愛と暴力の戦後とその後(赤坂真理)
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「売り物である」ということを一切考慮せず、もし僕が本書のタイトルをつけるとしたら、【個人史から見る日本近代史】というような名前をきっとつけるだろう。実際のところ、著者の個人史が山ほど描かれるわけではない。しかし、著者の寄って立つ場所は、あくまでも個人的な場所だ。これは僕の勝手なイメージなのだけど、近現代史だろうが古代史だろうが、ともかく『歴史』を語る人は、一種の『神の視点』のような立ち位置から見ているように感じる。本書には、そういう印象はない。もっと、個人的な、あるいは身体的な(正確にこの言葉を使えているかは自信はないけど)ところから近現代史を眺めている。本書を読もうという方はまず、そういう前提で読んでみるのがいいのではないかと僕は感じる。
さて、本書にどんなことが描かれているのかに触れる前に、僕自身の『歴史』というものへの見方を書いておく。
僕は『歴史』というものが好きではない。積極的に嫌っている、と言ってもいいほどだ。
「歴史から学ぶこと」は大事だと思っている。過ちを繰り返さないという文脈でよく出てくるが、「歴史を学ぶこと」という動詞であれば受け入れられる。しかし、そもそもの大元である『歴史』そのものは好きになれない。
何故なら『歴史』には、否応なしに不確定さがつきまとうからだ。
僕には常に不思議に思うことがある。出来事自体は何でも良いのだけど、例えば、「南京大虐殺」が規模などはともかくとして、「事実あったかなかったか」というレベルで未だに議論がなされているのは、一体どうしてなのだろうか?
もしそれが実際に起こったことであるとすれば、高々数十年前の話である。なぜ、そんな直近の歴史さえ、「こうであった」と確定することが出来ないのか。
いや、それ自体は仕方のないことだと頭では理解できる。僕は基本的には理系の人間だが、理系の分野の多くは「人間」を要素として外すことができる。宇宙論における「人間原理」や、あるいは生命科学・医療など、要素としての「人間」を切り離すことが出来ない分野ももちろんあるが、多くの場合科学は「人間」と切り離したものを対象とすることができる。しかし、『歴史』は、むしろ「人間」こそが主要な構成要素である。であるからには、不確定な要素が山ほど出てくるのは、それは当然仕方がないことだと感じる。
だったら。そうであるなら、僕には理解できないことがもう一つ浮かぶ。
それは、そうであるならば何故、大昔に起こったことは「事実こうであった」という形で語られるのか?
高々数十年前の出来事さえも、あったかなかったのかさえ判然としない、それが『歴史』という学問の宿命であるならば、どうして、数世紀も前の出来事を疑いなく(疑いないような振る舞いで)正しいと主張する事ができるのか。
科学との対比で言えば、科学には「再現性」という神の如きルールが存在する。どれほど素晴らしい発見をしたところで、それが他の人間の手によって再現することが出来ないのであれば、その発見は認められない。また、再現性が認められたことであれば、たとえ数世紀前の発見であっても、現在においてもそれが真実であると確認することができる。
学問としてまったく違った種類である科学と歴史を同列に比較することの愚は重々承知しているつもりだが、個人的にはどうしても、上記のような理由から、『歴史』というものへの不信感がある。「人類が積み上げてきたことそのもの」という意味での『歴史』には経緯を払いたいと考えているが、「学問」としての『歴史』には基本的に関心が持てない。
だから、と言葉を繋げるのはきっと恥ずかしいことなのだと思うのだけど、だからこそ僕は、歴史に関する知識がほとんどない。一時期、高校で必修であるはずの歴史が教えられていなかった問題が取り沙汰されたことがあるが、まさに僕もまったく同じで、高校時代に歴史をまったく学ばなかった。そんなわけで、僕が持っている歴史の知識は、ごく平均的な日本人より大幅に下回るし、歴史に対する意見などもない。右翼と左翼の違いさえ、正直よくわかっていない。
そんな人間が本書を読んだのだ、という前提でこれから書く感想を読んでほしい。
本書は、先程も書いたように、【個人史から見る日本近代史】である。どの辺りが個人史的かと言えば、著者自身の直観や身体感覚に立脚していると思われる考え方、自身のアメリカ留学の際の経験、母親や兄たちとの対話、地域の公園の改修を検討する住民委員会の話など、著者自身の身近なところから疑問や違和感を見出しているところだ。それらの疑問や違和感を、作家的飛躍や、資料調査などを通じて、戦後の日本のあり方と接続させて語っていく。
『評論や研究では、感情と論理をいっしょくたにすることはタブーである。しかし、日本人による日本の近現代史がどこか痒いところに手が届かないのは、それを語るとき多くの人が反射的に感情的になってしまうことこそが、評論や研究を難しくしているからだ。だとしたら、感情を、論理といっしょに動くものとして扱わなければ、この件の真実に近づくことはできなかった。』
そうやって身近な疑問や違和感を突き詰めていく中で、著者は天皇・戦争・憲法など、戦後の日本が抱え、未だに消化しきれていない様々な膿のようなものの本質を見ようとする。
『日本の近現代の問題は、どこからどうアプローチしても、ほどなく、突き当たってしまうところがある。それが天皇。そして天皇が近代にどうつくられたかという問題。』
『私には、戦後の天皇は素朴な疑問であり続けた。なぜ、彼は罪を問われなかったのだろうと。なぜそれを問うてもいけないような空気があるのかと。最高責任者の罪を考えてもいけないというのは、どこかに心理的なしわ寄せが空白をつくってしまう。
正直に言うと私は、素朴に、天皇には戦争責任があると考える方だった。』
正直、右翼だとか左翼だとか、思想がどうのこうのなんてのがよくわからない僕には、著者が著作の中でこう断言することがどういうことなのか、きちんとは捉えきれない。でも、たぶん、これは勇気のある(僕が著者に賛成か反対かはともかく)宣言なんだろうなぁ、と思う。
僕は歴史について考えたことがなかったので、本書を読んでそう思わされたのだけど、なるほど、確かに言われて見れば、戦争の最高責任者である天皇が、罪に問われていない(これは、裁判の場に引きずり出されなかった、という意味でいいんだよな)というのは、不思議な感じがする。いや、それ自体には説明がきちんとある。天皇制を残した方がメリットが大きいと、アメリカが考えたという説明だ。確かにそうだろう。天皇の罪を問うた場合、正確には想像できないけど、反米的な感情はもっと日本人の中に根付いたことだろう。
著者が言うように、不思議なのは、「天皇の戦争責任について考えてはいけないような空気がある」ということの方だろう。これについては、著者の母の反応が顕著だ。著者の母は、著者が見る限りリベラル(この単語の意味も僕にはよくわかっていないんだけど)なのだけど、「真珠湾攻撃は問答無用で悪かった」「天皇制は守って当然だった」という時の語調は激しいのだという。まあ、理解できないとは言わない。それまで天皇は「神」だったわけだから、そんな存在の罪など考えられるわけがない、ということなのだろう。しかし著者は、結局そうやって天皇の戦争責任に蓋をしたことが、日本のよじれに繋がっているのではないかと書く。
『論理的には罪を問われるべき人が罪を問われない場合、その人はよじれそのもののような存在となる。そこに人々は、自分の罪が支えられて押しとどめられているのを、無言のうちに見ていたのではないか』
天皇の扱いは、日本人の心象に影響を与えたが、戦争そのものは日本の形そのものに影響を与えた。本書には、そんなことが書かれているように感じる。
『「戦争」とか「あの戦争」とか言ってみるとき、一般的な日本人の内面に描き出される最大公約数を出してみるとする。
それは真珠湾に始まり、広島・長崎で終わり、東京裁判があって、そのあとは考えない。天皇の名のもとの戦争であり大惨禍であったが、天皇は悪くない!終わり。
真珠湾が原爆になって返ってきて、文句は言えない。いささか極論だが、そう言うこともできる。でもいずれにしても天皇は悪くない!終わり。
その前の中国との十五年戦争のことも語られなければ、そのあとは、いきなり民主主義に接続されて、人はそれさえ覚えていればいいのだということになった。平和と民主主義はセットであり、とりわけ平和は疑ってはいけないもので、そのためには戦争のことを考えてはいけない。誰が言い出すともなく、皆がそうした。それでこの国では、特別に関心を持って勉強しない限りは、近現代史はわからないようになっていた。』
本書では、「ドラえもんの世界で描かれるような空き地」「学生運動」「トレンディドラマや任侠物の映画」「オウム真理教」などの話が出てくるのだが、その背景に著者は戦争を置く。近現代史の背景にはすべて戦争が横たわっている。著者はそんな風に近現代史を捉えているのだろう。そして、きっとそれは当たり前のことなのだ。あれだけ(と言って、別にちゃんと知っているわけでもないのだけど)の惨劇を、未だに日本人は消化しきれていない。そして、国も結局何もしないで色んなものをほったらかし、あるいは民間に丸投げした。その結果、様々なものが生まれたり残ったりした。だから、近現代史の様々なものが、戦争と接続する。しかし一方で、著者が指摘するように、「戦争については考えない」というような雰囲気がどこかあったのだろう(僕には実感はない。実感がない、という事実こそが、それを証明していることになるのかもしれないけど)。だからこそ、様々なものの背景が分かりにくくなった。本書では、近現代史に登場する、あるいは著者の身近な場面で登場する様々なものを描き出すことで、その背景に横たわる「戦争」という、あまりにも大きなものを描いて見せる。
『大日本帝国軍は大局的な作戦を立てず、希望的観測に基づき戦略を立て(同盟国のナチス・ドイツが勝つことを前提として、とか)、陸海軍統合作戦本部を持たず、嘘の大本営発表を報道し、国際法の遵守を現場に徹底させず、多くの戦線で戦死者よりも餓死者と病死者を多く出し、命令で自爆攻撃を行わせた、世界で唯一の正規軍なのである。』
著者はそんな風に書く。恐らくこの記述にも賛否様々あるのだろうけど、もしこの記述が真実なのであるとするならば、そりゃあ「戦争」についてなんか考えたくないよな、と同感する。戦争を主導してきた者からすれば、自らの無能さを突きつけられるだけのことであるし、戦闘に従事したものからすれば自分が信じて付き従っていった上位の存在がそんなお粗末なものであったとは信じたくはないだろう。双方の利益が合致して、「戦争」というものを出来るだけ語らない、語ったとしても「良かった面」だけをピックアップする。そんな語り方になって言ったのかもしれない、と本書を読んで感じた。
戦争に関する記述では、こんなものもあった。僕は歴史を知らないので、歴史を知っている人には常識なのかと思っていたけど、僕よりは歴史に詳しい人に以下の話をしてみたら、知らなかったようで驚いていた。割と知らない日本人は多いのかもしれない。
『ちなみに、アメリカ人の正義の旗印とされた「真珠湾だまし討ちしたんだから日本が悪い、『リメンバー・パールハーバー』」だけれど、当のGHQが主宰した極東国際軍事裁判(東京裁判)で、「だまし討ちではない」という判決が出ている。「だまし討ち」の論拠は、「宣戦布告から攻撃まで時間をおかなければならない」というハーグ条約の取り決めの中にある。だけれど、その条約に「どのくらい時間をおく」という記載がなく、「条約自体に構造欠陥がある」とみなされたため』
僕が知らないのは当然(と言い切るのはよくないけど)として、みなさん知っていましたか?当のアメリカが、あの戦争を、日本によるだまし討ちではない、と裁定しているんだそうです。
著者はこんな風に、元の元に当たる、ということを繰り返す。
それは、憲法や条約に関する記述に顕著だ。
憲法や条約は、元々英語で書かれたもの(英語で書かれたのは草案なのかな?詳しくは知らない)を日本語訳したものだ。ここで著者は、元の英文に当ってみる。すると色んなことが見えてくる。
『日本にとっては、自分が言いもしない欲望を、他人が明文化し、しかも自分が呑む。これは倒錯的なことだ。そんな倒錯的な条文が、責任の所在がどこまでもクリアな英語で書かれていて、物語の域に達している。こんなに物語的な条文を私は読んだことがない』
これは、日米安全保障条約を読んだ著者の感想だ。前文では、「日本国は欲する/アメリカ合衆国との間に安全条約を結ぶことを」と書かれ、第一条には、「日本国は保証し、アメリカ合衆国はこれを受け入れる/陸・空・海の武力を日本国内と周辺に配置することを」と書かれているという。主語はどちらも「日本国」。日本がそうしてくださいとお願いしたというような文章になっているのだという。
また単語レベルでもこういうことはある。「戦争を放棄する」の「放棄」は「renounce」という単語だが、これは明確に「自発的に捨てる」という意味だという。それを、日本人ではなくアメリカ人が書く。あるいは、「侵略戦争」の元になる単語は「War of aggression」だそうだが、これは「侵略戦争」とも訳せるが、「先制攻撃」とも訳せると著者は言う。
そもそも憲法は、日本人自らが欲して生み出されたものではない、と著者は言う。明治維新に伴って開国する際、「外国が持ってるから日本にもなくては」という理由で導入された。だから、と繋げるのはおかしいかもしれないが、日本人の大半は、「憲法」の「憲」という漢字の意味を答えることが出来ない。著者は、著者の周りにいる知識人30人に聞いて、やっと一人即答してくれた、と書いている。
元々内側から欲したわけではないものを、外国の言葉を翻訳する形で受け入れる(さらに日本国憲法は、書き言葉をさらに口語に翻訳する、という段階まで存在したという)。「翻訳」というのは、注意が必要だ。著者は、例えば先の大戦が「侵略戦争」であったかどうか、ということを議論したいわけではない、と書いている。そうではなく、そもそも「侵略戦争」という単語がどんな文脈によって、どんな翻訳によって生み出された言葉なのか、そこをまず押さえるべきなのではないか、と主張する。確かにこれは、非常に面白い視点だと感じた。そもそも僕には、日本国憲法が「翻訳によって」生み出された、という感覚はなかった(GHQが作った、という知識はあったけど、それが「翻訳」を伴うものだという認識まで達していなかった)。言葉は、単に言葉の違いではなく、概念の違いだ。著者はそれを、「people」という単語を例に出して説明する。あの有名な、「of the people, by the people, for the people」の「people」である。これは「人民」と訳されるが、決して「国民」ではない、と著者は指摘する。そして、日本には、「people」に該当する概念はついぞ生まれなかったのではないか、と。
『私は歴史に詳しいわけではない。けれど、知る過程で、習ったなけなしの前提さえも、危うく思える体験をたくさんした。
そのときは、いつも原典を信じることにした。
これは、ひとつの問いの書である。
問い自体、新しく立てなければいけないのではと、思った一人の普通の人間の、その過程の記録である』
本書全体を通して見ると、一貫したまとまりを感じ取ることはなかなか難しい。それは、「時には問い自体を立てなければならなかった」という、著者の迷いの行軍だったからだろう。僕は決して研究書のような作品を求めていたわけではないのだけど、このまとまりのなさみたいなものは本書の弱点であると感じた。いや、正直に言えば、僕のように歴史に対する知識も意見もない人間には、これぐらいのまとまりのなさの方が読みやすいとは思う。そういう意味で、僕のような人間に向いている作品といえるかもしれない。しかし、本書のような本を自ら積極的に手に取るような人に、僕のような人間はなかなかいないだろう。そういう意味で、本書のまとまりのなさは響きにくいかもしれない。講演なんかで聞いている分には、話しながら話題を取捨選択したり、状況に応じて構成を変えたりするようにして、本書の内容は非常に面白くなるだろうけど、本というまとまりで読む時、このあちこちに思考が
飛ぶ感じ、個人的な部分から出発している感じがどう受け取られるのか、僕にはなんとも言えない。
僕がいいなと思った点は、可能な限りの一次情報にアクセスしようとする姿勢だ。それを著者は「原典」と呼ぶが、とにかく、大元の大元まで遡ろうとする。そしてその「原典」を、なるべくそのまま受け取って解釈して提示してくれる。そんな風に僕には感じました。それが、僕がなんとなく抱いている「歴史」という学問と違っていて、なかなか面白く読めた作品です。やはり、僕自身に知識も意見もないことが描かれているので、どんな風に受け取っていいのか難しいものも多かったのですけど。
冒頭でも書いたけど、僕は「歴史」に対して不信感がある。まさに現在進行形の出来事であっても解釈は割れる、数十年前の出来事なのにあったかなかったかも確定できない。それなのに、数世紀前のことはさも当然であるかのように語る。この矛盾は、やはり僕の中から生涯消えることはないでしょう。とはいえ、「天皇」「戦争」「憲法」などについて知るためのちょっとした武器をもらえたような気分になれる作品でした。様々な議論が平行して存在する、あるいはまるで存在しないかのように語られない。そんな、近現代史における様々な要素を捉えるための見方の一つを手に入れたような気分になれます。「天皇」も「戦争」も「憲法」も、日常からはとても遠い。実は近いところと接続しているのかもしれないけど、そんな風には思えない。でも、日本の、そして日本人の背景には、否応なしにこれら三つが不動の如く横たわっている。知らないわけにはいかない、と書くつもりはありません。知らなくても、問題なく生きていけるでしょう。ただ、これらを知らずして、日本や日本の歴史や外国の歴史を語ることは、きっと恥ずかしいことなのだろうな、と僕は感じました。歴史が好きであればあるほど、近現代史を眺めるちょっと変わった視野を手に入れてみてはいかがでしょうか?
赤坂真理「愛と暴力の戦後とその後」
アップルソング(小手鞠るい)
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『怖くはありません。なぜなら私は、炎の中から生まれてきたのです』
一人の女性が、世界に名を馳せた一人戦場カメラマンの生涯を追う。鳥飼茉莉江。彼女は、「岡山無警報空襲」の後、兄の手で瓦礫の山から救い出された幼子だった。
炎の中から生まれてきた幼子が、いかにして世界的な戦場カメラマンとなっていったのか。その軌跡を、丁寧に、化石を掘り出すようにしてゆっくりと描き出していく。
母親の違う兄弟たちとの共同生活、突然のアメリカへの移住、沈んだような青春時代、彼女をニューヨークへと駆り立てた出来事。様々な出会い。そして、それまでに経験してきた様々な断片が、排水口に集まるようにして、最終的にスーッと収斂していく。
『この世界は、美しくないもので満たされている。この世界は、美しくない。醜い。むごい。残酷で冷酷だ。非情で非業だ。私は、この醜い世界を撮りたい。悪、憎悪、暴力、虐待、争い、奪い合い、殺人、札商、殺戮、人の悪がもたらす悲劇。私はそれらを撮り続ける。』
美しいものに惹かれて、美しいものを撮りたくて必死でカメラを手に入れた日々。美しいものを撮り続けた日々。茉莉江にはそんな日々が確かにあった。その時間が、堆積が、いかにして「この醜い世界を撮りたい」に変わっていったのか。それは、茉莉江を襲ういくつかの出来事の集積の結果ではあるが、しかし、その端緒は、突然アメリカで暮らすことになった少女が、氷川丸の中で見たある光景の中にも存在していた。
『一枚の絵、一枚の写真、一冊の本、この世界で起こる出来事、この世界に存在している、ありとあらゆる物は、言葉は、ときには人も、戦争でさえ、光の当て方によって、当たり具合によって、どこにどのぐらい当てるかによって、色を姿を形を影を、ときには本質すら、変えてしまうものなのだ、と。』
自ら戦場に飛び込んでいく以外は、決して激動といえるほどではない茉莉江の人生。しかしその人生を深く丹念に解きほぐしていくことで、一人の女性の、世界と対峙する覚悟、未来を希望する祈りのようなものが滲み出てくる。
そして、そんな茉莉江の人生を掘り起こしていくのが、一人の女性だ。
この女性が何者であるのかは、最後の最後まで明かされることはない。茉莉江と一体どんな接点を持つ人物なのか、読んでいる間はわからない。
彼女は、執拗にという表現で言い過ぎではないほどに、茉莉江の人生に執着する。茉莉江が生み出したものに触れ、茉莉江が関わっていた人から話を聞き、茉莉江が見たであろう光景を追体験する。その執拗さ。彼女の背景に、茉莉江とのどんな繋がりがあるのか。
一人の女性が、他人の人生に踏み込んでいく。そこに、希望を感じ取る人もいるかもしれない。自分が死んだ後も、こんな風に、誰かが自分の軌跡を追いかけてくれるかもしれないと。
というような話です。
なかなか素晴らしい作品だと感じました。正直に言えば、読み始めはさほどそうは感じなかったのですが、読み進めていくに連れて重厚感が増していく感じがありました。それはさながら、薄いパイ生地を次々に重ねていくようなものかもしれません。一枚一枚のパイ生地はとても薄い。それ一枚だけを取り上げても、物語にはならない。しかし、それを幾重にも幾重にも重ねていく。するとやがてその重なりは、当初思い描いていたよりもずっと厚くなっていることに気づく。
全体の構成が、非常にうまい作品だと感じました。物語は、様々な人物の視点によって展開されていくのだが、大きく分けて、「茉莉江あるいは茉莉江と同時代の人の視点」と、「茉莉江を追う現代に生きる女性」の二つに分けられる。そしてこの二つのパートが、実にうまく折り重なって物語が進んでいくのだ。茉莉江の時代の描写と繋がるようにして現代のパートが描かれ、現代のパートと繋がるようにして茉莉江の時代が描かれていく。そうやって一個のボールを時空を超えて投げ渡していく中で、少しづつ、綿菓子のようにそのボールが大きくなっていくのだ。
また、現代史を物語の中に絶妙に絡ませているところも巧い。これに関しては、惜しいと感じる点もあるのだけど、全体としては非常に巧く成り立っていると感じる。
茉莉江、そしって茉莉江を追う女性の人生のあちこちに、現代史が色濃く関わっていく。歴史に詳しくない僕でさえ、さすがに名前ぐらいは知っている出来事が描かれていく。そしてそれが、ただ時代背景を描き出すための小道具として出てくるのではなく、茉莉江の人生に、ストーリーそのものに、深く関わっていくことになる。
正直に言えば、有名な出来事に関わり過ぎている、という感じを受けなくもないが、そこは茉莉江が戦場カメラマンであるという設定が非常にうまく利いている点でもあると感じる。それぞれの出来事が、茉莉江に何をもたらし、どう決断を迫るのか。現代史を効果的に使った構成が巧いと感じます。
さらに、それぞれの出来事の細部が非常にリアルだと感じました。これも、僕が歴史に詳しいわけではないので的はずれな感想の可能性もあるけど、描かれる出来事の現実感をうまく捉えている感じがしました。有名な出来事を描いているが故に、おそらくですが、「読者が知っているはずのこと」には敢えてあまり言及していないのではないかという気がします。そして、そうではない、現場にいた人間だからこそ感じられる手触りだとか、そんな風だったのかと思わせるようなちょっとしたエピソードをうまく入れ込むことで、出来事のリアリティをうまく醸し出しているように感じました。
ただ、現代史の挿入の仕方には、少し不満もあります。時々、物語から外れて現代史に焦点が移りすぎていると感じる場面もありました。その後で、ちゃんと物語に戻ってくるのですが、一瞬、ただ歴史の一場面を切り取っているだけのような、その場面がどう物語を関わってくるのかイマイチ想像出来ないような、そんな描写がポンと投げ込まれることがある印象がありました。そういう場面では、もはや作中の誰も主人公ではなく、ただその出来事だけが描かれることになる。三人称で描かれていて、さらに視点もどんどん変わっていく物語なので、「誰かの視点でその出来事を切り取れ」と言うつもりはないのだけど、そういう場面が出てくると、ちょっともったいないという感じになりました。
構成について言えばもう一点。これは僕の中では結構大きな瑕疵だと思っているのだけど、冒頭、もう少し「鳥飼茉莉江」という人物についての描写が必要ではないかと感じました。
冒頭数ページで、鳥飼茉莉江という写真家がいたのだという説明がなされた後で、すぐに岡山での空襲の話になる。茉莉江の生涯を生い立ちから追っていくという構成はいいのだけど、しかし、「鳥飼茉莉江」がどんな人物なのかもまだ良くわかっていないのに、生い立ちから読ませるというのは、かなりハードルの高いことなのではないかと感じます。後半に行けば行くほど、鳥飼茉莉江という人物の厚みは増していくし、読み応えも出てくる。しかし、読み始める前の読者には、まだそれは伝わらない。冒頭で、鳥飼茉莉江という人物の特異さ、凄さ、価値観など、何でもいいから鳥飼茉莉江という人物に読者をもっと惹きつけておいた方が、物語がグッと魅力的になるのではないかと感じました。そこは、本当にもったいないと感じます。「冒頭にこんな風に描かれている鳥飼茉莉江という人物は、一体どんな風にしてこんな女性になったのだろう?」と読者に思わせることが出来るような書き出しがあれば、もっとよくなるのではないかと感じます。
僕は鳥飼茉莉江という人物を、「世界に傷を刻み込む人物」と捉えた。
この捉え方は、普通に考えればおかしい。別に彼女が、世界に傷をつけているわけではない。傷のあるところへと飛んでいって、それを記録するだけだ。
しかし、そうではないのかもしれない、とも思う。
茉莉江が向かうところは、普通の人が入り込むことなどまず出来ないような場所ばかりだ。それはすなわち、そこに傷が存在していることなど誰も気づかない、ということも意味する。
だから彼女のカメラは、「傷を記録するための道具」であると同時に、そもそも、「世界に傷を刻み込むための道具」だったのではないかとも思う。彼女の写真を見るだけの人にとっては、彼女の写真を見ることで初めて「世界の傷」を認識することが出来る。それは、大げさに言ってしまえば、「世界に傷を刻み込んでいるのが茉莉江自身だ」と言い換えも出来るだろう。彼女は、そこに絶望的に存在している傷を記録するために、同じ傷を自分自身で刻んでいく。シャッターを押し続けることで、彼女は世界に傷を刻み込んでいく。
『この会場にいる人たち全員が、望むと望まざるとにかかわらず、戦争にかかわっている、ということを、自覚しなくてはなりません』
彼女には、その自覚があった。シャッターを切ることがこの世界に傷を生むことなんだと。自分も加害者の一人なのだと。きっとそういう意識を持ち続けたのだろう。美しいものの中に留まり続けることなど出来なかった一人の女性の、それが結論だ。
だからこそ、最後、最後の最後、茉莉江が選んだ行動に、感動を覚えるのかもしれない。加害者である自分が成すべきこととはなんだろうか?という自問の行き着く先が、あの行動だったのかもしれないとも思う。彼女は、彼女がその時真っ先に捨てたものの重さを誰よりも知っていた。この物語はずっと、その重さのことを書いてきたと言っても半分ぐらいは当たっているだろう。それを「勇気」や「決断」と呼ぶのはよそう。「意思はなかった」と、そう茉莉江は言っている。意思はなかった。それは、彼女自身が幼き日に自らにプログラムした、ある種の約束だったのかもしれない。
人生は、思った通りには進まない。回り道だと思っていたものが唯一のルートっだったり、踏み込むことなど出来ないと思っていた場所が安住の地であることもある。微視的な視点で人生を眺めていると見えてこないものを、一生を濃密に描き出していくことで描き出した作品であるように感じる。
世界は、思いがけず繋がっていく。茉莉江を追う女性は、茉莉江との関わりをどんな風に自分の人生に組み込んでいくのだろうか?「物事に理由を求めても、正しい答えには、たどりつけない」と悟った彼女が、自らと茉莉江との関わりの中に見出しているものは、一体なんだろうか?
レンズという目を獲得し、世界に傷を刻み続けた女性と、歴史の堆積から一人の女性の軌跡を追い求めようとする女性。二人の、ほぼ交わることのない人生は、歴史に残る出来事を様々に背景にしながら向かい合っている。その日本の線はどこかで、僕達が生きている世界と接しているように思えてならない。そんな風に思わせる作品でした。是非読んでみてください。
小手鞠るい「アップルソング」
介護はつらいよ(大島一洋)
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内容に入ろうと思います。
本書は、元名物編集者であり、本書刊行時点で現在進行形で100歳を超える父親の介護を男手一人でやっている著者による、父母の介護を描いた作品です。
『つまり、男の私一人が父と母の介護をしなければならないことは、ずいぶん前から覚悟していたのです』
『介護は、個人差や家庭環境の違いで、大きく異なります。介護の本はたくさん出版されていますが、本書の特徴は、男が一人で両親を看取ったという点です。』
事情があって、妻と子を東京に残して一人で介護しなくてはならない著者の様々な奮闘が描かれる作品で、確かに「男が一人で両親を看取った」という点はなかなか珍しいのかもしれないと思います。
ただ本書は、作品としてはなかなか難しい点があるな、と僕は感じます。
本書は、ずっとネット上で連載を続けていた介護日記に手を加えた作品のようです。僕が難しいと感じた点は、本書の内容が「介護」に特化していない、という点です。
日記が元になっているので、著者の日常的なこと、考え、過去の仕事のことなど、様々なことに触れられていきます。好きなAV女優の話が出てきたり、「文藝春秋」誌上の本木雅弘の文章を褒めていたり、「男はつらいよ」について書いていたり、藤圭子の離婚の真相を知っていると匂わせたり、猪瀬直樹との過去の因縁を告白していたりします。
これらはこれらで、それ単体で見れば非常に面白い話題でしょう。名物編集者だったとのことなので(僕自身は、どんなことをされてきた方なのか、詳しいことは知らないのですけど)、そういう過去の様々な経験などは、それはもう色んなネタが山ほどあることでしょう。
しかし、それを、「介護」をメインに謳った作品の中で書く意味が、一体どこにあるのだろう?と僕はどうしても疑問でした。
本書は、もっともっと介護の部分に特化するべきだったと僕は感じます。「男一人で両親を看取った」というのは、実際になかなか珍しい経験だろうと思われます。恐らく今後の世の中では、そういう経験をする方は増えてくるでしょうし、著者がもっと「介護」に特化して様々なことを書くことで、これからの人の役に立つような作品に出来たかもしれません(まあ、先ほど引用したように、「介護は、個人差や家庭環境の違いで、大きく異なります」と書いているので、どうせ自分の経験を書いたところで参考になることはない、と割り切っていたのかもしれませんが)。
本書は、どうしても焦点が「介護」に絞りきれていないために、「日記」の域をなかなか越えられないという印象でした。日記としてであれば、これでいいと思います。「大島一洋」という著者のことを知っている人はそれなりにいるのでしょうし、そういう人やその周辺の人に「大島一洋」という人間を伝える、ということが目的の作品であれば、本作は存在する意味があると思います。ただ、「介護の本」という意味で捉えた場合、本書は、情報としても、体験談としても、あまり強い何かを持っている作品ではないよなぁ、と感じてしまいました。
もちろん、詳しい描写は色々と書かれています。特に、様々な金額については、タクシー代に至るまで事細かに書かれています。情報として有用だと感じる人もいるかもしれません。介護タクシーは、市民でなければ料金がかなり高く、ワンメーターでも7180円もかかる、なんていう情報は、実際に介護をする身になってみないと分からないことかもしれません。亡くなった妻の貯金を父親の口座に移す手続きも面倒だった、という話も経験者だからの実感でしょう。男一人の介護を覚悟している人には、ある程度シミュレーションが出来るような作品かもしれません。
でもやっぱり僕としては、この作品は、もっと介護に焦点を当てるべきだったと考えます。家族の話、しかも母親に関しては看取ってもいるので、どこまで書くかの線引はなかなか難しいでしょうし、外野がとやかく言うことではないのかもしれません。とはいえ、作品として世に出すのであれば、もう少し違った形、違ったやり方で作品に仕上げるべきだったのではないかなぁ、という感じがしました。
大島一洋「介護は、つらいよ」