「シャドー・ディール 武器ビジネスの闇」を観に行ってきました
なんとなく知っていたことではある。しかし、改めてその詳細をまざまざと見せつけられると、末恐ろしい世界に生きているものだなと感じる。僕は、世の中の大半の人間は善良だと信じているが、善良ではない一部の人間が強権を持つことで、世界は大きく歪んでいる。
色々驚かされる話があったが、中でも衝撃的だったのは、「ガザ地区への攻撃は、米国企業の見本市」という話だ。
イスラエルがガザ地区を攻撃する。そしてその直後、軍事企業による武器の見本市が行われる。そこでの売り文句は、「既に実戦で使用済みだ」というものだという。
つまり、武器を得るために戦争をしている、ということだ。
この映画は、アメリカという超大国がいかに戦争をビジネスにしているか、そしてイギリスやアラブ諸国などがどのように武器取引を行っているのかが描かれていく。
【政府のトップは、大手軍事企業の販売責任者であり、この構図は世界中のテンプレートとなっている】
なかなか凄い言葉ではないだろうか。でも確かにその通りだろう。武器を作る企業は、武器が売れてくれないと困る。武器が売れるためには、戦争が行われなければならない。そして、テロリストなどを除けば、戦争を行えるのは一国のトップだけだ。軍需産業が政治に食い込む構図そのものは、当然だという感じがする。
【軍事企業は政府の一部であり、法をも超えている】
既にこういう状況になっているそうだ。別の人物は、【戦争の公共的な部分が民営化されている】と語っている。
アメリカにおけるこの状況は、もちろん長い歴史の積み重ねによるものだが、チェイニー副大統領時代に加速したようだ。
チェイニーは実業家から政治家へと転身し、国防長官も務めた。彼の、「国防総省を民営化できないか」という発言が、何かのテープに記録として残っていたと思う。国防総省というのは、軍や戦争などを管轄するところで、彼はそこで、アメリカの各軍事企業を、小国の軍隊と同程度に武装させ、戦争を民営化する準備を整えていく。そして副大統領となり、ブッシュ政権の元でイラク戦争に突入していくのだ。イラク戦争においては既に、イラクは大量破壊兵器を保有していなかったという結論が出ているはずで、だから戦争の大義など無かったことになる。まあそうだろう、武器を売るために戦争を始めたなんて言えませんからね。
政治の基本は、民衆に恐怖を与えることだという。マキャベリの「君主論」には、その恐怖の対象が「君主」だとされているらしい。しかし今それは、テロに置き換わっている。アメリカはその時々でテロの脅威を煽り、適当なテロリストを仕立て上げ、それに立ち向かっていくという体を取りながら戦争を起こし、軍需産業を潤していくという。
そんな世の中を、多くの人が手厳しく批判していく。
ある人物は、アメリカは武力に頼りすぎたために、外交手腕を失った、と語っていた。小国であれば、時には手を引くなどの様々な手腕を組み合わせて交渉する必要がある。しかし今のアメリカはそんなことはせず、武力で制圧していくだけだ。確かにそれは、表向き何かを解決するだろう。軍需産業が潤うことでアメリカという国の経済が良くなるだろうし、テロへの危機意識によって政権が安定するということもあるかもしれない。しかしそれによって、罪なき多くの人の命が失われ、生きている多くの人もアメリカという国を恨むことになる。その見返りは、少数の人間が私腹を肥やすことだけなのだ。
狂った世の中だこと。
しかし僕には不思議で仕方がない。戦争がビジネスになるという理屈は、どこかで破綻するはずだと思う。戦争は儲かるらしいのだけど、そうなんだろうか?
確かに、作った武器が売れれば利益が出る。戦争が永久的に継続すれば、武器を必要とする人も永続的に生み出すことが出来るだろう。しかし、武器を必要とする人が、武器を買うお金を持っているかは別の問題だろう。どれだけ武器を作り、戦争を継続させようとも、武器を必要とする人がお金を持っていなければ意味がない。戦争によって人々の生活が破壊されれば経済活動どころではなくなり、かつての日本のように武器も石油もないまま白兵戦を強いられるような状況になるのではないか?今は、中東がオイルマネーなどで武器を買っているらしいけど、そう続くものではないだろう。
でもまあいいのか。強欲な人間は、近視眼的に金が儲かればいいと思っている、ということだろう。
【戦争はよく出来た物語で覆われ、マスコミや物語などによってその神話がどんどんと拡散されていく。しかしそういう神話を剥ぎ取れば、すべては軍需産業の嘘であり、ただの虐殺でしかない】
日米安全保障条約によって、アメリカの軍事力を当てにしている日本も、間接的に同罪だろう。ニュースなどでは、日本もアメリカから武器を「買わされている」(もちろん報道では「買わされている」などとは表現しないが)と報じられる。確かに、防衛のための備えは必要だと思うが、僕がニュースなどで目にする情報によれば、あまりに過剰な武器の購入なのではないか、という指摘があった。恐らく、アメリカからの圧力で「買わされている」ということなのだと思う。
【戦争は、始めてしまったら、止めることはできない】
日本にも、中国とアメリカに政治的にも地理的にも挟まれているが故の戦争への可能性みたいなものは常に存在している。アメリカ以上の超大国になるかもしれない中国や、無鉄砲に思える北朝鮮、そして戦争をビジネスにするアメリカに囲まれて、呑気にしていていいということはないだろう。
どれだけ世界が潤おうが、それが血塗られたものであるなら、僕は否定したい。
「シャドー・ディール 武器ビジネスの闇」を観に行ってきました
色々驚かされる話があったが、中でも衝撃的だったのは、「ガザ地区への攻撃は、米国企業の見本市」という話だ。
イスラエルがガザ地区を攻撃する。そしてその直後、軍事企業による武器の見本市が行われる。そこでの売り文句は、「既に実戦で使用済みだ」というものだという。
つまり、武器を得るために戦争をしている、ということだ。
この映画は、アメリカという超大国がいかに戦争をビジネスにしているか、そしてイギリスやアラブ諸国などがどのように武器取引を行っているのかが描かれていく。
【政府のトップは、大手軍事企業の販売責任者であり、この構図は世界中のテンプレートとなっている】
なかなか凄い言葉ではないだろうか。でも確かにその通りだろう。武器を作る企業は、武器が売れてくれないと困る。武器が売れるためには、戦争が行われなければならない。そして、テロリストなどを除けば、戦争を行えるのは一国のトップだけだ。軍需産業が政治に食い込む構図そのものは、当然だという感じがする。
【軍事企業は政府の一部であり、法をも超えている】
既にこういう状況になっているそうだ。別の人物は、【戦争の公共的な部分が民営化されている】と語っている。
アメリカにおけるこの状況は、もちろん長い歴史の積み重ねによるものだが、チェイニー副大統領時代に加速したようだ。
チェイニーは実業家から政治家へと転身し、国防長官も務めた。彼の、「国防総省を民営化できないか」という発言が、何かのテープに記録として残っていたと思う。国防総省というのは、軍や戦争などを管轄するところで、彼はそこで、アメリカの各軍事企業を、小国の軍隊と同程度に武装させ、戦争を民営化する準備を整えていく。そして副大統領となり、ブッシュ政権の元でイラク戦争に突入していくのだ。イラク戦争においては既に、イラクは大量破壊兵器を保有していなかったという結論が出ているはずで、だから戦争の大義など無かったことになる。まあそうだろう、武器を売るために戦争を始めたなんて言えませんからね。
政治の基本は、民衆に恐怖を与えることだという。マキャベリの「君主論」には、その恐怖の対象が「君主」だとされているらしい。しかし今それは、テロに置き換わっている。アメリカはその時々でテロの脅威を煽り、適当なテロリストを仕立て上げ、それに立ち向かっていくという体を取りながら戦争を起こし、軍需産業を潤していくという。
そんな世の中を、多くの人が手厳しく批判していく。
ある人物は、アメリカは武力に頼りすぎたために、外交手腕を失った、と語っていた。小国であれば、時には手を引くなどの様々な手腕を組み合わせて交渉する必要がある。しかし今のアメリカはそんなことはせず、武力で制圧していくだけだ。確かにそれは、表向き何かを解決するだろう。軍需産業が潤うことでアメリカという国の経済が良くなるだろうし、テロへの危機意識によって政権が安定するということもあるかもしれない。しかしそれによって、罪なき多くの人の命が失われ、生きている多くの人もアメリカという国を恨むことになる。その見返りは、少数の人間が私腹を肥やすことだけなのだ。
狂った世の中だこと。
しかし僕には不思議で仕方がない。戦争がビジネスになるという理屈は、どこかで破綻するはずだと思う。戦争は儲かるらしいのだけど、そうなんだろうか?
確かに、作った武器が売れれば利益が出る。戦争が永久的に継続すれば、武器を必要とする人も永続的に生み出すことが出来るだろう。しかし、武器を必要とする人が、武器を買うお金を持っているかは別の問題だろう。どれだけ武器を作り、戦争を継続させようとも、武器を必要とする人がお金を持っていなければ意味がない。戦争によって人々の生活が破壊されれば経済活動どころではなくなり、かつての日本のように武器も石油もないまま白兵戦を強いられるような状況になるのではないか?今は、中東がオイルマネーなどで武器を買っているらしいけど、そう続くものではないだろう。
でもまあいいのか。強欲な人間は、近視眼的に金が儲かればいいと思っている、ということだろう。
【戦争はよく出来た物語で覆われ、マスコミや物語などによってその神話がどんどんと拡散されていく。しかしそういう神話を剥ぎ取れば、すべては軍需産業の嘘であり、ただの虐殺でしかない】
日米安全保障条約によって、アメリカの軍事力を当てにしている日本も、間接的に同罪だろう。ニュースなどでは、日本もアメリカから武器を「買わされている」(もちろん報道では「買わされている」などとは表現しないが)と報じられる。確かに、防衛のための備えは必要だと思うが、僕がニュースなどで目にする情報によれば、あまりに過剰な武器の購入なのではないか、という指摘があった。恐らく、アメリカからの圧力で「買わされている」ということなのだと思う。
【戦争は、始めてしまったら、止めることはできない】
日本にも、中国とアメリカに政治的にも地理的にも挟まれているが故の戦争への可能性みたいなものは常に存在している。アメリカ以上の超大国になるかもしれない中国や、無鉄砲に思える北朝鮮、そして戦争をビジネスにするアメリカに囲まれて、呑気にしていていいということはないだろう。
どれだけ世界が潤おうが、それが血塗られたものであるなら、僕は否定したい。
「シャドー・ディール 武器ビジネスの闇」を観に行ってきました
「地球で最も安全な場所を探して」を観に行ってきました
やはり、日本の情報だけ見ていては分からないことがあるなぁ、と感じた。
例えばこの映画には、日本の状況も少し出てくる。映画の冒頭から登場する、チャールズ・マッコンビーという核物理学者が、日本の専門家会議のようなもののトップに立って話を主導していた時期があったようなのだけど、その彼が日本のやり方について「世界初だ」という表現をしていました。日本のニュースで時々、「核廃棄物の最終処分場の文献調査に手を挙げると交付金がうんぬん」みたいな話が出るけど、日本は世界で唯一、最終処分場の決定を自治体に立候補に委ねているのだそう。まあその核物理学者が「世界初」という言葉で、日本のやり方を称賛しているのかそうでないのかはちょっと分からなかったけれど、とりあえず日本のやっていることは「世界初」だそうです。
この映画は、原子力発電所を有する世界各国が直面している核廃棄物の最終処分の現状について取材していくドキュメンタリー映画です。なんとなく知ってはいたことだけど、それでも、未だにどの国も「中間貯蔵」までしかできておらず、最終処分場の選定を成し遂げた国はありません。そう考えると本当に、人類はとんでもないものを生み出したな、と思います。
登場する人物の多くは、最終処分場の選定や核廃棄物の処理に関わる人ですが、そのスタンスは様々です。先程紹介したチャールズ・マッコンビーは、「世界各国が脱原発を推し進めている現状を危惧している」と、原発の必要性に対する信念を語っていました。まあ、その信念に対しては様々に意見はあるでしょうが、同じくマッコンビー氏が言っていた、「今原発を止めても、廃棄物の処理問題はつきまとう」というのはその通りです。核廃棄物は、放射能を出さない安全な状態になるまで数十万年掛かると言われており、世界に既に数十万トンあると言われている(もちろんこれからもどんどん増える)核廃棄物の最終処分の問題は避けては通れません。
また別の人物は、人類は原発を一刻も早く手放すべきだが、そうなる未来のために、最終処分については真剣に検討しなければならない、という理由で仕事に携わっています。
【家を建てる時には、トイレも必ず作る】
映画の中でこうナレーションがありましたが、確かにそれはその通りだなと感じました。どの国も、将来的に何か解決策が見つかるだろうと楽観視して、原子力発電に踏み出すわけです。もちろん、原子力発電というのは、特に先進国にとって発展の要みたいなものだったでしょうし、僕だって誰だって、原子力発電のお陰で便利な生活が送れていることを無視してはいけません。ただ、僕の記憶では、東日本大震災が起こった際、日本中の原発の操業がすべて停止したはずです。もちろん、季節にもよるでしょうし、工場などへの節電の呼びかけなんかもされていたのかもしれませんが、しかし、最悪止まってもなんとかなる、ということでもあるのでしょう。そう考えれば、既に生み出されてしまった核廃棄物については対策を考えなければなりませんが、今後新たに核廃棄物を生み出さないというやり方をすべきだろうなぁ、という気はします。
僕自身は、東日本大震災の際にこう考えました。原子力発電という技術には賛成だが、それを動かす組織には反対だ、と。僕は、福島第一原発事故は、人災だと考えています。現場に責任があるとかそういうことではなく、東京電力という強大な組織が機能不全を起こしていて、原発という危険な代物を動かし続けるに値しない組織になっていたのだ、というのが僕の理解です。
この映画を見て一番驚いたのが、イギリスの話です。イギリスはかつて、「世界の核廃棄物処理場」のような役割を担っていたそうです。使用済み核燃料をイギリスに送り処理してもらうことで、プルトニウムなどが戻ってくるけど、核廃棄物はイギリスにそのまま残る、というやり方が長らく続いていたとか。スイスは、イギリスのそのスタンスを前提に原子力発電を稼働させます。自国に核廃棄物が戻ってこないならいいじゃないか、と。
しかし1976年、突如状況が変わります。イギリス政府が、上述のようなやり方を禁止する方針を打ち出したのです。スイスは、それまでイギリスに引き取ってもらえた核廃棄物を、自国で引き取らなければならなくなります。
そこで国内で、核廃棄物の最終処分についての議論が持ち上がり、安全な処分場の選定のためにマッコンビー氏が呼ばれます。しかし、5年という短期間では結論は出せず、当初は「最終処分場が決まらなければ原発の操業は停止する」という話だったにも関わらず、毎年のように基準が緩められ、現在でも原発は操業されています。
また、この核廃棄物の最終処分については、原発を保有していない国も無関係ではいられません。オーストラリアが、巻き込まれてしまいます。
核廃棄物の最終処分場には、「半径100km圏内での高低差が5m以内」、つまり、とにかくまっ平らな広大な土地が必要とされます。そして、その条件に当てはまったのがオーストラリアでした。イギリス企業から多額の資金が拠出された調査計画が練られ、オーストラリアに世界中の核廃棄物を集める「パンゲア計画」が極秘裏に作り上げられましたが、その資料映像が環境団体に流出、原発を保有していないオーストラリア国内で大反対運動が起こります。そりゃあまあ当然でしょう。
中国の動向も興味深いと感じました。中国は法改正をし、原子力発電所の建設計画を承認したそうです(それまで中国国内に原子力発電所が存在しなかったのかは分からないけど、映画を見ながら僕はそうなのかなと感じた)。2020年までに40基、その後18基が計画されており、58基の原子力発電所が60年の耐用年数の間に生み出す核廃棄物は、およそ86000トンだそう。世界中がこれだけ最終処分場探しに苦労しているのに大丈夫かなと思いますが、中国はゴビ砂漠に最終処分場を建設する計画を検討しているようで、その様子も出てきました。
スウェーデンには、世界で初めて最終処分場に立候補した街があり、その町長の話も出てきました。印象的だったのは、「関心があるから手を挙げたのだ。重要なことは、完全に自発的なプロセスだということ。強制されているわけではない。今日にでも議会を開いて、下りますということだってできる」という言葉でした。なんとなく北欧って、人々の人間力みたいなものが高いイメージを勝手に持ってるんだけど、この映画でもやはりそういう印象を受けました。
スイスでは、驚いたのですが、自治体の拒否権が既に取り上げられているそうです。つまり、「ここに最終処分場を作る」と国が決めたら、自治体には「NO」という選択肢が無い、ということです。まあでも確かに、それぐらいやらないと最終処分地なんか決まらないよな、という気もします。
地球温暖化の問題などと同じで、この問題も全人類が関係する喫緊の課題だと思うのですけど、地球温暖化の問題と比べて遥かに関心が低い感じがします(まあ僕も同じだなと思いますが)。日本は、唯一の被爆国にして、福島第一原発事故を経験しているのだから、もっと国を上げて関心を持っても良さそうなものですが、やはり日本ではこういう社会問題は国民的な議論にはなかなかなりませんね。いつ誰がどのように決断するかは分からないけど、タイムリミットは確実に存在します。中間貯蔵施設が一杯になる前に手を打たなければなりません。日本にはさらに、福島第一原発の廃炉の問題もあるし、ホントにどうなるんだろう。特に日本は国土が狭いから、解決はかなり困難だろうなと思います。難しい。
「地球で最も安全な場所を探して」を観に行ってきました
例えばこの映画には、日本の状況も少し出てくる。映画の冒頭から登場する、チャールズ・マッコンビーという核物理学者が、日本の専門家会議のようなもののトップに立って話を主導していた時期があったようなのだけど、その彼が日本のやり方について「世界初だ」という表現をしていました。日本のニュースで時々、「核廃棄物の最終処分場の文献調査に手を挙げると交付金がうんぬん」みたいな話が出るけど、日本は世界で唯一、最終処分場の決定を自治体に立候補に委ねているのだそう。まあその核物理学者が「世界初」という言葉で、日本のやり方を称賛しているのかそうでないのかはちょっと分からなかったけれど、とりあえず日本のやっていることは「世界初」だそうです。
この映画は、原子力発電所を有する世界各国が直面している核廃棄物の最終処分の現状について取材していくドキュメンタリー映画です。なんとなく知ってはいたことだけど、それでも、未だにどの国も「中間貯蔵」までしかできておらず、最終処分場の選定を成し遂げた国はありません。そう考えると本当に、人類はとんでもないものを生み出したな、と思います。
登場する人物の多くは、最終処分場の選定や核廃棄物の処理に関わる人ですが、そのスタンスは様々です。先程紹介したチャールズ・マッコンビーは、「世界各国が脱原発を推し進めている現状を危惧している」と、原発の必要性に対する信念を語っていました。まあ、その信念に対しては様々に意見はあるでしょうが、同じくマッコンビー氏が言っていた、「今原発を止めても、廃棄物の処理問題はつきまとう」というのはその通りです。核廃棄物は、放射能を出さない安全な状態になるまで数十万年掛かると言われており、世界に既に数十万トンあると言われている(もちろんこれからもどんどん増える)核廃棄物の最終処分の問題は避けては通れません。
また別の人物は、人類は原発を一刻も早く手放すべきだが、そうなる未来のために、最終処分については真剣に検討しなければならない、という理由で仕事に携わっています。
【家を建てる時には、トイレも必ず作る】
映画の中でこうナレーションがありましたが、確かにそれはその通りだなと感じました。どの国も、将来的に何か解決策が見つかるだろうと楽観視して、原子力発電に踏み出すわけです。もちろん、原子力発電というのは、特に先進国にとって発展の要みたいなものだったでしょうし、僕だって誰だって、原子力発電のお陰で便利な生活が送れていることを無視してはいけません。ただ、僕の記憶では、東日本大震災が起こった際、日本中の原発の操業がすべて停止したはずです。もちろん、季節にもよるでしょうし、工場などへの節電の呼びかけなんかもされていたのかもしれませんが、しかし、最悪止まってもなんとかなる、ということでもあるのでしょう。そう考えれば、既に生み出されてしまった核廃棄物については対策を考えなければなりませんが、今後新たに核廃棄物を生み出さないというやり方をすべきだろうなぁ、という気はします。
僕自身は、東日本大震災の際にこう考えました。原子力発電という技術には賛成だが、それを動かす組織には反対だ、と。僕は、福島第一原発事故は、人災だと考えています。現場に責任があるとかそういうことではなく、東京電力という強大な組織が機能不全を起こしていて、原発という危険な代物を動かし続けるに値しない組織になっていたのだ、というのが僕の理解です。
この映画を見て一番驚いたのが、イギリスの話です。イギリスはかつて、「世界の核廃棄物処理場」のような役割を担っていたそうです。使用済み核燃料をイギリスに送り処理してもらうことで、プルトニウムなどが戻ってくるけど、核廃棄物はイギリスにそのまま残る、というやり方が長らく続いていたとか。スイスは、イギリスのそのスタンスを前提に原子力発電を稼働させます。自国に核廃棄物が戻ってこないならいいじゃないか、と。
しかし1976年、突如状況が変わります。イギリス政府が、上述のようなやり方を禁止する方針を打ち出したのです。スイスは、それまでイギリスに引き取ってもらえた核廃棄物を、自国で引き取らなければならなくなります。
そこで国内で、核廃棄物の最終処分についての議論が持ち上がり、安全な処分場の選定のためにマッコンビー氏が呼ばれます。しかし、5年という短期間では結論は出せず、当初は「最終処分場が決まらなければ原発の操業は停止する」という話だったにも関わらず、毎年のように基準が緩められ、現在でも原発は操業されています。
また、この核廃棄物の最終処分については、原発を保有していない国も無関係ではいられません。オーストラリアが、巻き込まれてしまいます。
核廃棄物の最終処分場には、「半径100km圏内での高低差が5m以内」、つまり、とにかくまっ平らな広大な土地が必要とされます。そして、その条件に当てはまったのがオーストラリアでした。イギリス企業から多額の資金が拠出された調査計画が練られ、オーストラリアに世界中の核廃棄物を集める「パンゲア計画」が極秘裏に作り上げられましたが、その資料映像が環境団体に流出、原発を保有していないオーストラリア国内で大反対運動が起こります。そりゃあまあ当然でしょう。
中国の動向も興味深いと感じました。中国は法改正をし、原子力発電所の建設計画を承認したそうです(それまで中国国内に原子力発電所が存在しなかったのかは分からないけど、映画を見ながら僕はそうなのかなと感じた)。2020年までに40基、その後18基が計画されており、58基の原子力発電所が60年の耐用年数の間に生み出す核廃棄物は、およそ86000トンだそう。世界中がこれだけ最終処分場探しに苦労しているのに大丈夫かなと思いますが、中国はゴビ砂漠に最終処分場を建設する計画を検討しているようで、その様子も出てきました。
スウェーデンには、世界で初めて最終処分場に立候補した街があり、その町長の話も出てきました。印象的だったのは、「関心があるから手を挙げたのだ。重要なことは、完全に自発的なプロセスだということ。強制されているわけではない。今日にでも議会を開いて、下りますということだってできる」という言葉でした。なんとなく北欧って、人々の人間力みたいなものが高いイメージを勝手に持ってるんだけど、この映画でもやはりそういう印象を受けました。
スイスでは、驚いたのですが、自治体の拒否権が既に取り上げられているそうです。つまり、「ここに最終処分場を作る」と国が決めたら、自治体には「NO」という選択肢が無い、ということです。まあでも確かに、それぐらいやらないと最終処分地なんか決まらないよな、という気もします。
地球温暖化の問題などと同じで、この問題も全人類が関係する喫緊の課題だと思うのですけど、地球温暖化の問題と比べて遥かに関心が低い感じがします(まあ僕も同じだなと思いますが)。日本は、唯一の被爆国にして、福島第一原発事故を経験しているのだから、もっと国を上げて関心を持っても良さそうなものですが、やはり日本ではこういう社会問題は国民的な議論にはなかなかなりませんね。いつ誰がどのように決断するかは分からないけど、タイムリミットは確実に存在します。中間貯蔵施設が一杯になる前に手を打たなければなりません。日本にはさらに、福島第一原発の廃炉の問題もあるし、ホントにどうなるんだろう。特に日本は国土が狭いから、解決はかなり困難だろうなと思います。難しい。
「地球で最も安全な場所を探して」を観に行ってきました
「潔白」を観に行ってきました
面白かった。事件の真相を追う、という物語だけだったらここまで面白くはなかったかもしれないけど、物語が「犯人探し」から転調し始めた辺りから(まあ、結構後半だけど)、俄然面白くなった。
主人公の弁護士がある場面で、「一体どうしたらいいの?」と嘆く場面がある。それまで主人公は、かなり厳しい状況に追い込まれても泣き言一つ言わず、表情も変えないでクールに事件に向き合っていたのだけど、その場面で彼女は初めて動揺を見せる。
その時点で彼女がどんな状況に直面していたのかは、内容的にかなりネタバレになるので書かないけど、確かに彼女と同じ状況に置かれたら、「一体どうしたらいいの?」と言いたくなってしまうだろう。
「正義」は人によって違う。でも、人によって違う、というところで留まってしまえば社会は成り立たない。だからこそ、法律や法解釈の基準などを設けて、ある程度以上客観的に「正義」を判定できるようにしている。
しかし、そういう仕組みが存在するからこそ、その公平さみたいなものから零れ落ちてしまう人も出てくる。どうしたって、「正義」の境界線は厳密には決められないし、その境界線の狭間のようなところに落ち込んでしまった人は、ほんのわずかなことで「正義」と「正義ではない側」が決してしまう。
この映画の着地点に対して、たぶんいろんなことを感じる人がいるだろう。どの視点に立つかで、この映画の結末は正解にも間違いにもなる。僕は、この結末を「正解」だと言いたい。これが、「正解」だと受け入れられる社会で、僕は生きたい。
内容に入ろうと思います。
有名弁護士事務所でトップ弁護士と活躍するアン・ジョンインは、金持ちの息子の弁護を嫌々ながらに任されるも、きっちりと仕事をこなした。しかし、もう同じ被告人の控訴審は担当したくない、と上司に断りを入れている最中、その事件の一報をテレビで知ることになる。
ある農村の主が亡くなり、葬式が行われている時のこと。大川市長を含む弔問客5人が、マッコリを飲んだ後嘔吐し、死者も出る事態となった。マッコリからは農薬が検出され、犯人として、葬儀の喪主である妻が逮捕された。
その妻は、ジョンインの母親だ。事件はまさに、ジョンインの実家で起こったのだ。ジョンインは幼い頃、鉱山を経営する父から暴力を受けるなど抑圧された環境におり、耐えかねて家族を置いて一人都会へと飛び出し、以来十数年実家には帰っていなかった。
事件を知り、急いで実家に戻るものの、彼女は事件現場で不審なものを感じ取る。何かおかしい。しかし事件は、警察による初動捜査がかなり雑に行われていたにも関わらず、母親の犯行であると確定しているかのような様相で、彼女は、元々ついていた弁護士の代わりに母親の弁護を担当することになる。
残念ながら母親は、事件の直前認知性を発症しており、自分を助けるために駆けつけた娘のことが認識できず、自閉症の傾向を持つ弟のジョンスを気遣う発言ばかりして…。
というような話です。
冒頭からしばらくの間は、「敏腕女性弁護士が、疎遠だった家族を救うために、事件の真相を探る」という、まあよくあるだろうなぁ、という展開を見せる。よくある展開だから悪い、なんていっているつもりはないのだけど、正直なところ、特段これというほどの惹き込まれ方はしていなかった。
事件の背後には、現市長を中心とした政治の腐敗があるようだ。まあそれも、よくあると言えばよくある話。
しかし途中から徐々に、なんかおかしいという感じになっていく。確かに、母親が犯行を行ったという明確な証拠は無いし、市長を含む被害者らがどうやらあくどいことをしていることも事実なようだ。でも、それだけではない、何かおかしな雰囲気がちらほらと感じられるようになっていく。
そして彼女は、自分の足で様々な情報を稼いだことで、事件の真相をついに明らかにするの、だが…。
この「だが…」の部分は書けないから、この展開が示唆する問題定期にも触れられないのだけど、知れば色々と考えさせられるだろう。「法律」だけでは「正義」を実現することができないと考えるか、あるいは「法律」で実現できるものだけが「正義」だと捉えるべきだと考えるか。
世の中には、明確に法律の一線を超えずに、グレーゾーンに留まりながら悪いことをしている連中もたくさんいるだろう。そういう人間を、「法律を犯していないから裁けない」と言ってしまうのはなんか嫌だ。同時に、明確に法律の一線を超えているが、その行動そのものを称賛したくなるような状況だってあるだろう。そういう人間に、「法律を犯しているから裁かれるべきだ」と言ってしまいたくもない。
社会を成り立たせるために法律に従うべきだ、というのはその通りだし、法律に対して理不尽や怒りを覚えるのなら変える努力をしなければならない、というのもその通りだと思っている。しかし、この映画で提示されていることはそういうことではなく、「なんらかの基準を設けて、その境界線で善悪を定めましょう」という仕組みでは救われない状況は一定数起こりうるし、そういう場合にどのような救済があり得るだろうか、ということだ。
僕はそういう場合には、公平さよりも、弱者の救済に振り切る世の中であってほしいと思う。
「潔白」を観に行ってきました
主人公の弁護士がある場面で、「一体どうしたらいいの?」と嘆く場面がある。それまで主人公は、かなり厳しい状況に追い込まれても泣き言一つ言わず、表情も変えないでクールに事件に向き合っていたのだけど、その場面で彼女は初めて動揺を見せる。
その時点で彼女がどんな状況に直面していたのかは、内容的にかなりネタバレになるので書かないけど、確かに彼女と同じ状況に置かれたら、「一体どうしたらいいの?」と言いたくなってしまうだろう。
「正義」は人によって違う。でも、人によって違う、というところで留まってしまえば社会は成り立たない。だからこそ、法律や法解釈の基準などを設けて、ある程度以上客観的に「正義」を判定できるようにしている。
しかし、そういう仕組みが存在するからこそ、その公平さみたいなものから零れ落ちてしまう人も出てくる。どうしたって、「正義」の境界線は厳密には決められないし、その境界線の狭間のようなところに落ち込んでしまった人は、ほんのわずかなことで「正義」と「正義ではない側」が決してしまう。
この映画の着地点に対して、たぶんいろんなことを感じる人がいるだろう。どの視点に立つかで、この映画の結末は正解にも間違いにもなる。僕は、この結末を「正解」だと言いたい。これが、「正解」だと受け入れられる社会で、僕は生きたい。
内容に入ろうと思います。
有名弁護士事務所でトップ弁護士と活躍するアン・ジョンインは、金持ちの息子の弁護を嫌々ながらに任されるも、きっちりと仕事をこなした。しかし、もう同じ被告人の控訴審は担当したくない、と上司に断りを入れている最中、その事件の一報をテレビで知ることになる。
ある農村の主が亡くなり、葬式が行われている時のこと。大川市長を含む弔問客5人が、マッコリを飲んだ後嘔吐し、死者も出る事態となった。マッコリからは農薬が検出され、犯人として、葬儀の喪主である妻が逮捕された。
その妻は、ジョンインの母親だ。事件はまさに、ジョンインの実家で起こったのだ。ジョンインは幼い頃、鉱山を経営する父から暴力を受けるなど抑圧された環境におり、耐えかねて家族を置いて一人都会へと飛び出し、以来十数年実家には帰っていなかった。
事件を知り、急いで実家に戻るものの、彼女は事件現場で不審なものを感じ取る。何かおかしい。しかし事件は、警察による初動捜査がかなり雑に行われていたにも関わらず、母親の犯行であると確定しているかのような様相で、彼女は、元々ついていた弁護士の代わりに母親の弁護を担当することになる。
残念ながら母親は、事件の直前認知性を発症しており、自分を助けるために駆けつけた娘のことが認識できず、自閉症の傾向を持つ弟のジョンスを気遣う発言ばかりして…。
というような話です。
冒頭からしばらくの間は、「敏腕女性弁護士が、疎遠だった家族を救うために、事件の真相を探る」という、まあよくあるだろうなぁ、という展開を見せる。よくある展開だから悪い、なんていっているつもりはないのだけど、正直なところ、特段これというほどの惹き込まれ方はしていなかった。
事件の背後には、現市長を中心とした政治の腐敗があるようだ。まあそれも、よくあると言えばよくある話。
しかし途中から徐々に、なんかおかしいという感じになっていく。確かに、母親が犯行を行ったという明確な証拠は無いし、市長を含む被害者らがどうやらあくどいことをしていることも事実なようだ。でも、それだけではない、何かおかしな雰囲気がちらほらと感じられるようになっていく。
そして彼女は、自分の足で様々な情報を稼いだことで、事件の真相をついに明らかにするの、だが…。
この「だが…」の部分は書けないから、この展開が示唆する問題定期にも触れられないのだけど、知れば色々と考えさせられるだろう。「法律」だけでは「正義」を実現することができないと考えるか、あるいは「法律」で実現できるものだけが「正義」だと捉えるべきだと考えるか。
世の中には、明確に法律の一線を超えずに、グレーゾーンに留まりながら悪いことをしている連中もたくさんいるだろう。そういう人間を、「法律を犯していないから裁けない」と言ってしまうのはなんか嫌だ。同時に、明確に法律の一線を超えているが、その行動そのものを称賛したくなるような状況だってあるだろう。そういう人間に、「法律を犯しているから裁かれるべきだ」と言ってしまいたくもない。
社会を成り立たせるために法律に従うべきだ、というのはその通りだし、法律に対して理不尽や怒りを覚えるのなら変える努力をしなければならない、というのもその通りだと思っている。しかし、この映画で提示されていることはそういうことではなく、「なんらかの基準を設けて、その境界線で善悪を定めましょう」という仕組みでは救われない状況は一定数起こりうるし、そういう場合にどのような救済があり得るだろうか、ということだ。
僕はそういう場合には、公平さよりも、弱者の救済に振り切る世の中であってほしいと思う。
「潔白」を観に行ってきました
「ある人質 生還までの398日」を観に行ってきました
人質になった本人やその家族の苦労、心情については誰もが共感するだろうし、特に人質になった彼の辛さは察するに余りあるほどだ。ただ、一定の理解ができるからこそ、そのことそのものについてここであれこれ書こうとは思わない。
僕が考えさせられたことは、デンマーク政府の対応だ。デンマーク政府は、現在に至るまで、テロリストと交渉をしないという方針を貫いているという。
凄いな、と思う。その方針が褒められるべきものなのかどうか、というのは僕には判断できることではないけど、このスタンスを貫き通すというのは並大抵のことではできないと思う。
日本には、有名な例がある。当時の首相である福田赳夫が「一人の生命は地球より重い」と言って、身代金の支払いと過激派メンバーの釈放を決定したのだ。確か僕の記憶では、この時の対応は、国際的に非難されたのではなかったかと思う(間違ってるかもしれないけど)。
確かに、「国家」という大きな視点で見れば、テロリストと交渉しないという方針は当然だと思う。その行為は、テロリストに活動資金を渡すことと同じだからだ。そんなこと許されていいはずがない、というのは当然の感覚だろう。しかし一方で、「個人」レベルで見れば、お金さえ払えれば命が助かるという状況が目の前にあるのなら、お金を払ってでも助けたいと思うのは当然だろうし、その助けを政府に頼りたいと考えてしまうのも当然だと思う。完全に対立する、非常に難しい問題だ。
デンマーク政府は、この点に関して実に徹底している。なんと、被害者家族が支払うための身代金を集める募金活動を行うことは、違法だというのだ。政府が直接的な支援をしない、というスタンスはまだ分かる。しかし、なんとか生きて戻ってほしいという家族の行動をも制限する、というのは、ちょっとやり過ぎなように僕には思える。
まあ、確かに、デンマーク政府が理想としていることは分かる。世界中の国がテロリストに屈せず金を払わなければ、テロリストも誘拐なんてことはしなくなる。しかし、その理想が実現する可能性は限りなく低いだろう。デンマーク政府はあるいは、デンマークがそういうスタンスを固辞し続ければ、デンマーク人の誘拐は無くなるはずだ、と考えているかもしれない。しかしその可能性は低いのではないか、と僕は思う。あらかじめターゲットが決まっているならともかく、そうでない場合、目の前の白人がデンマーク人かどうかなど、確かめようがないからだ。
デンマーク政府は、人質家族が困窮している様に直面しながら、最後の最後まで表立っての手助けは一切しない。良いかどうかはともかく、凄いと思う。しかしそのスタンスのために、家族はお金を集めるのにかなり苦労する。企業のトップに寄付を掛け合っても、デンマーク政府の方針に反すれば企業にダメージが及ぶ。断る側も、非常に苦渋の決断だろうと思う。
映画を見ながら考えていたことは、確か同じような時期に起こった、ISISによる日本人の誘拐だ。こちらも身代金が要求され、どういうやり取りが行われたのか分からないけど、最終的に日本人ジャーナリストは帰国した。
その時、このジャーナリストに対して起こった苛烈なバッシングが今も記憶にある。当時よく出ていた言葉は「自己責任」だ。そのジャーナリストの奥さんが、解放される前に何度かテレビに出ていたのだけど、支援を求める訴えに対して、自ら危険地帯に行ったのだから自己責任だ、と言って非難が起こっていた記憶がある。
そういう批判の存在を受けてだろう、ニュース番組で海外の事例が紹介されていた。海外では、紛争地帯で拘束され帰国したジャーナリストは、英雄のような扱いになる、というものだった。日本とは大きな違いだな、と感じた記憶がある。
映画の中で、主人公と共に拘束されていたアメリカ人ジャーナリストが、こんなことを言う場面がある。
【世界を変えたい気持ちは止められない】
今も世界のどこかで、悲劇が起こっている。僕らが知っていることもあるし、なんとなくしか知り得ないこともあるし、そしてまったく知らないこともあるだろう。なんとなくしか知らないとか、まったく知らないのは、それを報じる者がいないからだ。
「虐殺器官」という映画では、人々の無関心が残虐さという刃となって世界に突き立てられる様が描かれていく。僕らは日々、膨大すぎる情報に触れているが、テクノロジーの発達によって、自分が関心を持てる情報だけを選別して取り入れることが可能になった。そのことによって、無関心はさらに加速していくことになる。世界で今何が起こっているのかに関心を持たずに、快楽や便利さを享受し続けることで、世界全体が機能不全に陥っていくことは間違いない。
危険地帯に飛び込むジャーナリストは、そんな無関心をせめてもの形で食い止めてくれる勇敢な人たちだ。僕には絶対にできない。そういう存在を、自己責任だろと言って非難するような人間にはなりたくない、と思う。
内容に入ろうと思います。
6年間を体操に捧げ、世界大会を控えていたダニエルは、世界大会の直前に行われた軍人相手のショーで怪我をし、それまでの努力を棒に振った。学生である恋人のシーネと過ごしつつ、家族の世話になっているダニエルに、両親は甘やかしすぎだと姉は厳しいが、ダニエルなりに次の人生を考えていた。昔から夢だったカメラマンになるという。学校には行かず、プロカメラマンの助手になって経験を積むことを選び、彼はあるプロカメラマンの助手としてソマリアへ向かった。そこで、戦時における日常を人々に伝える使命に目覚めたダニエルは、シリア入りを決める。家族にも相談をし、出来る限り安全を確保すると確約し、現地ガイドを雇ってシリアの日常を撮るダニエルだったが、そこへ謎の集団が現れ、現地ガイドと共に拘束されてしまう。許可はちゃんと取ってあるから大丈夫だと言う現地ガイドだったが、ダニエルはCIAだと疑われ、拘束されることになってしまう。
予定していた帰国便にダニエルが乗っていないと恋人のシーネから知らされた両親は、緊急連絡先として指定されていたアートゥアに電話を掛ける。しばらく連絡がつかないことを告げると、誘拐の可能性があるから誰にも言わないようにと口止めをされる。話が広まると、人質の命が危ないのだ。
デンマーク政府はテロリストとは交渉をしないという方針のため、家族はそのままアートゥアを人質交渉人として雇った。アートゥアは、アメリカ人ジャーナリストであるフォーリーの家族からも依頼を受けており、同時に彼らの行方を探しているが、なかなか状況が掴めない。
一方ダニエルは、隙を見てISISから逃れようとするが…。
というような話です。
ダニエルとその家族がどういう顛末を辿ることになったのかは、ぜひ映画を見てほしい。ある意味では、予想外のことは起こらないが、これが現実だったのだと思うと背筋が凍るような話だ。
僕が映画を見て、こんなことも考えてしまった。それは、こんな風にして助かった後、生きていくのもしんどいだろうな、と。
最終的に家族は、200万ユーロの身代金を支払った。先程検索したら、現在のレートで約2億5000万円だそうだ。もちろん、家族の持ち金だけでは支払えない。多くの寄付があっての救出劇だった。
そうやって、多くの人に支えてもらってなんとか生還したら、僕なら負担が大きくてしんどいだろうな、と思う。どれだけ周りが「気にしなくていい」と言ってくれたとしても、どうしたって気にしちゃうだろうし、何らかの形で恩を返すことができないとしても、助けてくれた人たちに恥じない生き方をしなければ、と思ってしまって、非常に辛いだろうなぁ、と思う。ダニエルが実際にどう感じているかは知らないけど、やはり同じようにしんどさを感じてしまうことはあるのではないかと思う。
ISISにも彼らなりの大義はあるのだろうけど、100人以上の報道関係者が命を落とし、1200万人以上が国外退去せざるを得ない状況にしてまで成し遂げるべき大義が存在するのだろうか、と思う。
「ある人質 生還までの398日」を観に行ってきました
僕が考えさせられたことは、デンマーク政府の対応だ。デンマーク政府は、現在に至るまで、テロリストと交渉をしないという方針を貫いているという。
凄いな、と思う。その方針が褒められるべきものなのかどうか、というのは僕には判断できることではないけど、このスタンスを貫き通すというのは並大抵のことではできないと思う。
日本には、有名な例がある。当時の首相である福田赳夫が「一人の生命は地球より重い」と言って、身代金の支払いと過激派メンバーの釈放を決定したのだ。確か僕の記憶では、この時の対応は、国際的に非難されたのではなかったかと思う(間違ってるかもしれないけど)。
確かに、「国家」という大きな視点で見れば、テロリストと交渉しないという方針は当然だと思う。その行為は、テロリストに活動資金を渡すことと同じだからだ。そんなこと許されていいはずがない、というのは当然の感覚だろう。しかし一方で、「個人」レベルで見れば、お金さえ払えれば命が助かるという状況が目の前にあるのなら、お金を払ってでも助けたいと思うのは当然だろうし、その助けを政府に頼りたいと考えてしまうのも当然だと思う。完全に対立する、非常に難しい問題だ。
デンマーク政府は、この点に関して実に徹底している。なんと、被害者家族が支払うための身代金を集める募金活動を行うことは、違法だというのだ。政府が直接的な支援をしない、というスタンスはまだ分かる。しかし、なんとか生きて戻ってほしいという家族の行動をも制限する、というのは、ちょっとやり過ぎなように僕には思える。
まあ、確かに、デンマーク政府が理想としていることは分かる。世界中の国がテロリストに屈せず金を払わなければ、テロリストも誘拐なんてことはしなくなる。しかし、その理想が実現する可能性は限りなく低いだろう。デンマーク政府はあるいは、デンマークがそういうスタンスを固辞し続ければ、デンマーク人の誘拐は無くなるはずだ、と考えているかもしれない。しかしその可能性は低いのではないか、と僕は思う。あらかじめターゲットが決まっているならともかく、そうでない場合、目の前の白人がデンマーク人かどうかなど、確かめようがないからだ。
デンマーク政府は、人質家族が困窮している様に直面しながら、最後の最後まで表立っての手助けは一切しない。良いかどうかはともかく、凄いと思う。しかしそのスタンスのために、家族はお金を集めるのにかなり苦労する。企業のトップに寄付を掛け合っても、デンマーク政府の方針に反すれば企業にダメージが及ぶ。断る側も、非常に苦渋の決断だろうと思う。
映画を見ながら考えていたことは、確か同じような時期に起こった、ISISによる日本人の誘拐だ。こちらも身代金が要求され、どういうやり取りが行われたのか分からないけど、最終的に日本人ジャーナリストは帰国した。
その時、このジャーナリストに対して起こった苛烈なバッシングが今も記憶にある。当時よく出ていた言葉は「自己責任」だ。そのジャーナリストの奥さんが、解放される前に何度かテレビに出ていたのだけど、支援を求める訴えに対して、自ら危険地帯に行ったのだから自己責任だ、と言って非難が起こっていた記憶がある。
そういう批判の存在を受けてだろう、ニュース番組で海外の事例が紹介されていた。海外では、紛争地帯で拘束され帰国したジャーナリストは、英雄のような扱いになる、というものだった。日本とは大きな違いだな、と感じた記憶がある。
映画の中で、主人公と共に拘束されていたアメリカ人ジャーナリストが、こんなことを言う場面がある。
【世界を変えたい気持ちは止められない】
今も世界のどこかで、悲劇が起こっている。僕らが知っていることもあるし、なんとなくしか知り得ないこともあるし、そしてまったく知らないこともあるだろう。なんとなくしか知らないとか、まったく知らないのは、それを報じる者がいないからだ。
「虐殺器官」という映画では、人々の無関心が残虐さという刃となって世界に突き立てられる様が描かれていく。僕らは日々、膨大すぎる情報に触れているが、テクノロジーの発達によって、自分が関心を持てる情報だけを選別して取り入れることが可能になった。そのことによって、無関心はさらに加速していくことになる。世界で今何が起こっているのかに関心を持たずに、快楽や便利さを享受し続けることで、世界全体が機能不全に陥っていくことは間違いない。
危険地帯に飛び込むジャーナリストは、そんな無関心をせめてもの形で食い止めてくれる勇敢な人たちだ。僕には絶対にできない。そういう存在を、自己責任だろと言って非難するような人間にはなりたくない、と思う。
内容に入ろうと思います。
6年間を体操に捧げ、世界大会を控えていたダニエルは、世界大会の直前に行われた軍人相手のショーで怪我をし、それまでの努力を棒に振った。学生である恋人のシーネと過ごしつつ、家族の世話になっているダニエルに、両親は甘やかしすぎだと姉は厳しいが、ダニエルなりに次の人生を考えていた。昔から夢だったカメラマンになるという。学校には行かず、プロカメラマンの助手になって経験を積むことを選び、彼はあるプロカメラマンの助手としてソマリアへ向かった。そこで、戦時における日常を人々に伝える使命に目覚めたダニエルは、シリア入りを決める。家族にも相談をし、出来る限り安全を確保すると確約し、現地ガイドを雇ってシリアの日常を撮るダニエルだったが、そこへ謎の集団が現れ、現地ガイドと共に拘束されてしまう。許可はちゃんと取ってあるから大丈夫だと言う現地ガイドだったが、ダニエルはCIAだと疑われ、拘束されることになってしまう。
予定していた帰国便にダニエルが乗っていないと恋人のシーネから知らされた両親は、緊急連絡先として指定されていたアートゥアに電話を掛ける。しばらく連絡がつかないことを告げると、誘拐の可能性があるから誰にも言わないようにと口止めをされる。話が広まると、人質の命が危ないのだ。
デンマーク政府はテロリストとは交渉をしないという方針のため、家族はそのままアートゥアを人質交渉人として雇った。アートゥアは、アメリカ人ジャーナリストであるフォーリーの家族からも依頼を受けており、同時に彼らの行方を探しているが、なかなか状況が掴めない。
一方ダニエルは、隙を見てISISから逃れようとするが…。
というような話です。
ダニエルとその家族がどういう顛末を辿ることになったのかは、ぜひ映画を見てほしい。ある意味では、予想外のことは起こらないが、これが現実だったのだと思うと背筋が凍るような話だ。
僕が映画を見て、こんなことも考えてしまった。それは、こんな風にして助かった後、生きていくのもしんどいだろうな、と。
最終的に家族は、200万ユーロの身代金を支払った。先程検索したら、現在のレートで約2億5000万円だそうだ。もちろん、家族の持ち金だけでは支払えない。多くの寄付があっての救出劇だった。
そうやって、多くの人に支えてもらってなんとか生還したら、僕なら負担が大きくてしんどいだろうな、と思う。どれだけ周りが「気にしなくていい」と言ってくれたとしても、どうしたって気にしちゃうだろうし、何らかの形で恩を返すことができないとしても、助けてくれた人たちに恥じない生き方をしなければ、と思ってしまって、非常に辛いだろうなぁ、と思う。ダニエルが実際にどう感じているかは知らないけど、やはり同じようにしんどさを感じてしまうことはあるのではないかと思う。
ISISにも彼らなりの大義はあるのだろうけど、100人以上の報道関係者が命を落とし、1200万人以上が国外退去せざるを得ない状況にしてまで成し遂げるべき大義が存在するのだろうか、と思う。
「ある人質 生還までの398日」を観に行ってきました
「ファブリック」を観に行ってきました
俺は、頭が悪くなったんだろうか???
ストーリーが1ミクロンも理解できなかった。
最初、よく分からない感じで始まる映画はあるし、しばらく観てればなんとか理解できるだろうと思って、完全にとは言わなくてもそれなりに理解できる作品もあるけど、これはまったくダメだったなぁ。僕の記憶だと、「ゲット・アウト」以来。「ゲット・アウト」も、観ててなんのこっちゃさっぱり理解できなくてネットで調べたけど、この映画もまったくだったなぁ。
僕がこの映画を観て理解できたことは、「赤いドレスが、なんか呪われてるみたいで、そのドレスを着るとなんか大変なことが起こる」みたいな。それ以外はなんのこっちゃ分からんかった。
とりあえず、内容の紹介を。
銀行で働くシーラは、夫と別居中で、成人の息子と暮らしている。ある日、百貨店のセールで買った(まあ、ほとんど買わされたに近いと思うけど)赤いドレスを来て、新聞の通信欄で知り合った男性と食事に行く。ドレスを脱ぐと、胸の辺りに発疹が出来、それ以来、クローゼットの中から変な音が聞こえてきたり、上司から謎の指摘を受けたりするようになる…。
というような話です。
いやー、とりあえず、全然分かんなかったけど、ラストの百貨店の売り場での狂乱は、なんか面白かった。
「ファブリック」を観に行ってきました
ストーリーが1ミクロンも理解できなかった。
最初、よく分からない感じで始まる映画はあるし、しばらく観てればなんとか理解できるだろうと思って、完全にとは言わなくてもそれなりに理解できる作品もあるけど、これはまったくダメだったなぁ。僕の記憶だと、「ゲット・アウト」以来。「ゲット・アウト」も、観ててなんのこっちゃさっぱり理解できなくてネットで調べたけど、この映画もまったくだったなぁ。
僕がこの映画を観て理解できたことは、「赤いドレスが、なんか呪われてるみたいで、そのドレスを着るとなんか大変なことが起こる」みたいな。それ以外はなんのこっちゃ分からんかった。
とりあえず、内容の紹介を。
銀行で働くシーラは、夫と別居中で、成人の息子と暮らしている。ある日、百貨店のセールで買った(まあ、ほとんど買わされたに近いと思うけど)赤いドレスを来て、新聞の通信欄で知り合った男性と食事に行く。ドレスを脱ぐと、胸の辺りに発疹が出来、それ以来、クローゼットの中から変な音が聞こえてきたり、上司から謎の指摘を受けたりするようになる…。
というような話です。
いやー、とりあえず、全然分かんなかったけど、ラストの百貨店の売り場での狂乱は、なんか面白かった。
「ファブリック」を観に行ってきました
「私は確信する」を観に行ってきました
良いか悪いかはまずともかくとして、予告とかポスターでイメージしていた映画とは全然違ってびっくりした。
予告やポスターなどで出てくるフレーズは、
【ヒッチコック狂の”完全犯罪”と物議を醸した未解決事件。実話を基に映画化、仏で40万人動員の大ヒット裁判サスペンス】
である。そもそも僕が、ヒッチコックの映画をほぼ見たことがない、というのも悪いとは想うのだけど、なんとなくヒッチコック映画に対するイメージはある。で、この映画では、事件の詳細があまり描かれないので、何がヒッチコックなのかよく分からない。
恐らくだけど、この「ヒッチコック」というのは、フランスで実際起こった事件がそう呼ばれているというだけの話で、この映画そのものはヒッチコックとは特に関係ないんだろう。
まあ、それは別にいい。僕が映画を観ていてずっと疑問だったのは、「この裁判はどうして行われたんだろう?」ということだ。ある意味で、この奇妙さが、ヒッチコックっぽい、ということなのかもしれないけど。
しかし、この奇妙さを説明するには、映画で扱われている事件の説明をしないといけないので、まず内容紹介をしよう。
シングルマザーで一人息子を育てるノラは、息子の家庭教師に来てくれるクレマンスのことを案じていた。彼女は、父親ヴィギエの控訴審を控える身なのである。10年前の”事件”で、一審では無罪判決が出た。しかし、陪審員のいる裁判では異例なことに検察が控訴したため、再び裁判が行われることになっている。
それは、奇妙な事件だった。10年前、ヴィギエの妻スザンヌが突如行方不明になった。そして結局、控訴審の時点でも、彼女の生死は判明していない。スザンヌが死んでいるという証拠もなければ、殺人が行われたという形跡を警察が見つけているわけでもない。
では何故ヴィギエは逮捕、起訴されているのか。それは、スザンヌの愛人であるデュランデの証言にある。デュランデ自身や、デュランデの周辺人物(たとえば、ヴィギエ家のベビーシッターなど)から、「浴室で血を見た」などという、ヴィギエを疑わせるような証言が様々に出てきたのだ。物証も自白もまったくない中、唯一、スザンヌの愛人周辺から様々な証言が出てくる。そんな事件だ。
ノラは一審の内容をまとめたレポートを、敏腕弁護士であるデュポン=モレッティに読んでもらい、弁護を引き受けてもらおうと考えた。一度は断られるが、ある条件を引き換えにノラの依頼を受けることになる。
それは、10年越しにようやく表に出てきた、250時間にも及ぶ通話記録の文字起こしをしてくれ、というものだった…。
というような話です。
さっきも書いたように、正直最後の最後まで、どうして起訴されたのがというのが謎だった。そこがあまりにも謎すぎて、他の要素が頭に入ってこない。何故、これで裁判が成立しているんだろう?まだ、一審は理解できなくもない。見切り発車で起訴してしまったのかもしれない。でも、手元にある情報では、有罪に出来るはずがない、と気づかなかったのだろうか?
と僕は思うのだけど、物語は非常に不思議な展開を見せる。途中で弁護士は、「有罪を覚悟しろ」とまで言うのだ。ずっと見てたけど、どうしてあの裁判の流れで被告人が有罪になる確率が上がっているのかが、僕には全然理解できなかった。
自白があるなら、まだ分からないでもない。死体も物証もない、でも自白だけあるという場合に、検察が「でも自白したんだぞ」と言って追い詰めていくのはまだ分かる。しかしこの事件、自白もないはずなのだ(ただ冒頭で、「ヴィギエは事件から7年後に出頭した」という字幕が出た。その意味がよく分からない)。いずれにしても、裁判の中で、「ヴィギエが自白した」というような展開には一度もならなかったから、自白はなかったんだと思う。
その辺りのことがどうも見ていてしっくり来なくて、物語をうまく捉えきれなかったなぁ、と思う。
ノラは非常に良いキャラクターだった。無実だと信じる相手を助けたいという想いと、シングルマザーとして生活を成り立たせないといけないという現実の狭間でかなり苦労する人物で、法廷ドラマはちょっとしっくりこなかったけど、ノラの物語は良かったと思う。ただ、映画のラストで、「ノラの人物像はフィクションです」と字幕が表示された。これが、「ノラのような人物はいたけど、キャラクターが違う(例えば、シングルマザーではないとか)」という意味なのか、あるいは「ノラのような人物はそもそも存在しなかった」という意味なのかはちょっと分からない。
あと、公式HPを観て驚いたのは、弁護士役の俳優は、実際に弁護士なんだそうだ。役者もやっている弁護士らしいのだけど、本業の役者の方だと思ってたから驚いた。
「私は確信する」を観に行ってきました
予告やポスターなどで出てくるフレーズは、
【ヒッチコック狂の”完全犯罪”と物議を醸した未解決事件。実話を基に映画化、仏で40万人動員の大ヒット裁判サスペンス】
である。そもそも僕が、ヒッチコックの映画をほぼ見たことがない、というのも悪いとは想うのだけど、なんとなくヒッチコック映画に対するイメージはある。で、この映画では、事件の詳細があまり描かれないので、何がヒッチコックなのかよく分からない。
恐らくだけど、この「ヒッチコック」というのは、フランスで実際起こった事件がそう呼ばれているというだけの話で、この映画そのものはヒッチコックとは特に関係ないんだろう。
まあ、それは別にいい。僕が映画を観ていてずっと疑問だったのは、「この裁判はどうして行われたんだろう?」ということだ。ある意味で、この奇妙さが、ヒッチコックっぽい、ということなのかもしれないけど。
しかし、この奇妙さを説明するには、映画で扱われている事件の説明をしないといけないので、まず内容紹介をしよう。
シングルマザーで一人息子を育てるノラは、息子の家庭教師に来てくれるクレマンスのことを案じていた。彼女は、父親ヴィギエの控訴審を控える身なのである。10年前の”事件”で、一審では無罪判決が出た。しかし、陪審員のいる裁判では異例なことに検察が控訴したため、再び裁判が行われることになっている。
それは、奇妙な事件だった。10年前、ヴィギエの妻スザンヌが突如行方不明になった。そして結局、控訴審の時点でも、彼女の生死は判明していない。スザンヌが死んでいるという証拠もなければ、殺人が行われたという形跡を警察が見つけているわけでもない。
では何故ヴィギエは逮捕、起訴されているのか。それは、スザンヌの愛人であるデュランデの証言にある。デュランデ自身や、デュランデの周辺人物(たとえば、ヴィギエ家のベビーシッターなど)から、「浴室で血を見た」などという、ヴィギエを疑わせるような証言が様々に出てきたのだ。物証も自白もまったくない中、唯一、スザンヌの愛人周辺から様々な証言が出てくる。そんな事件だ。
ノラは一審の内容をまとめたレポートを、敏腕弁護士であるデュポン=モレッティに読んでもらい、弁護を引き受けてもらおうと考えた。一度は断られるが、ある条件を引き換えにノラの依頼を受けることになる。
それは、10年越しにようやく表に出てきた、250時間にも及ぶ通話記録の文字起こしをしてくれ、というものだった…。
というような話です。
さっきも書いたように、正直最後の最後まで、どうして起訴されたのがというのが謎だった。そこがあまりにも謎すぎて、他の要素が頭に入ってこない。何故、これで裁判が成立しているんだろう?まだ、一審は理解できなくもない。見切り発車で起訴してしまったのかもしれない。でも、手元にある情報では、有罪に出来るはずがない、と気づかなかったのだろうか?
と僕は思うのだけど、物語は非常に不思議な展開を見せる。途中で弁護士は、「有罪を覚悟しろ」とまで言うのだ。ずっと見てたけど、どうしてあの裁判の流れで被告人が有罪になる確率が上がっているのかが、僕には全然理解できなかった。
自白があるなら、まだ分からないでもない。死体も物証もない、でも自白だけあるという場合に、検察が「でも自白したんだぞ」と言って追い詰めていくのはまだ分かる。しかしこの事件、自白もないはずなのだ(ただ冒頭で、「ヴィギエは事件から7年後に出頭した」という字幕が出た。その意味がよく分からない)。いずれにしても、裁判の中で、「ヴィギエが自白した」というような展開には一度もならなかったから、自白はなかったんだと思う。
その辺りのことがどうも見ていてしっくり来なくて、物語をうまく捉えきれなかったなぁ、と思う。
ノラは非常に良いキャラクターだった。無実だと信じる相手を助けたいという想いと、シングルマザーとして生活を成り立たせないといけないという現実の狭間でかなり苦労する人物で、法廷ドラマはちょっとしっくりこなかったけど、ノラの物語は良かったと思う。ただ、映画のラストで、「ノラの人物像はフィクションです」と字幕が表示された。これが、「ノラのような人物はいたけど、キャラクターが違う(例えば、シングルマザーではないとか)」という意味なのか、あるいは「ノラのような人物はそもそも存在しなかった」という意味なのかはちょっと分からない。
あと、公式HPを観て驚いたのは、弁護士役の俳優は、実際に弁護士なんだそうだ。役者もやっている弁護士らしいのだけど、本業の役者の方だと思ってたから驚いた。
「私は確信する」を観に行ってきました
「名探偵コナン 緋色の不在証明」を観に行ってきました
普段マンガは読まない。マンガに限らないけど、完結していない状態で物語を読むのが苦手なので、完結した物語を一気に読むことはある。
そんな中で唯一、完結していない物語で、今でも継続して読み続けているマンガが、コナンだ。コナンだけは、少なくとも完結するまでは、マンガは読み続けようと思う。
けど、新しい巻が出る度に前の巻を読み返したりしないから、基本的にもう、コナンの大きな物語にはついていけていない。一個一個の事件を面白く読んでるけど、黒の組織とか、赤井ファミリーとか、理解するの無理じゃね?と思うくらい複雑怪奇な物語になってると思うので、細かいことは完結してから(いつするんだろう?)、また一気に読んで理解しようかなー、という風に思ってる。
だから、今回の「緋色の不在証明」は非常に良い機会だった。これは赤井ファミリーの総まとめみたいな感じの話で、詳しいことは分かんないけど、恐らく今までのTVシリーズとか劇場版の映像をつなぎ合わせて構成されているんだと思う。
僕は、赤井ファミリーの話が出てくる以前からコナンの話にはついていけなくなっていたけど、赤井ファミリーの話の話はホントややこしいなと。もちろん、この映画を観る前に、「赤井秀一」「羽柴秀吉」「世良真純」「メアリー」が家族だってことは理解していたけど、それぞれがどういう流れで登場して、どうして家族だと判明して、彼らが何をやろうとしているのかみたいな話とか、来葉峠で赤井秀一がどうやって生き延びたのかという詳細とかがぎゅっとまとまってて理解しやすかった。コミックの中では、いろんな事件の中で断片的に語られるから、どうしても理解が追いつかなくなるんだよなぁ。
あと、映画の中で、赤井ファミリーと、まだ薬で小さくなる前の、小学生時代の工藤新一がビーチで会ってた話、あれ、コミックにあったっけ?全然覚えてねー。いやでも、あっただろうな、きっと。さすがに、メインのストーリーで重要になる話が、劇場版だけでしか描かれないってことはありえないだろうから。
しかし、以前何かのインタビューで青山剛昌は、コナンを連載始めた時にはここまで大掛かりな設定はなくて、連載の途中からちゃんと考えた、みたいな話をしてたんだけど、よくもまあ週刊の連載っていうハードな仕事を続けながら、当然個々の事件やらトリックやらも考えつつ、FBIだの公安だの黒の組織だのなんだのっていう複雑怪奇な設定を考えたものだなぁ、と思います。
既に僕はコナンの大きな流れからは置き去りにされてて諦めてるけど(笑)、これ、子供とかちゃんとついていけてるんだろうか?僕は、「DEATH NOTE」も、完結した後で一気読みしている時に、途中でついていけなくなって、一応最後まで目を通した、というぐらい難しい物語にはついていけないんだけど、コナンはとりあえず、コミックだけはちゃんと追っていこうと思います(劇場版は、時々テレビでやってると観るぐらい)
「名探偵コナン 緋色の不在証明」を観に行ってきました
そんな中で唯一、完結していない物語で、今でも継続して読み続けているマンガが、コナンだ。コナンだけは、少なくとも完結するまでは、マンガは読み続けようと思う。
けど、新しい巻が出る度に前の巻を読み返したりしないから、基本的にもう、コナンの大きな物語にはついていけていない。一個一個の事件を面白く読んでるけど、黒の組織とか、赤井ファミリーとか、理解するの無理じゃね?と思うくらい複雑怪奇な物語になってると思うので、細かいことは完結してから(いつするんだろう?)、また一気に読んで理解しようかなー、という風に思ってる。
だから、今回の「緋色の不在証明」は非常に良い機会だった。これは赤井ファミリーの総まとめみたいな感じの話で、詳しいことは分かんないけど、恐らく今までのTVシリーズとか劇場版の映像をつなぎ合わせて構成されているんだと思う。
僕は、赤井ファミリーの話が出てくる以前からコナンの話にはついていけなくなっていたけど、赤井ファミリーの話の話はホントややこしいなと。もちろん、この映画を観る前に、「赤井秀一」「羽柴秀吉」「世良真純」「メアリー」が家族だってことは理解していたけど、それぞれがどういう流れで登場して、どうして家族だと判明して、彼らが何をやろうとしているのかみたいな話とか、来葉峠で赤井秀一がどうやって生き延びたのかという詳細とかがぎゅっとまとまってて理解しやすかった。コミックの中では、いろんな事件の中で断片的に語られるから、どうしても理解が追いつかなくなるんだよなぁ。
あと、映画の中で、赤井ファミリーと、まだ薬で小さくなる前の、小学生時代の工藤新一がビーチで会ってた話、あれ、コミックにあったっけ?全然覚えてねー。いやでも、あっただろうな、きっと。さすがに、メインのストーリーで重要になる話が、劇場版だけでしか描かれないってことはありえないだろうから。
しかし、以前何かのインタビューで青山剛昌は、コナンを連載始めた時にはここまで大掛かりな設定はなくて、連載の途中からちゃんと考えた、みたいな話をしてたんだけど、よくもまあ週刊の連載っていうハードな仕事を続けながら、当然個々の事件やらトリックやらも考えつつ、FBIだの公安だの黒の組織だのなんだのっていう複雑怪奇な設定を考えたものだなぁ、と思います。
既に僕はコナンの大きな流れからは置き去りにされてて諦めてるけど(笑)、これ、子供とかちゃんとついていけてるんだろうか?僕は、「DEATH NOTE」も、完結した後で一気読みしている時に、途中でついていけなくなって、一応最後まで目を通した、というぐらい難しい物語にはついていけないんだけど、コナンはとりあえず、コミックだけはちゃんと追っていこうと思います(劇場版は、時々テレビでやってると観るぐらい)
「名探偵コナン 緋色の不在証明」を観に行ってきました
「デンマークの息子」を観に行ってきました
ドナルド・トランプが大統領になる時代だ。何が起こってもおかしくはない。
島国で育っているからなのかは分からないけど、僕は、「同じ民族だから仲間だ」という感覚が理解できない。意味不明だ、と言っていい。まあ僕の場合、「血が繋がってるから何?」と、血の繋がった家族に対する感覚も非常に薄いので、そういう意味でちょっと特殊なだけかもしれないけど。
「同じ民族だから仲間だ」と主張してしまうような人間は、本当に、人間を個人として捉えることができるのだろうか?例えばそれは、「食べ物を丸いかどうかで判断して食べる」みたいなものじゃないか。リンゴは丸いから食べるけど、ネギは丸くないから食べない。ホールケーキは丸いから食べるけど、ショートケーキは丸くないから食べない、みたいな人間がいたら、その判断基準を疑うだろう。民族で人を判断するのも、同じようなものじゃないか?
同じ民族だってクソみたいな人間はいるし、違う民族だって素晴らしい人間はいる。それなのに、どうして民族で分けたがるんだ?
昔の、宗教の違いで戦争をしていた時代の方が、まだ理解できる。「考え方」の違いというのは、同じ人生を歩む上で大きな障害になるというのは分かる。そして、宗教の差というのは、考え方の差として強く現れる。しかし民族は?
結局、民族で人を分けるのは、「分かりやすい」からだ。誰がどんな宗教を信仰しているのかは見た目ではなかなか分からないが、誰がどんな民族に属しているかはかなり見た目で分かる。そして、「自分たちは仲間だ」という感覚を強く抱きたいやつらが、自分たちには特に共通項がないものだから、違う民族を排除することで自分たちの仲間感を強めているだけだ、と僕には見える。
アホみてぇな世界だな。
もちろん、やはり島国にいるから、世界の国が抱えている「移民問題」を肌で感じることはない。移民問題はやっぱり、国を揺るがす問題なんだろう。難民を受け入れることで、国の税金が国民に回らなくなればイライラもするだろう。自分が直面している問題ではないから他人事でしかないのだけど、移民の問題が簡単ではないということは分かっているつもりだ。
でも、だからと言って、安易な解決法に手を出せば、結局問題は長引くことにもなるだろうと思う。
内容に入ろうと思います。
映画を観ている時には分からなかったけど、どうやら舞台は2025年の近未来だそうだ。1年前、コペンハーゲンのとある駅で悲惨なテロが起こったデンマークでは、そのテロの直後に立ち上がった「国民運動党」が躍進を続けている。その党首であるノーデルは、デンマークがこんな状況になっているのはパキスタンとイスラムの移民のせいだ、だから奴らをこの国から追い出すのだ、と主張して支持を集めている。その動きに呼応するかのように、「デンマークの息子」を呼ばれている集団が外国人排斥のための過激な活動をしており、その煽りを受けて、デンマークに暮らす特に中東からの移民は苦境に立たされている。
母と弟の三人で生活している19歳のザカリア、そんな「デンマークの息子」に対抗する過激派組織に参加することに決める。家族には就職すると嘘をつき、アリという組織の先輩から銃器の扱いの手ほどきを受けるザカリアは、国民運動党の党首暗殺を企てるが…。
というような話です。
面白いか面白くないかと聞かれたら、あんまりおもしろくはないのだけど、考えさせられる映画だった。特に、トランプ元大統領がアメリカをハチャメチャにしている様をニュースなどでよく見ているから、この映画で描かれていることも決して絵空事ではないという風に思う。
やはり日本に住んでいると、移民問題には疎くなる。日本にも、労働力不足のために移民を受け入れるべきだ云々という議論はあって、でも僕がニュースなんかを見ている感じだと、日本政府は移民を積極的に受け入れるつもりはないらしい。技能実習生みたいな形で、一定期間日本に来て働くのを認めていて、その権利を拡大するみたいな方針をニュースで見たような気もするけど、やっててもその程度だ。確か日本は、難民申請をしてもほとんど認められることがないらしい(詳しくは知らないのだけど)。国の方針として、最初から徹底的に排除しているということなんだと思う。
僕は、移民をもっと受け入れるべきだとも、移民は受け入れるべきじゃないとも思ってない。戦争なんかで難民になってしまった人が救われてほしいとは思うけど、ただ、その移住先が日本というのは果たして難民自身にとって助けになるのかはちょっと謎だとも思う。英語は通じないし、島国だから辿り着くのも大変だ。日本が難民の逃げ先として好条件なんであれば、日本はもっと門戸を開いた方がいいんじゃないか、と思ったりするかもしれないけど、あんまり僕にはそういう感覚もないからなんとも言えない。労働力が不足するから移民をという話も、都合の良い時だけ利用しますよ、と言ってるみたいで好きじゃないし。
移民問題が身近ではないから、この映画もあまり近いものとして感じられない、という部分はあったかなと思う。ただ、アメリカを例に挙げるまでもなく、世界的な問題であることは間違いないし、無関心で良いわけはないよなぁ、と思いながら見ていた。
ラストの展開は、まあ確かにそうなるよなと、許容したいわけではないけど同情に値すると感じた。
「デンマークの息子」を観に行ってきました
島国で育っているからなのかは分からないけど、僕は、「同じ民族だから仲間だ」という感覚が理解できない。意味不明だ、と言っていい。まあ僕の場合、「血が繋がってるから何?」と、血の繋がった家族に対する感覚も非常に薄いので、そういう意味でちょっと特殊なだけかもしれないけど。
「同じ民族だから仲間だ」と主張してしまうような人間は、本当に、人間を個人として捉えることができるのだろうか?例えばそれは、「食べ物を丸いかどうかで判断して食べる」みたいなものじゃないか。リンゴは丸いから食べるけど、ネギは丸くないから食べない。ホールケーキは丸いから食べるけど、ショートケーキは丸くないから食べない、みたいな人間がいたら、その判断基準を疑うだろう。民族で人を判断するのも、同じようなものじゃないか?
同じ民族だってクソみたいな人間はいるし、違う民族だって素晴らしい人間はいる。それなのに、どうして民族で分けたがるんだ?
昔の、宗教の違いで戦争をしていた時代の方が、まだ理解できる。「考え方」の違いというのは、同じ人生を歩む上で大きな障害になるというのは分かる。そして、宗教の差というのは、考え方の差として強く現れる。しかし民族は?
結局、民族で人を分けるのは、「分かりやすい」からだ。誰がどんな宗教を信仰しているのかは見た目ではなかなか分からないが、誰がどんな民族に属しているかはかなり見た目で分かる。そして、「自分たちは仲間だ」という感覚を強く抱きたいやつらが、自分たちには特に共通項がないものだから、違う民族を排除することで自分たちの仲間感を強めているだけだ、と僕には見える。
アホみてぇな世界だな。
もちろん、やはり島国にいるから、世界の国が抱えている「移民問題」を肌で感じることはない。移民問題はやっぱり、国を揺るがす問題なんだろう。難民を受け入れることで、国の税金が国民に回らなくなればイライラもするだろう。自分が直面している問題ではないから他人事でしかないのだけど、移民の問題が簡単ではないということは分かっているつもりだ。
でも、だからと言って、安易な解決法に手を出せば、結局問題は長引くことにもなるだろうと思う。
内容に入ろうと思います。
映画を観ている時には分からなかったけど、どうやら舞台は2025年の近未来だそうだ。1年前、コペンハーゲンのとある駅で悲惨なテロが起こったデンマークでは、そのテロの直後に立ち上がった「国民運動党」が躍進を続けている。その党首であるノーデルは、デンマークがこんな状況になっているのはパキスタンとイスラムの移民のせいだ、だから奴らをこの国から追い出すのだ、と主張して支持を集めている。その動きに呼応するかのように、「デンマークの息子」を呼ばれている集団が外国人排斥のための過激な活動をしており、その煽りを受けて、デンマークに暮らす特に中東からの移民は苦境に立たされている。
母と弟の三人で生活している19歳のザカリア、そんな「デンマークの息子」に対抗する過激派組織に参加することに決める。家族には就職すると嘘をつき、アリという組織の先輩から銃器の扱いの手ほどきを受けるザカリアは、国民運動党の党首暗殺を企てるが…。
というような話です。
面白いか面白くないかと聞かれたら、あんまりおもしろくはないのだけど、考えさせられる映画だった。特に、トランプ元大統領がアメリカをハチャメチャにしている様をニュースなどでよく見ているから、この映画で描かれていることも決して絵空事ではないという風に思う。
やはり日本に住んでいると、移民問題には疎くなる。日本にも、労働力不足のために移民を受け入れるべきだ云々という議論はあって、でも僕がニュースなんかを見ている感じだと、日本政府は移民を積極的に受け入れるつもりはないらしい。技能実習生みたいな形で、一定期間日本に来て働くのを認めていて、その権利を拡大するみたいな方針をニュースで見たような気もするけど、やっててもその程度だ。確か日本は、難民申請をしてもほとんど認められることがないらしい(詳しくは知らないのだけど)。国の方針として、最初から徹底的に排除しているということなんだと思う。
僕は、移民をもっと受け入れるべきだとも、移民は受け入れるべきじゃないとも思ってない。戦争なんかで難民になってしまった人が救われてほしいとは思うけど、ただ、その移住先が日本というのは果たして難民自身にとって助けになるのかはちょっと謎だとも思う。英語は通じないし、島国だから辿り着くのも大変だ。日本が難民の逃げ先として好条件なんであれば、日本はもっと門戸を開いた方がいいんじゃないか、と思ったりするかもしれないけど、あんまり僕にはそういう感覚もないからなんとも言えない。労働力が不足するから移民をという話も、都合の良い時だけ利用しますよ、と言ってるみたいで好きじゃないし。
移民問題が身近ではないから、この映画もあまり近いものとして感じられない、という部分はあったかなと思う。ただ、アメリカを例に挙げるまでもなく、世界的な問題であることは間違いないし、無関心で良いわけはないよなぁ、と思いながら見ていた。
ラストの展開は、まあ確かにそうなるよなと、許容したいわけではないけど同情に値すると感じた。
「デンマークの息子」を観に行ってきました
「すばらしき世界」を観に行ってきました
最近、世の中を見ていて、いつも思うことがある。
正解以外は、全部不正解になってしまったんだな、と。
こういう世の中になった理由を説明するのは簡単だ。人間は、ブログやSNSを手に入れ、誰でも自由に発信できるようになった。発信があれば、そこには当然炎上もある。敢えて炎上を狙いに行く者もいるが、世の中の大半の人は炎上を避けたいと思っている。炎上を避ける最も簡単な方法は、「誰も否定できないような正論を言い続ける」ことだ。「正論」というのは、それに反対する者を愚かに見せる効果もある。つまり、反論させないために正論を言い、愚かだと思われたくないから正論に反対しない、という世の中が生まれる。
すばらしき世界だよ、ホントに。
この前テレビを見ていたら、お笑い芸人が面白いことを言っていた。話の流れとしては、「男は何故キャバクラに行くのか」というものだった。そして、「年長者は下の者を”嫌々”連れて行かなきゃいけないんだ」と言えば、それを受けて別の芸人が「連れて行かれる側も行きたくないんだ」という。そして最終的に、「キャバクラってのは、連れて行く人間も連れて行かれる人間も、どっちも行きたくないんだ」という主張をして、女性から顰蹙を買っていた。
キャバクラの話はどうでもいいのだけど、この、「連れて行く人間も連れて行かれる人間も、どっちも行きたくないんだ」というのが、今の世の中っぽいと思った。正論を言っている人間も、歪んだ正義感を持っていて心の底からそう考えて発言している人も中にはいると思うけど、大半は、別に言いたくて正論を言っているわけではないと思う。そして、正論に反対しない側の人間も、本当は相手の主張がおかしいと思っていて反論すべきだと考えているけど、しない。なんだかさっきのキャバクラの話みたいじゃないか。「誰も行きたくないのにキャバクラが成り立っている」というのと、「誰も望んでいないのに正論がはびこっている」というのは、状況として似ていると思う。
正論が強くなればなるほど、世の中はどんどん歪んでいく。例えば僕は、「◯◯ハラスメント」という言葉が好きではない。もちろん、本来的な意味で使われている場合はいい。僕は「ハラスメント」という言葉は本来的に、「何らかの形で格差が存在する者同士」でしか成立しないものだと思っている。だから、「セクシャルハラスメント」や「アカデミックハラスメント」や「パワーハラスメント」は言葉の使い方として正しいと思っているし、世の中から根絶すればいいと思う。
しかし、「ハラスメント」という言葉がどんどんと市民権を得るようになったことで、「ハラスメント」って言えばなんでも成立するみたいな正論感が出てしまっていると思う。今、多くの新しい「◯◯ハラスメント」が登場しているが、それらのほとんどは「格差が存在する者同士」ではないと思う。例えば、みんなで食べるものに無断でマヨネーズを掛けることを「マヨハラ」などと言うらしい。しかしこれは、格差の問題ではなく、嫌だと言えるかどうかという性格の問題だ。僕自身も、他人がしている事柄に対して「嫌だ」と言うのは得意ではないから、気持ちは分からないではないけど、でもそれを「ハラスメント」という言葉で包んでしまうと本質が見えなくなってしまう。
世の中にはこういうことが多いなぁ、と思う。正論が日々可視化されることで、「正論が正しい」という思い込みが強くなってしまい、いつの間にかそういう方向に考えが引っ張られてしまう。一方で、何か発言をして目立ちたい人間は、そんな正論を正面から叩いてみればいい。炎上するだろうけど、正論にうんざりしている人間は常に一定数いるから、「よく言ってくれた!」という声も当然上がる。そうやって、「正論を言う人」と「正論に噛み付く人」と「何も言わない人」がするすると分断されていく。
そういう世の中は、どんどん不寛容になる。「正論を言う人」は「正解以外は全部不正解です」と言って、僅かなミスも許容しない。「正論に噛み付く人」は、「この人はどうせ正論に噛み付くだけの人だし」という受け取り方をされるために、自分を受け入れてくれる狭い範囲の人間しか許容しない。そして「何も言わない人」は、何か言いたいことがあっても普段は抑圧しているが故に、分かりやすい悪を叩いて(つまり許容しないことで)発散する。
そんな世の中に、元犯罪者の居場所はないだろうなぁ。
長澤まさみは、この映画の中でほんの僅かしか登場しないけど(ほぼ、予告に登場する場面で全部と言っていいくらい)、しかしなかなか印象的なセリフを言う。
【今ほどレールを外れた人間に厳しい社会はないと思う。レールの上を歩いている人間だって、誰も幸福感なんて感じていないから、なおさらレールを外れたくないし、レールを外れた人間を許容しない】
大体こんなようなことを言っていた。まあ、そうだなと思った。
「レールの上を歩いている人間だって、誰も幸福感なんて感じていない」っていうのが、本当に今の世の中を的確に表わしていると思う。さっきのキャバクラの話みたいだ。レールの上を歩いている人もレールから外れた人も、誰もレールの上なんか歩きたくないのに、誰もがそこを歩かなきゃいけないと思っている。
映画の終わりの方、介護施設での描写は、短い間に見え方が二転三転する非常に複層的な場面だと思ったし、語弊を恐れずに書けば、全員不正解だな、と感じた。でもじゃあ、自分がそこにいて、正解を掴み取れるかと言えば、それも無理だろう。
ほら、すばらしき世界は、こんなにも無理ゲーなのだ。
内容に入ろうと思います。
私生児として生まれ、幼い頃に母親と別離、少年院などを出入りし、平成16年に殺人事件で懲役13年を求刑された三上正夫。旭川刑務所で刑期を満了し、身元引受人になってくれた弁護士の助けを借りて東京での暮らしを始めた。「反社には例外なく生活保護は下りません」と役所で言われたり、運転免許証は失効しているのでゼロから取り直しですと通告されたり踏んだり蹴ったりだが、彼は「今度ばかりはカタギぞぉ」と、真面目に生きる決意をしている。
テレビの制作会社を辞め、小説を書いている元ディレクターの津乃田は、やり手のテレビプロデューサーから仕事をしないかと誘いを受ける。彼の元には「身分帳」という謎のノートが大量に届く。身分帳というのは、刑務所に入る人間が必ず記録されるもので、出生から刑務所内のことがすべて書かれているものだ。通常、受刑者が見れるものではないのだが、その男は受刑者の権利として、その身分帳を書き写す権利を勝ち取ったのだという。三上である。三上は、母親を探してほしいとテレビ局に話を持っていき、自身の履歴書として身分帳を送ったのだ。津乃田は、放送に耐えうる素材ではないと難色を示すが、プロデューサーは、だから面白いんじゃないかと津乃田を焚きつける。
三上は、13年ぶりの社会で様々な苦労をしながら、少しずつ人間との関係が生まれてくるようになる。しかし一方で、真っ直ぐすぎる性格故に、三上の正義感は暴力という形で表に出てしまう。そのために、危うい場面も何度か出てくることになる。一方、三上の身分帳に目を通し、三上本人とも接触し関わりを持ち始める津乃田は、取材対象としてやはり難ありと感じつつも、何か気になる部分もあり、三上との関係を細々と継続させていくことになる…。
というような話です。
善悪が非常に分かりにくい映画で、すごく良かった。映画や小説って、善悪が分かりやすくなればなるほど、物語は分かりやすいけどつまらなくなるし、善悪が分かりにくいほど、物語を受け取りにくいけど面白くなる気がする(あくまで僕の場合は)。この物語では、悪は偏在している。もちろん、見た目には明らかに、元殺人犯である三上が悪に思える。しかし、社会が許容するかどうかは別として、三上の行動は基本的に正義感によるものだ。もちろん、どれだけ正義感に下支えされていようが暴力や犯罪はダメだ。そこは揺るがないが、しかし、じゃあ正義感がない人間の方がマシなのかと言うと、YESとは言いたくない気分もある。
この点は、映画の中でも非常にファジーで、観ている人の価値観次第で様々な受け取り方がされるだろうと思う。
予告でも流れている場面だが、長澤まさみが「あんたみたいなのが一番なんにも救わないのよ」と激高する場面がある。確かに、それも一理ある。一方、三上の身元引受人になった弁護士が、「本当に必要なもの以外、切り捨てていくしかない。すべてと関われるほど、人間は強くない」という場面もある。これもまた一理ある。ラストの介護施設での場面は全員不正解だと書いたけど、それはこの点で判断基準が揺れ動くからだ。
僕は、認めたくはないが、非合法的な方法でしか解決出来ない現実というのは存在していると思う。「ヤクザと家族」の感想の中でも書いたけど、そういう問題を解決する存在としてある意味合理的に社会に実装されていたのがヤクザという存在だったと僕は思っている。非合法な手法を許容したいわけではないが、しかし、非合法な手法を一切排すると、世の中は明らかに歪む。例えば学校で、教師が生徒に手を出したりすることが出来ないことをいいことに教師をおちょくったりいじめたりするようなことが現実に存在するだろう。誤解されたくはないが、別に体罰を許容したいわけではない。けど、「非合法な手段だって取るかもしれないぞ」という雰囲気がゼロになってしまったら、解決できたはずのことも解決できなくなるのではないか、と思うのだ。
そういう意味で、僕は、三上のような行動を完全には否定しきれない。もちろん三上は、もうちょっと落ち着くべきだと思う。あまりに短絡的すぎる。しかし、非合法な手段をゼロにすべきではないという僕の考えに沿うとすれば、三上のような存在は排除してはいけない、と思う。
三上のような存在を拒絶することは簡単だ。あまりに簡単だ。でもそれは、「正論を言う人」も助長させるし、「(普段は)何も言わない人」に理由を与えることにもなる。あまりにも簡単だからこそ、たぶん僕たちは立ち止まってみるべきなのだと思う。
ハクスリーの「すばらしい新世界」は、あんまりちゃんとは覚えていないけど、工場のようなところから人間が生まれ育ち、生まれながらに職業が決まり、快楽だけを追求するような世界であり、一見するとそれはユートピアであるかのように描かれている。しかしそんなわけがない。明らかにディストピアだ。そして僕たちも、「全員で行きたくないキャバクラに行く」みたいに、望んでもいないのにみんなでディストピアに突き進んでいるんだと思う。一人ひとりは、自分の人生が良くなることを願って発信しているのに、その積算がディストピアを生み出している。
その奈落に、全員で手を取り合って落ちていかないようにするためには、全員で立ち止まって、正論を手放す勇気を持つしかないのではないかと思う。
「すばらしき世界」を観に行ってきました
正解以外は、全部不正解になってしまったんだな、と。
こういう世の中になった理由を説明するのは簡単だ。人間は、ブログやSNSを手に入れ、誰でも自由に発信できるようになった。発信があれば、そこには当然炎上もある。敢えて炎上を狙いに行く者もいるが、世の中の大半の人は炎上を避けたいと思っている。炎上を避ける最も簡単な方法は、「誰も否定できないような正論を言い続ける」ことだ。「正論」というのは、それに反対する者を愚かに見せる効果もある。つまり、反論させないために正論を言い、愚かだと思われたくないから正論に反対しない、という世の中が生まれる。
すばらしき世界だよ、ホントに。
この前テレビを見ていたら、お笑い芸人が面白いことを言っていた。話の流れとしては、「男は何故キャバクラに行くのか」というものだった。そして、「年長者は下の者を”嫌々”連れて行かなきゃいけないんだ」と言えば、それを受けて別の芸人が「連れて行かれる側も行きたくないんだ」という。そして最終的に、「キャバクラってのは、連れて行く人間も連れて行かれる人間も、どっちも行きたくないんだ」という主張をして、女性から顰蹙を買っていた。
キャバクラの話はどうでもいいのだけど、この、「連れて行く人間も連れて行かれる人間も、どっちも行きたくないんだ」というのが、今の世の中っぽいと思った。正論を言っている人間も、歪んだ正義感を持っていて心の底からそう考えて発言している人も中にはいると思うけど、大半は、別に言いたくて正論を言っているわけではないと思う。そして、正論に反対しない側の人間も、本当は相手の主張がおかしいと思っていて反論すべきだと考えているけど、しない。なんだかさっきのキャバクラの話みたいじゃないか。「誰も行きたくないのにキャバクラが成り立っている」というのと、「誰も望んでいないのに正論がはびこっている」というのは、状況として似ていると思う。
正論が強くなればなるほど、世の中はどんどん歪んでいく。例えば僕は、「◯◯ハラスメント」という言葉が好きではない。もちろん、本来的な意味で使われている場合はいい。僕は「ハラスメント」という言葉は本来的に、「何らかの形で格差が存在する者同士」でしか成立しないものだと思っている。だから、「セクシャルハラスメント」や「アカデミックハラスメント」や「パワーハラスメント」は言葉の使い方として正しいと思っているし、世の中から根絶すればいいと思う。
しかし、「ハラスメント」という言葉がどんどんと市民権を得るようになったことで、「ハラスメント」って言えばなんでも成立するみたいな正論感が出てしまっていると思う。今、多くの新しい「◯◯ハラスメント」が登場しているが、それらのほとんどは「格差が存在する者同士」ではないと思う。例えば、みんなで食べるものに無断でマヨネーズを掛けることを「マヨハラ」などと言うらしい。しかしこれは、格差の問題ではなく、嫌だと言えるかどうかという性格の問題だ。僕自身も、他人がしている事柄に対して「嫌だ」と言うのは得意ではないから、気持ちは分からないではないけど、でもそれを「ハラスメント」という言葉で包んでしまうと本質が見えなくなってしまう。
世の中にはこういうことが多いなぁ、と思う。正論が日々可視化されることで、「正論が正しい」という思い込みが強くなってしまい、いつの間にかそういう方向に考えが引っ張られてしまう。一方で、何か発言をして目立ちたい人間は、そんな正論を正面から叩いてみればいい。炎上するだろうけど、正論にうんざりしている人間は常に一定数いるから、「よく言ってくれた!」という声も当然上がる。そうやって、「正論を言う人」と「正論に噛み付く人」と「何も言わない人」がするすると分断されていく。
そういう世の中は、どんどん不寛容になる。「正論を言う人」は「正解以外は全部不正解です」と言って、僅かなミスも許容しない。「正論に噛み付く人」は、「この人はどうせ正論に噛み付くだけの人だし」という受け取り方をされるために、自分を受け入れてくれる狭い範囲の人間しか許容しない。そして「何も言わない人」は、何か言いたいことがあっても普段は抑圧しているが故に、分かりやすい悪を叩いて(つまり許容しないことで)発散する。
そんな世の中に、元犯罪者の居場所はないだろうなぁ。
長澤まさみは、この映画の中でほんの僅かしか登場しないけど(ほぼ、予告に登場する場面で全部と言っていいくらい)、しかしなかなか印象的なセリフを言う。
【今ほどレールを外れた人間に厳しい社会はないと思う。レールの上を歩いている人間だって、誰も幸福感なんて感じていないから、なおさらレールを外れたくないし、レールを外れた人間を許容しない】
大体こんなようなことを言っていた。まあ、そうだなと思った。
「レールの上を歩いている人間だって、誰も幸福感なんて感じていない」っていうのが、本当に今の世の中を的確に表わしていると思う。さっきのキャバクラの話みたいだ。レールの上を歩いている人もレールから外れた人も、誰もレールの上なんか歩きたくないのに、誰もがそこを歩かなきゃいけないと思っている。
映画の終わりの方、介護施設での描写は、短い間に見え方が二転三転する非常に複層的な場面だと思ったし、語弊を恐れずに書けば、全員不正解だな、と感じた。でもじゃあ、自分がそこにいて、正解を掴み取れるかと言えば、それも無理だろう。
ほら、すばらしき世界は、こんなにも無理ゲーなのだ。
内容に入ろうと思います。
私生児として生まれ、幼い頃に母親と別離、少年院などを出入りし、平成16年に殺人事件で懲役13年を求刑された三上正夫。旭川刑務所で刑期を満了し、身元引受人になってくれた弁護士の助けを借りて東京での暮らしを始めた。「反社には例外なく生活保護は下りません」と役所で言われたり、運転免許証は失効しているのでゼロから取り直しですと通告されたり踏んだり蹴ったりだが、彼は「今度ばかりはカタギぞぉ」と、真面目に生きる決意をしている。
テレビの制作会社を辞め、小説を書いている元ディレクターの津乃田は、やり手のテレビプロデューサーから仕事をしないかと誘いを受ける。彼の元には「身分帳」という謎のノートが大量に届く。身分帳というのは、刑務所に入る人間が必ず記録されるもので、出生から刑務所内のことがすべて書かれているものだ。通常、受刑者が見れるものではないのだが、その男は受刑者の権利として、その身分帳を書き写す権利を勝ち取ったのだという。三上である。三上は、母親を探してほしいとテレビ局に話を持っていき、自身の履歴書として身分帳を送ったのだ。津乃田は、放送に耐えうる素材ではないと難色を示すが、プロデューサーは、だから面白いんじゃないかと津乃田を焚きつける。
三上は、13年ぶりの社会で様々な苦労をしながら、少しずつ人間との関係が生まれてくるようになる。しかし一方で、真っ直ぐすぎる性格故に、三上の正義感は暴力という形で表に出てしまう。そのために、危うい場面も何度か出てくることになる。一方、三上の身分帳に目を通し、三上本人とも接触し関わりを持ち始める津乃田は、取材対象としてやはり難ありと感じつつも、何か気になる部分もあり、三上との関係を細々と継続させていくことになる…。
というような話です。
善悪が非常に分かりにくい映画で、すごく良かった。映画や小説って、善悪が分かりやすくなればなるほど、物語は分かりやすいけどつまらなくなるし、善悪が分かりにくいほど、物語を受け取りにくいけど面白くなる気がする(あくまで僕の場合は)。この物語では、悪は偏在している。もちろん、見た目には明らかに、元殺人犯である三上が悪に思える。しかし、社会が許容するかどうかは別として、三上の行動は基本的に正義感によるものだ。もちろん、どれだけ正義感に下支えされていようが暴力や犯罪はダメだ。そこは揺るがないが、しかし、じゃあ正義感がない人間の方がマシなのかと言うと、YESとは言いたくない気分もある。
この点は、映画の中でも非常にファジーで、観ている人の価値観次第で様々な受け取り方がされるだろうと思う。
予告でも流れている場面だが、長澤まさみが「あんたみたいなのが一番なんにも救わないのよ」と激高する場面がある。確かに、それも一理ある。一方、三上の身元引受人になった弁護士が、「本当に必要なもの以外、切り捨てていくしかない。すべてと関われるほど、人間は強くない」という場面もある。これもまた一理ある。ラストの介護施設での場面は全員不正解だと書いたけど、それはこの点で判断基準が揺れ動くからだ。
僕は、認めたくはないが、非合法的な方法でしか解決出来ない現実というのは存在していると思う。「ヤクザと家族」の感想の中でも書いたけど、そういう問題を解決する存在としてある意味合理的に社会に実装されていたのがヤクザという存在だったと僕は思っている。非合法な手法を許容したいわけではないが、しかし、非合法な手法を一切排すると、世の中は明らかに歪む。例えば学校で、教師が生徒に手を出したりすることが出来ないことをいいことに教師をおちょくったりいじめたりするようなことが現実に存在するだろう。誤解されたくはないが、別に体罰を許容したいわけではない。けど、「非合法な手段だって取るかもしれないぞ」という雰囲気がゼロになってしまったら、解決できたはずのことも解決できなくなるのではないか、と思うのだ。
そういう意味で、僕は、三上のような行動を完全には否定しきれない。もちろん三上は、もうちょっと落ち着くべきだと思う。あまりに短絡的すぎる。しかし、非合法な手段をゼロにすべきではないという僕の考えに沿うとすれば、三上のような存在は排除してはいけない、と思う。
三上のような存在を拒絶することは簡単だ。あまりに簡単だ。でもそれは、「正論を言う人」も助長させるし、「(普段は)何も言わない人」に理由を与えることにもなる。あまりにも簡単だからこそ、たぶん僕たちは立ち止まってみるべきなのだと思う。
ハクスリーの「すばらしい新世界」は、あんまりちゃんとは覚えていないけど、工場のようなところから人間が生まれ育ち、生まれながらに職業が決まり、快楽だけを追求するような世界であり、一見するとそれはユートピアであるかのように描かれている。しかしそんなわけがない。明らかにディストピアだ。そして僕たちも、「全員で行きたくないキャバクラに行く」みたいに、望んでもいないのにみんなでディストピアに突き進んでいるんだと思う。一人ひとりは、自分の人生が良くなることを願って発信しているのに、その積算がディストピアを生み出している。
その奈落に、全員で手を取り合って落ちていかないようにするためには、全員で立ち止まって、正論を手放す勇気を持つしかないのではないかと思う。
「すばらしき世界」を観に行ってきました
「哀愁しんでれら」を観に行ってきました
いやー、なかなかやべぇ映画だった。
しかもこの映画、ラストがヤバいっていうのは誰もが一致すると思うんだけど、それ以外のヤバさについては、観てる人によって何が引っかかって何が引っかからないか、だいぶ変わりそうな気がする。
【女の子は誰でも、漠然とした不安を抱えている。私は、幸せになれるのだろうか】
映画の冒頭の方で、面白いことを言っている人物が登場した。幸せになるための、絶対の方程式がある、というのだ。それは、夢も希望も全部手放すことだ、と。
なるほど、一理あると思った。
実際のところは、夢や希望があってもいい。その種類による。その自分の持っている夢が、「誰かに羨ましがられたい」という願望から来るものであるなら、それは捨てないとなかなか幸せにはなれないだろう。しかし、他人の存在なんか関係なく、自分はその夢を追っている状態も、夢が仮に叶わなかったとした未来も、丸ごと全部受け入れた上でその夢を追いたい、というような夢があるのなら、それは幸せに繋がる道だろう。
幸せって難しいなぁ、と思った。
主人公の小春と同じ立場にいて、幸せだと感じられる人ももちろんいると思う。しかしそれは、この映画の設定で言えば、母親失格になる、ということだ。失格になってしまうとだめだから、不合格ぐらいにしておこう。小春も、母親不合格、ぐらいの立ち位置で自分を納得させることができていれば、たぶん幸せにいられただろう。
しかし小春は、母親に棄てられた過去があり、仕事でも、児童相談所の職員として育児放棄をする母親をたくさん見てきた。だから、「ちゃんとした母親になる」ことが、彼女にとって幸せの最大の要素になってしまう。
しかし、「ちゃんとした母親」ってなんだろう?
「母親」という存在は様々な側面があって、そのすべてを満点に出来る人はいない。きちんと出来ている部分に光を当てれば「良い母親」になれるし、きちんと出来ていない部分に光が当たれば「悪い母親」と見られてしまうだけの話だ。そして、世の中はどんどんと不寛容になっているし、特に、恵まれている(と見える)人へのやっかみみたいなのが増幅されてしまう世の中でもあるから、やっかみが強ければ強いほど、きちんと出来ていない部分をフォーカスされてしまう。
もちろん、小春に非がまったく無いとは思わない。結果論的な言い方にどうしてもなってしまうけど、分岐点となるポイントで少し違った行動を取っていれば、あのラストにはたどり着かなかったかもしれない。というか、どういうルートを通っていようが、あのラストに辿り着く道は普通は見えない(存在に気づかない)はずだから、弁解の余地は無いと言えば無いんだけど。
「幸せ」も「正しさ」も人の数だけあって、それはその通りなんだけど、でもふと気がつくと、「不幸ではない」ことを「幸せ」と言っていたり、「間違っていない」ことを「正しい」と考えている自分に気づいたりする。本来、それは違うもののはずなのだけど、自分が見ている現実が少しずつ歪んでいくことで、「不幸せではない」と「幸せ」の境界線が、あるいは「間違っていない」と「正しい」の境界線が見えなくなってしまうことがある。
小春も大悟も、ラストは完璧に間違えている。一点の曇りもなく。しかし、最初から間違っていたわけではない。小春も大悟も、「正しい」というスタートラインに立っていたし、その後も、「正しい」選択肢を出来るだけ選んでいたはずだ。しかし途中から、「間違っていない」が紛れ込んでくる。そして、「間違っていない」を選び続けることで現実は少しずつ歪んでいき、その積み重ねによって「間違い」にたどり着いてしまう。
「幸せ」や「正しい」を選んでいるつもりで、いつしか「不幸ではない」「間違っていない」を選び取っているというのは、日常の中でも起こりうることだと感じたし、そういう意味で、非常に恐ろしい映画だと思った。
内容に入ろうと思います。
児童相談所で働く小春は、自転車屋を営む父と、受験を控えた妹、そして病気がちな祖父の四人暮らし。母親は、小春が10歳の時に理由も分からず出ていってしまった。仕事では大変なことも多いし、ろくでもない母親に苛立ちを覚えることもあるけど、特に可もなく不可もないという生活をしていた。
しかしある日、祖父が風呂場で倒れたことをきっかけに、ドミノ倒しのように不幸が立て続けに一家を襲い、失意のまま近くに住む彼氏の家に行くと、職場の先輩女性とセックスの真っ最中という現場に鉢合わせてしまう。踏んだり蹴ったりの最低な夜にトボトボ歩いていると、踏切で横たわる男性を発見。小春はその男性を助け、介抱してあげる。後でお礼を、と言ってもらった名刺には、開業医の院長と書かれていた。大悟は、8歳の娘を男手一つで育てる大金持ちであり、小春は大悟に誘われた食事の席で娘のヒカリと仲良くなり、それもきっかけとなって二人は結婚することになる。
最悪な一夜から一転、誰もが羨む玉の輿に乗った小春だったが…。
というような話です。
タイトルに「しんでれら」とあるように、物語は当初、おとぎ話のようにトントン拍子に進んでいきます。そこはリアリティがないと言えばないんですけど、この映画の本質的な部分ではないので、むしろ非常にテンポ良く進んでいいなと思いました。パッパッパと場面を切り替えるようにしてトントントンと物語が展開し、あっという間に結婚という運びになります。
物語としてはここからが重要。そして、主人公が金持ちであるという点を除けば、ここで描かれていることって、誰に起こってもおかしくないようなものであると感じました。この映画において、主人公が金持ちだという要素は、「シンデレラ感」を醸し出すための記号みたいなもので、物語そのものにはさほど大きな影響はありません。主人公が医者であるということが重要になる場面はあるんですけど、主人公が金持ちであることが重要な場面というのは、なかったんじゃないかなと思います。そういう意味では、どの家族に起こってもおかしくはないんじゃないかと思います。
観客は、ヒカリや大悟がどこで何をしているのかという描写も見れるわけで、そういう情報を全体的に考慮して考えればまた違った結論が出るでしょう。しかし、小春と同じ情報しか得られなかった場合、取るべき行動に悩むだろうと思います。先程、「結果論的に言えば小春に非が無かったとは言えない」みたいなことを書きましたけど、小春の立場でリアルタイムに様々な判断をしていかなければならないとした場合、小春と同じような行動を取ってしまう可能性は十分にあると思います(ラストはともかく。さすがにラストの選択はしないと思いますけど)。
だから僕としては、小春に対しては、大変だな、可哀相だな、という感想になります。
これは、僕が男だからなのかはなんとも分からないけど、僕は大悟がヤバいと思いました。大悟、やべぇな。最後まで映画を見ると、大悟の最初の奥さんに対する印象(最初の奥さんは、写真でしか登場しませんけど)も変わってくるな、と。同情の余地があるのではないか、と。
大悟と小春では、物事の選択の仕方が違うと思いました。小春は、積極的に「正しい」を選び、積極的に「間違っていない」は遠ざけるタイプだと思います。しかし大悟には、「正しい」と「間違っていない」の境界線が元々存在しない。確かに大悟は、「明らかに間違っていること」をしているわけではないから、その歪みが見えにくいのだと思う。しかし、小春が積極的に「間違っていない」を遠ざけようとしているのに対して、大悟は、「正しい」と「間違っていない」の境界線がない故に、判断の端々に違和感が残る。確かに大悟の選択は、「間違っていないを含むという意味で正しい」ものであり、表立って糾弾するようなものではない。なのだけど、じわじわと違和感が積み上がっていくことで、次第に、大悟がいる世界が大分異様なものに思えてくる。勉強を教えている小春の妹に対する態度や、学校に行った時の振る舞いなどが印象的だった。
そして、そんな親に育てられたことも一因なのだと思うのだけど、ヒカリはもっとやばい。ヒカリは、「正しい」と「間違っていない」の境界どころか、「正しい」と「間違っている」の境界も曖昧だ。
そして、この点が、この物語を非常に複雑にする。
小春は「間違っていない」を積極的に回避しようとする。大悟は「間違っていない」を「正しい」と同一視している。そしてヒカリは「正しい」と「間違っている」の区別が曖昧。この三人が家族になろうとしているのだから、歪むのは当然である。
そして残念ながら、小春の立場がどうしても弱いが故に、大悟とヒカリの作る世界に飲み込まれていってしまう。
大悟の母親が、「母親になることと母親であることは違う」と言っていた。映画を観ると分かるが、これは自戒を込めてのことのようだ。小春は、母親に棄てられた経験、そして児童相談所の職員として最低な母親を見てきた経験から、「ちゃんとした母親になる」という意識が強い。そんな小春に対して、父親が掛けた言葉が印象的だった。もっとヒカリのことを知らなきゃ、と悩む小春に、こう答える。
【俺だって、お前のことはよく知らん。でも、俺はお前の父親だ】
僕には子供はいないけど、親になるって大変だなぁ、と改めて感じさせられた。子育てしてる人は、みんな凄いなと思う。
「哀愁しんでれら」を観に行ってきました
しかもこの映画、ラストがヤバいっていうのは誰もが一致すると思うんだけど、それ以外のヤバさについては、観てる人によって何が引っかかって何が引っかからないか、だいぶ変わりそうな気がする。
【女の子は誰でも、漠然とした不安を抱えている。私は、幸せになれるのだろうか】
映画の冒頭の方で、面白いことを言っている人物が登場した。幸せになるための、絶対の方程式がある、というのだ。それは、夢も希望も全部手放すことだ、と。
なるほど、一理あると思った。
実際のところは、夢や希望があってもいい。その種類による。その自分の持っている夢が、「誰かに羨ましがられたい」という願望から来るものであるなら、それは捨てないとなかなか幸せにはなれないだろう。しかし、他人の存在なんか関係なく、自分はその夢を追っている状態も、夢が仮に叶わなかったとした未来も、丸ごと全部受け入れた上でその夢を追いたい、というような夢があるのなら、それは幸せに繋がる道だろう。
幸せって難しいなぁ、と思った。
主人公の小春と同じ立場にいて、幸せだと感じられる人ももちろんいると思う。しかしそれは、この映画の設定で言えば、母親失格になる、ということだ。失格になってしまうとだめだから、不合格ぐらいにしておこう。小春も、母親不合格、ぐらいの立ち位置で自分を納得させることができていれば、たぶん幸せにいられただろう。
しかし小春は、母親に棄てられた過去があり、仕事でも、児童相談所の職員として育児放棄をする母親をたくさん見てきた。だから、「ちゃんとした母親になる」ことが、彼女にとって幸せの最大の要素になってしまう。
しかし、「ちゃんとした母親」ってなんだろう?
「母親」という存在は様々な側面があって、そのすべてを満点に出来る人はいない。きちんと出来ている部分に光を当てれば「良い母親」になれるし、きちんと出来ていない部分に光が当たれば「悪い母親」と見られてしまうだけの話だ。そして、世の中はどんどんと不寛容になっているし、特に、恵まれている(と見える)人へのやっかみみたいなのが増幅されてしまう世の中でもあるから、やっかみが強ければ強いほど、きちんと出来ていない部分をフォーカスされてしまう。
もちろん、小春に非がまったく無いとは思わない。結果論的な言い方にどうしてもなってしまうけど、分岐点となるポイントで少し違った行動を取っていれば、あのラストにはたどり着かなかったかもしれない。というか、どういうルートを通っていようが、あのラストに辿り着く道は普通は見えない(存在に気づかない)はずだから、弁解の余地は無いと言えば無いんだけど。
「幸せ」も「正しさ」も人の数だけあって、それはその通りなんだけど、でもふと気がつくと、「不幸ではない」ことを「幸せ」と言っていたり、「間違っていない」ことを「正しい」と考えている自分に気づいたりする。本来、それは違うもののはずなのだけど、自分が見ている現実が少しずつ歪んでいくことで、「不幸せではない」と「幸せ」の境界線が、あるいは「間違っていない」と「正しい」の境界線が見えなくなってしまうことがある。
小春も大悟も、ラストは完璧に間違えている。一点の曇りもなく。しかし、最初から間違っていたわけではない。小春も大悟も、「正しい」というスタートラインに立っていたし、その後も、「正しい」選択肢を出来るだけ選んでいたはずだ。しかし途中から、「間違っていない」が紛れ込んでくる。そして、「間違っていない」を選び続けることで現実は少しずつ歪んでいき、その積み重ねによって「間違い」にたどり着いてしまう。
「幸せ」や「正しい」を選んでいるつもりで、いつしか「不幸ではない」「間違っていない」を選び取っているというのは、日常の中でも起こりうることだと感じたし、そういう意味で、非常に恐ろしい映画だと思った。
内容に入ろうと思います。
児童相談所で働く小春は、自転車屋を営む父と、受験を控えた妹、そして病気がちな祖父の四人暮らし。母親は、小春が10歳の時に理由も分からず出ていってしまった。仕事では大変なことも多いし、ろくでもない母親に苛立ちを覚えることもあるけど、特に可もなく不可もないという生活をしていた。
しかしある日、祖父が風呂場で倒れたことをきっかけに、ドミノ倒しのように不幸が立て続けに一家を襲い、失意のまま近くに住む彼氏の家に行くと、職場の先輩女性とセックスの真っ最中という現場に鉢合わせてしまう。踏んだり蹴ったりの最低な夜にトボトボ歩いていると、踏切で横たわる男性を発見。小春はその男性を助け、介抱してあげる。後でお礼を、と言ってもらった名刺には、開業医の院長と書かれていた。大悟は、8歳の娘を男手一つで育てる大金持ちであり、小春は大悟に誘われた食事の席で娘のヒカリと仲良くなり、それもきっかけとなって二人は結婚することになる。
最悪な一夜から一転、誰もが羨む玉の輿に乗った小春だったが…。
というような話です。
タイトルに「しんでれら」とあるように、物語は当初、おとぎ話のようにトントン拍子に進んでいきます。そこはリアリティがないと言えばないんですけど、この映画の本質的な部分ではないので、むしろ非常にテンポ良く進んでいいなと思いました。パッパッパと場面を切り替えるようにしてトントントンと物語が展開し、あっという間に結婚という運びになります。
物語としてはここからが重要。そして、主人公が金持ちであるという点を除けば、ここで描かれていることって、誰に起こってもおかしくないようなものであると感じました。この映画において、主人公が金持ちだという要素は、「シンデレラ感」を醸し出すための記号みたいなもので、物語そのものにはさほど大きな影響はありません。主人公が医者であるということが重要になる場面はあるんですけど、主人公が金持ちであることが重要な場面というのは、なかったんじゃないかなと思います。そういう意味では、どの家族に起こってもおかしくはないんじゃないかと思います。
観客は、ヒカリや大悟がどこで何をしているのかという描写も見れるわけで、そういう情報を全体的に考慮して考えればまた違った結論が出るでしょう。しかし、小春と同じ情報しか得られなかった場合、取るべき行動に悩むだろうと思います。先程、「結果論的に言えば小春に非が無かったとは言えない」みたいなことを書きましたけど、小春の立場でリアルタイムに様々な判断をしていかなければならないとした場合、小春と同じような行動を取ってしまう可能性は十分にあると思います(ラストはともかく。さすがにラストの選択はしないと思いますけど)。
だから僕としては、小春に対しては、大変だな、可哀相だな、という感想になります。
これは、僕が男だからなのかはなんとも分からないけど、僕は大悟がヤバいと思いました。大悟、やべぇな。最後まで映画を見ると、大悟の最初の奥さんに対する印象(最初の奥さんは、写真でしか登場しませんけど)も変わってくるな、と。同情の余地があるのではないか、と。
大悟と小春では、物事の選択の仕方が違うと思いました。小春は、積極的に「正しい」を選び、積極的に「間違っていない」は遠ざけるタイプだと思います。しかし大悟には、「正しい」と「間違っていない」の境界線が元々存在しない。確かに大悟は、「明らかに間違っていること」をしているわけではないから、その歪みが見えにくいのだと思う。しかし、小春が積極的に「間違っていない」を遠ざけようとしているのに対して、大悟は、「正しい」と「間違っていない」の境界線がない故に、判断の端々に違和感が残る。確かに大悟の選択は、「間違っていないを含むという意味で正しい」ものであり、表立って糾弾するようなものではない。なのだけど、じわじわと違和感が積み上がっていくことで、次第に、大悟がいる世界が大分異様なものに思えてくる。勉強を教えている小春の妹に対する態度や、学校に行った時の振る舞いなどが印象的だった。
そして、そんな親に育てられたことも一因なのだと思うのだけど、ヒカリはもっとやばい。ヒカリは、「正しい」と「間違っていない」の境界どころか、「正しい」と「間違っている」の境界も曖昧だ。
そして、この点が、この物語を非常に複雑にする。
小春は「間違っていない」を積極的に回避しようとする。大悟は「間違っていない」を「正しい」と同一視している。そしてヒカリは「正しい」と「間違っている」の区別が曖昧。この三人が家族になろうとしているのだから、歪むのは当然である。
そして残念ながら、小春の立場がどうしても弱いが故に、大悟とヒカリの作る世界に飲み込まれていってしまう。
大悟の母親が、「母親になることと母親であることは違う」と言っていた。映画を観ると分かるが、これは自戒を込めてのことのようだ。小春は、母親に棄てられた経験、そして児童相談所の職員として最低な母親を見てきた経験から、「ちゃんとした母親になる」という意識が強い。そんな小春に対して、父親が掛けた言葉が印象的だった。もっとヒカリのことを知らなきゃ、と悩む小春に、こう答える。
【俺だって、お前のことはよく知らん。でも、俺はお前の父親だ】
僕には子供はいないけど、親になるって大変だなぁ、と改めて感じさせられた。子育てしてる人は、みんな凄いなと思う。
「哀愁しんでれら」を観に行ってきました
「シンクロニック」を観に行ってきました
内容に入ろうと思います。
救急隊員であるスティーブとデニス。彼らは日々患者の搬送に追われるが、ここ最近奇妙なことが多い。室内でかなり古いものと思われる剣によって刺されている男性、ホテルの室内で蛇に噛まれた女性、遊園地で原因不明のまま発火し焼死した女性。彼らはどうも、何かクスリをやっていたようで、現場には「シンクロニック」というパッケージが置かれていた。
スティーブは身体に異変を感じ病院に行くと、脳内に腫瘍があるという。しかも珍しいことに、普通は松果体の内部に腫瘍が出来るはずなのに、彼の場合は松果体の上部に出来ている。通常松果体というのは加齢に伴って老化していくのだが、スティーブの松果体は10代と遜色がないものだ、と診断される。手術で取り除くことは出来ないが、放射線治療で治そうと決意する。
一方デニスは、非常にできた妻と、18歳の年の差がある二人の娘と暮らしている。スティーブからすれば不自由のない生活に見えるが、デニスはどうも不満げだ。長女のブリアナは朝帰りをするようになり、学校の成績も落ち気味だ。ブリアナがいたから結婚生活が続けられているとデニスは考えているが、そんなブリアナは寮で生活するために家を出る予定だという。
そんなある日、いつものように搬送のために呼ばれた現場で、ブリアナもここにいた、という話を耳にする。一緒にクスリをやっていたはずなのに、姿が見えないというのだ。実際、ブリアナは行方不明となり、デニスはさらに妻との関係が悪化していくことになる。
その現場にも「シンクロニック」のパッケージが捨てられていたのを見たスティーブは、あちこち回ってどうにか「シンクロニック」を手に入れる。すると、このクスリの謎の効力を理解するところとなり…。
というような話です。
冒頭は、なんか凄く面白そうな雰囲気だったんですよね。でも同時に、全然話の展開が分からないなぁ、とも思ってました。とりあえずいろんな情報が出てくるんですけど、それぞれが繋がらないんですよね。「なんかヤバい状況になってる救急搬送の現場」とか「スティーブの松果体」とか「デニスの家族の話」とか。これらの情報がほぼバラバラの状態のまま結構中盤に差し掛かって、全然話についていけてない気がする、と思ったぐらいでようやく、「シンクロニック」というクスリの効力の話が出てきて繋がります。一応、「シンクロニック」の効力については、ネットで検索できる公式の内容紹介にも書いてあるんで、書いてもネタバレではないと思うんですけど、書かないことにします。
で、その効力が分かってからは、なるほどという感じで見てはいたんですけど、いかんせん、スティーブが行う「実験」が、本当にただの実験というか、物語に深く関わるわけではない「観客向けの設定説明のための場面」という感じで、それがちょっと残念だったかなぁ。スティーブの「実験」によって向かう先で起こる物語が、全体の中で有機的に繋がっていくんだとすれば、かなり面白い物語になったような気がするんですけど、そんなこともなく、ちょっと残念でした。
全体的に、残念感のある映画でした。設定とか、人間関係とか、スティーブとデニスの関係性とか、要素要素は割と面白そうな雰囲気なんだけど、全体としてどうも面白くなりきれない感じでした。
「シンクロニック」を観に行ってきました
救急隊員であるスティーブとデニス。彼らは日々患者の搬送に追われるが、ここ最近奇妙なことが多い。室内でかなり古いものと思われる剣によって刺されている男性、ホテルの室内で蛇に噛まれた女性、遊園地で原因不明のまま発火し焼死した女性。彼らはどうも、何かクスリをやっていたようで、現場には「シンクロニック」というパッケージが置かれていた。
スティーブは身体に異変を感じ病院に行くと、脳内に腫瘍があるという。しかも珍しいことに、普通は松果体の内部に腫瘍が出来るはずなのに、彼の場合は松果体の上部に出来ている。通常松果体というのは加齢に伴って老化していくのだが、スティーブの松果体は10代と遜色がないものだ、と診断される。手術で取り除くことは出来ないが、放射線治療で治そうと決意する。
一方デニスは、非常にできた妻と、18歳の年の差がある二人の娘と暮らしている。スティーブからすれば不自由のない生活に見えるが、デニスはどうも不満げだ。長女のブリアナは朝帰りをするようになり、学校の成績も落ち気味だ。ブリアナがいたから結婚生活が続けられているとデニスは考えているが、そんなブリアナは寮で生活するために家を出る予定だという。
そんなある日、いつものように搬送のために呼ばれた現場で、ブリアナもここにいた、という話を耳にする。一緒にクスリをやっていたはずなのに、姿が見えないというのだ。実際、ブリアナは行方不明となり、デニスはさらに妻との関係が悪化していくことになる。
その現場にも「シンクロニック」のパッケージが捨てられていたのを見たスティーブは、あちこち回ってどうにか「シンクロニック」を手に入れる。すると、このクスリの謎の効力を理解するところとなり…。
というような話です。
冒頭は、なんか凄く面白そうな雰囲気だったんですよね。でも同時に、全然話の展開が分からないなぁ、とも思ってました。とりあえずいろんな情報が出てくるんですけど、それぞれが繋がらないんですよね。「なんかヤバい状況になってる救急搬送の現場」とか「スティーブの松果体」とか「デニスの家族の話」とか。これらの情報がほぼバラバラの状態のまま結構中盤に差し掛かって、全然話についていけてない気がする、と思ったぐらいでようやく、「シンクロニック」というクスリの効力の話が出てきて繋がります。一応、「シンクロニック」の効力については、ネットで検索できる公式の内容紹介にも書いてあるんで、書いてもネタバレではないと思うんですけど、書かないことにします。
で、その効力が分かってからは、なるほどという感じで見てはいたんですけど、いかんせん、スティーブが行う「実験」が、本当にただの実験というか、物語に深く関わるわけではない「観客向けの設定説明のための場面」という感じで、それがちょっと残念だったかなぁ。スティーブの「実験」によって向かう先で起こる物語が、全体の中で有機的に繋がっていくんだとすれば、かなり面白い物語になったような気がするんですけど、そんなこともなく、ちょっと残念でした。
全体的に、残念感のある映画でした。設定とか、人間関係とか、スティーブとデニスの関係性とか、要素要素は割と面白そうな雰囲気なんだけど、全体としてどうも面白くなりきれない感じでした。
「シンクロニック」を観に行ってきました
私を見て、ぎゅっと愛して(七井翔子)
「感慨深い」という言葉が、一番近い気がする。この本が、文庫化されたことに対してだ。
2006年、僕はこの本と出会った。衝撃的な作品だった。読みながら、何度も泣いたことを、未だに覚えている。周りの人にも、勧めまくった。そして、機会がある度に僕は、「この本を文庫化してくれ」と知り合いの編集者などに話していた。
15年経ってようやく、文庫化された。実に感慨深い。
当時23歳だった僕は、正直、自分のことで精一杯だった。僕自身の人生が、僕なりに大変動していた頃のことで、メンタル的にも結構しんどかった。だから、その時の僕は、「七井翔子」という人が抱える生きづらさに、自分自身を重ねるようにしてこの本を読んでいたように思う。
15年経って、読み方が変わった。そして相変わらず、読みながら何度も泣いてしまう。
自分のことで精一杯だった時期を乗り越えて、僕自身は割と平穏に過ごせるようになった。一方で、色んな生きづらさを抱える人に出会ってきた。僕は、「七井翔子」という人と彼女たちを重ね合わせるようにして本書を読んでいた。
著者は、恐らくパッと見には、生きづらそうな人には見えないのだと思う。塾講師として生徒から人気が高い。容姿も整っているようだ。人見知りだそうだけど、気が合う人とは気持ちよく関われる。長く付き合っている人がいて、結婚する予定だ。恐らく、彼女のことをよく知らない人からは、羨ましがられるような、順調に人生を歩んでいるような見られ方をするだろう。
僕が出会ってきた生きづらそうな人も、割と同じだ。見た感じは、それこそ「リア充」と言っても良さそうな、明るくて楽しそうで元気に生きているように見える。しかし話を聞いてみると、「日々遺書を書いている」とか「好きではないけど自分のことを乱暴に扱って”くれる”セフレとの関係を切れない」(優しくされるとダメだと言っていた)とか、「何もする気力がなくて虫が這い回る部屋でただ横になっている時期もあった」みたいなことを言っていたりする。
【私は愛される価値のない人間だという自虐。私は自分を痛めつけることで、心を平らかにできる】
彼女たちは、そういう姿を表にはなかなか見せない。理解されないことがわかっているからだ。著者も同じ。この作品には、著者の家族や友人が様々に登場するが、そのほとんどが著者の行動を「理解できない」という風に捉える。
【ボケっとしてないで、なんとかしなさい。どうしてアンタは自分の感情を押し込めて押し込めて押し込めて生きているの。精神病って何よ。私にはただの甘えにしか映らないわっ!】
著者の姉は苛烈な言葉でこんな風に迫る。(こんな風に言われたらしんどいなぁ…)と思いながら、僕はこの姉の言葉を読む。
僕は僕のことしか分からないから僕自身のことを書くけど、最初から最後まで、「七井翔子」という人の感覚に近いなぁ、と感じる。そして、彼女の価値観を否定するような周囲の人間の言葉に、強く違和感を覚える。どうして、「そっち側」ばっかり、「正しい」ってことになるんだろう、と思ってしまう。
例えば、学生の頃からずっと信頼していた親友からの”裏切り”が発覚した後、彼女はその親友をどうしても恨む気持ちになれずにいる。さらに彼女は、こう感じもする。
【もう、私と由香は本当に親友に戻れないって思って、それが悲しい】
この返答に、姉は呆れ、理解できないという態度を示す。まあ確かにそれは、健全な反応ではあるかもしれない。でも、健全な反応だけが正解なわけではないし、そもそも世の中には無数の正解があり得る。しかし、どうにも著者の周囲には、「これが正解です。それ以外は全部不正解です」という感覚の人が多い。そしてそれは、僕自身が世の中全体に感じることでもあるし、それは、生きづらさが薄れたはずの僕の中にもまだ僅かに残る、そして、僕が出会ってきた生きづらさを抱える人たちが感じ取っているだろう、しんどさの遠因だったりする。
【違う。とにかく、私は本当に嬉しい。由香が笑ってくれていたなんて】
こういう感覚が、何故否定されなければならないのか、僕にはよく分からない。
【私はずっと恐れている。私が誰かを傷つける存在になりたくない】
僕も、いつもそれを恐れている。それを恐れずに生きていけるのは、本当に羨ましい。誰かと関わることは、常に、誰かを傷つける可能性と隣合わせだ。僕はその可能性に怯えてしまうし、僕が出会ってきた人たちもそういう人が多かった。自分がどれほど傷つこうが、相手が傷つかなかったことが嬉しい、という感覚は、僕にとっては結構当たり前の感覚なのだけど、でもこれが世の中の多数派ではないということも知っている。そして、意図しているわけではないけど結果的に誰かを傷つけてしまう人の存在を、僕はいつも恐れている。
【渇くほど他者の手を欲していながら、その一方で渇くほど孤独を欲している。この矛盾。自己撞着に常に苛まれている。
私をかまって、見ていて、だけど寄り付きすぎないで。見過ごさないで。だけどずっと線の向こうで見てて。でも見過ぎないで。でも目を離さないで。
ああ、この非生産的で倒錯的なループ。我ながらひどすぎるな、と嘲る。】
程度の違いはあると思うが、この感触はよく分かる。しっくりくる。時々、こういう距離感が、なんの説明もせずにすっとハマる人がいて、そういう時は非常に楽で呼吸がしやすい。でも、大体の場合は、言語化してもなかなかこの感触には届かない。だから、説明を諦めてしまう。説明を諦めれば諦めるほど、自分の首が締まることも分かっている。
この本を読んで改めて感じることは、相手を傷つけまいと考えて考えてした行動が、結果的に相手を傷つけてしまうことがある、ということだ。
この本には、本当の意味での「悪人」は登場しない。もちろん、個別の行動の善悪について議論はあるだろう。倫理的に「正しくない」行動をしている人はいる。でも、僕の感触としては、「生きていくためには生き物を殺して食べなければならない」というような切実さがそこにあるように思う。動物を殺して食べることは、罪悪であるようにも感じられるけど、僕らにとってそれは必要だからその罪悪感を鈍麻させて生きている。同じように、この本の中で「正しくない」行動をしている人たちは、自分がなんとか正常を保って生き延びるためにやむにやまれず、そうせざるを得ないというような切実さを感じる。
【どうして彼以外の人と寝たいのか。それは七井翔子という殻から脱出して、すべてを擲ち、自由に奔放に泳ぐことができるからだ。今まで、この得がたい解放感は彼への罪悪感をも軽く凌いでしまっていた。高邁な思想も、智恵も、しがらみも何もかも捨て忘れ、一個のメスとしてふるまうことの快感を、見ず知らずの男たちからは容易く得られていた】
もちろん、自分が生き延びるために何をしてもいいわけじゃない。法律を破ることは社会の秩序を乱すし、相手との合意がないままで(あるいは、合意を強制するようなやり方で)相手に何かを強要するような行為は許されないだろう。でも、この本の登場人物たちは、出来うる限り相手を傷つけまいと葛藤し、可能な限り正しくありたいと切に願い、しんどい道を選んででも真っ当さを保とうと努力しているにも関わらず、それでも様々な要因から境界線を踏み越えてしまっている、という感じがする。
その必死さに、僕は揺さぶられてしまう。
彼ら彼女らを「間違っている」と断ずるのは簡単だ。行為だけを抜き出してみれば、間違いだらけだと言っていいだろう。今の時代なら、簡単に炎上するかもしれない。
でも、行為だけ抜き出してしまったら本質が失われてしまうような事柄はたくさんある。外側から、全体像の輪郭だけ見ていても、その真ん中にある核の部分は見えてこない。そういう繊細さを、著者は絶妙に言語化していく。
それが、この本の凄い点だと感じる。
著者は、自分自身の状況を「書く」ことで整理し、心情を吐き出すことでデトックスしているという実感がある。その感覚は、僕も分かる。頭の中に、モヤモヤした何かが浮遊している状態だと、自分が何に悩んでいるのか、何に悲しんでいるのか、何をしんどいと感じているのか分からない。言語化してみることで、自分のモヤモヤがきちんと輪郭を持ち始める。そして、自分が抱えているものの輪郭が見えることで、安心感が得られることがある。
だから著者は、自分のブログに、徹底して心の内を吐き出していく。
【ブログの日記にこのことを書く必要はないと、一瞬思う。私の行く末を案じてくださっている方々に心配させるのは心苦しい。責める人は責めるだろう。黙っていれば読者には永遠にわからない。それがブログの利点でもあるだろう。でも、それは絶対にやってはいけない。私のポリシーとして、それはできない。私は、正直に書く。なんと非難されようと、書かなければならない】
そういう意味でも、この本には、切実さが、そして誠実さも、満載に詰まっている。
正直に言えば、「小説みたいだな」と感じる部分もある。文庫化にあたって、縦書きになったことも、この印象を強める結果になったことは意外でもあった(単行本は、ブログ本の常として、横書きだった)。怒涛の展開は、そんなことが実際に起こったとは信じられないような、非常にドラマチックなものだ。しかし、徹頭徹尾貫かれている、著者の「文章を書くこと」に対する誠実さみたいなものが、この本を「フィクション」から遠ざけているようにも感じる。
だから、リアルに想像してしまうんじゃないだろうか。自分が、「七井翔子」と同じ立場に立った時、それぞれの場面でどのような選択をするのか、と。もちろん、著者には精神的な問題がある。その問題込みで想像するのはなかなか難しいだろうし、だからこそ、彼女の決断を「あり得ない」「信じられない」と感じてしまう要因にもなるのかもしれない。でも僕は、精神疾患こそない(正確には、精神科医に診てもらったことはないから、病名がついたことがないだけ)が、著者の感覚には理解できる部分が多いので、「自分だったらどうするか」という想像のスタート地点に立てる。僕自身は、「求められること」に対する切実な渇望感もあまりないし、結婚や子供に対する願望もほとんどないので、そういう意味で彼女の葛藤に寄り添えない部分も大きいのだけど、それでも、彼女の様々な決断を「勇敢」だと感じる自分がいる。
彼女の弟が「姉ちゃんは実は強いんじゃないか」と言う場面がある。弟は自分が傷つきたくないからそういう場面は最初から回避してしまうけど、姉ちゃんは体一つでぶつかっていく、というのがその理由だ。『エヴァンゲリオン』の加持リョウジが、「大人はさ、ずるいくらいがちょうどいいんだ」と言っていたのを思い出す。誰だって、自分を生き延びさせるために、ほどよくずるくなる。僕もそうだ。でも、そう出来ない人もいる。だから、ずるさに頼らずに進んでいって、当然のように傷付いていく。そしてそれは、見方次第では「勇敢」だとも言えるだろう。
ずるくなれないからこそ、優しさが誰かを傷つけてしまう。「優しい人に思われたい」のではなく、本当に心の底から相手の幸せを望む優しさであったとしても、それは曲解され誤解され、正しく伝わらない。そんなもどかしい衝突を何度も繰り返しながら、傷だらけでヘトヘトになりながら、それでも誰かと切実さをもって関わり続ける。
そんな彼女は、やはり「勇敢」なのだと思う。
七井翔子「私を見て、ぎゅっと愛して」
2006年、僕はこの本と出会った。衝撃的な作品だった。読みながら、何度も泣いたことを、未だに覚えている。周りの人にも、勧めまくった。そして、機会がある度に僕は、「この本を文庫化してくれ」と知り合いの編集者などに話していた。
15年経ってようやく、文庫化された。実に感慨深い。
当時23歳だった僕は、正直、自分のことで精一杯だった。僕自身の人生が、僕なりに大変動していた頃のことで、メンタル的にも結構しんどかった。だから、その時の僕は、「七井翔子」という人が抱える生きづらさに、自分自身を重ねるようにしてこの本を読んでいたように思う。
15年経って、読み方が変わった。そして相変わらず、読みながら何度も泣いてしまう。
自分のことで精一杯だった時期を乗り越えて、僕自身は割と平穏に過ごせるようになった。一方で、色んな生きづらさを抱える人に出会ってきた。僕は、「七井翔子」という人と彼女たちを重ね合わせるようにして本書を読んでいた。
著者は、恐らくパッと見には、生きづらそうな人には見えないのだと思う。塾講師として生徒から人気が高い。容姿も整っているようだ。人見知りだそうだけど、気が合う人とは気持ちよく関われる。長く付き合っている人がいて、結婚する予定だ。恐らく、彼女のことをよく知らない人からは、羨ましがられるような、順調に人生を歩んでいるような見られ方をするだろう。
僕が出会ってきた生きづらそうな人も、割と同じだ。見た感じは、それこそ「リア充」と言っても良さそうな、明るくて楽しそうで元気に生きているように見える。しかし話を聞いてみると、「日々遺書を書いている」とか「好きではないけど自分のことを乱暴に扱って”くれる”セフレとの関係を切れない」(優しくされるとダメだと言っていた)とか、「何もする気力がなくて虫が這い回る部屋でただ横になっている時期もあった」みたいなことを言っていたりする。
【私は愛される価値のない人間だという自虐。私は自分を痛めつけることで、心を平らかにできる】
彼女たちは、そういう姿を表にはなかなか見せない。理解されないことがわかっているからだ。著者も同じ。この作品には、著者の家族や友人が様々に登場するが、そのほとんどが著者の行動を「理解できない」という風に捉える。
【ボケっとしてないで、なんとかしなさい。どうしてアンタは自分の感情を押し込めて押し込めて押し込めて生きているの。精神病って何よ。私にはただの甘えにしか映らないわっ!】
著者の姉は苛烈な言葉でこんな風に迫る。(こんな風に言われたらしんどいなぁ…)と思いながら、僕はこの姉の言葉を読む。
僕は僕のことしか分からないから僕自身のことを書くけど、最初から最後まで、「七井翔子」という人の感覚に近いなぁ、と感じる。そして、彼女の価値観を否定するような周囲の人間の言葉に、強く違和感を覚える。どうして、「そっち側」ばっかり、「正しい」ってことになるんだろう、と思ってしまう。
例えば、学生の頃からずっと信頼していた親友からの”裏切り”が発覚した後、彼女はその親友をどうしても恨む気持ちになれずにいる。さらに彼女は、こう感じもする。
【もう、私と由香は本当に親友に戻れないって思って、それが悲しい】
この返答に、姉は呆れ、理解できないという態度を示す。まあ確かにそれは、健全な反応ではあるかもしれない。でも、健全な反応だけが正解なわけではないし、そもそも世の中には無数の正解があり得る。しかし、どうにも著者の周囲には、「これが正解です。それ以外は全部不正解です」という感覚の人が多い。そしてそれは、僕自身が世の中全体に感じることでもあるし、それは、生きづらさが薄れたはずの僕の中にもまだ僅かに残る、そして、僕が出会ってきた生きづらさを抱える人たちが感じ取っているだろう、しんどさの遠因だったりする。
【違う。とにかく、私は本当に嬉しい。由香が笑ってくれていたなんて】
こういう感覚が、何故否定されなければならないのか、僕にはよく分からない。
【私はずっと恐れている。私が誰かを傷つける存在になりたくない】
僕も、いつもそれを恐れている。それを恐れずに生きていけるのは、本当に羨ましい。誰かと関わることは、常に、誰かを傷つける可能性と隣合わせだ。僕はその可能性に怯えてしまうし、僕が出会ってきた人たちもそういう人が多かった。自分がどれほど傷つこうが、相手が傷つかなかったことが嬉しい、という感覚は、僕にとっては結構当たり前の感覚なのだけど、でもこれが世の中の多数派ではないということも知っている。そして、意図しているわけではないけど結果的に誰かを傷つけてしまう人の存在を、僕はいつも恐れている。
【渇くほど他者の手を欲していながら、その一方で渇くほど孤独を欲している。この矛盾。自己撞着に常に苛まれている。
私をかまって、見ていて、だけど寄り付きすぎないで。見過ごさないで。だけどずっと線の向こうで見てて。でも見過ぎないで。でも目を離さないで。
ああ、この非生産的で倒錯的なループ。我ながらひどすぎるな、と嘲る。】
程度の違いはあると思うが、この感触はよく分かる。しっくりくる。時々、こういう距離感が、なんの説明もせずにすっとハマる人がいて、そういう時は非常に楽で呼吸がしやすい。でも、大体の場合は、言語化してもなかなかこの感触には届かない。だから、説明を諦めてしまう。説明を諦めれば諦めるほど、自分の首が締まることも分かっている。
この本を読んで改めて感じることは、相手を傷つけまいと考えて考えてした行動が、結果的に相手を傷つけてしまうことがある、ということだ。
この本には、本当の意味での「悪人」は登場しない。もちろん、個別の行動の善悪について議論はあるだろう。倫理的に「正しくない」行動をしている人はいる。でも、僕の感触としては、「生きていくためには生き物を殺して食べなければならない」というような切実さがそこにあるように思う。動物を殺して食べることは、罪悪であるようにも感じられるけど、僕らにとってそれは必要だからその罪悪感を鈍麻させて生きている。同じように、この本の中で「正しくない」行動をしている人たちは、自分がなんとか正常を保って生き延びるためにやむにやまれず、そうせざるを得ないというような切実さを感じる。
【どうして彼以外の人と寝たいのか。それは七井翔子という殻から脱出して、すべてを擲ち、自由に奔放に泳ぐことができるからだ。今まで、この得がたい解放感は彼への罪悪感をも軽く凌いでしまっていた。高邁な思想も、智恵も、しがらみも何もかも捨て忘れ、一個のメスとしてふるまうことの快感を、見ず知らずの男たちからは容易く得られていた】
もちろん、自分が生き延びるために何をしてもいいわけじゃない。法律を破ることは社会の秩序を乱すし、相手との合意がないままで(あるいは、合意を強制するようなやり方で)相手に何かを強要するような行為は許されないだろう。でも、この本の登場人物たちは、出来うる限り相手を傷つけまいと葛藤し、可能な限り正しくありたいと切に願い、しんどい道を選んででも真っ当さを保とうと努力しているにも関わらず、それでも様々な要因から境界線を踏み越えてしまっている、という感じがする。
その必死さに、僕は揺さぶられてしまう。
彼ら彼女らを「間違っている」と断ずるのは簡単だ。行為だけを抜き出してみれば、間違いだらけだと言っていいだろう。今の時代なら、簡単に炎上するかもしれない。
でも、行為だけ抜き出してしまったら本質が失われてしまうような事柄はたくさんある。外側から、全体像の輪郭だけ見ていても、その真ん中にある核の部分は見えてこない。そういう繊細さを、著者は絶妙に言語化していく。
それが、この本の凄い点だと感じる。
著者は、自分自身の状況を「書く」ことで整理し、心情を吐き出すことでデトックスしているという実感がある。その感覚は、僕も分かる。頭の中に、モヤモヤした何かが浮遊している状態だと、自分が何に悩んでいるのか、何に悲しんでいるのか、何をしんどいと感じているのか分からない。言語化してみることで、自分のモヤモヤがきちんと輪郭を持ち始める。そして、自分が抱えているものの輪郭が見えることで、安心感が得られることがある。
だから著者は、自分のブログに、徹底して心の内を吐き出していく。
【ブログの日記にこのことを書く必要はないと、一瞬思う。私の行く末を案じてくださっている方々に心配させるのは心苦しい。責める人は責めるだろう。黙っていれば読者には永遠にわからない。それがブログの利点でもあるだろう。でも、それは絶対にやってはいけない。私のポリシーとして、それはできない。私は、正直に書く。なんと非難されようと、書かなければならない】
そういう意味でも、この本には、切実さが、そして誠実さも、満載に詰まっている。
正直に言えば、「小説みたいだな」と感じる部分もある。文庫化にあたって、縦書きになったことも、この印象を強める結果になったことは意外でもあった(単行本は、ブログ本の常として、横書きだった)。怒涛の展開は、そんなことが実際に起こったとは信じられないような、非常にドラマチックなものだ。しかし、徹頭徹尾貫かれている、著者の「文章を書くこと」に対する誠実さみたいなものが、この本を「フィクション」から遠ざけているようにも感じる。
だから、リアルに想像してしまうんじゃないだろうか。自分が、「七井翔子」と同じ立場に立った時、それぞれの場面でどのような選択をするのか、と。もちろん、著者には精神的な問題がある。その問題込みで想像するのはなかなか難しいだろうし、だからこそ、彼女の決断を「あり得ない」「信じられない」と感じてしまう要因にもなるのかもしれない。でも僕は、精神疾患こそない(正確には、精神科医に診てもらったことはないから、病名がついたことがないだけ)が、著者の感覚には理解できる部分が多いので、「自分だったらどうするか」という想像のスタート地点に立てる。僕自身は、「求められること」に対する切実な渇望感もあまりないし、結婚や子供に対する願望もほとんどないので、そういう意味で彼女の葛藤に寄り添えない部分も大きいのだけど、それでも、彼女の様々な決断を「勇敢」だと感じる自分がいる。
彼女の弟が「姉ちゃんは実は強いんじゃないか」と言う場面がある。弟は自分が傷つきたくないからそういう場面は最初から回避してしまうけど、姉ちゃんは体一つでぶつかっていく、というのがその理由だ。『エヴァンゲリオン』の加持リョウジが、「大人はさ、ずるいくらいがちょうどいいんだ」と言っていたのを思い出す。誰だって、自分を生き延びさせるために、ほどよくずるくなる。僕もそうだ。でも、そう出来ない人もいる。だから、ずるさに頼らずに進んでいって、当然のように傷付いていく。そしてそれは、見方次第では「勇敢」だとも言えるだろう。
ずるくなれないからこそ、優しさが誰かを傷つけてしまう。「優しい人に思われたい」のではなく、本当に心の底から相手の幸せを望む優しさであったとしても、それは曲解され誤解され、正しく伝わらない。そんなもどかしい衝突を何度も繰り返しながら、傷だらけでヘトヘトになりながら、それでも誰かと切実さをもって関わり続ける。
そんな彼女は、やはり「勇敢」なのだと思う。
七井翔子「私を見て、ぎゅっと愛して」
「イルミナティ 世界を操る闇の秘密結社」を観に行ってきました
陰謀論的なものには、まったく興味はない。トランプ大統領支持者たちが「Qアノン」とか言ってるのも、知性のある大人がマジでそんなことを本気で主張してるんだろうか?と思っている。
陰謀論が人気を博す理由は分かる。「悪魔の証明」のようなもので、「陰謀は存在しないこと」を証明することは困難だからだ。同じように、幽霊が存在しないこと、占いが当たらないことなどを証明することは、ほぼ不可能だと言っていい。
世の中には、「反証できないんだから、これは正しい」という理屈で物事を信じている人もいる。陰謀論など、まさにそうだろう。そもそも反証が不可能であるという事実には目をつぶり(あるいは、本当に知識として知らないのかもしれないけど)、「反証できないんだろ?じゃあ間違ってるとは言えないじゃねぇか」みたいな理屈で正しさを強要してくる。まあこんな主張は、全部無視していいと思っている。
さて、そんな僕がこの映画を見た理由は、明確には特に存在しないけど、「イルミナティという秘密結社が存在するとして、恐らく世界を陰から操ってる的な存在ではないだろう。じゃあ何なんだろう?」という興味があったのだと思う。
さて、そういう意味で言えば、僕が望んでいた通りの映画だった、と言っていいだろう。イルミナティという秘密結社が、誰の発案で、どういう社会情勢の中で生まれ、その中で何が行われ、どう変遷していったのかということを、恐らくきちんとした文献等に基づいて(映画は基本的に、イルミナティの専門家と呼ばれる人が喋っているものを繋いで構成されている)再構築していくような映画だ。
しかし、面白いか面白くないかでいえば、面白くなかった。というか、たぶん、全体の2/3ぐらいは、ずっとウトウトしてて、あんまり覚えていない。
冒頭の20分ぐらいは寝ずに見ていたので、その部分は割と覚えている。アダム・ヴァイスハウプトという人物が、どういう経緯でイルミナティという秘密結社を立ち上げたのか、という話だ。5歳までに両親が亡くなったことで、ファン・インクシュタットという男爵が親代わりになった。彼はイエズス会の大学で検閲官を務めていたため、発禁本も読むことができた。そういう環境だったこともあり、ヴァイスハウプトも様々な本を読み、かなり若くして大学教授に就任する。さらに、彼の大学教授就任とほぼ同時期に、イエズス会が解散した。当時イエズス会は、大学など多方面に影響を持っており、以前はイエズス会の人間でなければ教会法を教えることは出来なかった。しかしイエズス会の解散に伴い、ヴァイスハウプトが非イエズス会の人間として初めて教会法を教える人物となる。彼は、その博識と革命的な思想を元に学生たちと議論を重ね、人類をより良い方向に導くために「完全可能者」という組織を立ち上げ、後に「イルミナティ」と改名したという。
「人類をより良い方向に導くために」というと、なんかヤバそうだけど、これは当時の状況も関係している。当時は「啓蒙主義」と呼ばれるものが主流だった。それまでは教会の力が大きすぎて、人々は、「自分の考え」も「自分の土地」も持つことなく生活をしていた。しかし、そういう教会の教えや権力ではなく、理性とか知識とかで進んでいこう、というような考え方が啓蒙主義らしい(よく知らないけど)。確かに昔は、教会が本を発禁にしたりして、自由にアクセスできる知識も制限されていただろうし、そもそも字を読める人も多くなかっただろうから、知識にアクセスし理解し人々に伝えられる人間が、多くの人を「啓蒙」し、より良い人間へと導き、社会全体を良くしよう、という考えが生まれるのはまあそんなに不自然じゃないかなぁ、という気もする。
で、イルミナティというのも、そういう流れの中にあるよ、というのが大枠。
あとはうつらうつらしてて断片的にしか覚えてないけど、面白いなと思ったのが、イルミナティの階級について。低い方から「ミネルヴァ」「フリーメイソン」「ミステリ」と3つあり、さらにこの3つの内部で計12の分類があるらしいんだけど、この中に「フリーメイソン」があるのが謎だな、と。フリーメイソンと言えば、同じく陰謀論でよく登場するものですけど、こちらもまた実際に存在した(今でもするのかな?)秘密結社です。で、この映画によると、元々はフリーメイソンが先にあって、イルミナティの創設者のヴァイスハウプトもフリーメイソンに入ってた時期があるらしいです。でもそれは、フリーメイソンに入りたかったっていうよりは、フリーメイソンにいる人間をイルミナティに引っ張ってくるための仮入部みたいなイメージだったようです。
イルミナティの中に「フリーメイソン」って階級が存在するのは、「フリーメイソンに入ってる人間を引っ張ってくればちゃちゃっと組織をおっきくできるんじゃね?だったら、フリーメイソンにいた人は、入会時点で「ミネルヴァ」より高い地位を与えてあげよう」みたいなことらしいです。
そんなわけで、割と寝ちゃったんであんまり内容が分かんないですけど、面白い映画ではなかったですね。
「イルミナティ 世界を操る闇の秘密結社」を観に行ってきました
陰謀論が人気を博す理由は分かる。「悪魔の証明」のようなもので、「陰謀は存在しないこと」を証明することは困難だからだ。同じように、幽霊が存在しないこと、占いが当たらないことなどを証明することは、ほぼ不可能だと言っていい。
世の中には、「反証できないんだから、これは正しい」という理屈で物事を信じている人もいる。陰謀論など、まさにそうだろう。そもそも反証が不可能であるという事実には目をつぶり(あるいは、本当に知識として知らないのかもしれないけど)、「反証できないんだろ?じゃあ間違ってるとは言えないじゃねぇか」みたいな理屈で正しさを強要してくる。まあこんな主張は、全部無視していいと思っている。
さて、そんな僕がこの映画を見た理由は、明確には特に存在しないけど、「イルミナティという秘密結社が存在するとして、恐らく世界を陰から操ってる的な存在ではないだろう。じゃあ何なんだろう?」という興味があったのだと思う。
さて、そういう意味で言えば、僕が望んでいた通りの映画だった、と言っていいだろう。イルミナティという秘密結社が、誰の発案で、どういう社会情勢の中で生まれ、その中で何が行われ、どう変遷していったのかということを、恐らくきちんとした文献等に基づいて(映画は基本的に、イルミナティの専門家と呼ばれる人が喋っているものを繋いで構成されている)再構築していくような映画だ。
しかし、面白いか面白くないかでいえば、面白くなかった。というか、たぶん、全体の2/3ぐらいは、ずっとウトウトしてて、あんまり覚えていない。
冒頭の20分ぐらいは寝ずに見ていたので、その部分は割と覚えている。アダム・ヴァイスハウプトという人物が、どういう経緯でイルミナティという秘密結社を立ち上げたのか、という話だ。5歳までに両親が亡くなったことで、ファン・インクシュタットという男爵が親代わりになった。彼はイエズス会の大学で検閲官を務めていたため、発禁本も読むことができた。そういう環境だったこともあり、ヴァイスハウプトも様々な本を読み、かなり若くして大学教授に就任する。さらに、彼の大学教授就任とほぼ同時期に、イエズス会が解散した。当時イエズス会は、大学など多方面に影響を持っており、以前はイエズス会の人間でなければ教会法を教えることは出来なかった。しかしイエズス会の解散に伴い、ヴァイスハウプトが非イエズス会の人間として初めて教会法を教える人物となる。彼は、その博識と革命的な思想を元に学生たちと議論を重ね、人類をより良い方向に導くために「完全可能者」という組織を立ち上げ、後に「イルミナティ」と改名したという。
「人類をより良い方向に導くために」というと、なんかヤバそうだけど、これは当時の状況も関係している。当時は「啓蒙主義」と呼ばれるものが主流だった。それまでは教会の力が大きすぎて、人々は、「自分の考え」も「自分の土地」も持つことなく生活をしていた。しかし、そういう教会の教えや権力ではなく、理性とか知識とかで進んでいこう、というような考え方が啓蒙主義らしい(よく知らないけど)。確かに昔は、教会が本を発禁にしたりして、自由にアクセスできる知識も制限されていただろうし、そもそも字を読める人も多くなかっただろうから、知識にアクセスし理解し人々に伝えられる人間が、多くの人を「啓蒙」し、より良い人間へと導き、社会全体を良くしよう、という考えが生まれるのはまあそんなに不自然じゃないかなぁ、という気もする。
で、イルミナティというのも、そういう流れの中にあるよ、というのが大枠。
あとはうつらうつらしてて断片的にしか覚えてないけど、面白いなと思ったのが、イルミナティの階級について。低い方から「ミネルヴァ」「フリーメイソン」「ミステリ」と3つあり、さらにこの3つの内部で計12の分類があるらしいんだけど、この中に「フリーメイソン」があるのが謎だな、と。フリーメイソンと言えば、同じく陰謀論でよく登場するものですけど、こちらもまた実際に存在した(今でもするのかな?)秘密結社です。で、この映画によると、元々はフリーメイソンが先にあって、イルミナティの創設者のヴァイスハウプトもフリーメイソンに入ってた時期があるらしいです。でもそれは、フリーメイソンに入りたかったっていうよりは、フリーメイソンにいる人間をイルミナティに引っ張ってくるための仮入部みたいなイメージだったようです。
イルミナティの中に「フリーメイソン」って階級が存在するのは、「フリーメイソンに入ってる人間を引っ張ってくればちゃちゃっと組織をおっきくできるんじゃね?だったら、フリーメイソンにいた人は、入会時点で「ミネルヴァ」より高い地位を与えてあげよう」みたいなことらしいです。
そんなわけで、割と寝ちゃったんであんまり内容が分かんないですけど、面白い映画ではなかったですね。
「イルミナティ 世界を操る闇の秘密結社」を観に行ってきました
「食われる家族」を観に行ってきました
いやー、面白かった!んで、超怖かった!これ、狙われたら、ほぼ回避不能ではないだろうか。いやー、凄い話だったなぁ。
映画を観ながら考えていたことは、「本物」より「ホンモノらしさ」の方が強い、ということだ。これは、非常に現代的だなと思う。
今、世の中の風潮で感じることは、「本物」とか「本当」とかって、もはやどうでもいいんだな、ということだ。
僕自身は、「本物」とか「本当」が知りたい。科学的な裏付けがあったり、綿密な取材がなされたり、そういう知識や情報を得るのが好きだし、それが「本物」「本当」であるかは、僕にとっては割と重要な要素である。
しかし世の中の人は、「本物であるかどうか」より「ホンモノらしいかどうか」の方が重要なのではないかと感じる。例えば、「ウィキペディアの記述を鵜呑みにしてはいけない」というのは、ネット情報に触れる上での大常識、いろはのいだと思うのだけど、「ウィキペディアに書いてあるから」という理由で信じる人というのもいる。あるいは、以前非常に驚いたのが、一緒に働いていた人に「テレビでやってることの半分は嘘だからね」と言ったら、もの凄くびっくりしていたことがある。僕の「半分」という主張にはまったく根拠はないが、しかし、程度はともかく、一定以上の嘘が混じっているというのは、当たり前のリテラシーとして持って無ければならないと思うのだけど、その人は、「テレビで流れている情報”だから”正しい」と感じていたようだ。
これはまあ、リテラシーの問題だと言えばそれまでなのだけど、僕は能力の問題というよりも、「本物」に対する関心の無さから生まれるものなんじゃないかと感じている。
それはある程度仕方ない部分はある。例えば、ネットで調べると数字は色々出てくるけど、概ねこんな感じの情報が出てくる。「人類が30萬年かけて蓄積した情報量と、2001年~2003年までに蓄積した情報量は同じだ」。何が言いたいかと言えば、昔と比べて僕らが日常的に触れる情報は莫大に増えたということだ。触れる情報の一つ一つに、「本物」かどうかという視線を向けるのは無理だ。だから人間は、情報の真偽に関するセンサーをある程度鈍麻させることで処理能力を高め、その処理方法で何か問題が発生した時に対処する、というやり方に変えたのだろう。
そして、そういう世の中だからこそ、この映画のような状況はいかようにでも起こりうる。「本物」を生み出すことは非常に難しいが、「ホンモノらしさ」を作り出すことは努力でなんとかなる。そして、「本物」に対するセンサーが薄れているからこそ、「ホンモノらしさ」はある閾値を超えると「本物」にすらなり得てしまう。
怖っ!
内容に入ろうと思います。
建築事務所の代表であるカン・ソジンは、半年前に妻を交通事故で喪い、悲しみの底にいる。ひき逃げ犯を見つけるべく、友人の精神科医に催眠療法をしてもらっているが、成果はない。娘のイェナには妻が死んだことは言えず、遠くにいるとだけ説明している。
ある日ソジンの元に、児童福祉館から電話が掛かってくる。1996年に失踪した妹のユジンを見つけた、というのだ。ソジンは、家族で遊園地に行った時、母から妹の手を離すなと言われていたのに離してしまい、その後25年間ずっと行方不明のままだった。妹だと名乗る女性に会いに行くも、ソジンはDNA鑑定を要求。妹だと名乗り出る人物がこれまでも多く、その度に母に心労を掛けるからというのがその理由だ。
結果は、肯定確率が99.99%以上。妹だ。両親は喜び、養父母を亡くしたばかりだというユジンと一緒に住むことに決める。ユジンは料理が上手く、両親や娘ともすぐに打ち解け、シングルファーザーとして娘の子育てと、足の悪い母親の看病をしていたソジンにとっても助かる存在となった。
しかし…。何かがおかしい。ユジンは完璧で、両親も娘もまったく何の疑いも抱いていないが…。
彼女は本当に妹なのか?
というような話です。
ユジンのなんとなく胡散臭い雰囲気は最初からあって、観客としては、きっと妹じゃないんだろうなぁ、という見方を最初からすることになるのだけど、それにしても、どんな風に話が展開していくのかまったく想像がつかない物語だった。ユジンは妹なのか、という謎もありつつ、他にも不審な点がいろいろと出てくる。しかし、不審がっているのはソジンだけ。両親も娘も、ユジンを絶賛し、再会して数日だというのに、いつの間にかするりと家族の中に溶け込んでいる。それは喜ばしいことのはずなのだけど、はっきり何と指摘できない程度の些細な違和感がじわじわと降り積もっていく。その感じを出すのが、主演の女優さん、メチャクチャ上手かったなぁ。家族に対する疑いを抱かせない表の顔と、何やら企んでいそうな裏の顔が、確かに違うんだけどその差が実に微妙で紙一重。観ている側も、「裏の顔があるっていうのは、自分の勘違いなんじゃないか」と思ってしまうような感じがあって、絶妙な演技だったと思う。
そして何よりも恐ろしいのが、ユジンを怪しむソジン自身が、逆に家族から疑わしい目で見られるようになっていく過程だ。これはなかなか凄い。
端から戦略を練り、仲間もいるユジンとは違い、何が起こるのか分からない中で臨機応変に対処し続けなければならないソジンの方がもちろん圧倒的に不利だとはいえ、ソジンの振る舞いには明らかに失策だよなぁ、と感じるものもある。「見せ方」という点で、ソジンはユジンにまったく及ばない。現実を正しく捉えているのはソジンの方なのに、ユジンによって「本物」が塗りつぶされ、「ホンモノらしさ」が少しずつ本物へと変わっていく過程は見事でした。
若干、最後の方の展開には不満が残るというか、急展開と言えばそうなのだけど、その地点から物語のラストの地点まで行くのはちょっと無理あるんじゃないか、というような急転直下的な事態の変転がある。ある意味で予想外の結末というか、その地点からそこまでの展開は想像できないわ、という感じになるので、ちょっと無理あるかなー感が強いラストの展開ではあるのだけど、でも全体的には、繊細な心理描写と、正しいことを主張している人間がいかに錯乱していると判断されてしまうのかという怖さみたいなものが非常によく醸し出されている映画だなと思いました。
しかし、主演の女優さん、表情や佇まいがホントに見事だったと思います。
「食われる家族」を観に行ってきました
映画を観ながら考えていたことは、「本物」より「ホンモノらしさ」の方が強い、ということだ。これは、非常に現代的だなと思う。
今、世の中の風潮で感じることは、「本物」とか「本当」とかって、もはやどうでもいいんだな、ということだ。
僕自身は、「本物」とか「本当」が知りたい。科学的な裏付けがあったり、綿密な取材がなされたり、そういう知識や情報を得るのが好きだし、それが「本物」「本当」であるかは、僕にとっては割と重要な要素である。
しかし世の中の人は、「本物であるかどうか」より「ホンモノらしいかどうか」の方が重要なのではないかと感じる。例えば、「ウィキペディアの記述を鵜呑みにしてはいけない」というのは、ネット情報に触れる上での大常識、いろはのいだと思うのだけど、「ウィキペディアに書いてあるから」という理由で信じる人というのもいる。あるいは、以前非常に驚いたのが、一緒に働いていた人に「テレビでやってることの半分は嘘だからね」と言ったら、もの凄くびっくりしていたことがある。僕の「半分」という主張にはまったく根拠はないが、しかし、程度はともかく、一定以上の嘘が混じっているというのは、当たり前のリテラシーとして持って無ければならないと思うのだけど、その人は、「テレビで流れている情報”だから”正しい」と感じていたようだ。
これはまあ、リテラシーの問題だと言えばそれまでなのだけど、僕は能力の問題というよりも、「本物」に対する関心の無さから生まれるものなんじゃないかと感じている。
それはある程度仕方ない部分はある。例えば、ネットで調べると数字は色々出てくるけど、概ねこんな感じの情報が出てくる。「人類が30萬年かけて蓄積した情報量と、2001年~2003年までに蓄積した情報量は同じだ」。何が言いたいかと言えば、昔と比べて僕らが日常的に触れる情報は莫大に増えたということだ。触れる情報の一つ一つに、「本物」かどうかという視線を向けるのは無理だ。だから人間は、情報の真偽に関するセンサーをある程度鈍麻させることで処理能力を高め、その処理方法で何か問題が発生した時に対処する、というやり方に変えたのだろう。
そして、そういう世の中だからこそ、この映画のような状況はいかようにでも起こりうる。「本物」を生み出すことは非常に難しいが、「ホンモノらしさ」を作り出すことは努力でなんとかなる。そして、「本物」に対するセンサーが薄れているからこそ、「ホンモノらしさ」はある閾値を超えると「本物」にすらなり得てしまう。
怖っ!
内容に入ろうと思います。
建築事務所の代表であるカン・ソジンは、半年前に妻を交通事故で喪い、悲しみの底にいる。ひき逃げ犯を見つけるべく、友人の精神科医に催眠療法をしてもらっているが、成果はない。娘のイェナには妻が死んだことは言えず、遠くにいるとだけ説明している。
ある日ソジンの元に、児童福祉館から電話が掛かってくる。1996年に失踪した妹のユジンを見つけた、というのだ。ソジンは、家族で遊園地に行った時、母から妹の手を離すなと言われていたのに離してしまい、その後25年間ずっと行方不明のままだった。妹だと名乗る女性に会いに行くも、ソジンはDNA鑑定を要求。妹だと名乗り出る人物がこれまでも多く、その度に母に心労を掛けるからというのがその理由だ。
結果は、肯定確率が99.99%以上。妹だ。両親は喜び、養父母を亡くしたばかりだというユジンと一緒に住むことに決める。ユジンは料理が上手く、両親や娘ともすぐに打ち解け、シングルファーザーとして娘の子育てと、足の悪い母親の看病をしていたソジンにとっても助かる存在となった。
しかし…。何かがおかしい。ユジンは完璧で、両親も娘もまったく何の疑いも抱いていないが…。
彼女は本当に妹なのか?
というような話です。
ユジンのなんとなく胡散臭い雰囲気は最初からあって、観客としては、きっと妹じゃないんだろうなぁ、という見方を最初からすることになるのだけど、それにしても、どんな風に話が展開していくのかまったく想像がつかない物語だった。ユジンは妹なのか、という謎もありつつ、他にも不審な点がいろいろと出てくる。しかし、不審がっているのはソジンだけ。両親も娘も、ユジンを絶賛し、再会して数日だというのに、いつの間にかするりと家族の中に溶け込んでいる。それは喜ばしいことのはずなのだけど、はっきり何と指摘できない程度の些細な違和感がじわじわと降り積もっていく。その感じを出すのが、主演の女優さん、メチャクチャ上手かったなぁ。家族に対する疑いを抱かせない表の顔と、何やら企んでいそうな裏の顔が、確かに違うんだけどその差が実に微妙で紙一重。観ている側も、「裏の顔があるっていうのは、自分の勘違いなんじゃないか」と思ってしまうような感じがあって、絶妙な演技だったと思う。
そして何よりも恐ろしいのが、ユジンを怪しむソジン自身が、逆に家族から疑わしい目で見られるようになっていく過程だ。これはなかなか凄い。
端から戦略を練り、仲間もいるユジンとは違い、何が起こるのか分からない中で臨機応変に対処し続けなければならないソジンの方がもちろん圧倒的に不利だとはいえ、ソジンの振る舞いには明らかに失策だよなぁ、と感じるものもある。「見せ方」という点で、ソジンはユジンにまったく及ばない。現実を正しく捉えているのはソジンの方なのに、ユジンによって「本物」が塗りつぶされ、「ホンモノらしさ」が少しずつ本物へと変わっていく過程は見事でした。
若干、最後の方の展開には不満が残るというか、急展開と言えばそうなのだけど、その地点から物語のラストの地点まで行くのはちょっと無理あるんじゃないか、というような急転直下的な事態の変転がある。ある意味で予想外の結末というか、その地点からそこまでの展開は想像できないわ、という感じになるので、ちょっと無理あるかなー感が強いラストの展開ではあるのだけど、でも全体的には、繊細な心理描写と、正しいことを主張している人間がいかに錯乱していると判断されてしまうのかという怖さみたいなものが非常によく醸し出されている映画だなと思いました。
しかし、主演の女優さん、表情や佇まいがホントに見事だったと思います。
「食われる家族」を観に行ってきました
「心の傷を癒すということ 劇場版」を観に行ってきました
メチャクチャ良い映画だった。自分の映画を観るスケジュール的に(内容云々ではなく)観ない可能性の方が高かったから、観て良かった。
以前、ブレイク前にベビーシッターと介護をしていたお笑いコンビ(なんとなく名前は伏せる)に関する記事の中で、こんなことが書かれていた。
「お年寄りの介護は、認知症の方もいるし、やったことに対する感謝が返ってこないこともある。だからある種の冷たさがないと出来ない。だから自分は、絶対にベビーシッターの方がいい」
これは、お笑いコンビ本人のインタビューではなく、会話の中で彼からそういう話を聞いたという人物が伝聞情報として書いた記事だったので、どこまで正確な話か分からない(だから名前は伏せた)。でも、「介護はある種の冷たさがないと出来ない」という発言は、シンプルだけど真理をついてるなぁ、と感じた。
この映画の主人公に対しても、同じ印象を抱いた。
と言っても、安和隆が冷たい人間だ、と言いたいわけではない。彼は精神科医として患者から信頼され、誰に対しても穏やかに話しをし、心の憶測にしまわれてしまっている辛い気持ちをどうにか癒そうとしてきた人物だ。
ただ、そんな彼を「優しい」と表現したくない、とも思うのだ。僕の中でどうしてもそれはしっくり来なかった。
嫌な言い方をするが、「優しいだけの人間」なんてたくさんいる。しかし、優しさというのは、ある種の諸刃の剣でもある。使い方を間違えると、優しさだって誰かを傷つけることがある。僕はそういう例を、多少なりとも見てきた。
安和隆は、「優しいだけの人間」ではない。そして僕は、彼の歩いている道を遥か彼方まで延長すると、その先に「冷たさ」があるように感じられる。そして、だからいいのだと思う。
【私は、世の中の役に立つ仕事をしようとは思いません。とにかく、心について知りたいだけなんです。不思議で、興味深いものなんです。ただそれだけの理由で、精神科医を目指すことは間違いでしょうか?】
安和隆は、学生時代に恩師にそう問いかける。ここにもほのかに、彼の「冷たさ」が見え隠れする。もちろん彼は常に、辛く苦しんでいる人に寄り添いたいという気持ちを常に持ち、それを行動に移している人物だ。正直、それで十分すぎるほどである。それが、どんな動機に支えられているかなどということは、正直、どうでもいいことだ。
しかし、彼の行動を支えているものが「愛」だとしたら、恐らく長続きしなかっただろうと思う。それは、ラスト近く、安和隆が病院のベッドの上で恩師と会話を交わす場面で一層強く感じた。この映画の中で、安和隆の激烈な感情が見える場面はそう多くない。そしてこのベッドでの場面は、その数少ない一つだ。もし彼の根底にあるものが「愛」だとしたら、彼の心はきっと、もっと早く決壊していただろう。それでは、多くの人を救うことができない。彼の根底には、恐らく、「愛」以上に強い「好奇心」があり、たぶんそれが、彼の類まれな行動を支えていたのだと思う。
そして、非常に善人である彼は、「好奇心」で駆動している自分のことを恥じる。授賞式でのこと。「震災のことを書いて賞をもらうなんて申し訳ない気がします」というセリフは、自分の行動原理が理解できてしまっているからこその言葉に、僕には感じられた。
しかし、それが実感できる描写は決して多くはなかったけど、やはり大変な仕事だと感じる、精神科医は。また、先程の病室のベッドの場面に戻ろう。彼は今、心身ともにかなり辛い状況にある。しかしその中にあっても、彼は恩師に対して涙ながらに、恩師を気遣うような言葉を掛ける。僕にはそれが、陳腐な言い方をすれば「職業病」のように見えてしまった。
安和隆は、病院で患者を診ていない時も常に「精神科医・安和隆」であるように見えた。妻と一緒にいても、子供たちと遊んでいても、旧友に再会しても。彼は、「精神科医・安和隆」という呪縛の中にいて、そこから抜け出せない人物のように見えた。決してそれが悪いと言いたいわけではない。少なくとも彼のそういう振る舞いは、彼と関わる大勢の人間を救ったことだろう。
けれども僕は、やっぱり、安和隆のことが心配になってしまった。僕自身も、彼ほどではないけど自分自身よりも周囲を優先しがちだし、そういう人をこれまでにも結構目にしてきたので、そういう人こそ救われてほしいという気持ちを強く抱いてしまった。
【弱いって良いことだぞ。弱いからこそ、誰かの弱い部分に気づいて寄り添ってあげられるんだ。おじさんも弱い部分たくさんあるけど、全然恥ずかしいことない】
「弱さを見せる」と「甘えだ」と言われてしまう世の中に僕たちは生きている。しんどいなぁ。でも、安和隆が言うように、弱いからこそ他人の弱さに気づけるのだと僕も普段から感じている。強い人間、自分が正しいと思っている人間は、他人の痛みを理解しない。そういう人間は、厳しい言い方をすれば、ただそこにいるだけで誰かを傷つけうる。そして、誰かを傷つけていることを自覚できない。弱い人間は逆に、自分が誰かを傷つけてしまっているのではないかと過剰に抑制する。それが、そういう行動もまた、誤解される。
安和隆が望んだ世界は、残念ながら実現されていない。
内容に入ろうと思います。
在日韓国人の両親の次男として生まれた安和隆は、子供の頃に自分が「安田」ではなく「安」だと知り、自分の存在に揺らぎを覚える。高校時代、永野良夫という精神科医の著作を読みふけり、医者の道を志す。しかし、「社会や人様の役に立つ仕事をしろ」と常日頃言っている父には、その希望を言い出せずにいた。東大に進んだ兄とは違い、子供の頃から父親に褒められることの少なかった和隆は、ある日意を決して父に精神科医になるという希望を告げ、その道へと進んでいく。
やがて、若くして医局長となった和隆は、結婚し子供も生まれ、充実した人生を歩んでいた。しかし、その日はやってきてしまう。阪神淡路大震災。妻子を大阪の実家に避難させ、彼は神戸の街で、ノウハウも経験もないまま、災害で心に傷を負った人々のケアに徒手空拳で臨んでいく…。
というような話です。
この映画、何が素晴らしかったって、主演の柄本佑が素晴らしい。僕は普段、俳優の演技がどうのこうのというのはあんまりよくわからないし、そういう部分から映画を見たり評価したりすることってあんまりないんだけど、この映画に関してはとにかく、柄本佑が素晴らしかったの一言に尽きる。
今から書くことは、安和隆にとっても柄本佑にとっても悪口では全然ないつもりなのだけど、柄本佑演じる安和隆が、ちょっとロボットのように僕には見えた。どういうことかというと、感情の起伏を「抑えている」という雰囲気を出さずにフラットにしている、ということだ。これは見事だなぁ、と思いました。
この映画における柄本佑の演技って、僕は結構紙一重だと思います。それは、ただ単調なだけ、という風に見られる可能性がある、ということです。柄本佑は、さっきもちらっと書いたけど、この映画の中で感情らしい感情をあまり見せない。そしてそれは、精神科医としてなんとなくリアリティがある感じがしました(精神科医のこと、知りませんけど)。感情をフラットにして、良いも悪いも表に出さずにいることで、相手の「この人になら喋っても大丈夫」という雰囲気を引き出せるんだろうと僕は思っていて、そして柄本佑の雰囲気はまさにそういう感じだった。
そしてそれを、決して単調に見せない。どう工夫しているのか僕には分からないけど、柄本佑は、感情をほぼ出さないフラットな演技をしているのに、全然単調ではない、というかなり難しい調整を、最初から最後までやり続けているという感じがしました。それが凄い。感情を表に出す演技の方が簡単だ、などと分かったようなことを言うつもりはないんですけど、でもやっぱり、抑制した演技の方が難しいんじゃないかと思います。ここには二重の演技があって、まず「安和隆が精神科医・安和隆を演じている」という演技がまずあり、その外側に「柄本佑が安和隆を演じている」という演技がある。柄本佑はある意味で、その二重の演技をしなければならないので、難しいんじゃないかなぁ、という感じがしました。
柄本佑の見事さは、「安和隆の方が辛い状況なのに無理してる感がない」という場面で一番強く感じた。
例えば、自分ががんであることを妻に告げるシーン。泣き出す妻を抱き寄せ、「家に帰ったら(子供がいるから)泣けないよな。ここで泣いてけ」という。
車椅子を押してもらっている時、後輩医師を励まし、そして「じゃ、行こうか」と軽く口にする。
これ、ホントに難しいと思う。「大変だろうな/辛いだろうな」と思われる立ち位置にいる場合、明るく振る舞うとどうしても「痛々しさ」「無理してる感」が出てしまうものだと思う。しかし柄本佑の場合、それが全然ない。凄いなぁ、と思いながら観てた。
とにかく、柄本佑で成立している映画だと感じた。他の人で、同じ作品を成立させられるんだろうか。ホントに見事。良い映画を観たなぁ。
「心の傷を癒すということ 劇場版」を観に行ってきました
以前、ブレイク前にベビーシッターと介護をしていたお笑いコンビ(なんとなく名前は伏せる)に関する記事の中で、こんなことが書かれていた。
「お年寄りの介護は、認知症の方もいるし、やったことに対する感謝が返ってこないこともある。だからある種の冷たさがないと出来ない。だから自分は、絶対にベビーシッターの方がいい」
これは、お笑いコンビ本人のインタビューではなく、会話の中で彼からそういう話を聞いたという人物が伝聞情報として書いた記事だったので、どこまで正確な話か分からない(だから名前は伏せた)。でも、「介護はある種の冷たさがないと出来ない」という発言は、シンプルだけど真理をついてるなぁ、と感じた。
この映画の主人公に対しても、同じ印象を抱いた。
と言っても、安和隆が冷たい人間だ、と言いたいわけではない。彼は精神科医として患者から信頼され、誰に対しても穏やかに話しをし、心の憶測にしまわれてしまっている辛い気持ちをどうにか癒そうとしてきた人物だ。
ただ、そんな彼を「優しい」と表現したくない、とも思うのだ。僕の中でどうしてもそれはしっくり来なかった。
嫌な言い方をするが、「優しいだけの人間」なんてたくさんいる。しかし、優しさというのは、ある種の諸刃の剣でもある。使い方を間違えると、優しさだって誰かを傷つけることがある。僕はそういう例を、多少なりとも見てきた。
安和隆は、「優しいだけの人間」ではない。そして僕は、彼の歩いている道を遥か彼方まで延長すると、その先に「冷たさ」があるように感じられる。そして、だからいいのだと思う。
【私は、世の中の役に立つ仕事をしようとは思いません。とにかく、心について知りたいだけなんです。不思議で、興味深いものなんです。ただそれだけの理由で、精神科医を目指すことは間違いでしょうか?】
安和隆は、学生時代に恩師にそう問いかける。ここにもほのかに、彼の「冷たさ」が見え隠れする。もちろん彼は常に、辛く苦しんでいる人に寄り添いたいという気持ちを常に持ち、それを行動に移している人物だ。正直、それで十分すぎるほどである。それが、どんな動機に支えられているかなどということは、正直、どうでもいいことだ。
しかし、彼の行動を支えているものが「愛」だとしたら、恐らく長続きしなかっただろうと思う。それは、ラスト近く、安和隆が病院のベッドの上で恩師と会話を交わす場面で一層強く感じた。この映画の中で、安和隆の激烈な感情が見える場面はそう多くない。そしてこのベッドでの場面は、その数少ない一つだ。もし彼の根底にあるものが「愛」だとしたら、彼の心はきっと、もっと早く決壊していただろう。それでは、多くの人を救うことができない。彼の根底には、恐らく、「愛」以上に強い「好奇心」があり、たぶんそれが、彼の類まれな行動を支えていたのだと思う。
そして、非常に善人である彼は、「好奇心」で駆動している自分のことを恥じる。授賞式でのこと。「震災のことを書いて賞をもらうなんて申し訳ない気がします」というセリフは、自分の行動原理が理解できてしまっているからこその言葉に、僕には感じられた。
しかし、それが実感できる描写は決して多くはなかったけど、やはり大変な仕事だと感じる、精神科医は。また、先程の病室のベッドの場面に戻ろう。彼は今、心身ともにかなり辛い状況にある。しかしその中にあっても、彼は恩師に対して涙ながらに、恩師を気遣うような言葉を掛ける。僕にはそれが、陳腐な言い方をすれば「職業病」のように見えてしまった。
安和隆は、病院で患者を診ていない時も常に「精神科医・安和隆」であるように見えた。妻と一緒にいても、子供たちと遊んでいても、旧友に再会しても。彼は、「精神科医・安和隆」という呪縛の中にいて、そこから抜け出せない人物のように見えた。決してそれが悪いと言いたいわけではない。少なくとも彼のそういう振る舞いは、彼と関わる大勢の人間を救ったことだろう。
けれども僕は、やっぱり、安和隆のことが心配になってしまった。僕自身も、彼ほどではないけど自分自身よりも周囲を優先しがちだし、そういう人をこれまでにも結構目にしてきたので、そういう人こそ救われてほしいという気持ちを強く抱いてしまった。
【弱いって良いことだぞ。弱いからこそ、誰かの弱い部分に気づいて寄り添ってあげられるんだ。おじさんも弱い部分たくさんあるけど、全然恥ずかしいことない】
「弱さを見せる」と「甘えだ」と言われてしまう世の中に僕たちは生きている。しんどいなぁ。でも、安和隆が言うように、弱いからこそ他人の弱さに気づけるのだと僕も普段から感じている。強い人間、自分が正しいと思っている人間は、他人の痛みを理解しない。そういう人間は、厳しい言い方をすれば、ただそこにいるだけで誰かを傷つけうる。そして、誰かを傷つけていることを自覚できない。弱い人間は逆に、自分が誰かを傷つけてしまっているのではないかと過剰に抑制する。それが、そういう行動もまた、誤解される。
安和隆が望んだ世界は、残念ながら実現されていない。
内容に入ろうと思います。
在日韓国人の両親の次男として生まれた安和隆は、子供の頃に自分が「安田」ではなく「安」だと知り、自分の存在に揺らぎを覚える。高校時代、永野良夫という精神科医の著作を読みふけり、医者の道を志す。しかし、「社会や人様の役に立つ仕事をしろ」と常日頃言っている父には、その希望を言い出せずにいた。東大に進んだ兄とは違い、子供の頃から父親に褒められることの少なかった和隆は、ある日意を決して父に精神科医になるという希望を告げ、その道へと進んでいく。
やがて、若くして医局長となった和隆は、結婚し子供も生まれ、充実した人生を歩んでいた。しかし、その日はやってきてしまう。阪神淡路大震災。妻子を大阪の実家に避難させ、彼は神戸の街で、ノウハウも経験もないまま、災害で心に傷を負った人々のケアに徒手空拳で臨んでいく…。
というような話です。
この映画、何が素晴らしかったって、主演の柄本佑が素晴らしい。僕は普段、俳優の演技がどうのこうのというのはあんまりよくわからないし、そういう部分から映画を見たり評価したりすることってあんまりないんだけど、この映画に関してはとにかく、柄本佑が素晴らしかったの一言に尽きる。
今から書くことは、安和隆にとっても柄本佑にとっても悪口では全然ないつもりなのだけど、柄本佑演じる安和隆が、ちょっとロボットのように僕には見えた。どういうことかというと、感情の起伏を「抑えている」という雰囲気を出さずにフラットにしている、ということだ。これは見事だなぁ、と思いました。
この映画における柄本佑の演技って、僕は結構紙一重だと思います。それは、ただ単調なだけ、という風に見られる可能性がある、ということです。柄本佑は、さっきもちらっと書いたけど、この映画の中で感情らしい感情をあまり見せない。そしてそれは、精神科医としてなんとなくリアリティがある感じがしました(精神科医のこと、知りませんけど)。感情をフラットにして、良いも悪いも表に出さずにいることで、相手の「この人になら喋っても大丈夫」という雰囲気を引き出せるんだろうと僕は思っていて、そして柄本佑の雰囲気はまさにそういう感じだった。
そしてそれを、決して単調に見せない。どう工夫しているのか僕には分からないけど、柄本佑は、感情をほぼ出さないフラットな演技をしているのに、全然単調ではない、というかなり難しい調整を、最初から最後までやり続けているという感じがしました。それが凄い。感情を表に出す演技の方が簡単だ、などと分かったようなことを言うつもりはないんですけど、でもやっぱり、抑制した演技の方が難しいんじゃないかと思います。ここには二重の演技があって、まず「安和隆が精神科医・安和隆を演じている」という演技がまずあり、その外側に「柄本佑が安和隆を演じている」という演技がある。柄本佑はある意味で、その二重の演技をしなければならないので、難しいんじゃないかなぁ、という感じがしました。
柄本佑の見事さは、「安和隆の方が辛い状況なのに無理してる感がない」という場面で一番強く感じた。
例えば、自分ががんであることを妻に告げるシーン。泣き出す妻を抱き寄せ、「家に帰ったら(子供がいるから)泣けないよな。ここで泣いてけ」という。
車椅子を押してもらっている時、後輩医師を励まし、そして「じゃ、行こうか」と軽く口にする。
これ、ホントに難しいと思う。「大変だろうな/辛いだろうな」と思われる立ち位置にいる場合、明るく振る舞うとどうしても「痛々しさ」「無理してる感」が出てしまうものだと思う。しかし柄本佑の場合、それが全然ない。凄いなぁ、と思いながら観てた。
とにかく、柄本佑で成立している映画だと感じた。他の人で、同じ作品を成立させられるんだろうか。ホントに見事。良い映画を観たなぁ。
「心の傷を癒すということ 劇場版」を観に行ってきました
「プラットフォーム」を観に行ってきました
いやー、久々にかなりイカれた、ぶっ飛んだ映画だったなぁ。ざっくりした設定だけ知った上で観に行ったけど、確かに設定の時点で結構ヤバさを感じてはいたけど、中身はその予想を遥かに凌ぐヤバさだった。
まずは内容から。
主人公のゴレンは、ある部屋で目覚める。正方形の部屋の中央に、正方形の穴。そして、上を見ても下を見ても、同じような階層が永遠と連なっている。壁には48という文字。普通に考えれば、少なくとも上に47の階層があり、下にはどれぐらい続いているか分からない。
部屋にはもう一人、老人が。トリマガシと名乗るその男は、もうここに1年もいるらしい。状況が理解できないゴレンに対してトリマガシは、この<穴>の仕組みを伝える。階層は一ヶ月ごとにランダムに変わる。中央の穴の上階から、食い物が乗ったエレベーターのようなものが降りてくる。上階の人間が残した残飯だ。食べるものは、これしかない。食べ残しなど食えるか、と当然考えるゴレンは、初日は食い物に手をつけない。しかしトリマガシに食べないのかと催促され、キレイに残っていたリンゴをとりあえずポケットにいれる。後で食べようと思ったのだ。しかし、それは許されない。食い物は、エレベーターがその階層に留まっている間しか食べられない。食い物を確保すると、部屋が灼熱か極寒になるよう設定されているのだ。
48階はまだマシだ。トリマガシは、132階にいたことがあるという。そして、下にはまだまだ続いていた。132階ともなると、食い物はほとんど残っていない。他に、食べるものはないにも関わらず。それでもどうにか、生き延びなければならない。
エレベーターに乗って、下に行くのは自由だ。様々な理由から、下の階層を目指す者もいる。しかし、上に行く方法は基本的には存在しない…。
というような話です。
何が凄かったって、かなり下層に落ちた時の描写。そこではもう、皿が舐め取られたようにキレイになっていて、食えるものは何も残っていない。水はあるが、食べるもの無しで一ヶ月過ごさなければならない。しかし、そんなことは不可能だろう。だったらどうするか…。答えそのものはここでは書かないことにするけど、まさかエロ以外でモザイクが掛かるとは思わなかったから驚いた。恐らく、元の映画にあったのではなく、日本公開に合わせてモザイクをつけたんじゃないかと思うけど、まあ確かに、フィクションだと頭では分かっていても、相当にハードなシーンだったのは確かだ。
映画は、リアルとファンタジーの狭間のような、なんとも言えない雰囲気を醸し出している。リアルという点で言えば、あまりにもリアルなサバイバルが描かれているし、とはいえ映画全体の設定はある種の寓話のような感じがする。
映画は、誰もが想像できるように、現代社会への皮肉を核として描き出しているのだと思う。富める者が多くを手に入れさらに富み、貧しい者はほとんど何も手にすることができずさらに貧しくなる。非常に無機質で人工的なこの<穴>は、現代社会から様々な虚飾を剥ぎ取って残る骨格のようなものだと思う。基本的に階層ごとに交流は発生し得ないことや、交流が発生する場合、それは争いとして結実する場合が多いなどの描写も、非常に現代的だろう。現代社会と<穴>の最大の違いは、階層が一ヶ月ごとにランダムに変わること。そしてこの設定があることでさらに、人間の愚かさみたいなものが浮かび上がる仕掛けになっている。
現代社会では、人間の階層はほぼ固定されてしまいがちだ。それは、教育や労働のチャンスみたいなものが、お金があるかどうかに大分左右されてしまう世の中だからだ。確かに、例えば今ならYouTuberになって一発当てるみたいな成り上がり方はある。しかし、よほどのことがない限り、今いる階層から大幅にジャンプアップすることは難しい。
しかし<穴>の場合、先月は132階でも、今月は8階ということもあり得る。自分の努力がまったく反映されない一方で、まったくの偶然によって上位に行ける可能性が誰に対しても(恐らく)平等に与えられている。
さて、自分がそういう環境にいるとしよう。どういう行動を取るだろうか?頭で考えれば、誰だってこう考えるのではないか。今自分は8階にいる。上から降りてくる食い物を、下層のことを考えずに食べたいだけ腹いっぱい食べることはできる。しかし、来月になったら132階に落ちるかもしれない。そうなった時、何も食べられないのは困る。だったら、8階にいる今、自分が節度を持った行動を取れば、下層まで全員に食い物が行き渡るのではないか…。
頭で考えれば、これが一番合理的な方法だ。全員が同じように考えるならば、毎月どの階層に振り分けられようが、さほど大きな差の無い生活を送ることができる。
しかし、やはり実際にはそうはならない。恐らくこの映画の描写は、ゲーム理論的な知見も含まれているように思うけど、ゲーム理論には、全員が全員にとって良い選択をすれば全員が損せずに済むのに、自分ひとりの利益を追求しようとすることで全員が損をする、というモデルが存在する。何故そうなってしまうかと言えば、自分以外の人間が、全員にとって良い選択をするということを信じきれないからだ。
<穴>も同じだ。<穴>の住人全員が同じような選択をすれば、全員が長期に渡って利益を得られるのに、他の住人がそういう選択をするとは信じられないが故に、結果的に長期的には不利になることが分かっていて、短期的な個人的な利益を追求する行動を取ってしまう。
映画の中で一人、自分に出来る範囲で(つまり、すぐ下の階層の人間への依頼という形で)、全員の利益を共に追求しようと呼びかける。しかし、すぐ下の階層とさえ、上手く連携を取ることができない。僕も<穴>にいなければならなくなったら、理性的には行動出来ないかもしれないけど、他人事だと思ってみるとやはり、人間の愚かさみたいなものを感じざるを得ない。
主人公のゴレンは、めくるめく環境の変化に翻弄されるが、翻弄されっぱなしでもない。彼はある決断をし、自らの行動によって状況を変えようとする。最終的に彼の行動がどういう結末を導いたのか、その辺りは上手く理解できなかったけど、僕の予想ではたぶん、キリスト教だとか何かの神話みたいなものを重ね合わせた描写がなされているのではないか、と思う。後半は、「◯◯は伝言になり得る」という言葉が頻発するのだけど、恐らくこれがキーワードなんだろうなぁ、と。だから、結末をどう解釈したらいいかというような僕にはなんとも言えない。
<穴>とは一体なんなのか、主人公を含めた住人たちは何故ここにいるのか、管理者の思惑なんなのか、時折挿入される料理を作るシーンは一体どういうことなのか。こういう疑問にはっきりと答えてくれるような場面はなく、観る側が想像力で補わなければならない。そういう読み取りの力が高くない僕としては、若干モヤモヤする部分もあるのだけど、全体的には、非常に斬新で面白い映画だと感じました。でも、グロいのが苦手な人は止めた方がいいと思います。
「プラットフォーム」を観に行ってきました
まずは内容から。
主人公のゴレンは、ある部屋で目覚める。正方形の部屋の中央に、正方形の穴。そして、上を見ても下を見ても、同じような階層が永遠と連なっている。壁には48という文字。普通に考えれば、少なくとも上に47の階層があり、下にはどれぐらい続いているか分からない。
部屋にはもう一人、老人が。トリマガシと名乗るその男は、もうここに1年もいるらしい。状況が理解できないゴレンに対してトリマガシは、この<穴>の仕組みを伝える。階層は一ヶ月ごとにランダムに変わる。中央の穴の上階から、食い物が乗ったエレベーターのようなものが降りてくる。上階の人間が残した残飯だ。食べるものは、これしかない。食べ残しなど食えるか、と当然考えるゴレンは、初日は食い物に手をつけない。しかしトリマガシに食べないのかと催促され、キレイに残っていたリンゴをとりあえずポケットにいれる。後で食べようと思ったのだ。しかし、それは許されない。食い物は、エレベーターがその階層に留まっている間しか食べられない。食い物を確保すると、部屋が灼熱か極寒になるよう設定されているのだ。
48階はまだマシだ。トリマガシは、132階にいたことがあるという。そして、下にはまだまだ続いていた。132階ともなると、食い物はほとんど残っていない。他に、食べるものはないにも関わらず。それでもどうにか、生き延びなければならない。
エレベーターに乗って、下に行くのは自由だ。様々な理由から、下の階層を目指す者もいる。しかし、上に行く方法は基本的には存在しない…。
というような話です。
何が凄かったって、かなり下層に落ちた時の描写。そこではもう、皿が舐め取られたようにキレイになっていて、食えるものは何も残っていない。水はあるが、食べるもの無しで一ヶ月過ごさなければならない。しかし、そんなことは不可能だろう。だったらどうするか…。答えそのものはここでは書かないことにするけど、まさかエロ以外でモザイクが掛かるとは思わなかったから驚いた。恐らく、元の映画にあったのではなく、日本公開に合わせてモザイクをつけたんじゃないかと思うけど、まあ確かに、フィクションだと頭では分かっていても、相当にハードなシーンだったのは確かだ。
映画は、リアルとファンタジーの狭間のような、なんとも言えない雰囲気を醸し出している。リアルという点で言えば、あまりにもリアルなサバイバルが描かれているし、とはいえ映画全体の設定はある種の寓話のような感じがする。
映画は、誰もが想像できるように、現代社会への皮肉を核として描き出しているのだと思う。富める者が多くを手に入れさらに富み、貧しい者はほとんど何も手にすることができずさらに貧しくなる。非常に無機質で人工的なこの<穴>は、現代社会から様々な虚飾を剥ぎ取って残る骨格のようなものだと思う。基本的に階層ごとに交流は発生し得ないことや、交流が発生する場合、それは争いとして結実する場合が多いなどの描写も、非常に現代的だろう。現代社会と<穴>の最大の違いは、階層が一ヶ月ごとにランダムに変わること。そしてこの設定があることでさらに、人間の愚かさみたいなものが浮かび上がる仕掛けになっている。
現代社会では、人間の階層はほぼ固定されてしまいがちだ。それは、教育や労働のチャンスみたいなものが、お金があるかどうかに大分左右されてしまう世の中だからだ。確かに、例えば今ならYouTuberになって一発当てるみたいな成り上がり方はある。しかし、よほどのことがない限り、今いる階層から大幅にジャンプアップすることは難しい。
しかし<穴>の場合、先月は132階でも、今月は8階ということもあり得る。自分の努力がまったく反映されない一方で、まったくの偶然によって上位に行ける可能性が誰に対しても(恐らく)平等に与えられている。
さて、自分がそういう環境にいるとしよう。どういう行動を取るだろうか?頭で考えれば、誰だってこう考えるのではないか。今自分は8階にいる。上から降りてくる食い物を、下層のことを考えずに食べたいだけ腹いっぱい食べることはできる。しかし、来月になったら132階に落ちるかもしれない。そうなった時、何も食べられないのは困る。だったら、8階にいる今、自分が節度を持った行動を取れば、下層まで全員に食い物が行き渡るのではないか…。
頭で考えれば、これが一番合理的な方法だ。全員が同じように考えるならば、毎月どの階層に振り分けられようが、さほど大きな差の無い生活を送ることができる。
しかし、やはり実際にはそうはならない。恐らくこの映画の描写は、ゲーム理論的な知見も含まれているように思うけど、ゲーム理論には、全員が全員にとって良い選択をすれば全員が損せずに済むのに、自分ひとりの利益を追求しようとすることで全員が損をする、というモデルが存在する。何故そうなってしまうかと言えば、自分以外の人間が、全員にとって良い選択をするということを信じきれないからだ。
<穴>も同じだ。<穴>の住人全員が同じような選択をすれば、全員が長期に渡って利益を得られるのに、他の住人がそういう選択をするとは信じられないが故に、結果的に長期的には不利になることが分かっていて、短期的な個人的な利益を追求する行動を取ってしまう。
映画の中で一人、自分に出来る範囲で(つまり、すぐ下の階層の人間への依頼という形で)、全員の利益を共に追求しようと呼びかける。しかし、すぐ下の階層とさえ、上手く連携を取ることができない。僕も<穴>にいなければならなくなったら、理性的には行動出来ないかもしれないけど、他人事だと思ってみるとやはり、人間の愚かさみたいなものを感じざるを得ない。
主人公のゴレンは、めくるめく環境の変化に翻弄されるが、翻弄されっぱなしでもない。彼はある決断をし、自らの行動によって状況を変えようとする。最終的に彼の行動がどういう結末を導いたのか、その辺りは上手く理解できなかったけど、僕の予想ではたぶん、キリスト教だとか何かの神話みたいなものを重ね合わせた描写がなされているのではないか、と思う。後半は、「◯◯は伝言になり得る」という言葉が頻発するのだけど、恐らくこれがキーワードなんだろうなぁ、と。だから、結末をどう解釈したらいいかというような僕にはなんとも言えない。
<穴>とは一体なんなのか、主人公を含めた住人たちは何故ここにいるのか、管理者の思惑なんなのか、時折挿入される料理を作るシーンは一体どういうことなのか。こういう疑問にはっきりと答えてくれるような場面はなく、観る側が想像力で補わなければならない。そういう読み取りの力が高くない僕としては、若干モヤモヤする部分もあるのだけど、全体的には、非常に斬新で面白い映画だと感じました。でも、グロいのが苦手な人は止めた方がいいと思います。
「プラットフォーム」を観に行ってきました