ハサミ男(殊能将之)<再読>
覆面作家、と言えば北村薫、と出てくる人は割りとミステリーが好きな人でしょう。覆面作家というのは文字通り、経歴を明かさずに作家でいる、という人のことで、北村薫は有名です。今では顔も経歴も明らかですが、デビュー当時は、ミステリ好きが集まればその話題になるぐらい議論が繰り広げられた(ようです)。
さて、この作家、殊能将之というのも覆面作家なわけです。載っている経歴は、「1964年、福井県生まれ。名古屋大学理学部中退」だけですね。同じく覆面作家である舞城王太郎も福井出身で、福井の人はどうも覆面作家であることを好むようです。
内容に触れましょう。
美少女を絞殺し、その喉元に研ぎ上げたハサミを突き立てる猟奇殺人が都内近郊で発生している。マスコミが名付けたのが「ハサミ男」。知的で用心深い「ハサミ男」は、一定の期間を置いて殺人をしていた。
三人目の被害者を選定し、尾行を繰り返し綿密にチャンスを狙う「ハサミ男」。その少女を殺せるチャンスを忍耐強く待ち、尾行を続けていたのだが・・・
なんと、自分とまったく同じ手口でその少女が殺されてしまい、しかもなんとその死体の第一発見者になってしまった!何故その少女は、「ハサミ男」の犯行に似せて、「ハサミ男」以外の人間に殺されたのか。猟奇殺人鬼「ハサミ男」自身が探偵となり、調査を始めるが・・・
すごい話です。設定がすごい。殺人犯が探偵になる、という設定は、俺は他の例を知らないけどたぶんあるでしょう。それでも、この設定の妙はなかなかのものです。
そして、本当に精緻に作り上げられていて、またある瞬間を境に襲ってくる衝撃は、並大抵のものではないです。初読の際は、誇張抜きで度肝を抜かれたものでした。この衝撃は、読んでくれないともちろん味わえないですよ。
「ハサミ男」は、自殺志願者でもあって、幾度となく自殺未遂を繰り返しているわけです。そのどれもが失敗するんだけど、その度に出てくるもう一つの人格<医師>との会話もなかなかすごいものがある。「ハサミ男」自身とは違い、博識で引用好き、という<医師>は、「ハサミ男」が自殺をする度に「ハサミ男」を揶揄する。その精神論というか認識論というか、そうした<医師>の「ハサミ男」に対する姿勢というのも面白い。
また、その事件を捜査する刑事もなかなか個性的で、どうやら刑事の視点である「磯部」という男にはモデルがいるらしい(解説に書いてあった)。
以降、人を喰ったような作品ばかり書き続けている著者であるこのデビュー作は、本当に秩序というものが欠けているという感じがする。エントロピーが加速度的に増大していくようだ。話が進めば進むほどわからないことが増えていく、みたいな。デビュー作にしてこの質は、なかなか衝撃的だと思います。
色んな混沌が収束する終わらせ方もかなりいいと思います。このストーリーが現実的かどうか、それは警察機構のあり方に帰着すると思うけど、まあそうしたものは結構無視してほしいですね。確かに現実的でない部分もあるかもしれないけど、その後の殊能将之の作品を見れば、いかにこの作品が現実的に書かれているか、がわかることでしょう。きっと、その後の作品を書くために、まずは一般受けしやすそうな作品を書いてみました、みたいなノリだったんではないか、と想像します。
どうも映画化するらしいです。でも、この作品は、映像化できるわけないと俺は思うんですよ・・・どうやってこのストーリーを、原作通りに映像化するのか、とても楽しみだったりします(まあ見るかはわかんないけど)。
ちなみにこの作品は、メフィスト賞と言う新人賞受賞作なんだけど、面白いエピソードがあります。このメフィスト賞というのは、雑誌「メフィスト」の誌上で公募していて、その巻末に選考の様子を描いた座談会が載っているようです。それでこの「ハサミ男」という作品が編集部に届いた際、住所がどこにも書いてなくて、その座談会で作者の方連絡ください、みたいなことを呼びかけた、というものです。趣味が家事でワイドショーをよく見る、と著者の存在そのものが人を喰っているように思います。
壊れた世界を体験して見たい方、規格外の衝撃を味わいたい方、覆面作家殊能将之という才能に触れてみたい方、映画を見ようかどうしようか悩んでいる方、逮捕されていない猟奇殺人犯の方、是非お読みください。かなり面白いです。
殊能将之「ハサミ男」
さて、この作家、殊能将之というのも覆面作家なわけです。載っている経歴は、「1964年、福井県生まれ。名古屋大学理学部中退」だけですね。同じく覆面作家である舞城王太郎も福井出身で、福井の人はどうも覆面作家であることを好むようです。
内容に触れましょう。
美少女を絞殺し、その喉元に研ぎ上げたハサミを突き立てる猟奇殺人が都内近郊で発生している。マスコミが名付けたのが「ハサミ男」。知的で用心深い「ハサミ男」は、一定の期間を置いて殺人をしていた。
三人目の被害者を選定し、尾行を繰り返し綿密にチャンスを狙う「ハサミ男」。その少女を殺せるチャンスを忍耐強く待ち、尾行を続けていたのだが・・・
なんと、自分とまったく同じ手口でその少女が殺されてしまい、しかもなんとその死体の第一発見者になってしまった!何故その少女は、「ハサミ男」の犯行に似せて、「ハサミ男」以外の人間に殺されたのか。猟奇殺人鬼「ハサミ男」自身が探偵となり、調査を始めるが・・・
すごい話です。設定がすごい。殺人犯が探偵になる、という設定は、俺は他の例を知らないけどたぶんあるでしょう。それでも、この設定の妙はなかなかのものです。
そして、本当に精緻に作り上げられていて、またある瞬間を境に襲ってくる衝撃は、並大抵のものではないです。初読の際は、誇張抜きで度肝を抜かれたものでした。この衝撃は、読んでくれないともちろん味わえないですよ。
「ハサミ男」は、自殺志願者でもあって、幾度となく自殺未遂を繰り返しているわけです。そのどれもが失敗するんだけど、その度に出てくるもう一つの人格<医師>との会話もなかなかすごいものがある。「ハサミ男」自身とは違い、博識で引用好き、という<医師>は、「ハサミ男」が自殺をする度に「ハサミ男」を揶揄する。その精神論というか認識論というか、そうした<医師>の「ハサミ男」に対する姿勢というのも面白い。
また、その事件を捜査する刑事もなかなか個性的で、どうやら刑事の視点である「磯部」という男にはモデルがいるらしい(解説に書いてあった)。
以降、人を喰ったような作品ばかり書き続けている著者であるこのデビュー作は、本当に秩序というものが欠けているという感じがする。エントロピーが加速度的に増大していくようだ。話が進めば進むほどわからないことが増えていく、みたいな。デビュー作にしてこの質は、なかなか衝撃的だと思います。
色んな混沌が収束する終わらせ方もかなりいいと思います。このストーリーが現実的かどうか、それは警察機構のあり方に帰着すると思うけど、まあそうしたものは結構無視してほしいですね。確かに現実的でない部分もあるかもしれないけど、その後の殊能将之の作品を見れば、いかにこの作品が現実的に書かれているか、がわかることでしょう。きっと、その後の作品を書くために、まずは一般受けしやすそうな作品を書いてみました、みたいなノリだったんではないか、と想像します。
どうも映画化するらしいです。でも、この作品は、映像化できるわけないと俺は思うんですよ・・・どうやってこのストーリーを、原作通りに映像化するのか、とても楽しみだったりします(まあ見るかはわかんないけど)。
ちなみにこの作品は、メフィスト賞と言う新人賞受賞作なんだけど、面白いエピソードがあります。このメフィスト賞というのは、雑誌「メフィスト」の誌上で公募していて、その巻末に選考の様子を描いた座談会が載っているようです。それでこの「ハサミ男」という作品が編集部に届いた際、住所がどこにも書いてなくて、その座談会で作者の方連絡ください、みたいなことを呼びかけた、というものです。趣味が家事でワイドショーをよく見る、と著者の存在そのものが人を喰っているように思います。
壊れた世界を体験して見たい方、規格外の衝撃を味わいたい方、覆面作家殊能将之という才能に触れてみたい方、映画を見ようかどうしようか悩んでいる方、逮捕されていない猟奇殺人犯の方、是非お読みください。かなり面白いです。
殊能将之「ハサミ男」
封印再度 WHO INSIDE(森博嗣)<再読>
この物語には、「高尚」という言葉が相応しい、と僕は思う。
とりあえず、早速内容を紹介しよう。
岐阜県恵那市の旧家、「香雪楼」という名の屋敷に住まう香山家。そこには、代々伝わる家宝、「天地の瓢」と「無我の匣」がある。「瓢」の中には「匣」を開ける為の鍵が入っているが、その鍵は「瓢」の口よりも大きくて外に出ない。そういう不思議な家宝だった。
萌絵は、犀川の妹の儀同からその家宝の話を聞き、その謎を調べてみることにした。するとなんと、50年前、香山家の当時の当主が、密室状態の中死んでいたことがわかる。凶器が発見されなかったことから自殺とされたその事件に萌絵は乗り出す。
とそうして少しずつ香山家と関わりを持つようになったある日、香山家の現当主の死体が発見された。つじつまの合わない幾多の状況に警察は手も足も出ない。犀川がいつもの思考力で事件の謎を掴み取る。
という感じです。
京極夏彦と森博嗣は、ミステリーの世界に「認識」という概念を持ち込んだ、とかいう話を聞いたことがあります。その点が、作風のまったく違う二者の共通点のようです。ということで、今回はその「認識」についての話をしようかと思います。
人はそれぞれ自分の世界というものを持っています。それでも僕たちは、皆同じ世界の中に生きているはずだ、という幻想を抱かないと生きていけない存在でもあります。
僕たちが自分の世界を前にしてすることは、その世界を認識し、それを言葉で表現する、ということです。最終的に僕たちは、それぞれが言葉で表現した世界を掏り合わせながら生きているわけです。
僕のイメージでは、異国人間の会話のような感じです。相手の国の言葉を認識し、その言葉を翻訳して表現する。常にそうしたことをやっているわけです。
そして、その「認識する」「言葉にする」という二つのステップにおいて、僕たちはいつも誤解や想像や補正なんかをしながら生きているわけです。
宗教というものがあって、いくら宗教でも現実世界を変えることは出来ないわけだけど、それでも信者の「世界の認識」を変えることは出来るわけです。それは幻想でしかないけど、本人は救われるわけです。それが宗教の機能だし、存在意義なのでしょう。
そうした宗教、前の僕の言葉を使うなら思想といったものが、個人の世界認識を食い違わせる。それをミステリの持ち込んだ森博嗣は、つまりその「認識」の食い違いの中に謎を生み出し、動機らしきものを見出させるわけです。
心理学のテストなんかで使われる(名前は忘れた。ロハなんたらテスト、だったような)、明確に認識することの出来ない染みのような模様を見せて、何に見えるか問うようなものがあります。森博嗣のミステリは本当にそのテストのようで、与えられているものは同じなのに、読者の認識の違いによっていろいろに見えてくるような気がします。
内容がまとまっていないまま文章を書いているので、何を言いたいのかよくわからなくなってきましたが、そういう感じです。
さて、いくつかつけたしましょう。まず、今回の作品はタイトルが素晴らしい。もちろん、音的な意味で「封印再度」と「WHO INSIDE」という対比は素晴らしいわけだけど、作品を読み終えた後に再度このタイトルを見直すと、作品の内容自体とも素晴らしくリンクし、対比があるな、と驚くと思います。
今回は、犀川と萌絵の関係がなかなか面白いです。同じことをされたら・・・という想像は、読み終えた誰もが思うのではないでしょうか?犀川は素晴らしいと思います。犀川に憧れますね。
さて、これでS&Mシリーズの前半5作を読み終えたわけですが、後半5作を続けて読むことができないわけです。というのも、今現在部屋に、「数奇にして模型」がないのです。あの作品は、確かあまり好きではなくて、どういう方法かで処分した感があります。ということで、後半5作の感想は、「数奇にして模型」が手に入ってから、ということにしたいと思います。morifanさんを始め、きっと森作品の感想を待っていてくれているだろう人には申し訳ありませんが(まあそれほど待ち望んでもないか・・・)。
それではいつものを。
(前略)理屈では可能かもしれないが、締切より一日早く論文を完成させるということは、複雑系宇宙の原理には存在しない。つまり、そんな状況を発想することさえ許されないのだ。(後略)
(前略)国枝が結婚すると聞いた者は、二種類の言葉を発したものだ。「誰と?」、そして、「何のために?」である。電撃結婚、と言ったのは犀川自身で、この場合、「電撃」というのは、国枝桃子が雷にでも撃たれたのだろう、という意味のジョークである。
(後略)
(前略)
「今日が日曜日なのは君のせいじゃない」
(後略)
(前略)
「もうすぐクリスマスだわ」
「順調にいけばね」
(後略)
(前略)
「さきに言っておきますけどね、先生、これ、私が作ったのよ。そのおつもりで召し上がって下さいね。よーく味わって・・・万が一、文句があっても一切受け付けませんから」
(中略)
「PL法みたいだね」(後略)
(前略)吸っていないときは、煙が出ない煙草が発明されないものだろうか、と思った。
(後略)
(前略)
クリスマス、正月、バレンタインデイなども、強制的に送り込まれてくるただの飾りものだ。好きなとき、好きなだけ楽しんだ方が良いのに、人々はどうして、外部から押しつけられたものに、あんなに夢中になるのか・・・。(後略)
(前略)学問をする自分にだけは幻滅したくなかった。たぶん、この道を選んだのは、それだけの動機だろう。
つまり、幻滅からの逃避。
それは結局、定期券にスターのプロマイドを挟んでいるのと同じ動機ではないのか・・・。
(後略)
(前略)
「ぐっとくる?それは日本語?」
(後略)
(前略)にんげんって結局、自分のことで涙を流すのだ、と萌絵は思った。
(後略)
(前略)
「あの・・・、結局、模写の目的は何なんです?」
「何かを生み出したい。自分だけのものを創作したい。つまり、そんな意欲を、すべて滅するためだわ」
(後略)
(前略)ちょうど、アンドロメダまで原付で出かけるようなものだ。ちゃんとヘルメットををして・・・。
(後略)
(前略)
バターの中のレーズンみたいに無秩序に散らばっている。
(後略)
(前略)
「無駄なものは、褒めることも、けなすこともできません。だから、いつまでも残るんですよ」
(後略)
(前略)
アスファルトの道路は彼方まで吸い込まれるように真っ直ぐで、地球に巻きつけられた巨大なガムテープのようだ。(後略)
(前略)
日は沈み、空はパリッシュブルーに染まっていた。ちょっとやそっとでは信じられないほど不自然な色だった。毎日、わざとこんな色になっているのだろうか、と彼女は不思議に思った。誰に見てもらうためなのだろう、と。(後略)
(前略)
「そう、僕はね、そのとき、こう思ったんだ」犀川は可笑しそうに言った。「ああ、この煙突で雲を作っていたんだなぁってね・・・ここが空の雲を作る工場だったんだ、って思った。それで覚えてるのさ」
(後略)
(前略)
「呪われているのは、物質ではない」犀川は表情を変えずに言った。「人間の認識、歪められた認識です」
(後略)
「(前略)美しいと、ビューティフルは、全然違う意味じゃないかな(後略)」
森博嗣「封印再度」
とりあえず、早速内容を紹介しよう。
岐阜県恵那市の旧家、「香雪楼」という名の屋敷に住まう香山家。そこには、代々伝わる家宝、「天地の瓢」と「無我の匣」がある。「瓢」の中には「匣」を開ける為の鍵が入っているが、その鍵は「瓢」の口よりも大きくて外に出ない。そういう不思議な家宝だった。
萌絵は、犀川の妹の儀同からその家宝の話を聞き、その謎を調べてみることにした。するとなんと、50年前、香山家の当時の当主が、密室状態の中死んでいたことがわかる。凶器が発見されなかったことから自殺とされたその事件に萌絵は乗り出す。
とそうして少しずつ香山家と関わりを持つようになったある日、香山家の現当主の死体が発見された。つじつまの合わない幾多の状況に警察は手も足も出ない。犀川がいつもの思考力で事件の謎を掴み取る。
という感じです。
京極夏彦と森博嗣は、ミステリーの世界に「認識」という概念を持ち込んだ、とかいう話を聞いたことがあります。その点が、作風のまったく違う二者の共通点のようです。ということで、今回はその「認識」についての話をしようかと思います。
人はそれぞれ自分の世界というものを持っています。それでも僕たちは、皆同じ世界の中に生きているはずだ、という幻想を抱かないと生きていけない存在でもあります。
僕たちが自分の世界を前にしてすることは、その世界を認識し、それを言葉で表現する、ということです。最終的に僕たちは、それぞれが言葉で表現した世界を掏り合わせながら生きているわけです。
僕のイメージでは、異国人間の会話のような感じです。相手の国の言葉を認識し、その言葉を翻訳して表現する。常にそうしたことをやっているわけです。
そして、その「認識する」「言葉にする」という二つのステップにおいて、僕たちはいつも誤解や想像や補正なんかをしながら生きているわけです。
宗教というものがあって、いくら宗教でも現実世界を変えることは出来ないわけだけど、それでも信者の「世界の認識」を変えることは出来るわけです。それは幻想でしかないけど、本人は救われるわけです。それが宗教の機能だし、存在意義なのでしょう。
そうした宗教、前の僕の言葉を使うなら思想といったものが、個人の世界認識を食い違わせる。それをミステリの持ち込んだ森博嗣は、つまりその「認識」の食い違いの中に謎を生み出し、動機らしきものを見出させるわけです。
心理学のテストなんかで使われる(名前は忘れた。ロハなんたらテスト、だったような)、明確に認識することの出来ない染みのような模様を見せて、何に見えるか問うようなものがあります。森博嗣のミステリは本当にそのテストのようで、与えられているものは同じなのに、読者の認識の違いによっていろいろに見えてくるような気がします。
内容がまとまっていないまま文章を書いているので、何を言いたいのかよくわからなくなってきましたが、そういう感じです。
さて、いくつかつけたしましょう。まず、今回の作品はタイトルが素晴らしい。もちろん、音的な意味で「封印再度」と「WHO INSIDE」という対比は素晴らしいわけだけど、作品を読み終えた後に再度このタイトルを見直すと、作品の内容自体とも素晴らしくリンクし、対比があるな、と驚くと思います。
今回は、犀川と萌絵の関係がなかなか面白いです。同じことをされたら・・・という想像は、読み終えた誰もが思うのではないでしょうか?犀川は素晴らしいと思います。犀川に憧れますね。
さて、これでS&Mシリーズの前半5作を読み終えたわけですが、後半5作を続けて読むことができないわけです。というのも、今現在部屋に、「数奇にして模型」がないのです。あの作品は、確かあまり好きではなくて、どういう方法かで処分した感があります。ということで、後半5作の感想は、「数奇にして模型」が手に入ってから、ということにしたいと思います。morifanさんを始め、きっと森作品の感想を待っていてくれているだろう人には申し訳ありませんが(まあそれほど待ち望んでもないか・・・)。
それではいつものを。
(前略)理屈では可能かもしれないが、締切より一日早く論文を完成させるということは、複雑系宇宙の原理には存在しない。つまり、そんな状況を発想することさえ許されないのだ。(後略)
(前略)国枝が結婚すると聞いた者は、二種類の言葉を発したものだ。「誰と?」、そして、「何のために?」である。電撃結婚、と言ったのは犀川自身で、この場合、「電撃」というのは、国枝桃子が雷にでも撃たれたのだろう、という意味のジョークである。
(後略)
(前略)
「今日が日曜日なのは君のせいじゃない」
(後略)
(前略)
「もうすぐクリスマスだわ」
「順調にいけばね」
(後略)
(前略)
「さきに言っておきますけどね、先生、これ、私が作ったのよ。そのおつもりで召し上がって下さいね。よーく味わって・・・万が一、文句があっても一切受け付けませんから」
(中略)
「PL法みたいだね」(後略)
(前略)吸っていないときは、煙が出ない煙草が発明されないものだろうか、と思った。
(後略)
(前略)
クリスマス、正月、バレンタインデイなども、強制的に送り込まれてくるただの飾りものだ。好きなとき、好きなだけ楽しんだ方が良いのに、人々はどうして、外部から押しつけられたものに、あんなに夢中になるのか・・・。(後略)
(前略)学問をする自分にだけは幻滅したくなかった。たぶん、この道を選んだのは、それだけの動機だろう。
つまり、幻滅からの逃避。
それは結局、定期券にスターのプロマイドを挟んでいるのと同じ動機ではないのか・・・。
(後略)
(前略)
「ぐっとくる?それは日本語?」
(後略)
(前略)にんげんって結局、自分のことで涙を流すのだ、と萌絵は思った。
(後略)
(前略)
「あの・・・、結局、模写の目的は何なんです?」
「何かを生み出したい。自分だけのものを創作したい。つまり、そんな意欲を、すべて滅するためだわ」
(後略)
(前略)ちょうど、アンドロメダまで原付で出かけるようなものだ。ちゃんとヘルメットををして・・・。
(後略)
(前略)
バターの中のレーズンみたいに無秩序に散らばっている。
(後略)
(前略)
「無駄なものは、褒めることも、けなすこともできません。だから、いつまでも残るんですよ」
(後略)
(前略)
アスファルトの道路は彼方まで吸い込まれるように真っ直ぐで、地球に巻きつけられた巨大なガムテープのようだ。(後略)
(前略)
日は沈み、空はパリッシュブルーに染まっていた。ちょっとやそっとでは信じられないほど不自然な色だった。毎日、わざとこんな色になっているのだろうか、と彼女は不思議に思った。誰に見てもらうためなのだろう、と。(後略)
(前略)
「そう、僕はね、そのとき、こう思ったんだ」犀川は可笑しそうに言った。「ああ、この煙突で雲を作っていたんだなぁってね・・・ここが空の雲を作る工場だったんだ、って思った。それで覚えてるのさ」
(後略)
(前略)
「呪われているのは、物質ではない」犀川は表情を変えずに言った。「人間の認識、歪められた認識です」
(後略)
「(前略)美しいと、ビューティフルは、全然違う意味じゃないかな(後略)」
森博嗣「封印再度」
詩的私的ジャック JACK THE POETICAL PRIVATE(森博嗣)<再読>
「動機」というものがほぼ完全に排除された森ミステリの中でも、特に動機が曖昧でわかりずらい作品だろうと思う。まさに犯人の思想を読み取る「ホワッツダニット」たる作品だと思う。
女子大のログハウスで、別の大学の女子学生が殺された第一の事件。また別の大学のある一角でその女子大の学生が殺された第二の事件。共にN大とは関係ない場所で起きた事件。共通点は、密室・死体に残されたナイフの傷・全裸。
容疑者候補として浮上したのは、N大工学部に在籍している、人気ロック歌手の結城稔。先に殺された二人の被害者が彼のファンで、お互い面識もあり、さらに彼の歌う作品の一つ「詩的私的ジャック」の歌詞と事件の様子が似ていたからだ。
いつもの好奇心全開で事件に首を突っ込む萌絵。警察も結城稔の線で事件を捜査するも、暗礁に乗り上げる。
そんな中、N大構内で同一犯に間違いない殺人事件が発生する!
今回犀川は、萌絵には巻き込まれるが事件には巻き込まれず関係者ではない。萌絵の持ち込む情報だけを頼りに事件を解く、まさに安楽椅子探偵である。犀川の思考が事件を解決に導く。
という感じです。
さて、シリーズ物をこうやって連続で感想を書いていると、どうもネタが尽きてしまうような気がする。まあ言い訳ですけど。
今回は、犀川の思考について触れようと思う。犀川は物語の最後の方で、関係者に事件の説明をする。その説明が、これまでの探偵像というのとかなり違っているように僕は感じます。
「境界条件」という言葉をよく使います。この「境界条件」の設定が、犀川の口から説明されればなるほどそうか、と納得できてしまいます。
つまり、犀川の思考では、観察された現象をまず解体し、その中から細い細い一本の糸を見つけ出します。それが「境界条件」であって、その糸に、解体した事象を再度並べていく、という感じです。
犀川の見つけだす糸、つまり境界条件は、考えれば確かにそうで、萌絵もきっと感じているだろうけど、何でそういう風に考えられないんだろう、と思ってしまうほどです。
うまく説明出来ないけど、普通の探偵は情報や条件をとにかく一杯集めて、それが一定量に達したらそれらが自然とくっついて現象を形作る、というスタイルのような気がします。一方で犀川は、観察された現象を一旦解体し、基準を設定してから再度組み立て直す、という感じで、それが犀川らしいという感じです。
今回の作品は、トリックはもちろんなかなかのものですが、普通のミステリ読みには、動機という点で納得できないのではないか、と思います。ただ、森ミステリを読む上で動機がどうだとか考えてはいけない、ということを強く感じるのもこの作品だったりします。読んでみてください。
ちなみに今回は、犀川と萌絵がなかなかいい感じだったりします。それだけでも結構面白い。
というわけでいつものを。
(前略)
「衣・食・住の三つのうち、食はちょっと特別だけど、衣と住は、どう区別できる?答えられる人はいますか?」
(後略)
(前略)世の中には、煙草よりさきに禁止すべきものがまだ幾つかあるが、気づいていないのだろう。
(後略)
(前略)
「先生は、女性が社会に出て仕事をするということを、どう思われますか?」
(中略)
「どうも思わないね」犀川は返答する。「そもそも、男女平等と職業は無関係だ。つまり、男と対等になるために、仕事をするなんてナンセンスだと思う。それでは、仕事をしている者が偉いという、馬鹿な男が考えた言い訳を認めることになる。いいかい。仕事をしていても、遊んでいても、人間は平等だ。問題を摩り替えてはいけない」
(後略)
(前略)「研究ってね。何かに興味があるからできるというものじゃないんだよ。研究そのものが面白いんだ。目的を見失うことが研究の真髄なんだ。(後略)」
「(前略)遅れていますでしょう?」
「何に対して遅れているのですか?」
(後略)
(前略)推理小説に登場する建物は、実に不自然なものが多い。こんな建物があるものか、と思わず言いたくなるような部屋の配置、柱の位置、ドアも窓もまったく非現実的だ。もちろん、建築基準法とか、消防法とかのない世界なのである。(後略)
(前略)この不可思議な伝統が、毎年、誰も疑問をいだかずに続けられている。もちろん、それが「伝統」というものの機能であろう。
(後略)
(前略)萌絵は視力が両眼とも二.〇だ。子供の頃はもっと良かったのだが、だんだん近視に近づいて、今では、視力検査のとき一番下の文字がやっと読める程度に悪くなっていた。
(後略)
(前略)
あれがナイーブといえるなら、水爆だって風船ガムみたいなものだ、と萌絵は思う。
(後略)
(前略)
しかし、ここにあるものは、その「過ぎない」という言葉に包含される理論的な、真理の崇高さであって、円周率と虚数と指数の関係を式化した単純な方程式に現れるような驚異だ。
(後略)
「(前略)あの目撃者ってのが、俺には信じられねえな。(中略)目撃者って名刺に書いてあんじゃねえのか
(後略)
「(前略)でも、人間って出世するほど無能になるからね」
「無能になったのですか?喜多先生も」萌絵は、喜多を見た。
「そりゃ、そうさ。無能にさせるために出世させるんだから・・・」
(後略)
(前略)
「言葉はね、言い方や、言い回しじゃない」犀川は萌絵に言った。「内容はちゃんと伝えないとね。それが、言葉の役目だから」
(後略)
(前略)「西之園君、底なし沼と普通の沼はどう違う?」
「底がないか、あるかですか?」
「底がない沼なんてない」犀川は言った。「僕の言っている意味がわかる?」
「わかりません」
「ようは、人間の幻想の有無なんだ」犀川はそう言って、頭の上で腕を組んだ。
(後略)
(前略)
「西之園君ね、二乗したら2になる数字は?」犀川は突然質問した。
「ルート2でしょう?1.4142135・・・、もっと言いましょうか?」(中略)
「それだけ?」犀川が言った。
「それだけて?」萌絵は犀川の言葉の意味がわからないようだ。
(中略)
「マイナスルート2を忘れているよ」
(後略)
(前略)
萌絵は犀川に近づく。二人は、数字の11よりも接近した。
(後略)
「(前略)他人に説明できて、理解してもらえるくらいなら、人を殺したりしない。そうではありませんか?」
(後略)
(前略)
自然界にあるものは、綺麗な結晶ほど強いのに・・・
人間だけはその逆。
人間は、クリスタルではない。
(後略)
(前略)「台風の進路だって、扇形に広がっているだろう?人間の進路はもっと広角だ」
(後略)
森博嗣「詩的私的ジャック」
女子大のログハウスで、別の大学の女子学生が殺された第一の事件。また別の大学のある一角でその女子大の学生が殺された第二の事件。共にN大とは関係ない場所で起きた事件。共通点は、密室・死体に残されたナイフの傷・全裸。
容疑者候補として浮上したのは、N大工学部に在籍している、人気ロック歌手の結城稔。先に殺された二人の被害者が彼のファンで、お互い面識もあり、さらに彼の歌う作品の一つ「詩的私的ジャック」の歌詞と事件の様子が似ていたからだ。
いつもの好奇心全開で事件に首を突っ込む萌絵。警察も結城稔の線で事件を捜査するも、暗礁に乗り上げる。
そんな中、N大構内で同一犯に間違いない殺人事件が発生する!
今回犀川は、萌絵には巻き込まれるが事件には巻き込まれず関係者ではない。萌絵の持ち込む情報だけを頼りに事件を解く、まさに安楽椅子探偵である。犀川の思考が事件を解決に導く。
という感じです。
さて、シリーズ物をこうやって連続で感想を書いていると、どうもネタが尽きてしまうような気がする。まあ言い訳ですけど。
今回は、犀川の思考について触れようと思う。犀川は物語の最後の方で、関係者に事件の説明をする。その説明が、これまでの探偵像というのとかなり違っているように僕は感じます。
「境界条件」という言葉をよく使います。この「境界条件」の設定が、犀川の口から説明されればなるほどそうか、と納得できてしまいます。
つまり、犀川の思考では、観察された現象をまず解体し、その中から細い細い一本の糸を見つけ出します。それが「境界条件」であって、その糸に、解体した事象を再度並べていく、という感じです。
犀川の見つけだす糸、つまり境界条件は、考えれば確かにそうで、萌絵もきっと感じているだろうけど、何でそういう風に考えられないんだろう、と思ってしまうほどです。
うまく説明出来ないけど、普通の探偵は情報や条件をとにかく一杯集めて、それが一定量に達したらそれらが自然とくっついて現象を形作る、というスタイルのような気がします。一方で犀川は、観察された現象を一旦解体し、基準を設定してから再度組み立て直す、という感じで、それが犀川らしいという感じです。
今回の作品は、トリックはもちろんなかなかのものですが、普通のミステリ読みには、動機という点で納得できないのではないか、と思います。ただ、森ミステリを読む上で動機がどうだとか考えてはいけない、ということを強く感じるのもこの作品だったりします。読んでみてください。
ちなみに今回は、犀川と萌絵がなかなかいい感じだったりします。それだけでも結構面白い。
というわけでいつものを。
(前略)
「衣・食・住の三つのうち、食はちょっと特別だけど、衣と住は、どう区別できる?答えられる人はいますか?」
(後略)
(前略)世の中には、煙草よりさきに禁止すべきものがまだ幾つかあるが、気づいていないのだろう。
(後略)
(前略)
「先生は、女性が社会に出て仕事をするということを、どう思われますか?」
(中略)
「どうも思わないね」犀川は返答する。「そもそも、男女平等と職業は無関係だ。つまり、男と対等になるために、仕事をするなんてナンセンスだと思う。それでは、仕事をしている者が偉いという、馬鹿な男が考えた言い訳を認めることになる。いいかい。仕事をしていても、遊んでいても、人間は平等だ。問題を摩り替えてはいけない」
(後略)
(前略)「研究ってね。何かに興味があるからできるというものじゃないんだよ。研究そのものが面白いんだ。目的を見失うことが研究の真髄なんだ。(後略)」
「(前略)遅れていますでしょう?」
「何に対して遅れているのですか?」
(後略)
(前略)推理小説に登場する建物は、実に不自然なものが多い。こんな建物があるものか、と思わず言いたくなるような部屋の配置、柱の位置、ドアも窓もまったく非現実的だ。もちろん、建築基準法とか、消防法とかのない世界なのである。(後略)
(前略)この不可思議な伝統が、毎年、誰も疑問をいだかずに続けられている。もちろん、それが「伝統」というものの機能であろう。
(後略)
(前略)萌絵は視力が両眼とも二.〇だ。子供の頃はもっと良かったのだが、だんだん近視に近づいて、今では、視力検査のとき一番下の文字がやっと読める程度に悪くなっていた。
(後略)
(前略)
あれがナイーブといえるなら、水爆だって風船ガムみたいなものだ、と萌絵は思う。
(後略)
(前略)
しかし、ここにあるものは、その「過ぎない」という言葉に包含される理論的な、真理の崇高さであって、円周率と虚数と指数の関係を式化した単純な方程式に現れるような驚異だ。
(後略)
「(前略)あの目撃者ってのが、俺には信じられねえな。(中略)目撃者って名刺に書いてあんじゃねえのか
(後略)
「(前略)でも、人間って出世するほど無能になるからね」
「無能になったのですか?喜多先生も」萌絵は、喜多を見た。
「そりゃ、そうさ。無能にさせるために出世させるんだから・・・」
(後略)
(前略)
「言葉はね、言い方や、言い回しじゃない」犀川は萌絵に言った。「内容はちゃんと伝えないとね。それが、言葉の役目だから」
(後略)
(前略)「西之園君、底なし沼と普通の沼はどう違う?」
「底がないか、あるかですか?」
「底がない沼なんてない」犀川は言った。「僕の言っている意味がわかる?」
「わかりません」
「ようは、人間の幻想の有無なんだ」犀川はそう言って、頭の上で腕を組んだ。
(後略)
(前略)
「西之園君ね、二乗したら2になる数字は?」犀川は突然質問した。
「ルート2でしょう?1.4142135・・・、もっと言いましょうか?」(中略)
「それだけ?」犀川が言った。
「それだけて?」萌絵は犀川の言葉の意味がわからないようだ。
(中略)
「マイナスルート2を忘れているよ」
(後略)
(前略)
萌絵は犀川に近づく。二人は、数字の11よりも接近した。
(後略)
「(前略)他人に説明できて、理解してもらえるくらいなら、人を殺したりしない。そうではありませんか?」
(後略)
(前略)
自然界にあるものは、綺麗な結晶ほど強いのに・・・
人間だけはその逆。
人間は、クリスタルではない。
(後略)
(前略)「台風の進路だって、扇形に広がっているだろう?人間の進路はもっと広角だ」
(後略)
森博嗣「詩的私的ジャック」
笑わない数学者 MATHEMATICAL GOODBYE(森博嗣)<再読>
はたして、これらは妥当な観察点からのもので、しかも連続した存在なのでしょうか?
起源は忘却され伝統の手法だけが取り残される。たとえ、神のトリックであっても
利用価値のある肉体的実在、再生あるいは統合されつつある美および不明確な心象へ
残念ながら、観察者と即率に存在するものは、定義できないゆえに、存在しない
ならば問う。非厳密あるいは矛盾が常に何らの働きもしなかった歴史がありえたか
ろくに泳げもしないくせして、人間ってやつは・・・、とセイウチは笑った
微分方程式という融通の利く語彙は、一度に一所しか見えない人間の目が産んだものだ
造形志向の回帰に根ざす運動は一般的に源泉が希薄だが、目新しさだけでは成立しない
まさか、感情的忘却と知的覚醒が単純に同義で同時に起こるものとおっしゃるのですか?
現実がいつもシンデレラの醜い姉のようであれば、公理の靴はいかにも窮屈となろう
十万桁まで計算されたパイに人間性がないというのですか?人間以外に誰がします?
ふー、疲れた。でも、疲れた割りにこれを書いた意味は特にない。犀川もこう言っている。意味のないことが高級なんだ、と。
さて、シリーズも三作目です。まずは早速内容から。
天王寺翔蔵という偉大な数学者が住む山奥のお屋敷「三ツ星館」。クリスマスにそこで開かれるパーティーに犀川と萌絵も呼ばれる。
三ツ星館は館内にプラネタリウムがあり、その中で星を見ながら、天王寺博士の出す数学の問題を解く、というのが毎年の恒例になっている。
さて、三ツ星館では、12年前に庭にある巨大な「オリオン像」と呼ばれる銅像が消えたことがあった。天王寺博士は、この謎を解いた者に遺産を相続する、とまで言っていた。
萌絵はこの話を聞いており、天王寺博士に、オリオン像を消すように頼むと、なんと本当にさっきまであったはずのオリオン像が消えていた!
さて、一夜明け、オリオン像が再び出現するとともに、二つの死体も姿を現す。誰も出ることの出来ないはずの三ツ星館から離れたオリオン像の下にあった死体。野外で成立した密室に犀川と萌絵が挑む・・・
といった感じの内容です。
僕はミステリを読んで、トリックがわかることなどまずありません。ありえないです。大抵作者の仕掛けた罠に引っかかります。
でも、この作品は珍しく、トリックらしきものがわかった作品です。らしきもの、と言ったのは、細部がわかっていなかったというのももちろん、それがどう殺人と結びつくのかまでまったくわからなかったからです。
そう、本作のすごいところは、オリオン像消失の謎と、二つの死体の出現の謎がまったく同じ問題だということです(さて、これはネタばれになってしまうだろうか・・・俺の判断ではギリギリセーフだと思っているんだけど・・・)。つまりオリオン像消失の謎を解けば殺人事件の謎も解け(るはずだけど僕はわかりませんでしたが)、その逆もまた言えるということです。それが素晴らしい。
オリオン像が消えるにはまあこうするしかないかな、といった漠然としたものですが、それでも珍しくトリックらしきものがわかった印象深い作品です。
さて、森博嗣の作品というのはどれも、どこに謎が隠されているかわからないです。「すべてがFになる」でもそうでしたが、意図的に隠されているものにこそ真理がありますね(何のことを言っているのか、読んだ人ならわかると思うんだが・・・)
もともとこの作品は、「すべてがFになる」の前にくるはずの作品で、森博嗣の考えでは、先にこの天才天王寺翔蔵博士を出し、その後常軌を逸した天才真賀田四季を登場させる予定だったようです。だから、「すべてがFになる」を先に読んでしまっているので、この天王寺博士は多少地味に見えます。それは仕方ないのですが、それでも天王寺博士の考え方は、全てを理解することはできないけど面白いものです。
この作品では、かなり初めの方に、ビリヤードの玉を使った問題が出されるんだけど、結局その問題の解答は明かされないまま小説が終わってしまいます。初読の時は肩透かしを食らった記憶があるし、やはり一部ではミステリとして解答がないのはおかしいという意見もあったようです。まあ、そこが森博嗣らしいですけど。
壮大なトリックと天王寺博士の言動、そして犀川と萌絵の関係が魅力のシリーズ三作目です。是非どうぞ。
というわけでいつものように気になる場面を。
(前略)
「ねえ、お姉ちゃん、あれは戻ってくる?あれがないと、サッカーができないよ」(後略)
(前略)
クリスマスというものに、最近の犀川は何も感じない。十二月二十五日だから、1,2,2,5の数を全部足すとちょうど10になる、というくらいの印象しかない。(後略)
(前略)
「男の人の服って全部、女も着られるのに、女の服には、男の人が着れないものがありますね」萌絵はそう言ってくすくすと笑い出した。「これは何故ですか?先生」
「良い問題だね」犀川は上の空で言う。「それは、たぶん、諺でいうと・・・」
「大は小を兼ねる?」萌絵はすぐ言う。
「いや、帯に短し襷に長し・・・、じゃないかな」
(後略)
(前略)犀川は、いつも、ど真ん中から外れた話しをする。しかし、それは計算されたものであることを、萌絵は知っていた。あとで、スペアを取るために、わざとストライクを外してくる。難しいピンをわざわざ残す、それが犀川の話し方のスタイルで、彼女にはそのスリルが実に楽しい。(後略)
「(前略)僕は、阿弥陀くじは好きだけどなぁ・・・。あの程度の複雑さで、人間って神懸り的に諦められるんだよね。そこが面白いじゃないか。君は、阿弥陀くじは、二秒もあれば見切れるだろう?」
(後略)
(前略)「一番、下品な格言って知ってる?」
「働かざるもの食うべからず、ですよね?」萌絵は即答する。
「そうだ」犀川はにっこりと頷いた。彼は機嫌がよさそうだ。「いやらしい、卑屈な言葉だよね・・・。僕の一番嫌いな言葉だ。もともとは、もっと高尚な意味だったんだよ」
「え?どんな?」
「一日作さざれば、一日食わず」
「それ、同じことじゃありませんか?」
「違うね。これも集合論だ。ド・モルガンの法則かな」
犀川は、また難しいスペアを取った。
(後略)
(前略)
「さて、では、もう一つ問題を出そう。五つのビリヤードの玉を、真珠のネックレスのように、リングにつなげてみるとしよう。玉には、それぞれナンバが書かれている。さて、この五つの玉のうち、幾つ取っても良いが、隣どうし連続したものしか取れないとしよう。一つでも、二つでも、五つ全部でも良い。しかし、離れているものは取れない。この条件で取った玉のナンバを足し合わせて、1から21までのすべての数字ができるようにsたい。さあ、どのナンバの玉を、どのように並べて、ネックレスを作れば良いかな?」
(後略)
「(前略)定義できるものが、すなわち存在するものである」
(後略)
(前略)
「よいか、あらゆる課題は、現実と理想、あるいは事実と理論の間のギャップにある。それを自覚することだ。しかし、現実や事実は、常に真実とはいえない。それは、あくまでも、お前たちの目が観察したものだ。お前たちの頭が認識したものだ。それを自問するのだ。見ないものを考えるのが人間の思考なのだ。お前たちは、自分の姿が見えなくても、自分の存在を知っている。それが人間の能力ではないか」
(後略)
(前略)「西之園君。内側と外側の違いは何かわかる?」
「平面なら・・・閉曲線の面積が小さい側が内側です」萌絵は答えた。「でも、一般的には、観察者の存在する側が内側かな・・・」
(後略)
(前略)「先生、素朴と単純って、どこが違うのかしら?」
「現象としては同じだ。まあ、違いといえば、観察者の先入観かな」
(後略)
(前略)
諏訪野は、何度も犀川に頭を下げ、「お願いします」のあらゆるバリエーションを披露した。
(後略)
(前略)
もし教育というものが概念として存在するとすれば、たぶん、片山基生が和樹に与えたものが、それだろう、と犀川は理解したので、理想的だと表現したのである。人間は自分の生き様を見せること以外に、他人に教えることなど、何もないのだ。一般に使われている教育という言葉は、ありもしない幻想でしかない。
(後略)
(前略)
「自由がそんなに大切ですか?」と萌絵。
「そうだ。何故なら、自由以外に、思考の目的はない。人間が思考によって獲得する価値のあるものは、それ以外にはないからだ」
(後略)
(前略)「何かの誤解だと思うんだけどね。僕は、よくわからないんだ。そういうことに疎くてね。だから・・・、これは、架空の話として聞いてほしいんだけどね。まずい料理を食べることが愛情かな?どんなに出来が悪くても優をくれる先生が尊敬できる先生かな?もし知らない人が作った料理なら、少しぐらいまずくたって我慢するかもしれないね。でも、西之園君が、もしもだよ・・・、まずい料理を作ったら、我慢できないね、僕は。それが、人を尊敬するってことだ」
(後略)
(前略)
「負け方がわからなかったんだよ、君は」犀川が言う。「勝つことばかり考えていた。どうやって負けたら良いのかも、考えなくちゃ。それが名人というものさ。僕なんかね、あらゆる勝負に負けてばっかりだからね、そういった苦労は皆無だ」犀川は微笑んだ。
(後略)
「(前略)ものを観察している間は、人は考えないものだよ」
(後略)
(前略)「鏡に映った像は、左右が反対になりますね。どうして、上下や前後は反対にならないで、左右だけ入れ替わるのか、刑事さん、答えられますか?」
(中略)
「定義の問題です。左右だけが、定義が絶対的でないからです。上下の定義は空と地面、あるいは、人間なら頭と足で定義されます。前後も、顔と背中で定義できます。では、左右はどうでしょう?左右の定義は、上下と前後が定まったときに初めて決まるのです。(後略)」
(前略)「実は、あの日、パーティのあとで、西之園君がキッチンでサンドイッチ・・・、のようなもの・・・を作ったんです。これは、僕の記憶が曖昧なのではありません。記憶は極めて鮮明ですが、彼女の作ったものが曖昧だった」
(後略)
(前略)
「さて、殺人の動機は何でしょう?」犀川は言った。「どなたか、説明のできる方はいませんか?」
「先生、困りますね・・・」荻原が立ち上がった。「動機もわからずに、今まで説明されていたんですか?」
「ええ、そうですよ」犀川はあっさり認めた。「僕は、彼以外の人間には、犯行が物理的に極めて困難だというお話をしたにすぎません・・・彼が、どんな動機を持っているかなんてことは正確にはわかりません。そういったことが、正確に理解できるものだとも思っていませんしね」
(後略)
森博嗣「笑わない数学者」
起源は忘却され伝統の手法だけが取り残される。たとえ、神のトリックであっても
利用価値のある肉体的実在、再生あるいは統合されつつある美および不明確な心象へ
残念ながら、観察者と即率に存在するものは、定義できないゆえに、存在しない
ならば問う。非厳密あるいは矛盾が常に何らの働きもしなかった歴史がありえたか
ろくに泳げもしないくせして、人間ってやつは・・・、とセイウチは笑った
微分方程式という融通の利く語彙は、一度に一所しか見えない人間の目が産んだものだ
造形志向の回帰に根ざす運動は一般的に源泉が希薄だが、目新しさだけでは成立しない
まさか、感情的忘却と知的覚醒が単純に同義で同時に起こるものとおっしゃるのですか?
現実がいつもシンデレラの醜い姉のようであれば、公理の靴はいかにも窮屈となろう
十万桁まで計算されたパイに人間性がないというのですか?人間以外に誰がします?
ふー、疲れた。でも、疲れた割りにこれを書いた意味は特にない。犀川もこう言っている。意味のないことが高級なんだ、と。
さて、シリーズも三作目です。まずは早速内容から。
天王寺翔蔵という偉大な数学者が住む山奥のお屋敷「三ツ星館」。クリスマスにそこで開かれるパーティーに犀川と萌絵も呼ばれる。
三ツ星館は館内にプラネタリウムがあり、その中で星を見ながら、天王寺博士の出す数学の問題を解く、というのが毎年の恒例になっている。
さて、三ツ星館では、12年前に庭にある巨大な「オリオン像」と呼ばれる銅像が消えたことがあった。天王寺博士は、この謎を解いた者に遺産を相続する、とまで言っていた。
萌絵はこの話を聞いており、天王寺博士に、オリオン像を消すように頼むと、なんと本当にさっきまであったはずのオリオン像が消えていた!
さて、一夜明け、オリオン像が再び出現するとともに、二つの死体も姿を現す。誰も出ることの出来ないはずの三ツ星館から離れたオリオン像の下にあった死体。野外で成立した密室に犀川と萌絵が挑む・・・
といった感じの内容です。
僕はミステリを読んで、トリックがわかることなどまずありません。ありえないです。大抵作者の仕掛けた罠に引っかかります。
でも、この作品は珍しく、トリックらしきものがわかった作品です。らしきもの、と言ったのは、細部がわかっていなかったというのももちろん、それがどう殺人と結びつくのかまでまったくわからなかったからです。
そう、本作のすごいところは、オリオン像消失の謎と、二つの死体の出現の謎がまったく同じ問題だということです(さて、これはネタばれになってしまうだろうか・・・俺の判断ではギリギリセーフだと思っているんだけど・・・)。つまりオリオン像消失の謎を解けば殺人事件の謎も解け(るはずだけど僕はわかりませんでしたが)、その逆もまた言えるということです。それが素晴らしい。
オリオン像が消えるにはまあこうするしかないかな、といった漠然としたものですが、それでも珍しくトリックらしきものがわかった印象深い作品です。
さて、森博嗣の作品というのはどれも、どこに謎が隠されているかわからないです。「すべてがFになる」でもそうでしたが、意図的に隠されているものにこそ真理がありますね(何のことを言っているのか、読んだ人ならわかると思うんだが・・・)
もともとこの作品は、「すべてがFになる」の前にくるはずの作品で、森博嗣の考えでは、先にこの天才天王寺翔蔵博士を出し、その後常軌を逸した天才真賀田四季を登場させる予定だったようです。だから、「すべてがFになる」を先に読んでしまっているので、この天王寺博士は多少地味に見えます。それは仕方ないのですが、それでも天王寺博士の考え方は、全てを理解することはできないけど面白いものです。
この作品では、かなり初めの方に、ビリヤードの玉を使った問題が出されるんだけど、結局その問題の解答は明かされないまま小説が終わってしまいます。初読の時は肩透かしを食らった記憶があるし、やはり一部ではミステリとして解答がないのはおかしいという意見もあったようです。まあ、そこが森博嗣らしいですけど。
壮大なトリックと天王寺博士の言動、そして犀川と萌絵の関係が魅力のシリーズ三作目です。是非どうぞ。
というわけでいつものように気になる場面を。
(前略)
「ねえ、お姉ちゃん、あれは戻ってくる?あれがないと、サッカーができないよ」(後略)
(前略)
クリスマスというものに、最近の犀川は何も感じない。十二月二十五日だから、1,2,2,5の数を全部足すとちょうど10になる、というくらいの印象しかない。(後略)
(前略)
「男の人の服って全部、女も着られるのに、女の服には、男の人が着れないものがありますね」萌絵はそう言ってくすくすと笑い出した。「これは何故ですか?先生」
「良い問題だね」犀川は上の空で言う。「それは、たぶん、諺でいうと・・・」
「大は小を兼ねる?」萌絵はすぐ言う。
「いや、帯に短し襷に長し・・・、じゃないかな」
(後略)
(前略)犀川は、いつも、ど真ん中から外れた話しをする。しかし、それは計算されたものであることを、萌絵は知っていた。あとで、スペアを取るために、わざとストライクを外してくる。難しいピンをわざわざ残す、それが犀川の話し方のスタイルで、彼女にはそのスリルが実に楽しい。(後略)
「(前略)僕は、阿弥陀くじは好きだけどなぁ・・・。あの程度の複雑さで、人間って神懸り的に諦められるんだよね。そこが面白いじゃないか。君は、阿弥陀くじは、二秒もあれば見切れるだろう?」
(後略)
(前略)「一番、下品な格言って知ってる?」
「働かざるもの食うべからず、ですよね?」萌絵は即答する。
「そうだ」犀川はにっこりと頷いた。彼は機嫌がよさそうだ。「いやらしい、卑屈な言葉だよね・・・。僕の一番嫌いな言葉だ。もともとは、もっと高尚な意味だったんだよ」
「え?どんな?」
「一日作さざれば、一日食わず」
「それ、同じことじゃありませんか?」
「違うね。これも集合論だ。ド・モルガンの法則かな」
犀川は、また難しいスペアを取った。
(後略)
(前略)
「さて、では、もう一つ問題を出そう。五つのビリヤードの玉を、真珠のネックレスのように、リングにつなげてみるとしよう。玉には、それぞれナンバが書かれている。さて、この五つの玉のうち、幾つ取っても良いが、隣どうし連続したものしか取れないとしよう。一つでも、二つでも、五つ全部でも良い。しかし、離れているものは取れない。この条件で取った玉のナンバを足し合わせて、1から21までのすべての数字ができるようにsたい。さあ、どのナンバの玉を、どのように並べて、ネックレスを作れば良いかな?」
(後略)
「(前略)定義できるものが、すなわち存在するものである」
(後略)
(前略)
「よいか、あらゆる課題は、現実と理想、あるいは事実と理論の間のギャップにある。それを自覚することだ。しかし、現実や事実は、常に真実とはいえない。それは、あくまでも、お前たちの目が観察したものだ。お前たちの頭が認識したものだ。それを自問するのだ。見ないものを考えるのが人間の思考なのだ。お前たちは、自分の姿が見えなくても、自分の存在を知っている。それが人間の能力ではないか」
(後略)
(前略)「西之園君。内側と外側の違いは何かわかる?」
「平面なら・・・閉曲線の面積が小さい側が内側です」萌絵は答えた。「でも、一般的には、観察者の存在する側が内側かな・・・」
(後略)
(前略)「先生、素朴と単純って、どこが違うのかしら?」
「現象としては同じだ。まあ、違いといえば、観察者の先入観かな」
(後略)
(前略)
諏訪野は、何度も犀川に頭を下げ、「お願いします」のあらゆるバリエーションを披露した。
(後略)
(前略)
もし教育というものが概念として存在するとすれば、たぶん、片山基生が和樹に与えたものが、それだろう、と犀川は理解したので、理想的だと表現したのである。人間は自分の生き様を見せること以外に、他人に教えることなど、何もないのだ。一般に使われている教育という言葉は、ありもしない幻想でしかない。
(後略)
(前略)
「自由がそんなに大切ですか?」と萌絵。
「そうだ。何故なら、自由以外に、思考の目的はない。人間が思考によって獲得する価値のあるものは、それ以外にはないからだ」
(後略)
(前略)「何かの誤解だと思うんだけどね。僕は、よくわからないんだ。そういうことに疎くてね。だから・・・、これは、架空の話として聞いてほしいんだけどね。まずい料理を食べることが愛情かな?どんなに出来が悪くても優をくれる先生が尊敬できる先生かな?もし知らない人が作った料理なら、少しぐらいまずくたって我慢するかもしれないね。でも、西之園君が、もしもだよ・・・、まずい料理を作ったら、我慢できないね、僕は。それが、人を尊敬するってことだ」
(後略)
(前略)
「負け方がわからなかったんだよ、君は」犀川が言う。「勝つことばかり考えていた。どうやって負けたら良いのかも、考えなくちゃ。それが名人というものさ。僕なんかね、あらゆる勝負に負けてばっかりだからね、そういった苦労は皆無だ」犀川は微笑んだ。
(後略)
「(前略)ものを観察している間は、人は考えないものだよ」
(後略)
(前略)「鏡に映った像は、左右が反対になりますね。どうして、上下や前後は反対にならないで、左右だけ入れ替わるのか、刑事さん、答えられますか?」
(中略)
「定義の問題です。左右だけが、定義が絶対的でないからです。上下の定義は空と地面、あるいは、人間なら頭と足で定義されます。前後も、顔と背中で定義できます。では、左右はどうでしょう?左右の定義は、上下と前後が定まったときに初めて決まるのです。(後略)」
(前略)「実は、あの日、パーティのあとで、西之園君がキッチンでサンドイッチ・・・、のようなもの・・・を作ったんです。これは、僕の記憶が曖昧なのではありません。記憶は極めて鮮明ですが、彼女の作ったものが曖昧だった」
(後略)
(前略)
「さて、殺人の動機は何でしょう?」犀川は言った。「どなたか、説明のできる方はいませんか?」
「先生、困りますね・・・」荻原が立ち上がった。「動機もわからずに、今まで説明されていたんですか?」
「ええ、そうですよ」犀川はあっさり認めた。「僕は、彼以外の人間には、犯行が物理的に極めて困難だというお話をしたにすぎません・・・彼が、どんな動機を持っているかなんてことは正確にはわかりません。そういったことが、正確に理解できるものだとも思っていませんしね」
(後略)
森博嗣「笑わない数学者」
冷たい密室と博士たち DOCTORS IN ISOLATED ROOM(森博嗣)<再読>
僕は、長所なのか短所なのか判断出来ないけれども、読んだ本の内容をすぐに忘れてしまう。短所としては、こうして本の感想を書こうと思ったら再読するしかない、ということだけど、再読でも十分に楽しめるという点は長所と言えるだろう。
さて、シリーズ二作目。今回もとりあえず内容について触れることにしようと思う。
建築学科の犀川の友人の土木学科の喜多。その研究所である通称<極地研>に見学にいくことになった犀川と萌絵。実験内容はよくわからない萌絵だが、犀川はとても楽しそうだ。
実験内容は、極地(南極・北極)の環境に設定された実験室内で、石油プラントの模型を浮かべ、波や風による影響を調べる、というものだ。だから、実験室にはプールがあり、またマイナス20度以下まで温度を下げることも出来る。
研究所の人間にとっては重要な、犀川にとっては興味深い、萌絵にとってはつまらない実験が終了したあと、その実験室内で打ち上げが開かれることに。犀川と萌絵も参加するが、当の研究所所属の大学院生二人が姿を現さない。研究所内を隈なく探すが見付からない。
萌絵の一言によって、まだ調べていなかった鍵の掛かった準備室に入ってみると、そこで二人が殺されているのが発見される。
状況的に、ほぼ普通のやり方では出入りすることの不可能な完全な密室での殺人。萌絵は張り切って情報を集め仮説を立てるがうまくいかない。犀川も思考するが・・・
という感じの話。
どうも、森ミステリは、あらすじだけ書くとあんまり面白そうではないな。つまり、あらすじに本質がない、という珍しいパターンなんだろうと思う。だから、読んでみないとその面白さは絶対にわからない。
今回の話はパズル的で、いくつか条件付の出入り口(壊れていて開かないシャッター・17時以降は外から開かない非常ドア・二箇所に保管され複製が簡単にできない鍵で施錠できるドア)と、周辺の人間の行動を組み合わせて、動機や何故こんなやり方をしたのかという考察をとりあえず無視したディスカッションの場面は、まさにパズルを解くかのようだった。トリックは素晴らしいし、そこに至る犀川の思考も素晴らしい。当然、登場人物の描き方も素晴らしいし(理系の、しかも大学の人間を見事に描いているという点で評価が高いようだ)、それに犀川と萌絵のやり取りもいい。
実質的な第一作(つまり森博嗣が初めて書いた作品がこの「冷たい密室と博士たち」)なわけだけれど、確かに地味だけど完成度は素晴らしいです。
というわけで今回は、このS&Mシリーズ(犀川と萌絵の頭文字を取ってそう呼ばれる)の基本的なことについて書こうと思います。
犀川創平はN大学建築学科の助教授。遅刻が嫌いで、講義には絶対に遅れない。試験はない。煙草が吸えないと平常心が少し保てなくなる。コーラが好きで酒はあまり飲めない。かつてN大総長だった西之園氏(名前はどうだったかな?)の元で研究していた。
西之園萌絵はN大の建築学科の学部生(とりあえず今のところ。シリーズが進むにつれて院生になった気がする)。学部生でありながら犀川の研究室に出入りしている。両親(父親はN大の元総長)を航空機事故で亡くしてからは、諏訪野という執事(まさにマンガに出てくるような執事たる執事)と愛犬トーマ(寝る時には仰向けになるデブ犬)と、自らがオーナーである高級マンションの21階と22階(22階が最上階)に住む超が何個もつくお嬢様。後見人である伯父は愛知県警の本部長、伯母は県知事夫人、その他政財界に幅広く権力を持つ有数の権力者集団である西之園一族の一員である。
舞台は愛知県那古野市(名古屋市をもじったわけで)。N大もそこにあり、大体の事件はそこで起きる。大抵のシリーズ物のミステリのように、お約束のように犀川と萌絵は事件に巻き込まれ、そして解決する、といった感じかな。
重要なのは、萌絵は犀川のことが好きだ、ということだ。この進展具合もかなり面白い。犀川という、一般からすれば特殊に分類される人間の、恋愛における考え方、というものが面白くていい。
いつも何かしら自分なりのオリジナリティ溢れる魅力的な考察やら文章やらが書ければいいんだけど、そうもいかないのでこのへんで。いつものように、気になったフレーズを書き出してみます。
(前略)問題を解くことがその人間の能力なのではない。人間の本当の能力とは、問題を作ること。何が問題なのかを発見することだ。したがって、試験で問題を出すという行為は、解答者を試すものではない。試験で問われているのは、問題提出者の方である。どれだけの人間が、そのことに気がついているだろう。
(後略)
(前略)
いろいろな意味で、西之園萌絵は、犀川にとって特別な学生だった。何が特別なのか、曖昧であるが、曖昧なままにしているということが、一番、彼にとって特別なところといって良い。
(後略)
(前略)成長とは、この世で最も不気味な運動だ。初めは身近な死への単なる驚きだったそれは、今では解けない数学の問題のような不可解さ、すなわち、鮮明な部分的形態と曖昧な全体認識を併せ持つ暗号文、あるいは、設計図のないプラモデルのようなもの、に成熟しつつある。(後略)
(前略)以前、何故携帯電話を持たないのか、と萌絵に尋ねてみたことがある。西之園家の令嬢なら、それくらい当然だと犀川は思ったからだ。彼女の返答は、実に納得のいくものだった。「いつも電話に出なくちゃいけないほど、私、プア-じゃありませんから」
(後略)
(前略)その鞄のセンスの悪さは何とかしなければいけない、と常々、萌絵は感じていた。本当にどうしたものか、と一晩真剣に考えたこともあったが、結論はまだ出ていない。気の短い彼女が、こんな単純な問題を未解決のままにしている。適切な解決方法も思いつかない。そんな馬鹿みたいな自分は初めてだったし、萌絵には驚異的な経験だった。それが、彼女にとって犀川が特別な人間であるという理由である。
(後略)
(前略)「面白ければ良いんだ。面白ければ、無駄遣いではない。子供の砂遊びと同じだよ。面白くなかったら、誰が研究なんかするもんか」
(後略)
「(前略)単純な境界条件ほど再現が難しいね」
(後略)
(前略)
(散らかっている?)
そんな自動詞は不適当だ。何か猛烈な哲学を感じさせる散らかり方である。おそらく、喜多の頭脳の構造を象徴しているのだろう。どう象徴しているのかといえば、つまり、彼の頭脳はこの部屋と逆なのである。犀川の部屋が片付いているのは、犀川の頭脳が散らかっている証拠だからだ。
(後略)
(前略)
「がいの街ですね。ちょうの町と、どう違うんですか?」船見が質問した。
「街のほうが画数が多い」犀川は自分で口にしたジョークのタイミングに満足する。(後略)
(前略)
「きっと、鈍感なんだね、僕は」犀川は苦い煙を吐く。「それに、生き物には・・・、そう、あまり関心がない」
(後略)
(前略)
「僕は、歴史が専門だからね・・・、実験はもう終わっているんだよ」
萌絵は、犀川の言葉を考えたが、完全には理解できなかった。
(後略)
(前略)彼女は高いところからの眺めが好きだ。深いところよりは恐くない。高いところは何故か安心できる。何も上から落ちてこないのだから。
(後略)
(前略)
「カルピスとコーラスって、どこが違うのか知ってるか?」喜多が尋ねる。
犀川は少し考えてから答えた。
「味が全然違う」
(後略)
(前略)
(しかし、高等動物の人間だけが殺しあうではないか・・・)
犀川は自問する。
(それは、人間だけが、生命に直接関係ない行為に価値を見出すからだ)
(後略)
(前略)
「責任と責任感の違いがわかるかい?」しばらくして、犀川が言う。
「字数が違うわ」萌絵は咄嗟に冗談を言った。
犀川は笑わない。
「押し付けられたものか、そうでないかの違いだ」
(後略)
(前略)
数学の問題がわかって、問題なく解答にたどり着いた、と思ったのに、数値が複素数になってしまったときのような不安感だった。
(後略)
(前略)
(凍死って、一番綺麗な死に方かな)
(後略)
(前略)
「ねえ、先生。もう少し、ここにいて下さらないかしら?」慌てて萌絵は頼んだ
もっと話をしていたかった。
「上品な言い方だね。どうして?ぬり絵でもしたいの?」
「ぬり絵?」萌絵の頭の中は真っ白になる。
(ぬり絵?)
同じ単語が何度もエコーのように繰り返される。意味が全然わからない。
「ごめんごめん、ジョークだよ」犀川は笑った。
「ジョーク?」
「意味はない。意味がないのが高級なんだ。」
(後略)
「(前略)もっとも、問題を解くことに比べて、解答の意味するところを思慮することは格段に困難です。それに、こういった人間の感情を言葉で表現すること自体、円周率の小数点以下を四捨五入するみたいで、気持ちの良いものではありません。」(後略)
(前略)
「プライドが一番大切なものなんですかね」
「そうですね。人間に残されているものは、プライドだけですから」犀川は同意する。
(後略)
(前略)
「犀川先生なら、どう答えますか?」国枝桃子が無表情で尋ねた。「学生が、数学は何の役に立つのか、ときいてきたら」
「何故、役に立たなくちゃあいけないのかって、きき返す」犀川はすぐに答えた。「だいたい、役に立たないものの方が楽しいじゃないか。音楽だって、芸術だって、何の役にも立たない。最も役に立たないということが、数学が一番人間的で純粋な学問である証拠です。人間だけが役に立たないことを考えるんですからね」
(後略)
(前略)
「内緒と沈黙は、どこが違う?」
犀川は独り言を呟く。
「内緒は、人間にしかできない」
(後略)
森博嗣「冷たい密室と博士たち」
さて、シリーズ二作目。今回もとりあえず内容について触れることにしようと思う。
建築学科の犀川の友人の土木学科の喜多。その研究所である通称<極地研>に見学にいくことになった犀川と萌絵。実験内容はよくわからない萌絵だが、犀川はとても楽しそうだ。
実験内容は、極地(南極・北極)の環境に設定された実験室内で、石油プラントの模型を浮かべ、波や風による影響を調べる、というものだ。だから、実験室にはプールがあり、またマイナス20度以下まで温度を下げることも出来る。
研究所の人間にとっては重要な、犀川にとっては興味深い、萌絵にとってはつまらない実験が終了したあと、その実験室内で打ち上げが開かれることに。犀川と萌絵も参加するが、当の研究所所属の大学院生二人が姿を現さない。研究所内を隈なく探すが見付からない。
萌絵の一言によって、まだ調べていなかった鍵の掛かった準備室に入ってみると、そこで二人が殺されているのが発見される。
状況的に、ほぼ普通のやり方では出入りすることの不可能な完全な密室での殺人。萌絵は張り切って情報を集め仮説を立てるがうまくいかない。犀川も思考するが・・・
という感じの話。
どうも、森ミステリは、あらすじだけ書くとあんまり面白そうではないな。つまり、あらすじに本質がない、という珍しいパターンなんだろうと思う。だから、読んでみないとその面白さは絶対にわからない。
今回の話はパズル的で、いくつか条件付の出入り口(壊れていて開かないシャッター・17時以降は外から開かない非常ドア・二箇所に保管され複製が簡単にできない鍵で施錠できるドア)と、周辺の人間の行動を組み合わせて、動機や何故こんなやり方をしたのかという考察をとりあえず無視したディスカッションの場面は、まさにパズルを解くかのようだった。トリックは素晴らしいし、そこに至る犀川の思考も素晴らしい。当然、登場人物の描き方も素晴らしいし(理系の、しかも大学の人間を見事に描いているという点で評価が高いようだ)、それに犀川と萌絵のやり取りもいい。
実質的な第一作(つまり森博嗣が初めて書いた作品がこの「冷たい密室と博士たち」)なわけだけれど、確かに地味だけど完成度は素晴らしいです。
というわけで今回は、このS&Mシリーズ(犀川と萌絵の頭文字を取ってそう呼ばれる)の基本的なことについて書こうと思います。
犀川創平はN大学建築学科の助教授。遅刻が嫌いで、講義には絶対に遅れない。試験はない。煙草が吸えないと平常心が少し保てなくなる。コーラが好きで酒はあまり飲めない。かつてN大総長だった西之園氏(名前はどうだったかな?)の元で研究していた。
西之園萌絵はN大の建築学科の学部生(とりあえず今のところ。シリーズが進むにつれて院生になった気がする)。学部生でありながら犀川の研究室に出入りしている。両親(父親はN大の元総長)を航空機事故で亡くしてからは、諏訪野という執事(まさにマンガに出てくるような執事たる執事)と愛犬トーマ(寝る時には仰向けになるデブ犬)と、自らがオーナーである高級マンションの21階と22階(22階が最上階)に住む超が何個もつくお嬢様。後見人である伯父は愛知県警の本部長、伯母は県知事夫人、その他政財界に幅広く権力を持つ有数の権力者集団である西之園一族の一員である。
舞台は愛知県那古野市(名古屋市をもじったわけで)。N大もそこにあり、大体の事件はそこで起きる。大抵のシリーズ物のミステリのように、お約束のように犀川と萌絵は事件に巻き込まれ、そして解決する、といった感じかな。
重要なのは、萌絵は犀川のことが好きだ、ということだ。この進展具合もかなり面白い。犀川という、一般からすれば特殊に分類される人間の、恋愛における考え方、というものが面白くていい。
いつも何かしら自分なりのオリジナリティ溢れる魅力的な考察やら文章やらが書ければいいんだけど、そうもいかないのでこのへんで。いつものように、気になったフレーズを書き出してみます。
(前略)問題を解くことがその人間の能力なのではない。人間の本当の能力とは、問題を作ること。何が問題なのかを発見することだ。したがって、試験で問題を出すという行為は、解答者を試すものではない。試験で問われているのは、問題提出者の方である。どれだけの人間が、そのことに気がついているだろう。
(後略)
(前略)
いろいろな意味で、西之園萌絵は、犀川にとって特別な学生だった。何が特別なのか、曖昧であるが、曖昧なままにしているということが、一番、彼にとって特別なところといって良い。
(後略)
(前略)成長とは、この世で最も不気味な運動だ。初めは身近な死への単なる驚きだったそれは、今では解けない数学の問題のような不可解さ、すなわち、鮮明な部分的形態と曖昧な全体認識を併せ持つ暗号文、あるいは、設計図のないプラモデルのようなもの、に成熟しつつある。(後略)
(前略)以前、何故携帯電話を持たないのか、と萌絵に尋ねてみたことがある。西之園家の令嬢なら、それくらい当然だと犀川は思ったからだ。彼女の返答は、実に納得のいくものだった。「いつも電話に出なくちゃいけないほど、私、プア-じゃありませんから」
(後略)
(前略)その鞄のセンスの悪さは何とかしなければいけない、と常々、萌絵は感じていた。本当にどうしたものか、と一晩真剣に考えたこともあったが、結論はまだ出ていない。気の短い彼女が、こんな単純な問題を未解決のままにしている。適切な解決方法も思いつかない。そんな馬鹿みたいな自分は初めてだったし、萌絵には驚異的な経験だった。それが、彼女にとって犀川が特別な人間であるという理由である。
(後略)
(前略)「面白ければ良いんだ。面白ければ、無駄遣いではない。子供の砂遊びと同じだよ。面白くなかったら、誰が研究なんかするもんか」
(後略)
「(前略)単純な境界条件ほど再現が難しいね」
(後略)
(前略)
(散らかっている?)
そんな自動詞は不適当だ。何か猛烈な哲学を感じさせる散らかり方である。おそらく、喜多の頭脳の構造を象徴しているのだろう。どう象徴しているのかといえば、つまり、彼の頭脳はこの部屋と逆なのである。犀川の部屋が片付いているのは、犀川の頭脳が散らかっている証拠だからだ。
(後略)
(前略)
「がいの街ですね。ちょうの町と、どう違うんですか?」船見が質問した。
「街のほうが画数が多い」犀川は自分で口にしたジョークのタイミングに満足する。(後略)
(前略)
「きっと、鈍感なんだね、僕は」犀川は苦い煙を吐く。「それに、生き物には・・・、そう、あまり関心がない」
(後略)
(前略)
「僕は、歴史が専門だからね・・・、実験はもう終わっているんだよ」
萌絵は、犀川の言葉を考えたが、完全には理解できなかった。
(後略)
(前略)彼女は高いところからの眺めが好きだ。深いところよりは恐くない。高いところは何故か安心できる。何も上から落ちてこないのだから。
(後略)
(前略)
「カルピスとコーラスって、どこが違うのか知ってるか?」喜多が尋ねる。
犀川は少し考えてから答えた。
「味が全然違う」
(後略)
(前略)
(しかし、高等動物の人間だけが殺しあうではないか・・・)
犀川は自問する。
(それは、人間だけが、生命に直接関係ない行為に価値を見出すからだ)
(後略)
(前略)
「責任と責任感の違いがわかるかい?」しばらくして、犀川が言う。
「字数が違うわ」萌絵は咄嗟に冗談を言った。
犀川は笑わない。
「押し付けられたものか、そうでないかの違いだ」
(後略)
(前略)
数学の問題がわかって、問題なく解答にたどり着いた、と思ったのに、数値が複素数になってしまったときのような不安感だった。
(後略)
(前略)
(凍死って、一番綺麗な死に方かな)
(後略)
(前略)
「ねえ、先生。もう少し、ここにいて下さらないかしら?」慌てて萌絵は頼んだ
もっと話をしていたかった。
「上品な言い方だね。どうして?ぬり絵でもしたいの?」
「ぬり絵?」萌絵の頭の中は真っ白になる。
(ぬり絵?)
同じ単語が何度もエコーのように繰り返される。意味が全然わからない。
「ごめんごめん、ジョークだよ」犀川は笑った。
「ジョーク?」
「意味はない。意味がないのが高級なんだ。」
(後略)
「(前略)もっとも、問題を解くことに比べて、解答の意味するところを思慮することは格段に困難です。それに、こういった人間の感情を言葉で表現すること自体、円周率の小数点以下を四捨五入するみたいで、気持ちの良いものではありません。」(後略)
(前略)
「プライドが一番大切なものなんですかね」
「そうですね。人間に残されているものは、プライドだけですから」犀川は同意する。
(後略)
(前略)
「犀川先生なら、どう答えますか?」国枝桃子が無表情で尋ねた。「学生が、数学は何の役に立つのか、ときいてきたら」
「何故、役に立たなくちゃあいけないのかって、きき返す」犀川はすぐに答えた。「だいたい、役に立たないものの方が楽しいじゃないか。音楽だって、芸術だって、何の役にも立たない。最も役に立たないということが、数学が一番人間的で純粋な学問である証拠です。人間だけが役に立たないことを考えるんですからね」
(後略)
(前略)
「内緒と沈黙は、どこが違う?」
犀川は独り言を呟く。
「内緒は、人間にしかできない」
(後略)
森博嗣「冷たい密室と博士たち」
すべてがFになる THE PERFECT INSIDER(森博嗣)<再読>
あなたはもう、「森博嗣」という才能に出会っているだろうか?僕は、それが存在することに感謝しているし、それに出会えたことにも感謝している。
早速だけど、先に物語の紹介に入ろうと思う。
舞台は孤島のハイテク研究所。ゼミ合宿に訪れた犀川ゼミ一行だが、犀川と萌絵だけは、その研究所で事件に巻き込まれる。
その研究所には、少女時代から完全に隔離された生活を送っている一人の天才、真賀田四季がいた。研究所に犀川と萌絵が訪れたまさにその瞬間、悲劇は目の前で繰り広げられた。
隔離されいるはずの四季の部屋から、ウエディングドレスを着、両手足を切断され、ロボットに乗せられた死体が現れた。
監視カメラの設置された入り口。中から開けることが不可能な入り口。完璧なはずの研究所のシステム。全てをかいくぐり殺人を実行、逃亡した犯人を犀川と萌絵が追う。
と、こう書いてしまうと普通のミステリだな、という感が否めないけど、まったく違う。全然違う。それをどう伝えようか考えてみた。
トリックがあるようなミステリというのは、大体次の三つの組み合わせで構成される。
Who done it.(フーダニット:誰がやったのかということ、犯人)
Why done it.(ホワイダニット:何故やったのかということ、動機)
How done it.(ハウダニット:どうやってやったのかということ、手法)
しかし、森博嗣は新たなダニットを作り出した、というのが僕の考えです。それを、What done it.(ホワッツダニット:何がやったのか、思想)と名付けようかと思います。
森ミステリにおいては、上記の三点はあまり重要視されません。正確に言えば、萌絵は上記の三つにこだわりますが、犀川はそれには興味がない、ということです。僕は、犀川の視点考え方が森博嗣自身のそれだろうと思うので、上のように書きました。
犀川は、犯人が誰であるとかどうして殺したのか、という点は興味がないように見えます。それは、問題を考えるうえで考察しておく必要がある場合のみ意識に登らせるのみで、それ以外は関心外だと思います。
特に、何故殺したのか、という動機には無関心です。それは、動機なんかやった本人だってちゃんとは説明出来ないだろうから、考えたって仕方ないよ、というような考え方を持っているからだと思われます。それにはかなり賛成で、解説で瀬名秀明も書いていますが、殺人の動機として過去のトラウマを持ってくるのは、読者が納得なり落ち着きなりを求めるためにあるだけの話であって、それが書かれているのは寧ろ不自然だ、と思います。だから森ミステリを読んでいると、どうして殺人を犯したのか、という説明はほとんどなされなくて、時折不安になるけれども、そこがいいと思います。
さて、では俺が勝手に命名したホワッツダニットについて説明しましょう。
森ミステリでは、他のミステリでも当然そうですが、とてつもなく不可思議な状況設定がなされます。当然それは犯人が仕組んでやったことなわけだけれども、何故その手法を使ったのか、何故その状況になるようにしたのか、というような、そういう犯人の思想について言及しているように思います。
わかりずらいですね。どうもうまく説明出来ません。
普通のミステリでは、動機は人を殺すために、トリックは捕まらないために設定されていると思います。でも森ミステリでは、動機はわからないものとして、トリックは犯人の思想を表現するために設定されているような気がします。そういうことです。そういう犯人の考え方、思想、そういったものを奥深く追求していくのが森ミステリだと思うわけです。
わかりずらくてすみません。
本当に、この才能に出会えてよかったと思います。是非読んで欲しいと思います。理系ミステリといわれていますが、理系的な知識が必要であるわけではないし、セリフの選択や登場人物の設定などが本当に見事で、ミステリ的な部分以外でもとても楽しめます。
是非どうぞ。
ちなみに、萌絵(もえ)を蒔絵(まきえ)と読みそうになるのは僕だけでしょうか?
では、森博嗣の作品を読む時の癖で、気になったセリフなどを抜き出してみようと思います。
「(前略)数字の中で、7だけが孤独なのよ」
(後略)
「(前略)所長のお知り合いだそうで・・・」
「お知り合いの・・・四乗根ぐらいです」(後略)
(前略)すべてがFになる(後略)
(前略)
「西之園君。デリカシィという言葉を知っている?」犀川は萌絵に言った。
「珍味のことでしょう?」萌絵は答えた。こういった状況における彼女の頭の回転速度は驚異的である。
(後略)
(前略)
「大丈夫です。先生こそ・・・お疲れでしょう?」萌絵は脚を組んで行った。
「そうね、マカデミアナッツよりは、ちょっとましかな・・・」犀川は真面目な顔をして言った。
少し考えてから萌絵が言う。「マカデミアナッツ?どういう意味ですか?」
「はは、意味はないよ」犀川は笑う。「意味のないジョークが、最高なんだ」
(後略)
「(前略)四季さんの頭脳は、一人の人格には広すぎるんじゃないかしら・・・」
(後略)
(前略)電動の工具は、スクリュードライバ、ドリル、ジグソー、サンダ、グラインダなどである。(後略)
(前略)
「いいわ・・・」萌絵は一瞬考えた。「333667と2331をかけるといくつ?」
「7が九つ並ぶわね」女はすぐに答えた。
(後略)
(前略)「どこにいるのかは問題ではありません。会いたいか、会いたくないか、それが距離を決めるのよ」
(後略)
(前略)
「思い出と記憶って、どこが違うか知っている?」犀川は煙草を消しながら言った。
「思い出は良いことばかり、記憶は嫌なことばかりだわ」
「そんなことはないよ。嫌な思い出も、楽しい記憶もある」
「じゃあ、何です?」
「思い出は全部記憶しているけどね、記憶は全部は思い出せないんだ」
(後略)
(前略)
「僕にはできないな・・・」犀川は煙を吐きながら言った。「地球の半径方向の距離には弱いんだ」
(後略)
(前略)
Time is moneyなんて言葉があるが、それは、時間を甘く見た言い方である。金よりも時間の方が何千倍も貴重だし、時間の価値は、つまり生命に限りなく等しいのである。
(後略)
(前略)
「完全になろうとする不完全さだ・・・」犀川は呟いた。もしかしたら、英語でしゃべっていたかもしれない。
(後略)
(前略)
ああ、人が殺されるというのは、こんなに大変なことなのか、と犀川は急に思った。
(後略)
(前略)
「先生・・・、現実って何でしょう?」萌絵は小さな顔を少し傾けて言った。
「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ」犀川はすぐ答えた。
(後略)
(前略)「犀川先生にお考えがあるのです。先生は事件のことを誰よりもよくご存知ですわ」
「犯人の次に、ですけど・・・」犀川は萌絵の言葉を訂正した。
(後略)
(前略)
「自信家ですこと」四季が笑いながら言った。「想像したとおりの方ね」
「いえ、真実に気がつけば、誰でも自信家になれます」犀川が本心を言う。「自信なんて、小心者のポケットみたいなものです」
(後略)
(前略)「復讐するためには、その以前に敗北が必要です。私はこれまでに敗北したことがありません。ですから、復讐というものの精神さえ実感出来ないわ。(後略)」
(前略)
「死を恐れている人はいません。死にいたる生を恐れているのよ」四季は言う。「苦しまないで死ねるのなら、誰も死を恐れないでしょう?」
(後略)
森博嗣「すべてがFになる」
早速だけど、先に物語の紹介に入ろうと思う。
舞台は孤島のハイテク研究所。ゼミ合宿に訪れた犀川ゼミ一行だが、犀川と萌絵だけは、その研究所で事件に巻き込まれる。
その研究所には、少女時代から完全に隔離された生活を送っている一人の天才、真賀田四季がいた。研究所に犀川と萌絵が訪れたまさにその瞬間、悲劇は目の前で繰り広げられた。
隔離されいるはずの四季の部屋から、ウエディングドレスを着、両手足を切断され、ロボットに乗せられた死体が現れた。
監視カメラの設置された入り口。中から開けることが不可能な入り口。完璧なはずの研究所のシステム。全てをかいくぐり殺人を実行、逃亡した犯人を犀川と萌絵が追う。
と、こう書いてしまうと普通のミステリだな、という感が否めないけど、まったく違う。全然違う。それをどう伝えようか考えてみた。
トリックがあるようなミステリというのは、大体次の三つの組み合わせで構成される。
Who done it.(フーダニット:誰がやったのかということ、犯人)
Why done it.(ホワイダニット:何故やったのかということ、動機)
How done it.(ハウダニット:どうやってやったのかということ、手法)
しかし、森博嗣は新たなダニットを作り出した、というのが僕の考えです。それを、What done it.(ホワッツダニット:何がやったのか、思想)と名付けようかと思います。
森ミステリにおいては、上記の三点はあまり重要視されません。正確に言えば、萌絵は上記の三つにこだわりますが、犀川はそれには興味がない、ということです。僕は、犀川の視点考え方が森博嗣自身のそれだろうと思うので、上のように書きました。
犀川は、犯人が誰であるとかどうして殺したのか、という点は興味がないように見えます。それは、問題を考えるうえで考察しておく必要がある場合のみ意識に登らせるのみで、それ以外は関心外だと思います。
特に、何故殺したのか、という動機には無関心です。それは、動機なんかやった本人だってちゃんとは説明出来ないだろうから、考えたって仕方ないよ、というような考え方を持っているからだと思われます。それにはかなり賛成で、解説で瀬名秀明も書いていますが、殺人の動機として過去のトラウマを持ってくるのは、読者が納得なり落ち着きなりを求めるためにあるだけの話であって、それが書かれているのは寧ろ不自然だ、と思います。だから森ミステリを読んでいると、どうして殺人を犯したのか、という説明はほとんどなされなくて、時折不安になるけれども、そこがいいと思います。
さて、では俺が勝手に命名したホワッツダニットについて説明しましょう。
森ミステリでは、他のミステリでも当然そうですが、とてつもなく不可思議な状況設定がなされます。当然それは犯人が仕組んでやったことなわけだけれども、何故その手法を使ったのか、何故その状況になるようにしたのか、というような、そういう犯人の思想について言及しているように思います。
わかりずらいですね。どうもうまく説明出来ません。
普通のミステリでは、動機は人を殺すために、トリックは捕まらないために設定されていると思います。でも森ミステリでは、動機はわからないものとして、トリックは犯人の思想を表現するために設定されているような気がします。そういうことです。そういう犯人の考え方、思想、そういったものを奥深く追求していくのが森ミステリだと思うわけです。
わかりずらくてすみません。
本当に、この才能に出会えてよかったと思います。是非読んで欲しいと思います。理系ミステリといわれていますが、理系的な知識が必要であるわけではないし、セリフの選択や登場人物の設定などが本当に見事で、ミステリ的な部分以外でもとても楽しめます。
是非どうぞ。
ちなみに、萌絵(もえ)を蒔絵(まきえ)と読みそうになるのは僕だけでしょうか?
では、森博嗣の作品を読む時の癖で、気になったセリフなどを抜き出してみようと思います。
「(前略)数字の中で、7だけが孤独なのよ」
(後略)
「(前略)所長のお知り合いだそうで・・・」
「お知り合いの・・・四乗根ぐらいです」(後略)
(前略)すべてがFになる(後略)
(前略)
「西之園君。デリカシィという言葉を知っている?」犀川は萌絵に言った。
「珍味のことでしょう?」萌絵は答えた。こういった状況における彼女の頭の回転速度は驚異的である。
(後略)
(前略)
「大丈夫です。先生こそ・・・お疲れでしょう?」萌絵は脚を組んで行った。
「そうね、マカデミアナッツよりは、ちょっとましかな・・・」犀川は真面目な顔をして言った。
少し考えてから萌絵が言う。「マカデミアナッツ?どういう意味ですか?」
「はは、意味はないよ」犀川は笑う。「意味のないジョークが、最高なんだ」
(後略)
「(前略)四季さんの頭脳は、一人の人格には広すぎるんじゃないかしら・・・」
(後略)
(前略)電動の工具は、スクリュードライバ、ドリル、ジグソー、サンダ、グラインダなどである。(後略)
(前略)
「いいわ・・・」萌絵は一瞬考えた。「333667と2331をかけるといくつ?」
「7が九つ並ぶわね」女はすぐに答えた。
(後略)
(前略)「どこにいるのかは問題ではありません。会いたいか、会いたくないか、それが距離を決めるのよ」
(後略)
(前略)
「思い出と記憶って、どこが違うか知っている?」犀川は煙草を消しながら言った。
「思い出は良いことばかり、記憶は嫌なことばかりだわ」
「そんなことはないよ。嫌な思い出も、楽しい記憶もある」
「じゃあ、何です?」
「思い出は全部記憶しているけどね、記憶は全部は思い出せないんだ」
(後略)
(前略)
「僕にはできないな・・・」犀川は煙を吐きながら言った。「地球の半径方向の距離には弱いんだ」
(後略)
(前略)
Time is moneyなんて言葉があるが、それは、時間を甘く見た言い方である。金よりも時間の方が何千倍も貴重だし、時間の価値は、つまり生命に限りなく等しいのである。
(後略)
(前略)
「完全になろうとする不完全さだ・・・」犀川は呟いた。もしかしたら、英語でしゃべっていたかもしれない。
(後略)
(前略)
ああ、人が殺されるというのは、こんなに大変なことなのか、と犀川は急に思った。
(後略)
(前略)
「先生・・・、現実って何でしょう?」萌絵は小さな顔を少し傾けて言った。
「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ」犀川はすぐ答えた。
(後略)
(前略)「犀川先生にお考えがあるのです。先生は事件のことを誰よりもよくご存知ですわ」
「犯人の次に、ですけど・・・」犀川は萌絵の言葉を訂正した。
(後略)
(前略)
「自信家ですこと」四季が笑いながら言った。「想像したとおりの方ね」
「いえ、真実に気がつけば、誰でも自信家になれます」犀川が本心を言う。「自信なんて、小心者のポケットみたいなものです」
(後略)
(前略)「復讐するためには、その以前に敗北が必要です。私はこれまでに敗北したことがありません。ですから、復讐というものの精神さえ実感出来ないわ。(後略)」
(前略)
「死を恐れている人はいません。死にいたる生を恐れているのよ」四季は言う。「苦しまないで死ねるのなら、誰も死を恐れないでしょう?」
(後略)
森博嗣「すべてがFになる」
暗いところで待ち合わせ(乙一)<再読>
目が見えなくなったら・・・という想像は、僕を恐怖に陥れます。本を読むことしか趣味がない僕としては、視力というのはもっとも必要で大切なものです。視力を失ったら、僕のように本を読む人でなくても、困惑することでしょう。
しかし、この作品の登場人物は、必要以上に、というか普通並にも悲観した様子は見せません。強いのか諦めなのか。生きていかなければならない、という選択肢を選んでしまったら、目が見えないということとも向き合っていかなくてはいけない、ということなのだろう。そうなのだろうけど、自分がもし同じ立場になったら、まともでいられる自信はない。
他の乙一の作品の感想で同じ事を書いてなければいい、と思うけど、僕は乙一の作品の中でこの「暗いところで待ち合わせ」が一番好きです。
相変わらず乙一は天才だと思います。最小限の登場人物で(名前の与えられたのは5人で、物語の大半を占めるのはそのうち2人)、最大限奇妙な設定で、絶妙な文体で、最高に面白い物語に仕上げてくる乙一は、天性のものだと思います。
駅の近くに一人で住む本間ミチル。彼女は両親を失い、さらに視力までも失った。外に出ることを極力拒み、日がな一日丸まってまどろんだりぼーっとしながら、保険金で生活している。
そんなミチルの家の側の駅で殺人事件が起こる。殺された松永トシオと同じ会社に勤め、同じ駅を利用していた大石アキヒロは、まさにその殺害現場から逃げ出し、警察から追われることになる。
そうして彼が逃げ込んだ先がミチルの家だった。視力を失った女性の家に勝手に上がりこんだアキヒロ。存在を悟られないように気をつけながら息を潜めて生活する。
一方でミチルの方も、違和感に気づき始める。誰かがいるのかもしれない。確信の持てないその思いが広がっていく。
こうして二人のあまりに奇妙な同棲生活は、会話も接触もないまま静かに時を刻んでいくのだが・・・氷が溶けていくようにして徐々に変わっていく二人の関係は、悲しくもあり美しくもあり、本当に見事な設定だと思います。
ホラー作家としてデビューした乙一だけど、この作品はどうだろう。最後数十ページでの展開はまさにミステリ的で、何かのスイッチを切り替えたかのように見えていた世界が反転する。乙一の作品は大抵ホラーのようでミステリでもある、というものが多いけど、今回はホラー色が少ないからミステリの要素が最後になって際立っている。
乙一の作品は、落としどころがどこなのかがさっぱりわからないという不安感がある。小説というもはどの作品もそうなのかもしれないしそうあるべきだろうけど、作品がどういう方向でどう落ち着くのかがまったく想像がつかない。命綱なしで岩肌を登っているようなその不安定感が結構好きだったりする。
ミチルとアキヒロという二人は、その境遇は多少違えど、共に人との接触を頑なに拒む性格をしている。アキヒロは学校で友達に溶け込めず、職場でもそうであったがために松永トシオに殺意を抱く結果になった。ミチルの方も、視力を失ってからはさらに急速に世界との距離をとり始め、外の世界を恐怖するようにすらなっている。
本当に自分のことを読んでいるようで、特にアキヒロの性格と同じだなと思いながら読んだ。乙一の作品にはよく、そういう人付き合いが苦手で孤立してしまう人間というのが出てきて、僕は乙一自身がそういう性格なのだろう、と思っている。きっと間違いないだろう。引きこもり、人見知りのことをよくわかっている。
この作品はどうやら映画化されるようです。最近はミステリ系の作品が映画化されることが多くて、結構気になっていたりするわけど、やっぱり原作の方が面白いだろう、という思いも拭えない。やっぱり、物語と文体・雰囲気というものを乖離させてしまえば、それは原作からかけ離れてしまうと思うからだ。
それでも見てみたいな、と思う作品は時折あって、それは「どう映像化するんだろう」という興味がある場合が多い。この作品も、大半の時間の描写を、ミチルとアキヒロの同棲生活を描くと思うけど、でもそのシーンは、会話も接触もないのだ。映像的にどうなるのか、と言う興味はあったりする。
乙一が今までに出した二作の長編の内の一作です。僕はとても素晴らしいと思うし、物悲しく美しい物語だと思います。乙一らしさもばっちりで、長編にしては分量も少ない、という、まさに乙一初心者へうってつけの本です。是非読んでみてください。
でもなんか、今回の感想はちょっと不満が残るな。どこが、ということでもないけど、もう少しいい文章が書けそうな気がするんだけど・・・
乙一「暗いところで待ち合わせ」
しかし、この作品の登場人物は、必要以上に、というか普通並にも悲観した様子は見せません。強いのか諦めなのか。生きていかなければならない、という選択肢を選んでしまったら、目が見えないということとも向き合っていかなくてはいけない、ということなのだろう。そうなのだろうけど、自分がもし同じ立場になったら、まともでいられる自信はない。
他の乙一の作品の感想で同じ事を書いてなければいい、と思うけど、僕は乙一の作品の中でこの「暗いところで待ち合わせ」が一番好きです。
相変わらず乙一は天才だと思います。最小限の登場人物で(名前の与えられたのは5人で、物語の大半を占めるのはそのうち2人)、最大限奇妙な設定で、絶妙な文体で、最高に面白い物語に仕上げてくる乙一は、天性のものだと思います。
駅の近くに一人で住む本間ミチル。彼女は両親を失い、さらに視力までも失った。外に出ることを極力拒み、日がな一日丸まってまどろんだりぼーっとしながら、保険金で生活している。
そんなミチルの家の側の駅で殺人事件が起こる。殺された松永トシオと同じ会社に勤め、同じ駅を利用していた大石アキヒロは、まさにその殺害現場から逃げ出し、警察から追われることになる。
そうして彼が逃げ込んだ先がミチルの家だった。視力を失った女性の家に勝手に上がりこんだアキヒロ。存在を悟られないように気をつけながら息を潜めて生活する。
一方でミチルの方も、違和感に気づき始める。誰かがいるのかもしれない。確信の持てないその思いが広がっていく。
こうして二人のあまりに奇妙な同棲生活は、会話も接触もないまま静かに時を刻んでいくのだが・・・氷が溶けていくようにして徐々に変わっていく二人の関係は、悲しくもあり美しくもあり、本当に見事な設定だと思います。
ホラー作家としてデビューした乙一だけど、この作品はどうだろう。最後数十ページでの展開はまさにミステリ的で、何かのスイッチを切り替えたかのように見えていた世界が反転する。乙一の作品は大抵ホラーのようでミステリでもある、というものが多いけど、今回はホラー色が少ないからミステリの要素が最後になって際立っている。
乙一の作品は、落としどころがどこなのかがさっぱりわからないという不安感がある。小説というもはどの作品もそうなのかもしれないしそうあるべきだろうけど、作品がどういう方向でどう落ち着くのかがまったく想像がつかない。命綱なしで岩肌を登っているようなその不安定感が結構好きだったりする。
ミチルとアキヒロという二人は、その境遇は多少違えど、共に人との接触を頑なに拒む性格をしている。アキヒロは学校で友達に溶け込めず、職場でもそうであったがために松永トシオに殺意を抱く結果になった。ミチルの方も、視力を失ってからはさらに急速に世界との距離をとり始め、外の世界を恐怖するようにすらなっている。
本当に自分のことを読んでいるようで、特にアキヒロの性格と同じだなと思いながら読んだ。乙一の作品にはよく、そういう人付き合いが苦手で孤立してしまう人間というのが出てきて、僕は乙一自身がそういう性格なのだろう、と思っている。きっと間違いないだろう。引きこもり、人見知りのことをよくわかっている。
この作品はどうやら映画化されるようです。最近はミステリ系の作品が映画化されることが多くて、結構気になっていたりするわけど、やっぱり原作の方が面白いだろう、という思いも拭えない。やっぱり、物語と文体・雰囲気というものを乖離させてしまえば、それは原作からかけ離れてしまうと思うからだ。
それでも見てみたいな、と思う作品は時折あって、それは「どう映像化するんだろう」という興味がある場合が多い。この作品も、大半の時間の描写を、ミチルとアキヒロの同棲生活を描くと思うけど、でもそのシーンは、会話も接触もないのだ。映像的にどうなるのか、と言う興味はあったりする。
乙一が今までに出した二作の長編の内の一作です。僕はとても素晴らしいと思うし、物悲しく美しい物語だと思います。乙一らしさもばっちりで、長編にしては分量も少ない、という、まさに乙一初心者へうってつけの本です。是非読んでみてください。
でもなんか、今回の感想はちょっと不満が残るな。どこが、ということでもないけど、もう少しいい文章が書けそうな気がするんだけど・・・
乙一「暗いところで待ち合わせ」
白夜行(東野圭吾)<再読>
人は皆、人生という名の道を歩いている。ありきたりな表現だけど間違いはないだろう。それは散り行く花にも、小説にも例えられるものだろうし、中には、白夜の中を歩くようだ、と例える人もいるだろう。
この小説を読むととても不安になる。いや、ずっと不安に感じていた何か曖昧なものが、この小説を読んだことで鮮明になった、と言った方が正確かもしれない。
僕たちは、自らの力で、自らの手で、自らの決断で、自らの選択で、あるいは自分に付属するあらゆるものの何かによって、人生を選び取っている、と言い切ることができるだろうか?僕の抱える不安の正体は、つまりそういうことだ。
僕たちはいつだって何かを決断したり選択したりしている。どの本を読もうか、という小さなものから、自殺してしまおうか、とかなり大きなものまで幅は広いだろう。誰かからの忠告や何かの誘惑、つまり周囲の干渉といったものも自らの決断・選択に反映されることだろう。けれど、最終的には、それがどんなに認めたくないものでも、自分の人生は自分で選び取った、そう人は考えるだろうし、考えざるおえないと思う。
ただ、もしかしたらそうでないのかもしれない。誰か、あるいは何か、自分以外の大きな存在が自分の人生を決めているのではないか、そういう不安はずっと僕のなかにあったし、この小説を読んでより大きくなった。
牧羊犬のような存在かもしれない。広い牧場の中で、たった一匹の牧羊犬が、何頭もの羊達を統率しまとめ一ヶ所に導く。そういった、まさに「見えざる牧羊犬」といった存在が、僕らの周りにいるのではないかと思わせる。
さて、今回この「白夜行」という作品について、内容的な紹介は一切しないようにしたいと思う。僕はこの物語を、誰の何の物語なのか一切知らない状態で読んでほしいと、本当にそう思う。僕がその内容を紹介したところで作品の面白さが減るわけではないけれども、このまさに多層的で重厚な物語は、何の情報もない状態で読むのがやはり一番いい、と僕は思うわけです。
代わりに、と言ってはなんですが、この小説と僕との話をしようと思います。このブログは、なるべく自分のことを排除して、本の感想だけで構成する、というシンプルな作りを目指しているわけだけれども、まあ一度ぐらいはいいかと思うし、少しだけ書きたいことがある。
僕は大学の二年の時に、急に思い立って本を読み始めました(小中高でも読んでいたけど、一人の作家に固執していたりして幅広くとは言い難いものでした)。このブログにあるように、「444冊目からの読書日記」というのも、その時からの記録です。
その最初に読んだ本がこの「白夜行」だ、と思っています。というのも、はっきりとした記憶はなくて、かなり初めの方に読んだ、という記憶はあるけど、それが一番初めだったのか、と聞かれると自信はありません。それでも俺の今の記憶では、この小説を一番に読んだ、ということになっています。
それぐらい衝撃的でした。読み終わったあと、何て小説なんだろう、と思った記憶があります。その時はまだ東野圭吾という作家も、江戸乱歩賞という賞も、このミスというランキング本も何も知らない、本当に無知な読書初心者だったけど、恐らくこの「白夜行」の衝撃で僕は読書にのめりこみ、作家や賞や作品の名前を覚え(それが今の本屋のバイトで結構役立っているけど)、今ではこうしてブログに感想を書くまでになったわけです。
こういう言い方が正確かはわからないけど、「白夜行」という作品に出会わなかったら、僕はここまで本というものに興味を持てなかったかもしれません。
さすがに再読では、初読と同じだけの衝撃は味わえなかったけど、それでも素晴らしい作品であることに変わりはありません。
もちろん、「黒夜行」というのも「白夜行」からとっています。ちなみに、このブログのカテゴリーの名前(「繋がれたはず」とか「行ける近場への地」など)も、ある小説のタイトルをもじっているんですが、わかりますかね?
というわけど、今回はまったく作品の紹介になっていないけど、紹介したいという気持ちを抑えてまで何も書かないぐらい、この本を読んでほしいと思っています。多少長いけど、是非読んでみてください。
いろんなシーンで怖いな、と思うと思うけど、ラストシーンは特に衝撃的だと思います。
東野圭吾「白夜行」
この小説を読むととても不安になる。いや、ずっと不安に感じていた何か曖昧なものが、この小説を読んだことで鮮明になった、と言った方が正確かもしれない。
僕たちは、自らの力で、自らの手で、自らの決断で、自らの選択で、あるいは自分に付属するあらゆるものの何かによって、人生を選び取っている、と言い切ることができるだろうか?僕の抱える不安の正体は、つまりそういうことだ。
僕たちはいつだって何かを決断したり選択したりしている。どの本を読もうか、という小さなものから、自殺してしまおうか、とかなり大きなものまで幅は広いだろう。誰かからの忠告や何かの誘惑、つまり周囲の干渉といったものも自らの決断・選択に反映されることだろう。けれど、最終的には、それがどんなに認めたくないものでも、自分の人生は自分で選び取った、そう人は考えるだろうし、考えざるおえないと思う。
ただ、もしかしたらそうでないのかもしれない。誰か、あるいは何か、自分以外の大きな存在が自分の人生を決めているのではないか、そういう不安はずっと僕のなかにあったし、この小説を読んでより大きくなった。
牧羊犬のような存在かもしれない。広い牧場の中で、たった一匹の牧羊犬が、何頭もの羊達を統率しまとめ一ヶ所に導く。そういった、まさに「見えざる牧羊犬」といった存在が、僕らの周りにいるのではないかと思わせる。
さて、今回この「白夜行」という作品について、内容的な紹介は一切しないようにしたいと思う。僕はこの物語を、誰の何の物語なのか一切知らない状態で読んでほしいと、本当にそう思う。僕がその内容を紹介したところで作品の面白さが減るわけではないけれども、このまさに多層的で重厚な物語は、何の情報もない状態で読むのがやはり一番いい、と僕は思うわけです。
代わりに、と言ってはなんですが、この小説と僕との話をしようと思います。このブログは、なるべく自分のことを排除して、本の感想だけで構成する、というシンプルな作りを目指しているわけだけれども、まあ一度ぐらいはいいかと思うし、少しだけ書きたいことがある。
僕は大学の二年の時に、急に思い立って本を読み始めました(小中高でも読んでいたけど、一人の作家に固執していたりして幅広くとは言い難いものでした)。このブログにあるように、「444冊目からの読書日記」というのも、その時からの記録です。
その最初に読んだ本がこの「白夜行」だ、と思っています。というのも、はっきりとした記憶はなくて、かなり初めの方に読んだ、という記憶はあるけど、それが一番初めだったのか、と聞かれると自信はありません。それでも俺の今の記憶では、この小説を一番に読んだ、ということになっています。
それぐらい衝撃的でした。読み終わったあと、何て小説なんだろう、と思った記憶があります。その時はまだ東野圭吾という作家も、江戸乱歩賞という賞も、このミスというランキング本も何も知らない、本当に無知な読書初心者だったけど、恐らくこの「白夜行」の衝撃で僕は読書にのめりこみ、作家や賞や作品の名前を覚え(それが今の本屋のバイトで結構役立っているけど)、今ではこうしてブログに感想を書くまでになったわけです。
こういう言い方が正確かはわからないけど、「白夜行」という作品に出会わなかったら、僕はここまで本というものに興味を持てなかったかもしれません。
さすがに再読では、初読と同じだけの衝撃は味わえなかったけど、それでも素晴らしい作品であることに変わりはありません。
もちろん、「黒夜行」というのも「白夜行」からとっています。ちなみに、このブログのカテゴリーの名前(「繋がれたはず」とか「行ける近場への地」など)も、ある小説のタイトルをもじっているんですが、わかりますかね?
というわけど、今回はまったく作品の紹介になっていないけど、紹介したいという気持ちを抑えてまで何も書かないぐらい、この本を読んでほしいと思っています。多少長いけど、是非読んでみてください。
いろんなシーンで怖いな、と思うと思うけど、ラストシーンは特に衝撃的だと思います。
東野圭吾「白夜行」
ZOO(乙一)<再読>
「何なんだこれは。」
これはZOOの帯に書かれた、北上二郎という作家の言葉です。同じく帯には、「天衣無縫、驚天動地。ジャンル分け不能。驚異の天才乙一、最新短編集!」とあります。確かに、こういう言葉が出てきてしまうような作品です。
普通短編集というものは、同じテーマに沿って書かれるのが普通だと思います。分かりやすいのは、登場人物が同じという連作短編集ですが、そうでなくても同じテーマに沿って書かれていれば、それは一つの短編集として作品になるでしょう。
しかし、この短編集には一貫した何か、というものが見当たりません。まさに、「何なんだこれは。」です。「ZOO」というのは収録された短編の一つのタイトルですが、ある意味乙一はこの作品に、「狂った人間園」という意味で「ZOO」というタイトルをつけたのかもしれません。本当に、狂った人、そして狂った状況が出てくる、という以外共通項らしきものは見付かりません。
でも、だからといって良くない作品かと言えばそういうわけでもなく、乙一らしい、まさに天才乙一の作品集です。異常としか言えない世界を思いつくのも素晴らしいけど、それを淡々とした冷めた文章で綴るため、恐怖が倍増します。
この作品は、どうも映画化されるようです。拙い記憶ですが、収録された10編の内、5編が映像化され、アンソロジーのような形で一つの映画になるようです。さて、どれが映像化されるのやら。乙一の文体を除いてストーリーを映像化しても、乙一らしい恐さが残るのかどうかわかりませんが。
10編全て紹介しようと思います。
「カザリとヨーコ」
カザリとヨーコは双子。妹のカザリは母親から愛されているのに、ヨーコはまるで対照的にひどい扱いを受けている。いつも、いつか母親に殺されるのではないか、と不安に思うヨーコ。妹のカザリが羨ましくて仕方がないヨーコ。そしてある日を境に運命の決まるヨーコ…ミステリと双子という取り合わせは、不幸しか呼ばないようです。
「血液を探せ!」
交通事故の後遺症で無痛症になった老人。皮膚の感触を失った老人が、旅行先の別荘で起きた時血まみれになっていた。息子に体を調べさせると脇腹に包丁が。専属の医者がいつも持ち歩いているという老人の血液を探すよう命じるのだが、さて鍵の掛かった部屋にいた老人はいつ誰にどうやって刺されたのか…東野圭吾の「名探偵の掟」を読んでいるような馬鹿馬鹿しさがあって、面白いです。
「陽だまりの詩」
目を開けた時目の前にいた男。私を作った男。男の死後、男が敬愛していた伯父の隣に埋葬してもらうためだけに作られたロボットの私。男に「死」について学んでほしいと言われた私は、男とともに暮らす生活の中で変わっていく…これはとても悲しい物語です。いい話です。
「SO-far そ・ふぁー」
両親と三人で暮らす子供の僕。だが、ある日を境に変てこなことになった。一緒の家に住んでいるはずの両親は、互いに互いの姿が見えなくなってしまったらしい。子供ながらにどうすべきか考え、両親の会話の仲介役となる僕。だが、いつしか僕の方にも変化が起き…これはすごい。アイデア勝負だけど、オチが決まっている。
「冷たい森の白い家」
両親が死に、伯母に引き取られた少女。馬小屋で住むように言われ、伯母だけでなく、伯母の息子達にも苛められる日々。伯母の家を追い出された少女は、自分ひとりで生きるために家を作ることにしたのだが…この作品は、映像化する五編には入っていないことでしょう。映像化に耐えうる作品ではありません。異常な中にも青い優しさ(読んでくれればこの表現の意味は分かると思いますが)があって、それだけが救いです。
「Closet」
夫の実家へと行くことになった私。義弟に呼び出された私は、過去の嫌な思い出を知られてしまったことを知る。義弟の死体の処分を処分し、何食わぬ顔で夫の家族と生活を共にしていくのだが…ミステリ色の強い作品で、初読の時はかなり驚いた記憶があります。
「神の言葉」
発する言葉で相手を操ることができてしまう少年。人から悪く見られることを極端に恐れ、それを回避するためだけにいい子を演じ続けるのだが、弟の視線が少年の心を抉っていく。弟を殺すしかない。そう決断した少年が知る世界の真実とは…もの凄い話です。壮絶と言ってもいい。この主人公の少年と僕は本当に似ています。同じ行動原理を持っているので、共感できます。
「ZOO」
愛する恋人の腐敗していく写真が毎日ポストに投函される青年。犯人を見つけてやる。毎日そう思い、行動をしていくのだが、実はその恋人を殺したのは青年自身だった。自らの罪を見つめたくないがために架空の犯人を探し続ける青年の終着は…恐怖を克服するために狂ってしまう青年の話です。
「SEVEN ROOMS」
目覚めるとそこはコンクリートに囲まれた何もない部屋だった。部屋の中心を排水溝が通り、濁った水が流れていく。どうしてそこに閉じ込められているのか理解できない姉と弟は、体の小さい弟を排水溝に通して逃げ道を探そうとするのだが…二人に与えられた運命とラストシーンはなかなかのものですが、この作品の中ではそんなにたいした作品ではないと思います。
「落ちる飛行機の中で」
ハイジャックされた飛行機の中で、割と平然と会話を続ける女と男。女は復讐のために、男は死ぬために飛行機に乗っていた。長年死ぬ時は安楽死がいいと願っていた女に男は安楽死用の薬を売りつけようとする。女の選択だ思わぬ形で結実する…これもそんなにいい作品ではないと思います。
確かに、何を書きたかったのかよくわからない作品もいくつかありますが、乙一の乙一らしい才能の詰まった作品集です。是非読んでみてほしいと思います。
乙一「ZOO」
ZOO
これはZOOの帯に書かれた、北上二郎という作家の言葉です。同じく帯には、「天衣無縫、驚天動地。ジャンル分け不能。驚異の天才乙一、最新短編集!」とあります。確かに、こういう言葉が出てきてしまうような作品です。
普通短編集というものは、同じテーマに沿って書かれるのが普通だと思います。分かりやすいのは、登場人物が同じという連作短編集ですが、そうでなくても同じテーマに沿って書かれていれば、それは一つの短編集として作品になるでしょう。
しかし、この短編集には一貫した何か、というものが見当たりません。まさに、「何なんだこれは。」です。「ZOO」というのは収録された短編の一つのタイトルですが、ある意味乙一はこの作品に、「狂った人間園」という意味で「ZOO」というタイトルをつけたのかもしれません。本当に、狂った人、そして狂った状況が出てくる、という以外共通項らしきものは見付かりません。
でも、だからといって良くない作品かと言えばそういうわけでもなく、乙一らしい、まさに天才乙一の作品集です。異常としか言えない世界を思いつくのも素晴らしいけど、それを淡々とした冷めた文章で綴るため、恐怖が倍増します。
この作品は、どうも映画化されるようです。拙い記憶ですが、収録された10編の内、5編が映像化され、アンソロジーのような形で一つの映画になるようです。さて、どれが映像化されるのやら。乙一の文体を除いてストーリーを映像化しても、乙一らしい恐さが残るのかどうかわかりませんが。
10編全て紹介しようと思います。
「カザリとヨーコ」
カザリとヨーコは双子。妹のカザリは母親から愛されているのに、ヨーコはまるで対照的にひどい扱いを受けている。いつも、いつか母親に殺されるのではないか、と不安に思うヨーコ。妹のカザリが羨ましくて仕方がないヨーコ。そしてある日を境に運命の決まるヨーコ…ミステリと双子という取り合わせは、不幸しか呼ばないようです。
「血液を探せ!」
交通事故の後遺症で無痛症になった老人。皮膚の感触を失った老人が、旅行先の別荘で起きた時血まみれになっていた。息子に体を調べさせると脇腹に包丁が。専属の医者がいつも持ち歩いているという老人の血液を探すよう命じるのだが、さて鍵の掛かった部屋にいた老人はいつ誰にどうやって刺されたのか…東野圭吾の「名探偵の掟」を読んでいるような馬鹿馬鹿しさがあって、面白いです。
「陽だまりの詩」
目を開けた時目の前にいた男。私を作った男。男の死後、男が敬愛していた伯父の隣に埋葬してもらうためだけに作られたロボットの私。男に「死」について学んでほしいと言われた私は、男とともに暮らす生活の中で変わっていく…これはとても悲しい物語です。いい話です。
「SO-far そ・ふぁー」
両親と三人で暮らす子供の僕。だが、ある日を境に変てこなことになった。一緒の家に住んでいるはずの両親は、互いに互いの姿が見えなくなってしまったらしい。子供ながらにどうすべきか考え、両親の会話の仲介役となる僕。だが、いつしか僕の方にも変化が起き…これはすごい。アイデア勝負だけど、オチが決まっている。
「冷たい森の白い家」
両親が死に、伯母に引き取られた少女。馬小屋で住むように言われ、伯母だけでなく、伯母の息子達にも苛められる日々。伯母の家を追い出された少女は、自分ひとりで生きるために家を作ることにしたのだが…この作品は、映像化する五編には入っていないことでしょう。映像化に耐えうる作品ではありません。異常な中にも青い優しさ(読んでくれればこの表現の意味は分かると思いますが)があって、それだけが救いです。
「Closet」
夫の実家へと行くことになった私。義弟に呼び出された私は、過去の嫌な思い出を知られてしまったことを知る。義弟の死体の処分を処分し、何食わぬ顔で夫の家族と生活を共にしていくのだが…ミステリ色の強い作品で、初読の時はかなり驚いた記憶があります。
「神の言葉」
発する言葉で相手を操ることができてしまう少年。人から悪く見られることを極端に恐れ、それを回避するためだけにいい子を演じ続けるのだが、弟の視線が少年の心を抉っていく。弟を殺すしかない。そう決断した少年が知る世界の真実とは…もの凄い話です。壮絶と言ってもいい。この主人公の少年と僕は本当に似ています。同じ行動原理を持っているので、共感できます。
「ZOO」
愛する恋人の腐敗していく写真が毎日ポストに投函される青年。犯人を見つけてやる。毎日そう思い、行動をしていくのだが、実はその恋人を殺したのは青年自身だった。自らの罪を見つめたくないがために架空の犯人を探し続ける青年の終着は…恐怖を克服するために狂ってしまう青年の話です。
「SEVEN ROOMS」
目覚めるとそこはコンクリートに囲まれた何もない部屋だった。部屋の中心を排水溝が通り、濁った水が流れていく。どうしてそこに閉じ込められているのか理解できない姉と弟は、体の小さい弟を排水溝に通して逃げ道を探そうとするのだが…二人に与えられた運命とラストシーンはなかなかのものですが、この作品の中ではそんなにたいした作品ではないと思います。
「落ちる飛行機の中で」
ハイジャックされた飛行機の中で、割と平然と会話を続ける女と男。女は復讐のために、男は死ぬために飛行機に乗っていた。長年死ぬ時は安楽死がいいと願っていた女に男は安楽死用の薬を売りつけようとする。女の選択だ思わぬ形で結実する…これもそんなにいい作品ではないと思います。
確かに、何を書きたかったのかよくわからない作品もいくつかありますが、乙一の乙一らしい才能の詰まった作品集です。是非読んでみてほしいと思います。
乙一「ZOO」
ZOO
MOMENT(本多孝好)<再読>
人は皆、自分の中に一つの天秤を持っている。そして、その片方の皿に自分が乗っている。生まれた時、もう片方の天秤には何も載っていない。
人は生きていく間に、その天秤を釣りあわせようと、もう片方の皿に載せられる様々なものを探していく。金を稼ぎ、友を得、名誉を勝ち取り、権力を手にし、結婚し、子供を持ち、子供に何かを残し、歴史に何かを残し、綺麗だと言ってくれる人を抱きしめ、格好いいと言ってくれる人をはべらせる。死ぬまでにその天秤を釣り合わせることができれば幸せだ。そういう幻想をどこからか誰かに植え付けられ、あるいは創造主に予め与えられた人間は、釣り合わない天秤にいつも不満を抱くことになる。
自分が病気で死ぬ、あなたにはそれがどうしようもなくわかっている。やはりまだ天秤は釣り合っていない。そんな時、その天秤を釣り合わせるだけの重りを手に入れてきてくれる人がいる、そんな話しを耳にしたら、あなたはどうするだろうか?その話を信じたところで、誰があなたを責めることができるだろうか?
本作の紹介に入りましょう。
ある病院で、掃除夫としてアルバイトに励む神田。その病院には昔からある噂が語り継がれてきた。
「死ぬ間際に一つだけ願いをかなえてくれる黒衣の男がいる」
残酷な噂である。死を間際にした人にしか出回らないというその噂は、病院特有の雰囲気から生まれ出たのだろうが、それにしても「願いが叶うかもしれない」という幻想を死の間際に植え付けられるというのは、やはり残酷なことだろう。
いつしか噂は、黒衣の男から掃除夫へとその名前を変えた。
神田はふとしたきっかけからその噂に乗ることになる。公に明かすわけではないが、それとなく願い事を聞き、自分がその噂の主ではないけれども、という雰囲気でしかし願いを叶えていく。一つだけ、死を間近にした人の願い事を。
そんな、死を迎えるだけの患者と、掃除夫にして請負人となった男との、四編の心温まる出会いの物語である。
そう、つまり冒頭の天秤の話なわけだけれども、しかしこの小説は天秤の物語ではなかった。表題作「MOMENT」で明かされる真の物語は、心のどこかに何か表しがたい何かを残すかもしれない。
「FACE」
戦争という場で犯した罪。それを消し去るために与えられるはずの罰が与えられない老人。自分が殺してしまった男の家族に自然に接触して、その様子を報告してほしい。それが老人からの最後の願い。老人は自らに罰を与えるために罪を繰り返す・・・
「WISH」
心臓に障害を持つ14歳の少女。修学旅行先で撮った写真。そこに写っている男の人にこの写真を渡してきてほしい。それが少女からの最後の願い。幼すぎた純粋な想いが無機質な病室で結実する時・・・
「FIREFL」
乳癌の再発で再入院した女性。いくつか頼まれる、あまりに些細な、願い事というよりはお遣いと言ったほうがいいような用事を女性は口にする。世界から取り残された一人の女性の、死ぬ間際に望んだことは・・・一番美しく切ない話です。四編の中で一番好きです。
「MOMENT」
冒頭「FACE」から度々登場する、特別室に入院する老人の物語。しかし、この物語については、詳しく説明することを避けようと思います。
作者本多孝好は、少ない線描で驚くほど似ている似顔絵を書くアーティスト、といった雰囲気がある。相変わらず会話は最小限で、文体もどこか冷淡で突き放したような感じがあるけれども、それが文章という形になると心温まる物語に変わってしまうのだから不思議なものである。
この物語の中で、時折書かれる疑問がある。それは登場人物が登場人物に投げかけたものであるのだが、そこだけ作者から読者へ直接語りかけられているような雰囲気になるのは僕だけだろうか。
「人は死ぬ間際に何を考えて死ぬべきなんだろうか」
あなたは何か答えらしきものを浮かべることは出来ますか?
本多孝好「MOMENT」
人は生きていく間に、その天秤を釣りあわせようと、もう片方の皿に載せられる様々なものを探していく。金を稼ぎ、友を得、名誉を勝ち取り、権力を手にし、結婚し、子供を持ち、子供に何かを残し、歴史に何かを残し、綺麗だと言ってくれる人を抱きしめ、格好いいと言ってくれる人をはべらせる。死ぬまでにその天秤を釣り合わせることができれば幸せだ。そういう幻想をどこからか誰かに植え付けられ、あるいは創造主に予め与えられた人間は、釣り合わない天秤にいつも不満を抱くことになる。
自分が病気で死ぬ、あなたにはそれがどうしようもなくわかっている。やはりまだ天秤は釣り合っていない。そんな時、その天秤を釣り合わせるだけの重りを手に入れてきてくれる人がいる、そんな話しを耳にしたら、あなたはどうするだろうか?その話を信じたところで、誰があなたを責めることができるだろうか?
本作の紹介に入りましょう。
ある病院で、掃除夫としてアルバイトに励む神田。その病院には昔からある噂が語り継がれてきた。
「死ぬ間際に一つだけ願いをかなえてくれる黒衣の男がいる」
残酷な噂である。死を間際にした人にしか出回らないというその噂は、病院特有の雰囲気から生まれ出たのだろうが、それにしても「願いが叶うかもしれない」という幻想を死の間際に植え付けられるというのは、やはり残酷なことだろう。
いつしか噂は、黒衣の男から掃除夫へとその名前を変えた。
神田はふとしたきっかけからその噂に乗ることになる。公に明かすわけではないが、それとなく願い事を聞き、自分がその噂の主ではないけれども、という雰囲気でしかし願いを叶えていく。一つだけ、死を間近にした人の願い事を。
そんな、死を迎えるだけの患者と、掃除夫にして請負人となった男との、四編の心温まる出会いの物語である。
そう、つまり冒頭の天秤の話なわけだけれども、しかしこの小説は天秤の物語ではなかった。表題作「MOMENT」で明かされる真の物語は、心のどこかに何か表しがたい何かを残すかもしれない。
「FACE」
戦争という場で犯した罪。それを消し去るために与えられるはずの罰が与えられない老人。自分が殺してしまった男の家族に自然に接触して、その様子を報告してほしい。それが老人からの最後の願い。老人は自らに罰を与えるために罪を繰り返す・・・
「WISH」
心臓に障害を持つ14歳の少女。修学旅行先で撮った写真。そこに写っている男の人にこの写真を渡してきてほしい。それが少女からの最後の願い。幼すぎた純粋な想いが無機質な病室で結実する時・・・
「FIREFL」
乳癌の再発で再入院した女性。いくつか頼まれる、あまりに些細な、願い事というよりはお遣いと言ったほうがいいような用事を女性は口にする。世界から取り残された一人の女性の、死ぬ間際に望んだことは・・・一番美しく切ない話です。四編の中で一番好きです。
「MOMENT」
冒頭「FACE」から度々登場する、特別室に入院する老人の物語。しかし、この物語については、詳しく説明することを避けようと思います。
作者本多孝好は、少ない線描で驚くほど似ている似顔絵を書くアーティスト、といった雰囲気がある。相変わらず会話は最小限で、文体もどこか冷淡で突き放したような感じがあるけれども、それが文章という形になると心温まる物語に変わってしまうのだから不思議なものである。
この物語の中で、時折書かれる疑問がある。それは登場人物が登場人物に投げかけたものであるのだが、そこだけ作者から読者へ直接語りかけられているような雰囲気になるのは僕だけだろうか。
「人は死ぬ間際に何を考えて死ぬべきなんだろうか」
あなたは何か答えらしきものを浮かべることは出来ますか?
本多孝好「MOMENT」
陽気なギャングが地球を回す(伊坂幸太郎)<再読>
さて、何度でも言おう。読んでいて幸せになる小説はとても珍しい。
まさに伊坂幸太郎らしさ全開の作品だ。会話の面白さ、伏線の張り方、プロットの見事さ、キャラクターの愉快さ、ユーモアの面白さ、そうしたものが全部混じりに混じって、銀行強盗とか殺人とかいじめとか、そういうあまり明るいとは言えない内容のはずなのに、どこか牧歌的でユーモラスで抜けている。とにかく最高!
人の嘘がわかってしまうリーダー成瀬、スリの達人久遠、演説の達人響野、完全無欠な体内時計を持つ雪子、という奇妙な人間達が組んで銀行強盗をする。もう何度もやりなれていて、手際もチームワークも最高にいい。
ところが、間違いなくうまくいったはずの銀行強盗は、逃走中の現金輸送車ジャックの車と接触してしまうことから破綻していく。金を奪われるはめになった四人組は、しかし久遠が掏った財布を手がかりに金を取り戻そうとする・・・
というまあそういう話ですね。
この小説は、とにかく終わり方が最高に素晴らしい。もちろん、銀行強盗のやり方とか、輸送車との接触以後の展開とかも、そもそもの設定とかももちろん素晴らしいんだけど、この小説はああいった終わらせ方をするために存在している、といっても過言ではないくらい見事です。
まるで、ばらばらだったパズルのピースが、ある瞬間を境に、意思を持って寄り集まって一つの形に組み上がって行くかのようです。まさかあれが関係するとはとか、まさかそこまで考えていたか、みたいな驚きを味わうと思います。
あと、各章で視点の人物の名前が書かれて、その横に広辞苑の言葉の定義みたいなやつが載っています。伊坂幸太郎が、広辞苑の定義をいじくったというその内容は、時に結構笑えます。定義というよりは教訓で、なるほどと思うことが書いてあります。
余談ですが、伊坂幸太郎の大半の作品の舞台が仙台であるのに大して、本作は横浜が舞台です。しかも、「綱島」という地名が出てきて、俺はそこから数駅のところに住んでいるわけで、やっぱ知っている地名が出るとより作品に興味がでるなと思う。そういう意味では西村京太郎はうまくやっているな、と改めて思った(まあ西村京太郎の作品は読んだことないし読む予定もないけど)。
とにかくお勧めです。というか、再読している作品は全部お勧めなんですけどね。
伊坂幸太郎「陽気なギャングが地球を回す」
まさに伊坂幸太郎らしさ全開の作品だ。会話の面白さ、伏線の張り方、プロットの見事さ、キャラクターの愉快さ、ユーモアの面白さ、そうしたものが全部混じりに混じって、銀行強盗とか殺人とかいじめとか、そういうあまり明るいとは言えない内容のはずなのに、どこか牧歌的でユーモラスで抜けている。とにかく最高!
人の嘘がわかってしまうリーダー成瀬、スリの達人久遠、演説の達人響野、完全無欠な体内時計を持つ雪子、という奇妙な人間達が組んで銀行強盗をする。もう何度もやりなれていて、手際もチームワークも最高にいい。
ところが、間違いなくうまくいったはずの銀行強盗は、逃走中の現金輸送車ジャックの車と接触してしまうことから破綻していく。金を奪われるはめになった四人組は、しかし久遠が掏った財布を手がかりに金を取り戻そうとする・・・
というまあそういう話ですね。
この小説は、とにかく終わり方が最高に素晴らしい。もちろん、銀行強盗のやり方とか、輸送車との接触以後の展開とかも、そもそもの設定とかももちろん素晴らしいんだけど、この小説はああいった終わらせ方をするために存在している、といっても過言ではないくらい見事です。
まるで、ばらばらだったパズルのピースが、ある瞬間を境に、意思を持って寄り集まって一つの形に組み上がって行くかのようです。まさかあれが関係するとはとか、まさかそこまで考えていたか、みたいな驚きを味わうと思います。
あと、各章で視点の人物の名前が書かれて、その横に広辞苑の言葉の定義みたいなやつが載っています。伊坂幸太郎が、広辞苑の定義をいじくったというその内容は、時に結構笑えます。定義というよりは教訓で、なるほどと思うことが書いてあります。
余談ですが、伊坂幸太郎の大半の作品の舞台が仙台であるのに大して、本作は横浜が舞台です。しかも、「綱島」という地名が出てきて、俺はそこから数駅のところに住んでいるわけで、やっぱ知っている地名が出るとより作品に興味がでるなと思う。そういう意味では西村京太郎はうまくやっているな、と改めて思った(まあ西村京太郎の作品は読んだことないし読む予定もないけど)。
とにかくお勧めです。というか、再読している作品は全部お勧めなんですけどね。
伊坂幸太郎「陽気なギャングが地球を回す」
GOTH-リストカット事件-(乙一)<再読>
世界は不透明な膜で覆われている。僕たちはその内側に存在し、その不透明な膜に遮られて、幸か不幸かその外側を見ることはない。
乙一は、その世界を覆う幕をゆっくりと剥がし始めた。音を立てることもなく、誰にも気づかれずに、いつのまにかその膜はなくなっている。そうして僕等はようやく気付く。
世界はこんなにも悪意に囲まれていたのか、と。こんなにも汚れた外側を持ちながら、見えないというだけで安心して、僕たちはその内側で安穏と過ごしていたのか、と。
乙一とともにその膜を剥がす役割を与えられた二人、森野と<僕>。僕はその二人に強烈に、どうしようもなく惹かれている。
二人はGOTHに分類される。GOTHとは文化でありファッションでありスタイルであるらしい。僕も恐らくGOTHに分類されるのだろう。いや、僕は、GOTHに分類されたがっている。
森野と<僕>が、まさにリストカットするかのように、世界に切り込みをいれていく短編集。まったく説明になていない。
乙一の作品、特にホラー色の強い作品を読むと、大抵感じることがある。
美しい、と。
その美しさは、例えるならば、喪服を着た女性を美しいと思ってしまうような、あるいは、シマウマの首筋に飛び掛らんとしているチーターのそのしなやかな肢体を美しいと感じてしまうような、つまり一瞬後に罪悪感も同時に抱いてしまうような美しさだ。その罪悪感すら飲み込んで僕は、その美しさに惹かれる。
森野と<僕>は、周囲から孤立しながら、罪悪感を感じることなく犯罪の観賞を楽しみ愉悦とする。正義感や義務感などなく、異常殺人者にシンパシーすら感じてしまう。
そんな二人が、自ら望んで、あるいは巻き込まれて事件に関わっていく物語である。
六編ある。普段ならば全ての紹介はしないだろうけど、今回はする。気まぐれではない。
「暗黒系 Goth」
森野が喫茶店で拾った手帳。そこには、世間を騒がせていた猟奇殺人についての描写が書かれていた。まだ報道されていない三人目の被害者の記述を見つけた二人は、その死体を捜すべく山へと向かうが・・・
「リストカット事件 Wristcut」
手首だけ切られるという事件が多発している。手首に魅入られた男と、ある手首に魅入られた男の物語。
「犬 Dog」
飼い犬が誘拐されるという事件が頻繁に起きる。殺すために犬を誘拐する少女と、いつしか首を突っ込むようになった<僕>の物語。
「記憶 Twins」
双子として生まれた森野。幼い頃死んだ妹の話を<僕>にする。<僕>は森野の生家へ赴き、森野の過去を知る・・・
「土 Grave」
善人として生きてきた男は、何かを埋めるという衝動を常に持ち続け、抑え切れなくなった欲望を表に出してしまう。何故そんなことをしなくてはいけないのかわからない男と、また首を突っ込むことになった<僕>の物語。本作中最も美しく、最も好きな作品です。
「声 Voice」
姉を無残な形で殺された妹。家族は荒み、以前の面影すらない。彼女は名も知らぬ男からテープを受け取ることになる。そこには、死ぬ間際の姉の声が・・・。かなり素晴らしい作品です。二番目に好きです。
余談を二つほど。
一つ目は、本書のカバーについて。カバーの裏側がとても美しい。例え文庫が発売されても、ハードカバーを手にすることをお勧めします。
二つ目は「乙一」という名前について。以前「石ノ目(文庫では「平面いぬ。」に改題)」で著者は、「昔Z-1という計算機を使っていて、それを文字って乙一にした」と書いていた。でも、もちろん誰かが考えている仮設かもしれないけど、僕はこう思った。
本名のイニシャルが、I・NあるいはN・Iではないか、と。「乙一」を90度回転させればそう読める。考えすぎだろうか。
ちなみに、乙一は僕が住んでいる近くに住んでいるという噂があるけど、どうかは知らない。
乙一「GOTH-リストカット事件-」
乙一は、その世界を覆う幕をゆっくりと剥がし始めた。音を立てることもなく、誰にも気づかれずに、いつのまにかその膜はなくなっている。そうして僕等はようやく気付く。
世界はこんなにも悪意に囲まれていたのか、と。こんなにも汚れた外側を持ちながら、見えないというだけで安心して、僕たちはその内側で安穏と過ごしていたのか、と。
乙一とともにその膜を剥がす役割を与えられた二人、森野と<僕>。僕はその二人に強烈に、どうしようもなく惹かれている。
二人はGOTHに分類される。GOTHとは文化でありファッションでありスタイルであるらしい。僕も恐らくGOTHに分類されるのだろう。いや、僕は、GOTHに分類されたがっている。
森野と<僕>が、まさにリストカットするかのように、世界に切り込みをいれていく短編集。まったく説明になていない。
乙一の作品、特にホラー色の強い作品を読むと、大抵感じることがある。
美しい、と。
その美しさは、例えるならば、喪服を着た女性を美しいと思ってしまうような、あるいは、シマウマの首筋に飛び掛らんとしているチーターのそのしなやかな肢体を美しいと感じてしまうような、つまり一瞬後に罪悪感も同時に抱いてしまうような美しさだ。その罪悪感すら飲み込んで僕は、その美しさに惹かれる。
森野と<僕>は、周囲から孤立しながら、罪悪感を感じることなく犯罪の観賞を楽しみ愉悦とする。正義感や義務感などなく、異常殺人者にシンパシーすら感じてしまう。
そんな二人が、自ら望んで、あるいは巻き込まれて事件に関わっていく物語である。
六編ある。普段ならば全ての紹介はしないだろうけど、今回はする。気まぐれではない。
「暗黒系 Goth」
森野が喫茶店で拾った手帳。そこには、世間を騒がせていた猟奇殺人についての描写が書かれていた。まだ報道されていない三人目の被害者の記述を見つけた二人は、その死体を捜すべく山へと向かうが・・・
「リストカット事件 Wristcut」
手首だけ切られるという事件が多発している。手首に魅入られた男と、ある手首に魅入られた男の物語。
「犬 Dog」
飼い犬が誘拐されるという事件が頻繁に起きる。殺すために犬を誘拐する少女と、いつしか首を突っ込むようになった<僕>の物語。
「記憶 Twins」
双子として生まれた森野。幼い頃死んだ妹の話を<僕>にする。<僕>は森野の生家へ赴き、森野の過去を知る・・・
「土 Grave」
善人として生きてきた男は、何かを埋めるという衝動を常に持ち続け、抑え切れなくなった欲望を表に出してしまう。何故そんなことをしなくてはいけないのかわからない男と、また首を突っ込むことになった<僕>の物語。本作中最も美しく、最も好きな作品です。
「声 Voice」
姉を無残な形で殺された妹。家族は荒み、以前の面影すらない。彼女は名も知らぬ男からテープを受け取ることになる。そこには、死ぬ間際の姉の声が・・・。かなり素晴らしい作品です。二番目に好きです。
余談を二つほど。
一つ目は、本書のカバーについて。カバーの裏側がとても美しい。例え文庫が発売されても、ハードカバーを手にすることをお勧めします。
二つ目は「乙一」という名前について。以前「石ノ目(文庫では「平面いぬ。」に改題)」で著者は、「昔Z-1という計算機を使っていて、それを文字って乙一にした」と書いていた。でも、もちろん誰かが考えている仮設かもしれないけど、僕はこう思った。
本名のイニシャルが、I・NあるいはN・Iではないか、と。「乙一」を90度回転させればそう読める。考えすぎだろうか。
ちなみに、乙一は僕が住んでいる近くに住んでいるという噂があるけど、どうかは知らない。
乙一「GOTH-リストカット事件-」
ALONE TOGETHER<再読>(本多孝好)
僕の目の前には、一振りの日本刀がある。場所はどこだかよくわからない。僕は自分がどういう姿勢でいるのかも皆目わからないまま、ただ目の前にある日本刀を眺めている。
美しい。どうしようもなくそう思った。どこからか入り込んでくる光を鈍く反射させ、差し込んだ光すらも切りつけようと意気込んでいる。弓形の体躯を存分に見せつけ、まるで僕を誘うかのようにそこに鎮座している。
僕はゆっくりと手を伸ばす。そうしてはいけない、とどこかで僕が警告するが、僕は伸ばした手をさらに伸ばし続ける。抗えるわけがない。この美しさの前に、触れようとする欲望を抑え付けられるものなど存在しない。僕はそう思い込もうと必至になる。
触れてはいけない。
はっきりと言葉になったその警告を僕は一切無視して、その日本刀の、刃と並ぶ見事さでくっついているその柄に触れた瞬間・・・
僕の視界は、くっきり真ん中で二つに分かれている。ぼんやりとしたその境界線がなんなのか、僕にはまだわからない。僕の視界に映っているのは、目の前に横たわる死体・・・
そう死体だ。理由もなく確信する。仰向けにだらしなく横たわるその死体の顔は、そう、間違いなく僕の嫌いなアイツだ。彼の額から流れ落ちる、わずかに黒ずんだ血が目に入った時、僕はようやく手の感覚を取り戻した。僕の手にも同じく流れ伝う血。その嫌な感触は同時に、僕が両の掌に握っているものの感触も呼び覚ました。
僕は日本刀の柄を握っている。そう意識すれば、視界を二分するものは、日本刀の刃だと知れる。僕は、日本刀を両手で握り締め、まるで剣道の構えのようにして立ちすくんでいる。
どこからか強い光が差し込む。鈍く光るはずの刃はしかし、血に濡れたままその赤を鮮明に映し出すだけだった。
僕は、人を殺してしまったようだ、という恐怖よりも、あんなに美しかった日本刀が血まみれになり、一瞬のうちに容貌を変えてしまったことに恐怖を感じた。
さて、ここまでの文章はこの小説の内容とはまったく無関係で、俺が勝手に作り出した文章です。お粗末さまです。さて、何故こんな文章を書いたのか。
この小説の視点、まあ主人公である「柳瀬」とう男。その男の印象を出来るだけ伝えようと努力した結果が上の文章です。上の文章に出てくる日本刀の印象が、まさに柳瀬の印象そのものだ、と僕は思っています。
まあ、こんな文章で分かって貰えるとは思っていませんが。もし共感できる人がいたらとても嬉しいです。
柳瀬は、6回しか講義に出たことのない医学部の教授から手紙を受け取る。医学界でもかなり有名で評判のいい教授だ。その教授からの思いがけぬ頼み。ある女性を守って欲しい、それが教授の頼みでした。
その教授はその時、ある事件の中心人物でした。尊厳死。その教授は、担当医に相談することもなく、植物状態になった女性の人工呼吸器を止めてしまった。教授は、その自分が殺した女性の娘を守ってほしい、とそう柳瀬に頼んだ。
柳瀬は不登校児の集まる塾でバイトをしている。さまざまなものを抱えて生きていく生徒やその親。また同じくバイトをしている講師やその塾の経営者。誰もが悩み誰もが傷付いて、それでもなんとか自分の居場所を見つけようとしている。
そして、柳瀬自身も、厄介なものを抱えたまま、自らをコントロールして、社会と掏り合わせて、そうして生きている一人だ。
闇を抱えながら生きている人々と、望まなくともその闇を飲み込んでしまう男の物語、というところだろうか。
実際、この小説を説明するのは結構難しい。著者初の長編で、短編ミステリーとはまたかなり違った感じを出している。もちろん、雰囲気や会話の感じはどの作品も共通するものがあるけれど。
どう説明していいかわからない作品をお勧めするのも自分的に納得いかないけど、でも読んでみてほしいと思います。
本多孝好「ALONE TOGETHER」
美しい。どうしようもなくそう思った。どこからか入り込んでくる光を鈍く反射させ、差し込んだ光すらも切りつけようと意気込んでいる。弓形の体躯を存分に見せつけ、まるで僕を誘うかのようにそこに鎮座している。
僕はゆっくりと手を伸ばす。そうしてはいけない、とどこかで僕が警告するが、僕は伸ばした手をさらに伸ばし続ける。抗えるわけがない。この美しさの前に、触れようとする欲望を抑え付けられるものなど存在しない。僕はそう思い込もうと必至になる。
触れてはいけない。
はっきりと言葉になったその警告を僕は一切無視して、その日本刀の、刃と並ぶ見事さでくっついているその柄に触れた瞬間・・・
僕の視界は、くっきり真ん中で二つに分かれている。ぼんやりとしたその境界線がなんなのか、僕にはまだわからない。僕の視界に映っているのは、目の前に横たわる死体・・・
そう死体だ。理由もなく確信する。仰向けにだらしなく横たわるその死体の顔は、そう、間違いなく僕の嫌いなアイツだ。彼の額から流れ落ちる、わずかに黒ずんだ血が目に入った時、僕はようやく手の感覚を取り戻した。僕の手にも同じく流れ伝う血。その嫌な感触は同時に、僕が両の掌に握っているものの感触も呼び覚ました。
僕は日本刀の柄を握っている。そう意識すれば、視界を二分するものは、日本刀の刃だと知れる。僕は、日本刀を両手で握り締め、まるで剣道の構えのようにして立ちすくんでいる。
どこからか強い光が差し込む。鈍く光るはずの刃はしかし、血に濡れたままその赤を鮮明に映し出すだけだった。
僕は、人を殺してしまったようだ、という恐怖よりも、あんなに美しかった日本刀が血まみれになり、一瞬のうちに容貌を変えてしまったことに恐怖を感じた。
さて、ここまでの文章はこの小説の内容とはまったく無関係で、俺が勝手に作り出した文章です。お粗末さまです。さて、何故こんな文章を書いたのか。
この小説の視点、まあ主人公である「柳瀬」とう男。その男の印象を出来るだけ伝えようと努力した結果が上の文章です。上の文章に出てくる日本刀の印象が、まさに柳瀬の印象そのものだ、と僕は思っています。
まあ、こんな文章で分かって貰えるとは思っていませんが。もし共感できる人がいたらとても嬉しいです。
柳瀬は、6回しか講義に出たことのない医学部の教授から手紙を受け取る。医学界でもかなり有名で評判のいい教授だ。その教授からの思いがけぬ頼み。ある女性を守って欲しい、それが教授の頼みでした。
その教授はその時、ある事件の中心人物でした。尊厳死。その教授は、担当医に相談することもなく、植物状態になった女性の人工呼吸器を止めてしまった。教授は、その自分が殺した女性の娘を守ってほしい、とそう柳瀬に頼んだ。
柳瀬は不登校児の集まる塾でバイトをしている。さまざまなものを抱えて生きていく生徒やその親。また同じくバイトをしている講師やその塾の経営者。誰もが悩み誰もが傷付いて、それでもなんとか自分の居場所を見つけようとしている。
そして、柳瀬自身も、厄介なものを抱えたまま、自らをコントロールして、社会と掏り合わせて、そうして生きている一人だ。
闇を抱えながら生きている人々と、望まなくともその闇を飲み込んでしまう男の物語、というところだろうか。
実際、この小説を説明するのは結構難しい。著者初の長編で、短編ミステリーとはまたかなり違った感じを出している。もちろん、雰囲気や会話の感じはどの作品も共通するものがあるけれど。
どう説明していいかわからない作品をお勧めするのも自分的に納得いかないけど、でも読んでみてほしいと思います。
本多孝好「ALONE TOGETHER」
オーデュボンの祈り<再読>(伊坂幸太郎)
オーデュボンは人のなまえで動物学者だ。鳥を愛し、リョコウバトを愛した。そしてオーデュボンは優午自身でもある。優午はカカシだ。喋り未来を知るカカシだ。
オーデュボンはリョコウバトのために祈り、優午は荻島のために祈る。
伊坂幸太郎のデビュー作だ。新潮ミステリークラブ賞受賞作。かなり面白い。
伊藤という男がコンビニ強盗なんかするから物語は始まってしまう。かつての同級生の城山という男がなんと警官になっていて、その男から逃げるようにしてパトカーから飛び出した伊藤は、ふと気づいた時、いつもとは違う部屋にいた。その部屋にやってきた男、日比野という男の説明によれば、ここは荻島という名前でみんなから忘れ去られた島で、轟というオヤジ以外に外界との接触はない孤島、なのだそうだ。伊藤をここまで連れて来たのはその轟だという。
まあよくわからないけど、とりあえずそこまでは信じてもいいだろう。問題は、伊藤にとってリアルな世界というのは次で崩壊する。
喋るカカシの存在だ。間違いなくそれはカカシで、喋るわけのないそれは間違いなく喋っている。しかも未来を知っている、のだそうだ。
まあ仕方ない。どんなにリアリティがなくたって受け入れるしかない。伊藤はそう諦めてその島の存在を優午ごと受け入れる。
さらにこの島は、奇人変人の寄せ集めのような島だ。アレグリアだって驚く。
嘘しか言わない画家、太りすぎて動けなくなった八百屋の女主人、人を殺すことをルールとして受け入れられた桜、地面に耳をつけ心臓の鼓動を聞く少女。日比野自身だってやっぱ少し違和感があるし、とにかく不思議でないことはこの島にはない。程度は違うけど、浅倉三文の「ダブ(エ)ストン街道」を思い出す。
そして事件は唐突におきる。未来を知っているはずの優午が殺された。一体何故優午は、自分の死を予期することができなかったのか・・・
ただ、別段これといって特別な捜査的なことをするわけでもなく、伊藤は日比野と、時には一人で島をうろつき、島の人々、大抵は変人と会う、という感じで話が進んでいく。その何もしていないような描写のなかに、いくつも伏線がある。
間に挿まれるようにして描かれる、祖母・過去・城山・静香の話もまたいい。実際には死んでいる祖母との思い出や、誰も知らない歴史の話や、城山と静香のいる現実感のある世界の挿入も、全体の話に抑揚をつけることに成功している。
ただ、とにかく城山という男は最低だ。
伊坂幸太郎ほど、小説の力をフルに使っている作家も珍しいだろうと思う。舞城王太郎という作家は、著作の登場人物の口を借りてこういうことを言っている。「嘘でしか語れない真実もある。だから物語が存在するんだ(正確な引用ではない)」。まさにその通りだろう。この世に本当のことしかなかったら、少なくとも窮屈で仕方ないだろう。
伊坂は、まさに嘘で真実を伝える作家だ。この島や住人の設定は、嘘というのを超えてもはやありえない。でもそのありえない世界だからこそ伝えられること、染み出してくるもの、味わえるものが存在するのだ。そういう、嘘である小説の力というものを、伊坂幸太郎はsちゃんと知っているし、作品にそれをうまく織り込んでいる。
ミステリーではなくて、寧ろファンタジーや寓話に近い話かもしれない。だからといって、リアルではないからと言って避けてはいけない。小説の中でも現実とほとんど同じ設定をして、わざわざ現実を何度も経験するよりは、せめて小説の中ぐらい嘘で溢れていたっていいと俺は思う。
是非とも、読んでみてください。
伊坂幸太郎「オーデュボンの祈り」
オーデュボンはリョコウバトのために祈り、優午は荻島のために祈る。
伊坂幸太郎のデビュー作だ。新潮ミステリークラブ賞受賞作。かなり面白い。
伊藤という男がコンビニ強盗なんかするから物語は始まってしまう。かつての同級生の城山という男がなんと警官になっていて、その男から逃げるようにしてパトカーから飛び出した伊藤は、ふと気づいた時、いつもとは違う部屋にいた。その部屋にやってきた男、日比野という男の説明によれば、ここは荻島という名前でみんなから忘れ去られた島で、轟というオヤジ以外に外界との接触はない孤島、なのだそうだ。伊藤をここまで連れて来たのはその轟だという。
まあよくわからないけど、とりあえずそこまでは信じてもいいだろう。問題は、伊藤にとってリアルな世界というのは次で崩壊する。
喋るカカシの存在だ。間違いなくそれはカカシで、喋るわけのないそれは間違いなく喋っている。しかも未来を知っている、のだそうだ。
まあ仕方ない。どんなにリアリティがなくたって受け入れるしかない。伊藤はそう諦めてその島の存在を優午ごと受け入れる。
さらにこの島は、奇人変人の寄せ集めのような島だ。アレグリアだって驚く。
嘘しか言わない画家、太りすぎて動けなくなった八百屋の女主人、人を殺すことをルールとして受け入れられた桜、地面に耳をつけ心臓の鼓動を聞く少女。日比野自身だってやっぱ少し違和感があるし、とにかく不思議でないことはこの島にはない。程度は違うけど、浅倉三文の「ダブ(エ)ストン街道」を思い出す。
そして事件は唐突におきる。未来を知っているはずの優午が殺された。一体何故優午は、自分の死を予期することができなかったのか・・・
ただ、別段これといって特別な捜査的なことをするわけでもなく、伊藤は日比野と、時には一人で島をうろつき、島の人々、大抵は変人と会う、という感じで話が進んでいく。その何もしていないような描写のなかに、いくつも伏線がある。
間に挿まれるようにして描かれる、祖母・過去・城山・静香の話もまたいい。実際には死んでいる祖母との思い出や、誰も知らない歴史の話や、城山と静香のいる現実感のある世界の挿入も、全体の話に抑揚をつけることに成功している。
ただ、とにかく城山という男は最低だ。
伊坂幸太郎ほど、小説の力をフルに使っている作家も珍しいだろうと思う。舞城王太郎という作家は、著作の登場人物の口を借りてこういうことを言っている。「嘘でしか語れない真実もある。だから物語が存在するんだ(正確な引用ではない)」。まさにその通りだろう。この世に本当のことしかなかったら、少なくとも窮屈で仕方ないだろう。
伊坂は、まさに嘘で真実を伝える作家だ。この島や住人の設定は、嘘というのを超えてもはやありえない。でもそのありえない世界だからこそ伝えられること、染み出してくるもの、味わえるものが存在するのだ。そういう、嘘である小説の力というものを、伊坂幸太郎はsちゃんと知っているし、作品にそれをうまく織り込んでいる。
ミステリーではなくて、寧ろファンタジーや寓話に近い話かもしれない。だからといって、リアルではないからと言って避けてはいけない。小説の中でも現実とほとんど同じ設定をして、わざわざ現実を何度も経験するよりは、せめて小説の中ぐらい嘘で溢れていたっていいと俺は思う。
是非とも、読んでみてください。
伊坂幸太郎「オーデュボンの祈り」
Missing(本多孝好)<再読>
ある一枚の絵画があるとしよう。それはあなたにとってはとても大事な絵画だ。描いてくれた人との間に思い出があるのかもしれないし、書かれた絵自体から素敵な何かを感じ取っているのかもしれない。とにかくあなたにとっては何にも替えがたい絵画がある、とする。
ある日突然誰かが、偶然か必然か、その絵の本当の意味に気づいてしまう。その絵を描いた人の本心、あるいはその絵にこめられた真実。決して美しいとは言えないその意味を、持ち主ではない誰かが気づいてしまう。
五編収められたそれぞれの短編は、大体そういう構成になっている。紛れもないミステリーでありながら、ミステリーでは忘れられがちな機微や悲しみといったものを描き出している作品だと思う。
表紙の装丁からのイメージだけど、夕暮れ、という印象もうける。日が沈むまでは明るく美しかった風景が、日没とともにその色を濃くしていき、次第に闇に飲み込まれていく。その闇に触れてしまった人は、まだ飲み込まれていない少しだけ遠くにいる人をただ見守ることしかできない。
本多孝好のデビュー短編集である。「FINE DAYS」の感想でも書いたように、淡々として会話が足りない、というスタイルはもちろん同じで、それが独特の雰囲気を醸し出していて、とてもいい。
それぞれの短編を紹介しようと思う。
「眠りの海」
自殺に失敗した男が目を覚ました時、目の前にいたのは焚き火にあたる一人の少年。ぽつりぽつりと語る男の物語を聞いた少年は、起こったことを起こったままに語り始める・・・
「祈灯」
妹を交通事故で失った姉は以後、自らを妹だと主張するようになる。幽霊ちゃんと名付けられたその少女と出会った男は、事故当時彼女の目に映った何かを想像してしまう・・・
「蝉の証」
老人ホームにいる祖母を尋ねた男は、祖母から多少面倒な頼みごとをされる。金髪のとさか兄ちゃんと老人という組み合わせに不信を抱いた祖母の頼みで、そのとさかを探しているうちに、老人の奇行を知ることになり・・・
「瑠璃」
夏ごとに切り取られた、「ルコ」という少女と僕の物語。謎々、といって不思議な会話をし、ふらりと旅に出てしまうルコをもてあましながら、会わなくなった期間を挿んでルコと再会した僕は、ルコの変わりように驚き・・・
「彼の棲む場所」
知識人としてテレビに出、有名人となったかつての同級生に再会した男は、理知的に過ぎたその彼から「サトウ」という同級生について尋ねられる。誰も覚えていないその「サトウ」を巡る物語に男は・・・
ミステリーだから、それぞれにネタばれに気を遣って書くから、よくわからない紹介になっていると思うけど、それは俺の文章力の問題であって、作品の問題ではありません。
俺が好きなのは「祈灯」と「瑠璃」と「彼の棲む場所」。正直言って、「蝉の証」はどういう話なのかよくつかめていません。
本多孝好の原点。よくデビュー作をしてこう表現されるけど、まさに原点です。読んでみてください。
本多孝好「Missing」
ある日突然誰かが、偶然か必然か、その絵の本当の意味に気づいてしまう。その絵を描いた人の本心、あるいはその絵にこめられた真実。決して美しいとは言えないその意味を、持ち主ではない誰かが気づいてしまう。
五編収められたそれぞれの短編は、大体そういう構成になっている。紛れもないミステリーでありながら、ミステリーでは忘れられがちな機微や悲しみといったものを描き出している作品だと思う。
表紙の装丁からのイメージだけど、夕暮れ、という印象もうける。日が沈むまでは明るく美しかった風景が、日没とともにその色を濃くしていき、次第に闇に飲み込まれていく。その闇に触れてしまった人は、まだ飲み込まれていない少しだけ遠くにいる人をただ見守ることしかできない。
本多孝好のデビュー短編集である。「FINE DAYS」の感想でも書いたように、淡々として会話が足りない、というスタイルはもちろん同じで、それが独特の雰囲気を醸し出していて、とてもいい。
それぞれの短編を紹介しようと思う。
「眠りの海」
自殺に失敗した男が目を覚ました時、目の前にいたのは焚き火にあたる一人の少年。ぽつりぽつりと語る男の物語を聞いた少年は、起こったことを起こったままに語り始める・・・
「祈灯」
妹を交通事故で失った姉は以後、自らを妹だと主張するようになる。幽霊ちゃんと名付けられたその少女と出会った男は、事故当時彼女の目に映った何かを想像してしまう・・・
「蝉の証」
老人ホームにいる祖母を尋ねた男は、祖母から多少面倒な頼みごとをされる。金髪のとさか兄ちゃんと老人という組み合わせに不信を抱いた祖母の頼みで、そのとさかを探しているうちに、老人の奇行を知ることになり・・・
「瑠璃」
夏ごとに切り取られた、「ルコ」という少女と僕の物語。謎々、といって不思議な会話をし、ふらりと旅に出てしまうルコをもてあましながら、会わなくなった期間を挿んでルコと再会した僕は、ルコの変わりように驚き・・・
「彼の棲む場所」
知識人としてテレビに出、有名人となったかつての同級生に再会した男は、理知的に過ぎたその彼から「サトウ」という同級生について尋ねられる。誰も覚えていないその「サトウ」を巡る物語に男は・・・
ミステリーだから、それぞれにネタばれに気を遣って書くから、よくわからない紹介になっていると思うけど、それは俺の文章力の問題であって、作品の問題ではありません。
俺が好きなのは「祈灯」と「瑠璃」と「彼の棲む場所」。正直言って、「蝉の証」はどういう話なのかよくつかめていません。
本多孝好の原点。よくデビュー作をしてこう表現されるけど、まさに原点です。読んでみてください。
本多孝好「Missing」
重力ピエロ(伊坂幸太郎)<再読>
読んで幸せになる小説なんて本当に珍しい。ウキウキしてくるのを止められない。こんな素晴らしい世界の一部になれるのなら、伊坂幸太郎が書き付ける文字の一つになってもいいとさえ思える。願わくば、私を「春」という文字に変えてくれたらなお嬉しい。
私がこの小説を人に勧めるとしたら、こう言うだろう。「どこでもいい、とにかく本屋で立ち読みでいいから、どこか一つの章だけ読んで欲しい。長くても一章6~7ページしかないからすぐ読める。それでこの本を読みたくならなかったら仕方ない」と。それほどこの作品の質は高い。どこを読んでも、ストーリーの本筋が何もわからなくたって、兄弟の会話や家族のエピソードに触れているだけで幸せな気持ちになれる。
「ピエロが空中ブランコから飛ぶ時、みんな重力のことを忘れてるんだ」。タイトルに繋がるこの春のセリフだけでもいいと思いませんか?
兄弟である「春」と「泉水」。二人が放火と遺伝子の謎に挑む、という話だけど、まあ本筋の話は特にこれ以上する必要はないと思う。本筋がおもしろくないとかいうことではなくて、本筋以外も面白すぎてわざわざ本筋だけ紹介するのも馬鹿らしいからだ。
伏線が素晴らしい。伊坂幸太郎の作品は、その精緻な構成が一端を担っているわけで、伏線の貼り方は尋常じゃない。伏線だらけの小説として思い浮かべるのは、東野圭吾の「昔僕が死んだ家」だけど、それにも勝るとも劣らない伏線の貼りようだ。
それは、本筋の放火と遺伝子の部分だけでなく、支流と思われる場面にも及んでいて、なるほど、あの話はこのために書いてあったのか、と本当に感心する。栓を抜いた風呂場の水が間違いなく排水溝に流れるように、全ての伏線が見事に確実に収斂していく。
小説には無駄な記述はないものだろう。読んでいてこの部分はいらないだろうと読者が思うところはあるかもしれないけど、少なくとも作者は必要だと思ったわけだし、それをもって作品や作者を非難する材料にはならないわけだけど、この作品は無駄がないのはもちろん、無関係なものがない。これは素晴らしい。普通の才能ではここまでの作品は恐らく書けないだろう。
「大事なことは明るく伝えるべきだ」と何回か春がいうけど、まさにその通りというべく、兄弟あるいは家族は一様にいろんな問題や不安を抱えているんだけど、そんなものを抱えていないかのように、みんな明るくて強い。特に春のキャラクターはとてつもなく魅力的で、読者はみんな「夏子さん」になってしまうはずだ。春になれたらいいなと思うし、無理なら春の間近にいたいと思うし、いっそ春の含まれる世界にいられればいいや、とそこまで思ってしまう。
春・私の兄弟の絆と、父を加えた家族の優しさ、洒脱なユーモアとどの作品にもない会話の面白さ、音楽文学映画を引き合いに出した引用の見事さ。とにかくあげればきりがないくらい魅力的な作品です。読まないと損をする、と断言しておきましょう。
伊坂幸太郎「重力ピエロ」
私がこの小説を人に勧めるとしたら、こう言うだろう。「どこでもいい、とにかく本屋で立ち読みでいいから、どこか一つの章だけ読んで欲しい。長くても一章6~7ページしかないからすぐ読める。それでこの本を読みたくならなかったら仕方ない」と。それほどこの作品の質は高い。どこを読んでも、ストーリーの本筋が何もわからなくたって、兄弟の会話や家族のエピソードに触れているだけで幸せな気持ちになれる。
「ピエロが空中ブランコから飛ぶ時、みんな重力のことを忘れてるんだ」。タイトルに繋がるこの春のセリフだけでもいいと思いませんか?
兄弟である「春」と「泉水」。二人が放火と遺伝子の謎に挑む、という話だけど、まあ本筋の話は特にこれ以上する必要はないと思う。本筋がおもしろくないとかいうことではなくて、本筋以外も面白すぎてわざわざ本筋だけ紹介するのも馬鹿らしいからだ。
伏線が素晴らしい。伊坂幸太郎の作品は、その精緻な構成が一端を担っているわけで、伏線の貼り方は尋常じゃない。伏線だらけの小説として思い浮かべるのは、東野圭吾の「昔僕が死んだ家」だけど、それにも勝るとも劣らない伏線の貼りようだ。
それは、本筋の放火と遺伝子の部分だけでなく、支流と思われる場面にも及んでいて、なるほど、あの話はこのために書いてあったのか、と本当に感心する。栓を抜いた風呂場の水が間違いなく排水溝に流れるように、全ての伏線が見事に確実に収斂していく。
小説には無駄な記述はないものだろう。読んでいてこの部分はいらないだろうと読者が思うところはあるかもしれないけど、少なくとも作者は必要だと思ったわけだし、それをもって作品や作者を非難する材料にはならないわけだけど、この作品は無駄がないのはもちろん、無関係なものがない。これは素晴らしい。普通の才能ではここまでの作品は恐らく書けないだろう。
「大事なことは明るく伝えるべきだ」と何回か春がいうけど、まさにその通りというべく、兄弟あるいは家族は一様にいろんな問題や不安を抱えているんだけど、そんなものを抱えていないかのように、みんな明るくて強い。特に春のキャラクターはとてつもなく魅力的で、読者はみんな「夏子さん」になってしまうはずだ。春になれたらいいなと思うし、無理なら春の間近にいたいと思うし、いっそ春の含まれる世界にいられればいいや、とそこまで思ってしまう。
春・私の兄弟の絆と、父を加えた家族の優しさ、洒脱なユーモアとどの作品にもない会話の面白さ、音楽文学映画を引き合いに出した引用の見事さ。とにかくあげればきりがないくらい魅力的な作品です。読まないと損をする、と断言しておきましょう。
伊坂幸太郎「重力ピエロ」
FINE DAYS(本多孝好)<再読>
淡々としている。読んでいて感じる印象だ。そしてそれは冷淡さを生み出すものではなく、仄かな温かさを生み出すことに成功している。激情・感動・興奮・悲哀・後悔・憐憫・歓喜。そうした「強い感情」はことごとく排除され、何か別の形に姿を変えて現れてくる。
広い闇の空間の中、ぽつりと置いてある蝋燭。消える寸前のような仄かな明かりしか生み出すことができないその蝋燭が照らし出したもの。それらを慎重に集めて形にしたような小説だ。
短編集である。本多孝好はミステリの短編作家としてデビューしたが、この作品はミステリではない。帯に「ラヴ・ストーリー」とあるように、恋愛小説なのだろう。四編全ての物語が、薄いベールで包んだような、掬い取ろうとしてもするりと逃げ出すかのような、ある意味で曖昧で輪郭がないように思える。それはまさに、原色のイラストを半透明な白いカバーで覆った本書の装丁が与える印象と同じものだ。
本書のもう一つの特長はその会話にある。足りない、と思わせるぐらい最小限の言葉で会話が行われる。必要な言葉すら発していないその会話が、淡々とした文章とあいまって、独特の雰囲気を醸し出している。僕には、出てくる人々、つまり言葉少なに会話をする彼らが、とても好ましく思える。
四編しかないので、全てを紹介しようと思う。
「FINE DAYS」
転校生というのは常に噂とともにやってくる。同じく、ある不名誉な噂とともに現れた転校生。その転校生をモデルにして絵を書く少年。校内の女子派閥を仕切る一人の少女。そして僕。ある一人の教師の死が、彼らに何かを残して、彼らから何かを奪って過ぎ去っていく物語。
「イエスタデイズ」
自らの死の間際、家を飛び出したきりの不肖の息子に頼みごとをする父親。息子はそれを受け入れ、人探しをする最中、一組のカップルに出会う。出会ってしまった三人は、歪められた空間を一時支配し、伝えられる何か、受け取れる何かを探しながら手を探りあう物語。
「眠りのための暖かな場所」
院生である私が、無理矢理行かされた飲み会で初めて言葉を交わした少年。怯えを浮かべたその表情に、同じ想いを共有した気分になる。宣戦布告をした少女が事故にあったところから、少年の抱える闇が私の世界へ染み出していく物語。
「シェード」
彼女へのクリスマスプレゼントにしようと、通り過ぎる度にガラス越しに眺めていたランプシェード。いざ買おうとした時には売れてしまったそのランプシェードは、ある一人の男が、ある一人の女を闇から守るために作られたものだそうだ。骨董店の老婆の口から語られるそのランプシェードにまつわる話しを聞きながら、その物語に自らをはめ込んでいく男の物語。
僕がいいと思ったのは、「眠りのための~」と「シェード」です。「眠りのための~」で私に与えられる運命の残酷さと、「シェード」で垣間見える老婆の優しさが巣晴らしいものでした。
読んでみてください。
本多孝好「FINE DAYS」
広い闇の空間の中、ぽつりと置いてある蝋燭。消える寸前のような仄かな明かりしか生み出すことができないその蝋燭が照らし出したもの。それらを慎重に集めて形にしたような小説だ。
短編集である。本多孝好はミステリの短編作家としてデビューしたが、この作品はミステリではない。帯に「ラヴ・ストーリー」とあるように、恋愛小説なのだろう。四編全ての物語が、薄いベールで包んだような、掬い取ろうとしてもするりと逃げ出すかのような、ある意味で曖昧で輪郭がないように思える。それはまさに、原色のイラストを半透明な白いカバーで覆った本書の装丁が与える印象と同じものだ。
本書のもう一つの特長はその会話にある。足りない、と思わせるぐらい最小限の言葉で会話が行われる。必要な言葉すら発していないその会話が、淡々とした文章とあいまって、独特の雰囲気を醸し出している。僕には、出てくる人々、つまり言葉少なに会話をする彼らが、とても好ましく思える。
四編しかないので、全てを紹介しようと思う。
「FINE DAYS」
転校生というのは常に噂とともにやってくる。同じく、ある不名誉な噂とともに現れた転校生。その転校生をモデルにして絵を書く少年。校内の女子派閥を仕切る一人の少女。そして僕。ある一人の教師の死が、彼らに何かを残して、彼らから何かを奪って過ぎ去っていく物語。
「イエスタデイズ」
自らの死の間際、家を飛び出したきりの不肖の息子に頼みごとをする父親。息子はそれを受け入れ、人探しをする最中、一組のカップルに出会う。出会ってしまった三人は、歪められた空間を一時支配し、伝えられる何か、受け取れる何かを探しながら手を探りあう物語。
「眠りのための暖かな場所」
院生である私が、無理矢理行かされた飲み会で初めて言葉を交わした少年。怯えを浮かべたその表情に、同じ想いを共有した気分になる。宣戦布告をした少女が事故にあったところから、少年の抱える闇が私の世界へ染み出していく物語。
「シェード」
彼女へのクリスマスプレゼントにしようと、通り過ぎる度にガラス越しに眺めていたランプシェード。いざ買おうとした時には売れてしまったそのランプシェードは、ある一人の男が、ある一人の女を闇から守るために作られたものだそうだ。骨董店の老婆の口から語られるそのランプシェードにまつわる話しを聞きながら、その物語に自らをはめ込んでいく男の物語。
僕がいいと思ったのは、「眠りのための~」と「シェード」です。「眠りのための~」で私に与えられる運命の残酷さと、「シェード」で垣間見える老婆の優しさが巣晴らしいものでした。
読んでみてください。
本多孝好「FINE DAYS」
森博嗣
森博嗣の紹介をしようと思います。
森博嗣といえば、「すべてがFになる」でメフィスト賞を受賞し衝撃的に作家デビューしたことで有名だけど、知っているでしょうか?森博嗣をデビューさせるためにメフィスト賞が誕生したぐらいなもので、以降メフィスト賞でさまざまな作家がデビューしたのも彼の存在があってといえるでしょう。
名古屋大学工学部の助教授(未だにそう公表はしていないけど)でありながら作家でもある森博嗣は、もういろんな話があったりすします。例えば、森博嗣は講談社が作品を募集していることを知り、まあ書いてみようと思い、大学の夏休み一週間で書き上げたのが、発表順では二作目の「冷たい密室と博士たち」。その後立て続けに「笑わない数学者」「詩的私的ジャック」を投稿し、投稿順では四作目になる「すべてがFになる」をデビュー作にすることを講談社は決め、どうせ出版するなら賞をつけよう、ということでメフィスト賞という名前をつけて出すことにした、みたいな経緯があったりする。とにかく、森博嗣というのは筆が早く、今まで一度も締め切りを過ぎたことがないそうです。というか、締め切りを守れそうにない仕事は引き受けない、ということですが。
今でも大学助教授の職は続けており、その授業も変わっています。試験はなし。講義を受けている人に質問を提出させ、その質問によって評価する、というものです。その質問を集めた「臨機応答 変問自在」という本を出版していたりします。
森博嗣の代表作といえば、デビュー作から10作続く「S&Mシリーズ」でしょう。N大学助教授の犀川創平と金持ちのお嬢様西之園萌絵が、密室殺人(とにかく森博嗣は密室ばかりを描きます)を解決する、というものです。まあ説明すればそれだけですが、それだけでは説明しきれない魅力があります。犀川と西之園の会話や思考が、普通からはかけ離れたもので、こんな会話やこんな思考をしたい、といつも読んでいて思います。同時に、森博嗣ってのは天才なんだな、といつも思います。
活動の幅も広く、ミステリはもちろん、HPに連載していた日記や同じくHP上で企画しているものの書籍化、詩集、絵本、エッセイなど、もはやなんでもありです。助教授の仕事と平行しているとは思えない仕事ぶりで、年に作品を10~15ぐらいは出していると思います。
さらにすごいことに、趣味に割く時間が半端ないです。模型が趣味で、当初は模型を買うお金を副業で稼ごうと思い始めた小説書きだそうです。睡眠時間を削り、食事も一日一食だそうで、コンクリートの研究にも没頭しているようなのに、どこに趣味の時間と作家の時間があるのかさっぱりわかりません。
さらに多才なことに絵も書けたりします。昔は関西の方のコミケ(ってあってるかな?)でかなり有名な存在だったようです。
ささきすばるという、作家だか漫画家だかは忘れたけど、その人と結婚してたりします。
森博嗣になりたくて作家になった西尾維新(NISIOISIN)という作家がいて、その人も森博嗣チックで結構いい作家ですよ。
作品自体はかなり読みやすいし、密室とかでミステリ嫌いな人はあんまり嫌かもしれないけど、重要な点はミステリ的なところではなくて、それ以外の部分にあるので、抵抗を持つことなく読んでみてください。
森博嗣の浮遊工作室
森博嗣の浮遊研究室
PRAMM(森博嗣ファンクラブ)
森博嗣の浮遊工作室 付属会議室の遺跡
森博嗣といえば、「すべてがFになる」でメフィスト賞を受賞し衝撃的に作家デビューしたことで有名だけど、知っているでしょうか?森博嗣をデビューさせるためにメフィスト賞が誕生したぐらいなもので、以降メフィスト賞でさまざまな作家がデビューしたのも彼の存在があってといえるでしょう。
名古屋大学工学部の助教授(未だにそう公表はしていないけど)でありながら作家でもある森博嗣は、もういろんな話があったりすします。例えば、森博嗣は講談社が作品を募集していることを知り、まあ書いてみようと思い、大学の夏休み一週間で書き上げたのが、発表順では二作目の「冷たい密室と博士たち」。その後立て続けに「笑わない数学者」「詩的私的ジャック」を投稿し、投稿順では四作目になる「すべてがFになる」をデビュー作にすることを講談社は決め、どうせ出版するなら賞をつけよう、ということでメフィスト賞という名前をつけて出すことにした、みたいな経緯があったりする。とにかく、森博嗣というのは筆が早く、今まで一度も締め切りを過ぎたことがないそうです。というか、締め切りを守れそうにない仕事は引き受けない、ということですが。
今でも大学助教授の職は続けており、その授業も変わっています。試験はなし。講義を受けている人に質問を提出させ、その質問によって評価する、というものです。その質問を集めた「臨機応答 変問自在」という本を出版していたりします。
森博嗣の代表作といえば、デビュー作から10作続く「S&Mシリーズ」でしょう。N大学助教授の犀川創平と金持ちのお嬢様西之園萌絵が、密室殺人(とにかく森博嗣は密室ばかりを描きます)を解決する、というものです。まあ説明すればそれだけですが、それだけでは説明しきれない魅力があります。犀川と西之園の会話や思考が、普通からはかけ離れたもので、こんな会話やこんな思考をしたい、といつも読んでいて思います。同時に、森博嗣ってのは天才なんだな、といつも思います。
活動の幅も広く、ミステリはもちろん、HPに連載していた日記や同じくHP上で企画しているものの書籍化、詩集、絵本、エッセイなど、もはやなんでもありです。助教授の仕事と平行しているとは思えない仕事ぶりで、年に作品を10~15ぐらいは出していると思います。
さらにすごいことに、趣味に割く時間が半端ないです。模型が趣味で、当初は模型を買うお金を副業で稼ごうと思い始めた小説書きだそうです。睡眠時間を削り、食事も一日一食だそうで、コンクリートの研究にも没頭しているようなのに、どこに趣味の時間と作家の時間があるのかさっぱりわかりません。
さらに多才なことに絵も書けたりします。昔は関西の方のコミケ(ってあってるかな?)でかなり有名な存在だったようです。
ささきすばるという、作家だか漫画家だかは忘れたけど、その人と結婚してたりします。
森博嗣になりたくて作家になった西尾維新(NISIOISIN)という作家がいて、その人も森博嗣チックで結構いい作家ですよ。
作品自体はかなり読みやすいし、密室とかでミステリ嫌いな人はあんまり嫌かもしれないけど、重要な点はミステリ的なところではなくて、それ以外の部分にあるので、抵抗を持つことなく読んでみてください。
森博嗣の浮遊工作室
森博嗣の浮遊研究室
PRAMM(森博嗣ファンクラブ)
森博嗣の浮遊工作室 付属会議室の遺跡
終戦のローレライ(福井晴敏)<再読>
「絶えてくれ、ローレライ。
おれたち大人が始めたしょうもない戦争の痛みを全身で受け止めて、行く道を示してくれ。
この世界の戦をあまねく鎮めるために。
いつか、悲鳴の聞こえない海を取り戻すために-」
1945年8月、<大和>も沈み、戦力のほとんどを失った日本。<回天>という言葉が「特攻」という意味を帯び始め、一億玉砕を叫ぶ軍部に操られるように死んでいった日本人。もはや負けることを運命付けられた今次戦争を、負け方を勝ち取るという視点で捉え直した一人の男、浅倉良橘。百年先の日本を見据えたその目に留まったのは、敗国ドイツのもたらしたある特殊兵器だった。
ローレライ-歌声で人を惑わすという、ライン川の魔女。その名を冠したその特殊兵器は、ナチスという狂気が生んだいびつな兵器だった。所属する軍を、そして国すらも転々とし、その度に名前を変えた潜水艦、ドイツ軍の手に渡ってからは<シーゴースト>と恐れられた<UF4>に搭載されていたローレライは、常に望まれない戦闘に身を置くしかない存在だった。
<UF4>は、降伏したドイツを捨て、特殊兵器ローレライとの交換条件で日本への受け入れを要求し、ローレライとともに日本へ向かう途中戦闘に巻き込まれる。沈没を防ぐためにローレライを海中に投棄、<UF4>は土産を持たぬまま日本へと向かった。
<UF4>は日本に着くなり<伊507>と名を変え、突貫の工事と寄せ集めの船員、そしてローレライ整備担当である<UF4>の乗組員フリッツ・S・エブナーとともに、慌しくローレライ回収作戦に組み込まれていく・・・
軍令部第一部第一課長。エリート街道のトップを走り続け、軍部にただならぬ期待をされていた浅倉は、ある時南方の前線への転属を願い出る。誰もが押し留めようとし、しかし現地での指揮権とともに最前線、補給も断たれ孤立し、既に敵は米兵ではなく飢餓に変わり果てた島へと一人赴いてしまった。
数年後、いくらなんでもと誰もが思っているところにひょっこり帰ってきた浅倉は、以降何かが変わってしまった。その何か、を説明できるものはおらず、相変わらずの明晰さを備えたまま、エリート街道を外れたにも関わらず期待する向きは大きく、今の地位に引き上げられた。
内部に協力者を作り、機を窺っていた浅倉は、ローレライの話を聞きつけるや動き始めた。軍部とは別の命令系統を不正に作り出し、表向きは正式に<伊507>という戦艦を作り出し送り出した。
「日本民族の滅亡を回避し、この国にあるべき終戦の形をもたらす。ローレライにはそういう力がある」そう言い切る浅倉の目には、南方の島で見据えた人間の本質と、百年後の日本があった。「あるべき終戦の形」。その曖昧で、それでいてはっきりと敗北の二文字を見据えた言葉を目指し、浅倉は整いすぎて人には見えなくなった容貌を露とも動かすことなく、自ら敷いた道を歩き続ける・・・
上等工作員。横浜突撃隊の一員として、いずれ特攻要員として散るはずだった折笠征人は、突然の呉への招集にも特別何かを抱けるわけでもなかった。国のために身を捧げる。同じく呉への召集命令を受け取った清永喜久雄のその明確な想いとは裏腹に、征人は自分が何をどうしたいのかよくわからないでいた。特攻で死ぬという将来も、国のためという言葉も、どれもがしっくりいかない不自然な想いを征人に残したまま、不自然としか思えない命令に背くことなく呉へと向かう。
召集先で出会った人々。一癖も二癖もある軍人らしからぬ連中と共に、<伊507>に乗り込むことになった征人は、純粋という言葉では表しきれない、いっそ馬鹿と言った方が的確とも思える言動を繰り返す。規律や命令といったものを無視したその行為は、しかし狭い空間に押し合って生きていく男達を確実に変えていった。
小柄な体に押し込めた何かが、ことあるごとに噴き出しては、説明のつかない、一体感とでも呼ぶべき何かを振りまいていく。軍でも規律でもなく、自らを信じて行動する征人は、当初与えられていた特殊任務遂行後も、艦に不可欠な存在となっていく・・・
元ドイツ親衛隊士官。「恐怖を克服するには、自分自身が恐怖になるしかない」。優生学のもと、ユダヤ人を虐殺し続けたナチスドイツ。その親衛隊の制服とともにこの言葉をまとったフリッツ・S・エブナーは、ローレライ担当整備として<伊507>に乗り込んだ。「S」というミドルネームが混じった4分の1の血と、その血が色濃く現れた容貌を思い起こさせ、そのためにドイツでは苦渋を嘗めずにはいられなかったフリッツは、どこにも祖国を見出すことが出来ないでいた。誰もを憎み、<伊507>船内でも親衛隊の制服を脱ぐことのない男は、守るべきものをただ見据えていた。命を賭してでも守る価値のあるものを、ただ守るためだけに自ら恐怖となることを選択したフリッツは、自らの信じる行動をどんな状況でもやってみせる気概があった。その儚いまでに張り詰め、誰も寄せ付けることのなかったフリッツは、しかし<伊507>に乗って変わっていく。守るべきものを共有し、ともに守っていける者たちを仲間と認める寛容を身につけ、一蓮托生の文字を時折浮き上がらせながら、フリッツはどこにもない故郷を<伊507>に求めていく・・・
日本海軍少佐。<伊507>艦長。弟の不実をきっかけに潜水学校ので教鞭を取るだけの人生が丸3年。弟の幻影を引きずったまま、このまま終わるんだろうと思っていた絹美真一は、しかし浅倉という男の手によって再びドンガメの艦長を拝命することになった。不明な点の多い作戦内容、いびつな乗組員を抱えたままの出航と相まって、浅倉という男の存在を捕らえがたく思いながらも、<伊507>を指揮していく。まず艦の安全を軸に据えた命令は、時に余りに非道で、時に余りに律儀でありすぎる。常に先を見越し、全ての状況を判断した上での決断は、絹美という艦長の存在とともに、徐々に受け入れられていく。
奇抜、という点ではこれ以上ない作戦を次々と編み出し、特殊兵器ローレライとともに不可能とも思える任務を実行に移して行く。「あるべき終戦の形」、まさにその形の輪郭を描くよう仕組まれた<伊507>を操る絹美は、いびつだった乗組員とともに、いつ終えるともしれない作戦行動に身をやつしていく・・・
生きて鬼になり、艦内のまとめ役として恐れられまた慕われるようになる田口徳太郎。機関室の主となり、また年齢のせいか妙に勘のいい岩村七五郎。臆病な自分に規律という服を着せ、艦内の規律にうるさく口を出す小松秀彦。どんな状況でも負傷者の治療をやめようとしない、お喋り好きな時岡纏。
涙が止まらない。どうにもしようがない感情にそれこそ潜水艦のように揺さぶられる。誰もが主人公であり、誰もが何かを信じ行動している。その結果何も得られないとしても、種ぐらいは蒔けたか、と信じて闘う男達。読まずには済まされない、日本人なら読むべきだとすら言える作品。
どの場面を切り取ってみてもうまくは描けない。読まずに語ることは不可能な作品。どうしても、生涯一冊しか本を読まないと決めた人でさえ、この本は読んで欲しい。
同じレベルの作品は、きっとまた福井の手によってしかなされないだろう。諦観という言葉を思い浮かべ、すぐに期待の二文字に摩り替える。
「耐えてくれ、福井晴敏。
おれたち国民が抱えるしょうもない作品への期待を全身で受け止めて、傑作を物してくれ。
この世界の苦しみをあまねく伝えるために。
いつか、悲鳴の聞こえない海を取り戻すために-」
福井晴敏「終戦のローレライ」
おれたち大人が始めたしょうもない戦争の痛みを全身で受け止めて、行く道を示してくれ。
この世界の戦をあまねく鎮めるために。
いつか、悲鳴の聞こえない海を取り戻すために-」
1945年8月、<大和>も沈み、戦力のほとんどを失った日本。<回天>という言葉が「特攻」という意味を帯び始め、一億玉砕を叫ぶ軍部に操られるように死んでいった日本人。もはや負けることを運命付けられた今次戦争を、負け方を勝ち取るという視点で捉え直した一人の男、浅倉良橘。百年先の日本を見据えたその目に留まったのは、敗国ドイツのもたらしたある特殊兵器だった。
ローレライ-歌声で人を惑わすという、ライン川の魔女。その名を冠したその特殊兵器は、ナチスという狂気が生んだいびつな兵器だった。所属する軍を、そして国すらも転々とし、その度に名前を変えた潜水艦、ドイツ軍の手に渡ってからは<シーゴースト>と恐れられた<UF4>に搭載されていたローレライは、常に望まれない戦闘に身を置くしかない存在だった。
<UF4>は、降伏したドイツを捨て、特殊兵器ローレライとの交換条件で日本への受け入れを要求し、ローレライとともに日本へ向かう途中戦闘に巻き込まれる。沈没を防ぐためにローレライを海中に投棄、<UF4>は土産を持たぬまま日本へと向かった。
<UF4>は日本に着くなり<伊507>と名を変え、突貫の工事と寄せ集めの船員、そしてローレライ整備担当である<UF4>の乗組員フリッツ・S・エブナーとともに、慌しくローレライ回収作戦に組み込まれていく・・・
軍令部第一部第一課長。エリート街道のトップを走り続け、軍部にただならぬ期待をされていた浅倉は、ある時南方の前線への転属を願い出る。誰もが押し留めようとし、しかし現地での指揮権とともに最前線、補給も断たれ孤立し、既に敵は米兵ではなく飢餓に変わり果てた島へと一人赴いてしまった。
数年後、いくらなんでもと誰もが思っているところにひょっこり帰ってきた浅倉は、以降何かが変わってしまった。その何か、を説明できるものはおらず、相変わらずの明晰さを備えたまま、エリート街道を外れたにも関わらず期待する向きは大きく、今の地位に引き上げられた。
内部に協力者を作り、機を窺っていた浅倉は、ローレライの話を聞きつけるや動き始めた。軍部とは別の命令系統を不正に作り出し、表向きは正式に<伊507>という戦艦を作り出し送り出した。
「日本民族の滅亡を回避し、この国にあるべき終戦の形をもたらす。ローレライにはそういう力がある」そう言い切る浅倉の目には、南方の島で見据えた人間の本質と、百年後の日本があった。「あるべき終戦の形」。その曖昧で、それでいてはっきりと敗北の二文字を見据えた言葉を目指し、浅倉は整いすぎて人には見えなくなった容貌を露とも動かすことなく、自ら敷いた道を歩き続ける・・・
上等工作員。横浜突撃隊の一員として、いずれ特攻要員として散るはずだった折笠征人は、突然の呉への招集にも特別何かを抱けるわけでもなかった。国のために身を捧げる。同じく呉への召集命令を受け取った清永喜久雄のその明確な想いとは裏腹に、征人は自分が何をどうしたいのかよくわからないでいた。特攻で死ぬという将来も、国のためという言葉も、どれもがしっくりいかない不自然な想いを征人に残したまま、不自然としか思えない命令に背くことなく呉へと向かう。
召集先で出会った人々。一癖も二癖もある軍人らしからぬ連中と共に、<伊507>に乗り込むことになった征人は、純粋という言葉では表しきれない、いっそ馬鹿と言った方が的確とも思える言動を繰り返す。規律や命令といったものを無視したその行為は、しかし狭い空間に押し合って生きていく男達を確実に変えていった。
小柄な体に押し込めた何かが、ことあるごとに噴き出しては、説明のつかない、一体感とでも呼ぶべき何かを振りまいていく。軍でも規律でもなく、自らを信じて行動する征人は、当初与えられていた特殊任務遂行後も、艦に不可欠な存在となっていく・・・
元ドイツ親衛隊士官。「恐怖を克服するには、自分自身が恐怖になるしかない」。優生学のもと、ユダヤ人を虐殺し続けたナチスドイツ。その親衛隊の制服とともにこの言葉をまとったフリッツ・S・エブナーは、ローレライ担当整備として<伊507>に乗り込んだ。「S」というミドルネームが混じった4分の1の血と、その血が色濃く現れた容貌を思い起こさせ、そのためにドイツでは苦渋を嘗めずにはいられなかったフリッツは、どこにも祖国を見出すことが出来ないでいた。誰もを憎み、<伊507>船内でも親衛隊の制服を脱ぐことのない男は、守るべきものをただ見据えていた。命を賭してでも守る価値のあるものを、ただ守るためだけに自ら恐怖となることを選択したフリッツは、自らの信じる行動をどんな状況でもやってみせる気概があった。その儚いまでに張り詰め、誰も寄せ付けることのなかったフリッツは、しかし<伊507>に乗って変わっていく。守るべきものを共有し、ともに守っていける者たちを仲間と認める寛容を身につけ、一蓮托生の文字を時折浮き上がらせながら、フリッツはどこにもない故郷を<伊507>に求めていく・・・
日本海軍少佐。<伊507>艦長。弟の不実をきっかけに潜水学校ので教鞭を取るだけの人生が丸3年。弟の幻影を引きずったまま、このまま終わるんだろうと思っていた絹美真一は、しかし浅倉という男の手によって再びドンガメの艦長を拝命することになった。不明な点の多い作戦内容、いびつな乗組員を抱えたままの出航と相まって、浅倉という男の存在を捕らえがたく思いながらも、<伊507>を指揮していく。まず艦の安全を軸に据えた命令は、時に余りに非道で、時に余りに律儀でありすぎる。常に先を見越し、全ての状況を判断した上での決断は、絹美という艦長の存在とともに、徐々に受け入れられていく。
奇抜、という点ではこれ以上ない作戦を次々と編み出し、特殊兵器ローレライとともに不可能とも思える任務を実行に移して行く。「あるべき終戦の形」、まさにその形の輪郭を描くよう仕組まれた<伊507>を操る絹美は、いびつだった乗組員とともに、いつ終えるともしれない作戦行動に身をやつしていく・・・
生きて鬼になり、艦内のまとめ役として恐れられまた慕われるようになる田口徳太郎。機関室の主となり、また年齢のせいか妙に勘のいい岩村七五郎。臆病な自分に規律という服を着せ、艦内の規律にうるさく口を出す小松秀彦。どんな状況でも負傷者の治療をやめようとしない、お喋り好きな時岡纏。
涙が止まらない。どうにもしようがない感情にそれこそ潜水艦のように揺さぶられる。誰もが主人公であり、誰もが何かを信じ行動している。その結果何も得られないとしても、種ぐらいは蒔けたか、と信じて闘う男達。読まずには済まされない、日本人なら読むべきだとすら言える作品。
どの場面を切り取ってみてもうまくは描けない。読まずに語ることは不可能な作品。どうしても、生涯一冊しか本を読まないと決めた人でさえ、この本は読んで欲しい。
同じレベルの作品は、きっとまた福井の手によってしかなされないだろう。諦観という言葉を思い浮かべ、すぐに期待の二文字に摩り替える。
「耐えてくれ、福井晴敏。
おれたち国民が抱えるしょうもない作品への期待を全身で受け止めて、傑作を物してくれ。
この世界の苦しみをあまねく伝えるために。
いつか、悲鳴の聞こえない海を取り戻すために-」
福井晴敏「終戦のローレライ」
ねじまき鳥のクロニクル(村上春樹)
僕は彼の物語に感銘を受けた。それは「感動」でも「感心」でもない。僕にはそれらの言葉の意味を、曖昧に差を際立たせる程度にすら説明することは出来ないのだけれど、それでも「感銘」という言葉を選びたい。ゆったりとした、まるで穏やかな波のような心の動きを捉えた言葉であるかもしれないと思う。
彼の物語について触れる前に、触れておきたいことがある。それはどうしても言っておかなければならない重大な事柄では決してないのだけれど、書き残される事柄が全て重大でなければならないということも特にないだろうと思う。
「ねじまき島」という島があるのだと思った。
タイトルについての誤解がまずあった。「ねじまき鳥」ではなく、「ねじまき島」。どうしてか説明することはテレビに映し出される料理の臭いを嗅ごうとするぐらい難しいことなのだけど、そうした誤解を抱えていた。
さらに彼の物語を読んだという友人の断片的な感想などを総合して僕は、「ねじまき島」で起こるファンタジー小説なのだろう、と思い込んでいた。
だからというわけではないが、そこまで読もうとは思わなかった。
同じことを、京極夏彦という作家の作品に対しても感じたことがある。それは、彼の物語の感想、という範囲をそろそろ逸脱しかねない話題なので、このぐらいにして彼の物語に触れようかと思う。
ただそこで僕は、文章を書く手が止まってしまう。しかし止まらずにこの文章を書いている、という矛盾を飲み込みながら。
彼の物語のどこかを切り取って繋ぎ合わせ、あらすじの形にすることに、どのくらいの意味があるのか僕にはわからなくなっている。確かに猫は消えた。電話も掛かってきたし、加納マルタが現れた。そしてクミコも消えた・・・そうした、バラバラに砕けたコップを元通りに繋ぎ合わせるかのように、彼の周りで起こった出来事を並べ立てて繋ぎ合わせても、それは「壊れたコップを繋ぎ合わせたもの」以外の何物でもなく、決して「元のコップ」にはならないのである。
そう、まさに僕が書こうとしている文章は、「茶碗蒸しの素」でしかなく、それをレンジに入れたところで「茶碗蒸し」になるかは、経験的にそう信じているだけで、本当はどうなるのかわからないのだ。
だから、僕はなるべく大きく大きく彼の物語を見渡す。ナスカの地上絵のように、それが存在するのと同じ場所にいては見えないことも沢山あるはずなのだ。
僕たちは世界を規定している。僕たちは確かに一つの世界に含まれていながら、巾着袋の中のおはじきのように、それぞれ個人が世界を規定している。
巾着袋そのものに含まれている事象や人や状況を全て理解することは困難でしかないし、現実的ではない。だからこそ人は、自分に理解できる事象や人や状況を寄せ集めて、自分の世界というものを規定する。そうして僕たちは、絶えずその輪郭というものを見定めながら、あるいは多少膨らんだり縮んだりはあるかもしれないが、輪郭がそこに存在していることを確認しながら生きていくことになる。
自分の世界の輪郭を見失った多くの人々と、その輪郭を取り戻そうとする男-僕が彼と呼んでいるその男-の物語である。僕が上空から見た地上絵はそう見えた。
誰もが輪郭を失いつつある。大抵それは理不尽に奪い取られていく。あるものは誰かによって。あるものは状況によって。薄くなっていく輪郭の縁からは、どろどろとしたものがまるで意志を持つかのように流れ出ていき、曇りガラスに映る姿のように存在感が希薄になっていく。それでも生きていかなくてはいかないし、生きていける世界を探すしかなくなってしまう。
彼はクミコの世界の輪郭を取り戻そうと努力する。その過程で、豆腐を作るとおからができるような成り行きで、彼は多くの他の人の世界の輪郭をも取り戻していくことになる。
僕が捕らえた彼の物語は、こういう解釈になる。それが正しいかどうかは僕にはわからない。出来れば著者自身にもわからないのであるならいい、と僕はパンク寸前のタイヤのような期待をしてしまう。
僕は正直に言って、村上春樹の文章を読むと疲れを感じてしまう。集中力が奪われていくような気がして、何度も文章から顔を上げては一瞬だけ別のことを考える。そしてすぐに彼の文章に目を戻す。
最近気づいたのだけれど、それは決して悪いことではないのかもしれないと思う。目を走らせるだけですっと体の中に入ってしまう文章なんか、ろくでもないものなのかもしれない。あくまでそれは、彼の物語を読み終わった今だからの感想であって、根拠のないその感覚をこれからも持てるかどうか、僕には自信がない。
村上春樹の文章というのはやはり独特だと思う。自分の中にはない言葉の繋がりや音感があって、他の村上春樹の作品では馴染めなかったそうした文章が、彼の物語ではざらついた新聞紙程度の違和感を伴いながらも僕の中に入ってきたと思う。
首から上と首から下がまるで別人のものになってしまった。それでも心臓は間違いなく血液を送り出しているし、脳はちゃんとものを考えている。首にあるはずの繋ぎ目はなく、皮膚は自然に連続している。それでもどこか違和感を感じる。村上春樹の文章には、そうした感覚を抱く。
僕は彼と似ている、と勝手に思っている。本質が似ているのかどうか、僕には判断ができない。それでも、彼が遭遇する個々の場面で、ああ僕もこうやって行動するかもしれないな、と思える部分がいくつもあった。
例えば笠原メイとの井戸での会話。例えばナツメグと初めて出会ってからの行動。例えばクミコがいなくなった後の日常。そうした場面で僕は、きっと僕も彼のように行動するのだなと、もはや断定的な思考をしていることに気づく。ある意味で僕はその感覚が好きだったけど、ある意味では好きではなかったのかもしれない。
シナモンという男が僕は一番好きだ。一人で部屋で本を読んでいる時、ふと雨が降っていることに気づくような、ある意味気づかれるまでの雨音のように儚く、そしてある意味気づいてしまった後の雨音のような存在感がある。シナモンを形成した全ての状況を一面では羨ましく思う。シナモンのような人間になれたらもしかしたら幸せかもしれないと、どこかに刺さったトゲを抜くような想いを抱いたりもする。
今回僕が書いた、「ねじまき鳥のクロニクル」の感想のようなもの、は随分と長くなってしまった。出来るだけ村上春樹のような文章で書ければいい、と思って努力はしてみたけど、どう捉えられるかはわからない。雰囲気は伝えられていればいいなと、聞こえるかどうかわからないねじまき鳥の鳴き声ぐらいの期待をしている。
きっとねじまき鳥は、僕の世界のネジを巻くのを忘れてしまったのだろう。あるいは、そんなことにはもう興味を持てなくなって、ネジをまく以外の何かを見つけたのかもしれない。
村上春樹「ねじまき鳥のクロニクル」
彼の物語について触れる前に、触れておきたいことがある。それはどうしても言っておかなければならない重大な事柄では決してないのだけれど、書き残される事柄が全て重大でなければならないということも特にないだろうと思う。
「ねじまき島」という島があるのだと思った。
タイトルについての誤解がまずあった。「ねじまき鳥」ではなく、「ねじまき島」。どうしてか説明することはテレビに映し出される料理の臭いを嗅ごうとするぐらい難しいことなのだけど、そうした誤解を抱えていた。
さらに彼の物語を読んだという友人の断片的な感想などを総合して僕は、「ねじまき島」で起こるファンタジー小説なのだろう、と思い込んでいた。
だからというわけではないが、そこまで読もうとは思わなかった。
同じことを、京極夏彦という作家の作品に対しても感じたことがある。それは、彼の物語の感想、という範囲をそろそろ逸脱しかねない話題なので、このぐらいにして彼の物語に触れようかと思う。
ただそこで僕は、文章を書く手が止まってしまう。しかし止まらずにこの文章を書いている、という矛盾を飲み込みながら。
彼の物語のどこかを切り取って繋ぎ合わせ、あらすじの形にすることに、どのくらいの意味があるのか僕にはわからなくなっている。確かに猫は消えた。電話も掛かってきたし、加納マルタが現れた。そしてクミコも消えた・・・そうした、バラバラに砕けたコップを元通りに繋ぎ合わせるかのように、彼の周りで起こった出来事を並べ立てて繋ぎ合わせても、それは「壊れたコップを繋ぎ合わせたもの」以外の何物でもなく、決して「元のコップ」にはならないのである。
そう、まさに僕が書こうとしている文章は、「茶碗蒸しの素」でしかなく、それをレンジに入れたところで「茶碗蒸し」になるかは、経験的にそう信じているだけで、本当はどうなるのかわからないのだ。
だから、僕はなるべく大きく大きく彼の物語を見渡す。ナスカの地上絵のように、それが存在するのと同じ場所にいては見えないことも沢山あるはずなのだ。
僕たちは世界を規定している。僕たちは確かに一つの世界に含まれていながら、巾着袋の中のおはじきのように、それぞれ個人が世界を規定している。
巾着袋そのものに含まれている事象や人や状況を全て理解することは困難でしかないし、現実的ではない。だからこそ人は、自分に理解できる事象や人や状況を寄せ集めて、自分の世界というものを規定する。そうして僕たちは、絶えずその輪郭というものを見定めながら、あるいは多少膨らんだり縮んだりはあるかもしれないが、輪郭がそこに存在していることを確認しながら生きていくことになる。
自分の世界の輪郭を見失った多くの人々と、その輪郭を取り戻そうとする男-僕が彼と呼んでいるその男-の物語である。僕が上空から見た地上絵はそう見えた。
誰もが輪郭を失いつつある。大抵それは理不尽に奪い取られていく。あるものは誰かによって。あるものは状況によって。薄くなっていく輪郭の縁からは、どろどろとしたものがまるで意志を持つかのように流れ出ていき、曇りガラスに映る姿のように存在感が希薄になっていく。それでも生きていかなくてはいかないし、生きていける世界を探すしかなくなってしまう。
彼はクミコの世界の輪郭を取り戻そうと努力する。その過程で、豆腐を作るとおからができるような成り行きで、彼は多くの他の人の世界の輪郭をも取り戻していくことになる。
僕が捕らえた彼の物語は、こういう解釈になる。それが正しいかどうかは僕にはわからない。出来れば著者自身にもわからないのであるならいい、と僕はパンク寸前のタイヤのような期待をしてしまう。
僕は正直に言って、村上春樹の文章を読むと疲れを感じてしまう。集中力が奪われていくような気がして、何度も文章から顔を上げては一瞬だけ別のことを考える。そしてすぐに彼の文章に目を戻す。
最近気づいたのだけれど、それは決して悪いことではないのかもしれないと思う。目を走らせるだけですっと体の中に入ってしまう文章なんか、ろくでもないものなのかもしれない。あくまでそれは、彼の物語を読み終わった今だからの感想であって、根拠のないその感覚をこれからも持てるかどうか、僕には自信がない。
村上春樹の文章というのはやはり独特だと思う。自分の中にはない言葉の繋がりや音感があって、他の村上春樹の作品では馴染めなかったそうした文章が、彼の物語ではざらついた新聞紙程度の違和感を伴いながらも僕の中に入ってきたと思う。
首から上と首から下がまるで別人のものになってしまった。それでも心臓は間違いなく血液を送り出しているし、脳はちゃんとものを考えている。首にあるはずの繋ぎ目はなく、皮膚は自然に連続している。それでもどこか違和感を感じる。村上春樹の文章には、そうした感覚を抱く。
僕は彼と似ている、と勝手に思っている。本質が似ているのかどうか、僕には判断ができない。それでも、彼が遭遇する個々の場面で、ああ僕もこうやって行動するかもしれないな、と思える部分がいくつもあった。
例えば笠原メイとの井戸での会話。例えばナツメグと初めて出会ってからの行動。例えばクミコがいなくなった後の日常。そうした場面で僕は、きっと僕も彼のように行動するのだなと、もはや断定的な思考をしていることに気づく。ある意味で僕はその感覚が好きだったけど、ある意味では好きではなかったのかもしれない。
シナモンという男が僕は一番好きだ。一人で部屋で本を読んでいる時、ふと雨が降っていることに気づくような、ある意味気づかれるまでの雨音のように儚く、そしてある意味気づいてしまった後の雨音のような存在感がある。シナモンを形成した全ての状況を一面では羨ましく思う。シナモンのような人間になれたらもしかしたら幸せかもしれないと、どこかに刺さったトゲを抜くような想いを抱いたりもする。
今回僕が書いた、「ねじまき鳥のクロニクル」の感想のようなもの、は随分と長くなってしまった。出来るだけ村上春樹のような文章で書ければいい、と思って努力はしてみたけど、どう捉えられるかはわからない。雰囲気は伝えられていればいいなと、聞こえるかどうかわからないねじまき鳥の鳴き声ぐらいの期待をしている。
きっとねじまき鳥は、僕の世界のネジを巻くのを忘れてしまったのだろう。あるいは、そんなことにはもう興味を持てなくなって、ネジをまく以外の何かを見つけたのかもしれない。
村上春樹「ねじまき鳥のクロニクル」