青春18きっぷ旅 移動ルートと電車の時刻表
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8/15~8/29の日程で、青春18きっぷをフルに使って、日本の西の方をふらふらする旅をしてみました。
誰の参考にもならないでしょうが、僕が通った全ルートを書き残しておきます。
旅の途中で旅程を変えたので、ところどころ何線なのかとか発着の時刻が書いてなかったりします。
一日目(18きっぷ使う)8/15(土)
武蔵小杉0700→(JR湘南新宿ライン快速・小田原行)→平塚0743着 0749発→(JR東海道本線)→熱海0842着 0848発→(JR東海道本線・島田行)→興津0950着 1004発→(JR東海道本線・浜松行)→掛川1107着 1116発→(JR東海道本線)→豊橋1217着 1221発→(JR東海道本線新快速)→大垣1346着 1410発→(JR東海道本線)→米原1445着 1501発→(JR北陸本線新快速)→近江塩津1534着 1601発→(JR北陸本線新快速)→敦賀1615着 1643発→(JR北陸本線・金沢行)→福井1734
福井(越前開発駅周辺)の漫画喫茶に泊まる
二日目(18きっぷ使う)8/16(日)
福井1745→(JR北陸本線)→敦賀1837着 1849発→(JR北陸本線新快速・姫路行)→大阪2117着
梅田の漫画喫茶に泊まる
三日目(移動なし)8/17(月)
梅田の漫画喫茶に泊まる
四日目(18きっぷ使う)8/18(火)
梅田(大阪市営)0709→(大阪市営御堂筋線・なかもず行)→なんば0717→(徒歩)→難波0728発→(南海特急ラピートβ21号)→岸和田0757
岸和田→(南海線)→堺
堺1051→(南海特急サザン18号)→新今宮1059着 1108発→(JR大和路快速・天王寺行)→大阪1122着 1130発→(JR東海道本線新快速・播州赤穂行)→三宮1150
神戸14221425→(JR山陽本線新快速・播州赤穂行)→姫路1501
姫路1707→(JR山陽本線新快速・播州赤穂行)→相生1726着 1728発→(JR山陽本線・新見行)→岡山1839着 1840発→(JR山陽本線・岩国行)→倉敷18:56
倉敷のビジネスホテルに泊まる
五日目(移動なし)8/19(水)
倉敷のビジネスホテルに泊まる
六日目(18きっぷ使う)8/20(木)
倉敷0732→(JR山陽本線)→岡山0750着 0755発→(JR快速マリンライナー9号)→高松0850
高松1313→(JR快速サンポート南風リレー号・松山行)→多度津1344着 1358発→(JR土讃線)阿波池田1509 (ちょっと途中下車) 阿波池田1554→(JR土讃線)→土佐山田1809着 1825発→(JR土讃線)→窪川2126
窪川の民宿に泊まる
七日目(18きっぷ使う)8/21(金)
窪川0652→(土佐くろしお鉄道中村線)→中村0752 or 窪川0827→(土佐くろしお鉄道中村線)→中村0924
中村1203→(土佐くろしお鉄道中村線・窪川行)→若井1300着 1325発→(JR予土線・宇和島行)→北宇和島1524着 1525発→(JR予讃線)→松山1830→(徒歩)→松山駅前→(伊予鉄道市内線)→道後温泉1905
道後温泉2206→(伊予鉄道市内線)松山市駅前2226
松山市駅の漫画喫茶に泊まる
八日目 8/22(土)
松山市駅→(タクシー)→松山観光港0625→(フェリー)→広島港0905
広島→(JR山陽本線)→岩国
岩国の漫画喫茶に泊まる
九日目(18きっぷ使う)8/23(日)
岩国0644→(JR山陽本線・下関行)→新山口0849着 0912発→(JR山口線)→山口0935着 0946発→(JR山口線・益田行)→益田1150着 (乗り継ぎの間に駅前をうろうろ) 1250発→(JR快速アクアライナー・米子行)→大田市1434着
大田市→(JR山陰本線)→出雲市
出雲市の漫画喫茶に泊まる
十日目(18きっぷ使う)8/24(月)
電鉄出雲市0654発→(一畑電車北松江線・松江しんじ湖温泉行)→川跡0702着 0705発→(一畑電車大社線)→出雲大社前0714
出雲大社前1017→(一畑電車大社線)→川跡1028着 1031発→(一畑電車北松江線)→電鉄出雲市1040着→(徒歩)→出雲市1138→(JR山陰本線・米子行)→米子1256着 1309発→(JR山陰本線)→鳥取1446着
鳥取1724発→(JR山陰本線)→浜坂1808着 1824発→(山陰本線)→城崎温泉1918着
城崎温泉2201→(JR山陰本線)→豊岡2210
豊岡の漫画喫茶に泊まる
十一日目(18きっぷ使う) 8/25(火)
豊岡0625→和田山 0654着 和田山0708→(JR播但線・寺前行)→竹田0717
竹田0910→(JR播但線)→和田山0917着 0930発→(JR山陰本線)→豊岡1010着 1058発→(京都丹後鉄道宮舞線・豊岡行)→天橋立1212
天橋立1446→(京都丹後鉄道宮豊線)→西舞鶴1525着 1530発→(JR山陰本線)→綾部1553着 1607発→(JR本線)→園部1712着 1715発→(JR山陰本線)→嵯峨嵐山1739着
嵐山→京都
京都の四条河原町のマンガ喫茶に泊まる
十二日目 8/26(水)
三条京阪0639発→(東西線)→山科0647着 (ここから琵琶湖190円の旅)0706発→(湖西線)→近江今津0804着 0813発→(湖西線)→近江塩津0833着 0903発→(JR北陸本線)→米原0936着 0950発→(JR東海道)→大津1033
大津→彦根
彦根2020→(JR東海道本線新快速)→米原2025着 2031発→(JR東海道本線)→大垣2105着 2109発→(JR東海道本線新快速・豊橋行)→名古屋2141着 2155発→(JR関西本線区間快速・亀山行)→桑名2218着 2228発→(近鉄名古屋線急行)→伊勢中川2319着 2328発→(近鉄山田線・宇治山田行)→松ヶ崎2334
松ヶ崎の漫画喫茶に泊まる
十三日目 8/27(木)
松ヶ崎0810→(近鉄山田線)→伊勢市0841
伊勢市1619→(近鉄山田線急行)→近鉄名古屋1806
名古屋→(JR東海道)→ 豊岡
豊岡の漫画喫茶に泊まる
十四日目(18きっぷ使う) 8/28(金)
豊橋0600→(JR飯田線)→為栗0839着
為栗0948発→(JR飯田線)→小和田1011着
小和田1119発→(JR飯田線)→田本1149着
田本1308発→(JR飯田線)→平岡1323着 (駅の中の温泉)
平岡1642発→(JR飯田線)→天竜峡1716着 1718発→(JR飯田線)→岡谷1957着 2003発→下諏訪2007着
下諏訪の漫画喫茶に泊まる
十五日目(18きっぷ使う)8/29(土)
下諏訪0759→(JR中央本線)→松本0832着 0840発→(JRみすず)→長野0958着 1006発→(長野電鉄長野線・信州中野行)→小布施1039
小布施1351発→(長野電鉄)→長野1425着
長野1605着→(JR信越本線)→小淵沢1829着 1859発→(JR信越本線)→大月2033着 2050発→(JR中央線)→立川2148着 2155発→(JR南武線)→武蔵小杉2337着
TOEICの勉強を一切せずに、7ヶ月で485点から710点に上げた勉強法
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《目標》
2014年の僕は、特に理由もなく大量の資格を取ることを目標にしてみましたが(詳しくはこちら→資格の勉強をしたい方へ)、2015年は相変わらず理由もなく英語の勉強でもしてみることにしました。
色々事情があって、7月までしか勉強出来ない状況になりましたが、それまでの間、僕がどんな風に勉強をして、成果はどうだったのかなどを書いてみようと思います。
2014年の12月に初めてTOEICを受けた時の点数は485点でした。さて、ここからTOEICの点数がどう変動していったか、まずそれを書いてみます。
2014年12月14日 485点(リスニング 260点・リーディング 225点)
2015年3月15日 640点(リスニング 305点・リーディング 335点)
2015年4月12日 685点(リスニング 345点・リーディング 340点)
2015年5月24日 625点(リスニング 325点・リーディング 300点)
2015年6月28日 630点(リスニング 310点・リーディング 320点)
2015年9月13日 710点(リスニング 335点・リーディング 375点)
正直、思ったような点数の伸びではなかったので残念でした(正直、もうちょいいけるだろうと思ってました)。
「日本のいちばん長い日」を観に行きました
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この映画を見た後の僕の感覚を一言で表現すると、「本人が演じていないノンフィクションなんだろうな」ということでした。
先に、僕が持っている「戦争」に関する知識レベルについて書いておきます。
僕は学生時代、理系だったこともあって、高校時代には日本史・世界史の授業は取らず(今では問題になるでしょうね)、小学校・中学校でも歴史の勉強をしなかったために、ごくごく基本的な事実も未だに知らないままです。大人になって、色んな本を読むようになってから、現代史に限らず、やっぱり歴史の勉強をしたいなと感じることはとても多くあるんですけど、いずれいずれと思って、結局いずれを先延ばしにしている状態です。
なので基本的に、終戦に至る流れどころか、戦争に至った流れやそれからの戦局などについても、ほぼ知りません。「東條英機」「ポツダム宣言」「玉音放送」みたいな超メジャーな単語は知っていますが、じゃあ「東條英機はどんな人?」と聞かれても答えられません(陸軍を率いた人なんだろうな、とは思うけど、じゃあ陸軍大臣とかと何が違うのかと聞かれるとよく分かりません)。というような、本当に何も知らない人間がこの映画を見たと思ってください。
映画は、1945年4月から始まります。陛下は、本人の反対を押し切って、鈴木氏に内閣総理大臣を託します(『もう他にはいない。頼むから、気持ちを曲げて、承諾してもらいたい』)。鈴木は陛下と近い関係にあり(それがどんな関係かは失念してしまった)、陛下の考え(つまりこれは終戦ということなんだけど)を汲んで動いてくれるだろう、という期待が込められていたのだろうと思う。
鈴木にとっての一番の懸念は、陸軍大臣を誰にするかということ。何故なら、東條英機を筆筒とする陸軍の暴走はやはり表面化していて、それを抑えられる人物でなければならないと考えたからだ。白羽の矢が立ったのは、阿南氏。阿南は、「あれだけ部下を殺しても恨まれなかった」と言われるほど陸軍内で人望があり、陸軍大臣が阿南に内定したことが陸軍内で広まると、これで戦局の拡大が期待出来ると兵士たちが高揚するような人物であった。
陛下の意を汲み、終戦に向けた流れを作ろうとする鈴木。陸軍のトップの一人として、またかつて陛下の侍従長を務めた人間として、また一人の軍人として、様々な思い渦巻く中終戦へのレールを敷く決意をした阿南。
『従来の概念に囚われることなく、戦争の終決について研究し、それを実現することを希望する』
御前会議でそう発言した陛下の意を汲まず、暴走を続ける陸軍。
8月15日の終戦へと向けて、ぎりぎりの調整と戦いを続けた者たちの、最後の最後の、長い長い決断の物語。
最初に書いたように、この映画を見て僕は、「本人が演じていないノンフィクション」だと感じました。もちろん、歴史の解釈には様々あるでしょうし、この映画もその解釈の一つだろうということは分かっています。それに、例えば鈴木総理が会議中にそっと漏らした、「耳が悪いのは便利だね。何も聞こえん」みたいなセリフを、実際に鈴木氏が言ったというわけでもないでしょう。とはいえ、基本的な事実は史実に沿って描かれているでしょうし、人物の言動についても、この人物ならこういうことを言ったりやったりしてもおかしくはない、という造形がなされているんでしょう。そういう意味で、ノンフィクションに近い作品なんだろうなと思いながら観ていました。
僕が最も印象に残った言葉は、陛下のこの言葉です。
『わたくしの名の元に始まったこの戦争を、わたくしの本心からの言葉で終決させられるなら、わたくしは嬉しく思う』
あぁ、そうか、と感じました。先の戦争では、それはもう多くの人が傷つき苦しんだことでしょう。でも、ある意味で最も傷つき苦しんだのは、天皇陛下かもしれない、と感じました。「わたくしの名の元に始まった戦争」なわけです。もちろん陛下だって、周囲の人間が自分の(あるいは皇室の)ことを考えてくれているからこそ戦争に踏み切ったのだ、というような理解も当然あったでしょう。しかし、『この戦争は応仁の乱だね。もう15年も続いてる』と陛下がこぼしたように、もう15年も、「自分のために人が死んでいく環境」の中に陛下はいる。そのことを、先の言葉からもの凄く強く感じました。
歴史や政治力学に無知な僕は、「天皇が一言「戦争止めよう」って言ったら、それで戦争終わるんじゃないの?だって昔は、今よりも断然、陛下の存在感って大きかったわけでしょう?」みたいなアホみたいなことを考えたりとかしていたんですけど、その疑問も映画を観ている中で解消されました。鈴木総理が、最終手段である「聖断(陛下による決断)」に踏み切る過程で、こんなことを吐露します。
『もう陛下に決めていただくしかない。しかしそうなると、戦争の全責任が陛下に掛かることになる。そんなことをさせるわけにはいかない。すべての責任は、私が取る』
おそらく陛下もそのことは理解していたでしょう。また、これは阿南の母が言っていたのだけど(阿南の母もかつて、陛下の侍従だったと思われる)、
『陛下は私がお世話していた時から変わりません。周りに配慮して、そっと意見を伝えられるんですよ』
というような性質のあるお方。そんな方からすれば、「自分のために」という側面もあるはずのこの戦争を無下にするような決断をすることを躊躇ってしまう気持ちもあったのかもしれないと思います。
この映画ではとにかく、陛下の優しさが随所で滲み出ている。一番印象的だったのは、御前会議終了直後のことだ。同じく会議に参加していた阿南を「ちょっと」と呼び出し、廊下で立ち話をする。その内容が、
『先の空襲で帝国ホテルが壊滅したと聞きました。結婚式は無事済んだのか?』
と、阿南の娘の結婚式を慮る発言をされます。他にも、散歩中に、別の植物の生育を妨げる雑草を自らの手で抜いたり、帰ってきた侍従(たぶん)に、「疎開している家族には会えたのか?」と声を掛けたりします。また、東京の空襲が激しくなり、皇居を長野に移転しようという話が持ち上がった時も、「東京で国民と痛みを分かち合いたい」と言って承諾しなかったという場面もありました。
陛下の本心が語られることはないのだけど(それが出来る立場の人ではないですから)、とはいえ、随所ににじみ出るその細やかな優しさと、戦争終決への強い意志、国民の気持ちに寄り添おうとするあり方などから、陛下が抱えているだろう苦悩がものすごくよく見えてくる感じがします。
『このまま本土決戦に突入すれば、国民が滅びてしまう。一人でも多くの日本国民に残ってもらって、将来再び立ち上がってもらうしか方法がない』
『私自身はどうなろうとも、国民の命を助けたい』
『戦争終決となれば、国民はいたく動揺するだろう。そのために、私にできることがあればなんでもする。マイクの前にでもいつでも立つ』
陛下は、恐らく誰よりも教養や知識があり、また英米の考え方なども知っていたことでしょう。恐らく、狭い島国である日本という環境の中で、世界を、そして未来を見通す目を持つことが出来た数限りない人だろうと思います。そして自分自身が、陛下であるという強い存在だということももちろん認識している。しかしその一方で、その力があまりにも強大であるが故に、おいそれとは行使できないということも理解していた。最後には、自分がどうにかするしかないとは分かっていただろう。しかしそのためには、多くの国民が苦しみ、死んでいき、もう無理だと周囲を納得させられるだけの状況になっていなければならない。恐らく陛下は、そんなようなことを考えているのではないかと感じた。
あまりにも強すぎる力を持つが故に、戦争終結に向けて力を行使できない。しかし、行使しなければ、その間、国民がどんどんと命を落としてく。それが分かっていて、どうにもすることが出来ない。しかも、苦しいことに、その国民がどんどん命を落としていくこの戦争は、自らのために行われたという側面もある。こういう思いを抱えながら、15年、孤独の中耐え続けて行く心境というのは、とても想像出来るものではないのだけど、映画を観ていて、陛下の気持ちに一番感情移入してしまったように思う。
『心配してくれるのは嬉しい。しかし、もうよい』
もっと早くこう言えていれば、色んなことが違ったのかもしれない。
この映画でで描かれる人物の中で、中心的な役割を果たすのはあと二人いる。鈴木総理と、阿南陸軍大臣だ。この二人も、立場や考え方に様々に相違はあれど、ともに戦争の終決を目指しギリギリのやりとりを続けており、その思いの強さに打たれる。
鈴木は、以前の役職(総理なのかな?)の時に命を狙われたりしている。「また狙われるな」と鈴木が言うと、奥さんが「何発打たれたって大丈夫だったんだから。今度も大丈夫よ」と言うようなたくましい家族もいる。鈴木は、終戦に強く強くこだわり、またその実現に向けてあらゆる手を尽くした。
『(ルールから言って内閣は総辞職すべきではないのかと問われた時)総辞職はしません。この戦争は、この内閣で終結です』
こんな言葉にも、鈴木の強い意思が込められている。
『ソ連の参入、原爆の投下。私は、これ以上の終戦の継続は不可能だと考えます』
『誠に異例ではありますが、御聖断を拝しまして、本会議の結論としたく存じます』
やれることはすべてやる。使えるものはすべて使う。どんな手を使ってでもこの戦争を終わらせてやるという、この鈴木という男の強い意思がなければ、戦争は終わらなかったのかもしれない。
一方で、阿南というのは、鈴木ほどにはわかりやすく描かれはしない。陸軍大臣という立場、元侍従長であったという経歴、そして一人の軍人としての苦悩。阿南もまた『しかし、どうしたら戦争を終結させられるのか』と考えつつも、暴走しなけない軍部をけん制するため、そしてまた、陛下のためと信じて鈴木と激しくやり合う場面もある。
『私は、大本営直属の軍人ではありません。陛下直属です』
阿南がそう答える場面がある。これこそが、阿南を突き動かす行動原理の最も深い所にあるものなのだろう、という感じはした。陸軍としてどうかということよりは、陛下にお仕えしたことがあるものとしてどうすべきか。その考えが阿南を突き動かす。だからこそ阿南は、強硬に「国体の護持」について触れる。「戦争は終結させなければならない」が「国体が護持されないのであれば認められない」と、安易な戦争終結に歯止めを掛けようとする動きも見せる。
また、一軍人として、阿南はかつては「どんどん進め!」と強硬に作戦を遂行させるタイプの指揮官でもあった(だからこそ、多くの陸軍兵は、阿南が陸軍大臣になることを喜んだ)。その陸軍に所属する者として、「このまま戦争を終わらせることは本当に良いのか」という疑問もあったことだろう。
『(日本は事実上敗北している、と言われ)局地的には負けているが、戦争に負けているわけではない』
『(手足をもがれたのも同然だ、と海軍に言われ)手足をもがれているのは海軍だけだ』
戦争終結において、陸軍の存在は非常に大きく、そのトップである阿南氏の言動や決断は、終戦への過程に非常に大きな影響を与えることになる。そんな阿南氏が、様々な立場を丸抱えしているために、非常に不安定で、どんな結論を出すのかわからないぞという危うさを感じさせる。もちろん、それが物語的に効果を持つのは、僕のような歴史に無知な人間に大してだけだろうと思うけど、陸軍というアキレス腱を抱えながら終戦という困難な過程を進もうとする阿南の苦悩を強く感じることが出来たように思う。
阿南はやがて、戦争終結に向けて他の多くの人間と足並みを揃えていくことになる。しかしそれは、新たな戦いの始まりでもある。
『納得できないなら、まず私を斬れ!阿南を斬れ!』
これは、戦争終結に向けて動くことを、陸軍内の若手将校(かな?)に告げた時の発言だ。強硬に本土決戦を主張し、阿南の考えを翻意させようとする面々に大して、阿南はこう怒声を浴びせる。阿南は、戦争終結に向けて、陸軍の暴走を抑えこむという非常に困難な役割を果たさなければならない。
僕が映画を観ていてずっと感じていた疑問がある。これも、アホみたいな質問なのかもしれないけど、「どうして陸軍は戦争を継続させたかったのだろう?」ということだ。
現在の視点で見ればこそ、ではあるが、1945年の4月から8月に掛けて、もう日本には戦争に勝つ見込みはほぼなかったはずだと思います。もちろん、当時は相手の戦力や自国の国力なんかをきちんと把握できないままでの戦争だったでしょうし、連合国が日本を占領後どんな風に日本人を扱うのかも分からなかったわけだから、「戦争を止めて、連合国に従うこと」に、今以上に恐怖心や反発心があったことは当然でしょう。
しかし、その一方で、鈴木(だったと思うんだけど)とその秘書官(みたいな人)が陸軍が保有している武器を眺めて、こんなことを呟く場面があった。
『陸軍にはもうまともな兵器は残っていないんだね』『まともな思考力はもう陸軍には残っていませんよ』
つまり、その当時の先を見通せる人っが客観的に見れば、陸軍にはもう出来ることはないということがはっきりと分かる程度には陸軍に窮状ははっきりしていたということでしょう。
映画の中に出てくる陸軍の人間は、一兵卒などではなく、恐らく陸軍学校みたいなところを出たエリートでしょう。そのエリートが、客観的に見れば「明らかに戦争は続けられない」と結論が出るはずの状況下において、どうして「本土決戦」を熱望してまで戦争の継続を願ったのか。
正直僕には、映画を観ている中で、これが一番理解できない点でした。
もちろん、「今まで負けたことがないのだから今度の戦争でも負けるはずがない(負けるわけにはいかない)」「ほんの僅かでも可能性があるならば、その努力をしないのは無能だ」「今までこの戦争を、正しいことだと思ってやってきたのだから、今更間違っていることと認めて終わりには出来ない」というような、色んな考えが表面化していただろうとは思います(今僕が書いたことは、映画からにじみ出るものではなく、僕が勝手に想像したものです)。しかしそれでも、そういう「組織の硬直化」「個人の客観性の喪失」などを考慮してもなお、陸軍の暴走が僕には腑に落ちませんでした。
『とにかく戦争を続ける方法を考えようよ。2000万人を特攻で殺せば必ず勝てるんだ』
『命に変えて、本土決戦をお願いっします』
『原子爆弾恐るるに足らず。是非本土決戦を』
『運を天に任せられないのならば、軍人として最善を尽くすべきではないでしょうか』
『同意するかどうかではなく、最善の努力をするかどうかだ』
こういった発言を、様々な陸軍兵がするのだけど、僕にはどのようにしてそういう思考に至るのか、その時その場にいなかった者には想像が難しいな、と感じました。僕から見れば、彼ら陸軍には「気合」しかない。物資も、武器も、戦力も、まともな作戦もない。しかしそれでも、陸軍は戦争継続を訴える。初めて陛下が御前会議で戦争の終結に触れた翌日、東條英機はあちこちを回って、陸軍兵に火をつけて回る。「陛下がなんと言おうと、戦争は継続だ」というようなことを、陸軍兵に言わせることで、鼓舞しようとする。あまつさえ、戦争終結を決断した閣僚陣を監禁したり、ポツダム宣言の収録されたテープを押収しようとするような計画を立てる。
この映画では、陛下の優しさが随所ににじみ出るのだけど、しかしただ優しいだけではない。東條英機が陛下に、戦争の継続を直談判にやっていた時のこと。陛下は東條英機に対して、ナポレオンの話をする。
『ナポレオンは、前半生は本当に国のために戦った。しかし彼は後半生では、自らの名誉のためにのみ戦った。それはフランスのためにも世界のためにもならなかった。私は歴史を、そのように理解している』
お前もそうなっているぞ、と口に出すことなく暗示させる強い口調で、印象深かった。
最近では東芝が、巨額の不正会計を続けたということで糾弾されているし、少し前であればオウム真理教がエリート集団でありながら暴走してしまった。どんな時代にあっても、組織の大小に関わらず、組織は暴走する危険性を持っている。そういう意味で、僕には陸軍の暴走はまるで理解できないけど、しかし理解できないで片付けてはいけない問題なのだなとも感じる。また戦争になるかもしれない、という空気を、2015年の今僕は感じている。もし戦争に突入すれば、同じようなことは必ず起こる。だから、「なぜ陸軍は暴走したのか」は、自分なりに調べて理解して、自分なりの結論や対策を持っておくべきなのだろう、という風に感じた。映画では(恐らく史実でも)、畑中という将校が中心となって陸軍が暴走していくわけだけど、自分が畑中になる可能性さえあると思って、油断してはいけないなと感じた。
最後に一つ。非常に印象的だった一連の流れについて書いて終わろうと思う。
この映画で描かれていることは恐らくどれも史実だろうから、何を書いてもきっとネタバレにはならないはずと信じて書くのだけど、阿南氏は最後、陸軍大臣としての責任を取ってなのか、切腹をする。
その少し前、阿南は自身の引き出しから木箱のようなものを取り出し、それを鈴木総理に渡す。「自分は吸わないので、是非総理に吸ってもらいたいと思って持ってまいりました」と言って。その時鈴木は阿南に何も声を掛けなかった。
誰が見たってこの阿南の行動は、形見分けだろうと思う。鈴木もそれは分かっただろう。しかし、「死ぬな」というような声は掛けなかった。恐らく鈴木は、阿南が死ぬ覚悟を決めていることを分かった上で何も言わなかったはずだ。
さて、そんな阿南を陸軍大臣に任命したのは、鈴木である。つまり、恐らくではあるけれども鈴木は、阿南を任命した時点で、阿南は死ぬことになるだろうと分かっていたのだろうと思う。阿南の性格や、陸軍の情勢などを考慮すると、それ以外ないだろう、と。もちろん、誰に陸軍大臣を頼んだところで、結局その人物は死ぬしかなかったのかもしれない。しかし阿南は、陛下のお気に入りでもあり、鈴木としても思い入れがある。そんな人物を、死ぬと分かっていて陸軍大臣に任命しなければならなかった鈴木に対して、辛い決断を何度もしたのだろうな、とそんなことを思った。時代が時代であったのだとは言え、鈴木も阿南も、よくもまあそんな苦しい立場を引き受け、まっとうしたな、と。彼らの尽力があったからこそ現在の日本の平和の礎は築かれたわけで、そんな犠牲はもう十分だ、と強く感じます。
様々な人間が様々な立場で登場し、敵・味方に分かれることもある。しかし、強く感じたことは、誰しもが「信念」を持っている、ということだ。後世、それが「間違っている」と明らかになるような「信念」であろうとも、まったく信念を持たないよりはましかもしれない。強く信念を持ち、その信念に則って実際に行動を起こす。そういう意味での強さ・潔さみたいなものは、現代と比べるまでもなく、圧倒的な差だなと感じます。結果、その「信念」の強さが問題をよりこじらせる結果になったわけで、一概に是非を問うことは難しいのだけれど、きちんと軸のある考えを持ち、ぶれずに行動し、そして最後には自分なりにきちんと責任を取るという、日本人らしいのかどうかわからないけどその潔さが誰からも伝わってきて、それが作品全体をぴしっと立たせる要因になっているなと感じました。終戦から70年経ち、戦争を経験した人もどんどんと亡くなっていく中、戦争がまた起こるかもしれないという不穏な空気を内包する日本という国の中で、改めて戦争という歴史につて触れ考えるきっかけになる作品ではないかと思いました。
「日本のいちばん長い日」を観に行きました
「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」を観に行ってきました
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何かと話題のこの映画を観に行ってきました。とはいえ、メディアの評判とかはよく知らないで観に行きましたけどね。
さて、先に僕自身の「進撃の巨人」に対する予備知識について書こうと思います。
まず、原作は、7巻ぐらいまで読んだことがあります(続きを読まなかったのは、つまらなかったからとかではありません。漫画喫茶の最後の余った時間で「進撃の巨人」に手を出したので、途中で時間切れになった、みたいな感じです)。一回読んだだけで、しかもちょっと前の話なので、ざっくりした内容しか覚えていません。登場人物の名前も、「エレン」「ミカサ」「アルミン」「リヴァイ兵長」が分かるぐらいで、後はあやふやです。
原作以外には、まったく触れていません。基本的には、「進撃の巨人」のファンというわけではない、という感じで思っておいてもらえたらいいと思います。
そんなわけで、「原作と比較してどうか」「キャラクターは原作のイメージと合っているか」「映画用にストーリーが改変されたためにここが削られている」みたいな話はさっぱり分かりませんし、僕個人としては、そういう部分は映画の評価には含めません。原作のファンが見れば、まあいろいろあるんでしょうけど、僕にはそういうものは分からないし、もし僕が原作のファンだったとしても、気持ちの上では出来るだけ原作と映画は切り離して観ようと意識しています。
ということを踏まえて、映画全体の感想を書くと、「あまり面白くなかった」となります。
ただこれには、一つ大きな理由があると思っています。それについて書きます。
僕がこの映画を「あまり面白くなかった」と感じた最大の原因は、「コミックを7巻ぐらいまで読んでいたから」となると思います。つまり、設定や大体の展開の流れは知っていたわけです。もし、「進撃の巨人」について、一切の予備知識がない人が映画を観たら、結構面白く観れると思います。随所で予想外の展開が起こるし(あの人物があそこでああなった後まさかああなるなんて!みたいな部分は、結構驚くでしょうし)、異様な設定や、衝撃的なシーンなどが散りばめられているので、映画単体として観た場合、かなり楽しめるのではないかと思います。
ただ僕は、少なくともこの映画で描かれていた部分ぐらいまでは、話を知っていたので、原作未読の人であれば驚くような場面でも驚く感じにはなりませんでした。この点が、僕がこの映画をつまらなく感じた最大の理由だと思います。
あと、当然ではありますが、この映画は前後編で分かれているので、物語の結末に当たる部分は続編の方に含まれるわけです。前編では、舞台設定と、物語の始動、どうなれば作戦が成功であるのかというゴール地点の明示と、予期せぬトラブル。さらに予想外の事態を迎えて、それが解明されないまま物語は閉じるわけです。前編だけで物語が閉じているわけではない、という意味で、この映画単体で面白さを感じられなかったのは仕方ないかもしれません。
とはいえ、僕がつまらなさを感じた部分は、「原作で物語を知っていたが故に、映画の物語に魅力を感じなかった」という点であって、映画の映像の観点で言えば、なかなか楽しめました。僕は、物語が進んで街が荒廃してからよりも、物語の始まり、街にまだ活気があって、みんなが生き生きと暮らしている場面が結構好きでした。狭い路地に売り物や生活物資が山と積まれ、人が様々に行き交い、多様な音が聞こえてきて、その活気全部が「人が暮らしている感じ」を凄く滲ませているので、いいなぁと思いました。その冒頭に、幸せな部分はすぐ終わっちゃうんで、残念なんですけど。
冒頭しばらくして、巨人が街を襲うわけですけど、この場面のスピード感も見事だと思いました。街は大混乱に陥って、狂気に包まれる中、誰もが自分はどうにか生き延びようと必死になる。しかし、無情にも人はあっさりと巨人に食われていき、狂気は益々増大していく。確かに、街を破壊しているのは巨人なんだけど、次第に、人間が生み出す狂気と混沌こそが人間をさらに混乱に陥らせていって、巨人の存在と同じく脅威となっていく。その人間が生み出す脅威の成長過程が、人々が逃げ惑う場面から凄く伝わってきて、これも好きな場面です。
また、これは映画を見てて初めての経験でしたけど、ある場面でびっくりしすぎて席でちょっと飛び跳ねてしまいました(マジです。そんな振る舞いをした自分自身にびっくりしました)。どの場面かは言いませんが、随所で不意打ちを食らわすような場面が出てくるので、ハッとさせる力のある映像が多いと思いました。
個人的には、もう少し「虚無感」が映像から伝わるといいなと思いました。映画の大部分は、巨人の襲撃を受けた2年後の世界を描くわけですが、「2年前の活気のあった街」と比べて、「2年後の世界」がもっと「虚無感」に溢れていてほしかった気がしました。物語の設定としては、その2年前の巨人の襲撃というのは、100年ぶりに起こったものです。つまり、壁の内側で生活しているほとんどの人は、実際に巨人を見たことはなく、主人公の一人も「本当に巨人なんかいるのかよ」と疑問を呈するような発言をします。だから人々は、壁が存在しているという事実は常に認識した上で、「でも平和な世界になったんじゃないか」という楽観をかなり持ってたと思うんですね。
しかし、そんなある日、巨人がやってきてしまった。巨人という存在がそもそも異質で圧倒的で、それが存在しているというだけでも絶望的なのに、そいつらは人間を無残に食い散らかしていくわけです。100年間の平和を享受してきた人たちにとって、これはあまりにも絶望的な状況だと思うわけです。
確かに、2年後の世界で主に描かれるのは、「兵士たち」(たぶん表現的には正しくないと思いますが)です。巨人と立ち向かう決意をした者達の集まりではあるので、ごく普通に暮らしている人よりは、絶望感は薄い、と見ることは出来ます。しかし、物語が進むにつれて、彼らが「兵士」に志願した理由が露わになります。家族との生活を守るため、育児給付が出るから、食いっぱぐれないから…。「巨人に立ち向かうため」という前向きな理由ではなく、かなり現実的で後ろ向きな理由から「兵士」を志願した者ばかりです。
だからこそ、もっと絶望感が画面から伝わったら良かったのに、と感じました。映画の尺の都合など、色んな理由があるとは思いますが、僕は少しそこが物足りないような感じを受けました。
2年後の世界の描かれ方で興味深いと感じたのは、「敵」「味方」が混沌としている、という点です。もちろん、当然人類にとっての共通の敵は「巨人」です。しかしでは、そこに生きる者すべてが、そういうはっきりとした線引をしているかと言えば、そうではないと思いました。それは、「巨人」を「味方」だと感じる者がいる、という意味ではなく、「巨人」という「敵」があまりにも強大過ぎる故に、「巨人」を「敵」と見なすことを恐れ(あるいは、現実味を感じられず)、直接的な「敵」を「巨人」ではないものに設定してしまう者がいる、という意味です。こういう者の存在により、「敵」「味方」という色分けが実に曖昧になっていきます。「敵」である「巨人」が、人類には到底立ち向かえないほどの強大過ぎる存在である、という世界観が生み出す混沌とした世界は非常に不安定で、いつどんなことが起こりうるのかわからないというぐらぐらした感じを観客に与えると思います。その不安定さが、映画全体をまた違った意味で緊張させる要素としてうまく機能しているなと感じました。
原作ファンが観たらどうかは僕には判断出来ませんが、原作を中途半端に読んでしまっていた僕としては、「映画のストーリーは(知っているが故に)面白く感じられなかった」けど、「場面場面での映像や緊迫させるような瞬間的なシーン」なんかは結構面白かったと思いました。
「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」を観に行ってきました
一年間の勉強で、宅建・簿記2級を含む8つの資格に合格する勉強法
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僕は2014年の1月から、「1年間本気出して勉強し続けたら、いくつ資格を取得できるか?」というチャレンジをスタートさせました。
受験したすべての資格の結果(すべて合格しました)
その結果は以下の通りです(受験したすべての資格の結果を、取得した順に並べています)
2月:「ITパスポート」→合格(総合点数:870点/1000点 合格点:600点以上)
5月:「FP(ファイナンシャルプランニング)技能士 3級」→合格(学科⇒点数:53点/60点 合格点:36点以上、 実技⇒点数:47点/50点 合格点:30点以上)
6月:「日商簿記 2級」→合格(点数:72点/100点 合格点:70点以上)
9月:「FP技能士 2級」→合格(学科⇒点数:47点/60点 合格点:36点以上、 実技⇒47点/50点 合格点:30点以上)
10月:「宅建」→合格(自己採点:34点 2014年合格点:32点)
11月:「数学検定」→合格(一次⇒点数:7.0点/7点 合格点:5.0点以上、 二次⇒点数:3.6点/4点 合格点:2.5点以上)
11月:「MOS Word・Excel 2013」→合格(Word⇒点数:944点/1000点、 Excel⇒点数:960点/1000点 合格点:共に700点以上)
追記)「TOEICの勉強を一切せずに、7ヶ月で485点から710点に上げた勉強法」という記事も書いてみました。
XY(徳永圭)
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内容に入ろうと思います。
金沢市内でOLとして働く宗谷聡子。彼女の日常は、何が起こるでもない平坦なもので、仕事の合間に吸うタバコと、同僚で唯一ゲイであることをカミングアウトされている日生という同僚との飲みが聡子の生活を成り立たせている。子供の頃から続けてきた絵は、今では依存のようになっていて、喜びを見いだすものではなく、精神安定剤のような役割を果たしている。
そんな無味乾燥な生活に変化を与えたのは、一人の男性の存在だ。堂島という男性に聡子は惚れ込み、自分のすべてを搾り取られていくようになっていく。
共に空洞を抱える者どうし、聡子はその空洞と交じり合いたいと願っているのだが、堂島の空洞は思いの他深いようだ。次第に、堂島が抱える空洞が具体化していくにつれ、聡子は悲壮な思いを捨てきれなくなっていく。
結婚に興味はない聡子だが、これほどまでに一人の男に絡め取られた今、残り少ないいくつかの選択肢から、最も危うく、最も厳しい道を選びとる聡子…。
というような話です。
正直、なかなかうまく読み込めなかった作品です。
僕がこの作品をうまく読み込めなかった理由ははっきりしています。それは、聡子の堂島に対する思いの強さの源泉がどこにあるのか、うまく捉えきれなかったことです。
詳しくは書きませんが、聡子は堂島との瞬間的な邂逅、それだけによって惹かれたように描かれます。もちろん、現実の世界にも一目惚れというのはあります。ただ、小説であるからには、聡子が何故堂島にそこまで執着することになったのか、その奥行みたいなものが僕には足りないと感じられました。
僕には、読んでも読んでも、何故聡子がそれほどまでに堂島に執着するのか、全然分かりませんでした。詳しく書かないことに決めたので歯切れの悪い表現になりますが、堂島と「きちんと」会う以前の部分に、聡子が堂島に恋に落ちることをうまく包み込むような状況設定というのはあまりなかったような気がします。
とはいえ、この作品は、かつてそういう経験があるという人にはうまく捉えられるかもしれません。強烈な一目惚れや、自分でも理由が分からないけどどうにも惹かれてしまう、というような経験を持つ人には、作中で説明しきれていない(と僕が感じる、ということですが)欠落部分を、自身の経験で補うことが出来るでしょうし、そうであれば、聡子の行動原理に違和感を抱くことなく物語を読み進めることが出来るでしょう。僕はどうしても、読みながら、(なんで聡子はこれほどまでに堂島に執着しているのだろう)という疑問を拭えなくて、物語の中にうまく入ることが出来ませんでした。
その部分を除けば、なかなか力のある作家だと感じました。
文章がまず、ねっとりとしている。淫靡だとかそういうことではなくて、コールタールのように(コールタールって見たことありませんけど)粘性を持っている。ねばっねばっというような音が聞こえてくるかのような文体が、年齢や病気などによって思考や時間が煮詰められていく聡子の日常を非常にうまく表しているような感じがしました。物語がどう展開するか、冒頭の方ではさっぱり読めなくて、そこは読みながら多少イライラしてしまう部分でもあったのだけど(個人的には、冒頭で作品全体の向かう方向性みたいなものが、ざっとでもいいから提示される方が好きです)、とはいえ、このねっとりとした文章が、物語の幸せ度をうまい具合に削っている印象はあって、波風のなかったはずの聡子の日常が悪くなっていくのだろうなぁ、という予感を抱かせるという点ではいいなと思います。
登場人物の造形も、結構好みだったりします。
物語は、9.11のテロが起こった年が舞台になっているのだけど、ある時聡子は、自身に起こったある出来事について、こんな風に語る場面がある。
『想像できる?アメリカのテロのときに、私が何を思ったか。ヒナは怒りそうだけど、あのとき私、瓦礫に押しつぶされたのが自分ならよかったのにって思ったのよ。羨ましかった。痛みも感じずに一瞬で死ねる、もう生きなくていい。それが羨ましかったのに、(略)』
神社なんかでお参りする時、僕はいつも、「死ぬ時は一瞬で死ねますように」と願うことにしている。だから、聡子が言っていることは、物凄く理解できる。僕も、不謹慎だといつも思っているけれども、事故でも災害でも、一瞬で死ねる人というのは羨ましいなと思ってしまう。自分がまさか死ぬなんて思っていなかった日常から、そんな予感さえ抱かせずに一瞬で死ねるというのは、僕にとって、神様にお願いする価値のある、凄く羨ましい最期だ。
聡子が日常の中で感じている名付けようのない倦怠感や、かつての自分が持っていたことさえ忘れがちの未来への希望など、何か特別に不幸なことがあるわけではないけれど、人生に力が入らない感じが、様々な描写からうまく滲み出ているし、その感覚はとてもよく理解できる。
ヒナと呼ばれている日生も、聡子とはまったく違うキャラクターだけど気持ちのいい男で、自分にはこういう真っ当な要素はないけど、こんな風でいられたらいいなと思えるような男だ。優しくすべき時は優しく、厳しくすべき時は厳しく。言うべきことはきちんと伝え、自分の価値感に合わない考え方も相手次第では受け入れる。全体的に「包容力が高い」と表現出来る感じの人物で、ああいいなぁこんな風になりたいものだなぁ、と感じる。
『喉から手が出るほど欲しければ、難しさがどうとか、考えもしないんじゃないのか。そんな余裕はなくて、いてもたってもいられなくなる。考えるより前に身体が動いちまう。そういうものなんじゃないか』
さらに情熱的でもあるっていうんだから、女性のことも好きだったら、メチャクチャモテるだろうなぁ、と思います。
あと本書には一つ、「構造的な部分」があって、しかし個人的には、これは余分なんじゃないか…という気がしなくもない。僕でさえ違和感に気づいたし(普段は全然分からない)、この部分を物語に組み込むことで、プラスになる部分も確かにあるけど(聡子が取ったある行動を、さらに上乗せして強調する役割は果たしている)、でもなくても作品としては成立させられると思うし、最初から最後まで焦点は聡子に当たっている方が、全体のバランスも良いんじゃないかなと感じました。
全体的にはあまり好きではない作品でしたが、作者の力量は感じられる作品でした。
徳永圭「XY」
国語の授業が嫌いで仕方なかった僕が考える、「本の読み方・本屋の使い方」
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この記事は、「あまり本を読み慣れていない方向け」に書いたつもりです。「どうやって本を読んだらいいかわからない」「どうやって本を選んだらいいかわからない」「本は読みたいと思ってるんだけど…」みたいな人に何かきっかけが与えられるような記事になってるといいなぁ、と思います。
まず僕自身が「生粋の読書好きではない」ということから書きましょう。「読書好きが言っていることだから高尚な話に違いない」「読書好きの言ってることはレベルが高すぎて自分には無理」と思われないようにするためです(笑)。とはいえ、これだけ本の感想を書いてるブログ主の言うことなんか、信じてもらえないかもしれませんけどね。
タイトルにも入れましたが、僕は国語の授業も読書感想文も大嫌いでした(数学と物理が大好きな理系人間です)。国語の授業中は、大体別の勉強をしていました。
子供の頃に読んでいた本と言えば、「ズッコケ三人組」や「ぼくらのシリーズ(宗田理)」で、江戸川乱歩や星新一と言った「読書好き」ならきっと誰もが通るような本は読みませんでした(未だに読んでません)。国語の授業は嫌悪していたので(笑)、当然古典などまともに読んだこともなく、夏目漱石や太宰治のような作家の作品を読むのは未だに苦手です。常に、「文章を書く(読んだ本の感想を書く)ために本を読んでいる」と周囲に公言していましたし、2014年以降は、「久々に勉強でもするか」という気分になったので、本を読むことをほぼ休止してたりします。
「どうもこいつは、生粋の読書好きではなさそうだぞ」ということが少しは伝わったでしょうか?生粋の読書好きの語ることは、すごく眩しいです。かなり本を読んでいる僕でも、彼らの語ることに「レベル高けぇなぁ」と感じることがあります。本を読み慣れない人には、なおさらでしょう。僕は、冊数こそかなり読んでいますが、そこまで生粋の読書好きではないので、そこまでハードなことは言わないと思います。気軽に読んでみてください。
そんな僕が大量に本を読むようになったきっかけは、大学二年の時に出会った東野圭吾「白夜行」です。衝撃でした。それから現在まで2500冊を超える様々な本を読み、毎回数千字の感想をここに書き続けました。また、長い事こと書店員として、文庫と新書の売り場の担当をしてきました。そういった中で僕が個人的に考えた「本」「本屋」について文章です。