九月が永遠に続けば(沼田まほかる)
世の中から失踪するという発想は、避けがたく僕を魅了し続ける。
社会から隔絶するということ。
どこかに属していなければ、何かに触れていなければ、僕らは生きられないようだ。というか、そういう方向へどんどん進んでいったというべきだろう。あらゆることが分業化され、それらが金と交換される。人類の誕生期には、生産から消費に至るまで、極少数の集団で行われていたはずなのに、いつのまにか、どこまでも誰かに頼らないと生きていけない仕組みになってしまった。
便利ではある。
しかし、何もかもすべてを取り払って、自分を縛り付ける社会という存在から、何とか抜け出したいと、そう思わないだろうか?
僕は、人と関わることが、非常に苦手だ。外面的には、あまりそう見えないように振舞っているつもりである。無理しているということではなく、自分で可能な努力の範囲内でなんとかなる世界に生きている、ということではあるが。
人は誰もが違う考えを持っている。それは、ある面では非常にいいことなのだろう。そうでなければ、芸術も科学もなかったはずだ。しかし、違うからこそ、何を考えているのかわからない。
自分を中心に行動することが出来る人はいいだろう(決して自己中ということではなく)。相手がどういう考えを持っていようと、自分の考えで社会を生きていくことが出来る人ならば、人との関わりは難しいものではないだろう。
しかし、相手の考え方によって、自分の立場や考えをするりと変えて生きていく僕のような人間には、相手の考えを推し量るという、一番重要で一番困難なステップを、どうしても避けて通ることができないし、出来ればそれをしたくないという風に考えてしまいがちである。
人と関わることは、本当に疲れてしまう。自分から交友範囲を広げたりしようとは絶対に思わない。今ある自然で疲れない人間関係を壊さずに生きていこう、とそういう風に考えている。
僕は一時期、自らの意志で、自らの周囲との関係を完全に断ったことがある。世の中からの失踪である。あの時のことは、まあいろんな感想で書いているわけだけど、わかったことは、結局この世界に生きてなければならない限り、どんな形で逃避をしようとも、人間は自由になることは出来ないということだ。自由とは、死を選んだ者か、あるいはこの社会の中で勝った人間だけが得ることの出来るものなのだ。
今の僕は、非常に安定している。僕は、高校時代までは全然安定していなかったし(家族との関係がすべての原因だが)、大学に入ってからも安定しない時期が結構あった。そういう意味では、かなり長いこと安定している方だと思う。
しかし、いつまた逃げたくなる状況になるかわからない。前回は、ここでなくてもどこかに逃げ場があるだろう、という楽観があったからなんとかなった。しかし、今そういう状況に陥ったとして、今の僕はどこにも逃げ場がないことを知っている。そうなった時、僕は死を選ぶことが出来るだろうか?あるいは、無理矢理逃げ場を作ってでも逃避するだろうか?僕にはわからないが、とにかく安定した人生を祈るばかりである。
本作は、失踪した息子を探す母親の物語である。
佐知子は、文彦という高校生の息子との二人暮し。元夫の雄一郎は父親を継いだ精神科医を営んでおり、患者として接した亜沙実と結婚、亜沙実の連れ子である冬子と三人家族になっている。
佐知子は、教習所で知り合った犀田という男と恋仲の関係になる。がそれは、犀田が冬子と付き合っていると知った故の歪んだ愛情なのかもしれなかった。
ある日の夜、文彦にゴミだしを頼んだが、しばらくしても帰ってこない。ナズナという、同じマンション内に住んでいる文彦の同級生や、他の男友達にも聞いてみるが誰も行方を知らない。
文彦がいなくなった。最近、ちょっと様子がおかしいかもしれないとは思っていたけど、それでもまったく心当たりが思いつかない。
まさか、犀田との関係が知られたからだろうか…。
以降、佐知子は文彦を探すためだけの生活になる。ナズナの父親である服部がよく世話を焼いてくれるが、不安定な気持ちから当たってしまうことも多い。いろんな人から話を聞き、断片的な情報は集まるが、それでも何もわからない。
そしてさらに、犀田がホームから転落し死亡したことが知らされる。これは偶然なのか?あるいはもしかして、文彦がやったのだろうか?
憶測と不安が入り混じった不安定な精神状態の中、それでも文彦だけは絶対に見つけてみせると決める佐知子。あらゆる人間関係が錯綜したその先に、果たして文彦は見つかるのだろうか…。
本作の最大の特徴は、その圧倒的な文章のうまさにある。これが新人だろうか?と唸らされるのだ。熟達した作家が書いたかのような、軽やかな筆運びに、圧倒されるのではないだろうか。僕は、ちゃんと文章がうまいだとかどうだとかわかる人間ではないけど、それでも本作は、新人としては桁外れだし、名のある作家と比べてもそこまで遜色ないだろうと思える出来である。
一応著者の年齢を書いておこう。1948年生まれ。50を越えての新人デビューである。やはり、年齢というのは重ねる程に、あらゆることに長けてくるのだろうか?と思ってしまう。僕の考えでは、人間の本質と年齢は関係ないと思っている。どれだけ年を重ねても、経験できないことの方が圧倒的に多いわけで、だったら年齢を積み重ねたからといってどうということはないだろう、と思っている。しかし、年齢の積み重ねが関係あるかはわからないけど、本作の文章はとにかくうまい。
「沼田まほかる」という、性別もわからないふざけた名前だけど、しかし本作の著者は間違いなく女性だろうと思う。これで本作の著者が男性だったら、「高村薫」が「女性」だと知った時並の衝撃を受けるだろう。それほど、女性らしい感性に満ちている。描写が、男はこんな発想はしないだろう、というものが多い(単に僕の発想が貧困な可能性もあるが)。細部に渡り細やかな感情の揺れが描かれていて、非常に見事だと思った。特に、「顔に痣のある女性」のくだりは、男の発想じゃないなと思ったし、綺麗だなとも思いました。
あと僕がうまいと思ったのは、文彦の描写に関してです。文彦という登場人物は、物語の冒頭で失踪してしまうわけで、以降本人が直接登場してキャラクターを見せるという機会が本当に少ないわけです。そんな中で、文彦というキャラクターを、母である佐知子の記憶という形でうまく紹介し、印象付けている点が、素晴らしいなと思いました。もちろんそうすることで、そんなに大事な文彦がいなくなったことに対する佐知子の悲しみも表現できているわけで、うまいなという感じです。
とにかく、話は息子が失踪しそれを探すという、単純で地味なものですが、技巧的な面で新人とは思えない抜群のものがあって、一気読みしてしまうと思います。
本作で僕がもっとも共感した部分は、文彦がふと呟く「きっと、もう限界だったんだ」という部分です。
僕の経験でもありますが、限界というのは徐々にやってくるのではなく、潮が満ちるよりも早く、0が1になるように鮮やかに、一気に到達してしまうものだと思います。もちろん、限界に近づいているという感覚はあります。しかし、まだ大丈夫だろう、まだ到達はしないだろうと、自分の気持ちを騙し、高を括っているうちに、いつの間にか到達してしまうものなのです。
今は、限界の予感もありません。平穏です。よかったと思います。
さて、本作の佐知子と文彦のような構造ですが、ある意味で僕と僕の母親も似たような状況にあると思います。僕はある時に、母親(というか両親)に対して反旗を翻し、ある意味で母親から失踪しました。今僕と家族との関わりは、父親からごくまれに来るメールぐらいで、兄弟とも母親ともまったく連絡を取っていません。
本作を読んで、まあ居場所がわかっているという違いはあるけれども、僕の母親も似たようなことを考え似たような感情を持っているのかな、と少しだけ考えました。もちろんだからと言って、どうしようともなんとかしようとも思わないですが。母親に対して、何らかの感情の変化が生まれたわけではまったくない、ということですね。今もこれからも、まるで何も変わることなく、僕と僕の母親との関係は続いていく、とそういうことです。
人に勧めるほどの作品ではない(というのは、ストーリーがやっぱり地味だからです)けど、読むだけの価値は間違いなくある作品です。今年のこのミスの新人賞選評みたいなコーナーでも、これから新人賞を応募しようという人は、まず本作を読んで勉強してほしい、というような意味のことを書いていました。読んでみてはいかがでしょうか。
沼田まほかる「九月が永遠に続けば」
社会から隔絶するということ。
どこかに属していなければ、何かに触れていなければ、僕らは生きられないようだ。というか、そういう方向へどんどん進んでいったというべきだろう。あらゆることが分業化され、それらが金と交換される。人類の誕生期には、生産から消費に至るまで、極少数の集団で行われていたはずなのに、いつのまにか、どこまでも誰かに頼らないと生きていけない仕組みになってしまった。
便利ではある。
しかし、何もかもすべてを取り払って、自分を縛り付ける社会という存在から、何とか抜け出したいと、そう思わないだろうか?
僕は、人と関わることが、非常に苦手だ。外面的には、あまりそう見えないように振舞っているつもりである。無理しているということではなく、自分で可能な努力の範囲内でなんとかなる世界に生きている、ということではあるが。
人は誰もが違う考えを持っている。それは、ある面では非常にいいことなのだろう。そうでなければ、芸術も科学もなかったはずだ。しかし、違うからこそ、何を考えているのかわからない。
自分を中心に行動することが出来る人はいいだろう(決して自己中ということではなく)。相手がどういう考えを持っていようと、自分の考えで社会を生きていくことが出来る人ならば、人との関わりは難しいものではないだろう。
しかし、相手の考え方によって、自分の立場や考えをするりと変えて生きていく僕のような人間には、相手の考えを推し量るという、一番重要で一番困難なステップを、どうしても避けて通ることができないし、出来ればそれをしたくないという風に考えてしまいがちである。
人と関わることは、本当に疲れてしまう。自分から交友範囲を広げたりしようとは絶対に思わない。今ある自然で疲れない人間関係を壊さずに生きていこう、とそういう風に考えている。
僕は一時期、自らの意志で、自らの周囲との関係を完全に断ったことがある。世の中からの失踪である。あの時のことは、まあいろんな感想で書いているわけだけど、わかったことは、結局この世界に生きてなければならない限り、どんな形で逃避をしようとも、人間は自由になることは出来ないということだ。自由とは、死を選んだ者か、あるいはこの社会の中で勝った人間だけが得ることの出来るものなのだ。
今の僕は、非常に安定している。僕は、高校時代までは全然安定していなかったし(家族との関係がすべての原因だが)、大学に入ってからも安定しない時期が結構あった。そういう意味では、かなり長いこと安定している方だと思う。
しかし、いつまた逃げたくなる状況になるかわからない。前回は、ここでなくてもどこかに逃げ場があるだろう、という楽観があったからなんとかなった。しかし、今そういう状況に陥ったとして、今の僕はどこにも逃げ場がないことを知っている。そうなった時、僕は死を選ぶことが出来るだろうか?あるいは、無理矢理逃げ場を作ってでも逃避するだろうか?僕にはわからないが、とにかく安定した人生を祈るばかりである。
本作は、失踪した息子を探す母親の物語である。
佐知子は、文彦という高校生の息子との二人暮し。元夫の雄一郎は父親を継いだ精神科医を営んでおり、患者として接した亜沙実と結婚、亜沙実の連れ子である冬子と三人家族になっている。
佐知子は、教習所で知り合った犀田という男と恋仲の関係になる。がそれは、犀田が冬子と付き合っていると知った故の歪んだ愛情なのかもしれなかった。
ある日の夜、文彦にゴミだしを頼んだが、しばらくしても帰ってこない。ナズナという、同じマンション内に住んでいる文彦の同級生や、他の男友達にも聞いてみるが誰も行方を知らない。
文彦がいなくなった。最近、ちょっと様子がおかしいかもしれないとは思っていたけど、それでもまったく心当たりが思いつかない。
まさか、犀田との関係が知られたからだろうか…。
以降、佐知子は文彦を探すためだけの生活になる。ナズナの父親である服部がよく世話を焼いてくれるが、不安定な気持ちから当たってしまうことも多い。いろんな人から話を聞き、断片的な情報は集まるが、それでも何もわからない。
そしてさらに、犀田がホームから転落し死亡したことが知らされる。これは偶然なのか?あるいはもしかして、文彦がやったのだろうか?
憶測と不安が入り混じった不安定な精神状態の中、それでも文彦だけは絶対に見つけてみせると決める佐知子。あらゆる人間関係が錯綜したその先に、果たして文彦は見つかるのだろうか…。
本作の最大の特徴は、その圧倒的な文章のうまさにある。これが新人だろうか?と唸らされるのだ。熟達した作家が書いたかのような、軽やかな筆運びに、圧倒されるのではないだろうか。僕は、ちゃんと文章がうまいだとかどうだとかわかる人間ではないけど、それでも本作は、新人としては桁外れだし、名のある作家と比べてもそこまで遜色ないだろうと思える出来である。
一応著者の年齢を書いておこう。1948年生まれ。50を越えての新人デビューである。やはり、年齢というのは重ねる程に、あらゆることに長けてくるのだろうか?と思ってしまう。僕の考えでは、人間の本質と年齢は関係ないと思っている。どれだけ年を重ねても、経験できないことの方が圧倒的に多いわけで、だったら年齢を積み重ねたからといってどうということはないだろう、と思っている。しかし、年齢の積み重ねが関係あるかはわからないけど、本作の文章はとにかくうまい。
「沼田まほかる」という、性別もわからないふざけた名前だけど、しかし本作の著者は間違いなく女性だろうと思う。これで本作の著者が男性だったら、「高村薫」が「女性」だと知った時並の衝撃を受けるだろう。それほど、女性らしい感性に満ちている。描写が、男はこんな発想はしないだろう、というものが多い(単に僕の発想が貧困な可能性もあるが)。細部に渡り細やかな感情の揺れが描かれていて、非常に見事だと思った。特に、「顔に痣のある女性」のくだりは、男の発想じゃないなと思ったし、綺麗だなとも思いました。
あと僕がうまいと思ったのは、文彦の描写に関してです。文彦という登場人物は、物語の冒頭で失踪してしまうわけで、以降本人が直接登場してキャラクターを見せるという機会が本当に少ないわけです。そんな中で、文彦というキャラクターを、母である佐知子の記憶という形でうまく紹介し、印象付けている点が、素晴らしいなと思いました。もちろんそうすることで、そんなに大事な文彦がいなくなったことに対する佐知子の悲しみも表現できているわけで、うまいなという感じです。
とにかく、話は息子が失踪しそれを探すという、単純で地味なものですが、技巧的な面で新人とは思えない抜群のものがあって、一気読みしてしまうと思います。
本作で僕がもっとも共感した部分は、文彦がふと呟く「きっと、もう限界だったんだ」という部分です。
僕の経験でもありますが、限界というのは徐々にやってくるのではなく、潮が満ちるよりも早く、0が1になるように鮮やかに、一気に到達してしまうものだと思います。もちろん、限界に近づいているという感覚はあります。しかし、まだ大丈夫だろう、まだ到達はしないだろうと、自分の気持ちを騙し、高を括っているうちに、いつの間にか到達してしまうものなのです。
今は、限界の予感もありません。平穏です。よかったと思います。
さて、本作の佐知子と文彦のような構造ですが、ある意味で僕と僕の母親も似たような状況にあると思います。僕はある時に、母親(というか両親)に対して反旗を翻し、ある意味で母親から失踪しました。今僕と家族との関わりは、父親からごくまれに来るメールぐらいで、兄弟とも母親ともまったく連絡を取っていません。
本作を読んで、まあ居場所がわかっているという違いはあるけれども、僕の母親も似たようなことを考え似たような感情を持っているのかな、と少しだけ考えました。もちろんだからと言って、どうしようともなんとかしようとも思わないですが。母親に対して、何らかの感情の変化が生まれたわけではまったくない、ということですね。今もこれからも、まるで何も変わることなく、僕と僕の母親との関係は続いていく、とそういうことです。
人に勧めるほどの作品ではない(というのは、ストーリーがやっぱり地味だからです)けど、読むだけの価値は間違いなくある作品です。今年のこのミスの新人賞選評みたいなコーナーでも、これから新人賞を応募しようという人は、まず本作を読んで勉強してほしい、というような意味のことを書いていました。読んでみてはいかがでしょうか。
沼田まほかる「九月が永遠に続けば」
リピート(乾くるみ)
さて、何について書こうか。
「パラレルワールド」「クローズドサークル」「ミッシングリンク」「時間旅行」といったようなキーワードが挙げられる。
パラレルワールド、という考えは、ちょっと面白い。平行世界とも呼ばれるもので、ほとんど同じような世界が、平行して存在するというような話である。SFだとかマンガだとかではよく出てきたのではないかと思うけど(ドラえもんの話で、ほとんど同じなんだけど地球とは左右が反対、という星での話があったのを覚えている)、最近は物理学者もそんなようなことを言っていたりする。多世界解釈という考え方で、これは不確定性原理(だったと思うんだけど)をうまく解釈するために出された仮説(というかなんというか)で、そういう風に考えることも出来るという話だけれども、真面目に物理学者も提唱するような話になってきている。
大分余談だけど、パラレルワールドという言葉で思い出すのは、東野圭吾の「パラレルワールド・ラブストーリー」という話である。あの小説の冒頭のシーンは、大分いい。あの部分を読むと、パラレルワールドのイメージがしやすい。
パラレルワールドが存在してもいいと僕は思う。ただ、どう頑張ったって僕らにそれを確認する術はないわけで(そんなものが観測されるとはちょっと思えない)、だからまあ関わりのある話じゃないって感じにはなるけど。でも、そういう風に考えてみるのは、ちょっと面白い。
クローズドサークル、というのはミステリーにはちょくちょく出てくる言葉だ。要するに、「警察を呼ばないで話を進めたいがために作り出された設定」のことであり、嵐の山荘物、というような言い方もされる。雪山のロッジで人が殺される。電話線は切れ、なんとか連絡がついたとしても雪で警察はやってこれない。そういうような状況のことを指す。確かに、ミステリにとって警察というのは厄介な存在で、殺人が起これば出さないわけにはいかないんだけど、出すと面白くなくなるというジレンマを破ろうとあがいた結果なわけです。
本作は、帯にも書かれているように、「掟破りのクローズドサークル」です。本当に、こんな状況設定が可能なのか、というかよく思いついたなというような感じです。大抵のクローズドサークルは、ちょっと無理矢理警察が介入できない状況にしてしまうという強引なものが多いのにも関わらず、本作は極々自然にクローズドサークルになっているという、そんな見事な設定なわけです(とは言っても、大前提で非物理的な設定があるので、そこを許容できない人にはまったく自然ではないんだろうけど)。クローズドサークルを扱った小説は、ちょっと陳腐になりがちだけど、本作はそこをうまくクリアしています。
ミッシングリンクも、ミステリーにはよく出てくる言葉ですね。一見無関係に見える被害者の間の関係のことを指しますが、これも本作では捻って扱われていて、一般の普通の人には関係性は見えないのだけど、当事者達には関連性がわかってしまう、という感じです。これもかなり斬新な発想ではないかなという感じがします。
時間旅行については、SFを初め最近は普通の小説でもよく使われるので、何かしら読んだことがあるのではないかと思いますが、僕個人の意見としては、ミステリで時間旅行を扱うのはちょっと止めて欲しいかなと思っています。というのも、ミステリ作家が時間旅行を扱う場合、読者の視点からすると、その時間旅行の部分にも何かトリックがあるのではないか(つまり、時間旅行をしているように見せて実はしていないということ)という感覚を捨て去ることが出来ないからです。貫井徳郎の「さよならの代わりに」という小説を読んだのですが、完全にネタバレになりますが、あれも時間旅行を扱った作品です。でも僕は読んでいるうちに、時間旅行をしたと言っている登場人物は、実は現代の人間で、トリックを使ってそう見せているだけなのではないか、という思いを読み終わるまで捨て去ることができませんでした。ちょっと、落ち着いて読めませんね。まあやるなとは言いませんが、せめて時間旅行の部分にトリックはないことを、どこかに明記して欲しいものだと思います。本作を読んでいる時も、そんな感覚を捨てることができませんでした。
時間旅行が出来たら、という妄想は誰もがしたことがあるでしょう。こういう話は結構いろんなところで書いた(確か重松清の「流星ワゴン」の感想でも書いた)から省略しようと思うのだけど、でも自分が本作のような設定で時間旅行ができるとしたら、やっぱり競馬ぐらいだろうなと思います。ちょっと夢のない時間旅行だったりします。そういえば、非連続な時間旅行(説明が難しいけど、連続した数直線状の時間を行き来するのではなく、平行に存在するパラレルワールドのある時間を行き来するというスタイル)という設定の小説も、まあもちろん本作の発送の元になっている小説はあるのだろうけど、でもなかなかないだろうなと思います。
その、本作の元になっているという小説は、作家はわからないけど「リプレイ」という外国の作家のものらしいです。時間旅行に関する設定は同じ感じらしいです。それに、アガサクリスティーの「そして誰もいなくなった」を組み合わせた小説。なかなか豪華(といっても「リプレイ」の方は知らないけど)ですな。
内容に入ります。
主人公の毛利は大学生。水商売のアシスタントのようなバイトをしている普通の学生である。そんな彼の元にある日突然、こんな電話が掛かって来た。
「今から一時間後の午後五時四十五分に、地震が起きます」
その電話で男は、震度すらも予言して見せた。もちろん初めはそんなこと信じなかったけど、実際に時刻も震度も正確に地震が起こった。今の技術でそこまでの予知は不可能である。しばらくして掛かって来た電話で男は、リピートという、特殊な時間旅行の話をし、それを体験してみないかと誘いかけたのだ。
半信半疑のままで指定された場所へと行くと、何人かが既にいた。電話を掛けてきた男は風間といい、風間を含めて10人が集まった。
そこで、リピートという時間旅行についての説明がされる。
ある日のある時間にある場所にいると、時空の裂け目のようなものが現れ、そこを潜ると、約10ヶ月前のある日に戻る。しかし戻るのは自分の意識だけ。未来の記憶を持ったまま、10ヶ月前の過去に戻ることが出来る。リピートとはそういうものらしい。
競馬のデータを覚えて行けば大勝できる。そういう話をされ、それでもまだ半信半疑のまま、解散となる。
その日に集まったメンバーで後日話し合いをしたり、意見交換をし、様々な仮説を立て、反証を試みようとしたが、二度目の地震の予言をされると、もはや信じないわけにはいかなくなった。
リピート当日。全員集まった中で、リピートが実行される。
10ヶ月前に本当に戻った。
しばらく、不自然さと優越感がない交ぜになりながらも、リピーターとして過ごしていたが、徐々にリピーターが、図ったかのように命を落としていくことになる。
リピーターの秘密を知った何者かが、リピーターを殺しているのだろうか?もしかしたらその犯人が、リピーターの中にいるというのだろうか?
一人減り二人減りと、徐々にメンバーがいなくなっていく中で、生き残りを掛けた、敵のわからない勝負が続いていく…。
という感じでしょうか。
この乾くるみという作家、かなり侮れないです。デビュー作の「Jの神話」は、ミステリかと思いきや…、という内容である意味度肝を抜き、「塔の断章」はその奇抜な構成とラストに明かされる真実で読者を驚かせ、「イニシエーションラブ」では、読み終えるまで、というか読み終えてもどこがミステリだったのかさっぱりわからず、でもそれを知ってうわまじやばくないそれ、というようなそんな感じに読者を混乱させ、そして本作で、緻密な論理によって構成された奇抜でアクロバティックなその設定でミステリ玄人を楽しませる、本当に多彩というか、一作ごとに何かにチャレンジしているというか、そんな印象を受ける作家です。
また、叙述トリック(もあるけれど)以外で、もう一回読まなきゃという風に思わせてくれる稀有な作家でもあります(もう一回読みたいはあるけど、読まなきゃと思わせる作家はなかなかいないかと)。
本作も、リピート後に、リピーター仲間がどんどんと殺されていくのですが、本当にその真相の発想は、なるほどどうかというような感じで、うまいなと思わせてくれました。確か数学科出身だったはずで、だからかもしれないけど、ものすごく論理に強い印象を受けます。
本作では、リピートという現象について、物理的な解釈をしようと試みる登場人物がいて、その解釈がなかなか面白いな、と感じました。人工生命のくだりですが、結局0と1なんだろう、という感じです。
不満なのは、ちょっとラストが微妙かなって感じです。ここまで設定にもストーリーにも捻りがあるのだから、ラストももっと捻ってくれてもよかったかなと。僕は思いつかないけど、もっと魅力的なラストの持っていき方があったのではないかな、という感じがしてしまいます。なんていって、要求が酷かもしれませんが。
サクサク読めてかなり面白いので、軽く読める作品ではないかなと思います。是非読んで欲しいなと思います。
乾くるみ「リピート」
「パラレルワールド」「クローズドサークル」「ミッシングリンク」「時間旅行」といったようなキーワードが挙げられる。
パラレルワールド、という考えは、ちょっと面白い。平行世界とも呼ばれるもので、ほとんど同じような世界が、平行して存在するというような話である。SFだとかマンガだとかではよく出てきたのではないかと思うけど(ドラえもんの話で、ほとんど同じなんだけど地球とは左右が反対、という星での話があったのを覚えている)、最近は物理学者もそんなようなことを言っていたりする。多世界解釈という考え方で、これは不確定性原理(だったと思うんだけど)をうまく解釈するために出された仮説(というかなんというか)で、そういう風に考えることも出来るという話だけれども、真面目に物理学者も提唱するような話になってきている。
大分余談だけど、パラレルワールドという言葉で思い出すのは、東野圭吾の「パラレルワールド・ラブストーリー」という話である。あの小説の冒頭のシーンは、大分いい。あの部分を読むと、パラレルワールドのイメージがしやすい。
パラレルワールドが存在してもいいと僕は思う。ただ、どう頑張ったって僕らにそれを確認する術はないわけで(そんなものが観測されるとはちょっと思えない)、だからまあ関わりのある話じゃないって感じにはなるけど。でも、そういう風に考えてみるのは、ちょっと面白い。
クローズドサークル、というのはミステリーにはちょくちょく出てくる言葉だ。要するに、「警察を呼ばないで話を進めたいがために作り出された設定」のことであり、嵐の山荘物、というような言い方もされる。雪山のロッジで人が殺される。電話線は切れ、なんとか連絡がついたとしても雪で警察はやってこれない。そういうような状況のことを指す。確かに、ミステリにとって警察というのは厄介な存在で、殺人が起これば出さないわけにはいかないんだけど、出すと面白くなくなるというジレンマを破ろうとあがいた結果なわけです。
本作は、帯にも書かれているように、「掟破りのクローズドサークル」です。本当に、こんな状況設定が可能なのか、というかよく思いついたなというような感じです。大抵のクローズドサークルは、ちょっと無理矢理警察が介入できない状況にしてしまうという強引なものが多いのにも関わらず、本作は極々自然にクローズドサークルになっているという、そんな見事な設定なわけです(とは言っても、大前提で非物理的な設定があるので、そこを許容できない人にはまったく自然ではないんだろうけど)。クローズドサークルを扱った小説は、ちょっと陳腐になりがちだけど、本作はそこをうまくクリアしています。
ミッシングリンクも、ミステリーにはよく出てくる言葉ですね。一見無関係に見える被害者の間の関係のことを指しますが、これも本作では捻って扱われていて、一般の普通の人には関係性は見えないのだけど、当事者達には関連性がわかってしまう、という感じです。これもかなり斬新な発想ではないかなという感じがします。
時間旅行については、SFを初め最近は普通の小説でもよく使われるので、何かしら読んだことがあるのではないかと思いますが、僕個人の意見としては、ミステリで時間旅行を扱うのはちょっと止めて欲しいかなと思っています。というのも、ミステリ作家が時間旅行を扱う場合、読者の視点からすると、その時間旅行の部分にも何かトリックがあるのではないか(つまり、時間旅行をしているように見せて実はしていないということ)という感覚を捨て去ることが出来ないからです。貫井徳郎の「さよならの代わりに」という小説を読んだのですが、完全にネタバレになりますが、あれも時間旅行を扱った作品です。でも僕は読んでいるうちに、時間旅行をしたと言っている登場人物は、実は現代の人間で、トリックを使ってそう見せているだけなのではないか、という思いを読み終わるまで捨て去ることができませんでした。ちょっと、落ち着いて読めませんね。まあやるなとは言いませんが、せめて時間旅行の部分にトリックはないことを、どこかに明記して欲しいものだと思います。本作を読んでいる時も、そんな感覚を捨てることができませんでした。
時間旅行が出来たら、という妄想は誰もがしたことがあるでしょう。こういう話は結構いろんなところで書いた(確か重松清の「流星ワゴン」の感想でも書いた)から省略しようと思うのだけど、でも自分が本作のような設定で時間旅行ができるとしたら、やっぱり競馬ぐらいだろうなと思います。ちょっと夢のない時間旅行だったりします。そういえば、非連続な時間旅行(説明が難しいけど、連続した数直線状の時間を行き来するのではなく、平行に存在するパラレルワールドのある時間を行き来するというスタイル)という設定の小説も、まあもちろん本作の発送の元になっている小説はあるのだろうけど、でもなかなかないだろうなと思います。
その、本作の元になっているという小説は、作家はわからないけど「リプレイ」という外国の作家のものらしいです。時間旅行に関する設定は同じ感じらしいです。それに、アガサクリスティーの「そして誰もいなくなった」を組み合わせた小説。なかなか豪華(といっても「リプレイ」の方は知らないけど)ですな。
内容に入ります。
主人公の毛利は大学生。水商売のアシスタントのようなバイトをしている普通の学生である。そんな彼の元にある日突然、こんな電話が掛かって来た。
「今から一時間後の午後五時四十五分に、地震が起きます」
その電話で男は、震度すらも予言して見せた。もちろん初めはそんなこと信じなかったけど、実際に時刻も震度も正確に地震が起こった。今の技術でそこまでの予知は不可能である。しばらくして掛かって来た電話で男は、リピートという、特殊な時間旅行の話をし、それを体験してみないかと誘いかけたのだ。
半信半疑のままで指定された場所へと行くと、何人かが既にいた。電話を掛けてきた男は風間といい、風間を含めて10人が集まった。
そこで、リピートという時間旅行についての説明がされる。
ある日のある時間にある場所にいると、時空の裂け目のようなものが現れ、そこを潜ると、約10ヶ月前のある日に戻る。しかし戻るのは自分の意識だけ。未来の記憶を持ったまま、10ヶ月前の過去に戻ることが出来る。リピートとはそういうものらしい。
競馬のデータを覚えて行けば大勝できる。そういう話をされ、それでもまだ半信半疑のまま、解散となる。
その日に集まったメンバーで後日話し合いをしたり、意見交換をし、様々な仮説を立て、反証を試みようとしたが、二度目の地震の予言をされると、もはや信じないわけにはいかなくなった。
リピート当日。全員集まった中で、リピートが実行される。
10ヶ月前に本当に戻った。
しばらく、不自然さと優越感がない交ぜになりながらも、リピーターとして過ごしていたが、徐々にリピーターが、図ったかのように命を落としていくことになる。
リピーターの秘密を知った何者かが、リピーターを殺しているのだろうか?もしかしたらその犯人が、リピーターの中にいるというのだろうか?
一人減り二人減りと、徐々にメンバーがいなくなっていく中で、生き残りを掛けた、敵のわからない勝負が続いていく…。
という感じでしょうか。
この乾くるみという作家、かなり侮れないです。デビュー作の「Jの神話」は、ミステリかと思いきや…、という内容である意味度肝を抜き、「塔の断章」はその奇抜な構成とラストに明かされる真実で読者を驚かせ、「イニシエーションラブ」では、読み終えるまで、というか読み終えてもどこがミステリだったのかさっぱりわからず、でもそれを知ってうわまじやばくないそれ、というようなそんな感じに読者を混乱させ、そして本作で、緻密な論理によって構成された奇抜でアクロバティックなその設定でミステリ玄人を楽しませる、本当に多彩というか、一作ごとに何かにチャレンジしているというか、そんな印象を受ける作家です。
また、叙述トリック(もあるけれど)以外で、もう一回読まなきゃという風に思わせてくれる稀有な作家でもあります(もう一回読みたいはあるけど、読まなきゃと思わせる作家はなかなかいないかと)。
本作も、リピート後に、リピーター仲間がどんどんと殺されていくのですが、本当にその真相の発想は、なるほどどうかというような感じで、うまいなと思わせてくれました。確か数学科出身だったはずで、だからかもしれないけど、ものすごく論理に強い印象を受けます。
本作では、リピートという現象について、物理的な解釈をしようと試みる登場人物がいて、その解釈がなかなか面白いな、と感じました。人工生命のくだりですが、結局0と1なんだろう、という感じです。
不満なのは、ちょっとラストが微妙かなって感じです。ここまで設定にもストーリーにも捻りがあるのだから、ラストももっと捻ってくれてもよかったかなと。僕は思いつかないけど、もっと魅力的なラストの持っていき方があったのではないかな、という感じがしてしまいます。なんていって、要求が酷かもしれませんが。
サクサク読めてかなり面白いので、軽く読める作品ではないかなと思います。是非読んで欲しいなと思います。
乾くるみ「リピート」
STAR EGG 星の玉子さま(森博嗣)
今日はクリスマス。クリスマスに読むのにも、クリスマスに贈るのにも、うってつけの作品かもしれません。
僕たちは、日々様々な価値観に縛られながら生きています。それは、生きる上でのルールのようでもあり、戦うための武器のようでもあり、守るための盾のようでもありますが、そうしたものをどれだけ捨て去ることができるか、という指標が、人の豊かさを表すのではないか、と考えています。
例えば、親に勉強しなさい、と言われたような経験がある人は多いでしょう(実は僕は言われたことはないのですが)。その時に親は、何故勉強しなければいけないか、という理由をどう説明していましたか?あるいは説明していなかったかもしれません。
勉強をすることが悪いことでは決してありません。かと言って、無条件にいいことなのか、と言われれば首を傾げざるおえないでしょう。それがどんなものであっても、目的を持ってやるべきだし、目的を持って止めるべきではないかと思うのです。僕がもしも結婚するようなことがあり、子供が生まれるようなことがあったら、無闇に勉強しなさいとは言わないでしょう。僕なら、僕に出来る限り、ありとあらゆる可能性・選択肢を提示してあげたい、とそう考えます。
僕らは、生まれた時は知るはずもない様々な価値観を、自分のいる環境から学んでいきます。それは、大抵は家庭か学校といった場所になるでしょう。学校は、問題がないわけではないけど、でも全員に対して平均的に同じような価値観を与えようとする場だろうから(それはそれで問題なのだけど)、まあいいとして、家庭で与えられる価値観というものは、親の価値観に拠っているわけで、なんだかそれを鵜呑みにしてきたんだと思うと、ちょっと怖い気もします。
僕らは、もっともっと、他人の価値観に触れるべきなんだろう、と思います。価値観の相違が、取り返しのつかない誤解を生むことだってあるはずです。相手の価値観を無条件に受け入れる必要はまったくありません。こういう価値観もあるんだ、という形で取り入れることは大事だと思います。
価値観を確認しあう、というのは実は難しいことです。まず、何が違うのかすらわからないわけですから、何について話し合ったりすればいいのかも、もちろんわからないわけです。
そんな時、基準となるようなお題があったら、いいかと思います。
長く話をしてきましたが、本作はそんな、価値観の確認の題材として、とても有益な本ではないか、と僕は感じました。
本作の構成について書きます。まず設定ですが、玉子さまという少年とジュペリという犬が出てきます。玉子さまはある小さな星に一人で住んでいて、おじいさんの作ってくれたロケットで近くの星を巡るのが楽しみです。
というわけで、見開きに一つの星の紹介、という形で、様々な特徴を持った星が紹介されます。左に絵、右に文という形で、絵も文も共に森博嗣が書いたものです。
それぞれの星に赴いた玉子さまは、そこでいろいろ不思議な疑問にぶつかります。これをこうしたらどうなるのだろう?これはどうしてこうなのだろう?それらに答えはありません。疑問のままで残されます。
その、それぞれの星に残された疑問について、誰かと語り合って見る。そういう形で楽しむのがもっともいい本ではないかと思います。
どの星のページを読んでも、なるほどと思わせるような内容なのですが、「木こりの星」というページ以降は、より示唆に富んだ内容になっていて、かなり奥が深いです。「木こりたちの星」については、森博嗣があらゆる場で言い続けてきたことが書かれていますが、本作で読んでみると、改めてなるほど、という感じです。イメージがとてもしやすい。
「もし地球が100人の村だったら」とかいうタイトルの本が一時期有名になったと思いますが(僕は読んだことはありませんが)、雰囲気的にはそんな感じの作品のような気がします。とにかく、あらゆる星を登場させ、その星を何かの縮図に見立てているように見え、それについて抽象的に考えることが出来る、という点で本作は面白いです。
僕は本当に、是非ともに読んで欲しいと思います。もちろん一人で読んでもいいですが、親が子に語ったり、恋人同士で眺めたり、友達どうしで考えたり、そういうことの出来る絵本でもあります。お勧めです。
本作については、著者の森博嗣が、自著の中で初めて人に読ませたいと思った作品だそうです。そこで森博嗣は、本作を1000人の人にプレゼントするという企画を実行に移しています。誰にあげていいのかわからないから、この人がいいと推してくれ、とHP上で呼びかけていて、1000冊までもうすぐだそうです。確かに、多くの人に読まれて欲しいと思います。
さらに本作はすごい試みがなされています。本作は定価1000円なのですが、これは絵本としてはかなり安いと感じるのではないでしょうか?実は、森博嗣は自ら希望して、本作の著者印税を0にしてもらったそうです。つまり、本作をどれだけ多くの人が買ってくれても、どれだけ増刷されようとも、森博嗣の元には1円たりとも入ってこないのです。これも、より多くの人に読んで欲しいという森博嗣の願いから実現したもので、なかなか凄いです。先ほどの、1000冊プレゼントも、森博嗣が自ら自腹で1000冊を買い上げ、それをあげるという形を取っているので、森博嗣は損ばかりです。逆にいえば、そうまでしても本作を多くの人に読んでもらいたいという意志が、ひしひしと伝わってきます。
書店にはなかなか並んでいないかもしれません。少なくてもうちの書店にはないでしょう(非常に残念なことに。僕が児童書の担当なら間違いなく積みますが)。僕は、古本屋で探し続けて、今日やっとみつけました。ラッキーです。クリスマスプレゼントだと思うことにします。
というわけで皆さん、是非どうにかして手に入れ、是非とも読み、語って欲しいものだと思います。
森博嗣「STAR EGG 星の玉子さま」
僕たちは、日々様々な価値観に縛られながら生きています。それは、生きる上でのルールのようでもあり、戦うための武器のようでもあり、守るための盾のようでもありますが、そうしたものをどれだけ捨て去ることができるか、という指標が、人の豊かさを表すのではないか、と考えています。
例えば、親に勉強しなさい、と言われたような経験がある人は多いでしょう(実は僕は言われたことはないのですが)。その時に親は、何故勉強しなければいけないか、という理由をどう説明していましたか?あるいは説明していなかったかもしれません。
勉強をすることが悪いことでは決してありません。かと言って、無条件にいいことなのか、と言われれば首を傾げざるおえないでしょう。それがどんなものであっても、目的を持ってやるべきだし、目的を持って止めるべきではないかと思うのです。僕がもしも結婚するようなことがあり、子供が生まれるようなことがあったら、無闇に勉強しなさいとは言わないでしょう。僕なら、僕に出来る限り、ありとあらゆる可能性・選択肢を提示してあげたい、とそう考えます。
僕らは、生まれた時は知るはずもない様々な価値観を、自分のいる環境から学んでいきます。それは、大抵は家庭か学校といった場所になるでしょう。学校は、問題がないわけではないけど、でも全員に対して平均的に同じような価値観を与えようとする場だろうから(それはそれで問題なのだけど)、まあいいとして、家庭で与えられる価値観というものは、親の価値観に拠っているわけで、なんだかそれを鵜呑みにしてきたんだと思うと、ちょっと怖い気もします。
僕らは、もっともっと、他人の価値観に触れるべきなんだろう、と思います。価値観の相違が、取り返しのつかない誤解を生むことだってあるはずです。相手の価値観を無条件に受け入れる必要はまったくありません。こういう価値観もあるんだ、という形で取り入れることは大事だと思います。
価値観を確認しあう、というのは実は難しいことです。まず、何が違うのかすらわからないわけですから、何について話し合ったりすればいいのかも、もちろんわからないわけです。
そんな時、基準となるようなお題があったら、いいかと思います。
長く話をしてきましたが、本作はそんな、価値観の確認の題材として、とても有益な本ではないか、と僕は感じました。
本作の構成について書きます。まず設定ですが、玉子さまという少年とジュペリという犬が出てきます。玉子さまはある小さな星に一人で住んでいて、おじいさんの作ってくれたロケットで近くの星を巡るのが楽しみです。
というわけで、見開きに一つの星の紹介、という形で、様々な特徴を持った星が紹介されます。左に絵、右に文という形で、絵も文も共に森博嗣が書いたものです。
それぞれの星に赴いた玉子さまは、そこでいろいろ不思議な疑問にぶつかります。これをこうしたらどうなるのだろう?これはどうしてこうなのだろう?それらに答えはありません。疑問のままで残されます。
その、それぞれの星に残された疑問について、誰かと語り合って見る。そういう形で楽しむのがもっともいい本ではないかと思います。
どの星のページを読んでも、なるほどと思わせるような内容なのですが、「木こりの星」というページ以降は、より示唆に富んだ内容になっていて、かなり奥が深いです。「木こりたちの星」については、森博嗣があらゆる場で言い続けてきたことが書かれていますが、本作で読んでみると、改めてなるほど、という感じです。イメージがとてもしやすい。
「もし地球が100人の村だったら」とかいうタイトルの本が一時期有名になったと思いますが(僕は読んだことはありませんが)、雰囲気的にはそんな感じの作品のような気がします。とにかく、あらゆる星を登場させ、その星を何かの縮図に見立てているように見え、それについて抽象的に考えることが出来る、という点で本作は面白いです。
僕は本当に、是非ともに読んで欲しいと思います。もちろん一人で読んでもいいですが、親が子に語ったり、恋人同士で眺めたり、友達どうしで考えたり、そういうことの出来る絵本でもあります。お勧めです。
本作については、著者の森博嗣が、自著の中で初めて人に読ませたいと思った作品だそうです。そこで森博嗣は、本作を1000人の人にプレゼントするという企画を実行に移しています。誰にあげていいのかわからないから、この人がいいと推してくれ、とHP上で呼びかけていて、1000冊までもうすぐだそうです。確かに、多くの人に読まれて欲しいと思います。
さらに本作はすごい試みがなされています。本作は定価1000円なのですが、これは絵本としてはかなり安いと感じるのではないでしょうか?実は、森博嗣は自ら希望して、本作の著者印税を0にしてもらったそうです。つまり、本作をどれだけ多くの人が買ってくれても、どれだけ増刷されようとも、森博嗣の元には1円たりとも入ってこないのです。これも、より多くの人に読んで欲しいという森博嗣の願いから実現したもので、なかなか凄いです。先ほどの、1000冊プレゼントも、森博嗣が自ら自腹で1000冊を買い上げ、それをあげるという形を取っているので、森博嗣は損ばかりです。逆にいえば、そうまでしても本作を多くの人に読んでもらいたいという意志が、ひしひしと伝わってきます。
書店にはなかなか並んでいないかもしれません。少なくてもうちの書店にはないでしょう(非常に残念なことに。僕が児童書の担当なら間違いなく積みますが)。僕は、古本屋で探し続けて、今日やっとみつけました。ラッキーです。クリスマスプレゼントだと思うことにします。
というわけで皆さん、是非どうにかして手に入れ、是非とも読み、語って欲しいものだと思います。
森博嗣「STAR EGG 星の玉子さま」
ハリーポッターと賢者の石(J・K・ローリング)
ハリーポッターの感想だけど、ディズニーの話をしようと思う。
何故ディズニーはあそこまで熱狂されるのか?
最近、ディズニーシーに行く機会があった。僕にとっては生まれて初めて(ディズニーランドは小六が最後だが)だったが、とにかく圧倒された。あんなすごいテーマパークはないし、というか既にテーマパークのレベルを超えている。
あの空間が、まるまる別次元であるかのようなのだ。日本にいるということが信じられなくなるくらいだ。
もちろん、アトラクションも面白い。ショーはそこまで興味があるわけではないけど、でもかなり幻想的だし、手が込んでるなとも思う。でも、そういうところなら他のテーマパークだってやっているかもしれないし、やろうと思えば出来るかもしれない。
そうではなくて、ディズニーの最大の魅力は、その細部のリアリティにあるのではないかと思う。
統一感のある世界観を作り上げよう、という発想がまずなければああいうものは作れない。
どこを見ても、何かがある。立ち止まったり近づいてみたいと思わせるような何かが、そこら中にある。ウォーリーみたいに、まだ何かあるんじゃないか、と思わせるような空間がそこに設定されている。
うまいな、と思ったのは、アトラクションに並んでいるときのことも考えられている点だ。あれだけのテーマパークだから、必然的に並ばないとアトラクションには乗れない。他のテーマパークでは、ただの通路に客を並ばせるけれども、ディズニーは並ばせるところも面白み溢れる空間に作り上げて、客を決して飽きさせない。
これは、リピーターが沢山生まれるのも分かるし、他のテーマパークは太刀打ちできないわ、と心底感じたものだ。
さて、ハリーポッターの話であるが、この作品を読んでいて僕はディズニーを連想したのだ。小説とテーマパークという、あまりにも異分野の二つだけれども、似ているなと感じた。結果として、世界最大級のテーマパークと世界最大級のセールスを記録した小説、という似たような結果も生み出してはいるのだけれども。
ディズニーに行く人とハリーポッターを読む人の感覚は、本当に似たようなものではないかと思う。初めて触れる人は、その世界にまず圧倒される。魅力的なアトラクション(キャラクター)や破綻のない世界観(ストーリー)、そして細部までこだわりぬかれた作りに、凄いなと感じる。そしてそれからは、まだ見つけていない何かがあるんじゃないか、と考えてリピーターになる。構造が同じだ。
もちろん、ハリーポッターのような特徴を持った作品は他にも沢山あるだろう。ただ、商業的にここまで成功したのには、もう一つ他の作品とは大きく違う点があると思う。
それは、ディズニーもそうだろうが、まず子供の心を掴むということだ。
本作は別に、子供向けとして書かれているわけではない。それはディズニーが子供向けではないのと同じだ。しかし、子供の心をがっしり掴んで離さない。作品の質が高いこともあるだろうが、まず子供を熱狂させるというのが、商業的に成功した理由ではないかなと思う。
さて、もう一つの話題。
魔法が使えたら何をするか、と考えたことは、少なからずあるのではないだろうか?
僕は、魔法とは少し違うんだろうけど、ドラえもんの「もしもボックス」がもしあったら何をしようか、と考えたkとがたぶんあったはず。その時何を考えたかは覚えていないけど。奇しくも、確か映画でのストーリーだったと思うが、のび太がもしもボックスで、魔法を使える世界にしてほしい、と願ってそうなってしまった、というような話があった。
今だったらどうだろう。僕は、自覚しているけれども、本当に欲がない。大抵の人が思い浮かべるような欲を、強く願ったことが本当にない。今、魔法が使えたりもしもボックスがあったとして、僕は何がしたいだろう。食べものを口にしなくても生きていける体にしてほしい、掃除・洗濯をしなくてもよくしてほしい、死ぬまでぎりぎりお金に困らないだけのお金が欲しい、読むスピードを変えることなく(速読みたいな感じで本は読みたくない)今の100倍の量の本を読みたい、作家になりたい、とまあそんな感じだろうか。僕に欲がないことをわかっていただけるだろうか?
しかし、魔法が文化とうか技術として存在するなら、面白いかもしれない。困っている人が助かるような魔法ならなおいい。いばっている人や金持ちがよりよくなるような魔法ならいらないけど。
さて、というわけで内容に入ろうと思います。
と書いてはみたものの、ほとんどの人は内容を知っているんではないか?と思ってしまうほど本作は売れています。僕が働いている本屋でも、ハリーポッターの発売日はすごいものでした。確か5巻の発売の時だったと思うけど、普段の売上の二倍以上にもなり、しかも1日の売上の半分がハリーポッターでした。まあ一応書いてみましょうか。
ヴォルデモートという最悪の魔法使いに出会って唯一殺されずに済んだ幼子。魔法使いだった両親が殺されたため親戚の家に預けられることになったその幼子こそ、ハリーポッターでした。
ハリーは少年と呼ばれる年齢になりました。親戚の家で形見の狭い生活を強いられています。ハリーは、自分の出自については何も知らされてはいなかったけど、ある日届いたハリー宛の手紙によって、ハリーの人生は大きく変わります。
魔法学校への入学許可書。
ハリーは、自分が有名人であることに戸惑いながらも、学園生活をスタートさせていきます。
しかしその内に、ハリーは学園内の不穏な動きに図らずも気付いてしまいます。「賢者の石」と呼ばれる力を持った石が学園内にあり、しかもそれを誰かが狙っているらしいのです。
ハリーは、友人であるロンとハーマイオニーと共に、規則を破り危険を冒しながらも、何とか見えない敵に立ち向かっていく…。
というような話です。
登場人物が活き活きと描かれているところが、かなり魅力的ではないかと思います。僕は、外国人作家の小説を読むときの最大の難関である、登場人物の名前を覚えられないというものがあるのですが、本作では、名前をちゃんとは覚えられないけど、それでもああこれはあの時のあいつか、という感じで、ちゃんと思い出すことができました。これは、かなりちゃんと特徴を書き出してくれていないと僕には難しいので、さすがだなと思いました。
ストーリー自体は、まあ結構ありふれたものに手を加えているだけ、という感じがしたけど、何よりも伏線が見事でちゃんとしていて、本作はミステリじゃないけど、ミステリが好きな僕としてはかなり評価できました。関係ないと思っていたものが後々ちゃんと関係してくる、というだけで僕的にはかなり嬉しかったりするわけです。
読んで、ああ大衆受けする作品だ、という感想をもちましたが、いやこれは古典として残ってもおかしくはないかもしれないとも思いました。それはまあ、いいばかりの評価では決してないですが。僕は、「古典」という評価は
大勢の人間の幻想から出来上がっている、と考えているので、本作が古典として残ってもまあ不思議ではないな、と思ったわけです。
最後に。本作の翻訳家で、出版社の社長でもある松岡佑子氏ですが、本作の最後にもいろいろとエピソードが載っていますが、メディアファクトリーから出版されている文庫「君へ。(ダヴィンチ編集部編)」という本の中にも、短いけどエピソードが載っています。そちらもどうでしょうか?僕的には、ハリーポッターという超大な作品を、静山社という弱小出版社(もちろんそれは、ハリーポッターを出版する前の評価ですが)に委ねた著者の判断が、正しいとかそういうことではなくて、やっぱり伝わるものは伝わるんだという、なんだかそんな気分にさせてくれて、まだまだ捨てたもんじゃないな、という感じがします。
J・K・ローリング「ハリーポッターと賢者の石」
何故ディズニーはあそこまで熱狂されるのか?
最近、ディズニーシーに行く機会があった。僕にとっては生まれて初めて(ディズニーランドは小六が最後だが)だったが、とにかく圧倒された。あんなすごいテーマパークはないし、というか既にテーマパークのレベルを超えている。
あの空間が、まるまる別次元であるかのようなのだ。日本にいるということが信じられなくなるくらいだ。
もちろん、アトラクションも面白い。ショーはそこまで興味があるわけではないけど、でもかなり幻想的だし、手が込んでるなとも思う。でも、そういうところなら他のテーマパークだってやっているかもしれないし、やろうと思えば出来るかもしれない。
そうではなくて、ディズニーの最大の魅力は、その細部のリアリティにあるのではないかと思う。
統一感のある世界観を作り上げよう、という発想がまずなければああいうものは作れない。
どこを見ても、何かがある。立ち止まったり近づいてみたいと思わせるような何かが、そこら中にある。ウォーリーみたいに、まだ何かあるんじゃないか、と思わせるような空間がそこに設定されている。
うまいな、と思ったのは、アトラクションに並んでいるときのことも考えられている点だ。あれだけのテーマパークだから、必然的に並ばないとアトラクションには乗れない。他のテーマパークでは、ただの通路に客を並ばせるけれども、ディズニーは並ばせるところも面白み溢れる空間に作り上げて、客を決して飽きさせない。
これは、リピーターが沢山生まれるのも分かるし、他のテーマパークは太刀打ちできないわ、と心底感じたものだ。
さて、ハリーポッターの話であるが、この作品を読んでいて僕はディズニーを連想したのだ。小説とテーマパークという、あまりにも異分野の二つだけれども、似ているなと感じた。結果として、世界最大級のテーマパークと世界最大級のセールスを記録した小説、という似たような結果も生み出してはいるのだけれども。
ディズニーに行く人とハリーポッターを読む人の感覚は、本当に似たようなものではないかと思う。初めて触れる人は、その世界にまず圧倒される。魅力的なアトラクション(キャラクター)や破綻のない世界観(ストーリー)、そして細部までこだわりぬかれた作りに、凄いなと感じる。そしてそれからは、まだ見つけていない何かがあるんじゃないか、と考えてリピーターになる。構造が同じだ。
もちろん、ハリーポッターのような特徴を持った作品は他にも沢山あるだろう。ただ、商業的にここまで成功したのには、もう一つ他の作品とは大きく違う点があると思う。
それは、ディズニーもそうだろうが、まず子供の心を掴むということだ。
本作は別に、子供向けとして書かれているわけではない。それはディズニーが子供向けではないのと同じだ。しかし、子供の心をがっしり掴んで離さない。作品の質が高いこともあるだろうが、まず子供を熱狂させるというのが、商業的に成功した理由ではないかなと思う。
さて、もう一つの話題。
魔法が使えたら何をするか、と考えたことは、少なからずあるのではないだろうか?
僕は、魔法とは少し違うんだろうけど、ドラえもんの「もしもボックス」がもしあったら何をしようか、と考えたkとがたぶんあったはず。その時何を考えたかは覚えていないけど。奇しくも、確か映画でのストーリーだったと思うが、のび太がもしもボックスで、魔法を使える世界にしてほしい、と願ってそうなってしまった、というような話があった。
今だったらどうだろう。僕は、自覚しているけれども、本当に欲がない。大抵の人が思い浮かべるような欲を、強く願ったことが本当にない。今、魔法が使えたりもしもボックスがあったとして、僕は何がしたいだろう。食べものを口にしなくても生きていける体にしてほしい、掃除・洗濯をしなくてもよくしてほしい、死ぬまでぎりぎりお金に困らないだけのお金が欲しい、読むスピードを変えることなく(速読みたいな感じで本は読みたくない)今の100倍の量の本を読みたい、作家になりたい、とまあそんな感じだろうか。僕に欲がないことをわかっていただけるだろうか?
しかし、魔法が文化とうか技術として存在するなら、面白いかもしれない。困っている人が助かるような魔法ならなおいい。いばっている人や金持ちがよりよくなるような魔法ならいらないけど。
さて、というわけで内容に入ろうと思います。
と書いてはみたものの、ほとんどの人は内容を知っているんではないか?と思ってしまうほど本作は売れています。僕が働いている本屋でも、ハリーポッターの発売日はすごいものでした。確か5巻の発売の時だったと思うけど、普段の売上の二倍以上にもなり、しかも1日の売上の半分がハリーポッターでした。まあ一応書いてみましょうか。
ヴォルデモートという最悪の魔法使いに出会って唯一殺されずに済んだ幼子。魔法使いだった両親が殺されたため親戚の家に預けられることになったその幼子こそ、ハリーポッターでした。
ハリーは少年と呼ばれる年齢になりました。親戚の家で形見の狭い生活を強いられています。ハリーは、自分の出自については何も知らされてはいなかったけど、ある日届いたハリー宛の手紙によって、ハリーの人生は大きく変わります。
魔法学校への入学許可書。
ハリーは、自分が有名人であることに戸惑いながらも、学園生活をスタートさせていきます。
しかしその内に、ハリーは学園内の不穏な動きに図らずも気付いてしまいます。「賢者の石」と呼ばれる力を持った石が学園内にあり、しかもそれを誰かが狙っているらしいのです。
ハリーは、友人であるロンとハーマイオニーと共に、規則を破り危険を冒しながらも、何とか見えない敵に立ち向かっていく…。
というような話です。
登場人物が活き活きと描かれているところが、かなり魅力的ではないかと思います。僕は、外国人作家の小説を読むときの最大の難関である、登場人物の名前を覚えられないというものがあるのですが、本作では、名前をちゃんとは覚えられないけど、それでもああこれはあの時のあいつか、という感じで、ちゃんと思い出すことができました。これは、かなりちゃんと特徴を書き出してくれていないと僕には難しいので、さすがだなと思いました。
ストーリー自体は、まあ結構ありふれたものに手を加えているだけ、という感じがしたけど、何よりも伏線が見事でちゃんとしていて、本作はミステリじゃないけど、ミステリが好きな僕としてはかなり評価できました。関係ないと思っていたものが後々ちゃんと関係してくる、というだけで僕的にはかなり嬉しかったりするわけです。
読んで、ああ大衆受けする作品だ、という感想をもちましたが、いやこれは古典として残ってもおかしくはないかもしれないとも思いました。それはまあ、いいばかりの評価では決してないですが。僕は、「古典」という評価は
大勢の人間の幻想から出来上がっている、と考えているので、本作が古典として残ってもまあ不思議ではないな、と思ったわけです。
最後に。本作の翻訳家で、出版社の社長でもある松岡佑子氏ですが、本作の最後にもいろいろとエピソードが載っていますが、メディアファクトリーから出版されている文庫「君へ。(ダヴィンチ編集部編)」という本の中にも、短いけどエピソードが載っています。そちらもどうでしょうか?僕的には、ハリーポッターという超大な作品を、静山社という弱小出版社(もちろんそれは、ハリーポッターを出版する前の評価ですが)に委ねた著者の判断が、正しいとかそういうことではなくて、やっぱり伝わるものは伝わるんだという、なんだかそんな気分にさせてくれて、まだまだ捨てたもんじゃないな、という感じがします。
J・K・ローリング「ハリーポッターと賢者の石」
哲学(島田紳助+松本人志)
才能のある人間、というのは、どことなく同じ雰囲気を漂わせる。
これは、ちょっと説明するのが難しい。見た目も言動も基本的にはまるで違うのだ。しかし、本質というか芯というか、そういうものは、どことなく似通っている風に感じられるのだ。
例えばこういう喩えではどうだろうか。紙と割り箸と炭。共通点はと聞かれれば、どれも木から出来ている、とまあそれはわかるだろう。しかし、普段はそんなことは思わない。紙を見て、これは木から出来てるんだ、とかあんまり思わない。でも、紙と割り箸と炭を比べるような時に、ああそうか同じ物から出来ているんだ、とそう思う。そんな感じだと言えるかもしれない。
才能のある人間を僕は好きだ。直接的に出会う機会は本当に少ない。僕が出会えるとしたら、様々なメディアを通じた間接的な接触にならざる終えない。
才能のある人間に出会う(直接的な意味でなくても)と、僕は身震いするような気分に襲われる(実際身震いはしないけど。っていうか、身震いってどんな現象だ?)。自分の中で、何かがガクガク揺れているのがわかる。やべー、俺今すごい人と出会っているんではないか、とそう思う。
僕は、物理学者のアインシュタインが結構好きで、あの人は天才だと思う。好きだと言えるほど知識はないけれども、少なからず知っている知識から、ああやっぱすごい人なんだなって思う。それでも、アインシュタインぐらいになると、時間的にも距離的にもかなり遠い。
最近では、僕の中で森博嗣がとにかく天才の座を譲らない。初めて氏の作品「すべてがFになる」を読んだ時の衝撃は忘れないし、以降さすがに小説を読むたびに衝撃度合いは緩んでいくものの、「スカイクロラ」を読んでまた衝撃だった。エッセイ的な作品も多くて、その思考に触れることができるのだけれども、もう到底かなわない、とすんなりきっぱり諦めることが出来るぐらいの存在なのである。
天才は同じ雰囲気を持っている、と書いた。僕の友人でも一人いる。つよしという男だが、同じ雰囲気を感じる。書いている文章を読んでも、言動を見ても、ああ敵わないなと思う。
そして、本作を読んで自分の中で新たに天才が生まれた。
島田紳助と松本人志である。
僕は、本作を読む以前から、お笑い芸人で重鎮として残っている人は、皆天才なのだろうと思っていた。とにかく頭の回転が速くて、発想が異常だ。しかもその才能は、お笑いという職業あるいは人生に特化したものであるにも関わらず、必ずその人間自身を大きくしている。お笑いという分野だけに埋もれていない。そこが驚異的だと思うのだ。
その、重鎮として残っている二人が、自分の考えを照れも飾りもなく本音で書いた作品が本作である。
読み始めから打たれっ放しだった。島田紳助と松本人志という人間をまるで知らなくても、ここに書かれた文章だけでもその才能を充分に推し量ることの出来るぐらい、ちょっとした文章や表現に繊細さがある。ああ、この二人は紛れもなく天才なんだなと、もうそう認めざる終えないのだ。
話題は、お笑いのことももちろんだが、かなり多岐にわたっている。価値観そのものについて吐き出しているような感じである。それぞれのテーマについて、島田紳助と松本人志が交互に文章を書くという体裁だ。対談という形ではない。
とにかく、僕のこんな文章からでは本作のすごさはわからないだろうから、本作の文章を引用しながらあれこれ書いてみようと思う。
島田「松本の人気は、その(笑いの)科学と時代の衝突が生んだ、一つの奇跡なのだ。」
才能をお互いに認め合うことが出来るというのは素晴らしいことだ。どちらかに才能がなくて相手のことを見極められなかったり、どちらにも才能があるが故に反目してしまうこともあるだろう。二人は、お互いに才能を認め合っている。お互いに相手を凄いと感じている。それは、かなりうらやましい。上の記述は、島田紳助は時代に合わせた笑いをやったのに対して、松本人志は時代にまったく合わせよとしなかったのに時代がついてきた、ということに対するもの。
松本「そういうことなら、自分にもできる。
できるというか、やる価値があると思った。」
島田紳助(紳助竜介の漫才)を見て、お笑いを志した松本の言葉。「やる価値がある」という決断ができるのは、尋常じゃない。
島田「『ああ、会場も笑ってるな、テレビの前の視聴者も笑っているだろう、でもこのおもしろさがどこまでわかっているのだろう?』」
松本人志の笑いを見て、島田紳助はそう感じていたらしい。今では視聴者のレベルが上がってきたから、そうでもないかもしれないけど。
島田「『もう、やすしきよしさんの漫才は終わらせなあかん』」
これを、まだ紳助竜介の駆け出しだった頃、若手に向かって言っていたというのだから凄い。島田紳助は、時代を分析し、もうやすきよは終わりだと、やすきよの全盛期に思っていたというのだから、驚異的だ。
島田「舞台の上で、自分らに引退するときがきているのを突然悟ったのだ。
『もうこれはあかん』」
辞めどきを見極めることが出来るというのも才能の一つだろう。僕は未だに、電話の終わらせ方が分からないから、自分からは電話をしない。
島田「人間、誰かにちょっと負けてるなと思ったときは、だいぶ負けている。だいぶ負けているなあと思ったときは、もうむちゃくちゃ負けているものなのだ。」
勝ち負けが明確に決まるわけではない競争だからこそ、余計に厳しいのだろう。
松本「僕は番組というのは、自分の顔の数以上にやってはいけないと思っている。」
これは目からウロコの発想だったが、それもそうだとすんなり理解できた。同じ顔で別の番組に出ている人に違和感を感じる感性が、そうか僕にはなかったかもしれない。
松本「そういうことがわかっている人、別な言葉で言えば山が見えて、ちゃんと自分の山を見つけられた人が、芸人として残っていくのだと僕は思っている。」
他人の土俵(山)に上がっても一番にはなれない。自分の山を見つけてそこの頂上を目指すしかない、ということ。山の頂上にいるからこそ言える発言だろう。
松本「だからこの世界に入った僕が必死で取り組んだ課題は、山を見つけて、もしくは作って、その山を登ることではなくて、僕らが山の上に立っているということをみんなに知らせることだった。」
これは凄いと思った。他人に自分の才能を評価してもらえることは素晴らしい。しかし何よりも、自分で自分の才能に自信が持てるというのが凄い。尊大とか傲慢とかではなく、自己評価をきちんと出来るのも、才能の一部だろう。
松本「あらかじめ聞いて知っているのに、さもこの瞬間に思いついたようにいうなんて、恥ずかしくて僕にはできない。」
それを恥ずかしいと思える感性を持つ人は他にもいるかもしれない。しかしそれを才能でカバーできてしまう人はほとんどいないだろう。
松本「その、いろいろあるというのは、つまり、僕に才能を思う存分、一〇〇パーセント発揮させてもらえない事情がいろいろあるということだ。」
才能が涸れたら、才能を思う存分発揮したらやめるべきだというくだり。松本人志が全然一〇〇パーセントではないという点が、そもそも怖い。
島田「嫉妬心を感じないような相手は、いい友達ではないというけれど。」
島田紳助の、友達というか身内に対する考え方は、面白いしシンプルだし素敵だと思う。
島田「そして、仕事のことでは、おたがいに助け合わない。
僕の友達に花屋をやっている奴がいる。どこもそうだろうが、今は売れなくて大変なときらしい。
でも、大変だからといって、『こいつのところで花買うたろ』とはみんな思わない。
むしろ、知り合いだから『まけろ』という。
僕は、それでいいと思う。」
こういう生き方は、自信がないと、信頼がないとできない。ちょっと羨ましい。僕に出来るだろうか…。
島田「長女が高校生だったとき、こういうことがあった。
Mr.CHILDRENが大好きだった彼女が、CDを買ってくれというのだ。
いくらだと聞いたら、三千円だという。僕はこう答えた。
『俺はな、お前がよそのねえちゃんやったらなんぼでも買うてあげるんやけどな。CDなんか一日十枚でも二十枚でも、服でもなんぼでも買うたるわ。そのおねえちゃんがそれで僕のこといい人やと思ってくれさえすれば、あとはどうなってもかまへんから。でも、お前は愛する娘やから、買うわけにはいかんのや。お前に俺がものを買うてやるやろ。お前は喜ぶわな。その喜んだ顔見て、親はすごく嬉しいのや。でもそれは、自分の金でCDを買うというお前の喜びを、親が奪ってるんや。だから親は買うたったら、あかんねや。その喜びはお前の喜びにしなあかんねんから。自分で買いや、がんばれや』」
昔何かのトーク番組で、息子がいじめられていると知った紳助がどういう行動をとったか、という話があった。彼は、学校に乗り込み、なんと自分の息子を衆目の中で殴りつけ、息子の不出来を詫びたというのだ。以降いじめはなくなったのだとか。僕は親がとても苦手というか嫌いだけれども、こういう親だったらな、と思う。そして僕は、結婚願望もなければ子供も欲しくないけど、でもなるんだったらこういう父親になりたいなと思う。
松本「物欲。これがほんとうに、ない。なんか最近では、物欲がなけりゃいかんのか、って感じさえする。」
大分共感できる。きっと、充実した仕事が出来ているからではないだろうか。無趣味だそうだし、お笑いに生きているという生き方に満足できるのだろう。いい人生だと思う。松本人志が寄付をしているという話は、たぶん有名だろうが、そういう遣い方も嫌味ではない。
松本「これは紳助さんとも話したことだけど、人間が欲しいと思うのは、結局のところ自分には買えないものなんだろうと思う。」
確かに、お金では買えないという意味も含めて、買えないものを欲しがるのだろう。
島田「ほんとうに大切なものは、優しく持たないとつぶれてしまうのだ。」
成功して何を失ったかという話。何も失わずに成功は出来ないという話。
島田「このわかりすぎるということが、どれだけ子供の夢をつぶしているいるか、大人は気がついているんだろうか。」
IT化により、情報を得やすくなった弊害について。出来ないことがすぐわかってしまう世の中で、どうやって夢を持てというのだ、と。
島田「まず最悪を考える。絶対に、どう転んでも、それ以下はあり得ないというところから考えるから。」
僕もまったく同じです。ただ僕の場合、諦めるためにそうしているのに対して、島田紳助は挑戦するためにそうしているという、無茶苦茶大きな違いはあるけど。
島田「うちのオートバイチームのライダーを引退させるときによく揉めることがある。
成績が出せないようになったライダーが、もう一回でいいから満足してからやめたいというのだ。そういうときに、僕はこういう。
それは、ないと。
選手生活に満足することはあっても、満足して引退するなんてことはない。満足しないから引退するのだ。自分の成績に満足できなくなるから選手をやめるのだ。」
島田紳助は、決して甘い人間ではない。
松本「『もうあいつには勝てんな』と他の芸人にいわせたい。昔はよくそんなことを考えていた。そういわれたときが、僕にとっての成功だろう、と。」
きっと、誰もが当たり前にそう思いすぎていて、誰も口に出さないだけだろう。
島田「『さあ大人になった。何になろう?』」
まだ大人になりきれていないだろう僕にもぐさっとくる言葉だ。これを島田紳助は年賀状に書いたらしい。進むことを止めない生き方を貫く島田紳助らしい。僕は、島田紳助と同じ年代になった時に、これを言えるだろうか?言って何かを目指せるだろうか?
「哲学」というタイトルがまったく高尚ではないぐらい、内容的にレベルの高い作品です。本作の中では、どちらも笑いにもっていこうとはしていない。笑いを追及する松本人志ですらだ。真摯に真面目に自分の考えを書いている。
ありえないぐらいの才能を持ってうまれた二人の、そのありのままが書かれた作品です。是非とも読んで欲しいと思います。
僕は本作を平積みすることに決めました。本屋の文庫担当をしていると、いい本をすぐに平積みしようという発想ができることがいいですね。POPの文章も考えました。5秒(大げさではなく)でひらめきました。
「この二人の才能を以ってすれば、100匹のサルを100人の人間にすることだって出来るかもしれない」
本心である。
島田紳助+松本人志「哲学」
これは、ちょっと説明するのが難しい。見た目も言動も基本的にはまるで違うのだ。しかし、本質というか芯というか、そういうものは、どことなく似通っている風に感じられるのだ。
例えばこういう喩えではどうだろうか。紙と割り箸と炭。共通点はと聞かれれば、どれも木から出来ている、とまあそれはわかるだろう。しかし、普段はそんなことは思わない。紙を見て、これは木から出来てるんだ、とかあんまり思わない。でも、紙と割り箸と炭を比べるような時に、ああそうか同じ物から出来ているんだ、とそう思う。そんな感じだと言えるかもしれない。
才能のある人間を僕は好きだ。直接的に出会う機会は本当に少ない。僕が出会えるとしたら、様々なメディアを通じた間接的な接触にならざる終えない。
才能のある人間に出会う(直接的な意味でなくても)と、僕は身震いするような気分に襲われる(実際身震いはしないけど。っていうか、身震いってどんな現象だ?)。自分の中で、何かがガクガク揺れているのがわかる。やべー、俺今すごい人と出会っているんではないか、とそう思う。
僕は、物理学者のアインシュタインが結構好きで、あの人は天才だと思う。好きだと言えるほど知識はないけれども、少なからず知っている知識から、ああやっぱすごい人なんだなって思う。それでも、アインシュタインぐらいになると、時間的にも距離的にもかなり遠い。
最近では、僕の中で森博嗣がとにかく天才の座を譲らない。初めて氏の作品「すべてがFになる」を読んだ時の衝撃は忘れないし、以降さすがに小説を読むたびに衝撃度合いは緩んでいくものの、「スカイクロラ」を読んでまた衝撃だった。エッセイ的な作品も多くて、その思考に触れることができるのだけれども、もう到底かなわない、とすんなりきっぱり諦めることが出来るぐらいの存在なのである。
天才は同じ雰囲気を持っている、と書いた。僕の友人でも一人いる。つよしという男だが、同じ雰囲気を感じる。書いている文章を読んでも、言動を見ても、ああ敵わないなと思う。
そして、本作を読んで自分の中で新たに天才が生まれた。
島田紳助と松本人志である。
僕は、本作を読む以前から、お笑い芸人で重鎮として残っている人は、皆天才なのだろうと思っていた。とにかく頭の回転が速くて、発想が異常だ。しかもその才能は、お笑いという職業あるいは人生に特化したものであるにも関わらず、必ずその人間自身を大きくしている。お笑いという分野だけに埋もれていない。そこが驚異的だと思うのだ。
その、重鎮として残っている二人が、自分の考えを照れも飾りもなく本音で書いた作品が本作である。
読み始めから打たれっ放しだった。島田紳助と松本人志という人間をまるで知らなくても、ここに書かれた文章だけでもその才能を充分に推し量ることの出来るぐらい、ちょっとした文章や表現に繊細さがある。ああ、この二人は紛れもなく天才なんだなと、もうそう認めざる終えないのだ。
話題は、お笑いのことももちろんだが、かなり多岐にわたっている。価値観そのものについて吐き出しているような感じである。それぞれのテーマについて、島田紳助と松本人志が交互に文章を書くという体裁だ。対談という形ではない。
とにかく、僕のこんな文章からでは本作のすごさはわからないだろうから、本作の文章を引用しながらあれこれ書いてみようと思う。
島田「松本の人気は、その(笑いの)科学と時代の衝突が生んだ、一つの奇跡なのだ。」
才能をお互いに認め合うことが出来るというのは素晴らしいことだ。どちらかに才能がなくて相手のことを見極められなかったり、どちらにも才能があるが故に反目してしまうこともあるだろう。二人は、お互いに才能を認め合っている。お互いに相手を凄いと感じている。それは、かなりうらやましい。上の記述は、島田紳助は時代に合わせた笑いをやったのに対して、松本人志は時代にまったく合わせよとしなかったのに時代がついてきた、ということに対するもの。
松本「そういうことなら、自分にもできる。
できるというか、やる価値があると思った。」
島田紳助(紳助竜介の漫才)を見て、お笑いを志した松本の言葉。「やる価値がある」という決断ができるのは、尋常じゃない。
島田「『ああ、会場も笑ってるな、テレビの前の視聴者も笑っているだろう、でもこのおもしろさがどこまでわかっているのだろう?』」
松本人志の笑いを見て、島田紳助はそう感じていたらしい。今では視聴者のレベルが上がってきたから、そうでもないかもしれないけど。
島田「『もう、やすしきよしさんの漫才は終わらせなあかん』」
これを、まだ紳助竜介の駆け出しだった頃、若手に向かって言っていたというのだから凄い。島田紳助は、時代を分析し、もうやすきよは終わりだと、やすきよの全盛期に思っていたというのだから、驚異的だ。
島田「舞台の上で、自分らに引退するときがきているのを突然悟ったのだ。
『もうこれはあかん』」
辞めどきを見極めることが出来るというのも才能の一つだろう。僕は未だに、電話の終わらせ方が分からないから、自分からは電話をしない。
島田「人間、誰かにちょっと負けてるなと思ったときは、だいぶ負けている。だいぶ負けているなあと思ったときは、もうむちゃくちゃ負けているものなのだ。」
勝ち負けが明確に決まるわけではない競争だからこそ、余計に厳しいのだろう。
松本「僕は番組というのは、自分の顔の数以上にやってはいけないと思っている。」
これは目からウロコの発想だったが、それもそうだとすんなり理解できた。同じ顔で別の番組に出ている人に違和感を感じる感性が、そうか僕にはなかったかもしれない。
松本「そういうことがわかっている人、別な言葉で言えば山が見えて、ちゃんと自分の山を見つけられた人が、芸人として残っていくのだと僕は思っている。」
他人の土俵(山)に上がっても一番にはなれない。自分の山を見つけてそこの頂上を目指すしかない、ということ。山の頂上にいるからこそ言える発言だろう。
松本「だからこの世界に入った僕が必死で取り組んだ課題は、山を見つけて、もしくは作って、その山を登ることではなくて、僕らが山の上に立っているということをみんなに知らせることだった。」
これは凄いと思った。他人に自分の才能を評価してもらえることは素晴らしい。しかし何よりも、自分で自分の才能に自信が持てるというのが凄い。尊大とか傲慢とかではなく、自己評価をきちんと出来るのも、才能の一部だろう。
松本「あらかじめ聞いて知っているのに、さもこの瞬間に思いついたようにいうなんて、恥ずかしくて僕にはできない。」
それを恥ずかしいと思える感性を持つ人は他にもいるかもしれない。しかしそれを才能でカバーできてしまう人はほとんどいないだろう。
松本「その、いろいろあるというのは、つまり、僕に才能を思う存分、一〇〇パーセント発揮させてもらえない事情がいろいろあるということだ。」
才能が涸れたら、才能を思う存分発揮したらやめるべきだというくだり。松本人志が全然一〇〇パーセントではないという点が、そもそも怖い。
島田「嫉妬心を感じないような相手は、いい友達ではないというけれど。」
島田紳助の、友達というか身内に対する考え方は、面白いしシンプルだし素敵だと思う。
島田「そして、仕事のことでは、おたがいに助け合わない。
僕の友達に花屋をやっている奴がいる。どこもそうだろうが、今は売れなくて大変なときらしい。
でも、大変だからといって、『こいつのところで花買うたろ』とはみんな思わない。
むしろ、知り合いだから『まけろ』という。
僕は、それでいいと思う。」
こういう生き方は、自信がないと、信頼がないとできない。ちょっと羨ましい。僕に出来るだろうか…。
島田「長女が高校生だったとき、こういうことがあった。
Mr.CHILDRENが大好きだった彼女が、CDを買ってくれというのだ。
いくらだと聞いたら、三千円だという。僕はこう答えた。
『俺はな、お前がよそのねえちゃんやったらなんぼでも買うてあげるんやけどな。CDなんか一日十枚でも二十枚でも、服でもなんぼでも買うたるわ。そのおねえちゃんがそれで僕のこといい人やと思ってくれさえすれば、あとはどうなってもかまへんから。でも、お前は愛する娘やから、買うわけにはいかんのや。お前に俺がものを買うてやるやろ。お前は喜ぶわな。その喜んだ顔見て、親はすごく嬉しいのや。でもそれは、自分の金でCDを買うというお前の喜びを、親が奪ってるんや。だから親は買うたったら、あかんねや。その喜びはお前の喜びにしなあかんねんから。自分で買いや、がんばれや』」
昔何かのトーク番組で、息子がいじめられていると知った紳助がどういう行動をとったか、という話があった。彼は、学校に乗り込み、なんと自分の息子を衆目の中で殴りつけ、息子の不出来を詫びたというのだ。以降いじめはなくなったのだとか。僕は親がとても苦手というか嫌いだけれども、こういう親だったらな、と思う。そして僕は、結婚願望もなければ子供も欲しくないけど、でもなるんだったらこういう父親になりたいなと思う。
松本「物欲。これがほんとうに、ない。なんか最近では、物欲がなけりゃいかんのか、って感じさえする。」
大分共感できる。きっと、充実した仕事が出来ているからではないだろうか。無趣味だそうだし、お笑いに生きているという生き方に満足できるのだろう。いい人生だと思う。松本人志が寄付をしているという話は、たぶん有名だろうが、そういう遣い方も嫌味ではない。
松本「これは紳助さんとも話したことだけど、人間が欲しいと思うのは、結局のところ自分には買えないものなんだろうと思う。」
確かに、お金では買えないという意味も含めて、買えないものを欲しがるのだろう。
島田「ほんとうに大切なものは、優しく持たないとつぶれてしまうのだ。」
成功して何を失ったかという話。何も失わずに成功は出来ないという話。
島田「このわかりすぎるということが、どれだけ子供の夢をつぶしているいるか、大人は気がついているんだろうか。」
IT化により、情報を得やすくなった弊害について。出来ないことがすぐわかってしまう世の中で、どうやって夢を持てというのだ、と。
島田「まず最悪を考える。絶対に、どう転んでも、それ以下はあり得ないというところから考えるから。」
僕もまったく同じです。ただ僕の場合、諦めるためにそうしているのに対して、島田紳助は挑戦するためにそうしているという、無茶苦茶大きな違いはあるけど。
島田「うちのオートバイチームのライダーを引退させるときによく揉めることがある。
成績が出せないようになったライダーが、もう一回でいいから満足してからやめたいというのだ。そういうときに、僕はこういう。
それは、ないと。
選手生活に満足することはあっても、満足して引退するなんてことはない。満足しないから引退するのだ。自分の成績に満足できなくなるから選手をやめるのだ。」
島田紳助は、決して甘い人間ではない。
松本「『もうあいつには勝てんな』と他の芸人にいわせたい。昔はよくそんなことを考えていた。そういわれたときが、僕にとっての成功だろう、と。」
きっと、誰もが当たり前にそう思いすぎていて、誰も口に出さないだけだろう。
島田「『さあ大人になった。何になろう?』」
まだ大人になりきれていないだろう僕にもぐさっとくる言葉だ。これを島田紳助は年賀状に書いたらしい。進むことを止めない生き方を貫く島田紳助らしい。僕は、島田紳助と同じ年代になった時に、これを言えるだろうか?言って何かを目指せるだろうか?
「哲学」というタイトルがまったく高尚ではないぐらい、内容的にレベルの高い作品です。本作の中では、どちらも笑いにもっていこうとはしていない。笑いを追及する松本人志ですらだ。真摯に真面目に自分の考えを書いている。
ありえないぐらいの才能を持ってうまれた二人の、そのありのままが書かれた作品です。是非とも読んで欲しいと思います。
僕は本作を平積みすることに決めました。本屋の文庫担当をしていると、いい本をすぐに平積みしようという発想ができることがいいですね。POPの文章も考えました。5秒(大げさではなく)でひらめきました。
「この二人の才能を以ってすれば、100匹のサルを100人の人間にすることだって出来るかもしれない」
本心である。
島田紳助+松本人志「哲学」
世にも美しい数学入門(小川洋子+藤原正彦)
美しさを感じる機会、というのはなかなかなくなってしまったような気がする。もちろん、美しい女性だとか美しい光景だとか、まあ見ないこともない。でもそういう美しさというのは、なんというか、永劫ではないが故の醜さというものも一緒に持ち合わせているような気がするわけだ。時間と共に、絶対にその美しさは失われてしまうだろう、とわかってしまう、そんな儚い美しさなわけである。それが悪いと言っているわけでは決して無い。
永劫を獲得した美しさ、なんて本当にどこにあるだろうか?芸術という分野にはあるかもしれない。それぞれ、鑑賞する人の価値観によって美しさは左右されるものの、今でも評価され残っている芸術作品は、これからの未来も残るだろうと思わせるし、それを物した芸術家の息吹も伝わってくるような気もする。
僕は、小説で、これは美しいなと感じた作品に、稀にだが出会う。すべてを思い出すことは出来ないが、その一つに、森博嗣の「スカイクロラ」シリーズがある。この作品は、読んでいて戦慄するほどの美しさを備えていた。僕の中で、その美しさは永劫失われないだろう、と確信できる作品だった。そういう作品には、なかなか出会いないものだ。
あとはやはり、数学だろう。
僕は、数学という分野にかなり美しさを感じる人間である。これは、芸術作品の鑑賞に人それぞれの価値観が関わるように、数学を美しいと感じない人もいるだろうと思う。とくに、学生時代に数学に苦しめられた人はそうだろう。あんなにわけのわからんものの、一体どこが美しいんだ、と。
僕は、確かに学校の授業で習うようなものには、まるで美しさを感じることはなかった。高校時代に、受験用に通っていた塾で取っていた数学の講座が、かなり美しい問題を出してくれるようなところで、毎回課題が出されると、友達と一緒に、これはどうなってるんだ?と首をひねりながら、時には、これは数学の問題なのか?と悩みながら問題を解いていたというような経験はあるけれども。
僕が数学の美しさに触れたのは本からだった。高校時代なんかに、数学に関する雑学本なんかを買って読んでみると、これがすこぶる面白い。確かに、この世界は(少なくとも数学という分野は)神様が創ったんだろうな、と思わせてくれるような美しさに溢れていました。
特に惹かれたのは、フェルマーの定理です。最近ようやく証明されましたが、350年も前にフェルマーという数学者が残した一つの予想が、これほどまでに数学者を魅了し、時にはその人生を破綻させ、またそれを解く過程で様々な発見がありと、とにかく数学史に残るようなスペクタルな歴史を築いてきたもので、数学的な内容についてはさっぱり理解できなかったものの、興奮しながら読んだものでした。
段々と本作の内容に関わることを書いているので、本作の紹介をしましょう。
本作は、作家小川洋子と数学者藤原正彦との対談を収録した作品です。小川洋子は、「博士の愛した数式」という、記憶が僅かしか持続しない数学者の話を書くのに、御茶ノ水大学の藤原正彦教授を訪ね、その経緯から本作が出来上がりました。
内容はもちろん数学に関することが主ですが、印象としては、「数学」という名前のグローブをして、「数学」以外のボールを投げてキャッチボールをしている、という感じです。根底に数学があり、最終的に数学の話に収まるけれども、でもその過程でいろんな話が出てくるという感じです。数学の本ということで敬遠する向きもあるかもしれないけども、「数学入門」と銘打ってあるように、まさに入門中の入門書であり、数学の世界ってこんなに美しいんだ、ということが感じられるような内容になっています。
気になる内容をさりげなく書いてみましょう。
例えば日本人の数学に対する能力について触れています。数学というのは、想像力と美的感覚を必要とするというのが藤原氏の意見で、日本人は昔から、俳句という短い語句で世界を表現する文化があったから、日本人は能力が高い、ということです。実際に、数学にノーベル賞があったら、日本人の受賞ラッシュというぐらい日本人の功績はあるようです。先ほどフェルマーの定理の話をしましたが、それを証明するのに果てしなく重要な役割を担った二つの理論があるのですが、それを共に日本人が発見しています。その内の一つである「谷山=志村予想」というのは、これが証明されればフェルマーの定理も自動的に証明される、というほどのものでした。しかも、凡人の僕にはわかりませんが、この予想があまりにも奇天烈で、かつあまりにも美しいのだそうです。谷山という数学者が初めに提唱した時は、その奇天烈さ故に完全に無視されたそうです。どれくらい美しいかの説明として藤原氏は、「富士山とエベレストの間に掛かっている虹を発見したようなもの」という感じで書いています。日本人というのは、特に数学という分野では優秀なようです。
数学の発見や浸透には、かなりお国柄が関係しているという話もありました。例えば、ヨーロッパではマイナスの数や無理数・虚数は大分最近まで受け入れられなかったそうです。現実的ではない、という理由なんでしょう。そこへ持ってきて、アジアはかなり寛容です。0という数字を発見したのはインドだというのは有名な話ですが、ヨーロッパでは絶対に見つけることは出来なかっただろう、とのことです。インドには、もともと無という概念があって、すんなりと0という概念が受け入れられたそうです。一方で、数学と物理を結びつけたのはヨーロッパです。神が世界を創ったのだから、すべてが結びついているという根幹があるからだそうです。一方でアジアは、八百万の神とも言う様に、神様だけでもなんでも受け入れてしまいます。数学では先端を行っても、それを物理と結びつけるという発想はアジア人には出来なかっただろう、ということです。面白いものです。
また、素数や円周率であるπについても面白いことがいろいろ書いてあります。どちらも、数学を語る上で欠かすことのできないもので、それでいて未だに謎が隠れている。特に素数は謎の宝庫です。
πについて面白いことが書いてあったので書きましょう。
「2xの間隔を開けて引いた何本かの平行線に、xの長さの針を投げたとき、針が平行線に触れる確率は1/πである」
これは、「ビュッフォンの針の問題」という有名な命題なようですが、そもそも上の条件で針を投げた時の確率が数学的に出せることも驚きだし、それが1/πというシンプルな形で表せることも驚きです。しかも、円とはまるで関係ないのにπが出てきたりして。
とにかくそんなわけで、数学は圧倒的に美しいわけです。
さて、これは本作に書いてあったことではなく、ついさっき読んだ東野圭吾の「さいえんす?」に書いてあったことだけど、クレイ数学研究所というところが、世界中の数学者に対して、一問でも解けたら賞金100万ドルという七つの難問を出しています。その中の一つに、「P≠NP問題」というものがあります。これは東野圭吾の「容疑者Xの献身」の中でも触れられているのですが、これは数学の問題なのか?というような問題です。その中身を書き出してみると、
「数学の問題について、自分で考えて答えを見つけるのと、他人から答えを聞いて、その答えが正しいかどうかを確認するのとでは、どちらが易しいか」
数式も記号も何も出てこない。テレビ局がよくやる、該当アンケートのような内容だけど、これも数学の問題らしい。数学というのは、なんとも奥が深いではないか。
そんなわけで数学の魅力が満載に詰まった作品です。是非読んで欲しいと思います。併せて、「博士の愛した数式」も読んでみるといいと思いますよ。
小川洋子+藤原正彦「世にも美しい数学入門」
永劫を獲得した美しさ、なんて本当にどこにあるだろうか?芸術という分野にはあるかもしれない。それぞれ、鑑賞する人の価値観によって美しさは左右されるものの、今でも評価され残っている芸術作品は、これからの未来も残るだろうと思わせるし、それを物した芸術家の息吹も伝わってくるような気もする。
僕は、小説で、これは美しいなと感じた作品に、稀にだが出会う。すべてを思い出すことは出来ないが、その一つに、森博嗣の「スカイクロラ」シリーズがある。この作品は、読んでいて戦慄するほどの美しさを備えていた。僕の中で、その美しさは永劫失われないだろう、と確信できる作品だった。そういう作品には、なかなか出会いないものだ。
あとはやはり、数学だろう。
僕は、数学という分野にかなり美しさを感じる人間である。これは、芸術作品の鑑賞に人それぞれの価値観が関わるように、数学を美しいと感じない人もいるだろうと思う。とくに、学生時代に数学に苦しめられた人はそうだろう。あんなにわけのわからんものの、一体どこが美しいんだ、と。
僕は、確かに学校の授業で習うようなものには、まるで美しさを感じることはなかった。高校時代に、受験用に通っていた塾で取っていた数学の講座が、かなり美しい問題を出してくれるようなところで、毎回課題が出されると、友達と一緒に、これはどうなってるんだ?と首をひねりながら、時には、これは数学の問題なのか?と悩みながら問題を解いていたというような経験はあるけれども。
僕が数学の美しさに触れたのは本からだった。高校時代なんかに、数学に関する雑学本なんかを買って読んでみると、これがすこぶる面白い。確かに、この世界は(少なくとも数学という分野は)神様が創ったんだろうな、と思わせてくれるような美しさに溢れていました。
特に惹かれたのは、フェルマーの定理です。最近ようやく証明されましたが、350年も前にフェルマーという数学者が残した一つの予想が、これほどまでに数学者を魅了し、時にはその人生を破綻させ、またそれを解く過程で様々な発見がありと、とにかく数学史に残るようなスペクタルな歴史を築いてきたもので、数学的な内容についてはさっぱり理解できなかったものの、興奮しながら読んだものでした。
段々と本作の内容に関わることを書いているので、本作の紹介をしましょう。
本作は、作家小川洋子と数学者藤原正彦との対談を収録した作品です。小川洋子は、「博士の愛した数式」という、記憶が僅かしか持続しない数学者の話を書くのに、御茶ノ水大学の藤原正彦教授を訪ね、その経緯から本作が出来上がりました。
内容はもちろん数学に関することが主ですが、印象としては、「数学」という名前のグローブをして、「数学」以外のボールを投げてキャッチボールをしている、という感じです。根底に数学があり、最終的に数学の話に収まるけれども、でもその過程でいろんな話が出てくるという感じです。数学の本ということで敬遠する向きもあるかもしれないけども、「数学入門」と銘打ってあるように、まさに入門中の入門書であり、数学の世界ってこんなに美しいんだ、ということが感じられるような内容になっています。
気になる内容をさりげなく書いてみましょう。
例えば日本人の数学に対する能力について触れています。数学というのは、想像力と美的感覚を必要とするというのが藤原氏の意見で、日本人は昔から、俳句という短い語句で世界を表現する文化があったから、日本人は能力が高い、ということです。実際に、数学にノーベル賞があったら、日本人の受賞ラッシュというぐらい日本人の功績はあるようです。先ほどフェルマーの定理の話をしましたが、それを証明するのに果てしなく重要な役割を担った二つの理論があるのですが、それを共に日本人が発見しています。その内の一つである「谷山=志村予想」というのは、これが証明されればフェルマーの定理も自動的に証明される、というほどのものでした。しかも、凡人の僕にはわかりませんが、この予想があまりにも奇天烈で、かつあまりにも美しいのだそうです。谷山という数学者が初めに提唱した時は、その奇天烈さ故に完全に無視されたそうです。どれくらい美しいかの説明として藤原氏は、「富士山とエベレストの間に掛かっている虹を発見したようなもの」という感じで書いています。日本人というのは、特に数学という分野では優秀なようです。
数学の発見や浸透には、かなりお国柄が関係しているという話もありました。例えば、ヨーロッパではマイナスの数や無理数・虚数は大分最近まで受け入れられなかったそうです。現実的ではない、という理由なんでしょう。そこへ持ってきて、アジアはかなり寛容です。0という数字を発見したのはインドだというのは有名な話ですが、ヨーロッパでは絶対に見つけることは出来なかっただろう、とのことです。インドには、もともと無という概念があって、すんなりと0という概念が受け入れられたそうです。一方で、数学と物理を結びつけたのはヨーロッパです。神が世界を創ったのだから、すべてが結びついているという根幹があるからだそうです。一方でアジアは、八百万の神とも言う様に、神様だけでもなんでも受け入れてしまいます。数学では先端を行っても、それを物理と結びつけるという発想はアジア人には出来なかっただろう、ということです。面白いものです。
また、素数や円周率であるπについても面白いことがいろいろ書いてあります。どちらも、数学を語る上で欠かすことのできないもので、それでいて未だに謎が隠れている。特に素数は謎の宝庫です。
πについて面白いことが書いてあったので書きましょう。
「2xの間隔を開けて引いた何本かの平行線に、xの長さの針を投げたとき、針が平行線に触れる確率は1/πである」
これは、「ビュッフォンの針の問題」という有名な命題なようですが、そもそも上の条件で針を投げた時の確率が数学的に出せることも驚きだし、それが1/πというシンプルな形で表せることも驚きです。しかも、円とはまるで関係ないのにπが出てきたりして。
とにかくそんなわけで、数学は圧倒的に美しいわけです。
さて、これは本作に書いてあったことではなく、ついさっき読んだ東野圭吾の「さいえんす?」に書いてあったことだけど、クレイ数学研究所というところが、世界中の数学者に対して、一問でも解けたら賞金100万ドルという七つの難問を出しています。その中の一つに、「P≠NP問題」というものがあります。これは東野圭吾の「容疑者Xの献身」の中でも触れられているのですが、これは数学の問題なのか?というような問題です。その中身を書き出してみると、
「数学の問題について、自分で考えて答えを見つけるのと、他人から答えを聞いて、その答えが正しいかどうかを確認するのとでは、どちらが易しいか」
数式も記号も何も出てこない。テレビ局がよくやる、該当アンケートのような内容だけど、これも数学の問題らしい。数学というのは、なんとも奥が深いではないか。
そんなわけで数学の魅力が満載に詰まった作品です。是非読んで欲しいと思います。併せて、「博士の愛した数式」も読んでみるといいと思いますよ。
小川洋子+藤原正彦「世にも美しい数学入門」
さいえんす?(東野圭吾)
物事を分析したりすることは、結構好きだったりするわけだ。僕は、一応もう一つブログを持っていて、今ではほとんど更新していないけど、少し前まではそこに毎日、いくつものネタを挙げて、無駄に分析するような文章を書いていたようなことがあった。今思えば、よくそんなことしてたな、という感じだけれども、探せば日常の中に、あれ?とかなんだこれ?とかおかしくないか?と思うようなことは沢山転がっているわけである。
例えば、ものすごくどうでもいいことではあるけれども、バイトをしていて思うことがある。それは、お金の出し方についてである。僕は、お金の出し方に掛けてはうるさい人間で、毎日バイトをしていても、あなたのお金の出し方は素晴らしい、と評価できる人には、100人に一人ぐらいしか出会わない。
トレーにお金を入れない人、お札を折ったまま出す人、お札をトレーに置いてから小銭を出す人、財布を出すのがそもそも遅い人。とにかくいろんな人がいるわけだが、大体僕はイライラする。もっとなんとかならないものだろうか、と嘆く。
しかし、先日駅の中のうどん屋で会計をする際、僕もトレーに小銭を入れずにそのまま出してしまった。トレーがちょっと離れたところにあり、そこに入れるよりも、相手に近いところに出したほうが親切だろうか、という判断だったわけだけど、そういう行動をしてみて初めて、もしかしたらそういうことを考えてくれている人もいるのかもしれない、と思った。お互いの要求がマッチしていないだけで、お客さんが不親切なわけではないのかもしれない、と。なるほど、相手の立場になって物事を考えてみないとわからないものである。
というような感じの文章である。
こういう文章は、ネタさえあればいくらでも書ける。ただこういうネタこそ、日常の中にどんどん埋もれていき、なかなか表に出てこないものなのである。そのブログに文章を書いていた時は、何かネタを見つける度に手に書き、家に帰ってから紙に書き写す、というようなことをやっていた。しかし、なんのためにそんな努力をしたのか、そういう文章を書かなくなった今ではよくわからない。
ただ、そういう視点で物事を見る、というのは非常に大事だと感じた。今は書かなくなったので、ネタを探すための観察もしていないのだが、何だか視野が狭くなったかもしれないな、という感じがしている。ネタを探していたような頃は、とにかく文章を書かなければならないので、なんとか見つけようと周囲を観察していた。その結果、普段気付かないようなことも色々気付けたと思うし、考えもしないようなことを考えるようになった。文章を書くという目的のための観察だったわけだけど、観察するという方がかなり重要な目的に変わっていったと思う。
エッセイというのは、なかなか独りよがりになりがちではあるが、書く以前の客観的な観察というのはなかなか面白いものだ。
さて本作だが、文庫オリジナルの作品である。「ダイヤモンドLOOP」「本の旅人」という雑誌に連載していたエッセイを纏めたものである。タイトルにあるように、科学技術の進歩に絡めたエッセイにしようとしていたようだが、「?」がついているように、そうではない話題もかなり沢山ある。話題のキーワードだけ拾っていくことにすると、ネットコミュニケーション・ミステリと科学技術・DNA・数学・ハイテク犯罪・著作権・ダイエット・カーナビ・生態系・辞書・理系と文系・少子化・オリンピック・野球・災害・温暖化・血液型・本・2000年問題と2007年問題、とかなり多岐に渡っていることがわかるだろう。理系作家ならではのエッセイなのだろうが(とはいえ、理系の分野のエッセイということであれば、森博嗣の方がかなり書いていると思うが)、文系の人にも合うように(という意図ではないだろうけど)いろんな話題を盛り込んでいる。
中でもやはり、文系と理系のギャップについてのことがよく書かれていて面白い。ある新人賞の選考会で、車に衝突して電線まで飛び上がった、という記述のある作品に対して、東野圭吾はそんなことは絶対にありえない、と主張したにも関わらず、他の選考委員は、それは大したことではない、というかそういうこともまあありうるんじゃないの?という反応だったらしい(ゴルフボールを引き合いに出したりもしたようで)。また、理系の研究職が、かなりの高給であるという幻想を文系の人は抱いている、というくだりも、読んでてそうなのか、と思った。
全般的に、一つ一つ短く、またまあそうだろうなと思うようなことしか書いていないものもあるけれども、非常に読みやすいし、それなりに楽しめると思います。東野圭吾の三作目のエッセイ(「あのころ僕らはアホでした」「ちゃれんじ?」に続く)、どうぞ。
東野圭吾「さいえんす?」
例えば、ものすごくどうでもいいことではあるけれども、バイトをしていて思うことがある。それは、お金の出し方についてである。僕は、お金の出し方に掛けてはうるさい人間で、毎日バイトをしていても、あなたのお金の出し方は素晴らしい、と評価できる人には、100人に一人ぐらいしか出会わない。
トレーにお金を入れない人、お札を折ったまま出す人、お札をトレーに置いてから小銭を出す人、財布を出すのがそもそも遅い人。とにかくいろんな人がいるわけだが、大体僕はイライラする。もっとなんとかならないものだろうか、と嘆く。
しかし、先日駅の中のうどん屋で会計をする際、僕もトレーに小銭を入れずにそのまま出してしまった。トレーがちょっと離れたところにあり、そこに入れるよりも、相手に近いところに出したほうが親切だろうか、という判断だったわけだけど、そういう行動をしてみて初めて、もしかしたらそういうことを考えてくれている人もいるのかもしれない、と思った。お互いの要求がマッチしていないだけで、お客さんが不親切なわけではないのかもしれない、と。なるほど、相手の立場になって物事を考えてみないとわからないものである。
というような感じの文章である。
こういう文章は、ネタさえあればいくらでも書ける。ただこういうネタこそ、日常の中にどんどん埋もれていき、なかなか表に出てこないものなのである。そのブログに文章を書いていた時は、何かネタを見つける度に手に書き、家に帰ってから紙に書き写す、というようなことをやっていた。しかし、なんのためにそんな努力をしたのか、そういう文章を書かなくなった今ではよくわからない。
ただ、そういう視点で物事を見る、というのは非常に大事だと感じた。今は書かなくなったので、ネタを探すための観察もしていないのだが、何だか視野が狭くなったかもしれないな、という感じがしている。ネタを探していたような頃は、とにかく文章を書かなければならないので、なんとか見つけようと周囲を観察していた。その結果、普段気付かないようなことも色々気付けたと思うし、考えもしないようなことを考えるようになった。文章を書くという目的のための観察だったわけだけど、観察するという方がかなり重要な目的に変わっていったと思う。
エッセイというのは、なかなか独りよがりになりがちではあるが、書く以前の客観的な観察というのはなかなか面白いものだ。
さて本作だが、文庫オリジナルの作品である。「ダイヤモンドLOOP」「本の旅人」という雑誌に連載していたエッセイを纏めたものである。タイトルにあるように、科学技術の進歩に絡めたエッセイにしようとしていたようだが、「?」がついているように、そうではない話題もかなり沢山ある。話題のキーワードだけ拾っていくことにすると、ネットコミュニケーション・ミステリと科学技術・DNA・数学・ハイテク犯罪・著作権・ダイエット・カーナビ・生態系・辞書・理系と文系・少子化・オリンピック・野球・災害・温暖化・血液型・本・2000年問題と2007年問題、とかなり多岐に渡っていることがわかるだろう。理系作家ならではのエッセイなのだろうが(とはいえ、理系の分野のエッセイということであれば、森博嗣の方がかなり書いていると思うが)、文系の人にも合うように(という意図ではないだろうけど)いろんな話題を盛り込んでいる。
中でもやはり、文系と理系のギャップについてのことがよく書かれていて面白い。ある新人賞の選考会で、車に衝突して電線まで飛び上がった、という記述のある作品に対して、東野圭吾はそんなことは絶対にありえない、と主張したにも関わらず、他の選考委員は、それは大したことではない、というかそういうこともまあありうるんじゃないの?という反応だったらしい(ゴルフボールを引き合いに出したりもしたようで)。また、理系の研究職が、かなりの高給であるという幻想を文系の人は抱いている、というくだりも、読んでてそうなのか、と思った。
全般的に、一つ一つ短く、またまあそうだろうなと思うようなことしか書いていないものもあるけれども、非常に読みやすいし、それなりに楽しめると思います。東野圭吾の三作目のエッセイ(「あのころ僕らはアホでした」「ちゃれんじ?」に続く)、どうぞ。
東野圭吾「さいえんす?」
ヴィレッジ・ヴァンガードで休日を(菊地敬一)
ああ、なんて羨ましいんだろうか。というのが、本作を読み終えての感想です。ちょっと色々大変だろうけど、でもヴィレッジ・ヴァンガード(以下V.V.)で働きたいな、と素直にそう思いました。
本屋というのは僕にとってはかなり天職で、基本的に社会に適応出来ない、性格的に完全な引きこもりの不適格者であり、NEET寸前だったにも関わらず、今バイトで働いている本屋は、今までで一番長く続いています。もちろん、状況が様々に変わり、生活していかなければいけないということもあるんですけど、やっぱり本屋は好きですね。まさか自分が本屋で働くようになるとは思わなかったけど。
とにかく昔から結構本を読んでいて、でも買うのは大体古本屋でした。じゃあ本屋には何しに行くのかと言えば、ああこんな本出てるんだ、この作家の新刊出たんだ、ととにかく情報を仕入れる場所でした。古本屋では見つかりそうもないかな、とか、やべー今すぐどうしても読みたい、とかいう本は本屋で新刊で買ってましたけど。
大学生の頃ですが、僕が住んでいた所には、あるいて行ける距離に古本屋が四軒、本屋が一軒ありました。暇さえあれば、その計五軒に入りびたって、とにかく買っては読み買っては読みの生活をしていました(と書くと文系のようですが、実は理系だったりします)。
本屋というのは、本当にうきうきしますね。今僕は本屋で働いていて、何の新刊が出たとかそういうことは普段から知っているわけですけど、でも初めて行く街とかで本屋を見つけたら、必ず寄りますね。もちろん、僕はまあ文庫と新書の担当なわけでして、この本屋はどんなのを置いていて、どんなのが売れてるんだろうな、という視点で最近他の本屋を見るようになってきましたが、基本的には趣味で本屋を巡りますね。小説しか読まないけど、ざっと雑誌やコミックのところも見たりして、何をするわけでもなくぐるぐる回っている、なんてのがかなり楽しかったりします。本屋には結構長い時間いられます。沢山本を買う目的でブックオフなんかに行ったりすると、3時間ぐらいは余裕で潰せるんじゃないかな。
とにかく、僕の生活には本と本屋がまあ欠かせないわけです。
と書くと、ああなんだ両方揃って満たされているじゃないか、何を羨ましがる必要があるんだコノヤロー、って感じかもしれませんが、そうではないわけです。これでも色々と気苦労があるわけで。
僕のいる本屋のことを書きますと、社員が二人、あとはアルバイトです。アルバイトが(社員もですが)基本的に担当業務をしています。僕は文庫と新書の担当です。
さて、まあこんなことは書くべきではないんでしょうが、この社員二人というのがメチャクチャ無能で(有能な社員が結婚退社してしまいまして)、その無能さの影響をもろに受けています。社員がやらない・やれない・やろうとしない仕事を、いちいち管理しなくてはいけないし、とにかく、担当業務に打ち込むことができないぐらい(本当はもっとフェアを考えたりPOPを作る時間が欲しいのですが)雑用を抱えているという感じなわけです(しかも、僕を含めた一部の人間が雑用を多く抱えているという不公平な感じです)。本当に最近は、雑用だけで時間がなくなっていきます(しかもそれは、社員の仕事のミスを直すとかそういうレベルのことも含まれます)。ああ、めんどくせー。
しかも、何より問題だと思うのは、うちの書店員は全然本が好きではないということですね。別に小説を読め、とかまではいいません。児童書が好きだとか、コミックの知識ではまけないだとか、そういうのでも全然いいんです。しかし、そうしたことがまったくありません。
例えば文芸書の担当(これはダメ社員の内の一人ですが)はまったく小説を読みません。だから、これはもっと積んだほうがいいよな、と思う本が全然なかったり、恐らくどの作家が人気があるかすらかなり怪しいところではないかと思います。
なので、僕が文庫で何かフェアを考えたとしましょう。それは、文芸書や児童書や、そうしたものと一緒に展開できるようなフェアであっても、僕はそういう提案が出来ません。いや、やろうと思えばできますが、絶対に乗り気ではないだろうし、めんどくさがって嫌がると思います。これが、今のうちの現状です。
やはり、本が好きではない書店員はダメではないか、と僕は思います。
とようやく話は戻りますが、何が羨ましいかと言えば、V.V.は、社員もアルバイトも皆、本も雑貨も、とにかく扱っているものが好きで好きで仕方ない、というう点です。ああ、そういうところで働きたい。
さて、V.V.について少し説明をしましょう。V.V.は、本作の著者である菊地敬一氏が、脱サラして名古屋で第1号店をオープンさせた本屋です。今では全国に180店舗展開し、株式の上場もしたそうです。
さて、本屋とは言っても本だけを扱うわけではありません。CDや雑貨、そして雑貨とすら言えないようなものまで置いてあります。ビリヤード台を什器(ディスプレー)に使ったり、書棚に梯子を掛けたりするなど、かなり斬新なアイデアで店作りをしています。
本に限って言えば、新刊もベストセラーも置いていません。それは、僕なんかからすれば驚異的なことです。後でも書きますが、僕はかなり個人的な趣味で平積みする本を決めますが、それでもやはり、新刊やベストセラーを置かないで売上を維持するのは不可能です。新刊やベストセラーの売上でなんとか稼いで、後は自分の好きなように、というのが今僕ができる範囲です。
しかしこのV.V.という本屋は、すべて好きな本を置いてしまおう、という発想なのです。だから、一般的には絶版になっている本が売っていたり、どこの本屋でこれが売れるんだろう、と思うようなものがベストセラーになっていたりします。ものすごい店です。そもそも本屋というのは薄利多売の商売ですが、V.V.はそれをさらに推し進めてなんとか利益を出している、という感じなのです。
「日本の本屋の景色を変えよう。本屋には夢も希望もある」それを合言葉に始めた、斬新で、しかも今その業務形態が注目されるようにまでなった本屋なわけです。
ちなみに僕は、先ほども書いたように、かなり個人的な趣味で平積みする本を決めていますが、少し前からかなり強力に売り出しているのが、森博嗣の「スカイ・クロラ」と「ナ・バ・テア」(ともに中央公論新社)です。かなり美しい装丁もそうですが、その内容の素晴らしさに惚れこんで、絵のうまい人にPOPを作ってもらったりしながら、かなりの勢いで展開しています。うちの店では、文庫を20冊積んでいればかなりあるな、という感じですが、先に上げた二冊は現在50冊近い在庫があります。しかもkろえをすべて売り切り、さらに注文しよう、という野心を持っているので、是非みなさん買ってください、うちの店で。
さて本作は、そんな革命的な本屋V.V.の創業者である菊地氏が、その創業当時の苦労や面白いエピソード、悩める書店員からの悩み相談なんかをユーモアたっぷりに綴った本です。図書館流通センターというところが発行している「週刊新刊全点案内」に連載されたエッセイをまとめ、単行本で出版されたものが、今回文庫化されたようです。
創業者の苦労話、と聞いて、自慢をたらたら書いているようなものを想像してもらっては困ります。この菊地氏というのはかなりユーモアのセンスがある人のようで、文章が結構面白いです。書店業務についてのことが書いてあるので、書店で働いている人はもちろん楽しめるし、V.V.という店を知っている人ももちろん楽しめるし、本屋や雑貨が好きな人も楽しめるし、何も知らなくても文章だけで読めてしまう、そんなエッセイです。
細かい内容は是非是非読んで欲しいわけですが、創業当時の自転車操業や社長業専務業のあれこれ、変なバイトやお客さん、FC(フランチャイズ)の話など、とにかく話題は盛りだくさんです。特に、書店員や本屋の店長からの悩み相談のコーナーでは、なかなか斬新なことをいうな、と関心したものです。やはり、先見の明があるというか、凄い人なんだな、と。
僕は、これを読み終えて、うちで平積みすることに決めました。今日のバイト中に、即興でPOPも作りました。10分ぐらいで作った超お粗末なものですが。文面はこうしました。
「危険!本屋にだけは死んでもなりたくない人は、絶対に読まないでください。読んだら最後、いつの間にか本屋のオーナーでした…ってアリウル!」
そして右肩に吹き出し風にして、
「店長!僕もここを辞めてV.V.で働きたいんですがダメですか(笑)文庫担当心の叫び」と書いて見ました。しばらく置いてみるつもりです(今日15冊注文したので、今年中に入ってくるかちょっと微妙なところですが)。この文面のお粗末なPOPを見かけたら、それは僕のいる本屋ですので、文庫のところをうろうろしている人を見かけたら、声を掛けてみてください(ってまあそんな偶然はないだろうけど)。
本や本屋(森博嗣の小説の「幻惑の死と使途」というタイトルを思い出した)が好きな人は間違いなく楽しめるでしょう。面白いエッセイを読んでみたいという人にもお勧めですし、V.V.に興味があるという人ももちろんオーケーです。とにかく、理由はなんでもいいので、手にとって読んでみてください。読んだ次の日に、V.V.の門を叩いている…、なんてことだってないとは言い切れないでしょう。
菊地敬一「ヴィレッジ・ヴァンガードで休日を」
ヴィレッジ・ヴァンガードで休日を文庫
本屋というのは僕にとってはかなり天職で、基本的に社会に適応出来ない、性格的に完全な引きこもりの不適格者であり、NEET寸前だったにも関わらず、今バイトで働いている本屋は、今までで一番長く続いています。もちろん、状況が様々に変わり、生活していかなければいけないということもあるんですけど、やっぱり本屋は好きですね。まさか自分が本屋で働くようになるとは思わなかったけど。
とにかく昔から結構本を読んでいて、でも買うのは大体古本屋でした。じゃあ本屋には何しに行くのかと言えば、ああこんな本出てるんだ、この作家の新刊出たんだ、ととにかく情報を仕入れる場所でした。古本屋では見つかりそうもないかな、とか、やべー今すぐどうしても読みたい、とかいう本は本屋で新刊で買ってましたけど。
大学生の頃ですが、僕が住んでいた所には、あるいて行ける距離に古本屋が四軒、本屋が一軒ありました。暇さえあれば、その計五軒に入りびたって、とにかく買っては読み買っては読みの生活をしていました(と書くと文系のようですが、実は理系だったりします)。
本屋というのは、本当にうきうきしますね。今僕は本屋で働いていて、何の新刊が出たとかそういうことは普段から知っているわけですけど、でも初めて行く街とかで本屋を見つけたら、必ず寄りますね。もちろん、僕はまあ文庫と新書の担当なわけでして、この本屋はどんなのを置いていて、どんなのが売れてるんだろうな、という視点で最近他の本屋を見るようになってきましたが、基本的には趣味で本屋を巡りますね。小説しか読まないけど、ざっと雑誌やコミックのところも見たりして、何をするわけでもなくぐるぐる回っている、なんてのがかなり楽しかったりします。本屋には結構長い時間いられます。沢山本を買う目的でブックオフなんかに行ったりすると、3時間ぐらいは余裕で潰せるんじゃないかな。
とにかく、僕の生活には本と本屋がまあ欠かせないわけです。
と書くと、ああなんだ両方揃って満たされているじゃないか、何を羨ましがる必要があるんだコノヤロー、って感じかもしれませんが、そうではないわけです。これでも色々と気苦労があるわけで。
僕のいる本屋のことを書きますと、社員が二人、あとはアルバイトです。アルバイトが(社員もですが)基本的に担当業務をしています。僕は文庫と新書の担当です。
さて、まあこんなことは書くべきではないんでしょうが、この社員二人というのがメチャクチャ無能で(有能な社員が結婚退社してしまいまして)、その無能さの影響をもろに受けています。社員がやらない・やれない・やろうとしない仕事を、いちいち管理しなくてはいけないし、とにかく、担当業務に打ち込むことができないぐらい(本当はもっとフェアを考えたりPOPを作る時間が欲しいのですが)雑用を抱えているという感じなわけです(しかも、僕を含めた一部の人間が雑用を多く抱えているという不公平な感じです)。本当に最近は、雑用だけで時間がなくなっていきます(しかもそれは、社員の仕事のミスを直すとかそういうレベルのことも含まれます)。ああ、めんどくせー。
しかも、何より問題だと思うのは、うちの書店員は全然本が好きではないということですね。別に小説を読め、とかまではいいません。児童書が好きだとか、コミックの知識ではまけないだとか、そういうのでも全然いいんです。しかし、そうしたことがまったくありません。
例えば文芸書の担当(これはダメ社員の内の一人ですが)はまったく小説を読みません。だから、これはもっと積んだほうがいいよな、と思う本が全然なかったり、恐らくどの作家が人気があるかすらかなり怪しいところではないかと思います。
なので、僕が文庫で何かフェアを考えたとしましょう。それは、文芸書や児童書や、そうしたものと一緒に展開できるようなフェアであっても、僕はそういう提案が出来ません。いや、やろうと思えばできますが、絶対に乗り気ではないだろうし、めんどくさがって嫌がると思います。これが、今のうちの現状です。
やはり、本が好きではない書店員はダメではないか、と僕は思います。
とようやく話は戻りますが、何が羨ましいかと言えば、V.V.は、社員もアルバイトも皆、本も雑貨も、とにかく扱っているものが好きで好きで仕方ない、というう点です。ああ、そういうところで働きたい。
さて、V.V.について少し説明をしましょう。V.V.は、本作の著者である菊地敬一氏が、脱サラして名古屋で第1号店をオープンさせた本屋です。今では全国に180店舗展開し、株式の上場もしたそうです。
さて、本屋とは言っても本だけを扱うわけではありません。CDや雑貨、そして雑貨とすら言えないようなものまで置いてあります。ビリヤード台を什器(ディスプレー)に使ったり、書棚に梯子を掛けたりするなど、かなり斬新なアイデアで店作りをしています。
本に限って言えば、新刊もベストセラーも置いていません。それは、僕なんかからすれば驚異的なことです。後でも書きますが、僕はかなり個人的な趣味で平積みする本を決めますが、それでもやはり、新刊やベストセラーを置かないで売上を維持するのは不可能です。新刊やベストセラーの売上でなんとか稼いで、後は自分の好きなように、というのが今僕ができる範囲です。
しかしこのV.V.という本屋は、すべて好きな本を置いてしまおう、という発想なのです。だから、一般的には絶版になっている本が売っていたり、どこの本屋でこれが売れるんだろう、と思うようなものがベストセラーになっていたりします。ものすごい店です。そもそも本屋というのは薄利多売の商売ですが、V.V.はそれをさらに推し進めてなんとか利益を出している、という感じなのです。
「日本の本屋の景色を変えよう。本屋には夢も希望もある」それを合言葉に始めた、斬新で、しかも今その業務形態が注目されるようにまでなった本屋なわけです。
ちなみに僕は、先ほども書いたように、かなり個人的な趣味で平積みする本を決めていますが、少し前からかなり強力に売り出しているのが、森博嗣の「スカイ・クロラ」と「ナ・バ・テア」(ともに中央公論新社)です。かなり美しい装丁もそうですが、その内容の素晴らしさに惚れこんで、絵のうまい人にPOPを作ってもらったりしながら、かなりの勢いで展開しています。うちの店では、文庫を20冊積んでいればかなりあるな、という感じですが、先に上げた二冊は現在50冊近い在庫があります。しかもkろえをすべて売り切り、さらに注文しよう、という野心を持っているので、是非みなさん買ってください、うちの店で。
さて本作は、そんな革命的な本屋V.V.の創業者である菊地氏が、その創業当時の苦労や面白いエピソード、悩める書店員からの悩み相談なんかをユーモアたっぷりに綴った本です。図書館流通センターというところが発行している「週刊新刊全点案内」に連載されたエッセイをまとめ、単行本で出版されたものが、今回文庫化されたようです。
創業者の苦労話、と聞いて、自慢をたらたら書いているようなものを想像してもらっては困ります。この菊地氏というのはかなりユーモアのセンスがある人のようで、文章が結構面白いです。書店業務についてのことが書いてあるので、書店で働いている人はもちろん楽しめるし、V.V.という店を知っている人ももちろん楽しめるし、本屋や雑貨が好きな人も楽しめるし、何も知らなくても文章だけで読めてしまう、そんなエッセイです。
細かい内容は是非是非読んで欲しいわけですが、創業当時の自転車操業や社長業専務業のあれこれ、変なバイトやお客さん、FC(フランチャイズ)の話など、とにかく話題は盛りだくさんです。特に、書店員や本屋の店長からの悩み相談のコーナーでは、なかなか斬新なことをいうな、と関心したものです。やはり、先見の明があるというか、凄い人なんだな、と。
僕は、これを読み終えて、うちで平積みすることに決めました。今日のバイト中に、即興でPOPも作りました。10分ぐらいで作った超お粗末なものですが。文面はこうしました。
「危険!本屋にだけは死んでもなりたくない人は、絶対に読まないでください。読んだら最後、いつの間にか本屋のオーナーでした…ってアリウル!」
そして右肩に吹き出し風にして、
「店長!僕もここを辞めてV.V.で働きたいんですがダメですか(笑)文庫担当心の叫び」と書いて見ました。しばらく置いてみるつもりです(今日15冊注文したので、今年中に入ってくるかちょっと微妙なところですが)。この文面のお粗末なPOPを見かけたら、それは僕のいる本屋ですので、文庫のところをうろうろしている人を見かけたら、声を掛けてみてください(ってまあそんな偶然はないだろうけど)。
本や本屋(森博嗣の小説の「幻惑の死と使途」というタイトルを思い出した)が好きな人は間違いなく楽しめるでしょう。面白いエッセイを読んでみたいという人にもお勧めですし、V.V.に興味があるという人ももちろんオーケーです。とにかく、理由はなんでもいいので、手にとって読んでみてください。読んだ次の日に、V.V.の門を叩いている…、なんてことだってないとは言い切れないでしょう。
菊地敬一「ヴィレッジ・ヴァンガードで休日を」
ヴィレッジ・ヴァンガードで休日を文庫
ライ麦畑でつかまえて(J・D・サリンジャー)
京極夏彦という作家がいて、その作家の書く小説は「妖怪小説」と呼ばれていた。僕はだから、妖怪が実存として出てくる小説だとばかり思っていたけど、読んでみると概念として出てくるだけだった。
こういう誤解というか思い違いは、まあそれなりにある。
本作「ライ麦畑でつかまえて」という作品を僕はこう思っていた。ライ麦畑の崖で落ちそうになる人をつかまえる少年の話だと。だから、ライ麦畑が舞台だろうとも思っていた。しかしページを捲っても捲っても、ライ麦畑に辿り着かない。もしかして、カバーだけが「ライ麦畑でつかまえて」で、中身は別の本なのではないかと、確認してしまうほどだった。
どうやら評価されている作品らしい。たぶん、本を読んだことのない人でも、一度ぐらい名前を聞いたことがあるだろう。最近では、村上春樹が新しい訳で本作を出版したことでも有名かと思う。
一人の少年の、成長を描いている、ということなんだろう、きっと。
ホールデンという少年が主人公だ。語りかけるような口調で文体が展開されている。
ホールデンは、決して頭が悪いというわけではないのだろうけど、勉強に積極的にならないがために、何度も学校を替わっている、ある意味で問題児だ。授業に臨むのにも準備をしないし、勉強をそもそもしない。英語の成績はいいが、それはもとから英語だけはできるというだけのことである。
結局、何度目かの学校であったペンシーという高校も辞めることになった。
辞めることに決まってからの、ホールデンの動きを追っている。
寮で同室の男、隣の男、よくしてくれた先生、妹、女友達。そういう人との関わり合いを描きながら、昔のことを思い出しながら、ホールデンは放浪を続ける。学校を辞めるとなれば家へ戻らなければならないけれども、すぐには戻りたくない。そう思い、バーやホテルを転々としながら、家へ帰るのを先延ばしにしている。
言ってみればまあ、それだけの話である。
ストーリー自体に特に興味が持てないし、登場人物だってそれほど魅力的なわけでもない。翻訳の難しさもあるのかもしれないけど会話が古臭い。時々、ちょっといいなと思えるセリフが出てくるくらいだ。
しかしまあ、どこを評価すればいいだろう。
僕としては、ライ麦畑での少年を描いた作品を期待していただけに、さらに拍子抜けというか。
例えば本作とは少し話がずれるけど、国語の教科書に収録されているような、昔の文豪の作品みたいのがある。本作だって、アメリカでは教科書か何かに収録されていたりするかもしれない。
しかし、そういうのって絶対間違っていると思うんです。
文豪の作品を読んで面白いと感じられる人もいるだろうとは思います。でも、そういう人は大方、もとから本を読んでいる人ではないかと思うんです。人生で初めて読んだ本が夏目漱石の「こころ」だとして、それにどれだけ感動できるかはかなり疑問だと思います。
僕は、国語という授業が唯一持つべき使命は、本を読むことを好きにさせることだと思っています。それ以外に存在価値はないと思っています。しかし、今の国語教育は、まるでそれを無視した形で行われているように僕には思えます。
本作はそんな、国語の教科書に載っているような、うーんっていう感じの作品だったりするわけです。
僕には全然、どこを評価していいのかわかりません。まだ、「ナインストーリーズ」の方がよかったのではないかと思います。
唯一おっと思ったのは、表紙の絵があのパブロ・ピカソだったということです。そんな本は、世界中探してもほとんどないでしょう。まあ僕の中では、ピカソだってどこがいいのかわからない対象ではありますけど。
村上春樹訳の方もちょっと読んでみたい気もしますが、それは本作に対する興味よりも、村上春樹がどう訳しているのかという興味が大半です。
本作を評価する人は、まあ探せば大勢いるんでしょうが、僕にはさっぱりわかりませんでした。お勧めはまったくしません。
J・D・サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」
こういう誤解というか思い違いは、まあそれなりにある。
本作「ライ麦畑でつかまえて」という作品を僕はこう思っていた。ライ麦畑の崖で落ちそうになる人をつかまえる少年の話だと。だから、ライ麦畑が舞台だろうとも思っていた。しかしページを捲っても捲っても、ライ麦畑に辿り着かない。もしかして、カバーだけが「ライ麦畑でつかまえて」で、中身は別の本なのではないかと、確認してしまうほどだった。
どうやら評価されている作品らしい。たぶん、本を読んだことのない人でも、一度ぐらい名前を聞いたことがあるだろう。最近では、村上春樹が新しい訳で本作を出版したことでも有名かと思う。
一人の少年の、成長を描いている、ということなんだろう、きっと。
ホールデンという少年が主人公だ。語りかけるような口調で文体が展開されている。
ホールデンは、決して頭が悪いというわけではないのだろうけど、勉強に積極的にならないがために、何度も学校を替わっている、ある意味で問題児だ。授業に臨むのにも準備をしないし、勉強をそもそもしない。英語の成績はいいが、それはもとから英語だけはできるというだけのことである。
結局、何度目かの学校であったペンシーという高校も辞めることになった。
辞めることに決まってからの、ホールデンの動きを追っている。
寮で同室の男、隣の男、よくしてくれた先生、妹、女友達。そういう人との関わり合いを描きながら、昔のことを思い出しながら、ホールデンは放浪を続ける。学校を辞めるとなれば家へ戻らなければならないけれども、すぐには戻りたくない。そう思い、バーやホテルを転々としながら、家へ帰るのを先延ばしにしている。
言ってみればまあ、それだけの話である。
ストーリー自体に特に興味が持てないし、登場人物だってそれほど魅力的なわけでもない。翻訳の難しさもあるのかもしれないけど会話が古臭い。時々、ちょっといいなと思えるセリフが出てくるくらいだ。
しかしまあ、どこを評価すればいいだろう。
僕としては、ライ麦畑での少年を描いた作品を期待していただけに、さらに拍子抜けというか。
例えば本作とは少し話がずれるけど、国語の教科書に収録されているような、昔の文豪の作品みたいのがある。本作だって、アメリカでは教科書か何かに収録されていたりするかもしれない。
しかし、そういうのって絶対間違っていると思うんです。
文豪の作品を読んで面白いと感じられる人もいるだろうとは思います。でも、そういう人は大方、もとから本を読んでいる人ではないかと思うんです。人生で初めて読んだ本が夏目漱石の「こころ」だとして、それにどれだけ感動できるかはかなり疑問だと思います。
僕は、国語という授業が唯一持つべき使命は、本を読むことを好きにさせることだと思っています。それ以外に存在価値はないと思っています。しかし、今の国語教育は、まるでそれを無視した形で行われているように僕には思えます。
本作はそんな、国語の教科書に載っているような、うーんっていう感じの作品だったりするわけです。
僕には全然、どこを評価していいのかわかりません。まだ、「ナインストーリーズ」の方がよかったのではないかと思います。
唯一おっと思ったのは、表紙の絵があのパブロ・ピカソだったということです。そんな本は、世界中探してもほとんどないでしょう。まあ僕の中では、ピカソだってどこがいいのかわからない対象ではありますけど。
村上春樹訳の方もちょっと読んでみたい気もしますが、それは本作に対する興味よりも、村上春樹がどう訳しているのかという興味が大半です。
本作を評価する人は、まあ探せば大勢いるんでしょうが、僕にはさっぱりわかりませんでした。お勧めはまったくしません。
J・D・サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」
ロックンロール七部作(古川日出男)
僕の人生に、音楽は関与しない。もちろんまったくとは言わないけれども、ほとんど。
僕の耳に入る音楽は極々限られている。テレビ番組あるいはCMで流れる曲、バイト先で流れる有線、この二種類しかない。自分で買ったり借りたりして聞くことはまずない。そういう存在ではない。
音楽が人に何をもたらすか、ということはだからわからない。でもそれは、本が僕に何をもたらすかわからない人がいるのと同じで、本質的な問題ではない。あるいは、僕の場合の本と比較すれば、何かしらの結論は得られるかもしれないが。
音楽とはどんな存在か。だから僕にそれを語る言葉はあまりない。
人によってはそこに、世界や感情や時間を見るのだろう。揺さぶられたり、貫かれたりもするのだろう。それが僕にはないとしても、まあ悲しいというほどではない。
僕にとって音楽は、心臓の鼓動のようなもので、意識して聞くものではない。さらに、人間に心臓は必要でも心臓の鼓動は不要なように、音楽の存在は僕には不要だ。なくても、困ることはない。
だから何だと言われても困るところではあるが、音楽を否定しているわけでも、本との優劣を論じているわけでも決してない。あくまでも、僕の個人的な印象を無駄に文章にしてみただけのことである。
音楽のジャンルというものにも疎い。聞いたことがあるのは、R&B・ジャズ・クラシック・演歌・ラップ、とか。ジャンルじゃないのもあるのかもしれないが。
そして、ロックンロール。
僕が音楽をまるで知らないいい例として、本作を読んで始めて知った知識を披瀝しようではないか。僕は、ビートルズはアメリカ出身だと思っていた。まさかイギリスとは。それぐらい、無知だ。もちろん、本作を読んだ今でも、ビートルズがロックンロールなのかはわからない。
音と言葉と動きが人を魅了する。
そこには、自然歴史が派生する。
歴史は、時間と空間と人を取り込み、肥大し拡散し残る。
歴史は、それを語るものの力を借りてどこまでも飛散する。
本作は、世界の歴史と、ロックンロールの歴史を描いた、そんな作品である。
内容を紹介しようと思うのだが、難しすぎる。なぜなら、僕の本作に対する評価は、歴史の年表を読んでるみたいだ、というものだからだ。さすがにどんな人でも、年表のあらすじを書くのは不可能というものではないだろうか。それ自身既にあらすじであるもののあらすじは、存在しようがないだろう。
ロックンロール七部作と題して、0部から7部まである。順番は1~7と来て最後に0だ。それぞれの短編は有機的にはリンクしない。ロックンロールというものをテーマに据えた連作短編集だ。
7つのストーリーは、7つの大陸それぞれを舞台にして進む。アメリカで生まれたロックンロールが、あらゆる大陸で浸透・拡散・神話化する過程を、実際の歴史的事実というか流れに沿って(もちろん歴史に疎い僕には判断のしようがないのだが、まあ史実なのだろうと思って読んだ)、そこにロックンロールの流転の歴史を重ね合わせて物語は進む。
物語というか、年表が進む。
そこには、歴史も流れもあるが、それでも何もない。なんと言えばいいだろうか。ちょっと例えようがないのだが、あまりに空虚ではないだろうか?
僕は、登場人物に感情移入するだのどうだのということには興味がないし、リアリティ云々も特にどうでもいい。一般的に書評家と言われる人が批判するような点は、全然気にならない。
けれども本作は、あらゆるものが記号として扱われすぎていている。人間も空間も時間も、そして音楽でさえも何かの記号でしかないのではないかという印象だ。年表という表現と相容れない可能性もあるけれど、無機質な方程式の羅列を思わせる。方程式を順に解体していき、最後にX=?を求めるまでの過程をただ眺めているような、そんな感じですらある。
そこには、歴史も流れもあるが、何もない。そう、この方程式の例で、先ほどの表現が少しは理解できるのではないかと思う。
年表でも方程式でもある本作。というか、年表でしか方程式でしかない本作。読んで何かを感じたり考えたり意味を見出したりすることが出来るとはちょっと思えない。人によってはもしかしたら可能なのかもしれないが。
文章の勢いは舞城王太郎的。物語の進行は村上春樹的だと思う。しかし、両者のいい点を抜き出しているようには思えない。もしかしたら、個々は美味しいのに、組み合わせて食べるととてもまずい食材のような、そんな感じなんだろうか?
僕の中では、よくわからない作品であって、いい評価はできない。どこを目指しているのか判然としなさすぎて、一つの短編を読んでいても何かを見失いそうになったりもする。もしかしたら、先を行き過ぎているだけなのかもしれない、とも思う。舞城王太郎や村上春樹は、高尚で少し遠いけど、しかし時代に受け入れられ時代に合う物語を紡いでいるように思う。古川日出男は早すぎたのかもしれない。そうではない可能性もあるけれども。
お勧めはしないので、それでも興味がある人は読んでみてください。
古川日出男「ロックンロール七部作」
僕の耳に入る音楽は極々限られている。テレビ番組あるいはCMで流れる曲、バイト先で流れる有線、この二種類しかない。自分で買ったり借りたりして聞くことはまずない。そういう存在ではない。
音楽が人に何をもたらすか、ということはだからわからない。でもそれは、本が僕に何をもたらすかわからない人がいるのと同じで、本質的な問題ではない。あるいは、僕の場合の本と比較すれば、何かしらの結論は得られるかもしれないが。
音楽とはどんな存在か。だから僕にそれを語る言葉はあまりない。
人によってはそこに、世界や感情や時間を見るのだろう。揺さぶられたり、貫かれたりもするのだろう。それが僕にはないとしても、まあ悲しいというほどではない。
僕にとって音楽は、心臓の鼓動のようなもので、意識して聞くものではない。さらに、人間に心臓は必要でも心臓の鼓動は不要なように、音楽の存在は僕には不要だ。なくても、困ることはない。
だから何だと言われても困るところではあるが、音楽を否定しているわけでも、本との優劣を論じているわけでも決してない。あくまでも、僕の個人的な印象を無駄に文章にしてみただけのことである。
音楽のジャンルというものにも疎い。聞いたことがあるのは、R&B・ジャズ・クラシック・演歌・ラップ、とか。ジャンルじゃないのもあるのかもしれないが。
そして、ロックンロール。
僕が音楽をまるで知らないいい例として、本作を読んで始めて知った知識を披瀝しようではないか。僕は、ビートルズはアメリカ出身だと思っていた。まさかイギリスとは。それぐらい、無知だ。もちろん、本作を読んだ今でも、ビートルズがロックンロールなのかはわからない。
音と言葉と動きが人を魅了する。
そこには、自然歴史が派生する。
歴史は、時間と空間と人を取り込み、肥大し拡散し残る。
歴史は、それを語るものの力を借りてどこまでも飛散する。
本作は、世界の歴史と、ロックンロールの歴史を描いた、そんな作品である。
内容を紹介しようと思うのだが、難しすぎる。なぜなら、僕の本作に対する評価は、歴史の年表を読んでるみたいだ、というものだからだ。さすがにどんな人でも、年表のあらすじを書くのは不可能というものではないだろうか。それ自身既にあらすじであるもののあらすじは、存在しようがないだろう。
ロックンロール七部作と題して、0部から7部まである。順番は1~7と来て最後に0だ。それぞれの短編は有機的にはリンクしない。ロックンロールというものをテーマに据えた連作短編集だ。
7つのストーリーは、7つの大陸それぞれを舞台にして進む。アメリカで生まれたロックンロールが、あらゆる大陸で浸透・拡散・神話化する過程を、実際の歴史的事実というか流れに沿って(もちろん歴史に疎い僕には判断のしようがないのだが、まあ史実なのだろうと思って読んだ)、そこにロックンロールの流転の歴史を重ね合わせて物語は進む。
物語というか、年表が進む。
そこには、歴史も流れもあるが、それでも何もない。なんと言えばいいだろうか。ちょっと例えようがないのだが、あまりに空虚ではないだろうか?
僕は、登場人物に感情移入するだのどうだのということには興味がないし、リアリティ云々も特にどうでもいい。一般的に書評家と言われる人が批判するような点は、全然気にならない。
けれども本作は、あらゆるものが記号として扱われすぎていている。人間も空間も時間も、そして音楽でさえも何かの記号でしかないのではないかという印象だ。年表という表現と相容れない可能性もあるけれど、無機質な方程式の羅列を思わせる。方程式を順に解体していき、最後にX=?を求めるまでの過程をただ眺めているような、そんな感じですらある。
そこには、歴史も流れもあるが、何もない。そう、この方程式の例で、先ほどの表現が少しは理解できるのではないかと思う。
年表でも方程式でもある本作。というか、年表でしか方程式でしかない本作。読んで何かを感じたり考えたり意味を見出したりすることが出来るとはちょっと思えない。人によってはもしかしたら可能なのかもしれないが。
文章の勢いは舞城王太郎的。物語の進行は村上春樹的だと思う。しかし、両者のいい点を抜き出しているようには思えない。もしかしたら、個々は美味しいのに、組み合わせて食べるととてもまずい食材のような、そんな感じなんだろうか?
僕の中では、よくわからない作品であって、いい評価はできない。どこを目指しているのか判然としなさすぎて、一つの短編を読んでいても何かを見失いそうになったりもする。もしかしたら、先を行き過ぎているだけなのかもしれない、とも思う。舞城王太郎や村上春樹は、高尚で少し遠いけど、しかし時代に受け入れられ時代に合う物語を紡いでいるように思う。古川日出男は早すぎたのかもしれない。そうではない可能性もあるけれども。
お勧めはしないので、それでも興味がある人は読んでみてください。
古川日出男「ロックンロール七部作」
ジェシカが駆け抜けた七年間について(歌野晶午)
分身、という発想は、結構魅力的だ。
分身と聞いて僕が思い浮かべることは二つだ。一つは、パーマン。パーマンとして存在している間、自分の分身として存在し続ける人形を思い浮かべる。もう一つは、東野圭吾の小説「分身」である。これも、まさに分身を扱った作品であり、連想が浮かぶ。他にも、漢字表記はわからないけど、双子のマナ・カナとか、そういうぐらいだろうか。
自分の分身がいたら、何をさせるだろう。具体的なことは別として、楽しそうなことは自分がやって、辛いことは分身に任せる、と誰もがそう考えることだろうと思う。
ただ、まあ分身の側からすればたまらないだろな、と。
同じ構造で存在するのが、多重人格である。これは、まあ証明されているわけではなく、あくまで仮説なんだろうけど、多重人格というのは、嫌な経験を受けた際に、それを自分の中の別の人格が受けているのだ、という風に錯覚することで出来上がるものなのだそうだ。今この苦痛を感じているのは自分ではない。もう一人の別の人格で、だから私は大丈夫。とこういう理屈である。
そういう場合、往々にして、一番苦痛を受けている人格というものが、一番凶暴になる。自傷行為(その人格にしてみれば、主人格の殺害行為なのだろうけど)を繰り返したり、汚い言葉で罵ったりする。まあ当然だろう。分身である存在に人格はあるだろうし、苦痛をすべて押し付けても大丈夫だということには決してならない。
あなたは、もし自分に分身がいたら、何をさせるだろうか?殺したい人がいるならばうってつけ。あなたが殺している間に、分身がアリバイを作ってくれることでしょう。
内容に入ろうかと思います。
ジェシカという一人のランナーがいる。エチオピア出身のプロのランナーである。アメリカのニューメキシコで合宿をしているNMACというクラブの一員であり、日本人の監督と、各国のメンバーと共に、日々トレーニングを積んでいる。
ジェシカは、ハラダアユミという名の日本人ランナーと仲がよかった。しかし、ある日寝付けずに夜中散歩に出ると、アユミが異様な風体で木に何かを打ち付けているのを目撃した。それから数晩それは続いた。日本に関する知識があれば、アユミが何をしているのかわかっただろう。アユミは丑の酷参りをしていたのである。恨みに思っている人を呪い殺すと言われている日本の術。そうしたことを打ち明けられた直後、彼女はNMACを去り、さらにしばらくして、アユミが自殺したことを知らされる。
アユミが恨んでいたのは、NMACの日本人監督、カナザワツトムである。
金沢勤は、新潟で行われたマラソンの国際大会の最中に、砲丸で殴打され死亡した。関係者以外立ち入り禁止の部屋で殺されており、彼の手にはネックレスが握られていた。そのネックレスは、ジェシカのものだと関係者なら誰でもわかるものだった。
アユミの自殺から七年。ジェシカはある思いを込めて新潟の国際大会に臨む。アユミのためにして上げられることは、これしかないのだと心に深く刻んで…。
僕は、本作は微妙にアンフェアではないかと感じている。歌野晶午は、「葉桜~」でもわかるように、その作品中、かなり革新的な、別の言い方をすればかなり際どいトリックを使った作品が結構多い。「葉桜~」は、あれだけの評価からもわかるように大成功を収めたといえるだろうけども、僕の個人的な印象では、本作はちょっとな、という感じがする。
もちろん、ストーリーの構成上何もアンフェアな点はない。それは、こういった作品を沢山書き上げてきた歌野晶午の矜持とも言えるだろう。しかし、本作の要であるあの部分は、ちょっとマイナー過ぎないだろうか、と僕は評価してしまう。もちろん、マイナーであるものを使うことは決して悪いことではないけど、読者に優しいとは言えないだろう。
ただ、先ほども書いたが、構成は見事だと思う。本作には、「ハラダアユミを名乗る女」という章があるのだが、これがあるとないとで本作の評価は大きく変わると言ってもいいだろう。この「ハラダ~」の章があることで、エンターテイメントとして一定の水準を超えていると評価できる。この「ハラダ~」が無ければ、本作は成立しえないだろう。
構成はうまいが、本作で読者をうまく納得させることは難しいだろう、とそういう評価です。決して悪くはないけれども、という印象ですね。
さらに、帯の文句に著者が関わることはあまりないだろうからこれは著者の責任ではないだろうけど、帯の文章がアンフェアに感じられる。僕も、本作の紹介があまりにも難しかったので、それを一部引用する形で内容紹介をしたけど、しかしなあと感じる。もちろん、ある言葉の解釈次第ではあるけれども、でもアンフェアに感じる読者は多いのではないだろうかと思う。
もし歌野晶午を初めて読むというのであれば、「葉桜~」を読むべきだし、「葉桜~」を読んだ読者なら、本作はなおお勧めできないですね。ちょっとギャップが大きすぎるので。なので、「葉桜~」を読んでそれなりに時間が経ち、他の歌野作品をそれなりに読んだ読者になら、まあいいかなという感じがします。そんな感じです。
歌野晶午「ジェシカが駆け抜けた七年間について」
ジェシカが駆け抜けた七年間についてハード
分身と聞いて僕が思い浮かべることは二つだ。一つは、パーマン。パーマンとして存在している間、自分の分身として存在し続ける人形を思い浮かべる。もう一つは、東野圭吾の小説「分身」である。これも、まさに分身を扱った作品であり、連想が浮かぶ。他にも、漢字表記はわからないけど、双子のマナ・カナとか、そういうぐらいだろうか。
自分の分身がいたら、何をさせるだろう。具体的なことは別として、楽しそうなことは自分がやって、辛いことは分身に任せる、と誰もがそう考えることだろうと思う。
ただ、まあ分身の側からすればたまらないだろな、と。
同じ構造で存在するのが、多重人格である。これは、まあ証明されているわけではなく、あくまで仮説なんだろうけど、多重人格というのは、嫌な経験を受けた際に、それを自分の中の別の人格が受けているのだ、という風に錯覚することで出来上がるものなのだそうだ。今この苦痛を感じているのは自分ではない。もう一人の別の人格で、だから私は大丈夫。とこういう理屈である。
そういう場合、往々にして、一番苦痛を受けている人格というものが、一番凶暴になる。自傷行為(その人格にしてみれば、主人格の殺害行為なのだろうけど)を繰り返したり、汚い言葉で罵ったりする。まあ当然だろう。分身である存在に人格はあるだろうし、苦痛をすべて押し付けても大丈夫だということには決してならない。
あなたは、もし自分に分身がいたら、何をさせるだろうか?殺したい人がいるならばうってつけ。あなたが殺している間に、分身がアリバイを作ってくれることでしょう。
内容に入ろうかと思います。
ジェシカという一人のランナーがいる。エチオピア出身のプロのランナーである。アメリカのニューメキシコで合宿をしているNMACというクラブの一員であり、日本人の監督と、各国のメンバーと共に、日々トレーニングを積んでいる。
ジェシカは、ハラダアユミという名の日本人ランナーと仲がよかった。しかし、ある日寝付けずに夜中散歩に出ると、アユミが異様な風体で木に何かを打ち付けているのを目撃した。それから数晩それは続いた。日本に関する知識があれば、アユミが何をしているのかわかっただろう。アユミは丑の酷参りをしていたのである。恨みに思っている人を呪い殺すと言われている日本の術。そうしたことを打ち明けられた直後、彼女はNMACを去り、さらにしばらくして、アユミが自殺したことを知らされる。
アユミが恨んでいたのは、NMACの日本人監督、カナザワツトムである。
金沢勤は、新潟で行われたマラソンの国際大会の最中に、砲丸で殴打され死亡した。関係者以外立ち入り禁止の部屋で殺されており、彼の手にはネックレスが握られていた。そのネックレスは、ジェシカのものだと関係者なら誰でもわかるものだった。
アユミの自殺から七年。ジェシカはある思いを込めて新潟の国際大会に臨む。アユミのためにして上げられることは、これしかないのだと心に深く刻んで…。
僕は、本作は微妙にアンフェアではないかと感じている。歌野晶午は、「葉桜~」でもわかるように、その作品中、かなり革新的な、別の言い方をすればかなり際どいトリックを使った作品が結構多い。「葉桜~」は、あれだけの評価からもわかるように大成功を収めたといえるだろうけども、僕の個人的な印象では、本作はちょっとな、という感じがする。
もちろん、ストーリーの構成上何もアンフェアな点はない。それは、こういった作品を沢山書き上げてきた歌野晶午の矜持とも言えるだろう。しかし、本作の要であるあの部分は、ちょっとマイナー過ぎないだろうか、と僕は評価してしまう。もちろん、マイナーであるものを使うことは決して悪いことではないけど、読者に優しいとは言えないだろう。
ただ、先ほども書いたが、構成は見事だと思う。本作には、「ハラダアユミを名乗る女」という章があるのだが、これがあるとないとで本作の評価は大きく変わると言ってもいいだろう。この「ハラダ~」の章があることで、エンターテイメントとして一定の水準を超えていると評価できる。この「ハラダ~」が無ければ、本作は成立しえないだろう。
構成はうまいが、本作で読者をうまく納得させることは難しいだろう、とそういう評価です。決して悪くはないけれども、という印象ですね。
さらに、帯の文句に著者が関わることはあまりないだろうからこれは著者の責任ではないだろうけど、帯の文章がアンフェアに感じられる。僕も、本作の紹介があまりにも難しかったので、それを一部引用する形で内容紹介をしたけど、しかしなあと感じる。もちろん、ある言葉の解釈次第ではあるけれども、でもアンフェアに感じる読者は多いのではないだろうかと思う。
もし歌野晶午を初めて読むというのであれば、「葉桜~」を読むべきだし、「葉桜~」を読んだ読者なら、本作はなおお勧めできないですね。ちょっとギャップが大きすぎるので。なので、「葉桜~」を読んでそれなりに時間が経ち、他の歌野作品をそれなりに読んだ読者になら、まあいいかなという感じがします。そんな感じです。
歌野晶午「ジェシカが駆け抜けた七年間について」
ジェシカが駆け抜けた七年間についてハード
ANTI HOUSE(森博嗣+阿竹克人)
家というものに、僕はまるで興味がない。とまあ書いてみるけど、僕は本当にあまりに興味の対象が狭すぎるので、家に限ったことでは決してない。衣食住を始め、普通一般に人がそれなりにお金をかけて贅沢したいと望むあらゆることに対して欲がないので、ある意味で僕の中の一般論になるかもしれない。
家にはまったく興味がない。僕の中では、屋根があり、我慢できる程度の寒暖が調整でき、本が置けて、横になって寝られる空間ならば、あとの条件はほとんど大したことはないだろうと思っている。実際今僕が住んでいるアパートには風呂がない。毎日銭湯に通っている。そう近くにあるわけではないので、不便といえば不便かもしれないが(望は、究極的にめんどくさがり屋である)、あの風呂の広さはかなり快適でもあるし、想像ではあるけども、部屋に風呂がついていると、シャワーしか浴びなくなるのではないかと思う(僕は、実家以外で、部屋に風呂のついた住宅に住んだ経験がない)。家賃も驚異的に安い。僕は神奈川県の、結構有名な沿線沿いに住んでいるけども、まあありえない数字だろうと思う。
外観も内観も興味がないし、人を呼んで(呼ぶことはほとんどないが)恥ずかしいと感じるようなこともない(ただ冬はとても寒く夏はとても暑い点は人を呼ぶ点で大いに障害ではあるが)。とにかく、自分ひとりが、最低限の欲求を確保できる空間。それが僕にとっての住宅の意味であり、それ以上でもそれ以下でもない。
周りは最近社会人になってる人が多くて(僕はフリーターです)、そのせいかこうした声を聞くことが多くなってきたようにも思う。
「自分の家がほしい」と。
つまりそれは、賃貸でもなく、マンションを買うでもなく、一戸建てを自分で建てて住みたい、ということだろう。
僕だって、一生散在し続けてもまだ余るぐらいの大金を手にしたのならば、まあ家でも建ててみようかな、という発想になるかもしれない。しかし、今の僕には、一戸建てを建てて住みたいなんて欲求はまったくない。
本作でも森博嗣が指摘しているように、人々は住宅というものに間違った価値観というか幻想を抱くようになったのではないか、という気がする。本作は、森博嗣がガレージを作る過程を一冊の本にしたものだが、そのまえがきとして、こんなことを書いている。一部を抜粋しよう。
「少なくとも、僕は窓を南側に開けることは最小限にしたい。明るい部屋がそれほど好きではない。床に座ることはないから畳の部屋は不要だ。コタツも使っていない。収納スペースを作るくらいなら、部屋を広くした方が良いし、どこになにがあるかすぐ見える。部屋は綺麗に片付いているよりも、ごちゃごちゃしている方が落ち着く。階段が沢山ある、段差がある、高低差がある空間が好きだ。段差があると、一番苦労するのは犬だが…。」
どうだろうか?自分の家を建てたい、と想像する人の頭の中には、森博嗣が上記で否定したような、住宅特集に載っているような、そんな家が浮かんではいないだろうか?
これを、森博嗣一人の個人的な特異な価値観だとしてきすることはもちろん可能である。しかし、そう指摘する以前に、続く森博嗣のこの言葉を読んでみてほしい。
「とにかく、お客さんが来たときよりも、自分一人のときのために住宅はある、と考えている。」
この文章を読んで僕はなるほどと思った。普通の一般的な人は、お客さんに見せたいがために、すごいねこんな家建ててセンスがいいねうちもこんな感じにしたいわ云々、と言われたいがために、周囲がそう思ってくれるような家を建てているのではないだろうか、とそう思ったわけある。
なるほど、である。
僕が、家に限らずあらゆることに興味がないのも、人に見せる、という行為をそもそも無視しているからだろう、と感じた。人に見せて評価してもらう対象が、この世の中にそこまで多くあるはずがない、と思っている。
木のぬくもりは「快適」であり、段差が少ないのは「善」である。そうした洗脳を、人々は無意識のうちに受けているといってもいい。何故木のぬくもりを快適だと感じるのか、と言われて説明できるだろうか?それはつまりこういうことだろうと思うのだ。「一般的に、木のぬくもりを快適だと感じる人が多いから、木を使えばそう感じてもらえるだろう」。そういう判断だと思うのだ。全然自分のことを考えていない。自分が、どんな環境ならば快適なのか、という思考を停止し、一般の価値観に合わせることで、その価値観を持つ人々の評価を得ようとする、そうした方向性はあきらかに間違っている、と本作を読んで僕はそう感じた。
本作は、ただのガレージ製作記である。恐らく森博嗣も、それ以上の意図をつけてはいないだろう。しかし、読むと自分が囚われていた因習だの常識だの価値観だのに気付くことだろう。これから家を建てよう、と考えている人は、本作の前半にある、森博嗣が書いた「アンチハウス」という文章を是非とも読んで欲しいと思う。
内容は、紛れもなく100%、森博嗣がガレージを製作する過程を記したものである。というわけで森博嗣がガレージを製作することに決めた過程をまず書こうと思う。
そもそもが、ガレージを作るために、その資金を得るために小説家になろうと決めたようなもので、10年計画だったものが大分早まったのだそうだ。
森博嗣がいうガレージとは、一般的に想像されるものとは違う。ただの「車庫」ではない。森博嗣は、工作が趣味であるのだが、これまでの人生のなかで、工作室というようなスペースを持つことはできなかった。塗装や研磨をするために、自宅のバスルームに籠る、といったような涙ぐましい努力を続けてきたのである。
つまりそれを解消しようという方向であって、車も収納できる、ある程度の生活もできる、なおかつ工作が自由にできる。そうした空間が、森博嗣にとってのガレージである。
某大学の建築学科(という名称は既になくなったらしいが)の助教授であり、設計も自らできるので、当初はそうしようと考えていたのだが、自分で考えると、やりたいことが多すぎて考えがまとまらない。そこで誰かに設計をしてもらおう、ということで、某大学の何期か先輩である、阿竹克人氏に白羽の矢を立てた。そうした経緯を経て、森博嗣のガレージ製作が、そして本作「ANTI HOUSE」が出来上がっていくことになるわけである。
本作は、両人が寄せた、建築に対する「論」とでも言うべき文章も少し掲載されてはいるが、本作のほとんどを占めるのは、森博嗣と阿竹克人の間で交わされたメールをそのまま(もちろん内容的にはかなり手をいれているよう。メールのような形態のまま、という意味)載せているという構成で、さらにそこに、森博嗣が運営しているHP上に載せていた、ガレージ製作レポートなるものを、これもそのままの形で載せる。そうした構成で出来上がっている。
本作は本当にただのガレージ製作記であり、普通に考えればそこまで盛り上がるような内容ではないと思うのだが、しかし本作には、大きく二つの山場がある。
建築における行政の態度と、森博嗣の予算に対する態度である。
前者から書こう。森博嗣がガレージを製作しようとした土地は、森博嗣が住んでいる家の敷地内なわけだけど、そこはどうも、行政が定めた風致地区(周囲の環境に配慮した建築物を建てましょう、というような地域のこと)であるようで、細かな様々な規定がある。その中で問題になったのが、木を植える、という点である。
とにかく一本の木を植えるか植えないかで、白熱したやりとりが交わされるわけだ。
規則で定められている場所に、何でもいいから高さ2.5mの木を一本絶対に植えなさい、というのが行政側の主張である。しかしその場所に木を植えると、車の進入の邪魔になる。そもそも家の周囲は既に木に囲まれているわけで、そんなところに新たに木を一本植えたところでどうなのだろう。植えるならば周囲の環境に合った木を植えたい。しかしそうすると車が入れなくなる。周囲の環境に合わない木を植えることはなんとかできなくもないが、それこそ自然破壊ではないか。これが森博嗣の主張である。
本作を読んだ人すべての人が、森博嗣の主張に理があると判断するだろう。森博嗣の感じる疑問や懸念はすべて妥当であり、それに対する行政の解答や論理は支離滅裂である。
顛末はここには書かないが、そもそもそんなことで行政と争わなくてはいけないということが本当に驚異的なことだった。確かに環境に合わせた住宅を建てるべし、という思想は正しい。しかし、それが役人という人種によって、間違った形で運用されているのである。桂望実の「県庁の星」という小説を読んだ時にも、役所という場所は、普通の論理が通じない摩訶不思議なところなのだな、と感じたものだけれども、本作でのやりとりは、実際の出来事なので、よりそれを強く実感した。役所とはできれば係わり合いになりたくないものである。
後者について書こう。予算の話である。
初めに断っておくが、森博嗣はケチであるが故に予算を渋っているわけではないということである。ガレージ製作に、当初森博嗣が想定していた予算は1000万円。しかし設計が進んで金額の概算が出た段階で、費用は2500万円掛かると出た。もちろん、森博嗣にとって、2500万円は大した金ではないだろう。一作小説を書けば1000万円以上の収入になると書いているのだから間違いない。しかし、ここで繰り広げられる問題は、そういう次元にない。
つまり森博嗣の主張は、自分に恥ずかしいことだけはしたくない、というものなのである。
自分の中で、ガレージというものは1000万円で建てたいものである。ただ、2500万円で建てると、自分の中のガレージというものに対するイメージと釣り合いがとれない。それが、恥ずかしいという感情に繋がるわけだ。わかるだろうか?僕の説明不足の感は否めないが、少なくとも本作を読んだ中で僕は、森博嗣の主張をそれなりに理解できた。つまり、アイスを買おうと思って、普段は100円のカップアイスを買う。ハーゲンダッツは、もちろん美味しいけど、250円もするし少ないから、もらえば食べるけど自分では買わない。そう考えている人が、ふとハーゲンダッツを買おうと考えた時、なんだか恥ずかしいと感じてしまうのではないだろうか?そんな感じである(違うだろうか?)。
とにかくも、森博嗣は1500万円まで予算を許容する。設計者の方でも、業者をせっついて、どうにか安く済ませようとする。
しかし、ぎりぎりまで金額は近づくものの、あと一歩のところで合意が得られない。
そこで阿竹氏がぶつける「ダンナ論」である。もはや建築の話ではなくなっている。文化の話である。ある意味で、二人がメールを介して「ダンナ論」について話している状況はかなり奇妙なものだったが、このやりとりには、一読の価値はあると僕は感じた。
こちらの顛末は、結局ガレージは完成したわけなので、森博嗣が阿竹克人の「ダンナ論」を受け入れる形でゴーサインが出るわけだけど、ある意味でもの凄くスペクタルなやり取りで、緊張感もあって、かなり面白い。
そうして出来上がっていくガレージであるが、まさに「アンチ」であるなと感じられるものになっている。もちろん一部の写真でしか見ることはできないけれども、今の世の中、普通の人はこうした不合理で無駄の多い建築は望まないのだろう。しかし、そこが面白い。表紙に写真が載っているが、なんかいいと感じはしないだろうか?これが、二人のメールのやりとりによって創造されたのである。
ガレージ製作レポートのような部分では、写真が多用されているけれども、後半にいくに従って専門用語が増えていき、なかなかついていくのが大変ではあった。しかし、愛犬であるトーマを「現場監督」と呼ぶ、その愛嬌がいいではないか。
物を作るという行為は、それが何であっても主張のぶつかり合いを避けて通ることはできない。それが、メールという、実際的で直接的な形態で構成されている本作は、異色の作品の多い森博嗣の作品群の中でもかなりの異色作だろうと思う。あらゆる価値観のぶつかり合いが収められている、主張や意見の違いが物を作り出す過程をつぶさに見てとることができる。
本作を古本屋で見つけた時は驚いた。もちろん、定価2800円という点にも驚くが(僕は半額の1400円で買った)、それよりも本作が、建築関係のコーナーにあったことに驚いた。ふと見てみようという気にならなかったら、絶対に見つけられなかっただろうところである。
何にしても、読んでみて欲しいと思う作品である。高いので是非ともにとは言わないけれども。
森博嗣+阿竹克人「ANTI HOUSE」
家にはまったく興味がない。僕の中では、屋根があり、我慢できる程度の寒暖が調整でき、本が置けて、横になって寝られる空間ならば、あとの条件はほとんど大したことはないだろうと思っている。実際今僕が住んでいるアパートには風呂がない。毎日銭湯に通っている。そう近くにあるわけではないので、不便といえば不便かもしれないが(望は、究極的にめんどくさがり屋である)、あの風呂の広さはかなり快適でもあるし、想像ではあるけども、部屋に風呂がついていると、シャワーしか浴びなくなるのではないかと思う(僕は、実家以外で、部屋に風呂のついた住宅に住んだ経験がない)。家賃も驚異的に安い。僕は神奈川県の、結構有名な沿線沿いに住んでいるけども、まあありえない数字だろうと思う。
外観も内観も興味がないし、人を呼んで(呼ぶことはほとんどないが)恥ずかしいと感じるようなこともない(ただ冬はとても寒く夏はとても暑い点は人を呼ぶ点で大いに障害ではあるが)。とにかく、自分ひとりが、最低限の欲求を確保できる空間。それが僕にとっての住宅の意味であり、それ以上でもそれ以下でもない。
周りは最近社会人になってる人が多くて(僕はフリーターです)、そのせいかこうした声を聞くことが多くなってきたようにも思う。
「自分の家がほしい」と。
つまりそれは、賃貸でもなく、マンションを買うでもなく、一戸建てを自分で建てて住みたい、ということだろう。
僕だって、一生散在し続けてもまだ余るぐらいの大金を手にしたのならば、まあ家でも建ててみようかな、という発想になるかもしれない。しかし、今の僕には、一戸建てを建てて住みたいなんて欲求はまったくない。
本作でも森博嗣が指摘しているように、人々は住宅というものに間違った価値観というか幻想を抱くようになったのではないか、という気がする。本作は、森博嗣がガレージを作る過程を一冊の本にしたものだが、そのまえがきとして、こんなことを書いている。一部を抜粋しよう。
「少なくとも、僕は窓を南側に開けることは最小限にしたい。明るい部屋がそれほど好きではない。床に座ることはないから畳の部屋は不要だ。コタツも使っていない。収納スペースを作るくらいなら、部屋を広くした方が良いし、どこになにがあるかすぐ見える。部屋は綺麗に片付いているよりも、ごちゃごちゃしている方が落ち着く。階段が沢山ある、段差がある、高低差がある空間が好きだ。段差があると、一番苦労するのは犬だが…。」
どうだろうか?自分の家を建てたい、と想像する人の頭の中には、森博嗣が上記で否定したような、住宅特集に載っているような、そんな家が浮かんではいないだろうか?
これを、森博嗣一人の個人的な特異な価値観だとしてきすることはもちろん可能である。しかし、そう指摘する以前に、続く森博嗣のこの言葉を読んでみてほしい。
「とにかく、お客さんが来たときよりも、自分一人のときのために住宅はある、と考えている。」
この文章を読んで僕はなるほどと思った。普通の一般的な人は、お客さんに見せたいがために、すごいねこんな家建ててセンスがいいねうちもこんな感じにしたいわ云々、と言われたいがために、周囲がそう思ってくれるような家を建てているのではないだろうか、とそう思ったわけある。
なるほど、である。
僕が、家に限らずあらゆることに興味がないのも、人に見せる、という行為をそもそも無視しているからだろう、と感じた。人に見せて評価してもらう対象が、この世の中にそこまで多くあるはずがない、と思っている。
木のぬくもりは「快適」であり、段差が少ないのは「善」である。そうした洗脳を、人々は無意識のうちに受けているといってもいい。何故木のぬくもりを快適だと感じるのか、と言われて説明できるだろうか?それはつまりこういうことだろうと思うのだ。「一般的に、木のぬくもりを快適だと感じる人が多いから、木を使えばそう感じてもらえるだろう」。そういう判断だと思うのだ。全然自分のことを考えていない。自分が、どんな環境ならば快適なのか、という思考を停止し、一般の価値観に合わせることで、その価値観を持つ人々の評価を得ようとする、そうした方向性はあきらかに間違っている、と本作を読んで僕はそう感じた。
本作は、ただのガレージ製作記である。恐らく森博嗣も、それ以上の意図をつけてはいないだろう。しかし、読むと自分が囚われていた因習だの常識だの価値観だのに気付くことだろう。これから家を建てよう、と考えている人は、本作の前半にある、森博嗣が書いた「アンチハウス」という文章を是非とも読んで欲しいと思う。
内容は、紛れもなく100%、森博嗣がガレージを製作する過程を記したものである。というわけで森博嗣がガレージを製作することに決めた過程をまず書こうと思う。
そもそもが、ガレージを作るために、その資金を得るために小説家になろうと決めたようなもので、10年計画だったものが大分早まったのだそうだ。
森博嗣がいうガレージとは、一般的に想像されるものとは違う。ただの「車庫」ではない。森博嗣は、工作が趣味であるのだが、これまでの人生のなかで、工作室というようなスペースを持つことはできなかった。塗装や研磨をするために、自宅のバスルームに籠る、といったような涙ぐましい努力を続けてきたのである。
つまりそれを解消しようという方向であって、車も収納できる、ある程度の生活もできる、なおかつ工作が自由にできる。そうした空間が、森博嗣にとってのガレージである。
某大学の建築学科(という名称は既になくなったらしいが)の助教授であり、設計も自らできるので、当初はそうしようと考えていたのだが、自分で考えると、やりたいことが多すぎて考えがまとまらない。そこで誰かに設計をしてもらおう、ということで、某大学の何期か先輩である、阿竹克人氏に白羽の矢を立てた。そうした経緯を経て、森博嗣のガレージ製作が、そして本作「ANTI HOUSE」が出来上がっていくことになるわけである。
本作は、両人が寄せた、建築に対する「論」とでも言うべき文章も少し掲載されてはいるが、本作のほとんどを占めるのは、森博嗣と阿竹克人の間で交わされたメールをそのまま(もちろん内容的にはかなり手をいれているよう。メールのような形態のまま、という意味)載せているという構成で、さらにそこに、森博嗣が運営しているHP上に載せていた、ガレージ製作レポートなるものを、これもそのままの形で載せる。そうした構成で出来上がっている。
本作は本当にただのガレージ製作記であり、普通に考えればそこまで盛り上がるような内容ではないと思うのだが、しかし本作には、大きく二つの山場がある。
建築における行政の態度と、森博嗣の予算に対する態度である。
前者から書こう。森博嗣がガレージを製作しようとした土地は、森博嗣が住んでいる家の敷地内なわけだけど、そこはどうも、行政が定めた風致地区(周囲の環境に配慮した建築物を建てましょう、というような地域のこと)であるようで、細かな様々な規定がある。その中で問題になったのが、木を植える、という点である。
とにかく一本の木を植えるか植えないかで、白熱したやりとりが交わされるわけだ。
規則で定められている場所に、何でもいいから高さ2.5mの木を一本絶対に植えなさい、というのが行政側の主張である。しかしその場所に木を植えると、車の進入の邪魔になる。そもそも家の周囲は既に木に囲まれているわけで、そんなところに新たに木を一本植えたところでどうなのだろう。植えるならば周囲の環境に合った木を植えたい。しかしそうすると車が入れなくなる。周囲の環境に合わない木を植えることはなんとかできなくもないが、それこそ自然破壊ではないか。これが森博嗣の主張である。
本作を読んだ人すべての人が、森博嗣の主張に理があると判断するだろう。森博嗣の感じる疑問や懸念はすべて妥当であり、それに対する行政の解答や論理は支離滅裂である。
顛末はここには書かないが、そもそもそんなことで行政と争わなくてはいけないということが本当に驚異的なことだった。確かに環境に合わせた住宅を建てるべし、という思想は正しい。しかし、それが役人という人種によって、間違った形で運用されているのである。桂望実の「県庁の星」という小説を読んだ時にも、役所という場所は、普通の論理が通じない摩訶不思議なところなのだな、と感じたものだけれども、本作でのやりとりは、実際の出来事なので、よりそれを強く実感した。役所とはできれば係わり合いになりたくないものである。
後者について書こう。予算の話である。
初めに断っておくが、森博嗣はケチであるが故に予算を渋っているわけではないということである。ガレージ製作に、当初森博嗣が想定していた予算は1000万円。しかし設計が進んで金額の概算が出た段階で、費用は2500万円掛かると出た。もちろん、森博嗣にとって、2500万円は大した金ではないだろう。一作小説を書けば1000万円以上の収入になると書いているのだから間違いない。しかし、ここで繰り広げられる問題は、そういう次元にない。
つまり森博嗣の主張は、自分に恥ずかしいことだけはしたくない、というものなのである。
自分の中で、ガレージというものは1000万円で建てたいものである。ただ、2500万円で建てると、自分の中のガレージというものに対するイメージと釣り合いがとれない。それが、恥ずかしいという感情に繋がるわけだ。わかるだろうか?僕の説明不足の感は否めないが、少なくとも本作を読んだ中で僕は、森博嗣の主張をそれなりに理解できた。つまり、アイスを買おうと思って、普段は100円のカップアイスを買う。ハーゲンダッツは、もちろん美味しいけど、250円もするし少ないから、もらえば食べるけど自分では買わない。そう考えている人が、ふとハーゲンダッツを買おうと考えた時、なんだか恥ずかしいと感じてしまうのではないだろうか?そんな感じである(違うだろうか?)。
とにかくも、森博嗣は1500万円まで予算を許容する。設計者の方でも、業者をせっついて、どうにか安く済ませようとする。
しかし、ぎりぎりまで金額は近づくものの、あと一歩のところで合意が得られない。
そこで阿竹氏がぶつける「ダンナ論」である。もはや建築の話ではなくなっている。文化の話である。ある意味で、二人がメールを介して「ダンナ論」について話している状況はかなり奇妙なものだったが、このやりとりには、一読の価値はあると僕は感じた。
こちらの顛末は、結局ガレージは完成したわけなので、森博嗣が阿竹克人の「ダンナ論」を受け入れる形でゴーサインが出るわけだけど、ある意味でもの凄くスペクタルなやり取りで、緊張感もあって、かなり面白い。
そうして出来上がっていくガレージであるが、まさに「アンチ」であるなと感じられるものになっている。もちろん一部の写真でしか見ることはできないけれども、今の世の中、普通の人はこうした不合理で無駄の多い建築は望まないのだろう。しかし、そこが面白い。表紙に写真が載っているが、なんかいいと感じはしないだろうか?これが、二人のメールのやりとりによって創造されたのである。
ガレージ製作レポートのような部分では、写真が多用されているけれども、後半にいくに従って専門用語が増えていき、なかなかついていくのが大変ではあった。しかし、愛犬であるトーマを「現場監督」と呼ぶ、その愛嬌がいいではないか。
物を作るという行為は、それが何であっても主張のぶつかり合いを避けて通ることはできない。それが、メールという、実際的で直接的な形態で構成されている本作は、異色の作品の多い森博嗣の作品群の中でもかなりの異色作だろうと思う。あらゆる価値観のぶつかり合いが収められている、主張や意見の違いが物を作り出す過程をつぶさに見てとることができる。
本作を古本屋で見つけた時は驚いた。もちろん、定価2800円という点にも驚くが(僕は半額の1400円で買った)、それよりも本作が、建築関係のコーナーにあったことに驚いた。ふと見てみようという気にならなかったら、絶対に見つけられなかっただろうところである。
何にしても、読んでみて欲しいと思う作品である。高いので是非ともにとは言わないけれども。
森博嗣+阿竹克人「ANTI HOUSE」
神は沈黙せず(山本弘)
山本弘やまもとひろし
1956年、京都生まれ。代表作は「ラプラスの魔」「サイバーナイト」「ギャラクシー・トリッパー美葉」「妖魔夜行」(いずれも角川スニーカー文庫)、
「サーラの冒険」(富士見ファンタジア文庫)、
「時の果てのフェブラリー」(徳間デュエル文庫)など。
この世に氾濫するトンデモないものをウォッチングする団体「と学会」の会長でもある。
こうして書き連ねたものは何かというと、本書「神は沈黙せず」の著者の略歴である。巻末に記されたものをそのまま書き出したものである。
さて、僕は一体これを書き出すことで何をしたいのか?注目すべきは、代表作として書かれている著作の数々である。
いわゆる、ライトノベルという奴である。
ライトノベルを毛嫌いしているわけでも否定しているわけでもないけど、僕はほとんど読まない。「キノの旅」「戯言シリーズ」を読んだぐらいである(「戯言シリーズ」はライトノベルだろうか?)。
ただ僕は、このギャップに驚いたために、敢えてこうして著者の略歴を引用したのである。
本作「神は沈黙せず」は、上記の代表作(タイトルや出版レーベルから、限りなく無責任に連想される内容)と比較して、明らかに一線も二線も画す、いやまるでレベルの違う次元の作品だと言えるだろう。
驚いた。本当に驚いた。本作は、この年末差し迫った中、今年読んだ本の中で何がよかったかな…なんて考えている状況に、突如として上位ランクに顔を突き出してきたような作品なわけである。
先に書いておこう。本作は、傑作である。エンターテイメントとしてまずべらぼうに面白いし、書かれている情報が客観的に洗い出され、示唆に富んだ仮説と示唆に富んだ教訓をいくつも内包し、最後まで飽きさせない、素晴らしい作品だ。
本作の帯に寄せられたコメントもまた豪華だ。作家の乙一は「2003年のベストミステリー」と賞賛し、滝本竜彦も「2003年のなかで一番の大傑作です」と称す。他にも、恐らく名のある書評家の賛辞が並び、かつ「SFが読みたい!2004年度版」で3位を獲っているというのだから、読まないわけにはいかないだろう。
今年何を読んだか正確に思い出すのは難しいが、二百数十冊読んだ中で、間違いなく20位以内には入るだろう。10位以内にいてもおかしくないかもしれない。始めに書いておくけど、是非とも読んで欲しいものである。
信じる、という行為は、誰もが無意識に無自覚に日々していることだろうと思う。現象を発言を存在を常識を。僕らは、ありとあらゆるものを、さしたる知識も検証もないままに、信じて生きている。最近よく頭の中で繰り返される音楽の歌詞に、「僕らは昔からこの街に憧れて信じて生きてきた(ちょっと違うかも)」ってのがあって、だからどうってことはないんだけど。
それは、盲信と言い換えてもいいかもしれない。どんなに懐疑的な人間でも、疑うことよりも信じることの方が間違いなく多い。ネッシーの存在は信じられなくても自分が生きていることは信じるしかないし、神の存在は信じられなくても紙の紙幣の価値は信じて使うしかない。そうやって僕らは、何かを信じることで、何とか生きている。
ただ人間は、事実や真実(僕の中でこの二つは明確に定義されているのだけれども、まあ今はそんな区別はしないで使っている)を信じるというわけではないようだ。本作の中でもこんな感じの記述があった。「人は、自分が信じたいと思うものを信じるのだ」と。
神の存在について、あなたはどんな意見を持っているだろうか?存在についての是非から、存在しているのならその意義(人間を救うという意志があるのか)について、など考えることは多い。
古来から人は神の存在を信じてきた。ありとあらゆる宗教がそれを裏付けているし、今でも残っている根強い宗教もある。自分の信じる宗教の神が正しいと主張しあって、戦争をする。あらゆる神が存在し、人々はそれらのどれかをそれなりに信じ、またそうでない人も、無意識の内に神頼みをしていたりする。
僕は、創造主という意味での、つまり宇宙を始めに作ろうという意志を持った存在、という意味でなら神は存在していいと思う。実際、宇宙のあらゆる定数やなんかは、あまりにも人間の都合のいいように出来ていて、そこには何らかの意志が働いていないと説明がつかない。人間の存在をあらかじめ想定し、人間に都合のいいように世界が出来ているという「人間原理」という考え方が物理の分野で発表されていて、神(創造主)の存在はありえるかもしれないと思う。
しかし、ありとあらゆる宗教が主張するように、日々人間を慈悲深く見守り、時として救いの手を差し伸べるような、そんな存在としての神はいないだろうと思う。もう少し寛容な表現をすれば、いたとしても僕らの生活になんら介入はしないだろうと思う。それは、自分がもし神だったら、という想像によって、容易に説明できる。
僕がもし、宇宙のすべてを創った神で、日々宇宙のなりゆきを見定め、人間の生活を観察している、と仮定してみる。しかし、それはある意味でドラマを見ているようなものでしかないだろう。神にとって僕ら人間を含めた宇宙は、テレビ画面の向こう側の世界の話であって、ドラマの中で誰かが死にそうでも、助けたいとは思っても助けにいこうとは思わないだろう。それと同じで、神だって、僕ら人間がどんな苦境に立たされていたって(あるいはそれすら神の演出で、つまり神はドラマのプロデューサーであって、誰か別の視聴者のためにドラマを作っている側かもしれないけど)、きっと何もしないだろう。
神を、人間と同じように思考する存在であると考えることが間違っている、という反論はあるだろうし、それに明確に反論はできないけど、でもごく一般的な人にとって、自然に理解できる論理ではないだろうかと思っている。
神はいるのか?いたとしたらそれはどんな存在なのか?本作が掲げたその壮大にして壮絶なテーマは、ありとあらゆる分野の知識をフルに動員して、ある一点に収束していく。本作が、神についての答えをだしたかどうかは判断できないけれども、一つの解釈としてはとても面白いし、僕は充分に納得できるし信じることもできる。
内容に入ろうと思う。
本作はまず、面白い構成をしている。本作は、「2033年に、和久優歌という一人のジャーナリストが、2033年の読者に向けて出版したノンフィクション」という形態をとった小説である。だからもちろん、僕らにとっては未来に起こること(もちろん起こるかどうかはわからないわけだけど)が過去のこととして描かれているし、2033年の読者には説明不要だろうと思われる用語なんかは説明なく使われる(例えば、ポケタミという電子ツールが出てくるが、このツールは何度も出てくるので、読み終える頃にはどんなツールなのか大体理解できているが、「ポケタミ」という用語が初めて出たとき、その用語の説明はなかった)。そう点で、多少理解しづらいところもあるかもしれないけれども(例えば、ある説明のつかない現象についての説明があって、それが2005年現在よりも前に実際に起こったことなのか、あるいは2004年よりも未来に起こったことになっていることなのか、読んでいくうちに曖昧になっていく)、まあ本作が充分に面白いのでついていけるだろうと思う。面白いのは、巻頭で著者だということになっている和久優歌が、前書きとして書いている文章の最後にこう書いていることだ。
「最後に、本書を今や絶滅寸前の紙の本として出版した理由について説明しておきたい。これは本を手に取ったあなたに、情報量というものを実感していただきたかったからである。
(中略)
よく、『人の生命は地球よりも重い』などという。しかし、そんな抽象的な表現では、かえって生命の重みが分からなくなると思う。だから私はこう言いたい。
『あなたの人生は、あなたが今手にしている本の何十倍もの厚みがある』
そう考えれば、少しは生命が愛しく感じられるのではないだろうか?」
本作で描かれる未来は、インターネットなどによる情報が圧倒的で、既存のメディアは悉く壊滅状態に陥っている。そんな中で、ネットの情報に重みを感じられないと著者が嘆く状況がいくつも出てくる。なるほど、と思わせる文章だ。細かいところにも配慮が行き届いている作品なのである。
大分遠回りしたが、内容に入ろうと思う。
本作の作中での著者である和久優歌は、幼い頃に天災で両親を失い、生き残った兄とは離れ離れで暮らす生活を余儀なくされ、もし神が存在するとするならば、どうしてこんな仕打ちをされなければならないのだろう、という疑問を、常に燻るように胸の内に抱えていた。それは兄も同じだった。
優歌はその後、文章を活かせるという理由でライターの道を歩む。その生活は厳しいものだったが、自分の信念を曲げるような仕事はしなかった。兄の良輔はパソコンの技術を買われて研究職に就き、産学協同の一環として製作したゲームが大当たりした。
新興宗教の終末思想の取材と称してその教団に入団したりするなど危険な取材もこなしていた優歌は、そうした様々な経験からオカルト現象に興味を抱く。ちょうど兄が、期せずしてUFOの映像を撮影してしまったこともきっかけだった。
兄は兄で自分なりの考えを発展させていたようで、じきに優歌は兄から、この世界の成り立ちについて、そして神について驚くべき仮説を告げられることになる。公表すれば、必ず非難にさらされることは間違いない、言ってしまえばキワモノの仮説である。優歌は、兄のことは信じたいと思いながらも、その内容に納得がいかず、それを否定しようと、さらにオカルトの取材を続けることになる。
オカルト現象、宗教、物理学、超心理学、人工知能、進化論、宇宙論などありとあらゆる現象や理論を織り交ぜ、さらに未来について緻密な考証が考え抜かれた舞台の中で、異常な現象が続発し、ネットで絶大な支持を得るカリスマが登場し、日本という国家が壊滅的な状況に陥る。宗教がはびこり、不安と期待の中、優歌はあらゆる人と出会い、その意見を聞くことでついに失踪するという事態にまで追い込まれた兄が、再度考え直し絶望した神のあり方に迫っていく…。
といった感じの内容です。が、あまりにジャンルが広すぎて、到底あらすじを書きようのない作品であることを理解して欲しいと思います。
本作は例えて言うならば、村上龍の「半島を出よ」・瀬名秀明の「デカルトの密室」・井上夢人の「パワーオフ」・浦賀和宏の「記憶の果て」をごちゃごちゃに混ぜ、かつさらに新たなものを様々に付け加えて進化させたような、そんな作品だと思いました。
とにかく、オカルト的な知識が半端なく出てきて、多少その多さに食傷気味にならないでもないですが、しかしそうしたオカルト的な現象を、ある一つの側面から見るという試みはとても面白いと思ったし、それを神の存在と結びつけて考えるという発想は見事なものだと思います。
さらに、理系的な知識についても抜群の才能を発揮し、特に、物語の要請上必要な、2005年よりも未来に起こることになっている様々な物理的な現象が、僕には非常によく考察されているように感じられたし、もしかしたら実際こういうことが起きてもおかしくないかもしれないな、と感じさせるものばかりでした。特に、「ウェッブの網目」なんかは、これほんとに起きたら、本作のような結論になってもおかしくないような、という感じがして、ちょっと怖くなりました。
本作の実際の著者である山本弘は、略歴でも書いたように「と学会」の会長のようですが、なんとなく印象では、オカルト的な現象を曲解するような、そういう結構怪しい団体なんではないかと思っていましたが、本作を読んで考えが変わりました。山本弘は、非常に客観的にオカルト的な現象を見ているように思います。本作中に大和田氏という、オカルト的な現象の情報を集め検証している人が出てくるのですが、きっと山本弘はこんな人なんではないか、と思わせるような人でした。
また本作には、優歌の友人として柳葉月という女性が出てきますが、この葉月という女性は、優歌との何気ない会話の中からでも、示唆に富んだ発言をよくしていて、僕にとってはとても好感の持てる人物でした。人々が、思わず抱いてしまうような偏見や盲信なんかを、いとも簡単に一言で打ち砕くそのセリフは、はっとさせられるものがあります。
また、ネットのカリスマとして加古沢という作家が出てきますが、この加古沢という作家が繰り出す自説が、かなり真理をついているものが多いように感じられて、こんなことを言ってくれる人がいるのならなんかもっとよくなる気がするのに、といった感じです。
つまり本作では、人間も非常にちゃんと描かれています。
SFと銘打たれていて、そのジャンルを好きになれない人もいるかもしれません。僕も実際、SFというジャンルは意識的に避けて読書をしてきました。でも、本作は是非とも読んで欲しいです。そして、どの点についてでもいいです、何かしら考えてほしいなと思います。本作の仮説を信じられても信じられなくても別にいいです。それについてどう感じるか、その方が重要です。自分が何かを盲信しているかもしれない、と感じている人にはなおいいかもしれませんね。
今年読んだ本の中でも、指折りの傑作です。どうぞ読んでみてください。
山本弘「神は沈黙せず」
1956年、京都生まれ。代表作は「ラプラスの魔」「サイバーナイト」「ギャラクシー・トリッパー美葉」「妖魔夜行」(いずれも角川スニーカー文庫)、
「サーラの冒険」(富士見ファンタジア文庫)、
「時の果てのフェブラリー」(徳間デュエル文庫)など。
この世に氾濫するトンデモないものをウォッチングする団体「と学会」の会長でもある。
こうして書き連ねたものは何かというと、本書「神は沈黙せず」の著者の略歴である。巻末に記されたものをそのまま書き出したものである。
さて、僕は一体これを書き出すことで何をしたいのか?注目すべきは、代表作として書かれている著作の数々である。
いわゆる、ライトノベルという奴である。
ライトノベルを毛嫌いしているわけでも否定しているわけでもないけど、僕はほとんど読まない。「キノの旅」「戯言シリーズ」を読んだぐらいである(「戯言シリーズ」はライトノベルだろうか?)。
ただ僕は、このギャップに驚いたために、敢えてこうして著者の略歴を引用したのである。
本作「神は沈黙せず」は、上記の代表作(タイトルや出版レーベルから、限りなく無責任に連想される内容)と比較して、明らかに一線も二線も画す、いやまるでレベルの違う次元の作品だと言えるだろう。
驚いた。本当に驚いた。本作は、この年末差し迫った中、今年読んだ本の中で何がよかったかな…なんて考えている状況に、突如として上位ランクに顔を突き出してきたような作品なわけである。
先に書いておこう。本作は、傑作である。エンターテイメントとしてまずべらぼうに面白いし、書かれている情報が客観的に洗い出され、示唆に富んだ仮説と示唆に富んだ教訓をいくつも内包し、最後まで飽きさせない、素晴らしい作品だ。
本作の帯に寄せられたコメントもまた豪華だ。作家の乙一は「2003年のベストミステリー」と賞賛し、滝本竜彦も「2003年のなかで一番の大傑作です」と称す。他にも、恐らく名のある書評家の賛辞が並び、かつ「SFが読みたい!2004年度版」で3位を獲っているというのだから、読まないわけにはいかないだろう。
今年何を読んだか正確に思い出すのは難しいが、二百数十冊読んだ中で、間違いなく20位以内には入るだろう。10位以内にいてもおかしくないかもしれない。始めに書いておくけど、是非とも読んで欲しいものである。
信じる、という行為は、誰もが無意識に無自覚に日々していることだろうと思う。現象を発言を存在を常識を。僕らは、ありとあらゆるものを、さしたる知識も検証もないままに、信じて生きている。最近よく頭の中で繰り返される音楽の歌詞に、「僕らは昔からこの街に憧れて信じて生きてきた(ちょっと違うかも)」ってのがあって、だからどうってことはないんだけど。
それは、盲信と言い換えてもいいかもしれない。どんなに懐疑的な人間でも、疑うことよりも信じることの方が間違いなく多い。ネッシーの存在は信じられなくても自分が生きていることは信じるしかないし、神の存在は信じられなくても紙の紙幣の価値は信じて使うしかない。そうやって僕らは、何かを信じることで、何とか生きている。
ただ人間は、事実や真実(僕の中でこの二つは明確に定義されているのだけれども、まあ今はそんな区別はしないで使っている)を信じるというわけではないようだ。本作の中でもこんな感じの記述があった。「人は、自分が信じたいと思うものを信じるのだ」と。
神の存在について、あなたはどんな意見を持っているだろうか?存在についての是非から、存在しているのならその意義(人間を救うという意志があるのか)について、など考えることは多い。
古来から人は神の存在を信じてきた。ありとあらゆる宗教がそれを裏付けているし、今でも残っている根強い宗教もある。自分の信じる宗教の神が正しいと主張しあって、戦争をする。あらゆる神が存在し、人々はそれらのどれかをそれなりに信じ、またそうでない人も、無意識の内に神頼みをしていたりする。
僕は、創造主という意味での、つまり宇宙を始めに作ろうという意志を持った存在、という意味でなら神は存在していいと思う。実際、宇宙のあらゆる定数やなんかは、あまりにも人間の都合のいいように出来ていて、そこには何らかの意志が働いていないと説明がつかない。人間の存在をあらかじめ想定し、人間に都合のいいように世界が出来ているという「人間原理」という考え方が物理の分野で発表されていて、神(創造主)の存在はありえるかもしれないと思う。
しかし、ありとあらゆる宗教が主張するように、日々人間を慈悲深く見守り、時として救いの手を差し伸べるような、そんな存在としての神はいないだろうと思う。もう少し寛容な表現をすれば、いたとしても僕らの生活になんら介入はしないだろうと思う。それは、自分がもし神だったら、という想像によって、容易に説明できる。
僕がもし、宇宙のすべてを創った神で、日々宇宙のなりゆきを見定め、人間の生活を観察している、と仮定してみる。しかし、それはある意味でドラマを見ているようなものでしかないだろう。神にとって僕ら人間を含めた宇宙は、テレビ画面の向こう側の世界の話であって、ドラマの中で誰かが死にそうでも、助けたいとは思っても助けにいこうとは思わないだろう。それと同じで、神だって、僕ら人間がどんな苦境に立たされていたって(あるいはそれすら神の演出で、つまり神はドラマのプロデューサーであって、誰か別の視聴者のためにドラマを作っている側かもしれないけど)、きっと何もしないだろう。
神を、人間と同じように思考する存在であると考えることが間違っている、という反論はあるだろうし、それに明確に反論はできないけど、でもごく一般的な人にとって、自然に理解できる論理ではないだろうかと思っている。
神はいるのか?いたとしたらそれはどんな存在なのか?本作が掲げたその壮大にして壮絶なテーマは、ありとあらゆる分野の知識をフルに動員して、ある一点に収束していく。本作が、神についての答えをだしたかどうかは判断できないけれども、一つの解釈としてはとても面白いし、僕は充分に納得できるし信じることもできる。
内容に入ろうと思う。
本作はまず、面白い構成をしている。本作は、「2033年に、和久優歌という一人のジャーナリストが、2033年の読者に向けて出版したノンフィクション」という形態をとった小説である。だからもちろん、僕らにとっては未来に起こること(もちろん起こるかどうかはわからないわけだけど)が過去のこととして描かれているし、2033年の読者には説明不要だろうと思われる用語なんかは説明なく使われる(例えば、ポケタミという電子ツールが出てくるが、このツールは何度も出てくるので、読み終える頃にはどんなツールなのか大体理解できているが、「ポケタミ」という用語が初めて出たとき、その用語の説明はなかった)。そう点で、多少理解しづらいところもあるかもしれないけれども(例えば、ある説明のつかない現象についての説明があって、それが2005年現在よりも前に実際に起こったことなのか、あるいは2004年よりも未来に起こったことになっていることなのか、読んでいくうちに曖昧になっていく)、まあ本作が充分に面白いのでついていけるだろうと思う。面白いのは、巻頭で著者だということになっている和久優歌が、前書きとして書いている文章の最後にこう書いていることだ。
「最後に、本書を今や絶滅寸前の紙の本として出版した理由について説明しておきたい。これは本を手に取ったあなたに、情報量というものを実感していただきたかったからである。
(中略)
よく、『人の生命は地球よりも重い』などという。しかし、そんな抽象的な表現では、かえって生命の重みが分からなくなると思う。だから私はこう言いたい。
『あなたの人生は、あなたが今手にしている本の何十倍もの厚みがある』
そう考えれば、少しは生命が愛しく感じられるのではないだろうか?」
本作で描かれる未来は、インターネットなどによる情報が圧倒的で、既存のメディアは悉く壊滅状態に陥っている。そんな中で、ネットの情報に重みを感じられないと著者が嘆く状況がいくつも出てくる。なるほど、と思わせる文章だ。細かいところにも配慮が行き届いている作品なのである。
大分遠回りしたが、内容に入ろうと思う。
本作の作中での著者である和久優歌は、幼い頃に天災で両親を失い、生き残った兄とは離れ離れで暮らす生活を余儀なくされ、もし神が存在するとするならば、どうしてこんな仕打ちをされなければならないのだろう、という疑問を、常に燻るように胸の内に抱えていた。それは兄も同じだった。
優歌はその後、文章を活かせるという理由でライターの道を歩む。その生活は厳しいものだったが、自分の信念を曲げるような仕事はしなかった。兄の良輔はパソコンの技術を買われて研究職に就き、産学協同の一環として製作したゲームが大当たりした。
新興宗教の終末思想の取材と称してその教団に入団したりするなど危険な取材もこなしていた優歌は、そうした様々な経験からオカルト現象に興味を抱く。ちょうど兄が、期せずしてUFOの映像を撮影してしまったこともきっかけだった。
兄は兄で自分なりの考えを発展させていたようで、じきに優歌は兄から、この世界の成り立ちについて、そして神について驚くべき仮説を告げられることになる。公表すれば、必ず非難にさらされることは間違いない、言ってしまえばキワモノの仮説である。優歌は、兄のことは信じたいと思いながらも、その内容に納得がいかず、それを否定しようと、さらにオカルトの取材を続けることになる。
オカルト現象、宗教、物理学、超心理学、人工知能、進化論、宇宙論などありとあらゆる現象や理論を織り交ぜ、さらに未来について緻密な考証が考え抜かれた舞台の中で、異常な現象が続発し、ネットで絶大な支持を得るカリスマが登場し、日本という国家が壊滅的な状況に陥る。宗教がはびこり、不安と期待の中、優歌はあらゆる人と出会い、その意見を聞くことでついに失踪するという事態にまで追い込まれた兄が、再度考え直し絶望した神のあり方に迫っていく…。
といった感じの内容です。が、あまりにジャンルが広すぎて、到底あらすじを書きようのない作品であることを理解して欲しいと思います。
本作は例えて言うならば、村上龍の「半島を出よ」・瀬名秀明の「デカルトの密室」・井上夢人の「パワーオフ」・浦賀和宏の「記憶の果て」をごちゃごちゃに混ぜ、かつさらに新たなものを様々に付け加えて進化させたような、そんな作品だと思いました。
とにかく、オカルト的な知識が半端なく出てきて、多少その多さに食傷気味にならないでもないですが、しかしそうしたオカルト的な現象を、ある一つの側面から見るという試みはとても面白いと思ったし、それを神の存在と結びつけて考えるという発想は見事なものだと思います。
さらに、理系的な知識についても抜群の才能を発揮し、特に、物語の要請上必要な、2005年よりも未来に起こることになっている様々な物理的な現象が、僕には非常によく考察されているように感じられたし、もしかしたら実際こういうことが起きてもおかしくないかもしれないな、と感じさせるものばかりでした。特に、「ウェッブの網目」なんかは、これほんとに起きたら、本作のような結論になってもおかしくないような、という感じがして、ちょっと怖くなりました。
本作の実際の著者である山本弘は、略歴でも書いたように「と学会」の会長のようですが、なんとなく印象では、オカルト的な現象を曲解するような、そういう結構怪しい団体なんではないかと思っていましたが、本作を読んで考えが変わりました。山本弘は、非常に客観的にオカルト的な現象を見ているように思います。本作中に大和田氏という、オカルト的な現象の情報を集め検証している人が出てくるのですが、きっと山本弘はこんな人なんではないか、と思わせるような人でした。
また本作には、優歌の友人として柳葉月という女性が出てきますが、この葉月という女性は、優歌との何気ない会話の中からでも、示唆に富んだ発言をよくしていて、僕にとってはとても好感の持てる人物でした。人々が、思わず抱いてしまうような偏見や盲信なんかを、いとも簡単に一言で打ち砕くそのセリフは、はっとさせられるものがあります。
また、ネットのカリスマとして加古沢という作家が出てきますが、この加古沢という作家が繰り出す自説が、かなり真理をついているものが多いように感じられて、こんなことを言ってくれる人がいるのならなんかもっとよくなる気がするのに、といった感じです。
つまり本作では、人間も非常にちゃんと描かれています。
SFと銘打たれていて、そのジャンルを好きになれない人もいるかもしれません。僕も実際、SFというジャンルは意識的に避けて読書をしてきました。でも、本作は是非とも読んで欲しいです。そして、どの点についてでもいいです、何かしら考えてほしいなと思います。本作の仮説を信じられても信じられなくても別にいいです。それについてどう感じるか、その方が重要です。自分が何かを盲信しているかもしれない、と感じている人にはなおいいかもしれませんね。
今年読んだ本の中でも、指折りの傑作です。どうぞ読んでみてください。
山本弘「神は沈黙せず」
夜市(恒川光太郎)
僕らの生きる世界の、ほんの僅か側にある異世界。本作ではそんな世界が描かれています。
異世界に触れる、というのは、一生掛かってもほとんどない経験だと思います。定義を広く解釈すれば、夢というのが日常的に接する異世界かもしれませんが、そうでなければ例えば、そうですね、金縛りとか火の玉とかそんなもんでしょうか。
いや、やっぱりそういうものは、単なる現象であって、異世界というわけではないでしょう。
自分の属している世界の常識の通じない世界に紛れ込んだというような経験は、まあなかなか出来るものではないですね。だからと言って、そんな経験をしたいわけではありませんが。
ホラーというのは、現実世界を舞台にして、現実的な恐怖感を煽るものと、ファンタジーというかSF的な舞台を用意して、そのちょっと変わったルールに則って運行する世界における何かを描く作品と二種類あると思うけれども、なんというか後者は、僕にはあまり受け付けないな、という感じがします。
僕は本当にホラーというジャンルをあまり読まなくて、まあホラーっぽいミステリーとかいろいろあるんでしょうが、それらを含めても多くはないでしょう。先ほどの、後者のような作品でかなり評価できる作家に乙一がいますが、かなり例外的に驚異的な才能だという話で、ファンタジー的なホラーというのは苦手です。
それは、ルールがどうにも独善的すぎるからかもしれません。別にリアリティどうこうの話をしたいわけではありませんが、異世界のルールというものが、もちろんそれが素晴らしいと評価できる点なのかもしれませんが、作者の描きたいストーリーにあまりに左右されすぎてしまうため、言ってしまえば何でもありなんじゃないか、という気がしてしまうからかもしれません。乙一の作品を受け入れることができるのも、特異な設定を持ち込んでも、基本的に現実世界を舞台にしているような錯覚を与えるからではないかと思います。
さて、ここまで書いたところで本作の内容に移りますが、まず言っておきたいのが、本作はまあ貶すような、そこまでひどい作品ではない、ということですね。ここまでの前置きを読むと、本作自体がダメな印象を与えるだろうと思ったので一応。
とはいえ、大きく不満な点が一点あります。本作はハードカバーで出版されていて、その帯に選考委員(本作はホラー小説大賞受賞作です)の選評が短く載っているのだけれども、それが褒めすぎだ、ということです。
僕は本作を、悪い作品ではないけど、でも帯にすこまで書くほどの作品だろうか?と感じてしまいました。読む前に、ここまで評価されているなら、と多分な期待を抱いたのですが、期待が大きすぎたためか、逆に読み終えた時に拍子抜けしてしまいました。
本作は、ホラー小説大賞を受賞した短編「夜市」と、書き下ろしの「風の古道」の二作で成っています。
「夜市」
限られた人間にしか開催の時期をかぎつけることのできない、奇妙な市場がある。不定期に開かれる市場で、「夜市」と呼ばれている。そこでは欲しいものは何でも手に入る、ということだ。
高校時代の同級生裕司に呼ばれて彼の部屋を訪れたいずみは、裕司から夜市に行こうと誘われる。あまり乗り気ではかったし、森の奥の奥で開かれていると言われて胡散臭くも感じたけれども、結局二人は夜市に足を踏み入れる。
そこは、異形の者達があらゆるものを売る、祭りの際の出店のような雰囲気を醸し出す場所だった。しばらく歩き続けて、そこでいずみは裕司にこう告げられる。
夜市では、何か買わないと外には出られない。
次いで、子供の頃に一度夜市に来たことがある、と告白した裕司。一体裕司は夜市に何を求めてやってきたのか?
「風の古道」
父親と花見に行った私は、途中で父親とはぐれてしまった。当時七歳。親切そうなおばさんに自宅の住所を告げると、この道をまっすぐだと教えられた。
その道は、舗装されていない砂利道で、奇妙なことに、通りに並ぶ家はすべて、その道に面して玄関が設置されていないのだ。不審に思いながらも歩き続けるも、なかなかどこにも辿り着けない。思い切って道を逸れると、知っている場所に出たので、なんとか家に帰りついた。
しばらく時を経て、十二歳になった。友人のカズキにその不思議な道のことを話してしまったところ、じゃあ行ってみようということに。果たして二人は、その奇妙な道へと潜り込んだのだが…。
「夜市」は確かに、なかなか構成がいい作品です。前半の山場から、後半の終焉に掛けて、なるほどそういう展開になるか、という感じですね。ただ、選考委員の一人である高橋克彦が、「たとえ百人の物書きが居たとしても、後半のこんな展開は絶対に思いつかないだろう。」と書いているのは言いすぎだろうと思いました。
「風の古道」は、こちらもまあミステリ的な装飾が多少された作品ですが、まあまあといった感じですか。舞台がほとんど道しかない中で一つの作品を書き上げたのはまあ評価しますが。
両作品とも、雰囲気は結構いいのですが、先ほど書いたように、異世界のルールが若干独善的すぎて気に入らないところです。また、極々短い文節(パラグラフという意味で使っていますが違いましたっけ?)を細切れに繋ぎ合わせた文章で、なんか読んでいて集中が切れるというか、そんな気がしました。あと選考委員の一人が、描写が甘い点があると書いていますが、確かにそういう点はあるでしょう。
帯の評価は書きすぎだと思いますが、前評判を何も知らずに読んでみれば、案外いいかも、と思えるかもしれない作品です。是非、とは言わないけれども、余裕があれば読んでみてください。
恒川光太郎「夜市」
異世界に触れる、というのは、一生掛かってもほとんどない経験だと思います。定義を広く解釈すれば、夢というのが日常的に接する異世界かもしれませんが、そうでなければ例えば、そうですね、金縛りとか火の玉とかそんなもんでしょうか。
いや、やっぱりそういうものは、単なる現象であって、異世界というわけではないでしょう。
自分の属している世界の常識の通じない世界に紛れ込んだというような経験は、まあなかなか出来るものではないですね。だからと言って、そんな経験をしたいわけではありませんが。
ホラーというのは、現実世界を舞台にして、現実的な恐怖感を煽るものと、ファンタジーというかSF的な舞台を用意して、そのちょっと変わったルールに則って運行する世界における何かを描く作品と二種類あると思うけれども、なんというか後者は、僕にはあまり受け付けないな、という感じがします。
僕は本当にホラーというジャンルをあまり読まなくて、まあホラーっぽいミステリーとかいろいろあるんでしょうが、それらを含めても多くはないでしょう。先ほどの、後者のような作品でかなり評価できる作家に乙一がいますが、かなり例外的に驚異的な才能だという話で、ファンタジー的なホラーというのは苦手です。
それは、ルールがどうにも独善的すぎるからかもしれません。別にリアリティどうこうの話をしたいわけではありませんが、異世界のルールというものが、もちろんそれが素晴らしいと評価できる点なのかもしれませんが、作者の描きたいストーリーにあまりに左右されすぎてしまうため、言ってしまえば何でもありなんじゃないか、という気がしてしまうからかもしれません。乙一の作品を受け入れることができるのも、特異な設定を持ち込んでも、基本的に現実世界を舞台にしているような錯覚を与えるからではないかと思います。
さて、ここまで書いたところで本作の内容に移りますが、まず言っておきたいのが、本作はまあ貶すような、そこまでひどい作品ではない、ということですね。ここまでの前置きを読むと、本作自体がダメな印象を与えるだろうと思ったので一応。
とはいえ、大きく不満な点が一点あります。本作はハードカバーで出版されていて、その帯に選考委員(本作はホラー小説大賞受賞作です)の選評が短く載っているのだけれども、それが褒めすぎだ、ということです。
僕は本作を、悪い作品ではないけど、でも帯にすこまで書くほどの作品だろうか?と感じてしまいました。読む前に、ここまで評価されているなら、と多分な期待を抱いたのですが、期待が大きすぎたためか、逆に読み終えた時に拍子抜けしてしまいました。
本作は、ホラー小説大賞を受賞した短編「夜市」と、書き下ろしの「風の古道」の二作で成っています。
「夜市」
限られた人間にしか開催の時期をかぎつけることのできない、奇妙な市場がある。不定期に開かれる市場で、「夜市」と呼ばれている。そこでは欲しいものは何でも手に入る、ということだ。
高校時代の同級生裕司に呼ばれて彼の部屋を訪れたいずみは、裕司から夜市に行こうと誘われる。あまり乗り気ではかったし、森の奥の奥で開かれていると言われて胡散臭くも感じたけれども、結局二人は夜市に足を踏み入れる。
そこは、異形の者達があらゆるものを売る、祭りの際の出店のような雰囲気を醸し出す場所だった。しばらく歩き続けて、そこでいずみは裕司にこう告げられる。
夜市では、何か買わないと外には出られない。
次いで、子供の頃に一度夜市に来たことがある、と告白した裕司。一体裕司は夜市に何を求めてやってきたのか?
「風の古道」
父親と花見に行った私は、途中で父親とはぐれてしまった。当時七歳。親切そうなおばさんに自宅の住所を告げると、この道をまっすぐだと教えられた。
その道は、舗装されていない砂利道で、奇妙なことに、通りに並ぶ家はすべて、その道に面して玄関が設置されていないのだ。不審に思いながらも歩き続けるも、なかなかどこにも辿り着けない。思い切って道を逸れると、知っている場所に出たので、なんとか家に帰りついた。
しばらく時を経て、十二歳になった。友人のカズキにその不思議な道のことを話してしまったところ、じゃあ行ってみようということに。果たして二人は、その奇妙な道へと潜り込んだのだが…。
「夜市」は確かに、なかなか構成がいい作品です。前半の山場から、後半の終焉に掛けて、なるほどそういう展開になるか、という感じですね。ただ、選考委員の一人である高橋克彦が、「たとえ百人の物書きが居たとしても、後半のこんな展開は絶対に思いつかないだろう。」と書いているのは言いすぎだろうと思いました。
「風の古道」は、こちらもまあミステリ的な装飾が多少された作品ですが、まあまあといった感じですか。舞台がほとんど道しかない中で一つの作品を書き上げたのはまあ評価しますが。
両作品とも、雰囲気は結構いいのですが、先ほど書いたように、異世界のルールが若干独善的すぎて気に入らないところです。また、極々短い文節(パラグラフという意味で使っていますが違いましたっけ?)を細切れに繋ぎ合わせた文章で、なんか読んでいて集中が切れるというか、そんな気がしました。あと選考委員の一人が、描写が甘い点があると書いていますが、確かにそういう点はあるでしょう。
帯の評価は書きすぎだと思いますが、前評判を何も知らずに読んでみれば、案外いいかも、と思えるかもしれない作品です。是非、とは言わないけれども、余裕があれば読んでみてください。
恒川光太郎「夜市」
グロテスク(桐野夏生)
どこで足を踏み外すかわからない。なんか人生って、そうは思っていたけど、やっぱり怖いな、とまずそう思いました。
イメージとしては、道にぼこぼこと落とし穴があるところを、目隠しで走り抜ける。それが人生じゃないかと思います。もしかしたら、運良く落ちずに済むかもしれない。自分が、落とし穴という危険にさらされていることにも気付かないで、安定した一生を終えるかもしれない。
もちろん、落ちてしまう人もいる。落とし穴の存在に気付かずに、あるいは気付いていて注意していたけど、落ちてしまう人もいる。
何が違うのだろう。
そんなに些細なことではないはずだろう。ほんの僅かな、些細で小さな違いで、落ちる人と落ちない人が決まる。
僕はもう落ちているかもしれない。
落ちている途中かもしれない。
まだ落ちずにいるのかもしれない。
落とし穴の一歩手前なのかもしれない。
とにかく、そうして足を踏み外すかもしれない、危うい人生という道を、僕らは仕方なく歩んでいる。
落ちるか落ちないか。その差は、生まれつき与えられているのだろうか?
生まれつき何かに恵まれている人がいて、そういう人はほとんど落ちない。誰かの強力な悪意や、それこそ天文学的な事故でもない限り、転落しない。恐らく、自分が落とし穴だらけの道を歩んでいることにすら気付かないで人生を終えることだろう。
一方で、生まれつき何も恵まれない人がいる。努力によって何かを勝ち取らなければならない人がいる。例えば、努力が報われない、というきっかけによってさえも、こういう人は落ちていく。
だからどうということはない。
不公平を甘受して生きなければならないことは十分にわかっている。
けれども、自分が落ちていることを自覚してしまった時、その不公平を恨むしかないだろう。何故?を何度繰り返しても得られない答えを、生まれつきの不公平さに押し付けるしかないのであろう。
そんな人生は、きっと孤独に満ちていることだろう。
孤独に落とし込まれる人がいる。例えば、学校でいじめに遭っている人なんか分かりやすいけど、孤独というのはきっと、もっと広く広く、あらゆる人に場面に時に浸透していると思う。
孤独を感じない人はまあいないだろうとは思うけど、でも孤独を感じっぱなしということもなかなかないだろう。
人は、あらゆる手段でそれを回避する。
行動力があれば、自ら友達なり仲間なりを作り集う。
能力があれば、その能力を活かして類を呼ぶ。
忍耐力を特化させ、孤独感をマヒさせる人もいるかもしれない。
無意識の鈍感さで、気付かないふりができる人もいるかもしれない。
そうやって皆、無理矢理にでも孤独をどこかへ押しやろうとする。もちろん、努力なんて何もしなくても、孤独を回避できるひともいるのだろうけど。
それでも、孤独に押し込まれてしまう人がいる。
どうしようもなく独りだったり、どうしようもなく切り取られてしまう人がいる。
抜け出そうとしてもがいて、もがくが故にさらに孤独になってしまう人がいる。
うさぎは孤独に弱いというけど、人間も充分孤独に弱い。誰かの声、誰かの視線、誰かのぬくもり、誰かの存在。そうしたものを感じられなくなった人生に、人間は弱い。
そうして落ちていく。
なんだか、うまく人生をやっていく自信がなくなってきたな…。
相変わらず書いていることがよくわからないので、そろそろ内容に入ります。
本作は、ある一人の女性(名前はたぶん出てきてないと思う)の独り語り、という体裁の作品です。彼女は現在、役所でアルバイトをしているフリーターで40歳。そしてつい最近、妹のユリコと、高校時代の同級生の和恵の二人が殺され、それについて、過去の回想も含めながら語る、という感じです。また、ところどころ、手記と題して、三人の人間の日記などが挿入されます。
本作は、あの(と言ってもよく知っているわけではないですが)「東電OL殺人事件」をモチーフにした作品のようです。「東電~」の事件をほとんどまったく知らないのでなんとも言えませんが。
ユリコと和恵は、殺された段階で娼婦であり、そして娼婦として仕事をしている時、客の一人に殺されたのです。犯人は、中国人の男と判明して、逮捕もされています。
語り手の女性は、自らの半生も織り交ぜながら、子供の頃から現在までの、ユリコや和恵に関わる部分を語っていきます。
語り手の女性の妹であるユリコは、見る者が振り返らざる負えないような、絶世の美人でした。それは子供の頃からで、姉の自分とはまるで似ていないのです。容姿については、常に妹にコンプレックスを抱いていました。
二人はハーフで、父親がポーランド系スイス人で、母親が日本人です。
語り手の女性は妹のことを、あまりにも美しすぎるが故に怪物と呼んでいて、常に仲が悪いまま、妹に翻弄されるような人生でした。
和恵とは高校時代に出会います。その高校は、有名なレベルの高い高校で、初等部から大学まであります。和恵も語り手の女性も高等部から入ったわけですが、内部生との壁というか距離というか、そうしたものが初めから圧倒的でした。語り手の女性は、その序列で満たされた社会で、まともに生き抜くことを早々に諦めたのですが、和恵という女性は、頭でっかちというか、融通が利かないというか、とにかく鈍感で、理屈で物事を通すような女性だったが故に、とんちんかんなことをやって、次第に周囲から阻害されていくようになります。
そして何とその高校に、妹であるユリコも入学してしまうのです。
さて、殺される前のユリコと和恵ですが、先ほども書いたように娼婦でした。ユリコは高校の頃からずっと娼婦のようなことをしてお金を稼いでいました。男がいないと生きていけない人間なのです。和恵は、有数の建設関係の企業に就職しますが、いつしかOLと娼婦という二束のわらじを履くようになります。
誰がどの段階で落ち始めていったのか。ユリコと和恵は何故娼婦になり、何故殺されたのか?語り手の女性の人生はどうなのか。
グロテスクなまでに人の醜い部分を露に描いた、残酷でリアルな物語です。
「東電~」の事件を知らないのでわかりませんが、恐らくその事件でも、OLにして娼婦という女性が殺されたのではないでしょうか?恐らくそこから、どうしてということを膨らませて本作が描かれたのでしょう。
前面に、「女性の人生」というものが描かれます。女性として生きるとはどういうことなのか?ということが、強く押し出されます。美しさを半ば絶対的に評価基準にされる存在、女子高という社会の醜さ、女性が働くということ、体を売ってお金を儲けるということ。どれもが、ほとんど男には縁のないもので、なかなかうまく掴めないけれども、なんとなく想像していた通り、女性として生きるということは、とてつもなく大変なんだろう、と感じました。少なくとも、妥協しない人生を生きたいと考えている人には。
本作では、本当に様々な女性が出てきます。そして誰もが、見事にグロテスクな部分をきちんと抱えています。きっと、女性というのはそういう生き物なのだと思います。表面上どう見えていても、グロテスクな部分を絶対に持っているのでしょう。男だってそうではないとは言いませんが、なんかグロテスクという表現が似合わない気がします。女性の醜い部分に対して、グロテスクという表現が当てはまるような気がするのは何故でしょう?
娼婦というのが一つの大きな存在として描かれます。もちろん体を売ってお金を得る職業ですが、今ではなんだかありきたりになってきているような気がします。本作で和恵は、娼婦という誰もが出来るわけではないことを私はやっているんだ、という歪んだ優越感を持っているのですが、今の時代もはやそんな優越感すら持てないかもしれないと思うほど、不自然ではないことになっているような気がします。
僕が男だからかもしれませんが、体を売ってお金を稼ぐということに、ひどく抵抗を感じます。もちろん、当然そう思うという女性も沢山いるんだろうと思いますが、どうも女性が性を売ることに対して、抵抗が少なくなったような気がするのはどうしてでしょうか?
本作はもちろん男が読んでもいいのですが、女性に是非呼んで欲しいなと思いました。本作に出てくる女性に対して、読者の女性がどう感じるのか、という興味が僕にはあります。不快に感じるか、あるいは賛同できるか。人によって違うでしょうが、少なくとも男よりは、より近い問題として捉えることができるはずでしょう。
女性の方、是非どうぞ。
桐野夏生「グロテスク」
イメージとしては、道にぼこぼこと落とし穴があるところを、目隠しで走り抜ける。それが人生じゃないかと思います。もしかしたら、運良く落ちずに済むかもしれない。自分が、落とし穴という危険にさらされていることにも気付かないで、安定した一生を終えるかもしれない。
もちろん、落ちてしまう人もいる。落とし穴の存在に気付かずに、あるいは気付いていて注意していたけど、落ちてしまう人もいる。
何が違うのだろう。
そんなに些細なことではないはずだろう。ほんの僅かな、些細で小さな違いで、落ちる人と落ちない人が決まる。
僕はもう落ちているかもしれない。
落ちている途中かもしれない。
まだ落ちずにいるのかもしれない。
落とし穴の一歩手前なのかもしれない。
とにかく、そうして足を踏み外すかもしれない、危うい人生という道を、僕らは仕方なく歩んでいる。
落ちるか落ちないか。その差は、生まれつき与えられているのだろうか?
生まれつき何かに恵まれている人がいて、そういう人はほとんど落ちない。誰かの強力な悪意や、それこそ天文学的な事故でもない限り、転落しない。恐らく、自分が落とし穴だらけの道を歩んでいることにすら気付かないで人生を終えることだろう。
一方で、生まれつき何も恵まれない人がいる。努力によって何かを勝ち取らなければならない人がいる。例えば、努力が報われない、というきっかけによってさえも、こういう人は落ちていく。
だからどうということはない。
不公平を甘受して生きなければならないことは十分にわかっている。
けれども、自分が落ちていることを自覚してしまった時、その不公平を恨むしかないだろう。何故?を何度繰り返しても得られない答えを、生まれつきの不公平さに押し付けるしかないのであろう。
そんな人生は、きっと孤独に満ちていることだろう。
孤独に落とし込まれる人がいる。例えば、学校でいじめに遭っている人なんか分かりやすいけど、孤独というのはきっと、もっと広く広く、あらゆる人に場面に時に浸透していると思う。
孤独を感じない人はまあいないだろうとは思うけど、でも孤独を感じっぱなしということもなかなかないだろう。
人は、あらゆる手段でそれを回避する。
行動力があれば、自ら友達なり仲間なりを作り集う。
能力があれば、その能力を活かして類を呼ぶ。
忍耐力を特化させ、孤独感をマヒさせる人もいるかもしれない。
無意識の鈍感さで、気付かないふりができる人もいるかもしれない。
そうやって皆、無理矢理にでも孤独をどこかへ押しやろうとする。もちろん、努力なんて何もしなくても、孤独を回避できるひともいるのだろうけど。
それでも、孤独に押し込まれてしまう人がいる。
どうしようもなく独りだったり、どうしようもなく切り取られてしまう人がいる。
抜け出そうとしてもがいて、もがくが故にさらに孤独になってしまう人がいる。
うさぎは孤独に弱いというけど、人間も充分孤独に弱い。誰かの声、誰かの視線、誰かのぬくもり、誰かの存在。そうしたものを感じられなくなった人生に、人間は弱い。
そうして落ちていく。
なんだか、うまく人生をやっていく自信がなくなってきたな…。
相変わらず書いていることがよくわからないので、そろそろ内容に入ります。
本作は、ある一人の女性(名前はたぶん出てきてないと思う)の独り語り、という体裁の作品です。彼女は現在、役所でアルバイトをしているフリーターで40歳。そしてつい最近、妹のユリコと、高校時代の同級生の和恵の二人が殺され、それについて、過去の回想も含めながら語る、という感じです。また、ところどころ、手記と題して、三人の人間の日記などが挿入されます。
本作は、あの(と言ってもよく知っているわけではないですが)「東電OL殺人事件」をモチーフにした作品のようです。「東電~」の事件をほとんどまったく知らないのでなんとも言えませんが。
ユリコと和恵は、殺された段階で娼婦であり、そして娼婦として仕事をしている時、客の一人に殺されたのです。犯人は、中国人の男と判明して、逮捕もされています。
語り手の女性は、自らの半生も織り交ぜながら、子供の頃から現在までの、ユリコや和恵に関わる部分を語っていきます。
語り手の女性の妹であるユリコは、見る者が振り返らざる負えないような、絶世の美人でした。それは子供の頃からで、姉の自分とはまるで似ていないのです。容姿については、常に妹にコンプレックスを抱いていました。
二人はハーフで、父親がポーランド系スイス人で、母親が日本人です。
語り手の女性は妹のことを、あまりにも美しすぎるが故に怪物と呼んでいて、常に仲が悪いまま、妹に翻弄されるような人生でした。
和恵とは高校時代に出会います。その高校は、有名なレベルの高い高校で、初等部から大学まであります。和恵も語り手の女性も高等部から入ったわけですが、内部生との壁というか距離というか、そうしたものが初めから圧倒的でした。語り手の女性は、その序列で満たされた社会で、まともに生き抜くことを早々に諦めたのですが、和恵という女性は、頭でっかちというか、融通が利かないというか、とにかく鈍感で、理屈で物事を通すような女性だったが故に、とんちんかんなことをやって、次第に周囲から阻害されていくようになります。
そして何とその高校に、妹であるユリコも入学してしまうのです。
さて、殺される前のユリコと和恵ですが、先ほども書いたように娼婦でした。ユリコは高校の頃からずっと娼婦のようなことをしてお金を稼いでいました。男がいないと生きていけない人間なのです。和恵は、有数の建設関係の企業に就職しますが、いつしかOLと娼婦という二束のわらじを履くようになります。
誰がどの段階で落ち始めていったのか。ユリコと和恵は何故娼婦になり、何故殺されたのか?語り手の女性の人生はどうなのか。
グロテスクなまでに人の醜い部分を露に描いた、残酷でリアルな物語です。
「東電~」の事件を知らないのでわかりませんが、恐らくその事件でも、OLにして娼婦という女性が殺されたのではないでしょうか?恐らくそこから、どうしてということを膨らませて本作が描かれたのでしょう。
前面に、「女性の人生」というものが描かれます。女性として生きるとはどういうことなのか?ということが、強く押し出されます。美しさを半ば絶対的に評価基準にされる存在、女子高という社会の醜さ、女性が働くということ、体を売ってお金を儲けるということ。どれもが、ほとんど男には縁のないもので、なかなかうまく掴めないけれども、なんとなく想像していた通り、女性として生きるということは、とてつもなく大変なんだろう、と感じました。少なくとも、妥協しない人生を生きたいと考えている人には。
本作では、本当に様々な女性が出てきます。そして誰もが、見事にグロテスクな部分をきちんと抱えています。きっと、女性というのはそういう生き物なのだと思います。表面上どう見えていても、グロテスクな部分を絶対に持っているのでしょう。男だってそうではないとは言いませんが、なんかグロテスクという表現が似合わない気がします。女性の醜い部分に対して、グロテスクという表現が当てはまるような気がするのは何故でしょう?
娼婦というのが一つの大きな存在として描かれます。もちろん体を売ってお金を得る職業ですが、今ではなんだかありきたりになってきているような気がします。本作で和恵は、娼婦という誰もが出来るわけではないことを私はやっているんだ、という歪んだ優越感を持っているのですが、今の時代もはやそんな優越感すら持てないかもしれないと思うほど、不自然ではないことになっているような気がします。
僕が男だからかもしれませんが、体を売ってお金を稼ぐということに、ひどく抵抗を感じます。もちろん、当然そう思うという女性も沢山いるんだろうと思いますが、どうも女性が性を売ることに対して、抵抗が少なくなったような気がするのはどうしてでしょうか?
本作はもちろん男が読んでもいいのですが、女性に是非呼んで欲しいなと思いました。本作に出てくる女性に対して、読者の女性がどう感じるのか、という興味が僕にはあります。不快に感じるか、あるいは賛同できるか。人によって違うでしょうが、少なくとも男よりは、より近い問題として捉えることができるはずでしょう。
女性の方、是非どうぞ。
桐野夏生「グロテスク」
サウンドトラック(古川日出男)
読み始めで、傑作の予感がした。読んで数ページ。この作品はヤバイ、と直感した。何か突き上げるような衝撃があった。重苦しいような衝突があった。そんな作品に出会うことは珍しい。
実際は、最初の印象を凌駕するほどではなかった。でも、期待はずれという表現には当たらない。なんと言うか、あらゆる点でずば抜けていて、どんな意味でも重厚で、ひたすらに圧倒的で、傑作であることに変わりはない。
作家は二種類に分かれる、と考えていた。つまり、人間を書く作家と、ストーリーを書く作家だ。もちろん、その両方であることが望ましい。しかし、なかなかそれが出来る作家は多くない。大抵は、人物はいいけど物語が…、あるいは、ストーリーはいいけど人間が…、となることが多い。
ただ、もう一種類いることを失念していた。これは、ほとんどそうした作家・作品に出会わないが故なのだが、現実にこうした作家はいし、作品はある。
歴史を描く作家だ。
歴史と言っても、江戸時代が舞台であるとか、戦争を描いているとかそうしたことではなくて、時間を圧倒的に積み重ねることで出来上がる、そうした意味においての歴史である。
大抵小説といえば、時間的にかなり切り取られている。ある限定的な時間における、さらにその中でも省略された流れを追う、それが大抵の小説である。別にそれを批判しているわけでは決してない。小説に形やルールは不要だと思っている。
時々ではあるが、時間を切り取ることをしない作家や作品に出会う。もちろん小説の限界として、飛躍や省略が絶無であることはありえない。それでも読んでいて、その飛躍も省略も経験したような、空白を絶対的な何かで封じ込めたような、ある種のタイムラグを無意識に消去させるような、そんな作品に出会う。
そうした作品は、歴史を顕在させる。
僕が今思い浮かべることのできる、歴史を紡ぐことの出来る作家は、天童荒太と高村薫ぐらいだ。天童荒太の「永遠の仔」「家族狩り」、高村薫の「リヴィエラを撃て」「季欧」「神の火」。ここには歴史がある。作品単位で言えば、東野圭吾の「白夜行」、奥泉光の「グランドミステリー」、村上龍の「半島を出よ」なんかだろうか。あと、少し違うような気もするけど、船戸与一や逢坂剛なんかも、歴史を紡ぐ作家といえるかもしれない。
歴史とは、あるものではなく作るものだ、という風に僕は思っている。歴史は、人や人でないものによって作られる。作られて残される。そこに真実が含まれようとどうだろうと。だとすれば、歴史はすべて、小説だと看破できるかもしれない。
本作には歴史がある。
しかも、残される形ではなく、追う形で。
そこには、真実の欠片もない。
ただ、真実予備軍が詰め込まれている。
歴史という形の未来が。
未来という結果の歴史が。
その重みが、読者を襲う。
さて、内容だが、これが紹介しずらい。どこを切り取って書いてみても、それは世界の一部にとはなれないし、どこも切り取らないとしたらあらすじではなくなってしまう。
物語は無人島から始まる。あらゆる事情から、無人島で生き残ることを余儀なくされた少年と少女。二人は、ほぼ沈黙を保ったままで、数年間無人島で生きる。
この二人が、あるきっかけから保護され、一般と同じ並の生活を手にするようになった。それが、ある意味で未来の東京の運命を変えた、といえるのかもしれない。
世界は、二人を解き放った。
ある意味で、現代のアダムとイブだったのかもしれない。
二人から世界を創るのではなく、
二人だけの世界に戻すために新たな世界を創る、という違いはあったものの。
舞台はいつしか、2009年、近未来の東京へと移る。既にアダムとイブは離れ離れとなり長いこと会っていない。お互いにそれぞれの世界を生きながら、というか寧ろsurviveに近いけれど、そんな中で世界に対峙する。新しい主要人物がぼつぼつと現れる。東京は、温暖化の煽りをもろに受け、最高潮に不快な街へと変わる。熱帯にしか存在し得ない感染症が流行する。また、外国人が地域一つを乗っ取る勢いで日本に大挙し、独自の文化や勢力を築き上げる。
すべてが混沌とする。あらゆるものは混ざり、混ざらないものは排除され、排除されたものは組織する。あらゆる少年/少女が、方向をもたないままに志向し、行動する。
その結果が、東京という街を如実に壊していく。
ルートに括られたダンスや、カラスを魅了した映画や、異端を生きる日本人の結果として。
どこにも行き着くことのない焦燥や困惑をクールに吹き飛ばし、どこにも向かえない人々をルールから弾き飛ばす、少年/少女たちの、ある意味で青春の結実を描く、どことなく黙示録的作品。
さて、このまるであらすじになっていない文章から、本作の何かを感じ取ることは出来るでしょうか?
本作の登場人物には、一貫してある特性がある。それは、どこにも方向を持たない、あるいはそう見える、ということだ。
すべての何故?を吹き飛ばす。意図や目的がまるで明確ではない。標識も道路標示もない道を爆走している車の如く、行き着く先がまったく見えない。カーナビが内蔵されているならば、本人にはわかっているのだろうけど、それすらも怪しい。どこにも向かうつもりもないまま、しかし確実にある一点を目指している、という印象を拭えない。
それは、どの場面でも力強く映る。まるでふらつきがない。絶対的に安定している。寄りかかる支えも、頼るべきルールも、何ももっていないように見えるのに、それでも常に安定しきっている。その強さが、決して若さから出ているわけではないはずだ、という直感が、また読者を恐怖するだろう。
小説内の舞台は、時間とともに加速度的に変化する。圧倒的に悪化の一途を辿る。東京という街が行き着く先は、見るまでもなく明らかだ。
その中で、まさしくsurviveしている少年/少女達は、しかし何も影響されない。まさにsurviveし続けている。そこに恐怖はない。暗澹も憤りもない。ただ、無条件の愛だけがあるように見える。不思議と、見失うべきではないものを、少年/少女達だけは正確に把握している。
方向がないくせに安定し、さらにある同じ一点を目指すそうに疾走する彼等。止まらないし戻らない。東京という街が辿るべき趨勢の、その加速度を一層に上げている。
そこに何故?はない。意図も目的も見出せない。
きっとそこには、揺るがない愛があって、他の誰かにはわからない飛躍した論理があって、だからこそ紛れることも揺らぐこともなく、ただ一身にひたすらに猛進できているのだろう。
きっとそれは、ある意味で青春だ。青春の新しい形を、著者は示したのかもしれない。
本作では、いくつもの芸術が、重要なモチーフとして使われている。音楽も踊りも映像も。
ただ、著者は普通には芸術を描かない。僕の印象で言えば、既存の芸術を解体し、ばらばらにしてしまってから、敢えてそれを同じ形になるように再構成するような、そんな描き方をしている。再構成されたものは、壊す前と同じ形を保っているのだが、そこには、再構成に掛かった手間や時間、つまりは余分に付与された歴史が内蔵されていて、同じ形だけど違う、というそんな微妙な印象を残す。それは、音楽であって音楽ではなく、踊りであって踊りではなく、映像であって映像ではない。余分に内蔵されたそのほんの僅かな歴史によって、芸術の形が歪む。歪んだ形こそが著者の意図したものであるだろうけど、それが奇異に映る。芸術が人間に与える効果を遥かに超越した何かに変貌している。それだけの再構成を著者は、紙の上で神の視点でやってのける。
本作で再構成された形で顕れる芸術は、読者には印象的な形で残ることだろう。音楽の境界を無視した志向、踊りの常識を無視した動きや形、映像の既存の効果を無視した視点。そうした新しい形を示されて、しかもそれが、少年/少女たちにとって武器にすらなっているという事実に当惑することだろう。
だがそれらは、違和感なく作品に溶け込んでいる。それらが不自然ではない世界を著者は作り上げている。どこまでも暴力的で、それでいて神話的な、意味も概念すらも変えてしまった芸術を、その世界に現出させ定着させている。
あらゆる意味で著者は神に近いかもしれない。
視点、という意味でも本作は面白い。
小説において、視点というのは特に重要視されるものだと思う。それは、物語を読者に伝えるという一点において重要なのである。
普通は一人称か三人称という形態である。一人称というのは、ある主人公一人の視点で描かれるもので、これは地の文にも主人公の感想だとか気持ちだとかが描かれる。簡単に言えば、「僕は~」「わたしは~」でずっと通すことだ。三人称というのは、例えばABCという三人がいる場面で、「Aは~。Bは~。Cは~。」という形で、つまり神の視点に立って外側から登場人物を描くものだ。大抵の場合地の文では、外面的にわかる記述だけがなされるので、内面の部分は会話に頼ることが多い。
と書いてはみたけど、これは僕が小説を読む中で勝手にそうだと思っただけのことであって、実際は違うかもしれない、また、二人称の小説というのも二作品ぐらい読んだことがあるけど、それはまあかなり特殊だからいいとしよう。
本作は、視点がまったく定まらない。ある意味で三人称の形態なのかもしれないが、しかし地の文で「僕は~」「私は~」という文章が普通に出てくる。もちろん登場人物の内面も描かれる。神の視点に立って外面を描いているのに、一人称が混じって内面も描かれる。場面ごとに視点人物もころころと変わり、何も一定しない。
普通こうした作品は敬遠され、書評家と呼ばれる無節操な人々から無遠慮な非難が浴びせられるだろうと思う。僕は、本作における書評家の評価を知らないからなんともいえないけれども。新人賞の選評なんかでも、視点がああだこうだと言うのだから、基本中の基本なわけで、その基本を本作は、かなり大幅に無視して進行する。
でも、僕は問題ないと感じた。少なくとも、視点が定まらないことで不具合を感じない。逆にスピード感が異様に出て、本作の圧倒的な物語の進行に一役買っているようにも思う。
どこまでも突き抜けている作品である。
どこをとっても異様な作品である。
「サウンドトラック」という言葉の正確な意味は知らないけど、まるでありとあらゆる音楽を詰め込んだかのような、喧しさや混沌をはらみながらも、奇妙な一体感を内包する、そんな世界観が現出している。
許容できない読者の方が多いかもしれない。
僕にしても、この作品のすべてを許容できているとは言いがたいかもしれない。
それでも、読む人を圧倒する何かがそこにはある。
それだけで充分ではないだろうか?
是非にとは言わないけれども、読んでみてはいかがだろうか?
古川日出男「サウンドトラック」
実際は、最初の印象を凌駕するほどではなかった。でも、期待はずれという表現には当たらない。なんと言うか、あらゆる点でずば抜けていて、どんな意味でも重厚で、ひたすらに圧倒的で、傑作であることに変わりはない。
作家は二種類に分かれる、と考えていた。つまり、人間を書く作家と、ストーリーを書く作家だ。もちろん、その両方であることが望ましい。しかし、なかなかそれが出来る作家は多くない。大抵は、人物はいいけど物語が…、あるいは、ストーリーはいいけど人間が…、となることが多い。
ただ、もう一種類いることを失念していた。これは、ほとんどそうした作家・作品に出会わないが故なのだが、現実にこうした作家はいし、作品はある。
歴史を描く作家だ。
歴史と言っても、江戸時代が舞台であるとか、戦争を描いているとかそうしたことではなくて、時間を圧倒的に積み重ねることで出来上がる、そうした意味においての歴史である。
大抵小説といえば、時間的にかなり切り取られている。ある限定的な時間における、さらにその中でも省略された流れを追う、それが大抵の小説である。別にそれを批判しているわけでは決してない。小説に形やルールは不要だと思っている。
時々ではあるが、時間を切り取ることをしない作家や作品に出会う。もちろん小説の限界として、飛躍や省略が絶無であることはありえない。それでも読んでいて、その飛躍も省略も経験したような、空白を絶対的な何かで封じ込めたような、ある種のタイムラグを無意識に消去させるような、そんな作品に出会う。
そうした作品は、歴史を顕在させる。
僕が今思い浮かべることのできる、歴史を紡ぐことの出来る作家は、天童荒太と高村薫ぐらいだ。天童荒太の「永遠の仔」「家族狩り」、高村薫の「リヴィエラを撃て」「季欧」「神の火」。ここには歴史がある。作品単位で言えば、東野圭吾の「白夜行」、奥泉光の「グランドミステリー」、村上龍の「半島を出よ」なんかだろうか。あと、少し違うような気もするけど、船戸与一や逢坂剛なんかも、歴史を紡ぐ作家といえるかもしれない。
歴史とは、あるものではなく作るものだ、という風に僕は思っている。歴史は、人や人でないものによって作られる。作られて残される。そこに真実が含まれようとどうだろうと。だとすれば、歴史はすべて、小説だと看破できるかもしれない。
本作には歴史がある。
しかも、残される形ではなく、追う形で。
そこには、真実の欠片もない。
ただ、真実予備軍が詰め込まれている。
歴史という形の未来が。
未来という結果の歴史が。
その重みが、読者を襲う。
さて、内容だが、これが紹介しずらい。どこを切り取って書いてみても、それは世界の一部にとはなれないし、どこも切り取らないとしたらあらすじではなくなってしまう。
物語は無人島から始まる。あらゆる事情から、無人島で生き残ることを余儀なくされた少年と少女。二人は、ほぼ沈黙を保ったままで、数年間無人島で生きる。
この二人が、あるきっかけから保護され、一般と同じ並の生活を手にするようになった。それが、ある意味で未来の東京の運命を変えた、といえるのかもしれない。
世界は、二人を解き放った。
ある意味で、現代のアダムとイブだったのかもしれない。
二人から世界を創るのではなく、
二人だけの世界に戻すために新たな世界を創る、という違いはあったものの。
舞台はいつしか、2009年、近未来の東京へと移る。既にアダムとイブは離れ離れとなり長いこと会っていない。お互いにそれぞれの世界を生きながら、というか寧ろsurviveに近いけれど、そんな中で世界に対峙する。新しい主要人物がぼつぼつと現れる。東京は、温暖化の煽りをもろに受け、最高潮に不快な街へと変わる。熱帯にしか存在し得ない感染症が流行する。また、外国人が地域一つを乗っ取る勢いで日本に大挙し、独自の文化や勢力を築き上げる。
すべてが混沌とする。あらゆるものは混ざり、混ざらないものは排除され、排除されたものは組織する。あらゆる少年/少女が、方向をもたないままに志向し、行動する。
その結果が、東京という街を如実に壊していく。
ルートに括られたダンスや、カラスを魅了した映画や、異端を生きる日本人の結果として。
どこにも行き着くことのない焦燥や困惑をクールに吹き飛ばし、どこにも向かえない人々をルールから弾き飛ばす、少年/少女たちの、ある意味で青春の結実を描く、どことなく黙示録的作品。
さて、このまるであらすじになっていない文章から、本作の何かを感じ取ることは出来るでしょうか?
本作の登場人物には、一貫してある特性がある。それは、どこにも方向を持たない、あるいはそう見える、ということだ。
すべての何故?を吹き飛ばす。意図や目的がまるで明確ではない。標識も道路標示もない道を爆走している車の如く、行き着く先がまったく見えない。カーナビが内蔵されているならば、本人にはわかっているのだろうけど、それすらも怪しい。どこにも向かうつもりもないまま、しかし確実にある一点を目指している、という印象を拭えない。
それは、どの場面でも力強く映る。まるでふらつきがない。絶対的に安定している。寄りかかる支えも、頼るべきルールも、何ももっていないように見えるのに、それでも常に安定しきっている。その強さが、決して若さから出ているわけではないはずだ、という直感が、また読者を恐怖するだろう。
小説内の舞台は、時間とともに加速度的に変化する。圧倒的に悪化の一途を辿る。東京という街が行き着く先は、見るまでもなく明らかだ。
その中で、まさしくsurviveしている少年/少女達は、しかし何も影響されない。まさにsurviveし続けている。そこに恐怖はない。暗澹も憤りもない。ただ、無条件の愛だけがあるように見える。不思議と、見失うべきではないものを、少年/少女達だけは正確に把握している。
方向がないくせに安定し、さらにある同じ一点を目指すそうに疾走する彼等。止まらないし戻らない。東京という街が辿るべき趨勢の、その加速度を一層に上げている。
そこに何故?はない。意図も目的も見出せない。
きっとそこには、揺るがない愛があって、他の誰かにはわからない飛躍した論理があって、だからこそ紛れることも揺らぐこともなく、ただ一身にひたすらに猛進できているのだろう。
きっとそれは、ある意味で青春だ。青春の新しい形を、著者は示したのかもしれない。
本作では、いくつもの芸術が、重要なモチーフとして使われている。音楽も踊りも映像も。
ただ、著者は普通には芸術を描かない。僕の印象で言えば、既存の芸術を解体し、ばらばらにしてしまってから、敢えてそれを同じ形になるように再構成するような、そんな描き方をしている。再構成されたものは、壊す前と同じ形を保っているのだが、そこには、再構成に掛かった手間や時間、つまりは余分に付与された歴史が内蔵されていて、同じ形だけど違う、というそんな微妙な印象を残す。それは、音楽であって音楽ではなく、踊りであって踊りではなく、映像であって映像ではない。余分に内蔵されたそのほんの僅かな歴史によって、芸術の形が歪む。歪んだ形こそが著者の意図したものであるだろうけど、それが奇異に映る。芸術が人間に与える効果を遥かに超越した何かに変貌している。それだけの再構成を著者は、紙の上で神の視点でやってのける。
本作で再構成された形で顕れる芸術は、読者には印象的な形で残ることだろう。音楽の境界を無視した志向、踊りの常識を無視した動きや形、映像の既存の効果を無視した視点。そうした新しい形を示されて、しかもそれが、少年/少女たちにとって武器にすらなっているという事実に当惑することだろう。
だがそれらは、違和感なく作品に溶け込んでいる。それらが不自然ではない世界を著者は作り上げている。どこまでも暴力的で、それでいて神話的な、意味も概念すらも変えてしまった芸術を、その世界に現出させ定着させている。
あらゆる意味で著者は神に近いかもしれない。
視点、という意味でも本作は面白い。
小説において、視点というのは特に重要視されるものだと思う。それは、物語を読者に伝えるという一点において重要なのである。
普通は一人称か三人称という形態である。一人称というのは、ある主人公一人の視点で描かれるもので、これは地の文にも主人公の感想だとか気持ちだとかが描かれる。簡単に言えば、「僕は~」「わたしは~」でずっと通すことだ。三人称というのは、例えばABCという三人がいる場面で、「Aは~。Bは~。Cは~。」という形で、つまり神の視点に立って外側から登場人物を描くものだ。大抵の場合地の文では、外面的にわかる記述だけがなされるので、内面の部分は会話に頼ることが多い。
と書いてはみたけど、これは僕が小説を読む中で勝手にそうだと思っただけのことであって、実際は違うかもしれない、また、二人称の小説というのも二作品ぐらい読んだことがあるけど、それはまあかなり特殊だからいいとしよう。
本作は、視点がまったく定まらない。ある意味で三人称の形態なのかもしれないが、しかし地の文で「僕は~」「私は~」という文章が普通に出てくる。もちろん登場人物の内面も描かれる。神の視点に立って外面を描いているのに、一人称が混じって内面も描かれる。場面ごとに視点人物もころころと変わり、何も一定しない。
普通こうした作品は敬遠され、書評家と呼ばれる無節操な人々から無遠慮な非難が浴びせられるだろうと思う。僕は、本作における書評家の評価を知らないからなんともいえないけれども。新人賞の選評なんかでも、視点がああだこうだと言うのだから、基本中の基本なわけで、その基本を本作は、かなり大幅に無視して進行する。
でも、僕は問題ないと感じた。少なくとも、視点が定まらないことで不具合を感じない。逆にスピード感が異様に出て、本作の圧倒的な物語の進行に一役買っているようにも思う。
どこまでも突き抜けている作品である。
どこをとっても異様な作品である。
「サウンドトラック」という言葉の正確な意味は知らないけど、まるでありとあらゆる音楽を詰め込んだかのような、喧しさや混沌をはらみながらも、奇妙な一体感を内包する、そんな世界観が現出している。
許容できない読者の方が多いかもしれない。
僕にしても、この作品のすべてを許容できているとは言いがたいかもしれない。
それでも、読む人を圧倒する何かがそこにはある。
それだけで充分ではないだろうか?
是非にとは言わないけれども、読んでみてはいかがだろうか?
古川日出男「サウンドトラック」
小説作法(スティーヴン・キング)
いつ頃からはまあ覚えていないけれども、いつか作家になりたい、と思うようになった。
今現役で作家をしている大半の人がそうであるように、僕もとにかく本を読むことが好きだったし今でも好きだ。僕は、なかなか一つのことを続けてやるというのが苦手な性分なのだけど、学生時代の勉強と、今でも続いている読書は、僕の人生の仲でもかなり長続きしたことである。
読書歴を披露することに意味があるとは思えないけど、小学生の頃は「ズッコケ三人組シリーズ」を、中学生の頃は「ぼくらのシリーズ」を、高校の頃はシドニー・シェルダンにはまり、そして大学に入ってから、それこそありとあらゆる作家を乱読するようになり、今に至る。時代によって読むものも変わってきたけど、どれも面白さやわくわく感といった点では常に僕を魅了し続けてきた。そういう過程の中で、自分もこうした作品を書けたらいいな、と夢想することはまあ自然な流れだったかもしれない。
一つきっかけがあった。僕は、まあ事情は様々にある、とだけ書いておくことにするけれども、大学を中退した。その少し前、引きこもりになったような時期があったのだけど、その時期に「小説もどき」を書いたことがある。きっかけというのは、引きこもりになって、その時点では正確に思い描いてはいなかっただろうけど、大学を辞めるという選択肢もないではないあn、という風に思ったからこそ、「小説もどき」を書こうという発想に至った、ということだ。恐らく、その契機がなければ、小説家という発想は、現実的にはかなり先送りにされていたことだろう。
とにかく僕は「小説もどき」を書いた。確か16万字ぐらいで、原稿用紙換算で400枚ぐらいだったと思う。一般的な長編小説と考えれば短いほうかもしれない。
とにかく、第一稿(というような大げさなものではないけど)は一ヶ月ぐらいで書き上げた。引きこもっているわけだから時間はありあまっている。一日中、パソコンに向かい続け、それしかしてなかった。我ながら頑張ったものである。
あらかじめ、どこで誰がどうしてみたいな、結構きつきつのプロット(と呼べるようなものかわからないけど)を作って、それを元に書いていった。
さて、結局出来上がったものは、「小説もどき」でしかなかった。酷いものだった。出来上がった当初は、これだけ頑張ったのだから、と誰かに見せることも考えていたが、結局誰にも見せないままお蔵入りとなった。今でも、データ上は残っているけれども、開くことはない。
さて、それを境に僕は、小説を書くことは自分にはむいていないかもしれない、と考えるようになった。かなり妥当な判断かもしれない。しかしこうも考えている。今すぐ作家になろうとしなくてもいいではないか。何なら、デビューが50歳でもまるで問題はない、と。
ただ、50歳から突然小説を書き始めることは不可能だろう。森博嗣のような、特異で突出した才能の持ち主ならいざ知らず、一般の凡人にはなかなか難しい。
だからというわけではないが、古本屋でぱっと目についた本作を買ってみた。
最近は、若い作家のデビューが多くなってきた。さきがけ(といえるのかはわからないけど)だと僕が勝手に思っているのは乙一だが、綿矢りさや金原ひとみあたりが出始めてから急激に多くなってきたようにも思う。いいことだと思う反面、羨ましくも思う。
今は、強く作家になりたいと思わないようにしている。なれたらいいな、ぐらいに留めている。まあ、機会と発想があれば、小説を書いてみようとは思うけど。
本作は、「小説作法」というタイトル通り、小説の書き方だとかそういった類についての本でもある。
しかし、それだけではない。むしろ、スティーブン・キングという作家の、小説に対する態度というか考え方というか、そうしたものの性格が強いように感じる。また、「生い立ち」と題して、キングの少年時代の話が書いてあったり、キングが九死に一生を得た交通事故の顛末なんかも載っている。
中身をよく読んでから買ったわけではないけど、小説を書くにはあれこれをしなくてはいけないだとか、こうあるべきだとか、そんな風な書き方というか作りをしていないので気に入った。押し付けがましさがまるでない。キングが「小説」という存在と交わしている会話を、側で聞いているような感じだ、と言ったら言い過ぎだろうか?
僕は、キングの作品を一編も読んだことはない。「グリーンマイル」や「スタンドバイミー」など、かなり有名な著作があることも知っているし、もちろん有名な作家であることも知っている。キングの小説を読んだことがないのでなんとも言えないが、本作を読む限り、素晴らしい作家なのだろう、と思った。
キングは、自作の小説の要素をこう語っている。
「私の場合、短編であれ、長編であれ、小説の要素は三つである。話をA地点からB地点、そして、大団円のZ地点へ運ぶ叙述。読者に実感を与える描写。登場人物を血の通った存在にする会話。この三つで小説は成り立っている。」
このあとでキングは、小説の要素に構想が含まれない、ということを説く。小説を書く前に構想を練ることはしないのだそうだ。これについても含蓄の深い記述がある。
「あるとき<ニューヨーカー>のインタヴューに答えて、作品を書くのは地中に埋もれた化石を発掘するのと同じだと話すと、聞き手のマーク・シンガーは、信じられない、と眉を寄せた。」
キングにとって、小説というのは、未発掘の化石と同じようなもので、誰も見つけていないだけでずっとどこかに隠れているものだという。作家は、それを、あらゆる道具でもって慎重に掘り出すだけでいい。構想なんてものは、削岩機のような大型機械を導入するようなもので、威力は発揮するだろうが、小説という化石をそのままの形で発掘するには向かないだろう、と。
僕はこの、ほとんど構想を持たない状態で作品を書く、というスタイルを、初めは信じることができなかった。森博嗣という作家がいるが、氏もまったく同じスタイルをとる。まるでなんの発想もないままに、とりあえずキーボードに向かって何か文章を書く。書きながら発想し展開を考える。書いている時以外、小説については考えない。そんなやり方は、森博嗣など一部の天才にしか不可能だとずっと思っていた。
しかし、本作を読んで少しだけ考え方が変わった。なるほど、化石を掘り出すという喩えは非情に分かりやすいし、それなら出来るかもしれないと思わせる効果がある。何もないところから物語を生み出しているのではなく、もともとあるものを掘り出しているだけだ、という発想なら、なんとかなりそうではないか。それに、やはりほとんど何も決めないで書いた方が、書いている自分が楽しいに決まっている。本作でもキングは、作家は小説を書く存在であると共に一番初めの読者でもある、と書いていた。そう、書いている自分が楽しくなければ、面白い作品になるわけがない。その点で、キングの示唆は、僕に希望を与えたといえる。
主題についてもキングはいいことを書いている。
「疑問や主題の論議から小説を書き起こすのは本末転倒である。優れた小説は必ず、物語にはじまって主題に辿り着く。主題にはじまって物語に行き着くことはほとんどない。」
僕はまあ文学を書こうと思っているわけではなく、純粋なエンターテイメントを書きたいわけだけど、それでも某かの主題はあったほうがいいだろう。しかし、まず主題ありきでなくてもいい、というキングの考えは、やはりこれから小説を書こうと思っている人間には力強い話だ。確かに、主題から出来上がった小説が面白いかと言えば疑問である。
さて引用の最後である。これは、キングがまだ学生だった頃、雑誌に短編を投稿し、悉く不採用通知が届いていた頃の話。ある編集者から、署名入りでこんなアドバイスが書かれていたという。
「公式。第二稿=初稿ー10%」
要するに、初稿が出来上がったらとりあえず削れ、ということだ。これも心に留めておくことにしよう。
本作に対する不満は、まあこれは仕方ないことではあるが、キングがアメリカの出版界にいるということだ。当然英語圏なわけで、本作でも英語の文法やなんかに関する記述がある。中には、日本語でも通用するものはあるが、英語特有のものも多い。また、アメリカの出版界でいかに本jを出すか、という記述もある。長編を出す場合にはエージェントと渡りをつけなくてはならない云々とあるが、これも日本ではあまり関係のない話である。こういった点が、繰り返すが仕方ないとはいえ、本作のちょっと不満な点ではある。
作家を目指す人向けの本は様々出版されていることだろう。だから、その中で本作がいいかどうかは僕には判断できない。しかしまあ、小手先のテクニックを教えるようなものよりは遥かに得るものが多いのではないかと思う。キングという作家が好きな人ならなおさらだ。そんな感じである。
スティーヴン・キング「小説作法」
小説作法ハード
今現役で作家をしている大半の人がそうであるように、僕もとにかく本を読むことが好きだったし今でも好きだ。僕は、なかなか一つのことを続けてやるというのが苦手な性分なのだけど、学生時代の勉強と、今でも続いている読書は、僕の人生の仲でもかなり長続きしたことである。
読書歴を披露することに意味があるとは思えないけど、小学生の頃は「ズッコケ三人組シリーズ」を、中学生の頃は「ぼくらのシリーズ」を、高校の頃はシドニー・シェルダンにはまり、そして大学に入ってから、それこそありとあらゆる作家を乱読するようになり、今に至る。時代によって読むものも変わってきたけど、どれも面白さやわくわく感といった点では常に僕を魅了し続けてきた。そういう過程の中で、自分もこうした作品を書けたらいいな、と夢想することはまあ自然な流れだったかもしれない。
一つきっかけがあった。僕は、まあ事情は様々にある、とだけ書いておくことにするけれども、大学を中退した。その少し前、引きこもりになったような時期があったのだけど、その時期に「小説もどき」を書いたことがある。きっかけというのは、引きこもりになって、その時点では正確に思い描いてはいなかっただろうけど、大学を辞めるという選択肢もないではないあn、という風に思ったからこそ、「小説もどき」を書こうという発想に至った、ということだ。恐らく、その契機がなければ、小説家という発想は、現実的にはかなり先送りにされていたことだろう。
とにかく僕は「小説もどき」を書いた。確か16万字ぐらいで、原稿用紙換算で400枚ぐらいだったと思う。一般的な長編小説と考えれば短いほうかもしれない。
とにかく、第一稿(というような大げさなものではないけど)は一ヶ月ぐらいで書き上げた。引きこもっているわけだから時間はありあまっている。一日中、パソコンに向かい続け、それしかしてなかった。我ながら頑張ったものである。
あらかじめ、どこで誰がどうしてみたいな、結構きつきつのプロット(と呼べるようなものかわからないけど)を作って、それを元に書いていった。
さて、結局出来上がったものは、「小説もどき」でしかなかった。酷いものだった。出来上がった当初は、これだけ頑張ったのだから、と誰かに見せることも考えていたが、結局誰にも見せないままお蔵入りとなった。今でも、データ上は残っているけれども、開くことはない。
さて、それを境に僕は、小説を書くことは自分にはむいていないかもしれない、と考えるようになった。かなり妥当な判断かもしれない。しかしこうも考えている。今すぐ作家になろうとしなくてもいいではないか。何なら、デビューが50歳でもまるで問題はない、と。
ただ、50歳から突然小説を書き始めることは不可能だろう。森博嗣のような、特異で突出した才能の持ち主ならいざ知らず、一般の凡人にはなかなか難しい。
だからというわけではないが、古本屋でぱっと目についた本作を買ってみた。
最近は、若い作家のデビューが多くなってきた。さきがけ(といえるのかはわからないけど)だと僕が勝手に思っているのは乙一だが、綿矢りさや金原ひとみあたりが出始めてから急激に多くなってきたようにも思う。いいことだと思う反面、羨ましくも思う。
今は、強く作家になりたいと思わないようにしている。なれたらいいな、ぐらいに留めている。まあ、機会と発想があれば、小説を書いてみようとは思うけど。
本作は、「小説作法」というタイトル通り、小説の書き方だとかそういった類についての本でもある。
しかし、それだけではない。むしろ、スティーブン・キングという作家の、小説に対する態度というか考え方というか、そうしたものの性格が強いように感じる。また、「生い立ち」と題して、キングの少年時代の話が書いてあったり、キングが九死に一生を得た交通事故の顛末なんかも載っている。
中身をよく読んでから買ったわけではないけど、小説を書くにはあれこれをしなくてはいけないだとか、こうあるべきだとか、そんな風な書き方というか作りをしていないので気に入った。押し付けがましさがまるでない。キングが「小説」という存在と交わしている会話を、側で聞いているような感じだ、と言ったら言い過ぎだろうか?
僕は、キングの作品を一編も読んだことはない。「グリーンマイル」や「スタンドバイミー」など、かなり有名な著作があることも知っているし、もちろん有名な作家であることも知っている。キングの小説を読んだことがないのでなんとも言えないが、本作を読む限り、素晴らしい作家なのだろう、と思った。
キングは、自作の小説の要素をこう語っている。
「私の場合、短編であれ、長編であれ、小説の要素は三つである。話をA地点からB地点、そして、大団円のZ地点へ運ぶ叙述。読者に実感を与える描写。登場人物を血の通った存在にする会話。この三つで小説は成り立っている。」
このあとでキングは、小説の要素に構想が含まれない、ということを説く。小説を書く前に構想を練ることはしないのだそうだ。これについても含蓄の深い記述がある。
「あるとき<ニューヨーカー>のインタヴューに答えて、作品を書くのは地中に埋もれた化石を発掘するのと同じだと話すと、聞き手のマーク・シンガーは、信じられない、と眉を寄せた。」
キングにとって、小説というのは、未発掘の化石と同じようなもので、誰も見つけていないだけでずっとどこかに隠れているものだという。作家は、それを、あらゆる道具でもって慎重に掘り出すだけでいい。構想なんてものは、削岩機のような大型機械を導入するようなもので、威力は発揮するだろうが、小説という化石をそのままの形で発掘するには向かないだろう、と。
僕はこの、ほとんど構想を持たない状態で作品を書く、というスタイルを、初めは信じることができなかった。森博嗣という作家がいるが、氏もまったく同じスタイルをとる。まるでなんの発想もないままに、とりあえずキーボードに向かって何か文章を書く。書きながら発想し展開を考える。書いている時以外、小説については考えない。そんなやり方は、森博嗣など一部の天才にしか不可能だとずっと思っていた。
しかし、本作を読んで少しだけ考え方が変わった。なるほど、化石を掘り出すという喩えは非情に分かりやすいし、それなら出来るかもしれないと思わせる効果がある。何もないところから物語を生み出しているのではなく、もともとあるものを掘り出しているだけだ、という発想なら、なんとかなりそうではないか。それに、やはりほとんど何も決めないで書いた方が、書いている自分が楽しいに決まっている。本作でもキングは、作家は小説を書く存在であると共に一番初めの読者でもある、と書いていた。そう、書いている自分が楽しくなければ、面白い作品になるわけがない。その点で、キングの示唆は、僕に希望を与えたといえる。
主題についてもキングはいいことを書いている。
「疑問や主題の論議から小説を書き起こすのは本末転倒である。優れた小説は必ず、物語にはじまって主題に辿り着く。主題にはじまって物語に行き着くことはほとんどない。」
僕はまあ文学を書こうと思っているわけではなく、純粋なエンターテイメントを書きたいわけだけど、それでも某かの主題はあったほうがいいだろう。しかし、まず主題ありきでなくてもいい、というキングの考えは、やはりこれから小説を書こうと思っている人間には力強い話だ。確かに、主題から出来上がった小説が面白いかと言えば疑問である。
さて引用の最後である。これは、キングがまだ学生だった頃、雑誌に短編を投稿し、悉く不採用通知が届いていた頃の話。ある編集者から、署名入りでこんなアドバイスが書かれていたという。
「公式。第二稿=初稿ー10%」
要するに、初稿が出来上がったらとりあえず削れ、ということだ。これも心に留めておくことにしよう。
本作に対する不満は、まあこれは仕方ないことではあるが、キングがアメリカの出版界にいるということだ。当然英語圏なわけで、本作でも英語の文法やなんかに関する記述がある。中には、日本語でも通用するものはあるが、英語特有のものも多い。また、アメリカの出版界でいかに本jを出すか、という記述もある。長編を出す場合にはエージェントと渡りをつけなくてはならない云々とあるが、これも日本ではあまり関係のない話である。こういった点が、繰り返すが仕方ないとはいえ、本作のちょっと不満な点ではある。
作家を目指す人向けの本は様々出版されていることだろう。だから、その中で本作がいいかどうかは僕には判断できない。しかしまあ、小手先のテクニックを教えるようなものよりは遥かに得るものが多いのではないかと思う。キングという作家が好きな人ならなおさらだ。そんな感じである。
スティーヴン・キング「小説作法」
小説作法ハード
半パン・デイズ(重松清)
子供の頃の自分、というものを覚えているだろうか?
僕は正直言って、まったく覚えていない。大学時代に既に、高校時代の記憶が危うかった程の記憶力しかない。過去にこだわらない、と言えばかっこいいのかもしれないけど、あまりにも覚えていなさすぎで、ちょっと悲しくなったりもする。
そもそも、無理矢理に思い出してみても、面白みのない子供時代だった。とにかく、アホみたいに勉強ばかりしていた。ここには書かないけど、まあいろいろな決断という判断というか、そうした英断の末に勉強を頑張るようになった、といういろいろないきさつはあるのだけれども、それにしても、もう少し違った子供時代もあったのではないだろうか、と思う。
僕が勉強をアホみたいにするようになったのは小学六年生の頃からだが、それ以前は結構遊んでいた記憶がある。まあ田舎だったから、近くの子供と一緒に缶けりをしたり、病院の自販機の下から小銭を拾ってみたり、とにかくそんな他愛もないことをしていた。そんな時代もそういえばあった。あの頃に戻りたいとは思わないけど、あの頃のままずっといられるというなら、少し考えるかもしれない。
兄弟とも仲がいい時代があった。妹と弟がいるが、今ではお互い、一体何をしているのかさっぱり分からないぐらいの音信不通っぷりだが(まあ死んではいないだろう、というぐらいの情報しかない)、昔はそういえばよく遊んでいたようにも思う。自分の部屋というものがなくて、一つの部屋で雑魚寝というかそんな感じだったから、布団を被せて空間を作って何かしたり、そういえば風呂も一緒に入っていた時代があったはずだ。
時間というのは、振り返る度にどんどんと早くなっていくような、そんな気がするのは気のせいだろうか?確かに、あの頃過ぎていった時間も早かったと思うけど、今こうやって振り返る時にはもっと早く感じる。
誰にだって子供だった時代はある、ということだ。今から考えて変わってないという人もいるだろうし、全然違うという人もいるだろう。過去が現在や未来をすべて決めているとは思わないけど、なにがしかの影響は間違いなく残している。僕は、もう少し外向的な子供だったら、と思うことがある。過去の自分が、かなり今の自分を決定付けていると感じている。やり直したいとは思わない。あの、僕なりに大変だった時期をもう一度やるなんてまっぴらだ。それでも、もうチャンスがないというのはどことなく悲しい。理不尽だとまでは思わないけど。
いい思い出として、今振り返っても色あせないものとして残っているのがいい。そもそも、鮮明に思い出すことのできる思い出を、それがどんなものでも沢山持っている人は羨ましい。そんな気がする。
半パン、で思い出すことが一つある。僕は、今でもまあそうなのだけど、体が細い。昔はもっと、ほんと棒切れみたいな手足だった。ある時期までは半パンというかハーフパンツ的なものを穿いていたけど、ある時期からまったく穿かなくなった。棒切れみたいな足を半パンから突き出しているというのが、ひどく恥ずかしく思えたからだ。今でも、真夏でもハーフパンツは穿かない。水着ぐらいだろう。それだけだけど。
そろそろ内容に入ります。
本作は、ヒロシという、すぐ小学一年生になる男の子が、家族の都合で父親の故郷に引越しをするところから、その町で中学生に上がるまでの日常を描いた連作短編集である。というわけでそれぞれの短編の内容を紹介します。
「スメバミヤコ」
父親が胃潰瘍で手術をし、その関係で故郷に戻っていた家族。ヒロシは一人っ子。父親の兄、つまり叔父であるヤスおじさんにいろいろ助けてもらいながら、引越しやらなにやらこっちでの生活をスタートさせた。
ヒロシは、隣の家の少年に海に連れられていく。よくわからないけど、仲良くしてくれるみたいだ。方言は怒ってるようでちょっと怖いけど。
でもその子は、東京に引越しをしてしまうらしい。ヒロシと入れ替わりのように…。
「ともだち」
小学校のクラスで一番威張っているのは吉野くんだ。クラスのリーダー。ヒロシはそんな吉野くんがちょっと好きになれない。上田くんっていう、嘘ばっかつく子といつも一緒にいる。でも上田くんは友達なんだろうか?
みんなで海に行くことになった。上田くんと遊ぶ約束を忘れたふりをして。でもそこでヒロシは大怪我をしてしまうことに…。
「あさがお」
ヒロシの家に新しい家族が増える…んだそうだ。よくわからないけど、ひいじいちゃんの妹とかいう人。「チンコばばあ」って呼ばれていたらしい。気難しそうで、バッグに色んな位牌をつめていて、部屋でテレビを見てこたつで横になって、誰とも話さない。もちろん笑わない。ヒロシの家族も、なんとなく会話が弾まない。
あるとき、チンコばばあが、あさがおに水をやってくれとヒロシに頼んだ。それ以来、同じことを言うようになった。次第に弱っていくチンコばばあは、緑内障で目を悪くし入院することに。あさがおは咲かない。どうしよう…。
「二十日草」
ヤスおじさんは運送会社を経営していて、そこの一番下っ端のシュンペイさんという人が、ヒロシはこの人が好きなんだけど、刺青をした。ヤスおじさんは刺青とかやくざとか大嫌いなのを知っていていれた。当然ヤスおじさんは怒って、シュンペイさんとはあまり口を利かなくなったようだ。
しばらくして、トラックから荷抜きがされていることがわかった。泥棒だ。ヤスおじさんは警察に届けないで自分で犯人を捕まえるといっている。その囮役みたいなのをヒロシがやることになったのだけど…。
「しゃぼんだま」
タッちんは、小児マヒか何かの病気で、うまく喋れないし、ちょっと他の子達とは違う。一年生の頃はみんな、タッちんの面倒をよく見ていたのに、今ではヒロシぐらいしかかまってあげない。タッちんを家まで送ってあげるのはヒロシの役目だ。ほんとは放課後の野球の練習にすぐ合流したいんだけど。
ヒロシは自分のやっていることにちょっと嫌気がさしている。もうタッちんの相手をしたくない。でもタッちんが養護学校に行くことが決まって…。
「ライバル」
野球をしようと広場の場所をとっていたら、六年生が横取りした。皆吉野君を頼っていて、吉野君は六年生三人相手に喧嘩を仕掛けた。成り行きでヒロシも近くにいたのだけど、吉野くんがぼこぼこにされるのを、ただ見ているしかなかった。その日以来、ヒロシは裏切り者として、遊びの仲間から外された。
一人公園で遊んでいる時に負った傷を、咄嗟に上級生に仕返しされた時の傷だと言ってしまったがために大変なことに…。
「世の中」
オイルショックの真っ只中。節約しようというムードの中、クラスのある男子が、万引きの仕方を教えてやると言ってヒロシに話し掛けてきた。結局もう一人を加えた三人でその話をしていたのだけど、ヒロシはもちろんやるつもりはなかった。
放課後は野球かサッカーの試合をクラス対抗でやる感じになっていたのだけど、最近はなかなか人数が集まらない。あまりうまくない奴が練習に来なくなったからだ。
万引きを教わった男子は、実際に万引きをしたらしい。出も…。
「アマリリス」
ヒロシは、朝の集団登校の班長になった。近くの者同士が朝一緒に学校に登校するシステムだ。しかし、その中の一人、転校生の三年生がとにかく最悪だった。顔合わせの日、その子の親に、この子は足が悪いから迷惑を掛けるかもしれないけど、といわれていたけど、足よりも性格の方が遥かに悪かった。
同じ班の子たちが、毎日のようにその子に泣かされる。その班のお姉さん的存在の女の子が、ヒロシに班長としてどうにかしてと詰め寄る。でも、一体どうすればいいのさ…。
「みどりの日々」
そろそろ卒業。今日はバレンタインデー。ヒロシはなんと、自分が好きだった女の子からチョコをもらった。その子は、吉野の幼馴染で、吉野もその子のことが好きなはずだ。
帰りがけ、吉野から大変な話を聞かされる。その女の子が、夜逃げするのだという。父親がやっていた小さな会社が潰れて、借金で回らなくなったのだという。卒業までいないらしい。
とにかくその子の家に行って会いにいこうということになった。その子のことが好きな二人の男子…。
とにかく、どの話も素晴らしい、としか言いようがない。「ぼくたちみんなの自叙伝」と紹介にあるけれども、もちろん誰しもがこういう子供時代だったわけではないだろうけど、でもその中の一部でも当てはまるものはあるだろうし、そうでなくてもありえたはずの子供時代としての自叙伝かもしれないけど、とにかく誰もがなんらか関わりのありそうな、そんな情景やら人物やらがどさどさっと出てくる。
少年とか男の子を書かせたら、重松清に敵う作家はいないだろうと、そう思う。ほんの些細な描写が多くのことを想像させたり、微妙な感情の揺れをうまく言葉にしていたりと、なかなかここまで少年を描ける作家はいないだろうと思う。
また、時代もいい。重松清が実際に少年だった時代が色濃く反映されてるらしいけれども、たぶんいい時代だったのだろう。上級生からのいじめもあっただろうし、ゲームはないし、中学になったら坊主にしなきゃいけないしだけど、でもきっといい時代だったはずだ。そう思わせる舞台がきちんと描かれている。
解説で脇役がいいと書かれていたけど、それも本当に正しい。脇役が、こんな人いたらいいなとか、こんな人いたなとか、そんな風に思わせるような人々で、そういう人たちの言動を追うだけでも楽しい。
今の子供たちには失われた何かが本作にはあります。今と昔どっちがいいか、ということを断言することは難しいしそれは出来ないだろうけど、でも昔は昔なりのよさを読んで体感できる小説です。
重松清の小説は基本的に面白いけど、本作はその中でもかなり上位に来るでしょう。是非読んで欲しいと思います。
重松清「半パン・デイズ」
僕は正直言って、まったく覚えていない。大学時代に既に、高校時代の記憶が危うかった程の記憶力しかない。過去にこだわらない、と言えばかっこいいのかもしれないけど、あまりにも覚えていなさすぎで、ちょっと悲しくなったりもする。
そもそも、無理矢理に思い出してみても、面白みのない子供時代だった。とにかく、アホみたいに勉強ばかりしていた。ここには書かないけど、まあいろいろな決断という判断というか、そうした英断の末に勉強を頑張るようになった、といういろいろないきさつはあるのだけれども、それにしても、もう少し違った子供時代もあったのではないだろうか、と思う。
僕が勉強をアホみたいにするようになったのは小学六年生の頃からだが、それ以前は結構遊んでいた記憶がある。まあ田舎だったから、近くの子供と一緒に缶けりをしたり、病院の自販機の下から小銭を拾ってみたり、とにかくそんな他愛もないことをしていた。そんな時代もそういえばあった。あの頃に戻りたいとは思わないけど、あの頃のままずっといられるというなら、少し考えるかもしれない。
兄弟とも仲がいい時代があった。妹と弟がいるが、今ではお互い、一体何をしているのかさっぱり分からないぐらいの音信不通っぷりだが(まあ死んではいないだろう、というぐらいの情報しかない)、昔はそういえばよく遊んでいたようにも思う。自分の部屋というものがなくて、一つの部屋で雑魚寝というかそんな感じだったから、布団を被せて空間を作って何かしたり、そういえば風呂も一緒に入っていた時代があったはずだ。
時間というのは、振り返る度にどんどんと早くなっていくような、そんな気がするのは気のせいだろうか?確かに、あの頃過ぎていった時間も早かったと思うけど、今こうやって振り返る時にはもっと早く感じる。
誰にだって子供だった時代はある、ということだ。今から考えて変わってないという人もいるだろうし、全然違うという人もいるだろう。過去が現在や未来をすべて決めているとは思わないけど、なにがしかの影響は間違いなく残している。僕は、もう少し外向的な子供だったら、と思うことがある。過去の自分が、かなり今の自分を決定付けていると感じている。やり直したいとは思わない。あの、僕なりに大変だった時期をもう一度やるなんてまっぴらだ。それでも、もうチャンスがないというのはどことなく悲しい。理不尽だとまでは思わないけど。
いい思い出として、今振り返っても色あせないものとして残っているのがいい。そもそも、鮮明に思い出すことのできる思い出を、それがどんなものでも沢山持っている人は羨ましい。そんな気がする。
半パン、で思い出すことが一つある。僕は、今でもまあそうなのだけど、体が細い。昔はもっと、ほんと棒切れみたいな手足だった。ある時期までは半パンというかハーフパンツ的なものを穿いていたけど、ある時期からまったく穿かなくなった。棒切れみたいな足を半パンから突き出しているというのが、ひどく恥ずかしく思えたからだ。今でも、真夏でもハーフパンツは穿かない。水着ぐらいだろう。それだけだけど。
そろそろ内容に入ります。
本作は、ヒロシという、すぐ小学一年生になる男の子が、家族の都合で父親の故郷に引越しをするところから、その町で中学生に上がるまでの日常を描いた連作短編集である。というわけでそれぞれの短編の内容を紹介します。
「スメバミヤコ」
父親が胃潰瘍で手術をし、その関係で故郷に戻っていた家族。ヒロシは一人っ子。父親の兄、つまり叔父であるヤスおじさんにいろいろ助けてもらいながら、引越しやらなにやらこっちでの生活をスタートさせた。
ヒロシは、隣の家の少年に海に連れられていく。よくわからないけど、仲良くしてくれるみたいだ。方言は怒ってるようでちょっと怖いけど。
でもその子は、東京に引越しをしてしまうらしい。ヒロシと入れ替わりのように…。
「ともだち」
小学校のクラスで一番威張っているのは吉野くんだ。クラスのリーダー。ヒロシはそんな吉野くんがちょっと好きになれない。上田くんっていう、嘘ばっかつく子といつも一緒にいる。でも上田くんは友達なんだろうか?
みんなで海に行くことになった。上田くんと遊ぶ約束を忘れたふりをして。でもそこでヒロシは大怪我をしてしまうことに…。
「あさがお」
ヒロシの家に新しい家族が増える…んだそうだ。よくわからないけど、ひいじいちゃんの妹とかいう人。「チンコばばあ」って呼ばれていたらしい。気難しそうで、バッグに色んな位牌をつめていて、部屋でテレビを見てこたつで横になって、誰とも話さない。もちろん笑わない。ヒロシの家族も、なんとなく会話が弾まない。
あるとき、チンコばばあが、あさがおに水をやってくれとヒロシに頼んだ。それ以来、同じことを言うようになった。次第に弱っていくチンコばばあは、緑内障で目を悪くし入院することに。あさがおは咲かない。どうしよう…。
「二十日草」
ヤスおじさんは運送会社を経営していて、そこの一番下っ端のシュンペイさんという人が、ヒロシはこの人が好きなんだけど、刺青をした。ヤスおじさんは刺青とかやくざとか大嫌いなのを知っていていれた。当然ヤスおじさんは怒って、シュンペイさんとはあまり口を利かなくなったようだ。
しばらくして、トラックから荷抜きがされていることがわかった。泥棒だ。ヤスおじさんは警察に届けないで自分で犯人を捕まえるといっている。その囮役みたいなのをヒロシがやることになったのだけど…。
「しゃぼんだま」
タッちんは、小児マヒか何かの病気で、うまく喋れないし、ちょっと他の子達とは違う。一年生の頃はみんな、タッちんの面倒をよく見ていたのに、今ではヒロシぐらいしかかまってあげない。タッちんを家まで送ってあげるのはヒロシの役目だ。ほんとは放課後の野球の練習にすぐ合流したいんだけど。
ヒロシは自分のやっていることにちょっと嫌気がさしている。もうタッちんの相手をしたくない。でもタッちんが養護学校に行くことが決まって…。
「ライバル」
野球をしようと広場の場所をとっていたら、六年生が横取りした。皆吉野君を頼っていて、吉野君は六年生三人相手に喧嘩を仕掛けた。成り行きでヒロシも近くにいたのだけど、吉野くんがぼこぼこにされるのを、ただ見ているしかなかった。その日以来、ヒロシは裏切り者として、遊びの仲間から外された。
一人公園で遊んでいる時に負った傷を、咄嗟に上級生に仕返しされた時の傷だと言ってしまったがために大変なことに…。
「世の中」
オイルショックの真っ只中。節約しようというムードの中、クラスのある男子が、万引きの仕方を教えてやると言ってヒロシに話し掛けてきた。結局もう一人を加えた三人でその話をしていたのだけど、ヒロシはもちろんやるつもりはなかった。
放課後は野球かサッカーの試合をクラス対抗でやる感じになっていたのだけど、最近はなかなか人数が集まらない。あまりうまくない奴が練習に来なくなったからだ。
万引きを教わった男子は、実際に万引きをしたらしい。出も…。
「アマリリス」
ヒロシは、朝の集団登校の班長になった。近くの者同士が朝一緒に学校に登校するシステムだ。しかし、その中の一人、転校生の三年生がとにかく最悪だった。顔合わせの日、その子の親に、この子は足が悪いから迷惑を掛けるかもしれないけど、といわれていたけど、足よりも性格の方が遥かに悪かった。
同じ班の子たちが、毎日のようにその子に泣かされる。その班のお姉さん的存在の女の子が、ヒロシに班長としてどうにかしてと詰め寄る。でも、一体どうすればいいのさ…。
「みどりの日々」
そろそろ卒業。今日はバレンタインデー。ヒロシはなんと、自分が好きだった女の子からチョコをもらった。その子は、吉野の幼馴染で、吉野もその子のことが好きなはずだ。
帰りがけ、吉野から大変な話を聞かされる。その女の子が、夜逃げするのだという。父親がやっていた小さな会社が潰れて、借金で回らなくなったのだという。卒業までいないらしい。
とにかくその子の家に行って会いにいこうということになった。その子のことが好きな二人の男子…。
とにかく、どの話も素晴らしい、としか言いようがない。「ぼくたちみんなの自叙伝」と紹介にあるけれども、もちろん誰しもがこういう子供時代だったわけではないだろうけど、でもその中の一部でも当てはまるものはあるだろうし、そうでなくてもありえたはずの子供時代としての自叙伝かもしれないけど、とにかく誰もがなんらか関わりのありそうな、そんな情景やら人物やらがどさどさっと出てくる。
少年とか男の子を書かせたら、重松清に敵う作家はいないだろうと、そう思う。ほんの些細な描写が多くのことを想像させたり、微妙な感情の揺れをうまく言葉にしていたりと、なかなかここまで少年を描ける作家はいないだろうと思う。
また、時代もいい。重松清が実際に少年だった時代が色濃く反映されてるらしいけれども、たぶんいい時代だったのだろう。上級生からのいじめもあっただろうし、ゲームはないし、中学になったら坊主にしなきゃいけないしだけど、でもきっといい時代だったはずだ。そう思わせる舞台がきちんと描かれている。
解説で脇役がいいと書かれていたけど、それも本当に正しい。脇役が、こんな人いたらいいなとか、こんな人いたなとか、そんな風に思わせるような人々で、そういう人たちの言動を追うだけでも楽しい。
今の子供たちには失われた何かが本作にはあります。今と昔どっちがいいか、ということを断言することは難しいしそれは出来ないだろうけど、でも昔は昔なりのよさを読んで体感できる小説です。
重松清の小説は基本的に面白いけど、本作はその中でもかなり上位に来るでしょう。是非読んで欲しいと思います。
重松清「半パン・デイズ」
さゆり(A・ゴールデン)
日本という国が持つ独特な文化は、今では大半が廃れつつあるように感じる。日本らしさというのか、その特異な発展をしたであろう文化は、今ではわずかに名残を残すだけになってしまった感がある。
どうにも、日本という国は、欧米のようになりたいらしい。とにかく、洋風というものを日本に取り込んで、取り込まれているのかどうなのかもわからないような状況に今なっているだろうと思う。
日本らしさが、どんどん現実から消えて、記憶や記録の中だけのものになっていくのは、少しだけ寂しいような気がする。
伝統、という言葉があるが、伝統であるからいいと言いたいわけでは決してない。よく、伝統なんだから守るべき、というような論旨の運動というかそうしたものがニュースになったりするけど、それはどうかと思う。確かに、いいものであるから現在まで伝統として残っているのだろうけども、現実に合わない伝統を、現実を変えてまで残す必要があるのかは、僕にはちょっと分からない。
そんなことを言ってしまうと、元も子もなくなってしまうような気もするけど。
今残っているもので僕が思いつくものは、相撲と歌舞伎ぐらいで、他にもまああるのだろうけども、いずれ相撲も歌舞伎も廃れてしまうだろうなと思う。相撲にしたって、外国人力士が多いし(そのことが悪いわけでは決してないけど、日本人の中に相撲文化を残そうと考えている人が少なくなったという表れだと思う)、歌舞伎にしても新たな趣向を打ち出していくことで、何とか残そうと努力しているような感じが見える。
花柳界というのも同じだろうと思う。
僕は芸者だとか舞妓だとかという人と係わり合いになったことはまあないわけで、そもそも今京都にそういう人たちがまだいるのかも知らないけれども、祇園という街も、芸者という存在も、段々と過去のものになりつつあるだろう、という気がする。
「geisha」というのは、外国でも通じるようだけど、どうにも意味合いが違って伝わっているようである。娼婦、などと同じ意味だと思われているらしい。
確かに芸者というのは、日本独特という感じがするし、外国人に説明を求められても、僕はちゃんと答えられる気がしません。僕にしても、芸者と娼婦の違いをちゃんと説明するとなったら、かなり難しいでしょう。
一部の階級層しかそもそも相手に出来ないようなそんな存在だったわけで、そういう秘密の部分を抱えた世界なんだろうけども、奥が深いというかなんというか、日本というのは不思議な国だったんだな、という気がします。
さて相変わらず何を書いているのかさっぱりわかりませんが、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、日本の花柳界で最終的には成功したさゆりという一人の芸者が、移り住んだアメリカの地で、日本の歴史文化についてのアメリカ人研究家のインタビューに答えている、という設定で物語が進んでいきます。つまり、さゆりという女性の一人語りという文体になっています。
芸者としての名前は新田さゆりですが、本名は坂田千代です。ある寂れた漁村で、漁師の父と病に倒れた母、姉の佐津という四人での貧しい生活です。魚の臭いにまみれたような何もない漁村で、それでもずっとそこで暮らしていくのだろうと千代は思っていました。
しかし、母の病がもうどうにもならないとなった頃、ある一人の男性が千代と佐津を連れ出すことになります。てっきりその男性の養子か何かにしてもらえると思っていた千代は、乗ったこともない列車に乗せられ、まるで知らない街に連れて行かれました。
それが京都祇園でした。
そこで千代と佐津は離れ離れにされ、千代は新田という置屋(芸者を世話する家)に預けられました。そこで女中のような仕事をしながら、いずれは稽古をつけてもらって、芸者になる、というのが、千代に与えられた人生だったのです。
しかし、千代の人生は一筋縄ではいきません。その置屋にいた初桃という芸者が、美しい顔の造りの代わりに性格は最悪で、ことあるごとに千代を陥れ、芸者になる前から多額の借金を背負わされます。また姉に会おうと置屋を抜け出したり、他にも自業自得も含めて散々な目に遭います。
ただ、そんな中でも拾う神はいるというか、千代をなんとか京都随一の芸者にしようとしてくれる人もいます。また、出会って以降心の底に貼り付いて消えない、想い焦がれる人にも出会います。
紆余曲折を経て芸者になり、そこからさらに苦心惨憺ながらも最後には成功をおさめる、新田さゆりという一人の芸者の生い立ちを綴った物語。
さてまず僕が完全に勘違いしていたのですが、本作は実話ではないようです。僕は、冒頭の設定といい、京都弁の語り口といい、これは実在の人物が実際にインタビューを受けて完成したものなのだろう、と思っていたのですが、全然違うみたいです。でも、そう思わせるだけの力が本作にあったのは間違いないでしょう。
これと同じ感じを受けた作品が一つだけあります。久坂部羊の「廃用身」です。この作品も、ある医者が実際に行っていたことを、小説という体裁を借りて世間に問うたノンフィクションだと思って読んでいたのですが、実際は違っていてとても驚きました。
さて、本作のことを少しでも知っている人はご存知でしょうが、本作の作者は外国人です。しかもどうやら、ニューヨークタイムズの社長の息子とかいう、とんでもない人のようです。この社長の息子が、何に感化されてか、10年という歳月を費やして完成させたのが本作「さゆり」で、世界中でベストセラーになったようです。
本作は、本当に外国人が書いたということを忘れてしまうような作品です。もちろん、訳者の訳し方がうまいこともあるのかもしれませんが、世界観がどこまで行っても日本的で、破綻しないという点が驚異的だと思いました。外国人を登場させ、その外国人からみた花柳界、という設定だったらより書きやすかったでしょうに、そうではなく、さゆりという一人の芸者の視点に立って全てが描かれていて、考え方や環境が、あの時代のあの世界の日本人の姿を想起させるもので、花柳界についての知識や見識の深さなんかももちろん素晴らしいけども、そういう感覚的な面まで日本的な視点を持つことができている点が素晴らしいと思いました。
ストーリーは細かな点までよく描き込まれていて(確かに、大分昔のある日の着物の柄まで正確に思い出せるなんて、と不自然さを感じたりはしましたが)、大きなうねりのようなものはないけれども、どっしりとした重厚な作品で、いいと思いました。本作を、外国人が書いたからすごい、と言って褒めることは簡単ですが、それは少し的外れな気がします。それは、綿矢りさが17歳で「インストール」を書いたことがすごい、というようなもので、そうではなくて、もっと本質的なところで評価されるべき作品だと思いました。
最後に。訳者も著者のあとがきでも触れられていましたが、本作を正確な花柳界のデッサンのように受け取られ、間違いのあらさがしをされるようなのは不本意だというようなことが書いてありました。あくまでも本作は小説であって、小説の進行上、止む無く正確な記述ではなくなっている部分もある、ということです。外国人が書いた作品だから、やっぱり日本のことはわかっていないし、ほらこんなところが間違っている、というような読まれ方は出来れば止めて欲しい、というような感じです。それはその通りだと思いました。本をどう読むかはまあ人それぞれの好みですが、本作は是非、小説として楽しんで欲しいなと思います。
A・ゴールデン「さゆり」
どうにも、日本という国は、欧米のようになりたいらしい。とにかく、洋風というものを日本に取り込んで、取り込まれているのかどうなのかもわからないような状況に今なっているだろうと思う。
日本らしさが、どんどん現実から消えて、記憶や記録の中だけのものになっていくのは、少しだけ寂しいような気がする。
伝統、という言葉があるが、伝統であるからいいと言いたいわけでは決してない。よく、伝統なんだから守るべき、というような論旨の運動というかそうしたものがニュースになったりするけど、それはどうかと思う。確かに、いいものであるから現在まで伝統として残っているのだろうけども、現実に合わない伝統を、現実を変えてまで残す必要があるのかは、僕にはちょっと分からない。
そんなことを言ってしまうと、元も子もなくなってしまうような気もするけど。
今残っているもので僕が思いつくものは、相撲と歌舞伎ぐらいで、他にもまああるのだろうけども、いずれ相撲も歌舞伎も廃れてしまうだろうなと思う。相撲にしたって、外国人力士が多いし(そのことが悪いわけでは決してないけど、日本人の中に相撲文化を残そうと考えている人が少なくなったという表れだと思う)、歌舞伎にしても新たな趣向を打ち出していくことで、何とか残そうと努力しているような感じが見える。
花柳界というのも同じだろうと思う。
僕は芸者だとか舞妓だとかという人と係わり合いになったことはまあないわけで、そもそも今京都にそういう人たちがまだいるのかも知らないけれども、祇園という街も、芸者という存在も、段々と過去のものになりつつあるだろう、という気がする。
「geisha」というのは、外国でも通じるようだけど、どうにも意味合いが違って伝わっているようである。娼婦、などと同じ意味だと思われているらしい。
確かに芸者というのは、日本独特という感じがするし、外国人に説明を求められても、僕はちゃんと答えられる気がしません。僕にしても、芸者と娼婦の違いをちゃんと説明するとなったら、かなり難しいでしょう。
一部の階級層しかそもそも相手に出来ないようなそんな存在だったわけで、そういう秘密の部分を抱えた世界なんだろうけども、奥が深いというかなんというか、日本というのは不思議な国だったんだな、という気がします。
さて相変わらず何を書いているのかさっぱりわかりませんが、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、日本の花柳界で最終的には成功したさゆりという一人の芸者が、移り住んだアメリカの地で、日本の歴史文化についてのアメリカ人研究家のインタビューに答えている、という設定で物語が進んでいきます。つまり、さゆりという女性の一人語りという文体になっています。
芸者としての名前は新田さゆりですが、本名は坂田千代です。ある寂れた漁村で、漁師の父と病に倒れた母、姉の佐津という四人での貧しい生活です。魚の臭いにまみれたような何もない漁村で、それでもずっとそこで暮らしていくのだろうと千代は思っていました。
しかし、母の病がもうどうにもならないとなった頃、ある一人の男性が千代と佐津を連れ出すことになります。てっきりその男性の養子か何かにしてもらえると思っていた千代は、乗ったこともない列車に乗せられ、まるで知らない街に連れて行かれました。
それが京都祇園でした。
そこで千代と佐津は離れ離れにされ、千代は新田という置屋(芸者を世話する家)に預けられました。そこで女中のような仕事をしながら、いずれは稽古をつけてもらって、芸者になる、というのが、千代に与えられた人生だったのです。
しかし、千代の人生は一筋縄ではいきません。その置屋にいた初桃という芸者が、美しい顔の造りの代わりに性格は最悪で、ことあるごとに千代を陥れ、芸者になる前から多額の借金を背負わされます。また姉に会おうと置屋を抜け出したり、他にも自業自得も含めて散々な目に遭います。
ただ、そんな中でも拾う神はいるというか、千代をなんとか京都随一の芸者にしようとしてくれる人もいます。また、出会って以降心の底に貼り付いて消えない、想い焦がれる人にも出会います。
紆余曲折を経て芸者になり、そこからさらに苦心惨憺ながらも最後には成功をおさめる、新田さゆりという一人の芸者の生い立ちを綴った物語。
さてまず僕が完全に勘違いしていたのですが、本作は実話ではないようです。僕は、冒頭の設定といい、京都弁の語り口といい、これは実在の人物が実際にインタビューを受けて完成したものなのだろう、と思っていたのですが、全然違うみたいです。でも、そう思わせるだけの力が本作にあったのは間違いないでしょう。
これと同じ感じを受けた作品が一つだけあります。久坂部羊の「廃用身」です。この作品も、ある医者が実際に行っていたことを、小説という体裁を借りて世間に問うたノンフィクションだと思って読んでいたのですが、実際は違っていてとても驚きました。
さて、本作のことを少しでも知っている人はご存知でしょうが、本作の作者は外国人です。しかもどうやら、ニューヨークタイムズの社長の息子とかいう、とんでもない人のようです。この社長の息子が、何に感化されてか、10年という歳月を費やして完成させたのが本作「さゆり」で、世界中でベストセラーになったようです。
本作は、本当に外国人が書いたということを忘れてしまうような作品です。もちろん、訳者の訳し方がうまいこともあるのかもしれませんが、世界観がどこまで行っても日本的で、破綻しないという点が驚異的だと思いました。外国人を登場させ、その外国人からみた花柳界、という設定だったらより書きやすかったでしょうに、そうではなく、さゆりという一人の芸者の視点に立って全てが描かれていて、考え方や環境が、あの時代のあの世界の日本人の姿を想起させるもので、花柳界についての知識や見識の深さなんかももちろん素晴らしいけども、そういう感覚的な面まで日本的な視点を持つことができている点が素晴らしいと思いました。
ストーリーは細かな点までよく描き込まれていて(確かに、大分昔のある日の着物の柄まで正確に思い出せるなんて、と不自然さを感じたりはしましたが)、大きなうねりのようなものはないけれども、どっしりとした重厚な作品で、いいと思いました。本作を、外国人が書いたからすごい、と言って褒めることは簡単ですが、それは少し的外れな気がします。それは、綿矢りさが17歳で「インストール」を書いたことがすごい、というようなもので、そうではなくて、もっと本質的なところで評価されるべき作品だと思いました。
最後に。訳者も著者のあとがきでも触れられていましたが、本作を正確な花柳界のデッサンのように受け取られ、間違いのあらさがしをされるようなのは不本意だというようなことが書いてありました。あくまでも本作は小説であって、小説の進行上、止む無く正確な記述ではなくなっている部分もある、ということです。外国人が書いた作品だから、やっぱり日本のことはわかっていないし、ほらこんなところが間違っている、というような読まれ方は出来れば止めて欲しい、というような感じです。それはその通りだと思いました。本をどう読むかはまあ人それぞれの好みですが、本作は是非、小説として楽しんで欲しいなと思います。
A・ゴールデン「さゆり」
見張り塔からずっと(重松清)
何故?と問い掛けたくなるような、そんな出来事に襲われるようなことがある。
何故?
誰に言えばいいのかもわからないその言葉を、胸のうちに抱えるようにして生きていくことは辛い。
抱えた部分から冷えて固まっていくかのような寒々しさに、なぞるように這い上がった音感が打つ胸の苦しさに、ちょっと耐えられないだろうと思う。
何故?
運命だとか神様だとか、そんな存在が出来たのもきっと、何故?と問い掛けたいからではないだろうか?誰も悪くない、誰も悪いと指摘できない、結果はあるけど原因がない。そんなことは普通にある。そんな時人は、人ではないものに対して、何故?の言葉を放る。
何故?という言葉で包んだまま、過去を抱えて生きていくことは、誰のどんな慰めにもならない。後悔も悔恨も、あるはずだった人生も現実の人生も、時間の流れに沿って流れている。過去を向いたまま時間の流れを進むことは、河を逆流するのと同じで、生きにくいだろう。
誰もが幸せを目指して生きている中、
そこから吐き出されるかのように不幸を押し付けられる。
理不尽さを飲み込みながら、あったはずの幸せを考えずにはいられない。
何故?
誰に掛けて良いのかわからない言葉は、
行き場をなくして宙を彷徨う。
それでも、前に進む以外に道はないことを誰もが知っている。
どんなに先が見えなくても、ありえたはずの過去よりも明るい。
何故?
そう問いかけたことはありますか?
そう問い掛けたくなることはありますか?
誰か答えてくれましたか?
世界のどこかで誰かが悲しんでいても、
世界は非情にも同じスピードで回っている。
誰も誰かのためには止まらないし、
自分も誰かのためには止まらない。
そんな悲しい現実に、
僕らは閉じ込められている。
生まれたときからずっと。
死ぬまでずっと。
内容に入ろうと思います。
本作は、三編の短編を収録した短編集です。それぞれの話の中で、世の中に溢れている理不尽な運命に身をさらされた三組の家族が出てきます。過去に抱えた悲しみを引きずるようにして今を生きる人々が、静かなタッチで描かれます。それでは、それぞれを紹介します。
「カラス」
バブルの時期に買った、造成中のニュータウンのマンション。買うときには、線路まで引かれるという景気のいい話だったのに、買った直後にバブルがはじけ、ニュータウン造成は完成をみないままに放棄された。
そのマンションに、当初の値段よりも一千万も安く購入して入居したある家族がいた。そこの旦那と朝一緒に通勤することになった私。ゴミ捨て場に集まるカラス。知ることのなかった、マンションの昼間の女社会。何かにしがみつく様にして形ないものに抗う人々と、そこに潜む悪意の行き着く先を描く物語。
「扉を開けて」
生まれて一年の子供を乳幼児突然死症候群で亡くしたある夫婦。その同じ名前を持つ少年が、彼等の住むマンションの外廊下の前でサッカー遊びをしている。毎朝響くボールが壁に当たる騒音。注意しようと何度も試みるも、どうにもうまくいかない私。妻は、子供を亡くして以来、あまりにも不安定で、彼女の支えになるために過ごした5年間だったといえる。今でも、時々不安定になる。成り行きで手にした屋上への合鍵。二人は、その何もないはずの屋上で、時間を過ごすようになる。凝り固まった悲しみを、少しずつほぐし溶かすような物語。
「陽だまりの猫」
女子高校生とサラリーマン。そんな関係でスタートした恋愛が、妊娠という形から結婚に至るが、その三日後に流産。三日早すぎた。そう呟いた夫の言葉で、その後のすべての人生を否定された私。社会に出たこともない20歳。世間知らずで家事もうまくできない私は、夫の役にうまく立つことができない。マザコンと言われても仕方ないかもしれない夫は、何かと母親のことを口にする。無理して買った中古の一戸建て。夫と夫の母親に受け入れられることのない私。どこにもたどり着けない悲しみを描いた物語。
どの話も、淡々と描かれます。終わってしまった過去を振り払うようにして、残ってしまった後悔を締め付けるようにして、閉ざされてしまった道を切り開くようにして、そうして進んでいく登場人物達が、どこまでも悲しみの象徴のようで、なんだか切ないです。
内容とは関係ないですが、僕は収録された短編のあるタイトルを短編集のタイトルに据えるという形がどうも好きではありません。これはどこかにも前に書いた記憶があるのですが。なので、本作のような、表題作のない短編集というのは結構好きだったりします。なんとなくですけど。
そこまでお勧めはしないけど、機会があったら読んでみてください。
重松清「見張り塔からずっと」
何故?
誰に言えばいいのかもわからないその言葉を、胸のうちに抱えるようにして生きていくことは辛い。
抱えた部分から冷えて固まっていくかのような寒々しさに、なぞるように這い上がった音感が打つ胸の苦しさに、ちょっと耐えられないだろうと思う。
何故?
運命だとか神様だとか、そんな存在が出来たのもきっと、何故?と問い掛けたいからではないだろうか?誰も悪くない、誰も悪いと指摘できない、結果はあるけど原因がない。そんなことは普通にある。そんな時人は、人ではないものに対して、何故?の言葉を放る。
何故?という言葉で包んだまま、過去を抱えて生きていくことは、誰のどんな慰めにもならない。後悔も悔恨も、あるはずだった人生も現実の人生も、時間の流れに沿って流れている。過去を向いたまま時間の流れを進むことは、河を逆流するのと同じで、生きにくいだろう。
誰もが幸せを目指して生きている中、
そこから吐き出されるかのように不幸を押し付けられる。
理不尽さを飲み込みながら、あったはずの幸せを考えずにはいられない。
何故?
誰に掛けて良いのかわからない言葉は、
行き場をなくして宙を彷徨う。
それでも、前に進む以外に道はないことを誰もが知っている。
どんなに先が見えなくても、ありえたはずの過去よりも明るい。
何故?
そう問いかけたことはありますか?
そう問い掛けたくなることはありますか?
誰か答えてくれましたか?
世界のどこかで誰かが悲しんでいても、
世界は非情にも同じスピードで回っている。
誰も誰かのためには止まらないし、
自分も誰かのためには止まらない。
そんな悲しい現実に、
僕らは閉じ込められている。
生まれたときからずっと。
死ぬまでずっと。
内容に入ろうと思います。
本作は、三編の短編を収録した短編集です。それぞれの話の中で、世の中に溢れている理不尽な運命に身をさらされた三組の家族が出てきます。過去に抱えた悲しみを引きずるようにして今を生きる人々が、静かなタッチで描かれます。それでは、それぞれを紹介します。
「カラス」
バブルの時期に買った、造成中のニュータウンのマンション。買うときには、線路まで引かれるという景気のいい話だったのに、買った直後にバブルがはじけ、ニュータウン造成は完成をみないままに放棄された。
そのマンションに、当初の値段よりも一千万も安く購入して入居したある家族がいた。そこの旦那と朝一緒に通勤することになった私。ゴミ捨て場に集まるカラス。知ることのなかった、マンションの昼間の女社会。何かにしがみつく様にして形ないものに抗う人々と、そこに潜む悪意の行き着く先を描く物語。
「扉を開けて」
生まれて一年の子供を乳幼児突然死症候群で亡くしたある夫婦。その同じ名前を持つ少年が、彼等の住むマンションの外廊下の前でサッカー遊びをしている。毎朝響くボールが壁に当たる騒音。注意しようと何度も試みるも、どうにもうまくいかない私。妻は、子供を亡くして以来、あまりにも不安定で、彼女の支えになるために過ごした5年間だったといえる。今でも、時々不安定になる。成り行きで手にした屋上への合鍵。二人は、その何もないはずの屋上で、時間を過ごすようになる。凝り固まった悲しみを、少しずつほぐし溶かすような物語。
「陽だまりの猫」
女子高校生とサラリーマン。そんな関係でスタートした恋愛が、妊娠という形から結婚に至るが、その三日後に流産。三日早すぎた。そう呟いた夫の言葉で、その後のすべての人生を否定された私。社会に出たこともない20歳。世間知らずで家事もうまくできない私は、夫の役にうまく立つことができない。マザコンと言われても仕方ないかもしれない夫は、何かと母親のことを口にする。無理して買った中古の一戸建て。夫と夫の母親に受け入れられることのない私。どこにもたどり着けない悲しみを描いた物語。
どの話も、淡々と描かれます。終わってしまった過去を振り払うようにして、残ってしまった後悔を締め付けるようにして、閉ざされてしまった道を切り開くようにして、そうして進んでいく登場人物達が、どこまでも悲しみの象徴のようで、なんだか切ないです。
内容とは関係ないですが、僕は収録された短編のあるタイトルを短編集のタイトルに据えるという形がどうも好きではありません。これはどこかにも前に書いた記憶があるのですが。なので、本作のような、表題作のない短編集というのは結構好きだったりします。なんとなくですけど。
そこまでお勧めはしないけど、機会があったら読んでみてください。
重松清「見張り塔からずっと」