簡素な生き方(シャルル・ヴァグネル)
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本というのは寿命の長いメディアだ。
印刷機が発明されてからずっと残り続けているような書物だってあるし、そもそもが写本という形でさらに以前からの本が残っていたりもする。
とはいえ、昔書かれた本を読む難しさというものはある。
その一つに、書く必要もないと著者が考えている同時代的な大前提を、現代の読者は知らない、ということが挙げられる。このことを、小説を例にとって説明してみたい。
例えばSF小説の場合、何らかの特殊な設定があることが多い。タイムトラベルが出来るとか、火星まで行ける宇宙船があるとかだ。そういう、僕らが生きているのとは折り合わせない設定がある場合、作家はその点について何らかの形で読者に提示しながら物語を進めていく必要がある。
しかし、現代を舞台にした小説の場合、そうではないことが多い。例えば作中に「コンビニ」と書いてあれば、僕らはそれが何であるのかすぐに理解できる。著者はそれを説明する必要はない。しかし、100年後の未来にはもう「コンビニ」は存在しないかもしれない。「コンビニ」について作中で説明していない物語の場合、未来の読者には伝わりにくくなる。
今は「コンビニ」という具体的なものを例に挙げたが、これは価値観や考え方についても同じだ。その時代その時代の当たり前の価値観については説明されないことの方が多いだろう。
そしてその点が、昔書かれた本を読む難しさに繋がっていく。
本書は、具体的な出来事や事例の話が非常に少ない。具体的な事実などの背景が描かれることなく、著者の考えていることが書かれていく。そうであればあるほど、その時代の大前提となる考え方が出にくくなる、といえるだろう。
本書は120年前にフランスで出版された、当時の欧米のベストセラーだそうだ。読みながら僕は、著者が前提としている考え方を上手く捉えることが出来ずに、読むのに苦労した。当時の基本的な考え方との差が著者の主張になるのだろうが、前提となる考え方をうまく捉えられなかったので、その差も捉えにくいと感じてしまった。
また、差のことはともかくとして、著者の言っていることを字面で受け取った場合、書かれていることは少なくとも今の僕にとってはとても当たり前のことのように感じられて、それもこの作品の良さが分からない理由の一つではある。この本に書かれていることを、自分が考えたこともない新鮮な発想だ、と感じる人もいるだろう。しかし、僕にはそうは思えなかった。本書で書かれていることを、僕は既に実践していたり考えていたりするので、新鮮さを感じることが難しかった。
とはいえ、世の中の「当たり前」にがんじがらめに囚われてしまっている人には、読んだら面白く感じられる本かもしれません。
シャルル・ヴァグネル「簡素な生き方」
ライオン・ブルー(呉勝浩)
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色んな分類の仕方があるだろうが、ミステリをこんな風に二つに区分してみる。
一つは、「わけのわからなさが冒頭で一気に明らかにされる物語」だ。例えば同著者の、「白い衝動」という作品を挙げることが出来る。
「白い衝動」では冒頭から、「自分は誰かを殺してしまうかもしれない」と相談に来る高校生が登場する。さらに、かつて得体の知れない殺人を犯し、刑務所から出所した元凶悪犯が近隣に住んでいる、という情報がもたらされる。非常に不穏で、わけがわからない。このわけのわからなさをいかに解くかがミステリの核となって、物語が展開されていくことになる。
もう一つは、「わけのわからなさが少しずつ現れる物語」だ。まさに本書が、そういう物語だ。物語は、日常からスタートする。状況設定や人間関係を少しずつ描き出していきながら、徐々にその日常の中に「わけのわからなさ」が現れてくる。「わけのわからなさ」がなんであるのかというのを物語の核にしながら、それを解いていく物語だ。
さて僕は、前者のようなミステリが好きなようだ。冒頭でバーンと「わけのわからなさ」が登場する。なんだこりゃ、意味が分からない、という感覚に引っ張られていく。冒頭であまりにも大きな「わけのわからなさ」を提示することは、着地点を難しくすることにも繋がる。それは、読者からすれば期待にも変わる。この「わけのわからなさ」に、本当に説明をつけることなど出来るのだろうか?そういう期待がずっと自分の内側に残り続け、その続きを読みたいという動機に繋がっていく。
前者のようなミステリと比較した場合、後者のようなミステリは、読み続ける動機を確保するのが難しいことがある。「わけのわからなさ」が小出しにされるということは、僕にとっての先を読みたいと感じさせる動機が少しずつしか現れてこないことになる。「わけのわからなさ」以外にも、例えばキャラクターが魅力的だというような、読者を引っ張っていく要素があればまた違うだろう。でも、そうではない場合、少しずつ「わけのわからなさ」が明らかになっていく展開は、自分の中の読み進める動機を見つけ出すことが難しくなっていく。
もちろんこれは人によって違うだろう。後者のようなミステリの方が好きだ、という人もいるだろう。どちらがいい、という話ではない。ただ僕は、「わけのわからなさ」が冒頭でバーンと出てくる物語の方がどうしても好きになってしまう(もちろん、着地点の困難さの問題があるから、うまく着地させられずに失速してしまう物語も多くなる、という欠陥はあるのだけど)。
内容に入ろうと思います。
澤登耀司は、地元である関西の田舎町・獅子追の交番に異動してきた。澤登は「あの澤登」と呼ばれるほど有名な存在だ。甲子園で彼が見せた姿は今でも多くの人に記憶され、それから逃げるように澤登は地元に寄り付かなくなった。
今回、父の入院を理由に移動願いを出した澤登だったが、折り合いの悪い兄が実家の石屋を継いでいるし、今さら澤登が戻ってきたところで父は病院だ。本当の目的は別にある。
長原だ。教場(警察学校)で同期だった長原が、この獅子追交番での任地を最後に失踪したのだ。勤務中に警官が拳銃を持ったまま失踪したとあって、当時大ニュースになった。しかし、長原の無線機が発見されたのみで、長原の行方は杳として知れない。それを澤登は調べにやってきたのだ。
獅子追は、千歳という地元の大地主が牛耳っている。警官の身でありながら、その千歳とかなり深くつるんでいる晃光大吾という巡査が、獅子追交番を実質的に取り仕切っているようだ。交通事故が大事件であるような田舎では、交番の仕事なんかほとんどない。たまにあるトラブルを晃光が解決するやり方を見て、澤登は異常だと感じた。晃光の、法を無視した振る舞いが、ここ獅子追ではまかり通っているのだ。
澤登は、実直に勤務を続けながら、それとなく長原の失踪の謎を追った。そんな折、事件らしい事件のない獅子追で、火事があった。毛利淳一郎という地元の鼻つまみ者が焼死体で発見されたが、他殺の可能性もあるという。火災の報を受けて現場に急行した澤登は、非番だったはずの晃光が現場にいたことに不審を覚えた。
さらに澤登は、自分が知らない内に、澤登家のある決断が獅子追の命運を握っていることを知り…。
というような話です。
冒頭でも書いたように、「わけのわからなさ」が徐々に現れてくる物語で、そういう物語の性質上、僕とはちょっと合わなかったな、と感じる作品でした。
この物語を理解するためには、獅子追という田舎町が抱えた歴史や問題を理解しなくてはいけない。それらは、様々な断片に亘っているから、冒頭でバーンと提示するのは難しい。少しずつ、獅子追という土地の異様さが浮き彫りになっていく。その過程はなかなか面白いし、中盤から後半に掛けての、頭のネジが数本ぶっ飛んだような展開は斬新だと感じもした。
とはいえやはり、中盤までの展開がなかなかじれったいと感じてしまった。出てくるのは田舎の交番のオッサンばっかりだし、特に何が起こるわけでもない田舎町での出来事だから、日常に特別な変化があるわけではない。そういう中で殺人事件が起こるのだけど、それらの背景は徐々にしか明らかにならないから、その背景に横たわるものを期待して読むということがなかなか難しい。
そしてもう一つ、この物語を僕があまり受け入れられないのは、「土地」というものに対する思い入れが基本的にないことが理由にある。
この物語は、様々な人間が「獅子追」という土地について考えたり考えさせられたり影響されたり囚われたりする過程で起こる。田舎町であればどこにでもこういう構図はあるのかもしれない。晃光は獅子追の現状を、『ここがろくでもない田舎やと、みんなよくわかっとる。田舎が悪いんとちゃう。出来上がった田舎のシステムがくそなんや。誰もそこから自由になれん。』と表現している。土地というものに深く深く根付いて、そこに住む者すべてをがんじがらめにするような環境だからこそ、この物語は成立しうる。
そして僕は、そういう事柄に基本的にまるで関心がない。関心がなくても取り込まれてしまうのがこういう土地の問題なんだろうけど、幸いにして今までそういうことに囚われたことがないし、自分から関心を持とうという気持ちもない。僕自身はどこに住んでいてもいいし、ここでなければ生きられないなんていう感覚もない。そういう根無し草のような人間には、物語の中で人々ががんじがらめに囚われているものの正体が、ぼんやりとしか掴めないということになってしまう。
僕がこの物語の中で最も関心があるのは、晃光大吾という男だ。彼はなかなか興味深い。彼の行動原理は、行動原理を知る前はほとんど理解不能だが、行動原理が分かれば実にシンプルで分かりやすい。常人には理解しがたい言動にも、彼なりの思慮が込められている。目指すべき場所がはっきりしているからこそ、迷うこともない。この潔さは、実に魅力的だと感じた。
後半の展開は、晃光大吾の存在抜きには成り立たない。この異形の男が、日常の中に紛れ込みながら、己の目指す高みへと邁進していく。そのブレなさは見事だし、その強さには憧れさえしてしまう。
あと、とある殺人犯の殺人の動機も凄まじい。過去これほど中身のない動機で殺人を犯したものが、物語の中であってもいただろうか?
呉勝浩「ライオン・ブルー」
まぼろしのお好み焼きソース(松宮宏)
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作中にも登場する、「ヤクザと憲法」という映画を、僕も観に行ったことがある。実際にヤクザに密着しているドキュメンタリー映画で、薬物を販売しているように見える場面や、ドア越しに若手組員をボコボコにしている映像など、とにかくリアルなシーンが満載の映画だった。
その映画の一つのテーマが、ヤクザの人権だった。
今ヤクザとして生きると、子供が幼稚園に入れなかったり、銀行から金を借りることが出来なかったりするらしい。暴対法が出来て(厳しくなって?)からその傾向は苛烈になったようで、その有り様が、憲法が保障しているはずの「最低限度の生活」を享受出来ていないのではないか…。この映画は、こういう問題意識を投げかけるものだった。
僕は日常的にヤクザと関わる生活をしていない。近隣にヤクザの事務所があったり、ヤクザと商売上関わらざるを得ない立場になればまた意見は変わってしまうだろうが、今の僕は、ヤクザにもきちんとした権利が与えられるべきだ、と思う。とはいえそれは、ヤクザだって人間じゃないか、というような人間愛から生まれるものではない。ヤクザにもヤクザなりの存在意義があると思うからだ。
日常の中にヤクザがいるというのは、確かに恐ろしいし不快ではあるが、ヤクザだからこそ出来る役回り、というのは確実にあると思う。昔は、ヤクザが地域ときちんと関係を持ち、お互いがお互いの役割をまっとうする、というような形で共存していた(少なくともそういう地域もあった)のではないかと思う。
いわゆる汚れ仕事をヤクザがきちんと請け負うことで、社会が回っている、というような側面もきっとあったはずだろうと思う。しかし、ヤクザを排斥するという流れが生まれ、ヤクザがどんどん追い詰められていく中で、暴対法の枠組みでは取り締まることが出来ないハングレ集団や中国系のマフィアなど、様々な勢力が出てきてしまった。良い見方をすれば、これまではヤクザがいたからこそハングレ集団や中国系マフィアが活動することが出来なかった、といえるだろう。それを、汚れ仕事を誰がやるのかという問題を先送りにしたままヤクザを排斥してしまったことで、より問題が大きくなってしまった、と見ることだって出来るのではないかと思う。
僕の中には前提として、そういう捉え方がある。
もちろん、すべてのヤクザが良い、と言っているわけではない。実際に、ヤクザの抗争に巻き込まれて命を落とす一般人もいれば、ヤクザに風俗に沈められてしまった女性もいるだろう。だから、全面的にヤクザを肯定している、と捉えられるのはちょっと違うと言いたい。しかし、悪いからと言って何でもかんでも排斥する姿勢が正しいとも思えない、ということだ。
ヤクザはともかく、ヤクザ的な存在というのは社会の中に必要なのだと思う。ヤクザ的な存在が、社会や地域の汚れ仕事を引き受けるからこそ、住民は綺麗な世界で生きることが出来る。無理やりヤクザに引き入れるのは言語道断だが、自ら進んで、あるいは何かよんどころない事情があってヤクザになったのであれば、ヤクザとしての生き方を社会が許容する、ということは考え方の一つとしてあってもいいのではないか、と思う。
繰り返すが、今僕はヤクザと関わりのない生活をしているからこんなことが言えるのだ、ということはきちんと自覚しているつもりだ。今後状況によっては意見が変わる可能性もある。とはいえ、理想論かもしれないけど、理想であったとしても誰かが口に出さなければ現実になることはない、とも思っている。
この小説は別にヤクザ小説ではないのだけど(ヤクザは出てきますが)、彼らが地域や社会からどう扱われているのか、ということを読みながら、「ヤクザと憲法」を観た時のことを思い出していた。
内容に入ろうと思います。
物語は、青葉小学校を中心に始まる。
まずは、新任の先生のご紹介だ。磯野祥子は、静岡県富士宮市出身だが、訳あってこの神戸市長田にある青葉小学校に赴任した。富士宮焼きそば発祥の店で働いていた祥子は、ソース文化を調べていく内に神戸に行き着いた。神戸こそ、ソースが生まれた土地だったのだ。素晴らしいソースと、豊かな粉もん文化が根づいている長田に憧れていた祥子は、青葉小学校に欠員が出たと知るやすぐさま応募した。二学期途中からの赴任となった祥子は、通勤途中にある「間口ソース店」に吸い寄せられるようにして入っていき、ソースをうっとりと眺めていたら、赴任初日に行われる運動会に遅刻することになった。
青葉小学校では、徒競走のスタートにピストルを使わない。そこには、青葉小学校が抱える長い複雑な事情が隠されている。
青葉小学校がある敷地の一部は、なんと、長田周辺を縄張りとするヤクザ・川本組の敷地なのだ。小学校は、川本組から敷地を借りている。そんな事情もあり、ピストルの使用を自粛しているのだ。
さて、そんな川本組は、川本甚三郎親分を筆頭に総勢6名ほどの小所帯であり、小学校からの賃貸料と地元での小さなシノギでなんとか持っている。長くこの地域に暮らす住民からは、『川本組はやくざやない。人がいちばんやりたくないところを何とかしてくれる任侠や』と理解を示してくれるのだが、とはいえ祖父が安藤組の初代と兄弟の盃を交わしており、やはり一般的にはヤクザと認識されている。甚三郎はそんな状況を変えようと日々模索しているのだが、すぐにうまく行くような方法はない。
そんな中、長田の粉もん文化を支えていると言っても言い過ぎではないオリーブソースが、闇金からの借金を返せずに追い込みを掛けられそうだ、という話を知る。オリーブソースは大野夫婦が二人でやっている工場で、妻の入院費として借りた借金が膨らんでしまった。材料さえ調達出来れば借金は3ヶ月もあれば完済できるのだが、何せその仕入れ代が捻出出来ない。このままでは、闇金や銀行が出張ってきて、土地を売り飛ばされておしまいだ。
そこで甚三郎は、若頭の山崎に、オリーブソースの再建を命じた。地元の宝であるオリーブソースを失ってはならない。なんとしてでも立て直すんだ、と。
『やくざは、やると決めたことは死ぬ気でやる。それだけである』
脱やくざを掲げる親分に振り回されながらも、川本組の面々は知力と根性を振り絞って、オリーブソースを救う手立てを考える…。
というような話です。
いやー、これは面白かったなぁ。とても良くできていると感じました。タイトルから、オリーブソースの再建がメインになるんだろう、と思ってたんですけど、いや、実際にオリーブソースの再建がメインなんですけど、後半、えっそんな話になるの?という連続で、ちょっとびっくりしました。
まず、甚三郎のキャラクターがとてもいいですね。甚三郎は、『やくざは終わりだ。やくざ的なのも終わりだ。正しく生きたい人が正しく生きるために、川本組は変化を遂げるんだ』という信念をずっと持っていて、それをどう実行に移すのかを必死で考えている。若頭の山崎には、甚三郎が何を考えているのか正直理解できない部分もあるが(甚三郎の言うことを「禅問答」と表現したりする)、とはいえ山崎のように、疑問を持ちながらも意志を汲み取って行動する人間がいるからこそ、甚三郎の青写真が正しく未来を生み出したとも言える。
やくざがやくざの看板を下ろす(なんて表現をするのか分からないけど)のはとても難しいだろう。川本組の場合、古くからの住民からはきちんとその存在意義を理解してもらっている、という点は強いけど、それでもそういう歴史を知らない住民には恐れられている。やくざを止めました、と言ったところで、信用されるはずもない。甚三郎は、川本組がやくざを止め、さらに地域の方にもそう認識してもらう、という非常に難しい着地を目指しているのだ。
その甚三郎のプランに、オリーブソースの再建の話がピタリとはまり込む。オリーブソースは、長田のソース文化、粉もん文化の命脈とも呼べる存在であり、地元住民からの存続を望む声も強い。とはいえ長田は、阪神淡路大震災によってかなりのダメージを受けた土地であり、長田の町にも余裕があるわけではない。みなオリーブソースを助けたいと思いつつ、出来ることが限られているのだ。
そこで川本組である。川本組の女組員である山下みどりは、川本組が地域の中でやくざ的な扱いをされないためにどうすべきかという甚三郎からの課題に答えている。
『わたしが考える方法は単純です。町を元気にすることです。わかりやすく言えば、町の人が儲かることです。利益が出る地域の名物を、今まで知らなかった外の人にもアピールし、さらに利益が出るようにすることです』
もはやヤクザがすることではないが、川本組はやくざから脱却しようとしているのだから当然と言えば当然だ。
川本組がやくざでなければ話はもっとスムーズに行っただろうが、それでは物語にならない。この物語は、やくざを脱却しようとしている川本組が、どうにか堅気であることをアピールしつつ、地元のためにソース工場を再建させようと本気で努力する、という部分が非常に面白いのだ。
また、組長以外の川本組の面々も良い。特に、既に名前を出した山崎とみどりが良い。彼らには色んな過去があるようだが、本書だけでは分からない。本書の前に、「さすらいのマイナンバー」という作品があり、そこで彼らの過去が描かれているようなのだ(僕は本書から読んでしまったので詳細は不明)。共に複雑な事情を抱えながら、甚三郎に拾ってもらった、という恩を抱いている者であり、自分がヤクザであろうがなんだろうが、とにかく親分のために身を粉にして働くんだ、というスタンスが良い。甚三郎と、山崎・みどりとの信頼関係が物事を動かしていったと言っていいだろう。
川本組がきっかけとなって、地域が動き始める。川本組が押し出し続ける誠実さを人々が理解し、少しずつ広め、共感の輪が広まっていく。うまく行きすぎだろう、という展開なのは物語なので仕方ないとして、とはいえ決してご都合主義というような展開ではなく、色んなことがうまく行ったらこうなるかもなぁ、と思わせてくれるのも良い。
さて、このまま良い感じで物語は閉じるのか、と思っていたら、後半でまたちょっとギアが変わるのが面白い。うそっ、ここからどうなるわけ?というようなドタバタの中、ウルトラCのような流れの中で物語が終焉を迎える。どんな展開になるのかは是非読んで欲しいが、これもまたとても良い展開で、甚三郎グッジョブ、という感じである。
どんな人でも面白く読める小説ではないかと思いました。
松宮宏「まぼろしのお好み焼きソース」
ナオミとカナコ(奥田英朗)
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正しいことだけじゃ、生きていけない。
そんなことは分かってる。
けど、あまりにも高い壁を越えなければその後の人生が成り立たない―、そういう状況に追い込まれた時、その壁を越えられるだろうか、と考えてしまった。
自分のため、ということであれば、越えられるかもしれない、とは思う。
でも、自分以外の誰かのためだったら…。ちょっと僕には分からない。
彼女たちは、その壁を越えた。
そこにどんな葛藤があったのか、が描かれる物語ではある。
けれど、読んでそのすべてが分かるわけではないだろう。
印象的な文章がある。
『この神様が与えてくれたような完璧なプランが、自分を誘惑する。やれと言っているのだ』
もう一つ。
『もはや直美の頭の中は、達郎のクリアランス・プラン以外のことを受け付けなくなっていた。このプランは自分の作品のような気がする。早く完成させたい。その気持ちが喉元まで込み上げてきて、じっとしていられないのだ。』
僕は、この気持ちは理解できるような気がしてしまった。人は、そう簡単には、遥かな壁を越えられないはずだ。様々な心理的障壁が、そこには横たわっている。しかも直美は、直接的には関係ない立場だ。そんな彼女が、何故その壁を越えることが出来たのか。その一端が、この文章には表れている、と感じた。
その行動にどんな意味付けをするのかで、人は案外、恐ろしい高さの壁を越えてしまえるのかもしれない。そんな風にも思わされた作品だった。
内容に入ろうと思います。
直美は「葵百貨店」の外商部で働いている。大金持ちの顧客から執事のように色々と頼まれる仕事だ。そうやって関係性を築いておいて、後で大金を落としてもらう。一般人とはかけ離れた生活、お金の使い方をする人たちとの関わりを続けていく中で、まるで違う世界の話だと割り切れるようになっていった。学芸員の資格を持ち、百貨店の美術館で働くことを希望して入社した直美は、今の仕事はまったく望んだものではないが、仕事だと思ってなんとかやっている。独身、長らく恋人もいない28歳だ。
大学の同級生である加奈子は、大学卒業後大手家電メーカーで働いていたが、去年の秋に銀行員と結婚して退職し、専業主婦になっていた。直美の唯一と言っていい友人だ。夜食事の予定があったが、キャンセルのメールが来ていた。風邪だから来なくていい、と言っていたけど、食品売り場で何か買って持っていこう。
加奈子の自宅に着いたが、加奈子の様子がおかしい。直美を部屋に入れようとしない。惣菜を渡したらすぐ帰る、と言ってマンションに入ったが、ドアを開けた加奈子の顔を見て驚いた。
頬がボールのように腫れている。
すぐにDVだと分かった。直美の父親がそうだったのだ。加奈子を問い詰め、事実を確認した。
どうにかしなければならない…。
しかし、行動派の直美と違って、加奈子は慎重だ。警察に行くことも、夫の両親や加奈子の両親に話をすることにも及び腰だ。直美は両親の経験からDVが収まらないことを知っていたが、加奈子は、DVをした後で謝ってくる夫に期待したい気持ちもあるようだ。直美も、どう動くべきか判断がつかず、落ち着かない気持ちのまま仕事を続けた。
仕事の方で様々なことがあった。内覧会で盗難があった。加奈子の夫にそっくりな中国人を見かけた。痴呆症と思われる顧客の担当になった…。
それらの要素が積み重なっていく中で、直美の中である計画が徐々に形作られていく。
うまくすれば、加奈子の夫を排除することが出来るのではないだろうか…。
というような話です。
550ページ近くある物語ですが、一気読みさせられるリーダビリティのある作品だと思いました。ごくごく平凡な二人の女性が、人を殺し、その後の生活を生きていく過程をリアルに描き出していく物語で、きっかけさえあれば人間は誰でも人を殺す壁を越えられるのではないか、と思わされる作品でした。
彼女らが人を殺すに至るのには、様々な偶然がある。その中でも最も大きな要因は、加奈子の夫に似た中国人の存在だろう。他にも、彼女たちの状況に都合がいい現実が目の目に現れてくる。もちろん、これは物語にケチをつけているとかそういうことではない。そういう偶然があったからこそ彼女たちが人を殺すという決断に踏み出せたのだ、という設定は、ある意味では人を殺すというハードルの高さを示しているからだ。この物語は、状況が揃ってしまった時、人はどうするのかを問うている、という言い方も出来るだろう。
冒頭で引用した一文を再度載せよう。
『この神様が与えてくれたような完璧なプランが、自分を誘惑する。やれと言っているのだ』
状況さえ揃わなければ、彼女たちは殺人という大それたことに踏み切ることはなかっただろう。そういう意味で彼女たちは、ある意味で不幸だったとも言える。あり得ないほど都合がいい状況が目の前に揃ってしまったのだから。目の前に揃った状況が、彼女たちに、可能に思える選択肢を与えることになってしまった。「完璧なプラン」が目の前にあった時、それを選び取らないことが出来るだろうか?
もちろん、彼女たちが「完璧なプラン」だと思った計画は、実際には完璧ではなかった。物語の後半で、彼女たちは追い詰められていくことになるのだが、しかし彼女たちが思いついた計画を「完璧なプラン」だと思ってしまった気持ちは分かるような気がする。そう思わなければ、殺人などという大それたことに踏み切ることなど出来ないからだ。
どうにもならない現実があり、それに対抗できる手段がほとんどないと思っていた時に目の前に現れてしまった一つの選択肢。それが、実行に値する素晴らしい計画に思えてしまうのは、現実をなんとかしたい、現実から逃避したい、という気持ちが強ければ強いほど起こりうるだろうし、その辺りの認識の甘さみたいなものが後半でどんどんと明らかになっていく展開もリアルだと思った。
強くなければ生きていけない―。物語は、どんどんとそれを体現していくように展開していく。他人を蹴落としてでも生きていく、それは、直美が関わる中国人のようなスタンスでもある。中国人たちは、そのことに疑問を持たない。生きていくことは闘いだし、闘いである以上他人を蹴落としていかなければならない、という覚悟を持って生きている。しかし、日本人でそこまでの覚悟を持ちながら生きている人はそう多くはないだろう。突然に覚悟を持たなければならない状況に置かれた時、自分の内側から何が飛び出してくるか―。新しい自分、知らなかった自分に戸惑いながら現実に対処していく彼女たちの「強さ」がどんな風に変わり、どんな風に発露していくのか。それもまた物語的に面白い部分である。
明らかに間違ったことをしている彼女たちを、応援したくなる。なんとか、逃げ切って欲しいと思ってしまう。彼女たちが一線を越えてしまったのは、どうにもならない現実があったからだ。もちろん、他の手段がまったくなかったとは思わないが、どれも困難を極めるものであることは間違いないだろう。彼女たちの計画がベストに思えたのは、仕方ないことだと思う。彼女たちの行動を肯定してしまうわけにはいかないが、しかし否定したくもない。出来れば彼女たちには平穏無事に生き続けてほしい―。そう願いたくなるような物語だ。犯罪者側に切実に共感してしまう、というのは、他の物語でもあることではあるが、自分が何か間違った感情を抱いているような感覚で物語を読み進めることになり、そういう自分の感覚が奇妙に感じられた。
奥田英朗「ナオミとカナコ」
「パッセンジャー」を観に行ってきました
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いつもならこんなことは書かないのだけど、今回はあらかじめこのことをお伝えしておく。
もしこの映画に関心があって、見るつもりでいるなら、僕の文章は先に読まないで欲しい。
いつものように、自分なりにネタバレをしない範囲で文章を書くつもりではいるが、この映画に関していえば、どうしても限界がある。
僕はこの映画を、ほとんど何も知らない状態で観ることが出来て、とても良かったと思っている。僕の文章は、今回に限らずいつだってそうだが、今回に限って言えば特に余計な先入観を与えることになると思う。
だから、まだ観ていない人は、僕の文章を読まないで欲しい。
凄く良い映画だった。
(普段はこんな風にはしないけど、続きが読みたい方は、「続き」とか「MORE」とか、何か表示されていると思うので、それをクリックしてください。)
「3月のライオン 後編」を観に行ってきました
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闘う理由がなければ、強くなることは難しいのかもしれない。
何故強くなりたいのか、という支えがないと、強さには到達出来ないのかもしれない。
『正義なんかどうでもいいから、逃げて欲しかった』
純粋な強さを目指して目指して、しかしそうすればするほど、目指すべき強さから遠ざかることに気づかされるのかもしれない。
『宗谷と闘った者には、よくあることだ。自分を一度バラバラに分解して、再構築が必要になる』
誰かを守るために、人は強くなることが出来る。
『でも、後悔なんてしない。しちゃダメだ。だって私がしたこと、絶対間違ってなんかない』
怖くても、闘いの場に立つことは出来る。
『宗谷と闘うと、真実を暴かれる。自分が気づかなかった心の弱さや自信のなさ、恐怖心を突きつけられる。自分の本当の姿に容赦なく向き合わされる』
そうやってボロボロになって、うなだれて、でも、弱いからこそ、強さを目指すことが出来る。
『自分の弱さを他人のせいにして生きられるような人間じゃない』
弱い者同士が、補い合いながら、次の一歩を歩み続けることが出来る。
『読みきれなかったのは、自分を信じていなかったからだ。』
闘い続ける意志は、強くなりたい理由によって生み出される。
『少しでも、力になりたいんです』
そうやって、僕たちは強さを目指すことが出来る。
『ずーっと、元気でいてね~』
闘う者たちの、物語だ。
桐山は新人王で優勝し、7冠達成の偉業を成し遂げた棋界のスーパースター・宗谷との対局が実現する。桐山が幼い頃から、その異次元の強さで圧倒していた宗谷と対局することに、実感が湧かない。しかし次第に桐山は、自分が恐怖を抱いていることに気付く。
生みの親が事故で他界し、育ての家族とも様々な理由から疎遠になっている桐山は、一人暮らしの中で出会った川本家の面々と親しくなる。川本家には両親がおらず、三姉妹と祖父母で生活をしている。長女のあかりは、母親代わりとなって川本家を支えるが、次女のひなこが抱えている問題に直面し、自分の不甲斐なさを思い知らされる。
育ての父親が入院し、その見舞いに行った先の病院で、桐山はA級棋士の後藤の姿を見かける。桐山にとっては姉のような存在である、育ての父親の娘の不倫相手だ。宗谷への挑戦権を掛けた獅子王戦では、順調に行けば桐山は後藤と当たることになる。
川本家では、新たな問題が発生していた。誰も予期していなかったその問題に、桐山は川本家を守るために立ち上がる決意をするのだが…。
というような話です。
前編も良かったけど、後編も良かったなぁ。あまり映画を見て泣くことはないんだけど、前後編ともに、随所で泣かされてしまいました。
様々な登場人物たちの物語がうまく絡まり合っていくのだが、後編の全体的なテーマは、「何のために闘うのか」だと僕は感じた。
桐山は、当然そのことを常に突きつけられている。
桐山にとって将棋というのは、生きる手段でしかなかった。家族を一遍に失った桐山が、生きていくためにせざるを得ない選択だった、というだけの話だ。そのことは、ずっと桐山の中でくすぶっている。
『ずっと暗闇の中だった。今まで暗すぎて気づかなかった』
桐山には、生きるため、という理由があった。でも桐山は、一人だ。自分一人が生きていくために強くなる―。そのことに対して桐山は、自分の身を投じることが出来ないのだろうと僕は感じた。桐山には、常に躊躇がある。他者を蹴落としてまで自分が強くなっていくことの意味をずっと問い続けてきた男だからこそ、桐山は常に、勝つ理由を見失いがちだ。
『もう将棋しかないから』
度々桐山がこんな風に自分を追い詰めるのも、そうしなければ強さに邁進出来ないからだ。自分の内側から湧き出るようには、強さへの欲求を見つけ出すことが出来ない。
そこに、川本家が関わってくる。単純に言えば、川本家の存在が桐山にとって「勝つ理由」になるのだ。
川本家も、闘っている。三姉妹で暮らすことになった経緯が紐解かれていきながら、強くなければ乗り越えられない状況が次々とやってくる。
強さとは、最終的には自分の内側で生み出すしかない。どんな武器があっても、どんな盾があっても、自分自身が強くならなければ乗り越えられない状況というのはある。
『ごめん、何の役にも立てなかった』
桐山は、川本家に武器や盾になろうとした。結果的にそれは、うまくいかなかった。けれど、桐山の行動は、川本家の面々の内側に強さを生み出す役に立った。そこに、桐山の大きな存在意義がある。桐山と川本家は、お互いによって支え合いながら、なんとか目の前の現実と闘っていく。
後藤も、闘っている。後藤の物語は、なかなか難しい。何故難しいのかと言えば、後藤が何と闘っているのか、はっきりとは見えないからだ。明確な対象が見えにくい。しかし、強さへの貪欲さは、誰よりも感じられる。何故強くなりたいのか―。その背景が見えにくいから、後藤の物語は難しい。
『私を大切にしないからだよ』
ある場面で発せられたこの言葉は、後藤の強さと弱さと関わっている。後藤がこの言葉をどんな風に理解するかで、後藤という人間像が変わってくるなと思う。
桐山の育ての家族である幸田家も、闘いの最中にいる。桐山が共に幼少期を過ごした香子と歩は、桐山が将棋で成功していくのと反比例するかのようにダメになっていく。
『ウチは将棋に呪われてるのよ』
香子は妻子ある男と不倫関係にあり、歩は部屋に篭ってゲームばかりしている。桐山は、幸田家のそういう状況を折りに触れ見聞きすることになる。桐山の強さへの躊躇は、この幸田家から生み出されもする。自分が強くなったことが、幸田家をメチャクチャにした要因の一端なのだ、と桐山は思っている。
『将棋は誰からも何も奪いはしない。だから最後まで諦めるな』
みんな、誰かと、何かと闘っている。闘い続ける者もいる。闘い方を変える者もいる。闘えずに逃げる者もいる。闘いに直面した人間たちの弱さ、葛藤、絶望、希望、そうしたものを、映画の中でうまく描き出している。
前編の感想でも書いたが、対局のシーンの描き方がやはりうまい。心の声もないまま、無言でただ駒を動かしているだけのシーンに、結構な時間を使う。その贅沢な時間の使い方が、対局シーンの重厚さをうまく出している。また、あまり詳しくは書かないが、桐山と後藤の対局シーンの描き方は見事だったと思う。
実に良い映画だった。
「3月のライオン 後編」を観に行ってきました
「夜は短し歩けよ乙女」を観に行ってきました
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いやー、面白かったなぁ。
映画見てて、久々にテンションが上がった。
良い映画だなぁ、と思うことはそれなりにあるけど、テンションが上がる映画ってあんまりないから、僕にとってはとても良い映画だった。
アニメだということを最大限活かした映画だったなぁ、と思います。
森見登美彦の原作は元々読んでましたけど、すっかり内容は忘れてました。けど、森見登美彦の描く世界観が、荒唐無稽だったなという記憶はちゃんとありました。その荒唐無稽感がべらぼうに面白いわけですけど、仮に実写でやったとしたら、その荒唐無稽感をどこまで生み出せたかというのは疑問だなと思います。
というのは、実写で撮る場合、背景をフルCGとかでもしない限り、どうしてもそこには、僕らが生きている世界の現実感みたいなものが入り込んでしまうと思うからです(すべてセットを組んで撮る、とかならまだ可能性はあるかもですけど)。
森見登美彦が描く世界には、現実感が欠片もないからいいのだ、と僕は感じます。森見登美彦は、京都という、ちょっと特殊な雰囲気を持つ街のイメージを最大限に利用して、京都から現実感だけを取り去って、京都が身にまとう妖しい雰囲気だけを煮詰めるようにして増幅させていきます。そして、今回のアニメ映画では、その妖しい雰囲気を、アニメという手法で非常に見事に描き出していると感じました。
そこには、絵のタッチも関係しているなと思います。
この映画の監督は、僕は知りませんでしたが、「奇才」と紹介されていたので、知る人には知られている方なんでしょう。恐らくこの映画全体の絵の雰囲気を決めたのも、監督なんだろうと思います。絵のことを言葉で表現する経験をあまりしていないので上手く説明できる自信はありませんけど、シンプルな線で描きながら、誇張すべき部分を分かりやすく誇張する、という絵のタッチが、映画全体に独特の味を生み出していると感じました。
人物については特にそうでしたが、シンプルな線で描き出すことで、個々の個性が際立つ感じがしました。個性が際立たたないキャラクターはモブとして注目する必要はなく、何らかの形で誇張されている人物に目が行きます。シンプルであるが故に、乙女の赤い服や先輩の寝癖、樋口君のアゴや羽貫さんの服の着方など、それぞれの特長たる部分がズバッと視界に入ってくるわけです。
背景の描き方は様々で、古本市で本の背表紙をリアルに描いてみたり、川沿いに咲く桜の木をアートっぽく描いてみたりと、場面ごとに雰囲気がまったく違って面白いです。背景の描き方によって、その場面毎の重要度やシリアスさなどが瞬時に伝わってきて、これが物語を絵や言葉で過剰に説明しなくても、森見登美彦の謎めいた世界観にスッと入っていける工夫なんだろうなと思いました。また、回想シーンのタッチがまた独特で、これも場面ごとの転換という意味では非常に効果的だったなと思います。
人物はシンプルに描き出し特長を分かりやすく押し出す、背景は場面ごとの役割に応じてタッチを目まぐるしく変えていく、というやり方が、物語自体ではなく絵自体で語る部分を生み出し、より作品全体に厚みをもたらす結果になっている、そんな印象を受けました。
僕の記憶では、原作は4作を収録した連作短編集だったと思うんだけど、映画の中ではそれらをうまく繋げて一つの物語に仕立てていました。原作では確か、ある一定期間にまたがった話だったように思うんですけど、映画ではたった一夜の物語という風にまとめられていて、そのぎゅっと凝縮した感じが、物語の面白さをより引き出しているように感じられました。
また、映像ならではの物語の処理の仕方も素晴らしかったです。原作では恐らく、「主人公の脳内のグルグル」として描かれているだろう場面を、映像できちんと見せてくるんですね。特にラストの、理性と本能のバトルは見ごたえがありました。状況説明としてはまるで役に立たないですけど(笑)、主人公の先輩の慌てふためき振りが非常によく映像化されていて、テンションで押し切った!みたいな映像処理が良かったなと思います。
原作も素晴らしかったですけど、アニメならではの描き出し方で、原作の魅力をより引き出しているなと思える映画でした。
難しいですけど、内容の紹介をしてみます。
先輩(主人公)は、1年前知り合った後輩の黒髪の乙女に魂を鷲掴みにされ、以来「ナカメ作戦」を遂行してきた。「ナカメ作戦」とは、「なるべく彼女の目にとまる作戦」の略であり、様々な場面でさも偶然であるかのように彼女と遭遇する、ということをやり続けてきた。友人である学園祭事務局長に、外堀ばかり埋めているんじゃないと言われながらも、同じく友人のパンツ総番長から、思いを伝えるべきだと促されながらも、先輩はひたすら外堀を埋め続ける日々を過ごしてる。
先輩も黒髪の乙女も招待されたとある結婚式の夜、先輩は二次会に流れるだろう黒髪の乙女と同じ席に座る決意をしていた。しかし黒髪の乙女は二次会には流れず、先斗町で今彼女が求めて止まない酒を所望し続ける。とあるバーで春画コレクターに胸を触られおともだちパンチを繰り出し、知り合った樋口君と羽貫さんと一緒に先斗町で飲み歩き、幻と呼ばれる偽電気ブランに思いを馳せる。酒豪ぶりを認められた彼女は、三階建の電車でやってくるという李白さんと飲み比べを打診される始末だ。
一方の先輩は、黒髪の乙女を見失い、パンツを奪われ、鯉を飼っていたオジサンに絡まれ、やっと黒髪の乙女を見つけるも、どこにいても主役になってしまう彼女のいる場で、ただの脇役に甘んじるしかない。
チャンスを求めて、先輩はその後、古本市・学園祭と奮闘するのだが…。
というような話です。
原作を読んだ時も思いましたけど、まず何よりも黒髪の乙女がやっぱり最高ですね。こういう女性は、凄く好きだなぁ、と思います。
自分が関心を持ったことに正直で、でも視野が狭いわけでもなく、飛び込んできた状況にすぐに馴染んでしまう。一人で行動することが普通で、でも誰とでも仲良くなれてしまうし、何をするでもないのに場の主役に躍り出てしまう。当たり前に囚われたり、行動を躊躇したりすることなく、強い決心をするでもなく普通ではない状況をするりと乗り越えてしまう。自分に向けられた関心に無頓着で、かと言って冷たいとかではなく、自分なりの関心を他人に向ける。僕の中での黒髪の乙女のイメージはこんな感じだ。言葉にすると余計に、素晴らしい女性だなぁ、と思えてくるのですね。先輩が黒髪の乙女に惚れるのも当たり前だなと思います。
物語は、最初から最後まで奇妙奇天烈摩訶不思議な感じで展開されていくのだけど、独特の絵のタッチと畳み掛けるような展開で、いつの間にやらその世界観に引きずり込まれてしまう。明らかにおかしな状況なのに、登場人物たちのほとんどはその状況を奇妙がらないし、色んな話が絶妙に絡まり合っていくから、そういうもんなんだなぁ、と思いながら引き込まれてしまう。そういう魔力を持った作品で、まさに森見登美彦らしさを忠実に再現しているなぁ、と感じさせる映画でした。
映画を見ながら、僕はずっとニヤニヤしてたと思いました。ニヤニヤが止まらない映画でした。ほとんど声を上げて笑っている場面もあったと思います。純粋に、凄く面白かったなぁ、と思える、とてもいい映画でした。
「夜は短し歩けよ乙女」を観に行ってきました
不屈の棋士(大川慎太郎)
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人工知能によって、人間の仕事がどんどんなくなっていく、という話は、ちょっと前からじゃんじゃん出始めている。どんな仕事がなくなっていくのかというリストさえ、色んなところで目にするようになった。しかしどうだろう。実際の生活の中で、「人工知能によって、今の自分の仕事がなくなるかも…」と実感できる人は、まだそう多くはないだろう。
そういう意味で言えば、現代の職業の中で、最も人工知能の影響にさらされている一つに、棋士を挙げることが出来るだろう。
様々な評価の仕方があり、統一の見解こそないものの、本書を読んだ僕の印象では、既にソフトの棋力は、現役の棋士と互角かそれ以上なのだ、ということがよく分かった。
『ソフトと戦っても勝てない、と予想しています(勝又清和)』
『仲のいい棋士には、解説が終わった後に、「あれは人間が勝てるレベルじゃないよ」という話をしました(西尾明)』
こういう発言をしている棋士もいるほどだ。
『江戸時代から400年以上の歴史を有する将棋界。
言うまでもなく、棋士は常に実力最強の存在だった。棋士はその誇りを胸に競い続け、将棋ファンは尊敬と憧憬の念を抱いてきた。
将棋の強さこそ棋士最大の存在価値。それは当然の感覚であり、いちいち疑問を差し挟む者など存在しなかった。
コンピュータの将棋ソフトが驚異的な力をつけるまでは―』
そう棋士は、人工知能によって今まさに影響を受け続けている存在なのだ。
本書は、現役棋士11人に、コンピュータの将棋ソフトの捉え方や関わり方を問うたインタビューをまとめた作品だ。羽生善治・渡辺明という将棋界のスーパースターもいれば、コンピュータ将棋に造詣の深い者、コンピュータ将棋に負けた者、コンピュータ将棋を良く思っていない者など、様々な立場の棋士が、それぞれの将棋観を語っていく。
『将棋界は「強制」が少ない世界なのだ。だから自由な発想で物事を考え、それぞれが好き勝手に意見を述べることができる。これは将棋界の豊潤さの証明であり、財産だろう』
将棋連盟に所属していても、基本的に棋士は一人で活動する存在だ。だからこそ、自分の哲学に則って行動することが出来る。コンピュータ将棋との距離のとり方も様々で、それぞれの個々の哲学が密接に絡まり合っている。特に、ソフト研究を最も採り入れていると言われている若手棋士・千田翔太の将棋への取り組み方は印象的だ。
『これからは「棋力向上」を第一に目指してやっていこう、と(千田翔太)』
『公式戦で勝つよりも、純粋に棋力をつけることを第一としようと。(千田翔太)』
そしてそのために千田は、ソフト研究を採り入れる。
一般的に将棋の勉強法は、「棋譜並べ、詰将棋、実戦」だ。しかしこの勉強法を千田は、『その従来のやり方だと、個人の資質に大きく左右される。うまく人は才能がある人(千田翔太)』と判断する。そして、ソフト研究によって様々な形勢判断を自分の内側に取り入れていくことで、従来の方法よりも多くのものを吸収することが出来る、と語るのだ。
『現状、千田のソフトに対する姿勢が周囲に理解されているとはいい難い。先駆者の宿命ではあるのだが、苛立ちを感じることもあるだろう。
だが、未来は違うはずだ。これからプロになる若者の多くは、躊躇なくソフト研究を取り入れていくだろう。千田も自分の後を追ってくるであろう若者たちには大いに関心があるようだった』
ソフトをどう取り入れていくのか、というスタンスは、今まだに過渡期といえるだろう。どういう距離の取り方が正解であるのかは誰にも分からない。そういう意味で、千田翔太という棋士が10年後20年後にどうなっているのかは、とても楽しみだ。
本書には、ソフトが登場したことによるメリット・デメリットが様々に語られるが、最も印象的だったのは「怖さ」に関する話だ。
『人の頭なら相当わからない難解で長手数の詰みでも、ソフトはわかっている。この変化は詰むか詰まないかがわからないから踏み込めない、という話がソフトにはないわけでしょう。つまり人間が持つ「怖さ」という感覚が存在しない。それはちょっと違いますよね。強いんだろうけど、別物というか(渡辺明)』
同じ話を、さらに将棋を鑑賞することまで含めた議論に持ち込んでいる発言もある。
『将棋というのは人間同士の勝負で、お互いに答えを知らない中でやるものじゃないですか。怖さはあるけど、それに打ち勝つことも大事なわけです。ファンにもそこを楽しんでもらっている部分があると思う。もちろんソフトの手だって全部が正解ではない。でも、ソフトを使うと怖さを取り除くとまでは言わないけど、薄めているのは間違いない。勝負としてのおもしろさが減ってしまったら、スポンサーやファンがどう思うでしょうか。そういう状況が続けば今後、棋士全体が対局だけで食べていくのは大変でしょう。本当の上位棋士しか生き残れなくなる気がします。
―勝負というのはお互いに怖さを持つ中でやる。これが山崎さんの信念ですね。
そこが一番おもしろいところだと思います。答えがわからない中で、自分が正解と信じている手を指していく。その中で自分ができる工夫をしていくことが大事なんです。ただソフトを使うと、自分を信じる部分が薄れてきますよね。自分より強い、自分にはない発想に頼るようになると、それまでの局面認識や経験を元に培った判断が変わってくる。それはどうなのか(山崎隆之)』
この話が一番面白いと感じた。そう、問題は、棋士とソフトどっちが強いか、ということではないのだ。そうではなくて、将棋という勝負やゲームがちゃんと生き残っていくのか、ということだ。ソフト研究によって「怖さ」を失ってしまえば、対局から面白さが削られてしまう、という部分は、人工知能が将棋界に与える一番クリティカルな問題なのではないか、という風に感じました。
『たとえば詰将棋に関しては昔からコンピュータの方が解答が速いって知ってるけど、コンピュータの計算競争なんて誰も見ないでしょう。それと同じ。人間が暗算の競争をやるから見るんですよ。どっちが先にミスるんだ、っていう(渡辺明)』
『人間の勝負とはまったく別物ですから。トップ棋士同士とはいえ、やはり人間の将棋はミスありきなんです(渡辺明)』
『人間にしか指せない将棋とかそういうことではなく、人同士がやるからゲームとして楽しめるんです(渡辺明)』
渡辺明のこれらの発言は、棋士だけではなく見る側にも重要な問題だろう。トップ棋士でももうソフトに勝てないんだろ、と言って将棋を見ることから離れてしまった人もいるだろうが、やはり、人間同士が知力を尽くして闘うからこそ将棋は面白いのだ、という感覚が皆どこかにあるはずだ。そこに、ソフト研究という形でコンピュータが入り込むことで将棋がどう変わっていくのか。それらについても後で触れるつもりだが、まずは別の棋士の似たような発言を引こう。
『車がいくら早くても、人間が100メートル走で10秒を切ったらすごいでしょう。それと同じように、「人間の頭脳でここまで指せるんだ」と見守っていただきたいです(勝又清和)』
さて、実際にソフトを使うことで棋士としての力がどうなるのか、という部分についても、印象的な指摘があった。
『ソフトの示した手がプラス評価(※ソフトが盤面をどう捉えているかという評価値の話)だとしますよね。「じゃあ優勢なのかな」と思って実戦で採用する。その局面が仮にプラス300点だとして、その後の手順が自分が経験したことのないギリギリの攻め筋なんです。だからその後の指し方がわからないというか、間違えてしまう。コンピュータ的にはいけるのかもしれないけど、針の穴を通すような際どい攻めは自分の技術では導き出せない。だからソフトの評価値を重要視するあまり、自分のスタイルを見失っている部分はあるかもしれません(村山慈明)』
この指摘は非常に重要だろう。これは、棋力を上達させるには、答えではなくプロセスを学ぶ必要がある、という話だ。
『学ぶことは結局、プロセスが見えないとわからないのです。問題があって、過程があって、答えがある。ただ答えだけ出されても、過程が見えないと本質的な部分はわからない。だからソフトがドンドン強くなって、すごい答えを出す。でもプロセスがわからないと学びようがないという気がするのです(羽生善治)』
確かにその通りだ。先の村山慈明の指摘は、まさにこのことを言っている。
ソフトは、盤面を数字で評価してくれる。しかしその評価は、「俺(ソフト自身のこと)がミス無く指すって前提でこの点数ね」ということでしかない。ソフトがどう指すつもりでいるのかは、ただ評価値を見ているだけでは分からない。ソフトはいくらでも先の展開を読めるし、ミスもしない。だから、無謀な手筋でも押し通せる。しかし人間にはそれが出来ない。だから、プロセスを理解しないまま評価値だけを受け入れてしまうことの怖さがある。
これは恐らく、今後将棋界以外でも問題となっていくだろう。人工知能は、恐らく何らかの答えを出してくれる。人工知能が処理まで実行してくれるなら問題ない。しかし、人工知能に答えだけ教えてもらって、その上で人間が実行する、という状況があるとして、その場合人間にはプロセスは理解できないかもしれない。そういうことは、人工知能と共存していかなければならない過程でいくらでも起こりうるだろう。
『実力がつかないうちにソフト研究を取り入れるのは本当に怖いと思います(村山慈明)』
『―棋力が定まっていない人がソフトを使うのはよくないと思いますか?
まずいでしょうね。棋力が定まっている人間でもうかつに使うとまずい。ソフトとずっと指し続けると感覚がおかしくなって、自分の将棋が崩れます(糸谷哲郎)』
確かに、こういう指摘については納得できるし、将棋以外の場でも認識しておかなければならないだろう。
他にもソフトがもたらすデメリットとしては、
『いままでは、本来ダメなはずの新手もみんなわからないから2年くらい持っていたのが、(ソフト研究によって)即ダメになる。だからスパンがすごく短くなるけど、そもそも戦法の数がそんなにないので、後手番で戦える戦法がドンドン少なくなっていく(笑)(渡辺明)』
『今後は新手を指しても本当に自分で発見した手かどうか証明できませんから(行方尚史)』
など色々挙げられている。
とはいえ、もちろん良い点もある。一番のメリットについては、多くの棋士が指摘している。
『コンピュータのおかげでセオリーや常識にとらわれない指し手が増えてきました。プロ棋士もまだまだ将棋のことをわかっていなかったんだな、ということがわかってきました。こんなことはやっちゃいけない、というタブーもなくなってきた。この先、古い価値観はどんどん廃れていくでしょう。いまの将棋に合った新しい価値観も生まれるんだからそれでいいと思います(勝又清和)』
『将棋の枠組みが広がって、タブーが減った。不安が取り除かれてやりたいことがやれるようになった。(山崎隆之)』
『だからソフトの登場によって、過去の定跡が覆る可能性があるんです(村山慈明)』
『20年間主流だった矢倉の4六銀戦法も指されなくなったように、常識となっていたことがソフトに覆されるようなことも出てきた(行方尚史)』
人間の思考力では、長い長い歴史や積み重ねを経ても到達出来なかった部分に、ソフトはどんどん突き進んでいる。そうやって、ソフトが将棋の新しい常識や価値観をどんどん生み出しているのだ、という指摘が非常に多かった。
また、こんな指摘をする者もいる。
『だから全体的に終盤に時間を残そうとしている人が増えていますね。あとはみんなよく粘るようになりました。相手が間違えることが前提であれば、それは頑張りますよね。これは間違いなくソフトの効果で、将棋の進歩に役立っていると言えるでしょう(糸谷哲郎)』
糸谷哲郎は、『いつの日か棋士という存在がいらなくなる可能性を除けば、メリットばかりだと思っています』とさえ発言しているほどだ。もちろん、ソフトの存在に警鐘を鳴らす者もいる。ソフトの存在をどう評価するかは、まだまだ様々な価値観が入り乱れているのだ。
また、ソフトの登場と直接的な関係があるのかと言われればちょっと疑問符がつくかもしれないが、こんな指摘をする棋士もいる。
『開発者は純粋にソフトを強くしたいと思っている方々ですし、技術に対する意欲が強い。棋士以上にまじめだと思いますよ。そもそも棋士がどれぐらいまじめに将棋をやっているのか、私には疑問です。たとえば一部のベテラン棋士には、「真剣に取り組んでいるのかな」と思うような人がいますからね。それと比べると、開発者の方がよっぽど熱意があると思います(千田翔太)』
『もちろん将棋界にも問題はあります。プロが負ける姿を世の中におもしろおかしく見られてしまうのは、いままで将棋界が胡座をかいていたせいでもあるので。
―胡座をかいていたというのは?
“産児制限”を設ける、つまりプロ棋士になれる人間を厳しく限定して、その代わりにプロになってしまえばある程度は生活を保障する、という互助会的な制度だったことは否定できません。勝負の世界なのに、活躍できなくてもなんだかんだと食べていけたわけです。それは将棋界の甘いところだし、守られていたところだったでしょう。プロ棋士って本当に強いの? と訊かれて胸を張れる人は何人いるのか。だからいまは、将棋界の根本的なところに対して、ソフトというナイフを突きつけられているんです(行方尚史)』
棋士自身から、将棋界全体に対する問題提起がなされる。これもまた、「強制」の少ない将棋界ならではのことかもしれない。「胡座をかいていた」棋士もいるという中で、ソフトの存在がどう将棋界を変えていくのか。こういう問題意識を持つ人間がいるという事実が、将棋界の明るい未来を示唆している、と考えるのは、楽観的に過ぎるだろうか。
大川慎太郎「不屈の棋士」
「LION/ライオン~25年目のただいま~」を観に行ってきました
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内容に入ろうと思います。
インドのカンドワという町に住む少年のサルーは、兄のグドゥの仕事をよく手伝っていた。石炭を積んだ列車から石炭を盗み出すのもお手の物だ。石運びをしている母親を楽させようと、妹であるシェキラの面倒もちゃんと見る。
ある日グドゥが一週間ほど仕事をしに家を離れるという時、サルーも一緒に行きたがった。夜間の仕事だからサルーにはまだ無理だ、という兄の言葉を聞き入れず、サルーは兄についていく。しかしやはりまだ子どものサルーは、途中の駅で睡魔に襲われてしまう。兄は、駅のベンチでうとうとするサルーに、ここで待ってろよ、と言って仕事を探しに行く。
目覚めて兄がいないことに気づいたサルーは、辺りをうろうろする。停車中だった列車に乗り込んで兄を探すも、やはりいない。そこでサルーはまた眠り込んでしまう。
気づいたら、列車は動いていた。回送列車らしく、2,3日止まること無く走り続けた。
たどり着いたのは、カンドワから東に1600キロも離れたカルカッタ。ヒンディー語だったカンドワとは違い、ベンガル語であるカルカッタでは言葉も通じない。サルーはそこで2ヶ月ほど野宿でやり過ごした後、施設に保護される。
その施設で彼は、サルーを引き取りたいと思っている家族がオーストラリアにいると知らされる。サルーはオーストラリアへと移り住み、20年の時が経った…。
というような話です。
実話を元にした映画です。映画のラストには、実際の映像で、オーストラリアの育ての母と、インドの生みの母が会うシーンが挿入されます。なるほど、実際にこういう出来事があったんだな、と思うと、感慨深いものがあります。
とはいえ、映画としてはどうなのかというと、僕は良いとは思えなかったなぁ。実話を元にしているから仕方ないとはいえ、そうなるんだろうなぁ、というような展開が続いていくような映画だな、と思ってしまいました。
大人になったサルーが、突然インドの家族のことに執着し始め、色んなことを投げ打って故郷を探そうとする、というのも、僕の中ではうまく理解できなかったな、と。まあ、人間なんてそんなもんだと言われればそうなんですけど。一応ストーリーの中では、グーグルアースで探す、という手段があるのだと気づいてから故郷探しにのめり込んでいくことになる、という流れだから、分からないわけでもないんだけど、それまでも故郷のことを気にしていたんだ、というような描写は特になかったので、唐突に思えてしまいました。
この映画の中で一番興味深かったのは、サルーの育ての家族であるジョンとスーの夫婦です。彼らが何故養子を引き受けることになったのか、という理由は、映画の結構後半で明かされるので、あまり書きすぎてはいけないと思うけど、『自分の子を産んで、世界が変わる?』というセリフには、グッときました。
こういう展開を評価する人もいると思うので好みの問題だと思いますけど、僕としては、もう少し何かあって欲しい、そんな風に感じた映画でした。
「LION/ライオン~25年目のただいま~」を観に行ってきました
ひこばえに咲く(玉岡かおる)
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ただしたいからする、というのは、僕にとっては「文章を書くこと」だろうか、と思う。
何故だが、文章は書きたくなる。これは、「誰かに何かを伝えたい」とか「文章を書く練習をしたい」というような動機ではない。それらがまったくない、とは言わないが、そういうものよりももっと、ただ「書きたい」という気持ちになる。
自分でも、良く分からない。
僕は、なんだかんだこうして文章を書き続けてきたお陰で、「文章を書くこと」が仕事に役立てられるようになった。それは、とても運が良かった。文章を書くことが出来る、というのは有用性が高くて、色んな範囲で役に立つ。自分でも、文章を書くことを続けてきて良かったなぁ、と思っている。
ただしたいからする、という欲求は、どんな風に生み出されるのだろう、と思う。僕は、元々理系の人間だ。国語は大嫌いだった。本は読んでいたが、いわゆる本が好きな子どもが読むような本は読まなかった。特別文章が上手い子どもでもなかった。
僕がちゃんと文章を意識して書くようになったのは、たぶん20歳くらいからではないか。初めは、書きたくて書いていたわけではない。初めは、本を一冊読んだらその本の感想を必ず書く、というルールを決めて、無理やり書いていた。正直、文章の書き方なんて知らないし、その当時は長く文章を書くなんて全然出来なかった。
いつから、無理やり書く、から、書きたい、に変わったのだろう?
今でも、そう決めたから書きたくないけど書いてる文章もある。書く文章のすべてが、書きたくて書かれたものではない(これは、文章を書くことが仕事に活かせるようになった弊害と言えば弊害である)。とはいえ、やはり僕が文章を書き続けているのは、書きたい、と思うからだ。過去を振り返ってみて、「本を読む度に感想を書くことに決めて、粛々と書き続けた」という経験以外、文章を書くことに親しむ経験なんてほとんどないのに、どうして自分の内側からそんな欲求が湧き上がってくるのか、よく分からない。
『描くためだけの絵もあるんでねえか』
僕には到底、ケンの気持ちは分からない。画家であるケンは、『人が、食べたら排泄しないと死んじまうように、描かなきゃどこか胸の一部が詰まって死んじまうやつだっているべ?』と語る。僕には、そこまでの感覚はさすがにない。けれど、なんとなくは分かるつもりだ。僕は、感想を書くところまで含めて読書だ、と考えている。今では、読んだ本に関して感想を書かないことが気持ち悪く思えてしまう。
ケンの『描くためだけの絵もあるんでねえか』というのは、お金に換えるなんてことのために絵を描く以外のやり方もあるのではないか、という主張だ。これだけ聞くと、芸術家を気取った若者の理想論のようにも聞こえてしまうかもしれない。
しかしケンは90歳になるまで、ほとんど青森から出ることなく、150枚以上の絵を描き、納屋に押し込めていた。誰から評価されることも、まして誰かに絵を見てもらうことすら望まないまま、ひたすら魅惑的な絵を書き続けたのだ。
『描くためだけの絵もあるんでねえか』
そんな男の言葉だと思って聞くと、全然違った風に聞こえるはずだ。
『「あのですね。―誰に見せるつもりがないなら、百五十枚ものこの作品、いったいどういうつもりで描きためたのですか?」
眼鏡の下で、困ったような目がさまよう。香魚子は重ねて聴いた。
「こんなところに押し込むしかない絵を、どうして一生懸命、描いてるんですか?」
何が訊きたいか、今度はわかってくれたか、という目でケンを睨む。
だが、ケンの答えは香魚子の予想を超えていた。
「そりゃあ絵描きは絵を描くだろ。船頭が船をこぐようなもんだ」』
理由を考える理由さえ思いつかないまま、ケンはひたすらに絵を描き続ける。
特殊な環境があったとは言え、こんな風に生きられるとしたらいいな、と思える一生だった。
内容に入ろうと思います。
若瀧香魚子は、父が始めた銀座の骨董店で働いていたが、父がその骨董店の閉店を決断し、自らの身の振り方を考えなければならなくなった。既に50代。素晴らしいものを見る目と、人を惹きつける能力に長けた父に庇護の元不自由なく育ったが、自分の才覚で何かをやるという決断のなかなか出来ない年代だ。パリには、3年ほど付き合っている恋人がいる。黒岩俊紀は妻子ある身だが、日本とパリとで離れて暮らしているが故に、家族との関わりは薄い。ついぞ結婚しなかった女と、結婚しているがパリで一旗上げようと起業した男。男の事業が右肩下がりで下降している現実を前に、二人の恋の灯火も危ういものになっている。
骨董店の閉店準備を進め、また俊紀との関係がどうにもどん詰まりに陥っていたある日、まったくの偶然に、香魚子はある無名の画家の画集を目にすることになった。上羽研(ケン)というその画家の絵に、香魚子は魅入られた。ひと目この絵を見たい。思いつきで、ケンの住む青森まで言った香魚子は驚いた。
画集に載っていた、見る者の心を揺さぶる絵が、納屋に押し込められるようにしてひと目に触れない場所にしまわれていた。
この絵を多くの人に見て欲しい。そういう思いに駆られた香魚子は、閉店した骨董店の跡地をギャラリーに変え、その第一弾として上羽研展を行うことに決めた。俊紀の事業が下降するのに反比例するかのように香魚子の事業はトントン拍子に進み、それもまた、二人の関係に少なくない影響を及ぼす。
また、口数の少ないケンに変わって渉外すべてを担当する馬力のある70代の緒方芙久(フク)は、ケンのことを「オヤブン」と呼び、若い頃から慕ってきた。彼らには、絵画を介した長い長い歴史があり…。
というような話です。
かなり素晴らしい作品でした。香魚子と俊紀の現代の話と、ケンとフクの過去の話が折り重なるようにして進んでいき、時代時代の苦難を乗り越えながら「生きていく」ということを考えさせる物語だなと感じました。
何よりも、ケンが素晴らしいですね。ケンは、実在のモデルがいるらしいです。巻末に載っている参考文献の書名に、恐らくこの人物なんだろう、と思う名前がありますが、一応ここでは書かないことにしておきましょう。
ケンが実在した人物だ、という事前情報は、この作品を読む上で非常に重要だと僕は思っています。というのも、ケンという存在は、いやーそんな奴おらんやろ、と思ってしまうような非実在感を抱かせるものがあります。一流の批評家をもうならせる絵を描きながら、青森からほとんど出ることもなく、誰に見せるでもない絵を描き続ける。それは、実在の人物がいた、という情報があるからこそリアルに感じられる側面はどうしてもあると思います。
ケンのように生きられたら、と多くの人が思ってしまうのではないだろうか。何も望まず、何にも囚われず、目の前にあるもので、自分に今出来ることで満足する、という生き方。それは、出来るかもしれないことを、手に入るかもしれないものを諦めるような生き方に見えるかもしれないけど、たぶんそうじゃない。うまく説明できないけど、望まないことが結局、望んだ場合以上の何かを生み出すことがある、と僕自身が思っているからそんな風に感じるのかもしれない。
僕も、何の目的もなく、ただ書きたいというだけで文章を書き続けてきたけど、そのお陰で、自分が望んでもいなかったような現実がやってきた(詳しくは書かないが)。ケンも、もしかしたら同じなのではないか。何のため、ということもなく、ただ絵を描き続ける。そのことが、作品の質を高め、さらに物語を生み、死の間際に盛大な評価を得るに至ったのではないか。望むことで、その望んだものが手に入りにくくなる、ということは、起こりうるのではないか。そんな風にも感じた。
とにかく、ケンの存在感(ほとんど喋らないのだけど)に溢れた物語だった。
フクもまた良い。ケンを「オヤブン」と慕い、ケンを世に出すために奔走し続けてきた女。香魚子と出会ってからは、ケンの展覧会を成功させるために出来る限りのことをやった女。そんな彼女もまた、厳しい時代を生き抜いてきたのだった。東北の、厳しい貧しさの中で育ったケンとフクが、何故絵を描くことと出会い、二人がどこで出会い、日々どんな風に生きてきたのか。後半のメインとなるその辺りの物語も、実に読み応えがある。
物語を動かしていく香魚子は、恐らく最も読者に近い立ち位置の人物だろう。不自由なく育ったが、始末に負えない妻帯者との恋や、奔放な父が突然止めると言った骨董店の後始末など、どうにもならない現実に絡め取られながら生きている。その悲哀が、作品の隅々から漂ってくる。泰然自若としたケンや、何事にも前向きなフクの有り様には、正直遠さを感じる人もいるのではないか。境遇こそ様々に違えど、香魚子のような、くたびれ感とでも言うような生き方に共感できる人は多いのではないかと思う。
特に、俊紀との恋の物語は、大人の恋愛だからこそのややこしさみたいなものが非常に色濃く描かれていて面白い。妻子がいたり、パリと日本との距離だったり、俊紀の事業が傾きかけていたりと、様々な要因が絡まり合う中で、好きだとか嫌いだとかでは制御出来ない何かに翻弄される様は、読んでいて滑稽でもあり、切実さを感じもする。
時代背景や境遇などはまったく違うが、読者からすると、香魚子の人生と、ケンとフクの人生とか、様々な場面で共鳴していく。絵を介して出会った三人の人生が、時間を超えたところで折り重なっていく構成は、見事だなと感じる。
生きていくということの切実さや覚悟みたいなものに溢れた作品だ。若さを超え、人生の先が見えてきた者たちが咲かせた美しい花。奇跡的な邂逅から生まれたその花の行く末を読んでみて欲しい。
玉岡かおる「ひこばえに咲く」
ちょうかい 未犯調査室1(仁木英之)
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内容に入ろうと思います。
通島武志は、身内が犯したとある事件により警察を去ることになってもおかしくなかったが、新たな辞令が下り、キャリアでありながらおっちょこちょいな女の子にしか見えない枝田千秋と共に警察庁へと向かっている。
そこで知らされたのは、これまでに蓄積された犯罪情報を元に、犯罪を未然に防ぐ任務に就く、ということだ。表向き彼らは、警察庁の外郭団体である犯罪史編纂室に所属していることになっている。しかし実際は、「繭」と呼ばれる謎めいた機器を千秋が操作することで、データマイニングの技術によって犯罪が起こりやすそうな状況を探り出し、そしてその発生を未然に防ぐ、という任務を行うのだ。
何がなんだかよく分からないまま、武志は、叩き上げの刑事の中では伝説的な存在となっている魚住桂樹、パソコンオタクである木内亮介、「繭」のナビゲーターである金田りえらと共に、一人の少年と、大規模な落書き事件から始まる混迷に身を投じることになるのだが…。
というような話です。
非常に面白そうな設定と展開ではある。物語がどうなるのか、という興味は確かにある。しかし僕には、まず「繭」がなんなのかまったく理解できなかったので、その時点でかなり挫折してしまいました。
「繭」というのは、ゲームセンターにあるような、体ごと入る筺体みたいなものがある(というのが僕のイメージ)で、その中に千秋は入ってるようだ。でも、武志と桂樹も入っている感じもする。
それで、その「繭」の中で彼らが何を見ているのかが、全然想像できない。ドラえもんでタイムマシンに乗ってる時に彼らがいるような空間みたいな、現実とは違うデータによって組み上げられた空間にいるんだろう、みたいなイメージなんだけど、でもどうも現実の映像(と言っていいのか)も映るようだ。「繭」の中で、千秋が一体何をしているのかも不明だ。恐らくそれは、物語の核心と関わりがあるだろうから分からなくて当然なのかもしれないけど、しかし登場人物の中に、読者と同じ困惑を体験してくれる人物がどうもいなくて(武志も桂樹も、まったく戸惑っていないわけではないが、千秋が何をしているのかという部分への違和感がどうも見えてこない)、僕は置き去りにされているような感じがした。
「繭」の中で、現実と変わらない映像を見ることが出来る、と思いながら読んでいる僕としては、千秋や武志や桂樹が「今いる場所」が、「繭から見た光景」なのか、「彼らが現実にその場にいる」のか分からなくなる場面もあった。「繭」から見てるんだろうなぁ、と思いながら読んでたらそうではなかったということがあった。
「繭」そのものの描写もなかなか理解し難かったのだけど、「繭」によって彼らが何をしようとしているのかもイマイチ分からなかった。彼らの目的が、犯罪を未然に防ぐことだ、ということはきちんと理解している。しかしそうではなくて、「繭」を使って彼らが何をしたいのかが分からない。「繭」が「犯罪を未然に防ぐこと」とどう関わっているのかが、僕にはイマイチ見えてこないのだ。武志と桂樹は、元々現場の刑事だから、足を使って情報を集めてくる。亮介は常軌を逸したパソコンオタクだから、街中の防犯カメラや他人の携帯電話なんかにも侵入して勝手に情報を取ってくることが出来る。彼らがやっていることは、やっていることと成果が結びつきやすい。しかし、「繭」がどう絡んでいるのか。千秋が「繭」で何をして、それが「情報を取る」という点においてどんな役割を果たしているのかという点が、どうにもうまく掴めなかった。
「繭」の存在を除けば、千秋のキャラクターも面白いし、武志が陥っている状況のジレンマも凄まじいし、少年と落書きから始まった物語が壮大な展開を見せる流れも面白いと思う。しかし、「繭」だ。「繭」のことが、僕にはどうにも理解できなかった。
「繭」のことをもう少し伝わりやすく書いてくれるか、あるいは「繭」という設定を丸ごと取り除いてもらえたら、面白く読めるような気がしました。
仁木英之「ちょうかい 未犯調査室1」
月の満ち欠け(佐藤正午)
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物理学には、「ひも理論」という理論がある。これは、原子というのは、ひも状のものが振動することで異なる性質を持っているのだ、というようなところからスタートする理論だ(詳しくは知らない)。ひも理論は、理論としてとても美しいようだ。その美しさを、僕自身は理解することは出来ないが、そういう記述を頻繁に見かける。もしこの理論が正しいとしたら、世界のあり方を説明するのにぴったりな美しさだ、と。
しかし、一つだけ問題がある。それは、問題となる「ひも」があまりにも小さいため、現在の技術では観測することが不可能なことだ。もしひも理論が正しいとしたら、今よりも遥かに小さなものが見える顕微鏡を開発しなければならないが、それは技術的に不可能なのではないか、という意見もあるようだ。
さてこの場合、ひも理論の扱いはどうなるのだろうか?
科学の世界では、証明できない理論は、たとえその理論がどれだけ整合性のとれた素晴らしいものであっても意味をなさない。あくまでも、証明できることが大事なのだ。ひも理論は、「ひも」を観測することが出来ない。よくは知らないが、ひも理論が予測する何らかの効果を測定することも、きっと難しいのだろう。
とはいえ、証明できないからひも理論は成り立たない、ということでもない。実際に、僕らが生きているこの世界は、ひも理論によって成り立っているのかもしれない。けれど、僕らはそれを確認する方法を持たない。そういうことだ。
さて、生まれ変わりというものについて考えてみよう。これは、証明できるだろうか?
前世の記憶がある、知っているはずのない知識を喋った、クセが同じだ…というようなデータを取ることは出来るだろう。しかしそこから、「生まれ変わり」という現象を証明することは難しい。
例えば、知っているはずのない知識を喋ったとか、前世の記憶があるとかいう話には、こんな理屈をつけることだってできる。
「脳」と「記憶」が、「鍵」と「鍵穴」のような関係なのだとしよう。そして「記憶」というのは、脳内にただ留まっているわけではなく、常時空気中に放出されているとしよう。通常、「脳」と「記憶」は、形状が一致しなければ認識しない。Aさんの「脳」とAさんの「記憶」は形状が一致するので、AさんはAさんの「記憶」を脳内で再生できるが、Bさんの「脳」とAさんの「記憶」は形状が一致しないので再生できない。
しかし、極稀に、他人なのに「脳」と「記憶」の形状が同じ人がいる、とする。その場合、空気中に漂っている、まったく知らない誰かの「記憶」が、自分の「脳」で再生されることになる。
これが、前世の記憶や知らない知識の混入の説明である、と主張することも出来る。無理矢理考えれば、何故そんな仕組みが人類に採用されているのかも説明できる。人間は、突然死ぬ可能性がある。その場合、その人の思考は失われてしまう。しかし、「脳」と「記憶」がこういう仕組みになっていれば、いずれ誰かがその思考を拾う可能性がある。知識や思考という、人間を人間足らしめている要素を無益にしないための仕組みなのだ。もしそうなら、突然インスピレーションが湧くとか、今まで考えたこともなかった発想が浮かぶ、なんていう状況の説明も出来るかもしれない。
なにも、僕自身がこんな話を信じているわけではない。しかし、仮に「生まれ変わり」という仮説を信じるのであれば、僕が提唱した「脳・記憶仮説」を否定する理由もないはずだ。科学では扱えない理論であり、証明できないという点で両者は等価なのだから。
与えられた条件を満たす仮説など、恐らくいくらでも思いつけるはずだ。その中で「生まれ変わり」という仮説だけが特別な理由はない。あるとすれば、その仮説が僕らにとって受け入れやすく馴染みやすい、というぐらいなものだ。しかし、物理や化学の世界を少し知っていれば、僕らが生きているこの世界が、あまりにも僕らの日常感覚からかけ離れた理屈で動いていることを知ることが出来るだろう。受け入れやすいからと言って正しいとは限らないのだ。
だから、僕にとって「生まれ変わり」という現象は、科学的に証明する手立てがないのだから議論する価値はない、となる。もちろん、いずれ証明できる日が来るかもしれない。それはひも理論も同じだ。しかし、少なくとも今は証明できない。それは結局、いくらでもありえる仮説の一つに過ぎない、ということだ。
内容に入ろうと思います。
小山内堅は、八戸から東京までやってきた。ある少女に会うためだ。緑坂るりという7歳の少女は、会ったこともない小山内のことを「知っていた」。
何故なら彼女は、14年前に事故死した小山内の娘・瑠璃の生まれ変わりだ、というのだ。
小山内は、瑠璃のことを思い出す。ある時妻の梢が、瑠璃がおかしい、という。謎の高熱にうなされた後のことだ。ぬいぐるみに、「アキラ」という名前をつけている、という。小山内には、それのどこがおかしいのか分からない。しかし妻は重ねて言う。瑠璃は、黛ジュンの歌を口ずさんでいたんですって。デュポンのライターを見分けたんですって。ママ友や先生から聞いた話を小山内に聞かせる。小山内は、大したことじゃないだろう、と考えていた。その後、瑠璃は突然失踪した。彼らが住む千葉から高田馬場まで、小学生の身で一人で行ったという。その行動の意味はよく分からないが、小山内はそれでも瑠璃を特別おかしいと思うことはなかった。
事故で妻と娘を一遍に亡くした小山内は、長い時を経て、三角哲彦と名乗る一人の男性の訪問を受ける。14年前の妻と娘の葬儀にも顔を出してくれたらしいが、小山内は覚えていない。非の打ち所のない三角の経歴に、一点だけ曇りがある。大学を5年掛けて卒業しているのだ。
その空白の一年の話を、三角は語る。レンタルビデオ屋でアルバイトしている時に出会った、一人の女性の話を…。
というような話です。
評価の難しい作品だ。個人的には、さほどグッと来なかった、という感じだ。
偉そうな評価になるが、よく出来ている、とは感じる。生まれ変わりという、まあ言ってしまえば胡散臭い題材を、うまく物語に落とし込んでいる。様々な人物が登場するが、物語があまり複雑にならないようにうまく調整しているようにも感じられる。
ただ、僕の感触としては、リアルに寄せすぎたが故に中途半端になってるような気がしてしまった。
「生まれ変わり」という非現実的な題材ならば、その設定をフルに活かしてもっと空想の羽根を広げてもいいんじゃないか、という気がした。「生まれ変わり」という題材をリアルに描き出そうとするが故に、物語の広がりみたいなものが限定的になってしまっているように感じられる。巨人が狭い箱の中で伸びをしようとしているような作品に感じられた。
生まれ変わっているのかどうか、という点が、ミステリのような形で後に後に引き伸ばされているように感じられるのも、個人的には難しいのかもしれないと感じた。冒頭で書いたように、「生まれ変わり」という現象は絶対に証明出来ない。物語の中であれば、読者にそう錯覚させる風に描き出すことは出来るはずなのだが、本書ではそれを最後の最後までしない。「本当に生まれ変わっているのかどうか」という点を、謎のように引っ張っているように感じられてしまった。もちろん、それが作者の意図であるのかもしれない。しかし僕には、その部分で物語を引っ張っていくのは厳しいのではないか、と感じてしまった。何らかの形で、物語の早い段階で、「生まれ変わっているのだ」ということを打ち出してしまって、それを前提として物語が進んでいく方が、個人的には好きになれるような気がする。
生まれ変わっているかどうかで物語を引っ張っているように感じられるのは、生まれ変わっている本人たち視点で物語が進んでいかない、という部分も大きい。基本的には、生まれ変わっている者の周囲の人間たちの視点で物語が進んでいく。だからこそ、生まれ変わっている者たちの内面がなかなか見えてこない。生まれ変わっているのかもしれない、という葛藤を抱える周囲の人間の苦悩みたいなものを描く、という点ではこの物語は成功している。しかし読みながら僕は、生まれ変わっている者たちが何をどう感じているのか、という部分に関心が向いた。もちろん、それはこの物語で著者が書きたかったことではないのだろうし、読者に想像してもらいたい部分なのだろう。ただ、僕の好みではないなぁ、と思ってしまった。
この物語の中で僕が面白いと感じたのは、三角哲彦の大学時代のパートだ。この部分だけが、この物語の中で唯一「当人同士の物語」だと言えるかもしれない。そこに、切実さを感じることが出来る。彼らの物語には生まれ変わっている「かもしれない」、の部分がないので、スッと受け入れることが出来るのだ。
僕としては、もう少し違う形で物語が進んでくれたら良かったな、と感じられる作品だった。
佐藤正午「月の満ち欠け」
哲学的な何か、あと科学とか(飲茶)
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久々に、ド級に面白い作品を読んだ。
自分の趣味のど真ん中、ということももちろんあるが、面白かった理由はそれだけではない。
正直なところ、本書に書かれている事柄は、ほとんど別の本で読んで知っていることばかりだった。そういう観点から本書を捉えれば、面白い本ではなかった、という感想になってもおかしくはない。
けど、そうはならなかった。
何故か。
それは、本書が「科学のびっくりする話を集めてみました」というような造りの本ではないからだ。
本書にはきちんと、「科学とはどういう営みなのか?」を伝えたいという、強い意志が込められているのだ。
『などなど、哲学的な視点で「科学的な正しさ」を問いかけていくと、実はそれがかなり危ういものだと気づかされるだろう。いままで確かだと思っていた景色がガラガラと崩れる瞬間は、怖いけども、ちょっぴり楽しかったりもする。』
本書は、主に科学のエピソードを様々に取り上げながら、「科学とは何か?」を伝えようとする。そういう意味で本書は、日常を生きる僕たちが読んでおくべき一冊だと感じるのだ。
何故なら、僕たちの日常は「科学的なもの」に取り囲まれているにもかかわらず、僕たち自身の手や目でその「科学的なもの」を確認することが出来ないほど複雑になってしまっているからだ。
たとえば。築地移転において豊洲の土壌汚染の問題が発覚した。多くの国民は、築地市場は既に耐震性や衛生面で問題を抱えているというのに、豊洲の土壌汚染の方を重視し、豊洲への移転を「安全ではない」と判断しているような印象がある。そしてそういう中で、土壌汚染を調査している科学者のチームにマスコミの人が「安全かどうか」を問うている場面をテレビで見かけて、それは科学者に向ける問いではないなぁ、と僕は感じてしまうのだ。
人は「科学」と聞くと、現実をはっきりと理解し、物事を明確に判断するものだという印象を受けるようだ。どんな仕組みかは分からないが、「科学」というブラックボックスを通せば、世の中のあらゆることに白黒つけることが出来る、と思っているようだ。だからこそ、豊洲の問題についても、科学者に対して「安全かどうか」を問う、という行動が生まれるのだ。
しかし、「科学」というのはそういう営みではない。本書を最初から最後まで読めば実感できるだろうが、「科学」というものを通せば通すほど、余計に目の前の現実が分からなくなっていくのだ。「科学」というのは、物事をくっきりさせるどころか、より深い混沌へと導くものでもあるのだ。
本書を読み、「科学」というのがどんな営みなのかを理解すれば、「科学」というブラックボックスに放り込めば何でも分かる、なんていう幻想は消え去るだろう。
科学者は、「科学」の限界をきちんと認識している。認識しているからこそ、「科学」という「道具」を使って、有益な成果を生み出すことが出来るのだ。本書は、その限界の一端を垣間見せてくれる作品だ。「科学」に出来ることと出来ないことをきちんと見極めることで、「科学的に正しい」という言葉が何を意味しているのかきちんと理解できるようになるだろう。驚くかもしれないが、「科学的に正しい」というのは必ずしも、「現実がそのようになっている」ことを保証しないのだ。
『そもそも、科学の役割とは、「矛盾なく説明でき、実験結果を予測できる理論を作ること」である。
だから、ぶっちゃけ、「観測する前は波!観測されると粒子に大変身!」ということが、「本当に起きているかどうか」なんてことは、科学にとって、どうでもいいことなのだ』
この発言の背景を少しだけ説明しよう。量子力学という物理の分野に、二重スリット実験という有名な実験がある。詳細は省くが、その二重スリット実験によって、「光は波でもあり、同時に粒子でもある」と考えなければ説明がつかない実験結果が得られたのだ。これは、僕たちの日常感覚からすれば到底受け入れることが出来る考え方ではない。そもそも、波でもあり粒子でもある状態、なんて誰も想像出来ない(これは、そう主張している科学者にしても同じことだ)。
しかし、「光は波でもあり粒子でもある」と考えると、目の前の実験を矛盾なく説明でき、また何らかの実験をした場合の結果を予測出来るのだ。
だったら、とりあえずそう考えようぜ、というのが「科学」という営みのスタンスなのだ。
『だから、決して科学は、「コペンハーゲン解釈(注:光は波でもあり粒子でもある、という考え方)が説明するとおりに、現実もホントウにそうなっている」とは述べていないことに注意してほしい』
恐らくこれは、あなたが抱いていた「科学」というものに対するイメージを大きく変えるのではないかと僕は思う。「科学」というのは、目の前で起こっている現象をきちんと理解した上で理論を組み立てるのだ、と思っていたのではないだろうか。でも、そうではないのだ。目の前で何が起こっているのかはまったく分からないが、とりあえずこう考えると矛盾しない理論が作れるし結果の予測も出来るから、じゃあそういうことが起こっていることにしようぜとりあえず、と考えるのが「科学」なのである。
『だから…。
この世界は、ホントウはどうなっているの!?世界は、いったい、どのような仕組みで成り立っているの?
という、古くから科学が追い求めてきた「世界のホントウの姿を解き明かす」という探求の旅は、科学史のうえでは、すでに終わっているのである。
科学は、世界について、ホントウのことを知ることはできない。
「ホントウのことがわからない」のだから、科学は、「より便利なものを」という基準で理論を選ぶしかないのだ』
信じられないかもしれないが、これが現在の「科学」が行き着いた到達点である。科学者は、この限界についてきちんと理解をしている。だから、「科学」の範囲で出来ることを探し、日々新たな成果を生み出している。しかし、科学者ではない者は未だに、「科学」というものを万能であるかのように感じてしまう。「科学」というブラックボックスに放り込んだものは真実の姿を見せるのだ、と思ってしまう。
ここに、大きなギャップがある。このギャップは、科学者にとっても科学者でない者にとっても不幸しか生まない。このギャップを埋めることが、「科学」が人類にとって有用であり続けるために最も重要なポイントだと言ってもいいだろう。
ここまで読んで、なーんだ「科学」って役立たずじゃん、と思った方がいたとすれば、それは違うと僕は言いたい。確かに、「科学」では「世界のホントウの姿」を明らかに出来ないかもしれない。しかし、「科学」が人類に様々な恩恵や成果を与え続けてきたし、これからも与え続けるのだということだけは間違いない。結局のところ、「科学」に何を求めるかの問題なのだ。「科学」に幻滅したとすれば、それはあなたが「科学」に対して望んでいるものは的外れだ、ということに過ぎない、ということが、本書を読むと理解できるだろう。「科学」という営みが人類全体にとって有益であるためには、「科学」によって出来ることは何で、出来ないことは何なのかということについて、社会全体で共通の認識を持つことだろう、と僕は思う。
そういう意味で、本書はむしろ、「科学」が苦手だったり嫌いだったりする人に読んで欲しいのだ。あなたが思い込んでいる「科学」の姿を打ち砕き、「科学」に何を求めるべきなのかをきちんと理解してもらうために、本書を読んで欲しい。
さてここまでで僕は、「科学とは何か?」というものを、「科学が担うべき役割」という側面から描いてきた。本書の中では、また別の側面から「科学とは何か?」を描き出す。それが、「科学でないものとは何なのか?」という側面だ。
よく「エセ科学」や「ニセ科学」という言葉を見かけることがあるだろう。これらはもちろん、「科学ではない」という意味で使われているのだが、それでは「科学ではない」とは一体どういう意味だろうか?
これも、きちんと理解しておくべきだろう。日常の中には「エセ科学」が溢れている。目の前の事柄が「科学」なのか「エセ科学」なのかを見極めるための指標を知っておくというのは、とても大事なことではないかと思う。
「科学」と「エセ科学」を区別することは、実はとても難しい。というのも、「エセ科学」であっても、どこからどう見ても矛盾しない理論、というのはいくらでも存在するからだ。
ここで少し、「非ユークリッド幾何学」について話そう。
本書の前半で、「公理」という項目がある。「公理」というのは、「あまりにも当たり前だから証明しなくてもいいよね」という法則だ、と思ってもらえたらいい。例えば、「線分の両端は無限に延長できる」などだ。これは、どう考えても当たり前だろう。
さて、その「公理」の中に、「二つの平行線は互いに交わらない」というものがある。これも、そりゃあそうだろうよ、と思うくらい当たり前の法則だろう。数学の根本を成す「公理」は5つあり、平行線は交わらないという公理は「平行線公準」と呼ばれている。紀元前からこの「公理」をベースに数学というのは組み立てられており、5つの「公理」をベースにした数学を「ユークリッド幾何学」と呼んでいる。
1800年頃、あの天才数学者・ガウスが、この「平行線公準」を満たさないとしても、つまり「二つの平行線が互いに交わる」と考えても、矛盾のない幾何学の体系を作り出せることが分かった。それは「非ユークリッド幾何学」と呼ばれ、実は僕らが生きている現実により近いのは「ユークリッド幾何学」ではなく「非ユークリッド幾何学」であることも判明したのだ。
『このことの最大の問題点とは、
「適当に、好き勝手に、公理を決めてしまっても、無矛盾な理論体系をいくらでも作り出せる」
ということなのだ』
「非ユークリッド幾何学」の発見によって、「絶対的な真理の記述」というのが幻想であり、あらゆる学問の理論体系は、「ある一定の公理をもとに、論理的思考の蓄積で作られた構造物」と見なされるようになったのだ。
さて、話を「エセ科学」に戻そう。「適当に、好き勝手に、公理を決めてしまっても、無矛盾な理論体系をいくらでも作り出せる」ということが判明した以上、理論がそれ自体で矛盾を孕んでいるかどうかを、「科学」と「エセ科学」の境界にすることは出来なくなった。
これは困った。この問題が浮上した当時、怪しげな理論がどんどん生まれ、それらの中から「科学ではないもの」を排除する必要に迫られていたのだが、誰もその境界を示すことが出来なかったのだ。
そこで登場したのが、ウィーン学団。彼らはウィーン大学の哲学教授を中心としたグループで、「論理実証主義」によって「科学」と「エセ科学」を見極めてやる、と主張したのだ。
さて、その結果どうなったのか。なんと、「科学と擬似科学のあいだに、境界線はない。ていうか、擬似科学しか存在しない!」という結論になってしまったのだ。多くの科学者が「科学」だと考えているものまで、ウィーン学団にかかってしまえば「エセ科学」扱いされてしまったのだ。
これも困る。なんとか「科学」と「エセ科学」に境界を見つけることが出来ないだろうか。
そこで登場したのがポパーである。ポパーが提唱したのは、「反証可能性」というものだ。大雑把に言えば、「反証可能性を持つものが科学であり、反証可能性を持たないものがエセ科学だ」とポパーは主張したのだ。
では、反証可能性とは何か。噛み砕いて言えば、「その理論が間違ってると指摘される可能性」のことだ。
例を挙げて説明しよう。昔読んだ本には、こんな例があった。透視が出来る、という男がおり、とある教授が実験を行っている。実験の詳細は何でもいいのだが、とにかくその男が透視が出来たと示せるような実験を、観客の前で行うのだ。
しかしその教授は、実験の前にこんなことを言う。
「もしこの部屋の中に、この男の透視能力を疑う者が一人でもいれば、彼は透視能力を発揮できない」
さて、この状態で実験をした場合、どういうことが起こるだろうか。
透視が出来た、という結果が出れば、それはいい。問題は、透視が出来なかった、という結果が出た場合だ。この時教授は、男に透視能力がないことを認めないだろう。何故なら教授は、「透視が出来なかったのは、この部屋に彼の透視能力を疑う者がいたからであり、この結果は彼の透視能力を否定するものではない」と主張できるからだ。
さて、この実験の場合、「透視が出来る、という主張が間違っていると指摘される可能性」はあるだろうか?透視が出来た、という結果が出れば正しいことになるし、透視が出来なかった、という結果が出れば観客が疑っていたせいにする。つまり、どんな結果が出ても、「透視が出来る、という主張が間違っていると指摘される可能性」はゼロなのだ。
この状態を「反証可能性がない」と言う。つまりこれは、「科学ではない」「エセ科学」だと考えていい。
『一般に「科学」と言えば、「明らかに正しいもの」「間違っていないと確認されたもの」というイメージを持ちがちであるが、実はそうではないのだ。面白いことに、「科学」であることの前提条件とは、「間違っていると指摘されるリスクを背負っているかどうか」なのである』
これは非常に面白い観点だと思わないだろうか?この視点もまた、「科学」というものの捉え方を一変させるだろう。
もちろんこの反証可能性という考え方も、決して万能ではない。究極的には、すべての科学理論は反証不可能だと言えてしまうのだ。だから本書には、こんな風にも書かれている。
『つまり、科学理論とは、
「うるせぇんだよ!とにかくこれは絶対に正しいんだよ!」
という人間の<決断>によって成り立っており、そのような思い込みによってしか成り立たないのだ』
とはいえ、反証可能性というのは一つの指標になることは間違いない。法律でもルールでも宗教でも何でもいい、目の前に何らかの理論めいたものがあった時に、「この理論が「間違っている」と指摘できる可能性はあるだろうか?」と考えてみよう。どう考えても「間違っている」と指摘できない場合、それは怪しげな理論だ、と思っていいかもしれない。
ちなみにこの「反証可能性」は、科学には当てはまるが、数学には当てはまらない。数学の場合、「数学的に証明された理論」は、未来永劫絶対に覆ることはない。もちろん、証明そのものに欠陥があるような場合は別だが、その証明が完璧であれば、数学の理論は覆らない。これが、「数学的に正しい」と「科学的に正しい」の決定的な違いだ。「科学的に正しい」というのは、概ね「現時点ではそう考えられている」という以上の意味を持たないが、「数学的に正しい」というのは、「100%正しい」と同じ意味である。恐らく数学や科学にあまり親しんでこなかった人には、この違いをうまく捉えられていないのではないかと思う。本書を読んで、特に「科学的に正しい」というのがどういう状態を指しているのか、実感して欲しいと思う。
僕たちは、「正しい」という言葉をあまり深く考えて使うことはない。しかし、「正しい」にも様々なグラデーションが存在し、様々な種類がある。本書は、「科学」という営みを「哲学」という切り口で眺めてみることで、「科学的に正しい」ということの意味合いを探っていく本だ。
難しい本に思えるかもしれないが、いくつか引用した箇所の文章を読んでもらえれば何となくの雰囲気は恐らく伝わるだろう、とても読みやすい本だ。扱われている内容は非常に高度で複雑だ(なにせ、科学者自身でさえも理解できていないことなのだから、難しいのは当然だ)。しかし、その難しさの本質をうまく取り出し、分かりやすく易しく説明をしてくれている。本書を理系の人間が読めば、漠然としか理解できていなかった数学や科学の複雑な状況を理解し、疑問が氷解していくことだろう。そして本書を文系の人が読めば、自分が「科学」をどんな風な思いこみで見ているのかが分かり、そしてその思いこみがかなり薄まるのではないかと思う。科学や哲学が嫌いだから本書を読まない、のではなく、嫌いだからこそ本書を読んでみる、そういう風に思って欲しいなと思う。
実に素晴らしい本だった。
飲茶「哲学的な何か、あと科学とか」
「ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命」を観に行ってきました
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たぶん疲れていたんだろう。
映画の前半部、断続的に寝てしまった。
だから、ちゃんと見れたのは後半だけ。
ちょっと楽しみにしていた映画だったから、もう少しちゃんと見れれば良かった、と後悔している。
物語は基本的に、ジャッキーの愛称で親しまれたケネディ元大統領の妻が、夫が暗殺された直後に受けたインタビューと、そのインタビューで語りながら回想する場面で構成されていく。彼女は記者に、「メモはすべてチェックさせてもらう」と告げてから記者を家の中に通した。そして彼女は、時々「これは書いてはいけない」と告げながら、暗殺されたまさにその時の状況を、そしてケネディ大統領との日々を語っていく。
僕には知識としてそもそもないが、ケネディ大統領はアメリカではかなり良い風に捉えられているようだ。この映画の最後で、「誰もがキャメロットを信じている」とジャッキーが語る場面があるが、ネットで調べるとこの「キャメロット」というのはケネディ家を指す言葉であり、栄華を古代の都市の名から取られているのだという。ジャッキーが、夫の死を伝説にするために「キャメロット」という名前を付け、発信したのだという。そんな風にして夫を伝説にするためにジャッキーが何をしたのか、というのがこの作品のメインとなる部分なのだと思います。
「ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命」を観に行ってきました
不発弾(相場英雄)
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もし自分がバブルの時代に生きていたら、馬鹿げた投資に足を突っ込んでいただろうか、と考える。
現代から見れば、バブルの時代がいかにイカれていたかというのは誰だって分かる。しかし、「バブル」などという名前さえ付いておらず、土地の値段や株価は上がり続けるのが当たり前だ、と誰もが思っていた時代に生きていたら、どうだっただろう、と思うことがある。
今の自分の性格であれば、きっとその時代に生きていても、きっと投資には手を出していなかったように思う。絶対、とは言い切れないが、「自分がきちんとルールを把握することが出来ない事柄に手を出すことが怖い」「周りが盛り上がれば盛り上がるほど、それから離れようと意識する」という僕自身の性格を考えれば、アホみたいな投資に手を出して借金を抱えるようなことはきっとなかったに違いない。
そんなことを考えながら、じゃあ今はどうだろう?と考える。時代には、リアルタイムで名前が付くこともあれば、その時期を過ぎてから名前が付くこともある。先程も書いたように、「バブル」というのはたぶん、「バブル」だった時期の呼称というよりは、「バブルが弾けた」というような形で、「バブル」の時期の後に名前が定着したようなイメージがある。
今僕たちが生きているこの時代も、過ぎてしまえば何らかの特徴的な名前が付くような、そんな時代であるかもしれない。その時代を生きている人には気づかない、後から振り返ってみればみんな何をしてたんだろうね、と感じるような、そんな「狂乱」の中に僕らは生きているのかもしれない。そうである可能性は、どんな時代に生きる人にもありえるのだ。
世の中がそうだと言っているからと言って、その事柄の正しさが裏付けられる、なんていうことはありえない。僕らも、知らず知らずの内に「不発弾」を抱えてしまわないように、注意しなくてはいけないと思う。
内容に入ろうと思います。
警視庁捜査二課は、経済犯や知能犯を扱う部署だ。そこで管理官を務めるキャリアの小堀は、新聞で取り上げられている三田電機に違和感を覚える。三田電機は、創業から100年以上の歴史を持つ老舗企業で、洗濯機などの白物家電や半導体製造、あるいは原子力発電所など多岐に渡る事業を手がける、日本屈指の総合電機メーカーである。その三田電機では先ごろ、1500億円を超える“不適切会計”が発覚したばかりだ。小堀は、10年間で1500億円というのは、“不適切会計”ではなく、立派な“粉飾”ではないかと感じている。年上の部下であり、捜査二課のエース捜査員でもある今井巡査部長と共に、三田電機について調べてみることにした。
その過程で掴んだのが、古賀遼という男の存在だ。何者なのかははっきりしないが、古河遼について調べ始めると、彼が関わった企業や信金などで様々なトラブルが起こっていたことが判明する。古賀は北九州の炭鉱町出身だが、その地元信金の重鎮が、「不発弾」という謎の言葉を遺して自殺していることも判明した。小堀らは、古賀を追うことに決めた。
古賀遼こと古賀良樹は、証券会社に勤めていた先輩の話を聞き状況、中堅どころの証券会社の場立ち要員となった。立会場にて手振りで売買を成立させる仕事を長く続けた。そこから縁あって別のステージへと進むことが出来た古賀は、日本経済の発展と凋落に合わせながら、その時々で企業会計の世界で汚れ仕事を引き受けてきた。
まさに古賀こそが、日本中に「不発弾」を埋め込んだ張本人と言ってもいいのだ…。
というような話です。
なかなか面白い作品でした。扱われているテーマはちょっと難しい部分を含んでいて、その点はやっぱり理解がかなり困難です。そもそも短い描写で説明しきれる話ではないでしょう。その難しい部分をどうしてもきちんと理解しないまま読み進めるしかない、という点が唯一難点と言えば難点ですけど、全体的に非常に面白く読ませる作品だと感じました。
本書で描かれる三田電機は、明らかに東芝がモデルになっています。1500億円という巨額の損失隠しが何故行われたのか、そしてそれが何故隠されたままで在り続けたのか、そしてなぜ「粉飾」ではなく「不適切会計」と言い換えられたのか…。もちろん本書は小説であり、現実をそのまま引き写したものではない、という点は注意しなければなりませんが、なるほど、あのニュースの背景にはこんなことがあったのか…と驚かされる思いがしました。
本書を読むと、東芝の“不適切会計”が氷山の一角であるということがよくわかります。本書のタイトル通り、「不発弾」が日本中に眠っていて、いつどこでそれが爆発するのか、ほとんどの人が知らないままでいる。細かな部分まで完全に理解できているわけではないのだけど、本書を読む限り、日本が直面している状況は非常に深刻なのではないか、と感じざるを得ません。
「金」というのは何なのだろうな、と考えさせられます。
僕はいつも、「金持ちにはなりたくない」という発言をしています。もちろん、生活に困るような状況に陥りたくはありませんが、日常の生活がほどほどに過ごせるお金があれば、それ以上のお金を強く望む気持ちは特にありません。実際僕の年収は、同世代の平均年収と比べて大分低いと思いますけど、とりあえず生活していく分には特に不満もないので、あとちょっとあると楽だな、とは思いますけど、無闇矢鱈にお金が欲しいとは思いません。何らかの仕事や成果に対する対価としてもらえるのなら、仕事や成果を評価してもらえた、という側面もプラスされるのでありがたいのだけど、何の意味もなくポンと大金が目の前に現れたら、それを喜べるのかどうか、ちょっと分かりません。
というのも、お金持ちになればなるほど、お金を奪われるリスクに対する対処をしなければならないと思ってしまうからです。その余計な心配をしたり、奪われないために様々な知識を身につけたりする労力が、お金を得るというプラスと見合うのかどうか、僕はいつも疑問に思ってしまいます。
本書で描かれる人々も、結局のところ、大金を扱うだけの知識や技量が足りない人間が多い、ということなのだと思います。古賀を含めた、盤面全体を見渡せるごく一部の人間だけがその能力を有し、それ以外の人間は踊らされているだけ。マネーゲームというのは結局そういうものなのだろうなと思ってしまいます。
金持ちになりたいという人は、なればなるほど金を奪われるリスクが高まる、ということを意識出来ていないのではないか。僕にはそんな風に思えることがあります。
それ自体は、まあいいでしょう。リスクを見なくて困った事態に陥るのが当人であるなら、問題ありません。ただ、本書で描かれているのは、リスクを無視して踏み出したことで巨額の損失を被った場合、その損失を自分以外の何かのせいにする、という企業のあり方です。こういうあり方は、改められなければならないだろうな、と感じます。
僕らが普通に生きている限り見えることのない現実を見事に切り取った作品だと思います。
相場英雄「不発弾」