Fake(五十嵐貴久)
昨日テレビを見ていたら、マジシャンのセロが出ている番組をやっていた。
いや、ホントあれはすごい。
セロというのは今世界ナンバーワンと言ってもいいくらいのマジシャンであるらしい。ストリートで巧みに日本語を操りながら観客の度肝を抜くようなマジックを披露する。まさに見ていて驚くようなものばかりである。
例えば、目の前でうどんを親子丼に変える、イチゴシロップの乗ったカキ氷を宇治金時に変える、雑誌の携帯電話の記事から本物の携帯電話を取り出して見せるし(しかもその後雑誌の記事から携帯電話が消えているのだ!)、卵の中から小鳥を取り出してみせたりする。
いやホントすごいのだ。
昨日見ていた番組の中では、物理法則的にどう考えてもありえないというようなものも多々あった。例えば、トランプ当てのマジックをUSJでやっていたのだけど、その当て方がすごかった。スパイダーマンのごとくクモの糸みたいなものを指先から飛ばして目当てのカード当てるという趣向だったのだけど、そのクモの糸の動きがどう考えてもありえなかったのだ。だって、30mくらい離れた距離から、靴紐程度の太さの紐みたいなものを投げるのだけど、まるでそれが一本の棒であるかのように真っ直ぐにカードに向かうのである。重力に従って垂れてしまったりなんてこともなく、すーっとまっすぐに紐が伸びていくのである。カード当てもすごかったけど、それよりも何よりもあの紐がどうやって飛んでいたのかを僕は知りたい。
あるいは、またこれもカード当てなのだけど、ゲストに選んでもらったカードを含めた52枚すべてのカードを、スタジオに併設されていたプールに飛ばすわけです。すると、ゲストが選んだカードだけが数字を見える方を上にして沈み、あと残りすべてのカードが裏を向けて沈んでいくのである。これもどうなってるのかさっぱりわからない。だって確率論的に言えば、カードが裏表どっちを向いて沈むかなんてのは半々だろう。投げ飛ばし方に何かコツなんかがあったとしても、100%にまで高めることは無理だと思うのだ。あれも結局どうなっていたのか本当に不思議である。
しかし昨日見ていた中で一番よかったかなと思うのは、セロがタイだかどこだかの国の孤児院みたいなところを訪問していたものである。
その孤児院は日本人女性が運営しているところで、母親がHIVに感染していたために母子感染してしまった子供たちがいるところです。やはり差別や偏見なんかはあるらしく、同じ境遇を持つ者どうしでの交流しかないような感じなんだけど、それをセロがマジックを見せることで交流のきっかけみたいなものを作る、という感じのものでした。
また、その孤児院にはマジシャンを目指したいと思っている少年がいて、その少年に人前でマジックを披露させる、というようなこともやっていました。世界最高のマジシャンに直々にマジックを教えてもらえた少年は本当に喜んでいました。
マジックというのはありていに言ってしまえば嘘です。いかにして観客を騙すか、という意味では嘘と変わりはないでしょう。しかしマジックというのは人を楽しませることも勇気付けることも出来るわけです。
嘘をつくことは悪いことだと子供の頃に言われたような気がしますが、しかしそうなのかな、とか思ったりすることも結構あります。大人になって、まあ僕も半分だけ社会に出たりしているわけですけど、大人の社会ってのはやっぱり嘘ばっかだしな、とか思ったりします。嘘をつくことでいろんなことを円滑に進めていく、というのはすごく大事ですよね。
話を京極夏彦の「巷説」シリーズに移そうと思います。
このシリーズはかなり普通のミステリとは違う特徴を持っています。普通のミステリというのは、事件の部分に謎があってその謎を解決するために解決編があるわけですけど、「巷説」シリーズの場合、解決編に謎があるわけです。
つまりこういうことになります。又市というのがトラブル解決人のリーダーなんですけど、この又市がどこからかトラブルを仕入れてきます。トラブル自体は誰にでも理解できるし謎は別にありません。しかしそのトラブルは、凡そ普通の方法では解決できないだろうというような込み入っていてかつ複雑な事情を抱えているわけです。
そこで又市らは一芝居打つわけです。彼らのやり口は常に、「何らかの妖怪の仕業ということにしてしまおう」という発想に落ち着きます。つまり、人為的でない何らかの力(まあそれが妖怪なんですけど)が作用したというように見せかけて、解決困難に思えるトラブルを丸め込むのです。
これは要するに言ってしまえば嘘をついているということになります。ただこの嘘も非常にためになる嘘です。誰かを救うことになる嘘です。人間のやることではもはやにっちもさっちもいかなくなってしまったあらゆることを、妖怪の仕業だと嘘をつくことで解決するわけです。
こういう職業は現代にもありますね。例えば、正式な名前は知りませんが、「別れさせ屋」というように呼ばれる業界があります。
これは要するにどういうことかと言えば、依頼人がある人間関係を穏便に清算したい、というような時に、いろんな手段を講じてその別れを穏便にサポートしてくれる、というようなものです。
一番分かりやすいのは彼氏彼女と別れる、というような場合で、例えば依頼人が女性で彼氏と別れたいとします。すると「別れさせ屋」はその彼氏の好みを完璧にリサーチしてその好みに合う女性を彼氏に接近させます。で仲良くなって今付き合っている彼女と別れるように仕向けつつ、実際彼女と別れたらその工作員の女性も去っていく、という感じです。
また夫と離婚したいのだけど慰謝料を沢山もらいたい、というような依頼もあるみたいですね。そういう場合も同じような手段を取って不倫の証拠写真みたいなものを撮り、それを相手につきつけて離婚を迫る、みたいな形になるようです。
嘘というのはうまく付き合っていけばこれほど有用なものはありません。絶対にばれない、ということが最低条件ですけど、ばれない嘘をつくことが出来れば比較的人間関係は安泰と言えるでしょう。ただ嘘というのは使い方を間違えれば凶器にもなりえます。まさに諸刃の剣です。僕は比較的嘘をつくのが苦手で、なるべく嘘をつかなくてはいけない状況にならないように日々生きていこうと頑張っているわけですけど、でもまあそうはうまく行きませんよね。そういう時はなるべく頑張って、ばれない嘘をつこうと思っています。すぐばれる嘘だけはつかない、というのが僕のささやかなモットーだったりします。
そろそろ内容に入ろうと思います。
興信所を経営する宮本の元に、ある依頼が持ち込まれた。それは普通の興信所に依頼するような内容ではなく、あくまでも宮本に持ち込まれた依頼だった。
一年まえ、叔父に頼まれてその息子を大学に入学させてやったことがあった。別にコネがあったわけでもないし裏口入学を斡旋したということでもない。
宮本はセンター試験でのカンニングに協力をしたのだ。最新のハイテク機器を駆使して、また知り合いで現役東大生である加奈の力を借りて、不正の許されない試験という場で堂々とカンニングを成功させたのだ。依頼に来た男はどうやらその噂をどこからか聞き及んで来たらしい。昌史という、美術の腕はなかなかのものだが勉強はからきしできないという息子を東京芸大に入学させるために力を貸してはくれないか、と言ってきた。
宮本は悩んだ。あれは叔父の頼みだから、一回限りということで引き受けたのだ。カンニングはもちろん犯罪だ。ばれたら自分だけでなく加奈にまで迷惑が掛かる。
しかし最終的に宮本は引き受けることにした。
準備は万端、後は昌史が何かヘマをしさえしなければすべては完璧なはずだったのだが、何が起こったのか、宮本と加奈そして昌史の三人は警察に連行されることになってしまった。完璧だったはずのカンニングが発覚していたのだ。
新聞でも大きく騒がれ、宮本は興信所の仕事を畳まなくてはならず、加奈も大学を追われることになった。彼らは敗北を喫し、すべてを失った。
しかしそれからも宮本は諦めなかった。彼は独自に調査を続け、ついに自分を陥れた者への復讐のチャンスを見出した。彼は、あのカンニング事件に巻き込まれた者たちと一緒に、絶対に負けるはずのないいかさまポーカーで10億円を奪い取ろうという大胆な計画を立てたのだが…。
というような話です。
いや~、もうメチャクチャ面白かったです。五十嵐貴久ってなかなかすごい作家だと思いました。ちょっとこれからいろんな作品を読み漁ってみたいなと思わせる作家ですね。まだ2作しか読んだことはないんですけど、いろんな引き出しを持っていそうな作家です。ちょっと自分の中でプチブレークしそうな感じです。
ストーリーは、カンニングを計画して失敗する第一部、復讐への準備を進める第二部、そして復讐の場であるポーカーの第三部と三つに分けることが出来ます。
まず第一部のカンニングのところからしてなかなかうまいなと思いました。とにかく勉強が出来ないだけでなくいろんな面で馬鹿な昌史とクールで美人な加奈、そして機械に強い宮本という三人で完璧な計画を進めていくのに、何故かそれが発覚する、という感じなんだけど、段々と自分たちが嵌められたのだ、ということに気づくわけです。しかし自分たちを嵌めて何になるのか、ということが分からない。金が奪われたわけでもないし、加奈は大学を辞めることになったし宮本も興信所の仕事を追われたが、しかしそれで釣り合うとは思えないような大規模な仕掛けだった。誰が何のために、というところが謎として残ります。
そしてそれが明かされるのが第二部です。あのカンニング事件の裏にあった背景というのもまたうまく出来ていて、うまいなぁ、と思いました。なるほどなるほど、それならば彼らが狙われた理由も納得、という感じです。
かつ第二部では、具体的にどうやって復讐をするのか、という計画がスタートしていきます。まあこの計画の段階は少し中だるみな部分がないでもないですけど、まあそれはストーリー上仕方ないかなと思っています。ポーカーや機械の説明があったり、政治的なやり取りがあったりで、ストーリー上必要だけど僕にはあんまり興味のない部分が続いたりもしたけど、でも面白いことには変わりはないですね。
そして実際ポーカーを仕掛ける第三部ですけど、まあお見事という感じですね。このパートは、福本伸行の「カイジ」にも似た雰囲気を感じます。実際著者もカイジが好きみたいだし、影響を受けている部分はあるのでしょうね。僕もカイジはすごい漫画だと思います。
僕はポーカーについてはまったく知りませんけど、でもそれでも普通に楽しく読めます。彼らの敵が沢田という男なのだけど、この沢田という男がとにかく強敵なんですね。しかも賭け事に関してはとにかく天才的という男です。それに立ち向かう素人たち。図式としては圧倒的に不利なわけですが、宮本は勝てることを少しも疑っていません。
でラストまで来るわけですけど、いやはやお見事としかいいようがないですね。素晴らしく鮮やかな終わり方だと思いました。予想もつかない、とはまさにこのことでしょうね。いや~、これはお見事でした。
文庫で550Pもある長い作品ですけど、本当に一気に読めると思います。エンターテイメント作品を書かせたらこの作家はかなり一流かもしれません。とにかく掛け値なしに面白い作品です。コンゲームが好きな人には是非読んでもらいたい作品ですね。続編の構想もあるみたいです。お台場にカジノが出来たという設定で、そこで一千億円を掛けた勝負をする、という話らしいんですけど、でもお台場にカジノっていう話はそういえば松岡圭祐の「千里眼」シリーズの何かでもあったなぁ、なんて思いつつ。まあ何にしてもオススメですよ。是非読んでみてください。
五十嵐貴久「Fake」
いや、ホントあれはすごい。
セロというのは今世界ナンバーワンと言ってもいいくらいのマジシャンであるらしい。ストリートで巧みに日本語を操りながら観客の度肝を抜くようなマジックを披露する。まさに見ていて驚くようなものばかりである。
例えば、目の前でうどんを親子丼に変える、イチゴシロップの乗ったカキ氷を宇治金時に変える、雑誌の携帯電話の記事から本物の携帯電話を取り出して見せるし(しかもその後雑誌の記事から携帯電話が消えているのだ!)、卵の中から小鳥を取り出してみせたりする。
いやホントすごいのだ。
昨日見ていた番組の中では、物理法則的にどう考えてもありえないというようなものも多々あった。例えば、トランプ当てのマジックをUSJでやっていたのだけど、その当て方がすごかった。スパイダーマンのごとくクモの糸みたいなものを指先から飛ばして目当てのカード当てるという趣向だったのだけど、そのクモの糸の動きがどう考えてもありえなかったのだ。だって、30mくらい離れた距離から、靴紐程度の太さの紐みたいなものを投げるのだけど、まるでそれが一本の棒であるかのように真っ直ぐにカードに向かうのである。重力に従って垂れてしまったりなんてこともなく、すーっとまっすぐに紐が伸びていくのである。カード当てもすごかったけど、それよりも何よりもあの紐がどうやって飛んでいたのかを僕は知りたい。
あるいは、またこれもカード当てなのだけど、ゲストに選んでもらったカードを含めた52枚すべてのカードを、スタジオに併設されていたプールに飛ばすわけです。すると、ゲストが選んだカードだけが数字を見える方を上にして沈み、あと残りすべてのカードが裏を向けて沈んでいくのである。これもどうなってるのかさっぱりわからない。だって確率論的に言えば、カードが裏表どっちを向いて沈むかなんてのは半々だろう。投げ飛ばし方に何かコツなんかがあったとしても、100%にまで高めることは無理だと思うのだ。あれも結局どうなっていたのか本当に不思議である。
しかし昨日見ていた中で一番よかったかなと思うのは、セロがタイだかどこだかの国の孤児院みたいなところを訪問していたものである。
その孤児院は日本人女性が運営しているところで、母親がHIVに感染していたために母子感染してしまった子供たちがいるところです。やはり差別や偏見なんかはあるらしく、同じ境遇を持つ者どうしでの交流しかないような感じなんだけど、それをセロがマジックを見せることで交流のきっかけみたいなものを作る、という感じのものでした。
また、その孤児院にはマジシャンを目指したいと思っている少年がいて、その少年に人前でマジックを披露させる、というようなこともやっていました。世界最高のマジシャンに直々にマジックを教えてもらえた少年は本当に喜んでいました。
マジックというのはありていに言ってしまえば嘘です。いかにして観客を騙すか、という意味では嘘と変わりはないでしょう。しかしマジックというのは人を楽しませることも勇気付けることも出来るわけです。
嘘をつくことは悪いことだと子供の頃に言われたような気がしますが、しかしそうなのかな、とか思ったりすることも結構あります。大人になって、まあ僕も半分だけ社会に出たりしているわけですけど、大人の社会ってのはやっぱり嘘ばっかだしな、とか思ったりします。嘘をつくことでいろんなことを円滑に進めていく、というのはすごく大事ですよね。
話を京極夏彦の「巷説」シリーズに移そうと思います。
このシリーズはかなり普通のミステリとは違う特徴を持っています。普通のミステリというのは、事件の部分に謎があってその謎を解決するために解決編があるわけですけど、「巷説」シリーズの場合、解決編に謎があるわけです。
つまりこういうことになります。又市というのがトラブル解決人のリーダーなんですけど、この又市がどこからかトラブルを仕入れてきます。トラブル自体は誰にでも理解できるし謎は別にありません。しかしそのトラブルは、凡そ普通の方法では解決できないだろうというような込み入っていてかつ複雑な事情を抱えているわけです。
そこで又市らは一芝居打つわけです。彼らのやり口は常に、「何らかの妖怪の仕業ということにしてしまおう」という発想に落ち着きます。つまり、人為的でない何らかの力(まあそれが妖怪なんですけど)が作用したというように見せかけて、解決困難に思えるトラブルを丸め込むのです。
これは要するに言ってしまえば嘘をついているということになります。ただこの嘘も非常にためになる嘘です。誰かを救うことになる嘘です。人間のやることではもはやにっちもさっちもいかなくなってしまったあらゆることを、妖怪の仕業だと嘘をつくことで解決するわけです。
こういう職業は現代にもありますね。例えば、正式な名前は知りませんが、「別れさせ屋」というように呼ばれる業界があります。
これは要するにどういうことかと言えば、依頼人がある人間関係を穏便に清算したい、というような時に、いろんな手段を講じてその別れを穏便にサポートしてくれる、というようなものです。
一番分かりやすいのは彼氏彼女と別れる、というような場合で、例えば依頼人が女性で彼氏と別れたいとします。すると「別れさせ屋」はその彼氏の好みを完璧にリサーチしてその好みに合う女性を彼氏に接近させます。で仲良くなって今付き合っている彼女と別れるように仕向けつつ、実際彼女と別れたらその工作員の女性も去っていく、という感じです。
また夫と離婚したいのだけど慰謝料を沢山もらいたい、というような依頼もあるみたいですね。そういう場合も同じような手段を取って不倫の証拠写真みたいなものを撮り、それを相手につきつけて離婚を迫る、みたいな形になるようです。
嘘というのはうまく付き合っていけばこれほど有用なものはありません。絶対にばれない、ということが最低条件ですけど、ばれない嘘をつくことが出来れば比較的人間関係は安泰と言えるでしょう。ただ嘘というのは使い方を間違えれば凶器にもなりえます。まさに諸刃の剣です。僕は比較的嘘をつくのが苦手で、なるべく嘘をつかなくてはいけない状況にならないように日々生きていこうと頑張っているわけですけど、でもまあそうはうまく行きませんよね。そういう時はなるべく頑張って、ばれない嘘をつこうと思っています。すぐばれる嘘だけはつかない、というのが僕のささやかなモットーだったりします。
そろそろ内容に入ろうと思います。
興信所を経営する宮本の元に、ある依頼が持ち込まれた。それは普通の興信所に依頼するような内容ではなく、あくまでも宮本に持ち込まれた依頼だった。
一年まえ、叔父に頼まれてその息子を大学に入学させてやったことがあった。別にコネがあったわけでもないし裏口入学を斡旋したということでもない。
宮本はセンター試験でのカンニングに協力をしたのだ。最新のハイテク機器を駆使して、また知り合いで現役東大生である加奈の力を借りて、不正の許されない試験という場で堂々とカンニングを成功させたのだ。依頼に来た男はどうやらその噂をどこからか聞き及んで来たらしい。昌史という、美術の腕はなかなかのものだが勉強はからきしできないという息子を東京芸大に入学させるために力を貸してはくれないか、と言ってきた。
宮本は悩んだ。あれは叔父の頼みだから、一回限りということで引き受けたのだ。カンニングはもちろん犯罪だ。ばれたら自分だけでなく加奈にまで迷惑が掛かる。
しかし最終的に宮本は引き受けることにした。
準備は万端、後は昌史が何かヘマをしさえしなければすべては完璧なはずだったのだが、何が起こったのか、宮本と加奈そして昌史の三人は警察に連行されることになってしまった。完璧だったはずのカンニングが発覚していたのだ。
新聞でも大きく騒がれ、宮本は興信所の仕事を畳まなくてはならず、加奈も大学を追われることになった。彼らは敗北を喫し、すべてを失った。
しかしそれからも宮本は諦めなかった。彼は独自に調査を続け、ついに自分を陥れた者への復讐のチャンスを見出した。彼は、あのカンニング事件に巻き込まれた者たちと一緒に、絶対に負けるはずのないいかさまポーカーで10億円を奪い取ろうという大胆な計画を立てたのだが…。
というような話です。
いや~、もうメチャクチャ面白かったです。五十嵐貴久ってなかなかすごい作家だと思いました。ちょっとこれからいろんな作品を読み漁ってみたいなと思わせる作家ですね。まだ2作しか読んだことはないんですけど、いろんな引き出しを持っていそうな作家です。ちょっと自分の中でプチブレークしそうな感じです。
ストーリーは、カンニングを計画して失敗する第一部、復讐への準備を進める第二部、そして復讐の場であるポーカーの第三部と三つに分けることが出来ます。
まず第一部のカンニングのところからしてなかなかうまいなと思いました。とにかく勉強が出来ないだけでなくいろんな面で馬鹿な昌史とクールで美人な加奈、そして機械に強い宮本という三人で完璧な計画を進めていくのに、何故かそれが発覚する、という感じなんだけど、段々と自分たちが嵌められたのだ、ということに気づくわけです。しかし自分たちを嵌めて何になるのか、ということが分からない。金が奪われたわけでもないし、加奈は大学を辞めることになったし宮本も興信所の仕事を追われたが、しかしそれで釣り合うとは思えないような大規模な仕掛けだった。誰が何のために、というところが謎として残ります。
そしてそれが明かされるのが第二部です。あのカンニング事件の裏にあった背景というのもまたうまく出来ていて、うまいなぁ、と思いました。なるほどなるほど、それならば彼らが狙われた理由も納得、という感じです。
かつ第二部では、具体的にどうやって復讐をするのか、という計画がスタートしていきます。まあこの計画の段階は少し中だるみな部分がないでもないですけど、まあそれはストーリー上仕方ないかなと思っています。ポーカーや機械の説明があったり、政治的なやり取りがあったりで、ストーリー上必要だけど僕にはあんまり興味のない部分が続いたりもしたけど、でも面白いことには変わりはないですね。
そして実際ポーカーを仕掛ける第三部ですけど、まあお見事という感じですね。このパートは、福本伸行の「カイジ」にも似た雰囲気を感じます。実際著者もカイジが好きみたいだし、影響を受けている部分はあるのでしょうね。僕もカイジはすごい漫画だと思います。
僕はポーカーについてはまったく知りませんけど、でもそれでも普通に楽しく読めます。彼らの敵が沢田という男なのだけど、この沢田という男がとにかく強敵なんですね。しかも賭け事に関してはとにかく天才的という男です。それに立ち向かう素人たち。図式としては圧倒的に不利なわけですが、宮本は勝てることを少しも疑っていません。
でラストまで来るわけですけど、いやはやお見事としかいいようがないですね。素晴らしく鮮やかな終わり方だと思いました。予想もつかない、とはまさにこのことでしょうね。いや~、これはお見事でした。
文庫で550Pもある長い作品ですけど、本当に一気に読めると思います。エンターテイメント作品を書かせたらこの作家はかなり一流かもしれません。とにかく掛け値なしに面白い作品です。コンゲームが好きな人には是非読んでもらいたい作品ですね。続編の構想もあるみたいです。お台場にカジノが出来たという設定で、そこで一千億円を掛けた勝負をする、という話らしいんですけど、でもお台場にカジノっていう話はそういえば松岡圭祐の「千里眼」シリーズの何かでもあったなぁ、なんて思いつつ。まあ何にしてもオススメですよ。是非読んでみてください。
五十嵐貴久「Fake」
生きてるだけで、愛。(本谷有希子)
本当は「生きてるのって疲れるなぁ」的な話を書くのが適切だと思うんだけど、最近そういう文章ばっか書いてるような気がして自分でも飽きてきたので、別のことを書きます。
女性というのは僕にとって本当になかなか謎めいた存在です。なんというか、不可思議という表現が一番しっくりくる感じです。
まあもちろん女性からすれば、男の方こそ意味不明な存在に映っているのかもしれないですけどね。性の差というのはやはり越えがたいものがあるのだろう、という気がします。
本作の冒頭に、こんな感じのシーンが出てきます。
主人公は過眠症で鬱な女性で、現在彼氏と同棲中。同棲中っていうか居候みたいな感じで、彼氏彼女という関係っぽいことは最近ないし、そもそも彼女は鬱で仕事にも行かず引きこもってるみたいなそんな関係です。
で、久々に部屋から出てきた女性は、食料品を買いに出かけた彼氏にこう詰め寄るわけです。
「ねえ、あんた手袋は?」
外は無茶苦茶寒くて、で男の方はちゃんとマフラーはして出て行ったわけだけど、でも手袋をするのは忘れていった。問題はその手袋が彼女があげたものだった、ということです。
彼女はなおもこう詰め寄ります。
「なんでしないの?あたしがあげた手袋あるでしょ。してよ」
男は「分かった」と答えますが、なおもこう続きます。
「分かったじゃなくて、今してって」
さてこの段階で男としては意味不明ですね。僕だって同じ状況で同じことを言われたら、この女は何を言っているんだろうか?ってなるでしょうね。だって、もう外から帰ってきているわけです。で家の中は別に寒くないし、手袋をしなくちゃいけない必然性なんかまあ1ミリ足りとも存在しないわけです。
でもまあ、相手は怒ってるみたいだし、手袋をしろと言われればまあ違和感を感じててもそりゃあするでしょう。実際男もそうしたわけです。さてそうすると彼女はこう叫びます。
「ふざけてるでしょ!なんで家で手袋すんの?おかしいじゃん!」
いやはや、って感じですね。この女は大丈夫だろうか?とか不安になりますね。いやいや、あなたがしろって言ったんですよ、と男であれば誰だって反論するでしょう。実際彼も、「しろって言ったから…」と返すわけですが、彼女に「言ったから何」と言われてしまうわけです。
その後のやりとりはこんな感じで続きます。
「え、どういう意味があってするのかとか考えないの、あんた自分で」
「ごめん」
「そのごめんはどういう意味。何について謝ってんの?」
もうこうなってくると男にはどうにもしようがありませんね。なんていうか、何を言っても泥沼というか、謝ってもダメ謝らなくてもダメみたいな、そんな状況に陥ってしまいます。
その後、彼女がどういう意図を持って手袋をしてくれ、と言ったのかという心中が書かれます。抜き出すとこうなります。
『くそ、違う。こんなことが言いたいんじゃない。おかしな方向に話がずれている。この馬鹿があたしをないがしろにするからだ。あたしのことを適当にあしらうから。あたしはあんたが手袋をはめて「本当だ、何これ。あったかいわ。すごいね、寧子」って感謝されたいだけなのに、なんでたったそれだけの簡単なことがうまくいかないんだ?』
ということなんですけど、これ女性の視点からしたら共感できる理屈なんですか?僕からすれば、いやいやそれを求めるのはちょっと無理があるんじゃないか?という感じがします。いやもちろん、こういうことが出来る男というのはいるんでしょう、きっと。女性のあしらいがうまくて、女性が何を言いたいのかということをすぐに察知して行動できるような男はまあいるでしょうし、そういう男はまあモテるでしょう。
しかし世の中の大半の男は、本作に出てくるような展開になるんじゃないかな、と思います。手袋をしろっていうからどういう意味があるかよくわからないけどしてみた。でもしてみたら怒られた。何で?みたいな反応になると思います。
男の理屈と女の理屈というのはやっぱり全然違うんだな、という気がします。男の理屈というのは、とにかく論理的かどうか、ということに重点が置かれるような気がします。筋道だっているか、飛躍がないかというようなことに気を配りながら男の理屈というのは作られます。だから上記のような展開にはついていけません。手袋をしろって言うからしたのに、したせいで怒られるというのは論理的ではないからです。
でも女性の理屈というのはまったく別の仕組みによって成り立っているわけですね。具体的にどう表現したらいいか分からないけど、そこには飛躍があるわけです。意図的なのかあるいはそうでないのかはわからないけど、いくつかのステップをすっとばして突き進んでいこうとしているように思えます。女性が飛び越した部分を男は論理で埋めようとするから男女というのはどうも食い違っていくのだと僕は思うわけです。
しかし女性からすれば、
「なんでしないの?あたしがあげた手袋あるでしょ。してよ」→「本当だ、何これ。あったかいわ。すごいね、寧子」
という流れが自然であるという風に考えているのだなぁ。それはホントついていけねぇっす。もう少し男にも分かりやすい感じでいてくれるといいんだけど、でも怒ってたりとかするとやっぱこういう飛躍になっちゃうんだろうなぁ。だから僕は、男っぽい女性が好きなのかもしれません、なんて思ってみたりしました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は中編が一作と短編が一作という構成になっています。
「生きてるだけで、愛」
寧子。25歳。フリーター。女子高生の頃体中の毛を全部剃ったりなんていうなかなか奇抜な性格。ついこの間バイト先の人間関係がおかしくなってバイトを辞め、それからずっと彼氏の家に引きこもって生活をしている。
過眠症。どうしても寝すぎてしまう。起きれない。かつ、鬱。とにかく、何もかもが嫌で、何もしたくない。雨が降ってるとより最悪。
彼氏は今雑誌の編集長。何考えてるんだかさっぱり分からない。私との関係で疲れないようにいつも行動してるように見える。それがまたムカツク。
外に出なくちゃいけないとは思う。仕事もしなくちゃいけないとも思う。でも無理だ。鬱だし、鬱だし、お金ないし。
何で私って生きてるだけでこんなに疲れちゃうんだろう。
彼氏の元彼女っていう人が家に来るようになって、あぁ余計めんどくさいことが降りかかってきて…。
「あの明け方の」
明け方の街。寒い中薄着で歩いている。持ってるものは携帯と柿ピーの袋。衝動的に飛び出してきた。財布くらい持ってくればよかった。
ズンズン歩く。とにかく歩く。別に行き先なんて、ない。ただ歩いてるだけ。
きっかけは松岡修造だ。そう考えると馬鹿らしいけど、でもむかついた。あいつは私をないがしろにしてる。
ズンズン歩く。とにかく歩く。
というような話です。
本作を非常に簡潔に評するとすれば、女版舞城王太郎、という感じです。溜まりに溜まったエネルギーをドバッと放出したかのようなパワフルな作品です。
寧子という女性の勢いに圧倒されるばかりの作品でした。感情的な昂ぶりとか鬱とか大暴れとか、とにかく落ち着かない感じで、これじゃあホント生きていくのは大変だろうな、とか思います。
まあでも実際こういう女性っていうのはいるんでしょうね。後半である人が、「鬱なんてのは寂しいからなるんだ」みたいなことを言っていて、まあそれはそうかもしれないな、とか思ったりするんですけど。
現代人ってのは人との距離の取り方みたいなのがうまく出来ない人種だと思います。なかなか近づけなかったり、逆に近すぎたり、どう近づいていいか分からなかったりという感じです。携帯やネットなど、ある程度の距離を置いたままでもコミュニケーションを取ることが出来る環境が出来てしまったというのも大きいんでしょうけどね。僕も人に近づいていくというのはなかなか難しいなと感じます。だからあんまり近づかないようにしてるんですけどね。
そういうことが極端に難しい女性っていうのがこの寧子なんだろうし、実際こういう感じで苦しんでいる人はたくさんいそうな気がします。
負のパワフルさを持つ寧子とはうって変わって彼氏の方はまたなんともいえない軟弱な感じです。自分の意思がまるで感じられないというか、流れに身を任せみたいな。まあそういう二人だからこそなんとか保っているんだろうとは思うけど、しかしどう考えても建設的な関係じゃねぇよなぁ、とか思ったり。まあ恋愛に建設的とかどうとかっていう判断は関係ないとは思いますけどね。
話としては、どうなんでしょうね。あスちストーリーを楽しむというよりは文章とかのパワフルさを感じ取るような作品なんでいいと思いますけどね。
もう一つの「あの明け方の」というのは、まあこっちもストーリーがどういとかいう話ではないですね。感覚的な作品だと思います。
そんなわけで、強くオススメするわけではないですけど、現代の病巣みたいなものを抉っているような作品だと思います。興味があれば読んでみてください。
本谷有希子「生きてるだけで、愛。」
女性というのは僕にとって本当になかなか謎めいた存在です。なんというか、不可思議という表現が一番しっくりくる感じです。
まあもちろん女性からすれば、男の方こそ意味不明な存在に映っているのかもしれないですけどね。性の差というのはやはり越えがたいものがあるのだろう、という気がします。
本作の冒頭に、こんな感じのシーンが出てきます。
主人公は過眠症で鬱な女性で、現在彼氏と同棲中。同棲中っていうか居候みたいな感じで、彼氏彼女という関係っぽいことは最近ないし、そもそも彼女は鬱で仕事にも行かず引きこもってるみたいなそんな関係です。
で、久々に部屋から出てきた女性は、食料品を買いに出かけた彼氏にこう詰め寄るわけです。
「ねえ、あんた手袋は?」
外は無茶苦茶寒くて、で男の方はちゃんとマフラーはして出て行ったわけだけど、でも手袋をするのは忘れていった。問題はその手袋が彼女があげたものだった、ということです。
彼女はなおもこう詰め寄ります。
「なんでしないの?あたしがあげた手袋あるでしょ。してよ」
男は「分かった」と答えますが、なおもこう続きます。
「分かったじゃなくて、今してって」
さてこの段階で男としては意味不明ですね。僕だって同じ状況で同じことを言われたら、この女は何を言っているんだろうか?ってなるでしょうね。だって、もう外から帰ってきているわけです。で家の中は別に寒くないし、手袋をしなくちゃいけない必然性なんかまあ1ミリ足りとも存在しないわけです。
でもまあ、相手は怒ってるみたいだし、手袋をしろと言われればまあ違和感を感じててもそりゃあするでしょう。実際男もそうしたわけです。さてそうすると彼女はこう叫びます。
「ふざけてるでしょ!なんで家で手袋すんの?おかしいじゃん!」
いやはや、って感じですね。この女は大丈夫だろうか?とか不安になりますね。いやいや、あなたがしろって言ったんですよ、と男であれば誰だって反論するでしょう。実際彼も、「しろって言ったから…」と返すわけですが、彼女に「言ったから何」と言われてしまうわけです。
その後のやりとりはこんな感じで続きます。
「え、どういう意味があってするのかとか考えないの、あんた自分で」
「ごめん」
「そのごめんはどういう意味。何について謝ってんの?」
もうこうなってくると男にはどうにもしようがありませんね。なんていうか、何を言っても泥沼というか、謝ってもダメ謝らなくてもダメみたいな、そんな状況に陥ってしまいます。
その後、彼女がどういう意図を持って手袋をしてくれ、と言ったのかという心中が書かれます。抜き出すとこうなります。
『くそ、違う。こんなことが言いたいんじゃない。おかしな方向に話がずれている。この馬鹿があたしをないがしろにするからだ。あたしのことを適当にあしらうから。あたしはあんたが手袋をはめて「本当だ、何これ。あったかいわ。すごいね、寧子」って感謝されたいだけなのに、なんでたったそれだけの簡単なことがうまくいかないんだ?』
ということなんですけど、これ女性の視点からしたら共感できる理屈なんですか?僕からすれば、いやいやそれを求めるのはちょっと無理があるんじゃないか?という感じがします。いやもちろん、こういうことが出来る男というのはいるんでしょう、きっと。女性のあしらいがうまくて、女性が何を言いたいのかということをすぐに察知して行動できるような男はまあいるでしょうし、そういう男はまあモテるでしょう。
しかし世の中の大半の男は、本作に出てくるような展開になるんじゃないかな、と思います。手袋をしろっていうからどういう意味があるかよくわからないけどしてみた。でもしてみたら怒られた。何で?みたいな反応になると思います。
男の理屈と女の理屈というのはやっぱり全然違うんだな、という気がします。男の理屈というのは、とにかく論理的かどうか、ということに重点が置かれるような気がします。筋道だっているか、飛躍がないかというようなことに気を配りながら男の理屈というのは作られます。だから上記のような展開にはついていけません。手袋をしろって言うからしたのに、したせいで怒られるというのは論理的ではないからです。
でも女性の理屈というのはまったく別の仕組みによって成り立っているわけですね。具体的にどう表現したらいいか分からないけど、そこには飛躍があるわけです。意図的なのかあるいはそうでないのかはわからないけど、いくつかのステップをすっとばして突き進んでいこうとしているように思えます。女性が飛び越した部分を男は論理で埋めようとするから男女というのはどうも食い違っていくのだと僕は思うわけです。
しかし女性からすれば、
「なんでしないの?あたしがあげた手袋あるでしょ。してよ」→「本当だ、何これ。あったかいわ。すごいね、寧子」
という流れが自然であるという風に考えているのだなぁ。それはホントついていけねぇっす。もう少し男にも分かりやすい感じでいてくれるといいんだけど、でも怒ってたりとかするとやっぱこういう飛躍になっちゃうんだろうなぁ。だから僕は、男っぽい女性が好きなのかもしれません、なんて思ってみたりしました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は中編が一作と短編が一作という構成になっています。
「生きてるだけで、愛」
寧子。25歳。フリーター。女子高生の頃体中の毛を全部剃ったりなんていうなかなか奇抜な性格。ついこの間バイト先の人間関係がおかしくなってバイトを辞め、それからずっと彼氏の家に引きこもって生活をしている。
過眠症。どうしても寝すぎてしまう。起きれない。かつ、鬱。とにかく、何もかもが嫌で、何もしたくない。雨が降ってるとより最悪。
彼氏は今雑誌の編集長。何考えてるんだかさっぱり分からない。私との関係で疲れないようにいつも行動してるように見える。それがまたムカツク。
外に出なくちゃいけないとは思う。仕事もしなくちゃいけないとも思う。でも無理だ。鬱だし、鬱だし、お金ないし。
何で私って生きてるだけでこんなに疲れちゃうんだろう。
彼氏の元彼女っていう人が家に来るようになって、あぁ余計めんどくさいことが降りかかってきて…。
「あの明け方の」
明け方の街。寒い中薄着で歩いている。持ってるものは携帯と柿ピーの袋。衝動的に飛び出してきた。財布くらい持ってくればよかった。
ズンズン歩く。とにかく歩く。別に行き先なんて、ない。ただ歩いてるだけ。
きっかけは松岡修造だ。そう考えると馬鹿らしいけど、でもむかついた。あいつは私をないがしろにしてる。
ズンズン歩く。とにかく歩く。
というような話です。
本作を非常に簡潔に評するとすれば、女版舞城王太郎、という感じです。溜まりに溜まったエネルギーをドバッと放出したかのようなパワフルな作品です。
寧子という女性の勢いに圧倒されるばかりの作品でした。感情的な昂ぶりとか鬱とか大暴れとか、とにかく落ち着かない感じで、これじゃあホント生きていくのは大変だろうな、とか思います。
まあでも実際こういう女性っていうのはいるんでしょうね。後半である人が、「鬱なんてのは寂しいからなるんだ」みたいなことを言っていて、まあそれはそうかもしれないな、とか思ったりするんですけど。
現代人ってのは人との距離の取り方みたいなのがうまく出来ない人種だと思います。なかなか近づけなかったり、逆に近すぎたり、どう近づいていいか分からなかったりという感じです。携帯やネットなど、ある程度の距離を置いたままでもコミュニケーションを取ることが出来る環境が出来てしまったというのも大きいんでしょうけどね。僕も人に近づいていくというのはなかなか難しいなと感じます。だからあんまり近づかないようにしてるんですけどね。
そういうことが極端に難しい女性っていうのがこの寧子なんだろうし、実際こういう感じで苦しんでいる人はたくさんいそうな気がします。
負のパワフルさを持つ寧子とはうって変わって彼氏の方はまたなんともいえない軟弱な感じです。自分の意思がまるで感じられないというか、流れに身を任せみたいな。まあそういう二人だからこそなんとか保っているんだろうとは思うけど、しかしどう考えても建設的な関係じゃねぇよなぁ、とか思ったり。まあ恋愛に建設的とかどうとかっていう判断は関係ないとは思いますけどね。
話としては、どうなんでしょうね。あスちストーリーを楽しむというよりは文章とかのパワフルさを感じ取るような作品なんでいいと思いますけどね。
もう一つの「あの明け方の」というのは、まあこっちもストーリーがどういとかいう話ではないですね。感覚的な作品だと思います。
そんなわけで、強くオススメするわけではないですけど、現代の病巣みたいなものを抉っているような作品だと思います。興味があれば読んでみてください。
本谷有希子「生きてるだけで、愛。」
後宮小説(酒見賢一)
さて最近「世界征服は可能か?」という本を読んだりしたのでその関連もあるのだけど、もし天下統一だとか世界征服だとかを実現することが出来たら一体何をしたいだろうか、と考えてみる。確か、「世界征服は~」の感想でも書いたような気がするのだけど。
問題は、特にしたいことはないだろうな、ということである。皆さんはどうだろうか。
いやまあそりゃあ世界征服なんてのが出来れば、うまいものは食い放題、面白いものは見放題、美女は抱き放題。ハリウッドスターを使って個人的な映画を撮ることも出来るかもしれないし、宇宙旅行も出来るかもしれないし、そりゃまあ何でもやりたいことは出来るのだろうとは思うのである。
しかし、現実問題それは楽しいのか、と僕は思ってしまう。
例えばどれだけうまいものを食べ続けたって、半年もすれば飽きるだろう。どれだけ世界中の料理をかき集めて毎日違うものを食べたって、5年もすれば全部食べ尽くすのではないか。見たいところだって、何年もあれば全部回ることが出来るだろうし、どれだけ絶世の美女とセックスをしまくったって、そりゃあそれでそのうち飽きるだろう。
問題は、やりたいことが何でも出来る、というところにはないのだ。じゃあ何かと言えば、それに飽きてしまったらどうすればいいのか、ということである。
世界征服を達成して、でやりたいことを自由にやる。まあそれはいいとして、でもいつかその生活にも飽きるだろうと思うのだ。しかしじゃあ後何するよ?
世界征服をしたわけで、もう何だって出来るわけである。その生活に飽きてしまったら、もはややることがなくなってしまうと僕は思うのだけどどうだろうか。
どんなに刺激的な出来事だって、数年も続けばそれは立派な日常になる。そして日常というのは退屈と隣り合わせなのである。世界征服を達成してそれで飽きてしまったら、それは世界一不幸な人間ということにならないだろうか。
そもそも僕は思うのである。自由というのは不自由があるからこそ楽しめるものなのだ、と。
僕らは普段から、金がないとか時間がないとか眠いとか疲れたとか友人が誰も捕まらないだとかチケットが取れないだとか、まあ要するにそういう不自由を味わいながらその中で自由を得ようと頑張っている。じゃあその不自由がなくなったら一体どうなるだろう。
昔心理学的なものに一時期はまっていたことがあって、一般向けの本を何冊か読んだことがあるのだけど、その中に非常に面白い実験について書かれているのがあった。
ABCという三つのグループを作って、それぞれにあるコンサートに行ってもらうことにした。Aグループは、そのチケットをその場で手渡しでもらうことが出来る。Bグループについては正確には忘れてしまったけど、まあ何か制限付きでチケットを手に出来る。Cグループは実験スタッフから、こちらでチケットは用意出来ないという風に伝え、なんとかして自分で手に入れて欲しい、と伝える(まあもちろん実験なので、その被験者には最終的にチケットが渡るようにはなっているのだけど、被験者はそこに実験スタッフの介入があったことを知らない。つまり、自分で苦労してそのチケットを手に入れた、と思っているわけである)。
さてこの三グループがまったく同じコンサートに行ったわけである。実験結果については予想できるだろうけど、一番満足度の高かったグループはCで、一番低かったのはAである。
まったく同じコンサートに行ったにの満足度に差が出るのは、要するにチケットをいかに苦労して手に入れたかに比例しているのである。Aグループは苦労することなくチケットを手に出来た、つまり不自由が少なかったので満足できなかった。Cグループはチケットを手に入れるのにかなりの不自由を強いられたが、しかしそのお陰でコンサートを大いに満足することが出来た、ということである。
これはラーメン屋の行列にも当てはまる理屈らしい。行列に並ぶというのは多少不自由を強いられるということである。つまり、これだけ待ったのだからラーメンは美味しいはずだ、というような意識がお客の側にあるからこそより満足度が高くなる、ということらしい。
もし不自由なく何でも出来るようになってしまったら、それは満足度の低い経験になるに違いない。となればより飽きがくるのも早いだろう。
何事もほとほどにするべきで、つまり出来ないことがたくさんある方が出来ることにより満足することが出来る、ということだろうと思う。僕ら普通の人間には出来ないことが山ほどある。その出来ないことをいつか出来るかもと夢見つつ、一方でその不自由さの中で出来ることをより満足して行うことが出来るというものである。世界征服なんかしたら、出来ないことがなくなってしまって不幸になるだけである。
これまでも歴史の上では様々な権力者が現れ消えていったことだろう。彼らは本当に満足できていたのだろうか。出来ないことなど何もなくなってしまった生活は逆に不自由ではなかったのではないだろうか。
とここまで考えてなるほど、と思った。昔の権力者が不老不死なんかに憧れていたりするのにはその点に理由があったのかもしれない。
つまり不老不死というのは絶対に叶わない夢である。となれば、それを追いかけているうちは飽きることも満足することもない。だからこそ、上へと登りつめてしまった人達は不老不死を追いかけるのではないだろうか。
何でも自由になる立場に置かれるが故に、永遠に叶わない夢に手を出すしかない。やはり上に立つ人間にはなりたくないものだな、と思うものである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作はいささか変わった構成の作品になっています。
本作は、中国の歴史書を元にして、中国のある時代のある出来事について描いているという体裁なのですが、文章の中に著者が出てくるのである。
というか要するに、著者自身が語っている、という体裁をとっているのだ。何だか説明しづらいが、語り部は登場人物の誰かというわけではなく著者自身である。なかなかこういう小説は珍しいと思う。
話は1600年代の中国である。そこにおける「後宮」の話である。
後宮というのは要するに、日本で言う大奥みたいなものである。皇帝がセックスをするために女性をずわっと侍らせておくそのシステムのことである。
前の皇帝が死に、それに伴って後宮も新しく作り変えられることになった。後宮にいる女性を宮女というが、その宮女候補になった銀河という名の一人の少女が物語の主人公である。
銀河は田舎から出てきた女で、教養もなければもちろんセックスについても知らない。後宮がどんなところなのかということもまったく知らないまま宮女候補になった。ただ好奇心だけは人一倍であり、後宮におけるセックスを教える場である「女学校」では、講師である角先生にズバズバと質問を繰り出したりする。
後宮では宮女候補は4人一部屋で暮らすのだが、そこで同じ部屋になったメンバーもまた奇妙な人物が揃っていた。無口で無表情な江葉、高貴な出身でプライドの高いセシャーミン、そしてセシャーミンよりもさらの高貴な出て何を考えているかさっぱりわからないタミューンである。
物語は、後宮というものがいかにして成り立っていたのかということをメインにして描きつつ、その外側についても時折触れ、やがて訪れる後宮崩壊までを軽妙な筆致で描いた作品である。
さて本作は、森見登美彦がデビューしたことで大分有名になっただろう日本ファンタジーノベル大賞の第一回受賞作である。で第二回受賞作が、佐藤亜紀の「バルタザールの遍歴」であり、この二作のレベルがあまりにも高すぎた故に日本ファンタジーノベル大賞はすごいぞ、と評判になるくらいの作品だったわけです。
今では書評家である大森望はかつて新潮社の社員だったらしいんですけど、その頃たまたま日本ファンタジーノベル大賞の下読みみたいなこともやっていて、で自分のところに回ってきた中にこの「後宮小説」があったんだそうです。そのレベルの高さに驚いた、みたいなことをどこかで書いていたのを読んだ気がします。
僕もこの作品はかなり面白いな、と思いました。
何よりも僕の中で一番評価が高いのはとにかく読みやすいということでした。僕は歴史がそもそもダメで、もちろん中国の歴史なんか知識ほぼゼロという感じだし、中国人の名前とか官職の名前とかはすごく難しいからいつも厄介に感じるんだけど、この作品はそういう厄介な部分をまったく感じさせない作品でした。スラスラと読めてしまいました。そこが一番素晴らしいと思いました。
しかも、さっきも書いたけど、なかなか普通の小説にはない構成が面白いなと思いました。作者が物語を語る、なんて体裁の本は見たことがないし、小説というのはいかに作者の影を消せるかということが指摘されたりするような世界なので、これは新鮮だなと思いました。まあもっとも、中国の歴史書がそういう体裁で、それを踏まえたということであるのかもしれないですけど。
しかもその語り口がなかなか軽妙なわけです。難しい言葉もそれなりに使っているし、表現がくだけているというほどでもないのだけど、でもなんとなくユーモラスに感じさせる文章で、その辺の感覚みたいなものもなかなかよかったな、と思いました。
またこの話自体も非常に面白いですね。歴史書に書かれていたものであるので、実際に起こったこと、あるいは起こったと思われていることなのだろうけど、でもホントかよと言いたくなるような展開がたくさんあります。特に後半はそうで、後半の怒涛のようて展開はすごいなと思いましt。こんなことが実際にあったのかと思うと面白いなと思えます。
またそれまでに出てきた様々な登場人物が、後半にかなり変身したり活躍したりするので面白いです。変わったキャラクターも山ほど出てきて、変人好きな僕としては読んでて楽しかったです。やっぱ一番いいなと思ったのは、渾沌と呼ばれている男ですけどね。アドリブで演じているよう、という筆者の評はなかなか面白いなと思いました。
というわけで、かなり面白い作品だと思います。歴史に関して知識も興味もない僕でも全然大丈夫だったので、歴史が苦手だなと思っている人にもオススメできる作品です。是非読んでみてください。
酒見賢一「後宮小説」
問題は、特にしたいことはないだろうな、ということである。皆さんはどうだろうか。
いやまあそりゃあ世界征服なんてのが出来れば、うまいものは食い放題、面白いものは見放題、美女は抱き放題。ハリウッドスターを使って個人的な映画を撮ることも出来るかもしれないし、宇宙旅行も出来るかもしれないし、そりゃまあ何でもやりたいことは出来るのだろうとは思うのである。
しかし、現実問題それは楽しいのか、と僕は思ってしまう。
例えばどれだけうまいものを食べ続けたって、半年もすれば飽きるだろう。どれだけ世界中の料理をかき集めて毎日違うものを食べたって、5年もすれば全部食べ尽くすのではないか。見たいところだって、何年もあれば全部回ることが出来るだろうし、どれだけ絶世の美女とセックスをしまくったって、そりゃあそれでそのうち飽きるだろう。
問題は、やりたいことが何でも出来る、というところにはないのだ。じゃあ何かと言えば、それに飽きてしまったらどうすればいいのか、ということである。
世界征服を達成して、でやりたいことを自由にやる。まあそれはいいとして、でもいつかその生活にも飽きるだろうと思うのだ。しかしじゃあ後何するよ?
世界征服をしたわけで、もう何だって出来るわけである。その生活に飽きてしまったら、もはややることがなくなってしまうと僕は思うのだけどどうだろうか。
どんなに刺激的な出来事だって、数年も続けばそれは立派な日常になる。そして日常というのは退屈と隣り合わせなのである。世界征服を達成してそれで飽きてしまったら、それは世界一不幸な人間ということにならないだろうか。
そもそも僕は思うのである。自由というのは不自由があるからこそ楽しめるものなのだ、と。
僕らは普段から、金がないとか時間がないとか眠いとか疲れたとか友人が誰も捕まらないだとかチケットが取れないだとか、まあ要するにそういう不自由を味わいながらその中で自由を得ようと頑張っている。じゃあその不自由がなくなったら一体どうなるだろう。
昔心理学的なものに一時期はまっていたことがあって、一般向けの本を何冊か読んだことがあるのだけど、その中に非常に面白い実験について書かれているのがあった。
ABCという三つのグループを作って、それぞれにあるコンサートに行ってもらうことにした。Aグループは、そのチケットをその場で手渡しでもらうことが出来る。Bグループについては正確には忘れてしまったけど、まあ何か制限付きでチケットを手に出来る。Cグループは実験スタッフから、こちらでチケットは用意出来ないという風に伝え、なんとかして自分で手に入れて欲しい、と伝える(まあもちろん実験なので、その被験者には最終的にチケットが渡るようにはなっているのだけど、被験者はそこに実験スタッフの介入があったことを知らない。つまり、自分で苦労してそのチケットを手に入れた、と思っているわけである)。
さてこの三グループがまったく同じコンサートに行ったわけである。実験結果については予想できるだろうけど、一番満足度の高かったグループはCで、一番低かったのはAである。
まったく同じコンサートに行ったにの満足度に差が出るのは、要するにチケットをいかに苦労して手に入れたかに比例しているのである。Aグループは苦労することなくチケットを手に出来た、つまり不自由が少なかったので満足できなかった。Cグループはチケットを手に入れるのにかなりの不自由を強いられたが、しかしそのお陰でコンサートを大いに満足することが出来た、ということである。
これはラーメン屋の行列にも当てはまる理屈らしい。行列に並ぶというのは多少不自由を強いられるということである。つまり、これだけ待ったのだからラーメンは美味しいはずだ、というような意識がお客の側にあるからこそより満足度が高くなる、ということらしい。
もし不自由なく何でも出来るようになってしまったら、それは満足度の低い経験になるに違いない。となればより飽きがくるのも早いだろう。
何事もほとほどにするべきで、つまり出来ないことがたくさんある方が出来ることにより満足することが出来る、ということだろうと思う。僕ら普通の人間には出来ないことが山ほどある。その出来ないことをいつか出来るかもと夢見つつ、一方でその不自由さの中で出来ることをより満足して行うことが出来るというものである。世界征服なんかしたら、出来ないことがなくなってしまって不幸になるだけである。
これまでも歴史の上では様々な権力者が現れ消えていったことだろう。彼らは本当に満足できていたのだろうか。出来ないことなど何もなくなってしまった生活は逆に不自由ではなかったのではないだろうか。
とここまで考えてなるほど、と思った。昔の権力者が不老不死なんかに憧れていたりするのにはその点に理由があったのかもしれない。
つまり不老不死というのは絶対に叶わない夢である。となれば、それを追いかけているうちは飽きることも満足することもない。だからこそ、上へと登りつめてしまった人達は不老不死を追いかけるのではないだろうか。
何でも自由になる立場に置かれるが故に、永遠に叶わない夢に手を出すしかない。やはり上に立つ人間にはなりたくないものだな、と思うものである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作はいささか変わった構成の作品になっています。
本作は、中国の歴史書を元にして、中国のある時代のある出来事について描いているという体裁なのですが、文章の中に著者が出てくるのである。
というか要するに、著者自身が語っている、という体裁をとっているのだ。何だか説明しづらいが、語り部は登場人物の誰かというわけではなく著者自身である。なかなかこういう小説は珍しいと思う。
話は1600年代の中国である。そこにおける「後宮」の話である。
後宮というのは要するに、日本で言う大奥みたいなものである。皇帝がセックスをするために女性をずわっと侍らせておくそのシステムのことである。
前の皇帝が死に、それに伴って後宮も新しく作り変えられることになった。後宮にいる女性を宮女というが、その宮女候補になった銀河という名の一人の少女が物語の主人公である。
銀河は田舎から出てきた女で、教養もなければもちろんセックスについても知らない。後宮がどんなところなのかということもまったく知らないまま宮女候補になった。ただ好奇心だけは人一倍であり、後宮におけるセックスを教える場である「女学校」では、講師である角先生にズバズバと質問を繰り出したりする。
後宮では宮女候補は4人一部屋で暮らすのだが、そこで同じ部屋になったメンバーもまた奇妙な人物が揃っていた。無口で無表情な江葉、高貴な出身でプライドの高いセシャーミン、そしてセシャーミンよりもさらの高貴な出て何を考えているかさっぱりわからないタミューンである。
物語は、後宮というものがいかにして成り立っていたのかということをメインにして描きつつ、その外側についても時折触れ、やがて訪れる後宮崩壊までを軽妙な筆致で描いた作品である。
さて本作は、森見登美彦がデビューしたことで大分有名になっただろう日本ファンタジーノベル大賞の第一回受賞作である。で第二回受賞作が、佐藤亜紀の「バルタザールの遍歴」であり、この二作のレベルがあまりにも高すぎた故に日本ファンタジーノベル大賞はすごいぞ、と評判になるくらいの作品だったわけです。
今では書評家である大森望はかつて新潮社の社員だったらしいんですけど、その頃たまたま日本ファンタジーノベル大賞の下読みみたいなこともやっていて、で自分のところに回ってきた中にこの「後宮小説」があったんだそうです。そのレベルの高さに驚いた、みたいなことをどこかで書いていたのを読んだ気がします。
僕もこの作品はかなり面白いな、と思いました。
何よりも僕の中で一番評価が高いのはとにかく読みやすいということでした。僕は歴史がそもそもダメで、もちろん中国の歴史なんか知識ほぼゼロという感じだし、中国人の名前とか官職の名前とかはすごく難しいからいつも厄介に感じるんだけど、この作品はそういう厄介な部分をまったく感じさせない作品でした。スラスラと読めてしまいました。そこが一番素晴らしいと思いました。
しかも、さっきも書いたけど、なかなか普通の小説にはない構成が面白いなと思いました。作者が物語を語る、なんて体裁の本は見たことがないし、小説というのはいかに作者の影を消せるかということが指摘されたりするような世界なので、これは新鮮だなと思いました。まあもっとも、中国の歴史書がそういう体裁で、それを踏まえたということであるのかもしれないですけど。
しかもその語り口がなかなか軽妙なわけです。難しい言葉もそれなりに使っているし、表現がくだけているというほどでもないのだけど、でもなんとなくユーモラスに感じさせる文章で、その辺の感覚みたいなものもなかなかよかったな、と思いました。
またこの話自体も非常に面白いですね。歴史書に書かれていたものであるので、実際に起こったこと、あるいは起こったと思われていることなのだろうけど、でもホントかよと言いたくなるような展開がたくさんあります。特に後半はそうで、後半の怒涛のようて展開はすごいなと思いましt。こんなことが実際にあったのかと思うと面白いなと思えます。
またそれまでに出てきた様々な登場人物が、後半にかなり変身したり活躍したりするので面白いです。変わったキャラクターも山ほど出てきて、変人好きな僕としては読んでて楽しかったです。やっぱ一番いいなと思ったのは、渾沌と呼ばれている男ですけどね。アドリブで演じているよう、という筆者の評はなかなか面白いなと思いました。
というわけで、かなり面白い作品だと思います。歴史に関して知識も興味もない僕でも全然大丈夫だったので、歴史が苦手だなと思っている人にもオススメできる作品です。是非読んでみてください。
酒見賢一「後宮小説」
天使の歌声(北川歩美)
僕は本屋でバイトをしているので、売れた本とか売れなかった本とか、まあそういうデータみたいなものは多少あったりする。世間的に売れた本、何故かうちの店だけで売れた本、あるいは売れると思ったのに全然売れなかった本。まあいろんなパターンがある。
しかしまあそうやって売れる売れないのデータを積み重ねてきても、未だに分からない。どんな本が売れるのか、ということがだ。
例えばある一冊の本が目の前にあるとする。新刊でもいいし大昔に出た本でもいい。さてではその本を店に平積みにしてみる、あるいは大きく仕掛けて売ってみる。さて売れるだろうか。
これは本当に全然予想の出来ない話だ。とりあえず、やってみるしかない。売る前から根拠や自信を持つことはほぼ不可能だと思う。
これまでいろいろ売れた本というのを見てきたけど、その大半は僕にとってはべらぼうにつまらない作品だった。一例を挙げると、志水辰夫の「行きずりの街」、恩田陸の「ライオンハート」、そして今かなり売れている安達千夏の「モルヒネ」なんかがあるのだが、これら三作品は世間的にも大きく売れたと思うのだけど、でもそのどれもが僕にとっては駄作だと思いました。全然面白くない。ホント、何でこんな本が売れるのか僕にはさっぱり分からない、という感じでした。
つまり本が売れるかどうかというのは内容には関係がない、ということです。
まあこれは何にしても同じでしょう。新製品のお菓子や機械なんかもとりえず買って使わなくては分からないし、映画だってそうです。あれだけ酷評された(僕は見てないけど)「ゲド戦記」も、興行収入という意味ではそこそこ行ったのでしょう。内容と売上というのは基本的に相関しないものなのだろうと思います。
逆に、僕が面白いと思う本は、多少売れることはあってもそこまで大きく売れません。これは結局こういうことではないかな、と思うんです。
面白い本というのは、それが面白くなればなるほどアピールする対象がどんどん狭くなっていくのではないか、と思うのです。譬えて言うなら鉄道マニアみたいなもので、深入りすればするほど乗り鉄だの撮り鉄だのと言ったように細分化されていきます。乗り鉄からすれば電車に乗ることは最高に楽しいけど電車の写真を撮って何が面白いのか分からない。撮り鉄からすればその逆、ということになります。
本の場合も同じで、ある本の面白さに比例して、それがウケる対象というのが狭くなっていくのではないかと思うわけです。だから、ある本を僕がとんでもなく面白いと思ったとしても、それを共有出来る人というのはあまり多くないわけです。
さてまた鉄道マニアの話に戻りますけど、じゃあ例えばそこまで深入りしていない浅い鉄道マニアの場合はどうでしょう。その場合、電車に乗るのもそれなりに楽しいし、写真だって撮るし、記念品を集めるのも楽しいじゃん、ということになるかもしれません。一つのことを究めようとしない代わりに多方面に手を伸ばすんではないかな、という気がします。
これを本に当てはめると、まあまあの作品というのが一番広く受け入れられるのではないか、ということになります。可もなく不可もなく、という感じで、ずば抜けて面白いところもなければこれと言った欠点もないみたいな作品の方が、より広い対象にアピールしていくような気がします。
書店員としては、もちろん面白い本を揃えたいと思う気持ちは常にあります。でもありとあらゆる人に確実に面白いと勧められる本というのはないわけです。どんな本でも、合わない人というのはいるわけで、じゃあその人にどんな提案が出来るのだろう、というところが書店員の腕の見せ所だろう、とは思います。
しかし一方で、本を売るということも考えていかなくてはいけません。自分が面白いと思う本を取り揃えても売れなくてはしかたがありません。いかにして売れる本を見つけるか、というのも大事な部分になっていきます。
しかし上記で書いたように、べらぼうに売れる本というのは僕と相性が悪いことが多いのです。これはなかなか難しい問題だなぁ、といつも思っています。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は6編の短編を収録した短編集になっています。
「警告」
白血病の研究をしている研究者に、息子を通じてある警告があった。遊んでいないで研究をしろ、と。恐らく白血病の子供を持つ親からのものだろうと思うのだが、しかし何をされるか分からない。せめて息子の護衛だけでもお願いできないか、と探偵の嶺原の元に依頼がやってくる。
「白髪の罠」
最近妻の素行が怪しい。そう感じているサラリーマンから、嶺原は妻の行動調査を頼まれた。相手としては、妻が別に浮気なんかをしているわけではないことを確認したいだけ、という気持ちが強いようだ。その調査の家庭で、白髪の男性と奥さんが会っていることが判明した。その白髪の男性は、どう見ても半年前に死んだはずの自分の父親に見えるのだが…。
「絆の向こう」
養子でもらいうけた子供が今腎臓病で透析治療を受けている。なんとか合う腎臓を手に入れたいのだが、本来の父親や兄の行方がどうもわからない。そこで嶺原にその行方を捜して欲しいという依頼がやってくるが…。
「父親の気持ち」
事故で娘を喪った父親の元に一本の電話が掛かってくる。その電話の主は、娘の死にはある一人の女性が関わっているのだ、と告げる。娘の死はただの事故だと思っていた父親は独自に調査をするが、自分の調べた結果を裏付けて欲しいと嶺原に依頼をする…。
「隠れた構図」
学習塾のトイレで隠しカメラが見つかった。警察に届けるかどうしようか迷っているうちにそのカメラ本体が紛失してしまった。
その後ある一人の塾講師の失踪が発覚し嶺原も調査に乗り出すのだが…。
「天使の歌声」
会った事のない父親に引き取られることになった時、そこで口の利けない弟と出会った。彼は言葉を発することは出来ないけど天使のような歌声を持っていた。
家を出たあとしばらくしてまた呼び出された彼は、そこで昔の出来事について回想することになるが…。
というような話です。
さて、特別これといった理由もなく買った本ですけど、面白くない本でした。なんというか、平凡過ぎてつまらないという印象です。
どの話もストーリーは割とちゃんとしているような感じなんですけど(まあちょっと入り組んだ話が多いなとは思ったけど)、何よりも登場人物にまったく魅力がない。こうなんていうかな、この作品をそのままドラマにしたら、三流役者ばっかりで演じているみたいなそんなイメージです。全員ただセリフを喋るだけの存在、というだけで人間として薄っぺらなんですね。なんでまあこれと言った印象も特にないなんということのない作品です。
さて冒頭で僕は売れる本売れない本の話を書いたわけですけど、僕は自分で読んでこの本はつまらないと思うんですけど、でもこの本売れると思うんですよね。根拠とか自信はとりあえず一切ないんですけど、なんか売れそうな気がするんです。
敢えて言えば、とにかく表紙の装丁が非常にいいですね。この表紙にはかなり惹かれるんじゃないかなと思います。また後ろに書いてある内容紹介もなんか読もうって気にさせる感じだし、「天使の歌声」っていうあんまりミステリっぽくないタイトルも割といいんじゃないかなとか思うわけです。
内容も可もなく不可もなくと言った感じで、上記で書いたように広く受け入れられるような種類の作品のような気がします。
まあとりあえず一面平積みで置いてみて、もし動きがいいようならちょっと大きく展開してみようかな、とか思っています。さてどうなりますか。しかし、自分が面白いと思っていないのに売れそうだという理由で本を置くというのもどうかなって感じはしますけど。でも自分がつまらないと感じるだけで、面白いと思う人の方が多数だって言う可能性もないではないですしね。
というわけで、特にこれと言って面白いわけではないと思います。僕はあんまりオススメしません。
北川歩美「天使の歌声」
しかしまあそうやって売れる売れないのデータを積み重ねてきても、未だに分からない。どんな本が売れるのか、ということがだ。
例えばある一冊の本が目の前にあるとする。新刊でもいいし大昔に出た本でもいい。さてではその本を店に平積みにしてみる、あるいは大きく仕掛けて売ってみる。さて売れるだろうか。
これは本当に全然予想の出来ない話だ。とりあえず、やってみるしかない。売る前から根拠や自信を持つことはほぼ不可能だと思う。
これまでいろいろ売れた本というのを見てきたけど、その大半は僕にとってはべらぼうにつまらない作品だった。一例を挙げると、志水辰夫の「行きずりの街」、恩田陸の「ライオンハート」、そして今かなり売れている安達千夏の「モルヒネ」なんかがあるのだが、これら三作品は世間的にも大きく売れたと思うのだけど、でもそのどれもが僕にとっては駄作だと思いました。全然面白くない。ホント、何でこんな本が売れるのか僕にはさっぱり分からない、という感じでした。
つまり本が売れるかどうかというのは内容には関係がない、ということです。
まあこれは何にしても同じでしょう。新製品のお菓子や機械なんかもとりえず買って使わなくては分からないし、映画だってそうです。あれだけ酷評された(僕は見てないけど)「ゲド戦記」も、興行収入という意味ではそこそこ行ったのでしょう。内容と売上というのは基本的に相関しないものなのだろうと思います。
逆に、僕が面白いと思う本は、多少売れることはあってもそこまで大きく売れません。これは結局こういうことではないかな、と思うんです。
面白い本というのは、それが面白くなればなるほどアピールする対象がどんどん狭くなっていくのではないか、と思うのです。譬えて言うなら鉄道マニアみたいなもので、深入りすればするほど乗り鉄だの撮り鉄だのと言ったように細分化されていきます。乗り鉄からすれば電車に乗ることは最高に楽しいけど電車の写真を撮って何が面白いのか分からない。撮り鉄からすればその逆、ということになります。
本の場合も同じで、ある本の面白さに比例して、それがウケる対象というのが狭くなっていくのではないかと思うわけです。だから、ある本を僕がとんでもなく面白いと思ったとしても、それを共有出来る人というのはあまり多くないわけです。
さてまた鉄道マニアの話に戻りますけど、じゃあ例えばそこまで深入りしていない浅い鉄道マニアの場合はどうでしょう。その場合、電車に乗るのもそれなりに楽しいし、写真だって撮るし、記念品を集めるのも楽しいじゃん、ということになるかもしれません。一つのことを究めようとしない代わりに多方面に手を伸ばすんではないかな、という気がします。
これを本に当てはめると、まあまあの作品というのが一番広く受け入れられるのではないか、ということになります。可もなく不可もなく、という感じで、ずば抜けて面白いところもなければこれと言った欠点もないみたいな作品の方が、より広い対象にアピールしていくような気がします。
書店員としては、もちろん面白い本を揃えたいと思う気持ちは常にあります。でもありとあらゆる人に確実に面白いと勧められる本というのはないわけです。どんな本でも、合わない人というのはいるわけで、じゃあその人にどんな提案が出来るのだろう、というところが書店員の腕の見せ所だろう、とは思います。
しかし一方で、本を売るということも考えていかなくてはいけません。自分が面白いと思う本を取り揃えても売れなくてはしかたがありません。いかにして売れる本を見つけるか、というのも大事な部分になっていきます。
しかし上記で書いたように、べらぼうに売れる本というのは僕と相性が悪いことが多いのです。これはなかなか難しい問題だなぁ、といつも思っています。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は6編の短編を収録した短編集になっています。
「警告」
白血病の研究をしている研究者に、息子を通じてある警告があった。遊んでいないで研究をしろ、と。恐らく白血病の子供を持つ親からのものだろうと思うのだが、しかし何をされるか分からない。せめて息子の護衛だけでもお願いできないか、と探偵の嶺原の元に依頼がやってくる。
「白髪の罠」
最近妻の素行が怪しい。そう感じているサラリーマンから、嶺原は妻の行動調査を頼まれた。相手としては、妻が別に浮気なんかをしているわけではないことを確認したいだけ、という気持ちが強いようだ。その調査の家庭で、白髪の男性と奥さんが会っていることが判明した。その白髪の男性は、どう見ても半年前に死んだはずの自分の父親に見えるのだが…。
「絆の向こう」
養子でもらいうけた子供が今腎臓病で透析治療を受けている。なんとか合う腎臓を手に入れたいのだが、本来の父親や兄の行方がどうもわからない。そこで嶺原にその行方を捜して欲しいという依頼がやってくるが…。
「父親の気持ち」
事故で娘を喪った父親の元に一本の電話が掛かってくる。その電話の主は、娘の死にはある一人の女性が関わっているのだ、と告げる。娘の死はただの事故だと思っていた父親は独自に調査をするが、自分の調べた結果を裏付けて欲しいと嶺原に依頼をする…。
「隠れた構図」
学習塾のトイレで隠しカメラが見つかった。警察に届けるかどうしようか迷っているうちにそのカメラ本体が紛失してしまった。
その後ある一人の塾講師の失踪が発覚し嶺原も調査に乗り出すのだが…。
「天使の歌声」
会った事のない父親に引き取られることになった時、そこで口の利けない弟と出会った。彼は言葉を発することは出来ないけど天使のような歌声を持っていた。
家を出たあとしばらくしてまた呼び出された彼は、そこで昔の出来事について回想することになるが…。
というような話です。
さて、特別これといった理由もなく買った本ですけど、面白くない本でした。なんというか、平凡過ぎてつまらないという印象です。
どの話もストーリーは割とちゃんとしているような感じなんですけど(まあちょっと入り組んだ話が多いなとは思ったけど)、何よりも登場人物にまったく魅力がない。こうなんていうかな、この作品をそのままドラマにしたら、三流役者ばっかりで演じているみたいなそんなイメージです。全員ただセリフを喋るだけの存在、というだけで人間として薄っぺらなんですね。なんでまあこれと言った印象も特にないなんということのない作品です。
さて冒頭で僕は売れる本売れない本の話を書いたわけですけど、僕は自分で読んでこの本はつまらないと思うんですけど、でもこの本売れると思うんですよね。根拠とか自信はとりあえず一切ないんですけど、なんか売れそうな気がするんです。
敢えて言えば、とにかく表紙の装丁が非常にいいですね。この表紙にはかなり惹かれるんじゃないかなと思います。また後ろに書いてある内容紹介もなんか読もうって気にさせる感じだし、「天使の歌声」っていうあんまりミステリっぽくないタイトルも割といいんじゃないかなとか思うわけです。
内容も可もなく不可もなくと言った感じで、上記で書いたように広く受け入れられるような種類の作品のような気がします。
まあとりあえず一面平積みで置いてみて、もし動きがいいようならちょっと大きく展開してみようかな、とか思っています。さてどうなりますか。しかし、自分が面白いと思っていないのに売れそうだという理由で本を置くというのもどうかなって感じはしますけど。でも自分がつまらないと感じるだけで、面白いと思う人の方が多数だって言う可能性もないではないですしね。
というわけで、特にこれと言って面白いわけではないと思います。僕はあんまりオススメしません。
北川歩美「天使の歌声」
小林賢太郎戯曲集 椿鯨雀(小林賢太郎)
僕はお笑い芸人というのはすごいなといつも思っているのである。
最近はテレビをほとんど見ないんでどんな芸人がいるのかあんまりよく知らないんだけど、とにかく人を笑わせるというのはすごいことだなと思うわけです。少なくとも僕には出来ないことなわけで、すごいものだなといつも思います。
ただ面白い人ってのは周りにも結構いたりするわけで、僕はそういう人も結構すごいと思うのだけど、でもどうしても内輪ウケになってしまう部分がある気がします。その点お笑い芸人というのは、自分のことなんかまったく知らないような不特定多数の人を相手に笑わせなくてはいけないのだからすごいものだと思います。
ただ結構不思議に思っているのは、コンビとかの力関係ですね。
コンビでもトリオでも何でもいいんだけど、芸人の場合ネタを作る人間が必ずいるわけです。詳しいことはよく知らないけど、たぶん一般的にはコンビのどちらかが専属でネタを作っているんではないかな、と思います。
そうなると、コンビの中での力関係っていうのは必然的に決まっていくだろうし、そうでなくてもいろいろ不満みたいなのが出てきそうな気がします。
コンビの場合ボケとツッコミがあって、大抵の場合ボケの方がネタを作るんじゃないかって気がするけど、じゃあギャラは同じなのかとかって考えちゃいますね。ツッコミの人は、そりゃあツッコミってのは大事だけど、でもネタを作らないで同じギャラをもらえるのか、みたいな。どうでもいいんだけど気になりますね。
やっぱりボケとツッコミだったらボケの方が好きになります。面白いですからね。でも、ネタの場合だったらボケの方がすごいなとか思うけど、ネタじゃない臨機応変さが要求されるバラエティ番組とかだとツッコミの方がすごいかもとか思いますね。
だってボケの方はとりあえず何を言ったっていいわけです。問題はそれをツッコミが拾えるかってことで、ツッコミの場合は常に臨機応変さが要求されるような気がします。爆笑問題ってコンビを見てるといつも思うのは、田中は別に全然面白いわけじゃないけど、でも田中が繰り出すありとあらゆるボケをいつも拾えててすごいな、と思うわけです。まあそういう部分でボケとツッコミというのは補っているのかもですね。
さてラーメンズというお笑い芸人ですけど、この人達はほとんどテレビには出ないみたいですね。確かNHKのなんとかってお笑い番組には出てるみたいなことを聞いたことがあるけど、普通のバラエティには出ないのでしょう。
じゃあ何をしているかと言えば、ライブをやっているんですね。確かバイト先の人が観にいったみたいなことを言っていました。
僕も、どんな機械か全然忘れたのだけど、ラーメンズのネタをテレビで見たような気がします。いや、違うかもな。友達が持ってたラーメンズのビデオかDVDを見たのかもしれない。まあちゃんとは覚えてないですけど。
とにかく印象深かったのは、ひたすら山手線の駅名やそこから派生する言葉を復唱し続けるやつですね。別に何が面白いのか説明できないんだけど、でも面白かったですね。何だか普通の芸人とは違うんだなって感じがしました。
まあそんなわけで本作ですけど、本作はそのラーメンズというコンビのネタを作る方である小林賢太郎という人が、彼らがライブで実際にやったネタを戯曲形式で本にしたものになります。
まあとにかくひたすらネタが会話形式(まあこういうのを戯曲っていうんだろうけど)で書かれているんだけど、やっぱ文章には限界があるな、という気がしました。やっぱり実際見ないと面白さはうまく伝わってこないのだろうな、という気がしました。だからたぶんこの作品は、実際にライブやDVDでネタを見たことのある人が、それを思い出して笑うためにあるんじゃないかな、とか思いました。
まあどのネタも実際演じているのを見たら面白いかもなとか思うようなものでしたけど、文章でもなるほどこれはすごいと思えるものがいくつかありました。
その中の一つが「ドラマティック五十音」というやつです。これは説明するのがかなり困難なものですけど、とにかくなるほどこれはうまいと思えるような作品でした。
まあというわけで、実際ラーメンズの舞台を観にいったことのない人にはあんまりオススメ出来ないような気がします。まあこれを読んでみて、面白そうだからDVDを見てみよう、という気になったりするかもしれませんけどね。まあそんな感じです。
小林賢太郎「小林賢太郎戯曲集 椿鯨雀」
最近はテレビをほとんど見ないんでどんな芸人がいるのかあんまりよく知らないんだけど、とにかく人を笑わせるというのはすごいことだなと思うわけです。少なくとも僕には出来ないことなわけで、すごいものだなといつも思います。
ただ面白い人ってのは周りにも結構いたりするわけで、僕はそういう人も結構すごいと思うのだけど、でもどうしても内輪ウケになってしまう部分がある気がします。その点お笑い芸人というのは、自分のことなんかまったく知らないような不特定多数の人を相手に笑わせなくてはいけないのだからすごいものだと思います。
ただ結構不思議に思っているのは、コンビとかの力関係ですね。
コンビでもトリオでも何でもいいんだけど、芸人の場合ネタを作る人間が必ずいるわけです。詳しいことはよく知らないけど、たぶん一般的にはコンビのどちらかが専属でネタを作っているんではないかな、と思います。
そうなると、コンビの中での力関係っていうのは必然的に決まっていくだろうし、そうでなくてもいろいろ不満みたいなのが出てきそうな気がします。
コンビの場合ボケとツッコミがあって、大抵の場合ボケの方がネタを作るんじゃないかって気がするけど、じゃあギャラは同じなのかとかって考えちゃいますね。ツッコミの人は、そりゃあツッコミってのは大事だけど、でもネタを作らないで同じギャラをもらえるのか、みたいな。どうでもいいんだけど気になりますね。
やっぱりボケとツッコミだったらボケの方が好きになります。面白いですからね。でも、ネタの場合だったらボケの方がすごいなとか思うけど、ネタじゃない臨機応変さが要求されるバラエティ番組とかだとツッコミの方がすごいかもとか思いますね。
だってボケの方はとりあえず何を言ったっていいわけです。問題はそれをツッコミが拾えるかってことで、ツッコミの場合は常に臨機応変さが要求されるような気がします。爆笑問題ってコンビを見てるといつも思うのは、田中は別に全然面白いわけじゃないけど、でも田中が繰り出すありとあらゆるボケをいつも拾えててすごいな、と思うわけです。まあそういう部分でボケとツッコミというのは補っているのかもですね。
さてラーメンズというお笑い芸人ですけど、この人達はほとんどテレビには出ないみたいですね。確かNHKのなんとかってお笑い番組には出てるみたいなことを聞いたことがあるけど、普通のバラエティには出ないのでしょう。
じゃあ何をしているかと言えば、ライブをやっているんですね。確かバイト先の人が観にいったみたいなことを言っていました。
僕も、どんな機械か全然忘れたのだけど、ラーメンズのネタをテレビで見たような気がします。いや、違うかもな。友達が持ってたラーメンズのビデオかDVDを見たのかもしれない。まあちゃんとは覚えてないですけど。
とにかく印象深かったのは、ひたすら山手線の駅名やそこから派生する言葉を復唱し続けるやつですね。別に何が面白いのか説明できないんだけど、でも面白かったですね。何だか普通の芸人とは違うんだなって感じがしました。
まあそんなわけで本作ですけど、本作はそのラーメンズというコンビのネタを作る方である小林賢太郎という人が、彼らがライブで実際にやったネタを戯曲形式で本にしたものになります。
まあとにかくひたすらネタが会話形式(まあこういうのを戯曲っていうんだろうけど)で書かれているんだけど、やっぱ文章には限界があるな、という気がしました。やっぱり実際見ないと面白さはうまく伝わってこないのだろうな、という気がしました。だからたぶんこの作品は、実際にライブやDVDでネタを見たことのある人が、それを思い出して笑うためにあるんじゃないかな、とか思いました。
まあどのネタも実際演じているのを見たら面白いかもなとか思うようなものでしたけど、文章でもなるほどこれはすごいと思えるものがいくつかありました。
その中の一つが「ドラマティック五十音」というやつです。これは説明するのがかなり困難なものですけど、とにかくなるほどこれはうまいと思えるような作品でした。
まあというわけで、実際ラーメンズの舞台を観にいったことのない人にはあんまりオススメ出来ないような気がします。まあこれを読んでみて、面白そうだからDVDを見てみよう、という気になったりするかもしれませんけどね。まあそんな感じです。
小林賢太郎「小林賢太郎戯曲集 椿鯨雀」
反自殺クラブ(石田衣良)
世の中っていうのは、どこから見るかによって全然見え方が変わってくる。
例えばお金持ちが日本という国を見た時、なんてブラボーな国なんだろう、と思うだろう。何でも欲しいものは手に入るし、やりたいことは大抵出来る。東京で出来ないことはどこででも出来ないと言ってもおかしくはないぐらい東京というのは恵まれている場所だと思う。
しかし、庶民からすれば東京というのはただゴミゴミした暑い街でしかない。そりゃあ遊ぶところもたくさんあるしそれなりには楽しいけど、でも庶民に楽しみ尽くせる場所じゃない。それどころか逆に搾取されてしまう場所でもある。
僕らはマスコミが流す情報を鵜呑みにして常識ってものを形成するけど、でもそれだって一面の真実でしかない。誰かが都合よく切り取った真実で、それが現実かどうかなんて誰にもわからない。
でも、本作にも書いてあったけど、東京というのはもう情報が多すぎるのだ。誰かがくれる情報なんて受け取りたくない。与えられる情報についても考えたくない。そうやって、情報だけがどんどんと大きくなっていく。幻想だけの情報で益々溢れかえっていく。
いつだって世の中をきちんと見ているのは最下層にいる人々だ。世の中の辛いことが全部そこに集まっていく。誰もそれを掬い取ろうとしない。汚れだけがいつまでも溜まり続けていく。
それでも、僕らはそこに生き続けるいかない。どんなに汚くても、どんなに最低でも、そこで生きていくしかないのだ。
そんな生き方でも、時にはいいことだってあるかもしれない。世の中だって最低のままじゃない。たとえほんの僅かしか微笑んでくれなくたって、その一瞬のために頑張れたりするかもしれない。
生きていくのは辛いし馬鹿馬鹿しいけど、でもそれでも必死に生きていこうっていう人がたくさんいるわけで、まあそういう世の中は悪くないかなとか思ったりする。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、人気シリーズであるIWGPの五巻目です。池袋のトラブルシューターであり、普段は八百屋の店番であるマコトが、様々に持ち込まれるトラブルをうまく捌く、という話です。
「スカウトマンズ・ブルーズ」
コラムのネタを探していた俺は、見事に女を引っ掛けるキャッチを見つけた。風俗嬢のスカウトマンだそうだ。とにかく女はこのタイチというスカウトマンにメロメロなのだ。天性のスカウトマンらしい。
マコトはタイチに取材をしてコラムのネタを仕入れられて満足。でもしばらくしてタイチが、トラブルを解決して欲しい、ってやってきた。
仲のいいウエイトレスがタイチのために風俗嬢になるって決めたらしい。それだけならいいのだが、タイチが運悪く休みの日に、悪徳スカウトマンに捕まってしまったらしいのだ。こんなトラブルならマコトが電話一本掛ければ済む話だけど、それだけでは終わらなくて…。
「伝説の星」
25年前に大ヒット曲を送り出した往年のスターである神宮寺貴信が何故かマコトを探して八百屋の前までやってきた。力を貸して欲しいという。
神宮寺はこれまでの歌手生活の集大成に、ロックの殿堂となる博物館を作ろうとしているのだ。その計画を銀行にアピールするためにゲリラライブをやる予定なのだが、その観客を集めて欲しいという話だった。そんな話なら楽チンだ。
しかしそのライブはどうも不穏な空気を感じる。案の定神宮寺の付き人みたいなグラマーな女がやってきて、トラブルを解決して欲しいと来たんだ…。
「死に至る玩具」
知ってるだろうか。今や世界のおもちゃの8割は中国で作られていることを。そして、おもちゃを作る工場の過酷な労働環境のせいで中国人が過労死していることを。
チャイニーズヘルスのキャッチをしている小桃は、ある時トラブルシューターの噂を聞きつけてマコトの元へやってきた。小桃は、おもちゃ工場で殺された姉の仇を打つために日本にやってきたのだった。
今日本でニッキー・Zという人形。これを作っている会社を小桃は訴えようというのだ。マコトに協力して欲しいという。
折りしもニッキー・Zは一週間後に結婚式を控えているのだ。会社も一大プロモーションを掛けている。やるならこのタイミングで勝負を掛けるしかないが…。
「反自殺クラブ」
反自殺クラブというグループから仕事を手伝って欲しいと声を掛けられた。
その名の通り、自殺を、特に集団自殺を阻止するためのグループだ。メンバーの多くは遺児、つまり親を自殺で亡くした人達だ。
今彼らは、クモ男というやつを追っている。ある自殺系サイトで自殺志願者を集めては自殺をプロデュースしている男だ。なんとしてもこの男を捕まえて叩きのめしたい。
マコトはすぐに、この反自殺クラブの活動の厳しさを知ることになるのだが…。
というような話です。
僕の中では既にこのシリーズは惰性で読んでいますが、まあ今回もそこまででもない感じでした。
やっぱりこのシリーズはもう限界だと僕は思います。それはあまりにもパターンが決まりきってしまっているということです。
シリーズものの難しさは、とにかくパターン化してしまうということです。これはもう避けようがなくて、毎回なんとかパターン化しないように頑張るか、あるいはさっさとシリーズを終わらせるかどっちかしかありません。
このIWGPのシリーズは、誰かがマコトを訪ねる、そいつが何かトラブルに巻き込まれている、マコトは人脈を活かしてトラブルを解決する、という流れです。
とにかくこの人脈を活かしてトラブルを解決するという部分がもうパターン化していますね。大抵、刑事の吉岡に相談するか、Gボーイズのキングであるタカシを動かすか、あるいはヤクザの斎藤を使うか、である。結局このパターンで解決できないトラブルがなくなってしまったのだ。
シリーズが始まった頃は、マコトもまだ人脈なんか全然なくて、何にもないところからのトラブルシューターだった。タカシとだって結構対立するような場面もあったし、打てる手だって限られていた。絶体絶命のピンチも結構あったし、それらを潜り抜けてきたからこそ面白かったと思う。
今では、結構余裕でトラブルを解決出来ちゃうのだ。あっさりしたものである。これからシリーズを続けて行ってもこういう感じだろうなと思う。ちょっともう限界だろうと僕が思うのはそういう理由からだ。
それぞれの話はまあ悪くないかもしれないけど、全体としてなんかパッとしない。パターン化されている物語を好きだっていう人もいるかもしれないけど、やっぱりドキドキが欲しいと思ってします。
話として一番興味深かったのは「死に至る玩具」ですね。これは確か石田衣良が、ビッグイシューという雑誌からネタを拾って書いた話のはずです。最後の自殺の話もそうだけど、でもこの玩具メーカーの話が一番社会問題っぽくて、やっぱり全体の中ではちょっと浮いてる感じはするかな。
ストーリー的には「反自殺クラブ」が一番よかったかなと思います。最後のオチもなかなかよかったと思うし、途中の展開もなるほどって感じです。
まあそんなわけで、そろそろこのシリーズは限界だと僕は思いますけど、でもまだまだ書くでしょうね。スパッと止めた方がいいと思いますけどね、僕は。
石田衣良「反自殺クラブ」
例えばお金持ちが日本という国を見た時、なんてブラボーな国なんだろう、と思うだろう。何でも欲しいものは手に入るし、やりたいことは大抵出来る。東京で出来ないことはどこででも出来ないと言ってもおかしくはないぐらい東京というのは恵まれている場所だと思う。
しかし、庶民からすれば東京というのはただゴミゴミした暑い街でしかない。そりゃあ遊ぶところもたくさんあるしそれなりには楽しいけど、でも庶民に楽しみ尽くせる場所じゃない。それどころか逆に搾取されてしまう場所でもある。
僕らはマスコミが流す情報を鵜呑みにして常識ってものを形成するけど、でもそれだって一面の真実でしかない。誰かが都合よく切り取った真実で、それが現実かどうかなんて誰にもわからない。
でも、本作にも書いてあったけど、東京というのはもう情報が多すぎるのだ。誰かがくれる情報なんて受け取りたくない。与えられる情報についても考えたくない。そうやって、情報だけがどんどんと大きくなっていく。幻想だけの情報で益々溢れかえっていく。
いつだって世の中をきちんと見ているのは最下層にいる人々だ。世の中の辛いことが全部そこに集まっていく。誰もそれを掬い取ろうとしない。汚れだけがいつまでも溜まり続けていく。
それでも、僕らはそこに生き続けるいかない。どんなに汚くても、どんなに最低でも、そこで生きていくしかないのだ。
そんな生き方でも、時にはいいことだってあるかもしれない。世の中だって最低のままじゃない。たとえほんの僅かしか微笑んでくれなくたって、その一瞬のために頑張れたりするかもしれない。
生きていくのは辛いし馬鹿馬鹿しいけど、でもそれでも必死に生きていこうっていう人がたくさんいるわけで、まあそういう世の中は悪くないかなとか思ったりする。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、人気シリーズであるIWGPの五巻目です。池袋のトラブルシューターであり、普段は八百屋の店番であるマコトが、様々に持ち込まれるトラブルをうまく捌く、という話です。
「スカウトマンズ・ブルーズ」
コラムのネタを探していた俺は、見事に女を引っ掛けるキャッチを見つけた。風俗嬢のスカウトマンだそうだ。とにかく女はこのタイチというスカウトマンにメロメロなのだ。天性のスカウトマンらしい。
マコトはタイチに取材をしてコラムのネタを仕入れられて満足。でもしばらくしてタイチが、トラブルを解決して欲しい、ってやってきた。
仲のいいウエイトレスがタイチのために風俗嬢になるって決めたらしい。それだけならいいのだが、タイチが運悪く休みの日に、悪徳スカウトマンに捕まってしまったらしいのだ。こんなトラブルならマコトが電話一本掛ければ済む話だけど、それだけでは終わらなくて…。
「伝説の星」
25年前に大ヒット曲を送り出した往年のスターである神宮寺貴信が何故かマコトを探して八百屋の前までやってきた。力を貸して欲しいという。
神宮寺はこれまでの歌手生活の集大成に、ロックの殿堂となる博物館を作ろうとしているのだ。その計画を銀行にアピールするためにゲリラライブをやる予定なのだが、その観客を集めて欲しいという話だった。そんな話なら楽チンだ。
しかしそのライブはどうも不穏な空気を感じる。案の定神宮寺の付き人みたいなグラマーな女がやってきて、トラブルを解決して欲しいと来たんだ…。
「死に至る玩具」
知ってるだろうか。今や世界のおもちゃの8割は中国で作られていることを。そして、おもちゃを作る工場の過酷な労働環境のせいで中国人が過労死していることを。
チャイニーズヘルスのキャッチをしている小桃は、ある時トラブルシューターの噂を聞きつけてマコトの元へやってきた。小桃は、おもちゃ工場で殺された姉の仇を打つために日本にやってきたのだった。
今日本でニッキー・Zという人形。これを作っている会社を小桃は訴えようというのだ。マコトに協力して欲しいという。
折りしもニッキー・Zは一週間後に結婚式を控えているのだ。会社も一大プロモーションを掛けている。やるならこのタイミングで勝負を掛けるしかないが…。
「反自殺クラブ」
反自殺クラブというグループから仕事を手伝って欲しいと声を掛けられた。
その名の通り、自殺を、特に集団自殺を阻止するためのグループだ。メンバーの多くは遺児、つまり親を自殺で亡くした人達だ。
今彼らは、クモ男というやつを追っている。ある自殺系サイトで自殺志願者を集めては自殺をプロデュースしている男だ。なんとしてもこの男を捕まえて叩きのめしたい。
マコトはすぐに、この反自殺クラブの活動の厳しさを知ることになるのだが…。
というような話です。
僕の中では既にこのシリーズは惰性で読んでいますが、まあ今回もそこまででもない感じでした。
やっぱりこのシリーズはもう限界だと僕は思います。それはあまりにもパターンが決まりきってしまっているということです。
シリーズものの難しさは、とにかくパターン化してしまうということです。これはもう避けようがなくて、毎回なんとかパターン化しないように頑張るか、あるいはさっさとシリーズを終わらせるかどっちかしかありません。
このIWGPのシリーズは、誰かがマコトを訪ねる、そいつが何かトラブルに巻き込まれている、マコトは人脈を活かしてトラブルを解決する、という流れです。
とにかくこの人脈を活かしてトラブルを解決するという部分がもうパターン化していますね。大抵、刑事の吉岡に相談するか、Gボーイズのキングであるタカシを動かすか、あるいはヤクザの斎藤を使うか、である。結局このパターンで解決できないトラブルがなくなってしまったのだ。
シリーズが始まった頃は、マコトもまだ人脈なんか全然なくて、何にもないところからのトラブルシューターだった。タカシとだって結構対立するような場面もあったし、打てる手だって限られていた。絶体絶命のピンチも結構あったし、それらを潜り抜けてきたからこそ面白かったと思う。
今では、結構余裕でトラブルを解決出来ちゃうのだ。あっさりしたものである。これからシリーズを続けて行ってもこういう感じだろうなと思う。ちょっともう限界だろうと僕が思うのはそういう理由からだ。
それぞれの話はまあ悪くないかもしれないけど、全体としてなんかパッとしない。パターン化されている物語を好きだっていう人もいるかもしれないけど、やっぱりドキドキが欲しいと思ってします。
話として一番興味深かったのは「死に至る玩具」ですね。これは確か石田衣良が、ビッグイシューという雑誌からネタを拾って書いた話のはずです。最後の自殺の話もそうだけど、でもこの玩具メーカーの話が一番社会問題っぽくて、やっぱり全体の中ではちょっと浮いてる感じはするかな。
ストーリー的には「反自殺クラブ」が一番よかったかなと思います。最後のオチもなかなかよかったと思うし、途中の展開もなるほどって感じです。
まあそんなわけで、そろそろこのシリーズは限界だと僕は思いますけど、でもまだまだ書くでしょうね。スパッと止めた方がいいと思いますけどね、僕は。
石田衣良「反自殺クラブ」
メタボラ(桐野夏生)
生きてるってどういうことだ。何だか突然全然わかんなくなってきたぞ。
生きてるってことは結局どういうことだ。何を目指して生きているんだ。何がしたくて生きてるんだ。生きていることに価値なんかあるのか。
だんだん分からなくなってきた。
僕は毎日生きている。息を吸って吐いて何かを食べ何かを排泄し眠り仕事をし本を読みテレビを見ネットをうろうろし誰かと会話し過去を思い出し未来を予測しながら僕は今生きている。
生きているはずだ。
でも、だから何なんだろう。
そうやって生きているというのはどういうことなんだろう。
本当に分からなくなってきたのだ。
何のために生きているのか。
何のために生きているのか。
何のために生きているのか。
何のために<死なずに>生きているのか。
生きているというのは、本当に辛いことだ。
その辛さを受け入れられるかどうかでまず人生が変わってくる。
僕は、人生の辛さから逃げた人間だ。どうしても許容できなかった。これからも、出来るだけ逃げ続けたいと思っている。ありとあらゆることから。生きているという事実からさえも逃げ出したくなってくるかもしれない。
何だこれは。
この作品を読んで僕は一気に不安定になったような気がする。
直に落ち着くだろうとは思うけど、しかし今はかなり揺さぶられている。こんな感覚は久しぶりだ。
何だろう。
未来に対する漠然とした不安、である。
以前はそうしたことに取り憑かれていた時期があった。未来がやってくるのが怖かった。今の自分の立ち位置から動かなくてはいけないことが怖かった。後ろから押されるのが怖かった。前に進むことが怖かった。生きていくことそのすべてが怖かった。
そんな感覚に少しだけ近い状態になっているような気がする。以前ほどではないし、特に問題はないと思うけど、しかし不安定である自分を自覚出来る。
何のために生きているのか。
これに対する答えは、僕の中には存在しない。
敢えて答えなくてはいけないというのであれば、それは「死ねないから」となるだろう。
ずっと僕はそうだった。
積極的に生きていたいと思った瞬間なんかたぶんなかったと思う。
どんな時でも常に、「死ぬことの出来ない」自分を意識し、その負の感情につられるように生きてきたのだ。ここで踏ん張らなくては堕落へと進んでいく。堕落の行き着く先は死だ。しかし死に直面するのは自分には不可能だ。だから堕落を避けるしかない。堕落を避けるために、最低限まともな生活をしなくてはいけない。常に僕にはこういう発想があった。
最近では、その負の背景を意識せずに生活が出来ていたように思う。現実逃避と言われればそうかもしれないし、ただ慣れたということでもあるのかもしれないけど、とにかく平穏に生活が出来ていたと思う。生きていたいと積極的に思うことはなかったにしろ、まあ生きているのもまあ悪くはないぐらいにはなっていたような気がする。自分を楽観視しようとしてきたし、未来については考えないようにしてきた。今を生きるということに注力しようとしていたのだ。
それが本作を読んで崩されたように思う。いや、もちろんそれは大げさで、裂け目が出来たとか隙間が空いたとかそんなレベルのものだけど、でもなんだかその隙間から嫌なものがどんどんと入り込んできたような気がする。今までシャットアウト出来ていたありとあらゆるもの、不安や葛藤やそういった様々なものが何だかどんどん流れ込んできたような気がする。
恐らくしばらくしたらその穴は塞がるだろうと思う。僕も特に心配をしているわけではない。でもこの感じ、昔長く味わったその嫌な感覚が久々にちょっと生々しくて、何だか気持ち悪くなったのだ。
やっぱこんなことをグダグダ考えて生きているよりも、さっさと死んでしまいたいなと思ったりする。ホント、生きていることがとにかくめんどくさい。何で生きていなきゃいけないんだろうか。この先一体何があるというのだろうか。今でさえ特に楽しくないのだ。これから楽しくなるなんて少しだって希望を持つことは出来ないじゃないか。
もちろん、楽しくするための努力をしていないじゃないかと言われればその通りだ。もっと積極的に努力をして社会と関わろうとすればもっと楽しく生きていけるのかもしれない。しかしその努力をするだけの価値が僕の中でどうしても見出せない。世界と真っ当に向き合うことを拒み続けてきた僕は、いまさら世界と向き合うことなど出来ないのだ。
偶然隕石が落ちてくるとか、たまたま交通事故に巻き込まれるとか、この年で脳卒中とか、もう何でもいい。とにかくあっさり僕を殺してはくれないだろうか。久しぶりに、生きていることの果てしないめんどくささを思い起こさせる作品でした。
そろそろ内容に入ろうと思います。
<僕>はジャングルのような鬱蒼とした森の中をひたすら駆け抜けている。なんだこれは。まるで他人の夢であるかのように現実感がない。とにかく、「ココニイテハイケナイ」という警句が頭の中で響く。逃げなくてはいけない。
しばらくして<僕>は気づいた。<僕>は一体誰だ?名前も何故逃げているのかも、それどころか過去の来歴すべてを思い出すことが出来ない。記憶喪失になってしまったのだ。
森から抜け出した<僕>は、偶然そこで人に出会う。伊良部昭光という男だった。<僕>は彼に事情を話す。記憶をなくしてしまったこと、どこかから逃げているということ、お金も何も一切ないということ。昭光は<僕>に「ギンジ」という名前を与え、水も飲ませてくれ、そしてしばらく一緒にいてくれることになった。ここは沖縄で、伊良部もどこか別の場所から逃げているということだった。
とりあえず当面なんとかなりそうではあるが、しかしこれからどうすればいいというのだ。とりあえずコンビニでバイトをしていた女性の部屋に泊めてもらうことになったが、いつまでもここにいられるわけがない。とにかく金がないし、記憶もない。記憶はともかくも、とにかく金をなんとかしなくてはいけない。
そこからギンジと昭光は長く険しい道筋を歩くことになる。ある時から離れ離れになった二人は、沖縄という特殊な世界の中で、必死に生き抜くことだけを考えて毎日を過ごしていくのだが…。
というような話です。
いやはやホント、読んでて揺さぶられる作品でした。何でかっていうのか分かっていて、要するに本作に出てくるギンジが、いつか僕に重なるかもしれない幻影に思えたからだった。
もちろんギンジと僕は同じ人間ではない。僕と比べたら遥かにギンジの方が辛い人生を歩んでいるだろう。これまでも、そしてこれからも。しかし、根本的には同じ根を持っているのだ。それどころか、日本に住む多くの若者がギンジと似たような根を持っているはずなのだ。
ギンジについて詳しく書くとネタバレになってしまう部分もあるので書かないが、しかし本作は今の若者というのを捉えているように思う。僕だって正確に現状を知っているわけではないけど、でも実態はこんな感じなんだろうと容易に想像が出来る。ギンジだけでなく様々な若者が出てくるが、しかしそのほとんどは今現在の日本の現状を捉えていると思う。こんな若者で日本は溢れているのだ。
そして僕だっていつ似たような境遇になってもおかしくはない。既に片足を突っ込んでいるのだ。僕だけが大丈夫なはずはない。僕だって、いつギンジのようになってもおかしくはない。
そう考えると何だか心がザラザラしてきて、とても平穏な感じで読むことの出来る作品ではありませんでした。あまりにもギンジが自分の幻影に見えて落ち着かなくなりました。それは例えば、大震災を経験した人が大震災を題材にした小説を読むのに近いかもしれません。分かりませんが。
相変わらず桐野夏生は、濃い人間関係を描くのが得意だなと思いました。ノアールやアングラな社会を描いた作品でこういう濃い人間関係を描いたりする作品というのはあるような気がしますが、桐野夏生の作品はそういう系統ではありません。ザラザラとした人間関係を、ごくごく普通の関係性の中から見出そうとし、それを増殖させようとしているように思います。
本作にしても、記憶喪失という設定はまあ特殊にしても、それ以外は沖縄にどこにでもいるような若者や舞台を描いている作品です。そういう世界観の中で繰り広げられる濃い人間関係を描き出すのです。
桐野夏生の登場人物たちは、とにかくその人間性の奥の奥まで探られます。人間に潜む悪意や蔑みみたいなものをこれでもかと深く掘り下げていきます。それは、誰でもこんなものを抱えて生きているのだということを痛烈に突きつけますし、誰しもがそうしたことから逃れることは出来ないのだ、ということを痛感させられます。
生きるということは結局のところ一人になることだという風に強く感じました。豊かだったり平和だったりすれば、人は群れて集まって生きていくことが出来ます。しかし余裕のないザラザラとした環境の中では、人は否応なく一人で生きていくことを押し付けられるのです。生きるという当たり前で前向きな行動が、どんどんと孤独を呼び寄せてくるのです。そうした静かな流れを本作では丁寧に追いかけて描いているように思います。
若い人が読めば圧倒される作品ではないかと思います。また今の若い人の現状を理解できない人が読めば、だからどうしたで終わってしまう作品でもあるかもしれないと思います。とにかく僕の中では、久々に強く揺さぶられる作品でした。なんというか、この作品に何かを破壊されたような気がします。
生きていくということがどういうことなのかということをまざまざと見せ付けられる作品であるように思います。内容が内容だけにオススメするのが忍びない気もしますが、しかしすごい作品だと思います。読んでみてください。
桐野夏生「メタボラ」
生きてるってことは結局どういうことだ。何を目指して生きているんだ。何がしたくて生きてるんだ。生きていることに価値なんかあるのか。
だんだん分からなくなってきた。
僕は毎日生きている。息を吸って吐いて何かを食べ何かを排泄し眠り仕事をし本を読みテレビを見ネットをうろうろし誰かと会話し過去を思い出し未来を予測しながら僕は今生きている。
生きているはずだ。
でも、だから何なんだろう。
そうやって生きているというのはどういうことなんだろう。
本当に分からなくなってきたのだ。
何のために生きているのか。
何のために生きているのか。
何のために生きているのか。
何のために<死なずに>生きているのか。
生きているというのは、本当に辛いことだ。
その辛さを受け入れられるかどうかでまず人生が変わってくる。
僕は、人生の辛さから逃げた人間だ。どうしても許容できなかった。これからも、出来るだけ逃げ続けたいと思っている。ありとあらゆることから。生きているという事実からさえも逃げ出したくなってくるかもしれない。
何だこれは。
この作品を読んで僕は一気に不安定になったような気がする。
直に落ち着くだろうとは思うけど、しかし今はかなり揺さぶられている。こんな感覚は久しぶりだ。
何だろう。
未来に対する漠然とした不安、である。
以前はそうしたことに取り憑かれていた時期があった。未来がやってくるのが怖かった。今の自分の立ち位置から動かなくてはいけないことが怖かった。後ろから押されるのが怖かった。前に進むことが怖かった。生きていくことそのすべてが怖かった。
そんな感覚に少しだけ近い状態になっているような気がする。以前ほどではないし、特に問題はないと思うけど、しかし不安定である自分を自覚出来る。
何のために生きているのか。
これに対する答えは、僕の中には存在しない。
敢えて答えなくてはいけないというのであれば、それは「死ねないから」となるだろう。
ずっと僕はそうだった。
積極的に生きていたいと思った瞬間なんかたぶんなかったと思う。
どんな時でも常に、「死ぬことの出来ない」自分を意識し、その負の感情につられるように生きてきたのだ。ここで踏ん張らなくては堕落へと進んでいく。堕落の行き着く先は死だ。しかし死に直面するのは自分には不可能だ。だから堕落を避けるしかない。堕落を避けるために、最低限まともな生活をしなくてはいけない。常に僕にはこういう発想があった。
最近では、その負の背景を意識せずに生活が出来ていたように思う。現実逃避と言われればそうかもしれないし、ただ慣れたということでもあるのかもしれないけど、とにかく平穏に生活が出来ていたと思う。生きていたいと積極的に思うことはなかったにしろ、まあ生きているのもまあ悪くはないぐらいにはなっていたような気がする。自分を楽観視しようとしてきたし、未来については考えないようにしてきた。今を生きるということに注力しようとしていたのだ。
それが本作を読んで崩されたように思う。いや、もちろんそれは大げさで、裂け目が出来たとか隙間が空いたとかそんなレベルのものだけど、でもなんだかその隙間から嫌なものがどんどんと入り込んできたような気がする。今までシャットアウト出来ていたありとあらゆるもの、不安や葛藤やそういった様々なものが何だかどんどん流れ込んできたような気がする。
恐らくしばらくしたらその穴は塞がるだろうと思う。僕も特に心配をしているわけではない。でもこの感じ、昔長く味わったその嫌な感覚が久々にちょっと生々しくて、何だか気持ち悪くなったのだ。
やっぱこんなことをグダグダ考えて生きているよりも、さっさと死んでしまいたいなと思ったりする。ホント、生きていることがとにかくめんどくさい。何で生きていなきゃいけないんだろうか。この先一体何があるというのだろうか。今でさえ特に楽しくないのだ。これから楽しくなるなんて少しだって希望を持つことは出来ないじゃないか。
もちろん、楽しくするための努力をしていないじゃないかと言われればその通りだ。もっと積極的に努力をして社会と関わろうとすればもっと楽しく生きていけるのかもしれない。しかしその努力をするだけの価値が僕の中でどうしても見出せない。世界と真っ当に向き合うことを拒み続けてきた僕は、いまさら世界と向き合うことなど出来ないのだ。
偶然隕石が落ちてくるとか、たまたま交通事故に巻き込まれるとか、この年で脳卒中とか、もう何でもいい。とにかくあっさり僕を殺してはくれないだろうか。久しぶりに、生きていることの果てしないめんどくささを思い起こさせる作品でした。
そろそろ内容に入ろうと思います。
<僕>はジャングルのような鬱蒼とした森の中をひたすら駆け抜けている。なんだこれは。まるで他人の夢であるかのように現実感がない。とにかく、「ココニイテハイケナイ」という警句が頭の中で響く。逃げなくてはいけない。
しばらくして<僕>は気づいた。<僕>は一体誰だ?名前も何故逃げているのかも、それどころか過去の来歴すべてを思い出すことが出来ない。記憶喪失になってしまったのだ。
森から抜け出した<僕>は、偶然そこで人に出会う。伊良部昭光という男だった。<僕>は彼に事情を話す。記憶をなくしてしまったこと、どこかから逃げているということ、お金も何も一切ないということ。昭光は<僕>に「ギンジ」という名前を与え、水も飲ませてくれ、そしてしばらく一緒にいてくれることになった。ここは沖縄で、伊良部もどこか別の場所から逃げているということだった。
とりあえず当面なんとかなりそうではあるが、しかしこれからどうすればいいというのだ。とりあえずコンビニでバイトをしていた女性の部屋に泊めてもらうことになったが、いつまでもここにいられるわけがない。とにかく金がないし、記憶もない。記憶はともかくも、とにかく金をなんとかしなくてはいけない。
そこからギンジと昭光は長く険しい道筋を歩くことになる。ある時から離れ離れになった二人は、沖縄という特殊な世界の中で、必死に生き抜くことだけを考えて毎日を過ごしていくのだが…。
というような話です。
いやはやホント、読んでて揺さぶられる作品でした。何でかっていうのか分かっていて、要するに本作に出てくるギンジが、いつか僕に重なるかもしれない幻影に思えたからだった。
もちろんギンジと僕は同じ人間ではない。僕と比べたら遥かにギンジの方が辛い人生を歩んでいるだろう。これまでも、そしてこれからも。しかし、根本的には同じ根を持っているのだ。それどころか、日本に住む多くの若者がギンジと似たような根を持っているはずなのだ。
ギンジについて詳しく書くとネタバレになってしまう部分もあるので書かないが、しかし本作は今の若者というのを捉えているように思う。僕だって正確に現状を知っているわけではないけど、でも実態はこんな感じなんだろうと容易に想像が出来る。ギンジだけでなく様々な若者が出てくるが、しかしそのほとんどは今現在の日本の現状を捉えていると思う。こんな若者で日本は溢れているのだ。
そして僕だっていつ似たような境遇になってもおかしくはない。既に片足を突っ込んでいるのだ。僕だけが大丈夫なはずはない。僕だって、いつギンジのようになってもおかしくはない。
そう考えると何だか心がザラザラしてきて、とても平穏な感じで読むことの出来る作品ではありませんでした。あまりにもギンジが自分の幻影に見えて落ち着かなくなりました。それは例えば、大震災を経験した人が大震災を題材にした小説を読むのに近いかもしれません。分かりませんが。
相変わらず桐野夏生は、濃い人間関係を描くのが得意だなと思いました。ノアールやアングラな社会を描いた作品でこういう濃い人間関係を描いたりする作品というのはあるような気がしますが、桐野夏生の作品はそういう系統ではありません。ザラザラとした人間関係を、ごくごく普通の関係性の中から見出そうとし、それを増殖させようとしているように思います。
本作にしても、記憶喪失という設定はまあ特殊にしても、それ以外は沖縄にどこにでもいるような若者や舞台を描いている作品です。そういう世界観の中で繰り広げられる濃い人間関係を描き出すのです。
桐野夏生の登場人物たちは、とにかくその人間性の奥の奥まで探られます。人間に潜む悪意や蔑みみたいなものをこれでもかと深く掘り下げていきます。それは、誰でもこんなものを抱えて生きているのだということを痛烈に突きつけますし、誰しもがそうしたことから逃れることは出来ないのだ、ということを痛感させられます。
生きるということは結局のところ一人になることだという風に強く感じました。豊かだったり平和だったりすれば、人は群れて集まって生きていくことが出来ます。しかし余裕のないザラザラとした環境の中では、人は否応なく一人で生きていくことを押し付けられるのです。生きるという当たり前で前向きな行動が、どんどんと孤独を呼び寄せてくるのです。そうした静かな流れを本作では丁寧に追いかけて描いているように思います。
若い人が読めば圧倒される作品ではないかと思います。また今の若い人の現状を理解できない人が読めば、だからどうしたで終わってしまう作品でもあるかもしれないと思います。とにかく僕の中では、久々に強く揺さぶられる作品でした。なんというか、この作品に何かを破壊されたような気がします。
生きていくということがどういうことなのかということをまざまざと見せ付けられる作品であるように思います。内容が内容だけにオススメするのが忍びない気もしますが、しかしすごい作品だと思います。読んでみてください。
桐野夏生「メタボラ」
黄色い目の魚(佐藤多佳子)
僕の好きなタイプの女性の話をしよう。これは前に、石持浅海の「扉は閉ざされたまま」という本の感想の中でも書いたような記憶があるのだけど、でもその時とはまた別の内容になるかもしれない。
好きなタイプの女性と言われると、まあ実は困ってしまうのだ。今まで好きになった人のことを思い浮かべて共通点を探してみても、どうなんだろうなぁ、とか思う。
それでも言葉にしようと思えば、とにかく「変わった人」が好きだ、となるだろう。
逆に、僕がどんな女性が嫌いなのかを書くと、とにかくそれは「普通の人」だ。とにかく僕は普通っていうのが好きになれない。
例えば学校には、クラスで一番可愛いとか学年で一番綺麗みたいな女子がいるものである。ただそういう女の子にはこれまであんまり惹かれなかったような気がする。もちろん綺麗だとか可愛いだとかは思うけど、でもそれだけ。それ以上の感情にはならなかったような気がする。
それは雑誌のモデルなんかを見ていてもいつも思う。彼女たちはそりゃあ日本一と言ってもいいくらい綺麗だったり可愛かったりする。でも別に、綺麗だなぁとか思うだけでそれ以上なんてことはない。もちろん彼女達について詳しいことは知らないから、もしかしたら知り合って接するようになれば変わるのかもしれないけど、とにかく綺麗だとか可愛いとかだけでは好きになることはない。
あと考え方が普通とかありきたりというのもダメだ。例えば僕はブランド物が好きな女性とかってのがダメなんだけど、それはとにかく考えることを放棄しているように見えるからだ。ブランド物を持っていさえすればあたしってすごい、みたいなそんな価値観を持った人は好きになれない。もちろんブランド物を持っていても、そこのブランドの質は本当に信頼できるとか、あるいはこのブランドのあり方みたいなのには共感できるとか、そういう理由でブランド物を持っている人であれば別に全然いいんだけど。
流行に敏感だったりとか、周りの人がやっていることを真似するようなのとか、基本的にダメである。どうしてそうやって「その人らしさ」を消そうとするのか分からない。好きになれない。
僕は変わった人が好きなのだけど、それは結構男っぽい感じという風にも表現できたりする。女性なのに、男みたいな考え方や判断をする人とか結構惹かれる。外見とか声とかをそっくりそのまま男のものに入れ替えたらそのまま男としてやっていけるんじゃないかって思える人とか結構いいと思う。女性ってのはこうあるべきだとかっていう型に嵌まっている人より遥かに気になる。
そう、この気になるというのが僕には重要で、違和感を感じさせたり歪んでいたりあるいはざらざらしていたり、そういう部分が僕には気になるし、気になったら好きになる。もっとその人のことを知りたい、と思う。何が違和感を感じさせるのか、どこがどう歪んでいるのか、そういうことを知りたくなる。知りたくなって知ろうとするんだけど、でも全然近づけないみたいなのがいい。
そういう女性っていうのは、割と周囲に溶け込めなかったりする。周囲から嫌われていたりする場合もあるかもしれない。浮いているというのとは違うけど、周りの人間とは一線を画しているっていうか、そんな風に思えることがある。
実際僕は、周囲の人間があんまりいい評価ではない人というのを好きになったことがある。もちろん僕は周りの人の意見にうんうんとかいって頷いたりとかしてるんだけど、でもそうやって周囲の人間を苛立たせる相手に興味を惹かれたりする。人と違っていても自分を貫き通そうとするところが魅力的だったりする。
そう、孤高とかって表現できる人も結構好きなんだ。群れていたりするんじゃなくて、一人でも全然平気みたいな。よく女性は一人でラーメン屋に行けないとか言うけど、でも一人でだって平気でラーメン屋に行けちゃう人とかいい。一人でいても全然孤独にも孤立しているようにも見えなくて、まさに孤高としか言えないような人。泰然としていて、周りの人間との関係性とは無関係に存在しているような人ってすごく素敵だと思う。
それは二人の関係性でも同じで、僕が一番理想的だなって思うのは、沈黙が許容される関係である。二人きりでいてもお互い全然喋らなくて、それでも全然気詰まりになったり重い空気になったりしないみたいなのが素晴らしいと思う。お互いに気持ちが乗れば会話をする、そうじゃなければお互い空気みたいな存在でいる。別に冷めてるとかじゃなくって、それが自然に見えるような人がいい。
あと、嘘をつかなくてもいい関係っていいなと思う。例えばだけど、料理を作ってくれるとするじゃないですか。でその料理が不味かったとする。そういう時僕としては、「料理は不味いけど作ってくれてありがとう」って言いたいのだ。でも女性としては「不味い」と言われるのは何よりもいやなのだろう。そういう雰囲気を出しているように思う。イメージだけど。でも僕はなるべく嘘はつきたくないのだ。だから、「不味い」っていう僕の評価を受け入れてくれるような人がいい。
とまあいろいろ書いてみたけど、ホントとにかく「変わってる人」を見るとついつい惹かれてしまうのだ。今まで好きになった人のことを考えてみると、やっぱみんな結構変わっていたように思う。別に天然だろうが馬鹿だろうがなんでもいいんだけど、どこかずば抜けているようなところがあったり、あるいは満遍なく歪んでいたりするような人がいい。
やっぱりなかなかそう言う人は多くないのだけど、でも時々いるものである。芸能人で言うと、まあこれは全部イメージだけど、柴崎コウとか沢尻エリカとか中谷美紀とかそういう感じの人がいい。全員僕のイメージの中では「変わった人」である。
あと付け足しのように外見のことも書いてみるけど、僕は足フェチなので足が綺麗な人がいいなぁ、とか思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、悟とみのりという二人の高校生の物語です。
悟は妹と母親とおじいちゃんの4人暮らし。父親とは悟が小さいことに離婚している。かつて一度だけ会ったことがある。母親からその「テッセイ」という父親の話を嫌というほど聞かされてきたので怖かったが、まあ変な男だった。絵を書く男だった。それに影響されたのか、悟も絵を書くようになる。
みのりはとにかく周りに嫌なことばっかりあって、いつもイライラしている子供だった。親友と何回も絶交したし、家族もみんなみのりのことを迷惑がっている。あたしの居場所なんてどこにもない。唯一、通ちゃんのアトリエを除いては。
通というのは叔父で、母の弟である。漫画家でイラストレーターで、いつもフラフラしている変な叔父だ。家族からは滅法評判が悪いのだけど、でもみのりはこの叔父が大好きだった。叔父が書く絵も好きだったり、叔父のことも大好きだった。いつも叔父のアトリエに入りびたっていた。そこにしか居場所がなかった。
悟とみのりは高校で出会った。
みのりは相変わらずちょっと浮いた存在で、悟もまた同じだった。みのりはそのカッカする性格を抑え切れなかったし、悟は気づくと誰かの似顔絵を書いていてよくクラスメートや先生に怒られていた。
美術の授業で、対面に座る相手の絵を書くことになった。みのりと悟は向かい合わせに座っていた。その日悟はみのりの絵を書き、そしてみのりのことが気になりだした。異性としてっていうのではなく、とにかくみのりの絵を描きたいっていう衝動だった。
それからは常にみのりを視界の中で探すようになってしまった。みのりの顔を描くのはなんか難しい。どうもみのりという存在を描ききれていないような感じだ。それでも何度も絵を描いてしまう。
一方でみのりの方も、一生懸命自分の絵を描こうとしている悟のことが気になってくる。みのりはそもそも、絵を描いているのを見るのが好きなのだ。
二人は付き合っているわけでもないけど友達というのとも違うという微妙な関係を続けながら、お互いの日常を必死で生きていた。二人とも、何だか窮屈だった。テッセイと叔父という存在に囚われ続けているということもあった。二人はお互いにお互いと出会うことで、それまでとは違う新しい道を歩み始めようとするのだが…。
というような話です。
相変わらず佐藤多佳子という作家はすごいなと思いました。本作もグイグイ読まされてしまう感じでした。
佐藤多佳子の作品を読むといつも思うことで、たぶん感想にも毎回書いていると思うのだけど、とにかく佐藤多佳子の小説に出てくるキャラクターというのは本当に生きているような感じがある。質感というのか、とにかく存在感が強いのだ。目の前で彼らが笑ったり怒ったりしているのを見ているような感覚になる。主要な人物だけでなく、脇役でさえも印象深い存在感を残す。本当にこの活き活きとしたキャラクターを生み出すことの出来る著者はすごいものだなと思いました。
僕が冒頭で好きな女性の話を書いたのは、このみのりという女性が結構好きな感じだったからです。ここまで強烈だと疲れちゃうかもしれないけど、でも女性らしくない独特の感じが僕の中では結構魅力的に映ります。初めの方で、美容院は嫌いだから自分で髪の毛を切ってしまうみのりを母親が無理矢理美容院に連れて行くシーンがあります。無理矢理連れてこられたみのりは美容師の人に、スポーツ刈りにしてくれって言って本当にしてしまいます。そういう、頑固で引けないところとか、誰かと戦い続けるようなところとか、結構好きですね。
悟はとにかく絵がうまい男の子なんだけど、ホント絵が巧いっていうのは憧れますね。学校にはやっぱりとにかく絵の巧い人ってのはいるわけで、僕も二人覚えていますけど、あれはなんなんでしょうね。もう別格って感じです。僕は本当に絵のセンスがゼロで、それはこのブログの左のラインにあるお絵描きのやつを見てくれれば分かると思うんですけど、とにかくへこみますね。
絵の巧い人っていうのはどうやって世界を見ているのか気になりますね。何が違うんだろうって思います。見ているものは同じで技術だけの差なのか、あるいは見ているものがそもそも違うのか。僕は後者だと思うんですよね、やっぱり。絵の巧い人ってのはやっぱ羨ましいなぁ、とか思います。
ストーリーはこれと言って決まった骨格みたいなものがあるわけではありません。そういう意味ではなんか不思議な話ですね。トラブルが起こったり事件が発生したりすることもなく、また分かりやすい学園ドラマが展開するわけでもなく、一瞬先に物語がどういう方向へ進んで行くのかあんまり予想の出来ないタイプのような感じがしました。登場人物が勝手気ままに動いているような感じで、でも収まるべきところに収まるという印象。どこまでも発散してしまいそうな危うげなストーリーなんだけど、でもバラバラになってしまうわけでもない微妙なバランスを保った作品であるように思いました。
こういう青春小説が書ける作家ってのはなかなかいないような気がします。そもそも佐藤多佳子という作家は、少年少女を描くのが異様に巧い気がします。まさに重松清の女版という感じでしょうか。ってこれは前もどこかで書いたような気もしますけど。
佐藤多佳子の作品は、人間の関係性みたいなものが強く描かれている印象があって、さらにキャラクターの存在感がものすごく強いので、それを容れる器であるストーリーはどんなものでも大丈夫なのかもしれない、とか思いました。別にストーリーが面白くないと言いたいわけではなくて、ストーリー自体の面白さから作品が独立出来るのだろうな、という印象があります。そういう印象を抱かせる作家というのはあまり多くない気がします。
というわけで、佐藤多佳子の作品はどれもオススメです。すごい作家だと思います。「一瞬の風になれ」を読むまでこの作家の作品を読んでこなかったのが恥ずかしいくらいです。是非読んでみてください。
佐藤多佳子「黄色い目の魚」
好きなタイプの女性と言われると、まあ実は困ってしまうのだ。今まで好きになった人のことを思い浮かべて共通点を探してみても、どうなんだろうなぁ、とか思う。
それでも言葉にしようと思えば、とにかく「変わった人」が好きだ、となるだろう。
逆に、僕がどんな女性が嫌いなのかを書くと、とにかくそれは「普通の人」だ。とにかく僕は普通っていうのが好きになれない。
例えば学校には、クラスで一番可愛いとか学年で一番綺麗みたいな女子がいるものである。ただそういう女の子にはこれまであんまり惹かれなかったような気がする。もちろん綺麗だとか可愛いだとかは思うけど、でもそれだけ。それ以上の感情にはならなかったような気がする。
それは雑誌のモデルなんかを見ていてもいつも思う。彼女たちはそりゃあ日本一と言ってもいいくらい綺麗だったり可愛かったりする。でも別に、綺麗だなぁとか思うだけでそれ以上なんてことはない。もちろん彼女達について詳しいことは知らないから、もしかしたら知り合って接するようになれば変わるのかもしれないけど、とにかく綺麗だとか可愛いとかだけでは好きになることはない。
あと考え方が普通とかありきたりというのもダメだ。例えば僕はブランド物が好きな女性とかってのがダメなんだけど、それはとにかく考えることを放棄しているように見えるからだ。ブランド物を持っていさえすればあたしってすごい、みたいなそんな価値観を持った人は好きになれない。もちろんブランド物を持っていても、そこのブランドの質は本当に信頼できるとか、あるいはこのブランドのあり方みたいなのには共感できるとか、そういう理由でブランド物を持っている人であれば別に全然いいんだけど。
流行に敏感だったりとか、周りの人がやっていることを真似するようなのとか、基本的にダメである。どうしてそうやって「その人らしさ」を消そうとするのか分からない。好きになれない。
僕は変わった人が好きなのだけど、それは結構男っぽい感じという風にも表現できたりする。女性なのに、男みたいな考え方や判断をする人とか結構惹かれる。外見とか声とかをそっくりそのまま男のものに入れ替えたらそのまま男としてやっていけるんじゃないかって思える人とか結構いいと思う。女性ってのはこうあるべきだとかっていう型に嵌まっている人より遥かに気になる。
そう、この気になるというのが僕には重要で、違和感を感じさせたり歪んでいたりあるいはざらざらしていたり、そういう部分が僕には気になるし、気になったら好きになる。もっとその人のことを知りたい、と思う。何が違和感を感じさせるのか、どこがどう歪んでいるのか、そういうことを知りたくなる。知りたくなって知ろうとするんだけど、でも全然近づけないみたいなのがいい。
そういう女性っていうのは、割と周囲に溶け込めなかったりする。周囲から嫌われていたりする場合もあるかもしれない。浮いているというのとは違うけど、周りの人間とは一線を画しているっていうか、そんな風に思えることがある。
実際僕は、周囲の人間があんまりいい評価ではない人というのを好きになったことがある。もちろん僕は周りの人の意見にうんうんとかいって頷いたりとかしてるんだけど、でもそうやって周囲の人間を苛立たせる相手に興味を惹かれたりする。人と違っていても自分を貫き通そうとするところが魅力的だったりする。
そう、孤高とかって表現できる人も結構好きなんだ。群れていたりするんじゃなくて、一人でも全然平気みたいな。よく女性は一人でラーメン屋に行けないとか言うけど、でも一人でだって平気でラーメン屋に行けちゃう人とかいい。一人でいても全然孤独にも孤立しているようにも見えなくて、まさに孤高としか言えないような人。泰然としていて、周りの人間との関係性とは無関係に存在しているような人ってすごく素敵だと思う。
それは二人の関係性でも同じで、僕が一番理想的だなって思うのは、沈黙が許容される関係である。二人きりでいてもお互い全然喋らなくて、それでも全然気詰まりになったり重い空気になったりしないみたいなのが素晴らしいと思う。お互いに気持ちが乗れば会話をする、そうじゃなければお互い空気みたいな存在でいる。別に冷めてるとかじゃなくって、それが自然に見えるような人がいい。
あと、嘘をつかなくてもいい関係っていいなと思う。例えばだけど、料理を作ってくれるとするじゃないですか。でその料理が不味かったとする。そういう時僕としては、「料理は不味いけど作ってくれてありがとう」って言いたいのだ。でも女性としては「不味い」と言われるのは何よりもいやなのだろう。そういう雰囲気を出しているように思う。イメージだけど。でも僕はなるべく嘘はつきたくないのだ。だから、「不味い」っていう僕の評価を受け入れてくれるような人がいい。
とまあいろいろ書いてみたけど、ホントとにかく「変わってる人」を見るとついつい惹かれてしまうのだ。今まで好きになった人のことを考えてみると、やっぱみんな結構変わっていたように思う。別に天然だろうが馬鹿だろうがなんでもいいんだけど、どこかずば抜けているようなところがあったり、あるいは満遍なく歪んでいたりするような人がいい。
やっぱりなかなかそう言う人は多くないのだけど、でも時々いるものである。芸能人で言うと、まあこれは全部イメージだけど、柴崎コウとか沢尻エリカとか中谷美紀とかそういう感じの人がいい。全員僕のイメージの中では「変わった人」である。
あと付け足しのように外見のことも書いてみるけど、僕は足フェチなので足が綺麗な人がいいなぁ、とか思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、悟とみのりという二人の高校生の物語です。
悟は妹と母親とおじいちゃんの4人暮らし。父親とは悟が小さいことに離婚している。かつて一度だけ会ったことがある。母親からその「テッセイ」という父親の話を嫌というほど聞かされてきたので怖かったが、まあ変な男だった。絵を書く男だった。それに影響されたのか、悟も絵を書くようになる。
みのりはとにかく周りに嫌なことばっかりあって、いつもイライラしている子供だった。親友と何回も絶交したし、家族もみんなみのりのことを迷惑がっている。あたしの居場所なんてどこにもない。唯一、通ちゃんのアトリエを除いては。
通というのは叔父で、母の弟である。漫画家でイラストレーターで、いつもフラフラしている変な叔父だ。家族からは滅法評判が悪いのだけど、でもみのりはこの叔父が大好きだった。叔父が書く絵も好きだったり、叔父のことも大好きだった。いつも叔父のアトリエに入りびたっていた。そこにしか居場所がなかった。
悟とみのりは高校で出会った。
みのりは相変わらずちょっと浮いた存在で、悟もまた同じだった。みのりはそのカッカする性格を抑え切れなかったし、悟は気づくと誰かの似顔絵を書いていてよくクラスメートや先生に怒られていた。
美術の授業で、対面に座る相手の絵を書くことになった。みのりと悟は向かい合わせに座っていた。その日悟はみのりの絵を書き、そしてみのりのことが気になりだした。異性としてっていうのではなく、とにかくみのりの絵を描きたいっていう衝動だった。
それからは常にみのりを視界の中で探すようになってしまった。みのりの顔を描くのはなんか難しい。どうもみのりという存在を描ききれていないような感じだ。それでも何度も絵を描いてしまう。
一方でみのりの方も、一生懸命自分の絵を描こうとしている悟のことが気になってくる。みのりはそもそも、絵を描いているのを見るのが好きなのだ。
二人は付き合っているわけでもないけど友達というのとも違うという微妙な関係を続けながら、お互いの日常を必死で生きていた。二人とも、何だか窮屈だった。テッセイと叔父という存在に囚われ続けているということもあった。二人はお互いにお互いと出会うことで、それまでとは違う新しい道を歩み始めようとするのだが…。
というような話です。
相変わらず佐藤多佳子という作家はすごいなと思いました。本作もグイグイ読まされてしまう感じでした。
佐藤多佳子の作品を読むといつも思うことで、たぶん感想にも毎回書いていると思うのだけど、とにかく佐藤多佳子の小説に出てくるキャラクターというのは本当に生きているような感じがある。質感というのか、とにかく存在感が強いのだ。目の前で彼らが笑ったり怒ったりしているのを見ているような感覚になる。主要な人物だけでなく、脇役でさえも印象深い存在感を残す。本当にこの活き活きとしたキャラクターを生み出すことの出来る著者はすごいものだなと思いました。
僕が冒頭で好きな女性の話を書いたのは、このみのりという女性が結構好きな感じだったからです。ここまで強烈だと疲れちゃうかもしれないけど、でも女性らしくない独特の感じが僕の中では結構魅力的に映ります。初めの方で、美容院は嫌いだから自分で髪の毛を切ってしまうみのりを母親が無理矢理美容院に連れて行くシーンがあります。無理矢理連れてこられたみのりは美容師の人に、スポーツ刈りにしてくれって言って本当にしてしまいます。そういう、頑固で引けないところとか、誰かと戦い続けるようなところとか、結構好きですね。
悟はとにかく絵がうまい男の子なんだけど、ホント絵が巧いっていうのは憧れますね。学校にはやっぱりとにかく絵の巧い人ってのはいるわけで、僕も二人覚えていますけど、あれはなんなんでしょうね。もう別格って感じです。僕は本当に絵のセンスがゼロで、それはこのブログの左のラインにあるお絵描きのやつを見てくれれば分かると思うんですけど、とにかくへこみますね。
絵の巧い人っていうのはどうやって世界を見ているのか気になりますね。何が違うんだろうって思います。見ているものは同じで技術だけの差なのか、あるいは見ているものがそもそも違うのか。僕は後者だと思うんですよね、やっぱり。絵の巧い人ってのはやっぱ羨ましいなぁ、とか思います。
ストーリーはこれと言って決まった骨格みたいなものがあるわけではありません。そういう意味ではなんか不思議な話ですね。トラブルが起こったり事件が発生したりすることもなく、また分かりやすい学園ドラマが展開するわけでもなく、一瞬先に物語がどういう方向へ進んで行くのかあんまり予想の出来ないタイプのような感じがしました。登場人物が勝手気ままに動いているような感じで、でも収まるべきところに収まるという印象。どこまでも発散してしまいそうな危うげなストーリーなんだけど、でもバラバラになってしまうわけでもない微妙なバランスを保った作品であるように思いました。
こういう青春小説が書ける作家ってのはなかなかいないような気がします。そもそも佐藤多佳子という作家は、少年少女を描くのが異様に巧い気がします。まさに重松清の女版という感じでしょうか。ってこれは前もどこかで書いたような気もしますけど。
佐藤多佳子の作品は、人間の関係性みたいなものが強く描かれている印象があって、さらにキャラクターの存在感がものすごく強いので、それを容れる器であるストーリーはどんなものでも大丈夫なのかもしれない、とか思いました。別にストーリーが面白くないと言いたいわけではなくて、ストーリー自体の面白さから作品が独立出来るのだろうな、という印象があります。そういう印象を抱かせる作家というのはあまり多くない気がします。
というわけで、佐藤多佳子の作品はどれもオススメです。すごい作家だと思います。「一瞬の風になれ」を読むまでこの作家の作品を読んでこなかったのが恥ずかしいくらいです。是非読んでみてください。
佐藤多佳子「黄色い目の魚」
幽霊人命救助隊(高野和明)
日本では今、年間で3万人近くの自殺者がいるらしい。一日100人近くが自殺をしていることになる。これは、交通事故で死亡する人の数よりも多い、という統計をどこかで見たことがある。世の中がおかしい、と僕は思う。
日本には、自殺を美徳と捉える風潮がある。赤穂浪士や特攻隊など、僕は特別詳しい知識を持っているわけではないけれども、以前から自ら死ぬということがよしとされてきたようなところがある。それは現代でもそう変わってはいなくて、問題を起こした会社の経営者が自殺したりなんていうニュースはよく見る。自殺をすることで責任を取ることが出来る、という風に考えているのだ。
それはすべて錯覚に過ぎない。自殺というのは、どんな形であれいけないものだと思う。どれほど美しく見えようともそれはやはり幻想だと思う。自ら死ぬことが美しいなんてことがあってはいけない。醜くても生き続けることが正しいのだろうと思う。
というようなことを偉そうに言っているけども、僕も実際自殺を考えたことがある。いろんな感想のところで何度も書いたことだけど、まあ何度でも書こう。
そもそも今僕は、そこまで生きていたいと思っているわけではない。僕は今の生活にそこそこ満足をしているけれども、しかしそれは生きたいという欲求があるということとは関係ない。僕は基本的には生きていたくない人間なのだ。生きることに興味も関心もない人間だ。僕は自分が自殺だけは出来ない人間であることを知っているのだ。だからこそ、とりあえず生きているしかない。生きているしかないなら、なるべく満足いく生活をしよう。まあそんな発想だ。
本作にも、生きていたくないと思っている自殺志願者が出てくる。麻美というその女性は、自分は嫌な人間であると思っているし、周囲の人間から嫌われていると思っている。生きている価値はないし、生きていたいとも思わない。そういう人間だ。
僕はその麻美の部分を読んで、なるほど僕もそうだなと思いました。死にたいわけでは決してないけど、でも生きていたいわけでもない。僕の推測では、現代人には結構こういう人が多いのではないか、と思う。
ただかつて僕は、とにかく積極的に死ぬしかないと考えていた時期があった。何かを考え始めると、どんな発端であれ最後は死ぬことしか考えられなくなるような時期が確かにあった。
その頃僕は、大学三年生になろうという時期だった。その春休みの辺りから、僕は次第にダメになっていった。
この時のことをちゃんと説明するというのは未だに僕には出来ないのだけど、本作を読んで一つ、こういうことだったのかもしれないなと思えることがあった。
大学三年と言えば就職活動を控える時期だ。僕は理系の学部にいたのでそのまま院に進むという選択肢ももちろんあっただろうけど、僕には院に進むというのも就職活動と同じようなものにしか思えなかった。
とにかく僕は、サラリーマンというものになりたくなかったのだ。
というとただの我がままだと思われるかもしれないが、自分ではそうではないつもりだ。言い方を変えると、僕はサラリーマンになったら100%自滅するということが手に取るように分かっていたのだ。「火を見るより明らか」という表現があるけれども、まさにその通りだった。
本作には自殺志願者として、とにかく会社に行きたくなくて仕方ない人々というのが出てくる。理由は様々だが、会社の中で冷遇されているような気がするとか、尋常ではないサービス残業をさせられているとか、上司や部下から信頼されていないとか、要するにそういうようなことから激しく落ち込んでしまうような人々である。
要するにうつ病だ。
僕は大学三年の時点で、というかそれよりも遥か昔から、自分にはサラリーマンは無理だと分かっていた。うつ病という言葉を昔から知っていたかどうかは定かではないけど、でもとにかくサラリーマンになったら自分は間違いなくうつ病になるだろうと予測が出来た。
サラリーマンになるということは自分を殺すことと同じだ。組織のために歯車になれ、と言われる。自分の意に添わない仕事だろうが明らかに理不尽な仕事だろうが、それが組織を回していくために必要であればやらなくてはいけない。日本以外の国の状況について知っているわけではないけど、しかし日本の会社というのはよりそういう体質を持った組織であると思う。
僕は絶対そういうことには耐えられないのだ。仕事が出来もしない癖におべんちゃらやよいしょだけで出世するやつとか、仕事を取るために取引先に媚びて媚びて卑屈にならなくてはいけないとか、そういうまったく合理的ではないことが出来ない人間なのである。よしんばそこまで酷い会社でなくても、会社というのは努力をすれば報われるという場所ではない。上司が無能であるかもしれないし、人の功績を奪おうとする人間がいるかもしれないし、ほんの些細なことで評価が下がったりする。
仕事が真面目に評価されるのであれば、僕はいくらでも働くだろう。僕はそもそもお金には興味がないので出世とか昇進とかにはあんまり興味が持てないのだけど、仕事をきっちりとやってすべてがぴたっとうまくいくみたいなそういう達成感はすごく好きなのだ。チームで動き、皆が同じように努力をし、そうして一つの成果を勝ち取るというのが好きなのである。
サラリーマンではそういう達成感を味わえないばかりか、自分の努力がまるで評価されないということにもなりかねない。だからこそ、僕はサラリーマンという仕事は出来ないと思っていたのだ。
だから大学三年になろうとしていた僕はとにかく憂鬱だった。このまま学生生活を営んでいれば、近い内に就職活動をしなくてはいけなくなる。僕がもっともなりたくないサラリーマンへの道がどんどんと近づいてくるのだ。しかしそれだけは無理だ。就職活動をすることもサラリーマンとして働くことも僕にはまず絶対に出来ない。それは確信であり揺らぐことのない真理だったのだ。
その頃の僕は、とにかくそんなことばかり考えていたと思う。このままではいけない、とは思うのだけど、しかし前に進めば進むほど自分がまったく行きたくもない場所が近づいてしまう。停滞することは許されないのに、しかし一方で僕の心は停滞こそを望んでいたのだ。
それまでの僕は非常に真面目に生きてきた。親に反抗をしたこともないし、学校の成績も結構よかった。誰からも真面目な人間であると思われていたのではないか、と思う。特に、たぶん両親からは過剰な期待が掛けられていたように思う。それも僕の中ではプレッシャーだった。
そうやって僕は毎日ウダウダと悩み続けていた。いや、それも違うか。大学三年になってからは一度も授業に出なかった。友人にも会わなくなった。ひたすら家に閉じこもってテレビを見ていた。
このままではいけない、という思いが、次第にもう死ぬしかないに変わっていった。このままでいいはずがないけど、でも自分にはどうしようもない。だったらもう死ぬしかないんじゃないだろうか、と。
たぶんあの時期の僕は、そんな風だったのではないかと思う。とにかく辛かった。何も考えたくなかった。すべてのことから逃げ出したかった。誰も自分のことなんか判ってくれないだろうと思っていた。誰とも会いたくなかった。そういう中で、もう死ぬしかないんだろうな、という考えに凝り固まった。
もちろん死ぬことは出来なかった。今でも僕は、自殺だけは出来ないのだろうな、と思う。僕はどんな状況に置かれても、頭の一部が妙に冷静なのである。「我を忘れて」とか「カッとなって」みたいな状況には全然ならない。いつでもその冷静な部分が、自分の行動を律してしまうのである。だから僕には自殺は出来ない。
今ではこうしてそこそこまともに生きている。人から見れば全然まともには見えないかもしれないけど、僕にしたら充分である。よくまあ毎日こうしてちゃんと生活が出来ているな、と思うほどである。
今でも思う。本当に僕はサラリーマンにならなくてよかったな、と。結局大学は中退したのだけど、その判断をこれまで一度も後悔したことがない。あれはまったく正しい選択だったと思う。僕はサラリーマンになっていたら、20年後とかに絶対自殺したくなるくらい悩んでいただろうと思う。その頃にはもしかして妻や子供がいたりしたかもしれない。家族に迷惑を掛けるわけにはいかないという余計なファクターまでも背負い込んで悩まなくてはいけなかったかもしれない。そういう意味では、若いうちにさっさと悩んできっぱり諦めておいたのはかなり正解だったと思っている。
これからの人生死にたくなるようなことに出会うかもしれない。そういう時自分がどうするか分からないけど、でもとにかく逃げるだろうなと思います。自分は自殺は出来ないということが分かっているからこそ、とにかく逃げるしかない。これからも、ありとあらゆることから逃げ続ける人生で行こうと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
浪人生だった高岡裕一は、奇妙な断崖絶壁をフリークライミングで登っていた。登った先には、老ヤクザの八木、気弱な中年男の市川、そしてアンニュイな若い女の美晴がいた。そこにいた三人はすべて自殺した幽霊であり、その奇妙な空間に長いことい続けたのだ。もちろん裕一も、受験の失敗を悔やんで自殺をしたのだった。
そこにパラシュートで神が降下してきた。天国行きの条件として、地上に戻って自殺志願者100人を救助せよ、とのことだった。彼らは地上に戻され、7週間で100人を救わなくてはいけなくなった。
彼らは、地上にあるものに手を触れることは出来る。しかしそれを動かしたりすることは出来ない。また地上の生きている人々は彼らの体をすり抜けていく。こんな状態で一体どうやって自殺志願者を救助すればいいのか。
しかしやがて要領が分かってくる。彼らに与えられた道具の中にメガホンに似たものがあり、それで生きている人に話し掛けるとその声が届くようなのだ。また生きている人の体の中に入り込むことで相手の考えていることを読み取ることが出来ることも分かった。
彼らは、ドアを開けたり人の体に触れたりすることが出来ないという不自由な条件の中、声だけの力を使ってなんとか自殺志願者たちを救おうと奮闘する。
というような話です。
いやはや、もう無茶苦茶面白い話でした。やっぱり高野和明という人にエンターテイメントを書かせたら一級ですね。本当に見事なものだと思いました。文庫で600Pくらいある結構長い作品ですが、その長さをまったく感じさせないほど面白い作品でした。
とにかくいろんな自殺志願者が出てきて彼らはそれを救うわけですけど、本作を読んでいて一番に感じることは、日本という国は頭がおかしいということですね。
一部の自殺志願者には、自らの悲観的な性格が災いして自殺したいという気になるということもあったんですけど、でも大半の自殺志願者の場合、最終的には日本という国が悪い、という結論になりそうなものばかりでした。他の国の現状についてもちろん詳しく知っているわけではないですけど、しかしここまで酷い先進国があるのだろうか、という感じがします。
それは、昨日「お金がなくても平気なフランス人お金があっても不安な日本人」という本を読んだからということもあるかもしれませんが、日本という国はまったく合理的ではないな、という感じがしました。本作でも書かれていましたが、とにかく無責任な人間が得をするように出来ている社会です。はらわたが煮えくり返りそうな不愉快な人間が得をして、真面目な人間ばかりが馬鹿を見るという社会構造になっていて、本当に最悪な国だなと思いました。こんな国に愛国心を持てというのがどだい無理な話だろうなという風に思います。
本作に出てくる自殺志願者も、大半は真面目な人間ばかりである。真面目であるが故に、仕事を休むわけにはいかないし、借金は死んでも返さなくてはいけないし、人を傷つけてはいけないという風に思ってしまいます。それで悩み苦しむことになります。一方で無責任な人間といえば、そういう真面目に生きている人間を食い物にしては自分だけが豊かな生活を送ろうとします。なんというか、考えるだけで不愉快な社会だなと思います。
自殺志願者も本当に多種多様に出てきて、会社で悩む人、恋愛で悩む人、いじめで悩む人、借金で悩む人、孤独に悩む人、劣等感に悩む人、病気に悩む人、うつに悩む人などもう様々です。ありとあらゆる自殺者のパターンをすべて出し尽くしたのではないかとも思える話です。
その中でもやっぱり恐ろしいと思ったのが、会社といじめと借金です。
会社で悩んでいる人というのは本当にたくさんいそうな気がしました。一つ一つはすごく些細なことなんですけど、しかしいろんな要素が膨れ上がり悩みは大きくなります。
本作でも書かれていたんですが、特に日本の場合、会社という後ろ盾がないとなかなか生きていくのに苦労するという現状があります。だからどれだけ苦痛を強いる会社であっても、そこを辞めるという選択肢だけは選ぼうとしない。会社を辞めるくらいなら死ぬという発想なわけです。それぐらい日本で生きてくには会社という組織は重要なわけで、そういう意味でも悩みは深くなっていきます。僕はサラリーマンになっていたら絶対本作に出てくるような人になっていた自信があるので、彼らの悩みは結構理解できました。
いじめというのも本当に嫌なものです。本作では学校でいじめられている子供が出てくるんですけど、やっぱりいたたまれない感じです。いじめというのは僕は最悪だと思っていますけど、でも決定的な対処法がないのも事実です。子供が一人で向き合うにはあまりにも辛い現実です。本当に嫌なものだなと思いました。
借金というのも本当に嫌なものです。借金の場合、ただしい法律の知識さえあればなんとかなるものなんですけど、ただ本作にも出てくるんですけど悪徳弁護士みたいなのもいるわけで、もう誰を信じていいかさっぱり分からないですね。とにかく借金をしないというのが一番ですけど、それが難しい場合だってあります。最近ようやく問題になって制度が変わったみたいですけど、サラ金の金利みたいなものもとにかく酷いわけで、しかも日本のサラ金は銀行から貸付金を得ているわけで、もうとんでもない国だなとか思いました。
今まさに自殺をしようとしている人がいたとして、その人にはなんて声を掛ければいいのだろうか、と考えてしまいました。その人が赤の他人であればちょっと僕の言葉は届かなそうですが、でも知っている人だったらどうでしょう。その人の気持ちを変えるためにどんな言葉を口にすることが出来るでしょうか。これはかなり難しい問題だろうな、と思います。
社会問題をテーマに扱っていながら、超一級のエンターテイメントに仕上がっています。とにかく難しいことを考えずに面白く読める作品です。これはかなりオススメです。是非読んで欲しいと思います。
高野和明「幽霊人命救助隊」
日本には、自殺を美徳と捉える風潮がある。赤穂浪士や特攻隊など、僕は特別詳しい知識を持っているわけではないけれども、以前から自ら死ぬということがよしとされてきたようなところがある。それは現代でもそう変わってはいなくて、問題を起こした会社の経営者が自殺したりなんていうニュースはよく見る。自殺をすることで責任を取ることが出来る、という風に考えているのだ。
それはすべて錯覚に過ぎない。自殺というのは、どんな形であれいけないものだと思う。どれほど美しく見えようともそれはやはり幻想だと思う。自ら死ぬことが美しいなんてことがあってはいけない。醜くても生き続けることが正しいのだろうと思う。
というようなことを偉そうに言っているけども、僕も実際自殺を考えたことがある。いろんな感想のところで何度も書いたことだけど、まあ何度でも書こう。
そもそも今僕は、そこまで生きていたいと思っているわけではない。僕は今の生活にそこそこ満足をしているけれども、しかしそれは生きたいという欲求があるということとは関係ない。僕は基本的には生きていたくない人間なのだ。生きることに興味も関心もない人間だ。僕は自分が自殺だけは出来ない人間であることを知っているのだ。だからこそ、とりあえず生きているしかない。生きているしかないなら、なるべく満足いく生活をしよう。まあそんな発想だ。
本作にも、生きていたくないと思っている自殺志願者が出てくる。麻美というその女性は、自分は嫌な人間であると思っているし、周囲の人間から嫌われていると思っている。生きている価値はないし、生きていたいとも思わない。そういう人間だ。
僕はその麻美の部分を読んで、なるほど僕もそうだなと思いました。死にたいわけでは決してないけど、でも生きていたいわけでもない。僕の推測では、現代人には結構こういう人が多いのではないか、と思う。
ただかつて僕は、とにかく積極的に死ぬしかないと考えていた時期があった。何かを考え始めると、どんな発端であれ最後は死ぬことしか考えられなくなるような時期が確かにあった。
その頃僕は、大学三年生になろうという時期だった。その春休みの辺りから、僕は次第にダメになっていった。
この時のことをちゃんと説明するというのは未だに僕には出来ないのだけど、本作を読んで一つ、こういうことだったのかもしれないなと思えることがあった。
大学三年と言えば就職活動を控える時期だ。僕は理系の学部にいたのでそのまま院に進むという選択肢ももちろんあっただろうけど、僕には院に進むというのも就職活動と同じようなものにしか思えなかった。
とにかく僕は、サラリーマンというものになりたくなかったのだ。
というとただの我がままだと思われるかもしれないが、自分ではそうではないつもりだ。言い方を変えると、僕はサラリーマンになったら100%自滅するということが手に取るように分かっていたのだ。「火を見るより明らか」という表現があるけれども、まさにその通りだった。
本作には自殺志願者として、とにかく会社に行きたくなくて仕方ない人々というのが出てくる。理由は様々だが、会社の中で冷遇されているような気がするとか、尋常ではないサービス残業をさせられているとか、上司や部下から信頼されていないとか、要するにそういうようなことから激しく落ち込んでしまうような人々である。
要するにうつ病だ。
僕は大学三年の時点で、というかそれよりも遥か昔から、自分にはサラリーマンは無理だと分かっていた。うつ病という言葉を昔から知っていたかどうかは定かではないけど、でもとにかくサラリーマンになったら自分は間違いなくうつ病になるだろうと予測が出来た。
サラリーマンになるということは自分を殺すことと同じだ。組織のために歯車になれ、と言われる。自分の意に添わない仕事だろうが明らかに理不尽な仕事だろうが、それが組織を回していくために必要であればやらなくてはいけない。日本以外の国の状況について知っているわけではないけど、しかし日本の会社というのはよりそういう体質を持った組織であると思う。
僕は絶対そういうことには耐えられないのだ。仕事が出来もしない癖におべんちゃらやよいしょだけで出世するやつとか、仕事を取るために取引先に媚びて媚びて卑屈にならなくてはいけないとか、そういうまったく合理的ではないことが出来ない人間なのである。よしんばそこまで酷い会社でなくても、会社というのは努力をすれば報われるという場所ではない。上司が無能であるかもしれないし、人の功績を奪おうとする人間がいるかもしれないし、ほんの些細なことで評価が下がったりする。
仕事が真面目に評価されるのであれば、僕はいくらでも働くだろう。僕はそもそもお金には興味がないので出世とか昇進とかにはあんまり興味が持てないのだけど、仕事をきっちりとやってすべてがぴたっとうまくいくみたいなそういう達成感はすごく好きなのだ。チームで動き、皆が同じように努力をし、そうして一つの成果を勝ち取るというのが好きなのである。
サラリーマンではそういう達成感を味わえないばかりか、自分の努力がまるで評価されないということにもなりかねない。だからこそ、僕はサラリーマンという仕事は出来ないと思っていたのだ。
だから大学三年になろうとしていた僕はとにかく憂鬱だった。このまま学生生活を営んでいれば、近い内に就職活動をしなくてはいけなくなる。僕がもっともなりたくないサラリーマンへの道がどんどんと近づいてくるのだ。しかしそれだけは無理だ。就職活動をすることもサラリーマンとして働くことも僕にはまず絶対に出来ない。それは確信であり揺らぐことのない真理だったのだ。
その頃の僕は、とにかくそんなことばかり考えていたと思う。このままではいけない、とは思うのだけど、しかし前に進めば進むほど自分がまったく行きたくもない場所が近づいてしまう。停滞することは許されないのに、しかし一方で僕の心は停滞こそを望んでいたのだ。
それまでの僕は非常に真面目に生きてきた。親に反抗をしたこともないし、学校の成績も結構よかった。誰からも真面目な人間であると思われていたのではないか、と思う。特に、たぶん両親からは過剰な期待が掛けられていたように思う。それも僕の中ではプレッシャーだった。
そうやって僕は毎日ウダウダと悩み続けていた。いや、それも違うか。大学三年になってからは一度も授業に出なかった。友人にも会わなくなった。ひたすら家に閉じこもってテレビを見ていた。
このままではいけない、という思いが、次第にもう死ぬしかないに変わっていった。このままでいいはずがないけど、でも自分にはどうしようもない。だったらもう死ぬしかないんじゃないだろうか、と。
たぶんあの時期の僕は、そんな風だったのではないかと思う。とにかく辛かった。何も考えたくなかった。すべてのことから逃げ出したかった。誰も自分のことなんか判ってくれないだろうと思っていた。誰とも会いたくなかった。そういう中で、もう死ぬしかないんだろうな、という考えに凝り固まった。
もちろん死ぬことは出来なかった。今でも僕は、自殺だけは出来ないのだろうな、と思う。僕はどんな状況に置かれても、頭の一部が妙に冷静なのである。「我を忘れて」とか「カッとなって」みたいな状況には全然ならない。いつでもその冷静な部分が、自分の行動を律してしまうのである。だから僕には自殺は出来ない。
今ではこうしてそこそこまともに生きている。人から見れば全然まともには見えないかもしれないけど、僕にしたら充分である。よくまあ毎日こうしてちゃんと生活が出来ているな、と思うほどである。
今でも思う。本当に僕はサラリーマンにならなくてよかったな、と。結局大学は中退したのだけど、その判断をこれまで一度も後悔したことがない。あれはまったく正しい選択だったと思う。僕はサラリーマンになっていたら、20年後とかに絶対自殺したくなるくらい悩んでいただろうと思う。その頃にはもしかして妻や子供がいたりしたかもしれない。家族に迷惑を掛けるわけにはいかないという余計なファクターまでも背負い込んで悩まなくてはいけなかったかもしれない。そういう意味では、若いうちにさっさと悩んできっぱり諦めておいたのはかなり正解だったと思っている。
これからの人生死にたくなるようなことに出会うかもしれない。そういう時自分がどうするか分からないけど、でもとにかく逃げるだろうなと思います。自分は自殺は出来ないということが分かっているからこそ、とにかく逃げるしかない。これからも、ありとあらゆることから逃げ続ける人生で行こうと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
浪人生だった高岡裕一は、奇妙な断崖絶壁をフリークライミングで登っていた。登った先には、老ヤクザの八木、気弱な中年男の市川、そしてアンニュイな若い女の美晴がいた。そこにいた三人はすべて自殺した幽霊であり、その奇妙な空間に長いことい続けたのだ。もちろん裕一も、受験の失敗を悔やんで自殺をしたのだった。
そこにパラシュートで神が降下してきた。天国行きの条件として、地上に戻って自殺志願者100人を救助せよ、とのことだった。彼らは地上に戻され、7週間で100人を救わなくてはいけなくなった。
彼らは、地上にあるものに手を触れることは出来る。しかしそれを動かしたりすることは出来ない。また地上の生きている人々は彼らの体をすり抜けていく。こんな状態で一体どうやって自殺志願者を救助すればいいのか。
しかしやがて要領が分かってくる。彼らに与えられた道具の中にメガホンに似たものがあり、それで生きている人に話し掛けるとその声が届くようなのだ。また生きている人の体の中に入り込むことで相手の考えていることを読み取ることが出来ることも分かった。
彼らは、ドアを開けたり人の体に触れたりすることが出来ないという不自由な条件の中、声だけの力を使ってなんとか自殺志願者たちを救おうと奮闘する。
というような話です。
いやはや、もう無茶苦茶面白い話でした。やっぱり高野和明という人にエンターテイメントを書かせたら一級ですね。本当に見事なものだと思いました。文庫で600Pくらいある結構長い作品ですが、その長さをまったく感じさせないほど面白い作品でした。
とにかくいろんな自殺志願者が出てきて彼らはそれを救うわけですけど、本作を読んでいて一番に感じることは、日本という国は頭がおかしいということですね。
一部の自殺志願者には、自らの悲観的な性格が災いして自殺したいという気になるということもあったんですけど、でも大半の自殺志願者の場合、最終的には日本という国が悪い、という結論になりそうなものばかりでした。他の国の現状についてもちろん詳しく知っているわけではないですけど、しかしここまで酷い先進国があるのだろうか、という感じがします。
それは、昨日「お金がなくても平気なフランス人お金があっても不安な日本人」という本を読んだからということもあるかもしれませんが、日本という国はまったく合理的ではないな、という感じがしました。本作でも書かれていましたが、とにかく無責任な人間が得をするように出来ている社会です。はらわたが煮えくり返りそうな不愉快な人間が得をして、真面目な人間ばかりが馬鹿を見るという社会構造になっていて、本当に最悪な国だなと思いました。こんな国に愛国心を持てというのがどだい無理な話だろうなという風に思います。
本作に出てくる自殺志願者も、大半は真面目な人間ばかりである。真面目であるが故に、仕事を休むわけにはいかないし、借金は死んでも返さなくてはいけないし、人を傷つけてはいけないという風に思ってしまいます。それで悩み苦しむことになります。一方で無責任な人間といえば、そういう真面目に生きている人間を食い物にしては自分だけが豊かな生活を送ろうとします。なんというか、考えるだけで不愉快な社会だなと思います。
自殺志願者も本当に多種多様に出てきて、会社で悩む人、恋愛で悩む人、いじめで悩む人、借金で悩む人、孤独に悩む人、劣等感に悩む人、病気に悩む人、うつに悩む人などもう様々です。ありとあらゆる自殺者のパターンをすべて出し尽くしたのではないかとも思える話です。
その中でもやっぱり恐ろしいと思ったのが、会社といじめと借金です。
会社で悩んでいる人というのは本当にたくさんいそうな気がしました。一つ一つはすごく些細なことなんですけど、しかしいろんな要素が膨れ上がり悩みは大きくなります。
本作でも書かれていたんですが、特に日本の場合、会社という後ろ盾がないとなかなか生きていくのに苦労するという現状があります。だからどれだけ苦痛を強いる会社であっても、そこを辞めるという選択肢だけは選ぼうとしない。会社を辞めるくらいなら死ぬという発想なわけです。それぐらい日本で生きてくには会社という組織は重要なわけで、そういう意味でも悩みは深くなっていきます。僕はサラリーマンになっていたら絶対本作に出てくるような人になっていた自信があるので、彼らの悩みは結構理解できました。
いじめというのも本当に嫌なものです。本作では学校でいじめられている子供が出てくるんですけど、やっぱりいたたまれない感じです。いじめというのは僕は最悪だと思っていますけど、でも決定的な対処法がないのも事実です。子供が一人で向き合うにはあまりにも辛い現実です。本当に嫌なものだなと思いました。
借金というのも本当に嫌なものです。借金の場合、ただしい法律の知識さえあればなんとかなるものなんですけど、ただ本作にも出てくるんですけど悪徳弁護士みたいなのもいるわけで、もう誰を信じていいかさっぱり分からないですね。とにかく借金をしないというのが一番ですけど、それが難しい場合だってあります。最近ようやく問題になって制度が変わったみたいですけど、サラ金の金利みたいなものもとにかく酷いわけで、しかも日本のサラ金は銀行から貸付金を得ているわけで、もうとんでもない国だなとか思いました。
今まさに自殺をしようとしている人がいたとして、その人にはなんて声を掛ければいいのだろうか、と考えてしまいました。その人が赤の他人であればちょっと僕の言葉は届かなそうですが、でも知っている人だったらどうでしょう。その人の気持ちを変えるためにどんな言葉を口にすることが出来るでしょうか。これはかなり難しい問題だろうな、と思います。
社会問題をテーマに扱っていながら、超一級のエンターテイメントに仕上がっています。とにかく難しいことを考えずに面白く読める作品です。これはかなりオススメです。是非読んで欲しいと思います。
高野和明「幽霊人命救助隊」
お金がなくても平気なフランス人お金があっても不安な日本人(吉村葉子)
さて、いろんなことの自分なりの定義をしてみよう。
『仕事』は『終わらないもの』だし、『人生』は『暇つぶし』である。『結婚』は『束縛』だし、『時間』は『自分で作り出すもの』だし、『本』は『私の血は本で出来ている』である。
さてでは『お金』はどう定義されるだろう。
僕の中でお金というのは『最低限の生活を保障するもの』となる。
皆さんは『お金』というものをどう定義するだろうか。
大体想像できるのだ。大方の日本人はこう思っているはずだ。
『お金』は『人生を豊かにするものだ』と。
僕は周囲の人間がよく「お金がない」「お金がない」と口々に言っているのを聞く。給料日前なんかだと特にそうだ。給料日までの残り何日をいくらで過ごさないととか、給料が入ってもカードのローンがとかなんとか言っているのも聞く。どうやらとにかく僕の周りの人間は常にお金に困っているようである。
これは恐らく僕の周りの人間だけに限らず一般的にそうなのだろう。大抵の人はお金がないことを嘆き、もっとお金があればなと思っているに違いない。
僕なんかは別に逆で、そんなにお金は要らない。まあ将来的な不安みたいなものについてはとりあえず考えないことにして、普通に生活をしている分にはまったくお金に困ることはない。周りの人間が「お金がない」と言っているのを不思議に思ってしまう。
先日我が家に、デジタル放送の電波が来ているかどうかのチェックと称して業者の人が営業に来たことがあった。その会話の中で、「普段の生活の中で節約をするのって結構大変ですよね(だからお得な当社のプランがオススメですよ)。」なんてことを言われたのだけど、「いや別にそうでもないんですよ」とか返してしまうような人間である。
お金が人生を豊かにするというのはある意味では間違ってはいない。物質的な満足は高くなるだろう。とにかくお金で何かを買うということに関しては充実させることが出来る。欲しいものは買えるし、行きたいところには行けるし、食べたいものを食べることが出来る。
しかしそれは果たして本当に『豊か』ということになるのかと言われると非常に難しいのではないかな、と思う。
日本人というのは何かにつけて他者の存在を意識している。欲しいものを買うのも行きたいところに行くのも食べたいものを食べるのもすべて、「私はこんなものだって買うことが出来る」「私はこんなとこにだって行ったことがある」「私はこんな美味しいものも食べたことがある」と言いたいためにしているのではないか、と僕には思えるのだ。
つまり、他者と張り合うこと、あるいは他者に見せ付けることが日本人にとって幸せであり、『豊か』であるということになるのではないか。
本当に僕には疑問なのだ。買いたいものを本当に自分が欲しいと思って買っているのか、行きたいところに本当に行きたいと思って旅行に言っているのか、食べたいものを本当に食べたいと思って食べているのか。自分自身の満足のためにお金を使っているのではなく、他者の存在に負けないためにお金を使っているようにしか見えないのである。そういう意味では僕はオタクというのは非常に健全な人々であると思う。お金の使い方という意味ではちょっと難アリだとは思うけど、完全に100%自分の満足のためにお金を使っているわけで、そういう意味ではいいと思う。
僕は個人的には、お金を得ようとする行為も、お金を使おうとする行為も、人間を『貧しく』するのではないかと思っているのである。
例えば日本人は、お金を得ようとするあまりどれだけのものを失っているか。会社で猛烈に働いて家族と一緒に過ごす時間がない、趣味に費やす時間がない。たまの休みもゴルフ、あるいは疲れて一日寝ている。そうして得たお金は妻が個人的な楽しみに使う、あるいは子どもの服だのゲームだのに変わる。こういう日本人というのが典型ではないかと思う。
またお金を使う方にしてもセンスがあるとは言えない。テレビや雑誌でいいと言われたものを買う。たまごっちもハリーポッターもそうやってアホみたいに売れた。最近ではクロックスという奇妙なサンダルが流行っているらしい。僕にはあのセンスはどうも理解できない。また全然エコとは関係ないエコバックが飛ぶように売れたなんてこともある。意味不明である。
あるいは皆でアホみたいにブランドものを買う、美味しいと評判のスイーツを買う、使えるバッグは山ほどあるのにまた新作のバッグを買う。
さて日本人は一体何がしたいのだろうかと思う。
お金を得るのに必死になってものすごく苦労をしているのに、お金の使い道は呆れるほどセンスがない。お金を得ようとする行為で『貧しく』なり、お金を使おうとする行為でまた『貧しく』なっていくのも当然だと僕は思うのだ。
日本は、世界的にお金持ちの国になり、物質的には恵まれすぎた環境にいる。生まれた時からそこかしこにモノが溢れているために、『モノがない』ということが『欠乏感』を生み出すような仕組みが出来上がってしまっているのかもしれない。その『欠乏感』を埋め合わせるためにはお金が必要で、お金を得るためにまた『貧しく』なるという悪循環。僕からすれば多くの日本人というのはなんとも『貧しい』生活をしているなぁ、と思うのである。
ならば僕はどうか。僕の場合まあ人とは大分違う(と自分では思っている)ので参考にはならないと思うのだけど、でも僕はほとんどお金を使わない今の生活でかなり満足している。そもそも物欲なんかほとんどなくて、僕の場合とにかく本とインターネットの環境さえあれば恐らくどこでも生きていけると思う。地上デジタル放送が始まったらテレビをまったく見なくなるかもしれないし(テレビやチューナーを買ったりするのがめんどくさい)、服だってそこまで要らないし、あと買うものと言えば食料品ぐらいである。僕の生活はまあ極端としても、本来僕らはもっと質素な生活でも満足出来る生き物ではないのか、と思ってしまう。人間の欲望というのは際限がないわけで、広がれば広がるほど当然不幸になっていくだろうと僕は思うのである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、フランスに20年住み続けた文筆家である著者が、最近日本に戻ってきて、日本とフランスのお国柄の違いを大きく感じたことから書かれた本です。日本人が感じる不安を、フランス人の生活を紹介することで解消できないものか、と考えたようです。
本作では、フランス人のありとあらゆる生活の形が紹介されます。とにかくフランス人はお金を使わない節約家であるということがよく分かります。パリジェンヌだとか何だか言ってフランスには非常に高級なイメージを抱いていましたが、いかにお金を使わないかということが徹底している国で、またそれでいて豊かさの追求に掛けては手を抜かないという非常に合理的な人々です。
本作を読んで僕は、フランス人最高!とか思いました。いやホント合理的な生活をしていて、合理的なことが好きな僕としては非常に羨ましい生活であるな、と思いました。
フランス人はもうとにかくお金を使わないのだそうです。それは本作にあるこんな言葉に集約されています。
『たとえパンツ一枚でも、考えて考え、考えた末に買わない』
とにかくTシャツ一枚買うのにも試着を何度も繰り返し(Tシャツの試着もOKなんだそうです)、で結局買わない。1000円ぐらいの別にブランドものというわけでもないただのTシャツなんだけど、それでも買わない。とにかく自分の中で納得できるものでなければお金は出さないのだ。
フランス人はとにかくこう考える。お金がないから買えないのではなく私は買わないのだと。お金がないから旅行に行けないではなく私は旅行には行かないのだと。合理的である。欲しいけど手に入らないものを望んだりはしない。さっさと諦める。素晴らしい。
フランス人は自国に有名ブランドがたくさんあるわけで、当然ブランドもの好きである。しかし彼女達は自分では買わない。シャネルのバッグなんてとても手が出ないと思っているし、昔から使っているバッグがまだまだ使えると思うからだ。ブランドものは自分で買うのではなく贈ってもらうもの。フランスではそういう位置付けである。だから日本人が世界中でブランドものを買い漁っているのを見て驚く。何であんなに一編にブランドものを買うの?
ブランドものについてはあるフランス人女性のこんな意見もある。
『仕事がしやすくて、私に似合うもモノという観点で選ぶと、とても有名メゾンのモノを買う気にはなりません。ジェーン・バーキンやグレース・ケリーのために作った鞄が、私に似合うはずないでしょう。』
素晴らしい。自分のことをきちんと分かっている人の物言いである。またこうも言う。
『100年も200年も続いているメゾンの価値は正直にみとめます。ただし、ブランドのイメージも強く出ますから、渡しらしさを表現するには、かえって邪魔になります。ブランド品を身につけてしまうと、私らしさはその場で消える。たとえばルイ。ヴィトンを持っていたとしたら、ルイ・ヴィトンが好きな人だと思われても仕方ないでしょう。』
その通りである。やはりフランス人は素晴らしい。著者の私見では、このフランス人女性の意見が、フランス人の一般的な意見に最も近いだろう、と言っている。
さてフランスには、国自体に合理的なシステムというのがいくつもある。
エパーニュ・ロジュモンというのは住宅貯金のことである。フランスではお金に余裕が出来ると若者だろうが買う物件が決まっていなかろうが関係なく、このエパーニュ・ロジュモンを始める。どんなに少額からでもいいのだけど、とにかく住宅を買うために少しずつお金を貯めていくのである。
まあここまでは普通の住宅貯金であるけどここからが違う。つまりフランスでは、借りる本人の職業や預金の額などに一切関係なく、このエパーニュ・ロジュモンをいかに地道に続けて来たか、その銀行と長く付き合いをとってきたか、ということが住宅融資の際最も評価されるのである。日本では、例えば村上春樹が住宅ローンを断られたというような話もあるくらい、とにかく銀行は個人にお金を貸したがらない。何だかんだと理由をつけて貸し渋る。フランスではそんなことは関係ない。唯一、エパーニュ・ロジュモンの実績だけが評価の対象なのだ。だからこそ、地道にこのエパーニュ・ロジュモンを続けてさえいれば、誰でも家を買うチャンスが与えられている。ブラボー。
またフランスではなんと、教科書は使いまわしである。これは非常に面白いなと思いました。10年でも20年でも、使える限り教科書というのは使いまわす。学年の初めに使い古した教科書を受け取って、学年が終わったら学校に返す。フランスの義務教育は完全にタダで、教科書は無料でもちろん支給され、またノートも無料でもらえるらしい。ブラボー。
リスト・ド・マリアージュという仕組みもまた非常に合理的だ。これから結婚しようというカップルが、結婚式への招待状と共にこのリスト・ド・マリアージュを送るのである。これは何かと言えば、要するに自分たちが欲しいものリストである。ある一つのデパートでカップルは、新婚生活に自分たちが必要だと思えるものをリストアップする。そして結婚式の招待状をもらった人は、自分の用意できる予算の範囲ないでそのリストの中から何かを選んで代金を払う。カップルとしても欲しいものが手に入り、贈る側としても相手に確実に使ってもらえるものを贈れるという、非常に合理的なシステムなのである。ブラボー。
最後にヴィアジェというシステムである。これはとにかくすごい。こんなことが本当にあるのだろうかと疑問にすら思ってしまうようなシステムである。
このヴィアジェというシステムは、一人暮らしの老人を救済するためのものである。ヴィアジェというのは要するに、家と家主の老人をセットにして売りに出す、というものである。
たぶん意味が分からないだろうと思うのでもう少しちゃんと説明をしましょう。
一人暮らしをしている老人は、自分の家を売りに出したいと思う。でも家を売ったら住むところがなくなって困る。だから自分つきで家を売りに出すのだ。買う側としては、とにかくその老人が死んだら家を自分のものにすることが出来る、というシステムである。
売る側としては、家を売ることで現金を手に出来、かつ家を手放さずに住む。買う側としては、このヴィアジェになっている物件というのは相場と比べて遥かに安いというメリットがあるし、また老人が短命であるかもしれないし長生きするかもしれないという賭けの部分が面白い、ということらしい。よくもまあこんなシステムが成り立つものだと思うけど、しかし合理的なことこの上ない。このヴィアジェというシステムはとにかくすごいと思った。ブラボー。
こんな風にフランス人というのはとにかく合理的でお金を使わない生活を実践しているのである。上記で挙げたようなことは国がやっていることなので身近に実践することは出来ないけど、本作中にはもちろんフランス人が身近な生活をどう営んでいるかということもたくさん書かれているので(というかそっちの方がメインです)、そういう部分については是非本作を読んで欲しいなと思います。
とにかく非常に満足出来る作品でした。フランス人みたいな生活を出来る人なら結婚してもいいとか思ったし、僕にフランス語を勉強する気力があればフランスに住んでみたいなとも思いました。フランスいいなぁ。オシャレな国というイメージが強かったから全然興味のない国だったけど、でも本作を読んで一気に気になる国になりました。いいなぁ、フランス人。ブラボーである。ところでブラボーって何語だっけ?まあいいか。
というわけで、最近売れている本です。僕も今店頭で仕掛け販売をしています。世間的に売れている本というのは結構外れが多いんだけど、本作はかなり当たりだと思います。是非読んでみてください。
吉村葉子「お金がなくても平気なフランス人お金があっても不安な日本人」
『仕事』は『終わらないもの』だし、『人生』は『暇つぶし』である。『結婚』は『束縛』だし、『時間』は『自分で作り出すもの』だし、『本』は『私の血は本で出来ている』である。
さてでは『お金』はどう定義されるだろう。
僕の中でお金というのは『最低限の生活を保障するもの』となる。
皆さんは『お金』というものをどう定義するだろうか。
大体想像できるのだ。大方の日本人はこう思っているはずだ。
『お金』は『人生を豊かにするものだ』と。
僕は周囲の人間がよく「お金がない」「お金がない」と口々に言っているのを聞く。給料日前なんかだと特にそうだ。給料日までの残り何日をいくらで過ごさないととか、給料が入ってもカードのローンがとかなんとか言っているのも聞く。どうやらとにかく僕の周りの人間は常にお金に困っているようである。
これは恐らく僕の周りの人間だけに限らず一般的にそうなのだろう。大抵の人はお金がないことを嘆き、もっとお金があればなと思っているに違いない。
僕なんかは別に逆で、そんなにお金は要らない。まあ将来的な不安みたいなものについてはとりあえず考えないことにして、普通に生活をしている分にはまったくお金に困ることはない。周りの人間が「お金がない」と言っているのを不思議に思ってしまう。
先日我が家に、デジタル放送の電波が来ているかどうかのチェックと称して業者の人が営業に来たことがあった。その会話の中で、「普段の生活の中で節約をするのって結構大変ですよね(だからお得な当社のプランがオススメですよ)。」なんてことを言われたのだけど、「いや別にそうでもないんですよ」とか返してしまうような人間である。
お金が人生を豊かにするというのはある意味では間違ってはいない。物質的な満足は高くなるだろう。とにかくお金で何かを買うということに関しては充実させることが出来る。欲しいものは買えるし、行きたいところには行けるし、食べたいものを食べることが出来る。
しかしそれは果たして本当に『豊か』ということになるのかと言われると非常に難しいのではないかな、と思う。
日本人というのは何かにつけて他者の存在を意識している。欲しいものを買うのも行きたいところに行くのも食べたいものを食べるのもすべて、「私はこんなものだって買うことが出来る」「私はこんなとこにだって行ったことがある」「私はこんな美味しいものも食べたことがある」と言いたいためにしているのではないか、と僕には思えるのだ。
つまり、他者と張り合うこと、あるいは他者に見せ付けることが日本人にとって幸せであり、『豊か』であるということになるのではないか。
本当に僕には疑問なのだ。買いたいものを本当に自分が欲しいと思って買っているのか、行きたいところに本当に行きたいと思って旅行に言っているのか、食べたいものを本当に食べたいと思って食べているのか。自分自身の満足のためにお金を使っているのではなく、他者の存在に負けないためにお金を使っているようにしか見えないのである。そういう意味では僕はオタクというのは非常に健全な人々であると思う。お金の使い方という意味ではちょっと難アリだとは思うけど、完全に100%自分の満足のためにお金を使っているわけで、そういう意味ではいいと思う。
僕は個人的には、お金を得ようとする行為も、お金を使おうとする行為も、人間を『貧しく』するのではないかと思っているのである。
例えば日本人は、お金を得ようとするあまりどれだけのものを失っているか。会社で猛烈に働いて家族と一緒に過ごす時間がない、趣味に費やす時間がない。たまの休みもゴルフ、あるいは疲れて一日寝ている。そうして得たお金は妻が個人的な楽しみに使う、あるいは子どもの服だのゲームだのに変わる。こういう日本人というのが典型ではないかと思う。
またお金を使う方にしてもセンスがあるとは言えない。テレビや雑誌でいいと言われたものを買う。たまごっちもハリーポッターもそうやってアホみたいに売れた。最近ではクロックスという奇妙なサンダルが流行っているらしい。僕にはあのセンスはどうも理解できない。また全然エコとは関係ないエコバックが飛ぶように売れたなんてこともある。意味不明である。
あるいは皆でアホみたいにブランドものを買う、美味しいと評判のスイーツを買う、使えるバッグは山ほどあるのにまた新作のバッグを買う。
さて日本人は一体何がしたいのだろうかと思う。
お金を得るのに必死になってものすごく苦労をしているのに、お金の使い道は呆れるほどセンスがない。お金を得ようとする行為で『貧しく』なり、お金を使おうとする行為でまた『貧しく』なっていくのも当然だと僕は思うのだ。
日本は、世界的にお金持ちの国になり、物質的には恵まれすぎた環境にいる。生まれた時からそこかしこにモノが溢れているために、『モノがない』ということが『欠乏感』を生み出すような仕組みが出来上がってしまっているのかもしれない。その『欠乏感』を埋め合わせるためにはお金が必要で、お金を得るためにまた『貧しく』なるという悪循環。僕からすれば多くの日本人というのはなんとも『貧しい』生活をしているなぁ、と思うのである。
ならば僕はどうか。僕の場合まあ人とは大分違う(と自分では思っている)ので参考にはならないと思うのだけど、でも僕はほとんどお金を使わない今の生活でかなり満足している。そもそも物欲なんかほとんどなくて、僕の場合とにかく本とインターネットの環境さえあれば恐らくどこでも生きていけると思う。地上デジタル放送が始まったらテレビをまったく見なくなるかもしれないし(テレビやチューナーを買ったりするのがめんどくさい)、服だってそこまで要らないし、あと買うものと言えば食料品ぐらいである。僕の生活はまあ極端としても、本来僕らはもっと質素な生活でも満足出来る生き物ではないのか、と思ってしまう。人間の欲望というのは際限がないわけで、広がれば広がるほど当然不幸になっていくだろうと僕は思うのである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、フランスに20年住み続けた文筆家である著者が、最近日本に戻ってきて、日本とフランスのお国柄の違いを大きく感じたことから書かれた本です。日本人が感じる不安を、フランス人の生活を紹介することで解消できないものか、と考えたようです。
本作では、フランス人のありとあらゆる生活の形が紹介されます。とにかくフランス人はお金を使わない節約家であるということがよく分かります。パリジェンヌだとか何だか言ってフランスには非常に高級なイメージを抱いていましたが、いかにお金を使わないかということが徹底している国で、またそれでいて豊かさの追求に掛けては手を抜かないという非常に合理的な人々です。
本作を読んで僕は、フランス人最高!とか思いました。いやホント合理的な生活をしていて、合理的なことが好きな僕としては非常に羨ましい生活であるな、と思いました。
フランス人はもうとにかくお金を使わないのだそうです。それは本作にあるこんな言葉に集約されています。
『たとえパンツ一枚でも、考えて考え、考えた末に買わない』
とにかくTシャツ一枚買うのにも試着を何度も繰り返し(Tシャツの試着もOKなんだそうです)、で結局買わない。1000円ぐらいの別にブランドものというわけでもないただのTシャツなんだけど、それでも買わない。とにかく自分の中で納得できるものでなければお金は出さないのだ。
フランス人はとにかくこう考える。お金がないから買えないのではなく私は買わないのだと。お金がないから旅行に行けないではなく私は旅行には行かないのだと。合理的である。欲しいけど手に入らないものを望んだりはしない。さっさと諦める。素晴らしい。
フランス人は自国に有名ブランドがたくさんあるわけで、当然ブランドもの好きである。しかし彼女達は自分では買わない。シャネルのバッグなんてとても手が出ないと思っているし、昔から使っているバッグがまだまだ使えると思うからだ。ブランドものは自分で買うのではなく贈ってもらうもの。フランスではそういう位置付けである。だから日本人が世界中でブランドものを買い漁っているのを見て驚く。何であんなに一編にブランドものを買うの?
ブランドものについてはあるフランス人女性のこんな意見もある。
『仕事がしやすくて、私に似合うもモノという観点で選ぶと、とても有名メゾンのモノを買う気にはなりません。ジェーン・バーキンやグレース・ケリーのために作った鞄が、私に似合うはずないでしょう。』
素晴らしい。自分のことをきちんと分かっている人の物言いである。またこうも言う。
『100年も200年も続いているメゾンの価値は正直にみとめます。ただし、ブランドのイメージも強く出ますから、渡しらしさを表現するには、かえって邪魔になります。ブランド品を身につけてしまうと、私らしさはその場で消える。たとえばルイ。ヴィトンを持っていたとしたら、ルイ・ヴィトンが好きな人だと思われても仕方ないでしょう。』
その通りである。やはりフランス人は素晴らしい。著者の私見では、このフランス人女性の意見が、フランス人の一般的な意見に最も近いだろう、と言っている。
さてフランスには、国自体に合理的なシステムというのがいくつもある。
エパーニュ・ロジュモンというのは住宅貯金のことである。フランスではお金に余裕が出来ると若者だろうが買う物件が決まっていなかろうが関係なく、このエパーニュ・ロジュモンを始める。どんなに少額からでもいいのだけど、とにかく住宅を買うために少しずつお金を貯めていくのである。
まあここまでは普通の住宅貯金であるけどここからが違う。つまりフランスでは、借りる本人の職業や預金の額などに一切関係なく、このエパーニュ・ロジュモンをいかに地道に続けて来たか、その銀行と長く付き合いをとってきたか、ということが住宅融資の際最も評価されるのである。日本では、例えば村上春樹が住宅ローンを断られたというような話もあるくらい、とにかく銀行は個人にお金を貸したがらない。何だかんだと理由をつけて貸し渋る。フランスではそんなことは関係ない。唯一、エパーニュ・ロジュモンの実績だけが評価の対象なのだ。だからこそ、地道にこのエパーニュ・ロジュモンを続けてさえいれば、誰でも家を買うチャンスが与えられている。ブラボー。
またフランスではなんと、教科書は使いまわしである。これは非常に面白いなと思いました。10年でも20年でも、使える限り教科書というのは使いまわす。学年の初めに使い古した教科書を受け取って、学年が終わったら学校に返す。フランスの義務教育は完全にタダで、教科書は無料でもちろん支給され、またノートも無料でもらえるらしい。ブラボー。
リスト・ド・マリアージュという仕組みもまた非常に合理的だ。これから結婚しようというカップルが、結婚式への招待状と共にこのリスト・ド・マリアージュを送るのである。これは何かと言えば、要するに自分たちが欲しいものリストである。ある一つのデパートでカップルは、新婚生活に自分たちが必要だと思えるものをリストアップする。そして結婚式の招待状をもらった人は、自分の用意できる予算の範囲ないでそのリストの中から何かを選んで代金を払う。カップルとしても欲しいものが手に入り、贈る側としても相手に確実に使ってもらえるものを贈れるという、非常に合理的なシステムなのである。ブラボー。
最後にヴィアジェというシステムである。これはとにかくすごい。こんなことが本当にあるのだろうかと疑問にすら思ってしまうようなシステムである。
このヴィアジェというシステムは、一人暮らしの老人を救済するためのものである。ヴィアジェというのは要するに、家と家主の老人をセットにして売りに出す、というものである。
たぶん意味が分からないだろうと思うのでもう少しちゃんと説明をしましょう。
一人暮らしをしている老人は、自分の家を売りに出したいと思う。でも家を売ったら住むところがなくなって困る。だから自分つきで家を売りに出すのだ。買う側としては、とにかくその老人が死んだら家を自分のものにすることが出来る、というシステムである。
売る側としては、家を売ることで現金を手に出来、かつ家を手放さずに住む。買う側としては、このヴィアジェになっている物件というのは相場と比べて遥かに安いというメリットがあるし、また老人が短命であるかもしれないし長生きするかもしれないという賭けの部分が面白い、ということらしい。よくもまあこんなシステムが成り立つものだと思うけど、しかし合理的なことこの上ない。このヴィアジェというシステムはとにかくすごいと思った。ブラボー。
こんな風にフランス人というのはとにかく合理的でお金を使わない生活を実践しているのである。上記で挙げたようなことは国がやっていることなので身近に実践することは出来ないけど、本作中にはもちろんフランス人が身近な生活をどう営んでいるかということもたくさん書かれているので(というかそっちの方がメインです)、そういう部分については是非本作を読んで欲しいなと思います。
とにかく非常に満足出来る作品でした。フランス人みたいな生活を出来る人なら結婚してもいいとか思ったし、僕にフランス語を勉強する気力があればフランスに住んでみたいなとも思いました。フランスいいなぁ。オシャレな国というイメージが強かったから全然興味のない国だったけど、でも本作を読んで一気に気になる国になりました。いいなぁ、フランス人。ブラボーである。ところでブラボーって何語だっけ?まあいいか。
というわけで、最近売れている本です。僕も今店頭で仕掛け販売をしています。世間的に売れている本というのは結構外れが多いんだけど、本作はかなり当たりだと思います。是非読んでみてください。
吉村葉子「お金がなくても平気なフランス人お金があっても不安な日本人」
クレーターと巨乳(藤代冥砂)
僕が普段から意識していることがある。
縛られたくない、ということだ。
縛られたくない。
縛られたくない。
縛られたくない。
とにかく僕は束縛というものがダメなのである。ありとあらゆるものから自由でいたいとそんな風に思っているのである。
僕がどれだけ束縛がダメかというと、例えばものを借りるということが出来ないというのがある。
僕は結構本を読むのだけど、でも本を図書館で借りたりするのは苦手である。何故ならそれは、返さなくてはいけないからだ。
当然と言えば当然だけど、僕にはそれが出来ないのだ。期日までに返さなくてはいけないということは、その日までに読まなくてはいけない、ということだ。その日までに読まなくてはいけない、というのが僕にとっては束縛なのである。
なんだそんなことと言われるかもしれないが、昔からダメなのだ。同様に、レンタルビデオ店で何かを借りたりというのもダメだし(だから人生の中でレンタル店のカードというのを持ったことがない)、友達から何かを借りるというのも苦手である。
こういう風に、普通の人からすれば束縛だとは思えないようなことでも僕には束縛に感じられてしまうのである。
こう芸能人とかはCMとかに出るといろんな契約があったりするものだろう。あるCMに出ると公の場ではその企業のものを使うしかないとか、ライバル会社のものと一緒に映像に映ってはいけないとか、まあいろいろあるのだろう。僕からすれば、よくもまあそんな生活が出来るものだと感心します。縛りだらけで窮屈ではないのだろうか、とか思ってしまいます。まあ芸能人というのはそれが仕事なのだおうけど、すごいものだと思います。
僕の場合そもそも、自分の意思みたいなものがまったくありません。やりたいこともないし求めていることもないし、食べたいものも行きたいところもありません。長生きしたいとも思わないし、とにかく何もないのだ。自分でしたいと思えるようなことが何一つとしてない。意思と呼べるようなものがまったくない。昔からそうで、例えば友達と集まって何かしようということになっても別に何の提案もしない。まあ思いつかないというのもあるのだけど、でも基本的に何でもいいと思っているわけで、それはどこかご飯を食べに行く時でもそうだしどんな場合でもそうだ。自分で何かを決めたりするのが本当に苦手である。
そういう人間であれば、誰かにこう先導してもらってあれこれ決めてもらったりするのが楽に思えるのだけど、でも実はそうでもないのだ。僕はとにかく、誰かから指図されるというのも非常に嫌いなのである。別に周りの人にあぁしようこうしようと言われるのはいいのだけど、でもああしろこうしろと言われるのはダメなのだ。
生きているというのはとにかく束縛の連続であって、要するにこれはああしろこうしろと言われていることに等しい。結婚しろ、ちゃんとした仕事に就け、勉強しろ、とかなんとかまあ言われているわけではないけど、でも生きているというのは何かとそういうプレッシャーみたいなもので溢れているではないか。とにかく生きているというのは束縛だらけでめんどくさいと思う。
今の僕の生活は、束縛を最低限に出来ていると思う。仕事もバイトだし結婚はもちろんしてないし彼女もいない。毎日本当に本を読んでいるだけの生活である。彼女くらいいてもいいような気がするけど、まあそこまで贅沢は言うまい。仕事は結構楽しいし、割と満足である。
僕を縛るものがあるとしたら、それは法律ぐらいだろう。ただ僕はそれすらも束縛ではないと思い込むように頑張っている。
法律というのは悪いことを規制するために存在するわけで、つまり悪いことをしたいと思っている人、あるいはうっかり悪いことをしてしまうかもしれないと思っている人を束縛するものである。
であれば、そういうものに近づかなければいいと僕は思うのだ。
車を運転すると事故を起こすかもしれないから車には乗らない。株に手を出すと借金を背負うかもしれないから株はやらない。女子高の先生になると売春とかしちゃうかもしれないから女子高の先生にはならない、と言った具合である。
こういうことを心がけていれば、法律すら僕にとっては束縛ではなくなる。より自由な生活を手にすることが出来るのである。
人によっては僕のような生活を面白くないと感じるかもしれない。あるいは、僕が自由だと感じていることを不自由だと感じるかもしれない。
しかし僕にとってまず最優先になるのは、いかに束縛が少ないかということである。それこそが自由ということだし、今こそその自由を手にしていると思っている。
平凡でしがない人生だけれども、しかし今のこの生活が長く続いてくれればいいな、とそんな風に思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は11編の短編を収録した短編集になっています。ただストーリーがどうこうという話でもないので簡潔に紹介をします。
「太平洋」
突然会社を辞めた女性がタイへと赴く話。
「クレーターと巨乳」
童顔の巨乳アイドルが、ベランダからやってきたストーカーと付き合う話。
「海底の音楽」
海底トンネルの非常口の奥に秘密の住居がある話。
「馬を追う」
失恋した女性が馬を追いかける話。
「君の芸術が終わってしまう前に」
山小屋の管理人の夫婦の話。
「芝生の痕」
かつて青姦したことのある芝生へと男と一緒に行く話。
「絵空事」
旅館にやってきた奇妙な男との話。
「清潔な砂漠」
旅行先で突然失踪した夫を探しに砂漠を放浪する話。
「太陽のバブル」
私の体をただひたすら丁寧に洗ってくれる男の話。
「ガールフレンド」
19歳の私ってものについて喫茶店で思いを巡らす話。
「二本の丸みを帯びた地平線」
大工と恋に落ちる話。
著者は作家というわけではなくカメラマンで、本作が初の小説になるようです。「SWITCH」という雑誌に連載していたもののようです。
僕は本作を読む前はこの著者は男だと思っていて、読み始めてからは女だと思ったんですけど、でも実際は男みたいです。比較的女性的な感性みたいなものを捉えているような気がしたので女性の作品だと思っていたんですけど、男だと知ってびっくりしました。
どの話も女性が主人公で、女性の捉えどころのなさそうな部分をうまく捉えているような気がしました。なかなか面白い作品であるように思いました。
どの作品も結構トリッキーな設定が出てきて面白いなと思いました。「海底の音楽」は水面下15mのところに家があるという設定だし、「君の芸術が終わってしまう前に」も山頂の山小屋というなかなか変わった設定です。また「太平洋」では突然仕事を辞めてタイにいってしまうし、「クレーターと巨乳」では何故かストーカーと付き合うし、「太陽のバブル」はただひたすら体を洗うだけという、そういう奇妙さみたいなものもたくさんありました。
普通の恋愛小説はあんまり好きじゃないという人には結構いいかもです。11編中半分くらいは好きな作品があるんじゃないかと思います。まあ人を選ぶ作品だとは思いますが。連載時のタイトルが「誰も死なない恋愛小説」というのもなかなかいいですよね。そんなわけで、まあ結構読んでみたら面白いんじゃないかなと思います。
ふー、というわけで前に書いたのが消えてしまったので改めて書き直しました。こういうのは嫌ですね。今回のも消えないことを祈ります。
一応以下に、消えてしまった後に書いた嘆きの文章も残しておきます。
あー、まじで最悪だ。
ちゃんと感想書いたのに消えてしまった。
今回は結構いいこと書いたと思うんだけどなぁ…。
書いた感想が消えたのは初なのでマジでショックです。
今日は時間がないんであらためて感想を書いたりとかしないですけど…、しかし書き直すだけの気力があるか…。
あー、まじくやしいっす。
っていうかマジなんで消えるかなぁ。最悪だ。
というわけで、気が向いたら後日この感想は書きます。ちゃんと書ければいいんだけど…。
内容はなかなかよかったと思いますよ。人を選ぶ作品ですけど、普通の恋愛小説とかが好きじゃないって人はいいと思います。
藤代冥砂「クレーターと巨乳」
縛られたくない、ということだ。
縛られたくない。
縛られたくない。
縛られたくない。
とにかく僕は束縛というものがダメなのである。ありとあらゆるものから自由でいたいとそんな風に思っているのである。
僕がどれだけ束縛がダメかというと、例えばものを借りるということが出来ないというのがある。
僕は結構本を読むのだけど、でも本を図書館で借りたりするのは苦手である。何故ならそれは、返さなくてはいけないからだ。
当然と言えば当然だけど、僕にはそれが出来ないのだ。期日までに返さなくてはいけないということは、その日までに読まなくてはいけない、ということだ。その日までに読まなくてはいけない、というのが僕にとっては束縛なのである。
なんだそんなことと言われるかもしれないが、昔からダメなのだ。同様に、レンタルビデオ店で何かを借りたりというのもダメだし(だから人生の中でレンタル店のカードというのを持ったことがない)、友達から何かを借りるというのも苦手である。
こういう風に、普通の人からすれば束縛だとは思えないようなことでも僕には束縛に感じられてしまうのである。
こう芸能人とかはCMとかに出るといろんな契約があったりするものだろう。あるCMに出ると公の場ではその企業のものを使うしかないとか、ライバル会社のものと一緒に映像に映ってはいけないとか、まあいろいろあるのだろう。僕からすれば、よくもまあそんな生活が出来るものだと感心します。縛りだらけで窮屈ではないのだろうか、とか思ってしまいます。まあ芸能人というのはそれが仕事なのだおうけど、すごいものだと思います。
僕の場合そもそも、自分の意思みたいなものがまったくありません。やりたいこともないし求めていることもないし、食べたいものも行きたいところもありません。長生きしたいとも思わないし、とにかく何もないのだ。自分でしたいと思えるようなことが何一つとしてない。意思と呼べるようなものがまったくない。昔からそうで、例えば友達と集まって何かしようということになっても別に何の提案もしない。まあ思いつかないというのもあるのだけど、でも基本的に何でもいいと思っているわけで、それはどこかご飯を食べに行く時でもそうだしどんな場合でもそうだ。自分で何かを決めたりするのが本当に苦手である。
そういう人間であれば、誰かにこう先導してもらってあれこれ決めてもらったりするのが楽に思えるのだけど、でも実はそうでもないのだ。僕はとにかく、誰かから指図されるというのも非常に嫌いなのである。別に周りの人にあぁしようこうしようと言われるのはいいのだけど、でもああしろこうしろと言われるのはダメなのだ。
生きているというのはとにかく束縛の連続であって、要するにこれはああしろこうしろと言われていることに等しい。結婚しろ、ちゃんとした仕事に就け、勉強しろ、とかなんとかまあ言われているわけではないけど、でも生きているというのは何かとそういうプレッシャーみたいなもので溢れているではないか。とにかく生きているというのは束縛だらけでめんどくさいと思う。
今の僕の生活は、束縛を最低限に出来ていると思う。仕事もバイトだし結婚はもちろんしてないし彼女もいない。毎日本当に本を読んでいるだけの生活である。彼女くらいいてもいいような気がするけど、まあそこまで贅沢は言うまい。仕事は結構楽しいし、割と満足である。
僕を縛るものがあるとしたら、それは法律ぐらいだろう。ただ僕はそれすらも束縛ではないと思い込むように頑張っている。
法律というのは悪いことを規制するために存在するわけで、つまり悪いことをしたいと思っている人、あるいはうっかり悪いことをしてしまうかもしれないと思っている人を束縛するものである。
であれば、そういうものに近づかなければいいと僕は思うのだ。
車を運転すると事故を起こすかもしれないから車には乗らない。株に手を出すと借金を背負うかもしれないから株はやらない。女子高の先生になると売春とかしちゃうかもしれないから女子高の先生にはならない、と言った具合である。
こういうことを心がけていれば、法律すら僕にとっては束縛ではなくなる。より自由な生活を手にすることが出来るのである。
人によっては僕のような生活を面白くないと感じるかもしれない。あるいは、僕が自由だと感じていることを不自由だと感じるかもしれない。
しかし僕にとってまず最優先になるのは、いかに束縛が少ないかということである。それこそが自由ということだし、今こそその自由を手にしていると思っている。
平凡でしがない人生だけれども、しかし今のこの生活が長く続いてくれればいいな、とそんな風に思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は11編の短編を収録した短編集になっています。ただストーリーがどうこうという話でもないので簡潔に紹介をします。
「太平洋」
突然会社を辞めた女性がタイへと赴く話。
「クレーターと巨乳」
童顔の巨乳アイドルが、ベランダからやってきたストーカーと付き合う話。
「海底の音楽」
海底トンネルの非常口の奥に秘密の住居がある話。
「馬を追う」
失恋した女性が馬を追いかける話。
「君の芸術が終わってしまう前に」
山小屋の管理人の夫婦の話。
「芝生の痕」
かつて青姦したことのある芝生へと男と一緒に行く話。
「絵空事」
旅館にやってきた奇妙な男との話。
「清潔な砂漠」
旅行先で突然失踪した夫を探しに砂漠を放浪する話。
「太陽のバブル」
私の体をただひたすら丁寧に洗ってくれる男の話。
「ガールフレンド」
19歳の私ってものについて喫茶店で思いを巡らす話。
「二本の丸みを帯びた地平線」
大工と恋に落ちる話。
著者は作家というわけではなくカメラマンで、本作が初の小説になるようです。「SWITCH」という雑誌に連載していたもののようです。
僕は本作を読む前はこの著者は男だと思っていて、読み始めてからは女だと思ったんですけど、でも実際は男みたいです。比較的女性的な感性みたいなものを捉えているような気がしたので女性の作品だと思っていたんですけど、男だと知ってびっくりしました。
どの話も女性が主人公で、女性の捉えどころのなさそうな部分をうまく捉えているような気がしました。なかなか面白い作品であるように思いました。
どの作品も結構トリッキーな設定が出てきて面白いなと思いました。「海底の音楽」は水面下15mのところに家があるという設定だし、「君の芸術が終わってしまう前に」も山頂の山小屋というなかなか変わった設定です。また「太平洋」では突然仕事を辞めてタイにいってしまうし、「クレーターと巨乳」では何故かストーカーと付き合うし、「太陽のバブル」はただひたすら体を洗うだけという、そういう奇妙さみたいなものもたくさんありました。
普通の恋愛小説はあんまり好きじゃないという人には結構いいかもです。11編中半分くらいは好きな作品があるんじゃないかと思います。まあ人を選ぶ作品だとは思いますが。連載時のタイトルが「誰も死なない恋愛小説」というのもなかなかいいですよね。そんなわけで、まあ結構読んでみたら面白いんじゃないかなと思います。
ふー、というわけで前に書いたのが消えてしまったので改めて書き直しました。こういうのは嫌ですね。今回のも消えないことを祈ります。
一応以下に、消えてしまった後に書いた嘆きの文章も残しておきます。
あー、まじで最悪だ。
ちゃんと感想書いたのに消えてしまった。
今回は結構いいこと書いたと思うんだけどなぁ…。
書いた感想が消えたのは初なのでマジでショックです。
今日は時間がないんであらためて感想を書いたりとかしないですけど…、しかし書き直すだけの気力があるか…。
あー、まじくやしいっす。
っていうかマジなんで消えるかなぁ。最悪だ。
というわけで、気が向いたら後日この感想は書きます。ちゃんと書ければいいんだけど…。
内容はなかなかよかったと思いますよ。人を選ぶ作品ですけど、普通の恋愛小説とかが好きじゃないって人はいいと思います。
藤代冥砂「クレーターと巨乳」
脳と仮想(茂木健一郎)
僕は森博嗣という作家が大好きなのであるが、その作品の中にこのようなセリフが出てくる。
『「美しいと、ビューティフルは、全然違う意味じゃないかな」』
これを読んだ時僕はなるほどと思ったものである。しかしどうなるほどなのかということをちゃんと説明することは難しいと思っていた。
しかしこれは、クオリアというもので説明がつくのだろう、と思った。
クオリアというのは、脳の中で生み出される質感のことである。僕らは目で見たり手で触ったりすることで現実を認識しているけれども、しかしそこで感じているものは現実そのものではなく脳で生み出されるクオリアである。「赤っぽい」とか「ゆらゆらしている」とか「そこはかとなく哀しい」とか、そういう定量化出来ないしかし現実を認識する際に重要な役割を果たすものがクオリアである。
美しいとビューティフルが違う意味だ、ということは、要するに美しいという言葉を聞いた時に生み出されるクオリアとビューティフルと聞いた時に生み出されるクオリアがまるで別物であるということ、もっと言えば、日本人が美しさを感じた時に生み出されるクオリアとアメリカ人がビューティフルさを感じた時に生み出されるクオリアが別物である、ということだ。
僕は英語には詳しくないのでわからないのだけど、ビューティフルという言葉からは直線的な賛美みたいなものを感じる。うまくは説明できないが、分かりやすい美みたいなものを評価しているように思う。
しかし美しいという言葉はもっと複雑で曲線的なものを評価する言葉に僕には聞こえる。「桜」を聞けば日本人であれば誰もが美しいと感じるだろうが、しかし日本人であれば、桜の下には死体が…、という連想も同時に働く。その淫靡さみたいなものもすべて合わせた上での美を評価しているのではないか、という感じがするのだ。これが僕の中で立ち上がる、美しいとビューティフルのクオリアの違いである。
また森博嗣は著作の中でこんなやり取りも書いている。
『「先生・・・、現実って何でしょう?」萌絵は小さな顔を少し傾けて言った。
「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ」犀川はすぐ答えた。』
これもまさしく本作のテーマに沿う見事なやり取りであると思いました。
本作でも、現実とは何か、という話が出てきます。そしてそれは、大きな意味で一種の仮想でしかない、という話になります。
僕らは、現実というものがすぐ目の前にあって、揺るぎなく存在をしているように感じている。それを疑うようなことはないだろう。しかしながら僕らは、決して現実そのものを感じ取っているわけではないのだ。
例えば僕らは目の前にあるコップを見て、コップが現実にそこに存在する、と感じる。しかし僕らが認識しているのはコップそのものではなく、コップを見ることで脳の中で生み出されるクオリアである。もし万が一目の前にコップがなくても、脳の中でコップを見た時に生み出されるクオリアが何らかの形で発生すれば、それは現実にコップがあると認識することになる。幻覚などがそれに近いと思うが、結局僕らは現実そのものではなく、現実そのものを認識することによって脳が生み出すクオリアを感じ取っているだけであって、そういう意味で現実というのも一つの仮想に過ぎない、というのである。
僕は以前どこかの感想の中で、北海道は実在するか、という話を書いた。またその話を書こう。
僕はこれまで一度も北海道を訪れたことがない。もちろん北海道出身であるわけもなく、両親のどちらかが実は北海道出身で、というようなこともたぶんない。誘拐されて北海道まで連れて行かれたことも、あるいは東京だと思って住んでいたところが実は北海道でした、ということもない。
つまり僕にとって、北海道という土地はまだ現実として認識されたことのない場所である。
もちろん、テレビで北海道の雄大な自然を見たこともあるし、北海道のガイドブックも目にしたことがある。北海道出身の友人もいるし、地図にだってちゃんと北海道は記載されている。
しかしそれらはすべて、僕の直接の経験ではない。人から聞いた話だ。僕にとって北海道という土地は、そうした伝聞によって構成される場所、つまり一つの仮説でしかない。北海道は実際あるかもしれない、という仮説が今僕の中にあるだけで、実際あるかどうかまだわからないのである。
しかし一方で、当然のことではあるが僕は別に北海道の存在を疑っているわけではない。間違いなく北海道という場所は存在するだろうし、僕が行ったことがないだけでこれからも存在し続けるだろうと思う。
しかし何故僕は、まだ見たことも足を踏み入れたこともない北海道という土地を、ここまで現実のものとして受け入れることが出来るのか。これが即ち仮想の力であり、僕らの生活がいかにして仮想に満ちているのか、ということを雄弁に語ってくれる一つの事実である。
著者の茂木健一郎は、本作を書くに当たって一つのきっかけがあったと語る。それは空港で何気なく耳にした、ある女の子の言葉である。
「ねえ、サンタさんっていると思う?」
茂木健一郎はこれを聞いて、もう一度真剣に仮想というものの切実さについて考えようと思った。
サンタクロースというのは紛れもなく現実にはいない存在だ。もちろん空港でこの問を発した女の子も、実際のところそれには気づいているだろう。
しかしながら同時に、サンタクロースという存在は僕らの中である明確なクオリアを生み出す。それは姿形にしてもそうだし、夢を運ぶというそのあり方についてでもある。とにかく僕らはサンタクロースと聞くと、「サンタクロースらしさ」というようなクオリアを明確に意識することが出来る。
この問こそがすべての基本なのではないか。いかに仮想というものが脳というものと深く結びつき現実を生きる僕らに作用をするかということの本質なのではないか、と茂木健一郎は考えるのだ。
これまで脳の問題、とりわけ意識や心の問題というのは科学では扱われて来なかった。それは即ち、これまでの科学のやり方では到底扱えないと匙を投げたも同然である。
これまでの科学の解釈では、意識というのは「随伴現象」であるとして片付けてきた。要するに、意識というのはシナプス同士の活動による副産物みたいなものであって、実質のところあってもなくても問題ないものだ。だからこそ科学で扱う必要はない、という立場である。
しかし人間が意識というものを持つ以上、それを何らかの形で解明したいと考えるのも事実である。これまでも科学者は従来の科学の手法で意識について解明しようとしてきたが、しかしそれはまるで無駄であった。いくらシナプスの働きを解明したところで、あるいは脳のそれぞれの部位の働きを解明したところで、何故脳という塊になると意識が発生するのかということはまるで説明が出来なかったのである。
今では、クオリアというものをとっかかりとして、これまでの科学のやり方に頼らない形で脳について研究がされるようになってきた。しかしまだまだ何も分かっていないに等しいというのが現実だ。
僕たちの現実は、すべてクオリアというものによって支えられている。脳の中で生み出されるクオリアを感じることによって物事を認識したり何かに感動したりすることが出来る。そしてまたそうした様々なクオリアの存在により、僕らは仮想を生み出すことが出来る。その仮想によって、僕らの生活は支えられるのだ。
現実もまた仮想の一つである。僕らは現実そのものを認識出来るわけではない。現実を脳が認識した時に生み出されるクオリアを感じることで僕らの脳内で現実が生み出されるのである。世界のすべては脳内にあると言っても言い過ぎではない。
ありとあらゆる意味で、僕らは現実と断絶をしている。分かった気になってもそれは分かっていないのだ。現実を見ているつもりでも現実そのものを見ることは出来ず、また友人について理解したと思っても、それは自分の中で生み出された友人についてのクオリアを理解しているに過ぎないのだ。
脳にとって仮想というものがいかに重要であるか、というものを論じた作品になっています。
なかなかうまく評価することの出来ない作品です。そこまで難しいことが書いてあるわけではないので誰でも読むことは出来ると思うんですが、結局何が言いたかったのかということになると何だかよく分からないな、という感じでした。
茂木健一郎は、芸術や文学やゲームなど様々なものを引き合いに出してこの仮想というものを論じるのだけど、とにかく僕が関心したのが茂木健一郎の博識っぷりです。もちろん理系の人ですけど文学についてもきちんと読んでいるようだし、絵や音楽などの芸術も知っている。芸大でも講師をしたことがあるようでなるほどそれも当然かという感じがしました。
要するに、そうした文学や芸術をどう認識しそれがクオリアや仮想とどう関わってくるのかということを書いているわけですけど、文学や芸術の素養のない僕としてはイマイチよく分からない話も結構ありました。
様々な事例を挙げて認識と仮想について触れているので分かりやすいと言えば分かりやすいのですけど、やっぱり最終的にどういう結論に辿り着いたのかはよく分かりませんでした。
内容はかなり哲学的ではないか、と思います。もちろん脳や意識を扱うというのは科学の分野ではあるんですけど、科学の手法には限界があるわけで、意識や脳について論じるとやはり哲学的になってしまうのかな、と思いました。まあ僕は実際哲学がどういうものかよく分からないですけど、僕が哲学と聞いて浮かび上がるクオリアと本作を読んで脳の中で生み出されるクオリアが近い感じがする、という意味です。
本作は小林秀雄賞というのを受賞しているなかなか評価の高い本のようですが、ちょっとあんまりオススメできないかな、という感じはします。決して悪くはないと思うんですけど、積極的に読むほどでもないような気がしてしまいました。でも意識や脳、あるいはクオリアや仮想について充分深く論じていると思うので、興味があるという人は読んでみたらいいかと思います。
茂木健一郎「脳と仮想」
『「美しいと、ビューティフルは、全然違う意味じゃないかな」』
これを読んだ時僕はなるほどと思ったものである。しかしどうなるほどなのかということをちゃんと説明することは難しいと思っていた。
しかしこれは、クオリアというもので説明がつくのだろう、と思った。
クオリアというのは、脳の中で生み出される質感のことである。僕らは目で見たり手で触ったりすることで現実を認識しているけれども、しかしそこで感じているものは現実そのものではなく脳で生み出されるクオリアである。「赤っぽい」とか「ゆらゆらしている」とか「そこはかとなく哀しい」とか、そういう定量化出来ないしかし現実を認識する際に重要な役割を果たすものがクオリアである。
美しいとビューティフルが違う意味だ、ということは、要するに美しいという言葉を聞いた時に生み出されるクオリアとビューティフルと聞いた時に生み出されるクオリアがまるで別物であるということ、もっと言えば、日本人が美しさを感じた時に生み出されるクオリアとアメリカ人がビューティフルさを感じた時に生み出されるクオリアが別物である、ということだ。
僕は英語には詳しくないのでわからないのだけど、ビューティフルという言葉からは直線的な賛美みたいなものを感じる。うまくは説明できないが、分かりやすい美みたいなものを評価しているように思う。
しかし美しいという言葉はもっと複雑で曲線的なものを評価する言葉に僕には聞こえる。「桜」を聞けば日本人であれば誰もが美しいと感じるだろうが、しかし日本人であれば、桜の下には死体が…、という連想も同時に働く。その淫靡さみたいなものもすべて合わせた上での美を評価しているのではないか、という感じがするのだ。これが僕の中で立ち上がる、美しいとビューティフルのクオリアの違いである。
また森博嗣は著作の中でこんなやり取りも書いている。
『「先生・・・、現実って何でしょう?」萌絵は小さな顔を少し傾けて言った。
「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ」犀川はすぐ答えた。』
これもまさしく本作のテーマに沿う見事なやり取りであると思いました。
本作でも、現実とは何か、という話が出てきます。そしてそれは、大きな意味で一種の仮想でしかない、という話になります。
僕らは、現実というものがすぐ目の前にあって、揺るぎなく存在をしているように感じている。それを疑うようなことはないだろう。しかしながら僕らは、決して現実そのものを感じ取っているわけではないのだ。
例えば僕らは目の前にあるコップを見て、コップが現実にそこに存在する、と感じる。しかし僕らが認識しているのはコップそのものではなく、コップを見ることで脳の中で生み出されるクオリアである。もし万が一目の前にコップがなくても、脳の中でコップを見た時に生み出されるクオリアが何らかの形で発生すれば、それは現実にコップがあると認識することになる。幻覚などがそれに近いと思うが、結局僕らは現実そのものではなく、現実そのものを認識することによって脳が生み出すクオリアを感じ取っているだけであって、そういう意味で現実というのも一つの仮想に過ぎない、というのである。
僕は以前どこかの感想の中で、北海道は実在するか、という話を書いた。またその話を書こう。
僕はこれまで一度も北海道を訪れたことがない。もちろん北海道出身であるわけもなく、両親のどちらかが実は北海道出身で、というようなこともたぶんない。誘拐されて北海道まで連れて行かれたことも、あるいは東京だと思って住んでいたところが実は北海道でした、ということもない。
つまり僕にとって、北海道という土地はまだ現実として認識されたことのない場所である。
もちろん、テレビで北海道の雄大な自然を見たこともあるし、北海道のガイドブックも目にしたことがある。北海道出身の友人もいるし、地図にだってちゃんと北海道は記載されている。
しかしそれらはすべて、僕の直接の経験ではない。人から聞いた話だ。僕にとって北海道という土地は、そうした伝聞によって構成される場所、つまり一つの仮説でしかない。北海道は実際あるかもしれない、という仮説が今僕の中にあるだけで、実際あるかどうかまだわからないのである。
しかし一方で、当然のことではあるが僕は別に北海道の存在を疑っているわけではない。間違いなく北海道という場所は存在するだろうし、僕が行ったことがないだけでこれからも存在し続けるだろうと思う。
しかし何故僕は、まだ見たことも足を踏み入れたこともない北海道という土地を、ここまで現実のものとして受け入れることが出来るのか。これが即ち仮想の力であり、僕らの生活がいかにして仮想に満ちているのか、ということを雄弁に語ってくれる一つの事実である。
著者の茂木健一郎は、本作を書くに当たって一つのきっかけがあったと語る。それは空港で何気なく耳にした、ある女の子の言葉である。
「ねえ、サンタさんっていると思う?」
茂木健一郎はこれを聞いて、もう一度真剣に仮想というものの切実さについて考えようと思った。
サンタクロースというのは紛れもなく現実にはいない存在だ。もちろん空港でこの問を発した女の子も、実際のところそれには気づいているだろう。
しかしながら同時に、サンタクロースという存在は僕らの中である明確なクオリアを生み出す。それは姿形にしてもそうだし、夢を運ぶというそのあり方についてでもある。とにかく僕らはサンタクロースと聞くと、「サンタクロースらしさ」というようなクオリアを明確に意識することが出来る。
この問こそがすべての基本なのではないか。いかに仮想というものが脳というものと深く結びつき現実を生きる僕らに作用をするかということの本質なのではないか、と茂木健一郎は考えるのだ。
これまで脳の問題、とりわけ意識や心の問題というのは科学では扱われて来なかった。それは即ち、これまでの科学のやり方では到底扱えないと匙を投げたも同然である。
これまでの科学の解釈では、意識というのは「随伴現象」であるとして片付けてきた。要するに、意識というのはシナプス同士の活動による副産物みたいなものであって、実質のところあってもなくても問題ないものだ。だからこそ科学で扱う必要はない、という立場である。
しかし人間が意識というものを持つ以上、それを何らかの形で解明したいと考えるのも事実である。これまでも科学者は従来の科学の手法で意識について解明しようとしてきたが、しかしそれはまるで無駄であった。いくらシナプスの働きを解明したところで、あるいは脳のそれぞれの部位の働きを解明したところで、何故脳という塊になると意識が発生するのかということはまるで説明が出来なかったのである。
今では、クオリアというものをとっかかりとして、これまでの科学のやり方に頼らない形で脳について研究がされるようになってきた。しかしまだまだ何も分かっていないに等しいというのが現実だ。
僕たちの現実は、すべてクオリアというものによって支えられている。脳の中で生み出されるクオリアを感じることによって物事を認識したり何かに感動したりすることが出来る。そしてまたそうした様々なクオリアの存在により、僕らは仮想を生み出すことが出来る。その仮想によって、僕らの生活は支えられるのだ。
現実もまた仮想の一つである。僕らは現実そのものを認識出来るわけではない。現実を脳が認識した時に生み出されるクオリアを感じることで僕らの脳内で現実が生み出されるのである。世界のすべては脳内にあると言っても言い過ぎではない。
ありとあらゆる意味で、僕らは現実と断絶をしている。分かった気になってもそれは分かっていないのだ。現実を見ているつもりでも現実そのものを見ることは出来ず、また友人について理解したと思っても、それは自分の中で生み出された友人についてのクオリアを理解しているに過ぎないのだ。
脳にとって仮想というものがいかに重要であるか、というものを論じた作品になっています。
なかなかうまく評価することの出来ない作品です。そこまで難しいことが書いてあるわけではないので誰でも読むことは出来ると思うんですが、結局何が言いたかったのかということになると何だかよく分からないな、という感じでした。
茂木健一郎は、芸術や文学やゲームなど様々なものを引き合いに出してこの仮想というものを論じるのだけど、とにかく僕が関心したのが茂木健一郎の博識っぷりです。もちろん理系の人ですけど文学についてもきちんと読んでいるようだし、絵や音楽などの芸術も知っている。芸大でも講師をしたことがあるようでなるほどそれも当然かという感じがしました。
要するに、そうした文学や芸術をどう認識しそれがクオリアや仮想とどう関わってくるのかということを書いているわけですけど、文学や芸術の素養のない僕としてはイマイチよく分からない話も結構ありました。
様々な事例を挙げて認識と仮想について触れているので分かりやすいと言えば分かりやすいのですけど、やっぱり最終的にどういう結論に辿り着いたのかはよく分かりませんでした。
内容はかなり哲学的ではないか、と思います。もちろん脳や意識を扱うというのは科学の分野ではあるんですけど、科学の手法には限界があるわけで、意識や脳について論じるとやはり哲学的になってしまうのかな、と思いました。まあ僕は実際哲学がどういうものかよく分からないですけど、僕が哲学と聞いて浮かび上がるクオリアと本作を読んで脳の中で生み出されるクオリアが近い感じがする、という意味です。
本作は小林秀雄賞というのを受賞しているなかなか評価の高い本のようですが、ちょっとあんまりオススメできないかな、という感じはします。決して悪くはないと思うんですけど、積極的に読むほどでもないような気がしてしまいました。でも意識や脳、あるいはクオリアや仮想について充分深く論じていると思うので、興味があるという人は読んでみたらいいかと思います。
茂木健一郎「脳と仮想」
僕僕先生(仁木英之)
中国四千年の歴史、なんて風に言われたりする。それだけ歴史の奥深い国である。
しかし、これは何度も書いているけれども、僕からすれば歴史なんてのはだからなんだってなくらいのものでしかない。4000年前に中国人が何をしていようが、500年前に日本人が何をしていようが、僕としてはどうでもいい。興味がない。
ただ興味がないというだけではなく、実際歴史というものにどれほどの意味があるのか、という風に疑問に思ってしまうことも多い。
例えば身近な話をしよう。例えば僕からすれば、両親が恋愛をしていた頃、なんていうのはもはや歴史的事実である。自分の目で確かめようがない。写真や誰かの証言などによってその時の様子を多少は知ることが出来るかもしれないが、しかしそれでも完全に知ることは不可能である。
両親が恋愛をしていた頃なんていうのはたかだか数十年前の話である。であるにも関わらず、その実態について僕らは正確な記述をすることが出来ないのだ。ある程度正確なもの、というのも難しいだろう。そもそも当人同士だって正確に覚えているかどうかわからない。
例えば自伝を書くような人がいる。しかしそこで書かれていることは本当に事実であるかというとそんなことはないだろう。記憶違いもあるだろうし、意図的に隠したいものもあるかもしれない。そうなると、自伝とは言いながら正しいものにはならなかったりする。
まだ生きている人間に関する歴史であってもこうなのだ。いわんや、もはや死んでしまった人達の歴史、それも数百年数千年前の人々のことについてあーだこーだ言ったところでそれが何になるのか僕にはさっぱり理解できないのである。
歴史というのは時間と人である。そしてそのどちらも常に失われ続けるものだ。形あるものとして、あるいは何らかの概念として残り続けることはない。
僕は理系的な人間なので物理や数学と比較するけれども、物理や数学というのは真理を扱う学問である。常に正しいものを追い求め、そしてその真理は失われることはない。決して失われることのない学問だからこそ、僕は物理や数学が好きなのである。
温故知新という言葉があって、まあ大雑把に言えば過去を知ることで今を知るみたいな意味なんだろうけど、でもそもそも過去を知るということがほぼ不可能なことなのである。どれだけ文字で記述されていようが、どれだけ形で残っていようが、その時その時代に生きていた人々とそしてそこに流れていた時間というのは永遠に取り戻すことが出来ない。流れる川の水は一箇所に留まらない、とか言うような意味のことわざだか故事成語だかがあったような気もするけど、まさにその通りであって、人と時間は流れては消えていくからこそ意味を成すものだろうと思う。
だから僕の中で、長い長い歴史を有する中国と、歴史の浅いアメリカというのは、歴史的背景という点で差を感じることはない。歴史なんか、自分が生きているその時代、そしてそれよりもほんの少し前のことさえ知っていれば別に充分だろう。坂本竜馬が何をしたか知らなくたって、南北戦争が何であるか知らなくたって、だからどうなるということもない。
ただ僕の中で、伝統というのはまた違う扱いになる。
伝統というのは文化だ。日本で言えば、漆塗りや刀鍛冶の技法や長年続いている祭りの仕切り、あるいは神社仏閣など形あるものなんかが伝統と言えると思う。
歴史というのは過去であるが、伝統というのは現在なのである。過去はもはや失われてしまい知ることは叶わないが、伝統は現在まで連綿と受け継がれているものであってそれは今でも知ることが出来る。それは、出来る限り未来へと残していくべきだろうな、と思う。歴史を軽んじることと伝統を重んじることは、僕の中では決して矛盾しないのである。
過去を生きた人々のお陰で今があるというのは正しい。その積み重ねがなくては僕らは存在しなかっただろう。だからと言って、その積み重ねの部分を知らなくては今を生きることが出来ないか、と言えばそんなことはない。不都合なことはない。歴史というのはただの物語であり、失われてしまっても特に困りはしないだろう、と言ってしまうのはさすがに暴論だろうか。
そろそろ内容に入ろうと思います。
舞台は中国の唐の時代。王弁という一人の若者がいた。
この若者、今で言うニートのような生活をしているのだ。幼い頃は勉学にも励み将来を嘱望された身ではあったが、父親が多額の財産を有していることを知るや勉学の一切を止めてしまった。曰く、別に働かなくてもお金があるのであれば、わざわざ働く必要などないではないか。
そんな息子に手を焼いているのが父親である。父親は早くに退職をし、道術探求、つまり不老不死なんかを目指して日々学ぶなんていう生活をしている。その父親は、毎日毎日だらだらと生活をしている王弁を見ては説教をするのだが、まさに馬の耳に念仏。王弁は一向にやる気がない。
しかしある日王弁は、父親の命で黄土山に住むある仙人の元を訪れるように言われる。渋々行くと、そこで待っていたのはとても仙人とは見えない美少女であった。その美少女は自らのことを僕僕と名乗り、もう何千何万年も生きている仙人であることを告げる。
それから王弁の生活は一変する。あれほどにやる気のなかった王弁が、僕僕に連れられて旅に出ることにしたのだ。仙人である僕僕に連れられて、王弁はこれまで見たことも聞いたこともないような不思議な世界を垣間見ることが出来、それと共に次第に僕僕への恋心が高まっていくのだけれども…。
というような話です。
まあまあ面白い作品だったかな、という風に思います。
元々中国の何かの話を大幅に変えた作品である、と聞いたような記憶があるのだけど(本のどこにもそんなことは書いてないけど)、それが正しいとすれば要するに、古事記や日本書紀みたいな物語をかなり現代的にアレンジしてみた作品、というような感じではないか、と思います。
作中で中国の皇帝やらの名前とか歴史的な出来事みたいな話が時々出てくるのだけど、もうとにかくそれがさっぱり分からなくてそういうところはかなり苦労しました。僕は、本当に大げさではなく歴史に素養がほぼゼロに近くて、日本の歴史だってほとんど知らないのに、中国の歴史なんてもっと知らないわけで、歴史と名のつくものには拒否反応が出るくらいです。まあそういう歴史的な部分の記述はあんまり多くなくて助かりましたが、そもそもあれですね、中国人の名前というのも覚えられないですね。日本と同じ漢字表記なのになんででしょうか。あと、役職名なのか人名なのかというのもイマイチ区別がつかなくて、やっぱり僕には歴史のセンスはゼロだな、と改めて感じました。
でも、僕僕と王弁の話は結構面白いと思いました。
王弁というのはもうとにかくやる気のない青年で、これなら僕でも勝てるな、というくらいのダメっぷりでした。日がな一日ぼーっとしているだけで、父親から怒られそうだなと察すると家から出て酒を飲んで時間を潰す。本も読まないし勉強もしなければ、当然家の手伝いもしないわけで何もしない。ごくごくまっとうなニートであるわけです。
しかしそんな彼が僕僕に会うことで大きく変わっていく辺りがいいですね。もともとぼーっとしているところは変わらないし、緩い感じは一向に同じなんですけど、何となく人間としての成長が感じられるわけです。初めての恋もするわけで、まさに大冒険という感じです。
一方で僕僕の方もこれまた変わったキャラクターで、まあ仙人だからと言ってしまえばそれまでだけど、かなり好きですね。純粋な王弁をからかってみたり、でも時には真面目で厳しい一面を見せたりと、かなりコロコロと印象の変わる感じで、読んでて面白かったです。
ストーリー自体は特にどうということもなく、各地を旅して回っていろんな出来事が起こる、というまあそういう話なんですけど、割とファンタジー的な要素もあったりして、そういう小説が好きな人でも楽しめる内容かもしれません。
そこそこ楽しめる作品だと思います。個人的には表紙の絵が秀逸だと思いました。恐らく僕僕と王弁を描いているんでしょうけど、まさにこんな感じのイメージですね。というわけで、読んでみてください。
仁木英之「僕僕先生」
しかし、これは何度も書いているけれども、僕からすれば歴史なんてのはだからなんだってなくらいのものでしかない。4000年前に中国人が何をしていようが、500年前に日本人が何をしていようが、僕としてはどうでもいい。興味がない。
ただ興味がないというだけではなく、実際歴史というものにどれほどの意味があるのか、という風に疑問に思ってしまうことも多い。
例えば身近な話をしよう。例えば僕からすれば、両親が恋愛をしていた頃、なんていうのはもはや歴史的事実である。自分の目で確かめようがない。写真や誰かの証言などによってその時の様子を多少は知ることが出来るかもしれないが、しかしそれでも完全に知ることは不可能である。
両親が恋愛をしていた頃なんていうのはたかだか数十年前の話である。であるにも関わらず、その実態について僕らは正確な記述をすることが出来ないのだ。ある程度正確なもの、というのも難しいだろう。そもそも当人同士だって正確に覚えているかどうかわからない。
例えば自伝を書くような人がいる。しかしそこで書かれていることは本当に事実であるかというとそんなことはないだろう。記憶違いもあるだろうし、意図的に隠したいものもあるかもしれない。そうなると、自伝とは言いながら正しいものにはならなかったりする。
まだ生きている人間に関する歴史であってもこうなのだ。いわんや、もはや死んでしまった人達の歴史、それも数百年数千年前の人々のことについてあーだこーだ言ったところでそれが何になるのか僕にはさっぱり理解できないのである。
歴史というのは時間と人である。そしてそのどちらも常に失われ続けるものだ。形あるものとして、あるいは何らかの概念として残り続けることはない。
僕は理系的な人間なので物理や数学と比較するけれども、物理や数学というのは真理を扱う学問である。常に正しいものを追い求め、そしてその真理は失われることはない。決して失われることのない学問だからこそ、僕は物理や数学が好きなのである。
温故知新という言葉があって、まあ大雑把に言えば過去を知ることで今を知るみたいな意味なんだろうけど、でもそもそも過去を知るということがほぼ不可能なことなのである。どれだけ文字で記述されていようが、どれだけ形で残っていようが、その時その時代に生きていた人々とそしてそこに流れていた時間というのは永遠に取り戻すことが出来ない。流れる川の水は一箇所に留まらない、とか言うような意味のことわざだか故事成語だかがあったような気もするけど、まさにその通りであって、人と時間は流れては消えていくからこそ意味を成すものだろうと思う。
だから僕の中で、長い長い歴史を有する中国と、歴史の浅いアメリカというのは、歴史的背景という点で差を感じることはない。歴史なんか、自分が生きているその時代、そしてそれよりもほんの少し前のことさえ知っていれば別に充分だろう。坂本竜馬が何をしたか知らなくたって、南北戦争が何であるか知らなくたって、だからどうなるということもない。
ただ僕の中で、伝統というのはまた違う扱いになる。
伝統というのは文化だ。日本で言えば、漆塗りや刀鍛冶の技法や長年続いている祭りの仕切り、あるいは神社仏閣など形あるものなんかが伝統と言えると思う。
歴史というのは過去であるが、伝統というのは現在なのである。過去はもはや失われてしまい知ることは叶わないが、伝統は現在まで連綿と受け継がれているものであってそれは今でも知ることが出来る。それは、出来る限り未来へと残していくべきだろうな、と思う。歴史を軽んじることと伝統を重んじることは、僕の中では決して矛盾しないのである。
過去を生きた人々のお陰で今があるというのは正しい。その積み重ねがなくては僕らは存在しなかっただろう。だからと言って、その積み重ねの部分を知らなくては今を生きることが出来ないか、と言えばそんなことはない。不都合なことはない。歴史というのはただの物語であり、失われてしまっても特に困りはしないだろう、と言ってしまうのはさすがに暴論だろうか。
そろそろ内容に入ろうと思います。
舞台は中国の唐の時代。王弁という一人の若者がいた。
この若者、今で言うニートのような生活をしているのだ。幼い頃は勉学にも励み将来を嘱望された身ではあったが、父親が多額の財産を有していることを知るや勉学の一切を止めてしまった。曰く、別に働かなくてもお金があるのであれば、わざわざ働く必要などないではないか。
そんな息子に手を焼いているのが父親である。父親は早くに退職をし、道術探求、つまり不老不死なんかを目指して日々学ぶなんていう生活をしている。その父親は、毎日毎日だらだらと生活をしている王弁を見ては説教をするのだが、まさに馬の耳に念仏。王弁は一向にやる気がない。
しかしある日王弁は、父親の命で黄土山に住むある仙人の元を訪れるように言われる。渋々行くと、そこで待っていたのはとても仙人とは見えない美少女であった。その美少女は自らのことを僕僕と名乗り、もう何千何万年も生きている仙人であることを告げる。
それから王弁の生活は一変する。あれほどにやる気のなかった王弁が、僕僕に連れられて旅に出ることにしたのだ。仙人である僕僕に連れられて、王弁はこれまで見たことも聞いたこともないような不思議な世界を垣間見ることが出来、それと共に次第に僕僕への恋心が高まっていくのだけれども…。
というような話です。
まあまあ面白い作品だったかな、という風に思います。
元々中国の何かの話を大幅に変えた作品である、と聞いたような記憶があるのだけど(本のどこにもそんなことは書いてないけど)、それが正しいとすれば要するに、古事記や日本書紀みたいな物語をかなり現代的にアレンジしてみた作品、というような感じではないか、と思います。
作中で中国の皇帝やらの名前とか歴史的な出来事みたいな話が時々出てくるのだけど、もうとにかくそれがさっぱり分からなくてそういうところはかなり苦労しました。僕は、本当に大げさではなく歴史に素養がほぼゼロに近くて、日本の歴史だってほとんど知らないのに、中国の歴史なんてもっと知らないわけで、歴史と名のつくものには拒否反応が出るくらいです。まあそういう歴史的な部分の記述はあんまり多くなくて助かりましたが、そもそもあれですね、中国人の名前というのも覚えられないですね。日本と同じ漢字表記なのになんででしょうか。あと、役職名なのか人名なのかというのもイマイチ区別がつかなくて、やっぱり僕には歴史のセンスはゼロだな、と改めて感じました。
でも、僕僕と王弁の話は結構面白いと思いました。
王弁というのはもうとにかくやる気のない青年で、これなら僕でも勝てるな、というくらいのダメっぷりでした。日がな一日ぼーっとしているだけで、父親から怒られそうだなと察すると家から出て酒を飲んで時間を潰す。本も読まないし勉強もしなければ、当然家の手伝いもしないわけで何もしない。ごくごくまっとうなニートであるわけです。
しかしそんな彼が僕僕に会うことで大きく変わっていく辺りがいいですね。もともとぼーっとしているところは変わらないし、緩い感じは一向に同じなんですけど、何となく人間としての成長が感じられるわけです。初めての恋もするわけで、まさに大冒険という感じです。
一方で僕僕の方もこれまた変わったキャラクターで、まあ仙人だからと言ってしまえばそれまでだけど、かなり好きですね。純粋な王弁をからかってみたり、でも時には真面目で厳しい一面を見せたりと、かなりコロコロと印象の変わる感じで、読んでて面白かったです。
ストーリー自体は特にどうということもなく、各地を旅して回っていろんな出来事が起こる、というまあそういう話なんですけど、割とファンタジー的な要素もあったりして、そういう小説が好きな人でも楽しめる内容かもしれません。
そこそこ楽しめる作品だと思います。個人的には表紙の絵が秀逸だと思いました。恐らく僕僕と王弁を描いているんでしょうけど、まさにこんな感じのイメージですね。というわけで、読んでみてください。
仁木英之「僕僕先生」
残虐記(桐野夏生)
現実にはないものを生み出す、あるいは自分には見えないものを透かし見る。
それが、想像あるいは妄想と言われるものだろう。
僕は正直、妄想力に欠ける人間だ。目の前にあるものを認識することで精一杯の人間だ。目に見えるものだけの情報に安心し、それ以外のものには手を伸ばさないようにしようと思っている人間だ。
だから僕の世界というのは酷く狭い。目に見えるもの、手で触れることのできるもの、そういうものだけで世界が構成されている。
妄想力のある人の世界はどこまでも広いのだろうな、と思う。僕はそれが結構羨ましいと思ったりする。
僕には妄想する力が欠けているので、そういう人の世界がどんなものであるのか想像することも難しい。頭の中に何が詰まっているのだろうか。
もちろん目に見えるもの、手で触れられるものが基本となっていることは間違いないだろう。しかしきっと彼らは、それらに別の意味や可能性を与えたりしているのだろうと思う。僕にはたった一つの意味にしか見えない光景に、いくつもいくつも意味を重ねることが出来るのだろう。
それは現実をいくつも生み出す、ということだ。妄想した世界というのも一つの現実である。例えそれが目に見えなくても手で触れられなくても、頭の中で精緻に組み立てられた妄想の世界というのは、それだけで一つの独立した現実になりうる。妄想した現実からまた別の現実が生まれてくる。そうして次第に、それらの生み出された現実というのは、実際僕らが生きている現実そのものにも影響を与え始める。
妄想力の強い人は一体どうやってその現実を処理しているのだろう。
人によっては作家になってその妄想を小説という形の現実に焼きなおすかもしれない。あるいは人によってはその妄想をさも本当のことであるかのように騙り人を騙すかもしれない。あるいは人によっては、その妄想に誰か別の人間を引き入れ世界を広げてしまうかもしれない。
最後のパターンが一番恐ろしい。要するにそれは、妄想によって生み出された現実を最優先してしまう、ということである。
普通の人間であれば、どれだけ妄想したところで、実際の現実を凌駕することはない。実際の現実にちゃんと地に足をつけた上で、その余った部分で妄想の世界を築き上げるのだ。
しかしごく一部の人間は、実際の現実を否定したいからなのか、あるいは何らかの障害があるのか、妄想によって生み出された現実に生きてしまう人がいる。妄想によって組み立てられた現実は、当人にとっては揺るぎない確固たるものだ。誰も外側からそれを突き崩すことなど出来ない。その妄想に巻き込まれた人は、相手の妄想に合わせ、それを現実として生きていかなくてはいけない。
そう考えると、少しだけ不安になる。何故ならば、僕らの生活が誰かの妄想の産物である、ということを否定できる人はいないはずだからだ。
例えば、どんなものであれ宗教を信仰している人というのは同じ妄想を共有していると僕は思っている。その妄想は強固であり、かつ集団によって形成されるため、狭い空間の中であればほとんど現実と大差のないものにまでになる。あるいは、北朝鮮に生きる人々は、自分たちがある一人の人間の妄想に取り込まれている。それに自覚的な人であっても、成す術はない。あるいは、子どもはどうしたって親の妄想の世界の中に生きなくてはいけない。
同じように、ごくごく普通の生活をしていると思っている自分自身の生活も、誰かの妄想の産物ではないとは言い切れないのではないか、と思うのだ。それだけ強く働きかける妄想であればもはや現実と同じ扱いをしてもいいのかもしれないが、しかし愉快な気分ではいられないだろう。ただし、結局逃れる術はないのだけれども。
妄想は時に現実を否定し、時に現実になりきる。そこに魅せられ取り込まれてしまえば抜け出ることはなかなか難しい。それは恐ろしいものであるが、しかし同時にいつでも人を惹きつける力を持っていると思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、小海鳴海という作家の夫から編集部に宛てられた手紙と、それと一緒に同封してあった小海鳴海の「残虐記」という小説が一冊の本になっている、という設定の作品です。
作家の夫の手紙によれば、小海鳴海こと生方景子は、「残虐記」という作品を残して失踪してしまった、という。その作品を読んだ夫は驚いた。なんとそこには、景子がかつて巻き込まれたある誘拐事件について描かれていたのだ。
そう、景子は小学生の頃ある男性に連れ去られ1年以上にわたって監禁された経験を持つのだ。そして「残虐記」という作品の冒頭は、その加害者である安倍川健治から送られてきた手紙である。恐らくこの手紙が景子の失踪の原因ではないかと思うのだが、夫としては理解に苦しむ。
「残虐記」という作品は、景子が自らの体験した事件を語る、という形で描かれていく。事件がどのように起こり、監禁生活がどのようなものであったのか。どうやって救出され、その後どうなったのか。
しかし、景子はさらにその後のことまで執拗に描く。事件後、自らが「性的人間」になってしまったことを自覚した景子は、自らの内側から湧き上がってくる妄想をもてあますことになるのだが…。
というような作品です。
相変わらず桐野夏生という作家はすごい作家だな、と思います。
何がすごいのか、ということを説明するのは非常に難しいのですけど、とにかくその妄想する力と、そして読者を容易に裏切る物語の力です。
桐野夏生の作品は、主人公が様々な事柄について妄想をし、それを記述する形で進行していくことが多いような気がするんですけど、本作でもその妄想力はいかんなく発揮されています。
とにかく圧巻であるのは、物語の後半に出てくる小説内小説の構想です。景子は高校生の頃に「泥のごとく」という作品でデビューをしたわけですけど、それの下敷きとなった自らの妄想が書き連ねてあります。
これは素晴らしいと思いました。景子が自ら経験した監禁事件のその前を想像して描いた、という体で、自分自身の監禁については何一つ書かなかったわけだけど、事件後事件について知った様々な情報を重ね合わせて組み合わせ一つの物語を生み出します。それがまた奇妙で、しかしそれまでの物語の展開からは外れずリアリティのあるもので、よくこんなこと考えつくものだな、と思います。しかもそれは、監禁事件の被害者である高校生が想像によって紡ぎ出した、という設定なわけで、お見事としか言いようがない気がします。
また、読者をあっさり裏切ってくるところも健在でさすがだと思います。
普通監禁事件を題材にした作品を書くとすれば、その監禁された際の生活をメインに描くでしょう。そうしてその中で自分がどう感じたのか、どうやって生き延びようとしたのか、というようなことを主軸にしながら、その後どうやって生きてきたのかについて触れる、というような展開になるかと思います。
しかし本作では、監禁生活についてはかなりあっさりとしたものです。もちろんそれなりの長さを割いて描写しているわけですけど、それ以上に監禁生活以後の自分というものに主眼を置いて書かれているところが非常に印象的でした。
監禁生活そのものよりも、その監禁生活によって自分の中の何かがどう熟成していくのかということを克明に記録しようとしている作品で、しかもその物語の最後が「泥のごとく」という小説の下敷きになった一つの妄想に繋がっていくわけです。正直こんな展開の作品だとは思いませんでした。ホントすごいと思います。
解説の中で精神科医である斎藤環は、桐野夏生の作品の中で最も重要になるのは関係性である、という風に語ります。まさにその通りで、人間同士がいかに関わるかということが非常に深くしつこいぐらいに描かれていきます。そしてまた氏は、桐野夏生の作品の中で現れる謎は、その関係性の結び目に置かれるので、どの関係性を優先するかによって答えが変わってくる、と言います。それもなるほどそうかもしれない、という風に思えてきます。景子と健治の関係が結局どういうものだったのかということも、あるいは景子と両親の関係や景子とヤタベさんの関係なども、結局どういうものだったのかという明確な答えが描かれるわけではありません。それは、立場によって自在に変化するものとして描かれ、それがまた奇妙なリアリティを支えている、という風に感じました。
なかなかすごい作品であると思います。ここまで重厚で、変な言い方をすればねっとりとした作品というのはなかなかお目にかかれないような気がします。たぶんですけど、読むたびに深みを増してくるようなそんな作品ではないかと思います。万人受けするかどうかについては難しいですけど、読んでみて欲しいかな、と思います。
桐野夏生「残虐記」
それが、想像あるいは妄想と言われるものだろう。
僕は正直、妄想力に欠ける人間だ。目の前にあるものを認識することで精一杯の人間だ。目に見えるものだけの情報に安心し、それ以外のものには手を伸ばさないようにしようと思っている人間だ。
だから僕の世界というのは酷く狭い。目に見えるもの、手で触れることのできるもの、そういうものだけで世界が構成されている。
妄想力のある人の世界はどこまでも広いのだろうな、と思う。僕はそれが結構羨ましいと思ったりする。
僕には妄想する力が欠けているので、そういう人の世界がどんなものであるのか想像することも難しい。頭の中に何が詰まっているのだろうか。
もちろん目に見えるもの、手で触れられるものが基本となっていることは間違いないだろう。しかしきっと彼らは、それらに別の意味や可能性を与えたりしているのだろうと思う。僕にはたった一つの意味にしか見えない光景に、いくつもいくつも意味を重ねることが出来るのだろう。
それは現実をいくつも生み出す、ということだ。妄想した世界というのも一つの現実である。例えそれが目に見えなくても手で触れられなくても、頭の中で精緻に組み立てられた妄想の世界というのは、それだけで一つの独立した現実になりうる。妄想した現実からまた別の現実が生まれてくる。そうして次第に、それらの生み出された現実というのは、実際僕らが生きている現実そのものにも影響を与え始める。
妄想力の強い人は一体どうやってその現実を処理しているのだろう。
人によっては作家になってその妄想を小説という形の現実に焼きなおすかもしれない。あるいは人によってはその妄想をさも本当のことであるかのように騙り人を騙すかもしれない。あるいは人によっては、その妄想に誰か別の人間を引き入れ世界を広げてしまうかもしれない。
最後のパターンが一番恐ろしい。要するにそれは、妄想によって生み出された現実を最優先してしまう、ということである。
普通の人間であれば、どれだけ妄想したところで、実際の現実を凌駕することはない。実際の現実にちゃんと地に足をつけた上で、その余った部分で妄想の世界を築き上げるのだ。
しかしごく一部の人間は、実際の現実を否定したいからなのか、あるいは何らかの障害があるのか、妄想によって生み出された現実に生きてしまう人がいる。妄想によって組み立てられた現実は、当人にとっては揺るぎない確固たるものだ。誰も外側からそれを突き崩すことなど出来ない。その妄想に巻き込まれた人は、相手の妄想に合わせ、それを現実として生きていかなくてはいけない。
そう考えると、少しだけ不安になる。何故ならば、僕らの生活が誰かの妄想の産物である、ということを否定できる人はいないはずだからだ。
例えば、どんなものであれ宗教を信仰している人というのは同じ妄想を共有していると僕は思っている。その妄想は強固であり、かつ集団によって形成されるため、狭い空間の中であればほとんど現実と大差のないものにまでになる。あるいは、北朝鮮に生きる人々は、自分たちがある一人の人間の妄想に取り込まれている。それに自覚的な人であっても、成す術はない。あるいは、子どもはどうしたって親の妄想の世界の中に生きなくてはいけない。
同じように、ごくごく普通の生活をしていると思っている自分自身の生活も、誰かの妄想の産物ではないとは言い切れないのではないか、と思うのだ。それだけ強く働きかける妄想であればもはや現実と同じ扱いをしてもいいのかもしれないが、しかし愉快な気分ではいられないだろう。ただし、結局逃れる術はないのだけれども。
妄想は時に現実を否定し、時に現実になりきる。そこに魅せられ取り込まれてしまえば抜け出ることはなかなか難しい。それは恐ろしいものであるが、しかし同時にいつでも人を惹きつける力を持っていると思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、小海鳴海という作家の夫から編集部に宛てられた手紙と、それと一緒に同封してあった小海鳴海の「残虐記」という小説が一冊の本になっている、という設定の作品です。
作家の夫の手紙によれば、小海鳴海こと生方景子は、「残虐記」という作品を残して失踪してしまった、という。その作品を読んだ夫は驚いた。なんとそこには、景子がかつて巻き込まれたある誘拐事件について描かれていたのだ。
そう、景子は小学生の頃ある男性に連れ去られ1年以上にわたって監禁された経験を持つのだ。そして「残虐記」という作品の冒頭は、その加害者である安倍川健治から送られてきた手紙である。恐らくこの手紙が景子の失踪の原因ではないかと思うのだが、夫としては理解に苦しむ。
「残虐記」という作品は、景子が自らの体験した事件を語る、という形で描かれていく。事件がどのように起こり、監禁生活がどのようなものであったのか。どうやって救出され、その後どうなったのか。
しかし、景子はさらにその後のことまで執拗に描く。事件後、自らが「性的人間」になってしまったことを自覚した景子は、自らの内側から湧き上がってくる妄想をもてあますことになるのだが…。
というような作品です。
相変わらず桐野夏生という作家はすごい作家だな、と思います。
何がすごいのか、ということを説明するのは非常に難しいのですけど、とにかくその妄想する力と、そして読者を容易に裏切る物語の力です。
桐野夏生の作品は、主人公が様々な事柄について妄想をし、それを記述する形で進行していくことが多いような気がするんですけど、本作でもその妄想力はいかんなく発揮されています。
とにかく圧巻であるのは、物語の後半に出てくる小説内小説の構想です。景子は高校生の頃に「泥のごとく」という作品でデビューをしたわけですけど、それの下敷きとなった自らの妄想が書き連ねてあります。
これは素晴らしいと思いました。景子が自ら経験した監禁事件のその前を想像して描いた、という体で、自分自身の監禁については何一つ書かなかったわけだけど、事件後事件について知った様々な情報を重ね合わせて組み合わせ一つの物語を生み出します。それがまた奇妙で、しかしそれまでの物語の展開からは外れずリアリティのあるもので、よくこんなこと考えつくものだな、と思います。しかもそれは、監禁事件の被害者である高校生が想像によって紡ぎ出した、という設定なわけで、お見事としか言いようがない気がします。
また、読者をあっさり裏切ってくるところも健在でさすがだと思います。
普通監禁事件を題材にした作品を書くとすれば、その監禁された際の生活をメインに描くでしょう。そうしてその中で自分がどう感じたのか、どうやって生き延びようとしたのか、というようなことを主軸にしながら、その後どうやって生きてきたのかについて触れる、というような展開になるかと思います。
しかし本作では、監禁生活についてはかなりあっさりとしたものです。もちろんそれなりの長さを割いて描写しているわけですけど、それ以上に監禁生活以後の自分というものに主眼を置いて書かれているところが非常に印象的でした。
監禁生活そのものよりも、その監禁生活によって自分の中の何かがどう熟成していくのかということを克明に記録しようとしている作品で、しかもその物語の最後が「泥のごとく」という小説の下敷きになった一つの妄想に繋がっていくわけです。正直こんな展開の作品だとは思いませんでした。ホントすごいと思います。
解説の中で精神科医である斎藤環は、桐野夏生の作品の中で最も重要になるのは関係性である、という風に語ります。まさにその通りで、人間同士がいかに関わるかということが非常に深くしつこいぐらいに描かれていきます。そしてまた氏は、桐野夏生の作品の中で現れる謎は、その関係性の結び目に置かれるので、どの関係性を優先するかによって答えが変わってくる、と言います。それもなるほどそうかもしれない、という風に思えてきます。景子と健治の関係が結局どういうものだったのかということも、あるいは景子と両親の関係や景子とヤタベさんの関係なども、結局どういうものだったのかという明確な答えが描かれるわけではありません。それは、立場によって自在に変化するものとして描かれ、それがまた奇妙なリアリティを支えている、という風に感じました。
なかなかすごい作品であると思います。ここまで重厚で、変な言い方をすればねっとりとした作品というのはなかなかお目にかかれないような気がします。たぶんですけど、読むたびに深みを増してくるようなそんな作品ではないかと思います。万人受けするかどうかについては難しいですけど、読んでみて欲しいかな、と思います。
桐野夏生「残虐記」
色鉛筆専門店(西山繭子)
色は永遠だ。これは簡単に証明することができる。
例えばある量の赤色の絵具があるとしよう。それに、同じ量の青色の絵具を加えたとしよう。それとは別に、0.1グラム多く青色を入れる、ということを繰り返す。そうして出来たいろはすべて違う色だ。一つだって同じ色は存在しない。色は永遠であり、無限である。
ただそんな色は、たった三種類の色さえあればすべて生み出すことが出来る。色の三原色、と呼ばれているものだ。確か赤・青・黄だったはずだ。この三色さえあれば、この世の中のどんな色でも生み出すことが出来る。
芸術というのもこれに似たところがある。色を混ぜ合わせる、という行為にだ。
芸術も、元になるアイデアにはそこまで広がりはないものだ。色のように三つだけ、ということはないが、芸術を構成する要素というのも有限だろうと思う。
芸術というのは、その有限個の要素をいかに組み合わせていくかによって生み出されるものだ。要素の配分を組替えるということを何度も繰り返し、自分だけのオリジナルの「色」を創り出す行為こそが芸術だろう。
それは小説にも当てはまるだろう。小説にも、有限個のパターンというものが存在する。そのパターンは小説という形態が生み出されて以降どんどんと消費されて行き、そしてパターンはもはや出尽くしてしまったと言っていい。現代の作家は、そのパターンを選び組み合わせることで、自分だけのオリジナリティを生み出していくのだ。
無限や永遠というのは手に負えないものに思えるけど、しかしそれらは有限の要素から生み出される。何かそれがいいなと思える。無限を解体できたような気分になれる。
別の話をしよう。
色と言えば昔から気になっていることがある。要するに、人は皆同じ色を見ているのか、ということだ。そして結局のところ、これは決して証明することの出来ない命題なのだ。
僕らは「赤」と呼ぶ色を知っている。それがどんな色であるかも知っている。説明しようと思えば、「トマトみたいな色」とか「夕焼けみたいな色」と答えればいい。
しかしそれは、ある色に対して「赤」という名前をつけただけにすぎない。僕らが見ているその色が皆同じ色かどうか、ということには関係がないのだ。
例えば僕は他の人から見たら青色に見える色を「赤色」と呼んでいるだけかもしれない。異なる二人がまったく同じ色を見ているかどうか、なんてことは確認出来ないのだ。
それが僕には本当に不思議に思える。僕らは同じ景色を見ているのが前提であるかのように生活をしているけど、その前提は必ずしも保証されているわけではない、というのが不思議だ。なんとなく、人間というのは根本的なところでは共有しあうことが出来ないのかもしれないのかな、とか思ったりする。
色は永遠を生み出し無限を創る。永遠や無限が僕らには正体不明であるように、色もまた僕らにその本性を現すことはないのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は16の短編を収録した短編集になっています。それぞれの内容を紹介するのはちょっと面倒なのでタイトルだけ書き連ねます。
「緑色のグローブ」
「その青はどこまでも遠く」
「幸せの黄色い鳥」
「アルファレッド」
「オレンジ色の指先」
「ネイビーサンタ」
「白雪嫁」
「チョコの海岸物語」
「曇り女」
「あるピンク色の夜」
「エメラルドばあちゃん」
「紫の聖母」
「肌色のベビーチーズ」
「優しい黒魔術」
「透明の海」
それぞれの作品は繋がっているわけではなく、別々の物語です。プロローグで「色鉛筆専門店」が出てきたのでここが舞台になるのかな、と思ったのですが、そういう話ではありませんでした。
著者は女優だそうです。本作が初の小説だということです。
読んだ感想としては、ちょっと微妙かなという感じでした。
女優の感性とでも言うのか、描写に関しては結構いいかもしれない、と思いました。それぞれの短編ではモチーフになる色があるんだけど、その色に関連した名前や小道具なんかが結構出てきて、そういうものの描写やまとめ方なんかは結構センスがいいかもしれないと思いました。
ただいかんせんストーリーにあまり興味が持てないものが多かったです。それぞれの話はかなり短いので、その作品の世界に入る前にストーリーが終わってしまう、という感じでした。ショートショートに近い長さで、正直ショートショートというのは結構書くのが難しいだろうと思うので、そういう意味でちょっと難アリかな、という印象でした。
好きな話が一つだけあって、「ネイビーサンタ」というものです。これは実際サンタとして活動しているある錠前屋の話なんですけど、これは結構好きな話でした。
女性的な感性に溢れる作品なので、女性が読んだらまたどういう評価になるのかは分かりませんが、ちょっと僕には合わない作品でした。僕個人としてはあんまりオススメできません。ただこういう作品がいいと思える人はたぶんいると思うので、パラパラ見て合いそうだなと思ったら読んでみるのもいいかもしれません。
西山繭子「色鉛筆専門店」
例えばある量の赤色の絵具があるとしよう。それに、同じ量の青色の絵具を加えたとしよう。それとは別に、0.1グラム多く青色を入れる、ということを繰り返す。そうして出来たいろはすべて違う色だ。一つだって同じ色は存在しない。色は永遠であり、無限である。
ただそんな色は、たった三種類の色さえあればすべて生み出すことが出来る。色の三原色、と呼ばれているものだ。確か赤・青・黄だったはずだ。この三色さえあれば、この世の中のどんな色でも生み出すことが出来る。
芸術というのもこれに似たところがある。色を混ぜ合わせる、という行為にだ。
芸術も、元になるアイデアにはそこまで広がりはないものだ。色のように三つだけ、ということはないが、芸術を構成する要素というのも有限だろうと思う。
芸術というのは、その有限個の要素をいかに組み合わせていくかによって生み出されるものだ。要素の配分を組替えるということを何度も繰り返し、自分だけのオリジナルの「色」を創り出す行為こそが芸術だろう。
それは小説にも当てはまるだろう。小説にも、有限個のパターンというものが存在する。そのパターンは小説という形態が生み出されて以降どんどんと消費されて行き、そしてパターンはもはや出尽くしてしまったと言っていい。現代の作家は、そのパターンを選び組み合わせることで、自分だけのオリジナリティを生み出していくのだ。
無限や永遠というのは手に負えないものに思えるけど、しかしそれらは有限の要素から生み出される。何かそれがいいなと思える。無限を解体できたような気分になれる。
別の話をしよう。
色と言えば昔から気になっていることがある。要するに、人は皆同じ色を見ているのか、ということだ。そして結局のところ、これは決して証明することの出来ない命題なのだ。
僕らは「赤」と呼ぶ色を知っている。それがどんな色であるかも知っている。説明しようと思えば、「トマトみたいな色」とか「夕焼けみたいな色」と答えればいい。
しかしそれは、ある色に対して「赤」という名前をつけただけにすぎない。僕らが見ているその色が皆同じ色かどうか、ということには関係がないのだ。
例えば僕は他の人から見たら青色に見える色を「赤色」と呼んでいるだけかもしれない。異なる二人がまったく同じ色を見ているかどうか、なんてことは確認出来ないのだ。
それが僕には本当に不思議に思える。僕らは同じ景色を見ているのが前提であるかのように生活をしているけど、その前提は必ずしも保証されているわけではない、というのが不思議だ。なんとなく、人間というのは根本的なところでは共有しあうことが出来ないのかもしれないのかな、とか思ったりする。
色は永遠を生み出し無限を創る。永遠や無限が僕らには正体不明であるように、色もまた僕らにその本性を現すことはないのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は16の短編を収録した短編集になっています。それぞれの内容を紹介するのはちょっと面倒なのでタイトルだけ書き連ねます。
「緑色のグローブ」
「その青はどこまでも遠く」
「幸せの黄色い鳥」
「アルファレッド」
「オレンジ色の指先」
「ネイビーサンタ」
「白雪嫁」
「チョコの海岸物語」
「曇り女」
「あるピンク色の夜」
「エメラルドばあちゃん」
「紫の聖母」
「肌色のベビーチーズ」
「優しい黒魔術」
「透明の海」
それぞれの作品は繋がっているわけではなく、別々の物語です。プロローグで「色鉛筆専門店」が出てきたのでここが舞台になるのかな、と思ったのですが、そういう話ではありませんでした。
著者は女優だそうです。本作が初の小説だということです。
読んだ感想としては、ちょっと微妙かなという感じでした。
女優の感性とでも言うのか、描写に関しては結構いいかもしれない、と思いました。それぞれの短編ではモチーフになる色があるんだけど、その色に関連した名前や小道具なんかが結構出てきて、そういうものの描写やまとめ方なんかは結構センスがいいかもしれないと思いました。
ただいかんせんストーリーにあまり興味が持てないものが多かったです。それぞれの話はかなり短いので、その作品の世界に入る前にストーリーが終わってしまう、という感じでした。ショートショートに近い長さで、正直ショートショートというのは結構書くのが難しいだろうと思うので、そういう意味でちょっと難アリかな、という印象でした。
好きな話が一つだけあって、「ネイビーサンタ」というものです。これは実際サンタとして活動しているある錠前屋の話なんですけど、これは結構好きな話でした。
女性的な感性に溢れる作品なので、女性が読んだらまたどういう評価になるのかは分かりませんが、ちょっと僕には合わない作品でした。僕個人としてはあんまりオススメできません。ただこういう作品がいいと思える人はたぶんいると思うので、パラパラ見て合いそうだなと思ったら読んでみるのもいいかもしれません。
西山繭子「色鉛筆専門店」
闇の守り人(上橋菜穂子)
生きているというのは呪いに近い。もっと言えば、生きているというのは呪いを受けかつ呪いを振りまくことだろうと思う。
人は生きている限り自分独りで生きていくことは不可能だ。生きていく中で必ずその他多くの人達と関わり、その関わり合いの中で生きていくことになる。それは日本に字増殖する引きこもりの青年でも同じだし、貧しい国に生きる子どもたちでも同じである。
生きていくことの困難さについて語る資格は僕にはないかもしれない。たかだか20数年しか生きていないし、戦争や災害など大きな出来事を経験したわけでもない。ごくごく普通の人と同じように、ありきたりの人生を歩んできただけの人間である。
それでも僕は、生きていくことの大変さについてよく考える。人間が生きていくということは本当にたくさんの困難が付きまとうものだな、と。
それはほぼすべて、人との関わり合いの中で生まれてくる。
人間と言うのは他の動物と違って、その叡智を元に様々に独特の生き方を獲得してきた。貨幣制度を生み出し、皆がそれぞれ仕事を分担し、その仕事に応じて賃金を出し、お金によって物を交換するという仕組みを生み出した。同時に社会と呼ばれる非常に大きな単位が生まれ、さらに国や民族と言った区分けもされるようになった。
こういう生き方は僕らに、非常に便利な世界を提示することになった。僕らは、自分では作ったり成したり出来ないことでも、お金を出すことによってそれを得ることが出来るようになった。物事の仕組みをちゃんと知らなくても、誰かがそれをきちんと運用してくれるようになった。それはある意味で生きていくことを簡便化し、そうやって生きている人間に自由な時間をもたらした、と考えることも出来るかもしれない。
しかし、もはや僕らはこういう生活に慣れすぎてしまって普段意識することはないだろうが、こういう生活になったからこそ余計に他人の存在というものが重要になってしまった。
例えば僕らは、電気がなくてはありとあらゆる生活が立ち行かないような仕組みを選択してしまった。もはや電気がなければ、ご飯をどう炊いていいか、そもそも火をどう熾していいかも分からないだろう。僕らは生きていくためにありとあらゆるものに頼りすぎている。そして、その生活から抜け出すことはもう出来ない。
電気がなくては生活が出来ないということは、電気を生み出す人々がいないと僕らの生活は成り立たない、ということである。つまり、電力会社の人々に頼りきっているということだ。
電気に限らず僕らの生活は、このように誰だか分からないたくさんの人々によって成り立っているのだ。もし僕らがホームレスとして生活をしようとも、生きている限り誰か他人の恩恵を受けることになる。そこから逃れることなど出来ない。そういう生き方になってしまったのだ。
知らないうちに知らない人と関わっている。そんな生活をずっと続けていれば、知らず知らず誰かに迷惑を掛けたり、あるいは誰かから迷惑を被ったりしてしまう。
まさに呪いである。
その昔、共同体というものが強く根付いていた頃であれば、目に見える形で呪いというものを実感できたかもしれない。そういったものがまだ信じられていた頃というのは確かに存在していたはずだ。
しかし僕は思うのだ。今現在、共同体という幻想がどんどん薄れつつある今だからこそ、呪いというものはより有効なのではないか、と。そしてその呪いが、今の僕らの生活を静かに蝕んでいるのではないか、と。
共同体がまだ有効だった頃は、呪いというのは何かを抑止するための手段であったはずだ。呪いというものの存在を信じることによって、共同体をうまく運用していくという名目だったのだろうと思う。
しかし共同体という幻想がなくなりつつある今、呪いは何かを抑止する力を失い、それどころか何かを促進する力を持ち始めたのではないか、と思う。凶悪な犯罪が起きたり、理解できない若者の行動などはすべて、そうした呪いが関わっているのかもしれない。
生きていることによって僕らは呪いを振りまいている。誰にも迷惑を掛けずに生きることは出来ない。生きている限り、誰かに呪いを振りまくことになるし、同時に誰かから呪いを掛けられることもあるだろう。そういう社会の中で僕らは生きていかなくてはいけないのだ。益々生きていくことが辛くなる。そんな嫌な流れを、僕はなんとなく肌で感じてしまう。
なんかうまいことまとめられなかったですね。残念。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「精霊の守り人」の続編で、女用心棒であるバルサが生まれ故郷であるカンバル王国に戻る話です。
カンバル王国のかつての王の策略により故郷を追われることになった当時6歳のバルサは、父の友人であり武術の達人であったジグロに連れられ新ヨゴ皇国まで逃げ延び、ジグロに武術を叩き込まれ、以来用心棒として生きてきたのだ。そのジグロは病を得て死んでしまった。
故郷に戻ったバルサは、何をしようというのでもなかった。自分を追い出した王に復讐しようとしても、既にその王は死んでいる。自分が巻き込まれた策謀について知っている人間はもうほとんどいないだろう。しかし、ジグロの親族がまだいれば、ジグロの汚名を濯いでやりたい、とそんな風に漠然と考えていた。
カンバル王国へと通じる洞窟を進んでいたバルサは、突然悲鳴を聞き慌てて駆けつけた。そこには幼い兄弟がいて、ヒョウルと呼ばれる<闇の守り人>に襲われているところだったのだ。
その兄弟を助けたバルサは、唯一の親族であるユーカ叔母を訪ねるが、一方でその兄弟からバルサの話が漏れ、ジグロの兄弟でありカンバル王国の英雄でもあるユグロがバルサの暗殺を命じる。
ユグロの一行に追われるバルサは一方でカンバル王国にまつわるある秘密を耳にすることになる。またユグロがその秘密の禁を破って暴走しようとしていることも。バルサはユグロの暴走を止めるよう手助けを頼まれるのだが…。
というような話です。
前作に続いて、なるほどなかなか面白い作品だなと思いました。
僕はこういう作品を読むと毎回書くのですけど、ファンタジー作品を読むのがあまり得意ではありません。別に子ども向けの感じがして馴染めないとかそういうようなことではなく、なんとなくその世界に入り込めないのです。ゲームでRPGなんかをやったことがないというのもあったりするかもしれませんが、とにかくファンタジー小説というのは比較的苦手な分野です。
でもそんな僕でもこのシリーズはなかなか面白いなと思えます。全10巻のシリーズみたいですけど、文庫でならまあ全部読んでみてもいいかな、と思っているくらいです。
何がいいのかということを考えた時、余計なものが出てこないからではないか、と思ったりします。
僕の中でのファンタジー小説のイメージは、魔法が出てきたりありえない設定が出てきたり、要するにそういう感じです。そういう話は、どれだけ細部がしっかりしていても、どうせ何でもありやがな、とか思ってどうも真剣に読めません。「ハリーポッター」とかにしても1巻だけ読んだけど、魔法やらなんやらが出てきてちょっとウンザリという感じでした。
でも本作ではそういう余計なものは出てきません。魔法は出てきませんし死んだ人間が生き返ったりもしないし、剣術や薬草と言った現実的なものを舞台にして、時々アンタジー的な設定が出てくるだけです。そういう、ファンタジー小説なんだけど何でもアリ的ではないという部分が気に入ったのではないか、と思います。
本作はあとがきによれば、全10巻のシリーズの中で一番大人に人気のある話だそうです。それを著者は、バルサが己の過去に向き合うことになるストーリーだからではないか、と分析しています。確かにそうで、前作の「精霊の守り人」はチャグムという子どもを守る使命を与えられたのがバルサであり、バルサは比較的脇役のような感じでした。以降のシリーズでもそういう感じらしいんですけど、本作ではかなりバルサが主役な感じになっています。そういう辺りもなかなかいい感じでした。
前作でもそうでしたが、権力争いみたいなものが常に関わってきて、そういうのはやっぱり醜いよな、とか思ったりします。権力というものに僕はまったく惹かれないどころか、嫌悪感すら感じる人間なので、権力にしがみついたり権力を守りぬいたりするような人々のことがどうも理解できません。まあそういう人々の企みをバルサがぶっ壊してくれるので、爽快な感じになるのかもしれませんが。
登場人物が常に魅力的で、一人一人が活き活きしている感じがします。まさに小説の中で「生きている」という感じが伝わってくる描写で、作家の力量を感じさせます。
ファンタジー小説を僕は的確に評価できる自信はありませんが、でも本作はファンタジーが好きな人でもそこまで好きでない人でも楽しめる作品ではないかな、と思います。まあ全10巻をすべて読むのは大変かもしれませんが、とりあえずシリーズの初めの「精霊の守り人」を読み始めてみるというのはどうでしょうか?
上橋菜穂子「闇の守り人」
人は生きている限り自分独りで生きていくことは不可能だ。生きていく中で必ずその他多くの人達と関わり、その関わり合いの中で生きていくことになる。それは日本に字増殖する引きこもりの青年でも同じだし、貧しい国に生きる子どもたちでも同じである。
生きていくことの困難さについて語る資格は僕にはないかもしれない。たかだか20数年しか生きていないし、戦争や災害など大きな出来事を経験したわけでもない。ごくごく普通の人と同じように、ありきたりの人生を歩んできただけの人間である。
それでも僕は、生きていくことの大変さについてよく考える。人間が生きていくということは本当にたくさんの困難が付きまとうものだな、と。
それはほぼすべて、人との関わり合いの中で生まれてくる。
人間と言うのは他の動物と違って、その叡智を元に様々に独特の生き方を獲得してきた。貨幣制度を生み出し、皆がそれぞれ仕事を分担し、その仕事に応じて賃金を出し、お金によって物を交換するという仕組みを生み出した。同時に社会と呼ばれる非常に大きな単位が生まれ、さらに国や民族と言った区分けもされるようになった。
こういう生き方は僕らに、非常に便利な世界を提示することになった。僕らは、自分では作ったり成したり出来ないことでも、お金を出すことによってそれを得ることが出来るようになった。物事の仕組みをちゃんと知らなくても、誰かがそれをきちんと運用してくれるようになった。それはある意味で生きていくことを簡便化し、そうやって生きている人間に自由な時間をもたらした、と考えることも出来るかもしれない。
しかし、もはや僕らはこういう生活に慣れすぎてしまって普段意識することはないだろうが、こういう生活になったからこそ余計に他人の存在というものが重要になってしまった。
例えば僕らは、電気がなくてはありとあらゆる生活が立ち行かないような仕組みを選択してしまった。もはや電気がなければ、ご飯をどう炊いていいか、そもそも火をどう熾していいかも分からないだろう。僕らは生きていくためにありとあらゆるものに頼りすぎている。そして、その生活から抜け出すことはもう出来ない。
電気がなくては生活が出来ないということは、電気を生み出す人々がいないと僕らの生活は成り立たない、ということである。つまり、電力会社の人々に頼りきっているということだ。
電気に限らず僕らの生活は、このように誰だか分からないたくさんの人々によって成り立っているのだ。もし僕らがホームレスとして生活をしようとも、生きている限り誰か他人の恩恵を受けることになる。そこから逃れることなど出来ない。そういう生き方になってしまったのだ。
知らないうちに知らない人と関わっている。そんな生活をずっと続けていれば、知らず知らず誰かに迷惑を掛けたり、あるいは誰かから迷惑を被ったりしてしまう。
まさに呪いである。
その昔、共同体というものが強く根付いていた頃であれば、目に見える形で呪いというものを実感できたかもしれない。そういったものがまだ信じられていた頃というのは確かに存在していたはずだ。
しかし僕は思うのだ。今現在、共同体という幻想がどんどん薄れつつある今だからこそ、呪いというものはより有効なのではないか、と。そしてその呪いが、今の僕らの生活を静かに蝕んでいるのではないか、と。
共同体がまだ有効だった頃は、呪いというのは何かを抑止するための手段であったはずだ。呪いというものの存在を信じることによって、共同体をうまく運用していくという名目だったのだろうと思う。
しかし共同体という幻想がなくなりつつある今、呪いは何かを抑止する力を失い、それどころか何かを促進する力を持ち始めたのではないか、と思う。凶悪な犯罪が起きたり、理解できない若者の行動などはすべて、そうした呪いが関わっているのかもしれない。
生きていることによって僕らは呪いを振りまいている。誰にも迷惑を掛けずに生きることは出来ない。生きている限り、誰かに呪いを振りまくことになるし、同時に誰かから呪いを掛けられることもあるだろう。そういう社会の中で僕らは生きていかなくてはいけないのだ。益々生きていくことが辛くなる。そんな嫌な流れを、僕はなんとなく肌で感じてしまう。
なんかうまいことまとめられなかったですね。残念。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「精霊の守り人」の続編で、女用心棒であるバルサが生まれ故郷であるカンバル王国に戻る話です。
カンバル王国のかつての王の策略により故郷を追われることになった当時6歳のバルサは、父の友人であり武術の達人であったジグロに連れられ新ヨゴ皇国まで逃げ延び、ジグロに武術を叩き込まれ、以来用心棒として生きてきたのだ。そのジグロは病を得て死んでしまった。
故郷に戻ったバルサは、何をしようというのでもなかった。自分を追い出した王に復讐しようとしても、既にその王は死んでいる。自分が巻き込まれた策謀について知っている人間はもうほとんどいないだろう。しかし、ジグロの親族がまだいれば、ジグロの汚名を濯いでやりたい、とそんな風に漠然と考えていた。
カンバル王国へと通じる洞窟を進んでいたバルサは、突然悲鳴を聞き慌てて駆けつけた。そこには幼い兄弟がいて、ヒョウルと呼ばれる<闇の守り人>に襲われているところだったのだ。
その兄弟を助けたバルサは、唯一の親族であるユーカ叔母を訪ねるが、一方でその兄弟からバルサの話が漏れ、ジグロの兄弟でありカンバル王国の英雄でもあるユグロがバルサの暗殺を命じる。
ユグロの一行に追われるバルサは一方でカンバル王国にまつわるある秘密を耳にすることになる。またユグロがその秘密の禁を破って暴走しようとしていることも。バルサはユグロの暴走を止めるよう手助けを頼まれるのだが…。
というような話です。
前作に続いて、なるほどなかなか面白い作品だなと思いました。
僕はこういう作品を読むと毎回書くのですけど、ファンタジー作品を読むのがあまり得意ではありません。別に子ども向けの感じがして馴染めないとかそういうようなことではなく、なんとなくその世界に入り込めないのです。ゲームでRPGなんかをやったことがないというのもあったりするかもしれませんが、とにかくファンタジー小説というのは比較的苦手な分野です。
でもそんな僕でもこのシリーズはなかなか面白いなと思えます。全10巻のシリーズみたいですけど、文庫でならまあ全部読んでみてもいいかな、と思っているくらいです。
何がいいのかということを考えた時、余計なものが出てこないからではないか、と思ったりします。
僕の中でのファンタジー小説のイメージは、魔法が出てきたりありえない設定が出てきたり、要するにそういう感じです。そういう話は、どれだけ細部がしっかりしていても、どうせ何でもありやがな、とか思ってどうも真剣に読めません。「ハリーポッター」とかにしても1巻だけ読んだけど、魔法やらなんやらが出てきてちょっとウンザリという感じでした。
でも本作ではそういう余計なものは出てきません。魔法は出てきませんし死んだ人間が生き返ったりもしないし、剣術や薬草と言った現実的なものを舞台にして、時々アンタジー的な設定が出てくるだけです。そういう、ファンタジー小説なんだけど何でもアリ的ではないという部分が気に入ったのではないか、と思います。
本作はあとがきによれば、全10巻のシリーズの中で一番大人に人気のある話だそうです。それを著者は、バルサが己の過去に向き合うことになるストーリーだからではないか、と分析しています。確かにそうで、前作の「精霊の守り人」はチャグムという子どもを守る使命を与えられたのがバルサであり、バルサは比較的脇役のような感じでした。以降のシリーズでもそういう感じらしいんですけど、本作ではかなりバルサが主役な感じになっています。そういう辺りもなかなかいい感じでした。
前作でもそうでしたが、権力争いみたいなものが常に関わってきて、そういうのはやっぱり醜いよな、とか思ったりします。権力というものに僕はまったく惹かれないどころか、嫌悪感すら感じる人間なので、権力にしがみついたり権力を守りぬいたりするような人々のことがどうも理解できません。まあそういう人々の企みをバルサがぶっ壊してくれるので、爽快な感じになるのかもしれませんが。
登場人物が常に魅力的で、一人一人が活き活きしている感じがします。まさに小説の中で「生きている」という感じが伝わってくる描写で、作家の力量を感じさせます。
ファンタジー小説を僕は的確に評価できる自信はありませんが、でも本作はファンタジーが好きな人でもそこまで好きでない人でも楽しめる作品ではないかな、と思います。まあ全10巻をすべて読むのは大変かもしれませんが、とりあえずシリーズの初めの「精霊の守り人」を読み始めてみるというのはどうでしょうか?
上橋菜穂子「闇の守り人」
レイニー・パークの音(早瀬乱)
ちょっと考えてみたのだけど、どうも書くようなことが見当たらない。書くなら「裁判」か「公園」についてになるかもしれないが、どっちもどうもピンとこない。
というわけで前書きなしで感想に入ります。
舞台は明治時代の東京。元屋夏雄の元に一通の手紙が届いたことからすべてが始まる。
その手紙には、出来たばかりの日比谷公園で「公開裁判」が開かれること、ある三人の失踪に関しての疑惑を追及する場であるということ、そしてその被告として夏雄や彼の友人らの名前などが書かれていた。
失踪したとされる三人のうち、二人については夏雄も知っていた。ミッションスクール時代の師であり、当時様々な出来事を共有した相手だ。しかしもう一人名前に挙がっている人はさっぱり分からない。
夏雄の妻であり、その手紙を夏雄より早く目にしたセツは、その手紙を目にした夫が失踪してしまったことを案じ、自分でも出来る限り調べてみることにした。
夫らの過去に一体何があったのか。そして公開裁判とは一体何なのか…。
というような話です。
早瀬乱というのは江戸川乱歩賞を受賞した作家で、本作はその受賞後第一作の作品になりますが、しかしどうもピンと来ない作品だな、という感じがしました。
江戸川乱歩賞受賞作である「三年坂 火の夢」はまだミステリとしてそこそこ面白かったような気がするんですけど、本作はどうなんだろうという感じでした。「公園での公開裁判」という設定は面白いと思ったんですけど、公園について論じたいのかと思えばそういうわけでもなく、夏雄らのミッションスクール時代の話に絞りたいのかと思えば、失踪者として挙げられた謎の人物についても触れられるし、どうもピントの合わない作品であると感じました。結局どこをメインにして描きたかったのかということがよく見えてきません。
一応ミステリ的な作品ではあるんですけど、なんというか若者たちのなんということはない青春時代をダラダラと回顧しているような作品で、なんかもう少しビシッと出来ないものかな、という感じでした。
ただ個人的に評価できるところがあるとすれば、明治の東京というものを様々な形で表現しようとしているな、というような描写です。もちろん明治の東京についてまったく知識はありませんが、日常の細々とした描写の中でその風景みたいなものをきっちり浮かび上がらせようとしているような努力を見ることが出来たので、まあその辺は評価してもいいのかもしれないな、と思いました。
ちょっとこういうタッチでこれからも作家としてやっていくのであれば、ちょっと厳しいかなという感じがします。どこかで大きな転換に迫られるのではないかと思います。まあ本作は、まったくオススメは出来ないですね。読まなくていいと思います。
早瀬乱「レイニー・パークの音」
というわけで前書きなしで感想に入ります。
舞台は明治時代の東京。元屋夏雄の元に一通の手紙が届いたことからすべてが始まる。
その手紙には、出来たばかりの日比谷公園で「公開裁判」が開かれること、ある三人の失踪に関しての疑惑を追及する場であるということ、そしてその被告として夏雄や彼の友人らの名前などが書かれていた。
失踪したとされる三人のうち、二人については夏雄も知っていた。ミッションスクール時代の師であり、当時様々な出来事を共有した相手だ。しかしもう一人名前に挙がっている人はさっぱり分からない。
夏雄の妻であり、その手紙を夏雄より早く目にしたセツは、その手紙を目にした夫が失踪してしまったことを案じ、自分でも出来る限り調べてみることにした。
夫らの過去に一体何があったのか。そして公開裁判とは一体何なのか…。
というような話です。
早瀬乱というのは江戸川乱歩賞を受賞した作家で、本作はその受賞後第一作の作品になりますが、しかしどうもピンと来ない作品だな、という感じがしました。
江戸川乱歩賞受賞作である「三年坂 火の夢」はまだミステリとしてそこそこ面白かったような気がするんですけど、本作はどうなんだろうという感じでした。「公園での公開裁判」という設定は面白いと思ったんですけど、公園について論じたいのかと思えばそういうわけでもなく、夏雄らのミッションスクール時代の話に絞りたいのかと思えば、失踪者として挙げられた謎の人物についても触れられるし、どうもピントの合わない作品であると感じました。結局どこをメインにして描きたかったのかということがよく見えてきません。
一応ミステリ的な作品ではあるんですけど、なんというか若者たちのなんということはない青春時代をダラダラと回顧しているような作品で、なんかもう少しビシッと出来ないものかな、という感じでした。
ただ個人的に評価できるところがあるとすれば、明治の東京というものを様々な形で表現しようとしているな、というような描写です。もちろん明治の東京についてまったく知識はありませんが、日常の細々とした描写の中でその風景みたいなものをきっちり浮かび上がらせようとしているような努力を見ることが出来たので、まあその辺は評価してもいいのかもしれないな、と思いました。
ちょっとこういうタッチでこれからも作家としてやっていくのであれば、ちょっと厳しいかなという感じがします。どこかで大きな転換に迫られるのではないかと思います。まあ本作は、まったくオススメは出来ないですね。読まなくていいと思います。
早瀬乱「レイニー・パークの音」
片耳うさぎ(大崎梢)
別に大きな家に住んだ経験はないのだけど、でも僕はお屋敷というようなところには住みたくないな、と思う。
僕が今住んでいる部屋も狭いところだけど、この狭いというのが僕は結構好きだ。実家に住んでいた頃は自分の部屋というものがなくてそれは嫌だったけれども、こうして一人で住んでいる分には狭い方がいい。
何でも手を伸ばせば届くところにある、というのが素敵だ。元々不精な人間なので、とにかく手間取ることが嫌いだ。狭い方が掃除にしても(まああんまりしてないけど)何にしてもやりやすい。まあ、本を置く場所だけが問題で、こればっかりはちょっとどうにかしたいと思っているのだけど。
お屋敷と呼ばれるようなところには入ったこともないけど、でも絶対に居心地は悪いと思う。広すぎて落ち着かない。元々貧乏性というのもあるのかもしれないけど、恐らく体質的に合わないだろうと思う。
それにお屋敷というのは他人がたくさんいるところでもあると思うのだ。
お屋敷にはやっぱり使用人と呼ばれるような人がいるのだろう。もしそこに住むとすれば、使用人さんたちは立場的に下になるのだろうけど、しかしそれでも他人には変わりない。家族だって他人だと言ってしまえばそれまでだけど、しかしやはり他人と一緒に生活をするというのはまた違ったものがあるだろう。
それにその立場の違いというのだって僕には受け入れがたいものに思える。元々そういう立場の人間として生まれたのであれば疑問を抱かずに住むのかもしれないけど、日常の中で人を使う立場にいるというのはやはり普通じゃない。僕にはそういう生活は出来ないだろうな、と思うのだ。
だから僕には、そういうお屋敷に住むような人々、要するに名家だのお金持ちだのといったようなところに生まれる人は可哀相だなと思ってしまうのだ。
もちろんそういう生まれであれば、生活には恵まれるかもしれない。しかしその恵まれた生活というのは、普通とはかけ離れているのである。彼らにとってはそれが普通であるのかもしれないが、僕にはいろんなものにがんじがらめにされた不自由で窮屈な生活に思える。
格差社会であるとよく言われるが、しかしその何が問題なのかイマイチ僕にはピンと来ないのだ。何故なら僕は今の生活に充分満足しているからである。もちろん将来的には破綻をきたす生活かもしれないけれども、しかしとりあえず今のところ不満はない。もう少しグレードの高い生活をしたいと思うこともなければ、格差について何らかの意識をするような機会もない。
結局格差というのは、違った立場の人間同士が相対するようなところでしか露見しないものだ。僕の生活には、僕より遥かに格上の生活をしているという人はいない。
誰もが格差社会に悩み、誰もが上を目指そうと努力しているという風な報道がされる。しかしそれが事実かどうか僕は怪しいと思う。結局人にはそれぞれ、満足出来る階層みたいなものが存在するのだ。どれだけ格上の生活に憧れても、その生活に合わないことだってある。今の僕にはこの生活が合っている。だったらそれで充分だと僕は思う。
お屋敷に住む人々は幸せなのだろうか。そんなことを考えてします。
今回はいつにも増してまとまりのない話でした。最近どうもちゃんとした文章が書けない気がします。
そろそろ内容に入ろうと思います。
父親が事業に失敗したために父方の実家に住むことになったのだが、その家というのがとんでもなくでかいお屋敷だった。
小学六年生である奈都はこれからこのお屋敷に住むことになるのだが、しかしここで大きな問題が発生してしまった。
それは、しばらく奈都は一人であのお屋敷で寝起きしなくてはいけなくなってしまったのだ。父親は仕事を探しに何故かシンガポールに行っているし、母は母方の祖母の看病のために週末まで戻ることが出来ない。奈都はとにかくあのお屋敷が怖い。一人で寝起きするなんて考えられない。
そんな不安を抱えていると、隣の席の男子が助け舟を出してくれた。中学生の姉ちゃんに頼んでみようか、というのだ。当初はそのさゆりという姉ちゃんの部屋に泊まるという話だったのだが、何だかんだでさゆりがお屋敷の方に泊まるということになっていた。
さゆりはこのお屋敷に来たがっていて、念願かなってはしゃいでいる。屋敷内の探検をすると言って聞かない。実際初日に屋根裏部屋を発見し探索に励んだのだけど、その時同じく屋根裏部屋に誰か人がいることに気づいてしまう。
どうにかその相手に気づかれることなく脱出したのだが、翌日彼女等が寝泊りしている部屋に片耳を切られたうさぎのぬいぐるみが置かれていた。それに、近くに住むおばあさんが、片耳うさぎには気をつけろ、片耳ウサギを入れてはいけない、としきりに繰り返していた。
あのお屋敷で何が起こっているのか分からない二人は、それでも何が起こっているのか見極めようと探検を続けるのだけど…。
というような話です。
大崎梢という作家は最近割と注目されていて、元書店員という経歴も話題性の一つです(著者略歴には何故か書かれていませんが)。本屋を舞台にしたシリーズを立て続けに出版していましたが(しかし読んではいません)、本作は初のシリーズ外作品になります。
評価としては、まあまあかなという感じです。
本作はミステリ仕立てですけど、ストーリー自体はそこまで惹かれるような何かがあるというほどでもありません。旧家のお屋敷とその家系に隠された謎、という感じで、それだけ書くと横溝正史みたいな感じですかね(読んだことないんでわかんないですけど)。一応いろんな謎が出てきて最後にそれが一つにまとまるのだけど、でもラストの真相はそこまで大したことじゃないかな、という感じはしました。
本作には、あんまり自信がなくて怖がりな奈都という小学生と、活発で礼儀正しくも振舞えるさゆりという中学生が出てくるんだけど、この凸凹コンビはなかなかよかったかな、という感じがしました。自信なさげな奈都も時には度胸たっぷりに振舞うし、さゆりはさゆりでなかなか変わった性格で、まあこの二人の冒険話としてはまあまあよかったかな、という感じはしました。
まあ全体的には普通な感じでしたかね。そこまで強くオススメするというほどの作品でもありません。ただなんとなく元書店員ということもあってか期待をしてしまう作家なので、これから活躍してくれることを期待したいと思います。
大崎梢「片耳うさぎ」
僕が今住んでいる部屋も狭いところだけど、この狭いというのが僕は結構好きだ。実家に住んでいた頃は自分の部屋というものがなくてそれは嫌だったけれども、こうして一人で住んでいる分には狭い方がいい。
何でも手を伸ばせば届くところにある、というのが素敵だ。元々不精な人間なので、とにかく手間取ることが嫌いだ。狭い方が掃除にしても(まああんまりしてないけど)何にしてもやりやすい。まあ、本を置く場所だけが問題で、こればっかりはちょっとどうにかしたいと思っているのだけど。
お屋敷と呼ばれるようなところには入ったこともないけど、でも絶対に居心地は悪いと思う。広すぎて落ち着かない。元々貧乏性というのもあるのかもしれないけど、恐らく体質的に合わないだろうと思う。
それにお屋敷というのは他人がたくさんいるところでもあると思うのだ。
お屋敷にはやっぱり使用人と呼ばれるような人がいるのだろう。もしそこに住むとすれば、使用人さんたちは立場的に下になるのだろうけど、しかしそれでも他人には変わりない。家族だって他人だと言ってしまえばそれまでだけど、しかしやはり他人と一緒に生活をするというのはまた違ったものがあるだろう。
それにその立場の違いというのだって僕には受け入れがたいものに思える。元々そういう立場の人間として生まれたのであれば疑問を抱かずに住むのかもしれないけど、日常の中で人を使う立場にいるというのはやはり普通じゃない。僕にはそういう生活は出来ないだろうな、と思うのだ。
だから僕には、そういうお屋敷に住むような人々、要するに名家だのお金持ちだのといったようなところに生まれる人は可哀相だなと思ってしまうのだ。
もちろんそういう生まれであれば、生活には恵まれるかもしれない。しかしその恵まれた生活というのは、普通とはかけ離れているのである。彼らにとってはそれが普通であるのかもしれないが、僕にはいろんなものにがんじがらめにされた不自由で窮屈な生活に思える。
格差社会であるとよく言われるが、しかしその何が問題なのかイマイチ僕にはピンと来ないのだ。何故なら僕は今の生活に充分満足しているからである。もちろん将来的には破綻をきたす生活かもしれないけれども、しかしとりあえず今のところ不満はない。もう少しグレードの高い生活をしたいと思うこともなければ、格差について何らかの意識をするような機会もない。
結局格差というのは、違った立場の人間同士が相対するようなところでしか露見しないものだ。僕の生活には、僕より遥かに格上の生活をしているという人はいない。
誰もが格差社会に悩み、誰もが上を目指そうと努力しているという風な報道がされる。しかしそれが事実かどうか僕は怪しいと思う。結局人にはそれぞれ、満足出来る階層みたいなものが存在するのだ。どれだけ格上の生活に憧れても、その生活に合わないことだってある。今の僕にはこの生活が合っている。だったらそれで充分だと僕は思う。
お屋敷に住む人々は幸せなのだろうか。そんなことを考えてします。
今回はいつにも増してまとまりのない話でした。最近どうもちゃんとした文章が書けない気がします。
そろそろ内容に入ろうと思います。
父親が事業に失敗したために父方の実家に住むことになったのだが、その家というのがとんでもなくでかいお屋敷だった。
小学六年生である奈都はこれからこのお屋敷に住むことになるのだが、しかしここで大きな問題が発生してしまった。
それは、しばらく奈都は一人であのお屋敷で寝起きしなくてはいけなくなってしまったのだ。父親は仕事を探しに何故かシンガポールに行っているし、母は母方の祖母の看病のために週末まで戻ることが出来ない。奈都はとにかくあのお屋敷が怖い。一人で寝起きするなんて考えられない。
そんな不安を抱えていると、隣の席の男子が助け舟を出してくれた。中学生の姉ちゃんに頼んでみようか、というのだ。当初はそのさゆりという姉ちゃんの部屋に泊まるという話だったのだが、何だかんだでさゆりがお屋敷の方に泊まるということになっていた。
さゆりはこのお屋敷に来たがっていて、念願かなってはしゃいでいる。屋敷内の探検をすると言って聞かない。実際初日に屋根裏部屋を発見し探索に励んだのだけど、その時同じく屋根裏部屋に誰か人がいることに気づいてしまう。
どうにかその相手に気づかれることなく脱出したのだが、翌日彼女等が寝泊りしている部屋に片耳を切られたうさぎのぬいぐるみが置かれていた。それに、近くに住むおばあさんが、片耳うさぎには気をつけろ、片耳ウサギを入れてはいけない、としきりに繰り返していた。
あのお屋敷で何が起こっているのか分からない二人は、それでも何が起こっているのか見極めようと探検を続けるのだけど…。
というような話です。
大崎梢という作家は最近割と注目されていて、元書店員という経歴も話題性の一つです(著者略歴には何故か書かれていませんが)。本屋を舞台にしたシリーズを立て続けに出版していましたが(しかし読んではいません)、本作は初のシリーズ外作品になります。
評価としては、まあまあかなという感じです。
本作はミステリ仕立てですけど、ストーリー自体はそこまで惹かれるような何かがあるというほどでもありません。旧家のお屋敷とその家系に隠された謎、という感じで、それだけ書くと横溝正史みたいな感じですかね(読んだことないんでわかんないですけど)。一応いろんな謎が出てきて最後にそれが一つにまとまるのだけど、でもラストの真相はそこまで大したことじゃないかな、という感じはしました。
本作には、あんまり自信がなくて怖がりな奈都という小学生と、活発で礼儀正しくも振舞えるさゆりという中学生が出てくるんだけど、この凸凹コンビはなかなかよかったかな、という感じがしました。自信なさげな奈都も時には度胸たっぷりに振舞うし、さゆりはさゆりでなかなか変わった性格で、まあこの二人の冒険話としてはまあまあよかったかな、という感じはしました。
まあ全体的には普通な感じでしたかね。そこまで強くオススメするというほどの作品でもありません。ただなんとなく元書店員ということもあってか期待をしてしまう作家なので、これから活躍してくれることを期待したいと思います。
大崎梢「片耳うさぎ」
いっぺんさん(朱川湊人)
不思議なこと、というのを僕は結構信じる人間だ。
というような話は何度かここでも書いてみたことがあるのだけど、まあまた書こうかなと思う。
不思議なことというのはつまり非科学的なことということだ。科学では説明のつかない事柄、出来事のことである。
世の中の人は大抵二種類に分けることが出来て、非科学的なものを信じるか信じないかである。
科学というものが台頭するようになってから、非科学的なものを信じる人というのはどんどん少なくなってきたようには思う。しかし未だに都市伝説だの幽霊だのUFOだのと言った話は尽きない。本気で信じているわけではない、ということかもしれないし、話の種としては面白いということかもしれないけど、やはりそういう話は根強いものだ。
僕は非科学的なものを信じる、という風に書いたけれども、ちょっと意味が違う。僕の場合、まああってもおかしくはないかな、と思っているということである。
決して積極的に信じているわけでも信じたいわけでもない。ただ世の中には科学で説明することの出来ないことはあってもおかしくはないだろうと思っている程度の話である。
だから、非科学的なものを積極的に信じている人についてはあまり理解することが出来ない。そういうものではないだろう、と思うのだ。
例えばUFOを見たという話があったとする。僕はそれを、その人がUFOを見たのだ、という事実として認識する。それ以上でもそれ以下でもない。
ただ非科学的なものを積極的に信じる人というのは、その人が見たのはどんな形でどんな動きをしていて、だからこれは宇宙塵が地球にきてこれこれしようとしているのだ、とかなるとダメである。そういう問題ではない。非科学的なものというのは、それを体験した人と切り離してはいけないのだ。非科学的な出来事だけ取り出して検証することが不可能な分野なのである。何故ならば名前の通りそれは科学では扱うことの出来ないものなのであって、だからこそそれを体験した人とセットで認識されるべきものである。
物理の世界に、不確定性定理というものがある。僕はこの定理の不思議さを知って物理の奥深さについて理解した気になっているのだけど、非科学的なものを解釈する上でこの定理を使うことが出来るのではないか、と思う。
不完全性定理というのは、ある物体の位置と速度を同時に正確に知ることは出来ない、ということだ。詳しい説明は僕も出来ないので省くけど、ある物体の位置を正確に知ろうとすれば速度については曖昧になり、また速度について正確に知ろうとすれば位置が曖昧になる、というものであうる。
これは要するに、対象についての情報はすべてを一時に知ることは出来ない、ということだ。通常空間におけるある物体の情報というのは位置情報と速度情報があれば記述することが出来る。しかし現実にはその両方を同時に正確に知ることは出来ないのである。
これはつまり、僕らのこの世界に対するアプローチについても同じことが言えるのではないかと思うのだ。
僕らは科学というものを通して世界を知ろうとしている。それ以外に世界を正確に記述する方法はないからである。
しかしその科学でさえも、この世の中のすべてを説明することは出来ないのだ。何故ならば不確定性定理が示すように、対象について同時にすべての情報を得ることは出来ないからだ。
これは要するに、幽霊と人間を同時に知ることは出来ない、ということではないだろうか。僕らは科学というアプローチによって、人間についてはかなり様々なことを知ることが出来ている。しかしそのアプローチを続ける限り、幽霊についての情報は得ることが出来ないのだ。幽霊についての情報を得るには科学ではない別のアプローチが必要であるが、しかしそうすると今度は人間についての情報が曖昧になる。そういうことではないかと思うのだ。
だからこそ僕は、非科学的なものが存在することについては否定することが出来ない。科学というアプローチが完璧であるという証明も存在しないだろうし、科学で知ることが出来る情報にもやはり限界があるだろう。だからそこから漏れるものは常にあるだろうし、おかしなことではないだろうと思う。
ただ重要なのは、それを殊更に不思議なものであるという風に扱ってはいけないのではないか、ということだ。重要なことは、今僕らが使っている科学というアプローチではどうにもならない、ということであって、だとすればあれこれ騒いだところで仕方がない。起こっていることを、ただそのまま受け入れるという姿勢が適切なのではないか、と僕は思う。
ありえないことだからと言って現実に存在しないわけではない。京極堂は「不思議なものは何一つない」と断言するが、しかしやはりそんなことはないだろうな、と思うのである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は8編の短編を収録した短編集です。それぞれの内容を紹介しようと思います。
「いっぺんさん」
一度だけならどんな願いでも叶えてくれるという「いっぺんさん」の話を聞いた小学生だった私は、友達のしーちゃんを連れてそのいっぺんさんに行こうと思った。しーちゃんの家はなかなか複雑な家庭で、それに伴ってしーちゃんには今悩んでいることがあるのだ。しーちゃんは白バイ隊員になりたいのだが、父親が刑務所に入った経験がある。もしかしたら白バイ隊員にはなれないのかもしれない…。そんなしーちゃんの悩みを解消してあげようとしたのだ。
しかしいっぺんさんへ行ってすぐ、しーちゃんに哀しい出来事が起こり…。
「コドモノクニ」
四つの短い物語によって成る話です。
冬「ゆきおんな」
春「いっすんぼうし」
夏「くらげのおつかい」
秋「かぐやひめ」
どの話も小さな子どもが関わり、またいずれもその子どもが戻ってこない…。
「小さなふしぎ」
一人の男が昔出会った不思議な話を思い出しながら語るという話です。
彼は子どもの頃、重病を患っていた父親のためにかなり貧乏な生活をしていた。自分は我慢できるとは言え、幼い兄弟たちのためになんとかお金を稼ぎたかった。
そんな時に声を掛けてくれたのが中山さんだ。中山さんは「小鳥のおみくじ」という出し物をしている人で、小鳥を調教して芸を仕込んでいるのだった。中山さんにその手伝いをして欲しいと言われたのだ。
彼のお気に入りのチュンスケという小鳥がいたのだが…。
「逆井水」
信じるか信じないかは勝手だ、と言ってある男が自分の体験を語り始める。
あるきっかけでオートバイで旅に出ることにした彼は、旅先である女性に出会った。一夜を共にした彼女から、驚くような話を聞く。
それは、若い娘ばかりがいる辺鄙な村の話だ。そこにはその女の妹も住んでいるのだという。ただし、何があっても二日以上はいてはいけない、とのことだった。
彼は喜び勇んでその村に行くのだが…。
「蛇霊憑き」
妹が殺され、刑事が姉の話を聞きに来た。その姉の語りである。
妹は難病を克服したが、一方で男とすぐ寝てしまうような女でもあった。田舎ではその噂が余計に大きく伝えられてしまうようなそんな女性だった。
そんな妹は、「蛇女」と言われていた。いや、その表現は正しくない。妹は自分で「蛇女」だと言っていたのだ。
その姿を私は見てしまったのだ…。
「山から来るもの」
両親が離婚し、母と二人で暮らす中学生の阿佐美。阿佐美は、クリスマスを前に恋人のいる母親を一人にしてあげようと、特に行きたくもない叔父夫婦の元に行くことにした。
そこで阿佐美は奇妙な人の姿を目にすることになる。本当に人であるのかもわからない。お祖母ちゃんはホームレスみたいなものだというけど…。
「磯幽霊」
病気で入院しているという叔母の容態を見に訪れた際私はある海岸に辿り着いた。後から聞いた話であるが、その海岸には幽霊が出るということで有名だったようだ。
いつの間にか突然若い女性が目の前に現れた。彼女は落としたピアスを探しているのだという。しかし突如怒りだし、投げ飛ばされたかのように海に沈んでしまった。
何が起こったのかさっぱり分からないが、どうやら危ないところだったようだ。そして後から、その幽霊の親族であると言う人と会うことになる…。
「八十八姫」
もう君には会えないのだ。
子どもの頃から仲がよかった君はずっと男っぽかったのに、ある時から急に女っぽくなった。僕らはお互い口に出しはしなかったけど、でもお互い好き同士だったよね。
すべては僕があの櫛を拾ってしまったことが原因なんだ。
僕がいた村には、八十八姫という存在が信じられていた。親の名前よりも八十八姫の名前を先に覚えると言われる程で、その存在のお陰で村の人間が幸せに生活が出来ると言われてきた。
その櫛は、八十八姫からのお告げだったのだ…。
というような話です。
なかなかいい話だったと思います。朱川さんの作品は初めて読んだけど、なかなかいい作風かなと思います。
本作は、ホラーとファンタジーを合わせたような感じで、比較的こういう作風の人はいないかもしれないな、と思います。渡辺球という結構マイナーな作家が割と近いかなという感じもしますけど。
個人的に秀逸だなと思ったのは「いっぺんさん」と「蛇霊憑き」と「八十八姫」です。
「いっぺんさん」は一度だけ願い事が叶うというストーリーなんですけど、これはかなり素晴らしいです。ラストが秀逸で、なるほどそうくるかという感じでした。まあちょっと哀しい話でもあるんですけど、ファンタジー色の強い話でした。
対して「蛇霊憑き」はかなりホラー色の強い作品です。読み始めはそんなこともなかったんですけど、「蛇女」の話が出始めてから段々とホラーっぽくなっていって、最後なるほどそうくるか(ってこれじゃあさっきと同じですね)って感じでした。最後の最後まで読むと、おー怖っって感じになります。
「八十八姫」はファンタジーという感じでもホラーという感じでもないんですけど、かなり印象の強い作品でした。もしかしたら本当にこんな村があるのかもしれない、だとしたらホント怖いな、というような世界観でした。
他の作品も、まあ概ねホラー的な感じで、でもそこまで怖がらせる作品というわけでもなくほんわりする感じの作品が多いです。ノスタルジックホラーの旗手と言われているようですが、まあノスタルジックホラーというのがどんなものかよくわかりませんが、そんな感じのする作品でした。確かにどの作品もノスタルジックな感じがします。
なかなかいい作品だと思います。オススメできる作品です是非読んでみてください。
朱川湊人「いっぺんさん」
というような話は何度かここでも書いてみたことがあるのだけど、まあまた書こうかなと思う。
不思議なことというのはつまり非科学的なことということだ。科学では説明のつかない事柄、出来事のことである。
世の中の人は大抵二種類に分けることが出来て、非科学的なものを信じるか信じないかである。
科学というものが台頭するようになってから、非科学的なものを信じる人というのはどんどん少なくなってきたようには思う。しかし未だに都市伝説だの幽霊だのUFOだのと言った話は尽きない。本気で信じているわけではない、ということかもしれないし、話の種としては面白いということかもしれないけど、やはりそういう話は根強いものだ。
僕は非科学的なものを信じる、という風に書いたけれども、ちょっと意味が違う。僕の場合、まああってもおかしくはないかな、と思っているということである。
決して積極的に信じているわけでも信じたいわけでもない。ただ世の中には科学で説明することの出来ないことはあってもおかしくはないだろうと思っている程度の話である。
だから、非科学的なものを積極的に信じている人についてはあまり理解することが出来ない。そういうものではないだろう、と思うのだ。
例えばUFOを見たという話があったとする。僕はそれを、その人がUFOを見たのだ、という事実として認識する。それ以上でもそれ以下でもない。
ただ非科学的なものを積極的に信じる人というのは、その人が見たのはどんな形でどんな動きをしていて、だからこれは宇宙塵が地球にきてこれこれしようとしているのだ、とかなるとダメである。そういう問題ではない。非科学的なものというのは、それを体験した人と切り離してはいけないのだ。非科学的な出来事だけ取り出して検証することが不可能な分野なのである。何故ならば名前の通りそれは科学では扱うことの出来ないものなのであって、だからこそそれを体験した人とセットで認識されるべきものである。
物理の世界に、不確定性定理というものがある。僕はこの定理の不思議さを知って物理の奥深さについて理解した気になっているのだけど、非科学的なものを解釈する上でこの定理を使うことが出来るのではないか、と思う。
不完全性定理というのは、ある物体の位置と速度を同時に正確に知ることは出来ない、ということだ。詳しい説明は僕も出来ないので省くけど、ある物体の位置を正確に知ろうとすれば速度については曖昧になり、また速度について正確に知ろうとすれば位置が曖昧になる、というものであうる。
これは要するに、対象についての情報はすべてを一時に知ることは出来ない、ということだ。通常空間におけるある物体の情報というのは位置情報と速度情報があれば記述することが出来る。しかし現実にはその両方を同時に正確に知ることは出来ないのである。
これはつまり、僕らのこの世界に対するアプローチについても同じことが言えるのではないかと思うのだ。
僕らは科学というものを通して世界を知ろうとしている。それ以外に世界を正確に記述する方法はないからである。
しかしその科学でさえも、この世の中のすべてを説明することは出来ないのだ。何故ならば不確定性定理が示すように、対象について同時にすべての情報を得ることは出来ないからだ。
これは要するに、幽霊と人間を同時に知ることは出来ない、ということではないだろうか。僕らは科学というアプローチによって、人間についてはかなり様々なことを知ることが出来ている。しかしそのアプローチを続ける限り、幽霊についての情報は得ることが出来ないのだ。幽霊についての情報を得るには科学ではない別のアプローチが必要であるが、しかしそうすると今度は人間についての情報が曖昧になる。そういうことではないかと思うのだ。
だからこそ僕は、非科学的なものが存在することについては否定することが出来ない。科学というアプローチが完璧であるという証明も存在しないだろうし、科学で知ることが出来る情報にもやはり限界があるだろう。だからそこから漏れるものは常にあるだろうし、おかしなことではないだろうと思う。
ただ重要なのは、それを殊更に不思議なものであるという風に扱ってはいけないのではないか、ということだ。重要なことは、今僕らが使っている科学というアプローチではどうにもならない、ということであって、だとすればあれこれ騒いだところで仕方がない。起こっていることを、ただそのまま受け入れるという姿勢が適切なのではないか、と僕は思う。
ありえないことだからと言って現実に存在しないわけではない。京極堂は「不思議なものは何一つない」と断言するが、しかしやはりそんなことはないだろうな、と思うのである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は8編の短編を収録した短編集です。それぞれの内容を紹介しようと思います。
「いっぺんさん」
一度だけならどんな願いでも叶えてくれるという「いっぺんさん」の話を聞いた小学生だった私は、友達のしーちゃんを連れてそのいっぺんさんに行こうと思った。しーちゃんの家はなかなか複雑な家庭で、それに伴ってしーちゃんには今悩んでいることがあるのだ。しーちゃんは白バイ隊員になりたいのだが、父親が刑務所に入った経験がある。もしかしたら白バイ隊員にはなれないのかもしれない…。そんなしーちゃんの悩みを解消してあげようとしたのだ。
しかしいっぺんさんへ行ってすぐ、しーちゃんに哀しい出来事が起こり…。
「コドモノクニ」
四つの短い物語によって成る話です。
冬「ゆきおんな」
春「いっすんぼうし」
夏「くらげのおつかい」
秋「かぐやひめ」
どの話も小さな子どもが関わり、またいずれもその子どもが戻ってこない…。
「小さなふしぎ」
一人の男が昔出会った不思議な話を思い出しながら語るという話です。
彼は子どもの頃、重病を患っていた父親のためにかなり貧乏な生活をしていた。自分は我慢できるとは言え、幼い兄弟たちのためになんとかお金を稼ぎたかった。
そんな時に声を掛けてくれたのが中山さんだ。中山さんは「小鳥のおみくじ」という出し物をしている人で、小鳥を調教して芸を仕込んでいるのだった。中山さんにその手伝いをして欲しいと言われたのだ。
彼のお気に入りのチュンスケという小鳥がいたのだが…。
「逆井水」
信じるか信じないかは勝手だ、と言ってある男が自分の体験を語り始める。
あるきっかけでオートバイで旅に出ることにした彼は、旅先である女性に出会った。一夜を共にした彼女から、驚くような話を聞く。
それは、若い娘ばかりがいる辺鄙な村の話だ。そこにはその女の妹も住んでいるのだという。ただし、何があっても二日以上はいてはいけない、とのことだった。
彼は喜び勇んでその村に行くのだが…。
「蛇霊憑き」
妹が殺され、刑事が姉の話を聞きに来た。その姉の語りである。
妹は難病を克服したが、一方で男とすぐ寝てしまうような女でもあった。田舎ではその噂が余計に大きく伝えられてしまうようなそんな女性だった。
そんな妹は、「蛇女」と言われていた。いや、その表現は正しくない。妹は自分で「蛇女」だと言っていたのだ。
その姿を私は見てしまったのだ…。
「山から来るもの」
両親が離婚し、母と二人で暮らす中学生の阿佐美。阿佐美は、クリスマスを前に恋人のいる母親を一人にしてあげようと、特に行きたくもない叔父夫婦の元に行くことにした。
そこで阿佐美は奇妙な人の姿を目にすることになる。本当に人であるのかもわからない。お祖母ちゃんはホームレスみたいなものだというけど…。
「磯幽霊」
病気で入院しているという叔母の容態を見に訪れた際私はある海岸に辿り着いた。後から聞いた話であるが、その海岸には幽霊が出るということで有名だったようだ。
いつの間にか突然若い女性が目の前に現れた。彼女は落としたピアスを探しているのだという。しかし突如怒りだし、投げ飛ばされたかのように海に沈んでしまった。
何が起こったのかさっぱり分からないが、どうやら危ないところだったようだ。そして後から、その幽霊の親族であると言う人と会うことになる…。
「八十八姫」
もう君には会えないのだ。
子どもの頃から仲がよかった君はずっと男っぽかったのに、ある時から急に女っぽくなった。僕らはお互い口に出しはしなかったけど、でもお互い好き同士だったよね。
すべては僕があの櫛を拾ってしまったことが原因なんだ。
僕がいた村には、八十八姫という存在が信じられていた。親の名前よりも八十八姫の名前を先に覚えると言われる程で、その存在のお陰で村の人間が幸せに生活が出来ると言われてきた。
その櫛は、八十八姫からのお告げだったのだ…。
というような話です。
なかなかいい話だったと思います。朱川さんの作品は初めて読んだけど、なかなかいい作風かなと思います。
本作は、ホラーとファンタジーを合わせたような感じで、比較的こういう作風の人はいないかもしれないな、と思います。渡辺球という結構マイナーな作家が割と近いかなという感じもしますけど。
個人的に秀逸だなと思ったのは「いっぺんさん」と「蛇霊憑き」と「八十八姫」です。
「いっぺんさん」は一度だけ願い事が叶うというストーリーなんですけど、これはかなり素晴らしいです。ラストが秀逸で、なるほどそうくるかという感じでした。まあちょっと哀しい話でもあるんですけど、ファンタジー色の強い話でした。
対して「蛇霊憑き」はかなりホラー色の強い作品です。読み始めはそんなこともなかったんですけど、「蛇女」の話が出始めてから段々とホラーっぽくなっていって、最後なるほどそうくるか(ってこれじゃあさっきと同じですね)って感じでした。最後の最後まで読むと、おー怖っって感じになります。
「八十八姫」はファンタジーという感じでもホラーという感じでもないんですけど、かなり印象の強い作品でした。もしかしたら本当にこんな村があるのかもしれない、だとしたらホント怖いな、というような世界観でした。
他の作品も、まあ概ねホラー的な感じで、でもそこまで怖がらせる作品というわけでもなくほんわりする感じの作品が多いです。ノスタルジックホラーの旗手と言われているようですが、まあノスタルジックホラーというのがどんなものかよくわかりませんが、そんな感じのする作品でした。確かにどの作品もノスタルジックな感じがします。
なかなかいい作品だと思います。オススメできる作品です是非読んでみてください。
朱川湊人「いっぺんさん」
ビターブラッド(雫井脩介)
僕らが知ることの出来る真実というのは一体どんな形をしているのだろうか。
僕たちは、いろんなレベルで真実というものと接している。友人間や家族間など狭いところだったり、あるいは世間一般的に通用するものなどである。
友人や家族間の真実というのは、比較的『本当のこと』に近いものを知ることが出来るだろうと思う。誰かが意図的に嘘をついたりするのでない限り、僕らが知ることの出来る真実は限りなく『本当のこと』に近いだろうと思う。間に余計な情報が入り込むこともないし、情報が遮断されるということも少ないだろうと思う。
しかし、世間一般に通用する真実というのはそうではない。
僕らはどこから世間一般に通用する真実を知るかと言えば、それは大抵なんらかのメディアである。新聞やテレビやインターネットと言ったものから、そういう真実を知ることになる。
僕はそういうメディアと接すると常に思うことは、これはどこまで『本当のこと』なんだろうかと思ってしまう。あるニュースを見ていても、そこで語られていることはどこまで『本当のこと』なのだろうか、と考える。
とは言うものの、実際そこまで深く考えるようなことはない。僕はテレビはほとんど見ないし、ニュースはネットで見るような人間だけど、それでも日々たくさんの情報にさらされている。ネットで自分が見ようと思った情報だけ選択していてもかなりの量になる。その一つ一つについて、これは本当はどうなんだろう、と考えるようなことはもちろんない。本当なんだろうか、と一瞬の疑問があって、それからすぐにそれについては忘れてしまう、ということの繰り返しである。
僕がメディアをあまり信じることが出来ないのは、メディアというものが本質的に大衆を向いているものではない、という事実がある。メディアというのはとにかく広告によって支えられている業界なわけで、つまり彼らはよりお金を持っている人間の方を向いて情報を流しているということになる。
となれば、メディアで流される真実が『本当のこと』である必要もなくなってくる。メディアが大衆に支えられている業界であれば、メディアは出来る限り正確に『本当のこと』を伝える努力をしなくてはいけないだろうと思う。しかし、よりお金を持っている人間の方を向いている現状では、そのお金を持っている人に有利な真実がメディアに乗って流されるというのは当然のことである。
僕らはそもそも、世の中で起こっている『本当のこと』の本当に僅かな上澄みしか見ることが出来ない。普通に生きている人間にとってはそれで充分なのだ。その上澄みだけの情報でも多すぎるほどだ。
しかしその上澄みは、情報を発信する側によって操作されているかもしれない。ほんの僅かなその上澄みの情報ですら正しくないかもしれないのだ。となれば僕らが知っている真実などちっぽけなものであるし、『本当のこと』など永久に知ることなど出来ないだろうと思う。
最近ではインターネットで個人が情報を発信できるようになったために、今までメディアには流れてこなかった情報もたくさん知ることが出来るようになった。そのため、そもそも世間一般に通用する真実というものさえもなくなりつつあるのかもしれない。それぞれの人間が信じたいものだけ信じるという時代になるのかもしれない。
しかし一方で、日本人というのはまだまだメディアによって踊らされてしまう傾向にある。メディアで話題になればすぐ飛びつくし、最近ではその傾向がさらに強くなった。みんなが信じていることを率先して信じるような傾向もあるし、やはりまだまだメディア安泰の時代は終わらないのかもしれないな、という感じもする。
結局のところ、『本当のこと』を知りたいかどうかによるのだろう。僕は別に知らなくてもいい。メディアに踊らされている人も、また大衆を躍らせている人も、そんなものはどうだっていいのだろうと思う。ただ、真実という幻想を創り出すことが出来れば、人間というのはどこまでも満足できるのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
刑事になったばかりの新米である佐原夏輝は、喪主を務めていた。同じく刑事だった祖父が亡くなったのだ。母親は失踪し、また刑事である父親もどこかに行ってしまったために、孫である夏輝が喪主をすることになったのだ。そんな夏輝は、時々顔を出す父親が酷く嫌いだった。島尾明村という男で、いつも厭味ったらしくかっこつけてばかりでとにかくおかしな男だ。
そんな男と一緒にペアを組んで捜査をすることになってしまった。明村は捜査一課の五係所属で、分署所属の夏輝は五係のメンバーに「ジュニア」と呼ばれるようになった。
事件は、貝塚という街の裏で暗躍する悪党がビルから転落死したというものだ。事故なのか事件なのか判然としないが、しかしこんな所轄でも対応出来そうな事件に警視庁の捜査一課が乗り込んでくるのもおかしい。何か裏があるのだろう。
父親と組んでより一層そのおかしさを実感した夏輝ではあったが、刑事としてのイロハも多少教えてもらった。
貝塚の転落死は一向に捜査が進展しないまま、次の事件が起こってしまう。なんと、五係の班長だった鍵山が何者かに殺されてしまったのだ。事件の裏には大きな構図があると思われたが、なかなかその線に辿り着くことが出来ない。しかしひょんなことから新米である夏輝が特大と思われる重要を手にすることになり…。
というような話です。
いやはや、かなり面白い作品でした。僕の中では、「犯人に告ぐ」よりも上出来な警察ミステリではないかと思います。
本作で起こる事件自体は、「犯人に告ぐ」と比べて全然地味です。転落死や普通の殺人事件で特に目立った要素はないんですけど、それでも本作の方が出来栄えがいい気がします。
その最大の理由は、出てくるキャラクターがホント面白いというのが挙げられます。
本作は、海堂尊のバチスタシリーズになんとなく似ている感じもします。バチスタの登場人物にはそれぞれ二つ名のようなネーミングがあるんですけど、本作でも似たようなものがあります。「ゴブリン小出」だの「荒木アラエモン」だの「ジェントル島尾」だの「アイスマン鍵山」だの「バチェラー古雅」だの、とにかくいろんな名前が出てきます。そしてその名前に劣らず、みんな結構癖のあるキャラクターです。作中で、刑事はみんなちょっとどこかおかしくなってくるものだ、というようなセリフが出てくるんですけど、本作を読んでいるとさもありなんという感じです。
そしてその中でもトップクラスの奇人が「ジェントル島尾」こと夏輝の父親である島尾明村です。
この男、夏輝に嫌われていることを知っていながら、何だかんだと馴れ馴れしく(ちょっと表現はおかしいけど)接してきます。まるで禍根など何もないかのような接し方で、そこがまた夏輝をイライラさせます。
しかも刑事としても変で、刑事の心得としてまず一番初めに教えたのがジャケットプレイです。何かといえば、いかにかっこよくジャケットを着ることが出来るか、あるいはいかにかっこよく身分証を提示できるかというもので、その馬鹿馬鹿しさに夏輝は呆れます。またクーガーの撃退法なんていうまるで使い道のないテクニックまで教えてくれます。
突然相撲を取ろうと言って来たり、大事な場面では常に足がつるなどとにかく変な男で、とにかく読んでて面白いキャラクターでした。
また刑事以外にも相星という情報屋や平石という綺麗な女性が出てきたりした、なかなかキャラクターで読ませる小説だなと思いました。
そういえば、警察小説で情報屋というのが出てくるのも珍しいなと思いました。実際の刑事がそういう情報屋を飼っているかどうか僕は知りませんが、でも確かにそういう情報屋の存在なくして事件を追うのは難しいだろうな、という感じもします。馳星周のようなノアール系の作品にはよくそういう情報屋の話は出てきますが、本作のような警察小説に出てくるのは結構珍しいのではないか、と思いました。しかもその情報屋がなかなか活躍する話で、そういう意味でも面白いと思います。
また事件自体は地味ですが、解決に近づくに連れていろんなことが込み入ってきて、最後はまさかそんなところに繋がるか、というところまで行くので本筋のストーリーももちろん読み応えがあります。
というわけで、今年読んだ本の中でもかなり上位に来る作品だと思うし、今年読んだミステリの中ではかなりトップクラスだと思います。このミスにも10位以内にランクインするんではないか、と思います。分かりませんが。かなり面白い作品だと思います。是非読んでみてください。
雫井脩介「ビターブラッド」
僕たちは、いろんなレベルで真実というものと接している。友人間や家族間など狭いところだったり、あるいは世間一般的に通用するものなどである。
友人や家族間の真実というのは、比較的『本当のこと』に近いものを知ることが出来るだろうと思う。誰かが意図的に嘘をついたりするのでない限り、僕らが知ることの出来る真実は限りなく『本当のこと』に近いだろうと思う。間に余計な情報が入り込むこともないし、情報が遮断されるということも少ないだろうと思う。
しかし、世間一般に通用する真実というのはそうではない。
僕らはどこから世間一般に通用する真実を知るかと言えば、それは大抵なんらかのメディアである。新聞やテレビやインターネットと言ったものから、そういう真実を知ることになる。
僕はそういうメディアと接すると常に思うことは、これはどこまで『本当のこと』なんだろうかと思ってしまう。あるニュースを見ていても、そこで語られていることはどこまで『本当のこと』なのだろうか、と考える。
とは言うものの、実際そこまで深く考えるようなことはない。僕はテレビはほとんど見ないし、ニュースはネットで見るような人間だけど、それでも日々たくさんの情報にさらされている。ネットで自分が見ようと思った情報だけ選択していてもかなりの量になる。その一つ一つについて、これは本当はどうなんだろう、と考えるようなことはもちろんない。本当なんだろうか、と一瞬の疑問があって、それからすぐにそれについては忘れてしまう、ということの繰り返しである。
僕がメディアをあまり信じることが出来ないのは、メディアというものが本質的に大衆を向いているものではない、という事実がある。メディアというのはとにかく広告によって支えられている業界なわけで、つまり彼らはよりお金を持っている人間の方を向いて情報を流しているということになる。
となれば、メディアで流される真実が『本当のこと』である必要もなくなってくる。メディアが大衆に支えられている業界であれば、メディアは出来る限り正確に『本当のこと』を伝える努力をしなくてはいけないだろうと思う。しかし、よりお金を持っている人間の方を向いている現状では、そのお金を持っている人に有利な真実がメディアに乗って流されるというのは当然のことである。
僕らはそもそも、世の中で起こっている『本当のこと』の本当に僅かな上澄みしか見ることが出来ない。普通に生きている人間にとってはそれで充分なのだ。その上澄みだけの情報でも多すぎるほどだ。
しかしその上澄みは、情報を発信する側によって操作されているかもしれない。ほんの僅かなその上澄みの情報ですら正しくないかもしれないのだ。となれば僕らが知っている真実などちっぽけなものであるし、『本当のこと』など永久に知ることなど出来ないだろうと思う。
最近ではインターネットで個人が情報を発信できるようになったために、今までメディアには流れてこなかった情報もたくさん知ることが出来るようになった。そのため、そもそも世間一般に通用する真実というものさえもなくなりつつあるのかもしれない。それぞれの人間が信じたいものだけ信じるという時代になるのかもしれない。
しかし一方で、日本人というのはまだまだメディアによって踊らされてしまう傾向にある。メディアで話題になればすぐ飛びつくし、最近ではその傾向がさらに強くなった。みんなが信じていることを率先して信じるような傾向もあるし、やはりまだまだメディア安泰の時代は終わらないのかもしれないな、という感じもする。
結局のところ、『本当のこと』を知りたいかどうかによるのだろう。僕は別に知らなくてもいい。メディアに踊らされている人も、また大衆を躍らせている人も、そんなものはどうだっていいのだろうと思う。ただ、真実という幻想を創り出すことが出来れば、人間というのはどこまでも満足できるのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
刑事になったばかりの新米である佐原夏輝は、喪主を務めていた。同じく刑事だった祖父が亡くなったのだ。母親は失踪し、また刑事である父親もどこかに行ってしまったために、孫である夏輝が喪主をすることになったのだ。そんな夏輝は、時々顔を出す父親が酷く嫌いだった。島尾明村という男で、いつも厭味ったらしくかっこつけてばかりでとにかくおかしな男だ。
そんな男と一緒にペアを組んで捜査をすることになってしまった。明村は捜査一課の五係所属で、分署所属の夏輝は五係のメンバーに「ジュニア」と呼ばれるようになった。
事件は、貝塚という街の裏で暗躍する悪党がビルから転落死したというものだ。事故なのか事件なのか判然としないが、しかしこんな所轄でも対応出来そうな事件に警視庁の捜査一課が乗り込んでくるのもおかしい。何か裏があるのだろう。
父親と組んでより一層そのおかしさを実感した夏輝ではあったが、刑事としてのイロハも多少教えてもらった。
貝塚の転落死は一向に捜査が進展しないまま、次の事件が起こってしまう。なんと、五係の班長だった鍵山が何者かに殺されてしまったのだ。事件の裏には大きな構図があると思われたが、なかなかその線に辿り着くことが出来ない。しかしひょんなことから新米である夏輝が特大と思われる重要を手にすることになり…。
というような話です。
いやはや、かなり面白い作品でした。僕の中では、「犯人に告ぐ」よりも上出来な警察ミステリではないかと思います。
本作で起こる事件自体は、「犯人に告ぐ」と比べて全然地味です。転落死や普通の殺人事件で特に目立った要素はないんですけど、それでも本作の方が出来栄えがいい気がします。
その最大の理由は、出てくるキャラクターがホント面白いというのが挙げられます。
本作は、海堂尊のバチスタシリーズになんとなく似ている感じもします。バチスタの登場人物にはそれぞれ二つ名のようなネーミングがあるんですけど、本作でも似たようなものがあります。「ゴブリン小出」だの「荒木アラエモン」だの「ジェントル島尾」だの「アイスマン鍵山」だの「バチェラー古雅」だの、とにかくいろんな名前が出てきます。そしてその名前に劣らず、みんな結構癖のあるキャラクターです。作中で、刑事はみんなちょっとどこかおかしくなってくるものだ、というようなセリフが出てくるんですけど、本作を読んでいるとさもありなんという感じです。
そしてその中でもトップクラスの奇人が「ジェントル島尾」こと夏輝の父親である島尾明村です。
この男、夏輝に嫌われていることを知っていながら、何だかんだと馴れ馴れしく(ちょっと表現はおかしいけど)接してきます。まるで禍根など何もないかのような接し方で、そこがまた夏輝をイライラさせます。
しかも刑事としても変で、刑事の心得としてまず一番初めに教えたのがジャケットプレイです。何かといえば、いかにかっこよくジャケットを着ることが出来るか、あるいはいかにかっこよく身分証を提示できるかというもので、その馬鹿馬鹿しさに夏輝は呆れます。またクーガーの撃退法なんていうまるで使い道のないテクニックまで教えてくれます。
突然相撲を取ろうと言って来たり、大事な場面では常に足がつるなどとにかく変な男で、とにかく読んでて面白いキャラクターでした。
また刑事以外にも相星という情報屋や平石という綺麗な女性が出てきたりした、なかなかキャラクターで読ませる小説だなと思いました。
そういえば、警察小説で情報屋というのが出てくるのも珍しいなと思いました。実際の刑事がそういう情報屋を飼っているかどうか僕は知りませんが、でも確かにそういう情報屋の存在なくして事件を追うのは難しいだろうな、という感じもします。馳星周のようなノアール系の作品にはよくそういう情報屋の話は出てきますが、本作のような警察小説に出てくるのは結構珍しいのではないか、と思いました。しかもその情報屋がなかなか活躍する話で、そういう意味でも面白いと思います。
また事件自体は地味ですが、解決に近づくに連れていろんなことが込み入ってきて、最後はまさかそんなところに繋がるか、というところまで行くので本筋のストーリーももちろん読み応えがあります。
というわけで、今年読んだ本の中でもかなり上位に来る作品だと思うし、今年読んだミステリの中ではかなりトップクラスだと思います。このミスにも10位以内にランクインするんではないか、と思います。分かりませんが。かなり面白い作品だと思います。是非読んでみてください。
雫井脩介「ビターブラッド」