「もう、歩けない男」を観に行ってきました
凄く良かった、という感じではないが、普通には良い映画だったと思う。ただやはり、「実話である」という情報の難しさも感じた。
この映画は、実話を元にしている。映画の最後には、主人公になった実在の「アダム」の写真も映し出される。人生の絶頂と言ってもいい瞬間に、自身のミスで四肢麻痺に陥ってしまった男の奮闘の物語である。
さて、言い方は悪いが、この映画は「フィクション」だとすれば、ちょっとありきたりだと感じる物語だ。不注意から四肢麻痺になり、自暴自棄に、しかしヘルパーや家族の助けもあり、障害を持ちながらも前に進んでいく、という物語だ。もちろん悪いわけではないし、良い話だが、しかし「よくある物語」という印象は拭えない。
だからこそ、「実話である」という情報が重要になる、と言えるだろう。フィクションと比べた場合の「物語の平凡さ」は、それが事実であることの裏返しである、というわけだ。
しかし、「実話である」という情報は諸刃の剣でもある。それは、僕が「実話を元にした物語」ばかり観すぎているからかもしれない。というのも、「実話である」というのは僕にとって、「なんか凄い話である」という意味として伝わってしまう。実際、これまで観た映画は大体そうだった。「こんなことが実際に起こったのか!」と衝撃を受けるような、とんでもなく凄まじい現実が描かれる物語が多かったのである。
つまり、「凄い現実だからこそ、これを映画にしようと考えたのだろう」というような意味を、私は「実話を元にしている」という情報から勝手に汲み取ってしまうのだ。
そして、そういう前提を持つ僕にとっては、ちょっとこの映画は「平凡」に感じられてしまった、というわけだ。いや、確かにアダムは凄いと思うが、世界中探せば同じような話は結構見つかりそうでもある。
まあそんなわけで、「今一つ」感は否めなかった。
登場人物の中では、ヘルパーのエフゲニアがダントツで魅力的だった。入院生活を終え、自宅に戻ったアダムだが、障害を持ってしまった自分の姿に気持ちが追いつかず、家族に八つ当たりしたり、担当するヘルパーを首にしたりと荒れていた。そんなアダムにエフゲニアは、ビシバシやっていくのだ。このビシバシ感は、なかなか見ていて痛快だった。彼女が語るヤギの話も、「エフゲニア」という人物を象徴するような感じがあって、なんとも魅力的だった。
あと個人的には、クリスティーンとの最後のやり取りは、ちょっとよく分からなかったなぁ。いや、アダムの方の理屈は分かるけど、クリスティーンはちょっとなんとも。いや、まったく分からんではないのだけど、なかなか僕の中からは取り出しにくい理屈という感じで、ムズかった。
「もう、歩けない男」を観に行ってきました
この映画は、実話を元にしている。映画の最後には、主人公になった実在の「アダム」の写真も映し出される。人生の絶頂と言ってもいい瞬間に、自身のミスで四肢麻痺に陥ってしまった男の奮闘の物語である。
さて、言い方は悪いが、この映画は「フィクション」だとすれば、ちょっとありきたりだと感じる物語だ。不注意から四肢麻痺になり、自暴自棄に、しかしヘルパーや家族の助けもあり、障害を持ちながらも前に進んでいく、という物語だ。もちろん悪いわけではないし、良い話だが、しかし「よくある物語」という印象は拭えない。
だからこそ、「実話である」という情報が重要になる、と言えるだろう。フィクションと比べた場合の「物語の平凡さ」は、それが事実であることの裏返しである、というわけだ。
しかし、「実話である」という情報は諸刃の剣でもある。それは、僕が「実話を元にした物語」ばかり観すぎているからかもしれない。というのも、「実話である」というのは僕にとって、「なんか凄い話である」という意味として伝わってしまう。実際、これまで観た映画は大体そうだった。「こんなことが実際に起こったのか!」と衝撃を受けるような、とんでもなく凄まじい現実が描かれる物語が多かったのである。
つまり、「凄い現実だからこそ、これを映画にしようと考えたのだろう」というような意味を、私は「実話を元にしている」という情報から勝手に汲み取ってしまうのだ。
そして、そういう前提を持つ僕にとっては、ちょっとこの映画は「平凡」に感じられてしまった、というわけだ。いや、確かにアダムは凄いと思うが、世界中探せば同じような話は結構見つかりそうでもある。
まあそんなわけで、「今一つ」感は否めなかった。
登場人物の中では、ヘルパーのエフゲニアがダントツで魅力的だった。入院生活を終え、自宅に戻ったアダムだが、障害を持ってしまった自分の姿に気持ちが追いつかず、家族に八つ当たりしたり、担当するヘルパーを首にしたりと荒れていた。そんなアダムにエフゲニアは、ビシバシやっていくのだ。このビシバシ感は、なかなか見ていて痛快だった。彼女が語るヤギの話も、「エフゲニア」という人物を象徴するような感じがあって、なんとも魅力的だった。
あと個人的には、クリスティーンとの最後のやり取りは、ちょっとよく分からなかったなぁ。いや、アダムの方の理屈は分かるけど、クリスティーンはちょっとなんとも。いや、まったく分からんではないのだけど、なかなか僕の中からは取り出しにくい理屈という感じで、ムズかった。
「もう、歩けない男」を観に行ってきました
「WORTH 命の値段」を観に行ってきました
これは凄い。表現は適切ではないだろうが、まさに「THE 現実」と言うしかない世界だ。ここには、「現実の不条理」がすべて詰まっているように思える。そんな「現実」に、ほとんど自ら志願するような形で関わった人物の、実話を元にした物語だ。
9.11テロの犠牲者の命に「値段」をつけた男の物語である。
そもそも僕は、「犠牲者の命に値段をつける」という状況について、あまり詳しくイメージしていなかった。なんとなく、「裁判の資料の使うのか」程度に考えていたぐらいだ。
しかし、全然そうじゃなかった。そこには、色んな思惑が絡んでいる。まずはその辺りのことを説明したいと思う。
9.11テロ直後、アメリカ国家と航空業界は「ある懸念」を抱いた。テロ犠牲者遺族が、航空会社を訴えるかもしれない、というものだ。訴訟大国アメリカであれば、当然想定される事態だろう。そして、もしもそれが現実になれば、とんでもないことになる。何年も掛けた長大な裁判が行われ、負ければ莫大な賠償金が課せられることになるからだ。航空会社としても大損失だが、アメリカの経済も大打撃を受けるだろう。そうなれば、国全体の問題と言える。
そこでアメリカと航空業界は、「どうにか訴訟を回避する方法」を模索した。そしてたった1日である法案を可決する。それが、「『訴訟権を放棄する』ことで、国から補償金が支給される」という基金に関するものだ。補償金を受け取ってくれる人が多ければ、仮に訴訟に発展しても損害は低く抑えられる。そのような思惑を元に作られた仕組みである。
さてそうなると次は、「補償金をいくらに設定すればいいのか」という問題が出てくる。分かりやすいのは「全員一律の値段に設定する」というものだろう。しかし、そうは出来ない事情があった。それはまさに「ワールド・トレード・センタービル」という、大企業のオフィスが多数入るビルが標的にされたことが関係している。いわゆる「高給取り」だった人物の遺族が、例えば「ビルの清掃人」と同じ補償金では納得しないと想定されたのだ。実際に映画では、その「高給取り」側だろう人物から、「金額に納得できなければ別の手段を取る」と、暗に訴訟をちらつかせるような場面も描かれる。「補償金」は、表向きの名目は「被害者救済」だが、実際には「訴訟権の取り上げ」こそが目的なのだから、遺族が金額に納得しなければ話が進まない。
というわけで、被害者ごとに異なる補償金額を算出しかなくなった。
そこで白羽の矢を立てられたのが、この映画の主人公であるケネス(ケン)・ファインバーグである。これまでも、様々な事件で和解や補償を担当したことがあり、適任だと判断されたのだ。
打診を受けたケンは、なんとこの依頼を無償で引き受ける。彼は、この基金の目的が「訴訟権の取り上げ」であることを理解していたが、一方、弁護士として「訴訟はベストな選択ではない」とも考えていた。恐らく裁判は10年以上続くだろうし、必ず勝てる保証もない。だったら、補償金をもらう方がいいし、遺族もきっとそう判断する、と考えたのだ。そこで、「遺族の役に立ちたい」と考えて志願したのだ。
これが、この映画で描かれる「現実」である。そしてケンは、彼自身が想像もしていなかった「現実」に直面することになる。
まさにそれは、「行動経済学」だよなぁと言いたくなるようなものだ。
「人間が物事を合理的に判断すること」を前提にした「経済学」とは異なり、「人間は時に不合理で、時に不可解な選択をする」という事実を組み込んだのが「行動経済学」である。ケンは、「経済学」的な発想から、「訴訟よりも補償金を受け取るほうがベスト」と考えており、恐らく、遺族もそう考えるはずだ、と思っていた。また彼には、「『公平さ』よりも、『前に進むこと』の方が重要だ」という考えもある。だから、「確かに『不公平』かもしれないが、自分が提示する『命の値段を算出する計算式』がベストなアイデアだ」と信じ、そういうマインドで遺族と向き合うのだ。
もちろん、そんな態度は遺族の反発を買う。なにせ、テロが起こってからまだ日が浅いのだ。ただ、これまでもすべての案件を成功に導いてきたケンのスタンスは揺るがない。申請者たちの話を聞くスタッフに対して、「私情を挟むな」と声を荒らげるくらいだ。
しかし、ケンには達成すべき目標が設定されている。それが、「全遺族の内80%以上の申請を受けること」だ。つまり、訴訟に回る可能性がある者を20%以下に抑えたい、というわけである。
にも拘わらず、申請者の数は一向に伸びない。基金創設から2年間の期限が設けられているのだが、期限が近づいても10%台までしか達成できていないのだ。
その理由の1つと言えるのが、被害者遺族の1人であるチャールズ・ウルフである。彼は「計算式には問題がある」と主張し、被害者遺族のリーダー的な存在になっていた。と書くとなんとなく「悪い印象」になるかもしれないが、まったくそんなことはない。「倫理的に正しくないことには納得できないし、徹底的に闘う」というスタンスはとても強いものの、人間としては非常に真っ当だ。ケンと直接話をする場面も何度か描かれるが、「個人的な恨みはない」という彼のスタンスは、その振る舞いを見ていれば明らかである。
当初こそ、「不公平かもしれないし、正しくもないかもしれないが、しかしこのやり方しかない」と自信を持っていたケンも、申請率の低さという現実を突きつけられ、考えを変えざるを得なくなる。しかし、全権が委任されている「特別管理人」であるケンではあるが、方針を変えるのは難しい。というのも、「法案の再提出」ということになれば、法案そのものが無くなってしまうとケンは想定していたからだ。
そういう板挟みの状況の中で、ケンはどんな決断を下すのか……。
なんというか、実話とは思えないぐらい状況設定がとても「物語的」だと思う。普通の状況であれば、補償金額は「力が強い側」が決めてしまえるだろう。弁護士は、その間に立って調整すればいい。もちろんそれだって簡単な仕事ではないが、ケンがこれまでやってきたのはそういう仕事なのだろう。ただ今回は、「力が強い側」が補償金額を決められはしない。最大の目的は「訴訟権の取り上げ」であり、そのためには「遺族が納得する金額」を支払う必要があるからだ。
また、ウルフという登場人物もとても良い。この映画はフィクションであり、しかも9.11テロを題材にしていることもあり、「どういう形であれ、被害者側を『悪く』は描けない」みたいなところはあると思う。だから、もしも「チャールズ・ウルフ」という人物が本当は「悪どい人間」だったとしても、映画ではそのようには描かれないだろう。ただ、なんとなくだが、ウルフというのは映画で描かれたような人物なのではないかと感じた。理由は上手く説明できないが、ウルフがああいう人物だったからこそ、最終的にああいう結末に行き着いたんじゃないかと感じるからだ。
こういう、「非常に物語的な要素」が存在するので、実話を元にしていながら、どことなく「フィクショナル」な感じもある。そして、そのような「フィクショナル」感のある物語が、実話を元にしているのだという事実が、余計にこの物語を「強い」ものにしている印象があった。
僕は、こんな実話をもちろん知らなかったので、結末がどんな風になるのかも知らなかった。僕は割と最後の方まで、「これ、どうやって決着するんだろう?」と思っていた。状況的には結構「詰んでる」というか、ケン自身が言っていたように「どうしていいか分からない」みたいな状態にあったからだ。
映画ではもちろん、断片的にしか描かれないわけだが、2年間という長きに渡ってこの問題に向き合い続けたケンやそのスタッフたちは、相当苦労しただろうと思う。本当に、「これが誰かの役に立っているはずだ」という感覚がなければやってられなかっただろう。
被害者遺族の状況については、この感想では触れないが、「なるほど、そういうパターンもあるのか」みたいな話が色々あって、こう言ってはなんだが、とても興味深かった。特に、映画の中で重点的に取り上げられる被害者遺族が、ウルフの他に2組ほどいるのだけど、どちらも「なかなか残酷だ」と感じさせられた。一方は、「どこかで線を引かなければならない」という理由の犠牲になった人であり、もう一方は、「『死』以外の『残酷な現実』」に直面せざるを得なかった人である。どちらも、「仕方ない」と言えば仕方ないが、「仕方ない」で済ませたくもない気持ちもある。
映画全体では、もちろん主人公であるケンの印象が強いわけだが、同じぐらいウルフも見事な存在感を出している。ウルフのスタンスは、僕にとっては非常に好ましいものだった。仮に僕が何らかの「被害者」になった時、ウルフのように振る舞いたいと感じたほどだ。ある意味で、この映画が描く状況すべてにおける「キーパーソン」となったウルフが、人間的にとても真っ当な人物だったことは、ケンにとっても被害者遺族にとっても幸運だったのではないかと思う。
本当に、「THE 現実」を詰め込んだような凄まじい物語だった。
「WORTH 命の値段」を観に行ってきました
9.11テロの犠牲者の命に「値段」をつけた男の物語である。
そもそも僕は、「犠牲者の命に値段をつける」という状況について、あまり詳しくイメージしていなかった。なんとなく、「裁判の資料の使うのか」程度に考えていたぐらいだ。
しかし、全然そうじゃなかった。そこには、色んな思惑が絡んでいる。まずはその辺りのことを説明したいと思う。
9.11テロ直後、アメリカ国家と航空業界は「ある懸念」を抱いた。テロ犠牲者遺族が、航空会社を訴えるかもしれない、というものだ。訴訟大国アメリカであれば、当然想定される事態だろう。そして、もしもそれが現実になれば、とんでもないことになる。何年も掛けた長大な裁判が行われ、負ければ莫大な賠償金が課せられることになるからだ。航空会社としても大損失だが、アメリカの経済も大打撃を受けるだろう。そうなれば、国全体の問題と言える。
そこでアメリカと航空業界は、「どうにか訴訟を回避する方法」を模索した。そしてたった1日である法案を可決する。それが、「『訴訟権を放棄する』ことで、国から補償金が支給される」という基金に関するものだ。補償金を受け取ってくれる人が多ければ、仮に訴訟に発展しても損害は低く抑えられる。そのような思惑を元に作られた仕組みである。
さてそうなると次は、「補償金をいくらに設定すればいいのか」という問題が出てくる。分かりやすいのは「全員一律の値段に設定する」というものだろう。しかし、そうは出来ない事情があった。それはまさに「ワールド・トレード・センタービル」という、大企業のオフィスが多数入るビルが標的にされたことが関係している。いわゆる「高給取り」だった人物の遺族が、例えば「ビルの清掃人」と同じ補償金では納得しないと想定されたのだ。実際に映画では、その「高給取り」側だろう人物から、「金額に納得できなければ別の手段を取る」と、暗に訴訟をちらつかせるような場面も描かれる。「補償金」は、表向きの名目は「被害者救済」だが、実際には「訴訟権の取り上げ」こそが目的なのだから、遺族が金額に納得しなければ話が進まない。
というわけで、被害者ごとに異なる補償金額を算出しかなくなった。
そこで白羽の矢を立てられたのが、この映画の主人公であるケネス(ケン)・ファインバーグである。これまでも、様々な事件で和解や補償を担当したことがあり、適任だと判断されたのだ。
打診を受けたケンは、なんとこの依頼を無償で引き受ける。彼は、この基金の目的が「訴訟権の取り上げ」であることを理解していたが、一方、弁護士として「訴訟はベストな選択ではない」とも考えていた。恐らく裁判は10年以上続くだろうし、必ず勝てる保証もない。だったら、補償金をもらう方がいいし、遺族もきっとそう判断する、と考えたのだ。そこで、「遺族の役に立ちたい」と考えて志願したのだ。
これが、この映画で描かれる「現実」である。そしてケンは、彼自身が想像もしていなかった「現実」に直面することになる。
まさにそれは、「行動経済学」だよなぁと言いたくなるようなものだ。
「人間が物事を合理的に判断すること」を前提にした「経済学」とは異なり、「人間は時に不合理で、時に不可解な選択をする」という事実を組み込んだのが「行動経済学」である。ケンは、「経済学」的な発想から、「訴訟よりも補償金を受け取るほうがベスト」と考えており、恐らく、遺族もそう考えるはずだ、と思っていた。また彼には、「『公平さ』よりも、『前に進むこと』の方が重要だ」という考えもある。だから、「確かに『不公平』かもしれないが、自分が提示する『命の値段を算出する計算式』がベストなアイデアだ」と信じ、そういうマインドで遺族と向き合うのだ。
もちろん、そんな態度は遺族の反発を買う。なにせ、テロが起こってからまだ日が浅いのだ。ただ、これまでもすべての案件を成功に導いてきたケンのスタンスは揺るがない。申請者たちの話を聞くスタッフに対して、「私情を挟むな」と声を荒らげるくらいだ。
しかし、ケンには達成すべき目標が設定されている。それが、「全遺族の内80%以上の申請を受けること」だ。つまり、訴訟に回る可能性がある者を20%以下に抑えたい、というわけである。
にも拘わらず、申請者の数は一向に伸びない。基金創設から2年間の期限が設けられているのだが、期限が近づいても10%台までしか達成できていないのだ。
その理由の1つと言えるのが、被害者遺族の1人であるチャールズ・ウルフである。彼は「計算式には問題がある」と主張し、被害者遺族のリーダー的な存在になっていた。と書くとなんとなく「悪い印象」になるかもしれないが、まったくそんなことはない。「倫理的に正しくないことには納得できないし、徹底的に闘う」というスタンスはとても強いものの、人間としては非常に真っ当だ。ケンと直接話をする場面も何度か描かれるが、「個人的な恨みはない」という彼のスタンスは、その振る舞いを見ていれば明らかである。
当初こそ、「不公平かもしれないし、正しくもないかもしれないが、しかしこのやり方しかない」と自信を持っていたケンも、申請率の低さという現実を突きつけられ、考えを変えざるを得なくなる。しかし、全権が委任されている「特別管理人」であるケンではあるが、方針を変えるのは難しい。というのも、「法案の再提出」ということになれば、法案そのものが無くなってしまうとケンは想定していたからだ。
そういう板挟みの状況の中で、ケンはどんな決断を下すのか……。
なんというか、実話とは思えないぐらい状況設定がとても「物語的」だと思う。普通の状況であれば、補償金額は「力が強い側」が決めてしまえるだろう。弁護士は、その間に立って調整すればいい。もちろんそれだって簡単な仕事ではないが、ケンがこれまでやってきたのはそういう仕事なのだろう。ただ今回は、「力が強い側」が補償金額を決められはしない。最大の目的は「訴訟権の取り上げ」であり、そのためには「遺族が納得する金額」を支払う必要があるからだ。
また、ウルフという登場人物もとても良い。この映画はフィクションであり、しかも9.11テロを題材にしていることもあり、「どういう形であれ、被害者側を『悪く』は描けない」みたいなところはあると思う。だから、もしも「チャールズ・ウルフ」という人物が本当は「悪どい人間」だったとしても、映画ではそのようには描かれないだろう。ただ、なんとなくだが、ウルフというのは映画で描かれたような人物なのではないかと感じた。理由は上手く説明できないが、ウルフがああいう人物だったからこそ、最終的にああいう結末に行き着いたんじゃないかと感じるからだ。
こういう、「非常に物語的な要素」が存在するので、実話を元にしていながら、どことなく「フィクショナル」な感じもある。そして、そのような「フィクショナル」感のある物語が、実話を元にしているのだという事実が、余計にこの物語を「強い」ものにしている印象があった。
僕は、こんな実話をもちろん知らなかったので、結末がどんな風になるのかも知らなかった。僕は割と最後の方まで、「これ、どうやって決着するんだろう?」と思っていた。状況的には結構「詰んでる」というか、ケン自身が言っていたように「どうしていいか分からない」みたいな状態にあったからだ。
映画ではもちろん、断片的にしか描かれないわけだが、2年間という長きに渡ってこの問題に向き合い続けたケンやそのスタッフたちは、相当苦労しただろうと思う。本当に、「これが誰かの役に立っているはずだ」という感覚がなければやってられなかっただろう。
被害者遺族の状況については、この感想では触れないが、「なるほど、そういうパターンもあるのか」みたいな話が色々あって、こう言ってはなんだが、とても興味深かった。特に、映画の中で重点的に取り上げられる被害者遺族が、ウルフの他に2組ほどいるのだけど、どちらも「なかなか残酷だ」と感じさせられた。一方は、「どこかで線を引かなければならない」という理由の犠牲になった人であり、もう一方は、「『死』以外の『残酷な現実』」に直面せざるを得なかった人である。どちらも、「仕方ない」と言えば仕方ないが、「仕方ない」で済ませたくもない気持ちもある。
映画全体では、もちろん主人公であるケンの印象が強いわけだが、同じぐらいウルフも見事な存在感を出している。ウルフのスタンスは、僕にとっては非常に好ましいものだった。仮に僕が何らかの「被害者」になった時、ウルフのように振る舞いたいと感じたほどだ。ある意味で、この映画が描く状況すべてにおける「キーパーソン」となったウルフが、人間的にとても真っ当な人物だったことは、ケンにとっても被害者遺族にとっても幸運だったのではないかと思う。
本当に、「THE 現実」を詰め込んだような凄まじい物語だった。
「WORTH 命の値段」を観に行ってきました
「ボーンズアンドオール」を観に行ってきました
「BONES AND ALL」とは、「骨ごと」という意味だそうだ。もちろん続く言葉は「食べる」である。
「人間を食べる衝動を抑えられない人間」の物語だ。
こういうタイプの物語を観る度に、僕はどうしても同じことばかり書いてしまうが、物語の本質は「人を食べるかどうか」ではない。より重要なことは、「『自分のとっての普通』が『他人にとっての不利益・不快』になってしまう」という極限の状況だ。そして、そういう状況に置かれている人は、僕らが生きている世界にもいる。小児性愛や、「モノを盗むこと」をやめられないクレプトマニアなどもそうだろうし、「他者と違うことが受け入れられない」とより広い意味で捉えるなら、ADHDやLGBTQなどを含めてもいいだろう。
この映画を観て、「人を食べること」に着目できる人は、たぶん「マジョリティ」として生きられている人なんじゃないかと勝手に想像してしまう。否応なしに「マイノリティ」として生きざるを得ない人がこの映画を見れば、「人を食べること」以上に、「どこにも居場所がないこと」や「誰かと分かり合うことの困難さ」みたいな部分にどうしても視線が向いてしまうだろう。
「人を食べる」という狂気的な要素は表層に過ぎない。物語全体を覆うその”薄膜”を剥ぎ取れば、そこには「僕らが生きている世界にありふれた何か」で溢れていると言っていいだろう。
映画は、表向き「恋愛」を描いているように見える。美しい男女が、世俗を離れ2人だけで旅路を続けるその様は、とても「恋愛」っぽい。もちろん、彼らにしても、それは「恋愛」と認識されているかもしれない。
ただ、2人にとってより本質的なことは、お互いの存在が「居場所」であり「生きる理由」でもあるということだろう。なかなか、「恋愛」という言葉で括るには重い関係だと思う。
「好き」かどうかという判断以上に、「相手と離れれば、『居場所』や『生きる理由』が失われてしまう」という感覚が、暗黙の了解として存在する。そういう中で、2人がどういう状況でどんな決断を下すのかが描かれるというわけだ。
難しいのは、「人を食べる」ということに関する倫理観が、「イーター」と呼ばれる存在の間でも濃淡があることだろう。そこには、「人としてどうあるべきか」と「イーターとしてどうあるべきか」という葛藤が混在しているように見える。
実際に映画では、「人を食べることに対する葛藤」が描かれるシーンはほとんどない。それはとても自然と言っていいだろう。彼らは、生まれながらに「食べる衝動」を自覚してきたのだ。だから、そういう葛藤はずっとずっと前からしてきているだろうし、主人公マレンのように18歳にもなれば、外面を整えることは容易になると思う。
ただ恐らく、「人を食べる」度に、内面は葛藤し続けているはずだ。「イーターとしては仕方ない」と思いながらも、「人間としてはこんなことをしたくない」と思っている。
そして、訳あって旅に出るまで他のイーターと会ったことがなかったマレンには、自分の感覚が「イーターにとっての普通」であるかどうかさえ判断できなかった。そもそもだが、「人を食べたいという衝動を持つのは自分だけだ」とさえ思っていたのだ。
マレンは、他のイーターと出会うことで初めて、「自分の感覚との差」を知ることにもなった。どちらが正しいということもない。イーターの絶対数が少ないから正しさを決めることなどできないし、そもそも「すべて間違い」なのだから、その中で「正しさ」についてあーだこーだ言っても仕方ない。
ただ、初めて「違い」に直面したことで、彼女は18年間抱くことのなかった感覚に直面させられることにもなった。あらゆる環境が変化せざるを得なかったマレンの生活の中に、さらに想像もしなかった感覚が紛れ込むことになるのだ。かなりハードな旅路だと言っていいだろう。
「食べるか自殺か監禁か」みたいなセリフが出てくる。舞城王太郎の『煙か土か食い物』みたいだ。イーターにとっての選択肢は少ない。ほとんど選択の余地などない世界で、それでもマレンは「自分で選びたい」と言って自分の進むべき道を自分で探そうとする。その葛藤の旅路は、ほとんどどん詰まりのような世界にいる人にとって、ちょっとした勇気をもたらすものになるかもしれない。
ストーリー的にメチャクチャ良かったという感じではないけど、グロテスクだけどどことなく美しい映像と、主演の2人の「透明感と妖しさを兼ね備えた」ようななんとも言えない雰囲気、そして謎の登場人物サリーの異様さがとても印象的な作品だった。
「ボーンズアンドオール」を観に行ってきました
「人間を食べる衝動を抑えられない人間」の物語だ。
こういうタイプの物語を観る度に、僕はどうしても同じことばかり書いてしまうが、物語の本質は「人を食べるかどうか」ではない。より重要なことは、「『自分のとっての普通』が『他人にとっての不利益・不快』になってしまう」という極限の状況だ。そして、そういう状況に置かれている人は、僕らが生きている世界にもいる。小児性愛や、「モノを盗むこと」をやめられないクレプトマニアなどもそうだろうし、「他者と違うことが受け入れられない」とより広い意味で捉えるなら、ADHDやLGBTQなどを含めてもいいだろう。
この映画を観て、「人を食べること」に着目できる人は、たぶん「マジョリティ」として生きられている人なんじゃないかと勝手に想像してしまう。否応なしに「マイノリティ」として生きざるを得ない人がこの映画を見れば、「人を食べること」以上に、「どこにも居場所がないこと」や「誰かと分かり合うことの困難さ」みたいな部分にどうしても視線が向いてしまうだろう。
「人を食べる」という狂気的な要素は表層に過ぎない。物語全体を覆うその”薄膜”を剥ぎ取れば、そこには「僕らが生きている世界にありふれた何か」で溢れていると言っていいだろう。
映画は、表向き「恋愛」を描いているように見える。美しい男女が、世俗を離れ2人だけで旅路を続けるその様は、とても「恋愛」っぽい。もちろん、彼らにしても、それは「恋愛」と認識されているかもしれない。
ただ、2人にとってより本質的なことは、お互いの存在が「居場所」であり「生きる理由」でもあるということだろう。なかなか、「恋愛」という言葉で括るには重い関係だと思う。
「好き」かどうかという判断以上に、「相手と離れれば、『居場所』や『生きる理由』が失われてしまう」という感覚が、暗黙の了解として存在する。そういう中で、2人がどういう状況でどんな決断を下すのかが描かれるというわけだ。
難しいのは、「人を食べる」ということに関する倫理観が、「イーター」と呼ばれる存在の間でも濃淡があることだろう。そこには、「人としてどうあるべきか」と「イーターとしてどうあるべきか」という葛藤が混在しているように見える。
実際に映画では、「人を食べることに対する葛藤」が描かれるシーンはほとんどない。それはとても自然と言っていいだろう。彼らは、生まれながらに「食べる衝動」を自覚してきたのだ。だから、そういう葛藤はずっとずっと前からしてきているだろうし、主人公マレンのように18歳にもなれば、外面を整えることは容易になると思う。
ただ恐らく、「人を食べる」度に、内面は葛藤し続けているはずだ。「イーターとしては仕方ない」と思いながらも、「人間としてはこんなことをしたくない」と思っている。
そして、訳あって旅に出るまで他のイーターと会ったことがなかったマレンには、自分の感覚が「イーターにとっての普通」であるかどうかさえ判断できなかった。そもそもだが、「人を食べたいという衝動を持つのは自分だけだ」とさえ思っていたのだ。
マレンは、他のイーターと出会うことで初めて、「自分の感覚との差」を知ることにもなった。どちらが正しいということもない。イーターの絶対数が少ないから正しさを決めることなどできないし、そもそも「すべて間違い」なのだから、その中で「正しさ」についてあーだこーだ言っても仕方ない。
ただ、初めて「違い」に直面したことで、彼女は18年間抱くことのなかった感覚に直面させられることにもなった。あらゆる環境が変化せざるを得なかったマレンの生活の中に、さらに想像もしなかった感覚が紛れ込むことになるのだ。かなりハードな旅路だと言っていいだろう。
「食べるか自殺か監禁か」みたいなセリフが出てくる。舞城王太郎の『煙か土か食い物』みたいだ。イーターにとっての選択肢は少ない。ほとんど選択の余地などない世界で、それでもマレンは「自分で選びたい」と言って自分の進むべき道を自分で探そうとする。その葛藤の旅路は、ほとんどどん詰まりのような世界にいる人にとって、ちょっとした勇気をもたらすものになるかもしれない。
ストーリー的にメチャクチャ良かったという感じではないけど、グロテスクだけどどことなく美しい映像と、主演の2人の「透明感と妖しさを兼ね備えた」ようななんとも言えない雰囲気、そして謎の登場人物サリーの異様さがとても印象的な作品だった。
「ボーンズアンドオール」を観に行ってきました
「劇場版 センキョナンデス」を観に行ってきました
これは面白かった!ドキュメンタリー映画なのに、随所随所で観客が爆笑する映画だし、しかもテーマが「選挙」なのに面白いというのもとてもいい。舞台挨拶付きだったからというのもあるかもしれないが、僕が観た回は劇場が満員だった。というか、元々昨日観るつもりだったのだが、木曜にチケットを確認したら完売だったから、今日観ることになったのである。いやはや、凄い人気である。
映画は基本的に、全編に渡って「面白く、笑える」感じで展開していく。しかし、この映画について取り上げる場合、避けては通れない話からすることにしよう。去年7月の、安倍元首相銃撃事件である。元々YouTube用に撮影していた映像を映画にすると決めたのも、この事件がきっかけだったそうだ。
この映画の監督である、東大中退のラッパーであるダースレイダーと、新聞14紙を読み比べる時事芸人であるプチ鹿島の2人は、2022年の参議委員選挙で大阪に注目した。当時、立憲民主党の菅直人が「日本維新の会はヒットラーのようだ」とツイートし物議を醸し、しかし謝罪をするどころか「闘うリベラル宣言」で応戦したことに「ヒリヒリしたもの」を感じ、これは大阪の選挙運動を見るしかないと乗り込んでいくのだ。彼らは、候補者全員の選挙演説に顔を出し、候補者の声や支援者の様子などをウォッチしていく。
そんな最中、安倍元首相の銃撃事件が起こる。彼らは大阪のホテルにいた。そして、参議委員選挙期間中に起こったその事件を受けて、多くの候補者が一時選挙運動を中止した。
しかし大阪では、選挙演説を続行する候補者もいた。彼らはその演説を聞きに行き、候補者の声を聞く。また、「選挙運動は止めるが、街頭演説は行う」としたのが辻元清美だ。彼女は、白いシャツに黒いパンツという姿で、たすきも掛けないまま、「言論を暴力で封じることは許されない」と街頭で演説をする。そしてその後、記者からのぶら下がり取材中に安倍元首相の訃報を知ることになる。その様子が、カメラに収められている。
映画の中でも、今日観たトークイベントでも語られていたが、銃撃事件が起こったその日彼らが重視していたことは、「後から振り返った時に『間違いだった』と分かってもいいから、今日この場で感じたこと、考えたことを残そう」というものだったそうだ。
今では、事件を起こした犯人の動機が、いわゆる「旧統一教会」にあることは知れ渡っている。しかし、事件当日の午後、事件からまだ数時間程度しか経っていなかった頃には、動機も何も分かっていなかった。政治家を公衆の面前で銃撃するのだ、どんな可能性を考えてもおかしくなかっただろう。そういう中にあって、ダースレイダーとプチ鹿島は、「自分たちは沈黙するしかない」と考えていたとトークイベントでは語っていた。憶測でものを言っても仕方ないからだ。しかし、「言論を暴力で封じようとする行為は断固許容できない」というスタンスは明確に主張していた。
その一方で、安倍元首相からすれば「政敵」という存在だろう辻元清美や志位和夫は、事件直後の街頭演説の中で、安倍元首相に想いを馳せる言葉を口にした。
さて、彼らはその日、適宜ツイッターなどネットの情報も見ていたわけだが、そこでは、罵詈雑言や謎のマウント合戦が繰り広げられていたそうだ(僕は正直、あまりネットを見ないようにしているのでよく知らない)。まだ何が起こったのかさえ分からない状況下で、安倍元首相の支持者や批判者を貶めるようなことを言ったり、安否についての正確な情報が出る前から「死亡した」というデマを流す者もいたという。
そのようなネット上の風潮を、彼らは強い憤りを持って眺めていた。
一方、別の方向の危惧を示す場面もあった。それは、「『批判』と『悪口』の違い」についてのものだ。
事件が起こる前からダースレイダーは、「民主主義が正常に機能していない」という感覚を持っていたと言っていたと思う。「民が主になっていない」からだ。しかしその背景には、「適切な批判が成立していない」という問題もある。そして、この事件によってよりその風潮が強まるのではないか、と危惧していたのだ。
「政府が正しく機能しているのかチェックし、不備があれば批判する」というのは、民主主義の基本である。しかし、世の中では「批判」が単なる「悪口」と受け取られがちだという。確かに僕も、そういう風潮を強く感じる。それが何であれ、「『相手を悪く言うこと』は悪である」という考え方が、ナチュラルに存在しているのだ。
以前、『パンケーキを毒見する』という、菅義偉を扱ったドキュメンタリー映画を観たのだが、その中で、「若者にもっと政治参加してもらうこと」を目的とする大学生のサークルメンバーが登場した。彼らに、「若者の間でなぜ自民党が人気なのか?」と聞く場面があり、「自民党しか知らないから」「ずっと政権を取っているから」みたいな理由が出てくるのだが、その中の1人は、「野党は文句を言っているだけだから嫌われている」というのがあった。確かに、今の野党が適切に機能しているのかはともかく、本来的に野党というのは、政権与党を批判的にチェックする役割を担うはずだ。しかし、そのような本来的な役割さえも、「文句・悪口を言っている」と受け取られ、嫌われてしまうのが現状なのだそうだ。
さて、ダースレイダーは、「そういう風潮を作ったのは、安倍元首相だ」とも言っていた。「私にはこういう国のビジョンがある、だから私たちに任せてもらって大丈夫だ。そして、そんな私たちに批判する人間は、要するに『国を愛していない人間』だ」という雰囲気を醸成するのがとても上手かった、というのだ。なるほど、確かにそう言われるとそうだなと思う。
事件を機に言論が封殺されてしまうこともマズいが、それ以上に、「権力を批判するのは悪」みたいな風潮が一層加速してしまうことがより危険なのではないかと指摘されていた。確かにそういう感覚は、僕の中にもある。
さて、そういう意味で、この『劇場版 センキョナンデス』という映画は、とても面白い立ち位置にあると思う。その点について、プチ鹿島(だったはず)がトークイベントの中で、「この映画は、私たち2人なりの『選挙の見方』の提示に過ぎない」と話していたのが印象的だった。
2人はとにかく、「ヒリヒリした現場を見たい」というだけで選挙戦をウォッチしにいく。もちろん2人とも、常に時事問題には関心を抱いているわけで、そういう意味でも「選挙」への興味はあったと思うが、少なくともこの映画で描かれている雰囲気で言えば、2人は「ただヒリヒリした現場を見たい」という動機だけで動いているように見える。
候補者や選対スタッフなどにかなり厳しく追及をしたりする場面もあるのだが、それもシンプルに「自分が知りたいから」という欲求で動いていることが伝わってくる。候補者におもねったり、誰かに何かを伝えたいみたいな感覚でもなく、純粋に「俺がこうしたいんだ!」というスタンスを貫いている。
そして、それが伝わることがこの映画の良さだと思う。
「権力の監視」とか「政権の批判」みたいな言葉を使うと、なんだか大きくて強いものに感じられるが、『劇場版 センキョナンデス』はとにかく、「『選挙』はお祭りなんだから、あなたが楽しめばいいんですよ」というメッセージをこれでもかと伝えてくれる。トークイベントではプチ鹿島が何度か、「私たちがやってることは、皆さんも同じことが出来ます」と言っていたが、確かにその通りだろう。別にダースレイダーとプチ鹿島だから出来たというわけではない。それが「選挙」に特殊さである。
トークイベントの中でダースレイダーが、「人を追及したりしていると、『お前はどうなんだ?』とネットで絡まれたりすることがある」と言っていた。要するに、「人に偉そうにあーだこーだ言ってるけど、お前はそんなこと言えるような立場の人間なのか?」みたいなツッコミをされることがあるというのだ。
この点についてダースレイダーは、非常に真っ当な意見を言っていた。
つまり、「政治家を含めた公人は、発言やお金の使い道がチェックされて当然だ。そして、選挙の候補者というのは、『そんな公人に自発的になりたいと思っている人たち』である。だったら、そういう人に思っていることをぶつけても問題ないはずだ」というわけだ。確かにその通りだろう。通りがかりの人を捕まえて詰問したらただのヤバい奴だが、選挙の候補者は、「私を国会に連れてって!」とお願いしている人たちなのだから、「公人に相応しいのか」を含め色々聞く権利がこちらにもあるはずという意見は、まあその通りだろう。
そしてだからこそ、彼ら2人がやっていることとまったく同じことを、日本中誰がやってもいいということになるわけだ。
実際にやるかどうかは別として、映画『劇場版 センキョナンデス』を観ることによって、「なるほど、こんな楽しみ方があるんだな」と感じるのではないかと思う。実際、この映画を観て、「選挙を『お祭り』的にウォッチするのは面白いかもなぁ」という感覚になった。実際に「楽しい」という感覚を得るまでに、多少の時間を費やす必要はあると思うが、なかなか可能性を感じるのではないかと思う。もちろん、「断れないことをいいことに、女性候補者に近づいて無茶を言うオジサン」みたいになってしまってはいけないので、節度を持つことは大事だが、有権者なのだからこれぐらいしてもいいんだよなぁ、という感覚を持てるだろうと思う。
映画は大雑把に前後半に分かれており、後半が先程説明した、去年の参議委員選挙である。では前半はというと、やはりそこに来るかと感じたあそこである。「香川1区」だ。
『なぜ君は総理大臣になれないのか』『香川1区』で知られるようになった選挙区が、香川県の「香川1区」である。『劇場版 センキョナンデス』のプロデューサーには、『なぜ君は総理大臣になれないのか』『香川1区』の大島新も加わっている。やはり「選挙」となると、皆がこの「香川1区」に吸い寄せられているように思う。
『なぜ君は総理大臣になれないのか』『香川1区』でメインで描かれるのは、立憲民主党の小川淳也だが、『劇場版 センキョナンデス』ではその対立候補である平井卓也に焦点が当たっている。そしてやはり、この映画の中でも、この「香川1区」に関わる話はとても面白い。
プチ鹿島は、新聞14紙を読んでいることで知られているが、ある時から四国新聞も購読するようになったそうだ。平井卓也がデジタル庁の大臣になった辺りからだろうか。四国新聞に関する記事を書くというのは、プチ鹿島のライフワークにもなっているようだ。
なぜ四国新聞なのか。それは、平井卓也の一族が、四国新聞社を含めた香川のメディアを牛耳る存在だからだ。プチ鹿島は、四国新聞紙上で、平井卓也が持ち上げられ、対立候補である小川淳也が貶められているように感じられる記事を多数取り上げ、ネットでバズっているというわけだ。
彼らは、「支援者の熱気が籠もる選挙戦を展開する小川淳也」「クローズドな集会と、動員の少ない”パレード”の平井卓也」の選挙戦をウォッチし、平井卓也の選挙事務所とちょっと揉めたりしながら、投開票日を迎えるのだが、実はこの「香川1区」に絡んでは、選挙後にハイライトがあったと言っていいだろう。
小川淳也の選挙事務所で、ダースレイダーとプチ鹿島は、四国新聞社の記者を追い回していた。プチ鹿島には、どうしても聞きたいことがあったからだ。
小川淳也は、「香川1区」から立候補しようとする別の候補者に「出ないでくれ」と言ったという話で批判を浴びることになった。その辺りの経緯は、映画『香川1区』でも描かれていた。さて、四国新聞社はこの出来事を何度も紙上で扱うのだが、かなりの批判記事であるにも拘わらず、小川淳也には一切取材をせず、コメントも求めていないのだ。
プチ鹿島は、この取材姿勢を「新聞社としてあり得ない」と憤っていた。どんな記事を書くにせよ、相手の意見を取るべきだろう、と。そこで、この疑問を四国新聞社の記者にぶつけたのだが、彼は「今ここでは答えられない」と返答する。そこでプチ鹿島が、「では、明日四国新聞社に行って回答をもらってもいいですか?」と食い下がり、選挙翌日に2人は四国新聞社へと乗り込むことになったのだ。
そこで改めて、「読者の感想として、『記者が取材なしで記事を書くこと』の是非を知りたい」と聞くが、対応した広報だという人物は、「私では答えられないので、質問をFAXで送ってほしい」と口にする。プチ鹿島は、皮肉的に「もっとデジタル的にやれませんか?」と聞くが、とにかくFAXを送ることになった。
彼らはコンビニからFAXを送り、回答期限を3日後の11月4日18時に設定した。回答が返ってきたのは、11月4日17:59。どんな回答だったのかは、是非映画を観てほしい。
僕はどうにも、政治家や選挙戦で使われる「言葉」がすこぶる嘘くさく聞こえるのが苦手で、政治とか選挙とかにどうにも前のめりになれない。政治家なんて、本来的には「言葉だけが武器」のはずなのだけど、その「言葉」があまりにも稚拙すぎる人が多くて、げんなりしてしまうのだ。
しかし、映画の中で映し出されたいくつかの演説を観て、「やっぱり、上手い人は上手い」と感じた。ダースレイダーとプチ鹿島も絶賛していたけど、菅直人の奥さんの菅伸子はとても上手かったし、辻元清美も上手いなと思った。あと、松川るいは、友達にはなりたくないなと思ったけど、有能さはメチャクチャ伝わってきたし、こういう人がちゃんと政治の中心にいたらいいんじゃない、と思ったりした。
ダースレイダーとプチ鹿島は、さすがに「言葉」が絶妙で、だからこそのこの映画の面白さでもあるなと感じる。
「劇場版 センキョナンデス」を観に行ってきました
映画は基本的に、全編に渡って「面白く、笑える」感じで展開していく。しかし、この映画について取り上げる場合、避けては通れない話からすることにしよう。去年7月の、安倍元首相銃撃事件である。元々YouTube用に撮影していた映像を映画にすると決めたのも、この事件がきっかけだったそうだ。
この映画の監督である、東大中退のラッパーであるダースレイダーと、新聞14紙を読み比べる時事芸人であるプチ鹿島の2人は、2022年の参議委員選挙で大阪に注目した。当時、立憲民主党の菅直人が「日本維新の会はヒットラーのようだ」とツイートし物議を醸し、しかし謝罪をするどころか「闘うリベラル宣言」で応戦したことに「ヒリヒリしたもの」を感じ、これは大阪の選挙運動を見るしかないと乗り込んでいくのだ。彼らは、候補者全員の選挙演説に顔を出し、候補者の声や支援者の様子などをウォッチしていく。
そんな最中、安倍元首相の銃撃事件が起こる。彼らは大阪のホテルにいた。そして、参議委員選挙期間中に起こったその事件を受けて、多くの候補者が一時選挙運動を中止した。
しかし大阪では、選挙演説を続行する候補者もいた。彼らはその演説を聞きに行き、候補者の声を聞く。また、「選挙運動は止めるが、街頭演説は行う」としたのが辻元清美だ。彼女は、白いシャツに黒いパンツという姿で、たすきも掛けないまま、「言論を暴力で封じることは許されない」と街頭で演説をする。そしてその後、記者からのぶら下がり取材中に安倍元首相の訃報を知ることになる。その様子が、カメラに収められている。
映画の中でも、今日観たトークイベントでも語られていたが、銃撃事件が起こったその日彼らが重視していたことは、「後から振り返った時に『間違いだった』と分かってもいいから、今日この場で感じたこと、考えたことを残そう」というものだったそうだ。
今では、事件を起こした犯人の動機が、いわゆる「旧統一教会」にあることは知れ渡っている。しかし、事件当日の午後、事件からまだ数時間程度しか経っていなかった頃には、動機も何も分かっていなかった。政治家を公衆の面前で銃撃するのだ、どんな可能性を考えてもおかしくなかっただろう。そういう中にあって、ダースレイダーとプチ鹿島は、「自分たちは沈黙するしかない」と考えていたとトークイベントでは語っていた。憶測でものを言っても仕方ないからだ。しかし、「言論を暴力で封じようとする行為は断固許容できない」というスタンスは明確に主張していた。
その一方で、安倍元首相からすれば「政敵」という存在だろう辻元清美や志位和夫は、事件直後の街頭演説の中で、安倍元首相に想いを馳せる言葉を口にした。
さて、彼らはその日、適宜ツイッターなどネットの情報も見ていたわけだが、そこでは、罵詈雑言や謎のマウント合戦が繰り広げられていたそうだ(僕は正直、あまりネットを見ないようにしているのでよく知らない)。まだ何が起こったのかさえ分からない状況下で、安倍元首相の支持者や批判者を貶めるようなことを言ったり、安否についての正確な情報が出る前から「死亡した」というデマを流す者もいたという。
そのようなネット上の風潮を、彼らは強い憤りを持って眺めていた。
一方、別の方向の危惧を示す場面もあった。それは、「『批判』と『悪口』の違い」についてのものだ。
事件が起こる前からダースレイダーは、「民主主義が正常に機能していない」という感覚を持っていたと言っていたと思う。「民が主になっていない」からだ。しかしその背景には、「適切な批判が成立していない」という問題もある。そして、この事件によってよりその風潮が強まるのではないか、と危惧していたのだ。
「政府が正しく機能しているのかチェックし、不備があれば批判する」というのは、民主主義の基本である。しかし、世の中では「批判」が単なる「悪口」と受け取られがちだという。確かに僕も、そういう風潮を強く感じる。それが何であれ、「『相手を悪く言うこと』は悪である」という考え方が、ナチュラルに存在しているのだ。
以前、『パンケーキを毒見する』という、菅義偉を扱ったドキュメンタリー映画を観たのだが、その中で、「若者にもっと政治参加してもらうこと」を目的とする大学生のサークルメンバーが登場した。彼らに、「若者の間でなぜ自民党が人気なのか?」と聞く場面があり、「自民党しか知らないから」「ずっと政権を取っているから」みたいな理由が出てくるのだが、その中の1人は、「野党は文句を言っているだけだから嫌われている」というのがあった。確かに、今の野党が適切に機能しているのかはともかく、本来的に野党というのは、政権与党を批判的にチェックする役割を担うはずだ。しかし、そのような本来的な役割さえも、「文句・悪口を言っている」と受け取られ、嫌われてしまうのが現状なのだそうだ。
さて、ダースレイダーは、「そういう風潮を作ったのは、安倍元首相だ」とも言っていた。「私にはこういう国のビジョンがある、だから私たちに任せてもらって大丈夫だ。そして、そんな私たちに批判する人間は、要するに『国を愛していない人間』だ」という雰囲気を醸成するのがとても上手かった、というのだ。なるほど、確かにそう言われるとそうだなと思う。
事件を機に言論が封殺されてしまうこともマズいが、それ以上に、「権力を批判するのは悪」みたいな風潮が一層加速してしまうことがより危険なのではないかと指摘されていた。確かにそういう感覚は、僕の中にもある。
さて、そういう意味で、この『劇場版 センキョナンデス』という映画は、とても面白い立ち位置にあると思う。その点について、プチ鹿島(だったはず)がトークイベントの中で、「この映画は、私たち2人なりの『選挙の見方』の提示に過ぎない」と話していたのが印象的だった。
2人はとにかく、「ヒリヒリした現場を見たい」というだけで選挙戦をウォッチしにいく。もちろん2人とも、常に時事問題には関心を抱いているわけで、そういう意味でも「選挙」への興味はあったと思うが、少なくともこの映画で描かれている雰囲気で言えば、2人は「ただヒリヒリした現場を見たい」という動機だけで動いているように見える。
候補者や選対スタッフなどにかなり厳しく追及をしたりする場面もあるのだが、それもシンプルに「自分が知りたいから」という欲求で動いていることが伝わってくる。候補者におもねったり、誰かに何かを伝えたいみたいな感覚でもなく、純粋に「俺がこうしたいんだ!」というスタンスを貫いている。
そして、それが伝わることがこの映画の良さだと思う。
「権力の監視」とか「政権の批判」みたいな言葉を使うと、なんだか大きくて強いものに感じられるが、『劇場版 センキョナンデス』はとにかく、「『選挙』はお祭りなんだから、あなたが楽しめばいいんですよ」というメッセージをこれでもかと伝えてくれる。トークイベントではプチ鹿島が何度か、「私たちがやってることは、皆さんも同じことが出来ます」と言っていたが、確かにその通りだろう。別にダースレイダーとプチ鹿島だから出来たというわけではない。それが「選挙」に特殊さである。
トークイベントの中でダースレイダーが、「人を追及したりしていると、『お前はどうなんだ?』とネットで絡まれたりすることがある」と言っていた。要するに、「人に偉そうにあーだこーだ言ってるけど、お前はそんなこと言えるような立場の人間なのか?」みたいなツッコミをされることがあるというのだ。
この点についてダースレイダーは、非常に真っ当な意見を言っていた。
つまり、「政治家を含めた公人は、発言やお金の使い道がチェックされて当然だ。そして、選挙の候補者というのは、『そんな公人に自発的になりたいと思っている人たち』である。だったら、そういう人に思っていることをぶつけても問題ないはずだ」というわけだ。確かにその通りだろう。通りがかりの人を捕まえて詰問したらただのヤバい奴だが、選挙の候補者は、「私を国会に連れてって!」とお願いしている人たちなのだから、「公人に相応しいのか」を含め色々聞く権利がこちらにもあるはずという意見は、まあその通りだろう。
そしてだからこそ、彼ら2人がやっていることとまったく同じことを、日本中誰がやってもいいということになるわけだ。
実際にやるかどうかは別として、映画『劇場版 センキョナンデス』を観ることによって、「なるほど、こんな楽しみ方があるんだな」と感じるのではないかと思う。実際、この映画を観て、「選挙を『お祭り』的にウォッチするのは面白いかもなぁ」という感覚になった。実際に「楽しい」という感覚を得るまでに、多少の時間を費やす必要はあると思うが、なかなか可能性を感じるのではないかと思う。もちろん、「断れないことをいいことに、女性候補者に近づいて無茶を言うオジサン」みたいになってしまってはいけないので、節度を持つことは大事だが、有権者なのだからこれぐらいしてもいいんだよなぁ、という感覚を持てるだろうと思う。
映画は大雑把に前後半に分かれており、後半が先程説明した、去年の参議委員選挙である。では前半はというと、やはりそこに来るかと感じたあそこである。「香川1区」だ。
『なぜ君は総理大臣になれないのか』『香川1区』で知られるようになった選挙区が、香川県の「香川1区」である。『劇場版 センキョナンデス』のプロデューサーには、『なぜ君は総理大臣になれないのか』『香川1区』の大島新も加わっている。やはり「選挙」となると、皆がこの「香川1区」に吸い寄せられているように思う。
『なぜ君は総理大臣になれないのか』『香川1区』でメインで描かれるのは、立憲民主党の小川淳也だが、『劇場版 センキョナンデス』ではその対立候補である平井卓也に焦点が当たっている。そしてやはり、この映画の中でも、この「香川1区」に関わる話はとても面白い。
プチ鹿島は、新聞14紙を読んでいることで知られているが、ある時から四国新聞も購読するようになったそうだ。平井卓也がデジタル庁の大臣になった辺りからだろうか。四国新聞に関する記事を書くというのは、プチ鹿島のライフワークにもなっているようだ。
なぜ四国新聞なのか。それは、平井卓也の一族が、四国新聞社を含めた香川のメディアを牛耳る存在だからだ。プチ鹿島は、四国新聞紙上で、平井卓也が持ち上げられ、対立候補である小川淳也が貶められているように感じられる記事を多数取り上げ、ネットでバズっているというわけだ。
彼らは、「支援者の熱気が籠もる選挙戦を展開する小川淳也」「クローズドな集会と、動員の少ない”パレード”の平井卓也」の選挙戦をウォッチし、平井卓也の選挙事務所とちょっと揉めたりしながら、投開票日を迎えるのだが、実はこの「香川1区」に絡んでは、選挙後にハイライトがあったと言っていいだろう。
小川淳也の選挙事務所で、ダースレイダーとプチ鹿島は、四国新聞社の記者を追い回していた。プチ鹿島には、どうしても聞きたいことがあったからだ。
小川淳也は、「香川1区」から立候補しようとする別の候補者に「出ないでくれ」と言ったという話で批判を浴びることになった。その辺りの経緯は、映画『香川1区』でも描かれていた。さて、四国新聞社はこの出来事を何度も紙上で扱うのだが、かなりの批判記事であるにも拘わらず、小川淳也には一切取材をせず、コメントも求めていないのだ。
プチ鹿島は、この取材姿勢を「新聞社としてあり得ない」と憤っていた。どんな記事を書くにせよ、相手の意見を取るべきだろう、と。そこで、この疑問を四国新聞社の記者にぶつけたのだが、彼は「今ここでは答えられない」と返答する。そこでプチ鹿島が、「では、明日四国新聞社に行って回答をもらってもいいですか?」と食い下がり、選挙翌日に2人は四国新聞社へと乗り込むことになったのだ。
そこで改めて、「読者の感想として、『記者が取材なしで記事を書くこと』の是非を知りたい」と聞くが、対応した広報だという人物は、「私では答えられないので、質問をFAXで送ってほしい」と口にする。プチ鹿島は、皮肉的に「もっとデジタル的にやれませんか?」と聞くが、とにかくFAXを送ることになった。
彼らはコンビニからFAXを送り、回答期限を3日後の11月4日18時に設定した。回答が返ってきたのは、11月4日17:59。どんな回答だったのかは、是非映画を観てほしい。
僕はどうにも、政治家や選挙戦で使われる「言葉」がすこぶる嘘くさく聞こえるのが苦手で、政治とか選挙とかにどうにも前のめりになれない。政治家なんて、本来的には「言葉だけが武器」のはずなのだけど、その「言葉」があまりにも稚拙すぎる人が多くて、げんなりしてしまうのだ。
しかし、映画の中で映し出されたいくつかの演説を観て、「やっぱり、上手い人は上手い」と感じた。ダースレイダーとプチ鹿島も絶賛していたけど、菅直人の奥さんの菅伸子はとても上手かったし、辻元清美も上手いなと思った。あと、松川るいは、友達にはなりたくないなと思ったけど、有能さはメチャクチャ伝わってきたし、こういう人がちゃんと政治の中心にいたらいいんじゃない、と思ったりした。
ダースレイダーとプチ鹿島は、さすがに「言葉」が絶妙で、だからこそのこの映画の面白さでもあるなと感じる。
「劇場版 センキョナンデス」を観に行ってきました
「別れる決心」を観に行ってきました
なんとも変な物語だった。とにかく、「物語がどう展開するのか分からない」という意味で、強烈に惹きつけられてしまう映画ではある。
この映画の変なところは、「倫理観との葛藤」みたいな場面が、ほとんど描かれないことだと思う。
主人公のヘジュン・ヘジュンは、史上最年少で警部となった刑事である。原子力発電で働く妻とは週末婚で、ヘジュンは普段職場から近いのだろうアパートで一人暮らしをしている。妻との関係も恐らく良好で、たぶん話し合って子供を持たないことにしているのだと思うが、毎週セックスをしている。仕事ぶりも真面目で、部下が被疑者に暴力的な振る舞いをした際は、「俺の元で仕事をするなら暴力は無しだ」と厳しく叱責もする。その言葉に違わず、彼自身は被疑者であっても丁寧な接し方を心がけている。
非常に好人物だと言っていいだろう。そしてその印象は、実は最後までほとんど変わらない。一度彼が「崩壊」という言葉を使う場面があり、確かにそれは褒められた行動ではないのだが、全体的には「人としても刑事としても、高い倫理観を持って生きている」と感じる人物である。
そんな人物が、被疑者である若く美しい女性ソン・ソレには、普段しないだろう振る舞いをする。「被疑者と刑事」という関係を、完全に逸脱しているのだ。そのことは、彼自身ももちろん理解しているだろう。
しかしそれなのに、映画では「ヘジュンがその事実に葛藤する」という描写がほとんどない。
一方、ソン・ソレは、「年上の夫を殺害したかもしれない」という容疑でヘジュンから取り調べを受けている。年上の夫は、クライミングに滑落した。事故を強く示唆する状況ではあるが、その妻であるソン・ソレが夫から日常的に酷い暴力を受けている事実を知り、疑いを掛けられるのだ。
いや、最初のきっかけはそうではない。夫が亡くなったので、当然妻であるソン・ソレに事情を聞くことになるのだが、夫が死んだことを告げられた後も、取り調べ中に笑うのだ。そのことも、不信感に繋がっている。
これもまた、「『倫理観との葛藤』が描かれない状況」と言っていいだろうと思う。
このように、ヘジュンもソン・ソレも、「倫理観」という点でどうにも「あっち側にいってしまっている」という雰囲気がある。しかしヘジュンもソン・ソレも、職場やなどでの評判がとても良い。だからその「逸脱」が周囲にはあまり染み出ないことになる。それでいて、ヘジュンとソン・ソレは共に「逸脱」しまくっているわけで、この2人だけが関わる場面では、なんとも「異常」と感じられる状況が現出することになる。
これがこの映画の「特異点」であるように感じられた。
とにかく映画を観ながら感じていたことは、「観客を『まとも』という舞台から引きずり降ろそうとしている」ということだ。それも「北風」的なやり方ではなく「太陽」的なやり方で。なんとも幻惑させられるというか、見えている光景が異常に魅惑的に映るというか、とにかく「自分が依って立つ『まとも』を手放すことの快楽」みたいなものを、劇的に刺激してくるような作品に感じられた。
別にそれは、「刑事でありながら被疑者に恋をする」とか「妻がいながら別の女性に惹かれる」みたいな「背徳感」の話をしているつもりはない。なんというのか、そういう分かりやすい話ではないように感じさせる作りになっているのだ。正直なところ、ヘジュンとソン・ソレの関係については「よく分からない」と感じる部分の方が多い。ヘジュンは決して「若くて美人だからソン・ソレに惹かれた」みたいな話ではないはずだし、ソン・ソレの方も、「ヘジュンが、それまで自分が生きてきた世界にはいないような礼儀正しい人間だから惹かれた」みたいなことでもないはずだ。
じゃあなんなんだ、と言われると、それがなんともよく分からない。よく分からないのだけど、「この2人の間では成立しているんだよなぁ」という感覚だけは強烈に映し出される。だから、「理解できないけど、受け入れざるを得ない」という感覚になってしまうのだ。
作中では、実は様々な要素が描かれる。妻が原子力発電所で働いていること、妻の職場近くは霧が多いこと、妻が理系出身で様々なデータに明るいこと、ソン・ソレの祖父は「朝鮮解放軍で『満州の山猫』と呼ばれた人物だった」という話、ソン・ソレが中国人で韓国語が苦手なため翻訳アプリ越しに会話すること、ヘジュンが不眠症であること、それと関係があるのかヘジュンが事ある毎に目薬を差すこと、ソン・ソレの事件とは関係ない別の捜査の話などなど。とにかく、色んな要素が散りばめられている。
ただ僕には、それらの要素が、「ヘジュンとソン・ソレの関係」になんの影響を及ぼしていないように感じられる。つまり、「散りばめられた様々な要素が、単に『2人の関係にとっては無駄である』という事実描くためのもの」でしかないように感じられたのだ。もちろんこれは、僕の読み解きが浅いだけで、出てくる様々な要素には何か意味や意図があるのかもしれない。それはそれで深掘りするには面白いが、とりあえず今の僕の感想としては、「あらゆる要素が『無駄』を示唆するために描かれている」と感じた。
「別れる決心」というタイトルも、なんとも言えない。劇中に「別れる決心」というセリフが出てくるので、それを踏まえれば主語がどっちのものかは明らかなのかもしれないが、しかし個人的には、どちらの感覚であっても間違いではないと感じる。
特に後半の展開は、「別れる決心」というタイトルからむしろ遠ざかっているような話になっていて、益々混沌としていくと言っていいと思う。なんというか、もしこの物語の展開を誰かに口頭で説明したら、「は? それ、物語として成立してる?」と感じるのではないかと思う。それぐらい、シンプルにストーリーだけ取り出したら、なんのこっちゃ分からないのではないか。
でも、映画を観ていると、「理解は出来ないが、成立はしている」という感覚になる。やっぱり、この点がこの映画の凄さだなと思う。韓国で公開された時には、繰り返し観るリピーターが続出したそうだが、その気持ちも分かるように思う。「理解できないのに成立している」という感覚がどんな風にもたらされているのか、気になるんじゃないだろうか。
演出的な話で言うと、「ソン・ソレの回想シーンの場面に、ヘジュンがいる」というやり方がなかなか面白かった。どういう意図が込められているか分からないが、僕としては、「ヘジュンがソン・ソレの虜になっている」という事実が、視覚的に表現されているように感じられて、上手いなと思った。
映画を観ながら、桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』という小説のことを思い出した。この中に、「答えられたらマズいクイズ」というのがあって、その問題と答えがなんかこの映画全体の本質にピタリハマるような感じがあった。問題と答えはここには書かないが、気になる人はネットで調べれば出てくるので調べてみてほしい。
形なきものを見えるようにするために「言葉」があると考えることも出来ると思うが、逆に、「言葉にしないことで形なきものの存在を感じさせる」というやり方も出来る。そのことを、強烈な物語と共に描き出す映画だったなと思う。
しかし、変な映画だった。
「別れる決心」を観に行ってきました
この映画の変なところは、「倫理観との葛藤」みたいな場面が、ほとんど描かれないことだと思う。
主人公のヘジュン・ヘジュンは、史上最年少で警部となった刑事である。原子力発電で働く妻とは週末婚で、ヘジュンは普段職場から近いのだろうアパートで一人暮らしをしている。妻との関係も恐らく良好で、たぶん話し合って子供を持たないことにしているのだと思うが、毎週セックスをしている。仕事ぶりも真面目で、部下が被疑者に暴力的な振る舞いをした際は、「俺の元で仕事をするなら暴力は無しだ」と厳しく叱責もする。その言葉に違わず、彼自身は被疑者であっても丁寧な接し方を心がけている。
非常に好人物だと言っていいだろう。そしてその印象は、実は最後までほとんど変わらない。一度彼が「崩壊」という言葉を使う場面があり、確かにそれは褒められた行動ではないのだが、全体的には「人としても刑事としても、高い倫理観を持って生きている」と感じる人物である。
そんな人物が、被疑者である若く美しい女性ソン・ソレには、普段しないだろう振る舞いをする。「被疑者と刑事」という関係を、完全に逸脱しているのだ。そのことは、彼自身ももちろん理解しているだろう。
しかしそれなのに、映画では「ヘジュンがその事実に葛藤する」という描写がほとんどない。
一方、ソン・ソレは、「年上の夫を殺害したかもしれない」という容疑でヘジュンから取り調べを受けている。年上の夫は、クライミングに滑落した。事故を強く示唆する状況ではあるが、その妻であるソン・ソレが夫から日常的に酷い暴力を受けている事実を知り、疑いを掛けられるのだ。
いや、最初のきっかけはそうではない。夫が亡くなったので、当然妻であるソン・ソレに事情を聞くことになるのだが、夫が死んだことを告げられた後も、取り調べ中に笑うのだ。そのことも、不信感に繋がっている。
これもまた、「『倫理観との葛藤』が描かれない状況」と言っていいだろうと思う。
このように、ヘジュンもソン・ソレも、「倫理観」という点でどうにも「あっち側にいってしまっている」という雰囲気がある。しかしヘジュンもソン・ソレも、職場やなどでの評判がとても良い。だからその「逸脱」が周囲にはあまり染み出ないことになる。それでいて、ヘジュンとソン・ソレは共に「逸脱」しまくっているわけで、この2人だけが関わる場面では、なんとも「異常」と感じられる状況が現出することになる。
これがこの映画の「特異点」であるように感じられた。
とにかく映画を観ながら感じていたことは、「観客を『まとも』という舞台から引きずり降ろそうとしている」ということだ。それも「北風」的なやり方ではなく「太陽」的なやり方で。なんとも幻惑させられるというか、見えている光景が異常に魅惑的に映るというか、とにかく「自分が依って立つ『まとも』を手放すことの快楽」みたいなものを、劇的に刺激してくるような作品に感じられた。
別にそれは、「刑事でありながら被疑者に恋をする」とか「妻がいながら別の女性に惹かれる」みたいな「背徳感」の話をしているつもりはない。なんというのか、そういう分かりやすい話ではないように感じさせる作りになっているのだ。正直なところ、ヘジュンとソン・ソレの関係については「よく分からない」と感じる部分の方が多い。ヘジュンは決して「若くて美人だからソン・ソレに惹かれた」みたいな話ではないはずだし、ソン・ソレの方も、「ヘジュンが、それまで自分が生きてきた世界にはいないような礼儀正しい人間だから惹かれた」みたいなことでもないはずだ。
じゃあなんなんだ、と言われると、それがなんともよく分からない。よく分からないのだけど、「この2人の間では成立しているんだよなぁ」という感覚だけは強烈に映し出される。だから、「理解できないけど、受け入れざるを得ない」という感覚になってしまうのだ。
作中では、実は様々な要素が描かれる。妻が原子力発電所で働いていること、妻の職場近くは霧が多いこと、妻が理系出身で様々なデータに明るいこと、ソン・ソレの祖父は「朝鮮解放軍で『満州の山猫』と呼ばれた人物だった」という話、ソン・ソレが中国人で韓国語が苦手なため翻訳アプリ越しに会話すること、ヘジュンが不眠症であること、それと関係があるのかヘジュンが事ある毎に目薬を差すこと、ソン・ソレの事件とは関係ない別の捜査の話などなど。とにかく、色んな要素が散りばめられている。
ただ僕には、それらの要素が、「ヘジュンとソン・ソレの関係」になんの影響を及ぼしていないように感じられる。つまり、「散りばめられた様々な要素が、単に『2人の関係にとっては無駄である』という事実描くためのもの」でしかないように感じられたのだ。もちろんこれは、僕の読み解きが浅いだけで、出てくる様々な要素には何か意味や意図があるのかもしれない。それはそれで深掘りするには面白いが、とりあえず今の僕の感想としては、「あらゆる要素が『無駄』を示唆するために描かれている」と感じた。
「別れる決心」というタイトルも、なんとも言えない。劇中に「別れる決心」というセリフが出てくるので、それを踏まえれば主語がどっちのものかは明らかなのかもしれないが、しかし個人的には、どちらの感覚であっても間違いではないと感じる。
特に後半の展開は、「別れる決心」というタイトルからむしろ遠ざかっているような話になっていて、益々混沌としていくと言っていいと思う。なんというか、もしこの物語の展開を誰かに口頭で説明したら、「は? それ、物語として成立してる?」と感じるのではないかと思う。それぐらい、シンプルにストーリーだけ取り出したら、なんのこっちゃ分からないのではないか。
でも、映画を観ていると、「理解は出来ないが、成立はしている」という感覚になる。やっぱり、この点がこの映画の凄さだなと思う。韓国で公開された時には、繰り返し観るリピーターが続出したそうだが、その気持ちも分かるように思う。「理解できないのに成立している」という感覚がどんな風にもたらされているのか、気になるんじゃないだろうか。
演出的な話で言うと、「ソン・ソレの回想シーンの場面に、ヘジュンがいる」というやり方がなかなか面白かった。どういう意図が込められているか分からないが、僕としては、「ヘジュンがソン・ソレの虜になっている」という事実が、視覚的に表現されているように感じられて、上手いなと思った。
映画を観ながら、桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』という小説のことを思い出した。この中に、「答えられたらマズいクイズ」というのがあって、その問題と答えがなんかこの映画全体の本質にピタリハマるような感じがあった。問題と答えはここには書かないが、気になる人はネットで調べれば出てくるので調べてみてほしい。
形なきものを見えるようにするために「言葉」があると考えることも出来ると思うが、逆に、「言葉にしないことで形なきものの存在を感じさせる」というやり方も出来る。そのことを、強烈な物語と共に描き出す映画だったなと思う。
しかし、変な映画だった。
「別れる決心」を観に行ってきました
「私はどこから来たのか、何者なのか、どこへ行くのか、そしてあなたは…」を観に行ってきました
うーむ、この映画はどうなんやろか。ちょっと僕には評価できないなぁ。意味が分からなかった。
僕の感触では、「『エヴァンゲリオン』から『設定』と『エンタメ的要素』をすべて抜き取って残ったもの」という感じの映画。うーむ。
ちょっと何かが違ってたら、吉田篤弘の小説っぽい雰囲気になったかなって気もするけど、とにかく、これは無理だったなぁ。
トークイベントに出てきた、人類学者兼映画監督のオオタさんの話は面白かった。
「私はどこから来たのか、何者なのか、どこへ行くのか、そしてあなたは…」を観に行ってきました
僕の感触では、「『エヴァンゲリオン』から『設定』と『エンタメ的要素』をすべて抜き取って残ったもの」という感じの映画。うーむ。
ちょっと何かが違ってたら、吉田篤弘の小説っぽい雰囲気になったかなって気もするけど、とにかく、これは無理だったなぁ。
トークイベントに出てきた、人類学者兼映画監督のオオタさんの話は面白かった。
「私はどこから来たのか、何者なのか、どこへ行くのか、そしてあなたは…」を観に行ってきました
「Sin Clock」を見に行ってきました
なかなか面白い映画だった。窪塚洋介って、やっぱ存在感あるよなぁ。ただ個人的に、日本の映画で拳銃がバンバン出てくる感じがあんまり得意じゃない。まあ、実際そういう世界もあるんだろうけど、「日本で銃撃ちすぎじゃない?」って感じになっちゃう。
物語は、どんな関係性なのか不明な複数の男たちの酒宴の場から始まる。悪そうな男たちだ。ムシャムシャと食事をしながら、恐らく何か悪巧みの話をしている。
そしてそこから、その酒宴の席にいた高木シンジの来歴と現状が語られることになる。
サラリーマンだった高木は、あるどでかいミスの尻拭いをさせられクビとなり、その後タクシー運転手となった。同じタイミングで、同じぐらいの年齢の、タクシー業界では「若手」と言える男が他に2人も入社したようだ。その内の1人である番場ダイゴとは、ちょくちょく話す仲だ。ちょっと変わった奴だが、後に飲みの席で元数学教師だったと知る。
高木は日々様々な人を乗せるが、「車内には自分と客しかいないのに、自分の存在が無いみたいになっている」と、その不思議な感覚について吐露していた。
そんなある日、高木は、後ろの席で若い女性にフェラチオをさせていた男が、国会議員の大谷であることをひょんなことから知ってしまう。また、高木・番場と同時期に入社した坂口から、「俺たちには『意味のある偶然』がある」と唆される。
そんなわけで彼らは、思いもよらない「強奪計画」を実行に移すこととなり……。
というような話です。
さっきも書いたけど、やっぱり窪塚洋介がとにかく良い。彼は最初から「悪」側っていうわけでは全然なく、むしろ「可哀想」側の人と言ってもいいという感じで登場する。そしてそういう、「ワル感」を発揮する場面じゃないところでは、そういう存在としてきちんと存在感がある。さらに、「悪」側に転がっていってからの雰囲気も、そりゃあさすがという感じで、概ね窪塚洋介の雰囲気で成立しているみたいな作品だなぁ、と感じた。
映画の中では、窪塚洋介の役は「狂気を発露する」人物ではなく、「狂気を発露する」人物は他にいるのだが、彼よりもやはり窪塚洋介の方がなんだかんだ「狂気じみている」雰囲気がある。不思議だ。ホントに、何をしているというわけでもなく、ただ運転したり、ただタバコを吸ったりしているだけなのに、絶妙にサマになるんよなぁ。
物語的には、割とシンプルに進んでいくというか、「そんな感じになっていくよね」という展開だと思う。ただ、どう考えても「失敗すること」は目に見えているわけで、「じゃあ、何故失敗するのか?」をどう着地させるんだろうな、とは思ってた。その着地のさせ方はなかなか上手いと思う。ストーリー的には、綺麗にまとまった感じ。後は、全体の雰囲気が良かったから、それで十分かなという気はする。
全然詳しくないんだけど、この映画にはラッパーがたくさん出演しているみたいで、中でも、公式HPを見て初めて名前を知った「Jin Dogg」って人は、「にじみ出るヤバさ」みたいなものが生来のものっぽくて良かった。なんか、「人生、ずっとこんなヤバさを背負って生きてます」みたいな、「作り物感」のまったくない雰囲気は見事だったと思う。僕の感触では、窪塚洋介に引けを取らない存在感があったなぁと思う。
あと、チョコプラの長田は絶妙だったなぁ。ホント、こういう人いそうだなぁ、って感じ。ある意味で一番ヤバい奴かもしれない。ホント、うまくハマった感じだなぁ。
雰囲気がとても良い映画だったなと思います。
「Sin Clock」を見に行ってきました
物語は、どんな関係性なのか不明な複数の男たちの酒宴の場から始まる。悪そうな男たちだ。ムシャムシャと食事をしながら、恐らく何か悪巧みの話をしている。
そしてそこから、その酒宴の席にいた高木シンジの来歴と現状が語られることになる。
サラリーマンだった高木は、あるどでかいミスの尻拭いをさせられクビとなり、その後タクシー運転手となった。同じタイミングで、同じぐらいの年齢の、タクシー業界では「若手」と言える男が他に2人も入社したようだ。その内の1人である番場ダイゴとは、ちょくちょく話す仲だ。ちょっと変わった奴だが、後に飲みの席で元数学教師だったと知る。
高木は日々様々な人を乗せるが、「車内には自分と客しかいないのに、自分の存在が無いみたいになっている」と、その不思議な感覚について吐露していた。
そんなある日、高木は、後ろの席で若い女性にフェラチオをさせていた男が、国会議員の大谷であることをひょんなことから知ってしまう。また、高木・番場と同時期に入社した坂口から、「俺たちには『意味のある偶然』がある」と唆される。
そんなわけで彼らは、思いもよらない「強奪計画」を実行に移すこととなり……。
というような話です。
さっきも書いたけど、やっぱり窪塚洋介がとにかく良い。彼は最初から「悪」側っていうわけでは全然なく、むしろ「可哀想」側の人と言ってもいいという感じで登場する。そしてそういう、「ワル感」を発揮する場面じゃないところでは、そういう存在としてきちんと存在感がある。さらに、「悪」側に転がっていってからの雰囲気も、そりゃあさすがという感じで、概ね窪塚洋介の雰囲気で成立しているみたいな作品だなぁ、と感じた。
映画の中では、窪塚洋介の役は「狂気を発露する」人物ではなく、「狂気を発露する」人物は他にいるのだが、彼よりもやはり窪塚洋介の方がなんだかんだ「狂気じみている」雰囲気がある。不思議だ。ホントに、何をしているというわけでもなく、ただ運転したり、ただタバコを吸ったりしているだけなのに、絶妙にサマになるんよなぁ。
物語的には、割とシンプルに進んでいくというか、「そんな感じになっていくよね」という展開だと思う。ただ、どう考えても「失敗すること」は目に見えているわけで、「じゃあ、何故失敗するのか?」をどう着地させるんだろうな、とは思ってた。その着地のさせ方はなかなか上手いと思う。ストーリー的には、綺麗にまとまった感じ。後は、全体の雰囲気が良かったから、それで十分かなという気はする。
全然詳しくないんだけど、この映画にはラッパーがたくさん出演しているみたいで、中でも、公式HPを見て初めて名前を知った「Jin Dogg」って人は、「にじみ出るヤバさ」みたいなものが生来のものっぽくて良かった。なんか、「人生、ずっとこんなヤバさを背負って生きてます」みたいな、「作り物感」のまったくない雰囲気は見事だったと思う。僕の感触では、窪塚洋介に引けを取らない存在感があったなぁと思う。
あと、チョコプラの長田は絶妙だったなぁ。ホント、こういう人いそうだなぁ、って感じ。ある意味で一番ヤバい奴かもしれない。ホント、うまくハマった感じだなぁ。
雰囲気がとても良い映画だったなと思います。
「Sin Clock」を見に行ってきました
「対峙」を見に行ってきました
映画館でチラシを観て、「あ、これは絶対に観よう」と思った映画だ。銃乱射事件を起こした加害者家族と、その事件で息子を喪った被害者家族が「対峙する」という物語だ。すげぇじゃないか、と思った。
その後、この映画の予告を観て、「なるほど、ドキュメンタリー映画ではないのか」と思った。この映画に関しては、その事実を先に知っておいて良かったかもしれない。最初から、「これはフィクションだ」と知って観たことで、混乱せずに済んだ。
しかし、公式HPによると、脚本を書き上げた監督は実在する銃乱射事件に着想を得たそうだが、その中で、銃撃犯の両親と犠牲者の両親が会談を行ったという事実を知ったそうだ。「2008年のパークランドの高校で起こった銃乱射事件」がどこまで反映されているのかは僕には分からないが、事実を反映させた映画であることは間違いないようだ。
映画の中にも、「アメリカには実際にこのような制度がありそうだ」と示唆するセリフがあった。被害者の父親が、「あなた方を訴えなかったのか、今日この日のためだ」みたいなことを言うシーンがある。「この日」というのは要するに、「加害者家族と被害者家族が対話をする日」である。具体的にどんなシステムなのかは不明だが、「訴える権利を放棄した場合に、双方の同意の元で対話が可能になる」みたいな仕組みが存在しているのだろうと感じた。
なかなか凄まじい映画だった。映画は、双方の家族が会う前の描写から、家族の去り際まで描かれるが、その大部分が「ある部屋の中で対話し続けるだけ」である。被害者の少年や加害者の少年に関する回想や、銃乱射事件の描写など一切出て来ない。ひたすら、4人の男女が対話し続けるだけである。それを、自分もその場にいて聞いているかのような臨場感と共に映し出している。
個人的に一番凄いと思ったのは、「支離滅裂さ」や「脈絡の無さ」である。
それらが全面に打ち出されるのは当然だと言える。なにせ、対面しているのは「殺した側」と「殺された側」なのだ。事件は、全米で大々的に報道されただろう。加害者の父親が何度か、「自分たちには発言権がなかった」「自由に何かをする権利を奪われていた」みたいな発言をしていた。弁護士なのか国なのか、誰が彼らを制約していたのかはよく分からないが、恐らく「報道被害」みたいに言ってもいいだろう状況に置かれていたのだと思う。
銃乱射事件が頻発するアメリカとはいえ、やはり1つ1つの事件の際にはとんでもない取り上げられ方になるのだろうと想像できた。
そんな重大事件の、加害者家族と被害者家族が、立会人無しで向き合っているのだ。そりゃあ、支離滅裂にも脈絡が無くなりもするだろう。
しかし、これはドキュメンタリーではなくフィクションである。つまり、演技でその「支離滅裂さ」や「脈絡の無さ」を成立させなければならない、ということになる。
それが凄かった。カメラワークやカット割りなどから、明らかに「ドキュメンタリー映画ではない」と分かるものの、しかし、画面を支配するある種の「異様さ」は、そこで本当に「加害者家族」と「被害者家族」が向き合っているのではないかと思わせる凄まじさを感じさせられた。
もちろん、どちらもいい大人であり、また、恐らく事前にかなり様々な契約を経てこの場に臨んでいるのだと思う。だから、「お互いを罵倒する」ような展開になることに対して、双方が大きな自制心を働かせている。単に対峙するのではなく、「抑制的に対峙する」という状況が描かれるのだ。
一応そのような了解が双方できちんとなされているのだろう。対話の冒頭は、かなり穏やかに進んでいく。もちろん、まったくの穏やかなわけはないが、表面上「お互い穏やかに進めていこう」という意思を強く明示している。そのやり取りは、「加害者家族と被害者家族のもの」としては、むしろ不自然に感じられるかもしれない。
しかし、少しずつ状況が変わっていく。冒頭では、やはりというべきか、女性が会話をリードしていく。しかし次第に、双方の男性が話し合いを支配するようになっていく。
被害者の父親は、常に妻の様子を気遣い、「妻が気に入らない話題には立ち入らない」というスタンスを守っている。異質な4人が話す場を、積極的に回していくようなポジションも取っていると言えるだろう。自分よりも「妻」や「この場」のことを優先する理性的な人物に見える。しかし、少しずつそのタガが外れてしまう。
一方、加害者の父親は、妻をさほど顧みず、「確かに加害者側だが、主張すべきことは主張する」というスタンスを崩さない。確かに彼の主張は、とても筋が通っているように僕には感じられた。彼の主張の根底には、「確かに私たちは失敗したし、そのことを否定するつもりはない。ただ、間違いなく努力もしたのだ」という感覚がある。そして、「失敗した」という指摘は受け入れるが、「努力しなかった」という指摘は受け入れないのだ。
その姿は、全体的に「冷徹」なものに見える。被害者家族からすれば、余計にそう感じるだろう。出来るだけ口に出さないようにしているものの、「お前の息子が、ウチの息子を殺したんだぞ」という気持ちは間違いなくあるのだし、そういう視点で見れば、加害者の父親はあまりにも「冷静」に見えてしまう。
しかし、被害者家族の2人は対話の冒頭、加害者の父親が発したある言葉に引っかかる。その言葉を正確には覚えていないのだが、「自分に責任があると感じている」みたいな表明に対してだった。被害者家族の2人は確か、「そんな話を聞きたいんじゃない」と言ったのではなかったか。いずれにせよ、加害者の父親の「自責の念を抱いている」という言葉に、違和感を示していたことは確かだ。それでいて、今度は「感情が見えない」みたいなことを言う。このような「支離滅裂さ」が、映画の中に充満していて、異様な緊迫感に包まれていると言っていいだろう。
映画の中盤は、僕的には「被害者家族に対する違和感」が募っていった。先程も書いたが、どう考えても「加害者の父親」の主張の方が真っ当に感じられてしまうのだ。彼の「冷静さ」がマイナスであることを考慮しても、僕は「加害者の父親」のやり取りに軍配を上げたいと思った。
そのまま行けば、そのままの印象で終わっただろう。しかしそうはならない。というか本当に、どういう方向に展開するのかまったく予測のつかない作品で、ずーっと「そんな風な展開になるんだ」と思わされる感じがあった。「立ち上がってティッシュを取りに行く」みたいな些細な行動にも、二重三重にも意味を考えてしまいたくなるような状況においては、誰かのほんの一言が、誰かのちょっとした行動が、大きな揺らぎをもたらすことになってしまう。その繊細さが溜まりに溜まって随所で爆発する展開は凄いし、ってか役者が凄い。この作品、ホントによく成立させたものだと思う。役者が凄い。
「状況設定」と「会話」だけでこれだけの作品を生み出せることが凄まじいと感じた。とんでもない映画を観たなという感じだ。
「対峙」を見に行ってきました
その後、この映画の予告を観て、「なるほど、ドキュメンタリー映画ではないのか」と思った。この映画に関しては、その事実を先に知っておいて良かったかもしれない。最初から、「これはフィクションだ」と知って観たことで、混乱せずに済んだ。
しかし、公式HPによると、脚本を書き上げた監督は実在する銃乱射事件に着想を得たそうだが、その中で、銃撃犯の両親と犠牲者の両親が会談を行ったという事実を知ったそうだ。「2008年のパークランドの高校で起こった銃乱射事件」がどこまで反映されているのかは僕には分からないが、事実を反映させた映画であることは間違いないようだ。
映画の中にも、「アメリカには実際にこのような制度がありそうだ」と示唆するセリフがあった。被害者の父親が、「あなた方を訴えなかったのか、今日この日のためだ」みたいなことを言うシーンがある。「この日」というのは要するに、「加害者家族と被害者家族が対話をする日」である。具体的にどんなシステムなのかは不明だが、「訴える権利を放棄した場合に、双方の同意の元で対話が可能になる」みたいな仕組みが存在しているのだろうと感じた。
なかなか凄まじい映画だった。映画は、双方の家族が会う前の描写から、家族の去り際まで描かれるが、その大部分が「ある部屋の中で対話し続けるだけ」である。被害者の少年や加害者の少年に関する回想や、銃乱射事件の描写など一切出て来ない。ひたすら、4人の男女が対話し続けるだけである。それを、自分もその場にいて聞いているかのような臨場感と共に映し出している。
個人的に一番凄いと思ったのは、「支離滅裂さ」や「脈絡の無さ」である。
それらが全面に打ち出されるのは当然だと言える。なにせ、対面しているのは「殺した側」と「殺された側」なのだ。事件は、全米で大々的に報道されただろう。加害者の父親が何度か、「自分たちには発言権がなかった」「自由に何かをする権利を奪われていた」みたいな発言をしていた。弁護士なのか国なのか、誰が彼らを制約していたのかはよく分からないが、恐らく「報道被害」みたいに言ってもいいだろう状況に置かれていたのだと思う。
銃乱射事件が頻発するアメリカとはいえ、やはり1つ1つの事件の際にはとんでもない取り上げられ方になるのだろうと想像できた。
そんな重大事件の、加害者家族と被害者家族が、立会人無しで向き合っているのだ。そりゃあ、支離滅裂にも脈絡が無くなりもするだろう。
しかし、これはドキュメンタリーではなくフィクションである。つまり、演技でその「支離滅裂さ」や「脈絡の無さ」を成立させなければならない、ということになる。
それが凄かった。カメラワークやカット割りなどから、明らかに「ドキュメンタリー映画ではない」と分かるものの、しかし、画面を支配するある種の「異様さ」は、そこで本当に「加害者家族」と「被害者家族」が向き合っているのではないかと思わせる凄まじさを感じさせられた。
もちろん、どちらもいい大人であり、また、恐らく事前にかなり様々な契約を経てこの場に臨んでいるのだと思う。だから、「お互いを罵倒する」ような展開になることに対して、双方が大きな自制心を働かせている。単に対峙するのではなく、「抑制的に対峙する」という状況が描かれるのだ。
一応そのような了解が双方できちんとなされているのだろう。対話の冒頭は、かなり穏やかに進んでいく。もちろん、まったくの穏やかなわけはないが、表面上「お互い穏やかに進めていこう」という意思を強く明示している。そのやり取りは、「加害者家族と被害者家族のもの」としては、むしろ不自然に感じられるかもしれない。
しかし、少しずつ状況が変わっていく。冒頭では、やはりというべきか、女性が会話をリードしていく。しかし次第に、双方の男性が話し合いを支配するようになっていく。
被害者の父親は、常に妻の様子を気遣い、「妻が気に入らない話題には立ち入らない」というスタンスを守っている。異質な4人が話す場を、積極的に回していくようなポジションも取っていると言えるだろう。自分よりも「妻」や「この場」のことを優先する理性的な人物に見える。しかし、少しずつそのタガが外れてしまう。
一方、加害者の父親は、妻をさほど顧みず、「確かに加害者側だが、主張すべきことは主張する」というスタンスを崩さない。確かに彼の主張は、とても筋が通っているように僕には感じられた。彼の主張の根底には、「確かに私たちは失敗したし、そのことを否定するつもりはない。ただ、間違いなく努力もしたのだ」という感覚がある。そして、「失敗した」という指摘は受け入れるが、「努力しなかった」という指摘は受け入れないのだ。
その姿は、全体的に「冷徹」なものに見える。被害者家族からすれば、余計にそう感じるだろう。出来るだけ口に出さないようにしているものの、「お前の息子が、ウチの息子を殺したんだぞ」という気持ちは間違いなくあるのだし、そういう視点で見れば、加害者の父親はあまりにも「冷静」に見えてしまう。
しかし、被害者家族の2人は対話の冒頭、加害者の父親が発したある言葉に引っかかる。その言葉を正確には覚えていないのだが、「自分に責任があると感じている」みたいな表明に対してだった。被害者家族の2人は確か、「そんな話を聞きたいんじゃない」と言ったのではなかったか。いずれにせよ、加害者の父親の「自責の念を抱いている」という言葉に、違和感を示していたことは確かだ。それでいて、今度は「感情が見えない」みたいなことを言う。このような「支離滅裂さ」が、映画の中に充満していて、異様な緊迫感に包まれていると言っていいだろう。
映画の中盤は、僕的には「被害者家族に対する違和感」が募っていった。先程も書いたが、どう考えても「加害者の父親」の主張の方が真っ当に感じられてしまうのだ。彼の「冷静さ」がマイナスであることを考慮しても、僕は「加害者の父親」のやり取りに軍配を上げたいと思った。
そのまま行けば、そのままの印象で終わっただろう。しかしそうはならない。というか本当に、どういう方向に展開するのかまったく予測のつかない作品で、ずーっと「そんな風な展開になるんだ」と思わされる感じがあった。「立ち上がってティッシュを取りに行く」みたいな些細な行動にも、二重三重にも意味を考えてしまいたくなるような状況においては、誰かのほんの一言が、誰かのちょっとした行動が、大きな揺らぎをもたらすことになってしまう。その繊細さが溜まりに溜まって随所で爆発する展開は凄いし、ってか役者が凄い。この作品、ホントによく成立させたものだと思う。役者が凄い。
「状況設定」と「会話」だけでこれだけの作品を生み出せることが凄まじいと感じた。とんでもない映画を観たなという感じだ。
「対峙」を見に行ってきました
「イニシェリン島の精霊」を観に行ってきました
なんか、メチャクチャ変な物語だった。なにコレ? 聖書とかに元ネタがあったりするんだろうか。なんとも受け取り方が難しい映画だ。
ただ、コルムがパードリックを”拒絶した”理由が、コルムが口にした通りのものであるならば、理解できなくもないと思う。「退屈さ」は僕にとっても、大いなる”しんどさ”をもたらすものだからだ。
しかしそうだとして、コルムのその凄まじい”拒絶感”に共感できるのかと言えば、そんなことはない。映画を観れば分かるが、コルムがパードリックを拒絶するそのスタンスは異常だ。そして、「何がコルムをそうまでさせるのか」という理由が、結局最後まで理解できないという点が、この物語の凄まじさだと感じる。
映画では、冒頭すぐ、「コルムが唐突にパードリックから絶縁される」という場面が描かれる。理由は分からない。このような始まり方をする物語の場合、僕はまず、「最終的に、コルムがパードリックを拒絶した理由が明らかになるのだろう」と期待する。恐らくそこに、驚くべき何かがあるのだ、と。
しかし映画を観ていると、「そんな物語じゃなさそうだぞ」ということが理解できるようになっていく。ちゃんと説明はできないが、途中から「最後まで観てもきっと、コルムがパードリックを拒絶した理由がはっきり分かることはないだろう」と気づくようになった。そして、やはりそのまま物語は終わる。
何が凄いって、そういう物語なのに、少なくとも僕には「作品として成立している」ように感じられることだ。そんなの、おかしいと思う。こんな訳の分からないストーリーが、成立しているはずがない。でも、作品の良し悪しはともかく、「とりあえず、物語として成り立っている」という感覚にはなる。不思議だ。とても変な物語だと思う。
もちろん、この物語において一番狂ってるのはコルムだと思うが、しかし結果としてパードリックもヤバい。「1度目の結果」を招いてしまったのは、まあ仕方ないかもしれない。誰だって、「まさかそんなことをするはずがない」と思うからだ。しかし、その「1度目」があった後で、再び行動するのがヤバい。もちろん、よりメタ的な意味で言えば、「コルムとパードリックが関わらなければ物語が展開しない」という理由もあるわけで、そこまで考えれば、「パードリックは監督に動かされているだけだ」と気持ちを落ち着かせることも可能だ。しかしやはり、一般的な感覚で言えば、あの「1度目」の後、再び動くことは、ちょっと考えられない。
そして、パードリックのそのヤバさがある意味で伏線として機能していると言えるのかもしれない。物語の展開は、一層狂気を孕んだものになっていく。
そして、ヤバいのはこの2人だけじゃない。映画の舞台は1923年のアイルランドらしいが、恐らく現代なら何らかの発達障害と診断されるだろう青年が状況をかき回すし、彼の父親である警察官は「法の番人」とは思えない振る舞いをする。噂好きの雑貨店の女店主や、告解中に懺悔する者にキレる牧師など、まともとは言えない人間ばっかり出てくる。もう、何がなんだか分からない。あと、あれが”精霊”なんだろうか? あの人、全員に見えてるんやろか。わからん。
パードリックの妹であるシボーンは、映画に映る人物の中で唯一まともに見える。彼女が、本土と手紙のやり取りをしているシーンがところどころであったが、あれはなんだったんだろう?
良かったのか悪かったのかと聞かれるとなかなか答えにくい映画だが、「印象に残ったか」と聞かれれば、間違いなく印象には残った。意味不明な形で狂気が発露されていく109分は、結構怖いよ。そして、どっからこんな物語を考えたのか、監督の頭の中を知りたいものだと思う。
「イニシェリン島の精霊」を観に行ってきました
ただ、コルムがパードリックを”拒絶した”理由が、コルムが口にした通りのものであるならば、理解できなくもないと思う。「退屈さ」は僕にとっても、大いなる”しんどさ”をもたらすものだからだ。
しかしそうだとして、コルムのその凄まじい”拒絶感”に共感できるのかと言えば、そんなことはない。映画を観れば分かるが、コルムがパードリックを拒絶するそのスタンスは異常だ。そして、「何がコルムをそうまでさせるのか」という理由が、結局最後まで理解できないという点が、この物語の凄まじさだと感じる。
映画では、冒頭すぐ、「コルムが唐突にパードリックから絶縁される」という場面が描かれる。理由は分からない。このような始まり方をする物語の場合、僕はまず、「最終的に、コルムがパードリックを拒絶した理由が明らかになるのだろう」と期待する。恐らくそこに、驚くべき何かがあるのだ、と。
しかし映画を観ていると、「そんな物語じゃなさそうだぞ」ということが理解できるようになっていく。ちゃんと説明はできないが、途中から「最後まで観てもきっと、コルムがパードリックを拒絶した理由がはっきり分かることはないだろう」と気づくようになった。そして、やはりそのまま物語は終わる。
何が凄いって、そういう物語なのに、少なくとも僕には「作品として成立している」ように感じられることだ。そんなの、おかしいと思う。こんな訳の分からないストーリーが、成立しているはずがない。でも、作品の良し悪しはともかく、「とりあえず、物語として成り立っている」という感覚にはなる。不思議だ。とても変な物語だと思う。
もちろん、この物語において一番狂ってるのはコルムだと思うが、しかし結果としてパードリックもヤバい。「1度目の結果」を招いてしまったのは、まあ仕方ないかもしれない。誰だって、「まさかそんなことをするはずがない」と思うからだ。しかし、その「1度目」があった後で、再び行動するのがヤバい。もちろん、よりメタ的な意味で言えば、「コルムとパードリックが関わらなければ物語が展開しない」という理由もあるわけで、そこまで考えれば、「パードリックは監督に動かされているだけだ」と気持ちを落ち着かせることも可能だ。しかしやはり、一般的な感覚で言えば、あの「1度目」の後、再び動くことは、ちょっと考えられない。
そして、パードリックのそのヤバさがある意味で伏線として機能していると言えるのかもしれない。物語の展開は、一層狂気を孕んだものになっていく。
そして、ヤバいのはこの2人だけじゃない。映画の舞台は1923年のアイルランドらしいが、恐らく現代なら何らかの発達障害と診断されるだろう青年が状況をかき回すし、彼の父親である警察官は「法の番人」とは思えない振る舞いをする。噂好きの雑貨店の女店主や、告解中に懺悔する者にキレる牧師など、まともとは言えない人間ばっかり出てくる。もう、何がなんだか分からない。あと、あれが”精霊”なんだろうか? あの人、全員に見えてるんやろか。わからん。
パードリックの妹であるシボーンは、映画に映る人物の中で唯一まともに見える。彼女が、本土と手紙のやり取りをしているシーンがところどころであったが、あれはなんだったんだろう?
良かったのか悪かったのかと聞かれるとなかなか答えにくい映画だが、「印象に残ったか」と聞かれれば、間違いなく印象には残った。意味不明な形で狂気が発露されていく109分は、結構怖いよ。そして、どっからこんな物語を考えたのか、監督の頭の中を知りたいものだと思う。
「イニシェリン島の精霊」を観に行ってきました
「生きててごめんなさい」を観に行ってきました
これはなかなか良い映画だったなぁ。映画の中盤ぐらいで、「ストーリー的にもうちょいあるといいんだけどなぁ」と思っていたのだけど、その「もうちょい」が実際にあったので、ストーリー的にも良かった。後は、映画全体に通底する「いたたまれなさ」みたいなものは、変な表現だけど「自傷行為をしている」みたいな気分になって、なんとも言えない味わいを醸し出していたと思う。
設定は、又吉直樹原作の『劇場』の逆バージョンみたいな感じと言えば伝わりやすいかもしれない。いや、逆ということもないか。『劇場』では、「創作する側」と「支える側」が別人格だったが、『生きててごめんなさい』は、「創作する側」と「支える側」が同一人格であるという点にややこしさがある。
描かれる人間関係は、シンプルに表現してしまえば「共依存」ということになるだろう。僕は、現実に「共依存関係」を知っているわけではないので、そういう意味で、何がリアルで何がリアルでないのかは分からない。ただなんとなく、「凄くリアルな共依存関係だなぁ」と感じた。
そのややこしい関係性を、図らずも成立させているのは、出版社の編集部で働く作家志望の園田修一である。彼は、傍目には「眩しい存在」に映るかもしれない。大手ではないものの、出版社の編集部で働いており、さらに「小説家になる」という夢を追っている。彼の小説がどの程度ものになるのか、推し量るのは難しいが、「決して悪くない」と感じさせる場面がある。高校時代の文芸部の先輩であり、今は大手出版社で有名作家の担当編集をしている相澤今日子から、「あなたは絶対に『書く側』の人になるんだと思ってた」「高校時代、私はあなたのファンだったよ」と言われるのだ。現役の文芸編集者からそんなことを言われれば、「可能性はある」と感じて当然だろう。
というのが、客観的に見た「園田修一」の人物像である。
しかしそんな彼は、それが何であるのかはっきりと描かれる場面こそないが、随所で「何らかの劣等感を抱いているのだろう」と感じさせる男でもある。
最近、少し興味深い経験をした。
私は、誰もが名を知る有名な大学を中退している。で、つい先日、大学時代の同期と1つ上の先輩10人程で飲む機会があった。その中に、もしかしたら大学卒業以来会ってないかもしれない、というぐらい久々に会った先輩がいる。彼は、園田修一と同様、客観的に見れば「羨ましがられる生き方」をしていると言っていいと思う。一方僕は、客観的に見て「決して羨ましがられることはない生き方」だと言っていいだろう。
しかし、その先輩に今の自分の仕事などを伝えた際、明らかに「羨ましがられる生き方」をしている側にいる先輩から、「すげぇな」と何度も言われた。初めは、何を「凄い」と言われているのか掴みにくかったが、次第に、「どうやら先輩は、自分の生き方に何か劣等感的なものを抱えているのだろう」ということが分かってきた。具体的にそれが何なのか、はっきりとは分からなかったが、映画を見ながら、ちょっと重なるような状況だなぁ、と感じたことは確かだ。
話を戻そう。園田修一は、それが何かは不明だが、何らかの劣等感を抱いている。そしてだからこそ、恋人である清川莉奈の存在を必要とするのである。
清川莉奈とは、彼女がバイトしていた飲み屋で出会った。出会ったその日、莉奈は9度目の「クビ」を宣告されてしまう。社会に上手く馴染むことが出来ず、どこに行っても「役立たず」みたいな扱いをされている。両親も、彼女のことを諦めてしまっているそうだ。
そんな彼女と居酒屋で出会った修一は、その後莉奈と同棲するようになる。修一は文芸とは程遠い実用・ビジネス系の本を出す編集部で働いており、仕事そのものはさほど好きになれないでいる。新人賞の締め切りが近づいているのに、小説の執筆も進んでいない。敬愛する作家・多和田彰の講演会にも、同僚のミスの尻拭いのために行けなかった。そういうイライラを日々募らせながら、修一は毎日働いている。
一方の莉奈は、ほぼ部屋着のまま修一を駅まで送った後は、日がな一日何をするでもなく日々を過ごしている。彼らの部屋のオーナーであるらしい、近所でペットショップを経営している親子の元を訪れるぐらいで、後はベッドの上でゴロゴロしているだけの生活だ。
そういう莉奈を、修一は「必要としている」。その理由は恐らく、「自身の『劣等感』が、莉奈と関わることで少し薄れるから」だ。酷い書き方をすれば、「自分よりも下がいる」という気持ちこそが、「俺には莉奈が必要だ」という気分の底の底に横たわっているのだと思う。
そのことを、修一がきちんと自覚しているのか。そのことは、はっきりとは分からなかった。どちらにしても、修一の振る舞いはなかなかのクズなので大差はないのだが、自覚していなかった場合、「修一が受ける衝撃」が倍加することになるので、修一的には大変だろうと思った。
映画はしばらくの間、はっきりと「莉奈のヤバさ」が引き立つような構成で作られていく。しかし映画が展開するにつれて、むしろ「修一のヤバさ」が際立つようになっていく。「修一は真っ当な存在だ」と思って観ていると、頭をガンガン殴られるみたいな転換を強いられるだろうと思う。
莉奈が発する「ズルさ」はとても分かりやすいし、分かりやすいが故に、批判や拒絶もしやすい。一方、修一が発する「ズルさ」はとても分かりにくい。だからこそ、気づいた時にはもう、批判も拒絶も受け付けないような状況に追い込まれていることになる。
修一が莉奈に向かって、直接的にかなり酷いことを口走る場面がある。しかしその言葉は結果的に、修一自身に向けられて然るべきものだと言ってもいいかもしれないと感じた。そのような「反転」構造は、ラストシーンでも上手く取り入れられていると思う。特にラスト、あの場面で莉奈が口にするセリフは、なんとも言えない奥行きを感じさせるもので、凄く好きだった。あのラストのセリフは、翻訳すると「ついて来ないで」という意味になるはずなのだが、それを疑問形にし、さらに「一緒に」という言葉を入れ込んで、「ついで来ないで」とはまったく異なる文字列に置き換えているところは、なんか凄く良かった。「ついて来ないで」と言われていたら、もしかしたらその後も追いかけていたかもしれないが、あんな風に言われたら、もう止まるしかないよな、と感じた。
役者は、とにかく、清川莉奈役の穂志もえかがとても良かった。今調べて初めて知ったが、映画『窓辺にて』で、稲垣吾郎の親友の不倫相手を演じてた人なのか。マジでまったく違う印象だったから、全然気づかなかった。
穂志もえかは、「メチャクチャめんどくさいメンヘラ」を絶妙に演じていたと思う。なんか、ホントにそういう人なんじゃないかと思うくらい、メチャクチャハマっていた。セリフとか言動とかじゃない、もう「雰囲気」としか言いようがないレベルで「めんどくささ」を発してる感じが凄い。ちょっとこの女優さんは、これからも注目してしまうかもしれん。先日観た映画『グッドバイ、バッドマガジンズ』の杏花も良かったが、穂志もえかもメチャクチャ良かったなぁ。
個人的には、「一年後」の物語も、もう少し観てみたかったなと思う。ただ、この映画の終わり方もとても良かったので、別に不満があるわけではない。とても良いラストだった。
あと、メチャクチャどうでもいい話なんだけど、「耳触りが良い」っていう表現、もはや市民権を得てるんだなぁ、と思った。元々「耳障り」が正解で、だから「耳触りが悪い」というマイナスの方の表現しか成立しないはずなんだけど、「耳障り」が「耳触り」と誤記されるようになり、その後「耳触りが良い」という表現が出てくるようになった。本来は誤用のはずだけど、辞書にも載ってるみたいだし、普通の言葉になったんだなぁ。
「生きててごめんなさい」を観に行ってきました
設定は、又吉直樹原作の『劇場』の逆バージョンみたいな感じと言えば伝わりやすいかもしれない。いや、逆ということもないか。『劇場』では、「創作する側」と「支える側」が別人格だったが、『生きててごめんなさい』は、「創作する側」と「支える側」が同一人格であるという点にややこしさがある。
描かれる人間関係は、シンプルに表現してしまえば「共依存」ということになるだろう。僕は、現実に「共依存関係」を知っているわけではないので、そういう意味で、何がリアルで何がリアルでないのかは分からない。ただなんとなく、「凄くリアルな共依存関係だなぁ」と感じた。
そのややこしい関係性を、図らずも成立させているのは、出版社の編集部で働く作家志望の園田修一である。彼は、傍目には「眩しい存在」に映るかもしれない。大手ではないものの、出版社の編集部で働いており、さらに「小説家になる」という夢を追っている。彼の小説がどの程度ものになるのか、推し量るのは難しいが、「決して悪くない」と感じさせる場面がある。高校時代の文芸部の先輩であり、今は大手出版社で有名作家の担当編集をしている相澤今日子から、「あなたは絶対に『書く側』の人になるんだと思ってた」「高校時代、私はあなたのファンだったよ」と言われるのだ。現役の文芸編集者からそんなことを言われれば、「可能性はある」と感じて当然だろう。
というのが、客観的に見た「園田修一」の人物像である。
しかしそんな彼は、それが何であるのかはっきりと描かれる場面こそないが、随所で「何らかの劣等感を抱いているのだろう」と感じさせる男でもある。
最近、少し興味深い経験をした。
私は、誰もが名を知る有名な大学を中退している。で、つい先日、大学時代の同期と1つ上の先輩10人程で飲む機会があった。その中に、もしかしたら大学卒業以来会ってないかもしれない、というぐらい久々に会った先輩がいる。彼は、園田修一と同様、客観的に見れば「羨ましがられる生き方」をしていると言っていいと思う。一方僕は、客観的に見て「決して羨ましがられることはない生き方」だと言っていいだろう。
しかし、その先輩に今の自分の仕事などを伝えた際、明らかに「羨ましがられる生き方」をしている側にいる先輩から、「すげぇな」と何度も言われた。初めは、何を「凄い」と言われているのか掴みにくかったが、次第に、「どうやら先輩は、自分の生き方に何か劣等感的なものを抱えているのだろう」ということが分かってきた。具体的にそれが何なのか、はっきりとは分からなかったが、映画を見ながら、ちょっと重なるような状況だなぁ、と感じたことは確かだ。
話を戻そう。園田修一は、それが何かは不明だが、何らかの劣等感を抱いている。そしてだからこそ、恋人である清川莉奈の存在を必要とするのである。
清川莉奈とは、彼女がバイトしていた飲み屋で出会った。出会ったその日、莉奈は9度目の「クビ」を宣告されてしまう。社会に上手く馴染むことが出来ず、どこに行っても「役立たず」みたいな扱いをされている。両親も、彼女のことを諦めてしまっているそうだ。
そんな彼女と居酒屋で出会った修一は、その後莉奈と同棲するようになる。修一は文芸とは程遠い実用・ビジネス系の本を出す編集部で働いており、仕事そのものはさほど好きになれないでいる。新人賞の締め切りが近づいているのに、小説の執筆も進んでいない。敬愛する作家・多和田彰の講演会にも、同僚のミスの尻拭いのために行けなかった。そういうイライラを日々募らせながら、修一は毎日働いている。
一方の莉奈は、ほぼ部屋着のまま修一を駅まで送った後は、日がな一日何をするでもなく日々を過ごしている。彼らの部屋のオーナーであるらしい、近所でペットショップを経営している親子の元を訪れるぐらいで、後はベッドの上でゴロゴロしているだけの生活だ。
そういう莉奈を、修一は「必要としている」。その理由は恐らく、「自身の『劣等感』が、莉奈と関わることで少し薄れるから」だ。酷い書き方をすれば、「自分よりも下がいる」という気持ちこそが、「俺には莉奈が必要だ」という気分の底の底に横たわっているのだと思う。
そのことを、修一がきちんと自覚しているのか。そのことは、はっきりとは分からなかった。どちらにしても、修一の振る舞いはなかなかのクズなので大差はないのだが、自覚していなかった場合、「修一が受ける衝撃」が倍加することになるので、修一的には大変だろうと思った。
映画はしばらくの間、はっきりと「莉奈のヤバさ」が引き立つような構成で作られていく。しかし映画が展開するにつれて、むしろ「修一のヤバさ」が際立つようになっていく。「修一は真っ当な存在だ」と思って観ていると、頭をガンガン殴られるみたいな転換を強いられるだろうと思う。
莉奈が発する「ズルさ」はとても分かりやすいし、分かりやすいが故に、批判や拒絶もしやすい。一方、修一が発する「ズルさ」はとても分かりにくい。だからこそ、気づいた時にはもう、批判も拒絶も受け付けないような状況に追い込まれていることになる。
修一が莉奈に向かって、直接的にかなり酷いことを口走る場面がある。しかしその言葉は結果的に、修一自身に向けられて然るべきものだと言ってもいいかもしれないと感じた。そのような「反転」構造は、ラストシーンでも上手く取り入れられていると思う。特にラスト、あの場面で莉奈が口にするセリフは、なんとも言えない奥行きを感じさせるもので、凄く好きだった。あのラストのセリフは、翻訳すると「ついて来ないで」という意味になるはずなのだが、それを疑問形にし、さらに「一緒に」という言葉を入れ込んで、「ついで来ないで」とはまったく異なる文字列に置き換えているところは、なんか凄く良かった。「ついて来ないで」と言われていたら、もしかしたらその後も追いかけていたかもしれないが、あんな風に言われたら、もう止まるしかないよな、と感じた。
役者は、とにかく、清川莉奈役の穂志もえかがとても良かった。今調べて初めて知ったが、映画『窓辺にて』で、稲垣吾郎の親友の不倫相手を演じてた人なのか。マジでまったく違う印象だったから、全然気づかなかった。
穂志もえかは、「メチャクチャめんどくさいメンヘラ」を絶妙に演じていたと思う。なんか、ホントにそういう人なんじゃないかと思うくらい、メチャクチャハマっていた。セリフとか言動とかじゃない、もう「雰囲気」としか言いようがないレベルで「めんどくささ」を発してる感じが凄い。ちょっとこの女優さんは、これからも注目してしまうかもしれん。先日観た映画『グッドバイ、バッドマガジンズ』の杏花も良かったが、穂志もえかもメチャクチャ良かったなぁ。
個人的には、「一年後」の物語も、もう少し観てみたかったなと思う。ただ、この映画の終わり方もとても良かったので、別に不満があるわけではない。とても良いラストだった。
あと、メチャクチャどうでもいい話なんだけど、「耳触りが良い」っていう表現、もはや市民権を得てるんだなぁ、と思った。元々「耳障り」が正解で、だから「耳触りが悪い」というマイナスの方の表現しか成立しないはずなんだけど、「耳障り」が「耳触り」と誤記されるようになり、その後「耳触りが良い」という表現が出てくるようになった。本来は誤用のはずだけど、辞書にも載ってるみたいだし、普通の言葉になったんだなぁ。
「生きててごめんなさい」を観に行ってきました
「グッドバイ、バッドマガジンズ」を観に行ってきました
これは良い映画だったなぁ。冒頭で「実話を基にしている」って表記されるまで、実話が基になっていることを知らなかったけど、仮に実話じゃなかったとしても、全然映画として好きだなって感じの作品だった。
普段あんまりこういうことは書かないんだけど、この映画に関しては、主人公・森詩織役を演じてた杏花が絶妙に良かった。「ザ・サブカル女子」みたいな見た目が作品にドンピシャだし、笑っている顔も不機嫌な顔もどっちもとてもよく馴染む。役柄的にも実際に「サブカル雑誌が好きな女子」なんだけど、配属されたエロ雑誌の編集部で半年揉まれた後、「10年ぐらいここにいます」みたいな雰囲気を出す感じに変貌するのだけど、その雰囲気もメチャクチャ合っている。
大体こういう綺麗な顔の女優さんの場合、「その環境に、その見た目の人いたら、浮きまくるよなぁ」みたいになっちゃうんだけど、彼女の場合全然そんな感じがない。凄く美人な方だと思うけど、「猥雑で乱雑で吹き溜まりみたいな環境」にも、何故かスポッとハマってしまう。
「普通に考えたら、こんな女性がエロ雑誌の編集部にいることに違和感を覚えてもおかしくない気がするのに、その違和感を抱かせない絶妙な風貌・佇まい・存在感」が、この映画を見事に成立させているなぁ、という気がした。
あと、もう1つ良かった点は、映画の中で、「若い女性がエロ雑誌の編集部に配属されること」がまったく特別視されないこと。僕の記憶では、一箇所だけ、早く帰る(と言っても残業してるけど)という杏花に「なに、デート?」みたいなことをいう男性が描かれるシーンがあるが、本当にそこぐらいだった。
これは僕の偏見が全開でしかないって話なんだけど、やっぱりなんとなく「『エロ雑誌の編集部』が舞台となる映画」に対して、「セクハラ的なノリの描写とかバンバンあるんだろうなぁ」と思っていたのだ。まあ、実際にはそういうことはあったけど映画では描かなかっただけかもしれない。しかし、この映画のような描き方は、なんとなく「凄くリアルだ」と感じもした。何故そう感じたのか上手くは説明できないけど、1つには、「誰もがあまりに疲れすぎていて、『感情を発露する』ことを放棄してしまう」みたいな展開になっていくからかもしれないと思ったりもする。
森詩織の物語、2018年1月に始まる。大学のミステリ研で一緒だった先輩のツテみたいな形で、普段新卒採用をしない出版社の採用試験を受けることになったのだ。そこは、森詩織が大好きなサブカル雑誌「GARU」を出版している。しかし採用は、「GARU」を作る一局ではなく、エロ雑誌を作る三局である。詩織も、そのことは理解していた。面接の場には、三局唯一の女性である澤木も同席しており、「エロ雑誌が作れる編集者になれたら、どんな本でも作れるようになる」と詩織に声を掛ける。
そんな風にして物語が始まっていくのだが、物語のポイントは「2018年」である。映画の最初に、こんな表記がされる。
【2018年、男性向け成人雑誌が死にゆく中で起こった実話に基づく物語である】
そしてその後、物語が始まるのだが、唐突に「外国人ユーチューバー」が登場し、海外の人向けに「日本の成人雑誌」を紹介する、という動画が始まる。その中で、何故「2018年」が重要なのか、端的に説明されるのだ。
2013年に東京オリンピックが決まったことで、「コンビニに成人雑誌が置いてあるのはいいのか?」という議論が巻き起こる。この映画には、「日本が世界に隠したかった、偉大なる、文化」というキャッチフレーズがあるのだが、まさにそれはこの「東京オリンピック」をきっかけにした騒動を指しているのだろう。オリンピックを機に、外国人がたくさん日本にやってくる。その時、コンビニに「エロ雑誌」なんかが置かれていていいのか? というわけだ。
この議論を受けて、大手コンビニの中で「ミニストップ」が先陣を切った。2018年1月に、成人雑誌を置かないと決めたのだ。その後コンビニ各社が追随し、2019年9月末には、大手コンビニから成人雑誌が消えたのである。物語は、まさにそんな「コンビニから成人雑誌が消えていく過程」と同時進行で描かれていくのだ。
だから、会社もなかなか大変だ。会社全体で順調なのは二局のBLぐらいで、一局の「GARU」は廃刊、三局のエロ雑誌は徐々に衰退という流れである。さらに映画の中では、三局に次々と色んな問題が起こる。そしてその中で、編集部員の「感情」がどんどんと死んでいくのだ。本来であれば「驚愕」という反応を示してもいいような状況にも、「心ここにあらず」みたいな反応しか返せなくなる。そういう人々の姿が描かれていく。
だから、「若い女性と一緒にエロ雑誌を作っている」みたいなことに強い反応が示されなくても、それはとても自然であることに感じられたのかもしれない。
映画の中で描かれる核となる部分は、「仕事ってなんだっけ?」と「セックスってなんだっけ?」である。このバランスが結構良く、その点も映画の良さに繋がっているように思う。
エロ雑誌の編集部員たちは、全員ではないかもしれないが、その多くが「良いモノを作りたい」という気持ちを抱いている。主人公の森詩織は、それをサブカル雑誌で実現したかったわけだが、他の面々も彼らなりに、「会社とかお金とか営業とかそういうの全部無視して『面白いモノ』を作りてぇよなぁ」という熱い気持ちを抱いている。
しかし、現実はなかなか難しい。最終的にはシンプルに、「売れなきゃモノは作れない」からだ。
この辺りのことは、僕も書店員時代によく考えた。僕は「作る側」ではなく「売る側」に過ぎなかったが、やはり、「こんなものが売れちゃうんだなぁ」と感じる機会が多くて、げんなりすることも多かった。もちろん、人それぞれ「何を『良い』と感じるか」は違って当然だし、僕が「良い」と感じるモノが売れないからと言って、そこに文句を言うつもりはまったくない。ただ、「そんなのが売れるのかよ」という現実には抵抗したいと思っていた。
買う前に機能がある程度分かる電化製品や、「試食」も可能な料理などとは違い、本や映画などは「良さを知ってからお金を払う」ということがなかなか難しい。良し悪しは人によって受け取り方が変わるから、レビューを参考にしたところで必ず「当たり」を引けるわけでもない。だからこそ、「良いモノでもあっても売れない」とか「良くないモノでも売れちゃう」みたいなことが起こりがちだ。
しかしエロ雑誌の編集部員たちは、さらに辛い状況に置かれていた。ある場面である人物が、「試し読み防止テープさえなけりゃ、中身で勝負できたんだけどなぁ」と愚痴るシーンがある。彼もまた、「良いモノを届けたい」という気持ちで仕事をしていたというわけだ。
詩織にしても、当初望んでいた世界とはまったく違っていたにせよ、「読者の求める『エロい』を自分たちは届けるべきだ」という使命感みたいなものを随所に感じさせるし、そういう「働く者たちの情熱の結晶」として「エロ雑誌」が出来上がっていたんだよなぁ、ということが、なんとなく少し感動的でもあった。
映画の中に、「セックスってなんだっけ?」というテーマが組み込まれているのは、ちょっと意外だった。そういう方向に展開するような物語だとは思っていなかったからだ。
詩織は、入社して1ヶ月でページを少し任されるのだが、「男が『エロい』と感じる文章」を書くのに苦戦する。澤木から「お前が何に感じるかってことだよ」みたいに言われるのだが、なかなかピンと来ない。その後、元AV女優でライターのハル先生と関わるようになり、「人は何故セックスをするのか?」みたいなタイトルの連載を始めてもらったりもする。
「セックスってなんだっけ?」みたいなテーマは、作中で決して多く描かれるわけではないが、結果としてその疑問が詩織の行動や決断のきっかけや転換点になることもあり、決して唐突ではない感じで組み込まれているのもいい。また、「人は何故セックスをするのか?」みたいな疑問って、普通だったら「何アホみたいなこと考えてるんだか」みたいに扱われがちだと思うが、「エロ雑誌の編集部で働いている」という詩織のバックグラウンドが、その違和感を完全に消し去っている。だから、「今日何食べるか?」と同じぐらいの自然さえ、「人は何故セックスをするのか?」という疑問が存在している感じがあって、そういう雰囲気も良かったなと思う。
そして、その「セックスってなんだっけ?」というテーマの帰結として、まさかあんな展開になるのか、ってのが驚きだった。映画の最後に、「実話を基にしているが、一部脚色もある」と表記された。どこが「脚色」なのか分からないが、あの「狂気のシーン」はどっちなんだろう。個人的には、実話であってほしいなと思う。
「完全自主制作映画」であるため、大手映画会社が作れない「忖度無し」の映画に仕上がっているそうだ。確かに、扱っているテーマがテーマである以上、普通なら「セブンイレブン」みたいな企業名もちょっと変えて作中に出したりしそうな気がする。この映画では、そういうのは一切ない。業界のことをさほど知らない人間でも「攻めてるな」と感じる作品だが、業界の内実を知っているとよりそう感じるのかもしれない。
あと、どうでもいいが、映画の中で詩織が「だもんで」と使う場面がある。静岡出身である僕は機敏に反応してしまった。僕はあんまり使わないが、やっぱり静岡と言えば「だもんで」なんだなぁ。
良い映画だった。繰り返しになるが、とにかく杏花が非常に良かった。
「グッドバイ、バッドマガジンズ」を観に行ってきました
普段あんまりこういうことは書かないんだけど、この映画に関しては、主人公・森詩織役を演じてた杏花が絶妙に良かった。「ザ・サブカル女子」みたいな見た目が作品にドンピシャだし、笑っている顔も不機嫌な顔もどっちもとてもよく馴染む。役柄的にも実際に「サブカル雑誌が好きな女子」なんだけど、配属されたエロ雑誌の編集部で半年揉まれた後、「10年ぐらいここにいます」みたいな雰囲気を出す感じに変貌するのだけど、その雰囲気もメチャクチャ合っている。
大体こういう綺麗な顔の女優さんの場合、「その環境に、その見た目の人いたら、浮きまくるよなぁ」みたいになっちゃうんだけど、彼女の場合全然そんな感じがない。凄く美人な方だと思うけど、「猥雑で乱雑で吹き溜まりみたいな環境」にも、何故かスポッとハマってしまう。
「普通に考えたら、こんな女性がエロ雑誌の編集部にいることに違和感を覚えてもおかしくない気がするのに、その違和感を抱かせない絶妙な風貌・佇まい・存在感」が、この映画を見事に成立させているなぁ、という気がした。
あと、もう1つ良かった点は、映画の中で、「若い女性がエロ雑誌の編集部に配属されること」がまったく特別視されないこと。僕の記憶では、一箇所だけ、早く帰る(と言っても残業してるけど)という杏花に「なに、デート?」みたいなことをいう男性が描かれるシーンがあるが、本当にそこぐらいだった。
これは僕の偏見が全開でしかないって話なんだけど、やっぱりなんとなく「『エロ雑誌の編集部』が舞台となる映画」に対して、「セクハラ的なノリの描写とかバンバンあるんだろうなぁ」と思っていたのだ。まあ、実際にはそういうことはあったけど映画では描かなかっただけかもしれない。しかし、この映画のような描き方は、なんとなく「凄くリアルだ」と感じもした。何故そう感じたのか上手くは説明できないけど、1つには、「誰もがあまりに疲れすぎていて、『感情を発露する』ことを放棄してしまう」みたいな展開になっていくからかもしれないと思ったりもする。
森詩織の物語、2018年1月に始まる。大学のミステリ研で一緒だった先輩のツテみたいな形で、普段新卒採用をしない出版社の採用試験を受けることになったのだ。そこは、森詩織が大好きなサブカル雑誌「GARU」を出版している。しかし採用は、「GARU」を作る一局ではなく、エロ雑誌を作る三局である。詩織も、そのことは理解していた。面接の場には、三局唯一の女性である澤木も同席しており、「エロ雑誌が作れる編集者になれたら、どんな本でも作れるようになる」と詩織に声を掛ける。
そんな風にして物語が始まっていくのだが、物語のポイントは「2018年」である。映画の最初に、こんな表記がされる。
【2018年、男性向け成人雑誌が死にゆく中で起こった実話に基づく物語である】
そしてその後、物語が始まるのだが、唐突に「外国人ユーチューバー」が登場し、海外の人向けに「日本の成人雑誌」を紹介する、という動画が始まる。その中で、何故「2018年」が重要なのか、端的に説明されるのだ。
2013年に東京オリンピックが決まったことで、「コンビニに成人雑誌が置いてあるのはいいのか?」という議論が巻き起こる。この映画には、「日本が世界に隠したかった、偉大なる、文化」というキャッチフレーズがあるのだが、まさにそれはこの「東京オリンピック」をきっかけにした騒動を指しているのだろう。オリンピックを機に、外国人がたくさん日本にやってくる。その時、コンビニに「エロ雑誌」なんかが置かれていていいのか? というわけだ。
この議論を受けて、大手コンビニの中で「ミニストップ」が先陣を切った。2018年1月に、成人雑誌を置かないと決めたのだ。その後コンビニ各社が追随し、2019年9月末には、大手コンビニから成人雑誌が消えたのである。物語は、まさにそんな「コンビニから成人雑誌が消えていく過程」と同時進行で描かれていくのだ。
だから、会社もなかなか大変だ。会社全体で順調なのは二局のBLぐらいで、一局の「GARU」は廃刊、三局のエロ雑誌は徐々に衰退という流れである。さらに映画の中では、三局に次々と色んな問題が起こる。そしてその中で、編集部員の「感情」がどんどんと死んでいくのだ。本来であれば「驚愕」という反応を示してもいいような状況にも、「心ここにあらず」みたいな反応しか返せなくなる。そういう人々の姿が描かれていく。
だから、「若い女性と一緒にエロ雑誌を作っている」みたいなことに強い反応が示されなくても、それはとても自然であることに感じられたのかもしれない。
映画の中で描かれる核となる部分は、「仕事ってなんだっけ?」と「セックスってなんだっけ?」である。このバランスが結構良く、その点も映画の良さに繋がっているように思う。
エロ雑誌の編集部員たちは、全員ではないかもしれないが、その多くが「良いモノを作りたい」という気持ちを抱いている。主人公の森詩織は、それをサブカル雑誌で実現したかったわけだが、他の面々も彼らなりに、「会社とかお金とか営業とかそういうの全部無視して『面白いモノ』を作りてぇよなぁ」という熱い気持ちを抱いている。
しかし、現実はなかなか難しい。最終的にはシンプルに、「売れなきゃモノは作れない」からだ。
この辺りのことは、僕も書店員時代によく考えた。僕は「作る側」ではなく「売る側」に過ぎなかったが、やはり、「こんなものが売れちゃうんだなぁ」と感じる機会が多くて、げんなりすることも多かった。もちろん、人それぞれ「何を『良い』と感じるか」は違って当然だし、僕が「良い」と感じるモノが売れないからと言って、そこに文句を言うつもりはまったくない。ただ、「そんなのが売れるのかよ」という現実には抵抗したいと思っていた。
買う前に機能がある程度分かる電化製品や、「試食」も可能な料理などとは違い、本や映画などは「良さを知ってからお金を払う」ということがなかなか難しい。良し悪しは人によって受け取り方が変わるから、レビューを参考にしたところで必ず「当たり」を引けるわけでもない。だからこそ、「良いモノでもあっても売れない」とか「良くないモノでも売れちゃう」みたいなことが起こりがちだ。
しかしエロ雑誌の編集部員たちは、さらに辛い状況に置かれていた。ある場面である人物が、「試し読み防止テープさえなけりゃ、中身で勝負できたんだけどなぁ」と愚痴るシーンがある。彼もまた、「良いモノを届けたい」という気持ちで仕事をしていたというわけだ。
詩織にしても、当初望んでいた世界とはまったく違っていたにせよ、「読者の求める『エロい』を自分たちは届けるべきだ」という使命感みたいなものを随所に感じさせるし、そういう「働く者たちの情熱の結晶」として「エロ雑誌」が出来上がっていたんだよなぁ、ということが、なんとなく少し感動的でもあった。
映画の中に、「セックスってなんだっけ?」というテーマが組み込まれているのは、ちょっと意外だった。そういう方向に展開するような物語だとは思っていなかったからだ。
詩織は、入社して1ヶ月でページを少し任されるのだが、「男が『エロい』と感じる文章」を書くのに苦戦する。澤木から「お前が何に感じるかってことだよ」みたいに言われるのだが、なかなかピンと来ない。その後、元AV女優でライターのハル先生と関わるようになり、「人は何故セックスをするのか?」みたいなタイトルの連載を始めてもらったりもする。
「セックスってなんだっけ?」みたいなテーマは、作中で決して多く描かれるわけではないが、結果としてその疑問が詩織の行動や決断のきっかけや転換点になることもあり、決して唐突ではない感じで組み込まれているのもいい。また、「人は何故セックスをするのか?」みたいな疑問って、普通だったら「何アホみたいなこと考えてるんだか」みたいに扱われがちだと思うが、「エロ雑誌の編集部で働いている」という詩織のバックグラウンドが、その違和感を完全に消し去っている。だから、「今日何食べるか?」と同じぐらいの自然さえ、「人は何故セックスをするのか?」という疑問が存在している感じがあって、そういう雰囲気も良かったなと思う。
そして、その「セックスってなんだっけ?」というテーマの帰結として、まさかあんな展開になるのか、ってのが驚きだった。映画の最後に、「実話を基にしているが、一部脚色もある」と表記された。どこが「脚色」なのか分からないが、あの「狂気のシーン」はどっちなんだろう。個人的には、実話であってほしいなと思う。
「完全自主制作映画」であるため、大手映画会社が作れない「忖度無し」の映画に仕上がっているそうだ。確かに、扱っているテーマがテーマである以上、普通なら「セブンイレブン」みたいな企業名もちょっと変えて作中に出したりしそうな気がする。この映画では、そういうのは一切ない。業界のことをさほど知らない人間でも「攻めてるな」と感じる作品だが、業界の内実を知っているとよりそう感じるのかもしれない。
あと、どうでもいいが、映画の中で詩織が「だもんで」と使う場面がある。静岡出身である僕は機敏に反応してしまった。僕はあんまり使わないが、やっぱり静岡と言えば「だもんで」なんだなぁ。
良い映画だった。繰り返しになるが、とにかく杏花が非常に良かった。
「グッドバイ、バッドマガジンズ」を観に行ってきました