古本屋開業入門(喜多村拓)
昔僕が住んでいた街(と言っても、今住んでいるところから二駅しか離れてないんだけど)には、駅周辺に古本屋が四軒もありました。
と先に書いておかなくてはいけないのが、古本屋とは何か、ということですね。僕が普段古本屋という時は、それはブックオフみたいなところを指しますが、しかし今回の感想ではちょっと言葉を分けましょう。ブックオフのようなところを「新古書店」、昔ながらの頑固なおじさんがやってそうな古本屋を「古本屋」と呼ぶことにしましょう。
そういう意味で言えば、その前に僕がいた街にあったのは、新古書店が2二軒と古本屋が二軒となります。
どれもそこまで規模としては大きくなく、新古書店の方もたぶんどちらもチェーン店ではなかったような気がしますが、とにかく僕はその四軒を結構回って本を買ったものでした。
僕は大抵本を新古書店で買います。本屋で働いているのに、と言われそうですが、確かにその通りです。ただやはり普段から大量に本を買っているので、なかなか普通の本屋で買うとお金が大変です。僕の場合は、新古書店で買った本を読み、それで得た知識を元にお客さんにいい本を勧めている、と解釈して自分の中でオーケーにしています。
話がずれましたが、そんなわけで僕はよく新古書店に行きます。引っ越したりとかすると、結構すぐに新古書店探しをしたりします。もちろん同時に普通の本屋も探しに行くのですが、古本屋を探すということはあまりないですし、古本屋に本を買いに行くということもあまりありません。
その前によく行っていた古本屋二軒も、大抵買うような本はありませんでした。どちらも、こんな本誰が買うんだろうなぁ、というような本がずらりと並んでいて、とても商売が成功しているようには見えませんでした。売れない本がたくさん並んでるな、とそんな印象です。
時々新古書店に本を買い取ってもらうことがありますが、誰もがそう思うでしょうが、買取額はすごく安いですね。そこから考えると、すごく儲かってるんだろうな、とか思ってしまうのだけど、どうもそうでもないようです。仕入れた本のほとんどが売れないわけで、それを見込んで安く買い取らなくてはやっていけない、とのことです。
確かに、今僕がよく行っている新古書店があるんですけど、そこもずっと同じような本が棚にささっています。もう2年くらい通っていると思いますが、2年間ずっと売れていない本がほとんどといった印象です。回転しているものはほんの一部で、ほとんどが不良在庫なのだろうな、という風に思ったりします。
今はネットで古本屋を始めるのがブームだそうで、セドラーと呼ばれる若者達が生み出されてきているようです。
セドラーというのは、「せどりをする人々」という意味ですが、じゃあ「せどり」って何だよ、って話ですね。「せどり」とは、ある古本屋で何故か相場より安く売られている本を見つけ出し、それを他の古本屋に転売して利益を出す仕事のことです。
このせどりというのは昔から古本屋業界に存在したようですが、最近では若者がこのせどりをしているようです。場所はなんと、ブックオフの100円均一コーナー。そこから若者達は、まあそれなりに売れそうな本を抜き出しては、それをネットで売っているんだそうです。まあ儲からないでしょうけど。
儲からないと言えば、とにかく古本屋という仕事自体が儲からないようです。最近は人々が本を読まなくなったこともあって、確実に本の需要が減っているのだそうです。僕も、本屋で働いていてそんな印象は受けます。売れる本は売れますけど、売れない本はまったく売れないという二極化という感じですね。
そんなわけで取りとめもなく古本屋についていろんな話を書いてみました。そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、青森で古本屋を営んでいる著者が、古本屋開業のノウハウを具体的に細かく書いた本になります。
とにかく本作は、細かな実際的な仕事や手続きなどについて書かれていて、非常に実践的です。これを読めば、明日からでも古本屋を開業できそうな、それくらい具体的な仕事内容が書かれています。だから、これから古本屋を始めようと思っている人には最適なテキストになると思います。
ただ、本作はそういう古本屋開業について詳しく書かれた本ではありますが、それは「みんなも是非古本屋を始めましょうね!」という思想で書かれた本ではありません。それとは逆に、「ほら古本屋というのはこんなに大変なんです。だから止めた方がいいですよ」という思想で書かれた本です。
とにかく本作の中にも随所に書かれていますが、本が好きでないととてもじゃないけどやってられない商売です。脱サラしてまで古本屋を始めようという人が相談にくるらしいんですけど、「前もらってた給料を大きく下回るのは間違いないから止めた方がいい」というそうです。それくらい儲からないし大変な仕事なわけです。
こういうハウツー本としては珍しいと思います。大抵、「これはオススメだからどうぞ!」という紹介をするために本を書くのに、本作の場合、「これはオススメできないから止めた方がいいよ」という紹介をするために本を書いているからです。まあありえないですけど穿った見方をすれば、これ以上同業者を増やさないように敢えて厳しいことを言っている…なんてことはまあないでしょうね。
本作の著者がやっている古本屋は、なんというか厳密には古本屋ではありません。店売りはやっていなくて、完全にネット販売のみです。以前は普通の街の古本屋さんとして店売り一本でやっていたのですが、万引きに悩まされ続け、やむなく店売りを諦め、倉庫を借りてそこに在庫を押し込み、ネットでの販売一本に踏み切ったようです。店売り以上に煩雑な手間の掛かるネット販売だけでやっているわけで、万引きには悩まされないかもしれませんが、それはそれで大変だろうなとやはり思います。
というわけで、これから古本屋をやろうと思っている人(店売り、ネットを問わず)は、是非とも読んだ方がいい本だと思います。これだけ大変な仕事内容を読み、また著者も止めた方がいいよと警告している中で、あなたは古本屋を開業する勇気がありますか?ということを問われる本です。読んで損することはないでしょう。もちろん、古本屋を開業するつもりのない人でも、ただの読み物として面白い本になっています。もちろん僕も開業する予定はまったくありません。読んでみてください。
喜多村拓「古本屋開業入門」
と先に書いておかなくてはいけないのが、古本屋とは何か、ということですね。僕が普段古本屋という時は、それはブックオフみたいなところを指しますが、しかし今回の感想ではちょっと言葉を分けましょう。ブックオフのようなところを「新古書店」、昔ながらの頑固なおじさんがやってそうな古本屋を「古本屋」と呼ぶことにしましょう。
そういう意味で言えば、その前に僕がいた街にあったのは、新古書店が2二軒と古本屋が二軒となります。
どれもそこまで規模としては大きくなく、新古書店の方もたぶんどちらもチェーン店ではなかったような気がしますが、とにかく僕はその四軒を結構回って本を買ったものでした。
僕は大抵本を新古書店で買います。本屋で働いているのに、と言われそうですが、確かにその通りです。ただやはり普段から大量に本を買っているので、なかなか普通の本屋で買うとお金が大変です。僕の場合は、新古書店で買った本を読み、それで得た知識を元にお客さんにいい本を勧めている、と解釈して自分の中でオーケーにしています。
話がずれましたが、そんなわけで僕はよく新古書店に行きます。引っ越したりとかすると、結構すぐに新古書店探しをしたりします。もちろん同時に普通の本屋も探しに行くのですが、古本屋を探すということはあまりないですし、古本屋に本を買いに行くということもあまりありません。
その前によく行っていた古本屋二軒も、大抵買うような本はありませんでした。どちらも、こんな本誰が買うんだろうなぁ、というような本がずらりと並んでいて、とても商売が成功しているようには見えませんでした。売れない本がたくさん並んでるな、とそんな印象です。
時々新古書店に本を買い取ってもらうことがありますが、誰もがそう思うでしょうが、買取額はすごく安いですね。そこから考えると、すごく儲かってるんだろうな、とか思ってしまうのだけど、どうもそうでもないようです。仕入れた本のほとんどが売れないわけで、それを見込んで安く買い取らなくてはやっていけない、とのことです。
確かに、今僕がよく行っている新古書店があるんですけど、そこもずっと同じような本が棚にささっています。もう2年くらい通っていると思いますが、2年間ずっと売れていない本がほとんどといった印象です。回転しているものはほんの一部で、ほとんどが不良在庫なのだろうな、という風に思ったりします。
今はネットで古本屋を始めるのがブームだそうで、セドラーと呼ばれる若者達が生み出されてきているようです。
セドラーというのは、「せどりをする人々」という意味ですが、じゃあ「せどり」って何だよ、って話ですね。「せどり」とは、ある古本屋で何故か相場より安く売られている本を見つけ出し、それを他の古本屋に転売して利益を出す仕事のことです。
このせどりというのは昔から古本屋業界に存在したようですが、最近では若者がこのせどりをしているようです。場所はなんと、ブックオフの100円均一コーナー。そこから若者達は、まあそれなりに売れそうな本を抜き出しては、それをネットで売っているんだそうです。まあ儲からないでしょうけど。
儲からないと言えば、とにかく古本屋という仕事自体が儲からないようです。最近は人々が本を読まなくなったこともあって、確実に本の需要が減っているのだそうです。僕も、本屋で働いていてそんな印象は受けます。売れる本は売れますけど、売れない本はまったく売れないという二極化という感じですね。
そんなわけで取りとめもなく古本屋についていろんな話を書いてみました。そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、青森で古本屋を営んでいる著者が、古本屋開業のノウハウを具体的に細かく書いた本になります。
とにかく本作は、細かな実際的な仕事や手続きなどについて書かれていて、非常に実践的です。これを読めば、明日からでも古本屋を開業できそうな、それくらい具体的な仕事内容が書かれています。だから、これから古本屋を始めようと思っている人には最適なテキストになると思います。
ただ、本作はそういう古本屋開業について詳しく書かれた本ではありますが、それは「みんなも是非古本屋を始めましょうね!」という思想で書かれた本ではありません。それとは逆に、「ほら古本屋というのはこんなに大変なんです。だから止めた方がいいですよ」という思想で書かれた本です。
とにかく本作の中にも随所に書かれていますが、本が好きでないととてもじゃないけどやってられない商売です。脱サラしてまで古本屋を始めようという人が相談にくるらしいんですけど、「前もらってた給料を大きく下回るのは間違いないから止めた方がいい」というそうです。それくらい儲からないし大変な仕事なわけです。
こういうハウツー本としては珍しいと思います。大抵、「これはオススメだからどうぞ!」という紹介をするために本を書くのに、本作の場合、「これはオススメできないから止めた方がいいよ」という紹介をするために本を書いているからです。まあありえないですけど穿った見方をすれば、これ以上同業者を増やさないように敢えて厳しいことを言っている…なんてことはまあないでしょうね。
本作の著者がやっている古本屋は、なんというか厳密には古本屋ではありません。店売りはやっていなくて、完全にネット販売のみです。以前は普通の街の古本屋さんとして店売り一本でやっていたのですが、万引きに悩まされ続け、やむなく店売りを諦め、倉庫を借りてそこに在庫を押し込み、ネットでの販売一本に踏み切ったようです。店売り以上に煩雑な手間の掛かるネット販売だけでやっているわけで、万引きには悩まされないかもしれませんが、それはそれで大変だろうなとやはり思います。
というわけで、これから古本屋をやろうと思っている人(店売り、ネットを問わず)は、是非とも読んだ方がいい本だと思います。これだけ大変な仕事内容を読み、また著者も止めた方がいいよと警告している中で、あなたは古本屋を開業する勇気がありますか?ということを問われる本です。読んで損することはないでしょう。もちろん、古本屋を開業するつもりのない人でも、ただの読み物として面白い本になっています。もちろん僕も開業する予定はまったくありません。読んでみてください。
喜多村拓「古本屋開業入門」
ミステリーの書き方(ローレンス・トリート)
結構前の話であるが、小説を書いてみようと思ったことがある。僕は年号に弱いので正確には分からないけど、たぶん3・4年くらい前の話だ。
その頃僕はかなり参っている状態で、社会に対して恐ろしく後ろ向きだったために、僕はもはや作家として生きていくしかない、というわけのわからない発想の元、アホみたいに文章を羅列していたのである。
僕は記憶力にすこぶる自信がないのでこれまた正確なことは覚えていないのだが、確かほとんど誇張なしに一日中キーボードを叩き続ける生活を一ヶ月くらい続けていたような気がする。そうやって確か、原稿用紙500枚くらいの文章を書き上げたのだ。
一応僕としてはミステリのつもりであって、その前に小説を書いているつもりだった。しかし、読み返して思ったのは、なんじゃこりゃ、ということであった。もしこれを小説と読んでいいなら、ドブネズミさえミッキーマウスと呼んでいいことになるだろうと思えるくらいだったのである。
まあそのくらい酷い代物だったわけで、その後僕はなんとかその酷い代物を、細かい部分を改変することでなんとか小説に近づけることは出来ないものだろうか、と苦心惨憺したものであるが、しかし貧弱な土台の上に高層マンションは建たないように、僕の文章もどうあがいたところで小説という名前を冠することが出来るようなものには変わらなかったのである。まあ当然だ。自転車をポルシェに変えるようなものだ。
そのデータファイルは未だにパソコンのどこかに眠っているし、紙に印刷した状態でも確かどこかにあるはずだが、しかしもう全然見ていない。おぞましいくらいである。消し去ってしまいたい過去であるが、生来の貧乏性なので、どうもデータを消せないでいたりするのだ。
まあそんなわけで以後一度も小説を書こうとしたことはないのだが、しかし今でも作家への希望というのは持ち続けている。もちろん、なれるとは思っていない。なれたらいいな、という程度のものである。アイデアを書き溜めているわけでもなければ、文章の練習をしているわけでもない。本当に何もしていないのである。まあ、作家はデビューが遅いのが結構普通であるから、そこまで急ぐことはないだろう、と最近では思っている。
さてというわけで、当時僕がどうやって小説もどきを書いていったのかを思い出してみるのだが、手法とかスタイルとかそんなものがあるわけでもなく、ものすごく適当であった。起こる事件の大体の概要を考え、主人公の大体の動きを考え、それから特に何をまとめるでもなくいきなり書き始めたのだったような気がする。そんな状態だから、書いている間も矛盾だらけで、あれここはどうすればいいのだろう、と困ってさらに深みにはまったことも何度もあるのだ。
作家はよく、プロットというものを作る。プロットとは、初めから最後までこういう流れで物語が進んでいく、とううものを書いたもので、僕が知っている中では、プロットを1000枚書く人もいるらしい(つまりプロットを何度も書き直すことでそのくらいの枚数になる、ということだと思う)。しかし、僕にはどうしてもプロットが書けると思わないのである。なぜなら、僕が飽きっぽいからだ。僕の場合、もし万が一プロットが作れたとしたら、そこからの執筆が急にめんどくさくなるような気がするのだ。なんだ、もうこのプロットで物語は完成ではないか。じゃあ書かなくてもいいや、という感じである。なんか、物語の先の先まであらかじめ決まっているというのは、どうにも面白くないものだ、と思ってしまうのだ。しかし恐らく、凡人であればプロットを作るしかないのだろうな、とも思う。
世の中にはなかなかすごい作家がたくさんいて、プロットを作らないという人もいる。例えば伊坂幸太郎は、現在どうかは知らないが、「重力ピエロ」や「ラッシュライフ」などの作品はプロットなしで、あんまり構想も固まっていないまま書き始めたのだそうだ。
もっとすごいのは森博嗣で、森博嗣が自身で書いているところによると、頭の中にトリックも何もない状態から物語を書き始める、という。とにかく1行目を書く。書きながら次の行を考える。そうやって書いていくうちに登場人物が決まり、事件が起こり、トリックが浮かぶのだそうだ。無茶苦茶としかいいようがないが、しかしそういう作家も実在するのである。
まあそんなわけで、作家にもいろんなやり方があるということだ。それぞれ違うと言ってもいいだろう。誰か一人の手法を学ぶことが有効であるかは分からないが、多くの人の手法を知ることは、限りなく有効ではないか、と僕は思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、アメリカ探偵作家クラブ(恐らく日本で言うところの日本推理作家協会みたいなものなのだろう)に所属する人気ミステリ作家達が、自分たちの執筆の秘訣を出来る限り書いたもの、である。
世の中には、小説の書き方、みたいな本が結構あるけど、中でもミステリの書き方について書かれた本というのは有効だ。何故なら、他のジャンルはそうでもないが、ミステリというジャンルはかなり形式を持った分野だからだ。つまり、暗黙のルールのようなものが存在するジャンルなのである。そういう限定された条件の中で書かれてきたジャンルであるからこそ発展してきたのだし、また素晴らしいミステリ作家を生み出し切磋琢磨することでこミステリというジャンルをより発展させようという気持ちの元で、本作が生まれたのである。
本作が日本で出版されたのが1984年で、だからアメリカで出たのがもっと古いと思うのだが、とにかく内容的にちょっと古いことは否めないだろうと思う。また、日本での話ではなくアメリカでの話ということで、原稿応募や文法などの話でどうしても日本の事情と合わないこともある。しかしそれを抜きにしても、全体として非常に有益な作品であると僕は思う。
本作は、大きく二つの種類の文章に分けられる。
一つは、クラブに所属する作家達へのアンケート結果をまとめた項である。「何故作家になったのか」「テーマはどうやって決まるのか」「いつ執筆するのか」というようなことについてのアンケート結果について、編者であるトリート氏が厳選し載せているわけである。
もう一つは、ある作家があるテーマについてその手法を書いている項である。プロットの作り方や会話の運び方などありとあらゆることについて、それについて論じるのに適当であるとされた人々が真摯に自らのやり方を語っている。
本作が特に素晴らしいと思うのは、一人の人間のやり方が載っているわけではない、ということだ。
僕は、世の中に出回っているハウツー本についていつも感じていることがある。それは、「そのやり方はあなただからこそ成功したのですよね?」ということだ。
例えばダイエットを例にしてみよう。まあ株でも資格取得でもなんでもいいのだが。
世の中には様々なダイエット本があるが、それらはほとんど、「私はこうしたら成功しました」という話である。まあ確かに、誰かの成功体験を知るというのは無益なわけではない。しかしいつも思ってしまうのだ。それは、あなたの場合だからこそ成功したのでしょう?と。人はそれぞれ違いがあるわけで、一つのやり方で世の中の人すべてが成功するわけがないのである。それなのに、そういう思想で生み出されるハウツー本が世の中には多すぎると思う。
それに比べ本作は素晴らしいではないか。本作はとにかく、ありとあらゆる作家のありとあらゆるやり方が載っている。当然、それぞれのやり方同士に矛盾が出てくることもあるし、相容れない意見もたくさんある。しかしそれは全然構わないのである。いい作家になる唯一の方法などあるわけがないので、多くの人のやり方を知り、その中から自分に合いそうなものを選択出来るというのが非常に素晴らしいと僕は思いました。
本作に載っていることは、実際に書こうと思ってプロットなりなんなりを作っている人間でないとあまり実感できないようなものもあるのだけれども、今の僕の段階でもなるほどと思うようなこともある。中でも、「削除」という題の文章があり、そこではとにかく文章を削れと言っているのだけど、この手の話は何度も聞いたことがあるのに、やはりなるほどと思ってしまう。とにかく、削って削って削って削って削らなくてはいけないのである。また、一人称と三人称などの視点の問題や、あるいはワトソン役は必要だろうかという話もあって、非常に面白い。
ミステリに限らず、小説を書こうと思っている人にはかなり有益な作品ではないかと思います。ここに書かれていることを実践するかどうかはともかく、こういう考えの人がいて成功をしているのだ、ということを知るだけでも充分に意味があると思います。また、実際にすぐに自分のやり方に取り入れることが出来ることもあるでしょう。他の「小説家になるには」的な本をあんまり読んだことがないので比較は出来ないのだけれども、本作はかなりオススメできると思います。
ローレンス・トリート「ミステリーの書き方」
その頃僕はかなり参っている状態で、社会に対して恐ろしく後ろ向きだったために、僕はもはや作家として生きていくしかない、というわけのわからない発想の元、アホみたいに文章を羅列していたのである。
僕は記憶力にすこぶる自信がないのでこれまた正確なことは覚えていないのだが、確かほとんど誇張なしに一日中キーボードを叩き続ける生活を一ヶ月くらい続けていたような気がする。そうやって確か、原稿用紙500枚くらいの文章を書き上げたのだ。
一応僕としてはミステリのつもりであって、その前に小説を書いているつもりだった。しかし、読み返して思ったのは、なんじゃこりゃ、ということであった。もしこれを小説と読んでいいなら、ドブネズミさえミッキーマウスと呼んでいいことになるだろうと思えるくらいだったのである。
まあそのくらい酷い代物だったわけで、その後僕はなんとかその酷い代物を、細かい部分を改変することでなんとか小説に近づけることは出来ないものだろうか、と苦心惨憺したものであるが、しかし貧弱な土台の上に高層マンションは建たないように、僕の文章もどうあがいたところで小説という名前を冠することが出来るようなものには変わらなかったのである。まあ当然だ。自転車をポルシェに変えるようなものだ。
そのデータファイルは未だにパソコンのどこかに眠っているし、紙に印刷した状態でも確かどこかにあるはずだが、しかしもう全然見ていない。おぞましいくらいである。消し去ってしまいたい過去であるが、生来の貧乏性なので、どうもデータを消せないでいたりするのだ。
まあそんなわけで以後一度も小説を書こうとしたことはないのだが、しかし今でも作家への希望というのは持ち続けている。もちろん、なれるとは思っていない。なれたらいいな、という程度のものである。アイデアを書き溜めているわけでもなければ、文章の練習をしているわけでもない。本当に何もしていないのである。まあ、作家はデビューが遅いのが結構普通であるから、そこまで急ぐことはないだろう、と最近では思っている。
さてというわけで、当時僕がどうやって小説もどきを書いていったのかを思い出してみるのだが、手法とかスタイルとかそんなものがあるわけでもなく、ものすごく適当であった。起こる事件の大体の概要を考え、主人公の大体の動きを考え、それから特に何をまとめるでもなくいきなり書き始めたのだったような気がする。そんな状態だから、書いている間も矛盾だらけで、あれここはどうすればいいのだろう、と困ってさらに深みにはまったことも何度もあるのだ。
作家はよく、プロットというものを作る。プロットとは、初めから最後までこういう流れで物語が進んでいく、とううものを書いたもので、僕が知っている中では、プロットを1000枚書く人もいるらしい(つまりプロットを何度も書き直すことでそのくらいの枚数になる、ということだと思う)。しかし、僕にはどうしてもプロットが書けると思わないのである。なぜなら、僕が飽きっぽいからだ。僕の場合、もし万が一プロットが作れたとしたら、そこからの執筆が急にめんどくさくなるような気がするのだ。なんだ、もうこのプロットで物語は完成ではないか。じゃあ書かなくてもいいや、という感じである。なんか、物語の先の先まであらかじめ決まっているというのは、どうにも面白くないものだ、と思ってしまうのだ。しかし恐らく、凡人であればプロットを作るしかないのだろうな、とも思う。
世の中にはなかなかすごい作家がたくさんいて、プロットを作らないという人もいる。例えば伊坂幸太郎は、現在どうかは知らないが、「重力ピエロ」や「ラッシュライフ」などの作品はプロットなしで、あんまり構想も固まっていないまま書き始めたのだそうだ。
もっとすごいのは森博嗣で、森博嗣が自身で書いているところによると、頭の中にトリックも何もない状態から物語を書き始める、という。とにかく1行目を書く。書きながら次の行を考える。そうやって書いていくうちに登場人物が決まり、事件が起こり、トリックが浮かぶのだそうだ。無茶苦茶としかいいようがないが、しかしそういう作家も実在するのである。
まあそんなわけで、作家にもいろんなやり方があるということだ。それぞれ違うと言ってもいいだろう。誰か一人の手法を学ぶことが有効であるかは分からないが、多くの人の手法を知ることは、限りなく有効ではないか、と僕は思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、アメリカ探偵作家クラブ(恐らく日本で言うところの日本推理作家協会みたいなものなのだろう)に所属する人気ミステリ作家達が、自分たちの執筆の秘訣を出来る限り書いたもの、である。
世の中には、小説の書き方、みたいな本が結構あるけど、中でもミステリの書き方について書かれた本というのは有効だ。何故なら、他のジャンルはそうでもないが、ミステリというジャンルはかなり形式を持った分野だからだ。つまり、暗黙のルールのようなものが存在するジャンルなのである。そういう限定された条件の中で書かれてきたジャンルであるからこそ発展してきたのだし、また素晴らしいミステリ作家を生み出し切磋琢磨することでこミステリというジャンルをより発展させようという気持ちの元で、本作が生まれたのである。
本作が日本で出版されたのが1984年で、だからアメリカで出たのがもっと古いと思うのだが、とにかく内容的にちょっと古いことは否めないだろうと思う。また、日本での話ではなくアメリカでの話ということで、原稿応募や文法などの話でどうしても日本の事情と合わないこともある。しかしそれを抜きにしても、全体として非常に有益な作品であると僕は思う。
本作は、大きく二つの種類の文章に分けられる。
一つは、クラブに所属する作家達へのアンケート結果をまとめた項である。「何故作家になったのか」「テーマはどうやって決まるのか」「いつ執筆するのか」というようなことについてのアンケート結果について、編者であるトリート氏が厳選し載せているわけである。
もう一つは、ある作家があるテーマについてその手法を書いている項である。プロットの作り方や会話の運び方などありとあらゆることについて、それについて論じるのに適当であるとされた人々が真摯に自らのやり方を語っている。
本作が特に素晴らしいと思うのは、一人の人間のやり方が載っているわけではない、ということだ。
僕は、世の中に出回っているハウツー本についていつも感じていることがある。それは、「そのやり方はあなただからこそ成功したのですよね?」ということだ。
例えばダイエットを例にしてみよう。まあ株でも資格取得でもなんでもいいのだが。
世の中には様々なダイエット本があるが、それらはほとんど、「私はこうしたら成功しました」という話である。まあ確かに、誰かの成功体験を知るというのは無益なわけではない。しかしいつも思ってしまうのだ。それは、あなたの場合だからこそ成功したのでしょう?と。人はそれぞれ違いがあるわけで、一つのやり方で世の中の人すべてが成功するわけがないのである。それなのに、そういう思想で生み出されるハウツー本が世の中には多すぎると思う。
それに比べ本作は素晴らしいではないか。本作はとにかく、ありとあらゆる作家のありとあらゆるやり方が載っている。当然、それぞれのやり方同士に矛盾が出てくることもあるし、相容れない意見もたくさんある。しかしそれは全然構わないのである。いい作家になる唯一の方法などあるわけがないので、多くの人のやり方を知り、その中から自分に合いそうなものを選択出来るというのが非常に素晴らしいと僕は思いました。
本作に載っていることは、実際に書こうと思ってプロットなりなんなりを作っている人間でないとあまり実感できないようなものもあるのだけれども、今の僕の段階でもなるほどと思うようなこともある。中でも、「削除」という題の文章があり、そこではとにかく文章を削れと言っているのだけど、この手の話は何度も聞いたことがあるのに、やはりなるほどと思ってしまう。とにかく、削って削って削って削って削らなくてはいけないのである。また、一人称と三人称などの視点の問題や、あるいはワトソン役は必要だろうかという話もあって、非常に面白い。
ミステリに限らず、小説を書こうと思っている人にはかなり有益な作品ではないかと思います。ここに書かれていることを実践するかどうかはともかく、こういう考えの人がいて成功をしているのだ、ということを知るだけでも充分に意味があると思います。また、実際にすぐに自分のやり方に取り入れることが出来ることもあるでしょう。他の「小説家になるには」的な本をあんまり読んだことがないので比較は出来ないのだけれども、本作はかなりオススメできると思います。
ローレンス・トリート「ミステリーの書き方」
女王の百年密室 コミック(原作・森博嗣 画・スズキユカ)
世界は何から出来ているかといえば、それは言葉だ。
生み出しているのは言葉以外の何かかもしれないけど、しかし僕らに認識されるのは言葉に変換された何かだ。
では概念や存在の本質はどこにあるかといえば、やはりそれは言葉の中にはない。言葉は、目にどう映るか、表面をどう撫でるかを表したものであり、奥深くまで入り込むことが出来るものではないのだ。
だから、そこにズレが生じる。
言葉と本質の間に齟齬が生まれる。
言葉で世界を認識するしかない僕らとしては、仕方のないことだ。
しかしそのズレを、齟齬を、歪みを、そもそも基準にしてしまうことがある。それらを総称して、宗教と人々は呼んでいる。
宗教は、言葉によって強制的にある世界との断絶を促している。言葉というものの特性を効率的に活かし、ズレを意識的に生み出すことで人に真実らしきものを見せる。
例えばキリスト教であれば、詳しくは知らないが、すべては神が創ったということを信じている。現実にはそんなことはない。アダムもイブもいなかっただろうし、天地創造というのもなかっただろう。科学がそれを解き明かしつつある。しかし彼らは、言葉によって生み出された断絶の方を基準にし生きている。
例えば仏教であれば、詳しくは知らないが、輪廻転生という概念がある。もちろん、実際にそんなことは起こらないだろう。生まれ変わりというのはなかなか現実的な現象として信じられるものではない。しかし彼らは、その言葉によって培われた概念を信じているのだ。
言葉によって強固に形作られた環境というのは、突き崩すのが本当に難しい。言葉というものは、あらゆる概念に優しい。すなわち、どんな概念であれ、環境を構築するのに充分な材料を言葉は与えてくれるのである。言葉は強く結びつき、その関係が失われることはあまりない。
言葉があれば、世界を生み出すことが出来る。真実とはまた違った、正しいわけでも正しくないわけでもない世界を生み出すことが出来るのだ。
人が死なない世界、というのも存在可能だ。言葉を駆使すれば、存在しえる。
その世界では、永久に誰も死ぬことはない。死を迎えることなく一生生き続けることが出来るのだ。
その世界で、人は幸せに生きていくことが出来るだろうか。誰も死ぬことのない世界で、誰も殺されることのない世界で、平穏は成立しうるだろうか。
どうも今日は調子が悪いなぁ。文章が書けないです。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、森博嗣の「女王の百年密室」を原作にしたコミックです。
ミチルとロイディは道に迷い、その時に出会ったマイカ・ジュクという男に導かれ、ルナティック・シティという都市へと案内された。そこは、100年前の技術ですべてが存在しており、また100年間の間にミチルを含めて二人しか外からの来訪者がいない、そんな閉鎖された都市だった。
神の使いとして歓迎されたミチルだったが、ある日殺人事件が起こる。ある男が明らかに絞殺された状態で見つかったのだ。
しかし、そこの人々は、その男は死んでいない、永い眠りにつくだけだと言い、また人を殺すという概念が存在しないのでそもそも殺人犯を追及するようなこともしないというのだ。
ミチルは納得できない。復讐してやりたい、と思う。偶然その都市に、マノ・キョーヤがいることを知る。何故あいつが…。復讐してやりたい…。
というような話です。
やっぱ原作の方がいいよなぁ、とこういう作品を読むと思ってしまいます。ストーリー自体はもちろん森博嗣の作品なんで好きなんですけど、マンガで読むというのはなぁ、という気がします。
なんとなくだけど、小説向きの物語、マンガ向きの物語、映像向きの物語というのがあって、やはり森博嗣の物語は小説向きだと思います。というか森博嗣自身もそんなようなことを言っていて、作品を書く時は常に、映像化出来そうにないものを書く、と言っています。確かに、森博嗣の作品はあらゆる映像化に向かないような気がします。
でも森博嗣は本作の巻末で、スズキユカ氏によるコミック化を非常に絶賛しています。原作の解釈が素晴らしい、もしかすると原作者以上に原作を理解しているのではないか、とまで書いています。うーん、そこまで言われるとやっぱすごいんだろうな、なんて思ったりしますけど。
森博嗣が書いているのだけど、コミックというのは安易に消費されていると感じる。スズキユカ氏は本作を書くのに10ヶ月掛けたそうだ。それを数百円の本にして1~2時間で読むというのは確かに浅いかもしれない。どうもマンガというのは報われないな、と思わなくもない。
僕はやっぱり小説の方が好きですけど、まあマンガから入ってもいいかもしれません。どうでしょうか。
森博嗣+スズキユカ「女王の百年密室」
生み出しているのは言葉以外の何かかもしれないけど、しかし僕らに認識されるのは言葉に変換された何かだ。
では概念や存在の本質はどこにあるかといえば、やはりそれは言葉の中にはない。言葉は、目にどう映るか、表面をどう撫でるかを表したものであり、奥深くまで入り込むことが出来るものではないのだ。
だから、そこにズレが生じる。
言葉と本質の間に齟齬が生まれる。
言葉で世界を認識するしかない僕らとしては、仕方のないことだ。
しかしそのズレを、齟齬を、歪みを、そもそも基準にしてしまうことがある。それらを総称して、宗教と人々は呼んでいる。
宗教は、言葉によって強制的にある世界との断絶を促している。言葉というものの特性を効率的に活かし、ズレを意識的に生み出すことで人に真実らしきものを見せる。
例えばキリスト教であれば、詳しくは知らないが、すべては神が創ったということを信じている。現実にはそんなことはない。アダムもイブもいなかっただろうし、天地創造というのもなかっただろう。科学がそれを解き明かしつつある。しかし彼らは、言葉によって生み出された断絶の方を基準にし生きている。
例えば仏教であれば、詳しくは知らないが、輪廻転生という概念がある。もちろん、実際にそんなことは起こらないだろう。生まれ変わりというのはなかなか現実的な現象として信じられるものではない。しかし彼らは、その言葉によって培われた概念を信じているのだ。
言葉によって強固に形作られた環境というのは、突き崩すのが本当に難しい。言葉というものは、あらゆる概念に優しい。すなわち、どんな概念であれ、環境を構築するのに充分な材料を言葉は与えてくれるのである。言葉は強く結びつき、その関係が失われることはあまりない。
言葉があれば、世界を生み出すことが出来る。真実とはまた違った、正しいわけでも正しくないわけでもない世界を生み出すことが出来るのだ。
人が死なない世界、というのも存在可能だ。言葉を駆使すれば、存在しえる。
その世界では、永久に誰も死ぬことはない。死を迎えることなく一生生き続けることが出来るのだ。
その世界で、人は幸せに生きていくことが出来るだろうか。誰も死ぬことのない世界で、誰も殺されることのない世界で、平穏は成立しうるだろうか。
どうも今日は調子が悪いなぁ。文章が書けないです。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、森博嗣の「女王の百年密室」を原作にしたコミックです。
ミチルとロイディは道に迷い、その時に出会ったマイカ・ジュクという男に導かれ、ルナティック・シティという都市へと案内された。そこは、100年前の技術ですべてが存在しており、また100年間の間にミチルを含めて二人しか外からの来訪者がいない、そんな閉鎖された都市だった。
神の使いとして歓迎されたミチルだったが、ある日殺人事件が起こる。ある男が明らかに絞殺された状態で見つかったのだ。
しかし、そこの人々は、その男は死んでいない、永い眠りにつくだけだと言い、また人を殺すという概念が存在しないのでそもそも殺人犯を追及するようなこともしないというのだ。
ミチルは納得できない。復讐してやりたい、と思う。偶然その都市に、マノ・キョーヤがいることを知る。何故あいつが…。復讐してやりたい…。
というような話です。
やっぱ原作の方がいいよなぁ、とこういう作品を読むと思ってしまいます。ストーリー自体はもちろん森博嗣の作品なんで好きなんですけど、マンガで読むというのはなぁ、という気がします。
なんとなくだけど、小説向きの物語、マンガ向きの物語、映像向きの物語というのがあって、やはり森博嗣の物語は小説向きだと思います。というか森博嗣自身もそんなようなことを言っていて、作品を書く時は常に、映像化出来そうにないものを書く、と言っています。確かに、森博嗣の作品はあらゆる映像化に向かないような気がします。
でも森博嗣は本作の巻末で、スズキユカ氏によるコミック化を非常に絶賛しています。原作の解釈が素晴らしい、もしかすると原作者以上に原作を理解しているのではないか、とまで書いています。うーん、そこまで言われるとやっぱすごいんだろうな、なんて思ったりしますけど。
森博嗣が書いているのだけど、コミックというのは安易に消費されていると感じる。スズキユカ氏は本作を書くのに10ヶ月掛けたそうだ。それを数百円の本にして1~2時間で読むというのは確かに浅いかもしれない。どうもマンガというのは報われないな、と思わなくもない。
僕はやっぱり小説の方が好きですけど、まあマンガから入ってもいいかもしれません。どうでしょうか。
森博嗣+スズキユカ「女王の百年密室」
すべてがFになる コミック(原作・森博嗣 画・浅田寅ヲ)
天才とは、なるものではないのだろう。
元から天才なのである。
天才として生まれるしかない。
悔しい。
後天的に天才性を獲得することなどやはり出来ないだろう。生まれつき、先天的に何かが自分とは違ったのだ、と考えるしかない。そこで思考停止するしかないではないか。
そう、思考停止だ。
本当は、分からない。
もしかしたら、世の中の天才の幾割かは、後天的にそれを身に付けたのかもしれない。しかしだとしたら、僕に一体何が出来るというのか。
天才とは何か。ここまで定義をすることなく使ってきた。
僕のイメージでは、その存在だけで完結してしまうのが天才であると思う。
例えば、マルチな才能を持っていて、何でも出来てしまう天才というのがいるとしよう。レオナルド・ダ・ヴィンチのような人間だ。こういう人間は、もちろんすべてを自己完結出来る。疑問を解決することも、何かを表現することも、何かを生み出すことも、ありとあらゆることを自らの力でやれてしまう。
一方で、ある分野に特化した天才というのがいるとしよう。音楽の天才であるとか数学の天才である、といったような存在だ。その場合、ありとあらゆることを自らの力で完結させることは出来ないだろう。しかしそういう天才は、その自らの属する分野をまるごと飲み込んでしまう。その存在とその分野とがイコールで結ばれてしまうような、つまりその存在が一人いればその分野はすべて完結であると言ってしまってもいいような、そんな存在である。
そういう意味で、天才というのは、その存在だけで完結する存在であると僕は思う。
天才としてこの世に生まれるというのは、一体どんな感じなのだろうか。天才としてこの世の中を生きるというのは、一体どんな気分なのだろう。
天才にとって、世界は矮小でしかなく、時間は極小でしかないだろう。ありろあらゆるものが、自分と比して小さく見えてしまうに違いない。概念も、存在も。
結局天才は、孤立するしかない。同じような他人を見つけ出すことはほぼ不可能だし、誰かと何かを共有するというのも無理だろう。自分の正しさを揺るぎなく自覚しているだけに、他を排除し孤を目指すしかない。
天才の話は、いつも僕を魅了する。天才が天才であったという証を知ることが、僕にとっては悦びに近い。自分とは遠く離れた足元にも及ばない存在であることを自覚し、こんな天才が存在したのだという事実に驚嘆する。天才の物語は、それがどんな分野であれ、素晴らしいものだと思う。
天才は思想を持つ。真賀田四季は、紛れもなく天才である。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、森博嗣のデビュー作である「すべてがFになる」のコミック版です。なので内容は同じなのですが、まあ内容をざっと書いてみます。
国立N大学に助教授として勤める犀川創平と、同じ大学の学生である西之園萌絵は、ゼミ旅行で妃真加島に行くことになった。萌絵はまだ学部生でゼミ員ではないのだが、萌絵の父親が犀川の恩師であったことから縁があり萌絵が犀川にくっついていく形でいろんなところに行ったりするのだ。
妃真加島は、真賀田四季のいる島だ。
真賀田四季は、コンピュータプログラムの世界で伝説とも言える存在で、幼少の頃から類稀な才能を発揮してその世界で名を馳せたが、14歳の頃両親を殺害したとして逮捕され、心神耗弱状態にあったとして無罪になったものの、以後人々の前から姿を消し、今はこの妃真加島で研究を続けているのだ。
二人は研究員に案内されて真賀田四季研究所内を見学している時、予期せぬ事件に出くわすことになった。なんと、真賀田四季の部屋から、ウェディングドレスを着せられた死体が現れたのだ。内側からすら自由には開閉できないドア、監視カメラの映像、ありえないエラー。状況は明らかに密室である。
一体誰がどうやってこんな事件をなしえたのか…。
というような話です。
僕は原作を二度読んでいるんですけど、やはり読んだ本の内容はすっかり忘れてしまうので、今回もストーリーについては充分堪能しました。相変わらずこの作品はすごいな、と思います。
森博嗣の初期のミステリのすごいところは、完全に論理的である、ということだ。ミステリというのは基本的に論理的なものであり、またそうであるべきだが、しかし大抵の作品は結果的に論理的である、という印象を受ける。しかし森博嗣のミステリの場合、常に論理的なのである。
もう少し詳しく書きましょう。例えば森博嗣以外のミステリの場合、ありとあらゆることをヒントにしながら事件が解かれる。つまり、どうやってという手法の部分だけでなく、どうしてという動機の部分までも推理の材料にし、それらを組み合わせて事件の概要を組み立てる。
これは一見論理的に思えるけど、しかし手法と動機というのはやはり同一平面上では議論できないことだと思うのだ。動機というのはあくまでも不確定なもので、そこまで要素に入れるとエラーが出てもおかしくはないだろう。
森博嗣のミステリの場合どうかと言えば、基本的に動機については一切考えない。つまり、どうやったのか、ということに関係する客観的な情報だけをもとに事件を組み立てるのだ。ネタバレになるので本作でどういう場面でそう感じたか具体的には書けないのだけど、動機を完全に排除したその思考の仕方は、本当に論理的だなという風に思う。そんなことを改めて思いました。
というわけで絵の話に移ろうと思いますが、うーんやはりちょっと不満がありますね。
一番不満なのは、やはり萌絵でしょうか。どういうイメージを持っていたか説明することは難しいですが、しかしイメージとかなり違ったことだけは確かです。犀川は…まあこんなもんかなという感じでしたけど。うーん、でもやっぱ違うかなぁ。
前に「森博嗣本」というムック本を読んだときに、S&Mシリーズを映像化するなら犀川と萌絵は誰?みたいなアンケートがあって、萌絵の1位は忘れたけど、犀川の1位は覚えています。それは、誰にもやって欲しくない、というものでした。確かに、犀川をどんな形であれビジュアル化するのは難しいだろうな、と思いました。
絵で一番好きなのは、真賀田四季ですかね。黒髪であるところが最高ですね。
あと大したことではないのだけど、原作を読んでないとよくわからないところもあるような気がします。例えば、萌絵が超絶的なお嬢様であることは本作では触れられていないような気がします。まあ執事は出てきますけど。
まあそこまでオススメではないですけど、森博嗣の小説は読んでみたいけどちょっと難しそうな気がする、という人がまずコミックから読んでみて、それから小説に行くというためには非常にいい作品かもしれないな、と思いました。
森博嗣+浅田寅ヲ「すべてがFになる コミック」
元から天才なのである。
天才として生まれるしかない。
悔しい。
後天的に天才性を獲得することなどやはり出来ないだろう。生まれつき、先天的に何かが自分とは違ったのだ、と考えるしかない。そこで思考停止するしかないではないか。
そう、思考停止だ。
本当は、分からない。
もしかしたら、世の中の天才の幾割かは、後天的にそれを身に付けたのかもしれない。しかしだとしたら、僕に一体何が出来るというのか。
天才とは何か。ここまで定義をすることなく使ってきた。
僕のイメージでは、その存在だけで完結してしまうのが天才であると思う。
例えば、マルチな才能を持っていて、何でも出来てしまう天才というのがいるとしよう。レオナルド・ダ・ヴィンチのような人間だ。こういう人間は、もちろんすべてを自己完結出来る。疑問を解決することも、何かを表現することも、何かを生み出すことも、ありとあらゆることを自らの力でやれてしまう。
一方で、ある分野に特化した天才というのがいるとしよう。音楽の天才であるとか数学の天才である、といったような存在だ。その場合、ありとあらゆることを自らの力で完結させることは出来ないだろう。しかしそういう天才は、その自らの属する分野をまるごと飲み込んでしまう。その存在とその分野とがイコールで結ばれてしまうような、つまりその存在が一人いればその分野はすべて完結であると言ってしまってもいいような、そんな存在である。
そういう意味で、天才というのは、その存在だけで完結する存在であると僕は思う。
天才としてこの世に生まれるというのは、一体どんな感じなのだろうか。天才としてこの世の中を生きるというのは、一体どんな気分なのだろう。
天才にとって、世界は矮小でしかなく、時間は極小でしかないだろう。ありろあらゆるものが、自分と比して小さく見えてしまうに違いない。概念も、存在も。
結局天才は、孤立するしかない。同じような他人を見つけ出すことはほぼ不可能だし、誰かと何かを共有するというのも無理だろう。自分の正しさを揺るぎなく自覚しているだけに、他を排除し孤を目指すしかない。
天才の話は、いつも僕を魅了する。天才が天才であったという証を知ることが、僕にとっては悦びに近い。自分とは遠く離れた足元にも及ばない存在であることを自覚し、こんな天才が存在したのだという事実に驚嘆する。天才の物語は、それがどんな分野であれ、素晴らしいものだと思う。
天才は思想を持つ。真賀田四季は、紛れもなく天才である。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、森博嗣のデビュー作である「すべてがFになる」のコミック版です。なので内容は同じなのですが、まあ内容をざっと書いてみます。
国立N大学に助教授として勤める犀川創平と、同じ大学の学生である西之園萌絵は、ゼミ旅行で妃真加島に行くことになった。萌絵はまだ学部生でゼミ員ではないのだが、萌絵の父親が犀川の恩師であったことから縁があり萌絵が犀川にくっついていく形でいろんなところに行ったりするのだ。
妃真加島は、真賀田四季のいる島だ。
真賀田四季は、コンピュータプログラムの世界で伝説とも言える存在で、幼少の頃から類稀な才能を発揮してその世界で名を馳せたが、14歳の頃両親を殺害したとして逮捕され、心神耗弱状態にあったとして無罪になったものの、以後人々の前から姿を消し、今はこの妃真加島で研究を続けているのだ。
二人は研究員に案内されて真賀田四季研究所内を見学している時、予期せぬ事件に出くわすことになった。なんと、真賀田四季の部屋から、ウェディングドレスを着せられた死体が現れたのだ。内側からすら自由には開閉できないドア、監視カメラの映像、ありえないエラー。状況は明らかに密室である。
一体誰がどうやってこんな事件をなしえたのか…。
というような話です。
僕は原作を二度読んでいるんですけど、やはり読んだ本の内容はすっかり忘れてしまうので、今回もストーリーについては充分堪能しました。相変わらずこの作品はすごいな、と思います。
森博嗣の初期のミステリのすごいところは、完全に論理的である、ということだ。ミステリというのは基本的に論理的なものであり、またそうであるべきだが、しかし大抵の作品は結果的に論理的である、という印象を受ける。しかし森博嗣のミステリの場合、常に論理的なのである。
もう少し詳しく書きましょう。例えば森博嗣以外のミステリの場合、ありとあらゆることをヒントにしながら事件が解かれる。つまり、どうやってという手法の部分だけでなく、どうしてという動機の部分までも推理の材料にし、それらを組み合わせて事件の概要を組み立てる。
これは一見論理的に思えるけど、しかし手法と動機というのはやはり同一平面上では議論できないことだと思うのだ。動機というのはあくまでも不確定なもので、そこまで要素に入れるとエラーが出てもおかしくはないだろう。
森博嗣のミステリの場合どうかと言えば、基本的に動機については一切考えない。つまり、どうやったのか、ということに関係する客観的な情報だけをもとに事件を組み立てるのだ。ネタバレになるので本作でどういう場面でそう感じたか具体的には書けないのだけど、動機を完全に排除したその思考の仕方は、本当に論理的だなという風に思う。そんなことを改めて思いました。
というわけで絵の話に移ろうと思いますが、うーんやはりちょっと不満がありますね。
一番不満なのは、やはり萌絵でしょうか。どういうイメージを持っていたか説明することは難しいですが、しかしイメージとかなり違ったことだけは確かです。犀川は…まあこんなもんかなという感じでしたけど。うーん、でもやっぱ違うかなぁ。
前に「森博嗣本」というムック本を読んだときに、S&Mシリーズを映像化するなら犀川と萌絵は誰?みたいなアンケートがあって、萌絵の1位は忘れたけど、犀川の1位は覚えています。それは、誰にもやって欲しくない、というものでした。確かに、犀川をどんな形であれビジュアル化するのは難しいだろうな、と思いました。
絵で一番好きなのは、真賀田四季ですかね。黒髪であるところが最高ですね。
あと大したことではないのだけど、原作を読んでないとよくわからないところもあるような気がします。例えば、萌絵が超絶的なお嬢様であることは本作では触れられていないような気がします。まあ執事は出てきますけど。
まあそこまでオススメではないですけど、森博嗣の小説は読んでみたいけどちょっと難しそうな気がする、という人がまずコミックから読んでみて、それから小説に行くというためには非常にいい作品かもしれないな、と思いました。
森博嗣+浅田寅ヲ「すべてがFになる コミック」
嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん(入間人間)
自分の世界が歪んでいるかどうかを判定するにはどうすればいいだろう。
それは、他人と比較すればいい。簡単だ。
他人と自分を比較する。より多くの他人の人生のサンプルを集め、自分の人生とつき合わせてみる。自分が他人のサンプルに割と近ければ正常、割と遠ければ異常。ただそれだけ。うん、シンプル。
と簡単にいけばいいのだけど、そうもいかないのだ。人間、なかなかそこまでの客観性を確保することは難しい。
即ち、自分が正しい、という絶対的で主観的な判断にどうしても囚われてしまうのだ。
世の中にはいろんな精神障害の形があるのだが、僕が今思い出せるもので有名なものは、病名は忘れたが、身近な人間、例えば両親などが別の人間に乗っ取られてしまい別人になっている、と錯覚する病気である。そういう錯覚に囚われた場合、両親がいくらその患者に説明をしても、患者は相手を両親だと認めない。姿かたちは両親に間違いないけど、中身は別人に代わってしまっている、と主張するのだ。
もちろん、両親の姿かたちだけ変わらずに中身だけ代わるなんてことはありえるわけがない。つまりそれは患者の妄想でしかないのだが、しかし患者からしてみればそれは紛れもない真実なのである。自分の考えていることが絶対的に正しい。周りの人間がどう言おうが、聞く耳を持たない。
今僕はこうして、精神障害という極端な例を出したけれども、しかし身近でも結構こうした歪みは存在するように思う。
例えば僕の話だが、僕は中学の頃からずっと、世界中の人間に嫌われている、と思って生きてきたし、今でもそう思っている。というか、そう思うことにしたのだ。まあ自分なりの理由はあるのだが、それを言っても大抵の人には理解されないので省略しよう。
普通の人からすれば、世界中の人間に嫌われているなんていうのはただの妄想にしか聞こえないだろう。しかし僕の中でそれは絶対的な真実、というか寧ろ前提くらいの地位を占めている。僕の行動をあらゆる意味で制限する。明らかに歪んでいるが、しかし僕はこの考えを捨てる気はないし(そもそも今となってはなかなか捨てられるものでもないが)、これで正しいと思っている。
こういう風に、どちらが歪んでいるのか明白である場合はまだいい。先の精神障害にしても僕の場合にしても、歪んでいるのがどちらなのかは明白だ。
しかし世の中にはそうでないケースもある。
例えばその一番の例が宗教だろう。
僕は殊更に宗教を非難するつもりもないけど、しかし宗教を迎合する気もない。ということだけまず書いておこうと思います。
どんな形の宗教でもいいのだけど、それを信じているはやはりある狭い考えに支配されている。それはある意味で歪みとしか表現しようのないものだが、しかし数の論理というものがある。それを信じているものが多ければ、その歪みが正常な形に見えてくることもある。宗教というのはそういうもので、それを信じている者と信じていない者とでは、どちらが歪んでいるのかなかなかわかりづらい。
最近では、エホバの証人の話題がよくニュースになる。他人の血を入れるわけにはいかない、という宗教上の理由があるのだろう、手術になっても輸血を拒むのだそうだ。僕からそればそれは歪んでいる風にしか見えないが、しかしそれを信じている人間がたくさんいることを考えると、歪みがどちらに発生しているのかわからない。
他にも、例えば戦争がある。これも、もはやどちらが歪んでいるのか判断できるものではないだろう。どちらも歪んでいるという可能性だってある。
そもそも人間の生き方には、絶対的な基準みたいなものは存在しないのだ。こういう生き方をすれば間違いなく幸せである、不幸も災厄も一切起こらず、平和で穏やかな一生を過ごすことが出来ます、なんてモデルは絶対に存在しない。絶対的な基準がないのに、歪みを検出できるわけがない。あくまでもそれは相対的なもので、相対的にどのくらい歪んでいるか、というだけの話なのだ。どちらも共に歪んでいたとして、しかし相対的にはどちらか一方だけが歪んでいるということになる。そうして僕たちは日々、正常と異常とを区別しているに過ぎないのだ。
人生で何が幸せかって、自分の人生の歪みを自覚しないで一生を過ごすことが出来ることではないか、と思ったりする。
そろそろ内容に入ろうと思います。
御園マユを尾行することにした。マユはクラスで一番の美人さんで、でも学校ではいつも寝てて無愛想。まあとりあえず尾行だ。
マユの部屋につくと、うんやっぱりだ。マユはやっぱり誘拐犯だったのか。
今僕のいる街では二つの大きな事件が起こっている。連続殺人事件と誘拐事件だ。その片割れ、誘拐事件の方の犯人が、我がクラスメイトで美人なマユである、とそういうことだ。
「まーちゃん」
とりあえずマユの部屋で彼女をそう呼んでみる。
「みぃ、くん?」
マユがようやく僕に反応する。そうだ、ぼくはみーくんだよ。
そうして、僕とマユと誘拐されちゃった可愛そうな子供たちとの共同生活が始まる。
あぁそうだ、今度マユに、何であの子達誘拐したのかって聞いとかないと…。
というような話です。
本作は、第13回電撃小説大賞の選考会で物議を醸し、醸したまんまなんの賞も取らないままでデビューとなった作品です。ネットでこの本の評判を知り、読んでみる気になりました。
本作はライトノベルですが、挿絵らしい挿絵はほとんどありません。前に読んだ電撃文庫の「ミミズクと夜の王」もそうでしたが、最近電撃文庫はこうした挿絵なしの小説らしい小説もどんどん出していくようになったみたいです。有川浩を初め、電撃発の単行本作家みたいなのも出てきて、結構新しい展開になってきている気がします。
で本作ですが、これがなかなか面白いと思いました。ネットの書評でも触れられていましたが、西尾維新の<戯言>シリーズに非常によく似ている感じを受けました。まあもちろん、<戯言>シリーズの方がはるかにレベルは高いんですけど。
この表現はどうかな、と思うような箇所もたくさんあるけど、でもテンポのいい文章で綴られた作品で、「嘘だけど」というセリフがいろんなところに挟み込まれています。口癖でしょうね。いろいろあって世間をうまくやりすごすために嘘を多用するようになった少年と、いろいろあって心が壊れてしまった少女の話です。
話としてはミステリで、最後になるほどという展開が待っているわけですが、そこだけでなく全体的なリズムみたいなものがやっぱりいいかなという気がしました。舞城王太郎風の無茶苦茶なストーリー展開と、西尾維新的な幻術的な言葉遊びを組み合わせたような作風で、僕は結構面白いなと思いました。特に、自虐的でシニカルな一人称の語り口調がなかなか好きです。
ネタバレになるので詳しくは書けませんが、最後にみーくんは、このまま僕でいるべきか、あるいはぼくに戻るべきか、と悩む場面があります。僕ならどうするかなぁ、とか思いますけど、でもやっぱそもそもまーちゃんみたいなキャラクターを許容できないだろうな、という風に思います。そういえば、みーくんとまーちゃんの関係は、<戯言>シリーズのいーくんと玖渚の関係に似てるなとちょっと思いました。
ストーリー自体はそこまで奇抜なものでもないとは思いますが、キャラクターと語り口調の文章で結構読ませる作品だなと思います。普通のライトノベルというものをあんまり読んだことはないですけど、でも普通のライトノベルよりは若干読む価値はあるんではないかと思います。ミステリが好きな人ならちょっと手を出してみてもいいかもしれない、と思ったりします。どうでしょうか?
そういえば、カバーを外すと、裏側はなかなか面白いことになっています。そもそも、表紙と裏表紙の絵の関係が面白いですね。
入間人間「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」
それは、他人と比較すればいい。簡単だ。
他人と自分を比較する。より多くの他人の人生のサンプルを集め、自分の人生とつき合わせてみる。自分が他人のサンプルに割と近ければ正常、割と遠ければ異常。ただそれだけ。うん、シンプル。
と簡単にいけばいいのだけど、そうもいかないのだ。人間、なかなかそこまでの客観性を確保することは難しい。
即ち、自分が正しい、という絶対的で主観的な判断にどうしても囚われてしまうのだ。
世の中にはいろんな精神障害の形があるのだが、僕が今思い出せるもので有名なものは、病名は忘れたが、身近な人間、例えば両親などが別の人間に乗っ取られてしまい別人になっている、と錯覚する病気である。そういう錯覚に囚われた場合、両親がいくらその患者に説明をしても、患者は相手を両親だと認めない。姿かたちは両親に間違いないけど、中身は別人に代わってしまっている、と主張するのだ。
もちろん、両親の姿かたちだけ変わらずに中身だけ代わるなんてことはありえるわけがない。つまりそれは患者の妄想でしかないのだが、しかし患者からしてみればそれは紛れもない真実なのである。自分の考えていることが絶対的に正しい。周りの人間がどう言おうが、聞く耳を持たない。
今僕はこうして、精神障害という極端な例を出したけれども、しかし身近でも結構こうした歪みは存在するように思う。
例えば僕の話だが、僕は中学の頃からずっと、世界中の人間に嫌われている、と思って生きてきたし、今でもそう思っている。というか、そう思うことにしたのだ。まあ自分なりの理由はあるのだが、それを言っても大抵の人には理解されないので省略しよう。
普通の人からすれば、世界中の人間に嫌われているなんていうのはただの妄想にしか聞こえないだろう。しかし僕の中でそれは絶対的な真実、というか寧ろ前提くらいの地位を占めている。僕の行動をあらゆる意味で制限する。明らかに歪んでいるが、しかし僕はこの考えを捨てる気はないし(そもそも今となってはなかなか捨てられるものでもないが)、これで正しいと思っている。
こういう風に、どちらが歪んでいるのか明白である場合はまだいい。先の精神障害にしても僕の場合にしても、歪んでいるのがどちらなのかは明白だ。
しかし世の中にはそうでないケースもある。
例えばその一番の例が宗教だろう。
僕は殊更に宗教を非難するつもりもないけど、しかし宗教を迎合する気もない。ということだけまず書いておこうと思います。
どんな形の宗教でもいいのだけど、それを信じているはやはりある狭い考えに支配されている。それはある意味で歪みとしか表現しようのないものだが、しかし数の論理というものがある。それを信じているものが多ければ、その歪みが正常な形に見えてくることもある。宗教というのはそういうもので、それを信じている者と信じていない者とでは、どちらが歪んでいるのかなかなかわかりづらい。
最近では、エホバの証人の話題がよくニュースになる。他人の血を入れるわけにはいかない、という宗教上の理由があるのだろう、手術になっても輸血を拒むのだそうだ。僕からそればそれは歪んでいる風にしか見えないが、しかしそれを信じている人間がたくさんいることを考えると、歪みがどちらに発生しているのかわからない。
他にも、例えば戦争がある。これも、もはやどちらが歪んでいるのか判断できるものではないだろう。どちらも歪んでいるという可能性だってある。
そもそも人間の生き方には、絶対的な基準みたいなものは存在しないのだ。こういう生き方をすれば間違いなく幸せである、不幸も災厄も一切起こらず、平和で穏やかな一生を過ごすことが出来ます、なんてモデルは絶対に存在しない。絶対的な基準がないのに、歪みを検出できるわけがない。あくまでもそれは相対的なもので、相対的にどのくらい歪んでいるか、というだけの話なのだ。どちらも共に歪んでいたとして、しかし相対的にはどちらか一方だけが歪んでいるということになる。そうして僕たちは日々、正常と異常とを区別しているに過ぎないのだ。
人生で何が幸せかって、自分の人生の歪みを自覚しないで一生を過ごすことが出来ることではないか、と思ったりする。
そろそろ内容に入ろうと思います。
御園マユを尾行することにした。マユはクラスで一番の美人さんで、でも学校ではいつも寝てて無愛想。まあとりあえず尾行だ。
マユの部屋につくと、うんやっぱりだ。マユはやっぱり誘拐犯だったのか。
今僕のいる街では二つの大きな事件が起こっている。連続殺人事件と誘拐事件だ。その片割れ、誘拐事件の方の犯人が、我がクラスメイトで美人なマユである、とそういうことだ。
「まーちゃん」
とりあえずマユの部屋で彼女をそう呼んでみる。
「みぃ、くん?」
マユがようやく僕に反応する。そうだ、ぼくはみーくんだよ。
そうして、僕とマユと誘拐されちゃった可愛そうな子供たちとの共同生活が始まる。
あぁそうだ、今度マユに、何であの子達誘拐したのかって聞いとかないと…。
というような話です。
本作は、第13回電撃小説大賞の選考会で物議を醸し、醸したまんまなんの賞も取らないままでデビューとなった作品です。ネットでこの本の評判を知り、読んでみる気になりました。
本作はライトノベルですが、挿絵らしい挿絵はほとんどありません。前に読んだ電撃文庫の「ミミズクと夜の王」もそうでしたが、最近電撃文庫はこうした挿絵なしの小説らしい小説もどんどん出していくようになったみたいです。有川浩を初め、電撃発の単行本作家みたいなのも出てきて、結構新しい展開になってきている気がします。
で本作ですが、これがなかなか面白いと思いました。ネットの書評でも触れられていましたが、西尾維新の<戯言>シリーズに非常によく似ている感じを受けました。まあもちろん、<戯言>シリーズの方がはるかにレベルは高いんですけど。
この表現はどうかな、と思うような箇所もたくさんあるけど、でもテンポのいい文章で綴られた作品で、「嘘だけど」というセリフがいろんなところに挟み込まれています。口癖でしょうね。いろいろあって世間をうまくやりすごすために嘘を多用するようになった少年と、いろいろあって心が壊れてしまった少女の話です。
話としてはミステリで、最後になるほどという展開が待っているわけですが、そこだけでなく全体的なリズムみたいなものがやっぱりいいかなという気がしました。舞城王太郎風の無茶苦茶なストーリー展開と、西尾維新的な幻術的な言葉遊びを組み合わせたような作風で、僕は結構面白いなと思いました。特に、自虐的でシニカルな一人称の語り口調がなかなか好きです。
ネタバレになるので詳しくは書けませんが、最後にみーくんは、このまま僕でいるべきか、あるいはぼくに戻るべきか、と悩む場面があります。僕ならどうするかなぁ、とか思いますけど、でもやっぱそもそもまーちゃんみたいなキャラクターを許容できないだろうな、という風に思います。そういえば、みーくんとまーちゃんの関係は、<戯言>シリーズのいーくんと玖渚の関係に似てるなとちょっと思いました。
ストーリー自体はそこまで奇抜なものでもないとは思いますが、キャラクターと語り口調の文章で結構読ませる作品だなと思います。普通のライトノベルというものをあんまり読んだことはないですけど、でも普通のライトノベルよりは若干読む価値はあるんではないかと思います。ミステリが好きな人ならちょっと手を出してみてもいいかもしれない、と思ったりします。どうでしょうか?
そういえば、カバーを外すと、裏側はなかなか面白いことになっています。そもそも、表紙と裏表紙の絵の関係が面白いですね。
入間人間「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」
クレィドゥ・ザ・スカイ(森博嗣)
命が飛んでいる。
永遠が回っている。
意識が浮かんでいる。
記憶が途切れている。
願望が浮き上がっている。
孤独が巡っている。
正しさが飛び越えている。
境界が閉じている。
そうして僕は、地上にいる。
磔にされている。
楔を打たれている。
逃げまどっている。
地上には何もない。
僕が望むものは何一つとしてない。
すべては、空にある。
空に浮かんでいる。
僕はそれを掴むために、これまでも何度も空へと駆け上がっていったはずだ。
そこが自分の居場所だと信じて。
そこで死ぬことが出来る幸運を期待して。
しかし、いつの間にか空は遠くなった。
天井が、
常識が、
規則が、
人間が、
ありとあらゆるものが、
僕を空から遠ざけていく。
僕の居場所を奪っていく。
恐らく、
空に名前を忘れてきたのだろう。
今の僕が一体何者なのかよくわからない。
地面に這い蹲っている時は、いつだってそうだ。
自分が何者であるかなんか、分からない。
意味がない。
きっと、
時々空へと登っていって、
自分の名前を確かめるのだろう。
雲の端っこに、
あるいは太陽の欠片に、
きっと僕の名前が刻まれているはずだ。
いや、
名前である必要はない。
言葉が刻まれてる必要もない。
ただそこに行けば、
僕は僕が何者であるか知ることが出来る。
それが、僕のすべてだ。
過去も未来も、
実績も失敗も、
関係も軋轢も、
すべて関係がない。
僕の躰の半分は、空にある。
地上の僕は、ただの半分でしかない。
生きる目的も、
輝ける未来も、
正しい価値も、
すべて半分だ。
半分の僕が、
残り半分の僕を追いかけるように、
残り半分の僕を恋しく思うように、
空を目指していく。
何から逃げているのか分からないまま、
誰が敵なのかも分からないまま、
半分になった僕は、
惨めに地上を這いまわる。
地上が自分の居場所だって信じられる人間が羨ましい。
半分だけの自分が本物だって信じられる人間が羨ましい。
いや、
羨ましいわけではない。
哀しいのかもしれない。
理解を求めているわけではない。
孤独を埋め合わせたいわけでもない。
ただ、
濁りきって汚れきった存在と、
同じ地上で、
同じ空気を吸わなくてはいけないのが、
哀しいのかもしれない。
誰も教えてくれないけど、
誰も僕が何者であるのか教えてくれないけど、
きっと僕は何者でもないのだろう。
きっとそうだ。
何者でもなくなった僕は、
少しだけ自由になれたのかもしれない。
空に浮かんでいる時のように。
死が優しく微笑むように。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「スカイクロラ」シリーズの最新刊です。と同時に最終巻、つまり本作で完結なのですが、しかしその表現は多少正確性を欠いています。
「スカイクロラ」シリーズというのは、一番初めに刊行された「スカイクロラ」が最終巻です。このシリーズを刊行順に並べれば、
「スカイクロラ」
「ナバテア」
「ダウンツヘヴン」
「フラッタリンツライフ」
「クレィドゥザスカイ」
となるけれども、このシリーズを時系列順で並べるとすると、
「ナバテア」
「ダウンツヘヴン」
「フラッタリンツライフ」
「クレィドゥザスカイ」
「スカイクロラ」
となります。森博嗣は、意図的に最終巻から刊行したのだ、と自身のブログで書いています。
物語は、僕が病院を脱走するところから始まります。
僕は、フーコと連絡を取る。迎えに来てもらって、そして一緒に逃げようとする。フーコと一緒に逃げることを考えてみる。あまり現実的ではないような感じだ。
少し前、ある女性が病室を訪ねて来た。その時に知った番号に電話をする。それが現状を打開する唯一の方法に思える。結局その女性に連絡を取り、会うことにする。フーコとはお別れだ。
その女性は女性で、何者かに追われている。僕が一緒になることで、面倒事が増えただろう。ここにはいてはいけないかもしれないとも思うが、しかし彼女に引き止められる。一緒に逃げることに決める。
僕は逃げている。既に、何から逃げているのか分からなくなっている。それでも僕は逃げる。逃げる僕は、一体何者なのだろうか…。
というような感じです。
僕は、自分の頭が悪いのかもしれないとちょっとヘコんでいるのだけど、
どうしても本作の登場人物が誰なのか分かりません。
可能性があるのは三人。
クサナギ・スイト。
カンナミ・ユーヒチ。
クリタ・ジンロウ。
一体誰だろうか?
「フラッタリンツライフ」との繋がりやフーコと逃げている状況を考えるとクリタかもしれないと思う。
「スカイクロラ」との繋がりやエピローグでの話を考えるとカンナミだろうかと思う。
ドライブスルーで男に絡まれるシーンや後半の戦闘シーンなんかを考えると、クサナギだろうかと思えてしまう。
カンナミとクリタを区別することは意味がないかもしれない。しかし、カンナミとクリタを同一だと考えてもどうもしっくりこない。エピローグでソマナカが投げたキーホルダ。あれは一体なんだ?どんな意味がある?誰が誰と同一なのか?
本作の主人公を誰か一人に同定しようとすると、どうしても僕の中で矛盾が生じる。しかし恐らくそれは僕の問題だろう。本作には恐らく矛盾はないはず。しかし、だとすれば僕は一体何を間違えているのだろうか?
もちろん本作を読むに当たって、それまでの作品をすべて読み返してみた。今回は、「ナバテア」から本作まで読み、最後に「スカイクロラ」を読んでみた。それでも、本作だけがどうしても分からない。何がどうなったのだろう。クリタは本当にクサナギに殺されたのか?クサナギが死んだのはいつだ?カンナミは一体何者だ?
とにかく、シリーズが完結したはずなのに、謎だらけである。全然分からない。どういうことだろう。
キルドレという存在の性質が関わっているのはまあ間違いなくて、つまり誰かの人格がその後誰かの人格に変わるというようなことが行われているのだろう。本作で出てきた奇妙な組織が、それを請け負っているのかもしれないとも思ったりする(しかしそれはないか…。戦争には反対らしいし)。
「スカイクロラ」で三ツ矢が、カンナミとクリタが同じ人間であると指摘している。上記で書いたことはこれを根拠にしているのだが、しかしこの発言の際三ツ矢はかなり不安定だった。この発言の真偽もどうかは分からない。
カンナミとクリタが同一人物だとして、じゃあ一体どこで変わったのか。問題は、「ダウンツヘヴン」でカンナミという男が出てきていることだ。もしそれがなければ、話は非常に簡単なのに。
つまり、「ダウンツヘヴン」のカンナミと、「スカイクロラ」のカンナミは同一人物なのかってこと。それすら、もはやよくわからなくなってきている。同一人物ではないというのならまだ理解は出来るのだけど、でもまさかそんなことはないだろう。
というわけで、結局よく分からない。誰か教えてくれないだろうか。こういう物語が普通に理解できる人というのは羨ましいと思う。
物語自体は相変わらずいい。結局主人公が誰なのか分からなかったのだが、しかし雰囲気は相変わらず淡々としていて、乾いている。乾いているのに、決して冷たくはない。その最適な湿度みたいなものが、読んでいて心地いいのだ。
本作は、ほとんどのシーンが地上だ。戦闘機に乗っているシーンはほとんどない。シリーズ中でも珍しい作品だろう。それでも、全体の雰囲気は相変わらず揺らがない。僕は、実際に地上から離れることはないが、しかし空想の中で空を飛んでいる。結局誰もが、空から逃れることが出来ないのだ。
いろんな小説を読んだけど、ここまで「静謐」という言葉の似合う物語はないと思う。それは装丁についても同じことで、作家と装丁家の思想が見事にマッチしているように思う。そういう意味で、奇跡的な作品だと言っていいと僕は思う。
つい先日、この「スカイクロラ」シリーズが押井守監督によってアニメ化されることが発表された。押井守氏の映画は観たことがない。どうも難解らしいが、しかし今回は脚本家が別にいるみたいだ。だからどうなのかわからないけど、でも僕は少なくとも期待している。映像になることでより素晴らしい作品になるとは思えないけど、でもこのシリーズを映像で見てみたいとは思う。
そういうわけで、毎年一作出続けていて、毎年楽しみにしていた世界が終わってしまった。やはりそれは哀しいものだ。なかなかここまで世界に浸ることが出来る物語はない。奇跡が形になって現れたような、そんな作品なのだ。
毎回恒例にしているが、気になった文章を抜書きして終わろうと思います。
(前略)
「変化をしないものというのは、つまりは、どんどん新しくなっているものなの。あなた方がそうだわ。それは、別の表現をすれば、ある種の成長と同じ意味を持っている。生物学的には、とても興味深い。ただそうなると、そもそもどうして、その状態を維持するように生命は作られていないのか、そちらの方が問題なの。まだ、わかっていない暗い領域だわ。これまでに確かなことは、死んで生まれ変わらないと、生物は進化できない。ずっと生きていたら、種としては死滅するでしょう。だからおそらく、死ぬ機能を持っていたものだけが、地球上に生き残った、ともいえるわけ」
(後略)
(前略)
「大勢いたら淋しくない?」
(後略)
(前略)
なんと地上の不自由なこと。
そう、地上には、逃げ場がない。
どこへも逃げられない。
もうこれ以上墜ちられない。
(後略)
(前略)
「私たちが、科学という空で戦うのはね」彼女は振り返って微笑んだ。「人間が乗った飛行機じゃないの」
「誰が載っているんですか?」
「いえ、飛行機でもないわ。私たちが撃ち落とす相手は、天使よ」
「天使?」
「そう、悪魔かもしれないけれど。でも、どちらも同じものね」
(後略)
「(前略)彼らは、少なくとも犠牲者ではない。むしろ、私たちよりも、ずっとずっと誇り高い、勝利者なんです。犠牲者は大勢の大人たちの方だ。哀れなのは、我々なのです。これを受け入れるまでに、私はとても悩みました。何故、戦争をする人間たちを勝利者と呼べるのか。何故なのか。考えても考えてもわからない。つまり、最後は、戦うことを忌み嫌うのは何故か、という問いに行き着くのです。さあ、何故でしょう?単なる臆病者なのでしょうか。そんなとき、私は、クサナギ大尉に会った。彼女と話をしたのです。それで、わかった。そうか、と理解できたんです。一度でも彼らに接してみれば、それがわかるでしょう。あの純粋に綺麗な瞳を見れば。あれこそが、人類が持っていた本当の瞳です」
(後略)
(前略)
僕はまだ子供で、そして、ずっと子供のままでいたいと願っている。きっとそうだ。そこが噛み合わない部分なのではないか。大人は、かつては子供だった。子供から大人になったのだ。でも、もう子供の心は失われている。子供には戻れない。そして、子供に対して優しく語りかける。
早く大人になりなさい。
子供は不十分な存在で、大人だけが人間としての完成形だと、子供に信じさせようとする。騙された子供たちが、大人になることで悩み、そして自分を傷つける。たくさんのものを失って、大人へ墜ちていくのではないか。
子供のままでいた大人はいないのだ。
それを実現するものは、死しかなかった。
唯一の例外が、死と、僕たちだ。
(後略)
(前略)
本当の愛ならば、信じさせる必要などない。
(後略)
森博嗣「クレィドゥ・ザ・スカイ」
永遠が回っている。
意識が浮かんでいる。
記憶が途切れている。
願望が浮き上がっている。
孤独が巡っている。
正しさが飛び越えている。
境界が閉じている。
そうして僕は、地上にいる。
磔にされている。
楔を打たれている。
逃げまどっている。
地上には何もない。
僕が望むものは何一つとしてない。
すべては、空にある。
空に浮かんでいる。
僕はそれを掴むために、これまでも何度も空へと駆け上がっていったはずだ。
そこが自分の居場所だと信じて。
そこで死ぬことが出来る幸運を期待して。
しかし、いつの間にか空は遠くなった。
天井が、
常識が、
規則が、
人間が、
ありとあらゆるものが、
僕を空から遠ざけていく。
僕の居場所を奪っていく。
恐らく、
空に名前を忘れてきたのだろう。
今の僕が一体何者なのかよくわからない。
地面に這い蹲っている時は、いつだってそうだ。
自分が何者であるかなんか、分からない。
意味がない。
きっと、
時々空へと登っていって、
自分の名前を確かめるのだろう。
雲の端っこに、
あるいは太陽の欠片に、
きっと僕の名前が刻まれているはずだ。
いや、
名前である必要はない。
言葉が刻まれてる必要もない。
ただそこに行けば、
僕は僕が何者であるか知ることが出来る。
それが、僕のすべてだ。
過去も未来も、
実績も失敗も、
関係も軋轢も、
すべて関係がない。
僕の躰の半分は、空にある。
地上の僕は、ただの半分でしかない。
生きる目的も、
輝ける未来も、
正しい価値も、
すべて半分だ。
半分の僕が、
残り半分の僕を追いかけるように、
残り半分の僕を恋しく思うように、
空を目指していく。
何から逃げているのか分からないまま、
誰が敵なのかも分からないまま、
半分になった僕は、
惨めに地上を這いまわる。
地上が自分の居場所だって信じられる人間が羨ましい。
半分だけの自分が本物だって信じられる人間が羨ましい。
いや、
羨ましいわけではない。
哀しいのかもしれない。
理解を求めているわけではない。
孤独を埋め合わせたいわけでもない。
ただ、
濁りきって汚れきった存在と、
同じ地上で、
同じ空気を吸わなくてはいけないのが、
哀しいのかもしれない。
誰も教えてくれないけど、
誰も僕が何者であるのか教えてくれないけど、
きっと僕は何者でもないのだろう。
きっとそうだ。
何者でもなくなった僕は、
少しだけ自由になれたのかもしれない。
空に浮かんでいる時のように。
死が優しく微笑むように。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「スカイクロラ」シリーズの最新刊です。と同時に最終巻、つまり本作で完結なのですが、しかしその表現は多少正確性を欠いています。
「スカイクロラ」シリーズというのは、一番初めに刊行された「スカイクロラ」が最終巻です。このシリーズを刊行順に並べれば、
「スカイクロラ」
「ナバテア」
「ダウンツヘヴン」
「フラッタリンツライフ」
「クレィドゥザスカイ」
となるけれども、このシリーズを時系列順で並べるとすると、
「ナバテア」
「ダウンツヘヴン」
「フラッタリンツライフ」
「クレィドゥザスカイ」
「スカイクロラ」
となります。森博嗣は、意図的に最終巻から刊行したのだ、と自身のブログで書いています。
物語は、僕が病院を脱走するところから始まります。
僕は、フーコと連絡を取る。迎えに来てもらって、そして一緒に逃げようとする。フーコと一緒に逃げることを考えてみる。あまり現実的ではないような感じだ。
少し前、ある女性が病室を訪ねて来た。その時に知った番号に電話をする。それが現状を打開する唯一の方法に思える。結局その女性に連絡を取り、会うことにする。フーコとはお別れだ。
その女性は女性で、何者かに追われている。僕が一緒になることで、面倒事が増えただろう。ここにはいてはいけないかもしれないとも思うが、しかし彼女に引き止められる。一緒に逃げることに決める。
僕は逃げている。既に、何から逃げているのか分からなくなっている。それでも僕は逃げる。逃げる僕は、一体何者なのだろうか…。
というような感じです。
僕は、自分の頭が悪いのかもしれないとちょっとヘコんでいるのだけど、
どうしても本作の登場人物が誰なのか分かりません。
可能性があるのは三人。
クサナギ・スイト。
カンナミ・ユーヒチ。
クリタ・ジンロウ。
一体誰だろうか?
「フラッタリンツライフ」との繋がりやフーコと逃げている状況を考えるとクリタかもしれないと思う。
「スカイクロラ」との繋がりやエピローグでの話を考えるとカンナミだろうかと思う。
ドライブスルーで男に絡まれるシーンや後半の戦闘シーンなんかを考えると、クサナギだろうかと思えてしまう。
カンナミとクリタを区別することは意味がないかもしれない。しかし、カンナミとクリタを同一だと考えてもどうもしっくりこない。エピローグでソマナカが投げたキーホルダ。あれは一体なんだ?どんな意味がある?誰が誰と同一なのか?
本作の主人公を誰か一人に同定しようとすると、どうしても僕の中で矛盾が生じる。しかし恐らくそれは僕の問題だろう。本作には恐らく矛盾はないはず。しかし、だとすれば僕は一体何を間違えているのだろうか?
もちろん本作を読むに当たって、それまでの作品をすべて読み返してみた。今回は、「ナバテア」から本作まで読み、最後に「スカイクロラ」を読んでみた。それでも、本作だけがどうしても分からない。何がどうなったのだろう。クリタは本当にクサナギに殺されたのか?クサナギが死んだのはいつだ?カンナミは一体何者だ?
とにかく、シリーズが完結したはずなのに、謎だらけである。全然分からない。どういうことだろう。
キルドレという存在の性質が関わっているのはまあ間違いなくて、つまり誰かの人格がその後誰かの人格に変わるというようなことが行われているのだろう。本作で出てきた奇妙な組織が、それを請け負っているのかもしれないとも思ったりする(しかしそれはないか…。戦争には反対らしいし)。
「スカイクロラ」で三ツ矢が、カンナミとクリタが同じ人間であると指摘している。上記で書いたことはこれを根拠にしているのだが、しかしこの発言の際三ツ矢はかなり不安定だった。この発言の真偽もどうかは分からない。
カンナミとクリタが同一人物だとして、じゃあ一体どこで変わったのか。問題は、「ダウンツヘヴン」でカンナミという男が出てきていることだ。もしそれがなければ、話は非常に簡単なのに。
つまり、「ダウンツヘヴン」のカンナミと、「スカイクロラ」のカンナミは同一人物なのかってこと。それすら、もはやよくわからなくなってきている。同一人物ではないというのならまだ理解は出来るのだけど、でもまさかそんなことはないだろう。
というわけで、結局よく分からない。誰か教えてくれないだろうか。こういう物語が普通に理解できる人というのは羨ましいと思う。
物語自体は相変わらずいい。結局主人公が誰なのか分からなかったのだが、しかし雰囲気は相変わらず淡々としていて、乾いている。乾いているのに、決して冷たくはない。その最適な湿度みたいなものが、読んでいて心地いいのだ。
本作は、ほとんどのシーンが地上だ。戦闘機に乗っているシーンはほとんどない。シリーズ中でも珍しい作品だろう。それでも、全体の雰囲気は相変わらず揺らがない。僕は、実際に地上から離れることはないが、しかし空想の中で空を飛んでいる。結局誰もが、空から逃れることが出来ないのだ。
いろんな小説を読んだけど、ここまで「静謐」という言葉の似合う物語はないと思う。それは装丁についても同じことで、作家と装丁家の思想が見事にマッチしているように思う。そういう意味で、奇跡的な作品だと言っていいと僕は思う。
つい先日、この「スカイクロラ」シリーズが押井守監督によってアニメ化されることが発表された。押井守氏の映画は観たことがない。どうも難解らしいが、しかし今回は脚本家が別にいるみたいだ。だからどうなのかわからないけど、でも僕は少なくとも期待している。映像になることでより素晴らしい作品になるとは思えないけど、でもこのシリーズを映像で見てみたいとは思う。
そういうわけで、毎年一作出続けていて、毎年楽しみにしていた世界が終わってしまった。やはりそれは哀しいものだ。なかなかここまで世界に浸ることが出来る物語はない。奇跡が形になって現れたような、そんな作品なのだ。
毎回恒例にしているが、気になった文章を抜書きして終わろうと思います。
(前略)
「変化をしないものというのは、つまりは、どんどん新しくなっているものなの。あなた方がそうだわ。それは、別の表現をすれば、ある種の成長と同じ意味を持っている。生物学的には、とても興味深い。ただそうなると、そもそもどうして、その状態を維持するように生命は作られていないのか、そちらの方が問題なの。まだ、わかっていない暗い領域だわ。これまでに確かなことは、死んで生まれ変わらないと、生物は進化できない。ずっと生きていたら、種としては死滅するでしょう。だからおそらく、死ぬ機能を持っていたものだけが、地球上に生き残った、ともいえるわけ」
(後略)
(前略)
「大勢いたら淋しくない?」
(後略)
(前略)
なんと地上の不自由なこと。
そう、地上には、逃げ場がない。
どこへも逃げられない。
もうこれ以上墜ちられない。
(後略)
(前略)
「私たちが、科学という空で戦うのはね」彼女は振り返って微笑んだ。「人間が乗った飛行機じゃないの」
「誰が載っているんですか?」
「いえ、飛行機でもないわ。私たちが撃ち落とす相手は、天使よ」
「天使?」
「そう、悪魔かもしれないけれど。でも、どちらも同じものね」
(後略)
「(前略)彼らは、少なくとも犠牲者ではない。むしろ、私たちよりも、ずっとずっと誇り高い、勝利者なんです。犠牲者は大勢の大人たちの方だ。哀れなのは、我々なのです。これを受け入れるまでに、私はとても悩みました。何故、戦争をする人間たちを勝利者と呼べるのか。何故なのか。考えても考えてもわからない。つまり、最後は、戦うことを忌み嫌うのは何故か、という問いに行き着くのです。さあ、何故でしょう?単なる臆病者なのでしょうか。そんなとき、私は、クサナギ大尉に会った。彼女と話をしたのです。それで、わかった。そうか、と理解できたんです。一度でも彼らに接してみれば、それがわかるでしょう。あの純粋に綺麗な瞳を見れば。あれこそが、人類が持っていた本当の瞳です」
(後略)
(前略)
僕はまだ子供で、そして、ずっと子供のままでいたいと願っている。きっとそうだ。そこが噛み合わない部分なのではないか。大人は、かつては子供だった。子供から大人になったのだ。でも、もう子供の心は失われている。子供には戻れない。そして、子供に対して優しく語りかける。
早く大人になりなさい。
子供は不十分な存在で、大人だけが人間としての完成形だと、子供に信じさせようとする。騙された子供たちが、大人になることで悩み、そして自分を傷つける。たくさんのものを失って、大人へ墜ちていくのではないか。
子供のままでいた大人はいないのだ。
それを実現するものは、死しかなかった。
唯一の例外が、死と、僕たちだ。
(後略)
(前略)
本当の愛ならば、信じさせる必要などない。
(後略)
森博嗣「クレィドゥ・ザ・スカイ」
赤い糸(メイ)
いやはや。
わけわからんわ。
今回ちょっと携帯小説にチャレンジしてみることにしました。というのも、まあやっぱり僕は携帯小説はダメだろうなと前から思っていたんですけど、でも読まないで批判するのもどうかなと思って、とりあえず一作でもいいから読んでみようか、と思ったわけです。
まあ呼んだ感想としては、やっぱダメだったんですけど。
厳然たる事実として、この「赤い糸」という作品は、今年度の上半期で、最も売れた小説です。並み居る強豪のベストセラーを差し置いてです。また、上半期のトップ10の中には、携帯小説が7作ランクインしているみたいです。すごい時代になったものです。
今回は、何故携帯小説が売れるのか、ということを頑張って分析し、出版業界はこの携帯小説というものとどう向き合い、また今後どんな本を作っていくべきかというようなことを書いてみようかな、と思ったりします。
最近携帯小説というのは雨後の筍のように次々と出版されていますが、その大きな特徴として次の二点が挙げられると思います。
・同世代の女の子の物語であること
・同世代の女の子の言葉で綴られていること
結局この二点が、携帯小説が売れる理由なんだろうな、と思います。
僕も小学生の頃から本を読んでいましたが、今振り返ってみれば当時僕が読んでいた本も、同世代の登場人物が活躍する物語でした。小学生の頃は「ズッコケ三人組」シリーズを、中学生の頃は「ぼくらの」シリーズをひたすら読んでいました。
やっぱり中高生の頃というのは、自分の身近な世界というのがどうしても狭くなってしまうものだし、自分の身近な世界以外のことはどうしても現実感を感じられないようになっているのだろうな、と思います。だから、同世代の登場人物が出てくる話を読みたいのだろうな、と思います。
しかし、じゃあそういう視点で出版業界を見てみると、中高生向けの中高生が登場人物である物語というのは極端に少ないな、と思うわけです。
いやもちろん、中高生を登場人物に据えた物語はあります。本屋大賞を獲った「一瞬の風になれ」だって確か中学の陸上部の話だったし、重松清や乙一なんかも中高生を描いている。
でも違うのだ。やはりどうしても、大人が描く中高生と実際の中高生には乖離があるのだろうと思う。
大人にである作家たちがいくら中高生を登場人物にしようとしても、その根幹となるのは自分の経験であるし、いくら取材をしたところで実際の中高生の状況というのは分からないものです。結局、中高生を登場人物にしても、それが中高生にして見れば現実感を感じられるものではなく(あるいはそういうイメージがあって)、だから受け入れられないということになるのだろうと思うわけです。
子どもは本を読まなくなったとよく言われるけど、でも彼女達にしてみれば、読みたい本がないというのが現状なんだろうと思います。自分たちと同じ登場人物が自分たちと同じような身近の中で物語が展開する小説がないということなんだろうと思います。だから小説を読まない。
でそんな折に、携帯小説というのが出てきたわけです。これはそもそも中高生が書いているわけだし、文章だって自分たちが書くのと近くて、だから読みやすいし共感できる。出版業界でそういう分野がそもそもなかったのだから、誰もが携帯小説に飛びつく。で結局ベストセラーになってしまうのだろうな、と思います。
つまり、普通の小説であればもはや選択肢は山ほどあるわけで、だから人々の好みは分散してなかなかベストセラーにはならない。でも携帯小説は、出始めたばかりでみんな同じ本を買うしかなくて集中してしまう。だからベストセラーになる、とこういう仕組みだろうな、と思います。
またもう一つ思うことは、何をリアルであると感じるかという価値観がどんどんと変わっていっているのだろうな、ということです。
例えばだけど、昔学生運動みたいなのが盛んだった時代があって(直接は知らないけど)、で恐らくその時期は、そういう学生運動を鼓舞するような小説が受けたんだろうなと思うんです。たぶん、石原慎太郎みたいな。それは、学生運動という背景が一つの価値観を生み出していて、多くの人がそれをリアルであると感じられたということなんだと思います。でも今では学生運動って何?ってレベルなわけで、それをリアルに感じられる人はいない。そういうような、時代背景とも根付いたような、何をリアルであると感じられるかという価値観の変遷が大きいのかもしれないと思います。
僕からすれば、本作で描かれている話はまったくリアルに感じることが出来ないけど、でも同世代の子たちからしたらもの凄くリアルに感じられる。そういう乖離があるからこそ、僕等には理解できないし、でも彼女達には理解できるということになるのだろうなと思います。
また、何故女子中高生に受けたのかという分析もあったりします。
男子中高生の場合、「ライトノベル」という分野が昔からあって、それで需要が満たされていたということが挙げられるのではないかと思います。今もかなり隆盛を誇っているライトノベルですが、そこまでメジャーになる以前からライトノベルというのは存在していて(「ライトノベル」という言葉自体は結構最近のものらしいけど)、男子中高生はそういう作品を読むことで満足できていたのだろうな、と思います。
しかし、これは今でもそうですが、女子中高生向けの「ライトノベル」というのはあんまりない感じです。女性向のライトノベルといえばBLが主流で、もちろんそうした作品を読んでいる女子中高生もいるでしょうが、やっぱ学校とかで読んだり大っぴらに話題にしたり出来るものではないでしょうから、やっぱり少なくとも女子中高生の間で大きなムーブメントにはならなかったのだろうな、と思います。
でようやく、女子中高生が読んで学校でもそれについての話題が出来るような小説というのが出てきたわけです。内容に共感できるというのも一つの要素だろうけど、学校で話題にすることが出来るという面でもこの携帯小説というのは手ごろな小説だったのだろうな、と思います。
とまあそんなわけで女子中高生は、携帯小説をこぞって買っているのではないか、と思います。
さてここで視点を女子中高生ではなく出版業界に向けてみましょう。
やっぱりみんな、なんでこんな本が売れるのだろう?と疑問なわけです。
さてその疑問の答えを見つけることが重要なのではなく、じゃあ携帯小説が売れるのであればこれからどうするべきだろうか、ということを考えなくてはいけないでしょう。
ただ、これはなかなか難しい。
例えば出版業界にしても書店業界にしても、携帯小説の良さが分からないわけで、畢竟あまり力を入れる気になれないというのがあります。作る側にしても、まあ携帯サイトで人気のあるやつだけとりあえず本にしておけば売れるだろう、という発想でしか携帯小説を出さないでしょうし、書店の側としても、まあ置いとけば売れるからとりあえず置くだけ置いておこう、みたいな感じでやはりあまり力を入れないだろうと思います。
しかしそれでいいのかなぁ、という気はしてしまいます。
少なくとも出版社は、新たな需要を発掘出来たわけで、それに向けて本を生み出すべきではないかな、と思います。今は携帯サイトで連載されていたものが本になるわけで、だから携帯小説と呼ばれますけど、じゃあ女子中高生限定の新人賞を創設して、審査員なんかを女子中高生向けの有名雑誌の読者モデルとかにしたら、それなりに原稿も集まるだろうし、携帯小説と似たような分野の発掘が出来るような気もします。また、携帯小説を書いている女子中高生と個別にアプローチして、携帯小説ではなく書き下ろしみたいな感じで本を書いてもらうみたいな感じでもいいでしょう。
僕は結局のところ、本というのは売れたもの勝ちだと思っています。どんなに素晴らしい本でも売れなければ負けだし、どんなにクソみたいな本でも売れたら勝ちでしょう。ベストセラーというのは、内容には関係なく、たくさん売れたというだけでとりあえず一つの価値があると思っています。そんなわけで、売れる本を作る必要が出版社にはあるのかな、という気がします。
まあ書店員としての意見を言わせてもらえれば、この携帯小説ブームというのはいい加減にして欲しいのだけど、しかし売れるものは仕方ない。文庫担当としては恐るべきことに、今年の秋には携帯小説が文庫になるとのこと。もうどうしていいのかわかりません…。
とにかく僕が願うのは、女子中高生が携帯小説を読むのはまあいいでしょう。でもそこから本を読むということの楽しさを知って、世の中にはちゃんとしたものすごく面白い本が山ほどあるのだということを知って欲しい、ということです。
そろそろ内容に入ろうと思います。
と言っても、内容紹介ねぇ。
芽衣という中学生が主人公で、悠哉って男の子が好きなんだけど悠哉は私の姉のことが好きで擦れ違い。忘れようと思っているとアツシって男の子といい感じになるんだけど、一ヶ月で別れちゃう。それからセックスだけの関係の男の子とかがいたり、レイプされたり、友達が自殺未遂して記憶喪失になったりまた男の子と付き合ったり…。
みたいな話です。
いやはや。特に書くことはありません。とにかく、まったくもって面白くなかったし、面白さがまったくわかりませんでした。
前にバイト先にいた人で、僕より5歳くらい下の女の子がいたんだけど、その子はこの作品を読んで泣いたって言ってました。うーむ。
携帯小説は文章が酷いって言われていて、まあ確かに酷いですね。「あっとゆう間」とか「ぅん!」みたいな表記が連発しておいおいとか思います。でもまあ読めなくもないです。会話もまだなんとか着いていける感じだけど。
HYの中曽根泉っていう人が絶賛しているのだけど、大丈夫かなぁ、と正直思ってしまいます。
まあそんなわけで、やっぱり読まない方がいいでしょう。僕は書店員としてはやっぱ一作ぐらい読んでおかないとかなと思って読みましたが、書店員じゃなかったら間違いなく読まなかったでしょうね。まあ女子中高生以外には意味不明な小説だと思います。
メイ「赤い糸」
わけわからんわ。
今回ちょっと携帯小説にチャレンジしてみることにしました。というのも、まあやっぱり僕は携帯小説はダメだろうなと前から思っていたんですけど、でも読まないで批判するのもどうかなと思って、とりあえず一作でもいいから読んでみようか、と思ったわけです。
まあ呼んだ感想としては、やっぱダメだったんですけど。
厳然たる事実として、この「赤い糸」という作品は、今年度の上半期で、最も売れた小説です。並み居る強豪のベストセラーを差し置いてです。また、上半期のトップ10の中には、携帯小説が7作ランクインしているみたいです。すごい時代になったものです。
今回は、何故携帯小説が売れるのか、ということを頑張って分析し、出版業界はこの携帯小説というものとどう向き合い、また今後どんな本を作っていくべきかというようなことを書いてみようかな、と思ったりします。
最近携帯小説というのは雨後の筍のように次々と出版されていますが、その大きな特徴として次の二点が挙げられると思います。
・同世代の女の子の物語であること
・同世代の女の子の言葉で綴られていること
結局この二点が、携帯小説が売れる理由なんだろうな、と思います。
僕も小学生の頃から本を読んでいましたが、今振り返ってみれば当時僕が読んでいた本も、同世代の登場人物が活躍する物語でした。小学生の頃は「ズッコケ三人組」シリーズを、中学生の頃は「ぼくらの」シリーズをひたすら読んでいました。
やっぱり中高生の頃というのは、自分の身近な世界というのがどうしても狭くなってしまうものだし、自分の身近な世界以外のことはどうしても現実感を感じられないようになっているのだろうな、と思います。だから、同世代の登場人物が出てくる話を読みたいのだろうな、と思います。
しかし、じゃあそういう視点で出版業界を見てみると、中高生向けの中高生が登場人物である物語というのは極端に少ないな、と思うわけです。
いやもちろん、中高生を登場人物に据えた物語はあります。本屋大賞を獲った「一瞬の風になれ」だって確か中学の陸上部の話だったし、重松清や乙一なんかも中高生を描いている。
でも違うのだ。やはりどうしても、大人が描く中高生と実際の中高生には乖離があるのだろうと思う。
大人にである作家たちがいくら中高生を登場人物にしようとしても、その根幹となるのは自分の経験であるし、いくら取材をしたところで実際の中高生の状況というのは分からないものです。結局、中高生を登場人物にしても、それが中高生にして見れば現実感を感じられるものではなく(あるいはそういうイメージがあって)、だから受け入れられないということになるのだろうと思うわけです。
子どもは本を読まなくなったとよく言われるけど、でも彼女達にしてみれば、読みたい本がないというのが現状なんだろうと思います。自分たちと同じ登場人物が自分たちと同じような身近の中で物語が展開する小説がないということなんだろうと思います。だから小説を読まない。
でそんな折に、携帯小説というのが出てきたわけです。これはそもそも中高生が書いているわけだし、文章だって自分たちが書くのと近くて、だから読みやすいし共感できる。出版業界でそういう分野がそもそもなかったのだから、誰もが携帯小説に飛びつく。で結局ベストセラーになってしまうのだろうな、と思います。
つまり、普通の小説であればもはや選択肢は山ほどあるわけで、だから人々の好みは分散してなかなかベストセラーにはならない。でも携帯小説は、出始めたばかりでみんな同じ本を買うしかなくて集中してしまう。だからベストセラーになる、とこういう仕組みだろうな、と思います。
またもう一つ思うことは、何をリアルであると感じるかという価値観がどんどんと変わっていっているのだろうな、ということです。
例えばだけど、昔学生運動みたいなのが盛んだった時代があって(直接は知らないけど)、で恐らくその時期は、そういう学生運動を鼓舞するような小説が受けたんだろうなと思うんです。たぶん、石原慎太郎みたいな。それは、学生運動という背景が一つの価値観を生み出していて、多くの人がそれをリアルであると感じられたということなんだと思います。でも今では学生運動って何?ってレベルなわけで、それをリアルに感じられる人はいない。そういうような、時代背景とも根付いたような、何をリアルであると感じられるかという価値観の変遷が大きいのかもしれないと思います。
僕からすれば、本作で描かれている話はまったくリアルに感じることが出来ないけど、でも同世代の子たちからしたらもの凄くリアルに感じられる。そういう乖離があるからこそ、僕等には理解できないし、でも彼女達には理解できるということになるのだろうなと思います。
また、何故女子中高生に受けたのかという分析もあったりします。
男子中高生の場合、「ライトノベル」という分野が昔からあって、それで需要が満たされていたということが挙げられるのではないかと思います。今もかなり隆盛を誇っているライトノベルですが、そこまでメジャーになる以前からライトノベルというのは存在していて(「ライトノベル」という言葉自体は結構最近のものらしいけど)、男子中高生はそういう作品を読むことで満足できていたのだろうな、と思います。
しかし、これは今でもそうですが、女子中高生向けの「ライトノベル」というのはあんまりない感じです。女性向のライトノベルといえばBLが主流で、もちろんそうした作品を読んでいる女子中高生もいるでしょうが、やっぱ学校とかで読んだり大っぴらに話題にしたり出来るものではないでしょうから、やっぱり少なくとも女子中高生の間で大きなムーブメントにはならなかったのだろうな、と思います。
でようやく、女子中高生が読んで学校でもそれについての話題が出来るような小説というのが出てきたわけです。内容に共感できるというのも一つの要素だろうけど、学校で話題にすることが出来るという面でもこの携帯小説というのは手ごろな小説だったのだろうな、と思います。
とまあそんなわけで女子中高生は、携帯小説をこぞって買っているのではないか、と思います。
さてここで視点を女子中高生ではなく出版業界に向けてみましょう。
やっぱりみんな、なんでこんな本が売れるのだろう?と疑問なわけです。
さてその疑問の答えを見つけることが重要なのではなく、じゃあ携帯小説が売れるのであればこれからどうするべきだろうか、ということを考えなくてはいけないでしょう。
ただ、これはなかなか難しい。
例えば出版業界にしても書店業界にしても、携帯小説の良さが分からないわけで、畢竟あまり力を入れる気になれないというのがあります。作る側にしても、まあ携帯サイトで人気のあるやつだけとりあえず本にしておけば売れるだろう、という発想でしか携帯小説を出さないでしょうし、書店の側としても、まあ置いとけば売れるからとりあえず置くだけ置いておこう、みたいな感じでやはりあまり力を入れないだろうと思います。
しかしそれでいいのかなぁ、という気はしてしまいます。
少なくとも出版社は、新たな需要を発掘出来たわけで、それに向けて本を生み出すべきではないかな、と思います。今は携帯サイトで連載されていたものが本になるわけで、だから携帯小説と呼ばれますけど、じゃあ女子中高生限定の新人賞を創設して、審査員なんかを女子中高生向けの有名雑誌の読者モデルとかにしたら、それなりに原稿も集まるだろうし、携帯小説と似たような分野の発掘が出来るような気もします。また、携帯小説を書いている女子中高生と個別にアプローチして、携帯小説ではなく書き下ろしみたいな感じで本を書いてもらうみたいな感じでもいいでしょう。
僕は結局のところ、本というのは売れたもの勝ちだと思っています。どんなに素晴らしい本でも売れなければ負けだし、どんなにクソみたいな本でも売れたら勝ちでしょう。ベストセラーというのは、内容には関係なく、たくさん売れたというだけでとりあえず一つの価値があると思っています。そんなわけで、売れる本を作る必要が出版社にはあるのかな、という気がします。
まあ書店員としての意見を言わせてもらえれば、この携帯小説ブームというのはいい加減にして欲しいのだけど、しかし売れるものは仕方ない。文庫担当としては恐るべきことに、今年の秋には携帯小説が文庫になるとのこと。もうどうしていいのかわかりません…。
とにかく僕が願うのは、女子中高生が携帯小説を読むのはまあいいでしょう。でもそこから本を読むということの楽しさを知って、世の中にはちゃんとしたものすごく面白い本が山ほどあるのだということを知って欲しい、ということです。
そろそろ内容に入ろうと思います。
と言っても、内容紹介ねぇ。
芽衣という中学生が主人公で、悠哉って男の子が好きなんだけど悠哉は私の姉のことが好きで擦れ違い。忘れようと思っているとアツシって男の子といい感じになるんだけど、一ヶ月で別れちゃう。それからセックスだけの関係の男の子とかがいたり、レイプされたり、友達が自殺未遂して記憶喪失になったりまた男の子と付き合ったり…。
みたいな話です。
いやはや。特に書くことはありません。とにかく、まったくもって面白くなかったし、面白さがまったくわかりませんでした。
前にバイト先にいた人で、僕より5歳くらい下の女の子がいたんだけど、その子はこの作品を読んで泣いたって言ってました。うーむ。
携帯小説は文章が酷いって言われていて、まあ確かに酷いですね。「あっとゆう間」とか「ぅん!」みたいな表記が連発しておいおいとか思います。でもまあ読めなくもないです。会話もまだなんとか着いていける感じだけど。
HYの中曽根泉っていう人が絶賛しているのだけど、大丈夫かなぁ、と正直思ってしまいます。
まあそんなわけで、やっぱり読まない方がいいでしょう。僕は書店員としてはやっぱ一作ぐらい読んでおかないとかなと思って読みましたが、書店員じゃなかったら間違いなく読まなかったでしょうね。まあ女子中高生以外には意味不明な小説だと思います。
メイ「赤い糸」
水上のパッサカリア(海野碧)
本当の自分というのは、一体どのように定まり、どのように決まっていくのだろうか。
…。
という話でも書こうかと思ったのだけど、今日はどうも時間がないので、珍しく前書きなしで内容に入ろうと思います。
大道寺勉は、Q県の翡翠湖の近くにある一軒家で生活をしている。今は一人ぐらしだが、つい最近までは、籍こそ入れていなかったがほとんど妻同然の女と一緒に暮らしていた。
菜津というその女とは、東京で出会った。特別これと言った理由があったわけでもないが、ちょうど身辺を整理しなくてはならない時期にあり、タイミングがあっていたこともあって、遠い地で一緒に暮らすことにしたのだ。
菜津という女はとにかく男運のない女で、卑屈で自信のない女だったが、勉が信頼できる男だと納得したのか、暮らし始めてしばらくすると甲斐甲斐しく生活をするようになり、活き活きとしてきたものだ。
その菜津も、ついこの間死んでしまった。暴走族との接触事故のためだ。失われて初めて、菜津という女の存在がなかなか大きかったのだなと実感するようになった。
だから今では、ケイトという名の犬と一緒ではあるが、ずっと一人で生活をしている。菜津には結局、ありとあらゆることを秘密にしたままだった。勉の本名さえ、菜津は知らなかったのだ。まあその方がよかったかもしれないが。
仕事先である自動車整備工場へと通い、時に女を買いに街へ出るだけの淡々とした生活を続ける勉だが、どうも最近見張られている気配がする。自分の居場所など分からないように注意して細工したはずだったのに…。
というような話です。
本作はミステリなんですが、冒頭100ページくらいまで何にも起こりません。ひたすら、勉の日常と、かつて菜津と過ごした日々の回想に費やされていて、これがどうミステリに繋がっていくんだろうかなんて思っていました。
それでも冒頭部分では形にならないある謎が提示されてもいました。それは、勉という男は一体何者なのか、ということです。文章の所々で、この男が何か秘密を隠したまま生活をしているらしいということが浮き彫りになっていくわけで、まあそれが謎と言えば謎かなという感じはします。
で中盤から後半に掛けてまあミステリっぽい展開になっていきますが、どちらがと言えば冒険小説みたいな展開の仕方だなと思いました。まあ確かにラストではミステリ的な転換みたいなものはあるけどそこはさほどメインではないような気がするし、冒険小説というかサスペンス的なストーリー運びだなと思いました。
僕としては、勉が何者なのかということが一つの興味で作品を読んでいたので、その正体が分かった時はちょっと肩透かしをくらったかなという感じです。そこまですごいネタというわけでもありません。
全体的にストーリー自体はものすごく地味で、しかも淡々と進んでいくのですが、文章に関してはかなりうまいかなと思いました。以前「九月が永遠に続けば」という本を読んだのですが、この本もストーリーは恐ろしく地味ででも文章が滅法うまいという作品でした。共にかなり作者が年配であるようで、なるほどやはり年齢を積み重ねることで文章というのは洗練されるものなのか、という感じがしました。
文章については、「~だろうが。」という終わり方をする文章が目立ってそれがちょっと気になったのと、あと冒頭5ページくらいの文章がどうもうまく入ってこなくて読むのに苦労したことくらいで、全体的に落ち着いているしブレもなく、新人にしては本当にいい文章を書くものだ、と思いました。何故かスラスラと読み進めることの出来ない作品で、思いがけず読むのに時間が掛かってしまいましたが
、まあ全体的には悪くなかったかなという感じがします。
ストーリーはすごく地味だし、ものすごい展開があるというわけでもないですが、安定感のある文章で読ませる作品だと思います。まあ割といい作品だと思います。読んでみてください。
でもやっぱり思うのは、新人はもっと奇抜ではじけた作品を出してきて欲しいなぁ、という感じです。江戸川乱歩賞とかも、つまんなくなってきちゃったし、やっぱメフィスト賞的な作品がばしばし出てくるといいと思います。
海野碧「水上のパッサカリア」
…。
という話でも書こうかと思ったのだけど、今日はどうも時間がないので、珍しく前書きなしで内容に入ろうと思います。
大道寺勉は、Q県の翡翠湖の近くにある一軒家で生活をしている。今は一人ぐらしだが、つい最近までは、籍こそ入れていなかったがほとんど妻同然の女と一緒に暮らしていた。
菜津というその女とは、東京で出会った。特別これと言った理由があったわけでもないが、ちょうど身辺を整理しなくてはならない時期にあり、タイミングがあっていたこともあって、遠い地で一緒に暮らすことにしたのだ。
菜津という女はとにかく男運のない女で、卑屈で自信のない女だったが、勉が信頼できる男だと納得したのか、暮らし始めてしばらくすると甲斐甲斐しく生活をするようになり、活き活きとしてきたものだ。
その菜津も、ついこの間死んでしまった。暴走族との接触事故のためだ。失われて初めて、菜津という女の存在がなかなか大きかったのだなと実感するようになった。
だから今では、ケイトという名の犬と一緒ではあるが、ずっと一人で生活をしている。菜津には結局、ありとあらゆることを秘密にしたままだった。勉の本名さえ、菜津は知らなかったのだ。まあその方がよかったかもしれないが。
仕事先である自動車整備工場へと通い、時に女を買いに街へ出るだけの淡々とした生活を続ける勉だが、どうも最近見張られている気配がする。自分の居場所など分からないように注意して細工したはずだったのに…。
というような話です。
本作はミステリなんですが、冒頭100ページくらいまで何にも起こりません。ひたすら、勉の日常と、かつて菜津と過ごした日々の回想に費やされていて、これがどうミステリに繋がっていくんだろうかなんて思っていました。
それでも冒頭部分では形にならないある謎が提示されてもいました。それは、勉という男は一体何者なのか、ということです。文章の所々で、この男が何か秘密を隠したまま生活をしているらしいということが浮き彫りになっていくわけで、まあそれが謎と言えば謎かなという感じはします。
で中盤から後半に掛けてまあミステリっぽい展開になっていきますが、どちらがと言えば冒険小説みたいな展開の仕方だなと思いました。まあ確かにラストではミステリ的な転換みたいなものはあるけどそこはさほどメインではないような気がするし、冒険小説というかサスペンス的なストーリー運びだなと思いました。
僕としては、勉が何者なのかということが一つの興味で作品を読んでいたので、その正体が分かった時はちょっと肩透かしをくらったかなという感じです。そこまですごいネタというわけでもありません。
全体的にストーリー自体はものすごく地味で、しかも淡々と進んでいくのですが、文章に関してはかなりうまいかなと思いました。以前「九月が永遠に続けば」という本を読んだのですが、この本もストーリーは恐ろしく地味ででも文章が滅法うまいという作品でした。共にかなり作者が年配であるようで、なるほどやはり年齢を積み重ねることで文章というのは洗練されるものなのか、という感じがしました。
文章については、「~だろうが。」という終わり方をする文章が目立ってそれがちょっと気になったのと、あと冒頭5ページくらいの文章がどうもうまく入ってこなくて読むのに苦労したことくらいで、全体的に落ち着いているしブレもなく、新人にしては本当にいい文章を書くものだ、と思いました。何故かスラスラと読み進めることの出来ない作品で、思いがけず読むのに時間が掛かってしまいましたが
、まあ全体的には悪くなかったかなという感じがします。
ストーリーはすごく地味だし、ものすごい展開があるというわけでもないですが、安定感のある文章で読ませる作品だと思います。まあ割といい作品だと思います。読んでみてください。
でもやっぱり思うのは、新人はもっと奇抜ではじけた作品を出してきて欲しいなぁ、という感じです。江戸川乱歩賞とかも、つまんなくなってきちゃったし、やっぱメフィスト賞的な作品がばしばし出てくるといいと思います。
海野碧「水上のパッサカリア」
あまりかん(高須光聖)
僕にとって過去とは、もんのすごく遠いものである。それは忘れるものであり失うものであり届かないものである。
自分の生きてきた道のりを逆に辿ることが出来ても、自分の過去にはたどり着けないのではないかと思うことがある。それくらい僕にとって過去というのは遠いものだし、断絶した存在である。
だからもちろん、過去のことはほとんど覚えていない。大学時代のことならまだギリギリで思い出せるが、高校より以前のことはもうさっぱりである。ほとんど意識的に思い出せるようなことはない。時々、以前の友人の下の名前だけ思い出したり、あるいは強烈な印象のあるシーンが突然思い出されたりすることはあるが、それはもはやフラッシュバックのようなものであって、回想という行為とはなかなか程遠いものである。
僕という人間は、これまでの過去の積み重ねとして現在あるはずだ。これまでの思考、発言、行動、決断、そうしたものがありとあらゆる形で組み合わさって今の自分が出来ているはずだし、一つ一つからまった糸をほどくようにして辿ればもっと自分のことがよく分かる予感もある。
しかし僕の場合、そもそも辿るべき道筋が見えてこない。拠って立つべき場所が見当たらないのだ。自分に過去というものが本当に存在したことを、あまり実感として持つことが出来ない。お前はこの年になるまで夢を見ていたんだと言われても、あまり驚きはしないかもしれない。
だから、過去のことを鮮明に覚えている人というのは羨ましいな、と思うのだ。
昔のことを、人の名前や出来事の細部まで事細かに覚えている人というのはどこにでもいるものだ。聞いてる分には特に印象的だとも思えないような出来事でも覚えていたりする。幼稚園の頃のことなんか、僕の場合そもそも幼稚園に行っていたかどうかもはっきりと自信がないくらいなのに(たぶん行っていたと思う)、その幼稚園の頃のことをさも昨日の出来事であるかのように語る人間もいるのだ。
羨ましいな、と思う。
過去を覚えているというのは何であれ、自分の人生に一生懸命だったのだろう、と思うのだ。それがどんなことであってもいい。勉強でも遊びでもスポーツでもなんでもいい。とにかく生きることに一生懸命だった日々があったからこそ鮮明な記憶となって残っているのだろうと思う。
僕の場合どうかといえば、全然一生懸命ではなかった。生きることに対して後ろ向きだったと思う。別にそこまで毎日が楽しいと思えたわけではないし、目標があったわけでもない。どうしてもしたいことがあったわけでもないし、一部を除いて特別な不満があったというわけでもない。だから、日々景色が流れるようにダラダラと日々を過ごし、特に何でもない時間を消費していたのだろうな、と思う。
じゃあまた昔に戻ってやり直したいかと言うと、やっぱりそんなことはない。めんどくさい。
こんな風に考えているからダメなんだろう。恐らく過去を鮮明に覚えている人であれば、昔に戻りたいかと聞かれれば即答だろう。辛いこともあったかもしれないけど、でも楽しいことだってあったし、戻ればより楽しく出来るから戻りたいに決まってる、とそんな風に思うものなのかもしれない。
人によっては、過ぎていった日々は自分の生き方に影響を与え、積み重なっていく。しかし僕は、ただ消費し、ただ古びさせるだけだ。もったいないなとも思うけど、しかし僕のような人間には仕方のないことなのだ。
小学校の時に出会った人間と未だに連絡を取り合っている人というのはすごい。さらに、小学校の頃からの友人と一緒に仕事をしているというのも、またすごい。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ダウンタウンの二人と小学校時代からの友人であり、またレギュラー番組をいくつも持つ売れっ子の放送作家である著者が、故郷尼崎市での思い出を綴った作品です。
著者が本作を書くきっかけになったのが、数年前のある友人の死だったそうです。小学校時代からの友人だった男の死を知り、急いで故郷に戻って旧友に会い、そこでかつての尼崎での出来事を忘れてはいけない、と思いこの作品を書き始めたのだそうです。
本作のタイトルは、「アメリカン」と「尼崎」を掛けた言葉であって、「尼崎出身の人」というような意味の造語です。
著者が子どもだった頃、尼崎市というのは公害が無茶苦茶な土地で、さらに景気もものすごく悪かった。しかしそこに住む人々はそんなものにもめげずに、いつも陰気なものを笑いで吹き飛ばしていた。笑いはただやし、笑っとけばなんとかなる、と言ったそんな土地柄である。
そこで育った著者は、無茶苦茶な子育てをする両親や今では問題になるだろう体罰バリバリの学校なんかを潜り抜けながら、ダウンタウンの二人やその他たくさんの友人たちと共に毎日くだらないことに汗を流しては笑い続けていた。とにかく面白いことが大好きで、毎日がとにかく楽しかった。そんなありとあらゆる雑多な思い出を綴った作品になっています。
まったく知らない他人の思い出話というのは基本的にあんまり面白くないものですが、しかしここまで破天荒だと読んでて面白いです。ダウンタウンの二人も出てきますがメインではなく、友人たちの一人という形で出てきます。あくまでもメインは著者の思い出であって、面白い子ども時代を過ごしたのだなぁ、と羨ましくなってしまいます。
学校の話がいろいろ出てくるんだけど、やっぱ学校はある程度厳しいところであって欲しいよなぁ、とか思います。さすがに平手で殴って鼓膜を破るみたいのはまずいと思うけど、でもそこそこ厳しくやらないと無茶苦茶になってしまうでしょう。今の子どもたちは、ある意味不幸だな、と思います。
あんまり書くことがないんですけど、まあ読み物としてまあまあ面白いんではないかなと思います。スラスラ読めます。興味がある人は読んでみてください。
高須光聖「あまりかん」
自分の生きてきた道のりを逆に辿ることが出来ても、自分の過去にはたどり着けないのではないかと思うことがある。それくらい僕にとって過去というのは遠いものだし、断絶した存在である。
だからもちろん、過去のことはほとんど覚えていない。大学時代のことならまだギリギリで思い出せるが、高校より以前のことはもうさっぱりである。ほとんど意識的に思い出せるようなことはない。時々、以前の友人の下の名前だけ思い出したり、あるいは強烈な印象のあるシーンが突然思い出されたりすることはあるが、それはもはやフラッシュバックのようなものであって、回想という行為とはなかなか程遠いものである。
僕という人間は、これまでの過去の積み重ねとして現在あるはずだ。これまでの思考、発言、行動、決断、そうしたものがありとあらゆる形で組み合わさって今の自分が出来ているはずだし、一つ一つからまった糸をほどくようにして辿ればもっと自分のことがよく分かる予感もある。
しかし僕の場合、そもそも辿るべき道筋が見えてこない。拠って立つべき場所が見当たらないのだ。自分に過去というものが本当に存在したことを、あまり実感として持つことが出来ない。お前はこの年になるまで夢を見ていたんだと言われても、あまり驚きはしないかもしれない。
だから、過去のことを鮮明に覚えている人というのは羨ましいな、と思うのだ。
昔のことを、人の名前や出来事の細部まで事細かに覚えている人というのはどこにでもいるものだ。聞いてる分には特に印象的だとも思えないような出来事でも覚えていたりする。幼稚園の頃のことなんか、僕の場合そもそも幼稚園に行っていたかどうかもはっきりと自信がないくらいなのに(たぶん行っていたと思う)、その幼稚園の頃のことをさも昨日の出来事であるかのように語る人間もいるのだ。
羨ましいな、と思う。
過去を覚えているというのは何であれ、自分の人生に一生懸命だったのだろう、と思うのだ。それがどんなことであってもいい。勉強でも遊びでもスポーツでもなんでもいい。とにかく生きることに一生懸命だった日々があったからこそ鮮明な記憶となって残っているのだろうと思う。
僕の場合どうかといえば、全然一生懸命ではなかった。生きることに対して後ろ向きだったと思う。別にそこまで毎日が楽しいと思えたわけではないし、目標があったわけでもない。どうしてもしたいことがあったわけでもないし、一部を除いて特別な不満があったというわけでもない。だから、日々景色が流れるようにダラダラと日々を過ごし、特に何でもない時間を消費していたのだろうな、と思う。
じゃあまた昔に戻ってやり直したいかと言うと、やっぱりそんなことはない。めんどくさい。
こんな風に考えているからダメなんだろう。恐らく過去を鮮明に覚えている人であれば、昔に戻りたいかと聞かれれば即答だろう。辛いこともあったかもしれないけど、でも楽しいことだってあったし、戻ればより楽しく出来るから戻りたいに決まってる、とそんな風に思うものなのかもしれない。
人によっては、過ぎていった日々は自分の生き方に影響を与え、積み重なっていく。しかし僕は、ただ消費し、ただ古びさせるだけだ。もったいないなとも思うけど、しかし僕のような人間には仕方のないことなのだ。
小学校の時に出会った人間と未だに連絡を取り合っている人というのはすごい。さらに、小学校の頃からの友人と一緒に仕事をしているというのも、またすごい。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ダウンタウンの二人と小学校時代からの友人であり、またレギュラー番組をいくつも持つ売れっ子の放送作家である著者が、故郷尼崎市での思い出を綴った作品です。
著者が本作を書くきっかけになったのが、数年前のある友人の死だったそうです。小学校時代からの友人だった男の死を知り、急いで故郷に戻って旧友に会い、そこでかつての尼崎での出来事を忘れてはいけない、と思いこの作品を書き始めたのだそうです。
本作のタイトルは、「アメリカン」と「尼崎」を掛けた言葉であって、「尼崎出身の人」というような意味の造語です。
著者が子どもだった頃、尼崎市というのは公害が無茶苦茶な土地で、さらに景気もものすごく悪かった。しかしそこに住む人々はそんなものにもめげずに、いつも陰気なものを笑いで吹き飛ばしていた。笑いはただやし、笑っとけばなんとかなる、と言ったそんな土地柄である。
そこで育った著者は、無茶苦茶な子育てをする両親や今では問題になるだろう体罰バリバリの学校なんかを潜り抜けながら、ダウンタウンの二人やその他たくさんの友人たちと共に毎日くだらないことに汗を流しては笑い続けていた。とにかく面白いことが大好きで、毎日がとにかく楽しかった。そんなありとあらゆる雑多な思い出を綴った作品になっています。
まったく知らない他人の思い出話というのは基本的にあんまり面白くないものですが、しかしここまで破天荒だと読んでて面白いです。ダウンタウンの二人も出てきますがメインではなく、友人たちの一人という形で出てきます。あくまでもメインは著者の思い出であって、面白い子ども時代を過ごしたのだなぁ、と羨ましくなってしまいます。
学校の話がいろいろ出てくるんだけど、やっぱ学校はある程度厳しいところであって欲しいよなぁ、とか思います。さすがに平手で殴って鼓膜を破るみたいのはまずいと思うけど、でもそこそこ厳しくやらないと無茶苦茶になってしまうでしょう。今の子どもたちは、ある意味不幸だな、と思います。
あんまり書くことがないんですけど、まあ読み物としてまあまあ面白いんではないかなと思います。スラスラ読めます。興味がある人は読んでみてください。
高須光聖「あまりかん」
欲しいのは、あなただけ(小手鞠るい)
恋愛がドラッグのようになってしまったらダメじゃないかなと僕は思っている。こういうことを頭で考えてしまうからダメなのかもしれないけど、しかしずっとそう思っている。
相手の存在がどうしてもなくてはならないものになる。自分自身の存在と分け隔てなく存在するかのように、相手のことが身近にいなくてはいけない。一瞬でも離れてしまえば苦痛であるし、会えない日々が続くことはもはや絶望でしかない。相手と会うことでしかこの空っぽは解消されないし、それは他のどんなものでも埋めることは出来ない。
そんな恋愛は、どうなんだろう?僕には、ちょっと出来ないし、相手がそんな人だったらちょっと困るなぁ、と思う。
依存性があるというのが困ると思うのだ。その人でなくてはならない、その人とどうしても一緒にいなくてはいけない。それはまさに、ドラッグをやっている人間の禁断症状そのものであって、間違っているかもしれないけどでも僕からすればそれは醜いものであるという風に思ってしまう。
僕は恋愛をするなら、飲酒くらいの程度がいいと思う。確かに依存性はないとは言わないし、人によってはアルコール中毒になってしまう。しかし、たとえ何度か飲みすぎたところでそこまですぐに酷い状態に陥るわけでもないし、二日酔いが酷い時があってもすぐにけろりと治る。適度に酔えて適度に快楽を得たり与えたりすることが出来、それでいてお酒が飲めなくなったらものすごく困るかと言ったらそこまでのものでもない。
僕としては、これくらいの恋愛が理想である。
ドラッグのような恋愛は、僕にはどうしても向かない。僕がそのドラッグのような恋愛にのめりこむことはなさそうな気がするけど、相手がもしそうだとしたらちょっと大変だ。相手が、僕がいなければどうしようもない、僕と一緒にいる時間だけがすべてで、そうでない時間はないのと同じ、みたいな状況になったとしたら、ちょっと僕には重すぎて耐え切れないなぁ、と思ってしまう。
人はそこまで寄り添い合わなければいけないのかと思うし、依存しなくてはいけないのだかと思う。自分のすべてを溶かしてまで、形を崩してまでのめりこまなくてはいけないものなのだろうか。
いつも書いていることだけれども、僕はとにかく自分の形を崩したくないのだ。性格や人間性も、あるいは生活や人生の形も、出来るだけ崩したくない。それは本能的に他人を拒絶しているということなのかもしれないけど、しかし自分の内側を引っ掻き回されてしまうのはどうにも耐えられないのだ。
お酒を飲むようにして恋愛をしたい。ドラッグのように、身を滅ぼしてまで恋愛をしたいとは、どうしても思えない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
かもめは喫茶店で働いている時に出会った「男らしい人」と荒々しい恋愛をする。「男らしい人」の無茶な要求にもすべて全身で答えてきた。
また後に、家庭を持った後に知り合った「優しい人」と情熱的な恋愛をする。相手には奥さんも子どももいるけれども、二人にはそんなことは関係なかった。
かもめが身を引き裂かんばかりに全力で走りぬけた二つの恋愛を、ストレートな文体で書いた物語です。
という感じです。
うーん、ちょっと僕にはダメでした。どうしても、かもめが身をやつすことになる恋愛について否定的な感情を持ってしまうんですね。これは僕の性質なんで仕方ないんですけど。
どうしても、「そこまでボロボロになりながら恋愛して楽しいのか?」とか思ってしまうのだ。もちろんかもめにしたらもはや楽しいとか楽しくないの問題ではなく、生きるか死ぬかと言ったレベルの問題なんだろうけど、でもその価値観へと違和感なくシフト出来てしまうところがどうにも僕とは相容れないなという感じがしてしまいました。
基本的にそのかもめの価値観がすべてなので、それを受け入れられない僕としては読んでいて結構ダメな作品でした。
というわけで全然オススメはしないですけど、もし自分はかもめみたいな人間だなと思う女性がいたら読んでみてもいいかもです。そうですね、そもそも男が読んで面白い小説ではないでしょうね、たぶん。
小手鞠るい「欲しいのは、あなただけ」
相手の存在がどうしてもなくてはならないものになる。自分自身の存在と分け隔てなく存在するかのように、相手のことが身近にいなくてはいけない。一瞬でも離れてしまえば苦痛であるし、会えない日々が続くことはもはや絶望でしかない。相手と会うことでしかこの空っぽは解消されないし、それは他のどんなものでも埋めることは出来ない。
そんな恋愛は、どうなんだろう?僕には、ちょっと出来ないし、相手がそんな人だったらちょっと困るなぁ、と思う。
依存性があるというのが困ると思うのだ。その人でなくてはならない、その人とどうしても一緒にいなくてはいけない。それはまさに、ドラッグをやっている人間の禁断症状そのものであって、間違っているかもしれないけどでも僕からすればそれは醜いものであるという風に思ってしまう。
僕は恋愛をするなら、飲酒くらいの程度がいいと思う。確かに依存性はないとは言わないし、人によってはアルコール中毒になってしまう。しかし、たとえ何度か飲みすぎたところでそこまですぐに酷い状態に陥るわけでもないし、二日酔いが酷い時があってもすぐにけろりと治る。適度に酔えて適度に快楽を得たり与えたりすることが出来、それでいてお酒が飲めなくなったらものすごく困るかと言ったらそこまでのものでもない。
僕としては、これくらいの恋愛が理想である。
ドラッグのような恋愛は、僕にはどうしても向かない。僕がそのドラッグのような恋愛にのめりこむことはなさそうな気がするけど、相手がもしそうだとしたらちょっと大変だ。相手が、僕がいなければどうしようもない、僕と一緒にいる時間だけがすべてで、そうでない時間はないのと同じ、みたいな状況になったとしたら、ちょっと僕には重すぎて耐え切れないなぁ、と思ってしまう。
人はそこまで寄り添い合わなければいけないのかと思うし、依存しなくてはいけないのだかと思う。自分のすべてを溶かしてまで、形を崩してまでのめりこまなくてはいけないものなのだろうか。
いつも書いていることだけれども、僕はとにかく自分の形を崩したくないのだ。性格や人間性も、あるいは生活や人生の形も、出来るだけ崩したくない。それは本能的に他人を拒絶しているということなのかもしれないけど、しかし自分の内側を引っ掻き回されてしまうのはどうにも耐えられないのだ。
お酒を飲むようにして恋愛をしたい。ドラッグのように、身を滅ぼしてまで恋愛をしたいとは、どうしても思えない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
かもめは喫茶店で働いている時に出会った「男らしい人」と荒々しい恋愛をする。「男らしい人」の無茶な要求にもすべて全身で答えてきた。
また後に、家庭を持った後に知り合った「優しい人」と情熱的な恋愛をする。相手には奥さんも子どももいるけれども、二人にはそんなことは関係なかった。
かもめが身を引き裂かんばかりに全力で走りぬけた二つの恋愛を、ストレートな文体で書いた物語です。
という感じです。
うーん、ちょっと僕にはダメでした。どうしても、かもめが身をやつすことになる恋愛について否定的な感情を持ってしまうんですね。これは僕の性質なんで仕方ないんですけど。
どうしても、「そこまでボロボロになりながら恋愛して楽しいのか?」とか思ってしまうのだ。もちろんかもめにしたらもはや楽しいとか楽しくないの問題ではなく、生きるか死ぬかと言ったレベルの問題なんだろうけど、でもその価値観へと違和感なくシフト出来てしまうところがどうにも僕とは相容れないなという感じがしてしまいました。
基本的にそのかもめの価値観がすべてなので、それを受け入れられない僕としては読んでいて結構ダメな作品でした。
というわけで全然オススメはしないですけど、もし自分はかもめみたいな人間だなと思う女性がいたら読んでみてもいいかもです。そうですね、そもそも男が読んで面白い小説ではないでしょうね、たぶん。
小手鞠るい「欲しいのは、あなただけ」
幽霊たち(ポール・オースター)
鏡に自分の姿を映した時、それが自分自身であると信じる根拠は一体どこにあるのだろうか。あれは結構不思議ではないかと思う。
顔以外の部分は別に鏡に映さなくたって自分で見ることが出来る。普段から見ているのだから、それが自分であるかどうかなど悩む余地はない。不思議でもなんでもない。例えば自分の右腕が誰か別の人物の右腕と突然変わってしまったとしたら、それは当然気づくだろう。気づいてしかるべきだ。
しかし自分の顔というのは自分では見ることが出来ないものだ。まあいろいろと手段がないではないが、鏡を見て確認するというのが一番普通のやり方だろう。そうして僕らは自分の顔を知る。
しかし鏡に映っているのは本当に自分なのだろうか?顔だけはいつも違う人間のものが映るのかもしれない。生まれた時からそれなりに鏡を見てきたけれど、その度にその鏡に映っていた自分の姿は、誰か別の人物であるかもしれない。そうであってもおかしくはないと思う。おかしくはないはずだ。
こんな話を聞いたことがある。動物に鏡を見せる実験の話だ。
動物に鏡を見せると、そこに映っているのは自分ではない別の何かであると判断するようだ。で、いっちょ挨拶でもしようかと手を動かすと、相手も同じ動きをする。自分が動こうとすると相手も同じ動きをする。変なやつだ。しかし、まさかそれが自分だとは全然思わない。自分の姿を映す鏡なんてものが存在することを知らないし、そもそも彼等は自分自身の姿だって碌に知りもしないだろうから。
人間だけが違う。人間だけが、鏡に映った自分を見て、それが紛れもなく自分だと思う。そこに違和感を感じることはない。同じ動きをする相手を見ても不思議に思わない。何故ならそれは自分自身であることを知っているからだ。
しかし何故僕らはそんなことを知っているのだろう。逆に言えば、何故そうだと錯覚出来るのだろうか?
自分自身について著しく興味があるということなのだろう。人間は、自分自身について知りたがっているのだ。
動物達はといえば、自分自身について知らなくたって平気だ。自分の生まれや過去、あるいは自分自身の姿かたちなんか知らなくたって全然平気で生きていくことが出来る。そんなことについて悩みもしないだろう。自分自身について興味がないから鏡を生み出すこともないし、水面のような自然の鏡を見たってそこに自分が映っているなんて考えもしない。動物は、寝て起きて飯食ってクソをするだけだ。単純でいい。
人間は、どうも余計なことを考えすぎる。水面に自分の姿が映れば、あれは自分自身であるなどと思う。もっと日常的に自分の姿を確認したくて鏡なんてものを発明してしまう。そうやって発明した鏡を見ては、自分の存在を確認している。自分はこんな人間だ、そしてこうして生きている。
他人を、まるで自分自身を映す鏡であるかのように見ることもある。人の生き方の中に、自分の姿を重ね合わせてはその差をはっきりとさせ、人生の違いを露にし、そうやって自分自身というものをくっきりと捉えようとする。とにかく、自分自身というものについてはっきり知っていなければ気が済まないのだ。
自分自身を深く見つめる。見つめた先に何かを見つけ出したような気になる。鏡に映った自分自身を細部まで見つめる。見つめた先に何かを見つけ出したような気になる。
そんな気になって、それでおしまいだ。
どこにもたどり着くことはない。
他人の存在が、自分自身の輪郭をくっきとさせることもあるだろう。自分自身について考えることで、自分自身がより明確になることもあるだろう。
しかし結局はどうしたって、鏡に映った自分以外の自分はどこにもいない。いない自分を追い求めては、いない自分に振り回される。どこまでも人間というのは愚かに出来ているらしい。
そろそろ内容に入ろうと思います。
『まずはじめにブルーがいる。次にホワイトがいて、それからブラックがいて、そもそものはじまりの前にはブラウンがいる。』
そんな書き出しから物語は始まる。
ブルーは私立探偵だ。ブラウンという師匠がかつてはいたが、ブラウンは既に引退している。
そんなブルーのもとにホワイトと名乗る依頼人がやってくる。明らかに変装をしている。不自然極まりないが、しかし何らかの事情があるのだろう。敢えてそこには触れない。
ホワイトはブルーに、ブラックという人間を見張って欲しいと依頼する。とにかくこちらがいいというまでは見張り続けて欲しい。ブラックの部屋の真向かいに部屋を借りている。今日からそこで生活を始めて欲しい。
特に難しい依頼だとも思えなかった。まあ浮気調査か何かなのだろう。問題ない。ブルーは仕事を引き受ける。
ブラックを見張る生活が始まった。
しかしその生活はあまりにも単調だ。ブラックは家からほとんど出ることはない。時折外出しても、近くのスーパーに行くか、あるいは近くを散歩するくらいである。ほとんどの時間机に坐って何か書き物をしている。ブルーはただそれをじっと見ている。
あまりにも変化のなさすぎる生活に、次第にブルーはあれこれと考えを巡らせるようになる。ホワイトとブラックについて、あるいは自分自身の過去の出来事について。ありとあらゆる思考が彼の頭のなかをグルグル回る。
いずれブルーはこんなことを考え始める。まさか見張られているのは自分自身の方なのではないか…。
というような話です。
これはなかなか面白い話でした。人によって好き嫌いは大きく分かれそうな話ですけど、僕は気に入っています。
物語は、冒頭からまるで進展しません。というか本当に何も起こりません。特別なことも特別でないことも一切起こらず、ただ何でもない生活を続けるブラックを、同じく何でもない生活を続けるブルーが監視するという、本当にただそれだけの描写が続いていきます。
その過程でブルーの内面がどんどんと変化していくことがまず面白いです。初めは単純な依頼だと高を括っていたのだけど、あまりに変化のなさに退屈し始め、適当でしかも正しくはない物語をいくつも生み出すようになります。それにも飽きると今度は過去を回想し始め、それも終わってしまうと現在の状況に大きな疑問を抱くようになります。なんなんだこれは。一体自分は何をしているのだろうか。そうした疑問からブルーは、ついに監視するだけという自分の職務を超えて、何らかの行動に移さざるおえなくなっていくわけです。その心の移り変わりが自然で、かつ最終的に酷くざらざらとしたところまで行きついてしまうので面白いなと思いました。また何よりも皮肉であるのが、その間ブラックの方にはほとんど何の変化もないということですね。それがまた象徴的で面白いな、と思いました。
物語はある帰結を向かえ、なるほどこれはある種のミステリだったのかということが分かるわけだけれども、しかし物語の冒頭ではそんなことに気づきはしません。よしんば本作がミステリであることを知っていても、読者はまず、何が謎であるのか、解決すべき謎は一体何であるのか、ということから考え始めなくてはなりません。面白い趣向だと思いました。
ブラックとホワイトとブルーを巡る関係は、結局のところ僕の中ではあまりしっくりときません。ブルーが何故ブラックを見張らなくてはならなかったのかというその肝心な部分がどうもはぐらかされている感じがあります。ただそれでも、ブラックとブルーが重ねてきたある種の関係、ある種の重なりのおかげで、その違和感があまり大きくならなかった気がします。奇妙な関係を長いこと続けてきたその二人の歴史があるからこそ、あの終わり方でも許容できるのだろうなという風に思いました。
物語の最後の最後は非常に曖昧な形で終わっています。ずっと鏡を見続けてきたブルーが、最後にその鏡を叩き壊すことで、また元の曖昧な存在に、物語が始まる前のブルーという名前さえ存在しなかったその曖昧な状態に逆戻りしたようなそんな印象がありました。物語の冒頭で名前を与えられ、鏡を見続けることで自分自身の骨格を知り語られるべき価値のある存在になり、また鏡を叩き壊すことで元のなんでもない自分に戻る。なんとなく人間の一生の暗喩であるような気がしないでもありません。
いろんな意味で変わった物語ですが、適度な短さの物語であることもあって、すごくさっぱりとした読書が出来る感じがあります。奇妙な状況も名付けがたい違和感も、すべてが渾然と一体となって一つの世界を組み上げている感じがします。なかなか他の本では味わうことの出来ない読後感かなぁ、という感じもします。読んでみてください。
ポール・オースター「幽霊たち」
顔以外の部分は別に鏡に映さなくたって自分で見ることが出来る。普段から見ているのだから、それが自分であるかどうかなど悩む余地はない。不思議でもなんでもない。例えば自分の右腕が誰か別の人物の右腕と突然変わってしまったとしたら、それは当然気づくだろう。気づいてしかるべきだ。
しかし自分の顔というのは自分では見ることが出来ないものだ。まあいろいろと手段がないではないが、鏡を見て確認するというのが一番普通のやり方だろう。そうして僕らは自分の顔を知る。
しかし鏡に映っているのは本当に自分なのだろうか?顔だけはいつも違う人間のものが映るのかもしれない。生まれた時からそれなりに鏡を見てきたけれど、その度にその鏡に映っていた自分の姿は、誰か別の人物であるかもしれない。そうであってもおかしくはないと思う。おかしくはないはずだ。
こんな話を聞いたことがある。動物に鏡を見せる実験の話だ。
動物に鏡を見せると、そこに映っているのは自分ではない別の何かであると判断するようだ。で、いっちょ挨拶でもしようかと手を動かすと、相手も同じ動きをする。自分が動こうとすると相手も同じ動きをする。変なやつだ。しかし、まさかそれが自分だとは全然思わない。自分の姿を映す鏡なんてものが存在することを知らないし、そもそも彼等は自分自身の姿だって碌に知りもしないだろうから。
人間だけが違う。人間だけが、鏡に映った自分を見て、それが紛れもなく自分だと思う。そこに違和感を感じることはない。同じ動きをする相手を見ても不思議に思わない。何故ならそれは自分自身であることを知っているからだ。
しかし何故僕らはそんなことを知っているのだろう。逆に言えば、何故そうだと錯覚出来るのだろうか?
自分自身について著しく興味があるということなのだろう。人間は、自分自身について知りたがっているのだ。
動物達はといえば、自分自身について知らなくたって平気だ。自分の生まれや過去、あるいは自分自身の姿かたちなんか知らなくたって全然平気で生きていくことが出来る。そんなことについて悩みもしないだろう。自分自身について興味がないから鏡を生み出すこともないし、水面のような自然の鏡を見たってそこに自分が映っているなんて考えもしない。動物は、寝て起きて飯食ってクソをするだけだ。単純でいい。
人間は、どうも余計なことを考えすぎる。水面に自分の姿が映れば、あれは自分自身であるなどと思う。もっと日常的に自分の姿を確認したくて鏡なんてものを発明してしまう。そうやって発明した鏡を見ては、自分の存在を確認している。自分はこんな人間だ、そしてこうして生きている。
他人を、まるで自分自身を映す鏡であるかのように見ることもある。人の生き方の中に、自分の姿を重ね合わせてはその差をはっきりとさせ、人生の違いを露にし、そうやって自分自身というものをくっきりと捉えようとする。とにかく、自分自身というものについてはっきり知っていなければ気が済まないのだ。
自分自身を深く見つめる。見つめた先に何かを見つけ出したような気になる。鏡に映った自分自身を細部まで見つめる。見つめた先に何かを見つけ出したような気になる。
そんな気になって、それでおしまいだ。
どこにもたどり着くことはない。
他人の存在が、自分自身の輪郭をくっきとさせることもあるだろう。自分自身について考えることで、自分自身がより明確になることもあるだろう。
しかし結局はどうしたって、鏡に映った自分以外の自分はどこにもいない。いない自分を追い求めては、いない自分に振り回される。どこまでも人間というのは愚かに出来ているらしい。
そろそろ内容に入ろうと思います。
『まずはじめにブルーがいる。次にホワイトがいて、それからブラックがいて、そもそものはじまりの前にはブラウンがいる。』
そんな書き出しから物語は始まる。
ブルーは私立探偵だ。ブラウンという師匠がかつてはいたが、ブラウンは既に引退している。
そんなブルーのもとにホワイトと名乗る依頼人がやってくる。明らかに変装をしている。不自然極まりないが、しかし何らかの事情があるのだろう。敢えてそこには触れない。
ホワイトはブルーに、ブラックという人間を見張って欲しいと依頼する。とにかくこちらがいいというまでは見張り続けて欲しい。ブラックの部屋の真向かいに部屋を借りている。今日からそこで生活を始めて欲しい。
特に難しい依頼だとも思えなかった。まあ浮気調査か何かなのだろう。問題ない。ブルーは仕事を引き受ける。
ブラックを見張る生活が始まった。
しかしその生活はあまりにも単調だ。ブラックは家からほとんど出ることはない。時折外出しても、近くのスーパーに行くか、あるいは近くを散歩するくらいである。ほとんどの時間机に坐って何か書き物をしている。ブルーはただそれをじっと見ている。
あまりにも変化のなさすぎる生活に、次第にブルーはあれこれと考えを巡らせるようになる。ホワイトとブラックについて、あるいは自分自身の過去の出来事について。ありとあらゆる思考が彼の頭のなかをグルグル回る。
いずれブルーはこんなことを考え始める。まさか見張られているのは自分自身の方なのではないか…。
というような話です。
これはなかなか面白い話でした。人によって好き嫌いは大きく分かれそうな話ですけど、僕は気に入っています。
物語は、冒頭からまるで進展しません。というか本当に何も起こりません。特別なことも特別でないことも一切起こらず、ただ何でもない生活を続けるブラックを、同じく何でもない生活を続けるブルーが監視するという、本当にただそれだけの描写が続いていきます。
その過程でブルーの内面がどんどんと変化していくことがまず面白いです。初めは単純な依頼だと高を括っていたのだけど、あまりに変化のなさに退屈し始め、適当でしかも正しくはない物語をいくつも生み出すようになります。それにも飽きると今度は過去を回想し始め、それも終わってしまうと現在の状況に大きな疑問を抱くようになります。なんなんだこれは。一体自分は何をしているのだろうか。そうした疑問からブルーは、ついに監視するだけという自分の職務を超えて、何らかの行動に移さざるおえなくなっていくわけです。その心の移り変わりが自然で、かつ最終的に酷くざらざらとしたところまで行きついてしまうので面白いなと思いました。また何よりも皮肉であるのが、その間ブラックの方にはほとんど何の変化もないということですね。それがまた象徴的で面白いな、と思いました。
物語はある帰結を向かえ、なるほどこれはある種のミステリだったのかということが分かるわけだけれども、しかし物語の冒頭ではそんなことに気づきはしません。よしんば本作がミステリであることを知っていても、読者はまず、何が謎であるのか、解決すべき謎は一体何であるのか、ということから考え始めなくてはなりません。面白い趣向だと思いました。
ブラックとホワイトとブルーを巡る関係は、結局のところ僕の中ではあまりしっくりときません。ブルーが何故ブラックを見張らなくてはならなかったのかというその肝心な部分がどうもはぐらかされている感じがあります。ただそれでも、ブラックとブルーが重ねてきたある種の関係、ある種の重なりのおかげで、その違和感があまり大きくならなかった気がします。奇妙な関係を長いこと続けてきたその二人の歴史があるからこそ、あの終わり方でも許容できるのだろうなという風に思いました。
物語の最後の最後は非常に曖昧な形で終わっています。ずっと鏡を見続けてきたブルーが、最後にその鏡を叩き壊すことで、また元の曖昧な存在に、物語が始まる前のブルーという名前さえ存在しなかったその曖昧な状態に逆戻りしたようなそんな印象がありました。物語の冒頭で名前を与えられ、鏡を見続けることで自分自身の骨格を知り語られるべき価値のある存在になり、また鏡を叩き壊すことで元のなんでもない自分に戻る。なんとなく人間の一生の暗喩であるような気がしないでもありません。
いろんな意味で変わった物語ですが、適度な短さの物語であることもあって、すごくさっぱりとした読書が出来る感じがあります。奇妙な状況も名付けがたい違和感も、すべてが渾然と一体となって一つの世界を組み上げている感じがします。なかなか他の本では味わうことの出来ない読後感かなぁ、という感じもします。読んでみてください。
ポール・オースター「幽霊たち」
菊地君の本屋 ヴィレッジヴァンガード物語(永江朗)
一流の書店人は皆同じことを言う。
「この本の隣にどんな本を置くか」
これが書店員がすべきことのすべてだと言っても恐らく言いすぎではないだろう。この本の隣にどんな本を置くかを考えることで、店の個性が生まれ、またその本屋にお客さんが付く。逆にこれをしなければ、どこにでもあるただの本屋になってしまう。
僕の印象でしかないけれども、この発想がどんどん本屋からなくなっているような気がする。
本屋の仕事というのは、作業だけ見れば誰だって出来る。本屋のスタッフがほとんどアルバイトで占められている現状を見れば、それも明らかだろう。難しいことはない。難しいことは全部取次や出版社がやってくれる。書店員は、入ってきた本を並べ、売れない本を返品する。ただこれを繰り返していればとりあえず形にはなる。
実際僕のいる本屋でも似たような状況だ。それぞれ担当がいるが、漫然と入ってくる本を並べ、売れない本を返品している。どんな本を置こうか、どんな本を売ってやろうかなんて、全然考えていない。ただ、入ってくる新刊を並べ、出版社が組むフェアを並べ、営業の人が勧める本を並べる。売れなければ返品する。それだけだ。
一応それでも、立地なんかがよければそこそこの売上が見込めてしまう。あくまでそこそこだが、しかし困るほど売れないという状況にはなかなかならない。だからこそ、安易な品揃えを許容してしまうような、金太郎飴のような書店がどんどん生まれてしまうのだろうな、と思う。
それでは絶対にいけないと僕は思う。とにかく、この本の隣にどんな本を置くかを考えなくてはいけない。本屋の仕事は簡単だが、しかしこの隣に何を並べるかというセンスは簡単ではない。客層や時代の流行なんかを捉えながら、一方でわざとそこから外したようなこともする。失敗することも多いが、しかし挑戦を諦めてはいけない。
僕は文庫と新書の担当をしているのだけど、とにかく変なものを売ってやろう、といつも思っている。とにかく、他の本屋ではなかなか置いていないもの、なんだこの本と思われるようなもの、そんな本を売りたいといつも思っている。これは僕の趣味の問題でもあるけど、しかし書店としての生き残りを考えてもいるのだ。とにかく、他の店との差別化を考えなくてはいけない。同じ本を漫然と売っているだけでは、いつか淘汰されてしまうだろう。
ただ、変な本を売るために売れている本を置かなくてもいいかというと、やはりそんなことにはならない。ある程度の売り場面積を持つ本屋には、それなりに売れている本を置く義務みたいなものがやはりある。お客さんも、「これぐらいの大きさの本屋ならこれはあるだろう」と思ってやってくる。でその本がないと、なんでないんだろうということになる。もちろん売れている本を確保するのはなかなか難しいけど、でもだからと言っておかなくていいはずがない。
ただ、売れている本だけではどうしても面白い売り場にはならない。何か小さなフェアを自分でやってみたり、あるいは一点だけこれはと思うものを平積みしてみたり、あるいは棚でよく回転しているものも見つけ出しては平積みにしてみたりと言ったことをよくやっている。とにかく、日々新しい発想で商品を入れなくてはいけないし、並べなくてはいけないと思っている。それが出来ているかは分からないのだけど。
いつだって、変な売り場にしようと思っている。目的の本が探しにくくなっても仕方ない。それよりも、本の並びが面白い方が断然いい。「納豆の快楽」「くさいはうまい」というような納豆系の文庫の近くに、「不完全性定理」「ペンローズの量子脳理論」と言った堅い文庫があったりする。外国人作家の文庫の隣に、電撃文庫というライトノベルレーベルの作品を並べてみたりする。横山秀夫や今野敏と言った警察小説系の作品をまとめたその横に、何故か林真理子の小説があったりする。
こういう売り場をお客さんはどう見ているのか分からないけど、僕はギリギリのラインで面白さを保てているのではないかと勝手に思っている。関連する文庫はもちろん一緒に並べる。同じ作家の本や似たような作風の作家ももちろんまとめて置いてみる。しかしその隣に、まるで無関係な本が並んでいたりする。小説の隣に実用系の本があったりする。そういう中で面白い発見を与えることが出来ればいいな、と思っている。
営業の人が来て、この本はいいですよと言ってくることがある。その時も僕はいつも、今売り場にあるどの本と一緒に売ればいいかを考える。あるいは、今平積みにはなってないけど、この本と一緒に売ったらいけるんではないかということを考える。
出版社が組むフェアも、ただ一箇所に並べたりはしない。ものによってはここに置いたほうがいいだろうなと思うところに分けて置いたりする。
売れている新刊があれば、何かそれと一緒に売れる本がないか考える。たとえその本が売れなくても、この店は関連本をきちんと追いかけているというアピールにはなるかもしれないと思っている。それが重なれば、もしかしたらあの店にならあるかもしれない、と思ってもらえるようになるかもしれない。
そうやって、この本の隣に何を置くかをいつも考えている。いつも成功するわけではないし、むしろ外すことの方が多いかもしれない。しかしそんなもんだろう。自分がやったことが成功する方が稀だ。だから返品率も自然上がるし、在庫も多くなる。しかし、それでも挑戦を止めてはいけないと思う。売り場を常に変え続けなくてはいけないと思っている。
本屋で働く醍醐味はまさにここにある。しかしその醍醐味を感じられない書店員が増えているような気がする。優等生のような品揃えだけでは、お客さんを満足させることは出来ないだろう。変なものも一緒に並べるからこそ、そこの個性が生まれる。
ヴィレッジヴァンガードという本屋がある。この本屋は、「この本の隣にどんな本を置くか」ではなく、「この本の隣にどんなものも置くか」と考えて成功してきた。置くものを本に限定しなかったのだ。素晴らしい発想だと思う。確かに僕も、本だけでそれをやろうとするのは限界があると常に思ってる。しかも僕の場合、文庫と新書という限られたものの中でやらなくてはならない。これはなかなか厳しいものだ。
隣に置くものを本に限定しないのであれば、なるほどまだまだやりようはある。無限に可能性が広がるだろう。もちろんそのためには、強い好奇心と小さな情報を集める根気強さが必要だろう。なかなか出来ることではない。
隣に一体何を置くか。棚を編集するという発想。書店以外ではなかなかない発想かもしれないし、だからこそ本屋はやめられないと思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ヴィレッジヴァンガードについて書店ジャーナリストである永江朗が書いた本である。
と言っても本作の大半は、ヴィレッジヴァンガードの創業者である菊池氏の語り下ろしによるものだ。それをまとめて文章にしたのが永江氏であるということだ。また後半では対談もある。
菊地氏による語り下ろしの部分は、やはり読んでいて面白いなと思う。趣味的な店作りであり、経営的なことはあまり考えずに始めたのだろうと思っていたのだけどさにあらず、粗利というものをきちんと計算し、客数が少なくても客単価を上げることでそこそこの利益率を目指そうというスタンスで始めたところに成功の秘訣があるのだろうなと思いました。そこそこの利益を狙った、というところが斬新だなぁ、という感じです。
ヴィレッジヴァンガードについての本を読むのは二作目なのだけど(以前「ヴィレッジヴァンガードで休日を」という本を読んだことがある)、相変わらずヴィレッジヴァンガードは楽しそうだなと思いました。何が一番楽しいかって言うと、とにかく世間一般では全然売れない本がバンバン売れる、ということですね。これは、僕の書店員としての理想だったりします。
とは言うものの、それは簡単なことではありません。僕も、世間ではまったく売れていないだろう既刊本をそこそこ売ったことはあるのですが、やはりそれはそこそこでしかなく、またそうやって発掘した作品もそれほど多くはありません。何かが悪いのだろうなと思うのだけど、ノウハウが欠けているのだな、という気がします。
ヴィレッジヴァンガードでは、他の本屋では棚にすら入っていないだろう本を大量に平積みにし、それをバンバン売ってしまうわけです。書店員として、これほど面白いことはありません。新刊を一切追いかけないという姿勢も潔くて、ホント羨ましいよなぁって思ってしまいます。
もう一つ思ったことは、普通の人がヴィレッジヴァンガードをただ真似しようとしても失敗するだろうな、ということです。実際、現在ではありとあらゆるところに店舗を構えることになったヴィレッジヴァンガードですが、その後を追おうというような本屋はどこにもありません。似たような本屋を仕掛けようという動きもあんまりなさそうです。店舗展開して成功しているということは、ある程度のノウハウみたいなものはマニュアル化出来ているということでしょうが、しかしこういう店は器だけあっても成功しないわけで、変な感性を持っていた菊地氏がいて、かつその菊地氏に近い感性を持った人材を発掘できてきたことが成功の秘訣なんだろうと思います。そういう意味で、ヴィレッジヴァンガードの財産はスタッフだと言えるでしょう。システムでも名前でもなく、特殊な感性と知識を持った人材こそが財産です。
これを読んで、単純にヴィレッジヴァンガードの真似が出来る部分というのはないでしょう。やはりここでの手法は、ヴィレッジヴァンガードという器、そして知識を持った人材があってこそのもので、普通の書店が踏襲できるわけもありません。
しかし、徹底的に「隣に何を置くのか」ということを問い続けるその姿勢を学ぶことが出来ると思うし、それを実感出来るだけでも十分に価値があるな、という風に感じます。
後半では対談があります。二人いて、一人は江口淳という人です。でもこの人のことは良く知りません。有名な人なのかもしれないけど。
もう一人は、今泉正光という人です。この人は知っています。以前に、どこかのリブロの副店長が書いた「書店風雲録」という本に出てきました。
かつてリブロで「今泉棚」と呼ばれる人文系の棚を生み出して一世を風靡した書店員で、ある意味でカリスマ書店員の走りのような人だったのだろうと思います。その二人の対談ですが、なかなか興味深いものでした。
今泉氏はこの対談当時もリブロで働いているわけですが(今はどうか知りません)、総売上におけるベストセラーの売上比が5%くらいだと言っていました。これは結構驚きました。だってああいう大型書店というのは、とにかくベストセラーをガンガン積んでいるイメージがあったから、売上の比率でももっといっていると思っていました。でも全体の5%なのだそうです。
では何が売上を支えているかと言えば、やはり棚なのだそうです。しかも専門書の棚です。他の店が売らないような本を売らなくてはいけない。どういう意味でヴィレッジヴァンガードと通じるものがあるのかもしれないなぁ、と思いました。
というわけで、書店員が読めばどんな形でかは分からないけど、何らかの形で勉強になる本ではないかな、という気はしました。まあそこそこいろいろ自分で分かっている人ならともかく、まだ書店員について何をすべきかよく分かっていないという人には結構いいんではないかな、と。少なくとも、「この本の隣に何を並べるか」という発想がいかに大事であるかということが良くわかるのではないか、と思います。また、ヴィレッジヴァンガードの定番リスト1200みたいなものも載っていて、かなり実用的でもあったりします。読んでみてください。
永江朗「菊地君の本屋 ヴィレッジヴァンガード物語」
「この本の隣にどんな本を置くか」
これが書店員がすべきことのすべてだと言っても恐らく言いすぎではないだろう。この本の隣にどんな本を置くかを考えることで、店の個性が生まれ、またその本屋にお客さんが付く。逆にこれをしなければ、どこにでもあるただの本屋になってしまう。
僕の印象でしかないけれども、この発想がどんどん本屋からなくなっているような気がする。
本屋の仕事というのは、作業だけ見れば誰だって出来る。本屋のスタッフがほとんどアルバイトで占められている現状を見れば、それも明らかだろう。難しいことはない。難しいことは全部取次や出版社がやってくれる。書店員は、入ってきた本を並べ、売れない本を返品する。ただこれを繰り返していればとりあえず形にはなる。
実際僕のいる本屋でも似たような状況だ。それぞれ担当がいるが、漫然と入ってくる本を並べ、売れない本を返品している。どんな本を置こうか、どんな本を売ってやろうかなんて、全然考えていない。ただ、入ってくる新刊を並べ、出版社が組むフェアを並べ、営業の人が勧める本を並べる。売れなければ返品する。それだけだ。
一応それでも、立地なんかがよければそこそこの売上が見込めてしまう。あくまでそこそこだが、しかし困るほど売れないという状況にはなかなかならない。だからこそ、安易な品揃えを許容してしまうような、金太郎飴のような書店がどんどん生まれてしまうのだろうな、と思う。
それでは絶対にいけないと僕は思う。とにかく、この本の隣にどんな本を置くかを考えなくてはいけない。本屋の仕事は簡単だが、しかしこの隣に何を並べるかというセンスは簡単ではない。客層や時代の流行なんかを捉えながら、一方でわざとそこから外したようなこともする。失敗することも多いが、しかし挑戦を諦めてはいけない。
僕は文庫と新書の担当をしているのだけど、とにかく変なものを売ってやろう、といつも思っている。とにかく、他の本屋ではなかなか置いていないもの、なんだこの本と思われるようなもの、そんな本を売りたいといつも思っている。これは僕の趣味の問題でもあるけど、しかし書店としての生き残りを考えてもいるのだ。とにかく、他の店との差別化を考えなくてはいけない。同じ本を漫然と売っているだけでは、いつか淘汰されてしまうだろう。
ただ、変な本を売るために売れている本を置かなくてもいいかというと、やはりそんなことにはならない。ある程度の売り場面積を持つ本屋には、それなりに売れている本を置く義務みたいなものがやはりある。お客さんも、「これぐらいの大きさの本屋ならこれはあるだろう」と思ってやってくる。でその本がないと、なんでないんだろうということになる。もちろん売れている本を確保するのはなかなか難しいけど、でもだからと言っておかなくていいはずがない。
ただ、売れている本だけではどうしても面白い売り場にはならない。何か小さなフェアを自分でやってみたり、あるいは一点だけこれはと思うものを平積みしてみたり、あるいは棚でよく回転しているものも見つけ出しては平積みにしてみたりと言ったことをよくやっている。とにかく、日々新しい発想で商品を入れなくてはいけないし、並べなくてはいけないと思っている。それが出来ているかは分からないのだけど。
いつだって、変な売り場にしようと思っている。目的の本が探しにくくなっても仕方ない。それよりも、本の並びが面白い方が断然いい。「納豆の快楽」「くさいはうまい」というような納豆系の文庫の近くに、「不完全性定理」「ペンローズの量子脳理論」と言った堅い文庫があったりする。外国人作家の文庫の隣に、電撃文庫というライトノベルレーベルの作品を並べてみたりする。横山秀夫や今野敏と言った警察小説系の作品をまとめたその横に、何故か林真理子の小説があったりする。
こういう売り場をお客さんはどう見ているのか分からないけど、僕はギリギリのラインで面白さを保てているのではないかと勝手に思っている。関連する文庫はもちろん一緒に並べる。同じ作家の本や似たような作風の作家ももちろんまとめて置いてみる。しかしその隣に、まるで無関係な本が並んでいたりする。小説の隣に実用系の本があったりする。そういう中で面白い発見を与えることが出来ればいいな、と思っている。
営業の人が来て、この本はいいですよと言ってくることがある。その時も僕はいつも、今売り場にあるどの本と一緒に売ればいいかを考える。あるいは、今平積みにはなってないけど、この本と一緒に売ったらいけるんではないかということを考える。
出版社が組むフェアも、ただ一箇所に並べたりはしない。ものによってはここに置いたほうがいいだろうなと思うところに分けて置いたりする。
売れている新刊があれば、何かそれと一緒に売れる本がないか考える。たとえその本が売れなくても、この店は関連本をきちんと追いかけているというアピールにはなるかもしれないと思っている。それが重なれば、もしかしたらあの店にならあるかもしれない、と思ってもらえるようになるかもしれない。
そうやって、この本の隣に何を置くかをいつも考えている。いつも成功するわけではないし、むしろ外すことの方が多いかもしれない。しかしそんなもんだろう。自分がやったことが成功する方が稀だ。だから返品率も自然上がるし、在庫も多くなる。しかし、それでも挑戦を止めてはいけないと思う。売り場を常に変え続けなくてはいけないと思っている。
本屋で働く醍醐味はまさにここにある。しかしその醍醐味を感じられない書店員が増えているような気がする。優等生のような品揃えだけでは、お客さんを満足させることは出来ないだろう。変なものも一緒に並べるからこそ、そこの個性が生まれる。
ヴィレッジヴァンガードという本屋がある。この本屋は、「この本の隣にどんな本を置くか」ではなく、「この本の隣にどんなものも置くか」と考えて成功してきた。置くものを本に限定しなかったのだ。素晴らしい発想だと思う。確かに僕も、本だけでそれをやろうとするのは限界があると常に思ってる。しかも僕の場合、文庫と新書という限られたものの中でやらなくてはならない。これはなかなか厳しいものだ。
隣に置くものを本に限定しないのであれば、なるほどまだまだやりようはある。無限に可能性が広がるだろう。もちろんそのためには、強い好奇心と小さな情報を集める根気強さが必要だろう。なかなか出来ることではない。
隣に一体何を置くか。棚を編集するという発想。書店以外ではなかなかない発想かもしれないし、だからこそ本屋はやめられないと思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ヴィレッジヴァンガードについて書店ジャーナリストである永江朗が書いた本である。
と言っても本作の大半は、ヴィレッジヴァンガードの創業者である菊池氏の語り下ろしによるものだ。それをまとめて文章にしたのが永江氏であるということだ。また後半では対談もある。
菊地氏による語り下ろしの部分は、やはり読んでいて面白いなと思う。趣味的な店作りであり、経営的なことはあまり考えずに始めたのだろうと思っていたのだけどさにあらず、粗利というものをきちんと計算し、客数が少なくても客単価を上げることでそこそこの利益率を目指そうというスタンスで始めたところに成功の秘訣があるのだろうなと思いました。そこそこの利益を狙った、というところが斬新だなぁ、という感じです。
ヴィレッジヴァンガードについての本を読むのは二作目なのだけど(以前「ヴィレッジヴァンガードで休日を」という本を読んだことがある)、相変わらずヴィレッジヴァンガードは楽しそうだなと思いました。何が一番楽しいかって言うと、とにかく世間一般では全然売れない本がバンバン売れる、ということですね。これは、僕の書店員としての理想だったりします。
とは言うものの、それは簡単なことではありません。僕も、世間ではまったく売れていないだろう既刊本をそこそこ売ったことはあるのですが、やはりそれはそこそこでしかなく、またそうやって発掘した作品もそれほど多くはありません。何かが悪いのだろうなと思うのだけど、ノウハウが欠けているのだな、という気がします。
ヴィレッジヴァンガードでは、他の本屋では棚にすら入っていないだろう本を大量に平積みにし、それをバンバン売ってしまうわけです。書店員として、これほど面白いことはありません。新刊を一切追いかけないという姿勢も潔くて、ホント羨ましいよなぁって思ってしまいます。
もう一つ思ったことは、普通の人がヴィレッジヴァンガードをただ真似しようとしても失敗するだろうな、ということです。実際、現在ではありとあらゆるところに店舗を構えることになったヴィレッジヴァンガードですが、その後を追おうというような本屋はどこにもありません。似たような本屋を仕掛けようという動きもあんまりなさそうです。店舗展開して成功しているということは、ある程度のノウハウみたいなものはマニュアル化出来ているということでしょうが、しかしこういう店は器だけあっても成功しないわけで、変な感性を持っていた菊地氏がいて、かつその菊地氏に近い感性を持った人材を発掘できてきたことが成功の秘訣なんだろうと思います。そういう意味で、ヴィレッジヴァンガードの財産はスタッフだと言えるでしょう。システムでも名前でもなく、特殊な感性と知識を持った人材こそが財産です。
これを読んで、単純にヴィレッジヴァンガードの真似が出来る部分というのはないでしょう。やはりここでの手法は、ヴィレッジヴァンガードという器、そして知識を持った人材があってこそのもので、普通の書店が踏襲できるわけもありません。
しかし、徹底的に「隣に何を置くのか」ということを問い続けるその姿勢を学ぶことが出来ると思うし、それを実感出来るだけでも十分に価値があるな、という風に感じます。
後半では対談があります。二人いて、一人は江口淳という人です。でもこの人のことは良く知りません。有名な人なのかもしれないけど。
もう一人は、今泉正光という人です。この人は知っています。以前に、どこかのリブロの副店長が書いた「書店風雲録」という本に出てきました。
かつてリブロで「今泉棚」と呼ばれる人文系の棚を生み出して一世を風靡した書店員で、ある意味でカリスマ書店員の走りのような人だったのだろうと思います。その二人の対談ですが、なかなか興味深いものでした。
今泉氏はこの対談当時もリブロで働いているわけですが(今はどうか知りません)、総売上におけるベストセラーの売上比が5%くらいだと言っていました。これは結構驚きました。だってああいう大型書店というのは、とにかくベストセラーをガンガン積んでいるイメージがあったから、売上の比率でももっといっていると思っていました。でも全体の5%なのだそうです。
では何が売上を支えているかと言えば、やはり棚なのだそうです。しかも専門書の棚です。他の店が売らないような本を売らなくてはいけない。どういう意味でヴィレッジヴァンガードと通じるものがあるのかもしれないなぁ、と思いました。
というわけで、書店員が読めばどんな形でかは分からないけど、何らかの形で勉強になる本ではないかな、という気はしました。まあそこそこいろいろ自分で分かっている人ならともかく、まだ書店員について何をすべきかよく分かっていないという人には結構いいんではないかな、と。少なくとも、「この本の隣に何を並べるか」という発想がいかに大事であるかということが良くわかるのではないか、と思います。また、ヴィレッジヴァンガードの定番リスト1200みたいなものも載っていて、かなり実用的でもあったりします。読んでみてください。
永江朗「菊地君の本屋 ヴィレッジヴァンガード物語」
真夏の島に咲く花は(垣根涼介)
お金はそこまで必要ではない。
僕はいつだってそんな風に思っている。
ただ周囲の人間はそうでもないらしい。
いつだって、お金がないと言っている。
それがよく分からない。
僕の場合、給料日前だろうがなんだろうが、お金がなくて困ったことがない。全然お金を使わないのだ。使い道がない。まあそれはそれで問題なのかもしれないけど。
でも周りの人間は、給料日前はもちろん、給料日前でもないのにお金がないないという。何にそんなにお金を使っているのだろうか、と思ってしまう。
僕は、お金をつかうのがめんどくさい。お金を使うということは、外に出ることだし、あるいは誰かに会うということだ。どうしてもそれがめんどくさく思えてしまう。正直、食べ物と本くらいにしかお金を使わない。まあ、そんな生活だからお金が要らないと言えるのだろうけど。
周りの人間は何にお金を使っているのだろうな。不思議だ。どうしたらお金がなくなるのだろうか。何て言ったら怒られるだろうか。
僕なんかより給料をもらっている人間が多いはずだ。僕の場合本屋でのアルバイトなのだから推して知るべきである。ボーナスだってたくさんもらっている人間もいるだろう。まあいろいろ人と遊んだりいろいろ買ったりしているのだろう。
僕は、お金に人生を縛られたくないなと思ってしまうのだ。お金がすべてであるという価値観を否定したいのだ。お金がなくては幸せになれないという常識を覆したいのだ。
誰もが、お金があることが幸せだと思っているし、お金がなければ不幸せだと思っていることだろう。例えそこまで考えていなくても、お金はあるならあった方がいいよな、と思っている人は多いだろう。
まあ分からなくもない。あるならある方がいいだろう。しかし、それはいずれ、なければ困る、に変わっていく。それが、僕には嫌なのだ。
誰もがお金に縛られながら生きている。それは、資本主義社会の中に生きている限り仕方ないことなのかもしれない。でも、なんだかなぁ、と思ってしまう。
うまく説明できない。
お金は必要だし、大切だ。確かに、なくてはならないものだとは思う。しかしお金を求めるためにお金を求めるような、そんな雰囲気が必ず出てくると思うのだ。
つまり、なんとなく不安だ、お金がないとなんとなく不安だ、というような気持ちがある。別に欲しいものもない、お金を使いたいわけでもない。けどお金がないのは不安だ、だからお金を求めよう。そんな雰囲気があるような気がするのだ。
幻想や未来への不安からお金を求める。お金を求めるためにお金を求めている。それは、幸せなんだろうか。
確かに、お金がないまま将来を迎えるのは不安かもしれない。できれば死ぬまでお金に不自由しない生活をしたいと思う。けどそれは、今を犠牲にしてまで求めることだろうか。そういうことも、よくわからない。
昔江戸っ子は、宵越しの金は持たない、と言われていた。明日使うお金は明日稼げばいい。だから今日稼いだお金は今日使おう。
分かりやすい。非常にシンプルだ。お金というものに依存しすぎていない。そういう生活はいいかもしれない。もちろん、今の日本ではそんなことは出来ないだろう。でも、何でできないのだろう?
何で出来ないのだろう?
今の日本では、お金がやはり重要な価値を持つ。あらゆる価値判断が、突き詰めればそこに帰着するのではないかとも思えてしまう。それに違和感を感じる人間もそれなりにはいるだろう。しかし、だからと言って現状が変わるわけではない。
お金が重要でない世界で生きてみたい。それはそれでまた別の不自由や不満を感じるのかもしれないが、でもある意味で僕が理想と思える生活かもしれない。
確かに僕も、今はお金を手放すことは出来ない。ただ、お金を手放すことが出来る生活には、やはり憧れてしまう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
舞台は、フィジー諸島の一つ、ビチレヴ島。何事にもルーズで、しかし底抜けに明るいフィジー人と、経済感覚に過ぎれフィジーの発展に貢献した、しかし民族的なしがらみがあって立場的に弱いインド系フィジー人が大半を占める島だ。
日本から両親と共に移住してきて、日本料理店を経営しているヨシ。だらしないフィジー人を雇いながらもまあ順調な経営をしている。サティーというインド系フィジー人と付き合っている。
父が経営する土産物屋を手伝っているサティー。かつてはチョネという男と付き合っていたが、インド系フィジー人とフィジー人という立場の違いから離れ離れになってしまった。
ガソリンスタンドで働いているチョネ。友達が多く、フィジー人にしてはすごく真面目でいい男だ。リーダー格でもある。今は、茜という日本人と付き合っている。
ワーキングビザでフィジーにやってきて、日本人相手の観光案内をしている。自分でも分からない何かに惹かれてフィジーに残ることにしたものの、まだそれが何なのか分かっていない。
ある時ビチレヴ島のある都市でフィジー人の武装集団が国会議事堂を占拠したという事件が起こる。フィジー人による暴動も起こっているらしい。観光業で成り立っているフィジーは大打撃を受ける。実際、ヨシの経営する日本料理店もサティーが働く土産物屋も客足が遠のいた。誰もが不安を抱えている。
状況が不安定になったフィジーを舞台にした四人の群像劇。
という感じです。
垣根涼介と言えば、デビュー作はあんまりでしたけど、作品を出す毎に進化して言っているイメージのある作家です。まあ本作を入れてまだ三作しか読んだことないんですけどね。
本作も、非常に安定した筆致で物語が進んでいく印象がありました。これと言って特別な特長はないけれども、安心して読める作品だし、そういう作家になっていったなという感じがあります。
本作でやはり最も面白いのは、フィジー人の描写でしょうか。世界はまあ広いわけで、いろんな民族がいるのだろうなとは思いますが、フィジー人はいいですね。ホント羨ましいです。
タロイモなんかが自生しているし、川に行けば魚が入れ食いだ。だからどれだけ仕事がなくても現金がなくても、最低限飢え死にすることはない。だから、あらゆる意味で大らかで大雑把だ。まあ、大雑把なところはちょっとなぁと思うけど、彼等みたいに能天気に生きていけたらいいなぁ、と思う。
彼等も、フィジー人だけで生活するなら何も問題がなかっただろう。しかし過去のある出来事のために、フィジーにはインド系の人間が移り住むようになった。今では人口の半分を占めている。同じ島に、勤勉なインド系とだらしないフィジー人がいるからこそまあいろいろと問題が起こるのである。
そんな中でメインとなる四人も生活をしている。背景も生活もバラバラの四人ではあるけど、小さな島の中で、時には助け合いながら寄り添って生きていかなくてはいけない。
物語の大半は、彼等の日常をただ描いている。ただそれが結構面白い。価値観の違うもの同士がどう折り合いをつけながら生きていくのか、価値観が違っても認め合うことが出来るのか。そうしたことを背景にしながらも、明るいだけではない彼等の日常が描かれていく。国会議事堂の襲撃事件による余波はそれなりの打撃を与えはするが、しかし表面上彼等の生活に特別の変化はないように思える。
しかし、そんな変わらない日常を過ごしているはずの彼等にも、少しずつ変化が訪れる。やはりその背景に、襲撃事件がないとは言えない。物語の帰結も、その影響が大きく関わっている。
楽園はどこにもない、と本作では描かれる。それは場所ではないのだ、と。共に過ごす仲間がいる環境であり、共に見る心の風景なのだと。なるほどそうかもしれない。どこだって楽園にはなりえないかもしれない。誰かにとっての楽園は、誰かにとっては楽園ではないということでしかないのだろう。
なんかうまくまとめられないけど、そんな風なことをいろいろと考えながら読んだ。
普通に面白い作品だと思います。特別何が起こるわけでもない物語だけれども、でも面白く読めると思います。結構オススメです。垣根涼介の作品を他にも読んでみてもいいな、と思いました。安定した作品を出せる作家であるような気がします。また何か読んでみます。
垣根涼介「真夏の島に咲く花は」
僕はいつだってそんな風に思っている。
ただ周囲の人間はそうでもないらしい。
いつだって、お金がないと言っている。
それがよく分からない。
僕の場合、給料日前だろうがなんだろうが、お金がなくて困ったことがない。全然お金を使わないのだ。使い道がない。まあそれはそれで問題なのかもしれないけど。
でも周りの人間は、給料日前はもちろん、給料日前でもないのにお金がないないという。何にそんなにお金を使っているのだろうか、と思ってしまう。
僕は、お金をつかうのがめんどくさい。お金を使うということは、外に出ることだし、あるいは誰かに会うということだ。どうしてもそれがめんどくさく思えてしまう。正直、食べ物と本くらいにしかお金を使わない。まあ、そんな生活だからお金が要らないと言えるのだろうけど。
周りの人間は何にお金を使っているのだろうな。不思議だ。どうしたらお金がなくなるのだろうか。何て言ったら怒られるだろうか。
僕なんかより給料をもらっている人間が多いはずだ。僕の場合本屋でのアルバイトなのだから推して知るべきである。ボーナスだってたくさんもらっている人間もいるだろう。まあいろいろ人と遊んだりいろいろ買ったりしているのだろう。
僕は、お金に人生を縛られたくないなと思ってしまうのだ。お金がすべてであるという価値観を否定したいのだ。お金がなくては幸せになれないという常識を覆したいのだ。
誰もが、お金があることが幸せだと思っているし、お金がなければ不幸せだと思っていることだろう。例えそこまで考えていなくても、お金はあるならあった方がいいよな、と思っている人は多いだろう。
まあ分からなくもない。あるならある方がいいだろう。しかし、それはいずれ、なければ困る、に変わっていく。それが、僕には嫌なのだ。
誰もがお金に縛られながら生きている。それは、資本主義社会の中に生きている限り仕方ないことなのかもしれない。でも、なんだかなぁ、と思ってしまう。
うまく説明できない。
お金は必要だし、大切だ。確かに、なくてはならないものだとは思う。しかしお金を求めるためにお金を求めるような、そんな雰囲気が必ず出てくると思うのだ。
つまり、なんとなく不安だ、お金がないとなんとなく不安だ、というような気持ちがある。別に欲しいものもない、お金を使いたいわけでもない。けどお金がないのは不安だ、だからお金を求めよう。そんな雰囲気があるような気がするのだ。
幻想や未来への不安からお金を求める。お金を求めるためにお金を求めている。それは、幸せなんだろうか。
確かに、お金がないまま将来を迎えるのは不安かもしれない。できれば死ぬまでお金に不自由しない生活をしたいと思う。けどそれは、今を犠牲にしてまで求めることだろうか。そういうことも、よくわからない。
昔江戸っ子は、宵越しの金は持たない、と言われていた。明日使うお金は明日稼げばいい。だから今日稼いだお金は今日使おう。
分かりやすい。非常にシンプルだ。お金というものに依存しすぎていない。そういう生活はいいかもしれない。もちろん、今の日本ではそんなことは出来ないだろう。でも、何でできないのだろう?
何で出来ないのだろう?
今の日本では、お金がやはり重要な価値を持つ。あらゆる価値判断が、突き詰めればそこに帰着するのではないかとも思えてしまう。それに違和感を感じる人間もそれなりにはいるだろう。しかし、だからと言って現状が変わるわけではない。
お金が重要でない世界で生きてみたい。それはそれでまた別の不自由や不満を感じるのかもしれないが、でもある意味で僕が理想と思える生活かもしれない。
確かに僕も、今はお金を手放すことは出来ない。ただ、お金を手放すことが出来る生活には、やはり憧れてしまう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
舞台は、フィジー諸島の一つ、ビチレヴ島。何事にもルーズで、しかし底抜けに明るいフィジー人と、経済感覚に過ぎれフィジーの発展に貢献した、しかし民族的なしがらみがあって立場的に弱いインド系フィジー人が大半を占める島だ。
日本から両親と共に移住してきて、日本料理店を経営しているヨシ。だらしないフィジー人を雇いながらもまあ順調な経営をしている。サティーというインド系フィジー人と付き合っている。
父が経営する土産物屋を手伝っているサティー。かつてはチョネという男と付き合っていたが、インド系フィジー人とフィジー人という立場の違いから離れ離れになってしまった。
ガソリンスタンドで働いているチョネ。友達が多く、フィジー人にしてはすごく真面目でいい男だ。リーダー格でもある。今は、茜という日本人と付き合っている。
ワーキングビザでフィジーにやってきて、日本人相手の観光案内をしている。自分でも分からない何かに惹かれてフィジーに残ることにしたものの、まだそれが何なのか分かっていない。
ある時ビチレヴ島のある都市でフィジー人の武装集団が国会議事堂を占拠したという事件が起こる。フィジー人による暴動も起こっているらしい。観光業で成り立っているフィジーは大打撃を受ける。実際、ヨシの経営する日本料理店もサティーが働く土産物屋も客足が遠のいた。誰もが不安を抱えている。
状況が不安定になったフィジーを舞台にした四人の群像劇。
という感じです。
垣根涼介と言えば、デビュー作はあんまりでしたけど、作品を出す毎に進化して言っているイメージのある作家です。まあ本作を入れてまだ三作しか読んだことないんですけどね。
本作も、非常に安定した筆致で物語が進んでいく印象がありました。これと言って特別な特長はないけれども、安心して読める作品だし、そういう作家になっていったなという感じがあります。
本作でやはり最も面白いのは、フィジー人の描写でしょうか。世界はまあ広いわけで、いろんな民族がいるのだろうなとは思いますが、フィジー人はいいですね。ホント羨ましいです。
タロイモなんかが自生しているし、川に行けば魚が入れ食いだ。だからどれだけ仕事がなくても現金がなくても、最低限飢え死にすることはない。だから、あらゆる意味で大らかで大雑把だ。まあ、大雑把なところはちょっとなぁと思うけど、彼等みたいに能天気に生きていけたらいいなぁ、と思う。
彼等も、フィジー人だけで生活するなら何も問題がなかっただろう。しかし過去のある出来事のために、フィジーにはインド系の人間が移り住むようになった。今では人口の半分を占めている。同じ島に、勤勉なインド系とだらしないフィジー人がいるからこそまあいろいろと問題が起こるのである。
そんな中でメインとなる四人も生活をしている。背景も生活もバラバラの四人ではあるけど、小さな島の中で、時には助け合いながら寄り添って生きていかなくてはいけない。
物語の大半は、彼等の日常をただ描いている。ただそれが結構面白い。価値観の違うもの同士がどう折り合いをつけながら生きていくのか、価値観が違っても認め合うことが出来るのか。そうしたことを背景にしながらも、明るいだけではない彼等の日常が描かれていく。国会議事堂の襲撃事件による余波はそれなりの打撃を与えはするが、しかし表面上彼等の生活に特別の変化はないように思える。
しかし、そんな変わらない日常を過ごしているはずの彼等にも、少しずつ変化が訪れる。やはりその背景に、襲撃事件がないとは言えない。物語の帰結も、その影響が大きく関わっている。
楽園はどこにもない、と本作では描かれる。それは場所ではないのだ、と。共に過ごす仲間がいる環境であり、共に見る心の風景なのだと。なるほどそうかもしれない。どこだって楽園にはなりえないかもしれない。誰かにとっての楽園は、誰かにとっては楽園ではないということでしかないのだろう。
なんかうまくまとめられないけど、そんな風なことをいろいろと考えながら読んだ。
普通に面白い作品だと思います。特別何が起こるわけでもない物語だけれども、でも面白く読めると思います。結構オススメです。垣根涼介の作品を他にも読んでみてもいいな、と思いました。安定した作品を出せる作家であるような気がします。また何か読んでみます。
垣根涼介「真夏の島に咲く花は」
本屋の森のあかり 1巻(磯谷友紀)
自分が好きだと思えるものを売ることが出来るなんて本当に幸せだと僕は思う。
考えてみると、世の中そういうのってあんまり多くないように思う。
スーパーにいる人が、スーパーに陳列されている商品を好きで売っているとは思えない。コンビニでも薬屋でもデパートでもそれは同じだと思う。
またマンションを売っている人だってマンションが好きなわけではないだろうし、保険を売ってる人だってそうだろう。車とかはそこそこ趣味が関わるかもしれないけど、でも自分が好きだと思える車ばかりを売れるわけでもないだろう。
洋服屋だとか食べ物屋は割と好きなものを売れる部類に入るかもしれないけど、どっちにしても店全体の雰囲気によって品揃えが制限されてしまうということがある。
本屋というのは、そういう意味でかなり特殊だと思う。
まず、どこに行っても大抵同じようなものが揃っている。もちろん、店の規模や経営方針なんかによってかなり変わることもあるけれども、しかしそれでもユニクロにある服とエルメスショップにある服ほどの差はないだろう。本屋にはまずこの、どこに行っても同じものが手に入る、というベースがきちんと存在する。
その上で、それぞれの店で個性が演出される。どうしたって似たような品揃えになってしまうという本屋の特性の中にあって、それでもなんとか特色を出そうという余力が本屋にはあるのだ。中華料理屋とフランス料理屋ではそもそも闘うステージは違うが、本屋というのはすべて同じステージで闘わなくてはならない。その同じステージの中で差別化を図ろうとするからこそ、本屋というのは楽しくなるのだ。
そうやって個性を生み出す一環として、好きな本を売るというのがある。自分で読んで感動した本、誰かに勧めたいと思った本、こんな人にオススメしたいという本。そういう本を見つけ出しては、店に並べる。こういうことが出来るのは、本当に本屋ぐらいのものではないだろうか。
だからこそ本屋には、本が好きな人間が集まる。本が好きな人間が集まって、売りたいと思える本を並べて、そうして本屋というものが出来ていく。楽しくって仕方ない。
ただ残念なことに、なかなかそのお客さんに本を勧めるというレベルにまで届かないのが現状だ。
日々雑用に追われ、あるいはルーティンワークに追われ、気づけば就業時間。やるべきことしか出来ずに、やりたいことが出来ないという日々が続くのだ。
本当ならば、もっとPOPを作りたいしフェアもしたい。しかし、なかなかその時間を捻出出来ない。なんとか時間を作っても、そこがまた雑用で埋まってしまうということはざらである。
また、本当ならば話題の新刊や映像化された本よりも、自分が見つけ出した無名の作品を売りたいと思う。しかし、やはり売上のことも考えなくてはいけない。また、その店にあったお客さんの需要みたいなものも無視出来るわけではない。店にあるべき本を外してまで、自分の趣味を押し付けるわけにはいかない。
そんな風にしていると、本屋がどんどん無個性なものになってしまう。本屋というのは、統一されたルールの下で(つまりこの世の中に存在する有限の本を売るというルール)、いかにして個性を出せるかということが勝負だ。無個性で、どこにでもある本屋なんか、価値がないとは言わないが、しかし面白くない。自分がいる店を、そんな面白みのない店にはしたくない、と思う。
まあ、試行錯誤の日々である。まだまだ出来ることはあるし、まだまだやらなくてはいけないことがある。時間はないし大変だけど、でもやっぱり本屋の仕事は楽しい。その楽しさをもっと楽しいものに出来るように、そして当然だけどその楽しさをお客さんとも共有できるように、またこれからも頑張って書店員を続けていこうと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
さて本作は、小説ではありません。マンガです。しかも少女コミックです。コミックの感想を書いたことがないわけではないけど、しかしそれらは文芸書扱いになるようなもので(「ダーリンは外国人」とか)、純粋なコミックの感想となると、これが初かもしれないですね。しかも、くどいですが少女コミックです。漫画喫茶で「NANA」の一巻を、友人宅で「ハチミツとクローバー」の一巻を読んだことがありますが、自分で少女コミックを買ったのは初めてです。
さてそんな本作ですが、本屋を舞台にした物語になっています。僕は普段書店員のブログをいくつか見ているんですけど、その一つで絶賛されていまして、だから読もうと思いました。「暴れん坊本屋さん」の番子さんが帯に推薦文を書いてますしね。
全部で5つの話が載っています。それぞれ内容を紹介しようと思います。
その前に、主な登場人物を紹介しましょう。
寺山杜三:須王堂書店本店の副店長。生身の人間より本が好きというオタク。東大出身で、一日に10冊の本を読む。
高野あかり:本作の主人公。岡崎の支店勤務だったが、この度本店へ異動することに。キレると三河弁が飛び出す。
加納緑:本店に配属になった社員。慶応卒で仕事はメチャクチャ出来るが、しかし人当たりはかなり悪い。皮肉屋。それでも、アルバイトには優しいし人気がある。二重人格。
では内容に入りましょう。
「マザーグース」
高野あかりは決意の状況をし、本店へいざ!大好きな本に囲まれて楽しい日々が…と思っていたが、どうも前途多難。
同期の緑がどうにも突っかかってくる。そりゃあ仕事が出来ない私が悪いのかもしれないけど、でもそんな言い方ないんじゃないかなぁ…。
でも副店長はいい人だ。なんかふんわりした雰囲気がある。副店長に認められるように頑張ろう!
「いばら姫」
本店のコミック売り場を仕切るアルバイトの森下。あかりはこの森下のことがちょっと苦手である。大々的にコミックフェアをやることになり、あかりもコミック売り場に回されたのだが、コミック売り場を仕切る森下と相性が悪い。何だか魔女みたいだなぁ、と思う。
そんな森下が事件を起こす。絵も描ける森下は同人誌を出しているのだが…。
「ロビンソン・クルーソー」
主任の栞さんは、ベストセラーをいち早く見抜く天才だ。そして、POP描きの天才でもある。売れる本には、大抵栞さんのPOPがついている。
ある時栞さんが、100面陳をすることに。新人作家の本だが、内容がいいので大々的に展開するのだ。初版4000部であるのに本店だけで400冊入荷するという。
さてあかりは、その100面陳のPOP描きを手伝うことになったのだ。
「永訣の朝」
人文系の本を担当するようになって半年。そろそろ注文も任せてもらえるようになった。自分がいいと思った本が売れることは稀である、注文は慎重かつ大胆にと副店長からのアドバイス。
ある日、本の著者が来店され、是非この本を置いて欲しいと言ってきた。読んではみたもののあまりピンと来ない。でも協力してあげたいし、ちょっと置いてみようかなぁ…。
「デイヴィッド・コパフィールド」
児童書のフェアを手伝うことになったあかりと、学参の手伝いをすることになった緑。相変わらず緑とは相性が悪い。自分が悪いのかもだけど、それにしても突っかかりすぎ…。
ある時新人歓迎の飲み会の席で、緑が本屋を馬鹿にするような発言をする。あかりはそれに応戦する。売り言葉に買い言葉。やっぱり緑とはうまくやっていけそうにない…。
とまあこんな感じです。
著者は本屋で働いた経験はないとのことですが、しかしなかなか本屋の内情をうまく捉えていると思います。取材の成果でしょうね。
もちろん本作で登場する須王堂書店の本店はもんのすごく規模の大きな本屋なわけで、それと比べればちっぽけな本屋で働いている僕とすれば知らないこともたくさんあるわけですが、しかしそうそうと思えるところもたくさんあって楽しかったです。図書カードの注文がどかっと来て、で間違いが発覚するとか、クリスマス前のプレゼント包装のすさまじさとか…。
あと話には聞いたことがあるけど、ある本を聞かれて「あの本は確かあの棚の上から三段目の右から五番目にあるな」みたいなことが分かる人が世の中には存在するようですね。本作では副店長がまさにそんな感じで、恐るべしという感じでした。っていうか副店長は一日10冊本を読むらしいけど、無理でしょ、それどう考えても。月に買う本が20万だって。どうやってそれで生活するのよ。まあそんな超人的な人です。
あと、緑みたいな人がいたらちょっと大変そうだけど、でも自分のことを振り返ってみると、結構自分も緑みたいな感じかもなぁ、と思ったり。皮肉みたいなことは言わないけど、上の人間に文句を言ったり仕事が出来ないと言ったりとかしてるんで。まあ緑ほど仕事は出来ないと思いますけどね。僕もそこそこ仕事は出来るとは思うんですけど、そこそこ仕事が出来る人間なんて世の中に腐るほどいるわけで、緑の仕事の速さは羨ましいなと思います。
話としては、「ロビンソン・クルーソー」が良かったですね。100面積みの話ですが、いろいろと考えさせる話でした。僕としては、店長のやり方は間違っていると思うんですけど、しかし世の中の流れというものがあるわけで、一概に善悪で判断できる話でもないのかもしれない、と思いました。
また、「いばら姫」も話としては面白いですね。確かに僕も同じことをされたらキレると思います。この話に限って言えば、緑の激怒は正当性があるし、もっと怒ってもいいのかもしれないな、と思います。ただ、森下の動機みたいなものが描かれて、なるほど難しいものだなと思ったりしますけど。でも、森下って結構可愛いと思うんだけどなぁ。
「永訣の朝」は、是非当店の社員に読ませたいですね。
まあそんなわけで、書店員の立場からすればかなりお勧めです。少女コミックですけど、男が読んでも全然いいと思います。まあ、少女コミックとしてどうなのかは僕には判断できませんが。でもメガネ男子が出てきますからね。萌えですね、これは。読んでみてください。
あと最後に。巻末に取材させていただいた書店様ということで何店か店名と書店員の名前が載っているんですけど、一人知っている人が載ってました。書店業界ではかなり有名な人なんですけど、相変わらず仕事の幅が広いなぁ、と思ってしまいました。
磯谷友紀「本屋の森のあかり 1巻」
考えてみると、世の中そういうのってあんまり多くないように思う。
スーパーにいる人が、スーパーに陳列されている商品を好きで売っているとは思えない。コンビニでも薬屋でもデパートでもそれは同じだと思う。
またマンションを売っている人だってマンションが好きなわけではないだろうし、保険を売ってる人だってそうだろう。車とかはそこそこ趣味が関わるかもしれないけど、でも自分が好きだと思える車ばかりを売れるわけでもないだろう。
洋服屋だとか食べ物屋は割と好きなものを売れる部類に入るかもしれないけど、どっちにしても店全体の雰囲気によって品揃えが制限されてしまうということがある。
本屋というのは、そういう意味でかなり特殊だと思う。
まず、どこに行っても大抵同じようなものが揃っている。もちろん、店の規模や経営方針なんかによってかなり変わることもあるけれども、しかしそれでもユニクロにある服とエルメスショップにある服ほどの差はないだろう。本屋にはまずこの、どこに行っても同じものが手に入る、というベースがきちんと存在する。
その上で、それぞれの店で個性が演出される。どうしたって似たような品揃えになってしまうという本屋の特性の中にあって、それでもなんとか特色を出そうという余力が本屋にはあるのだ。中華料理屋とフランス料理屋ではそもそも闘うステージは違うが、本屋というのはすべて同じステージで闘わなくてはならない。その同じステージの中で差別化を図ろうとするからこそ、本屋というのは楽しくなるのだ。
そうやって個性を生み出す一環として、好きな本を売るというのがある。自分で読んで感動した本、誰かに勧めたいと思った本、こんな人にオススメしたいという本。そういう本を見つけ出しては、店に並べる。こういうことが出来るのは、本当に本屋ぐらいのものではないだろうか。
だからこそ本屋には、本が好きな人間が集まる。本が好きな人間が集まって、売りたいと思える本を並べて、そうして本屋というものが出来ていく。楽しくって仕方ない。
ただ残念なことに、なかなかそのお客さんに本を勧めるというレベルにまで届かないのが現状だ。
日々雑用に追われ、あるいはルーティンワークに追われ、気づけば就業時間。やるべきことしか出来ずに、やりたいことが出来ないという日々が続くのだ。
本当ならば、もっとPOPを作りたいしフェアもしたい。しかし、なかなかその時間を捻出出来ない。なんとか時間を作っても、そこがまた雑用で埋まってしまうということはざらである。
また、本当ならば話題の新刊や映像化された本よりも、自分が見つけ出した無名の作品を売りたいと思う。しかし、やはり売上のことも考えなくてはいけない。また、その店にあったお客さんの需要みたいなものも無視出来るわけではない。店にあるべき本を外してまで、自分の趣味を押し付けるわけにはいかない。
そんな風にしていると、本屋がどんどん無個性なものになってしまう。本屋というのは、統一されたルールの下で(つまりこの世の中に存在する有限の本を売るというルール)、いかにして個性を出せるかということが勝負だ。無個性で、どこにでもある本屋なんか、価値がないとは言わないが、しかし面白くない。自分がいる店を、そんな面白みのない店にはしたくない、と思う。
まあ、試行錯誤の日々である。まだまだ出来ることはあるし、まだまだやらなくてはいけないことがある。時間はないし大変だけど、でもやっぱり本屋の仕事は楽しい。その楽しさをもっと楽しいものに出来るように、そして当然だけどその楽しさをお客さんとも共有できるように、またこれからも頑張って書店員を続けていこうと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
さて本作は、小説ではありません。マンガです。しかも少女コミックです。コミックの感想を書いたことがないわけではないけど、しかしそれらは文芸書扱いになるようなもので(「ダーリンは外国人」とか)、純粋なコミックの感想となると、これが初かもしれないですね。しかも、くどいですが少女コミックです。漫画喫茶で「NANA」の一巻を、友人宅で「ハチミツとクローバー」の一巻を読んだことがありますが、自分で少女コミックを買ったのは初めてです。
さてそんな本作ですが、本屋を舞台にした物語になっています。僕は普段書店員のブログをいくつか見ているんですけど、その一つで絶賛されていまして、だから読もうと思いました。「暴れん坊本屋さん」の番子さんが帯に推薦文を書いてますしね。
全部で5つの話が載っています。それぞれ内容を紹介しようと思います。
その前に、主な登場人物を紹介しましょう。
寺山杜三:須王堂書店本店の副店長。生身の人間より本が好きというオタク。東大出身で、一日に10冊の本を読む。
高野あかり:本作の主人公。岡崎の支店勤務だったが、この度本店へ異動することに。キレると三河弁が飛び出す。
加納緑:本店に配属になった社員。慶応卒で仕事はメチャクチャ出来るが、しかし人当たりはかなり悪い。皮肉屋。それでも、アルバイトには優しいし人気がある。二重人格。
では内容に入りましょう。
「マザーグース」
高野あかりは決意の状況をし、本店へいざ!大好きな本に囲まれて楽しい日々が…と思っていたが、どうも前途多難。
同期の緑がどうにも突っかかってくる。そりゃあ仕事が出来ない私が悪いのかもしれないけど、でもそんな言い方ないんじゃないかなぁ…。
でも副店長はいい人だ。なんかふんわりした雰囲気がある。副店長に認められるように頑張ろう!
「いばら姫」
本店のコミック売り場を仕切るアルバイトの森下。あかりはこの森下のことがちょっと苦手である。大々的にコミックフェアをやることになり、あかりもコミック売り場に回されたのだが、コミック売り場を仕切る森下と相性が悪い。何だか魔女みたいだなぁ、と思う。
そんな森下が事件を起こす。絵も描ける森下は同人誌を出しているのだが…。
「ロビンソン・クルーソー」
主任の栞さんは、ベストセラーをいち早く見抜く天才だ。そして、POP描きの天才でもある。売れる本には、大抵栞さんのPOPがついている。
ある時栞さんが、100面陳をすることに。新人作家の本だが、内容がいいので大々的に展開するのだ。初版4000部であるのに本店だけで400冊入荷するという。
さてあかりは、その100面陳のPOP描きを手伝うことになったのだ。
「永訣の朝」
人文系の本を担当するようになって半年。そろそろ注文も任せてもらえるようになった。自分がいいと思った本が売れることは稀である、注文は慎重かつ大胆にと副店長からのアドバイス。
ある日、本の著者が来店され、是非この本を置いて欲しいと言ってきた。読んではみたもののあまりピンと来ない。でも協力してあげたいし、ちょっと置いてみようかなぁ…。
「デイヴィッド・コパフィールド」
児童書のフェアを手伝うことになったあかりと、学参の手伝いをすることになった緑。相変わらず緑とは相性が悪い。自分が悪いのかもだけど、それにしても突っかかりすぎ…。
ある時新人歓迎の飲み会の席で、緑が本屋を馬鹿にするような発言をする。あかりはそれに応戦する。売り言葉に買い言葉。やっぱり緑とはうまくやっていけそうにない…。
とまあこんな感じです。
著者は本屋で働いた経験はないとのことですが、しかしなかなか本屋の内情をうまく捉えていると思います。取材の成果でしょうね。
もちろん本作で登場する須王堂書店の本店はもんのすごく規模の大きな本屋なわけで、それと比べればちっぽけな本屋で働いている僕とすれば知らないこともたくさんあるわけですが、しかしそうそうと思えるところもたくさんあって楽しかったです。図書カードの注文がどかっと来て、で間違いが発覚するとか、クリスマス前のプレゼント包装のすさまじさとか…。
あと話には聞いたことがあるけど、ある本を聞かれて「あの本は確かあの棚の上から三段目の右から五番目にあるな」みたいなことが分かる人が世の中には存在するようですね。本作では副店長がまさにそんな感じで、恐るべしという感じでした。っていうか副店長は一日10冊本を読むらしいけど、無理でしょ、それどう考えても。月に買う本が20万だって。どうやってそれで生活するのよ。まあそんな超人的な人です。
あと、緑みたいな人がいたらちょっと大変そうだけど、でも自分のことを振り返ってみると、結構自分も緑みたいな感じかもなぁ、と思ったり。皮肉みたいなことは言わないけど、上の人間に文句を言ったり仕事が出来ないと言ったりとかしてるんで。まあ緑ほど仕事は出来ないと思いますけどね。僕もそこそこ仕事は出来るとは思うんですけど、そこそこ仕事が出来る人間なんて世の中に腐るほどいるわけで、緑の仕事の速さは羨ましいなと思います。
話としては、「ロビンソン・クルーソー」が良かったですね。100面積みの話ですが、いろいろと考えさせる話でした。僕としては、店長のやり方は間違っていると思うんですけど、しかし世の中の流れというものがあるわけで、一概に善悪で判断できる話でもないのかもしれない、と思いました。
また、「いばら姫」も話としては面白いですね。確かに僕も同じことをされたらキレると思います。この話に限って言えば、緑の激怒は正当性があるし、もっと怒ってもいいのかもしれないな、と思います。ただ、森下の動機みたいなものが描かれて、なるほど難しいものだなと思ったりしますけど。でも、森下って結構可愛いと思うんだけどなぁ。
「永訣の朝」は、是非当店の社員に読ませたいですね。
まあそんなわけで、書店員の立場からすればかなりお勧めです。少女コミックですけど、男が読んでも全然いいと思います。まあ、少女コミックとしてどうなのかは僕には判断できませんが。でもメガネ男子が出てきますからね。萌えですね、これは。読んでみてください。
あと最後に。巻末に取材させていただいた書店様ということで何店か店名と書店員の名前が載っているんですけど、一人知っている人が載ってました。書店業界ではかなり有名な人なんですけど、相変わらず仕事の幅が広いなぁ、と思ってしまいました。
磯谷友紀「本屋の森のあかり 1巻」
少女は踊る暗い腹の中踊る(岡崎隼人)
壊してしまいたい。
ありとあらゆるものを壊してしまいたい。
徹底的に、完膚なきまでに。
形のあるものも形のないものも。
そして、自分自身さえも。
壊してしまいたい。
そんな衝動が、僕にはある。揺るぎなく、間違いなく。
衝動は、加速することはない。暴走も起こさない。僕の中で、静かな火となって、いつも燃え続けているだけだ。僅かな熱を生み出し、僅かに熱を持つだけの衝動を、困るくらいにもてあますことはない。いつだって、消そうと思えば消すことが出来る、そんな火でしかない。
しかし時々、この火を大きくしてみたいという欲求に駆られることはある。これは、衝動が暴走して大きくなるのとは違う。衝動を意識的に増殖させたいという自らの欲求が生み出すのだ。本当に時々、そんなことを思う。
壊して壊して壊して、跡形もないくらいに壊しきって。
何もかもゼロに無に無価値に押し込めてしまいたいと願って。
手当たり次第分け隔てなく境界を無視して壊し続けたい。
そこに、意味はない。壊すことに意味はない。壊し続けることにも意味はない。無を手に入れることにも意味がない。
意味などないのだ。
ただ壊すだけだ。
具体的なものも抽象的なものもそもそも存在し得ないものでさえも。
僕は壊したい。
世の中にはそういう破壊者がたくさんいるように思う。
動機のない殺人者、欲望にたぎる強姦魔。これらは分かりやすい。とにかく物理的に壊している。理由もなく。意味もなく。
引きこもり、精神障害者。彼等も壊している。目には見えないものを、人間関係や常識や世間体と言ったものを壊し続けている。衝動に引きずられるようにして。意味もなく。
破壊者は、衝動を抑え切れなかったのだろう。あるいは、衝動を上回る欲求があったのだろう。
「人を殺してみたかったから親を殺した」そんな事件がたまに起きる。最近もあったはずだ。
世間は騒ぐ。動機が理解できないと言って不安がり、近くで起きた事件であればそれも不安がる。
しかし、そういうのは単純だ。ただ壊したいだけなのだ。僕にはあっさりと理解することが出来る。あぁ、壊したかっただけなのだな、と。理由もなく意味もなく、ただ壊したかっただけなのだな、と。どうしてただこれだけのことが理解できないのだろうか。
殺すことに意味を持たせる人間の方がよほど怖いと僕は思う。恐らくそんな感覚を誰かと共有することは難しいだろうけど。
僕はまあ、壊しはしないだろう。結局、衝動の火は大きくはならないし、その火を大きくしたいという欲求だって大きくなりはしない。破壊者になることはないだろう。
しかしこうしている間にも、世の中には破壊者が生み出されていることだろう。だとすれば、僕一人が破壊者にならないと言って、どれだけの意味があるのだろうか。
そろそろ内容に入ろうと思います。しかし今回の前書きは、書くのがちょっと大変だったなぁ。
北原結平は、岡山市内でコインランドリーの管理の仕事をしている19歳の青年だ。仕事と言っても大したことはない。洗剤を補充するのと、ホームレスを追い払うことぐらいだ。
今岡山市内では、幼児連続誘拐事件が起こっている。こんな片田舎で起こるにしてはちょっと桁違いの事件だ。もう4件発生している。しかし、北原には関係ない。どうでもいい。
ある日、コンビニで買い物をしていると、自分のバイクの近くに一人の少女を見かける。慌てて外に出ると、少女は逃げた。
バイクのメットインを開けた。そこには、足を切断された少女の死体が入っていた。
なんだこれは。
なんだこれは。
時間が経つに連れていろんなことがわかってくる。
あの足を切られた幼児は、幼児連続誘拐事件の4番目の被害者だ。そして、その死体を北原に渡したあの少女は蒼以。蒼以は現在行方不明。
蒼以を守ることを決める。蒼以は俺が守らなくちゃダメだ。過去のフラッシュバック。えみちゃんと遊んだ楽しかった日々。
ウサガワと名乗る男が絡んでくる。常軌を逸した殺人を繰り返している。そして、俺にも関係ある話だという。なんなんだこいつは。
蒼以を守ると決めた夜から、北原の人生は大きく動き出し、また大きく狂い出す…。
というような話です。
読み終えた第一の感想は、舞城王太郎の劣化コピーかな、ということです。
まあまず間違いなく舞城王太郎に影響を受けているでしょう。著者が舞城王太郎の作品を読んだことがないということはないと思います。方言での会話、とんでもない展開、無茶苦茶な登場人物、とまあ共通点は結構あるんではないかなと思います。
で、やっぱり舞城王太郎は天才で、本作の著者は天才ではない、ということなんだと思います。やはり、僕にはコピーにしか思えないし、明らかに舞城王太郎のレベルから劣るわけです。
でもまあ、舞城王太郎の劣化コピーだという部分にさえ目を瞑れば、結構面白く読める作品であることは確かです。
初めのうちは結構状況が進展しなくてダルダルする感じがあるんだけど、半分から最後くらいまでは畳み掛けるようにして状況が進展していき、一気に読んだなぁ、という感じでした。
何よりも、すべて無茶苦茶で不条理なままで終わるかと思っていた話が、最後の方で一応整合性の取れた形みたいなものを提示していて、まあそれに納得できるかどうかはともかくとして、よくこれだけの無茶苦茶なストーリーを、ここまである程度整った形にまで収めたな、とそこは結構感心しました。北原の過去やウサガワや幼児連続誘拐事件の犯人なんかが結構うまいこと収束して、まあ悪くない終わり方をしているように思いました。
内容的にはかなりグロい感じで、小川勝己とかに若干雰囲気が似てるかな、という感じもあります。グロい作品がダメという人はまあ読まない方がいいと思います。
メフィスト賞受賞作で、まあキワモノだろうと思って読みましたがキワモノであることは間違いないですけど、でもそこそこ面白いと思いました。最近のメフィスト賞はあんまり読んでなかったですけど、でもまだまだ面白い作品があるかもしれないな、と思いました。あぁ、岡山に住んでいる人は、読んだら知ってる地名が結構出てきて面白いかもです。まあ興味がある人は読んでみてください。
で、本の内容とは関係ないことを最後に書くのだけど、ちょっとだけ思うことがあるわけです。
例えば僕が今後殺人事件を起こすとするじゃないですか。そしたら、この感想で冒頭に書いたことだけ抜き出され、あの殺人犯はかつてこんなことをネットに書いていた!みたいな風に報道されたりするかな、ということです。どうなんでしょうね。僕からすれば、ここに書いてある感想が大体800くらいですけど、その中の一つであって、それだけ抜き出しても僕の何かを表現したことにはならないのに、でもこれだけ抜き出されそうな気がしますね。どうでしょうか。まあ殺人事件を起こすなよ、っていうことですけどね、そもそも。まあそんな感じです。
岡崎隼人「少女は踊る暗い腹の中踊る」
ありとあらゆるものを壊してしまいたい。
徹底的に、完膚なきまでに。
形のあるものも形のないものも。
そして、自分自身さえも。
壊してしまいたい。
そんな衝動が、僕にはある。揺るぎなく、間違いなく。
衝動は、加速することはない。暴走も起こさない。僕の中で、静かな火となって、いつも燃え続けているだけだ。僅かな熱を生み出し、僅かに熱を持つだけの衝動を、困るくらいにもてあますことはない。いつだって、消そうと思えば消すことが出来る、そんな火でしかない。
しかし時々、この火を大きくしてみたいという欲求に駆られることはある。これは、衝動が暴走して大きくなるのとは違う。衝動を意識的に増殖させたいという自らの欲求が生み出すのだ。本当に時々、そんなことを思う。
壊して壊して壊して、跡形もないくらいに壊しきって。
何もかもゼロに無に無価値に押し込めてしまいたいと願って。
手当たり次第分け隔てなく境界を無視して壊し続けたい。
そこに、意味はない。壊すことに意味はない。壊し続けることにも意味はない。無を手に入れることにも意味がない。
意味などないのだ。
ただ壊すだけだ。
具体的なものも抽象的なものもそもそも存在し得ないものでさえも。
僕は壊したい。
世の中にはそういう破壊者がたくさんいるように思う。
動機のない殺人者、欲望にたぎる強姦魔。これらは分かりやすい。とにかく物理的に壊している。理由もなく。意味もなく。
引きこもり、精神障害者。彼等も壊している。目には見えないものを、人間関係や常識や世間体と言ったものを壊し続けている。衝動に引きずられるようにして。意味もなく。
破壊者は、衝動を抑え切れなかったのだろう。あるいは、衝動を上回る欲求があったのだろう。
「人を殺してみたかったから親を殺した」そんな事件がたまに起きる。最近もあったはずだ。
世間は騒ぐ。動機が理解できないと言って不安がり、近くで起きた事件であればそれも不安がる。
しかし、そういうのは単純だ。ただ壊したいだけなのだ。僕にはあっさりと理解することが出来る。あぁ、壊したかっただけなのだな、と。理由もなく意味もなく、ただ壊したかっただけなのだな、と。どうしてただこれだけのことが理解できないのだろうか。
殺すことに意味を持たせる人間の方がよほど怖いと僕は思う。恐らくそんな感覚を誰かと共有することは難しいだろうけど。
僕はまあ、壊しはしないだろう。結局、衝動の火は大きくはならないし、その火を大きくしたいという欲求だって大きくなりはしない。破壊者になることはないだろう。
しかしこうしている間にも、世の中には破壊者が生み出されていることだろう。だとすれば、僕一人が破壊者にならないと言って、どれだけの意味があるのだろうか。
そろそろ内容に入ろうと思います。しかし今回の前書きは、書くのがちょっと大変だったなぁ。
北原結平は、岡山市内でコインランドリーの管理の仕事をしている19歳の青年だ。仕事と言っても大したことはない。洗剤を補充するのと、ホームレスを追い払うことぐらいだ。
今岡山市内では、幼児連続誘拐事件が起こっている。こんな片田舎で起こるにしてはちょっと桁違いの事件だ。もう4件発生している。しかし、北原には関係ない。どうでもいい。
ある日、コンビニで買い物をしていると、自分のバイクの近くに一人の少女を見かける。慌てて外に出ると、少女は逃げた。
バイクのメットインを開けた。そこには、足を切断された少女の死体が入っていた。
なんだこれは。
なんだこれは。
時間が経つに連れていろんなことがわかってくる。
あの足を切られた幼児は、幼児連続誘拐事件の4番目の被害者だ。そして、その死体を北原に渡したあの少女は蒼以。蒼以は現在行方不明。
蒼以を守ることを決める。蒼以は俺が守らなくちゃダメだ。過去のフラッシュバック。えみちゃんと遊んだ楽しかった日々。
ウサガワと名乗る男が絡んでくる。常軌を逸した殺人を繰り返している。そして、俺にも関係ある話だという。なんなんだこいつは。
蒼以を守ると決めた夜から、北原の人生は大きく動き出し、また大きく狂い出す…。
というような話です。
読み終えた第一の感想は、舞城王太郎の劣化コピーかな、ということです。
まあまず間違いなく舞城王太郎に影響を受けているでしょう。著者が舞城王太郎の作品を読んだことがないということはないと思います。方言での会話、とんでもない展開、無茶苦茶な登場人物、とまあ共通点は結構あるんではないかなと思います。
で、やっぱり舞城王太郎は天才で、本作の著者は天才ではない、ということなんだと思います。やはり、僕にはコピーにしか思えないし、明らかに舞城王太郎のレベルから劣るわけです。
でもまあ、舞城王太郎の劣化コピーだという部分にさえ目を瞑れば、結構面白く読める作品であることは確かです。
初めのうちは結構状況が進展しなくてダルダルする感じがあるんだけど、半分から最後くらいまでは畳み掛けるようにして状況が進展していき、一気に読んだなぁ、という感じでした。
何よりも、すべて無茶苦茶で不条理なままで終わるかと思っていた話が、最後の方で一応整合性の取れた形みたいなものを提示していて、まあそれに納得できるかどうかはともかくとして、よくこれだけの無茶苦茶なストーリーを、ここまである程度整った形にまで収めたな、とそこは結構感心しました。北原の過去やウサガワや幼児連続誘拐事件の犯人なんかが結構うまいこと収束して、まあ悪くない終わり方をしているように思いました。
内容的にはかなりグロい感じで、小川勝己とかに若干雰囲気が似てるかな、という感じもあります。グロい作品がダメという人はまあ読まない方がいいと思います。
メフィスト賞受賞作で、まあキワモノだろうと思って読みましたがキワモノであることは間違いないですけど、でもそこそこ面白いと思いました。最近のメフィスト賞はあんまり読んでなかったですけど、でもまだまだ面白い作品があるかもしれないな、と思いました。あぁ、岡山に住んでいる人は、読んだら知ってる地名が結構出てきて面白いかもです。まあ興味がある人は読んでみてください。
で、本の内容とは関係ないことを最後に書くのだけど、ちょっとだけ思うことがあるわけです。
例えば僕が今後殺人事件を起こすとするじゃないですか。そしたら、この感想で冒頭に書いたことだけ抜き出され、あの殺人犯はかつてこんなことをネットに書いていた!みたいな風に報道されたりするかな、ということです。どうなんでしょうね。僕からすれば、ここに書いてある感想が大体800くらいですけど、その中の一つであって、それだけ抜き出しても僕の何かを表現したことにはならないのに、でもこれだけ抜き出されそうな気がしますね。どうでしょうか。まあ殺人事件を起こすなよ、っていうことですけどね、そもそも。まあそんな感じです。
岡崎隼人「少女は踊る暗い腹の中踊る」
返品のない月曜日(井狩春男)
取次というものをご存知だろうか?
僕は今では本屋で働き、文庫と新書の担当をやっているわけで、当然取次がなんなのか分かっているけれども、しかし本屋で働く前はそんな言葉を聞いたこともなかったと思う。
そういえば全然関係ない話だが、本屋に入るまでまるで知らなかったことというのはたくさんある。まあどの業界にしてもその業界独自の習慣みたいなものがあるわけだけれど、しかし身近なものでも些細な発見があったりする。
本屋で働き始めてすぐに思ったことが、雑誌の付録は本屋の店員が組むのだな、ということだ。書店にはいろんな雑誌が並んでいて、その中には付録がついているものもたくさんあるが、あれらはすべて本屋の店員が一個一個本の中にいれては、輪ゴムや紐で閉じているのだ。本屋で働く前はどんな風に思っていたかわからないが、しかし漠然と出版社の方で組んだものが送られてくるのだろうとか思っていたのではないだろうか。
まあそういういろいろ知らないことというのがあるのだが、この取次という仕組みもこの業界ならではの特殊なものである。
取次というのは、出版社と書店を繋ぐものである。出版社は本を作る。本屋は本を売る。では取次は何をするかと言えば、出版社から送られてきたものをまとめて本屋に卸すのである。
さてこの取次という仕組みは、出版業界独自のものだという風に書いたのだけど、しかしこの取次という仕組みが問屋とどう違うのかということについてはよくわからない。商品を集めて卸すという点では、問屋と同じ物だと考えてもいいかもしれないと思う。
ただ取次と問屋の最大の違いは、本は取次を通さなければ流通されない、ということだ。最近では取次を通さずに本を流通させようとする出版社がちらほら現れてきたけど(糸井重里がやってるほぼ日ブックスなんかがいい例)、しかし基本的に本というのは取次を通さなければ流通されないものなのである。
これが例えばスーパーに並ぶような商品であれば違うだろう。問屋を通せばいろんなものを瞬時に安く手に入れることが出来るかもしれないが、しかし生産者から直接仕入れることも出来るわけで、必ずしも問屋を通さなければならないわけではないだろう。問屋を通した方がまあ便利だぐらいのものだろう。そうやって本以外の商品というのは、いろんな方法で流通させることが出来る。しかし本というのは、まず取次を通さなくては流通できない仕組みなのだ。
なので出版業界における取次の地位というのはかなり高いらしい。取次ということは絶対、とまでは言わないが、しかしかなり取次の意向みたいなものが反映されるようだ。
また、新しく出版社を立ち上げようとした時に、どこかの取次と取引を開始しなくてはいけないのだけど、しかし大手取次はこの新規の取引というのをなかなか受け付けてはくれないらしい。取引を開始したはいいけどすぐに倒産した、なんてことになると困るからである。ここでも取次の力というのは明白である。
そうやって出版業界において力を持つ取次ではあるが、しかしなかなか表には出てこない。出版社や本屋で働いていないと知る機会もないのではないかと思う。本屋で働いている僕にしても、取次というところがじゃあどんなことをしているのかと言われるときっちりとした答えは返せない。僕の中でも、本を送ってきてくれ、かつ本の返品を受けてくれるところだ、ぐらいの認識しかなかったりするのだ。
書店員が本を書いたり、あるいは出版社の人が本を書いたりすることは時々ある。しかし、取次の人が本を書くというのはなかなかないだろう。そもそも、取次の人でそこまで注目される人というのがまずいないだろうと思う。
本作の著者は、あることで取次の人としては珍しく有名になった人だ。そのお陰で、こうして世にも珍しい取次の人が書いたエッセイという本が誕生することになった。面白いものである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
まず著者がどうしてエッセイを書くことになったのか、という話をしましょう。
著者は、倒産してしまって今はないみたいだけど、鈴木書店という取次(「書店」という名前がついているのに「取次」なのは変な気がするけど、まあ出版社なのに「角川書店」みたいな名前があるのと同じようなものかもしれない)で働いていた人である。そこで何をしていたかというと、「日刊まるすニュース」というものを書いていたのである。
この「日刊まるすニュース」とは何かと言えば、一種の情報誌である。いろんな出版社の出版情報や売れ筋情報、こんな企画が進行中ですよみたいなものを書いたものである。
この「日刊まるすニュース」がある時期とんでもなく話題になったようなのだ。ある時期、と言ったのは僕がそれを知らないからで、何せこの本が一番初めに出たのが1985年であるわけで、当時僕は2歳である。その頃の話である。
さて何故この「日刊まるすニュース」が話題になったかと言えば。理由は二つある。一つは、それが「日刊」であったということ。各取次も情報誌のようなものは出していたが、週刊や月刊ばかりだったようで、日刊なんてものはなかった。まずその情報の速さみたいなものが受けたのだ。
そして何よりも、手書きであったということが大きく受け入れられた。活字ではなく手書きによる情報誌という今までなかったやり方で、この「日刊まるすニュース」というのは大きく話題になったのだ。
まあそのお陰で、筑摩書房の松田哲夫が著者にエッセイを書かないかと依頼し、こうして取次の人が書くエッセイというのが誕生したのである。
内容はと言うと、取次の仕事の裏側なんかがメインであるかといえばそんなことはなく、広く出版業界のことについて、または好きな本の話、こんな人がいる、あるいはこんなことがあった、というような様々なことを一緒くたにまとめて書いている感じである。取次のことなんか知らないし興味もないし、と思う人もいるかもしれないけれども、本が好きだという人なら楽しめる話題でエッセイが書かれていると思っていただければいいと思う。
なかなか印象に残っている話が、本の大きさのルーツはどこから来ているのか、というものだ。例えば文庫本のサイズは、世界中みても日本にしかない版型らしい。あるいは四六版と呼ばれるハードカバーサイズのものも同様らしい。ならばそのルーツは何かというのを著者は調べようとしたのだが、しかしどの文献を漁ってみても載っていない。なら自分で予想してみよう、という話なのだ。結局後にそれについて載っている文献が見つかって、著者の予想は外れたことが分かるのだが、しかし面白い発想だったなという風に思いました。
所々に「日刊まるすニュース」が載っているのだけど、これを毎日書いていたのかぁ、と思うとすごいなと思います。膨大な情報を手書きの丁寧な字で書き並べ、欄外にまではみ出すようにしてあれやこれやを詰め込み、また情報とも言えないようなちょっとしたネタも盛り込む。これを30年間続けたというのだからすごい。この「日刊まるすニュース」は、鈴木書店と取引のある書店にしか配られていなかったのだが、しかし話題になるに連れて様々なところから欲しいといわれるようになったという。また「日刊まるすニュース」で取り上げられた本は売れるというジンクスみたいなものもあって、その熱狂ぶりはすごかったらしい。確かにその内容を見れば、それだけ熱狂することもまあ分かるような気がしてくる。
本が好きという人なら読んでみてもいいかなと思える作品だと思います。元の本が大分古いので、出てくる本なんかの情報が大分昔のものになりますが、まあそれはそれとして。気になる人は読んでみてください。
井狩春男「返品のない月曜日」
僕は今では本屋で働き、文庫と新書の担当をやっているわけで、当然取次がなんなのか分かっているけれども、しかし本屋で働く前はそんな言葉を聞いたこともなかったと思う。
そういえば全然関係ない話だが、本屋に入るまでまるで知らなかったことというのはたくさんある。まあどの業界にしてもその業界独自の習慣みたいなものがあるわけだけれど、しかし身近なものでも些細な発見があったりする。
本屋で働き始めてすぐに思ったことが、雑誌の付録は本屋の店員が組むのだな、ということだ。書店にはいろんな雑誌が並んでいて、その中には付録がついているものもたくさんあるが、あれらはすべて本屋の店員が一個一個本の中にいれては、輪ゴムや紐で閉じているのだ。本屋で働く前はどんな風に思っていたかわからないが、しかし漠然と出版社の方で組んだものが送られてくるのだろうとか思っていたのではないだろうか。
まあそういういろいろ知らないことというのがあるのだが、この取次という仕組みもこの業界ならではの特殊なものである。
取次というのは、出版社と書店を繋ぐものである。出版社は本を作る。本屋は本を売る。では取次は何をするかと言えば、出版社から送られてきたものをまとめて本屋に卸すのである。
さてこの取次という仕組みは、出版業界独自のものだという風に書いたのだけど、しかしこの取次という仕組みが問屋とどう違うのかということについてはよくわからない。商品を集めて卸すという点では、問屋と同じ物だと考えてもいいかもしれないと思う。
ただ取次と問屋の最大の違いは、本は取次を通さなければ流通されない、ということだ。最近では取次を通さずに本を流通させようとする出版社がちらほら現れてきたけど(糸井重里がやってるほぼ日ブックスなんかがいい例)、しかし基本的に本というのは取次を通さなければ流通されないものなのである。
これが例えばスーパーに並ぶような商品であれば違うだろう。問屋を通せばいろんなものを瞬時に安く手に入れることが出来るかもしれないが、しかし生産者から直接仕入れることも出来るわけで、必ずしも問屋を通さなければならないわけではないだろう。問屋を通した方がまあ便利だぐらいのものだろう。そうやって本以外の商品というのは、いろんな方法で流通させることが出来る。しかし本というのは、まず取次を通さなくては流通できない仕組みなのだ。
なので出版業界における取次の地位というのはかなり高いらしい。取次ということは絶対、とまでは言わないが、しかしかなり取次の意向みたいなものが反映されるようだ。
また、新しく出版社を立ち上げようとした時に、どこかの取次と取引を開始しなくてはいけないのだけど、しかし大手取次はこの新規の取引というのをなかなか受け付けてはくれないらしい。取引を開始したはいいけどすぐに倒産した、なんてことになると困るからである。ここでも取次の力というのは明白である。
そうやって出版業界において力を持つ取次ではあるが、しかしなかなか表には出てこない。出版社や本屋で働いていないと知る機会もないのではないかと思う。本屋で働いている僕にしても、取次というところがじゃあどんなことをしているのかと言われるときっちりとした答えは返せない。僕の中でも、本を送ってきてくれ、かつ本の返品を受けてくれるところだ、ぐらいの認識しかなかったりするのだ。
書店員が本を書いたり、あるいは出版社の人が本を書いたりすることは時々ある。しかし、取次の人が本を書くというのはなかなかないだろう。そもそも、取次の人でそこまで注目される人というのがまずいないだろうと思う。
本作の著者は、あることで取次の人としては珍しく有名になった人だ。そのお陰で、こうして世にも珍しい取次の人が書いたエッセイという本が誕生することになった。面白いものである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
まず著者がどうしてエッセイを書くことになったのか、という話をしましょう。
著者は、倒産してしまって今はないみたいだけど、鈴木書店という取次(「書店」という名前がついているのに「取次」なのは変な気がするけど、まあ出版社なのに「角川書店」みたいな名前があるのと同じようなものかもしれない)で働いていた人である。そこで何をしていたかというと、「日刊まるすニュース」というものを書いていたのである。
この「日刊まるすニュース」とは何かと言えば、一種の情報誌である。いろんな出版社の出版情報や売れ筋情報、こんな企画が進行中ですよみたいなものを書いたものである。
この「日刊まるすニュース」がある時期とんでもなく話題になったようなのだ。ある時期、と言ったのは僕がそれを知らないからで、何せこの本が一番初めに出たのが1985年であるわけで、当時僕は2歳である。その頃の話である。
さて何故この「日刊まるすニュース」が話題になったかと言えば。理由は二つある。一つは、それが「日刊」であったということ。各取次も情報誌のようなものは出していたが、週刊や月刊ばかりだったようで、日刊なんてものはなかった。まずその情報の速さみたいなものが受けたのだ。
そして何よりも、手書きであったということが大きく受け入れられた。活字ではなく手書きによる情報誌という今までなかったやり方で、この「日刊まるすニュース」というのは大きく話題になったのだ。
まあそのお陰で、筑摩書房の松田哲夫が著者にエッセイを書かないかと依頼し、こうして取次の人が書くエッセイというのが誕生したのである。
内容はと言うと、取次の仕事の裏側なんかがメインであるかといえばそんなことはなく、広く出版業界のことについて、または好きな本の話、こんな人がいる、あるいはこんなことがあった、というような様々なことを一緒くたにまとめて書いている感じである。取次のことなんか知らないし興味もないし、と思う人もいるかもしれないけれども、本が好きだという人なら楽しめる話題でエッセイが書かれていると思っていただければいいと思う。
なかなか印象に残っている話が、本の大きさのルーツはどこから来ているのか、というものだ。例えば文庫本のサイズは、世界中みても日本にしかない版型らしい。あるいは四六版と呼ばれるハードカバーサイズのものも同様らしい。ならばそのルーツは何かというのを著者は調べようとしたのだが、しかしどの文献を漁ってみても載っていない。なら自分で予想してみよう、という話なのだ。結局後にそれについて載っている文献が見つかって、著者の予想は外れたことが分かるのだが、しかし面白い発想だったなという風に思いました。
所々に「日刊まるすニュース」が載っているのだけど、これを毎日書いていたのかぁ、と思うとすごいなと思います。膨大な情報を手書きの丁寧な字で書き並べ、欄外にまではみ出すようにしてあれやこれやを詰め込み、また情報とも言えないようなちょっとしたネタも盛り込む。これを30年間続けたというのだからすごい。この「日刊まるすニュース」は、鈴木書店と取引のある書店にしか配られていなかったのだが、しかし話題になるに連れて様々なところから欲しいといわれるようになったという。また「日刊まるすニュース」で取り上げられた本は売れるというジンクスみたいなものもあって、その熱狂ぶりはすごかったらしい。確かにその内容を見れば、それだけ熱狂することもまあ分かるような気がしてくる。
本が好きという人なら読んでみてもいいかなと思える作品だと思います。元の本が大分古いので、出てくる本なんかの情報が大分昔のものになりますが、まあそれはそれとして。気になる人は読んでみてください。
井狩春男「返品のない月曜日」
偶然の音楽(ポール・オースター)
社会から、まっとうに切り離されたい、と思うことが結構ある。
もちろん僕は知っている。社会と無関係で生きていくことは無理だ、と。少なくとも僕には無理だ。そんなことが加納なのは、一部の特権的な恵まれた(あるいはある意味で恵まれていない)人間だけだ。恐らく、何か超絶的な幸運でもない限り、僕にそうした運命が巡ってくることはまあないだろう。
元々人間は、社会なしで生きてきたはずだ。少なくとも、人間が誕生した頃はそうだったはずだ。誰もが、自分の食い扶持は自分で確保し、自分の体は自分で守り、自分の人生は自分で切り拓いていったはずだ。
しかし、ある種の動物もそうであるように、人間もまた社会を作って生きるようになっていった。動物的に言えば、群れをである。群れなしで生きてる動物もいることから考えれば、生き物にとって社会とは必ずしも必須というわけでもないのだろう。恐らく何らかの偶然が、人間に社会を選び取らせたに違いない。たとえそこに幾ばくかの必然性が仕組まれていようとも、最終的に人間が社会を選択したのは偶然だったはずだ、と僕は思う。
人間は社会を生み出すことを選択した。もはや、それがすべてである。そこから、人間にとって社会はなくてはならないものになってしまった。
蜜蜂のことを考える。彼らはほとんどが、ある一匹の女王蜂のために生涯を捧げる。しかし確か僕の記憶が確かならば、女王蜂を決するのは偶然だったはずだ。同じ卵から生まれた仲間の中から、突然選ばれし女王蜂が現れ出る。そうして女王蜂が決すれば、あとは働き蜂になるしかない。運命である。
人間の社会も同じだ。もともと社会の中に組み込まれていることは当然として、その中で選ばれるものと選ばれないものとが偶然によって決まっていく。運命である。享受するしかない。
人間が社会から抜け出すことが出来ないのは、生きることが分けがたく社会と結びついてしまっているからである。つまり、自分が生きている限り社会があり、社会があるからこそ自分が生きていられるという、この共依存関係の結果である。社会から抜け出すことは生きることを放棄することであり、それは結局社会から抜け出すことへの強い欲求を阻害し続ける方向に働くのである。
ただ、どうしようもなくそれを理解していても、時々社会から切り離されたいという欲求が強まることがある。生きることをほとんど放棄してしまっても、社会から逃れる欲求に身を傾けてしまいたくなることがある。
以前小説で、宝くじで3億円が当たったから、とある田舎の一軒家を買い、日がな一日釣りだの読書だのをして人生を過ごしている男の話を読んだ。彼は周囲から「仙人」と呼ばれる。まさにその生き方は仙人でしかない。食料などを調達するために僅かに社会と関わりを持つ以外、ありとあらゆる意味で社会から切り離されているのだ。僕はその小説を読んで、僕はこういう人生を受け入れることがきっと出来るし、どうしようもなく羨ましい、という風に感じたのだ。もちろん、言いようのない孤独を感じることもあるだろうし、社会との関係を断つことによって著しく損なわれてしまうものもあるのだろうとは思う。それでも、その仙人のような生活は、僕には輝いて見えてしまうのであった。
人間は思いがけず社会を手にすることになった。しかもそれは、動物のそれとは遥かにかけ離れた高度で便利なものだった。人間にとってよりよい生活を与えてくれるその社会という存在は、人間にとって次第になくてはならないものに代わっていった。
しかし一方で、社会というものが平均的な平衡状態に落ち着くようになるに連れて、その社会によって拒絶される人間が現れるようになった。人間が望んで手にし、望んで進化させてきたはずの社会に、人間が拒絶されるようになってしまったのだ。そのことに、まだ多くの人は気づいていないかもしれない。しかしこれからますます人間は社会によって拒絶されることだろう。じわりじわりと、足元を少しずつ溶かすようにして僕たちの何かを奪って行っているのかもしれない。社会という存在が、まるで一個の生命であるかのように、意思を持ち始めているような気がする。
いずれ大半の人間が社会から拒絶される未来が訪れるのではないだろうか。その段になってようやく人間は過ちに気づくことだろう。しかし、それでは遅いのだ。もはや修復の出来ないところまで綻びが進行し、もはや破滅を見守る以外に手の打ちようがないところまで行くのではないだろうか。
もしかしたら人間を滅ぼすものは、地球温暖化でも核兵器でも隕石でもなく、あんがい人間が生み出した社会という魔物であるのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は大体大きく分けて三つに分けることが出来ます。
物語の始まりは、ナッシュという一人の男が、突然手に入った金を理由もなく使い尽くすためだけに、車でアメリカ全土を縦横無尽に走り回るところからです。ナッシュは、ほんの些細なタイミングの差によって(少なくとも本人はそう信じている)、愛する妻と娘を手放さなくてはいけなくなり、性に合っていた仕事も辞めることになり、一方で使い道のないほどの有り余る大金だけは手に入れることになった。焼け付くような焦燥と当てのない放浪とが交じり合い、ナッシュはもはや限界にまで追い詰められる。
そんな時に出会ったのが、ポッツィという一人の男だった。ボロボロだったその男はポーカーの天才であるといい、数日後に迫った最高の舞台に金を間に合わせることが出来ない、と嘆いていた。ナッシュは思った。それは馬鹿げた思い付きだと分かっていたが、しかし逃れる術はなさそうだった。この男に、自分の全財産を掛けてみるというのはどうだろうか?
そして最後に彼等二人は、あるものを作り上げることに従事するようになる。それは単純で単純で単純な行為であったが、しかしそれを取りまく環境まで単純と言えるほど楽天的なものでもなかった。彼等は追い詰められたネズミも同然であり、収監された囚人も同然であった。そこでの日々は、一方でナッシュを落ち着かせ、一方でポッツィを苛立たせることになった…。
というような話です。
全体的な感想としては、ストーリーを読む小説ではなく、雰囲気を感じる小説であるな、という風に思いました。ストーリーがどうこうというよりも、そこに漂う雰囲気に重点が置かれている感じで、陳腐な表現ではあるのだけど、村上春樹の作品が持つ雰囲気に通じるものがあるな、という風に思いました。
正直、初めの方の車でただ放浪をしているところはあんまり面白くなかったわけです。ポッツィという男と出会うことで多少新鮮さが取り戻されたような気がするけど、でもそこまで状況が進展したわけでもないなと思いました。
でも最後にあるものを作る段になって、これはなかなか面白いな、という風に思い始めました。この奇妙な提案というか発想は、物語をドラマチックに変質させるものではなかったけれども、しかし雰囲気を大いに変色させるだけの力を持っていたように思いました。冒頭でナッシュは、恐らく世界から切り取られることを望んでいたと思うのだけど、しかしどれだけタイヤをすり減らしガソリンを消費しようとも、結局社会から切り取られるところまで行き着くことが出来なかったと思います。しかし最後、自らが望んだ状況ではないとは言え、彼は社会からほとんど完全にという形で切り取られることになってしまいます。その静寂さが、冒頭でのがやがやした感じとうまく対比して、とても面白い雰囲気になっていると僕は思いました。
また、金持ちであるフラワーとストーンや、その使用人であるマークスなどが非常にいい味を出していて、奇妙であるのだけどだからこそ人間味が滲み出てくるようなそんな感じがありました。全体的に登場人物は非常に少ないのだけど、そのせいもあって出てくる登場人物の一人一人がくっきりと際立っているような印象もありました。
最後の場面は唐突であっけなく、また謎を多く残すものになっていて不満がないわけではないのだけど、しかしだからと言ってどうするべきだったという意見があるわけでもない感じです。でも別の終わり方がよかったなぁ、と漠然と思ったりもします。
基本的にナッシュの心情を丁寧に追いかける形になっている作品で、その繊細な描写はなかなか見事なものだと思います。一人になってしまった頃のナッシュ、ポッツィと出会った頃のナッシュ、社会から切り取られてしまったナッシュという風に、様々なナッシュが描かれていきます。その揺れみたいなものが、作品を深いものにしている気がします。
僕としては、後半から面白くなってくる作品であると思います。そこまで強くオススメはしませんが、読んでみてもいいかもしれません。
ポール・オースター「偶然の音楽」
もちろん僕は知っている。社会と無関係で生きていくことは無理だ、と。少なくとも僕には無理だ。そんなことが加納なのは、一部の特権的な恵まれた(あるいはある意味で恵まれていない)人間だけだ。恐らく、何か超絶的な幸運でもない限り、僕にそうした運命が巡ってくることはまあないだろう。
元々人間は、社会なしで生きてきたはずだ。少なくとも、人間が誕生した頃はそうだったはずだ。誰もが、自分の食い扶持は自分で確保し、自分の体は自分で守り、自分の人生は自分で切り拓いていったはずだ。
しかし、ある種の動物もそうであるように、人間もまた社会を作って生きるようになっていった。動物的に言えば、群れをである。群れなしで生きてる動物もいることから考えれば、生き物にとって社会とは必ずしも必須というわけでもないのだろう。恐らく何らかの偶然が、人間に社会を選び取らせたに違いない。たとえそこに幾ばくかの必然性が仕組まれていようとも、最終的に人間が社会を選択したのは偶然だったはずだ、と僕は思う。
人間は社会を生み出すことを選択した。もはや、それがすべてである。そこから、人間にとって社会はなくてはならないものになってしまった。
蜜蜂のことを考える。彼らはほとんどが、ある一匹の女王蜂のために生涯を捧げる。しかし確か僕の記憶が確かならば、女王蜂を決するのは偶然だったはずだ。同じ卵から生まれた仲間の中から、突然選ばれし女王蜂が現れ出る。そうして女王蜂が決すれば、あとは働き蜂になるしかない。運命である。
人間の社会も同じだ。もともと社会の中に組み込まれていることは当然として、その中で選ばれるものと選ばれないものとが偶然によって決まっていく。運命である。享受するしかない。
人間が社会から抜け出すことが出来ないのは、生きることが分けがたく社会と結びついてしまっているからである。つまり、自分が生きている限り社会があり、社会があるからこそ自分が生きていられるという、この共依存関係の結果である。社会から抜け出すことは生きることを放棄することであり、それは結局社会から抜け出すことへの強い欲求を阻害し続ける方向に働くのである。
ただ、どうしようもなくそれを理解していても、時々社会から切り離されたいという欲求が強まることがある。生きることをほとんど放棄してしまっても、社会から逃れる欲求に身を傾けてしまいたくなることがある。
以前小説で、宝くじで3億円が当たったから、とある田舎の一軒家を買い、日がな一日釣りだの読書だのをして人生を過ごしている男の話を読んだ。彼は周囲から「仙人」と呼ばれる。まさにその生き方は仙人でしかない。食料などを調達するために僅かに社会と関わりを持つ以外、ありとあらゆる意味で社会から切り離されているのだ。僕はその小説を読んで、僕はこういう人生を受け入れることがきっと出来るし、どうしようもなく羨ましい、という風に感じたのだ。もちろん、言いようのない孤独を感じることもあるだろうし、社会との関係を断つことによって著しく損なわれてしまうものもあるのだろうとは思う。それでも、その仙人のような生活は、僕には輝いて見えてしまうのであった。
人間は思いがけず社会を手にすることになった。しかもそれは、動物のそれとは遥かにかけ離れた高度で便利なものだった。人間にとってよりよい生活を与えてくれるその社会という存在は、人間にとって次第になくてはならないものに代わっていった。
しかし一方で、社会というものが平均的な平衡状態に落ち着くようになるに連れて、その社会によって拒絶される人間が現れるようになった。人間が望んで手にし、望んで進化させてきたはずの社会に、人間が拒絶されるようになってしまったのだ。そのことに、まだ多くの人は気づいていないかもしれない。しかしこれからますます人間は社会によって拒絶されることだろう。じわりじわりと、足元を少しずつ溶かすようにして僕たちの何かを奪って行っているのかもしれない。社会という存在が、まるで一個の生命であるかのように、意思を持ち始めているような気がする。
いずれ大半の人間が社会から拒絶される未来が訪れるのではないだろうか。その段になってようやく人間は過ちに気づくことだろう。しかし、それでは遅いのだ。もはや修復の出来ないところまで綻びが進行し、もはや破滅を見守る以外に手の打ちようがないところまで行くのではないだろうか。
もしかしたら人間を滅ぼすものは、地球温暖化でも核兵器でも隕石でもなく、あんがい人間が生み出した社会という魔物であるのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は大体大きく分けて三つに分けることが出来ます。
物語の始まりは、ナッシュという一人の男が、突然手に入った金を理由もなく使い尽くすためだけに、車でアメリカ全土を縦横無尽に走り回るところからです。ナッシュは、ほんの些細なタイミングの差によって(少なくとも本人はそう信じている)、愛する妻と娘を手放さなくてはいけなくなり、性に合っていた仕事も辞めることになり、一方で使い道のないほどの有り余る大金だけは手に入れることになった。焼け付くような焦燥と当てのない放浪とが交じり合い、ナッシュはもはや限界にまで追い詰められる。
そんな時に出会ったのが、ポッツィという一人の男だった。ボロボロだったその男はポーカーの天才であるといい、数日後に迫った最高の舞台に金を間に合わせることが出来ない、と嘆いていた。ナッシュは思った。それは馬鹿げた思い付きだと分かっていたが、しかし逃れる術はなさそうだった。この男に、自分の全財産を掛けてみるというのはどうだろうか?
そして最後に彼等二人は、あるものを作り上げることに従事するようになる。それは単純で単純で単純な行為であったが、しかしそれを取りまく環境まで単純と言えるほど楽天的なものでもなかった。彼等は追い詰められたネズミも同然であり、収監された囚人も同然であった。そこでの日々は、一方でナッシュを落ち着かせ、一方でポッツィを苛立たせることになった…。
というような話です。
全体的な感想としては、ストーリーを読む小説ではなく、雰囲気を感じる小説であるな、という風に思いました。ストーリーがどうこうというよりも、そこに漂う雰囲気に重点が置かれている感じで、陳腐な表現ではあるのだけど、村上春樹の作品が持つ雰囲気に通じるものがあるな、という風に思いました。
正直、初めの方の車でただ放浪をしているところはあんまり面白くなかったわけです。ポッツィという男と出会うことで多少新鮮さが取り戻されたような気がするけど、でもそこまで状況が進展したわけでもないなと思いました。
でも最後にあるものを作る段になって、これはなかなか面白いな、という風に思い始めました。この奇妙な提案というか発想は、物語をドラマチックに変質させるものではなかったけれども、しかし雰囲気を大いに変色させるだけの力を持っていたように思いました。冒頭でナッシュは、恐らく世界から切り取られることを望んでいたと思うのだけど、しかしどれだけタイヤをすり減らしガソリンを消費しようとも、結局社会から切り取られるところまで行き着くことが出来なかったと思います。しかし最後、自らが望んだ状況ではないとは言え、彼は社会からほとんど完全にという形で切り取られることになってしまいます。その静寂さが、冒頭でのがやがやした感じとうまく対比して、とても面白い雰囲気になっていると僕は思いました。
また、金持ちであるフラワーとストーンや、その使用人であるマークスなどが非常にいい味を出していて、奇妙であるのだけどだからこそ人間味が滲み出てくるようなそんな感じがありました。全体的に登場人物は非常に少ないのだけど、そのせいもあって出てくる登場人物の一人一人がくっきりと際立っているような印象もありました。
最後の場面は唐突であっけなく、また謎を多く残すものになっていて不満がないわけではないのだけど、しかしだからと言ってどうするべきだったという意見があるわけでもない感じです。でも別の終わり方がよかったなぁ、と漠然と思ったりもします。
基本的にナッシュの心情を丁寧に追いかける形になっている作品で、その繊細な描写はなかなか見事なものだと思います。一人になってしまった頃のナッシュ、ポッツィと出会った頃のナッシュ、社会から切り取られてしまったナッシュという風に、様々なナッシュが描かれていきます。その揺れみたいなものが、作品を深いものにしている気がします。
僕としては、後半から面白くなってくる作品であると思います。そこまで強くオススメはしませんが、読んでみてもいいかもしれません。
ポール・オースター「偶然の音楽」
四畳半神話大系(森見登美彦)
もしもあの時こうしてさえいればなぁ…と思うことというのは結構あったりする。
…と言いたいところであるが、実は僕にはそういう経験はあんまりないのだ。
ただそれは、決して後悔しないという意味ではない。積極的に後悔をしているわけでもないので説明が難しいのであるが、とにかく僕の根本的な発想には、過去を悔やんでみたところでどうにもならない、というのがある。
まあ誰だってそう思ってはいるだろうけど、でも思わず考えてしまうのではないだろうか。やっぱあの場面ではこうしておくべきだったよなぁとか、あそこでこうしなかったのはなしだよなぁとか、ああしておけばもしかしたらこうなってたかもしれないなぁとか、まあそんなことを夢想しては後悔に浸るものであるのかもしれない。
でも僕の場合、過去にああいうことをしたなぁ、なるほど確かにあれは間違っていたかもしれないなぁ、でもやってしまったものはまあしょうがないか、というような考えをするのだ。
実際、過去についてグダグダ言ってみてもどうしようもないのだ。まるで不毛である。ドラえもんが実在し、タイムマシンを机に引き出しに設えてくれるというのであれば、過去を悔やんで悔やんで悔やみまくることも吝かではないが、しかし残念なことにタイムマシンは机の引き出しにはないし、ドラえもんも存在しないのだ。
過去の自分のこ行動を振り返って僕が思うことは、今現在の価値観からすれば間違っているかもしれないが、当時の自分としては最大限正しいことをしたのだ、という考えだ。人は、ずっと同じ自分でいられるはずもないので、時間とともに変節し変容する。だからこそ過去を悔やんだりと言ったことをすることになるのだろうが、しかしそれでも、当時の自分としては正しかったと僕は言い切れると思う。
例えば僕は大学を中退しているのであるが、しかしその決断を以後一度も後悔したことがない。間違っていたかもしれないなとふと頭を過ぎることはないでもないが、しかし当時の自分としては最良でこれ以上ないと言える選択肢であったと自信を持って言うことは出来る。時々友人に後悔してないのかというような類のことを聞かれたりするが、しかしまったくである。
あと僕は、「思い出し笑い」ならぬ「思い出し恥ずかし」というのをよくやるのだが、まあ説明するまでもなく、過去自分がした「恥ずかしいな」と思うことを突然思い出しては一人で恥ずかしがっているという行為である。これは、なるほど今の自分の価値観からすれば当時の自分の行いは恥ずかしいものであった、と認める所業であろうと思う。しかしそれでも、当時の自分としては正しかったと思っているのだ。
こうしていれば、もしかしたら別の人生が待っていたのではないか、と夢想する人も世の中にはいるのかもしれない。しかしその夢想は、やはり間違っていると言わざるおえないだろう。少なくとも僕には確信が出来る。僕は、何度生まれ変わろうとも、大筋で大差ない人生を送る自信がある。もちろん、細部は大きくことなるだろうが、しかしチェックポイントというか節目節目の出来事というか、そういうことは恐らく変わらないだろうな、と思うのだ。些細なきっかけから勉強をするようになり、世界中の人間から嫌われていると考えるようになり、親を嫌いになるようになり、実家を出るためだけに東京の大学を目指し、目指したはいいが目標がないために中退し、読書が趣味だという理由で本屋で働くようになる。出会う友人や経験する出来事に多少の差異はあっても、大筋でこんな人生を歩むことは間違いないだろう。パラレルワールドなんてものがもしあっても、ほとんどの人間はきっと同じ生活をしているのではないだろうか。
世の中にはカオス理論というのがあって、初めの条件がほんの僅か違うだけで結果がまったく変わってしまうというような現象を説明するものだ。恐らく世の中の人は、人生にこのカオス理論を適応したいのだろう。あそこでああしていれば、きっと自分の人生は大きく変わったはずだ、と。
しかし人生にカオス理論を適応することは出来ないのだ。何故なら、「あそこでああしていれば」という決断を下す自分は存在しないからだ。何度人生をやり直したところで、「あそこでああいしていれば」という分岐点では結局同じ決断をしてしまうだろう。そういうものである。
今の自分の人生は、隅から隅までまごうことなく必然である。すべて必然によって人生は組みあがっている。ならば諸君、必然を鷹揚に迎い入れようではないか。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は一応長編と書かれているけど、やはり連作短編と解釈すべき作品に思えるので、それぞれの内容を紹介しようと思います。
全体の話をすれば、四つのパラレルワールドが同時に進行している話である、と考えてもらえばいいと思います。たぶん意味が分からないと思いますが、読んでない人にそれを説明するのはなかなか難しいので、その努力を僕は放棄しようと思います。
「四畳半恋ノ邪魔者」
大学三回生までの二年間を思い返してみて、実益のあることなど何一つしていないと断言できる私は、では何をしてきたかと言えば人の恋の邪魔ばかりしてきたのと、あと小津という、健全な私の精神をどす黒く汚した親友との付き合いである。
小津とは、映画サークル「みそぎ」で出会った。入った当初からサークルの人間と馬が合わず、合ったのが唯一小津のみであった。小津は、人の不幸で三度の飯が食えるという男である。そんな小津と私は、サークル内で暴虐の限りを尽くし、結局自主退会に追い込まれることとなった。
そんなある日私は、神様だと名乗る人間に出会ったのだ。出雲の国での縁結びの会議の前にしておかなくてはいけないことがある。それは、私と小津のどちらを明石さんと結び付けようかということらしいのだが…。
「四畳半自虐t期代理代理戦争」
大学三回生までの二年間を振り返ってみて、実益のあることは何もしていないと断言できる私であるが、では何をしていたかと言えば、小津が師匠と呼ぶ樋口師匠に弟子入りし、日々無理難題と戦っていたのである。
樋口師匠は一応大学生であるのだが、霞みを食って生きているのではないかと思わせるほどの泰然とした超越的な存在感を放つ人間だ。日々、亀の子束子やタツノオトシゴや大王烏賊などを欲しいといい、弟子である私と小津の頭を悩ませている。
樋口師匠とは、新歓の時期の「弟子求む」という謎のビラに惹かれて出会うことになった。それからの縁であるが、しかし謎の多い人だ。そのうちの一つに、映画サークル「みそぎ」のトップである城ヶ崎氏と何らかの確執があるらしく、常に些細な小競り合いを繰り広げているのである。「自虐的代理代理戦争」であるというのだが、一体どういうことなのだろう…。
「四畳半の甘い生活」
大学三回生までの二年間を振り返ってみて、実益のあることは何一つしていなと断言できる私だが、では何をしていたかといえば、ソフトボールサークル「ほんわか」に入っては辞め、そしてそこで知り合うことになった小津と暗黒の付き合いを繰り広げていたのである。
小津はある日、私の家に一人の女性を連れてきた。否、女性だと思ったのだがしかしそれは人形で、しかも俗に「ラブドール」などと呼ばれる代物であった。樋口師匠の敵である城ヶ崎氏の家から拉致してきたらしいのだが、何故かその「香織ちゃん」と名付けられた人形を私の家で預かるということになってしまった。不本意極まりないが、仕方ないだろう。
さてその一方で私は、古風であることに文通なぞというものをしているのだ。偶然知った相手の住所に手紙を送るところから始まったこの高尚な手紙のやり取りを、密に楽しみにしているのだが…。
「八十日間四畳半一周」
大学三回生までの二年間を振り返ってみて、実益のあることは何一つしていないと断言できる私であるが、では何をしていたかと言うと、秘密組織「福猫飯店」に入っては辞め、そこで知り合った小津と暗黒の日々を過ごしていたのである。
さてまあ、秘密組織「福猫飯店」での日々もまあいろいろあったが、しかしわが身に降りかかった最大の珍事と言えばこれだろう。
ある日を境に私は、世界が四畳半だけになってしまったのである。
その日、外廊下に出ようとドアを開けると、その向こうにはまた同じ四畳半があった。試しに窓を開けて外に出ようとするも、やはりその先にも同じ四畳半があった。
なんと、四畳半の世界に閉じ込められてしまったようなのだ。
ドアを開けども窓を開けども、一向に変わることのない四畳半の世界。ここから抜け出せなくなったとしたら、どうすればいいのだろうか…。
というような話です。
いやはや、ホント面白い話でした。森見登美彦らしさ全開と言った感じの話でした。
主人公である私は後悔をしているわけです。それは、新歓の時期に、今入ったサークルではなく他のサークルに入ってさえいれば、薔薇色の大学生活が待っていたはずなのに…、という後悔です。本作はその私の妄想を打ち砕くべく、どのサークルに入ろうとも私は小津と出会うことになり、どのサークルに入ろうとも散々な目に遭うのだ、というパラレルワールドを提示しているわけです。
四つの物語はそれぞれパラレルワールドのはずで、厳密には重なり合わないはずであるのに、しかし面白いことに重なるのです。そのキーワードが、本作の表紙の絵にもなっている熊の人形、通称「もちぐま」です。このもちぐまが、パラレルワールドの壁をあっさりと突き破って縦横無尽に移動していきます。これもなかなかに面白いです。また、四つの話はそれぞれ全然違う話であるのだけど、占い師に同じことを言われたり、蛾の大群が出てきたり、小津が骨折したりするという展開は同じで、いやはやなかなか面白いことを考えるものだ、と思いました。何よりも、何故あんなにも大量の蛾が発生したのかというところにもきちんと理由がつけられていて、なるほどなぁ、と思ってしまいました。
また、「夜は短し歩けよ乙女」にも出てきた樋口(自称・天狗)と羽貫(酔うと顔を舐める)も出てきて、物語を割と引っ掻き回します。面白いです。特に樋口は、樋口師匠として度々登場し、その奇怪っぷりを遺憾なく発揮しているので見所満載です。
話として好きなのは、やっぱり一番は「八十日間四畳半一周」です。タイトル通りの本で、まさかこんなくだらない設定で話を一つ書けてしまうのか、と驚きました。だって、一人で四畳半をいつまでもうろうろとしているだけの話なんです。なのに面白い。すごいですよ、これは。
あと、「四畳半自虐的代理代理戦争」もくだらなくてよかったですね。なんかあらゆる結末が脱力系でこのゆるさ加減はすごいなと思わされました。こういう純粋にくだらない作品は面白くて大好きです。
まあそんなわけで、ハチャメチャですっごく面白い作品でした。もちぐまが欲しくなりました。あと本作を読んで、やっぱ人生なんてそんな大差ないよな、とか思ってなんとなく勇気をもらえました。まあそんなわけで、是非是非読んでみてください。
森見登美彦「四畳半神話大系」
…と言いたいところであるが、実は僕にはそういう経験はあんまりないのだ。
ただそれは、決して後悔しないという意味ではない。積極的に後悔をしているわけでもないので説明が難しいのであるが、とにかく僕の根本的な発想には、過去を悔やんでみたところでどうにもならない、というのがある。
まあ誰だってそう思ってはいるだろうけど、でも思わず考えてしまうのではないだろうか。やっぱあの場面ではこうしておくべきだったよなぁとか、あそこでこうしなかったのはなしだよなぁとか、ああしておけばもしかしたらこうなってたかもしれないなぁとか、まあそんなことを夢想しては後悔に浸るものであるのかもしれない。
でも僕の場合、過去にああいうことをしたなぁ、なるほど確かにあれは間違っていたかもしれないなぁ、でもやってしまったものはまあしょうがないか、というような考えをするのだ。
実際、過去についてグダグダ言ってみてもどうしようもないのだ。まるで不毛である。ドラえもんが実在し、タイムマシンを机に引き出しに設えてくれるというのであれば、過去を悔やんで悔やんで悔やみまくることも吝かではないが、しかし残念なことにタイムマシンは机の引き出しにはないし、ドラえもんも存在しないのだ。
過去の自分のこ行動を振り返って僕が思うことは、今現在の価値観からすれば間違っているかもしれないが、当時の自分としては最大限正しいことをしたのだ、という考えだ。人は、ずっと同じ自分でいられるはずもないので、時間とともに変節し変容する。だからこそ過去を悔やんだりと言ったことをすることになるのだろうが、しかしそれでも、当時の自分としては正しかったと僕は言い切れると思う。
例えば僕は大学を中退しているのであるが、しかしその決断を以後一度も後悔したことがない。間違っていたかもしれないなとふと頭を過ぎることはないでもないが、しかし当時の自分としては最良でこれ以上ないと言える選択肢であったと自信を持って言うことは出来る。時々友人に後悔してないのかというような類のことを聞かれたりするが、しかしまったくである。
あと僕は、「思い出し笑い」ならぬ「思い出し恥ずかし」というのをよくやるのだが、まあ説明するまでもなく、過去自分がした「恥ずかしいな」と思うことを突然思い出しては一人で恥ずかしがっているという行為である。これは、なるほど今の自分の価値観からすれば当時の自分の行いは恥ずかしいものであった、と認める所業であろうと思う。しかしそれでも、当時の自分としては正しかったと思っているのだ。
こうしていれば、もしかしたら別の人生が待っていたのではないか、と夢想する人も世の中にはいるのかもしれない。しかしその夢想は、やはり間違っていると言わざるおえないだろう。少なくとも僕には確信が出来る。僕は、何度生まれ変わろうとも、大筋で大差ない人生を送る自信がある。もちろん、細部は大きくことなるだろうが、しかしチェックポイントというか節目節目の出来事というか、そういうことは恐らく変わらないだろうな、と思うのだ。些細なきっかけから勉強をするようになり、世界中の人間から嫌われていると考えるようになり、親を嫌いになるようになり、実家を出るためだけに東京の大学を目指し、目指したはいいが目標がないために中退し、読書が趣味だという理由で本屋で働くようになる。出会う友人や経験する出来事に多少の差異はあっても、大筋でこんな人生を歩むことは間違いないだろう。パラレルワールドなんてものがもしあっても、ほとんどの人間はきっと同じ生活をしているのではないだろうか。
世の中にはカオス理論というのがあって、初めの条件がほんの僅か違うだけで結果がまったく変わってしまうというような現象を説明するものだ。恐らく世の中の人は、人生にこのカオス理論を適応したいのだろう。あそこでああしていれば、きっと自分の人生は大きく変わったはずだ、と。
しかし人生にカオス理論を適応することは出来ないのだ。何故なら、「あそこでああしていれば」という決断を下す自分は存在しないからだ。何度人生をやり直したところで、「あそこでああいしていれば」という分岐点では結局同じ決断をしてしまうだろう。そういうものである。
今の自分の人生は、隅から隅までまごうことなく必然である。すべて必然によって人生は組みあがっている。ならば諸君、必然を鷹揚に迎い入れようではないか。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は一応長編と書かれているけど、やはり連作短編と解釈すべき作品に思えるので、それぞれの内容を紹介しようと思います。
全体の話をすれば、四つのパラレルワールドが同時に進行している話である、と考えてもらえばいいと思います。たぶん意味が分からないと思いますが、読んでない人にそれを説明するのはなかなか難しいので、その努力を僕は放棄しようと思います。
「四畳半恋ノ邪魔者」
大学三回生までの二年間を思い返してみて、実益のあることなど何一つしていないと断言できる私は、では何をしてきたかと言えば人の恋の邪魔ばかりしてきたのと、あと小津という、健全な私の精神をどす黒く汚した親友との付き合いである。
小津とは、映画サークル「みそぎ」で出会った。入った当初からサークルの人間と馬が合わず、合ったのが唯一小津のみであった。小津は、人の不幸で三度の飯が食えるという男である。そんな小津と私は、サークル内で暴虐の限りを尽くし、結局自主退会に追い込まれることとなった。
そんなある日私は、神様だと名乗る人間に出会ったのだ。出雲の国での縁結びの会議の前にしておかなくてはいけないことがある。それは、私と小津のどちらを明石さんと結び付けようかということらしいのだが…。
「四畳半自虐t期代理代理戦争」
大学三回生までの二年間を振り返ってみて、実益のあることは何もしていないと断言できる私であるが、では何をしていたかと言えば、小津が師匠と呼ぶ樋口師匠に弟子入りし、日々無理難題と戦っていたのである。
樋口師匠は一応大学生であるのだが、霞みを食って生きているのではないかと思わせるほどの泰然とした超越的な存在感を放つ人間だ。日々、亀の子束子やタツノオトシゴや大王烏賊などを欲しいといい、弟子である私と小津の頭を悩ませている。
樋口師匠とは、新歓の時期の「弟子求む」という謎のビラに惹かれて出会うことになった。それからの縁であるが、しかし謎の多い人だ。そのうちの一つに、映画サークル「みそぎ」のトップである城ヶ崎氏と何らかの確執があるらしく、常に些細な小競り合いを繰り広げているのである。「自虐的代理代理戦争」であるというのだが、一体どういうことなのだろう…。
「四畳半の甘い生活」
大学三回生までの二年間を振り返ってみて、実益のあることは何一つしていなと断言できる私だが、では何をしていたかといえば、ソフトボールサークル「ほんわか」に入っては辞め、そしてそこで知り合うことになった小津と暗黒の付き合いを繰り広げていたのである。
小津はある日、私の家に一人の女性を連れてきた。否、女性だと思ったのだがしかしそれは人形で、しかも俗に「ラブドール」などと呼ばれる代物であった。樋口師匠の敵である城ヶ崎氏の家から拉致してきたらしいのだが、何故かその「香織ちゃん」と名付けられた人形を私の家で預かるということになってしまった。不本意極まりないが、仕方ないだろう。
さてその一方で私は、古風であることに文通なぞというものをしているのだ。偶然知った相手の住所に手紙を送るところから始まったこの高尚な手紙のやり取りを、密に楽しみにしているのだが…。
「八十日間四畳半一周」
大学三回生までの二年間を振り返ってみて、実益のあることは何一つしていないと断言できる私であるが、では何をしていたかと言うと、秘密組織「福猫飯店」に入っては辞め、そこで知り合った小津と暗黒の日々を過ごしていたのである。
さてまあ、秘密組織「福猫飯店」での日々もまあいろいろあったが、しかしわが身に降りかかった最大の珍事と言えばこれだろう。
ある日を境に私は、世界が四畳半だけになってしまったのである。
その日、外廊下に出ようとドアを開けると、その向こうにはまた同じ四畳半があった。試しに窓を開けて外に出ようとするも、やはりその先にも同じ四畳半があった。
なんと、四畳半の世界に閉じ込められてしまったようなのだ。
ドアを開けども窓を開けども、一向に変わることのない四畳半の世界。ここから抜け出せなくなったとしたら、どうすればいいのだろうか…。
というような話です。
いやはや、ホント面白い話でした。森見登美彦らしさ全開と言った感じの話でした。
主人公である私は後悔をしているわけです。それは、新歓の時期に、今入ったサークルではなく他のサークルに入ってさえいれば、薔薇色の大学生活が待っていたはずなのに…、という後悔です。本作はその私の妄想を打ち砕くべく、どのサークルに入ろうとも私は小津と出会うことになり、どのサークルに入ろうとも散々な目に遭うのだ、というパラレルワールドを提示しているわけです。
四つの物語はそれぞれパラレルワールドのはずで、厳密には重なり合わないはずであるのに、しかし面白いことに重なるのです。そのキーワードが、本作の表紙の絵にもなっている熊の人形、通称「もちぐま」です。このもちぐまが、パラレルワールドの壁をあっさりと突き破って縦横無尽に移動していきます。これもなかなかに面白いです。また、四つの話はそれぞれ全然違う話であるのだけど、占い師に同じことを言われたり、蛾の大群が出てきたり、小津が骨折したりするという展開は同じで、いやはやなかなか面白いことを考えるものだ、と思いました。何よりも、何故あんなにも大量の蛾が発生したのかというところにもきちんと理由がつけられていて、なるほどなぁ、と思ってしまいました。
また、「夜は短し歩けよ乙女」にも出てきた樋口(自称・天狗)と羽貫(酔うと顔を舐める)も出てきて、物語を割と引っ掻き回します。面白いです。特に樋口は、樋口師匠として度々登場し、その奇怪っぷりを遺憾なく発揮しているので見所満載です。
話として好きなのは、やっぱり一番は「八十日間四畳半一周」です。タイトル通りの本で、まさかこんなくだらない設定で話を一つ書けてしまうのか、と驚きました。だって、一人で四畳半をいつまでもうろうろとしているだけの話なんです。なのに面白い。すごいですよ、これは。
あと、「四畳半自虐的代理代理戦争」もくだらなくてよかったですね。なんかあらゆる結末が脱力系でこのゆるさ加減はすごいなと思わされました。こういう純粋にくだらない作品は面白くて大好きです。
まあそんなわけで、ハチャメチャですっごく面白い作品でした。もちぐまが欲しくなりました。あと本作を読んで、やっぱ人生なんてそんな大差ないよな、とか思ってなんとなく勇気をもらえました。まあそんなわけで、是非是非読んでみてください。
森見登美彦「四畳半神話大系」
刀語第六話 双刀・鎚(西尾維新)
何か欲しいものがあった時、人はそれに見合った努力をするのだろう。
例えば、大金を出さなくては買えないものが欲しければどうにかしてお金を得る努力をしなくてはいけないし、お金では買えないものが欲しいのならば、それとは別のまた違った努力をしなくてはいけないだろう。
まあ当然だ。
しかし思うのだけど、物にはそれぞれ、それを持つのに相応しい人というのがあるのだと思うのだ。
今いろんな物は、なんであれお金さえだせば何でも手に入るような時代になってしまった。お金を持っているということが一つの指標となり、何かが保証されるのだろうし、お金というものにそれだけ価値があるのだということだろう。
しかし例えばだが、僕がフェラーリを買って乗り回すとしよう。どこからそんなお金が出てくるのかという疑問はまあ後回しにして、宝くじにでも当たったということにして欲しい。
さて、フェラーリが僕に見合う物であるかと言えば、それは間違いなくノーだろう。似合うも何もない。明らかに間違っている。この文章を読んでいる人の大半は、僕とは面識がないと思うのでその明らかさについては分からないかもしれないけど、でも考えるまでもなく明らかなのである。僕は、フェラーリを所有し乗りまわすような人間ではない。
僕はそういうことをきちんと自覚しているし、だから別に分不相応な高望みだって別にしていないつもりである。
しかし世の中にはどうもその辺りのことが分からず、高いもの、ブランドとして価値のあるものを追い求める風潮があると思う。
勘違いしているのである。
そういう、高いものやブランドに価値のあるものというのは、持つ人の価値をさらに高めるためのものである。この、『さらに』という部分が重要なのであって、そもそもそれを持つ価値のない人間にとっては、まさに豚に真珠、猫に小判である。
しかし世の中の人はどうもそうは考えないようだ。高いものや価値のあるブランドの物を手に入れることで、自分自身の価値もそれに伴って上がる、と考えるようなのだ。例えば、ロレックスの時計を見に付けることで、人間としての価値が上がる、とそんな風に考えているように思える。
それは、絶対に間違っていると思うのだ。いくらロレックスの時計を見に付けようと、価値のある人間になれるわけはない。価値のある人間がロレックスを見に付けるからこそ、その価値がより強調される、というだけのことである。
それでも、人々のそうしたブランドに対する執着というものは消えないし、むしろどんどんと増して行っているようにも思える。
もちろん、ブランドそのものの価値にではなく、その物自体の価値に惹かれているというのならば問題はないのだ。ロレックスの時計だからいいというのではなく、ロレックスの時計は壊れ難く製品としての完成度が高いからいい、と思っているならいいと思うのだ。しかし実態は、世の中の多くの人々が、中身も碌に確認しないまま、ブランド物であるというだけの理由で物を手に入れているように感じてします。
価値は人間の側にあるのではなく、物にそれを頼ってはいけないだろう。もし何らかの価値のある物を手に入れたいとしたら、お金を得るよりもまず、それを手に入れるのに相応しい人間にならなくてはいけない、と僕は思う。
物の価値を決めるのは、最終的には人間だ。その人間が愚かであれば、物も救われないだろう。バブルの時期だったか、ゴッホの絵に100億円以上の値段がついたことがあった。その絵に本当に100億円の価値があるというのならいい。しかし恐らく違ったのだろう。物の価値を決める人間が愚かだったというだけの話だろう。
自分に相応しいもの、あるいはほんの僅か背伸びすれば相応しくなるもの。そうしたものだけど欲しがるべきだろう。そうでない人間が多いために、どうもちぐはぐな感じになっているような気がする。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、12ヶ月連続刊行中の西尾維新の最新シリーズである刀語の第六話です。毎度のことですが、大枠の設定から書きましょう。
幕府の奇策士であるとがめと、虚刀流という流派の剣士である七花は、天才と謳われた刀鍛冶である四季崎記紀が作ったとされる12本の変体刀を蒐集すべく諸国を巡ってはその所有者と戦う、という話である。
今回の舞台は、絶対凍土とも評される蝦夷の踊山。一年中雪が止むことのないその地には、幕府の壱級災害指定地域に指定されているのだが、凍空一族と呼ばれる一族が住んでいる地でもある。今回蒐集する刀、双刀・鎚は、その凍空一族が所有しているらしいのだ。しかし、その鎚という刀が一体どんなものであるのかという情報はまったくない。
港の職員の制止も聞かず、薄着のままなんの準備もなく踊山へ向かった二人であったが、少々舐めすぎていたようだ。とがめは結構危険な状態であるし、平気そうにしていた七花さえも、なんと手足の異常を訴えて倒れてしまったのだ…。
雪吹きすさぶ山で完全に孤立した二人。まさに絶体絶命のその状況でやってきたのが一人の少女だった。
凍空こなゆき。
彼女はその小さな矮躯で軽々と七花を担ぎ上げ、少女が一人で住んでいるという洞窟まで連れていった。凍空一族は自分を除いて全滅したのだと聞かされ途方にくれるとがめであったが、刀を探してると聞くと、こなゆきは無邪気にも自分が探してきてあげようかと提案するのだが…。
というような話です。
この刀語というシリーズは、毎月一本刀を蒐集するわけで、つまり毎月毎月所有者との戦闘があるわけだけど、しかし毎月そんなことをしているとどんどんネタも尽きてくるのもまた事実。しかし西尾維新は相変わらず手を変え品を変え、毎月違った形でこの刀集めの旅を物語にしていきます。
今回もかなり変わった展開で、所有者の一族がほとんど全滅している上に、生き残ったのは少女一人。さてこの状況で一体どうするのか…。まったく、なかなか面白いことを考えるものです。
今回もまあもちろん戦闘があるんですけど、それもなかなかうまいなと思いました。ネタバレになるので詳しいことは書きませんが、最終的に七花が勝つことが出来るその理屈は、なるほどなと思ってしまいました。実感こそ出来ませんが、なるほどそういうものかもしれない、という感じでした。
今回のまあ一応の所有者というべきはこなゆきなわけですが、これまでにないキャラでかなり可愛い感じですね。なんと言っても一人称が「うちっち」ですからね。それにどうして戦闘をする羽目になったのかという理由もなかなかニヤリという感じで、そういう意味でも今回はかなりこれまでと違う感じだな、という気がしました。
今回読んでいて思ったのが、冒頭でも書いたことだけど、物には相応しい持ち主がいる、ということでした。これまでの変体刀もそうでしたが、今回もかなり所有者を選ぶ刀であって、正直とがめと七花が手に入れたところでどうにかなる代物ではないわけです。でも二人はそれを手に入れようとするし手に入れなくてはいけない。それは一つの執念であって間違ってはいないんですけど、でも今回についてはどうなんだろうな、と思ったりしました。たまたま今回は、まあ事情が事情で奪ったという感じではなかったのでよかったですけど、しかしそれを持つのに相応しい持ち主から、それを持つのに明らかに相応しくない人間がそれを奪うというのはいかがなものか、とそんな風に考えてしまいました。
まあそんなわけで、今回もなかなか面白い話でした。毎度のことですが、このシリーズを読んでいる人は読み続けて欲しいし、まだ読んでないという人は是非一巻から読んでみてください。
西尾維新「刀語第六話 双刀・鎚」
例えば、大金を出さなくては買えないものが欲しければどうにかしてお金を得る努力をしなくてはいけないし、お金では買えないものが欲しいのならば、それとは別のまた違った努力をしなくてはいけないだろう。
まあ当然だ。
しかし思うのだけど、物にはそれぞれ、それを持つのに相応しい人というのがあるのだと思うのだ。
今いろんな物は、なんであれお金さえだせば何でも手に入るような時代になってしまった。お金を持っているということが一つの指標となり、何かが保証されるのだろうし、お金というものにそれだけ価値があるのだということだろう。
しかし例えばだが、僕がフェラーリを買って乗り回すとしよう。どこからそんなお金が出てくるのかという疑問はまあ後回しにして、宝くじにでも当たったということにして欲しい。
さて、フェラーリが僕に見合う物であるかと言えば、それは間違いなくノーだろう。似合うも何もない。明らかに間違っている。この文章を読んでいる人の大半は、僕とは面識がないと思うのでその明らかさについては分からないかもしれないけど、でも考えるまでもなく明らかなのである。僕は、フェラーリを所有し乗りまわすような人間ではない。
僕はそういうことをきちんと自覚しているし、だから別に分不相応な高望みだって別にしていないつもりである。
しかし世の中にはどうもその辺りのことが分からず、高いもの、ブランドとして価値のあるものを追い求める風潮があると思う。
勘違いしているのである。
そういう、高いものやブランドに価値のあるものというのは、持つ人の価値をさらに高めるためのものである。この、『さらに』という部分が重要なのであって、そもそもそれを持つ価値のない人間にとっては、まさに豚に真珠、猫に小判である。
しかし世の中の人はどうもそうは考えないようだ。高いものや価値のあるブランドの物を手に入れることで、自分自身の価値もそれに伴って上がる、と考えるようなのだ。例えば、ロレックスの時計を見に付けることで、人間としての価値が上がる、とそんな風に考えているように思える。
それは、絶対に間違っていると思うのだ。いくらロレックスの時計を見に付けようと、価値のある人間になれるわけはない。価値のある人間がロレックスを見に付けるからこそ、その価値がより強調される、というだけのことである。
それでも、人々のそうしたブランドに対する執着というものは消えないし、むしろどんどんと増して行っているようにも思える。
もちろん、ブランドそのものの価値にではなく、その物自体の価値に惹かれているというのならば問題はないのだ。ロレックスの時計だからいいというのではなく、ロレックスの時計は壊れ難く製品としての完成度が高いからいい、と思っているならいいと思うのだ。しかし実態は、世の中の多くの人々が、中身も碌に確認しないまま、ブランド物であるというだけの理由で物を手に入れているように感じてします。
価値は人間の側にあるのではなく、物にそれを頼ってはいけないだろう。もし何らかの価値のある物を手に入れたいとしたら、お金を得るよりもまず、それを手に入れるのに相応しい人間にならなくてはいけない、と僕は思う。
物の価値を決めるのは、最終的には人間だ。その人間が愚かであれば、物も救われないだろう。バブルの時期だったか、ゴッホの絵に100億円以上の値段がついたことがあった。その絵に本当に100億円の価値があるというのならいい。しかし恐らく違ったのだろう。物の価値を決める人間が愚かだったというだけの話だろう。
自分に相応しいもの、あるいはほんの僅か背伸びすれば相応しくなるもの。そうしたものだけど欲しがるべきだろう。そうでない人間が多いために、どうもちぐはぐな感じになっているような気がする。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、12ヶ月連続刊行中の西尾維新の最新シリーズである刀語の第六話です。毎度のことですが、大枠の設定から書きましょう。
幕府の奇策士であるとがめと、虚刀流という流派の剣士である七花は、天才と謳われた刀鍛冶である四季崎記紀が作ったとされる12本の変体刀を蒐集すべく諸国を巡ってはその所有者と戦う、という話である。
今回の舞台は、絶対凍土とも評される蝦夷の踊山。一年中雪が止むことのないその地には、幕府の壱級災害指定地域に指定されているのだが、凍空一族と呼ばれる一族が住んでいる地でもある。今回蒐集する刀、双刀・鎚は、その凍空一族が所有しているらしいのだ。しかし、その鎚という刀が一体どんなものであるのかという情報はまったくない。
港の職員の制止も聞かず、薄着のままなんの準備もなく踊山へ向かった二人であったが、少々舐めすぎていたようだ。とがめは結構危険な状態であるし、平気そうにしていた七花さえも、なんと手足の異常を訴えて倒れてしまったのだ…。
雪吹きすさぶ山で完全に孤立した二人。まさに絶体絶命のその状況でやってきたのが一人の少女だった。
凍空こなゆき。
彼女はその小さな矮躯で軽々と七花を担ぎ上げ、少女が一人で住んでいるという洞窟まで連れていった。凍空一族は自分を除いて全滅したのだと聞かされ途方にくれるとがめであったが、刀を探してると聞くと、こなゆきは無邪気にも自分が探してきてあげようかと提案するのだが…。
というような話です。
この刀語というシリーズは、毎月一本刀を蒐集するわけで、つまり毎月毎月所有者との戦闘があるわけだけど、しかし毎月そんなことをしているとどんどんネタも尽きてくるのもまた事実。しかし西尾維新は相変わらず手を変え品を変え、毎月違った形でこの刀集めの旅を物語にしていきます。
今回もかなり変わった展開で、所有者の一族がほとんど全滅している上に、生き残ったのは少女一人。さてこの状況で一体どうするのか…。まったく、なかなか面白いことを考えるものです。
今回もまあもちろん戦闘があるんですけど、それもなかなかうまいなと思いました。ネタバレになるので詳しいことは書きませんが、最終的に七花が勝つことが出来るその理屈は、なるほどなと思ってしまいました。実感こそ出来ませんが、なるほどそういうものかもしれない、という感じでした。
今回のまあ一応の所有者というべきはこなゆきなわけですが、これまでにないキャラでかなり可愛い感じですね。なんと言っても一人称が「うちっち」ですからね。それにどうして戦闘をする羽目になったのかという理由もなかなかニヤリという感じで、そういう意味でも今回はかなりこれまでと違う感じだな、という気がしました。
今回読んでいて思ったのが、冒頭でも書いたことだけど、物には相応しい持ち主がいる、ということでした。これまでの変体刀もそうでしたが、今回もかなり所有者を選ぶ刀であって、正直とがめと七花が手に入れたところでどうにかなる代物ではないわけです。でも二人はそれを手に入れようとするし手に入れなくてはいけない。それは一つの執念であって間違ってはいないんですけど、でも今回についてはどうなんだろうな、と思ったりしました。たまたま今回は、まあ事情が事情で奪ったという感じではなかったのでよかったですけど、しかしそれを持つのに相応しい持ち主から、それを持つのに明らかに相応しくない人間がそれを奪うというのはいかがなものか、とそんな風に考えてしまいました。
まあそんなわけで、今回もなかなか面白い話でした。毎度のことですが、このシリーズを読んでいる人は読み続けて欲しいし、まだ読んでないという人は是非一巻から読んでみてください。
西尾維新「刀語第六話 双刀・鎚」
カシオペアの丘で(重松清)
これほどの物語を前に、一体僕は何を言うことが出来るだろうか。
僕は、ゆるしを得たいと思うことはなかなかない。
出来ることなら、許されたくないとも思う。
何かが起こってしまったら。何かとてつもないことが起こってしまったら。大したことでなくてもいい、誰かに謝ってゆるしを求めなくてはいけない状況があったとしよう。
僕は一体どうするか。
なるべくならば、謝りたくないのだ。
ずっとそう思って生きてきた。
もちろん、何かしてしまったら謝る。これまでだってもちろん謝ってきた。その度に許されてきたのかどうかは知らないが、しかしもちろん謝らないわけがない。
ただ、謝りたくないのだ。
違う、そうではない。
許されたくないのだ。
許されてはいけない、と思ってしまうのだ。
恐らくこの考え方は間違っているだろう。間違っているだろうけど、でも僕を支配しているのだ。
謝ること、許されることは、何かを消してしまうことだ。誰かの存在を、誰かの気持ちを、誰かの安心を、誰かの不安を、誰かの夢を、誰かの希望を、誰かの何かを。
誰かの何かを消してしまうのだ。
謝ることで、許されることで、それが消えてしまう。
僕は、そんな風に考えてしまうのだ。
何でもいい、例えば僕が誰かを傷つけてしまったとしよう。物理的なものでなくてもいい、言葉で傷つけたというのでも構わない。
もちろん謝るだろう。謝らなくてはいけないとも思うだろう。と同時に僕は、ずっと責められたいと思うのだ。責められ続けたいと思ってしまうのだ。
相手が僕のことを恨んでくれる方がいい。僕は、それで救われる。簡単に許されてはいけないと思ってしまうのだ。
僕が謝ることで、相手に負担を強いるのではないか、と思ってしまうのだ。謝っている僕のことを、許さなくてはいけないという風に強いることになるのではないか。本当は僕のことを恨みたいのに、謝っている人間を恨むのはなかなか難しい。そんな気持ちにさせてしまうのではないか、と思うのだ。
考えすぎ、だろうか。
考えすぎ、なのだろうと思う。
それでも、と僕は考えてしまうのだ。
謝られることは、負担ではないのか、と。
人を許さなくてはいけないのは、負担ではないのか、と。
僕なら、はっきりいって負担だ。
謝られたくもないし、ゆるしたくもない。
何かあれば、人を責め続けたい。その気力がなかったとしても、責められるだけの場所に立っていたい。
おかしな考えだろうか。
酷い人間だと思うだろうか。
謝ることが善だと思われている。それは、正しいことであると思われている。
そうだろうか。
本当に、そうだろうか。
許されることを望んではいけないのではないだろうか。
安易に謝ってはいけないのではないだろうか。
謝罪を積み重ねた先に残るものは確かにあるかもしれない。長い時間の先に届く場所は確かにあるのかもしれない。
それでも。
僕は、謝ることは悪であると言いたい。間違ってることだと言いたい。
間違っていることを自覚して謝るのならば悪くはないかもしれない。しかし、正しいことをしているのだと思って謝るのは卑怯だと思う。
罪は、許されるべきではない。
罰は、軽くなるべきではない。
抱え続けなくてはいけないことは、ある。
だから僕は。
なるべく間違ったことをしないようにしようと思って生きている。
なるべく謝らなければならないことをしないようにしようと思って生きている。
その上で。
もし間違ってしまったとしたら、間違っていることを自覚しながら謝ることだろう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
小学五年生のある日。ボイジャー1号と2号を見るために、僕等はある丘に集まった。「カシオペアの丘」という名前をつけたのもその日だった。
トシ・シュン・ユウ・ミッチョの四人。
いつかここが遊園地になればいいのにね―。
結局ボイジャーは見つけられなかったが、代わりに満天の星空に感動した僕等は、そんな夢を語り合った。
長い年月が過ぎた。
四人の人生には直接には関係ない、しかし最終的に四人を「カシオペアの丘」へと呼び寄せることになる悲しい事件が起こった。
東京のある街で、小さな女の子がデパートで死んだ。殺されたのだった。
その1年前、その家族は北海道のある遊園地を訪れていたのだ。「カシオペアの丘」に本当に作られた遊園地だった。そこでは、車椅子での生活になったトシが園長に、トシの奥さんに納まったミッチョがウサギのぬいぐるみを被っていた。楽しそうな女の子だったと、二人とも覚えていた。
ユウは東京でテレビの製作会社で忙しく働いていた。その女の子の事件を担当することになって、「カシオペアの丘」へ取材に行くことになった。
シュンは、病院にいた。検査の結果を知らされたのだった。
ガン、だった。
まさか、と思った。まさか自分がガンになるなんて、と思った。どうして自分がガンにならなくてはならないんだ、と思った。
その病院で、「カシオペアの丘」の映像を見かけた。その時、ふと思った。もう会うことはないと思っていたトシとミッチョに、自分がガンだってことを知らせようか…。
四人は四人とも、小学五年生の頃とは考えられないほどいろんなものを背負って生きてきた。許されない思いや屈折した感情がいつまでもしこりのように残り続けてきた人生だった。
四人が、「カシオペアの丘」に、そして死んでしまった少女に呼び寄せられるように集まった。
ゆるしを求める人間とゆるしを受け入れる人間とゆるしなんかそもそもないと言い切る人間と―。
四人の人生が、静かに、そして大きく動き出す…。
というような物語です。
すごい物語でした。もう全編のほとんどで泣きっぱなしでした。これほどに感情を揺さぶられる物語も本当に久しぶりだと思った。間違いなく、現時点で今年No.1の小説である。
僕には嫌いなタイプの小説というのがあって、それは、安易に登場人物を病気にする小説である。とにかく病気にしておけば泣くだろう、というような物語は最低だと思うのだ。
ただ、この物語はそんな薄っぺらいものとはまるで違う。
この物語では、シュンと呼ばれる男がガンに冒される。これが小説のメインのストーリーになっていくわけだけど、これが圧巻である。人の死というものを安易に扱っていないのはもちろんだけど、その死に直面する人々を真摯にリアルに、それでいてやりすぎない程度にあっさりと描いているその距離感みたいなものが感動的だ。もう本当に、すごいとしか言いようがないのだ。
この物語を読んで僕が一番に思ったのは、シュンというのは幸せだな、ということである。
死を前にして、あれだけの人々が集まる。シュンという一人の人間を取り囲む。死を目の前にした人間を労わる。それが、僕には羨ましいと思えてしまった。
僕は、自分が死ぬ時は一人だろうと思っている。結婚しようがしまいが、今後どんな人生を歩もうが、僕には死に際して集ってくれるような人々の存在を想像することが出来ないのだ。
だから、シュンが羨ましい。たとえガンになって人よりも早く死ぬことになってしまっても、羨ましく思えてしまうのだ。
それは、リリー・フランキーの「東京タワー」を読んだ時もそう思った。死を前に、その人の前に人が集まる。それは、すべての人が必ず味わえるわけではない、恵まれた人間だけに許されることだろうと思うのだ。
不謹慎かもしれないが、だからシュンには羨ましいと感じてしまった。
また、出てくる人々が本当にいいのだ。幼馴染みである四人はもちろんであるが、それ以外にも出てくる人々が本当にいい。殺されてしまった女の子の父親である川原さんや、リポーターだったのに幼馴染み一行と深く関わることになったミウさん、「倉田」一族を牛耳ってきた倉田千一郎など、出てくる人間がとにかくいい。死に関わるだけではなく、幼馴染み同士の微妙な確執であったりとか、過去の様々な思い出が交錯し、そこにあらゆる人々が取り込まれていく。その中で、誰もが新たな道を目指し、そこを歩き出せるように人生を修正していく。その過程が、心を打つ。
さてその中でも僕がもっともいいと思ったのが、ユウこと雄司だ。
僕は、雄司みたいな人間になれたらいいな、と思ってしまうのだ。
雄司は、いつだって損な役回りだ。誰かが喧嘩をしていればおどけたことを言って仲を取り持ち、誰かのためになると思えば批判も受け入れてそれを実行してしまう。
誰もが、雄司を優しいと言う。子どもっぽいし馬鹿で単純だけど、でも優しい。
決して雄司は主役にはあんれない。いつだって誰かの陰に隠れながら、でも誰かのためになるように必死だ。いつだって誰かのことを考えて、自分のことを後回しにしている。
僕も、自分は絶対に主役になれないと思っている。誰かより上に行くことも、誰かと張り合うこともきっと出来ない。でもだからこそ、雄司みたいな人間になって、誰かをきっちりと支えられる人間になれたらいいのにな、とか思ってしまう。まあ、無理だろうけど。雄司は結構偉大である。
他にこの物語について何をどう語ればいいのか僕には分からない。とにかくすごいし多くの人に読んで欲しい。ありとあらゆる感情が揺さぶられるのではないか、と思うのだ。
大人になれば、いろんなものを背負っていかなくてはいけなくなってしまう。背負うものは人それぞれで、誰だってそれを軽くしてあげられはしない。そんな世の中で、北海道を舞台に、幼馴染みが集まって互いの背負っているものを確認する。あるいは、背負ってきたものを。人生の中で確かにこういう一瞬があるのかもしれないし、またないのかもしれない。けど、贖罪にぶち当たることは、短くはない人生の中できっとあることだろう。
それでも、今を生きるしかないことを再確認して、人々はまたそれぞれの地に戻る。寄り添うことになった一瞬は、決して続くことはない。
背負ってきたものを下ろすのが死であるとすれば、人の一生はあまりに長い。背負ってきたものを下ろせずに死ななければならないとしたら、その人生はあまりにも短いだろう。
こうしてとりとめのないことをいろいろと考えてしまう物語だった。とにかくすごいし本物だ。本物の物語がここにある。是非とも読んでください。年に一冊しか本を読まないという人は、是非この本を読んでください。それぐらい、すごいです。読むべき本だ、と言ってしまっても言いすぎにはならないだろうと思います。是非読んでみてください。
重松清「カシオペアの丘で」
僕は、ゆるしを得たいと思うことはなかなかない。
出来ることなら、許されたくないとも思う。
何かが起こってしまったら。何かとてつもないことが起こってしまったら。大したことでなくてもいい、誰かに謝ってゆるしを求めなくてはいけない状況があったとしよう。
僕は一体どうするか。
なるべくならば、謝りたくないのだ。
ずっとそう思って生きてきた。
もちろん、何かしてしまったら謝る。これまでだってもちろん謝ってきた。その度に許されてきたのかどうかは知らないが、しかしもちろん謝らないわけがない。
ただ、謝りたくないのだ。
違う、そうではない。
許されたくないのだ。
許されてはいけない、と思ってしまうのだ。
恐らくこの考え方は間違っているだろう。間違っているだろうけど、でも僕を支配しているのだ。
謝ること、許されることは、何かを消してしまうことだ。誰かの存在を、誰かの気持ちを、誰かの安心を、誰かの不安を、誰かの夢を、誰かの希望を、誰かの何かを。
誰かの何かを消してしまうのだ。
謝ることで、許されることで、それが消えてしまう。
僕は、そんな風に考えてしまうのだ。
何でもいい、例えば僕が誰かを傷つけてしまったとしよう。物理的なものでなくてもいい、言葉で傷つけたというのでも構わない。
もちろん謝るだろう。謝らなくてはいけないとも思うだろう。と同時に僕は、ずっと責められたいと思うのだ。責められ続けたいと思ってしまうのだ。
相手が僕のことを恨んでくれる方がいい。僕は、それで救われる。簡単に許されてはいけないと思ってしまうのだ。
僕が謝ることで、相手に負担を強いるのではないか、と思ってしまうのだ。謝っている僕のことを、許さなくてはいけないという風に強いることになるのではないか。本当は僕のことを恨みたいのに、謝っている人間を恨むのはなかなか難しい。そんな気持ちにさせてしまうのではないか、と思うのだ。
考えすぎ、だろうか。
考えすぎ、なのだろうと思う。
それでも、と僕は考えてしまうのだ。
謝られることは、負担ではないのか、と。
人を許さなくてはいけないのは、負担ではないのか、と。
僕なら、はっきりいって負担だ。
謝られたくもないし、ゆるしたくもない。
何かあれば、人を責め続けたい。その気力がなかったとしても、責められるだけの場所に立っていたい。
おかしな考えだろうか。
酷い人間だと思うだろうか。
謝ることが善だと思われている。それは、正しいことであると思われている。
そうだろうか。
本当に、そうだろうか。
許されることを望んではいけないのではないだろうか。
安易に謝ってはいけないのではないだろうか。
謝罪を積み重ねた先に残るものは確かにあるかもしれない。長い時間の先に届く場所は確かにあるのかもしれない。
それでも。
僕は、謝ることは悪であると言いたい。間違ってることだと言いたい。
間違っていることを自覚して謝るのならば悪くはないかもしれない。しかし、正しいことをしているのだと思って謝るのは卑怯だと思う。
罪は、許されるべきではない。
罰は、軽くなるべきではない。
抱え続けなくてはいけないことは、ある。
だから僕は。
なるべく間違ったことをしないようにしようと思って生きている。
なるべく謝らなければならないことをしないようにしようと思って生きている。
その上で。
もし間違ってしまったとしたら、間違っていることを自覚しながら謝ることだろう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
小学五年生のある日。ボイジャー1号と2号を見るために、僕等はある丘に集まった。「カシオペアの丘」という名前をつけたのもその日だった。
トシ・シュン・ユウ・ミッチョの四人。
いつかここが遊園地になればいいのにね―。
結局ボイジャーは見つけられなかったが、代わりに満天の星空に感動した僕等は、そんな夢を語り合った。
長い年月が過ぎた。
四人の人生には直接には関係ない、しかし最終的に四人を「カシオペアの丘」へと呼び寄せることになる悲しい事件が起こった。
東京のある街で、小さな女の子がデパートで死んだ。殺されたのだった。
その1年前、その家族は北海道のある遊園地を訪れていたのだ。「カシオペアの丘」に本当に作られた遊園地だった。そこでは、車椅子での生活になったトシが園長に、トシの奥さんに納まったミッチョがウサギのぬいぐるみを被っていた。楽しそうな女の子だったと、二人とも覚えていた。
ユウは東京でテレビの製作会社で忙しく働いていた。その女の子の事件を担当することになって、「カシオペアの丘」へ取材に行くことになった。
シュンは、病院にいた。検査の結果を知らされたのだった。
ガン、だった。
まさか、と思った。まさか自分がガンになるなんて、と思った。どうして自分がガンにならなくてはならないんだ、と思った。
その病院で、「カシオペアの丘」の映像を見かけた。その時、ふと思った。もう会うことはないと思っていたトシとミッチョに、自分がガンだってことを知らせようか…。
四人は四人とも、小学五年生の頃とは考えられないほどいろんなものを背負って生きてきた。許されない思いや屈折した感情がいつまでもしこりのように残り続けてきた人生だった。
四人が、「カシオペアの丘」に、そして死んでしまった少女に呼び寄せられるように集まった。
ゆるしを求める人間とゆるしを受け入れる人間とゆるしなんかそもそもないと言い切る人間と―。
四人の人生が、静かに、そして大きく動き出す…。
というような物語です。
すごい物語でした。もう全編のほとんどで泣きっぱなしでした。これほどに感情を揺さぶられる物語も本当に久しぶりだと思った。間違いなく、現時点で今年No.1の小説である。
僕には嫌いなタイプの小説というのがあって、それは、安易に登場人物を病気にする小説である。とにかく病気にしておけば泣くだろう、というような物語は最低だと思うのだ。
ただ、この物語はそんな薄っぺらいものとはまるで違う。
この物語では、シュンと呼ばれる男がガンに冒される。これが小説のメインのストーリーになっていくわけだけど、これが圧巻である。人の死というものを安易に扱っていないのはもちろんだけど、その死に直面する人々を真摯にリアルに、それでいてやりすぎない程度にあっさりと描いているその距離感みたいなものが感動的だ。もう本当に、すごいとしか言いようがないのだ。
この物語を読んで僕が一番に思ったのは、シュンというのは幸せだな、ということである。
死を前にして、あれだけの人々が集まる。シュンという一人の人間を取り囲む。死を目の前にした人間を労わる。それが、僕には羨ましいと思えてしまった。
僕は、自分が死ぬ時は一人だろうと思っている。結婚しようがしまいが、今後どんな人生を歩もうが、僕には死に際して集ってくれるような人々の存在を想像することが出来ないのだ。
だから、シュンが羨ましい。たとえガンになって人よりも早く死ぬことになってしまっても、羨ましく思えてしまうのだ。
それは、リリー・フランキーの「東京タワー」を読んだ時もそう思った。死を前に、その人の前に人が集まる。それは、すべての人が必ず味わえるわけではない、恵まれた人間だけに許されることだろうと思うのだ。
不謹慎かもしれないが、だからシュンには羨ましいと感じてしまった。
また、出てくる人々が本当にいいのだ。幼馴染みである四人はもちろんであるが、それ以外にも出てくる人々が本当にいい。殺されてしまった女の子の父親である川原さんや、リポーターだったのに幼馴染み一行と深く関わることになったミウさん、「倉田」一族を牛耳ってきた倉田千一郎など、出てくる人間がとにかくいい。死に関わるだけではなく、幼馴染み同士の微妙な確執であったりとか、過去の様々な思い出が交錯し、そこにあらゆる人々が取り込まれていく。その中で、誰もが新たな道を目指し、そこを歩き出せるように人生を修正していく。その過程が、心を打つ。
さてその中でも僕がもっともいいと思ったのが、ユウこと雄司だ。
僕は、雄司みたいな人間になれたらいいな、と思ってしまうのだ。
雄司は、いつだって損な役回りだ。誰かが喧嘩をしていればおどけたことを言って仲を取り持ち、誰かのためになると思えば批判も受け入れてそれを実行してしまう。
誰もが、雄司を優しいと言う。子どもっぽいし馬鹿で単純だけど、でも優しい。
決して雄司は主役にはあんれない。いつだって誰かの陰に隠れながら、でも誰かのためになるように必死だ。いつだって誰かのことを考えて、自分のことを後回しにしている。
僕も、自分は絶対に主役になれないと思っている。誰かより上に行くことも、誰かと張り合うこともきっと出来ない。でもだからこそ、雄司みたいな人間になって、誰かをきっちりと支えられる人間になれたらいいのにな、とか思ってしまう。まあ、無理だろうけど。雄司は結構偉大である。
他にこの物語について何をどう語ればいいのか僕には分からない。とにかくすごいし多くの人に読んで欲しい。ありとあらゆる感情が揺さぶられるのではないか、と思うのだ。
大人になれば、いろんなものを背負っていかなくてはいけなくなってしまう。背負うものは人それぞれで、誰だってそれを軽くしてあげられはしない。そんな世の中で、北海道を舞台に、幼馴染みが集まって互いの背負っているものを確認する。あるいは、背負ってきたものを。人生の中で確かにこういう一瞬があるのかもしれないし、またないのかもしれない。けど、贖罪にぶち当たることは、短くはない人生の中できっとあることだろう。
それでも、今を生きるしかないことを再確認して、人々はまたそれぞれの地に戻る。寄り添うことになった一瞬は、決して続くことはない。
背負ってきたものを下ろすのが死であるとすれば、人の一生はあまりに長い。背負ってきたものを下ろせずに死ななければならないとしたら、その人生はあまりにも短いだろう。
こうしてとりとめのないことをいろいろと考えてしまう物語だった。とにかくすごいし本物だ。本物の物語がここにある。是非とも読んでください。年に一冊しか本を読まないという人は、是非この本を読んでください。それぐらい、すごいです。読むべき本だ、と言ってしまっても言いすぎにはならないだろうと思います。是非読んでみてください。
重松清「カシオペアの丘で」