「マルホランド・ドライブ」を観に行ってきました
いやー、久々にまったく分からず、ネタバレサイトを熟読した。しかし、まったく分からなかったのだけど、観ている間も面白かったし、ネタバレサイトを読んで改めて面白かった。そんな、なかなか不思議な作品である。
しかし、僕が読んだネタバレサイトの解釈も「1つの仮説」なのだろうけど、「なるほどなぁ」と思ったのと同時に、「それはまた凄い構成の物語だな」とも感じた。ただそういう作品に仕上がったのには、1つ外的な要因もあったようだ。本作は元々「TVシリーズ」として制作が決まり、パイロット版も作られたが、TVシリーズの話はお蔵入りとなった。その後、フランスの映画配給会社の資金提供を得て映画化されたらしいのだが、元々TVシリーズのつもりで考えていたため、「映画の尺に収めるためのオチ」みたいなものを考えていなかったそうだ(と、僕が読んだネタバレサイトには書いてあった)。そのため、パイロット版として既に撮影済みだった部分から「どうやって物語を展開できるか」と考えて、本作のような話になった、らしい。そうだとしたら、「よくもまあ、後付でこんな物語を作り上げたものだな」とも感じる。
しかし、やっぱり凄いなと思うのは、「ストーリーが全然理解できないのに面白い」と感じたことだ。僕は本作を、1週間限定のリバイバル上映で観たのだが、劇場に入る前に特典のチラシをもらった。裏面には、「デイヴィッド・リンチによる10個のヒント」という文章があり、いつものことながら『マルホランド・ドライブ』について何も知らずに映画館に行った僕は、そこで初めて「なるほど、読み解きの難しい映画なのだな」と理解した。そこで、鑑賞前にその10個のヒントを読んで、なるべく物語を理解しようと思いながら観ていたのである。ちなみに、この10個のヒントは今、ウィキペディアで見れる。
さて、にも拘らず、物語の後半に差し掛かっても、一向に「物語の核を掴めそうな気がしない」という状態だった。メインとなる筋は2つあって、1つは「カナダからやってきた、ハリウッドで女優になるためにしばらく叔母の家に住むことになったベティが、何故か叔母の家にいた、記憶を失ってしまったという謎の女性リタの記憶を取り戻す手助けをする」というもの。そしてもう1つは、「アダムという映画監督が、主演女優の選定を強要されたり、妻に不倫されたりする」という話だ。そして、この大筋の2つの話さえ、一向に繋がっていかない。
さらに作中には、「夢で出てきたカフェを見に来た男性」や「明らかに服の上から乳首が透けた女性が男2人と会話する場面」などが描かれるのだが、それらも結局何がなんだか全然分からない。大筋の2つの物語は、一応「展開が存在するパート」という感じがするが、それ以外の映像は「断片の羅列」みたいな感じで、物語の中に収まる場所が存在するように思えないのだ。とにかく意味不明だった。
でも、にも拘らず、「面白い」という感覚になるんだよなぁ。これが不思議だった。何が面白かったのかは正直よく分からないし上手く説明できないのだが、「ストーリーが意味不明なのに全然観てられるなぁ」と感じた。まあそれは、主演を務めたナオミ・ワッツとローラ・ハリングのビジュアルの強さも関係しているかもしれないが。
さて、映画を観ても自力では何も分からなかったのだが、ネタバレサイトを読んで、「なるほど、そういう理由でああいう描写が出てくるのか!」と納得していく過程もまた面白い。特に、個人的に一番納得できたのが、「アダムが主演女優の選定を強制される」という描写。本作では、この点に関する描写がかなり出てくるのだけど、正直「何なんだこれは?」としか思えなかった。しかし、「ある人物の想い」を知ることで、「なるほど、だったらそういう描写になるよな!」と納得できたのである。正直、「単に訳の分からないシーンを描いているだけ」にしか思っていなかったので、この点にちゃんと説明が付くのは驚きだった。
他にもネットで調べると色んな人が色んなことを書いているので調べてみるといいだろう。僕は正直、「考察の入口」さえ潜れなかったので、他人の考察を読んで回るぐらいしか出来ないのだが。『TENET』や『鳩の撃退法』では、割と自分なりにしっくり来る仮説をネタバレサイトを読む前に構築出来たので、本作『マルホランド・ドライブ』でそれが出来なかったのは残念だった。でも、これはマジで無理だなぁ。自力でたどり着けた気がしない。ただ、この映画の構成は見事だったし、前例ももしかしたらあったりするのかもしれないけど(例えば小説などで)、だとしても本作は、そんなアクロバティックな構成をかなり見事に乗りこなした作品と言って良いだろうと思う。
僕はあまり同じ映画を2回以上観たりしないのだけど、本作は、「繰り返し観たい」という気になるのも分かるなと思う。世の中にある「もう一度観たくなる!」的な作品って結局、「ネタ」だけで引っ張ってるみたいなところがあるから、ネタが割れてしまうと「もう一度観よう」という気分にはならないことも多い(これは小説も同じ)。ただ本作は、「よく分からないけど面白い」という感覚をもたらす作品であるため、繰り返しの鑑賞に耐え得るだろうなと思う。考察したい人は何度も観て色んな描写にヒントを探すだろうし、そうでない人も、映像や役者など様々な要素を目当てに何度も観たい気分になるだろう。
そんなわけで、久々にまったく理解できない意味不明な映画だったが、観て良かったと思える非常に魅力的な作品だった。
「マルホランド・ドライブ」を観に行ってきました
しかし、僕が読んだネタバレサイトの解釈も「1つの仮説」なのだろうけど、「なるほどなぁ」と思ったのと同時に、「それはまた凄い構成の物語だな」とも感じた。ただそういう作品に仕上がったのには、1つ外的な要因もあったようだ。本作は元々「TVシリーズ」として制作が決まり、パイロット版も作られたが、TVシリーズの話はお蔵入りとなった。その後、フランスの映画配給会社の資金提供を得て映画化されたらしいのだが、元々TVシリーズのつもりで考えていたため、「映画の尺に収めるためのオチ」みたいなものを考えていなかったそうだ(と、僕が読んだネタバレサイトには書いてあった)。そのため、パイロット版として既に撮影済みだった部分から「どうやって物語を展開できるか」と考えて、本作のような話になった、らしい。そうだとしたら、「よくもまあ、後付でこんな物語を作り上げたものだな」とも感じる。
しかし、やっぱり凄いなと思うのは、「ストーリーが全然理解できないのに面白い」と感じたことだ。僕は本作を、1週間限定のリバイバル上映で観たのだが、劇場に入る前に特典のチラシをもらった。裏面には、「デイヴィッド・リンチによる10個のヒント」という文章があり、いつものことながら『マルホランド・ドライブ』について何も知らずに映画館に行った僕は、そこで初めて「なるほど、読み解きの難しい映画なのだな」と理解した。そこで、鑑賞前にその10個のヒントを読んで、なるべく物語を理解しようと思いながら観ていたのである。ちなみに、この10個のヒントは今、ウィキペディアで見れる。
さて、にも拘らず、物語の後半に差し掛かっても、一向に「物語の核を掴めそうな気がしない」という状態だった。メインとなる筋は2つあって、1つは「カナダからやってきた、ハリウッドで女優になるためにしばらく叔母の家に住むことになったベティが、何故か叔母の家にいた、記憶を失ってしまったという謎の女性リタの記憶を取り戻す手助けをする」というもの。そしてもう1つは、「アダムという映画監督が、主演女優の選定を強要されたり、妻に不倫されたりする」という話だ。そして、この大筋の2つの話さえ、一向に繋がっていかない。
さらに作中には、「夢で出てきたカフェを見に来た男性」や「明らかに服の上から乳首が透けた女性が男2人と会話する場面」などが描かれるのだが、それらも結局何がなんだか全然分からない。大筋の2つの物語は、一応「展開が存在するパート」という感じがするが、それ以外の映像は「断片の羅列」みたいな感じで、物語の中に収まる場所が存在するように思えないのだ。とにかく意味不明だった。
でも、にも拘らず、「面白い」という感覚になるんだよなぁ。これが不思議だった。何が面白かったのかは正直よく分からないし上手く説明できないのだが、「ストーリーが意味不明なのに全然観てられるなぁ」と感じた。まあそれは、主演を務めたナオミ・ワッツとローラ・ハリングのビジュアルの強さも関係しているかもしれないが。
さて、映画を観ても自力では何も分からなかったのだが、ネタバレサイトを読んで、「なるほど、そういう理由でああいう描写が出てくるのか!」と納得していく過程もまた面白い。特に、個人的に一番納得できたのが、「アダムが主演女優の選定を強制される」という描写。本作では、この点に関する描写がかなり出てくるのだけど、正直「何なんだこれは?」としか思えなかった。しかし、「ある人物の想い」を知ることで、「なるほど、だったらそういう描写になるよな!」と納得できたのである。正直、「単に訳の分からないシーンを描いているだけ」にしか思っていなかったので、この点にちゃんと説明が付くのは驚きだった。
他にもネットで調べると色んな人が色んなことを書いているので調べてみるといいだろう。僕は正直、「考察の入口」さえ潜れなかったので、他人の考察を読んで回るぐらいしか出来ないのだが。『TENET』や『鳩の撃退法』では、割と自分なりにしっくり来る仮説をネタバレサイトを読む前に構築出来たので、本作『マルホランド・ドライブ』でそれが出来なかったのは残念だった。でも、これはマジで無理だなぁ。自力でたどり着けた気がしない。ただ、この映画の構成は見事だったし、前例ももしかしたらあったりするのかもしれないけど(例えば小説などで)、だとしても本作は、そんなアクロバティックな構成をかなり見事に乗りこなした作品と言って良いだろうと思う。
僕はあまり同じ映画を2回以上観たりしないのだけど、本作は、「繰り返し観たい」という気になるのも分かるなと思う。世の中にある「もう一度観たくなる!」的な作品って結局、「ネタ」だけで引っ張ってるみたいなところがあるから、ネタが割れてしまうと「もう一度観よう」という気分にはならないことも多い(これは小説も同じ)。ただ本作は、「よく分からないけど面白い」という感覚をもたらす作品であるため、繰り返しの鑑賞に耐え得るだろうなと思う。考察したい人は何度も観て色んな描写にヒントを探すだろうし、そうでない人も、映像や役者など様々な要素を目当てに何度も観たい気分になるだろう。
そんなわけで、久々にまったく理解できない意味不明な映画だったが、観て良かったと思える非常に魅力的な作品だった。
「マルホランド・ドライブ」を観に行ってきました
「ブラッド・スウェット&ティアーズに何が起こったのか?」を観に行ってきました
これはなかなか興味深い映画だった。例によって「ブラッド・スウェット&ティアーズ(BS&T)」というロックバンドのことは知らなかったが、「米ソ冷戦」を背景に、「『鉄のカーテン』を越えた初のロックバンド」と称された彼らの数奇な運命が映し出される。しかも、「当時は言えなかった事情」により、彼らは「何故そんなことをしたのか?」を説明できなかったため、悔しい思いをしたそうだ。「アメリカのビートルズ」とも呼ばれ、「画期的なホーンアレンジ」「ジェネレーションギャップの時代に世代を越えられるバンド」とも呼ばれた超人気ロックバンドは、政治の渦に巻き込まれたために、その実力が大いに評価され、世間からも人気を集めていたにも拘らず、短命に終わってしまった。
さて、「『鉄のカーテン』を越えた」という表現からも分かる通り、彼らは「共産主義国」だった東欧の3国、具体的にはユーゴスラビア、ルーマニア、ポーランドに西側のロックバンドとして初めてコンサートを行ったのである。そしてこの出来事が、大人気だった彼らの運命を大きく変えてしまうことになった。
本作は冒頭で、「コンサート中やそこに至るまでの大変な出来事」についてのダイジェストがまとめられる。「空港を出ると銃を持った兵士がいた」「まるでスパイ映画のようだった」「客席に警察犬を放し、観客を追い払おうとしていた」など、ちょっと信じがたい話が色々と出てくる。これらは、後で分かるが、ほぼすべてルーマニアでのライブでの出来事である。
その後、「BS&Tが何故東欧ツアーに行くことになったのか?」という経緯を説明する流れの中に、「ラリー・ゴールドブラッドという謎のマネージャーの存在」や「BS&Tの結成秘話とアル・クーパーの脱退」「東欧ツアーに至るまでにいかにしてBS&Tは大人気ロックバンドになったのか?」みたいな話が挿入されていくことになる。どの話も、東欧ツアー中の出来事ほどではないものの面白く、エピソードに事欠かないバンドだなと感じた。
というわけでまずは、本作の最も核心的な部分である東欧ツアーの話をざっとしていくことにしよう。
先ほど触れた通り、このツアーの背景には米ソ冷戦の存在がある。1968年にニクソン大統領は「ベトナム戦争からの撤退」を掲げて支持を集めたが、結局戦争を悪化させただけであり、そしてベトナム戦争はアメリカ国民を分裂・分断していく。そしてこのような時代背景があったのだろう、アメリカでは「カウンターカルチャー」という、「高級文化に抵抗する文化」が広まっていくことになる。BS&Tがデビューし人気を集めたのも、そんなカウンターカルチャーの渦中であり、彼らはまさに「カウンターカルチャーの旗手」のような存在としても受け入れられていたのである。
またアメリカは、「米ソ冷戦において、アメリカが軍事化し冷酷な印象になっていくこと」を危惧していたそうだ。そこで国務省は、1954年から「他国の人にアメリカの芸術に触れてもらう」という国際文化交流プログラムを始めた。当初はクラシックがメインだったが、その後ジャズも組み込まれていく。そしてBS&Tは、当時誰もやっていなかった「ジャズとロックを融合させる」ことに成功したバンドであり、当時アメリカで大人気だったという事実も合わせ、彼らも「アメリカ文化に触れてもらう」という名目に合致すると見なされたのだろうと思う。
しかし、実はそれだけではなかった。BS&Tが東欧ツアーに”行かざるを得なかった”のには、もっと大きな理由が存在したのだ。
9人編成のバンドでボーカルを務めるデヴィッドはカナダ人で、アメリカのグリーンカードを取得していた。しかしある時、国が彼のグリーンカードを取り上げようとしたのだそうだ。カナダにいる時の犯罪歴などが問題視されたのだという。しかし、デヴィッドのグリーンカードが奪われたら、BS&Tは成り立たない。実はデヴィッドは、先程名前を出したアル・クーパーが抜けた後でオーディションによって選ばれた人物であり、彼の歌声を聴いた瞬間に、バンドメンバーが皆「こいつだ!」と言ったぐらい、バンドには欠かせない存在なのだ。アル・クーパーがいた頃に出したファーストアルバムは、そのクオリティの高さから称賛されたが、商業的には上手くいかなかった。しかしデヴィッドに変わってから出したセカンドアルバムは、当時のアルバムの販売記録を更新する凄まじい売上を記録したという。
つまりBS&Tは、なんとしてもデヴィッドのグリーンカード剥奪を阻止しなければならなかったのだ。実はこの事実こそ、当時口止めされていたものだった。この事実があったせいで、彼らは東欧ツアーに行かざるを得なくなったのだが、その説明はしてはいけないと言われていたため、世間的には「BS&Tが望んで東欧ツアーへ行った」ような印象になってしまい、それが帰国後、彼らを厳しい状況へと追い詰めることにもなった。
さて、ここで登場するのが、先述したマネージャーのラリー・ゴールドブラッドである。彼が何故マネージャーに就任したのかの説明は駆け足すぎてよく分からなかった、ある人物がバンドメンバーに「こいつをマネージャーに」と言った時、ラリーは刑務所にいた。しかし、とにかく才覚があったのだろう、BS&Tのマネージャーに収まり、そして彼はデヴィッドのグリーンカードを守るために国務省と取引をした。
それが東欧ツアーだったのだ。つまりBS&Tは「グリーンカードを剥奪されたデヴィッドを失って解散する」か「嫌だけど東欧ツアーへ行き、BS&Tを守るか」という2択を迫られていたのだ。こうして彼らは、東欧ツアーへと向かうことになったのだ。
さて、帰国後の記者会見の中で、記者から「共産主義国の独裁政治は、アメリカのプロパガンダでしたか?」と質問されていた。他にも色々と聞かれていたのだが、それらをメンバーの1人は「敵対的な質問」と表現していた。先の質問は、表面的には「『鉄のカーテン』の向こうでは本当に独裁政治なんて行われてるの? アメリカが冷戦を煽るために嘘ついてるだけじゃないの?」という意図が込められているのだが、さらに言えば、「国務省のお抱えで東欧に行ったあんたらは、アメリカの犬なんだろ? だから、本当は独裁政治なんてないのに『独裁政治が行われていた』と言ってるんだろ?」みたいな意図が含まれていたのだと思う。恐らくそれを捉えて「敵対的な質問」と表現していたのだろう。
まあそれはともかく、記者からそんな質問が出るぐらい、アメリカでは「鉄のカーテン」の向こう側のことはよく分かっていなかったと言っていいと思う。そして彼らは、そんな「『鉄のカーテン』の向こう側の現実」を見てしまったのである。
最初に訪れたユーゴスラビアは、大きな混乱はなかった。いや、観客が熱狂したり、そうかと思えばつまらなくて帰ったりみたいなことはあったが、2ヶ国目のルーマニアと比べれば大したことはない。
ルーマニアでのライブは、大いに盛り上がった。西側の文化がまず入ってこないルーマニアでは、あまりに画期的なイベントだったのだ。本作には、このライブを観に行った観客のインタビューも収録されているのだが、「単なるコンサートではなく、『国境の向こうの大いなる自由』を教えてくれた」「チェコのように解放される、このコンサートはそこへと向かっているという証なんだ、と思っていたが、そうではなかった」と、「単に音楽を聞きに行った」というのではない想いを抱く観客が多かったそうなのだ。
そして、盛り上がりすぎたが故に、問題が起こった。ルーマニアの時の政権が危険視したのだ。まあ、先の観客の証言を踏まえれば、政権の危惧もあながち間違っていなかったと言えるだろう。観客の盛り上がりは、もちろんBS&Tのライブが素晴らしかったことによるものだが、同時に、「ずっと抑圧されていて自身の感情を表に出せない」という日常に対する不満を爆発させたものでもあり、それが行き過ぎれば抑えきれない暴動のようなものに発展してしまう可能性もあっただろうと思う。
そのためルーマニアは、初日を終えたBS&Tに、「今後ライブを行う場合の条件」を提示した。「リズムを控えめに」「音量を下げろ」「服を脱がない」「長髪のスタッフはステージ下に」など色んな話がある中、「楽器を客席に投げない」というものがあった。これは、BS&Tの『微笑みの研究』という曲が関係している。この曲は、ドラを3回鳴らし、4回目のタイミングでドラを客席に投げ、それが落ちた音を合図に楽器の演奏が始まる、という始まり方をするのだ。それを止めろというわけだ。BS&Tは、とりあえずOKした。
しかし、ロックバンドである彼らが、そんな話を守るはずもない。彼らはやはり、ドラを客席に投げ捨てたのだ。しかし、それでもライブは中止にはされなかったようだ。それどころか、アンコールを求める客が帰らず、叫んだり歌ったりして興奮していた。そこで警察は、警察犬を客席に放ち、観客を帰らせようとしたというわけだ。
さて、この2度目のライブの様子は写真しか存在しない(映像の撮影は禁止というのもライブ継続の条件だった)のだが、東欧ツアーの様子は概ね映像に残っている。それは、「ドキュメンタリー映画の撮影隊」も同行していたからだ。ライブツアーは、国務省のスタッフも含めて57人だったそうだが、その中に撮影隊もいたというわけだ。そして、ルーマニアから3ヶ国目のポーランドへと移動する時に、また信じがたい出来事が起こる。
ルーマニアの空港スタッフは、撮影済みのフィルムをX線検査機に通せというのだ。もちろん、撮影したフィルムをダメにしようとしてのことだ。2日目の映像はないわけだが、初日も観客を抑え込むために警察が動いており、そういう様子が映っているとマズいと考えたわけだ。しかし実際には、ルーマニアで撮影した映像もきちんと残っている。一体どうなっているのか?
なんと、ライブが終わった後、彼らはフィルムをホテルではなくアメリカ大使館に持っていったというのだ。そしてそこで、「撮影済みのフィルム」と「未使用のフィルム」を入れ替え、空港には「未使用のフィルム」を持っていったのである。「撮影済みのフィルム」は大使館の冷蔵庫で保管し、その後回収したというから、本当にスパイ映画みたいな話である。ちなみに、ポーランドでのライブは大成功だったらしく、メンバーの1人は「素晴らしい観客だった」と語っていた。
しかし彼らは帰国後、先述した通り、「アメリカの犬」みたいな扱いをされてしまうことになる。「国務省の言いなりで東欧までライブに行ったダサい奴ら」みたいな感じなのだろう。メンバーの1人は、「政治的に批判される時は大体左派は右派のどちらかから攻撃を受けるものだが、僕らは両方からだった」みたいに話していた。ニクソン大統領への不満が高まっていたのだろうし、メンバーが帰国後の記者会見で「『国民』と『政府』の二項対立にしたがる」みたいなことを言っていたが、とにかくそういう状況だったんだろうなと思う。そんなわけで、彼らは「国の言いなりになった」ということであらゆる政治思想の持ち主から嫌われたという。ライブ中に馬糞が投げつけられたこともあったそうだ。
しかし、それはまだ仕方ないと言えるかもしれないが、決定的にダメだったのが、「カウンターカルチャー層からの支持を失ってしまったこと」である。「カウンターカルチャー」は「高級文化」に対するアンチテーゼなわけで、となれば、「国のお墨付きでライブに行く」などもっての外だろう。彼らは東欧ツアー以前に、ラスベガスのシーザーズパレスで行われたライブに出演した際にも同じようにカウンターカルチャー層からの支持を失った経験がある。だから、東欧ツアーに行くことで同じことが起こると理解できていただろう。それでも彼らは、デヴィッドのグリーンカードを守るために東欧ツアーに行くしかなかったわけだが、帰国後やはり、カウンターカルチャー層からの不支持を目の当たりにしたというわけだ。
こうして彼らは、一躍時の人となりながら、「冷戦」という、ロックバンドとは最もかけ離れているだろう時代背景に巻き込まれたために、その後長く活躍するはずだった時間を早々に失ってしまうことになったのである。メンバーの1人は、自身の身に起こったことを「フェアじゃない」「ハメられた」と話していたが、そう言いたくなるのも当然だと思う。「不運」という言葉では語れないが、実に不運だったと思う。
ちなみに、帰国後のコンサートの際に、アビー・ホフマンという人物がコンサート会場の前で「血と汗とデタラメ野郎」というビラを配っていたという話が出てきた。「アビー・ホフマン」という名前を聞いて、「映画『シカゴ7裁判』に出てきた気がする」と思ったのだが、調べてみるとやはりそうだった。彼は、自身の主張を広く伝えるためにBS&Tのライブが利用出来ると考えたのだそうだ。ちなみにある人物は、「アビーは写真の撮り方が分かっていた」「インスタグラムが出来る前に存在したインスタアーティストだ」みたいに表現していた。
また、本作にはBS&Tのドキュメンタリー映画のために東欧まで同行した監督も出演していたが、結局ドキュメンタリー映画はお蔵入りになってしまったと話していた。編集や上映には国務省の許可が必要で、その国務省は「アメリカ・東欧のどちらでも上映できる内容に」という指示を出したため、「そりゃあ無理だ」となったそうだ。まあ確かに、ドキュメンタリー映画としては、「東欧諸国が『出してほしくない』と感じる映像」にこそ価値があるわけだが、それが使えないのだから、監督が言うように、「単なる旅行記。しかもつまらない」みたいな内容になってしまうだろう。まあ、本作『ブラッド・スウェット&ティアーズに何が起こったのか?』でようやくその映像が日の目を見たわけで、それで良かったとするしかないだろう。
音楽のことはよく分からないが、彼らがこんな騒動に巻き込まれなければ、クイーンのように「今でも名前が残るミュージシャン」になれていたかもしれないわけで、本当に残酷だなと思うし、だからこそ、そんな彼らの数奇な人生を映し出した本作は面白いとも言える。
「ブラッド・スウェット&ティアーズに何が起こったのか?」を観に行ってきました
さて、「『鉄のカーテン』を越えた」という表現からも分かる通り、彼らは「共産主義国」だった東欧の3国、具体的にはユーゴスラビア、ルーマニア、ポーランドに西側のロックバンドとして初めてコンサートを行ったのである。そしてこの出来事が、大人気だった彼らの運命を大きく変えてしまうことになった。
本作は冒頭で、「コンサート中やそこに至るまでの大変な出来事」についてのダイジェストがまとめられる。「空港を出ると銃を持った兵士がいた」「まるでスパイ映画のようだった」「客席に警察犬を放し、観客を追い払おうとしていた」など、ちょっと信じがたい話が色々と出てくる。これらは、後で分かるが、ほぼすべてルーマニアでのライブでの出来事である。
その後、「BS&Tが何故東欧ツアーに行くことになったのか?」という経緯を説明する流れの中に、「ラリー・ゴールドブラッドという謎のマネージャーの存在」や「BS&Tの結成秘話とアル・クーパーの脱退」「東欧ツアーに至るまでにいかにしてBS&Tは大人気ロックバンドになったのか?」みたいな話が挿入されていくことになる。どの話も、東欧ツアー中の出来事ほどではないものの面白く、エピソードに事欠かないバンドだなと感じた。
というわけでまずは、本作の最も核心的な部分である東欧ツアーの話をざっとしていくことにしよう。
先ほど触れた通り、このツアーの背景には米ソ冷戦の存在がある。1968年にニクソン大統領は「ベトナム戦争からの撤退」を掲げて支持を集めたが、結局戦争を悪化させただけであり、そしてベトナム戦争はアメリカ国民を分裂・分断していく。そしてこのような時代背景があったのだろう、アメリカでは「カウンターカルチャー」という、「高級文化に抵抗する文化」が広まっていくことになる。BS&Tがデビューし人気を集めたのも、そんなカウンターカルチャーの渦中であり、彼らはまさに「カウンターカルチャーの旗手」のような存在としても受け入れられていたのである。
またアメリカは、「米ソ冷戦において、アメリカが軍事化し冷酷な印象になっていくこと」を危惧していたそうだ。そこで国務省は、1954年から「他国の人にアメリカの芸術に触れてもらう」という国際文化交流プログラムを始めた。当初はクラシックがメインだったが、その後ジャズも組み込まれていく。そしてBS&Tは、当時誰もやっていなかった「ジャズとロックを融合させる」ことに成功したバンドであり、当時アメリカで大人気だったという事実も合わせ、彼らも「アメリカ文化に触れてもらう」という名目に合致すると見なされたのだろうと思う。
しかし、実はそれだけではなかった。BS&Tが東欧ツアーに”行かざるを得なかった”のには、もっと大きな理由が存在したのだ。
9人編成のバンドでボーカルを務めるデヴィッドはカナダ人で、アメリカのグリーンカードを取得していた。しかしある時、国が彼のグリーンカードを取り上げようとしたのだそうだ。カナダにいる時の犯罪歴などが問題視されたのだという。しかし、デヴィッドのグリーンカードが奪われたら、BS&Tは成り立たない。実はデヴィッドは、先程名前を出したアル・クーパーが抜けた後でオーディションによって選ばれた人物であり、彼の歌声を聴いた瞬間に、バンドメンバーが皆「こいつだ!」と言ったぐらい、バンドには欠かせない存在なのだ。アル・クーパーがいた頃に出したファーストアルバムは、そのクオリティの高さから称賛されたが、商業的には上手くいかなかった。しかしデヴィッドに変わってから出したセカンドアルバムは、当時のアルバムの販売記録を更新する凄まじい売上を記録したという。
つまりBS&Tは、なんとしてもデヴィッドのグリーンカード剥奪を阻止しなければならなかったのだ。実はこの事実こそ、当時口止めされていたものだった。この事実があったせいで、彼らは東欧ツアーに行かざるを得なくなったのだが、その説明はしてはいけないと言われていたため、世間的には「BS&Tが望んで東欧ツアーへ行った」ような印象になってしまい、それが帰国後、彼らを厳しい状況へと追い詰めることにもなった。
さて、ここで登場するのが、先述したマネージャーのラリー・ゴールドブラッドである。彼が何故マネージャーに就任したのかの説明は駆け足すぎてよく分からなかった、ある人物がバンドメンバーに「こいつをマネージャーに」と言った時、ラリーは刑務所にいた。しかし、とにかく才覚があったのだろう、BS&Tのマネージャーに収まり、そして彼はデヴィッドのグリーンカードを守るために国務省と取引をした。
それが東欧ツアーだったのだ。つまりBS&Tは「グリーンカードを剥奪されたデヴィッドを失って解散する」か「嫌だけど東欧ツアーへ行き、BS&Tを守るか」という2択を迫られていたのだ。こうして彼らは、東欧ツアーへと向かうことになったのだ。
さて、帰国後の記者会見の中で、記者から「共産主義国の独裁政治は、アメリカのプロパガンダでしたか?」と質問されていた。他にも色々と聞かれていたのだが、それらをメンバーの1人は「敵対的な質問」と表現していた。先の質問は、表面的には「『鉄のカーテン』の向こうでは本当に独裁政治なんて行われてるの? アメリカが冷戦を煽るために嘘ついてるだけじゃないの?」という意図が込められているのだが、さらに言えば、「国務省のお抱えで東欧に行ったあんたらは、アメリカの犬なんだろ? だから、本当は独裁政治なんてないのに『独裁政治が行われていた』と言ってるんだろ?」みたいな意図が含まれていたのだと思う。恐らくそれを捉えて「敵対的な質問」と表現していたのだろう。
まあそれはともかく、記者からそんな質問が出るぐらい、アメリカでは「鉄のカーテン」の向こう側のことはよく分かっていなかったと言っていいと思う。そして彼らは、そんな「『鉄のカーテン』の向こう側の現実」を見てしまったのである。
最初に訪れたユーゴスラビアは、大きな混乱はなかった。いや、観客が熱狂したり、そうかと思えばつまらなくて帰ったりみたいなことはあったが、2ヶ国目のルーマニアと比べれば大したことはない。
ルーマニアでのライブは、大いに盛り上がった。西側の文化がまず入ってこないルーマニアでは、あまりに画期的なイベントだったのだ。本作には、このライブを観に行った観客のインタビューも収録されているのだが、「単なるコンサートではなく、『国境の向こうの大いなる自由』を教えてくれた」「チェコのように解放される、このコンサートはそこへと向かっているという証なんだ、と思っていたが、そうではなかった」と、「単に音楽を聞きに行った」というのではない想いを抱く観客が多かったそうなのだ。
そして、盛り上がりすぎたが故に、問題が起こった。ルーマニアの時の政権が危険視したのだ。まあ、先の観客の証言を踏まえれば、政権の危惧もあながち間違っていなかったと言えるだろう。観客の盛り上がりは、もちろんBS&Tのライブが素晴らしかったことによるものだが、同時に、「ずっと抑圧されていて自身の感情を表に出せない」という日常に対する不満を爆発させたものでもあり、それが行き過ぎれば抑えきれない暴動のようなものに発展してしまう可能性もあっただろうと思う。
そのためルーマニアは、初日を終えたBS&Tに、「今後ライブを行う場合の条件」を提示した。「リズムを控えめに」「音量を下げろ」「服を脱がない」「長髪のスタッフはステージ下に」など色んな話がある中、「楽器を客席に投げない」というものがあった。これは、BS&Tの『微笑みの研究』という曲が関係している。この曲は、ドラを3回鳴らし、4回目のタイミングでドラを客席に投げ、それが落ちた音を合図に楽器の演奏が始まる、という始まり方をするのだ。それを止めろというわけだ。BS&Tは、とりあえずOKした。
しかし、ロックバンドである彼らが、そんな話を守るはずもない。彼らはやはり、ドラを客席に投げ捨てたのだ。しかし、それでもライブは中止にはされなかったようだ。それどころか、アンコールを求める客が帰らず、叫んだり歌ったりして興奮していた。そこで警察は、警察犬を客席に放ち、観客を帰らせようとしたというわけだ。
さて、この2度目のライブの様子は写真しか存在しない(映像の撮影は禁止というのもライブ継続の条件だった)のだが、東欧ツアーの様子は概ね映像に残っている。それは、「ドキュメンタリー映画の撮影隊」も同行していたからだ。ライブツアーは、国務省のスタッフも含めて57人だったそうだが、その中に撮影隊もいたというわけだ。そして、ルーマニアから3ヶ国目のポーランドへと移動する時に、また信じがたい出来事が起こる。
ルーマニアの空港スタッフは、撮影済みのフィルムをX線検査機に通せというのだ。もちろん、撮影したフィルムをダメにしようとしてのことだ。2日目の映像はないわけだが、初日も観客を抑え込むために警察が動いており、そういう様子が映っているとマズいと考えたわけだ。しかし実際には、ルーマニアで撮影した映像もきちんと残っている。一体どうなっているのか?
なんと、ライブが終わった後、彼らはフィルムをホテルではなくアメリカ大使館に持っていったというのだ。そしてそこで、「撮影済みのフィルム」と「未使用のフィルム」を入れ替え、空港には「未使用のフィルム」を持っていったのである。「撮影済みのフィルム」は大使館の冷蔵庫で保管し、その後回収したというから、本当にスパイ映画みたいな話である。ちなみに、ポーランドでのライブは大成功だったらしく、メンバーの1人は「素晴らしい観客だった」と語っていた。
しかし彼らは帰国後、先述した通り、「アメリカの犬」みたいな扱いをされてしまうことになる。「国務省の言いなりで東欧までライブに行ったダサい奴ら」みたいな感じなのだろう。メンバーの1人は、「政治的に批判される時は大体左派は右派のどちらかから攻撃を受けるものだが、僕らは両方からだった」みたいに話していた。ニクソン大統領への不満が高まっていたのだろうし、メンバーが帰国後の記者会見で「『国民』と『政府』の二項対立にしたがる」みたいなことを言っていたが、とにかくそういう状況だったんだろうなと思う。そんなわけで、彼らは「国の言いなりになった」ということであらゆる政治思想の持ち主から嫌われたという。ライブ中に馬糞が投げつけられたこともあったそうだ。
しかし、それはまだ仕方ないと言えるかもしれないが、決定的にダメだったのが、「カウンターカルチャー層からの支持を失ってしまったこと」である。「カウンターカルチャー」は「高級文化」に対するアンチテーゼなわけで、となれば、「国のお墨付きでライブに行く」などもっての外だろう。彼らは東欧ツアー以前に、ラスベガスのシーザーズパレスで行われたライブに出演した際にも同じようにカウンターカルチャー層からの支持を失った経験がある。だから、東欧ツアーに行くことで同じことが起こると理解できていただろう。それでも彼らは、デヴィッドのグリーンカードを守るために東欧ツアーに行くしかなかったわけだが、帰国後やはり、カウンターカルチャー層からの不支持を目の当たりにしたというわけだ。
こうして彼らは、一躍時の人となりながら、「冷戦」という、ロックバンドとは最もかけ離れているだろう時代背景に巻き込まれたために、その後長く活躍するはずだった時間を早々に失ってしまうことになったのである。メンバーの1人は、自身の身に起こったことを「フェアじゃない」「ハメられた」と話していたが、そう言いたくなるのも当然だと思う。「不運」という言葉では語れないが、実に不運だったと思う。
ちなみに、帰国後のコンサートの際に、アビー・ホフマンという人物がコンサート会場の前で「血と汗とデタラメ野郎」というビラを配っていたという話が出てきた。「アビー・ホフマン」という名前を聞いて、「映画『シカゴ7裁判』に出てきた気がする」と思ったのだが、調べてみるとやはりそうだった。彼は、自身の主張を広く伝えるためにBS&Tのライブが利用出来ると考えたのだそうだ。ちなみにある人物は、「アビーは写真の撮り方が分かっていた」「インスタグラムが出来る前に存在したインスタアーティストだ」みたいに表現していた。
また、本作にはBS&Tのドキュメンタリー映画のために東欧まで同行した監督も出演していたが、結局ドキュメンタリー映画はお蔵入りになってしまったと話していた。編集や上映には国務省の許可が必要で、その国務省は「アメリカ・東欧のどちらでも上映できる内容に」という指示を出したため、「そりゃあ無理だ」となったそうだ。まあ確かに、ドキュメンタリー映画としては、「東欧諸国が『出してほしくない』と感じる映像」にこそ価値があるわけだが、それが使えないのだから、監督が言うように、「単なる旅行記。しかもつまらない」みたいな内容になってしまうだろう。まあ、本作『ブラッド・スウェット&ティアーズに何が起こったのか?』でようやくその映像が日の目を見たわけで、それで良かったとするしかないだろう。
音楽のことはよく分からないが、彼らがこんな騒動に巻き込まれなければ、クイーンのように「今でも名前が残るミュージシャン」になれていたかもしれないわけで、本当に残酷だなと思うし、だからこそ、そんな彼らの数奇な人生を映し出した本作は面白いとも言える。
「ブラッド・スウェット&ティアーズに何が起こったのか?」を観に行ってきました
「Cloud クラウド」を観に行ってきました
「きっと意味が分からないだろうなぁ」という想定で観に行ったので別に全然いいのだが、やはりよく分からなかった。
よく分からないというか、「別の惑星で展開される物語」という感じがしたと言ったらいいだろうか。
もちろん、見た目は人間だし、っていうか、菅田将暉や古川琴音、窪田正孝、岡山天音、奥平大兼と知っている俳優が出てくるわけで、当然、見た感じは「人間の物語」なのだが、ただ、登場人物は皆、「人間の理屈」で動いているように見えない。だから、「地球の人間と見た目がそっくりな地球外生命体が存在し、そこで展開されている物語を観ている」と思うほうがしっくり来る。
この物語には、人間はいない。「人間の理屈」では、彼らの行動を捉えきれない。
ただ、個人的にちょっと面白かったのは、菅田将暉演じる吉井良介が、最後の無茶苦茶な展開の中で、唯一「人間っぽくなった」ことだ。他の人物は最後の最後まで人間っぽくないのだが(一瞬だけ出てくるみたいな人物はその限りではないが)、吉井良介だけは、「ある物」を持って駆け回らなければならなくなった時から、急に「人間っぽく」なった。狂った世界の中で、1人だけ目が覚めたみたいな感じがある。それがこの物語の中でどういう意味を持つのかはよく分からないが、印象的だったことは確かだ。
ちなみに、本作を観る前に、菅田将暉がある番組内で、本作監督である黒沢清について語っていたのだが、その話は少し「人間っぽくない」話に関係するかもしれない。菅田将暉曰く、多くの監督は「感情ベースで演出をする」らしいが、黒沢清はそういうことはあまりなく、役者が「この時の役の感情は?」みたいに聞いても、「うーん、どうかな、分かんない」みたいに答えるという。しかし、「動きの演出」はかなりクリアにされるらしく、そしてそれが「不気味さ」を増すようなものなのだそうだ。そういう話を聞くと「人間っぽくない」みたいに見える理由も納得できるような気がする。
本作は、「クラウド」というタイトルらしく「匿名性」みたいなものが物語の背景にある。主人公の吉井は「転売ヤー」として社会に益をもたらさない存在として生きているが、仕入れはともかく、物品を「売る」時には吉井は「ラーテル」という匿名の存在になる。また、そんな吉井が「標的」にされる過程や「狩り」に関わる者たちにも「匿名性」が関係してくると言えるだろう。
ただなんというのか、そんな「根底に流れるテーマ」が、上層にはあまり上がってこない。確かに「物語がこう展開するということは、その陰で『匿名性』に関するあれこれがあったのだろう」みたいな感じにはなるのだが、あくまでもそれは「想像させる部分」であり、物語の中で実際に可視化されることは少ない。
そしてそれよりも、「対面の関係でも『本当の自分』を隠している」みたいな意味での「匿名性」の方が、本作においてはより強く浮き出る要素であるように感じられた。
先ほど「別の惑星に生きる地球外生命体の物語」みたいな話をしたが、本作を「人間の物語」と捉えるならば、「『表の自分』と『本当の自分』は異なり、『本当の自分』は隠れたまま」という風にも受け取れる。登場人物の中には「きっとこれが『表の自分』なのだろう」と感じさせる者も出てくるし、それはそれで「その両者には断絶がある」みたいな描写として機能する。しかし同時に、吉井やその恋人である秋子なんかは、「結局何が『本当』なのかよく分からない」みたいな感じになる。
菅田将暉は意識的に「アホみたいな喋り方」をしている気がするし、秋子を演じた古川琴音は割と過剰に「ミステリアス感」を出しているような印象があった。そして何となくではあるが、「彼らにとってそれは特に『鎧』というわけではない」みたいに感じさせる点もまた興味深い。
「本当の自分」を守るために「表の自分」を「鎧」として機能させるみたいな話は分かりやすいが、吉井にも秋子にも特にそんな雰囲気はない。だから「人間ではない」ように見えるし、さらに言えば、本作の「共感を完全に排除している雰囲気」にも繋がっているのだろう。「共感なんか微塵も狙っていない」と理解できればある意味では受け入れやすくもなるだろうし、そういう感じを突き詰めているところは良かったかなと思う。
しかし、「人間の行動原理なんてそうそう分かるもんじゃない」と思っているし、そういう複雑性みたいなものがあるから人間は面白いとも思うのだけど、それにしても本作は「どうしてそんな行動をしているのか分からない」みたいな人間が多すぎる。特に謎なのは、物語の割と早い段階で吉井に「君はそういう人間じゃない」と言っていた人物。このシーンの「他人のことを理解できていない感」も凄かったが、その後の「えっ?こいつは一体なんでここにいるわけ?」みたいな感じも凄まじかった。ただこの人物も、どちらかと言うと後半の方が「人間っぽい」感じがあって、それもまた奇妙な感想なのではあるが。
しかし何にしても、役者が上手いよなぁ。変な言い方だが、「ストーリーがちゃんとある物語」の場合は、役者の演技が多少下手でもストーリーがちゃんとしてれば楽しめるが、本作のように、ストーリーと言えるようなものがあるんだか無いんだかよく分からない作品の場合は、役者の演技が下手だと致命的だ。その点本作は、とにかく役者が皆上手いので、「人間っぽくない人物」を演じているのに、全体としては成立しているような雰囲気がある。また、ともすれば「感情が見えない下手くそな演技」に見えてしまいかねない演技をしていても「下手」には見えないという部分も大きい。特に吉井を演じた菅田将暉は、「吉井良介」という人物を成立させる絶妙なラインを渡りきっている感じがした。というか、「菅田将暉が演じている」という事実が吉井良介を成立させていると言えるかもしれない。
あと、奥平大兼が演じた役は、マジでまったくリアリティがないのだけど、そんな人物を「ぎりぎりリアルにいるかもしれない」と思わせる方に引き寄せる演技をしていた奥平大兼も良かったなと思う。この佐野って役も難しいよなぁ。ってか本作の役は全部難しいだろう。リアリティが全然ないから、役者も演じるのに苦労したんじゃないかと勝手に想像するんだけど、どうなんだろう。
まあそんなわけで、「共感」とか「納得」とか「爽快」みたいなものを求めて映画を観たい人にはまったくオススメしないが、「なんだかよく分からないけど凄いものを観た気がする」みたいな気分になりたいならオススメである。
「Cloud クラウド」を観に行ってきました
よく分からないというか、「別の惑星で展開される物語」という感じがしたと言ったらいいだろうか。
もちろん、見た目は人間だし、っていうか、菅田将暉や古川琴音、窪田正孝、岡山天音、奥平大兼と知っている俳優が出てくるわけで、当然、見た感じは「人間の物語」なのだが、ただ、登場人物は皆、「人間の理屈」で動いているように見えない。だから、「地球の人間と見た目がそっくりな地球外生命体が存在し、そこで展開されている物語を観ている」と思うほうがしっくり来る。
この物語には、人間はいない。「人間の理屈」では、彼らの行動を捉えきれない。
ただ、個人的にちょっと面白かったのは、菅田将暉演じる吉井良介が、最後の無茶苦茶な展開の中で、唯一「人間っぽくなった」ことだ。他の人物は最後の最後まで人間っぽくないのだが(一瞬だけ出てくるみたいな人物はその限りではないが)、吉井良介だけは、「ある物」を持って駆け回らなければならなくなった時から、急に「人間っぽく」なった。狂った世界の中で、1人だけ目が覚めたみたいな感じがある。それがこの物語の中でどういう意味を持つのかはよく分からないが、印象的だったことは確かだ。
ちなみに、本作を観る前に、菅田将暉がある番組内で、本作監督である黒沢清について語っていたのだが、その話は少し「人間っぽくない」話に関係するかもしれない。菅田将暉曰く、多くの監督は「感情ベースで演出をする」らしいが、黒沢清はそういうことはあまりなく、役者が「この時の役の感情は?」みたいに聞いても、「うーん、どうかな、分かんない」みたいに答えるという。しかし、「動きの演出」はかなりクリアにされるらしく、そしてそれが「不気味さ」を増すようなものなのだそうだ。そういう話を聞くと「人間っぽくない」みたいに見える理由も納得できるような気がする。
本作は、「クラウド」というタイトルらしく「匿名性」みたいなものが物語の背景にある。主人公の吉井は「転売ヤー」として社会に益をもたらさない存在として生きているが、仕入れはともかく、物品を「売る」時には吉井は「ラーテル」という匿名の存在になる。また、そんな吉井が「標的」にされる過程や「狩り」に関わる者たちにも「匿名性」が関係してくると言えるだろう。
ただなんというのか、そんな「根底に流れるテーマ」が、上層にはあまり上がってこない。確かに「物語がこう展開するということは、その陰で『匿名性』に関するあれこれがあったのだろう」みたいな感じにはなるのだが、あくまでもそれは「想像させる部分」であり、物語の中で実際に可視化されることは少ない。
そしてそれよりも、「対面の関係でも『本当の自分』を隠している」みたいな意味での「匿名性」の方が、本作においてはより強く浮き出る要素であるように感じられた。
先ほど「別の惑星に生きる地球外生命体の物語」みたいな話をしたが、本作を「人間の物語」と捉えるならば、「『表の自分』と『本当の自分』は異なり、『本当の自分』は隠れたまま」という風にも受け取れる。登場人物の中には「きっとこれが『表の自分』なのだろう」と感じさせる者も出てくるし、それはそれで「その両者には断絶がある」みたいな描写として機能する。しかし同時に、吉井やその恋人である秋子なんかは、「結局何が『本当』なのかよく分からない」みたいな感じになる。
菅田将暉は意識的に「アホみたいな喋り方」をしている気がするし、秋子を演じた古川琴音は割と過剰に「ミステリアス感」を出しているような印象があった。そして何となくではあるが、「彼らにとってそれは特に『鎧』というわけではない」みたいに感じさせる点もまた興味深い。
「本当の自分」を守るために「表の自分」を「鎧」として機能させるみたいな話は分かりやすいが、吉井にも秋子にも特にそんな雰囲気はない。だから「人間ではない」ように見えるし、さらに言えば、本作の「共感を完全に排除している雰囲気」にも繋がっているのだろう。「共感なんか微塵も狙っていない」と理解できればある意味では受け入れやすくもなるだろうし、そういう感じを突き詰めているところは良かったかなと思う。
しかし、「人間の行動原理なんてそうそう分かるもんじゃない」と思っているし、そういう複雑性みたいなものがあるから人間は面白いとも思うのだけど、それにしても本作は「どうしてそんな行動をしているのか分からない」みたいな人間が多すぎる。特に謎なのは、物語の割と早い段階で吉井に「君はそういう人間じゃない」と言っていた人物。このシーンの「他人のことを理解できていない感」も凄かったが、その後の「えっ?こいつは一体なんでここにいるわけ?」みたいな感じも凄まじかった。ただこの人物も、どちらかと言うと後半の方が「人間っぽい」感じがあって、それもまた奇妙な感想なのではあるが。
しかし何にしても、役者が上手いよなぁ。変な言い方だが、「ストーリーがちゃんとある物語」の場合は、役者の演技が多少下手でもストーリーがちゃんとしてれば楽しめるが、本作のように、ストーリーと言えるようなものがあるんだか無いんだかよく分からない作品の場合は、役者の演技が下手だと致命的だ。その点本作は、とにかく役者が皆上手いので、「人間っぽくない人物」を演じているのに、全体としては成立しているような雰囲気がある。また、ともすれば「感情が見えない下手くそな演技」に見えてしまいかねない演技をしていても「下手」には見えないという部分も大きい。特に吉井を演じた菅田将暉は、「吉井良介」という人物を成立させる絶妙なラインを渡りきっている感じがした。というか、「菅田将暉が演じている」という事実が吉井良介を成立させていると言えるかもしれない。
あと、奥平大兼が演じた役は、マジでまったくリアリティがないのだけど、そんな人物を「ぎりぎりリアルにいるかもしれない」と思わせる方に引き寄せる演技をしていた奥平大兼も良かったなと思う。この佐野って役も難しいよなぁ。ってか本作の役は全部難しいだろう。リアリティが全然ないから、役者も演じるのに苦労したんじゃないかと勝手に想像するんだけど、どうなんだろう。
まあそんなわけで、「共感」とか「納得」とか「爽快」みたいなものを求めて映画を観たい人にはまったくオススメしないが、「なんだかよく分からないけど凄いものを観た気がする」みたいな気分になりたいならオススメである。
「Cloud クラウド」を観に行ってきました
「SONG OF EARTH/ソング・オブ・アース」を観に行ってきました
凄く良かったかというと、そんなことはないのだが(私はこういう淡々とした映像を観ると、どうしても眠気に襲われてしまう)、やはり「映像の圧力」みたいなものが圧倒的だった。雄大・壮大・荘厳、なんと呼んでもいいが、「オルデダーレン」と呼ばれる、世界有数だというフィヨルドの大地の自然が「凄まじい」という感覚をもたらすほどの存在感があり、そして、そこに住む84歳75歳の夫婦の日常もまた、穏やかで力強く、惚れ惚れするような雰囲気があった。
ただ、「壮大な自然を映し出すドキュメンタリー映画」というのは、まあ存在するだろう。自然そのものがメインだったり、あるいはそんな自然に立ち向かう冒険家を映し出すものだったりと種類は色々だろうが、「壮大な自然」という点だけを抜き出すなら、そう特筆すべき点はないだろう。
しかし本作には、この監督にしか撮れない「特異さ」が含まれている。なんとこのフィヨルドの大地は、監督の「故郷」だというのだ。映し出される老夫婦は彼女の両親であり、監督は「壮大な自然をバックに、両親にカメラを向けている」のである。これは、狙って手に入れられるような属性ではないし、この監督ならではの作品と言えるだろう。
監督は作中で、「家を出て30年」と言っていた。それからずっと、夫婦2人で、この「最果ての地」のような場所で暮らしてきたというわけだ。そして、恐らくそれまでもちょくちょく戻っては来ていただろうが、娘が30年ぶりに「実家」へと戻ってきた。娘は両親に「あなたたちのことをもっと知りたい」と、撮影を頼んだそうだ。すると、84歳の父親は、「1年は必要だろうね。そうすれば分かる」と言ったという。
そんなわけで本作は、1年を通した壮大な自然の変化を追う作品に仕上がっている。
84歳の父親は、凄まじく健脚である。彼は、若い人だって上るのに苦労するんじゃないかと思うような岩だらけの斜面や雪道などもすいすい歩いていく。妻は9歳年下なので、普通にしていたら妻の方が歩くのが早くなる。だから父親は、妻といつまでも一緒に歩けるように、鍛錬として毎日歩いているのだそうだ。この夫婦、キャンプファイヤーのような焚き火の傍で音楽に乗せて踊るなど、実に仲がいい。
父親を映し出すカメラは基本的に、ずっとどこかを歩く姿を追っている。父親は、自分でも言っていたが、「立ち止まっていられない」ようだ。歩いているのは「CGみたい」「オンラインゲームの舞台みたい」な、ちょっと現実感を失わせる自然で、そんなところを老人が黙々と歩いている様もまた、現実感が薄い。圧倒的な自然の圧力に押されっぱなしなわけだが、しかしどことなく「変な冗談」を見させられているような気分にもなる。
そして父親は時々、この地でのこれまでの暮らしについてポツリポツリと語る。そのどれもが、50年、100年以上前の話だ。雪崩が起きて親戚の多くが命を落とした、祖父が早くに亡くなったため、父親は11歳で牧場を継がなければならなかった、などなど、厳しい環境の中でどうにか生きてきた、先祖を含めた来歴について語る。雄大な自然をバックに、悠々自適と言っていいだろう日々を送る老人の口から語られる話としてはなかなか違和感がある。しかしその違和感が、「自然は美しいだけではない」という感覚を際立たせてもいるわけで、「視覚情報」との乖離にも意味があるように感じられた。
さてしかし、94分の上映中、「人間が映るシーン」は、僕の体感では3~4割といったところではないかと思う。そして残りは、「ドローンか何かで撮影した雄大な自然」である。繰り返しになるが、この自然が本当に「リアルに存在するとは思えないもの」で、その上でさらに「ここに人が住んでいる」という事実を重ね合わせることで、余計に現実感が失われる感じがある。
自然は、空・雲・川・滝・草原・雪原・凍った海・オーロラなど様々なものが映し出されるのだが、個人的に一番驚いたのは氷河だ。正確に言えば、「画面に氷河が映し出される際の音」である。「ギゴゴゴゴ」みたいな、何がどうなって発されているのか分からない音が、氷河が映るシーンには必ず聞こえた感じがある。それ以外の音は、「自然の音」と聞いてイメージできるものばかりだったが、この氷河だけは、自分の脳内にストックがない音で、その奇妙さにも惹きつけられた。
しかし、「ソング・オブ・アース」というタイトルは絶妙だなと思う。確かに本作は、映像にも圧倒されるが、自然が鳴らす音にも惹きつけられる。その音には「静寂」も含まれる。僕らはもう、「本当の静寂」みたいなものを体験することはなかなか出来ないが、オルデダーレンでの生活では、それが「聴こえる」と言っていいだろう。
本作を観ながら、映画『人生フルーツ』のことを連想したが、鑑賞後に公式HPを観ると、やはりその映画に言及されていた。スケールこそまったく違うものの、『人生フルーツ』で映し出される夫婦と本作の夫婦は、近いものが感じられる。「自然の中に生きる」というよりはむしろ、「自分は一個の自然である」みたいな感覚をまとって生活している雰囲気があるし、その考え方が夫婦で共有されているからこその「穏やかな生活」なのだろう。
さて、作品としては「ここでの生活を娘がどう感じているのか」という話が含まれていなくて正解だと思うが、個人的な興味として、彼女がどのように考えているのかは気になる。彼女は作中で、「今でもここが私の家よ」と言っていたが、果たして、両親のような生活をしたいと思っているだろうか。
僕はどうかと言うと、「60歳を超えたらこういう生活もいいだろうな」という気持ちもありつつ、それはやはり机上の空論で、僕にはきっとこんな生活は出来ないだろうなとも思う。憧れがないわけではないが、やはり僕は都会で雑音に塗れて生きていこう。
「SONG OF EARTH/ソング・オブ・アース」を観に行ってきました
ただ、「壮大な自然を映し出すドキュメンタリー映画」というのは、まあ存在するだろう。自然そのものがメインだったり、あるいはそんな自然に立ち向かう冒険家を映し出すものだったりと種類は色々だろうが、「壮大な自然」という点だけを抜き出すなら、そう特筆すべき点はないだろう。
しかし本作には、この監督にしか撮れない「特異さ」が含まれている。なんとこのフィヨルドの大地は、監督の「故郷」だというのだ。映し出される老夫婦は彼女の両親であり、監督は「壮大な自然をバックに、両親にカメラを向けている」のである。これは、狙って手に入れられるような属性ではないし、この監督ならではの作品と言えるだろう。
監督は作中で、「家を出て30年」と言っていた。それからずっと、夫婦2人で、この「最果ての地」のような場所で暮らしてきたというわけだ。そして、恐らくそれまでもちょくちょく戻っては来ていただろうが、娘が30年ぶりに「実家」へと戻ってきた。娘は両親に「あなたたちのことをもっと知りたい」と、撮影を頼んだそうだ。すると、84歳の父親は、「1年は必要だろうね。そうすれば分かる」と言ったという。
そんなわけで本作は、1年を通した壮大な自然の変化を追う作品に仕上がっている。
84歳の父親は、凄まじく健脚である。彼は、若い人だって上るのに苦労するんじゃないかと思うような岩だらけの斜面や雪道などもすいすい歩いていく。妻は9歳年下なので、普通にしていたら妻の方が歩くのが早くなる。だから父親は、妻といつまでも一緒に歩けるように、鍛錬として毎日歩いているのだそうだ。この夫婦、キャンプファイヤーのような焚き火の傍で音楽に乗せて踊るなど、実に仲がいい。
父親を映し出すカメラは基本的に、ずっとどこかを歩く姿を追っている。父親は、自分でも言っていたが、「立ち止まっていられない」ようだ。歩いているのは「CGみたい」「オンラインゲームの舞台みたい」な、ちょっと現実感を失わせる自然で、そんなところを老人が黙々と歩いている様もまた、現実感が薄い。圧倒的な自然の圧力に押されっぱなしなわけだが、しかしどことなく「変な冗談」を見させられているような気分にもなる。
そして父親は時々、この地でのこれまでの暮らしについてポツリポツリと語る。そのどれもが、50年、100年以上前の話だ。雪崩が起きて親戚の多くが命を落とした、祖父が早くに亡くなったため、父親は11歳で牧場を継がなければならなかった、などなど、厳しい環境の中でどうにか生きてきた、先祖を含めた来歴について語る。雄大な自然をバックに、悠々自適と言っていいだろう日々を送る老人の口から語られる話としてはなかなか違和感がある。しかしその違和感が、「自然は美しいだけではない」という感覚を際立たせてもいるわけで、「視覚情報」との乖離にも意味があるように感じられた。
さてしかし、94分の上映中、「人間が映るシーン」は、僕の体感では3~4割といったところではないかと思う。そして残りは、「ドローンか何かで撮影した雄大な自然」である。繰り返しになるが、この自然が本当に「リアルに存在するとは思えないもの」で、その上でさらに「ここに人が住んでいる」という事実を重ね合わせることで、余計に現実感が失われる感じがある。
自然は、空・雲・川・滝・草原・雪原・凍った海・オーロラなど様々なものが映し出されるのだが、個人的に一番驚いたのは氷河だ。正確に言えば、「画面に氷河が映し出される際の音」である。「ギゴゴゴゴ」みたいな、何がどうなって発されているのか分からない音が、氷河が映るシーンには必ず聞こえた感じがある。それ以外の音は、「自然の音」と聞いてイメージできるものばかりだったが、この氷河だけは、自分の脳内にストックがない音で、その奇妙さにも惹きつけられた。
しかし、「ソング・オブ・アース」というタイトルは絶妙だなと思う。確かに本作は、映像にも圧倒されるが、自然が鳴らす音にも惹きつけられる。その音には「静寂」も含まれる。僕らはもう、「本当の静寂」みたいなものを体験することはなかなか出来ないが、オルデダーレンでの生活では、それが「聴こえる」と言っていいだろう。
本作を観ながら、映画『人生フルーツ』のことを連想したが、鑑賞後に公式HPを観ると、やはりその映画に言及されていた。スケールこそまったく違うものの、『人生フルーツ』で映し出される夫婦と本作の夫婦は、近いものが感じられる。「自然の中に生きる」というよりはむしろ、「自分は一個の自然である」みたいな感覚をまとって生活している雰囲気があるし、その考え方が夫婦で共有されているからこその「穏やかな生活」なのだろう。
さて、作品としては「ここでの生活を娘がどう感じているのか」という話が含まれていなくて正解だと思うが、個人的な興味として、彼女がどのように考えているのかは気になる。彼女は作中で、「今でもここが私の家よ」と言っていたが、果たして、両親のような生活をしたいと思っているだろうか。
僕はどうかと言うと、「60歳を超えたらこういう生活もいいだろうな」という気持ちもありつつ、それはやはり机上の空論で、僕にはきっとこんな生活は出来ないだろうなとも思う。憧れがないわけではないが、やはり僕は都会で雑音に塗れて生きていこう。
「SONG OF EARTH/ソング・オブ・アース」を観に行ってきました
「あの人が消えた」を観に行ってきました
さて、そんなに観ようと思って観たわけではないのだけど、テレビ観てると、死ぬほど番宣してるんで、まあ観とくかと思って観てみた。
全体的な感想としては、「脚本がよく出来てますね」という感じ。ただ、これが難しいのだが、「脚本がよく出来てる」のと「面白い」のとはちょっと違う。そして本作は、決してつまらないわけではないのだけど、「面白い」という感じにはなりにくい気がした。いや、「要素」としては面白い要素は色々あるのだが、「脚本」自体がその「面白い要素」になれているかというと、ちょっと微妙な気がする。脚本は「よく出来てる」が「面白い」かというとちょっとなんとも言えないなぁ。
というのも、物語がちょっとアクロバティックすぎる(まあ、それも捉え方次第ではあるが)ので、「フィクション」としか捉えられないからだ。
「フィクション」でもやはり、「この登場人物には共感できる」「この設定は凄く身近だなぁ」みたいな要素を加えることで「自分ごと」に感じさせれば「面白い」に近づいていく気がするのだけど、本作は、「物語を成立させるための制約条件」が多いので、「自分ごと」みたいな要素を加える余地がない。
例えば、少し前に観てビックリした映画『リバー、流れないでよ』は、「2分間が繰り返される」という、ちょっと観たことのないトリッキーな「制約条件」があったのだが、この作品の場合、その「制約条件」はある意味で「外枠」でしかないので、物語そのものにはさほど影響しない(まったくしないわけではないが)。なので、非常にトリッキーな設定の作品だったけれども、「物語」は「自分ごと」に感じられる要素があったし、だから「良い作品だなぁ」と思えたのだと思う。
しかし本作の場合は、その「制約条件」が「内容そのもの」に絡んでくるので、「そういう物語を展開させるなら、物語のこの部分はマストで固定されないといけない」みたいなものが多い。そういう中で工夫して面白くしているとは思うのだけど、やはりそれでも、「自分ごと」に感じられる要素は決して多くはなく、だから脚本に対しては、「よく出来てる」と思うけど、なかなか「面白い」というところまでいかなかったように思う。
あと、これも「内容そのものに制約条件が存在する」が故の難しさだと思うのだけど、1点、物語としてクリア出来ていないポイントがあると思う。ネタバレにならないように書くのでよく分からないかもしれないが、「小宮がかたる話には無理がある」と思う。というのは、「『丸子が何を知っているか』を知らなければかたれない話」だからだ。この点は恐らく、脚本を担当した監督もきっと理解していたとは思うが、たぶんどうやっても解消できないと思うので「えいやっ!」という感じで目を瞑ることにしたのだろう。エンタメ作品なのでそういう部分をとやかく言うものではないと思うのだけど、こういう「二転三転四転五転」みたいな物語の場合は、「辻褄は合ってるのか?」みたいな部分がどうしても気になってしまう。
さて、というわけで、ネタバレをしないように内容の紹介をしてみよう。
丸子夢久郎は、4年前のコロナ禍でバイトを切られ、学費を滞納するほど生活に困っていた。そんな折、テレビで「コロナ禍でネットショッピングが増え、宅配の需要が増えている」というニュースを見て、「誰かに必要とされたい」という気持ちもあって、八谷運輸で配送ドライバーとして働くことになった。しかし丸子は、仕事が遅いと怒られることが多く、所長からは「次はないからね」と言われている。
配送担当地域はドライバー毎に決まっており、丸子は2週間前から「クレマチス多摩」というマンションを担当することになった。普段から同じ場所に配送していると、住人のことにも詳しくなっていく。ゴミの分別をしない人や、配送の担当になってから一度も自宅にいたことがない人など、色んな人がいるものだ。
さて、八谷運輸で仲良くしている先輩の荒川は、「小説家になろう」というサイトで小説を書いており、以前から「読んでコメントを書いてくれ」と言われていた。仕方なく「ゾンビに転生する」という物語を読み始めるのだが、これがどうにもつまらなかった。しかし、荒川の小説を読んでいる時にたまたま見つけた「スパイ転生」という小説が、もの凄く面白かった。コミヤチヒロという名前で定期的に小説を発表する彼女の作品に、丸子は虜になり、いつしか彼女の小説を読むのが生きがいのようになっていった。
そしてなんと、クレマチス多摩の205号室に「小宮千尋」という住人がいるのである。配達の際、チラッと部屋の奥が視界に入り、そこには「小説家になろう」のページを開いたパソコンが置かれていた。やっぱり、間違いない。コミヤチヒロは、彼女だ。
しかし、クレマチス多摩へと配達を続ける中で、どうにも不穏なことが続いた。そして丸子にはそれが、「205号室の小宮千尋がストーカー被害に遭っている」ようにしか感じられなかったのだ。警察に通報するか? しかし、荒川から「もし違ってたら、所長が黙ってないぞ」と脅される。もっと確実な証拠を手に入れなければ。そう考え、丸子は「配達員」の領域を超え、「小宮千尋がストーカー被害に遭っている証拠」を掴もうとするのだが……。
本作は割と、高橋文哉の良い感じの演技で成立している部分はあるなと思います。高橋文哉演じる丸子は「ちょっとトロいし、弱いっぽいんだけど、『憧れの小説家を守る』ために奮起する」というキャラクターで、「そういうキャラクターじゃないと成立しないシーン」は結構あったように思う。とにかく、「どう考えても一番怪しいのは丸子」なんだけど、その違和感を可能な限り最小限にする役割を高橋文哉がちゃんと担えている感じがあって、そこは良かったなと思う。
あとは北香那と染谷将太の「何を考えているんだかよく分からない表情」も、本作を成立させるためには必要な要素だったなと思う。作品の設定に合ったエンドロールも凝ってて良い。
あと、作品とは全然関係ない話なのだけど、「マジか」と思った話を1つ。「北香那」のことを僕はずっと「きたかや」だと思ってたんだけど、それだとGoogle日本語入力では出ず、「?」と思ってたら、「きたかな」なんですね、この人。で、それはいいんですけど、Filmarksの「あらすじ」には「北香耶」と、そして「出演者」には「北香那」となってて混乱しました。っていうか、公式HPの「STORY」も「北香耶」ってなってるんで、公式がそもそも間違ってるんだろうな、と思うんだけど。まあ、そんなどうでもいい話を最後に書いて終わります。
「あの人が消えた」を観に行ってきました
全体的な感想としては、「脚本がよく出来てますね」という感じ。ただ、これが難しいのだが、「脚本がよく出来てる」のと「面白い」のとはちょっと違う。そして本作は、決してつまらないわけではないのだけど、「面白い」という感じにはなりにくい気がした。いや、「要素」としては面白い要素は色々あるのだが、「脚本」自体がその「面白い要素」になれているかというと、ちょっと微妙な気がする。脚本は「よく出来てる」が「面白い」かというとちょっとなんとも言えないなぁ。
というのも、物語がちょっとアクロバティックすぎる(まあ、それも捉え方次第ではあるが)ので、「フィクション」としか捉えられないからだ。
「フィクション」でもやはり、「この登場人物には共感できる」「この設定は凄く身近だなぁ」みたいな要素を加えることで「自分ごと」に感じさせれば「面白い」に近づいていく気がするのだけど、本作は、「物語を成立させるための制約条件」が多いので、「自分ごと」みたいな要素を加える余地がない。
例えば、少し前に観てビックリした映画『リバー、流れないでよ』は、「2分間が繰り返される」という、ちょっと観たことのないトリッキーな「制約条件」があったのだが、この作品の場合、その「制約条件」はある意味で「外枠」でしかないので、物語そのものにはさほど影響しない(まったくしないわけではないが)。なので、非常にトリッキーな設定の作品だったけれども、「物語」は「自分ごと」に感じられる要素があったし、だから「良い作品だなぁ」と思えたのだと思う。
しかし本作の場合は、その「制約条件」が「内容そのもの」に絡んでくるので、「そういう物語を展開させるなら、物語のこの部分はマストで固定されないといけない」みたいなものが多い。そういう中で工夫して面白くしているとは思うのだけど、やはりそれでも、「自分ごと」に感じられる要素は決して多くはなく、だから脚本に対しては、「よく出来てる」と思うけど、なかなか「面白い」というところまでいかなかったように思う。
あと、これも「内容そのものに制約条件が存在する」が故の難しさだと思うのだけど、1点、物語としてクリア出来ていないポイントがあると思う。ネタバレにならないように書くのでよく分からないかもしれないが、「小宮がかたる話には無理がある」と思う。というのは、「『丸子が何を知っているか』を知らなければかたれない話」だからだ。この点は恐らく、脚本を担当した監督もきっと理解していたとは思うが、たぶんどうやっても解消できないと思うので「えいやっ!」という感じで目を瞑ることにしたのだろう。エンタメ作品なのでそういう部分をとやかく言うものではないと思うのだけど、こういう「二転三転四転五転」みたいな物語の場合は、「辻褄は合ってるのか?」みたいな部分がどうしても気になってしまう。
さて、というわけで、ネタバレをしないように内容の紹介をしてみよう。
丸子夢久郎は、4年前のコロナ禍でバイトを切られ、学費を滞納するほど生活に困っていた。そんな折、テレビで「コロナ禍でネットショッピングが増え、宅配の需要が増えている」というニュースを見て、「誰かに必要とされたい」という気持ちもあって、八谷運輸で配送ドライバーとして働くことになった。しかし丸子は、仕事が遅いと怒られることが多く、所長からは「次はないからね」と言われている。
配送担当地域はドライバー毎に決まっており、丸子は2週間前から「クレマチス多摩」というマンションを担当することになった。普段から同じ場所に配送していると、住人のことにも詳しくなっていく。ゴミの分別をしない人や、配送の担当になってから一度も自宅にいたことがない人など、色んな人がいるものだ。
さて、八谷運輸で仲良くしている先輩の荒川は、「小説家になろう」というサイトで小説を書いており、以前から「読んでコメントを書いてくれ」と言われていた。仕方なく「ゾンビに転生する」という物語を読み始めるのだが、これがどうにもつまらなかった。しかし、荒川の小説を読んでいる時にたまたま見つけた「スパイ転生」という小説が、もの凄く面白かった。コミヤチヒロという名前で定期的に小説を発表する彼女の作品に、丸子は虜になり、いつしか彼女の小説を読むのが生きがいのようになっていった。
そしてなんと、クレマチス多摩の205号室に「小宮千尋」という住人がいるのである。配達の際、チラッと部屋の奥が視界に入り、そこには「小説家になろう」のページを開いたパソコンが置かれていた。やっぱり、間違いない。コミヤチヒロは、彼女だ。
しかし、クレマチス多摩へと配達を続ける中で、どうにも不穏なことが続いた。そして丸子にはそれが、「205号室の小宮千尋がストーカー被害に遭っている」ようにしか感じられなかったのだ。警察に通報するか? しかし、荒川から「もし違ってたら、所長が黙ってないぞ」と脅される。もっと確実な証拠を手に入れなければ。そう考え、丸子は「配達員」の領域を超え、「小宮千尋がストーカー被害に遭っている証拠」を掴もうとするのだが……。
本作は割と、高橋文哉の良い感じの演技で成立している部分はあるなと思います。高橋文哉演じる丸子は「ちょっとトロいし、弱いっぽいんだけど、『憧れの小説家を守る』ために奮起する」というキャラクターで、「そういうキャラクターじゃないと成立しないシーン」は結構あったように思う。とにかく、「どう考えても一番怪しいのは丸子」なんだけど、その違和感を可能な限り最小限にする役割を高橋文哉がちゃんと担えている感じがあって、そこは良かったなと思う。
あとは北香那と染谷将太の「何を考えているんだかよく分からない表情」も、本作を成立させるためには必要な要素だったなと思う。作品の設定に合ったエンドロールも凝ってて良い。
あと、作品とは全然関係ない話なのだけど、「マジか」と思った話を1つ。「北香那」のことを僕はずっと「きたかや」だと思ってたんだけど、それだとGoogle日本語入力では出ず、「?」と思ってたら、「きたかな」なんですね、この人。で、それはいいんですけど、Filmarksの「あらすじ」には「北香耶」と、そして「出演者」には「北香那」となってて混乱しました。っていうか、公式HPの「STORY」も「北香耶」ってなってるんで、公式がそもそも間違ってるんだろうな、と思うんだけど。まあ、そんなどうでもいい話を最後に書いて終わります。
「あの人が消えた」を観に行ってきました
「機動警察パトレイバー the Movie」を観に行ってきました
さて、相変わらず「パトレイバー」の何たるかを知らないまま本作を観たけど、面白かった!僕が鑑賞前に知っていたのは、「確か押井守の作品だった気がする」ぐらい。そんな人間でもちゃんと楽しめるぐらいバッチリエンタメ映画をやってるし、シンプル(少なくとも2024年視点からはそう見える)なのに割と深い物語を描いている感じもあって、純粋に楽しめた。
しかし、本作が1989年の映画だってのはちょっと凄いなぁ。現代なら「OS」「プログラミング」「ウイルス」「ワクチン」「トロイの木馬」みたいな話はまあ普通に通じるだろうけど、「Windows95」が発売されたのが1995年なんだから、それよりも6年も前にそんな話を中核に据えた物語がエンタメ作品として上映されていたことにはちょっと驚かされる。当時の、コンピュータオタクというわけではないごく一般的な人たちは、物語の設定とかちゃんと理解できたんだろうか? そういう意味でも驚かされる物語だった。
さてそんなわけで、内容の紹介をしよう。
東京では今、政府主導の「バビロン・プロジェクト」が進行している。その一環として、東京湾に「木更津人工島」と「川崎人工島」の2つが作られ、既に人々が生活している。「木更津人工島」の広さは45万平方メートル。いずれ2つの人工島が大環状線によって接続され、さらに16箇所作られている排水装置により排水を行うことで、東京湾に4万5000ヘクタールもの用地を確保しようという壮大な計画だ。
しかしあまりにも壮大な計画故に、今世紀中の完成は不可能と思われていたが、それを解決したのが「レイバーシステム」だった。「レイバー」とは人が乗るタイプの産業用ロボットで、熟練の職人の数十倍の能力を発揮する。既に東京近郊では、「バビロン・プロジェクト」のために3600台のレイバーが稼働しているが、それは、国内で保有するレイバーの45%に相当する。そして、そんなレイバーの整備すべてを担っているのが、これも東京湾上に建設された通称「方舟」である。
さて、そんな木更津人工島に常駐する警視庁特車2課の第2小隊は、ここ1ヶ月の勤務で疲弊していた。というのも、ここ1ヶ月で「レイバーの暴走事件」が22件も起こっているからだ。先月まではほとんど起こっていなかったにも拘らず、である。さらに、交代としてやってくるはずの第1小隊は、「自衛隊の試作レイバーの暴走事件」のせいで1週間訓練期間が延びたため、第2小隊の面々はこの過酷な勤務を最低1週間も続けなければならなくなった。
一方、第1小隊の隊長である南雲は、先日新たに導入された新OS「HOS」の検証を行っていた。レイバー製造の後発だった篠原重工が、市場の独占を狙って発表した画期的なOSで、機体が旧式でも「HOS」のインストールによって性能が30%も上がるとされていた。しかし南雲はとある筋から確認を依頼され、内密に検証しているのだった。
そして、第2小隊に所属する篠原遊馬は、直近で起こった22件の暴走事件を精査し、共通項は「HOS」しかないと突き止めた。彼は名前からも分かる通り、篠原重工社長の息子であり、それ故、レイバーのこととなると熱くなってしまうところがある。しかも今回は、犬猿の仲である父親の会社の新OSが原因かもしれないのだ。彼は、徹夜を厭わずに調査を進める。
一方、第2小隊の隊長である後藤も密かに調査を進めており、遊馬の検証と合わせて1つの結論にたどり着く。それは、「HOSの不具合ではなく、最初から不正なプログラムが仕掛けられていた」というものだった。
そのため後藤は、最初から、「HOS」の開発者である天才プログラマー帆場暎一を探っていた。しかし、残念ながら一足遅かった。実は帆場は5日前、「方舟」から飛び降りて自殺していたのだ。
しかし帆場は一体、「HOS」にウイルスを仕掛けてまで何をしたかったのか…? 遊馬らはその検証を急ぐのだが……。
というような話です。
とにかくさっきも書いた通り、映画を観ながらずっと思っていたことは、「1989年当時の観客は、本作をちゃんと理解できたのだろうか?」ということだった。35年前だからなぁ。今なら全然違和感のない話だけど、35年前には「???」となってもおかしくないと思う。よくこんな企画が通ったなと思うし(もちろん、アニメの評判が良かったからだろうけど)、さらに、35年前によくもまあこんな物語を作れたものだなと思う。
物語の中にちょいちょいよく分からない部分が出てくるが、恐らくそれは「アニメを観ていないから」だと思う。そもそも「篠原遊馬」と「泉野明」の関係がよくわからないし、その泉野明がアルフォンスの話で泣くのも謎だった。あと、後半で唐突に出てきた女性(名前をなんて発音してるのかよく分からなかったのだけど、調べるとどうやら「香貫花」らしい。確かに「かぬか」と言ってた気がする)も「誰???」ってなった。まあでも、そういうシーンはさほどなく、基本的にはアニメを観ていなくても楽しめる作品と言っていいと思う。
ストーリー展開は「エンタメ作品の王道」という感じで、特別言及するようなところはないのだけど、王道を進んでいるからこそとにかく面白く観れる。「ロボットが出てくるのに、ぶっ壊される家は下町風情」みたいな違和感は随所にあるものの、それはそれで「35年前に想像された未来」みたいな感じがあって面白い。また恐らくそれは、「急速な機械化・都市化に対するアンチテーゼ」的な要素も含んでいるように思うし、それは作品全体のテーマにも絡んでくるものだと思う。
基本的にはエンタメなのだけど、「カミソリ後藤」と呼ばれる第2小隊隊長の後藤(事情はよく分からないが、超優秀にも拘らず人工島で燻っているらしい)が時々哲学的なことを口にしたりする。そんな後藤の「嘆き」は、「こんな日本でいいのかねぇ」と投げかけるような部分があって、そういう考えさせる要素も含んでいるところが良いなと思う。
またこの後藤は、人を使うのが上手い。具体的には触れないが、後藤の絶妙な采配によって、遊馬が「HOS」について徹底的に調べる流れになっていく感じはとても上手いなと思う。
また、天才プログラマーの仕掛けもなかなか絶妙だよなぁ。よくこんな設定考えたものだなと思う。帆場が一体何を考えてこんな仕掛けを組み込んだのかははっきりとは分からないものの、それを少し示唆させる描写はある。帆場は2年間で26回も引っ越し、そのすべてが、ボロボロの建物か、もうすぐ取り壊される再開発地域にあったことが分かっている。そしてさらにもう1つ共通点として、そのすべての建物から超高層ビルが見えるのである。恐らく「急速な都市化」みたいなものに何か感じるものがあったのだろう。そして、「それをぶち壊しにする計画」を立てたというわけだ。
しかし、普通には難しい。というのも、「HOS」は帆場がたった1人で作ったものだが、当然リリースされる前にはチェックが入る。だから、「レイバーを暴走させるような分かりやすいプログラム」を書いていたらバレバレだ。本作で示される「レイバー暴走の複雑な仕組み」は恐らく、そういう理由からではないかと思う。
帆場はとにかく、普通には分かりにくい形で「レイバーを暴走させてぶち壊しにする」必要があった。単にレイバーを暴走させるだけでは、プログラムをチェックする段階でバレるかもしれない。そのため、かなり複雑な”スイッチ”を用意しているのだが、これが「なるほどなぁ」という感じのものだった。単にプログラムをどうこうするだけではない仕掛けがあって、それ故に最後の「難関ミッション」にも繋がっていくわけだが、「天才の仕掛け」と「物語・映像的な展開」の両方を見事に両立させる絶妙な設定だったと思う。ほんと上手いよなぁ。
あと、「バベル」「方舟」「エホバ」などキリスト教的な要素が散りばめられていて、『エヴァンゲリオン』なんかもそうだけど、こういうやっぱりよくモチーフになるな、と思う。個人的には結構不思議だなと思ってる。日本人に、そんなに馴染みがあるモチーフとは思えないからだ。同じようなモチーフなら「古事記」とか「日本書紀」なんかの要素が散りばめられていてもいいように思うんだけど、そういうことってあんまりないよな、と。なんでだろう。
まあそんなわけで、エンタメ作品としてとても面白かった。押井守、やっぱ凄いんだなぁ。
「機動警察パトレイバー the Movie」を観に行ってきました
しかし、本作が1989年の映画だってのはちょっと凄いなぁ。現代なら「OS」「プログラミング」「ウイルス」「ワクチン」「トロイの木馬」みたいな話はまあ普通に通じるだろうけど、「Windows95」が発売されたのが1995年なんだから、それよりも6年も前にそんな話を中核に据えた物語がエンタメ作品として上映されていたことにはちょっと驚かされる。当時の、コンピュータオタクというわけではないごく一般的な人たちは、物語の設定とかちゃんと理解できたんだろうか? そういう意味でも驚かされる物語だった。
さてそんなわけで、内容の紹介をしよう。
東京では今、政府主導の「バビロン・プロジェクト」が進行している。その一環として、東京湾に「木更津人工島」と「川崎人工島」の2つが作られ、既に人々が生活している。「木更津人工島」の広さは45万平方メートル。いずれ2つの人工島が大環状線によって接続され、さらに16箇所作られている排水装置により排水を行うことで、東京湾に4万5000ヘクタールもの用地を確保しようという壮大な計画だ。
しかしあまりにも壮大な計画故に、今世紀中の完成は不可能と思われていたが、それを解決したのが「レイバーシステム」だった。「レイバー」とは人が乗るタイプの産業用ロボットで、熟練の職人の数十倍の能力を発揮する。既に東京近郊では、「バビロン・プロジェクト」のために3600台のレイバーが稼働しているが、それは、国内で保有するレイバーの45%に相当する。そして、そんなレイバーの整備すべてを担っているのが、これも東京湾上に建設された通称「方舟」である。
さて、そんな木更津人工島に常駐する警視庁特車2課の第2小隊は、ここ1ヶ月の勤務で疲弊していた。というのも、ここ1ヶ月で「レイバーの暴走事件」が22件も起こっているからだ。先月まではほとんど起こっていなかったにも拘らず、である。さらに、交代としてやってくるはずの第1小隊は、「自衛隊の試作レイバーの暴走事件」のせいで1週間訓練期間が延びたため、第2小隊の面々はこの過酷な勤務を最低1週間も続けなければならなくなった。
一方、第1小隊の隊長である南雲は、先日新たに導入された新OS「HOS」の検証を行っていた。レイバー製造の後発だった篠原重工が、市場の独占を狙って発表した画期的なOSで、機体が旧式でも「HOS」のインストールによって性能が30%も上がるとされていた。しかし南雲はとある筋から確認を依頼され、内密に検証しているのだった。
そして、第2小隊に所属する篠原遊馬は、直近で起こった22件の暴走事件を精査し、共通項は「HOS」しかないと突き止めた。彼は名前からも分かる通り、篠原重工社長の息子であり、それ故、レイバーのこととなると熱くなってしまうところがある。しかも今回は、犬猿の仲である父親の会社の新OSが原因かもしれないのだ。彼は、徹夜を厭わずに調査を進める。
一方、第2小隊の隊長である後藤も密かに調査を進めており、遊馬の検証と合わせて1つの結論にたどり着く。それは、「HOSの不具合ではなく、最初から不正なプログラムが仕掛けられていた」というものだった。
そのため後藤は、最初から、「HOS」の開発者である天才プログラマー帆場暎一を探っていた。しかし、残念ながら一足遅かった。実は帆場は5日前、「方舟」から飛び降りて自殺していたのだ。
しかし帆場は一体、「HOS」にウイルスを仕掛けてまで何をしたかったのか…? 遊馬らはその検証を急ぐのだが……。
というような話です。
とにかくさっきも書いた通り、映画を観ながらずっと思っていたことは、「1989年当時の観客は、本作をちゃんと理解できたのだろうか?」ということだった。35年前だからなぁ。今なら全然違和感のない話だけど、35年前には「???」となってもおかしくないと思う。よくこんな企画が通ったなと思うし(もちろん、アニメの評判が良かったからだろうけど)、さらに、35年前によくもまあこんな物語を作れたものだなと思う。
物語の中にちょいちょいよく分からない部分が出てくるが、恐らくそれは「アニメを観ていないから」だと思う。そもそも「篠原遊馬」と「泉野明」の関係がよくわからないし、その泉野明がアルフォンスの話で泣くのも謎だった。あと、後半で唐突に出てきた女性(名前をなんて発音してるのかよく分からなかったのだけど、調べるとどうやら「香貫花」らしい。確かに「かぬか」と言ってた気がする)も「誰???」ってなった。まあでも、そういうシーンはさほどなく、基本的にはアニメを観ていなくても楽しめる作品と言っていいと思う。
ストーリー展開は「エンタメ作品の王道」という感じで、特別言及するようなところはないのだけど、王道を進んでいるからこそとにかく面白く観れる。「ロボットが出てくるのに、ぶっ壊される家は下町風情」みたいな違和感は随所にあるものの、それはそれで「35年前に想像された未来」みたいな感じがあって面白い。また恐らくそれは、「急速な機械化・都市化に対するアンチテーゼ」的な要素も含んでいるように思うし、それは作品全体のテーマにも絡んでくるものだと思う。
基本的にはエンタメなのだけど、「カミソリ後藤」と呼ばれる第2小隊隊長の後藤(事情はよく分からないが、超優秀にも拘らず人工島で燻っているらしい)が時々哲学的なことを口にしたりする。そんな後藤の「嘆き」は、「こんな日本でいいのかねぇ」と投げかけるような部分があって、そういう考えさせる要素も含んでいるところが良いなと思う。
またこの後藤は、人を使うのが上手い。具体的には触れないが、後藤の絶妙な采配によって、遊馬が「HOS」について徹底的に調べる流れになっていく感じはとても上手いなと思う。
また、天才プログラマーの仕掛けもなかなか絶妙だよなぁ。よくこんな設定考えたものだなと思う。帆場が一体何を考えてこんな仕掛けを組み込んだのかははっきりとは分からないものの、それを少し示唆させる描写はある。帆場は2年間で26回も引っ越し、そのすべてが、ボロボロの建物か、もうすぐ取り壊される再開発地域にあったことが分かっている。そしてさらにもう1つ共通点として、そのすべての建物から超高層ビルが見えるのである。恐らく「急速な都市化」みたいなものに何か感じるものがあったのだろう。そして、「それをぶち壊しにする計画」を立てたというわけだ。
しかし、普通には難しい。というのも、「HOS」は帆場がたった1人で作ったものだが、当然リリースされる前にはチェックが入る。だから、「レイバーを暴走させるような分かりやすいプログラム」を書いていたらバレバレだ。本作で示される「レイバー暴走の複雑な仕組み」は恐らく、そういう理由からではないかと思う。
帆場はとにかく、普通には分かりにくい形で「レイバーを暴走させてぶち壊しにする」必要があった。単にレイバーを暴走させるだけでは、プログラムをチェックする段階でバレるかもしれない。そのため、かなり複雑な”スイッチ”を用意しているのだが、これが「なるほどなぁ」という感じのものだった。単にプログラムをどうこうするだけではない仕掛けがあって、それ故に最後の「難関ミッション」にも繋がっていくわけだが、「天才の仕掛け」と「物語・映像的な展開」の両方を見事に両立させる絶妙な設定だったと思う。ほんと上手いよなぁ。
あと、「バベル」「方舟」「エホバ」などキリスト教的な要素が散りばめられていて、『エヴァンゲリオン』なんかもそうだけど、こういうやっぱりよくモチーフになるな、と思う。個人的には結構不思議だなと思ってる。日本人に、そんなに馴染みがあるモチーフとは思えないからだ。同じようなモチーフなら「古事記」とか「日本書紀」なんかの要素が散りばめられていてもいいように思うんだけど、そういうことってあんまりないよな、と。なんでだろう。
まあそんなわけで、エンタメ作品としてとても面白かった。押井守、やっぱ凄いんだなぁ。
「機動警察パトレイバー the Movie」を観に行ってきました
「ジョン・ガリアーノ 世界一愚かな天才デザイナー」を観に行ってきました
さて、相変わらず僕は、よく知らない人物のドキュメンタリー映画を見に行くのだが、今回はジョン・ガリアーノ。本作を観る前(正確には「本作の予告を観る前」)の時点で僕は、「ジョン・ガリアーノ」という響きを耳にしたことはあったと思うけど、それが「ファッションデザイナー」とは結びついていなかったと思う。本作で扱われる、彼がキャリアをすべて捨てることになった出来事についても知らなかった。
そんなわけで僕は、「本作で描かれていることしかジョン・ガリアーノについて知らない」ということになる。
そして、その姿はなかなか興味深いものだった。なにせ、「ロンドンでデザイナーとして話題を集めるも、デザインした服は売れず資金難に陥り、その後パリに移って話題をかっさらうも、やはり売上は厳しかったためコレクションを開けないぐらいの状態に陥ったが、支援者のお陰で起死回生のショーを開き『墓場から復活』と評され、その後ジバンシィ、ディオールと有名ブランドのデザイナーに就任、年間32回という尋常ではないコレクションをこなしていた最中、ユダヤ人差別発言で起訴され有罪判決を受け失墜した」という人物である。そしてそんな自身の過去について「洗いざらい話す」と言って、カメラの前でジョン・ガリアーノ本人が語るのである。
実に興味深い。しかも、本作はジョン・ガリアーノを扱う作品なのだから当然と言えば当然かもしれないが、それにしても、ジョン・ガリアーノに関わる者がみな、彼のことを様々な表現で絶賛しているのも印象的だった。「魔法使い」「唯一無二」「あんなデザイナーはいない」「ひらめき方が特殊」「別の惑星で生まれ育ったんだと思う」「ファッション界史上最高の天才」「生ける至宝」などなど、それはそれは様々な表現が登場する。僕はファッションに疎いので、彼がデザインした服を観ても、他のデザイナーと何が違うのか分からないが、とにかく「ファッションの歴史の中でも比較対象が存在しないぐらいの存在」であるらしい。ディオールのCEOで、ジョン・ガリアーノにデザイナーをオファーしたシドニー・トレダノは、「彼と私が成したことは再現不可能だ」と断言していた。
さて、本作は冒頭から、2011年2月24日にパリのカフェ・ラ・ペルルでジョン・ガリアーノが驚きの発言をする様子が収められた映像から始まるので、その辺りの話から触れていこうと思う。
さて、ジョン・ガリアーノにとって、この前後の出来事はかなり記憶が曖昧なのだそうだ。監督から「カフェ・ラ・ペルルでの2件の出来事」について聞かれると、彼は「1件じゃなかった?」と返していた。というか実は、カフェ・ラ・ペルルで起こった不適切発言騒動は実際には3件あったそうなのだが、ジョン・ガリアーノはそれらをすべて「同じ夜」のことと認識していたそうだ。
さて、2月24日に起こったのは、あるアジア系の男性(その時カフェにいた客で、ジョン・ガリアーノのことは知らなかったそうだ)に対しての暴言である。その男性と連れの女性はユダヤ系ではなかったのだが、ユダヤ人だと断定された上で批判されたのだ。この件について男性は警察署で被害届を提出した。
その後、この出来事が世界中で報じられると、被害者の男性は被害届を出したことを公開したそうだ。というのも、「ジョン・ガリアーノの名誉を傷つけようとする嘘」と受け取られたからだ。彼は、「世界中の人に『嘘つき』だと思われたまま生きていけないよ」と言っていたのだが、そこに、彼が「奇跡的」と呼ぶ出来事が起こった。彼が暴言を吐かれた2日後に、なんと、ジョン・ガリアーノの暴言を収めた映像がネット上にアップされたのだ。それが、本作冒頭で流れた映像である。
恐らく、女性がカメラ(かスマホ。当時あったかは知らないけど)で撮影した映像で、そこにはジョン・ガリアーノが、「私はヒトラーが好きだ」「あなたたちのような人間は死んでいるんです」「先祖はガス室送りになっただろう」と発言している様子が映し出されているのだ。もしこの映像が世に出なければ、先の被害男性は「嘘つき」のレッテルを貼られたまま泣き寝入りするしかなかっただろう。しかし、決定的な証拠により、ジョン・ガリアーノは差別発言の罪で逮捕・起訴され、後に有罪判決が下るのである。
そしてもちろん、彼はこの出来事によってすべてを失った。本作は、そんなジョン・ガリアーノの来歴や現在について描き出す作品である。
というわけでここからは、彼の生い立ちからのサクセスストーリーについて触れていくことにしよう。
ジョン・ガリアーノはジブラルタルの出身で、6歳の時にロンドンにやってきた。父親とは英語、母親とはスペイン語で話していたが、ちゃんと英語を学んだのはサウスロンドンに移ってから。向かいの家の中が見えるほど道路が狭く、何もかもが灰色の町だったそうだ。
配管工である厳格な父親と、ファッションに明るい陽気な母親の元で育ち、母親が妹の世話で忙しいため、常に姉にくっついて成長したという。姉は「弟が邪魔するからパーティーにも行けなかった」と言っていたが、一方で、パーティーに着ていくドレスを作ってくれたりもしたという。姉は、「食事も呼吸も人生も、すべてファッションのためだった」と表現していた。
しかしそうなったのは恐らく、セント・マーチンズに通うようになってからだろう。倍率の高い美術学校だったが、合格し助成金ももらえたそうだ。子どもの頃から絵を描くのが好きだったようで、当時は周りがサッチャーへの抗議デモに参加する中、1人絵を描いていたという。
大学に入学した頃のジョン・ガリアーノは、後の姿からは想像できないほど内気だったそうだが、同級生のデヴィッド・ハリソン(後に画家となった)が彼を変えた。彼はセックス・ピストルズのメンバーに誘われるくらいの派手さや交友関係があり、ブランドの服ばかり来ているジョン・ガリアーノにヴィンテージを教えたり、オールド・コンプトン通りにパブに連れて行ったりしたそうだ。そこでジョン・ガリアーノは「こんな世界があるんだ!」と衝撃を受け、一気にのめり込み、勉強も兼ねて国立劇場の衣装係の仕事に就いたりもしたのである。
さて、彼は子どもの頃から「ゲイ」だという自覚があったそうなのだが、それは隠していたという。厳格な父親やスペイン文化が、それを許容するはずがないと分かっていたからだ。時々バスルームに閉じこもっては、母親の化粧品を使ってメイクをしたりしていたが、バレなかったという。またある時は、父親がいる前で「彼ってゴージャスだね」と言ってしまったことがあるという。その時は特に何もなかったようだが、恐らく彼は一層気を引き締めることにしただろうと思う。
「人と違う」ことは分かっていたし、でもそれを表に出すことも出来ないため、彼は子どもの頃から「空想の世界」に浸るようになった。架空の人格を作り、空想の世界の中で生きたのである。「空想の方が幸せ」だと彼は言っていた。多くの人物が彼のデザインについて、「常に『逃避』がテーマになっている」と指摘していたのも、そんな子ども時代があってのことだろう。
そしてそんな空想の力が発揮されたのだろう、セント・マーチンズの卒業制作が大いに話題になった。それは校内に留まらず、ファッション誌の編集者も絶賛するほどのものだった。作中に登場したある編集者は、「私がこれまでに観た中でトップ5に入る」と言っていた。「卒業制作のトップ5」なのか「コレクションのトップ5」なのかはよく分からないが、とにかく凄まじく話題になったそうだ。
ジョン・ガリアーノが「レ・アンクロワイヤブル」と名付けた卒業制作は、フランス革命をイメージしたものだった。そこには、アベル・ガンス監督の伝説の映画『ナポレオン』の影響がある。この映画にもの凄く感銘を受けてリサーチを始めたのだそうだ。本作中には時々、古い映画らしき映像が挿入されるのだが、恐らくこれは映画『ナポレオン』のものなのではないかと思う。
この時のジョン・ガリアーノはとにかく絶好調だったようで、「右手で描くとあまりにも簡単に描けてしまうから、左手で羽ペンを持ってイラストを描いていた」みたいなことを言っていた。そしてそんな卒業制作は絶賛され、「天才が現れたと思った」と評されることになる。
それからあれよあれよという間にジョン・ガリアーノの名前はイギリスで知られるようになる。DJのジェレミー・ヒーリー(ヘイジ・ファンテイジー)は、当時付き合っていたモデルから「凄い人がいるから来て」と言われてショーへ足を運び、「頭に生魚をつけたモデルがランウェイを歩き、その魚を客席に向かって投げている」のを観てあごが外れるかと思ったそうだ。その後彼はジョン・ガリアーノから「是非組みたい」と声を掛けられ、ショーで彼の音楽を使うことにしたそうだ。
こうして、セント・マーチンズを卒業してたった3年で、ジョン・ガリアーノはイギリスで注目の的となった。1987年にはブリティッシュ・デザイナー賞を受賞している。しかし彼は、決して商売は上手くなかった。「至高の美を追い求めたい」「夢を描き続けたい」と思っていたのだが、ジョン・ガリアーノがデザインする服は「着こなすのが難しい」とあまり売れなかったのだ。ショーは常に話題をかっさらうのだが、服が売れないため経費ばかりがかさみ、商売的にはまったく上手くいっていなかった。当時彼と組んでいた人物は、「金の話をすると『君はファッションのことを何も分かっていない』と言われたので縁を切った」と言っていた。
しかしそれ以上に問題だったのは、コレクションを終える度にジョン・ガリアーノが壊れてしまうことだった。その様は、近くにいる者には明らかだったようである。凄まじい創造力を常に出し続けることに、心が疲弊していたのである。このことは、その後もずっと彼を苦しめることになる。
さて、イギリスでは出資者を見つけられなくなったジョン・ガリアーノは、1990年、パリを目指す。ファッションの本場で勝負してやろうというわけだ。そして、パリに拠点を移したことで、彼はスティーブン・ロビンソンという相棒と出会った。性的な関係はなかったが、ある人物は彼らの関係を「共依存」と評していた。ジョン・ガリアーノは彼のことを「天使」と表現し、「雑務をすべて引き受けてくれたから、創作に集中できた。僕のことを助けるという使命を持って生まれたのだと思う」みたいに言っていた。スティーブンの献身は周囲の人間も認めるところだったようで、人によっては彼を悪く言うこともあったが(話を聞いていると、まあ仕方ないかという気はするが)、「共依存関係にある」という点を除けば、彼らの関係性は非常に上手くいっていたようだし、周囲もそのように見ていたようである。ある人物はスティーブンのことを「ジョン・ガリアーノが唯一心を許す人」と表現していた。
そして、そんなスティーブンの献身もあって、ジョン・ガリアーノはパリでも大成功を収めることになる。本作には様々なモデル(ナオミ・キャンベルやケイト・モスみたいな、僕でも知っている人も多数)が出てくるのだが、彼らはジョン・ガリアーノのショーの特異さについて、「ステージ上で役割が存在する」みたいに表現していた。
ケイト・モスは、ジョン・ガリアーノのショーに出た時にはモデルになりたてだったそうだが、ジョン・ガリアーノから「君はヤリたがってる」という役柄を与えられたそうだ。ウォーキングさえ初めて習ったみたいな状態で、さらに「ヤリたがっている女性」を演じる必要があるので大変だったそうだが、それが良かったそうだ。彼女は後にジョン・ガリアーノに結婚式のドレスを依頼するのだが、結婚式当日にも「今日の役柄は?」と聞いたとジョン・ガリアーノが語っていた。
そもそもジョン・ガリアーノのショーには必ず「物語」が存在するという。あるモデルは「岸に流れ着いた設定」が与えられたそうだが、そこには「裕福な家から逃げ出し船に乗って逃げている」みたいな状況設定が存在するのだという。そしてここにも「逃避」がテーマになっていたのである。あるモデルは、「モデルを心の旅に連れ出してくれるから、皆興奮させられた」と言っていた。
しかし、ジョン・ガリアーノはショーは常に成功するのだが、やはり売上が伴わず、時には生地を買う金さえ無くなるほどだったという。監督から「食べていけなくなると考えたことはあるか?」と聞かれ、「ある」と答えている。それもあってだろう、彼は酒癖が悪くなり、ある人物は「飲み屋のステージの端っこで小便をしているのを見た」と証言していた。
「よほど不幸なんだろう」とも語っており、ステージ上での成功とはかけ離れた状況にあったという。
しかし、そんな状況を見かねたアンドレ・レオン・タリー(詳しく知らないが、ファッション界で大きな影響を持つ人物)が、「ジョン・ガリアーノが生地を買う金さえ無いなんてあり得ない」と訴え、支援を申し出た。彼は、「女性の服装や考え方を変えるような天才デザイナーは希少」「ジョン・ガリアーノは、そんな天才の1人だ」と、彼を絶賛していた。
そしてアンドレのお陰で、不遇をかこっていたジョン・ガリアーノが表舞台に出ることが出来るようになった。資金を集め、さらに裕福な社交人に「使っていない豪邸をジョンのために貸してくれ」と頼んだことで、ジョン・ガリアーノは「個人の邸宅でショーを行う」ことになったのである。そしてそんなショーに、これまでジョン・ガリアーノと関わったことがあるモデルたちがノーギャラで出演を快諾した。そこにはナオミ・キャンベルも含まれており、彼女は「心の底から開催を願っていた」といって、ストッキングやアクセサリーを自前で持ち込んでショーに臨んだそうだ。
こうして行われた「ブラックショー 1994年秋冬」は大成功を収めた。その際にジョン・ガリアーノがデザインしたスリップドレスはその後10年間流行したという。また、個人の邸宅で行ったことで「観客の目の前をモデルが歩く」ことになり、それによって、香水の匂いが届いたり、布が擦れる音が聴こえるなど、より臨場感のあるショーに仕上がったのだそうだ。こうしてジョン・ガリアーノは新聞に「墓場から蘇る」と報じられるような復活劇を果たすことになる。
その後の展開については、ジョン・ガリアーノも衝撃を受けたそうだ。なんと、50以上のブランドを保有するベルナール・アルノーから、傘下のジバンシィのデザイナーを依頼されたのだ。しかし、この決定には批判が殺到した。「パリの伝統に疎いよそ者」「新参者のイギリス人」「配管工の息子」「野生児はクチュールで成功できるのか?」と散々な批判を浴びたのである。ファッション界は誰もが、「ジョン・ガリアーノは失敗する」と考えていたそうだ。
しかし、アンデルセンの絵本から取られた「えんどう豆の上にねむったお姫さま」という名のジバンシィのコレクション(1996年初夏)は喝采を浴び、「あの時誰もが彼を認めた」というほど称賛された。そしてこのショーを機にジョン・ガリアーノは、ディオールのデザイナーへと大抜擢されるのである。
そんな彼は不適切発言の前にも、パリを騒がせる事態を引き起こしたことがある。「ホームレスをバカにした」として非難を浴びたのだ。この件について説明するためだろう、本作では前段階でいくつかの説明がなされていた。
あるモデルはジョン・ガリアーノの凄さについて、「高級感と低俗感のバランスが素晴らしい」と語っていた。彼の手に掛かれば、マーケットで買ってきた、変なデザインの安物のトレーナーさえも傑作に変えてしまうのだという。また別の人物は、「寄せ集めの要素をつなぎ合わせているようにしか見えないのに、そこから見えるビジョンには統一感がある」と絶賛していた。
さらに、次の点が最も重要なのだが、ジョン・ガリアーノは「あらゆるものからインスピレーションを得るが、その背景を見ることはなく、表面しか捉えない」のだそうだ。もちろん、「ビジョンに統一感がある」のだから、無意識の内に背景も捉えているのかもしれないが、少なくともジョン・ガリアーノを知る者には、「目に映るもの」だけが彼のインスピレーションを刺激するのだと認識されているのである。
そしてそれ故だろう、彼はチャップリンに着想を得たショーにおいて「セーヌ川沿いの人々(ジョン・ガリアーノはホームレスをこう呼んでいた)」のことも取り入れることにしたそうだ(詳しくはないが、何かチャップリンと取り合わせが良かったのだろう)。彼はホームレスをバカにするつもりなどなかったのだが、彼のショーがそのように受け取られ、パリの街で「ガリアーノのクソ野郎」「正式に謝罪すべきだ」という抗議の声が上がった。ジョン・ガリアーノはとても戸惑ったという。「新聞紙をドレスにしてみたらどうなるのか試したかったんだ。それは美しい案だった」と、自身の美的意識から来るアイデアだったと説明していた。
しかし、そんな批判はありつつも、ジョン・ガリアーノの名声はどんどん高まっていく。彼がデザイナーに就任してから売上は飛躍的に伸びたし、「デザイナーというより芸術家だ」というような評価も出てくる。また、当時はまだ決して大きくはなかった業界の黎明期に現れ、業界の成長と共に彼の才能も咲き誇るというタイミングも味方し、ジョン・ガリアーノの評価は最高潮に達したと言っていいかもしれない。
しかしそれ故に、プレッシャーも凄まじかった。毎回斬新なアイデアを出すことを求められるし、そもそもだが彼は、酷い時には年間32回もコレクションを受け持ったのだ。年に32回ということは、1ヶ月に3回ぐらいやらないといけないことになる。ほぼ、週1ぐらいのペースというわけだ。そりゃあ頭もおかしくなるだろうという気がする。
ジョン・ガリアーノは次第に、酒と処方薬の依存症になっていく(作中では「仕事にも依存している」と指摘されていた)。この頃のジョン・ガリアーノについて、その”奇行”を多くの人が語っていたが、ある人物は「裸のライオン」の話をしていた。あるホテルのエレベーターで裸になり、乗ろうとする人に「俺はライオンだ!」と4時間ぐらい言い続けていたというのだ。彼はそのホテルを出禁になったし、そんなホテルは20以上存在したそうだ。
さらに追い打ちを掛けるように、激務に耐えかねた「唯一の理解者」であるスティーブンが38歳という若さで亡くなってしまう。まともな状態ではなかったが、彼は仕事を続けた。尋常ではない仕事量を、まともとは言えない状態でこなし続けたのだ。
そうして彼は、2011年2月を迎えることになる。ラ・ペルルでの不適切発言だ。そして彼はすべてを失う。
そしてそこから13年後の2024年、彼はカメラの前ですべてを話す決断をするのである。
さて、映画の後半では「ジョン・ガリアーノはレイシスト(人種差別主義者)なのか?」という話になっていく。この点に関しては意見が大きく分かれていた。一般的にはやはり、「ユダヤ人に対する差別感情があるのだろう」と受け取られると思う。しかしジョン・ガリアーノと直接関わったことがある者ほど、「彼はそんな人間じゃない」「依存症だったことがすべての原因」と認識しているようだ。ナオミ・キャンベルはインタビューの中で、ジョン・ガリアーノが暴言を吐いている映像を見たかと問われ「見たことはない」と言い切っていた。「彼のことは知っているから、見る必要はない」と。
この点に関しては正直、他人がとやかく言うことではないのだが、「ジョン・ガリアーノが尋常ではない仕事をこなしながら心身ともにすり減っていた」という本作の描写を追っていくと、「深層心理の中で『この状況から逃れたい』と思っていたのではないか」みたいに感じられた。つまり、「このしんどい状況から抜け出すための”手段”として暴言を吐いた」のではないかと思うのだ。それが意識的なものなのか無意識的なものなのかは分からないが、少なくとも僕は、「ジョン・ガリアーノがすり減った状態にいなければ、暴言は吐かなかったのではないか」と思っている。
もちろん、本作で問題になっているのは「内心」であって「行為」ではないのだと思う。つまり、「仮に差別発言をしなかったとしても、差別的な意識を持っていればダメ」というだけだ。そういう判断をするのであれば、「すり減っていなければ暴言は吐かなかっただろう」という指摘は特段何の意味も持たないだろうと思う。
ただ僕は、「『内心』のことなど誰にも分からないのだから『行為』で判断されるべき」だと考えている。そしてジョン・ガリアーノは、「暴言を吐く」という行為を行ったのだから断罪されて然るべきなのだが、しかし、「その行為を反省している」という姿も垣間見えるので、そういう意味では許容される余地はあるんじゃないかとも思うのである。まあ、この辺りはとても難しい問題だとは思うが。
さて、本作ではちょっと触れられていた程度の話だったのだが、彼の復帰に関してある女性編集長が辛辣なことを言っていたのが印象的だった。ジョン・ガリアーノはNYで復帰を果たすのだが(結果としてそれは、ジョン・ガリアーノの”不手際”で大失敗に終わるのだが)、そのことについてその女性は、「彼を支援する有力者は多かったし、何より、彼は白人男性ですからね」と言っていたのである。要するに、「白人社会では、白人男性の行為は大体許される」という皮肉である。
まあ、その発言を帳消しにするかのように、本作ではその直後、アンドレ・レオン・タリーと共に不遇だったジョン・ガリアーノを支援した『VOGUE』の女性編集長のインタビューが挿入される。監督から「(差別発言後の)ジョン・ガリアーノを支援することに危険だとは思わなかったですか?」と問われた彼女は、きっぱり「NO」と答えていたのである。これはきっと、「白人男性だけが彼を支援していたわけではない」という要素として組み込まれているのだろう。もちろん、ジョン・ガリアーノと関わりのあるモデルたちも変わらず彼を支援している。「白人男性だから」という指摘がどこまで的確なのかはなんとも言えないが、確かに、まったく同じ状況に白人女性が陥った時に、ジョン・ガリアーノのように復活できるかはなんとも言えないようにも思う。この点もまた、難しい問題だ。
さて、最後に「天才」に対する僕の考え方に触れてこの記事を終えよう。
僕は、「ユダヤ人に対する差別発言」は言語道断で非難は当然だと思うが、一方で、ある一定の範囲内であれば「天才は自由に生きれた方がいい」とも思っている。犯罪行為まで許容しろなどと言うつもりはないが、「一般人なら許されないことでも、天才なら許されてもいい」という感覚が僕の中にはある。ジョン・ガリアーノもまさに、そんな人物の1人であるように思う。
そしてその上で大事なことは、「そんな天才をサポート出来る人物がいるかどうか」である。ジョン・ガリアーノには、ショーの準備に関してはスティーブン・ロビンソンという「相棒」が存在したが、もっと広い意味で、彼の人生全般をサポート出来る人がいたら良かったんじゃないかと思う。彼にはある時点以降アレクシスという恋人(ディオールのセレブ担当だった)が出来たし、彼からはかなり精神的な支えを得ていたようだが、そうではなくて、マネージャー的な感じで彼を管理・サポート出来る人がいたらもっと違ったんじゃないかと思う。
もちろん、ジョン・ガリアーノ自身が「仕事に依存していた」とも指摘されていたので、マネージャー的な存在がいたとしても難しかったかもしれないが、「仕事に依存する」という状態に陥る前からサポートがあれば、もっと違ったようにも思う。本作では、ジョン・ガリアーノの「そりゃあダメだろうよ」と感じるような言動が色々出てくるのだが、それらに対して「止めた方がいい」と忠告する人物がいなかったのだろうし、それ故にトラブルが色々起こってしまったのだと思う。まあ、「止めた方がいい」という忠告をジョン・ガリアーノが受け入れたかどうかはまた別の話ではあるが。
天才には天才にしか出来ないことがあるのだから、そんな天才が「社会」と適切に接点を持つことが出来るような役割の人物が、やはり天才の周りには必要だと思うし、ジョン・ガリアーノの不幸はその点にあったようにも思う。いや、繰り返すが、差別発言についてはジョン・ガリアーノが悪いし、別にそれを擁護したいわけでは全然ないのだけど、サポート的な人がいればもう少し違ったんじゃないかとも思う。
そんなわけで、様々な捉え方が可能なジョン・ガリアーノという複雑な人物像を映し出すドキュメンタリー映画であり、僕のようにファッションについてまったく詳しくない人間でも面白く観れた。ちなみにジョン・ガリアーノは現在、マルタン・マルジェラのデザイナーとして復帰を果たしているそうだ。それまで以上に演劇感の強いマルタン・マルジェラのショー「シネマ・インフェルノ」の様子も映し出されていたが、ファッションショーとしてはもの凄く斬新に見えたし、世間的にもそういう評価であるようだ。創作力は衰えていないということだろう。そんなわけで僕は、「天才にしか出来ないこと」をやってほしいと思う。もちろん、過去の行いを反省し、彼なりの償いをし続けつつということになるが。
「ジョン・ガリアーノ 世界一愚かな天才デザイナー」を観に行ってきました
そんなわけで僕は、「本作で描かれていることしかジョン・ガリアーノについて知らない」ということになる。
そして、その姿はなかなか興味深いものだった。なにせ、「ロンドンでデザイナーとして話題を集めるも、デザインした服は売れず資金難に陥り、その後パリに移って話題をかっさらうも、やはり売上は厳しかったためコレクションを開けないぐらいの状態に陥ったが、支援者のお陰で起死回生のショーを開き『墓場から復活』と評され、その後ジバンシィ、ディオールと有名ブランドのデザイナーに就任、年間32回という尋常ではないコレクションをこなしていた最中、ユダヤ人差別発言で起訴され有罪判決を受け失墜した」という人物である。そしてそんな自身の過去について「洗いざらい話す」と言って、カメラの前でジョン・ガリアーノ本人が語るのである。
実に興味深い。しかも、本作はジョン・ガリアーノを扱う作品なのだから当然と言えば当然かもしれないが、それにしても、ジョン・ガリアーノに関わる者がみな、彼のことを様々な表現で絶賛しているのも印象的だった。「魔法使い」「唯一無二」「あんなデザイナーはいない」「ひらめき方が特殊」「別の惑星で生まれ育ったんだと思う」「ファッション界史上最高の天才」「生ける至宝」などなど、それはそれは様々な表現が登場する。僕はファッションに疎いので、彼がデザインした服を観ても、他のデザイナーと何が違うのか分からないが、とにかく「ファッションの歴史の中でも比較対象が存在しないぐらいの存在」であるらしい。ディオールのCEOで、ジョン・ガリアーノにデザイナーをオファーしたシドニー・トレダノは、「彼と私が成したことは再現不可能だ」と断言していた。
さて、本作は冒頭から、2011年2月24日にパリのカフェ・ラ・ペルルでジョン・ガリアーノが驚きの発言をする様子が収められた映像から始まるので、その辺りの話から触れていこうと思う。
さて、ジョン・ガリアーノにとって、この前後の出来事はかなり記憶が曖昧なのだそうだ。監督から「カフェ・ラ・ペルルでの2件の出来事」について聞かれると、彼は「1件じゃなかった?」と返していた。というか実は、カフェ・ラ・ペルルで起こった不適切発言騒動は実際には3件あったそうなのだが、ジョン・ガリアーノはそれらをすべて「同じ夜」のことと認識していたそうだ。
さて、2月24日に起こったのは、あるアジア系の男性(その時カフェにいた客で、ジョン・ガリアーノのことは知らなかったそうだ)に対しての暴言である。その男性と連れの女性はユダヤ系ではなかったのだが、ユダヤ人だと断定された上で批判されたのだ。この件について男性は警察署で被害届を提出した。
その後、この出来事が世界中で報じられると、被害者の男性は被害届を出したことを公開したそうだ。というのも、「ジョン・ガリアーノの名誉を傷つけようとする嘘」と受け取られたからだ。彼は、「世界中の人に『嘘つき』だと思われたまま生きていけないよ」と言っていたのだが、そこに、彼が「奇跡的」と呼ぶ出来事が起こった。彼が暴言を吐かれた2日後に、なんと、ジョン・ガリアーノの暴言を収めた映像がネット上にアップされたのだ。それが、本作冒頭で流れた映像である。
恐らく、女性がカメラ(かスマホ。当時あったかは知らないけど)で撮影した映像で、そこにはジョン・ガリアーノが、「私はヒトラーが好きだ」「あなたたちのような人間は死んでいるんです」「先祖はガス室送りになっただろう」と発言している様子が映し出されているのだ。もしこの映像が世に出なければ、先の被害男性は「嘘つき」のレッテルを貼られたまま泣き寝入りするしかなかっただろう。しかし、決定的な証拠により、ジョン・ガリアーノは差別発言の罪で逮捕・起訴され、後に有罪判決が下るのである。
そしてもちろん、彼はこの出来事によってすべてを失った。本作は、そんなジョン・ガリアーノの来歴や現在について描き出す作品である。
というわけでここからは、彼の生い立ちからのサクセスストーリーについて触れていくことにしよう。
ジョン・ガリアーノはジブラルタルの出身で、6歳の時にロンドンにやってきた。父親とは英語、母親とはスペイン語で話していたが、ちゃんと英語を学んだのはサウスロンドンに移ってから。向かいの家の中が見えるほど道路が狭く、何もかもが灰色の町だったそうだ。
配管工である厳格な父親と、ファッションに明るい陽気な母親の元で育ち、母親が妹の世話で忙しいため、常に姉にくっついて成長したという。姉は「弟が邪魔するからパーティーにも行けなかった」と言っていたが、一方で、パーティーに着ていくドレスを作ってくれたりもしたという。姉は、「食事も呼吸も人生も、すべてファッションのためだった」と表現していた。
しかしそうなったのは恐らく、セント・マーチンズに通うようになってからだろう。倍率の高い美術学校だったが、合格し助成金ももらえたそうだ。子どもの頃から絵を描くのが好きだったようで、当時は周りがサッチャーへの抗議デモに参加する中、1人絵を描いていたという。
大学に入学した頃のジョン・ガリアーノは、後の姿からは想像できないほど内気だったそうだが、同級生のデヴィッド・ハリソン(後に画家となった)が彼を変えた。彼はセックス・ピストルズのメンバーに誘われるくらいの派手さや交友関係があり、ブランドの服ばかり来ているジョン・ガリアーノにヴィンテージを教えたり、オールド・コンプトン通りにパブに連れて行ったりしたそうだ。そこでジョン・ガリアーノは「こんな世界があるんだ!」と衝撃を受け、一気にのめり込み、勉強も兼ねて国立劇場の衣装係の仕事に就いたりもしたのである。
さて、彼は子どもの頃から「ゲイ」だという自覚があったそうなのだが、それは隠していたという。厳格な父親やスペイン文化が、それを許容するはずがないと分かっていたからだ。時々バスルームに閉じこもっては、母親の化粧品を使ってメイクをしたりしていたが、バレなかったという。またある時は、父親がいる前で「彼ってゴージャスだね」と言ってしまったことがあるという。その時は特に何もなかったようだが、恐らく彼は一層気を引き締めることにしただろうと思う。
「人と違う」ことは分かっていたし、でもそれを表に出すことも出来ないため、彼は子どもの頃から「空想の世界」に浸るようになった。架空の人格を作り、空想の世界の中で生きたのである。「空想の方が幸せ」だと彼は言っていた。多くの人物が彼のデザインについて、「常に『逃避』がテーマになっている」と指摘していたのも、そんな子ども時代があってのことだろう。
そしてそんな空想の力が発揮されたのだろう、セント・マーチンズの卒業制作が大いに話題になった。それは校内に留まらず、ファッション誌の編集者も絶賛するほどのものだった。作中に登場したある編集者は、「私がこれまでに観た中でトップ5に入る」と言っていた。「卒業制作のトップ5」なのか「コレクションのトップ5」なのかはよく分からないが、とにかく凄まじく話題になったそうだ。
ジョン・ガリアーノが「レ・アンクロワイヤブル」と名付けた卒業制作は、フランス革命をイメージしたものだった。そこには、アベル・ガンス監督の伝説の映画『ナポレオン』の影響がある。この映画にもの凄く感銘を受けてリサーチを始めたのだそうだ。本作中には時々、古い映画らしき映像が挿入されるのだが、恐らくこれは映画『ナポレオン』のものなのではないかと思う。
この時のジョン・ガリアーノはとにかく絶好調だったようで、「右手で描くとあまりにも簡単に描けてしまうから、左手で羽ペンを持ってイラストを描いていた」みたいなことを言っていた。そしてそんな卒業制作は絶賛され、「天才が現れたと思った」と評されることになる。
それからあれよあれよという間にジョン・ガリアーノの名前はイギリスで知られるようになる。DJのジェレミー・ヒーリー(ヘイジ・ファンテイジー)は、当時付き合っていたモデルから「凄い人がいるから来て」と言われてショーへ足を運び、「頭に生魚をつけたモデルがランウェイを歩き、その魚を客席に向かって投げている」のを観てあごが外れるかと思ったそうだ。その後彼はジョン・ガリアーノから「是非組みたい」と声を掛けられ、ショーで彼の音楽を使うことにしたそうだ。
こうして、セント・マーチンズを卒業してたった3年で、ジョン・ガリアーノはイギリスで注目の的となった。1987年にはブリティッシュ・デザイナー賞を受賞している。しかし彼は、決して商売は上手くなかった。「至高の美を追い求めたい」「夢を描き続けたい」と思っていたのだが、ジョン・ガリアーノがデザインする服は「着こなすのが難しい」とあまり売れなかったのだ。ショーは常に話題をかっさらうのだが、服が売れないため経費ばかりがかさみ、商売的にはまったく上手くいっていなかった。当時彼と組んでいた人物は、「金の話をすると『君はファッションのことを何も分かっていない』と言われたので縁を切った」と言っていた。
しかしそれ以上に問題だったのは、コレクションを終える度にジョン・ガリアーノが壊れてしまうことだった。その様は、近くにいる者には明らかだったようである。凄まじい創造力を常に出し続けることに、心が疲弊していたのである。このことは、その後もずっと彼を苦しめることになる。
さて、イギリスでは出資者を見つけられなくなったジョン・ガリアーノは、1990年、パリを目指す。ファッションの本場で勝負してやろうというわけだ。そして、パリに拠点を移したことで、彼はスティーブン・ロビンソンという相棒と出会った。性的な関係はなかったが、ある人物は彼らの関係を「共依存」と評していた。ジョン・ガリアーノは彼のことを「天使」と表現し、「雑務をすべて引き受けてくれたから、創作に集中できた。僕のことを助けるという使命を持って生まれたのだと思う」みたいに言っていた。スティーブンの献身は周囲の人間も認めるところだったようで、人によっては彼を悪く言うこともあったが(話を聞いていると、まあ仕方ないかという気はするが)、「共依存関係にある」という点を除けば、彼らの関係性は非常に上手くいっていたようだし、周囲もそのように見ていたようである。ある人物はスティーブンのことを「ジョン・ガリアーノが唯一心を許す人」と表現していた。
そして、そんなスティーブンの献身もあって、ジョン・ガリアーノはパリでも大成功を収めることになる。本作には様々なモデル(ナオミ・キャンベルやケイト・モスみたいな、僕でも知っている人も多数)が出てくるのだが、彼らはジョン・ガリアーノのショーの特異さについて、「ステージ上で役割が存在する」みたいに表現していた。
ケイト・モスは、ジョン・ガリアーノのショーに出た時にはモデルになりたてだったそうだが、ジョン・ガリアーノから「君はヤリたがってる」という役柄を与えられたそうだ。ウォーキングさえ初めて習ったみたいな状態で、さらに「ヤリたがっている女性」を演じる必要があるので大変だったそうだが、それが良かったそうだ。彼女は後にジョン・ガリアーノに結婚式のドレスを依頼するのだが、結婚式当日にも「今日の役柄は?」と聞いたとジョン・ガリアーノが語っていた。
そもそもジョン・ガリアーノのショーには必ず「物語」が存在するという。あるモデルは「岸に流れ着いた設定」が与えられたそうだが、そこには「裕福な家から逃げ出し船に乗って逃げている」みたいな状況設定が存在するのだという。そしてここにも「逃避」がテーマになっていたのである。あるモデルは、「モデルを心の旅に連れ出してくれるから、皆興奮させられた」と言っていた。
しかし、ジョン・ガリアーノはショーは常に成功するのだが、やはり売上が伴わず、時には生地を買う金さえ無くなるほどだったという。監督から「食べていけなくなると考えたことはあるか?」と聞かれ、「ある」と答えている。それもあってだろう、彼は酒癖が悪くなり、ある人物は「飲み屋のステージの端っこで小便をしているのを見た」と証言していた。
「よほど不幸なんだろう」とも語っており、ステージ上での成功とはかけ離れた状況にあったという。
しかし、そんな状況を見かねたアンドレ・レオン・タリー(詳しく知らないが、ファッション界で大きな影響を持つ人物)が、「ジョン・ガリアーノが生地を買う金さえ無いなんてあり得ない」と訴え、支援を申し出た。彼は、「女性の服装や考え方を変えるような天才デザイナーは希少」「ジョン・ガリアーノは、そんな天才の1人だ」と、彼を絶賛していた。
そしてアンドレのお陰で、不遇をかこっていたジョン・ガリアーノが表舞台に出ることが出来るようになった。資金を集め、さらに裕福な社交人に「使っていない豪邸をジョンのために貸してくれ」と頼んだことで、ジョン・ガリアーノは「個人の邸宅でショーを行う」ことになったのである。そしてそんなショーに、これまでジョン・ガリアーノと関わったことがあるモデルたちがノーギャラで出演を快諾した。そこにはナオミ・キャンベルも含まれており、彼女は「心の底から開催を願っていた」といって、ストッキングやアクセサリーを自前で持ち込んでショーに臨んだそうだ。
こうして行われた「ブラックショー 1994年秋冬」は大成功を収めた。その際にジョン・ガリアーノがデザインしたスリップドレスはその後10年間流行したという。また、個人の邸宅で行ったことで「観客の目の前をモデルが歩く」ことになり、それによって、香水の匂いが届いたり、布が擦れる音が聴こえるなど、より臨場感のあるショーに仕上がったのだそうだ。こうしてジョン・ガリアーノは新聞に「墓場から蘇る」と報じられるような復活劇を果たすことになる。
その後の展開については、ジョン・ガリアーノも衝撃を受けたそうだ。なんと、50以上のブランドを保有するベルナール・アルノーから、傘下のジバンシィのデザイナーを依頼されたのだ。しかし、この決定には批判が殺到した。「パリの伝統に疎いよそ者」「新参者のイギリス人」「配管工の息子」「野生児はクチュールで成功できるのか?」と散々な批判を浴びたのである。ファッション界は誰もが、「ジョン・ガリアーノは失敗する」と考えていたそうだ。
しかし、アンデルセンの絵本から取られた「えんどう豆の上にねむったお姫さま」という名のジバンシィのコレクション(1996年初夏)は喝采を浴び、「あの時誰もが彼を認めた」というほど称賛された。そしてこのショーを機にジョン・ガリアーノは、ディオールのデザイナーへと大抜擢されるのである。
そんな彼は不適切発言の前にも、パリを騒がせる事態を引き起こしたことがある。「ホームレスをバカにした」として非難を浴びたのだ。この件について説明するためだろう、本作では前段階でいくつかの説明がなされていた。
あるモデルはジョン・ガリアーノの凄さについて、「高級感と低俗感のバランスが素晴らしい」と語っていた。彼の手に掛かれば、マーケットで買ってきた、変なデザインの安物のトレーナーさえも傑作に変えてしまうのだという。また別の人物は、「寄せ集めの要素をつなぎ合わせているようにしか見えないのに、そこから見えるビジョンには統一感がある」と絶賛していた。
さらに、次の点が最も重要なのだが、ジョン・ガリアーノは「あらゆるものからインスピレーションを得るが、その背景を見ることはなく、表面しか捉えない」のだそうだ。もちろん、「ビジョンに統一感がある」のだから、無意識の内に背景も捉えているのかもしれないが、少なくともジョン・ガリアーノを知る者には、「目に映るもの」だけが彼のインスピレーションを刺激するのだと認識されているのである。
そしてそれ故だろう、彼はチャップリンに着想を得たショーにおいて「セーヌ川沿いの人々(ジョン・ガリアーノはホームレスをこう呼んでいた)」のことも取り入れることにしたそうだ(詳しくはないが、何かチャップリンと取り合わせが良かったのだろう)。彼はホームレスをバカにするつもりなどなかったのだが、彼のショーがそのように受け取られ、パリの街で「ガリアーノのクソ野郎」「正式に謝罪すべきだ」という抗議の声が上がった。ジョン・ガリアーノはとても戸惑ったという。「新聞紙をドレスにしてみたらどうなるのか試したかったんだ。それは美しい案だった」と、自身の美的意識から来るアイデアだったと説明していた。
しかし、そんな批判はありつつも、ジョン・ガリアーノの名声はどんどん高まっていく。彼がデザイナーに就任してから売上は飛躍的に伸びたし、「デザイナーというより芸術家だ」というような評価も出てくる。また、当時はまだ決して大きくはなかった業界の黎明期に現れ、業界の成長と共に彼の才能も咲き誇るというタイミングも味方し、ジョン・ガリアーノの評価は最高潮に達したと言っていいかもしれない。
しかしそれ故に、プレッシャーも凄まじかった。毎回斬新なアイデアを出すことを求められるし、そもそもだが彼は、酷い時には年間32回もコレクションを受け持ったのだ。年に32回ということは、1ヶ月に3回ぐらいやらないといけないことになる。ほぼ、週1ぐらいのペースというわけだ。そりゃあ頭もおかしくなるだろうという気がする。
ジョン・ガリアーノは次第に、酒と処方薬の依存症になっていく(作中では「仕事にも依存している」と指摘されていた)。この頃のジョン・ガリアーノについて、その”奇行”を多くの人が語っていたが、ある人物は「裸のライオン」の話をしていた。あるホテルのエレベーターで裸になり、乗ろうとする人に「俺はライオンだ!」と4時間ぐらい言い続けていたというのだ。彼はそのホテルを出禁になったし、そんなホテルは20以上存在したそうだ。
さらに追い打ちを掛けるように、激務に耐えかねた「唯一の理解者」であるスティーブンが38歳という若さで亡くなってしまう。まともな状態ではなかったが、彼は仕事を続けた。尋常ではない仕事量を、まともとは言えない状態でこなし続けたのだ。
そうして彼は、2011年2月を迎えることになる。ラ・ペルルでの不適切発言だ。そして彼はすべてを失う。
そしてそこから13年後の2024年、彼はカメラの前ですべてを話す決断をするのである。
さて、映画の後半では「ジョン・ガリアーノはレイシスト(人種差別主義者)なのか?」という話になっていく。この点に関しては意見が大きく分かれていた。一般的にはやはり、「ユダヤ人に対する差別感情があるのだろう」と受け取られると思う。しかしジョン・ガリアーノと直接関わったことがある者ほど、「彼はそんな人間じゃない」「依存症だったことがすべての原因」と認識しているようだ。ナオミ・キャンベルはインタビューの中で、ジョン・ガリアーノが暴言を吐いている映像を見たかと問われ「見たことはない」と言い切っていた。「彼のことは知っているから、見る必要はない」と。
この点に関しては正直、他人がとやかく言うことではないのだが、「ジョン・ガリアーノが尋常ではない仕事をこなしながら心身ともにすり減っていた」という本作の描写を追っていくと、「深層心理の中で『この状況から逃れたい』と思っていたのではないか」みたいに感じられた。つまり、「このしんどい状況から抜け出すための”手段”として暴言を吐いた」のではないかと思うのだ。それが意識的なものなのか無意識的なものなのかは分からないが、少なくとも僕は、「ジョン・ガリアーノがすり減った状態にいなければ、暴言は吐かなかったのではないか」と思っている。
もちろん、本作で問題になっているのは「内心」であって「行為」ではないのだと思う。つまり、「仮に差別発言をしなかったとしても、差別的な意識を持っていればダメ」というだけだ。そういう判断をするのであれば、「すり減っていなければ暴言は吐かなかっただろう」という指摘は特段何の意味も持たないだろうと思う。
ただ僕は、「『内心』のことなど誰にも分からないのだから『行為』で判断されるべき」だと考えている。そしてジョン・ガリアーノは、「暴言を吐く」という行為を行ったのだから断罪されて然るべきなのだが、しかし、「その行為を反省している」という姿も垣間見えるので、そういう意味では許容される余地はあるんじゃないかとも思うのである。まあ、この辺りはとても難しい問題だとは思うが。
さて、本作ではちょっと触れられていた程度の話だったのだが、彼の復帰に関してある女性編集長が辛辣なことを言っていたのが印象的だった。ジョン・ガリアーノはNYで復帰を果たすのだが(結果としてそれは、ジョン・ガリアーノの”不手際”で大失敗に終わるのだが)、そのことについてその女性は、「彼を支援する有力者は多かったし、何より、彼は白人男性ですからね」と言っていたのである。要するに、「白人社会では、白人男性の行為は大体許される」という皮肉である。
まあ、その発言を帳消しにするかのように、本作ではその直後、アンドレ・レオン・タリーと共に不遇だったジョン・ガリアーノを支援した『VOGUE』の女性編集長のインタビューが挿入される。監督から「(差別発言後の)ジョン・ガリアーノを支援することに危険だとは思わなかったですか?」と問われた彼女は、きっぱり「NO」と答えていたのである。これはきっと、「白人男性だけが彼を支援していたわけではない」という要素として組み込まれているのだろう。もちろん、ジョン・ガリアーノと関わりのあるモデルたちも変わらず彼を支援している。「白人男性だから」という指摘がどこまで的確なのかはなんとも言えないが、確かに、まったく同じ状況に白人女性が陥った時に、ジョン・ガリアーノのように復活できるかはなんとも言えないようにも思う。この点もまた、難しい問題だ。
さて、最後に「天才」に対する僕の考え方に触れてこの記事を終えよう。
僕は、「ユダヤ人に対する差別発言」は言語道断で非難は当然だと思うが、一方で、ある一定の範囲内であれば「天才は自由に生きれた方がいい」とも思っている。犯罪行為まで許容しろなどと言うつもりはないが、「一般人なら許されないことでも、天才なら許されてもいい」という感覚が僕の中にはある。ジョン・ガリアーノもまさに、そんな人物の1人であるように思う。
そしてその上で大事なことは、「そんな天才をサポート出来る人物がいるかどうか」である。ジョン・ガリアーノには、ショーの準備に関してはスティーブン・ロビンソンという「相棒」が存在したが、もっと広い意味で、彼の人生全般をサポート出来る人がいたら良かったんじゃないかと思う。彼にはある時点以降アレクシスという恋人(ディオールのセレブ担当だった)が出来たし、彼からはかなり精神的な支えを得ていたようだが、そうではなくて、マネージャー的な感じで彼を管理・サポート出来る人がいたらもっと違ったんじゃないかと思う。
もちろん、ジョン・ガリアーノ自身が「仕事に依存していた」とも指摘されていたので、マネージャー的な存在がいたとしても難しかったかもしれないが、「仕事に依存する」という状態に陥る前からサポートがあれば、もっと違ったようにも思う。本作では、ジョン・ガリアーノの「そりゃあダメだろうよ」と感じるような言動が色々出てくるのだが、それらに対して「止めた方がいい」と忠告する人物がいなかったのだろうし、それ故にトラブルが色々起こってしまったのだと思う。まあ、「止めた方がいい」という忠告をジョン・ガリアーノが受け入れたかどうかはまた別の話ではあるが。
天才には天才にしか出来ないことがあるのだから、そんな天才が「社会」と適切に接点を持つことが出来るような役割の人物が、やはり天才の周りには必要だと思うし、ジョン・ガリアーノの不幸はその点にあったようにも思う。いや、繰り返すが、差別発言についてはジョン・ガリアーノが悪いし、別にそれを擁護したいわけでは全然ないのだけど、サポート的な人がいればもう少し違ったんじゃないかとも思う。
そんなわけで、様々な捉え方が可能なジョン・ガリアーノという複雑な人物像を映し出すドキュメンタリー映画であり、僕のようにファッションについてまったく詳しくない人間でも面白く観れた。ちなみにジョン・ガリアーノは現在、マルタン・マルジェラのデザイナーとして復帰を果たしているそうだ。それまで以上に演劇感の強いマルタン・マルジェラのショー「シネマ・インフェルノ」の様子も映し出されていたが、ファッションショーとしてはもの凄く斬新に見えたし、世間的にもそういう評価であるようだ。創作力は衰えていないということだろう。そんなわけで僕は、「天才にしか出来ないこと」をやってほしいと思う。もちろん、過去の行いを反省し、彼なりの償いをし続けつつということになるが。
「ジョン・ガリアーノ 世界一愚かな天才デザイナー」を観に行ってきました
「夏目アラタの結婚」を観に行ってきました
思いがけず面白くてビックリした。と書くのは失礼だが、ただ、個人的には「黒島結菜を観に行った」ぐらいのつもりだったので、「映画も面白くてラッキー」みたいな感じになった。しかし、「歯がメチャクチャ汚い黒島結菜」のビジュアルはインパクトあるなぁ。演技も凄かった。
さて、この「歯」の話で言えば、本作を観る前にネット記事で、「原作者が『真珠の歯の再現』の見事さに映画化をOKした」みたいなのを読んだ記憶がある(うろ覚えだが)。で、その時僕はまだ、主人公の名前が「品川真珠」だと知らなかったので、「歯に真珠を埋め込んでるのか?」と思ったのだけど、全然違った。
まあ、そんな話はどうでもいいのだが、「死刑囚と結婚する」という冒頭の展開のスムーズさ(違和感のなさ)や、「法廷劇」としての面白さ、さらには超特殊ではあるが「恋愛」も描かれるわけで、ちょっと想像できない物語に仕上がっていると思う。僕も映画を観ながら、「インパクトのある展開やビジュアルで惹きつけることは出来ているが、これ、一体どんな風に物語を閉じるんだろう?」と思っていた。けど、「法律の間隙をついた意外な展開」からのラストの物語は、結構良かったなと思う。漫画原作なので、かなりの突拍子も無さが描かれるわけだが、それを、役者の演技などで「かなりリアルに寄せている」ので、「単なるエンタメ作品」というだけではない雰囲気にまとまっていると思う。
というわけで、まずは内容の紹介をしていこう。
児童相談所で働く夏目アラタはある日、関わりのある児童から思いがけない話を聞かされる。なんと、死刑囚と文通しているというのだ。その少年はその死刑囚に父親を殺されている(という容疑で控訴審を待っている)のであり、さらに、未だにその首が発見されていないのだ。そのため少年は、夏目アラタの名刺が手近にあったこともあり、彼の名を騙って死刑囚と文通していたのである。
そしていよいよ、「会って話そう」というタイミングになったところで少年に打ち明けられた夏目アラタは、東京拘置所へと足を運ぶことにした。面会の相手は、品川真珠。3年半前、自宅で死体を解体している最中に逮捕された彼女は、逮捕時ピエロの格好をしており、世間では「品川ピエロ」と呼ばれている。3人を殺害し死体をバラバラに損壊した罪で起訴され、一審では完全黙秘を貫いたまま死刑判決が下っていた。彼女の家には実は、身元不明のDNAが血痕から検出されているのだが、結局裁判までに身元が明らかにならなかったため、4人目の被害者と思われる事件では起訴されていない。
面会室の扉を開けて入ってきた品川真珠は、当然ピエロの格好をしているはずもなく、また太った姿が印象的だった逮捕時とは異なり痩せていた。そして夏目アラタを見ると、「なんかイメージと違った」と口にして帰ろうとしたのである。
アラタは、「父親の首の在り処を聞き出す」という重責を担っていることもあったが、それ以上に、「ここ数年で最も有名な殺人鬼」であり、そして「品川ピエロ」という印象から程遠い見た目だったこともあり、個人的に関心を抱いた。そこで彼は、立ち去ろうとする真珠に、「俺と結婚しよう」と叫んだのである。もちろん、彼女の気を惹くためのその場しのぎの口からでまかせに過ぎなかった。
しかしその後、自宅で寝ている時に、真珠の私選弁護人だという宮前光一がやってきた。彼は、アラタが真珠と結婚するという話を聞きつけ、その本気度を探りにやってきたのだ。というのも真珠は、逮捕されてから一貫して黙秘を貫いており、弁護人である宮前にも事件の話をしない。それが、何故かアラタには胸襟を開いているように思えるのだ。宮前は実は、国選弁護人として真珠の担当をした時から、彼女の「無実」を信じており、その証明のためなら何でもするつもりでいるのである。
こうして、宮前の介入もあり、アラタは本当に真珠と獄中結婚をすることになった。
しかしアラタは、本来の目的を忘れてはいない。真珠から信頼を得て、首の在り処を聞き出そうと考えているのだ。しかし真珠は思いの外手強い。そしてそこに1つ、疑問点があるのである。
アラタは品川真珠についてざっくりした情報を知っていた。母親からの虐待に遭っており、学校もまともに通えなかった。後に看護学校に通うも、途中で辞めている。恐らく、学力的にはかなり劣るはずだ。にも拘らず真珠は、アラタを試すような丁々発止のやり取りを続けるのである。
その疑問は、宮前から聞いた話によってさらに補強されることになった。真珠は8歳の時に知能テストを受けており、同年代の平均よりも低い70というスコアだったのだが、逮捕後に改めて行われたまったく同じ知能テストでは108というスコアだったのだ。10前後の誤差は起こり得るようだが、30以上の違いは普通あり得ない。だから、8歳から逮捕までの間に、彼女の身に何か大きな出来事が起こったのではないかと思うのだが、宮前もそれが何なのかは分かっていないようだ。
そんなわけで夏目アラタは、夫として面会や裁判の傍聴へと出向き、真珠のガタガタの歯を目にしながら、彼女が語る様々な話に耳を傾けるのだが……。
というような話です。
まず、「死刑囚と結婚するに至る過程」がなかなか面白い。作中でも説明されるが、「獄中結婚」するのは普通、記者などが多いそうだ。真珠はまだ控訴審を待つ身で刑が確定したわけではないので誰でも面会が可能だが、確定死刑囚となってしまえば面会にかなりの制約が生まれる。そのため、「確定死刑囚になってからも面会を継続したい」と考える者が獄中結婚という選択をするというわけだ。
しかし夏目アラタの場合は、記者というわけではないし、確かに「少年の父親の首の在り処を聞き出す」という名目こそあるものの、正直これは「対外的に話を通しやすくするための理由」でしかないと僕には感じられた。実際には、品川真珠という人間に曰く言い難い興味を惹かれ、その繋がりを保つために結婚したのだと思う。
しかしそうだとしても普通、死刑囚に面会に行ったりはしない。作中には「死刑囚と面会するのを趣味にする人物」も出てくるが、まあかなり稀だろう。そして面会に行かなければ品川真珠に惹かれることもなかったわけで、関係が生まれようがない。
そこを本作では、「児童相談所で関わりのある少年が夏目アラタの名前で勝手に文通をしていた」という、絶妙すぎる設定を持ってきている。これがまずとても良かった。夏目アラタ個人の動機で面会・結婚と進んでいくとしたらちょっと物語として成立しない印象があるが、最初の「面会」の段取りが完全に他者の動機に乗っかっているだけだったので、凄くリアルに感じやすい。
さらに言えば、冒頭で「イカれたピエロ」のビジュアルを出しておいてからの、面会室にやってきた品川真珠(黒島結菜)の落差もとても良い。本作の場合、「黒島結菜が出演している」という事実はさすがに鑑賞前に視界に入ってしまうだろうが、もしも運良くその情報を知らずに観ることが出来たら、さらにそのギャップに驚かされるんじゃないかと思う。
さすが漫画原作という感じだが、本作はこんな風に、冒頭からトップスピードで観客の興味を惹く仕掛けになっていて、物語の構成としてまずこの点が良かったと思う。
しかしやはり、「めっちゃガタガタの歯をした黒島結菜」のビジュアルは超強い。しかも、変な言い方だと自覚しているが、「似合ってもいる」と感じた。例えばだが、品川真珠の役をアイドルが演じていたとすると、アイドルというのは基本的に「クリーン」なイメージで売るはずなので、それと「ガタガタの歯」のギャップがあまりにも強すぎて、どちらかというと「拒絶反応」みたいな感じになってしまいそうな気がする。しかし、言い方が難しいが(黒島結菜がクリーンじゃないと言いたいわけではないのだが)、黒島結菜の場合、その「拒絶反応」がかなり薄いような印象だった。これはかなり配役の妙という感じがするし、さらに言えば、「黒島結菜がナチュラルに『狂気』を演じている」からこその馴染み具合だったとも言えるかもしれない。
ただ、馴染んでいるとはいえ、やはり最後まで「強烈な違和感」はつきまとう。特に、面会室や法廷にいる時はまだいいのだが、そうではない時(具体的には触れないが、そうではない時もある)の違和感は凄まじくて、ザワザワさせられる。そしてそんな「ザワザワ」が、ある種の「怖いもの見たさ」的な要素となって、観客を惹きつけるのかもしれない。
原作者が「絶対に譲れない」と主張した「真珠のガタガタの歯」だが、ここは本当にこだわって正解だっただろう。公式HPによると、この特注のマウスピースを制作するのに5ヶ月も掛かったという。ホント、「マウスピースを付けている」みたいな違和感を一切感じさせない自然さで、凄いものだなと思う。
さて、物語前半は「品川真珠と夏目アラタの心理戦」みたいな展開で進んでいくのだが、後半に進むに連れて徐々に「事件の真相」へと迫っていくことになる。もちろんそれは、夏目アラタや弁護士・宮前の奮闘あってのものなのだが、加えて、法廷での品川真珠の証言もそれを補強していくことになる。作中で、「死刑囚への面会を趣味にする人物」が控訴審を傍聴して、「もし控訴審も裁判員裁判だったら、品川ピエロの勝ちだったでしょうね」みたいなことを口にするのだが、それぐらい、彼女の法廷での証言は聞いている者を惹きつけ、同情心を誘うようなものになっている。ここでの黒島結菜の演技もまた絶妙だったなぁ。
そんなわけで本作は、「法廷劇的な面白さ」もある。二転三転、みたいな表現をするとちょっと違うかもしれないが、しかし「なるほど、そういうことだったのか!」的な描写は随所にあって、その展開もなかなか面白い。法廷のシーンはやはり、実際の法律に沿ってリアルにやっているだろうし、だとすると、「このような状況で、一体品川真珠はどんな裁きを受けることになるんだろう?」みたいな興味でも観客を惹きつけていくことになる。
さて、その「法律」の話で僕が感心したのが、冒頭で少し触れた「法律の間隙をついた意外な展開」である。具体的には触れないが、夏目アラタがある人物を問い詰めて「ない」という返答を引き出していたことに関係している。法律に詳しいわけではないが、確かに論理的に考えて「ない」だろうし、その間隙をついて想像も出来なかった状況を現出させる感じはとても斬新だなと思った。少なくとも僕は、このような法律の穴を衝いた展開を映画・小説に拘らずフィクションでは目にしたことがないと思う。
さて、そんなわけで物語的には色々あって、「なるほど、そういう風に着地するのか」という展開になっていくわけだが、夏目アラタが最終的に、「そのことを真珠が教えてくれた」と語るような展開になっていくのもなかなか面白かった。この点についても具体的には触れないので何を書いているのか分からないかもしれないが、アラタがたどり着いてしまった「実感」はなかなか難しい問題だなと思う。
ただ僕は、仮に夏目アラタの感覚を抱いていたとしても、自分に誇りを持っていていいと思う。それがどんな問題・状況であれ、辛い境遇にいる人は「無関心が一番キツい」みたいに感じることが多いんじゃないかと思うからだ。どんな想いが根底にあるにせよ、「関心を向けている」という事実に変わりないし、それは「無関心」と比べれば圧倒的に良い。個人的にはそんな風に思う。ただ、アラタの葛藤も分かるなー、という感じだった。
さて、僕は原作を読んでいないのだが、映画を観ていると「大分削ってるんだろうなぁ」とは感じる。特にそれを感じさせられたのが、アラタの先輩・桃山香(丸山礼)の描写である。彼女は1度、真珠と会うのだが、このシーン、物語全体の中でちょっと浮いているように思う。恐らくだが、原作ではもっと意味を持つ描写なのだろうなと思うし、だからこそ、大分端折ってるんだろうなと感じた。なので、映画を観てから原作を読むのも面白いかもしれない。
さて、あと少しどうでもいいことを書いて記事を終えよう。
まず、最近色んな映画を観ていて思うのが、「喫煙シーン、結構増えてきたな」ということ。外国映画はもとより、日本映画でも喫煙シーンが描かれるようになった気がする。僕の記憶では、ジブリ映画『風立ちぬ』で喫煙シーンがあり、世間的に論争が生まれたような記憶がある。そんなこともあって、「よほど必然性がない限り、喫煙シーンを入れない」みたいな映画が、特に日本映画に多かった印象があるのだが、少しずつ変わってきたのだろうか?
あと、エンドロールを見ていて気になったこと。「アラタ目線カメラ」のところに「柳楽優弥」と書かれていて、「へぇ、そんなことあるんだ」と思った。「アラタ目線カメラ」ということはアラタ(柳楽優弥)は映らないわけで、だから本人がカメラを回す必然性はない。ただ恐らく、柳楽優弥が自ら望んだのだろう、本作では「アラタ視点の映像」は柳楽優弥が撮っている、のだろう、きっと。エンドロールで普段見かけることのない記載だったので、ちょっと気になった。
というわけで、個人的には思いがけず面白い作品だった。黒島結菜も柳楽優弥も演技が見事で、黒島結菜のビジュアルはなかなか衝撃的である。「太ったピエロ」も、3時間掛けて黒島結菜が演じているそうだ。黒島結菜は割と推しなので、観れて良かった。
「夏目アラタの結婚」を観に行ってきました
さて、この「歯」の話で言えば、本作を観る前にネット記事で、「原作者が『真珠の歯の再現』の見事さに映画化をOKした」みたいなのを読んだ記憶がある(うろ覚えだが)。で、その時僕はまだ、主人公の名前が「品川真珠」だと知らなかったので、「歯に真珠を埋め込んでるのか?」と思ったのだけど、全然違った。
まあ、そんな話はどうでもいいのだが、「死刑囚と結婚する」という冒頭の展開のスムーズさ(違和感のなさ)や、「法廷劇」としての面白さ、さらには超特殊ではあるが「恋愛」も描かれるわけで、ちょっと想像できない物語に仕上がっていると思う。僕も映画を観ながら、「インパクトのある展開やビジュアルで惹きつけることは出来ているが、これ、一体どんな風に物語を閉じるんだろう?」と思っていた。けど、「法律の間隙をついた意外な展開」からのラストの物語は、結構良かったなと思う。漫画原作なので、かなりの突拍子も無さが描かれるわけだが、それを、役者の演技などで「かなりリアルに寄せている」ので、「単なるエンタメ作品」というだけではない雰囲気にまとまっていると思う。
というわけで、まずは内容の紹介をしていこう。
児童相談所で働く夏目アラタはある日、関わりのある児童から思いがけない話を聞かされる。なんと、死刑囚と文通しているというのだ。その少年はその死刑囚に父親を殺されている(という容疑で控訴審を待っている)のであり、さらに、未だにその首が発見されていないのだ。そのため少年は、夏目アラタの名刺が手近にあったこともあり、彼の名を騙って死刑囚と文通していたのである。
そしていよいよ、「会って話そう」というタイミングになったところで少年に打ち明けられた夏目アラタは、東京拘置所へと足を運ぶことにした。面会の相手は、品川真珠。3年半前、自宅で死体を解体している最中に逮捕された彼女は、逮捕時ピエロの格好をしており、世間では「品川ピエロ」と呼ばれている。3人を殺害し死体をバラバラに損壊した罪で起訴され、一審では完全黙秘を貫いたまま死刑判決が下っていた。彼女の家には実は、身元不明のDNAが血痕から検出されているのだが、結局裁判までに身元が明らかにならなかったため、4人目の被害者と思われる事件では起訴されていない。
面会室の扉を開けて入ってきた品川真珠は、当然ピエロの格好をしているはずもなく、また太った姿が印象的だった逮捕時とは異なり痩せていた。そして夏目アラタを見ると、「なんかイメージと違った」と口にして帰ろうとしたのである。
アラタは、「父親の首の在り処を聞き出す」という重責を担っていることもあったが、それ以上に、「ここ数年で最も有名な殺人鬼」であり、そして「品川ピエロ」という印象から程遠い見た目だったこともあり、個人的に関心を抱いた。そこで彼は、立ち去ろうとする真珠に、「俺と結婚しよう」と叫んだのである。もちろん、彼女の気を惹くためのその場しのぎの口からでまかせに過ぎなかった。
しかしその後、自宅で寝ている時に、真珠の私選弁護人だという宮前光一がやってきた。彼は、アラタが真珠と結婚するという話を聞きつけ、その本気度を探りにやってきたのだ。というのも真珠は、逮捕されてから一貫して黙秘を貫いており、弁護人である宮前にも事件の話をしない。それが、何故かアラタには胸襟を開いているように思えるのだ。宮前は実は、国選弁護人として真珠の担当をした時から、彼女の「無実」を信じており、その証明のためなら何でもするつもりでいるのである。
こうして、宮前の介入もあり、アラタは本当に真珠と獄中結婚をすることになった。
しかしアラタは、本来の目的を忘れてはいない。真珠から信頼を得て、首の在り処を聞き出そうと考えているのだ。しかし真珠は思いの外手強い。そしてそこに1つ、疑問点があるのである。
アラタは品川真珠についてざっくりした情報を知っていた。母親からの虐待に遭っており、学校もまともに通えなかった。後に看護学校に通うも、途中で辞めている。恐らく、学力的にはかなり劣るはずだ。にも拘らず真珠は、アラタを試すような丁々発止のやり取りを続けるのである。
その疑問は、宮前から聞いた話によってさらに補強されることになった。真珠は8歳の時に知能テストを受けており、同年代の平均よりも低い70というスコアだったのだが、逮捕後に改めて行われたまったく同じ知能テストでは108というスコアだったのだ。10前後の誤差は起こり得るようだが、30以上の違いは普通あり得ない。だから、8歳から逮捕までの間に、彼女の身に何か大きな出来事が起こったのではないかと思うのだが、宮前もそれが何なのかは分かっていないようだ。
そんなわけで夏目アラタは、夫として面会や裁判の傍聴へと出向き、真珠のガタガタの歯を目にしながら、彼女が語る様々な話に耳を傾けるのだが……。
というような話です。
まず、「死刑囚と結婚するに至る過程」がなかなか面白い。作中でも説明されるが、「獄中結婚」するのは普通、記者などが多いそうだ。真珠はまだ控訴審を待つ身で刑が確定したわけではないので誰でも面会が可能だが、確定死刑囚となってしまえば面会にかなりの制約が生まれる。そのため、「確定死刑囚になってからも面会を継続したい」と考える者が獄中結婚という選択をするというわけだ。
しかし夏目アラタの場合は、記者というわけではないし、確かに「少年の父親の首の在り処を聞き出す」という名目こそあるものの、正直これは「対外的に話を通しやすくするための理由」でしかないと僕には感じられた。実際には、品川真珠という人間に曰く言い難い興味を惹かれ、その繋がりを保つために結婚したのだと思う。
しかしそうだとしても普通、死刑囚に面会に行ったりはしない。作中には「死刑囚と面会するのを趣味にする人物」も出てくるが、まあかなり稀だろう。そして面会に行かなければ品川真珠に惹かれることもなかったわけで、関係が生まれようがない。
そこを本作では、「児童相談所で関わりのある少年が夏目アラタの名前で勝手に文通をしていた」という、絶妙すぎる設定を持ってきている。これがまずとても良かった。夏目アラタ個人の動機で面会・結婚と進んでいくとしたらちょっと物語として成立しない印象があるが、最初の「面会」の段取りが完全に他者の動機に乗っかっているだけだったので、凄くリアルに感じやすい。
さらに言えば、冒頭で「イカれたピエロ」のビジュアルを出しておいてからの、面会室にやってきた品川真珠(黒島結菜)の落差もとても良い。本作の場合、「黒島結菜が出演している」という事実はさすがに鑑賞前に視界に入ってしまうだろうが、もしも運良くその情報を知らずに観ることが出来たら、さらにそのギャップに驚かされるんじゃないかと思う。
さすが漫画原作という感じだが、本作はこんな風に、冒頭からトップスピードで観客の興味を惹く仕掛けになっていて、物語の構成としてまずこの点が良かったと思う。
しかしやはり、「めっちゃガタガタの歯をした黒島結菜」のビジュアルは超強い。しかも、変な言い方だと自覚しているが、「似合ってもいる」と感じた。例えばだが、品川真珠の役をアイドルが演じていたとすると、アイドルというのは基本的に「クリーン」なイメージで売るはずなので、それと「ガタガタの歯」のギャップがあまりにも強すぎて、どちらかというと「拒絶反応」みたいな感じになってしまいそうな気がする。しかし、言い方が難しいが(黒島結菜がクリーンじゃないと言いたいわけではないのだが)、黒島結菜の場合、その「拒絶反応」がかなり薄いような印象だった。これはかなり配役の妙という感じがするし、さらに言えば、「黒島結菜がナチュラルに『狂気』を演じている」からこその馴染み具合だったとも言えるかもしれない。
ただ、馴染んでいるとはいえ、やはり最後まで「強烈な違和感」はつきまとう。特に、面会室や法廷にいる時はまだいいのだが、そうではない時(具体的には触れないが、そうではない時もある)の違和感は凄まじくて、ザワザワさせられる。そしてそんな「ザワザワ」が、ある種の「怖いもの見たさ」的な要素となって、観客を惹きつけるのかもしれない。
原作者が「絶対に譲れない」と主張した「真珠のガタガタの歯」だが、ここは本当にこだわって正解だっただろう。公式HPによると、この特注のマウスピースを制作するのに5ヶ月も掛かったという。ホント、「マウスピースを付けている」みたいな違和感を一切感じさせない自然さで、凄いものだなと思う。
さて、物語前半は「品川真珠と夏目アラタの心理戦」みたいな展開で進んでいくのだが、後半に進むに連れて徐々に「事件の真相」へと迫っていくことになる。もちろんそれは、夏目アラタや弁護士・宮前の奮闘あってのものなのだが、加えて、法廷での品川真珠の証言もそれを補強していくことになる。作中で、「死刑囚への面会を趣味にする人物」が控訴審を傍聴して、「もし控訴審も裁判員裁判だったら、品川ピエロの勝ちだったでしょうね」みたいなことを口にするのだが、それぐらい、彼女の法廷での証言は聞いている者を惹きつけ、同情心を誘うようなものになっている。ここでの黒島結菜の演技もまた絶妙だったなぁ。
そんなわけで本作は、「法廷劇的な面白さ」もある。二転三転、みたいな表現をするとちょっと違うかもしれないが、しかし「なるほど、そういうことだったのか!」的な描写は随所にあって、その展開もなかなか面白い。法廷のシーンはやはり、実際の法律に沿ってリアルにやっているだろうし、だとすると、「このような状況で、一体品川真珠はどんな裁きを受けることになるんだろう?」みたいな興味でも観客を惹きつけていくことになる。
さて、その「法律」の話で僕が感心したのが、冒頭で少し触れた「法律の間隙をついた意外な展開」である。具体的には触れないが、夏目アラタがある人物を問い詰めて「ない」という返答を引き出していたことに関係している。法律に詳しいわけではないが、確かに論理的に考えて「ない」だろうし、その間隙をついて想像も出来なかった状況を現出させる感じはとても斬新だなと思った。少なくとも僕は、このような法律の穴を衝いた展開を映画・小説に拘らずフィクションでは目にしたことがないと思う。
さて、そんなわけで物語的には色々あって、「なるほど、そういう風に着地するのか」という展開になっていくわけだが、夏目アラタが最終的に、「そのことを真珠が教えてくれた」と語るような展開になっていくのもなかなか面白かった。この点についても具体的には触れないので何を書いているのか分からないかもしれないが、アラタがたどり着いてしまった「実感」はなかなか難しい問題だなと思う。
ただ僕は、仮に夏目アラタの感覚を抱いていたとしても、自分に誇りを持っていていいと思う。それがどんな問題・状況であれ、辛い境遇にいる人は「無関心が一番キツい」みたいに感じることが多いんじゃないかと思うからだ。どんな想いが根底にあるにせよ、「関心を向けている」という事実に変わりないし、それは「無関心」と比べれば圧倒的に良い。個人的にはそんな風に思う。ただ、アラタの葛藤も分かるなー、という感じだった。
さて、僕は原作を読んでいないのだが、映画を観ていると「大分削ってるんだろうなぁ」とは感じる。特にそれを感じさせられたのが、アラタの先輩・桃山香(丸山礼)の描写である。彼女は1度、真珠と会うのだが、このシーン、物語全体の中でちょっと浮いているように思う。恐らくだが、原作ではもっと意味を持つ描写なのだろうなと思うし、だからこそ、大分端折ってるんだろうなと感じた。なので、映画を観てから原作を読むのも面白いかもしれない。
さて、あと少しどうでもいいことを書いて記事を終えよう。
まず、最近色んな映画を観ていて思うのが、「喫煙シーン、結構増えてきたな」ということ。外国映画はもとより、日本映画でも喫煙シーンが描かれるようになった気がする。僕の記憶では、ジブリ映画『風立ちぬ』で喫煙シーンがあり、世間的に論争が生まれたような記憶がある。そんなこともあって、「よほど必然性がない限り、喫煙シーンを入れない」みたいな映画が、特に日本映画に多かった印象があるのだが、少しずつ変わってきたのだろうか?
あと、エンドロールを見ていて気になったこと。「アラタ目線カメラ」のところに「柳楽優弥」と書かれていて、「へぇ、そんなことあるんだ」と思った。「アラタ目線カメラ」ということはアラタ(柳楽優弥)は映らないわけで、だから本人がカメラを回す必然性はない。ただ恐らく、柳楽優弥が自ら望んだのだろう、本作では「アラタ視点の映像」は柳楽優弥が撮っている、のだろう、きっと。エンドロールで普段見かけることのない記載だったので、ちょっと気になった。
というわけで、個人的には思いがけず面白い作品だった。黒島結菜も柳楽優弥も演技が見事で、黒島結菜のビジュアルはなかなか衝撃的である。「太ったピエロ」も、3時間掛けて黒島結菜が演じているそうだ。黒島結菜は割と推しなので、観れて良かった。
「夏目アラタの結婚」を観に行ってきました
「侍タイムスリッパー」を観に行ってきました
いやー、これはなかなか面白い映画だったなぁ!自主制作映画とは、驚きだ。
さて、本作『侍タイムスリッパー』のことを知ったのはたぶん、一昨日ぐらいだと思う。先週の金曜日ぐらいから全国で拡大公開されたことを伝える記事の見出しだけ見たのだ。そこには「カメ止めの奇跡再来」と書かれていた。「カメ止め」とはもちろん映画『カメラを止めるな!』のことだ。そして本作『侍タイムスリッパー』も『カメラを止めるな!』と同様、口コミで評判が広まった作品なのだ。
本作は8月に、池袋シネマ・ロサという東京の1館のみで公開された。そして先週の9月13日から、全国100館以上での拡大公開となったのだ。僕はTOHOシネマズ日比谷で見たが、400弱ある座席の7割ぐらいは埋まっていたと思う。僕はネット記事の見出しをたまたま目にしただけだが、恐らくSNSなどではかなり話題になっているのだろう。しかも、ネット記事で読んだのだが、監督の安田淳一は「カメ止めの奇跡は再現できるのではないか?」と考え、かなり戦略的に本作を作ったのだそうだ。そうだとしたら、ちょっと凄すぎだろう。
そしてそんな話題作の中身はというと、メチャクチャ面白かった。最後ちょっと涙が溢れたことも含め、まさかこんな面白い作品とは思わずに驚かされてしまった。
しかも、「幕末の侍が現代にタイムスリップしてくる」という、よくあると言えばあるし、なんならチープにしかならなそうな作品で、爆笑とシリアスと感動を生み出しているのだ。映画を観ながら、客席から何度も笑い声が上がっていたが(もちろん僕も笑った)、そういうコメディ的な部分もありつつ、根底にはちゃんとシリアスなテーマ性もあり、その上で涙を誘うようなシーンもあったりするのだ。
メチャクチャ良く出来てる。
しかし本作は、そういう「単館から大ヒットした」というだけではない異常さがある。それは「ベースが時代劇である」という点だ。どう考えても、自主制作映画でやるテーマではないだろう。常軌を逸していると思う。衣装やセットやら死ぬほど金が掛かるはずだ。実際に監督は、愛車を売って資金を捻出したとかで、映画が完成した時点での貯金がわずか7000円だったそう。
しかしそうだとしても、本格的な時代劇(本作は劇中劇のような時代劇シーンがとても多い)を撮る資金を捻出するのは相当困難なはずだ。ただ、本作は、東映京都撮影所が相当協力してくれているという。ネット記事には「かなり持ち出しで協力した」みたいなことが書かれていた。『侍タイムスリッパー』を制作したのは「未来映画社」というところだが、そこから拠出された撮影スタッフは僅か10人ほどだったという。そんなんで、本格的な時代劇が撮れるはずもない。ネット記事には「東映京都撮影所が異例の協力をした自主制作映画」と書かれているが、まさにその通りだろう。そしてそれが実現したのはやはり、脚本が面白かったからなのだと思う(公式HPにもそう書かれている)。確かに、こんな脚本を読んだら、「金は無いみたいだけど協力してやるか!」みたいに感じるかもしれない。
さて、全然内容の話をしないがもう少しだけ。本作は「きっとエンドロールが面白いだろうなぁ」と思って見ていたのだけど、案の定、監督の「安田淳一」の名前があちこちに出てきたりと、自主制作映画感が満載だった。ただ、個人的に最も驚いたのが、本作でメインどころの役を演じた沙倉ゆうのである。彼女は本作で「時代劇の監督を目指す助監督」役として登場するのだが、なんと彼女は、映画『侍タイムスリッパー』の撮影においても実際に助監督を務めたそうなのだ。そんなこと出来るのか? と感じてしまうが、まあ撮影隊が10人しかいないならやるしかないのだろう。本作はエンドロールの流れるスピードが早く、普段映画を見ている時には「もっと早く進めー」とか思いながら見ているのだけど、本作の場合は「もうちょっとゆっくりして」と思った。たぶん僕が気づかなかっただけで、もっと色んな人の名前が色んなところに出ていたと思うので、それももうちょっと観たかったなと思う。ちなみに、沙倉ゆうのは僕より年上だそうだ。マジかよ。
さてというわけで、前置きが長くなったが、内容に触れたいと思う。
物語は、江戸末期から始まる。会津藩士である高坂新左衛門は、同藩の仲間と共に家老じきじきの密命を預かった。倒幕派の長州藩士を打てというのだ。そのため、寺から男が出てくるのを待ち伏せし襲いかかったのだが、相手と刃を交えた瞬間に雷に打たれ、気を失ってしまった。
目覚めた高坂は、江戸の町中に横たわっていた。昨日は京都にいたはずなのに、何故……?よく分からないまま声がする方へと歩くと、町娘が男たちに襲われている様子を目にしてしまう。そこにやってきたのが、心配無用之介と名乗る男。高坂は、彼に助太刀すべく刀を抜くが……。
「カット!!」
実はそこは撮影所で、時代劇の撮影中だったのだ。高坂は「別の撮影現場の斬られ役が紛れ込んだ」と扱われ、助監督の山本優子に追い出されてしまった。その後、撮影所内をうろうろし、巨石を若い女性が運んだり、ゾンビのようなメイクの町人に驚いたりしていたところ、撮影で使うクレーンに頭をぶつけ倒れてしまう。
そのまま入院することになったが、窓から見える街並みを目にして驚愕した。自分は一体どこにいるのだろうか。その後、ひょんなきっかけから、自分が未来にやってきたことを知った高坂は、たまたまあの決戦の日に待ち伏せしていた寺を見つけ、なんだかんだで寺に住まわせてもらうことになった。
その後いくつかの偶然が重なったことで、彼は「東映剣」という斬られ役集団に弟子入りすることになるのだが……。
というような話です。
冒頭からしばらくは、コメディ的に展開していく。もちろんそれは「幕末の侍が、何もかもが変わった現代のあらゆることに驚く」みたいな描写もあるのだけど、決してそれだけで面白さを生み出しているわけではない。冒頭で絡んでくるのは主に、武士の高坂、そんな高坂を受け入れる寺の老夫婦、そして助監督の山本の4人だが、彼らが絶妙な掛け合いをするので、それがとても面白いのだ。特に寺の夫婦が凄く良くて、「どう考えても変な高坂」を絶妙な感じで笑い飛ばしつつ、「幕末の武士である高坂が現代で生活していることの違和感」の大半を帳消しにするような役割を見事に担っていて素晴らしい。この寺の夫婦を含めた掛け合いが、とにかく前半の見どころである。
そしてそこから、高坂が斬られ役を目指し注目を集めるようになっていくのだけど、それ以降の展開はちょっとここでは伏せよう。想定できた人もいるかもしれないけど、個人的には「なるほど、そんな展開になるのか!」という、ちょっと驚きの物語で、出来れば知らずに観てほしいと思う。
本作については正直、物語が始まった直後から「一体どうやって物語を展開させるつもりなんだろう?」と思っていた。というのも、冒頭からしばらくの描写から「幕末に帰る的な展開にはならない」と分かるからだ。もしそういう展開になるなら、「どういう条件がクリアされれば幕末に戻れるのか?」みたいな情報が提示されないと成立しないが、一向にそんな話は出てこない。つまり割と早い段階で、「本作は現代で物語を完結させるんだな」と思っていた。
しかしそうだとして、こっからどうするんだろう? と思っていた。正直、展開のさせようがないだろう、と。冒頭は「幕末の侍が現代にやってきてビックリ」みたいな出落ちの展開を続けていればいいが、そんなのは長く続けられない。じゃあその後は? 高坂は一応、「自分が未来にやってきてしまった」と理解しており、さらに「ここで生きていくしかない」とも覚悟している。しかしかといって、何が出来るというわけでもないのだ。運良く寺に拾ってもらい、衣食住に困ることはなくなったが、物語という観点で言えばそんなことは展開でもなんでもない。
というわけで、131分もある映画(そう、本作は、自主制作映画なのに131分もあるのだ)をどう展開させるのだろうと思っていたのだ。
舞台が京都なので、「撮影所で斬られ役になる」というのは順当だと感じたが(僕はこれから観ようと思っている映画について基本的に調べないで行くので、ポスタービジュアルの「それがし、『斬られ役』にござる。」というフレーズさえ知らずに観た)、その後の展開はちょっとビックリさせられた。そして、その「驚きの展開」以降は、かなりシリアスに物語が展開して行くことになる。この「シリアスさ」については、展開に触れないと決めた以上書けないが、前半のコメディ的な展開からまさかこんな話になるとはという感じだった。
さて、具体的には触れないものの、後半の「シリアスさ」が生まれる理由については書くことにしよう。それは、「ごく一部の登場人物と観客にしか知り得ないある事実」が存在するからなのだ。そしてこの「ある事実」によって、「ごく一部の登場人物(と観客)」と「その他の登場人物」とでは、物語がまったく違って見えることになる。この構図がとにかく絶妙で、「シリアスなのにユーモア」という、明らかに矛盾した状況を成立させている要素にもなっている。
そして、後半で描かれる「シリアスさ」は、「失われたもの、失われていくかもしれないもの」への悲哀みたいなものが内包されていて、だからこそ「泣ける」みたいな要素も加わることになる。特に、「台本の改訂」を読んで以降の高坂の心情には胸打たれるし、そしてだからこそ、普通なら「リアリティに欠ける」と判断されそうなラスト付近のぶっ飛んだシーンにも真実味が生まれることになる。
その「ラスト付近のぶっ飛んだシーン」というのは殺陣のシーンなのだが、その迫力はちょっと凄まじかった。本作は本格的な時代劇をやっているので、全体的に殺陣のシーンが多く、そのどれもが迫力を感じさせるものだったが、ラストの殺陣はちょっと別格だった。何故殺陣のシーンが「ぶっ飛んでいる」のかは伏せるが、それを生み出しているある要素が「ホントのこと」のようにも感じられるし、さらに役者の実力や気迫みたいなものも乗っかって、まさに「手に汗握る」みたいなシーンになっていた。いや、ホントに凄かった。
そして、そんな超シリアスなシーンの直後に、「今日がその日ではない」の”天丼”で爆笑をかっさらうのだから、緩急も凄いし、脚本も見事だし、とにかく「上手いなぁ」と思わされっぱなしだった。
さて、本作の面白さにはもう1つ、「高坂新左衛門は何をするか分からない」という要素が存在していると思う。
高坂は幕末からタイムスリップしてきた武士であり、当然、現代の常識など何も知らない。当然、法律や道徳も幕末とはまったく違うわけで、だから高坂には「『我々の感覚から外れたこと』をしでかす可能性」が常にあるということになる。そしてだからこそ、なんかハラハラさせられるのだ。
例えば彼は、斬られ役になるための訓練を東映剣の師匠(この役を演じた人物は、実際に東映剣の役員・会長を歴任した人だそうだ)を行うのだが、斬られなければならないはずの高坂は、つい武士の性で師匠を斬ってしまう。これはまあ、一般的な感覚とは離れた状況だから大したことはないが、同じようなことはいくらでも高坂の日常で起こり得るのである。だから物語を追いながら、「もしかしたらここで、高坂がなんかマズいことをしちゃうんじゃないか」みたいな緊迫感が生まれることになり、そのことが「予測不可能性」みたいなものを生み出しているようにも感じられた。
というわけで、まあよく出来ていたなと思う。自主制作映画だが、東映京都撮影所の全面協力という意味では自主制作映画のクオリティではない。公式HPにはスタッフの紹介もされているが、殺陣も床山(時代劇のカツラとメイクをする人)も衣装も証明も、時代劇では知らない人がいないというぐらいの一流だそうだ。
また、物語の展開から誰もが想像するだろうが、斬られ役から映画主演にまで上り詰めた福本清三の著書のタイトル『どこかで誰かが見ていてくれる』がセリフの中に入っていたり、ラストには福本清三への献辞が記されたりしていた。公式HPによると、東映剣の師匠役や元々、福本清三が務めるはずだったという。ホントに、東映京都撮影所オールスター揃い踏みみたいな映画なのだろう。
そんな、ミニマムとマキシマムが融合したような作品で、なかなか類例のない映画と言っていいのではないかと思う。実に面白い作品だった。
「侍タイムスリッパー」を観に行ってきました
さて、本作『侍タイムスリッパー』のことを知ったのはたぶん、一昨日ぐらいだと思う。先週の金曜日ぐらいから全国で拡大公開されたことを伝える記事の見出しだけ見たのだ。そこには「カメ止めの奇跡再来」と書かれていた。「カメ止め」とはもちろん映画『カメラを止めるな!』のことだ。そして本作『侍タイムスリッパー』も『カメラを止めるな!』と同様、口コミで評判が広まった作品なのだ。
本作は8月に、池袋シネマ・ロサという東京の1館のみで公開された。そして先週の9月13日から、全国100館以上での拡大公開となったのだ。僕はTOHOシネマズ日比谷で見たが、400弱ある座席の7割ぐらいは埋まっていたと思う。僕はネット記事の見出しをたまたま目にしただけだが、恐らくSNSなどではかなり話題になっているのだろう。しかも、ネット記事で読んだのだが、監督の安田淳一は「カメ止めの奇跡は再現できるのではないか?」と考え、かなり戦略的に本作を作ったのだそうだ。そうだとしたら、ちょっと凄すぎだろう。
そしてそんな話題作の中身はというと、メチャクチャ面白かった。最後ちょっと涙が溢れたことも含め、まさかこんな面白い作品とは思わずに驚かされてしまった。
しかも、「幕末の侍が現代にタイムスリップしてくる」という、よくあると言えばあるし、なんならチープにしかならなそうな作品で、爆笑とシリアスと感動を生み出しているのだ。映画を観ながら、客席から何度も笑い声が上がっていたが(もちろん僕も笑った)、そういうコメディ的な部分もありつつ、根底にはちゃんとシリアスなテーマ性もあり、その上で涙を誘うようなシーンもあったりするのだ。
メチャクチャ良く出来てる。
しかし本作は、そういう「単館から大ヒットした」というだけではない異常さがある。それは「ベースが時代劇である」という点だ。どう考えても、自主制作映画でやるテーマではないだろう。常軌を逸していると思う。衣装やセットやら死ぬほど金が掛かるはずだ。実際に監督は、愛車を売って資金を捻出したとかで、映画が完成した時点での貯金がわずか7000円だったそう。
しかしそうだとしても、本格的な時代劇(本作は劇中劇のような時代劇シーンがとても多い)を撮る資金を捻出するのは相当困難なはずだ。ただ、本作は、東映京都撮影所が相当協力してくれているという。ネット記事には「かなり持ち出しで協力した」みたいなことが書かれていた。『侍タイムスリッパー』を制作したのは「未来映画社」というところだが、そこから拠出された撮影スタッフは僅か10人ほどだったという。そんなんで、本格的な時代劇が撮れるはずもない。ネット記事には「東映京都撮影所が異例の協力をした自主制作映画」と書かれているが、まさにその通りだろう。そしてそれが実現したのはやはり、脚本が面白かったからなのだと思う(公式HPにもそう書かれている)。確かに、こんな脚本を読んだら、「金は無いみたいだけど協力してやるか!」みたいに感じるかもしれない。
さて、全然内容の話をしないがもう少しだけ。本作は「きっとエンドロールが面白いだろうなぁ」と思って見ていたのだけど、案の定、監督の「安田淳一」の名前があちこちに出てきたりと、自主制作映画感が満載だった。ただ、個人的に最も驚いたのが、本作でメインどころの役を演じた沙倉ゆうのである。彼女は本作で「時代劇の監督を目指す助監督」役として登場するのだが、なんと彼女は、映画『侍タイムスリッパー』の撮影においても実際に助監督を務めたそうなのだ。そんなこと出来るのか? と感じてしまうが、まあ撮影隊が10人しかいないならやるしかないのだろう。本作はエンドロールの流れるスピードが早く、普段映画を見ている時には「もっと早く進めー」とか思いながら見ているのだけど、本作の場合は「もうちょっとゆっくりして」と思った。たぶん僕が気づかなかっただけで、もっと色んな人の名前が色んなところに出ていたと思うので、それももうちょっと観たかったなと思う。ちなみに、沙倉ゆうのは僕より年上だそうだ。マジかよ。
さてというわけで、前置きが長くなったが、内容に触れたいと思う。
物語は、江戸末期から始まる。会津藩士である高坂新左衛門は、同藩の仲間と共に家老じきじきの密命を預かった。倒幕派の長州藩士を打てというのだ。そのため、寺から男が出てくるのを待ち伏せし襲いかかったのだが、相手と刃を交えた瞬間に雷に打たれ、気を失ってしまった。
目覚めた高坂は、江戸の町中に横たわっていた。昨日は京都にいたはずなのに、何故……?よく分からないまま声がする方へと歩くと、町娘が男たちに襲われている様子を目にしてしまう。そこにやってきたのが、心配無用之介と名乗る男。高坂は、彼に助太刀すべく刀を抜くが……。
「カット!!」
実はそこは撮影所で、時代劇の撮影中だったのだ。高坂は「別の撮影現場の斬られ役が紛れ込んだ」と扱われ、助監督の山本優子に追い出されてしまった。その後、撮影所内をうろうろし、巨石を若い女性が運んだり、ゾンビのようなメイクの町人に驚いたりしていたところ、撮影で使うクレーンに頭をぶつけ倒れてしまう。
そのまま入院することになったが、窓から見える街並みを目にして驚愕した。自分は一体どこにいるのだろうか。その後、ひょんなきっかけから、自分が未来にやってきたことを知った高坂は、たまたまあの決戦の日に待ち伏せしていた寺を見つけ、なんだかんだで寺に住まわせてもらうことになった。
その後いくつかの偶然が重なったことで、彼は「東映剣」という斬られ役集団に弟子入りすることになるのだが……。
というような話です。
冒頭からしばらくは、コメディ的に展開していく。もちろんそれは「幕末の侍が、何もかもが変わった現代のあらゆることに驚く」みたいな描写もあるのだけど、決してそれだけで面白さを生み出しているわけではない。冒頭で絡んでくるのは主に、武士の高坂、そんな高坂を受け入れる寺の老夫婦、そして助監督の山本の4人だが、彼らが絶妙な掛け合いをするので、それがとても面白いのだ。特に寺の夫婦が凄く良くて、「どう考えても変な高坂」を絶妙な感じで笑い飛ばしつつ、「幕末の武士である高坂が現代で生活していることの違和感」の大半を帳消しにするような役割を見事に担っていて素晴らしい。この寺の夫婦を含めた掛け合いが、とにかく前半の見どころである。
そしてそこから、高坂が斬られ役を目指し注目を集めるようになっていくのだけど、それ以降の展開はちょっとここでは伏せよう。想定できた人もいるかもしれないけど、個人的には「なるほど、そんな展開になるのか!」という、ちょっと驚きの物語で、出来れば知らずに観てほしいと思う。
本作については正直、物語が始まった直後から「一体どうやって物語を展開させるつもりなんだろう?」と思っていた。というのも、冒頭からしばらくの描写から「幕末に帰る的な展開にはならない」と分かるからだ。もしそういう展開になるなら、「どういう条件がクリアされれば幕末に戻れるのか?」みたいな情報が提示されないと成立しないが、一向にそんな話は出てこない。つまり割と早い段階で、「本作は現代で物語を完結させるんだな」と思っていた。
しかしそうだとして、こっからどうするんだろう? と思っていた。正直、展開のさせようがないだろう、と。冒頭は「幕末の侍が現代にやってきてビックリ」みたいな出落ちの展開を続けていればいいが、そんなのは長く続けられない。じゃあその後は? 高坂は一応、「自分が未来にやってきてしまった」と理解しており、さらに「ここで生きていくしかない」とも覚悟している。しかしかといって、何が出来るというわけでもないのだ。運良く寺に拾ってもらい、衣食住に困ることはなくなったが、物語という観点で言えばそんなことは展開でもなんでもない。
というわけで、131分もある映画(そう、本作は、自主制作映画なのに131分もあるのだ)をどう展開させるのだろうと思っていたのだ。
舞台が京都なので、「撮影所で斬られ役になる」というのは順当だと感じたが(僕はこれから観ようと思っている映画について基本的に調べないで行くので、ポスタービジュアルの「それがし、『斬られ役』にござる。」というフレーズさえ知らずに観た)、その後の展開はちょっとビックリさせられた。そして、その「驚きの展開」以降は、かなりシリアスに物語が展開して行くことになる。この「シリアスさ」については、展開に触れないと決めた以上書けないが、前半のコメディ的な展開からまさかこんな話になるとはという感じだった。
さて、具体的には触れないものの、後半の「シリアスさ」が生まれる理由については書くことにしよう。それは、「ごく一部の登場人物と観客にしか知り得ないある事実」が存在するからなのだ。そしてこの「ある事実」によって、「ごく一部の登場人物(と観客)」と「その他の登場人物」とでは、物語がまったく違って見えることになる。この構図がとにかく絶妙で、「シリアスなのにユーモア」という、明らかに矛盾した状況を成立させている要素にもなっている。
そして、後半で描かれる「シリアスさ」は、「失われたもの、失われていくかもしれないもの」への悲哀みたいなものが内包されていて、だからこそ「泣ける」みたいな要素も加わることになる。特に、「台本の改訂」を読んで以降の高坂の心情には胸打たれるし、そしてだからこそ、普通なら「リアリティに欠ける」と判断されそうなラスト付近のぶっ飛んだシーンにも真実味が生まれることになる。
その「ラスト付近のぶっ飛んだシーン」というのは殺陣のシーンなのだが、その迫力はちょっと凄まじかった。本作は本格的な時代劇をやっているので、全体的に殺陣のシーンが多く、そのどれもが迫力を感じさせるものだったが、ラストの殺陣はちょっと別格だった。何故殺陣のシーンが「ぶっ飛んでいる」のかは伏せるが、それを生み出しているある要素が「ホントのこと」のようにも感じられるし、さらに役者の実力や気迫みたいなものも乗っかって、まさに「手に汗握る」みたいなシーンになっていた。いや、ホントに凄かった。
そして、そんな超シリアスなシーンの直後に、「今日がその日ではない」の”天丼”で爆笑をかっさらうのだから、緩急も凄いし、脚本も見事だし、とにかく「上手いなぁ」と思わされっぱなしだった。
さて、本作の面白さにはもう1つ、「高坂新左衛門は何をするか分からない」という要素が存在していると思う。
高坂は幕末からタイムスリップしてきた武士であり、当然、現代の常識など何も知らない。当然、法律や道徳も幕末とはまったく違うわけで、だから高坂には「『我々の感覚から外れたこと』をしでかす可能性」が常にあるということになる。そしてだからこそ、なんかハラハラさせられるのだ。
例えば彼は、斬られ役になるための訓練を東映剣の師匠(この役を演じた人物は、実際に東映剣の役員・会長を歴任した人だそうだ)を行うのだが、斬られなければならないはずの高坂は、つい武士の性で師匠を斬ってしまう。これはまあ、一般的な感覚とは離れた状況だから大したことはないが、同じようなことはいくらでも高坂の日常で起こり得るのである。だから物語を追いながら、「もしかしたらここで、高坂がなんかマズいことをしちゃうんじゃないか」みたいな緊迫感が生まれることになり、そのことが「予測不可能性」みたいなものを生み出しているようにも感じられた。
というわけで、まあよく出来ていたなと思う。自主制作映画だが、東映京都撮影所の全面協力という意味では自主制作映画のクオリティではない。公式HPにはスタッフの紹介もされているが、殺陣も床山(時代劇のカツラとメイクをする人)も衣装も証明も、時代劇では知らない人がいないというぐらいの一流だそうだ。
また、物語の展開から誰もが想像するだろうが、斬られ役から映画主演にまで上り詰めた福本清三の著書のタイトル『どこかで誰かが見ていてくれる』がセリフの中に入っていたり、ラストには福本清三への献辞が記されたりしていた。公式HPによると、東映剣の師匠役や元々、福本清三が務めるはずだったという。ホントに、東映京都撮影所オールスター揃い踏みみたいな映画なのだろう。
そんな、ミニマムとマキシマムが融合したような作品で、なかなか類例のない映画と言っていいのではないかと思う。実に面白い作品だった。
「侍タイムスリッパー」を観に行ってきました
「ヒットマン」を観に行ってきました
これは、とにかく設定がメチャクチャ面白かったなぁ。しかも、冒頭で「やや実話」と表記された通り、本作は実在の人物をモデルにしている。どの程度事実に基づいているのかわからないが、主人公ゲイリー・ジョンソンの設定については大雑把には事実だろう。
というわけで、まずはそんな主人公の設定を含めた内容紹介をざっとしておこう。
ニューオーリンズ大学で心理学と哲学の講師として働くゲイリー・ジョンソンは、趣味の電子工学の知識を活かして、盗聴・盗撮などで警察に協力をしていた。彼が関わっていたのは、ジャスパーという刑事が「ニセの殺し屋」に扮し、「誰々を殺してくれ」と言ってきた依頼人を逮捕するという「おとり捜査」だった。
しかしある日、そのジャスパーのある問題行動が市民を刺激し、そのため彼は120日間の停職を命じられてしまった。困ったのは、おとり捜査のために準備していたゲイリーらである。ジャスパーは来ないが、既に依頼人との待ち合わせは済ませており、誰かが「ニセの殺し屋」として依頼人と会わなければならない。
というわけで、何故かゲイリーに白羽の矢が立った。彼はジャスパーのこれまでの活動を見ていたため、大雑把な流れや、どんな言質を引き出すべきかは分かっていたが、もちろん演技などしたことがない。やれるか不安だったが、しかし、ワゴンの中で盗聴している仲間2人が絶賛するほどの演技力を見せ、見事「ニセの殺し屋」という大役を全うすることができた。
さて、本職であるジャスパーは120日間の停職中である。となれば、ゲイリーが「ニセの殺し屋」として駆り出されるのは自然な流れである。彼は良い関係を保っている元妻との会話で「他人と普通の関係を築けない」と口にしているが、しかし、心理学や哲学を教えていることもあり、「人間の心理」には興味を抱いている。初対面の人間に殺しを依頼すること、大した金額ではないお金を払って相手が人殺しをしてくれると信じていること、そういう依頼人の心理が気になって、「ニセの殺し屋」稼業を続けることになった。
ゲイリーは次第に、変装などもするようになる。SNSなどもチェックし、「相手が望む殺し屋」を演じることで、より完璧に「有罪の証拠」を得ようというわけだ。彼は様々なタイプの人物になりきり、依頼人から言質を取り、彼らを裁判所送りにしていった。
さて、それもいつもの依頼の1つに過ぎなかった。マディソンという、金持ちだが支配的な夫との生活にうんざりしている女性の話を聞いていたのだが、ゲイリーは彼女の境遇に同情してしまった。マディソンの金を受け取れば、彼女は逮捕される。だからゲイリー(マディソンに対しては『ロン』と名乗っていたが)は、「自分の仕事が無くなるだけだから得は何もないが」と言い訳しつつ、「この金で家を出ろ。新しい人生を始めるんだ」と言い、彼女を見逃してしまった。
その後マディソンからロンに連絡が来て、会うことに。そんな風にしてなんと、「相手を『殺し屋』だと信じている、夫を殺そうとした女性」と「相手に『殺し屋』だと信じさせたままの大学講師」が付き合うことになり……。
というような話です。
さて、公式HPによると、本物のゲイリー・ジョンソンは「地方検事局で働きながら、講師として地元のコミュニティカレッジで心理学などを教えていた」そうなので、この部分でも設定が異なっている。だから、映画で描かれている物語のどこまでが事実なのか分からないが、少なくとも「おとり捜査によって70人以上を逮捕に導いた」ということだけは事実なようだ。
本作は、完全なフィクションだとしたら信じてもらえないような設定だろう。なにせ、刑事ではない者が「ニセの殺し屋」に扮しておとり捜査に関わっていたというのだからだ。本物のゲイリー・ジョンソンがどうしてそんな役回りを担うことになったのか不明だが(これも、本作で描かれている通りかは分からない)、普通ならそんなこと考えないし実現しないしあり得ないと思うだろう。そういう意味では、本作で描かれていた「盗聴担当だったけど、『ニセの殺し屋』役が来れなくなったから仕方なく」という展開は、納得感のある描写だったなと思う。確かに、そういうことならそんな展開にもなりそうだ。
しかしそもそもだけど、アメリカの法律で一体「何罪」として裁かれるのか分からないが、「殺しを依頼した」という事実は「殺人」や「殺人未遂」として裁かれるのか? あるいは、何か特別な罪名があるのか。銃社会かどうかという違いもあるだろうけど、恐らく法律的にも日本では成立しなそうだなと思う。
ただ個人的には、このやり方は良いよなぁと思う。「犯罪」というのは概ね「犯罪行為が行われた後」にしか対処できないわけだが、この「おとり捜査」の場合は、凶悪犯罪を扱っているのに「被害者ゼロ」なわけで、とても素晴らしいと思う。日本でもやればいいと思うんだけど、日本の場合「殺し屋」という存在がどの程度リアリティのあるものとして受け取られるか次第だろうなぁ。
さて、話を戻そう。本作は「やや実話」という通り、後半からどんどん「実話なはずがない」という展開になっていく。「見逃した依頼人と恋仲になる」というのも、僕はフィクションだと思っているのだが、仮にこれが本当だとしても、その後の展開はさすがにフィクションである。映画のラストでも、「◯◯はフィクション」(◯◯は僕が伏せた)と表記される。まあ、当たり前だが。
後半の展開については、「ゲイリー・ジョンソンが追い詰められていく」とだけ書いておくことにするが、この窮地をいかに切り抜けるか、というのが物語の焦点になっていく。そしてそれは、概ね面白い。ただ、最後の最後だけ、「それでいいのか?」という感じもしなくはない。この点は、かなり賛否が分かれるだろうなと思う。確かに「物語にもう一捻り」という感じで付け加えられたのだろうけど、あまり良い案ではなかったように思う。いや、「舞台裏を見に来た」みたいなセリフは凄く良かったし、あの展開そのものは良かったと思うのだけど、やっぱり着地がね。どうなんだろうなぁ。
ただまあ、全体的にはポップでユーモラスに展開されるので、あの展開もまあまあ許容されるかなって感じもある。これがもうちょっとシリアス寄りの雰囲気だったら無理だっただろうなぁ。
あと、本作にはちょいちょい「ゲイリーがニューオーリンズ大学で講義をしている様子」が映るのだけど、そこで語られる話が作品全体のテーマと絡んでいる感じもあってなかなか面白い。色んな話をしているのだが、「自分とは何か?」「現実とは何か?」みたいな内容のものが多く、彼が学生に投げかける問いは、「『ニセの殺し屋』を演じている自分自身」に向けているものでもあるみたいな雰囲気がある。そういう雰囲気もなかなか面白いと思う。
ちなみに、主人公ゲイリー・ジョンソンを演じたグレン・パウエルは、主演だけではなく脚本・プロデューサーも務めているそうだ。まったく多才なことで。
というわけで、エンタメとしてなかなか面白い作品だった。
「ヒットマン」を観に行ってきました
というわけで、まずはそんな主人公の設定を含めた内容紹介をざっとしておこう。
ニューオーリンズ大学で心理学と哲学の講師として働くゲイリー・ジョンソンは、趣味の電子工学の知識を活かして、盗聴・盗撮などで警察に協力をしていた。彼が関わっていたのは、ジャスパーという刑事が「ニセの殺し屋」に扮し、「誰々を殺してくれ」と言ってきた依頼人を逮捕するという「おとり捜査」だった。
しかしある日、そのジャスパーのある問題行動が市民を刺激し、そのため彼は120日間の停職を命じられてしまった。困ったのは、おとり捜査のために準備していたゲイリーらである。ジャスパーは来ないが、既に依頼人との待ち合わせは済ませており、誰かが「ニセの殺し屋」として依頼人と会わなければならない。
というわけで、何故かゲイリーに白羽の矢が立った。彼はジャスパーのこれまでの活動を見ていたため、大雑把な流れや、どんな言質を引き出すべきかは分かっていたが、もちろん演技などしたことがない。やれるか不安だったが、しかし、ワゴンの中で盗聴している仲間2人が絶賛するほどの演技力を見せ、見事「ニセの殺し屋」という大役を全うすることができた。
さて、本職であるジャスパーは120日間の停職中である。となれば、ゲイリーが「ニセの殺し屋」として駆り出されるのは自然な流れである。彼は良い関係を保っている元妻との会話で「他人と普通の関係を築けない」と口にしているが、しかし、心理学や哲学を教えていることもあり、「人間の心理」には興味を抱いている。初対面の人間に殺しを依頼すること、大した金額ではないお金を払って相手が人殺しをしてくれると信じていること、そういう依頼人の心理が気になって、「ニセの殺し屋」稼業を続けることになった。
ゲイリーは次第に、変装などもするようになる。SNSなどもチェックし、「相手が望む殺し屋」を演じることで、より完璧に「有罪の証拠」を得ようというわけだ。彼は様々なタイプの人物になりきり、依頼人から言質を取り、彼らを裁判所送りにしていった。
さて、それもいつもの依頼の1つに過ぎなかった。マディソンという、金持ちだが支配的な夫との生活にうんざりしている女性の話を聞いていたのだが、ゲイリーは彼女の境遇に同情してしまった。マディソンの金を受け取れば、彼女は逮捕される。だからゲイリー(マディソンに対しては『ロン』と名乗っていたが)は、「自分の仕事が無くなるだけだから得は何もないが」と言い訳しつつ、「この金で家を出ろ。新しい人生を始めるんだ」と言い、彼女を見逃してしまった。
その後マディソンからロンに連絡が来て、会うことに。そんな風にしてなんと、「相手を『殺し屋』だと信じている、夫を殺そうとした女性」と「相手に『殺し屋』だと信じさせたままの大学講師」が付き合うことになり……。
というような話です。
さて、公式HPによると、本物のゲイリー・ジョンソンは「地方検事局で働きながら、講師として地元のコミュニティカレッジで心理学などを教えていた」そうなので、この部分でも設定が異なっている。だから、映画で描かれている物語のどこまでが事実なのか分からないが、少なくとも「おとり捜査によって70人以上を逮捕に導いた」ということだけは事実なようだ。
本作は、完全なフィクションだとしたら信じてもらえないような設定だろう。なにせ、刑事ではない者が「ニセの殺し屋」に扮しておとり捜査に関わっていたというのだからだ。本物のゲイリー・ジョンソンがどうしてそんな役回りを担うことになったのか不明だが(これも、本作で描かれている通りかは分からない)、普通ならそんなこと考えないし実現しないしあり得ないと思うだろう。そういう意味では、本作で描かれていた「盗聴担当だったけど、『ニセの殺し屋』役が来れなくなったから仕方なく」という展開は、納得感のある描写だったなと思う。確かに、そういうことならそんな展開にもなりそうだ。
しかしそもそもだけど、アメリカの法律で一体「何罪」として裁かれるのか分からないが、「殺しを依頼した」という事実は「殺人」や「殺人未遂」として裁かれるのか? あるいは、何か特別な罪名があるのか。銃社会かどうかという違いもあるだろうけど、恐らく法律的にも日本では成立しなそうだなと思う。
ただ個人的には、このやり方は良いよなぁと思う。「犯罪」というのは概ね「犯罪行為が行われた後」にしか対処できないわけだが、この「おとり捜査」の場合は、凶悪犯罪を扱っているのに「被害者ゼロ」なわけで、とても素晴らしいと思う。日本でもやればいいと思うんだけど、日本の場合「殺し屋」という存在がどの程度リアリティのあるものとして受け取られるか次第だろうなぁ。
さて、話を戻そう。本作は「やや実話」という通り、後半からどんどん「実話なはずがない」という展開になっていく。「見逃した依頼人と恋仲になる」というのも、僕はフィクションだと思っているのだが、仮にこれが本当だとしても、その後の展開はさすがにフィクションである。映画のラストでも、「◯◯はフィクション」(◯◯は僕が伏せた)と表記される。まあ、当たり前だが。
後半の展開については、「ゲイリー・ジョンソンが追い詰められていく」とだけ書いておくことにするが、この窮地をいかに切り抜けるか、というのが物語の焦点になっていく。そしてそれは、概ね面白い。ただ、最後の最後だけ、「それでいいのか?」という感じもしなくはない。この点は、かなり賛否が分かれるだろうなと思う。確かに「物語にもう一捻り」という感じで付け加えられたのだろうけど、あまり良い案ではなかったように思う。いや、「舞台裏を見に来た」みたいなセリフは凄く良かったし、あの展開そのものは良かったと思うのだけど、やっぱり着地がね。どうなんだろうなぁ。
ただまあ、全体的にはポップでユーモラスに展開されるので、あの展開もまあまあ許容されるかなって感じもある。これがもうちょっとシリアス寄りの雰囲気だったら無理だっただろうなぁ。
あと、本作にはちょいちょい「ゲイリーがニューオーリンズ大学で講義をしている様子」が映るのだけど、そこで語られる話が作品全体のテーマと絡んでいる感じもあってなかなか面白い。色んな話をしているのだが、「自分とは何か?」「現実とは何か?」みたいな内容のものが多く、彼が学生に投げかける問いは、「『ニセの殺し屋』を演じている自分自身」に向けているものでもあるみたいな雰囲気がある。そういう雰囲気もなかなか面白いと思う。
ちなみに、主人公ゲイリー・ジョンソンを演じたグレン・パウエルは、主演だけではなく脚本・プロデューサーも務めているそうだ。まったく多才なことで。
というわけで、エンタメとしてなかなか面白い作品だった。
「ヒットマン」を観に行ってきました
「ぼくのお日さま」を観に行ってきました
なるほどなぁ、そんな話なのか。ちょっとビックリした。この作品については、映画館で何度も観たが、こんな感じの物語だとは想像できなかった。
とても良かったなと思う。
本作はとにかく、フィギュアスケートというモチーフがとても良い。作中ある人物が、「フィギュアスケートは女のスポーツ」と口にするのだが、確かに大雑把にはそんな印象があるだろう。また、これはフィギュアスケートのコーチ・荒川のキャラクター造形に関係するのかもしれないが、ある場面で彼が2つ折の携帯電話をチェックしていた。恐らく、ガラケーなんじゃないか、と。もしそうだとしたら、本作の舞台は今ではなく、少し前ということになるだろう。そしてだとすれば、余計に「フィギュアスケートは女のスポーツ」という印象が強かったかもしれない。
そしてこのことが、物語全体において結構重要な要素になっていくのだ。いや、なるほどなぁ、という感じだった。
さて、本作については、僕はもしかしたら予告を観てなかったら、物語をちゃんと捉えきれなかったかもしれないと思う。本作の予告では確か、「雪が積もってから溶けるまでの、3つの恋の物語」みたいなナレーションが入っていたように思うのだが、映画を観ながら僕は「3つの恋?」と思っていたのだ。
どこに3つもあるのだろう、と。
1つははっきり分かる。小学6年生のタクヤが、フィギュアスケートの練習をするさくらに心を奪われるのだ。これはメチャクチャ分かりやすい。
そしてしばらくして、もう1つの恋も分かった。こちらについては、映画を観ながら、最初の内は全然理解できなかった。「家族と住んでいる」みたいに思っていたからだ。ただ途中で、「なるほど、これが2つ目か」と思った。
そして.3つ目については、「3つの恋」という事前の情報があったから分かったという感じである。消去法で考えれば、それしかない。ただ、もしも「3つの恋」という情報を知らずに観ていたら、この3つ目の恋には気づかなかったかもしれない。いや、確かにそう言われれば、それを示唆する場面を思い出すことは出来る。でも、「そこまでの感じ」とは思っていなかった。
さて、この3つの恋は、実に興味深い形で展開されていく。「興味深い」と書いたのはネタバレを避けるためで、別に「面白い」という意味ではない。この3つの恋は、ちょっと思いがけない展開を見せるのである。
そして、ある意味でそのきっかけとなったのが、「タクヤがさくらを好きになったこと」だと言えるだろう。本作の物語の起点でもあり、3つの恋の「結末」が始まる起点でもある。もちろん、「タクヤがさくらを好きになったこと」自体は何も悪くない。「何も悪くない」と書いている時点で3つの恋の展開がある程度予想できるかもしれないが、まあとにかく、タクヤは全然悪くない。
そして、その「タクヤの恋」を起点にして、タクヤ・さくら・荒川の物語が、静かに静かに展開していく。どこかの場面でゴトッと音を立てて物語が進展していくみたいなことはない。いや、なくはないのだが、それは「最後の一撃」みたいな部分であり、その「最後の一撃」に至る前の過程は、スケートリンクの上を滑らかに滑るみたいな感じで進んでいくのである。
しかも、「タクヤの恋」を起点に始まった関係性であるにも拘らず、状況の変化に対したタクヤはある種の「傍観者」的な立ち位置にいることになってしまう。タクヤの視点からすれば、「意味が分からないことだらけ」だろう。何がどうなってそうなったのか、理解できなかったはずだ。だから彼には、「起点が自分である」ということも分からないままだろう。それはタクヤにとって良かったことなのかどうなのか。
非常に繊細な物語で、この3人だからこそたどり着けた関係性なのに、この3人だったせいで崩れてしまったという、矛盾だらけの展開だった。「どうにかなる可能性はあっただろうか?」と考えたくなるが、3人の誰もが「自らの価値観に正直に生きる」という選択をする以上、「どうにかなる可能性」は無かったんだろうなと思えてしまう。
そして、その事実がとてもとても淋しいことのように感じられた。
「もしフィギュアスケートじゃなかったら?」とも思う。何か状況は変わっただろうか、と。しかし、フィギュアスケートじゃなかった場合、「アイスダンス」も無くなってしまう。となれば、3人があれほどの多幸感を醸し出すような関係になることも、やはりなかっただろうと思うのだ。だからやはり、フィギュアスケートじゃなければならなかったし、フィギュアスケートだったからこそこうなってしまったのである。
僕はいつも、「名前の付かない関係性」に惹かれる。それは別に物語に限らず、リアルの世界でもだ。そして彼ら3人の関係は、結果として名前が付くことはなかった。それは良かったのかどうなのか。「名前が付かない関係性」の方が良いなと思っているが、本作の場合は、「名前が付いてほしい」とも感じた。しかしそれもまた難しい。「すべての関係に名前が付く」ことはあり得ないからだ。ここにも、なんとも言えないややこしさがある。
本作を観ながら僕は、ずっとそんなモヤモヤした気持ちを抱かされてしまった。それを、「フィギュアスケートやアイスダンスの練習」というほぼそれだけの世界観の中だけで描き出してしまうのだから、その「巧みさ」に驚かされてしまった。舞台設定もメインの登場人物の数もとにかくミニマムながら、実に奥行きの広い物語を描いていて、凄く良かったと思う。全体的には、映画『PERFECT DAYS』の雰囲気に近いだろうか。「何も描いていないのに、そんな映像から何かが浮かび上がってくる」みたいな感じ。圧倒的だった。
さて、普段僕は、映画を観ていても「音楽」や「映像」にあまり反応しないのだが、本作は「音楽」も「映像」もとても良かったなと思う。
まず本作では、荒川が選手時代にこの曲に合わせて踊っていたという、ドビュッシーの『月の光』が随所に登場する。これが、「フィギュアスケートを優雅に踊っている感じ」とか「3人の関係性が静かに進展していく感じ」ととても合うのだ。また、曲調が凄くゆったりしているので、雪降る冬の北海道(だと思う。船のシーンがあったので)のゆったりした雰囲気が伝わってくる感じもある。あるいは、「3人の関係性が遅々として進まない」みたいな状況さえも丸ごと包容していくみたいな感じがあって、凄く良かった。
また、湖に向かう途中の車内でかけた音楽が、湖のシーンでもそのまま連続的に使われたと思うのだけど、あのシーンも好きだったなぁ。曲の雰囲気と3人の関係性の感じが合っているのは当然として、それまではどうにもぎこちなかった3人が、この瞬間を境に殻を脱ぎ捨てたみたいな雰囲気も音楽と共に伝わってきて、これも良かったなぁという感じだった。
映像の話で言えばまず、「なんかいつもの映画と違う気がする」と思ったのだが、割と早い段階で「画面が1:1の正方形」になっていることに気づいた。普段はもっと横長の画面な気がするので、良い意味で違和感があったのだ。
米津玄師の『Lemon』のMVが同じく正方形だが、以前この点に関して何か記事を流し読みしたことがあり、「正方形にしたのは、いつの時代の人が観ても普遍性を感じてもらいやすいため」みたいに誰か(監督かな?)が答えていたのを目にした記憶がある。正方形だと普遍性を感じられるのかは分からないが、普通の映画の横長や、スマホの縦長とは違う、普段目にすることのない正方形の画面は、「今でも過去でも未来でもない」みたいな雰囲気を与え得るのかもしれない。先程、「ガラケーを使っていたから本作の舞台設定は少し前かもしれない」と書いたが、そうであってもなくても、本作は全体的な雰囲気としても、「今でも過去でも未来でもない」みたいな雰囲気を有している気がするし、やはりそれは、正方形の画面によるところもあるのかもしれないと思う。
あと、これは自分で気づいたわけではなく、Filmarksの感想をチラ見していてなるほどと思ったことなのだけど、本作は「自然光」を使ったシーンが結構ある。そして、そんなシーンはやはり、かなり美しいなと思う。エイア像は全体的に美しいなと思うんだけど、スケートリンクなど室内のシーンよりも、やはり外のシーンの方が綺麗で、なるほど日光を上手く使ってるからなのか、と感じた。
池松壮亮はもちろん抜群の安定感だったが、タクヤとさくらを演じた2人は本作が初主演、さくらを演じた中西希亜良に至っては案技経験ゼロなのだそうだ。さくらは決してセリフが多い役ではなかったものの、物語の展開においてメチャクチャ重要なシーンを担う人物でもあるし、そもそも「喋り以外で感情を伝えること」だって難しいはずだ。またタクヤは「少し吃音がある」という役で、こちらもなかなか難しい。この2人が絶妙な雰囲気を醸し出していたからこそ本作のテイストが生まれていると思うし、とても良かったなと思う。
あと驚いたのは、タクヤを演じた越山敬達が4歳からフィギュアスケートを習っていたということ。というのもタクヤは最初「フィギュアスケートが上手く出来ない」というところから始まるからだ。「滑れる人間が、滑れない演技をする」というのも、難しいだろうなと思った。またそういう意味で言うなら、池松壮亮はコーチで元選手ということもあり、スケートが上手くないと成り立たないキャラクターなのだが、さすが、とても上手かったなと思う。
あと、役者の話で言うなら、エンドロールを観てメチャクチャ驚かされた。「若葉竜也」の名前がクレジットされていたからだ。「若葉竜也」の名前を観た瞬間、「えっ、どこに出てたっけ?」と思ったのだが、その次の瞬間に「あー!あいつか!」となった。ホントに、若葉竜也とか菅田将暉とかは、主演も出来るし、脇役として出てくると全然気付けないみたいな感じがあって、いつもビックリさせられてしまう。
本作は、大学在学中に撮った映画『僕はイエス様が嫌い』でデビューした奥山大史の2作目の長編映画であり、そしてカンヌ国際映画祭で日本作品として唯一オフィシャル作品に選出された。凄いものだなと思う。
実に素敵な作品である。
「ぼくのお日さま」を観に行ってきました
とても良かったなと思う。
本作はとにかく、フィギュアスケートというモチーフがとても良い。作中ある人物が、「フィギュアスケートは女のスポーツ」と口にするのだが、確かに大雑把にはそんな印象があるだろう。また、これはフィギュアスケートのコーチ・荒川のキャラクター造形に関係するのかもしれないが、ある場面で彼が2つ折の携帯電話をチェックしていた。恐らく、ガラケーなんじゃないか、と。もしそうだとしたら、本作の舞台は今ではなく、少し前ということになるだろう。そしてだとすれば、余計に「フィギュアスケートは女のスポーツ」という印象が強かったかもしれない。
そしてこのことが、物語全体において結構重要な要素になっていくのだ。いや、なるほどなぁ、という感じだった。
さて、本作については、僕はもしかしたら予告を観てなかったら、物語をちゃんと捉えきれなかったかもしれないと思う。本作の予告では確か、「雪が積もってから溶けるまでの、3つの恋の物語」みたいなナレーションが入っていたように思うのだが、映画を観ながら僕は「3つの恋?」と思っていたのだ。
どこに3つもあるのだろう、と。
1つははっきり分かる。小学6年生のタクヤが、フィギュアスケートの練習をするさくらに心を奪われるのだ。これはメチャクチャ分かりやすい。
そしてしばらくして、もう1つの恋も分かった。こちらについては、映画を観ながら、最初の内は全然理解できなかった。「家族と住んでいる」みたいに思っていたからだ。ただ途中で、「なるほど、これが2つ目か」と思った。
そして.3つ目については、「3つの恋」という事前の情報があったから分かったという感じである。消去法で考えれば、それしかない。ただ、もしも「3つの恋」という情報を知らずに観ていたら、この3つ目の恋には気づかなかったかもしれない。いや、確かにそう言われれば、それを示唆する場面を思い出すことは出来る。でも、「そこまでの感じ」とは思っていなかった。
さて、この3つの恋は、実に興味深い形で展開されていく。「興味深い」と書いたのはネタバレを避けるためで、別に「面白い」という意味ではない。この3つの恋は、ちょっと思いがけない展開を見せるのである。
そして、ある意味でそのきっかけとなったのが、「タクヤがさくらを好きになったこと」だと言えるだろう。本作の物語の起点でもあり、3つの恋の「結末」が始まる起点でもある。もちろん、「タクヤがさくらを好きになったこと」自体は何も悪くない。「何も悪くない」と書いている時点で3つの恋の展開がある程度予想できるかもしれないが、まあとにかく、タクヤは全然悪くない。
そして、その「タクヤの恋」を起点にして、タクヤ・さくら・荒川の物語が、静かに静かに展開していく。どこかの場面でゴトッと音を立てて物語が進展していくみたいなことはない。いや、なくはないのだが、それは「最後の一撃」みたいな部分であり、その「最後の一撃」に至る前の過程は、スケートリンクの上を滑らかに滑るみたいな感じで進んでいくのである。
しかも、「タクヤの恋」を起点に始まった関係性であるにも拘らず、状況の変化に対したタクヤはある種の「傍観者」的な立ち位置にいることになってしまう。タクヤの視点からすれば、「意味が分からないことだらけ」だろう。何がどうなってそうなったのか、理解できなかったはずだ。だから彼には、「起点が自分である」ということも分からないままだろう。それはタクヤにとって良かったことなのかどうなのか。
非常に繊細な物語で、この3人だからこそたどり着けた関係性なのに、この3人だったせいで崩れてしまったという、矛盾だらけの展開だった。「どうにかなる可能性はあっただろうか?」と考えたくなるが、3人の誰もが「自らの価値観に正直に生きる」という選択をする以上、「どうにかなる可能性」は無かったんだろうなと思えてしまう。
そして、その事実がとてもとても淋しいことのように感じられた。
「もしフィギュアスケートじゃなかったら?」とも思う。何か状況は変わっただろうか、と。しかし、フィギュアスケートじゃなかった場合、「アイスダンス」も無くなってしまう。となれば、3人があれほどの多幸感を醸し出すような関係になることも、やはりなかっただろうと思うのだ。だからやはり、フィギュアスケートじゃなければならなかったし、フィギュアスケートだったからこそこうなってしまったのである。
僕はいつも、「名前の付かない関係性」に惹かれる。それは別に物語に限らず、リアルの世界でもだ。そして彼ら3人の関係は、結果として名前が付くことはなかった。それは良かったのかどうなのか。「名前が付かない関係性」の方が良いなと思っているが、本作の場合は、「名前が付いてほしい」とも感じた。しかしそれもまた難しい。「すべての関係に名前が付く」ことはあり得ないからだ。ここにも、なんとも言えないややこしさがある。
本作を観ながら僕は、ずっとそんなモヤモヤした気持ちを抱かされてしまった。それを、「フィギュアスケートやアイスダンスの練習」というほぼそれだけの世界観の中だけで描き出してしまうのだから、その「巧みさ」に驚かされてしまった。舞台設定もメインの登場人物の数もとにかくミニマムながら、実に奥行きの広い物語を描いていて、凄く良かったと思う。全体的には、映画『PERFECT DAYS』の雰囲気に近いだろうか。「何も描いていないのに、そんな映像から何かが浮かび上がってくる」みたいな感じ。圧倒的だった。
さて、普段僕は、映画を観ていても「音楽」や「映像」にあまり反応しないのだが、本作は「音楽」も「映像」もとても良かったなと思う。
まず本作では、荒川が選手時代にこの曲に合わせて踊っていたという、ドビュッシーの『月の光』が随所に登場する。これが、「フィギュアスケートを優雅に踊っている感じ」とか「3人の関係性が静かに進展していく感じ」ととても合うのだ。また、曲調が凄くゆったりしているので、雪降る冬の北海道(だと思う。船のシーンがあったので)のゆったりした雰囲気が伝わってくる感じもある。あるいは、「3人の関係性が遅々として進まない」みたいな状況さえも丸ごと包容していくみたいな感じがあって、凄く良かった。
また、湖に向かう途中の車内でかけた音楽が、湖のシーンでもそのまま連続的に使われたと思うのだけど、あのシーンも好きだったなぁ。曲の雰囲気と3人の関係性の感じが合っているのは当然として、それまではどうにもぎこちなかった3人が、この瞬間を境に殻を脱ぎ捨てたみたいな雰囲気も音楽と共に伝わってきて、これも良かったなぁという感じだった。
映像の話で言えばまず、「なんかいつもの映画と違う気がする」と思ったのだが、割と早い段階で「画面が1:1の正方形」になっていることに気づいた。普段はもっと横長の画面な気がするので、良い意味で違和感があったのだ。
米津玄師の『Lemon』のMVが同じく正方形だが、以前この点に関して何か記事を流し読みしたことがあり、「正方形にしたのは、いつの時代の人が観ても普遍性を感じてもらいやすいため」みたいに誰か(監督かな?)が答えていたのを目にした記憶がある。正方形だと普遍性を感じられるのかは分からないが、普通の映画の横長や、スマホの縦長とは違う、普段目にすることのない正方形の画面は、「今でも過去でも未来でもない」みたいな雰囲気を与え得るのかもしれない。先程、「ガラケーを使っていたから本作の舞台設定は少し前かもしれない」と書いたが、そうであってもなくても、本作は全体的な雰囲気としても、「今でも過去でも未来でもない」みたいな雰囲気を有している気がするし、やはりそれは、正方形の画面によるところもあるのかもしれないと思う。
あと、これは自分で気づいたわけではなく、Filmarksの感想をチラ見していてなるほどと思ったことなのだけど、本作は「自然光」を使ったシーンが結構ある。そして、そんなシーンはやはり、かなり美しいなと思う。エイア像は全体的に美しいなと思うんだけど、スケートリンクなど室内のシーンよりも、やはり外のシーンの方が綺麗で、なるほど日光を上手く使ってるからなのか、と感じた。
池松壮亮はもちろん抜群の安定感だったが、タクヤとさくらを演じた2人は本作が初主演、さくらを演じた中西希亜良に至っては案技経験ゼロなのだそうだ。さくらは決してセリフが多い役ではなかったものの、物語の展開においてメチャクチャ重要なシーンを担う人物でもあるし、そもそも「喋り以外で感情を伝えること」だって難しいはずだ。またタクヤは「少し吃音がある」という役で、こちらもなかなか難しい。この2人が絶妙な雰囲気を醸し出していたからこそ本作のテイストが生まれていると思うし、とても良かったなと思う。
あと驚いたのは、タクヤを演じた越山敬達が4歳からフィギュアスケートを習っていたということ。というのもタクヤは最初「フィギュアスケートが上手く出来ない」というところから始まるからだ。「滑れる人間が、滑れない演技をする」というのも、難しいだろうなと思った。またそういう意味で言うなら、池松壮亮はコーチで元選手ということもあり、スケートが上手くないと成り立たないキャラクターなのだが、さすが、とても上手かったなと思う。
あと、役者の話で言うなら、エンドロールを観てメチャクチャ驚かされた。「若葉竜也」の名前がクレジットされていたからだ。「若葉竜也」の名前を観た瞬間、「えっ、どこに出てたっけ?」と思ったのだが、その次の瞬間に「あー!あいつか!」となった。ホントに、若葉竜也とか菅田将暉とかは、主演も出来るし、脇役として出てくると全然気付けないみたいな感じがあって、いつもビックリさせられてしまう。
本作は、大学在学中に撮った映画『僕はイエス様が嫌い』でデビューした奥山大史の2作目の長編映画であり、そしてカンヌ国際映画祭で日本作品として唯一オフィシャル作品に選出された。凄いものだなと思う。
実に素敵な作品である。
「ぼくのお日さま」を観に行ってきました
「なみのおと」を観に行ってきました
本作はずっと観たいと思っていた。以前読んだ『ユリイカ 濱口竜介特集』に、本作について書かれていたからだ。
観たいと思っていた理由にはもちろん、「東日本大震災後を生きる人々の対話を捉えた作品である」という店への興味もある。しかしそれと同時に、先述した『ユリイカ』に書かれていた話も気になっていた。それは、「カメラがどこにあるか分からない」という点である。
そして実際に観て、本当にどこにカメラがあるのか分からなかった。実に不思議な映像である。
さて、この話の説明のためにまず、ドラマなどでよく見かけるシーンについて説明しよう。男女が喫茶店で向き合って会話をしている、みたいなシーンだ。男性・女性がそれぞれ正面からのワンショットで抜かれ、それらをつなぎ合わせることで「向かい合って喋っている」というシーンに見せている。
では、このシーンは実際にはどのように撮られているだろうか? 女性が喋っている時には、「本来であれば男性が座っているべき場所にカメラマンが座り、女性を正面から撮る」ことになり、男性が喋っている時にはその逆である。つまり、「この男女は実際には向き合っていない」ということになる。
まあこんなことは当たり前の話なのだが、しかし本作では、そんな当たり前が崩れている。本作では「向かい合って対話をしているはずの2人が、それぞれ正面からワンショットで抜かれる」のである(本作では、1人で喋る人も3人で喋るパターンもあるが、分かりやすいので2人の説明をする)。本来ならカメラマンがいなければならない場所に対話の相手がいるはずなので、普通なら撮れないはずのショットなのだ。
そして、ドラマやフィクション映画ではよく使われるこの手法は、やはり「観客がその場にいるかのような感覚」をもたらすだろう。対話している2人を共に画角に入れるショットでは、どうしても「観客は部外者」という感じがするだろう。しかし、本作で取り入れられている「対話者と正対しているはずの人物と、観客も正対できている」という手法によって、観客自身がこの対話の場にいるかのような感覚にさせられるだろうと思う。
さらにこの手法は、ドラマなどで馴染みがあるからだろう、「対話している者同士の関係性」をより色濃く映し出すように思う。「真っ直ぐ向かい合わせに正対する」というのは、特に親しい者同士であれば日常であまり経験することがないだろう。本作には「夫婦」や「姉妹」など関係の近い者が正対して対話する場面も出てくるのだが、「正対しているが故の微妙なぎこちなさ」や、「正対しているが故の真剣さ」などがより強く伝わってくる感じがあった。
さらに、ドラマなどでは馴染みがある手法ではあるが、ドキュメンタリーではまず見かけないので、そういう意味ではもの凄く「違和感」をもたらしもする。僕は最初から「カメラがどこにあるか分からない」という本作の特徴を知っていたからこそ、余計に、慣れるまではしばらく「メチャクチャ違和感のある映像だなぁ」と感じながら観ていた。しかし次第に、「このような撮り方をした意図」みたいなものが少しずつ分かってくるようになって、「凄いことやってるなぁ」という感覚になれたりもしたというわけだ。
そんなわけで、フィクションではお馴染みだが、ドキュメンタリーでは「不可能」だとさえ思っていた手法で「対話する者同士」を切り取っていく作品であり、その点にまずは驚かされてしまった。
さらに、恐らくだが本作は、「対話している者の会話を途中で切ったりせず、最初から最後まですべて収めている」ように感じられた。これは僕がそう感じただけなのでもしかしたら全然違うかもしれないが。
仮に僕のこの捉え方があっているとして、それもまた珍しいことのように思える。「編集」というルーツが使えるわけで、そういう中で「対話を頭から終わりまですべて使う」という決断はなかなか勇気がいることのように思える。本作は、147分の作品で、6組の対話が収録されている。冒頭10分ぐらい「紙芝居」が流れるので、それを除くと、1対話ざっくり23分ということになる。「23分間の会話」をすべてカットせずに使っているとしたら(そうではない可能性もあるが)、それはなかなかのものだろう。対話をしてくれる者たちにどんな指示をしたのか分からないが、結構難しいことのように思う。
また、これも僕の解釈が間違っているかもしれないが、本作での対話は基本的に「司会者的な人が存在しない形で、対話者のみで会話が展開される」形になっているのだと思う(1人で喋る人だけ、監督が質問をする形で話を促す場面もある)。日曜日の朝フジテレビで放送している「ボクらの時代」みたいな感じを想像してもらえればいいだろう。
ただこれも、もしかしたら僕の捉え間違いの可能性はある。2人以上の対話の場にも監督が同席している様子は映っている。だから、「実際には監督が話を促す場面もあるのだが、それは編集で切られている」のかもしれない。そうだとしたら、先程の「会話を最初から最後までそのまま使ってる」という捉え方も怪しいことになるが。
ちなみに本作では、観客に対して、「画面に映る対話者がどのような経緯から選ばれ、どういう人物なのか」みたいなことがナレーションで説明されることはない。あくまでも、対話者が語る内容のみによって彼ら自身の情報も伝えるという形になっている。だからよく分からない部分もあるのだが、それはそれでいい。むしろ、対話の中で少しずつ関係性や震災に対する考え方が分かってくる感じが良かったなと思う。
そんなわけで、「僕の解釈が正しければ」という但し書き付きではあるが、色んな意味で「対話を収めたドキュメンタリー映画」としては異例と感じられる手法を取っている、その斬新さも含めて非常に興味深く感じられた。
さて、ここからは気になったエピソードについて少し触れていこうと思うが、個人的に一番良いなと思ったのは、潜水士の夫と彼の仕事を支える妻の対話である。「夫が妻の話をちょいちょい遮る」という部分も含め(それだけ取り出すとあまり好きではないが)、「長年連れ添った夫婦(25年だそうだ)」だからこその雰囲気が凄く良かった。
恐らく「正対して会話をする」という状況に不自然さや気恥ずかしさを感じているのだろう、対話の中でお互いの呼び方がちょいちょい変わっていくのも面白い。あんまりちゃんとは覚えていないのだが、「お父さん」「あなた」「この人」みたいな感じで、その時語っている話の内容や、そこにどんな感情を付随させたいのかによって、お互いが無意識に呼称を変えている印象があって、2人がずっと「微妙な駆け引き」をしているみたいだった。しかしそれは「相手に勝とう」みたいな感覚ではなく、「阿吽の呼吸でお互いの存在を引き立てようとしている」みたいな印象で、凄く良い関係性だなと感じた。
しかし、そんな2人が語るエピソードは相当にハードだった。地震発生直後からの怒涛の展開を楽しそうに語るのだが、映像にしたら「パニックもの」みたいな状況なのである。「家の土台が折れたのが分かって、家にいたまま1kmぐらい流された」とか、「イカダで川を下ってたら、水面と橋の感覚がもの凄く狭くなってて、ぶつからないように祈りながら通り抜けた」など、なかなか凄まじい。しかしそんな話を、「ジャッキー・チェンみたいだったね~」みたいなテンションで話すのである。
もちろん、この夫婦は家族・親戚・従業員に震災で亡くなった者がいなかったようで、そういう背景もあって「笑い話的に話せる」みたいなこともあると思う。すべての人が震災の経験をこんな風には語れないだろうし、この夫婦にしたって、彼らの阿吽の呼吸あってのこのテンションなわけだ。その辺りのことは理解しつつ、それでも、「内容と語り口のギャップ」がとても印象的に感じられた。また、詳しくは触れないが、「入院する夫を置いて妻が戻ってしまった時の感情」や「震災を機に妻の実家のある町に引っ越さざるを得なくなったことの心境」など、色々と興味深い話をしていた。
さて、本作では最後に登場する姉妹の話も印象的だった。新地町に住んでいた2人は、今は車で10分ほどの南相馬で働いているらしいのだが、彼女たちは「東京組との差」みたいな話をしており、興味深かった。
「東京組」というのは、「新地町出身だが、東京に避難した人たち」のことを指している。そして彼女たちは、「東京組の人たちも新地町について色々考えてくれているのは分かるけど、でもやっぱり、地元に残っている人の意見をちゃんと聞いてほしいと思う」みたいに言っていたのだ。具体的にどんなやり取りをしているのか分からないが、町の運営に関することなのだろう。そして、「意見を出してくれるのはありがたいけど、結局やるのは地元にいる人間なんだから」と語る妹の意見には、「そうだよなぁ」と感じさせられた。そんなわけで姉妹は、とりあえず今のところは、新地町からあまり遠くない場所に住もうと考えているようである。
また、「海」に対する感覚も興味深かった。妹が、「岩手の方みたいに、デカい防波堤にはしてほしくない」みたいな話をする。海のすぐ傍で育った彼女たちは、「海を実感できる生活」が存在することに大きな価値を抱いているようだ。だから、「海の近くに住めなくなるのは仕方ないとしても、町のどこかからは海が見えたり、海が感じられたりしてほしい」みたいに言っていた。
この点に関しては、姉の方がより踏み込んだ発言をしていたのが印象的である。彼女は、「震災直後からこのことは考えていたけど、いつ話せばいいかよく分からなかった」と前置きをしながらも、「自然の中で人間が”勝手に”生きているんだから、それを人工物で区切るのは違う気がする」みたいに言っていた。彼女のこの意見には、「自然と共に生きるのなら、そのマイナスも受け入れるしかない」みたいな感覚がある。この姉妹も、親族に震災による死者がいなかったらしく、だから余計にこういう話はしにくそうだったが、姉は明確に、「海が近いなら津波は起こるし、それは受け入れた上で住むしかない」という感覚を持っているようである。妹は、姉が「東日本大震災後」による被害を割と楽観的に捉えていたという認識を持っていたそうなのだが、姉のこの感覚を聞いて「納得した」と口にしていた。
このような話は特に、姉も言っていたが「普通には表に出てこない」ように思う。少なくとも、このような姉の意見は「テレビのニュース」では絶対に取り上げられないし、逆に「ネット上では「誹謗中傷」が殺到するみたいな感じになりそうである。「酷い災害だったから、皆が同じような感覚を持っていなくちゃいけない」みたいな謎の風潮を感じるが、そんな必要はないはずだ。もちろん、時と場をある程度は選んだ上でではあるが、自分の心が赴くままに感じ、考えればいいと思う。そういう意味でも、この姉の意見は結構印象に残っている。
さて今度は「震災らしい意見」を取り上げよう。こちらも個人的には「なるほどなぁ」と感じさせられた。
税理士であり議員もしているという男性が1人で(というか監督と)話をするのだが、その中で妻のある決断のエピソードを取り上げていた。妻が働いていた建物は古かったため、震災直後の大きな揺れの直後は、皆すぐに建物から出て避難したそうだ。しかし、揺れが収まった後、妻は「間違いなく津波が来る」と考えたそうだ。そしてだとしたら、建物から出たこの場所はとても危ない。そこで彼女は、「津波被害を避けるために、再び建物に戻る」という決断をしたのである。結果として妻のこの決断は、多くの人を救うこととなった。
税理士の男性は、「あの時は、こういう決断を迫られる状況が山程あった」と語る。その決断如何で、命を落としたり助かったりしたのだ、と。確かに、彼の妻の場合、「津波が来る前にもう一度大きな揺れが来たら、建物が倒壊する可能性がある」という状況に置かれていたわけだ。そんな中で、「津波の危険の方が高い」と判断し、皆をもう1度建物内に避難させた。非常に難しい決断だと言えるだろう。潜水士の夫婦もそうだったら、「あそこで違う決断をしていたら……」みたいな状況に何度も遭遇している。そんな経験を多くの人がしているという点が、災害の凄まじさを伝えるように思う。
またこの税理士の男性は「津波てんでんこ」についても話していた。「津波てんでんこ」については東日本大震災後に割と取り上げられることが多かったので知っていたが、「地震が起こったら、他の家族のことは気にせず、まず自分を助けるために逃げる」という昔から伝わる教えである。実際、この「津波てんでんこ」を普段から実践していた鵜住居小学校と釜石東中学校では、生徒の被害はほとんどなく、「釜石の奇跡」とも呼ばれていた
税理士の男性は、「一度家族の縁を切る(家族で集まって逃げるのではなく、それぞれが勝手に逃げる)ことで、再び縁を繋ぐことが出来る」という印象的な言葉で「津波てんでんこ」を評価していた。そして、「この精神がもっと『当たり前のもの』になってほしい」とも話していた。
一方で、冒頭で登場した高齢の姉妹も「津波てんでんこ」について言及しており、確か妹の方だったと思うが、「家族を見捨てるような悲しさがある」と話していた。実際に知り合いが、「自分の母親が津波に呑み込まれる様子」を見ていたという。母親が「自分を置いて逃げろ」と言ったそうなのだが、そうは言ってもやはり、「見捨ててしまった」みたいな感覚になってしまいもするだろう。頭では理解できても、心がついていかないみたいな感じだろうか。
そんなわけで、観る人によって気になるポイントは違うんじゃないかと思う。対話者たちは、とても個人的な話をしているわけだが、その対象が「東日本大震災」であるが故に、否応なしに「真理」みたいな性質も帯びることになる。「経験した者にしか語れないこと」はやはり重いし、しかしそんな「重い」はずの話を実に軽妙に語ってくれる(ことが多い)ので、重苦しくなりすぎない。
僕は、東日本大震災後に何年か岩手県に住んでいたことがあるぐらいで、「東日本大震災」や「東北」に馴染みがあると言えるような感じではないが、それでも、「少しの間住んでいた」という事実は僕の中で、それらとの繋がりみたいなものを感じたりもする。「東日本大震災」は、僕が生きてきた中で言うと「地下鉄サリン事件」「阪神・淡路大震災」「9.11テロ」「コロナのパンデミック」ぐらいしか比較対象が存在しないと思えるぐらいの凄まじい出来事であり、多くの人にとって人生観や生きる意味みたいなものを塗り替えた出来事だったんじゃないかと思う。
だから僕は、機会があれば「東日本大震災」に関係するものに触れたいと思うし、本作は久々にそのような機会になったというわけだ。
「なみのおと」を観に行ってきました
観たいと思っていた理由にはもちろん、「東日本大震災後を生きる人々の対話を捉えた作品である」という店への興味もある。しかしそれと同時に、先述した『ユリイカ』に書かれていた話も気になっていた。それは、「カメラがどこにあるか分からない」という点である。
そして実際に観て、本当にどこにカメラがあるのか分からなかった。実に不思議な映像である。
さて、この話の説明のためにまず、ドラマなどでよく見かけるシーンについて説明しよう。男女が喫茶店で向き合って会話をしている、みたいなシーンだ。男性・女性がそれぞれ正面からのワンショットで抜かれ、それらをつなぎ合わせることで「向かい合って喋っている」というシーンに見せている。
では、このシーンは実際にはどのように撮られているだろうか? 女性が喋っている時には、「本来であれば男性が座っているべき場所にカメラマンが座り、女性を正面から撮る」ことになり、男性が喋っている時にはその逆である。つまり、「この男女は実際には向き合っていない」ということになる。
まあこんなことは当たり前の話なのだが、しかし本作では、そんな当たり前が崩れている。本作では「向かい合って対話をしているはずの2人が、それぞれ正面からワンショットで抜かれる」のである(本作では、1人で喋る人も3人で喋るパターンもあるが、分かりやすいので2人の説明をする)。本来ならカメラマンがいなければならない場所に対話の相手がいるはずなので、普通なら撮れないはずのショットなのだ。
そして、ドラマやフィクション映画ではよく使われるこの手法は、やはり「観客がその場にいるかのような感覚」をもたらすだろう。対話している2人を共に画角に入れるショットでは、どうしても「観客は部外者」という感じがするだろう。しかし、本作で取り入れられている「対話者と正対しているはずの人物と、観客も正対できている」という手法によって、観客自身がこの対話の場にいるかのような感覚にさせられるだろうと思う。
さらにこの手法は、ドラマなどで馴染みがあるからだろう、「対話している者同士の関係性」をより色濃く映し出すように思う。「真っ直ぐ向かい合わせに正対する」というのは、特に親しい者同士であれば日常であまり経験することがないだろう。本作には「夫婦」や「姉妹」など関係の近い者が正対して対話する場面も出てくるのだが、「正対しているが故の微妙なぎこちなさ」や、「正対しているが故の真剣さ」などがより強く伝わってくる感じがあった。
さらに、ドラマなどでは馴染みがある手法ではあるが、ドキュメンタリーではまず見かけないので、そういう意味ではもの凄く「違和感」をもたらしもする。僕は最初から「カメラがどこにあるか分からない」という本作の特徴を知っていたからこそ、余計に、慣れるまではしばらく「メチャクチャ違和感のある映像だなぁ」と感じながら観ていた。しかし次第に、「このような撮り方をした意図」みたいなものが少しずつ分かってくるようになって、「凄いことやってるなぁ」という感覚になれたりもしたというわけだ。
そんなわけで、フィクションではお馴染みだが、ドキュメンタリーでは「不可能」だとさえ思っていた手法で「対話する者同士」を切り取っていく作品であり、その点にまずは驚かされてしまった。
さらに、恐らくだが本作は、「対話している者の会話を途中で切ったりせず、最初から最後まですべて収めている」ように感じられた。これは僕がそう感じただけなのでもしかしたら全然違うかもしれないが。
仮に僕のこの捉え方があっているとして、それもまた珍しいことのように思える。「編集」というルーツが使えるわけで、そういう中で「対話を頭から終わりまですべて使う」という決断はなかなか勇気がいることのように思える。本作は、147分の作品で、6組の対話が収録されている。冒頭10分ぐらい「紙芝居」が流れるので、それを除くと、1対話ざっくり23分ということになる。「23分間の会話」をすべてカットせずに使っているとしたら(そうではない可能性もあるが)、それはなかなかのものだろう。対話をしてくれる者たちにどんな指示をしたのか分からないが、結構難しいことのように思う。
また、これも僕の解釈が間違っているかもしれないが、本作での対話は基本的に「司会者的な人が存在しない形で、対話者のみで会話が展開される」形になっているのだと思う(1人で喋る人だけ、監督が質問をする形で話を促す場面もある)。日曜日の朝フジテレビで放送している「ボクらの時代」みたいな感じを想像してもらえればいいだろう。
ただこれも、もしかしたら僕の捉え間違いの可能性はある。2人以上の対話の場にも監督が同席している様子は映っている。だから、「実際には監督が話を促す場面もあるのだが、それは編集で切られている」のかもしれない。そうだとしたら、先程の「会話を最初から最後までそのまま使ってる」という捉え方も怪しいことになるが。
ちなみに本作では、観客に対して、「画面に映る対話者がどのような経緯から選ばれ、どういう人物なのか」みたいなことがナレーションで説明されることはない。あくまでも、対話者が語る内容のみによって彼ら自身の情報も伝えるという形になっている。だからよく分からない部分もあるのだが、それはそれでいい。むしろ、対話の中で少しずつ関係性や震災に対する考え方が分かってくる感じが良かったなと思う。
そんなわけで、「僕の解釈が正しければ」という但し書き付きではあるが、色んな意味で「対話を収めたドキュメンタリー映画」としては異例と感じられる手法を取っている、その斬新さも含めて非常に興味深く感じられた。
さて、ここからは気になったエピソードについて少し触れていこうと思うが、個人的に一番良いなと思ったのは、潜水士の夫と彼の仕事を支える妻の対話である。「夫が妻の話をちょいちょい遮る」という部分も含め(それだけ取り出すとあまり好きではないが)、「長年連れ添った夫婦(25年だそうだ)」だからこその雰囲気が凄く良かった。
恐らく「正対して会話をする」という状況に不自然さや気恥ずかしさを感じているのだろう、対話の中でお互いの呼び方がちょいちょい変わっていくのも面白い。あんまりちゃんとは覚えていないのだが、「お父さん」「あなた」「この人」みたいな感じで、その時語っている話の内容や、そこにどんな感情を付随させたいのかによって、お互いが無意識に呼称を変えている印象があって、2人がずっと「微妙な駆け引き」をしているみたいだった。しかしそれは「相手に勝とう」みたいな感覚ではなく、「阿吽の呼吸でお互いの存在を引き立てようとしている」みたいな印象で、凄く良い関係性だなと感じた。
しかし、そんな2人が語るエピソードは相当にハードだった。地震発生直後からの怒涛の展開を楽しそうに語るのだが、映像にしたら「パニックもの」みたいな状況なのである。「家の土台が折れたのが分かって、家にいたまま1kmぐらい流された」とか、「イカダで川を下ってたら、水面と橋の感覚がもの凄く狭くなってて、ぶつからないように祈りながら通り抜けた」など、なかなか凄まじい。しかしそんな話を、「ジャッキー・チェンみたいだったね~」みたいなテンションで話すのである。
もちろん、この夫婦は家族・親戚・従業員に震災で亡くなった者がいなかったようで、そういう背景もあって「笑い話的に話せる」みたいなこともあると思う。すべての人が震災の経験をこんな風には語れないだろうし、この夫婦にしたって、彼らの阿吽の呼吸あってのこのテンションなわけだ。その辺りのことは理解しつつ、それでも、「内容と語り口のギャップ」がとても印象的に感じられた。また、詳しくは触れないが、「入院する夫を置いて妻が戻ってしまった時の感情」や「震災を機に妻の実家のある町に引っ越さざるを得なくなったことの心境」など、色々と興味深い話をしていた。
さて、本作では最後に登場する姉妹の話も印象的だった。新地町に住んでいた2人は、今は車で10分ほどの南相馬で働いているらしいのだが、彼女たちは「東京組との差」みたいな話をしており、興味深かった。
「東京組」というのは、「新地町出身だが、東京に避難した人たち」のことを指している。そして彼女たちは、「東京組の人たちも新地町について色々考えてくれているのは分かるけど、でもやっぱり、地元に残っている人の意見をちゃんと聞いてほしいと思う」みたいに言っていたのだ。具体的にどんなやり取りをしているのか分からないが、町の運営に関することなのだろう。そして、「意見を出してくれるのはありがたいけど、結局やるのは地元にいる人間なんだから」と語る妹の意見には、「そうだよなぁ」と感じさせられた。そんなわけで姉妹は、とりあえず今のところは、新地町からあまり遠くない場所に住もうと考えているようである。
また、「海」に対する感覚も興味深かった。妹が、「岩手の方みたいに、デカい防波堤にはしてほしくない」みたいな話をする。海のすぐ傍で育った彼女たちは、「海を実感できる生活」が存在することに大きな価値を抱いているようだ。だから、「海の近くに住めなくなるのは仕方ないとしても、町のどこかからは海が見えたり、海が感じられたりしてほしい」みたいに言っていた。
この点に関しては、姉の方がより踏み込んだ発言をしていたのが印象的である。彼女は、「震災直後からこのことは考えていたけど、いつ話せばいいかよく分からなかった」と前置きをしながらも、「自然の中で人間が”勝手に”生きているんだから、それを人工物で区切るのは違う気がする」みたいに言っていた。彼女のこの意見には、「自然と共に生きるのなら、そのマイナスも受け入れるしかない」みたいな感覚がある。この姉妹も、親族に震災による死者がいなかったらしく、だから余計にこういう話はしにくそうだったが、姉は明確に、「海が近いなら津波は起こるし、それは受け入れた上で住むしかない」という感覚を持っているようである。妹は、姉が「東日本大震災後」による被害を割と楽観的に捉えていたという認識を持っていたそうなのだが、姉のこの感覚を聞いて「納得した」と口にしていた。
このような話は特に、姉も言っていたが「普通には表に出てこない」ように思う。少なくとも、このような姉の意見は「テレビのニュース」では絶対に取り上げられないし、逆に「ネット上では「誹謗中傷」が殺到するみたいな感じになりそうである。「酷い災害だったから、皆が同じような感覚を持っていなくちゃいけない」みたいな謎の風潮を感じるが、そんな必要はないはずだ。もちろん、時と場をある程度は選んだ上でではあるが、自分の心が赴くままに感じ、考えればいいと思う。そういう意味でも、この姉の意見は結構印象に残っている。
さて今度は「震災らしい意見」を取り上げよう。こちらも個人的には「なるほどなぁ」と感じさせられた。
税理士であり議員もしているという男性が1人で(というか監督と)話をするのだが、その中で妻のある決断のエピソードを取り上げていた。妻が働いていた建物は古かったため、震災直後の大きな揺れの直後は、皆すぐに建物から出て避難したそうだ。しかし、揺れが収まった後、妻は「間違いなく津波が来る」と考えたそうだ。そしてだとしたら、建物から出たこの場所はとても危ない。そこで彼女は、「津波被害を避けるために、再び建物に戻る」という決断をしたのである。結果として妻のこの決断は、多くの人を救うこととなった。
税理士の男性は、「あの時は、こういう決断を迫られる状況が山程あった」と語る。その決断如何で、命を落としたり助かったりしたのだ、と。確かに、彼の妻の場合、「津波が来る前にもう一度大きな揺れが来たら、建物が倒壊する可能性がある」という状況に置かれていたわけだ。そんな中で、「津波の危険の方が高い」と判断し、皆をもう1度建物内に避難させた。非常に難しい決断だと言えるだろう。潜水士の夫婦もそうだったら、「あそこで違う決断をしていたら……」みたいな状況に何度も遭遇している。そんな経験を多くの人がしているという点が、災害の凄まじさを伝えるように思う。
またこの税理士の男性は「津波てんでんこ」についても話していた。「津波てんでんこ」については東日本大震災後に割と取り上げられることが多かったので知っていたが、「地震が起こったら、他の家族のことは気にせず、まず自分を助けるために逃げる」という昔から伝わる教えである。実際、この「津波てんでんこ」を普段から実践していた鵜住居小学校と釜石東中学校では、生徒の被害はほとんどなく、「釜石の奇跡」とも呼ばれていた
税理士の男性は、「一度家族の縁を切る(家族で集まって逃げるのではなく、それぞれが勝手に逃げる)ことで、再び縁を繋ぐことが出来る」という印象的な言葉で「津波てんでんこ」を評価していた。そして、「この精神がもっと『当たり前のもの』になってほしい」とも話していた。
一方で、冒頭で登場した高齢の姉妹も「津波てんでんこ」について言及しており、確か妹の方だったと思うが、「家族を見捨てるような悲しさがある」と話していた。実際に知り合いが、「自分の母親が津波に呑み込まれる様子」を見ていたという。母親が「自分を置いて逃げろ」と言ったそうなのだが、そうは言ってもやはり、「見捨ててしまった」みたいな感覚になってしまいもするだろう。頭では理解できても、心がついていかないみたいな感じだろうか。
そんなわけで、観る人によって気になるポイントは違うんじゃないかと思う。対話者たちは、とても個人的な話をしているわけだが、その対象が「東日本大震災」であるが故に、否応なしに「真理」みたいな性質も帯びることになる。「経験した者にしか語れないこと」はやはり重いし、しかしそんな「重い」はずの話を実に軽妙に語ってくれる(ことが多い)ので、重苦しくなりすぎない。
僕は、東日本大震災後に何年か岩手県に住んでいたことがあるぐらいで、「東日本大震災」や「東北」に馴染みがあると言えるような感じではないが、それでも、「少しの間住んでいた」という事実は僕の中で、それらとの繋がりみたいなものを感じたりもする。「東日本大震災」は、僕が生きてきた中で言うと「地下鉄サリン事件」「阪神・淡路大震災」「9.11テロ」「コロナのパンデミック」ぐらいしか比較対象が存在しないと思えるぐらいの凄まじい出来事であり、多くの人にとって人生観や生きる意味みたいなものを塗り替えた出来事だったんじゃないかと思う。
だから僕は、機会があれば「東日本大震災」に関係するものに触れたいと思うし、本作は久々にそのような機会になったというわけだ。
「なみのおと」を観に行ってきました
「ナミビアの砂漠」を観に行ってきました
本作を観たのは完全に、河合優実が主演だからだ。それ以外の理由はない。
しかし観ながら、「もし河合優実がいなかったら、誰を主演にしたんだろう?」と考えさせられた。それぐらい、河合優実がズバッとハマっている感じがある。
さらに、「もし河合優実がいなかったら」にも、本作に関係する話がある。というのも、河合優実が役者を目指すきっかけになったのが、本作監督である山中瑶子が初監督した映画『あみこ』を観たことがきっかけだからだ。『あみこ』を観た河合優実は衝撃を受け、山中瑶子に「いつか出演したいです」と書いた手紙を渡したそうなのだ。
つまり、山中瑶子がいなければ女優・河合優実は存在しなかったかもしれないのである。本作に対して「もし河合優実がいなかったら」という表現を使うのは、そういう意味でも適切だと言っていいだろう。
河合優実の何が凄いのか、僕には上手く言語化出来ないが、映画冒頭を観ながら考えていたことがある。
冒頭、河合優実演じるカナは、新谷ゆづみ演じる友人・イチカと喫茶店で喋るシーンから始まる。そしてそのシーンを観ながら、「もしも新谷ゆづみがカナを演じていたらどうだろうか」と考えてしまった。
たぶんそれはあまりしっくり来ない。というのも、新谷ゆづみは見た目の可愛さがパキッとしているので、「容姿が発する情報が多い」という印象になってしまう。それはつまり、「それ以外の情報を配置しにくい」という意味でもある。もしも新谷ゆづみがカナを演じていたら、「カナが作中で繰り出す様々な奇行」に対して、「何らかの意味」が付随してしまうように思う。そしてそれは、本作の雰囲気にとってはあまり良くないだろう。
一方、河合優実は、どう表現すればいいのか難しいが、「絶妙な可愛さ」を有しているという感じがする。これはつまり「可愛すぎない」という意味だ。だから「容姿が発する情報」が少なくなる。だから、河合優実演じるカナの振る舞いに対しては様々な意味付けが可能になるし、それは、観客の焦点を常に反らし続けているように感じられる本作の雰囲気に、とても合っている感じがしたのだ。
そして、似たような感覚を抱かせる女優のことも、映画を観ながら思い浮かべていた。岸井ゆきのだ。彼女も「絶妙な可愛さ」という感じで、岸井ゆきのと河合優実には同じような雰囲気を感じる。だから、年齢さえ合えば、岸井ゆきのも本作の雰囲気にハマる気がする。でも、他に誰がいるだろう? 僕にはちょっと、パッとは思いつかない。
そんな河合優実が演じたカナは、実に捉えがたい存在だ。ただ同時に、誰もが「こんな風でありたい」と感じてしまうんじゃないかと思うような、「むきだしの生」みたいなものを感じさせられた。
「社会の中で生きていく」というのは概ね、「『自分らしさ』みたいなものを押し殺して良き場所にハマるピースとして存在する」みたいなところがある。本作でも、カナは職場である脱毛サロンでそんな雰囲気を醸し出していた。自分は今「一個の人間」ではなく「社会の中に配された部材」であるみたいな感じ。そしてそれはきっと、僕を含めたごく一般的な人が内心のどこかに抱えている感覚ではないかと思う。
でもカナは、職場を一歩離れれば、「部材」であったことなどするっと忘れてしまう。親友や恋人や浮気相手の存在も全部フラットになって、「カナ」という存在だけが存在しているような感覚。カナの存在はアメーバみたいに不定形となって、何かに囚われたりしないで自由に伸び縮みする。「社会性」みたいなものを全部投げ出したまま社会の中で屹立している感じがあって、たぶんそんな彼女の雰囲気には、ある種の憧憬を抱かされてしまうみたいな人も結構いるような気がする。
「自由だなぁ」って。
でも、カナが自由なのかは、よく分からない。「自由」というのは、「『やりたいこと』や『目指す地点』が存在し、それに向かう際に抵抗が存在しない」みたいなイメージがあるが、そもそもカナには「やりたいこと」も「目指す地点」も存在しないように思える。「やりたいこと」も「目指す地点」も無いのに「自由」とはどういうことだろう? 「そういうもの一切を持たないこと」が「自由」なのだろうか? いずれにせよ、僕にはカナは、特に「自由」には見えなかった。「日本はこれから、少子化と貧困で終わるので、当面の目標は『生存』です」っていうセリフも、彼女のそんな雰囲気を重ね塗りしていく感じがある。
ただ、「自由」の話なのかどうかは分からないが、ある場面でカナが口にする、「思ってることとやってることが違う人が怖い」って話は、なんとなくカナの本質を衝くような話に感じられた。
カナは、思ったことを口にするし、したいと思ったことをする。カナにとっては、それが自然なことで、それ以外のやり方があるようには思えない。でも、どうやら世の中は違う。思っていても言わないし、したいと思ってもやらない。世間的にはそれが当たり前みたいだけど、そんなのなんか怖い。意味が分からない。
カナはたぶん、そんな風に考えている。
『ナミビアの砂漠』というタイトルにどんな意味が込められているのかちゃんとは分からないが、作中ではっきり提示されるものとしては、カナがよく観ている動画がある。恐らく「ナミビアの砂漠」なのだろう場所を映したYouTubeのチャンネルか何かで、牛が水を飲んでいたりする。彼女がどうしてそんな動画を観ているのかは分からないが、僕の解釈では「『ナミビアの砂漠』の動画を観ることには意味がない」のではないかと思う。そうではなく、「『違和感だらけの社会』を見ずに済むためには何か別のものを眺める必要があり、それがたまたま『ナミビアの砂漠』の動画だった」ということなんじゃないかと思う。分からないけど。
カナはある場面で、「映画なんか観てどーなんだよー」と口にするのだが(それを「映画」の中で言わせるのもなかなか面白い)、たぶんカナは「人間」のことが上手く理解できないんだと思う。それが象徴的に描かれるのが、冒頭のシーンだろう。親友(だと思う)のイチカが、「かつての同級生が自殺した」「その子から死ぬ前日に久々に突然電話があって話をした」みたいな話をしているのだが、カナは自分の後ろの席で「ノーパンしゃぶしゃぶ」について話している男3人の会話に気を取られているのだ。全然聞いてない。たぶん、まったく興味がないんだと思う。それは、「イチカの話」にではなく「イチカ」に。
他の場面でも、カナが他人に何らかの関心を向けているシーンがほとんどなかった気がする。付き合っている相手に対しても、たぶん同じだと思う。好きな理由もないし、嫌いな理由もない。
そういうカナの雰囲気から、「『人間』のことが上手く理解できないんだろう」みたいに感じさせられた。そして恐らくその理由が、「思ってることとやってることが違う人が怖い」という部分にあるんだろうな、と。
ただ、一方でカナは、周りにいる人から好かれる。「好かれる」と書くとちょっとズレるかもしれないが、「必要な存在だと認識される」と書くともう少し正確になるだろうか。たぶんだけど、それはきっと「むきだしの生」に惹かれているんだと思う。社会に生きるほとんどの人が、本質的な部分を上手く覆い隠して、つまり、「『むきだしの生』を隠す」ようにして生きている。だから、カナのような人間は稀有だし、人を惹きつける。自分には真似できない生き方に惹かれるから、関わりたくなる。特に、カナと付き合うハヤシとホンダはより強くそのような感覚を抱いているわけだが、そうではない人たちも、何らかの形でカナの引力に引きつけられている。
カナは、社会から浮いているのだが、浮いているからこそ周りの人を惹きつけ、それ故に社会に留まることが出来ている。そんな矛盾めいた生き方にきっと、観客も惹きつけられるのだと思う。
そんなわけでとにかく、カナの存在感、つまり河合優実の存在感が凄まじかったし、ほぼそれだけで作品が成立しているような感じがあった。だから、河合優実じゃなかったら誰がこの物語を成立させるんだって感じがするし、だから山中瑶子と河合優実がずっと前に出会っていたというのは、なんか凄いことのように思える。
「カナには居場所があるのか?」と考えるが、やはりそれは自己矛盾みたいなところがあるだろう。というのもカナの場合、「社会から浮いていること」がある種のアイデンティティみたいになっているわけで、だから、「落ち着けるような居場所」があったら、それはカナの存在を根幹から揺るがすような感じもする。
ただ、「カナはカナのままでありたいのか?」という点は考える必要があるだろう。もしもカナが、「今の自分」を捨てたいと感じているのであれば、「社会から浮いていること」というアイデンティティにこだわる必要はなくなる。いや、カナは別にその点にこだわっているわけではないだろうが、恐らく社会にうまくハマれたことなどなかったはずで、結果としてこだわっているように見えるというわけだ。で、「そんな自分を捨てたい」と考えているのなら、いずれ居場所も見つかるだろう。
でも、そんなカナは想像出来ない。自分を愛してくれる人に対してもいじわるで暴力的にしか振る舞えないカナのことを、なんだかんだみんな好きになっていくわけで、「そうじゃないカナ」が存在する気がしない。そう思わせるぐらい、カナの存在感はとてつもなかったし、そんな存在感を見事に発揮した河合優実の演技には圧倒された。
ストーリーと言えるようなものは、ほぼ無い。主に、ハヤシとホンダという2人の男を巡ってあーだこーだしているわけだが、しかし、そのあーだこーだそのものにはさほど意味はないだろう。「カナの行動には意味がない」ということを浮き彫りにするために様々な状況が存在すると言えるわけで、観れば観るほど「空虚の穴」が広がっていくみたいな感じがした。137分の映画だそうだが、その間ずっと「空虚」を描き続けているわけで、凄い映画だなと思う。
あと、観ていてびっくりしたのは、唐田えりかが出てきたこと。久しぶりに見たなと思う。
まあとにかく、「河合優実が凄かった」という感想に終始する映画である。デビューからまださほど経っていないはずなのに、本当に快進撃だなと思う。「アイドル的人気」みたいな形で売れたケース以外では、このスピードは超絶異例じゃないかと思う。凄い人がいたもんだ。
「ナミビアの砂漠」を観に行ってきました
しかし観ながら、「もし河合優実がいなかったら、誰を主演にしたんだろう?」と考えさせられた。それぐらい、河合優実がズバッとハマっている感じがある。
さらに、「もし河合優実がいなかったら」にも、本作に関係する話がある。というのも、河合優実が役者を目指すきっかけになったのが、本作監督である山中瑶子が初監督した映画『あみこ』を観たことがきっかけだからだ。『あみこ』を観た河合優実は衝撃を受け、山中瑶子に「いつか出演したいです」と書いた手紙を渡したそうなのだ。
つまり、山中瑶子がいなければ女優・河合優実は存在しなかったかもしれないのである。本作に対して「もし河合優実がいなかったら」という表現を使うのは、そういう意味でも適切だと言っていいだろう。
河合優実の何が凄いのか、僕には上手く言語化出来ないが、映画冒頭を観ながら考えていたことがある。
冒頭、河合優実演じるカナは、新谷ゆづみ演じる友人・イチカと喫茶店で喋るシーンから始まる。そしてそのシーンを観ながら、「もしも新谷ゆづみがカナを演じていたらどうだろうか」と考えてしまった。
たぶんそれはあまりしっくり来ない。というのも、新谷ゆづみは見た目の可愛さがパキッとしているので、「容姿が発する情報が多い」という印象になってしまう。それはつまり、「それ以外の情報を配置しにくい」という意味でもある。もしも新谷ゆづみがカナを演じていたら、「カナが作中で繰り出す様々な奇行」に対して、「何らかの意味」が付随してしまうように思う。そしてそれは、本作の雰囲気にとってはあまり良くないだろう。
一方、河合優実は、どう表現すればいいのか難しいが、「絶妙な可愛さ」を有しているという感じがする。これはつまり「可愛すぎない」という意味だ。だから「容姿が発する情報」が少なくなる。だから、河合優実演じるカナの振る舞いに対しては様々な意味付けが可能になるし、それは、観客の焦点を常に反らし続けているように感じられる本作の雰囲気に、とても合っている感じがしたのだ。
そして、似たような感覚を抱かせる女優のことも、映画を観ながら思い浮かべていた。岸井ゆきのだ。彼女も「絶妙な可愛さ」という感じで、岸井ゆきのと河合優実には同じような雰囲気を感じる。だから、年齢さえ合えば、岸井ゆきのも本作の雰囲気にハマる気がする。でも、他に誰がいるだろう? 僕にはちょっと、パッとは思いつかない。
そんな河合優実が演じたカナは、実に捉えがたい存在だ。ただ同時に、誰もが「こんな風でありたい」と感じてしまうんじゃないかと思うような、「むきだしの生」みたいなものを感じさせられた。
「社会の中で生きていく」というのは概ね、「『自分らしさ』みたいなものを押し殺して良き場所にハマるピースとして存在する」みたいなところがある。本作でも、カナは職場である脱毛サロンでそんな雰囲気を醸し出していた。自分は今「一個の人間」ではなく「社会の中に配された部材」であるみたいな感じ。そしてそれはきっと、僕を含めたごく一般的な人が内心のどこかに抱えている感覚ではないかと思う。
でもカナは、職場を一歩離れれば、「部材」であったことなどするっと忘れてしまう。親友や恋人や浮気相手の存在も全部フラットになって、「カナ」という存在だけが存在しているような感覚。カナの存在はアメーバみたいに不定形となって、何かに囚われたりしないで自由に伸び縮みする。「社会性」みたいなものを全部投げ出したまま社会の中で屹立している感じがあって、たぶんそんな彼女の雰囲気には、ある種の憧憬を抱かされてしまうみたいな人も結構いるような気がする。
「自由だなぁ」って。
でも、カナが自由なのかは、よく分からない。「自由」というのは、「『やりたいこと』や『目指す地点』が存在し、それに向かう際に抵抗が存在しない」みたいなイメージがあるが、そもそもカナには「やりたいこと」も「目指す地点」も存在しないように思える。「やりたいこと」も「目指す地点」も無いのに「自由」とはどういうことだろう? 「そういうもの一切を持たないこと」が「自由」なのだろうか? いずれにせよ、僕にはカナは、特に「自由」には見えなかった。「日本はこれから、少子化と貧困で終わるので、当面の目標は『生存』です」っていうセリフも、彼女のそんな雰囲気を重ね塗りしていく感じがある。
ただ、「自由」の話なのかどうかは分からないが、ある場面でカナが口にする、「思ってることとやってることが違う人が怖い」って話は、なんとなくカナの本質を衝くような話に感じられた。
カナは、思ったことを口にするし、したいと思ったことをする。カナにとっては、それが自然なことで、それ以外のやり方があるようには思えない。でも、どうやら世の中は違う。思っていても言わないし、したいと思ってもやらない。世間的にはそれが当たり前みたいだけど、そんなのなんか怖い。意味が分からない。
カナはたぶん、そんな風に考えている。
『ナミビアの砂漠』というタイトルにどんな意味が込められているのかちゃんとは分からないが、作中ではっきり提示されるものとしては、カナがよく観ている動画がある。恐らく「ナミビアの砂漠」なのだろう場所を映したYouTubeのチャンネルか何かで、牛が水を飲んでいたりする。彼女がどうしてそんな動画を観ているのかは分からないが、僕の解釈では「『ナミビアの砂漠』の動画を観ることには意味がない」のではないかと思う。そうではなく、「『違和感だらけの社会』を見ずに済むためには何か別のものを眺める必要があり、それがたまたま『ナミビアの砂漠』の動画だった」ということなんじゃないかと思う。分からないけど。
カナはある場面で、「映画なんか観てどーなんだよー」と口にするのだが(それを「映画」の中で言わせるのもなかなか面白い)、たぶんカナは「人間」のことが上手く理解できないんだと思う。それが象徴的に描かれるのが、冒頭のシーンだろう。親友(だと思う)のイチカが、「かつての同級生が自殺した」「その子から死ぬ前日に久々に突然電話があって話をした」みたいな話をしているのだが、カナは自分の後ろの席で「ノーパンしゃぶしゃぶ」について話している男3人の会話に気を取られているのだ。全然聞いてない。たぶん、まったく興味がないんだと思う。それは、「イチカの話」にではなく「イチカ」に。
他の場面でも、カナが他人に何らかの関心を向けているシーンがほとんどなかった気がする。付き合っている相手に対しても、たぶん同じだと思う。好きな理由もないし、嫌いな理由もない。
そういうカナの雰囲気から、「『人間』のことが上手く理解できないんだろう」みたいに感じさせられた。そして恐らくその理由が、「思ってることとやってることが違う人が怖い」という部分にあるんだろうな、と。
ただ、一方でカナは、周りにいる人から好かれる。「好かれる」と書くとちょっとズレるかもしれないが、「必要な存在だと認識される」と書くともう少し正確になるだろうか。たぶんだけど、それはきっと「むきだしの生」に惹かれているんだと思う。社会に生きるほとんどの人が、本質的な部分を上手く覆い隠して、つまり、「『むきだしの生』を隠す」ようにして生きている。だから、カナのような人間は稀有だし、人を惹きつける。自分には真似できない生き方に惹かれるから、関わりたくなる。特に、カナと付き合うハヤシとホンダはより強くそのような感覚を抱いているわけだが、そうではない人たちも、何らかの形でカナの引力に引きつけられている。
カナは、社会から浮いているのだが、浮いているからこそ周りの人を惹きつけ、それ故に社会に留まることが出来ている。そんな矛盾めいた生き方にきっと、観客も惹きつけられるのだと思う。
そんなわけでとにかく、カナの存在感、つまり河合優実の存在感が凄まじかったし、ほぼそれだけで作品が成立しているような感じがあった。だから、河合優実じゃなかったら誰がこの物語を成立させるんだって感じがするし、だから山中瑶子と河合優実がずっと前に出会っていたというのは、なんか凄いことのように思える。
「カナには居場所があるのか?」と考えるが、やはりそれは自己矛盾みたいなところがあるだろう。というのもカナの場合、「社会から浮いていること」がある種のアイデンティティみたいになっているわけで、だから、「落ち着けるような居場所」があったら、それはカナの存在を根幹から揺るがすような感じもする。
ただ、「カナはカナのままでありたいのか?」という点は考える必要があるだろう。もしもカナが、「今の自分」を捨てたいと感じているのであれば、「社会から浮いていること」というアイデンティティにこだわる必要はなくなる。いや、カナは別にその点にこだわっているわけではないだろうが、恐らく社会にうまくハマれたことなどなかったはずで、結果としてこだわっているように見えるというわけだ。で、「そんな自分を捨てたい」と考えているのなら、いずれ居場所も見つかるだろう。
でも、そんなカナは想像出来ない。自分を愛してくれる人に対してもいじわるで暴力的にしか振る舞えないカナのことを、なんだかんだみんな好きになっていくわけで、「そうじゃないカナ」が存在する気がしない。そう思わせるぐらい、カナの存在感はとてつもなかったし、そんな存在感を見事に発揮した河合優実の演技には圧倒された。
ストーリーと言えるようなものは、ほぼ無い。主に、ハヤシとホンダという2人の男を巡ってあーだこーだしているわけだが、しかし、そのあーだこーだそのものにはさほど意味はないだろう。「カナの行動には意味がない」ということを浮き彫りにするために様々な状況が存在すると言えるわけで、観れば観るほど「空虚の穴」が広がっていくみたいな感じがした。137分の映画だそうだが、その間ずっと「空虚」を描き続けているわけで、凄い映画だなと思う。
あと、観ていてびっくりしたのは、唐田えりかが出てきたこと。久しぶりに見たなと思う。
まあとにかく、「河合優実が凄かった」という感想に終始する映画である。デビューからまださほど経っていないはずなのに、本当に快進撃だなと思う。「アイドル的人気」みたいな形で売れたケース以外では、このスピードは超絶異例じゃないかと思う。凄い人がいたもんだ。
「ナミビアの砂漠」を観に行ってきました
「チャイコフスキーの妻」を観に行ってきました
天才作曲家チャイコフスキーの妻は、「世紀の悪妻」と評されているそうだ。本作の予告を観るまで、そもそもその事実を知らなかった。そして本作は、そんな妻アントニーナの視点で結婚生活を描く物語である。
ただ、先に書いておくと、本作は「実話」というわけではなさそうだ。映画の最後に、「実際にはアントニーナは、夫と別居して以来、40年間夫と会うことはなく、1917年に精神病院で亡くなった」と字幕で表記されるからだ。ただ、公式HPによると「史実に従ってはいる」そうだ。つまり、アントニーナ以外の描写は可能な限り事実を描きつつ、アントニーナだけは大胆に改変した形で描き出したということだろう。
まあそんな作品なので、どの程度本作で描かれるアントニーナを「実像」として捉えればいいか分からない。ただ、「アントニーナは本当に悪妻だったのか?」という観点から描き出す本作の描写には、個人的には結構納得できた。チャイコフスキーには以前から「同性愛だった」という噂があったそうで、ただ、ロシアではその事実はタブー視されていたのだという。本作では、その事実をはっきりと描きながら、アントニーナの狂乱の人生を追おうとする。そして、「チャイコフスキーが同性愛者だった」というのが事実であるとすれば、アントニーナの葛藤や狂気も分からないではないという感じがする。
さて、そもそも、物語の舞台である19世紀末のロシアの「結婚」に関する知識をまとめておこう。当時「教会婚」はかなり厳しいものだったようで、皇室か裁判所の決定がなければ離婚が許されなかったという。また、「妻は夫の所有物」という感覚が明確にあったそうで、妻には選挙権は無く、また、夫の旅券には妻の名が記載されたそうだ。
このような時代に結婚したチャイコフスキーとアントニーナは、「離婚」で苦労する。「絶対に離婚したいチャイコフスキー」と「絶対に離婚したくないアントニーナ」の闘いである。しかしこの闘い、完全にチャイコフスキーが弱い立場である。離婚のハードルがもの凄く高いのだから、「離婚したい!」と思ってもそう簡単にはいかないからだ。
作中には、離婚に向けた協議のシーンも映し出される。アントニーナは出席しているが、チャイコフスキーはその場にいず、弟や関係者が代理で出ている。さて、そこに至るまでにお互いの弁護士が色んな調整をし、あとはアントニーナが署名をすれば離婚成立という状況になっていた。しかし、ここでアントニーナは署名しない。何故か。
それは、「夫が不貞を働いた」と記されていたからである。
当時のロシアでは、「離婚に至る理由」が必要とされた。つまり、「婚姻を継続できない理由」である。しかし、アントニーナにはそんなものはない。チャイコフスキーも、同性愛者だと明らかにするわけにはいかず、そしてだとすれば、「妻とは暮らせない理由」など表向きには存在しないことになる。
だから、離婚するためには「どちらかが不貞を働いた」ということにするしかないのだ。そしてチャイコフスキーは、自分が不貞を働いたということになってもいいから離婚したいと考えているのである。
しかし、自分が署名を求められている文書に「チャイコフスキーが不貞を働いた」と記されているのを見て、アントニーナは「夫を悪く言うようなことはしません」と署名を拒絶する。こうして、離婚が成立することはなかったのである。
さて、本作を観る限り、アントニーナが「悪妻」と言われる理由はないように感じられた。いや、「断じて離婚をしなかった」という点を以って「悪妻」だと言っているなら話は別だが、そうではないなら、アントニーナは単に「チャイコフスキーを愛しすぎただけ」である。ネットで調べてみると、どうやらチャイコフスキーは、結婚からたった20日間で結婚生活に限界を感じ逃げ出したのだそうだ(映画を観ている感じ、そんな早いとは思わなかった)。
確かにチャイコフスキーは、「自分は女性に愛情を感じたことはない」「兄と妹のような関係になれるのなら結婚を申し込もう」みたいなことを言っている。「同性愛者」だとは打ち明けていないが、チャイコフスキーとしてもかなりギリギリのことを伝えようとしたようだ。そんなチャイコフスキーが結婚しようと考えたのは、まあやはり世間体とかそういうことだろう。ロシアに限らないが、一昔前は「同性愛者」など認められていなかったのだから、「同性愛者ではない」という証明のためにアントニーナを利用しようと考えたのだと思う。
しかし、そんな思惑は上手くいかなかった。アントニーナはチャイコフスキーを深く愛していたため、色々と世話を焼きたいし、もちろんセックスもしたい。そしてチャイコフスキーとしては、そんな風に「求められること」に限界を感じたということなのだろう。
そしてそうだとしたら、アントニーナはちょっと可哀想すぎるなと思う。少なくとも「悪妻」と呼ばれる謂れはないだろう。
ただチャイコフスキーとしても、「全面的に自分が悪かった」とは言っている。いつ誰がアントニーナを「悪妻」と呼ぶようになったのか知らないが、少なくともチャイコフスキー自身は、自らに非があるとちゃんと理解していたようだ。
ただ、そんな風に言われてもアントニーナとしては困る。別に謝ってほしいわけではないのだ。アントニーナはある場面で、「あなたが私のことを愛していないのは知っている。でも私はあなたのことを愛している。一緒に暮らしてくれるなら軽蔑してくれてもいい」とチャイコフスキーに言っています。もちろん、冒頭で書いた通り、アントニーナは実際、別居してからチャイコフスキーには一度も会っていないわけで、「このセリフを直接チャイコフスキーに伝えた」というのは事実ではない。ただ分からないけど、自伝(アントニーナは自伝を出版しているようだ)や手紙には書いていたんじゃないかと思う。
さて、そんなわけで、アントニーナが唯一望んでいたことは、「チャイコフスキーと一緒に暮らすこと」だった。けれどもチャイコフスキーとしては、それこそ最も避けたいことだったのである。だから、2人の想いが交わることはない。関われば関わるほど双方が傷つくという、最悪な状況になっていくのだ。
ただ、「どちらが悪いのか」という話はなかなか難しい。チャイコフスキーは、「自分の都合のためにアントニーナを利用して結婚した」という点が圧倒的に良くないわけだが、しかし、「同性愛者」であるという事実を抱えながら生きていく辛さももちろんあっただろう。またアントニーナの方は、しばらくの間まったく非は無いように思えるが、「徹底して離婚しなかった」という点はやはり頑固過ぎた気もする。ただし、当時は女性の立場が圧倒的に低かったことを考えると、「仮に望むような結婚生活を送れないとしても、『誰かの妻でいる』ことの方がプラスだった」という可能性もあるだろう。そんな風に考えると、善悪を考えるのが難しくなる。
ただし、ある場面である人物が、「天才は何をしても許される」と口にするように、最終的には「国の宝」のように評価されているチャイコフスキーが”勝つ”ことになるのも、まあ避けられないだろうなとも思う。どれだけアントニーナの言動に「理」があろうと、それは通らない。ある人物は、「太陽と結婚した後で火傷について文句を言うのはバカ」みたいに言うのだが、それはきっと、当時のアントニーナに対する大方の反応でもあったのだろうと思う。
ただ、やはり難しいなと感じたのは、当時の女性たちの反応である。まあ本作では「アントニーナの母親」の反応ぐらいしかまともに描かれないが、母親は「女はどうせバカにされるんだから、さっさと離婚しろ」みたいなことを言う。とにかく、アントニーナに寄り添う気はなさそうだ。「女性全体」が厳しい状況に置かれている中で、「女性同士が共闘出来ない」というのはなかなか辛いことに思えるし、そんな中でよくアントニーナは孤軍奮闘したなと思う(まあ、映画で描かれていることは事実ではないわけだが)。
しかしホントに感じたのは、この2人は出会わない方が良かったんだろうなということ。アントニーナとしては「チャイコフスキーと共に生きていくこと」こそが「幸せ」だったわけだけど、そもそも出会いさえしなければそんな風に思うこともなかったわけだ。ホントに、出会ってしまったことが何よりも不幸なのだと、強くそう感じさせられた。
「チャイコフスキーの妻」を観に行ってきました
ただ、先に書いておくと、本作は「実話」というわけではなさそうだ。映画の最後に、「実際にはアントニーナは、夫と別居して以来、40年間夫と会うことはなく、1917年に精神病院で亡くなった」と字幕で表記されるからだ。ただ、公式HPによると「史実に従ってはいる」そうだ。つまり、アントニーナ以外の描写は可能な限り事実を描きつつ、アントニーナだけは大胆に改変した形で描き出したということだろう。
まあそんな作品なので、どの程度本作で描かれるアントニーナを「実像」として捉えればいいか分からない。ただ、「アントニーナは本当に悪妻だったのか?」という観点から描き出す本作の描写には、個人的には結構納得できた。チャイコフスキーには以前から「同性愛だった」という噂があったそうで、ただ、ロシアではその事実はタブー視されていたのだという。本作では、その事実をはっきりと描きながら、アントニーナの狂乱の人生を追おうとする。そして、「チャイコフスキーが同性愛者だった」というのが事実であるとすれば、アントニーナの葛藤や狂気も分からないではないという感じがする。
さて、そもそも、物語の舞台である19世紀末のロシアの「結婚」に関する知識をまとめておこう。当時「教会婚」はかなり厳しいものだったようで、皇室か裁判所の決定がなければ離婚が許されなかったという。また、「妻は夫の所有物」という感覚が明確にあったそうで、妻には選挙権は無く、また、夫の旅券には妻の名が記載されたそうだ。
このような時代に結婚したチャイコフスキーとアントニーナは、「離婚」で苦労する。「絶対に離婚したいチャイコフスキー」と「絶対に離婚したくないアントニーナ」の闘いである。しかしこの闘い、完全にチャイコフスキーが弱い立場である。離婚のハードルがもの凄く高いのだから、「離婚したい!」と思ってもそう簡単にはいかないからだ。
作中には、離婚に向けた協議のシーンも映し出される。アントニーナは出席しているが、チャイコフスキーはその場にいず、弟や関係者が代理で出ている。さて、そこに至るまでにお互いの弁護士が色んな調整をし、あとはアントニーナが署名をすれば離婚成立という状況になっていた。しかし、ここでアントニーナは署名しない。何故か。
それは、「夫が不貞を働いた」と記されていたからである。
当時のロシアでは、「離婚に至る理由」が必要とされた。つまり、「婚姻を継続できない理由」である。しかし、アントニーナにはそんなものはない。チャイコフスキーも、同性愛者だと明らかにするわけにはいかず、そしてだとすれば、「妻とは暮らせない理由」など表向きには存在しないことになる。
だから、離婚するためには「どちらかが不貞を働いた」ということにするしかないのだ。そしてチャイコフスキーは、自分が不貞を働いたということになってもいいから離婚したいと考えているのである。
しかし、自分が署名を求められている文書に「チャイコフスキーが不貞を働いた」と記されているのを見て、アントニーナは「夫を悪く言うようなことはしません」と署名を拒絶する。こうして、離婚が成立することはなかったのである。
さて、本作を観る限り、アントニーナが「悪妻」と言われる理由はないように感じられた。いや、「断じて離婚をしなかった」という点を以って「悪妻」だと言っているなら話は別だが、そうではないなら、アントニーナは単に「チャイコフスキーを愛しすぎただけ」である。ネットで調べてみると、どうやらチャイコフスキーは、結婚からたった20日間で結婚生活に限界を感じ逃げ出したのだそうだ(映画を観ている感じ、そんな早いとは思わなかった)。
確かにチャイコフスキーは、「自分は女性に愛情を感じたことはない」「兄と妹のような関係になれるのなら結婚を申し込もう」みたいなことを言っている。「同性愛者」だとは打ち明けていないが、チャイコフスキーとしてもかなりギリギリのことを伝えようとしたようだ。そんなチャイコフスキーが結婚しようと考えたのは、まあやはり世間体とかそういうことだろう。ロシアに限らないが、一昔前は「同性愛者」など認められていなかったのだから、「同性愛者ではない」という証明のためにアントニーナを利用しようと考えたのだと思う。
しかし、そんな思惑は上手くいかなかった。アントニーナはチャイコフスキーを深く愛していたため、色々と世話を焼きたいし、もちろんセックスもしたい。そしてチャイコフスキーとしては、そんな風に「求められること」に限界を感じたということなのだろう。
そしてそうだとしたら、アントニーナはちょっと可哀想すぎるなと思う。少なくとも「悪妻」と呼ばれる謂れはないだろう。
ただチャイコフスキーとしても、「全面的に自分が悪かった」とは言っている。いつ誰がアントニーナを「悪妻」と呼ぶようになったのか知らないが、少なくともチャイコフスキー自身は、自らに非があるとちゃんと理解していたようだ。
ただ、そんな風に言われてもアントニーナとしては困る。別に謝ってほしいわけではないのだ。アントニーナはある場面で、「あなたが私のことを愛していないのは知っている。でも私はあなたのことを愛している。一緒に暮らしてくれるなら軽蔑してくれてもいい」とチャイコフスキーに言っています。もちろん、冒頭で書いた通り、アントニーナは実際、別居してからチャイコフスキーには一度も会っていないわけで、「このセリフを直接チャイコフスキーに伝えた」というのは事実ではない。ただ分からないけど、自伝(アントニーナは自伝を出版しているようだ)や手紙には書いていたんじゃないかと思う。
さて、そんなわけで、アントニーナが唯一望んでいたことは、「チャイコフスキーと一緒に暮らすこと」だった。けれどもチャイコフスキーとしては、それこそ最も避けたいことだったのである。だから、2人の想いが交わることはない。関われば関わるほど双方が傷つくという、最悪な状況になっていくのだ。
ただ、「どちらが悪いのか」という話はなかなか難しい。チャイコフスキーは、「自分の都合のためにアントニーナを利用して結婚した」という点が圧倒的に良くないわけだが、しかし、「同性愛者」であるという事実を抱えながら生きていく辛さももちろんあっただろう。またアントニーナの方は、しばらくの間まったく非は無いように思えるが、「徹底して離婚しなかった」という点はやはり頑固過ぎた気もする。ただし、当時は女性の立場が圧倒的に低かったことを考えると、「仮に望むような結婚生活を送れないとしても、『誰かの妻でいる』ことの方がプラスだった」という可能性もあるだろう。そんな風に考えると、善悪を考えるのが難しくなる。
ただし、ある場面である人物が、「天才は何をしても許される」と口にするように、最終的には「国の宝」のように評価されているチャイコフスキーが”勝つ”ことになるのも、まあ避けられないだろうなとも思う。どれだけアントニーナの言動に「理」があろうと、それは通らない。ある人物は、「太陽と結婚した後で火傷について文句を言うのはバカ」みたいに言うのだが、それはきっと、当時のアントニーナに対する大方の反応でもあったのだろうと思う。
ただ、やはり難しいなと感じたのは、当時の女性たちの反応である。まあ本作では「アントニーナの母親」の反応ぐらいしかまともに描かれないが、母親は「女はどうせバカにされるんだから、さっさと離婚しろ」みたいなことを言う。とにかく、アントニーナに寄り添う気はなさそうだ。「女性全体」が厳しい状況に置かれている中で、「女性同士が共闘出来ない」というのはなかなか辛いことに思えるし、そんな中でよくアントニーナは孤軍奮闘したなと思う(まあ、映画で描かれていることは事実ではないわけだが)。
しかしホントに感じたのは、この2人は出会わない方が良かったんだろうなということ。アントニーナとしては「チャイコフスキーと共に生きていくこと」こそが「幸せ」だったわけだけど、そもそも出会いさえしなければそんな風に思うこともなかったわけだ。ホントに、出会ってしまったことが何よりも不幸なのだと、強くそう感じさせられた。
「チャイコフスキーの妻」を観に行ってきました
「僕はイエス様が嫌い」を観に行ってきました
宗教(一神教)と妖怪は似ていると思う。
民俗学に詳しいわけではないので的外れかもしれないが、「妖怪」というのは基本的に、「当時の知識では説明できない出来事に理屈を付けるため」に生み出されたはずだ。例えば「木霊」という妖怪。樹木に宿るとされる精霊だそうだが、「やまびこ(山で大きな声を出すと反射して聞こえる現象)」は、この「木霊」が起こしている現象だとされている。現在の知識では「やまびこ」はまた違う説明がなされるはずだが、当時は理屈が分かっていなかったため、「木霊という妖怪の仕業」ということにしていたのである。
もちろん、すべての「妖怪」がそのように説明されるわけではないと思うが、それは僕の理解では、「『妖怪』という存在が世間に広まったことで、理屈関係なく『妖怪』を作り出そうという動きが生まれたから」だと思っている。「原初の妖怪」はたぶん、「理解不能な現象に理屈を付けるため」に生み出されたはずだ。
さて、僕の理解では、一神教もそれに近いものがあると思っている。例えば昔は、「地上」と「天上(宇宙)」は異なる理屈によって支配されていると考えられており、「天上」を統べているのは「神」だとされていた。「太陽が上ること」や「星の運行」はすべて「神が行っている」と考えられていたのである。これもまた、「理解不能な現象に理屈を付けるため」という背景があると考えられるだろう。
さてしかし、一神教と妖怪では大きく違う点がある。それは「人間が介入出来るかどうか」である。
これも僕の勝手な理解だが、「妖怪」の場合は、「妖怪がやってるからしょうがいないよねー」という風に扱うために作られたように思う。「理解不能な現象」に対して何か思い悩んでしまうのではなく、「理解不能な現象」について意識を向けないように名前を付けておくみたいな感じがする。
しかし一神教は違う。何故僕がそう感じるかと言えば、「お祈り」という行為が存在するからだ。
宗教についても別に詳しくないので僕の勝手な解釈でしかないが、「お祈り」というのはやはり、「何かを願う行為」に感じられる。もちろんそうではない場合もあるだろう。ネットでざっくり調べると、「祈りとは『神との対話』であり、内的な変化を期待するもの」という説明もあった。それももちろん理解できる。ただ、「お祈り」にそのような機能が存在するとして、それはやはりきちんと学ばないと血肉化して理解することは難しいだろう。だからやはり、「お祈り」と聞くと「願い事をする」という発想になってしまう気がする。
本作『僕はイエス様が嫌い』の中にも、「お祈り、意味なかったですね」というセリフが出てくる。どういう経緯でこの言葉が出てくるのかには触れないが、これは「願い事は届かなかったですね」という意味で使われている。この言葉を発する者もやはり、「お祈り=願い事」と考えているというわけだ。
さて、これも僕の勝手な解釈だが、一神教の場合は、「すべてを司る存在」としての「神」が登場するからこそ、「願いが届けば叶えてもらえる」という発想になりがちなのではないかと思う。そして僕には、この発想が良いものにはちょっと思えない。
例えば、キリスト教についても特に詳しくないわけだが、なんとなく、「神は乗り越えられない試練を与えない」みたいな発想があったような記憶がある。そして僕にはこれは、「『祈りが届かない』という状況を納得させるための言説」にしか聞こえない。「祈りが届かない」のではなく、「届いているかもしれないが、神の判断で、必要な試練が与えられた」みたいな解釈をしているように思えるのだ。
それが僕には、なんかしっくりこない気がしてしまう。
もちろん日本でも、例えば浄土宗は「『南無阿弥陀仏』と唱えるだけで救われる」みたいに言っていて、これも発想としては「唱えることで願いが聞き入れられる」的なものに近い気がする。決して一神教に限る話ではないと思うが、そういうこともあり僕は、「宗教」というものが全般的にどうも好きになれない。
もちろん、一応書いておくが、「宗教を信じている人」を貶めたりするつもりはまったくない。犯罪行為は倫理的にマズいことをしていない集団であれば、何を信じようが自由だ。「宗教」の存在によって救われている人がいるのも事実だろう。ただ僕は、誰かに何か宗教に誘われても、まったく信じる気がないというだけである。
さて、「宗教」の話になると毎回思い出す話がある。昔、何かの心理学の本で読んだエピソードだ。
どこかの国である主婦が突然、「私は神のお告げが聞こえた!」と主張し、宗教団体を立ち上げた。何故か信者が増えていったその団体に、研究のためにある心理学者が潜入したという。その宗教団体は「終末思想」を掲げており、「◯年◯月◯日に世界が滅びる」みたいな予言をしていたそうだ。その日付は遠い未来のものではなく、割と近い日付であり、だからその宗教団体の面々は、その予言された日を迎えることになった。
当然、世界が滅びたりはしていない。つまり、元主婦の教祖の予言は外れたことになる。さて、その後信者たちはどうなったのか。なんと、より一層その宗教を信じるようになったのだそうだ。何故か。それは、「私たちの祈りが届いたお陰で、終末が回避された」と考えるようになったからだそうだ。僕は「宗教」とか「祈り」とかについて考える際、このエピソードのことを毎回思い出す。
人間は、物事に意味を見出すのが得意だ。スポーツ選手なども、「赤いパンツを履いた日に勝っている」という理由で、ずっと赤いパンツを履いたりするみたいな人がいるだろう。「ゲン担ぎ」とか「ジンクス」みたいに言われるが、正直なところ、そこに因果関係などないはずだ。それをやっている本人も、大体の場合、因果関係がないことなど分かっているだろう。それでも、そうしたくなってしまう。そういう性質が、人間には元々備わっているのだろう。
だから「祈ること」と「未来の変化」を結びつけて考えてしまいたくなるというわけだ。難しいものだと思う。
なんかそんなことをあれこれ考えさせられる映画だった。
内容に入ろうと思います。
物語は、主人公・星野由来の一家が父親の実家へと引っ越す場面から始まる。状況ははっきりしないが、何か事情があって実家に身を寄せざるを得なかったそうだ。当然、由来は転校することになった。そしてその転校先の小学校が、キリスト教系だったのだ。授業の一環として礼拝が存在し、日曜日には市民にも開放される立派な礼拝堂がある。
ある日彼は、一人で礼拝堂に忍び込んだ際、目の前に小さなイエス様が現れて驚かされた。その後もその小さなイエス様は、おじいちゃんが使っていたレコードの上やお風呂のアヒルの上など様々な場所に現れるようになった。もちろん、由来にしか見えていないのだが、彼はその小さなイエス様にお願い事をすると叶うようだと気づくようになっていく。
一方、家族から「友達が出来たのか」と心配される由来は、和馬という友達が出来た。お互いの家を行き来したり、和馬が持っている別荘に連れて行ってもらうなど、家族ぐるみでの関係になっていく。しかしそんなある日、思いもよらない出来事が起こり……。
さて、物語としては非常に小粒なのだけど、なんだかんだで観させられてしまう物語だった。メチャクチャ面白いというわけではないが、じんわり来る。主人公のセリフが少ないことで、「彼が一体何を考えているのか」という想像する余白が生まれ、恐らく内面であれこれと渦巻いているだろう心情を観る人がそれぞれに受け取ることが可能になる。そして。映画を観終えて公式HPをチェックするまで知らなかったが、これを撮影した当時、監督は青山学院大学に在学中の学生だったそうだ。それはちょっと凄いな。「普通に」という言い方はおかしいかもしれないが、普通に商業映画としてのクオリティが保たれていると感じた。凄い人はやはり凄いんだなぁ。
さて、「宗教」が好きになれない理由について冒頭でウダウダ書いたが、他にもある。それは結局のところ、「内心に踏み込んでくるから」である。
本作には、「由来の担任教師」や「和馬の母親」など、キリスト教を熱心に信奉している人が出てくる。そして彼らは、「お祈りを捧げる”べき”」というスタンスで話をしてくるのだ。もちろん、担任教師は「キリスト教系の学校の教師」として、そして母親は「自分の息子に対してだけ」そういう発言をするので、まあ許容範囲内と言えばその通りだろう。しかし僕は、そのような言動も好きになれない。相手がどういう立場にあろうと、「他人の内心に足を踏み入れるような行為をする人」は好きになれない。というか、はっきり言って嫌いだ。
由来が通う小学校が公立なのか私立なのかよくわからないが、いずれにせよ、東京から引っ越してきた由来には「近くにある小学校」はそこだけであり、他に選択肢などない。他の子どもも同様だろう。あるいは、仮に選択肢があったとしても、親が「キリスト教系の学校に入れたい」と思えばそうなる。つまり、この小学校に通っている子どもには、「キリスト教系の学校に通いたいと望んでいた子」はいないはずなのだ。
そして僕は基本的に、そのような状態で「内心を矯正・強制するような行為」はすべきではないと考えている。
でも、キリスト教はそういうことするんだよなぁ。
以前観た映画『沈黙』は、遠藤周作の原作を映画化したハリウッド映画だが、この中のあるシーンも非常に印象的で、宗教について考える時には毎回思い出される。当時の日本の権力者(たぶん織田信長)とキリスト教の宣教師が会話をする場面で、権力者は、「君たちの宗教を否定するつもりはないが、今の日本には向かない」みたいなことを言う。それに対して宣教師が、「キリスト教は真理にたどり着いた。真理とは、どの時代・どの場所でも正しいということだ。もしも、日本でそれが正しくないというのであれば、それは真理ではない」みたいなことを言うのだ。
僕はこのセリフに唖然としてしまった。キリスト教、マジでやべぇなと思ったのである。
もちろんこれは、映画が描かれた時代(戦国時代か?)の話であり、現代のキリスト教が同じ考えを持っているのかは知らない。でも、なんとなくのイメージでは、「そういうこと考えていそうだなぁ」という気がする。そしてそうだとしたら、メチャクチャ嫌だなぁと思う。
そんなわけで、「僕はキリスト教が嫌い」なのである。まあ、キリスト教に限らないのだが。
映画の最後に、「この映画を若くして亡くなった友に捧ぐ」という字幕が表記された。そこに監督のどのような想いが起こっているのか、正直はっきりとは分からないのだが、本作全体の内容を踏まえれば、やはり監督自身も「お祈り、意味なかったですね」みたいなことを感じたのかもしれない。もしもそうだとすれば、監督自身の実感が籠もった作品と言えるのだろうと思う。
個人的には、由来が先生からある頼まれ事をされた際に「大丈夫です」と答えていたのが印象的だった。この時点で間違いなく、由来は「お祈り」の無力さを悟っていたはずだが、しかし「お祈り」も頼まれながら断らなかったのだ。ここにはある種の「諦念」があったように僕には感じられた。つまり、「この先生と自分は別の世界を生きていて、わかり合えない」みたいな感覚だったんじゃないかと思うのだ。そして僕の想像が正しければ、「まあそうだよな」と思う。
まあそんなわけで、キリスト教のことをボロクソ書いたが、キリスト教についてはこんなエピソードも思い出される。何の本で読んだか忘れたが、ある人物が子どもの頃に授業に神父がやってきた時の話を書いていた。その人物は理路整然と聖書の矛盾などを指摘したため、神父は「聖書なんかより君の方が正しい」と言ったそうだが、さらに続けて、「この本(聖書)に救いを求めないと生きていけない人がたくさんいることも知ってほしい」と言ったというのだ。だから僕は、全然キリスト教を否定するつもりはない。「嫌い」だが「悪い」と思っているわけではないというわけだ。
映画の話にはほとんど触れなかった気がするが、まあそんな感じである。
「僕はイエス様が嫌い」を観に行ってきました
民俗学に詳しいわけではないので的外れかもしれないが、「妖怪」というのは基本的に、「当時の知識では説明できない出来事に理屈を付けるため」に生み出されたはずだ。例えば「木霊」という妖怪。樹木に宿るとされる精霊だそうだが、「やまびこ(山で大きな声を出すと反射して聞こえる現象)」は、この「木霊」が起こしている現象だとされている。現在の知識では「やまびこ」はまた違う説明がなされるはずだが、当時は理屈が分かっていなかったため、「木霊という妖怪の仕業」ということにしていたのである。
もちろん、すべての「妖怪」がそのように説明されるわけではないと思うが、それは僕の理解では、「『妖怪』という存在が世間に広まったことで、理屈関係なく『妖怪』を作り出そうという動きが生まれたから」だと思っている。「原初の妖怪」はたぶん、「理解不能な現象に理屈を付けるため」に生み出されたはずだ。
さて、僕の理解では、一神教もそれに近いものがあると思っている。例えば昔は、「地上」と「天上(宇宙)」は異なる理屈によって支配されていると考えられており、「天上」を統べているのは「神」だとされていた。「太陽が上ること」や「星の運行」はすべて「神が行っている」と考えられていたのである。これもまた、「理解不能な現象に理屈を付けるため」という背景があると考えられるだろう。
さてしかし、一神教と妖怪では大きく違う点がある。それは「人間が介入出来るかどうか」である。
これも僕の勝手な理解だが、「妖怪」の場合は、「妖怪がやってるからしょうがいないよねー」という風に扱うために作られたように思う。「理解不能な現象」に対して何か思い悩んでしまうのではなく、「理解不能な現象」について意識を向けないように名前を付けておくみたいな感じがする。
しかし一神教は違う。何故僕がそう感じるかと言えば、「お祈り」という行為が存在するからだ。
宗教についても別に詳しくないので僕の勝手な解釈でしかないが、「お祈り」というのはやはり、「何かを願う行為」に感じられる。もちろんそうではない場合もあるだろう。ネットでざっくり調べると、「祈りとは『神との対話』であり、内的な変化を期待するもの」という説明もあった。それももちろん理解できる。ただ、「お祈り」にそのような機能が存在するとして、それはやはりきちんと学ばないと血肉化して理解することは難しいだろう。だからやはり、「お祈り」と聞くと「願い事をする」という発想になってしまう気がする。
本作『僕はイエス様が嫌い』の中にも、「お祈り、意味なかったですね」というセリフが出てくる。どういう経緯でこの言葉が出てくるのかには触れないが、これは「願い事は届かなかったですね」という意味で使われている。この言葉を発する者もやはり、「お祈り=願い事」と考えているというわけだ。
さて、これも僕の勝手な解釈だが、一神教の場合は、「すべてを司る存在」としての「神」が登場するからこそ、「願いが届けば叶えてもらえる」という発想になりがちなのではないかと思う。そして僕には、この発想が良いものにはちょっと思えない。
例えば、キリスト教についても特に詳しくないわけだが、なんとなく、「神は乗り越えられない試練を与えない」みたいな発想があったような記憶がある。そして僕にはこれは、「『祈りが届かない』という状況を納得させるための言説」にしか聞こえない。「祈りが届かない」のではなく、「届いているかもしれないが、神の判断で、必要な試練が与えられた」みたいな解釈をしているように思えるのだ。
それが僕には、なんかしっくりこない気がしてしまう。
もちろん日本でも、例えば浄土宗は「『南無阿弥陀仏』と唱えるだけで救われる」みたいに言っていて、これも発想としては「唱えることで願いが聞き入れられる」的なものに近い気がする。決して一神教に限る話ではないと思うが、そういうこともあり僕は、「宗教」というものが全般的にどうも好きになれない。
もちろん、一応書いておくが、「宗教を信じている人」を貶めたりするつもりはまったくない。犯罪行為は倫理的にマズいことをしていない集団であれば、何を信じようが自由だ。「宗教」の存在によって救われている人がいるのも事実だろう。ただ僕は、誰かに何か宗教に誘われても、まったく信じる気がないというだけである。
さて、「宗教」の話になると毎回思い出す話がある。昔、何かの心理学の本で読んだエピソードだ。
どこかの国である主婦が突然、「私は神のお告げが聞こえた!」と主張し、宗教団体を立ち上げた。何故か信者が増えていったその団体に、研究のためにある心理学者が潜入したという。その宗教団体は「終末思想」を掲げており、「◯年◯月◯日に世界が滅びる」みたいな予言をしていたそうだ。その日付は遠い未来のものではなく、割と近い日付であり、だからその宗教団体の面々は、その予言された日を迎えることになった。
当然、世界が滅びたりはしていない。つまり、元主婦の教祖の予言は外れたことになる。さて、その後信者たちはどうなったのか。なんと、より一層その宗教を信じるようになったのだそうだ。何故か。それは、「私たちの祈りが届いたお陰で、終末が回避された」と考えるようになったからだそうだ。僕は「宗教」とか「祈り」とかについて考える際、このエピソードのことを毎回思い出す。
人間は、物事に意味を見出すのが得意だ。スポーツ選手なども、「赤いパンツを履いた日に勝っている」という理由で、ずっと赤いパンツを履いたりするみたいな人がいるだろう。「ゲン担ぎ」とか「ジンクス」みたいに言われるが、正直なところ、そこに因果関係などないはずだ。それをやっている本人も、大体の場合、因果関係がないことなど分かっているだろう。それでも、そうしたくなってしまう。そういう性質が、人間には元々備わっているのだろう。
だから「祈ること」と「未来の変化」を結びつけて考えてしまいたくなるというわけだ。難しいものだと思う。
なんかそんなことをあれこれ考えさせられる映画だった。
内容に入ろうと思います。
物語は、主人公・星野由来の一家が父親の実家へと引っ越す場面から始まる。状況ははっきりしないが、何か事情があって実家に身を寄せざるを得なかったそうだ。当然、由来は転校することになった。そしてその転校先の小学校が、キリスト教系だったのだ。授業の一環として礼拝が存在し、日曜日には市民にも開放される立派な礼拝堂がある。
ある日彼は、一人で礼拝堂に忍び込んだ際、目の前に小さなイエス様が現れて驚かされた。その後もその小さなイエス様は、おじいちゃんが使っていたレコードの上やお風呂のアヒルの上など様々な場所に現れるようになった。もちろん、由来にしか見えていないのだが、彼はその小さなイエス様にお願い事をすると叶うようだと気づくようになっていく。
一方、家族から「友達が出来たのか」と心配される由来は、和馬という友達が出来た。お互いの家を行き来したり、和馬が持っている別荘に連れて行ってもらうなど、家族ぐるみでの関係になっていく。しかしそんなある日、思いもよらない出来事が起こり……。
さて、物語としては非常に小粒なのだけど、なんだかんだで観させられてしまう物語だった。メチャクチャ面白いというわけではないが、じんわり来る。主人公のセリフが少ないことで、「彼が一体何を考えているのか」という想像する余白が生まれ、恐らく内面であれこれと渦巻いているだろう心情を観る人がそれぞれに受け取ることが可能になる。そして。映画を観終えて公式HPをチェックするまで知らなかったが、これを撮影した当時、監督は青山学院大学に在学中の学生だったそうだ。それはちょっと凄いな。「普通に」という言い方はおかしいかもしれないが、普通に商業映画としてのクオリティが保たれていると感じた。凄い人はやはり凄いんだなぁ。
さて、「宗教」が好きになれない理由について冒頭でウダウダ書いたが、他にもある。それは結局のところ、「内心に踏み込んでくるから」である。
本作には、「由来の担任教師」や「和馬の母親」など、キリスト教を熱心に信奉している人が出てくる。そして彼らは、「お祈りを捧げる”べき”」というスタンスで話をしてくるのだ。もちろん、担任教師は「キリスト教系の学校の教師」として、そして母親は「自分の息子に対してだけ」そういう発言をするので、まあ許容範囲内と言えばその通りだろう。しかし僕は、そのような言動も好きになれない。相手がどういう立場にあろうと、「他人の内心に足を踏み入れるような行為をする人」は好きになれない。というか、はっきり言って嫌いだ。
由来が通う小学校が公立なのか私立なのかよくわからないが、いずれにせよ、東京から引っ越してきた由来には「近くにある小学校」はそこだけであり、他に選択肢などない。他の子どもも同様だろう。あるいは、仮に選択肢があったとしても、親が「キリスト教系の学校に入れたい」と思えばそうなる。つまり、この小学校に通っている子どもには、「キリスト教系の学校に通いたいと望んでいた子」はいないはずなのだ。
そして僕は基本的に、そのような状態で「内心を矯正・強制するような行為」はすべきではないと考えている。
でも、キリスト教はそういうことするんだよなぁ。
以前観た映画『沈黙』は、遠藤周作の原作を映画化したハリウッド映画だが、この中のあるシーンも非常に印象的で、宗教について考える時には毎回思い出される。当時の日本の権力者(たぶん織田信長)とキリスト教の宣教師が会話をする場面で、権力者は、「君たちの宗教を否定するつもりはないが、今の日本には向かない」みたいなことを言う。それに対して宣教師が、「キリスト教は真理にたどり着いた。真理とは、どの時代・どの場所でも正しいということだ。もしも、日本でそれが正しくないというのであれば、それは真理ではない」みたいなことを言うのだ。
僕はこのセリフに唖然としてしまった。キリスト教、マジでやべぇなと思ったのである。
もちろんこれは、映画が描かれた時代(戦国時代か?)の話であり、現代のキリスト教が同じ考えを持っているのかは知らない。でも、なんとなくのイメージでは、「そういうこと考えていそうだなぁ」という気がする。そしてそうだとしたら、メチャクチャ嫌だなぁと思う。
そんなわけで、「僕はキリスト教が嫌い」なのである。まあ、キリスト教に限らないのだが。
映画の最後に、「この映画を若くして亡くなった友に捧ぐ」という字幕が表記された。そこに監督のどのような想いが起こっているのか、正直はっきりとは分からないのだが、本作全体の内容を踏まえれば、やはり監督自身も「お祈り、意味なかったですね」みたいなことを感じたのかもしれない。もしもそうだとすれば、監督自身の実感が籠もった作品と言えるのだろうと思う。
個人的には、由来が先生からある頼まれ事をされた際に「大丈夫です」と答えていたのが印象的だった。この時点で間違いなく、由来は「お祈り」の無力さを悟っていたはずだが、しかし「お祈り」も頼まれながら断らなかったのだ。ここにはある種の「諦念」があったように僕には感じられた。つまり、「この先生と自分は別の世界を生きていて、わかり合えない」みたいな感覚だったんじゃないかと思うのだ。そして僕の想像が正しければ、「まあそうだよな」と思う。
まあそんなわけで、キリスト教のことをボロクソ書いたが、キリスト教についてはこんなエピソードも思い出される。何の本で読んだか忘れたが、ある人物が子どもの頃に授業に神父がやってきた時の話を書いていた。その人物は理路整然と聖書の矛盾などを指摘したため、神父は「聖書なんかより君の方が正しい」と言ったそうだが、さらに続けて、「この本(聖書)に救いを求めないと生きていけない人がたくさんいることも知ってほしい」と言ったというのだ。だから僕は、全然キリスト教を否定するつもりはない。「嫌い」だが「悪い」と思っているわけではないというわけだ。
映画の話にはほとんど触れなかった気がするが、まあそんな感じである。
「僕はイエス様が嫌い」を観に行ってきました
「きみの色」を観に行ってきました
なるほど、『けいおん!』の人が監督なのか。ということさえ知らないまま観に行った。っていうか『けいおん!』も観てないし。
しかし、良い映画だったなぁ。「何が良かったのか」と聞かれるとなかなか上手く説明できないのだが。
ただ、公式HPのトップページに、「山田尚子監督の企画書より」と題された文章があり、これがとても良かったので、まずは全部引用したいと思う。
【思春期の鋭すぎる感受性というのはいつの時代も変わらずですが、
すこしずつ変化していると感じるのは「社会性」の捉え方かと思います。
すこし前は「空気を読む」「読まない」「読めない」みたいなことでしたが、
今はもっと細分化してレイヤーが増えていて、若い人ほどよく考えているな、と思うことが多いです。
「自分と他人(社会)」の距離のとり方が清潔であるためのマニュアルがたくさんあるような。
表層の「失礼のない態度」と内側の「個」とのバランスを無意識にコントロールして、
目配せしないといけない項目をものすごい集中力でやりくりしているのだと思います。
ふとその糸が切れたときどうなるのか。コップの水があふれるというやつです。
彼女たちの溢れる感情が、前向きなものとして昇華されてほしい。
「好きなものを好き」といえるつよさを描いていけたらと思っております。】
解像度が高い文章でいいなぁ、と思う。いや、別に僕は「若者に詳しい」つもりもなく、上から目線(のつもりはないけど)で評価できるような立場ではないのだが、でも、メチャクチャ分かるなぁと感じた。
ちょっと話がズレるかもしれないが、最近「マルハラ(文末に「。」を付けるハラスメント)」というのが言語化されるようになった。その是非はどうでもいいのだが、この話から分かることは、「若い人たちは、『文末の「。」1つ』からも様々なことを読み取ろうとする」ということだ。
もちろんそういう「繊細」と呼ばれるタイプの人はどの時代にもいたと思うが、今の若い人たちの特徴は、「それが当たり前になっている」ということだと思う。山田尚子の文章の中の「清潔」という単語が絶妙だと思うのだが、彼らは「自分はちゃんと『清潔』だろうか?」という観点から人間関係やコミュニケーションを捉えているはずで、それが若い世代全体のデフォルトになっているように僕には感じられる。
そう、もはや「空気を読む/読まない」みたいな解像度では若い世代のコミュニケーションを語ることは出来ず、言語化して捉えることが出来ないような非常に細やかな「気遣い(目配せしないといけない項目)」によって関係性が成り立っているというわけだ。
しかし、当然のことながら、そんな日常は大変だ。若い人たちは「人間関係」にもの凄くコストを支払っている。だから「『仲が良い人』が少ない」と悩んだりするし、「恋愛は無理」と感じたりするのだと思う。
そして本作の良いところは、そういう「若い世代がナチュラルに抱えている大変さ」が「大前提」のように描かれている点だろう。いや、正確には「描かれていない」と表現すべきだろうか。
登場人物たちは個々にそれぞれ、何かしら「悩み」や「葛藤」を抱えている。そしてそれらは、確かに物語の中核を成す。しかし同時に、彼女たちにとってその「悩み」や「葛藤」は「日常茶飯事」でもある。本作で描かれている「悩み」「葛藤」が特別というわけではなく、それらがなかったとしても、ベースとして常に何かに囚われたまま生きているのだ。背景に溶け込む重低音のように、しかし一度気づいてしまうと無視できないレベルの存在として、ずっとそこにあるのだ。
そのような雰囲気が、凄く良かったなと思う。
作中では、「音楽」を通じて、彼女たちの「問題」が解決したような感じになる。それは、物語的な要請としては必要な要素だし、そうなって然るべきだろう。しかし同時に、「問題が解決した」にも拘らず彼女たちは、結局同じような場所にいる。「進展した」みたいな感じが無いのだ。いや、無いことはないのだが、こういう「青春が描かれるアニメ映画」で想定されるほどの「進展」は描かれない。
それが、とても良かった。
「現実を忘れさせてくれるほど没頭させる物語」ももちろん良い。そういう物語が、束の間であっても、現実の辛さを吹き飛ばしてくれたりもするだろう。一方で、「現実って、結局しんどいものだよね」という物語に救われる人もいるはずだ。そういう作品が存在するという事実、そしてそういう作品が多くの人から評価されているという事実が、「自分のことを分かってくれる人が世の中にいるはず」という気持ちにさせてくれるからだ。
本作は、そんな物語であるように感じられた。
少し全然違う話をするが、僕は「頭の中にまったく映像が浮かばない人間」だ。例えば、「頭の中にリンゴを思い浮かべて下さい」と言われても出来ない。「映像で何かを記憶する」とか「映像で何かを思い出す」みたいなことの意味が分からないのだ。昔からずっと、それが普通だと思っていたのだが、「小説を読んでいる時に、登場人物や情景は何も映像で浮かばない」という話をしたことがきっかけで、自分が少数派なのだと理解した。
それに気づいたのが30歳ぐらいの頃だったと思うのだが、それ以降、機会がある度に自分のこのような性質を説明しても、共感してくれる人は誰もいなかった。やはり一般的には、「頭の中に映像が浮かぶ」というのが当たり前らしく、「リンゴを思い浮かべられない」という状況が理解できないようだ。
ただ、本当につい最近、「私も同じ」という人に出会った。同類に出会ったのは、自分がそれに気づいてから10年ぐらい掛かったことになる。まあ、同類に出会えなかったことで困ったことは特にないのだが、やはり、自分が抱えている感覚が伝わる人と話が出来ると、なんか救われた気分にもなるものだ。
何が言いたいかというと、本作も誰かにとって、そういう存在になり得るかもしれない、ということだ。
物語の舞台は、キリスト教系の全寮制の高校。ここに通う日暮トツ子は、学内でもほぼ存在が知られていないぐらい地味な学生だ。4人部屋で同室の3人といつも一緒にいて、後は独り聖堂でお祈りをしている。その際時々、シスターの日吉子さんが話しかけてくれる。「男女交際禁止」など厳しいルールのある高校だが、その中でも日吉子さんは、生徒と一緒になって「皆によって良き方向」を探ろうと懸命になってくれる。
トツ子には、ちょっと変わった性質があった。目で見える「色」とは別に、感じる「色」があるのだ。人を「色」で見る癖があると自覚しており、ただ、そういう話をすると気味悪がられるので、普段は隠している。
同じ学校に、作永きみという生徒がいる。トツ子とは違って皆から慕われており、聖歌隊のリーダーを務めたりしている。トツ子も、作永さんから感じる「色」に惹かれ、そのままドッジボールを顔面に食らったりしてしまった。
しかし、そんな作永さんを校内で見かけなくなった。勇気を出して色んな人に話を聞いてみると、「理由は分からないけど、退学したみたい」という話だった。突然の話にビックリするトツ子だったが、どうにもしようがない。
しかしその後、色々とあって、作永さんがアルバイトをしている古本屋で再会を果たすことが出来た。作永さんは、営業中の店内でギターを練習している。作永さんを探していたと悟られないように、弾けもしないピアノの教本を手に取って買おうとするのだが、その時、お客さんとして来ていた男子高校生が作永さんに話しかけてきた。ギターの練習をしているのが気になっていたという。
そこでトツ子は、楽器など弾いたこともないしバンドも組んでいないのだが、「私たちのバンドに入りませんか?」と男子高校生・影平ルイに声を掛けた。こうしてひょんなことから、3人でバンドの練習をするようになる。
高校を辞めたことを未だに祖母に言えないきみ。家業の病院を継がなければならないと理解しつつ、音楽活動にのめり込むルイ。そして、他の人の色は見えるのに自分の色だけは見えないトツ子。「音楽」を通じて偶然のように繋がった3人が、各々が抱える「悩み」「葛藤」と向き合いながら、「好きなこと」に邁進していく。
本作の良かった点は、「音楽」が非常に重要な要素として登場するにも拘らず、「音楽」はあくまでも「触媒」でしかないという点だろう。そしてそれでいて、最後「しろねこ堂」と名付けたバンドで演奏するシーンは、作品全体を絶妙にまとめている感じがある。ラストシーンまでは正直「音楽映画」とは言えないテイストなのだが、ラストシーンは「音楽映画」そのものであり、そしてそのような構成に無理が無いように感じられたところが凄いなと思う。
しかも、トツ子が作曲した「水金地火木土天アーメン」という曲は、トツ子が作った段階では「単に陽気なおちゃらけ曲」みたいな感じだったのが、最後のライブでは「皆がノレるダンスミュージック」みたいな感じになってて、凄く良かったなぁと思う。あの曲が、あんな風に変わるとは驚きである。
ストーリー的には本当にこれと言って起伏はなく、「悩み」や「葛藤」が激しく顕在化されるシーンも無ければ、状況が一変するような驚くべき出来事が起こるような展開も無い。ただ、この作品においては、それがとても良い。
というのも、本作は、「何かすること」によってではなく、「何もしないこと」によって物語が動いていく感じがあるからだ。
僕が言いたいこととは少しズレるのだが、作中に、「言いたくないことは聞かないよ」というセリフが出てくる。これは割と分かりやすく、「何かすること」ではなく「何もしないこと」が状況を作っていると言っていいだろう。作中には、そんな風に感じるシーンが随所にあった。
そしてこれも、「若い世代なりのリアル」という感じがする。冒頭で、若い世代のコミュニケーションが大変だという話を書いたが、彼らは「何かがあった」というだけではなく「何もなかった」ということにも意味を見出すはずだと思う。そして本作では、若い世代のそんな雰囲気も上手く捉えているように思う。
「何もしないこと」が状況を生み出していく場合、そこにはどことなく「より深い関係性」が感じられるように思う。「何かすること」の意図を推察することも難しいが、「何もしないこと」の場合、「しなかったという事実」に気づく必要があるわけで、よりコミュニケーションの難度が上がる。そしてだからこそ、そういう難しいコミュニケーションを成立させている関係性に対して、より深い「親密さ」みたいなものが感じ取れるのである。だから、物語の起伏が少なくても、作品として成立しているんじゃないかと感じた。
この辺りの描写はやっぱり、脚本の吉田玲子の手腕もあるんだろうなぁ。僕が彼女をちゃんと認識したのは『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』だけど、その後もあらゆる作品で彼女の名前を目にする。ホント凄いものだなと思う。
さて、キャラクター的にはとにかく作永きみがメチャクチャ良かった。造形も、声もとても素敵で、特に声が良かった。公式HPによると、主演の3人、トツ子、きみ、ルイ役は1600人に及ぶオーディションで選ばれたようで、3人とも声優ではなく役者である。3人ともとても良かったけど、やっぱり作永きみはメチャクチャ良かったなぁ。声を担当したのは髙石あかりという女優だそうだ。
あと、影平ルイが演奏するのはなんとテルミンで、楽器の演奏シーンをアニメ化するのはどれも難しいとは思うのだけど、テルミンはより難しかったんじゃないかなぁ。ただ、ギターなどとは違って演奏できる人が少ないから、間違ってても気づかれない、とは言えるかもしれない。でも、きっとちゃんと作ってるだろうな、とも思う。
というわけで、派手さはないけれど、とても良い映画だったと思います。
「きみの色」を観に行ってきました
しかし、良い映画だったなぁ。「何が良かったのか」と聞かれるとなかなか上手く説明できないのだが。
ただ、公式HPのトップページに、「山田尚子監督の企画書より」と題された文章があり、これがとても良かったので、まずは全部引用したいと思う。
【思春期の鋭すぎる感受性というのはいつの時代も変わらずですが、
すこしずつ変化していると感じるのは「社会性」の捉え方かと思います。
すこし前は「空気を読む」「読まない」「読めない」みたいなことでしたが、
今はもっと細分化してレイヤーが増えていて、若い人ほどよく考えているな、と思うことが多いです。
「自分と他人(社会)」の距離のとり方が清潔であるためのマニュアルがたくさんあるような。
表層の「失礼のない態度」と内側の「個」とのバランスを無意識にコントロールして、
目配せしないといけない項目をものすごい集中力でやりくりしているのだと思います。
ふとその糸が切れたときどうなるのか。コップの水があふれるというやつです。
彼女たちの溢れる感情が、前向きなものとして昇華されてほしい。
「好きなものを好き」といえるつよさを描いていけたらと思っております。】
解像度が高い文章でいいなぁ、と思う。いや、別に僕は「若者に詳しい」つもりもなく、上から目線(のつもりはないけど)で評価できるような立場ではないのだが、でも、メチャクチャ分かるなぁと感じた。
ちょっと話がズレるかもしれないが、最近「マルハラ(文末に「。」を付けるハラスメント)」というのが言語化されるようになった。その是非はどうでもいいのだが、この話から分かることは、「若い人たちは、『文末の「。」1つ』からも様々なことを読み取ろうとする」ということだ。
もちろんそういう「繊細」と呼ばれるタイプの人はどの時代にもいたと思うが、今の若い人たちの特徴は、「それが当たり前になっている」ということだと思う。山田尚子の文章の中の「清潔」という単語が絶妙だと思うのだが、彼らは「自分はちゃんと『清潔』だろうか?」という観点から人間関係やコミュニケーションを捉えているはずで、それが若い世代全体のデフォルトになっているように僕には感じられる。
そう、もはや「空気を読む/読まない」みたいな解像度では若い世代のコミュニケーションを語ることは出来ず、言語化して捉えることが出来ないような非常に細やかな「気遣い(目配せしないといけない項目)」によって関係性が成り立っているというわけだ。
しかし、当然のことながら、そんな日常は大変だ。若い人たちは「人間関係」にもの凄くコストを支払っている。だから「『仲が良い人』が少ない」と悩んだりするし、「恋愛は無理」と感じたりするのだと思う。
そして本作の良いところは、そういう「若い世代がナチュラルに抱えている大変さ」が「大前提」のように描かれている点だろう。いや、正確には「描かれていない」と表現すべきだろうか。
登場人物たちは個々にそれぞれ、何かしら「悩み」や「葛藤」を抱えている。そしてそれらは、確かに物語の中核を成す。しかし同時に、彼女たちにとってその「悩み」や「葛藤」は「日常茶飯事」でもある。本作で描かれている「悩み」「葛藤」が特別というわけではなく、それらがなかったとしても、ベースとして常に何かに囚われたまま生きているのだ。背景に溶け込む重低音のように、しかし一度気づいてしまうと無視できないレベルの存在として、ずっとそこにあるのだ。
そのような雰囲気が、凄く良かったなと思う。
作中では、「音楽」を通じて、彼女たちの「問題」が解決したような感じになる。それは、物語的な要請としては必要な要素だし、そうなって然るべきだろう。しかし同時に、「問題が解決した」にも拘らず彼女たちは、結局同じような場所にいる。「進展した」みたいな感じが無いのだ。いや、無いことはないのだが、こういう「青春が描かれるアニメ映画」で想定されるほどの「進展」は描かれない。
それが、とても良かった。
「現実を忘れさせてくれるほど没頭させる物語」ももちろん良い。そういう物語が、束の間であっても、現実の辛さを吹き飛ばしてくれたりもするだろう。一方で、「現実って、結局しんどいものだよね」という物語に救われる人もいるはずだ。そういう作品が存在するという事実、そしてそういう作品が多くの人から評価されているという事実が、「自分のことを分かってくれる人が世の中にいるはず」という気持ちにさせてくれるからだ。
本作は、そんな物語であるように感じられた。
少し全然違う話をするが、僕は「頭の中にまったく映像が浮かばない人間」だ。例えば、「頭の中にリンゴを思い浮かべて下さい」と言われても出来ない。「映像で何かを記憶する」とか「映像で何かを思い出す」みたいなことの意味が分からないのだ。昔からずっと、それが普通だと思っていたのだが、「小説を読んでいる時に、登場人物や情景は何も映像で浮かばない」という話をしたことがきっかけで、自分が少数派なのだと理解した。
それに気づいたのが30歳ぐらいの頃だったと思うのだが、それ以降、機会がある度に自分のこのような性質を説明しても、共感してくれる人は誰もいなかった。やはり一般的には、「頭の中に映像が浮かぶ」というのが当たり前らしく、「リンゴを思い浮かべられない」という状況が理解できないようだ。
ただ、本当につい最近、「私も同じ」という人に出会った。同類に出会ったのは、自分がそれに気づいてから10年ぐらい掛かったことになる。まあ、同類に出会えなかったことで困ったことは特にないのだが、やはり、自分が抱えている感覚が伝わる人と話が出来ると、なんか救われた気分にもなるものだ。
何が言いたいかというと、本作も誰かにとって、そういう存在になり得るかもしれない、ということだ。
物語の舞台は、キリスト教系の全寮制の高校。ここに通う日暮トツ子は、学内でもほぼ存在が知られていないぐらい地味な学生だ。4人部屋で同室の3人といつも一緒にいて、後は独り聖堂でお祈りをしている。その際時々、シスターの日吉子さんが話しかけてくれる。「男女交際禁止」など厳しいルールのある高校だが、その中でも日吉子さんは、生徒と一緒になって「皆によって良き方向」を探ろうと懸命になってくれる。
トツ子には、ちょっと変わった性質があった。目で見える「色」とは別に、感じる「色」があるのだ。人を「色」で見る癖があると自覚しており、ただ、そういう話をすると気味悪がられるので、普段は隠している。
同じ学校に、作永きみという生徒がいる。トツ子とは違って皆から慕われており、聖歌隊のリーダーを務めたりしている。トツ子も、作永さんから感じる「色」に惹かれ、そのままドッジボールを顔面に食らったりしてしまった。
しかし、そんな作永さんを校内で見かけなくなった。勇気を出して色んな人に話を聞いてみると、「理由は分からないけど、退学したみたい」という話だった。突然の話にビックリするトツ子だったが、どうにもしようがない。
しかしその後、色々とあって、作永さんがアルバイトをしている古本屋で再会を果たすことが出来た。作永さんは、営業中の店内でギターを練習している。作永さんを探していたと悟られないように、弾けもしないピアノの教本を手に取って買おうとするのだが、その時、お客さんとして来ていた男子高校生が作永さんに話しかけてきた。ギターの練習をしているのが気になっていたという。
そこでトツ子は、楽器など弾いたこともないしバンドも組んでいないのだが、「私たちのバンドに入りませんか?」と男子高校生・影平ルイに声を掛けた。こうしてひょんなことから、3人でバンドの練習をするようになる。
高校を辞めたことを未だに祖母に言えないきみ。家業の病院を継がなければならないと理解しつつ、音楽活動にのめり込むルイ。そして、他の人の色は見えるのに自分の色だけは見えないトツ子。「音楽」を通じて偶然のように繋がった3人が、各々が抱える「悩み」「葛藤」と向き合いながら、「好きなこと」に邁進していく。
本作の良かった点は、「音楽」が非常に重要な要素として登場するにも拘らず、「音楽」はあくまでも「触媒」でしかないという点だろう。そしてそれでいて、最後「しろねこ堂」と名付けたバンドで演奏するシーンは、作品全体を絶妙にまとめている感じがある。ラストシーンまでは正直「音楽映画」とは言えないテイストなのだが、ラストシーンは「音楽映画」そのものであり、そしてそのような構成に無理が無いように感じられたところが凄いなと思う。
しかも、トツ子が作曲した「水金地火木土天アーメン」という曲は、トツ子が作った段階では「単に陽気なおちゃらけ曲」みたいな感じだったのが、最後のライブでは「皆がノレるダンスミュージック」みたいな感じになってて、凄く良かったなぁと思う。あの曲が、あんな風に変わるとは驚きである。
ストーリー的には本当にこれと言って起伏はなく、「悩み」や「葛藤」が激しく顕在化されるシーンも無ければ、状況が一変するような驚くべき出来事が起こるような展開も無い。ただ、この作品においては、それがとても良い。
というのも、本作は、「何かすること」によってではなく、「何もしないこと」によって物語が動いていく感じがあるからだ。
僕が言いたいこととは少しズレるのだが、作中に、「言いたくないことは聞かないよ」というセリフが出てくる。これは割と分かりやすく、「何かすること」ではなく「何もしないこと」が状況を作っていると言っていいだろう。作中には、そんな風に感じるシーンが随所にあった。
そしてこれも、「若い世代なりのリアル」という感じがする。冒頭で、若い世代のコミュニケーションが大変だという話を書いたが、彼らは「何かがあった」というだけではなく「何もなかった」ということにも意味を見出すはずだと思う。そして本作では、若い世代のそんな雰囲気も上手く捉えているように思う。
「何もしないこと」が状況を生み出していく場合、そこにはどことなく「より深い関係性」が感じられるように思う。「何かすること」の意図を推察することも難しいが、「何もしないこと」の場合、「しなかったという事実」に気づく必要があるわけで、よりコミュニケーションの難度が上がる。そしてだからこそ、そういう難しいコミュニケーションを成立させている関係性に対して、より深い「親密さ」みたいなものが感じ取れるのである。だから、物語の起伏が少なくても、作品として成立しているんじゃないかと感じた。
この辺りの描写はやっぱり、脚本の吉田玲子の手腕もあるんだろうなぁ。僕が彼女をちゃんと認識したのは『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』だけど、その後もあらゆる作品で彼女の名前を目にする。ホント凄いものだなと思う。
さて、キャラクター的にはとにかく作永きみがメチャクチャ良かった。造形も、声もとても素敵で、特に声が良かった。公式HPによると、主演の3人、トツ子、きみ、ルイ役は1600人に及ぶオーディションで選ばれたようで、3人とも声優ではなく役者である。3人ともとても良かったけど、やっぱり作永きみはメチャクチャ良かったなぁ。声を担当したのは髙石あかりという女優だそうだ。
あと、影平ルイが演奏するのはなんとテルミンで、楽器の演奏シーンをアニメ化するのはどれも難しいとは思うのだけど、テルミンはより難しかったんじゃないかなぁ。ただ、ギターなどとは違って演奏できる人が少ないから、間違ってても気づかれない、とは言えるかもしれない。でも、きっとちゃんと作ってるだろうな、とも思う。
というわけで、派手さはないけれど、とても良い映画だったと思います。
「きみの色」を観に行ってきました
「愛に乱暴」を観に行ってきました
これはホントに、絶妙にヒリヒリする物語だった。描かれているのは「ありふれたような日常」なのだが、その日常が少しずつ歪んでいく。その歪み方がとても絶妙で、さらにそれを江口のりこが実に見事な感じで演じるので、なんとも惹き込まれてしまった。
「認めてもらうこと」というのは、どんどん難しくなっていくなと思う。今僕は41歳なので、年齢だけで言っても「認めてもらうこと」より「認めること」の方が役割として求められるような気がする。また、世の中はどんどん「便利」になっているから、「個人が提供できる『便利さ』」程度では、なかなか人は喜びや驚きを得にくくなったということもあると思う。そこそこ料理が上手い程度では冷凍食品に勝てない時代になっているだろうし、ちょっと絵が上手い程度だとAIに勝てなかったりもするだろう。
そしてだからこそ、「自分が望んだように認めてもらうこと」など、夢のまた夢だと言っていいだろう。僕は、割とこの辺りのことで「生きづらさ」を感じることが多い。
「置かれた場所で咲きなさい」じゃないが、「想像していたのとは全然違う部分で評価される」みたいなことは起こり得るかもしれない。そして、「どんな形であれ、評価されたら嬉しい」と感じるタイプの人は、それで満足できるだろうと思う。でも僕は、なかなかそうは思えない。まあそもそも、さほど「評価」を求めてはいないのだが、ただ、どうせ評価してもらえるなら「自分が望んだような形で認めてほしい」と思ってしまう。
恐らく、本作の主人公・初瀬桃子も、似たような感覚を持っているような気がする。
彼女は、無添加石鹸を作る教室を持っているし、あるいは「廃盤になってしまいずっと手に入らなかったカップセット」を手に入れて喜び、それでお茶を飲んだりしている。彼女の中に「良いなと感じる世界」があり、そして恐らく、「その世界を評価してほしい」と思っているような気がする。
ただ、それは上手くいかない。全然上手くいかないのだ。というか、「望んだように評価される」どころか、「誰からも評価されない」という状態にある。
これは地味にキツいよなぁ、と感じた。
冒頭で、仕事に出かける前の夫が洗面台で髭を剃った後、桃子が掃除をする場面が出てくる。そこで桃子は、素手で洗面台を洗い始めるのだ。彼女にとっては「当たり前の日常」なのかもしれないが、「洗面台を素手で洗う」というのは結構頑張ってるなぁ、と個人的には思う。しかし、もちろん夫はそんなこと知らないし、だから褒められもしない。
また彼女は、近くのゴミ捨て場が乱雑になっていたら、それが彼女の役割というわけでもないのに、率先して掃除をしたりする。時には、バケツに洗剤入りの水を入れてブラシでゴシゴシこするのだ。メチャクチャ頑張ってるなと思う。でも、誰からも褒めてもらえない。
桃子は、夫の実家の敷地内にある離れに住んでおり、声が届く距離に義母がいる。表向き、嫁姑は穏やかな関係を築いていそうにも見えるのだが、しかし随所で、「どうも義母が桃子を受け入れていない雰囲気」が漂う。その理由はしばらく分からないのだが、とにかく義母とも微妙な距離感を感じるのである。
彼女の日常は、こんなことの積み重ねで出来ている。
彼女は専業主婦なのだが、週に2回無添加石鹸の教室を受け持っているので、ある意味ではこれが唯一の「社会との繋がり」と言っていい。しかし、この教室も安泰というわけではない。
そんな風にして桃子は、少しずつ少しずつ削られていく。
しかしそれらは、「無視できなくもないレベル」のものだっただろうと思う。もちろん、桃子の中にダメージは蓄積しているし、心もざわついている。平穏なんかじゃ全然ない。でも、「まあ仕方ない」程度に流せはしたのではないかとも思う。その理由がしばらく分からなかったが、後半、「なるほど、桃子にも負い目を感じていることがある」ということが明らかになり、多少理解できた気にはなった。いや、それが理由かは分からないし、あくまでも僕が勝手に納得したというだけに過ぎないが。
しかし、作中で突きつけられるある事実に、桃子は耐えられなかった。それは、彼女が日常で感じているような「心を少しずつ削っていく」みたいなダメージではなく、彼女が生きて存在している根幹に関わってくるようなものだったからだ。それは認められないだろうと僕も感じた。
ただ、それはそれとして、桃子の夫・真守の気持ちも分からないではない。「私が何かした?」と問う桃子に対して彼が突きつけた言葉はとても鋭利だが、ただ、「なるほどなぁ」という感じがした。これはもちろん、そこに至るまでの江口のりこの演技が見事だったという話に尽きるのだが、真守が初めて桃子に突きつけただろう「本音」は、何とも言えない説得力を持って僕に届いた。
この物語は、桃子と真守が結婚してから8年目の生活を描いている。だから、結婚当初、あるいはそれ以前の恋愛期間に2人がどのような感じだったのかはほとんど分からない。ただ、なんとなくだが、「最初から合わなかったのではないか」という気がしてならない。そして、そんな2人の結婚のきっかけを知ってしまうと、真守の今後にも色々と考えたくなるのである。
映画を観ながらずっと、「桃子のような人が、『ちゃんと評価された』と少しでも実感できる世の中であってほしい」と思わされた。なんとなくだが、世の中はもはや「金額換算で大きな成果を上げた人」か「歴史に名を残すような偉業を成し遂げた人」か「大したことをしていないのにアピールだけは上手い人」しか評価されない時代になっている気がしている。もちろん、「アピールだけは上手い人」以外は存分に評価されていい。でも、そうではない、金額にも換算できないし偉業でもない、でも「確かに世界を少しプラスに押し上げている行為」は、ちゃんと評価されてほしい。
そういう世の中にならないと、益々「金儲け」か「アピール」が上手い奴がのさばる世の中になって、社会が一層窮屈になってしまうように思う。本作では後半、桃子がなかなかの狂気を発するわけだが、それは、「『狂った世の中』に対抗するために狂うしかなかった」みたいな感じにも見えた。彼女の「おかしいフリをしてあげてるんだよ」というセリフは、そんな宣言にも聞こえたのである。
そしてそんな狂気を「ファンタジー」にならないように、ちゃんと現実に繋ぎ止めながらギリギリまで爆発させる江口のりこの演技が流石だなと感じた。
さて、役者の話で言えば、まずしばらくの間、真守を演じているのが小泉孝太郎だと気づかなかった。いや、「小泉孝太郎に似てるなぁ」と思っていたのだけど、小泉孝太郎だとは思わなかったのだ。役者本人と役柄が違うのは当然だが、しかし、普段の小泉孝太郎の感じとは全然違う「クソダメな夫」で、小泉孝太郎っぽく見えなかったのだ。彼が演じる真守は、こちらも絶妙に「ダメ」な感じが出ていて、とても良かった。
そして同じく「絶妙さ」で言えば、桃子の義母で真守の母である照子を演じた風吹ジュンも流石だった。「うわぁ、こういう、悪気ない感じでナチュラルに嫌な感じを出してくる年寄りいるよなぁ」という雰囲気が絶妙で、大変良かった。
また、「気づかなかった」という話でいえば、青木柚に気づかなくて驚いた。エンドロールに「青木柚」の名前があって、「えっ、どこに出てた?」と思って後で調べたんだけど、無添加石鹸の教室にいるあの男が青木柚だったのか。マジで気づかなかった。映画『MINAMATA』の時も青木柚に気づかなかったから、まあさすがというべきだろうか。いや、今回は、単に僕があまりに気づかなすぎという感じもするが。
ストーリーだけ取り出したら、結構「へっ?」ってなるようなムチャクチャな感じがすると思うんだけど、それを役者たちが絶妙な感じでリアルの世界に落とし込んでいる感じがあって、そんな役者の演技に圧倒された作品だった。
「愛に乱暴」を観に行ってきました
「認めてもらうこと」というのは、どんどん難しくなっていくなと思う。今僕は41歳なので、年齢だけで言っても「認めてもらうこと」より「認めること」の方が役割として求められるような気がする。また、世の中はどんどん「便利」になっているから、「個人が提供できる『便利さ』」程度では、なかなか人は喜びや驚きを得にくくなったということもあると思う。そこそこ料理が上手い程度では冷凍食品に勝てない時代になっているだろうし、ちょっと絵が上手い程度だとAIに勝てなかったりもするだろう。
そしてだからこそ、「自分が望んだように認めてもらうこと」など、夢のまた夢だと言っていいだろう。僕は、割とこの辺りのことで「生きづらさ」を感じることが多い。
「置かれた場所で咲きなさい」じゃないが、「想像していたのとは全然違う部分で評価される」みたいなことは起こり得るかもしれない。そして、「どんな形であれ、評価されたら嬉しい」と感じるタイプの人は、それで満足できるだろうと思う。でも僕は、なかなかそうは思えない。まあそもそも、さほど「評価」を求めてはいないのだが、ただ、どうせ評価してもらえるなら「自分が望んだような形で認めてほしい」と思ってしまう。
恐らく、本作の主人公・初瀬桃子も、似たような感覚を持っているような気がする。
彼女は、無添加石鹸を作る教室を持っているし、あるいは「廃盤になってしまいずっと手に入らなかったカップセット」を手に入れて喜び、それでお茶を飲んだりしている。彼女の中に「良いなと感じる世界」があり、そして恐らく、「その世界を評価してほしい」と思っているような気がする。
ただ、それは上手くいかない。全然上手くいかないのだ。というか、「望んだように評価される」どころか、「誰からも評価されない」という状態にある。
これは地味にキツいよなぁ、と感じた。
冒頭で、仕事に出かける前の夫が洗面台で髭を剃った後、桃子が掃除をする場面が出てくる。そこで桃子は、素手で洗面台を洗い始めるのだ。彼女にとっては「当たり前の日常」なのかもしれないが、「洗面台を素手で洗う」というのは結構頑張ってるなぁ、と個人的には思う。しかし、もちろん夫はそんなこと知らないし、だから褒められもしない。
また彼女は、近くのゴミ捨て場が乱雑になっていたら、それが彼女の役割というわけでもないのに、率先して掃除をしたりする。時には、バケツに洗剤入りの水を入れてブラシでゴシゴシこするのだ。メチャクチャ頑張ってるなと思う。でも、誰からも褒めてもらえない。
桃子は、夫の実家の敷地内にある離れに住んでおり、声が届く距離に義母がいる。表向き、嫁姑は穏やかな関係を築いていそうにも見えるのだが、しかし随所で、「どうも義母が桃子を受け入れていない雰囲気」が漂う。その理由はしばらく分からないのだが、とにかく義母とも微妙な距離感を感じるのである。
彼女の日常は、こんなことの積み重ねで出来ている。
彼女は専業主婦なのだが、週に2回無添加石鹸の教室を受け持っているので、ある意味ではこれが唯一の「社会との繋がり」と言っていい。しかし、この教室も安泰というわけではない。
そんな風にして桃子は、少しずつ少しずつ削られていく。
しかしそれらは、「無視できなくもないレベル」のものだっただろうと思う。もちろん、桃子の中にダメージは蓄積しているし、心もざわついている。平穏なんかじゃ全然ない。でも、「まあ仕方ない」程度に流せはしたのではないかとも思う。その理由がしばらく分からなかったが、後半、「なるほど、桃子にも負い目を感じていることがある」ということが明らかになり、多少理解できた気にはなった。いや、それが理由かは分からないし、あくまでも僕が勝手に納得したというだけに過ぎないが。
しかし、作中で突きつけられるある事実に、桃子は耐えられなかった。それは、彼女が日常で感じているような「心を少しずつ削っていく」みたいなダメージではなく、彼女が生きて存在している根幹に関わってくるようなものだったからだ。それは認められないだろうと僕も感じた。
ただ、それはそれとして、桃子の夫・真守の気持ちも分からないではない。「私が何かした?」と問う桃子に対して彼が突きつけた言葉はとても鋭利だが、ただ、「なるほどなぁ」という感じがした。これはもちろん、そこに至るまでの江口のりこの演技が見事だったという話に尽きるのだが、真守が初めて桃子に突きつけただろう「本音」は、何とも言えない説得力を持って僕に届いた。
この物語は、桃子と真守が結婚してから8年目の生活を描いている。だから、結婚当初、あるいはそれ以前の恋愛期間に2人がどのような感じだったのかはほとんど分からない。ただ、なんとなくだが、「最初から合わなかったのではないか」という気がしてならない。そして、そんな2人の結婚のきっかけを知ってしまうと、真守の今後にも色々と考えたくなるのである。
映画を観ながらずっと、「桃子のような人が、『ちゃんと評価された』と少しでも実感できる世の中であってほしい」と思わされた。なんとなくだが、世の中はもはや「金額換算で大きな成果を上げた人」か「歴史に名を残すような偉業を成し遂げた人」か「大したことをしていないのにアピールだけは上手い人」しか評価されない時代になっている気がしている。もちろん、「アピールだけは上手い人」以外は存分に評価されていい。でも、そうではない、金額にも換算できないし偉業でもない、でも「確かに世界を少しプラスに押し上げている行為」は、ちゃんと評価されてほしい。
そういう世の中にならないと、益々「金儲け」か「アピール」が上手い奴がのさばる世の中になって、社会が一層窮屈になってしまうように思う。本作では後半、桃子がなかなかの狂気を発するわけだが、それは、「『狂った世の中』に対抗するために狂うしかなかった」みたいな感じにも見えた。彼女の「おかしいフリをしてあげてるんだよ」というセリフは、そんな宣言にも聞こえたのである。
そしてそんな狂気を「ファンタジー」にならないように、ちゃんと現実に繋ぎ止めながらギリギリまで爆発させる江口のりこの演技が流石だなと感じた。
さて、役者の話で言えば、まずしばらくの間、真守を演じているのが小泉孝太郎だと気づかなかった。いや、「小泉孝太郎に似てるなぁ」と思っていたのだけど、小泉孝太郎だとは思わなかったのだ。役者本人と役柄が違うのは当然だが、しかし、普段の小泉孝太郎の感じとは全然違う「クソダメな夫」で、小泉孝太郎っぽく見えなかったのだ。彼が演じる真守は、こちらも絶妙に「ダメ」な感じが出ていて、とても良かった。
そして同じく「絶妙さ」で言えば、桃子の義母で真守の母である照子を演じた風吹ジュンも流石だった。「うわぁ、こういう、悪気ない感じでナチュラルに嫌な感じを出してくる年寄りいるよなぁ」という雰囲気が絶妙で、大変良かった。
また、「気づかなかった」という話でいえば、青木柚に気づかなくて驚いた。エンドロールに「青木柚」の名前があって、「えっ、どこに出てた?」と思って後で調べたんだけど、無添加石鹸の教室にいるあの男が青木柚だったのか。マジで気づかなかった。映画『MINAMATA』の時も青木柚に気づかなかったから、まあさすがというべきだろうか。いや、今回は、単に僕があまりに気づかなすぎという感じもするが。
ストーリーだけ取り出したら、結構「へっ?」ってなるようなムチャクチャな感じがすると思うんだけど、それを役者たちが絶妙な感じでリアルの世界に落とし込んでいる感じがあって、そんな役者の演技に圧倒された作品だった。
「愛に乱暴」を観に行ってきました
「掟」を観に行ってきました
さて、いつものことだが、僕は石丸伸二には全然興味がない。というかむしろ、「嫌いなタイプの人間だなぁ」と感じていた。そして個人的に、「どうして石丸伸二は支持されているんだろう?」ということを知る一端になるかもしれないと思ってこの映画を観てみることにした。
僕はとにかくネットをほとんど見ないので、僕が知っている「石丸伸二」は、「テレビで取り上げられた姿」だけである。恐らくこんな風に書くと、彼を支持する人から、「テレビの姿だけ見てたって分からないよ」みたいに言われるだろう。まあ確かにそれはそうかもしれない。
ただ、それはそれとして僕が感じるのは、「自分で編集できるYouTube、TikTok、Instagramなどで評価されても、それもまた一面でしかないだろう」と思っている。「大手メディアの切り取り方に悪意がある」みたいな話はきっと一理あるのだと思うけど、だからと言って、「大手メディアでの発信のされ方」みたいなものを無視していいという話にはならないように思う。選挙期間中はもしかしたら、ネットの発信の力でどうにかなるとしても、やはり継続的に支持を集めるためには、今はまだ「大手メディア」の発信も気にすべきだと思う。もちろん、そんなことは石丸伸二もよく分かっているだろう。本作を観る限り、安芸高田市長の時にも、メディアとは色々やり合ったようだからだ。
さて、そんなわけで、「僕はネット上で語られる石丸伸二のことは知らず、テレビで映し出される石丸伸二しか知らないが、そのような捉え方から彼のことを評価することも一面では正しい」という前提で話をしていきたいと思う。
さて、僕がテレビで見ていた石丸伸二は、「他人の話を聞こうとしない人」に見えた。というか正しくは、「『彼自身が持つ何らかの基準から外れた人』の話を聞こうとしない人」に見えたと書くべきだろうか。石丸伸二はたぶん、「誰の話も聞かない」みたいなタイプではないと思うのだが、同時に、「何らかの基準によって人を選定し、基準をクリアした人の話だけは聞く」という印象が僕にはとても強かったのだ。
それが石丸伸二の「見せ方の戦略」なのか、あるいはそもそもそういうタイプの人なのか、その辺りのことはよく分からないが、とにかく僕は、石丸伸二に対して抱いたその印象がどうにも好きになれなかった。
ここには、色んな要素が含まれている。
例えば、僕がその「基準」から外れている場合、「僕の声は聞いてもらえないのだろう」という気分になる。しかし同時に、仮に僕がその「基準」を満たしていたとしても、僕は、「そんな風にして選別する人間に話したいことなんかない」みたいに感じられてしまうのだ。
もちろん、普通の人ならそんな振る舞いも全然問題ない。ただ、今は「政治家」の話をしている。この点について思い出されるのは、以前観た映画『なぜ君は総理大臣にならないのか』『香川1区』の中で小川淳也が話していたことだ。彼は、「51:49で自分が勝った場合、負けた側である49の意見も背負う必要がある」みたいなことを言っていた。つまり、政治家というのは、「自分を選んでくれた51の代表」ではなく、「自分を選ばなかった49も含めた100の代表」だという意識を持っているというわけだ。そして僕は、理想論に過ぎるかもしれないが、やはり、政治家にはそのようなスタンスであってほしいと願ってしまう。
さて、石丸伸二が「自分を支持してくれるかどうか」という「基準」で選別しているのかは不明だが(というか結局、彼がどんな「基準」で選り分けているのか、僕には上手く捉えきれなかった)、いずれにせよ彼は、「『基準』を満たした人」の代表であるという意識を持っているのだと思う。そして、政治家としては珍しいと思うが、それが露骨に表に出ているように感じられたのだ。
表向きは上手く取り繕いながら、内心ではそんな風に思っている人は山程いると思う。そして、そういう人と比べれば、露骨にそれを表に出している石丸伸二の方がまだ許せる感じはある。ただそれは五十歩百歩みたいな話であり、広く捉えれば、僕にとっては同類である。
石丸伸二に関しては、都知事選の前後で様々な言説が飛び交ったが、その中で僕は、ラッパーの呂布カルマがXで発したという、「馬鹿のためには働けないんじゃないかな」という表現が一番しっくり来ている。もちろん、石丸伸二が「馬鹿かどうか」という「基準」で選別しているのかは分からないが、一番納得感のあった表現だった。
さて、そんな理由から僕は、どうにも石丸伸二のことが好きになれないでいた。それで、そのような状態で本作『掟』を観たというわけだ。
というわけでここから映画の内容に触れていこうと思うが、まずは、鑑賞時点では知らなかった、公式HPに書かれている情報について書いていきたいと思う。本作がいかに現実と並走する形で、超特急で作られたのかという話だ。
本作は元々とある劇団の舞台劇だったそうだ。その公演が今年2月に行われ、その脚本を翌3月に本作プロデューサーが目にしたところから企画が始まった。広島県の安芸高田市長だった石丸伸二が都知事選への立候補を表明したのが同年5月17日のこと。つまり本作は、その前から制作が決定していたというわけだ。そして撮影を開始、また同時に、「最も早く公開出来る劇場探し」を行い、8月30日に決まったのだそうだ。企画の立ち上げから公開まで半年未満という、相当異例と言える作品と言えるだろう。
企画を立ち上げた時点では、石丸伸二が都知事選に出馬することも、その後「石丸旋風」を巻き起こすことも分かっていなかったのだから、この企画から公開までの流れは「賭けに勝った」と言えるんじゃないかと思う。後はどれぐらいお客さんが入るかという話になるだろうが、それはこれからだろう。石丸伸二が都知事になっていたらまた大きく変わっていただろうが、なかなかそれは難しかっただろう。
そんなわけで、異例の形で公開までこぎつけた作品だというわけだ。
さて、本作は、先程少し言及した、5月17日に行われた「都知事選への出馬」を発表した記者会見の様子から始まる。これはフィクションではなく、石丸伸二本人が映る実際の映像である。そしてその記者会見の様子が終わると、舞台は少し前に遡ることになる。舞台も名前も変え、「フィクション」の物語が始まっていく。
北東雲市は、国会議員の汚職の煽りを受け市長他数名が辞任、それによって市長選が行われることになった。現職の副市長が立候補しており、他の候補者がいなければ無選挙で当選が決まるはずだったが、出馬締め切りの日、市役所に必要書類を持って高村誠也がやってきた。市長選に出馬するという。元銀行員で、彼は「無選挙で市長が選ばれるのはダメだと思った。だから『選挙を行う』ために出馬した」とその心境を明かしていた。
当選を果たした石丸伸二は、議会の定例会で居眠りをしている議員を発見する。議会側と話し合いをするも暖簾に腕押しという感じで、まともな返答も返ってこないし、議論にならない。そのため彼は、居眠り議員について告発するようなツイートをした。
これにより、マスコミをあげての大騒ぎとなり、この件で市長と議会との対立は決定的なものになった。
北東雲市の議員の中には「せいせい会」(どういう漢字かは不明)と呼ばれる会派が存在しており、議員に過半数が「せいせい会」に所属していた。議長や古参議員が多く集まる会派で、北東雲議会ではこれまで、「市長が『せいせい会』に話を通し、物事が決まる」という通例があった。議員やマスコミは色んな呼び方をしていたが、高村はこれを「根回し」として批判、自分はそのやり方を取らないと貫き通した。
これにより、市長と議会との対立は一層深まった。議員の過半数を握っている「せいせい会」は、「市長憎し」という理由だけで、ことごとく様々な法案に反対する。市長は改革のための道筋を付けようと様々なアイデアを出し、実行に移そうとするのだが、「せいせい会」が邪魔をするのである。
高村は、市の財政状況と今後の人口動態から、北東雲市の財政が遠くない未来に破綻することを見通していた。だから「痛みを伴う改革」を推し進めようとするのだが、「市民」よりも「メンツ」を重視する「せいせい会」は議会で反対するばかり。しかしそんな状況においても高村は、「民自党が作り上げてきた合理的ではないやり方には一切与しない」という立場を崩さない。
こうして北東雲市議会は、マスコミも巻き込んだ場外乱闘も行いつつ、何も進まない膠着状態に陥ることになる……。
というような話です。
さて、僕がそもそも疑問に感じたのが次の点だ。いくら「フィクション」と言えども、明確なモデルを提示した上で作っている映画なのだから、「大筋の物語は事実なんじゃないか」と思うのだが、だとしたら、その「事実」はどのように捕捉したのだろうということだ。「議会の様子」は市民にも開かれているから見れるとして、それ以外の場面についてはどうしたのだろう。まあ、大体の場面にマスコミがいるから、「マスコミに取材をした」ということなのかもしれないが、元々が劇団作の演劇であるということを考えると、「どこまで事実なのかなんとも言えない」という気分になった。
これが、「ノンフィクションをベースにした作品」とかであれば、「ある程度事実に沿っているのだろう」と思えるのだが、本作の場合は、そこの担保みたいなものがどこにあるのか分からない。もちろん、公式HPでも「フィクション」と謳っているわけで、「だから事実であるかどうかにはこだわっていない」みたいなことかもしれないが、どうなんだろう。「石丸伸二が何故支持されているのか」を知りたくて本作を観た人間としては、どのていど「高村誠也=石丸伸二」なのかが判断できないと、石丸伸二の印象を更新することが難しい。
まあそんなわけで、以下の話は基本的に「石丸伸二」ではなく「高村誠也」に対する言及だと思ってほしい。
高村誠也のスタンスは、僕も割と理解できる。彼は、「選考まで終わらせた、2人目の副市長候補」や「超大手企業の誘致」など、「非常に重要な案件」についても、いわゆる「根回し」をせずに議会に臨んでいる。恐らくだが、「根回し」と言っても対したことはなく、「せいせい会」のメンバーに先に「議会でこういう話をするので賛成してください」みたいなことを言えば済む話なんだと思う。だからきっと、「それぐらいやれよ」「『損して得取れ』みたいに言うじゃないか」みたいに感じる人もいるはずだ。
でも、僕も同じ立場にいたら、高村誠也と同じことをしただろうと思う。そんなアホみたいなことのためにアホみたいな連中と関わりを持ちたいとは思えないからだ。
高村誠也は決して、「せいせい会」との対話を拒絶しているわけではない。むしろ望んでいると言っていいだろう。彼は「首長が批判されるのは当然」「私のことが嫌いならそれでいい」と言っている。そしてその上で、「議論で物事を動かしましょう」という話をしているのだ。しかし、民自党お得意のやり方でしか政治を動かせない連中は、まともな議論も出来ないまま、数の論理だけで押し切ろうとする。明らかに対話を拒絶しているのは「せいせい会」の方なのだが、彼らはそれを認めないし、メンツばかり重んじて市民の方を見ようともしない。
本作では、そんな「腐った地方政治」と「それを改革しようとするリーダー」の真正面からの対決が描かれていく。
この映画は特に、地方に住む人が観るべきだろう。「地方」というのはこの場合、「財政が厳しく、人口が減少している自治体」ぐらいの意味に捉えてほしい。そしてそういう地域に住んでいる場合、本作で描かれることは他人事ではないのだ。
明らかに地方の財政は限界を迎えており、市町村として存続できるかは「政治」に掛かっているからだ。
本作では、東京出身の男がある店で食事をしている時、「汚職で辞任した前市長が再び市長選に出るらしい」という話になる。そして、東京出身の男が「でも、受かるわけないでしょう?」と聞くと、地元でずっと暮らしてきた店の従業員は、「たぶん通ると思いますよ。それが地方です」と言っていたのだ。
つまり今も、「政策や実績や将来性などとはまるで関係のない理屈」によってトップが決まっているというわけだ。
しかしそんなことをしていたら、自治体としての存続が危うい。本作ではある場面で、マスコミ向けの説明の場で高村誠也がグラフを参照しながら北東雲市の向こう10年の予測を示していたが、相当に悲観的な内容だった。とにかく、「人口減少」は避けられないのだから、何もしなければ破綻へとまっしぐらだ。そんな中で、「お金をくれるから」とか「誰々さんの付き合いで入れないといけない」みたいな理由で投票していたら、そりゃあどうにかなるものもならなくなるだろう。
だから、高村誠也が「正解」かどうかは分からないものの、少なくとも「それまでの政治とは異なる理屈で突き進む人」を選ばなければならないし、そうしなければたぶん色んな地方自治体がこれからバタバタと死んでいくのだと思う。
本作は、そういう危機感を煽る作品という風に捉えることも可能だろう。
さて、「高村誠也=石丸伸二」なのだとすれば、石丸伸二の見方も少しは変わるのだが、本作が一体どの程度事実に即しているのかがなんとも判断できないので、石丸伸二への見方もちょっと変えようがないというのが今の感覚だ。まあでも、もしも本作で描かれる高村誠也がそのまま石丸伸二を引き写しているのだとすれば、「見せ方の下手さ」はあるとしても、想いや手腕はかなり素晴らしいものがあるように思う。北東雲市(安芸高田市)の改革が進んでいたら、どうなっていただろうか? 特に、超大手企業の誘致に反対した議員は、現状をどう捉えているのか。
その辺り、聞いてみたいものだなと思う。
「掟」を観に行ってきました
僕はとにかくネットをほとんど見ないので、僕が知っている「石丸伸二」は、「テレビで取り上げられた姿」だけである。恐らくこんな風に書くと、彼を支持する人から、「テレビの姿だけ見てたって分からないよ」みたいに言われるだろう。まあ確かにそれはそうかもしれない。
ただ、それはそれとして僕が感じるのは、「自分で編集できるYouTube、TikTok、Instagramなどで評価されても、それもまた一面でしかないだろう」と思っている。「大手メディアの切り取り方に悪意がある」みたいな話はきっと一理あるのだと思うけど、だからと言って、「大手メディアでの発信のされ方」みたいなものを無視していいという話にはならないように思う。選挙期間中はもしかしたら、ネットの発信の力でどうにかなるとしても、やはり継続的に支持を集めるためには、今はまだ「大手メディア」の発信も気にすべきだと思う。もちろん、そんなことは石丸伸二もよく分かっているだろう。本作を観る限り、安芸高田市長の時にも、メディアとは色々やり合ったようだからだ。
さて、そんなわけで、「僕はネット上で語られる石丸伸二のことは知らず、テレビで映し出される石丸伸二しか知らないが、そのような捉え方から彼のことを評価することも一面では正しい」という前提で話をしていきたいと思う。
さて、僕がテレビで見ていた石丸伸二は、「他人の話を聞こうとしない人」に見えた。というか正しくは、「『彼自身が持つ何らかの基準から外れた人』の話を聞こうとしない人」に見えたと書くべきだろうか。石丸伸二はたぶん、「誰の話も聞かない」みたいなタイプではないと思うのだが、同時に、「何らかの基準によって人を選定し、基準をクリアした人の話だけは聞く」という印象が僕にはとても強かったのだ。
それが石丸伸二の「見せ方の戦略」なのか、あるいはそもそもそういうタイプの人なのか、その辺りのことはよく分からないが、とにかく僕は、石丸伸二に対して抱いたその印象がどうにも好きになれなかった。
ここには、色んな要素が含まれている。
例えば、僕がその「基準」から外れている場合、「僕の声は聞いてもらえないのだろう」という気分になる。しかし同時に、仮に僕がその「基準」を満たしていたとしても、僕は、「そんな風にして選別する人間に話したいことなんかない」みたいに感じられてしまうのだ。
もちろん、普通の人ならそんな振る舞いも全然問題ない。ただ、今は「政治家」の話をしている。この点について思い出されるのは、以前観た映画『なぜ君は総理大臣にならないのか』『香川1区』の中で小川淳也が話していたことだ。彼は、「51:49で自分が勝った場合、負けた側である49の意見も背負う必要がある」みたいなことを言っていた。つまり、政治家というのは、「自分を選んでくれた51の代表」ではなく、「自分を選ばなかった49も含めた100の代表」だという意識を持っているというわけだ。そして僕は、理想論に過ぎるかもしれないが、やはり、政治家にはそのようなスタンスであってほしいと願ってしまう。
さて、石丸伸二が「自分を支持してくれるかどうか」という「基準」で選別しているのかは不明だが(というか結局、彼がどんな「基準」で選り分けているのか、僕には上手く捉えきれなかった)、いずれにせよ彼は、「『基準』を満たした人」の代表であるという意識を持っているのだと思う。そして、政治家としては珍しいと思うが、それが露骨に表に出ているように感じられたのだ。
表向きは上手く取り繕いながら、内心ではそんな風に思っている人は山程いると思う。そして、そういう人と比べれば、露骨にそれを表に出している石丸伸二の方がまだ許せる感じはある。ただそれは五十歩百歩みたいな話であり、広く捉えれば、僕にとっては同類である。
石丸伸二に関しては、都知事選の前後で様々な言説が飛び交ったが、その中で僕は、ラッパーの呂布カルマがXで発したという、「馬鹿のためには働けないんじゃないかな」という表現が一番しっくり来ている。もちろん、石丸伸二が「馬鹿かどうか」という「基準」で選別しているのかは分からないが、一番納得感のあった表現だった。
さて、そんな理由から僕は、どうにも石丸伸二のことが好きになれないでいた。それで、そのような状態で本作『掟』を観たというわけだ。
というわけでここから映画の内容に触れていこうと思うが、まずは、鑑賞時点では知らなかった、公式HPに書かれている情報について書いていきたいと思う。本作がいかに現実と並走する形で、超特急で作られたのかという話だ。
本作は元々とある劇団の舞台劇だったそうだ。その公演が今年2月に行われ、その脚本を翌3月に本作プロデューサーが目にしたところから企画が始まった。広島県の安芸高田市長だった石丸伸二が都知事選への立候補を表明したのが同年5月17日のこと。つまり本作は、その前から制作が決定していたというわけだ。そして撮影を開始、また同時に、「最も早く公開出来る劇場探し」を行い、8月30日に決まったのだそうだ。企画の立ち上げから公開まで半年未満という、相当異例と言える作品と言えるだろう。
企画を立ち上げた時点では、石丸伸二が都知事選に出馬することも、その後「石丸旋風」を巻き起こすことも分かっていなかったのだから、この企画から公開までの流れは「賭けに勝った」と言えるんじゃないかと思う。後はどれぐらいお客さんが入るかという話になるだろうが、それはこれからだろう。石丸伸二が都知事になっていたらまた大きく変わっていただろうが、なかなかそれは難しかっただろう。
そんなわけで、異例の形で公開までこぎつけた作品だというわけだ。
さて、本作は、先程少し言及した、5月17日に行われた「都知事選への出馬」を発表した記者会見の様子から始まる。これはフィクションではなく、石丸伸二本人が映る実際の映像である。そしてその記者会見の様子が終わると、舞台は少し前に遡ることになる。舞台も名前も変え、「フィクション」の物語が始まっていく。
北東雲市は、国会議員の汚職の煽りを受け市長他数名が辞任、それによって市長選が行われることになった。現職の副市長が立候補しており、他の候補者がいなければ無選挙で当選が決まるはずだったが、出馬締め切りの日、市役所に必要書類を持って高村誠也がやってきた。市長選に出馬するという。元銀行員で、彼は「無選挙で市長が選ばれるのはダメだと思った。だから『選挙を行う』ために出馬した」とその心境を明かしていた。
当選を果たした石丸伸二は、議会の定例会で居眠りをしている議員を発見する。議会側と話し合いをするも暖簾に腕押しという感じで、まともな返答も返ってこないし、議論にならない。そのため彼は、居眠り議員について告発するようなツイートをした。
これにより、マスコミをあげての大騒ぎとなり、この件で市長と議会との対立は決定的なものになった。
北東雲市の議員の中には「せいせい会」(どういう漢字かは不明)と呼ばれる会派が存在しており、議員に過半数が「せいせい会」に所属していた。議長や古参議員が多く集まる会派で、北東雲議会ではこれまで、「市長が『せいせい会』に話を通し、物事が決まる」という通例があった。議員やマスコミは色んな呼び方をしていたが、高村はこれを「根回し」として批判、自分はそのやり方を取らないと貫き通した。
これにより、市長と議会との対立は一層深まった。議員の過半数を握っている「せいせい会」は、「市長憎し」という理由だけで、ことごとく様々な法案に反対する。市長は改革のための道筋を付けようと様々なアイデアを出し、実行に移そうとするのだが、「せいせい会」が邪魔をするのである。
高村は、市の財政状況と今後の人口動態から、北東雲市の財政が遠くない未来に破綻することを見通していた。だから「痛みを伴う改革」を推し進めようとするのだが、「市民」よりも「メンツ」を重視する「せいせい会」は議会で反対するばかり。しかしそんな状況においても高村は、「民自党が作り上げてきた合理的ではないやり方には一切与しない」という立場を崩さない。
こうして北東雲市議会は、マスコミも巻き込んだ場外乱闘も行いつつ、何も進まない膠着状態に陥ることになる……。
というような話です。
さて、僕がそもそも疑問に感じたのが次の点だ。いくら「フィクション」と言えども、明確なモデルを提示した上で作っている映画なのだから、「大筋の物語は事実なんじゃないか」と思うのだが、だとしたら、その「事実」はどのように捕捉したのだろうということだ。「議会の様子」は市民にも開かれているから見れるとして、それ以外の場面についてはどうしたのだろう。まあ、大体の場面にマスコミがいるから、「マスコミに取材をした」ということなのかもしれないが、元々が劇団作の演劇であるということを考えると、「どこまで事実なのかなんとも言えない」という気分になった。
これが、「ノンフィクションをベースにした作品」とかであれば、「ある程度事実に沿っているのだろう」と思えるのだが、本作の場合は、そこの担保みたいなものがどこにあるのか分からない。もちろん、公式HPでも「フィクション」と謳っているわけで、「だから事実であるかどうかにはこだわっていない」みたいなことかもしれないが、どうなんだろう。「石丸伸二が何故支持されているのか」を知りたくて本作を観た人間としては、どのていど「高村誠也=石丸伸二」なのかが判断できないと、石丸伸二の印象を更新することが難しい。
まあそんなわけで、以下の話は基本的に「石丸伸二」ではなく「高村誠也」に対する言及だと思ってほしい。
高村誠也のスタンスは、僕も割と理解できる。彼は、「選考まで終わらせた、2人目の副市長候補」や「超大手企業の誘致」など、「非常に重要な案件」についても、いわゆる「根回し」をせずに議会に臨んでいる。恐らくだが、「根回し」と言っても対したことはなく、「せいせい会」のメンバーに先に「議会でこういう話をするので賛成してください」みたいなことを言えば済む話なんだと思う。だからきっと、「それぐらいやれよ」「『損して得取れ』みたいに言うじゃないか」みたいに感じる人もいるはずだ。
でも、僕も同じ立場にいたら、高村誠也と同じことをしただろうと思う。そんなアホみたいなことのためにアホみたいな連中と関わりを持ちたいとは思えないからだ。
高村誠也は決して、「せいせい会」との対話を拒絶しているわけではない。むしろ望んでいると言っていいだろう。彼は「首長が批判されるのは当然」「私のことが嫌いならそれでいい」と言っている。そしてその上で、「議論で物事を動かしましょう」という話をしているのだ。しかし、民自党お得意のやり方でしか政治を動かせない連中は、まともな議論も出来ないまま、数の論理だけで押し切ろうとする。明らかに対話を拒絶しているのは「せいせい会」の方なのだが、彼らはそれを認めないし、メンツばかり重んじて市民の方を見ようともしない。
本作では、そんな「腐った地方政治」と「それを改革しようとするリーダー」の真正面からの対決が描かれていく。
この映画は特に、地方に住む人が観るべきだろう。「地方」というのはこの場合、「財政が厳しく、人口が減少している自治体」ぐらいの意味に捉えてほしい。そしてそういう地域に住んでいる場合、本作で描かれることは他人事ではないのだ。
明らかに地方の財政は限界を迎えており、市町村として存続できるかは「政治」に掛かっているからだ。
本作では、東京出身の男がある店で食事をしている時、「汚職で辞任した前市長が再び市長選に出るらしい」という話になる。そして、東京出身の男が「でも、受かるわけないでしょう?」と聞くと、地元でずっと暮らしてきた店の従業員は、「たぶん通ると思いますよ。それが地方です」と言っていたのだ。
つまり今も、「政策や実績や将来性などとはまるで関係のない理屈」によってトップが決まっているというわけだ。
しかしそんなことをしていたら、自治体としての存続が危うい。本作ではある場面で、マスコミ向けの説明の場で高村誠也がグラフを参照しながら北東雲市の向こう10年の予測を示していたが、相当に悲観的な内容だった。とにかく、「人口減少」は避けられないのだから、何もしなければ破綻へとまっしぐらだ。そんな中で、「お金をくれるから」とか「誰々さんの付き合いで入れないといけない」みたいな理由で投票していたら、そりゃあどうにかなるものもならなくなるだろう。
だから、高村誠也が「正解」かどうかは分からないものの、少なくとも「それまでの政治とは異なる理屈で突き進む人」を選ばなければならないし、そうしなければたぶん色んな地方自治体がこれからバタバタと死んでいくのだと思う。
本作は、そういう危機感を煽る作品という風に捉えることも可能だろう。
さて、「高村誠也=石丸伸二」なのだとすれば、石丸伸二の見方も少しは変わるのだが、本作が一体どの程度事実に即しているのかがなんとも判断できないので、石丸伸二への見方もちょっと変えようがないというのが今の感覚だ。まあでも、もしも本作で描かれる高村誠也がそのまま石丸伸二を引き写しているのだとすれば、「見せ方の下手さ」はあるとしても、想いや手腕はかなり素晴らしいものがあるように思う。北東雲市(安芸高田市)の改革が進んでいたら、どうなっていただろうか? 特に、超大手企業の誘致に反対した議員は、現状をどう捉えているのか。
その辺り、聞いてみたいものだなと思う。
「掟」を観に行ってきました