ハリー・クバート事件(ジョエル・ディケール)
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嘘を吐くつもりがなくても、結果的に嘘になってしまうことはある。
その時、それが嘘であるとはっきりと言うことが出来れば、世の中の色んな問題は起こらずに済んだかもしれない。
しかし、なかなかそれは勇気の要ることだ。
嘘を吐き続けるのは、とても苦しいことだ。平然と嘘を吐ける人間も世の中にはいるだろうが、大抵の人は、自分の内側に嘘を抱え続けることに耐えきれない。しかし、真実を明らかにすることは、さらなる苦痛を伴う。どちらにも進むことが出来ない状態は、とてもつらい。
嘘は、日常のあらゆる場所にある。舞台にも状況にも関係性の中にも。すべての嘘を取り除こうとすれば日常が成り立たないし、かといって些細な嘘でも積み重なれば致命的な事態を引き起こしもする。
僕は、なるべく嘘をつきたくないと思う。正確に言えば、バレるような嘘はつきたくない。嘘をつくのであれば、絶対にバレないように、一生抱えるつもりでつく。そうでない場合には、嘘にならないように努力する。
しかし…。もし僕が、この作品の舞台であるオーロラの町に住んでいたら…。まったく嘘をつかないで過ごすことが出来ただろうか、と思う。誰もが、自分が放つ些細な嘘の中に、自分にとって大切だと思える何かを忍ばせて、長い年月の間現実を歪ませてきた。
その歪みが一気に噴出する時…。最悪な形で真実が明らかにされる。
内容に入ろうと思います。
マーカス・ゴールドマンにとってハリー・クバートは人生の師と言っていい存在だ。1500万部という金字塔とも言える売り上げを記録した「悪の起源」という作品を書いた偉大な作家だからとか、彼から小説を書くための心得を教わったから、というだけの理由ではない。まさしくマーカスは、ハリーと出会ったことで、作家として、そして人間として歩むことが出来たのだ。
ハリーは長年、オーロラという小さな町の外れにある邸宅で一人で暮らしてきた。マーカスは、デビュー作が200万部の大ベストセラーとなり、一躍時代の寵児となったが、しかし二作目が書けなくて苦しんでいた。出版社とは、五作分の契約をしている。二作目以降が書けなければ、契約違反で訴えられてしまう、そんな追い詰められた状況にあった。
そこでマーカスは、オーロラに住むハリーを訪ねた。マーカスが大ベストセラー作家となってからは久しぶりのことだった。
そしてその日マーカスは、とんでもないものを見つけてしまう。「悪の起源」などという傑作を書けた理由を知りたくてハリーの書斎を漁ってしまったマーカスは、そこで、ハリーが34歳の時に15歳の少女とつき合っていた証拠となるものを見つけてしまったのだ!ハリーがつき合っていたノラ・ケラーガンという少女は、1975年の8月のある晩に失踪している。謎めいた失踪であり、2008年現在もノラの行方は分かっていない。
書斎を漁っていたことを知ったハリーは激怒し、マーカスにこのことを口止めした。しかしその数ヶ月後、信じられない出来事が起こった。
ハリーの邸宅の庭から、ノラと思われる少女の死体が発見されたのだ。死体と一緒に、なんと「悪の起源」の原稿が埋められており、その原稿には、<さようなら、いとしいノラ>と書き込みがあった。
すぐさまハリーは逮捕された。アメリカを代表するベストセラー作家の逮捕に、全米中が騒然となった。また、「悪の起源」が15歳の少女との禁断の愛が描かれた作品だと知った人々は落胆し、「悪の起源」は出版停止に追い込まれるほど評判が下がった。ハリーは、この一件ですべてを失ったかに思えた。
しかし、マーカスだけはハリーの無実を信じた。マーカスは、警察とは別で独自の捜査を続けた。33年前のあの夏、このオーロラの町で一体何が起こったのか。執念の捜査で少しずつ真相の断片を掴みはじめていったマーカスは、やがて取材によって判明した事実をデビュー2作目として発表することになるのだが…。
というような話です。
評価の難しい作品だけど、とりあえず難しいことを考えなければ、とにかく面白い作品だった!外文にしては圧倒的に読みやすかったし、これだけの分量の作品を一気読みさせる筆力はなかなかのものだ。
とはいえ、小説の構成という意味で言えば厳しい部分もある。決して悪いわけではないが、時系列も視点人物も場所もあっちこっち入り乱れて、非常に断片的に描かれる構成で、それこそ一気に読まないと物語の筋を追いにくくなるようにも思う。この作品、内容はメチャクチャ面白いんだけど、この構成が難ありかなぁ、という感じが僕はした。
ストーリーは、本当によく出来ていると思いました。物語のかなり早い段階でハリーが疑われ、ハリーが真犯人だと考える以外にないような状況が提示される。しかしそこから地道な捜査を続けていくことで、オーロラという町に住む住民たちの様々な“秘密”が明らかになっていく。そして幾重にも重なったそれらの“秘密”をかいくぐった先に、事件の真相がある。
真実は少しずつしか明らかにならないのだけど、物語の中に色んな要素が詰め込まれているので、謎が少しずつしか明らかにならなくても読まされてしまう。決して謎だけで引っ張るタイプの作品ではないのだ。
何よりも本書の一番の魅力は、ノラという少女だろう。ノラは基本的には、人々の回想の中にしか登場しない。しかし、様々な人間が語るノラの姿を知る度に、どんどんノラという少女のことが気になってくる。色んな面を見せる少女だが、ハリーへの愛、という点で非常に真っ直ぐ貫かれたものがある。ハリーのことを心の底から愛している、という点がブレないまま、それを貫くためにどう行動すべきかが表に出る。その表に出た行動だけ見ると、ノラという少女は非常にチグハグな存在に思えるのだけど、ブレない想いがあるという前提でノラの行動を見れば、ノラという少女の純真さが非常に良く伝わってくる。
また、ハリーとマーカスの師弟関係もとても良い。ハリーはマーカスをきちんとした作家にすべく様々なことを教え、マーカスは“できるやつ”と思われながらも自分の虚飾に気づいていた人生を払拭すべく、ハリーの教えを忠実にこなそうとする。二人は、年こそ離れているが、固い友情で結ばれており、だからこそマーカスはハリーへの疑惑を払拭しようと奔走する。しかし、この関係にも、物語の中で様々な転換が存在し、特にハリーの苦悩が明らかにされるラストは、どうすれば良かったのだろうと考えさせられてしまうようなものだった。
また、オーロラの住民たちも、一癖も二癖もあって面白い。彼らは、何らかの“秘密”を抱えていたり、あるいは無害だったりと様々な立ち位置を取るが、様々な条件が重ならなければノラが命を落とすことはなかったし、それはオーロラだから起こったことだと言うことも出来る。オーロラという町に隠されていた“秘密”はあまりにも根深く、もちろんネタバレするつもりもないのでここでは書けないが、それぞれの“秘密”が、ただノラの事件と関係するというだけではなく、それぞれの住民たちの中で一つの物語となっている、という点が非常に良いと思う。それぞれの“秘密”ごとに一遍の短編小説が書けるのではないか、と思えるような密度があり、ノラの事件に設定として必要だから、というような理由で描かれているわけではない点が好感が持てると感じた。
正直なところ、読んで何かが残るような作品ではなく、とにかく一気読みして「面白かった!」と思うようなエンタメ作品です。でも、エンタメ作品として本書は非常に読みやすく面白く良く出来ているな、と感じます。この作品に何を求めるかで作品の評価が大きく変わりそうな気がしますが、とにかくエンタメ作品なんだと思って読めば、凄く楽しめる作品だと思います。
ジョエル・ディケール「ハリー・クバート事件」
「3月のライオン 前編」を観に行ってきました
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勝つことは、誰かを傷つけることと同じだ。
勝つことは、孤独だ。
『あんたが帰れば、あの家に。
おめでとう。父さんに勝ったんでしょ?』
強さは、生きるための武器になる。
そして強さは、自分を傷つけるための刃にもなる。
『得意げな顔してんじゃないわよ』
強いことは、弱さを蹴散らすことだ。
強いことは、自分の中の何かをどんどんと弱くしていく。
『負け犬でも見るような目しやがって』
弱いことからは、逃げることが出来る。
強いことからは、逃げられない。
『なんだよ、その目は。俺が途中で投げたって言いたいのかよ』
勝つことは、強くなることでもあり、弱くなることでもある。
『みんな俺のせいかよ!
ふざけんなよ!
どうすりゃ良かったんだよ!
他になんにもねぇってぐらい、将棋しかねぇんだよ…』
生きることと勝つことは、基本的にはイコールにならない。
勝とうと努力するかどうかは、ほとんどの場合、本人の意志次第だ。
しかし、そうではない環境も、時には存在する。
勝つことが、生きることと直結してしまうような、そういう環境が存在する。
勝たなければ、生きていけないのだと思わされるような、そういう環境が存在する。
勝つことは、生き抜くための手段だった。
しかし、そのことが誰かを傷つける。
そして、自分自身をも傷つける。
『その家族を壊したのは、どこの誰?』
傷つけることが分かっていても、勝つことから逃げることは出来ない。
自分が傷つくことが分かっていても、強くなることから逃げることは出来ない。
そうしなければ、生きてこれなかったからだ。
そうしなければ、これまでの自分の人生すべてを否定することになるからだ。
だから彼は、努力をする。
自分の中の何かを削り取りながら勝つための努力をする。
誰もが勝つための努力をしている世界の中で、勝つためでもあり、生きるためでもある努力を、彼は重ね続ける。
その軌跡しか、彼は「人生」と名付けられるものを持たないのだから。
内容に入ろうと思います。
桐山零は、中学生でプロ棋士になった史上5人目の天才棋士としてデビューした。しかし、9歳の時交通事故で両親と妹をいっぺんに喪った彼は、父の友人だった棋士の幸田に引き取られ、内弟子として育てられた厳しい過去を持っている。17歳、高校に通う零は、今は幸田の家を出て一人暮らし。家族も友人もなく、ただひたすら将棋と向き合う日々を送っている。
そんなある日、酒に酔って潰れている零を見かねた川本あかりは、零を自宅まで連れ帰る。あかり・ひなた・モモという三姉妹に気に入られた零は度々川本家に足を運ぶようになる。家族団らんという、長らく経験したことのない時間に心が浮き立つが、ここは自分がいる場所ではない、という思いも芽生える。
師匠の幸田の長女であり、弟の歩と共にプロ棋士を目指していた香子は、妻のいるプロ棋士である後藤と微妙な関係を続けている。香子は度々、幸田家を壊したのは零だとして零に辛く当たる。零は香子の行動を諌めるが、香子は後藤との関係を終わりにしようとしない。川本家で年越しをした零は、初詣の折に香子と一緒にいる後藤と出くわす。聞く耳を持たない後藤に、獅子王戦トーナメントで後藤を倒したら香子を家に戻せと詰め寄る。しかし後藤にたどり着くには、後藤と同じA級に所属する島田を倒さねばならないが…。
獅子王戦と同じくして、新人戦のトーナメントも進んでおり、幼い頃からライバルとして一方的に桐山に絡んでくる二階堂との対戦も実現間近だったが…。
というような話です。
凄く好きな映画でした。とにかくセリフが極端に少ない映画で、表情や仕草(それも非常に抑制されているのだけど)によって感情を伝えようとする映画だなと思いました。原作はマンガなので、マンガのやり方に近いと言えば近いですけど、ただマンガにはセリフだけではなく内面を描くような心の声も文字で書かれている。映画の方では、それも非常に抑えられていて、その場面場面で観る者がそこに何を観るかを問われているような、そういう映画だと感じました。
零を中心とした棋士の世界は、まさにそういうあり方を体現している。もちろん棋士の中にも、例えば二階堂のような騒がしい者もいる。しかし、この映画の中で描かれる棋士は皆、内に何かを秘めているような佇まいを見せる。その内面が、はっきりと描かれる場面は少ない。何を考えているのか分からないような、表情もあまり動かないような場面が非常に多くある。
それは、棋士らしい世界を表現しているなと感じる。棋士にとっての言語は、将棋であり、駒の動かし方を記した棋譜だ。彼らは、棋譜を読み込むことで、他の棋士と対話をする。実際に対局をしている時の駒の動かし方でも、対話が生まれる。実際に言葉を交わさなくても、彼らには伝わるものがある。そういう棋士ならではのあり方を、映画という手法の中でうまく描き出しているように感じました。
零を中心とした棋士の世界が「静」であるとすれば、棋士・桐山零の外側にある世界は「動」だ。
学校での零には、友達がいない。しかし彼には、担任の教師という強い味方がいる。零のことを応援してくれる存在だ。映画の中では目立つ存在ではないが、要所要所で零にとって重要なポジションを取る。零は、そのままにしておけば自分から動く人間ではない。そんな零のことを、「動」の世界にいる誰かが押し出していく。
「動」の世界にいるのは、川本家も同じだ。川本家の女たちは、零が何者なのか知る前から、零をあっさりと受け入れる。そして、やはり自分では物事を切り開いていかない零の世界に良い感じに入り込んでいって、零を動かしていく。
この物語は、「居場所」の物語でもある。
「静」の世界には、零の居場所はある。そこが、心地よい居場所であるかどうかはまた別の問題だが、零は「史上五人目の中学生プロ棋士」であり、「将来を嘱望される新人棋士」として関係者からも世間からも注目されている。そこは、勝ち続けなければならない厳しい勝負の世界であり、気の休まる時はないが、しかし零にとって居場所であることは間違いないだろう。
しかし、「動」の世界には、零が居場所だと思える場所はない。
『あんたの居場所なんて、この世のどこにもないんだからね』
幸田家からは、出て行くしかなかった。零が幸田家にいることが、諸悪の根源のような状況に陥ってしまったからだ。結局零は、幸田家の面々とは家族になりきれないまま、幸田家を離れることになった。
学校にも居場所はない。常に屋上で一人で飯を食い、担任の教師以外に話す相手はいない。
川本家は零にとって居場所になりうる場所だった。しかし零は、川本家を居場所だと思うことに抵抗を感じてしまう。
『今度はこの人たちなんだ。
得意だもんね。不幸ぶって他人の家族メチャメチャにするの』
零には、幸田家での苦い記憶がある。生きるために選択せざるを得なかった、将棋で勝つという道。しかしそのことが結局、零を幸田家から追いやる結果となった。
川本家は、棋士・桐山零を求めているわけではない。そのことは、零にもきちんとわかっているはずだ。あの人たちは、零が何者であろうときっと受け入れてくれる。とても素晴らしい人たちだ。
でも、だからこそ、自分という異分子が入り込むことで、川本家がバラバラになるようなことがあってはいけない。そんな可能性が少しでもあってはいけない。
そこまで踏み込んで描かれることはないが、零が積極的に川本家に足を向けないのには、そういう理由があるはずだろうと思う。
『家族を大事にできない人間は、サイテーです』
後藤に向けて放ったこの言葉は、零にとってどんな意味を持つ言葉なのだろうか?9歳の時に家族を喪い、その後他人の家で育てられてきた零は、自分が家族を大切にしてこれなかったという後悔を抱えているのだろうか?大切にした家族を持つことを望んでいるのに自分にはそういう存在がいないことを哀しんでいるのだろうか?あるいは、家族という存在を強く捉えすぎるが故に川本家に深入り出来ない自分を悔いているのだろうか?
『僕ならどこに行っても心配する人はいない』
「動」の世界では勝つことを常に宿命付けられ、「静」の世界では居場所を見つけることが出来ない桐山零。彼がどんな風に未来に向けて進んでいくのか、楽しみだ。
「3月のライオン 前編」を観に行ってきました
松ノ内家の居候(瀧羽麻子)
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時々テレビで、歴史上の有名人物の末裔、みたいな人が出てくる。
そういう人や、そういう番組自体には強い関心はないが、もし自分がそういう末裔だったら、と思うと、なんとなくちょっと楽しい。
いやきっと、実際に末裔だったらめんどくさいだろうから、実際には末裔にはなりたくない。だから、ちょっとした想像だ。歴史の教科書にこう載っているけど、実は違うんだぞ…、みたいな言い伝えが色々あったりするだろう。なんかそういうのは、ちょっとだけワクワクする。
けど、実際にそういう可能性はとても低い。けど、そういう歴史上の有名人物に関わっていた家系、ということであれば、もうちょっと可能性は広がるかもしれない。関わっていた、というレベルだと、そのことが後世にきちんと伝わっていない可能性もある。どこかで情報が途切れてしまえば、末裔たちはそのことを知らないままだ。
けど、ふとした瞬間に、それが判明するかもしれない。自分が、あの人物と関わりのある家系だったのだ、と分かる日が来るかもしれない。そんなことを考えると、本書の主人公の一人、娘の琴美の興奮も、ちょっとは分かるような気がする。
しかも、未だに見つかっていない重大なモノが、屋敷に残されているかもしれない、なんて知らされたら…。
内容に入ろうと思います。
松ノ内一家は、松ノ内家当主である貞夫の祖父が創業した、松ノ内商会という商社を代々引き継いで経営している。四代目である現社長・孝之は、自分で進めた計画が頓挫したために会社内での発言権が弱く、会社は実質的に副社長が仕切っている。引退してはいるが、未だに貞夫の影響力も残っている。
貞夫は、庭付きの豪邸で毎日を過ごしている。時折散歩には出るが、あまり出かけることはない。長年連れ添った妻・雪江を喪い、今松ノ内家を回しているのは孝之の妻である郁子だ。雪江と郁子は仲がよく、雪江亡き後も、郁子は松ノ内家の一員として切り盛りしてくれている。彼らの一人娘である琴美は、中学生ながら聡明で、他人を見下しているのではないかとさえ感じるほどだが、琴美からすれば同学年の面々は退屈な人間ばかりで、琴美は論理的で聡明な祖父・貞夫に関わるのが好きである。
そんなある日、松ノ内家にとある美しい青年がやってきた。西島と名乗ったその青年は、楢崎の孫だと言った。家族のほとんどは楢崎の名にピンと来なかったが、貞夫はすぐに分かった。
楢崎春一郎。私小説を多く書いた文豪で、主要な文学賞を受賞、ノーベル賞の有力候補とまで目されていたという、日本を代表する作家だ。小説家として名高いが、女関係もまたすごく、何度も結婚し、愛人も常にいたような男だったという。西島は、楢崎春一郎は、今年が生誕100年、没後10年の記念の年なのだ、と語った。
西島は何のために松ノ内家を訪れたのか。それは、楢崎がある時期、この松ノ内家に居候していたことがあることと関係がある。その事実さえ、貞夫以外の面々は初耳だったのだが、楢崎春一郎の名すら知らなかった孝之を始め、それ自体はそこまで大きな衝撃ではない。より重要なことは、楢崎が松ノ内家に居候をしていた一年間だけ作品を書いていない、という事実なのだ。研究者の間では、空白の一年、と呼ばれているそうだ。
しかし西島は、その時期にも小説を書いていたことを示す記録があった、と言った。そして、もしかしたらこの屋敷のどこかに、楢崎の未発表原稿があるかもしれないのだ、と言ったのだ。
それに反応したのが、現社長である孝之だ。楢崎の名も知らなかったくせに、未発表原稿が見つかればかなりの大金が転がり込むかもしれない、という風に目が眩んでいる。郁子にはうまく状況が理解できないが、貞夫が西島の存在や申し出を良く感じていないことが気にかかっている。琴美は、自分がそういう特別な家系にいるのだ、ということにちょっと興奮している。
あるのかないのかさえ分からない未発表原稿を巡って、松ノ内家は俄に慌ただしくなる。貞夫・孝之・郁子・琴美という松ノ内家の四人、そして闖入者である西島を加えた五人の思惑が絡まり合い、松ノ内家の歴史を総ざらいするような騒動に発展していくが…。
というような話です。
これ、面白かったなぁ。あんまり期待してなかったんだけど、かなり良く出来た作品だと思いました。
まず、楢崎春一郎の設定が良い。明らかに谷崎潤一郎をベースにして作られている作家で、谷崎潤一郎らしさをうまく作品に活かしている。僕は別に谷崎潤一郎について詳しいわけではないんだけど、それでも「私小説を多く書いた」「女性関係が色々あった」ぐらいの知識はある。この二点が、本作でも非常に重要なキーワードになっていって、作品の核の部分と密接に関わり合っていく。楢崎春一郎、という作家をリアルな存在として立ち上げた、という部分が一つ、本書の成功の要因だろうな、という感じがします。
そして、西島という部外者の登場によって、あるのかないのかさえ判然としない未発表原稿の存在が明らかになるのだけど、本書は、ただその未発表原稿があるとかないとかでわーわーするだけの話ではない。それだけだったらこんなに面白くはなかっただろう。本書の肝は、この未発表原稿の存在が、松ノ内家をより強い「家族」にした、という部分だろう。
これは本書の面白さの肝だと思うのであまり書きすぎないようにするつもりだが、これが抜群に上手いと僕は感じた。貞夫・孝之・郁子・琴美は、楢崎の未発表原稿に対してそれぞれ違った思惑を持っている。その方向性は、基本的にはバラバラなのだ。何故バラバラなのかというのは、もちろん家族であっても他人だから当然ではあるのだけど、しかし別の見方をすれば、家族としての大きなまとまりが失われている、という風にも受け取れる。松ノ内家には特段目に見えるような大きな問題は存在しないが、それは浮き彫りになっていないというだけで、決してないわけではない。その、実はあった問題を、未発表原稿の存在が浮き彫りにする。未発表原稿に対するそれぞれの思惑が、松ノ内家という家族が実はバラバラの方向を向いているということを明確にするのだ。
そして、同じ未発表原稿が、今度は家族を一つにまとめる働きもする。これが良く出来ていると感じる。楢崎の未発表原稿は、家族の問題を浮き彫りにさせるのと同時に、その状態の家族を一つにまとめるための役割も果たすのだ。あるんだかないんだか分からない未発表原稿が家族をどんな風に結びつけていくのか、その過程を是非楽しんで欲しい。
松ノ内家にとって楢崎の未発表原稿が脅威なのは、楢崎の「私小説を多く書いた」「女性関係が色々あった」という点に関係がある。つまり、もし松ノ内家に居候している間に楢崎が何か原稿を書いているならば、それは松ノ内家の人間と不倫関係にあったことを示す描写があるのではないか…。彼らはそういう想定をしている。それに対する反応も家族の間で様々なのだが、この点が、谷崎潤一郎をモデルにした楢崎春一郎を作中に登場させた一番の面白い点だと思う。楢崎の未発表原稿は、ただの原稿ではない。松ノ内家の「恥」を明らかにするかもしれない存在なのだ。文豪の未発表原稿を探すというミステリのようでありながら、それは決して物語の核ではない。楢崎の未発表原稿が、家族の「恥」を掘り起こすことになるのではないか、という懸念が、松ノ内家を揺るがし、またバラバラにしていくのだ。
物語がどんな風に展開し閉じていくのか、それは是非読んで感じて欲しい。作品だけではなく作家が愛されるというのはこういうことなのだ、という風に感じることも出来るし、家族というものが一つの大きな存在としてどうあるべきなのかということも示唆する、なかなかどっしりとした、それでいて読みやすい作品だ。
瀧羽麻子「松ノ内家の居候」
生きてゆく力(宮尾登美子)
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内容に入ろうと思います。
本書は、宮尾登美子が、主に作家になる前の、家族や住んでいた地域の思い出を描いたエッセイです。
僕は宮尾登美子の小説は読んだことがないんですけど、このエッセイはなかなか面白かったです。
宮尾登美子は、生家が芸妓を斡旋する仕事をしていたようで、その頃芸妓の卵のような子たちと一緒に生活をしていた。その当時の、貧しいけれど豊かさを感じさせる日々。また、戦時中満州へと移り住み、戦後死ぬような思いを幾度もしながら日本へと戻ってきた話。結核を患いながらも農家の嫁として働いていた日々。子供の頃にあった、奇妙だけどなくなってしまえば懐かしさを感じさせる様々な習俗。そういった様々を、著者は丁寧に掬い取っていく。
それらは当然、僕が経験したこともない生活なのだけど、著者の記憶力が子細に渡っているからか、あるいは誰しもが自分のどこかにそういう古き良き時代への郷愁みたいなものがあるからなのか、とても面白く読める。現代とはまた違う理屈で、家族や人生や社会というものが成り立っていた時代の、物質的には決して豊かではないのだけど、どこか豊かさを感じてしまうような、そういうあり方はいいなと思いました。
宮尾登美子の小説を読んだことがないから勝手な想像だけど、このエッセイに書かれているような日常が、著者の作品の背景を支えているのだろうな、ということは強く感じました。
宮尾登美子「生きてゆく力」
仁術先生(渡辺淳一)
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内容に入ろうと思います。
本書は、大学病院で講師として医局の中心的立場にありながら、突然下町の診療所に移ってしまった円乗寺優先生の、下町での診療を描いた作品です。
「梅寿司の夫婦」
円乗寺先生のいるK診療所に、ある青年がこそこそとやってくる。最初何かと思ったが、梅毒なのだという。であればその態度も分からなくもない。この時代は、梅毒であるとなれば忌避されてしまう恐れもあった。そんな青年と、寿司屋で会った。寿司屋の職人なのである。やがて円乗寺先生に気を許すようになった青年はある悩みを打ち明けるが…。
「特効薬」
戸浪さんの奥さんが倒れたというので自宅まで診療に向かう円乗寺先生。旦那は慌てふためいている。奥さんは身をよじりながら、衣服をはだけさせながら苦しがるが、円乗寺先生は一向に何もしない。注射の一本も打たない円乗寺先生に旦那はキレてしまうのだが…。
「健保ききません」
結婚したものの奥さんとうまくセックスが出来ないとやってきた大石という青年。イチモツは立派なのだが、いざという時にどうもうまくいかないのだとか。円乗寺先生は、保険はきかないけどいいか、と言って、看護婦と共にとある治療をするのだが…。
「不定愁訴」
K診療所に新たにやってきた若手医師に、円乗寺先生は教訓を伝えようとしている。円乗寺先生は、「女を見たら…と聞かれてどう答えるか?」と若手医師に問いかける。そしてそこから、円乗寺先生がかつて経験した、村石という女性患者の苦い診療の記憶を語り始める…。
「腰抜けの二人」
これは、円乗寺先生の話ではない。
ある医師の元に、毎年「中津川三郎」という男から年賀状が届く。そこには「腰抜け男」と書かれている。これは、二人の間だけで通用する符丁だ。
手術も碌に出来ない新人でありながら、北海道の炭鉱近くの診療所へ行かされることになった医師は、一人でなんでもこなさなくてはならない不安を抱えつつ、比較的穏やかな日々を過ごしていた。しかしある日、炭鉱落盤事故があり、患者が運び込まれてくることになったのだが…。
というような話です。
なかなか面白かったです。「医療ミステリー」というようなガチガチっとしたものではなくて、病院のおっちゃんと下町風情がうまく絡み合って、すすすっと読める感じに仕上がっています。
医師というのは、知識や技能がまず連想されるけど、なによりもコミュニケーションが大事なんだろうなと改めて感じさせてくれる作品でした。どの話も、知識や技能はさほど必要とされないけど、患者とどう接し、どうコミュニケーションを取っていくのかという部分はとても重要になってくる話が多かったなと思います。そこに、下町の人情がうまく混ざり込んで、良い話にまとまっているという感じです。
渡辺淳一「仁術先生」
「ラ・ラ・ランド」を観に行ってきました
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うーん、と思ってしまった。
正直、この映画に関して書けることは、特に何もない。
少なくとも僕にとっては、全然面白さの分からない映画だった。
そもそも恋愛的なストーリーに興味がないとか、そもそもミュージカルが好きじゃないとか、色んな理由があると思う。正直、元々観るつもりのない映画だった。あまりにも世間の評判が高いから、それならと観に行くことにしたのだ。そういうわけで、元々自分には合わないだろうなという予感はあった。そういう意味で、「期待通り」ではあったと言える。
しかしこれほどまでに、何故この映画が受け入れられているのか分からないのも珍しいと思った。多くの人にとって、この映画はどこが「刺さる」のだろう?欧米人であれば、「ミュージカル」という形式が元から受け入れられているだろうから、そういう部分での評価もきっとあるのだろうとは思う。しかしきっと日本人の多くの人にとっては、この作品の「ミュージカル」的な部分はそこまで評価していないのではないか。後は、恋愛的なストーリーがグッと来る、ぐらいしか思いつかない。他にどんな要因が、この映画の評判を押し上げているのだろう?
自分に受け入れられなかったからと言ってすべてを否定するつもりはないが、久々に自分と世間のズレを感じる作品だった。
「ラ・ラ・ランド」を観に行ってきました
か「」く「」し「」ご「」と「(住野よる)
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人の気持ちを知ることが出来たらなぁ…なんて、別に考えたことはない。
そんなの、ただめんどくさいだけだ。
けど、世の中は、そうではないらしい。自分が良いと思う相手のことを、何でも知りたいらしい。いつどこで何をしていて、どんなことを考えているのか知りたいようだ。
けれど、基本的には知ることは出来ない。相手の気持ちは、相手の言葉や態度から推測するしかないのだけど、言葉や態度は嘘をつくことが出来る。気持ちや感情と連動させないことが出来る。知りたいけど、はっきりとは分からない。けれど知りたい。世の中的には、そういうもののようだ。
知ってどうするのだろう?と僕は思ってしまう。
僕は、自分が良いなと思う相手、好きだなと思う相手であればあるほど、全部は知りたくはない。いつまでも、よく分からない部分が残っていて欲しい。いつまでも予想外の反応が返ってきて欲しいし、いつまでもなんだかよく分からないことを言っていて欲しい。真意とか本心とかが全然掴めなくて、行動原理が全然読めないような、そんな存在であって欲しいと思う。
その方が面白い。
気持ちまで含めた相手のことを全部知るというのは、結局、自分の思った通りでいて欲しい、ということでしかない、と僕は思ってしまう。あなたの望んだ通りに動き、あなたの望んだ通りに考え、あなたの望んだ通りに感じる人。
そんなのの、何が面白いのだろう?
結局、相手のことなんか分からないから面白いと思うのだ。分からないから知りたくなる。知りたくなるのに知ることが出来ないから面白い。人間関係って、きっとそんな風に成り立っているんだ、と思う。
だから「読点」とか「トランプの柄」とか「バロメーター」とか、そんなのが見えちゃうようなのは、嫌だなと思う。
内容に入ろうと思います。
本書は、5編の短編が収録された連作短編集です。
「か、く。し!ご?と」
大塚には、人の上に記号が見える。ハテナとか読点とか。その人の感情に連動した記号が見えてしまう。
大塚は、クラスメートのミッキーに恋をしている。ミッキーは情熱溢れる女の子で、どんなことにでも心を動かすことが出来る良い奴だ。大塚はミッキーと話そうとすると動揺して変になってしまうが、大塚の友人でありクラスの人気者であるヅカはミッキーと子どもの頃から仲が良くて、仲が良い者同士にしか醸し出せないやり取りを日々している。
ある時から大塚は、ミッキーのシャンプーが変わったことに気づいた。そんなことに気づいたことに気づかれたら気持ち悪いと思われるだろうから指摘しなかった。同じ頃、ミッキーは何故かヅカに、「私何か変わった?」と聞くようになった。ヅカはどうも、シャンプーが変わったことに気づいていないようだ。とはいえ、横から口を出すわけにもいかない。いつもヅカはミッキーからボロクソに言われることになる。
大塚は、隣の席に思いを馳せる。宮里さんはゴールデンウィークが始まった頃から二ヶ月、学校に来ていない。理由は誰も知らないようだが、自分のせいだったらと不安になる。
「か/く\し=ご*と」
ミッキーには、他人の心臓のところにシーソーのようなバーが見える。それがプラスに傾いたりマイナスに傾いたりするのを見て、ミッキーは相手の感情を理解する。大体の人はプラスかマイナスに傾いているのに、パラというぶっ飛んだ友人だけは、そのバーがいつもくるくる回転している。
文化祭でヒーローショーをやることになった。理由は、パラが提案したのだ。自分の進路のために、という理由を隠しもせずに堂々と話、脚本まで用意していた。みんなやる気をみなぎらせた。衣装や照明も自分たちでやる。パラをリーダーとして、クラス一丸となってのチャレンジだ。昔からヒーローに憧れていたミッキーは、ヒーローショーのヒーロー役をやることになった。
ちょっとしたトラブルもありながら、無事ショー当日を迎えた。けれど、「三木は舞い上がってるとあぶなっかしいからなぁ」という先生の忠告を、もうちょっとちゃんと聞いておけばよかった…。
「か1く2し3ご4と」
パラには、他人の心のリズムが見える。早くなったり遅くなったり。その変動を知ることが出来る。パラはある時から、他人の鼓動を強めるためにぶっ飛んだ行動をするようになった。それがキャラクターとして定着した。本当は、ただ冷酷なだけの人間だ。
パラは、ヅカの本性を知っている。ヅカは、誰に対しても良いやつで、ポジティブな感情を露わにし、クラスのムードメーカーだが、実際にはどんな状況であってもヅカの心音が変化することはない。フラットなのだ。
修学旅行だ。修学旅行中に鈴を渡すとずっと一緒にいられる、というおまじないがある。ヅカは、修学旅行の朝に鈴を持っていた。既にもらったものなのか、あるいはこれから誰かに渡すものなのか…。パラはある計画のために、修学旅行中、基本的にずっとヅカを「王子様」と呼んでべったりしていたが…。
「か♠く◇し♣ご♡と」
ヅカは、人の感情を反映したトランプの4つの柄が見える。スペードは「喜」、◇は「怒」、クローバーは「哀」、ハートは「楽」だ。ヅカは自分で自分のことを、相手との関係をフラットに見すぎてしまう、と思っている。自分の意思より相手の意思を尊重してしまうのだ。
そんなヅカが気になるのは、エルの「哀しみ」だ。頭の上にいつも大きなクローバーがある。ちょっと前から、おかしいのだ。仲良しだったはずの隣の席の京と何やらうまく行っていないようだし、ヅカがミッキーについて言及するとクローバーが大きくなるような感じがする。誰も相談されていないみたいだし、京もまったく原因が分からないという。
いつもの5人で花見に出かけた時、ちょっとした出来事が起き…。
「か↓く←し↑ご→と」
エルには、他人の好意が矢印になって見える。誰かが誰かのことを好きだということが、矢印ではっきり分かるのだ。だから、ミッキーと京が両思いなのも、もちろん分かっていた。
けどこの二人、全然進展しない。周りがあの手この手でくっつけようとしているのに、まるでダメだ。京は私と同じで臆病で、自分なんか、と思ってしまうようなところがある。そしてミッキーは恐ろしいほど鈍感なのだ。どうにもならない。
受験勉強が始まって、将来のことについて考えるようになった頃。タイムカプセルを埋めようという話になった。未来の自分に手紙を、という話のはずだったのだけど、パラの提案で、他のメンバーへの手紙にしよう、と決めた。ここで京とミッキーにお互いの気持ちをはっきり書かせて強くさせよう、という魂胆だった。
しかし…。
というような話です。
相変わらず住野よるは良い小説を書くなぁ。僕は、住野よるの作品は何を読んでも「君の膵臓を食べたい」を越えられないんだけど(僕の中で「キミスイ」はちょっと別格なのです)、この作品も凄く良いと思いました。
まず、設定が非常に秀逸だ。5人が5人とも、何らかの形で他人の感情を見ることが出来る。この設定が、非常に上手い。他人の感情が見えたところで、その原因まで分かるわけではないから、何もかも分かるわけじゃない。けれども、感情の一端は分かる。分かった上で、能力で分かったわけではない、という風を装いながらその感情と関わっていくのだ。
誰もが、こんな能力を持っているのは自分だけだ、と思っている。だから、自分が能力を使って相手の感情を読み取っているという事実は悟られないようにしなければならない。でも、知ってしまった感情に対して、何もしないではいられない。哀しんでいるならその哀しみを取り除いてあげたい。好き合っている者がいるならくっつけてあげたい。そんな風に思うのは当然だ。
だからこそこの5人の関係性は、誰もが皆、「誰か」を一番に考えている。自分のことを一番に考える者はいない。これが、この作品における、感情が見えすぎることによる一番大きな効果だろうと思う。
そしてその過程で、とても面白いことが分かる。それは、全員が、自分よりも他の全員の方が他人を思いやっていると思っていることだ。いや、全員というのはちょっと言い過ぎたかもしれないが、自分は他人に対して冷たい人間だ、と考えている人間が多い。
読者の視点からすれば、5人は全員、「誰か」のことを一番に考える良い奴だ。でも、5人はそれぞれ、自分自身のことをそんな風には捉えない。自分は冷たい人間だけど、他の4人はそうじゃない、というような捉え方をする。これもきっと、感情が見えすぎている効果なのだろう。彼らは皆、「相手の感情が見えているのに、自分は見えているが故の行動を取らない。他の4人は感情なんか見えていないはずなのに、相手のことを思いやった行動が取れていて素晴らしい」みたいな風に考えているのだろう。自分以外の4人も皆、感情が見えるのだ、なんて想定できないだろうからこういう発想が生まれる。この状況も実に面白い。
他人の感情が見える、なんていう設定は、安易に思いつくことが出来るだろう。しかし、そういう状況設定の中でどういうことが起こり得るかまできちんと考えられている作品はそう多くはないだろう。本書の場合、感情が見えすぎることが、彼らのパーソナリティに少なくない影響を及ぼし、さらにそれが5人全体の関係性にまで波及していく。非常に繊細だ。
その繊細さは、エルの感情の見え方にも現れている。エルというのは、本当に些細なことでも気にしてしまう自己評価の低い女の子だが、そのエルに見えるのは、相手の感情の中でも「誰が誰を好きか」という好意のみだ。感情全体が見えるわけではない。この設定は、エルというキャラクターには実にしっくりくる。エルが他の4人のように感情全体が見える設定であれば、エルはもっと違うキャラクターになっていただろうし、そうであればこの作品が成り立たなかった可能性がある。エルの感情の見え方を知った時、上手い、と改めて思った。
そしてその上で、ここのキャラクターがとてもいい。
全員好きだが、特に好きなのがパラだ。本書で描かれるパラは、僕にとってはとても素晴らしい。
僕には、かなりパラに似ている部分がある。
(本書を読んでいない人は、これ以降の記述を読まない方がいいかもしれない。二編目でのパラと三編目でのパラの落差を感じた方が面白いし、ここで暴露するパラの本当の姿だけ読んでも、きっと面白くないだろうから)
『君は面白いと思ってくれてるかもしれない、私の発言は、私がこう言ったら面白いと思われるだろうと、計算して言っているものだし。君が面白いと思ってくれてるかもしれない、私の行動は、私がこうやったら驚かれるだろうと狙ってやっているものなんだ』
パラの言動はあまりにもぶっ飛びすぎていて、言動で比較する場合、僕とパラは全然似ていないだろう。しかし、行動原理を比べれば、僕とパラはそっくりだと思う。
僕も、パラとまったく同じ発想で行動している。僕は、自分が変だと思われるように行動するように意識している。それは、本来の自分からかけ離れているわけでは決してないが、本来の自分ではない。僕は計算で自分の行動をデザインしている。
『そうじゃないんだよ。本当は私だってそういう人間になりたいよ。損得なんて考えない人間になりたいし、やりたいことだけ迷いなくやれる人間になりたい。でも、実際の私はそうじゃない。私の言葉や、行動は、私がなりたい私に過ぎない。本当に私じゃ、ないの』
「そういう人間」というのは、ミッキーに近いキャラクターだ。どんな状況でも熱くなれて、やりたいことを迷いなく出来る。パラは、周りからそういう風に見られるように行動しているけど、自分がそういう人間でないことをちゃんと知っている。
『冷静さを長所だと言う人間もいるだろう。だが、違う。ただ、冷たい人間というだけだ。』
パラのこの自覚も、僕にはよく分かる。僕も、自分の冷たさをきちんと自覚している。
先程から書いているように、パラの言動はあまりにもぶっ飛んでいるので、単純に比較は出来ないが、パラのこの落差を知ると、世の中で楽しそうに生きている人にもきっと、こういう内面を抱えている人はいるのだろうな、と感じる。実際僕は、そういう人に何度か会ったことがある。表向き、凄く楽しそうにワイワイと人と絡んでいるのに、ちょっとその内側を覗き込んでみると、みんなの中にいる時からは想像も出来ないような内面を見つけることが出来るような人が。僕はなんとなく、そういう人に惹かれることが多い。自分もそういうタイプだから気になる、ということもきっとあるのだろうけど、わざわざ楽しそうに振る舞わなくてはならないその感じに、どことなく哀愁を感じるのだろうなと思う。
京(大塚)やエル(宮里)もとても良い。この二人にも、僕自身の欠片を感じ取ることが出来る。自分に自信がなくて、自分が世間の主流を歩いてはいけないと思っていて、いつでも自分の気持ちに蓋をしてしまうような二人のあり方は、昔の自分を見ているようだ。5人の間に発生する問題(と書くとネガティブな騒動という感じだが、そこまでネガティブでもない)のほとんどが、京とエルに関わるものだ。彼らの性格のマイナス思考の部分が、結果的に状況を引っ掻き回してしまうことが多い。
パラとミッキーという、どんな行動を取るのか分からない女二人に、京とエルという後ろ向きな二人、そして人気者でありながらその実、心の中はフラットというバランス感覚を持ったヅカという5人組が、いつだって自分以外の「誰か」を思いやりながら行動する。そうやって築き上げられていった関係性が、なんだかとても羨ましく思えてくる。普段、良い人ばっかりの物語にはどことなく嫌悪感を抱いてしまうことが多いのだけど、この物語は、基本的に皆良い人なのに、自分の中の嫌悪カウンターが反応しない。それもまた、他人の感情が見えすぎるという設定をうまく使った効果なのだろう、と思う。
誰だって“厄介な自分”を生きている。そんな風に思わせてくれる作品だ。
住野よる「か「」く「」し「」ご「」と「」
蜜蜂と遠雷(恩田陸)
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「学ぶ」というのは「枠」を知る、ということだ。
僕たちは基本的に、「知の暗闇」の中で生きている。知らないことだらけだ。しかし、少しずつ「学ぶ」ことで、明るい部分が増えていく。明るくなると、そこに何かが見える。それは大抵、仕切りのようなものだ。「こちら」と「あちら」を区別する仕切り。明るくなった場所に浮かぶそれらの仕切りを確認しながら、僕たちは色んな概念を学んでいく。ある言葉の意味、誰かの感情、雲の形から予想される雨、数百年後に地球に接近する彗星。僕たちは、「枠」を捉えることで、物事や感覚を捉えていく。
しかしその「枠」は、誰かが決めたものだ。誰が決めたのか、ということは問題ではない。iPS細胞のように発見者が明確なものもあれば、古代の誰かが発見しいつの間にか広まっていることもある。誰でもいい。とにかく、「枠」というのは、誰かが決めたものに過ぎない。
「枠」を知ることは重要だ。「知の暗闇」の中では、僕らは歩くこともままならない。真っ暗な中を手探りで歩き続けるのは、怖いし危険だ。これ以上進んではいけない場所、「こちら」と「あちら」とで区切られている場所、そういうものをきちんと確認しながら歩いていきたい。それはある種の、人間の本能と言ってもいいだろう。
しかし、時に「枠」は、人間の行動を制約する邪魔ものに変わる。「枠」が見えれば、そこから出てはいけないと咄嗟に感じる。「こちら」と「あちら」は連続していないのだ、と思ってしまう。
そういう躊躇の積み重ねが、人間を臆病にしていく。
時々いる。「知の暗闇」の中を、真っ暗なまま歩ける者が。彼には「枠」が見えない代わりに、「枠」を越えてはいけないという発想もない。もちろん、「枠」が見えないが故に、色んなものにぶつかりながら歩いて行くことになるだろう。しかしその過程で、普通の人だったら絶対に越えられない「こちら」と「あちら」の境界をあっさり飛び越えてしまったりもする。
そういう人を、僕らは「天才」と呼びたいのだと思う。
「天才」にも、様々なタイプがいる。大量にこなせる者。超スピードでこなせる者。誰も真似出来ない技術を使える者。そういう者も、「天才」と呼ばれ得る。しかし、僕は、概念をしなやかに飛び越えることが出来る人間こそ、「天才」の名に相応しい、と思いたい。
「◯◯はこうでなければならない」という「枠」は、「◯◯」という伝統や文化を守っているように見せかけながら、実はそういう発言をしている人の地位やキャリアを守っている、ということが多いのではないだろうか。その「枠」を押し付けることで、「枠」の内側に入れていない人間を疎外することが出来る。その「枠」の内側に入ってこなければ認められないと振りかざすことが出来る。
『近年、演奏家は作曲者の思いをいかに正確に伝えるかということが至上命題になった感があり、いかに譜面を読みこみ作曲当時の時代や個人的背景をイメージするか、ということに重きが置かれるようになっている。演奏家の自由な解釈、自由な演奏はあまり歓迎されない風潮があるのだ』
「枠」の内側に入っていないものはダメだ、と判断するのは、簡単だ。しかしそれは、ある意味で思考停止と言ってしまっていい。「枠」を設けたのは一体誰なのか?個人を特定したい、という話ではない。結局「枠」を設けているのは、批評家だ。
『よく言われることだが、審査員は審査するほうでありながら、審査されている。審査することによって、その人の音楽性や音楽に対する姿勢を露呈してしまうのだ』
『そして、審査員たちも薄々気付いている。
ホフマンの罠の狡猾さと恐ろしさに。
風間塵を本選に残せるか否かが、自分の音楽家としての立ち位置を示すことになるのだということを。』
「評価」や「批評」というのは、「枠」があるからこそ成立する。複数ある内のどの「枠」を選択するか、という自由度はあるにしても、何らかの「枠」を設定した上でなければ「評価」も「批評」も出来ないのは確かだろう。
そういう意味で、「評価」も「批評」も出来ないようなものにこそ、そのジャンルを粉砕させるような力がある、と言っていいだろう。
『よし、塵、おまえが連れ出してやれ。
少年はきょとんとした。
先生は、底の見えない淵のような、恐ろしい目で少年を見た。
ただし、とても難しいぞ。本当の意味で、音楽を外へ連れ出すのはとても難しい。私が言っていることは分かるな?音楽を閉じこめているのは、ホールや教会じゃない。人々の意識だ。綺麗な景色の屋外に連れ出した程度では、「本当に」音を連れ出したことにはならない。解放したことにはならない。』
音楽が「音楽」を超える瞬間を、この作品は感じさせてくれる。たぶんこれは、そういう物語なのだ。
内容に入ろうと思います。
事件は、パリで起こった。
3年毎に開かれ、今年で6回目を数える「芳ヶ江国際ピアノコンクール」。そのオーディションがモスクワ・パリ・ミラノ・ニューヨーク・日本の芳ヶ江の5箇所で行われている。パリでの審査員を務める嵯峨三枝子、アラン・シモン、セルゲイ・スミノフの三人は、退屈な演奏が続くオーディションの中で、その少年と出会った。
風間塵。
異例づくしの候補者だった。履歴書はほぼ真っ白。学歴もコンクール歴もなく、日本の小学校を出て渡仏したことぐらいしか分からない。後で風間塵と接触したスタッフに聞くと、オーディションギリギリのタイミングで会場にやってきた風間の手は泥で汚れていたという。風間の父親が養蜂家であると知ったのは後のことだ。
そして、何よりも最大級の衝撃は、その少年が、あのユウジ・フォン=ホフマンに5歳から師事し、彼の推薦状を持っているという事実だった。
信じられない。
ホフマンは、あらゆる音楽家に愛されながら今年亡くなった、伝説的な音楽家だ。弟子を取らないことでも有名だった。あのホフマンが、弟子を…。
『僕は爆弾をセットしておいたよ。僕がいなくなったら、ちゃんと爆発するはずさ。世にも美しい爆弾がね』
死の間際、ホフマンは周囲の人間にそう漏らしていたという。
まさか、あの少年が「爆弾」なのだろうか…。
その通りだった。風間塵の演奏は、常軌を逸していた。三枝子は初め、拒絶した。ホフマンに対する冒涜だと思った。しかし結局、他二人との議論の末、風間塵を合格とした。
そして、第6回芳ヶ江国際ピアノコンクールの日を迎える。
栄伝亜夜は、天才少女と呼ばれながらも、母の死をきっかけにして「取り出すべき音楽がない」と感じられるようになり、7年前にとあるコンサートから逃げ出して以来、正規の音楽教育からは遠ざかっていた。ある時、浜崎という男性が家にやってきて、亜夜の演奏を聞きたがった。そして、その男性の推薦により、音楽学校への入学が決まった。学長だったのだ。そして、その学長の後押しもあり、亜夜はこのコンクールに出場することになった。
マサル・カルロス・レヴィ・アナトールは、僅かな期間日本に住んでいた頃、子供の頃にたまたま出会った少女に誘われて顔を出したピアノ教室で、その才能を見出された。フランスへ行くことになったマサルに少女は、ピアノを習ってねと言い、マサルはそのお願いを聞き入れ、ピアノの練習に励んだ。彼は圧倒的な才能を持ち、僅かな期間で驚くべき飛躍を遂げた。長身に甘いルックスであることもあって、舞台映えするマサルは、スターの予感を漂わせている。
高島明石は、コンクール出場者の中でもかなり高齢の28歳だ。楽器店で働くサラリーマンであり、妻と子供もいる。他の参加者がもっと若く、一流の指導者の元で練習に励んでいるのに対して、明石は仕事の合間を縫って、睡眠時間を削るようにしてこのコンクールのための調整を続けてきた。「生活者の音楽」という持論を持ち、音楽は音楽だけを生業とする者だけのものではない、という想いから、コンクール出場を決意したのだ。高校時代の同級生である仁科雅美が、ドキュメンタリーのためにカメラを回している、というのも非日常だ。
様々な背景を持つトップクラスのピアニストが、コンクールという場で互いの全力を出して闘う物語だ。
実に濃密な物語だった。冒頭では、風間塵の生き様やスタンスを切り取ってあれこれ書いてみた。それも、本書の主要なテーマの一つだ。しかし、本書の主役は決して風間塵だけではない。風間塵という超絶的な天才が物語の中心にいることは間違いないのだけど、ただそれだけの物語ではない。
亜夜・マサル・明石・塵。彼らの音楽に対する葛藤や生き様が、コンクールという場で発散し、溶け合って、絡まり合う。その混沌の中に、「音楽」というジャンルを掬い上げるような希望の光が生まれる。そんな神々しさを感じるような作品だ。
亜夜は、音楽に対する態度を決めきれないでいる。
『しかし、意外にも、亜夜自身に挫折感はなかった。
彼女の中では、コンサートのドタキャンは筋が通っていたからである。
取り出すべき音楽がピアノの中に見つからないのに、なぜステージに立つ必要などあるだろうか。』
そもそも彼女は、ピアノを必要とする人間ではない。
『彼女は、元々ピアノなど必要としていなかった。
子供の頃、トタン屋根の雨音に馬たちのギャロップを聴いていた時から、彼女はあらゆるものに音楽を聴き、それを楽しむことができたからである』
彼女には、ピアノに戻るための必然性のようなものはなかった。彼女がコンクールに出場することを決めたのは、自分を推薦し入学させてくれた学長の面子を潰さないためだ。そして、入学以来亜夜のことをずっと気にかけてくれた学長の次女の奏の熱心な説得があったからだ。
自らの意志によってステージに戻ってきたわけではない亜夜は、しかしこのコンクールの場で様々な感情に奔流され、自分でも思ってみなかった場所へと流れ着く。
『決して、自分はあの時コンサートピアニストから身を引いたことを後悔していないし、挫折感も持っていない。音楽を深く愛しているし、音楽から離れようと思ったことは一度もない。それを、ずっと舞台に戻りたいと思っていたとか、やっと立ち直ったとか思われるのは耐えがたいものがある。』
コンクール期間中も、ずっと気持ちが定まらないまま、どこか他人事のようにピアノを弾いていた亜夜。しかし、風間塵やマサルとの出会いが、亜夜を大きく変えていく。
マサルにもマサルの物語がある。しかし、それについてはここでは触れないでおこう。マサルにとっては結果的に、権威ある国際コンクールに出場する、という以上の価値をもたらした。コンクールの審査員も務めている彼の師匠も絶賛する、間違いなく未来のスター候補であるマサルがこのコンクールの出場によって得たものとはなんであったのか。それは是非読んで欲しい。
明石のスタンスはとても好きだ。
『俺はいつも不思議に思っていた―孤高の音楽家だけが正しいのか?音楽のみに生きる者だけが尊敬に値するのか?と。
生活者の音楽は、音楽だけを生業とする者より劣るのだろうか、と。』
『音楽を生活の中で楽しめる、まっとうな耳を持っている人は、祖母のように、普通のところにいるのだ。演奏者もまた、普通のところにいてよいのではないだろうか』
クラシック音楽という、ともすれば一般人には馴染みのない音楽を、生活する者として聴かせることは出来ないか―。そんな明石のスタンスは、演奏にも人柄にも現れる。と同時に明石は、こんな相反する想いも抱いている。
『もし自分が抜きん出た才能を持っていたら迷わずプロの音楽家の道を選んだだろうし、それ以外の職に就くことなど考えもしなかっただろう。そして、そちら側にいたならば就職して所帯を持ち、「生活者の音楽」などと嘯いている者をきっと軽んじていたに違いないのだ』
圧倒的な才能と煌めきを放つコンテスタントたちの演奏を聴きながら、才能を持って生きるということや、才能があっても決してうまく行くわけではない現実について明石は考える。そして、音楽という業の深い人生について、生活者の立場から読者に近い感覚を見せてくれるのだ。
本書は、物語そのものの濃密さもさることながら、まるで「文字」という楽器で音楽を奏でているかのような描写力が凄まじい作品でもある。僕は、音楽に対する素養がないので、そもそも描かれている曲が頭に浮かぶことはない(恐らく知っている曲もあるのだろうけど、曲名では判断できない)。しかし、それらの曲がどんな雰囲気を持ち、演奏者によってどんな部分が異なり、何が凄まじいのかというような部分は、恩田陸の「文字」という楽器によって鮮やかに示される。僕は、音楽というものを文字で解釈しようとしたことがないので、その圧力に圧倒されるような思いだった。小説という、聴かせることが出来ないメディアで、これほど「音楽」を感じさせる作品はそうそうないのではないかと思う。
しかし何にしても、才能を持つ者というのは羨ましいものだ。
『世界中にたった一人しかいなくても、野原にピアノが転がっていたら、いつまでも弾き続けていたいくらい好きだなあ』
そんなものに出会うことが出来た人間は、幸福なのだろうと思う。
恩田陸「蜜蜂と遠雷」
桜疎水(大石直紀)
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内容に入ろうと思います。
本書は、6編の短編が収録された短編集です。
「おばあちゃんといっしょ」
竹田美代子は「常世神」宗教団体を立ち上げて詐欺をしている。45歳のホームレスの佐原芳雄という男を教祖に仕立て上げ、もっともらしい来歴ともっともらしい教義を作り上げて、信者から大金をまきあげていた。最も、佐原は最近言うことを聞かなくなってきた。祈祷の最中居眠りをするし、家に誰もいれるなと言っているのに女を連れ込んでいる。そろそろ大きな仕事をして、佐原を切る時期だろうか。
美代子は、赤木静子という大金を持っていそうな老女を見つけ、この仕事が終わったら佐原を切ろうと考える…。
「お地蔵様に見られてる」
京都には二度と住まないと誓って、京都に支社も営業所もない東京本社のアパレルメーカーに就職したさやかは、今年になって京都に支社を立ち上げるとかで、まさかの京都住まいになってしまった。
真如堂の参道で倒れた女性が、泰宏の母親だった。変わり果てた姿になっているが、間違いない。恐ろしくなってさやかは逃げ出した。
大学時代、達朗と泰宏の三人で過ごした日々を思い返す。あんなことにさえならなければ…。
「二十年目の桜疎水」
スウェーデンに移り住んで20年。日本に帰ったのはほんの数度だ。しかし、母が危篤と聞いて、正春は久々に日本へと帰った。死の間際、母は正春に懺悔した。私のせいで辛い思いをさせてしまった、と。
雅子の話だ。母は雅子に手紙を出したことがあるという。なんの話だそれは?
その話がどうにも気になって、正春は京都へと向かった。そうする間、雅子とのことを思い返していた。
雅子とは会ってすぐに気が合い、つきあい始め、結婚の約束もしていた。その後、あんなことにならなければ…。
「おみくじ占いにご用心」
ヘルパーの後をつけ、ターゲットにする老人を選ぶ、というやり方で大金をせしめてきた横道と上宮は、今回も同じやり方で一人の老女に狙いを定めた。ヘルパーの来ない日に、介護ステーションの職員を装って侵入し相手をうまく丸め込むのだ。今回も問題なくうまくいくだろう。
しかし、“仕事”の前に引いたおみくじが「凶」だった。今までこんなことはなかった。もう一度引いて「大吉」を当てたが、なんだか嫌な気分だ。拭えない違和感はその後も頻発するが…。
「仏像は二度笑う」
片山正隆は子供の頃から手先が器用で、中学の頃に両親を無理矢理説き伏せて仏師の修行に励んだ。25歳を過ぎる頃には一人で仕事を任されるほどの上達ぶりで周囲を驚かせたが、しかしギャンブルで身を持ち崩した。師匠から見限られた正隆は、自分で作った仏像を骨董屋に売りに行くが…。
一方津久見は、馴染みの料理屋でいつものように飯を食っていた。骨董関係の人間が集まるのでちょっとした情報を仕入れやすくて重宝している。その日、店主の相原が、客から上物の九谷焼を買い取っていた。明らかに安い値段で。それを持ち込んだ男の父親が仏像専門と聞いて津久見は色めき立つ…。
「おじいちゃんを探せ」
ある日沙和は、両親が自分に内緒でおじいちゃんの話をしているのを聞いてしまう。それは、おばあちゃんが内緒でおじいちゃんと年賀状のやり取りをしていた、という他愛もない話だ。祖父母は沙和が幼い頃に離婚しており、沙和はおじいちゃんの顔を知らない。ミステリ好きな血が騒いで、両親が一体何を隠しているのか探ろうと決意する。
しかし、大したことではない風を装って母親におじいちゃんの話を振ると、母親の顔が固まった。おじいちゃんの話は、沙和が想像しているよりもタブーなようだ…。
というような話です。
なかなかよく出来た作品でした。冒頭の「おばあちゃんといっしょ」が日本推理作家協会賞短編部門を受賞したようですけど、確かによく出来た作品でした。他の作品も、粒ぞろいという感じがします。
やはり一番出来がいいのは、「おばあちゃんといっしょ」かなと思います。導入の物語があってからの、「常世神」の宗教の話になっていくのだけど、なるほどと思わせる構成でした。
同じようによく出来た構成だと感じたのは、「おみくじ占いにご用心」と「仏像は二度笑う」の2つ。「おばあちゃんといっしょ」を合わせた3作品が、詐欺をモチーフにした作品です。「仏像は二度笑う」は、3つの中でもまた大分タイプが違っていて、「詐欺」というモチーフでありながら読後感の良い作品という感じがしました。
「二十年目の桜疎水」は、雅子のある決断が物語の肝になってきます。悩んだ末、今の状態で未来を生きていくためにした雅子の決断。その決断の真意を二十年目にして初めて知ることになる主人公。二人の新しい未来を予感させるような展開がなかなか良かったです。
「おじいちゃんを探せ」は、またちょっと違ったタイプの話。家族の秘密を巡る物語ですが、想定していなかった展開がお見事という感じでしょうか。両親のひそひそ話をちょっと耳に挟んでしまったことから展開される物語としては、なかなかハードでしたけど。
「お地蔵様に見られてる」だけは、正直良くわからなかったんですよね。作品全体のトーンと、何となく合わないような気がしました。大学時代に起こった出来事は興味深いですけど、全体としてはイマイチよく分からなかったです。すっきりしない終わり方だったような気がしました。
全体としては、なかなか良くできた短編集だと思います。
大石直紀「桜疎水」
むすびや(穂高明)
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内容に入ろうと思います。
本書は、商店街に店を構えるおむすび専門店「むすびや」を舞台に、商店街の面々との関わりや人生に様々な葛藤を抱える人々の交錯を描き出す作品です。
結は「ゆい」と読むが男だ。昔はこの名前で散々からかわれた。そして、名前のせいだとは思いたくないが…、就職活動ですべての会社に落ち、結は仕方なく実家の「むすびや」を手伝うことにした。
毎朝エプロンをつける度に敗北感がある。自分は何も出来ない人間なのだという悔しさみたいなものが、ずっと残っている。それでも、毎朝起きて両親を手伝わなくてはいけない。まだおむすびは握らせてもらえないけど。
同じ商店街には、親が自営業をしているかつての同級生がたくさんいる。俊次は実家の八百屋を継ぎ、佳子も夢を諦める形で実家の酒屋に戻ってきた。実家の魚屋が潰れ、今は安さだけがウリの回転寿司店の店長として殺人的な残業をこなしている者もいる。みんなそれぞれに色んなものを抱えながら、「むすびや」を交点として繋がっていく。どうにもならない人生を受け入れながら、どうにか目の前の現実に馴染もうとする者たちの物語だ。
さらっと読める作品です。商店街という、人と人とが日常的に関わり合う中で、色んな人が様々な葛藤を抱えている。特に結は、就職活動に全敗するという挫折を味わいながら、色んな人と関わる中で自分の人生をまた違った形で受け入れていく。両親を見下しているつもりはないが、どうしても高卒の両親が自営業としてスタートさせた店に素直に馴染むことが出来なかった。子供の頃からの葛藤もあり、余計に難しい。
しかし、両親がおむすび作りをいかに丹精込めてやっているのか。どれだけ細かな部分まで気を配って様々なものを生み出しているのか。そういうことを理解していくにつれて、結の考えは少しずつ変わっていく。劇的な変化はないが、少しずつ現実を受け入れていく過程がゆったりとさせてくれる作品だ。
穂高明「むすびや」
ハリネズミの願い(トーン・テレヘン)
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内容に入ろうと思います。
本書は、オランダで絶大な支持を集め、国内外の様々な賞を受賞している作家の作品です。
主人公は、一匹のハリネズミだ。彼はひとりぼっちで、家に誰も来たことがない。ハリネズミは考えた。よし、誰かを招待しよう、と。そうして、招待状を書き始める。
『親愛なるどうぶつたちへ
ぼくの家にあそびに来るよう、
キミたちみんなを招待します。』
しかしハリネズミは、自分のトゲが嫌いで、みんなと仲良く出来ないと考えている。だから、招待状の最後にこう付け足した。
『でも、だれも来なくてもだいじょうぶです。』
そうしてハリネズミはさらに悩みはじめてしまう。この招待状を出すべきかどうかを。
この招待状を出すべきだろうか。考えなくちゃ。そう、例えば、招待状を出したとして、誰か来てくれた時のことを想像してみればいい。クマは?ゾウは?カメは?コウモリは?…。ハリネズミは、色んな動物が来てくれることを想像するのだけど、どうにもうまくいかない。来ても楽しそうにしてくれなかったり、来たら家を壊されちゃったり、来ようと思っているのにハリネズミの家までたどり着けなかったり…。
ハリネズミの想像は次々と続いていき…。
というような話です。
設定は絶妙な面白さだなと思いました。ホントにこの作品は、最初から最後まで、ほぼハリネズミの妄想だけで終わります。招待状を出すべきか、出したら誰が来てくれるか、来てくれたらどうなるのか…みたいなことを、ひたすら延々と考え続けます。
しかもそれが、結構マイナス思考なのだ。そういう意味で、ハリネズミというセレクトはなかなか絶妙だ。ゾウのような長い鼻とか、キリンみたいな長い首とか、クマみたいな強さみたいな、分かりやすい良さみたいなものがなく、さらにその上で、ハリなんていう、周りの人を傷つけちゃうようなものを持っているハリネズミだからこそ、この葛藤が生きる。ハリネズミの妄想は、ちょっと荒唐無稽というか、考え過ぎというか、空想すぎというか、そういう部分もあるんだけど、その考え方のベースに、「自分なんて…」という発想があるというのが、共感を集めやすいように思う。
ハリネズミの妄想は、時々不可解で、読み取ろうと思えば哲学的な何かを読み取れるだろう。アリと「フクザツさ」について議論する部分も、ミーアキャットと「<訪問>とは結局なんのか」を議論する部分も、なかなか面白い。深い意味があるんだかないんだか分からないような描写は、何らかの輪郭のはっきりした問題を抱えている人が読めば何らかの答えのように感じられるかもしれない。あるいは、それらを始点(あるいは問い)として、新しい思索へと乗り出すことが出来るかもしれない。
読む人次第でいかようにでも読める、という意味でも、<寓話>と呼びたくなる作品だ。
トーン・テレヘン「ハリネズミの願い」
「スノーデン」を観に行ってきました
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僕は、スノーデンを正しいと思う自分でありたい。
(一応先に書いておく。この映画はフィクションだが、事実に基づいている。だから、この映画の中のすべての発言を、事実として扱ってこの感想を書く)
スノーデンは、NSAというアメリカの諜報機関のスタッフであり、そこから盗み出した超極秘機密を世界中に暴露した。それは、「アメリカは、世界中の通信を傍受している」というものを含む、驚くべきものだった。
スノーデンはアメリカからスパイとして告訴され、パスポートを失効させられた。スノーデンは現在も、モスクワに住んでいる。
スノーデンは、CIA時代の彼の指導教官だったコービン・オブライアンと議論をする。アメリカは、世界中を覗き見している。それは正しいことなのか、と。コービンはそんなスノーデンからの問いに、こんな風に答える。
『大多数の米国人は、自由よりも安全を望んでいる。
安全に遊びたかったら、“入場料”を払って当然だ』
コービンは、米国人の安全を確保する代わりに、「自由を手放す」という代償があるのは当然だ、と答える。スノーデンは、国民はそのことに納得しているわけではない、と返すと、コービンは、たった一人にでも知られたら敵にも知られる、と言って議論を終わらせる。
また、こんなふうにも言う。
『第二次世界大戦から60年。未だに第三次世界大戦は起こっていない。何故かわかるか?我々が世界のために尽力してきたからだ』
確かにそうなのかもしれない。この点については僕は判断できないが、そういう一面があることも事実なのだろうとは思う。
コービンは、CIAに入りたてだった者たち(スノーデンを含む)に、こんなことを言う。
『また9.11が起きたら、君らの責任だ。
前回は私たちの責任だった。そう感じて生きるのは辛いぞ。』
コービンが国を想う気持ちに、きっと嘘はないのだろう。彼は、自分がしていることが、アメリカを、そして世界中を救う行為だと信じているのだ。
この映画で描かれる“傍受”は、僕らの想像を遥かに超える。例えば、起動していないパソコンのカメラだけを起動させ、室内を見ることが出来る。非公開にしているSNSや世界中の通話も、エックスキースコアと呼ばれるシステムで収集出来る。スノーデンは、その事実に愕然とする。
まだある。スノーデンは、日本でも働いていたことがある。その際、送電網やダムにトラップを仕掛けたという。
『もしも日本が同盟国でなくなったら、日本は終わりだ』
これらは決して、過去の話ではない。つい最近ニュースで、アメリカ(確かCIAだったと思う)が、盗聴などの技術を1000以上開発していたという情報がウィキリークスを通じて暴露されたという。スマートテレビの電源がOFFになっていると見せかけて起動させ室内の音を拾う、というような技術が、実際に使われているかどうかはともかく、既に開発されているという。
スノーデンは、それらの事実を知り、大いに悩む。一度は、CIAを退職したほどだ。
これらを、「テロの脅威に対抗するため」という理由で、僕らは許容することが出来るだろうか?
スノーデンの素晴らしいと感じた点は、自分自身で善悪を判断しなかった点だ。スノーデンは、高給や愛する人や家族をすべて捨て、アメリカが行っていることを暴露する決意をした。スノーデンと接触したジャーナリストの一人は、『これまで多くの偉人に会ってきた。しかし君は…』と言って声を詰まらせた。それらの行為をひっくるめて「素晴らしい」と称してもいい。僕の中にも、そういう気持ちはある。しかしもう一方から見れば、彼は情報を盗んだ犯罪人だ。その視点も、決して忘れてはいけない。彼の行動そのものをどう評価するかというのは、なかなか難しい問題だ。
しかし僕は、彼のスタンスは賞賛してもいい、と感じている。スノーデンは、機密を暴露した理由をこう話しているのだ。
『議論を深める情報がなければ、僕らは迷子です』
彼は、「アメリカによる監視は悪だ」と主張するため機密を盗み出したのではない。彼は、そのことを知らない世界中の人に、このことを議論してもらうために機密を暴露したのだ。
『その上で、僕が間違っているのか世間が間違っているのか判断して欲しい』
『それより、国民に監視の是非を判断して欲しい』
このスタンスは、賞賛に値すると思う。彼の行為の是非は、どの側面から見るかによって判断が分かれるだろうから、一面から切り取って彼を手放しで賞賛することは難しいかもしれない。僕は、スノーデンの行為も正しいと思いたいが、そう思わない人がいることも理解する。しかし、彼のスタンスは手放しで賞賛できるのではないか。自分の正しさやアメリカの間違いを主張するのではなく、情報は渡すから皆さんで判断して欲しい、というスタンスは素晴らしいと感じた。
『自分の国を非難したくない』
ブッシュ大統領に対するデモが行われている中を恋人と歩いている時、スノーデンは恋人に対してそう言う。
『他人の命を背負う気持ちが君に分かるのか?』
情報機関でテロとの闘いに明け暮れ、心身ともに疲労しているスノーデンが恋人にそう声を荒げてしまう。
スノーデンは、国を良くしたい、守りたいという気持ちを強く持つ男だ。恐らくスノーデンにとって、機密を世界中に暴露するという決断は苦渋のものだっただろう。しかし、彼は決断した。彼は、それがアメリカを良くすることに繋がるはずだと信じたのだ。
『私は、明日を心配せずに済む自由を手に入れたのです。
心の声に従ったから』
モスクワからスノーデンはそう言葉を発する。ロシアから一人では出国できない身分になりながらも、スノーデンはそこに「自由」を見る。世界中のありとあらゆる情報にアクセスできる時には感じられなかった「自由」を。
内容に入ろうと思います。
2013年6月3日。スノーデンは香港にいた。ローラ・ポイトラスとグレン・グリーンウォルドという二人のジャーナリストと接触するためだ。スノーデンは29歳。直前の身分は、NSAの契約スタッフだ。
彼は、NSAから盗み出した膨大なデータを世間に公表するために彼らと接触した。
軍隊での過酷な訓練により、足を粉砕骨折したスノーデンは、別の形で国に奉仕しろと言われてCIAを志望する。スノーデンの趣味は、インターネットだ。スノーデンを面接したコービンは、平時であれば不合格だが、有事(9.11のテロが起こった後だ)の今は君のような人間の力がいる、と言ってスノーデンにチャンスを与えた。
「ザ・ヒル」という名の訓練校で、スノーデンは抜群の成績を示す。5時間以内にやれと言われた課題をたった38分でやり終えた。その後、ジュネーブや日本など様々な地で仕事をするが、そこで目にする事実に、スノーデンは悩み心を痛める。恋人のリンゼイに、アメリカがあらゆることを監視していると伝えたいが、それを言えばリンゼイを巻き込むことになり言えない。スノーデンが抱えている最大の悩みを、最も近くにいる恋人にも伝えることが出来ない辛さの中で、それでもスノーデンは、自分の仕事が国を守ることに繋がっているのだと信じて、体調を崩しながらも無理を続ける。
しかし徐々に、スノーデンはこの現状を許容できなくなっていく…。
というような話です。
非常に面白かった。僕はこの映画を見る前に、「シチズンフォー スノーデンの暴露」という映画を見ている。ローラ・ポイトラスが実際に撮った映像を元にしたドキュメンタリー映画だ。ドキュメンタリー映画だから、臨場感はやはり凄かった。しかし、「映画」として見た場合、魅力があるかと言われれば答えに窮するという感じもあった。
「スノーデン」の方は、実話を元にしたフィクションだ。だから、臨場感という点ではやはりドキュメンタリー映画には及ばない。しかし、どちらの方がより真に迫っていたかと聞かれれば、おかしな話ではあるが、フィクションである「スノーデン」の方だったかもしれない、という気がした。
それはやはり、スノーデン自身が暴露するために捨ててきたものも、「スノーデン」の方では描かれているからだろうと思う。
ドキュメンタリー映画では、スノーデン自身が喋っていることと、当時のニュース映像などで構成されている。だからこそ、映画全体がスノーデンからしか描かれていない印象を受けた。しかし、フィクションの「スノーデン」では、恋人であるリンゼイとの関わりや、彼が一緒に働いている情報機関のスタッフとの関わりなど、彼が機密を暴露することで失ってしまうものも描かれている。そこが一番の違いだったと感じた。
『僕の暴露がどう評価されてもいい。しかし、ハワイでの恵まれた生活や高給、愛する人や家族など、僕はすべてを失いました。何のためにすべてを捨てると思いますか?』
スノーデンは、カメラに向かってそう問いかける。その通りだ。彼には、現状を知った上でそのまま生きるという選択肢もあった。しかし彼は、すべてを捨てる覚悟をして暴露した。彼が失うものは、あまりにも膨大だ。その膨大な、失われてしまうものが、「スノーデン」では描かれていた。そこがより、スノーデンの決断の凄さを際立たせていると感じた。
僕たちは、自分がどういう世界に生きているのか、もう一度見つめ直さなければならないだろう。
僕は、SNSの類を使っていない。LINEも、ごく限られた形でしか使っていない。しかし、Gmailはメインのメーラーとして使っている。ヤフーやグーグルの検索も使っている。クレジットカードも頻度は低いが使っている。電話も頻繁にではないが使う。名前を出してはいないが、ブログもやっている。それらから、漏れ出る情報は当然あるだろう。映画を見終わった僕は、とりあえず、自分のパソコンのカメラ部分を、ガムテープで覆ってみた。知られて困るような情報などないが、「見られているかもしれない」という感覚は、やはり嫌なものだ。
少し前、「虐殺器官」という映画を見た。スノーデンが暴露したのとはまた違った形でだが、「虐殺器官」の中でも、先進国の人びとが「安全」に「便利」に生きることが出来るように、他者の「安全」や「便利さ」を脅かす構造が描かれていた。僕たちは本当に、今僕らが享受している、“過剰”とも思える「安全」や「便利さ」を必要としているだろうか?それらを享受することで、どこかの誰かが命を落としているかもしれないと考える時、どう感じるか?
個人で立ち向かえるレベルの話ではない。しかし僕は、そういう事柄に対して、鈍感にはならないように生きたいものだ、と感じる。
「スノーデン」を観に行ってきました
BRODY 2017年4月号 寺田蘭世のインタビューを読んで
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僕にとっての乃木坂46の魅力の一つに、「ネガティブさ」がある。僕の中の「アイドル」というイメージを超えて、彼女たちは「ネガティブ」な自分を見せる。全メンバーがそういうわけではないが、乃木坂46にはそういうメンバーが多いような印象を僕は持っている。
「ネガティブさ」は、言葉を生む。
穂村弘の「蚊がいる」というエッセイがある。その巻末で、又吉直樹との対談が収録されているのだが、穂村弘がサッカー部に所属していた又吉直樹に対して、こんな風に言う場面がある。
『僕はそこが謎で。たとえば運動ができないとなぜできないかを考えると思うんです、言葉で。できるヤツは言葉要らないんですよ、できるから。モテるヤツ、運動できるヤツ、楽器弾けるヤツはそえでコミュニケーションできるから言葉を必要としない。だから意外で、サッカーができたのに、なぜ本を読む必要があったんだろうって』
「できるヤツ」は言葉を必要としない。その通りだ、と僕も思った。「できない」というネガティブな葛藤を抱える人間だからこそ、言葉を取り入れ、言葉で思考し、言葉で生きていくのだというのは、僕の実感としてもある。
だからこそ、乃木坂46のメンバーの言葉には力があるのだ、と僕は感じる。
僕は、テレビ(乃木坂工事中)と雑誌でしか基本的に乃木坂46を知らない。だから、選抜に入らないメンバーについてはあまり知る機会がない。寺田蘭世は、今回の17thシングル「インフルエンサー」で初めて選抜メンバーに選ばれた。だからだろう。最近雑誌のインタビューで、寺田蘭世をよく見かけるようになった。
寺田蘭世については、ほとんど知らない状態ながらも、言葉の強さが印象に残るメンバーだという印象はあった。時折視界に入る寺田蘭世の言葉や、本を読んでいるというイメージから、そんな強さを感じていたのだろう。
そしてやはり、寺田蘭世の言葉は強いなと、雑誌でのインタビューを読む度に感じるようになった。
『常にネガティブなので。』
寺田蘭世は、自身のことをそう語る。なるほど、やはり「ネガティブさ」が彼女の言葉の強さを生んでいるのだ、とこのインタビューを読んで改めて感じた。
しかし。このインタビューは僕に違和感ももたらした。
寺田蘭世の言う「ネガティブ」とは、一体何なのだろう、と。
先程僕は、「できない」という考えが言葉を生むのだ、と書いた。そしてその、「できない」と思ってしまうことそのものを指して「ネガティブ」と言うのではないか。僕は漠然と、「ネガティブ」というものをそんな風に捉えていた。
乃木坂46の他のネガティブなメンバーの印象も、大体近い。僕の中では、齋藤飛鳥や西野七瀬はネガティブなメンバーだと思うが、彼女たちの思考からは、「できない」という諦めみたいなものを感じる。もちろん、そう感じてしまったところをスタート地点として、その「できない」をいかに乗り越えていくのか、という葛藤を繰り返すことで彼女たちは成長してきたのだろう。そこにはきっと言葉の力や支えがあっただろうし、だから「ネガティブさ」が彼女たちにとってただマイナスだったわけではない。そういう風に感じていた。
しかし、寺田蘭世からは「できない」を感じられないのだ。
『常に負けず嫌いだし、褒めて伸びるんじゃなくて、挑発されたほうがスイッチが入るタイプなので。
―誰が挑発するんですか(笑)。
今はもうないですけど、コンサートのリハで怒られてばかりだったんですよ。右も左もわからない研究生時代だったのに、誰も助けてくれなくて。でも、心が折れるんじゃなくて、私は燃えたんですよ!面白いじゃんと思っちゃって!みんな泣いてて、私も涙は出ているんだけど、「面白い!」と思ったので。』
この発言からは、「できない」を感じることが出来ない。もちろん「私も涙は出ている」と書いているので、何らかの感情はあったのだろう。しかしそれはきっと、「できない」ではないのだろうなと、この発言からは感じられる。
『私は加入当初から「センターになりたい」と言わせてもらってきたんですけど…』
これは、寺田蘭世が選抜メンバーに選ばれる以前から目にしていた発言だ。選抜に入る前野寺田蘭世に対する僕のイメージは、「言葉が強い」と「センターを目指している」の二つだったと言っていい。それぐらい寺田蘭世はそう繰り返し発言している。この発言からも、「できない」を感じることが出来ない。
寺田蘭世の「ネガティブさ」が、どこにあるのか、僕にはなかなか見えない。
色んな可能性を考えることが出来る。
まず、自分で「ネガティブ」だと言っているけれど、本当はそうではない可能性だ。しかし、恐らくそれはない。それはこんな発言からも分かる。
『だからメンバーにもスタッフさんにも、「もっとポジティブになれ」って言われるんです。去年の誕生日はみんなからそう連絡が来て(笑)。』
少なくとも、寺田蘭世の周囲にいる人間は、彼女の「ネガティブさ」を感じとっているようだ。感じとっているどころではなく、誰が見ても明らかなほどネガティブなのだろう。こんな風にも言っている。
『コンサートのリハーサルでも常に斜め下を向いてて。カメラを見ることができなくて。リハーサルだと私は恥ずかしさが勝っちゃうんです。』
これも、彼女の「ネガティブさ」の発露なのだろう。
寺田蘭世が誰が見てもネガティブなのだとすれば、考えられることは、彼女が意識的にそれを隠している、ということだろう。いや、ネガティブである、ということは言っているわけだから、ネガティブであること自体を隠しているという意味ではない。そうではなくて、ネガティブさがあることを認めた上で、少なくとも対外的にはそのネガティブさが存在しないように振る舞っている、ということだ。
『アイドルってそういうものじゃないですか。私たちが頑張っている姿を見て、ファンの方も頑張ろうと思うから成立しています。だから、私もそういう存在になれたらいいなっていう意味を込めました(※武道館での、モハメド・アリの名言を意訳した発言に対して)。』
自分の中には「ネガティブさ」が横たわっている。しかし、アイドルというのは「ネガティブさ」を全面に出すような存在ではない。自分の努力が誰かの努力に繋がるような、そういう存在だ。だから自分の「ネガティブさ」が表に出ないように意識しよう。そう考えているのかもしれない。
そうだとすれば、齋藤飛鳥や西野七瀬とは違うアプローチを取っていることになる。彼女たちには、自らの「ネガティブさ」を隠すつもりはない。表に出すことのデメリットまで認識した上でそれを晒し、その状態で受け入れてもらえるように長い時間を掛けてきた。寺田蘭世はそうではなく、「ネガティブさ」を抱えた存在として受け入れられることを拒絶し、ネガティブであることを表に出しながらポジティブに振る舞うことで、アイドルという存在にしか伝えられない何かを伝えようとしているのかもしれない。
しかし、それもまたイメージに合わない。時折テレビで見かける寺田蘭世は、特別ネガティブでも、特別ポジティブでもないように見える。また、『ネガティブだからこそ成立しているところもあるんですけど』という発言からも分かるように、アイドルだからと言って自分の「ネガティブさ」を否定的に捉えている様子もない。
だから結局こんな風に考えるしかない。寺田蘭世にとって「ネガティブさ」は、常に取り込んでは体内に保持しておかなければ動けなくなってしまうようなものなのだ、と。
『「覚えとけよ~!」っていうのが私の原動力なのかな』
「ネガティブさ」が寺田蘭世を動かしている。彼女にとって「ネガティブさ」は、隠すものではなく、そもそも内側にあって当然のものなのだ。それが自然体なのであり、取り除いたり隠したりするために何かするような、そういう対象として捉えていない。そういうことなのだろう。
そしてその考え方の背景にあるのは、寺田蘭世のこんな考え方なのだろうと思う。
『私、満足することは死ぬまでないだろうっていうスタンスで生きてるんです』
この発言から、僕はこんなことをイメージした。
寺田蘭世は、「満腹」になることに対する恐怖がある。その恐怖がどのように寺田蘭世の内側に芽生えたのかについて興味はあるが、それはまだ分からない。しかし「満腹」に対する恐怖が常にあって、何らかの形で自分が「満腹」になることを妨げるものがなければ安心できない。それが彼女にとっての「ネガティブさ」なのだ。つまり彼女にとって「ネガティブさ」というのは、取り込むことによって「満腹感」を妨げるようなものなのだろう。「ネガティブさ」は寺田蘭世の原動力ではあるが、それは燃料や栄養とは違う。自分の内側にある「満腹感」を妨げるための薬のようなものなのだと思う。
そう考えると、次の発言も理解しやすくなるのではないかと思う。
『(選抜に選ばれた瞬間について)いつ呼ばれてもいいっていう心の準備ができていた時期だったから、自分で感情をセーブすることができたんです』
僕も、寺田蘭世が選抜に選ばれた瞬間の彼女をテレビで見た。非常に落ち着いていた。「満腹感」に対する恐怖として「ネガティブさ」という薬を常に取り込んでいる、と考えると、寺田蘭世のあの振る舞いも、理解しやすくなる。
「ネガティブさ」にも多様性があって面白い、と感じた。例えば齋藤飛鳥の「ネガティブさ」は、「こだわりを持たない」という生き方のスタンスを生んでいる。
『私、なんに対しても“こだわりを持つ”ってことが好きじゃなくて。もちろんいい方向に進む努力はしますけど、なるようになってくれればいいし、私は絶対にこうなりたいって夢は持ちたくない。周りにも、あんまり期待はしたくないんです。そのほうが、ワタシ的にはいい意味で楽なんですよね』(「Graduation 高校卒業2017」より)
齋藤飛鳥の場合、「ネガティブさ」が先に存在する。自分の内側にどうしても巣食ってしまう「ネガティブさ」を押さえ込むために、「こだわりを持たない」という生き方のスタンスを選択している。自分の努力によって未来を掴むのではなく、努力はもちろんするが結果として目の前に現れた現実を受け入れることで、自分の努力と未来を切り離し、「ネガティブさ」に囚われないように意識している。
寺田蘭世の場合、僕の解釈では、「満腹感」への恐怖が先に存在する。その処方箋として「ネガティブさ」があるのだ。「満腹感」への恐怖は、「食べる」という行動なしには生まれ得ない。だからこそ寺田蘭世は、センターを目指すというような大きな目標を持ち、それに向けて努力する(=「食べる」)という行動を取る。しかし「満腹」にならないように「ネガティブさ」もきちんと処方する。そのバランスの中に、寺田蘭世というアイドルは存在している。
『私は鈍感だし、気にしないんです。何を言われても、「いや、私は私なので」っていう感じなので(笑)』
『だから、人の意見にも左右されません(笑)』
「ネガティブさ」からは程遠いように感じられるこれらの発言も、「満腹感」への処方箋だ、と捉えれば分かる。寺田蘭世の中には、「満腹を目指すベクトル」と「満腹を避けるベクトル」の両方が存在する。「満腹を避けるベクトル(=「ネガティブさ」)」は、ある意味でブレーキなのだ。だから、時々しか顔を出さない。寺田蘭世にとってのアクセルは「満腹を目指すベクトル」であり、だから彼女の発言には、そういう方向のものが多くなるのだろう。
自分でこうして文章を書いてみて、やっと寺田蘭世のことを少し捉えられるようになったように思う。この文章を書き始めた時は、【「満腹感」に対する処方箋としての「ネガティブさ」】という概念はまだ持っていなかった(書きながら考えた)ので、この概念を自分の思考の中から取り出せた満足感がある。
ここまで読んでくれた方の「寺田蘭世像」とは、どの程度当てはまるだろうか?
さて最後に、数学の話をしたい。というのもこのインタビューの中で、寺田蘭世がこんな発言をしているからだ。
『みんな、枠にはめようとするじゃないですか。私はそれが嫌いで。決まりきったことの象徴が数学なんです』
この記事を寺田蘭世が読んでくれる可能性は低いと思うが、それでも僕は、寺田蘭世の中の「数学」の概念を変えたくて、以下の文章を書く。
(以下の文章は、「僕がそう思っていること」です。詳しく調べながら書いているわけではないので、僕自身の認識の誤りなどはあるかもしれません。その点を踏まえてお読み下さい)
僕は、数学ほど自由な学問はない、と考えている。その理由を、いくつかの例を示しながら書いていこうと思う。難しい話はしないつもりなので安心して読んでほしい。
まず、「数学には決まりきったことなどない」ということを示すために、「ユークリッド幾何学」についての話を書く。「ユークリッド幾何学」について詳しいことは書かないが、「ユークリッド幾何学」には、それを構成する大前提となる5つの「公準」と呼ばれるものが存在している。
1.2点を直線でつなげる
2.有限直線を好きなだけ延長できる(※線分は、どこまでも長く出来る、という程度の意味)
3.任意の点と距離に対し、その点を中心としその距離を半径とする円をかける(※点が一つあれば、その点を中心に円が書ける、ぐらいの意味)
4.直角はすべて等しい
5.平行な二直線は交わらない(平行線公準)
用語が難しい部分もあるだろうが、言っていることはどれも当たり前だと感じられるだろう。「ユークリッド幾何学」は、この5つの当たり前を大前提として成り立っている。
ユークリッドというのは、紀元前3世紀頃の数学者だ。それから2000年以上の間、数学者はこの5つの「公準」を正しいものと考えてきた。
しかし、5つ目の「平行線公準」だけは、長いこと議論の対象だった。これだけは、うまく証明することが出来なかったからだ。そこでこんな風に考える数学者が現れた。
「平行線公準を満たさない幾何学も存在するのではないか?」
そうして、「非ユークリッド幾何学」というものが生まれた。これは、「ユークリッド幾何学」の前提となる5つの「公準」の内、最初の4つは満たすが、最後の「平行線公準」だけは満たさない。つまり、「平行な二直線が交わる」ことを前提とした幾何学なのだ。
この一例だけ見ても、数学が「決まりきったもの」という印象を払拭できないだろうか?数学には、確かに様々なルールがあるように見える。実際にあるのだけど、しかしそれは「数学という学問」が押し付けてくるルールではない。数学の様々なルールは、人間が決めている、と言っても言い過ぎではない。何故そう決めるのかと言えば、「そういう風にルールを決めると良いことがあるから」だなのだ。
寺田蘭世は、武道館で『1+1=2って誰が決めたんだ』という発言をしたようだ。この発言からは、「数学という学問が、1+1=2というルールを定めている」と捉えている印象を受ける。しかし実は違う。「1+1=2」と定義したのは、人間だ。何故そう決めたのかと言えば、そう定義すると「良いこと」があるからだ。別に「A+1=足」と定義したっていいし、「7+×÷1==Z」なんていう定義だってすることは出来る。重要なのは、そういう定義をした時に「良いこと」があるのかどうか、ということだ。その定義によって、誰かにとって(主に数学者にとってだが)「良いこと」があれば、その定義は残る。新しい概念を定義し、その定義によってどういう広がりがあるのかを考える。これが数学者の仕事だ。決して数学は、「数学という学問」が元から持っている「決まりきったこと」を掘り出すような営みではない。
実は数学者の中でも、この点についての意見は割れている。数学は「神様が作ったもの」だと考える数学者もいるし、数学は「人間が作ったもの」だと考える数学者もいる。僕は今、後者の説明をした。僕自身、どちらかの考えに傾倒しているわけではない。重要なのは、数学は「神様がつくったもの」、つまりあらかじめルールが決まっているものだと確定しているわけではない、ということなのだ。
もう一つ書きたいことがある。それは、数学は「現実」とリンクさせる必要がない、という点で自由度が高い、ということだ。
例えば、歴史の場合、「過去に起こったこと」を知ろうとする学問だ。「起こらなかったこと」について考えるのは、物語や空想であり、歴史という学問ではない。
歴史においても、「こういうことが起こったかもしれない」という考え方は仮説という形で随時出てくるだろう。しかしそれらは、何らかの資料によって事実と確定されなければ、学問としての価値は持ち得ないはずだ。
科学も同じだ。例えば物理学の世界には「ひも理論」というものが存在する。内容について詳しく知らないが、「ひも理論」は、理論としては完璧だしとても美しいと言われている。しかし、「ひも理論」を実証するためには、現在の観測技術では観測が不可能な現象を捉えなければならない。「ひも理論」は、理論上は完璧だが、現実に起こっていることであるかどうか、現時点では確定することが出来ない理論だ。「ひも理論」について考えることに価値がないわけではないが、やはり実験や観測によって正しさを証明されなければ、「ひも理論」は物理学の中で評価されない。
このように学問には、「その仮説が現実とどうリンクするのか?」が重要となるものが多く存在する。
しかし、数学は違う。数学では、現実には存在しないもの、現実と関わりを持たないものも考えることが出来る。
例えば、「虚数i」を挙げることが出来る。「虚数i」は、「2乗すると-1になる数字」だ。こんな数字は、現実世界のどこを探しても対応するものを見つけることが出来ない。「1」という数字は、「りんご1個」のように現実と対応させることが出来るが、「虚数i」は現実とは対応しない。
しかし「虚数i」は、現実の世界で非常に役立っている。例えば、パソコンに入っている半導体の動作は、「虚数i」の存在抜きには説明できないという。現実世界には、「虚数i」と対応するものは存在しないのに、その存在は現実世界で役に立っているのだ。
重要なことは、半導体の動作を知りたい、という欲求が先にあって「虚数i」が生まれたわけではない、ということだ。数学者の、「虚数iという数字があったらどうなるだろう?」という妄想が、結果的に現実と結びつきを持ったのだ。
現実とどう対応するのか、という点が常に問われる学問と比べて、数学はとても自由だ。それが現実からどれだけかけ離れた概念であろうとも、定義し思考を深めることが出来る。これもまた、決まりきったことなどない、という印象を持ってもらえるのではないかと思う。
寺田蘭世の中の「決まりきったことの象徴」が、「数学」ではない何かに変わることを密かに期待している。
「BRODY 2017年4月号 寺田蘭世のインタビューを読んで」
サイレント・ブレス(南杏子)
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死ぬ、ということについて、普段考えることはほとんどない。今僕は33歳。長生きなんてしたくないなぁ、と思いつつも、なんだかんだ、死ぬのはまだまだ先だろうなぁ、と思っていたりもする。
時々こんな風に、小説を読んで、自分が死ぬ時のことを考えてみる。
僕は、出来るだけ抵抗しないで死にたいな、と思う。
医学が進歩して、薬や手術などでほぼ確実に治る病気というのは増えた。そういう、ほぼ確実に治る病気については、医学の力を借りて治していこうと思う。けど、薬や手術などで治る可能性の低い病気に罹ったり、あるいは、完治という状態がなく永遠に付き合っていかなくてはならない病気に罹ったりした場合には、治療を継続しないという選択肢を取りたいなと、今の僕は思っている。
そこまで無理して生きる必要なんてないんじゃないか、と思ってしまう自分がいる。
医学と言うのは、進歩しすぎているのではないか、と思うことがある。確かに、少しでも長く生きたい、というのは、大昔から人類が抱き続けてきた夢であり、その実現のために様々な努力が積み重ねられた結果としての現代の医学なのだろうから、仕方ない部分もあるのだろう。とはいえ、医学の進歩によって、「自然に死んでいく」というのがとても難しい世の中になってしまった。
「生きる」というのはただ、心臓と脳が動いていればいい、というものではないはずだ。それぞれ人には、「生きる」ということの形があって、その形が満たされていれば生きたい、となるのではないか。しかし医学は、心臓と脳が、時には心臓だけが動いていさえすれば良し、としてしまうような乱暴さがあるような気がする。もちろん、医学の側からすれば、まだ途中なのだ、と主張することだろう。完全な医療を実現する途上であり、だからそういう中途半端さは仕方ないのだ、と。まあそうなのかもしれない。
けど、心臓と脳が動いているからと言って「生きている」といえるかというと、僕は微妙だと思う。自分にとっての「生きる」形を満たしていなければ、それは死を受け入れろということなのではないか。なんとなく僕には、そんな風に感じられてしまうのだ。
そもそも僕には、今の段階で、どうしても生きたいという強い感覚がない。昔からそうだった。あまり、生きるということに対する執着がない。どうしても生きていたいということはないし、長生きしたいとも思えない。だからそんな風にも思うのだろう。
『―こんなんじゃ、生きていても仕方がない。天井を、見ているだけの毎日なんて…』
ある登場人物がそう呟く場面がある。僕は、自分がそう感じてしまうような最期だけは避けたい。どれだけ生きる選択肢があろうとも、「こんなんじゃ、生きていても仕方がない」と思えるような状況に陥る可能性があるなら、その選択を僕はしたくない。
死について考えることは、生きるを考えることだ。とてもありきたりな言葉ではあるのだけど、本書を読んで、強くそう感じた。
内容に入ろうと思います。
水戸倫子は、新宿医科大学病院に勤める医師だ。総合診療科という、トータルな診療を行う科で外来患者を診ている。患者としっかりと向き合うが故に、診療が遅くなることが多く、そのせいでかつて大事な面接に遅れたことさえあった。しかし倫子には、そんなやり方しか出来ない。
そういうやり方は、同僚からは嫌われても、病院全体からは評価されていると思っていた。しかし、そうではなかったようだ。大河内仁教授に呼び出され、関連病院に出されることになった。
しかも、むさし訪問クリニックという、訪問医療を行う、病院ですらないクリニックだ。明らかに左遷ではないか…。
落胆しながらクリニックに足を運んだ倫子は、武田康介という若い看護師と共に、患者の自宅まで出向いて診療するようになったが…。
「スピリチュアル・ペイン」
訪問看護で最初にぶち当たった難しい患者は、知守綾子という、45歳の末期の乳がん患者だ。著名なジャーナリストだという。治療をする気はないけど、死んだ時に警察を呼ばれても困るから訪問医療を頼んでいる、と言い放ち、まともに治療をする意志がない。煙草を吸い、謎の男と密会している様は、末期がん患者とも思えない。倫子はそんな知守の態度に戸惑うが…。
「イノバン」
倫子は、22歳の筋ジストロフィー患者である天野保を担当することになった。どうしても病院が嫌いで、自宅での治療を希望しているという。徐々に筋肉が衰えていくこの病気は、呼吸器がちょっと外れただけでも致命傷になるので倫子は当初断ったが、大河内教授に押し切られた。
保は活発で明るく、特に生活に問題なさそうだった。一人で電車に乗ってコンサートに行ったりもするようだ。そういうことに驚きながらも、一抹の不安もあった。保の母親だ。介護放棄のように思える状況が不安に感じられるが…。
「エンバーミング」
倫子は古賀芙美江を担当することになった。娘の妙子が献身的に介護するが、芙美江はリハビリや食事を断るなどなかなか言うことを聞いてくれない。無理に生かされたくない、という本人の希望を出来るだけ叶えてあげようと倫子は考える。
しかし状況は一変する。普段家にいない、芙美江の長男である純一郎が、強硬に母の治療を主張したのだ。老化は治せない、と倫子が説明しても聞く耳を持たない。治療する努力をしないのはおかしい、と言い募る。
結局、本来患者本人が望んでいなかった治療をすることになるのだが…。
「ケシャンビョウ」
医学部の同期生である糸瀬英人から、ある女の子を診てもらえないかと頼まれた。高尾花子と名付けられた女の子は、高尾山の麓の土産物屋の夫婦が発見した。発見されてから一度も発語せず、また病院に運び込まれた時には歩行障害もあった。しばらく治療したことで歩行障害は解消されたが、言葉を発しないのは相変わらずだ。土産物屋の夫婦が引き取るつもりで育てているが、機甲もあるという…。
「ロングターム・サバイバー」
新宿医科大学病院の名誉教授であり、消化器癌の権威としてメディアにも取り上げられた権堂勲を担当することになった。末期の膵臓がんである権堂は一切の治療を拒否し、自宅療養するのだと言う。患者に対しては諦めず全力を尽くした凄腕の医師が、自分の癌には治療を拒絶する。倫子は、権堂のその決断をただ受け入れるだけでいいのか悩む…。
「サイレント・ブレス」
倫子には、長いこと植物状態にある父がいる。母は、意識の一切ない父親の看病に励み、様々な刺激を日々与えようと奮闘している。回復の見込みはない、ということをそれとなく倫子が伝えても、その死をまだ受け入れられないようだ。
しかし倫子は、訪問医療に従事するようになって、父親が置かれた状況をなんとかしようと決意した。どう死ぬかを考えることの大切さを身にしみて理解した倫子は、父を安らかに看取ろうと決断するが…。
というような話です。
なかなか良い物語だったと思います。ミステリと言われればミステリだなと思う程度の、ちょっとした謎がある。大河内教授が探偵役みたいな形でその謎が解かれていくのだけど、あくまでもそれは物語のメインではない。物語のメインは、いかに死と向き合うのか、という様々な実例だ。
倫子が扱う患者は、多岐にわたる。年齢も境遇もバラバラだが、ほとんどが避けられない死に囚われているという点で共通している(高尾花子の話だけは例外だが)。死を前に、その人は何を考え、どう行動するのか。そして周りの人間は何を考え、どう行動するのか。そこに焦点が当てられていく。
『自然な死を見守る医療は、どこか頼りない。果たすべき治療をやりきっていないのではないかという迷いとも背中合わせだ。』
倫子は長く大学病院にいて、「病気を治すための治療」をずっと続けてきた。『大学病院では、初期治療については濃厚に行うが、集中的な治療を終了した時点で、患者を退院させる。その後、彼らが自宅に戻り、後遺症に苦しんだり、リハビリに取り組んだりしながらどんなふうに生きているのか、ほとんど知らなかったのだ』と感じるように、治せる状況まで持っていくのが倫子の仕事であり、そこから先のことは想像していなかったのだ。
しかし、訪問医療で、死にゆくものの治療をするようになって、倫子はそれまで感じたことのない戸惑いを感じるようになっていった。煙草を吸っている末期がん患者がいた。健康に悪い、と言っても、そもそもがんで余命幾ばくもないのだ。そこで煙草を吸うなということにどういう意味があるのか。あるいは、胃ろうという、胃に直接栄養を流し込む手術についても考える。倫子は、自分の父に対して胃ろうを施した。しかし、胃ろうによって口からものを食べなくなると急速に衰えることも知っていた。そうまでして生かさなければならない理由がどこにあるのか。
治すための医療とは全然違う葛藤が、倫子が出向く現場には常に転がっている。
そんな倫子に対して大河内教授が掛けた言葉がなかなか良い。
『死ぬ人をね、愛してあげようよ。治すことしか考えない医師は、治らないと知った瞬間、その患者に関心を失う。だけど患者を放り出す訳にもいかないから、ずるずると中途半端に治療を続けて、結局、病院のベッドで苦しめるばかりになる。これって、患者にとっても家族にとっても、本当に不幸なことだよね』
ホスピスなどが代表例なのだろうが、死ぬ者にだって必要な治療は存在する。治すだけではない治療の必要性は、より広く認識されるべきだし、より必要性を増していくだろうと思う。
『水戸君、もう一度言っておくよ。死は負けじゃない。安らかに看取れないことこそ、僕たちの敗北だからね』
どう死ぬか、それはまさに、どう生きるかを問うものだ。死なない人はいない。本書を読むと、いかに死ぬかで、それまでの人生に対する意味合いが変わってきてしまうようにも感じられた。どう死ぬかを、生きている間にちゃんと考えておきたいものだ。
南杏子「サイレント・ブレス」
悪医(久坂部羊)
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これは凄い物語だった。大げさではなく、全国民が読むべき本だろう。
『いや、医療の本質は医学に忠実であることだ。医療が患者のご機嫌取りになったら、お終いだ』
僕ももし自分が医者だったら、こういう立場に立ちたいと思う。実際に立てるかどうかは別として。
『実際、抗がん剤は一般の人が思うよりはるかに効かない』
『さらに森川が疑問に思うのは、抗がん剤ではがんは治らないという事実を、ほとんどの医師が口にしないことだ(中略)
しかし、大半の患者は、抗がん剤はがんを治すための治療だと思っているだろう。治らないとわかって薬をのむ人はいない。この誤解を放置しているのは、ある種の詐欺ではないか』
がんについて、あまり考えたことはない。なんとなくのイメージで、抗がん剤ですべてのがんが治るわけではない、という程度の認識はあった。ただ、どの程度治るのかについての知識はなかった。本書によれば、抗がん剤はほとんど効かないし、そもそも抗がん剤ではがんは治らないという。これには驚いた。
冒頭の引用は、「治療不可能ながんに対してそれ以上の治療をすべきではない」という、医学に忠実な立場を取りたい、という表明だ。
しかし、現実はそううまくいかない。
『もうつらい治療を受けなくてもいいということです。残念ですが、余命はおそらく三ヶ月ほどでしょう。あとは好きなことをして、時間を有意義に使ってください』
医師は患者に対してこう言う。医師には、『副作用で命を縮めるより、残された時間を悔いのないように使ったほうがいい』という、患者のためを思う気持ちがある。
しかしそれに対して患者はこう答える。
『先生は、私に死ねと言うんですか』
この患者は、『先生。私は完全にがんを治したいんです。がんが消える薬に替えてください。そのためなら、どんなつらい副作用にも音を上げませんから。お願いします。この通りです』と懇願する。
両者の溝は深い。
医師には、選択肢がない。医学の見地に照らして、処置不能と判断せざるを得ないのだ。だから、もう治療は出来ない、という。この「出来ない」には、「その方があなたのためになる」という気持ちが込められている。確かに死んでしまうことは避けられないのだけど、同じ避けられない死なら、有意義な時間を過ごしてその死を迎えるのがいいでしょう、という優しい気持ちがあるのだ。医師は、『よかれと思って言ってるのに、なぜわかってくれないのか』と頭を抱える。
患者は、まったく違う風に受け取る。治療「出来ない」と言われることを、治療「放棄」と捉える。そこには、「がんは抗がん剤で、あるいは他の何らかの方法で治るはずだ」という信念がある。ネットやメディアでそういう事例をたくさんやっている。奇跡が起こったという話はいくらでもある。それなのに、ここでお終い?治療を止めてしまったら、起こるはずの奇跡も起こらないではないか。そうやって絶望する。
『できるだけのことをやって、悔いを残したくない』
『命が縮まってもかまいません』
『副作用より、何も治療しないでいることのほうがつらい』
患者はそう医師に訴え、治療の継続を熱望する。
『患者が闇雲に治療を求めるのは、薬の実態を知らないからだよ。患者が望む遠いに治療すればいいのなら、専門知識は何のためにあるんだ』
確かにその通りだ、と僕は感じる。なにせ、治療をすることで状態が一気に悪化することはほぼ間違いないのだ。
『がんの治療はある段階を越えたら、何もしないほうが長生きするんだ』
『それはだな、患者は「治療」イコール「病気を治すこと」と思い込んでるが、医療者は「治療」イコール「やりすぎるとたいへんなことになる」ってことを知ってるからさ』
医師も患者も、最善を尽くそうと必死になる。しかし、お互いの認識があまりにもかけ離れているために、お互いに最善とは程遠い場所に行き着いてしまうのだ。
医師は、妻とも議論をする。
『「患者さんが治療に執着するのは、当たり前じゃない。だれだって病気を直したいもの」
「でも、そうやって治療にすがることが時間を無駄にするんだよ。残された時間は限られてるんだから、気持ちを切り換えて有意義に過ごしたほうがいいだろう」』
そしてこの後に妻が言うことが、本作全体のある意味でボトルネックとなる。
『やっぱり無駄じゃないわよ。効果がなくても、治療をしている間は希望が持てるもの。希望は生きていく支えでしょ。それなしに時間を有意義に過ごせないわ。だって、好きなことをするといっても、絶望してたらだめでしょう』
この視点は正しいように感じられる。しかし現状では、この状況を作り出す仕組みが存在しない。抗がん剤を使えば副作用が出る。しかし、じゃあ抗がん剤ではない、例えば整腸剤などを抗がん剤と偽って処方すればいいのか。いや、ダメだ。もしバレたら大問題になる。結局、「効果がなくても、治療をしている」を実現するためには、副作用のある抗がん剤を処方するしかない。しかしそれは、「効果がない」どころか、逆に悪化させるのだ。
『どんなに苦しい人生でもいいから生きたい。どんなに不幸でも、死にたくはない』
患者が持つ、この取り除けない執着と、医療の限界の間で、医師も患者も苦しむ。答えは、一体どこにあるのだろうか?
内容に入ろうと思います。
35歳、外科医、森川良生。
52歳、胃がん患者、小仲辰郎。
この二人の視点が交互に繰り返される構成で物語が進んでいく。
森川は2年前、小仲の胃がんを早期に発見、手術をした。しかし11ヶ月後に再発、肝臓への転移が見つかった。森川は効く可能性のある抗がん剤をいくつか試すが、どれも効果なし。結局小仲に、これ以上の治療は出来ないと告げることになった。
そこで小仲から返ってきた言葉が、「先生は、私に死ねと言うんですか」だった。
小仲は森川の態度に不信感を持ち、病院を飛び出す。治療出来ないなんて嘘だ、まだ何か手はあるはずなのにあのクソ医師は放棄したのだ。世の中にはきっとどこかに、俺のがんを治してくれる医者がいるはずだ…。小仲は情報を集め、治療をしてくれる病院を探すが…。
一方の森川は、「死ねと言うんですか」と言われたことをずっと考え続けていた。あの状況で自分がどうすべきだったのか、分からない。自分としては最善の提案をしたはずだ。しかし患者は激昂してしまった。患者の言うように治療を続けることは、医師としての誠意に欠ける。それはしたくない。しかし、治療をしないと伝えることが相手を激昂させることになる。
森川は、その後も多くの患者を診察し、また妻や同僚や上司に話を聞き、がん患者との関わり方について考え続けるが…。
というような話です。
これは凄い作品でした。冒頭でも書きましたが、全国民が読むべき本だと思います。“正しい患者”になるためには必須でしょう。もちろん、医療技術や薬はどんどん進歩していくでしょう。10年後20年後も、この作品で描かれたのと同じ状況であるかは分かりません。しかし、少なくとも2017年現在は、本書で描かれていることが真実なのだろうと思います。
まずこの真実を知ることが一番大切でしょう。
その上で、自分がどう行動するか。それは、あなたが決めればいいことです。
この現実を知った上で、それでも治療をする、というのであれば、それはそれで構わないかもしれません。もちろんそれは、自分の身体に負担を掛けるだけではなく、医療側にも迷惑を掛ける行為です。すべきでない治療を継続することによるそういうマイナスすべてを理解した上で、それでも治療を望む、というなら、それはそれでいいかもしれません。
ただ、本書を読めば、医師の言う「治療が出来ない」ということを受け入れるのが最善の選択なのだということが分かるでしょう。
もちろん、自分の気持ちをどうコントロールするのか、という別の問題は残り続けます。治療をしない、ということは、死を受け入れることと同じです。その決断をする気持ちのコントロールが出来るのかどうか。これは、医学の領分ではないのだろうと僕は感じます。「医学を全うする者」としての医師と、「患者とコミュニケーションを取る者」としての医師をもしうまく分離することが出来れば、問題が少しは解消されるのかもしれない、と思ったりもします。
自分だったらどうだろう、とやはり考えてしまいます。
今の僕は、「死」というものを殊更に恐れていない、と思っている。いや、これはもう少し説明が必要だ。
僕は、「死ぬ」と思ってから実際に死ぬまでの時間が短ければ短いほどいい、と思っている。だから、脳卒中とか事故死なんかで、「死ぬ」と思った瞬間にはもう死んでいるような、そういう死に方をしたい。
これには、二つの側面があると思う。
一つは、「死」という現象を恐れていない、というものだ。「死ぬこと」そのものを恐れていない、という表現も出来る。
しかし一方で、「死に向かっているという状態」に耐えられない、という側面もある。死ぬのはいいが、死に向かっている状態は嫌だから、出来るだけその状態が短い方がいい、という気持ちがある。
もちろん、自分が実際に死に直面したらどう思うのか、それはその時になってみないと分からない。あくまでも、今の自分がどう思うかという判断に過ぎない。そういう、今の僕の考え方で言えば、「治療出来ない」と宣告されることは、ある種の解放に感じられるように思う。
なにせ、治療をしていようがしていなかろうが、自分が「死に向かっている」という事実は変わらない。確かに治療をしている方が、「死から逃れる可能性がある」と思える分、「死に向かっている」という感覚も薄れるのかもしれないけど、僕は悲観的な人間だから、そういう部分に関しては楽観視出来ない。とすれば、「治療が出来ない」と宣告されれば、もう諦めるしかない。その方が、楽になれるような気もしている。
まあ、実際どうなるかは、分からないけどね。
本書を読んで、「死ぬこと」の難しさを改めて感じさせられた。どんな病気になるのか、ならないのか、事故や災害に遭うのか遭わないのか。そういうのはもうすべて運だ。自分でどうにか出来るようなものではない。その無力感と、自分が置かれた状況を受け入れる困難さみたいなものが、「死」というものには否応なしにつきまとうのだな、と感じた。自分は、あまりジタバタしないで死にたいな、と思うのだけど、ちゃんとそんな風に死ねるだろうか。
久坂部羊「悪医」
蚊がいる(穂村弘)
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穂村弘、やっぱり好きなんだよなぁ。
そもそも僕は、世界にうまく馴染めない人が好きだ。
もちろん、馴染めない人にも色んなタイプの人がいる。挙動不審だったり、対人関係が極度に無理だったりと、見た目ですぐに、あぁ馴染めないんだな、と分かる人もいる。確かにそういう人も、決して嫌いではない。嫌いではないけど、しかし実生活ではあまり出会わないし、ちょっと関わり合うのがめんどくさそうだなという気持ちも持ってしまう。
僕が好きなのは、世界に馴染んでいる風で全然馴染めていない人だ。表向き、友達もたくさんいるし、誰とでも話せるし、明るくてハキハキしてるし何でも楽しそうにやるんだけど、いざ話を聞いてみるとどうも馴染めていないような人、というのがいる。僕は人生で何人かそういう人に会ったことがある。
こういう人は、本当に魅力的だ(少なくとも僕にとっては)。そういう人は、やはり昔から馴染めなさを感じているから、自分の馴染めなさを自分なりに説明するために、言葉が巧みであることが多い。何故自分がそう思うのか、そして何故自分がそんな風に思わないのか。そういうことをきちんと説明できるのだ。
それは、馴染めてしまう人にはなかなか持ち得ない性質だ。本書の巻末には穂村弘と又吉直樹の対談が載っていて、そこで穂村弘が又吉直樹に、
『(サッカー部に入っていた又吉直樹に対して)僕はそこが謎で。たとえば運動ができないとなぜできないかを考えると思うんです、言葉で。できるヤツは言葉要らないんですよ、できるから。モテるヤツ、運動できるヤツ、楽器弾けるヤツはそえでコミュニケーションできるから言葉を必要としない。だから意外で、サッカーができたのに、なぜ本を読む必要があったんだろうって』
と聞いていて、確かにその通りだと僕も思った。そう、世界に馴染めてしまう人は、言葉を必要としないのだ(普通は)。僕はそれが不満で、世界に馴染めてしまう人には、あまり魅力を感じない。
欠損や歪みがあって、その欠損や歪みをきちんと捉えて自分の言葉で説明できる人。そういう人はやっぱり素晴らしいなぁ、と思ってしまうのだ。
そして、穂村弘という人は、まさにそういう人である。
本書はエッセイ集であり、それぞれのエッセイ毎に話は全然違う。けれど、あるエッセイの中で書かれていたある文章が、穂村弘のその欠損部分をうまく表現しているように感じられたので、そこを抜き出してみようと思います。
『文化祭でもキャンプでも大掃除でも会社の仕事でも、いつも同じことが起きる。全ての「場」の根本にある何かが私には掴めないのだ。現実世界に張り巡らされた蜘蛛の巣のようなルールがみえない。何のための穴なのかよくわからないままに、どこまでも掘ってしまう。だが、わかっていないということは熱心さではカバーできないのだ』
何故穴を掘っているのか、という点は是非本書を読んでほしいが、穂村弘のこの感覚は僕も凄くよく分かるし、そうそう、って感じになる。
僕は、世界に対するアプローチの仕方が、穂村弘ととても似ているように感じられる。自分の中に確信がない。確信を得ようと周囲を観察するのだけど、ルールらしきものが分からない。自分にはルールが分かっていないのに、どうも周りの人は特に説明もされないままルールを把握しているようで、その場に馴染んだ振る舞いをしている。色々と考えて、これかな、という行動をしてみる。でも、どうも違う。いや、はっきりとは分からないが、違うような感じがする。そういう雰囲気だ。でもじゃあどうすればいいのだろう?
というような葛藤は、僕の根っこにある。今の僕はもう、世界から外れることをあまり恐れなくなった。自分がその場で浮いていても構わない。むしろ浮いていることが当然であるような立ち位置を作ってやろう、と思って普段から生活をしている。そういう意識に切り替えて、前よりは楽になった。
そういう意味で、僕は日常の中で、穂村弘が感じているようなことをあまり感じなくなった、ような気がする。でも、まったくというわけではないし、このエッセイを読みながら、穂村弘の行動原理にとても共感している自分がいる。
だから、やっぱり穂村弘って好きなんだよなぁ。
本書は、穂村弘が日常の中で感じたあれこれについて書くエッセイだ。一遍一遍はとても短い。だいたい文庫本で2ページくらいだ。一気に読んでもいいし、ちょっとずつ読んでもいい。
2ページの文章の中で話をうまく完結させるから、一部だけ抜き出して面白い箇所というのは実は少ない。話全体の中で面白さを醸し出すスタイルなのだ。一遍全体で面白いエッセイというのは本書の中にたくさんある。その中で、これは抜き出しても面白い、と思える箇所を抜き出してみる。
『最近、五十肩になってしまって「家庭の医学」的な本を買った。そこに「アイロンを使った振り子運動」というものが紹介されていた。家庭でできる運動療法らしい。
ふと見ると、図解の端っこに注意書きがある。「アイロンがない場合は、ダンベルなどの代替用品でもかまいません」。えっ、と思う。そもそもアイロンの方が代替用品なんじゃ…、でも、自信がない。全てがよくわからない。』
思わず吹き出してしまった。穂村弘は、こういうのをよく見つけるのだ。「漁師プリン」の話も面白い。別になんてことのない話なんだけど、穂村弘の手に掛かると、面白い話になっちゃうんだよなぁ。
「周りの人も、みんな本当に日常の中で大変さを味わうことがあるのか?」という疑問に囚われた穂村弘の、こんな妄想も面白い。
『お天気お姉さんが腋の下から体温計をしゅっと抜き出して「今日の体温は三十八度八分、ふらふらです。でも、仕事だから頑張ります。もしも、あたしが倒れたら、明日のお天気はあなたが自分で空を見上げて予想してね」と云ったら、どんなにときめくことだろう』
なんか分かるような気がする。本書の「蚊がいる」というタイトルにも込められていることだが、テレビや雑誌ではもっと色んな人がしゅっと生きているような気がする。テレビや雑誌の世界には、蚊なんていないのだ。でも、現実にはいる。この落差は一体なんだろう?というような疑問から、こんな妄想が生まれてくるのだ。
世界は一つかもしれないが(複数あっても特に問題はない)、世界の見方はそれこそ山ほど存在する。その視点をたくさん持っていればいるほど、色んな世界の中で生きることが出来る、といえるかもしれない。穂村弘は、世界に馴染むのが苦手だが、馴染むのが苦手というだけで、色んな世界を見ることが出来る。穂村弘は、そんな自分で見た世界を、時に短歌で、時にエッセイで切り取っていく。穂村弘には、色んな世界が見えてしまい、ただでさえ世界に馴染むのが苦手なのに、余計に苦手になっていく。でも、その困惑みたいなものが、見ている方としては楽しい。
自分も世界にうまく馴染めないんだよなぁ、という自覚がある人の方が、きっと読んでいて面白いだろう。馴染めてしまう人からすれば、この人は一体何をそんなに悩んでいるんだろう、となるのかもしれない。分からない。とにかく、僕にとっては、とても楽しいエッセイだった。
穂村弘「蚊がいる」
「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場」を観に行ってきました
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問いが間違っている、というのは明白だ。
それは、問うべきではない問いなのだ。
その問いに答えなければならない状況が存在することそのものが間違っているのだ。
そのことは、間違いない。
しかし、問いが間違っていても、答えを出さなければならないことは、世の中にはたくさんある。
5人を救うために1人を殺してもいいか―。
僕がこの問いに出会ったのは、「これからの正義の話をしよう」という本の中でだ。
この中で、暴走する列車を例に出し、その列車に5人が轢かれる状況を回避するために1人を殺す選択をしていいか、という問いが投げかけられるのだ。
その本の中で、どんな議論が展開され、どんな結論が出たのか、僕は覚えていない。しかし、問い自体が間違っているのだ、という感覚は、今でも残っている。
この映画でも、同じ問いがなされる。
80人以上の人間が死ぬ可能性がある状況を回避するために、1人の少女を殺してもいいのか―。
冒頭で書いたように、明らかに問いが間違っているのだし、この問いに答えを出さなければならない状況自体が間違っているのだ。
しかし、この問いを突きつけられ、答えを出さなければならないとしたら、あなたならどうするだろうか?
自分が、どの立場にいるのかによって、きっと答えは変わる。これは、「これからの正義の話をしよう」の中でも指摘されていた。レールを切り替えることで5人いる方から1人いる方に列車を進ませるという選択であれば、1人を殺すことに抵抗を感じない人はそれなりに多かった。しかし、自分の手でその1人の背中を押して暴走列車にぶつけて止める、という選択の場合、躊躇する人が多かった。自分が直接手を下すか否か―これが、状況判断に大きく影響する。
先程の80人の問いに戻る。この場合、状況を単純化すれば、「決断する人間」と「ミサイルのボタンを押す人間」で判断は大きく変わると思う。
もし僕が「決断する人間」であれば、80人を救うために1人の少女を殺す決断を、仕方ない判断だとして決定してしまうだろうと思う。少女が死なない可能性もある、という状況であればなおさらだ。
しかし、もし自分が「ミサイルのボタンを押す人間」だったら、すんなりと同じ決断が出来るかは分からない。ミサイルのボタンを押す自分にとっては、80人を殺すのは別の人間だが、1人の少女を殺すのは自分だ。この状況の違いはとても大きい。確かに、80人の命を救いたい。しかし、自らの手で1人の少女の命を奪いたくもない。
この葛藤から逃れることは、とても難しい。
さらに状況を難しくしているのは、「自分の命はどんな選択をしても安全だ」という状況だ。
例えば、人対人の銃撃戦であれば、自分の命も危険にさらされている。相手を殺す、という判断には、自分が死にたくない、という願望も含まれる。もちろん、人を殺すことは良くない。良くないが、しかし自分が死ぬよりはマシだ。そういう判断が葛藤を消す可能性はあるだろう。
しかしこの映画で描かれている状況では、自分が死ぬことはありえない。
「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ」というのは有名なセリフだが、こと現代の戦争に限っていえば、「現場」と「会議室」が同一のものになっている。無人偵察機が上空2万フィートから「現場」を偵察し続けることで、「会議室」でも状況をリアルタイムに知ることが出来る。同じく、「会議室」から無人偵察機でミサイルを発射すれば、「現場」を壊滅させることが出来る。現代の戦争はまさに、「会議室で起こっている」のだ。
自分の身が危険に陥るわけではない状況で、人を殺す決断をしなければならない。誰かが80人を殺すのか、自分が1人を殺すのか―。難しすぎる問いだ。
正しさ、というのは、どんな評価軸を選ぶかによって変わる。どんな評価軸に照らしても正しい、なんていうことはほとんどない。正しさは、状況や時代によっても大きく変わる。その中でどんな選択を積み重ねることが出来るのか―。結局僕らに問われていることは、そういうことだ。
内容に入ろうと思います。
イギリス軍のパウエル大佐は、ケニアのナイロビで、アル・シャルブというイスラム系過激派組織に属する最重要人物を捉えた。6年間追跡して、ここまで接近できたのは初めてだ。当初の計画では、彼らのアジトに捕らえるべき人物が全員揃ったところで、ケニア軍の地上部隊が突入、全員を捕獲するという作戦だった。
しかし状況が変わる。イギリス国籍の女が到着するのを待っていたのだが、その女と思しき人物が建物内部から出てきた。しかも彼らは別の場所に移動するようだ。その女がターゲットであると確認できなければ作戦の決行は出来ない。しかし彼らは、アル・シャルブの支配地域にある民家に移動してしまった。仲間である現地の男にその民家に接近させ、<虫>と呼ばれる小型カメラで建物内部を撮影することで女の身元は判明した。ここでパウエル大佐は、無人偵察機<リーパー>に搭載しているヘルファイアで民家を爆撃すべきと提言するが、計画はあくまでも殺害ではなく捕獲だったはずだと、<コブラ>と称される内閣府のメンバーに反対される。
しかし、状況がさらに変化する。<虫>は、建物内部で自爆テロの準備が進行していることを知らせてくる。彼らが自爆テロに及べば、少なくとも80名以上の一般市民が犠牲になる。一刻も早く爆撃の決断をしなくては。しかし<コブラ>では議論が割れる。決定権を持つはずの閣外大臣も、より上位の立場の人間からの許可を得るべきと判断を保留する。ジリジリしながら決断を待つパウエル大佐。<コブラ>では果てるとも尽きない議論が繰り返される。
ようやく決断が出た頃、さらに状況が変化する。なんと、攻撃目標である民家の前で、少女がパンを売り始めたのだ…。
というような話です。
非常に緊迫感のある物語であり、さらに難しい問いを投げかける作品だと感じた。
彼らがどんな葛藤の中に置かれているのか、ということは冒頭で触れた。ここでは、そうではない部分に触れていこう。
まず感じたことは、決断を下すものの優柔不断さだ。
何も僕は、爆撃の決断をもっと早く下すべきだ、と言いたいわけではない。爆撃しないという決断でも構わない。いずれにしても、決断をするのが遅すぎる。確かに難しい決断ではある。しかし、状況は明白なのだ。少なくとも、交戦規定という、戦争における法律(もちろんこれも、強者が作った法律だろうが、とりあえずその議論はここではしない)の問題はクリアされている。少なくとも、目の前の状況で爆撃をしても、交戦規定に違反したという判断はなされないだろう、という判断は、既になされている。
残されたのは結局、人道的な問題だけだ。そしてこれは、冒頭でも書いたように、問いが間違っているのだ。誰からも文句の出ない正解など存在しない問いなのだ。そのことも、その場にいる人間は全員分かっていたはずだ。
しかし彼らは、誰からも文句の出ない正解がないかと判断を遅らせる。もちろん、その可能性があるならば、保留して状況を精査すべきだろう。しかし、僕の判断では、この状況における、誰からも文句の出ない正解など存在しない。繰り返すように、問い自体が間違っているからだ。
だから、文句が出てくる可能性を受け入れながら、何らかの決断をしなければならない、と思う。僕には、そんな決断は出来ない。しかし彼らは、そうすべき立場にいる。そういう決断をしなければならない可能性を知った上で、その立場にいるはずなのだ。だからこそ彼らは、もっと早く決断をしなければならなかった、と僕は思う(もちろんこれは映画だから、早く決断したらそこで物語が終わってしまうから、そこに文句をつけても仕方ないのはわかっているのだけど)。
こんなセリフがあった。
『政府が戦争を始める。闘うのは軍だ』
これは、政治家の判断の遅さによって作戦を台無しにしないでくれ、という意味が込められている。彼らの決断が正しかったのか、僕には分からない。というか、正しい決断などない。そういう中でどう行動しなければならないのか。そういう意味で、この判断をする上で、政治家は役に立たないのだなと感じた。
またこの映画では、ヘルファイアのボタンを押す者の葛藤も描かれる。
彼は確かに軍人ではあるが、「奨学金返済のため、4年の勤務が保障される」という理由で軍に入った若者だ。これまで、偵察任務しか行ったことがない。軍人としての経験が豊富なわけでもない。そんな彼に、実に困難な状況でミサイルを撃つように命令が下る。
彼の葛藤は、相当なものだろう。しかし、良くは知らないが、軍というのは上官からの命令は絶対だろう。そういう中で、彼がどんな決断をするのかというのは、見ている者にとっても迫るものがある。
パウエル大佐に対しては、相反する気持ちがある。一つは、自らの「爆撃すべき」という決断のブレなさに感心するものだ。パウエル大佐は、少なくとも悩んでいるそぶりは見せない。彼女にとっては、爆撃は、絶対的に不可欠な選択なのだ。上官として指示を出すべき人間として、この決断力とブレなさは賞賛すべきかもしれない、という風に感じる。
しかしその一方で、この絶対的な自信が危うい、と感じる自分もいる。自分の行動が、もしかしたら間違っているのではないか、という躊躇みたいなものは、どんな場面でも必要だろう。絶対的な正しさなど、世の中には存在しない。これが絶対正しいのだ、と強引に主張し行動することが大事な場面ももちろんあるだろう。しかし、パウエル大佐の立っている状況は、人間の命が関わっているのだ。そういう状況で、あの自信は、怖いなという風にも感じるのだ。
何度でも繰り返すが、問い自体が間違っている以上、正しい答など存在しない。人の命が絡むかどうかはともかく、こういう、それ自体が間違っている問いに答えを出さなければならない状況に、誰しもが立たされる可能性があるだろう。そういう時、自分は何を評価軸にして決断をするのか。そういうことを考えながら見てほしい。
「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場」を観に行ってきました
アイデア大全 想像力とブレイクスルーを生み出す42のツール(読書猿)
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非常に面白い本だ。
本書はタイトルの通り、「どうやったらアイデアを生み出せるのかの方法を示す本」だ。分かりやすく言えば、How To本だ。しかし、ただそれだけの本ではない。著者のまえがきから引用しよう。
『本書は、<新しい考え>を生み出す方法を集めた道具箱であり、発送法と呼ばれるテクニックが知的営為の中でどんな位置を占めるかを示した案内書である。
このために、本書は実用書であると同時に人文書であることを目指している。』
なるほど、非常に面白い切り口だ、と感じた。著者は、文学から数学・科学、哲学や宗教など、かなり博覧強記の人物だ。その知識をもって、「いかにしてアイデアは生まれるのか」を、一つの学問として縱橫に様々なジャンルを横断しようと企んでいる。
『これまでにない新しい考え(アイデア)を必要としている人は、できるのはわずかであったとしても現状を、大げさに言えば世界を変える必要に迫られている。そのために世界に対する自身のアプローチを変える必要にも直面している。
この場合、必要なのは、ただ<どのようにすべきか>についての手順だけでなく、そのやり方が<どこに位置づけられ、何に向かっているのか>を教える案内図であろう。それゆえに本書は、発送法(アイデアを生む方法)のノウハウだけでなく、その底にある心理プロセスや、方法が生まれてきた歴史あるいは思想的背景にまで踏み込んでいる』
本書を読んで、この点についてなるほどと感じた。何故その考え方が生まれたのか、という背景を一緒に知ることで、他の発想法との共通点も見えやすくなり、考える上で特にどの点に着目しなければならないのかという焦点を合わせやすいように感じられた。また、古来から様々な形で伝えられてきた方法なのか、近代になって生まれた方法なのか、というようなことを知ることで、それまで「発想法」という括りと捉えていなかったもの(例えば「占い」)などが、実は「発想法」の文脈で捉えることが出来るのだ、ということを学んだりもした。
著者は「人文学」というものを、こんな風に捉えている。
『この人文学を支えるのは、人間についての次のような強い確信である。すなわち、人の営みや信じるもの、社会の成り立ちがどれだけ変わろうとも、人が人である限り何か変わらぬものがある、という確信の上に人文学は成立する。
この確信があるからこそ、たとえば何百年も昔の人が書き残した古典にも真剣に向かい合うことができ、何かしら価値のあるものを受け取るかもしれないと期待することができる』
「人が人であるかぎり変わらぬものがある、という確信」というのは、人がいかに発想するか、という点においても同じだ。古今東西様々な人間が様々なことを考えてきた。その過程で少しずつ、「いかに考えるか」という知見も蓄積されていった。僕たちもまた、かつての人間と同じような形で何かを考えている。そこに学ぶ、という姿勢を持つことが、人文書でもある本書を読む上での一つの姿勢になるのではないかと思う。
著者は、本書を読む上での注意点を、こんな風に書いている。
『発想法とは、新しい考え(アイデア)を生み出す方法であるが、アイデアを評価するにはあらかじめ用意しておいた正解と比較する方法がとれない。というのも正解をあらかじめ用意しておけるのであれば、新しいとはいえず、アイデアでなくなってしまうからだ。
このことは、文章理解や問題解決に比べて、発想法の実験的研究が遅れをとった原因でもある。
アイデアとそれを生み出す技術の評価は、結局のところ、実際にアイデアを生み出し実践に投じてみて、うまくいくかどうかではかるしかない。』
本書では42の方法が紹介されているが、僕は実際にそのいくつかを試そうと思う。アイデアを考えなければならない対象は常時いくつかあり、それらについて実践してみるつもりだ。
本書で扱われている42の方法についてはここでは触れない。実践が難しそうだと感じられる方法もあるが、難易度が5段階で表示されているので分かりやすい。42それぞれの方法について、「具体的な手法」と「その手法を使った例」が提示され、さらにその後でその手法の背景が説明される、という流れで構成されている。縦横無尽に様々なジャンルを駆け巡りながら、「アイデアを生む」というのを実に広く捉え、可能な限りの手法を提示している。
その多くに共通しているのが、「自分が持っている先入観をどう乗り越えるか」という考え方だ。発想するためには、先入観を乗り越えなければならない。強制的に乗り越える方法や、無意識的に乗り越える環境を整える方法など、具体的なやり方は様々だが、先入観を乗り越えるために何をするか、という観点で本書で扱われている手法を捉えても面白いと思う。
本書とはまるで関係ないが、「発想法」に関して僕なりの考え方を書いて終わりにしようと思う。
「アイデア」にしても「発想」にしても、最終的にそれは何らかの形あるものとして出力される。「言葉」だったり「絵」だったり「デザイン」だったりだ。そして僕が常に思っていることは、どれだけ発想法を磨こうとも、その出力機能である「言葉」「絵」「デザイン」の能力が低ければ、何も出力出来ないだろう、ということだ。
だからこそ、発想法を磨く以前にまず、自分が出力したいと思う形を徹底的に磨くしかないと思う。企画を考えるなら「言葉」を、曲を作るなら「音楽」を、写真を撮るなら「写真」を磨かなければならない。
発想法と出力形は両輪だ。どちらかだけ欠けていてもダメだ。僕は、文章を書き、また企画を考える上で、「言葉」の力を大事にしてきた。僕は今、自分の内側にあるものを「言葉」という形で出力する能力には長けていると自覚している。そこに「発想法」という考え方を乗せて、自分の内側に何かが生まれる環境を整えれば、何かが出力されてくるだろう。
あくまでも僕の考えだが、発想法だけではなく出力形を磨く意識は持つべきだろうと思う。
読書猿「アイデア大全 想像力とブレイクスルーを生み出す42のツール」
イノセント・デイズ(早見和真)
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33年間生きてきて日々実感することは、「幸せ」は自分で決めるしかない、という真理だ。
人は誰しも「幸せ」を追い求めて生きている。たぶん、世の中のほとんどの人がそうなんだろうと思う。でも、その「幸せ」の中身は人それぞれ違う。
…ということに気がつくのに、人生の中で無駄な時間を使ってしまうような気がする。
子供の頃のことは記憶にないのだけど、たぶん僕も、世間一般で言われるような幸せを「幸せ」だと思っていたと思う。きちんと正社員になって、結婚して、子供をもうけて、家を立てて…というような、よくある幸せの形だ。それで、僕はきっとそういう生き方は出来ないだろうと中学生の頃には思っていたような漠然とした記憶があるので、今後の人生は不幸しかない、というような悲観的な考え方を持っていただろうと思う。
自分基準で色々と辛いこともあって、それなりのことを乗り越えてきた今は、なんでそんなことで悩んでいたんだろう、という気持ちになっている。結局僕の悩みは、「他人基準の幸せに行き着けないこと」でしかなかったし、そのことを不幸だと感じていただけだった。僕が考えなければならなかったのは、「僕自身は何を幸せだと思うのか」ということだ。
この問いに、もっと早く気づくことが出来ていれば、無駄な苦労をせずに済んだのかなぁ、という感じがする。
僕は、周囲との軋轢や様々な場からの逃亡など、周りに色んな迷惑を掛けながら、自分が何を幸せだと感じ、何を不幸だと感じるのかを確かめていった。いや、確かめるという意識で臨んでいたわけでは決してないのだけど、結果的にごく一般的な幸せの基準には馴染めないという感覚が募っていく中で、少しずつ意識が変わっていった。
時々他人の悩みを聞くことがあるが、その多くは、「自分なりの幸せの基準を持てば解決するな」と感じることが多い。そういう人は、誰かが決めた幸せの基準が正解だと思い込んでいて、そうじゃなければ幸せだと感じられないと信じているのだ。あるいはそもそも、「他人から幸せだと思われることが私の幸せだ」というタイプの人もいる。こういう人は、ある意味で「自分なりの幸せの基準」を持っていると言えなくもないが、そのほとんどを他人に依存しているせいで、幸せを感じることが出来ない。
自分の幸せが、世間一般の幸せの基準と合致していると感じられるなら、全力でそれを突き進めばいい。全力で向かっていって、それでも幸せを掴めないなら、それはある意味では仕方ないし、諦めるしかない。けど、すべての人間がそうであるはずがないし、他者基準の幸せを手放すことが出来れば楽になれる人は世の中に相当いるのではないかと思っている。全力を出す方向を間違っているだけなのでは?という問いかけは、常に持ち続けるべきだと思う。
『それが半生のキーワードであるかのように、彼女の日記には「必要とされたい」という言葉が散見された』
『人はだれからも必要とされないと死ぬんだとさ』
「幸せ」を自分で決めることが出来れば、彼らは死なずに済んだのかもしれない。自分が思い込んでいる「幸せ」を一旦手放してみる。その勇気を持てるかどうかが、結果的に幸せにたどり着けるきっかけなのかもしれない。
内容に入ろうと思います。
本書は、連作短編集のような趣を持つ長編小説です。
物語は、ある女性に死刑判決が下されるところから始まる。
3月30日午前1時頃に、JR横浜線・中山駅近くのアパートで火事が起こった。二階の角部屋から井上美香と1歳の双子の姉妹・蓮音と彩音の遺体が見つかった。一人残された双子の父親である井上敬介は、老人ホームの夜勤中で難を逃れた。
警察はすぐに、自宅で自殺を図っていた田中幸乃を任意同行する。目を覚ました直後に彼女は罪を認め、逮捕された。敬介は美香と結婚する前に幸乃と付き合っており、別れを切り出された幸乃はストーカーに変貌した。明らかに放火であることや動機があること、そして本人が自白していることなどから幸乃の犯行であることは疑いようもなく、死刑適用の判断基準となっている「永山基準」から、死刑は免れないと思われていた。
幸乃は犯行こそ認めたものの反省を口にすることはなかった。死刑判決後、法廷で「う、生まれてきて、す、す、すみませんでした」と口にした幸乃の姿は異様だった。
物語は、田中幸乃が逮捕されるまでの人生で彼女と関わった様々な人物の回想や述懐などで組み立てられている。幸乃の母である田中ヒカルが彼女を産んだ時の話、小学生の頃の「丘の探検隊」の一員だった頃の話、中学時代唯一幸乃と関わりのあった同級生の話、幸乃がストーカー行為を働いた井上敬介の話…。
どの時代の幸乃からも、納得と違和感を感じ取れる。これだけの鬱屈と不幸を抱えていれば、放火して3人を殺すなんていうことをしでかしてもおかしくないかもしれない、という納得と、どれだけ辛いことがあっても屈せずに生き続けてきたのに死刑に抗しないのかという違和感を。
田中幸乃とは、どんな女性なのか。それぞれの時代で何を感じ、どう生きていたのか。若くして死刑を宣告された一人の女性が辿ってきた苦難の人生を追いかけながら、人生や幸せの意味を問いかける作品。
非常に面白かったし、考えさせられた。殺人事件や裁判が扱われる作品だが、ミステリーではない。死刑を宣告されながら、彼女と関わったことがある人間には違和感でしかない振る舞いをする田中幸乃という女性を様々な人間の目を通して描き出すことで、田中幸乃だけではなく、彼女と関わった人間の内側にある深淵を覗き込む。そんな作品だ。
田中幸乃との関わり方は様々だ。
丹下健生は、赤ん坊の田中幸乃を取り上げた産婦人科医だ。母である田中ヒカルとの関わりがメインだが、ここで、田中ヒカル自身が結果的に幸乃と同じ境遇であったことが明らかになる。
『私自身が必要とされない子だったから、私は誰よりも子どもが欲しがるものを知ってます』
誰からも必要とされていないと思い続けていた田中幸乃は、しかし望まれて生まれてきた子だった。そんな彼女が何故、「必要とされたい」とノートに書くほどに追い詰められていくのか。その過程は、どんな人間も無関係とは言えないと思う。どんな人であっても、予期せぬ出来事によって、あっという間に困窮する。そんな世の中に、僕らは生きているのだと思う。田中幸乃のような人生を歩まずに済んだというのは、幸運だったということに過ぎない。
倉田陽子は、幸乃の姉だ。ふとした瞬間に失神してしまうという、母から受け継いだ病気を持つ幸乃を姉として支えながら、翔・慎一という頼れる仲間と「丘の探検隊」を組んでいた。
『誰かが悲しい思いをしたら、みんなで助けてやること。これ、丘の探検隊の約束な』
ここでも幸乃は必要とされている。もちろんこれは、幸せな時代もあった、ということに過ぎない。結局この時期、幸乃の人生を大きく左右するような変化があり、そのことが幸乃の人生に暗い陰を落とすことになる。しかし、幸乃の人生を経験していないからこんなことが言えるのだろうけど、必要とされていた頃の経験や記憶を信じて生きていくことも、幸乃の選択次第では出来たのではないか、と思いたくなってしまう。
小曽根理子は、中学時代の幸乃の唯一の友達だ。宝町というドヤ街に住み、学校でもいつも陰気な雰囲気を漂わせる幸乃は学校中から疎まれる存在だったが、海外の古典文学を読んでいる、という繋がりから理子は幸乃に声を掛け、友達になった。しかし、普段つるんでいる山本皐月らが幸乃に良い感情を抱いていないと分かると、理子は幸乃に、学校では話しかけないでと頼んだ。それでも、二人は電話で話したり、理子の家に呼んだりと、親しい関係を続けていく。
理子が語る物語が、一番苦しく感じられる。理子は、強く望んでいるわけではないが、孤立したくないという理由で皐月らと関わる。その関係性の中で、理子は傷つくことになる。しかし、皐月らとの関係はやめられない。
それはある意味では幸乃がずっと感じてきたことと同じだ。「必要とされたい」。理子は、皐月から必要とされていると感じてしまうが故に、皐月から離れることが出来ない。一方で理子にとって、幸乃の存在も大事さを増していく。
『私には幸乃が必要なんだ。背伸びしないでいられるから。私を認めてくれるから。幸乃がホントに必要なの』
皐月に対しては「必要とされたい」と無理してしまう皐月も、幸乃の前では自然体でいられた。そんな理子に対して、幸乃も徐々に心を開いていく。お互いにとってお互いが唯一無二の存在になる。二人の関係は、まさにそういうものだった。
だからこそ…。彼女たちの人生に訪れたある出来事が悲しくて仕方がない。様々な条件が絡み合って起こった出来事だ。それぞれに悪い人間はいるが、しかしその悪を幸乃はすべて被ることになる。そしてそのことに対して幸乃は、こんな風に思うのだ。
『自分のことなんかで苦しんでほしくない』
この出来事が、幸乃に決定打を与えたように思えてならない。自分という人間の存在価値についての拭えない汚点みたいなものが、この時に染み付いてしまったのではないかと感じる。それまでも色々あったし、それからも色々あった。でも、もしこの出来事がなかったら…。幸乃の人生はもう少し違っていたのではないか。そんな風に思いたい自分がいる。
そういう経験を経て、幸乃は、井上敬介と出会うことになるのだ。
幸乃は、結果的に、自分なりの幸せの基準を掴むことが出来なかった。努力しなかったわけではない。幸乃は、人生の様々な場面で、彼女なりに勇気を振り絞り、彼女なりに努力をし、自分なりの幸せの形を掴もうと手を伸ばした。でも、その度にうまくいかなかった。もうこれは、不運だったとしか言いようがない。手を伸ばしても伸ばしても、いつも弾かれる。これが私の幸せだ、と信じた先に何もない、という絶望を何度も繰り返した彼女が、生きることを諦めてしまっても仕方がないようにも思う。
この物語が皮肉なのは、幸乃は最終的に、自分なりの幸せを見つけ、手を伸ばし、掴んで離さなかった、ということだ。どういうことなのかは本書を読んでほしいが、一般的ではない「幸せ」を掴み、これが最後だと信じて離さなかった彼女の意志の強さみたいなものが、逆に周囲に違和感を与え続ける。その違和感に答えを見出そうとして右往左往する人々が描かれるのだ。
この物語を読むと、ニュースの向こう側を知りたい気分になる。
『田中幸乃死刑囚は横浜市出身の三十歳。かつてつき合っていた恋人から別れを告げられたことに激昂し、元恋人の家族が住むアパートに火を放ち、妻と幼児二人の三人を焼死させた。二〇一〇年の秋に横浜地方裁判所で死刑判決を受けたあとは罪を悔やみ、拘置所では静かにそのときを待っていたという―』
彼女はそんな風にニュースで報道される。
この報道は、確かに田中幸乃という女性の犯した罪と人生の「要約」かもしれない。しかし、「要約」する過程で削ぎ落とされたものが多く、またねじ曲がって伝わっている部分もある。結果このニュースは、田中幸乃という人物をまったく捉えていないものになる。
僕らが普段触れるニュースも、きっと同じなのだろうと思う。日々様々な事件が起き、様々なニュースが流れる。僕らはマスコミを通じてしか、そういう事実を知ることはない。取材するマスコミの人間が何らかの予断を持っていれば、間違った印象や出来事が伝わることになる。しかし、そのことを確かめる術もない。手元に届いた情報を、そうなんだ、と受け取ることしか出来ない。
そのこと自体は、仕方がない。僕らの努力で変えられることではない。ただ、そうやって届いた情報を「すべて正しいことなんだ」と思うことは、今すぐにでも止められる。
『なんかいかにもだなってさ、私も間違いなくそう思ってたんだ。何も知らないくせに。自分勝手に決めつけて』
他人のことなんて、分からない。直接会って話してたって、分からないのだ。僕は普段から、分かったような気分にならないように気をつけている。見えているのは、ほんの一部。そのほんの一部から、本質を捉えたような気になるのは止めよう、と。自分が相手をどう見ているか、という表明をすることは自由だが、それが正しいことだと押し付けるのは間違いだろう。そんなようなことを、普段から意識している。
ニュースは、分かりやすい構図に全体を押し込めようとする。その方が注目されるし、分かりやすいからだ。けれど、分かりやすい構図に当てはめられる状況なんて、ほとんどない。正確な正三角形がこの世の中に存在しないのと同じように、誰もが捉えやすい構図にピッタリ嵌まる事象なんてないはずなのだ。
この物語は、ニュースの奥にあるかもしれない現実を描き出してくれる。事件の背後にある現実を暴き出してくれる。
この作品は物語だ。しかし、これと同じことが、いつどこで起こっていてもおかしくはない。日々流れるニュースの裏側には、そのニュースでは絶対に描き出せない様々な人間模様がある。そこに目を向けてみたい。そんな風に思わせてくれる作品だ。
早見和真「イノセント・デイズ」
絶叫(葉真中顕)
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誰もが、幸せになりたいと思って、日々の様々な選択をしているはずだ。そうではない人生というのも、想定は出来るけど、特殊な状況を思い浮かべないと難しい。基本的に人は皆、生きている限り、幸せを追い求めたい生き物のはずだ。
誰もがその時々で最善だと思える選択をする。もちろん、知識がないが故に誤った選択をしてしまうこともある。ダメかもしれないと思いながら誘惑に負けてしまうことだってあるだろう。それでも、全体の方向性としては、全体の意識としては、それぞれの場面で皆、最善に近い選択を続けているはずなのだ。
それでも、なかなか良い結果にはたどり着けない。
良い結果がどんなものなのか、それは人それぞれ様々だろう。しかし、悪い結果というのは概ね方向性が決まっている。そして皆、何故か、良い結果を目指して選択をするのに、悪い結果に引きずり込まれて行ってしまう。
現代は、一度悪い結果に引きずり込まれてしまえば、そこから這い上がるのはかなり困難であるように出来上がっている。いつの間にか、そんな世の中に生きることになってしまった。失敗すれば、間違えれば、ミスを犯せば、あなたはすぐに今いる場所から転落し、元いた場所に戻るだけでもハンパではない労力を必要とする。
だから余計に転落するわけにはいかない。
そうやって皆、慎重になっているのに、それでもうまくいかない。普通のことを望んでいるだけなのに。普通に仕事をしてお金をもらい、時々好きなものを買い、愛した人から愛されるというような、ありきたりの人生を望んでいるだけなのに、それすらも簡単には手に入れることが出来ない。
社会に、大きな大きな穴が空いているとしか思えない。僕らの日常は、見えない落とし穴がそこら中に張り巡らされた環境の中にある。何も悪いことをしていなくても、ただ前進しているというだけの理由で穴に落ちることがある。
そうなった時、僕らはどんな風に生きていくべきだろうか。
『「自分ら、棄てられてんねん。表から見えんようにされ、いないことにされとる、見えざる棄民やねん」
捨てられた―、神代に言葉を与えられ、あなたは自分の身体の中心にある感覚に気づいた。
確かに、そうだ。
それが神代の言うように「社会」なのかどうかは分からない。けれど、何か大きなものに棄てられた、という感覚が確かにある。』
僕たちは、自分たちがそういう立場に陥るまで、自分がそういう人背を送る可能性があることなど考えない。自分が、社会から、あるいは何か大きなものから「棄てられる」可能性など微塵も考えない。だから、いつの間にか自分が棄てられていることに気づかされた時、呆然とし、その現実を受け入れることが出来ないだろう。
悪い選択は、きっとどこかにあったのだろう。しかしその悪さは、そんな穴に落ち込んでしまうほどの悪さではないはずだ。何故自分がこんなことに、とどうしても考えてしまう。
そして結局、その穴の中で生き抜くために、あなたは自分の中の何かを捨て、誰かを傷つけなければならなくなる。
社会の何かがおかしいことは間違いない。でもそれは、ちょっと見て分かるような単純なおかしさではない。色んなことが複雑に絡まりすぎて、どこから手をつけていいのか分からないまま、誰もが放置するしかないのだ。
僕たちは、こんな社会の中で生きているという自覚を持つしかない。自覚を持ったところで、穴に落ちることを確実に防げるわけではない。しかし、いつか穴に落ちるかもしれない、と警戒しておけば、最悪の事態は避けられるかもしれない。
希望を持ちにくい世の中だ。未来はいつだって見通せないが、僕らが生きる社会の未来はあまりにも濁っていて、未来があるのかどうかすら怪しく思えてしまう。
この物語を読んで、強く生きなければならない、と思う。でも、その感想は間違っているのではないかとも思う。強くなくても生きていける社会を作らなければならないのではないか、と思う。僕は、強くなくても生きていける社会に住みたい。それが、豊かさということなのではないかと信じたい。
内容に入ろうと思います。
本書は、二つの話が交互に語られる形で展開されていく。
一つは、奥貫綾乃という刑事の物語だ。
国分寺駅の「ウィルパレス国分寺」で住民が死んでいると通報があった。女性の一人暮らしで、状況からは孤独死であると考えられた。遺体は、ほとんど原型を留めていなかった。発見時かなり時間が経過していたこともあるが、室内にいた猫が死体を食べたために損壊されたという部分もあるようだ。その部屋の住民は鈴木陽子という名前だった。事件性は感じられないが、一応被害者である鈴木陽子について、戸籍を辿るなどの方法で調べることになった。
そこで綾乃は、鈴木陽子の戸籍に不審を持った。何度か結婚しているのはいい。しかしその度に本籍まで変えている。綾乃は、鈴木陽子の足取りを追うようにして戸籍を辿るが、不審な点は次々に現れてくる。
もしかしたら、単純な孤独死ではないのかもしれない…。
もう一つは、鈴木陽子の物語だ。
「あなた」と呼びかけをしながら鈴木陽子について語られる。自分ではなく病弱で優秀な弟ばかりに関心を向ける母とのわだかまりやから始まって、鈴木陽子という女性の人生を形作ったエピソードが語られていく。鈴木陽子の人生には、確かに色んなことが起こった。しかしそれらは、時代の流れの中では、起こってもおかしくはない不幸だった。
鈴木陽子は、とあるきっかけから一人で暮らし始める。自分のそれまでの碌でもなかった人生を立て直そうと、自分なりに必死になって努力した。しかし、平凡な幸せを手にしたはずが、それがいつの間にかするりと手から抜け落ちていく。彼女自身にも悪い選択はあった。けれど、彼女がたどり着いた場所は、彼女がしてきた選択に比べたらあまりにも不幸だった。
彼女は、底辺の底辺にいる時に、ある計画を思いつき、行動に移す。
というような話です。
凄い作品でした。
本書は、一応ミステリという括りに入れられるのだろう。冒頭で事件が起こり、それが謎の起点となって物語が展開していくのだから、ミステリと言えばミステリだ。しかし本書は、ミステリという型を借りているだけで、実際は人間を深く描き出している。さらに、鈴木陽子という一人の女性を、表からも裏からも描き出すことによって、僕らが生きている社会の欠陥さえも浮き彫りにする。
あなたはこの物語を読んで、どう感じただろうか?
自分とは無関係の物語だ、と感じたとしたら、あなたはある意味で幸せなのだろう。自分がどんな社会に生きているのかという現実に目を向けずに生きていられる人だ。あるいは、その現実を直視した上でそれを絶対に避けることが出来るという確信を持てる強い人なのだろうか?
僕には、誰しもが鈴木陽子になりうる、と感じられた。もちろん、鈴木陽子とまったく同じ人生を歩むことはないだろう。しかし、自分の出来る範囲の努力をして、きちんと普通の幸せを掴みに行ったのに、自分が気づかない内に社会に空いた穴にはまり込んで出られなくなってしまっている、という意味で、鈴木陽子と同じ人生を歩む可能性は、誰にだってあるだろう。そうではない生き方を出来た人というのは、本当に、ただ幸運だっただけなのだ。
『だから、何一つ選べない。どんなふうに生まれるか、どんなふうに生きて、どんなふうに死ぬか。人は髪の毛一本の行く末さえ、自分で選ぶことなんてできない』
これがどんな文脈の中で登場するのかは是非本書を読んで欲しいが、本書を読むと、そうだよな、としみじみさせられる。努力で変えられる部分がまったくない、とは僕も思わない。けれど、人生のほとんどは、ただそうであるように流れていくしかないのだろうな、とも思う。未来が決まっているのか、それは確かめようがないし、そう信じているわけでもない。けれど、抗いようもない流れ、みたいなものはあるはずだと思うし、その流れに絡め取られてしまったら最後、行き着く場所は限られているのだろうな、という風にも思う。
「絶叫」というタイトルは、主語も述語もないから面白い。誰が「絶叫」するのか、誰に「絶叫」されるのか。「絶叫」というものを広く捉えれば、本書に登場する主要な面々は皆、それぞれの「絶叫」を抱えていると言えるだろう。また、僕たちが生きている社会そのものもまた、その中で生きる僕らの様々な動きを感じ取りながら「絶叫」を内包しているのかもしれないという風にも思う。
本書の帯には、「ラスト4行目に驚愕」と書かれている。通常僕は、こういう表記が嫌いだ。最後の最後に驚きが待っている、ということを知った上で本など読みたくない、と思ってしまう。何も知らないまま驚かせて欲しい、と思うのだ。
でも、この作品に関して言えば、書いていてくれて良かった。書いてくれていなかったら、僕はこの物語のラストが秘めるある重要な要素に気づかなかったかもしれない。
生きていくということの残酷さを、そしてそんな残酷な世の中でどうやって生きていくのかという強さを知らしめてくれる作品だ。犯罪を扱った作品であるのに、ある種の清々しさの残る終わり方は、僕は好きだ。
葉真中顕「絶叫」