、何かの間違いとしか思えなかったが、就職先としてみんなから羨ましがられる薬問屋に就職が決まった。しかし、何が起こったのか分からないけど、すぐ潰れてしまった。自宅待機になる前にその薬問屋の人が、資格を取ったほうがいいですよ、とアドバイスをしてくれて、それで佐古はホームヘルパーの資格を取った。
そうやって佐古は、横江先生の家に行くことになったのだ。
横江先生は79歳で、体が少し不自由だけど出来るだけ自分でやれることはやりたくて、佐古はところどころ手伝いをする。横江先生の家では、どうしてか雑音が入り込まず、語尾も全部聞こえる。横江先生との会話は穏やかでいい。
横江先生の家は何かの店のようで、そこではあの人が額装をしている。横江先生の家に通うようになってしばらくすると佐古は、あの人の額装の手伝いをするようになる。
そしてそこには、どこかの時点でクラスメイトだったらしい隼もいる。横江先生もあの人も隼も、家族のはずなんだけど、なんだかみんな距離の取り方が難しいみたいだ。佐古を真ん中において、それでようやく家族としてうまく回っているような感じ。
佐古にとって横江先生の家は、とても居心地がいい。ここでは誰も佐古を急かさないし、佐古を褒めてくれさえする。これまで誰かに褒められたことなんてなかったのに。
というような話です。いつも書いてることだけど、宮下奈都の作品は『物語』が核になっているわけではないから、内容紹介をするのがとても難しい。
宮下奈都の作品らしい作品という感じがしました。
僕は宮下奈都の魅力の一つは、『普通』とは違った視点で物事を切り取って、そしてそれを言葉で提示できることだと思っています。こんな風に物事を見るのか、こんな風に出来事を捉えるのか、というような視点の躍動感みたいなものが常にあるような感じがします。本書はまさにそういう、ちょっと違った視点から物事を捉える、という部分を突き詰めたような作品で、宮下奈都らしいという感じがしました。
佐古の視点が、とても面白い。そして僕は、佐古のようなあり方が凄く羨ましいし、気に入っています。
僕は、『言葉』を流さない人が好きです。
なんとなく色んな人の会話を適当に耳に挟んでいると、基本的に多くの人は、『言葉』に強く執着がないように思えます。自分がかつて言った意味とは別の意味で同じ言葉を使ったり、誰かが言った言葉をその人が言った通りの意味ではなく世間一般の意味で捉えたり、わからない言葉があってもまあいいかという感じで受け流したりという感じが多い気がします。
僕はあんまりそういうのが好きではありません。
もちろん、別に自分が完璧な人間だなんて言うつもりはないので、僕自身も日常の中で、そういうことをやってしまっているでしょう。でも僕は、なるべく意識的に、『言葉』を流さないように、一つ一つの言葉をなるべく丁寧に捉えるように努力をしているつもりです。
そういうあり方はなかなか面倒臭いだけど、でもずっとこんな風に生きてきてしまっているので、もう仕方ありません。
佐古もそういう人間です。
佐古にとっては、ごく普通の会話が凄く難しい。それは、語尾が雑音によって聞こえなくなってしまうから、というだけではなくて、佐古にとって『言葉』というのは、その都度その都度真剣に向き合うべき対象だからです。
僕たちは日常会話をする中で、『これは普通に通じるよな』という前提をある程度の範囲まで広げて言葉を発している。自分が発した言葉を、相手も同じ意味で捉えているよな、という大きな前提がないと、会話というのはほとんど成り立たない。
それは、色と似ている。僕たちは、自分が見ている色と相手が見ている色が同じだろうと判断して会話をしている。そういう前提の元に立たないと、会話は難しい。
でも、色にしたところで、自分が見ている色と相手が見ている色が同じである保証はない。そしてそれは、言葉でも同じはずだ。同じ言葉を使っていても、それを同じ意味で捉えているかどうかはわからない。でも、それが同じだという前提の元に立って、僕たちは会話をする。
佐古には、その前提がない。
だから、佐古に向けて発せられる言葉は、発した人間の思惑通りには届かないことが多い。佐古には、それぞれの言葉が持つ『社会的な意味』『文脈的な意味』という前提がない。佐古は、その言葉が自分以外の世界でどんな意味を持つかを考えず、自分の中だけで意味を捉えてしまいがちだ。
会話の語尾が雑音で消えてしまい、基本的に会話に参加できずにいた佐古にとって、それは仕方がないことなのだろうと思う。
だから、佐古が誰かとするやり取りは、トンチンカンなものになる。
僕はそれが羨ましいな、と思うのだ。
僕は子供の頃からずっと、それぞれの言葉が持つ『社会的な意味』『文脈的な意味』に、結構違和感を覚えながら生きてきた。みんなが何気なく使っている、特に疑問を抱くことなく使っている言葉に、本当にそれでいいのかな?と思うことがとても多かった。
けど僕は、社会的に埋没することを選んだ。それぞれの言葉が持つ『社会的な意味』『文脈的な意味』を理解し、自分の中でおかしいなと思いつつ、少しずつ鎧を着膨れさせていくような感じで、自分には馴染まない言葉を使えるようになっていった。
佐古には、そんな葛藤はない。佐古は、自分を孤独だと思うこともないし、何かと比較しようという発想もない。だからこそ、会話の前提が理解できなくても、全然不自由しない。佐古と関わる人間は、佐古を様々に評す。その中に、佐古は強い、というものがある。そんな風に言いたくなる気持ちは、なんか分かるような気がする。佐古には、自分が強いなんて意識はない。でも、『この社会』の中に生きていて、会話の前提に無頓着でいられるというのは、やっぱり強く見えるなと思う。そういう、常識に囚われないところが、佐古の魅力だと思う。
本書では、著者がどれだけそのメッセージを意識的に込めようとしたのか、それはわからないけど、『みんなと違っててもいいんだ』ということが凄く伝わってくる作品だ。子供の頃『みんなと違うということ』が恐怖で、必死でみんなの中に埋没しようとしていた僕にとっては、『みんなと違っててもいいんだ』と言ってくれる大人がいなかったのは凄く残念だったなと大人になって思うことがある。個性がどうのと言われるようになった時代でも、やっぱり大人は子供を何かの型に嵌めようとしてしまう。その枠の存在に気づかなければ結構幸せなんだけど、やっぱりなかなかそうはいかなくて、子供の頃は毎日が大変だったなぁと思う。
本書で『みんなと違っててもいいんだ』というメッセージが強く伝わってくるのには、一つ大きな理由があると思う。それは、本書の中には、佐古たちを規定するような『外側』の視点がないからではないか、と思う。
作中で、物差しの話が出てくる。隼は佐古に、「佐古さんは測らないから」という。隼が子供の頃抱いていた疑問は、みんな違う物差しを持っているのに、みんなが同じ物差しを持つように矯正されてしまう、ということ。そういう違和感をずっと抱いていた隼は、でもそれに抵抗することは出来なかった。
隼は佐古に、「佐古さんは、そんなもんを持たなくてもちゃんと生きていけるってこと」と言う。そしてそれが羨ましいのだ、と。佐古は測らない。物差しを持たない。
本作は、まさにそうだ。佐古のことを測る物差しはない。それは、横江先生にしてもあの人にしても隼にしてもそう。誰も佐古のことを何らかの物差しで測ろうとはしない。佐古の家族も佐古のことを測らないし、佐古のことを測ろうとする誰かはこの作品では描かれない。
佐古が自分なりの物差しを持ち始めること。
それが本書の中での、佐古の成長なのだろうと思う。佐古はそれまで、測らないで生きてきた。そして幸運にも、ほとんど誰からも測られないまま生きてきた。しかし横江先生たちと関わることで、少しずつ佐古の中に『物差し』が出来ていった。物差しが出来ることが、佐古にとって良いことなのか悪いことなのかは、佐古のその後の人生次第だろう。でも、それまで持っていなかった物差しという概念を自らの経験の中から掴みとっていくこと。それは、佐古にとって大きな成長なのだろうと思う。佐古は幸運にも、それまでの人生の中で測りも測られもしなかったし、物差しも持たなかった。そして、フラッとで真っ当な大人たちである横江先生らと関わる中で、誰かに押し付けられるわけでもなく自然と物差しが形作られていく。その過程が、本書の読みどころの一つなのだろうという感じがします。
佐古に少しずつ影響を与えていく横江先生やあの人や隼の存在もとてもいい。それぞれにそれぞれの立ち位置があって、みんなバラバラなのだけど、それは決して佐古を混乱させない。彼らが話す額装の話や何気ない日常会話なんかは、具体的な会話でありながら抽象的なやり取りでもあって、読む人がどんな状況・環境にいるかによって色んな受け取り方が出来るような気がします。
『みんなと同じ』が何故か無意識的に強要されるような印象がある世の中で、『みんなと違っていいじゃん』と積極的に主張するでもなく、フラッとな形でそれを実現してしまっている佐古の存在に羨ましさを覚える人も多く出るのではないかと思います。本作を読むと、これまでに自分の外側に一生懸命に貼り付けていた色んな鎧の存在を認識できるかもしれません。もっと気軽に、色んな方向に進んでいければいいのにな、なんて思います。是非読んでみてください。
宮下奈都「窓の向こうのガーシュウィン」
佐古は、未熟児で生まれたのに、保育器に入れられなかったせいか、体は小さいまま、白樺のような白い肌で、人の話の語尾が聞き取れない。会話に参加することは出来ないし、出来てもよくわからないまま相槌を打つぐらいだ。
父親は、突然フラッといなくなっては、三ヶ月ぐらいで帰ってくる、というのを繰り返していた。どこで何をしているのかは、全然わからない。いなくなってしばらくは、父親がいないことに慣れず、父親がいないことに慣れ始めた頃、父親は帰ってくる。
母親はがさつだ。大きくなるに連れて、それに気づいた。友達の家に行くようになって、自分の家がとても散らかっていることに気づいた。自分の家より友達の家の方が居心地がいいというのは、なんだか自分の家に対する裏切りみたいで、心が痛い。
佐古は、何かの間違いとしか思えなかったが、就職先としてみんなから羨ましがられる薬問屋に就職が決まった。しかし、何が起こったのか分からないけど、すぐ潰れてしまった。自宅待機になる前にその薬問屋の人が、資格を取ったほうがいいですよ、とアドバイスをしてくれて、それで佐古はホームヘルパーの資格を取った。
そうやって佐古は、横江先生の家に行くことになったのだ。
横江先生は79歳で、体が少し不自由だけど出来るだけ自分でやれることはやりたくて、佐古はところどころ手伝いをする。横江先生の家では、どうしてか雑音が入り込まず、語尾も全部聞こえる。横江先生との会話は穏やかでいい。
横江先生の家は何かの店のようで、そこではあの人が額装をしている。横江先生の家に通うようになってしばらくすると佐古は、あの人の額装の手伝いをするようになる。
そしてそこには、どこかの時点でクラスメイトだったらしい隼もいる。横江先生もあの人も隼も、家族のはずなんだけど、なんだかみんな距離の取り方が難しいみたいだ。佐古を真ん中において、それでようやく家族としてうまく回っているような感じ。
佐古にとって横江先生の家は、とても居心地がいい。ここでは誰も佐古を急かさないし、佐古を褒めてくれさえする。これまで誰かに褒められたことなんてなかったのに。
というような話です。いつも書いてることだけど、宮下奈都の作品は『物語』が核になっているわけではないから、内容紹介をするのがとても難しい。
宮下奈都の作品らしい作品という感じがしました。
僕は宮下奈都の魅力の一つは、『普通』とは違った視点で物事を切り取って、そしてそれを言葉で提示できることだと思っています。こんな風に物事を見るのか、こんな風に出来事を捉えるのか、というような視点の躍動感みたいなものが常にあるような感じがします。本書はまさにそういう、ちょっと違った視点から物事を捉える、という部分を突き詰めたような作品で、宮下奈都らしいという感じがしました。
佐古の視点が、とても面白い。そして僕は、佐古のようなあり方が凄く羨ましいし、気に入っています。
僕は、『言葉』を流さない人が好きです。
なんとなく色んな人の会話を適当に耳に挟んでいると、基本的に多くの人は、『言葉』に強く執着がないように思えます。自分がかつて言った意味とは別の意味で同じ言葉を使ったり、誰かが言った言葉をその人が言った通りの意味ではなく世間一般の意味で捉えたり、わからない言葉があってもまあいいかという感じで受け流したりという感じが多い気がします。
僕はあんまりそういうのが好きではありません。
もちろん、別に自分が完璧な人間だなんて言うつもりはないので、僕自身も日常の中で、そういうことをやってしまっているでしょう。でも僕は、なるべく意識的に、『言葉』を流さないように、一つ一つの言葉をなるべく丁寧に捉えるように努力をしているつもりです。
そういうあり方はなかなか面倒臭いだけど、でもずっとこんな風に生きてきてしまっているので、もう仕方ありません。
佐古もそういう人間です。
佐古にとっては、ごく普通の会話が凄く難しい。それは、語尾が雑音によって聞こえなくなってしまうから、というだけではなくて、佐古にとって『言葉』というのは、その都度その都度真剣に向き合うべき対象だからです。
僕たちは日常会話をする中で、『これは普通に通じるよな』という前提をある程度の範囲まで広げて言葉を発している。自分が発した言葉を、相手も同じ意味で捉えているよな、という大きな前提がないと、会話というのはほとんど成り立たない。
それは、色と似ている。僕たちは、自分が見ている色と相手が見ている色が同じだろうと判断して会話をしている。そういう前提の元に立たないと、会話は難しい。
でも、色にしたところで、自分が見ている色と相手が見ている色が同じである保証はない。そしてそれは、言葉でも同じはずだ。同じ言葉を使っていても、それを同じ意味で捉えているかどうかはわからない。でも、それが同じだという前提の元に立って、僕たちは会話をする。
佐古には、その前提がない。
だから、佐古に向けて発せられる言葉は、発した人間の思惑通りには届かないことが多い。佐古には、それぞれの言葉が持つ『社会的な意味』『文脈的な意味』という前提がない。佐古は、その言葉が自分以外の世界でどんな意味を持つかを考えず、自分の中だけで意味を捉えてしまいがちだ。
会話の語尾が雑音で消えてしまい、基本的に会話に参加できずにいた佐古にとって、それは仕方がないことなのだろうと思う。
だから、佐古が誰かとするやり取りは、トンチンカンなものになる。
僕はそれが羨ましいな、と思うのだ。
僕は子供の頃からずっと、それぞれの言葉が持つ『社会的な意味』『文脈的な意味』に、結構違和感を覚えながら生きてきた。みんなが何気なく使っている、特に疑問を抱くことなく使っている言葉に、本当にそれでいいのかな?と思うことがとても多かった。
けど僕は、社会的に埋没することを選んだ。それぞれの言葉が持つ『社会的な意味』『文脈的な意味』を理解し、自分の中でおかしいなと思いつつ、少しずつ鎧を着膨れさせていくような感じで、自分には馴染まない言葉を使えるようになっていった。
佐古には、そんな葛藤はない。佐古は、自分を孤独だと思うこともないし、何かと比較しようという発想もない。だからこそ、会話の前提が理解できなくても、全然不自由しない。佐古と関わる人間は、佐古を様々に評す。その中に、佐古は強い、というものがある。そんな風に言いたくなる気持ちは、なんか分かるような気がする。佐古には、自分が強いなんて意識はない。でも、『この社会』の中に生きていて、会話の前提に無頓着でいられるというのは、やっぱり強く見えるなと思う。そういう、常識に囚われないところが、佐古の魅力だと思う。
本書では、著者がどれだけそのメッセージを意識的に込めようとしたのか、それはわからないけど、『みんなと違っててもいいんだ』ということが凄く伝わってくる作品だ。子供の頃『みんなと違うということ』が恐怖で、必死でみんなの中に埋没しようとしていた僕にとっては、『みんなと違っててもいいんだ』と言ってくれる大人がいなかったのは凄く残念だったなと大人になって思うことがある。個性がどうのと言われるようになった時代でも、やっぱり大人は子供を何かの型に嵌めようとしてしまう。その枠の存在に気づかなければ結構幸せなんだけど、やっぱりなかなかそうはいかなくて、子供の頃は毎日が大変だったなぁと思う。
本書で『みんなと違っててもいいんだ』というメッセージが強く伝わってくるのには、一つ大きな理由があると思う。それは、本書の中には、佐古たちを規定するような『外側』の視点がないからではないか、と思う。
作中で、物差しの話が出てくる。隼は佐古に、「佐古さんは測らないから」という。隼が子供の頃抱いていた疑問は、みんな違う物差しを持っているのに、みんなが同じ物差しを持つように矯正されてしまう、ということ。そういう違和感をずっと抱いていた隼は、でもそれに抵抗することは出来なかった。
隼は佐古に、「佐古さんは、そんなもんを持たなくてもちゃんと生きていけるってこと」と言う。そしてそれが羨ましいのだ、と。佐古は測らない。物差しを持たない。
本作は、まさにそうだ。佐古のことを測る物差しはない。それは、横江先生にしてもあの人にしても隼にしてもそう。誰も佐古のことを何らかの物差しで測ろうとはしない。佐古の家族も佐古のことを測らないし、佐古のことを測ろうとする誰かはこの作品では描かれない。
佐古が自分なりの物差しを持ち始めること。
それが本書の中での、佐古の成長なのだろうと思う。佐古はそれまで、測らないで生きてきた。そして幸運にも、ほとんど誰からも測られないまま生きてきた。しかし横江先生たちと関わることで、少しずつ佐古の中に『物差し』が出来ていった。物差しが出来ることが、佐古にとって良いことなのか悪いことなのかは、佐古のその後の人生次第だろう。でも、それまで持っていなかった物差しという概念を自らの経験の中から掴みとっていくこと。それは、佐古にとって大きな成長なのだろうと思う。佐古は幸運にも、それまでの人生の中で測りも測られもしなかったし、物差しも持たなかった。そして、フラッとで真っ当な大人たちである横江先生らと関わる中で、誰かに押し付けられるわけでもなく自然と物差しが形作られていく。その過程が、本書の読みどころの一つなのだろうという感じがします。
佐古に少しずつ影響を与えていく横江先生やあの人や隼の存在もとてもいい。それぞれにそれぞれの立ち位置があって、みんなバラバラなのだけど、それは決して佐古を混乱させない。彼らが話す額装の話や何気ない日常会話なんかは、具体的な会話でありながら抽象的なやり取りでもあって、読む人がどんな状況・環境にいるかによって色んな受け取り方が出来るような気がします。
『みんなと同じ』が何故か無意識的に強要されるような印象がある世の中で、『みんなと違っていいじゃん』と積極的に主張するでもなく、フラッとな形でそれを実現してしまっている佐古の存在に羨ましさを覚える人も多く出るのではないかと思います。本作を読むと、これまでに自分の外側に一生懸命に貼り付けていた色んな鎧の存在を認識できるかもしれません。もっと気軽に、色んな方向に進んでいければいいのにな、なんて思います。是非読んでみてください。
宮下奈都「窓の向こうのガーシュウィン」
赤い人(吉村昭)
内容に入ろうと思います。
本書は、新たな獄舎を囚人たちに作らせ、そこで開墾や道路整備などをすることで北海道の開拓に貢献させられることになった囚人たちを描いた物語です。
明治14年。赤い獄衣を来た40名の男たちが、看守に連れられ東京から北海道まで送られた。明治維新の最中、新政府と対立した藩の者たちが北海道に移住し、苦心の中開墾を遂げている箇所はいくつかあったが、それでもまだ北海道は未開の土地であった。国は、囚人という無報酬の労働力をフルに活用し、北海道の原野を開墾することに決め、先発である40人を皮切りに、次々と囚人を北海道に送り込んだ。
一年目は、壮絶であった。当時囚人に対する厳罰はかなりのものがあり、足袋や手袋なしで囚人に冬を越させることなど出来ないと考えた月形典獄は、中央にそれを申請するも、弱みを見せてはいけないと却下される。また、厳冬期の到来が思ったより早く、当初石狩川以外にルートが存在しなかったため、早々と川が凍りついてしまうと、食料の備蓄がいかにも足りないことが明らかになっていった。重労働の上凍傷にかかり、死者も続出。脱獄を図るものも多数で、看守たちへの規制もどんどんと厳しくなっていく。
北海道開拓の進行と共に、安価な労働力としてどんどん重宝されるようになっていった囚人たちは、しかしその過酷な労働環境の中で次々と命を落としていった。政治的に様々な思惑が絡み合い、また脱獄が頻繁に繰り広げられる中、北海道開拓の裏面史が描かれる。
というような話です。
なかなか壮絶な話でした。僕にとっては、北海道って明治14年の時点でもほとんど未開の地だったんだな、というようなことから既に驚きで(正確な描写は忘れちゃったけど、その当時まだ札幌には家は三戸ほどしかなかった、とか)、さらに囚人たちがこれほどまでに非人道的な環境に置かれていたのか、というような驚きがありました。
という感じで、なかなか驚かされた作品なんですけど、本書は僕にはあんまり合わなかったのです。その理由を、自分なりに三つ考えてみました。
一つは、著者の抑えられた筆致。
これはもう、吉村昭の作品と相性がそもそも悪いんじゃないか、って気がするんだけど(吉村昭の作品を読むのは初です)、『記録文学』と呼ばれる吉村昭の作品は、解説でも書かれているけど、とにかく余計な描写を排除して徹底的に客観的で感情的なものが抑えられた筆致になっていて、どうもそれにあんまり乗りきれなかった部分がある。事実としてそうなんだろうけど、説明的な描写が多いような感じで、もちろんそういう作品が好きだと言う人はたくさんいるんだろうけど、僕はちょっとダメだったかも。あんまり記録文学みたいなのを読んだことがないってのもあるかもだけど、ちょっと吉村昭のこの、徹底的に抑えられた筆致みたいなのは、僕はあんまりダメかもという感じがしました。吉村昭の作品はちょっと読んでみたいと思ってるものがいくつかあるんでまたチャレンジしたいんだけど、どうかなぁ。
二つ目は、本書が裏面史を描いているようだ、ということ。解説でも、吉村昭が本書で描いたことで初めて表に出た事実もある、というようなことを書いているのだけど、僕にとってそれは一つのハードルでした。
というのも、僕はあまりにも歴史の知識がなさすぎるので、北海道の表面史を全然知らないんです。
だから読んでても、どの部分が裏面史なのかよくわからず(もしかしたら全体的にそうなのかもだけど)、全体的に本書で描かれていることは凄いなという感じだったんですけど、表面史をちゃんと知っている方がもっとその凄さが分かったのかもしれないなぁ、という感じがしました。
そして三つ目は、本書が、誰か特定の人物を中心に描いていないこと。なんというか、本当に『記録』という感じで、◯◯さんはこうでしたよ、☓☓さんはこうでしたよ、というような断片が積み重なって作品が成り立っている。それが、僕の好みには合わなかったかな。もう少し、特定の人物に肩入れできるような感じで物語が進んでいく感じだと、もっと楽しめたのかもしれないな、という感じがしました。
と言う感じで、描かれている内容は凄いなという感じがするんですけど、本書の『記録文学』というような形態にどうしても馴染めず、同じ内容をノンフィクションで読みたかったかも、なんていう感じもしました。
吉村昭の作品はいくつか読みたいものがあるからこれからも手を伸ばすだろうけど、ちょっと期待していただけに、自分の好みに合わなかったのはちょっと残念だったかな。もちろん、吉村昭もこの作品自体も凄く評価は高いので、興味がある方は是非読んでみてください。
吉村昭「赤い人」
本書は、新たな獄舎を囚人たちに作らせ、そこで開墾や道路整備などをすることで北海道の開拓に貢献させられることになった囚人たちを描いた物語です。
明治14年。赤い獄衣を来た40名の男たちが、看守に連れられ東京から北海道まで送られた。明治維新の最中、新政府と対立した藩の者たちが北海道に移住し、苦心の中開墾を遂げている箇所はいくつかあったが、それでもまだ北海道は未開の土地であった。国は、囚人という無報酬の労働力をフルに活用し、北海道の原野を開墾することに決め、先発である40人を皮切りに、次々と囚人を北海道に送り込んだ。
一年目は、壮絶であった。当時囚人に対する厳罰はかなりのものがあり、足袋や手袋なしで囚人に冬を越させることなど出来ないと考えた月形典獄は、中央にそれを申請するも、弱みを見せてはいけないと却下される。また、厳冬期の到来が思ったより早く、当初石狩川以外にルートが存在しなかったため、早々と川が凍りついてしまうと、食料の備蓄がいかにも足りないことが明らかになっていった。重労働の上凍傷にかかり、死者も続出。脱獄を図るものも多数で、看守たちへの規制もどんどんと厳しくなっていく。
北海道開拓の進行と共に、安価な労働力としてどんどん重宝されるようになっていった囚人たちは、しかしその過酷な労働環境の中で次々と命を落としていった。政治的に様々な思惑が絡み合い、また脱獄が頻繁に繰り広げられる中、北海道開拓の裏面史が描かれる。
というような話です。
なかなか壮絶な話でした。僕にとっては、北海道って明治14年の時点でもほとんど未開の地だったんだな、というようなことから既に驚きで(正確な描写は忘れちゃったけど、その当時まだ札幌には家は三戸ほどしかなかった、とか)、さらに囚人たちがこれほどまでに非人道的な環境に置かれていたのか、というような驚きがありました。
という感じで、なかなか驚かされた作品なんですけど、本書は僕にはあんまり合わなかったのです。その理由を、自分なりに三つ考えてみました。
一つは、著者の抑えられた筆致。
これはもう、吉村昭の作品と相性がそもそも悪いんじゃないか、って気がするんだけど(吉村昭の作品を読むのは初です)、『記録文学』と呼ばれる吉村昭の作品は、解説でも書かれているけど、とにかく余計な描写を排除して徹底的に客観的で感情的なものが抑えられた筆致になっていて、どうもそれにあんまり乗りきれなかった部分がある。事実としてそうなんだろうけど、説明的な描写が多いような感じで、もちろんそういう作品が好きだと言う人はたくさんいるんだろうけど、僕はちょっとダメだったかも。あんまり記録文学みたいなのを読んだことがないってのもあるかもだけど、ちょっと吉村昭のこの、徹底的に抑えられた筆致みたいなのは、僕はあんまりダメかもという感じがしました。吉村昭の作品はちょっと読んでみたいと思ってるものがいくつかあるんでまたチャレンジしたいんだけど、どうかなぁ。
二つ目は、本書が裏面史を描いているようだ、ということ。解説でも、吉村昭が本書で描いたことで初めて表に出た事実もある、というようなことを書いているのだけど、僕にとってそれは一つのハードルでした。
というのも、僕はあまりにも歴史の知識がなさすぎるので、北海道の表面史を全然知らないんです。
だから読んでても、どの部分が裏面史なのかよくわからず(もしかしたら全体的にそうなのかもだけど)、全体的に本書で描かれていることは凄いなという感じだったんですけど、表面史をちゃんと知っている方がもっとその凄さが分かったのかもしれないなぁ、という感じがしました。
そして三つ目は、本書が、誰か特定の人物を中心に描いていないこと。なんというか、本当に『記録』という感じで、◯◯さんはこうでしたよ、☓☓さんはこうでしたよ、というような断片が積み重なって作品が成り立っている。それが、僕の好みには合わなかったかな。もう少し、特定の人物に肩入れできるような感じで物語が進んでいく感じだと、もっと楽しめたのかもしれないな、という感じがしました。
と言う感じで、描かれている内容は凄いなという感じがするんですけど、本書の『記録文学』というような形態にどうしても馴染めず、同じ内容をノンフィクションで読みたかったかも、なんていう感じもしました。
吉村昭の作品はいくつか読みたいものがあるからこれからも手を伸ばすだろうけど、ちょっと期待していただけに、自分の好みに合わなかったのはちょっと残念だったかな。もちろん、吉村昭もこの作品自体も凄く評価は高いので、興味がある方は是非読んでみてください。
吉村昭「赤い人」
商店街はなぜ滅びるのか 社会・政治・経済史から探る再生の道(新雅史)
内容に入ろうと思います。
本書は社会学者である著者が、経済的な観点からだけではなく、政治や社会も含め、『商店街』というものがどのようにして生まれ、そしてどうして滅び行くのかを明らかにしていく一冊です。
先に感想を書いておくと、これは素晴らしかったなぁ!前評判が凄くよかったんだけど、やっぱりこれは凄くよかった。僕もそうだけど、なんとなく商店街って、大規模なシッピングモールが出店してるから打撃を受けて潰れてる、っていう風にしか見てないと思う。確かにそれは一面の事実としてあるだろうけど、決してそれだけが原因なわけではない。それを探るためにはまず、『何故商店街が生まれたのか?』というところから掘りさげなくてはいけない。
商店街というのは、古い起源を持つものだ、とされているようだ。しかし本書では、商店街というものを、ただ店が寄り集まったもの、というだけではないものとして捉える。多くの商店が集まっているという空間的現象だけでは説明できない『何か』を持つ『商店街』というものがいつ生まれたのか、それをまず追う。
第一章ではまず、戦後日本の安定に「自営業の安定」も存在した、ということを示す。
これまでは、「雇用の安定」こそが、戦後日本を政治的・経済的に安定させてきた、と語られてきた。しかし、それは正しい認識ではない。何故なら『雇用者(サラリーマン)』と共に、『都市自営業者』も増えていたからだ。
農業が不況に陥り、地方から人材が都会に流入してくると、仕事がない彼らは零細自営業を営むようになる。そしてこれがもう一翼となり、日本を安定させていたのだ、という。そしてその安定の要になっていたのが、近代になって発明された『商店街』というシステムであることを見る。
第二章で、何故『商店街』が生まれたのか、を見る。ここでは、農村からの流入者が零細自営業を始めることで危機感を覚えた都市住民が作り上げた『協同組合』、安定価格で商品を供給するために政府が作ろうと目論んでいた『公設市場』、広まりつつあった新たなる販売形態である『百貨店』。この三者が零細自営業とどのように関わり、零細自営業を追い詰めていったかをみると共に、専門性もなく作っては潰しが続いていた零細自営業の現状を解消するために、まとまることで『規模を大きく』し、『専門性』を付与し、かつ先の三者の利点が盛り込まれた『商店街』が発明される流れが描かれる。また、商店街という発明が広まった背景には、満州事変による物資不足があったことなど、その広まりの背景なども描かれる。
第三章では、商店街の理念がどのように忘却され、その一方で何故か商店街が増殖していくという過程を見る。
戦後日本は、製造業中心の社会設計を目指したが、さらに重要な目標として、完全雇用の実現があった。この実現のために、第三次産業への雇用の振り分けが行われたのだけど、当時第三次産業は『潜在的失業者』と呼ばれる環境だった。そこで政府は、完全雇用実現のため、第三次産業への保護を推し進めていくことになる。
やがてそれは、商店街の既得権益となっていく。
経済成長を実現したことで、商店街を放っごする意味合いを失ったものの、商店街は自民党の支持基盤として強大な圧力を持つようになる。百貨店やスーパーマーケットを規制する法律の制定などで働き、そのような動きから、商店街は『既得権益集団』として見られるようになっていく。零細自営業への様々な批判が巻き起こるが、政府は保護を止められない。それは、大企業が受け入れない雇用を零細自営業が吸収しているから完全雇用が成り立っているのだ、という主張に反論できずにいたからだ。そういう、商店街が政治と結びついていく過程が描かれる。
第四章では、いかにして商店街が崩壊していったのかが描かれる。その中心にあるのが、コンビニと日米構造問題協議。
コンビニがこれほど日本に広まった要因は、零細自営業者がコンビニに乗り換えたからだ。そしてその背景には、オイルショック後の日本が諸外国の現状を反面教師にして推し進めた「日本型福祉社会」という構想がある。これはざっくり言うと、終身雇用と専業主婦というモデルに当てはまらない層は例外だとするもので、零細自営業者たちはその状況から逃れるという理由もあって、コンビニに鞍替えした。
もう一方の日米構造問題協議は、日米貿易摩擦に関するもの。当時対米貿易に関して黒字だった日本は、アメリカから、日本人は生産をするくせに消費をしないから貿易問題が起こると主張。改善を求めるが、しかし日本の流通問題は複雑で、これまで企業は手を出せずにいた。しかし、ようやく政府は、零細自営業に対する規制緩和を実行し、それが商店街を崩壊させる要因となった。
そして第五章で、これから商店街はどうあるべきなのかという、著者なりの提言が行われる。
というような流れです。
ホント、素晴らしい内容でした。僕は、商店街が既得権益集団だったということも知らなかったし、コンビニ増加の背景も知らなかった。労働力の流動化や国の方針などが、これほどまでに複雑に絡みあって『商店街』というものが生み出され継続し、そして崩壊していくという過程が物凄く説得力のある形で描かれるので、勝手なイメージで描いていた『大型ショッピングモールが商店街を潰す』という単純な図式を自分の頭の中で修正しなくちゃいけないな、という感じがしました。
本書の巻末に、何故商店街が崩壊したのかという理由を、簡潔に二つにまとめている。
一つは、『既得権益集団になったこと』。そしてもう一つは『(コンビニへの移行により、当初商店街の理念にあった)専門性が失われたこと』だと書いている。本書を読むと、確かにその通りかもしれない、と納得出来る。既得権益集団になったことで、零細自営業の経営を子供以外に譲り渡さないという不合理な選択が行われ、結果店を閉めてしまうことになる。また、生き残りを賭けてコンビニに転業したことで専門性が失われ、それもまた内部から商店街を崩壊させることになった。もちろん、大型ショッピングモールも出店も、大きな影響を与えていることだろうし、現実的に大型ショッピングモールばかりがあり商店街が崩壊することで、買い物難民が発生しているという現実もある。でもそれは、あくまでも表層に過ぎないのかもしれない。
商店街が当初持っていた理念は、素晴らしいものだったし、著者はその復活を望んでいる。徒歩で行ける小さな商圏に専門性が多様な店舗が集まることで、ただ店が連なっているというだけではない環境を提供する商店街という仕組みの良さを、東日本大震災を機に再認識したという人もいるかもしれない。しかし、商店街の素晴らしい理念は、商店街が既得権益集団になってしまったことで批判され見えにくくなり、また既得権益を親族以外に手放したくないという思いから、結果的に専門性が失われたり店を閉めざるを得なくなってしまう。本書での議論がどこまで現実に即しているのか、普段商店街というものと触れていない僕には解らない部分も多いけど、一方的に大型ショッピングモールを悪とするだけの議論には意味がないのかもしれない、と思わせてくれる一冊でした。
あまり内容に触れ過ぎると、書きたいことは山ほどあるんで、内容のあらゆることまで触れてしまいそうな気がするので、とりあえずこれぐらいにしておきます。是非読んでみて欲しいです。
いくつか気になった文章を抜き出して終わろうと思います。
『2009(平成21)年に成立した民主党政権は、子ども手当の実施などにより、個々人に対する生活保障を手厚く配分している。しかし、そこで見失われつつあるのは、地域社会をいかに安定させるかという視点である。個人を支えることも重要であるが、その生活を支えるためにも、地域社会の基盤を整えることが重要である。』
『こうした状況が生まれるのは、消費のために生産がある、との原則を忘却しているからだ、と竹内は言う。本来、経済活動とは、暮らしに必要なものを消費することだった。だが、いまは、生産活動がすべてに優先されている。そして、生産されたものを、いかに消費させるかが考えられる。こうして市民は、企業に利潤を確保させるために、消費がなかば矯正されるという状況に追い込まれているという。』
大型ショッピングモールが商店街を崩壊させているという、なんとなく多くの人が持っているだろうイメージを覆すきっかけとなる作品です。実際に商店街というものに、あるいは商店街で働いている人に普段触れる機会のない僕には、実際のところどうなのか解らないけど、政治・社会・経済など様々な視点から複層的に語られる『商店街』という存在についての描写には色々納得させられる部分があります。著者は自身の商店街に対するスタンスとして、『「商店街」という理念は評価できるが、それを担う主体に問題があった』と書く。そして、『商店街』をもう一度よみがえらせるための提言も行う。考えたこともなかった話の連続で、物凄く刺激的な作品でした。是非読んでみてください。
新雅史「商店街はなぜ滅びるのか 社会・政治・経済史から探る再生の道」
本書は社会学者である著者が、経済的な観点からだけではなく、政治や社会も含め、『商店街』というものがどのようにして生まれ、そしてどうして滅び行くのかを明らかにしていく一冊です。
先に感想を書いておくと、これは素晴らしかったなぁ!前評判が凄くよかったんだけど、やっぱりこれは凄くよかった。僕もそうだけど、なんとなく商店街って、大規模なシッピングモールが出店してるから打撃を受けて潰れてる、っていう風にしか見てないと思う。確かにそれは一面の事実としてあるだろうけど、決してそれだけが原因なわけではない。それを探るためにはまず、『何故商店街が生まれたのか?』というところから掘りさげなくてはいけない。
商店街というのは、古い起源を持つものだ、とされているようだ。しかし本書では、商店街というものを、ただ店が寄り集まったもの、というだけではないものとして捉える。多くの商店が集まっているという空間的現象だけでは説明できない『何か』を持つ『商店街』というものがいつ生まれたのか、それをまず追う。
第一章ではまず、戦後日本の安定に「自営業の安定」も存在した、ということを示す。
これまでは、「雇用の安定」こそが、戦後日本を政治的・経済的に安定させてきた、と語られてきた。しかし、それは正しい認識ではない。何故なら『雇用者(サラリーマン)』と共に、『都市自営業者』も増えていたからだ。
農業が不況に陥り、地方から人材が都会に流入してくると、仕事がない彼らは零細自営業を営むようになる。そしてこれがもう一翼となり、日本を安定させていたのだ、という。そしてその安定の要になっていたのが、近代になって発明された『商店街』というシステムであることを見る。
第二章で、何故『商店街』が生まれたのか、を見る。ここでは、農村からの流入者が零細自営業を始めることで危機感を覚えた都市住民が作り上げた『協同組合』、安定価格で商品を供給するために政府が作ろうと目論んでいた『公設市場』、広まりつつあった新たなる販売形態である『百貨店』。この三者が零細自営業とどのように関わり、零細自営業を追い詰めていったかをみると共に、専門性もなく作っては潰しが続いていた零細自営業の現状を解消するために、まとまることで『規模を大きく』し、『専門性』を付与し、かつ先の三者の利点が盛り込まれた『商店街』が発明される流れが描かれる。また、商店街という発明が広まった背景には、満州事変による物資不足があったことなど、その広まりの背景なども描かれる。
第三章では、商店街の理念がどのように忘却され、その一方で何故か商店街が増殖していくという過程を見る。
戦後日本は、製造業中心の社会設計を目指したが、さらに重要な目標として、完全雇用の実現があった。この実現のために、第三次産業への雇用の振り分けが行われたのだけど、当時第三次産業は『潜在的失業者』と呼ばれる環境だった。そこで政府は、完全雇用実現のため、第三次産業への保護を推し進めていくことになる。
やがてそれは、商店街の既得権益となっていく。
経済成長を実現したことで、商店街を放っごする意味合いを失ったものの、商店街は自民党の支持基盤として強大な圧力を持つようになる。百貨店やスーパーマーケットを規制する法律の制定などで働き、そのような動きから、商店街は『既得権益集団』として見られるようになっていく。零細自営業への様々な批判が巻き起こるが、政府は保護を止められない。それは、大企業が受け入れない雇用を零細自営業が吸収しているから完全雇用が成り立っているのだ、という主張に反論できずにいたからだ。そういう、商店街が政治と結びついていく過程が描かれる。
第四章では、いかにして商店街が崩壊していったのかが描かれる。その中心にあるのが、コンビニと日米構造問題協議。
コンビニがこれほど日本に広まった要因は、零細自営業者がコンビニに乗り換えたからだ。そしてその背景には、オイルショック後の日本が諸外国の現状を反面教師にして推し進めた「日本型福祉社会」という構想がある。これはざっくり言うと、終身雇用と専業主婦というモデルに当てはまらない層は例外だとするもので、零細自営業者たちはその状況から逃れるという理由もあって、コンビニに鞍替えした。
もう一方の日米構造問題協議は、日米貿易摩擦に関するもの。当時対米貿易に関して黒字だった日本は、アメリカから、日本人は生産をするくせに消費をしないから貿易問題が起こると主張。改善を求めるが、しかし日本の流通問題は複雑で、これまで企業は手を出せずにいた。しかし、ようやく政府は、零細自営業に対する規制緩和を実行し、それが商店街を崩壊させる要因となった。
そして第五章で、これから商店街はどうあるべきなのかという、著者なりの提言が行われる。
というような流れです。
ホント、素晴らしい内容でした。僕は、商店街が既得権益集団だったということも知らなかったし、コンビニ増加の背景も知らなかった。労働力の流動化や国の方針などが、これほどまでに複雑に絡みあって『商店街』というものが生み出され継続し、そして崩壊していくという過程が物凄く説得力のある形で描かれるので、勝手なイメージで描いていた『大型ショッピングモールが商店街を潰す』という単純な図式を自分の頭の中で修正しなくちゃいけないな、という感じがしました。
本書の巻末に、何故商店街が崩壊したのかという理由を、簡潔に二つにまとめている。
一つは、『既得権益集団になったこと』。そしてもう一つは『(コンビニへの移行により、当初商店街の理念にあった)専門性が失われたこと』だと書いている。本書を読むと、確かにその通りかもしれない、と納得出来る。既得権益集団になったことで、零細自営業の経営を子供以外に譲り渡さないという不合理な選択が行われ、結果店を閉めてしまうことになる。また、生き残りを賭けてコンビニに転業したことで専門性が失われ、それもまた内部から商店街を崩壊させることになった。もちろん、大型ショッピングモールも出店も、大きな影響を与えていることだろうし、現実的に大型ショッピングモールばかりがあり商店街が崩壊することで、買い物難民が発生しているという現実もある。でもそれは、あくまでも表層に過ぎないのかもしれない。
商店街が当初持っていた理念は、素晴らしいものだったし、著者はその復活を望んでいる。徒歩で行ける小さな商圏に専門性が多様な店舗が集まることで、ただ店が連なっているというだけではない環境を提供する商店街という仕組みの良さを、東日本大震災を機に再認識したという人もいるかもしれない。しかし、商店街の素晴らしい理念は、商店街が既得権益集団になってしまったことで批判され見えにくくなり、また既得権益を親族以外に手放したくないという思いから、結果的に専門性が失われたり店を閉めざるを得なくなってしまう。本書での議論がどこまで現実に即しているのか、普段商店街というものと触れていない僕には解らない部分も多いけど、一方的に大型ショッピングモールを悪とするだけの議論には意味がないのかもしれない、と思わせてくれる一冊でした。
あまり内容に触れ過ぎると、書きたいことは山ほどあるんで、内容のあらゆることまで触れてしまいそうな気がするので、とりあえずこれぐらいにしておきます。是非読んでみて欲しいです。
いくつか気になった文章を抜き出して終わろうと思います。
『2009(平成21)年に成立した民主党政権は、子ども手当の実施などにより、個々人に対する生活保障を手厚く配分している。しかし、そこで見失われつつあるのは、地域社会をいかに安定させるかという視点である。個人を支えることも重要であるが、その生活を支えるためにも、地域社会の基盤を整えることが重要である。』
『こうした状況が生まれるのは、消費のために生産がある、との原則を忘却しているからだ、と竹内は言う。本来、経済活動とは、暮らしに必要なものを消費することだった。だが、いまは、生産活動がすべてに優先されている。そして、生産されたものを、いかに消費させるかが考えられる。こうして市民は、企業に利潤を確保させるために、消費がなかば矯正されるという状況に追い込まれているという。』
大型ショッピングモールが商店街を崩壊させているという、なんとなく多くの人が持っているだろうイメージを覆すきっかけとなる作品です。実際に商店街というものに、あるいは商店街で働いている人に普段触れる機会のない僕には、実際のところどうなのか解らないけど、政治・社会・経済など様々な視点から複層的に語られる『商店街』という存在についての描写には色々納得させられる部分があります。著者は自身の商店街に対するスタンスとして、『「商店街」という理念は評価できるが、それを担う主体に問題があった』と書く。そして、『商店街』をもう一度よみがえらせるための提言も行う。考えたこともなかった話の連続で、物凄く刺激的な作品でした。是非読んでみてください。
新雅史「商店街はなぜ滅びるのか 社会・政治・経済史から探る再生の道」
ハーバード白熱日本史教室(北川智子)
内容に入ろうと思います。
本書は、九州の高校を卒業後、カナダの大学で数学と生命科学を専攻するが、日本語が読めるというだけの理由で手伝っていた日本史の教授から、大学院で日本史を勉強しないかと勧められ、それをきっかけにして現在ハーバード大学で日本史を教える人気教師になった著者のこれまでの来歴を綴った作品です。
この著者、これと3歳しか違わないんだよなぁ。それで、ハーバード大学の教授だもんなぁ。すげぇもんです、ホント。
先に書いておくと、本書は『どんな観点から本書を捉えるか』によって大分評価が変わるだろうと思います。その辺りについても、後で詳しく書くつもりです。
著者は大学院へ進むことが決まった際に、ハーバード大学の夏期留学を思い立ち実行する。お金がなかった著者は、ハーバード大学で日本史の授業だけに絞って聴講するのだけど、著者はそこに強い違和感を覚えた。
それは、ハーバード大学で教えられる日本史が、ほぼすべて「サムライ」を軸にしたものだった、ということだ。これはハーバード大学に限らず、アメリカの大学では標準的なもののようだ。
そんなあり方を疑問に感じつつ、卒論も通常よりも大分ハイスピードで駆け抜けた著者は、様々な経緯を経てハーバード大学の教授に就任する。本書執筆時点で就任三年目、元々若い上に見た目も年齢以上に若く見られるために、就任一年目は大学内にいても教授だと思われないどころか、学部生と間違われてもおかしくないような感じだったという。
そんな中で始まった一年目から、徐々に受講生が増え、三年目では251人というとんでもない数の受講生がやってくる超人気講座になるまでの著者の歩みを描くのが大体第一章。
第二章は、著者が「Lady Samurai」と名付けている講義の紙上出張版。男中心の「サムライ」視点でしか語られなかった日本史を、女性視点も織り交ぜることで新しい史実を浮かび上がらせるやり方が解説されます。
第三章は、ハーバード大学の評価システムについて。教授が生徒をどう評価するか、だけではなく、生徒が教授をどう評価するか、という部分もあり、著者は自身の講座で、普通は得られないような高評価を得、「思い出に残る教授」賞なんかを受賞したりもしているという。ここでは、著者がどんな発想で講義を組み立てているのか(どうやってそんなに高い評価を得ているのか)という自己分析が描かれます。
そして最終章では、著者が「Kyoto」という名でやっている講座の紙上出張版。これは、1542年から1642年の100年間について、京都を中心に日本史を考える授業で、ラジオや映画を製作させるという斬新極まりない授業スタイルが語られます。
というような内容です。
さて、冒頭で僕は、本書はどういう視点から見るかによって評価が変わる作品だ、と書きました。まずその話をしましょう。
本書は、『日本史を教えている日本人教授』という視点から見ると恐らくあまりいい評価にはならないでしょう。一方で、『生徒をいかにやる気にさせて講義そのものやその内容に関心を持たせるか考え続けている教授』という視点から見ると、物凄く面白いしためになると思います。
先に、僕なりの批判から書きましょう。
本書では、「Lade Samurai」と「Kyoto」という二つの紙上出張版講義が描かれます。この内、「Kyoto」の方はそこまで批判されることはないだろうと思うので置いておきます。問題は、「Lady Samurai」の方。
僕は基本的に理系で、歴史的なことはまるで知らない人間なんでちゃんとは判断できないですけど、でも、恐らくこの「Lady Samurai」の講義に違和感を覚える方は多いだろうと思います。
この「Lady Samurai」という講義は、アメリカで広く蔓延している日本史に対するイメージへのカウンターパンチとして生み出されたものです。つまり旧来の、「サムライ(男たち)」の戦闘などから日本史を語る、というスタイルが未だに定着していて、そこに納得できないものを感じたからこそ、著者は理系だったのに日本史の勉強にのめり込み、ついにはハーバード大学の教授になります。そしてその授業は、広く学生に受け入れられています。
しかし、これは、日本人にはなかなか受け入れがたいでしょう。何故なら、日本人には、日本史を「サムライ」の歴史、という形で捉える発想がないからです。だからこそ、そのカウンターパンチとして作られた「Lady Samurai」の内容についても、なんともいえないものを感じてしまうのではないかと思います。
また、個人的にちょっと致命的かなと思っているのは、著者が本書の中で「Lady Samurai」という言葉を明確に定義していない、という点です。
この「Lady Samurai」というのは、単に「女性のサムライ」というだけの意味ではない。英語では、役職名で呼ばれた人(例えば紫式部など)の前に「Lady」とつけるようで(紫式部は「Lady Murasaki」と訳される)、だから英語圏の人たちにとって、「Samurai」という単語に「Lady」をつけることで、ただ「女性」というだけではない強い意味を持つようになる(はずだと思う)。
でも著者はそれを定義しないし、説明もしない。本書では、ひたすら「Lady Samurai」というローマ字表記のままで、これがアメリカ人にどんな捉えられ方をしているのか、という部分をほとんど描かない。「Lady Samurai」という単語に英語兼の人たちがどんな印象を受けるのかというのは、「サムライ」によって日本史を捉えていない日本人にとってはとても重要だと思うのだけど、そこを明確に定義したり説明しなかったがために、もしかしたら内容的にはいいことを言っているのかもしれないけど、どうにも胡散臭い感じになってしまっているのだろうな、という感じがしました。
というのが、僕の個人的な見解。まあ理由はともかく、この「Lady Samurai」の講義にどうもモヤモヤするものを感じる人は結構いるのではないかな、という感じがします。
まあとはいえ、僕はその部分は本書の重要な部分ではない、と判断しました。僕は本書を、「何かを教える際の創意工夫」という視点から、つまりさっきの話で言えば後者の視点で読みました。その視点からだと、僕は灘校の「奇跡の国語教室」のようなイメージを抱きました。一方的に教科書を読むだけではない、全身をフル活用して課題と向き合い、その過程で自然に講義の内容に深入りしていってしまうような、そういう力を持った講義を演出してる著者の凄さを感じます。
授業中に内容と関係のある音楽を流すとか、プレゼン内容をラップにして歌ってもらうとか、ラップトップのパソコンに文字を書かせるのではなく、白い紙に絵を書かせると言ったような、椅子に座ってただ教授の言っていることを聞いているだけというような従来のやり方を完全に脱しています。ハーバード大学は、その旧弊な仕組みをやめ、アクティブ・ラーニング(まさに著者がやっているようない、講義を聞くだけではないスタイル)に移行しつつあるんだそうです。そういう大学側の流れともうまく合致していたということなのでしょう。
しかし、著者の講義に対する創意工夫は素晴らしい。どんな内容を教えているのか、という部分にはとりあえず目をつぶってもらって、どんな工夫と共に講義を運営しているのかという話は、物凄く刺激的です。どうやって学生に関心を持ってもらうか、その関心を持続してもらうか、そして日本史を学ぶことが社会に出てから実際的に役立つように。そういう視点から日本史を教えることを考えていて、そのための努力を惜しまない。学生にラジオ番組を作らせるとか映画を作らせるなんてのは、その意図がどこにあるのかを自分の中できちんと明確にするというのは大事だけど、そこさえきちんとしていれば物凄く有用な手法だろうなという感じがしました。日本史という、アメリカ人にとっては国史ではなく、知識として持っていても持っていなくてもどちらでもいい、という分野であるからこういうことが出来るんだ、という側面も間違いなくあるでしょう。とはいえ、ここまで工夫を凝らした講義を設計できる人も、そうはいないでしょう。だからこそ、著者の講義への評価が高いのでしょうし。
かつて歴史の授業が大嫌いだった僕には、この文章は凄くいいなと思いました。
『このように「Kyoto」のクラスでは、習った出来事の歴史的意味を自分で掘り出しておきます。私は出来事を説明する役割に過ぎず、私の解釈は踏み台にすぎません。アメリカの学生にとっての日本史はそれでいい、むしろそれがいいと思っています。国史ではない歴史ですし、学生たちが自分の言葉でその歴史を語ってくれることができれば最高ではないでしょうか』
僕は、歴史というものが、「絶対にこうだった」と他の解釈の余地なく教えられることが、子供の頃から凄く嫌いでした。ホントにそれ以外の解釈は出来ないわけ?ってかホントにそんなことあったの?出来事としてそれはあったにしても、その場の人間の気持ちははっきり分からないんじゃ…。何百年も昔の話について、「絶対にこうだった」「こういうことが間違いなく起こりました」という風に教わることが、僕には何か間違っているという風にしか思えなくて、だから著者の、「私の解釈は踏み台でいい」という考え方が凄く好きだなと思います。
「奇跡の国語教室」を読んだ時も思ったけど、こんな風に歴史を教えてもらえたら、歴史が好きになってたかもなぁ、と思います。まあ、ラジオ番組や映画作りの課題にはたぶん、泣きそうになると思いますけど(笑)僕と3歳しか違わないハーバード大学教授の、ぶっ飛んだ人生と飽くなき創意工夫を続ける意志みたいなものが描かれます。本書で描かれる日本史の中身については賛否両論あるだろうけど、何かを教えるということについての可能性を広げてくれる一冊だと思います。是非読んでみてください。
北川智子「ハーバード白熱日本史教室」
未踏峰(笹本稜平)
内容に入ろうと思います。
システムエンジニアとして有能であったが、ふとしたことから社会の落伍者となり、貧困層の一人としてふがいない人生を歩み続けてきた橘裕也は、たまたまみつけた北八ヶ岳の山小屋「ビンティ・ヒュッテ」のアルバイト募集に目を留め応募した。ゴールデンウィークから10月下旬までの短期の仕事ではあるが、面接時にやってきた主人の人柄に惹かれ、裕也はそこで働くことに決めた。
裕也の他にアルバイトが二人いた。しかしその二人も、裕也以上に社会の中に溶け込むことが出来ない人たちだった。
一流店でも通用するだけの料理の腕がありながら、アスペルガー症候群によってきちんとしたコミュニケーションを取ることができない戸村サヤカ。絵の才能は抜群で、体力も人並み以上だが、知的障害がある勝田慎二。「ビンティ・ヒュッテ」の主人であり、皆から親しみを込めて「パウロさん」と呼ばれる蒔本康平は、何故かそんな一癖もある面々を集め山小屋を運営していくことに決めたようだ。
彼らは、パウロさんと出会うことで、人生が大きく変わった。山小屋での生活ももちろん、彼らに自信を与えたし、素晴らしいチームワークで山小屋での生活を楽しんでいた。
しかし、それ以上に彼らを変貌させたのは、パウロさんが提案したとてつもない計画だ。ヒマラヤ山脈には、まだ誰も登頂していない山・未踏峰がいくつもある。その内の一つにみんなで登り、その山に名前をつけようではないか、というのだ。
社会の中に居場所を見いだせず、常に除け者にされてきた三人は、山の世界でのある経験から自分の人生を見つめ直すことに決めたパウロさんに導かれ、出会った頃からすれば無謀としか思えない未踏峰への登頂という偉業へ乗り出すことになる…。
というような話です。
これはいい話だったなぁ。笹本稜平の作品をそこまで多く読んでいるわけではないんだけど、笹本稜平の山岳小説である「天空への回廊」には驚愕させられた。「天空への回廊」は、ストーリーや構成力や展開など、あらゆる点でスケールが大きくて、一級のエンタメ小説として傑作だと思うのだけど、薦めにくい理由もある。その厚さや、あるいは登攀に関する馴染みのない専門用語の連発なんかが、多少ハードルとしてある。
その点本作は、人に薦めやすい。山を登るシーンは、最後にある程度まとまってはいるものの、作中の中でほどほどに分散されて、しかも分量としてもそこまで多くないから、どうしても専門用語が頻発せざるを得ない登山のシーンもそこまで大変ではない。それに、舞台がほぼ外国だった「天空への回廊」と比べて、本書は現代日本が舞台になっている。馴染みのある問題が底にあり、それが登山と絡められているという形は、登山そのものに馴染みのない人であってもすんなり読みやすいのではないかと思う。
一番大きな違いは、テーマ性だろうか。「天空への回廊」は、ハリウッド映画を見ているような大スペクタルな作品で、ストーリーが圧倒的に面白い。もちろん、ところどころに込められた小さなテーマはいくつもあるだろうけど、全体としてテーマよりストーリーで推す作品という感じ。
本書の場合はどちらかと言えば、現代日本における若者の姿をテーマとして最奥に持ってき、さらにそこに、山を登ることで人生に大きな変化を生み出せると信じるパウロさんの信念もテーマとして載せられる。社会の落伍者として扱われ、未来に希望も持てず、目の前の現実だけに汲々とするしかなかった若者三人の葛藤や挑戦が読者を揺さぶり、過去の自分と決別したいと願い新たな人生の集大成の一つとして彼ら三人を未踏峰に登らせる決意をしたパウロさんの大きくて暖かな存在感が優しく届く、そんな作品だと思いました。
物語ではよくある設定だけど、本書でも、普通の社会の中では落ちこぼれだった三人が、山という特集な環境の中では、それぞれの個性を抜群に活かしあって全体としてとてもいいパフォーマンスを実現する、というような感じがあって、まあそういう部分は若干うまく出来過ぎだよなぁという感じもするんだけど、悪い気はしない。特に、アスペルガー症候群であり、他者とのコミュニケーションに非常に苦労するサヤカの決断や行動には、考えさせられるものが多かったし、場合によってはサヤカのことが羨ましいとさえ思えた。アスペルガー症候群の人たちは様々に苦労をしているだろうから、羨ましいなんて言うのは間違っているかもしれないけど、僕は作中での裕也のこんな思考に深く頷いてしまうのだ。
『アスペルガーというのはじつは病気ではなく、健常者と呼ばれるこの世間での多数派が、思考や感覚面で自分たちとは異なる少数派に貼りつけたレッテルにすぎないのではないかとさえ思えてくる。』
本書を読むと、本当にそんな風に思う。アスペルガー症候群というのがどんなものなのか、僕は正確な知識がないけど、でも本書で描かれている断片的な描写がすべて正確であるとするなら、アスペルガー症候群の人たちが「少数派」だからと言って「おかしい/間違っている/病気だ」ということにはならないはずだ。むしろ、空気を読み合って言葉にしないコミュニケーションによって伝達・決断をし失敗する『健常者』と呼ばれる人たちの方が、能力として劣っているのではないかと思う。
僕は、アスペルガー症候群のように言葉にしないやり取りを読み取れないとか、ジョークを理解できないとか、そういう症状はないけど、でも感覚として、アスペルガー症候群の人たちの思考は凄く分かる。言葉の裏なんか、読まなくていいなら読みたくないし、言葉が言葉のままの通り相手に伝わるのであれば、それが何よりも一番いいじゃないか、と思う。こんな風に言ったら相手にこういう部分まで伝わってくれるだろうとか、言わなくてもこういうことは分かってくれるだろうというような思考は、社会の暗黙の了解として何故か『正しい』とされているだけで、それが正しい理由などどこにもないと思う。大多数の人たちがそんな風にコミュニケーションを取っているから、というだけの理由で、それが出来ない人が障害扱いされてしまうのは、やっぱりおかしいよな、と思ってしまった。
作中で一番存在感を放つのは、やはりパウロさんだろうか。それは、不在がもたらす存在感でもある。常にそこにいる、という感覚を三人が共有しているからこそ、その存在が輪郭を持つ。
もちろん、彼らが山小屋で働いていた時のパウロさんの存在感も強い。後々、パウロさんが人生の中で背負ってきてしまった重しを彼らは知ることになるのだが、そんな予感を一切抱かせないような包み込むような優しさに溢れたパウロさんの存在は、彼ら三人にとってそれだけで希望だっただろう。自分たちのことを無条件で受け入れてくれようとする人の存在には、普通に生きていてなかなか出会えるものではない。
今僕達は、なかなか『師』と呼ばる人に出会いにくくなった。昔のことは知らないけど、でも弟子入りという言葉は、相撲などごく狭い領域でしか使われていない現代よりも、一層幅広い分野で使われていただろうと思う。それは、師でいられるだけの器を持つ人間が減ったのか、あるいは弟子になるだけの根性を持った人間が減ったのか、それは解らないけど、弟子入りというスタイルが徐々に廃れていくことで、師になれる人あるいは弟子になりたい人がいても、両者を結びつけることがなかなか難しくなったという点も事実だろうとは思う。
彼ら三人は、本当に運良く、師と呼べる相手と出会え、そして最高の修行を施してもらえた。それは、凄く羨ましい。
作中では、色んな希望や価値観が語られる。それらは、希望に喘ぎ、価値観に押しつぶされそうになっていた彼ら三人を救う。読者が、本書で描かれるどんな希望や価値観に共鳴するか、それは解らない。でも、自分の今の生き方に何か不満がある、納得出来ない部分がある、逃げ出したくなる、そんな感覚を抱いている人には、何かしら届くものがあるだろうと思う。時には、本書で描かれる希望や価値観が青臭く感じられることもあるだろう。でもそんな感覚は、本書の解説を読めば吹っ飛ぶはずだ。解説の冒頭、解説氏が渾身の力を込めて放つ言葉は、作中では穏やかに語られていた『なにものか』を増幅したかのようだ。
僕達は、息苦しい世の中に生きている。険しい人生の途上にいる。それは、酸素が薄く標高も高いヒマラヤ山脈の未踏峰のように思えるかもしれない。しかし、山と人生は似て非なるものだ。それでも彼らは、山を登る。それは祈りであり、希望であり、そして『生きること』そのものでもある。そんな三人の挑戦と、彼らを暖かく見守ったパウロさんを描く作品。是非読んでみてください。
笹本稜平「未踏峰」
システムエンジニアとして有能であったが、ふとしたことから社会の落伍者となり、貧困層の一人としてふがいない人生を歩み続けてきた橘裕也は、たまたまみつけた北八ヶ岳の山小屋「ビンティ・ヒュッテ」のアルバイト募集に目を留め応募した。ゴールデンウィークから10月下旬までの短期の仕事ではあるが、面接時にやってきた主人の人柄に惹かれ、裕也はそこで働くことに決めた。
裕也の他にアルバイトが二人いた。しかしその二人も、裕也以上に社会の中に溶け込むことが出来ない人たちだった。
一流店でも通用するだけの料理の腕がありながら、アスペルガー症候群によってきちんとしたコミュニケーションを取ることができない戸村サヤカ。絵の才能は抜群で、体力も人並み以上だが、知的障害がある勝田慎二。「ビンティ・ヒュッテ」の主人であり、皆から親しみを込めて「パウロさん」と呼ばれる蒔本康平は、何故かそんな一癖もある面々を集め山小屋を運営していくことに決めたようだ。
彼らは、パウロさんと出会うことで、人生が大きく変わった。山小屋での生活ももちろん、彼らに自信を与えたし、素晴らしいチームワークで山小屋での生活を楽しんでいた。
しかし、それ以上に彼らを変貌させたのは、パウロさんが提案したとてつもない計画だ。ヒマラヤ山脈には、まだ誰も登頂していない山・未踏峰がいくつもある。その内の一つにみんなで登り、その山に名前をつけようではないか、というのだ。
社会の中に居場所を見いだせず、常に除け者にされてきた三人は、山の世界でのある経験から自分の人生を見つめ直すことに決めたパウロさんに導かれ、出会った頃からすれば無謀としか思えない未踏峰への登頂という偉業へ乗り出すことになる…。
というような話です。
これはいい話だったなぁ。笹本稜平の作品をそこまで多く読んでいるわけではないんだけど、笹本稜平の山岳小説である「天空への回廊」には驚愕させられた。「天空への回廊」は、ストーリーや構成力や展開など、あらゆる点でスケールが大きくて、一級のエンタメ小説として傑作だと思うのだけど、薦めにくい理由もある。その厚さや、あるいは登攀に関する馴染みのない専門用語の連発なんかが、多少ハードルとしてある。
その点本作は、人に薦めやすい。山を登るシーンは、最後にある程度まとまってはいるものの、作中の中でほどほどに分散されて、しかも分量としてもそこまで多くないから、どうしても専門用語が頻発せざるを得ない登山のシーンもそこまで大変ではない。それに、舞台がほぼ外国だった「天空への回廊」と比べて、本書は現代日本が舞台になっている。馴染みのある問題が底にあり、それが登山と絡められているという形は、登山そのものに馴染みのない人であってもすんなり読みやすいのではないかと思う。
一番大きな違いは、テーマ性だろうか。「天空への回廊」は、ハリウッド映画を見ているような大スペクタルな作品で、ストーリーが圧倒的に面白い。もちろん、ところどころに込められた小さなテーマはいくつもあるだろうけど、全体としてテーマよりストーリーで推す作品という感じ。
本書の場合はどちらかと言えば、現代日本における若者の姿をテーマとして最奥に持ってき、さらにそこに、山を登ることで人生に大きな変化を生み出せると信じるパウロさんの信念もテーマとして載せられる。社会の落伍者として扱われ、未来に希望も持てず、目の前の現実だけに汲々とするしかなかった若者三人の葛藤や挑戦が読者を揺さぶり、過去の自分と決別したいと願い新たな人生の集大成の一つとして彼ら三人を未踏峰に登らせる決意をしたパウロさんの大きくて暖かな存在感が優しく届く、そんな作品だと思いました。
物語ではよくある設定だけど、本書でも、普通の社会の中では落ちこぼれだった三人が、山という特集な環境の中では、それぞれの個性を抜群に活かしあって全体としてとてもいいパフォーマンスを実現する、というような感じがあって、まあそういう部分は若干うまく出来過ぎだよなぁという感じもするんだけど、悪い気はしない。特に、アスペルガー症候群であり、他者とのコミュニケーションに非常に苦労するサヤカの決断や行動には、考えさせられるものが多かったし、場合によってはサヤカのことが羨ましいとさえ思えた。アスペルガー症候群の人たちは様々に苦労をしているだろうから、羨ましいなんて言うのは間違っているかもしれないけど、僕は作中での裕也のこんな思考に深く頷いてしまうのだ。
『アスペルガーというのはじつは病気ではなく、健常者と呼ばれるこの世間での多数派が、思考や感覚面で自分たちとは異なる少数派に貼りつけたレッテルにすぎないのではないかとさえ思えてくる。』
本書を読むと、本当にそんな風に思う。アスペルガー症候群というのがどんなものなのか、僕は正確な知識がないけど、でも本書で描かれている断片的な描写がすべて正確であるとするなら、アスペルガー症候群の人たちが「少数派」だからと言って「おかしい/間違っている/病気だ」ということにはならないはずだ。むしろ、空気を読み合って言葉にしないコミュニケーションによって伝達・決断をし失敗する『健常者』と呼ばれる人たちの方が、能力として劣っているのではないかと思う。
僕は、アスペルガー症候群のように言葉にしないやり取りを読み取れないとか、ジョークを理解できないとか、そういう症状はないけど、でも感覚として、アスペルガー症候群の人たちの思考は凄く分かる。言葉の裏なんか、読まなくていいなら読みたくないし、言葉が言葉のままの通り相手に伝わるのであれば、それが何よりも一番いいじゃないか、と思う。こんな風に言ったら相手にこういう部分まで伝わってくれるだろうとか、言わなくてもこういうことは分かってくれるだろうというような思考は、社会の暗黙の了解として何故か『正しい』とされているだけで、それが正しい理由などどこにもないと思う。大多数の人たちがそんな風にコミュニケーションを取っているから、というだけの理由で、それが出来ない人が障害扱いされてしまうのは、やっぱりおかしいよな、と思ってしまった。
作中で一番存在感を放つのは、やはりパウロさんだろうか。それは、不在がもたらす存在感でもある。常にそこにいる、という感覚を三人が共有しているからこそ、その存在が輪郭を持つ。
もちろん、彼らが山小屋で働いていた時のパウロさんの存在感も強い。後々、パウロさんが人生の中で背負ってきてしまった重しを彼らは知ることになるのだが、そんな予感を一切抱かせないような包み込むような優しさに溢れたパウロさんの存在は、彼ら三人にとってそれだけで希望だっただろう。自分たちのことを無条件で受け入れてくれようとする人の存在には、普通に生きていてなかなか出会えるものではない。
今僕達は、なかなか『師』と呼ばる人に出会いにくくなった。昔のことは知らないけど、でも弟子入りという言葉は、相撲などごく狭い領域でしか使われていない現代よりも、一層幅広い分野で使われていただろうと思う。それは、師でいられるだけの器を持つ人間が減ったのか、あるいは弟子になるだけの根性を持った人間が減ったのか、それは解らないけど、弟子入りというスタイルが徐々に廃れていくことで、師になれる人あるいは弟子になりたい人がいても、両者を結びつけることがなかなか難しくなったという点も事実だろうとは思う。
彼ら三人は、本当に運良く、師と呼べる相手と出会え、そして最高の修行を施してもらえた。それは、凄く羨ましい。
作中では、色んな希望や価値観が語られる。それらは、希望に喘ぎ、価値観に押しつぶされそうになっていた彼ら三人を救う。読者が、本書で描かれるどんな希望や価値観に共鳴するか、それは解らない。でも、自分の今の生き方に何か不満がある、納得出来ない部分がある、逃げ出したくなる、そんな感覚を抱いている人には、何かしら届くものがあるだろうと思う。時には、本書で描かれる希望や価値観が青臭く感じられることもあるだろう。でもそんな感覚は、本書の解説を読めば吹っ飛ぶはずだ。解説の冒頭、解説氏が渾身の力を込めて放つ言葉は、作中では穏やかに語られていた『なにものか』を増幅したかのようだ。
僕達は、息苦しい世の中に生きている。険しい人生の途上にいる。それは、酸素が薄く標高も高いヒマラヤ山脈の未踏峰のように思えるかもしれない。しかし、山と人生は似て非なるものだ。それでも彼らは、山を登る。それは祈りであり、希望であり、そして『生きること』そのものでもある。そんな三人の挑戦と、彼らを暖かく見守ったパウロさんを描く作品。是非読んでみてください。
笹本稜平「未踏峰」
都市と都市(チャイナ・ミエヴィル)
内容に入ろうと思います。
バルカン半島に位置する二つの国家、<ペジェル>と<ウル・コーマ>は、地理的には同じ位置を占める。空間を共有している。
<完全(トータル)>と呼ばれる、どちらかの都市だけによって占められている土地と、<クロスハッチ>と呼ばれる、両都市の土地がモザイク上に重なり合っている土地とか存在する。
両都市の住人はそれぞれ、相手の国の物や人を見てはいけないし、何らかの形で接触してもいけない。住人はそれぞれ生まれた時から、自国のものだけを見、隣国のものは<見ない>訓練を受ける。外国からの旅行者についても、入国前にその簡易的な訓練が施される。人々は、人の仕草や建物の特徴、あるいは車の型などから、それが自国のものか隣国のものか判断し、それぞれ見たり<見ない>ようにしたりという判断を瞬時に下くことが求められる。
そして、その規則を破ることは<ブリーチ>行為と呼ばれ、<ブリーチ>がやってきてどこかに連れ去られてしまう。だから両都市の住人は、<ブリーチ>行為をしないように、常に慎重に生活をしている。
<ペジェル>の刑事であるティアドール・ボルル警部補は、<ペジェル>の敷地内で発見された女性に関わる事件を捜査することになった。名前も所属もさっぱりわからないその女性は、調べを進めていくに連れ、かつてから噂だけはあり続ける<第三の都市>について調べていたというが…。
というような話です。
これは、凄いということは伝わってくる作品でした。
奥歯にものが挟まったような表現ですけど、仕方ない。僕はこの作品を、全然理解できませんでした。
本書は、メチャクチャ難しいです。この「難しい」には、「難解」という意味と「高尚」という意味がある。
「難解」というのは、上記で説明した<ペジェル>と<ウル・コーマ>に関する設定です。
本書の裏表紙には、「二つの都市がモザイク状に重なっている」というようなざっくりしたことは書いてある。けど、読み始めても、作中でこの二都市に関する説明は、全然出てこない。ボルル警部補の一人称で進んでいく作品だから当然と言えば当然なんだけど、読者向けの説明みたいなものは全然ない。だから、作中の設定をまったく理解していないうちから、例えば<ブリーチ>なんて特殊用語が出てくる。<ブリーチ>だけじゃなくて、本書は冒頭から、説明されないまま登場してくる単語や概念がメチャクチャ多い。それは、読み進めれば理解できるようにはなっている。でも、僕が全体の設定をようやく掴めたかなと思えたのは、大体150ページ以上読んでから。とにかくそこまでは、全然設定を理解しきれないまま出てくる様々な単語や概念に翻弄されて、全然読み進めることが出来なかった。150ページを超えてからは、それなりにスムーズに読めるようになったのだけど、本書はまずその部分のハードルの高さがある。
そしてもう一点の「高尚」について。本書は、SF的な設定でありながら実はSF要素はほぼなく、作品を分類するとすればミステリかハードボイルドということになる。ハードボイルド調のミステリ、という感じかな。でも、結局僕は、ミステリ部分がどんな風に解決したのか、理解できなかったのです。
元々ハードボイルドが苦手というのもあって、レイモンド・チャンドラーの「長いお別れ(ロング・グッド・バイ)」も苦手なんだけど、それにしても本書は難しかったと思う。一人の女性の死の背景にあるものが遠大すぎる。僕には結局、誰と誰が関わり、どんな陰謀が渦巻き、結局どんな風に物語が決着したのか、全然掴めないまま終わってしまいました。今、結局謎はどんな風に解決して終わるの?とか聞かれても、答えられません。元々物語を読み解く力に欠ける人間なんで、ちゃんと物語を読める人にはそんなに難しくないのかもしれないけど、僕にはちょっとストーリー自体も捉えがたい作品でした。
でも、凄い作品だということは分かる。設定の奇抜さも、細部の描き込みも、メチャクチャな状況を破綻させないで読ませる力とか、凄いもんだなと思います。こういう作品をちゃんと理解して楽しめる人間になりたいものです。
というわけで、僕にはちょっとハードルの高すぎる作品でした。凄い作品でしたけども。
チャイナ・ミエヴィル「都市と都市」
バルカン半島に位置する二つの国家、<ペジェル>と<ウル・コーマ>は、地理的には同じ位置を占める。空間を共有している。
<完全(トータル)>と呼ばれる、どちらかの都市だけによって占められている土地と、<クロスハッチ>と呼ばれる、両都市の土地がモザイク上に重なり合っている土地とか存在する。
両都市の住人はそれぞれ、相手の国の物や人を見てはいけないし、何らかの形で接触してもいけない。住人はそれぞれ生まれた時から、自国のものだけを見、隣国のものは<見ない>訓練を受ける。外国からの旅行者についても、入国前にその簡易的な訓練が施される。人々は、人の仕草や建物の特徴、あるいは車の型などから、それが自国のものか隣国のものか判断し、それぞれ見たり<見ない>ようにしたりという判断を瞬時に下くことが求められる。
そして、その規則を破ることは<ブリーチ>行為と呼ばれ、<ブリーチ>がやってきてどこかに連れ去られてしまう。だから両都市の住人は、<ブリーチ>行為をしないように、常に慎重に生活をしている。
<ペジェル>の刑事であるティアドール・ボルル警部補は、<ペジェル>の敷地内で発見された女性に関わる事件を捜査することになった。名前も所属もさっぱりわからないその女性は、調べを進めていくに連れ、かつてから噂だけはあり続ける<第三の都市>について調べていたというが…。
というような話です。
これは、凄いということは伝わってくる作品でした。
奥歯にものが挟まったような表現ですけど、仕方ない。僕はこの作品を、全然理解できませんでした。
本書は、メチャクチャ難しいです。この「難しい」には、「難解」という意味と「高尚」という意味がある。
「難解」というのは、上記で説明した<ペジェル>と<ウル・コーマ>に関する設定です。
本書の裏表紙には、「二つの都市がモザイク状に重なっている」というようなざっくりしたことは書いてある。けど、読み始めても、作中でこの二都市に関する説明は、全然出てこない。ボルル警部補の一人称で進んでいく作品だから当然と言えば当然なんだけど、読者向けの説明みたいなものは全然ない。だから、作中の設定をまったく理解していないうちから、例えば<ブリーチ>なんて特殊用語が出てくる。<ブリーチ>だけじゃなくて、本書は冒頭から、説明されないまま登場してくる単語や概念がメチャクチャ多い。それは、読み進めれば理解できるようにはなっている。でも、僕が全体の設定をようやく掴めたかなと思えたのは、大体150ページ以上読んでから。とにかくそこまでは、全然設定を理解しきれないまま出てくる様々な単語や概念に翻弄されて、全然読み進めることが出来なかった。150ページを超えてからは、それなりにスムーズに読めるようになったのだけど、本書はまずその部分のハードルの高さがある。
そしてもう一点の「高尚」について。本書は、SF的な設定でありながら実はSF要素はほぼなく、作品を分類するとすればミステリかハードボイルドということになる。ハードボイルド調のミステリ、という感じかな。でも、結局僕は、ミステリ部分がどんな風に解決したのか、理解できなかったのです。
元々ハードボイルドが苦手というのもあって、レイモンド・チャンドラーの「長いお別れ(ロング・グッド・バイ)」も苦手なんだけど、それにしても本書は難しかったと思う。一人の女性の死の背景にあるものが遠大すぎる。僕には結局、誰と誰が関わり、どんな陰謀が渦巻き、結局どんな風に物語が決着したのか、全然掴めないまま終わってしまいました。今、結局謎はどんな風に解決して終わるの?とか聞かれても、答えられません。元々物語を読み解く力に欠ける人間なんで、ちゃんと物語を読める人にはそんなに難しくないのかもしれないけど、僕にはちょっとストーリー自体も捉えがたい作品でした。
でも、凄い作品だということは分かる。設定の奇抜さも、細部の描き込みも、メチャクチャな状況を破綻させないで読ませる力とか、凄いもんだなと思います。こういう作品をちゃんと理解して楽しめる人間になりたいものです。
というわけで、僕にはちょっとハードルの高すぎる作品でした。凄い作品でしたけども。
チャイナ・ミエヴィル「都市と都市」
きみはいい子(中脇初枝)
内容に入ろうと思います。
本書は、かつて烏ヶ谷と呼ばれ、今は桜ヶ丘として新興住宅地となったとある土地を舞台にした、学校や子供のいる環境を主に舞台にした連作短編集です。
「サンタさんのこない家」
教師になりたての岡野は、桜が丘小学校の一年生の担任になった。自分では大したことがないと思っていたちょっとした出来事がきっかけで、あっさりと学級崩壊してしまった。
翌年四年生を受け持ったが、やはりうまくいかない。どうしていいかわからない岡野は、それでも奮闘するが、そんな中、給食をおかわりするが給食費を払っていない神田という生徒の存在が気になった…。
「べっぴんさん」
あたしは、公園でだけは笑顔だ。公園では、どのママも笑顔。でもあたしは知っている。きっとみんな家では子供を叩いているはずだ。だって、あたしがそうだもの。
あやねも、公園でだけは怒られないと知って、家にいる時とは大違いだ。何かあると、すぐ手が出てしまう。でも、これは、あたしが悪いんじゃない。公園のママ友達であるはなちゃんママが、聞こえのいいことばかり言ってくるせいだ…
「うそつき」
土地家屋調査士である杉山は、自営業だということが知られると、学校や地域の色んな役割を頼まれるようになった。その縁で、学校なんかにも頻繁に行き来することがある。
息子の優介はちょっと周りとうまく溶け込めない感じで、妻のミキはいつだって本音で優介の味方なんだけど、ちょっとヒヤヒヤする。
そんな優介がある日、初めて家に友達を連れてきた。山崎くんというその男の子は「うそつき」だと優介は言うのだけど…
「春がくるみたいに」
一度結婚はしたけど、その結婚もうまく行かず、戦争をくぐり抜けてきたけど結局とうさまとかあさまも死んでしまって、今ではもう一人。長いことずっと誰とも話さないなんていうことも普通の日常がやってきてしまった。
歩いていると、毎回わたしに挨拶をしてくれる小学生ぐらいの男の子がいる。実に丁寧な挨拶で、その子のことは気になっていた。ある日鍵をなくしたというその男の子を家にあげたのだが…
「うばすて山」
妹のみわから、母を少しの間だけ預かってくれないか、と電話がある。施設に預けるまでの数日だけ、と。わたしは、忘れることが出来ない。私にだけ厳しかった、いや、厳しいという表現では到底伝えきれないほどの仕打ちをわたしにしてきた母のことを。
それでも、わたしは預かることにした。もうわたしのことなど欠片も覚えていない母のことを。
ずっしりと重い、でもほのかに暖かさを感じる石をお腹の中に入れているような感じのする作品でした。決して軽くはない、明るくもないテーマを扱いつつも、悲愴的になりすぎもせずに、子供の持つ「素直さ」によって救われ、またそれが悲しさを醸しだすような、そういう作品だと思います。
本作は、先程ざっくり「学校や子供のいる環境を主に舞台に」と書いたけど、子供を描いた小説、つまり「大人の目線で子供の姿を描いた作品」というわけではない。そう、僕は思った。本作は、子供を通じて大人を、つまり「子供という前景を描くことで、その後ろにいる大人の姿を描いた作品」だと僕は感じました。
子供はどうしたって、子供だけでは生きていけない。子供は、どういう形であれ、何らかの「大人の社会」にくっついていなければ生きていけなくて、だからこそ、子供の存在には大人の影が見え隠れする。
小説で子供が描かれる時、確かにその背後に大人の存在を薄く感じる。もちろん、作品のテーマによっては、それがくっきりと浮かび上がるようなものもあるだろう。本書は、子供の世界を、あるいは記憶の中の子供時代を描く作品であるようでいて、実際は、その子供の背後にいる「大人」の存在を、明確な意志を持って捕まえようとする作品。僕はそんな風に感じました。
本作では、「虐待」というのが一つのテーマとして扱われてる。決してそれだけが扱われているわけではないし、また「緩い育児放棄」など、「虐待」と呼ぶほどでもないものも扱われていたりするので、一概に「虐待」がテーマの作品だとは言えない作品なのだけど、一面として「虐待」というのはひとつ大きな軸となる。
子供と虐待というと僕はすぐに、金原ひとみの「マザーズ」という小説が思い浮かぶ。
「マザーズ」では、子育て真っ最中の、まったく個性の違う三人の母親を主人公に据え、「現代の日本で女性が子供を育てること」というのを前面に押し出しながら、子育てや母子の関係などを描く作品で、そのずっしりとした重さは、なかなかの重量感だった。読んでいる間も読後も、うわぁー、と言いたくなるような感覚がずっとあって、壮絶と表現しても言い過ぎではない、恐らくこれが現実なのだろうと思わせる底の深さに慄かされた作品だった。
本作は、同じ「虐待」を扱う作品でありながら、そういう作品ではない。どちらがいい、という話ではなくて。
本作では「虐待」というのは、一つの風景や記憶になっている、と僕は感じる。つまりそれは「日常」ということだ。
かつて、まだ「児童虐待」という言葉さえ認知されていなかったような頃から、子供に対する虐待は存在しただろう。でも現代では、「虐待」というのは、ある程度以上の認知のされ方をしてしまっている。母親が子供を虐待する、という事実に、驚く人はそう多くはないだろう。実数として、昔と比べて児童虐待が増えているのか減っているのか、それは僕は知らないけど、少なくともひとつ、かつてとまったく違っていることは、児童虐待が既に認知され、酷いことだとも思うし、なんとかしてやりたいとも思うのだけど、でも同時に、あぁまたか、と思ってしまうような、そういう風景化が、今の日本では起こってしまっているように思うのだ。
本作では、その風景としての「虐待」を、実にうまく掬いとっていると僕は感じる。
「マザーズ」では、母親自身が主人公であり、その母親にとっては、目の前にいる子供を「育てること」は、その時点での自らの人生において最も重大で重要な事柄だ。だからこそ、「虐待」に限らず、「子育て」に関わるありとあらゆる事柄は、母親にとっては一大事となる。「風景」などとは言っていられない。「マザーズ」ではそういう、母親自身による、どうしたって「風景」とは思えない「虐待」の現実が切り取られる。
しかし本作では、母親自身が主人公の話もあるが、タイトルにも現れているように、基本的には「となりのこども」を描いている。つまり、自分の子に対してではない「虐待」が描かれる話が多い。
自分の子に対してではない「虐待」は、日常化し、風景化してしまっている。それは、「サンタさんのこない家」に出てくる校長の言葉からもわかるように思う。
明らかに家で虐待されている子供の存在を知った担任教師は、その子の身体検査をするよう主張し認められる。が、校長から、「服は脱がせてはいけない」と言われるのだ。「服を脱がせると、保護者が怒鳴りこんでくることがあるから」と。これが風景化ではなくてなんだろう。学校にも色んな事情があるだろうし、校長としての立場もあるだろう。虐待に限らず、不幸な環境に置かれている子供がきっと増えているだろうから、そのすべてに対応しきれない、という発想もあるのかもしれない。でも、と思ってしまう。
「うそつき」も、そんな風景化した虐待の話だろう。とはいえ、こちらの話は、風景化しているからこそフラットに関われる、そんな家族の話でもある。風景化が、必ずしも悪いわけではない。
「べっぴんさん」は、虐待をしてしまう母親目線の話だ。けれどこの話は、最後の最後で、主人公ではないある人物に視点を移すことで、物語がガラっと変わる、そんな話だ。物語の初めから、その「ある人物」目線で作品を読むことが出来れば、風景化と言えるかもしれない。
「春がくるみたいに」は、ちょっと「虐待」の話とするには無理があるか。「うばすて山」は、「記憶の中の虐待」を扱ってるから、その膨大な時間の流れによって、虐待の事実がある種の風景化をしている、なんて言ったり出来るかもだけど、まあちょっと無理があるかな。
僕自身の話をしよう。
僕は、子供の頃になんて絶対に戻りたくない、とずっと思っている。僕自身の中では、子供時代は本当に大変だった。昔の自分に、よく頑張ったな、と言ってやりたいぐらい、僕は結構頑張っていたと思う。
僕は、別に親から虐待を受けたこともなければ、学校でいじめに遭ったこともほとんどない(こっちは、まったくない、とは言い切れないけど、でもその事実をほとんど思い出せないくらい軽微なものだったと思う)、傍から見ていれば、まあ平和な環境で生きていた子供だったと思う。少なくとも外側から見てわかるような、わかりやすい「何か」があったわけではない。
それはそれで僕を苦しめることになるわけだけど、とりあえず。
僕は子供の頃から、「表現できない辛さ」みたいなものに搦め捕られていた。それは、今でもそうだ。今でも僕は、「表現できない辛さ」みたいなものにがんじがらめにされているんだけど、でもそれは、子供の頃ほどじゃないと思う。
子供の頃は、自分が何に辛さを感じいているのか、全然わからなかった。自分の中でさえ、それをきちんと意識することが出来ないでいた。それが、結構苦しかった。
それはある意味では、「虐待」と結びつけて考えることが出来るかもしれない。今でもこそ、児童虐待というのは認知されているし、色んな経験が「児童虐待」という言葉で表現することで、色んな人に一瞬で理解される世の中になった。
しかし、「児童虐待」というのが社会的に認知されていなかった時代の子供たちは、今以上に(と、そんなことで比べても仕方がないことはもちろんわかっているけども)辛かっただろうと思う。
何故なら、「親から虐待を受けている」という事実が社会的に共通認識ではなく、誰にでも伝わるような形でその辛さを表現出来なかったからだ。
作中でこんなシーンがある。大人になった主人公が、かつて親から受けていた虐待を思い返している。友達の家に遊びに行った時、その家の子が洗濯物を干している母親の名前を呼ぶと、母親はにこっと笑って振り向いてくれた。そこで自分も、料理をしている母親の名前を読んでみると、怒ったような顔で振り向いて、用がないなら呼ぶんじゃない、と怒鳴られる。
そしてここからだ。怒鳴られた子供は考える。友達の家では、母親は洗濯物を干している時だった。だからうちのおかあさんも、洗濯物を干している時だったら笑って振り向いてくれるのかもしれない、と。
もちろんこれは、児童虐待が認知されていなかった時代だったから、というわけではないだろう。今だって子供たちは同じようなことがあれば、同じような思考をするかもしれない。でも「母親が子供を虐待する」ということが前提の知識としてあるかどうかによって、母親の行為をどう捉えるかにかなり差が出るだろう、と思うのだ。少なくとも今は、自分がされている行為を誰か外の大人に話せば、子供が「児童虐待」という単語を使わなかったとしても、大人には一瞬にして「児童虐待」という単語が浮かぶ。それは、母と子というものがいる以上児童虐待が永遠になくならないのだと考えれば、少なくともましな世の中になったのだろう、と僕は思う。
僕自身は未だに、自分が何を辛いと思っているのか、人にすんなり分かってもらえる形で表現することは出来ない。子供の頃は、自分の中で意識ができず、それにも苦しんだ。自分が苦しんでいる理由を、母親が嫌なやつだからだとか、学校という場が窮屈だからだとか、そういう「自分以外の何か」に付託して考えていた。それで、人に迷惑を掛けたこともあるし、僕のことをよくわからないやつだと思っていた人もきっといるだろう。
今では、僕自身は理解している。少なくとも、理解できた気にはなっている。でもそれを、誰かに共感してもらえる形で表現することは、やっぱりまだ出来ない。「フリーター」という単語が世の中に存在しなかった頃に、フリーターについて説明するようなものだ。もし僕と同じようなことを感じている人がたくさんいて(でも、そういう人がいても、お互いの感覚をどこまで共有できるのかは難しいところかもだけど)、それを表現する何か絶妙な単語を見つけて発信したりすれば、少しずつ社会に浸透したりするのかもしれないけど、少なくとも今は駄目だと思う。僕が感じているこの「表現しようのない辛さ」を、誰かに分かってもらえるように伝える自信が、未だに僕にはない。
僕は本書を読んで、そういうようなことを考えさせられた。「虐待」というものが、ある種風景になっている世の中で「虐待」を受ける子供たち。確かに、自分の置かれている状況への理解者は増えるかもしれない。でもそれは、増えるだけだ。別に、自分の味方をしてくれるわけでもない。それに、「児童虐待」というのが認知されることで、逆に「虐待」というものが類型化されすぎて、一人ひとり個別の事情を全部平坦にして「虐待」というものが捉えられてしまうような、そんな恐れもある。もちろん子供は、こうしたことを、明確な言葉で思考できているわけではないだろう。でも、子供は、決してそういうことに気づいていないわけではない。言葉で思考することは出来ないかもしれないけど、子供はちゃんとそういうことが分かっているし、だからこそ「虐待」というのが余計複雑な問題になっているのかもしれない、なんてわかったようなことを言うことだって出来てしまう。
本作ではそういう、「虐待」というものがある種の風景になってしまった日本という国における「虐待」というものについて、色んな子供を描き出すことで、その後ろにいる大人を炙り出している、そんな感じがしました。
児童虐待は、間違いなくなくならない。それは、色んな理由からそう推察できる。元々子育てというものは相当に辛いものだろうから、虐待が生まれる余地は常にあるのだと思う。しかしそれだけではなくて、今の日本の社会がそれを助長してしまう要素に溢れているように思える。一度「児童虐待」という言葉を与えられ、認知されたからには、もうそれはどんどん「当たり前」のことになっていくしかない。
そういう社会の中で、良識ある大人として何が出来るのか。どう感じるべきなのか。
きっと明確な答えはないのだろう。その答えを模索しようと奮闘している「大人」たちが、描かれているのかもしれない。
もう僕たちは、「児童虐待」の存在を知っても、少なくとも驚けない。それに、酷いとか悲しいとか、そういう感情を持つことは出来るけど、「まさかそんなことが」という驚きは、もはや共有できない。そういう世の中になってしまった。そういう世の中になってしまったからこそ、生まれた物語ではないかと思う。子供の素直さに救われる部分もあれば、子供の素直さにやるせなさを感じる部分もある。自分の力ではどうにもならない無力さを共感できる部分も多い。
根本的な解決策はない。ただ、「サンタさんのこない家」で教師である主人公が、自分のクラスに出したとある「宿題」にこそ、解決の糸口はあるのかもしれない。
作中でこんな場面がある。僕が一番好きな箇所だ。学校関連の役割を色々とやってきた主人公は、今の子供たちを見てこんな風に感じる。
『たかだか十年しか生きていない彼らの、学校以外の時間の中に、一体なにがおこっているのだろう。そのときにあげられなかったさけびが、安心できる学校で、安心できる先生の前で、あげられているとしか思えない。』
親と子だけではなく、学校で、また地域で、子供とどう関わっていくべきなのか、そういうことを少し考えさせられる作品です。「虐待」という結構重いテーマが扱われているけど、内容自体そこまで重いわけではなく、でも切なさの漂う作品です。「虐待」を受けていたわけではないけど、子供時代痛切に生きづらさを感じていた僕にとっては、共感させられる作品でした。是非読んでみてください。
中脇初枝「きみはいい子」
女子をこじらせて(雨宮まみ)
内容に入ろうと思います。
本書は、AVレビューを中心に、AV業界でフリーライターとして働く著者による、著者自身の人生を振り返り、「こじらせてしまった」自分を分析する自分史です。
容姿に自信がなく、「女」として見られることに慣れていなかった著者は、学生時代は自分の女性性を隠すように生きてきて、その反動みたいな感じで奇行に走る不思議ちゃん的立ち位置だった。どうにか東京の大学に行くも、華やかなキャンパスライフとかない、そもそも受験で上京した時に泊まったホテルでAVを見まくって試験に落ちた著者は、サブカル系の趣味に傾倒し、男とほとんど関わる機会もないまま、それまでのような暗黒の学生時代を過ごすのでした。
バニーガールのアルバイトをし始めた頃から、色んなことが変わっていく。少しずつAV的なものへ触れる機会が増え、やがてアダルト投稿雑誌を作る会社に就職、そこから様々な葛藤を経てフリーのライターになり、フリーのライターになってからも様々な葛藤にさいなまれつつも、「こじらせている」自分をなだめつつ前進してきた著者の、これまでの人生を振り返り、現在「こじらせてしまっている」女子に、「私のようになるなよ!」とアドバイスをする作品。
面白かったなぁ!僕は女子じゃないけど、すっげーわかる。僕もメチャクチャ「こじらせている」人間だから、著者とは持っているコンプレックスや生きてきた環境やありえた未来なんかが全然違うだろうけど、でも著者とは同類な感じがする。僕も、傍からすればどーでもいいようなことにウダウダ悩み、他人の視点がもんのすごく気になり、何をするにもビクビクしていたし、そうやってずっと生きてきたんだよなぁ。ここ5年ぐらいは凄く安定してて平和だけど、大学卒業してからちょっとしばらくぐらいまでは、ずっとそんな感じだった。どんな場にいてもしんどかったし、自分の自意識が邪魔をして何も出来なかった。色んな言い訳を常に用意してからじゃないと踏み出せないし、周りの人にどんな風に見られるのかが異様に気になってた。僕は未だに、なんで昔あんなことで悩んでたんだろうなぁ、なんて風には思えない。未だって、ただ自分の自意識と「休戦」しているだけで、いつまたそういうのが再発するかわからないし、そうならないなんて全然思えない。僕にとって、「こじらせまくって」生きている自分の方が長かったし自然で、今だって安定しているとはいえそういう部分が表面化しないわけではない。自分でも、これはどうにかした方がいいなぁ、という部分を、やっぱり直せないなぁって思ったりするけど、もうずっとそんな感じで生きてきたからしょうがねぇよな、なんて風に思ったりします。
割としんどいのは、「こじらせている」ということを巧く表現できないってことなんですね。これ、凄く難しい。本書の巻末には、「モテキ」の久保ミツロウとの対談が収録されてて、そこにも似たようなことが書かれてるんだけど、「こじらせている」っていうのを、なんかもっと分かりやすい感じで伝えられない。短い言葉で要約すると色んなものが抜け落ちるし、かと言って長い話をしたって聞く側には特に興味が持てるわけでもない。自分の中には、確かな質感を持って辛さとか違和感とかしんどさみたいなものがあるんだけど、これを自分が思っているのに半分ぐらいも伝えられない、という感覚が強くある。たまにいますけどね、あっこの話通じるんだ、って人。
たぶん本書を読んで、「はっ?」って思う人もいるんだろうと思うんです。まあ、短い言葉でざっくり表現しちゃえば、いわゆる「リア充」の人たちってことなんでしょうか。巻末の久保ミツロウとの対談は名言揃いなんだけど、その中にこんな言葉があった。
久保ミツロウ『高校時代に普通に恋愛してきたとか、普通に青春してきた人たちは、私たちみたいに自分のことでいっぱいいっぱいになってないから余裕があるわけ。そんで、今はその余力で「世界から貧困をなくそう」とか有意義な活動をしてたりするわけよ。自分のことでいっぱいいっぱいになってない人は、世界に目を向けたり、社会のことを考えたりしてくれてるの。私たちが世界を守れない代わりに…』
わかる!なんかそうなんだよなぁ。俺も、自分のことで精一杯だもんなぁ。自分がなんでそんな風にしたのか、しなかったのか、自分のこういう部分はつまりこういうことなんじゃないか、なんて分析は僕も大好きで、「こじらせてる」人はそういう分析が大好きだ、ってなことが本書にも書かれています。そうそう、俺も好きなんだよなぁ、そういうどこにもたどり着かない分析。だから、人のことなんか考えてる余裕がないのよね。対談には、こんな名言もある。
久保ミツロウ『震災が起きて、みんな家族がいてよかったとか彼氏がいてよかったとか言ってたけど、私あの時「いやー、ホント一人でよかった!自分しか守るものがなくて本当によかった!」って思ったよ。他人を守る余裕ないもん!』
わかる!メッチャわかる!ってか久保ミツロウ凄い!雨宮まみの自伝の話ももちろん面白いんだけど、巻末の久保ミツロウの言葉が痺れる!「モテキ」読もうかな!
「こじらせてる」女子がどんなことを考えているのか。一つ、うわこれは凄いな、って思った部分があるんで、抜き出してみます。
『恐怖はありませんでした。むしろ、暗い快感がありました。靴の中に画鋲を入れられるというのは少女漫画の定番です。靴に針を入れられることで私は初めて自分が他の女たちと対等な「女」になれたような気がしました。誰かに嫉妬されたり、憎まれたりするような「女」なのだと思うと、気分がよかった。』
どうでしょう、女子のみなさん?わかりますか?僕は、この気持ちそのものは理解出来ないけど、著者のこの思考回路はメチャクチャわかる。僕もこんな風に、ねじれた思考をすることがよくあって、だからあんまり周囲の人に理解されないような言動をしたりするんだけど、自分の中では凄く筋が通ってるし、理にかなってる。自分でも、めんどくさ!って思うことばっかりですけどね。
本書はそんな、「こじらせてしまった」女子が何を考え、どう行動し、どんな感情を抱いたのかを、どんな場面でオナニーしたのかや、初めてセックスした話みたいな赤裸々な部分も隠すことなく、現在の自分が過去の自分を分析してこういうことだったのだろう、今ならこうだとわかる、というような視点で書かれています。ホント、分かる人には分かるだろうなぁ、この「こじらせてる」感じ!
最近の人は、僕の勝手なイメージなんだけど、「私ってこういう人なんですぅ」っていう、自分へのラベル貼りがうまいなって印象があります。特に女子は。バイト先の新人を観察してて思うことなんで、一般的にどうなのかちょっとわからないけど。昔に比べたら価値観が多様化して、自分を守るための鎧の種類が増えた。僕は学生の頃、自分のイメージでは、自分をより守ってくれる鎧を手に入れるためにダンジョンをクリアしアイテムをゲットしなければならなかった、という感じなんだけど、今の人たちはあらかじめたくさんの選択肢の中から鎧を選べる、という気がする。もちろんそういう中にあっても、「自分が積極的に何かを選ぶなんて…」みたいな「こじらせ」方をする人もいるだろうから、「こじらせている」人ってのは一定数いるんだろうけど、自分の身を守る鎧を手に入れやすくなっている感じがするのは、ちょっと羨ましいような感じもします。
なんか色々ウダウダ書いてみたいけど、残念ながら時間もあんまりない。とはいえ、僕の「こじらせている」感じは、僕がこのブログでウダウダ書いていることから色々浮き出てるんだろうなぁ、という気もするし、自分の中でもそれを意識して文章を書いていたりはするんですけどね。まあ、ウザいですね(笑)
最後に、巻末の対談から、先程引用しなかったもので僕が感動したものをいくつか。
久保ミツロウ『自己評価が低いっていうことじゃなく、もしかして世間は自分のことをもっと低く見ていて、自分はそのことに気づかなきゃいけないんじゃないか?っていう強迫観念がある。本当は私はワキガみたいな存在で、みんな私がダメなことに気づいてるんだけど優しいから言わないだけなんじゃないかって思うんだよ。』
久保ミツロウ『複雑なことを短く言い切る言い方ってあるじゃない?例えば「草食系男子」みたいに、何かをひとくくりにしちゃう言い方ってあるけど、そうやって短く言い切ってしまうおとで本当は多様なはずの実態が抜け落ちていく気がするのね。わかりやすくするためには有効な手段だけど、それは自分の表現方法ではないなとずっと思ってて、「モテキ」ではそういう短く言い切れないものを自分の持てる表現方法を使って描いたつもり。』
久保ミツロウ『私は、こじらせ自体は治ってなくても、自分はこういうものを抱えているということを他人に上手く伝えられるようにはなったと思う。昔は伝えられなかったし、それ以前にこういうものを抱えていること自体言えなかった。』
あと、もう一つメチャクチャ共感したのが、ここでは絶対に引用しないけど、著者によるあとがきの、243ページの最後の文章。俺ってダメな人間だなぁ、と思いつつ、凄く共感してしまった。
ウダウダ悩んでいる人は、とりあえず読んでみたらいいと思う。「こじらせている」かどうかはともかくとして、人生の何かに悩んでいる人には、灯台のような存在になる可能性がある本だと思う。僕は、やっぱりこういう人っているよね!仲間!みたいな感じになれて、なんとなく嬉しい。ってか、久保ミツロウと喋りてぇなぁ(笑)。是非読んでみてください。
雨宮まみ「女子をこじらせて」
池上彰の「ニュース、そこからですか!?」(池上彰)
内容に入ろうと思います。
本書は、池上彰が週刊文春で連載していた、その時々の時事問題を分かりやすく解説するコラムを書籍化したものです。雑誌連載時から書籍化まで間が空いているので、古い情報が載っているのではないか、と思われるかもしれないけど、書籍化する際に最新情報を盛り込んで修正したとのことで、2012年1月の時点での最新情報、と考えてもらえばいい、とのことでした。
雑誌連載時は、その時々の時事問題に反応したコラムになってただろうから、本書のようにテーマ別に分けられていたわけではないだろうけど、書籍化の際には恐らくそれらを編集したのでしょう、6つのテーマに分けられています。
第一章「EU危機」
第二章「オバマとアメリカ」
第三章「中国・北朝鮮」
第四章「”アラブの春”革命と紛争」
第五章「原発・エネルギー」
第六章「日本の政治と経済」
こんな感じのテーマで、それぞれのニュースを解説していきます。
本書では、「そこからですか!?」というタイトルの通り、基礎の基礎から解説してくれる。例えば一番始めの話は、「EUとは何か?」です。本書では、それぞれの話題について、分かっている人からすれば「えっ、そんなところから?」というような部分から説明してくれるんで、政治・経済・時事問題全般に疎い僕には凄く助かります。
僕はそういう、ニュース全般に凄く弱い人間なので(新聞もテレビも見てないけど、見てたとしてもたぶん大して理解できないだろうなぁ、ということ)、本書のような基礎の基礎から解説してくれると物凄く助かるわけで、だから僕にとっては凄くためになる作品でした。全般的に外国の話が多くて、それはそれで知識として面白い話なんだけど、第五章の「原発・エネルギー」、そして第六章の「日本の政治と経済」の話なんかは、自分とも密接に関わるのに、難しい単語や理解できない状況なんかが難しすぎて理解する気にもならないんですけど、それらを分かりやすく解説してくれるんで、素敵です。「原発・エネルギー」の話では、プルサーマルとは何か、原発は見切り発車っぷり、在日イギリス人が落ち着いていた理由なんかの話は面白いなと思ったし、「日本の政治と経済」の話では、検察審査会の役割、官房長官は何をする人?大阪都抗争って何?教育費に関するOECDからの勧告、なんかが面白かったなぁ。もちろん他の章でも、なんとなく耳にしたことはあるんだけど、詳しくは知らないとか人に説明できないようなこと。あるいは、そもそもそんなことになってるんだ!というような全然知らなかったことなんかについても多々触れてくれて、面白いです。特に、アラブ諸国と北朝鮮の話は面白いですね。アラブ諸国は、宗教の対立は不理解によるゴタゴタがスムーズに解説されるし、北朝鮮の話では、何故そもそも北朝鮮という国が存続出来るのか、というようなところから解説してくれるので、分かりやすいです。
さて、本書はそういう本なので、経済とか政治とか時事問題にある程度詳しい人にとっては、恐らく退屈極まりない作品でしょう。分かっている人からすれば、そんなの知ってるよ!というような話がオンパレードなのでしょう。でも、まあそれは仕方ありません。あなたのような方向けに書かれた本ではないのですから。本書は、僕のような政治・経済・時事問題オンチにはまさにピッタリで、是非ともそういう人に読んで欲しいですね。
本書は、真面目に政治・経済・時事問題について解説する作品なんですけど、ところどころに出てくる「ちょっとした情報」も僕は結構好きでした。例えばこんな感じです。
アメリカの大統領選挙は、「11月の第一月曜日の翌日」と決まっているのだそうです。なんでこんな複雑な表記になっているのか。
シドニーオリンピックの開会式で日本選手団が虹のマントを着て入場行進した際、欧米人の観客は何故絶句したのか。
スカイツリーの高さは、何故634mなのか。
どうでしょう。こういう話は、メインの話の合間にところどころ挟み込まれていきます。本筋とは関係ないんですけど、おもわず「へぇ!」と言ってしまいたくなるような話が多くて、こういうのもいいなと思います。ちなみに、一つだけ答えを書くと、スカイツリーの高さが634mなのは、「武蔵の国」にちなんでいるんだそうです(ムサシ=634)。
あと本書には、ギリシャについての話が出てくるんだけど、これがつい最近読んだ、マイケル・ルイス「世紀の空売り」とかなり共通した話で、本書を読んでようやく「なるほどそういうことか!」と理解できました。「世紀の空売り」は、サブプライムローンに端を発する金融危機裏側を描いた作品ですけど、本書で取り上げられるギリシャもまさに似たような状況にあって、債券市場やらCDSと言った保険やらの話が出てきて、そうそうそんな話読んだんだったなぁ、なんて思ったりしました。これも面白かったです。
個別の話をいちいち取り上げられないんで、なかなか書けることが少ないんだけど、個人的には凄く楽しめた作品でした。これは本当に、新聞やニュースなんかに触れてもよくわかんないなぁ、なんて思っている人にはうってつけの作品だと思います。是非読んでみてください。
池上彰「池上彰の「ニュース、そこからですか!?」」
本書は、池上彰が週刊文春で連載していた、その時々の時事問題を分かりやすく解説するコラムを書籍化したものです。雑誌連載時から書籍化まで間が空いているので、古い情報が載っているのではないか、と思われるかもしれないけど、書籍化する際に最新情報を盛り込んで修正したとのことで、2012年1月の時点での最新情報、と考えてもらえばいい、とのことでした。
雑誌連載時は、その時々の時事問題に反応したコラムになってただろうから、本書のようにテーマ別に分けられていたわけではないだろうけど、書籍化の際には恐らくそれらを編集したのでしょう、6つのテーマに分けられています。
第一章「EU危機」
第二章「オバマとアメリカ」
第三章「中国・北朝鮮」
第四章「”アラブの春”革命と紛争」
第五章「原発・エネルギー」
第六章「日本の政治と経済」
こんな感じのテーマで、それぞれのニュースを解説していきます。
本書では、「そこからですか!?」というタイトルの通り、基礎の基礎から解説してくれる。例えば一番始めの話は、「EUとは何か?」です。本書では、それぞれの話題について、分かっている人からすれば「えっ、そんなところから?」というような部分から説明してくれるんで、政治・経済・時事問題全般に疎い僕には凄く助かります。
僕はそういう、ニュース全般に凄く弱い人間なので(新聞もテレビも見てないけど、見てたとしてもたぶん大して理解できないだろうなぁ、ということ)、本書のような基礎の基礎から解説してくれると物凄く助かるわけで、だから僕にとっては凄くためになる作品でした。全般的に外国の話が多くて、それはそれで知識として面白い話なんだけど、第五章の「原発・エネルギー」、そして第六章の「日本の政治と経済」の話なんかは、自分とも密接に関わるのに、難しい単語や理解できない状況なんかが難しすぎて理解する気にもならないんですけど、それらを分かりやすく解説してくれるんで、素敵です。「原発・エネルギー」の話では、プルサーマルとは何か、原発は見切り発車っぷり、在日イギリス人が落ち着いていた理由なんかの話は面白いなと思ったし、「日本の政治と経済」の話では、検察審査会の役割、官房長官は何をする人?大阪都抗争って何?教育費に関するOECDからの勧告、なんかが面白かったなぁ。もちろん他の章でも、なんとなく耳にしたことはあるんだけど、詳しくは知らないとか人に説明できないようなこと。あるいは、そもそもそんなことになってるんだ!というような全然知らなかったことなんかについても多々触れてくれて、面白いです。特に、アラブ諸国と北朝鮮の話は面白いですね。アラブ諸国は、宗教の対立は不理解によるゴタゴタがスムーズに解説されるし、北朝鮮の話では、何故そもそも北朝鮮という国が存続出来るのか、というようなところから解説してくれるので、分かりやすいです。
さて、本書はそういう本なので、経済とか政治とか時事問題にある程度詳しい人にとっては、恐らく退屈極まりない作品でしょう。分かっている人からすれば、そんなの知ってるよ!というような話がオンパレードなのでしょう。でも、まあそれは仕方ありません。あなたのような方向けに書かれた本ではないのですから。本書は、僕のような政治・経済・時事問題オンチにはまさにピッタリで、是非ともそういう人に読んで欲しいですね。
本書は、真面目に政治・経済・時事問題について解説する作品なんですけど、ところどころに出てくる「ちょっとした情報」も僕は結構好きでした。例えばこんな感じです。
アメリカの大統領選挙は、「11月の第一月曜日の翌日」と決まっているのだそうです。なんでこんな複雑な表記になっているのか。
シドニーオリンピックの開会式で日本選手団が虹のマントを着て入場行進した際、欧米人の観客は何故絶句したのか。
スカイツリーの高さは、何故634mなのか。
どうでしょう。こういう話は、メインの話の合間にところどころ挟み込まれていきます。本筋とは関係ないんですけど、おもわず「へぇ!」と言ってしまいたくなるような話が多くて、こういうのもいいなと思います。ちなみに、一つだけ答えを書くと、スカイツリーの高さが634mなのは、「武蔵の国」にちなんでいるんだそうです(ムサシ=634)。
あと本書には、ギリシャについての話が出てくるんだけど、これがつい最近読んだ、マイケル・ルイス「世紀の空売り」とかなり共通した話で、本書を読んでようやく「なるほどそういうことか!」と理解できました。「世紀の空売り」は、サブプライムローンに端を発する金融危機裏側を描いた作品ですけど、本書で取り上げられるギリシャもまさに似たような状況にあって、債券市場やらCDSと言った保険やらの話が出てきて、そうそうそんな話読んだんだったなぁ、なんて思ったりしました。これも面白かったです。
個別の話をいちいち取り上げられないんで、なかなか書けることが少ないんだけど、個人的には凄く楽しめた作品でした。これは本当に、新聞やニュースなんかに触れてもよくわかんないなぁ、なんて思っている人にはうってつけの作品だと思います。是非読んでみてください。
池上彰「池上彰の「ニュース、そこからですか!?」」
異性(角田光代+穂村弘)
内容に入ろうと思います。
本書は、作家の角田光代と、歌人の穂村弘が、お互いの経験や価値観や観察などを通じて、異性に対する不思議、疑問、そして自分なりの解釈などを、往復書簡の形式でやり取りしたものをまとめたもの。始めっから最後まで話題が連続しているわけでもないけど、基本的には前回の相手の文章を受けて文章が展開されていく。「異性について」という以外明確なテーマ設定があったわけでもないだろうこの往復書簡は、しかし異性についてものすごく深く掘り下げ、両者の間に横たわる溝や、埋まることのない差を明確にしていく。読んでて、「うわぁー!そうそう!」と思う場面がメチャクチャ多くて、読んでて凄く色んな感情に襲われる作品だった。楽しいけど、怖い。共感できるけど、拒絶したい。分かるけど、分かりたくない。みたいな。
読んでて共感できる部分が凄くたくさんあったのだけど、それは決して、「穂村弘が男を代表して描く事柄」だけに留まらない。
僕は割と色んな人に、「(男にしては)女性的な感覚があるね」と言われることが多いのだけど、もちろんだからと言って角田光代の言っていることにことごとく賛同できるというわけではもちろんない。というかやっぱり、女性側の話は、「話としては理解できるけど、受け入れられない」というものが多い。でもやっぱり、女性についての描写の中にも、「分かるわぁ!」ってものも出てくる。
その一方で、穂村弘が描く男の側の話に、常に全面的に賛同できるわけでもない。穂村弘の言っていることには、なんか凄く共感させられることが多いのだけど、でもそれは、冷静に分析してみると、「穂村弘の人間観察眼」に驚嘆しているだけなんだな、ということがある。やっぱり、全部はわからない。でもやっぱり、大抵は分かる。
読んだ人にはみんな大体こういう感覚、つまり、男女両方ともの意見に賛同できる部分もあれば賛同できない部分もある、という感じではないかと思う。角田光代の言ってることには完璧に賛同で、穂村弘が言う男の話は???だらけ、という女性は多くはないだろうし、その逆もまた多くはないだろうと思う。
また僕は、角田光代と穂村弘の主張の根底を成すものが凄く気になった。僕の勝手な判断では、角田光代は「自分のことを中心にして他者と比較すること」が中心であるのに大して、穂村弘は「自分のことも話けど他者観察が中心」という感じがする。そしてこの差は、「角田光代は『ザ・女』であるが、穂村弘は『ザ・男』ではない」という事実に依るのではないか、という気がしてしまう。
この、「角田光代は『ザ・女』であるが、穂村弘は『ザ・男』ではない」というのは、本書を読めばなんとなくわかってもらえるのではないかと思う。この組み合わせも、作品に大きく影響を与えていると思う。『ザ・女』と『ザ・男』同士であれば、下世話な本になっていただろうし、『ザ・女』ではない女性と『ザ・男』ではない男性同士であれば、異性間の違和感を解き明かすのではなく、自分の内側で渦巻いている『何か』の輪郭を見せ合うだけになってしまいそうな気がする。本書が、同じタイプ同士ではない男女の往復書簡によって成り立っているからこそ、普遍的な面白さを獲得しているのではないか、ってのは考えすぎかしらん。
僕は本書を読んだ人は、本書を『誰の本』と表現するか、それが気になる。つまり、「角田光代の『異性』」と表現するか、「穂村弘の『異性』」と表現するかだ。恐らく、どちらにより強く共感できたかによって、この表現は変化するはずだろうと思う。僕は本書を、「穂村弘の『異性』」と呼ぶだろう。穂村弘の価値観はともかく(大抵共感できるのだけど)、穂村弘の人間観察力の凄さに、僕はちと圧倒されたなぁ。
というか、人間観察した結果を言葉に変換する力に、ということになるだろうか。穂村弘の、観察から本質を見抜き、それを共感を引き起こす言葉に変換する力は、ちょっと凄まじいなという感じがしました。
さて、内容に触れすぎない程度に、具体的に内容に触れようかしらん。
まずは、男に特有の『所有』の話。これは凄く納得させられた。男は、テレビの向こうの出来事やただの言葉でさえ『所有』することが出来る。自分の所有物であるとみなす範囲が非常に広く、それを前提にした言動が、女性にとっては『好意』に感じられる、という話は、凄く面白い。僕自身は、そういう所有欲が強くない方だと思うんだけど、でも本書を読む限り、女性にはそういう感覚はまったくないみたいだから、まったくない女性から見たら、僕もまたその所有欲をたくさん持っているように映るのだろう。本書では、男女間の誤解の本質がどこにあるのかということが、色んな議論の中から浮き彫りにされていくのだけど、この男特有の感覚である『所有』というのも、一つ大きな誤解の要因だろうなという気がする。
また、4コマ漫画と長編劇画の話も秀逸だと思う。男にとって恋愛は4コマ漫画で、女性にとっては長編劇画。そしてその差が歴然と現れるのが、別れの時。女性は男性に、4コマ漫画を長編劇画に変換せよと無意識のうちに命じ、男もそれを理解するから怖気づく、という話。この4コマ漫画と長編劇画の対比は、面白かったなぁ。女性が長編劇画ってのはわかってたけど、男が4コマ漫画ってのは慧眼だなと思う。
そして、僕が何より一番「うわぁー!」って思ったのが、この部分。
角田『男性の多くは、許容ラインが変動しないにもかかわらず、したふりをしていることに無自覚である』
これは、共感できたわけではない。逆だ。僕はこの真逆で、だからしんどくなる。自分の中で、許容ラインはやっぱり変動しない。しないのだけど、したふりをしていることにはメチャクチャ自覚的で、それに自分の自意識が耐えられないのだよなぁ。そこに、僕の葛藤のほぼすべてがある、と言って良い。これはもう、昔からそうだし、別に恋愛に限らないから、もうどうにもしようがないんだけどね。この部分を読んだ時、やっぱり世の中の男は羨ましいぜ、と思ったよ。前に友人と飲んでる時、「いいなぁ。俺もそんな風になれたら楽なんだけど」と何度も言ったことがあるんだけど、そういう感覚だ。したふりをしていることに無自覚でいられたら、いいなぁ。
他にもまあ色々書きたいことがあるんだけど、なんてーかそのためには自分の色んなことをズブズブとさらけ出す感じになって嫌だなぁ、って気もするから(まあ、普段ブログで色んなことウダウダ書いてるがな、と言われたらそれまでなんだけど)、あんまり書き過ぎないようにしよう。後は、もの凄く共感できた文章をいくつか抜き出して終わろう。
角田『女性はものごとが変化変容することを本気でおそれている。嘘でもいいから「変化しない」と言ってほしいのだ。
それを言わない男性というのは、変化ではなく固定をおそれているのではないだろうか。』
穂村『私は女性の「当たり前」がおそろしい。』
角田『でも、優位を競うバトルが、ひそやかに行われているのである。優位というのはどっちがボスでどっちが小僧、という序列ではない。私の「関係性」が勝つか相手の「関係性」が勝つか、である。』
穂村『「好きな人」しか目に入らないことの度合いが、男とは比較にならないほど大きいのは何故だろう。』
穂村『例えば、そうすべき瞬間に、確信をもって嘘をつける女、他人を殴れる女、法律を敗れる女、に私は憧れる。そうすべき場面においても、おろおろと躊躇って何もできないだろう自分に引け目を感じているからだ。』
本書は、確かに恋愛がベースになっているのだけれども、結果的に表出される本質は、決して恋愛だけに限らない、普遍的な男女論になっていると思う。これは、恋愛ばかりではなく、仕事や家族や、他のありとあらゆる『異性』と関わる事柄に、何らかの参考になるのではないかと思う。目から鱗が落ちる部分も、人によって箇所は全然違うだろうけど、本書の中にたくさん出てくるだろうと思う。是非読んでみてください。
角田光代+穂村弘「異性」
本書は、作家の角田光代と、歌人の穂村弘が、お互いの経験や価値観や観察などを通じて、異性に対する不思議、疑問、そして自分なりの解釈などを、往復書簡の形式でやり取りしたものをまとめたもの。始めっから最後まで話題が連続しているわけでもないけど、基本的には前回の相手の文章を受けて文章が展開されていく。「異性について」という以外明確なテーマ設定があったわけでもないだろうこの往復書簡は、しかし異性についてものすごく深く掘り下げ、両者の間に横たわる溝や、埋まることのない差を明確にしていく。読んでて、「うわぁー!そうそう!」と思う場面がメチャクチャ多くて、読んでて凄く色んな感情に襲われる作品だった。楽しいけど、怖い。共感できるけど、拒絶したい。分かるけど、分かりたくない。みたいな。
読んでて共感できる部分が凄くたくさんあったのだけど、それは決して、「穂村弘が男を代表して描く事柄」だけに留まらない。
僕は割と色んな人に、「(男にしては)女性的な感覚があるね」と言われることが多いのだけど、もちろんだからと言って角田光代の言っていることにことごとく賛同できるというわけではもちろんない。というかやっぱり、女性側の話は、「話としては理解できるけど、受け入れられない」というものが多い。でもやっぱり、女性についての描写の中にも、「分かるわぁ!」ってものも出てくる。
その一方で、穂村弘が描く男の側の話に、常に全面的に賛同できるわけでもない。穂村弘の言っていることには、なんか凄く共感させられることが多いのだけど、でもそれは、冷静に分析してみると、「穂村弘の人間観察眼」に驚嘆しているだけなんだな、ということがある。やっぱり、全部はわからない。でもやっぱり、大抵は分かる。
読んだ人にはみんな大体こういう感覚、つまり、男女両方ともの意見に賛同できる部分もあれば賛同できない部分もある、という感じではないかと思う。角田光代の言ってることには完璧に賛同で、穂村弘が言う男の話は???だらけ、という女性は多くはないだろうし、その逆もまた多くはないだろうと思う。
また僕は、角田光代と穂村弘の主張の根底を成すものが凄く気になった。僕の勝手な判断では、角田光代は「自分のことを中心にして他者と比較すること」が中心であるのに大して、穂村弘は「自分のことも話けど他者観察が中心」という感じがする。そしてこの差は、「角田光代は『ザ・女』であるが、穂村弘は『ザ・男』ではない」という事実に依るのではないか、という気がしてしまう。
この、「角田光代は『ザ・女』であるが、穂村弘は『ザ・男』ではない」というのは、本書を読めばなんとなくわかってもらえるのではないかと思う。この組み合わせも、作品に大きく影響を与えていると思う。『ザ・女』と『ザ・男』同士であれば、下世話な本になっていただろうし、『ザ・女』ではない女性と『ザ・男』ではない男性同士であれば、異性間の違和感を解き明かすのではなく、自分の内側で渦巻いている『何か』の輪郭を見せ合うだけになってしまいそうな気がする。本書が、同じタイプ同士ではない男女の往復書簡によって成り立っているからこそ、普遍的な面白さを獲得しているのではないか、ってのは考えすぎかしらん。
僕は本書を読んだ人は、本書を『誰の本』と表現するか、それが気になる。つまり、「角田光代の『異性』」と表現するか、「穂村弘の『異性』」と表現するかだ。恐らく、どちらにより強く共感できたかによって、この表現は変化するはずだろうと思う。僕は本書を、「穂村弘の『異性』」と呼ぶだろう。穂村弘の価値観はともかく(大抵共感できるのだけど)、穂村弘の人間観察力の凄さに、僕はちと圧倒されたなぁ。
というか、人間観察した結果を言葉に変換する力に、ということになるだろうか。穂村弘の、観察から本質を見抜き、それを共感を引き起こす言葉に変換する力は、ちょっと凄まじいなという感じがしました。
さて、内容に触れすぎない程度に、具体的に内容に触れようかしらん。
まずは、男に特有の『所有』の話。これは凄く納得させられた。男は、テレビの向こうの出来事やただの言葉でさえ『所有』することが出来る。自分の所有物であるとみなす範囲が非常に広く、それを前提にした言動が、女性にとっては『好意』に感じられる、という話は、凄く面白い。僕自身は、そういう所有欲が強くない方だと思うんだけど、でも本書を読む限り、女性にはそういう感覚はまったくないみたいだから、まったくない女性から見たら、僕もまたその所有欲をたくさん持っているように映るのだろう。本書では、男女間の誤解の本質がどこにあるのかということが、色んな議論の中から浮き彫りにされていくのだけど、この男特有の感覚である『所有』というのも、一つ大きな誤解の要因だろうなという気がする。
また、4コマ漫画と長編劇画の話も秀逸だと思う。男にとって恋愛は4コマ漫画で、女性にとっては長編劇画。そしてその差が歴然と現れるのが、別れの時。女性は男性に、4コマ漫画を長編劇画に変換せよと無意識のうちに命じ、男もそれを理解するから怖気づく、という話。この4コマ漫画と長編劇画の対比は、面白かったなぁ。女性が長編劇画ってのはわかってたけど、男が4コマ漫画ってのは慧眼だなと思う。
そして、僕が何より一番「うわぁー!」って思ったのが、この部分。
角田『男性の多くは、許容ラインが変動しないにもかかわらず、したふりをしていることに無自覚である』
これは、共感できたわけではない。逆だ。僕はこの真逆で、だからしんどくなる。自分の中で、許容ラインはやっぱり変動しない。しないのだけど、したふりをしていることにはメチャクチャ自覚的で、それに自分の自意識が耐えられないのだよなぁ。そこに、僕の葛藤のほぼすべてがある、と言って良い。これはもう、昔からそうだし、別に恋愛に限らないから、もうどうにもしようがないんだけどね。この部分を読んだ時、やっぱり世の中の男は羨ましいぜ、と思ったよ。前に友人と飲んでる時、「いいなぁ。俺もそんな風になれたら楽なんだけど」と何度も言ったことがあるんだけど、そういう感覚だ。したふりをしていることに無自覚でいられたら、いいなぁ。
他にもまあ色々書きたいことがあるんだけど、なんてーかそのためには自分の色んなことをズブズブとさらけ出す感じになって嫌だなぁ、って気もするから(まあ、普段ブログで色んなことウダウダ書いてるがな、と言われたらそれまでなんだけど)、あんまり書き過ぎないようにしよう。後は、もの凄く共感できた文章をいくつか抜き出して終わろう。
角田『女性はものごとが変化変容することを本気でおそれている。嘘でもいいから「変化しない」と言ってほしいのだ。
それを言わない男性というのは、変化ではなく固定をおそれているのではないだろうか。』
穂村『私は女性の「当たり前」がおそろしい。』
角田『でも、優位を競うバトルが、ひそやかに行われているのである。優位というのはどっちがボスでどっちが小僧、という序列ではない。私の「関係性」が勝つか相手の「関係性」が勝つか、である。』
穂村『「好きな人」しか目に入らないことの度合いが、男とは比較にならないほど大きいのは何故だろう。』
穂村『例えば、そうすべき瞬間に、確信をもって嘘をつける女、他人を殴れる女、法律を敗れる女、に私は憧れる。そうすべき場面においても、おろおろと躊躇って何もできないだろう自分に引け目を感じているからだ。』
本書は、確かに恋愛がベースになっているのだけれども、結果的に表出される本質は、決して恋愛だけに限らない、普遍的な男女論になっていると思う。これは、恋愛ばかりではなく、仕事や家族や、他のありとあらゆる『異性』と関わる事柄に、何らかの参考になるのではないかと思う。目から鱗が落ちる部分も、人によって箇所は全然違うだろうけど、本書の中にたくさん出てくるだろうと思う。是非読んでみてください。
角田光代+穂村弘「異性」
ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」(高瀬毅)
内容に入ろうと思います。
長崎には、原爆の歴史を色濃く残すような遺構が存在しない。
原爆投下から10年後、爆心地近くで生まれた著者は、母から繰り返し被爆体験を聞いたが、浦上天主堂についてはまったく知らなかった。
著者が本書を書くきっかけになったのは、NBC長崎放送に勤める著者の友人が貸してくれた一本のドキュメンタリー。それは、原爆によって半壊し悲惨な姿のまま廃墟となったキリスト教の教会であった浦上天主堂が、戦後なぜ取り壊されたのか、という内容であった。浦上天主堂については、大分以前に耳にしたことがあった著者ではあるが、具体的なことはまるで知らなかった。それをきっかけに、廃墟となった浦上天主堂の写真を見る機会があった著者は、まるで天啓を受けたかのようにこの取材をしなければという思いに駆られた。
長崎に住むものでも、浦上天主堂について知っている人は多くはないという。何故広島の原爆ドームのように保存されなかったのか。
そこには、江戸幕府によってキリスト教が弾圧された際、隠れキリシタンにとっての聖地であった浦上という特殊な土地柄と、アメリカの遠大な世界戦略の存在があった。
この話には、3人の重要な人物が登場する。
一人は、当時長崎大司教区のトップである大司教であった山口大司教。
長崎の浦上に原爆が投下されたことは、本当に様々な些細な要因が積み重なった上の、偶発的な出来事であった。アメリカとしても、キリスト教の真上に原爆を落とすつもりではなかっただろう。
この浦上天主堂のあった場所というのは、キリスト教徒、特に隠れキリシタンにとっては非常に因縁のある土地だった。江戸時代キリスト教徒を弾圧した庄屋の所有していた土地だったのだ。その場所に、教会を立てる。それは彼ら隠れキリシタンにとってはとてつもなく重大で意味のあることであった。長崎大司教区のトップであった山口大司教は、最終的に浦上天主堂の廃墟をどうするか、つまり浦上天主堂を同じ場所に建てるかどうかの権限を持っていたものと思われる。浦上出身であった山口にとっては、同じ場所に建てなおすことへの強いこだわりがあったと推察される。その一方で、アメリカからの何らかの関わりがあっただろうと推察出来る事柄も存在した。
二人目は、永井隆。「浦上の聖者」と呼ばれ、天皇やヘレン・ケラーやローマ教皇までも永井の元を訪れたという、まさに時の人である。
永井は、長崎医科大学物理的療法科部長であり、医学博士でもあった。そんな永井を一躍有名にしたのが「長崎の鐘」という著作だ。この本が当時のベストセラーとなり、長崎の被曝について詳細に書かれた記録として大きな反響を呼んだのだった。
しかし、この「長崎の鐘」の出版にも、アメリカの意向がちらついている。占領当時、出版物はすべてGHQの検閲を受けた。「長崎の鐘」に対する占領軍の評価は二分だったようで、結果的にある条件付きならという形で出版が許された。
三人目は、当時の長崎市長であった田川市長。苦労して弁護士となり、その清廉潔白な仕事ぶりが評価されて市長になった田川は、原爆投下直後から、浦上天主堂保存の意向を打ち出していた。しかし、長崎市がアメリカのセントポール市と姉妹都市になることが決まり(この姉妹都市という形態は、長崎市とセントポール市が世界初)、その記念式典に参加するため田川市長はアメリカを一ヶ月ほど外遊することになった。そして帰国後、それまでと態度を一変させた田川市長によって、最終的に浦上天主堂が保存されないことが決まったのだった。
この三人の描写を軸に、長崎がいかにキリスト教と関わり深い土地であるかという歴史、何故浦上に原爆が落とされることになったのかという経緯、そしてアメリカの国立公文書館を始めとした取材を折り込みながら、浦上天主堂という、残されていれば間違いなく世界遺産に認定されていただろう、原爆の爪痕を色濃く残す遺構を何故取り壊してしまったのかを、アメリカとの関わりを含めて描き出すノンフィクション。
凄い話でした。僕はもちろん、浦上天主堂の話は知らなかったし、そもそも長崎に原爆ドームのような原爆の爪痕を残す遺構が何も存在しない、ということさえ知りませんでした。著者はあとがきで、自分が大人になるまで浦上天主堂の話をしてくれる大人は一人もいなかった、と書いている。知っている人もきっといるのだろう。でも、被曝都市長崎として、市民全員が共有しているというようなものではないのだ。まずそういう事実に驚かされた。
本書で重要となる三人の人物に関しての描写にも、かなり驚かされる。三人はそれぞれ、別々の場、別々の表現ではあるけれども、大体同じようなことを言っている。それは、「長崎に原爆が落とされたのは神の啓示だ」というようなことである。
これには、結構驚いた。原爆投下から何十年と経過しているなら、まだ理解できなくもない。しかし三人とも被爆者であり、身内を原爆によって失っている。まだ原爆の記憶が生々しく残っている段階で、長崎に原爆が落とされたことを「神の啓示」と表現できるのは、いかに長崎がキリスト教の土地であるからと言って、納得できるものではない。作中では、田川市長がアメリカ外遊中に新聞等に言ったとされるコメントとして様々な引用がなされるのだけど、えっ?と耳を疑うようなものが多い。被曝していない、広島・長崎以外の人がする発言であれば、理解不足からそういうコメントを発してしまったのだろうと納得も出来るけれども、言っているのは被曝都市長崎の市長である。田川市長の心変わりの背景に何があったのか、それはわからないけれども、何があってもそれは心変わりしてはいけないのではないか、という気がしてしまった。
そういう意味で、田川市長と永井隆については、何故被爆者という立場でそんな発言が出来るのか、非常に不思議な部分もあったのだけど、山口大司教については、その発言内容はともかく、浦上天主堂を同じ場所に再建したいという気持ちは分からなくはない。激烈な弾圧があった浦上において、その先鞭となった庄屋があった土地に教会を建てる。それは、隠れキリシタンにとっては非常に大きな意味のある事柄であった。もちろん、浦上天主堂の残骸をモニュメントとして残しながら再建するという選択肢だってあったはずで、山口大司教に完全に賛同できるわけでは決してないのだけど、キリスト教の歴史とともにある浦上という特殊な土地にあって、キリスト教について理解があるわけではない僕には、それについて強く何かを語ることは出来ないなという感じはしました。
本書では、本当に様々な観点から、浦上天主堂が取り壊された経緯について追っているのだけど、まさか姉妹都市の話が関わってくるとは思わなかった。詳しいことは書かないけど、姉妹都市を含むアメリカの様々な戦略について知った今、アメリカの凄さを改めて思い知ったような気がする。長崎市とセントポール市との提携から始まり、世界中で広がった姉妹都市というシステムについて、その背景を深く考えたことのある日本人は多くはないだろう著者もそうだったと書いている。フルブライト留学など、僕たちにとっては害のない、あるいは有益でさえある様々な事柄が、実はアメリカの世界戦略に非常に重要な位置づけがなされていると知って、そりゃあアメリカの土俵で戦ったらアメリカが一番強いわ、なんてことを考えてしまいました。
原爆について取り沙汰される時、いつも広島ばかりが注目される。長崎は「劣等被曝都市」である。そんな表現もされる長崎。広島の「怒り」とは違い、「祈り」によって核廃絶を訴えていると評される長崎。その背景には、キリスト教が根付いた土地柄だったということも大きな影響を与えているのだが、一方で、アメリカの間接的な介入によって浦上天主堂が保存されなかったということも大きいだろう。僕は広島にも行ったことはないので、原爆ドームを見たことはないのだけど、それを目にすれば、恐らく広島を襲った脅威のほんの僅かでも想像できるだろうと思う。しかし、長崎にはそれを感じさせてくれるものはない。その違いは、アメリカが予想した通り、やはり大きなものだったのだろう。
僕たちは、この浦上天主堂にまつわる歴史を知ることで、長崎というキリスト教の歴史を内包する特殊な土地について、そしてアメリカという国の遠大さを知るべきだろうと思う。原爆投下という、日本の歴史においても非常に重大な出来事について、たった50年で忘れ去られてしまう歴史がある、という事実に、もっと驚愕すべきだと思う。僕は「歴史」というものが好きではないのだけど、それはこういう怖さがあるからだ。伝わるべきことがちゃんと伝わらず、改ざん・隠匿された歴史が色濃く残っているだけなのではないか、と。現代史でも、このありさまである。
長崎に住む人であっても知っている人は多くないだろうというこの出来事。このままでは、早晩埋もれてしまう歴史だろう。本書を読むかどうかは、あなたに任せる。けど、こういう事実があったという記憶だけは、ずっと持ち続け、そして下の世代にも伝えていって欲しいと思う。きっと世の中には、本書で描かれているような「もっと伝わっていくべき歴史的事実」というのが、山ほどあるのではないかという気がした。是非読んでみてください。
高瀬毅「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」
長崎には、原爆の歴史を色濃く残すような遺構が存在しない。
原爆投下から10年後、爆心地近くで生まれた著者は、母から繰り返し被爆体験を聞いたが、浦上天主堂についてはまったく知らなかった。
著者が本書を書くきっかけになったのは、NBC長崎放送に勤める著者の友人が貸してくれた一本のドキュメンタリー。それは、原爆によって半壊し悲惨な姿のまま廃墟となったキリスト教の教会であった浦上天主堂が、戦後なぜ取り壊されたのか、という内容であった。浦上天主堂については、大分以前に耳にしたことがあった著者ではあるが、具体的なことはまるで知らなかった。それをきっかけに、廃墟となった浦上天主堂の写真を見る機会があった著者は、まるで天啓を受けたかのようにこの取材をしなければという思いに駆られた。
長崎に住むものでも、浦上天主堂について知っている人は多くはないという。何故広島の原爆ドームのように保存されなかったのか。
そこには、江戸幕府によってキリスト教が弾圧された際、隠れキリシタンにとっての聖地であった浦上という特殊な土地柄と、アメリカの遠大な世界戦略の存在があった。
この話には、3人の重要な人物が登場する。
一人は、当時長崎大司教区のトップである大司教であった山口大司教。
長崎の浦上に原爆が投下されたことは、本当に様々な些細な要因が積み重なった上の、偶発的な出来事であった。アメリカとしても、キリスト教の真上に原爆を落とすつもりではなかっただろう。
この浦上天主堂のあった場所というのは、キリスト教徒、特に隠れキリシタンにとっては非常に因縁のある土地だった。江戸時代キリスト教徒を弾圧した庄屋の所有していた土地だったのだ。その場所に、教会を立てる。それは彼ら隠れキリシタンにとってはとてつもなく重大で意味のあることであった。長崎大司教区のトップであった山口大司教は、最終的に浦上天主堂の廃墟をどうするか、つまり浦上天主堂を同じ場所に建てるかどうかの権限を持っていたものと思われる。浦上出身であった山口にとっては、同じ場所に建てなおすことへの強いこだわりがあったと推察される。その一方で、アメリカからの何らかの関わりがあっただろうと推察出来る事柄も存在した。
二人目は、永井隆。「浦上の聖者」と呼ばれ、天皇やヘレン・ケラーやローマ教皇までも永井の元を訪れたという、まさに時の人である。
永井は、長崎医科大学物理的療法科部長であり、医学博士でもあった。そんな永井を一躍有名にしたのが「長崎の鐘」という著作だ。この本が当時のベストセラーとなり、長崎の被曝について詳細に書かれた記録として大きな反響を呼んだのだった。
しかし、この「長崎の鐘」の出版にも、アメリカの意向がちらついている。占領当時、出版物はすべてGHQの検閲を受けた。「長崎の鐘」に対する占領軍の評価は二分だったようで、結果的にある条件付きならという形で出版が許された。
三人目は、当時の長崎市長であった田川市長。苦労して弁護士となり、その清廉潔白な仕事ぶりが評価されて市長になった田川は、原爆投下直後から、浦上天主堂保存の意向を打ち出していた。しかし、長崎市がアメリカのセントポール市と姉妹都市になることが決まり(この姉妹都市という形態は、長崎市とセントポール市が世界初)、その記念式典に参加するため田川市長はアメリカを一ヶ月ほど外遊することになった。そして帰国後、それまでと態度を一変させた田川市長によって、最終的に浦上天主堂が保存されないことが決まったのだった。
この三人の描写を軸に、長崎がいかにキリスト教と関わり深い土地であるかという歴史、何故浦上に原爆が落とされることになったのかという経緯、そしてアメリカの国立公文書館を始めとした取材を折り込みながら、浦上天主堂という、残されていれば間違いなく世界遺産に認定されていただろう、原爆の爪痕を色濃く残す遺構を何故取り壊してしまったのかを、アメリカとの関わりを含めて描き出すノンフィクション。
凄い話でした。僕はもちろん、浦上天主堂の話は知らなかったし、そもそも長崎に原爆ドームのような原爆の爪痕を残す遺構が何も存在しない、ということさえ知りませんでした。著者はあとがきで、自分が大人になるまで浦上天主堂の話をしてくれる大人は一人もいなかった、と書いている。知っている人もきっといるのだろう。でも、被曝都市長崎として、市民全員が共有しているというようなものではないのだ。まずそういう事実に驚かされた。
本書で重要となる三人の人物に関しての描写にも、かなり驚かされる。三人はそれぞれ、別々の場、別々の表現ではあるけれども、大体同じようなことを言っている。それは、「長崎に原爆が落とされたのは神の啓示だ」というようなことである。
これには、結構驚いた。原爆投下から何十年と経過しているなら、まだ理解できなくもない。しかし三人とも被爆者であり、身内を原爆によって失っている。まだ原爆の記憶が生々しく残っている段階で、長崎に原爆が落とされたことを「神の啓示」と表現できるのは、いかに長崎がキリスト教の土地であるからと言って、納得できるものではない。作中では、田川市長がアメリカ外遊中に新聞等に言ったとされるコメントとして様々な引用がなされるのだけど、えっ?と耳を疑うようなものが多い。被曝していない、広島・長崎以外の人がする発言であれば、理解不足からそういうコメントを発してしまったのだろうと納得も出来るけれども、言っているのは被曝都市長崎の市長である。田川市長の心変わりの背景に何があったのか、それはわからないけれども、何があってもそれは心変わりしてはいけないのではないか、という気がしてしまった。
そういう意味で、田川市長と永井隆については、何故被爆者という立場でそんな発言が出来るのか、非常に不思議な部分もあったのだけど、山口大司教については、その発言内容はともかく、浦上天主堂を同じ場所に再建したいという気持ちは分からなくはない。激烈な弾圧があった浦上において、その先鞭となった庄屋があった土地に教会を建てる。それは、隠れキリシタンにとっては非常に大きな意味のある事柄であった。もちろん、浦上天主堂の残骸をモニュメントとして残しながら再建するという選択肢だってあったはずで、山口大司教に完全に賛同できるわけでは決してないのだけど、キリスト教の歴史とともにある浦上という特殊な土地にあって、キリスト教について理解があるわけではない僕には、それについて強く何かを語ることは出来ないなという感じはしました。
本書では、本当に様々な観点から、浦上天主堂が取り壊された経緯について追っているのだけど、まさか姉妹都市の話が関わってくるとは思わなかった。詳しいことは書かないけど、姉妹都市を含むアメリカの様々な戦略について知った今、アメリカの凄さを改めて思い知ったような気がする。長崎市とセントポール市との提携から始まり、世界中で広がった姉妹都市というシステムについて、その背景を深く考えたことのある日本人は多くはないだろう著者もそうだったと書いている。フルブライト留学など、僕たちにとっては害のない、あるいは有益でさえある様々な事柄が、実はアメリカの世界戦略に非常に重要な位置づけがなされていると知って、そりゃあアメリカの土俵で戦ったらアメリカが一番強いわ、なんてことを考えてしまいました。
原爆について取り沙汰される時、いつも広島ばかりが注目される。長崎は「劣等被曝都市」である。そんな表現もされる長崎。広島の「怒り」とは違い、「祈り」によって核廃絶を訴えていると評される長崎。その背景には、キリスト教が根付いた土地柄だったということも大きな影響を与えているのだが、一方で、アメリカの間接的な介入によって浦上天主堂が保存されなかったということも大きいだろう。僕は広島にも行ったことはないので、原爆ドームを見たことはないのだけど、それを目にすれば、恐らく広島を襲った脅威のほんの僅かでも想像できるだろうと思う。しかし、長崎にはそれを感じさせてくれるものはない。その違いは、アメリカが予想した通り、やはり大きなものだったのだろう。
僕たちは、この浦上天主堂にまつわる歴史を知ることで、長崎というキリスト教の歴史を内包する特殊な土地について、そしてアメリカという国の遠大さを知るべきだろうと思う。原爆投下という、日本の歴史においても非常に重大な出来事について、たった50年で忘れ去られてしまう歴史がある、という事実に、もっと驚愕すべきだと思う。僕は「歴史」というものが好きではないのだけど、それはこういう怖さがあるからだ。伝わるべきことがちゃんと伝わらず、改ざん・隠匿された歴史が色濃く残っているだけなのではないか、と。現代史でも、このありさまである。
長崎に住む人であっても知っている人は多くないだろうというこの出来事。このままでは、早晩埋もれてしまう歴史だろう。本書を読むかどうかは、あなたに任せる。けど、こういう事実があったという記憶だけは、ずっと持ち続け、そして下の世代にも伝えていって欲しいと思う。きっと世の中には、本書で描かれているような「もっと伝わっていくべき歴史的事実」というのが、山ほどあるのではないかという気がした。是非読んでみてください。
高瀬毅「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」
山椒魚戦争(カレル・チャペック)
内容に入ろうと思います。
物語は、赤道直下にあるタナ・マサ島に、ヴァン・トフ船長がたどり着いたところから始まる。新たなる真珠の採取地を探しているヴァン・トフ船長がたどり着いたその島は、白人が一人と現地人が住んでいる島だったが、その島の周辺には『悪魔』がいると住民たちが言っていた。ヴァン・トフ船長は、そのわけのわからない話を確かめるべく、「魔の入江」と呼ばれる海域に船を寄せ、真珠採りに潜らせてみると、果たして彼らは水中で何かを目撃し、気絶した。
結果的にそこにいたのは、二本足で立ち、子どものような手を持つ、真っ黒な山椒魚であった。
ヴァン・トフ船長は、彼らが効率良く真珠を見つけ出し人間に差し出す修正に着目し、とある実業家に話を持ちかけて真珠採取の事業に乗り出すことにした。それはある程度成功を治めるが、採取しすぎて真珠の価値が下落していくと共に、繁殖させかなりの勢いで増殖している山椒魚の新たなる使い道を考えなくてはいけない状況になった。
一方、彼ら山椒魚は、人間の言葉を話すことが出来た。見聞きした会話や文字に限られるものの、彼らは学習し、道具の使い方なども学ぶことが出来た。人間に代わる新たなる安価な労働力として爆発的な需要を生み出すことになる山椒魚は、その数をどんどんと増やしていった。
ポヴォンドラというある門番が収集し続けたという山椒魚に関する様々な記事をベースに、山椒魚の生態や彼らが引き起こした数々の騒動、彼らを取り巻くビジネスの様子などが詳細に描かれつつ、人類と山椒魚の困難な共生を描くことになる作品。
なかなか面白い作品でした。古典作品で、しかも外国人作家の作品という、僕の苦手とする要素満載の作品なのだけど、凄く読みやすい作品で、最後まで楽しく読めました。
本書は、文章というか訳というか、そういう点では凄く読みやすいんだけど、構成という観点から見るとなかなか複雑だったりします。
初めの内はいいんです。ヴァン・トフ船長を初め、色んな人間が山椒魚を関わっていく過程を描いているので、ストーリーとして読みやすい。
ただこれが、途中から、ポヴォンドラという門番が収集していた様々な記事を元に、その当時の山椒魚に関する様々な情報を描く箇所になると、複雑になっていく。
まず、山椒魚に関するある情報が語られる。そしてその文章中に注釈が存在し、その注釈の方に、ポヴォンドラが収集した記事と共に、著者(カレル・チャペック)による注釈がなされる。つまり、ここまでは小説の内部である。さて一方で、本文中には訳注も存在する。これは、翻訳者がつけている注釈であり、巻末に載っている。つまり、著者による注釈と訳者による注釈が入り混じるという、なんとも変な構成になっていくのである。
ちょっとページを行ったり来たりしないといけなくて、その辺の複雑さはあるんだけど、でも文章がスイスイ読めるんで、そこまで苦にはならない。著者による、架空の存在である特殊な山椒魚についての、でっちあげ以外の何者でもない注釈の細かさみたいなものは結構凄くて感心させられるけど、訳注も負けてはいない。ある一つの訳注だけで数ページ使うようなものもあり、普段外国人作家の小説を読んでいても注釈ってそこまで真剣に読まない僕も、本書ではかなり注釈を読みました。
本書では、特殊な山椒魚という存在を描き出すことで、実際の人間の社会を比喩的に皮肉っているのだろうなぁ、と思わせる描写が凄く多くて面白い。労働と資本主義であるとか、黒人への奴隷制度であるとか、あるいは戦争であるとか、そう言ったものについて批判や皮肉なんかを描いているように読める部分が結構あります。著者がどんあ意図で書いている部分なのかは分からないけど、まえがきで「ユートピアを書いた小説ではない」と書いているので(本書はユートピア小説だと評されることが多かったのだそうです)、なんか色んな意味が込められているような感じはします。
本当は、僕がもっと深く読むことが出来れば、著者がどんなものに対して皮肉めいた描写をしているのかなんてのを、著者が生きていた当時の状況やなんかを考慮して書けたりするのかもだけど、僕にはまあそういうのは無理だなぁ。
本書では、ポヴォンドラ氏が収集した記事などを元にした部分の、山椒魚に関する細か過ぎる設定や描写がなかなか面白い。山椒魚がどんな風に子供を作るのかという考察から始まる雄雌論みたいなのは、よく考えられてるなぁって思うし、山椒魚が労働の現場にどんどん入り込んでいくことでどんな軋轢が生じて行ったのかなんて話も面白いと思った。それらが、さも現実に起こった出来事であるかのように、架空の記事と共に描かれているんで、よくこんなこと考えたよなぁ、という気になります。
きっと色々と、教訓や皮肉に満ちている作品なんだろうと思うんだけど、僕にはそういう高尚な部分はよくわかりません。ただ、特殊な山椒魚という実在しない生物について、これほどまでに詳細な設定と共に、彼らが注目されてからどん詰まりにたどり着くまでを描き切った作品で、凄く面白いと思いました。是非読んでください。僕の方にあまりにも時間がなさすぎて、ちょっと適当過ぎる感想になってしまったのは残念至極。
カレル・チャペック「山椒魚戦争」
物語は、赤道直下にあるタナ・マサ島に、ヴァン・トフ船長がたどり着いたところから始まる。新たなる真珠の採取地を探しているヴァン・トフ船長がたどり着いたその島は、白人が一人と現地人が住んでいる島だったが、その島の周辺には『悪魔』がいると住民たちが言っていた。ヴァン・トフ船長は、そのわけのわからない話を確かめるべく、「魔の入江」と呼ばれる海域に船を寄せ、真珠採りに潜らせてみると、果たして彼らは水中で何かを目撃し、気絶した。
結果的にそこにいたのは、二本足で立ち、子どものような手を持つ、真っ黒な山椒魚であった。
ヴァン・トフ船長は、彼らが効率良く真珠を見つけ出し人間に差し出す修正に着目し、とある実業家に話を持ちかけて真珠採取の事業に乗り出すことにした。それはある程度成功を治めるが、採取しすぎて真珠の価値が下落していくと共に、繁殖させかなりの勢いで増殖している山椒魚の新たなる使い道を考えなくてはいけない状況になった。
一方、彼ら山椒魚は、人間の言葉を話すことが出来た。見聞きした会話や文字に限られるものの、彼らは学習し、道具の使い方なども学ぶことが出来た。人間に代わる新たなる安価な労働力として爆発的な需要を生み出すことになる山椒魚は、その数をどんどんと増やしていった。
ポヴォンドラというある門番が収集し続けたという山椒魚に関する様々な記事をベースに、山椒魚の生態や彼らが引き起こした数々の騒動、彼らを取り巻くビジネスの様子などが詳細に描かれつつ、人類と山椒魚の困難な共生を描くことになる作品。
なかなか面白い作品でした。古典作品で、しかも外国人作家の作品という、僕の苦手とする要素満載の作品なのだけど、凄く読みやすい作品で、最後まで楽しく読めました。
本書は、文章というか訳というか、そういう点では凄く読みやすいんだけど、構成という観点から見るとなかなか複雑だったりします。
初めの内はいいんです。ヴァン・トフ船長を初め、色んな人間が山椒魚を関わっていく過程を描いているので、ストーリーとして読みやすい。
ただこれが、途中から、ポヴォンドラという門番が収集していた様々な記事を元に、その当時の山椒魚に関する様々な情報を描く箇所になると、複雑になっていく。
まず、山椒魚に関するある情報が語られる。そしてその文章中に注釈が存在し、その注釈の方に、ポヴォンドラが収集した記事と共に、著者(カレル・チャペック)による注釈がなされる。つまり、ここまでは小説の内部である。さて一方で、本文中には訳注も存在する。これは、翻訳者がつけている注釈であり、巻末に載っている。つまり、著者による注釈と訳者による注釈が入り混じるという、なんとも変な構成になっていくのである。
ちょっとページを行ったり来たりしないといけなくて、その辺の複雑さはあるんだけど、でも文章がスイスイ読めるんで、そこまで苦にはならない。著者による、架空の存在である特殊な山椒魚についての、でっちあげ以外の何者でもない注釈の細かさみたいなものは結構凄くて感心させられるけど、訳注も負けてはいない。ある一つの訳注だけで数ページ使うようなものもあり、普段外国人作家の小説を読んでいても注釈ってそこまで真剣に読まない僕も、本書ではかなり注釈を読みました。
本書では、特殊な山椒魚という存在を描き出すことで、実際の人間の社会を比喩的に皮肉っているのだろうなぁ、と思わせる描写が凄く多くて面白い。労働と資本主義であるとか、黒人への奴隷制度であるとか、あるいは戦争であるとか、そう言ったものについて批判や皮肉なんかを描いているように読める部分が結構あります。著者がどんあ意図で書いている部分なのかは分からないけど、まえがきで「ユートピアを書いた小説ではない」と書いているので(本書はユートピア小説だと評されることが多かったのだそうです)、なんか色んな意味が込められているような感じはします。
本当は、僕がもっと深く読むことが出来れば、著者がどんなものに対して皮肉めいた描写をしているのかなんてのを、著者が生きていた当時の状況やなんかを考慮して書けたりするのかもだけど、僕にはまあそういうのは無理だなぁ。
本書では、ポヴォンドラ氏が収集した記事などを元にした部分の、山椒魚に関する細か過ぎる設定や描写がなかなか面白い。山椒魚がどんな風に子供を作るのかという考察から始まる雄雌論みたいなのは、よく考えられてるなぁって思うし、山椒魚が労働の現場にどんどん入り込んでいくことでどんな軋轢が生じて行ったのかなんて話も面白いと思った。それらが、さも現実に起こった出来事であるかのように、架空の記事と共に描かれているんで、よくこんなこと考えたよなぁ、という気になります。
きっと色々と、教訓や皮肉に満ちている作品なんだろうと思うんだけど、僕にはそういう高尚な部分はよくわかりません。ただ、特殊な山椒魚という実在しない生物について、これほどまでに詳細な設定と共に、彼らが注目されてからどん詰まりにたどり着くまでを描き切った作品で、凄く面白いと思いました。是非読んでください。僕の方にあまりにも時間がなさすぎて、ちょっと適当過ぎる感想になってしまったのは残念至極。
カレル・チャペック「山椒魚戦争」
情報の呼吸法(津田大介)
内容に入ろうと思います。
本書は、ジャーナリスト(という表現はあんまり好きじゃないみたいなことが書いてあって、後でも触れるつもりだけど、情報によって行動を起こさせる、という意味でメディア・アクティビストと最近は名乗っているよう)であり、特にツイッターでの活躍が注目される著者による、ソーシャルメディア時代における「情報の呼吸法」について書かれた作品です。
本書のテーマを著者はこんな風に書いています。
『本書のテーマを一言で表現すれば、デジタルやネットワーク技術が発達し、かつてないほど大量の情報に溢れかえっているこの日本において「情報」を活かして何か物事を実現するには、情報のインプット(入力)とアウトプット(出力)のバランスを取ることが重要だ、ということになります』
ツイッターなどのソーシャルメディアに関する本ってたくさん出てて、僕は基本的に全然そういう本を読んでないから、あくまで印象での話なんだけど、他の作品とは違う本書の特徴というのは二つあるように思います。
一つは、本書は「空気(情報)を吸うための呼吸法のテクニック」についての話ではない、ということ。もちろんそういうテクニック的な話も出てくるんだけど、それは、津田大介自身が自分はこんな風にツイッターを使っていますよ、と書く場面がほとんど。本書はそういう呼吸の仕方の本ではなくて、『肺に入った空気(情報)って、肺の中でどんな風になるの?』というようなことについて書かれているように僕には思えました。
ツイッターという道具をどう使うか、というのは、もちろん肺に入ってくる空気(情報)の質に変わってくるからとても大事なんだけど、でも本書はそこよりも、そうやって肺に入ってきた空気(情報)は肺の中でこんな風に変化しますよ、シャッフルされますよ、熟成されますよ、というようなことがメインで描かれているように思う。
そしてもう一つは、一つ目とも関わる話なんだけど、肺に入った空気(情報)がどんな風にして肺から出ていくのか(あるいは意識的に出すのか)について書かれているという点だと思います。つまり、取り込んだ酸素(情報)が、肺の中でどんな風に処理され、それが二酸化炭素(行動)としてまた出ていく、その全体の流れにこそソーシャルメディア時代における情報の関わり方の重要なポイントがある。本書はその二点を主眼として、情報との関わり方が一変してしまった現代における「呼吸法」を、著者自身の経験を踏まえて書かれている作品だなと思いました。
さて、僕はちょっと前に、津田大介「動員の革命」という本を読んだ。その際に、佐藤尚之「明日のコミュニケーション」と比較して、「明日の~」はソーシャルメディア初心者向けだけど、「動員の革命」は『ソーシャルメディアの肌感覚がある程度分かっている人』向けだ、というようなことを書いた。
今回は、「動員の革命」と本書を比較してみようと思う。
さっき書いたように、「動員の革命」は、ある程度ソーシャルメディアを使いこなし、前提となる空気感(本書でで言うならば呼吸法)がなんとなく分かっていて、その状態からさらにどんな方向性が存在するのかを知りたいというような人向けだという風に僕は感じました。ソーシャルメディアというものの特性をさらに掘り下げ、現在広まっているソーシャルメディアの使われ方の半歩あるいは一歩先の世界を読者に幻視させるような、そういう内容だったように思いました。
本書は逆で、これからソーシャルメディアと関わっていきたい人、あるいはソーシャルメディアを使っているんだけどどうにもその面白さがわからない人、結構使っては見てるんだけど何も起こらないなぁと思っている人、逆に情報が増えすぎてパンクしそうになっている人。そういう、まだうまいことソーシャルメディアという自転車を乗りこなせていない人に、補助輪を提供してくれるような、そんな作品だと思いました。
僕は本当にさっきも書いたようにソーシャルメディア絡みの本ってほとんど読んでないから他と比較対象とかって出来ないんだけど、ソーシャルメディア初心者だという自覚がある人は、まず本書を読んで色々実践してみて、そしてその後「動員の革命」を読んでソーシャルメディアの可能性の広さを実感してみる、というような読み方をしてみるといいかもしれません。
僕は、あくまで自分の中ではですけど、それなりにソーシャルメディア(ツイッターだけだけど)の肌感覚みたいなものは分かっているつもりです。だからこそ、本書を読んで、自分自身の中で「なるほど!」と思える場面は少なかった。けど、凄いなと思ったのは、津田大介は僕が感覚的にしか理解できていないことをきちんと言語化しているということ。本書は確かに、ソーシャルメディア初心者向けだと思うのだけど、そうではない人向けにも価値があるのは、まさにこの点だと思う。
人から、ツイッターって何が面白いの?と聞かれた時の返答って、ものすごく難しい。
僕自身、ツイッターを始めるまでは、ツイッターなんて何がオモロイんやろ、って思ってた。機能的にどんなものなのかっていう想像は出来たけど、だからなんなんだ、それの何が魅力なんだ、というのは全然分からなかった。やり始めてからしばらくも分からなくて、初めて二ヶ月目にして既に飽き始めていた頃に、僕自身にとってはとんでもなく大きな転機がやってきて、それで今に至る。今は、ツイッターは自分ともの凄く相性がいいと思っているし、やっててよかったなぁと思うんだけど、でもそれを人に伝えるのって凄く難しい。感覚的にしか理解できていないことを、ツイッターをそもそもやっていない人、あるいはやっててもそこまでその魅力に気づけていない人に、言葉で説明するのって本当に難しいと思う。
本書は、多くの人が『肌感覚』としては理解しているけれども言語化したことはないツイッター(がメインだけど、ソーシャルメディア全般)の魅力を文章できちんと説明してくれる。書かれている内容そのものは、自分が肌感覚として持っているものだからそれ自体に対する感動はそこまでないけど、でもそれがきちんと言語化され伝わりやすい形にまとまっているという点が素敵だと思う。
本書の表紙には、
『発信しなければ、得るものはない。』
と書かれている。本書では、ソーシャルメディア時代において一変してしまった『情報』というものについて、どう触れるか、どう関わるか、そしてそれを受けてどう行動するか、というようなことが書かれるのだけど、この『発信しなければ、得るものはない。』というのが、僕個人としてもソーシャルメディアにおける一番重要な点だなと感じています。
本書には、こんな文章もある。
『何よりも、自分がメディアでありたい。そして自分のメディアで自分が伝えたいように伝えたい。』
これは、東日本大震災直後、著者が24時間ツイッターに張り付いて情報拡散をした時のことを回想して書かれている場面のことだけど、この『自分がメディアでありたい』というのは、僕もツイッター初めてからずっと持ち続けてきた感覚でした。これまで色んなツールがあっただろうけど、ツイッターほど『個人による発信』に向いているツールって無いような気がします。
僕はずっと、ツイッターをラジオのように使えればいい、と思ってきました。僕のイメージでは、多くの人がツイッターをコミュニケーションツールとして使っていて、もちろんそれにも強力だしどんどんコミュニケーションした方がいいけど、それよりも僕は、『発信』できることの強さをずっと前から感じています。ラジオのように、というのは、自分がなんらかの情報を発信し、それをフォロワーの人が受け取る。そしてお互いのやり取りは、リクエスト葉書とそれの読み上げというような小さな形になる。僕にとってはそういう使い方が凄く合っていて、フェイスブックとか他のソーシャルメディアは全然手を出してないからこれもイメージだけど、フェイスブックなんかは、元々知り合いの人がさらに深まっていく、というような、イメージとしてはテレビ電話みたいな感じがする。そうじゃなくて、使い方はそれぞれ自由なんだけど、でもラジオ的にも使えるツイッターが、僕にとっては凄く相性がいいなぁ、という感じがしています。
『昔は「情報選び」とは「媒体選び」でした。朝日新聞を取るのか読売新聞を取るのか。どの雑誌を買い、どのチャンネルを見るのか。しかしソーシャルメディアの時代になって、それは「人選び」に大きく変わりました。人をどう選ぶのかによって入手できる情報に大きな違いが出るようになりました。』
こういう話も、ラジオ的ですよね。マスに向かって放送されるテレビと違って、ラジオって基本的に、狭くてもいいからこの話を聞きたい人が集まってくれば、というようなメディアだと思います。ツイッターでフォローする人を選ぶのはラジオのチャンネルを合わせるみたいだし、僕自身は、僕の発信している情報を聞きたいと思ってくれて僕にチャンネルを合わせてくれる人が少しでもいてくれたらいいなぁ、なんていつも思っています。以前、小林弘人「新世紀メディア論」を読んだ時に、「だれでもメディア」ってフレーズが出てきて印象に残ってるんだけど、その本が書かれた当時よりもさらに状況が変化していて加速しているなという感じがしました。
ツイッターの面白さには、誤配力がある、と著者は書きます。
『しかしネットが検索の世界になってからというもの、自分の好きなものだけを摂取するような行動パターンが普及して、誤配の度合いは縮減されました。
個人的には、そのツイッターの「誤配力」に情報格差を埋めるためのヒントがあるような気がしています。』
「誤配力」は、情報選びが「媒体」ではなく「人」を選ぶようになることで起こる。興味の近い人がいても、完全に重なるわけではない。その人が発信する情報には、今の自分には関心がない情報も混じってくる(誤配)。そしてそれが、情報の幅や世界を広げることになる、という話。
これはまさにそうで、ラジオの例でまた説明すれば、自分が聞いているラジオでDJが、今日はこっちのラジオが面白いからここでも流しちゃいますねと言ってまったく別の番組を流す、みたいなものでしょうか。そうやって少しずつ誤配が重なっていくことで、それまで興味のなかった分野について関心が広がったりする。そういう効果は確かにツイッターは強力で、僕も凄く面白いと思う。
『これから求められるのは、情報と情報を結びつける、この人とあの人を結びつける、もしくは、こういう情報が眠っているから、あの人に話をつけると早くなるだろうなという有機的なつながりを見つけていく方法論だと思います。』
この部分を読んで僕は、山本弘「詩羽のいる街」という小説を思い出した。詩羽は、お金も家も持たないで生活している。ある小さな街を拠点とし、その中で人と人を結びつけることで、お金以外のリターンを得ることで生活しているのだ。例えば、あるスーパーで賞味期限が切れそうな野菜の処分に困っているオーナーがいる。エコをベースにした飲食店を立ち上げたいと思っている人がいる。小さな畑を耕して趣味で農業をしている人がいる。この人達を結びつけて、期限が切れそうな野菜を格安でエコ的な飲食店に卸し、そこでも使い切れなかった分は肥料にして農業をやっている人にあげる。そこで収穫された野菜がスーパーに並ぶ、というような循環を詩羽は生み出します。そういう貢献を続けていくことで、家もお金も持たずに生活をしている詩羽の活躍を描く連作短編集なんだけど、まさにここで津田大介が描いているのは、詩羽のやっていることとまったく同じことだなと思いました。詩羽の方がリアルの世界でそれをやっている、という点で物凄い荒業ですけど、でもソーシャルメディア上ではそれはそこまで難しいわけではない。気軽にRTするだけで、あるいはちょっと質問したりすることで、なんとなく誰かに紹介したりすることで、その連鎖が続いていくことがある。そういう力を、確かに僕は「詩羽のいる街」を読んで感じたのだけど、それとソーシャルメディアを結びつけて考えはしなかったので(僕が「詩羽のいる街」を読んで感じたのは、これからの地方での生き方として、こういう発想って凄く大事なんではないか、ということ)、本書を読んでそれが結びついて、おー!という感じになりました。
さて、僕は書店員なので、本に限らないのだけど、本書の中で本に触れられている部分があるので、それについて最後に書きましょう。
本書では、『オフラインの情報の価値が相対的に高まる』と書かれています。
『インターネットの発達によって大量の情報が無料化しました。そのことは「その人しか持っていない情報」や「本でしか読めない情報」など、「オフライン」でしか得られない情報の価値を相対的に高めています。ネットの情報は放っておいても大量に入ってきますが、むしろ重視すべきはオフラインでしかアクセスできないオリジナルな情報なのです。』
『きわめてオーソドックスなのですが、書籍も重視すべきオフラインの情報です。雑誌はなくなるけれど書籍はなくならない、というのが僕の見立てです。本の情報はひとつのテーマで圧縮されています。推敲される分、情報の密度も高い。だから本を読むとネットよりもはるかに自分の考えを発展させることができます。』
そして、「一度読んだ後の検索生を高めるというニーズ」のために、電子書籍の発展が望ましいと書いているのだけど、電子書籍がなくたってツイッターなどのメディアで十分情報の共有が出来る、という感じで続きます。
孫正義は、何十年後かには本というパッケージは完全になくなるみたいなことを言っているようだし、この本界隈の話題は様々な未来予測に溢れているけど、まあそれは、ベータとVHSの攻防が予想もつかなかったように、今どうなると判断できるものでもないんだろうという感じはします。とはいえ、こうやって「書籍はなくならない」なんて思ってくれる人がいるってのは、書店員としては嬉しいものですね。まあ、雑誌がなくなった世界で、書籍を売るだけで書店が存続できるか、という問題はあるんだけど、著者も『書籍』はなくならないけど『書店』がなくならないとは言ってないわけで、書店もどうなりますかねぇ。
ソーシャルメディアに関して初心者だという自覚がある人にとっては、情報にどう触れそれをどう行動に変換するかが分かりやすく描かれる作品であり、ある程度ソーシャルメディアにコミットしている人にとっては、肌感覚としては理解できているソーシャルメディアの様々な事柄を言語化して表現してくれるという点で読み応えのある作品だと思います。『発信しなければ、得るものはない。』という表紙のコピーは、まさにその通りだなという感じがします。是非読んでみてください。
津田大介「情報の呼吸法」
本書は、ジャーナリスト(という表現はあんまり好きじゃないみたいなことが書いてあって、後でも触れるつもりだけど、情報によって行動を起こさせる、という意味でメディア・アクティビストと最近は名乗っているよう)であり、特にツイッターでの活躍が注目される著者による、ソーシャルメディア時代における「情報の呼吸法」について書かれた作品です。
本書のテーマを著者はこんな風に書いています。
『本書のテーマを一言で表現すれば、デジタルやネットワーク技術が発達し、かつてないほど大量の情報に溢れかえっているこの日本において「情報」を活かして何か物事を実現するには、情報のインプット(入力)とアウトプット(出力)のバランスを取ることが重要だ、ということになります』
ツイッターなどのソーシャルメディアに関する本ってたくさん出てて、僕は基本的に全然そういう本を読んでないから、あくまで印象での話なんだけど、他の作品とは違う本書の特徴というのは二つあるように思います。
一つは、本書は「空気(情報)を吸うための呼吸法のテクニック」についての話ではない、ということ。もちろんそういうテクニック的な話も出てくるんだけど、それは、津田大介自身が自分はこんな風にツイッターを使っていますよ、と書く場面がほとんど。本書はそういう呼吸の仕方の本ではなくて、『肺に入った空気(情報)って、肺の中でどんな風になるの?』というようなことについて書かれているように僕には思えました。
ツイッターという道具をどう使うか、というのは、もちろん肺に入ってくる空気(情報)の質に変わってくるからとても大事なんだけど、でも本書はそこよりも、そうやって肺に入ってきた空気(情報)は肺の中でこんな風に変化しますよ、シャッフルされますよ、熟成されますよ、というようなことがメインで描かれているように思う。
そしてもう一つは、一つ目とも関わる話なんだけど、肺に入った空気(情報)がどんな風にして肺から出ていくのか(あるいは意識的に出すのか)について書かれているという点だと思います。つまり、取り込んだ酸素(情報)が、肺の中でどんな風に処理され、それが二酸化炭素(行動)としてまた出ていく、その全体の流れにこそソーシャルメディア時代における情報の関わり方の重要なポイントがある。本書はその二点を主眼として、情報との関わり方が一変してしまった現代における「呼吸法」を、著者自身の経験を踏まえて書かれている作品だなと思いました。
さて、僕はちょっと前に、津田大介「動員の革命」という本を読んだ。その際に、佐藤尚之「明日のコミュニケーション」と比較して、「明日の~」はソーシャルメディア初心者向けだけど、「動員の革命」は『ソーシャルメディアの肌感覚がある程度分かっている人』向けだ、というようなことを書いた。
今回は、「動員の革命」と本書を比較してみようと思う。
さっき書いたように、「動員の革命」は、ある程度ソーシャルメディアを使いこなし、前提となる空気感(本書でで言うならば呼吸法)がなんとなく分かっていて、その状態からさらにどんな方向性が存在するのかを知りたいというような人向けだという風に僕は感じました。ソーシャルメディアというものの特性をさらに掘り下げ、現在広まっているソーシャルメディアの使われ方の半歩あるいは一歩先の世界を読者に幻視させるような、そういう内容だったように思いました。
本書は逆で、これからソーシャルメディアと関わっていきたい人、あるいはソーシャルメディアを使っているんだけどどうにもその面白さがわからない人、結構使っては見てるんだけど何も起こらないなぁと思っている人、逆に情報が増えすぎてパンクしそうになっている人。そういう、まだうまいことソーシャルメディアという自転車を乗りこなせていない人に、補助輪を提供してくれるような、そんな作品だと思いました。
僕は本当にさっきも書いたようにソーシャルメディア絡みの本ってほとんど読んでないから他と比較対象とかって出来ないんだけど、ソーシャルメディア初心者だという自覚がある人は、まず本書を読んで色々実践してみて、そしてその後「動員の革命」を読んでソーシャルメディアの可能性の広さを実感してみる、というような読み方をしてみるといいかもしれません。
僕は、あくまで自分の中ではですけど、それなりにソーシャルメディア(ツイッターだけだけど)の肌感覚みたいなものは分かっているつもりです。だからこそ、本書を読んで、自分自身の中で「なるほど!」と思える場面は少なかった。けど、凄いなと思ったのは、津田大介は僕が感覚的にしか理解できていないことをきちんと言語化しているということ。本書は確かに、ソーシャルメディア初心者向けだと思うのだけど、そうではない人向けにも価値があるのは、まさにこの点だと思う。
人から、ツイッターって何が面白いの?と聞かれた時の返答って、ものすごく難しい。
僕自身、ツイッターを始めるまでは、ツイッターなんて何がオモロイんやろ、って思ってた。機能的にどんなものなのかっていう想像は出来たけど、だからなんなんだ、それの何が魅力なんだ、というのは全然分からなかった。やり始めてからしばらくも分からなくて、初めて二ヶ月目にして既に飽き始めていた頃に、僕自身にとってはとんでもなく大きな転機がやってきて、それで今に至る。今は、ツイッターは自分ともの凄く相性がいいと思っているし、やっててよかったなぁと思うんだけど、でもそれを人に伝えるのって凄く難しい。感覚的にしか理解できていないことを、ツイッターをそもそもやっていない人、あるいはやっててもそこまでその魅力に気づけていない人に、言葉で説明するのって本当に難しいと思う。
本書は、多くの人が『肌感覚』としては理解しているけれども言語化したことはないツイッター(がメインだけど、ソーシャルメディア全般)の魅力を文章できちんと説明してくれる。書かれている内容そのものは、自分が肌感覚として持っているものだからそれ自体に対する感動はそこまでないけど、でもそれがきちんと言語化され伝わりやすい形にまとまっているという点が素敵だと思う。
本書の表紙には、
『発信しなければ、得るものはない。』
と書かれている。本書では、ソーシャルメディア時代において一変してしまった『情報』というものについて、どう触れるか、どう関わるか、そしてそれを受けてどう行動するか、というようなことが書かれるのだけど、この『発信しなければ、得るものはない。』というのが、僕個人としてもソーシャルメディアにおける一番重要な点だなと感じています。
本書には、こんな文章もある。
『何よりも、自分がメディアでありたい。そして自分のメディアで自分が伝えたいように伝えたい。』
これは、東日本大震災直後、著者が24時間ツイッターに張り付いて情報拡散をした時のことを回想して書かれている場面のことだけど、この『自分がメディアでありたい』というのは、僕もツイッター初めてからずっと持ち続けてきた感覚でした。これまで色んなツールがあっただろうけど、ツイッターほど『個人による発信』に向いているツールって無いような気がします。
僕はずっと、ツイッターをラジオのように使えればいい、と思ってきました。僕のイメージでは、多くの人がツイッターをコミュニケーションツールとして使っていて、もちろんそれにも強力だしどんどんコミュニケーションした方がいいけど、それよりも僕は、『発信』できることの強さをずっと前から感じています。ラジオのように、というのは、自分がなんらかの情報を発信し、それをフォロワーの人が受け取る。そしてお互いのやり取りは、リクエスト葉書とそれの読み上げというような小さな形になる。僕にとってはそういう使い方が凄く合っていて、フェイスブックとか他のソーシャルメディアは全然手を出してないからこれもイメージだけど、フェイスブックなんかは、元々知り合いの人がさらに深まっていく、というような、イメージとしてはテレビ電話みたいな感じがする。そうじゃなくて、使い方はそれぞれ自由なんだけど、でもラジオ的にも使えるツイッターが、僕にとっては凄く相性がいいなぁ、という感じがしています。
『昔は「情報選び」とは「媒体選び」でした。朝日新聞を取るのか読売新聞を取るのか。どの雑誌を買い、どのチャンネルを見るのか。しかしソーシャルメディアの時代になって、それは「人選び」に大きく変わりました。人をどう選ぶのかによって入手できる情報に大きな違いが出るようになりました。』
こういう話も、ラジオ的ですよね。マスに向かって放送されるテレビと違って、ラジオって基本的に、狭くてもいいからこの話を聞きたい人が集まってくれば、というようなメディアだと思います。ツイッターでフォローする人を選ぶのはラジオのチャンネルを合わせるみたいだし、僕自身は、僕の発信している情報を聞きたいと思ってくれて僕にチャンネルを合わせてくれる人が少しでもいてくれたらいいなぁ、なんていつも思っています。以前、小林弘人「新世紀メディア論」を読んだ時に、「だれでもメディア」ってフレーズが出てきて印象に残ってるんだけど、その本が書かれた当時よりもさらに状況が変化していて加速しているなという感じがしました。
ツイッターの面白さには、誤配力がある、と著者は書きます。
『しかしネットが検索の世界になってからというもの、自分の好きなものだけを摂取するような行動パターンが普及して、誤配の度合いは縮減されました。
個人的には、そのツイッターの「誤配力」に情報格差を埋めるためのヒントがあるような気がしています。』
「誤配力」は、情報選びが「媒体」ではなく「人」を選ぶようになることで起こる。興味の近い人がいても、完全に重なるわけではない。その人が発信する情報には、今の自分には関心がない情報も混じってくる(誤配)。そしてそれが、情報の幅や世界を広げることになる、という話。
これはまさにそうで、ラジオの例でまた説明すれば、自分が聞いているラジオでDJが、今日はこっちのラジオが面白いからここでも流しちゃいますねと言ってまったく別の番組を流す、みたいなものでしょうか。そうやって少しずつ誤配が重なっていくことで、それまで興味のなかった分野について関心が広がったりする。そういう効果は確かにツイッターは強力で、僕も凄く面白いと思う。
『これから求められるのは、情報と情報を結びつける、この人とあの人を結びつける、もしくは、こういう情報が眠っているから、あの人に話をつけると早くなるだろうなという有機的なつながりを見つけていく方法論だと思います。』
この部分を読んで僕は、山本弘「詩羽のいる街」という小説を思い出した。詩羽は、お金も家も持たないで生活している。ある小さな街を拠点とし、その中で人と人を結びつけることで、お金以外のリターンを得ることで生活しているのだ。例えば、あるスーパーで賞味期限が切れそうな野菜の処分に困っているオーナーがいる。エコをベースにした飲食店を立ち上げたいと思っている人がいる。小さな畑を耕して趣味で農業をしている人がいる。この人達を結びつけて、期限が切れそうな野菜を格安でエコ的な飲食店に卸し、そこでも使い切れなかった分は肥料にして農業をやっている人にあげる。そこで収穫された野菜がスーパーに並ぶ、というような循環を詩羽は生み出します。そういう貢献を続けていくことで、家もお金も持たずに生活をしている詩羽の活躍を描く連作短編集なんだけど、まさにここで津田大介が描いているのは、詩羽のやっていることとまったく同じことだなと思いました。詩羽の方がリアルの世界でそれをやっている、という点で物凄い荒業ですけど、でもソーシャルメディア上ではそれはそこまで難しいわけではない。気軽にRTするだけで、あるいはちょっと質問したりすることで、なんとなく誰かに紹介したりすることで、その連鎖が続いていくことがある。そういう力を、確かに僕は「詩羽のいる街」を読んで感じたのだけど、それとソーシャルメディアを結びつけて考えはしなかったので(僕が「詩羽のいる街」を読んで感じたのは、これからの地方での生き方として、こういう発想って凄く大事なんではないか、ということ)、本書を読んでそれが結びついて、おー!という感じになりました。
さて、僕は書店員なので、本に限らないのだけど、本書の中で本に触れられている部分があるので、それについて最後に書きましょう。
本書では、『オフラインの情報の価値が相対的に高まる』と書かれています。
『インターネットの発達によって大量の情報が無料化しました。そのことは「その人しか持っていない情報」や「本でしか読めない情報」など、「オフライン」でしか得られない情報の価値を相対的に高めています。ネットの情報は放っておいても大量に入ってきますが、むしろ重視すべきはオフラインでしかアクセスできないオリジナルな情報なのです。』
『きわめてオーソドックスなのですが、書籍も重視すべきオフラインの情報です。雑誌はなくなるけれど書籍はなくならない、というのが僕の見立てです。本の情報はひとつのテーマで圧縮されています。推敲される分、情報の密度も高い。だから本を読むとネットよりもはるかに自分の考えを発展させることができます。』
そして、「一度読んだ後の検索生を高めるというニーズ」のために、電子書籍の発展が望ましいと書いているのだけど、電子書籍がなくたってツイッターなどのメディアで十分情報の共有が出来る、という感じで続きます。
孫正義は、何十年後かには本というパッケージは完全になくなるみたいなことを言っているようだし、この本界隈の話題は様々な未来予測に溢れているけど、まあそれは、ベータとVHSの攻防が予想もつかなかったように、今どうなると判断できるものでもないんだろうという感じはします。とはいえ、こうやって「書籍はなくならない」なんて思ってくれる人がいるってのは、書店員としては嬉しいものですね。まあ、雑誌がなくなった世界で、書籍を売るだけで書店が存続できるか、という問題はあるんだけど、著者も『書籍』はなくならないけど『書店』がなくならないとは言ってないわけで、書店もどうなりますかねぇ。
ソーシャルメディアに関して初心者だという自覚がある人にとっては、情報にどう触れそれをどう行動に変換するかが分かりやすく描かれる作品であり、ある程度ソーシャルメディアにコミットしている人にとっては、肌感覚としては理解できているソーシャルメディアの様々な事柄を言語化して表現してくれるという点で読み応えのある作品だと思います。『発信しなければ、得るものはない。』という表紙のコピーは、まさにその通りだなという感じがします。是非読んでみてください。
津田大介「情報の呼吸法」
ヒロシマ―壁に残された伝言(井上恭介)
内容に入ろうと思います。
本書は、NHK広島放送局のディレクターだった著者が取材した、原爆投下から50年後に発見された『伝言たち』について取材し、番組として放送した経験を元に書かれた作品です。
かつて原爆資料館にも展示されていた、菊池俊吉氏による「被曝の伝言」という有名な写真が存在する。これは、フィ来るが高価だった当時、軍の委託による仕事を多く請け負っていた菊池氏が文部省から請け負った原爆投下直後の広島を撮影して欲しいという依頼の際に撮られたもので、広島市袋町国民学校西校舎の壁に書かれた「被災者同士の伝言」が映されている。爆心地からわずか460メートルというところに位置したこの小学校は、当時としては最新の技術によって建てられた鉄筋コンクリート三階建てで、木造部分はすべて吹き飛んだものの、コンクリート部分は残った。屋根のある建物がほとんど残らなかった周辺地域において、その小学校は臨時の救護所として使われ、多くの人が行き交う場所であった。そこで、人を探す伝言、誰かに何かを託す伝言、そうしたものを被災者同士が書き残した。
写真でしか存在しなかったその『伝言』が、50年後奇跡的に発見された。
当時と同じ校舎を使っている袋町小学校の壁がたまたま剥がれ落ち、その下から『伝言』が見つかったのだった。
様々な偶然が積み重なっての発見だった。もし何かの要素がほんの僅かでも違っていたら、この発見には至らなかっただろう。ちょうどそのタイミングでNHK広島にいた著者は取材を開始し、壁を剥がして別の伝言がないか探す調査の取材をしたり、あるいは判読された伝言に関わる人々を探す取材を開始した。
50年経って現れでたいくつかの伝言。情報とも呼べないようなほんの僅かな手がかりから取材を進める著者は、その僅かな伝言の発見に端を発する様々な『想い』を目の当たりにすることに…。
というような話です。
心にグッと届く作品でした。僕は広島に行ったこともないし、原爆に関する知識も正直少ない。こうして本を読んだりでもしない限り、日常の中で原爆について意識する機会というのはほとんどありません。また、原爆に関する本があったとしても、それはやはり『かつてこんなことがあった』というものが多いのだろうと思います。もちろん、それはものすごく大事で、永遠に後世に伝えていくべきものです。でも、何も経験していない僕たちのような世代にとって、何の経験もないままその存在だけを意識させる『使命感』は、ちょっと持て余してしまう。それは、ある程度僕の正直な感想で、『伝えなければならない』という『使命感』だけでは、それをどう扱ったらいいのか困ってしまうところがある。
過去と現在を繋ぐ何かが欲しい。
本書は、まさにその役割を担っているのではないか、という感じがします。僕は、この『伝言』発見のニュースについてまるで記憶がないのでリアルタイムでは知らないのですけど、こうやって50年ぶりに発見された伝言を通じて人々と関わっていく中で、それまで過去だけしかなかったものが現在の側面も持てるようになる。そんな気がする。
それは、作中で描かれる人々の反応を読むと、より強く感じられる。発見された伝言について、該当する人々が名乗り出たり探しだしたりして、かなり関係者に当たることが出来ている。しかし、伝言発見を知らされた人たちの反応は、驚くほど多様だ。そこには、『同じ被災者だから』という風には決して括ることが出来ない、強烈な個人の体験や想いが潜んでいる。
しかしそれらは、この『伝言』の発見がなければ表に出なかったかもしれないものだ。実際、この伝言発見がきっかけとなって、長いこと自分の中だけに留めておいたことを話すきっかけを掴んだ人もいる。『伝言』発見という現在の経験が、様々な形で過去を呼び起こし、結びつき、痕を残す。それは、写真や伝承でしか知らない原爆というものに付随する『使命感』とはまた別の形で、現在に生きる僕たちに何かを残してくれる、そんな感じがしました。
一度映像として放送されている、という事実を考慮すればある程度当然なのかもしれないのだけど、この『伝言』発見に関わる顛末は、ものすごくドラマに満ちている。発見された経緯やタイミングは絶妙であったし、当初思われていたのと判読した文字が違ったことに関わる人間ドラマもある。本書ではほとんど扱われていないけど(おそらく番組の方で取り上げたんでしょう)、伝言を書いた人と伝言を受け取るはずだった人が50年ぶりに校舎で再開する、というような出来事もあったそうだ。伝言の内容に関わる人たちそれぞれが何をどう感じどう行動したのか、というようなことをいちいち取り上げたら興を削ぐのでしないけど、爆心地からたった460メートルしか離れていない袋町国民学校周辺の惨劇を知る人たちが、50年という年月を経てもまだ消化しきれないものを抱えながら(当然でしょうけど)、それぞれの立場で現在と向き合っているという姿が非常に強く印象に残る作品でした。
初めの方でも書いたけど、僕は『伝えなければ、残さなければいけない』というような、先程僕が『使命感』と表現したものには、若干の違和感がある。もちろん、伝えなければいけないし残さなければいけない。ただ、それは『なければいけない』と表現するような事柄であってはいけないんだろうな、という感じがします。
東日本大震災が起こって1年と少しが経ったけど、今あの東日本大震災における個々人の様々な想いや経験を『伝えなければ、残さなければいけない』と感じている人は、そう多くないと思うんです。むしろ、『伝えたい、残したい』という感じではないでしょうか。僕は、その差は大きいと思っています。50年以上も昔の出来事、しかも僕たち自身は経験していない事柄について、『伝えたい、残したい』という感情を抱くことは、正直なかなか難しい。でも、この作品は、その手助けを少ししてくれている、そんな感じがします。『使命感』ではない形での『未来への伝言』が、いつまでも続いていけばいい。そんな風に思いました。
50年越しに届けられた『伝言』と、それによって引き起こされた様々な想いや行動。年月が風化させない様々なものを引き出した出来事が描かれた作品です。是非読んでみてください。
井上恭介「ヒロシマ―壁に残された伝言」
本書は、NHK広島放送局のディレクターだった著者が取材した、原爆投下から50年後に発見された『伝言たち』について取材し、番組として放送した経験を元に書かれた作品です。
かつて原爆資料館にも展示されていた、菊池俊吉氏による「被曝の伝言」という有名な写真が存在する。これは、フィ来るが高価だった当時、軍の委託による仕事を多く請け負っていた菊池氏が文部省から請け負った原爆投下直後の広島を撮影して欲しいという依頼の際に撮られたもので、広島市袋町国民学校西校舎の壁に書かれた「被災者同士の伝言」が映されている。爆心地からわずか460メートルというところに位置したこの小学校は、当時としては最新の技術によって建てられた鉄筋コンクリート三階建てで、木造部分はすべて吹き飛んだものの、コンクリート部分は残った。屋根のある建物がほとんど残らなかった周辺地域において、その小学校は臨時の救護所として使われ、多くの人が行き交う場所であった。そこで、人を探す伝言、誰かに何かを託す伝言、そうしたものを被災者同士が書き残した。
写真でしか存在しなかったその『伝言』が、50年後奇跡的に発見された。
当時と同じ校舎を使っている袋町小学校の壁がたまたま剥がれ落ち、その下から『伝言』が見つかったのだった。
様々な偶然が積み重なっての発見だった。もし何かの要素がほんの僅かでも違っていたら、この発見には至らなかっただろう。ちょうどそのタイミングでNHK広島にいた著者は取材を開始し、壁を剥がして別の伝言がないか探す調査の取材をしたり、あるいは判読された伝言に関わる人々を探す取材を開始した。
50年経って現れでたいくつかの伝言。情報とも呼べないようなほんの僅かな手がかりから取材を進める著者は、その僅かな伝言の発見に端を発する様々な『想い』を目の当たりにすることに…。
というような話です。
心にグッと届く作品でした。僕は広島に行ったこともないし、原爆に関する知識も正直少ない。こうして本を読んだりでもしない限り、日常の中で原爆について意識する機会というのはほとんどありません。また、原爆に関する本があったとしても、それはやはり『かつてこんなことがあった』というものが多いのだろうと思います。もちろん、それはものすごく大事で、永遠に後世に伝えていくべきものです。でも、何も経験していない僕たちのような世代にとって、何の経験もないままその存在だけを意識させる『使命感』は、ちょっと持て余してしまう。それは、ある程度僕の正直な感想で、『伝えなければならない』という『使命感』だけでは、それをどう扱ったらいいのか困ってしまうところがある。
過去と現在を繋ぐ何かが欲しい。
本書は、まさにその役割を担っているのではないか、という感じがします。僕は、この『伝言』発見のニュースについてまるで記憶がないのでリアルタイムでは知らないのですけど、こうやって50年ぶりに発見された伝言を通じて人々と関わっていく中で、それまで過去だけしかなかったものが現在の側面も持てるようになる。そんな気がする。
それは、作中で描かれる人々の反応を読むと、より強く感じられる。発見された伝言について、該当する人々が名乗り出たり探しだしたりして、かなり関係者に当たることが出来ている。しかし、伝言発見を知らされた人たちの反応は、驚くほど多様だ。そこには、『同じ被災者だから』という風には決して括ることが出来ない、強烈な個人の体験や想いが潜んでいる。
しかしそれらは、この『伝言』の発見がなければ表に出なかったかもしれないものだ。実際、この伝言発見がきっかけとなって、長いこと自分の中だけに留めておいたことを話すきっかけを掴んだ人もいる。『伝言』発見という現在の経験が、様々な形で過去を呼び起こし、結びつき、痕を残す。それは、写真や伝承でしか知らない原爆というものに付随する『使命感』とはまた別の形で、現在に生きる僕たちに何かを残してくれる、そんな感じがしました。
一度映像として放送されている、という事実を考慮すればある程度当然なのかもしれないのだけど、この『伝言』発見に関わる顛末は、ものすごくドラマに満ちている。発見された経緯やタイミングは絶妙であったし、当初思われていたのと判読した文字が違ったことに関わる人間ドラマもある。本書ではほとんど扱われていないけど(おそらく番組の方で取り上げたんでしょう)、伝言を書いた人と伝言を受け取るはずだった人が50年ぶりに校舎で再開する、というような出来事もあったそうだ。伝言の内容に関わる人たちそれぞれが何をどう感じどう行動したのか、というようなことをいちいち取り上げたら興を削ぐのでしないけど、爆心地からたった460メートルしか離れていない袋町国民学校周辺の惨劇を知る人たちが、50年という年月を経てもまだ消化しきれないものを抱えながら(当然でしょうけど)、それぞれの立場で現在と向き合っているという姿が非常に強く印象に残る作品でした。
初めの方でも書いたけど、僕は『伝えなければ、残さなければいけない』というような、先程僕が『使命感』と表現したものには、若干の違和感がある。もちろん、伝えなければいけないし残さなければいけない。ただ、それは『なければいけない』と表現するような事柄であってはいけないんだろうな、という感じがします。
東日本大震災が起こって1年と少しが経ったけど、今あの東日本大震災における個々人の様々な想いや経験を『伝えなければ、残さなければいけない』と感じている人は、そう多くないと思うんです。むしろ、『伝えたい、残したい』という感じではないでしょうか。僕は、その差は大きいと思っています。50年以上も昔の出来事、しかも僕たち自身は経験していない事柄について、『伝えたい、残したい』という感情を抱くことは、正直なかなか難しい。でも、この作品は、その手助けを少ししてくれている、そんな感じがします。『使命感』ではない形での『未来への伝言』が、いつまでも続いていけばいい。そんな風に思いました。
50年越しに届けられた『伝言』と、それによって引き起こされた様々な想いや行動。年月が風化させない様々なものを引き出した出来事が描かれた作品です。是非読んでみてください。
井上恭介「ヒロシマ―壁に残された伝言」
仕事は99%気配り(川田修)
内容に入ろうと思います。
本書は、現在プルデンシャル生命保険の営業職のトップであるエグゼクティブ・ライフプランナーであり、全国2000人中第一位の営業成績を達成し、新卒で入社したリクルートでは、入社から退社までの96ヶ月のうち月間目標を95ヶ月達成したという著者による、営業のためだけではない、仕事のためだけではない「気配り」の大切さについて書かれている作品です。
本書は、著者自らが実践していることは、実はそれほど書かれていないんです。恐らくそういう話は、著者のデビュー著書である「かばんはハンカチの上に置きなさい」で書かれているんだろうと思います。
そういう意味で本書は、営業マンやサラリーマンに直接ノウハウを伝授するような、そういう作品ではない。だからこそ、営業マンでもサラリーマンでもない人にも読む価値のある作品になっているのだろうと僕は思います。
本書は、著者が営業に行く先々で経験したこと、プライベートで飲食した時の経験、出張でのホテルでの経験などと言った『著者自身が気配りを受けた経験』について語っている作品です。
そういう意味で、とてもビジネス書っぽくない。普通ビジネス書って、「自分はこんなことをやってきました」というようなことを語るものだと思うけど、本書はそういう話はむしろ少ない。「私は色んな場面でこんな経験をしました」という話を色々とするんですね。この本の構成そのものも、なんだか気配りに満ちているような、そんな感じがしました。
上記したような作品なので、内容紹介を非常にしにくいんですね。全部で5つの章がありますけど、うち初め4つの章は、こんな気配りを受けたことがあります(あるいはこういう場面で気配りがあるとよかったなぁ)というような具体的な経験が語られます。そして最後の5章だけは、著者自身が、自分は具体的にこういう風にしている、それはこういう理由からだ、ということを語る内容になります。前半の4つの章については、こういう話がありました、こんな話もありました、と書いていっちゃうとほとんどの事例を紹介しちゃいそうなんで、、一つだけ。
ある会社の社長は、年に一回社員の家族も読んで表彰式を行う。そこで、最優秀に選ばれた社員とその家族を壇上に上がってもらい、そしてその奥さんを「一年間ご主人を支えてくれてありがとうございます」と社長自らが表彰するのだそうです。
こういう、色んな会社が社員に対してや、あるいは自社にやってくる営業マンに対する気配りも書かれるのだけど、もっと身近な、居酒屋でこんなことが、ホテルでこんなことが、というようなものもある。一つ一つの話が凄く具体的で、凄く些細なんだけど、でも感覚として分かる。そのほんの僅かな違いが、受け手に届いた時はもの凄く増幅される、ということが凄く分かる。どの話も、やっている現象だけ取り上げれば、大したことではないものが多い。ただ、大したことではないことをずっと続けられること、そして大したことではないことを大したことではないからと言って止めてしまわないこと、その凄さが伝わってくる感じがします。
本書は、その背景をどれだけ掴むことが出来るか、というのが、読者にとって重要なんだと思います。本書で書かれていることを、とりあえず形だけ真似る。それも、決して悪いことではない。著者も本書の中で、そういうようなことを言っている。でも、なるほどそれをやれば営業がうまくいくのね、なんて考えでは、本書を読んだ意味がないだろう。本書は、一つ一つの事例から『共通項』をどれだけ見いだせるか。それが勝負だと思う。もちろん、著者がそれぞれについて解説してくれる。でも、その解説をただ読んでるだけではダメだ。本書で取り上げられていないような、まったく違った状況の中で、自分自身が気配りを発揮したいと思えば、本書で紹介されている事例それぞれから抽出できる『共通項』をどれだけその状況に当てはめられるか、ということだと思う。これは、形だけ真似しても、著者の説明を漫然と読んでてもダメだ。といいつつ、僕自身も別に出来てないんだけど、でもそれじゃ意味がないよな、という意識を持って読むことはした。形を真似るところから入ってもいいのだけど、それだけではいけない。何故それをするのか、それをするとどうなるのか、それを出来る限り意識しないで出来るか。そういうところまで自分の中で消化して読み進めていかなくてはいけないと思う。
本書を読んで、著者に具体的に共感できた場面が二つ(具体的でない形でならずっと共感してるんですけど)。一つは、レジでのお釣りの渡し方。もう一つは、「神様」について。
僕は著者と同じで、お金を受け取る時に、レシート(領収書)と一緒に小銭を渡されると、うまく財布にしまえません。なんであんな風になってるのか僕には全然わからないんだけど、あれはみんな嫌じゃないのかなぁ、といつも思っています。だから僕は、自分が会計をする時は、必ず小銭とレシートは分けて渡すようにしています。
もう一つの「神様」については、別に宗教についての話ではありません。著者は、「神様が見ているという意識が昔からある」と書いているんですけど、これはまさに僕にもあるんです。誰も見ていない場面でちょっとした悪いことをしようとすると、でも「神様」が見てるかもなぁ、と思って止めたりすることがあるんですね(もちろん、見てるかもなぁと思いつつその悪いことをすることもあるんですけど、そういう場合はなんとなく、気分がよろしくない)。これも、凄い分かるわー、って感じがしました。
第5章には、シンプルだけど、営業マンにとって(だけではなく、サービスを提供する人全般にとって)凄く大事なことが書かれているという感じがしました。
大雑把に書くと、『観察することが大事』『お客さんが求めているのは商品ではないかもしれない』『無理や不満は必要経費』『相手を好きになることが大事』『数字は大事』という感じでしょうか。これ以上具体的にはなるべく書かないけど、著者が「トップになるためにはどうしたらいいか?」と質問されて答えたこと、そしてそのために著者が実践したことなんかは、ちょっと凄いなと思います。僕は、そこまではいいかな、という感じがしちゃうのよね。
本書の中で、僕が一番好きなフレーズがこれ。
『視力が悪くな人にメガネを売るような仕事はしない』
『必要のない人には売らないこと。
必要な人に必要なものだけを販売すること。
そして、納得して満足してもらうこと』
これは、僕がずっと考えていることを凄くシンプルに表現してくれています。僕は本当にこういうことを考えていて、どうやってそれを実現・継続出来るだろうかという発想が常にある。本書には、著者自身の経験として、ある保険の契約がまとまり掛けた時に、著者がアドバイスをして、それよりもちょっと安い保険に変更した、という話がある。これなんかまさにそうだなと思います。お客さんがそれを望んでいるという時でも、敢えてそこで、これはあなたには合いません、と言う。そういう部分の信頼みたいなものがベースになっているのって凄くいいなといつも思っています。
分量も多くないし、サッと読めちゃう作品だと思いますけど、中身は濃いです。読めば、自分の中の意識は間違いなく変わるだろうと思います。そこからそれをどう行動に結び付けられるかは人それぞれでしょうけども。僕も、実践がどこまで出来るかはわからないんだけど、本書に書かれていることを時折思い出して、気配りというものを意識出来るように心がけたいと思いました。是非読んでみてください。
川田修「仕事は99%気配り」
本書は、現在プルデンシャル生命保険の営業職のトップであるエグゼクティブ・ライフプランナーであり、全国2000人中第一位の営業成績を達成し、新卒で入社したリクルートでは、入社から退社までの96ヶ月のうち月間目標を95ヶ月達成したという著者による、営業のためだけではない、仕事のためだけではない「気配り」の大切さについて書かれている作品です。
本書は、著者自らが実践していることは、実はそれほど書かれていないんです。恐らくそういう話は、著者のデビュー著書である「かばんはハンカチの上に置きなさい」で書かれているんだろうと思います。
そういう意味で本書は、営業マンやサラリーマンに直接ノウハウを伝授するような、そういう作品ではない。だからこそ、営業マンでもサラリーマンでもない人にも読む価値のある作品になっているのだろうと僕は思います。
本書は、著者が営業に行く先々で経験したこと、プライベートで飲食した時の経験、出張でのホテルでの経験などと言った『著者自身が気配りを受けた経験』について語っている作品です。
そういう意味で、とてもビジネス書っぽくない。普通ビジネス書って、「自分はこんなことをやってきました」というようなことを語るものだと思うけど、本書はそういう話はむしろ少ない。「私は色んな場面でこんな経験をしました」という話を色々とするんですね。この本の構成そのものも、なんだか気配りに満ちているような、そんな感じがしました。
上記したような作品なので、内容紹介を非常にしにくいんですね。全部で5つの章がありますけど、うち初め4つの章は、こんな気配りを受けたことがあります(あるいはこういう場面で気配りがあるとよかったなぁ)というような具体的な経験が語られます。そして最後の5章だけは、著者自身が、自分は具体的にこういう風にしている、それはこういう理由からだ、ということを語る内容になります。前半の4つの章については、こういう話がありました、こんな話もありました、と書いていっちゃうとほとんどの事例を紹介しちゃいそうなんで、、一つだけ。
ある会社の社長は、年に一回社員の家族も読んで表彰式を行う。そこで、最優秀に選ばれた社員とその家族を壇上に上がってもらい、そしてその奥さんを「一年間ご主人を支えてくれてありがとうございます」と社長自らが表彰するのだそうです。
こういう、色んな会社が社員に対してや、あるいは自社にやってくる営業マンに対する気配りも書かれるのだけど、もっと身近な、居酒屋でこんなことが、ホテルでこんなことが、というようなものもある。一つ一つの話が凄く具体的で、凄く些細なんだけど、でも感覚として分かる。そのほんの僅かな違いが、受け手に届いた時はもの凄く増幅される、ということが凄く分かる。どの話も、やっている現象だけ取り上げれば、大したことではないものが多い。ただ、大したことではないことをずっと続けられること、そして大したことではないことを大したことではないからと言って止めてしまわないこと、その凄さが伝わってくる感じがします。
本書は、その背景をどれだけ掴むことが出来るか、というのが、読者にとって重要なんだと思います。本書で書かれていることを、とりあえず形だけ真似る。それも、決して悪いことではない。著者も本書の中で、そういうようなことを言っている。でも、なるほどそれをやれば営業がうまくいくのね、なんて考えでは、本書を読んだ意味がないだろう。本書は、一つ一つの事例から『共通項』をどれだけ見いだせるか。それが勝負だと思う。もちろん、著者がそれぞれについて解説してくれる。でも、その解説をただ読んでるだけではダメだ。本書で取り上げられていないような、まったく違った状況の中で、自分自身が気配りを発揮したいと思えば、本書で紹介されている事例それぞれから抽出できる『共通項』をどれだけその状況に当てはめられるか、ということだと思う。これは、形だけ真似しても、著者の説明を漫然と読んでてもダメだ。といいつつ、僕自身も別に出来てないんだけど、でもそれじゃ意味がないよな、という意識を持って読むことはした。形を真似るところから入ってもいいのだけど、それだけではいけない。何故それをするのか、それをするとどうなるのか、それを出来る限り意識しないで出来るか。そういうところまで自分の中で消化して読み進めていかなくてはいけないと思う。
本書を読んで、著者に具体的に共感できた場面が二つ(具体的でない形でならずっと共感してるんですけど)。一つは、レジでのお釣りの渡し方。もう一つは、「神様」について。
僕は著者と同じで、お金を受け取る時に、レシート(領収書)と一緒に小銭を渡されると、うまく財布にしまえません。なんであんな風になってるのか僕には全然わからないんだけど、あれはみんな嫌じゃないのかなぁ、といつも思っています。だから僕は、自分が会計をする時は、必ず小銭とレシートは分けて渡すようにしています。
もう一つの「神様」については、別に宗教についての話ではありません。著者は、「神様が見ているという意識が昔からある」と書いているんですけど、これはまさに僕にもあるんです。誰も見ていない場面でちょっとした悪いことをしようとすると、でも「神様」が見てるかもなぁ、と思って止めたりすることがあるんですね(もちろん、見てるかもなぁと思いつつその悪いことをすることもあるんですけど、そういう場合はなんとなく、気分がよろしくない)。これも、凄い分かるわー、って感じがしました。
第5章には、シンプルだけど、営業マンにとって(だけではなく、サービスを提供する人全般にとって)凄く大事なことが書かれているという感じがしました。
大雑把に書くと、『観察することが大事』『お客さんが求めているのは商品ではないかもしれない』『無理や不満は必要経費』『相手を好きになることが大事』『数字は大事』という感じでしょうか。これ以上具体的にはなるべく書かないけど、著者が「トップになるためにはどうしたらいいか?」と質問されて答えたこと、そしてそのために著者が実践したことなんかは、ちょっと凄いなと思います。僕は、そこまではいいかな、という感じがしちゃうのよね。
本書の中で、僕が一番好きなフレーズがこれ。
『視力が悪くな人にメガネを売るような仕事はしない』
『必要のない人には売らないこと。
必要な人に必要なものだけを販売すること。
そして、納得して満足してもらうこと』
これは、僕がずっと考えていることを凄くシンプルに表現してくれています。僕は本当にこういうことを考えていて、どうやってそれを実現・継続出来るだろうかという発想が常にある。本書には、著者自身の経験として、ある保険の契約がまとまり掛けた時に、著者がアドバイスをして、それよりもちょっと安い保険に変更した、という話がある。これなんかまさにそうだなと思います。お客さんがそれを望んでいるという時でも、敢えてそこで、これはあなたには合いません、と言う。そういう部分の信頼みたいなものがベースになっているのって凄くいいなといつも思っています。
分量も多くないし、サッと読めちゃう作品だと思いますけど、中身は濃いです。読めば、自分の中の意識は間違いなく変わるだろうと思います。そこからそれをどう行動に結び付けられるかは人それぞれでしょうけども。僕も、実践がどこまで出来るかはわからないんだけど、本書に書かれていることを時折思い出して、気配りというものを意識出来るように心がけたいと思いました。是非読んでみてください。
川田修「仕事は99%気配り」
世紀の空売り(マイケル・ルイス)
内容に入ろうと思います。
先に書いておくと、僕にとって本書の経済的な部分の記述はとてもとても難しかったんで、これから書く内容に間違いとかあるかもですけど、自分でもざっくりした理解でざっくりしたことしか書けないことは自覚してるんで、大目にみてもらえると助かります。
本書は、低所得者向けの住宅ローンを債権にした「サブプライム・モーゲージ債」に関わるウォール街の狂乱を、採捕から最後までショート(空売り)の立場、つまり「サブプライム・モーゲージ債」に関わる取引、ひいては世界経済全体が『破綻』する方に賭け続けた三人の男たち(集団)から描くノンフィクションです。
僕はこの、「サブプライム・モーゲージ債」に関わる部分が、まあほとんど理解できませんでした。なんとなく僕が理解した範囲のことを書くと、まず先ほども書いたように、サブプライムローンというのが、低所得者向けの住宅ローンとして発売される。当初これは、低所得者でも家が買える、あるいは低所得者への資産流動を可能にするという意味で優れたアイデアだと思われたのだけど、しかしそのサブプライムローンを債権にしたサブプライム・モーゲージ債がとんでもない規模に膨れ上がるにつれて、状況はおかしくなっていく。
サブプライムローンは、低所得者に対して、初めの二年間はかなり低い金利を、そして次の数年間は金利が一気に上がり、さらにそれ以降は変動金利に変わる、という、最終的にはどう考えても債務不履行に陥るような設計になっていました。サブプライムローンを売りだした側は、低金利が終わる二年後に低所得者はローンを借り換えなくてはならなくなるから、その手数料で儲けよう、という目論見だったようです。
さて、ウォール街ではかつて株式市場がメインでしたけど、サブプライム・モーゲージ債が登場して以降、「株式市場が紙魚に見える」ほど、債券市場によって成り立つようになりました。
さて、そのサブプライム・モーゲージ債がどんな風に取引されていたのか。まあそもそも僕には、「債権が取引される」ってことの意味もまるでわかってないんですけど、とりあえずこのサブプライム・モーゲージ債は、詐欺みたいなものだったようです。本書にはそれを表現するような豊かな表現に溢れていて、後でその辺は引用しようと思うけど、投資銀行が格付け機関を丸め込んで、屑みたいな債権にトリプルAに格付けをさせ、それを元に大々的に売り出していたそうです。
ただ、サブプライム・モーゲージ債に端を発する債券市場が『狂っている』ことを見ぬいた人間は、ごくごくわずかでした。本書では、サブプライム・モーゲージ債に絡む取引によって企業が債務不履行に陥る方に賭け、大金を投じてショート(空売り)を続けた男たちが描かれます。
一人目は、スティーヴ・アイズマンを筆頭にしたグループ。証券会社に勤めていたアイズマンは、仕事上サブプライム・モーゲージ債と関わっていて、それを詳細に分析することで、将来的に確実に破綻することを、というかそもそもこの取引がほとんど詐欺みたいなものだと見抜く。アイズマンの奇矯な正確に振り回される側近の人たちの描写もしつつ、ウォール街で特異な立ち位置にいたアイズマンを描く。
二人目は、マイケル・バーリという元医者。研修医だった頃から、少ない時間をやりくりして、会計や株式の勉強を独学でやったバーリは、株取引に関するウェブサイトを開くと、大手企業なんかからも声が掛かるほどになる。ほどなく自ら会社を立ち上げたバーリは、バリュー投資家としてロング(買い持ち)で恐るべき利回りを実現した。ほどなくしてサブプライム・モーゲージ債について知ったバーリは、その驚くべき集中力を持ってそれを調べ、将来的に確実に破綻する確信と共にそれで資産運用することを決めるが、しかしバーリは様々な苦難に立たされる…。
三人目は、ジェイミー・マイとチャーリー・レドリーの二人。11万ドルの預金だけしかなかった二人は、偶然だがブラック=ショールズ方程式の盲点をつくような戦略を見出し、近い将来大きく状況が変化するだろう企業を探しだしてオプションを買うことで連戦連勝を続けていた。
そんな時彼らは、サブプライム・モーゲージ債の債券市場について知り、その取引が異常であること、将来確実に破綻することを悟り、ショートし続けていく。
というような感じの内容です。僕の理解力が乏しいせいで、本書の面白さを伝えるような内容紹介は出来なかったかなぁ。
経済的な部分についてはとにかくさっぱり理解できなかったんだけど、これは凄い作品だったなぁ!経済の話は全然分かんないんだけど、凄いことが起こっている、ということが伝わってくる。それは本書のあちこちに散りばめられる、サブプライム・モーゲージ債やその周辺の事柄に関する彼らの評価を読めば分かる。
『2003年の時点で、借り手はすでに節度を失っていた。2005年初めには、貸し手のほうもそうなっていることが、バーリにはわかった。』
『当時は、金融システム全体がその無知を前提に成り立ち、無知でいられるその能力に代価を支払っていたのだ。』
『でも、一生に何度も経験できないような好景気の中で、いずれ軒並みつぶれる企業群に目を配っていた人間は、わたしぐらいなものでしょう。ようするにわたしは、経済の中で、いかに「まがいもの」が化粧をほどこされていくかを目撃したわけで、そりゃ、とんでもないものでした』
『あまりにも現実離れした話だったんで、意味をきちんと把握するのに、数週間かかりました。でも、CDOの正体を調べれば調べるほど、おい、おい、おい、いくらなんでも、こりゃめちゃくちゃだ。詐欺じゃないか、という感じになるんですよね。法定で立証するのはむずかしいかもしれませんけど、あれは詐欺でしょう』
『ぼくらは、ぼくらがなぜ間違っているのか説明できる人を、探し続けてました。自分たちが正気なのかどうか、ずっと首をかしげてました。おれたち、頭のねじがはずれてるんじゃないか?という問いが頭を離れないんです。』
『コーンウォールのトレードは、ばかばかしいほど結果のはっきりした賭けに思えた。炎上中の家の火災保険を安値で買ったようなものだ。』
『これはフィッチやS&Pの話ではない。ムーディーズだ。格付け界で最上位にあって、株の20パーセントをウォーレン・バフェットが所有する名門機関。そのCEOが、クイーンズ出身のヴィンセント・ダニエルに、ぼんくらか、さもなければ詐欺師だと言われたのだ。』
どうだろう。こういう表現は本書の中に散見しまくるんだけど、僕には具体的な理解が出来なかったけど、こういう文章から、当時のウォール街がいかに異常で、狂っていて、そしてほとんどの人間がそのことに気づかなかったということを理解しました。凄いことですよね。だって、リーマン・ブラザーズとかJ・P・モルガンとか、そういうところって、世界中の頭の良い人間がいる、ってイメージがあるんです。彼らは確かに詐欺を働いたし、格付け機関を丸め込んであくどい事をしてたんだけど、でも結果的にどの投資銀行も、数十億ドルっていうとんでもない損失を出した。彼らが、自分たちが扱っているものの正体を理解していなかった、という証拠だろうな、と思います。
ただ、そんな彼らは、結果的に大金を手にしてるんですよね。
『ハーウィー・ハブラーは、単独のトレーダーとしてはウォール街史上最大の損失を出したが、それでもなお、みずからが稼いだ数千万ドルの金を懐に入れることが許された。ウォール街の大手投資銀行のCEOたちもまた、博打の負け側にいた。その全員が、ひとりの例外もなく、自分の経営する企業を破産に追い込むか、さもなければ、アメリカ政府の介入によって破産を免れた。そして、全員がやはり金持ちになった。』
ここの部分を読んで僕は、「一人騙せば詐欺師だけど、国民を騙せば天才」というフレーズが思い浮かびました。
この部分に続く著者のコメントが、かなり好きです。
『賢い決断を下す必要がないとしたら、つまり、お粗末な決断を下しても金持ちになれるとしたら、どれくらいの数の人間が賢い決断を下そうとするだろう?』
確かにその通りですよね。ウォール街の常識は世間の非常識ってことですね。
本書を読んで僕が得た教訓は二つ。
一つは、自分の中の違和感を、決して「空気に流される」ことで手放すな、ということ。たとえどれだけ実績のある人間が言っても、どれだけ権威のある人間が言っても、自分の上司が言っても、あるいは国民全員が言っても、それに自分が納得できなければ、その違和感を手放してはいけない、ということだ。本書では、世界経済の破綻に賭けた三人は、周囲からまったく理解されなかったし、人によってはとんでもない仕打ちに遭ったのもいたけど、でも結果的には彼らの方が正しかった。もちろん、自分が狂っているだけなのかもしれない、という問いかけはし続けなくてはいけないけど。
そしてもう一つは、国民全員を騙す詐欺もあるんだぞ、ということ。この作品では、格付け機関の最大手であるムーディーズをこき下ろしている。それは、もはやどんな業界のどんな権威付けも、無条件に信頼出来るものではない、ということだろうと思う。何もかもすべて自分で判断するのは、ほとんど不可能だ。しかし、出来る限り自分で判断できるようにすべきだし、それをしたくないということであれば、それに手を出すべきではない、と思う。これは株取引だけの話じゃなくて、例えば僕はクレジットカードを持ってないけど、クレジットカードがどんな仕組みでどういう背景の中で成立していて、どうなったら破綻するのか、ということをちゃんと知らないままではやっぱり怖いなって思うんですね。絶対のものなんてない。無闇に恐れても仕方ないけど、だからこそ、それについてきちんと知ろうとする態度が大事なのだろう、と思いました。
経済の部分の話が難しすぎて内容にうまく触れられないんだけど、人間の話はとても面白いし、ウォール街の狂乱の雰囲気を感じられるという点でも凄く面白いです。経済的な部分が理解できる人には、もっともっと楽しめるんだろうなと思います。是非読んでみてください。
マイケル・ルイス「世紀の空売り 世界経済の破綻に賭けた男たち」
先に書いておくと、僕にとって本書の経済的な部分の記述はとてもとても難しかったんで、これから書く内容に間違いとかあるかもですけど、自分でもざっくりした理解でざっくりしたことしか書けないことは自覚してるんで、大目にみてもらえると助かります。
本書は、低所得者向けの住宅ローンを債権にした「サブプライム・モーゲージ債」に関わるウォール街の狂乱を、採捕から最後までショート(空売り)の立場、つまり「サブプライム・モーゲージ債」に関わる取引、ひいては世界経済全体が『破綻』する方に賭け続けた三人の男たち(集団)から描くノンフィクションです。
僕はこの、「サブプライム・モーゲージ債」に関わる部分が、まあほとんど理解できませんでした。なんとなく僕が理解した範囲のことを書くと、まず先ほども書いたように、サブプライムローンというのが、低所得者向けの住宅ローンとして発売される。当初これは、低所得者でも家が買える、あるいは低所得者への資産流動を可能にするという意味で優れたアイデアだと思われたのだけど、しかしそのサブプライムローンを債権にしたサブプライム・モーゲージ債がとんでもない規模に膨れ上がるにつれて、状況はおかしくなっていく。
サブプライムローンは、低所得者に対して、初めの二年間はかなり低い金利を、そして次の数年間は金利が一気に上がり、さらにそれ以降は変動金利に変わる、という、最終的にはどう考えても債務不履行に陥るような設計になっていました。サブプライムローンを売りだした側は、低金利が終わる二年後に低所得者はローンを借り換えなくてはならなくなるから、その手数料で儲けよう、という目論見だったようです。
さて、ウォール街ではかつて株式市場がメインでしたけど、サブプライム・モーゲージ債が登場して以降、「株式市場が紙魚に見える」ほど、債券市場によって成り立つようになりました。
さて、そのサブプライム・モーゲージ債がどんな風に取引されていたのか。まあそもそも僕には、「債権が取引される」ってことの意味もまるでわかってないんですけど、とりあえずこのサブプライム・モーゲージ債は、詐欺みたいなものだったようです。本書にはそれを表現するような豊かな表現に溢れていて、後でその辺は引用しようと思うけど、投資銀行が格付け機関を丸め込んで、屑みたいな債権にトリプルAに格付けをさせ、それを元に大々的に売り出していたそうです。
ただ、サブプライム・モーゲージ債に端を発する債券市場が『狂っている』ことを見ぬいた人間は、ごくごくわずかでした。本書では、サブプライム・モーゲージ債に絡む取引によって企業が債務不履行に陥る方に賭け、大金を投じてショート(空売り)を続けた男たちが描かれます。
一人目は、スティーヴ・アイズマンを筆頭にしたグループ。証券会社に勤めていたアイズマンは、仕事上サブプライム・モーゲージ債と関わっていて、それを詳細に分析することで、将来的に確実に破綻することを、というかそもそもこの取引がほとんど詐欺みたいなものだと見抜く。アイズマンの奇矯な正確に振り回される側近の人たちの描写もしつつ、ウォール街で特異な立ち位置にいたアイズマンを描く。
二人目は、マイケル・バーリという元医者。研修医だった頃から、少ない時間をやりくりして、会計や株式の勉強を独学でやったバーリは、株取引に関するウェブサイトを開くと、大手企業なんかからも声が掛かるほどになる。ほどなく自ら会社を立ち上げたバーリは、バリュー投資家としてロング(買い持ち)で恐るべき利回りを実現した。ほどなくしてサブプライム・モーゲージ債について知ったバーリは、その驚くべき集中力を持ってそれを調べ、将来的に確実に破綻する確信と共にそれで資産運用することを決めるが、しかしバーリは様々な苦難に立たされる…。
三人目は、ジェイミー・マイとチャーリー・レドリーの二人。11万ドルの預金だけしかなかった二人は、偶然だがブラック=ショールズ方程式の盲点をつくような戦略を見出し、近い将来大きく状況が変化するだろう企業を探しだしてオプションを買うことで連戦連勝を続けていた。
そんな時彼らは、サブプライム・モーゲージ債の債券市場について知り、その取引が異常であること、将来確実に破綻することを悟り、ショートし続けていく。
というような感じの内容です。僕の理解力が乏しいせいで、本書の面白さを伝えるような内容紹介は出来なかったかなぁ。
経済的な部分についてはとにかくさっぱり理解できなかったんだけど、これは凄い作品だったなぁ!経済の話は全然分かんないんだけど、凄いことが起こっている、ということが伝わってくる。それは本書のあちこちに散りばめられる、サブプライム・モーゲージ債やその周辺の事柄に関する彼らの評価を読めば分かる。
『2003年の時点で、借り手はすでに節度を失っていた。2005年初めには、貸し手のほうもそうなっていることが、バーリにはわかった。』
『当時は、金融システム全体がその無知を前提に成り立ち、無知でいられるその能力に代価を支払っていたのだ。』
『でも、一生に何度も経験できないような好景気の中で、いずれ軒並みつぶれる企業群に目を配っていた人間は、わたしぐらいなものでしょう。ようするにわたしは、経済の中で、いかに「まがいもの」が化粧をほどこされていくかを目撃したわけで、そりゃ、とんでもないものでした』
『あまりにも現実離れした話だったんで、意味をきちんと把握するのに、数週間かかりました。でも、CDOの正体を調べれば調べるほど、おい、おい、おい、いくらなんでも、こりゃめちゃくちゃだ。詐欺じゃないか、という感じになるんですよね。法定で立証するのはむずかしいかもしれませんけど、あれは詐欺でしょう』
『ぼくらは、ぼくらがなぜ間違っているのか説明できる人を、探し続けてました。自分たちが正気なのかどうか、ずっと首をかしげてました。おれたち、頭のねじがはずれてるんじゃないか?という問いが頭を離れないんです。』
『コーンウォールのトレードは、ばかばかしいほど結果のはっきりした賭けに思えた。炎上中の家の火災保険を安値で買ったようなものだ。』
『これはフィッチやS&Pの話ではない。ムーディーズだ。格付け界で最上位にあって、株の20パーセントをウォーレン・バフェットが所有する名門機関。そのCEOが、クイーンズ出身のヴィンセント・ダニエルに、ぼんくらか、さもなければ詐欺師だと言われたのだ。』
どうだろう。こういう表現は本書の中に散見しまくるんだけど、僕には具体的な理解が出来なかったけど、こういう文章から、当時のウォール街がいかに異常で、狂っていて、そしてほとんどの人間がそのことに気づかなかったということを理解しました。凄いことですよね。だって、リーマン・ブラザーズとかJ・P・モルガンとか、そういうところって、世界中の頭の良い人間がいる、ってイメージがあるんです。彼らは確かに詐欺を働いたし、格付け機関を丸め込んであくどい事をしてたんだけど、でも結果的にどの投資銀行も、数十億ドルっていうとんでもない損失を出した。彼らが、自分たちが扱っているものの正体を理解していなかった、という証拠だろうな、と思います。
ただ、そんな彼らは、結果的に大金を手にしてるんですよね。
『ハーウィー・ハブラーは、単独のトレーダーとしてはウォール街史上最大の損失を出したが、それでもなお、みずからが稼いだ数千万ドルの金を懐に入れることが許された。ウォール街の大手投資銀行のCEOたちもまた、博打の負け側にいた。その全員が、ひとりの例外もなく、自分の経営する企業を破産に追い込むか、さもなければ、アメリカ政府の介入によって破産を免れた。そして、全員がやはり金持ちになった。』
ここの部分を読んで僕は、「一人騙せば詐欺師だけど、国民を騙せば天才」というフレーズが思い浮かびました。
この部分に続く著者のコメントが、かなり好きです。
『賢い決断を下す必要がないとしたら、つまり、お粗末な決断を下しても金持ちになれるとしたら、どれくらいの数の人間が賢い決断を下そうとするだろう?』
確かにその通りですよね。ウォール街の常識は世間の非常識ってことですね。
本書を読んで僕が得た教訓は二つ。
一つは、自分の中の違和感を、決して「空気に流される」ことで手放すな、ということ。たとえどれだけ実績のある人間が言っても、どれだけ権威のある人間が言っても、自分の上司が言っても、あるいは国民全員が言っても、それに自分が納得できなければ、その違和感を手放してはいけない、ということだ。本書では、世界経済の破綻に賭けた三人は、周囲からまったく理解されなかったし、人によってはとんでもない仕打ちに遭ったのもいたけど、でも結果的には彼らの方が正しかった。もちろん、自分が狂っているだけなのかもしれない、という問いかけはし続けなくてはいけないけど。
そしてもう一つは、国民全員を騙す詐欺もあるんだぞ、ということ。この作品では、格付け機関の最大手であるムーディーズをこき下ろしている。それは、もはやどんな業界のどんな権威付けも、無条件に信頼出来るものではない、ということだろうと思う。何もかもすべて自分で判断するのは、ほとんど不可能だ。しかし、出来る限り自分で判断できるようにすべきだし、それをしたくないということであれば、それに手を出すべきではない、と思う。これは株取引だけの話じゃなくて、例えば僕はクレジットカードを持ってないけど、クレジットカードがどんな仕組みでどういう背景の中で成立していて、どうなったら破綻するのか、ということをちゃんと知らないままではやっぱり怖いなって思うんですね。絶対のものなんてない。無闇に恐れても仕方ないけど、だからこそ、それについてきちんと知ろうとする態度が大事なのだろう、と思いました。
経済の部分の話が難しすぎて内容にうまく触れられないんだけど、人間の話はとても面白いし、ウォール街の狂乱の雰囲気を感じられるという点でも凄く面白いです。経済的な部分が理解できる人には、もっともっと楽しめるんだろうなと思います。是非読んでみてください。
マイケル・ルイス「世紀の空売り 世界経済の破綻に賭けた男たち」