星の王子さま(サンテグジュペリ)
昔、「世界がもし100人の村だったら」というようなタイトルの本が話題になった。タイトル通りの本で、もし世界が100人の村だったら、白人は何人で黒人は何人で、病気の人は何人で、子供のうちに死んでしまうのは何人で、お金持ちは何人で、みたいなことが書いてある本だ。正確に言えば、そういう本なんだろう。僕は、読んだことはない。
世界を少しだけ小さくしてその世界を理解しようとする、という試みは、すごく分かりやすくていい。世界中の人口が60億と言われても全然ピンとこないけど、100人のうち何人が白人と言われたら分かりやすい。またこんな例もある。日本という国の借金が666兆と言われてもピンとこないけど、国民一人当たり600万くらいの借金があるといわれると、それは大変だと思う。
これは何を意味するかっていうと、人間はあまりにも大きな世界に生きている、ということだ。僕らは、例え世界に淵があったとしてもその淵を見ることができないくらい広い世界に住んでいる。人がたくさんいて、情報が行き交っている。世界のすべてを見て把握することは、誰にもできるものではない。いや、誰にもできないだろう。
僕らは、世界を広げすぎたんだ。
昔はそうじゃなかったはずだ。昔は、もっと世界は狭かった。海の向こうに人がいるなんて思えなかっただろうし、山を越えたところはもう別世界だった。小さな小さな人の集まりの中で、人々は大きな世界に思いを馳せることなどなく、慎ましく暮らしていたはずだ。
それがよかったかどうか、なんてことは比べられるものではない。小さな世界に住んでいることと大きな世界に住んでいること。それは、ある意味でどっちもどっちだろう。
でも、僕は思うのだ。僕らは世界を広げすぎたのだ、と。
僕らは、もう空間も時間も超越出来る。遥か遠く、光でさえも恐ろしく長い時間を旅しなくてはいけない宇宙の深遠さえ覗くことができるし、遥か昔、人間という種が誕生するずっとずっと前のことでさえ、まるで目の前にあった出来事であるかのように語ることさえ出来る。
世界を広げすぎたのだ。人間というちっぽけな存在が追い求めるには、世界は広すぎたのだ。僕らはもっと、小さな世界の、ささやかなことから満足していくべきなのだ。
詩人はこう言うだろう。太陽が僕の足元に影を作ることだけでも奇跡なんだ、と。僕らは、もうその奇跡を忘れてしまっている。それは、大きな世界の中では、奇跡でもなんでもないのである。
大きな世界は、刺激的でダイナミックで、そして果てがない。永久に変化し続けるように思えるし、変化が宿命的にも思える。人間が退屈しないような環境が揃っている。
でもそれでも僕は、もっと小さな世界に包まれたいと思う。昨日と変わらない今日や、1年前と変わらない今日や、今日と変わらないだろう明日や、そうしたものには飽き飽きしてしまうかもしれない。退屈を紛らわすすべてのものを消費し尽くしてしまうかもしれない。
それで、すべてが自分の見える場所にある。手に届く範囲に本質がしっかりと収まっている。その感覚を感じたことはないけれども、きっと素敵なものだろう。退屈さを吹き飛ばすくらい感動的かもしれない。
小さな世界はたぶん、努力によって作り出すことができる。ただ、大きな世界がそれを許容しないことが多い。分かりやすく言えば、社会という奴がそれを認めないのだ。社会というものは、個々人が小さな世界をもってしまうことを恐れているのだ。
不自由な世の中だ。小さな世界は解体され、より大きな世界へと統合されていく。僕らは、疑問を感じる暇もないまま大きな世界、すなわち社会に組み込まれていく。それは、退屈ではないかもしれないが、不自由な世界だろう。
もし、小さな星の王子さまだったら。これは、なかなか面白い空想かもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、あの有名な「星の王子さま」ですね。有名だけど読んだことがない作品というのはたくさんあるわけで、そういうのも少しずつ読んでいこうと思っているわけです。
僕は、絵描きになる夢を大人たちに破られて、結局飛行士になった。世界のあちこちを飛び回ったのだけど、でも話せる大人はいなかった。大人はどうしてこうもおかしいんだろう。
ある日僕は、サハラ砂漠に不時着をしてしまった。エンジンが壊れてしまったみたいだ。なんとか修理をしなくてはいけない。水も、しばらく分しかない。参ったな、大丈夫だろうか。
そんな時に、人のいないはずの砂漠で、一人の少年にあった。本当に魅力的な少年だった。話をしていて徐々に分かったんだけど(彼は、僕から話を聞きだすけど、自分の話はあんまりしないのだ!)、彼はどうやら、小さな小さな星の王子さまで、そこで一人で暮らしていたんだそうだ。
彼はその星に、一輪の美しい花を所有していた。わがままな花で、あれこれ苦労して世話をしていたんだけど、でも仲が悪くなってしまった。だからちょっと厭になって、自分の星を抜け出して旅に出ることにしたんだ…。
というような話です。
この「星の王子さま」というのは、元々岩波書房が版権を持っていたんだけど、こういう版権っていうのは50年が期限らしい。だから、去年その期限が切れたために、ありとあらゆる出版社から「星の王子さま」の翻訳本が山ほど出た。覚えている限りでも、集英社・新潮社・中央公論新社・宝島社・光文社(光文社は原題通りの「小さな王子さま」というタイトルで出した)というように、いろんなところから文庫で出た。関連本(というか便乗本)も結構出た。去年から今年にかけて、「星の王子さま」はちょっとしたブームだったのだ。
その中でも、今回僕が読んだ集英社版は、とにかく出るのがメチャクチャ早かった。とにかく、版権が切れるとすぐに出た。そして、メチャクチャ売れた。今でも、まあ細々とだけど売れている。集英社は、なかなか頑張ってうまい仕事をしたなぁ、と思う。
閑話休題。全然本作の内容と関係ない話になりました。
僕は、割とこういう古典というのが苦手なんだけど、本作は割り合い素直に読めたな、と思います。それは、ストーリー自体が素直なものだからだろうな、と思います。
なんというか、世界を縮めて、その世界を皮肉っているようなストーリー(だと僕は思った)なんだけど、それが新鮮な視点から、さも不思議そうに指摘されるので、なるほどそういう視点もあるのだな、という読み方ができるわけで、そういう意味で素直に物語を読むことができるのではないか、と思うわけです。
きっと多くの文学者が本作を読んで、この表現は何とかの比喩だとか、これはこれこれこういう意味がある、とかやっているんだろうけど、そういうのは別にいいんじゃないか、って僕は思ったりしますね。世界を小さく圧縮して、それを素直に描いている。不思議なものは不思議なものとして、わからないものはわからないものとして描く。そしてそれをそのまま読む。それだけで完結できる物語として扱った方がいいんじゃないかなぁ、と思ったりします。
もし自分が、たった一人しか住む人のいない星の王子さまだったら。そんな風に考えることができるという面白さが本作にはあるんだろうな、と思いました。
話は少し変わりますが、森博嗣という作家の絵本に「STAR EGG 星の玉子さま」というのがあります。最近続編である「STAR SALAD 星の玉子さま2」が出たんだけど、もちろん本作をベースに描かれたものになっています。こっちもなかなかいいですよ、という話でした。
名作だとか古典だとかいうものは、やはりその中に何らかの真理が含まれているのだろうし、だから残っているのだろうと思います。しかし僕は、なんと言ってもやはり、読んで楽しいか、あるいはどんなことを考えるかで作品の価値が決まると思っています。僕は、基本的には名作とか古典は苦手で、それは読んでて面白くなかったり、何も考えるところがなかったりするからなんだけど、本作はいろいろ考える方向性があってなかなか面白いなと思いました。まあ、名作だし、一生に一度くらいは読んでみてもいいんじゃないかな、と思わせる作品でした。
サンテグジュペリ「星の王子さま」
世界を少しだけ小さくしてその世界を理解しようとする、という試みは、すごく分かりやすくていい。世界中の人口が60億と言われても全然ピンとこないけど、100人のうち何人が白人と言われたら分かりやすい。またこんな例もある。日本という国の借金が666兆と言われてもピンとこないけど、国民一人当たり600万くらいの借金があるといわれると、それは大変だと思う。
これは何を意味するかっていうと、人間はあまりにも大きな世界に生きている、ということだ。僕らは、例え世界に淵があったとしてもその淵を見ることができないくらい広い世界に住んでいる。人がたくさんいて、情報が行き交っている。世界のすべてを見て把握することは、誰にもできるものではない。いや、誰にもできないだろう。
僕らは、世界を広げすぎたんだ。
昔はそうじゃなかったはずだ。昔は、もっと世界は狭かった。海の向こうに人がいるなんて思えなかっただろうし、山を越えたところはもう別世界だった。小さな小さな人の集まりの中で、人々は大きな世界に思いを馳せることなどなく、慎ましく暮らしていたはずだ。
それがよかったかどうか、なんてことは比べられるものではない。小さな世界に住んでいることと大きな世界に住んでいること。それは、ある意味でどっちもどっちだろう。
でも、僕は思うのだ。僕らは世界を広げすぎたのだ、と。
僕らは、もう空間も時間も超越出来る。遥か遠く、光でさえも恐ろしく長い時間を旅しなくてはいけない宇宙の深遠さえ覗くことができるし、遥か昔、人間という種が誕生するずっとずっと前のことでさえ、まるで目の前にあった出来事であるかのように語ることさえ出来る。
世界を広げすぎたのだ。人間というちっぽけな存在が追い求めるには、世界は広すぎたのだ。僕らはもっと、小さな世界の、ささやかなことから満足していくべきなのだ。
詩人はこう言うだろう。太陽が僕の足元に影を作ることだけでも奇跡なんだ、と。僕らは、もうその奇跡を忘れてしまっている。それは、大きな世界の中では、奇跡でもなんでもないのである。
大きな世界は、刺激的でダイナミックで、そして果てがない。永久に変化し続けるように思えるし、変化が宿命的にも思える。人間が退屈しないような環境が揃っている。
でもそれでも僕は、もっと小さな世界に包まれたいと思う。昨日と変わらない今日や、1年前と変わらない今日や、今日と変わらないだろう明日や、そうしたものには飽き飽きしてしまうかもしれない。退屈を紛らわすすべてのものを消費し尽くしてしまうかもしれない。
それで、すべてが自分の見える場所にある。手に届く範囲に本質がしっかりと収まっている。その感覚を感じたことはないけれども、きっと素敵なものだろう。退屈さを吹き飛ばすくらい感動的かもしれない。
小さな世界はたぶん、努力によって作り出すことができる。ただ、大きな世界がそれを許容しないことが多い。分かりやすく言えば、社会という奴がそれを認めないのだ。社会というものは、個々人が小さな世界をもってしまうことを恐れているのだ。
不自由な世の中だ。小さな世界は解体され、より大きな世界へと統合されていく。僕らは、疑問を感じる暇もないまま大きな世界、すなわち社会に組み込まれていく。それは、退屈ではないかもしれないが、不自由な世界だろう。
もし、小さな星の王子さまだったら。これは、なかなか面白い空想かもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、あの有名な「星の王子さま」ですね。有名だけど読んだことがない作品というのはたくさんあるわけで、そういうのも少しずつ読んでいこうと思っているわけです。
僕は、絵描きになる夢を大人たちに破られて、結局飛行士になった。世界のあちこちを飛び回ったのだけど、でも話せる大人はいなかった。大人はどうしてこうもおかしいんだろう。
ある日僕は、サハラ砂漠に不時着をしてしまった。エンジンが壊れてしまったみたいだ。なんとか修理をしなくてはいけない。水も、しばらく分しかない。参ったな、大丈夫だろうか。
そんな時に、人のいないはずの砂漠で、一人の少年にあった。本当に魅力的な少年だった。話をしていて徐々に分かったんだけど(彼は、僕から話を聞きだすけど、自分の話はあんまりしないのだ!)、彼はどうやら、小さな小さな星の王子さまで、そこで一人で暮らしていたんだそうだ。
彼はその星に、一輪の美しい花を所有していた。わがままな花で、あれこれ苦労して世話をしていたんだけど、でも仲が悪くなってしまった。だからちょっと厭になって、自分の星を抜け出して旅に出ることにしたんだ…。
というような話です。
この「星の王子さま」というのは、元々岩波書房が版権を持っていたんだけど、こういう版権っていうのは50年が期限らしい。だから、去年その期限が切れたために、ありとあらゆる出版社から「星の王子さま」の翻訳本が山ほど出た。覚えている限りでも、集英社・新潮社・中央公論新社・宝島社・光文社(光文社は原題通りの「小さな王子さま」というタイトルで出した)というように、いろんなところから文庫で出た。関連本(というか便乗本)も結構出た。去年から今年にかけて、「星の王子さま」はちょっとしたブームだったのだ。
その中でも、今回僕が読んだ集英社版は、とにかく出るのがメチャクチャ早かった。とにかく、版権が切れるとすぐに出た。そして、メチャクチャ売れた。今でも、まあ細々とだけど売れている。集英社は、なかなか頑張ってうまい仕事をしたなぁ、と思う。
閑話休題。全然本作の内容と関係ない話になりました。
僕は、割とこういう古典というのが苦手なんだけど、本作は割り合い素直に読めたな、と思います。それは、ストーリー自体が素直なものだからだろうな、と思います。
なんというか、世界を縮めて、その世界を皮肉っているようなストーリー(だと僕は思った)なんだけど、それが新鮮な視点から、さも不思議そうに指摘されるので、なるほどそういう視点もあるのだな、という読み方ができるわけで、そういう意味で素直に物語を読むことができるのではないか、と思うわけです。
きっと多くの文学者が本作を読んで、この表現は何とかの比喩だとか、これはこれこれこういう意味がある、とかやっているんだろうけど、そういうのは別にいいんじゃないか、って僕は思ったりしますね。世界を小さく圧縮して、それを素直に描いている。不思議なものは不思議なものとして、わからないものはわからないものとして描く。そしてそれをそのまま読む。それだけで完結できる物語として扱った方がいいんじゃないかなぁ、と思ったりします。
もし自分が、たった一人しか住む人のいない星の王子さまだったら。そんな風に考えることができるという面白さが本作にはあるんだろうな、と思いました。
話は少し変わりますが、森博嗣という作家の絵本に「STAR EGG 星の玉子さま」というのがあります。最近続編である「STAR SALAD 星の玉子さま2」が出たんだけど、もちろん本作をベースに描かれたものになっています。こっちもなかなかいいですよ、という話でした。
名作だとか古典だとかいうものは、やはりその中に何らかの真理が含まれているのだろうし、だから残っているのだろうと思います。しかし僕は、なんと言ってもやはり、読んで楽しいか、あるいはどんなことを考えるかで作品の価値が決まると思っています。僕は、基本的には名作とか古典は苦手で、それは読んでて面白くなかったり、何も考えるところがなかったりするからなんだけど、本作はいろいろ考える方向性があってなかなか面白いなと思いました。まあ、名作だし、一生に一度くらいは読んでみてもいいんじゃないかな、と思わせる作品でした。
サンテグジュペリ「星の王子さま」
ダンス・ダンス・ダンス(村上春樹)
扉を開けたい、と僕は思う。
きっと僕は、扉を開けなくてはいけないのだ。宿命的に、僕にはそれが課せられている。どんな意味があるのかわからないが、太古の昔から定められ紡がれてきた物語のように、それは予言的に僕に訴えかけるのだ。
恐らく、僕は扉を開けることが出来るだろう。ノブに触れることも出来るし、それを回すことも出来る。鍵が掛かっていれば、どこからともなく、魔法のように鍵を取り出すことが出来るだろう。僕には扉を開けるための資格があり、そうするだけの意味が与えられているはずだ。僕が決めたことではない。定められていることだ。
しかし、僕の目の前には扉がない。僕は宿命的に扉を開けなくてはならないのに、僕の目の前には扉は現れない。それが現れれば、僕には間違いなくそれとわかるはずなのだ。僕が開けなくてはならない扉なのだと直感できるはずなのだ。
しかしそれは、僕の目の前から完全に損なわれてしまっている。ただの一度も、僕はその存在を確認していない。
いつだって僕は、扉のことを考えている。それは、僕と世界とを正しく繋ぐ扉であるはずなのだ。どこでもない世界と、誰でもない僕とが、意味のある繋がりを満たすことのできる唯一の接点であるべきなのだ。その扉を開けることで、僕は世界とより親密に結びつくことができるはずなのだ。
扉を開けると、そこには何があるだろうか。僕はいつだって考えている。観念の支配する抽象的な世界だろうか、僅かに歪んだ現実に似た世界だろうか、冷たく凍りついた時間のない世界だろうか。
あるいは、ウサギが飛び出してくるかもしれない。死の形をしたウサギだ。ピンと耳が立って、ふわふわと温かで、小動物的な臭いのする、あのウサギだ。死の形をしたそのウサギは、僕が扉を開けると同時に飛び出して来て、こんなことを言うのだ。
「服の趣味も、思考のセンスも、靴音も、まあまあ悪くない。そこそこ上等の人間だね。でもあなたはどうも、存在が過去的だね」博物館にいるのがお似合いじゃないかな、そんなことを言うのだ。
博物館、と僕は思った。
博物館は僕の中で、死の匂いを放っている。死の塊りのような場所だ。あらゆる死がそこに集められている。実際的な死も観念的な死も、暖かな死も寒々しい死も、完全な死も不完全な死も、皆そこに集められている。そこは、完全に過去に支配された場所であり、死の集う場所である。
僕がそこに含まれていることを考える。死の塊りのような博物館の中で、僕はじっとしている。僕はそこでは死んでいるのだろうか?あるいは、博物館にいるということ自体が死を意味するのだろうか。喩え生物学的に死が訪れていなくても、博物館という場所が、生命の死を決定するのだろうか。
死の形をしたウサギは、ピョンピョン跳ねながら扉の周りをぐるぐる回っている。時々僕の方をじっと見つめ、時々耳を折り曲げ、時々意味のない鳴き声を上げる。しばらくすると、僕にはそれがウサギではなく死そのものに思えてくる。死の形をしたウサギでも、ウサギの形をした死でもなく、完全な死。それ自体が死であるという、自己完結的な死に思えてくる。
突然僕は、デジャヴのようなものを感じた。いつだったか、前にもこんなことがなかっただろうか。扉と死の形をしたウサギと僕。いつしか、そうつぶやくような声が聞こえてくるような気がする。扉と死の形をしたウサギと僕。扉と死の形をしたウサギと僕。
気がつくと、僕の目の前には扉があった。材質はわからなかった。木でも鉄でも石でもないようだった。あるいはそれは、扉という観念そのものが材質になっているのかもしれなかった。観念によって生み出されたその扉は、形を変えることなく、しかしゆらゆらと揺らめきながら、僕の目の前に存在した。
扉に手を伸ばし、触れてみる。その瞬間、僕の存在は観念的になった。実際には、扉に触れた手から伝っていくように、ゆっくりと全身が観念的になっていった。僕という観念そのものが僕の構成要素になっていった。
それは、心地よい感覚だった。僕は、僕に包まれていると感じた。同時に、僕ではない、何か悠久の時を経た大きな何かによっても包まれているように感じた。それは、今まで経験したどんなことよりも心地よく暖かだった。
扉は、いつの間にか開いていた。顔を覗かせたのは、やはり死の形をしたウサギだった。死の形をしたウサギは僕に、博物館がお似合いだ、というようなことを言って、死の形を保ったまま、どこかに消えてしまった。
そろそろ内容に入ろうと思います。
一応その前に、ここまで書いてきた文章は一体何なんだということだけど、別に意味のある文章ではありません。なんというか、言葉で説明するなら、僕が本作を読んで受けた印象から書いてみた小説的なもの、ということになるのだけど、そんな大層なものではなく、いつものように駄文なわけで、そこに何か意味があるとか、何らかの比喩が潜んでいるとか、まあそんなことはまったくないので、何を書いてるんだこいつは、と思ってくれたらいいと思います。
久しぶりに村上春樹の長編を読んだ気がしますが、やっぱりよかったです。僕の好きな方の村上春樹の作品でした。
「羊をめぐる冒険」から4年。1983年3月。ディズニーランドがあと少しで開園という時期。僕(この文章を書いている黒夜行)が生まれた月。物語はその1983年の3月の東京から始まる。
僕は、「羊をめぐる冒険」での出来事の後、深い混乱から抜け出せずに、社会から自分を切り離して生活をした。金銭的な問題は特になかった。とにかく、自分を一度立て直さなくてはならなかった。飼っていた猫のいわしが死に、それを土に埋め終えると僕は思った。社会に戻るべきだ、と。
今の社会の中で、仕事を見つけることはさほど難しいことではない。それから3年と少し、僕は半端な物書きとして仕事をした。意味はないが、誰かがやらなくてはならない仕事だ。文化的雪かき。
電話局に勤める女性と、割り合い良好な関係を築きもした。彼女とは、友人と呼べるような関係だったが、頻繁に寝た。しかし、その関係も終わってしまった。理由は簡単だ。僕は、彼女をそこまで求めていなかったのだ。
そうして今。僕はよく夢を見る。いるかホテルの夢だ。僕は、そのいるかホテルに含まれている気がする。そして、誰かが僕を呼んでいる気がするのだ。
彼女だ、と僕は思った。いるかホテルで、彼女が、あの高級娼婦である耳の綺麗な彼女が、僕を呼んでいるのだ。
僕は、いるかホテルにいかなくてはいけない。それはもう、明白なことだった。締め切りのある仕事を急いで片付け、仕事の依頼者には一ヶ月ほど仕事を休むといい、そうして僕は、いるかホテルのある北海道へと旅立った。
僕はそうして、いろんな人に出会うことになる。羊男、美少女、娼婦、片腕の詩人、映画スター。そのどれもが運命であり、また必然でもあった。運命が複雑に絡み合い、またそれに流されるようにして僕は過ごした。逆らわず抗わず、何かが起こるのを待った。人が何人か死んだ。それでも僕は待った。彼女が、僕を呼んでいる彼女が、僕をどこかに連れて行ってくれることを信じて…。
というような感じですけど、まあいつものように、村上春樹の小説の内容紹介はまあ不可能なんで、全然ないよう紹介になっていません。
僕は、「羊をめぐる冒険」の内容をかなり忘れているので、本作と「羊」がどう繋がっているのかなかなか思い出せないのだけど(たぶん、キキと呼ばれる耳の形のいい女性といるかホテルは出てきたんだろうと思うんだけど。羊男はさすがに覚えていたけど)、それでも全然問題なかったですね。十分に楽しめました。
村上春樹の作品は、どこが面白いとかそういう部分を切り取って説明しづらい作品なので、あれこれ感想を書くのがなかなか難しいです。
村上春樹の作品を読んでいて思うのは、僕は村上春樹の作品に出てくる人々のような会話が出来るな、ということです。正確に言えば、村上春樹の作品の登場人物のような人間がいれば、僕はそういう会話が出来るだろうな、ということです。なんというか、彼らの会話は、どことなく現実離れしていて空想的なんだけど、でも不思議と本質的な気がします。だからこそ、僕らのいる現実の世界ではなかなかありえない会話なわけです。僕らは普段、本質的な言葉のやりとりなんかしないわけで。
でも、思考の方向性みたいなものは、すごく似ているなという風に感じます。特にそれを感じるのは、僕とユキという13歳の少女との会話を読んでいる時ですね。僕のユキに対する物言いには、かなり近いものを感じます。もちろん、普段そんな会話はしないわけだけど、こういう会話のできる人が現実にいたら素晴らしいだろうな、と思います。
村上春樹の作品には、魅力的な登場人物がたくさん出てくるんだけど、本作でも結構いました。ユキという少女、五反田という映画俳優、メイという娼婦、ドルフィンホテルの受付嬢、羊男。なんというか、それぞれ非現実的でありえないような存在感なんだけど、その違和感のある存在を許容するだけの世界を村上春樹は作り上げているので、全然不自然に感じないし、むしろ好感を抱きます。特に気に入っているのは、やはりユキですね。印象としては、「名探偵コナン」に出てくる灰原哀を連想させますね。ああいう感じはとても好きです。
村上春樹の作品は、その物語の筋がなかなか見えない作品も結構あるのだけど、でも本作は割とわかりやすい方ではないかな、と思います。いるかホテルというとっかかりも、そこから様々に繋がる部分も、いくつかの殺人も、なんというか、きちんと要素として把握できるというか、筋の中に組み込めるというか、そういう割とわかりやすい物語で、いいと思いました。
というわけで、僕の拙い日本語と理解力では、村上春樹の作品をきちんと論じるなんてことはまあ出来ないのだけど、でも読んでいてすごくほっとする作品です。どこがというのは説明できないのだけど、読んでいると、非現実というものに包まれてゆったり出来ているような、そんな気分になります。普通の小説を読んで感じられないようなことを感じることができます。それが、村上春樹の作品の力だと思うし、魅力だと僕は思います。
一応三部作の完結編なようで、たぶん「風の歌を聴け」「羊をめぐる冒険」「ダンス・ダンス・ダンス」の三部作なんだと思うけど、でも別に前二作を読んでなくても問題ないと思います。まあ僕も忘れているだけなんでなんとも言えないですけど、単体でも充分に楽しめる作品でしょう。是非とも読んでみて欲しいと思います。
村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス」
きっと僕は、扉を開けなくてはいけないのだ。宿命的に、僕にはそれが課せられている。どんな意味があるのかわからないが、太古の昔から定められ紡がれてきた物語のように、それは予言的に僕に訴えかけるのだ。
恐らく、僕は扉を開けることが出来るだろう。ノブに触れることも出来るし、それを回すことも出来る。鍵が掛かっていれば、どこからともなく、魔法のように鍵を取り出すことが出来るだろう。僕には扉を開けるための資格があり、そうするだけの意味が与えられているはずだ。僕が決めたことではない。定められていることだ。
しかし、僕の目の前には扉がない。僕は宿命的に扉を開けなくてはならないのに、僕の目の前には扉は現れない。それが現れれば、僕には間違いなくそれとわかるはずなのだ。僕が開けなくてはならない扉なのだと直感できるはずなのだ。
しかしそれは、僕の目の前から完全に損なわれてしまっている。ただの一度も、僕はその存在を確認していない。
いつだって僕は、扉のことを考えている。それは、僕と世界とを正しく繋ぐ扉であるはずなのだ。どこでもない世界と、誰でもない僕とが、意味のある繋がりを満たすことのできる唯一の接点であるべきなのだ。その扉を開けることで、僕は世界とより親密に結びつくことができるはずなのだ。
扉を開けると、そこには何があるだろうか。僕はいつだって考えている。観念の支配する抽象的な世界だろうか、僅かに歪んだ現実に似た世界だろうか、冷たく凍りついた時間のない世界だろうか。
あるいは、ウサギが飛び出してくるかもしれない。死の形をしたウサギだ。ピンと耳が立って、ふわふわと温かで、小動物的な臭いのする、あのウサギだ。死の形をしたそのウサギは、僕が扉を開けると同時に飛び出して来て、こんなことを言うのだ。
「服の趣味も、思考のセンスも、靴音も、まあまあ悪くない。そこそこ上等の人間だね。でもあなたはどうも、存在が過去的だね」博物館にいるのがお似合いじゃないかな、そんなことを言うのだ。
博物館、と僕は思った。
博物館は僕の中で、死の匂いを放っている。死の塊りのような場所だ。あらゆる死がそこに集められている。実際的な死も観念的な死も、暖かな死も寒々しい死も、完全な死も不完全な死も、皆そこに集められている。そこは、完全に過去に支配された場所であり、死の集う場所である。
僕がそこに含まれていることを考える。死の塊りのような博物館の中で、僕はじっとしている。僕はそこでは死んでいるのだろうか?あるいは、博物館にいるということ自体が死を意味するのだろうか。喩え生物学的に死が訪れていなくても、博物館という場所が、生命の死を決定するのだろうか。
死の形をしたウサギは、ピョンピョン跳ねながら扉の周りをぐるぐる回っている。時々僕の方をじっと見つめ、時々耳を折り曲げ、時々意味のない鳴き声を上げる。しばらくすると、僕にはそれがウサギではなく死そのものに思えてくる。死の形をしたウサギでも、ウサギの形をした死でもなく、完全な死。それ自体が死であるという、自己完結的な死に思えてくる。
突然僕は、デジャヴのようなものを感じた。いつだったか、前にもこんなことがなかっただろうか。扉と死の形をしたウサギと僕。いつしか、そうつぶやくような声が聞こえてくるような気がする。扉と死の形をしたウサギと僕。扉と死の形をしたウサギと僕。
気がつくと、僕の目の前には扉があった。材質はわからなかった。木でも鉄でも石でもないようだった。あるいはそれは、扉という観念そのものが材質になっているのかもしれなかった。観念によって生み出されたその扉は、形を変えることなく、しかしゆらゆらと揺らめきながら、僕の目の前に存在した。
扉に手を伸ばし、触れてみる。その瞬間、僕の存在は観念的になった。実際には、扉に触れた手から伝っていくように、ゆっくりと全身が観念的になっていった。僕という観念そのものが僕の構成要素になっていった。
それは、心地よい感覚だった。僕は、僕に包まれていると感じた。同時に、僕ではない、何か悠久の時を経た大きな何かによっても包まれているように感じた。それは、今まで経験したどんなことよりも心地よく暖かだった。
扉は、いつの間にか開いていた。顔を覗かせたのは、やはり死の形をしたウサギだった。死の形をしたウサギは僕に、博物館がお似合いだ、というようなことを言って、死の形を保ったまま、どこかに消えてしまった。
そろそろ内容に入ろうと思います。
一応その前に、ここまで書いてきた文章は一体何なんだということだけど、別に意味のある文章ではありません。なんというか、言葉で説明するなら、僕が本作を読んで受けた印象から書いてみた小説的なもの、ということになるのだけど、そんな大層なものではなく、いつものように駄文なわけで、そこに何か意味があるとか、何らかの比喩が潜んでいるとか、まあそんなことはまったくないので、何を書いてるんだこいつは、と思ってくれたらいいと思います。
久しぶりに村上春樹の長編を読んだ気がしますが、やっぱりよかったです。僕の好きな方の村上春樹の作品でした。
「羊をめぐる冒険」から4年。1983年3月。ディズニーランドがあと少しで開園という時期。僕(この文章を書いている黒夜行)が生まれた月。物語はその1983年の3月の東京から始まる。
僕は、「羊をめぐる冒険」での出来事の後、深い混乱から抜け出せずに、社会から自分を切り離して生活をした。金銭的な問題は特になかった。とにかく、自分を一度立て直さなくてはならなかった。飼っていた猫のいわしが死に、それを土に埋め終えると僕は思った。社会に戻るべきだ、と。
今の社会の中で、仕事を見つけることはさほど難しいことではない。それから3年と少し、僕は半端な物書きとして仕事をした。意味はないが、誰かがやらなくてはならない仕事だ。文化的雪かき。
電話局に勤める女性と、割り合い良好な関係を築きもした。彼女とは、友人と呼べるような関係だったが、頻繁に寝た。しかし、その関係も終わってしまった。理由は簡単だ。僕は、彼女をそこまで求めていなかったのだ。
そうして今。僕はよく夢を見る。いるかホテルの夢だ。僕は、そのいるかホテルに含まれている気がする。そして、誰かが僕を呼んでいる気がするのだ。
彼女だ、と僕は思った。いるかホテルで、彼女が、あの高級娼婦である耳の綺麗な彼女が、僕を呼んでいるのだ。
僕は、いるかホテルにいかなくてはいけない。それはもう、明白なことだった。締め切りのある仕事を急いで片付け、仕事の依頼者には一ヶ月ほど仕事を休むといい、そうして僕は、いるかホテルのある北海道へと旅立った。
僕はそうして、いろんな人に出会うことになる。羊男、美少女、娼婦、片腕の詩人、映画スター。そのどれもが運命であり、また必然でもあった。運命が複雑に絡み合い、またそれに流されるようにして僕は過ごした。逆らわず抗わず、何かが起こるのを待った。人が何人か死んだ。それでも僕は待った。彼女が、僕を呼んでいる彼女が、僕をどこかに連れて行ってくれることを信じて…。
というような感じですけど、まあいつものように、村上春樹の小説の内容紹介はまあ不可能なんで、全然ないよう紹介になっていません。
僕は、「羊をめぐる冒険」の内容をかなり忘れているので、本作と「羊」がどう繋がっているのかなかなか思い出せないのだけど(たぶん、キキと呼ばれる耳の形のいい女性といるかホテルは出てきたんだろうと思うんだけど。羊男はさすがに覚えていたけど)、それでも全然問題なかったですね。十分に楽しめました。
村上春樹の作品は、どこが面白いとかそういう部分を切り取って説明しづらい作品なので、あれこれ感想を書くのがなかなか難しいです。
村上春樹の作品を読んでいて思うのは、僕は村上春樹の作品に出てくる人々のような会話が出来るな、ということです。正確に言えば、村上春樹の作品の登場人物のような人間がいれば、僕はそういう会話が出来るだろうな、ということです。なんというか、彼らの会話は、どことなく現実離れしていて空想的なんだけど、でも不思議と本質的な気がします。だからこそ、僕らのいる現実の世界ではなかなかありえない会話なわけです。僕らは普段、本質的な言葉のやりとりなんかしないわけで。
でも、思考の方向性みたいなものは、すごく似ているなという風に感じます。特にそれを感じるのは、僕とユキという13歳の少女との会話を読んでいる時ですね。僕のユキに対する物言いには、かなり近いものを感じます。もちろん、普段そんな会話はしないわけだけど、こういう会話のできる人が現実にいたら素晴らしいだろうな、と思います。
村上春樹の作品には、魅力的な登場人物がたくさん出てくるんだけど、本作でも結構いました。ユキという少女、五反田という映画俳優、メイという娼婦、ドルフィンホテルの受付嬢、羊男。なんというか、それぞれ非現実的でありえないような存在感なんだけど、その違和感のある存在を許容するだけの世界を村上春樹は作り上げているので、全然不自然に感じないし、むしろ好感を抱きます。特に気に入っているのは、やはりユキですね。印象としては、「名探偵コナン」に出てくる灰原哀を連想させますね。ああいう感じはとても好きです。
村上春樹の作品は、その物語の筋がなかなか見えない作品も結構あるのだけど、でも本作は割とわかりやすい方ではないかな、と思います。いるかホテルというとっかかりも、そこから様々に繋がる部分も、いくつかの殺人も、なんというか、きちんと要素として把握できるというか、筋の中に組み込めるというか、そういう割とわかりやすい物語で、いいと思いました。
というわけで、僕の拙い日本語と理解力では、村上春樹の作品をきちんと論じるなんてことはまあ出来ないのだけど、でも読んでいてすごくほっとする作品です。どこがというのは説明できないのだけど、読んでいると、非現実というものに包まれてゆったり出来ているような、そんな気分になります。普通の小説を読んで感じられないようなことを感じることができます。それが、村上春樹の作品の力だと思うし、魅力だと僕は思います。
一応三部作の完結編なようで、たぶん「風の歌を聴け」「羊をめぐる冒険」「ダンス・ダンス・ダンス」の三部作なんだと思うけど、でも別に前二作を読んでなくても問題ないと思います。まあ僕も忘れているだけなんでなんとも言えないですけど、単体でも充分に楽しめる作品でしょう。是非とも読んでみて欲しいと思います。
村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス」
STAR SALAD 星の玉子さま2(森博嗣)
ものを見るという行為には、様々な方向が存在する。僕らは、何かを見ているようでいて、それをきちんとは見ていない。結果、誰しもが同じものを同じ風に見ているとは限らない、ということになる。
例えば、月を見ることを考える。僕らは今、あらゆる知識を持っているので、月を見て神秘を感じたり不思議に思ったりすることはない。月は、既に僕らの知識の範囲内のものだし、森博嗣が巻末に書いているように、月という言葉を知っているだけで、月を知っていると思っている。
しかし、もし月に関する知識がない状態で月を見たとするならば、僕らはそれをどう感じるだろうか?
まず驚くだろう。あの浮いているものが、なんなのかまずわからない。しかも、時間と共に移動するし、月日に応じて満ち欠けをする。一体どんな力で動いていて、一体欠けている部分はどこへ消えてしまっているのか。また、月の知識がない状態では、まさかこう思うことはないだろう。月と、夜空に無数に広がっている星たちが、基本的に同じものなんだとは。
これは、知識によって視野が狭まってしまう、という話ではない。もちろん、そういう側面は大きいだろう。しかし僕らは、結局物事を見たいようにしか見ていない、ということなのである。まあ、同じことなのではあるけれど。
テレビ番組のディレクターと視聴者が一緒になったような存在ということを思いついた。
テレビ番組のディレクターというのは、映像がどういう意図をもって視聴者に届くか、ということを計算して編集をする。そして視聴者はそれを見る。
僕らが物事を見るという行為の間にしているのは、まさにその二つの役割なのではないかと思う。視聴者(=自分)が見たいと思うような映像になるようにディレクター(=自分)が情報をうまく調整する。そうやって僕らは見たいものだけを見ることができる。ディレクターは一人一人違うので、それぞれの人が見ている光景もみんな違う。
自分自身の中からディレクターを追いだすことが、何か新しい視点を獲得するための第一歩なのだろうと思う。
それは、実際とても難しいことだろうと思う。まず、自分自身の見ているもののどこにディレクターの意思が潜んでいるのか、それすらも見分けることが難しくなっているだろうと思う。
ある意味で、そのディレクターの存在を自らの中に発見する手段として、本作は存在意義があるのかもしれないな、と思う。
森博嗣という、自身の中にディレクターが存在しない、かつ、他人の中にディレクターが存在していることも知っているという稀有な存在が描く絵本。そこには、僕らを支配しているディレクターの存在が際立ってしまうような絵と文章が並ぶ。そして本作を読む人は、ディレクターに見せられていた光景ではなく、自分で掴み取った光景を見るという世界を獲得するのである。
その新鮮な経験が、僕らの意識の中に新しい光を差し込むのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、前作「STAR EGG 星の玉子さま」の続編です。前回と同じく、玉子さまと愛犬ジュペリが、一人と一匹で住んでいる星に飽きて、おじいさんが作った宇宙船に乗って、近くの星を訪ねて回る、という趣向です。見開きの2ページの左側にそれぞれの星の絵、右側に文章というスタイルです。
今回は、タイトル「STAR SALAD」の通り、野菜や果物が星の代わりとして出てくる、というような趣向になっています。
わかりやすさで言えば、前作よりも本作の方がわかりやすいでしょう。とにかく、ストレートです。それぞれの野菜や果物の特徴をズバリという感じでうまく使っている感じです。
しかし、思考の余地という意味では、前作より劣るだろうなと思います。もちろん、それは読む人間の努力したいということにもなるのだろうけど、前作にはあらゆる方向に思考の幅が広がっていたような気がするのに対して、本作では思考の幅が多少狭まっているような間隔が否めないような気はします。
さて本作のテーマ的なものは何かと言うと、一つ・一人・一匹であるということ、という感じになります。
本作のいろんな言葉をちょっと拾ってみます。
『ひとつになることを、「生まれる」というみたいです。』
『1つと数えることで、別のものだ、と無理に考えようとしているのかもしれませんね。』
『それを1つだと見なせるおおらかさが、人間の能力の1つなのです。』
野菜や果物のあり方を通じて、玉子さんは一つであるということについて考えます。詳しいことは読んで欲しいけど、なるほどなぁ、という感じにさせられます。「どうして一つになったのか」というその根本に、「もともとみんな一緒だったはずだ」という発想があるというところが面白いですね。
巻末にはいつものように、森博嗣による解説があるのだけど、この部分も面白いです。
本文とは違って科学的になる巻末の解説は、ここだけは子供向けの絵本ではなく大人向けであって、だから絵本を読んだ後で、大人としての別の思考も出来るという意味では、すごく面白い趣向だな、という感じはします。
世の中なんでもそうだけど、第二弾というのはなかなか不調だったりするわけだけど、本作の場合は、星という発想から野菜というところへと飛躍したというところがすごく評価できると思うし、第二弾であるということのハンデは克服しているような気もします。前作をよかったな、と思える人は、また読んでみたらいいと思います。僕が思うに、これはプレゼントにもいいですよね。どうですか、皆さん。
森博嗣「STAR SALAD 星の玉子さま2」
例えば、月を見ることを考える。僕らは今、あらゆる知識を持っているので、月を見て神秘を感じたり不思議に思ったりすることはない。月は、既に僕らの知識の範囲内のものだし、森博嗣が巻末に書いているように、月という言葉を知っているだけで、月を知っていると思っている。
しかし、もし月に関する知識がない状態で月を見たとするならば、僕らはそれをどう感じるだろうか?
まず驚くだろう。あの浮いているものが、なんなのかまずわからない。しかも、時間と共に移動するし、月日に応じて満ち欠けをする。一体どんな力で動いていて、一体欠けている部分はどこへ消えてしまっているのか。また、月の知識がない状態では、まさかこう思うことはないだろう。月と、夜空に無数に広がっている星たちが、基本的に同じものなんだとは。
これは、知識によって視野が狭まってしまう、という話ではない。もちろん、そういう側面は大きいだろう。しかし僕らは、結局物事を見たいようにしか見ていない、ということなのである。まあ、同じことなのではあるけれど。
テレビ番組のディレクターと視聴者が一緒になったような存在ということを思いついた。
テレビ番組のディレクターというのは、映像がどういう意図をもって視聴者に届くか、ということを計算して編集をする。そして視聴者はそれを見る。
僕らが物事を見るという行為の間にしているのは、まさにその二つの役割なのではないかと思う。視聴者(=自分)が見たいと思うような映像になるようにディレクター(=自分)が情報をうまく調整する。そうやって僕らは見たいものだけを見ることができる。ディレクターは一人一人違うので、それぞれの人が見ている光景もみんな違う。
自分自身の中からディレクターを追いだすことが、何か新しい視点を獲得するための第一歩なのだろうと思う。
それは、実際とても難しいことだろうと思う。まず、自分自身の見ているもののどこにディレクターの意思が潜んでいるのか、それすらも見分けることが難しくなっているだろうと思う。
ある意味で、そのディレクターの存在を自らの中に発見する手段として、本作は存在意義があるのかもしれないな、と思う。
森博嗣という、自身の中にディレクターが存在しない、かつ、他人の中にディレクターが存在していることも知っているという稀有な存在が描く絵本。そこには、僕らを支配しているディレクターの存在が際立ってしまうような絵と文章が並ぶ。そして本作を読む人は、ディレクターに見せられていた光景ではなく、自分で掴み取った光景を見るという世界を獲得するのである。
その新鮮な経験が、僕らの意識の中に新しい光を差し込むのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、前作「STAR EGG 星の玉子さま」の続編です。前回と同じく、玉子さまと愛犬ジュペリが、一人と一匹で住んでいる星に飽きて、おじいさんが作った宇宙船に乗って、近くの星を訪ねて回る、という趣向です。見開きの2ページの左側にそれぞれの星の絵、右側に文章というスタイルです。
今回は、タイトル「STAR SALAD」の通り、野菜や果物が星の代わりとして出てくる、というような趣向になっています。
わかりやすさで言えば、前作よりも本作の方がわかりやすいでしょう。とにかく、ストレートです。それぞれの野菜や果物の特徴をズバリという感じでうまく使っている感じです。
しかし、思考の余地という意味では、前作より劣るだろうなと思います。もちろん、それは読む人間の努力したいということにもなるのだろうけど、前作にはあらゆる方向に思考の幅が広がっていたような気がするのに対して、本作では思考の幅が多少狭まっているような間隔が否めないような気はします。
さて本作のテーマ的なものは何かと言うと、一つ・一人・一匹であるということ、という感じになります。
本作のいろんな言葉をちょっと拾ってみます。
『ひとつになることを、「生まれる」というみたいです。』
『1つと数えることで、別のものだ、と無理に考えようとしているのかもしれませんね。』
『それを1つだと見なせるおおらかさが、人間の能力の1つなのです。』
野菜や果物のあり方を通じて、玉子さんは一つであるということについて考えます。詳しいことは読んで欲しいけど、なるほどなぁ、という感じにさせられます。「どうして一つになったのか」というその根本に、「もともとみんな一緒だったはずだ」という発想があるというところが面白いですね。
巻末にはいつものように、森博嗣による解説があるのだけど、この部分も面白いです。
本文とは違って科学的になる巻末の解説は、ここだけは子供向けの絵本ではなく大人向けであって、だから絵本を読んだ後で、大人としての別の思考も出来るという意味では、すごく面白い趣向だな、という感じはします。
世の中なんでもそうだけど、第二弾というのはなかなか不調だったりするわけだけど、本作の場合は、星という発想から野菜というところへと飛躍したというところがすごく評価できると思うし、第二弾であるということのハンデは克服しているような気もします。前作をよかったな、と思える人は、また読んでみたらいいと思います。僕が思うに、これはプレゼントにもいいですよね。どうですか、皆さん。
森博嗣「STAR SALAD 星の玉子さま2」
キム兄の感じ(木村祐一)
辺見えみりと結婚したんである。いや~、羨ましい限りでございますなぁ。辺見えみりですよ、いいですね~。羨ましいといえばもう一つ、渡辺真理奈ですね。渡辺真理奈ですよ、それが、あのベトナム人みたいな人と、えーと、名倉か、と結婚ですからね。羨ましい限りです。
はい、というわけでよくわかりませんが、羨ましい話から始めてみました。
ここ二日くらい芸人のエッセイみたいなものを3作連チャンで読んでいるのだけど、どの三人ももう、感性という意味では一級というか、端から凡人とは比べるべくもないというか、そういうレベルに達している人達である。
それで、木村祐一である。
なんというか、木村祐一というのはメインではないのである。喩えていうなら、ご飯かもしれないですね。その喩えでいくなら、松本人志はステーキだろうし(ただ味はカレー風味とか、かなり奇抜なものなんだけど)、板尾創路は箸置き(そもそも食い物じゃないんかよ)みたいな印象なんだけど、木村祐一というのはなんというか、どこにいても不自然ではなく、特に目立っているわけでもないのに存在感がないでもないという、まさに白いご飯そのもののような印象を受けるのである。
だからこそ、語りづらい。木村祐一という男については、語りづらいな、と思う。専門家にしてみたら、白いご飯一つで本一冊書けるくらい語れるのかもしれないけど、普通の人間には、ご飯だけでそんなに語れるかよ、という感じではなかろうか。木村祐一の印象は、まさにそんな感じである。
恐らく、これも白いご飯との共通点であるが、誰とでも合わせられる人間なんだろう、と思う。そういう意味では、松本人志とは真逆の方向性だろうけど。
以前何かの番組でラサール石井が、自分は隙間芸人だ、みたいなことを言っていた。あるいはパテ芸人だ、とも。つまり、番組の中で隙間隙間を埋めていくようにして関わっていくという役割の芸人で、関根勤も同じようなことを言っていた記憶がある。
僕の中で木村祐一というのも、そんな印象の人間である。
どこにでも入り込むことが出来て、しかも入り込んだところを広げたり深めたりできる。そして、いつの間にか場に馴染んでしまう。そこは、磯野貴理子との大きな差である。磯野貴理子は、「キリコむ」という言葉が出来るくらいどこにでも入り込んでいく。しかし、その入り込み方は、場を壊す形で有効なのであって、木村祐一のように発展させることはない。まあ、それはそれですごい気もするけど。
こういう、どこにでも入っていける人間というのは、僕はすごく羨ましく思える。人見知りで、なかなか自分の世界を広げたり、相手の世界に入っていくことの出来ない僕としては、日々、なんとか自分の世界に他人を引き込もう、と努力しているわけで、なるほどそう考えると、このブログもその一助を担っているのだなぁ、と今思った。
さて、そんなどこにでも入っていける木村祐一であるが、では自分の意見がないかと言えばそんなこともない。これは、ついさっき感想を書いた「松本坊主」のところであれこれ書いたのだが、松本人志という人間は、周りと溶け込まないことで、自分の意見というものを明確に確立している。まあ松本の場合、それを意図的になっているというよりは、人に迎合するのが嫌で、結果的にそうなったという方が正しい気もするのだけど。
しかし木村祐一は、他人の間にどんどん入っていくし、他人をどんどん受け入れていくのに、自分の意見というものをきちんと保持している人間である。
僕は、その部分だけ多少似ていると思うので気持ちはわかるつもりだが、そういう人間の場合、他人との関係が少し煩わしく感じられてしまうはずである。本作にそんな記述は特ないのだが(まあ、結構人に気を遣う、という話は随所にあったけど)、僕はそう思う。
どういうことかと言えば、他人の間に入って他人の意見を受け入れていきながら、かつ自分の意見を明確に保つためには、自分の意見を抑えなければならない場面に幾度となく遭遇する、ということなのである。それは、一つ一つは些細なことだけど、積み重なっていくと大きい。気を遣うという木村祐一には、結構重いのではないか、と勝手に心配してみるのだけど、どうだろうか?
とにかく、と言ってみて無理矢理終わらせようとしているのだけど、料理が出来ることが羨ましい(全然関係ない話である)。僕は、どちらかと言えば主夫としていきていけたらいいな、なんて思っているのだけど(主夫が楽だと思っているわけではないけど、外に出るよりも内にいる方が僕に合っていると思うので)、料理を含め家事全般が嫌いなので、恐らくその未来は訪れないだろう、と思っている。何にしても、自分で料理が出来る、というのは、羨ましい特技の一つである。見習うつもりはないが、見習いたいものである。
そんなわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、木村祐一が「Hanako」という雑誌に、2003年12月から2005年12月まで連載していた『キムキム兄やんがやってきた』を単行本化したものです。
内容は、まあ取りとめもない雑記、という感じですかね。単行本の見開きの二ページで一回分という感じなんで、大体原稿用紙一枚分くらいの分量でしょうか。全部で100回分あるのだけど、一回分ずつちびちび読んでいけば結構楽チンで読めていくというような感じになっています。
単行本化されるにあたって、まあいくつかのテーマ毎に分かれているのだけど、まあでもどれも周辺雑記という感じの内容です。もちろん料理の話もあるけどそれだけじゃなくて、日々何を考えているか、何にイラついたか、どこの料理屋が美味しいとか、まあいろいろですね、ホント。
読んでいて、なるほどなぁ、と思うような視点は結構あります。木村祐一と言えば、街中で撮ってきた写真にコメントをつけて笑いを取る「写術」なんていうのをやっているのだけど、そういう部分から培ったのか、人とはちょっと違うかなという視点も結構あったりして、面白いなぁ、という感じですね。
まあとにかく、さらさらっと軽めに読める内容のエッセイみたいなもんです。本屋でちらちら立ち読みをしてみて、気に入ったら買いましょう。
木村祐一「キム兄の感じ」
はい、というわけでよくわかりませんが、羨ましい話から始めてみました。
ここ二日くらい芸人のエッセイみたいなものを3作連チャンで読んでいるのだけど、どの三人ももう、感性という意味では一級というか、端から凡人とは比べるべくもないというか、そういうレベルに達している人達である。
それで、木村祐一である。
なんというか、木村祐一というのはメインではないのである。喩えていうなら、ご飯かもしれないですね。その喩えでいくなら、松本人志はステーキだろうし(ただ味はカレー風味とか、かなり奇抜なものなんだけど)、板尾創路は箸置き(そもそも食い物じゃないんかよ)みたいな印象なんだけど、木村祐一というのはなんというか、どこにいても不自然ではなく、特に目立っているわけでもないのに存在感がないでもないという、まさに白いご飯そのもののような印象を受けるのである。
だからこそ、語りづらい。木村祐一という男については、語りづらいな、と思う。専門家にしてみたら、白いご飯一つで本一冊書けるくらい語れるのかもしれないけど、普通の人間には、ご飯だけでそんなに語れるかよ、という感じではなかろうか。木村祐一の印象は、まさにそんな感じである。
恐らく、これも白いご飯との共通点であるが、誰とでも合わせられる人間なんだろう、と思う。そういう意味では、松本人志とは真逆の方向性だろうけど。
以前何かの番組でラサール石井が、自分は隙間芸人だ、みたいなことを言っていた。あるいはパテ芸人だ、とも。つまり、番組の中で隙間隙間を埋めていくようにして関わっていくという役割の芸人で、関根勤も同じようなことを言っていた記憶がある。
僕の中で木村祐一というのも、そんな印象の人間である。
どこにでも入り込むことが出来て、しかも入り込んだところを広げたり深めたりできる。そして、いつの間にか場に馴染んでしまう。そこは、磯野貴理子との大きな差である。磯野貴理子は、「キリコむ」という言葉が出来るくらいどこにでも入り込んでいく。しかし、その入り込み方は、場を壊す形で有効なのであって、木村祐一のように発展させることはない。まあ、それはそれですごい気もするけど。
こういう、どこにでも入っていける人間というのは、僕はすごく羨ましく思える。人見知りで、なかなか自分の世界を広げたり、相手の世界に入っていくことの出来ない僕としては、日々、なんとか自分の世界に他人を引き込もう、と努力しているわけで、なるほどそう考えると、このブログもその一助を担っているのだなぁ、と今思った。
さて、そんなどこにでも入っていける木村祐一であるが、では自分の意見がないかと言えばそんなこともない。これは、ついさっき感想を書いた「松本坊主」のところであれこれ書いたのだが、松本人志という人間は、周りと溶け込まないことで、自分の意見というものを明確に確立している。まあ松本の場合、それを意図的になっているというよりは、人に迎合するのが嫌で、結果的にそうなったという方が正しい気もするのだけど。
しかし木村祐一は、他人の間にどんどん入っていくし、他人をどんどん受け入れていくのに、自分の意見というものをきちんと保持している人間である。
僕は、その部分だけ多少似ていると思うので気持ちはわかるつもりだが、そういう人間の場合、他人との関係が少し煩わしく感じられてしまうはずである。本作にそんな記述は特ないのだが(まあ、結構人に気を遣う、という話は随所にあったけど)、僕はそう思う。
どういうことかと言えば、他人の間に入って他人の意見を受け入れていきながら、かつ自分の意見を明確に保つためには、自分の意見を抑えなければならない場面に幾度となく遭遇する、ということなのである。それは、一つ一つは些細なことだけど、積み重なっていくと大きい。気を遣うという木村祐一には、結構重いのではないか、と勝手に心配してみるのだけど、どうだろうか?
とにかく、と言ってみて無理矢理終わらせようとしているのだけど、料理が出来ることが羨ましい(全然関係ない話である)。僕は、どちらかと言えば主夫としていきていけたらいいな、なんて思っているのだけど(主夫が楽だと思っているわけではないけど、外に出るよりも内にいる方が僕に合っていると思うので)、料理を含め家事全般が嫌いなので、恐らくその未来は訪れないだろう、と思っている。何にしても、自分で料理が出来る、というのは、羨ましい特技の一つである。見習うつもりはないが、見習いたいものである。
そんなわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、木村祐一が「Hanako」という雑誌に、2003年12月から2005年12月まで連載していた『キムキム兄やんがやってきた』を単行本化したものです。
内容は、まあ取りとめもない雑記、という感じですかね。単行本の見開きの二ページで一回分という感じなんで、大体原稿用紙一枚分くらいの分量でしょうか。全部で100回分あるのだけど、一回分ずつちびちび読んでいけば結構楽チンで読めていくというような感じになっています。
単行本化されるにあたって、まあいくつかのテーマ毎に分かれているのだけど、まあでもどれも周辺雑記という感じの内容です。もちろん料理の話もあるけどそれだけじゃなくて、日々何を考えているか、何にイラついたか、どこの料理屋が美味しいとか、まあいろいろですね、ホント。
読んでいて、なるほどなぁ、と思うような視点は結構あります。木村祐一と言えば、街中で撮ってきた写真にコメントをつけて笑いを取る「写術」なんていうのをやっているのだけど、そういう部分から培ったのか、人とはちょっと違うかなという視点も結構あったりして、面白いなぁ、という感じですね。
まあとにかく、さらさらっと軽めに読める内容のエッセイみたいなもんです。本屋でちらちら立ち読みをしてみて、気に入ったら買いましょう。
木村祐一「キム兄の感じ」
松本坊主(松本人志)
世の中の多くの人は最近、自分の意見を積極的に外へと出すようになった。こうやって僕がブログで駄文を書いているようにして。ブログというものが流行ったお陰で、誰しもが自分の意見というものを発表するようになっていった。もちろん、今まで自分の意見というものを持っていなかったということではないのだけど、書く場というものを手にすることで、自分の意見をより強く確認することが出来るようになった、ということだろう。僕もブログを書いていて、まあこういう文章は何もないところから適当に書き始めるのだけど、そうしていると、あぁなるほど、僕はこんな風に考えていたのか、と思うようなこともある。面白いものだ。
友人も多くブログを持っていて、内容は様々だが、そこにはそれぞれの個人の意見や価値観というものが文章に乗せて綴られている。それを読みながら、なるほどこいつはこんな風に思っているのか、なんてことを思いながら、しばらく会ってない友人でも、その考え方というものに刺激を受けることができるのである。
それは、決して悪い世の中ではない。
しかし同時に、曖昧になっていったこともある。
それは、自分の意見ってなんだ、ということだ。
いろんな人間が、自分の意見だと信じることを何らかの形で発表できる場が増えてきている。しかしそれらは、本当にその人の意見なのか、と思うこともしばしばある。普通の人が普通に言う意見だったり、誰かの借り物の意見だったり、そんなものが増えてきている気がするな、と思う。
それは、よくニュースを見ていて思うことだ。ニュースを見ていると、あらゆる方向にあるはずの意見がある一定の方向に絞られていることに気付く。アナウンサーもコメンテーターも、その方向に沿ったことしか言わない。出来るだけ多数の人間に受けるようにテレビというものは作られるから仕方のないことだと思うのだけど、それにしてもつまらない意見ばかりだ。
そういう、誰のものでもない、独創的でない意見や価値観というのが、あちこちにあふれている。僕はそう思う。もちろん、この僕のサイトも例外ではない。自分の意見だと思っていても、どうしても借り物の意見になってしまっているだろうし、独創的でもないだろう。つまらない男なのである。
情報がこれだけ氾濫していて、しかも影響を受けやすいものが多数ある世の中で、自分だけのオリジナルの意見を持つということは、本当に難しいことだと思う。ちょっと前に、歌詞を盗用したとかで有名な二人が争ってたけど、そんなので争うなよといいたくなるくらい、世の中にはオリジナルというものが少ない。僕は、出来るだけ人と違う風に感じたり思考したりしたいと思っているのだけど、まあある程度は成功しているかもしれないけど、まだまだ充分ではないだろう。難しいものだ。
松本人志というのは、そんなオリジナルの少ない現代にあって、オリジナルの意見を持っている(と僕が思っている)数少ない(だろう)人間の一人である。
僕は、別に松本の大ファンというわけではないし、全盛期の番組だってちゃんと観てないくらいだから、むしろ普通より知らないという方が正しいかもしれないのだけど、それでも、その価値観や生き方には惹かれてしまう。
松本を表現するのに、孤高というのはかなり適切なように感じられる。誰も登ることの出来ない高い山のてっぺんで一人佇んでいるイメージだ。松本のすごいところは、その山から下りようとしないことだ。松本と同じ位置にいたら、孤独に耐えかねて下界に戻ってしまうという人は結構多いだろう。誰も迎合しないし、誰も理解しようとしない、とも思える松本の生き方は、ストイックであり孤独であり、それは僕には少し羨ましく見えてしまう。
自分の意見を持つことができるというのは正しいし美しい。しかし何よりも、それを長きにわたり保持し続けることができた、というところに、僕は素晴らしさを感じてしまう。
芸人は数多くいるが、松本人志は別格だ。なんというか、芸人としてだけではなく、人間としてすごい。羨ましいものである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、松本人志初の『語りおろし』自伝、です。どういうことかと言えば、別にまあなんということもないのだけど、要するに文章を松本が書いているというわけではなく、インタビューしたものを文章に起こしたものだ、というわけですね。
松本の本を読んだことがないけど(島田紳助との共著は読んだことあるけど)、普通はエッセイみたいな作品を出していると思う。だから、自伝というのは少ないのではないかと思う。わからないけど。
本作では、松本人志というルーツを、「尼崎」「大阪」「東京」という三つの場所で分けて語っている。
僕の中で、松本人志というのは本音を語らない人間だと思っていたんですけど、「松本紳助」という番組でその印象は変わりました。本作でも、かなり素直に本音を語っているように思えます。相方の浜田への言及では、言っていて恥ずかしいというようなこともあったかもだけど、でもちゃんと口にしてますね。それとも、大人になって少しは丸くなった、とか。
ダウンタウンが歩んできた道のりが、まあざっとおさらいできるような内容なんだけど、でもホント、今のお笑いの若手なんかよりも遥かに苦しい思いをしてここまで辿り着いたんだな、ということがよくわかります。常に自分達より前には誰もいなくて、パイオニアであり続け、後ろを通るものへと道を作っていったという意味では、本当に伝説的な二人だよな、と思ってしまいます。
松本の価値観というのは、やはり人とはちょっと違うような感じがするのだけど、本人としては普通のことを言っているつもりなわけで、まあそれはみんな同じなんでしょうけどね。みんな、自分は普通だと思っているわけで。
笑いというものに対するストイックさというか自信は、本当に強いんだな、と改めて思いました。自分の笑いというものを、松本は一瞬たりとも疑ったことはないようです。『このまま売れないかもしれない』と思ったことはあったけど、『俺らの笑いがつまらない』と思ったことは一度もないそうです。これまでやってきたことに失敗は一回もない、とも言っているし。すごいです、ホント。そこまで自信を持てるものを持っているというのが羨ましいですね。
松本のコントの作り方なんかを読んでいると、森博嗣という作家を思い出します。
松本は、コントをほとんど即興で作り上げるようです。というか、事前の打ち合わせはほとんどしないで、現場に言って始めてしまってから、さてどうするかとフル回転させるんだそうです。浜田との事前の打ち合わせでは、『どうしようか、まあとりあえずこれ言って始めよう。んで、これだけはとりあえず言って、あとこれ言って終わりな』ぐらいのもんだそうです。それであとは全部即興で、それで無茶苦茶面白いものを生み出してしまうわけです。
森博嗣という作家は基本ミステリを書くのだけど、パソコンの前に座るまで、作品のアイデアはまったくないそうです。でその状態から、とりあえず文章を書き始める。書きながら、次はどうしようかと考える。そんなやりかたで、精緻なミステリを書ききってしまうわけです。とにかく、天才というのはやることが無茶苦茶だよな、と思ったわけです。
そんなわけで、松本人志という生き方がまあ結構分かる、かつダウンタウンという歴史がまあ結構分かる一冊です。コアなファンとかなら読まなくても知ってるようなことばっかなのかもだけど、僕のような人間には面白い本でした。でもやっぱ、松本と島田紳助の「哲学」という本の方が面白かったかもしれないですね。あれはホント素晴らしい。まあ本作も、読んでみたら面白いと思います。
最後に、面白いなと思ったところを何点か抜き出して終わろうと思います。
(前略)
僕、この世界に入って、そのNSCの時の初舞台ー発表会みたいなとこで漫才やったときから、今日の今の今まで自分が一番おもろいと、ずっと思ってますから。絶対自分が一番やって、ずーっと。それは一回も疑ったことないんですよ。ただ、売れへんあkもしれんなと思ったことは何回もありますけど。
「俺、絶対才能ある、絶対誰にも負けてない、そんな才能のある人間がもし売れへんのやったら、もうこっちからこんな仕事、辞めたら」っていう。(後略)
(前略)
よう、若い奴がね、今日ネタですべったとかウケたとかいう話をしてると腹立ってくるんですよ。ネタなんてウケて当たり前やっていう。だって、それは自分らやる気あって才能もあると思って、二人でどうやったらウケるかって一生懸命考えた末に出て行くんやから、そりゃウケるやろ。そんなもんすべってどないするねん。それよりも、それ以外の部分で、即興でアドリブでしゃべってどんだけ笑い取れるかっていうところが、笑いの醍醐味でもあるんじゃないのか、って僕は思ってますから。
(後略)
(前略)職業は儲けるために頑張ればええんやけど、芸能人はそういうことじゃないから。職業であって職業じゃない。芸能人とかタレントとかいう言葉の中には、もちろんいい意味ですけど、期待を裏切るっていう意味も含まれてると僕は思うんです。でも、今のタレントって視聴者の期待に沿おうと思って必死なんですよ。「いかがでしかた?」みたいな、「お味、お口に合いましたあ?」みたいな。必死で期待に自分を近づけよう近づけようとしてる。そんなの、どんどん裏切っていかんと。(後略)
松本人志「松本坊主」
友人も多くブログを持っていて、内容は様々だが、そこにはそれぞれの個人の意見や価値観というものが文章に乗せて綴られている。それを読みながら、なるほどこいつはこんな風に思っているのか、なんてことを思いながら、しばらく会ってない友人でも、その考え方というものに刺激を受けることができるのである。
それは、決して悪い世の中ではない。
しかし同時に、曖昧になっていったこともある。
それは、自分の意見ってなんだ、ということだ。
いろんな人間が、自分の意見だと信じることを何らかの形で発表できる場が増えてきている。しかしそれらは、本当にその人の意見なのか、と思うこともしばしばある。普通の人が普通に言う意見だったり、誰かの借り物の意見だったり、そんなものが増えてきている気がするな、と思う。
それは、よくニュースを見ていて思うことだ。ニュースを見ていると、あらゆる方向にあるはずの意見がある一定の方向に絞られていることに気付く。アナウンサーもコメンテーターも、その方向に沿ったことしか言わない。出来るだけ多数の人間に受けるようにテレビというものは作られるから仕方のないことだと思うのだけど、それにしてもつまらない意見ばかりだ。
そういう、誰のものでもない、独創的でない意見や価値観というのが、あちこちにあふれている。僕はそう思う。もちろん、この僕のサイトも例外ではない。自分の意見だと思っていても、どうしても借り物の意見になってしまっているだろうし、独創的でもないだろう。つまらない男なのである。
情報がこれだけ氾濫していて、しかも影響を受けやすいものが多数ある世の中で、自分だけのオリジナルの意見を持つということは、本当に難しいことだと思う。ちょっと前に、歌詞を盗用したとかで有名な二人が争ってたけど、そんなので争うなよといいたくなるくらい、世の中にはオリジナルというものが少ない。僕は、出来るだけ人と違う風に感じたり思考したりしたいと思っているのだけど、まあある程度は成功しているかもしれないけど、まだまだ充分ではないだろう。難しいものだ。
松本人志というのは、そんなオリジナルの少ない現代にあって、オリジナルの意見を持っている(と僕が思っている)数少ない(だろう)人間の一人である。
僕は、別に松本の大ファンというわけではないし、全盛期の番組だってちゃんと観てないくらいだから、むしろ普通より知らないという方が正しいかもしれないのだけど、それでも、その価値観や生き方には惹かれてしまう。
松本を表現するのに、孤高というのはかなり適切なように感じられる。誰も登ることの出来ない高い山のてっぺんで一人佇んでいるイメージだ。松本のすごいところは、その山から下りようとしないことだ。松本と同じ位置にいたら、孤独に耐えかねて下界に戻ってしまうという人は結構多いだろう。誰も迎合しないし、誰も理解しようとしない、とも思える松本の生き方は、ストイックであり孤独であり、それは僕には少し羨ましく見えてしまう。
自分の意見を持つことができるというのは正しいし美しい。しかし何よりも、それを長きにわたり保持し続けることができた、というところに、僕は素晴らしさを感じてしまう。
芸人は数多くいるが、松本人志は別格だ。なんというか、芸人としてだけではなく、人間としてすごい。羨ましいものである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、松本人志初の『語りおろし』自伝、です。どういうことかと言えば、別にまあなんということもないのだけど、要するに文章を松本が書いているというわけではなく、インタビューしたものを文章に起こしたものだ、というわけですね。
松本の本を読んだことがないけど(島田紳助との共著は読んだことあるけど)、普通はエッセイみたいな作品を出していると思う。だから、自伝というのは少ないのではないかと思う。わからないけど。
本作では、松本人志というルーツを、「尼崎」「大阪」「東京」という三つの場所で分けて語っている。
僕の中で、松本人志というのは本音を語らない人間だと思っていたんですけど、「松本紳助」という番組でその印象は変わりました。本作でも、かなり素直に本音を語っているように思えます。相方の浜田への言及では、言っていて恥ずかしいというようなこともあったかもだけど、でもちゃんと口にしてますね。それとも、大人になって少しは丸くなった、とか。
ダウンタウンが歩んできた道のりが、まあざっとおさらいできるような内容なんだけど、でもホント、今のお笑いの若手なんかよりも遥かに苦しい思いをしてここまで辿り着いたんだな、ということがよくわかります。常に自分達より前には誰もいなくて、パイオニアであり続け、後ろを通るものへと道を作っていったという意味では、本当に伝説的な二人だよな、と思ってしまいます。
松本の価値観というのは、やはり人とはちょっと違うような感じがするのだけど、本人としては普通のことを言っているつもりなわけで、まあそれはみんな同じなんでしょうけどね。みんな、自分は普通だと思っているわけで。
笑いというものに対するストイックさというか自信は、本当に強いんだな、と改めて思いました。自分の笑いというものを、松本は一瞬たりとも疑ったことはないようです。『このまま売れないかもしれない』と思ったことはあったけど、『俺らの笑いがつまらない』と思ったことは一度もないそうです。これまでやってきたことに失敗は一回もない、とも言っているし。すごいです、ホント。そこまで自信を持てるものを持っているというのが羨ましいですね。
松本のコントの作り方なんかを読んでいると、森博嗣という作家を思い出します。
松本は、コントをほとんど即興で作り上げるようです。というか、事前の打ち合わせはほとんどしないで、現場に言って始めてしまってから、さてどうするかとフル回転させるんだそうです。浜田との事前の打ち合わせでは、『どうしようか、まあとりあえずこれ言って始めよう。んで、これだけはとりあえず言って、あとこれ言って終わりな』ぐらいのもんだそうです。それであとは全部即興で、それで無茶苦茶面白いものを生み出してしまうわけです。
森博嗣という作家は基本ミステリを書くのだけど、パソコンの前に座るまで、作品のアイデアはまったくないそうです。でその状態から、とりあえず文章を書き始める。書きながら、次はどうしようかと考える。そんなやりかたで、精緻なミステリを書ききってしまうわけです。とにかく、天才というのはやることが無茶苦茶だよな、と思ったわけです。
そんなわけで、松本人志という生き方がまあ結構分かる、かつダウンタウンという歴史がまあ結構分かる一冊です。コアなファンとかなら読まなくても知ってるようなことばっかなのかもだけど、僕のような人間には面白い本でした。でもやっぱ、松本と島田紳助の「哲学」という本の方が面白かったかもしれないですね。あれはホント素晴らしい。まあ本作も、読んでみたら面白いと思います。
最後に、面白いなと思ったところを何点か抜き出して終わろうと思います。
(前略)
僕、この世界に入って、そのNSCの時の初舞台ー発表会みたいなとこで漫才やったときから、今日の今の今まで自分が一番おもろいと、ずっと思ってますから。絶対自分が一番やって、ずーっと。それは一回も疑ったことないんですよ。ただ、売れへんあkもしれんなと思ったことは何回もありますけど。
「俺、絶対才能ある、絶対誰にも負けてない、そんな才能のある人間がもし売れへんのやったら、もうこっちからこんな仕事、辞めたら」っていう。(後略)
(前略)
よう、若い奴がね、今日ネタですべったとかウケたとかいう話をしてると腹立ってくるんですよ。ネタなんてウケて当たり前やっていう。だって、それは自分らやる気あって才能もあると思って、二人でどうやったらウケるかって一生懸命考えた末に出て行くんやから、そりゃウケるやろ。そんなもんすべってどないするねん。それよりも、それ以外の部分で、即興でアドリブでしゃべってどんだけ笑い取れるかっていうところが、笑いの醍醐味でもあるんじゃないのか、って僕は思ってますから。
(後略)
(前略)職業は儲けるために頑張ればええんやけど、芸能人はそういうことじゃないから。職業であって職業じゃない。芸能人とかタレントとかいう言葉の中には、もちろんいい意味ですけど、期待を裏切るっていう意味も含まれてると僕は思うんです。でも、今のタレントって視聴者の期待に沿おうと思って必死なんですよ。「いかがでしかた?」みたいな、「お味、お口に合いましたあ?」みたいな。必死で期待に自分を近づけよう近づけようとしてる。そんなの、どんどん裏切っていかんと。(後略)
松本人志「松本坊主」
板尾日記(板尾創路)
昔見ていた番組に、「虎ノ門」というのがあった。深夜の番組で、井筒監督が自腹で映画を見に行く、「こちとら自腹じゃ」みたいなコーナーがあったりする番組だったけど、その中に「しりとり竜王戦」とうコーナーがあった。その中に出ていた人間の一人に、板尾がいた。
「しりとり竜王戦」というのはよくも悪くも単純なもので、ただしりとりをするだけなんだけど、でもその際に使える言葉にあるテーマがある。テーマと言ったって漠然としたものなんだけど、それにうまくボケながら面白い日本語を捻りだしていく、みたいな企画だった。
板尾というのはとにかく、日本語感覚の秀でた芸人だな、とその時に思った。とにかく、常人では思いつかないような言葉をポンポン放り出すのだ。それでいて、決して奇抜というわけではなく、エアポケット的というか、なるほどそこね、というような言葉が次々に出てきて、すごいなと思ったものである。
後板尾を見るのは、「ダウンダウンのガキの使いやあらへんで」でしょうか。最近は番組自体を見てないんだけど、「板尾の嫁」シリーズみたいなのもあって、それは板尾の嫁だという設定の外国人とその子供が無理矢理ダウンタウンらと絡む、みたいなやつで、シュールさが面白い。とにかく板尾というのはシュールさを究めつけたような芸人だ、という印象がある。
しかし、いつだって僕の中では、板尾は芸人である。それ以外の板尾を見たことがなかったし、知りもしなかった。
ただ、板尾というのはどうも、俳優としての側面が結構強いらしい。それは、本作を読んで初めて知ったことだ。映像作品をほとんど見ないので仕方ないともいえるけども、なるほど板尾というのは俳優でもあったのか、と不思議な感じがした。最近では、お笑い芸人が俳優をやるなんていうのは普通にあることだけど、でもそのイメージのなかった芸人が俳優をやっていると知るのは、なかなか変な感覚である。僕の中で、板尾はどうしたってバラエティの中での板尾としか存在しないので、どんな演技をするのか、少しだけ興味があったりもする。
まあ、写真を見る限り、ただのおっさんである。しかし、どうにも様々な才能があるらしい。歌詞のみを考える連載を持っていたり(いくつか本作にも収録されている)、映像監督をやったり脚本に絡んでみたり、舞台をやったり映画をやったり、あるいは芸術作品を出してみたり、とにかくいろんなことをやっている。元来僕は、芸人というのはある種の天才だと思っているのだけど、それが本作でさらに証明されたような気がする。芸人であるには、やはりあらゆる才能が求められるのだろうな、と感じたものだ。
ある意味で、お笑い芸人の中でもかなり異端である板尾という男が、一年間毎日コツコツと綴った日記。それが本作です。
というわけで内容に入ろうと思います。
さっき書いた通り本作は、板尾が2005年の1月1日から12月31日まで欠かさず毎日書き溜めた日記を本にしたものです。
一日一日の分量は結構少なくて、原稿用紙1枚あるかどうか。原稿用紙半分ぐらいの日もあったりという感じです。でも、とにかく毎日きちんと書いているというところがなかなか偉いのではないか、と思います。まあ、森博嗣という作家は、毎日欠かさずかなりの分量の日記を書いていますけど。
本作の初めのほうのページに写真があって、そこには板尾が手書きで書いていたらしい日記のノートがあります。今時手書きで日記を書くのはかなりレアな気がして、そこも面白いかもしれないですね。
でもまあ、全般的にはそんなに面白い作品ではないと思います。大体、何があってこうしてどうした、という内容で、たまに板尾自身があることについてこんな感じたという描写はあるけれども、僕が期待していたよりも少なかったなぁ、という感じです。僕としては、板尾の日常を知ることができなくなったとしても、板尾の変な発想や考えみたいなものを読めたらなと思っていたので、ちょっと期待はずれでした。ホント、普通の日記、という感じの内容ですね。
そういえば最近、よく見るサイトで、「日記というものは、それがたとえ公表を前提としていないものであっても、常になんらかの読者を前提とした形で書かれるものだ」というようなことが書いてあって、そうだよなぁ、と思いました。確かに、ネットではなくノートに手書きで日記を書くような場合にも、どうしても読者を想定してしまうような気がします。というかあれですね、恐らく将来自分が読み返した時のその自分を読者として想定しているような気もしますね。やはり、日記を書いているその時の自分と、後で読み返す時の自分は違う自分だ、というような意識がどこかにあるのかもしれませんね。
まあそんなわけで、あんまりオススメは出来ない作品です。板尾のファンだという人は読んでもいいと思いますけど、そうでない人が読んでも、あんまり楽しめないだろうな、と思います。
板尾創路「板尾日記」
「しりとり竜王戦」というのはよくも悪くも単純なもので、ただしりとりをするだけなんだけど、でもその際に使える言葉にあるテーマがある。テーマと言ったって漠然としたものなんだけど、それにうまくボケながら面白い日本語を捻りだしていく、みたいな企画だった。
板尾というのはとにかく、日本語感覚の秀でた芸人だな、とその時に思った。とにかく、常人では思いつかないような言葉をポンポン放り出すのだ。それでいて、決して奇抜というわけではなく、エアポケット的というか、なるほどそこね、というような言葉が次々に出てきて、すごいなと思ったものである。
後板尾を見るのは、「ダウンダウンのガキの使いやあらへんで」でしょうか。最近は番組自体を見てないんだけど、「板尾の嫁」シリーズみたいなのもあって、それは板尾の嫁だという設定の外国人とその子供が無理矢理ダウンタウンらと絡む、みたいなやつで、シュールさが面白い。とにかく板尾というのはシュールさを究めつけたような芸人だ、という印象がある。
しかし、いつだって僕の中では、板尾は芸人である。それ以外の板尾を見たことがなかったし、知りもしなかった。
ただ、板尾というのはどうも、俳優としての側面が結構強いらしい。それは、本作を読んで初めて知ったことだ。映像作品をほとんど見ないので仕方ないともいえるけども、なるほど板尾というのは俳優でもあったのか、と不思議な感じがした。最近では、お笑い芸人が俳優をやるなんていうのは普通にあることだけど、でもそのイメージのなかった芸人が俳優をやっていると知るのは、なかなか変な感覚である。僕の中で、板尾はどうしたってバラエティの中での板尾としか存在しないので、どんな演技をするのか、少しだけ興味があったりもする。
まあ、写真を見る限り、ただのおっさんである。しかし、どうにも様々な才能があるらしい。歌詞のみを考える連載を持っていたり(いくつか本作にも収録されている)、映像監督をやったり脚本に絡んでみたり、舞台をやったり映画をやったり、あるいは芸術作品を出してみたり、とにかくいろんなことをやっている。元来僕は、芸人というのはある種の天才だと思っているのだけど、それが本作でさらに証明されたような気がする。芸人であるには、やはりあらゆる才能が求められるのだろうな、と感じたものだ。
ある意味で、お笑い芸人の中でもかなり異端である板尾という男が、一年間毎日コツコツと綴った日記。それが本作です。
というわけで内容に入ろうと思います。
さっき書いた通り本作は、板尾が2005年の1月1日から12月31日まで欠かさず毎日書き溜めた日記を本にしたものです。
一日一日の分量は結構少なくて、原稿用紙1枚あるかどうか。原稿用紙半分ぐらいの日もあったりという感じです。でも、とにかく毎日きちんと書いているというところがなかなか偉いのではないか、と思います。まあ、森博嗣という作家は、毎日欠かさずかなりの分量の日記を書いていますけど。
本作の初めのほうのページに写真があって、そこには板尾が手書きで書いていたらしい日記のノートがあります。今時手書きで日記を書くのはかなりレアな気がして、そこも面白いかもしれないですね。
でもまあ、全般的にはそんなに面白い作品ではないと思います。大体、何があってこうしてどうした、という内容で、たまに板尾自身があることについてこんな感じたという描写はあるけれども、僕が期待していたよりも少なかったなぁ、という感じです。僕としては、板尾の日常を知ることができなくなったとしても、板尾の変な発想や考えみたいなものを読めたらなと思っていたので、ちょっと期待はずれでした。ホント、普通の日記、という感じの内容ですね。
そういえば最近、よく見るサイトで、「日記というものは、それがたとえ公表を前提としていないものであっても、常になんらかの読者を前提とした形で書かれるものだ」というようなことが書いてあって、そうだよなぁ、と思いました。確かに、ネットではなくノートに手書きで日記を書くような場合にも、どうしても読者を想定してしまうような気がします。というかあれですね、恐らく将来自分が読み返した時のその自分を読者として想定しているような気もしますね。やはり、日記を書いているその時の自分と、後で読み返す時の自分は違う自分だ、というような意識がどこかにあるのかもしれませんね。
まあそんなわけで、あんまりオススメは出来ない作品です。板尾のファンだという人は読んでもいいと思いますけど、そうでない人が読んでも、あんまり楽しめないだろうな、と思います。
板尾創路「板尾日記」
夜のピクニック(恩田陸)
『そうなんだよね。始まる前はもっと劇的なことがあるんじゃないかって思ってるんだけど、ただ歩いているだけだから何もないし、大部分は疲れてうんざりしてるのに、終わってみると楽しかったことしか覚えてない』
思い出というのは、最終的にどういうわけか、辛かったことは失われていき、楽しかったという部分だけが残る。どんなに辛い部分の多い経験であっても、楽しい部分が少しでも思い出されるのならば、その思い出は大部分が楽しかった記憶として蘇るのである。不思議なものだ。
僕の大学時代の話を書こうと思う。
僕は大学時代あるサークルに入っていたのだけど、そのサークルがもう尋常ではないくらい忙しかったのである。
一年生の頃は、もちろんいろいろ活動だのイベントだのがあって、それはそれで忙しいのだけど、自由参加なわけだし、責任も特にあるわけではないので、概ね辛かったということはない。まあどんなサークルでも、一年目から大変だということはあまりないだろう。
問題は、二年目である。この二年目の忙しさは、かつて経験したことがなかったものだし、また、ただ忙しいというだけでなく、精神的に激しく疲弊する期間でもあった。
その辛さについて語るとき、僕が常に言うことがある。それは、その二年生だった頃の一年間僕は、ずっと机で寝ていたということだ(正確には八ヶ月くらいだと思うけど)。
日々やらなくてはならないことに追われ、仕事は死ぬほどあって、でも授業にもちゃんと出たいし、また絶対に遅刻できないイベントが死ぬほどあったので、横になって寝てしまうのが怖かったのである。寝起きが悪いわけではなかったけど、それでも朝起きれなかった時の恐怖は想像するだけで恐ろしい、そんな環境であった。だからこそ僕は、まともに眠れないことを覚悟で、一年間机に突っ伏す形で睡眠を取り続けるという、まったくまともでないことをやり続けたのである。
これだけ聞くだけでも、充分にまともでないと分かるだろう。実際には、人間関係がこじれたり、利害の衝突があったり、仕事が終わらなかったり、状況が悪化したり、その悪化を食い止められなかったり、とにかく個別に説明するのは難しいのだけど、日々精神をすり減らすような毎日で、あれほど大変な一年間は、今後ありえないだろうと今でも思える。
しかし、今当時のことを思い出すとき、一番最初に浮かぶのは、楽しかったなぁ、ということである。冷静に考えて見れば、楽しかったことの方が少なかっただろうと思う。しかもその楽しいことだって、疲れきったテンションでバカなことをするだとか、どうにもならない状況を諦めるとか、ある種自虐的な楽しさが多かったような気もするわけで、辛さが常に背景にあった。
それでも、振り返る時はいつだって、楽しい思い出として蘇るのである。
辛かったこと一つ一つは、まあ友達と喋っていたりする中でいろいろ思い出すことが出来る。そうそう、あんなこともあったしこんなこともあった。しかしその一つ一つの辛いことというのが、総体としてのイメージにどうしても結びつかないのである。全体の印象はあくまで楽しかったというもので、むしろやってよかったとすら思えるほどだ。
こういうのを、思い出を美化するというのだろうか。
それまでの人生では僕は、辛いことをなるべく意識的に避けるようにして生きてきたと思う。なるべく先回りして辛いことを回避するという防衛本能だけで生きてきたような気がする。
しかしその辛かった一年間は本当に大変で、僕の能力をフルに使ってその防衛を試みたのだけど、しかしそれでも完全に辛いことから逃れることは出来なかったのである。
でもそのお陰でこうも感じた。結局、その時どんなに辛いと思っていても、後から思い返せば楽しい思い出に変わるのだな、と。むしろ、それを経験してよかったと思える日がいつかやってくるのだな、とすら思えるようになったのである。もちろん、だからと言って進んで辛いことを経験しようとは思わないのだけど、辛いことから逃げるという選択肢だけではないのだな、という風には思えたと思う。
人は、過去を記憶という形でしか持つことが出来ない。補助的に写真や文章などがその代わりになったりするけれども、記憶とそれらは本質的に違うものだ。
つまり、時間と共に変質するかしないか、という違いである。
写真や文章は、それ自体時間と共に変質しない。だからこそ価値があると人はいうのかもしれないけど、僕はそうではないと思う。
時間と共に変質するからこそ、人間の曖昧な記憶力に頼った思い出というものに価値があるのだと思う。
どんなに辛いことでも、時間の流れの中で楽しかった思い出に醸造してくれる記憶というものを、出来うる限り大切にしたいものだ、と思いました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
北高の高校最後の大イベント、歩行祭。
名前だけ聞けばのほほんとしたものに思えるが、中身は違う。かなりハードなイベントなのである。
朝っぱらから何度か休憩や仮眠を挟みながら、夜通し80キロを歩きとおすという、北高の伝統である歩行祭。修学旅行がない代わりのイベントであるが、卒業生は皆口を揃えて、修学旅行より歩行祭の方がいい、という。まあ、どっちも経験しているわけではないから本当は比べられないはずなんだけど。
今日はいよいよその歩行祭の当日だ。
西脇融は、親友である戸田忍と学校へ向かっている。高校最後のイベントだ、忍と一緒にゴールしたいのだけど、膝が保つだろうか…。歩行祭のラストはマラソンだ。記録を狙っている忍に迷惑を掛けられない。そんな思いに逡巡する朝であった。
一方、甲田貴子も、親友である美和子と共に学校に向かっている。抜けるような青空だ。家を出る直前まで持って来るかどうか迷っていた日焼け止め、やっぱ持ってくるんだったかな。
そんな迷いも一瞬、貴子は今日の歩行祭に思いを馳せる。
今日の歩行祭は、貴子にとって一つの賭けだ。三年間、誰にも言うことができなかった秘密。今日賭けに勝ったら、新しい一歩を踏み出そう。未だに、賭けに勝ちたいのかどうなのか、自分でもよくわからないのだけど。
全編、ただ歩いているだけのシーンの中で、受験を控えた高校生たちが小さなドラマを繰り広げる。歩行祭という日常ではない環境の中で、夜の闇に溶け込ますように誰もが自分をさらけ出していく。小さな奇跡が、歩行祭というイベントの中で咲き誇る。
というような話です。
僕は基本的に恩田陸は嫌いなんだけど、本作は傑作だと思いました。今まで読んだ恩田陸の作品の中でももちろんトップだし、今年読んだ本の中でもかなり上位に食い込む作品ですね。恩田陸を嫌いな僕としては悔しいとこだけれども、これは是非多くの人に読んでもらいたい作品です。
冒頭で自分の大学時代の話を書いたけど、この歩行祭というイベントも似たようなもので、どう考えても辛いですよね。僕は高校生の時、10キロのマラソンだったけどそれでも死にそうだったし、80キロと言えば車で走っても1時間は掛かるわけで、すごいものです。実際こんなことをやっている高校あるんだろうか?
ただ、読んでいてすごく羨ましくなりました。ちょっとこの歩行祭というのをやってみたい気がします。
たぶん、誰もが素直になれると思うんですね。本作の中では、登場人物達が歩行祭にかこつけていろんな思いを打ち明けるんだけど、そうしたくなる気持ちはすごくわかります。なんでも話せる気になるだろうし、何を話してもその瞬間だけは恥ずかしくないような気もするし、誰もが誰もを許せるようなそんな雰囲気になるような気がします。そいう状況は、日常生活の中ではまず間違いなく存在しないし、無理矢理作り出そうとしても作れるものではないので、そういう環境を与えられるというのは、すごく羨ましく思えます。最近の高校生は、修学旅行だと言って外国に行ったりするみたいだけど、そんなのよりもこっちの歩行祭の方が僕には断然羨ましく思えますね。本作のヒットで、歩行祭が高校でブームにならないだろうか、なんて思ったりするんだけど、まあないでしょうね。
自分が歩行祭に参加していたら、何を告白して、どんなことを考えて、どんな風景に何を思うのか考えてみるのも、本作を読む読み方としては面白いかなと思います。
本作には、事情があってお互いが過剰に意識し合っている男女というのが出てきます。詳しくは書かないのだけど、それは恋愛感情というわけでは全然なく、なんというかたとえは変かもしれないけど、反抗期の親と子のようなそんな微妙な意識の仕方をしている二人なんだけど、この関係というのがどうも自分もよくわかるような気がするわけです。
つまりそれが、僕と兄弟の関係ですね。
僕には、妹と弟がいるんですけど、ある時を境に(僕が中学生の頃だと思いますが)、まったく喋らなくなりました。きっかけが何だったのかは今となってはまったく思い出せませんが、それ以来、一つ屋根の下で暮らしていながらも会話を交わさないという兄弟になったわけで、今思えば、仲が悪いというのとも違うような気がするのだけど、なんともわかりません。
そのまま僕は実家を出て大学進学のために上京したので、兄弟と会話を交わさない期間というのはどんどん伸びていきました。僕にとっては、近くにいない存在なわけで、もういないようなものだったのだけど、つい最近祖父の葬式があった時に久しぶりに実家に戻って、兄弟とも久々に顔を合わせました。
僕とすれば、本作の意識し合っている男女のような状況で、いがみ合ってるわけでもないしそもそものきっかけを既に思い出せないわけで、だったら別にもう喋ればいいんじゃないかと自分でも思うのだけど、そうなかなかうまくいくもんではないわけです。生来人見知りでマイナス思考だということも関係あるわけだけど、自分から兄弟に話し掛けることができないわけですね。まあ、そうしたいのかどうかも自分ではよくわかっていなかったんだけど。
しかし、兄弟の方はどうも僕よりも大人だったようで、特に気負うこともなく僕に話し掛けてくるわけです。僕は、今でも親のことは嫌いなのだけど、兄弟のことは別にそうでもないので、まあうまく言葉を返せたかはわからないけど、それとなく会話をしたりしました。そうやって過去のことなどなかったかのように僕に話し掛けられる兄弟のことを、かなり羨ましく思ったりもしました。
事情は全然違うけど、雰囲気としては本作の二人と似ているな、と思いました。僕の場合、近くに兄弟がいるわけではないから普段意識することはないのだけど、近くにいる場合は大変だろうなと思います。僕も今、何らかの事情で兄弟が、例えば近くに引っ越してくるとか、同じ職場にやってくるとか、そんなことになったとしたら、どう反応するかわかりません。向こうは臆面もなく接してくるだろうけど、僕としてはやはり戸惑うことでしょう。
前にもどこかで書いたけど、僕には家族というのはちょっと距離が近すぎる関係で苦手です。でも、歩行祭みたいなものがあったら、そういうのもうまくほどけていきそうな気がするから不思議ですね。
本作は、ストーリー自体もすごくいいんだけど、断片的に交わされる会話の中にも、いいフレーズや面白い発想なんかがたくさんあって、とってもいい感じです。
特に、友人の誰かをきちんと言葉で表現するというシーンが結構出てきて、それがすごく的確に感じられるから楽しいし、しかも特徴的な登場人物がいろいろ出てくるから、自分に似ているキャラクターも割といるんではないかと思います。僕は、まあモテるという点以外では、西脇融に似てるかな、と思いますね。西脇融を評したいくつかの言葉の中に、ドキリとするものもいくつかあって、不思議な感じがしました。
また途中のどこかで、引き算の優しさというものについてちょっと語っている部分があって、それもよかったですね。大抵若いうちの優しさって言うのはプラスの優しさ、つまり何かをしてあげる優しさなんだけど、お前は引き算の優しさだよな。何にもしない優しさって言うのが大人っぽいんだ、みたいな会話があって、友人同士をそうやって評することができるのっていいなぁ、なんて思ったりしました。
キャラクターはさっき言ったようにいろいろ出てくるし、好きなキャラクターも嫌いなキャラクターもいるだろうけど、僕が一番好きなキャラクターは、高見光一郎ですね。この男、ロックに溺れた男で、毎晩明け方までロックを聞いているから昼間はもう死んだように静かなんだけど、夜になると死ぬほどハイテンションになるという狂った男で、でも憎めない奴なんだよなぁ。歩行祭の前日だというのにほとんど寝ないで参加し、当然昼間は瀕死状態。なのに、夜になると突然復活で、みんなに煙たがられながらもうるさく関わろうとする辺り、なんというか面白いなぁ、と思いました。
あと、順弥という少年が出てくるんだけど、この少年もなかなかいいですね。ああいう人懐っこさは、僕には永久に備わらないものなので、羨ましく思えてしまいますね。
ホントはもっといろいろ書けそうな気がするんだけど、この辺で止めておく事にします。とにかく、読んでみてください。世の中には、売れてる本は読まない、みたいな天邪鬼がいると思うんだけど、いやいやそんなこと言わずに、是非どうぞ。恩田陸が嫌いな僕がこれほどオススメするのだから、恩田陸が好きな人も嫌いな人も、あるいは読んだことない人も、是非読んでみてください。映画はどうか知らないけど、原作はとってもいいですね。オススメです!
恩田陸「夜のピクニック」
思い出というのは、最終的にどういうわけか、辛かったことは失われていき、楽しかったという部分だけが残る。どんなに辛い部分の多い経験であっても、楽しい部分が少しでも思い出されるのならば、その思い出は大部分が楽しかった記憶として蘇るのである。不思議なものだ。
僕の大学時代の話を書こうと思う。
僕は大学時代あるサークルに入っていたのだけど、そのサークルがもう尋常ではないくらい忙しかったのである。
一年生の頃は、もちろんいろいろ活動だのイベントだのがあって、それはそれで忙しいのだけど、自由参加なわけだし、責任も特にあるわけではないので、概ね辛かったということはない。まあどんなサークルでも、一年目から大変だということはあまりないだろう。
問題は、二年目である。この二年目の忙しさは、かつて経験したことがなかったものだし、また、ただ忙しいというだけでなく、精神的に激しく疲弊する期間でもあった。
その辛さについて語るとき、僕が常に言うことがある。それは、その二年生だった頃の一年間僕は、ずっと机で寝ていたということだ(正確には八ヶ月くらいだと思うけど)。
日々やらなくてはならないことに追われ、仕事は死ぬほどあって、でも授業にもちゃんと出たいし、また絶対に遅刻できないイベントが死ぬほどあったので、横になって寝てしまうのが怖かったのである。寝起きが悪いわけではなかったけど、それでも朝起きれなかった時の恐怖は想像するだけで恐ろしい、そんな環境であった。だからこそ僕は、まともに眠れないことを覚悟で、一年間机に突っ伏す形で睡眠を取り続けるという、まったくまともでないことをやり続けたのである。
これだけ聞くだけでも、充分にまともでないと分かるだろう。実際には、人間関係がこじれたり、利害の衝突があったり、仕事が終わらなかったり、状況が悪化したり、その悪化を食い止められなかったり、とにかく個別に説明するのは難しいのだけど、日々精神をすり減らすような毎日で、あれほど大変な一年間は、今後ありえないだろうと今でも思える。
しかし、今当時のことを思い出すとき、一番最初に浮かぶのは、楽しかったなぁ、ということである。冷静に考えて見れば、楽しかったことの方が少なかっただろうと思う。しかもその楽しいことだって、疲れきったテンションでバカなことをするだとか、どうにもならない状況を諦めるとか、ある種自虐的な楽しさが多かったような気もするわけで、辛さが常に背景にあった。
それでも、振り返る時はいつだって、楽しい思い出として蘇るのである。
辛かったこと一つ一つは、まあ友達と喋っていたりする中でいろいろ思い出すことが出来る。そうそう、あんなこともあったしこんなこともあった。しかしその一つ一つの辛いことというのが、総体としてのイメージにどうしても結びつかないのである。全体の印象はあくまで楽しかったというもので、むしろやってよかったとすら思えるほどだ。
こういうのを、思い出を美化するというのだろうか。
それまでの人生では僕は、辛いことをなるべく意識的に避けるようにして生きてきたと思う。なるべく先回りして辛いことを回避するという防衛本能だけで生きてきたような気がする。
しかしその辛かった一年間は本当に大変で、僕の能力をフルに使ってその防衛を試みたのだけど、しかしそれでも完全に辛いことから逃れることは出来なかったのである。
でもそのお陰でこうも感じた。結局、その時どんなに辛いと思っていても、後から思い返せば楽しい思い出に変わるのだな、と。むしろ、それを経験してよかったと思える日がいつかやってくるのだな、とすら思えるようになったのである。もちろん、だからと言って進んで辛いことを経験しようとは思わないのだけど、辛いことから逃げるという選択肢だけではないのだな、という風には思えたと思う。
人は、過去を記憶という形でしか持つことが出来ない。補助的に写真や文章などがその代わりになったりするけれども、記憶とそれらは本質的に違うものだ。
つまり、時間と共に変質するかしないか、という違いである。
写真や文章は、それ自体時間と共に変質しない。だからこそ価値があると人はいうのかもしれないけど、僕はそうではないと思う。
時間と共に変質するからこそ、人間の曖昧な記憶力に頼った思い出というものに価値があるのだと思う。
どんなに辛いことでも、時間の流れの中で楽しかった思い出に醸造してくれる記憶というものを、出来うる限り大切にしたいものだ、と思いました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
北高の高校最後の大イベント、歩行祭。
名前だけ聞けばのほほんとしたものに思えるが、中身は違う。かなりハードなイベントなのである。
朝っぱらから何度か休憩や仮眠を挟みながら、夜通し80キロを歩きとおすという、北高の伝統である歩行祭。修学旅行がない代わりのイベントであるが、卒業生は皆口を揃えて、修学旅行より歩行祭の方がいい、という。まあ、どっちも経験しているわけではないから本当は比べられないはずなんだけど。
今日はいよいよその歩行祭の当日だ。
西脇融は、親友である戸田忍と学校へ向かっている。高校最後のイベントだ、忍と一緒にゴールしたいのだけど、膝が保つだろうか…。歩行祭のラストはマラソンだ。記録を狙っている忍に迷惑を掛けられない。そんな思いに逡巡する朝であった。
一方、甲田貴子も、親友である美和子と共に学校に向かっている。抜けるような青空だ。家を出る直前まで持って来るかどうか迷っていた日焼け止め、やっぱ持ってくるんだったかな。
そんな迷いも一瞬、貴子は今日の歩行祭に思いを馳せる。
今日の歩行祭は、貴子にとって一つの賭けだ。三年間、誰にも言うことができなかった秘密。今日賭けに勝ったら、新しい一歩を踏み出そう。未だに、賭けに勝ちたいのかどうなのか、自分でもよくわからないのだけど。
全編、ただ歩いているだけのシーンの中で、受験を控えた高校生たちが小さなドラマを繰り広げる。歩行祭という日常ではない環境の中で、夜の闇に溶け込ますように誰もが自分をさらけ出していく。小さな奇跡が、歩行祭というイベントの中で咲き誇る。
というような話です。
僕は基本的に恩田陸は嫌いなんだけど、本作は傑作だと思いました。今まで読んだ恩田陸の作品の中でももちろんトップだし、今年読んだ本の中でもかなり上位に食い込む作品ですね。恩田陸を嫌いな僕としては悔しいとこだけれども、これは是非多くの人に読んでもらいたい作品です。
冒頭で自分の大学時代の話を書いたけど、この歩行祭というイベントも似たようなもので、どう考えても辛いですよね。僕は高校生の時、10キロのマラソンだったけどそれでも死にそうだったし、80キロと言えば車で走っても1時間は掛かるわけで、すごいものです。実際こんなことをやっている高校あるんだろうか?
ただ、読んでいてすごく羨ましくなりました。ちょっとこの歩行祭というのをやってみたい気がします。
たぶん、誰もが素直になれると思うんですね。本作の中では、登場人物達が歩行祭にかこつけていろんな思いを打ち明けるんだけど、そうしたくなる気持ちはすごくわかります。なんでも話せる気になるだろうし、何を話してもその瞬間だけは恥ずかしくないような気もするし、誰もが誰もを許せるようなそんな雰囲気になるような気がします。そいう状況は、日常生活の中ではまず間違いなく存在しないし、無理矢理作り出そうとしても作れるものではないので、そういう環境を与えられるというのは、すごく羨ましく思えます。最近の高校生は、修学旅行だと言って外国に行ったりするみたいだけど、そんなのよりもこっちの歩行祭の方が僕には断然羨ましく思えますね。本作のヒットで、歩行祭が高校でブームにならないだろうか、なんて思ったりするんだけど、まあないでしょうね。
自分が歩行祭に参加していたら、何を告白して、どんなことを考えて、どんな風景に何を思うのか考えてみるのも、本作を読む読み方としては面白いかなと思います。
本作には、事情があってお互いが過剰に意識し合っている男女というのが出てきます。詳しくは書かないのだけど、それは恋愛感情というわけでは全然なく、なんというかたとえは変かもしれないけど、反抗期の親と子のようなそんな微妙な意識の仕方をしている二人なんだけど、この関係というのがどうも自分もよくわかるような気がするわけです。
つまりそれが、僕と兄弟の関係ですね。
僕には、妹と弟がいるんですけど、ある時を境に(僕が中学生の頃だと思いますが)、まったく喋らなくなりました。きっかけが何だったのかは今となってはまったく思い出せませんが、それ以来、一つ屋根の下で暮らしていながらも会話を交わさないという兄弟になったわけで、今思えば、仲が悪いというのとも違うような気がするのだけど、なんともわかりません。
そのまま僕は実家を出て大学進学のために上京したので、兄弟と会話を交わさない期間というのはどんどん伸びていきました。僕にとっては、近くにいない存在なわけで、もういないようなものだったのだけど、つい最近祖父の葬式があった時に久しぶりに実家に戻って、兄弟とも久々に顔を合わせました。
僕とすれば、本作の意識し合っている男女のような状況で、いがみ合ってるわけでもないしそもそものきっかけを既に思い出せないわけで、だったら別にもう喋ればいいんじゃないかと自分でも思うのだけど、そうなかなかうまくいくもんではないわけです。生来人見知りでマイナス思考だということも関係あるわけだけど、自分から兄弟に話し掛けることができないわけですね。まあ、そうしたいのかどうかも自分ではよくわかっていなかったんだけど。
しかし、兄弟の方はどうも僕よりも大人だったようで、特に気負うこともなく僕に話し掛けてくるわけです。僕は、今でも親のことは嫌いなのだけど、兄弟のことは別にそうでもないので、まあうまく言葉を返せたかはわからないけど、それとなく会話をしたりしました。そうやって過去のことなどなかったかのように僕に話し掛けられる兄弟のことを、かなり羨ましく思ったりもしました。
事情は全然違うけど、雰囲気としては本作の二人と似ているな、と思いました。僕の場合、近くに兄弟がいるわけではないから普段意識することはないのだけど、近くにいる場合は大変だろうなと思います。僕も今、何らかの事情で兄弟が、例えば近くに引っ越してくるとか、同じ職場にやってくるとか、そんなことになったとしたら、どう反応するかわかりません。向こうは臆面もなく接してくるだろうけど、僕としてはやはり戸惑うことでしょう。
前にもどこかで書いたけど、僕には家族というのはちょっと距離が近すぎる関係で苦手です。でも、歩行祭みたいなものがあったら、そういうのもうまくほどけていきそうな気がするから不思議ですね。
本作は、ストーリー自体もすごくいいんだけど、断片的に交わされる会話の中にも、いいフレーズや面白い発想なんかがたくさんあって、とってもいい感じです。
特に、友人の誰かをきちんと言葉で表現するというシーンが結構出てきて、それがすごく的確に感じられるから楽しいし、しかも特徴的な登場人物がいろいろ出てくるから、自分に似ているキャラクターも割といるんではないかと思います。僕は、まあモテるという点以外では、西脇融に似てるかな、と思いますね。西脇融を評したいくつかの言葉の中に、ドキリとするものもいくつかあって、不思議な感じがしました。
また途中のどこかで、引き算の優しさというものについてちょっと語っている部分があって、それもよかったですね。大抵若いうちの優しさって言うのはプラスの優しさ、つまり何かをしてあげる優しさなんだけど、お前は引き算の優しさだよな。何にもしない優しさって言うのが大人っぽいんだ、みたいな会話があって、友人同士をそうやって評することができるのっていいなぁ、なんて思ったりしました。
キャラクターはさっき言ったようにいろいろ出てくるし、好きなキャラクターも嫌いなキャラクターもいるだろうけど、僕が一番好きなキャラクターは、高見光一郎ですね。この男、ロックに溺れた男で、毎晩明け方までロックを聞いているから昼間はもう死んだように静かなんだけど、夜になると死ぬほどハイテンションになるという狂った男で、でも憎めない奴なんだよなぁ。歩行祭の前日だというのにほとんど寝ないで参加し、当然昼間は瀕死状態。なのに、夜になると突然復活で、みんなに煙たがられながらもうるさく関わろうとする辺り、なんというか面白いなぁ、と思いました。
あと、順弥という少年が出てくるんだけど、この少年もなかなかいいですね。ああいう人懐っこさは、僕には永久に備わらないものなので、羨ましく思えてしまいますね。
ホントはもっといろいろ書けそうな気がするんだけど、この辺で止めておく事にします。とにかく、読んでみてください。世の中には、売れてる本は読まない、みたいな天邪鬼がいると思うんだけど、いやいやそんなこと言わずに、是非どうぞ。恩田陸が嫌いな僕がこれほどオススメするのだから、恩田陸が好きな人も嫌いな人も、あるいは読んだことない人も、是非読んでみてください。映画はどうか知らないけど、原作はとってもいいですね。オススメです!
恩田陸「夜のピクニック」
陰脳録(筒井康隆)
あまり気は進まないのだけど、性欲だとかについて書いてみようと思う。おおっぴらに書くようなことではないと思うのだけど、本作のテーマがどう間違って解釈したって性欲だとかセックスだとかなわけだから、まあ仕方ないのである。
さて何を書けばいいのか悩むところだけど、僕はたぶんだけど、他の人より性欲は薄い(薄いという表現で正しいのかわからないけど)のではないか、と思っている。
うーむ、しかしこれはどうにも比較できるものがないので難しいのだけど。
ただ、セックスはめんどくさいなぁ、と思ってしまう。たぶんこれも誤解を招くような書き方なんだろうけど、好きとか嫌いとかで言うなら、嫌いの方に近くなるかもしれないなぁ、という感じである。うまく説明できないのだけど。
友人にそんなことを言ってみると、反応は二分する。セックスがめんどくさいなんてありえない、という反応は当然ある。友人には風俗に行っていたりする人間もいるわけで(僕はまあ当然行ったことはないのだけど)、まあというか男としてはそれが普通なのかもしれない。
しかし僕と同じように、セックスがめんどくさいという意見に共感してくれる人間もいたりする。なんというか、あまり深く突っ込んで会話をする内容でもないので、詳しく聞いたわけではないのだけど、同じような考えをする人間はいるらしい。
まあなんというか、不思議なものである。
世の中には例えば、セックス的なものがないと生きていけない、という人だっているだろう。だから風俗に行ったり、彼氏彼女を積極的に求めたり、なんていうことをする。まあそういうのは普通だと思うし、それが普通でなくてはおかしいんだろうな、とは思う。僕としてはどうでもいいことだけど、出生率も下がってるみたいだし。「行列の出来る法律相談所」の橋本弁護士みたいに、子供が6人もいるなんていうのはもう珍しくなっている。
さてしかし、セックス的なものに淡白になりつつあるというのも、ある種社会的な流れだろうと思う。
セックスレス、という言葉がいつから生まれたか僕は知らないけど、何年もセックスをしない夫婦がいるみたいな話が割と問題になったりする。それが、誰にとっての問題なのか、という点はよくわからないのだけど。
セックスに関する考え方が変わっていったのであろう。
それは僕なりに考えるに、性が段々とオープンになっていったことと関係があるのだと思う。
例えば、今ほど性がオープンでなかった時代には、そういう情報を集めることも一苦労だっただろうし、また、結婚までセックスをしないというのが普通だっただろうから、セックスをできる環境というのがかなり制限されていたわけだ。
つまりそこには、神秘性があったわけだ。その神秘を苦労して解き明かし、ついに解明できた、というような悦びが、セックスというものにはあったのだと思う。
しかし今では、その神秘性は既になくなってしまっている。どんな情報であれインターネットを使えばすぐに見つけられるし、やろうと思えばセックスをする相手を見つけることはそう難しいことではない。今ではセックスは何かの手段にすらなっているわけで、セックスのためにセックスをするということそのものが薄れてきているのだと思う。だから、それに興味を抱く人間が減っている、と考えてもおかしくないと思う。
例えばだけどすごく変な喩えだけど、ツチノコというものに似ていると思う。昔のセックスはツチノコのようなもので、誰かが見たという情報は聞くけど自分で目にしたことはないし、また写真があるわけでもない。情報を得ようとしても困難だし、でも探し出したらすごくいいこと(ツチノコの場合は賞金がもらえるし、セックスの場合は快楽がある)がある。割と共通項があるとは思わないだろうか。だから人はツチノコを探すし、セックスを求めるのである。
しかし今は、ツチノコの正体が解明されてしまっているのである。写真もバッチリあるし図鑑にも載ってるし、何度も自分の目で見ているし捕まえもした。捕まえたところで賞金をくれる人はいないわけで、そうなるとだれもツチノコなんか探すわけがないのである。
あーやっぱうまい喩えではなかったけど、そうではないかと思う。
これからさらに性が解放されるにつれて、セックスについての人々のあり方はどんどんと差が開いていくだろう。セックスが好きだという人には、どんどんといい時代になっていくに違いない。しかし一方で、セックスをめんどくさいと思う勢力が次第に増えていくことだろう。わからないけど、僕はそう思う。
一応最後に書いておこうかな。僕は別にセックスをしたくないというわけではないのだけど、そのしたいというのが人並み以下なんじゃないかな、ということである。やはりこの感覚については説明しづらいので、誤解されそうだけど。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は筒井康隆の短編集で、テーマはとにかくセックスです。いろんな性の形をとにかくいろんな形で書いている作品を集めたもので、まあなんというか、よくこんなにいろいろ思いつくものだな、という感じです。
というわけでとりあえず、それぞれ内容を紹介しようと思います。
「欠陥バスの突撃」
これは是非、説明なしで読んで欲しいので、内容の紹介は避けましょう。読み始めは、これはなんなんだろうと思ったのだけど、読んでいくとわかります。これは発想も面白いし、なるほどなという感じがします。オチはよくわからないけど。
「郵性省」
オナニーをしていた少年は、そのイク瞬間に何故か、頭に思い浮かべたガールフレンドの家へとテレポーテーションしてしまった。そのせいで彼女から軽蔑されることになったのだが、その超常現象に目をつけた博士がこれをオナポートと呼び、誰にでもできる能力だということで世の中に広めてしまったのだが…。
「脱ぐ」
自分の肉体に自信はあるのだけど、周囲の人間を誘惑してはと必要以上に肌を見せることを自制している女性の胸元に、突然腕が生えてきた。この腕は、彼女が人前で服を脱いでしまいたいという欲望と戦っている時に現れ、ブラジャーや服を脱がしたりしようとするのである…。
「活性アポロイド」
手の中で握っているだけで快感が襲ってきて失神するというボールを開発してしまった少年。初めのうちは周囲にこそこそ売っているだけだったのに、そのうちに世の中に広まっていって…。
「弁天さま」
我が家にあの弁天さまがやってきた。もうべらぼうの美人である。弁天さまは、願い事を叶えてあげよう、とうやってきたのだけど、その条件が一つあるという。それは、弁天さまとセックスをするということ。こうして男は、妻と子供の目の前で、美貌の弁天さまとセックスをすることになったのだけど…。
「泣き語り性教育」
女子生徒にしどろもどろになりながら性教育をしようとしている校長だが、自らの短小やインポを隠すために事実を捻じ曲げていると女生徒から追求されて泣いてしまう。女生徒たちは、校長の短小インポをなんとかしてあげようと手を尽くすのだけど…。
「君発ちて後」
夫が失踪してしまった。夫との性行為が突然なくなってしまった妻は、夫に戻ってきて欲しい一心で探偵の真似事をすることに。彼女に言い寄る男は多いのだけどそれを全部振り払って夫を探す彼女。しかし夫の行方はなかなか知れず…。
「陰脳録」
お風呂の栓を抜き、そこにお尻の穴をあてがうことで気持ちよさをいつも満喫していたのだけど、ある日ふと油断したからか、そのお風呂の栓に、キンタマが入り込んでしまった。動けば激痛、抜けない。水道の水が出っ放しで水位は上がるわで、このままでは溺れ死んでしまう…。
「睡魔の夏」
眠るということが恥ずかしいことだと世間で思われるようになってしまった世の中。もう仕事を32時間もぶっ続けでしている男は、それでもない休みたいと言い出せない。
「ホルモン」
ホルモンに関するあらゆる記事を繋ぎ合わせて物語を生み出している作品。
「奇ッ怪陋劣潜望鏡」
童貞と処女同士が結婚しての初夜。それはもう病気かと思うくらい激しいセックスになったのだけど、その翌日、海に出かけたところ、海上にいくつもの潜望鏡が見える。次第に、水のあるところにならどこにでも潜望鏡が現れるようになって…。
「モダン・シュニッツラー」
人間と機械、人間と動物、機械とプログラミングなど、あらゆる形のセックスを描いている作品。
「オナンの末裔」
生まれてこの方オナニーをしたことがないという男。それを話すと、しなきゃだめだ、と言われる。言われたからやってみるものの、うまくいかない。想像する女がエロチックなこととはかけ離れた動きをするからだ。まあいいや、オナニーは難しい…。
「進行性遅感症」
食事の味が分からないという悩みを持つ女性だが、ある日食事をしたちょうど17時間後にその味が知覚される、ということがあった。不思議なものだけど、気にしないことにした。また別のある日、彼女の部屋に男が押し入ってきて、彼女を陵辱した。彼女は感じないようにしようと踏ん張ったため、男も諦めて帰っていったのだけど…。
大体こんな感じです。
面白いなと思ったのは、「欠陥バスの突撃」「郵性省」「弁天さま」「陰脳録」「奇ッ怪陋劣潜望鏡」「進行性遅感症」ですかね。でも、全般的に発想が面白いものが多くて、楽しめる短編集でした。少なくともちょっと前に読んだ、「日本以外全部沈没」よりは全然面白かったですね。
しかしまあ、解説でも書いていたけど、古さを感じさせない作品だな、と思います。それぞれ、もう大分前に発表された作品のはずで(20年前とかそんな感じではないだろうか。わからないけど)、でも、これだけ性に関しては世の中大きく変わったというのに、今読んでも全然古くないわけで、ある種の普遍性というものが備わっているのかなぁ、と思ったりもしました。筒井康隆という作家は、安易なリアリティを好まなかったようだけど、恐らくそのお陰で、現代でも通用する作品になっているのだろうな、と思います。
そう、誰かの何かの作品に似ていると思っていたのだけど思い出しました。東野圭吾の「黒笑小説」に似てるんですね。ブラックでちょっぴちエロチックで、どっちも面白い作品だったなぁ、と思います。
表紙はどうもセンスがないけど、面白い作品でした。これは読んでみてもいいと思います。
筒井康隆「陰脳録」
さて何を書けばいいのか悩むところだけど、僕はたぶんだけど、他の人より性欲は薄い(薄いという表現で正しいのかわからないけど)のではないか、と思っている。
うーむ、しかしこれはどうにも比較できるものがないので難しいのだけど。
ただ、セックスはめんどくさいなぁ、と思ってしまう。たぶんこれも誤解を招くような書き方なんだろうけど、好きとか嫌いとかで言うなら、嫌いの方に近くなるかもしれないなぁ、という感じである。うまく説明できないのだけど。
友人にそんなことを言ってみると、反応は二分する。セックスがめんどくさいなんてありえない、という反応は当然ある。友人には風俗に行っていたりする人間もいるわけで(僕はまあ当然行ったことはないのだけど)、まあというか男としてはそれが普通なのかもしれない。
しかし僕と同じように、セックスがめんどくさいという意見に共感してくれる人間もいたりする。なんというか、あまり深く突っ込んで会話をする内容でもないので、詳しく聞いたわけではないのだけど、同じような考えをする人間はいるらしい。
まあなんというか、不思議なものである。
世の中には例えば、セックス的なものがないと生きていけない、という人だっているだろう。だから風俗に行ったり、彼氏彼女を積極的に求めたり、なんていうことをする。まあそういうのは普通だと思うし、それが普通でなくてはおかしいんだろうな、とは思う。僕としてはどうでもいいことだけど、出生率も下がってるみたいだし。「行列の出来る法律相談所」の橋本弁護士みたいに、子供が6人もいるなんていうのはもう珍しくなっている。
さてしかし、セックス的なものに淡白になりつつあるというのも、ある種社会的な流れだろうと思う。
セックスレス、という言葉がいつから生まれたか僕は知らないけど、何年もセックスをしない夫婦がいるみたいな話が割と問題になったりする。それが、誰にとっての問題なのか、という点はよくわからないのだけど。
セックスに関する考え方が変わっていったのであろう。
それは僕なりに考えるに、性が段々とオープンになっていったことと関係があるのだと思う。
例えば、今ほど性がオープンでなかった時代には、そういう情報を集めることも一苦労だっただろうし、また、結婚までセックスをしないというのが普通だっただろうから、セックスをできる環境というのがかなり制限されていたわけだ。
つまりそこには、神秘性があったわけだ。その神秘を苦労して解き明かし、ついに解明できた、というような悦びが、セックスというものにはあったのだと思う。
しかし今では、その神秘性は既になくなってしまっている。どんな情報であれインターネットを使えばすぐに見つけられるし、やろうと思えばセックスをする相手を見つけることはそう難しいことではない。今ではセックスは何かの手段にすらなっているわけで、セックスのためにセックスをするということそのものが薄れてきているのだと思う。だから、それに興味を抱く人間が減っている、と考えてもおかしくないと思う。
例えばだけどすごく変な喩えだけど、ツチノコというものに似ていると思う。昔のセックスはツチノコのようなもので、誰かが見たという情報は聞くけど自分で目にしたことはないし、また写真があるわけでもない。情報を得ようとしても困難だし、でも探し出したらすごくいいこと(ツチノコの場合は賞金がもらえるし、セックスの場合は快楽がある)がある。割と共通項があるとは思わないだろうか。だから人はツチノコを探すし、セックスを求めるのである。
しかし今は、ツチノコの正体が解明されてしまっているのである。写真もバッチリあるし図鑑にも載ってるし、何度も自分の目で見ているし捕まえもした。捕まえたところで賞金をくれる人はいないわけで、そうなるとだれもツチノコなんか探すわけがないのである。
あーやっぱうまい喩えではなかったけど、そうではないかと思う。
これからさらに性が解放されるにつれて、セックスについての人々のあり方はどんどんと差が開いていくだろう。セックスが好きだという人には、どんどんといい時代になっていくに違いない。しかし一方で、セックスをめんどくさいと思う勢力が次第に増えていくことだろう。わからないけど、僕はそう思う。
一応最後に書いておこうかな。僕は別にセックスをしたくないというわけではないのだけど、そのしたいというのが人並み以下なんじゃないかな、ということである。やはりこの感覚については説明しづらいので、誤解されそうだけど。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は筒井康隆の短編集で、テーマはとにかくセックスです。いろんな性の形をとにかくいろんな形で書いている作品を集めたもので、まあなんというか、よくこんなにいろいろ思いつくものだな、という感じです。
というわけでとりあえず、それぞれ内容を紹介しようと思います。
「欠陥バスの突撃」
これは是非、説明なしで読んで欲しいので、内容の紹介は避けましょう。読み始めは、これはなんなんだろうと思ったのだけど、読んでいくとわかります。これは発想も面白いし、なるほどなという感じがします。オチはよくわからないけど。
「郵性省」
オナニーをしていた少年は、そのイク瞬間に何故か、頭に思い浮かべたガールフレンドの家へとテレポーテーションしてしまった。そのせいで彼女から軽蔑されることになったのだが、その超常現象に目をつけた博士がこれをオナポートと呼び、誰にでもできる能力だということで世の中に広めてしまったのだが…。
「脱ぐ」
自分の肉体に自信はあるのだけど、周囲の人間を誘惑してはと必要以上に肌を見せることを自制している女性の胸元に、突然腕が生えてきた。この腕は、彼女が人前で服を脱いでしまいたいという欲望と戦っている時に現れ、ブラジャーや服を脱がしたりしようとするのである…。
「活性アポロイド」
手の中で握っているだけで快感が襲ってきて失神するというボールを開発してしまった少年。初めのうちは周囲にこそこそ売っているだけだったのに、そのうちに世の中に広まっていって…。
「弁天さま」
我が家にあの弁天さまがやってきた。もうべらぼうの美人である。弁天さまは、願い事を叶えてあげよう、とうやってきたのだけど、その条件が一つあるという。それは、弁天さまとセックスをするということ。こうして男は、妻と子供の目の前で、美貌の弁天さまとセックスをすることになったのだけど…。
「泣き語り性教育」
女子生徒にしどろもどろになりながら性教育をしようとしている校長だが、自らの短小やインポを隠すために事実を捻じ曲げていると女生徒から追求されて泣いてしまう。女生徒たちは、校長の短小インポをなんとかしてあげようと手を尽くすのだけど…。
「君発ちて後」
夫が失踪してしまった。夫との性行為が突然なくなってしまった妻は、夫に戻ってきて欲しい一心で探偵の真似事をすることに。彼女に言い寄る男は多いのだけどそれを全部振り払って夫を探す彼女。しかし夫の行方はなかなか知れず…。
「陰脳録」
お風呂の栓を抜き、そこにお尻の穴をあてがうことで気持ちよさをいつも満喫していたのだけど、ある日ふと油断したからか、そのお風呂の栓に、キンタマが入り込んでしまった。動けば激痛、抜けない。水道の水が出っ放しで水位は上がるわで、このままでは溺れ死んでしまう…。
「睡魔の夏」
眠るということが恥ずかしいことだと世間で思われるようになってしまった世の中。もう仕事を32時間もぶっ続けでしている男は、それでもない休みたいと言い出せない。
「ホルモン」
ホルモンに関するあらゆる記事を繋ぎ合わせて物語を生み出している作品。
「奇ッ怪陋劣潜望鏡」
童貞と処女同士が結婚しての初夜。それはもう病気かと思うくらい激しいセックスになったのだけど、その翌日、海に出かけたところ、海上にいくつもの潜望鏡が見える。次第に、水のあるところにならどこにでも潜望鏡が現れるようになって…。
「モダン・シュニッツラー」
人間と機械、人間と動物、機械とプログラミングなど、あらゆる形のセックスを描いている作品。
「オナンの末裔」
生まれてこの方オナニーをしたことがないという男。それを話すと、しなきゃだめだ、と言われる。言われたからやってみるものの、うまくいかない。想像する女がエロチックなこととはかけ離れた動きをするからだ。まあいいや、オナニーは難しい…。
「進行性遅感症」
食事の味が分からないという悩みを持つ女性だが、ある日食事をしたちょうど17時間後にその味が知覚される、ということがあった。不思議なものだけど、気にしないことにした。また別のある日、彼女の部屋に男が押し入ってきて、彼女を陵辱した。彼女は感じないようにしようと踏ん張ったため、男も諦めて帰っていったのだけど…。
大体こんな感じです。
面白いなと思ったのは、「欠陥バスの突撃」「郵性省」「弁天さま」「陰脳録」「奇ッ怪陋劣潜望鏡」「進行性遅感症」ですかね。でも、全般的に発想が面白いものが多くて、楽しめる短編集でした。少なくともちょっと前に読んだ、「日本以外全部沈没」よりは全然面白かったですね。
しかしまあ、解説でも書いていたけど、古さを感じさせない作品だな、と思います。それぞれ、もう大分前に発表された作品のはずで(20年前とかそんな感じではないだろうか。わからないけど)、でも、これだけ性に関しては世の中大きく変わったというのに、今読んでも全然古くないわけで、ある種の普遍性というものが備わっているのかなぁ、と思ったりもしました。筒井康隆という作家は、安易なリアリティを好まなかったようだけど、恐らくそのお陰で、現代でも通用する作品になっているのだろうな、と思います。
そう、誰かの何かの作品に似ていると思っていたのだけど思い出しました。東野圭吾の「黒笑小説」に似てるんですね。ブラックでちょっぴちエロチックで、どっちも面白い作品だったなぁ、と思います。
表紙はどうもセンスがないけど、面白い作品でした。これは読んでみてもいいと思います。
筒井康隆「陰脳録」
なぜこの店で買ってしまうのか(パコ・アンダーヒル)
僕は、本屋で働いているわけです。バイトではありますが、文庫と新書の担当をもう二年近くやらさせてもらっているわけで、まあデータ的にはいろいろ考慮しなくてはいけないのですが(返品率だとかなんだとか)、でも単純に売上だけ取り出してみれば、僕が担当になる前よりは売上を上げている、はずです。
ものを売る仕事というのは、どうも僕には向いているようで、いやそれは、本を売る仕事が、というべきなのかもしれないけど、とにかく楽しい仕事です。
何が面白いのか、と考えてみると結局、本を売るというのは、中身を売るのとはまるで違うのだ、ということに気付かされることだと思います。
例えば、本以外のものを考えてみようと思います。食料品でも衣料品でもまあなんでもいいです。そういう、生活必需品的なものというのは、結局のところ中身の質を求めて買っていくわけです。賞味期限はどっちが長いか、内容量はどっちが多いか、肌触りはどっちがいいか、長持ちしそうなのはどっちか。結局、お店の中でその質に関して判断できる材料というものをいくつも拾い上げていって、最終的に買うものを決めるわけです。
また、娯楽品についても同じようなことが言えます。おもちゃは実際に使ってみて、音楽は有線やラジオで聞いてみて。その結果、内容の質を自分なりに評価して、その上で買うという行動に移すわけです。
つまり、そうした買う前に内容の質を吟味できるものについては、内容の質を比べられるようにする、という工夫以上に効果的な工夫のしようがない、と僕は思うわけです。
でも、本というのは根本的に違うわけです。
何が違うかというと、買う前に内容の評価が出来ない、ということなんですね。テレビゲームもそれに近いような気もするけど、テレビゲームの場合、金をかけて作ったものが売れる、という法則がありそうなんで、ちょっとまた違うと僕は思います。
本の場合は、買う前に内容の評価が出来ない。そもそも本というのは、読み終えて初めてその内容に対して評価が出来るわけで、買う前にそれをすることは絶対にできないわけです。
つまりこの点が、本という形態の大きな特徴であり、僕が面白いなと感じるところなわけです。
さてではそんな、買う前に内容の質を見極めることのできない本というものを売るのに、どうした工夫ができるか。
それを考えるのが書店員の醍醐味だし、日々の挑戦だし、やりがいだと僕は思っています。だから、毎日いろいろ大変ですけど、仕事は楽しいです。
本屋で働いていると、いろいろと理不尽なことに気付かされます。
例えば、自分が読んで面白いと思って、是非売りたいと思っているAという本と、自分が読んでつまらねぇと思ったんだけど、なぜか世の中的に話題になっているBという本があるとします。
僕としては、Aの方を目立つ位置に置いたりPOPをつけたりして、売る気はマンマンなわけです。一方、Bの方は、一応売れてるって言われてるから入れてみたけど、とりあえずまあこの辺にでも置いておこうか、という感じで置いてみます。
しかし、Bの方が圧倒的に売れるんですね。もちろん、出版社の宣伝の力というのは相当のものがあるだろうと僕も思っていますけど、しかしその本が、自分が読んでつまらなかった本だと微妙にジレンマに襲われるわけです。この本は、僕が面白いと思っているわけではないのに、売れているという理由だけで売り場に置いていいのだろうか、みたいな。まあ、結局売れるから置くんですけど。
そうやって、僕にとっては駄作なのに、宣伝の力でありえないくらい売れる本というのをたくさん見てきたわけで、まだまだ書店員としては力不足だな、と思わされます。
しかし一方で、書店員だからこそ頑張れることというのもあるわけです。
僕は、今年読んだ本の中で不動のナンバーワンを誇る「私を見て、ぎゅっと愛して」という文芸書を、文芸の担当でもないのに僕の判断で平積みしているわけです。最近は売れ方が落ちてきましたけど、それでも、今年うちの本屋で売れた著名な文芸作品よりも結構売れてるわけで、こうして、まあ微々たるものですが、書店員が本を広めることも出来る、というのは、すごく面白いことだと思います。
本というのはホントに不思議なもので、置く場所や一緒に並べる本、POPの有無や書店員のやる気(これはホントです)などによって、同じ本でも売上がまったく違ってきます。今では、一部ではあるけど他のお店のデータなんかも多少見れたりするのだけど、それを見るに、うちではべらぼうに売れているのに他では売れてなかったり、逆にうちでは全然売れない本があったりと、本当に本屋というのは店毎に売れるものが違う、と言っていいと思います。
その、書店員が手を出す余地がある、というところに書店の面白さがあるわけで、これからもまだまだ頑張っていこうと思っているところです。
僕はとにかく、本を売りたくて売りたくて仕方がありません。売りたい本がありすぎて売り場に出し切れないという状態がしばらく続いていてかなり大変ですけど、それでも楽しい毎日です。
できれば、今まずい部分があればそれをいち早く改善し、できるだけいい売り場作りをしたいものだと思って、本作を読んでみました。なかなかためになりそうなこともいろいろ書いてあって、いい本だと思いました。
というわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
まず、この著者の経歴的なものをざっと書きましょう。アメリカで、というか世界中でも唯一と言える、ショッピング科学を専門に扱う会社、エンヴァイロセル社の創業者およびCEO。あらゆる小売店のあらゆる顧客を追跡調査し、ショッピングにおけるあらゆるデータを集め、問題を解決するための提案をするという、今までにないビジネスをしている人です。
この、ショッピング科学というものがどのように行われるかも書いてみましょう。とにかく、原始的な方法に基づいています。
あるお店の入口に調査員が立ち、入ってきたあるお客に狙いを定めます。あとは、その客が店を出るまでひたすら追いかけて(もちろん気付かれないように)、その間にしたありとあらゆることをメモする、というやり方です。
そのメモの一部を、本作に載っているそのままの形でちょっと引用してみようと思います。
『赤のセーターとブルージーンズ姿で顎鬚を生やした髪の薄い男性が、土曜日の午前十一時七分に百貨店に入ってきて、まっすぐ一階の財布売り場へ向かい、陳列されている十二個すべてを手に取り、または触れてみて、そのうち四つの値札をたしかめ、一つを選んで、十一時十六分に近くのネクタイの棚へ移り、七本のネクタイをなで、七本全部の素材表示をたしかめ、そのうち二本の値段をひっくり返し、結局は買わずにレジへ直行して選んだ財布の支払いをした。そうそう、マネキンの前にしばらくたたずんで、マネキンが着ているジャケットの値札も確かめていた。それから十一時二十三分にレジの行列の三番目に並び、順番がくるまで二分五十一秒待ち、クレジットカードで支払いをして、十一時三十分に店を出た。』
調査員たちはこんなことを、一日に50人ほど、12時間近くやるそうで、恐ろしく大変な仕事なのだけど、そのお陰で、ショッピングに関するありとあらゆることが分かってきたわけです。
そもそも、ショッピングが科学になると考えた人はかつていなかったはずで、しかしそこには歴然と科学が存在しているわけです。その真理らしきもの(やはり絶対というものはないのだけど)を見つける努力は、まさに科学という言葉がぴったりです。
本作にはその、ショッピング科学のほんの一部が書かれているのだけど、それにしても本当にいろんなことを小売店は知らないのだな、と思いました。
小売店というのは、自分の店やお客について本当にまったく知らないもので、例えば本作の中にこんな質問が出てきます。
『あなたの店に来店する客の中で、実際に買い物をしていく人の割合は?』
これは著者が、ある大手企業の社長だかに聞いてみたことなんだけど、その時の社長の回答は、『100%です』というものでした。
つまり社長としては、店に来るのだから買いたいものがあるはずだ、だから店に来た以上何か買っているはずだ、という理由からそういう答えになったわけですが、まあこの答えはありえないとしても、でも実際僕が同じ質問をされたら、どのくらいなのかさっぱりわからない、というしかないですね。一日に何人のお客さんが開門ものをして行ったのか、ということはレジのデータを見ればわかります。しかし、店に毎日どれくらいのお客さんが来ているのか、ということは、かなり努力しないとわからない数字です。ちゃんとそうした数字を調べないで大体で考えてみても、これもさっぱりわかりません。
例えば他にもこんなことがあります。あるペットショップでの話で、この会社が調査をしたところ、普通のえさは母親や父親が買っていくのに対して、ペット用のビスケットなどのおやつ的なものは子供や老人が買っていく、ということでした。
しかしそのペットショップでは、ペット用のビスケットを、子供や老人の手の届きにくいかなり上の棚に置いていたわけです。そこでこの会社が、ビスケットを下の棚に移すようにとアドバイスしたところ、売上があがったそうです。これも、店側が、どんな客層が何を買っていくのかまるで把握していなかった、といういい例でしょう。
しかし逆に言えば、こうしたことはこの著者の会社が始めるまでは誰も知らなかったわけです。そうした観察からデータを導き出すには非常に努力が必要なわけで、小売店だけを攻めるわけにはいかないでしょう。そういう意味でも、著者の会社は非常に大きな役割を果たしていると言っていいでしょう。
本作の中で僕が最も感心しなるほどと思った概念は、『移行ゾーン』というものでした。まさかこんなものが存在するとは、僕は考えてみたこともありませんでした。
移行ゾーンとは何かと言えば、店に入ってからその人が店に馴染むまでの空間、と言ったところです。
客というのは、店に入ってすぐにその店に馴染めるわけではありません。これは、間口の広い大きな店舗であればあるほどその傾向が強いようで、店に入ってしばらくは、まだその店の客になりきれていない、ということでした。
さてこの移行ゾーンの概念から何が生まれるか。
例えば目から鱗だったのが、カゴの問題ですね。うちの本屋には、そもそもカゴというのがちゃんとはないので改善のしようがそもそもないわけですが、つまり本作では、移行ゾーンにカゴを置いても、お客さんはそれを手に取らない、と言っているわけです。
よく何の店でもいいですけど、入ってすぐのところにカゴが置いてあるところは多いと思います。しかしそれは大きな間違いなわけです。店に入ってすぐは、まだお客になりきれていないし、何を買うかもはっきりしていないわけで、だからカゴが必要になるかどうかもわかりません。しかししばらく買い物をしてみて、あぁカゴが必要だ、と気付くわけです。だからカゴは、店の入口ではなく、店内の至るところに満遍なく置いておく、というのが正しいわけです。
また、移行ゾーンに張り紙だとか宣伝文句だとかを貼っても見ない、というのも同じ理由です。店の入口というのは、宣伝にはもってこいの場所だと思うのではないかと思いますが(実際僕もそう思っていました)、実はそうではないということだそうです。
こういうことは、僕自身も買い物をするわけで、だから自分自身の中では感覚的に知っていてもおかしくないことなんですよね。でも、それには気付かないし、売る側になってもそれを活かすことができないわけです。
というように、様々な角度からショッピングというものについてメスを入れています。女性男性、老人子供それぞれについて何を注意すべきか、触ったり試したりすることの効果、読まれるメッセージ読まれないメッセージ、椅子やカゴの重要性などなど。
もちろんこれは、アメリカでのデータであるということを忘れてはいけないと思います。すべて日本で同じように適応できるのか、それは疑問だと言えるでしょう。
しかし、それを差し引いてもかなり興味深く面白い内容になっています。読んですぐ変えられる部分もあるかもしれないし、設計段階から気にしなければいけない項目もあるのだけど、小売店に関わる人ならば一度は読んでみたらいいのではないかと思いました。ホント、かなりいい本だと思います。
パコ・アンダーヒル「なぜこの店で買ってしまうのか」
ものを売る仕事というのは、どうも僕には向いているようで、いやそれは、本を売る仕事が、というべきなのかもしれないけど、とにかく楽しい仕事です。
何が面白いのか、と考えてみると結局、本を売るというのは、中身を売るのとはまるで違うのだ、ということに気付かされることだと思います。
例えば、本以外のものを考えてみようと思います。食料品でも衣料品でもまあなんでもいいです。そういう、生活必需品的なものというのは、結局のところ中身の質を求めて買っていくわけです。賞味期限はどっちが長いか、内容量はどっちが多いか、肌触りはどっちがいいか、長持ちしそうなのはどっちか。結局、お店の中でその質に関して判断できる材料というものをいくつも拾い上げていって、最終的に買うものを決めるわけです。
また、娯楽品についても同じようなことが言えます。おもちゃは実際に使ってみて、音楽は有線やラジオで聞いてみて。その結果、内容の質を自分なりに評価して、その上で買うという行動に移すわけです。
つまり、そうした買う前に内容の質を吟味できるものについては、内容の質を比べられるようにする、という工夫以上に効果的な工夫のしようがない、と僕は思うわけです。
でも、本というのは根本的に違うわけです。
何が違うかというと、買う前に内容の評価が出来ない、ということなんですね。テレビゲームもそれに近いような気もするけど、テレビゲームの場合、金をかけて作ったものが売れる、という法則がありそうなんで、ちょっとまた違うと僕は思います。
本の場合は、買う前に内容の評価が出来ない。そもそも本というのは、読み終えて初めてその内容に対して評価が出来るわけで、買う前にそれをすることは絶対にできないわけです。
つまりこの点が、本という形態の大きな特徴であり、僕が面白いなと感じるところなわけです。
さてではそんな、買う前に内容の質を見極めることのできない本というものを売るのに、どうした工夫ができるか。
それを考えるのが書店員の醍醐味だし、日々の挑戦だし、やりがいだと僕は思っています。だから、毎日いろいろ大変ですけど、仕事は楽しいです。
本屋で働いていると、いろいろと理不尽なことに気付かされます。
例えば、自分が読んで面白いと思って、是非売りたいと思っているAという本と、自分が読んでつまらねぇと思ったんだけど、なぜか世の中的に話題になっているBという本があるとします。
僕としては、Aの方を目立つ位置に置いたりPOPをつけたりして、売る気はマンマンなわけです。一方、Bの方は、一応売れてるって言われてるから入れてみたけど、とりあえずまあこの辺にでも置いておこうか、という感じで置いてみます。
しかし、Bの方が圧倒的に売れるんですね。もちろん、出版社の宣伝の力というのは相当のものがあるだろうと僕も思っていますけど、しかしその本が、自分が読んでつまらなかった本だと微妙にジレンマに襲われるわけです。この本は、僕が面白いと思っているわけではないのに、売れているという理由だけで売り場に置いていいのだろうか、みたいな。まあ、結局売れるから置くんですけど。
そうやって、僕にとっては駄作なのに、宣伝の力でありえないくらい売れる本というのをたくさん見てきたわけで、まだまだ書店員としては力不足だな、と思わされます。
しかし一方で、書店員だからこそ頑張れることというのもあるわけです。
僕は、今年読んだ本の中で不動のナンバーワンを誇る「私を見て、ぎゅっと愛して」という文芸書を、文芸の担当でもないのに僕の判断で平積みしているわけです。最近は売れ方が落ちてきましたけど、それでも、今年うちの本屋で売れた著名な文芸作品よりも結構売れてるわけで、こうして、まあ微々たるものですが、書店員が本を広めることも出来る、というのは、すごく面白いことだと思います。
本というのはホントに不思議なもので、置く場所や一緒に並べる本、POPの有無や書店員のやる気(これはホントです)などによって、同じ本でも売上がまったく違ってきます。今では、一部ではあるけど他のお店のデータなんかも多少見れたりするのだけど、それを見るに、うちではべらぼうに売れているのに他では売れてなかったり、逆にうちでは全然売れない本があったりと、本当に本屋というのは店毎に売れるものが違う、と言っていいと思います。
その、書店員が手を出す余地がある、というところに書店の面白さがあるわけで、これからもまだまだ頑張っていこうと思っているところです。
僕はとにかく、本を売りたくて売りたくて仕方がありません。売りたい本がありすぎて売り場に出し切れないという状態がしばらく続いていてかなり大変ですけど、それでも楽しい毎日です。
できれば、今まずい部分があればそれをいち早く改善し、できるだけいい売り場作りをしたいものだと思って、本作を読んでみました。なかなかためになりそうなこともいろいろ書いてあって、いい本だと思いました。
というわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
まず、この著者の経歴的なものをざっと書きましょう。アメリカで、というか世界中でも唯一と言える、ショッピング科学を専門に扱う会社、エンヴァイロセル社の創業者およびCEO。あらゆる小売店のあらゆる顧客を追跡調査し、ショッピングにおけるあらゆるデータを集め、問題を解決するための提案をするという、今までにないビジネスをしている人です。
この、ショッピング科学というものがどのように行われるかも書いてみましょう。とにかく、原始的な方法に基づいています。
あるお店の入口に調査員が立ち、入ってきたあるお客に狙いを定めます。あとは、その客が店を出るまでひたすら追いかけて(もちろん気付かれないように)、その間にしたありとあらゆることをメモする、というやり方です。
そのメモの一部を、本作に載っているそのままの形でちょっと引用してみようと思います。
『赤のセーターとブルージーンズ姿で顎鬚を生やした髪の薄い男性が、土曜日の午前十一時七分に百貨店に入ってきて、まっすぐ一階の財布売り場へ向かい、陳列されている十二個すべてを手に取り、または触れてみて、そのうち四つの値札をたしかめ、一つを選んで、十一時十六分に近くのネクタイの棚へ移り、七本のネクタイをなで、七本全部の素材表示をたしかめ、そのうち二本の値段をひっくり返し、結局は買わずにレジへ直行して選んだ財布の支払いをした。そうそう、マネキンの前にしばらくたたずんで、マネキンが着ているジャケットの値札も確かめていた。それから十一時二十三分にレジの行列の三番目に並び、順番がくるまで二分五十一秒待ち、クレジットカードで支払いをして、十一時三十分に店を出た。』
調査員たちはこんなことを、一日に50人ほど、12時間近くやるそうで、恐ろしく大変な仕事なのだけど、そのお陰で、ショッピングに関するありとあらゆることが分かってきたわけです。
そもそも、ショッピングが科学になると考えた人はかつていなかったはずで、しかしそこには歴然と科学が存在しているわけです。その真理らしきもの(やはり絶対というものはないのだけど)を見つける努力は、まさに科学という言葉がぴったりです。
本作にはその、ショッピング科学のほんの一部が書かれているのだけど、それにしても本当にいろんなことを小売店は知らないのだな、と思いました。
小売店というのは、自分の店やお客について本当にまったく知らないもので、例えば本作の中にこんな質問が出てきます。
『あなたの店に来店する客の中で、実際に買い物をしていく人の割合は?』
これは著者が、ある大手企業の社長だかに聞いてみたことなんだけど、その時の社長の回答は、『100%です』というものでした。
つまり社長としては、店に来るのだから買いたいものがあるはずだ、だから店に来た以上何か買っているはずだ、という理由からそういう答えになったわけですが、まあこの答えはありえないとしても、でも実際僕が同じ質問をされたら、どのくらいなのかさっぱりわからない、というしかないですね。一日に何人のお客さんが開門ものをして行ったのか、ということはレジのデータを見ればわかります。しかし、店に毎日どれくらいのお客さんが来ているのか、ということは、かなり努力しないとわからない数字です。ちゃんとそうした数字を調べないで大体で考えてみても、これもさっぱりわかりません。
例えば他にもこんなことがあります。あるペットショップでの話で、この会社が調査をしたところ、普通のえさは母親や父親が買っていくのに対して、ペット用のビスケットなどのおやつ的なものは子供や老人が買っていく、ということでした。
しかしそのペットショップでは、ペット用のビスケットを、子供や老人の手の届きにくいかなり上の棚に置いていたわけです。そこでこの会社が、ビスケットを下の棚に移すようにとアドバイスしたところ、売上があがったそうです。これも、店側が、どんな客層が何を買っていくのかまるで把握していなかった、といういい例でしょう。
しかし逆に言えば、こうしたことはこの著者の会社が始めるまでは誰も知らなかったわけです。そうした観察からデータを導き出すには非常に努力が必要なわけで、小売店だけを攻めるわけにはいかないでしょう。そういう意味でも、著者の会社は非常に大きな役割を果たしていると言っていいでしょう。
本作の中で僕が最も感心しなるほどと思った概念は、『移行ゾーン』というものでした。まさかこんなものが存在するとは、僕は考えてみたこともありませんでした。
移行ゾーンとは何かと言えば、店に入ってからその人が店に馴染むまでの空間、と言ったところです。
客というのは、店に入ってすぐにその店に馴染めるわけではありません。これは、間口の広い大きな店舗であればあるほどその傾向が強いようで、店に入ってしばらくは、まだその店の客になりきれていない、ということでした。
さてこの移行ゾーンの概念から何が生まれるか。
例えば目から鱗だったのが、カゴの問題ですね。うちの本屋には、そもそもカゴというのがちゃんとはないので改善のしようがそもそもないわけですが、つまり本作では、移行ゾーンにカゴを置いても、お客さんはそれを手に取らない、と言っているわけです。
よく何の店でもいいですけど、入ってすぐのところにカゴが置いてあるところは多いと思います。しかしそれは大きな間違いなわけです。店に入ってすぐは、まだお客になりきれていないし、何を買うかもはっきりしていないわけで、だからカゴが必要になるかどうかもわかりません。しかししばらく買い物をしてみて、あぁカゴが必要だ、と気付くわけです。だからカゴは、店の入口ではなく、店内の至るところに満遍なく置いておく、というのが正しいわけです。
また、移行ゾーンに張り紙だとか宣伝文句だとかを貼っても見ない、というのも同じ理由です。店の入口というのは、宣伝にはもってこいの場所だと思うのではないかと思いますが(実際僕もそう思っていました)、実はそうではないということだそうです。
こういうことは、僕自身も買い物をするわけで、だから自分自身の中では感覚的に知っていてもおかしくないことなんですよね。でも、それには気付かないし、売る側になってもそれを活かすことができないわけです。
というように、様々な角度からショッピングというものについてメスを入れています。女性男性、老人子供それぞれについて何を注意すべきか、触ったり試したりすることの効果、読まれるメッセージ読まれないメッセージ、椅子やカゴの重要性などなど。
もちろんこれは、アメリカでのデータであるということを忘れてはいけないと思います。すべて日本で同じように適応できるのか、それは疑問だと言えるでしょう。
しかし、それを差し引いてもかなり興味深く面白い内容になっています。読んですぐ変えられる部分もあるかもしれないし、設計段階から気にしなければいけない項目もあるのだけど、小売店に関わる人ならば一度は読んでみたらいいのではないかと思いました。ホント、かなりいい本だと思います。
パコ・アンダーヒル「なぜこの店で買ってしまうのか」
ファウストvol.6sideA(太田克史編集長)
輪が広がるというのは、素晴らしいことだと思う。
それは、僕自身輪を広げるのが苦手だからこそ、そんな風に思うのかもしれないのだけど。
どうしても、そこに人が集まってしまう、という場が世の中にはある。そこに人を惹き付けるのが、人なのか空間なのか芸術なのか時間なのか、といったような違いはあるかもしれないけど。
例えば僕はつい最近、演劇を観にいった。バイト先の人が出演するからという理由で観にいったのだけど、素晴らしい演劇を見せてもらった。
そこでは、演劇という空間もそうだけど、演者という人が多くの人を惹き付けている場だった。多くの人を釘付けにし、そこからさらに輪が広がる。そうした場というのは、僕は羨ましく感じてしまう。
僕には特別な何かもないし、人を惹き付けるような何かもないので、人の中心になって何かを引き寄せるなんていうことはまずできない。そうしたい、と思っているかどうか、自分でもちょっとよくわからないのだけど、そう出来ている人を見ると羨ましく思えてしまうのは事実だ。
集まった人間を感化し、何かを与え、それによって輪を広げるということが、どれだけ難しくて、どれだけ大切なことか、なんとなくだけど分かっているつもりである。
ファウストという文芸誌は、輪を広げ続ける文芸誌であると僕は思うのだ。
文芸の世界は、今かなり苦境に立たされていると言ってもいいだろう。それは、本自体の売れ行きもそうなのだけど、それだけのことではない。
未来が見えない、ということなのだ。
それは、展望がありすぎて先が読めないというような話ではなく、あらゆる方向に行き着きすぎていて、もうどこにも向かうことが出来ないのではないか、という閉塞感から生み出されるものだ。
旧態依然とした世界の中で、売れるものをとにかく世に出さなくてはならないという至上主義が先行しすぎて、文芸という世界の質がどんどんと低下している、という問題もある。その質の低下は同時に、読者の質の低下も招き、最終的には新しい才能の芽を摘んでしまうということにもなりかねない、と僕は思っている。
そんな時代に生み出されたのが、このファウストという文芸誌である。
ファウストの成果は、新しさの地平をどんどんと切り開いていった、ということだろうと僕は思う。
例えば、清涼院流水がミステリ界に颯爽と飛び出してきた時、ありとあらゆる批判が展開されながらも、確実にミステリの地平は広がった。清涼院流水という、破天荒で型破りな才能が、一種のブレイクスルーとなって、新しい道を切り開いたのである。
その後も、文芸界を揺るがすような才能は時々現れることになる。最近一番の事件はやはり、舞城王太郎の出現だろうか。舞城王太郎の果たした役割は大きいと思うし、新しさの広がりがさらに増したと言えるだろう。
しかしこれまでは、個人の才能に頼りすぎていたところがあった。突出した個々の才能が現出して初めて変化が生み出される、と言う形で、文芸界は何度かブレイクスルーを経験することになる。
しかしファウストではそれを、集団で、しかも意識的に生み出さそうとして現れた文芸誌である、と僕は思う。個々の才能が不定期に飛び出すのをじっと待つしかなかった、果てしなく受身の文芸界に、集団の力で、しかも定期的に意識的にブレイクスルーを働きかけようとする動きをもたらしたこと。それが、ファウストという文芸誌の揺るぎない成果と言えるだろう。
集団という、化学反応を起こしやすい環境の中で、自発的にブレイクスルーを生み出そうという試み。それは、多くの人間を惹き付け輪をつくり、さらに大きなうねりとなって文芸界を牽引していくことだろうと思う。
このファウストの編集長であった太田克史氏は、今度講談社の中で新たなレーベルを立ち上げるという。文芸界で伝説と言われた編集者である、最近亡くなられた元講談社の宇山氏が、講談社で「ミステリーランド」というレーベルを立ち上げたように、太田氏も「講談社BOX」というレーベルを立ち上げて、日本だけでなく世界へと挑もうとしている。
挑戦しようという意気込みが生み出すものは大きい。それが広げる輪もどんどんと大きくなることだろう。まだ若い編集者である太田克史氏を非常に羨ましく思うと同時に、これからも出来る限りの地平を目指して、文芸界を牽引していって欲しいものだ、と僕は思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、不定期で刊行される文芸誌「ファウスト」のvol.6です。vol.6はなんとside-Aとside-Bに分かれており、本作はそのAの方ですね。
刊行されるたびにどんどん分厚くなっていくファウストは、本作ではなんと800ページを超えています。新書サイズの文芸誌だとは言え、これだけの分量を誇る文芸誌はまず存在しないでしょう。
さて今回も様々な分野からいろんな人間を引っ張り込んでいるのに加え、さらに台湾進出記念号という性格も持っていて、台湾でのファウスト発売を記念していくつか企画が盛り込まれています。
文芸の先端をひた走る孤高の文芸誌。まあ内容をざっと紹介しようと思います。
「日光舞踏会」VOFAN:マンガ
台湾進出記念、ということでしょう。台湾出身の漫画家による短いマンガです。まあこれだけ短いと評価は難しいですけど、絵は綺麗だと思います。
「化学室」ヨシツギ:マンガ
これも、まあイラストというようなマンガですね。評価のしようがないですけど。
「彼女の透明なおへそ」片山若子:マンガ
これも短いマンガです。
この人の絵をどこかで見たことがあるなと思ったら、米澤穂信の「春期限定~」とか「夏期限定~」とかの本の表紙を書いてる人でした。この人の絵は、結構いいと思います。
「火祭」小林紀晴:エッセイ?小説?
よくわかりませんが、祭りをテーマにした短いエッセイというか小説というかそんな感じです。この小林紀晴って人、確か写真家ですよね?何枚か写真も使われてます。
「From Editor in Chief」太田克史:宣言文?
なんというか、宣言文みたいな文章です。
「DDDHandS」奈須きのこ:小説
「悪魔付き」と診断された久織伸也が収容されたのは、どこだかわからない、一度入ったら出られることのない監獄のような施設。そこで出会った、石杖と名乗る片手の男。ひたすらに絵を書き続ける男と友達になる。
そのうち、外に出ることができる、と言われるのだけど…。
同人誌で爆発的に人気を獲得した「空の境界」(今は講談社ノベルスから本になっている)でデビューした奈須きのこの作品です。「空の境界」は読んでみたいと思っているんですけど、でもこの「DDDHandS」というのがちょっと微妙だったんで、どうしようかなという感じです。あんまり、文章が好きな感じではありません。
「怪談と踊ろう、そしてあなたは階段で踊る」竜騎士07:小説
友宏は、おばさんがやってくるからと言って追い出されることになった二部屋のうちの一部屋を片付ける、なんてところから始まる。
友宏は、博之と亨という二人の友達といつも一緒の中学生。いつも、楽しい遊びはないかと話しながら、街中にぽつんとあるちっぽけな神社にたむろする。
3桁の暗証番号のついた鍵付きの賽銭箱を開けてみよう、というところから始まって、彼らは恐ろしい会談を生み出すことになる。
今「ひぐらしのなく頃に」が爆発的にヒットしている、その原作者が初小説だそうです。この話は、すごく面白かったですね。設定とかは、まあベタなのかもしれないけど、それでも面白いと思って読みました。
「コンバージョンブルー」錦メガネ:小説
また自殺者が出た。しかも、ブルー・コンバージョンのヘビーユーザーだ。葬式の帰りに、警察に話を聞かれた。そろそろヤバイのかもしれないな。
ブルー・コンバージョンは、身体的には一切害はないが常習性はあるという、まあ一種の覚せい剤のようなものだ。それを元締めとして販売しているのが、相良智己だ。
相良には、律子という恋人がいる。相良は、もう異常とも言えるくらい、彼女を愛しているのだ。死にたい欲望をブルー・コンバージョンで紛らわせるのも、死ねば律子と会うことができなくなるからだ。
そんな智己は、行きがかり上、一人の少女を救わなくてはならなくなるのだが。
これも面白い話でした。この錦メガネという人は、美少女ゲームのシナリオライターだそうで、小説デビューは本作が初だそうな。
さてここまで三作の小説を紹介したけど、一つ大きな問題が。
それは、この三作は、実はside-Bへと続くということですね。これを知りませんでした。なので、上記の三作は、結末がわからないという非常に嫌な状態で読み終えなくてはならないという、あー困りました。特に、後の二つの話はすごく面白かったので、続きがメチャメチャ気になります。これから読もうと言う方は、是非side-Bも買ってから読むことをオススメします。
「ゲーム的リアリズムの誕生」東浩紀:批評
この人の文章はとにかく意味がわからないので、毎回読まないでいます。今回も、流し読みでざっと目を通しましたけど、相変わらず何を言っているのかさっぱりわかりません。
「小説の環境」福嶋亮大:批評
この人の文章も、なんだかよくわからなかったので読み飛ばしました。西尾維新が結構話題の中心になっていたので読みたかった気はするんですけど。
「EDITOR×EDITOR」黄鎮隆(台湾・尖端出版社長)他×太田克史:対談
ファウスト台湾進出を記念した、台湾での出版を請け負う尖端出版社の社長・編集者と太田克史の対談です。まあ普通に読める内容でした。
「さらなる世界の最先端へ」台湾版『ファウスト』編集部×東浩紀+清涼院流水+佐藤友哉+西尾維新:対談
こちらも台湾出版を記念した対談です。西尾維新が対談してるのとかは結構貴重な気がするんで、いいと思いました。
「すずめばちがサヨナラというとき」上遠野浩平:小説
すずめばちを意味する「ホルニッセ」という名前を与えられた合成人間である久嵐舞惟。彼女の任務は、ある公園での受け渡しだったのだが、志保と名乗る無防備な女が近づいてくる。こいつは敵だろうか。
上遠野浩平の作品というのは、どうも僕には合わないんですよね。本作も、まあ決して悪くはないんでしょうけど、僕にはあんまり合わない感じでした。
「窓に吹く風」乙一:小説
引越しをした松田梢の自分の部屋は、どうも風の通り道らしい。窓を開けると、信じられない風が吹き込んでくる。
そのせいもあってか、彼女の部屋のベランダには、いろんなものが舞い込んで来る。写真や凧や新聞なんか。時々、未来からやってくるものもあるみたいで、なんだか不思議だけど、楽しい気もする。
いつものように、舞い込んできた手紙が溜まってきたので郵便局に持っていこうとすると、その中の一通が近い住所であるのに気がついた。だったら持っていって上げよう。
そうやって知り合ったのが、高橋浩樹だった。
このファウストを、この乙一の作品目当てで買ったわけだけど、相変わらず面白い話でした。設定は、前の「F先生のポケット」と同じで、登場人物も同じなんだけど、その「F先生」の話が踏まえられてるのかどうかまではよくわかりませんでした。
乙一らしい、すごくいい話です。どうやって話を終わらせるんだろう、って思ったけど、いい終わらせ方でよかったです。
「憂い男」「愛らしき目もと口は緑」「レディ」佐藤友哉:小説
「憂い男」は、子供達どうしの軍団の日常と、その軍団の団長が語る「憂い男」という男の話。
「愛らしき目もと口は緑」は、幻覚が見える頭の弱い少女と、その相談役である男の会話の話。
「レディ」は、鏡一家が遊園地にやってきたという話。
いずれも、佐藤友哉のシリーズキャラクターである鏡一家の誰かが関わる話です。
佐藤友哉にしては(なんて言い方は失礼かもしれないけど)、結構面白い作品でした。「憂い男」は、団長が話す「憂い男」の話が良かったし、「愛らしき目もと口は緑」は、狂ってしまった女とそれをなだめる男の会話がかみ合わなくて面白いし、「レディ」では、家族とは呼べない家族の形がすごくいい気がしました。癒奈というキャラクターがいいですね。
「新本格魔法少女リスカ」西尾維新:小説
これは、単行本になってから読みたいので、まだ読んでません。
「零崎軋識の人間ノック2」西尾維新:小説
これも、単行本になってから読みたいので、読んでません。
「清涼院流水のヤバ井でSHOW」清涼院流水×ヤバ井勝士(太田克史):企画もの
毎回、何でもない写真一枚から、ヤバイストーリーを妄想する、という企画です。
「上遠野浩平のBeyond Grudging Moment」上遠野浩平:エッセイ
毎回上遠野浩平が好きなアーティストについて書いているエッセイです。上遠野浩平も音楽も特に好きではないので読んでません。今回は、ザ・ローリング・ストーンズです。
「Hな人」渡辺浩弐:小説
毎回、引きこもりをテーマにして短い話を書いているコーナーです。本作には、4話載っています。毎回いろんな引きこもりの設定を考えるので、割と好きです。
「遊星からの物体SEX」西島大介:マンガ
あらゆる星のSEX事情を調べる任務を帯びたセクス・アリスの話です。
「佐藤友哉の人生・相談」佐藤友哉:人生相談?
相変わらずダメ人間っぷりを猛烈に発揮している佐藤友哉のエッセイです。なんか、かなり廃人に近づいているようです。
「滝本竜彦のぐるぐる人生相談」滝本竜彦:人生相談?
相変わらずダメ人間っぷりを猛烈に発揮している滝本竜彦のエッセイです。今回は、ヨガに挑戦しているようです。っていうか、滝本竜彦ってホントに彼女いるんですかね?
「毎絵並絵」清涼院流水×森山由海:マンガ?
よく意味がわかりませんでした。なんか、いろいろシャッフルするといろんな物語になるそうですけど。清涼院流水の「19ボックス」みたいなものだろうか。
「おたく男女の関係」森川喜一郎:エッセイ?
腐女子とも呼ばれる、オタク女子について書いたエッセイです。
この中で、何故女性がやおい系(BL。男どうしのなんやかんや)に惹かれるのか、という考察があって、ちょっと納得しました。
曰く、『女性から見たら、男が女に寄せる恋心は、少なからず性欲によってドライブされている。美しい女性が対象化され、セックスにいたる恋愛物語の場合、なおさらその感が否めない。ところが、対象を男にすげ替えたとたんに、それは「恋愛にドライブ」された性欲へと転倒されるのである。』
なるほど、この考察は分かりやすい。ちょっと、やおい系にハマる女子の気持ちがわかったかも。でも、ホモ的なのは僕は一切受け付けませんけど、はい。気持ち悪いですね。
「もの思う葦」枕木憂士:エッセイ
映画に関するエッセイです。まああんまりちゃんと読んでませんけど。
「うりこひめさま」ウエダハジメ:マンガ
ウエダハジメのマンガは、「コミックファウスト」でも読んだけど、よくわからないという感じの方が強いですね。絵がちょっとマンガ向きじゃないっていうか、曖昧すぎる感じで、だからよくわからないんだと思います。
「そして五人がいなくなる」はやみねかおる×箸井地図:マンガ
はやみねかおるの人気シリーズ「夢水清志郎事件ノート」のマンガです。本作には一部しか載ってないんで、まあ単行本をみんな買いましょう、という宣伝ですね。
というわけで、いつもながら盛りだくさんのファウストですが、やっぱり人によって満足できる部分はどうしても限られてくるでしょうね。僕としては、やはり乙一の小説と、あと前編だけしか読めなかったけど、竜騎士07と錦メガネの小説も結構よかったですね。
まあそんなわけで、上記の簡単な内容紹介を読んで、いくつか気になるのがあれば、買ってみてください。
太田克史編集長「ファウストvol.6sideA」
それは、僕自身輪を広げるのが苦手だからこそ、そんな風に思うのかもしれないのだけど。
どうしても、そこに人が集まってしまう、という場が世の中にはある。そこに人を惹き付けるのが、人なのか空間なのか芸術なのか時間なのか、といったような違いはあるかもしれないけど。
例えば僕はつい最近、演劇を観にいった。バイト先の人が出演するからという理由で観にいったのだけど、素晴らしい演劇を見せてもらった。
そこでは、演劇という空間もそうだけど、演者という人が多くの人を惹き付けている場だった。多くの人を釘付けにし、そこからさらに輪が広がる。そうした場というのは、僕は羨ましく感じてしまう。
僕には特別な何かもないし、人を惹き付けるような何かもないので、人の中心になって何かを引き寄せるなんていうことはまずできない。そうしたい、と思っているかどうか、自分でもちょっとよくわからないのだけど、そう出来ている人を見ると羨ましく思えてしまうのは事実だ。
集まった人間を感化し、何かを与え、それによって輪を広げるということが、どれだけ難しくて、どれだけ大切なことか、なんとなくだけど分かっているつもりである。
ファウストという文芸誌は、輪を広げ続ける文芸誌であると僕は思うのだ。
文芸の世界は、今かなり苦境に立たされていると言ってもいいだろう。それは、本自体の売れ行きもそうなのだけど、それだけのことではない。
未来が見えない、ということなのだ。
それは、展望がありすぎて先が読めないというような話ではなく、あらゆる方向に行き着きすぎていて、もうどこにも向かうことが出来ないのではないか、という閉塞感から生み出されるものだ。
旧態依然とした世界の中で、売れるものをとにかく世に出さなくてはならないという至上主義が先行しすぎて、文芸という世界の質がどんどんと低下している、という問題もある。その質の低下は同時に、読者の質の低下も招き、最終的には新しい才能の芽を摘んでしまうということにもなりかねない、と僕は思っている。
そんな時代に生み出されたのが、このファウストという文芸誌である。
ファウストの成果は、新しさの地平をどんどんと切り開いていった、ということだろうと僕は思う。
例えば、清涼院流水がミステリ界に颯爽と飛び出してきた時、ありとあらゆる批判が展開されながらも、確実にミステリの地平は広がった。清涼院流水という、破天荒で型破りな才能が、一種のブレイクスルーとなって、新しい道を切り開いたのである。
その後も、文芸界を揺るがすような才能は時々現れることになる。最近一番の事件はやはり、舞城王太郎の出現だろうか。舞城王太郎の果たした役割は大きいと思うし、新しさの広がりがさらに増したと言えるだろう。
しかしこれまでは、個人の才能に頼りすぎていたところがあった。突出した個々の才能が現出して初めて変化が生み出される、と言う形で、文芸界は何度かブレイクスルーを経験することになる。
しかしファウストではそれを、集団で、しかも意識的に生み出さそうとして現れた文芸誌である、と僕は思う。個々の才能が不定期に飛び出すのをじっと待つしかなかった、果てしなく受身の文芸界に、集団の力で、しかも定期的に意識的にブレイクスルーを働きかけようとする動きをもたらしたこと。それが、ファウストという文芸誌の揺るぎない成果と言えるだろう。
集団という、化学反応を起こしやすい環境の中で、自発的にブレイクスルーを生み出そうという試み。それは、多くの人間を惹き付け輪をつくり、さらに大きなうねりとなって文芸界を牽引していくことだろうと思う。
このファウストの編集長であった太田克史氏は、今度講談社の中で新たなレーベルを立ち上げるという。文芸界で伝説と言われた編集者である、最近亡くなられた元講談社の宇山氏が、講談社で「ミステリーランド」というレーベルを立ち上げたように、太田氏も「講談社BOX」というレーベルを立ち上げて、日本だけでなく世界へと挑もうとしている。
挑戦しようという意気込みが生み出すものは大きい。それが広げる輪もどんどんと大きくなることだろう。まだ若い編集者である太田克史氏を非常に羨ましく思うと同時に、これからも出来る限りの地平を目指して、文芸界を牽引していって欲しいものだ、と僕は思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、不定期で刊行される文芸誌「ファウスト」のvol.6です。vol.6はなんとside-Aとside-Bに分かれており、本作はそのAの方ですね。
刊行されるたびにどんどん分厚くなっていくファウストは、本作ではなんと800ページを超えています。新書サイズの文芸誌だとは言え、これだけの分量を誇る文芸誌はまず存在しないでしょう。
さて今回も様々な分野からいろんな人間を引っ張り込んでいるのに加え、さらに台湾進出記念号という性格も持っていて、台湾でのファウスト発売を記念していくつか企画が盛り込まれています。
文芸の先端をひた走る孤高の文芸誌。まあ内容をざっと紹介しようと思います。
「日光舞踏会」VOFAN:マンガ
台湾進出記念、ということでしょう。台湾出身の漫画家による短いマンガです。まあこれだけ短いと評価は難しいですけど、絵は綺麗だと思います。
「化学室」ヨシツギ:マンガ
これも、まあイラストというようなマンガですね。評価のしようがないですけど。
「彼女の透明なおへそ」片山若子:マンガ
これも短いマンガです。
この人の絵をどこかで見たことがあるなと思ったら、米澤穂信の「春期限定~」とか「夏期限定~」とかの本の表紙を書いてる人でした。この人の絵は、結構いいと思います。
「火祭」小林紀晴:エッセイ?小説?
よくわかりませんが、祭りをテーマにした短いエッセイというか小説というかそんな感じです。この小林紀晴って人、確か写真家ですよね?何枚か写真も使われてます。
「From Editor in Chief」太田克史:宣言文?
なんというか、宣言文みたいな文章です。
「DDDHandS」奈須きのこ:小説
「悪魔付き」と診断された久織伸也が収容されたのは、どこだかわからない、一度入ったら出られることのない監獄のような施設。そこで出会った、石杖と名乗る片手の男。ひたすらに絵を書き続ける男と友達になる。
そのうち、外に出ることができる、と言われるのだけど…。
同人誌で爆発的に人気を獲得した「空の境界」(今は講談社ノベルスから本になっている)でデビューした奈須きのこの作品です。「空の境界」は読んでみたいと思っているんですけど、でもこの「DDDHandS」というのがちょっと微妙だったんで、どうしようかなという感じです。あんまり、文章が好きな感じではありません。
「怪談と踊ろう、そしてあなたは階段で踊る」竜騎士07:小説
友宏は、おばさんがやってくるからと言って追い出されることになった二部屋のうちの一部屋を片付ける、なんてところから始まる。
友宏は、博之と亨という二人の友達といつも一緒の中学生。いつも、楽しい遊びはないかと話しながら、街中にぽつんとあるちっぽけな神社にたむろする。
3桁の暗証番号のついた鍵付きの賽銭箱を開けてみよう、というところから始まって、彼らは恐ろしい会談を生み出すことになる。
今「ひぐらしのなく頃に」が爆発的にヒットしている、その原作者が初小説だそうです。この話は、すごく面白かったですね。設定とかは、まあベタなのかもしれないけど、それでも面白いと思って読みました。
「コンバージョンブルー」錦メガネ:小説
また自殺者が出た。しかも、ブルー・コンバージョンのヘビーユーザーだ。葬式の帰りに、警察に話を聞かれた。そろそろヤバイのかもしれないな。
ブルー・コンバージョンは、身体的には一切害はないが常習性はあるという、まあ一種の覚せい剤のようなものだ。それを元締めとして販売しているのが、相良智己だ。
相良には、律子という恋人がいる。相良は、もう異常とも言えるくらい、彼女を愛しているのだ。死にたい欲望をブルー・コンバージョンで紛らわせるのも、死ねば律子と会うことができなくなるからだ。
そんな智己は、行きがかり上、一人の少女を救わなくてはならなくなるのだが。
これも面白い話でした。この錦メガネという人は、美少女ゲームのシナリオライターだそうで、小説デビューは本作が初だそうな。
さてここまで三作の小説を紹介したけど、一つ大きな問題が。
それは、この三作は、実はside-Bへと続くということですね。これを知りませんでした。なので、上記の三作は、結末がわからないという非常に嫌な状態で読み終えなくてはならないという、あー困りました。特に、後の二つの話はすごく面白かったので、続きがメチャメチャ気になります。これから読もうと言う方は、是非side-Bも買ってから読むことをオススメします。
「ゲーム的リアリズムの誕生」東浩紀:批評
この人の文章はとにかく意味がわからないので、毎回読まないでいます。今回も、流し読みでざっと目を通しましたけど、相変わらず何を言っているのかさっぱりわかりません。
「小説の環境」福嶋亮大:批評
この人の文章も、なんだかよくわからなかったので読み飛ばしました。西尾維新が結構話題の中心になっていたので読みたかった気はするんですけど。
「EDITOR×EDITOR」黄鎮隆(台湾・尖端出版社長)他×太田克史:対談
ファウスト台湾進出を記念した、台湾での出版を請け負う尖端出版社の社長・編集者と太田克史の対談です。まあ普通に読める内容でした。
「さらなる世界の最先端へ」台湾版『ファウスト』編集部×東浩紀+清涼院流水+佐藤友哉+西尾維新:対談
こちらも台湾出版を記念した対談です。西尾維新が対談してるのとかは結構貴重な気がするんで、いいと思いました。
「すずめばちがサヨナラというとき」上遠野浩平:小説
すずめばちを意味する「ホルニッセ」という名前を与えられた合成人間である久嵐舞惟。彼女の任務は、ある公園での受け渡しだったのだが、志保と名乗る無防備な女が近づいてくる。こいつは敵だろうか。
上遠野浩平の作品というのは、どうも僕には合わないんですよね。本作も、まあ決して悪くはないんでしょうけど、僕にはあんまり合わない感じでした。
「窓に吹く風」乙一:小説
引越しをした松田梢の自分の部屋は、どうも風の通り道らしい。窓を開けると、信じられない風が吹き込んでくる。
そのせいもあってか、彼女の部屋のベランダには、いろんなものが舞い込んで来る。写真や凧や新聞なんか。時々、未来からやってくるものもあるみたいで、なんだか不思議だけど、楽しい気もする。
いつものように、舞い込んできた手紙が溜まってきたので郵便局に持っていこうとすると、その中の一通が近い住所であるのに気がついた。だったら持っていって上げよう。
そうやって知り合ったのが、高橋浩樹だった。
このファウストを、この乙一の作品目当てで買ったわけだけど、相変わらず面白い話でした。設定は、前の「F先生のポケット」と同じで、登場人物も同じなんだけど、その「F先生」の話が踏まえられてるのかどうかまではよくわかりませんでした。
乙一らしい、すごくいい話です。どうやって話を終わらせるんだろう、って思ったけど、いい終わらせ方でよかったです。
「憂い男」「愛らしき目もと口は緑」「レディ」佐藤友哉:小説
「憂い男」は、子供達どうしの軍団の日常と、その軍団の団長が語る「憂い男」という男の話。
「愛らしき目もと口は緑」は、幻覚が見える頭の弱い少女と、その相談役である男の会話の話。
「レディ」は、鏡一家が遊園地にやってきたという話。
いずれも、佐藤友哉のシリーズキャラクターである鏡一家の誰かが関わる話です。
佐藤友哉にしては(なんて言い方は失礼かもしれないけど)、結構面白い作品でした。「憂い男」は、団長が話す「憂い男」の話が良かったし、「愛らしき目もと口は緑」は、狂ってしまった女とそれをなだめる男の会話がかみ合わなくて面白いし、「レディ」では、家族とは呼べない家族の形がすごくいい気がしました。癒奈というキャラクターがいいですね。
「新本格魔法少女リスカ」西尾維新:小説
これは、単行本になってから読みたいので、まだ読んでません。
「零崎軋識の人間ノック2」西尾維新:小説
これも、単行本になってから読みたいので、読んでません。
「清涼院流水のヤバ井でSHOW」清涼院流水×ヤバ井勝士(太田克史):企画もの
毎回、何でもない写真一枚から、ヤバイストーリーを妄想する、という企画です。
「上遠野浩平のBeyond Grudging Moment」上遠野浩平:エッセイ
毎回上遠野浩平が好きなアーティストについて書いているエッセイです。上遠野浩平も音楽も特に好きではないので読んでません。今回は、ザ・ローリング・ストーンズです。
「Hな人」渡辺浩弐:小説
毎回、引きこもりをテーマにして短い話を書いているコーナーです。本作には、4話載っています。毎回いろんな引きこもりの設定を考えるので、割と好きです。
「遊星からの物体SEX」西島大介:マンガ
あらゆる星のSEX事情を調べる任務を帯びたセクス・アリスの話です。
「佐藤友哉の人生・相談」佐藤友哉:人生相談?
相変わらずダメ人間っぷりを猛烈に発揮している佐藤友哉のエッセイです。なんか、かなり廃人に近づいているようです。
「滝本竜彦のぐるぐる人生相談」滝本竜彦:人生相談?
相変わらずダメ人間っぷりを猛烈に発揮している滝本竜彦のエッセイです。今回は、ヨガに挑戦しているようです。っていうか、滝本竜彦ってホントに彼女いるんですかね?
「毎絵並絵」清涼院流水×森山由海:マンガ?
よく意味がわかりませんでした。なんか、いろいろシャッフルするといろんな物語になるそうですけど。清涼院流水の「19ボックス」みたいなものだろうか。
「おたく男女の関係」森川喜一郎:エッセイ?
腐女子とも呼ばれる、オタク女子について書いたエッセイです。
この中で、何故女性がやおい系(BL。男どうしのなんやかんや)に惹かれるのか、という考察があって、ちょっと納得しました。
曰く、『女性から見たら、男が女に寄せる恋心は、少なからず性欲によってドライブされている。美しい女性が対象化され、セックスにいたる恋愛物語の場合、なおさらその感が否めない。ところが、対象を男にすげ替えたとたんに、それは「恋愛にドライブ」された性欲へと転倒されるのである。』
なるほど、この考察は分かりやすい。ちょっと、やおい系にハマる女子の気持ちがわかったかも。でも、ホモ的なのは僕は一切受け付けませんけど、はい。気持ち悪いですね。
「もの思う葦」枕木憂士:エッセイ
映画に関するエッセイです。まああんまりちゃんと読んでませんけど。
「うりこひめさま」ウエダハジメ:マンガ
ウエダハジメのマンガは、「コミックファウスト」でも読んだけど、よくわからないという感じの方が強いですね。絵がちょっとマンガ向きじゃないっていうか、曖昧すぎる感じで、だからよくわからないんだと思います。
「そして五人がいなくなる」はやみねかおる×箸井地図:マンガ
はやみねかおるの人気シリーズ「夢水清志郎事件ノート」のマンガです。本作には一部しか載ってないんで、まあ単行本をみんな買いましょう、という宣伝ですね。
というわけで、いつもながら盛りだくさんのファウストですが、やっぱり人によって満足できる部分はどうしても限られてくるでしょうね。僕としては、やはり乙一の小説と、あと前編だけしか読めなかったけど、竜騎士07と錦メガネの小説も結構よかったですね。
まあそんなわけで、上記の簡単な内容紹介を読んで、いくつか気になるのがあれば、買ってみてください。
太田克史編集長「ファウストvol.6sideA」
インド旅行記1 北インド編(中谷美紀)
旅行については、独自に変な理屈があるのだけど、まあそれはいろんなところで書いたから、もういいだろうか。
平たく言えば、旅行には意味がない、という主旨である。時々、旅行をしてひと回り大きくなるだの、世界が広がっただの、そういうことをいう人がいるけど、そんなことはないだろ、と。旅行に行くのと麻雀をするのは、本質的に大差はない、とまあ僕は思っています。別に、旅行が好きではないという話ではないんだけど。
というわけで旅行の話は置いといて、変な人の話ですね。まあ、これも僕がよく書いてることではあるんですけど。
僕は基本的に、変な人というのが大好きなわけです。普通の人が好きじゃない、という言い方もまあできるけど、でもやっぱり、積極的に変な人が好きだと主張したいですね。
たとえば、同じものを見ていても、そんな見方をするんだなと思う人はいるし、そんな風に考えるんだと思う人もいる。逆に、あーありきたりだなぁ、なんて思ってしまうような人もいて、そういう人はちょっとつまらないと思う。ただ問題は、僕だって人から見ればそういうつまらない普通の人間だろうか、という部分ですよね。そこは難しいところです。
さて、まあこの変な人が好きだというのは昔から思っていたことだし考えてきたことでもあるのだけど、最近また新しいことを考えました。つまりそれは、どんな変な人が好きなのか、ということについての話です。
変な人が好きだと言っても、変さにはいろいろあるわけです。そのどんな変さについて自分は惹かれるのだろうか、ということについて考えました。
結論だけまず書けば、動的な変さは好きで、静的な変さは好きではないな、ということですね。
例えば、人それぞれ生きている中で、自分の立ち位置というものが出来てくると思うんです。社会的にとか性格的にとかまあいろいろな側面はあるけど、どんな側面でもいいです。とにかく人間はそれぞれ、自分の立ち位置というものがあるわけです。
その立ち位置が変わっている人というのはあまり好きではないかな、と思います。つまりこれが、静的な変さですね。
例を挙げれば、ホームレスだとか金持ちだとかいう現状の位置、孤児だとかその人の個別の性癖だとかいう基本的に変わらないもの。そういう、人生の中において比較的固定されているというか性的で変化のないその人の属性みたいなものが変わっている人というのは、ちょっと嫌かもしれないですね。なんとなく説明が難しいけど、そんな感じです。
一方で動的な変さというのは何かと言えば、考え方や価値観と言ったものだと思ってくれればいいですね。
つまり、自分の立ち位置からどう動くのか、というその判断が変わっている人というのは面白いな、と思います。
無理矢理かもしれないけど上記のようなことを、ビリヤードに例えてみようかと思います。
ビリヤード台の上に、無秩序に球が並んでいると思ってください。ちゃんと緑地の上にあるものもあれば、枠外にギリギリあるものや、穴に落ちそうになってるもの、球が二つ重なってたり、床に落ちてたりするものもあるかもしれません。
まずこの時僕としては、止まっている状態での球の位置は、ごくごく普通の場所にあって欲しいんですね。床に落ちてたり穴に落ちそうだったりして特徴があるような球は変だけどちょっと好きになれないわけです。
さて一方で、そのビリヤード台上で、白い球を突いてみることにしましょう。白いボールは台上のあらゆる球に当たるわけですが、この時に普通とは違うちょっと変な動きをする球があるとしたら、そういう球を僕は好きだ、ということなんですね。
意味わかりますでしょうか?まあ、自分でもそんなにまとまっている話ではないからかなりわかりづらいと思うけど。
そうやって僕は、自分の好きな変と嫌いな変とを分けて、日々変な人に注目してるんだと思います。
さてなんでこんな話を長々としたかと言えば、僕にとって中谷美紀というのは、すごくいい方の変な人だからですね。ホント、別に全然中谷美紀のことを知らないけど、それでも、断片的に知っている事実だけでも、中谷美紀というのは相当変わった人だなと思うわけで、僕はもうとにかく大好きですね。
僕の中での中谷美紀のイメージというのは、他人に何かを合わせたりしようとしないで、すべて自分で決める、という感じです。自分の中に、あらゆることに対する答え(というか形)がもとからあって(普通は、他人と比較することでそれを知っていくんだと思うけど)、それに従って生きていく、という感じがします。こう書くと、すごく傲慢で自己中心的みたいに聞こえるかもだけどそういうことではなくて、協調性もありかつ自分自身の形の強さもあって、そのバランスがいい人ではないかな、と思ったりしますね。
まあ、飾らないということですね。外見的にも内面的にも、飾ることで自分を偽ろうという発想がそもそもない人なんだろうな、と思います。そこが、いいんですね、きっと。
というわけで、ひたすら中谷美紀を絶賛するだけの文章ですが、そんな中谷美紀が単身インドに乗り込んだとあっては、これは興味津々にならないわけがないではないですか。というわけで本作を読んでみたわけで、つまり、そろそろ内容に入ろうかと思います。
内容も何も、中谷美紀がインド旅行をしたその過程を、旅行記として本にまとめたのが本作です。
まあそれだけではどうしようもないので、まず中谷美紀がなんでインドに行こうとしたのか、という話からしようと思います。
中谷美紀は、「嫌われ松子の一生」という映画の主演を演じたわけですが、他人の感情に入り込んでそれを出すということに少しは慣れたつもりだった(と本人は言っている。少しは、なんて謙遜だと思うけど)のだけど、松子という役は久々に自分自身を疲弊させる役であり、撮影中はもうとにかく精神状態が大変だったし、撮影が終わった途端、とにかくどこかへ行かなくては、という風に思ったわけです。
それで、なぜインドなのかというと、ヨガと関係があります。中谷美紀は、まあそこそこ趣味はたくさんあるようなんだけど、その中の一つにヨガがあって、どうせならばヨガの聖地であるインドで直にそれに触れたい、と思ったわけです。
しかし何にしても、女優であることを差し引いたとしたって、インドへ女性が一人で旅をするわけです(もちろん、現地のガイドなんかはいるけど、日本からは誰も随行者はいない、という意味です)。旅なんかほとんどしない僕だって(というかそんな人間だからこそなのかもだけど)、どう考えてもインドへは女性が一人で行くべきじゃないと思うのだけど、そこは中谷美紀ですね、全然気にしません。旅はいつだって一人でするものだったらしいし、臆することなく一人旅を決断してしまいます。こういう辺り、いいですね、ホント。
かくして、日本の大女優が(中谷美紀は自身のことをささやかな女優だなんて言ってますが)、単身インドに乗り込むことになった、というわけです。少し前から幻冬社という出版社の文庫のイメージキャラクターになっていたことも恐らく関係すると思うんだけど、幻冬社から文庫でその旅行記を出版することになったわけです。
中谷美紀は、2005年の8月2日から2006年1月4日の間に、計4回もインドへ旅行へ行っています。今回の旅行記ではそのうちの、2005年8月2日~9月8日の38日間の記録が収められています。主に北インドを旅行したようです。
中谷美紀というのは、前々から文章を書いて発表していたわけですけど(エッセイをいくつか出版しています)、相変わらずちゃんとした文章を書くし、読んでてすごく面白いな、と思わされます。やはりそれは、視点がちょっと人とは変わっているからだろうな、と僕は思います。文章が特別うまいというわけではないのだろうけど、その人とは間違いなく違う視点のお陰で、文章がすごく面白く感じられます。
女の一人旅というだけでなく、そこはもうインドですから、トラブルは続出します。胃の殺菌用にと練りわさびまで常備して行ったのに腹痛に襲われたり、パスポートを盗まれて警察署で一騒動あったり、ガイドはみやげ物やとつるんで土産を買わせようとするし、インド人は通りすがりの人でもあれやこれやと話し掛けてきてうっとおしいし、無邪気な演技でお金をねだる子供もいれば、鳩だの牛だののウンコの中を裸足で歩かなくてはいけなかったりと、とにかく毎日いろんなことの連続で、行ってる本人としてはいろいろ大変なんだろうけど、読んでる方としてはすごく楽しいですね。
本作の中で一番疑問なのは、一体言葉はどうしたんだろう、ということですね。中谷美紀は文章の中で、幼稚園レベルの拙い英語が喋れるくらい、と書いているんだけど、そんなレベルでは到底理解できないだろ、というような会話を普通にしているわけで、しかもそれを毎日日記に書けるだけ記憶しているわけです。通訳が一緒に行っているわけがないので中谷美紀が自分でコミュニケーションを取っているんだろうけど、これはすごいと思います。普通のコミュニケーションなら、身振り手振りも交えればなんとかなるかもしれないけど、ガイドの人から聞く、お寺の由来だとかそういうことまできちんと理解して書いてるわけです(もちろん、日本に戻ってきてから調べたという可能性もないではないけど)。本作を読んでて、これは稚拙な英語のレベルではどうにもならないだろ、と思い、そういえば「ホテル・ビーナス」という全編韓国語の映画に出て、その時に韓国語をかなりマスターした中谷美紀なら、英語も結構出来たりするのかもしれない、とかなり感心しました。すごいもんです。
インドという国は神秘の国だとよく聞くし、実際そうなんだろうけど、でもほとんどの現実は貧しい暮らしがそこに広がっているわけですね。インドに魅入られてそこから離れられなくなってしまうような人もいるみたいだけど、やっぱ日本で生まれ育った身としては、観光気分でふらっと行く分にはいいかもだけど、その貧しさにはちょっと慣れられそうにないな、と思いました。でも、基本的にベジタリアンが多い国のようで、肉や魚をまるで使わなくてもすごく美味しく料理が食べられる、というのには少し興味がありますね。別に健康に気を遣っているなんてことはないのだけど。
ヨガの話も結構あって、これはヨガをやってる人にはいろいろと面白いかもしれません。
まあ何にしても、中谷美紀はインドに行ってもちゃんと中谷美紀だった、というのが一番よかったですね。ものを買う時や乗り物の料金を払うときも、向こうの言い値ではなくてきちんと交渉するし、外聞も気にせずにどばっと感情を吐き出してみたり、いい感じです。
本作を読んでて時折出てくるシーンで、路上で子供がよくお金をくれと言って近づいてくるシーンというのがあります。中谷美紀は基本的に、相手の子供のことを考えて、みやみにお金を渡したりはしません。ガイドの人も、こうやって観光客にお金をもらえてしまうと、仕事をして働く意欲がなくなってしまうからよくない、ということも言っていました。可哀相だと思う気持ちもありながら、それをちゃんと押し留めていたわけです。
でもこういう場面もありました。子供がお金をくれと言って来た時に、仕事をしないとお金はもらえないのよ、と言って、その子供に案内の仕事を頼む、というような場面です。他にも、明日母親の心臓手術があるのだけどお金が足りなくてどうしようもないというマッサージの女の子に、手術費用を渡したりしたりもします。
彼らが必要とする額は、日本円に換算すればもう微々たるもので、別にいくらでも上げてあげようという気に僕もなるかもしれないのだけど、それはやっぱり自己満足なんでしょうね。自分の見える範囲でだけ善行を施していい気になってはいけないのだと思います。でも、ちゃんと考えて、相手のためになるはずだとしっかり思えるのならば、そういう行為もいいんだろうな、といろいろ考えさせられました。
考えさせられたと言えば、宗教の話もたくさん出てきます。仏教とイスラム教とヒンドゥー教と、他にも様々な宗教が入り乱れた国だそうで、共存するのは大変そうです。中谷美紀も一般的な日本人と同じく無宗教なわけだけど、この旅でいろいろ考えるところがあったようです。
まあそんなわけで、読む人によって注目するところは結構違うかもしれないけど、面白い本です。女優が書いた、というところを差し引いても面白さの残る本だと思います。是非読んでみてください。インドに行きたくなるかもしれませんよ。
中谷美紀「インド旅行記1 北インド編」
平たく言えば、旅行には意味がない、という主旨である。時々、旅行をしてひと回り大きくなるだの、世界が広がっただの、そういうことをいう人がいるけど、そんなことはないだろ、と。旅行に行くのと麻雀をするのは、本質的に大差はない、とまあ僕は思っています。別に、旅行が好きではないという話ではないんだけど。
というわけで旅行の話は置いといて、変な人の話ですね。まあ、これも僕がよく書いてることではあるんですけど。
僕は基本的に、変な人というのが大好きなわけです。普通の人が好きじゃない、という言い方もまあできるけど、でもやっぱり、積極的に変な人が好きだと主張したいですね。
たとえば、同じものを見ていても、そんな見方をするんだなと思う人はいるし、そんな風に考えるんだと思う人もいる。逆に、あーありきたりだなぁ、なんて思ってしまうような人もいて、そういう人はちょっとつまらないと思う。ただ問題は、僕だって人から見ればそういうつまらない普通の人間だろうか、という部分ですよね。そこは難しいところです。
さて、まあこの変な人が好きだというのは昔から思っていたことだし考えてきたことでもあるのだけど、最近また新しいことを考えました。つまりそれは、どんな変な人が好きなのか、ということについての話です。
変な人が好きだと言っても、変さにはいろいろあるわけです。そのどんな変さについて自分は惹かれるのだろうか、ということについて考えました。
結論だけまず書けば、動的な変さは好きで、静的な変さは好きではないな、ということですね。
例えば、人それぞれ生きている中で、自分の立ち位置というものが出来てくると思うんです。社会的にとか性格的にとかまあいろいろな側面はあるけど、どんな側面でもいいです。とにかく人間はそれぞれ、自分の立ち位置というものがあるわけです。
その立ち位置が変わっている人というのはあまり好きではないかな、と思います。つまりこれが、静的な変さですね。
例を挙げれば、ホームレスだとか金持ちだとかいう現状の位置、孤児だとかその人の個別の性癖だとかいう基本的に変わらないもの。そういう、人生の中において比較的固定されているというか性的で変化のないその人の属性みたいなものが変わっている人というのは、ちょっと嫌かもしれないですね。なんとなく説明が難しいけど、そんな感じです。
一方で動的な変さというのは何かと言えば、考え方や価値観と言ったものだと思ってくれればいいですね。
つまり、自分の立ち位置からどう動くのか、というその判断が変わっている人というのは面白いな、と思います。
無理矢理かもしれないけど上記のようなことを、ビリヤードに例えてみようかと思います。
ビリヤード台の上に、無秩序に球が並んでいると思ってください。ちゃんと緑地の上にあるものもあれば、枠外にギリギリあるものや、穴に落ちそうになってるもの、球が二つ重なってたり、床に落ちてたりするものもあるかもしれません。
まずこの時僕としては、止まっている状態での球の位置は、ごくごく普通の場所にあって欲しいんですね。床に落ちてたり穴に落ちそうだったりして特徴があるような球は変だけどちょっと好きになれないわけです。
さて一方で、そのビリヤード台上で、白い球を突いてみることにしましょう。白いボールは台上のあらゆる球に当たるわけですが、この時に普通とは違うちょっと変な動きをする球があるとしたら、そういう球を僕は好きだ、ということなんですね。
意味わかりますでしょうか?まあ、自分でもそんなにまとまっている話ではないからかなりわかりづらいと思うけど。
そうやって僕は、自分の好きな変と嫌いな変とを分けて、日々変な人に注目してるんだと思います。
さてなんでこんな話を長々としたかと言えば、僕にとって中谷美紀というのは、すごくいい方の変な人だからですね。ホント、別に全然中谷美紀のことを知らないけど、それでも、断片的に知っている事実だけでも、中谷美紀というのは相当変わった人だなと思うわけで、僕はもうとにかく大好きですね。
僕の中での中谷美紀のイメージというのは、他人に何かを合わせたりしようとしないで、すべて自分で決める、という感じです。自分の中に、あらゆることに対する答え(というか形)がもとからあって(普通は、他人と比較することでそれを知っていくんだと思うけど)、それに従って生きていく、という感じがします。こう書くと、すごく傲慢で自己中心的みたいに聞こえるかもだけどそういうことではなくて、協調性もありかつ自分自身の形の強さもあって、そのバランスがいい人ではないかな、と思ったりしますね。
まあ、飾らないということですね。外見的にも内面的にも、飾ることで自分を偽ろうという発想がそもそもない人なんだろうな、と思います。そこが、いいんですね、きっと。
というわけで、ひたすら中谷美紀を絶賛するだけの文章ですが、そんな中谷美紀が単身インドに乗り込んだとあっては、これは興味津々にならないわけがないではないですか。というわけで本作を読んでみたわけで、つまり、そろそろ内容に入ろうかと思います。
内容も何も、中谷美紀がインド旅行をしたその過程を、旅行記として本にまとめたのが本作です。
まあそれだけではどうしようもないので、まず中谷美紀がなんでインドに行こうとしたのか、という話からしようと思います。
中谷美紀は、「嫌われ松子の一生」という映画の主演を演じたわけですが、他人の感情に入り込んでそれを出すということに少しは慣れたつもりだった(と本人は言っている。少しは、なんて謙遜だと思うけど)のだけど、松子という役は久々に自分自身を疲弊させる役であり、撮影中はもうとにかく精神状態が大変だったし、撮影が終わった途端、とにかくどこかへ行かなくては、という風に思ったわけです。
それで、なぜインドなのかというと、ヨガと関係があります。中谷美紀は、まあそこそこ趣味はたくさんあるようなんだけど、その中の一つにヨガがあって、どうせならばヨガの聖地であるインドで直にそれに触れたい、と思ったわけです。
しかし何にしても、女優であることを差し引いたとしたって、インドへ女性が一人で旅をするわけです(もちろん、現地のガイドなんかはいるけど、日本からは誰も随行者はいない、という意味です)。旅なんかほとんどしない僕だって(というかそんな人間だからこそなのかもだけど)、どう考えてもインドへは女性が一人で行くべきじゃないと思うのだけど、そこは中谷美紀ですね、全然気にしません。旅はいつだって一人でするものだったらしいし、臆することなく一人旅を決断してしまいます。こういう辺り、いいですね、ホント。
かくして、日本の大女優が(中谷美紀は自身のことをささやかな女優だなんて言ってますが)、単身インドに乗り込むことになった、というわけです。少し前から幻冬社という出版社の文庫のイメージキャラクターになっていたことも恐らく関係すると思うんだけど、幻冬社から文庫でその旅行記を出版することになったわけです。
中谷美紀は、2005年の8月2日から2006年1月4日の間に、計4回もインドへ旅行へ行っています。今回の旅行記ではそのうちの、2005年8月2日~9月8日の38日間の記録が収められています。主に北インドを旅行したようです。
中谷美紀というのは、前々から文章を書いて発表していたわけですけど(エッセイをいくつか出版しています)、相変わらずちゃんとした文章を書くし、読んでてすごく面白いな、と思わされます。やはりそれは、視点がちょっと人とは変わっているからだろうな、と僕は思います。文章が特別うまいというわけではないのだろうけど、その人とは間違いなく違う視点のお陰で、文章がすごく面白く感じられます。
女の一人旅というだけでなく、そこはもうインドですから、トラブルは続出します。胃の殺菌用にと練りわさびまで常備して行ったのに腹痛に襲われたり、パスポートを盗まれて警察署で一騒動あったり、ガイドはみやげ物やとつるんで土産を買わせようとするし、インド人は通りすがりの人でもあれやこれやと話し掛けてきてうっとおしいし、無邪気な演技でお金をねだる子供もいれば、鳩だの牛だののウンコの中を裸足で歩かなくてはいけなかったりと、とにかく毎日いろんなことの連続で、行ってる本人としてはいろいろ大変なんだろうけど、読んでる方としてはすごく楽しいですね。
本作の中で一番疑問なのは、一体言葉はどうしたんだろう、ということですね。中谷美紀は文章の中で、幼稚園レベルの拙い英語が喋れるくらい、と書いているんだけど、そんなレベルでは到底理解できないだろ、というような会話を普通にしているわけで、しかもそれを毎日日記に書けるだけ記憶しているわけです。通訳が一緒に行っているわけがないので中谷美紀が自分でコミュニケーションを取っているんだろうけど、これはすごいと思います。普通のコミュニケーションなら、身振り手振りも交えればなんとかなるかもしれないけど、ガイドの人から聞く、お寺の由来だとかそういうことまできちんと理解して書いてるわけです(もちろん、日本に戻ってきてから調べたという可能性もないではないけど)。本作を読んでて、これは稚拙な英語のレベルではどうにもならないだろ、と思い、そういえば「ホテル・ビーナス」という全編韓国語の映画に出て、その時に韓国語をかなりマスターした中谷美紀なら、英語も結構出来たりするのかもしれない、とかなり感心しました。すごいもんです。
インドという国は神秘の国だとよく聞くし、実際そうなんだろうけど、でもほとんどの現実は貧しい暮らしがそこに広がっているわけですね。インドに魅入られてそこから離れられなくなってしまうような人もいるみたいだけど、やっぱ日本で生まれ育った身としては、観光気分でふらっと行く分にはいいかもだけど、その貧しさにはちょっと慣れられそうにないな、と思いました。でも、基本的にベジタリアンが多い国のようで、肉や魚をまるで使わなくてもすごく美味しく料理が食べられる、というのには少し興味がありますね。別に健康に気を遣っているなんてことはないのだけど。
ヨガの話も結構あって、これはヨガをやってる人にはいろいろと面白いかもしれません。
まあ何にしても、中谷美紀はインドに行ってもちゃんと中谷美紀だった、というのが一番よかったですね。ものを買う時や乗り物の料金を払うときも、向こうの言い値ではなくてきちんと交渉するし、外聞も気にせずにどばっと感情を吐き出してみたり、いい感じです。
本作を読んでて時折出てくるシーンで、路上で子供がよくお金をくれと言って近づいてくるシーンというのがあります。中谷美紀は基本的に、相手の子供のことを考えて、みやみにお金を渡したりはしません。ガイドの人も、こうやって観光客にお金をもらえてしまうと、仕事をして働く意欲がなくなってしまうからよくない、ということも言っていました。可哀相だと思う気持ちもありながら、それをちゃんと押し留めていたわけです。
でもこういう場面もありました。子供がお金をくれと言って来た時に、仕事をしないとお金はもらえないのよ、と言って、その子供に案内の仕事を頼む、というような場面です。他にも、明日母親の心臓手術があるのだけどお金が足りなくてどうしようもないというマッサージの女の子に、手術費用を渡したりしたりもします。
彼らが必要とする額は、日本円に換算すればもう微々たるもので、別にいくらでも上げてあげようという気に僕もなるかもしれないのだけど、それはやっぱり自己満足なんでしょうね。自分の見える範囲でだけ善行を施していい気になってはいけないのだと思います。でも、ちゃんと考えて、相手のためになるはずだとしっかり思えるのならば、そういう行為もいいんだろうな、といろいろ考えさせられました。
考えさせられたと言えば、宗教の話もたくさん出てきます。仏教とイスラム教とヒンドゥー教と、他にも様々な宗教が入り乱れた国だそうで、共存するのは大変そうです。中谷美紀も一般的な日本人と同じく無宗教なわけだけど、この旅でいろいろ考えるところがあったようです。
まあそんなわけで、読む人によって注目するところは結構違うかもしれないけど、面白い本です。女優が書いた、というところを差し引いても面白さの残る本だと思います。是非読んでみてください。インドに行きたくなるかもしれませんよ。
中谷美紀「インド旅行記1 北インド編」
見仏記(いとうせいこう+みうらじゅん)
仏像というのは考えてみれば、今でいう人形だとかぬいぐるみみたいな存在だったんだろうかな、と思う。まあ、そう考えれば、少しわかりやすいし、より親しみやすいというものだ。
僕には、人形だとかぬいぐるみだとかを集めたり愛玩したりする趣味はないのでその方面もよくわからないのだけど、近くに置いておきたい、そして何よりも手で触れたい、みたいな欲求が、まあきっとあるんだろうと思う。
仏像は、スケールこそ違うが、似たようなものだ。
昔の人にとっては、近くのお寺に仏像がある、ということは、僕らで言う部屋にぬいぐるみがあるというのと同じようなものだったんだろう、と勝手に思う。小さなものを大量に作る技術がなかったはずなので、大きなものをみんなで共有し、それをみんなが見られるようにどこか近くの寺に置く、というような発想だろうと思うし、それは現代のぬいぐるみのようなものだ。
だから、案外仏像というのは、軽い存在だったのかもしれないな、と思う。なんとなくあの威容から、昔は頼りにされてたんだとか思いがちだけど、ホントはもっと気軽な存在だったのかもしれない。あぁ、すごく適当に書いてるけど。
仏像のそれぞれの違いが一般にはわからなくなり、その存在がどんどんと平坦化されていくにつれて、一方で仏像そのものの存在の価値がゆるゆると上がっていき、今のような、大切に保管されたりするような存在になったんではないか、と思います。
眠いんで、すごい適当に無茶苦茶書いてます。すいません。
僕は神奈川に住んでる人間で、まあ行こうと思えば鎌倉とかには行けるんだろうけど、でもやっぱり普段から仏像に接するというようなことはないですね。僕も、仏像の違いがちゃんとはわからない人間だし、なかなか見に行こうという発想にはならないですね。
でも世の中にはすごい人間がいて、とにかく仏像LOVEという人がいるわけですね。
バイト先にも、仏像が結構好きだという人がいるんだけど、本作のみうらじゅんというのはそういうレベルを遥かに飛び越えてしまっていますね。はっきりいって変人に見えますが、その一直線なひたむきっぷりが逆に羨ましく思えたりもします。
仏像を愛でる人々というのは、まあいろいろなことを考えるものだな、と思いました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、いとうせいこうとみうらじゅんが、いろんなところに仏像を見に行くという、その探訪記です。
みうらじゅんというのは筋金入りの仏像マニアだそうで、そのルーツは小学校時代に遡り、仏像を見に行っては、その様子をスクラップブックに書いていくというようなことをしていたわけです。小学生ながらそのスクラップブックの中身は恐ろしいものがあります。
そんなハード仏像好きのみうらじゅんに対し、いとうせいこうはそこまでという感じです。ならば何故こんな企画が始まったかといえば、いとうせいこうがみうらじゅんに、僕もちょっと仏像が好きで、と話したら、なら連載しようよ、という話になったらしい。なんだそりゃ。
まあそんなわけで、文章をいとうせいこうが書き、絵をみうらじゅんが書くという形で本作は構成されています。
本作は、面白いかどうかと言われれば、そんなに面白くはなかったですね。なんというか、僕が期待していたのとは少し違っていたかなという感じでした。
以前、同じく仏像本で、モデルのはなが書いた「おおきなぶつぞうちいさなぶつぞう」みたいな本を読んだんだけど、そっちの方がよかったですね。はなの方は、絵がけっこうふんだんにあって仏像のイメージがしやすかったのに対して、本作は圧倒的に絵が少ないですね。だから、いとうせいこうによる仏像の描写だけでは、何がなんだかよくわからなくて、その点がちょっとなぁ、という感じでした。
あと、いとうせいこうが書く文章というのが、ちょっと難しいんですね。きちんと、仏像を哲学しているというか、仏像を思考しているんだけど、その論理がちょっと難しかったりするわけで、よくわからないな、という箇所も結構あります。よくわからないと言えば、みうらじゅんの発想もかなりよくわからないものが多くて、でもそっちのよくわからなさは結構面白いです。
でも何にしてもすごいと思うのは、『たかが』仏像に、これだけあれこれよく書けるな、ということですね。しかも、仏像LOVEのみうらじゅんならともかく、そんなにでもないいとうせいこうが文章を書いているわけで、なおさらすごいなと思います。
本作のいい点としてはまさにそこで、いとうせいこうが文章を書いている、ということですね。もし本作が、みうらじゅんによる文章だったら、ある意味で面白いけど無茶苦茶だっただろうなと思います。仏像LOVEのみうらじゅんの文章では、あまりに主観的になりすぎて意味の通じない描写になってしまうでしょう。実際、そういう意味の通じなさそうな発言を何回かしているし。
しかしそこを、仏像をそこまで好きなわけではないいとうせいこうが客観的に文章を書いているからこそ、読物として成立しているのだろうな、と思います。
ホントに本作は、絵がもう少し(というかもういっぱい)あれば結構いい作品だと思うので、残念ですね。いとうせいこうが描写しているその仏像の絵がどこかにあれば、なるほどこれね、という感じになれるので、それがあるのとないのとではもう大分違いますね。
だから本作を読むのは、結構いろんなところの仏像を見てきてその外見を知っているよという人か、あるいは近いうちに仏像巡りをするんだけどどんなもんかなと思っている人(先に仏像の描写を読んでおいて、その後すぐに実物を見れば、なるほどという感じになれるかも)ぐらいがいいかもしれないですね。予備知識も何もなく、仏像を見に行く予定もない人がふらっと読んでも、ちょっと面白くないかもしれないな、という感じです。
いとうせいこう+みうらじゅん「見仏記」
僕には、人形だとかぬいぐるみだとかを集めたり愛玩したりする趣味はないのでその方面もよくわからないのだけど、近くに置いておきたい、そして何よりも手で触れたい、みたいな欲求が、まあきっとあるんだろうと思う。
仏像は、スケールこそ違うが、似たようなものだ。
昔の人にとっては、近くのお寺に仏像がある、ということは、僕らで言う部屋にぬいぐるみがあるというのと同じようなものだったんだろう、と勝手に思う。小さなものを大量に作る技術がなかったはずなので、大きなものをみんなで共有し、それをみんなが見られるようにどこか近くの寺に置く、というような発想だろうと思うし、それは現代のぬいぐるみのようなものだ。
だから、案外仏像というのは、軽い存在だったのかもしれないな、と思う。なんとなくあの威容から、昔は頼りにされてたんだとか思いがちだけど、ホントはもっと気軽な存在だったのかもしれない。あぁ、すごく適当に書いてるけど。
仏像のそれぞれの違いが一般にはわからなくなり、その存在がどんどんと平坦化されていくにつれて、一方で仏像そのものの存在の価値がゆるゆると上がっていき、今のような、大切に保管されたりするような存在になったんではないか、と思います。
眠いんで、すごい適当に無茶苦茶書いてます。すいません。
僕は神奈川に住んでる人間で、まあ行こうと思えば鎌倉とかには行けるんだろうけど、でもやっぱり普段から仏像に接するというようなことはないですね。僕も、仏像の違いがちゃんとはわからない人間だし、なかなか見に行こうという発想にはならないですね。
でも世の中にはすごい人間がいて、とにかく仏像LOVEという人がいるわけですね。
バイト先にも、仏像が結構好きだという人がいるんだけど、本作のみうらじゅんというのはそういうレベルを遥かに飛び越えてしまっていますね。はっきりいって変人に見えますが、その一直線なひたむきっぷりが逆に羨ましく思えたりもします。
仏像を愛でる人々というのは、まあいろいろなことを考えるものだな、と思いました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、いとうせいこうとみうらじゅんが、いろんなところに仏像を見に行くという、その探訪記です。
みうらじゅんというのは筋金入りの仏像マニアだそうで、そのルーツは小学校時代に遡り、仏像を見に行っては、その様子をスクラップブックに書いていくというようなことをしていたわけです。小学生ながらそのスクラップブックの中身は恐ろしいものがあります。
そんなハード仏像好きのみうらじゅんに対し、いとうせいこうはそこまでという感じです。ならば何故こんな企画が始まったかといえば、いとうせいこうがみうらじゅんに、僕もちょっと仏像が好きで、と話したら、なら連載しようよ、という話になったらしい。なんだそりゃ。
まあそんなわけで、文章をいとうせいこうが書き、絵をみうらじゅんが書くという形で本作は構成されています。
本作は、面白いかどうかと言われれば、そんなに面白くはなかったですね。なんというか、僕が期待していたのとは少し違っていたかなという感じでした。
以前、同じく仏像本で、モデルのはなが書いた「おおきなぶつぞうちいさなぶつぞう」みたいな本を読んだんだけど、そっちの方がよかったですね。はなの方は、絵がけっこうふんだんにあって仏像のイメージがしやすかったのに対して、本作は圧倒的に絵が少ないですね。だから、いとうせいこうによる仏像の描写だけでは、何がなんだかよくわからなくて、その点がちょっとなぁ、という感じでした。
あと、いとうせいこうが書く文章というのが、ちょっと難しいんですね。きちんと、仏像を哲学しているというか、仏像を思考しているんだけど、その論理がちょっと難しかったりするわけで、よくわからないな、という箇所も結構あります。よくわからないと言えば、みうらじゅんの発想もかなりよくわからないものが多くて、でもそっちのよくわからなさは結構面白いです。
でも何にしてもすごいと思うのは、『たかが』仏像に、これだけあれこれよく書けるな、ということですね。しかも、仏像LOVEのみうらじゅんならともかく、そんなにでもないいとうせいこうが文章を書いているわけで、なおさらすごいなと思います。
本作のいい点としてはまさにそこで、いとうせいこうが文章を書いている、ということですね。もし本作が、みうらじゅんによる文章だったら、ある意味で面白いけど無茶苦茶だっただろうなと思います。仏像LOVEのみうらじゅんの文章では、あまりに主観的になりすぎて意味の通じない描写になってしまうでしょう。実際、そういう意味の通じなさそうな発言を何回かしているし。
しかしそこを、仏像をそこまで好きなわけではないいとうせいこうが客観的に文章を書いているからこそ、読物として成立しているのだろうな、と思います。
ホントに本作は、絵がもう少し(というかもういっぱい)あれば結構いい作品だと思うので、残念ですね。いとうせいこうが描写しているその仏像の絵がどこかにあれば、なるほどこれね、という感じになれるので、それがあるのとないのとではもう大分違いますね。
だから本作を読むのは、結構いろんなところの仏像を見てきてその外見を知っているよという人か、あるいは近いうちに仏像巡りをするんだけどどんなもんかなと思っている人(先に仏像の描写を読んでおいて、その後すぐに実物を見れば、なるほどという感じになれるかも)ぐらいがいいかもしれないですね。予備知識も何もなく、仏像を見に行く予定もない人がふらっと読んでも、ちょっと面白くないかもしれないな、という感じです。
いとうせいこう+みうらじゅん「見仏記」
裁判長!ここは懲役4年でどうすか(北尾トロ)
そもそも、犯罪というのは、何だろうと、と思う。
結局のところ犯罪というのは、人間が決めるものなのだ。これは犯罪でこれは犯罪ではない、と人間が決める。犯罪を犯した人間を人間が裁く。当たり前だけど、それでいいのだろうか?
法律と犯罪というのはいわば、箱にミカンを詰めるようなものではないかと思うのだ。箱にミカンを詰めても、どうしたって隙間が空く。箱をミカンだけできっちり充填することは出来ない。その隙間分だけ、現実との乖離がある。
そこを補うのが、裁判所なのだろう。入りきらないミカンを詰め込み、余分に空いた隙間を埋めるような作業を、裁判所でしているのだ。
初めっから無理なことを、無理矢理できたかに見せているのが、裁判所というところなのである。
僕は、裁判所とはかなり無縁の存在である。多くの人がそうだろうと思う。近くの裁判所がどこにあるかも知らないという人が、圧倒的多数を占めるであろう。まあそれが普通だろうと思う。
少し関わりがあっても、例えば交通事故を起こした、離婚調停がこじれた、子供が悪さをした、というような関わり方であるだろう。多くの場合、事故であれ犯罪であれ、裁判所には不本意で向かうものだろうと思うのだ。
しかし世の中には、裁判所を娯楽として捉える人間がいるのである。
最近世の中には、『霞っ子』と呼ばれる人達がいるらしい。この人達は、裁判を娯楽のためだけに傍聴する人達である。『霞っ子クラブ』という名前のHPも存在し、その内容が書籍化されてもいる。最近では、若い女性がこぞって裁判所へ傍聴に出かけているのだという。
なんともおかしな世の中になったものだ。と言いたいところだけど、これに関しては彼女達の方が正しいような気もする。例え誉められないような不謹慎な動機であっても、裁判を含め司法に興味を持つということは言いことなのではないかという気がしてくる。関心のない僕らの方がダメなのではないかと思わされるのである。
大事件が起きると、その傍聴券を巡って長蛇の列が出来る、みたいなニュースが流れる。世の中の関心を一斉に背負うような大事件であれば、国民の関心は向くということなのだろう。逆に言えば、新聞にも載らないような、載っても後追い記事のないベタ記事にしかならないような裁判には関心がないのである。
裁判を傍聴することの、一体何が面白いのか。
本作を読んで思ったことだが、結局のところ、そこにはドラマがある、ということである。被告が犯罪に走った背景はもちろんのことながら、検察・弁護士・裁判官・証人それぞれの立場で事情が存在し、それぞれにドラマがある。真剣さを求められるはずの場で繰り広げられる、ふとこぼれてしまうようなそうしたドラマというものが、傍聴人を虜にするのだろう。まあ、高尚な娯楽と言えなくもないけど、悪趣味だと言えなくもない。
もう一つ別の話を。
犯罪を犯すということについてだ。
誰もが一度は考えてみたことがあるのではないか。例えば犯罪の一線を超えなくてはならないときに、自分はその一線を超えることができるのかどうか。
僕は正直、超えられないだろうな、と思うのだ。事故だとか、あるいは理性の残っていない状態でということなら話は別だけど、理性の残っている状態で一線を超えることは出来ないだろう。
何でも理屈で理性的に考えてしまう人間としては、安全側にいるという確信がない限り、犯罪的な行為はできない。安全側にいるという確信さえあれば一線を超えることは容易だろうけど。
しかし、世の中には、一線を超えて犯罪者になってしまう人も大勢いる。彼らを、犯罪を犯したから悪人だということができるのかどうか、それが僕には難しく思える。
犯罪というものがほとんど明確に規定されている以上、それを犯したら犯罪者であることは間違いないのだ。しかし、だからと言って悪人なのかというと、それはまた違う問題だろうと思う。
しかし、実際は世の中はそうは見ないのだ。例えばテレビで犯人の顔写真が出るとする。僕らはその犯人の背景なんかを全然知らないのにその写真を見て、「怖そうな顔だ。犯罪を犯してもおかしくない」みたいなことを普通に感じてしまうだろう。犯罪者=悪人という先入観に支配されてしまっているために、本当のところが見えなくなっていく。
その本当のところを垣間見ることができるのが、裁判所という場所であろう。そこでは、犯罪者の本性というものが見えてしまう。本当に悪人なのか、あるいは悪人ではないけど犯罪者なのか。
裁判を傍聴しなければ、そうしたことは決してわからない。もちろん、裁判を傍聴したところで不十分だろうけど。しかし、日々流れ作業のように現れては消えていく事件の報道にあって、僕らが感じることを忘れているものを、裁判所という場所は取り戻させてくれるような、そんな気がします。
自分が犯罪者にならないと絶対の自信を持って言うことはできません。もし万が一自分が犯罪者になったとしたら、やっぱり誰かに聞いてもらいたい、と思うかもしれません。自分は、こんな理由で仕方なく犯罪を犯してしまったんですと、見知らぬ人間でもいいから聞いて欲しいと思うかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、フリーライターである著者が、娯楽として裁判を傍聴するのにのめり込んでしまったその記録ともいえるものです。
裁判を傍聴した経験などない著者は、それでもとりあえず裁判所内をウロウロしながら、手当たり次第に裁判を傍聴していく。面白い裁判に出会わないことの方が多いが、それでも当たりの裁判に出会うと喜んでしまう。どんどん傍聴にのめりこんでいく。
その内、傍聴にも慣れ、傍聴仲間も出来、判決の予想も立てられるようになっていく。裁判所のミニ知識や傍聴仲間との座談会も収録した一冊です。
本作は、ある日を境に突然売れ出して在庫確保に奔走した本なんだけど、まあそれはいいとして、面白い作品でしたね。実はこの本、文庫の新刊で出たとき既に注目していて、売れてないのに補充の注文を掛けて平積みしていたんだけど、全然売れない代物で、でもたぶん何かで紹介されたとかなんでしょうね、売れ出しました。
本作は、娯楽として裁判を傍聴しに行くという、多少不謹慎な内容ではあるのだけど、まあ裁判の傍聴は国民の権利として認められているわけだし、傍聴をするということにも意義があるようだし、その辺はまあいいかなと思います。
しかしそれにしてもいろんな犯罪者がいるわけで、読んでいて楽しくなりますね。要するに、ちょっとおかしい人達がたくさん出てくるんだけど、裁判所というのはそういう人間の宝庫なんでしょう。本作の表紙の絵の構図もその一例で、背中にドクロマークのついた服を着て裁判に臨んだ被告の話があるのだけど、普通に考えてそれはないでしょう、ということを平気でやってきてしまうから恐ろしい。変な人間が大好き(少なくとも自分と直接関わらない限り)な僕としては、変な人間のオンパレードとも言える本作は、なかなか読み応えのある作品でした。
とにかく、まさに人間ドラマと呼ぶべき状況が様々にあって、傍聴席に女子高生が一杯いると裁判官が張り切るとか、検察官や裁判官の女性は美人だとか、強引なウソを通し続けようとする被告とか、うまいなぁと思わせる証人とか、とにかくどこに目を向けても面白いポイントが見つかるというような場所らしいですね。正直、時間と暇さえあれば、この裁判の傍聴っていうのはちゃんと趣味になるなと思いました。まず、お金も掛からないし、多少悪趣味だとは言え、悪いことをしているわけでもないのだし、僕もきっかけさえあれば傍聴マンになったりするかもな、と思いました。
撮り上げている事件は多岐に渡るんだけど、有名なものも多少はあるけど、大半はB級というかショボイ事件なわけで、でもそこにも人間ドラマが潜んでいる。強姦された被害者が証人として出廷するなんてのも、かなりドキドキもんですしね。面白そうですね。不謹慎ですけど。
帯に、「裁判員制度前に必読!」って書いてあるんで、少しだけ裁判員制度の話をしようかと思うんですけど、僕はこの制度は機能しないと思うんですよね。少なくとも日本では。
例えばアメリカでは陪審員制度だけど、これが成立するのは、アメリカ人というのが基本的に主張する民族だからだと思うんですね。全員が全員そうではないけど、風潮というか文化として、主張するということが根付いている。個人個人が主張を持っているからこそ、あの陪審員制度というのは成り立つのだと思います。
でも日本という国は違いますね。最近では自分の意見を持つ人が増えてきたとは言え、基本的に風潮として、主張しないことが美徳みたいな感じがあるとは思わないでしょうか?そんな国で裁判員制度をやろうとしても、選ばれた裁判員が主張をしないと思うんですね。自分のことを考えてみても、自分の意見で被告が有罪か無罪かとか判決まで決まってしまうとしたらちょっと重いし、だとしたらやっぱり発言するのに躊躇するだとうな、と思います。
まあ国がやろうって言ってるわけで、しかもここまで大きな改革だから結構偉い人が関わっているわけで、そうなると、例え現実と合わない制度だとしても、メンツのためにすぐ廃止なんてことにはならないだろうと思うけど、その場合、現場つまり裁判所の人間がひどく大変な思いをするんだろうな、と思います。何も喋らない裁判員に発言を促そうとする裁判官の姿が目に浮かびます。頑張ってください、裁判官の皆さん。
まあそんなわけで、今までの人生でまるで関わりを持つことのなかった裁判所という場所が、結構身近に感じられる作品でした。行ったら行ったで、結構楽しめる場所なような気もします。まあ、楽しむためには多少の努力と経験が必要な気もしますけど。何にしても、本作は読んでみてください。結構面白いですよ。ドラマとかの裁判シーンはかっこいいけど、あんな裁判はほとんどないということがよくわかると思います。ショボサの中にいかに面白味を見出すかという高尚さ(不謹慎さ)が抜群です。是非どうぞ。
北尾トロ「裁判長!ここは懲役4年でどうすか」
結局のところ犯罪というのは、人間が決めるものなのだ。これは犯罪でこれは犯罪ではない、と人間が決める。犯罪を犯した人間を人間が裁く。当たり前だけど、それでいいのだろうか?
法律と犯罪というのはいわば、箱にミカンを詰めるようなものではないかと思うのだ。箱にミカンを詰めても、どうしたって隙間が空く。箱をミカンだけできっちり充填することは出来ない。その隙間分だけ、現実との乖離がある。
そこを補うのが、裁判所なのだろう。入りきらないミカンを詰め込み、余分に空いた隙間を埋めるような作業を、裁判所でしているのだ。
初めっから無理なことを、無理矢理できたかに見せているのが、裁判所というところなのである。
僕は、裁判所とはかなり無縁の存在である。多くの人がそうだろうと思う。近くの裁判所がどこにあるかも知らないという人が、圧倒的多数を占めるであろう。まあそれが普通だろうと思う。
少し関わりがあっても、例えば交通事故を起こした、離婚調停がこじれた、子供が悪さをした、というような関わり方であるだろう。多くの場合、事故であれ犯罪であれ、裁判所には不本意で向かうものだろうと思うのだ。
しかし世の中には、裁判所を娯楽として捉える人間がいるのである。
最近世の中には、『霞っ子』と呼ばれる人達がいるらしい。この人達は、裁判を娯楽のためだけに傍聴する人達である。『霞っ子クラブ』という名前のHPも存在し、その内容が書籍化されてもいる。最近では、若い女性がこぞって裁判所へ傍聴に出かけているのだという。
なんともおかしな世の中になったものだ。と言いたいところだけど、これに関しては彼女達の方が正しいような気もする。例え誉められないような不謹慎な動機であっても、裁判を含め司法に興味を持つということは言いことなのではないかという気がしてくる。関心のない僕らの方がダメなのではないかと思わされるのである。
大事件が起きると、その傍聴券を巡って長蛇の列が出来る、みたいなニュースが流れる。世の中の関心を一斉に背負うような大事件であれば、国民の関心は向くということなのだろう。逆に言えば、新聞にも載らないような、載っても後追い記事のないベタ記事にしかならないような裁判には関心がないのである。
裁判を傍聴することの、一体何が面白いのか。
本作を読んで思ったことだが、結局のところ、そこにはドラマがある、ということである。被告が犯罪に走った背景はもちろんのことながら、検察・弁護士・裁判官・証人それぞれの立場で事情が存在し、それぞれにドラマがある。真剣さを求められるはずの場で繰り広げられる、ふとこぼれてしまうようなそうしたドラマというものが、傍聴人を虜にするのだろう。まあ、高尚な娯楽と言えなくもないけど、悪趣味だと言えなくもない。
もう一つ別の話を。
犯罪を犯すということについてだ。
誰もが一度は考えてみたことがあるのではないか。例えば犯罪の一線を超えなくてはならないときに、自分はその一線を超えることができるのかどうか。
僕は正直、超えられないだろうな、と思うのだ。事故だとか、あるいは理性の残っていない状態でということなら話は別だけど、理性の残っている状態で一線を超えることは出来ないだろう。
何でも理屈で理性的に考えてしまう人間としては、安全側にいるという確信がない限り、犯罪的な行為はできない。安全側にいるという確信さえあれば一線を超えることは容易だろうけど。
しかし、世の中には、一線を超えて犯罪者になってしまう人も大勢いる。彼らを、犯罪を犯したから悪人だということができるのかどうか、それが僕には難しく思える。
犯罪というものがほとんど明確に規定されている以上、それを犯したら犯罪者であることは間違いないのだ。しかし、だからと言って悪人なのかというと、それはまた違う問題だろうと思う。
しかし、実際は世の中はそうは見ないのだ。例えばテレビで犯人の顔写真が出るとする。僕らはその犯人の背景なんかを全然知らないのにその写真を見て、「怖そうな顔だ。犯罪を犯してもおかしくない」みたいなことを普通に感じてしまうだろう。犯罪者=悪人という先入観に支配されてしまっているために、本当のところが見えなくなっていく。
その本当のところを垣間見ることができるのが、裁判所という場所であろう。そこでは、犯罪者の本性というものが見えてしまう。本当に悪人なのか、あるいは悪人ではないけど犯罪者なのか。
裁判を傍聴しなければ、そうしたことは決してわからない。もちろん、裁判を傍聴したところで不十分だろうけど。しかし、日々流れ作業のように現れては消えていく事件の報道にあって、僕らが感じることを忘れているものを、裁判所という場所は取り戻させてくれるような、そんな気がします。
自分が犯罪者にならないと絶対の自信を持って言うことはできません。もし万が一自分が犯罪者になったとしたら、やっぱり誰かに聞いてもらいたい、と思うかもしれません。自分は、こんな理由で仕方なく犯罪を犯してしまったんですと、見知らぬ人間でもいいから聞いて欲しいと思うかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、フリーライターである著者が、娯楽として裁判を傍聴するのにのめり込んでしまったその記録ともいえるものです。
裁判を傍聴した経験などない著者は、それでもとりあえず裁判所内をウロウロしながら、手当たり次第に裁判を傍聴していく。面白い裁判に出会わないことの方が多いが、それでも当たりの裁判に出会うと喜んでしまう。どんどん傍聴にのめりこんでいく。
その内、傍聴にも慣れ、傍聴仲間も出来、判決の予想も立てられるようになっていく。裁判所のミニ知識や傍聴仲間との座談会も収録した一冊です。
本作は、ある日を境に突然売れ出して在庫確保に奔走した本なんだけど、まあそれはいいとして、面白い作品でしたね。実はこの本、文庫の新刊で出たとき既に注目していて、売れてないのに補充の注文を掛けて平積みしていたんだけど、全然売れない代物で、でもたぶん何かで紹介されたとかなんでしょうね、売れ出しました。
本作は、娯楽として裁判を傍聴しに行くという、多少不謹慎な内容ではあるのだけど、まあ裁判の傍聴は国民の権利として認められているわけだし、傍聴をするということにも意義があるようだし、その辺はまあいいかなと思います。
しかしそれにしてもいろんな犯罪者がいるわけで、読んでいて楽しくなりますね。要するに、ちょっとおかしい人達がたくさん出てくるんだけど、裁判所というのはそういう人間の宝庫なんでしょう。本作の表紙の絵の構図もその一例で、背中にドクロマークのついた服を着て裁判に臨んだ被告の話があるのだけど、普通に考えてそれはないでしょう、ということを平気でやってきてしまうから恐ろしい。変な人間が大好き(少なくとも自分と直接関わらない限り)な僕としては、変な人間のオンパレードとも言える本作は、なかなか読み応えのある作品でした。
とにかく、まさに人間ドラマと呼ぶべき状況が様々にあって、傍聴席に女子高生が一杯いると裁判官が張り切るとか、検察官や裁判官の女性は美人だとか、強引なウソを通し続けようとする被告とか、うまいなぁと思わせる証人とか、とにかくどこに目を向けても面白いポイントが見つかるというような場所らしいですね。正直、時間と暇さえあれば、この裁判の傍聴っていうのはちゃんと趣味になるなと思いました。まず、お金も掛からないし、多少悪趣味だとは言え、悪いことをしているわけでもないのだし、僕もきっかけさえあれば傍聴マンになったりするかもな、と思いました。
撮り上げている事件は多岐に渡るんだけど、有名なものも多少はあるけど、大半はB級というかショボイ事件なわけで、でもそこにも人間ドラマが潜んでいる。強姦された被害者が証人として出廷するなんてのも、かなりドキドキもんですしね。面白そうですね。不謹慎ですけど。
帯に、「裁判員制度前に必読!」って書いてあるんで、少しだけ裁判員制度の話をしようかと思うんですけど、僕はこの制度は機能しないと思うんですよね。少なくとも日本では。
例えばアメリカでは陪審員制度だけど、これが成立するのは、アメリカ人というのが基本的に主張する民族だからだと思うんですね。全員が全員そうではないけど、風潮というか文化として、主張するということが根付いている。個人個人が主張を持っているからこそ、あの陪審員制度というのは成り立つのだと思います。
でも日本という国は違いますね。最近では自分の意見を持つ人が増えてきたとは言え、基本的に風潮として、主張しないことが美徳みたいな感じがあるとは思わないでしょうか?そんな国で裁判員制度をやろうとしても、選ばれた裁判員が主張をしないと思うんですね。自分のことを考えてみても、自分の意見で被告が有罪か無罪かとか判決まで決まってしまうとしたらちょっと重いし、だとしたらやっぱり発言するのに躊躇するだとうな、と思います。
まあ国がやろうって言ってるわけで、しかもここまで大きな改革だから結構偉い人が関わっているわけで、そうなると、例え現実と合わない制度だとしても、メンツのためにすぐ廃止なんてことにはならないだろうと思うけど、その場合、現場つまり裁判所の人間がひどく大変な思いをするんだろうな、と思います。何も喋らない裁判員に発言を促そうとする裁判官の姿が目に浮かびます。頑張ってください、裁判官の皆さん。
まあそんなわけで、今までの人生でまるで関わりを持つことのなかった裁判所という場所が、結構身近に感じられる作品でした。行ったら行ったで、結構楽しめる場所なような気もします。まあ、楽しむためには多少の努力と経験が必要な気もしますけど。何にしても、本作は読んでみてください。結構面白いですよ。ドラマとかの裁判シーンはかっこいいけど、あんな裁判はほとんどないということがよくわかると思います。ショボサの中にいかに面白味を見出すかという高尚さ(不謹慎さ)が抜群です。是非どうぞ。
北尾トロ「裁判長!ここは懲役4年でどうすか」
イトーヨーカ堂店長会議(塩沢茂)
ちょっと前の話だけど、何かのニュースで、最近の若者の仕事に対する意欲の1位はお金である、みたいなアンケート結果があった。つまり、給料が高ければあとはなんでもいい、というような若者が増えた、ということらしい。他にも、出世をあまり望まない若者が増えた、というようなアンケートもあったような気がする。とにかく、働くことに関する人々の意識は、どんどん変わっていると言えるだろう。
森博嗣という作家がいて、氏は仕事とはお金を稼ぐ手段である、と公言する。友人にも、まったく同じことを言う人間がいる。
まあ、当然ではある。言っていることはもちろんわかる。
しかし僕はそれでも思う。やはり仕事というのは、働き甲斐があってナンボではないか、と。
僕だったら、どんなに高い給料の会社であろうと、どんなに待遇のいい会社であろうと、どんなに楽な会社であろうと、仕事にやりがいがなければ絶対に続けることは無理だな、と思うのだ。
仕事へのやりがいというのも様々にある。仕事自体が楽しい、ということもある。あるいは、一緒に働いている同僚やその環境がいい、という場合もあるだろう。
しかし、何と言っても一番は、どれだけいい上司がいるか、ということではないかと思うのだ。
僕は今、小売業の末端である本屋でアルバイトをしている。アルバイトと言っても、文庫と新書の担当であり、この二つに関しては誰からも何も言われない、つまり、何もかも自分の裁量で決めて仕事をすることが出来る立場にいたりする。この、誰からも何も言われずに自由裁量で仕事が出来る、という立場は、とても楽しい。僕は、その仕事自体はとても好きで、毎日楽しくて仕方がない。
しかし、上司にはあまり恵まれなかったな、と思う。
僕の場合上司というのは社員のことだけど(店長や社長というのもいるのだけど、いろいろあって直接の上司ではない。というか、普段直接関わることが少ないということ)、その社員にはなかなか恵まれなかったな、と思う。
やって欲しいと思ったことは言わないとやってくれないし、ミスはするし仕事は忘れる。とにかく、社員としてどうとかいう前に、スタッフとしても危ういような人が社員をやっているので、昔から文句ばっかり言いまくっていたのだけど、最近はまあいろいろ諦めたり(うち一人はすごくよくなったのでよかったけど)したので言わなくなったけど。
人の使い方とか管理の仕方というような面で多々文句はあるのだけど、それ以上に、本屋の店員なのに本を読まないし本を特に好きではない、というところが、またいらだたしい。僕としては、本好きの人間同士があーだこーだ言って、違う判型(文庫と児童書など)の本を一緒に置いてみたり、面白いフェアを考えてみたり、なんてことをやりたかったのだけど、社員を含めほとんどの担当が特に本に興味がないという有様なので、まあそういう点にも不満はあったりする。
最近では、社員にいろいろ任せるのを止めて(そうしてもうまくいかないし、イライラするだけなので)、いろんなことを自分でやるようになったのだけど、本当に、上に立つ人間の器によって、働く意欲だとか職場の雰囲気なんていうのは大きく変わるものなんだな、と実感しました。
小売業だけでなくどんな会社でもそうだと思うけど、どんな社長がやってようが、どんなブランドだろうが、どんないいものを売っていようが、最終的にはそこにいる人間の器によってすべてが決まっていくのだろう、とそう思いました。
どんな組織であっても、まず人間を育てるところから始めるべきであり、それなくしては何も始まらないのだろう、とそんなことを改めて思わされました。当たり前のことなんだけど、なかなかちゃんと出来ないことなわけで、イトーヨーカ堂というのはすごいところなんだな、と思いました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、スーパーの中で抜群の経常利益を誇っていた(本作執筆当時。今はどうか知らない。ちなみに初版は1989年)イトーヨーカ堂のその売上の秘密を探っていた著者が、最終的に行き着いた店長会議を中心にして、イトーヨーカ堂という企業について分析をした本になっています。
イトーヨーカ堂の店長会議というものが今も行われているかどうかは知らないけど、当時としてはかなり画期的なものだったようです。年間20億円という莫大な予算を使って、週一回全国のイトーヨーカ堂の店長を一同に介し会議をする、というもので、オンライン会議などが普及しているらしい今の観点から見ると不合理に思えるかもしれないけど(当時もオンライン会議みたいなものはなくもなかったらしい)、しかし直接会って話をするということの重要性はことの他大きいようで、この店長会議こそが、イトーヨーカ堂の秘密の一端なわけです。
しかし、イトーヨーカ堂というんはそれだけでなく、かなりいろいろ革新的な企業のようです。地味な企業だと思われているかもしれないけど、大きなところでは、日本で始めてPOSシステムを導入したり、セブンイレブンというコンビニをスタートさせたのもそうだし、小さいレベルでは、トップダウンではなくボトムアップのやり方で、とにかく現場の意見を吸い上げること、店長がいろいろと決めるのではなく、各担当者が個別に責任を持つ責任委譲の形態を取っていること、また自己評価システムの採用や福利厚生の充実など、とにかくあらゆることにいち早く着手しチャレンジしている会社のようです。
しかし何よりも、お客様が第一であるという主義を常に貫きそれを忘れない姿勢というものが一貫しているわけで、今まで全然知らなかったけど、イトーヨーカ堂はすごいしいいところなんだな、と思いました。
鈴木敏文という人が副社長らしいんだけど(今はどうか知らないけど)、この人の名前は、ビジネス系の文庫でよく見ますね。何の人かよく知らなかったけど、イトーヨーカ堂であらゆるアイデアを考え提案してきた人のようで、なるほどなという感じでした。
僕は、基本的に真面目な人間なので、仕事は真面目にやりたいし、忙しい方が好きな人間なんだけど、そういう人間にとってはすごく働き甲斐のある会社なんではないか、と思いました。ちょっと羨ましいかもです。
本作は、まあ読んでてそんなに面白い本ではないけど、ビジネス書よりは少し軽いんではないかと思うし(ビジネス書をほぼ読んだことがないから適当だけど)、短いし読みやすいんではないかと思います。かなり古い本ですけど、僕が持っている本で既に18回も重版を重ねているので、まあそれなりにいい本なんではないかな、と思います。サラリーマンが読んでもちょっとどうしようもない気はするけど(組織を変える、みたいな話だから、サラリーマンが読んで実践できることはあんまりないかも)、小売業の人なんかは読んだらいいのかもですね。まああんまりオススメはしないですけど、でもいいことも書いてます。興味があったらどうぞ。
塩沢茂「イトーヨーカ堂店長会議」
森博嗣という作家がいて、氏は仕事とはお金を稼ぐ手段である、と公言する。友人にも、まったく同じことを言う人間がいる。
まあ、当然ではある。言っていることはもちろんわかる。
しかし僕はそれでも思う。やはり仕事というのは、働き甲斐があってナンボではないか、と。
僕だったら、どんなに高い給料の会社であろうと、どんなに待遇のいい会社であろうと、どんなに楽な会社であろうと、仕事にやりがいがなければ絶対に続けることは無理だな、と思うのだ。
仕事へのやりがいというのも様々にある。仕事自体が楽しい、ということもある。あるいは、一緒に働いている同僚やその環境がいい、という場合もあるだろう。
しかし、何と言っても一番は、どれだけいい上司がいるか、ということではないかと思うのだ。
僕は今、小売業の末端である本屋でアルバイトをしている。アルバイトと言っても、文庫と新書の担当であり、この二つに関しては誰からも何も言われない、つまり、何もかも自分の裁量で決めて仕事をすることが出来る立場にいたりする。この、誰からも何も言われずに自由裁量で仕事が出来る、という立場は、とても楽しい。僕は、その仕事自体はとても好きで、毎日楽しくて仕方がない。
しかし、上司にはあまり恵まれなかったな、と思う。
僕の場合上司というのは社員のことだけど(店長や社長というのもいるのだけど、いろいろあって直接の上司ではない。というか、普段直接関わることが少ないということ)、その社員にはなかなか恵まれなかったな、と思う。
やって欲しいと思ったことは言わないとやってくれないし、ミスはするし仕事は忘れる。とにかく、社員としてどうとかいう前に、スタッフとしても危ういような人が社員をやっているので、昔から文句ばっかり言いまくっていたのだけど、最近はまあいろいろ諦めたり(うち一人はすごくよくなったのでよかったけど)したので言わなくなったけど。
人の使い方とか管理の仕方というような面で多々文句はあるのだけど、それ以上に、本屋の店員なのに本を読まないし本を特に好きではない、というところが、またいらだたしい。僕としては、本好きの人間同士があーだこーだ言って、違う判型(文庫と児童書など)の本を一緒に置いてみたり、面白いフェアを考えてみたり、なんてことをやりたかったのだけど、社員を含めほとんどの担当が特に本に興味がないという有様なので、まあそういう点にも不満はあったりする。
最近では、社員にいろいろ任せるのを止めて(そうしてもうまくいかないし、イライラするだけなので)、いろんなことを自分でやるようになったのだけど、本当に、上に立つ人間の器によって、働く意欲だとか職場の雰囲気なんていうのは大きく変わるものなんだな、と実感しました。
小売業だけでなくどんな会社でもそうだと思うけど、どんな社長がやってようが、どんなブランドだろうが、どんないいものを売っていようが、最終的にはそこにいる人間の器によってすべてが決まっていくのだろう、とそう思いました。
どんな組織であっても、まず人間を育てるところから始めるべきであり、それなくしては何も始まらないのだろう、とそんなことを改めて思わされました。当たり前のことなんだけど、なかなかちゃんと出来ないことなわけで、イトーヨーカ堂というのはすごいところなんだな、と思いました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、スーパーの中で抜群の経常利益を誇っていた(本作執筆当時。今はどうか知らない。ちなみに初版は1989年)イトーヨーカ堂のその売上の秘密を探っていた著者が、最終的に行き着いた店長会議を中心にして、イトーヨーカ堂という企業について分析をした本になっています。
イトーヨーカ堂の店長会議というものが今も行われているかどうかは知らないけど、当時としてはかなり画期的なものだったようです。年間20億円という莫大な予算を使って、週一回全国のイトーヨーカ堂の店長を一同に介し会議をする、というもので、オンライン会議などが普及しているらしい今の観点から見ると不合理に思えるかもしれないけど(当時もオンライン会議みたいなものはなくもなかったらしい)、しかし直接会って話をするということの重要性はことの他大きいようで、この店長会議こそが、イトーヨーカ堂の秘密の一端なわけです。
しかし、イトーヨーカ堂というんはそれだけでなく、かなりいろいろ革新的な企業のようです。地味な企業だと思われているかもしれないけど、大きなところでは、日本で始めてPOSシステムを導入したり、セブンイレブンというコンビニをスタートさせたのもそうだし、小さいレベルでは、トップダウンではなくボトムアップのやり方で、とにかく現場の意見を吸い上げること、店長がいろいろと決めるのではなく、各担当者が個別に責任を持つ責任委譲の形態を取っていること、また自己評価システムの採用や福利厚生の充実など、とにかくあらゆることにいち早く着手しチャレンジしている会社のようです。
しかし何よりも、お客様が第一であるという主義を常に貫きそれを忘れない姿勢というものが一貫しているわけで、今まで全然知らなかったけど、イトーヨーカ堂はすごいしいいところなんだな、と思いました。
鈴木敏文という人が副社長らしいんだけど(今はどうか知らないけど)、この人の名前は、ビジネス系の文庫でよく見ますね。何の人かよく知らなかったけど、イトーヨーカ堂であらゆるアイデアを考え提案してきた人のようで、なるほどなという感じでした。
僕は、基本的に真面目な人間なので、仕事は真面目にやりたいし、忙しい方が好きな人間なんだけど、そういう人間にとってはすごく働き甲斐のある会社なんではないか、と思いました。ちょっと羨ましいかもです。
本作は、まあ読んでてそんなに面白い本ではないけど、ビジネス書よりは少し軽いんではないかと思うし(ビジネス書をほぼ読んだことがないから適当だけど)、短いし読みやすいんではないかと思います。かなり古い本ですけど、僕が持っている本で既に18回も重版を重ねているので、まあそれなりにいい本なんではないかな、と思います。サラリーマンが読んでもちょっとどうしようもない気はするけど(組織を変える、みたいな話だから、サラリーマンが読んで実践できることはあんまりないかも)、小売業の人なんかは読んだらいいのかもですね。まああんまりオススメはしないですけど、でもいいことも書いてます。興味があったらどうぞ。
塩沢茂「イトーヨーカ堂店長会議」
松本紳助(島田紳助+松本人志)
本音で語る、ということの難しさは、大人になればなるほどわかってくるものだ。
僕らは生きている間、どうしたって自分を偽って生きている。自分に対して自分を偽っている人もいるかもしれないけど、まあとりあえず少なくとも多くの人は、人に対して自分を偽っていることだろう。
よく見られたい、嫌われたくない、いい関係でいたい。そんな思いが、自分を偽らせるモチベーションになる。だからこそ、自分を隠し、本音をその奥へと押し込みながら、誰もが生きている。
自分のことを考えてみても、もうそれは顕著で、僕の歴史は、いかに自分を偽るか、ということに費やされた歴史だと言っても過言ではないのである。
自分というものにまるで自信のなかった人間なので、どうにか自分を偽って、自分をよりよい人間に見せようと努力をしてきた。いやちょっと違うかもしれない。よりよい人間に見せようと前向きだったわけではなく、悪く見られないようにしようという消極的な発想だったと思う。だから、今でも僕は、本当の自分というものをうまく出せないまま生きているな、と感じることがよくあるのである。
しかし、考えてみれば、本当の自分って、自分の本音って、自分自身でちゃんと分かっているものなんだろうか、と思う。
人間は、もう無意識のうちに仮面を被って生きることを覚えてしまう。最近では特にそうではないかと思う。いろんな仮面を常備して、状況に応じて使い分ける。そんな生き方をしている人は多いだろう。
しかしそんな生活を続けていると、仮面を被っていない自分がどれだったのかわからなくなってしまうだろう。怪人二十面相なんていうのがいたけど、あの怪人は本当の自分の顔というのを知っているんだろうか?それとも、怪人二十面相には、本当の自分なんていうものは存在しないのだろうか。
結局人間は、その人だけの存在で確立できるものではない、ということなのかもしれない。常に誰かの前に立ち、その誰かの前でどんな仮面を選ぶかということを考える時に自分という存在が立ち上がってくるのかもしれない。その時選んだ仮面が、その誰かの前での自分の真実であり本当の姿であり、誰の前にもいないまっさらな仮面をつけていない本当に自分というものは、存在しないのかもしれない。
本音も、誰かの前での本音であって、自分の本音ではないのかもしれない。少なくても僕はそう考えることによって、少しは軽く綺麗になれるような気がする。すっぽりと空白が生まれるような気がしないでもないのだけど。
どんな形であれ、自分が本音だと思えることを喋る相手がいるというのは、素敵なことだと思う。本音で話すというのは、自分のことも知ってもらいたいという表れであるのと同時に、相手のことももっと知りたいというアピールでもあるのだと思う。その積極的である意味で緊張感のある関係性の中にだけ、本音というものは生きるのかもしれない。そんな風に思った。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「松本紳助」というテレビ番組の内容を本にしたものです。
「松本紳助」というのは名前の通り、松本人志と島田紳助のトーク番組で、ゲストはなしの二人だけでひたすら喋る、という番組です。今やってるかどうかは知らないけど、僕はちょっと前生粋のテレビっ子だった頃は、深夜の時間帯でやってました。
この番組は面白かったですね。僕は、芸人というのはそもそも頭がよくてすごいと思っている存在なんだけど、その中でも松本人志と島田紳助はもう別格という感じで、すごい人なわけです。もちろん、詳しく知っているわけではないし、寧ろダウンタウンの番組とかはあんまり見てないほうなんだけど、それでもこの二人の異才はもう、お笑いの世界ではもちろん叶う相手はいないと思うし、お笑い以外のフィールドだって結構負けてないんではないか、と思います。
この二人の何がすごいかというのは、お笑いの方面にも詳しくないし語彙の貧弱な僕としては言葉を探すのは難しいのだけど、結局のところ、発想と言葉の選び方だと思いますね。
つまり、まず常人では出てこないような発想があるわけです。これはもう才能というしかないもので、真似できるようなものではないわけです。
まあ発想だけなら、彼らに負けないくらいの人はいるのかもしれません。
でも結局のところ最後は、言葉ですね。いくらすばらしい発想があっても、それを表現する言葉がなければどうにもなりません。二人は、この言葉を操るという点においても天才的なわけで、だからこそ素晴らしい芸人なんだろうな、と思います。
でも、「松本紳助」という番組では、基本的にお笑いをやっているわけではなく、割とマジトークをしているわけで、そう言う部分というのは寧ろ見えづらいのかもしれません。しかし、彼らのその発想と言葉というベースがあるからこそ、二人のトークというのがレベルの高いものになるのだし、二人の存在が化学反応のように溶け合ってより面白いものが生み出される、とまあそんな感じなんでしょうね。
松本人志と島田紳助は、お互いにお互いを認め合っている存在で、どちらも相手のことをすごいと思っています。そんな存在が自分の中できちんといるということ、そしてそんな存在と差しで本音でトークできる場所があるということ。これは、二人にとってはかなり幸せなことではないかな、と思います。
トークの内容は、まあ多岐に渡りますね。というかまあ、気ままにトークをしているだけでいろんな話がポンポン出てくるわけで、その中で、二人の哲学だとか信条だとか生き方だとか、そういうものが垣間見えるようなそんなトークですね。くだらない話もたくさんあるんだけど、ただくだらないだけで終わらせないところがさすがだな、と思います。
さてそんなわけで、僕が読んでいいなぁと思った部分を抜き出して書いてみようかと思います。
松本 いやいやいや(笑)、なんていうか、やっぱ違うんですよ。ボクっていう芸人は、作られたことを壊す仕事なんですよ。
紳助 それは、正しいよ。
松本 でしょ!?なのに、それを作れと言われたら、なめてんのか、ですよ!!「作られているものがないのに、それを壊せ言うんか、ボケー!!」っていうのが、ボクの怒りなんですよ。
松本 あのね、メッチャメッチャ好きんなったら、セックスなんてできないですよ!
紳助 ウソやん?
松本 もう、そんなん、手ぇも触られないようになってしまいますから、ボクはね。
紳助 いや、メッチャ好きんなってから、エッチするから感動するねやんか。違う?
松本 いや、もっと好きんなりたいから、好きになる可能性があるから、こすってみるんですよ。もっと燃え上がるかもしれないし、ダウンしていくかもしれない。これは、賭けですよ。
紳助 女の子には、わからん世界あるねん、絶対に。仮に、つきおうてる彼女がいたとするやんか。でも、ツレからごっつええ裏ビデオ三本貸してもろた。そんなときは、エッチしたないもんな。
松本 したくないですねぇ。溜めときたいですもん。
紳助 「早よ帰れよ」と思う門奈。エッチしかけたら、「アホ!お前としてる場合ちゃんじゃ!!」やからね(笑)
松本 これは、女が聞いたらすごく怒るでしょうけどね。
紳助 早かった、二十歳で行ってん。「娘さんをボクにください!」って。ほな、「給料いくら?」って聞かれて、「七万円です」や。
松本 月収七万円ですか。
紳助 七万くらいやったんや、その頃。ほなな、向こうの親言うねん。「七万円なら、暮らせんこともないな。この子も働いたらええねん。二人で働いたら暮らせるやろ。ただな、夢があるんやろ?」と。「夢、あります!!タレントとして立派になりたい」って答えたら、「よしわかった。ほんなら、うちの娘を、長谷川君(紳助の本名)をサポートできるように、今から育てるから、時間くれ。三年間、時間くれ。ちゃんとついていける女にしとくわ」やて。
松本 偉い人ですね。
紳助 うん、そやねん。その場は、「わかりました」って帰ったもん。嫁はあんとき怒ってたんやろなあ。「どんなことをしても、結婚の了承取り付ける」くらい意気込んで行ったから。
松本 いや、けどそう言われたら、もう何も言えないですよ。
紳助 せやろ、アカンやろ?「アカン!!反対や」って、こられたら「反対もくそもあるか、俺は結婚したいんじゃ!!」ってなるけどな。
松本 うまいですねえ。
紳助 うまい!そう言われたら、ごもっともや。「はい、わかりました」ってなるやん。ほんで、三年たって、結婚したんや。
松本 へえー、ええ話ですねえ。
紳助 「俺は特上寿司や。で、お前らは普通。でもな、これは自分の力で食べたとき感動があるんやから、俺がその感動を奪ったらアカン。俺がええ寿司食わしたら、お前は喜ぶけど、おれはお前の真の喜びを奪ってることになる。お前は、これから自分で自分の喜びを勝ち得ながら食べていくんや。だから、今は食べさせないんやで」言うてな。
紳助 そやなあ。勉強できへんかった、俺らは。その勉強できへんっていうのを笑われるのがイヤやったから、「しゃべり」でごまかしてきてん。
松本 そうなんですよ!
紳助 いうなら「しゃべり」は防衛本能やねん。「しゃべり」という武器を、俺らは得てん、な。
松本 絶対にそうですよ。なんかね、コンプレックスとかがあったほうがいいですよ。あるから、それをごまかすためにがんばれるんですよ。
紳助 あのな、番組のスタッフって、優秀なスタッフもいれば、ボンクラもおるわけや、な?そのスタッフが俺らに、「新番組やってください」と言わはったら、これは、どっかのオートバイとか、車とかのチームに乗るのと同じやんか。
松本 はいはい、そうですねえ。
紳助 そのチームがアカン車やっても、れいつもマジで思てることやけど、そのアカン車のベストタイムを俺が出さなイカンと思てるねん。だから、たとえアカン車に乗って、アカンタイム出しても、ほかの誰かが乗って、それ以上のタイム出されたら、それは恥ずかしいことやと思うねん。
松本 いっやー、それもええ話ですねえ。それ、もんのすごいようわかりますわ!!
紳助 わかるやろ?
松本 冷蔵庫の余りもんで、いかにおいしい料理作るかっていうところに、オカン、命かけてるみたいなとこあるじゃないですか。それと近いもんがあるんですよ。
紳助 冷蔵庫にあるもんでベストを尽くすんや。「なんでこんなもんだけなんや!?こんなんで調理できるかいな!?」って言うたらアカンねん、な。真の料理人は。冷蔵庫を開けてパッと見た瞬間に、ベストを尽くせるねん。だから、見てみいな、俺ら、こんなセット(『松本紳助』のセット)で、ベスト尽くしてるやんけ。
紳助 上海はスゴイ!!道路、車、ブワーッと走ってんねん。そんで、その間を、自転車が、走ってんねん。大通りや。トロリーバスも走る。そこを、中国の人間、バーッと走って渡んねん。俺らいつまでたっても渡られへん。日本人の安全距離感覚でいうたら、車が来てて八十メートルくらいやったら、渡るけど、それより近かったら、止めるなん。三十メートルくらいでも渡りよるもんなあ。三十メートルはあかんやろ?
松本 そうですねえ。
紳助 平気やねん。で、そのときのコーディネーターのショウ君も、パッパパッパと、縫うように渡っていくねん。俺ら二人、全然渡れへん。ショウ君「早く早く」って言うねん。俺ら一日中何回も轢かれそうになりながら、もう必死や。
松本 ホンマですか?
紳助 でな、「ショウ君、おかしい!!」と。「日本は歩行者優先や。人間が一番、その次が自転車、ほんで車や。こういうルールがある。この国はルールないのんか?誰が一番優先やねん?」って、聞いてみたら、ショウ君、真顔で「勇気あるものです!」って。マジやで。俺、あの名言、一生忘れへんわ!確かに、勇気いるわ。ホンマ勇気いるもん。飛ばすやろ、でもな、勇気ない車はブレーキ踏みよるもん。止まりよんねん。
松本 もう、根性と根性のぶつかり合いですねえ(笑)
まあ大体こんな雰囲気の本ですね。
僕が思う天才二人が忌憚なく本音に近い形でトークをしています。ただ笑えるだけの部分もあれば、なるほどと感心する部分もあり、そうだったのかとウロコが落ちる部分もあり。とにかく、結構いいですね。僕としては、二人が書いた「哲学」という文庫の方が好きだけど、こっちもなかなかいい感じです。面白いですよ。読んでみてください。
島田紳助+松本人志「松本紳助」
僕らは生きている間、どうしたって自分を偽って生きている。自分に対して自分を偽っている人もいるかもしれないけど、まあとりあえず少なくとも多くの人は、人に対して自分を偽っていることだろう。
よく見られたい、嫌われたくない、いい関係でいたい。そんな思いが、自分を偽らせるモチベーションになる。だからこそ、自分を隠し、本音をその奥へと押し込みながら、誰もが生きている。
自分のことを考えてみても、もうそれは顕著で、僕の歴史は、いかに自分を偽るか、ということに費やされた歴史だと言っても過言ではないのである。
自分というものにまるで自信のなかった人間なので、どうにか自分を偽って、自分をよりよい人間に見せようと努力をしてきた。いやちょっと違うかもしれない。よりよい人間に見せようと前向きだったわけではなく、悪く見られないようにしようという消極的な発想だったと思う。だから、今でも僕は、本当の自分というものをうまく出せないまま生きているな、と感じることがよくあるのである。
しかし、考えてみれば、本当の自分って、自分の本音って、自分自身でちゃんと分かっているものなんだろうか、と思う。
人間は、もう無意識のうちに仮面を被って生きることを覚えてしまう。最近では特にそうではないかと思う。いろんな仮面を常備して、状況に応じて使い分ける。そんな生き方をしている人は多いだろう。
しかしそんな生活を続けていると、仮面を被っていない自分がどれだったのかわからなくなってしまうだろう。怪人二十面相なんていうのがいたけど、あの怪人は本当の自分の顔というのを知っているんだろうか?それとも、怪人二十面相には、本当の自分なんていうものは存在しないのだろうか。
結局人間は、その人だけの存在で確立できるものではない、ということなのかもしれない。常に誰かの前に立ち、その誰かの前でどんな仮面を選ぶかということを考える時に自分という存在が立ち上がってくるのかもしれない。その時選んだ仮面が、その誰かの前での自分の真実であり本当の姿であり、誰の前にもいないまっさらな仮面をつけていない本当に自分というものは、存在しないのかもしれない。
本音も、誰かの前での本音であって、自分の本音ではないのかもしれない。少なくても僕はそう考えることによって、少しは軽く綺麗になれるような気がする。すっぽりと空白が生まれるような気がしないでもないのだけど。
どんな形であれ、自分が本音だと思えることを喋る相手がいるというのは、素敵なことだと思う。本音で話すというのは、自分のことも知ってもらいたいという表れであるのと同時に、相手のことももっと知りたいというアピールでもあるのだと思う。その積極的である意味で緊張感のある関係性の中にだけ、本音というものは生きるのかもしれない。そんな風に思った。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「松本紳助」というテレビ番組の内容を本にしたものです。
「松本紳助」というのは名前の通り、松本人志と島田紳助のトーク番組で、ゲストはなしの二人だけでひたすら喋る、という番組です。今やってるかどうかは知らないけど、僕はちょっと前生粋のテレビっ子だった頃は、深夜の時間帯でやってました。
この番組は面白かったですね。僕は、芸人というのはそもそも頭がよくてすごいと思っている存在なんだけど、その中でも松本人志と島田紳助はもう別格という感じで、すごい人なわけです。もちろん、詳しく知っているわけではないし、寧ろダウンタウンの番組とかはあんまり見てないほうなんだけど、それでもこの二人の異才はもう、お笑いの世界ではもちろん叶う相手はいないと思うし、お笑い以外のフィールドだって結構負けてないんではないか、と思います。
この二人の何がすごいかというのは、お笑いの方面にも詳しくないし語彙の貧弱な僕としては言葉を探すのは難しいのだけど、結局のところ、発想と言葉の選び方だと思いますね。
つまり、まず常人では出てこないような発想があるわけです。これはもう才能というしかないもので、真似できるようなものではないわけです。
まあ発想だけなら、彼らに負けないくらいの人はいるのかもしれません。
でも結局のところ最後は、言葉ですね。いくらすばらしい発想があっても、それを表現する言葉がなければどうにもなりません。二人は、この言葉を操るという点においても天才的なわけで、だからこそ素晴らしい芸人なんだろうな、と思います。
でも、「松本紳助」という番組では、基本的にお笑いをやっているわけではなく、割とマジトークをしているわけで、そう言う部分というのは寧ろ見えづらいのかもしれません。しかし、彼らのその発想と言葉というベースがあるからこそ、二人のトークというのがレベルの高いものになるのだし、二人の存在が化学反応のように溶け合ってより面白いものが生み出される、とまあそんな感じなんでしょうね。
松本人志と島田紳助は、お互いにお互いを認め合っている存在で、どちらも相手のことをすごいと思っています。そんな存在が自分の中できちんといるということ、そしてそんな存在と差しで本音でトークできる場所があるということ。これは、二人にとってはかなり幸せなことではないかな、と思います。
トークの内容は、まあ多岐に渡りますね。というかまあ、気ままにトークをしているだけでいろんな話がポンポン出てくるわけで、その中で、二人の哲学だとか信条だとか生き方だとか、そういうものが垣間見えるようなそんなトークですね。くだらない話もたくさんあるんだけど、ただくだらないだけで終わらせないところがさすがだな、と思います。
さてそんなわけで、僕が読んでいいなぁと思った部分を抜き出して書いてみようかと思います。
松本 いやいやいや(笑)、なんていうか、やっぱ違うんですよ。ボクっていう芸人は、作られたことを壊す仕事なんですよ。
紳助 それは、正しいよ。
松本 でしょ!?なのに、それを作れと言われたら、なめてんのか、ですよ!!「作られているものがないのに、それを壊せ言うんか、ボケー!!」っていうのが、ボクの怒りなんですよ。
松本 あのね、メッチャメッチャ好きんなったら、セックスなんてできないですよ!
紳助 ウソやん?
松本 もう、そんなん、手ぇも触られないようになってしまいますから、ボクはね。
紳助 いや、メッチャ好きんなってから、エッチするから感動するねやんか。違う?
松本 いや、もっと好きんなりたいから、好きになる可能性があるから、こすってみるんですよ。もっと燃え上がるかもしれないし、ダウンしていくかもしれない。これは、賭けですよ。
紳助 女の子には、わからん世界あるねん、絶対に。仮に、つきおうてる彼女がいたとするやんか。でも、ツレからごっつええ裏ビデオ三本貸してもろた。そんなときは、エッチしたないもんな。
松本 したくないですねぇ。溜めときたいですもん。
紳助 「早よ帰れよ」と思う門奈。エッチしかけたら、「アホ!お前としてる場合ちゃんじゃ!!」やからね(笑)
松本 これは、女が聞いたらすごく怒るでしょうけどね。
紳助 早かった、二十歳で行ってん。「娘さんをボクにください!」って。ほな、「給料いくら?」って聞かれて、「七万円です」や。
松本 月収七万円ですか。
紳助 七万くらいやったんや、その頃。ほなな、向こうの親言うねん。「七万円なら、暮らせんこともないな。この子も働いたらええねん。二人で働いたら暮らせるやろ。ただな、夢があるんやろ?」と。「夢、あります!!タレントとして立派になりたい」って答えたら、「よしわかった。ほんなら、うちの娘を、長谷川君(紳助の本名)をサポートできるように、今から育てるから、時間くれ。三年間、時間くれ。ちゃんとついていける女にしとくわ」やて。
松本 偉い人ですね。
紳助 うん、そやねん。その場は、「わかりました」って帰ったもん。嫁はあんとき怒ってたんやろなあ。「どんなことをしても、結婚の了承取り付ける」くらい意気込んで行ったから。
松本 いや、けどそう言われたら、もう何も言えないですよ。
紳助 せやろ、アカンやろ?「アカン!!反対や」って、こられたら「反対もくそもあるか、俺は結婚したいんじゃ!!」ってなるけどな。
松本 うまいですねえ。
紳助 うまい!そう言われたら、ごもっともや。「はい、わかりました」ってなるやん。ほんで、三年たって、結婚したんや。
松本 へえー、ええ話ですねえ。
紳助 「俺は特上寿司や。で、お前らは普通。でもな、これは自分の力で食べたとき感動があるんやから、俺がその感動を奪ったらアカン。俺がええ寿司食わしたら、お前は喜ぶけど、おれはお前の真の喜びを奪ってることになる。お前は、これから自分で自分の喜びを勝ち得ながら食べていくんや。だから、今は食べさせないんやで」言うてな。
紳助 そやなあ。勉強できへんかった、俺らは。その勉強できへんっていうのを笑われるのがイヤやったから、「しゃべり」でごまかしてきてん。
松本 そうなんですよ!
紳助 いうなら「しゃべり」は防衛本能やねん。「しゃべり」という武器を、俺らは得てん、な。
松本 絶対にそうですよ。なんかね、コンプレックスとかがあったほうがいいですよ。あるから、それをごまかすためにがんばれるんですよ。
紳助 あのな、番組のスタッフって、優秀なスタッフもいれば、ボンクラもおるわけや、な?そのスタッフが俺らに、「新番組やってください」と言わはったら、これは、どっかのオートバイとか、車とかのチームに乗るのと同じやんか。
松本 はいはい、そうですねえ。
紳助 そのチームがアカン車やっても、れいつもマジで思てることやけど、そのアカン車のベストタイムを俺が出さなイカンと思てるねん。だから、たとえアカン車に乗って、アカンタイム出しても、ほかの誰かが乗って、それ以上のタイム出されたら、それは恥ずかしいことやと思うねん。
松本 いっやー、それもええ話ですねえ。それ、もんのすごいようわかりますわ!!
紳助 わかるやろ?
松本 冷蔵庫の余りもんで、いかにおいしい料理作るかっていうところに、オカン、命かけてるみたいなとこあるじゃないですか。それと近いもんがあるんですよ。
紳助 冷蔵庫にあるもんでベストを尽くすんや。「なんでこんなもんだけなんや!?こんなんで調理できるかいな!?」って言うたらアカンねん、な。真の料理人は。冷蔵庫を開けてパッと見た瞬間に、ベストを尽くせるねん。だから、見てみいな、俺ら、こんなセット(『松本紳助』のセット)で、ベスト尽くしてるやんけ。
紳助 上海はスゴイ!!道路、車、ブワーッと走ってんねん。そんで、その間を、自転車が、走ってんねん。大通りや。トロリーバスも走る。そこを、中国の人間、バーッと走って渡んねん。俺らいつまでたっても渡られへん。日本人の安全距離感覚でいうたら、車が来てて八十メートルくらいやったら、渡るけど、それより近かったら、止めるなん。三十メートルくらいでも渡りよるもんなあ。三十メートルはあかんやろ?
松本 そうですねえ。
紳助 平気やねん。で、そのときのコーディネーターのショウ君も、パッパパッパと、縫うように渡っていくねん。俺ら二人、全然渡れへん。ショウ君「早く早く」って言うねん。俺ら一日中何回も轢かれそうになりながら、もう必死や。
松本 ホンマですか?
紳助 でな、「ショウ君、おかしい!!」と。「日本は歩行者優先や。人間が一番、その次が自転車、ほんで車や。こういうルールがある。この国はルールないのんか?誰が一番優先やねん?」って、聞いてみたら、ショウ君、真顔で「勇気あるものです!」って。マジやで。俺、あの名言、一生忘れへんわ!確かに、勇気いるわ。ホンマ勇気いるもん。飛ばすやろ、でもな、勇気ない車はブレーキ踏みよるもん。止まりよんねん。
松本 もう、根性と根性のぶつかり合いですねえ(笑)
まあ大体こんな雰囲気の本ですね。
僕が思う天才二人が忌憚なく本音に近い形でトークをしています。ただ笑えるだけの部分もあれば、なるほどと感心する部分もあり、そうだったのかとウロコが落ちる部分もあり。とにかく、結構いいですね。僕としては、二人が書いた「哲学」という文庫の方が好きだけど、こっちもなかなかいい感じです。面白いですよ。読んでみてください。
島田紳助+松本人志「松本紳助」
四度目の氷河期(荻原浩)
誕生することが奇跡だとしたら、そこから生きていくことは一体なんだろう。
努力。苦痛。それとも、幸福なんだろうか。
名前をつけた途端、嘘になってしまうような気がする。
本当は、誕生だって、奇跡だなんて呼びたくない。
それは、残酷で厳しいものだ。少なくとも、誕生をそう感じる人間がいることは確かだ。
生まれきたことを後悔している。
たぶん、そんなことを言ったら、いろんなところから非難が来るだろう。親のことを考えろだの、人生にもいいことはあったじゃないか、とか。
でもそういうことを全部置き去りにして、純粋に生まれてきたっていうことを考えてみて欲しい。そこに、自分自身の意思がまるっきり含まれていないことは、これはもう仕方がない。そんなことに文句を言うつもりは、ないわけではないけど、とりあえずはいい。
でもやっぱり、生まれてきたことが素敵なことだなんて、僕には思えない。
生まれつき、人間は差がついている。環境なり障害なり運命なり。
一応、何故そうなのかは理解しているつもりだ。つまり、多種多様な種がいる方が、世の中は発展するということなんだろうし、きっとそういう世界が残ったということなんだろう。
しかし、差をつけられた方としては、たまったものではない。
僕は、まあ言うほど差をつけられた人生でもないだろうとは思う。金持ちの家に生まれたわけでもないし、障害があるわけでもないしだけど、でもとりあえず、別に特に不自由するような人生だったわけではない。個人的にいろいろたくさん大変だったことはあるのだけど、でも比べれば、僕なんかよりも大変な人生な人はもう腐るほどいるだろう。
けど、やっぱり不公平だよな、と思ってしまう。
初めから大差をつけられているのに、みんな平等ですよみたいな世の中とか、頑張ればどうにかなりますよみたいな戯言とか、そういうのはちょっと綺麗過ぎる。
しかし結局、子供にとって一番どうしようもないのが、親の存在だろうと思う。
僕は、何年も考えて、今では割と冷静に考えられていると思うのだけど、その結果、自分の親はそこまで悪い人間ではないだろうな、とは思う。良い悪いの基準なんてないけど、少なくとも一般に言われるようなよくないことを親からされたことはなかった。というか、僕には優しかったというべきだろう。
しかしだ、家族だというだけで、人間的に気が合うかというと、そんなわけはないと思うのだ。
結局のところ、僕と親のどちらが悪かったということではなく、お互い気の合わない存在だったのだと思う。
そういう意味で、僕は不幸な子供だっただろうと思うのだ。
親がいないとか、親が暴力を振るうだとか、そういうわかりやすい不幸というのももちろんあるだろうと思う。そういう不幸は、目に見えて伝わりやすいし、訴えやすい。コードというか、言わなくても伝わる記号のようなものでもあるから、そういう意味で苦労する人もいるかもしれないけど。
だけど世の中には、親がいたって、親が暴力を振るわなくたって苦労する人間というのはいるのだ。
それは、贅沢だと言われるかもしれない。贅沢な悩みだなんていわれるのかもしれない。
しかし、それぞれの人生は、結局のところそれぞれの人間にしか経験できない。それぞれの性格もそれぞれのものだし、それぞれの親もそれぞれの親でしかない。僕には、僕の親は苦痛な存在だった。それが、すべてだ。
生まれる、というのは、完全に親の支配下のことだ。生まれる子供に、生まれるという意志を確認することは絶対にできない。誕生というのは、すべては親のものだ。
しかし、生まれた後の人生は、親のものではない。子供の人生の一瞬でさえも、親のものではない。親の都合で、子供の人生が左右されては、絶対にいけないと思う。
僕は、そんなことまで考えるからこそ、自分では子供は欲しくないと思ってしまう。ただでさえ重い存在が、より重く感じられる。子供の人生は親のものではないのに、親の力で力や環境でそれが変化してしまうのを見たくないということだろうと思う。
親には、責任だけがある。そこには、自由も権利もない。その重さを受け止めることが出来る人間だけが、子供を持つ資格があるのだろうと、僕は思う。
本作の内容とは少しかけ離れた話になってしまいました。そろそろ内容に入ろうと思います。
ある一人の少年がいる。ワタルという名のその少年は、今17歳。厳密には17歳11ヶ月だ。ワタルがまさに駆け抜けてきたその約18年間の人生が、ここには詰まっている。
ワタルは、これまで生きてきた人生を回想し、語る。
一番最初の記憶は、4歳の頃。初めて、自分は周りの子供とは少し違う、ということに気付いた頃だ。
それまで、母さんと二人暮しだった。別にそれをおかしいなんて思わなかった。絵本にも、お母さんしか出てこない話ばっかりだった。お父さんなんて、そんなの大した存在じゃないと思ってた。
でも、お父さんのいない自分は、やっぱりちょっと違うんだって、気付いてしまったんだ。
僕は、幼稚園にいる頃から、変な子供だった。
部屋にじっとしていられなくて、すぐにワーワー騒いで走り回ってしまう。絵を書くと、みんなに変な色だって言われる。大分先の話になるけど、いろんなところから毛も生え出してきた。自分が化け物になるんじゃないかって不安になった。
お母さんは、研究者だった。難しくて、何の研究をしているのかわからなかったけど、でも遺伝子関係だってことは知っている。昔ロシアにいたってことも。
母さんの部屋は本で一杯だ。その中から、適当に見つけ出した科学雑誌に、こんな記事が載っていた。
『ロシアでアイスマン発見』
どうやら、ミイラ状態で残っていたクロマニヨン人がロシアで発見されたらしいのだ。
ここで僕は、パズルのピースがぴったり嵌まるようにひらめいた。
そうか、僕はクロマニヨン人の子供なんだ。
母さんは遺伝子の研究をしている。母さんは昔ロシアにいた。ロシアでクロマニヨン人は発見された。図鑑で調べたクロマニヨン人の特徴は、よく考えてみれば自分とよく当てはまる。
完璧な推理だ。そうか、だから母さんは僕に内緒にしてたんだな。クロマニヨン人の子供だなんて言ったら、僕が驚くだろうと思って。
その日から僕は、トクベツな子供になることにした。
クロマニヨン人として生きることに決めたんだ。
学校の授業は、クロマニヨン人として必要な知識しか聞かない。適度な大きさの石を探し出しては石器を作る。釣り針を自作して魚を釣って食べる…。
そうやってクロマニヨン人としての生活をスタートさせた僕の人生に、突然闖入者が現れたんだ。ごぼうみたいな真っ黒でほそっこい腕をした、岩場をぴょんぴょん駆け回る、釣りがすっごいうまいあいつが、僕の人生に飛び込んできたんだ…。
というような話です。
相変わらず、荻原浩の小説はいいですね。
なんていうか、荻原浩の場合、何をどんな風に小説にしても、すごくいい話になってしまうような、そんな素晴らしさがありますね。まあ悪く言ってしまえば、技術で小説を書いているってことになるのかもしれないけど、だからなんだって感じですね。
例えば、「ママの狙撃銃」とか本作のように、一見ありえなさそうな設定を持ち込んでも、それがまるで現実のどこかに組み込まれたかのような作品に仕上げてしまうところが、本当にうまいなって思います。
本作は、少年の独白みたいな形で進んでいくんだけど、孤独な少年が主人公になることはあっても、クロマニヨン人として生きるなんてのはホント前代未聞だろうし、でもそれが、全然おかしくないぐらいぴったり嵌まっているっていうか、少年の人生の中では全然不自然なことではないんだな、って思わせてくれるわけで、いいですね。
とにかく、これはいつも書くことだけど、細かい部分まできちんと考えられていて、その細かな部分の積み重ねが、作品をより一層深いものにしているな、と荻原作品を読むといつも思います。
父親がいない人生、というのは、僕は経験したことはないし経験できないけど、この少年の抱える孤独みたいなものはちゃんと伝わってきました。孤独と一人っていうのはちょっとやっぱり違うわけで、一人じゃなくても孤独なときはあるし、一人でも孤独じゃないときはあるっていうか、なんとなくそんなことを思いました。
冒頭で、誕生は奇跡だけど人生はなんだ、みたいなことを書いたけど、ワタルにとって人生って何だったんだろうな、って考えてしまいます。ワタルの人生は、やっぱりそれなりにいろいろ苦労の連続で、だからワタルに聞いてみたい気はしますね。生まれてきてよかった?って。ラストの方のワタルなら、生まれてきてよかったっていうかもしれないけど、それまでのワタルなら、どう答えるかはわからないですね。
サチという女の子が出てくるんだけど、このキャラクターがすごくいいですね。活発で男の子みたいな性格なんだけど、こういう男みたいな性格の女というのは僕は大好きなんで、結構惹かれました。でも今回は、ワタルの視点という形で物語が進んでいくわけで、ワタルの周辺のごく僅かな人間以外深く語られることはないので、他にすごく魅力的な登場人物がいたかっていうとそれはなかったですね。そういう意味では物足りなさを感じる人はいるかもしれないですね。
まあ僕はもう、荻原浩の作品は基本的にかなり好きになっているので、何を読んでも結構いい感想を書いている気がします(「ハードボイルド・エッグ」はちょっと…でしたけど)。とにかく、今僕の中でオススメの作家です。本作でなくてもいいので、何か荻原浩の作品を読んでみてください。
荻原浩「四度目の氷河期」
努力。苦痛。それとも、幸福なんだろうか。
名前をつけた途端、嘘になってしまうような気がする。
本当は、誕生だって、奇跡だなんて呼びたくない。
それは、残酷で厳しいものだ。少なくとも、誕生をそう感じる人間がいることは確かだ。
生まれきたことを後悔している。
たぶん、そんなことを言ったら、いろんなところから非難が来るだろう。親のことを考えろだの、人生にもいいことはあったじゃないか、とか。
でもそういうことを全部置き去りにして、純粋に生まれてきたっていうことを考えてみて欲しい。そこに、自分自身の意思がまるっきり含まれていないことは、これはもう仕方がない。そんなことに文句を言うつもりは、ないわけではないけど、とりあえずはいい。
でもやっぱり、生まれてきたことが素敵なことだなんて、僕には思えない。
生まれつき、人間は差がついている。環境なり障害なり運命なり。
一応、何故そうなのかは理解しているつもりだ。つまり、多種多様な種がいる方が、世の中は発展するということなんだろうし、きっとそういう世界が残ったということなんだろう。
しかし、差をつけられた方としては、たまったものではない。
僕は、まあ言うほど差をつけられた人生でもないだろうとは思う。金持ちの家に生まれたわけでもないし、障害があるわけでもないしだけど、でもとりあえず、別に特に不自由するような人生だったわけではない。個人的にいろいろたくさん大変だったことはあるのだけど、でも比べれば、僕なんかよりも大変な人生な人はもう腐るほどいるだろう。
けど、やっぱり不公平だよな、と思ってしまう。
初めから大差をつけられているのに、みんな平等ですよみたいな世の中とか、頑張ればどうにかなりますよみたいな戯言とか、そういうのはちょっと綺麗過ぎる。
しかし結局、子供にとって一番どうしようもないのが、親の存在だろうと思う。
僕は、何年も考えて、今では割と冷静に考えられていると思うのだけど、その結果、自分の親はそこまで悪い人間ではないだろうな、とは思う。良い悪いの基準なんてないけど、少なくとも一般に言われるようなよくないことを親からされたことはなかった。というか、僕には優しかったというべきだろう。
しかしだ、家族だというだけで、人間的に気が合うかというと、そんなわけはないと思うのだ。
結局のところ、僕と親のどちらが悪かったということではなく、お互い気の合わない存在だったのだと思う。
そういう意味で、僕は不幸な子供だっただろうと思うのだ。
親がいないとか、親が暴力を振るうだとか、そういうわかりやすい不幸というのももちろんあるだろうと思う。そういう不幸は、目に見えて伝わりやすいし、訴えやすい。コードというか、言わなくても伝わる記号のようなものでもあるから、そういう意味で苦労する人もいるかもしれないけど。
だけど世の中には、親がいたって、親が暴力を振るわなくたって苦労する人間というのはいるのだ。
それは、贅沢だと言われるかもしれない。贅沢な悩みだなんていわれるのかもしれない。
しかし、それぞれの人生は、結局のところそれぞれの人間にしか経験できない。それぞれの性格もそれぞれのものだし、それぞれの親もそれぞれの親でしかない。僕には、僕の親は苦痛な存在だった。それが、すべてだ。
生まれる、というのは、完全に親の支配下のことだ。生まれる子供に、生まれるという意志を確認することは絶対にできない。誕生というのは、すべては親のものだ。
しかし、生まれた後の人生は、親のものではない。子供の人生の一瞬でさえも、親のものではない。親の都合で、子供の人生が左右されては、絶対にいけないと思う。
僕は、そんなことまで考えるからこそ、自分では子供は欲しくないと思ってしまう。ただでさえ重い存在が、より重く感じられる。子供の人生は親のものではないのに、親の力で力や環境でそれが変化してしまうのを見たくないということだろうと思う。
親には、責任だけがある。そこには、自由も権利もない。その重さを受け止めることが出来る人間だけが、子供を持つ資格があるのだろうと、僕は思う。
本作の内容とは少しかけ離れた話になってしまいました。そろそろ内容に入ろうと思います。
ある一人の少年がいる。ワタルという名のその少年は、今17歳。厳密には17歳11ヶ月だ。ワタルがまさに駆け抜けてきたその約18年間の人生が、ここには詰まっている。
ワタルは、これまで生きてきた人生を回想し、語る。
一番最初の記憶は、4歳の頃。初めて、自分は周りの子供とは少し違う、ということに気付いた頃だ。
それまで、母さんと二人暮しだった。別にそれをおかしいなんて思わなかった。絵本にも、お母さんしか出てこない話ばっかりだった。お父さんなんて、そんなの大した存在じゃないと思ってた。
でも、お父さんのいない自分は、やっぱりちょっと違うんだって、気付いてしまったんだ。
僕は、幼稚園にいる頃から、変な子供だった。
部屋にじっとしていられなくて、すぐにワーワー騒いで走り回ってしまう。絵を書くと、みんなに変な色だって言われる。大分先の話になるけど、いろんなところから毛も生え出してきた。自分が化け物になるんじゃないかって不安になった。
お母さんは、研究者だった。難しくて、何の研究をしているのかわからなかったけど、でも遺伝子関係だってことは知っている。昔ロシアにいたってことも。
母さんの部屋は本で一杯だ。その中から、適当に見つけ出した科学雑誌に、こんな記事が載っていた。
『ロシアでアイスマン発見』
どうやら、ミイラ状態で残っていたクロマニヨン人がロシアで発見されたらしいのだ。
ここで僕は、パズルのピースがぴったり嵌まるようにひらめいた。
そうか、僕はクロマニヨン人の子供なんだ。
母さんは遺伝子の研究をしている。母さんは昔ロシアにいた。ロシアでクロマニヨン人は発見された。図鑑で調べたクロマニヨン人の特徴は、よく考えてみれば自分とよく当てはまる。
完璧な推理だ。そうか、だから母さんは僕に内緒にしてたんだな。クロマニヨン人の子供だなんて言ったら、僕が驚くだろうと思って。
その日から僕は、トクベツな子供になることにした。
クロマニヨン人として生きることに決めたんだ。
学校の授業は、クロマニヨン人として必要な知識しか聞かない。適度な大きさの石を探し出しては石器を作る。釣り針を自作して魚を釣って食べる…。
そうやってクロマニヨン人としての生活をスタートさせた僕の人生に、突然闖入者が現れたんだ。ごぼうみたいな真っ黒でほそっこい腕をした、岩場をぴょんぴょん駆け回る、釣りがすっごいうまいあいつが、僕の人生に飛び込んできたんだ…。
というような話です。
相変わらず、荻原浩の小説はいいですね。
なんていうか、荻原浩の場合、何をどんな風に小説にしても、すごくいい話になってしまうような、そんな素晴らしさがありますね。まあ悪く言ってしまえば、技術で小説を書いているってことになるのかもしれないけど、だからなんだって感じですね。
例えば、「ママの狙撃銃」とか本作のように、一見ありえなさそうな設定を持ち込んでも、それがまるで現実のどこかに組み込まれたかのような作品に仕上げてしまうところが、本当にうまいなって思います。
本作は、少年の独白みたいな形で進んでいくんだけど、孤独な少年が主人公になることはあっても、クロマニヨン人として生きるなんてのはホント前代未聞だろうし、でもそれが、全然おかしくないぐらいぴったり嵌まっているっていうか、少年の人生の中では全然不自然なことではないんだな、って思わせてくれるわけで、いいですね。
とにかく、これはいつも書くことだけど、細かい部分まできちんと考えられていて、その細かな部分の積み重ねが、作品をより一層深いものにしているな、と荻原作品を読むといつも思います。
父親がいない人生、というのは、僕は経験したことはないし経験できないけど、この少年の抱える孤独みたいなものはちゃんと伝わってきました。孤独と一人っていうのはちょっとやっぱり違うわけで、一人じゃなくても孤独なときはあるし、一人でも孤独じゃないときはあるっていうか、なんとなくそんなことを思いました。
冒頭で、誕生は奇跡だけど人生はなんだ、みたいなことを書いたけど、ワタルにとって人生って何だったんだろうな、って考えてしまいます。ワタルの人生は、やっぱりそれなりにいろいろ苦労の連続で、だからワタルに聞いてみたい気はしますね。生まれてきてよかった?って。ラストの方のワタルなら、生まれてきてよかったっていうかもしれないけど、それまでのワタルなら、どう答えるかはわからないですね。
サチという女の子が出てくるんだけど、このキャラクターがすごくいいですね。活発で男の子みたいな性格なんだけど、こういう男みたいな性格の女というのは僕は大好きなんで、結構惹かれました。でも今回は、ワタルの視点という形で物語が進んでいくわけで、ワタルの周辺のごく僅かな人間以外深く語られることはないので、他にすごく魅力的な登場人物がいたかっていうとそれはなかったですね。そういう意味では物足りなさを感じる人はいるかもしれないですね。
まあ僕はもう、荻原浩の作品は基本的にかなり好きになっているので、何を読んでも結構いい感想を書いている気がします(「ハードボイルド・エッグ」はちょっと…でしたけど)。とにかく、今僕の中でオススメの作家です。本作でなくてもいいので、何か荻原浩の作品を読んでみてください。
荻原浩「四度目の氷河期」
日本以外全部沈没(筒井康隆)
単純にタイトルから考えて、「日本以外全部沈没したらどうしようか」という話でも書こうかと思ったけど止めた。
高級な皮肉というのは見た目はなかなか美しいもので、ついうっかりすると飲み込まれてしまったりする。美しい薔薇にはトゲが、みたいな話と同じだろう。
普段生活をしていて、誰かに皮肉を言うなんていうことは、なかなかない。文句を言ったり悪口を言ったりすることはあるかもしれないけど、皮肉はなかなかない。
どうしてだろうな、とちょっとだけ考えると、やっぱ皮肉というのは難しいんだろうな、と思うのだ。
文句は直接的に言えばいいし、悪口は何も考えずに言えばいい。しかし皮肉というのはどうにも、そういう無責任で無根拠な代物ではなく、もっときちんとしたもののような気がするのだ。
というわけで皮肉というのを辞書で調べてみるのだけど、こんな感じだった。
『遠まわしに意地悪く相手を非難すること。また、そのさま。当てこすり。』
辞書というのは大抵曖昧でぼやけた説明しかしてくれないのだけど、まあこんなもんだろうか。
つまり、相手の想像力に依存した悪口だ、と言えるかもしれない。
一対一での皮肉のやり取りであれば、相手のことをそれなりに知ることも出来るし、だからこそそういう部分を突いて皮肉をいうこともできる。というかなるほど、皮肉というのは普通、知っている相手にではなければ言えないものなのだろうな、と思う。相手の想像力に依存しているが故に、相手のことを知っていなくてはならなくて、まあ、可愛さあまって憎さ100倍、と言ったところかもしれない。違うかもしれない。
しかし、小説でそれをやろうとしたら、これはなかなか大変である。
つまり、読者一人一人の想像力に委ねられているのだけど、それを知る術がない、という状態で書かなければならないのである。
まあそこはもちろん、一般的な人間というものを想定して、どう想像するのかというものを考えるのだろうけれども、それにしても難しいだろう。
もちろん、小説を書くという行為そのものがそもそも、読者の想像力に委ねられている。しかし、ストーリーを伝えるのと皮肉を伝えるのでは、やはり難易度に相当差があるのではないかと思うのだ。ストーリーの場合は、間違った解釈をされたところで特別大きな影響はないけど、皮肉の場合は、正しい解釈をされて初めて有効になるので、難しいだろうと思う。
筒井康隆という作家はその、小説を通じて皮肉を読者へ運ぶという難しいことをやってのける。やってのけているはずだ。というのも、僕の想像力が足りないのか、その皮肉が届かない作品も結構あったからなのだが。まあそんなわけで、筒井康隆はすごいのではないか、という話である。
今回はどうにもあまり文章が書けなさそうなので、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、表題作を含めて11編の短編を収録した短編集になっています。
というわけでそれぞれ、ざっと内容を紹介しようと思います。
「日本以外全部沈没」
小松左京の大ベストセラー「日本沈没」のパロディである。
タイトルの通り、日本以外のすべての大陸が沈没してしまう、という設定である。舞台は、日本のとある酒場。そこには、土地を追われた各国の超有名人達が、日本と日本人に媚を売りながら集っているのである。
フランク・シナトラ、インディラ・ガンジー、毛沢東、蒋介石、リチャード・ニクソン、ビートルズ、オードリイ・ヘプバーンなどなどそうそうたる面々である。
フランク・シナトラが日本語の曲を歌い、オードリイ・ヘプバーンが娼婦として生きる無茶苦茶な日本を舞台にしたドタバタ。
「あるいは酒でいっぱいの海」
ショートショート。酸素からヘリウムを取り出す画期的な薬を発明してしまった主人公のお話。
「ヒノマル酒場」
ある酒場でのお話。いつものように労務者たちが集う中、テレビではなんだか変なことをやっている。どうやら通天閣にUFOが来た、という設定のドラマを生撮りして流しているらしい。なかなかリアルなものだ。まあほんとは実際にUFOが来ているのだけど、酒場の労務者たちは気付かない。UFOから出てきた宇宙人が酒場にやってきても、まだドッキリカメラだと信じて疑ってない。マスコミ達は騒然とし、労務者たちは憮然とするなか、シュールに宇宙人が存在する。
「パチンコ必勝原理」
ショートショート。どっかのお偉い学者さんが、あらゆるデータを取ってパチンコを後略しようとする話。
「日本列島七曲り」
大阪へ戻るのに嫌いな飛行機に乗ったところ、革マル派みたいな連中がハイジャックを宣言する。そこから乗客はうかれモード。北朝鮮へ行けという指示に、機長も嬉しそうに応じる。機内は、飲めや騒げやの大混乱。そのうち機内でコレラが発生してさらに大混乱。
「新宿祭」
年に一度の新宿祭。全学連やそのOBたちがあちこちで暴れ周り、それを見ながら日頃の憂さ晴らしをする、という祭りである。その祭りにおいて、全学連の連中の手配とタイムスケジュールを組む会社にいる男のお話。
「農協月へ行く」
土地成金でもうアホみたいに金を持っている農協たちが、知人が世界一周をしたからと言って、これは負けてられないと、ならば月に行くしかない、と言って月に行く話。
「人類の大不調和」
万博会場で、なんだか恐ろしいことが起きている。ソンミ村館、と名付けられた建物からは銃声が聞こえ、中から銃殺死体が転がってきて、周囲にいた人間も巻き添えを食う。しかし、建物を壊しても中には何もない。そして翌朝にはまた現れる。さて、どうやったらどうにかなるものか。
「アフリカの爆弾」
小国が次々に独立を宣言する中で、軍事力を保持するために各国が核兵器を保有するような時代。あるアフリカの集落でれっきとした小国であるその国でも、核兵器を買うことになった。5ギガトンという、広島に落ちた原爆の25万倍の威力を持つ核兵器で、爆発したら地球が滅亡するというような代物である。
さてこれを集落まで持ち運ぼうというのだけど、しかしこれが大変で…。
「黄金の家」
突然やってきたペンキ屋が、突然うちの中を金ぴかに塗り替えていく。相手が言うには、俺がそれを頼んだ、んだそうだ。んなアホな。そんなことするわけなかろう。しかしこれも突然、庭に廃棄物を処理しようとした人間がやってきて…。
「ワイド仇討」
仇討ちを目的に旅をしているうちに仲間がどんどん膨れ上がっていき、いつしか大所帯になった。いつの間にか仇討ちのことも半分忘れて旅を楽しんでいたのだが…。
というような短編集です。
どうも今回は、僕的にはあまり面白くはなかったですね。
「日本以外全部沈没」は、そのあまりのくだらなさに笑いましたが、他の作品はどうもなぁ、という感じでした。あまり面白いと感じられませんでした。
一番気になったのは、解説で書いていた「農協ツアー」という奴ですね。なんですか、「農協ツアー」って?なんか、当時全世界を席捲した、みたいに書いてあるんだけど、日本だけの話ではないってことですよね?誰か知っている人がいたら教えてください。
まあそんなわけで、そんな感じです。
筒井康隆「日本以外全部沈没」
高級な皮肉というのは見た目はなかなか美しいもので、ついうっかりすると飲み込まれてしまったりする。美しい薔薇にはトゲが、みたいな話と同じだろう。
普段生活をしていて、誰かに皮肉を言うなんていうことは、なかなかない。文句を言ったり悪口を言ったりすることはあるかもしれないけど、皮肉はなかなかない。
どうしてだろうな、とちょっとだけ考えると、やっぱ皮肉というのは難しいんだろうな、と思うのだ。
文句は直接的に言えばいいし、悪口は何も考えずに言えばいい。しかし皮肉というのはどうにも、そういう無責任で無根拠な代物ではなく、もっときちんとしたもののような気がするのだ。
というわけで皮肉というのを辞書で調べてみるのだけど、こんな感じだった。
『遠まわしに意地悪く相手を非難すること。また、そのさま。当てこすり。』
辞書というのは大抵曖昧でぼやけた説明しかしてくれないのだけど、まあこんなもんだろうか。
つまり、相手の想像力に依存した悪口だ、と言えるかもしれない。
一対一での皮肉のやり取りであれば、相手のことをそれなりに知ることも出来るし、だからこそそういう部分を突いて皮肉をいうこともできる。というかなるほど、皮肉というのは普通、知っている相手にではなければ言えないものなのだろうな、と思う。相手の想像力に依存しているが故に、相手のことを知っていなくてはならなくて、まあ、可愛さあまって憎さ100倍、と言ったところかもしれない。違うかもしれない。
しかし、小説でそれをやろうとしたら、これはなかなか大変である。
つまり、読者一人一人の想像力に委ねられているのだけど、それを知る術がない、という状態で書かなければならないのである。
まあそこはもちろん、一般的な人間というものを想定して、どう想像するのかというものを考えるのだろうけれども、それにしても難しいだろう。
もちろん、小説を書くという行為そのものがそもそも、読者の想像力に委ねられている。しかし、ストーリーを伝えるのと皮肉を伝えるのでは、やはり難易度に相当差があるのではないかと思うのだ。ストーリーの場合は、間違った解釈をされたところで特別大きな影響はないけど、皮肉の場合は、正しい解釈をされて初めて有効になるので、難しいだろうと思う。
筒井康隆という作家はその、小説を通じて皮肉を読者へ運ぶという難しいことをやってのける。やってのけているはずだ。というのも、僕の想像力が足りないのか、その皮肉が届かない作品も結構あったからなのだが。まあそんなわけで、筒井康隆はすごいのではないか、という話である。
今回はどうにもあまり文章が書けなさそうなので、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、表題作を含めて11編の短編を収録した短編集になっています。
というわけでそれぞれ、ざっと内容を紹介しようと思います。
「日本以外全部沈没」
小松左京の大ベストセラー「日本沈没」のパロディである。
タイトルの通り、日本以外のすべての大陸が沈没してしまう、という設定である。舞台は、日本のとある酒場。そこには、土地を追われた各国の超有名人達が、日本と日本人に媚を売りながら集っているのである。
フランク・シナトラ、インディラ・ガンジー、毛沢東、蒋介石、リチャード・ニクソン、ビートルズ、オードリイ・ヘプバーンなどなどそうそうたる面々である。
フランク・シナトラが日本語の曲を歌い、オードリイ・ヘプバーンが娼婦として生きる無茶苦茶な日本を舞台にしたドタバタ。
「あるいは酒でいっぱいの海」
ショートショート。酸素からヘリウムを取り出す画期的な薬を発明してしまった主人公のお話。
「ヒノマル酒場」
ある酒場でのお話。いつものように労務者たちが集う中、テレビではなんだか変なことをやっている。どうやら通天閣にUFOが来た、という設定のドラマを生撮りして流しているらしい。なかなかリアルなものだ。まあほんとは実際にUFOが来ているのだけど、酒場の労務者たちは気付かない。UFOから出てきた宇宙人が酒場にやってきても、まだドッキリカメラだと信じて疑ってない。マスコミ達は騒然とし、労務者たちは憮然とするなか、シュールに宇宙人が存在する。
「パチンコ必勝原理」
ショートショート。どっかのお偉い学者さんが、あらゆるデータを取ってパチンコを後略しようとする話。
「日本列島七曲り」
大阪へ戻るのに嫌いな飛行機に乗ったところ、革マル派みたいな連中がハイジャックを宣言する。そこから乗客はうかれモード。北朝鮮へ行けという指示に、機長も嬉しそうに応じる。機内は、飲めや騒げやの大混乱。そのうち機内でコレラが発生してさらに大混乱。
「新宿祭」
年に一度の新宿祭。全学連やそのOBたちがあちこちで暴れ周り、それを見ながら日頃の憂さ晴らしをする、という祭りである。その祭りにおいて、全学連の連中の手配とタイムスケジュールを組む会社にいる男のお話。
「農協月へ行く」
土地成金でもうアホみたいに金を持っている農協たちが、知人が世界一周をしたからと言って、これは負けてられないと、ならば月に行くしかない、と言って月に行く話。
「人類の大不調和」
万博会場で、なんだか恐ろしいことが起きている。ソンミ村館、と名付けられた建物からは銃声が聞こえ、中から銃殺死体が転がってきて、周囲にいた人間も巻き添えを食う。しかし、建物を壊しても中には何もない。そして翌朝にはまた現れる。さて、どうやったらどうにかなるものか。
「アフリカの爆弾」
小国が次々に独立を宣言する中で、軍事力を保持するために各国が核兵器を保有するような時代。あるアフリカの集落でれっきとした小国であるその国でも、核兵器を買うことになった。5ギガトンという、広島に落ちた原爆の25万倍の威力を持つ核兵器で、爆発したら地球が滅亡するというような代物である。
さてこれを集落まで持ち運ぼうというのだけど、しかしこれが大変で…。
「黄金の家」
突然やってきたペンキ屋が、突然うちの中を金ぴかに塗り替えていく。相手が言うには、俺がそれを頼んだ、んだそうだ。んなアホな。そんなことするわけなかろう。しかしこれも突然、庭に廃棄物を処理しようとした人間がやってきて…。
「ワイド仇討」
仇討ちを目的に旅をしているうちに仲間がどんどん膨れ上がっていき、いつしか大所帯になった。いつの間にか仇討ちのことも半分忘れて旅を楽しんでいたのだが…。
というような短編集です。
どうも今回は、僕的にはあまり面白くはなかったですね。
「日本以外全部沈没」は、そのあまりのくだらなさに笑いましたが、他の作品はどうもなぁ、という感じでした。あまり面白いと感じられませんでした。
一番気になったのは、解説で書いていた「農協ツアー」という奴ですね。なんですか、「農協ツアー」って?なんか、当時全世界を席捲した、みたいに書いてあるんだけど、日本だけの話ではないってことですよね?誰か知っている人がいたら教えてください。
まあそんなわけで、そんな感じです。
筒井康隆「日本以外全部沈没」
れんげ野原のまんなかで(森谷明子)
僕は、本は買って読みたい人間である。というか、借りて読むことはできない、ということなのだけど。
だから、図書館というものを利用したことはほとんどない。
なんというか、返さなくてはいけないのが嫌なのだ。
とこれだけかくと、なんてワガママな、とか思われそうなのできちんと説明しようと思う。
僕は、本はいつでも自分の自由に好きな順番で読みたいといつも思っている。家にある本(読んでない本が数百冊はある)のうちのまあ一部(30冊くらいかな)を取り出して、それだけ読む順番どおりに並べておいているのだけど(このブログの左脇の「独特読破の胸中」に書いてある通りです)、でも必ずやその順番で読むとは限らない。
つまり、新しく本を買ってくる(数百冊もあるのにそれでも本をバンバン買います)と、それを先に読む場所に置いてしまうので、どんどん順番が変わっていく、という感じです。
まあとにかくそんな感じで、ある程度決まった順番はあるけど、フレキシブルにそれを動かしながら自由に読みたいなぁ、といつも思っているわけである。
しかし、図書館で借りるとなるとそうはいかない。
まず、返す期限が決まっている。どれくらいなのか知らないけど、二週間くらいだろうか。この期間の間に必ず返さなくてはいけないのである。
もちろん本一冊ぐらい、一日二日もあれば読めるわけで、それは問題ないのだけど、でもその二週間という時間のどこかで必ず読まなくてはならない、と制限されるのが嫌なのである。
あと、借りたい本があったとしても、何人か順番待ちなんてこともよくあるのだろう。そうなると、いつ自分の手元に来るのかわからない。読書にある程度計画性を持たせたい僕としては(いつも、今週一杯くらいでここまでぐらいは読んで、みたいなことを考えている)、そういうのはダメなのである。
というわけで、僕は図書館で本を借りることはない。
同じことはCDやDVDのレンタルについても言えることで、僕はそもそも音楽にも映画にもあんまり興味のない人間なんだけど、しかし人生において、CDやDVDをレンタルしたことがない、というのもなかなか凄いだろう。レンタルのカードも作ったことがない。もちろんさっきも書いたように音楽や映画に特に興味がなかったというのもそうだけど、そもそも何かを借りるという行為そのものが苦手なわけで、どうしてもレンタルというのはダメなのだ。期限内に必ず返さなくてはいけない、という制約が苦手なのだ。
性格的に僕は、何事にも縛られたくないと思っている人間だ。ルールは守るけど、制約だの制限だのはあんまり守りたくないし、そんなものに囲まれたくはないな、と思ってもいる。まあどうでもいいけど。
図書館ではなく友達から何かを借りるというのも苦手なんだけど、これは、借りたものをちゃんとした形で返さなくてはいけない、というプレッシャーの方が大きいかな。
まあそんなわけで、図書館の話である。図書館に入ったことがないとは言わないけど、借りたような記憶はやっぱりほとんどないと思う。第一、僕が知っている図書館というのは大した図書館ではない。学校の図書館とか、町の図書館(僕が住んでいたのは市ではなく町だったんで)だったりで、そんなに図書館にワクワクした経験はないですね。スポーツ選手の生涯をマンガにしたようなシリーズとかは読んでた記憶あるなぁ。
あとは、大学に入って大学の図書館を使ったりしたけど、それも本を探したり読んだりというよりも、パソコンを使うためという目的の方が大きかったような気がする。街中にあるだろう図書館も、探してみたことはないですね。
でも今考えると、もっと図書館の思い出というか楽しさとか、そういうのを昔にしっておけばよかったかな、なんて思ったりもします。今僕は小説ばっかり読んでるけど、図書館というのはそもそも、個人が買うには内容的にだったり金額的にヘビーな本を置いてくれるようなところだろうし、そういうものに昔から触れていたりすれば、また別の読書傾向みたいなものが自分に残ったかもしれないな、なんて思ったりもします。
とにかく、図書館で本を借りようが買って読もうが、本好きには変わりはないわけでいいのです。本が好きだというのは、それだけで無条件でいいのです。もうよくわからない理屈だけど、図書館も本屋の仕事も、好きな本に囲まれているという意味では同じなわけで、図書館というのも働く場所としてはなかなか面白いのかもしれないな、なんて思ったりしました。まあ、楽ではなさそうですけどね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は連作短編集なので、まず設定だけを書こうと思います。
秋庭市のはずれ、ススキの生い茂る野原のど真ん中、なんでこんなところに、と誰もが口を揃えていいそうな場所に、文子の働く図書館はある。辺鄙と言ってもおかしくない場所にあるので、来館するお客様は少ないのだけど、それでも文子は、本好きの日野や能勢らとともに、愛する本たちに囲まれながら図書館という場所で働いている。
土地の提供をしてくれた秋葉さんがふらりとやってきたり、先輩の一人である能勢が勤務中にグースカ寝てたりと、なかなかアットホームな図書館ではあるのだけど、でもどうにも最近変なことが多くなってきた。その変わったことを、普段グースカ寝ている能勢が鮮やかに解きほぐす。
というような設定ですね。では、それぞれの短編を紹介しようと思います。
「霜降―花薄、光る」
どうやら図書館を舞台に度胸試しみたいなものが流行っているみたいだ。閉館間際の図書館のあちこちに隠れて、閉館後まで居残ってやろうという小学生が最近多いのだ。同じ小学校の面々らしいのだけど、顔ぶれはいつも違う。大抵は図書館員の誰かがみつけて追い出すのでまあそんなに問題というほどでもないのだけど。
それと、変わった落し物も増えている。汚い下着や靴下、水筒なんてのはまだいい方。極めつけはギターケースである。しかも、中身はギターではなくカップラーメン。なんなの、これ?
「冬至―銀杏黄葉」
文子はどうにも、寺田さんが視界に入ると緊張してしまう。今はこう退官されたとは言え、元は文子の大先輩である。まあ、別に失敗を指摘されたりするわけではないんだけど。
毎週水曜日午後三時に来る深雪さんというお年寄りがいる。循環バスの停車地の一つにこの図書館も入ったために、普段はなかなかこられないご老人が増えてきたのだ。そのふんわりした雰囲気からいつも気に掛けてはいたのだけど、その深雪さんが「あら」と声を上げる。どうやら、読んでいた本の中から、何かの絵本をコピーしたような紙が出てきたのだ。まあ、なんだかよくわからない。誰かの忘れ物かもしれない。
その後、洋書の絵本コーナーへ行ってみると、誰かが配架をぐちゃぐちゃにしてしまっている。なんとなく頭文字を繋げると暗号になりそうなんだけど。って、誰がなんのために?
「立春―雛支度」
図書館にいつもふらりとやってくる秋葉さん。その秋葉さんが一枚の紙を持ってやってきた。秋葉さんは酒店からスタートしたコンビニを経営しているのだけど、そのコピー機に挟まっていた忘れ物らしい。さてそんな紙切れを何故図書館に持ってきたかと言えば。
それはその紙には、個人の名前や電話番号住所とともに、本のタイトルが記されていたからである。だから、図書館に関係あるだろう、と。
しかし、図書館では断じてそんなデータを紙媒体にして残すわけがないと文子は強行に主張した。まあとにかく、書かれている電話番号に確認をしてみるのだけど、なんと皆、図書館に来たことがない、という人ばかりだったのだ。
つまりこういうことだ。誰かが、別人の名前を騙って会員証を作り、それで本を借りている。ここまでするということは、借りた本を返すつもりがないということだろう。高価な美術書だ。これは困った。
しかし一体どうやって、そんな個人情報を入手できたんだろう?
「二月尽―名残の雪」
大雪に見舞われた秋庭市。こういう時でも公共の施設というのは、定刻通りに開けなくてはいけないのが大変だ。その大雪の中図書館にいるのは、文子とアルバイトの大学生の二人だけだった。
市長から、今日は大雪だから図書館閉めてもいいよ、という連絡があった後、さて自宅に帰れそうもない私は図書館にでも泊まろうかしら、と思っていると、秋葉さん登場。能勢に言われて、文子を自宅に泊めてあげよう、ということらしい。
そんなわけで秋葉さんの、もう冗談みたいに広い家に泊まらせてもらうことにしたのだが、そこで秋葉さんの「雪女」の話を聞くことになった。まだ秋葉さんが子供だった頃の話、外から来たお客さんが翌朝になるとどこにもいなかった。雪に足跡がない。居間には水で濡れたような跡がある。あれは雪女だったんだろかなぁ。
その話は能勢もよく聞かされるようで、文子が話を振ると、秋葉さんには内緒だという条件で、その雪女の謎を解明してくれる。
「清明―れんげ、咲く」
秋葉さんの思いつきで、図書館周辺のススキを狩り、そこにれんげそうを植えた。これがなんとも綺麗だ、ということで、取材は来るはお客さんは増えるわで、図書館としては嬉しい悲鳴である。
そんなある日、図書館内で一冊の古びた本が見つかった。そこの図書館の蔵書ではない。もう廃校になった中学校の図書館の本だった。なんだってこんなものがうちに紛れ込んでいるんだ。
一方で、記者だという男は、かつてのある死亡事故の話を追っていた。れんげそうの野原の脇の石に幽霊が出る、という噂を発端にした調査だったのだけど、その関係者と知り合いだったかもしれないというその記者は熱心だった。
れんげそう咲きみだれる図書館で巻き起こる最後のお話。
大体こんな感じですね。
この本は、すごくよかったですね。
いわゆる「日常の謎」系のミステリで、まあ謎自体は大したものではないというかささやかなものなんだけど、それが図書館という場所ときちんと結びついているということと、それに関わる人が魅力的だったのとで、とても雰囲気のいい話になっていました。
図書館を舞台にした小説というのはなかなかないと思うので、どう話が進んでいくんだろうと思ったものだけど、図書館の仕事そのものも楽しそうだし(まあお役所だってところはすごい嫌だけど)、趣味は合わないかもしれないけど本好きの人が一杯いるし、ちょっと羨ましい感じはしますね。それに図書館というのは、考えてみれば、無料でどれだけいても誰にも何も言われないというなかなか稀有な施設なわけで、確かにそういう場所でなら何かしらいろいろ起こってもおかしくないかもしれないな、と思いました。
ミステリ的な部分だけではなく、図書館を中心にした人間関係も面白くて、そんなに多くの人間が出てくるわけではないのだけど、ちょっとした描写でうまく人間を切り取っていて、うまいな、と思いました。
話として好きなのは、「霜降―花薄、光る」の度胸試しと「二月尽―名残の雪」の雪女ですね。「立春―雛支度」は、ラストの説明がちょっと無理があるような気がしてしまいました。
れんげそうというところにもちゃんと意味があったりして、丁寧に物語を作っているのだな、ということがわかる作品でした。これは是非読んでみてください。
森谷明子「れんげ野原のまんなかで」
だから、図書館というものを利用したことはほとんどない。
なんというか、返さなくてはいけないのが嫌なのだ。
とこれだけかくと、なんてワガママな、とか思われそうなのできちんと説明しようと思う。
僕は、本はいつでも自分の自由に好きな順番で読みたいといつも思っている。家にある本(読んでない本が数百冊はある)のうちのまあ一部(30冊くらいかな)を取り出して、それだけ読む順番どおりに並べておいているのだけど(このブログの左脇の「独特読破の胸中」に書いてある通りです)、でも必ずやその順番で読むとは限らない。
つまり、新しく本を買ってくる(数百冊もあるのにそれでも本をバンバン買います)と、それを先に読む場所に置いてしまうので、どんどん順番が変わっていく、という感じです。
まあとにかくそんな感じで、ある程度決まった順番はあるけど、フレキシブルにそれを動かしながら自由に読みたいなぁ、といつも思っているわけである。
しかし、図書館で借りるとなるとそうはいかない。
まず、返す期限が決まっている。どれくらいなのか知らないけど、二週間くらいだろうか。この期間の間に必ず返さなくてはいけないのである。
もちろん本一冊ぐらい、一日二日もあれば読めるわけで、それは問題ないのだけど、でもその二週間という時間のどこかで必ず読まなくてはならない、と制限されるのが嫌なのである。
あと、借りたい本があったとしても、何人か順番待ちなんてこともよくあるのだろう。そうなると、いつ自分の手元に来るのかわからない。読書にある程度計画性を持たせたい僕としては(いつも、今週一杯くらいでここまでぐらいは読んで、みたいなことを考えている)、そういうのはダメなのである。
というわけで、僕は図書館で本を借りることはない。
同じことはCDやDVDのレンタルについても言えることで、僕はそもそも音楽にも映画にもあんまり興味のない人間なんだけど、しかし人生において、CDやDVDをレンタルしたことがない、というのもなかなか凄いだろう。レンタルのカードも作ったことがない。もちろんさっきも書いたように音楽や映画に特に興味がなかったというのもそうだけど、そもそも何かを借りるという行為そのものが苦手なわけで、どうしてもレンタルというのはダメなのだ。期限内に必ず返さなくてはいけない、という制約が苦手なのだ。
性格的に僕は、何事にも縛られたくないと思っている人間だ。ルールは守るけど、制約だの制限だのはあんまり守りたくないし、そんなものに囲まれたくはないな、と思ってもいる。まあどうでもいいけど。
図書館ではなく友達から何かを借りるというのも苦手なんだけど、これは、借りたものをちゃんとした形で返さなくてはいけない、というプレッシャーの方が大きいかな。
まあそんなわけで、図書館の話である。図書館に入ったことがないとは言わないけど、借りたような記憶はやっぱりほとんどないと思う。第一、僕が知っている図書館というのは大した図書館ではない。学校の図書館とか、町の図書館(僕が住んでいたのは市ではなく町だったんで)だったりで、そんなに図書館にワクワクした経験はないですね。スポーツ選手の生涯をマンガにしたようなシリーズとかは読んでた記憶あるなぁ。
あとは、大学に入って大学の図書館を使ったりしたけど、それも本を探したり読んだりというよりも、パソコンを使うためという目的の方が大きかったような気がする。街中にあるだろう図書館も、探してみたことはないですね。
でも今考えると、もっと図書館の思い出というか楽しさとか、そういうのを昔にしっておけばよかったかな、なんて思ったりもします。今僕は小説ばっかり読んでるけど、図書館というのはそもそも、個人が買うには内容的にだったり金額的にヘビーな本を置いてくれるようなところだろうし、そういうものに昔から触れていたりすれば、また別の読書傾向みたいなものが自分に残ったかもしれないな、なんて思ったりもします。
とにかく、図書館で本を借りようが買って読もうが、本好きには変わりはないわけでいいのです。本が好きだというのは、それだけで無条件でいいのです。もうよくわからない理屈だけど、図書館も本屋の仕事も、好きな本に囲まれているという意味では同じなわけで、図書館というのも働く場所としてはなかなか面白いのかもしれないな、なんて思ったりしました。まあ、楽ではなさそうですけどね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は連作短編集なので、まず設定だけを書こうと思います。
秋庭市のはずれ、ススキの生い茂る野原のど真ん中、なんでこんなところに、と誰もが口を揃えていいそうな場所に、文子の働く図書館はある。辺鄙と言ってもおかしくない場所にあるので、来館するお客様は少ないのだけど、それでも文子は、本好きの日野や能勢らとともに、愛する本たちに囲まれながら図書館という場所で働いている。
土地の提供をしてくれた秋葉さんがふらりとやってきたり、先輩の一人である能勢が勤務中にグースカ寝てたりと、なかなかアットホームな図書館ではあるのだけど、でもどうにも最近変なことが多くなってきた。その変わったことを、普段グースカ寝ている能勢が鮮やかに解きほぐす。
というような設定ですね。では、それぞれの短編を紹介しようと思います。
「霜降―花薄、光る」
どうやら図書館を舞台に度胸試しみたいなものが流行っているみたいだ。閉館間際の図書館のあちこちに隠れて、閉館後まで居残ってやろうという小学生が最近多いのだ。同じ小学校の面々らしいのだけど、顔ぶれはいつも違う。大抵は図書館員の誰かがみつけて追い出すのでまあそんなに問題というほどでもないのだけど。
それと、変わった落し物も増えている。汚い下着や靴下、水筒なんてのはまだいい方。極めつけはギターケースである。しかも、中身はギターではなくカップラーメン。なんなの、これ?
「冬至―銀杏黄葉」
文子はどうにも、寺田さんが視界に入ると緊張してしまう。今はこう退官されたとは言え、元は文子の大先輩である。まあ、別に失敗を指摘されたりするわけではないんだけど。
毎週水曜日午後三時に来る深雪さんというお年寄りがいる。循環バスの停車地の一つにこの図書館も入ったために、普段はなかなかこられないご老人が増えてきたのだ。そのふんわりした雰囲気からいつも気に掛けてはいたのだけど、その深雪さんが「あら」と声を上げる。どうやら、読んでいた本の中から、何かの絵本をコピーしたような紙が出てきたのだ。まあ、なんだかよくわからない。誰かの忘れ物かもしれない。
その後、洋書の絵本コーナーへ行ってみると、誰かが配架をぐちゃぐちゃにしてしまっている。なんとなく頭文字を繋げると暗号になりそうなんだけど。って、誰がなんのために?
「立春―雛支度」
図書館にいつもふらりとやってくる秋葉さん。その秋葉さんが一枚の紙を持ってやってきた。秋葉さんは酒店からスタートしたコンビニを経営しているのだけど、そのコピー機に挟まっていた忘れ物らしい。さてそんな紙切れを何故図書館に持ってきたかと言えば。
それはその紙には、個人の名前や電話番号住所とともに、本のタイトルが記されていたからである。だから、図書館に関係あるだろう、と。
しかし、図書館では断じてそんなデータを紙媒体にして残すわけがないと文子は強行に主張した。まあとにかく、書かれている電話番号に確認をしてみるのだけど、なんと皆、図書館に来たことがない、という人ばかりだったのだ。
つまりこういうことだ。誰かが、別人の名前を騙って会員証を作り、それで本を借りている。ここまでするということは、借りた本を返すつもりがないということだろう。高価な美術書だ。これは困った。
しかし一体どうやって、そんな個人情報を入手できたんだろう?
「二月尽―名残の雪」
大雪に見舞われた秋庭市。こういう時でも公共の施設というのは、定刻通りに開けなくてはいけないのが大変だ。その大雪の中図書館にいるのは、文子とアルバイトの大学生の二人だけだった。
市長から、今日は大雪だから図書館閉めてもいいよ、という連絡があった後、さて自宅に帰れそうもない私は図書館にでも泊まろうかしら、と思っていると、秋葉さん登場。能勢に言われて、文子を自宅に泊めてあげよう、ということらしい。
そんなわけで秋葉さんの、もう冗談みたいに広い家に泊まらせてもらうことにしたのだが、そこで秋葉さんの「雪女」の話を聞くことになった。まだ秋葉さんが子供だった頃の話、外から来たお客さんが翌朝になるとどこにもいなかった。雪に足跡がない。居間には水で濡れたような跡がある。あれは雪女だったんだろかなぁ。
その話は能勢もよく聞かされるようで、文子が話を振ると、秋葉さんには内緒だという条件で、その雪女の謎を解明してくれる。
「清明―れんげ、咲く」
秋葉さんの思いつきで、図書館周辺のススキを狩り、そこにれんげそうを植えた。これがなんとも綺麗だ、ということで、取材は来るはお客さんは増えるわで、図書館としては嬉しい悲鳴である。
そんなある日、図書館内で一冊の古びた本が見つかった。そこの図書館の蔵書ではない。もう廃校になった中学校の図書館の本だった。なんだってこんなものがうちに紛れ込んでいるんだ。
一方で、記者だという男は、かつてのある死亡事故の話を追っていた。れんげそうの野原の脇の石に幽霊が出る、という噂を発端にした調査だったのだけど、その関係者と知り合いだったかもしれないというその記者は熱心だった。
れんげそう咲きみだれる図書館で巻き起こる最後のお話。
大体こんな感じですね。
この本は、すごくよかったですね。
いわゆる「日常の謎」系のミステリで、まあ謎自体は大したものではないというかささやかなものなんだけど、それが図書館という場所ときちんと結びついているということと、それに関わる人が魅力的だったのとで、とても雰囲気のいい話になっていました。
図書館を舞台にした小説というのはなかなかないと思うので、どう話が進んでいくんだろうと思ったものだけど、図書館の仕事そのものも楽しそうだし(まあお役所だってところはすごい嫌だけど)、趣味は合わないかもしれないけど本好きの人が一杯いるし、ちょっと羨ましい感じはしますね。それに図書館というのは、考えてみれば、無料でどれだけいても誰にも何も言われないというなかなか稀有な施設なわけで、確かにそういう場所でなら何かしらいろいろ起こってもおかしくないかもしれないな、と思いました。
ミステリ的な部分だけではなく、図書館を中心にした人間関係も面白くて、そんなに多くの人間が出てくるわけではないのだけど、ちょっとした描写でうまく人間を切り取っていて、うまいな、と思いました。
話として好きなのは、「霜降―花薄、光る」の度胸試しと「二月尽―名残の雪」の雪女ですね。「立春―雛支度」は、ラストの説明がちょっと無理があるような気がしてしまいました。
れんげそうというところにもちゃんと意味があったりして、丁寧に物語を作っているのだな、ということがわかる作品でした。これは是非読んでみてください。
森谷明子「れんげ野原のまんなかで」
ドロップ(品川ヒロシ(品川庄司))
不良に憧れたことなんかまるきりない僕としては、不良と呼ばれる人達がやっていることは、まあよくわからない。
まあ言ってしまえば、アホだよなぁ、というところである。
なんていうか、常に要領の悪い道を選択しているように僕には思うのだ。もちろん、要領よく生きていればいいなんていいたいわけではないけど、あまりにも要領が悪すぎてなんなんだ、と思う。
例えば、髪の毛の色にしてもそうだ。髪の毛の色なんか、別にどうでもいいではないか。教師がガヤガヤうるさく注意するのもどうかと思うけど、でも現実問題教師は注意するんだから仕方がない。だったら大人しく髪の毛の色は黒にしておけばいいのにと、とにかくめんどうくさいことを嫌う僕としてはそんな風に思ってしまう。誰かと対立するのはひどくめんどくさい。
しかし彼らは、咎められることを承知で髪の毛の色をバンバン変えてくるのである。
なんのために?
おそらくそこには理由はないのだろう。つまり、反抗するために反抗しているわけで、僕からすればそれはもう無茶苦茶にしか思えない。
タバコもそうで、僕は今でも吸わないし今まで吸ったこともないけど、結局ああいうのも、ちょっと不良的なことに憧れて吸い始めました、みたいな人が大半だろう。タバコを吸ったら不良的でかっこいいなんて、一体どこの誰が考えた価値観なのかさっぱり理解できないけど、わざわざ怒られるのを承知でタバコを吸うのなんか、バカらしくはないだろうか。
まあ僕はそういう少年だったので、不良という、明らかに無駄にエネルギーを消費する種族とは無縁であったのである。
まあそもそも、不良のいるような学校にはいなかったので(まあそんな時代ではなかったというのもあるかもしれないけど)、学校で不良が暴れてるとか生徒の半数がパンチパーマとかパシリにされている人間がいたとか、そんな経験はまるきりこれっぽっちもないのである。
まあ、健全な学生生活を送っておりました。
ああでも、中学生くらいの頃にはちょっといたかな。不良って言うか、悪ぶってるやつ。何でか知らないけど学ランのカラー(襟のとこの白い奴。あれ外すと、金属が首に当たって冷たいんじゃないかと思うんだけど、一体どんな意味があったんだろう)を外して、Tシャツの上から学ランをはおい、ズック(と言ったっけ?上履き)を履き潰して、なんとなく威張っているやつ。まあなるべく関わりあいにならないようにしようと思っていたし、実際別にそんなに怖くはなかったから大したことはないのだけど。
あと思い出すのは、カツアゲ的な経験だ。しかしこれは僕の場合、ちょっとだけ笑い話になる。
高校生の頃学校帰りに、ちっちゃななデパート的なところを通りかかると、同じ高校ではないだろうけど上級性的な人がやってきて、金をよこせとか言う。募金だよ募金、とかわけのわからないことを言ったので僕は少し笑ってしまったのだが、すると相手の一人が殴りかかってきた。しかし、そのパンチの痛くないこと!あまりに痛くなくて、なんだこれ、と拍子抜けした。
その後彼らは(向こうもこちらも三人ずつだった気がする)、付いて来いとか言って先に歩き出した。僕らは後ろから付いていくのだが、彼らは後ろを振り返りもしない。アホだな、と思って、気付かれないようにそのデパート的な店内に逃げ込んだ。だから被害は特になし。
まあそんなこともあったなぁ、なんて思い出す。
しかし、結局なんだかんだ言って、不良と呼ばれる人間がいた時代の方がまだましだった、と言っていいんじゃないかと思う。
今の時代、昔の不良なんか目じゃないくらいの恐ろしさを、子供達は秘めている。暗く陰湿で執拗だ。不良というのは、ある意味でわかりやすさの代名詞だと僕は思うのだけど、現代の子供というのは逆にわかりづらさの代表だと言えるだろう。何を考えているかわからない、見た目と言動が一致しない。そんな子供が増えてきたような気がする。
今では、不良なんてのは時代遅れの産物でしかないだろう。現代の学校に昔の不良がやってきても、まるで居場所はないだろう。時代も変わったものである。
とにかく何にしても、悪いことがかっこいいみたいな風潮は、どう考えてもかっこ悪いと僕は思うんだけど、どうだろうなぁ。
そろそろ内容に入ろうと思います。
80年代の東京。「ビー・バップ・ハイスクール」と「湘南暴走族」という漫画が一世風靡し、不良たちのバイブルであった時代。
そんな時代に、小学校の頃から真面目に勉強し(教育ママのせいだ)、私立の全寮制の中学校に入学したヒロシという男がいる。
この男、全寮制の学校に入った途端に怠け出して、成績はガタ落ち。もう遊び呆けているような男だった。
そんなヒロシは、親に転入したいと言う。表向きの理由は、別の学校に入ってきちんとやり直したい、というものだが、実際はそんなこと考えてもいない。
不良になりたかったのである。
全寮制の私立の中学というのは、平和だが刺激がない。みんな優等生ばかりだ。そこへいくと、公立の中学校というのはワルいやつらばっかりのはずだ。そこへ転入していって、思いっきり不良してやろう。
漫画に感化されたヒロシは、そんな野望を持って転入をするのである。
転入前の面談で、井口・森木・山崎という三人には近づくな、と教師に注意されるヒロシだが、この三人にまずは取り入らないとどうしようもないと判断。初日から髪の毛の色で教師とバトり、転入生への視線をモロに浴びながら、井口からの呼び出しに応じ、結果井口たちの仲間に入ることが決まった。
滑り出しは上々だ。
それからヒロシは、井口たちと組んで日々バカなことを繰り返した。喧嘩、くだらない遊び、そしてまた喧嘩。ヒロシは、水を得た魚のように日々を過ごしていく…。
というような話です。
さてこの著者の「品川ヒロシ」というのは、あのお笑いコンビ「品川庄司」の品川の方なんですね。
劇団一人に続いて、芸人が出した小説ということになりますね。
芸人というのは、ネタというストーリーを作るプロなわけで、方法論としては違うのかもしれないけど、でもストーリーを作る才能を持っている、ということなんだろうな、と思います。
ただし、劇団一人と品川の最大の違いは何かと言うと、二作目を書くことが出来るかどうか、ということですね。劇団一人の場合は、まあしばらく小説を書くことは出来るだろうと思います。しかし、品川の場合は厳しいでしょう。何故なら本作は、恐らく品川の経験を元にした、半分は私小説みたいな感じだと思うからです。
つまり劇団一人の場合は、自分の経験でないところから小説を生み出したのに対して、品川は自分の経験から小説を生み出したので、二作目を書くのは難しいのではないかな、と思います。
さて内容についてですけど、これは結構面白いですね。芸人が書いてるからと言ってなめちゃいけないと思いますね。
まずやっぱり、会話が面白いですね。これは、芸人の強みと言えるでしょう。ちょっと頭の弱そうな中学生たちが、ボケたりつこんだりするような会話は、ちょっと違うけど漫才を見ているようで面白いですね。
あと、ストーリーもちゃんと小説していて、全然読める内容になっています。まあ、不良マンガとか読んだことないんで、このストーリーが定番なのかどうかよくわからないけど。
キャラクターもそれぞれにきちんと独立していて、読んでいてすごく楽しいですね。喧嘩大好きで負けず嫌いの井口とか、スリの天才のルパンとか、あとヒデ君とかもすごいいいキャラですね。パンチパーマなのに礼儀正しい赤城とか、何故か泣いてばっかのテルとか、割といいキャラガ揃っています。
あと、なんだかんだ言ってヒロシの家族もいいですね。ヒロシが悪くなっていく毎に泣く母親とか、ほとんど話さない姉とか、全然出てこないけどお陰で窮地を逃れることが出来た恩人の兄とか、あれそういえば父親って出てきたかなって感じだけど、なんだかんだいいながらきちんと家族してるなと思えるような家族でした。
まあそんなわけで、小説として普通に良く出来ているな、という感じでした。
表紙の絵は、僕は知らないのだけど、高橋ヒロシという、不良漫画的な分野では人気なんだそうです。何書いてる人でしょうね。
そういえば、オリエンタルラジオも小説を書きたいな、みたいなことをどっかで言っていたような気がします。これからはもう、色んな人が小説を出す時代が来るんじゃないでしょうか。芸人も俳優もスポーツ選手も歌手も。知っている限りでは、大槻ケンジとかGackt(って綴りこれであってるっけ?)の小説とか見たことあります。あと、ビートたけしとかそのまんま東とか。さて次は誰が出してくれるでしょうね。
本作は、結構いいですよ。不良漫画が好きな人には物足りないとかあるかもだけど(何度も言うけど不良漫画を読んだことがないのでなんとも言えない)、普通に小説として読む分には充分に楽しめます。読んでみてください。
品川ヒロシ「ドロップ」
まあ言ってしまえば、アホだよなぁ、というところである。
なんていうか、常に要領の悪い道を選択しているように僕には思うのだ。もちろん、要領よく生きていればいいなんていいたいわけではないけど、あまりにも要領が悪すぎてなんなんだ、と思う。
例えば、髪の毛の色にしてもそうだ。髪の毛の色なんか、別にどうでもいいではないか。教師がガヤガヤうるさく注意するのもどうかと思うけど、でも現実問題教師は注意するんだから仕方がない。だったら大人しく髪の毛の色は黒にしておけばいいのにと、とにかくめんどうくさいことを嫌う僕としてはそんな風に思ってしまう。誰かと対立するのはひどくめんどくさい。
しかし彼らは、咎められることを承知で髪の毛の色をバンバン変えてくるのである。
なんのために?
おそらくそこには理由はないのだろう。つまり、反抗するために反抗しているわけで、僕からすればそれはもう無茶苦茶にしか思えない。
タバコもそうで、僕は今でも吸わないし今まで吸ったこともないけど、結局ああいうのも、ちょっと不良的なことに憧れて吸い始めました、みたいな人が大半だろう。タバコを吸ったら不良的でかっこいいなんて、一体どこの誰が考えた価値観なのかさっぱり理解できないけど、わざわざ怒られるのを承知でタバコを吸うのなんか、バカらしくはないだろうか。
まあ僕はそういう少年だったので、不良という、明らかに無駄にエネルギーを消費する種族とは無縁であったのである。
まあそもそも、不良のいるような学校にはいなかったので(まあそんな時代ではなかったというのもあるかもしれないけど)、学校で不良が暴れてるとか生徒の半数がパンチパーマとかパシリにされている人間がいたとか、そんな経験はまるきりこれっぽっちもないのである。
まあ、健全な学生生活を送っておりました。
ああでも、中学生くらいの頃にはちょっといたかな。不良って言うか、悪ぶってるやつ。何でか知らないけど学ランのカラー(襟のとこの白い奴。あれ外すと、金属が首に当たって冷たいんじゃないかと思うんだけど、一体どんな意味があったんだろう)を外して、Tシャツの上から学ランをはおい、ズック(と言ったっけ?上履き)を履き潰して、なんとなく威張っているやつ。まあなるべく関わりあいにならないようにしようと思っていたし、実際別にそんなに怖くはなかったから大したことはないのだけど。
あと思い出すのは、カツアゲ的な経験だ。しかしこれは僕の場合、ちょっとだけ笑い話になる。
高校生の頃学校帰りに、ちっちゃななデパート的なところを通りかかると、同じ高校ではないだろうけど上級性的な人がやってきて、金をよこせとか言う。募金だよ募金、とかわけのわからないことを言ったので僕は少し笑ってしまったのだが、すると相手の一人が殴りかかってきた。しかし、そのパンチの痛くないこと!あまりに痛くなくて、なんだこれ、と拍子抜けした。
その後彼らは(向こうもこちらも三人ずつだった気がする)、付いて来いとか言って先に歩き出した。僕らは後ろから付いていくのだが、彼らは後ろを振り返りもしない。アホだな、と思って、気付かれないようにそのデパート的な店内に逃げ込んだ。だから被害は特になし。
まあそんなこともあったなぁ、なんて思い出す。
しかし、結局なんだかんだ言って、不良と呼ばれる人間がいた時代の方がまだましだった、と言っていいんじゃないかと思う。
今の時代、昔の不良なんか目じゃないくらいの恐ろしさを、子供達は秘めている。暗く陰湿で執拗だ。不良というのは、ある意味でわかりやすさの代名詞だと僕は思うのだけど、現代の子供というのは逆にわかりづらさの代表だと言えるだろう。何を考えているかわからない、見た目と言動が一致しない。そんな子供が増えてきたような気がする。
今では、不良なんてのは時代遅れの産物でしかないだろう。現代の学校に昔の不良がやってきても、まるで居場所はないだろう。時代も変わったものである。
とにかく何にしても、悪いことがかっこいいみたいな風潮は、どう考えてもかっこ悪いと僕は思うんだけど、どうだろうなぁ。
そろそろ内容に入ろうと思います。
80年代の東京。「ビー・バップ・ハイスクール」と「湘南暴走族」という漫画が一世風靡し、不良たちのバイブルであった時代。
そんな時代に、小学校の頃から真面目に勉強し(教育ママのせいだ)、私立の全寮制の中学校に入学したヒロシという男がいる。
この男、全寮制の学校に入った途端に怠け出して、成績はガタ落ち。もう遊び呆けているような男だった。
そんなヒロシは、親に転入したいと言う。表向きの理由は、別の学校に入ってきちんとやり直したい、というものだが、実際はそんなこと考えてもいない。
不良になりたかったのである。
全寮制の私立の中学というのは、平和だが刺激がない。みんな優等生ばかりだ。そこへいくと、公立の中学校というのはワルいやつらばっかりのはずだ。そこへ転入していって、思いっきり不良してやろう。
漫画に感化されたヒロシは、そんな野望を持って転入をするのである。
転入前の面談で、井口・森木・山崎という三人には近づくな、と教師に注意されるヒロシだが、この三人にまずは取り入らないとどうしようもないと判断。初日から髪の毛の色で教師とバトり、転入生への視線をモロに浴びながら、井口からの呼び出しに応じ、結果井口たちの仲間に入ることが決まった。
滑り出しは上々だ。
それからヒロシは、井口たちと組んで日々バカなことを繰り返した。喧嘩、くだらない遊び、そしてまた喧嘩。ヒロシは、水を得た魚のように日々を過ごしていく…。
というような話です。
さてこの著者の「品川ヒロシ」というのは、あのお笑いコンビ「品川庄司」の品川の方なんですね。
劇団一人に続いて、芸人が出した小説ということになりますね。
芸人というのは、ネタというストーリーを作るプロなわけで、方法論としては違うのかもしれないけど、でもストーリーを作る才能を持っている、ということなんだろうな、と思います。
ただし、劇団一人と品川の最大の違いは何かと言うと、二作目を書くことが出来るかどうか、ということですね。劇団一人の場合は、まあしばらく小説を書くことは出来るだろうと思います。しかし、品川の場合は厳しいでしょう。何故なら本作は、恐らく品川の経験を元にした、半分は私小説みたいな感じだと思うからです。
つまり劇団一人の場合は、自分の経験でないところから小説を生み出したのに対して、品川は自分の経験から小説を生み出したので、二作目を書くのは難しいのではないかな、と思います。
さて内容についてですけど、これは結構面白いですね。芸人が書いてるからと言ってなめちゃいけないと思いますね。
まずやっぱり、会話が面白いですね。これは、芸人の強みと言えるでしょう。ちょっと頭の弱そうな中学生たちが、ボケたりつこんだりするような会話は、ちょっと違うけど漫才を見ているようで面白いですね。
あと、ストーリーもちゃんと小説していて、全然読める内容になっています。まあ、不良マンガとか読んだことないんで、このストーリーが定番なのかどうかよくわからないけど。
キャラクターもそれぞれにきちんと独立していて、読んでいてすごく楽しいですね。喧嘩大好きで負けず嫌いの井口とか、スリの天才のルパンとか、あとヒデ君とかもすごいいいキャラですね。パンチパーマなのに礼儀正しい赤城とか、何故か泣いてばっかのテルとか、割といいキャラガ揃っています。
あと、なんだかんだ言ってヒロシの家族もいいですね。ヒロシが悪くなっていく毎に泣く母親とか、ほとんど話さない姉とか、全然出てこないけどお陰で窮地を逃れることが出来た恩人の兄とか、あれそういえば父親って出てきたかなって感じだけど、なんだかんだいいながらきちんと家族してるなと思えるような家族でした。
まあそんなわけで、小説として普通に良く出来ているな、という感じでした。
表紙の絵は、僕は知らないのだけど、高橋ヒロシという、不良漫画的な分野では人気なんだそうです。何書いてる人でしょうね。
そういえば、オリエンタルラジオも小説を書きたいな、みたいなことをどっかで言っていたような気がします。これからはもう、色んな人が小説を出す時代が来るんじゃないでしょうか。芸人も俳優もスポーツ選手も歌手も。知っている限りでは、大槻ケンジとかGackt(って綴りこれであってるっけ?)の小説とか見たことあります。あと、ビートたけしとかそのまんま東とか。さて次は誰が出してくれるでしょうね。
本作は、結構いいですよ。不良漫画が好きな人には物足りないとかあるかもだけど(何度も言うけど不良漫画を読んだことがないのでなんとも言えない)、普通に小説として読む分には充分に楽しめます。読んでみてください。
品川ヒロシ「ドロップ」
D-ブリッジ・テープ(沙藤一樹)
生き続けたい、という欲求は、一体どこから生み出されるのだろうか?僕には、それがいつまでたっても不思議に思えて仕方がない。
例えば変な話、ホームレスの人達は、一体どうして生きているのだろうか、と考えてします。正直僕は、将来的にホームレスになってもおかしくないなぁ、と思っている。まあなるかどうかはわからないけど、確率的には高いと思う。でももしそうなった場合、生き続けていたいと感じることができるかどうか。僕にはそこに自信がない。
ホームレスの人というのは、少なくとも未来に対して前向きな希望というものがないはずだ。よくて停滞、悪くすれば泥沼というような人生の中を、彼らはそれでも生き抜こうとする。何も与えられず、何も守られず、それでも日々、惰性なのかなんなのか、生き続ける。
不思議だ。今の僕にはそう感じられる。不思議で仕方がない。彼らを動かしているものは、何なんだろう。
やっぱり、死への恐怖、なんだろうか。
僕は、ホームレスだけではなく、人間が何故生きているかということを考えると、結局常にそこに行き着いてしまうのである。
人間は、死にたくないから、死ぬのが怖いからこそ生きている。そんな逆説的な存在なんではないだろうか。
そんなことない、と反論する人もいるかもしれない。私には生き甲斐もあるし人生楽しいし、死ぬのが怖いから生きているんじゃない、と言いたい人もいるだろう。
僕が言っているのは、個人としての人間というわけではなくて、総体としての人間である。つまり、人間という種がどうしてこうなったか、という話である。
たぶんこういうことだったんではないかと思う。
人間は、まあこれが歴史の中のどの時点かはわからないけど、とにかくある時点できっと気付いたのだと思う。人間という種は、死を恐れるが故に生きているのだ、と。
しかし同時に、それを認めることを拒絶する判断も生まれる。人間としてのプライドというのだろうか、そうしたものも生まれ、とにかく人間は、死が怖くて生きているのではない、と思い込むことにしたのである。
そのために人間は、あらゆるものに興味を持っているフリを始めた。食事や勉強や娯楽など何でもいい。そうしたものが生み出されては消費されていくようになる。人間は、死が怖くて生きているのではない、そういうものに興味があるから生きているのだ、と錯覚できるように。
こうして、今の人間という種が完成していったのではないか。僕はそんな風に思うのだ。
そんな歴史だからこそ、人間が死を恐れているという根底は、なかなか表面に現れない。現れないけど、意識のずっと下には間違いなく眠っていて、いつまでも僕らの行動を支配しているのだ。
僕は、できれば死にたいと思うのだ。理由はまあ特に大事なことではない。とりあえず、死にたいと思う。そういう自分が確実にどこかにいる。
しかし一方で、死にたくない自分も確実にどこかにいるのである。僕はそいつを見つけてしまった。
だから僕は、生き続けなくてはならないのだろうな、と思う。死ぬのは、怖い。よくわからないけど、というかよくわからないからこそ怖い。その怖さに、僕は一生生かされ続けるのだろうな、と思う。
前向きに生きているというのは錯覚だ。それらは全部、妥協だし欺瞞である。僕は、そう思いたいし、一方でそう思いたくない僕もいて、もうよくわからなくなってくる。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、あるテープに録音された少年の声を聞く、という趣向の内容になっています。
そのテープは、横浜ベイブリッジ、通称『D-ブリッジ』と呼ばれる橋で見つかった。声の少年は10歳から13歳くらいで、同じ場所で死んでいるのが見つかった。
『D-ブリッジ』は、今ではゴミの山だ。あらゆる人間が、不法にゴミを捨てていく。少年は、そのゴミの中に捨てられて、以来ずっとそこで生活をしてきたのである。
恐らくゴミの山から拾ったのであろうテープに、少年は声を残す。自分が生きていたという証である声を。
そして語る。少年が置かれた、理不尽で辛く厳しい生活を…。
というような話ですね。
ネットをうろうろしている時に、本作を絶賛しているサイトをふと見つけて、なんとなく買って読んでみました。解説の高橋克彦もそうですけど、新人に(しかも若干23歳)対する賞賛としては、なんていうか桁外れというかそんな感じの絶賛ぶりで、どんなものか気になったわけです。
まあ読んでみて、いや、いいと思います。けど、誉めすぎでしょう、という感じもありますね。
とにかく、本編の9割5分はテープの独白で、でもその処理がうまいんですね。一文ごとに改行する文章とか、一文ごとに括弧を付け直す文体だとか、そういう工夫が新しくて、ホントにテープを聞いているかのような臨場感というのをうまく出せているな、と思いました。
内容は、乙一のホラー系の小説の感じにかなり似てますね。残酷なことをあっさりと淡白に描写してそこに怖さを見出す、というような手法で、それも結構うまく成功しているような気はします。
でもなんていうか、全体的に甘いという感じはありますね。その甘さは特に、残りの5分の部分である、テープを聞いている大人達の描写の部分では大きいですね。そのテープを聞いている大人達の場面はちょっと雑だと思います。まあそこはメインではないからいいのかもしれないけど。
少年の生活については、まあこれは読んでくれとしか言いようがないのだけど、すごいですね。自分だったら…と考えた時に、出来ることと出来ないことがありますね。いや、ほとんど出来ないかもしれないですね。あそこまでして生き続けることが僕に出来るのか…。そこが僕にはわからないところです。
途中から眼の見えない少女が登場するのだけど、そこからはさらに胸が締め付けられるような展開になりますね。まあ、ありきたりと言ってしまえばそうかもしれないけど、ちょっといいですね。
ただ、ラストの終わり方がイマイチよくわからないし、相原という男が一体なんだったのかも結局僕にはよくわかりませんでした。まあ僕の読み方が甘いのかもしれないけど、どうなんだろう?
ホラー小説大賞短編賞受賞作なんで短いし、ホラーと言っても怖いという感じよりも残酷と言った感じの作品で、まあ少なくても怖くて読めない、というような話ではないですね。すごくオススメするわけではないけど、まあ機会があったら読んでみてはどうでしょうか?
沙藤一樹「D-ブリッジ・テープ」
例えば変な話、ホームレスの人達は、一体どうして生きているのだろうか、と考えてします。正直僕は、将来的にホームレスになってもおかしくないなぁ、と思っている。まあなるかどうかはわからないけど、確率的には高いと思う。でももしそうなった場合、生き続けていたいと感じることができるかどうか。僕にはそこに自信がない。
ホームレスの人というのは、少なくとも未来に対して前向きな希望というものがないはずだ。よくて停滞、悪くすれば泥沼というような人生の中を、彼らはそれでも生き抜こうとする。何も与えられず、何も守られず、それでも日々、惰性なのかなんなのか、生き続ける。
不思議だ。今の僕にはそう感じられる。不思議で仕方がない。彼らを動かしているものは、何なんだろう。
やっぱり、死への恐怖、なんだろうか。
僕は、ホームレスだけではなく、人間が何故生きているかということを考えると、結局常にそこに行き着いてしまうのである。
人間は、死にたくないから、死ぬのが怖いからこそ生きている。そんな逆説的な存在なんではないだろうか。
そんなことない、と反論する人もいるかもしれない。私には生き甲斐もあるし人生楽しいし、死ぬのが怖いから生きているんじゃない、と言いたい人もいるだろう。
僕が言っているのは、個人としての人間というわけではなくて、総体としての人間である。つまり、人間という種がどうしてこうなったか、という話である。
たぶんこういうことだったんではないかと思う。
人間は、まあこれが歴史の中のどの時点かはわからないけど、とにかくある時点できっと気付いたのだと思う。人間という種は、死を恐れるが故に生きているのだ、と。
しかし同時に、それを認めることを拒絶する判断も生まれる。人間としてのプライドというのだろうか、そうしたものも生まれ、とにかく人間は、死が怖くて生きているのではない、と思い込むことにしたのである。
そのために人間は、あらゆるものに興味を持っているフリを始めた。食事や勉強や娯楽など何でもいい。そうしたものが生み出されては消費されていくようになる。人間は、死が怖くて生きているのではない、そういうものに興味があるから生きているのだ、と錯覚できるように。
こうして、今の人間という種が完成していったのではないか。僕はそんな風に思うのだ。
そんな歴史だからこそ、人間が死を恐れているという根底は、なかなか表面に現れない。現れないけど、意識のずっと下には間違いなく眠っていて、いつまでも僕らの行動を支配しているのだ。
僕は、できれば死にたいと思うのだ。理由はまあ特に大事なことではない。とりあえず、死にたいと思う。そういう自分が確実にどこかにいる。
しかし一方で、死にたくない自分も確実にどこかにいるのである。僕はそいつを見つけてしまった。
だから僕は、生き続けなくてはならないのだろうな、と思う。死ぬのは、怖い。よくわからないけど、というかよくわからないからこそ怖い。その怖さに、僕は一生生かされ続けるのだろうな、と思う。
前向きに生きているというのは錯覚だ。それらは全部、妥協だし欺瞞である。僕は、そう思いたいし、一方でそう思いたくない僕もいて、もうよくわからなくなってくる。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、あるテープに録音された少年の声を聞く、という趣向の内容になっています。
そのテープは、横浜ベイブリッジ、通称『D-ブリッジ』と呼ばれる橋で見つかった。声の少年は10歳から13歳くらいで、同じ場所で死んでいるのが見つかった。
『D-ブリッジ』は、今ではゴミの山だ。あらゆる人間が、不法にゴミを捨てていく。少年は、そのゴミの中に捨てられて、以来ずっとそこで生活をしてきたのである。
恐らくゴミの山から拾ったのであろうテープに、少年は声を残す。自分が生きていたという証である声を。
そして語る。少年が置かれた、理不尽で辛く厳しい生活を…。
というような話ですね。
ネットをうろうろしている時に、本作を絶賛しているサイトをふと見つけて、なんとなく買って読んでみました。解説の高橋克彦もそうですけど、新人に(しかも若干23歳)対する賞賛としては、なんていうか桁外れというかそんな感じの絶賛ぶりで、どんなものか気になったわけです。
まあ読んでみて、いや、いいと思います。けど、誉めすぎでしょう、という感じもありますね。
とにかく、本編の9割5分はテープの独白で、でもその処理がうまいんですね。一文ごとに改行する文章とか、一文ごとに括弧を付け直す文体だとか、そういう工夫が新しくて、ホントにテープを聞いているかのような臨場感というのをうまく出せているな、と思いました。
内容は、乙一のホラー系の小説の感じにかなり似てますね。残酷なことをあっさりと淡白に描写してそこに怖さを見出す、というような手法で、それも結構うまく成功しているような気はします。
でもなんていうか、全体的に甘いという感じはありますね。その甘さは特に、残りの5分の部分である、テープを聞いている大人達の描写の部分では大きいですね。そのテープを聞いている大人達の場面はちょっと雑だと思います。まあそこはメインではないからいいのかもしれないけど。
少年の生活については、まあこれは読んでくれとしか言いようがないのだけど、すごいですね。自分だったら…と考えた時に、出来ることと出来ないことがありますね。いや、ほとんど出来ないかもしれないですね。あそこまでして生き続けることが僕に出来るのか…。そこが僕にはわからないところです。
途中から眼の見えない少女が登場するのだけど、そこからはさらに胸が締め付けられるような展開になりますね。まあ、ありきたりと言ってしまえばそうかもしれないけど、ちょっといいですね。
ただ、ラストの終わり方がイマイチよくわからないし、相原という男が一体なんだったのかも結局僕にはよくわかりませんでした。まあ僕の読み方が甘いのかもしれないけど、どうなんだろう?
ホラー小説大賞短編賞受賞作なんで短いし、ホラーと言っても怖いという感じよりも残酷と言った感じの作品で、まあ少なくても怖くて読めない、というような話ではないですね。すごくオススメするわけではないけど、まあ機会があったら読んでみてはどうでしょうか?
沙藤一樹「D-ブリッジ・テープ」