裏庭(梨木香歩)
もしかしたら、誰しもが心の中に庭を持っていて、生きている限り人は庭師なのかもしれない。
土を育むように、植物が育つように、雑草を取り除くように、人は丁寧にその庭に手入れをしていく。種を植えるようにして何かを始め、植物が枯れるように何かが終わり、その枯れた植物を肥料としてまた新しい植物が育っていく。そんな転生が幾多も繰り返される中、努力に応じて庭は洗練されていき、その庭とともに、その庭師も成長していく。
ただし、普通その庭を誰かに見せることはない。
秘密の場所なのである。誰に見せるわけでもないのに手入れをする。中には、誰にも見られないのなら、といって手を抜く人もいるかもしれない。
誰にも見られることなく、もちろん、誰にもその庭師の仕事を手伝わせることもなく、自分の成長と共に存在し、自分の存在の消滅と共に消えていく。誰にも見えない、だからこそ「裏庭」なのである。
でも、もしも、そんな「裏庭」が表に出てきたら…
そんなもしもを前提とした物語です。
自分の「裏庭」には一体何があるだろうか、と考えてみました。「裏庭」は、丹精こめて育てた植物達ももちろんいるけれども、害虫や雑草など、自分では望まないものも多く現れます。現実世界で処理し切れなかった自分の感情やしこりなどが、「裏庭」という場所で何らかの形に結実して現れるのだろうと思います。
僕は、結構自分の「裏庭」を放っておいているような気がします。手入れを怠り、それでいて、現実で受けたしこりは多くあるので、「裏庭」はかなり悲惨な状態になっているように思います。恐らくそこは、もはや「庭」とは呼べない状態になっていることでしょう。
庭師としての仕事をこなす、ということは、自分自身と向き合う、ということです。害虫や雑草など、一旦は保留にしておいた様々なしこりを取り除き、昔から大切にしてきたものを手入れし、そうして自分自身と向き合っていくわけです。
僕にはなかなか、自分と向き合える自信はありません。始めは大したことのなかった退廃が、年月とともに積もり、今では向き合うのも恐ろしいような感じになってしまっています。そうして、避けがたいものから後ろ向きでいることで、より退廃は進んでいくことでしょう。
「裏庭」というものの存在を意識しました。これからは少し目を掛けてあげたい、そうも思いました。
内容に入りたいと思います。
大分昔から存在していた洋館。塀に囲まれたはいたものの、抜け道を駆使し、いつの世も子供たちの遊び場として活躍していたお屋敷、そこが舞台です。
照美は、同じく昔はそこでよく遊んでいたという、友達のおじいちゃんの話を聞くのが好きでした。おじいちゃんは子供の頃、その屋敷に住む英国人一家と交際があり、今の子供たちがやるように勝手に入るのではなく、正式にお呼ばれして遊びにいっていた。
丈治という名のそのおじいちゃんは、英国人一家の姉妹の姉レイチェルから、「裏庭」についての話を聞いた。このバーンズ家には代々「裏庭」が受け継がれていて、時々「庭師」が生まれる。妹のレベッカはまさにその「庭師」であり、よくその「裏庭」に行っている。でも、「裏庭」に行くとエネルギーが吸い取られるといういい伝えもある。レベッカは病弱だから、行くなと言っているのに…
普段は入ることのできないという「裏庭」の入口に、レイチェルと丈治は立ったことがある。二人は、勇気がもてなくて、「裏庭」自体には入れなかったのだけれども。
バーンズ一家はその後、戦争と共に英国に戻り、ある時期別の英国人が住んでいたもののいつのまにかいなくなり、いつしか無人の洋館として取り残された。
照美はそこで、双子の弟であり、ダウン症だった純を亡くした。屋敷にある庭には池があり、そこで溺れ死んだのだ。ただ、その場にいた照美も、知らせを聞いた両親も、なんだか、悲しくないわけじゃないんだけど、ちゃんと悲しむことができないでもいた。
照美はある日、学校をさぼってその洋館へと足を踏み入れた。
屋敷の中にある大鏡の中で不意に問われる。
「フーアーユー?」
照美は自分の名前を答える。
「テ・ル・ミィ」
その瞬間から照美はテルミィとなり、レベッカの残した「裏庭」を巡る、自分探しの旅へと進むことになる…
という感じです。
「裏庭」の世界はファンタジーです。不思議な空間がそこにはあって、読んでいてうきうきするほど楽しいです。様々な魅力的な人々に出会い、様々な困難に立ち向かい、そしてまた現実の世界に戻ってくるまでの物語は、かなり素晴らしいです。
そう、本作はかなりの傑作です。素晴らしい。
僕に全てがわかるわけはないですが、「裏庭」という世界での奇妙な法則や出来事は、全て何かを暗示しているのだろうと思います。そうした象徴的な世界が醸し出す雰囲気と、その中で奮闘するテルミィの姿は、正確に完璧に理解は出来ないものの、かなり魅力的だと思います。
「裏庭」を手入れする「庭師」という仕事。何かを守るため、そして何かを壊すためにテルミィは必死であがきます。現実の世界では一日足らずのその冒険は、しかし照美を大いに成長させました。戻ってくるなり、今まで燻っていた何かが消えてなくなるような、そんな素晴らしい経験です。
誰かの「裏庭」を経験する。現実にはまずありえないことでしょう。しかし、きっとその体験は魅力に富んで素晴らしいものだと思います。機会があれば是非経験してみたいと思うのと共に、自分の「裏庭」もちゃんと手入れしてあげなくては、そんな気分にさせられた作品でした。
何度でも言いますが、かなり素晴らしい作品です。是非読んでみてください。
梨木香歩「裏庭」
土を育むように、植物が育つように、雑草を取り除くように、人は丁寧にその庭に手入れをしていく。種を植えるようにして何かを始め、植物が枯れるように何かが終わり、その枯れた植物を肥料としてまた新しい植物が育っていく。そんな転生が幾多も繰り返される中、努力に応じて庭は洗練されていき、その庭とともに、その庭師も成長していく。
ただし、普通その庭を誰かに見せることはない。
秘密の場所なのである。誰に見せるわけでもないのに手入れをする。中には、誰にも見られないのなら、といって手を抜く人もいるかもしれない。
誰にも見られることなく、もちろん、誰にもその庭師の仕事を手伝わせることもなく、自分の成長と共に存在し、自分の存在の消滅と共に消えていく。誰にも見えない、だからこそ「裏庭」なのである。
でも、もしも、そんな「裏庭」が表に出てきたら…
そんなもしもを前提とした物語です。
自分の「裏庭」には一体何があるだろうか、と考えてみました。「裏庭」は、丹精こめて育てた植物達ももちろんいるけれども、害虫や雑草など、自分では望まないものも多く現れます。現実世界で処理し切れなかった自分の感情やしこりなどが、「裏庭」という場所で何らかの形に結実して現れるのだろうと思います。
僕は、結構自分の「裏庭」を放っておいているような気がします。手入れを怠り、それでいて、現実で受けたしこりは多くあるので、「裏庭」はかなり悲惨な状態になっているように思います。恐らくそこは、もはや「庭」とは呼べない状態になっていることでしょう。
庭師としての仕事をこなす、ということは、自分自身と向き合う、ということです。害虫や雑草など、一旦は保留にしておいた様々なしこりを取り除き、昔から大切にしてきたものを手入れし、そうして自分自身と向き合っていくわけです。
僕にはなかなか、自分と向き合える自信はありません。始めは大したことのなかった退廃が、年月とともに積もり、今では向き合うのも恐ろしいような感じになってしまっています。そうして、避けがたいものから後ろ向きでいることで、より退廃は進んでいくことでしょう。
「裏庭」というものの存在を意識しました。これからは少し目を掛けてあげたい、そうも思いました。
内容に入りたいと思います。
大分昔から存在していた洋館。塀に囲まれたはいたものの、抜け道を駆使し、いつの世も子供たちの遊び場として活躍していたお屋敷、そこが舞台です。
照美は、同じく昔はそこでよく遊んでいたという、友達のおじいちゃんの話を聞くのが好きでした。おじいちゃんは子供の頃、その屋敷に住む英国人一家と交際があり、今の子供たちがやるように勝手に入るのではなく、正式にお呼ばれして遊びにいっていた。
丈治という名のそのおじいちゃんは、英国人一家の姉妹の姉レイチェルから、「裏庭」についての話を聞いた。このバーンズ家には代々「裏庭」が受け継がれていて、時々「庭師」が生まれる。妹のレベッカはまさにその「庭師」であり、よくその「裏庭」に行っている。でも、「裏庭」に行くとエネルギーが吸い取られるといういい伝えもある。レベッカは病弱だから、行くなと言っているのに…
普段は入ることのできないという「裏庭」の入口に、レイチェルと丈治は立ったことがある。二人は、勇気がもてなくて、「裏庭」自体には入れなかったのだけれども。
バーンズ一家はその後、戦争と共に英国に戻り、ある時期別の英国人が住んでいたもののいつのまにかいなくなり、いつしか無人の洋館として取り残された。
照美はそこで、双子の弟であり、ダウン症だった純を亡くした。屋敷にある庭には池があり、そこで溺れ死んだのだ。ただ、その場にいた照美も、知らせを聞いた両親も、なんだか、悲しくないわけじゃないんだけど、ちゃんと悲しむことができないでもいた。
照美はある日、学校をさぼってその洋館へと足を踏み入れた。
屋敷の中にある大鏡の中で不意に問われる。
「フーアーユー?」
照美は自分の名前を答える。
「テ・ル・ミィ」
その瞬間から照美はテルミィとなり、レベッカの残した「裏庭」を巡る、自分探しの旅へと進むことになる…
という感じです。
「裏庭」の世界はファンタジーです。不思議な空間がそこにはあって、読んでいてうきうきするほど楽しいです。様々な魅力的な人々に出会い、様々な困難に立ち向かい、そしてまた現実の世界に戻ってくるまでの物語は、かなり素晴らしいです。
そう、本作はかなりの傑作です。素晴らしい。
僕に全てがわかるわけはないですが、「裏庭」という世界での奇妙な法則や出来事は、全て何かを暗示しているのだろうと思います。そうした象徴的な世界が醸し出す雰囲気と、その中で奮闘するテルミィの姿は、正確に完璧に理解は出来ないものの、かなり魅力的だと思います。
「裏庭」を手入れする「庭師」という仕事。何かを守るため、そして何かを壊すためにテルミィは必死であがきます。現実の世界では一日足らずのその冒険は、しかし照美を大いに成長させました。戻ってくるなり、今まで燻っていた何かが消えてなくなるような、そんな素晴らしい経験です。
誰かの「裏庭」を経験する。現実にはまずありえないことでしょう。しかし、きっとその体験は魅力に富んで素晴らしいものだと思います。機会があれば是非経験してみたいと思うのと共に、自分の「裏庭」もちゃんと手入れしてあげなくては、そんな気分にさせられた作品でした。
何度でも言いますが、かなり素晴らしい作品です。是非読んでみてください。
梨木香歩「裏庭」
沈むさかな(式田ティエン)
海には、少しだけ興味がある。綺麗な魚やふわふわとした感覚や壮大な自然を見ることができるだろうし、そもそも海は、生物の生まれた場所でもあるわけだ。
でも、そうしたいい印象は、海について知らない人間の戯言でしかないだろう。
海は、僕らが思っている以上に危険な場所だろう。大自然という、美しさも兼ね備えた脅威の存在を、きっとまざまざと見せ付けられる格好になるだろう。
それでも、いつかでいいから、スクーバダイビングをしてみたいと思う。たぶん、しないとは思うけど、機会があればやってみたい。
本作は、海を舞台にした青春ミステリー、と銘打たれる。湘南の海を巡るミステリーであり、主人公の成長記でもある。
父親を失った主人公は、湘南のある中華料理屋であるバイトを始めた。水泳のコーチだった父の、生前の悪事を暴き立てるような週刊誌の記事。証拠のない憶測だらけの記事だったが、主人公や家族を打ちのめした。父親は一体何故死んだのか。それは、主人公の中に残る疑問だった。
バイト帰りに襲われた主人公を助けた男。それは、父をコーチとした同じスイミングスクールに通っていた男だった。その男に振り回されるようにしてダイビングへの道を歩み始める。男が口にした、父親の死の本当の理由を知っている、という言葉も気になった。
ダイビングのショップとその近くにあるバーを舞台に、ある悪事の匂いがする。父親の死とも絡んでいそうなその謎に、いつしか主人公は深く絡めとられていく…
といった感じです。
本作を紹介するには、その奇抜な語り口に触れなければいけないでしょう。「きみ」という二人称を主語にした作品で、読み始めはものすごく違和感があったけど、次第に気にならなくなっていった。不思議な感じがした。北村薫の「ターン」を思い出した。「ターン」も同じく二人称の作品で、そのどちらとも、その語り口である理由がちゃんとある。二人称の作品を、僕は他に知らない。
青春的な部分はそれなりに悪くないと思う。主人公や主人公を取り巻く人々は様々に描かれているし、ダイビングを始めとする海の描写もいいと思う。
でも、ミステリ的な部分がどうにも雑で残念だった。そういうつくりなんだろうけど、ほとんどの謎が曖昧なままで、どうにもすっきりしなかった。話がどうにも壮大すぎたし、ちょっとな、という感じがした。
あまりお勧めはしません。特に退屈はしないけど、それ以上でもそれ以下でもない感じです。
式田ティエン「沈むさかな」
でも、そうしたいい印象は、海について知らない人間の戯言でしかないだろう。
海は、僕らが思っている以上に危険な場所だろう。大自然という、美しさも兼ね備えた脅威の存在を、きっとまざまざと見せ付けられる格好になるだろう。
それでも、いつかでいいから、スクーバダイビングをしてみたいと思う。たぶん、しないとは思うけど、機会があればやってみたい。
本作は、海を舞台にした青春ミステリー、と銘打たれる。湘南の海を巡るミステリーであり、主人公の成長記でもある。
父親を失った主人公は、湘南のある中華料理屋であるバイトを始めた。水泳のコーチだった父の、生前の悪事を暴き立てるような週刊誌の記事。証拠のない憶測だらけの記事だったが、主人公や家族を打ちのめした。父親は一体何故死んだのか。それは、主人公の中に残る疑問だった。
バイト帰りに襲われた主人公を助けた男。それは、父をコーチとした同じスイミングスクールに通っていた男だった。その男に振り回されるようにしてダイビングへの道を歩み始める。男が口にした、父親の死の本当の理由を知っている、という言葉も気になった。
ダイビングのショップとその近くにあるバーを舞台に、ある悪事の匂いがする。父親の死とも絡んでいそうなその謎に、いつしか主人公は深く絡めとられていく…
といった感じです。
本作を紹介するには、その奇抜な語り口に触れなければいけないでしょう。「きみ」という二人称を主語にした作品で、読み始めはものすごく違和感があったけど、次第に気にならなくなっていった。不思議な感じがした。北村薫の「ターン」を思い出した。「ターン」も同じく二人称の作品で、そのどちらとも、その語り口である理由がちゃんとある。二人称の作品を、僕は他に知らない。
青春的な部分はそれなりに悪くないと思う。主人公や主人公を取り巻く人々は様々に描かれているし、ダイビングを始めとする海の描写もいいと思う。
でも、ミステリ的な部分がどうにも雑で残念だった。そういうつくりなんだろうけど、ほとんどの謎が曖昧なままで、どうにもすっきりしなかった。話がどうにも壮大すぎたし、ちょっとな、という感じがした。
あまりお勧めはしません。特に退屈はしないけど、それ以上でもそれ以下でもない感じです。
式田ティエン「沈むさかな」
嗤う伊右衛門(京極夏彦)
僕は、四谷怪談、というそもそもの話を知らない。
でも、お岩さん、と呼ばれる女性の話、だということは知っている。
もしかしたら、四谷怪談、という話の中の一つの話に、お岩さんが出てくる話があるのかもしれない。それぐらい、僕には知識がない。
どんな話なのだろうか?
怪談、というからには、怖い話なのだろう。お岩さん、という怖い女性(たぶん女性だと思うのだが)がいて、その人物にまつわる恐ろしい話、なのだろう。
本作を読んで、四谷怪談がもともとどんな話なのか、少し気になった。機会があれば、読むかもしれない。
もし本作が、四谷怪談を忠実にベースにしているのなら、怪談である以上にそこには、究極の愛が描かれているのだろうと思う。
誰かを愛する、ということが僕にはちゃんとはわからない。ちゃんと分かる人などいないだろうけど、人並み以上にわかっていないだろう、という自覚がある。
だから、愛について描かれた作品を読むと、自分の中でうまく消化することができないことが多い。お経を聞いているような、途中から言葉なのか音声なのか区別がつかなくなってくるような、そんな不定形な何かをまるごと飲み込んだような感じかもしれない。時折現れる、どうして、という疑問が、少しずつ大きくなっていくような気がする。
愛というのは、様々な貌を見せる。時代や場所によって捕らえられ方も違えば、お互いの関係も変わってくる。そうした中で、やはり究極的に愛というのは、怖いものなのかもしれない。ただそれだけのために、他の全てを捨てることができる、人によってはそうすることができるもの。そういう意味で、愛というのは恐ろしい。
本作にも、お岩さんをモデルにしたのだろう、岩という女性が出てくる。岩を中心とした愛の物語。そう言ってもいいだろうと思う。
内容に入ろうと思う。
伊藤、と言う名の男がいる。上位の役職であり、力も強く金もあり、なおかつ色狂い、という悪党で、この伊藤という男の謀略のために、多くの人間が泣きを見ている。何人かの登場人物は、その伊藤の悪行をきっかけに顔見知りになり、その縁で、話はさらに先へと進んでいく。
伊藤の部下である民谷又左衛門という男、その娘の名が岩である。岩は美人であり、それが故に婚姻の話も数多あったが、岩は悉くそれを退ける。又左衛門には理由がわからずじまいであったが、何を言ってももう22。当時としては行かず後家と呼ばれる年齢になってしまった。
さらなる不幸が岩を襲う。
突如顔に疱瘡が出来、醜く爛れてしまった。原因は不明で、もはや治ることはない。ひっきりなしであった求婚の話も絶え、苦心の末又左衛門は、知り合いの按摩に相談を持ちかける。按摩は、これまた知り合いの又市という男に話を持ちかける。又市は口が達者なので有名で、つまり、謀って岩に婿を、という相談なのである。
又市は岩と会い、繕う気がないから醜いのだ、と岩を諭し、一方で、あるきっかけで知り合った伊右衛門という侍に婿の打診をした。
岩と伊右衛門は夫婦となった。二人は、お互いの考えをちゃんと伝え合うことも汲むこともできずだったが、二人は間違いなくお互いを愛していた。そこに、伊藤の魔の手が伸びる…
そんな話です。
時代については正確にはわかりませんが、江戸時代っぽい感じです(もしかしたらどこかに記述があったかもしれませんが)。べらんめぇ口調、というのでしょうか、時代劇とかでよく交わされそうな口調での会話が新鮮で、また、その時代の人々は皆そうだったのか、大半の人は気持ちのいい性格をしています。特に、強い女、という印象を与える岩、凛々しい印象を与える伊右衛門、また、悪党でありながら人の気持ちの汲める又市や按摩。娘を思う又左衛門。皆、それぞれにそれぞれの事情を抱えながら、生きるため何かを守るために意に添わぬことをしていても、それでも心は澄んだいい人々です。
前述の通り、もとの四谷怪談については知りませんが、「鬼才が挑む悪の華「四谷怪談」」と帯にあるので、ベースにしていることは間違いないのでしょう。
本作を読んで僕は、乙一のある短編を思い出しました。どの短編か、を書くと話がわかってしまうので書きませんが、本作とその乙一の短編を読んだことのある人は、納得してくれるのではないか、と思います。どちらも、ある意味狂気に支配されていて、怖いです。
割といい作品だと思います。読んでみるのもいいと思います。
京極夏彦「嗤う伊右衛門」
でも、お岩さん、と呼ばれる女性の話、だということは知っている。
もしかしたら、四谷怪談、という話の中の一つの話に、お岩さんが出てくる話があるのかもしれない。それぐらい、僕には知識がない。
どんな話なのだろうか?
怪談、というからには、怖い話なのだろう。お岩さん、という怖い女性(たぶん女性だと思うのだが)がいて、その人物にまつわる恐ろしい話、なのだろう。
本作を読んで、四谷怪談がもともとどんな話なのか、少し気になった。機会があれば、読むかもしれない。
もし本作が、四谷怪談を忠実にベースにしているのなら、怪談である以上にそこには、究極の愛が描かれているのだろうと思う。
誰かを愛する、ということが僕にはちゃんとはわからない。ちゃんと分かる人などいないだろうけど、人並み以上にわかっていないだろう、という自覚がある。
だから、愛について描かれた作品を読むと、自分の中でうまく消化することができないことが多い。お経を聞いているような、途中から言葉なのか音声なのか区別がつかなくなってくるような、そんな不定形な何かをまるごと飲み込んだような感じかもしれない。時折現れる、どうして、という疑問が、少しずつ大きくなっていくような気がする。
愛というのは、様々な貌を見せる。時代や場所によって捕らえられ方も違えば、お互いの関係も変わってくる。そうした中で、やはり究極的に愛というのは、怖いものなのかもしれない。ただそれだけのために、他の全てを捨てることができる、人によってはそうすることができるもの。そういう意味で、愛というのは恐ろしい。
本作にも、お岩さんをモデルにしたのだろう、岩という女性が出てくる。岩を中心とした愛の物語。そう言ってもいいだろうと思う。
内容に入ろうと思う。
伊藤、と言う名の男がいる。上位の役職であり、力も強く金もあり、なおかつ色狂い、という悪党で、この伊藤という男の謀略のために、多くの人間が泣きを見ている。何人かの登場人物は、その伊藤の悪行をきっかけに顔見知りになり、その縁で、話はさらに先へと進んでいく。
伊藤の部下である民谷又左衛門という男、その娘の名が岩である。岩は美人であり、それが故に婚姻の話も数多あったが、岩は悉くそれを退ける。又左衛門には理由がわからずじまいであったが、何を言ってももう22。当時としては行かず後家と呼ばれる年齢になってしまった。
さらなる不幸が岩を襲う。
突如顔に疱瘡が出来、醜く爛れてしまった。原因は不明で、もはや治ることはない。ひっきりなしであった求婚の話も絶え、苦心の末又左衛門は、知り合いの按摩に相談を持ちかける。按摩は、これまた知り合いの又市という男に話を持ちかける。又市は口が達者なので有名で、つまり、謀って岩に婿を、という相談なのである。
又市は岩と会い、繕う気がないから醜いのだ、と岩を諭し、一方で、あるきっかけで知り合った伊右衛門という侍に婿の打診をした。
岩と伊右衛門は夫婦となった。二人は、お互いの考えをちゃんと伝え合うことも汲むこともできずだったが、二人は間違いなくお互いを愛していた。そこに、伊藤の魔の手が伸びる…
そんな話です。
時代については正確にはわかりませんが、江戸時代っぽい感じです(もしかしたらどこかに記述があったかもしれませんが)。べらんめぇ口調、というのでしょうか、時代劇とかでよく交わされそうな口調での会話が新鮮で、また、その時代の人々は皆そうだったのか、大半の人は気持ちのいい性格をしています。特に、強い女、という印象を与える岩、凛々しい印象を与える伊右衛門、また、悪党でありながら人の気持ちの汲める又市や按摩。娘を思う又左衛門。皆、それぞれにそれぞれの事情を抱えながら、生きるため何かを守るために意に添わぬことをしていても、それでも心は澄んだいい人々です。
前述の通り、もとの四谷怪談については知りませんが、「鬼才が挑む悪の華「四谷怪談」」と帯にあるので、ベースにしていることは間違いないのでしょう。
本作を読んで僕は、乙一のある短編を思い出しました。どの短編か、を書くと話がわかってしまうので書きませんが、本作とその乙一の短編を読んだことのある人は、納得してくれるのではないか、と思います。どちらも、ある意味狂気に支配されていて、怖いです。
割といい作品だと思います。読んでみるのもいいと思います。
京極夏彦「嗤う伊右衛門」
半島を出よ(村上龍)
国家、というのは一体なんだろうか?
今となっては、人が生きる上で、前提ともなる集団だろうと思う。恐らく国家がなくては生きてはいけないだろう。国籍を持たなければ、今の世の中を生きていくことはできない。ある意味、僕らは国家と言う単位に守られているのだろう。
しかしそれはある意味で、本末転倒だろうとも思う。人間は、もちろん合理的に生きていくためとは言え、国家なしでは生きられないようなシステム作りをしてきた。遥か以前は、国家なんていう枠組みなしでも生きていけた人々は(しかし確かに共同体というものはあったにしろ)、今では国家と言う枠組みに縛られている。
国家は国民に、何をしてくれているだろうか?
国家運営が困難なものである、というのは想像だけどわからなくもない。やりたいと思っていてもできないことは多くあるのだろう。それでも僕にはこんな風に感じられてしまう。国家は、国民を守るために存在しているのではなく、国家そのものを守るために国民を犠牲にしているのではない、と。
別に、国家と言うものに対して、何かを望んでいるわけではない。僕は特に何も望まない。ただ、こう思うだけだ。国家というものは、いや、日本と言う国は、やっぱり脆いんだろうな、と。
本作は、様々な「もしも」の上に成り立っている。数年後「もしも」日本の経済が破綻したら…。経済力という後ろ盾を失った日本は国際社会から孤立し、アメリカとの関係も悪化する。失業率はうなぎのぼりで上昇し、ホームレスが溢れる。そんな世の中。
そんな日本に「もしも」北朝鮮のコマンドがやってきたら…。「もしも」福岡を占領し、独立を宣言したら…。「もしも」日本政府が、九州の封鎖を決定したら…。
それぞれの「もしも」は、楽観的な見方なのかもしれないけど、可能性の低い未来だと思います。でも、その「もしも」が成り立ってしまった場合の物語としては、すさまじいリアリティを持つものだと思います。
ざっと内容を紹介しましょう。
時は2011年。日本経済が破綻し、円の価値が下がり、政府による預金封鎖にまで陥った日本。失業者が町に溢れてホームレスとなり、国際的にも孤立していく日本。そんな先行き暗い日本を舞台にしている。
北朝鮮で、ある計画が持ち上がる。北朝鮮は日本の福岡に軍を送り込むのだが、対外的には「反乱軍」である、つまり、北朝鮮のやり方に反発した一部の兵であることを主張する。日本という国に侵略しながらも、他国からの攻撃をかわすことのできる戦略であり、実行に移されることになった。
一方で、職もなく、IDさえ持っていない若者の集団が福岡にある。イシハラという、九州で詩の賞を受賞したこともある人物の元に集まる人間は、皆誰もが、許されないことをやろうとしたり実際にやった者ばかりだ。爆弾・建設・ブーメラン・虫・武器なんかのエキスパートがいる。イシハラを始めとして、この集団の構成員はかなり特殊な人間ばかりなのだが、それをうまく説明するのは結構難しい(どうやら氏の以前の作品の登場人物らしいのだが、僕は知らない)。とにかく、みんなどこかおかしいのだが、憎めないし、人間の本質だけでできている感じがしていい。
北朝鮮の9名のコマンドがまず福岡に潜入、福岡ドームを制圧し、後発隊の500名が福岡に到着し、その後、怒涛の展開でもって福岡の独立を宣言する。政府は、北朝鮮のコマンドが東京に向かうのを防ぐべく、九州の封鎖に踏み切った。近いうちに北朝鮮から、12万人の兵士が来る。そうなってしまえばもはや打つ手はない。
一方、わけのわからない集団は、北朝鮮のコマンドの襲来に興奮気味だ。しかし、そのうちなんとなく、あいつらを倒そう、という話になっていく。警察の特殊部隊SATですら制圧できず全滅してしまったほどの強敵に、それぞれ特殊な分野への知識はあるが、戦闘をしたことも武器を扱ったこともない、はみ出し者の若者たちが挑む、というのだから無謀に過ぎる。だが、彼らは、普段見せない団結力を何故か獲得し、恐怖に戦いながらも、北朝鮮のコマンドに対峙していく…
という感じです。
かなり精緻に組みあがっている、という感想です。あらゆる「もしも」が現実になったら、実際こうなってしまうだろう、というシュミレーションを見ているような感じがします。侵略や封鎖に対する微妙な人々の内面もうまく捉えられているし、政府の取る対策もきっと同じようなものだろう、という風に思います。
僕は、福井晴敏の「亡国のイージス」という作品を読んだときのにも思いましたが、政府というのはきっと、小説の中で描かれている以上に、危機に際しての対策はできないだろうな、と思いました。小説を読んだ上での僕の想像ですが、責任を誰が取るか、ということが常にネックになって、積極的な対策をとることができなように思います。保身に回り、責任を押し付けている内に事態はどんどん悪い方向へと進んでいき、選択肢はどんどんなくなっていき、最後には打つ手がなくなっていく、というのが目に見える気がします。
実際、本作でも書かれていましたが、日本のどこかの小さな島を武力で制圧されたら、日本政府は恐らくどうにも手が出せないだろうと思います。他国の場合、その島の住人を犠牲にしてテロリストを無力化するのが当然のようですが、日本政府にはその覚悟はありません。何故なら、どことも国境を接していないという、島国特有の性質故に、国境を脅かされたことも、他民族の侵略を許したこともなく、経験がないからです。
僕は、本作を読んで思ったのですが、本作で日本がされていることは、戦時中に日本が朝鮮に対して行ったことと同じなのではないか、ということです。いや、同じどころか、恐らく日本がやったことの方が遥かに残虐で非道だったことでしょう。他国を侵略し、他民族を支配する。日本はかつて、暴力によってそれを恐らく成し遂げたのでしょうが、本作での北朝鮮のコマンドは、武力こそちらつかせるものの、基本的には日本人を傷つけないように、という方針を貫いています。ある意味紳士的とさえ言えるかもしれません。銀行強盗犯に親しみを覚えてしまうストックホルム症候群というものがありますが、なるほどわかるような気もします。
さらに、イシハラグループの描かれ方がかなり気に入っています。基本的に彼らは、社会に適応できない人々です。人を殺した者も何人もいます。そんな人々が、イシハラという人間の人柄や噂を聞きつけて集まり、イシハラが住居や食事を提供する形で共同生活をしています。といっても、集団としてまとまりがあるとか、決してそんなことはありません。彼らについてどう書こうか考えているけれども、なかなかうまくいきません。やはり読んでもらうしかないと思うけど、彼らのことは結構好きです。
ただ、長い。長い物語が決して嫌いだというわけではないけど、この部分は必要なんだろうか?と思うような箇所は度々あって(僕だけかもしれないけど)、さらに、そこまで説明することはないんじゃないかな、という不要な情報や説明もいくつかあったような気がして、だからちょっと長いことに不満を感じました。
さらに、こいつは名前が必要なのか?という登場人物も何人かいて(役職名だけで充分だ、という人間が登場人物欄に多くいます)、その点も少しうんざりしました。
本作を読んでいて最後まで気にならなくて、読み終わる寸前に気付いてびっくりしたことは、本作には、「」付の会話文というのがありません。会話がないわけではなく、会話も全て地の文に書かれています。だからどう、ということはありませんが。
あと、表紙のデザインについて一点。僕は実はテレビで、本作の装丁を担当した鈴木一成という装丁家のドキュメント番組を見ていて、その時に取り組んでいた装丁が本作「半島を出よ」でした。まだ本になっていない原稿を忙しい仕事の合間に読み、その上で出てきたイメージが、表紙に何匹も写っているヤドクガエルだったそうです。本作には、象徴するものが他にもいくつかあったような気がするのに、どうしてヤドクガエルだったのか、と少し気になりました。
確かに長くて大変でしたけど、結構よかったと思います。本作をハングルに翻訳し、金正日が読んだら、本当に実行してしまうのではないか、と思うような精密なものだと思います。福井晴敏の作品のように、日本人必読!とまではお勧めしないけど、読んでみて損はないと思います。
村上龍「半島を出よ」
今となっては、人が生きる上で、前提ともなる集団だろうと思う。恐らく国家がなくては生きてはいけないだろう。国籍を持たなければ、今の世の中を生きていくことはできない。ある意味、僕らは国家と言う単位に守られているのだろう。
しかしそれはある意味で、本末転倒だろうとも思う。人間は、もちろん合理的に生きていくためとは言え、国家なしでは生きられないようなシステム作りをしてきた。遥か以前は、国家なんていう枠組みなしでも生きていけた人々は(しかし確かに共同体というものはあったにしろ)、今では国家と言う枠組みに縛られている。
国家は国民に、何をしてくれているだろうか?
国家運営が困難なものである、というのは想像だけどわからなくもない。やりたいと思っていてもできないことは多くあるのだろう。それでも僕にはこんな風に感じられてしまう。国家は、国民を守るために存在しているのではなく、国家そのものを守るために国民を犠牲にしているのではない、と。
別に、国家と言うものに対して、何かを望んでいるわけではない。僕は特に何も望まない。ただ、こう思うだけだ。国家というものは、いや、日本と言う国は、やっぱり脆いんだろうな、と。
本作は、様々な「もしも」の上に成り立っている。数年後「もしも」日本の経済が破綻したら…。経済力という後ろ盾を失った日本は国際社会から孤立し、アメリカとの関係も悪化する。失業率はうなぎのぼりで上昇し、ホームレスが溢れる。そんな世の中。
そんな日本に「もしも」北朝鮮のコマンドがやってきたら…。「もしも」福岡を占領し、独立を宣言したら…。「もしも」日本政府が、九州の封鎖を決定したら…。
それぞれの「もしも」は、楽観的な見方なのかもしれないけど、可能性の低い未来だと思います。でも、その「もしも」が成り立ってしまった場合の物語としては、すさまじいリアリティを持つものだと思います。
ざっと内容を紹介しましょう。
時は2011年。日本経済が破綻し、円の価値が下がり、政府による預金封鎖にまで陥った日本。失業者が町に溢れてホームレスとなり、国際的にも孤立していく日本。そんな先行き暗い日本を舞台にしている。
北朝鮮で、ある計画が持ち上がる。北朝鮮は日本の福岡に軍を送り込むのだが、対外的には「反乱軍」である、つまり、北朝鮮のやり方に反発した一部の兵であることを主張する。日本という国に侵略しながらも、他国からの攻撃をかわすことのできる戦略であり、実行に移されることになった。
一方で、職もなく、IDさえ持っていない若者の集団が福岡にある。イシハラという、九州で詩の賞を受賞したこともある人物の元に集まる人間は、皆誰もが、許されないことをやろうとしたり実際にやった者ばかりだ。爆弾・建設・ブーメラン・虫・武器なんかのエキスパートがいる。イシハラを始めとして、この集団の構成員はかなり特殊な人間ばかりなのだが、それをうまく説明するのは結構難しい(どうやら氏の以前の作品の登場人物らしいのだが、僕は知らない)。とにかく、みんなどこかおかしいのだが、憎めないし、人間の本質だけでできている感じがしていい。
北朝鮮の9名のコマンドがまず福岡に潜入、福岡ドームを制圧し、後発隊の500名が福岡に到着し、その後、怒涛の展開でもって福岡の独立を宣言する。政府は、北朝鮮のコマンドが東京に向かうのを防ぐべく、九州の封鎖に踏み切った。近いうちに北朝鮮から、12万人の兵士が来る。そうなってしまえばもはや打つ手はない。
一方、わけのわからない集団は、北朝鮮のコマンドの襲来に興奮気味だ。しかし、そのうちなんとなく、あいつらを倒そう、という話になっていく。警察の特殊部隊SATですら制圧できず全滅してしまったほどの強敵に、それぞれ特殊な分野への知識はあるが、戦闘をしたことも武器を扱ったこともない、はみ出し者の若者たちが挑む、というのだから無謀に過ぎる。だが、彼らは、普段見せない団結力を何故か獲得し、恐怖に戦いながらも、北朝鮮のコマンドに対峙していく…
という感じです。
かなり精緻に組みあがっている、という感想です。あらゆる「もしも」が現実になったら、実際こうなってしまうだろう、というシュミレーションを見ているような感じがします。侵略や封鎖に対する微妙な人々の内面もうまく捉えられているし、政府の取る対策もきっと同じようなものだろう、という風に思います。
僕は、福井晴敏の「亡国のイージス」という作品を読んだときのにも思いましたが、政府というのはきっと、小説の中で描かれている以上に、危機に際しての対策はできないだろうな、と思いました。小説を読んだ上での僕の想像ですが、責任を誰が取るか、ということが常にネックになって、積極的な対策をとることができなように思います。保身に回り、責任を押し付けている内に事態はどんどん悪い方向へと進んでいき、選択肢はどんどんなくなっていき、最後には打つ手がなくなっていく、というのが目に見える気がします。
実際、本作でも書かれていましたが、日本のどこかの小さな島を武力で制圧されたら、日本政府は恐らくどうにも手が出せないだろうと思います。他国の場合、その島の住人を犠牲にしてテロリストを無力化するのが当然のようですが、日本政府にはその覚悟はありません。何故なら、どことも国境を接していないという、島国特有の性質故に、国境を脅かされたことも、他民族の侵略を許したこともなく、経験がないからです。
僕は、本作を読んで思ったのですが、本作で日本がされていることは、戦時中に日本が朝鮮に対して行ったことと同じなのではないか、ということです。いや、同じどころか、恐らく日本がやったことの方が遥かに残虐で非道だったことでしょう。他国を侵略し、他民族を支配する。日本はかつて、暴力によってそれを恐らく成し遂げたのでしょうが、本作での北朝鮮のコマンドは、武力こそちらつかせるものの、基本的には日本人を傷つけないように、という方針を貫いています。ある意味紳士的とさえ言えるかもしれません。銀行強盗犯に親しみを覚えてしまうストックホルム症候群というものがありますが、なるほどわかるような気もします。
さらに、イシハラグループの描かれ方がかなり気に入っています。基本的に彼らは、社会に適応できない人々です。人を殺した者も何人もいます。そんな人々が、イシハラという人間の人柄や噂を聞きつけて集まり、イシハラが住居や食事を提供する形で共同生活をしています。といっても、集団としてまとまりがあるとか、決してそんなことはありません。彼らについてどう書こうか考えているけれども、なかなかうまくいきません。やはり読んでもらうしかないと思うけど、彼らのことは結構好きです。
ただ、長い。長い物語が決して嫌いだというわけではないけど、この部分は必要なんだろうか?と思うような箇所は度々あって(僕だけかもしれないけど)、さらに、そこまで説明することはないんじゃないかな、という不要な情報や説明もいくつかあったような気がして、だからちょっと長いことに不満を感じました。
さらに、こいつは名前が必要なのか?という登場人物も何人かいて(役職名だけで充分だ、という人間が登場人物欄に多くいます)、その点も少しうんざりしました。
本作を読んでいて最後まで気にならなくて、読み終わる寸前に気付いてびっくりしたことは、本作には、「」付の会話文というのがありません。会話がないわけではなく、会話も全て地の文に書かれています。だからどう、ということはありませんが。
あと、表紙のデザインについて一点。僕は実はテレビで、本作の装丁を担当した鈴木一成という装丁家のドキュメント番組を見ていて、その時に取り組んでいた装丁が本作「半島を出よ」でした。まだ本になっていない原稿を忙しい仕事の合間に読み、その上で出てきたイメージが、表紙に何匹も写っているヤドクガエルだったそうです。本作には、象徴するものが他にもいくつかあったような気がするのに、どうしてヤドクガエルだったのか、と少し気になりました。
確かに長くて大変でしたけど、結構よかったと思います。本作をハングルに翻訳し、金正日が読んだら、本当に実行してしまうのではないか、と思うような精密なものだと思います。福井晴敏の作品のように、日本人必読!とまではお勧めしないけど、読んでみて損はないと思います。
村上龍「半島を出よ」
嫌われ松子の一生(山田宗樹)
別に、偉そうなことを言うつもりはない。けど、やはり考えてしまう。
人生って一体なんだろう?
人は皆それぞれ、一生という名の時間を与えられる。様々な要因が絡みはするけど、基本的には、自らの選択でその時間を過ごすことが出来る。何をしてもいいわけではないけれど、何でもできる可能性も秘めた時間。人はその時間を自分なりに使い、自分なりの人生を作り出していく。
だが、どうにもならない人生だってきっとある。
僕は、ホームレスの人を見ると、時折思うことがある。あの人たちの中にも、全てではないだろうけど、元々はちゃんとしていた人だっていたんだろう。でも、自分だけではどうにもできない何かがあって、今ああして生きているんだろう、とそんなことを。そして思う。将来、自分がああなっていない、と100%断言することはできないな、と。
人生楽ありゃ苦もあるさ。あの有名な水戸黄門のドラマの歌だったと思う。
どこかで帳尻はあっているのかもしれない。そう信じたいけど、でも、本作の松子の人生は、とてもそうは思えない。
人の数だけ人生があると思う。誰の人生だって、切り取り方に拠ったら皆ドラマになると思う。小説よりも壮絶な人生を歩んできた人ももちろんいることだろう。でも、大事なことは、僕たちは大抵、人の一生を隅々まで知ることはない、ということだ。
例えば僕は、親の歩んできた人生を知らない。もちろん知っている人もいるだろう。でも結局それは、伝聞と主観の混じった、事実ではない何かに過ぎない。伝える人がいる限り、誰かの人生を正確にトレースすることなんか絶対にできない。だからきっと小説という形が存在するんだろうし、文字で語られた人生に真実を見ることだってあるのだろうと思う。
誰だってきっと何かを抱えている。きっと、誰かの人生と比較するまで、その大きさを知ることはないだろう。
いつも以上にまとまりのない文章を書き連ねているような気がするので、内容に入ろうと思います。
大学生の笙の部屋を、突然父親が訪ねてくる、そんな場面から物語は始まります。骨壷の入った箱を抱えた父親は息子に、叔母が殺されたことを告げた。笙は、その叔母の存在をそれまで知らなかったが、父親に頼まれ、その叔母の部屋の掃除に行くことになった。一緒について来た彼女の方がむしろ松子叔母に興味を持ち、その過去を追おうとする。しかし笙は、あることをきっかけに、松子叔母の過去を真剣に知ろうとするようになる。
笙を視点とした現在の物語を挟むように、松子を視点とした、松子の壮絶な人生が語られる。
過去から現在へと、少しずつ語られる松子の人生。徐々に沈んでいく人生に、少し苦しくなる。そして、それとは逆に、現在から過去に向かって松子の人生を遡ろうとしている笙。交錯する時間と後悔する人々。その中にあって変わっていく笙。救われない人生に身をやつすしかなかった松子と、その人生を追って何かを掴んだ青年笙の物語。
英語で小さく副題らしきものが書かれている。
「A woman who kept searching for love.」
「愛に生きた女」ぐらいの意味でしょうか。
まさにその通り、松子の人生は、様々な男との出会いと別れによって彩られている。読んでいて思うのは、愛というのはそこまで女を変えるのか、ということだ。
「だめんずウォーカー」とかいう本があって、読んだことがある。ダメ男に惹かれてしまう女の話が満載の本だ。読んでいて、どうしてこんな男がいるんだろう、とも思うけど同時に、なんでこんな女がいるんだろう、とも思うぐらい、そんな男を愛してしまう女のことが理解できない。
松子も、あらゆる年代で、あらゆる場面で、あらゆる男に出会う。どれもこれも、ほぼまともな男ではない。でも、愛に落ちていく。間違いに気付いてもそのまま落ち続けようとする。そんな女性の姿が本作にはある。
本作は、中谷美紀を主演として映画化されるそうだ。ちょっと見てみたいような気もする。きっと、本作の悲惨さは、映像にした方がよりリアルに伝わるような気もするからだ。
過去を振り返って後悔することは簡単だと思う。問題は、そのまま後ろを向いたまま、前に向き直れないかもしれない、ということだ。僕も、後ろばかり向いていた時期があった。その時期は、怖くて前を見ることができなかった。様々な人のお陰で、今は前を向いていられるけれど、またいつ後ろを向いてしまうかわからない。なんか、そんな時に、松子のことを思い出しそうな気がする。
松子は強い。強くあり続けることはできなかったけど。いつか後ろを向いてしまったら、松子のことを思い出してみよう、と思った。
本作を読んで、何を掴むことができるかはわからないけど、でも読んでみてほしいな、と思います。
山田宗樹「嫌われ松子の一生」
人生って一体なんだろう?
人は皆それぞれ、一生という名の時間を与えられる。様々な要因が絡みはするけど、基本的には、自らの選択でその時間を過ごすことが出来る。何をしてもいいわけではないけれど、何でもできる可能性も秘めた時間。人はその時間を自分なりに使い、自分なりの人生を作り出していく。
だが、どうにもならない人生だってきっとある。
僕は、ホームレスの人を見ると、時折思うことがある。あの人たちの中にも、全てではないだろうけど、元々はちゃんとしていた人だっていたんだろう。でも、自分だけではどうにもできない何かがあって、今ああして生きているんだろう、とそんなことを。そして思う。将来、自分がああなっていない、と100%断言することはできないな、と。
人生楽ありゃ苦もあるさ。あの有名な水戸黄門のドラマの歌だったと思う。
どこかで帳尻はあっているのかもしれない。そう信じたいけど、でも、本作の松子の人生は、とてもそうは思えない。
人の数だけ人生があると思う。誰の人生だって、切り取り方に拠ったら皆ドラマになると思う。小説よりも壮絶な人生を歩んできた人ももちろんいることだろう。でも、大事なことは、僕たちは大抵、人の一生を隅々まで知ることはない、ということだ。
例えば僕は、親の歩んできた人生を知らない。もちろん知っている人もいるだろう。でも結局それは、伝聞と主観の混じった、事実ではない何かに過ぎない。伝える人がいる限り、誰かの人生を正確にトレースすることなんか絶対にできない。だからきっと小説という形が存在するんだろうし、文字で語られた人生に真実を見ることだってあるのだろうと思う。
誰だってきっと何かを抱えている。きっと、誰かの人生と比較するまで、その大きさを知ることはないだろう。
いつも以上にまとまりのない文章を書き連ねているような気がするので、内容に入ろうと思います。
大学生の笙の部屋を、突然父親が訪ねてくる、そんな場面から物語は始まります。骨壷の入った箱を抱えた父親は息子に、叔母が殺されたことを告げた。笙は、その叔母の存在をそれまで知らなかったが、父親に頼まれ、その叔母の部屋の掃除に行くことになった。一緒について来た彼女の方がむしろ松子叔母に興味を持ち、その過去を追おうとする。しかし笙は、あることをきっかけに、松子叔母の過去を真剣に知ろうとするようになる。
笙を視点とした現在の物語を挟むように、松子を視点とした、松子の壮絶な人生が語られる。
過去から現在へと、少しずつ語られる松子の人生。徐々に沈んでいく人生に、少し苦しくなる。そして、それとは逆に、現在から過去に向かって松子の人生を遡ろうとしている笙。交錯する時間と後悔する人々。その中にあって変わっていく笙。救われない人生に身をやつすしかなかった松子と、その人生を追って何かを掴んだ青年笙の物語。
英語で小さく副題らしきものが書かれている。
「A woman who kept searching for love.」
「愛に生きた女」ぐらいの意味でしょうか。
まさにその通り、松子の人生は、様々な男との出会いと別れによって彩られている。読んでいて思うのは、愛というのはそこまで女を変えるのか、ということだ。
「だめんずウォーカー」とかいう本があって、読んだことがある。ダメ男に惹かれてしまう女の話が満載の本だ。読んでいて、どうしてこんな男がいるんだろう、とも思うけど同時に、なんでこんな女がいるんだろう、とも思うぐらい、そんな男を愛してしまう女のことが理解できない。
松子も、あらゆる年代で、あらゆる場面で、あらゆる男に出会う。どれもこれも、ほぼまともな男ではない。でも、愛に落ちていく。間違いに気付いてもそのまま落ち続けようとする。そんな女性の姿が本作にはある。
本作は、中谷美紀を主演として映画化されるそうだ。ちょっと見てみたいような気もする。きっと、本作の悲惨さは、映像にした方がよりリアルに伝わるような気もするからだ。
過去を振り返って後悔することは簡単だと思う。問題は、そのまま後ろを向いたまま、前に向き直れないかもしれない、ということだ。僕も、後ろばかり向いていた時期があった。その時期は、怖くて前を見ることができなかった。様々な人のお陰で、今は前を向いていられるけれど、またいつ後ろを向いてしまうかわからない。なんか、そんな時に、松子のことを思い出しそうな気がする。
松子は強い。強くあり続けることはできなかったけど。いつか後ろを向いてしまったら、松子のことを思い出してみよう、と思った。
本作を読んで、何を掴むことができるかはわからないけど、でも読んでみてほしいな、と思います。
山田宗樹「嫌われ松子の一生」
パイロットフィッシュ(大崎善生)
人は人生の中で、数えるのもうんざりするくらい、出会いと別れを繰り返す。それは、選挙期間中の大統領候補でも、来日した人気スターでも、入院中の一人身の老人でも、引きこもりで部屋から出ない青年でも、基本的には変わらない。
誰だって、どんな形でか誰かと出会い、そして別れる。
色んな出会いがあるだろう。一瞬だけしか顔を合わせなかったものから、自分の人生において限りなく大切な人との出会いなど。色んな別れがあるだろう。近くにいるけど心だけ離れているものから、二度と会えないけど心は繋がっているものまで。
だけど、出会って別れる、というのは違うのかもしれない。
「人は、一度巡りあった人と二度と分かれる事はできない」
本作中の言葉である。どんな形で別れを認識したとしても、結局はその人と別れることなどできていない、ということである。
本作ではこれを、記憶と結びつけて説明している。僕たちは、その存在自体が記憶の集合体であるような、そんな様々な記憶から成り立っている。どんな形で別れたにしろ、その別れた誰かの記憶は永遠に残る。記憶の中でその誰かは成長し、間違いなく影響を与え続ける。
だからこそ、人は出会った人と別れることができない。
しかし、それだけではきっとない。記憶など持ち出さなくても、人は、一度出会った人のリアルな影響を、直接にしろ間接にしろ、間違いなく受けて生き続けているのだろう。本作を読んでそう思った。
人生の中で誰と出会うか。自分の力で人生を切り開いていると思っている人だって、間違いなく誰かとの出会いで運命が違っていた瞬間があるだろうと思う。この人と出会ってなかったら…。いい意味でも悪い意味でも、出会いは人の運命をかなり決定付ける。そもそも、親を選べない子供にとったら、誰の子供として生まれるか、ということだって、出会いの一つといえるだろう。
振り返るほどまだ生きていないと思うけど、でも僕にだって、この人と出会えてなかったら、という瞬間はやはりある。僕は、どんなことがあっても、せめて記憶の中だけではその出会いを大切にしていきたいし、有形無形の影響を受け続けられたら、とも思っている。
そんな、出会いと別れについていろいろ考えさせられるし、そもそも、ストーリー中の出会いと別れに想いを馳せる。そんな作品だった。
内容に触れようと思う。
ある弱小雑誌社の編集に携わる山崎。ある日彼の元に、一本の電話が掛かって来た。それは19年ぶりに聞くかつての恋人、由希子からの電話だった。あってプリクラを撮りましょうよ。そんな風な調子で19年という歳月を吹き飛ばして見せた由希子との電話での邂逅が、彼を記憶の旅へと引きずりこんでいく。
雑誌編集という現在の中に、彼の記憶にある様々な過去が交錯して描かれる。由希子との出会いや付き合い。バーのマスターと過ごした、ぴかぴかに磨いたグラスのような日々。面接時の印象の濃い、上司であり編集長である沢井とのやりとり。今の彼女に出会ういきさつ。そうした過去が瑞々しく透明感溢れて描かれるとともに、それらが現在と見事に結びつき、やがて訪れる由希子との再会へと繋がっていく。
人が出会い別れる、という、人生の中で否が応でも繰り返さなくてはならない無為なループを回り続けてきた山崎。その山崎の視点で描かれる、出会いと別れのせつなさ。由希子からの出会いによって変わった19年前のように、現在の彼も、由希子からの電話によって変わった。繊細な文体で紡がれる作品です。
アクアリウムについてまず書こうと思う。
僕は熱帯魚を飼った経験はないけれども、水槽の中というのは一つの世界を形成しているのだろうと思う。魚がいて水草があって、酸素があって水がある。ただそれだけの空間が一つの世界を成している。
異質なのは、その世界が外から見られている、ということだろう。鑑賞されるために水槽は存在するのだろうし。
ただ、余りにも透明な水で満たされている場合、そこに水槽の存在を一瞬見失うことがあるかもしれないとも思う。水槽という切り取られた空間の世界ではなく、見るものと同じ空間に身を置く世界として認識できるかもしれない。透明な水で満たされた世界には、そんな性質があるように思う。
本作は、そんな水槽を見ているみたいな印象だ。
きっとそれは、作者が意図したことだろうと思う。表紙に熱帯魚の写真を用い、タイトルをパイロットフィッシュにする。透明な水のような、そんな透明感溢れる文体で包まれた登場人物は、さながら熱帯魚の役回りだろう。
本作を読んで、小説というのは水槽と大差ないかもしれないな、と思ったものだ。
透明な水の存在を忘れて、水槽の世界を外の世界と同一視してしまうように、作品世界に読者が入り込んでしまうような点も、似ているような気がする。
パイロットフィッシュについても書こうと思う。
パイロットフィッシュ。名前の響きによらず、この魚は実に悲惨な運命を辿る魚のようだ。
水槽作りというのはなかなか大変なようだ。何が一番大変かは、水である。熱帯魚に適した水を作るのに苦労する。適した水というのは、バクテリアが適度に繁殖したものである。
パイロットフィッシュというのは、そんな熱帯魚に適した水を作るのに最適だそうである。水道水を入れた水槽にパイロットフィッシュを入れて置くと、しばらくしていい水ができる。そんな重宝する魚らしい。
悲惨なのはここからで、どんな姿かたちの魚なのかは知らないが、観賞用にはならないらしく、いい水を作り終えると捨てられるか、あるいは飼う事になっている魚に食べさせてしまうという。
響きとは裏腹に、悲しい魚なのである。
このパイロットフィッシュというのも、水槽を模した本作の中では重要だ。詳しくは書けないが、ちょっと悲しい。
本作は、素晴らしくいい作品だと思う。現在も過去も、どの瞬間も見事に瑞々しく描かれていて、そのどれもが印象的だ。登場人物の誰もが素敵で、どこを読んでいても楽しい。
かなり印象に残った悲しいセリフを書いて感想を終わろうと思う。由希子がかつて言った言葉である。
「これから、私、いい曲をたくさん書かなきゃね」
本作を読まないと意味はわからないだろうが、こんなにこのセリフが悲しく響く作品はないだろう。あまりに印象的で、この部分を読んだときは、かなり衝撃的だった。
薄いし読みやすいし素晴らしい作品です。是非とも読んでください。
大崎善生「パイロットフィッシュ」
誰だって、どんな形でか誰かと出会い、そして別れる。
色んな出会いがあるだろう。一瞬だけしか顔を合わせなかったものから、自分の人生において限りなく大切な人との出会いなど。色んな別れがあるだろう。近くにいるけど心だけ離れているものから、二度と会えないけど心は繋がっているものまで。
だけど、出会って別れる、というのは違うのかもしれない。
「人は、一度巡りあった人と二度と分かれる事はできない」
本作中の言葉である。どんな形で別れを認識したとしても、結局はその人と別れることなどできていない、ということである。
本作ではこれを、記憶と結びつけて説明している。僕たちは、その存在自体が記憶の集合体であるような、そんな様々な記憶から成り立っている。どんな形で別れたにしろ、その別れた誰かの記憶は永遠に残る。記憶の中でその誰かは成長し、間違いなく影響を与え続ける。
だからこそ、人は出会った人と別れることができない。
しかし、それだけではきっとない。記憶など持ち出さなくても、人は、一度出会った人のリアルな影響を、直接にしろ間接にしろ、間違いなく受けて生き続けているのだろう。本作を読んでそう思った。
人生の中で誰と出会うか。自分の力で人生を切り開いていると思っている人だって、間違いなく誰かとの出会いで運命が違っていた瞬間があるだろうと思う。この人と出会ってなかったら…。いい意味でも悪い意味でも、出会いは人の運命をかなり決定付ける。そもそも、親を選べない子供にとったら、誰の子供として生まれるか、ということだって、出会いの一つといえるだろう。
振り返るほどまだ生きていないと思うけど、でも僕にだって、この人と出会えてなかったら、という瞬間はやはりある。僕は、どんなことがあっても、せめて記憶の中だけではその出会いを大切にしていきたいし、有形無形の影響を受け続けられたら、とも思っている。
そんな、出会いと別れについていろいろ考えさせられるし、そもそも、ストーリー中の出会いと別れに想いを馳せる。そんな作品だった。
内容に触れようと思う。
ある弱小雑誌社の編集に携わる山崎。ある日彼の元に、一本の電話が掛かって来た。それは19年ぶりに聞くかつての恋人、由希子からの電話だった。あってプリクラを撮りましょうよ。そんな風な調子で19年という歳月を吹き飛ばして見せた由希子との電話での邂逅が、彼を記憶の旅へと引きずりこんでいく。
雑誌編集という現在の中に、彼の記憶にある様々な過去が交錯して描かれる。由希子との出会いや付き合い。バーのマスターと過ごした、ぴかぴかに磨いたグラスのような日々。面接時の印象の濃い、上司であり編集長である沢井とのやりとり。今の彼女に出会ういきさつ。そうした過去が瑞々しく透明感溢れて描かれるとともに、それらが現在と見事に結びつき、やがて訪れる由希子との再会へと繋がっていく。
人が出会い別れる、という、人生の中で否が応でも繰り返さなくてはならない無為なループを回り続けてきた山崎。その山崎の視点で描かれる、出会いと別れのせつなさ。由希子からの出会いによって変わった19年前のように、現在の彼も、由希子からの電話によって変わった。繊細な文体で紡がれる作品です。
アクアリウムについてまず書こうと思う。
僕は熱帯魚を飼った経験はないけれども、水槽の中というのは一つの世界を形成しているのだろうと思う。魚がいて水草があって、酸素があって水がある。ただそれだけの空間が一つの世界を成している。
異質なのは、その世界が外から見られている、ということだろう。鑑賞されるために水槽は存在するのだろうし。
ただ、余りにも透明な水で満たされている場合、そこに水槽の存在を一瞬見失うことがあるかもしれないとも思う。水槽という切り取られた空間の世界ではなく、見るものと同じ空間に身を置く世界として認識できるかもしれない。透明な水で満たされた世界には、そんな性質があるように思う。
本作は、そんな水槽を見ているみたいな印象だ。
きっとそれは、作者が意図したことだろうと思う。表紙に熱帯魚の写真を用い、タイトルをパイロットフィッシュにする。透明な水のような、そんな透明感溢れる文体で包まれた登場人物は、さながら熱帯魚の役回りだろう。
本作を読んで、小説というのは水槽と大差ないかもしれないな、と思ったものだ。
透明な水の存在を忘れて、水槽の世界を外の世界と同一視してしまうように、作品世界に読者が入り込んでしまうような点も、似ているような気がする。
パイロットフィッシュについても書こうと思う。
パイロットフィッシュ。名前の響きによらず、この魚は実に悲惨な運命を辿る魚のようだ。
水槽作りというのはなかなか大変なようだ。何が一番大変かは、水である。熱帯魚に適した水を作るのに苦労する。適した水というのは、バクテリアが適度に繁殖したものである。
パイロットフィッシュというのは、そんな熱帯魚に適した水を作るのに最適だそうである。水道水を入れた水槽にパイロットフィッシュを入れて置くと、しばらくしていい水ができる。そんな重宝する魚らしい。
悲惨なのはここからで、どんな姿かたちの魚なのかは知らないが、観賞用にはならないらしく、いい水を作り終えると捨てられるか、あるいは飼う事になっている魚に食べさせてしまうという。
響きとは裏腹に、悲しい魚なのである。
このパイロットフィッシュというのも、水槽を模した本作の中では重要だ。詳しくは書けないが、ちょっと悲しい。
本作は、素晴らしくいい作品だと思う。現在も過去も、どの瞬間も見事に瑞々しく描かれていて、そのどれもが印象的だ。登場人物の誰もが素敵で、どこを読んでいても楽しい。
かなり印象に残った悲しいセリフを書いて感想を終わろうと思う。由希子がかつて言った言葉である。
「これから、私、いい曲をたくさん書かなきゃね」
本作を読まないと意味はわからないだろうが、こんなにこのセリフが悲しく響く作品はないだろう。あまりに印象的で、この部分を読んだときは、かなり衝撃的だった。
薄いし読みやすいし素晴らしい作品です。是非とも読んでください。
大崎善生「パイロットフィッシュ」
幻の女(香納諒一)
本作を読んで、どうしても拭えなかったイメージがある。
報告書を読んでいるみたいだ、というものだ。
例えば、本作の事件部分の詳細な報告書、あるいはノンフィクションの出版物があったとして、それを熟読し、海外作品を日本語に訳すように、ノンフィクションをフィクションに「翻訳」したのではないか、とそんな印象を最後まで消し去ることの出来ない作品でした。
なんというか、長くてどこを読んでも退屈だ、という感想です。
長い物語にはやはり長いなりの理由があるわけで、さらにその上で、長くても飽きさせないだけの何かがないと作品としてはダメだろうと思います。
話は少し変わりますが、以前「このミス」の座談会を読んだ時に、直木賞の選考委員のある人のコメントを揶揄するような発言があったのを覚えています。そのある選考委員のコメントとは、「私は、作品が長いというだけで0.5点の減点をします」とかいう感じのもので、つまりその選考委員は、長い物語は小説として不適格だ、というような信念を持っているようです。その座談会では、そのコメントを、何を言っているんだか、という感じで取り上げていたと思います。
確かに、その選考委員のコメントは行きすぎだとは僕も思いますが、でも、少しわからないでもありません。長い物語というのは、普通の長さの物語に比べ、明らかに明確なメリットというかポイントというか要素がなければいけない、という風に僕も思っています。
例えば京極夏彦の小説は、呆れるぐらいに長いですが、でもほとんど退屈することなく、あんなに長いのに短く感じます。
本作は、ただ長いだけでした。お役所仕事の、無意味な報告書の束を読んでいるような、そんな気分でした。損した気分にすらなっています。まあそこまで言うとひどいでしょうが。
内容に触れます。
弁護士の栖本は、5年ぶりにある女性に偶然再会した。妻子ある時に付き合っていた不倫相手の水商売の女性で、彼女は突然彼の元から消えた。
再会を喜び合うような間もなく彼女は去っていったが、翌日、彼女が殺されたことを知る。前日の夜、彼が自棄酒を飲んでいる時に、事務所に残された彼女からの留守番電話。そこには、相談したいことがある、とだけ残されていた。
彼は、彼女の姿を追うべく、あらゆる仕事を放り投げて調べることを決意する。彼の人脈や、彼の弁護士としての地位や権限や肩書きをフル活用して彼女の死の真相を追っていくと、彼自身知らぬ間に、長年に渡る深い疑惑の渦に取り込まれていくことになる…
とまあそんな感じです。
僕にはどうにも、物語の始めと最後がかみ合っていないような気がして仕方ありません。物語は、彼女の死の真相を探る、というところから始まるわけですが、じきに、彼女は戸籍の人物とは違う人間なのではないか、という疑惑に取り付かれていくようになります。それからは、彼女は一体誰だったのか、というところを突き詰めていく物語になるはずだ、と僕は思っていたわけです。
しかし、物語が進んでいくにつれ、どうにも、彼女が誰だったかなんてことはどうでもよくなって、政財界の疑惑の方に話がずれていってしまったような気がしています。一応、彼女が誰だったかは明かされますが、とってつけたような印象でした。
なんか、目をつぶって真っ直ぐ歩くと、真っ直ぐ歩いたつもりなのに目を開けると左右のどちらかにずれていた、とそんな感じのする作品でした。
長いし面白くないので、僕としては、読まなくていいのではないか、と思います。
香納諒一「幻の女」
報告書を読んでいるみたいだ、というものだ。
例えば、本作の事件部分の詳細な報告書、あるいはノンフィクションの出版物があったとして、それを熟読し、海外作品を日本語に訳すように、ノンフィクションをフィクションに「翻訳」したのではないか、とそんな印象を最後まで消し去ることの出来ない作品でした。
なんというか、長くてどこを読んでも退屈だ、という感想です。
長い物語にはやはり長いなりの理由があるわけで、さらにその上で、長くても飽きさせないだけの何かがないと作品としてはダメだろうと思います。
話は少し変わりますが、以前「このミス」の座談会を読んだ時に、直木賞の選考委員のある人のコメントを揶揄するような発言があったのを覚えています。そのある選考委員のコメントとは、「私は、作品が長いというだけで0.5点の減点をします」とかいう感じのもので、つまりその選考委員は、長い物語は小説として不適格だ、というような信念を持っているようです。その座談会では、そのコメントを、何を言っているんだか、という感じで取り上げていたと思います。
確かに、その選考委員のコメントは行きすぎだとは僕も思いますが、でも、少しわからないでもありません。長い物語というのは、普通の長さの物語に比べ、明らかに明確なメリットというかポイントというか要素がなければいけない、という風に僕も思っています。
例えば京極夏彦の小説は、呆れるぐらいに長いですが、でもほとんど退屈することなく、あんなに長いのに短く感じます。
本作は、ただ長いだけでした。お役所仕事の、無意味な報告書の束を読んでいるような、そんな気分でした。損した気分にすらなっています。まあそこまで言うとひどいでしょうが。
内容に触れます。
弁護士の栖本は、5年ぶりにある女性に偶然再会した。妻子ある時に付き合っていた不倫相手の水商売の女性で、彼女は突然彼の元から消えた。
再会を喜び合うような間もなく彼女は去っていったが、翌日、彼女が殺されたことを知る。前日の夜、彼が自棄酒を飲んでいる時に、事務所に残された彼女からの留守番電話。そこには、相談したいことがある、とだけ残されていた。
彼は、彼女の姿を追うべく、あらゆる仕事を放り投げて調べることを決意する。彼の人脈や、彼の弁護士としての地位や権限や肩書きをフル活用して彼女の死の真相を追っていくと、彼自身知らぬ間に、長年に渡る深い疑惑の渦に取り込まれていくことになる…
とまあそんな感じです。
僕にはどうにも、物語の始めと最後がかみ合っていないような気がして仕方ありません。物語は、彼女の死の真相を探る、というところから始まるわけですが、じきに、彼女は戸籍の人物とは違う人間なのではないか、という疑惑に取り付かれていくようになります。それからは、彼女は一体誰だったのか、というところを突き詰めていく物語になるはずだ、と僕は思っていたわけです。
しかし、物語が進んでいくにつれ、どうにも、彼女が誰だったかなんてことはどうでもよくなって、政財界の疑惑の方に話がずれていってしまったような気がしています。一応、彼女が誰だったかは明かされますが、とってつけたような印象でした。
なんか、目をつぶって真っ直ぐ歩くと、真っ直ぐ歩いたつもりなのに目を開けると左右のどちらかにずれていた、とそんな感じのする作品でした。
長いし面白くないので、僕としては、読まなくていいのではないか、と思います。
香納諒一「幻の女」
神様のボート(江國香織)
「自分の人生」なんて名前をつけることのできるもの。そんなものが存在するだろうか?そんなことを考えてみる。
人は、生まれてから死ぬまでを、完全に「自分のもの」にすることはできない。生まれることを決めることはできないし、いつ死ぬのかもわからないし、その過程の中で、誰かの人生の一部に取り込まれながら生きていかなくてはいけないからだ。
誰の人生の一部を過ごすか。そして、そこからいかに枝分かれるか。完全に「自分の人生」というものを歩けるようになった時、きっとそのことがとても大事になってくる。
僕は、早い段階で親の世界を抜け出した。出来る限り、あらゆる世界からの脱出を図った。地域や学校や社会といった、僕を取り巻くあらゆる世界からの脱出を。それぞれの世界と接点を保ったまま、あくまで接するだけで中には入り込ませない。僕自身も外には飛び出さないようにし、そうして僕は、かなり不器用ながらも、そして、かなり多くの人に迷惑を掛け傷つけながらも、今の位置を保っている。
それが正しいことだったのかどうなのか、未だに僕にはわからない。それぞれの世界に取り込まれたままではきっと僕は壊れていただろうと思う。僕にはそれが予測できてしまったし、どんなにそれを逃避と呼ばれようと、僕はそこに留まらなかったことを後悔していない。しかし、それはあくまで僕個人のレベルであって、僕の周囲まで含めたあらゆる事象を含めて考えた場合、正しい行動だったかどうか、判断は難しい。
だから、正しいかどうかはわからないけど、草子の決断は間違ってないと僕は思う。
なんというか、途中までは、とても退屈な物語だった。
言っておくが、退屈であるという評価は、必ずしも悪いものではない。僕は、毎日本を読んで仕事をして寝る、という退屈な日常を送っているけど、でもそんな日常のことは嫌いじゃない。そんな感じだ。
本作も、確かに読んでいて退屈だったけど、でも悪くはないと思っていた。なんか矛盾するみたいだけど、でも、江國の文章があまりにも透明で煌いているからだろう、と思う。まあ、文章については後でもう少しふれようと思うけど。
でも、最後の最後、枝分かれる部分まできてようやく、僕にとって本作の評価が大体決まった。あの枝分かれる部分、そこに至るまでの長い長い過程があるからこその場面であったと思う。そこにさしかかってようやく僕には、今まで退屈に描かれてきた親子の日常に、それまでは完全に透明で色彩がなかったその日常に、じわじわと色味が射していくような感じがした。
退屈な部分は長かったけど、全体としては結構よかった。それが本作の評価である。
少しだけ、ないように触れようと思う。
様々な土地へと引越しをして暮らしている母葉子と娘草子。引越しをするのには、葉子的に重要な意味がある。
葉子には、待ち人がいる。それは草子の父親でもある。その彼は、別れ際に葉子にこう言った。「必ず迎えにいく。二人がどこにいても絶対に探し出してみせる」と。
葉子は彼を心の底から愛していた。骨ごと溶けるような恋をした相手だった。だから、彼の言葉を信じた。彼以外の何かに慣れる事なんかできなかった。慣れてしまえば、彼に二度と会えなくなるような気がした。
だから葉子は、葉子自身のために、娘を引き連れて旅を続けている。
そこは完全に母葉子の世界である。その世界しか知ることのなかった娘は、母の世界の中で、母親の宝ものとしてすくすくと育っていく。
そう、幾度もの引越しにも順応し、文句一つ言わず旅のついていく娘。母親の狂気の世界の中で立派に育っていく娘。
「神様のボートに乗ってしまったから」そう言って娘を引き連れる母親と、引き連れられながらどんどん成長していく娘の物語。
こんな感じである。
少なくとも、僕には葉子の世界は理解することはできないだろう。僕なら、完全な自分の身勝手のために、子供の人生を振り回すようなことはできない。子供にだって、人生がある。親の世界からいつ枝分かれるか。その選択権は、常に子供に持たせておくべきだと思う。
文章について触れよう。ありきたりだけど、その透明感は素晴らしいものがあると思う。児童文学出身だからかもしれないが、漢字表記が普通であるものもひらがなになっていたりして、その、文章中における漢字とひらがなの割合というのも素晴らしいと思う。
どの場面も、音が聞こえそうなほど、色が浮かび上がってきそうなほど、匂いが漂ってきそうなほどの描写がなされる。手を伸ばせば触れられるのではないか、という世界が、江國の紡ぐ文章一つによって生み出されている。文章に特徴のある作家は何人もいるけれども、これほど「洗練」という言葉の似合う文章はないだろうと思う。
ボートに乗ったら旅に出なければならない。もしそうだとするなら、きっと僕は「神様のボート」になんか乗らないだろう。そう思ってみたりした。
僕なんかが勧めなくても読む人は読むだろうけど、結構いいと思います。
江國香織「神様のボート」
人は、生まれてから死ぬまでを、完全に「自分のもの」にすることはできない。生まれることを決めることはできないし、いつ死ぬのかもわからないし、その過程の中で、誰かの人生の一部に取り込まれながら生きていかなくてはいけないからだ。
誰の人生の一部を過ごすか。そして、そこからいかに枝分かれるか。完全に「自分の人生」というものを歩けるようになった時、きっとそのことがとても大事になってくる。
僕は、早い段階で親の世界を抜け出した。出来る限り、あらゆる世界からの脱出を図った。地域や学校や社会といった、僕を取り巻くあらゆる世界からの脱出を。それぞれの世界と接点を保ったまま、あくまで接するだけで中には入り込ませない。僕自身も外には飛び出さないようにし、そうして僕は、かなり不器用ながらも、そして、かなり多くの人に迷惑を掛け傷つけながらも、今の位置を保っている。
それが正しいことだったのかどうなのか、未だに僕にはわからない。それぞれの世界に取り込まれたままではきっと僕は壊れていただろうと思う。僕にはそれが予測できてしまったし、どんなにそれを逃避と呼ばれようと、僕はそこに留まらなかったことを後悔していない。しかし、それはあくまで僕個人のレベルであって、僕の周囲まで含めたあらゆる事象を含めて考えた場合、正しい行動だったかどうか、判断は難しい。
だから、正しいかどうかはわからないけど、草子の決断は間違ってないと僕は思う。
なんというか、途中までは、とても退屈な物語だった。
言っておくが、退屈であるという評価は、必ずしも悪いものではない。僕は、毎日本を読んで仕事をして寝る、という退屈な日常を送っているけど、でもそんな日常のことは嫌いじゃない。そんな感じだ。
本作も、確かに読んでいて退屈だったけど、でも悪くはないと思っていた。なんか矛盾するみたいだけど、でも、江國の文章があまりにも透明で煌いているからだろう、と思う。まあ、文章については後でもう少しふれようと思うけど。
でも、最後の最後、枝分かれる部分まできてようやく、僕にとって本作の評価が大体決まった。あの枝分かれる部分、そこに至るまでの長い長い過程があるからこその場面であったと思う。そこにさしかかってようやく僕には、今まで退屈に描かれてきた親子の日常に、それまでは完全に透明で色彩がなかったその日常に、じわじわと色味が射していくような感じがした。
退屈な部分は長かったけど、全体としては結構よかった。それが本作の評価である。
少しだけ、ないように触れようと思う。
様々な土地へと引越しをして暮らしている母葉子と娘草子。引越しをするのには、葉子的に重要な意味がある。
葉子には、待ち人がいる。それは草子の父親でもある。その彼は、別れ際に葉子にこう言った。「必ず迎えにいく。二人がどこにいても絶対に探し出してみせる」と。
葉子は彼を心の底から愛していた。骨ごと溶けるような恋をした相手だった。だから、彼の言葉を信じた。彼以外の何かに慣れる事なんかできなかった。慣れてしまえば、彼に二度と会えなくなるような気がした。
だから葉子は、葉子自身のために、娘を引き連れて旅を続けている。
そこは完全に母葉子の世界である。その世界しか知ることのなかった娘は、母の世界の中で、母親の宝ものとしてすくすくと育っていく。
そう、幾度もの引越しにも順応し、文句一つ言わず旅のついていく娘。母親の狂気の世界の中で立派に育っていく娘。
「神様のボートに乗ってしまったから」そう言って娘を引き連れる母親と、引き連れられながらどんどん成長していく娘の物語。
こんな感じである。
少なくとも、僕には葉子の世界は理解することはできないだろう。僕なら、完全な自分の身勝手のために、子供の人生を振り回すようなことはできない。子供にだって、人生がある。親の世界からいつ枝分かれるか。その選択権は、常に子供に持たせておくべきだと思う。
文章について触れよう。ありきたりだけど、その透明感は素晴らしいものがあると思う。児童文学出身だからかもしれないが、漢字表記が普通であるものもひらがなになっていたりして、その、文章中における漢字とひらがなの割合というのも素晴らしいと思う。
どの場面も、音が聞こえそうなほど、色が浮かび上がってきそうなほど、匂いが漂ってきそうなほどの描写がなされる。手を伸ばせば触れられるのではないか、という世界が、江國の紡ぐ文章一つによって生み出されている。文章に特徴のある作家は何人もいるけれども、これほど「洗練」という言葉の似合う文章はないだろうと思う。
ボートに乗ったら旅に出なければならない。もしそうだとするなら、きっと僕は「神様のボート」になんか乗らないだろう。そう思ってみたりした。
僕なんかが勧めなくても読む人は読むだろうけど、結構いいと思います。
江國香織「神様のボート」
秘密―私と私のあいだの十二話―(ダ・ヴィンチ編集部/編)
立っている場所によって、見る方向によって、物事というのは大きく変化するものだろう。誤解や擦れ違いといったものは、意外と些細なことが原因だったりするし、またそれでいて、一方の側から見ていたのでは気付きにくいものである。
と、他にも何か書こうと思うのだが、珍しくなかなか言葉が出てこないので、これ以上の前置きは省こうと思う。
本作の構成はなかなか面白い。なんというか、鏡を見るように裏側を見、鏡に映ったものから表側を判断するような、なんか曖昧なイメージだけど、そんな小説だ。
僕は音楽をあまり、というかまったく聞かないからよくわからないけど、CDとかにはA面とB面があるようだ(なんとなくは知っているけど)。本作はそのA面B面に例えられる構成を取っている。
一つの場面を、二人の別の主人公の視点で綴った物語。しかも、これまたかなり豪華な12名の作家が競演している作品集なのである。
少し前に読んだ「君へ。」という作品もそうだったけど、一作一作がとても短い。けど、その短い世界の中で作家たちは、いろんなものを伝えてくる。驚きや反転、悲しみやおかしさ。ささやかな世界だったり大げさな世界だったりするけど、どれからも、物語の長さに関係なく持ちうる言葉の力、みたいなものを感じた。
さて、今回は12名の作家による12作品なわけだけど、全てに触れるかどうか迷う数だと思う。でも、それぞれ簡単に、場面設定とちょっとした感想ぐらいを書いておこうかと思う。
「ご不在票-OUTSIDE-
ご不在票-INSIDE-」吉田修一
荷物を届けに来た宅配人と、その荷物を受け取る男との、ドア一枚を隔てた悲喜こもごも
荷物の中身と聞こえてくる会話が悲しい物語
「彼女の彼の特別な日
彼の彼女の特別な日」森絵都
バーで出会った男女の、ささやかでいて真剣な願いを描く物語
物語の短さとは対照的な、「物語後」の時間を素敵に連想させていい
「ニラタマA
ニラタマB」佐藤正午
出前でニラタマを頼む男と注文を受ける女の、携帯のアラームにまつわる物語
そんなに特に印象はない
「震度四の秘密-男
震度四の秘密-女」有栖川有栖
電話と地震を介した、距離と言葉を隔てた男女の物語
僕ならあんなばればれの嘘はつかない、と思った
「電話アーティストの甥
電話アーティストの恋人」小川洋子
電話をしながら作品を作り出してしまう女性の死。その甥と恋人にまつわる物語
これもそんなに大した印象はない
「別荘地の犬 A-side
別荘地の犬 B-side」篠田節子
別荘地に捨てられた犬をめぐる物語
僕なら引取りにはいかないだろう。
「<ユキ>
<ヒロコ>」唯川恵
綺麗な<ユキ>とブサイクな「ヒロコ」の幸せをめぐる物語
どっちの方が幸せなのか、僕にはわかりません
「黒電話-A
黒電話-B」堀江敏幸
今はもう廃れてしまった黒電話の響きが真新しい物語
古きよきものは、いつの世も人の心を打つものでしょう
「百合子姫
怪奇毒吐き女」北村薫
ある一人の女性をめぐる、二人の男の物語
だから女性というのはわからない
「ライフ システムエンジニア編
ライフ ミッドフィルダー編」伊坂幸太郎
共にしっかりと生きている、小学校の頃からの友人である、エンジニアとサッカー選手の物語
短くとも伊坂らしくて満足
「お江戸に咲いた灼熱の花
ダーリンは演技派」三浦しをん
ちゃんと恋人に連絡を取ることのできない時代劇ドラマに出ている男とその恋人の、少しおかしい物語
バカだって、ちゃんとがんばっているし、愛らしい
「監視者/私
被監視者/僕」阿部和重
監視するものとされるものとのささやかな物語
正直言うと、この物語の人間関係がよくわからない
よくわからない作品も少しはあったが、概ねどの作品も面白くて、かなり満足できた一冊だった。こういう、実験的というかなんというか、普通ではない作品集という形態は、もっとバリエーションが増えて欲しいものだ、と思った。
今をときめく、なんて言葉が適切かはわからないけど、当代きっての作家たちが繰り広げる短い小世界。珠玉の作品集だと思います。是非、どうぞ。
ダ・ヴィンチ編集部/編「秘密―私と私のあいだの十二話―」
と、他にも何か書こうと思うのだが、珍しくなかなか言葉が出てこないので、これ以上の前置きは省こうと思う。
本作の構成はなかなか面白い。なんというか、鏡を見るように裏側を見、鏡に映ったものから表側を判断するような、なんか曖昧なイメージだけど、そんな小説だ。
僕は音楽をあまり、というかまったく聞かないからよくわからないけど、CDとかにはA面とB面があるようだ(なんとなくは知っているけど)。本作はそのA面B面に例えられる構成を取っている。
一つの場面を、二人の別の主人公の視点で綴った物語。しかも、これまたかなり豪華な12名の作家が競演している作品集なのである。
少し前に読んだ「君へ。」という作品もそうだったけど、一作一作がとても短い。けど、その短い世界の中で作家たちは、いろんなものを伝えてくる。驚きや反転、悲しみやおかしさ。ささやかな世界だったり大げさな世界だったりするけど、どれからも、物語の長さに関係なく持ちうる言葉の力、みたいなものを感じた。
さて、今回は12名の作家による12作品なわけだけど、全てに触れるかどうか迷う数だと思う。でも、それぞれ簡単に、場面設定とちょっとした感想ぐらいを書いておこうかと思う。
「ご不在票-OUTSIDE-
ご不在票-INSIDE-」吉田修一
荷物を届けに来た宅配人と、その荷物を受け取る男との、ドア一枚を隔てた悲喜こもごも
荷物の中身と聞こえてくる会話が悲しい物語
「彼女の彼の特別な日
彼の彼女の特別な日」森絵都
バーで出会った男女の、ささやかでいて真剣な願いを描く物語
物語の短さとは対照的な、「物語後」の時間を素敵に連想させていい
「ニラタマA
ニラタマB」佐藤正午
出前でニラタマを頼む男と注文を受ける女の、携帯のアラームにまつわる物語
そんなに特に印象はない
「震度四の秘密-男
震度四の秘密-女」有栖川有栖
電話と地震を介した、距離と言葉を隔てた男女の物語
僕ならあんなばればれの嘘はつかない、と思った
「電話アーティストの甥
電話アーティストの恋人」小川洋子
電話をしながら作品を作り出してしまう女性の死。その甥と恋人にまつわる物語
これもそんなに大した印象はない
「別荘地の犬 A-side
別荘地の犬 B-side」篠田節子
別荘地に捨てられた犬をめぐる物語
僕なら引取りにはいかないだろう。
「<ユキ>
<ヒロコ>」唯川恵
綺麗な<ユキ>とブサイクな「ヒロコ」の幸せをめぐる物語
どっちの方が幸せなのか、僕にはわかりません
「黒電話-A
黒電話-B」堀江敏幸
今はもう廃れてしまった黒電話の響きが真新しい物語
古きよきものは、いつの世も人の心を打つものでしょう
「百合子姫
怪奇毒吐き女」北村薫
ある一人の女性をめぐる、二人の男の物語
だから女性というのはわからない
「ライフ システムエンジニア編
ライフ ミッドフィルダー編」伊坂幸太郎
共にしっかりと生きている、小学校の頃からの友人である、エンジニアとサッカー選手の物語
短くとも伊坂らしくて満足
「お江戸に咲いた灼熱の花
ダーリンは演技派」三浦しをん
ちゃんと恋人に連絡を取ることのできない時代劇ドラマに出ている男とその恋人の、少しおかしい物語
バカだって、ちゃんとがんばっているし、愛らしい
「監視者/私
被監視者/僕」阿部和重
監視するものとされるものとのささやかな物語
正直言うと、この物語の人間関係がよくわからない
よくわからない作品も少しはあったが、概ねどの作品も面白くて、かなり満足できた一冊だった。こういう、実験的というかなんというか、普通ではない作品集という形態は、もっとバリエーションが増えて欲しいものだ、と思った。
今をときめく、なんて言葉が適切かはわからないけど、当代きっての作家たちが繰り広げる短い小世界。珠玉の作品集だと思います。是非、どうぞ。
ダ・ヴィンチ編集部/編「秘密―私と私のあいだの十二話―」
君へ。―つたえたい気持ち三十七話―(ダ・ヴィンチ編集部/編)
僕は昔のことは知らない。僕が生まれた以前の話や、いや、もはや僕には、小学生や中学生の頃の記憶だってかなり怪しいし、高校の記憶だって不鮮明だ。
だから、僕には、携帯電話やメールが発達していないからといって不便に感じたような記憶は特にない。正直、僕が携帯電話を始めて持ったのは、確か高校の二年か三年ぐらいだったと思うけど、持っていない時期に、切実に連絡を取りたかった誰かがいたわけではなかったし(つまり、恋人ということだけど)、それは持ってからしばらくしても大して変わらなかったから、実質、不便さは感じたことはない。彼女の家に電話を掛けて親が出た、なんてエピソードは持っていないし、FAXがなくて困ったような経験も覚えていない。
だから、条件さえ揃えば(つまり、相手側の情報を知ってさえ居れば、ということだけど)、誰とでもいつでも連絡を取れる、という環境で育った、と言ってしまってもいいだろうと思う。
少し前まで、携帯電話もFAXもパソコンのメールも、なかったかあるいは普及していなかったなんて、僕には信じられないし、そんな生活をリアルに想像することも難しい。僕は性格的に、誰かに積極的に連絡を取るような人間ではないけど、でも、携帯電話やパソコンのメールがなければ、人並みに不自由を感じるだろうし、なくてはならないものだろうと思う。
誰にも、いつでも、言いたいことをいうことが出来る環境。今では当たりまえのことだけど、素晴らしいことなのだろう。
では、環境に関係なく、誰かに何かを伝えるという、そのもの本質については何か変わっただろうか?
手段の発達によって、より伝えやすくなったこともあるだろう。同時に、伝わりにくくなったことも、伝わらなくなったこともあるだろうと思う。手紙でしか、電話でしか、手紙でしか、FAXでしか、直接でしか伝わらないことはやはりそれぞれあるだろう。そうした、様々なコミュニケーションの氾濫の中で、時として、何かに固定しておきたくなるような、素晴らしい瞬間というのがきっと訪れるのだろうと思う。
本作は、そんな「コミュニケーション」をテーマにした作品だ。
突然、人の名前を羅列しようと思う。
鷺沢萌・山本文緒・北方謙三・宮本輝・絵國香織・五木寛之・藤沢周・松岡佑子・田口ランディ・大沢在昌・森絵都・篠田節子・夢枕獏・角田光代・有栖川有栖・山川健一・鈴木光司・藤田宜永・村山由佳・北村薫・小池真理子・松尾スズキ・石田衣良・山本一力・大林宣彦・川上弘美・大槻ケンジ・馳星周・高橋源一郎・唯川恵・石坂啓・鴻上尚史・重松清・谷村志穂・瀬名秀明・坂東眞砂子・乙一
わかるとは思うけど、上で挙げた作家は、本作に作品を寄せた作家の名前である。総勢37名。僕は色んな作家の本を読んでいるし、そもそも本屋の文庫担当であるので、様々な作家の名前を知っているのだけど、かなり豪華な布陣だと思う。ミステリー・ハードボイルド・恋愛・ホラー・時代・ノアール・文学・SFなどとにかく様々なジャンルの作家が書いているし、それだけでなく、エッセイストや漫画家や構成家やなんかも書いている。かなり豪華だ。
内容も、エッセイだろうと思われるものからフィクションまで、とにかくジャンルに囚われていない。普通の小説とはかなり違う形で作られただろう本作は、なかなか面白いです。
同じくダ・ヴィンチ編集部の手によるもので、少し前に読んだ「ありがと。」という作品は、誰かに「ありがと。」と言いたくなるような出会い、というものをテーマに据えていたようだけど、どうもその主旨から外れているようなものが多かったように思えてあまり面白くなかったんだけど、本作は、一つ一つはかなり短いながらも、全てではないにしろはっとさせられる作品が多くて、僕としてはかなり満足です。こんなに短くても人の心を動かすことができるのだな、と正直感心しました。
全ての作品について内容を書いたり感想を書いたりしていると日が昇ってしまうと思われるので(そうでなくても、37の物語全てについて触れるのは嫌ですが)、僕がいいなと思った作品についてだけ触れようと思います。本作は、それぞれの作品の最後に、著者にサインと一言が手書き文字で添えられていて、それに倣って僕も、作品の内容には触れずに、感想だけ少し書こうと思います。
「モシ族のもしもし」北方謙三
国境を越えれば、伝わる言葉も自ずと変わる
「そばにいてくれた?」江國香織
近くの手より、遠くの声
「山間の山で」五木寛之
気持ちだけでは届かない
「教えない」藤沢周
沈黙が運ぶ言葉もある
「心を燃やす」松岡佑子
念じた気持ちは、言葉を超える
「モーニング・コール」田口ランディ
ふとしたことで、誰かつながる
「今から寝るよ」藤田宜永
誰かに伝わればいいな、この気持ち
「ありがちだけれど本当のもの」村山由佳
時を越えて、空間を超えて…
「雪が降ってきました」北村薫
届いた言葉がどんどん膨らむ
「『自分』は『自分』で充分です」松尾スズキ
悲しいなんて思いたくない
「白紙」高橋源一郎
伝わるはずの真っ白な言葉
「失恋メール」唯川恵
伝えたい、という想いで充分
「「打ち上げ」について」鴻上尚史
伝える手段で言葉が変わる
「朝日が向かっています」重松清
「ほんと、もう、まいっちゃいますよね…」なんていっちゃって
「小生、感激。」乙一
言葉の奥にいる人を想う
37話の内の15話。やっぱ結構お得なんじゃないかと思う。
中でもいいなと思ったのは、「教えない」藤沢周・「雪が降ってきました」北村薫・「朝日が向かっています」重松清の三作かな。どれも、短い話なのに、本当にはっとさせられるもので、文字数当たりの感動値でいえばギネス級ではないか、とも思います。
いい作品集です。表紙もなかなか綺麗で悪くないと思います。僕の働いている本屋では今積んでいますが、結構売れています。プレゼント用にする人もいたりしました。是非読んでみてください。
ダ・ヴィンチ編集部/編「君へ。―つたえたい気持ち三十七話―」
だから、僕には、携帯電話やメールが発達していないからといって不便に感じたような記憶は特にない。正直、僕が携帯電話を始めて持ったのは、確か高校の二年か三年ぐらいだったと思うけど、持っていない時期に、切実に連絡を取りたかった誰かがいたわけではなかったし(つまり、恋人ということだけど)、それは持ってからしばらくしても大して変わらなかったから、実質、不便さは感じたことはない。彼女の家に電話を掛けて親が出た、なんてエピソードは持っていないし、FAXがなくて困ったような経験も覚えていない。
だから、条件さえ揃えば(つまり、相手側の情報を知ってさえ居れば、ということだけど)、誰とでもいつでも連絡を取れる、という環境で育った、と言ってしまってもいいだろうと思う。
少し前まで、携帯電話もFAXもパソコンのメールも、なかったかあるいは普及していなかったなんて、僕には信じられないし、そんな生活をリアルに想像することも難しい。僕は性格的に、誰かに積極的に連絡を取るような人間ではないけど、でも、携帯電話やパソコンのメールがなければ、人並みに不自由を感じるだろうし、なくてはならないものだろうと思う。
誰にも、いつでも、言いたいことをいうことが出来る環境。今では当たりまえのことだけど、素晴らしいことなのだろう。
では、環境に関係なく、誰かに何かを伝えるという、そのもの本質については何か変わっただろうか?
手段の発達によって、より伝えやすくなったこともあるだろう。同時に、伝わりにくくなったことも、伝わらなくなったこともあるだろうと思う。手紙でしか、電話でしか、手紙でしか、FAXでしか、直接でしか伝わらないことはやはりそれぞれあるだろう。そうした、様々なコミュニケーションの氾濫の中で、時として、何かに固定しておきたくなるような、素晴らしい瞬間というのがきっと訪れるのだろうと思う。
本作は、そんな「コミュニケーション」をテーマにした作品だ。
突然、人の名前を羅列しようと思う。
鷺沢萌・山本文緒・北方謙三・宮本輝・絵國香織・五木寛之・藤沢周・松岡佑子・田口ランディ・大沢在昌・森絵都・篠田節子・夢枕獏・角田光代・有栖川有栖・山川健一・鈴木光司・藤田宜永・村山由佳・北村薫・小池真理子・松尾スズキ・石田衣良・山本一力・大林宣彦・川上弘美・大槻ケンジ・馳星周・高橋源一郎・唯川恵・石坂啓・鴻上尚史・重松清・谷村志穂・瀬名秀明・坂東眞砂子・乙一
わかるとは思うけど、上で挙げた作家は、本作に作品を寄せた作家の名前である。総勢37名。僕は色んな作家の本を読んでいるし、そもそも本屋の文庫担当であるので、様々な作家の名前を知っているのだけど、かなり豪華な布陣だと思う。ミステリー・ハードボイルド・恋愛・ホラー・時代・ノアール・文学・SFなどとにかく様々なジャンルの作家が書いているし、それだけでなく、エッセイストや漫画家や構成家やなんかも書いている。かなり豪華だ。
内容も、エッセイだろうと思われるものからフィクションまで、とにかくジャンルに囚われていない。普通の小説とはかなり違う形で作られただろう本作は、なかなか面白いです。
同じくダ・ヴィンチ編集部の手によるもので、少し前に読んだ「ありがと。」という作品は、誰かに「ありがと。」と言いたくなるような出会い、というものをテーマに据えていたようだけど、どうもその主旨から外れているようなものが多かったように思えてあまり面白くなかったんだけど、本作は、一つ一つはかなり短いながらも、全てではないにしろはっとさせられる作品が多くて、僕としてはかなり満足です。こんなに短くても人の心を動かすことができるのだな、と正直感心しました。
全ての作品について内容を書いたり感想を書いたりしていると日が昇ってしまうと思われるので(そうでなくても、37の物語全てについて触れるのは嫌ですが)、僕がいいなと思った作品についてだけ触れようと思います。本作は、それぞれの作品の最後に、著者にサインと一言が手書き文字で添えられていて、それに倣って僕も、作品の内容には触れずに、感想だけ少し書こうと思います。
「モシ族のもしもし」北方謙三
国境を越えれば、伝わる言葉も自ずと変わる
「そばにいてくれた?」江國香織
近くの手より、遠くの声
「山間の山で」五木寛之
気持ちだけでは届かない
「教えない」藤沢周
沈黙が運ぶ言葉もある
「心を燃やす」松岡佑子
念じた気持ちは、言葉を超える
「モーニング・コール」田口ランディ
ふとしたことで、誰かつながる
「今から寝るよ」藤田宜永
誰かに伝わればいいな、この気持ち
「ありがちだけれど本当のもの」村山由佳
時を越えて、空間を超えて…
「雪が降ってきました」北村薫
届いた言葉がどんどん膨らむ
「『自分』は『自分』で充分です」松尾スズキ
悲しいなんて思いたくない
「白紙」高橋源一郎
伝わるはずの真っ白な言葉
「失恋メール」唯川恵
伝えたい、という想いで充分
「「打ち上げ」について」鴻上尚史
伝える手段で言葉が変わる
「朝日が向かっています」重松清
「ほんと、もう、まいっちゃいますよね…」なんていっちゃって
「小生、感激。」乙一
言葉の奥にいる人を想う
37話の内の15話。やっぱ結構お得なんじゃないかと思う。
中でもいいなと思ったのは、「教えない」藤沢周・「雪が降ってきました」北村薫・「朝日が向かっています」重松清の三作かな。どれも、短い話なのに、本当にはっとさせられるもので、文字数当たりの感動値でいえばギネス級ではないか、とも思います。
いい作品集です。表紙もなかなか綺麗で悪くないと思います。僕の働いている本屋では今積んでいますが、結構売れています。プレゼント用にする人もいたりしました。是非読んでみてください。
ダ・ヴィンチ編集部/編「君へ。―つたえたい気持ち三十七話―」
国境の南、太陽の西(村上春樹)
例えばこんなことを考えた。人は誰しもが恋をするだろう。誰かが誰かを好きになって、誰かは誰かに好かれる。そうした繰り返しが人を動かしている、と言っても言いすぎではないと思う。
恋に落ちた二人は、時間を掛けて溶け合っていく。自分の境界というものを少しずつ解放し、釣り合いを取ろうとするように相手を少しずつ取り込んでいく。始めは別個の存在だった二人は、言葉を体を交わすことによって、次第に一つの存在になっていく。それぞれの個の間に、二つの個が混じった層を持つ、一つの存在として。
しかし、出会えば別れるのも必然である。溶け合ったのと同じように、時間を掛けて別れることが出来ればそれはいい。二つの交じり合った個を、時間を掛けて引き離し、一つの存在だったものを二つに分けるには、きっと時間が掛かる。
しかし、時として、時間を掛けることが出来ずに別れなくてはいけないこともある。その場合、溶け合った部分をうまく分けることが出来ないまま別れることになる。別れてしばらくして、ようやく何かを考えられるようになった頃にようやく気付くかもしれない。あの人に渡してしまったあの部分は、本当は私のものだったのに…
そうして、自分の一部を相手に残してしまった、と感じたまま時を過ごす気分は、一体どんなものだろうか。そんなことを考えた。
例えばこんなことを考えた。自分の中に一つの井戸がある。考えられないほど大きく、不自然なくらい深い井戸だ。どこに通じているのかもわからないそんな井戸を僕は持っている。
その中には、何でも放り込むことができる。聞き取ることの出来なかった言葉、理解できない音楽、忘れたい記憶、つまらない物語、処理しきれない感情。抱えきれないもの、持っていたくないもの、いらないもの、不自然なもの、つまらないもの、気持ち悪いもの。とにかくそうした一切合財を全部放り込むことができる。
でも、そこから何かを取り出すことはできない。一度放り込んでしまえば、同じ物を取り出せない。放り込まなかったことを後悔することは出来ても、放り込んだことを後悔することはできない。
もし、そんな井戸を持っていたら、もっと生きやすいだろうか。それとも、余計に辛くなるだけだろうか。そんなことを考えた。
例えばこんなことを考えた。僕たちは、未来を知ることはできない。どんな選択肢が広がっていて、どこに向かっているのか。どうやったって、それを知ることはできない。
もし、自分の未来に、どんな選択肢が広がっているのか、あらかじめ知ることができるとしたらどうだろう。ただ、選択権はない。さいころを振って、さいころに全てを委ねることしかできない。選択肢はわかるけども選択権はない。もし、そんな人生を歩めるとしたら…
選択肢はなくてサイコロも振らない人生と、選択肢はあるけどサイコロを振らなくてはいけない人生と、一体どっちの方がより幸せなんだろうか。そんなことを考えた。
いい小説とはどんなものだろうか、と考える。
読み終わって、「楽しかった」と思える作品。僕はこういう作品が好きだ。純粋に、ただ楽しむだけに本を読む。かなりの贅沢だと僕は思う。その作品が、僕に何も残すことなく、何の影響も与えることなく、ただ単に「楽しかった」という印象しか与えないものであっても、その作品はぼくはいい小説だと思う。
一方で、読んでいろんなことを考える作品というのもある。こういう作品も僕は好きだ。読んでいると、明確な何かではないにしろ、少なくとも言葉で言い表せる程度の何かを考えることのできる作品。考えさせることで何かを残したり影響を与えたりする作品。そういう作品もまたいい小説だと思う。
特に、村上春樹の作品を読んでいると、いろんなことを考えることができる。それが、作品に沿ったものなのかどうか、あるいは、読んだ誰もが考えることなのか、それはまったくわからないけれども、少なくとも、彼の紡ぐ文章や物語は、僕に脈絡のない様々なことを思い起こさせる。
冒頭で書いたことも、本作を読んで感じたというか考えたことだ。その内容が、本作とどう繋がっているのか、正確に僕にも説明がつかない。それでも、こうした様々な連想やイメージを湧かせるのだから、いい作品だと思う。
本作は、村上春樹の作品にしたら、わかりやすいのではないかと思う。少なくとも、方向性はわかるし、輪郭も見定められると思う。もちろん、方向性がわかるからと言って方向がわかるわけでもないし、輪郭が定まったところでその内側について知れるわけでもないのだけれど。
割かしわかりやすくて、いい作品なんじゃないかと思う。
僕は、多く恋愛をしたわけではないし、というかほとんどしたことはないけれども、主人公が抱える焦燥や葛藤はなんとなくわかるように思う。僕と似ている、という風に読んでいて感じた。どこがどう、というのはわからないけど。
内容については、書けば書くほど本筋から離れそうな気がするからあまり書かないようにしようと思う。一人の男の、成長とともに失われていく何か、あるいは、大きくなっていく欠落。その消失の始まりから、いったんの凍結、そしてそれが解凍され、彼自身を飲み込んでいくような、そうした物語だ。
タイトルに句点がついているのがなんとなくいい。余りないと思う、と書こうと思ったが、先日読んだ、江國香織の「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」にも、タイトルに句点があったことを思い出す。でも、タイトルに句点がある、というのは結構いいんじゃないか、となんとなくそう思う。
村上春樹「国境の南、太陽の西」
壷中の天国(倉知淳)
妄想と現実、というものの差は一体なんだろう、と考える。
例えば僕は、こんなことを考えてみたことがある。人が見ている「色」は、それぞれ同じ物なんだろうか、と。人はそれぞれ、違う色に同一の名前を付けて、表面上矛盾していないだけで、例えば僕が見ている信号の色と、僕以外の人が見ている信号の色は、同じ「赤青黄」という言葉で表される色なんだけど、別物なんではないか、なんて風に考えたことがあります。
人の数だけ妄想がある、といってもいいでしょう。
僕の持っている妄想だとどんなものがあるだろう。僕は、世界中の人から嫌われている、という、非常に悲観的な妄想を持っている。僕の場合それは妄想だとわかっていて、現実ではそうはありえないだろう、ともまた思ってはいるんだけど、でもその妄想を手放すことはできない。僕が維持しているような「現実」と「妄想」の関係なら、周囲に特に影響を与えることはないだろうと思う。
オタクと呼ばれる人たちも、妄想を抱えていると言えると思います。自分の好きな人、キャラクター、対象を熱狂的に愛でたり応援したりする、というのも、ある種妄想の成せる技だと思います。
しかし、例えばUFOだ宇宙人だ幽霊だ、とかのたまう人は、妄想と現実の区別がつかなくなっているのだろうと思う。自らの「妄想」を現実であると取り違えて、本来の「現実」を塗り替えよう、とそうした行動をするようになると、もう危ない。
さらに、精神病や、麻薬などの中毒症状であるのが、「あいつが俺を狙っている」「あいつは俺のことを殺そうとしている」というような被害妄想です。こうなってくると、その人の中に「現実」は映っていないのだろうと思います。他者に危害を加えるようになっていくでしょう。
こう見ていくと、やはり妄想と現実というものの差はどんどんわからなくなっていくように思います。どちらがどのくらいの割合を占めているか、という問題であって、誰しもが妄想を抱えていることはきっと間違いないことでしょう。
本作にも、妄想に取り付かれた人が出てきます。こんなこと、あってもおかしくないかもしれないな、と実感できてしまうことが少し恐ろしくもあります。
さて、本作ですが、先に言っておきましょう。素晴らしいです。見事に精緻に出来ていて、恐ろしく奇跡的な作品のように僕には思えます。
内容に触れようと思います。
あるささやかで静かな地方都市。その街で暮らす主婦知子。娘の実歩と、父親の嘉臣の三人暮らし(実歩の父親はいない)。知子は、クリーニング屋の宅配で汗を流し、家では盆栽を愛でる。嘉臣は市役所に勤め、家では新聞やテレビのニュースを見ながら世相に文句を垂れる「義憤の人」となる。実歩は小学生で、知子とはいい親子関係を築いている。そんな、ささやかででも幸せな知子の生活は、街で起こる事件によって少しずつ変わっていく。
街で起きた殺人事件。その殺人事件に呼応するように流布される怪文書。そこには、「自分は、全知全能の存在から電波を受信しているので、妨害しないで欲しい」といった主旨の内容が、果てしなくわかりづらく表現されている。
初めこそ、怪文書と殺人に明確な関連性を見出せなかった人々も、第二第三と続発していく殺人と怪文書に、無関係とは思えなくなっていく。被害者同士の関連性をまったく見出すことができず、無差別の通り魔としか思えない犯行は、次第に街全体に不穏な空気を停滞させていく。
犯人は一体誰なのか?怪文書の目的は?被害者たちは何故殺されたのか?被害者の関連性は?
基本的に事件に対しては傍観者である知子は、最後まで傍観者であり続け、事件とは直接関わらないものの、事件の推移と影響を全身で感じ、その解決を待ち望んでいる…
さて、本作の素晴らしさをどう伝えればいいだろうか。
まずやはり、ミステリらしく、伏線が見事であるということ。解説氏も書いているように、伏線だけで作品の半分は使っているのではないか、というぐらいの内容です。最後まで読むと、面白いけど無関係だろうな、と思っていた部分が実は関係がある、というその見事さに驚愕です。
真相は、それをそのまま受け入れれば、なんだそりゃ、という類のものかもしれません。でも、読み終えたときにそんな感じは特に受けないだろうと思います。それは、作者の伏線の仕掛け方が見事だからだろうと思います。
僕がよく考えるのは、同じような内容を、他の作者が書いたらどうだろうか、ということです。本作のメインの部分を誰か他の作者が思いついて書いたとしても、ここまで見事なものはできないだろうと思います。それは、京極夏彦の「陰摩羅鬼の瑕」を読んだ時にも思いましたが、そういう点で本作は素晴らしい、と思います。
さて、本作の素晴らしいところは、それだけにとどまりません。何より素晴らしいのは、街や人や日常の描き方です。
本作は、基本的に、知子の日常を通して描かれます。事件の被害者が知り合いというわけではなく、また捜査関係者に知り合いがいるというわけでもなく、まして知子自身が探偵であるというわけでもなく、通り魔殺人の起きている街で、その事件を新聞やニュースで知り、家族や近所の人とその話をし、子供の心配をする、というまるきり傍観者としての関わりしかしません。
その知子の視点で語られる日常の変化、というものが素晴らしいです。通り魔殺人というものは、何も被害者や被害者家族だけに影響を与えるわけではないのです。その街に関わる全てのもの、地域や学校や商店や通りや子供たちやマスコミといった、そうしたもの全てが少しずつ奇妙に不本意に変容していき、その僅かな変容を、知子自身が、あるいは知子の周囲の人々の指摘によって、知ることができます。正直事件云々よりも、こうした点の方が面白いかもしれません(興味深さは事件の方が上ですが)。
さらに素晴らしいのは、著者が描くキャラクターたちです。主要な人物はもちろん、そこまで主要でない人物まで丁寧に描かれていて、素晴らしいです。
上で書いた知子、実歩、嘉臣だけでなく、他にも魅力的なキャラクターが豊富に取り揃っている。
知子の同級生であり、今は子供たちを集めて絵画教室なるものを開いている、美術大学を出た正太郎。美術系の大学の臨時講師以外に定職らしい定職は持たず、日がなぼんやりしている。ふにゃりとした印象で、空気の抜けた風船のような男だが、人とは違う視点で物事を見るのが、知子のお気に入りでもある。娘の実歩をその絵画教室に通わせていて、その迎えに行く際に、早めに言ってお茶を飲むような仲である。
同じく同級生である隈田。父から電気屋を受け継いだが大手チェーンに買収され、一応役員待遇だがやることはなく、仕方なく好きなラジコンを河原で飛ばしている。
知子の働くクリーニング屋の店主。発明好きで、いつも珍妙な発明ばかり考えている。知子に自分の発明の説明をしたくていつもうずうずしているのだが、ちゃんとした発明はあまり多くはない。
以前事情があり、知子の家に居候していた水島。常に何かを憂えているような仏頂面を崩すことのない男だが、根は生真面目でちゃんとしている。ある議員の事務所が発行している機関紙のようなものの記者をしており、何故か今街で起きている通り魔の取材をするようになった。
他にも、様々に素晴らしい人々が出てくる。田舎を離れた姉からの電話、というのは僕にとってはなるほどそういうこともあるだろうな、と思ったものだし、被害者たちを描いた部分でもおざなりではなくしっかりと描きこんでいる。素晴らしい。
つまり本作は、ミステリ的で精緻極まる伏線を、愛すべき登場人物や彼らの日常に見事に紛れ込ますことで成立したミステリだと言える。
また、特定の人物内からの犯人の指摘、という王道ではなく、街の中の誰か、という漠然とした範囲の中から犯人を指摘する点など、普通の力量の作家ではできないだろうと思う。
確かに、少し長い。けど、その長さゆえの面白さは間違いなくあります。是非読んで欲しい、と思います。
倉知淳「壷中の天国」
例えば僕は、こんなことを考えてみたことがある。人が見ている「色」は、それぞれ同じ物なんだろうか、と。人はそれぞれ、違う色に同一の名前を付けて、表面上矛盾していないだけで、例えば僕が見ている信号の色と、僕以外の人が見ている信号の色は、同じ「赤青黄」という言葉で表される色なんだけど、別物なんではないか、なんて風に考えたことがあります。
人の数だけ妄想がある、といってもいいでしょう。
僕の持っている妄想だとどんなものがあるだろう。僕は、世界中の人から嫌われている、という、非常に悲観的な妄想を持っている。僕の場合それは妄想だとわかっていて、現実ではそうはありえないだろう、ともまた思ってはいるんだけど、でもその妄想を手放すことはできない。僕が維持しているような「現実」と「妄想」の関係なら、周囲に特に影響を与えることはないだろうと思う。
オタクと呼ばれる人たちも、妄想を抱えていると言えると思います。自分の好きな人、キャラクター、対象を熱狂的に愛でたり応援したりする、というのも、ある種妄想の成せる技だと思います。
しかし、例えばUFOだ宇宙人だ幽霊だ、とかのたまう人は、妄想と現実の区別がつかなくなっているのだろうと思う。自らの「妄想」を現実であると取り違えて、本来の「現実」を塗り替えよう、とそうした行動をするようになると、もう危ない。
さらに、精神病や、麻薬などの中毒症状であるのが、「あいつが俺を狙っている」「あいつは俺のことを殺そうとしている」というような被害妄想です。こうなってくると、その人の中に「現実」は映っていないのだろうと思います。他者に危害を加えるようになっていくでしょう。
こう見ていくと、やはり妄想と現実というものの差はどんどんわからなくなっていくように思います。どちらがどのくらいの割合を占めているか、という問題であって、誰しもが妄想を抱えていることはきっと間違いないことでしょう。
本作にも、妄想に取り付かれた人が出てきます。こんなこと、あってもおかしくないかもしれないな、と実感できてしまうことが少し恐ろしくもあります。
さて、本作ですが、先に言っておきましょう。素晴らしいです。見事に精緻に出来ていて、恐ろしく奇跡的な作品のように僕には思えます。
内容に触れようと思います。
あるささやかで静かな地方都市。その街で暮らす主婦知子。娘の実歩と、父親の嘉臣の三人暮らし(実歩の父親はいない)。知子は、クリーニング屋の宅配で汗を流し、家では盆栽を愛でる。嘉臣は市役所に勤め、家では新聞やテレビのニュースを見ながら世相に文句を垂れる「義憤の人」となる。実歩は小学生で、知子とはいい親子関係を築いている。そんな、ささやかででも幸せな知子の生活は、街で起こる事件によって少しずつ変わっていく。
街で起きた殺人事件。その殺人事件に呼応するように流布される怪文書。そこには、「自分は、全知全能の存在から電波を受信しているので、妨害しないで欲しい」といった主旨の内容が、果てしなくわかりづらく表現されている。
初めこそ、怪文書と殺人に明確な関連性を見出せなかった人々も、第二第三と続発していく殺人と怪文書に、無関係とは思えなくなっていく。被害者同士の関連性をまったく見出すことができず、無差別の通り魔としか思えない犯行は、次第に街全体に不穏な空気を停滞させていく。
犯人は一体誰なのか?怪文書の目的は?被害者たちは何故殺されたのか?被害者の関連性は?
基本的に事件に対しては傍観者である知子は、最後まで傍観者であり続け、事件とは直接関わらないものの、事件の推移と影響を全身で感じ、その解決を待ち望んでいる…
さて、本作の素晴らしさをどう伝えればいいだろうか。
まずやはり、ミステリらしく、伏線が見事であるということ。解説氏も書いているように、伏線だけで作品の半分は使っているのではないか、というぐらいの内容です。最後まで読むと、面白いけど無関係だろうな、と思っていた部分が実は関係がある、というその見事さに驚愕です。
真相は、それをそのまま受け入れれば、なんだそりゃ、という類のものかもしれません。でも、読み終えたときにそんな感じは特に受けないだろうと思います。それは、作者の伏線の仕掛け方が見事だからだろうと思います。
僕がよく考えるのは、同じような内容を、他の作者が書いたらどうだろうか、ということです。本作のメインの部分を誰か他の作者が思いついて書いたとしても、ここまで見事なものはできないだろうと思います。それは、京極夏彦の「陰摩羅鬼の瑕」を読んだ時にも思いましたが、そういう点で本作は素晴らしい、と思います。
さて、本作の素晴らしいところは、それだけにとどまりません。何より素晴らしいのは、街や人や日常の描き方です。
本作は、基本的に、知子の日常を通して描かれます。事件の被害者が知り合いというわけではなく、また捜査関係者に知り合いがいるというわけでもなく、まして知子自身が探偵であるというわけでもなく、通り魔殺人の起きている街で、その事件を新聞やニュースで知り、家族や近所の人とその話をし、子供の心配をする、というまるきり傍観者としての関わりしかしません。
その知子の視点で語られる日常の変化、というものが素晴らしいです。通り魔殺人というものは、何も被害者や被害者家族だけに影響を与えるわけではないのです。その街に関わる全てのもの、地域や学校や商店や通りや子供たちやマスコミといった、そうしたもの全てが少しずつ奇妙に不本意に変容していき、その僅かな変容を、知子自身が、あるいは知子の周囲の人々の指摘によって、知ることができます。正直事件云々よりも、こうした点の方が面白いかもしれません(興味深さは事件の方が上ですが)。
さらに素晴らしいのは、著者が描くキャラクターたちです。主要な人物はもちろん、そこまで主要でない人物まで丁寧に描かれていて、素晴らしいです。
上で書いた知子、実歩、嘉臣だけでなく、他にも魅力的なキャラクターが豊富に取り揃っている。
知子の同級生であり、今は子供たちを集めて絵画教室なるものを開いている、美術大学を出た正太郎。美術系の大学の臨時講師以外に定職らしい定職は持たず、日がなぼんやりしている。ふにゃりとした印象で、空気の抜けた風船のような男だが、人とは違う視点で物事を見るのが、知子のお気に入りでもある。娘の実歩をその絵画教室に通わせていて、その迎えに行く際に、早めに言ってお茶を飲むような仲である。
同じく同級生である隈田。父から電気屋を受け継いだが大手チェーンに買収され、一応役員待遇だがやることはなく、仕方なく好きなラジコンを河原で飛ばしている。
知子の働くクリーニング屋の店主。発明好きで、いつも珍妙な発明ばかり考えている。知子に自分の発明の説明をしたくていつもうずうずしているのだが、ちゃんとした発明はあまり多くはない。
以前事情があり、知子の家に居候していた水島。常に何かを憂えているような仏頂面を崩すことのない男だが、根は生真面目でちゃんとしている。ある議員の事務所が発行している機関紙のようなものの記者をしており、何故か今街で起きている通り魔の取材をするようになった。
他にも、様々に素晴らしい人々が出てくる。田舎を離れた姉からの電話、というのは僕にとってはなるほどそういうこともあるだろうな、と思ったものだし、被害者たちを描いた部分でもおざなりではなくしっかりと描きこんでいる。素晴らしい。
つまり本作は、ミステリ的で精緻極まる伏線を、愛すべき登場人物や彼らの日常に見事に紛れ込ますことで成立したミステリだと言える。
また、特定の人物内からの犯人の指摘、という王道ではなく、街の中の誰か、という漠然とした範囲の中から犯人を指摘する点など、普通の力量の作家ではできないだろうと思う。
確かに、少し長い。けど、その長さゆえの面白さは間違いなくあります。是非読んで欲しい、と思います。
倉知淳「壷中の天国」
密林(鳥飼否宇)
えーと、あまり書くことは多くない。
言ってしまえば、例えば、大学の三流のミス研の部員が、企画で使うからと言われていやいや書いたようなミステリー、と言ってしまうとあまりにひどいだろうか?
特筆すべきことは何もありません。
強いて言うなら、著者が現役の「観察者」であるために、森を始めとする自然の描写は確かになかなかだけど、でもこれぐらいなら、こつこつ足で取材し、丁寧に描く作家なら普通ぐらいのレベルだろうと思う。
というわけで内容。
何とかという、ギネス級の成虫となればかなり高額の値段がつく昆虫の幼虫を探すために、沖縄の、しかも米軍基地の敷地内に無断で侵入している二人。昆虫が大好きな二人は、うち一人はまっとうなサラリーマンだが、もう一方は、先日会社を辞め、なら趣味を仕事にしよう、と思い立った男である。
あまりいい収穫のないまま、天候が徐々に怪しくなっていく。そんな時、迷彩服を着た黒人に遭遇する。一悶着あった後、宝の在り処を知っている、というその黒人に言に従って歩いている。
一方、猪狩りをするハンターは、どこからともなく仕入れて来た、ある米兵が隠したという宝の話を信じ、狩りを装って宝捜しを続けている。
そんな、黒人とハンターと昆虫採集の二人が一堂に会すとき、台風の接近する密林で、サバイバル宝探しが幕を開ける…
とまあそんな感じです。どうにもひねりのない暗号や、どうにも間抜けな登場人物や、抑揚のないストーリー展開や、そんな特に読みどころのない作品です。
まあ、読まなくていいと思います。
鳥飼否宇「密林」
言ってしまえば、例えば、大学の三流のミス研の部員が、企画で使うからと言われていやいや書いたようなミステリー、と言ってしまうとあまりにひどいだろうか?
特筆すべきことは何もありません。
強いて言うなら、著者が現役の「観察者」であるために、森を始めとする自然の描写は確かになかなかだけど、でもこれぐらいなら、こつこつ足で取材し、丁寧に描く作家なら普通ぐらいのレベルだろうと思う。
というわけで内容。
何とかという、ギネス級の成虫となればかなり高額の値段がつく昆虫の幼虫を探すために、沖縄の、しかも米軍基地の敷地内に無断で侵入している二人。昆虫が大好きな二人は、うち一人はまっとうなサラリーマンだが、もう一方は、先日会社を辞め、なら趣味を仕事にしよう、と思い立った男である。
あまりいい収穫のないまま、天候が徐々に怪しくなっていく。そんな時、迷彩服を着た黒人に遭遇する。一悶着あった後、宝の在り処を知っている、というその黒人に言に従って歩いている。
一方、猪狩りをするハンターは、どこからともなく仕入れて来た、ある米兵が隠したという宝の話を信じ、狩りを装って宝捜しを続けている。
そんな、黒人とハンターと昆虫採集の二人が一堂に会すとき、台風の接近する密林で、サバイバル宝探しが幕を開ける…
とまあそんな感じです。どうにもひねりのない暗号や、どうにも間抜けな登場人物や、抑揚のないストーリー展開や、そんな特に読みどころのない作品です。
まあ、読まなくていいと思います。
鳥飼否宇「密林」
極限推理コロシアム(矢野龍王)
こんな表現をするかはわからないけど、映画にも小説にも「パニック物」というのはあるだろうと思う。日常かけはなれたかなりの極限状況の中、いかにしてその状況を乗り切るか、というようなストーリー。
例えば高見高春「バトルロワイアル」という有名な作品も同じ部類に入るだろう。中学生が最後の一人になるまで殺し合いをしなくてはいけない。かなりの極限状況といえるだろう。
本作で与えられる状況も、かなりの極限状況であることは間違いない。「バトルロワイアル的」に、ゲーム感覚で人が殺されていく、という設定は、なかなかのものだ。
というわけで今回は、早速内容に入ろうと思う。
目が覚めたら、見知らぬ場所にいた。窓のないコンクリートの建物。唯一と思しき外との通路には鍵がかかっている。そんな場所に集められた7人の男女。
主催者からのパソコンを通じてのメッセージを読み、彼らは凍りついた。
まず、彼等7人がいるのは、「夏の館」と呼ばれる建物である。とすればもちろん「冬の館」もあるわけで、そちらにも同数7人の男女がいる、と伝えられる。両館のやり取りはパソコンを通じてしか行うことができない。
さて一体何が始まるのかと言えば、殺人だ。プレーヤーと名付けられた計14名の男女の中に2人の犯人役が紛れ込んでいる。犯人役はそれぞれの館の中で、プレーヤーを標的とした殺人を繰り返す。残された人々は、誰が犯人なのかを推理しなくてはならない。そういうゲームだ。
このゲームをもっとも難しくしている点がある。それは、自分のいる館の殺人を解決するだけではなく、同時に、相手の館の殺人も解決しなくてはいけない、というのが条件だ。それぞれのメンバーは、パソコンを通じてお互いの状況を教えあい、その情報を元に、相手の館でも解けていない事件を含めた両館の事件を同時に解決しなければいけないのだ。
相手が教える情報が正しいのか否か、判断のしようがない。判断できないからと言ってこちらの情報を出し惜しみすれば相手も口を閉ざすだろうし、そうすればお互い情報を得ることができない。相手に先を越されないよう与える情報に注意しながら、それでいて相手の館の情報をより多く得て、一刻も早く事件を解決しなくてはならない…
僕は、少し前に読んだ「硝子細工のマトリョーシカ」でもそうでしたが、こういう一発屋的な、でも奇抜で見事で最高の状況設定、というのに結構弱い。例えば、小説ではないけれども、福本伸行のマンガ「カイジ」の「じゃんけん」の奴、あの設定には僕は興奮したし感動もした。だから本作でまず与えられた状況設定にも、結構興奮した。圧倒的に相手館の情報の少ない中、二つの事件を同時に解決しなくてはいけない、という設定は、見事だと思う。
こういう場合、結構文章的には粗が目立ち(偉そうなことを言っていますが)、会話もうそ臭くて、というのが多くて、本作もそんな感じの小説ですが、でも状況が奇抜であればあれほど、僕としてはそういう部分は結構無視できます。
けど、始めの状況でのインパクト以降、特に目立った興奮は少なかったように思います。福井晴敏の「亡国のイージス」のように、まだそんな手があったか!みたいな、そんな状況の進め方、というのを期待していただけに、少し残念でした。
後、完全にというわけではないけど、真相の半分ぐらいに途中で気付いてしまいました。こんなことは結構珍しいんだけど、最後まで読んで、完全ではなかったけど、自分の仮説がなんとなく当たっていて、そこも少し残念なところだったかな、と思います(僕は、自分の知恵の及ばないような作品を求めています)。
まあ、退屈しのぎにさらっと読むには、悪くないと思います。確かドラマにもなった気がします。確かに、ドラマとはウマの合う作品だと思います。是非、とまではいきませんが、読んでみてもいいと思います。
矢野龍王「極限推理コロシアム」
例えば高見高春「バトルロワイアル」という有名な作品も同じ部類に入るだろう。中学生が最後の一人になるまで殺し合いをしなくてはいけない。かなりの極限状況といえるだろう。
本作で与えられる状況も、かなりの極限状況であることは間違いない。「バトルロワイアル的」に、ゲーム感覚で人が殺されていく、という設定は、なかなかのものだ。
というわけで今回は、早速内容に入ろうと思う。
目が覚めたら、見知らぬ場所にいた。窓のないコンクリートの建物。唯一と思しき外との通路には鍵がかかっている。そんな場所に集められた7人の男女。
主催者からのパソコンを通じてのメッセージを読み、彼らは凍りついた。
まず、彼等7人がいるのは、「夏の館」と呼ばれる建物である。とすればもちろん「冬の館」もあるわけで、そちらにも同数7人の男女がいる、と伝えられる。両館のやり取りはパソコンを通じてしか行うことができない。
さて一体何が始まるのかと言えば、殺人だ。プレーヤーと名付けられた計14名の男女の中に2人の犯人役が紛れ込んでいる。犯人役はそれぞれの館の中で、プレーヤーを標的とした殺人を繰り返す。残された人々は、誰が犯人なのかを推理しなくてはならない。そういうゲームだ。
このゲームをもっとも難しくしている点がある。それは、自分のいる館の殺人を解決するだけではなく、同時に、相手の館の殺人も解決しなくてはいけない、というのが条件だ。それぞれのメンバーは、パソコンを通じてお互いの状況を教えあい、その情報を元に、相手の館でも解けていない事件を含めた両館の事件を同時に解決しなければいけないのだ。
相手が教える情報が正しいのか否か、判断のしようがない。判断できないからと言ってこちらの情報を出し惜しみすれば相手も口を閉ざすだろうし、そうすればお互い情報を得ることができない。相手に先を越されないよう与える情報に注意しながら、それでいて相手の館の情報をより多く得て、一刻も早く事件を解決しなくてはならない…
僕は、少し前に読んだ「硝子細工のマトリョーシカ」でもそうでしたが、こういう一発屋的な、でも奇抜で見事で最高の状況設定、というのに結構弱い。例えば、小説ではないけれども、福本伸行のマンガ「カイジ」の「じゃんけん」の奴、あの設定には僕は興奮したし感動もした。だから本作でまず与えられた状況設定にも、結構興奮した。圧倒的に相手館の情報の少ない中、二つの事件を同時に解決しなくてはいけない、という設定は、見事だと思う。
こういう場合、結構文章的には粗が目立ち(偉そうなことを言っていますが)、会話もうそ臭くて、というのが多くて、本作もそんな感じの小説ですが、でも状況が奇抜であればあれほど、僕としてはそういう部分は結構無視できます。
けど、始めの状況でのインパクト以降、特に目立った興奮は少なかったように思います。福井晴敏の「亡国のイージス」のように、まだそんな手があったか!みたいな、そんな状況の進め方、というのを期待していただけに、少し残念でした。
後、完全にというわけではないけど、真相の半分ぐらいに途中で気付いてしまいました。こんなことは結構珍しいんだけど、最後まで読んで、完全ではなかったけど、自分の仮説がなんとなく当たっていて、そこも少し残念なところだったかな、と思います(僕は、自分の知恵の及ばないような作品を求めています)。
まあ、退屈しのぎにさらっと読むには、悪くないと思います。確かドラマにもなった気がします。確かに、ドラマとはウマの合う作品だと思います。是非、とまではいきませんが、読んでみてもいいと思います。
矢野龍王「極限推理コロシアム」
セイジ(辻内智貴)
人生の中で誰に出会うか。きっとそれによって人の人生は大きく変わることだろう。
自分にとって、出会えてよかったなと思える人。僕にもいる。それなりに親しかったり、それほど親しくなかったりと、いろいろだけど、そういう、仲のよさとはまた違う、何か引きつけられるような何かを持った人。これからの人生でどれだけ道が交錯するかはわからないけど、何らかの形で関係をもち続けていたい、とそう思う。
そして逆に、僕自身も、誰かにそう思われるような、「特別な」人間でいたい、とそうも思う。
そして本作のように、「語られる」ような存在になってみたい、とも思ったりする。
人は何故生きているのか?
本作は、ほのぼのとした文体ながら、しかし強烈にそれを問い掛ける。
きっとそれに答えられる人はいないだろう。というか、その質問にあっさり答えられる人を僕は信用しない。意味もわからないままとりあえず必死に生きてみて、その意味を必死で考えてみて、それでもその意味は掴めない。そのことを確認するために生きているのかもしれない。
わからないことを確認するために生きている。
誰もがそうやって苦しみながら、きっと生きている。何かを確かめるように友達に会い、壊れてしまうまで誰かを愛し、何かを引き出そうとするかのように言葉を交わす。
言葉の不確かさ、というのも、本作から感じたことだ。
今こうして僕は文章を書いている。でもその文章は、文章になった時点で、僕の書きたいことからかけ離れている。さらに読む人は、そのかけ離れた文章をさらにかけ離れて解釈する。
僕の言いたいことである「A」は、言葉にすると「B」になり、さらにそれを受け取る人間は「C」と捉える。言葉なんてそんなもんだし、それでも人は言葉を交わさずにはいられない。
僕にとって最高の贅沢というのは、何も言葉を交わすことなく誰かと繋がる、ということ。隣にいる存在を意識することなく、でも空間や時間以上の何かを共有すること。言葉を廃したコミュニケーションが成立する瞬間こそ贅沢であり、もしかしたらそれが「生きている」ことなのかもしれない、と今思いついた。
よくわからなくなったので、内容に入ろうと思う。
本作は中篇が二編収録された作品だ。どちらも、「出会い」と「生きること」をテーマにしている、と僕は思う。
それぞれ内容を紹介しようと思う。
「セイジ」
ぶらりと自転車の旅に出た僕は、人気のない道沿いにある寂れたドライブインで一夏を過ごすことになる。やる気のない店主と美しい経営者。店を切り盛りする常連客。そうした一風変わった空間に、かなり変わった仲間が集うそのドライブインに、僕は住み着くようになった。
店主の名が「セイジ」。何もかも全てがめんどくさい、というようなその態度に、言い様もない興味を惹かれた僕は、店を手伝いながら彼を観察するようになる。
「陸の魚」。「セイジ」のことをそう評した美しい経営者。彼が抱える孤独と、彼の目の前に広がる世界。ある一つの事件が、僕の胸に、灼きついて離れることのない強烈な印象を残すことに…
「セイジ」がぽつりと漏らす言葉が素晴らしい。中でも、
「百年ながらえるより、一瞬でいいから俺は生きたいと思うことがあるよ」
というセリフはかなり印象的だ。
「竜二」
20数年ぶりに再会した幼馴染。特に定職に就くわけでもなく、気が向けばストリートでギターを弾いているのが「竜二」。私は再会後も頻繁に彼に会うようになり、次第に彼の仲間とも仲良くなっていった。
「竜二」が過ごしてきた人生の断片。「竜二」と共に過ごした幼い頃の記憶。強く怖く、それでいて大好きな兄の存在。「竜二」を取り巻くさまざまな環境が彼に影響を与え今の彼を形作っていることを私は知る。
そうして迎えた一つの別れが、何かを変えていく…
「竜二」という男の断面がひどく切なく寂しく、それでいてどことなく力強いのが印象的です。彼が口にする、
「俺は未だに、あの川を飛べないで居るんだ」
というセリフはなかなか素敵だと思います。
どちらの作品も僕には、ドーナツを思い起こさせる。真ん中に空白があって、その周囲をドーナツのリングが囲む。パウダーシュガーのようなものもかかっているかもしれない。
その、ドーナツの空白そのものが「セイジ」であり「竜二」であり、彼らを様々な環境が取り巻いている。その世界に、「生きる」と言う名のパウダーが、少しずつ降り注がれ、積もっていく。そんな印象を与える物語です。
空白そのものである二人。どうしようもなく孤独で、どうしようもなく素敵な二人。生きるということを考えながら、青春と名付けてもいい切り取られた一瞬を堪能するには、結構いい作品だと思います。
辻内智貴「セイジ」
セイジハード
自分にとって、出会えてよかったなと思える人。僕にもいる。それなりに親しかったり、それほど親しくなかったりと、いろいろだけど、そういう、仲のよさとはまた違う、何か引きつけられるような何かを持った人。これからの人生でどれだけ道が交錯するかはわからないけど、何らかの形で関係をもち続けていたい、とそう思う。
そして逆に、僕自身も、誰かにそう思われるような、「特別な」人間でいたい、とそうも思う。
そして本作のように、「語られる」ような存在になってみたい、とも思ったりする。
人は何故生きているのか?
本作は、ほのぼのとした文体ながら、しかし強烈にそれを問い掛ける。
きっとそれに答えられる人はいないだろう。というか、その質問にあっさり答えられる人を僕は信用しない。意味もわからないままとりあえず必死に生きてみて、その意味を必死で考えてみて、それでもその意味は掴めない。そのことを確認するために生きているのかもしれない。
わからないことを確認するために生きている。
誰もがそうやって苦しみながら、きっと生きている。何かを確かめるように友達に会い、壊れてしまうまで誰かを愛し、何かを引き出そうとするかのように言葉を交わす。
言葉の不確かさ、というのも、本作から感じたことだ。
今こうして僕は文章を書いている。でもその文章は、文章になった時点で、僕の書きたいことからかけ離れている。さらに読む人は、そのかけ離れた文章をさらにかけ離れて解釈する。
僕の言いたいことである「A」は、言葉にすると「B」になり、さらにそれを受け取る人間は「C」と捉える。言葉なんてそんなもんだし、それでも人は言葉を交わさずにはいられない。
僕にとって最高の贅沢というのは、何も言葉を交わすことなく誰かと繋がる、ということ。隣にいる存在を意識することなく、でも空間や時間以上の何かを共有すること。言葉を廃したコミュニケーションが成立する瞬間こそ贅沢であり、もしかしたらそれが「生きている」ことなのかもしれない、と今思いついた。
よくわからなくなったので、内容に入ろうと思う。
本作は中篇が二編収録された作品だ。どちらも、「出会い」と「生きること」をテーマにしている、と僕は思う。
それぞれ内容を紹介しようと思う。
「セイジ」
ぶらりと自転車の旅に出た僕は、人気のない道沿いにある寂れたドライブインで一夏を過ごすことになる。やる気のない店主と美しい経営者。店を切り盛りする常連客。そうした一風変わった空間に、かなり変わった仲間が集うそのドライブインに、僕は住み着くようになった。
店主の名が「セイジ」。何もかも全てがめんどくさい、というようなその態度に、言い様もない興味を惹かれた僕は、店を手伝いながら彼を観察するようになる。
「陸の魚」。「セイジ」のことをそう評した美しい経営者。彼が抱える孤独と、彼の目の前に広がる世界。ある一つの事件が、僕の胸に、灼きついて離れることのない強烈な印象を残すことに…
「セイジ」がぽつりと漏らす言葉が素晴らしい。中でも、
「百年ながらえるより、一瞬でいいから俺は生きたいと思うことがあるよ」
というセリフはかなり印象的だ。
「竜二」
20数年ぶりに再会した幼馴染。特に定職に就くわけでもなく、気が向けばストリートでギターを弾いているのが「竜二」。私は再会後も頻繁に彼に会うようになり、次第に彼の仲間とも仲良くなっていった。
「竜二」が過ごしてきた人生の断片。「竜二」と共に過ごした幼い頃の記憶。強く怖く、それでいて大好きな兄の存在。「竜二」を取り巻くさまざまな環境が彼に影響を与え今の彼を形作っていることを私は知る。
そうして迎えた一つの別れが、何かを変えていく…
「竜二」という男の断面がひどく切なく寂しく、それでいてどことなく力強いのが印象的です。彼が口にする、
「俺は未だに、あの川を飛べないで居るんだ」
というセリフはなかなか素敵だと思います。
どちらの作品も僕には、ドーナツを思い起こさせる。真ん中に空白があって、その周囲をドーナツのリングが囲む。パウダーシュガーのようなものもかかっているかもしれない。
その、ドーナツの空白そのものが「セイジ」であり「竜二」であり、彼らを様々な環境が取り巻いている。その世界に、「生きる」と言う名のパウダーが、少しずつ降り注がれ、積もっていく。そんな印象を与える物語です。
空白そのものである二人。どうしようもなく孤独で、どうしようもなく素敵な二人。生きるということを考えながら、青春と名付けてもいい切り取られた一瞬を堪能するには、結構いい作品だと思います。
辻内智貴「セイジ」
セイジハード
泳ぐのに、安全でも適切でもありません It's not safe or suitable to swim.(江國香織)
言い訳から入ろうと思う。というか、宣言しよう。今回の感想は、いい訳しか書かないし、書けない。
まったくわからない。
僕には、この10編の物語がまったくわからなかった。何も感じられなかった、と言い換えてもいい。
僕は、必死で言い訳を考える。読みながら、理解しようと努めながら、一方で僕の頭の中ではずっと、言い訳を模索していた。初めて村上作品を読んだときのような、ぐるぐるとした混沌が僕を襲っている。
結局、男と女の違いなんだろう。
ありきたりでどうとでもなるものだけど、でもそうとしか思えない。
女性は、男の目には映らない物を見、男には表現できない何かを感じているのだろう。きっとそうに違いない。女性の目から見た何か。女性というフィルターを通してしか映らない何か。きっと、男の目からは、明るい場所で映写される映画のように、ぼんやりとして掴み所のない何かなのだろう。きっと、女性の目を通して見れば、何かが届くのだろうと思う。
僕は、方程式が違うのだろう、と思った。人は皆自分の中に方程式を抱えている。自分が見たものや感じたことを変数としてその方程式に入れ、導き出された結果を僕たちは認識しているのだろう、と。
きっと、男と女で決定的に違う部分が方程式の中にあるのだろう。本作の文章を変数にして入れた場合、女性の持つ方程式では解が出るけど、男の持つ方程式からは解が求まらない。そういう男女の違いの隙間を狙ったような、きっとそんな作品なんだろうと思う。
解説氏は、本作を濃縮されたジュースに例えた。読む人が、それぞれの濃さに割って楽しめばいいのだと。つまり、男の持つ「割り水」では、どうやってもおいしい濃度にはならないのだろう。男女における「割り水」の違い。
あまりにも短い、物語と名付けるのに少し躊躇してしまうような短編集。まさしく瞬間を切り取ったような作品。
その中では、僕の貧弱な語彙から選ぶとすれば、「真っ直ぐではない恋愛」が描かれている。外から見れば明らかに歪んでいるその状況に対し女性たちは、複雑なものを丸呑みするように、そして、見えなくなれば問題は解決すると信じているかのように、そんな不思議な関係を保っている。
何かを過ぎらせる瞬間。
過去を公開する瞬間。
愛していることを確認する瞬間。
相手との距離を確かめる瞬間。
変わってしまったことに驚く瞬間。
そんな、恋愛を通じて訪れる、不可思議ででも大切な瞬間。その瞬間を女性の視点から切り取っている。そう思う。
泳ぐのに、安全でも適切でもない場所で、そこにいることが危険であることがわかっていながら、溺れてしまう可能性だって、水面から顔を出すことが出来なくなるかもしれないのもわかった上で、なおそこにい続けようとする女性たち。愛にだけは躊躇わない、あるいは躊躇わなかった女たち。彼女たちは、愛に躊躇わなかったことで、何を得、何を失ったのか…もちろん僕にはわかりません。
いつもなら、それぞれの短編を紹介するのですが、本作についてはそれができる自信がまるでありません。なので、10編のタイトルだけ書き並べて、今回は終わりたいと思います。ちょっとだけ悔しい。別の江國作品でなんとか挽回したいと思っています。
ちなみに、いつもはこういうことはあまり書かないのですが、本作は山本周五郎賞を受賞しています。賞を取っている作品が必ずしもいいわけではないのでしょうが、一般に評価されているし、文庫も売れているので、きっと読んだ人は共感できているのだろう、と思っています。
「泳ぐのに、安全でも適切でもありません It's not safe or suitable to swim.」
「うんとお腹をすかせてきてね We masut be famished.」
「サマーブランケット Summer blanket」
「りんご追分 Ringo oiwake」
「うしなう Missing」
「ジェーン Jane」
「動物園 Zoo」
「犬小屋 Kennel」
「十日間の死 Death for 10 days」
「愛しい人が、もうすぐここにやってくる He is on the way.」
江國香織「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」
中空(鳥飼否宇)
本来ならばここで、「荘子」や「老子」や「老荘思想」などについて述べ、その感想を披瀝するべきなのだろうが、あいにくと僕にはその方面の知識はない。しかし本作を読んで、京極夏彦の「鉄鼠の檻」を読んで禅に興味を持ったように、「老荘思想」に興味を持ったことは間違いありません。
何かを信じる、というのは、不謹慎ながら僕には「宗教」という概念しか当てはまりません。哲学を信奉するのも、科学を追究することも、法律によって裁くことも、僕にとっては一概に「宗教」という括りでしかありません。やはりそこには、ある種の蔑視感情があるのでしょう。僕自身何かを特別信じて生きているわけではないので、その裏返しとして、何かを信じに信じ、それに縋って生きている状態に、何かしらの嫌悪を感じてしまうのだろうと思います。
本作では、僕にはあまり馴染みのない中国の哲学思想である「老荘思想」を信じた集落が登場します。縛られていると言ってもいいだろうと思います。現代社会で法律があるように、その集落には「老荘思想」がある。少しだけ京極夏彦の作品に似ているように思うし、高田崇文の作品にかなり近いのではないか、と思います。
植物を見る著者の視点もかなり面白いと思います。都合上著者の経歴を先に書くと、著者は大学卒業後就職した出版社に20年近く勤めた後退職し、今は奄美大島で植物を観察しながら過ごす、晴耕雨読のような生活をしています。その傍らで執筆した本作で横溝正史ミステリ大賞を受賞し、デビューしたわけです。
本作に出てくる所謂探偵役は、まさに著者の生き写しのような設定で、ワトソン役のカメラマンも植物専門のカメラマンときています。日頃から「ウォッチャー」として植物を観察しているからでしょう。植物に対する愛着が伝わってくるような作品でもあります。
そしてもう一つ重要なテーマである「竹」。本作のタイトル「中空」も、作中で交わされた「竹の中は中空である」という主旨の会話から取られたものであるし(もちろん他の意もあるけれど)、竹取物語にも絡められています。二人を舞台へと導くのも、その竹です。
何十年に一度開花するという竹の花。その花が今咲いている場所があると聞きつけたカメラマン猫田は、知り合いの「自然観察者(ウォッチャー)」である鳶山を連れて、竹茂村へとやってきた。そこは、「老荘思想」の根付く土地で、狭い敷地に七世帯十数人が暮らす村であった。外との交流を極力最小限に保ち、残りを自給自足で賄う自適の生活。
しかし、そんな村にも過去、忌まわしい出来事が起きていたことを二人は知る。元は八世帯だった集落の一世帯が無くなり、無関係な人々も多く死に被害を被った大量殺人事件。無くなった一世帯はその集落のかつての村長の家であり、今は村長代理が村を仕切っている。
狭い人間関係、村に染み渡る「老荘思想」、外界とは違う村のしきたり、閉鎖された空間、忌まわしい過去の記憶、咲き誇る竹の花。
少しずつ異質さが二人に染むこむ中、悲劇は起こった。正座した姿勢で腹部に矢が刺さり、首を切断された無残な死体が発見された。村のならず者と思われている若者が犯人と思われるのだが、以降も次々と人が死んでいく…
異質さに彩られた狭い集落の中で、一体誰が何のために殺人を犯すのか…?思想と論理によって倒錯した狂気が村を覆う物語…
舞台の設定はなかなかのものだと思います。選考委員も評価しているように、「老荘思想」とミステリの融合は目新しいし(多少京極夏彦的ではあるけれど)、村の異質さが少しずつ明らかになる描写は悪くないと思います。それに、悉く「竹」というモチーフに彩られた本作は、竹の成長のように急激に展開し、竹のしなやかさのように事象が相対的で、竹の花のように奇抜、と作品自体が「竹」の性質を帯びているかのような気もします。舞台設定や背景は申し分ないと思います。
ただ、ミステリとして本作を見たときに、どうにも粗が目立つように思います。僕には、最後の真相がどうにもすわりが悪いです。別に納得できないわけではなくて、与えられた事象を説明してはいるのですが、その真相で締めくくるつもりならば、もっと描かなくてはいけないことがあるのではないか、という気がするのです。何度も引き合いに出すけれども、京極夏彦の場合、どんなに真相がありえないことでも、彼の描く背景や設定の元では納得してしまうように描かれているのに対し、本作の真相は唐突に思えて仕方ないし、あそこまで植物や「老荘思想」に根付く村の設定を細かくやったのだから、その真相に至る道筋にも、もっとしっかりした背景がほしいところだ、と感じました。本作のままでは、どうにも荒唐無稽、という感じが否めません。
軽妙で洒脱な人物描写は悪くないと思います。本作のコンビはまた別の作品で出てくるようなので、著者の評価も含めて、今後に期待しようと思います。
鳥飼否宇「中空」
何かを信じる、というのは、不謹慎ながら僕には「宗教」という概念しか当てはまりません。哲学を信奉するのも、科学を追究することも、法律によって裁くことも、僕にとっては一概に「宗教」という括りでしかありません。やはりそこには、ある種の蔑視感情があるのでしょう。僕自身何かを特別信じて生きているわけではないので、その裏返しとして、何かを信じに信じ、それに縋って生きている状態に、何かしらの嫌悪を感じてしまうのだろうと思います。
本作では、僕にはあまり馴染みのない中国の哲学思想である「老荘思想」を信じた集落が登場します。縛られていると言ってもいいだろうと思います。現代社会で法律があるように、その集落には「老荘思想」がある。少しだけ京極夏彦の作品に似ているように思うし、高田崇文の作品にかなり近いのではないか、と思います。
植物を見る著者の視点もかなり面白いと思います。都合上著者の経歴を先に書くと、著者は大学卒業後就職した出版社に20年近く勤めた後退職し、今は奄美大島で植物を観察しながら過ごす、晴耕雨読のような生活をしています。その傍らで執筆した本作で横溝正史ミステリ大賞を受賞し、デビューしたわけです。
本作に出てくる所謂探偵役は、まさに著者の生き写しのような設定で、ワトソン役のカメラマンも植物専門のカメラマンときています。日頃から「ウォッチャー」として植物を観察しているからでしょう。植物に対する愛着が伝わってくるような作品でもあります。
そしてもう一つ重要なテーマである「竹」。本作のタイトル「中空」も、作中で交わされた「竹の中は中空である」という主旨の会話から取られたものであるし(もちろん他の意もあるけれど)、竹取物語にも絡められています。二人を舞台へと導くのも、その竹です。
何十年に一度開花するという竹の花。その花が今咲いている場所があると聞きつけたカメラマン猫田は、知り合いの「自然観察者(ウォッチャー)」である鳶山を連れて、竹茂村へとやってきた。そこは、「老荘思想」の根付く土地で、狭い敷地に七世帯十数人が暮らす村であった。外との交流を極力最小限に保ち、残りを自給自足で賄う自適の生活。
しかし、そんな村にも過去、忌まわしい出来事が起きていたことを二人は知る。元は八世帯だった集落の一世帯が無くなり、無関係な人々も多く死に被害を被った大量殺人事件。無くなった一世帯はその集落のかつての村長の家であり、今は村長代理が村を仕切っている。
狭い人間関係、村に染み渡る「老荘思想」、外界とは違う村のしきたり、閉鎖された空間、忌まわしい過去の記憶、咲き誇る竹の花。
少しずつ異質さが二人に染むこむ中、悲劇は起こった。正座した姿勢で腹部に矢が刺さり、首を切断された無残な死体が発見された。村のならず者と思われている若者が犯人と思われるのだが、以降も次々と人が死んでいく…
異質さに彩られた狭い集落の中で、一体誰が何のために殺人を犯すのか…?思想と論理によって倒錯した狂気が村を覆う物語…
舞台の設定はなかなかのものだと思います。選考委員も評価しているように、「老荘思想」とミステリの融合は目新しいし(多少京極夏彦的ではあるけれど)、村の異質さが少しずつ明らかになる描写は悪くないと思います。それに、悉く「竹」というモチーフに彩られた本作は、竹の成長のように急激に展開し、竹のしなやかさのように事象が相対的で、竹の花のように奇抜、と作品自体が「竹」の性質を帯びているかのような気もします。舞台設定や背景は申し分ないと思います。
ただ、ミステリとして本作を見たときに、どうにも粗が目立つように思います。僕には、最後の真相がどうにもすわりが悪いです。別に納得できないわけではなくて、与えられた事象を説明してはいるのですが、その真相で締めくくるつもりならば、もっと描かなくてはいけないことがあるのではないか、という気がするのです。何度も引き合いに出すけれども、京極夏彦の場合、どんなに真相がありえないことでも、彼の描く背景や設定の元では納得してしまうように描かれているのに対し、本作の真相は唐突に思えて仕方ないし、あそこまで植物や「老荘思想」に根付く村の設定を細かくやったのだから、その真相に至る道筋にも、もっとしっかりした背景がほしいところだ、と感じました。本作のままでは、どうにも荒唐無稽、という感じが否めません。
軽妙で洒脱な人物描写は悪くないと思います。本作のコンビはまた別の作品で出てくるようなので、著者の評価も含めて、今後に期待しようと思います。
鳥飼否宇「中空」
忘れ雪(新堂冬樹)
昔々にした、未だ叶えられていない約束。忘れてしまった約束。そんな約束をあなたは抱えていませんか?
約束は破るためにある、なんていう言葉があるけど、やはりそれは違うと僕は思います。するからには守るべきだというのが僕の考えです。
でも、時として人は、軽々しく約束をしてしまうものなのだろう。あまりにも荒唐無稽な、あるいは、あまりにも先の約束に対しては、深く考えることなく返事をしてしまうものなのかもしれない。
本作の主人公のように。
運命というものがあるのならば、彼らに与えられた運命はなかなかに悲惨に過ぎる。どこまでも救いようのない運命に翻弄される、というその点だけが、180度作風の変わった本作の、新堂冬樹らしいところと言えるだろう。
内容に入ろうと思う。
高校生であり、獣医の父を持つ桜木。小学生で、両親を無くし叔父に引き取られるも、さらに事情があり親戚へとたらいまわしにされる運命の深雪。二人を引き合わせたのは、一匹の仔犬だった。
怪我をした仔犬を見つけた深雪。春間際に降る「忘れ雪」に震えている仔犬を見て少女は母の言葉を思い出す。
「忘れ雪に願い事をすれば必ず叶う」
彼女はそれを信じ、忘れ雪に、仔犬を助けて、と願った。
そこに通りかかった桜木。彼は、将来獣医師になるつもりであり、動物の治療には慣れていた。少女の青年に対する憧れなどに気付くわけもなく、その日以降も二人は、出会った公園で毎日のように会うようになった。
少女が東京を離れ、京都に行かなくてはならない日。お小遣いをためて買ったおもちゃの指輪を手に公園に向かった彼女は、勇気を振り絞ってこういった。
「あなたが獣医師になる7年後、出会った日に出会った場所で、あなたは私に結婚を申し込むの」
青年は約束した。
それからかなりの時を経たある日。若くして院長になった桜木は、偶然通りかかった公園から駆け寄ってくる一匹の成犬を目にする。飼い主らしき女性。怪我をした犬を治療することから始まる二人の関係。
あの日の約束忘れてしまった一人の男と、あの日の約束だけを胸に生きてきた一人の女。あらゆる人を巻き込んで、あらゆる人を傷つけながら、近づこうとしてそれでも擦れ違う。運命の悪戯に振り回される二人の物語…
状況設定はかなり王道で、ありきたりのドラマを見ているような感じだったけど、でも、こういう作品を読みなれていない僕としては、まあまあかなと思った。それぞれの人間の個性がかなりちゃんと描かれているし、解説氏も触れていたけど、情景描写が視覚的で繊細な感じはした。
特に、主人公二人の、桜木と深雪の描かれ方は、結構いいかなと思った。桜木という男にやきもきするけど、でもまあ確かに、結構昔の約束を覚えているのも難しいのかもしれない。
ただ、後半に行くに連れて新堂冬樹らしさが出てきたのは、ちょっとどうかな、って感じがする。説明すると、新堂冬樹という作家は、基本的にはノアールというか、暗黒系というか、地下系の話を書く作家で、本作は著者初の恋愛小説なわけです。確かにそのギャップは結構新鮮だけど、でもな…って感じはする。
確かに、決して悪い作品ではないけど、ほんとに、有名な役者の出てくる前評判の高いドラマを見ている、というのが正直な感想です。
まあ、古本屋で300円ぐらいだったら、買って損する事はない作品だと思います。
新堂冬樹「忘れ雪」
約束は破るためにある、なんていう言葉があるけど、やはりそれは違うと僕は思います。するからには守るべきだというのが僕の考えです。
でも、時として人は、軽々しく約束をしてしまうものなのだろう。あまりにも荒唐無稽な、あるいは、あまりにも先の約束に対しては、深く考えることなく返事をしてしまうものなのかもしれない。
本作の主人公のように。
運命というものがあるのならば、彼らに与えられた運命はなかなかに悲惨に過ぎる。どこまでも救いようのない運命に翻弄される、というその点だけが、180度作風の変わった本作の、新堂冬樹らしいところと言えるだろう。
内容に入ろうと思う。
高校生であり、獣医の父を持つ桜木。小学生で、両親を無くし叔父に引き取られるも、さらに事情があり親戚へとたらいまわしにされる運命の深雪。二人を引き合わせたのは、一匹の仔犬だった。
怪我をした仔犬を見つけた深雪。春間際に降る「忘れ雪」に震えている仔犬を見て少女は母の言葉を思い出す。
「忘れ雪に願い事をすれば必ず叶う」
彼女はそれを信じ、忘れ雪に、仔犬を助けて、と願った。
そこに通りかかった桜木。彼は、将来獣医師になるつもりであり、動物の治療には慣れていた。少女の青年に対する憧れなどに気付くわけもなく、その日以降も二人は、出会った公園で毎日のように会うようになった。
少女が東京を離れ、京都に行かなくてはならない日。お小遣いをためて買ったおもちゃの指輪を手に公園に向かった彼女は、勇気を振り絞ってこういった。
「あなたが獣医師になる7年後、出会った日に出会った場所で、あなたは私に結婚を申し込むの」
青年は約束した。
それからかなりの時を経たある日。若くして院長になった桜木は、偶然通りかかった公園から駆け寄ってくる一匹の成犬を目にする。飼い主らしき女性。怪我をした犬を治療することから始まる二人の関係。
あの日の約束忘れてしまった一人の男と、あの日の約束だけを胸に生きてきた一人の女。あらゆる人を巻き込んで、あらゆる人を傷つけながら、近づこうとしてそれでも擦れ違う。運命の悪戯に振り回される二人の物語…
状況設定はかなり王道で、ありきたりのドラマを見ているような感じだったけど、でも、こういう作品を読みなれていない僕としては、まあまあかなと思った。それぞれの人間の個性がかなりちゃんと描かれているし、解説氏も触れていたけど、情景描写が視覚的で繊細な感じはした。
特に、主人公二人の、桜木と深雪の描かれ方は、結構いいかなと思った。桜木という男にやきもきするけど、でもまあ確かに、結構昔の約束を覚えているのも難しいのかもしれない。
ただ、後半に行くに連れて新堂冬樹らしさが出てきたのは、ちょっとどうかな、って感じがする。説明すると、新堂冬樹という作家は、基本的にはノアールというか、暗黒系というか、地下系の話を書く作家で、本作は著者初の恋愛小説なわけです。確かにそのギャップは結構新鮮だけど、でもな…って感じはする。
確かに、決して悪い作品ではないけど、ほんとに、有名な役者の出てくる前評判の高いドラマを見ている、というのが正直な感想です。
まあ、古本屋で300円ぐらいだったら、買って損する事はない作品だと思います。
新堂冬樹「忘れ雪」
生首に聞いてみろ(法月綸太郎)
首の切断、というのは、時代や洋の東西を問わず、あらゆるミステリで盛んに扱われてきたテーマである。ありきたりのトリックから、複雑に入り組んだものまで、そのバリエーションは恐らく限りなくあることだろう。現実の世界ではほとんど首の切断された死体など見つからないだろうし、見つかったとしても犯人の異常性が協調されるだけのことだけれども、ミステリの中ではとにかく、「何故首が切断されたのか?」というその一点に、明確に論理的な解答を与えなくてはいけない、というのが、長い間に確立されたルールである。僕もいろいろミステリを読んできたし、その中に首切りのものもそれなりにあったけど、密室と同じで、何故そうなったか、何故そうしなければいけなかったのか、という点が重要なことに変わりはない。
ましてそれが、生命のない、ただの石膏像だったとしたら、その目的は遥かに不明だろう。今回の物語は、そういうものだ。
そういうミステリ的な部分は後で感想を書くとして、本作を読んで思ったのは、なかなかにクラシカルだな、ということだ。芸術、しかも、それほど馴染みのない石膏像というものが扱われているからかもしれないが、殺人事件が扱われているのに、全編クラシックの音楽が掛かっていても不自然ではないような、なんとなくそんな感じの作品だった。
早速内容に入ろうかと思う。
作家であり、警視の父を持つ法月綸太郎は、友人の写真展で偶然、昔からの知り合い翻訳家の姪と知り合う。美術関係の学校に通い、カメラにはまりはじめた姪は、日本を代表する芸術家の娘だった。その芸術家である父親は、大病を患っているが、回顧展へ出展する最後の作品を作成するために、娘をモデルにして石膏像を製作している。
ここで、石膏像の制作について少し触れよう。
モデルの体に直接、石膏に浸したガーゼを巻き、固まるのをまって切り出したものが雌型となる。アウトサイド・キャスティングは、その雌型を繋ぎ合わせて作品とするが、インサイド・キャスティングは、その雌型を繋ぎ合わせたものに再度石膏を流しいれて出来た雄型を作品とする。
どちらの手法にしても、型取りの際に、モデルは目を開けていることは出来ないため、出来上がる作品は常に目の閉じた「祈り」を髣髴とさせるものになる。父親はそのジレンマから抜け出すために出来上がった象に手を加えて目の部分を作成したことがあったが、見るも無残な作品になってしまい、それ以来石膏像の作成からは手を引いていたが、今回その封印を破って最後の作品に臨んでいる。
父親が製作していたのはそのインサイド・キャスティングの方の作品である。
さて、石膏像が出来上がるのと同時に父親は死んだ。石膏像の完成を姪が確認してからしばらくして、その石膏像の首が切断されているのが発見される。
石膏像のモデルである姪への殺人予告ではないか…そう恐れた友人の翻訳家が法月に調査を依頼したのだが…
まず、非常に精緻で論理的である。もちろん、大概のミステリはそうだし、そうでなければ評価はされないだろうけど、確かに、本格ミステリの初頭を支えた大御所であるだけに、ミステリ的な部分における論理性はかなり高い。わずかの隙間も許されないような、石造りの橋職人のような、そんな繊細さがある。
石膏像の首の切断の理由についても、物語が見事に収束していくとともに、なるほど、と納得できる。首の切断を巡ってのあらゆる仮説もおざなりではなく、最終的には否定されるそれらの仮説も、真相と同様の緻密さと説得力を持っていて、なるほど確かに見事なものだ、と思った。
それでも何か物足りない気がしてしまうのは、本作に与えられた数々の評価が、僕に過大評価をさせたからだろうか?
本作は、昨年のミステリ界の話題をかっさらった作品だと言える。前々年の話題をかっさらった「葉桜~」とほぼまったく同じ評価、つまり、このミス1位・文春2位・本格ミステリ1位・本格ミステリ大賞受賞。これだけの評価を本作は受けている。
しかし、どうにもそこまでのインパクトはないような気がしてならない。論理の緻密さだけが評価されているのであれば、多少、過大評価の感は否めないように、僕には感じられる。もちろん、悪いと言っているわけではないのだけれど、なんか物足りない気がしてしまうのだ。
ちなみに僕は、他の法月作品を読んだことはない。紛れもなく本作が初めてだ。著者と同名の探偵が出てくることも、警視の父を持ち、捜査情報を容易に手に入れられる立場にいることも(著者がエラリー・クイーンに心酔しており、その同様の設定を借り受けている、ということだったように思う)知っているのだけど、その辺のリアリティ云々は別としても、どうにも、探偵法月綸太郎が間抜けに描かれすぎているように思えてならない。人間らしいといえばそうだけど、なんか引っかかった。
もちろん、これだけ評価されている作品です。悪いということは決してありません。ですが、そこまでの作品か?と疑いたくなる作品でもあります。著者の新刊を待ちわびていたファンの期待を反映した評価のような気もしまう。まあ、機会があれば読んでみてください、というぐらいでしょうか。
法月綸太郎「生首に聞いてみろ」
ましてそれが、生命のない、ただの石膏像だったとしたら、その目的は遥かに不明だろう。今回の物語は、そういうものだ。
そういうミステリ的な部分は後で感想を書くとして、本作を読んで思ったのは、なかなかにクラシカルだな、ということだ。芸術、しかも、それほど馴染みのない石膏像というものが扱われているからかもしれないが、殺人事件が扱われているのに、全編クラシックの音楽が掛かっていても不自然ではないような、なんとなくそんな感じの作品だった。
早速内容に入ろうかと思う。
作家であり、警視の父を持つ法月綸太郎は、友人の写真展で偶然、昔からの知り合い翻訳家の姪と知り合う。美術関係の学校に通い、カメラにはまりはじめた姪は、日本を代表する芸術家の娘だった。その芸術家である父親は、大病を患っているが、回顧展へ出展する最後の作品を作成するために、娘をモデルにして石膏像を製作している。
ここで、石膏像の制作について少し触れよう。
モデルの体に直接、石膏に浸したガーゼを巻き、固まるのをまって切り出したものが雌型となる。アウトサイド・キャスティングは、その雌型を繋ぎ合わせて作品とするが、インサイド・キャスティングは、その雌型を繋ぎ合わせたものに再度石膏を流しいれて出来た雄型を作品とする。
どちらの手法にしても、型取りの際に、モデルは目を開けていることは出来ないため、出来上がる作品は常に目の閉じた「祈り」を髣髴とさせるものになる。父親はそのジレンマから抜け出すために出来上がった象に手を加えて目の部分を作成したことがあったが、見るも無残な作品になってしまい、それ以来石膏像の作成からは手を引いていたが、今回その封印を破って最後の作品に臨んでいる。
父親が製作していたのはそのインサイド・キャスティングの方の作品である。
さて、石膏像が出来上がるのと同時に父親は死んだ。石膏像の完成を姪が確認してからしばらくして、その石膏像の首が切断されているのが発見される。
石膏像のモデルである姪への殺人予告ではないか…そう恐れた友人の翻訳家が法月に調査を依頼したのだが…
まず、非常に精緻で論理的である。もちろん、大概のミステリはそうだし、そうでなければ評価はされないだろうけど、確かに、本格ミステリの初頭を支えた大御所であるだけに、ミステリ的な部分における論理性はかなり高い。わずかの隙間も許されないような、石造りの橋職人のような、そんな繊細さがある。
石膏像の首の切断の理由についても、物語が見事に収束していくとともに、なるほど、と納得できる。首の切断を巡ってのあらゆる仮説もおざなりではなく、最終的には否定されるそれらの仮説も、真相と同様の緻密さと説得力を持っていて、なるほど確かに見事なものだ、と思った。
それでも何か物足りない気がしてしまうのは、本作に与えられた数々の評価が、僕に過大評価をさせたからだろうか?
本作は、昨年のミステリ界の話題をかっさらった作品だと言える。前々年の話題をかっさらった「葉桜~」とほぼまったく同じ評価、つまり、このミス1位・文春2位・本格ミステリ1位・本格ミステリ大賞受賞。これだけの評価を本作は受けている。
しかし、どうにもそこまでのインパクトはないような気がしてならない。論理の緻密さだけが評価されているのであれば、多少、過大評価の感は否めないように、僕には感じられる。もちろん、悪いと言っているわけではないのだけれど、なんか物足りない気がしてしまうのだ。
ちなみに僕は、他の法月作品を読んだことはない。紛れもなく本作が初めてだ。著者と同名の探偵が出てくることも、警視の父を持ち、捜査情報を容易に手に入れられる立場にいることも(著者がエラリー・クイーンに心酔しており、その同様の設定を借り受けている、ということだったように思う)知っているのだけど、その辺のリアリティ云々は別としても、どうにも、探偵法月綸太郎が間抜けに描かれすぎているように思えてならない。人間らしいといえばそうだけど、なんか引っかかった。
もちろん、これだけ評価されている作品です。悪いということは決してありません。ですが、そこまでの作品か?と疑いたくなる作品でもあります。著者の新刊を待ちわびていたファンの期待を反映した評価のような気もしまう。まあ、機会があれば読んでみてください、というぐらいでしょうか。
法月綸太郎「生首に聞いてみろ」
エンジェルエンジェルエンジェル(梨木香歩)
どうにも掴み所のない作品だ。今回の感想はたぶん短い。
話としては、ミステリ的で、全然いいと思ったけど、でも本作はミステリとして書かれているわけではないんですね。児童文学、というのが大体の分類で、ということは、児童にもきっと伝わる何かがあるはず、と思っていたりするんだけど、言葉にして表現できるような何かを掴むことはできませんでした。
そう、なんとなく、漠然とした、あやふやで、不確かな印象なら、なんとなくある。でもはっきりしないからもどかしい。
というわけで、内容に行こうと思う。
痴呆症(認知症)らしき症状を見せるおばあちゃんを介護することになった一家。その家の娘とおばあちゃんとの物語である。
娘は、おばあちゃんの深夜のトイレを母から交代することで、熱帯魚を飼うことを許された。楽しみに観察していた。ある日を境におばあちゃんもよく水槽前にいるようになって、話をするようになった。しかし、その水槽の中では徐々に不穏な空気が流れるようになる。それとともに、おばあちゃんの様子もだんだんおかしくなっていく…おばあちゃんの悲しい過去と結びついたその奇行の意味を読者だけが知る…
どうにも、こんな感じです。短い物語なのに、おばあちゃんの人柄なんかがうまく出ていて、そういうところは児童文学を書いているだけのことはある、となんとなくそう思いました。
本作では、「エンジェル」というのが一つのシンボルになっていて、至る所に出てきます。「エンジェル」に彩られた(というと大げさですが)作品です。
まあ、短いしすぐ読めるので、なんとなく手にとってみる、というのはまあ悪くはないかな、と思います。
梨木香歩「エンジェルエンジェルエンジェル」
話としては、ミステリ的で、全然いいと思ったけど、でも本作はミステリとして書かれているわけではないんですね。児童文学、というのが大体の分類で、ということは、児童にもきっと伝わる何かがあるはず、と思っていたりするんだけど、言葉にして表現できるような何かを掴むことはできませんでした。
そう、なんとなく、漠然とした、あやふやで、不確かな印象なら、なんとなくある。でもはっきりしないからもどかしい。
というわけで、内容に行こうと思う。
痴呆症(認知症)らしき症状を見せるおばあちゃんを介護することになった一家。その家の娘とおばあちゃんとの物語である。
娘は、おばあちゃんの深夜のトイレを母から交代することで、熱帯魚を飼うことを許された。楽しみに観察していた。ある日を境におばあちゃんもよく水槽前にいるようになって、話をするようになった。しかし、その水槽の中では徐々に不穏な空気が流れるようになる。それとともに、おばあちゃんの様子もだんだんおかしくなっていく…おばあちゃんの悲しい過去と結びついたその奇行の意味を読者だけが知る…
どうにも、こんな感じです。短い物語なのに、おばあちゃんの人柄なんかがうまく出ていて、そういうところは児童文学を書いているだけのことはある、となんとなくそう思いました。
本作では、「エンジェル」というのが一つのシンボルになっていて、至る所に出てきます。「エンジェル」に彩られた(というと大げさですが)作品です。
まあ、短いしすぐ読めるので、なんとなく手にとってみる、というのはまあ悪くはないかな、と思います。
梨木香歩「エンジェルエンジェルエンジェル」