明日のコミュニケーション 「関与する生活者」に愛される方法(佐藤尚之)
内容に入ろうと思います。
本書は、かつて電通に勤め(現在はフリーにコミュニケーション・ディレクター)、また個人サイトがほとんどなかった1995年に「www.さとなお.com」を開設し、現在までほぼ毎日更新している、そんな著者による、ソーシャルメディアが広告をどう変え、ソーシャルメディアにはどんな可能性があるのか、ということについて、一般人の視点から、そして広告人としての視点から語っていく、という感じの作品です。
ツイッターを結構やっている人的には、この著者はまた別の紹介ができます。鳩山由紀夫首相(当時)にツイッターをやらせた張本人であり、また東日本大震災の際、ヤシマ作戦という節電プロジェクトや、「Pray for Japan」というお馴染みのデザインなどの中心にいた人物なんだそうです。僕はこの著者をフォローしてないんで知らなかったんですけど、ホント幅広いことやってますね。
本書は、ツイッターをかなり使いこなしている人からすれば、肌感覚として理解できていることなのだけど、ツイッターを使っていない、あるいは使っているけどまだ有効に使えきれていないという人には、まだまだ感覚として伝わっていない事柄を、きちんと言葉で説明している、という点で、非常に面白いな、と思います。どんなことが書かれているのか、というのはおいおい触れますが、僕は、『ツイッターを使いこなしているか』どうかはまあおいていくとして、本書で書かれていることはかなり肌感覚で理解できている、という感じがするので(もちろん、理解できていることと実践できていることは大きな隔たりがあるのだけど)、なるほど確かにそうだよなぁと、自分がどんな渦の中にいるのか外側から教えてもらったような、そんな感覚になりました。
本書は、ツイッターにどっぷりはまっている人が読んでももちろん面白いですけど(自分たちがどういう環境の中でどんな行動をとっているのかというのを言語化してくれるというのは非常に面白い)、それ以上に、ツイッターやフェイスブックにまったく触れたことのない人に、それらソーシャルメディアの持つ潜在的な可能性について伝えようとしている作品です。
本書の冒頭では、こんな注意が書かれている。
『そう、日本のソーシャルメディアを過大評価してはいけない。一部の盛り上がりや流行で全体を語るのは危険過ぎる』
日本でのソーシャルメディアの普及率はまだ2割程度と言われ、6割を超えると言われるアメリカの例なんかを出しても比較しようがないほどの、そんな普及率だ。しかし本書では、確かにまだ日本では未成熟なメディアではあるけれども、それでもソーシャルメディアにはとんでもない可能性があるし、いずれ無視できなくなっていくだろう、というようなスタンスで本書を書いています。ソーシャルメディアこそ凄い!こんなに素晴らしいメディアはない!という、礼賛オンリーの本ではない、という点だけまず書いておこうかな、と。
著者は、SIPSというものを提案します。これは、「共感する(S)」→「確認する(I)」→「参加する(P)」→「共有&拡散する(S)」という四つの行動が、ソーシャルメディア上での消費行動だ、ということである。これは、従来の広告のセオリーであったAIDMA、AISASに続く第三の消費行動として著者は提案している。
ソーシャルメディア上においては、とにかく最初の「共感する(S)」が最も重要だ。何故ならば、ソーシャルメディア上では、『共感を纏った情報』しか拡散されないからである。
本書にはこうある。
『ソーシャルメディアは、社会や文化、流行、購買などに大きく影響を与える「関与する生活者」をつなげ、強く結びつけ、その行動を加速させるプラットフォームなのだ。
彼らはおせっかいにも、友人・知人やフォロワーに情報を広め、どんどん巻き込む。そして結果的に社会や文化、流行などに影響を与え、動かしていく』
『ソーシャルメディアは人々に当事者意識を持たせ、「関与する生活者」を生み出すんだ。』
『ソーシャルメディアは、「関与したかったけどいままで関与する手段を持たなかった人たち」や「深く関与したいわけではないけどちょっとだけ関与したい人たち」をも結びつけ、彼らが動くプラットフォームとしても機能したのである。』
ソーシャルメディア上では、「共感」が共通の貨幣となる。
例えばツイッターで言えば、RT(リツイート)というのが、「その意見に共感」を表明する際に使われることが多い。これまで情報をただ受け取るだけで発信しなかった人、あるいはブログで狭い世界で発信していた人など様々な人がいるけど、様々なソーシャルメディアは、いいね!やリツイートと言った形で「自分は共感した」ということを発信するそのツールになったのだ。これは、それまで情報の発信をしてこなかった人々を、ちょっとした発信者に変えた、という革命なのだ。
これまでの広告や情報などは、発信者と受信者が明確に分かれていた。しかしソーシャルメディア時代においては、発信者と受信者の区別が明確ではない。誰しもが「共感」を発信することで、誰しもが発信者になることが出来るツールを手に入れたのだ。
「共感」が共通の貨幣になると、情報は『自動的かつ半自覚的にそこで拡散するように』なる。
それまで広告にせよ情報にせよ、「注意(A:アテンション)」から拡散が始まる。つまり、どうにかしてその広告なり情報なりに「注意を向けて」もらわなくては、伝えたいことが何も伝わらなかったのだ。
しかしソーシャルメディア時代では、情報は『自動的かつ半自覚的に』拡散する。これは、ソーシャルメディアをやっていない人にはなかなか感覚として伝えにくいけど、こちらが何かに注意を向けていなくても情報は勝手に僕の手元までやってくるし、しかも、その情報に興味がない人(つまり、それまでの広告手法では注意喚起されない人)にも勝手に届くのである。茶の間が機能しなくなると同時にテレビの力が衰え、一方でネットの広がりによって個々にコミュニティが出来ていくという、様々なプラットフォームが分断されていた少し前の時代。広告冬の時代、と言われていたそんな時代のことが嘘のように、今や情報は、様々に重なりあったプラットフォーム上を『自動的かつ半自覚的に』拡散していくのだ。これまでの広告はすべてアテンション(注意喚起)を起点としたけど、ソーシャルメディア時代においてはむしろアテンションは邪魔でしかない。それはつまり、広告というものが根本から変わっていく、ということだ。
またソーシャルメディア時代においては、情報は「肯定されるもの」になる。それまでネットでは、賛否様々な情報が入り乱れる環境だった。しかし、「共感」を共通の貨幣としているソーシャルメディア上では、様々な情報は「共感」という重みを少しずつ足されながら拡散していく。これは、「情報を肯定的に受け取る」という、プチ意識革命を引き起こす、と著者は言う。情報を肯定的に受け取ろうとする意識や雰囲気が、発信する怖さを和らげ、結果的にそれまでただの受信者だった人が発信者にもなっていく。すると、情報の拡散スピードがさらに上がっていく、という循環になっていくのだ。
またソーシャルメディア時代では、「常に繋がっている状態」を実現するので、プライベートと隠し事の境がどんどんとなくなっていく。オープンかつ透明にするのが基本で、ほんの少し隠す、という順番になっていくだろう。ソーシャルメディアを広告に使おうとする場合、その特性をきちんと理解し、企業の側もオープンかつ透明でなくてはならない、という意識を持たなくてはいけなくなるだろう。
という感じで、とりあえずここまで、本書の構成をまるで無視して、ソーシャルメディア上の消費行動(SIPS)がどんな影響力を持ち、何を変えていくのかというような部分について印象的だった部分をあれこれと書いてみた。本書はもっときっちりとした構成で書かれている本なのだけど、それをそっくり真似しようとすると内容全部抜き出して書きたいぐらい書きたいことが色々あるんで、こんな感じにしてみました。
本書には他にもいろいろと書かれているのだけど、内容について具体的にあれこれ書くのはこれぐらいにしておこう。どうだろうか。ソーシャルメディアをまるで使っていないという方がもしこの文章を読んでくれているとするならば、ソーシャルメディアが持つ可能性や、あるいはソーシャルメディアが引き起こすだろう変化について、少しは分かってもらえたりするかなぁ。僕は、ツイッターをあーだこーだやっている内に、こういう感覚は肌で感じるんですけどね。
僕は、ツイッターのお陰で物凄い恩恵を受けた人間だ。具体的には書かないけど、ツイッターがなかったら、今僕がいる立ち位置には絶対にいられないだろう、というような劇的な変化があった。僕をそこに導いてくれた、ツイッター上での様々な動きや反応などを経験してきた身としては、本書で書かれていることは非常に分かりやすいし、理解できる。本書で書かれていることに注意しつつソーシャルメディアを有効活用すれば、ある程度以上の確率で、かなり広告や宣伝を成功させることが出来るのではないか、という気がするのです。
僕は普段、書店関係の人とツイッターであれこれ絡まり合っているので、そういう方面から具体例を出してみようと思います。
色んな書店が、その店の公式アカウントを取って色々と発信をしているのだけど、その中でもかなり優れているのが、さわや書店・三省堂有楽町店・三省堂海老名店だと思う。この三店はツイッター上でもかなり有名で、ツイッターをやっている本好きの人であれば、割とフォローしていたりするのではないかと思います。
三店とも、別に本の話ばかりしているわけではありません。というか、本の話ではないことで盛り上がっていることも、本の話で盛り上がっていることと同程度にはあります。
本書を読むと、書店の公式アカウントが、本の話だけしていてはダメだ、という理由が凄くわかると思います。ソーシャルメディア上でのコミュニケーションは、「共感」が基本。自分が読んだことのある本ならまだしも、書店のアカウントのツイートで多いのは、「◯◯が発売になりました」「品切れしていた◯◯が入荷しました」という感じのもの。それはそれで情報として重要なのだけど、それだけを書いていたのでは「共感」は得られない。だってその情報って、まだその本を読んでいない人に届けたいけど、でも読んでない人にはその情報に「共感」しようがないですからね。
本書では、『発信者への共感』を育てることがとにかく重要だ、と書かれています。ソーシャルメディア上での「共感」には、「情報それ自体への共感」だけではなくて、「発信者への共感」というものもある。これをどうやって育てるかによって、情報の伝わり方が格段に変わってくるのだ。
「発信者への共感」を得るためには、ただ情報を流してるだけではダメ。そのアカウントの「中の人」が「人」として様々な人と関わり、様々な話題で盛り上がることで、少しずつ「発信者への共感」というものは生まれていく。それを、ゆっくりとでも着実に育てていないと、ソーシャルメディア上での情報の拡散は成功しない。
先に挙げた三店は、意識してかどうかは別として、そのアカウントそのものへの「共感」を得るように、様々なことをやっている。そして実際に「共感」を得ることが出来ている。だからこそ、彼らが届けたいと思う情報はすぐに拡散するのだ。
本書にはこうある。
『契約タレントに何千万円も払うくらいなら、絶対この人(優秀なソーシャルメディア担当者)に払った方がいい。この人の方がずっと企業にとって価値がある。保証する。』
確かにその通りで、ソーシャルメディア担当者の個性や努力によって、「共感」の度合いはまるで変わってくる。「共感」こそが共通の貨幣であるソーシャルメディア上においては、その「共感」を集められる人間こそが覇者であり、情報を拡散させる力を持つのである。例えば先に挙げた三店のフォロワー数は3000人ぐらいであり、ソーシャルメディア担当者は直接的にはたかだか3000人の人に情報を伝えているだけに過ぎない。たった3000人に情報が伝わったところでどうなんだ、と思う人もいるでしょう。でも、「発信者への共感」が強く築かれている状況の中で、「共感」を伴う情報が発信された時、その情報はとんでもない拡散を見せる。直接的にはたった3000人にしか届かなかった情報が、「共感」を呼び寄せることでその何十倍何百倍もの人たちのところに届く可能性があるのだ。
だからこそ、ソーシャルメディア上では嘘や隠し事は致命的になりうる。それは情報そのものへの「共感」を呼び起こさないどころか、「発信者への共感」さえも削りとってしまうのだ。僕もツイッターを結構やっているけど、その過程で、とにかく嘘はつくまいと肝に銘じてきた。一旦「発信者への共感」が失われると、それを取り戻すことは本当に困難だと、感覚的に理解できるからだ。
と、とにかくつらつらとあれこれ書いてみたけど、どうやってもまとまらないのでこれぐらいにしておこう。もう一度書くけど、日本でのソーシャルメディアの普及率はまだかなり低い。だから、ソーシャルメディアに過度に期待してはいけない。しかし、それまでの広告手法やメディアなどと組み合わせることで強力な武器となるし、ソーシャルメディア単体でもかなり面白いことがやれる環境になっている。そして何よりも重要なことは、ソーシャルメディアの登場によって、それを使っている人たちの意識がどんな風に変わったのかということを的確に掴まなくてはいけない、ということだ。ソーシャルメディアはまだ発展途上だし、これから状況はどんどん変わっていくだろう。本書は、少なくとも現時点での分析、として読むべきだ。本書を読んだ上で、ソーシャルメディア上での変化をどう捉えるかを自分なりに考え、モニターしていかなくてはいけないのだろう。いずれにしても、ソーシャルメディアと関わりを無視することが出来なくなった時代における広告の話があれこれ分析的に(そして時に一般人の目線で)描かれるので、ソーシャルメディアを使っている人にも使っていない人にも凄く楽しめる作品だと思います。是非読んでみてください。
佐藤尚之「明日のコミュニケーション 「関与する生活者」に愛される方法」
本書は、かつて電通に勤め(現在はフリーにコミュニケーション・ディレクター)、また個人サイトがほとんどなかった1995年に「www.さとなお.com」を開設し、現在までほぼ毎日更新している、そんな著者による、ソーシャルメディアが広告をどう変え、ソーシャルメディアにはどんな可能性があるのか、ということについて、一般人の視点から、そして広告人としての視点から語っていく、という感じの作品です。
ツイッターを結構やっている人的には、この著者はまた別の紹介ができます。鳩山由紀夫首相(当時)にツイッターをやらせた張本人であり、また東日本大震災の際、ヤシマ作戦という節電プロジェクトや、「Pray for Japan」というお馴染みのデザインなどの中心にいた人物なんだそうです。僕はこの著者をフォローしてないんで知らなかったんですけど、ホント幅広いことやってますね。
本書は、ツイッターをかなり使いこなしている人からすれば、肌感覚として理解できていることなのだけど、ツイッターを使っていない、あるいは使っているけどまだ有効に使えきれていないという人には、まだまだ感覚として伝わっていない事柄を、きちんと言葉で説明している、という点で、非常に面白いな、と思います。どんなことが書かれているのか、というのはおいおい触れますが、僕は、『ツイッターを使いこなしているか』どうかはまあおいていくとして、本書で書かれていることはかなり肌感覚で理解できている、という感じがするので(もちろん、理解できていることと実践できていることは大きな隔たりがあるのだけど)、なるほど確かにそうだよなぁと、自分がどんな渦の中にいるのか外側から教えてもらったような、そんな感覚になりました。
本書は、ツイッターにどっぷりはまっている人が読んでももちろん面白いですけど(自分たちがどういう環境の中でどんな行動をとっているのかというのを言語化してくれるというのは非常に面白い)、それ以上に、ツイッターやフェイスブックにまったく触れたことのない人に、それらソーシャルメディアの持つ潜在的な可能性について伝えようとしている作品です。
本書の冒頭では、こんな注意が書かれている。
『そう、日本のソーシャルメディアを過大評価してはいけない。一部の盛り上がりや流行で全体を語るのは危険過ぎる』
日本でのソーシャルメディアの普及率はまだ2割程度と言われ、6割を超えると言われるアメリカの例なんかを出しても比較しようがないほどの、そんな普及率だ。しかし本書では、確かにまだ日本では未成熟なメディアではあるけれども、それでもソーシャルメディアにはとんでもない可能性があるし、いずれ無視できなくなっていくだろう、というようなスタンスで本書を書いています。ソーシャルメディアこそ凄い!こんなに素晴らしいメディアはない!という、礼賛オンリーの本ではない、という点だけまず書いておこうかな、と。
著者は、SIPSというものを提案します。これは、「共感する(S)」→「確認する(I)」→「参加する(P)」→「共有&拡散する(S)」という四つの行動が、ソーシャルメディア上での消費行動だ、ということである。これは、従来の広告のセオリーであったAIDMA、AISASに続く第三の消費行動として著者は提案している。
ソーシャルメディア上においては、とにかく最初の「共感する(S)」が最も重要だ。何故ならば、ソーシャルメディア上では、『共感を纏った情報』しか拡散されないからである。
本書にはこうある。
『ソーシャルメディアは、社会や文化、流行、購買などに大きく影響を与える「関与する生活者」をつなげ、強く結びつけ、その行動を加速させるプラットフォームなのだ。
彼らはおせっかいにも、友人・知人やフォロワーに情報を広め、どんどん巻き込む。そして結果的に社会や文化、流行などに影響を与え、動かしていく』
『ソーシャルメディアは人々に当事者意識を持たせ、「関与する生活者」を生み出すんだ。』
『ソーシャルメディアは、「関与したかったけどいままで関与する手段を持たなかった人たち」や「深く関与したいわけではないけどちょっとだけ関与したい人たち」をも結びつけ、彼らが動くプラットフォームとしても機能したのである。』
ソーシャルメディア上では、「共感」が共通の貨幣となる。
例えばツイッターで言えば、RT(リツイート)というのが、「その意見に共感」を表明する際に使われることが多い。これまで情報をただ受け取るだけで発信しなかった人、あるいはブログで狭い世界で発信していた人など様々な人がいるけど、様々なソーシャルメディアは、いいね!やリツイートと言った形で「自分は共感した」ということを発信するそのツールになったのだ。これは、それまで情報の発信をしてこなかった人々を、ちょっとした発信者に変えた、という革命なのだ。
これまでの広告や情報などは、発信者と受信者が明確に分かれていた。しかしソーシャルメディア時代においては、発信者と受信者の区別が明確ではない。誰しもが「共感」を発信することで、誰しもが発信者になることが出来るツールを手に入れたのだ。
「共感」が共通の貨幣になると、情報は『自動的かつ半自覚的にそこで拡散するように』なる。
それまで広告にせよ情報にせよ、「注意(A:アテンション)」から拡散が始まる。つまり、どうにかしてその広告なり情報なりに「注意を向けて」もらわなくては、伝えたいことが何も伝わらなかったのだ。
しかしソーシャルメディア時代では、情報は『自動的かつ半自覚的に』拡散する。これは、ソーシャルメディアをやっていない人にはなかなか感覚として伝えにくいけど、こちらが何かに注意を向けていなくても情報は勝手に僕の手元までやってくるし、しかも、その情報に興味がない人(つまり、それまでの広告手法では注意喚起されない人)にも勝手に届くのである。茶の間が機能しなくなると同時にテレビの力が衰え、一方でネットの広がりによって個々にコミュニティが出来ていくという、様々なプラットフォームが分断されていた少し前の時代。広告冬の時代、と言われていたそんな時代のことが嘘のように、今や情報は、様々に重なりあったプラットフォーム上を『自動的かつ半自覚的に』拡散していくのだ。これまでの広告はすべてアテンション(注意喚起)を起点としたけど、ソーシャルメディア時代においてはむしろアテンションは邪魔でしかない。それはつまり、広告というものが根本から変わっていく、ということだ。
またソーシャルメディア時代においては、情報は「肯定されるもの」になる。それまでネットでは、賛否様々な情報が入り乱れる環境だった。しかし、「共感」を共通の貨幣としているソーシャルメディア上では、様々な情報は「共感」という重みを少しずつ足されながら拡散していく。これは、「情報を肯定的に受け取る」という、プチ意識革命を引き起こす、と著者は言う。情報を肯定的に受け取ろうとする意識や雰囲気が、発信する怖さを和らげ、結果的にそれまでただの受信者だった人が発信者にもなっていく。すると、情報の拡散スピードがさらに上がっていく、という循環になっていくのだ。
またソーシャルメディア時代では、「常に繋がっている状態」を実現するので、プライベートと隠し事の境がどんどんとなくなっていく。オープンかつ透明にするのが基本で、ほんの少し隠す、という順番になっていくだろう。ソーシャルメディアを広告に使おうとする場合、その特性をきちんと理解し、企業の側もオープンかつ透明でなくてはならない、という意識を持たなくてはいけなくなるだろう。
という感じで、とりあえずここまで、本書の構成をまるで無視して、ソーシャルメディア上の消費行動(SIPS)がどんな影響力を持ち、何を変えていくのかというような部分について印象的だった部分をあれこれと書いてみた。本書はもっときっちりとした構成で書かれている本なのだけど、それをそっくり真似しようとすると内容全部抜き出して書きたいぐらい書きたいことが色々あるんで、こんな感じにしてみました。
本書には他にもいろいろと書かれているのだけど、内容について具体的にあれこれ書くのはこれぐらいにしておこう。どうだろうか。ソーシャルメディアをまるで使っていないという方がもしこの文章を読んでくれているとするならば、ソーシャルメディアが持つ可能性や、あるいはソーシャルメディアが引き起こすだろう変化について、少しは分かってもらえたりするかなぁ。僕は、ツイッターをあーだこーだやっている内に、こういう感覚は肌で感じるんですけどね。
僕は、ツイッターのお陰で物凄い恩恵を受けた人間だ。具体的には書かないけど、ツイッターがなかったら、今僕がいる立ち位置には絶対にいられないだろう、というような劇的な変化があった。僕をそこに導いてくれた、ツイッター上での様々な動きや反応などを経験してきた身としては、本書で書かれていることは非常に分かりやすいし、理解できる。本書で書かれていることに注意しつつソーシャルメディアを有効活用すれば、ある程度以上の確率で、かなり広告や宣伝を成功させることが出来るのではないか、という気がするのです。
僕は普段、書店関係の人とツイッターであれこれ絡まり合っているので、そういう方面から具体例を出してみようと思います。
色んな書店が、その店の公式アカウントを取って色々と発信をしているのだけど、その中でもかなり優れているのが、さわや書店・三省堂有楽町店・三省堂海老名店だと思う。この三店はツイッター上でもかなり有名で、ツイッターをやっている本好きの人であれば、割とフォローしていたりするのではないかと思います。
三店とも、別に本の話ばかりしているわけではありません。というか、本の話ではないことで盛り上がっていることも、本の話で盛り上がっていることと同程度にはあります。
本書を読むと、書店の公式アカウントが、本の話だけしていてはダメだ、という理由が凄くわかると思います。ソーシャルメディア上でのコミュニケーションは、「共感」が基本。自分が読んだことのある本ならまだしも、書店のアカウントのツイートで多いのは、「◯◯が発売になりました」「品切れしていた◯◯が入荷しました」という感じのもの。それはそれで情報として重要なのだけど、それだけを書いていたのでは「共感」は得られない。だってその情報って、まだその本を読んでいない人に届けたいけど、でも読んでない人にはその情報に「共感」しようがないですからね。
本書では、『発信者への共感』を育てることがとにかく重要だ、と書かれています。ソーシャルメディア上での「共感」には、「情報それ自体への共感」だけではなくて、「発信者への共感」というものもある。これをどうやって育てるかによって、情報の伝わり方が格段に変わってくるのだ。
「発信者への共感」を得るためには、ただ情報を流してるだけではダメ。そのアカウントの「中の人」が「人」として様々な人と関わり、様々な話題で盛り上がることで、少しずつ「発信者への共感」というものは生まれていく。それを、ゆっくりとでも着実に育てていないと、ソーシャルメディア上での情報の拡散は成功しない。
先に挙げた三店は、意識してかどうかは別として、そのアカウントそのものへの「共感」を得るように、様々なことをやっている。そして実際に「共感」を得ることが出来ている。だからこそ、彼らが届けたいと思う情報はすぐに拡散するのだ。
本書にはこうある。
『契約タレントに何千万円も払うくらいなら、絶対この人(優秀なソーシャルメディア担当者)に払った方がいい。この人の方がずっと企業にとって価値がある。保証する。』
確かにその通りで、ソーシャルメディア担当者の個性や努力によって、「共感」の度合いはまるで変わってくる。「共感」こそが共通の貨幣であるソーシャルメディア上においては、その「共感」を集められる人間こそが覇者であり、情報を拡散させる力を持つのである。例えば先に挙げた三店のフォロワー数は3000人ぐらいであり、ソーシャルメディア担当者は直接的にはたかだか3000人の人に情報を伝えているだけに過ぎない。たった3000人に情報が伝わったところでどうなんだ、と思う人もいるでしょう。でも、「発信者への共感」が強く築かれている状況の中で、「共感」を伴う情報が発信された時、その情報はとんでもない拡散を見せる。直接的にはたった3000人にしか届かなかった情報が、「共感」を呼び寄せることでその何十倍何百倍もの人たちのところに届く可能性があるのだ。
だからこそ、ソーシャルメディア上では嘘や隠し事は致命的になりうる。それは情報そのものへの「共感」を呼び起こさないどころか、「発信者への共感」さえも削りとってしまうのだ。僕もツイッターを結構やっているけど、その過程で、とにかく嘘はつくまいと肝に銘じてきた。一旦「発信者への共感」が失われると、それを取り戻すことは本当に困難だと、感覚的に理解できるからだ。
と、とにかくつらつらとあれこれ書いてみたけど、どうやってもまとまらないのでこれぐらいにしておこう。もう一度書くけど、日本でのソーシャルメディアの普及率はまだかなり低い。だから、ソーシャルメディアに過度に期待してはいけない。しかし、それまでの広告手法やメディアなどと組み合わせることで強力な武器となるし、ソーシャルメディア単体でもかなり面白いことがやれる環境になっている。そして何よりも重要なことは、ソーシャルメディアの登場によって、それを使っている人たちの意識がどんな風に変わったのかということを的確に掴まなくてはいけない、ということだ。ソーシャルメディアはまだ発展途上だし、これから状況はどんどん変わっていくだろう。本書は、少なくとも現時点での分析、として読むべきだ。本書を読んだ上で、ソーシャルメディア上での変化をどう捉えるかを自分なりに考え、モニターしていかなくてはいけないのだろう。いずれにしても、ソーシャルメディアと関わりを無視することが出来なくなった時代における広告の話があれこれ分析的に(そして時に一般人の目線で)描かれるので、ソーシャルメディアを使っている人にも使っていない人にも凄く楽しめる作品だと思います。是非読んでみてください。
佐藤尚之「明日のコミュニケーション 「関与する生活者」に愛される方法」
日本を滅ぼす<世間の良識>(森巣博)
内容に入ろうと思います。
本書は、オーストラリア在住の博打打ちであり作家でもある著者による、『日本って国はこんなにヤベェよ。それに気づかないあんたらも相当ヤベェよ』というような内容の作品です。ちょっとこの僕の要約は意訳しすぎているかもしれないけど、大体そんな感じということで。
本書は、クーリエ・ジャポンで連載されていたものを書籍化したものです。
当初書籍化する際著者は、『おとーちゃんばかりがお饅頭を食べる思想』というものを提案したそうなのだけど、新書向きではないという理由で却下されたようだ。これは要するに、『利潤の私益化・費用の社会化』ということであり、もっと平たく言えば、『良いところは全部おとーちゃん(権力を持つ側)がもらうから、あと尻拭いよろしくね~』ということである。
今の日本は、これがいたるところではびこっている。そして国民は、それに気づかないか、気づかないフリをしているか、どうでもいいと思っているか、どれかである。
というような感じで内容に触れていきたいのだけど、本書は、『おとーちゃんが~』というようなベースとなる部分は共通しているものの、書かれている内容は多岐に渡り、しかも著者の思考もどんどんあっちこっち飛び火していくので、ざっくりと内容紹介をする、ということが難しい作品です。というわけで、具体的に詳細に触れるのは後回しにして、まずは本書では、どんな話題が出てくるのかというのをざっと書いてみようと思います。
・北朝鮮のミサイル騒動の際、政府高官は「ミサイルが飛んで来ても迎撃できないし、口を開けてみているしかない」と言ったが、その『迎撃できない』PAC3というシステムに5年間で8000億円も使っている。
・国と地方自治体を合わせれば、日本の借金は軽く1000兆円を超える。まだギリギリ国民の貯蓄額を超えていない(2010年の時点で貯蓄額1079兆円)からなんとかなってるけど、これが貯蓄額を上回るようになったら、日本はギリシャのように経済破綻する。
・元官房長官の野中広務は、政権維持に影響力があると思われる評論家などに、つかみ金を届けた、という爆弾発言をする。政府にとってメディアは、国の広報機関みたいなもので、メディアもそれに甘んじている。
・のりピーと押尾学の事件の報道のされ方の差を考える。欧米諸国の常識からすれば、どう考えても微罪でしかないのりピーはとんでもなく報道され、どう考えても重大事件だろうと思われる押尾学の事件は途中から蓋をされてしまう。メディアは、国から「叩いていいよ」とお墨付きを与えられた対象だけを叩きのめすようにできている。
・核兵器を搭載したアメリカの艦船の日本への寄港を容認する、という日米間の密約に関する政府の呆れた対応
・任意での職務質問の『任意』というのは、一体誰にとっての『任意』なのか。もしかしてそれは、警官にとっての『任意』なのではないか。今の日本では、そうとしか思えない状況が多々存在する。
・北方領土には様々な議論があるが、北方領土を先住民族に返還し、アイヌモシリに主権国をつくろうという視点を何故誰も持たないのか?
・日本の自殺者数は、1998年に三万人を超えて以降ほとんど変動はないのだけど、このデータはおかしくないだろうか?
福島第一原発での『人災』について、政府・東電・マスコミが何をして、その結果どうなってしまったのか、という検証
というようなことが書かれています。
最近読む新書読む新書、色んなことを考えさせられることが多くて、本書についても色々書きたいことはあるのだけど、とにかく本書を読んで一番強く感じたことは、
『自分で情報を集め、自分の頭で考えろ!』
ということだ。
『僕たちは様々なところで、バカになるように教育されている』
僕が考えたPOPのフレーズです。本書には、こんな文章が出てくる。
『ほとんどの人たちは、自力で考えない。ガキのころから、ず~っとそういう教育を受けてきたのだから。
教育というのは、平たく申せば、「洗脳」のことだ。』
『自力で考える能力の退化、およびその結果として、お上あるいは権力者たちによる情報操作・世論誘導がいとも容易くなってしまった日本の現状を表象する好例だ、と感じるからである』
『恙無き日常をおくるためには、どうやら日本国内では、おかしなことに気づかない(あるいは、気づかないふりをしている)ほうが安全なようだ。』
本書を読むと、本当に僕たちは『アホでいるように洗脳されているな』と感じるし、『自分の頭でもっと考えなくてはいけない』と強く強く感じる。
著者はオーストラリア在住で、どれぐらい頻繁に日本に来ているかは知らないけど、勝手な想像だけど、そう頻繁には来ていないのではないかと思う。つまり、肌感覚として日本の現状を理解できる立ち位置にはいない。そんな中で、基本的に公開されている情報を自分なりに分析することで、日本国内にいる、僕のような特に何も考えていないような人間よりも、遥かに日本の現状を的確に掴んでいる、と思う。
僕は本書を読んで、『日本ってヤベェな』と強く感じた。でも、それも危険なのだ。つまり、他人が書いた本をそのまま丸呑み・鵜呑みにしているだけなのだから。あるいは、なんとなく雰囲気だけでそう判断しているだけなのだから。本当はそうではなくて、本書に書かれていることを自分なりに情報を集め、判断し、そうしてその上で、『日本ってヤベェな』と判断しなくてはいけないのだ。
でもそれって、結構難しい。何せ僕らは、『バカになるように教育を受けている』のだ。これは大げさな表現ではないと思う。僕らは、お上の言っていることに疑問を持たず、お上の言っていることを素直に受け取り、お上がどんなにおかしなことを言っても気にせず、物事を特に深く考えない。僕らはそういう、権力を握る者にとってはすこぶる都合のいい人間になるように『洗脳』させられているのだ。
それを自覚してさえ、そこから抜け出すことは難しい。なにせ僕らは、『自分で考える力』を持たないのだ。自分で考えようと思っても、その経験もないし知識もないから、どうしたらいいかわからない。だから、自分の今の状況が自覚出来ていても、なかなかそこから抜け出すのは難しい。
しかも、もし努力してそこから抜け出せたとしても、より孤独に陥るだけだ。何故なら、周りの人間は『日本ってヤベェな』とは思っていないのだ。あるいは、そう思っていても、それを表には出さないように努めているのだ。
そうやって僕らは、自力で物事を考えないままで日々を過ごす人間になった。そうして、そういう僕らを舐めきった国や権力者たちが、やりたい放題やっている。日本という国はまさに今そういう環境にある。
僕はなんだかんだ言って子供の頃から、『何かがおかしい』と思い続けて生きてきた。それが、『日本ってヤベェな』って言語化出来るようになったのは本当に最近のことなんだけど、強い違和感だけはずっと抱き続けてきた。大人の言っていることが全然信用出来なかったし、このまま生きていても将来まともに生きていけるなんて全然思っていなかった。努力が報われないというような具体例をいくつも耳にするようになって、特に何をしているわけでもない、枠組みとかルールとかシステムを作る人間ばかりが得をする世の中には、言葉では表現できない違和感がつきまとっていた。色んな本を読むようになって徐々に自分の中できちんと言語化して実感できるようになったのだけど、本当に日本という国はヤバいし危険だし間違いなくこのままだと破綻するのだろうと思う。
世の中の問題すべてを、『おとーちゃんが~』に集約させるつもりは毛頭ないけど、その影響がかなり大きいということは、個人レベルの実感として了解されなくてはならない事柄なのではないかという気がする。
個々の具体例の中で気になったのは、「北方領土」と「自殺者」と「福島第一原発」の話。
「北方領土」の話では、確かにどうして先住民族に土地を返還するという発想がないのか、自分でも不思議だったほどだ。実際にオーストラリアでは、既に国土の20%が先住民族であるアボリジニに戻され、近い将来それが50%を超え、最終的には80%近くまで行くのではないか、と言われているそうだ。そんなことが行われている国があるなんて知らなかったので凄くびっくりしました。
「自殺者」の話も、凄く納得してしまいました。確かに、1997年までは、自殺者の数というのは上下に変動があった。しかし1998年以降、景気の変動などに関係なく、自殺者は三万人前後で落ち着いている。恐らく国が情報操作をしているのだろう、という推測は、あくまでも推測の域を出ないけど、なるほど確かにそうかもしれないなぁ、と思わされました。
「福島第一原発」の話では、まだ流動的な事態であるから、今後どうなっていくかわからないけど、というエクスキューズをつけつつ、様々な危険性・政府のウソ・報道されない様々な出来事などを描き出している。
その中でも一番有益な情報だと思ったのがこれだ。
『(被爆者手帳の取得のために)ヨウ素被曝に関してはもう遅いけれど、今うちに髪の毛と爪、そして皮膚の一部を切り取り、厳重に保管しておきなさい。程度の差こそあれ、子どもたちには早ければ四年、遅くとも十年後には、医療地獄が訪れるのだろう。チェルノブイリではそうだった。日本人だけは放射線耐性が高い、なんてことは、あり得ない。』
なるほど、少なくとも僕はこれに類する情報を見たり聞いたりしたことはなかったし、今個人レベルで出来る最大の対抗策だったりするのかもしれない、と思いました。
僕は本書を読んで、国は貧しくてもいいから、もう少しマトモな国であって欲しい、と思ってしまいました。なんというかホント、誇りの持てない国になっちゃったなぁ、日本。
とにかく本書は、書かれている具体的事柄もそれぞれ非常に刺激的で面白いのだけど、それ以上に、『自分で情報を集め、自分の頭で考えろ!』ということを強く強く訴え掛けてくれる作品です。僕らはもっと、正しい情報を手に入れる手段を模索しなくてはいけないし、的確な判断が出来る訓練をしなくてはいけない。もちろん僕もだ。僕にはもはや極限近くまで狂ってしまっているように見える日本において、本書を読むことは一つの武器を手に入れることに近いかもしれません。もっと、自分で情報を集め、自分の頭で考えましょう!是非読んでみてください。
森巣博「日本を滅ぼす<世間の良識>」
本書は、オーストラリア在住の博打打ちであり作家でもある著者による、『日本って国はこんなにヤベェよ。それに気づかないあんたらも相当ヤベェよ』というような内容の作品です。ちょっとこの僕の要約は意訳しすぎているかもしれないけど、大体そんな感じということで。
本書は、クーリエ・ジャポンで連載されていたものを書籍化したものです。
当初書籍化する際著者は、『おとーちゃんばかりがお饅頭を食べる思想』というものを提案したそうなのだけど、新書向きではないという理由で却下されたようだ。これは要するに、『利潤の私益化・費用の社会化』ということであり、もっと平たく言えば、『良いところは全部おとーちゃん(権力を持つ側)がもらうから、あと尻拭いよろしくね~』ということである。
今の日本は、これがいたるところではびこっている。そして国民は、それに気づかないか、気づかないフリをしているか、どうでもいいと思っているか、どれかである。
というような感じで内容に触れていきたいのだけど、本書は、『おとーちゃんが~』というようなベースとなる部分は共通しているものの、書かれている内容は多岐に渡り、しかも著者の思考もどんどんあっちこっち飛び火していくので、ざっくりと内容紹介をする、ということが難しい作品です。というわけで、具体的に詳細に触れるのは後回しにして、まずは本書では、どんな話題が出てくるのかというのをざっと書いてみようと思います。
・北朝鮮のミサイル騒動の際、政府高官は「ミサイルが飛んで来ても迎撃できないし、口を開けてみているしかない」と言ったが、その『迎撃できない』PAC3というシステムに5年間で8000億円も使っている。
・国と地方自治体を合わせれば、日本の借金は軽く1000兆円を超える。まだギリギリ国民の貯蓄額を超えていない(2010年の時点で貯蓄額1079兆円)からなんとかなってるけど、これが貯蓄額を上回るようになったら、日本はギリシャのように経済破綻する。
・元官房長官の野中広務は、政権維持に影響力があると思われる評論家などに、つかみ金を届けた、という爆弾発言をする。政府にとってメディアは、国の広報機関みたいなもので、メディアもそれに甘んじている。
・のりピーと押尾学の事件の報道のされ方の差を考える。欧米諸国の常識からすれば、どう考えても微罪でしかないのりピーはとんでもなく報道され、どう考えても重大事件だろうと思われる押尾学の事件は途中から蓋をされてしまう。メディアは、国から「叩いていいよ」とお墨付きを与えられた対象だけを叩きのめすようにできている。
・核兵器を搭載したアメリカの艦船の日本への寄港を容認する、という日米間の密約に関する政府の呆れた対応
・任意での職務質問の『任意』というのは、一体誰にとっての『任意』なのか。もしかしてそれは、警官にとっての『任意』なのではないか。今の日本では、そうとしか思えない状況が多々存在する。
・北方領土には様々な議論があるが、北方領土を先住民族に返還し、アイヌモシリに主権国をつくろうという視点を何故誰も持たないのか?
・日本の自殺者数は、1998年に三万人を超えて以降ほとんど変動はないのだけど、このデータはおかしくないだろうか?
福島第一原発での『人災』について、政府・東電・マスコミが何をして、その結果どうなってしまったのか、という検証
というようなことが書かれています。
最近読む新書読む新書、色んなことを考えさせられることが多くて、本書についても色々書きたいことはあるのだけど、とにかく本書を読んで一番強く感じたことは、
『自分で情報を集め、自分の頭で考えろ!』
ということだ。
『僕たちは様々なところで、バカになるように教育されている』
僕が考えたPOPのフレーズです。本書には、こんな文章が出てくる。
『ほとんどの人たちは、自力で考えない。ガキのころから、ず~っとそういう教育を受けてきたのだから。
教育というのは、平たく申せば、「洗脳」のことだ。』
『自力で考える能力の退化、およびその結果として、お上あるいは権力者たちによる情報操作・世論誘導がいとも容易くなってしまった日本の現状を表象する好例だ、と感じるからである』
『恙無き日常をおくるためには、どうやら日本国内では、おかしなことに気づかない(あるいは、気づかないふりをしている)ほうが安全なようだ。』
本書を読むと、本当に僕たちは『アホでいるように洗脳されているな』と感じるし、『自分の頭でもっと考えなくてはいけない』と強く強く感じる。
著者はオーストラリア在住で、どれぐらい頻繁に日本に来ているかは知らないけど、勝手な想像だけど、そう頻繁には来ていないのではないかと思う。つまり、肌感覚として日本の現状を理解できる立ち位置にはいない。そんな中で、基本的に公開されている情報を自分なりに分析することで、日本国内にいる、僕のような特に何も考えていないような人間よりも、遥かに日本の現状を的確に掴んでいる、と思う。
僕は本書を読んで、『日本ってヤベェな』と強く感じた。でも、それも危険なのだ。つまり、他人が書いた本をそのまま丸呑み・鵜呑みにしているだけなのだから。あるいは、なんとなく雰囲気だけでそう判断しているだけなのだから。本当はそうではなくて、本書に書かれていることを自分なりに情報を集め、判断し、そうしてその上で、『日本ってヤベェな』と判断しなくてはいけないのだ。
でもそれって、結構難しい。何せ僕らは、『バカになるように教育を受けている』のだ。これは大げさな表現ではないと思う。僕らは、お上の言っていることに疑問を持たず、お上の言っていることを素直に受け取り、お上がどんなにおかしなことを言っても気にせず、物事を特に深く考えない。僕らはそういう、権力を握る者にとってはすこぶる都合のいい人間になるように『洗脳』させられているのだ。
それを自覚してさえ、そこから抜け出すことは難しい。なにせ僕らは、『自分で考える力』を持たないのだ。自分で考えようと思っても、その経験もないし知識もないから、どうしたらいいかわからない。だから、自分の今の状況が自覚出来ていても、なかなかそこから抜け出すのは難しい。
しかも、もし努力してそこから抜け出せたとしても、より孤独に陥るだけだ。何故なら、周りの人間は『日本ってヤベェな』とは思っていないのだ。あるいは、そう思っていても、それを表には出さないように努めているのだ。
そうやって僕らは、自力で物事を考えないままで日々を過ごす人間になった。そうして、そういう僕らを舐めきった国や権力者たちが、やりたい放題やっている。日本という国はまさに今そういう環境にある。
僕はなんだかんだ言って子供の頃から、『何かがおかしい』と思い続けて生きてきた。それが、『日本ってヤベェな』って言語化出来るようになったのは本当に最近のことなんだけど、強い違和感だけはずっと抱き続けてきた。大人の言っていることが全然信用出来なかったし、このまま生きていても将来まともに生きていけるなんて全然思っていなかった。努力が報われないというような具体例をいくつも耳にするようになって、特に何をしているわけでもない、枠組みとかルールとかシステムを作る人間ばかりが得をする世の中には、言葉では表現できない違和感がつきまとっていた。色んな本を読むようになって徐々に自分の中できちんと言語化して実感できるようになったのだけど、本当に日本という国はヤバいし危険だし間違いなくこのままだと破綻するのだろうと思う。
世の中の問題すべてを、『おとーちゃんが~』に集約させるつもりは毛頭ないけど、その影響がかなり大きいということは、個人レベルの実感として了解されなくてはならない事柄なのではないかという気がする。
個々の具体例の中で気になったのは、「北方領土」と「自殺者」と「福島第一原発」の話。
「北方領土」の話では、確かにどうして先住民族に土地を返還するという発想がないのか、自分でも不思議だったほどだ。実際にオーストラリアでは、既に国土の20%が先住民族であるアボリジニに戻され、近い将来それが50%を超え、最終的には80%近くまで行くのではないか、と言われているそうだ。そんなことが行われている国があるなんて知らなかったので凄くびっくりしました。
「自殺者」の話も、凄く納得してしまいました。確かに、1997年までは、自殺者の数というのは上下に変動があった。しかし1998年以降、景気の変動などに関係なく、自殺者は三万人前後で落ち着いている。恐らく国が情報操作をしているのだろう、という推測は、あくまでも推測の域を出ないけど、なるほど確かにそうかもしれないなぁ、と思わされました。
「福島第一原発」の話では、まだ流動的な事態であるから、今後どうなっていくかわからないけど、というエクスキューズをつけつつ、様々な危険性・政府のウソ・報道されない様々な出来事などを描き出している。
その中でも一番有益な情報だと思ったのがこれだ。
『(被爆者手帳の取得のために)ヨウ素被曝に関してはもう遅いけれど、今うちに髪の毛と爪、そして皮膚の一部を切り取り、厳重に保管しておきなさい。程度の差こそあれ、子どもたちには早ければ四年、遅くとも十年後には、医療地獄が訪れるのだろう。チェルノブイリではそうだった。日本人だけは放射線耐性が高い、なんてことは、あり得ない。』
なるほど、少なくとも僕はこれに類する情報を見たり聞いたりしたことはなかったし、今個人レベルで出来る最大の対抗策だったりするのかもしれない、と思いました。
僕は本書を読んで、国は貧しくてもいいから、もう少しマトモな国であって欲しい、と思ってしまいました。なんというかホント、誇りの持てない国になっちゃったなぁ、日本。
とにかく本書は、書かれている具体的事柄もそれぞれ非常に刺激的で面白いのだけど、それ以上に、『自分で情報を集め、自分の頭で考えろ!』ということを強く強く訴え掛けてくれる作品です。僕らはもっと、正しい情報を手に入れる手段を模索しなくてはいけないし、的確な判断が出来る訓練をしなくてはいけない。もちろん僕もだ。僕にはもはや極限近くまで狂ってしまっているように見える日本において、本書を読むことは一つの武器を手に入れることに近いかもしれません。もっと、自分で情報を集め、自分の頭で考えましょう!是非読んでみてください。
森巣博「日本を滅ぼす<世間の良識>」
水の柩(道尾秀介)
内容に入ろうと思います。
吉川逸夫は、老舗旅館の長男である中学二年生。逸夫は、自分がどうしようもなく『普通』であることが日々嘆かわしかった。実家が旅館であるというのは、この辺りではそんなに珍しいことでもない。一緒に住んでいる人間が多いから日々何か起こるけど、すでにそれらに対してどうこう思うようなこともなくなってしまった。学校でも普通。そんなあまりにも普通である自分に、嫌気がさしていた。
木内敦子は、小学生の頃この町に転校してきて、そして小学生の頃からいじめられていた。今そのいじめは、何故か休止している。それが敦子にとっては、それまで以上に恐ろしく感じられた。離婚し離れ離れになってしまった父がかつて話してくれた、夜の海の『闇』の話を思い出した。
二人の日常は、ほとんど重なることなく過ぎていった。逸夫は、仲のいい同級生である智樹と他愛もない話をしながら、旅館での仕事をちょろちょろと手伝ったり、かつてこの旅館の女将だった祖母となんでもない話をしたりして過ごしている。敦子は、クラスの中でも目立たない存在で、逸夫も関わるきっかけがなかった。
文化祭でお化け屋敷をやることに決まって、逸夫と敦子は買い物係に決まった。必要なものを買い出しに行く係だ。それで敦子とぽつりぽつりと話すようになったのだけど、逸夫は敦子から、ちょっとした頼まれごとをされてしまった。
小学生の時に埋めたタイムカプセル。そこに入れた手紙を一緒に取り替えない?
敦子の言い方には、切実なものがあった。特に自分の手紙を取り替えたいと思っていたわけでもない逸夫だったが、敦子のその切実さに押されるようにして、その頼みを聞いてやることにした。
逸夫たちが住む町のもっと上の方にある、五十数年前に一つの村を潰して作られたダム。そこに、大切な人たちの思いが集うことになり…。
というような話です。
やっぱり道尾秀介は素晴らしいです。道尾秀介の現時点までの著作を前期と後期で分けるとすれば、同じ作家の作品だろうかというぐらい違う。本書は、まさに後期の道尾秀介の雰囲気がふんだんに醸しだされている作品で、『光媒の花』とか『月と蟹』とかが好きな人なら間違いなく好きだろうと思います。
道尾秀介の作品は、こうやってブログに感想を書こうとして内容紹介を書いてみると凄く実感できるんだけど、ストーリーそのものというのは明確ではないことが多いんです。明確ではない、っていう表現はちょっとおかしいかもしれないけど、なんて言えばいいかなぁ、具象画と抽象画の違いかな。
例えばある具象画を、それを見たことがない人に説明しようと思ったら、どんなものが書かれていて、どんな構成で、というような、いくつかの要素に分けて説明できる気がするんです。でも抽象画の場合、そういうのって結構難しい気がするんですね。その絵を見たことがない人に、どう説明していいかわからない。道尾秀介の後期の作品って、結構そういう作品が多い気がするんです。
今回も、内容紹介を書いている時、何を書けばいいかなぁ、って結構困りました。上記で書いた内容紹介は確かに間違ってないんだけど、でも、この作品の本質的な部分は全然含まれていない。でも、抽象画を説明する時みたいに、こんな風に説明するしかない、みたいな感じなんです。
道尾秀介の作品の最大の肝は、僕は『生活のリアルさ』だと思うんです。前期の頃の作品もそういう部分を感じ取れてはいたけど、後期の作品になると余計にそういう印象が強いです。
ストーリーを展開させるための描写ではなくて、人物を立ち上げるための描写。それが本当にうまい。しかも、ちょっとした固有名詞だとか、ふとした仕草みたいな、本当に些細な描写で、ぐっと登場人物の香りを立てる、その力が凄い。ほんのわずかな情報の中で、複雑な匂いを立ち上げる。道尾秀介の小説の真骨頂ってまさにそこにあると思っていて、だからこそ内容紹介を書きづらい。
もちろん、ストーリーそのものも素晴らしい。でもそれは、人物がきちんと立ち上がっているからこそ素晴らしく感じられるストーリーなんです。正直、ストーリーだけ抜き出して、そのストーリーで別の作家が小説を書いたら、間違いなくつまらないでしょう。ストーリーそのものだけ見れば、本当に平凡だと思います。でも、これでもかというぐらいきっちりと人物像を立ち上げた上でこのストーリーをやられると、これはくる。前期の頃の道尾秀介の印象って、トリッキーな設定でストーリーを引っ張る、っていうイメージだったんだけど、ホントいつの間にかまったく別のタイプの作品を書くようになっていて、凄いものだなぁ、と思います。
人物像を立ち上げるのが巧い、というのを具体例なしで書いててもなかなかイメージしにくいかもしれないから、一つだけ書いてみます。
主人公の逸夫が、弁当を広げるシーン。逸夫は、その弁当の包みを開く前から、それが祖母が作ったものだと気づく。それは、弁当を包んでいるハンカチが裏向きになっているから。『食べるときにぱっと色が広がるほうがいいから』というのが理由だ。
ただ弁当を食べるシーンで、こういうのを挟み込んでくる。こういうのが本当に巧いのだ。ストーリー的には別になんでもないというシーンで、人物像を立ち上げる描写を巧く挟み込んでくる。こういう部分が作品の大きな魅力になっている、と僕は思います。
ストーリー自体も凄くいい。特にラストはよかった。なるほど、そんな風な展開になるのか、と感心しました。それまでの話の流れを巧く使いつつ、彼らの『今』を一旦途切れさせる。そうすることに、何か意味があるはずだ、と信じる気持ちが凄くいいなと思いました。
みんな、ちょっとずつ嘘をつかないとやっていけない、決して順調とは言い切れない日々を送っている。それぞれの人にとって、嘘の意味が、そして嘘をついて生きることの意味が違っている。嘘は、自分を守るための鎧だ。そしてその嘘は、次第に自分の肌と同化していく。嘘なしでは、前を向いて歩いて行くことができなくなる。でも、それでもいい、そんな風に思える。嘘をついたっていいし、忘れたっていい。自分の中で、前を向いて歩くためにすることなら、なんだっていい。そういう前向きな気持にさせてくれる作品でした。そして、祖母が見ている景色が美しいものだったらいいな、とも。
やっぱり道尾秀介は素晴らしいです。『月と蟹』や『光媒の花』ほど重苦しくない作品で、でもそういうタイプの作品から感じ取れるやるせなさや痛みみたいなものはやっぱり健在です。道尾秀介は、まともな方向には出口がなさそうに見える、少なくとも本人がそう感じている人たちを描くのが本当に巧いなと思います。是非読んでみてください。
道尾秀介「水の柩」
吉川逸夫は、老舗旅館の長男である中学二年生。逸夫は、自分がどうしようもなく『普通』であることが日々嘆かわしかった。実家が旅館であるというのは、この辺りではそんなに珍しいことでもない。一緒に住んでいる人間が多いから日々何か起こるけど、すでにそれらに対してどうこう思うようなこともなくなってしまった。学校でも普通。そんなあまりにも普通である自分に、嫌気がさしていた。
木内敦子は、小学生の頃この町に転校してきて、そして小学生の頃からいじめられていた。今そのいじめは、何故か休止している。それが敦子にとっては、それまで以上に恐ろしく感じられた。離婚し離れ離れになってしまった父がかつて話してくれた、夜の海の『闇』の話を思い出した。
二人の日常は、ほとんど重なることなく過ぎていった。逸夫は、仲のいい同級生である智樹と他愛もない話をしながら、旅館での仕事をちょろちょろと手伝ったり、かつてこの旅館の女将だった祖母となんでもない話をしたりして過ごしている。敦子は、クラスの中でも目立たない存在で、逸夫も関わるきっかけがなかった。
文化祭でお化け屋敷をやることに決まって、逸夫と敦子は買い物係に決まった。必要なものを買い出しに行く係だ。それで敦子とぽつりぽつりと話すようになったのだけど、逸夫は敦子から、ちょっとした頼まれごとをされてしまった。
小学生の時に埋めたタイムカプセル。そこに入れた手紙を一緒に取り替えない?
敦子の言い方には、切実なものがあった。特に自分の手紙を取り替えたいと思っていたわけでもない逸夫だったが、敦子のその切実さに押されるようにして、その頼みを聞いてやることにした。
逸夫たちが住む町のもっと上の方にある、五十数年前に一つの村を潰して作られたダム。そこに、大切な人たちの思いが集うことになり…。
というような話です。
やっぱり道尾秀介は素晴らしいです。道尾秀介の現時点までの著作を前期と後期で分けるとすれば、同じ作家の作品だろうかというぐらい違う。本書は、まさに後期の道尾秀介の雰囲気がふんだんに醸しだされている作品で、『光媒の花』とか『月と蟹』とかが好きな人なら間違いなく好きだろうと思います。
道尾秀介の作品は、こうやってブログに感想を書こうとして内容紹介を書いてみると凄く実感できるんだけど、ストーリーそのものというのは明確ではないことが多いんです。明確ではない、っていう表現はちょっとおかしいかもしれないけど、なんて言えばいいかなぁ、具象画と抽象画の違いかな。
例えばある具象画を、それを見たことがない人に説明しようと思ったら、どんなものが書かれていて、どんな構成で、というような、いくつかの要素に分けて説明できる気がするんです。でも抽象画の場合、そういうのって結構難しい気がするんですね。その絵を見たことがない人に、どう説明していいかわからない。道尾秀介の後期の作品って、結構そういう作品が多い気がするんです。
今回も、内容紹介を書いている時、何を書けばいいかなぁ、って結構困りました。上記で書いた内容紹介は確かに間違ってないんだけど、でも、この作品の本質的な部分は全然含まれていない。でも、抽象画を説明する時みたいに、こんな風に説明するしかない、みたいな感じなんです。
道尾秀介の作品の最大の肝は、僕は『生活のリアルさ』だと思うんです。前期の頃の作品もそういう部分を感じ取れてはいたけど、後期の作品になると余計にそういう印象が強いです。
ストーリーを展開させるための描写ではなくて、人物を立ち上げるための描写。それが本当にうまい。しかも、ちょっとした固有名詞だとか、ふとした仕草みたいな、本当に些細な描写で、ぐっと登場人物の香りを立てる、その力が凄い。ほんのわずかな情報の中で、複雑な匂いを立ち上げる。道尾秀介の小説の真骨頂ってまさにそこにあると思っていて、だからこそ内容紹介を書きづらい。
もちろん、ストーリーそのものも素晴らしい。でもそれは、人物がきちんと立ち上がっているからこそ素晴らしく感じられるストーリーなんです。正直、ストーリーだけ抜き出して、そのストーリーで別の作家が小説を書いたら、間違いなくつまらないでしょう。ストーリーそのものだけ見れば、本当に平凡だと思います。でも、これでもかというぐらいきっちりと人物像を立ち上げた上でこのストーリーをやられると、これはくる。前期の頃の道尾秀介の印象って、トリッキーな設定でストーリーを引っ張る、っていうイメージだったんだけど、ホントいつの間にかまったく別のタイプの作品を書くようになっていて、凄いものだなぁ、と思います。
人物像を立ち上げるのが巧い、というのを具体例なしで書いててもなかなかイメージしにくいかもしれないから、一つだけ書いてみます。
主人公の逸夫が、弁当を広げるシーン。逸夫は、その弁当の包みを開く前から、それが祖母が作ったものだと気づく。それは、弁当を包んでいるハンカチが裏向きになっているから。『食べるときにぱっと色が広がるほうがいいから』というのが理由だ。
ただ弁当を食べるシーンで、こういうのを挟み込んでくる。こういうのが本当に巧いのだ。ストーリー的には別になんでもないというシーンで、人物像を立ち上げる描写を巧く挟み込んでくる。こういう部分が作品の大きな魅力になっている、と僕は思います。
ストーリー自体も凄くいい。特にラストはよかった。なるほど、そんな風な展開になるのか、と感心しました。それまでの話の流れを巧く使いつつ、彼らの『今』を一旦途切れさせる。そうすることに、何か意味があるはずだ、と信じる気持ちが凄くいいなと思いました。
みんな、ちょっとずつ嘘をつかないとやっていけない、決して順調とは言い切れない日々を送っている。それぞれの人にとって、嘘の意味が、そして嘘をついて生きることの意味が違っている。嘘は、自分を守るための鎧だ。そしてその嘘は、次第に自分の肌と同化していく。嘘なしでは、前を向いて歩いて行くことができなくなる。でも、それでもいい、そんな風に思える。嘘をついたっていいし、忘れたっていい。自分の中で、前を向いて歩くためにすることなら、なんだっていい。そういう前向きな気持にさせてくれる作品でした。そして、祖母が見ている景色が美しいものだったらいいな、とも。
やっぱり道尾秀介は素晴らしいです。『月と蟹』や『光媒の花』ほど重苦しくない作品で、でもそういうタイプの作品から感じ取れるやるせなさや痛みみたいなものはやっぱり健在です。道尾秀介は、まともな方向には出口がなさそうに見える、少なくとも本人がそう感じている人たちを描くのが本当に巧いなと思います。是非読んでみてください。
道尾秀介「水の柩」
資本主義卒業試験(山田玲司)
内容に入ろうと思います。
本書は、漫画家であり、「非属の才能」という新書を出した著者の初の小説です。
主人公は、コメディタッチの恋愛漫画でそこそこヒットと飛ばし、今「希望の言葉」という対談漫画を続けている漫画家・山賀怜介。彼は、人の何倍もの努力をして、漫画家として成功を勝ち取った。子供の頃からずっと信じてきたのだ。夢を追い続ければ、必ず幸せになれる、って。
山賀は、幸せにはなれなかった。それどころか、夢を叶えたことで、余計人生が苦しくなった。
妻と子共はいなくなった。税金対策のためにあれこれ節税対策をしていたら、毎年の収入が1500万以下になると赤字になってしまうような状況に追い込まれた。マンガを描けば、必ずヒットを求められる。
そんな生活は、苦しくて仕方がない。
自分は子供の頃から漫画家になりたくて、それを目指してひたすら努力してきた。それで幸せになれるはずだったのに、どうして今こんなに辛いのだろう。
山賀は、どうしても答えを知りたくなった。
『資本主義卒業試験』というイカレた試験をし、受講生全員を落第にしたという大学教授がいる。「希望の言葉」の取材で出会った一人だ。山賀はその教授に、どうやったら資本主義を卒業できるのか答えを聞きに行くべく、深夜の研究室に忍びこんだ。しかしそこには、その教授の試験のせいで大学の卒業が出来ず決まっている就職をフイにしそうになっているリコ、付き合っていた彼女がロハスに目覚めついていけなくなった鈴木大地、一流商社に勤め世界中の貧困国から金を絞りとりまくった黒沢の三人がいて…。
というような話です。
これは本当に、色んな人に読んでほしい作品です。僕は本書で書かれていることは、実は結構前から気づいていた。というか、子供の頃からずっと僕の違和感の中心にあった。もちろん、きちんとした言葉に落とし込んだのはずっとずっと後のことだけど、子供の頃から、この社会はどこかおかしい、という違和感にずっと悩まされてきたのだ。
僕は、色々悩んで、あれこれ考えて、色んな人に迷惑を掛けながら、少しずつ、自分が引きずり込まれそうになっている『沼』の正体がわかってきた。どうやってその沼から抜け出せばいいのか、自分で考えて、今僕は、それなりに沼から抜け出せたところで生きていけているとは思う。あくまでも、それなりに、だけど。
僕は、世間の人を見ていると、大丈夫だろうか、と心配になることがある。この『狂った』社会で生きていくために、割りきってそんな風に生きている人ももちろんいるだろう。でも中には、自分が『奴隷』にされていることに気づかないままで、『狂った世界』を『美しい』と感じたまま生きている人も、凄くたくさんいるんだろう、という気がするんです。
僕は子供の頃からとにかく、金持ちにだけはなりたくない、とずっと思っていた。
もちろん子供の時点で、その理由を明確に言葉に出来ていたわけではないけど、こういうことを考えていたはずだ。金持ちになることは、とにかくめんどくさい。金持ちになるということは、物凄く大きなものを守らなければならないというプレッシャーと同じになる。自分が持っている金を誰かが狙ってくるかもしれないし、知識がないままでは不必要に損したりするかもしれない。お金を持っているというだけの理由で周りの人間の態度も変わるだろうし、お金を持っているというだけの理由で本当にやりたいことが出来なくなるということだってあるだろう。
僕は昔から、これが欲しい!と思うものはほとんどなかった。マンガもゲームも買わなかったし、小説なんかは少し買ってたけどそこまででもない。ファッションに興味があるわけでも、何かお金の掛かる趣味があったわけでもなく、物欲というものが本当にない子供だった。それは今でもあんまり変わらなくて、色んな『モノ』は、特別不便でない限り、壊れない限り換え代える必要はないよなぁ、とか思ってしまう人間だ。
でも、世の中の人はそうではないみたいだ。世の中の人はどうも、欲しいものがありすぎるらしい。服もゲームもマンガもケータイも、出来れば車もマンションも土地も欲しい。欲しいものがありすぎるから、お金なんていくらあったって足りない、ということらしい。
僕には、その感覚が、本当によくわからないのだ。
だから、金持ちになることに憧れることがまったくなかった。むしろ積極的に、金持ちにならないようにしよう、と思っているくらいだ。ささやかに生きていけるだけのお金があればいい、と。
これだけだったら、僕は子供の頃から、そんなにウダウダ悩むことはなかったと思う。でも僕には、どうしてもなりたくないものがもう一つあった。
それが、サラリーマンだ。
僕は既に中学の時点で、サラリーマンにはなりたくなかった。まあそれは今でもそうで、そもそも組織の中に収まるということが得意ではない、ということもある。でもそれ以上に(組織云々と関係もするけども)、『やりたくないことでもやらなくてはいけない』ことが自分に許容出来るかという問いかけが、僕の中にずっとあったのだ。
例えば本書で、黒沢という一流商社にいた男が、エビの話をする。日本で美味しくエビを食べるために、黒沢のいた商社が何をしたのか、という話だ。黒沢は、サラリーマンだから、会社に言われればそれをやるしかない。でも僕には、黒沢がやったことを自分が出来るとは思えないのだ。
もちろんこういう考えを、甘い、という人はいるだろう。それは充分分かっている。本書でもそういう考え方は出てくる。黒沢のエビの話のくだりで、リコや山賀が、自分の仕事によって誰かが犠牲になることは、ある程度は仕方がない、という。それも、僕にはわかる。それは仕方がない。みんな幸せになるなんてのは無理だ。
でも、僕はこう思ってしまうのだ。たかがエビのためだぞ、と。
例えばそれが、もっと重大なこと(何が重大かは人それぞれ違うだろうから具体例は出さないけど)に関わる仕事であれば、ある程度は納得出来るだろう。この仕事によって、誰かが犠牲になる。でもそれは、僕らの側の凄く重要な事柄をどうにかするために止む終えないのだ、と自分を納得させることは出来るだろうと思う。
でも、エビのために、それはできない。
これは、僕自身の今の仕事とも、若干関わってくる話だ。
本屋で働いていると色んな本を目にすることになるけど、その中には『明らかにおかしい・間違っているもの』というのがある(これも具体例を挙げるとめんどくさい話になるんで省略するけど、一例として、『科学的に見て明らかに間違っている』というようなことだと思ってください)。そしてそういう本が時々、爆発的に売れたりするのだ。
僕はそういう時、本当に心苦しい。正直に言ってその本を売る行為は、買ってくれた人間を幸福にしないばかりか、時として不幸にすることだってあるはずだ。それでも僕は、そういう本を売らなくてはいけない。こういうことは、本当にしたくないのだけど、仕方ないと割り切るしかない。そうではない、もっと大事な、あるいはもっと心に残る本を売るために、そういう本を割りきって売っているのだ。そういう風に考えないとやってられない。
僕は結局、金持ちになりたくないとサラリーマンになりたくないの二つの葛藤(特に後者の、サラリーマンになりたくない、という方が圧倒的に強いのだけど)に挟まれて、子供の頃は本当に苦しかった。自分の中で、どういう方向に進めばいいのか、まるで分からなかった。周りの大人の言ってることなんて全部嘘だって分かってた。あの頃の僕が本書を読んでいれば、少しは救われていただろう。よかった、同じように考えている人がいたんだ、って。僕には、そういうものもなかった。ただ一人で考えていた。
そうやって大人になっていく過程で、僕はかなり無茶をして、サラリーマンにならない選択をして今に至っている。それは、僕の中では最善の選択肢だと思ったし、今でもそう思っている。あの時、普通に就活をして普通にサラリーマンになってたら、僕は、現在の日本で一日に100人が自殺しているという、その内の一人になっていたかもしれない。少なくとも、そういう自分を否定することは出来ない。
本書は、資本主義という在り方を、もう一度考えなおしてみよう、という作品だ。著者自身の考え方は色濃く反映されているだろうが、基本的には賛否両方の意見が色んな形で現れる。本書の小説としての完成度はともかく(小説として悪い、という意味ではないけど、小説として凄くいい、というわけでもない)、本書を小説という形態で書いたというのは凄くよかったと思う。複数の対立する意見や考えを、小説以外のやり方で書こうとすると、どうしてもちょっと堅くなってしまう。本書では、資本主義に賛成する意見も反対する意見も、色んな登場人物それぞれの意見として登場させることが出来る。その過程で読者は、少しずつ、自分の考えを深めていくことが出来る。
本書には、凄く気になる(読んでてひっかかる)文章がたくさん出てくる。それらをいちいち抜き出してみたいのだけど、そこだけ抜き出すと誤解されるかもというような部分もあるので、それは止めておこうかな。ただ、本書を読んでて強く感じることは、これはPOPのフレーズにしようかとも思っているんだけど、
『「当たり前」を疑え』
ということだ。
これは、本書の前半辺りを読んでいる時に思いついたのだけど、後半でそれっぽい感じのフレーズが出てきて、やっぱりと思ったのでした。
世の中で『当たり前』だとされている様々な価値観がある。そのすべてを疑った方がいい。成長することは正しい、新しいものを欲しくなるのは正しい、キレイになることは正しい、夢を追い続けることは正しい…。
こういう『当たり前』だとされる価値観が出てくるのは何故なのか。それは、『それによって利益を得る人間がいる』からだ。それが、資本主義の持つ正体の一つだ。
みんなが疑うことなく信じている『当たり前』は、誰かが得するために流布されている。全部が全部そうだ、なんていうつもりはない。でも、そうかもしれない、と疑って掛かる姿勢を持たないと、僕達はいつまで経っても奴隷だ。奴隷が悪い、というつもりもない。自分が奴隷であることを認識したまま、それでも奴隷であることを選ぶのであれば、それはそれで正しい生き方だ。でも、自分が気づかない内に奴隷にされていて、自分にその意識がない、というのはちょっと怖いと思う。
僕は子供の頃からなんとなく気づいていたけど、やっぱり日本ってちょっと狂ってる。まあ、狂っててもいいんだ。大事なのはそこじゃない。大事なのは、『日本ってちょっと狂ってる』って思っている人が凄く少ないように見えること、だ。もちろん、実はほとんどの人はそう思ってて、でもそれをわかっちゃうと生きていくのが辛いから気づかないふりをしているだけ、って可能性もあるだろう。それは否定できない。けど、僕にはやっぱりそう見えないのだ。みんな、今の世の中が正しいと思っているかどうかは別として、少なくとも狂ってるなんて風には思ってないだろう。
でも、はっきりいおう。今の日本は、間違いなく狂ってると思う。それは、シンプルな目で、ちょっと離れたところから日本を見てみれば、一目瞭然のはずだ。とはいえ、日本だけじゃなくて世界中が狂ってる(資本主義そのものが病気になっているのだから、日本だけの話じゃない)わけで、逃げ道はないのだけど。
どうしたらいいかという、はっきりと明確な答えは本書にもない。でも、どう歩いていけばいいのかという指針は提示してくれる。まず一番大事なことは、『当たり前』を疑うこと。今の日本は狂っているという事実を認めること。それが第一歩だ。そこからどう歩くかは、自分で考えるしかない。『当たり前』についていくだけの人生ではない、自分で自分の道を踏みしめていく、そういう生き方を選ぶ以外にはない。それは、辛く険しい道のりになるだろう。それでも、僕は思う。『当たり前』についていく生き方より、遥かにマシだ、と。『当たり前』は、あなたに何も保証はしてくれない。ただ幻想を見せてくれるだけだ。自分で道を選べば、少なくとも、自分自身は自分のことを信じてやれる。それは幻想ではなく、希望だ。
本書は、僕らが生まれた時から掛けさせられている『当たり前』という名前のメガネを無理矢理引き剥がしてくれる、そんな作品だ。『当たり前』というメガネなしで見た世界がどう映るのか、是非体感して欲しい。
山田玲司「資本主義卒業試験」
本書は、漫画家であり、「非属の才能」という新書を出した著者の初の小説です。
主人公は、コメディタッチの恋愛漫画でそこそこヒットと飛ばし、今「希望の言葉」という対談漫画を続けている漫画家・山賀怜介。彼は、人の何倍もの努力をして、漫画家として成功を勝ち取った。子供の頃からずっと信じてきたのだ。夢を追い続ければ、必ず幸せになれる、って。
山賀は、幸せにはなれなかった。それどころか、夢を叶えたことで、余計人生が苦しくなった。
妻と子共はいなくなった。税金対策のためにあれこれ節税対策をしていたら、毎年の収入が1500万以下になると赤字になってしまうような状況に追い込まれた。マンガを描けば、必ずヒットを求められる。
そんな生活は、苦しくて仕方がない。
自分は子供の頃から漫画家になりたくて、それを目指してひたすら努力してきた。それで幸せになれるはずだったのに、どうして今こんなに辛いのだろう。
山賀は、どうしても答えを知りたくなった。
『資本主義卒業試験』というイカレた試験をし、受講生全員を落第にしたという大学教授がいる。「希望の言葉」の取材で出会った一人だ。山賀はその教授に、どうやったら資本主義を卒業できるのか答えを聞きに行くべく、深夜の研究室に忍びこんだ。しかしそこには、その教授の試験のせいで大学の卒業が出来ず決まっている就職をフイにしそうになっているリコ、付き合っていた彼女がロハスに目覚めついていけなくなった鈴木大地、一流商社に勤め世界中の貧困国から金を絞りとりまくった黒沢の三人がいて…。
というような話です。
これは本当に、色んな人に読んでほしい作品です。僕は本書で書かれていることは、実は結構前から気づいていた。というか、子供の頃からずっと僕の違和感の中心にあった。もちろん、きちんとした言葉に落とし込んだのはずっとずっと後のことだけど、子供の頃から、この社会はどこかおかしい、という違和感にずっと悩まされてきたのだ。
僕は、色々悩んで、あれこれ考えて、色んな人に迷惑を掛けながら、少しずつ、自分が引きずり込まれそうになっている『沼』の正体がわかってきた。どうやってその沼から抜け出せばいいのか、自分で考えて、今僕は、それなりに沼から抜け出せたところで生きていけているとは思う。あくまでも、それなりに、だけど。
僕は、世間の人を見ていると、大丈夫だろうか、と心配になることがある。この『狂った』社会で生きていくために、割りきってそんな風に生きている人ももちろんいるだろう。でも中には、自分が『奴隷』にされていることに気づかないままで、『狂った世界』を『美しい』と感じたまま生きている人も、凄くたくさんいるんだろう、という気がするんです。
僕は子供の頃からとにかく、金持ちにだけはなりたくない、とずっと思っていた。
もちろん子供の時点で、その理由を明確に言葉に出来ていたわけではないけど、こういうことを考えていたはずだ。金持ちになることは、とにかくめんどくさい。金持ちになるということは、物凄く大きなものを守らなければならないというプレッシャーと同じになる。自分が持っている金を誰かが狙ってくるかもしれないし、知識がないままでは不必要に損したりするかもしれない。お金を持っているというだけの理由で周りの人間の態度も変わるだろうし、お金を持っているというだけの理由で本当にやりたいことが出来なくなるということだってあるだろう。
僕は昔から、これが欲しい!と思うものはほとんどなかった。マンガもゲームも買わなかったし、小説なんかは少し買ってたけどそこまででもない。ファッションに興味があるわけでも、何かお金の掛かる趣味があったわけでもなく、物欲というものが本当にない子供だった。それは今でもあんまり変わらなくて、色んな『モノ』は、特別不便でない限り、壊れない限り換え代える必要はないよなぁ、とか思ってしまう人間だ。
でも、世の中の人はそうではないみたいだ。世の中の人はどうも、欲しいものがありすぎるらしい。服もゲームもマンガもケータイも、出来れば車もマンションも土地も欲しい。欲しいものがありすぎるから、お金なんていくらあったって足りない、ということらしい。
僕には、その感覚が、本当によくわからないのだ。
だから、金持ちになることに憧れることがまったくなかった。むしろ積極的に、金持ちにならないようにしよう、と思っているくらいだ。ささやかに生きていけるだけのお金があればいい、と。
これだけだったら、僕は子供の頃から、そんなにウダウダ悩むことはなかったと思う。でも僕には、どうしてもなりたくないものがもう一つあった。
それが、サラリーマンだ。
僕は既に中学の時点で、サラリーマンにはなりたくなかった。まあそれは今でもそうで、そもそも組織の中に収まるということが得意ではない、ということもある。でもそれ以上に(組織云々と関係もするけども)、『やりたくないことでもやらなくてはいけない』ことが自分に許容出来るかという問いかけが、僕の中にずっとあったのだ。
例えば本書で、黒沢という一流商社にいた男が、エビの話をする。日本で美味しくエビを食べるために、黒沢のいた商社が何をしたのか、という話だ。黒沢は、サラリーマンだから、会社に言われればそれをやるしかない。でも僕には、黒沢がやったことを自分が出来るとは思えないのだ。
もちろんこういう考えを、甘い、という人はいるだろう。それは充分分かっている。本書でもそういう考え方は出てくる。黒沢のエビの話のくだりで、リコや山賀が、自分の仕事によって誰かが犠牲になることは、ある程度は仕方がない、という。それも、僕にはわかる。それは仕方がない。みんな幸せになるなんてのは無理だ。
でも、僕はこう思ってしまうのだ。たかがエビのためだぞ、と。
例えばそれが、もっと重大なこと(何が重大かは人それぞれ違うだろうから具体例は出さないけど)に関わる仕事であれば、ある程度は納得出来るだろう。この仕事によって、誰かが犠牲になる。でもそれは、僕らの側の凄く重要な事柄をどうにかするために止む終えないのだ、と自分を納得させることは出来るだろうと思う。
でも、エビのために、それはできない。
これは、僕自身の今の仕事とも、若干関わってくる話だ。
本屋で働いていると色んな本を目にすることになるけど、その中には『明らかにおかしい・間違っているもの』というのがある(これも具体例を挙げるとめんどくさい話になるんで省略するけど、一例として、『科学的に見て明らかに間違っている』というようなことだと思ってください)。そしてそういう本が時々、爆発的に売れたりするのだ。
僕はそういう時、本当に心苦しい。正直に言ってその本を売る行為は、買ってくれた人間を幸福にしないばかりか、時として不幸にすることだってあるはずだ。それでも僕は、そういう本を売らなくてはいけない。こういうことは、本当にしたくないのだけど、仕方ないと割り切るしかない。そうではない、もっと大事な、あるいはもっと心に残る本を売るために、そういう本を割りきって売っているのだ。そういう風に考えないとやってられない。
僕は結局、金持ちになりたくないとサラリーマンになりたくないの二つの葛藤(特に後者の、サラリーマンになりたくない、という方が圧倒的に強いのだけど)に挟まれて、子供の頃は本当に苦しかった。自分の中で、どういう方向に進めばいいのか、まるで分からなかった。周りの大人の言ってることなんて全部嘘だって分かってた。あの頃の僕が本書を読んでいれば、少しは救われていただろう。よかった、同じように考えている人がいたんだ、って。僕には、そういうものもなかった。ただ一人で考えていた。
そうやって大人になっていく過程で、僕はかなり無茶をして、サラリーマンにならない選択をして今に至っている。それは、僕の中では最善の選択肢だと思ったし、今でもそう思っている。あの時、普通に就活をして普通にサラリーマンになってたら、僕は、現在の日本で一日に100人が自殺しているという、その内の一人になっていたかもしれない。少なくとも、そういう自分を否定することは出来ない。
本書は、資本主義という在り方を、もう一度考えなおしてみよう、という作品だ。著者自身の考え方は色濃く反映されているだろうが、基本的には賛否両方の意見が色んな形で現れる。本書の小説としての完成度はともかく(小説として悪い、という意味ではないけど、小説として凄くいい、というわけでもない)、本書を小説という形態で書いたというのは凄くよかったと思う。複数の対立する意見や考えを、小説以外のやり方で書こうとすると、どうしてもちょっと堅くなってしまう。本書では、資本主義に賛成する意見も反対する意見も、色んな登場人物それぞれの意見として登場させることが出来る。その過程で読者は、少しずつ、自分の考えを深めていくことが出来る。
本書には、凄く気になる(読んでてひっかかる)文章がたくさん出てくる。それらをいちいち抜き出してみたいのだけど、そこだけ抜き出すと誤解されるかもというような部分もあるので、それは止めておこうかな。ただ、本書を読んでて強く感じることは、これはPOPのフレーズにしようかとも思っているんだけど、
『「当たり前」を疑え』
ということだ。
これは、本書の前半辺りを読んでいる時に思いついたのだけど、後半でそれっぽい感じのフレーズが出てきて、やっぱりと思ったのでした。
世の中で『当たり前』だとされている様々な価値観がある。そのすべてを疑った方がいい。成長することは正しい、新しいものを欲しくなるのは正しい、キレイになることは正しい、夢を追い続けることは正しい…。
こういう『当たり前』だとされる価値観が出てくるのは何故なのか。それは、『それによって利益を得る人間がいる』からだ。それが、資本主義の持つ正体の一つだ。
みんなが疑うことなく信じている『当たり前』は、誰かが得するために流布されている。全部が全部そうだ、なんていうつもりはない。でも、そうかもしれない、と疑って掛かる姿勢を持たないと、僕達はいつまで経っても奴隷だ。奴隷が悪い、というつもりもない。自分が奴隷であることを認識したまま、それでも奴隷であることを選ぶのであれば、それはそれで正しい生き方だ。でも、自分が気づかない内に奴隷にされていて、自分にその意識がない、というのはちょっと怖いと思う。
僕は子供の頃からなんとなく気づいていたけど、やっぱり日本ってちょっと狂ってる。まあ、狂っててもいいんだ。大事なのはそこじゃない。大事なのは、『日本ってちょっと狂ってる』って思っている人が凄く少ないように見えること、だ。もちろん、実はほとんどの人はそう思ってて、でもそれをわかっちゃうと生きていくのが辛いから気づかないふりをしているだけ、って可能性もあるだろう。それは否定できない。けど、僕にはやっぱりそう見えないのだ。みんな、今の世の中が正しいと思っているかどうかは別として、少なくとも狂ってるなんて風には思ってないだろう。
でも、はっきりいおう。今の日本は、間違いなく狂ってると思う。それは、シンプルな目で、ちょっと離れたところから日本を見てみれば、一目瞭然のはずだ。とはいえ、日本だけじゃなくて世界中が狂ってる(資本主義そのものが病気になっているのだから、日本だけの話じゃない)わけで、逃げ道はないのだけど。
どうしたらいいかという、はっきりと明確な答えは本書にもない。でも、どう歩いていけばいいのかという指針は提示してくれる。まず一番大事なことは、『当たり前』を疑うこと。今の日本は狂っているという事実を認めること。それが第一歩だ。そこからどう歩くかは、自分で考えるしかない。『当たり前』についていくだけの人生ではない、自分で自分の道を踏みしめていく、そういう生き方を選ぶ以外にはない。それは、辛く険しい道のりになるだろう。それでも、僕は思う。『当たり前』についていく生き方より、遥かにマシだ、と。『当たり前』は、あなたに何も保証はしてくれない。ただ幻想を見せてくれるだけだ。自分で道を選べば、少なくとも、自分自身は自分のことを信じてやれる。それは幻想ではなく、希望だ。
本書は、僕らが生まれた時から掛けさせられている『当たり前』という名前のメガネを無理矢理引き剥がしてくれる、そんな作品だ。『当たり前』というメガネなしで見た世界がどう映るのか、是非体感して欲しい。
山田玲司「資本主義卒業試験」
グルメの真実 辛口評論家の㊙取材ノート(友里征耶)
内容に入ろうと思います。
本書は、『覆面・自腹』を基本として、様々な店に一般客として料理を食べ、自分の思った通りのグルメ評論をする著者による、グルメ界の様々な嘘を暴く作品です。
この友里征耶という人のことを僕は全然知らなかったんですけど、なかなか面白い人です。文章の書き方なんかはちょっと癖があって、うーん、って感じる人もいるかもしれないけど。まあ、この友里征耶という人が業界の中でどんな評価をされているのか知らないし、本書は『友里征耶というグルメ評論家からの視点での意見』の本なので全面的に記述を無条件に信頼するのも態度としてはよくないのだろうけど、でも、きちんと下調べをしてから店に行くとか、自分の好みを押し付けるわけではないとか、多少想像力によって補っている部分はあるとはいえ、グルメ界の裏側を分かりやすく見せてくれるなど、なかなかグルメ評論としては信頼できるのではないかなぁ、と思いました。
本書は、グルメ界ではこんなことが普通に行われている、こんな裏事情がある、という、ある種の暴露本みたいな内容なんですけど、凄いのが、こんな良くないことをしている、という店の名前を実名で出している、ということなんです。著者は、新潮新書からも「グルメの嘘」という本を出しているようなんだけど、そっちとどう差別化を図ろうかと考えて、その一つとして実名を明かすということを本書ではやったんだそうです。
世間ではこの店はこんな風に言われているけど、実はこうなんだよ、というようなことがかなり書かれていて、こういうおもねらない書き手はいいなぁと思いました。
料理というのは人それぞれ好みがあるんだから、嘘もホントもないだろ、というように思っている方もいるかもしれません。でも本書は、ここの料理はマズイ、みたいなそういう主観的な話が書かれている本ではないんです。著者自身も、『友里が口を酸っぱくして訴えていることの一つに「人の思考はそれぞれ」があります。』
本書はそういう主観的な話ではなく、後で色々と具体例を挙げてみようと思いますけど、もっと具体的な、やろうと思ったら検証できそうな事柄についてたくさん書かれています。本書が、あの店は美味い、あの店はマズイ、という本だったら興味は持たなかったですけど、料理でこんなことが行われている、グルメ界のこういう流れにはこんな裏事情がある、こういう情報はこういう可能性があるから気をつけなくてはいけない、というような話がたくさん出てきます。
僕は個人的には、グルメでもなんでもありません。というか、食べ物の味はよくわかりません。僕の場合、『マズイ』『凄く美味しい』『それ以外』という三つぐらいの判断しかなくて、何を食べても大体『それ以外』の範疇に収まってしまうような、そういう人間です。美味いものを食べるために行列に並ぼうと思わないし、美味しいと言われているものをわざわざ食べに行こうとも思いません。まあ、好きなものを好きなように食べればいいんじゃないかなぁ、って思います。人の『好き』に合わせる必要なんてないよなぁ、と。僕は、インスタントの薄い味噌ラーメンとか凄く好きです。
本当に料理の味が分かっている人ならいいんだけど、そうじゃない人たちによる情報が氾濫しているような気がして、しかもそういう情報に踊らされている人がたくさんいる気がして、なんだかぁ、という気がします。どんな業界でもそうだと思うんだけど、受け手側の無知や勘違いによって『一流』を判断できない人が多くなれば、そのジャンルそのものが衰退して行ってしまうだろうから、グルメに限りませんけど、僕達はもっと『賢い受け手』にならなくてはいけないよなぁと、これは自戒を込めて。
さて本書は、本当に具体的に面白いことがたくさん書かれていて、抜き出したいなと思う部分が凄く多いんだけど、それをやると本書一冊丸々引用する感じになりかねないので、ある程度絞って、こんなことが書かれていた、というような具体例をいくつか書いてみようと思います。
魚介類の中には、獲れた場所が同じでも水揚げされた港の違いによって取引価格がまるで違うものがある。越前蟹と松葉蟹、関サバと岬サバ、大間の鮪と戸井鮪など、同じ場所で獲れたのに値段がまるで違う。
高級和食店の松茸ご飯でも人工の香料を使っている。
スッポンは高級食材だと言われているけど、卸値はかなり安い。業界全体で、スッポン=高級食材、というイメージを植えつけ、談合のように高額の値段をつけている
(知っている人には常識なんでしょうけど、僕は知りませんでした)「和牛」と「国産牛」は違う。「和牛」と銘打っていない店は、基本的に「国産牛」だと思って間違いない
20代でも独立出来てしまうフレンチにはこんなカラクリがある。まず、最近一部の料理人(主に海外の有名シェフ)が、しつこさを嫌って軽い味付けがいいと誘導するようになった。これによって、フレンチの基本であるが技術も手間も必要なソースを放棄する流れがある。また、厨房に寸胴を置かず(これはつまり、ブイヨンやフォンを自分の店では作らないことを意味する)、また低温ローストという誰にでも出来る簡単な技術が広まってしまっているから、簡単にフレンチは独立できてしまう
レアな日本酒など、とにかく市場で高額な値段のつくお酒。しかし、どれだけ高値になっても、蔵元に入ってくるお金は同じ。値段がつり上がった分はすべて流通業者たちがポケットに入れてしまう。
別々のコースを用意するのは手間が掛かるから、松竹梅のコースにはほとんど差がない。だから、見栄を気にしなければ梅を頼めばいい
予約困難店=美味しい店だ、という客の心理を利用して、意図的に予約困難店を作り出す、ということがよく行われている。電話を通じにくくしたり、予約を受け付ける日を限ったり。あるいは、全然満席ではないのに店内に客を入れず行列を作らせたり。こういうやり方だけで人気店になった店というのは結構あるらしい。
「あまから手帖」という料理雑誌は、大阪ガスがバックアップしているので、掲載されている店はすべてガス調理器具の導入が前提となっている。
これでももちろん全然一部で、本書では他にもいろんな手口や慣習などがたくさん書かれています。もちろん、直接検証したわけではない話もあるだろうから、書かれていることをすべて鵜呑みには出来ないでしょうけど、著者はある程度は自分で情報を調べ、実際に店に行ったりその商品を買ったりして試してこういうことを書いているので、ある程度の信ぴょう性はあるのだろうなと思います。
僕は、どういう本を読んでも自分の仕事と結びつけて考えてしまうのだけど、本書を読んで、自分も気を付けないと、と改めて思いました。僕は本を売る仕事をしていますけど、やっぱりいろんな話を漏れ聞く限り、この業界にもいろんな悪習があります。『良い本を売る』というのがベースになっていればいいのですが、最近ではそうではない力学によって物事が進んでいるように見える(あるいは実際にそういう事情で進んでいる)事柄が多くて、なんだか嫌になることは多いです。もちろん、どんなジャンルであれ、『モノを売ること』は綺麗ごとだけではどうにもならないのでしょうけど、それでも、その綺麗ごとにどれだけ足場を残せるかというのが一つの矜持ではないかと思うのです。なるべく『良い本』がお客さんの手に渡って欲しいし、それと同じくらい『悪い本』がお客さんの手に渡らないでほしい。もちろん、良い悪いの判断はどうしても主観的な部分が多くなってしまうわけで、スパッとは割り切れないわけですけど、少なくとも自分の中でそういう矜持は持ち続けたいなと思いました。
美味しいものを食べるのが好き、という人は、是非読んでみたらいいと思います。もちろん、本書を読まなくたって、自分が『美味しい』と思ったものを食べれば満足だから、という方もいるでしょうけど、一読して損する内容ではないと思います。
友里征耶「グルメの真実 辛口評論家の㊙取材ノート」
アシンメトリー(飛鳥井千砂)
内容に入ろうと思います。
本書は、四人の主要人物が二度ずつ描かれる、全部で8編からなる作品(連作短編集っぽい長編)なのだけど、ちょっとこの作品については、未読の人が知らない方がいいだろうデリケートな部分があって、それに僕は触れずに感想を書くつもりなので、内容紹介もちょっとざっくりしたものにしようと思います。そのデリケートな部分に触れないままで感想を書くってのはなかなかハードル高いんだけど、ちょっと頑張ろう。
主要な四人は、秋本朋美、辻紗雪、藤原治樹、夏川貴人。
朋美は、両親の離婚に伴って母親と二人で東京に出てきた。契約社員として事務の仕事を始めた時、紗雪と出会った。紗雪は、アパレル関連の仕事に就きたいと思っている子で、力業の奇抜なファッションがよく似合う都会的な女の子。黒髪で地味目な朋美とはまるで違ったタイプだったけど、二人はすぐに仲良くなった。
結婚観がまるで違う二人。朋美は、結婚を望むのは当然で、そうやって幸せになっていくもんだって疑いなく信じている。一方紗雪は、結婚が必ずしも人生の中心にある必要なんてなくて、相手と気持ちが合えばすればいいけど、そうでないなら別に特別こだわっていない、というスタンス。その結婚観の違いから、一瞬だけ気まずくなってしまったこともあったけど、大した問題じゃない。
朋美が衝撃を受けたのは、紗雪が結婚する、と聞いたから。しかも、治樹と結婚するのだという。
紗雪の高校時代からの友人だと言って紹介されたのが、雇われ店長として店を回している浩樹だった。東京に出てきて友達のいなかった朋美は、必然的に紗雪の友人と関わるようになったけど、紗雪の友人は紗雪と同じく奇抜な感じの子が多くてちょっと気後れがあった。治樹は、洗練された雰囲気だったけど、それまで会ってきたような紗雪の友人とはまた違っていて、朋美はなんとなくいいなと思うようになった。自分から行動しない朋美が一人で通っている、と紗雪に驚かれるくらい、頻繁に治樹の店に通うようになった。
その二人が結婚するのだという。式や披露宴はしないけど、ちょっとしたパーティみたいなものはやるらしく、そこに着ていく服を選ばないと。なんだかそのパーティに出るのも気が重い。
パーティ当日。やっぱり自分なんかがいるような場所ではないような華やかな感じで、朋美は乾杯も終わっていない時点で、もう帰ろうと思った。そんな時に出会ったのが、パーティに遅れてやってきた貴人だ。貴人は紗雪と治樹の高校時代からの友人で、みな一個ずつ学年が違うのにずっとつるんでいる感じだった。明るく元気な貴人の雰囲気に惹かれていく朋美…。
というような感じなんですけど、これやっぱり、デリケートな部分を除いたままで内容紹介すると、なんかどこにでもありそうな恋愛小説って感じになっちゃうなぁ。全然そんなことないんですよ。僕が普段考えているようなことや、あるいは、普段なかなか考えたことのないようなことまで、色んなことを深く考えさせる素敵な作品です。
本書のメインとなるデリケートな部分には触れないと決めたので、この作品について書けることは多くないんだけど、本書を読んで、普段僕が感じている『普通』ということについて強く考えさせられた。
僕は『普通』というのが好きじゃない。と書くと、なんだよ、自分が人とは違っていることを誇ったりしてるのかよ、とか思われちゃうかもだけど、そういうつもりはないんです。
僕は、『みんながそうだからこれが普通』という価値観が凄く嫌いなんですね。同じ『普通』の言動をしていても、『それを自分で選び取った』と思っている人はいいんですけど、『みんながいいって言ってるから』みたいな風に思ってる人って全然ダメなんです。
一番わかり易い例は、ブランドもののバッグかな。ブランドもののバッグを持ってる人って、大きく二つに分けられると思うんです。一つは、『なんかみんな持ってるし、流行ってるみたいだし、だから私も欲しい』っていう人。そしてもう一つは、『このブランドのバッグは質がちゃんとしてるし長持ちするから選んだ』という人。
同じブランドもののバッグを持っている人でも、後者の人は僕は大好きです。自分の価値観・判断でそれを選びとっている。でも、前者の人は大嫌いなんですね。それは、自分の価値観じゃない。周りの価値観に合わせることが『普通』だと思っていて、それが『幸せ』だと思っている人は、気持ち悪くて話も出来ないんです。
最近は、前者のような、自分の価値観で判断できない人が多い気がするんです。テレビでいいって言ってた、雑誌で紹介されてた、あの芸能人が使ってるんだって…。そういう人の存在を否定するつもりはないんですけど、僕はそういう人とはたぶん親しく出来ないし、話も通じないんだろうなぁ、と思うんです。
僕は子どもの頃、この『普通』って感覚に凄く苦しめられました。今でこそ僕は、人と外れた感じでいてもいいや、周りに合わせなくてもいいや、と思えるようになりましたけど、子どもの頃はそういう風には全然思えなかったんです。周りから浮くことを極度に恐れていたし、自分が良いと思うかどうかではなく、周りから良いと思われるかどうかが判断基準のほとんどだったと思います。
でも僕自身は、そういう自分が嫌いだった。別に周りに合わせたいわけじゃなかった。でも、学校とか家庭っていう狭い世界の中では、そういう風にやっていかないと、とてもじゃないとやっていけなかった。だから、特に中学高校時代はキツかったなぁ。『普通』という枠の中に、その枠とはまるで違う形をした自分をどうやって押しこむか、そして押しこむことで自分が感じる苦痛をどう扱うか。結局そういうことばっかりにほとんどの思考が取られていたような気がします。
今は本当に、凄く楽になりました。『普通』という枠を無視してもいい、という立ち位置に、うまく自分を誘導していったんですね。というか、そうでもしないととてもじゃないとやっていけなかった。今僕は、傍から見れば適当な生き方をしていると思うんだけど、ある意味で僕の中でこれが最適解だなと感じることがあるし、自分をここに辿り着かせるためにしてきた様々な決断を後悔したことはありません。
『普通』という枠に、苦痛を感じることなく自分の形を馴染ませることが出来るなら、もう少し生きていくのって楽だろうなぁ、って思うんです。だからある意味で、『みんながそうしてるから』っていう『普通』の価値観を違和感なく持てる人って羨ましく思う。僕がずっと抱え込んできたような鬱屈みたいなものを、たぶんその姿形さえ想像しなくてもいいような生き方なんだろうな、と思うんです。でも、僕にはそういう生き方は出来ないって知ってるし、子どもの時のように『普通』の枠に自分を押し込めなくても生きていける今の感じは、決して嫌いじゃありません。
僕は、朋美が大嫌いなんですね。
朋美は、僕がさっきから言ってきたような、『普通』の枠に違和感なく馴染める人、なんです。ホントに僕は、朋美の価値観が垣間見える度に、うわーっていう気になりました。例えば、仕事で一緒になるくらいならまだ我慢できるけど、朋美とは親しい付き合いは出来ないだろうなぁ。
朋美は、自分が『普通』だと思っていることが、世間一般の常識だと思っている。世の中にはいろんな人がいて、色んな考え方があるのに、自分の『普通』こそが最適で、それ以外は『普通ではない』って、ナチュラルに思い込むことが出来ている。そういう価値観は、不愉快で仕方ないんですね。
もちろん、朋美に感情移入ができないからって、この作品がつまらないとかそういうことは全然ないんです。不愉快だからこそ気になる、という部分もあって、こういう時朋美はどんな発想をするんだろう、って楽しみになる感じもあります。
対照的なのが紗雪で、トリッキーな人間が好きな僕としては、紗雪は凄くいいキャラですね。女子同士で群れないとか、自分が正しいと思ったことは先輩相手でも通すとか、激しく周りから浮くキャラで、僕も中学高校時代に紗雪と出会っていたら、周りの人から目をつけられないように紗雪とは仲良くしなかったかもしれない、と思わせるようなエキセントリックさなんだけど、今なら凄く仲良くしたい感じの人です。正直に言うと、紗雪の章を読んで、紗雪の内面を知ると、うーむ、と思う部分も出てきたりはしたんだけど、でも紗雪はいいなと思います。
朋美と紗雪のやり取りは、怖いですね。うわー、女だなぁー、って感じがします。女同士の醜い部分が時折垣間見えて、そういう部分も上手いなと思いました。飛鳥井さんの作品ってそこそこ読んでるけど、こういう女同士のうわーって部分が、そこまで強く描かれてる作品ってあんまりなかったような気がします(気のせいかな)。本書では、ある意味で『バトル』と言ってもいいくらいの紗雪と朋美のやり取りは、かなり読みごたえあります。
最後の最後で朋美はちょっと変わるんだけど、その変わった朋美は結構いいかも。なかなかそんなに、憑き物が落ちたように変わるものなのか僕はちょっと半信半疑だったりするけど(『普通』って価値観に縛られてる人って、その価値観から動く理由があんまりなさそうな気がするんですよね)、確かに朋美が経験したことって『ちょっとしたこと』ではないし、朋美の変化はなかなかいい感じだなと思いました。
治樹についてはちょっとあんまり書けることが多くはないんだけど、治樹と紗雪の関係も、回りまわってなかなかの着地点に辿りついたような感じがあって、いい終わり方な気がします。
貴人は、なんだかんだ言って濃い他の三人と比べると薄味のキャラクターなんだけど、結局物語をかき回すことになるのは貴人だったりするんだよなぁ。ただ個人的には、貴人には特別思い入れはないかな。大嫌いな朋美の方が気になる存在だったりします(笑)
本書のデリケートな部分については、他の小説でも時々そういう感じのものがあったりして、そういう小説を読んだ時にはちょっと考えるけど、やっぱり普段なかなか考えることは少ないよなと思います。彼らが何をどう感じ、どう生きているのかを、少しでも理解できた、なんて表現することはおこがましくて出来ないけど、見て見ぬふりをしなくてもいいような感じになればいいんだけどなぁ、という感じがしました。
最後に、紗雪の言葉で、僕が結構好きなフレーズがあるので、それを抜き出して終わりにしようと思います。
『だって結婚って二人でするものだから、相手があって初めて成立するものでしょ?相手がいないときでも、結婚だけしたいっておかしくない?』
『だいたい「普通」という言葉を使いたがる人は、どういう意味で言っているのだろう。大多数?平均?標準?正常?
大多数、平均、標準は譲ってもいい。でも、大多数じゃないからと行って、何故責められたり笑われたりされなければいけないのか』
僕の内容紹介だと、なんとなくフワッとした恋愛小説っぽいけど、全然そんなことありません。相手の気持ちを必要以上に推し量ることでしか自分を守れない、そういう強さと弱さを兼ね備えざるをえなかった人たちの、傷だらけになりながらも前に進んでいく物語です。是非読んでみてください。
飛鳥井千砂「アシンメトリー」
本書は、四人の主要人物が二度ずつ描かれる、全部で8編からなる作品(連作短編集っぽい長編)なのだけど、ちょっとこの作品については、未読の人が知らない方がいいだろうデリケートな部分があって、それに僕は触れずに感想を書くつもりなので、内容紹介もちょっとざっくりしたものにしようと思います。そのデリケートな部分に触れないままで感想を書くってのはなかなかハードル高いんだけど、ちょっと頑張ろう。
主要な四人は、秋本朋美、辻紗雪、藤原治樹、夏川貴人。
朋美は、両親の離婚に伴って母親と二人で東京に出てきた。契約社員として事務の仕事を始めた時、紗雪と出会った。紗雪は、アパレル関連の仕事に就きたいと思っている子で、力業の奇抜なファッションがよく似合う都会的な女の子。黒髪で地味目な朋美とはまるで違ったタイプだったけど、二人はすぐに仲良くなった。
結婚観がまるで違う二人。朋美は、結婚を望むのは当然で、そうやって幸せになっていくもんだって疑いなく信じている。一方紗雪は、結婚が必ずしも人生の中心にある必要なんてなくて、相手と気持ちが合えばすればいいけど、そうでないなら別に特別こだわっていない、というスタンス。その結婚観の違いから、一瞬だけ気まずくなってしまったこともあったけど、大した問題じゃない。
朋美が衝撃を受けたのは、紗雪が結婚する、と聞いたから。しかも、治樹と結婚するのだという。
紗雪の高校時代からの友人だと言って紹介されたのが、雇われ店長として店を回している浩樹だった。東京に出てきて友達のいなかった朋美は、必然的に紗雪の友人と関わるようになったけど、紗雪の友人は紗雪と同じく奇抜な感じの子が多くてちょっと気後れがあった。治樹は、洗練された雰囲気だったけど、それまで会ってきたような紗雪の友人とはまた違っていて、朋美はなんとなくいいなと思うようになった。自分から行動しない朋美が一人で通っている、と紗雪に驚かれるくらい、頻繁に治樹の店に通うようになった。
その二人が結婚するのだという。式や披露宴はしないけど、ちょっとしたパーティみたいなものはやるらしく、そこに着ていく服を選ばないと。なんだかそのパーティに出るのも気が重い。
パーティ当日。やっぱり自分なんかがいるような場所ではないような華やかな感じで、朋美は乾杯も終わっていない時点で、もう帰ろうと思った。そんな時に出会ったのが、パーティに遅れてやってきた貴人だ。貴人は紗雪と治樹の高校時代からの友人で、みな一個ずつ学年が違うのにずっとつるんでいる感じだった。明るく元気な貴人の雰囲気に惹かれていく朋美…。
というような感じなんですけど、これやっぱり、デリケートな部分を除いたままで内容紹介すると、なんかどこにでもありそうな恋愛小説って感じになっちゃうなぁ。全然そんなことないんですよ。僕が普段考えているようなことや、あるいは、普段なかなか考えたことのないようなことまで、色んなことを深く考えさせる素敵な作品です。
本書のメインとなるデリケートな部分には触れないと決めたので、この作品について書けることは多くないんだけど、本書を読んで、普段僕が感じている『普通』ということについて強く考えさせられた。
僕は『普通』というのが好きじゃない。と書くと、なんだよ、自分が人とは違っていることを誇ったりしてるのかよ、とか思われちゃうかもだけど、そういうつもりはないんです。
僕は、『みんながそうだからこれが普通』という価値観が凄く嫌いなんですね。同じ『普通』の言動をしていても、『それを自分で選び取った』と思っている人はいいんですけど、『みんながいいって言ってるから』みたいな風に思ってる人って全然ダメなんです。
一番わかり易い例は、ブランドもののバッグかな。ブランドもののバッグを持ってる人って、大きく二つに分けられると思うんです。一つは、『なんかみんな持ってるし、流行ってるみたいだし、だから私も欲しい』っていう人。そしてもう一つは、『このブランドのバッグは質がちゃんとしてるし長持ちするから選んだ』という人。
同じブランドもののバッグを持っている人でも、後者の人は僕は大好きです。自分の価値観・判断でそれを選びとっている。でも、前者の人は大嫌いなんですね。それは、自分の価値観じゃない。周りの価値観に合わせることが『普通』だと思っていて、それが『幸せ』だと思っている人は、気持ち悪くて話も出来ないんです。
最近は、前者のような、自分の価値観で判断できない人が多い気がするんです。テレビでいいって言ってた、雑誌で紹介されてた、あの芸能人が使ってるんだって…。そういう人の存在を否定するつもりはないんですけど、僕はそういう人とはたぶん親しく出来ないし、話も通じないんだろうなぁ、と思うんです。
僕は子どもの頃、この『普通』って感覚に凄く苦しめられました。今でこそ僕は、人と外れた感じでいてもいいや、周りに合わせなくてもいいや、と思えるようになりましたけど、子どもの頃はそういう風には全然思えなかったんです。周りから浮くことを極度に恐れていたし、自分が良いと思うかどうかではなく、周りから良いと思われるかどうかが判断基準のほとんどだったと思います。
でも僕自身は、そういう自分が嫌いだった。別に周りに合わせたいわけじゃなかった。でも、学校とか家庭っていう狭い世界の中では、そういう風にやっていかないと、とてもじゃないとやっていけなかった。だから、特に中学高校時代はキツかったなぁ。『普通』という枠の中に、その枠とはまるで違う形をした自分をどうやって押しこむか、そして押しこむことで自分が感じる苦痛をどう扱うか。結局そういうことばっかりにほとんどの思考が取られていたような気がします。
今は本当に、凄く楽になりました。『普通』という枠を無視してもいい、という立ち位置に、うまく自分を誘導していったんですね。というか、そうでもしないととてもじゃないとやっていけなかった。今僕は、傍から見れば適当な生き方をしていると思うんだけど、ある意味で僕の中でこれが最適解だなと感じることがあるし、自分をここに辿り着かせるためにしてきた様々な決断を後悔したことはありません。
『普通』という枠に、苦痛を感じることなく自分の形を馴染ませることが出来るなら、もう少し生きていくのって楽だろうなぁ、って思うんです。だからある意味で、『みんながそうしてるから』っていう『普通』の価値観を違和感なく持てる人って羨ましく思う。僕がずっと抱え込んできたような鬱屈みたいなものを、たぶんその姿形さえ想像しなくてもいいような生き方なんだろうな、と思うんです。でも、僕にはそういう生き方は出来ないって知ってるし、子どもの時のように『普通』の枠に自分を押し込めなくても生きていける今の感じは、決して嫌いじゃありません。
僕は、朋美が大嫌いなんですね。
朋美は、僕がさっきから言ってきたような、『普通』の枠に違和感なく馴染める人、なんです。ホントに僕は、朋美の価値観が垣間見える度に、うわーっていう気になりました。例えば、仕事で一緒になるくらいならまだ我慢できるけど、朋美とは親しい付き合いは出来ないだろうなぁ。
朋美は、自分が『普通』だと思っていることが、世間一般の常識だと思っている。世の中にはいろんな人がいて、色んな考え方があるのに、自分の『普通』こそが最適で、それ以外は『普通ではない』って、ナチュラルに思い込むことが出来ている。そういう価値観は、不愉快で仕方ないんですね。
もちろん、朋美に感情移入ができないからって、この作品がつまらないとかそういうことは全然ないんです。不愉快だからこそ気になる、という部分もあって、こういう時朋美はどんな発想をするんだろう、って楽しみになる感じもあります。
対照的なのが紗雪で、トリッキーな人間が好きな僕としては、紗雪は凄くいいキャラですね。女子同士で群れないとか、自分が正しいと思ったことは先輩相手でも通すとか、激しく周りから浮くキャラで、僕も中学高校時代に紗雪と出会っていたら、周りの人から目をつけられないように紗雪とは仲良くしなかったかもしれない、と思わせるようなエキセントリックさなんだけど、今なら凄く仲良くしたい感じの人です。正直に言うと、紗雪の章を読んで、紗雪の内面を知ると、うーむ、と思う部分も出てきたりはしたんだけど、でも紗雪はいいなと思います。
朋美と紗雪のやり取りは、怖いですね。うわー、女だなぁー、って感じがします。女同士の醜い部分が時折垣間見えて、そういう部分も上手いなと思いました。飛鳥井さんの作品ってそこそこ読んでるけど、こういう女同士のうわーって部分が、そこまで強く描かれてる作品ってあんまりなかったような気がします(気のせいかな)。本書では、ある意味で『バトル』と言ってもいいくらいの紗雪と朋美のやり取りは、かなり読みごたえあります。
最後の最後で朋美はちょっと変わるんだけど、その変わった朋美は結構いいかも。なかなかそんなに、憑き物が落ちたように変わるものなのか僕はちょっと半信半疑だったりするけど(『普通』って価値観に縛られてる人って、その価値観から動く理由があんまりなさそうな気がするんですよね)、確かに朋美が経験したことって『ちょっとしたこと』ではないし、朋美の変化はなかなかいい感じだなと思いました。
治樹についてはちょっとあんまり書けることが多くはないんだけど、治樹と紗雪の関係も、回りまわってなかなかの着地点に辿りついたような感じがあって、いい終わり方な気がします。
貴人は、なんだかんだ言って濃い他の三人と比べると薄味のキャラクターなんだけど、結局物語をかき回すことになるのは貴人だったりするんだよなぁ。ただ個人的には、貴人には特別思い入れはないかな。大嫌いな朋美の方が気になる存在だったりします(笑)
本書のデリケートな部分については、他の小説でも時々そういう感じのものがあったりして、そういう小説を読んだ時にはちょっと考えるけど、やっぱり普段なかなか考えることは少ないよなと思います。彼らが何をどう感じ、どう生きているのかを、少しでも理解できた、なんて表現することはおこがましくて出来ないけど、見て見ぬふりをしなくてもいいような感じになればいいんだけどなぁ、という感じがしました。
最後に、紗雪の言葉で、僕が結構好きなフレーズがあるので、それを抜き出して終わりにしようと思います。
『だって結婚って二人でするものだから、相手があって初めて成立するものでしょ?相手がいないときでも、結婚だけしたいっておかしくない?』
『だいたい「普通」という言葉を使いたがる人は、どういう意味で言っているのだろう。大多数?平均?標準?正常?
大多数、平均、標準は譲ってもいい。でも、大多数じゃないからと行って、何故責められたり笑われたりされなければいけないのか』
僕の内容紹介だと、なんとなくフワッとした恋愛小説っぽいけど、全然そんなことありません。相手の気持ちを必要以上に推し量ることでしか自分を守れない、そういう強さと弱さを兼ね備えざるをえなかった人たちの、傷だらけになりながらも前に進んでいく物語です。是非読んでみてください。
飛鳥井千砂「アシンメトリー」
笑い三年、泣き三月。(木内昇)
内容に入ろうと思います。
舞台は、終戦直後の上野。
地方で万歳芸人として旅回りを続けてきた岡部善造は、一座を抜けだして上野までやってきた。芸人として一旗上げようと思ってやってきたのだ。浅草というところで、面白い芸人が次々と出てきているらしい。
右も左も分からない善造に目をつけたのが、東京空襲で家族を皆亡くし、浮浪児としてなんとかこの辛い状況を生き抜いている少年・田川武雄だった。武雄は善造が持つトランクの中に食料がたんまり詰まっていると見て、道案内をするフリをしてトランクを奪ってやろうと考えていた。厳しい寒さを生き抜くのはなかなか辛く、空腹やシラミなども押し寄せてくる。どうにか空腹だけでも満たせないかと、武雄は日々必死で頭を使っているのだ。
しかし善造は、頓珍漢にもほどがあった。受け答えが牧歌的過ぎて、つい先日まで戦争をしていた日本で生きてきたとは思えないほどだった。善造は、自分はもう万歳(マンザイ)の世界では有名だ、東京に出てきさえすればどこでも雇ってもらえるはずだ、あるいは自分の芸でお金をもらえるはずだ、という、どこから出てくるのかわからない自信を持っているのだけど、そのくせ、武雄が時折口にする、ちょっと前に流行った漫才(マンザイ)芸人のネタをことごとく知らないのだ。
武雄はともかく、善造が舞台に上がることが出来るという幻想を抱かせるために、小屋を回ることにした。しかし当然門前払い。しかしその最中、子供の前で屁をひりだしている男を見て善造は感銘を受け、是非相方にしたいと騒ぎ出したのだ。
その男が、かつて映画の世界で働き、戦中は南方にやられてからくも生き延びた鹿内秀光だ。
秀光は、突然やってきたわけのわからないおっさんと子供のコンビに不快さを隠しもしなかったが、空腹に死にそうになっている武雄の眼力にやられた。結局彼らは、鹿内が下働きすることに決まっているミリオン座で雇われることになった。
ミリオン座の支配人である杉浦保は、小屋をかかげたものの一向に開くこともなく、武雄はとりあえず雨風のしのげるところで生活できるようになったものの、こんな連中と長いこと一緒にはいられないと、春になったら出ていこうと考えている。善造は相変わらず、クソ面白くもないネタばかり繰り出し、鹿内もどうにもならない世の中でやさぐれていた。
支配人の杉浦は、とある小屋で見たショーに度肝を抜かれ、ミリオン座はとりあえずエロで行くことに決めるのだが…。
というような話です。
これはかなりいい作品でした。この著者の作品を読むのは二作目で、一番初めに読んだ「茗荷谷の猫」が僕的に正直あんまりだったんですけど、これは良かったです。
とにかく、雰囲気が良い小説なんですね。本書は、良い点を個別に挙げようと思ったらたくさん挙げられるんだけど、まず雰囲気がいい。終戦直後という世界を、そんな世の中で娯楽を提供しようとしている人々から描く、という視点が、凄くいい雰囲気を醸し出している。戦争というとどうしたって、戦闘の厳しさや飢えの辛さ、何もかもが思うようにいかない苦しさなんかを全面に描く作品が多いような気がするんだけど、本書はそういう部分にではなく、娯楽というものを通じて世の中を見る人々のしたたかさとか力強さみたいなものを描いていて、戦争をそんな風に切り取るという新鮮さがありました。
本書では、娯楽を提供する人たちの姿が描かれるんだけど、別に彼らは『娯楽で世の中をよくしよう、明るくしよう』なんて積極的に思ってるわけじゃない。結構適当です。かつて映画を撮っていた支配人の杉浦は、訳あってそれを辞めて小屋を立ち上げ、エロが流行ってるとみればエロを取り入れるという世の流れに乗る。芸術がどうのなんて高尚なことを考えているわけでもなくて、とりあえず生活していくために娯楽を提供している。
本書では、どんな場面でもそうなんだけど、『まず生きていくこと』という雰囲気が、直接的に描写されていなくても背景として染み付いている。もちろん、終戦直後の世の中では、そういう雰囲気になるのは当然なのかもだけど、でもそういう雰囲気が行間から立ち上ってくる、っていうのが凄くいい。とにかく、どうにかして生きていくことが大事で、そのためだったらある程度なんだって許される。そういう了解が、人々の間にある、というのが伝わってくるんですね。それが自分のやりたいことかどうか、というのは、どうにかして生きていく、ということの前では、容易にへし折られる。どうしたって自分の思い通りにはならない世の中の中で、どうにか生きていくために誰もが自分なりに考えて行動をしている。描かれる登場人物それぞれの必死さは、その人それぞれで違う。他愛のない嘘を突き通す人、誰かれ構わず突っかかる人、自分の感情を押し殺す人、ひたすら正しい道を歩き続ける人。一つ一つは、人を傷つけもするし、状況を悪化させもする。そういうことが、少しずつ積み重なっていく。でも、誰も間違っていない。少なくとも、『どうにかして生きていく』という了解が人々の間にある内は、その誰もが間違っていない。結局そうやって生きていくしかないんだ、というような、諦めではない何かが本書には強く描かれていて、それが凄くいい、と思いました。
善造・武雄・秀光、そしてミリオン座のショーガールとして雇われたふう子は、一つ屋根のしたで共同生活をすることになる。境遇も性格も何もかも違う四人の共同生活は、様々な形での衝突と修復の繰り返しだ。相手のことを思う気持ちが誰かを傷つけ、自分の気持ちを表にうまく出せないことがちょっとした誤解に繋がる。生きてきた境遇も、戦中に体験したことも、人生における信念も違う人々が、『自分の大切な何か』だけを必死で囲っていた日々から次第に、『相手の大切な何か』を少しずつ想像し慈しむようになっていく過程が、凄く優しい気持ちにさせてくれる。
善造は、馬鹿がつくほど脳天気で、終戦直後に生きている人間とは思えない牧歌的な感覚が、周囲の誰ともズレている。馬鹿がつくほど不器用で、相手の気持ちを慮るばかりに空回りし、しかも当人は空回りしていることに気づかない、という奇跡的な性格は、しかし結局はミリオン座の面々を穏やかにまとめる接着剤のような役割を担っていた。善造の存在がなければ、彼らの共同生活はもっと殺伐としたものになっていただろうし、長くは続かなかっただろう。
武雄は、子供なのに拾った新聞を丹念に読み、周囲にいる大人の誰よりも世の中の動向を知っている。戦争さえなければ、と未来を嘆くこともしばしばで、両親を失った時の自らの失態を思い出しては恥じることがある。自分の気持ちを一向に開くことなく、周囲の人間をみな敵だと思うような目で見る可愛くない子供だけど、ミリオン座の面々との関わりや、その後の武雄の人生の中心になるかもしれないあるものとの出会いなどを経て、少しずつ変わっていく。
秀光は、とにかく周囲の事柄がいちいち気に障って仕方がない。何かあると周りの人間に当たり散らし暴言を吐くところは一向に改まることがなかった。ミリオン座の面々との共同生活でも様々なトラブルを引き起こしてきたけども、秀光の、物事を徹底的に単純に見て、世の中の感覚に流されることのない価値観は、ミリオン座の運営には欠かせない人材になった。秀光が抱える、ちょっと屈折した恋心も面白い。
ふう子は、嘘を突き通すことで自分を守ることを選んだ。慈愛に満ちた母親のようなあり方は、善造と同じくミリオン座の面々の共同生活を明るくする光のような存在だった。どんな状況でもめげず明るさを貫き通せるふう子のあり方は羨ましいなと思える。
杉浦保は、本書の中で僕が一番好きな人物かもしれない。飄々としていて、はっきりとしない。四半世紀も映画業界にして、下働きとして数々の調整をしてきた手腕はさすがで、結局色んなことを丸め込んで自分の思い通りに勧めてしまう。
しかし何よりも、杉浦が時折こぼすひと言が凄く深いなと思うのだ。印象的だったものを抜き出してみます。
『「人間、笑いたいときに笑えて、泣きたいときに泣けたら、だぁれも映画や実演なんか見ようとは思わないのよ」』
『「風化するはずないじゃない。あんなひどい戦争が」
支配人が言った。
「でもちょっとは忘れないと、進めないじゃない」』
『だけど、いつの時代もわかってもらえないもんなのよねぇ。楽しいものを作るのがどんだけ大変かってこと。娯楽っていっつも真っ先に切り捨てられるからたまんないのよ』
こういうセリフは、杉浦以外の誰が言っても様にならない。杉浦の、それまでの人生で経験してきただろう様々なこと、そして、娯楽というものに対する思いが少しずつ透けて見えるからこそ、こういう言葉が深く思えるのだろうと思います。また逆に、こういうセリフが、杉浦保という人物をより一層掘り下げていくことになるんだろうなぁ、と感じました。
誰しもが、とにかく生きることしか考えられなかった時代。何もかも自分の思い通りにはならなかった時代。そんな世の中にあって、娯楽という、世間から見れば下に見られがちなものを通して、それに関わる人々の成長や世の中のあり方を見事に切り取った作品です。様々な人達のどうにもやりきれない思いがそこかしこに降り積もっていて、その降り積もったものが見事に背景になって作品としての深みが出ているのだろうと思います。その時代の空気を、重苦しくなく、それでいて的確に切り取る手腕は、もちろん終戦直後の時代のことなんて直接に知っているわけでもない僕にも光景が鮮やかに浮かぶようで見事だと思いました。是非読んでみてください。
木内昇「笑い三年、泣き三月。」
舞台は、終戦直後の上野。
地方で万歳芸人として旅回りを続けてきた岡部善造は、一座を抜けだして上野までやってきた。芸人として一旗上げようと思ってやってきたのだ。浅草というところで、面白い芸人が次々と出てきているらしい。
右も左も分からない善造に目をつけたのが、東京空襲で家族を皆亡くし、浮浪児としてなんとかこの辛い状況を生き抜いている少年・田川武雄だった。武雄は善造が持つトランクの中に食料がたんまり詰まっていると見て、道案内をするフリをしてトランクを奪ってやろうと考えていた。厳しい寒さを生き抜くのはなかなか辛く、空腹やシラミなども押し寄せてくる。どうにか空腹だけでも満たせないかと、武雄は日々必死で頭を使っているのだ。
しかし善造は、頓珍漢にもほどがあった。受け答えが牧歌的過ぎて、つい先日まで戦争をしていた日本で生きてきたとは思えないほどだった。善造は、自分はもう万歳(マンザイ)の世界では有名だ、東京に出てきさえすればどこでも雇ってもらえるはずだ、あるいは自分の芸でお金をもらえるはずだ、という、どこから出てくるのかわからない自信を持っているのだけど、そのくせ、武雄が時折口にする、ちょっと前に流行った漫才(マンザイ)芸人のネタをことごとく知らないのだ。
武雄はともかく、善造が舞台に上がることが出来るという幻想を抱かせるために、小屋を回ることにした。しかし当然門前払い。しかしその最中、子供の前で屁をひりだしている男を見て善造は感銘を受け、是非相方にしたいと騒ぎ出したのだ。
その男が、かつて映画の世界で働き、戦中は南方にやられてからくも生き延びた鹿内秀光だ。
秀光は、突然やってきたわけのわからないおっさんと子供のコンビに不快さを隠しもしなかったが、空腹に死にそうになっている武雄の眼力にやられた。結局彼らは、鹿内が下働きすることに決まっているミリオン座で雇われることになった。
ミリオン座の支配人である杉浦保は、小屋をかかげたものの一向に開くこともなく、武雄はとりあえず雨風のしのげるところで生活できるようになったものの、こんな連中と長いこと一緒にはいられないと、春になったら出ていこうと考えている。善造は相変わらず、クソ面白くもないネタばかり繰り出し、鹿内もどうにもならない世の中でやさぐれていた。
支配人の杉浦は、とある小屋で見たショーに度肝を抜かれ、ミリオン座はとりあえずエロで行くことに決めるのだが…。
というような話です。
これはかなりいい作品でした。この著者の作品を読むのは二作目で、一番初めに読んだ「茗荷谷の猫」が僕的に正直あんまりだったんですけど、これは良かったです。
とにかく、雰囲気が良い小説なんですね。本書は、良い点を個別に挙げようと思ったらたくさん挙げられるんだけど、まず雰囲気がいい。終戦直後という世界を、そんな世の中で娯楽を提供しようとしている人々から描く、という視点が、凄くいい雰囲気を醸し出している。戦争というとどうしたって、戦闘の厳しさや飢えの辛さ、何もかもが思うようにいかない苦しさなんかを全面に描く作品が多いような気がするんだけど、本書はそういう部分にではなく、娯楽というものを通じて世の中を見る人々のしたたかさとか力強さみたいなものを描いていて、戦争をそんな風に切り取るという新鮮さがありました。
本書では、娯楽を提供する人たちの姿が描かれるんだけど、別に彼らは『娯楽で世の中をよくしよう、明るくしよう』なんて積極的に思ってるわけじゃない。結構適当です。かつて映画を撮っていた支配人の杉浦は、訳あってそれを辞めて小屋を立ち上げ、エロが流行ってるとみればエロを取り入れるという世の流れに乗る。芸術がどうのなんて高尚なことを考えているわけでもなくて、とりあえず生活していくために娯楽を提供している。
本書では、どんな場面でもそうなんだけど、『まず生きていくこと』という雰囲気が、直接的に描写されていなくても背景として染み付いている。もちろん、終戦直後の世の中では、そういう雰囲気になるのは当然なのかもだけど、でもそういう雰囲気が行間から立ち上ってくる、っていうのが凄くいい。とにかく、どうにかして生きていくことが大事で、そのためだったらある程度なんだって許される。そういう了解が、人々の間にある、というのが伝わってくるんですね。それが自分のやりたいことかどうか、というのは、どうにかして生きていく、ということの前では、容易にへし折られる。どうしたって自分の思い通りにはならない世の中の中で、どうにか生きていくために誰もが自分なりに考えて行動をしている。描かれる登場人物それぞれの必死さは、その人それぞれで違う。他愛のない嘘を突き通す人、誰かれ構わず突っかかる人、自分の感情を押し殺す人、ひたすら正しい道を歩き続ける人。一つ一つは、人を傷つけもするし、状況を悪化させもする。そういうことが、少しずつ積み重なっていく。でも、誰も間違っていない。少なくとも、『どうにかして生きていく』という了解が人々の間にある内は、その誰もが間違っていない。結局そうやって生きていくしかないんだ、というような、諦めではない何かが本書には強く描かれていて、それが凄くいい、と思いました。
善造・武雄・秀光、そしてミリオン座のショーガールとして雇われたふう子は、一つ屋根のしたで共同生活をすることになる。境遇も性格も何もかも違う四人の共同生活は、様々な形での衝突と修復の繰り返しだ。相手のことを思う気持ちが誰かを傷つけ、自分の気持ちを表にうまく出せないことがちょっとした誤解に繋がる。生きてきた境遇も、戦中に体験したことも、人生における信念も違う人々が、『自分の大切な何か』だけを必死で囲っていた日々から次第に、『相手の大切な何か』を少しずつ想像し慈しむようになっていく過程が、凄く優しい気持ちにさせてくれる。
善造は、馬鹿がつくほど脳天気で、終戦直後に生きている人間とは思えない牧歌的な感覚が、周囲の誰ともズレている。馬鹿がつくほど不器用で、相手の気持ちを慮るばかりに空回りし、しかも当人は空回りしていることに気づかない、という奇跡的な性格は、しかし結局はミリオン座の面々を穏やかにまとめる接着剤のような役割を担っていた。善造の存在がなければ、彼らの共同生活はもっと殺伐としたものになっていただろうし、長くは続かなかっただろう。
武雄は、子供なのに拾った新聞を丹念に読み、周囲にいる大人の誰よりも世の中の動向を知っている。戦争さえなければ、と未来を嘆くこともしばしばで、両親を失った時の自らの失態を思い出しては恥じることがある。自分の気持ちを一向に開くことなく、周囲の人間をみな敵だと思うような目で見る可愛くない子供だけど、ミリオン座の面々との関わりや、その後の武雄の人生の中心になるかもしれないあるものとの出会いなどを経て、少しずつ変わっていく。
秀光は、とにかく周囲の事柄がいちいち気に障って仕方がない。何かあると周りの人間に当たり散らし暴言を吐くところは一向に改まることがなかった。ミリオン座の面々との共同生活でも様々なトラブルを引き起こしてきたけども、秀光の、物事を徹底的に単純に見て、世の中の感覚に流されることのない価値観は、ミリオン座の運営には欠かせない人材になった。秀光が抱える、ちょっと屈折した恋心も面白い。
ふう子は、嘘を突き通すことで自分を守ることを選んだ。慈愛に満ちた母親のようなあり方は、善造と同じくミリオン座の面々の共同生活を明るくする光のような存在だった。どんな状況でもめげず明るさを貫き通せるふう子のあり方は羨ましいなと思える。
杉浦保は、本書の中で僕が一番好きな人物かもしれない。飄々としていて、はっきりとしない。四半世紀も映画業界にして、下働きとして数々の調整をしてきた手腕はさすがで、結局色んなことを丸め込んで自分の思い通りに勧めてしまう。
しかし何よりも、杉浦が時折こぼすひと言が凄く深いなと思うのだ。印象的だったものを抜き出してみます。
『「人間、笑いたいときに笑えて、泣きたいときに泣けたら、だぁれも映画や実演なんか見ようとは思わないのよ」』
『「風化するはずないじゃない。あんなひどい戦争が」
支配人が言った。
「でもちょっとは忘れないと、進めないじゃない」』
『だけど、いつの時代もわかってもらえないもんなのよねぇ。楽しいものを作るのがどんだけ大変かってこと。娯楽っていっつも真っ先に切り捨てられるからたまんないのよ』
こういうセリフは、杉浦以外の誰が言っても様にならない。杉浦の、それまでの人生で経験してきただろう様々なこと、そして、娯楽というものに対する思いが少しずつ透けて見えるからこそ、こういう言葉が深く思えるのだろうと思います。また逆に、こういうセリフが、杉浦保という人物をより一層掘り下げていくことになるんだろうなぁ、と感じました。
誰しもが、とにかく生きることしか考えられなかった時代。何もかも自分の思い通りにはならなかった時代。そんな世の中にあって、娯楽という、世間から見れば下に見られがちなものを通して、それに関わる人々の成長や世の中のあり方を見事に切り取った作品です。様々な人達のどうにもやりきれない思いがそこかしこに降り積もっていて、その降り積もったものが見事に背景になって作品としての深みが出ているのだろうと思います。その時代の空気を、重苦しくなく、それでいて的確に切り取る手腕は、もちろん終戦直後の時代のことなんて直接に知っているわけでもない僕にも光景が鮮やかに浮かぶようで見事だと思いました。是非読んでみてください。
木内昇「笑い三年、泣き三月。」
増補iPS細胞 世紀の発見が医療を変える(八代嘉美)
内容に入ろうと思います。
本書は、京都大学の山中教授らが世界に発表し、センセーションを引き起こした、生物学上の大成果「iPS細胞」について、どういう経緯で生まれたもので、どんな問題があるのか、今後日本はどうあるべきか、などのついて書かれた作品です。
本書は大きく分けて四つに分けられます。
一つ目は、iPS細胞以前からあったES細胞というものについて、それがどういう技術でどういう問題をはらんでいたのか、などが書かれます。
二つ目は、iPS細胞の発見から、その仕組みまでが書かれます。
三つ目は、iPS細胞の問題点や、その応用などについて書かれます。
そして四つ目が増補の部分で、最新のiPS細胞研究についての現状や、オールジャパンに向けた様々な整備などについて書かれます。
まずES細胞について。iPS細胞もES細胞も、どちらも『身体を構成するあらゆる細胞に分化することが出来る』『さまざまな細胞に分化する能力を維持したまま、半永久的に分裂し続けられる』という特徴を持つ。この特徴から、再生医療などへの応用が期待されているものだ。
では、なぜiPS細胞がこれほどまでにもてはやされているのか。言い換えれば、何故ES細胞ではダメなのか。そこには、ES細胞につきまとう、倫理的な問題が存在するからだ。
ES細胞は、胚から作られる。これは、そのまま子宮に戻せば胎児になる状態のものだ。ES細胞のこの、胚から作られるという性質が、倫理的に問題になることが多かった。ES細胞は、人の命はいつから始まるのか、胚は生命ではないのか、という問題と常に隣り合わせであって、ES細胞の実用上の素晴らしい利点を素直に享受することが難しい状況にあった。
ES細胞についても、どういう経緯で発見され、どういう性質を持つ細胞なのか、という話がかなり詳しくされる。僕は、自分が学生時代ほとんど生物学をやっていなかったせいで、こういう生物学上の具体的な部分については結構苦労したのだけど、でもまだES細胞の説明は読めばついていける、という感じのレベルではあると思う。ただそんなレベルの認識しか出来ないので、ここで詳しくES細胞について語ることは出来ませんです。それは、以下でも同じ。
本書ではES細胞に限らず、生命の様々な<再生>の仕組みについても触れている。例えば、プラナリアの再生はちょっと凄い。身体を三等分したぐらいだったら、平気で再生するのだ(しかも何が凄いって、三等分したとすると、その三つの部分すべてが再生して、三匹のプラナリアになるのだ!怖っ!)。また、イモリは、普通とはちょっと違った再生の仕組みを持っている。また人体の中でも、様々な形で再生という仕組みは起こっている。肝臓を半分切り取っても、一ヶ月ほどで元に戻るとか、白血病の人に骨髄移植をすると血液を作り出す力が戻る、というような話です。生物学だけに限らないけど、やはり科学の常識というのは常に書き変えられるもので、かつては『神経は再生しない』とされていたのだけど、1992年にその常識が破られ、実験によって神経細胞を培養する方法が発見されたんだそうです。でも、じゃあ何故、体内で自然な形で神経の再生が行われないのかはまだ不明なんだそうです。
さてそういう話を経て、ようやくiPS細胞の話になる。
iPS細胞はES細胞と何が違うのか。それは、胚を使わず、人体のどこかの細胞(初めてiPS細胞を発表した山中教授らは、皮膚の細胞からiPS細胞を作り出したようなんだけど、その後様々な研究により、色んな細胞からiPS細胞が創りだされている)を使って、ES細胞と同じ性質を持つ<多能性細胞>を作り出すことが出来た、という点が最大の違いだ。
その細かな仕組みは、ちょっと僕には難しかった。様々なデータベースから、ES細胞にはあるけど他の細胞にはない遺伝子の情報を集め、それらについて様々な可能性を試したところ、4種類の遺伝子を細胞の中に組み込むことで、ES細胞と同じ性質を持つ多能性細胞を生み出すことが出来た、ということはなんとなくわかったんだけど、それ以上のことは難しかったなぁ。この四種類の遺伝子は、初めて山中教授らが論文を発表した時のやり方で使ったもので、後に<山中ファクター>と呼ばれるようになるんだけど、でもその後の研究で、三種類でもいける方法が見出され、また遺伝子を使わないやり方まで研究されているようです。山中教授らが作ったものだけがiPS細胞というわけではなくて、iPS細胞というのはたぶん『胚以外の細胞から作り出され、ES細胞と同等の性質を持つ多能性細胞』という感じだと思います。だから山中教授らの論文が発表されて以降、世界中で相当白熱した研究が行われている。山中教授らが一番初めに発表したiPS細胞は、安全性にまだまだ問題があった。山中教授自らその欠点を改良したiPS細胞を作り出したようだけども、世界中の様々な研究者が様々な実験を繰り返し、より安全で手間の掛からないiPS細胞作製の方法を日夜研究している。何せ、この研究で聖杯を手に出来たら、研究者としても大きく評価されるだろうし、再生医療の分野で覇者になることも出来るだろう。本書でも、これほど短期間の内に、名のある科学雑誌にこれほど重要な論文が山ほど発表された分野は他にないだろう、というようなことを書いています。
そんなわけで、オールジャパン体制というものを、今の日本も頑張って作ろうとしている。実は時間がなくて、まだこの部分は読めてないんだけど(笑)、要するに法整備や研究環境の充実などを図ることで、今後も日本が発信したiPS細胞の研究の先導者であろう、というような仕組みを作っている最中なんだろうなぁ、と思います(読んでないので予想で書いてますけど)。
僕は物理とか数学みたいな、どちらかというと実用的ではないジャンルの話が好きだったりするんですけど、これまで読んできた物理や数学の分野で、これほどまでに研究が日進月歩で進んでいく分野というのはなかったと思います。再生医療という、今後確実に必要となってくる分野に大きく絡み、しかも生命の起源や発生の仕組みなどを解明する手助けにもなるこのiPS細胞の研究というのは、実用的にも学術的にも相当に重要な研究なのだろうな、と改めて感じました。ちょっと時間がなくて、本書に載っている様々な具体的な研究にはほとんど触れられませんでしたけど、それぞれ読むと、将来的にこんなことが出来たら凄いな、と思えるような研究・技術開発が盛んに行われていて驚くのではないかと思います。僕が一番面白いと思うのは、『ラットの細胞でできたすい臓を持つマウス』という研究で、この研究が進めば、例えば牛の体内で僕の心臓を作ってもらい、それを使って心臓移植をする、なんてことも可能になるかもしれない、と期待させてくれます。
科学の分野それぞれに、今もっともホッとな研究分野、というのが存在するでしょうが、このiPS細胞の研究は、物理・化学・生物などありとあらゆるジャンルの中でも、今最もホッとな研究なんだろうと思います。本書も、元々の旧版が3年前に出たのだけど、たった3年で増補版を出さなくてはならないほどの長足の進歩を遂げているわけです。生物学的な記述は結構難しいですが(それは僕が学生時代、生物をやらなかったからかもだけど)、大まかなことは理解できると思うし、難しい部分が分からなくても、もしかしたらこういうことが出来るようになるかもしれない、という部分を読むだけでも凄く面白いんじゃないかな、と思います。読んでみてください。
八代嘉美「増補iPS細胞 世紀の発見が医療を変える」
本書は、京都大学の山中教授らが世界に発表し、センセーションを引き起こした、生物学上の大成果「iPS細胞」について、どういう経緯で生まれたもので、どんな問題があるのか、今後日本はどうあるべきか、などのついて書かれた作品です。
本書は大きく分けて四つに分けられます。
一つ目は、iPS細胞以前からあったES細胞というものについて、それがどういう技術でどういう問題をはらんでいたのか、などが書かれます。
二つ目は、iPS細胞の発見から、その仕組みまでが書かれます。
三つ目は、iPS細胞の問題点や、その応用などについて書かれます。
そして四つ目が増補の部分で、最新のiPS細胞研究についての現状や、オールジャパンに向けた様々な整備などについて書かれます。
まずES細胞について。iPS細胞もES細胞も、どちらも『身体を構成するあらゆる細胞に分化することが出来る』『さまざまな細胞に分化する能力を維持したまま、半永久的に分裂し続けられる』という特徴を持つ。この特徴から、再生医療などへの応用が期待されているものだ。
では、なぜiPS細胞がこれほどまでにもてはやされているのか。言い換えれば、何故ES細胞ではダメなのか。そこには、ES細胞につきまとう、倫理的な問題が存在するからだ。
ES細胞は、胚から作られる。これは、そのまま子宮に戻せば胎児になる状態のものだ。ES細胞のこの、胚から作られるという性質が、倫理的に問題になることが多かった。ES細胞は、人の命はいつから始まるのか、胚は生命ではないのか、という問題と常に隣り合わせであって、ES細胞の実用上の素晴らしい利点を素直に享受することが難しい状況にあった。
ES細胞についても、どういう経緯で発見され、どういう性質を持つ細胞なのか、という話がかなり詳しくされる。僕は、自分が学生時代ほとんど生物学をやっていなかったせいで、こういう生物学上の具体的な部分については結構苦労したのだけど、でもまだES細胞の説明は読めばついていける、という感じのレベルではあると思う。ただそんなレベルの認識しか出来ないので、ここで詳しくES細胞について語ることは出来ませんです。それは、以下でも同じ。
本書ではES細胞に限らず、生命の様々な<再生>の仕組みについても触れている。例えば、プラナリアの再生はちょっと凄い。身体を三等分したぐらいだったら、平気で再生するのだ(しかも何が凄いって、三等分したとすると、その三つの部分すべてが再生して、三匹のプラナリアになるのだ!怖っ!)。また、イモリは、普通とはちょっと違った再生の仕組みを持っている。また人体の中でも、様々な形で再生という仕組みは起こっている。肝臓を半分切り取っても、一ヶ月ほどで元に戻るとか、白血病の人に骨髄移植をすると血液を作り出す力が戻る、というような話です。生物学だけに限らないけど、やはり科学の常識というのは常に書き変えられるもので、かつては『神経は再生しない』とされていたのだけど、1992年にその常識が破られ、実験によって神経細胞を培養する方法が発見されたんだそうです。でも、じゃあ何故、体内で自然な形で神経の再生が行われないのかはまだ不明なんだそうです。
さてそういう話を経て、ようやくiPS細胞の話になる。
iPS細胞はES細胞と何が違うのか。それは、胚を使わず、人体のどこかの細胞(初めてiPS細胞を発表した山中教授らは、皮膚の細胞からiPS細胞を作り出したようなんだけど、その後様々な研究により、色んな細胞からiPS細胞が創りだされている)を使って、ES細胞と同じ性質を持つ<多能性細胞>を作り出すことが出来た、という点が最大の違いだ。
その細かな仕組みは、ちょっと僕には難しかった。様々なデータベースから、ES細胞にはあるけど他の細胞にはない遺伝子の情報を集め、それらについて様々な可能性を試したところ、4種類の遺伝子を細胞の中に組み込むことで、ES細胞と同じ性質を持つ多能性細胞を生み出すことが出来た、ということはなんとなくわかったんだけど、それ以上のことは難しかったなぁ。この四種類の遺伝子は、初めて山中教授らが論文を発表した時のやり方で使ったもので、後に<山中ファクター>と呼ばれるようになるんだけど、でもその後の研究で、三種類でもいける方法が見出され、また遺伝子を使わないやり方まで研究されているようです。山中教授らが作ったものだけがiPS細胞というわけではなくて、iPS細胞というのはたぶん『胚以外の細胞から作り出され、ES細胞と同等の性質を持つ多能性細胞』という感じだと思います。だから山中教授らの論文が発表されて以降、世界中で相当白熱した研究が行われている。山中教授らが一番初めに発表したiPS細胞は、安全性にまだまだ問題があった。山中教授自らその欠点を改良したiPS細胞を作り出したようだけども、世界中の様々な研究者が様々な実験を繰り返し、より安全で手間の掛からないiPS細胞作製の方法を日夜研究している。何せ、この研究で聖杯を手に出来たら、研究者としても大きく評価されるだろうし、再生医療の分野で覇者になることも出来るだろう。本書でも、これほど短期間の内に、名のある科学雑誌にこれほど重要な論文が山ほど発表された分野は他にないだろう、というようなことを書いています。
そんなわけで、オールジャパン体制というものを、今の日本も頑張って作ろうとしている。実は時間がなくて、まだこの部分は読めてないんだけど(笑)、要するに法整備や研究環境の充実などを図ることで、今後も日本が発信したiPS細胞の研究の先導者であろう、というような仕組みを作っている最中なんだろうなぁ、と思います(読んでないので予想で書いてますけど)。
僕は物理とか数学みたいな、どちらかというと実用的ではないジャンルの話が好きだったりするんですけど、これまで読んできた物理や数学の分野で、これほどまでに研究が日進月歩で進んでいく分野というのはなかったと思います。再生医療という、今後確実に必要となってくる分野に大きく絡み、しかも生命の起源や発生の仕組みなどを解明する手助けにもなるこのiPS細胞の研究というのは、実用的にも学術的にも相当に重要な研究なのだろうな、と改めて感じました。ちょっと時間がなくて、本書に載っている様々な具体的な研究にはほとんど触れられませんでしたけど、それぞれ読むと、将来的にこんなことが出来たら凄いな、と思えるような研究・技術開発が盛んに行われていて驚くのではないかと思います。僕が一番面白いと思うのは、『ラットの細胞でできたすい臓を持つマウス』という研究で、この研究が進めば、例えば牛の体内で僕の心臓を作ってもらい、それを使って心臓移植をする、なんてことも可能になるかもしれない、と期待させてくれます。
科学の分野それぞれに、今もっともホッとな研究分野、というのが存在するでしょうが、このiPS細胞の研究は、物理・化学・生物などありとあらゆるジャンルの中でも、今最もホッとな研究なんだろうと思います。本書も、元々の旧版が3年前に出たのだけど、たった3年で増補版を出さなくてはならないほどの長足の進歩を遂げているわけです。生物学的な記述は結構難しいですが(それは僕が学生時代、生物をやらなかったからかもだけど)、大まかなことは理解できると思うし、難しい部分が分からなくても、もしかしたらこういうことが出来るようになるかもしれない、という部分を読むだけでも凄く面白いんじゃないかな、と思います。読んでみてください。
八代嘉美「増補iPS細胞 世紀の発見が医療を変える」
誰かが足りない(宮下奈都)
内容に入ろうと思います。
本書は、『ハライ』という名のレストランが舞台。いつも満席で、なかなか予約が取れない。公園の前にある店で、その店の向かいにあるベンチは常に空いている。『ハライ』から流れてくる匂いに誘われて店に入ってしまうからだ。
しかし、『ハライ』の描写はほとんど出てこない。
10月31日午後六時。『ハライ』のある街に住む人々は、様々な理由から『ハライ』に集まる。彼らはどうして『ハライ』に行くことにしたのか。それを描く連作短編集。
長い坂を登り切っても、そこにとうもろこし畑はない。両親が必死で身体を動かして育てているとうもろこしは、ここにはない。家々の屋根やマンションの屋上、洗濯物なんかが見えるだけだ。
大学の四年間だけ、のはずだった。卒業したら地元に戻って、家を継ぐつもりだった。それなのに今僕は、深夜のコンビニで働いている。どこで間違えたのか、どうして地元に戻らないのか。自分の中でも、もはやわからなくなっている。
付き合っていたはずの未果子が結婚するという話を、人づてに聞いた。どうしてそうなったのかわからない。
一度未果子が『ハライ』の話をしていたことがある。その時の自分の会話も、後から考えれば失敗だったのだろう。
『最近どんなニュースがありましたか?』と聞かれることほど、嫌なことはない。
年をとってよくなかったことなんて、なにもない。昔のように身体が動くわけじゃないけど、それでも、若い頃のように、何かに追い立てられるようにしていた自分から解放されたような感じがあっていい。
『最近どんなニュースがありましたか?』
息子も息子の嫁も、同じことを聞く。孫もだ。自分の存在が気を遣われていることは分かる。記憶がまだらになってしまっているのは仕方ないし、自分でそれを口にすることもなんということもない。でも、あの質問だけはどうしても好きになれない。
孫娘が、『ハライ』に行きたい、という。紹介したい人がいるのだ、という。『ハライ』。息子の嫁に料理を教えて欲しいと言われた。どうして自分はこれまで、洋食ばかり作ってきたのだろうか。
残業代が出なくなって、同僚の中で女の私が何故か係長になった。浩樹は『尻拭い要員』だと笑って、その内私から離れていった。休みの日も仕事が終わらずに出社。休日出勤の手当てなんか出ない。なんだか色々、やってられない。
白いマーチは、昨日と同じく停まっていた。またしばらく路駐なのだろう。
ヨッちゃんは、生まれた時から一緒に育った。好きとか嫌いとか、そういうことを考える前から一緒に過ごしていた。それが変わったのは小学生の高学年の頃。私たちは何も変わらなかったけど、私たちの周りが変わった。ずっと一緒にいる、と指を差されるようになった。
ヨッちゃんと私はあまり会わなくなり、ヨッちゃんは良くない方向に変わっていった。それでも私の中では、ヨッちゃんはずっとヨッちゃんだった。
休日出勤の途中で寄ったコンビニで、偶然ヨッちゃんに会った。いや、予感はあった。ご飯でも食べよう、と言った私にとって、休日出勤なんかよりヨッちゃんの方が遥かに大事だ。
ビデオカメラを持って布団に入る。午後十時。十時から二時の間に成長ホルモンが出るからその間は寝ていて、と妹に言われ、その約束を守ろうとしているのだ。
母が死んで、僕は外に出られなくなった。ビデオカメラを向けていないと、人と話せなくなった。姉は嫁ぎ、妹と二人暮し。妹には迷惑を掛けていると思っている。けど、ビデオカメラは手放せない。
いつの頃からかビデオには、篠原さんが映るようになった。これまで誰も僕に聞かなかった質問をした、妹の同級生。積極的に関わりあうことはない。たまに遭遇してしまう時、ビデオカメラを向けるだけだ。篠原さんのおにぎりを食べる。不思議な距離感だ。
ひたすらオムレツを焼き続ける僕は、店に来る一人の女の子が気になっている。ビュッフェ形式の店では食べ切れない量を持っていくお客さんが多いのに、彼女はきちんと食べきれる量を取っていく。そして、残すことなく食べきる。食べ終えると手を合わせ、ごちそうさまという。
すべて、僕の妄想だ。僕のいる調理場からは、彼女が座る席の方までは見えない。
休憩中、職場から徒歩五分の寮に戻る時、たまたまその彼女を見かけて声を掛けた。いくつかのやり取りの後、彼女はこういう。『一緒にいっていい?』
その匂いは、言葉で説明するのは難しい。匂いにもし色があるならば、カラメルを焦がしてしまったような色。酸っぱさと焦げ臭さとほんの少しの甘さが混じっている。
他の人には嗅げない匂いだと知ったのはいつの頃だったか。
祖父の五十回忌。私の中のアイドルだった従姉妹の父親だった叔父からその匂いがした。帰りがけ、その叔父が泣いているのを見てしまった。しばらくして叔父は、失踪した。
古書市の真ん中で、またその匂いがした。これまで私は、誰も助けることは出来なかった。勇気を出して声を掛けても、何も出来なかった。でも、私は言っていた。『お茶、飲みますか?』
というような話です。
じんわりとくる物語でした。宮下さんらしさが出ている作品だな、という感じがします。
煙のように形のないものに向かってタクトを振る。その煙のようなものは、そのタクトに合わせて次第に整列する。そしてやがてそれは人の形になる。宮下さんは本当に、そういう描写が巧い。
普通の人には、その煙のようなものは操ることは難しい。だから、はっきりと形あるものを組み合わせる。例えばレゴブロックのようなものを組み合わせて、人の形を作る。そういうやり方でも、もちろん人を描くことが出来る。
宮下さんの場合は、人を立ち昇らせる、という感覚がする。雲が次第に形を変えていくように、モクモクとフワフワと明確な輪郭を持たない雲のように、人間の生き様やあり方を立ち昇らせる。そして、雲は元々は水だ。タクトを振って、制御できそうにない水を、水蒸気を、エントロピーに逆らって整列させる。
そうやって描き出す人間は、どことなく頼りない。そしてそれは、僕にとっては好ましく映る。キャラクターのはっきりした、輪郭を明確に言葉で表現できるような、そういう人物が出てくる小説も好きだ。けどそれは、なんとなく、僕達のいる世界とは違ったものに感じられてしまう。その個人の特徴を分かりやすく抽出して組み上げていくことで、物語の新しい面白さも生まれる。けれども、実際の人間の複雑さ、寄る辺なさ、不安定さ、そういうもろもろを含めた頼りなさみたいなものが小説の中で立ち上がっていると、なんとなく嬉しい。
それは、僕がなんとなく感じてしまうからかもしれない。なんとなく、現実が、わかりやすさを求めているように感じる。分かりやすい人格、分かりやすいキャラクター、分かりやすい会話、分かりやすい関係。こういう表現はおかしいけど、現実が小説のようになりつつあるのかもしれない。純化された、輪郭のはっきりしたものが好まれているような予感がある。そういう流れが、なんとなく強制されているような感じを、ほんの少しだけど感じてしまう。
もちろん、それはどうしたって表面上にしかならない。人間の複雑さは消えることはない。表面をいくら分かりやすく繕ったところで、それは複雑さを押入れの奥深くに隠しただけにすぎない。それぞれの人が持つ輪郭の頼りなさが、その頼りなさが生み出す物語が、個人の奥へ奥へとしまい込まれていってしまう。なんとなく、それは寂しい。だからこそ、小説の中で出会う輪郭の頼りなさにホッとするのかもしれない。
どうも本作とは関係ないことを書きすぎたような気がする。
この作品で描かれる人たちも、輪郭が頼りない。形がはっきりしない。みんな、どこか揺らいでいる。それは、ただ迷っているのとは違う。確かに彼らは、何か日常に対して、何かモヤモヤしたものを抱えていることが多い。どうにもならない現実とか、失われてしまった過去とか、そういう色んなモヤモヤを背負っている。
でも、彼らがそれらを抱えているから輪郭が頼りなく見える、というのとは違うのだと思う。もしその抱えているモヤモヤが解決したとしても、彼らの輪郭は頼りないままだろう。それがいい。人間は、そんなに分かりやすくない。彼らが抱える様々なモヤモヤの先に、彼らの本質的な揺らめきみたいなものが見えるような気がする。彼らはこの物語の中で、目の前のある問題に悩んだり後悔したり行動したりする。問題は、解決したりしなかったりする。しかし、たとえ解決したところで彼らの輪郭は頼りないままだ。その人間らしさが、宮下さんが描く登場人物の魅力ではないかと思う。
僕が一番好きな話は、最後の話だ。他の人には嗅ぐことが出来ない匂いを感知することが出来てしまう女の子。それは決して、彼女に幸福をもたらす能力ではない。むしろ、彼女に後悔しか与えないことの方が多い。そういう中で、彼女は時折、自分に出来ることをやってみる。それは、無駄かもしれないし、もしかしたらさらに結果を悪くすることになるかもしれない。それが彼女の抱える大きな揺らぎだ。それは、その匂いを嗅げてしまう限り、一生消えることはない。
そういう揺らぎを抱えたままで生きるというのはどういう感じだろう、と思う。誰もが自分なりの揺らぎを抱えて生きている。他人の揺らぎは、想像するしかない。それがどれほど、自分の目から見て大したことがない事であっても、どんなものでも誰かの揺らぎになりうる。
彼女の揺らぎは、結果的に一人の男を救うことになる。しかしそれは、彼女にとって決して終わりではない。彼女にとっては、永遠に途中のままだ。もちろん失敗することだってあるだろう。
それでも、その永遠に途中のままの道を、彼女は少しずつ歩く。そんな予感を漂わせる。もしかしたらそれは、彼女にとっての匂いのように、僕だけが勝手に感じ取っているだけかもしれない。でも、それでもいい。僕にとってそう感じられる。それで充分だ。
足りないものの輪郭は、その周囲が何かに取り囲まれることで、あるいはかさぶたに覆われることで、少しずつ濃くなる。足りない誰かの存在は、結果的に何かを浮かび上がらせる。それは故郷だったり、失った人だったり、未来への期待だったりする。少しだけ濃くなった輪郭は、誰かの希望にもなるし、力にもなる。その通過点の象徴として、『ハライ』がある。そういうイメージ。きっとこの物語で描かれた人々は、『ハライ』を通過することで、ほんの少しだけ生まれ変わったようになるのだろう。
大きな物語はありません。ここで描かれるのは、現実のどこかで語られているかもしれない、誰かのすぐ傍にあるかもしれない物語です。でも僕達は、意外と近くを見ることが難しい。遠くを見ることばっかりに専念して、灯台下暗しという状況は珍しくもない。だからこそ、どこにでもありそうな物語が輝いて見えるのかもしれない。是非読んでみてください。
宮下奈都「誰かが足りない」
本書は、『ハライ』という名のレストランが舞台。いつも満席で、なかなか予約が取れない。公園の前にある店で、その店の向かいにあるベンチは常に空いている。『ハライ』から流れてくる匂いに誘われて店に入ってしまうからだ。
しかし、『ハライ』の描写はほとんど出てこない。
10月31日午後六時。『ハライ』のある街に住む人々は、様々な理由から『ハライ』に集まる。彼らはどうして『ハライ』に行くことにしたのか。それを描く連作短編集。
長い坂を登り切っても、そこにとうもろこし畑はない。両親が必死で身体を動かして育てているとうもろこしは、ここにはない。家々の屋根やマンションの屋上、洗濯物なんかが見えるだけだ。
大学の四年間だけ、のはずだった。卒業したら地元に戻って、家を継ぐつもりだった。それなのに今僕は、深夜のコンビニで働いている。どこで間違えたのか、どうして地元に戻らないのか。自分の中でも、もはやわからなくなっている。
付き合っていたはずの未果子が結婚するという話を、人づてに聞いた。どうしてそうなったのかわからない。
一度未果子が『ハライ』の話をしていたことがある。その時の自分の会話も、後から考えれば失敗だったのだろう。
『最近どんなニュースがありましたか?』と聞かれることほど、嫌なことはない。
年をとってよくなかったことなんて、なにもない。昔のように身体が動くわけじゃないけど、それでも、若い頃のように、何かに追い立てられるようにしていた自分から解放されたような感じがあっていい。
『最近どんなニュースがありましたか?』
息子も息子の嫁も、同じことを聞く。孫もだ。自分の存在が気を遣われていることは分かる。記憶がまだらになってしまっているのは仕方ないし、自分でそれを口にすることもなんということもない。でも、あの質問だけはどうしても好きになれない。
孫娘が、『ハライ』に行きたい、という。紹介したい人がいるのだ、という。『ハライ』。息子の嫁に料理を教えて欲しいと言われた。どうして自分はこれまで、洋食ばかり作ってきたのだろうか。
残業代が出なくなって、同僚の中で女の私が何故か係長になった。浩樹は『尻拭い要員』だと笑って、その内私から離れていった。休みの日も仕事が終わらずに出社。休日出勤の手当てなんか出ない。なんだか色々、やってられない。
白いマーチは、昨日と同じく停まっていた。またしばらく路駐なのだろう。
ヨッちゃんは、生まれた時から一緒に育った。好きとか嫌いとか、そういうことを考える前から一緒に過ごしていた。それが変わったのは小学生の高学年の頃。私たちは何も変わらなかったけど、私たちの周りが変わった。ずっと一緒にいる、と指を差されるようになった。
ヨッちゃんと私はあまり会わなくなり、ヨッちゃんは良くない方向に変わっていった。それでも私の中では、ヨッちゃんはずっとヨッちゃんだった。
休日出勤の途中で寄ったコンビニで、偶然ヨッちゃんに会った。いや、予感はあった。ご飯でも食べよう、と言った私にとって、休日出勤なんかよりヨッちゃんの方が遥かに大事だ。
ビデオカメラを持って布団に入る。午後十時。十時から二時の間に成長ホルモンが出るからその間は寝ていて、と妹に言われ、その約束を守ろうとしているのだ。
母が死んで、僕は外に出られなくなった。ビデオカメラを向けていないと、人と話せなくなった。姉は嫁ぎ、妹と二人暮し。妹には迷惑を掛けていると思っている。けど、ビデオカメラは手放せない。
いつの頃からかビデオには、篠原さんが映るようになった。これまで誰も僕に聞かなかった質問をした、妹の同級生。積極的に関わりあうことはない。たまに遭遇してしまう時、ビデオカメラを向けるだけだ。篠原さんのおにぎりを食べる。不思議な距離感だ。
ひたすらオムレツを焼き続ける僕は、店に来る一人の女の子が気になっている。ビュッフェ形式の店では食べ切れない量を持っていくお客さんが多いのに、彼女はきちんと食べきれる量を取っていく。そして、残すことなく食べきる。食べ終えると手を合わせ、ごちそうさまという。
すべて、僕の妄想だ。僕のいる調理場からは、彼女が座る席の方までは見えない。
休憩中、職場から徒歩五分の寮に戻る時、たまたまその彼女を見かけて声を掛けた。いくつかのやり取りの後、彼女はこういう。『一緒にいっていい?』
その匂いは、言葉で説明するのは難しい。匂いにもし色があるならば、カラメルを焦がしてしまったような色。酸っぱさと焦げ臭さとほんの少しの甘さが混じっている。
他の人には嗅げない匂いだと知ったのはいつの頃だったか。
祖父の五十回忌。私の中のアイドルだった従姉妹の父親だった叔父からその匂いがした。帰りがけ、その叔父が泣いているのを見てしまった。しばらくして叔父は、失踪した。
古書市の真ん中で、またその匂いがした。これまで私は、誰も助けることは出来なかった。勇気を出して声を掛けても、何も出来なかった。でも、私は言っていた。『お茶、飲みますか?』
というような話です。
じんわりとくる物語でした。宮下さんらしさが出ている作品だな、という感じがします。
煙のように形のないものに向かってタクトを振る。その煙のようなものは、そのタクトに合わせて次第に整列する。そしてやがてそれは人の形になる。宮下さんは本当に、そういう描写が巧い。
普通の人には、その煙のようなものは操ることは難しい。だから、はっきりと形あるものを組み合わせる。例えばレゴブロックのようなものを組み合わせて、人の形を作る。そういうやり方でも、もちろん人を描くことが出来る。
宮下さんの場合は、人を立ち昇らせる、という感覚がする。雲が次第に形を変えていくように、モクモクとフワフワと明確な輪郭を持たない雲のように、人間の生き様やあり方を立ち昇らせる。そして、雲は元々は水だ。タクトを振って、制御できそうにない水を、水蒸気を、エントロピーに逆らって整列させる。
そうやって描き出す人間は、どことなく頼りない。そしてそれは、僕にとっては好ましく映る。キャラクターのはっきりした、輪郭を明確に言葉で表現できるような、そういう人物が出てくる小説も好きだ。けどそれは、なんとなく、僕達のいる世界とは違ったものに感じられてしまう。その個人の特徴を分かりやすく抽出して組み上げていくことで、物語の新しい面白さも生まれる。けれども、実際の人間の複雑さ、寄る辺なさ、不安定さ、そういうもろもろを含めた頼りなさみたいなものが小説の中で立ち上がっていると、なんとなく嬉しい。
それは、僕がなんとなく感じてしまうからかもしれない。なんとなく、現実が、わかりやすさを求めているように感じる。分かりやすい人格、分かりやすいキャラクター、分かりやすい会話、分かりやすい関係。こういう表現はおかしいけど、現実が小説のようになりつつあるのかもしれない。純化された、輪郭のはっきりしたものが好まれているような予感がある。そういう流れが、なんとなく強制されているような感じを、ほんの少しだけど感じてしまう。
もちろん、それはどうしたって表面上にしかならない。人間の複雑さは消えることはない。表面をいくら分かりやすく繕ったところで、それは複雑さを押入れの奥深くに隠しただけにすぎない。それぞれの人が持つ輪郭の頼りなさが、その頼りなさが生み出す物語が、個人の奥へ奥へとしまい込まれていってしまう。なんとなく、それは寂しい。だからこそ、小説の中で出会う輪郭の頼りなさにホッとするのかもしれない。
どうも本作とは関係ないことを書きすぎたような気がする。
この作品で描かれる人たちも、輪郭が頼りない。形がはっきりしない。みんな、どこか揺らいでいる。それは、ただ迷っているのとは違う。確かに彼らは、何か日常に対して、何かモヤモヤしたものを抱えていることが多い。どうにもならない現実とか、失われてしまった過去とか、そういう色んなモヤモヤを背負っている。
でも、彼らがそれらを抱えているから輪郭が頼りなく見える、というのとは違うのだと思う。もしその抱えているモヤモヤが解決したとしても、彼らの輪郭は頼りないままだろう。それがいい。人間は、そんなに分かりやすくない。彼らが抱える様々なモヤモヤの先に、彼らの本質的な揺らめきみたいなものが見えるような気がする。彼らはこの物語の中で、目の前のある問題に悩んだり後悔したり行動したりする。問題は、解決したりしなかったりする。しかし、たとえ解決したところで彼らの輪郭は頼りないままだ。その人間らしさが、宮下さんが描く登場人物の魅力ではないかと思う。
僕が一番好きな話は、最後の話だ。他の人には嗅ぐことが出来ない匂いを感知することが出来てしまう女の子。それは決して、彼女に幸福をもたらす能力ではない。むしろ、彼女に後悔しか与えないことの方が多い。そういう中で、彼女は時折、自分に出来ることをやってみる。それは、無駄かもしれないし、もしかしたらさらに結果を悪くすることになるかもしれない。それが彼女の抱える大きな揺らぎだ。それは、その匂いを嗅げてしまう限り、一生消えることはない。
そういう揺らぎを抱えたままで生きるというのはどういう感じだろう、と思う。誰もが自分なりの揺らぎを抱えて生きている。他人の揺らぎは、想像するしかない。それがどれほど、自分の目から見て大したことがない事であっても、どんなものでも誰かの揺らぎになりうる。
彼女の揺らぎは、結果的に一人の男を救うことになる。しかしそれは、彼女にとって決して終わりではない。彼女にとっては、永遠に途中のままだ。もちろん失敗することだってあるだろう。
それでも、その永遠に途中のままの道を、彼女は少しずつ歩く。そんな予感を漂わせる。もしかしたらそれは、彼女にとっての匂いのように、僕だけが勝手に感じ取っているだけかもしれない。でも、それでもいい。僕にとってそう感じられる。それで充分だ。
足りないものの輪郭は、その周囲が何かに取り囲まれることで、あるいはかさぶたに覆われることで、少しずつ濃くなる。足りない誰かの存在は、結果的に何かを浮かび上がらせる。それは故郷だったり、失った人だったり、未来への期待だったりする。少しだけ濃くなった輪郭は、誰かの希望にもなるし、力にもなる。その通過点の象徴として、『ハライ』がある。そういうイメージ。きっとこの物語で描かれた人々は、『ハライ』を通過することで、ほんの少しだけ生まれ変わったようになるのだろう。
大きな物語はありません。ここで描かれるのは、現実のどこかで語られているかもしれない、誰かのすぐ傍にあるかもしれない物語です。でも僕達は、意外と近くを見ることが難しい。遠くを見ることばっかりに専念して、灯台下暗しという状況は珍しくもない。だからこそ、どこにでもありそうな物語が輝いて見えるのかもしれない。是非読んでみてください。
宮下奈都「誰かが足りない」
もうダマされないための「科学」講義(飯田泰之編 菊地誠・松永和紀・伊勢田哲治・平川秀幸)
内容に入ろうと思います。
本書は、シノドスという『<アカデミック・ジャーナリズム>を旗印に、専門性・職業の垣根を超えた有志が集まる場所』である集団のマネージング・ディレクターである飯田泰之が編集した、四人の著者による科学講義です。研究者というのは、それが先端的な研究者であればあるほど、狭い業界内での興味・関心に留まりがちで、しかもメデアも難解な学者の話を敬遠しがちだから、アカデミックな知識の普及は進まない。それを打開すべく、様々なジャンルの人たちが議論することで情報交換を行う場、なんだそうです。
本書は四つ(+一つ)の章に分かれていますが、それぞれがどんな内容なのか、まずざっくり書いてみます。
第一章と第二章は、大雑把に言うと、『「科学というジャンル」を科学する』という内容です。科学とニセ科学の境界はどこにあるのか、ということをメインのポイントとして、科学そしてエセ科学について言及しています。
第三章は、章題の通りで、『報道はどのように科学をゆがめるのか』という内容。松永和紀は、同じく光文社新書から、「メディア・バイアス(僕のブログの記事へのリンクを貼っています)」という著作を出していて、こちらも素晴らしかった。主に環境問題や食品問題など、一概に科学的な知識だけでは割り切ることが出来ない、しかし僕らの日常の生活に重大な影響を及ぼす事柄について、正しい知見を広めようと努力している人です。
第四章は、科学とコミュニケーション。イギリスで起こった狂牛病問題を発端に、科学者と非科学者がどうコミュニケーションを取るべきだろうか、という社会の枠組みについての話をしています。
そして最後に追加で、3.11について出回った様々なデマについての検証している項があります。
本書を読んで、僕が強く感じたことはこうです(これはそのままPOPのフレーズにしようかと思っています)。
『「科学的知識」を持つこと、が重要なのではない。
「科学的知識を判断する力」を持つこと、が重要なのだ。
そしてそれは、ほんの少し意識を変えるだけで、誰にでも可能になる。
その力を持たないことが、社会にとって、そして社会に生きる個人にとって、
どれだけ大きな損失を生み出しているか、想像出来るだろうか?』
他にもPOPのフレーズとしては、こんなものを考えた。
『「自分にとってとても都合のいい事実」が「科学的知識」として流布していたら、それはかなり疑って掛かったほうがいいかもしれない』
『白か黒か断言されている事柄は、疑いの目で見たほうが安全だ』
僕らの生活にとって、「科学的知識」というのは物凄く重要な世の中になった。3.11以降、それを強く実感したという人も多いのではないかと思う。例えば僕は、『歴史』というものを知らなくても生活にクリティカルな影響はないけど(だからと言って、歴史を知らなくていい、と言いたいわけではありません。歴史は教養として知っておくべきだと思っています。僕は無知ですが)、『科学的知識』を知らないことで生活にクリティカルな影響が出るということは本当に多くあると思います。
でも僕らは専門家ではありません。僕も、もともと理系で、物理とか数学とか好きですけど、それでも、世の中に流布している様々な情報について知っているわけではもちろんありません。
ただ、それぞれの情報を、科学的に見て正しい可能性が高いかどうか、という判断は、努力すれば磨くことが出来ると思います。それは、科学的知識をたくさん持っているかどうか、ということと、無関係とは言わないけど最重要なポイントでもない。それよりは、情報に接する態度、自ら調べてみるという行動力、そうしたことの方がはるかに重要なのだと思います。本書を読むと、そういうことが伝わってきます。
本書の内容を、僕ら一般人にとっての重要度で判別すると、トップは第三章の『報道はどのように科学をゆがめるのか』になるだろう。次いで、第一章と第二章が同じくらいの重要度で、最後が第四章でしょう。重要度の高いものから、時間の許す限り内容に触れていこうと思います。
まず、松永和紀氏による、『報道はどのように科学をゆがめるのか』。ここには本当に、僕らの日常生活に密着する、大事な事柄がたくさん書かれている。
まず、エコナ問題について取り上げられている。エコナ問題とは、トクホになった健康食用油であるエコナに、DEという発ガン性物質が、他の食用油の10~182倍含まれていた、というものです。これを受け、花王はエコナを製造販売を中止し、大きな問題になりました。
しかし、花王は、普通の食用油が行わない様々な技術と安全性試験がつぎ込まれたもので、ほかの様々な食品よりも安全性が物凄く詳しく調べられたんだそうです。恐らく、世に出回っている、安全性試験をほとんどされていない食品よりは、はるかに安全性が高かったでしょう。
それでも花王は、製造販売を中止した。それは、大きな問題となり、批判が集中したからです。
世の中に発ガン性物質が含まれた食物は山ほどあり、なんと野菜は自らの内側でそういう物質を作り出しているということも分かっています。そういうことを消費者がもう少しきちんと知っていれば、ここまで大きな問題にはならなかったかもしれない。
それに一般的に科学というものに対しては、『ゼロリスク信仰』というものが存在する。『<健康に良い>=リスクゼロ』という誤解が蔓延しているのです。これは、第一章でも、こういう表現で同じことが書かれている。
『科学では、白か黒かの二分法で断言できないことが多い。だから、科学は白か黒かはっきり決めるというイメージはあまり正しくないんです。一方でニセ科学は、すぐに白か黒かはっきり断言してくれます。白黒はっきりつけてくれるニセ科学のほうが、一般の人の科学イメージには合致しているのかもしれません。』
また第二章では、科学と、ローカルな知(時間がないのでここでは説明を省く)を含む科学との関係について、こんな風な表現がある。
『(前略)このような考え方の一つの利点は、科学を唯一の基準として判断すべきだ、ということを主張しなくてもよくなることです。』
第三章ではこんな表現もあります。
『あらゆる食品は安全であるはずだ、と決めつけている。食品にリスクがあると言われると、ひたすら震え上がってしまう。「リスクの大きさはどれくらい?」という思考に踏み出せない。その状況は、一般市民も報道関係者も同じです。』
この『ゼロリスク信仰』は本当に危険だ、と僕は思う。原発事故の際も、僕はあんまりニュースとか見なかったけど、会見で政府や科学者が物事を断言しないことについて、「何かを隠している」「断言できないということは可能性はあるということだ」というようなマスコミからの批判がじゃんじゃんあったけど、そもそも科学は、何かを断言する、ということには向かない。そういう学問ではないのだ。それなのに、白か黒かの二分法で物事を判断したがる人が多すぎるために、科学の正しさをうまく享受出来ない、という状況が多いように思う。
松永氏も第三章でこう言っている。
『「絶対に危険はない」「リスクはない」などと言い切ったら、それは科学ではない。』
『科学技術に対しても、不確実性はありつつも、リスク管理をし、リスクを小さくする努力をしながらメリットを享受しようとしている。ところが多くの人には科学の不確実性が実感としてない。そして、何か問題が起きると、多くの市民やメディアは「予想できなかったなんてとんでもない」とだれかの糾弾に走るし、「科学なんてとんでもない」と不審に陥ってしまうわけです。』
ちょっと時間がないので急ぎ足でいくと、あと全体の中で非常に面白いと感じたのが、第二章の「ローカルな知」の話。ローカルな知というのは、科学的には実証されていないけれども、長年そこに住み続けてきた人たちによる経験則や知識、というようなもので、それを科学的な活動に応用しよう、という流れがあるようです。その有名な成功例が、霞ヶ浦の生態系を復元させたNPOのプロジェクトで、これは、科学的な知見ももちろん使いつつ、一方で霞ヶ浦周辺に住む人々の、科学で実証されているわけではない昔からの知恵も借りて物事を動かしていったという実例です。
第一章で、結構はっきりと嘘だとわかるエセ科学の話が扱われて、科学とエセ科学の境界とはそこまで難しくはないのかなと思ったその後で、ローカルな知という、科学的には実証されていないけども現実的に問題解決力のある知見という話が出てきて、なるほど奥が深いなと思いました。
というわけで、あとは本書の中で、これは面白いなぁ、と思った話題をいくつか抜き出して終わろうと思います。
『(百匹目の猿現象について)科学者が言っているんだから本当だろうと思われているのですが、実はこれはワトソンの創作で、本人自ら創作だと言っています。』
『そもそも、ゲルマニウムが健康に効果を及ぼすというような論文はありません』
『日本発の「神経神話」では、森昭雄さんが唱えた「ゲーム脳」が有名です。(中略)「ゲーム脳」説は、研究者からはまったく相手にされていません。(中略)彼の説には、各方面からツッコミがなされました。』
『食品企業は、判別がつき表示義務がある豆腐や納豆などには、組換え作物を使いませんが、表示義務のない食品の原料には使っています。したがって、ほとんどの人が遺伝子組換え食物から作られた食品を食べているのが実実態です。』
『日本で開発中の花粉症緩和米などもインパクトがあるかもしれません、これは、コメに花粉症の原因となる物質を作らせて、それを毎日食べることで体を少しずつその物質に慣れさせ、花粉が飛んで来ても発症しないようにするというもので、非常に大胆で独創的な研究です。』
科学的知識とどう接するか。これからを生きる僕達には、避けては通れない問いかけだと思います。僕は、本書と「メディア・バイアス」という作品が、その道筋を与えてくれる、と思っています。今あなたが、科学的知識を持っているかどうか、ということには関係なく、ありとあらゆる人に読んでほしい作品です。
飯田泰之編 菊地誠・松永和紀・伊勢田哲治・平川秀幸「もうダマされないための「科学」講義」
本書は、シノドスという『<アカデミック・ジャーナリズム>を旗印に、専門性・職業の垣根を超えた有志が集まる場所』である集団のマネージング・ディレクターである飯田泰之が編集した、四人の著者による科学講義です。研究者というのは、それが先端的な研究者であればあるほど、狭い業界内での興味・関心に留まりがちで、しかもメデアも難解な学者の話を敬遠しがちだから、アカデミックな知識の普及は進まない。それを打開すべく、様々なジャンルの人たちが議論することで情報交換を行う場、なんだそうです。
本書は四つ(+一つ)の章に分かれていますが、それぞれがどんな内容なのか、まずざっくり書いてみます。
第一章と第二章は、大雑把に言うと、『「科学というジャンル」を科学する』という内容です。科学とニセ科学の境界はどこにあるのか、ということをメインのポイントとして、科学そしてエセ科学について言及しています。
第三章は、章題の通りで、『報道はどのように科学をゆがめるのか』という内容。松永和紀は、同じく光文社新書から、「メディア・バイアス(僕のブログの記事へのリンクを貼っています)」という著作を出していて、こちらも素晴らしかった。主に環境問題や食品問題など、一概に科学的な知識だけでは割り切ることが出来ない、しかし僕らの日常の生活に重大な影響を及ぼす事柄について、正しい知見を広めようと努力している人です。
第四章は、科学とコミュニケーション。イギリスで起こった狂牛病問題を発端に、科学者と非科学者がどうコミュニケーションを取るべきだろうか、という社会の枠組みについての話をしています。
そして最後に追加で、3.11について出回った様々なデマについての検証している項があります。
本書を読んで、僕が強く感じたことはこうです(これはそのままPOPのフレーズにしようかと思っています)。
『「科学的知識」を持つこと、が重要なのではない。
「科学的知識を判断する力」を持つこと、が重要なのだ。
そしてそれは、ほんの少し意識を変えるだけで、誰にでも可能になる。
その力を持たないことが、社会にとって、そして社会に生きる個人にとって、
どれだけ大きな損失を生み出しているか、想像出来るだろうか?』
他にもPOPのフレーズとしては、こんなものを考えた。
『「自分にとってとても都合のいい事実」が「科学的知識」として流布していたら、それはかなり疑って掛かったほうがいいかもしれない』
『白か黒か断言されている事柄は、疑いの目で見たほうが安全だ』
僕らの生活にとって、「科学的知識」というのは物凄く重要な世の中になった。3.11以降、それを強く実感したという人も多いのではないかと思う。例えば僕は、『歴史』というものを知らなくても生活にクリティカルな影響はないけど(だからと言って、歴史を知らなくていい、と言いたいわけではありません。歴史は教養として知っておくべきだと思っています。僕は無知ですが)、『科学的知識』を知らないことで生活にクリティカルな影響が出るということは本当に多くあると思います。
でも僕らは専門家ではありません。僕も、もともと理系で、物理とか数学とか好きですけど、それでも、世の中に流布している様々な情報について知っているわけではもちろんありません。
ただ、それぞれの情報を、科学的に見て正しい可能性が高いかどうか、という判断は、努力すれば磨くことが出来ると思います。それは、科学的知識をたくさん持っているかどうか、ということと、無関係とは言わないけど最重要なポイントでもない。それよりは、情報に接する態度、自ら調べてみるという行動力、そうしたことの方がはるかに重要なのだと思います。本書を読むと、そういうことが伝わってきます。
本書の内容を、僕ら一般人にとっての重要度で判別すると、トップは第三章の『報道はどのように科学をゆがめるのか』になるだろう。次いで、第一章と第二章が同じくらいの重要度で、最後が第四章でしょう。重要度の高いものから、時間の許す限り内容に触れていこうと思います。
まず、松永和紀氏による、『報道はどのように科学をゆがめるのか』。ここには本当に、僕らの日常生活に密着する、大事な事柄がたくさん書かれている。
まず、エコナ問題について取り上げられている。エコナ問題とは、トクホになった健康食用油であるエコナに、DEという発ガン性物質が、他の食用油の10~182倍含まれていた、というものです。これを受け、花王はエコナを製造販売を中止し、大きな問題になりました。
しかし、花王は、普通の食用油が行わない様々な技術と安全性試験がつぎ込まれたもので、ほかの様々な食品よりも安全性が物凄く詳しく調べられたんだそうです。恐らく、世に出回っている、安全性試験をほとんどされていない食品よりは、はるかに安全性が高かったでしょう。
それでも花王は、製造販売を中止した。それは、大きな問題となり、批判が集中したからです。
世の中に発ガン性物質が含まれた食物は山ほどあり、なんと野菜は自らの内側でそういう物質を作り出しているということも分かっています。そういうことを消費者がもう少しきちんと知っていれば、ここまで大きな問題にはならなかったかもしれない。
それに一般的に科学というものに対しては、『ゼロリスク信仰』というものが存在する。『<健康に良い>=リスクゼロ』という誤解が蔓延しているのです。これは、第一章でも、こういう表現で同じことが書かれている。
『科学では、白か黒かの二分法で断言できないことが多い。だから、科学は白か黒かはっきり決めるというイメージはあまり正しくないんです。一方でニセ科学は、すぐに白か黒かはっきり断言してくれます。白黒はっきりつけてくれるニセ科学のほうが、一般の人の科学イメージには合致しているのかもしれません。』
また第二章では、科学と、ローカルな知(時間がないのでここでは説明を省く)を含む科学との関係について、こんな風な表現がある。
『(前略)このような考え方の一つの利点は、科学を唯一の基準として判断すべきだ、ということを主張しなくてもよくなることです。』
第三章ではこんな表現もあります。
『あらゆる食品は安全であるはずだ、と決めつけている。食品にリスクがあると言われると、ひたすら震え上がってしまう。「リスクの大きさはどれくらい?」という思考に踏み出せない。その状況は、一般市民も報道関係者も同じです。』
この『ゼロリスク信仰』は本当に危険だ、と僕は思う。原発事故の際も、僕はあんまりニュースとか見なかったけど、会見で政府や科学者が物事を断言しないことについて、「何かを隠している」「断言できないということは可能性はあるということだ」というようなマスコミからの批判がじゃんじゃんあったけど、そもそも科学は、何かを断言する、ということには向かない。そういう学問ではないのだ。それなのに、白か黒かの二分法で物事を判断したがる人が多すぎるために、科学の正しさをうまく享受出来ない、という状況が多いように思う。
松永氏も第三章でこう言っている。
『「絶対に危険はない」「リスクはない」などと言い切ったら、それは科学ではない。』
『科学技術に対しても、不確実性はありつつも、リスク管理をし、リスクを小さくする努力をしながらメリットを享受しようとしている。ところが多くの人には科学の不確実性が実感としてない。そして、何か問題が起きると、多くの市民やメディアは「予想できなかったなんてとんでもない」とだれかの糾弾に走るし、「科学なんてとんでもない」と不審に陥ってしまうわけです。』
ちょっと時間がないので急ぎ足でいくと、あと全体の中で非常に面白いと感じたのが、第二章の「ローカルな知」の話。ローカルな知というのは、科学的には実証されていないけれども、長年そこに住み続けてきた人たちによる経験則や知識、というようなもので、それを科学的な活動に応用しよう、という流れがあるようです。その有名な成功例が、霞ヶ浦の生態系を復元させたNPOのプロジェクトで、これは、科学的な知見ももちろん使いつつ、一方で霞ヶ浦周辺に住む人々の、科学で実証されているわけではない昔からの知恵も借りて物事を動かしていったという実例です。
第一章で、結構はっきりと嘘だとわかるエセ科学の話が扱われて、科学とエセ科学の境界とはそこまで難しくはないのかなと思ったその後で、ローカルな知という、科学的には実証されていないけども現実的に問題解決力のある知見という話が出てきて、なるほど奥が深いなと思いました。
というわけで、あとは本書の中で、これは面白いなぁ、と思った話題をいくつか抜き出して終わろうと思います。
『(百匹目の猿現象について)科学者が言っているんだから本当だろうと思われているのですが、実はこれはワトソンの創作で、本人自ら創作だと言っています。』
『そもそも、ゲルマニウムが健康に効果を及ぼすというような論文はありません』
『日本発の「神経神話」では、森昭雄さんが唱えた「ゲーム脳」が有名です。(中略)「ゲーム脳」説は、研究者からはまったく相手にされていません。(中略)彼の説には、各方面からツッコミがなされました。』
『食品企業は、判別がつき表示義務がある豆腐や納豆などには、組換え作物を使いませんが、表示義務のない食品の原料には使っています。したがって、ほとんどの人が遺伝子組換え食物から作られた食品を食べているのが実実態です。』
『日本で開発中の花粉症緩和米などもインパクトがあるかもしれません、これは、コメに花粉症の原因となる物質を作らせて、それを毎日食べることで体を少しずつその物質に慣れさせ、花粉が飛んで来ても発症しないようにするというもので、非常に大胆で独創的な研究です。』
科学的知識とどう接するか。これからを生きる僕達には、避けては通れない問いかけだと思います。僕は、本書と「メディア・バイアス」という作品が、その道筋を与えてくれる、と思っています。今あなたが、科学的知識を持っているかどうか、ということには関係なく、ありとあらゆる人に読んでほしい作品です。
飯田泰之編 菊地誠・松永和紀・伊勢田哲治・平川秀幸「もうダマされないための「科学」講義」
言葉の海へ(高田宏)
内容に入ろうと思います。
本書は、日本で初めての近代国語辞書『言海』を、たった一人で完成させた大槻文彦の波乱の人生を描いた作品です。
本書を読むきっかけになったのは、三浦しをんの「舟を編む」。「舟を編む」は、出版社で辞書づくりに人生を捧げる人たちを描いた作品で、それで本書も読んでみることにしました。
前半の三分の二は、大槻文彦が辞書づくりに挑む以前の、その当時の日本の情勢を含めた大槻家の流れが描かれる。
先に書いておくと、僕はあまりにも歴史の知識がなくて、この部分をうまく説明できない。どれぐらい歴史の知識がないかというと、『攘夷』という言葉は『開国』という言葉とセットで出てきてくれないと意味がわからないし(『攘夷』って単語は未だに、なんとなくの意味しかわからない)、西郷隆盛とか坂本龍馬とか大久保利通みたいな人たちが、どんな立ち位置の人で何をしたのかとかまったく知らない。前半の三分の二では、『攘夷』か『開国』かという緊迫した情勢の中で、独立した国家にはきちんとした辞書が必要だ、という大槻文彦のナショナリズムが立ち上がる過程を描いているわけだけど(まあ国家情勢だけではなく、祖父や父からの影響も大きいんだけど)、やっぱり僕には歴史の知識がなさすぎてついていくことがなかなか出来なかったです。
ただ、『条約改正』と『辞書づくり』が直結で結びつく時代、というのはやはり凄いものだなと思いました。僕には本書で描かれる『条約』が何を指してるのかよく分からないんだけど(『開国』に関係あるのかしらん)、しかし、僕らが生きている世の中では、世の中の様々なことが見えにくくなったとはいえ、『条約改正』と『辞書づくり』が密接に結びつくことはなかなか想像出来ない。大槻文彦にとって常に最大の関心があったことは、『国の独立・国の盛衰・国の道徳』であり、それは当時諸外国を見聞きして知っていた知識人にとっての共通の思いだった。もちろんそれは、『攘夷』の人たちも同じだっただろうけど、両者は見ているものがまるで違う。欧米の知識をどんどん取り込む洋学者たち(大槻文彦もそんな洋学者の一人)は、考え方や思うさまは違えど、未来の日本を形作るための様々な意義のある仕事をした。大槻文彦の辞書づくりも、そんな系譜の一つにある。国家というものの形を整えるために絶対に必要な辞書。そういう強い思いで取り組んだ『言海』である、ということが伝わってきた。
三分の二過ぎた辺りから、ようやく辞書づくりの話になる。
英断だったのは、文部省の高官だった西村茂樹が、近代国語辞書の編纂を大槻文彦一人に託した、ということだ。
数々の失敗が、先にあった。文部省としても、辞書づくりが急務であるという認識はきちんとあった。しかし、複数の学者(しかも国学者)に辞書の編纂をさせると、解釈の違いから議論ばかりとなり、まったく作業が進まない。しかも国学者は、日本語や漢学には詳しいが、洋学の知識がまるでない。その点大槻文彦は、洋学者でありつつ、祖父や父の系譜で漢学をきっちりと仕込まれている。当初はもう一人、年配の国学者をつけるつもりだったが、やがて辞書の編纂は大槻ただ一人の仕事となった。
日本初の近代国語辞書を編纂しているのだから、当然元になるものはない。それまで作られてきた辞書はあるが、どれもこれも近代国語辞書としての形態にはなりえない。大槻はたった一人で、どんな語を収録するのか、それらの語源はどこにあるのか、初出の書物はなんなのか、読みが確定されていないように思える単語をどうするか、辞書の構成をどうするかなどを決めていかなくてはならなかったのだ。
何よりも大槻にとって最大の仕事になったのは、文法だろう。本書を読む限り、それまでの日本には、明確に日本語の文法を定めた某かのもの、は存在しなかったようである。学者もみなてんでばらばらの規則(というか自分の決めた規則)で文章を書いていたのだろうし、庶民は文法のことなんか知ったこっちゃない。大槻はまず何よりも、日本語の文法をきっちりと制定するという難事業を、辞書の編纂と同時に行ったのだ。まったくもって凄い。
辞書づくりの具体的な苦労というのは、そこまで描かれていなかったように思う。それよりは、大槻が何を考え辞書の編纂をし、周りがそれにどう反応し、そして時代がどう移ろっていったのか、という部分がメインになっていると思う。
その中で、時折辞書づくりの具体的な苦労の話が出てくるのだけど、その一つが「どぢやう(どじょう)」だ。
まずそもそも泥鰌は「どぢやう」なのか「どじやう」なのか「どぢよう」なのか「どじよう」なのか「どぜう」なのか。それを確定させないと、辞書の中でどの単語の前後に配置したらいいかわからない。さらに語源はなんなのか。「土長(とちゃう)」から来ているという説、「泥鰌(でいしう)」から来ているという説。他にも、「泥生」「土生」などの説があるがどれなのか確定できない。
しかし、『言海』の改訂版である『大言海』で、ようやくそれが確定している。ある時偶然、大槻は泥鰌の語源を言い当てている書物を読んだのだ、という。このように、辞書づくりというのは、終わりがない。大槻は、辞書づくりが終わったらイギリスに留学しようと考えていたのだけど、結局それも諦めざるをえなかった。
そうやって、大槻文彦という一人の男が死に物狂いで人生を掛けて取り組んだ辞書づくりがあってこそ、日本という国は独立国家としての体裁を整えることが出来、日本語の文法も整備され、僕達は今辞書というものを持つことが出来るようになっている。辞書というものがどんな経緯で生まれたのか、知っている人は多くはないだろうし、今の日本で辞書づくりをしている人たちのこともなかなか想像は出来ないだろう。言葉というものに、そして辞書というものに取り憑かれてしまった一人の青年の志は、今も辞書づくりに挑む人たちに内に残っているのではないか、と思う。
なかなか僕らが普段意識することのない辞書。その辞書づくりの先鞭をつけ、日本の文法や辞書の基礎をたった一人で作り上げた大槻文彦の人生。是非読んでみてください。
高田宏「言葉の海へ」
本書は、日本で初めての近代国語辞書『言海』を、たった一人で完成させた大槻文彦の波乱の人生を描いた作品です。
本書を読むきっかけになったのは、三浦しをんの「舟を編む」。「舟を編む」は、出版社で辞書づくりに人生を捧げる人たちを描いた作品で、それで本書も読んでみることにしました。
前半の三分の二は、大槻文彦が辞書づくりに挑む以前の、その当時の日本の情勢を含めた大槻家の流れが描かれる。
先に書いておくと、僕はあまりにも歴史の知識がなくて、この部分をうまく説明できない。どれぐらい歴史の知識がないかというと、『攘夷』という言葉は『開国』という言葉とセットで出てきてくれないと意味がわからないし(『攘夷』って単語は未だに、なんとなくの意味しかわからない)、西郷隆盛とか坂本龍馬とか大久保利通みたいな人たちが、どんな立ち位置の人で何をしたのかとかまったく知らない。前半の三分の二では、『攘夷』か『開国』かという緊迫した情勢の中で、独立した国家にはきちんとした辞書が必要だ、という大槻文彦のナショナリズムが立ち上がる過程を描いているわけだけど(まあ国家情勢だけではなく、祖父や父からの影響も大きいんだけど)、やっぱり僕には歴史の知識がなさすぎてついていくことがなかなか出来なかったです。
ただ、『条約改正』と『辞書づくり』が直結で結びつく時代、というのはやはり凄いものだなと思いました。僕には本書で描かれる『条約』が何を指してるのかよく分からないんだけど(『開国』に関係あるのかしらん)、しかし、僕らが生きている世の中では、世の中の様々なことが見えにくくなったとはいえ、『条約改正』と『辞書づくり』が密接に結びつくことはなかなか想像出来ない。大槻文彦にとって常に最大の関心があったことは、『国の独立・国の盛衰・国の道徳』であり、それは当時諸外国を見聞きして知っていた知識人にとっての共通の思いだった。もちろんそれは、『攘夷』の人たちも同じだっただろうけど、両者は見ているものがまるで違う。欧米の知識をどんどん取り込む洋学者たち(大槻文彦もそんな洋学者の一人)は、考え方や思うさまは違えど、未来の日本を形作るための様々な意義のある仕事をした。大槻文彦の辞書づくりも、そんな系譜の一つにある。国家というものの形を整えるために絶対に必要な辞書。そういう強い思いで取り組んだ『言海』である、ということが伝わってきた。
三分の二過ぎた辺りから、ようやく辞書づくりの話になる。
英断だったのは、文部省の高官だった西村茂樹が、近代国語辞書の編纂を大槻文彦一人に託した、ということだ。
数々の失敗が、先にあった。文部省としても、辞書づくりが急務であるという認識はきちんとあった。しかし、複数の学者(しかも国学者)に辞書の編纂をさせると、解釈の違いから議論ばかりとなり、まったく作業が進まない。しかも国学者は、日本語や漢学には詳しいが、洋学の知識がまるでない。その点大槻文彦は、洋学者でありつつ、祖父や父の系譜で漢学をきっちりと仕込まれている。当初はもう一人、年配の国学者をつけるつもりだったが、やがて辞書の編纂は大槻ただ一人の仕事となった。
日本初の近代国語辞書を編纂しているのだから、当然元になるものはない。それまで作られてきた辞書はあるが、どれもこれも近代国語辞書としての形態にはなりえない。大槻はたった一人で、どんな語を収録するのか、それらの語源はどこにあるのか、初出の書物はなんなのか、読みが確定されていないように思える単語をどうするか、辞書の構成をどうするかなどを決めていかなくてはならなかったのだ。
何よりも大槻にとって最大の仕事になったのは、文法だろう。本書を読む限り、それまでの日本には、明確に日本語の文法を定めた某かのもの、は存在しなかったようである。学者もみなてんでばらばらの規則(というか自分の決めた規則)で文章を書いていたのだろうし、庶民は文法のことなんか知ったこっちゃない。大槻はまず何よりも、日本語の文法をきっちりと制定するという難事業を、辞書の編纂と同時に行ったのだ。まったくもって凄い。
辞書づくりの具体的な苦労というのは、そこまで描かれていなかったように思う。それよりは、大槻が何を考え辞書の編纂をし、周りがそれにどう反応し、そして時代がどう移ろっていったのか、という部分がメインになっていると思う。
その中で、時折辞書づくりの具体的な苦労の話が出てくるのだけど、その一つが「どぢやう(どじょう)」だ。
まずそもそも泥鰌は「どぢやう」なのか「どじやう」なのか「どぢよう」なのか「どじよう」なのか「どぜう」なのか。それを確定させないと、辞書の中でどの単語の前後に配置したらいいかわからない。さらに語源はなんなのか。「土長(とちゃう)」から来ているという説、「泥鰌(でいしう)」から来ているという説。他にも、「泥生」「土生」などの説があるがどれなのか確定できない。
しかし、『言海』の改訂版である『大言海』で、ようやくそれが確定している。ある時偶然、大槻は泥鰌の語源を言い当てている書物を読んだのだ、という。このように、辞書づくりというのは、終わりがない。大槻は、辞書づくりが終わったらイギリスに留学しようと考えていたのだけど、結局それも諦めざるをえなかった。
そうやって、大槻文彦という一人の男が死に物狂いで人生を掛けて取り組んだ辞書づくりがあってこそ、日本という国は独立国家としての体裁を整えることが出来、日本語の文法も整備され、僕達は今辞書というものを持つことが出来るようになっている。辞書というものがどんな経緯で生まれたのか、知っている人は多くはないだろうし、今の日本で辞書づくりをしている人たちのこともなかなか想像は出来ないだろう。言葉というものに、そして辞書というものに取り憑かれてしまった一人の青年の志は、今も辞書づくりに挑む人たちに内に残っているのではないか、と思う。
なかなか僕らが普段意識することのない辞書。その辞書づくりの先鞭をつけ、日本の文法や辞書の基礎をたった一人で作り上げた大槻文彦の人生。是非読んでみてください。
高田宏「言葉の海へ」
いまはむかし(安澄加奈)
内容に入ろうと思います。
阿生と輝夜の二人の少年は、とある理由から故郷を失い、たった二人だけで旅を続けてきた。それは、目的を達成することが出来るかどうか定かではない、もちろんいつ終わるかも分からない、長い長い旅の予定だった。たった二人だけで幾多の困難を乗り越え、無謀とも思える宝探しを続ける少年たちは、殺伐とした世を、強く清くまっとうに駆け抜けていた。
一方で、父親の跡を継いで武官になることは出来ないと家出をした弥吹は、弥吹を追いかけてきた幼なじみの朝香と共に、ダラダラと家出の続きをしていた。弥吹は武術的なものは苦手だが、学問には相当に精通していて、古今東西の物語についても詳しかった。薬草の知識があり、どこにいても日銭を稼げる朝香ばかりに頼ることにふがいなさを感じていた弥吹は、通りで自分の知っている話を披露してみることにしたところ、喝采と共に食べ物などを手に入れることが出来るようになった。
そんな弥吹は、阿生と輝夜という二人の少年に出会った。とある理由から諸国に散らばっているらしい宝を集めて回っているという二人と共に、弥吹たちは旅をすることになった。阿生と輝夜が抱える壮絶な宿命に打たれつつ、弥吹と朝香も彼らの道中にどんどんと巻き込まれていく。彼らの旅は、いつしか国中を巻き込む大騒動に絡んでいき…。
というような話です。
ほどほどに読ませる作品でした。ファンタジーに分類される作品だと思うんだけど、ファンタジーが基本的にあんまり得意ではない僕でも、すいすいと読めた作品です。
描写とか物語の運びなんかはこなれている、という感じがしました。ささやかで、特に物語が大きく動くわけではないような場面を綺麗に切り取ったり、互いを思いやる少年たちの内面を掬い上げていくのはなかなか巧いと思ったし、物語も、突っかかることなくスムーズに転がしていくなぁ、という印象でした。新人のデビュー作としては、巧く出来ているという感じがします。
「竹取物語」をベースにした物語というのもなかなか新鮮で(まあもちろんそういう作品が他にあるのも知ってるけど)、「竹取物語」という古典作品を巧く物語に取り込めているなという感じがします。
ただ、個人的な不満が二点。
まず、ちょっと物語が平板かなぁ、ということ。やりすぎるとあざとくなるけど、でも、この場面はもう少し盛り上がる感じに書けるよなぁ、という場面がところどころであって、ちょっともったいない気がしました。
あと、「実は!」っていう物語の展開がちょっと唐突かなぁ、ということ。もうちょっと前半で伏線っぽい描写が欲しかったかな。
軽く読めるタッチの作品で、読んでみたら結構面白い、という感じの作品ではないかと思います。
安澄加奈「いまはむかし」
阿生と輝夜の二人の少年は、とある理由から故郷を失い、たった二人だけで旅を続けてきた。それは、目的を達成することが出来るかどうか定かではない、もちろんいつ終わるかも分からない、長い長い旅の予定だった。たった二人だけで幾多の困難を乗り越え、無謀とも思える宝探しを続ける少年たちは、殺伐とした世を、強く清くまっとうに駆け抜けていた。
一方で、父親の跡を継いで武官になることは出来ないと家出をした弥吹は、弥吹を追いかけてきた幼なじみの朝香と共に、ダラダラと家出の続きをしていた。弥吹は武術的なものは苦手だが、学問には相当に精通していて、古今東西の物語についても詳しかった。薬草の知識があり、どこにいても日銭を稼げる朝香ばかりに頼ることにふがいなさを感じていた弥吹は、通りで自分の知っている話を披露してみることにしたところ、喝采と共に食べ物などを手に入れることが出来るようになった。
そんな弥吹は、阿生と輝夜という二人の少年に出会った。とある理由から諸国に散らばっているらしい宝を集めて回っているという二人と共に、弥吹たちは旅をすることになった。阿生と輝夜が抱える壮絶な宿命に打たれつつ、弥吹と朝香も彼らの道中にどんどんと巻き込まれていく。彼らの旅は、いつしか国中を巻き込む大騒動に絡んでいき…。
というような話です。
ほどほどに読ませる作品でした。ファンタジーに分類される作品だと思うんだけど、ファンタジーが基本的にあんまり得意ではない僕でも、すいすいと読めた作品です。
描写とか物語の運びなんかはこなれている、という感じがしました。ささやかで、特に物語が大きく動くわけではないような場面を綺麗に切り取ったり、互いを思いやる少年たちの内面を掬い上げていくのはなかなか巧いと思ったし、物語も、突っかかることなくスムーズに転がしていくなぁ、という印象でした。新人のデビュー作としては、巧く出来ているという感じがします。
「竹取物語」をベースにした物語というのもなかなか新鮮で(まあもちろんそういう作品が他にあるのも知ってるけど)、「竹取物語」という古典作品を巧く物語に取り込めているなという感じがします。
ただ、個人的な不満が二点。
まず、ちょっと物語が平板かなぁ、ということ。やりすぎるとあざとくなるけど、でも、この場面はもう少し盛り上がる感じに書けるよなぁ、という場面がところどころであって、ちょっともったいない気がしました。
あと、「実は!」っていう物語の展開がちょっと唐突かなぁ、ということ。もうちょっと前半で伏線っぽい描写が欲しかったかな。
軽く読めるタッチの作品で、読んでみたら結構面白い、という感じの作品ではないかと思います。
安澄加奈「いまはむかし」
量子力学の哲学(森田邦久)
内容に入ろうと思います。
本書は、物理学における一分野である『量子力学』というものについての本です。
なんですけど、これ、普通の『量子力学』の本ではないんですね。僕はこれでも、これまでにかなり『量子力学』についての本を読んできたと思うんですけど、それらの作品とはかなり一線を画す、結構斬新な内容だなと思いました。
本書は、『量子力学という物理法則をいかに解釈するか』という、『哲学』の問題を扱っている作品です。
これを説明するために、飛行機の例を出そうと思います。
詳しいことは知らないんですけど、僕のうろ覚えの知識によれば、『なぜ飛行機は空を飛ぶことが出来るのか?』というのは、物理的に解明されていないんだそうです。つまり、どんな理屈によって、飛行機が空を飛んでいるのかわからないまま、ということだ。
飛行機が飛ぶメカニズムについては、いくつかの仮説(と書くのが一番しっくり来るのだけど、以下では用語を合わせる方がわかりやすいと思うから、解釈、と書きます)が提唱されているそうです。しかし、どの解釈も、実験などによって正しさが証明されているわけではない。飛行機が飛ぶメカニズムはいくつか解釈が存在するのだけど、どれが正しいのかはっきりしていない(あるいはすべて間違っていて、まだ提唱されていないメカニズムによる、という可能性もある)のである。
しかし、飛行機が空を飛んでいる、というのは紛れも無い事実である。『飛行機が空を飛ぶメカニズムが分からない』からと言って、『飛行機が空を飛ぶ』という事実が間違っている、なんていうことにはならない。
量子力学も、今これとまったく同じ状況下にある、と思ってもらえばいい。
量子力学という理論は、ここでは詳しく書かないけど(簡単に書けるほど易しい理論ではない)、とにかくあらゆる実験によって、その正しさが認められている。もしかしたら、理論に多少の修正が必要な可能性はあるけど、量子力学という枠組みは、もはや『間違っている』とは到底言えないほど、大成功を収めている凄い理論なのだ。なにせ、量子力学がなければテレビだって作れないのだよ、諸君!(詳しいことは僕も知らないけど)
この、『量子力学があらゆる実験によって正しさが認められている』ということは、先の飛行機の喩えで言えば、『飛行機が空を飛んでいることは紛れも無い事実だ』という部分に相当する。
さてでは、量子力学のどんな点に問題があるのだろうか?実は量子力学には、「物理量の非実在性」「非局所性」「状態の収縮」「粒子と波の二重性」という、どう解釈したらいいのか分からない四つの問題があるのだ。
これらそれぞれについて分かりやすく説明することは僕には不可能なので、具体的に説明することは止めます。ざっくり書くと、「物理量の非実在性」というのは、測定する前にも粒子(の物理量)は存在しているのかどうか(なんと物理学では今、原子や電子などが『実在するか否か』ということが議論されているのだよ。凄くないかい)。「非局所性」というのは、ある出来事が空間的に充分離れた出来事に(相対性理論に反して)瞬間的に伝わるか否かということ。「状態の収縮」というのは、これは説明が難しいから却下。「粒子と波の二重性」というのは、ミクロな物質は粒子なのかあるいは波なのか、あるいはその両方なのか、という問題である。まあこんな風に書いてもよくわからんと思うのだけど、とにかく量子力学の世界(ミクロな世界)においては、『マクロな世界の常識(僕らが通常生活をしている世界の常識)』に明らかに反するような様々な実験結果が存在するのだ。
これら、マクロな世界の常識に反する(あるいは、反するように見える、と表現するべきなのか)様々な実験結果を、どのように解釈するのか。本書は、その様々な解釈に触れた作品、という感じです。
難しいですよね。僕も、本書を読まないままで、自分が書いたここまでの文章を読んでも、よくわからないと思いますもん。でも、こんな風に書くしかないんだよなぁ。
普通の量子力学の本というのはどういう感じになるかというと、量子力学がどんな経緯で誕生し、どう発展していったのか、という歴史を追うものであったり、あるいは、量子力学の様々な不可思議な実験結果を羅列して、ほら量子力学って不思議でしょう?ということを示すものであったり、あるいは本書のような『解釈』の話であれば、『多世界解釈』がちょっと紹介される、というぐらいが関の山です。『多世界解釈』は、量子力学における解釈の中でおそらくもっとも有名なもので、僕らが生きているこの世界は、パラレルワールドとか並行世界が山ほど重なり合っている状態なのだ、と解釈することで、上記四つの問題をどうにかいい按配に解釈しようとしているもので、標準解釈(量子力学には、そう呼ばれる、一般的にこれが標準とされている解釈、というものがある)よりも支持者が多い、と本書では書かれています。
普通ごく一般的な量子力学の本はそういう感じになるのだけど、本書は、量子力学における様々な『解釈』を紹介することを最大限念頭においた作品で、今まで僕はこんな作品を読んだことがありませんでした。量子力学についての一般向けの本を結構読んでる僕は、当然『多世界解釈』は知ってたし、上記の四つの問題についてもざっくりとは理解していた。『軌跡解釈』ってのも、たぶんどこかで読んだことがあったんじゃないかなぁ、と思います。でも本書には、僕が今までまったく知らなかった話が山ほど出てくる。おそらく本書では、現時点で提唱されている解釈のほとんどすべてを網羅しているんだと思うんだけど、僕はそのほとんどを知らなかった。『多世界解釈』も、初めてその存在を知った時は、なんて斬新なアイデアなんだ!と思ったものだけど、本書で紹介されている他の解釈も、相当に斬新だった(ただ、僕には理解出来ないものもいくつかあった。結構難しいのよ、本書は)。
それに、知らなかったのは解釈についての知識だけではない。例えば、『観測問題』と呼ばれる問題が量子力学には存在する。これは、『なぜ、ミクロな物質は明確な位置にないのに、マクロな物質は常に明確な位置にあるのか』という問題で、これは初めて知った。他にも、固有の名前はついていなくても、こういう発想・知識は初めて知ったなぁ、というものが実に多かった。
本書は帯に『~の入門書』って書かれてあるんだけど、マジこれ、まったく入門書じゃないと思います。僕はPOPに、『ある程度量子力学についての知識がある人が読んだらハチャメチャに楽しめる作品です!』って書くつもりでいます。そう書くと、読者を狭めちゃうけど、でも、入門書だと思って本書を買って読んだら、たぶん意味わかんないと思うんです。自分でいうのもなんだけど、量子力学についての一般向けの本をかなり読んでいる僕でも、イマイチついていけないなぁ、と思うような部分があったぐらいです。かなりレベルが高いです。しかも面白い!
本書については、量子力学についてある程度の知識がないと説明してもわからない内容だと思うんで(一応作品のつくりとしては初心者向けに作られているんだろうけど、やっぱり内容がかなり高度なので、初心者にはなかなかついていけないんじゃないかなと思います)、これ以上内容については具体的には触れないつもりです。とにかく本書は、『一般的な量子力学の本とは違った斬新な視点で描かれていること』と『入門書では決してなく、ある程度量子力学についての知識を持っている人が読むととんでもなく面白い』という二点が重要だと僕は思うのであります。
しかし、こういう本を読んでいると、僕が死ぬまでの間に結論が出て欲しいなぁ、と思ってしまいます。未来において、本書で描かれていることについての議論が決着したとしたら、たぶんその時点ではもう、それ以外の解釈なんてちゃんちゃらおかしい、みたいな感じになってると思うんです。
アインシュタインの相対性理論の登場が、まさにそういう感じでした。アインシュタインが相対性理論を発表するまでは、『エーテル』という存在が大まじめに信じられていました。これがどういうものなのか説明しましょう。光は波であり(粒子でもあるのだけど、とりあえずそれはおいておいて)、波であるということは何らかの媒質を必要とします。例えば津波は『水』を、音は『空気』を振動させることで波を伝えますね。
では光は何を振動させることで波を伝えているのか?その媒質として考えられていたのが『エーテル』であり、エーテルには、到底ありえないような特殊な性質が設定されたのでした。でも、光が波であるならば、何らかの媒質が必要であり、であればエーテルは存在しなければならないのです。みな、エーテルを見つけようと躍起になりました。
その議論を、アインシュタインが決着させました。詳しいことは僕には分からないんですけど、アインシュタインは結局のところ、光が波として伝わるのに媒質は要らねぇんだよ、ってことを言ったんだと思います(たぶん)。それは、エーテルという存在を信じきっていた当時の物理学の世界では衝撃的だったわけです。
量子力学の世界も、今まさにそういう状況にあると言えるのかもしれません。今様々な人達が、普通には理解出来ない様々な事柄を、あらゆるやり方で解釈しようとしている。おそらく、近いか遠いかは別として、将来的にこの議論は何らかの決着を見るでしょう。そうなった時、かつてはこんな風に考えてたのかー、ある意味でとんでもないことを信じてたんだなぁ、みたいな感じに間違いなくなると思うんですね。
僕が生きている内に決着して欲しいなぁ、と思ってしまうわけです。
というわけで、本当に斬新な作品でした。量子力学という理論を『どう解釈するか』という点だけに絞った、という点が本当にこれまでの量子力学についての本にはない特殊さだと思います。そして、帯には『入門書』と書いてありますが、決して入門書ではありません。ある程度量子力学についての知識を持っている人が読めば、相当面白く読める作品だと思います。誰しもにオススメ出来る作品ではありませんけど、非常にいい本だと思いました。是非読んでみてください。
森田邦久「量子力学の哲学」
本書は、物理学における一分野である『量子力学』というものについての本です。
なんですけど、これ、普通の『量子力学』の本ではないんですね。僕はこれでも、これまでにかなり『量子力学』についての本を読んできたと思うんですけど、それらの作品とはかなり一線を画す、結構斬新な内容だなと思いました。
本書は、『量子力学という物理法則をいかに解釈するか』という、『哲学』の問題を扱っている作品です。
これを説明するために、飛行機の例を出そうと思います。
詳しいことは知らないんですけど、僕のうろ覚えの知識によれば、『なぜ飛行機は空を飛ぶことが出来るのか?』というのは、物理的に解明されていないんだそうです。つまり、どんな理屈によって、飛行機が空を飛んでいるのかわからないまま、ということだ。
飛行機が飛ぶメカニズムについては、いくつかの仮説(と書くのが一番しっくり来るのだけど、以下では用語を合わせる方がわかりやすいと思うから、解釈、と書きます)が提唱されているそうです。しかし、どの解釈も、実験などによって正しさが証明されているわけではない。飛行機が飛ぶメカニズムはいくつか解釈が存在するのだけど、どれが正しいのかはっきりしていない(あるいはすべて間違っていて、まだ提唱されていないメカニズムによる、という可能性もある)のである。
しかし、飛行機が空を飛んでいる、というのは紛れも無い事実である。『飛行機が空を飛ぶメカニズムが分からない』からと言って、『飛行機が空を飛ぶ』という事実が間違っている、なんていうことにはならない。
量子力学も、今これとまったく同じ状況下にある、と思ってもらえばいい。
量子力学という理論は、ここでは詳しく書かないけど(簡単に書けるほど易しい理論ではない)、とにかくあらゆる実験によって、その正しさが認められている。もしかしたら、理論に多少の修正が必要な可能性はあるけど、量子力学という枠組みは、もはや『間違っている』とは到底言えないほど、大成功を収めている凄い理論なのだ。なにせ、量子力学がなければテレビだって作れないのだよ、諸君!(詳しいことは僕も知らないけど)
この、『量子力学があらゆる実験によって正しさが認められている』ということは、先の飛行機の喩えで言えば、『飛行機が空を飛んでいることは紛れも無い事実だ』という部分に相当する。
さてでは、量子力学のどんな点に問題があるのだろうか?実は量子力学には、「物理量の非実在性」「非局所性」「状態の収縮」「粒子と波の二重性」という、どう解釈したらいいのか分からない四つの問題があるのだ。
これらそれぞれについて分かりやすく説明することは僕には不可能なので、具体的に説明することは止めます。ざっくり書くと、「物理量の非実在性」というのは、測定する前にも粒子(の物理量)は存在しているのかどうか(なんと物理学では今、原子や電子などが『実在するか否か』ということが議論されているのだよ。凄くないかい)。「非局所性」というのは、ある出来事が空間的に充分離れた出来事に(相対性理論に反して)瞬間的に伝わるか否かということ。「状態の収縮」というのは、これは説明が難しいから却下。「粒子と波の二重性」というのは、ミクロな物質は粒子なのかあるいは波なのか、あるいはその両方なのか、という問題である。まあこんな風に書いてもよくわからんと思うのだけど、とにかく量子力学の世界(ミクロな世界)においては、『マクロな世界の常識(僕らが通常生活をしている世界の常識)』に明らかに反するような様々な実験結果が存在するのだ。
これら、マクロな世界の常識に反する(あるいは、反するように見える、と表現するべきなのか)様々な実験結果を、どのように解釈するのか。本書は、その様々な解釈に触れた作品、という感じです。
難しいですよね。僕も、本書を読まないままで、自分が書いたここまでの文章を読んでも、よくわからないと思いますもん。でも、こんな風に書くしかないんだよなぁ。
普通の量子力学の本というのはどういう感じになるかというと、量子力学がどんな経緯で誕生し、どう発展していったのか、という歴史を追うものであったり、あるいは、量子力学の様々な不可思議な実験結果を羅列して、ほら量子力学って不思議でしょう?ということを示すものであったり、あるいは本書のような『解釈』の話であれば、『多世界解釈』がちょっと紹介される、というぐらいが関の山です。『多世界解釈』は、量子力学における解釈の中でおそらくもっとも有名なもので、僕らが生きているこの世界は、パラレルワールドとか並行世界が山ほど重なり合っている状態なのだ、と解釈することで、上記四つの問題をどうにかいい按配に解釈しようとしているもので、標準解釈(量子力学には、そう呼ばれる、一般的にこれが標準とされている解釈、というものがある)よりも支持者が多い、と本書では書かれています。
普通ごく一般的な量子力学の本はそういう感じになるのだけど、本書は、量子力学における様々な『解釈』を紹介することを最大限念頭においた作品で、今まで僕はこんな作品を読んだことがありませんでした。量子力学についての一般向けの本を結構読んでる僕は、当然『多世界解釈』は知ってたし、上記の四つの問題についてもざっくりとは理解していた。『軌跡解釈』ってのも、たぶんどこかで読んだことがあったんじゃないかなぁ、と思います。でも本書には、僕が今までまったく知らなかった話が山ほど出てくる。おそらく本書では、現時点で提唱されている解釈のほとんどすべてを網羅しているんだと思うんだけど、僕はそのほとんどを知らなかった。『多世界解釈』も、初めてその存在を知った時は、なんて斬新なアイデアなんだ!と思ったものだけど、本書で紹介されている他の解釈も、相当に斬新だった(ただ、僕には理解出来ないものもいくつかあった。結構難しいのよ、本書は)。
それに、知らなかったのは解釈についての知識だけではない。例えば、『観測問題』と呼ばれる問題が量子力学には存在する。これは、『なぜ、ミクロな物質は明確な位置にないのに、マクロな物質は常に明確な位置にあるのか』という問題で、これは初めて知った。他にも、固有の名前はついていなくても、こういう発想・知識は初めて知ったなぁ、というものが実に多かった。
本書は帯に『~の入門書』って書かれてあるんだけど、マジこれ、まったく入門書じゃないと思います。僕はPOPに、『ある程度量子力学についての知識がある人が読んだらハチャメチャに楽しめる作品です!』って書くつもりでいます。そう書くと、読者を狭めちゃうけど、でも、入門書だと思って本書を買って読んだら、たぶん意味わかんないと思うんです。自分でいうのもなんだけど、量子力学についての一般向けの本をかなり読んでいる僕でも、イマイチついていけないなぁ、と思うような部分があったぐらいです。かなりレベルが高いです。しかも面白い!
本書については、量子力学についてある程度の知識がないと説明してもわからない内容だと思うんで(一応作品のつくりとしては初心者向けに作られているんだろうけど、やっぱり内容がかなり高度なので、初心者にはなかなかついていけないんじゃないかなと思います)、これ以上内容については具体的には触れないつもりです。とにかく本書は、『一般的な量子力学の本とは違った斬新な視点で描かれていること』と『入門書では決してなく、ある程度量子力学についての知識を持っている人が読むととんでもなく面白い』という二点が重要だと僕は思うのであります。
しかし、こういう本を読んでいると、僕が死ぬまでの間に結論が出て欲しいなぁ、と思ってしまいます。未来において、本書で描かれていることについての議論が決着したとしたら、たぶんその時点ではもう、それ以外の解釈なんてちゃんちゃらおかしい、みたいな感じになってると思うんです。
アインシュタインの相対性理論の登場が、まさにそういう感じでした。アインシュタインが相対性理論を発表するまでは、『エーテル』という存在が大まじめに信じられていました。これがどういうものなのか説明しましょう。光は波であり(粒子でもあるのだけど、とりあえずそれはおいておいて)、波であるということは何らかの媒質を必要とします。例えば津波は『水』を、音は『空気』を振動させることで波を伝えますね。
では光は何を振動させることで波を伝えているのか?その媒質として考えられていたのが『エーテル』であり、エーテルには、到底ありえないような特殊な性質が設定されたのでした。でも、光が波であるならば、何らかの媒質が必要であり、であればエーテルは存在しなければならないのです。みな、エーテルを見つけようと躍起になりました。
その議論を、アインシュタインが決着させました。詳しいことは僕には分からないんですけど、アインシュタインは結局のところ、光が波として伝わるのに媒質は要らねぇんだよ、ってことを言ったんだと思います(たぶん)。それは、エーテルという存在を信じきっていた当時の物理学の世界では衝撃的だったわけです。
量子力学の世界も、今まさにそういう状況にあると言えるのかもしれません。今様々な人達が、普通には理解出来ない様々な事柄を、あらゆるやり方で解釈しようとしている。おそらく、近いか遠いかは別として、将来的にこの議論は何らかの決着を見るでしょう。そうなった時、かつてはこんな風に考えてたのかー、ある意味でとんでもないことを信じてたんだなぁ、みたいな感じに間違いなくなると思うんですね。
僕が生きている内に決着して欲しいなぁ、と思ってしまうわけです。
というわけで、本当に斬新な作品でした。量子力学という理論を『どう解釈するか』という点だけに絞った、という点が本当にこれまでの量子力学についての本にはない特殊さだと思います。そして、帯には『入門書』と書いてありますが、決して入門書ではありません。ある程度量子力学についての知識を持っている人が読めば、相当面白く読める作品だと思います。誰しもにオススメ出来る作品ではありませんけど、非常にいい本だと思いました。是非読んでみてください。
森田邦久「量子力学の哲学」
わたしのノーマジーン(初野晴)
内容に入ろうと思います。
桐島は、天才鞄職人だった。革製品の歴史の浅い国で、造花の型紙を応用するという独自の手法によって、独創的な作品を生み出した。
しかし、桐島の不幸は、それを売る人間を見つけることが出来なかったことだ。販売は、秀才にしか出来ない。天才でしかなかった桐島は、病院に行けば治ったかもしれない病に倒れ死んだ。
桐島の死後、桐島の鞄は高評価を受け、終末のこの世界でも、富裕層たちが高値で取引しあい、値段はうなぎ登りだ。
唯一の問題は、桐島には弟子がいなかったことだ。桐島の新たな作品が生み出されないだけではない。メインテナンスの難しい革製品、特に独自の意匠を持つ桐島の鞄は、桐島が長年掛けて作り上げた道具と技術によってしかメインテナンスすることが不可能だ。
その道具と技術を持つ、車椅子に乗った女性がいる。
シズカは桐島のバッグのメインテナンスで生計を立てながら、荒廃した一軒家に一人で住んでいる。一人での生活に不都合はないけど、不便ではある。年末に政府が無償で支給してくれる介護ロボットに当選したので、楽しみに待っていた。
しかしやってきたのは、人語を話す赤毛のサルだった。
ノーマジーンと名乗ったそのサルと一緒に生活をすることになった。文字は読めない、重いものは持てないで、大して役にも立たないやつだけど、無邪気で純粋なノーマジーンとの、貧しいけれどささやかな生活は、ずっと一人で生きてきたシズカの心を少しずつ溶かしていく。
来年の春には、世界は滅亡する、と言われている。終末の雰囲気に包まれた世界の中で、シズカとノーマジーンはひっそりと毎日を生きる…。
というような話です。
先に書いておくと、本書は、一度書いた文章に後からさらに手を加えているので、もしかしたら文章同士の繋がりがおかしな部分とかあるかもですけど、お許し下さい。
僕が一番強く言いたいことは、本書は、『初野晴のミステリだ』という認識では読まないで欲しい、ということです。そういう認識を持たずに読めば、本当に素晴らしい作品と受け取ることが出来ると思います。
さて僕はこの作品を、二度読みました。どちらも刊行前だし、いつもであればこういうことは書かないんだけど、今回に関してはそれを書くことに意味があるので、まずその話から書きます。
一度目は、まだ完成原稿ではない状態のものを読ませてもらった。その時僕は本書を、『初野晴のミステリ』だと思って読み始めた。作中に散りばめられた様々な気になる事柄や終末という設定、そもそもノーマジーンという謎の存在も含めて、初野晴なら何か仕掛けてくるんだろうと、最後どういう風にまとめてくるのか非常に楽しみにしながら読んでいた。
でもその期待は、ちょっと裏切られる形になりました。僕が一度目に読んだ時の感想は、次のようなものです。
『個人的に、非常に評価の難しい作品だなと思いました。
ストーリーはかなり好きです。本書は『シズカとノーマジーンのささやかな生活の物語』がメインの作品だ、という了解の元に読めば、凄く楽しめる小説だと思います。』
本書でもラストに、なるほど初野晴らしい、と思える部分がある。でも全体的には、『初野晴のミステリ』らしさというものは薄いと感じました。
僕の中で、初野晴が描くミステリというのは、他のミステリとは何か違う要素が多々含まれている。それが何なのかを言葉で表現することは、本当に難しい。難しいのだけど、『初野晴のミステリ』というものに、他の作家には抱くことがない、特別な何かを期待してしまう部分がある。そういう意味で僕は、本書を『初野晴のミステリ』だと思って読んだのは間違いだったなぁ、と思いました。
さて二度目。こちらは、最終的に本の形になっているものを読ませてもらった。二度目の僕は本書を、『初野晴のミステリ』としてではなく、『シズカとノーマジーンのささやかな生活の物語』として読むことが出来た。そしてやはり、そういう意識で読むと、本書は実にいい。後者のような意識で読むからこそ、最後の最後に置かれた部分にも驚きを増すことになる。しかも、一度目に読んだ時とはラストが変わっていた。二度目に読んだ方のラストの方がいい。そちらの方がより、本書が『シズカとノーマジーンのささやかな生活の物語』であるという印象を強くすることが出来ると思う。お互いに不器用にしか生きられない二人の、最後まで不器用なままであったやり取りは、思わず泣きそうになる。
シズカとノーマジーンのやり取りは、本当に楽しい。お互いに、様々なことが欠けている。シズカは、歩けないし、愛想がいいわけでもない。ノーマジーンは、文字も読めないし重いものも持てないし、何度言っても手順を覚えない。しかもお互い、自身では意識していない、知らされていない複雑な事情を抱えている。
欠け合った二人は、時々お互いの欠損を補いながら、時々お互いを突き放しながら、少しずつ魂が癒着していく。ノーマジーンはかなり初めの頃からシズカに懐いていたけども、シズカは初めの頃はノーマジーンを多少邪険に扱っていた。嫌い、とかそういうことではない。それは結局、シズカの孤高がそうさせたのだと思う。桐島と関わった短い期間を除いて、シズカはずっと一人で生きていた。桐島と関わっていた頃だって、桐島と向き合って話したことなんてほとんどない。だからシズカという人格は、寄り添うだれかの存在を必要としない形で固まってしまっていたのだと思う。だから、子ども程度の知能があり、人語を話すことが出来るサルに、同居人以上の関心を持たずにいた。
しかし、シズカは徐々に変わっていく。この過程が凄くいい。シズカとノーマジーンの間には、些細といえば些細な、しかし二人の閉じた世界の間では重大な、様々な出来事が起こる。カブトムシの襲来、猫とのバトル、蝶の羽化、石の捜索、映画鑑賞、歩行訓練などなど…。
二人の日常の中で起こる様々な出来事は、どれもどこか寓話的だ。これは、非常に初野晴っぽい。どこから引っ張ってくるのか謎すぎるマニアックな知識と(本書の冒頭がワニの産卵の話から始まるのも印象的だ)、それを巧く織り込みながら何か教訓めいたものが閉じ込められていそうなエピソードを生み出すのが抜群に上手い。表面的に見える部分以上の深さを感じ取ることが出来る。
そういういくつもの出来事を経験していく中で、シズカの中で何かが変わっていく。徐々に、ノーマジーンの存在が大きくなっていく。それは、なんか凄く分かる。ノーマジーンの、悪意というものの存在をまったく知らないような(実際知らないかもしれない)無邪気で純粋なあり方は、太陽のように人の心を温めたりこわばりを融かす力があるのだろうと思う。
けど、いきなり素直になれるわけでもないシズカは、恥ずかしさや照れから、ノーマジーンに対する自分の気持ちを持て余す。たぶんそれは、シズカのこれまでの人生の中で感じたことのない感情だったのだろうと思う。自分の内側にそんな感情が芽生えたことに、そしてその感情を収納する場所が見当たらないことに、途方に暮れているような瞬間が垣間見える。
シズカとノーマジーンの関係は、そんな風にして少しずつ少しずつ変わっていく。その過程が本当に読ませると思うし、本書の魅力だと思う。
本書は、最後の最後で、一つなかなか驚くべき真実が明かされる。それは、シズカとノーマジーン両方に関わってくる、二人がそれぞれ自身では知らないままに背負わされている複雑な事情に絡む真相だ。この真相には驚いた。まさかあれがあんな風に機能するものだなんて。やっぱりこういう部分は本当に巧いなと思うんですね。
シズカとノーマジーンの交流の物語として読めば、これは凄く素敵な作品だと思います。本書は帯に小さく、『寓話ミステリー』と書かれているんだけど、僕はやっぱりこの表記はちょっとなぁ、と思ってしまいます。ミステリ要素がないわけではない。でも、初野晴の作品に『ミステリ』と表記することで、読む側はミステリ的な方面での、他の作家には抱かない期待をしてしまうのではないか、と僕は勝手に思ってしまいます。僕の中では初野晴というのは、そういう期待を抱かせる作家です。繰り返しますが、本書は『初野晴のミステリ』ではない、という意識で是非読んでみてください。随所に現れる寓話的なエピソードやトリッキーな知識なんかは、やっぱり初野作品だなという感じがしますし、シズカとノーマジーンの交流の物語は本当に素敵で、ほんの些細なシーンでも心を揺さぶられてしまうことが多いです。是非読んでみてください。
初野晴「わたしのノーマジーン」
桐島は、天才鞄職人だった。革製品の歴史の浅い国で、造花の型紙を応用するという独自の手法によって、独創的な作品を生み出した。
しかし、桐島の不幸は、それを売る人間を見つけることが出来なかったことだ。販売は、秀才にしか出来ない。天才でしかなかった桐島は、病院に行けば治ったかもしれない病に倒れ死んだ。
桐島の死後、桐島の鞄は高評価を受け、終末のこの世界でも、富裕層たちが高値で取引しあい、値段はうなぎ登りだ。
唯一の問題は、桐島には弟子がいなかったことだ。桐島の新たな作品が生み出されないだけではない。メインテナンスの難しい革製品、特に独自の意匠を持つ桐島の鞄は、桐島が長年掛けて作り上げた道具と技術によってしかメインテナンスすることが不可能だ。
その道具と技術を持つ、車椅子に乗った女性がいる。
シズカは桐島のバッグのメインテナンスで生計を立てながら、荒廃した一軒家に一人で住んでいる。一人での生活に不都合はないけど、不便ではある。年末に政府が無償で支給してくれる介護ロボットに当選したので、楽しみに待っていた。
しかしやってきたのは、人語を話す赤毛のサルだった。
ノーマジーンと名乗ったそのサルと一緒に生活をすることになった。文字は読めない、重いものは持てないで、大して役にも立たないやつだけど、無邪気で純粋なノーマジーンとの、貧しいけれどささやかな生活は、ずっと一人で生きてきたシズカの心を少しずつ溶かしていく。
来年の春には、世界は滅亡する、と言われている。終末の雰囲気に包まれた世界の中で、シズカとノーマジーンはひっそりと毎日を生きる…。
というような話です。
先に書いておくと、本書は、一度書いた文章に後からさらに手を加えているので、もしかしたら文章同士の繋がりがおかしな部分とかあるかもですけど、お許し下さい。
僕が一番強く言いたいことは、本書は、『初野晴のミステリだ』という認識では読まないで欲しい、ということです。そういう認識を持たずに読めば、本当に素晴らしい作品と受け取ることが出来ると思います。
さて僕はこの作品を、二度読みました。どちらも刊行前だし、いつもであればこういうことは書かないんだけど、今回に関してはそれを書くことに意味があるので、まずその話から書きます。
一度目は、まだ完成原稿ではない状態のものを読ませてもらった。その時僕は本書を、『初野晴のミステリ』だと思って読み始めた。作中に散りばめられた様々な気になる事柄や終末という設定、そもそもノーマジーンという謎の存在も含めて、初野晴なら何か仕掛けてくるんだろうと、最後どういう風にまとめてくるのか非常に楽しみにしながら読んでいた。
でもその期待は、ちょっと裏切られる形になりました。僕が一度目に読んだ時の感想は、次のようなものです。
『個人的に、非常に評価の難しい作品だなと思いました。
ストーリーはかなり好きです。本書は『シズカとノーマジーンのささやかな生活の物語』がメインの作品だ、という了解の元に読めば、凄く楽しめる小説だと思います。』
本書でもラストに、なるほど初野晴らしい、と思える部分がある。でも全体的には、『初野晴のミステリ』らしさというものは薄いと感じました。
僕の中で、初野晴が描くミステリというのは、他のミステリとは何か違う要素が多々含まれている。それが何なのかを言葉で表現することは、本当に難しい。難しいのだけど、『初野晴のミステリ』というものに、他の作家には抱くことがない、特別な何かを期待してしまう部分がある。そういう意味で僕は、本書を『初野晴のミステリ』だと思って読んだのは間違いだったなぁ、と思いました。
さて二度目。こちらは、最終的に本の形になっているものを読ませてもらった。二度目の僕は本書を、『初野晴のミステリ』としてではなく、『シズカとノーマジーンのささやかな生活の物語』として読むことが出来た。そしてやはり、そういう意識で読むと、本書は実にいい。後者のような意識で読むからこそ、最後の最後に置かれた部分にも驚きを増すことになる。しかも、一度目に読んだ時とはラストが変わっていた。二度目に読んだ方のラストの方がいい。そちらの方がより、本書が『シズカとノーマジーンのささやかな生活の物語』であるという印象を強くすることが出来ると思う。お互いに不器用にしか生きられない二人の、最後まで不器用なままであったやり取りは、思わず泣きそうになる。
シズカとノーマジーンのやり取りは、本当に楽しい。お互いに、様々なことが欠けている。シズカは、歩けないし、愛想がいいわけでもない。ノーマジーンは、文字も読めないし重いものも持てないし、何度言っても手順を覚えない。しかもお互い、自身では意識していない、知らされていない複雑な事情を抱えている。
欠け合った二人は、時々お互いの欠損を補いながら、時々お互いを突き放しながら、少しずつ魂が癒着していく。ノーマジーンはかなり初めの頃からシズカに懐いていたけども、シズカは初めの頃はノーマジーンを多少邪険に扱っていた。嫌い、とかそういうことではない。それは結局、シズカの孤高がそうさせたのだと思う。桐島と関わった短い期間を除いて、シズカはずっと一人で生きていた。桐島と関わっていた頃だって、桐島と向き合って話したことなんてほとんどない。だからシズカという人格は、寄り添うだれかの存在を必要としない形で固まってしまっていたのだと思う。だから、子ども程度の知能があり、人語を話すことが出来るサルに、同居人以上の関心を持たずにいた。
しかし、シズカは徐々に変わっていく。この過程が凄くいい。シズカとノーマジーンの間には、些細といえば些細な、しかし二人の閉じた世界の間では重大な、様々な出来事が起こる。カブトムシの襲来、猫とのバトル、蝶の羽化、石の捜索、映画鑑賞、歩行訓練などなど…。
二人の日常の中で起こる様々な出来事は、どれもどこか寓話的だ。これは、非常に初野晴っぽい。どこから引っ張ってくるのか謎すぎるマニアックな知識と(本書の冒頭がワニの産卵の話から始まるのも印象的だ)、それを巧く織り込みながら何か教訓めいたものが閉じ込められていそうなエピソードを生み出すのが抜群に上手い。表面的に見える部分以上の深さを感じ取ることが出来る。
そういういくつもの出来事を経験していく中で、シズカの中で何かが変わっていく。徐々に、ノーマジーンの存在が大きくなっていく。それは、なんか凄く分かる。ノーマジーンの、悪意というものの存在をまったく知らないような(実際知らないかもしれない)無邪気で純粋なあり方は、太陽のように人の心を温めたりこわばりを融かす力があるのだろうと思う。
けど、いきなり素直になれるわけでもないシズカは、恥ずかしさや照れから、ノーマジーンに対する自分の気持ちを持て余す。たぶんそれは、シズカのこれまでの人生の中で感じたことのない感情だったのだろうと思う。自分の内側にそんな感情が芽生えたことに、そしてその感情を収納する場所が見当たらないことに、途方に暮れているような瞬間が垣間見える。
シズカとノーマジーンの関係は、そんな風にして少しずつ少しずつ変わっていく。その過程が本当に読ませると思うし、本書の魅力だと思う。
本書は、最後の最後で、一つなかなか驚くべき真実が明かされる。それは、シズカとノーマジーン両方に関わってくる、二人がそれぞれ自身では知らないままに背負わされている複雑な事情に絡む真相だ。この真相には驚いた。まさかあれがあんな風に機能するものだなんて。やっぱりこういう部分は本当に巧いなと思うんですね。
シズカとノーマジーンの交流の物語として読めば、これは凄く素敵な作品だと思います。本書は帯に小さく、『寓話ミステリー』と書かれているんだけど、僕はやっぱりこの表記はちょっとなぁ、と思ってしまいます。ミステリ要素がないわけではない。でも、初野晴の作品に『ミステリ』と表記することで、読む側はミステリ的な方面での、他の作家には抱かない期待をしてしまうのではないか、と僕は勝手に思ってしまいます。僕の中では初野晴というのは、そういう期待を抱かせる作家です。繰り返しますが、本書は『初野晴のミステリ』ではない、という意識で是非読んでみてください。随所に現れる寓話的なエピソードやトリッキーな知識なんかは、やっぱり初野作品だなという感じがしますし、シズカとノーマジーンの交流の物語は本当に素敵で、ほんの些細なシーンでも心を揺さぶられてしまうことが多いです。是非読んでみてください。
初野晴「わたしのノーマジーン」
すべての真夜中の恋人たち(川上未映子)
内容に入ろうと思います。
入江冬子は、フリーの校閲者だ。元々は会社勤めで校閲をやっていたのだけど、人間関係にいささか疲れたのと、ちょっとした人との付き合いから仕事を安定的に回してもらえるような環境が手に入ったので、辞めることにしたのだった。
冬子に仕事をくれるのは、石川聖。彼女は美人なのだけど、常に正論で戦い、一歩も引かず、上司とも議論して相手を任すような人だ。また聖が、こういう女には腹が立つというような話をするのをよく聞くことになる。冬子は、特に自分の考えというものがなくて、よく分からないけども、聖は唯一の友達だと思ってる。
日がな一日家で仕事をし、仕事をしていない時は何をしているんだかわからない冬子の生活。ある日、原稿を届けるついでに新宿まで出てみたのだけど、何をしていいんだかわからなくてすぐ帰ってきたことがあった。その時もらった、カルチャーセンターの案内を見て、冬子は何か講座を受けてみよう、と考える。人と話すことに慣れていない冬子は、カルチャーセンターにお酒を飲んで行ってみたのだけど、それが災いして失態を犯してしまう。でも、それをきっかけにして、三束さんという男の人と知り合うきっかけができた。
三束さんは、50代に見えるオジサンだ。女子高で物理を教えているという三束さんとは喫茶店でとりとめもない話をするだけの関係なのだけど…。
というような話です。
凄く雰囲気が好きな作品でした。うまく表現できないんだけど、音楽がほとんど挿入されない、セリフもほとんどないような映画を見た時のような、そういう感覚でした。これで何か伝わるかな。
淡々としている、というのはその通りなんだけど、その淡々さが際立っている、という感じ。さっきの例をまた引き合いに出せば、音楽やセリフの不在を意識させないまま強調するような、そういう感じがします。その淡々さは、凄く力強いんだけど、同時に希薄な感じもあって、凄く不思議な雰囲気なんです。
たぶんそれは、主人公の冬子の存在に大きく拠っているんだろう、という感じがしました。
冬子は、自分の考えとか意思とかいったものをほとんど持っていない。自分で何かを選びとるということを人生においてほとんどしてこなかった。だからこれは、もちろん冬子の物語なんだけど、同時に、冬子はただの触媒なんではないか、という気にさせる。なんの触媒であるかというと、冬子の周りにいる人物と読者を繋ぐ触媒。
冬子の周りにいる人物は、なんだか皆冬子に語りたがる。その内の一人は、はっきりと、これは冬子にしか話したことがない、何故なら冬子はもう私の人生の登場人物ではないからだ、と言ってます。
皆が冬子に語りたがる気持ちというのは、なんとなく分かる。冬子は、スポンジのように、というとちょっと違うんだけど、相手の意見をそのまま受け取る。受け取る、というのは、影響される、という意味ではなく、文字通り受け取る。ポンと荷物を渡されでもしたかのように、相手の考えや意見をそのままの形で受け取ることが出来る。その考えや意見に対してどう感じるかというようなことはほとんど表明しない。冬子にとって、誰かの考えというのは、ただポンと渡されて受け取るというだけの対象なのだ。
それは、ある種の人にとっては、凄く楽な存在だ。反論するでもなく、過剰に賛同するでもなく、自分の言ったことをただ受け取ってくれるという存在は、そういるわけではない。そして何より冬子は、自分のその立ち位置を苦に感じていない。相手にもそれが伝わるからこそ、より皆冬子に語りたがるのだろうと思う。
だからこの小説は僕には、冬子を通じて冬子の周囲の人間の考えを読者に伝える、そういうような性質を持っているな、という感じがします。冬子その人の意見は、ほとんどない。冬子はただ、聞いて受け取るだけ。その行為を通じて、読者は冬子の周囲の人物の考えを知る。それが、より冬子という人物の輪郭を際立たせ、同時に薄れさせる。それが凄く面白い。
一方冬子は、三束さんと出会うことで、少しずつ変わる。その変化は、ゆったりとしすぎているし、人によっては変化には見えないかもしれない。変化に見えたとしても、その変化が正しいものなのかあるいは正しくないものなのか、それを判別するのが凄く難しいような、そういう変化を冬子は見せる。三束さんとの関係も含めて、冬子の一連の変化はなかなか曖昧としている。冬子自身がどこへ向かおうとしているのか、どこへ向かいたがっているのか、はっきりとしない。ただそれは、三束さんの方も同じで、だからこそ二人の関係はなかなか面白い。なんというか二人は、ぴったりと合わさったまま世界から置き去りにされているような、そういう雰囲気を醸し出す。恋愛、と呼ぶには距離があるようなその関係性が、もどかしいという表現すら不適切な感じのする二人のそのやり取りが、この小説全体の輪郭を定めているような感じがして、徐々に引きこまれていく。
本書では、石川聖の存在も非常に大きいと感じました。
聖は、なかなか評価の難しい女性だ。僕は結構こういう女性は嫌いじゃない。例えば聖はこんなことを言う。
『すすんで嫌われる必要もないけど、無理に好かれる必要もないじゃない。もちろん好かれるに越したことはないんでしょうけど、でも、好かれるために生きてるわけじゃない』
こういう感覚は凄く理解できる。他にも、思いついたことは何でもはっきり言ってしまうという聖は、自信の価値観について色んな形で言葉を繰り出していく。それは、結構僕には好きな感じのものが多い。聖曰く、『女が「女ってこういう感じでいればいいんでしょ」って男を舐めてるつもりで女を舐めてるそういうとこよ』と評するような女性が嫌いな僕としては、群れないし、はっきりしているし、流されない聖の存在は悪くない。
ただその一方で、ある人が聖について評している部分にも、凄く共感できてしまうのだ。それは、聖という存在を批判しているものなのだけど、それは確かに的を射た批判だな、と感じてしまうのだ。さらに最後の方で、聖はまた少し違った面を見せる。なかなか一筋縄ではいかないキャラクターだ。
僕は、前にも飛鳥井千砂の「タイニータイニーハッピー」の感想でも書いたんだけど、小説に出てくる登場人物には、好きか嫌いかを割とはっきりさせることが出来る。でも、聖はちょっと難しい。好きな面もあるし、嫌いな面もある。僕にとってはそういう立ち位置の人物なので、なにかと聖という存在は気になるのだ。
本書は、聖という存在がなければ相当印象の違った作品になっていただろうと思う。冬子を陰だとすれば、それと対比する陽という意味での存在でもあるし、純粋に、冬子の行動のそこここで道筋をつける存在でもある。ラスト近くで、冬子と聖が話すシーンは、凄くいい。あの場面における聖の意見には、僕は不快感を覚える。それに対する冬子のあり方は素敵だと感じた。
最後に。冬子の独白で、凄く共感できるものがあったので抜き出してみます。
『でも、とわたしは思った。それでも目のまえのことを、いつも一生懸命にやってきたことはほんとうじゃないかと、そう思った。自分なりに、与えられたものにたいしては、力を尽くしてやってきたじゃないか、いや、そうじゃない。そうじゃないんだとわたしは思った。わたしはいつもごまかしてきたのだった。目のまえのことをただ言われるままにこなしているだけのことで何かをしているつもりになって、そんなふうに、いまみたいに自分に言い訳をして、自分がこれまでの人生で何もやってこなかったことを、いつだってみないようにして、ごまかしてきたのだった。傷つくのがこわくて、何もしてこなかったことを。失敗するのがこわくて、傷つくのがこわくて、わたしは何も選んでこなかったし、何もしてこなかったのだ。』
僕もほとんど同じだな、と思いました。そういう風に生きてきました。後悔をしているわけではありませんけども。
冒頭で書いたように、凄く雰囲気の好きな作品です。はっきりと明確に魅力を伝えるのが難しい作品ですが、じんわりと何か染みこんでくるようなものがあるような気がします。是非読んでみてください。
川上未映子「すべての真夜中の恋人たち」
入江冬子は、フリーの校閲者だ。元々は会社勤めで校閲をやっていたのだけど、人間関係にいささか疲れたのと、ちょっとした人との付き合いから仕事を安定的に回してもらえるような環境が手に入ったので、辞めることにしたのだった。
冬子に仕事をくれるのは、石川聖。彼女は美人なのだけど、常に正論で戦い、一歩も引かず、上司とも議論して相手を任すような人だ。また聖が、こういう女には腹が立つというような話をするのをよく聞くことになる。冬子は、特に自分の考えというものがなくて、よく分からないけども、聖は唯一の友達だと思ってる。
日がな一日家で仕事をし、仕事をしていない時は何をしているんだかわからない冬子の生活。ある日、原稿を届けるついでに新宿まで出てみたのだけど、何をしていいんだかわからなくてすぐ帰ってきたことがあった。その時もらった、カルチャーセンターの案内を見て、冬子は何か講座を受けてみよう、と考える。人と話すことに慣れていない冬子は、カルチャーセンターにお酒を飲んで行ってみたのだけど、それが災いして失態を犯してしまう。でも、それをきっかけにして、三束さんという男の人と知り合うきっかけができた。
三束さんは、50代に見えるオジサンだ。女子高で物理を教えているという三束さんとは喫茶店でとりとめもない話をするだけの関係なのだけど…。
というような話です。
凄く雰囲気が好きな作品でした。うまく表現できないんだけど、音楽がほとんど挿入されない、セリフもほとんどないような映画を見た時のような、そういう感覚でした。これで何か伝わるかな。
淡々としている、というのはその通りなんだけど、その淡々さが際立っている、という感じ。さっきの例をまた引き合いに出せば、音楽やセリフの不在を意識させないまま強調するような、そういう感じがします。その淡々さは、凄く力強いんだけど、同時に希薄な感じもあって、凄く不思議な雰囲気なんです。
たぶんそれは、主人公の冬子の存在に大きく拠っているんだろう、という感じがしました。
冬子は、自分の考えとか意思とかいったものをほとんど持っていない。自分で何かを選びとるということを人生においてほとんどしてこなかった。だからこれは、もちろん冬子の物語なんだけど、同時に、冬子はただの触媒なんではないか、という気にさせる。なんの触媒であるかというと、冬子の周りにいる人物と読者を繋ぐ触媒。
冬子の周りにいる人物は、なんだか皆冬子に語りたがる。その内の一人は、はっきりと、これは冬子にしか話したことがない、何故なら冬子はもう私の人生の登場人物ではないからだ、と言ってます。
皆が冬子に語りたがる気持ちというのは、なんとなく分かる。冬子は、スポンジのように、というとちょっと違うんだけど、相手の意見をそのまま受け取る。受け取る、というのは、影響される、という意味ではなく、文字通り受け取る。ポンと荷物を渡されでもしたかのように、相手の考えや意見をそのままの形で受け取ることが出来る。その考えや意見に対してどう感じるかというようなことはほとんど表明しない。冬子にとって、誰かの考えというのは、ただポンと渡されて受け取るというだけの対象なのだ。
それは、ある種の人にとっては、凄く楽な存在だ。反論するでもなく、過剰に賛同するでもなく、自分の言ったことをただ受け取ってくれるという存在は、そういるわけではない。そして何より冬子は、自分のその立ち位置を苦に感じていない。相手にもそれが伝わるからこそ、より皆冬子に語りたがるのだろうと思う。
だからこの小説は僕には、冬子を通じて冬子の周囲の人間の考えを読者に伝える、そういうような性質を持っているな、という感じがします。冬子その人の意見は、ほとんどない。冬子はただ、聞いて受け取るだけ。その行為を通じて、読者は冬子の周囲の人物の考えを知る。それが、より冬子という人物の輪郭を際立たせ、同時に薄れさせる。それが凄く面白い。
一方冬子は、三束さんと出会うことで、少しずつ変わる。その変化は、ゆったりとしすぎているし、人によっては変化には見えないかもしれない。変化に見えたとしても、その変化が正しいものなのかあるいは正しくないものなのか、それを判別するのが凄く難しいような、そういう変化を冬子は見せる。三束さんとの関係も含めて、冬子の一連の変化はなかなか曖昧としている。冬子自身がどこへ向かおうとしているのか、どこへ向かいたがっているのか、はっきりとしない。ただそれは、三束さんの方も同じで、だからこそ二人の関係はなかなか面白い。なんというか二人は、ぴったりと合わさったまま世界から置き去りにされているような、そういう雰囲気を醸し出す。恋愛、と呼ぶには距離があるようなその関係性が、もどかしいという表現すら不適切な感じのする二人のそのやり取りが、この小説全体の輪郭を定めているような感じがして、徐々に引きこまれていく。
本書では、石川聖の存在も非常に大きいと感じました。
聖は、なかなか評価の難しい女性だ。僕は結構こういう女性は嫌いじゃない。例えば聖はこんなことを言う。
『すすんで嫌われる必要もないけど、無理に好かれる必要もないじゃない。もちろん好かれるに越したことはないんでしょうけど、でも、好かれるために生きてるわけじゃない』
こういう感覚は凄く理解できる。他にも、思いついたことは何でもはっきり言ってしまうという聖は、自信の価値観について色んな形で言葉を繰り出していく。それは、結構僕には好きな感じのものが多い。聖曰く、『女が「女ってこういう感じでいればいいんでしょ」って男を舐めてるつもりで女を舐めてるそういうとこよ』と評するような女性が嫌いな僕としては、群れないし、はっきりしているし、流されない聖の存在は悪くない。
ただその一方で、ある人が聖について評している部分にも、凄く共感できてしまうのだ。それは、聖という存在を批判しているものなのだけど、それは確かに的を射た批判だな、と感じてしまうのだ。さらに最後の方で、聖はまた少し違った面を見せる。なかなか一筋縄ではいかないキャラクターだ。
僕は、前にも飛鳥井千砂の「タイニータイニーハッピー」の感想でも書いたんだけど、小説に出てくる登場人物には、好きか嫌いかを割とはっきりさせることが出来る。でも、聖はちょっと難しい。好きな面もあるし、嫌いな面もある。僕にとってはそういう立ち位置の人物なので、なにかと聖という存在は気になるのだ。
本書は、聖という存在がなければ相当印象の違った作品になっていただろうと思う。冬子を陰だとすれば、それと対比する陽という意味での存在でもあるし、純粋に、冬子の行動のそこここで道筋をつける存在でもある。ラスト近くで、冬子と聖が話すシーンは、凄くいい。あの場面における聖の意見には、僕は不快感を覚える。それに対する冬子のあり方は素敵だと感じた。
最後に。冬子の独白で、凄く共感できるものがあったので抜き出してみます。
『でも、とわたしは思った。それでも目のまえのことを、いつも一生懸命にやってきたことはほんとうじゃないかと、そう思った。自分なりに、与えられたものにたいしては、力を尽くしてやってきたじゃないか、いや、そうじゃない。そうじゃないんだとわたしは思った。わたしはいつもごまかしてきたのだった。目のまえのことをただ言われるままにこなしているだけのことで何かをしているつもりになって、そんなふうに、いまみたいに自分に言い訳をして、自分がこれまでの人生で何もやってこなかったことを、いつだってみないようにして、ごまかしてきたのだった。傷つくのがこわくて、何もしてこなかったことを。失敗するのがこわくて、傷つくのがこわくて、わたしは何も選んでこなかったし、何もしてこなかったのだ。』
僕もほとんど同じだな、と思いました。そういう風に生きてきました。後悔をしているわけではありませんけども。
冒頭で書いたように、凄く雰囲気の好きな作品です。はっきりと明確に魅力を伝えるのが難しい作品ですが、じんわりと何か染みこんでくるようなものがあるような気がします。是非読んでみてください。
川上未映子「すべての真夜中の恋人たち」
舟を編む(三浦しをん)
内容に入ろうと思います。
舞台は、大手出版社である玄武書房。
辞書編集一筋でやってきた荒木は、定年を前に、自らの後任を探さなくてはならなくなった。自らが企画し、監修者である松本先生ともに編纂を始めようとしている「大渡海」という辞書を誰かに託さねばならない。
しかし、これが難しい。辞書編纂は、よほどの覚悟で務まらない、長く険しい道だ。目先の利益を取りたがる出版社からも疎まれる存在だ。
しかし、やり遂げねばならない。荒木は、辞書編集部員である西岡から、営業部にうってつけの男がいる、という情報を聞きつける。
院卒の入社三年目である馬締は、突如やってきた荒木に翻弄されることもなく、マイペースで対応した。この、言葉に対するセンスはずば抜けているが、営業部ではお荷物、対人関係は失格という男を、荒木は辞書編集部に引っ張り込んだ。
辞書作りなど始めての馬締だが、名前の通り真面目な性格である馬締は、その類まれなる言葉への感覚を武器に、どんどんと辞書作りにのめり込んでいく。
会社からの妨害もあり、「大渡海」の編纂は思うままにはいかない。しかし、馬締を始め、松本先生・荒木・西岡、そして後々辞書編集部に配属になる岸辺も、不屈の精神で辞書作りに立ち向かっていく。
辞書という、身近なようで身近ではない、それを作っている人たちのことなど想像もしたこともないような事柄をモチーフに、渦巻く人間模様を見事に描き出す傑作。
これは本当に素晴らしかった!!読み終えたくない、と思える小説は、本当に久々でした。これは本当にいいなぁ。是非読んで欲しい!
辞書というものの世界の奥深さ。本書の最大の魅力は、まずそこにあるのだと思う。
正直僕は、辞書というものへの思い入れはない。使ったことはあるけど、所有していたことはもしかしたらないかもしれない(英語の辞書なら持ってたかもだけど、日本語の辞書は持ってなかったと思う)。電子辞書は持ってたけど、本書を読んだ後では、あれを辞書に入れるわけにはいかない。
辞書を引くことにのめり込んだ時期もなければ、必要があって辞書を引きまくった時期もない。ほとんど僕の人生にとって、辞書(特に日本語の辞書)は無関係だったと言える。
だからこそ、辞書を作る人々のことなど、想像したこともなかった。
本書では、辞書そのものと、辞書を作ることに強い思い入れを持つ様々な人々が出てくる。
これが、凄い!
辞書というものを、そんな風に捉えたことはなかった、というような話が本当にたくさん出てくる。一例を出せば、諸外国では辞書の編纂は国家の事業であることが多い(あるいはそういう時期があった)のに、日本においては、辞書作りに公的なお金が使われたことは皆無だそうだ。辞書にのめり込んでいるからこその視点が本当に新鮮で、しかも面白い。三浦しをんは、文楽や林業など、普通の人がなかなか入り込めない、そういうものが存在することさえなかなか意識することがない世界を本当に見事に描き出すのだけど、本書もまさにそう。辞書にのめり込む人々が、辞書というものをどんな風に捉え、どんな部分に愛着を感じ、何にそこまでこだわっているのか、そういう熱い話が、しかし押し付けがましくなく面白く描かれる。
それに何よりも、辞書にのめり込んだ人たちがまた面白い。当然、荒木や松本先生など、もう長いこと辞書に携わっている人たちは、もう変人としか言いようがない。辞書に人生のすべてを捧げていると言っても言い過ぎではない彼らの有り様はおかしい。
でも、それだけではない。辞書との関わりが浅い者でさえも、辞書づくりというものはそれに関わる人間を変えてしまう。
一番変わったのはもちろん馬締だろう。本書は、15年に及ぶ「大渡海」編纂の過程を描いた小説なのだけど、馬締の変化は驚くべきものだ。始めから、言葉への感覚は抜群だった。辞書を作るために生まれてきたような男だ。しかし、それだけでは辞書は作れない。執筆者との対外的なやり取り、社内政治の駆け引き。そういったものをこなして初めて、辞書という形を生み出すことが出来る。馬締は、始めこそ言葉へのセンスだけの男だったのだけど、歳月が、そして周りの人々が、馬締を大きく変えた。馬締がいかに変化していくのかというのが本書の一つの読みどころである。
個人的にイチオシなのが西岡だ。西岡はチャラチャラした男で、辞書づくりに強い思い入れはない。どんな仕事でもそつなくこなせてしまう器用なタイプで、執筆者らとのやり取りなどはすべて西岡に任せられている。
この西岡がどう変わるか。これが本当に面白い。ある意味で僕が一番好きなキャラは西岡かもしれません。自分が何一つのめりこめる対象を持っていないという事実を、辞書編集部で思い知らされることになる。それとどう向き合い、折り合いをつけ、そしてどう変わっていくのか。それは、人によっては、馬締の話以上に惹かれてしまう部分を持つのではないかなと思います。
そして最後は岸辺。岸辺は、玄武書房が出している人気女性誌の編集部から辞書編集部へと移ってきた。初めは、左遷なのだろうか?と疑ってしまった環境。何をしたらいいのか分からない状況。そのすべてに戸惑っていた岸辺だったが、この岸辺も大きく変わる。特に岸辺は、「大渡海」の編纂のラストスパートに当たる部分に大いに関わっている。その過程は、ダイナミックでスリリングだ。辞書づくりというものが、ここまでスリリングな物語になるのかと、本当に感心しました。まさに荒波に立ち向かっていく舟のように、様々なものに飲み込まれそうになりながら、必死でしがみついていく。その中で岸辺は、大きく変わっていくことになる。
本書の中で、特に好きなフレーズがある。
『だれかの情熱に、情熱で応えること』
誰のどんな場面での言葉なのかは書かないことにするけども、まさにその通りで、様々な情熱が渦巻くことで、「大渡海」という辞書が少しずつ出来上がっていく。
辞書づくりは、情熱がなくては到底出来ない。もちろん、辞書づくりじゃなくたって情熱がなくては出来ないことは山ほどあるだろうけど、辞書づくりは本当に特殊だ。それは、芸術的なセンスが求められるわけでも、時代を革新するようなアイデアが必要なわけでもない。辞書というものは、言葉というものを正確に捉え、それをどうにか閉じ込める虫かごのようなものだ。センスも革新もあるわけではないその虫かご作りは、ある種の狂気がなければ続けることが出来ない。会社から妨害のようなことをされ、人員も減らされ、補充もなく、それでも、それを必要とする誰かの存在を信じて、15年もの間情熱を注ぎ込み続ける。自らの仕事の成果がはっきりするまでにこれほど時間の掛かるものもそう多くはないだろう。しかも、公的な機関がやるわけではなく、一企業がそれをするのだ。それははっきり言って戦いであり、その戦いに情熱をぶつけられる者たちによる死闘なのだ。
僕は、こうやって普段から長々とブログを書いていることでも分かる通り、結構言葉というものが好きだ。別に国語の授業が好きだったわけでもないし(むしろ嫌いだった)、読書感想文が好きだったわけでもないし(むしろ嫌いだった)、そもそも理系の人間だ(文系科目は嫌いだった)。けど、言葉は面白いと思う。誰も気にしはしないだろうけど、自分の中で、言葉は正確に使いたい、と思ってしまう。
本書でも、ストーリーの合間に、言葉の定義の話が出てくる。「のぼる」と「あがる」の違いであるとか、「男」と「女」をどう定義するか、などである。こういう話は凄く楽しい。
言葉が適当に使われているような状況を見かけると、少しだけ悲しい。例えば書店に並ぶ本を見ていても、そう思うことはある。
本には帯というものがついている。そこに、『著者最高傑作』だとか、『衝撃作』とか書いてあると、僕はちょっとげんなりするんです。他に書く言葉はないのか!って言いたくなってしまうんです。
どう最高傑作なのか、どう衝撃なのかを言葉にしなくて、どんな意味があるのか、と思ってしまうのです。それを伝えるために、言葉がある。それを、言葉の詰まった『本』というものをアピールする場で活かされていないというのは、本当に残念だな、と感じてしまうのですね。
僕は本書を読んでいて、こんなことを思いました。
『言葉と無関係でいられる人はいない』
どんな人であれ、言葉なしで生きていける人はいないのではないか、と僕は思います。言葉と言うのは僕らにとって、空気と同じように当たり前に存在していて、そして空気と同じくらい大事なものなのではないかと思います。でも、なかなかその存在を強く意識することはないし、それ自体に思いを馳せることもない。そして、僕もそうだったけど、その言葉の大海で溺れそうになりながら格闘し、完璧に定義することなど永遠に不可能な僕らの存在の根底にある言葉というものを追い続ける人々のことは、考えることはありません。
本書を読んで、辞書を読んでみたくなりました。今まで僕にとって辞書は、『言葉を調べるための道具』でしかありませんでした。しかし本書を読んで、辞書というものの見方が大きく変わりました。それは、情熱の詰まった贈り物であり、幾多の生傷のを経て誕生した芸術作品だと、ちょっと大げさに聞こえるかもしれないけど、本当にそんな風に感じました。なかなか辞書を読む時間を取ることは難しいかもしれないけど、何か一つ買って、たまにパラパラめくってみたいかも、と本気で思います。
このブログを書いているタイミングでちょうど、NHKのクローズアップ現代という番組で、10月5日に亡くなったスティーブ・ジョブズについての特集が組まれていて、それを見ていました。ジョブズは、狂おしいほどの情熱を持って、様々な製品を世に送り出しました。そのジョブズの情熱は僕の中で、本書の「大渡海」を編纂する辞書編集部の情熱に重なりました。大人になってから、激しい情熱を持って何かにぶつかることなんて、ほとんどなくなってしまうでしょう。大人になる、ということがそういうことなのかもしれないし、誰しもが強い強い情熱を持ち続けられるわけでもないのでしょう。でも本書を読んで、そういう生き方も羨ましいと思えるし、西岡じゃないけど、自分にも何かそういう対象を見つけることが出来たら幸せかもしれないな、と思いました。
本当に素敵な作品で、冒頭でも書いたけど、久々に読み終わりたくないと思ってしまった作品でした。さっきも書いたように、『言葉と無関係でいられる人はいない』と思います。辞書というものに特別な興味がなくても(僕もありませんでした)、辞書というものに注ぐ情熱に打たれ、彼らがどんどん愛おしくなっていくはずです。世の中には、これほどまでに情熱を持って何かを作っている人がいるのだ、と感動させてくれます。本当に、是非読んでみてください!
三浦しをん「舟を編む」
舞台は、大手出版社である玄武書房。
辞書編集一筋でやってきた荒木は、定年を前に、自らの後任を探さなくてはならなくなった。自らが企画し、監修者である松本先生ともに編纂を始めようとしている「大渡海」という辞書を誰かに託さねばならない。
しかし、これが難しい。辞書編纂は、よほどの覚悟で務まらない、長く険しい道だ。目先の利益を取りたがる出版社からも疎まれる存在だ。
しかし、やり遂げねばならない。荒木は、辞書編集部員である西岡から、営業部にうってつけの男がいる、という情報を聞きつける。
院卒の入社三年目である馬締は、突如やってきた荒木に翻弄されることもなく、マイペースで対応した。この、言葉に対するセンスはずば抜けているが、営業部ではお荷物、対人関係は失格という男を、荒木は辞書編集部に引っ張り込んだ。
辞書作りなど始めての馬締だが、名前の通り真面目な性格である馬締は、その類まれなる言葉への感覚を武器に、どんどんと辞書作りにのめり込んでいく。
会社からの妨害もあり、「大渡海」の編纂は思うままにはいかない。しかし、馬締を始め、松本先生・荒木・西岡、そして後々辞書編集部に配属になる岸辺も、不屈の精神で辞書作りに立ち向かっていく。
辞書という、身近なようで身近ではない、それを作っている人たちのことなど想像もしたこともないような事柄をモチーフに、渦巻く人間模様を見事に描き出す傑作。
これは本当に素晴らしかった!!読み終えたくない、と思える小説は、本当に久々でした。これは本当にいいなぁ。是非読んで欲しい!
辞書というものの世界の奥深さ。本書の最大の魅力は、まずそこにあるのだと思う。
正直僕は、辞書というものへの思い入れはない。使ったことはあるけど、所有していたことはもしかしたらないかもしれない(英語の辞書なら持ってたかもだけど、日本語の辞書は持ってなかったと思う)。電子辞書は持ってたけど、本書を読んだ後では、あれを辞書に入れるわけにはいかない。
辞書を引くことにのめり込んだ時期もなければ、必要があって辞書を引きまくった時期もない。ほとんど僕の人生にとって、辞書(特に日本語の辞書)は無関係だったと言える。
だからこそ、辞書を作る人々のことなど、想像したこともなかった。
本書では、辞書そのものと、辞書を作ることに強い思い入れを持つ様々な人々が出てくる。
これが、凄い!
辞書というものを、そんな風に捉えたことはなかった、というような話が本当にたくさん出てくる。一例を出せば、諸外国では辞書の編纂は国家の事業であることが多い(あるいはそういう時期があった)のに、日本においては、辞書作りに公的なお金が使われたことは皆無だそうだ。辞書にのめり込んでいるからこその視点が本当に新鮮で、しかも面白い。三浦しをんは、文楽や林業など、普通の人がなかなか入り込めない、そういうものが存在することさえなかなか意識することがない世界を本当に見事に描き出すのだけど、本書もまさにそう。辞書にのめり込む人々が、辞書というものをどんな風に捉え、どんな部分に愛着を感じ、何にそこまでこだわっているのか、そういう熱い話が、しかし押し付けがましくなく面白く描かれる。
それに何よりも、辞書にのめり込んだ人たちがまた面白い。当然、荒木や松本先生など、もう長いこと辞書に携わっている人たちは、もう変人としか言いようがない。辞書に人生のすべてを捧げていると言っても言い過ぎではない彼らの有り様はおかしい。
でも、それだけではない。辞書との関わりが浅い者でさえも、辞書づくりというものはそれに関わる人間を変えてしまう。
一番変わったのはもちろん馬締だろう。本書は、15年に及ぶ「大渡海」編纂の過程を描いた小説なのだけど、馬締の変化は驚くべきものだ。始めから、言葉への感覚は抜群だった。辞書を作るために生まれてきたような男だ。しかし、それだけでは辞書は作れない。執筆者との対外的なやり取り、社内政治の駆け引き。そういったものをこなして初めて、辞書という形を生み出すことが出来る。馬締は、始めこそ言葉へのセンスだけの男だったのだけど、歳月が、そして周りの人々が、馬締を大きく変えた。馬締がいかに変化していくのかというのが本書の一つの読みどころである。
個人的にイチオシなのが西岡だ。西岡はチャラチャラした男で、辞書づくりに強い思い入れはない。どんな仕事でもそつなくこなせてしまう器用なタイプで、執筆者らとのやり取りなどはすべて西岡に任せられている。
この西岡がどう変わるか。これが本当に面白い。ある意味で僕が一番好きなキャラは西岡かもしれません。自分が何一つのめりこめる対象を持っていないという事実を、辞書編集部で思い知らされることになる。それとどう向き合い、折り合いをつけ、そしてどう変わっていくのか。それは、人によっては、馬締の話以上に惹かれてしまう部分を持つのではないかなと思います。
そして最後は岸辺。岸辺は、玄武書房が出している人気女性誌の編集部から辞書編集部へと移ってきた。初めは、左遷なのだろうか?と疑ってしまった環境。何をしたらいいのか分からない状況。そのすべてに戸惑っていた岸辺だったが、この岸辺も大きく変わる。特に岸辺は、「大渡海」の編纂のラストスパートに当たる部分に大いに関わっている。その過程は、ダイナミックでスリリングだ。辞書づくりというものが、ここまでスリリングな物語になるのかと、本当に感心しました。まさに荒波に立ち向かっていく舟のように、様々なものに飲み込まれそうになりながら、必死でしがみついていく。その中で岸辺は、大きく変わっていくことになる。
本書の中で、特に好きなフレーズがある。
『だれかの情熱に、情熱で応えること』
誰のどんな場面での言葉なのかは書かないことにするけども、まさにその通りで、様々な情熱が渦巻くことで、「大渡海」という辞書が少しずつ出来上がっていく。
辞書づくりは、情熱がなくては到底出来ない。もちろん、辞書づくりじゃなくたって情熱がなくては出来ないことは山ほどあるだろうけど、辞書づくりは本当に特殊だ。それは、芸術的なセンスが求められるわけでも、時代を革新するようなアイデアが必要なわけでもない。辞書というものは、言葉というものを正確に捉え、それをどうにか閉じ込める虫かごのようなものだ。センスも革新もあるわけではないその虫かご作りは、ある種の狂気がなければ続けることが出来ない。会社から妨害のようなことをされ、人員も減らされ、補充もなく、それでも、それを必要とする誰かの存在を信じて、15年もの間情熱を注ぎ込み続ける。自らの仕事の成果がはっきりするまでにこれほど時間の掛かるものもそう多くはないだろう。しかも、公的な機関がやるわけではなく、一企業がそれをするのだ。それははっきり言って戦いであり、その戦いに情熱をぶつけられる者たちによる死闘なのだ。
僕は、こうやって普段から長々とブログを書いていることでも分かる通り、結構言葉というものが好きだ。別に国語の授業が好きだったわけでもないし(むしろ嫌いだった)、読書感想文が好きだったわけでもないし(むしろ嫌いだった)、そもそも理系の人間だ(文系科目は嫌いだった)。けど、言葉は面白いと思う。誰も気にしはしないだろうけど、自分の中で、言葉は正確に使いたい、と思ってしまう。
本書でも、ストーリーの合間に、言葉の定義の話が出てくる。「のぼる」と「あがる」の違いであるとか、「男」と「女」をどう定義するか、などである。こういう話は凄く楽しい。
言葉が適当に使われているような状況を見かけると、少しだけ悲しい。例えば書店に並ぶ本を見ていても、そう思うことはある。
本には帯というものがついている。そこに、『著者最高傑作』だとか、『衝撃作』とか書いてあると、僕はちょっとげんなりするんです。他に書く言葉はないのか!って言いたくなってしまうんです。
どう最高傑作なのか、どう衝撃なのかを言葉にしなくて、どんな意味があるのか、と思ってしまうのです。それを伝えるために、言葉がある。それを、言葉の詰まった『本』というものをアピールする場で活かされていないというのは、本当に残念だな、と感じてしまうのですね。
僕は本書を読んでいて、こんなことを思いました。
『言葉と無関係でいられる人はいない』
どんな人であれ、言葉なしで生きていける人はいないのではないか、と僕は思います。言葉と言うのは僕らにとって、空気と同じように当たり前に存在していて、そして空気と同じくらい大事なものなのではないかと思います。でも、なかなかその存在を強く意識することはないし、それ自体に思いを馳せることもない。そして、僕もそうだったけど、その言葉の大海で溺れそうになりながら格闘し、完璧に定義することなど永遠に不可能な僕らの存在の根底にある言葉というものを追い続ける人々のことは、考えることはありません。
本書を読んで、辞書を読んでみたくなりました。今まで僕にとって辞書は、『言葉を調べるための道具』でしかありませんでした。しかし本書を読んで、辞書というものの見方が大きく変わりました。それは、情熱の詰まった贈り物であり、幾多の生傷のを経て誕生した芸術作品だと、ちょっと大げさに聞こえるかもしれないけど、本当にそんな風に感じました。なかなか辞書を読む時間を取ることは難しいかもしれないけど、何か一つ買って、たまにパラパラめくってみたいかも、と本気で思います。
このブログを書いているタイミングでちょうど、NHKのクローズアップ現代という番組で、10月5日に亡くなったスティーブ・ジョブズについての特集が組まれていて、それを見ていました。ジョブズは、狂おしいほどの情熱を持って、様々な製品を世に送り出しました。そのジョブズの情熱は僕の中で、本書の「大渡海」を編纂する辞書編集部の情熱に重なりました。大人になってから、激しい情熱を持って何かにぶつかることなんて、ほとんどなくなってしまうでしょう。大人になる、ということがそういうことなのかもしれないし、誰しもが強い強い情熱を持ち続けられるわけでもないのでしょう。でも本書を読んで、そういう生き方も羨ましいと思えるし、西岡じゃないけど、自分にも何かそういう対象を見つけることが出来たら幸せかもしれないな、と思いました。
本当に素敵な作品で、冒頭でも書いたけど、久々に読み終わりたくないと思ってしまった作品でした。さっきも書いたように、『言葉と無関係でいられる人はいない』と思います。辞書というものに特別な興味がなくても(僕もありませんでした)、辞書というものに注ぐ情熱に打たれ、彼らがどんどん愛おしくなっていくはずです。世の中には、これほどまでに情熱を持って何かを作っている人がいるのだ、と感動させてくれます。本当に、是非読んでみてください!
三浦しをん「舟を編む」
アイデアのつくり方(ジェームス・W・ヤング)
内容に入ろうと思います。
本書は、アメリカ最大の広告会社副社長まで務め、アメリカの広告業界の公職を歴任した、アメリカの広告業界ではとにかく有名な著者による、『アイデアをどうやって手に入れるか』という内容の本です。
まず本書がどんな感じの本なのかお伝えしましょう。総ページ数は100ページぐらいという非常に薄い本です。字も結構大きい。しかもその内、ヤング氏による部分は60ページ。残りは、解説を担当した竹内均氏による部分が30ページ、訳者あとがきが10ページ、という感じになっています。
というわけで、本当に分量としてはかなり少ないです。それでも本書は、アメリカの広告業界ではバイブルと言われるほどの作品のようだし、僕が今持っている本も、1988年に初版が出て、2011年現在で62刷まで行っている、超ロングセラーと言っていい作品です。
アイデアをどうやって手に入れるのか。そのやり方をここで書いてしまうことは出来るぐらいの分量ですが、そえは止めておきます。是非読んでみてください。
ただ本書を読んで感じたことは、これまで物理学者・化学者・数学者の自伝や評伝なんかを読んできて漠然と感じてきていたものにかなり近いな、と思いました。
手順のすべては書かないけど、本書で書かれる手順で重要な点としては、『情報をとにかく取り込むこと』と『それについて考え続けること』です。これが出来る人間が(これだけではないのだけど)、人が掴むことが出来ないアイデアを手に入れることが出来るわけです。
科学者たちの逸話にも、そうした話が結構出てきます。有名なのは、ベンゼン環の構造を発見した人(名前は知らない。ベンゼンさんなのかなぁ)でしょうか。他にも、アイデアのつくり方に関する重要な点について、本書で解説を書いた竹内均氏が挙げているように、広告の世界だけではなくて、科学の世界でも類似するような話がいくらでもある。
本書を読みさえすれば、自然とアイデアが浮かんでくる、というような作品ではありません。本書は喩えて言うならば、『エベレストの登り方』というような、そういう感じの本です。こうすればエベレストは登れますよ、ということが書いてあるけど、でも本を読んだだけでエベレストが登れるようになるわけではない。身体を鍛えたり、道具を揃えたり、メンタルを整えたりしなくてはいけない。それと同じように本書の場合も、本書を読んでそのやり方を知った上で、実際に行動に移す、という部分が非常に重要である。
本書で描かれているやり方は、広告の世界のみならず、あらゆる分野で普遍的に通用するようなものだ、と思います。一読すると、ありきたりなことが書かれているだけだ、と思う人もいるでしょう。しかし、そのありきたりなことを実行できている人はほとんどいないはずだし、そのありきたりなことをきちんと明確な言葉で表現できるということも素晴らしいと思います。POPとかの文章を考えるのにいいかなぁ、ぐらいの感じで読んでみたんだけど、ちゃんと本書に書かれていることをやろうとしたら相当大変なんで、難しいなぁ、と思いました。飽きっぽいから、一つの問題を考え続けるとか、あんまり出来ないんだよなぁ。でも本書のような、シンプルで整理された考え方を読むのは好きです。
どんな立ち位置にいるのか、どんな仕事をしているのか、などによって感じ方は様々かもしれませんが、あらゆる分野の人に役立つ作品ではないかと思います。是非読んでみてください。
ジェームス・W・ヤング「アイデアのつくり方」
本書は、アメリカ最大の広告会社副社長まで務め、アメリカの広告業界の公職を歴任した、アメリカの広告業界ではとにかく有名な著者による、『アイデアをどうやって手に入れるか』という内容の本です。
まず本書がどんな感じの本なのかお伝えしましょう。総ページ数は100ページぐらいという非常に薄い本です。字も結構大きい。しかもその内、ヤング氏による部分は60ページ。残りは、解説を担当した竹内均氏による部分が30ページ、訳者あとがきが10ページ、という感じになっています。
というわけで、本当に分量としてはかなり少ないです。それでも本書は、アメリカの広告業界ではバイブルと言われるほどの作品のようだし、僕が今持っている本も、1988年に初版が出て、2011年現在で62刷まで行っている、超ロングセラーと言っていい作品です。
アイデアをどうやって手に入れるのか。そのやり方をここで書いてしまうことは出来るぐらいの分量ですが、そえは止めておきます。是非読んでみてください。
ただ本書を読んで感じたことは、これまで物理学者・化学者・数学者の自伝や評伝なんかを読んできて漠然と感じてきていたものにかなり近いな、と思いました。
手順のすべては書かないけど、本書で書かれる手順で重要な点としては、『情報をとにかく取り込むこと』と『それについて考え続けること』です。これが出来る人間が(これだけではないのだけど)、人が掴むことが出来ないアイデアを手に入れることが出来るわけです。
科学者たちの逸話にも、そうした話が結構出てきます。有名なのは、ベンゼン環の構造を発見した人(名前は知らない。ベンゼンさんなのかなぁ)でしょうか。他にも、アイデアのつくり方に関する重要な点について、本書で解説を書いた竹内均氏が挙げているように、広告の世界だけではなくて、科学の世界でも類似するような話がいくらでもある。
本書を読みさえすれば、自然とアイデアが浮かんでくる、というような作品ではありません。本書は喩えて言うならば、『エベレストの登り方』というような、そういう感じの本です。こうすればエベレストは登れますよ、ということが書いてあるけど、でも本を読んだだけでエベレストが登れるようになるわけではない。身体を鍛えたり、道具を揃えたり、メンタルを整えたりしなくてはいけない。それと同じように本書の場合も、本書を読んでそのやり方を知った上で、実際に行動に移す、という部分が非常に重要である。
本書で描かれているやり方は、広告の世界のみならず、あらゆる分野で普遍的に通用するようなものだ、と思います。一読すると、ありきたりなことが書かれているだけだ、と思う人もいるでしょう。しかし、そのありきたりなことを実行できている人はほとんどいないはずだし、そのありきたりなことをきちんと明確な言葉で表現できるということも素晴らしいと思います。POPとかの文章を考えるのにいいかなぁ、ぐらいの感じで読んでみたんだけど、ちゃんと本書に書かれていることをやろうとしたら相当大変なんで、難しいなぁ、と思いました。飽きっぽいから、一つの問題を考え続けるとか、あんまり出来ないんだよなぁ。でも本書のような、シンプルで整理された考え方を読むのは好きです。
どんな立ち位置にいるのか、どんな仕事をしているのか、などによって感じ方は様々かもしれませんが、あらゆる分野の人に役立つ作品ではないかと思います。是非読んでみてください。
ジェームス・W・ヤング「アイデアのつくり方」
弔辞 劇的な人生を送る言葉(文藝春秋編)
内容に入ろうと思います。
本書は、著名人の葬儀での弔辞を50人分掲載した作品です。生前葬で読まれたものや、葬儀自体は密葬で、その後で開かれたお別れ会での言葉というのもあったけど、基本的には葬儀で読まれたものが中心になっています。
全員分書くわけにはいかないけど、どんな方々への弔辞が載っているのかざっと書いてみようと思います。
石原裕次郎・浅沼稲次郎・太宰治・湯川秀樹・植村直己。寺山修司・手塚治虫・美空ひばり・司馬遼太郎・渥美清・宇野千代・三船敏郎・盛田昭夫・成田きん・小渕恵三・本田美奈子・城山三郎・安藤百福・市川崑・筑紫哲也・三沢光晴・木村拓也・オグリキャップ・赤塚不二夫などなど
本書を読んで一番強く感じたことは、いい時期に死ねたらいいなぁ、ということでした。本書に掲載されている故人は、生涯の中で人々を大いに魅了した時期のある人達であるから、晩年がどうであったとしても、人々から慕われたままでいられるだろうけど、じゃあ自分はどうか。例えば今自分が死んだら、悲しんでくれる人はほどほどにはいるだろうなぁ、と思う。でも、もし50年後、あるいはもっと先に死んだらどうだろう。その頃の自分がどうなっているか分からないけど、最悪どこかで野垂れ死んでいる、なんてことだってあるかもしれない。別に、死んだらそれまでだ、と思っているから、自分が死んだ後のことなんか別にどうだっていいんだけど、でも、もし選べるのだとすれば、やっぱり多くの人の記憶の中に残ったままの状態で死ねたらいいなぁ、なんて思ったりしました。
個人的に気になったのは四人。
まずは、司馬遼太郎が弔辞を読んだ、近藤紘一。ジャーナリストであり、産経新聞記者として司馬遼太郎の盟友でもあった近藤紘一の著作を、なんだか読んでみたくなりました。時々、文春文庫から出てる近藤紘一の著作を棚に入れるんだけど、たまに売れたりするんですね。それまでどんな人なのか知らないままで著作を棚に入れてましたけど、ちょっと読んでみたいなって気にさせられました。まあ僕が読めるような作品なのかは分からないんですけどね。
次は、柄谷行人が弔辞を読んだ、中上健次。これも弔辞を読んで、中上健次の著作を読んでみたくなったのですよね。単純と言えば単純ですけど。柄谷行人と中上健次は色々と悶着があったようですが(詳しくは知らない)、そういう間柄だからこそ、弔辞の言葉も深いなぁという感じがしました。
次は、横山ノックが弔辞を読んだ、横山やすし。僕は、横山やすしが吉本を解雇されていたという話も知らなかったくらい横山やすしについては知らないんですけど、でもイメージとして、無茶苦茶な破天荒な男、というイメージが強くあります。でも、横山ノックの弔辞を読んでいると、そのイメージがなんかかなり変わります。もちろん故人に対して良いように言った、という面も多少はあるのかもしれないけど、やっぱりイメージだけでは人のことは捉えられないのだなぁ、と強く思いました。
最後は、父親である村山伸一が弔辞を読んだ、村山聖。村山聖は、「聖の青春」というノンフィクションの主人公としても有名だけど、あの羽生善治に匹敵すると言われた棋士。個人的に「聖の青春」という作品に強い思い入れがあるので、父親による弔辞の内容そのものはさほどでもないのだけど、気になりました。
個人的にはやっぱり、作家とか評論家の弔辞は巧いな、と思ったんですけど、でもそれは、もしかしたら文章で読むからかな、という気もします。喋る、ということであれば、俳優とかそういう人たちの方が上手なんだろうか。なんだかそんなことを考えながら読んでいました。
白紙の紙を持って弔辞のスピーチをした、と一時話題になった、赤塚不二夫へのタモリからの弔辞も載っていて、おぉ、という感じがしました。
とりあえず買って手元に置いておいて、なんとなく気が向いた時にめくってみる。そんな読み方が合いそうな作品な気がしました。
文藝春秋編「弔辞 劇的な人生を送る言葉」
LOVELESS(桜木紫乃)
内容に入ろうと思います。
清水小夜子は、従姉妹であり作家である杉山理恵から、母親である杉山百合江と連絡が取れなくなってしまったから見に行ってもらえないか、と連絡がある。伯母である百合江の家を知らなかった小夜子は、母である清水里実に所在だけでも確認しようと思って連絡を取ると、自分も一緒に行くという。面倒なことになった。
小夜子と里美で、生活保護下にある百合江のアパートを訪ねると、百合江は衰弱したまま昏睡状態に陥っていた。病院に連れて行くと、まだそんな歳でもないのに、老衰に近い状態だ、と診断される。
百合江は激しい人生を送ってきた女だった。
北海道の極貧の家庭で百合江は生まれた。父親は飲んだくれで、酒を飲むと母親に暴力を振るう。幼い頃に親戚に預けた小百合の妹・里実を無理矢理連れ戻してきて、その代わりに百合江は薬屋へと奉公に出されることになった。高校に行ってバスガイドになるという夢は、早くも諦めざるを得なかった。
たまたま見た舞台で歌っていた鶴子に惹かれ、奉公先を飛び出して旅回りの一座に飛び込んだ。百合江の歌は、女形である宗太郎の器量と相まって評判になるも、やがて百合江は宗太郎と東京へ出ることになり…。
というような話です。
なかなか凄い話でした。全編落ち着いた筆致で描かれているので、文章や表現そのものに勢いがあるという作品ではない。ただ、抑制の利いた文章によって描かれる百合江の壮絶な人生は、冷たいのに触れれば火傷するドライアイスのようなものだな、と僕は感じました。人生に期待していない、3年後5年後のことなんか考えられないという、よく言えば楽観的な百合江の生き方は、ある意味では物凄く冷めている。どこかに目標を定めるわけでもないし、到達したいゴールがあるわけでもない。百合江にとって大事なことは、今日明日ご飯が食べられるか、というぐらいのものであり、3年後の自分なんて想像の埒外なのだ。
もちろん、そういう時代だった、ということも出来ると思う。今ほど豊かではない時代の中で、数年先のことを考えることが出来た人間はそう多くはなかっただろう。百合江は、当時の女性としては、さほど浮いた存在ではないのかもしれない。
でも、百合江の人生が、里実の人生と対比するように描かれているために、百合江のゆらゆらとした生き方が余計に強調される感じがします。
里実は百合江とはまったく違って、数年先のことを見据えて今の行動を考える。恐らく、当時の女性としてはかなり珍しい存在だっただろうと思います。ただ、現代を生きる僕としては、里実のあり方に違和感を覚えることはない(好き嫌いは別として)。だからこそ余計に、百合江の生き方が際立っているのだろうと思います。
それは、百合江のこんな言葉にも明確に現れている。
『百合江の心が楽なのは、まさにこの、予定の立たない暮らしのせいだった。』
元々の性分だったのか、旅回りの生活によって馴染んだものだったのか、百合江は先のことが分からない方が安心できるという質だ。これは、分かる部分もあって、分からない部分もある。
僕も、将来のことはなるべく考えたくない人間だ。将来のことを考え始めると、なんだか不安になってくる。それは、自分がどうなっているだろう、何をしているだろう、という不安ももちろんある。自分の今の生き方が、『良い未来』に繋がるとは想像しにくい、そういう部分からやってくる不安だ。
でもそれとは別に、未来が決まってしまう怖さ、というのもある。これからの人生、どうなるのか分かってしまえば、楽しくないな、と思う。どうなるかわからないから未来なんであって、その未来を、きっとこうなってくれるはずだと、今からガチガチに縛り付けてしまって何が面白いのかわからない。自分が想像してなかったほど悪くなる可能性ももちろんあるけど、自分が想像してなかったほど良くなる可能性だってある。それを、今未来のために動くことで、それがどんどん狭まってしまうような、そんな気がどうしてもしてしまう。
まあ、この意見はおかしいと思う。普通は、今未来のために何かをすることで、可能性が広がるはずだ、と考えるべきなのだろう。そういう思考も分からなくはないし、そういう思考だって僕の中には少しはある。でも同時に、今未来のための動くことが、未来の可能性を潰してしまうかもしれない、という不安も同居しているのだ。里実は、そんな不安を持たない女だったのだろう。そして恐らく百合江は、そういう不安を持ちながら生きていたのではないか。
百合江の生き様は、潔くて好きだ。里実の生き方は、合理的だし賢いし、そして何よりも正しいのだろう。ただ僕は、それを『正しい』と思う価値観そのものを否定したい、というひねくれ者だ。百合江の生き方は、不安定だし脆いし、そして恐らくかなり間違っている。それでも、百合江の人生の方が羨ましく思えてしまう。
それはきっと、人に恵まれているからなのだろう、と思う。里実の人生は、小百合と関わる部分でしか描かれないからはっきりとは分からないのだけど、決して人に恵まれた人生ではなかったはずだ。里実の場合は、己の才覚一つで、常に周囲の人間と闘いながら成功を勝ち取ったのだと思う。それはそれで素晴らしいし、そういう生き方に憧れる人もきっといるだろう。
百合江は、僅かな成功はそこここでありつつも、決して成功した人生だとはいえないだろう。する必要のない苦労をすることも多かったし、騙されることや何かを押し付けられることも多かった。それでもなんだかんだ常に、百合江の周りには誰かがいる。良い人も悪い人もいる。それでも、出会って来たすべて人たちとの関わりの中で、百合江という人生は存在する。それが、なんとなく羨ましく見えるのだろうと思う。
帯裏に、こんなフレーズが書かれている。
『他人の価値観(ものさし)では決して計れない、ひとりの女の「幸福な生」。』
そう、百合江は恐らく幸せだった。自分にとって何が一番大事で、何が一番必要で、どうすればそれを手に入れることが出来るのかを知っていた。それは、里実も同じだったかもしれない。違うのは、里実が『未来の自分』のために今を生きているのに対して、百合江は『今の自分』のために今を生きている、ということなのかもしれない。いや、もっと違う何かがあるのかもしれない。
本書で描かれるのは、百合江の人生だけではない。三世代に渡る、長い長い家族の物語だ。誰かの犠牲なしには生活が立ちいかなかった貧しい時代。ババ抜きのように、自分が犠牲を引き抜かないようにと怯える人間や、その怯えから解放されるために家族を捨てる人間、あるいは犠牲を犠牲と思わずにいられる人間。様々な人間が絡まり合って、家族の歴史というものが熟成されていく。百合江の人生は際立っているように見える。しかしそれは、この家族の誰に焦点を当てても見られる壮絶さなのかもしれない。
僕は今、真剣に生きていると胸を張れるような生き方はしていない。そして、同時代を生きる多くの人びとがそう感じているのではないかと思う。必死でなくても生きていけてしまう世の中。僕は決して嫌いではないけど、本書のように、誰しもが必死だったのにそれでもまともに生きられなかったような話を読むと、ちょっとだけ、申し訳ないなぁ、という気持ちになったりもする。
幸せだったと言い切れるだろう、壮絶だけど潔い人生を歩んだ一人の女性の物語です。是非読んでみてください。
桜木紫乃「LOVELESS」
清水小夜子は、従姉妹であり作家である杉山理恵から、母親である杉山百合江と連絡が取れなくなってしまったから見に行ってもらえないか、と連絡がある。伯母である百合江の家を知らなかった小夜子は、母である清水里実に所在だけでも確認しようと思って連絡を取ると、自分も一緒に行くという。面倒なことになった。
小夜子と里美で、生活保護下にある百合江のアパートを訪ねると、百合江は衰弱したまま昏睡状態に陥っていた。病院に連れて行くと、まだそんな歳でもないのに、老衰に近い状態だ、と診断される。
百合江は激しい人生を送ってきた女だった。
北海道の極貧の家庭で百合江は生まれた。父親は飲んだくれで、酒を飲むと母親に暴力を振るう。幼い頃に親戚に預けた小百合の妹・里実を無理矢理連れ戻してきて、その代わりに百合江は薬屋へと奉公に出されることになった。高校に行ってバスガイドになるという夢は、早くも諦めざるを得なかった。
たまたま見た舞台で歌っていた鶴子に惹かれ、奉公先を飛び出して旅回りの一座に飛び込んだ。百合江の歌は、女形である宗太郎の器量と相まって評判になるも、やがて百合江は宗太郎と東京へ出ることになり…。
というような話です。
なかなか凄い話でした。全編落ち着いた筆致で描かれているので、文章や表現そのものに勢いがあるという作品ではない。ただ、抑制の利いた文章によって描かれる百合江の壮絶な人生は、冷たいのに触れれば火傷するドライアイスのようなものだな、と僕は感じました。人生に期待していない、3年後5年後のことなんか考えられないという、よく言えば楽観的な百合江の生き方は、ある意味では物凄く冷めている。どこかに目標を定めるわけでもないし、到達したいゴールがあるわけでもない。百合江にとって大事なことは、今日明日ご飯が食べられるか、というぐらいのものであり、3年後の自分なんて想像の埒外なのだ。
もちろん、そういう時代だった、ということも出来ると思う。今ほど豊かではない時代の中で、数年先のことを考えることが出来た人間はそう多くはなかっただろう。百合江は、当時の女性としては、さほど浮いた存在ではないのかもしれない。
でも、百合江の人生が、里実の人生と対比するように描かれているために、百合江のゆらゆらとした生き方が余計に強調される感じがします。
里実は百合江とはまったく違って、数年先のことを見据えて今の行動を考える。恐らく、当時の女性としてはかなり珍しい存在だっただろうと思います。ただ、現代を生きる僕としては、里実のあり方に違和感を覚えることはない(好き嫌いは別として)。だからこそ余計に、百合江の生き方が際立っているのだろうと思います。
それは、百合江のこんな言葉にも明確に現れている。
『百合江の心が楽なのは、まさにこの、予定の立たない暮らしのせいだった。』
元々の性分だったのか、旅回りの生活によって馴染んだものだったのか、百合江は先のことが分からない方が安心できるという質だ。これは、分かる部分もあって、分からない部分もある。
僕も、将来のことはなるべく考えたくない人間だ。将来のことを考え始めると、なんだか不安になってくる。それは、自分がどうなっているだろう、何をしているだろう、という不安ももちろんある。自分の今の生き方が、『良い未来』に繋がるとは想像しにくい、そういう部分からやってくる不安だ。
でもそれとは別に、未来が決まってしまう怖さ、というのもある。これからの人生、どうなるのか分かってしまえば、楽しくないな、と思う。どうなるかわからないから未来なんであって、その未来を、きっとこうなってくれるはずだと、今からガチガチに縛り付けてしまって何が面白いのかわからない。自分が想像してなかったほど悪くなる可能性ももちろんあるけど、自分が想像してなかったほど良くなる可能性だってある。それを、今未来のために動くことで、それがどんどん狭まってしまうような、そんな気がどうしてもしてしまう。
まあ、この意見はおかしいと思う。普通は、今未来のために何かをすることで、可能性が広がるはずだ、と考えるべきなのだろう。そういう思考も分からなくはないし、そういう思考だって僕の中には少しはある。でも同時に、今未来のための動くことが、未来の可能性を潰してしまうかもしれない、という不安も同居しているのだ。里実は、そんな不安を持たない女だったのだろう。そして恐らく百合江は、そういう不安を持ちながら生きていたのではないか。
百合江の生き様は、潔くて好きだ。里実の生き方は、合理的だし賢いし、そして何よりも正しいのだろう。ただ僕は、それを『正しい』と思う価値観そのものを否定したい、というひねくれ者だ。百合江の生き方は、不安定だし脆いし、そして恐らくかなり間違っている。それでも、百合江の人生の方が羨ましく思えてしまう。
それはきっと、人に恵まれているからなのだろう、と思う。里実の人生は、小百合と関わる部分でしか描かれないからはっきりとは分からないのだけど、決して人に恵まれた人生ではなかったはずだ。里実の場合は、己の才覚一つで、常に周囲の人間と闘いながら成功を勝ち取ったのだと思う。それはそれで素晴らしいし、そういう生き方に憧れる人もきっといるだろう。
百合江は、僅かな成功はそこここでありつつも、決して成功した人生だとはいえないだろう。する必要のない苦労をすることも多かったし、騙されることや何かを押し付けられることも多かった。それでもなんだかんだ常に、百合江の周りには誰かがいる。良い人も悪い人もいる。それでも、出会って来たすべて人たちとの関わりの中で、百合江という人生は存在する。それが、なんとなく羨ましく見えるのだろうと思う。
帯裏に、こんなフレーズが書かれている。
『他人の価値観(ものさし)では決して計れない、ひとりの女の「幸福な生」。』
そう、百合江は恐らく幸せだった。自分にとって何が一番大事で、何が一番必要で、どうすればそれを手に入れることが出来るのかを知っていた。それは、里実も同じだったかもしれない。違うのは、里実が『未来の自分』のために今を生きているのに対して、百合江は『今の自分』のために今を生きている、ということなのかもしれない。いや、もっと違う何かがあるのかもしれない。
本書で描かれるのは、百合江の人生だけではない。三世代に渡る、長い長い家族の物語だ。誰かの犠牲なしには生活が立ちいかなかった貧しい時代。ババ抜きのように、自分が犠牲を引き抜かないようにと怯える人間や、その怯えから解放されるために家族を捨てる人間、あるいは犠牲を犠牲と思わずにいられる人間。様々な人間が絡まり合って、家族の歴史というものが熟成されていく。百合江の人生は際立っているように見える。しかしそれは、この家族の誰に焦点を当てても見られる壮絶さなのかもしれない。
僕は今、真剣に生きていると胸を張れるような生き方はしていない。そして、同時代を生きる多くの人びとがそう感じているのではないかと思う。必死でなくても生きていけてしまう世の中。僕は決して嫌いではないけど、本書のように、誰しもが必死だったのにそれでもまともに生きられなかったような話を読むと、ちょっとだけ、申し訳ないなぁ、という気持ちになったりもする。
幸せだったと言い切れるだろう、壮絶だけど潔い人生を歩んだ一人の女性の物語です。是非読んでみてください。
桜木紫乃「LOVELESS」
境遇(湊かなえ)
内容に入ろうと思います。
陽子と晴美は、お互い唯一の親友。陽子は、県議会議員であり、選挙間近である正紀の妻として忙しい日々を送っており、晴美は新聞記者として忙しく働いている。
二人は共に、本当の両親を知らないまま育った。晴美は大人になるまで施設で育ったけど、陽子はまだ生まれて間もない頃に里親に引き取られ、自分が養子であることを知ったのは19歳の時だ。
二人の状況が大きく変わったのは、陽子が絵本の大賞を受賞したことがきっかけだ。『あおぞらリボン』というタイトルのその絵本は、有名女優による後押しもあって、一躍ベストセラー。陽子自身も取材などで引っ張りだことなった。
その『あおぞらリボン』の話の元になったのが、晴美から聞いた話であり、賞に応募するつもりもなかったものを義母に勝手にされてしまっていて、陽子は晴美に申し訳ない思いを抱いている。
スイミングスクールに通っている裕太が、帰ってこない。迎えにいったはずの正紀の秘書も義母も知らないという。
その日FAXで脅迫状が届いた。息子を誘拐した、返してほしくば真実を公表しろ、という内容だった。
正紀の事務所は半年前、不正献金疑惑が持ち上がった。そのことだろうか?陽子は何も知らされていないのだ…。
というような話です。
本書はスペシャルドラマの原作(というか、スペシャルドラマ用に書き下ろされた、という感じかな?)なんだけど、確かに2時間ドラマ(かどうかは知らないけど、たぶん2時間ドラマじゃないかな)っぽい話だな、という感想を持ちました。2時間ドラマのテイストが好きだ、という人には結構楽しく読める作品かもしれません。
どうも僕は昔と比べて読書の趣味・趣向が変わったみたいです。昔は、結構ストーリーメインで読んでいるみたいなところがありました。とりあえず、ストーリーが面白かったらオッケー、みたいな。でも、かなりたくさん本を読む過程で、それがちょっとずつ変わっている感じがするんですね。最近は、まず『何か』があって、それから+αでストーリーとかキャラクターとかを楽しむ、という感じになっている気がします。その『何か』というのは、自分でもちゃんと言葉にすることは出来なくて、ストーリーでもキャラクターでもトリックでもない、作品に漂う『雰囲気』とでも言えばいいのかなぁ。僕にとって凄く気になる『何か』があれば、正直、ストーリーとかキャラクターとかトリックとか別にそこまで重視しないな、という感じの読書になっている気がします。
本書には残念ながら、僕が重視する『何か』はありませんでした。それがやっぱり、僕的には乗りきれなかった部分かなぁ。
厳しいことを言えば、本書にはいろいろちょっと無理があるよなぁ、という感じが強いです。ストーリーそのものもそうなんですけど、作品の構成も、ちょっとこれはどうなんだろう、という風に思わせる部分があったりしました。これはあくまで予想ですが、ページ数に制限があったのかなぁ、という気がしています。本書は230ページぐらいの小説なんですけど、このストーリーは、ちょっとそれでは収まらないような気がしました。もう少し分量を長くして、僕には空きすぎているように思える隙間を埋めたり、色んなことがすんなりわかりすぎる展開を変えたりとかした方がよかったような気がするなぁ。ってか、もし僕の予想通り枚数制限があったのなら、もう少しその分量の中で収まる話の方がよかったような気がします。
湊かなえ「境遇」
陽子と晴美は、お互い唯一の親友。陽子は、県議会議員であり、選挙間近である正紀の妻として忙しい日々を送っており、晴美は新聞記者として忙しく働いている。
二人は共に、本当の両親を知らないまま育った。晴美は大人になるまで施設で育ったけど、陽子はまだ生まれて間もない頃に里親に引き取られ、自分が養子であることを知ったのは19歳の時だ。
二人の状況が大きく変わったのは、陽子が絵本の大賞を受賞したことがきっかけだ。『あおぞらリボン』というタイトルのその絵本は、有名女優による後押しもあって、一躍ベストセラー。陽子自身も取材などで引っ張りだことなった。
その『あおぞらリボン』の話の元になったのが、晴美から聞いた話であり、賞に応募するつもりもなかったものを義母に勝手にされてしまっていて、陽子は晴美に申し訳ない思いを抱いている。
スイミングスクールに通っている裕太が、帰ってこない。迎えにいったはずの正紀の秘書も義母も知らないという。
その日FAXで脅迫状が届いた。息子を誘拐した、返してほしくば真実を公表しろ、という内容だった。
正紀の事務所は半年前、不正献金疑惑が持ち上がった。そのことだろうか?陽子は何も知らされていないのだ…。
というような話です。
本書はスペシャルドラマの原作(というか、スペシャルドラマ用に書き下ろされた、という感じかな?)なんだけど、確かに2時間ドラマ(かどうかは知らないけど、たぶん2時間ドラマじゃないかな)っぽい話だな、という感想を持ちました。2時間ドラマのテイストが好きだ、という人には結構楽しく読める作品かもしれません。
どうも僕は昔と比べて読書の趣味・趣向が変わったみたいです。昔は、結構ストーリーメインで読んでいるみたいなところがありました。とりあえず、ストーリーが面白かったらオッケー、みたいな。でも、かなりたくさん本を読む過程で、それがちょっとずつ変わっている感じがするんですね。最近は、まず『何か』があって、それから+αでストーリーとかキャラクターとかを楽しむ、という感じになっている気がします。その『何か』というのは、自分でもちゃんと言葉にすることは出来なくて、ストーリーでもキャラクターでもトリックでもない、作品に漂う『雰囲気』とでも言えばいいのかなぁ。僕にとって凄く気になる『何か』があれば、正直、ストーリーとかキャラクターとかトリックとか別にそこまで重視しないな、という感じの読書になっている気がします。
本書には残念ながら、僕が重視する『何か』はありませんでした。それがやっぱり、僕的には乗りきれなかった部分かなぁ。
厳しいことを言えば、本書にはいろいろちょっと無理があるよなぁ、という感じが強いです。ストーリーそのものもそうなんですけど、作品の構成も、ちょっとこれはどうなんだろう、という風に思わせる部分があったりしました。これはあくまで予想ですが、ページ数に制限があったのかなぁ、という気がしています。本書は230ページぐらいの小説なんですけど、このストーリーは、ちょっとそれでは収まらないような気がしました。もう少し分量を長くして、僕には空きすぎているように思える隙間を埋めたり、色んなことがすんなりわかりすぎる展開を変えたりとかした方がよかったような気がするなぁ。ってか、もし僕の予想通り枚数制限があったのなら、もう少しその分量の中で収まる話の方がよかったような気がします。
湊かなえ「境遇」