黒いピラミッド(福士俊哉)
内容に入ろうと思います。
聖東大学で古代エジプトを先行する学生である佐倉麻衣は、講師の二宮智生とつき合っている。エジプトへ旅行に行った折、二宮が主任を努めるギザの発掘現場に向かい、学生を入れてはいけないと言いつつ、二宮と麻衣はデートのようなものを楽しんだ。しかし彼女は、研究所が所有しているカイロ宿舎の螺旋階段から落ち、命を落とした。二宮は、学生とつき合っていたことがバレて大学を辞めた。しかしその後、犬のマスクをして大学にやってきた二宮は、鉄パイプを振り回して大学関係者を襲撃、文学部を取り仕切る絶対権力である高城教授を殺害した。
二宮と同期だった、エジプト考古学の専任講師である日下美羽は、ギザでの二宮の仕事を整理しようと、エジプトから送られてきた私物を検めるが、その中に謎のSDカードがあった。そこには、麻衣とイチャイチャする二宮の姿が写真と動画で多数保存されていたが、その中に、偶然見つけた未完成墓の中にいた近代のミイラ(恐らくトレジャーハンターのもの)が持っていた、アンクと呼ばれる遺物を発見する一部始終が収められていた。
まさか、一連の出来事はこのアンクの呪いなのではないか…。
というような話です。
エジプトとかピラミッドとかのモチーフはなかなか興味深かったんだけど、いかんせん、小説としての体裁の部分で色々粗が目についてしまうなぁ、という感じの作品でした。
まず全体的に、学生が学生っぽくない。もちろん、本書は明確に時代設定が書かれていなかったような気がするから、2018年現在を舞台にした物語ではないかもしれません。これが数十年前を舞台にしている、というのであれば、「学生が学生っぽくない」という評価は的外れだと思う。ただ本書には、「(学生が所有できるくらい安価な)SDカードで記録するデジカメ」が登場するから、やはり数十年前というのは考えにくいし、恐らく今現在を舞台にした作品だろうという気がします。
そうだとすると、やっぱりちょっと、学生の描き方に無理があるよなぁ、と感じてしまう。まあ、著者の年齢を考えれば仕方ないという気はするが、せめてもう少し今っぽさに寄せないと、違和感ばかり積み上がることになってしまう。
また、物語の都合に合わせて視点人物がコロコロ変わる構成も、新人のデビュー作としてはちょっと辛い気がしました。視点人物が変わる構成そのものを悪いと言うつもりはないのだけど、結構高度な記述が必要だと思うし、本書では残念ながら使いこなせていないと僕は感じました。出来れば、視点人物は最後まで一人に固定したまま物語を展開していく方が良かったと思います(頑張れば不可能ではないような気がします)。
あと、個人的にはちょっとこれが致命的だと感じるんだけど、「一連の出来事を何故アンクの呪いだと判断したのか」という部分の描写が不十分な気がしました。どうすれば良いのかという具体的な提案は出来ないのだけど、僕は読んでて、「もうちょいハッキリした根拠がないと、エジプトで長い時間掛けて調査するなんて決断出来なくないか?」と思ってしまいました。これが、「自分の住んでいる近くでちょっと色々調べてみる」くらいのことなら、はっきりとした根拠がなくても物語としては成立すると思うんだけど、本書の場合、「これはたぶんアンクの呪いだ!」と決めつけて、エジプトで結構ガチな調査を展開するわけです。正直なところ、それだけの労力を注ぎ込めるだけの確信を、彼らはどうやって得たのだろう?という感じがしました。だったら、最初から最後までエジプトを舞台にした物語という設定にしておいた方が、「エジプトで調査する」というハードルが下がるから、まだリアリティを感じさせやすくなるんじゃないか、という気がしました。
あとはなんというのか、「余計」に感じられる装飾が多いなぁ、という印象でした。何か意味を感じられるならいいんだけど、「その設定、要る?」と思ってしまうような要素が色々ありました。学生の一人のゴスロリ趣味とか、事務局の人間の家庭の問題とか、物語の中でそこまで深く掘り下げられないのに、ちょっと過剰に作り込んでいるような部分があって、なんとなく気になりました。
ちょっとなかなか難しかったなぁ、という感じのする小説でした。
福士俊哉「黒いピラミッド」
聖東大学で古代エジプトを先行する学生である佐倉麻衣は、講師の二宮智生とつき合っている。エジプトへ旅行に行った折、二宮が主任を努めるギザの発掘現場に向かい、学生を入れてはいけないと言いつつ、二宮と麻衣はデートのようなものを楽しんだ。しかし彼女は、研究所が所有しているカイロ宿舎の螺旋階段から落ち、命を落とした。二宮は、学生とつき合っていたことがバレて大学を辞めた。しかしその後、犬のマスクをして大学にやってきた二宮は、鉄パイプを振り回して大学関係者を襲撃、文学部を取り仕切る絶対権力である高城教授を殺害した。
二宮と同期だった、エジプト考古学の専任講師である日下美羽は、ギザでの二宮の仕事を整理しようと、エジプトから送られてきた私物を検めるが、その中に謎のSDカードがあった。そこには、麻衣とイチャイチャする二宮の姿が写真と動画で多数保存されていたが、その中に、偶然見つけた未完成墓の中にいた近代のミイラ(恐らくトレジャーハンターのもの)が持っていた、アンクと呼ばれる遺物を発見する一部始終が収められていた。
まさか、一連の出来事はこのアンクの呪いなのではないか…。
というような話です。
エジプトとかピラミッドとかのモチーフはなかなか興味深かったんだけど、いかんせん、小説としての体裁の部分で色々粗が目についてしまうなぁ、という感じの作品でした。
まず全体的に、学生が学生っぽくない。もちろん、本書は明確に時代設定が書かれていなかったような気がするから、2018年現在を舞台にした物語ではないかもしれません。これが数十年前を舞台にしている、というのであれば、「学生が学生っぽくない」という評価は的外れだと思う。ただ本書には、「(学生が所有できるくらい安価な)SDカードで記録するデジカメ」が登場するから、やはり数十年前というのは考えにくいし、恐らく今現在を舞台にした作品だろうという気がします。
そうだとすると、やっぱりちょっと、学生の描き方に無理があるよなぁ、と感じてしまう。まあ、著者の年齢を考えれば仕方ないという気はするが、せめてもう少し今っぽさに寄せないと、違和感ばかり積み上がることになってしまう。
また、物語の都合に合わせて視点人物がコロコロ変わる構成も、新人のデビュー作としてはちょっと辛い気がしました。視点人物が変わる構成そのものを悪いと言うつもりはないのだけど、結構高度な記述が必要だと思うし、本書では残念ながら使いこなせていないと僕は感じました。出来れば、視点人物は最後まで一人に固定したまま物語を展開していく方が良かったと思います(頑張れば不可能ではないような気がします)。
あと、個人的にはちょっとこれが致命的だと感じるんだけど、「一連の出来事を何故アンクの呪いだと判断したのか」という部分の描写が不十分な気がしました。どうすれば良いのかという具体的な提案は出来ないのだけど、僕は読んでて、「もうちょいハッキリした根拠がないと、エジプトで長い時間掛けて調査するなんて決断出来なくないか?」と思ってしまいました。これが、「自分の住んでいる近くでちょっと色々調べてみる」くらいのことなら、はっきりとした根拠がなくても物語としては成立すると思うんだけど、本書の場合、「これはたぶんアンクの呪いだ!」と決めつけて、エジプトで結構ガチな調査を展開するわけです。正直なところ、それだけの労力を注ぎ込めるだけの確信を、彼らはどうやって得たのだろう?という感じがしました。だったら、最初から最後までエジプトを舞台にした物語という設定にしておいた方が、「エジプトで調査する」というハードルが下がるから、まだリアリティを感じさせやすくなるんじゃないか、という気がしました。
あとはなんというのか、「余計」に感じられる装飾が多いなぁ、という印象でした。何か意味を感じられるならいいんだけど、「その設定、要る?」と思ってしまうような要素が色々ありました。学生の一人のゴスロリ趣味とか、事務局の人間の家庭の問題とか、物語の中でそこまで深く掘り下げられないのに、ちょっと過剰に作り込んでいるような部分があって、なんとなく気になりました。
ちょっとなかなか難しかったなぁ、という感じのする小説でした。
福士俊哉「黒いピラミッド」
「2重螺旋の恋人」を観に行ってきました
読解力のない僕には、わけわからん、って感じの映画でしたけど、わけわからん映画を見た時にいつもやるように、ネットで調べると、なるほどそういうことなんだねぇ、という風にはなりました。けど、映画見てるだけで、それ分かるかな?
冒頭の設定は、なかなか面白いんですよね。常時謎の腹痛を感じる女性・クロエが、精神的な問題だと指摘されて精神分析医であるポールを紹介されます。ポールによる診療でいっとき落ち着いたクロエは、ポールに惹かれている自分に気付き、一緒に暮らすようになるんですけど、クロエは、ポールのパスポートの名字が違うことに気づいてしまいます。愛する人は私に隠し事をしている…。そんな思いに囚われ、クロエはまた不安定になります。
そんな時クロエは、職場からの帰り道、ポールが女性と話しているのを目撃してしまいます。後で聞いても、今日は昼食を摂る間もないくらい忙しかったと言っておしまい。ポールが何か隠していると判断したクロエは、ポールが女性と話していた場所にある別の精神分析医を予約し、診療を受けることにしました。
ルイと名乗ったその精神分析医は、なんとポールとまったく同じ顔をしていました。彼は、双子の弟がいると明かし、クロエはポールと親密な関係であることを伏せたまま、ルイの診療を受けます。しかし、ルイの診療は、診療とは言えないような方向へとどんどん展開していき、やがてクロエはルイと、診療だと称してセックスをするようになっていきます。
未だに兄の存在を打ち明けてくれないポール。そんな中、ルイからある同級生の名前を聞かされ、会いに行くことにするが…。
というような話です。
正直意味不明な映画で、結構見ているのが辛かったです。なんのこっちゃ分からないシーンが多々あって、頭の中にハテナマークが大量に点灯している状態でした。確かに、ネットで見た「解釈」の通りだとすれば、まあ一応筋は通ってるとは思いますが、とはいえ、「あれもこれも全部○○でした」っていう解釈を受け入れるのは、ちょっと無理があるんじゃないかなぁ、という感覚もあります。
やっぱり僕は、もうちょい分かりやすい映画がいいなぁ(笑)
「2重螺旋の恋人」を観に行ってきました
冒頭の設定は、なかなか面白いんですよね。常時謎の腹痛を感じる女性・クロエが、精神的な問題だと指摘されて精神分析医であるポールを紹介されます。ポールによる診療でいっとき落ち着いたクロエは、ポールに惹かれている自分に気付き、一緒に暮らすようになるんですけど、クロエは、ポールのパスポートの名字が違うことに気づいてしまいます。愛する人は私に隠し事をしている…。そんな思いに囚われ、クロエはまた不安定になります。
そんな時クロエは、職場からの帰り道、ポールが女性と話しているのを目撃してしまいます。後で聞いても、今日は昼食を摂る間もないくらい忙しかったと言っておしまい。ポールが何か隠していると判断したクロエは、ポールが女性と話していた場所にある別の精神分析医を予約し、診療を受けることにしました。
ルイと名乗ったその精神分析医は、なんとポールとまったく同じ顔をしていました。彼は、双子の弟がいると明かし、クロエはポールと親密な関係であることを伏せたまま、ルイの診療を受けます。しかし、ルイの診療は、診療とは言えないような方向へとどんどん展開していき、やがてクロエはルイと、診療だと称してセックスをするようになっていきます。
未だに兄の存在を打ち明けてくれないポール。そんな中、ルイからある同級生の名前を聞かされ、会いに行くことにするが…。
というような話です。
正直意味不明な映画で、結構見ているのが辛かったです。なんのこっちゃ分からないシーンが多々あって、頭の中にハテナマークが大量に点灯している状態でした。確かに、ネットで見た「解釈」の通りだとすれば、まあ一応筋は通ってるとは思いますが、とはいえ、「あれもこれも全部○○でした」っていう解釈を受け入れるのは、ちょっと無理があるんじゃないかなぁ、という感覚もあります。
やっぱり僕は、もうちょい分かりやすい映画がいいなぁ(笑)
「2重螺旋の恋人」を観に行ってきました
トップリーグ(相場英雄)
これは面白かったなぁ。
内容に入ろうと思います。
大和新聞の経済部所属の松岡直樹は、長年財務省の記者クラブである財政研究会への異動を希望していたが、突如政治部に異動させられることとなった。何でも大手新聞社が早期退職者募ったことで記者が足りなくなり、他社からかき集めたことで色んな不都合が生じているという。1年で経済部に戻すと言われ、松岡は仕方なく政治部記者として働くことになった。
まったく異質な環境で、仕事の流れも分からないままだったが、初日から、二人いるキャップを差し置いて、部長が強大な権力を行使している場面を見て驚いた。他の部署では、まずあり得ない光景だからだ。その阿久津部長は、「もっと癒着しろ。ネタさえ出せば、周囲にとやかく言われようが一切問題はない」と二人に発破を掛けていた。
そんな松岡は、総理番と呼ばれる、一日中総理の動向について回る仕事をすることになったが、その過程で、ひょんなことから、官房長官の阪義家に気に入られたようで、一部の記者しか参加が許されない「懇談」と呼ばれる場に参加が認められ、あまつさえ、阪から個人的に呼び出され、バーで話をする機会さえあった。松岡は、理由は判然としないが、いきなりトップリーグ(政治家に深くまで食い込んだ記者)入りを果たしたのだ。
一方、スクープやスキャンダルを得意とする週刊誌「週刊新時代」の記者である酒井祐治は今、他の記者がほとんど注目していない事件を追いかけていた。それは、東京オリンピック関連施設の建設地から、現金1億5000万円の入った金庫が見つかった、というものだ。酒井は、旧知の警察関係者から情報を引き出し、その金庫に入っていたのが「聖徳太子の
1万円札の束」だったこと、そして「日本不動産信用銀行(日不銀)の帯封」がついていたことを突き止めた。彼は日不銀の黒い噂を知っていた。だからこそ、これは突っ込んでみるべきネタだと判断し、取材を続けた。
すると取材の過程で、とんでもない話が飛び出してきた。もしかしたらあの金庫の金は、昭和50年代前半に日本の政財界を揺るがした一大疑獄である「クラスター事件」に関わるお金かもしれない。そうだとしたら、今の芦原恒三内閣は、確実に吹っ飛ぶ…。
というような話です。
これは面白い作品でした。扱っているテーマも面白いし、構成も良い。2017年に雑誌連載されていた作品で、その当時の世相みたいなものも結構反映されているんだと思う。政治に疎い僕でも、この人とこの人は実在のあの人だな、と分かる程度に現実をうまく小説の中に取り込んでいて、よく出来てると思いました。
まず、政治記者の日常みたいなものが面白かったです。普段ニュースなんかで見るような言葉や言い回しにどんな意味があるのか(例えば、「政府首脳」というのは官房長官のことだそうです)
や、何が重要なのか(関係者の車のナンバーを記憶するのは絶対だそうです)、どんな仕事をしているのか(総理番は一日中総理に張り付いているなど)などなど、知らなかったような生態(なんて言い方はおかしいかもですけど)を知ることが出来ました。
さらに、「トップリーグ」という、政治家たちに食い込んだ記者の存在も面白いと思いました。もちろん本書は小説で、どこまで現実を引き写しているのかの判断は出来ないけど、こういう存在は実際にいるんだろうし、そんな風にして政治の報道が出来上がっていくんだなぁ、というのが面白いと思いました。
官房長官のトップリーグに上り詰め、一気に安定したネタを引っ張ってこれるようになった松岡と違って、酒井の方は週刊誌らしい泥臭い取材をひたすらやっている。その対比もいいなと思います。実は松岡と酒井は大和新聞の同期だったのだけど、色々あって酒井が大和新聞から週刊誌に移ってしまった。でも二人には浅からぬ関係があったり、色々と絡みがあったりして、特に後半、二人の関わり合いが重要になって来ます。
そして、酒井が追っているネタもまた面白いんですね。1億5000万円が入った金庫が、しかもオリンピック関連施設の建設中に出てくる、という導入はうまいと思ったし、そこからクラスター事件に繋げていく過程、それから丹念な取材で真相を解き明かしていく流れなんかは面白く読めました。松岡と酒井の物語が途中で交わる展開も自然だし、松岡や酒井が直面するなかなかしんどい現実は、彼らが追っていたネタを勘案すればあり得ることだろうなぁ、と思ったりもします。特に最後、松岡が直面させられる究極の選択は、提示した側の老獪さが見事だな、と感じたりもしました。
ただ、一点だけ不満があります。それは、最後の最後の終わらせ方です。僕としては、ちゃんと決着をつけて欲しかった。この終わらせ方は、ちょっとナシだなぁ、と思ってしまいました。どういう決着をするかによって、松岡という人物像が決するわけだから、決着させないという終わらせ方は個人的にはちょっと無いなぁ、と思ってしまいました。まあ、「ある程度予想出来るっしょ」という感じで提示しているんだと思うんだけど、そこは確定させて欲しかったです。その点を除けば、個人的にはかなり良い作品だったんだけどなぁ。
最後の最後だけ不満がありましたけど、全体的にはメチャクチャ面白い作品でした。
相場英雄「トップリーグ」
内容に入ろうと思います。
大和新聞の経済部所属の松岡直樹は、長年財務省の記者クラブである財政研究会への異動を希望していたが、突如政治部に異動させられることとなった。何でも大手新聞社が早期退職者募ったことで記者が足りなくなり、他社からかき集めたことで色んな不都合が生じているという。1年で経済部に戻すと言われ、松岡は仕方なく政治部記者として働くことになった。
まったく異質な環境で、仕事の流れも分からないままだったが、初日から、二人いるキャップを差し置いて、部長が強大な権力を行使している場面を見て驚いた。他の部署では、まずあり得ない光景だからだ。その阿久津部長は、「もっと癒着しろ。ネタさえ出せば、周囲にとやかく言われようが一切問題はない」と二人に発破を掛けていた。
そんな松岡は、総理番と呼ばれる、一日中総理の動向について回る仕事をすることになったが、その過程で、ひょんなことから、官房長官の阪義家に気に入られたようで、一部の記者しか参加が許されない「懇談」と呼ばれる場に参加が認められ、あまつさえ、阪から個人的に呼び出され、バーで話をする機会さえあった。松岡は、理由は判然としないが、いきなりトップリーグ(政治家に深くまで食い込んだ記者)入りを果たしたのだ。
一方、スクープやスキャンダルを得意とする週刊誌「週刊新時代」の記者である酒井祐治は今、他の記者がほとんど注目していない事件を追いかけていた。それは、東京オリンピック関連施設の建設地から、現金1億5000万円の入った金庫が見つかった、というものだ。酒井は、旧知の警察関係者から情報を引き出し、その金庫に入っていたのが「聖徳太子の
1万円札の束」だったこと、そして「日本不動産信用銀行(日不銀)の帯封」がついていたことを突き止めた。彼は日不銀の黒い噂を知っていた。だからこそ、これは突っ込んでみるべきネタだと判断し、取材を続けた。
すると取材の過程で、とんでもない話が飛び出してきた。もしかしたらあの金庫の金は、昭和50年代前半に日本の政財界を揺るがした一大疑獄である「クラスター事件」に関わるお金かもしれない。そうだとしたら、今の芦原恒三内閣は、確実に吹っ飛ぶ…。
というような話です。
これは面白い作品でした。扱っているテーマも面白いし、構成も良い。2017年に雑誌連載されていた作品で、その当時の世相みたいなものも結構反映されているんだと思う。政治に疎い僕でも、この人とこの人は実在のあの人だな、と分かる程度に現実をうまく小説の中に取り込んでいて、よく出来てると思いました。
まず、政治記者の日常みたいなものが面白かったです。普段ニュースなんかで見るような言葉や言い回しにどんな意味があるのか(例えば、「政府首脳」というのは官房長官のことだそうです)
や、何が重要なのか(関係者の車のナンバーを記憶するのは絶対だそうです)、どんな仕事をしているのか(総理番は一日中総理に張り付いているなど)などなど、知らなかったような生態(なんて言い方はおかしいかもですけど)を知ることが出来ました。
さらに、「トップリーグ」という、政治家たちに食い込んだ記者の存在も面白いと思いました。もちろん本書は小説で、どこまで現実を引き写しているのかの判断は出来ないけど、こういう存在は実際にいるんだろうし、そんな風にして政治の報道が出来上がっていくんだなぁ、というのが面白いと思いました。
官房長官のトップリーグに上り詰め、一気に安定したネタを引っ張ってこれるようになった松岡と違って、酒井の方は週刊誌らしい泥臭い取材をひたすらやっている。その対比もいいなと思います。実は松岡と酒井は大和新聞の同期だったのだけど、色々あって酒井が大和新聞から週刊誌に移ってしまった。でも二人には浅からぬ関係があったり、色々と絡みがあったりして、特に後半、二人の関わり合いが重要になって来ます。
そして、酒井が追っているネタもまた面白いんですね。1億5000万円が入った金庫が、しかもオリンピック関連施設の建設中に出てくる、という導入はうまいと思ったし、そこからクラスター事件に繋げていく過程、それから丹念な取材で真相を解き明かしていく流れなんかは面白く読めました。松岡と酒井の物語が途中で交わる展開も自然だし、松岡や酒井が直面するなかなかしんどい現実は、彼らが追っていたネタを勘案すればあり得ることだろうなぁ、と思ったりもします。特に最後、松岡が直面させられる究極の選択は、提示した側の老獪さが見事だな、と感じたりもしました。
ただ、一点だけ不満があります。それは、最後の最後の終わらせ方です。僕としては、ちゃんと決着をつけて欲しかった。この終わらせ方は、ちょっとナシだなぁ、と思ってしまいました。どういう決着をするかによって、松岡という人物像が決するわけだから、決着させないという終わらせ方は個人的にはちょっと無いなぁ、と思ってしまいました。まあ、「ある程度予想出来るっしょ」という感じで提示しているんだと思うんだけど、そこは確定させて欲しかったです。その点を除けば、個人的にはかなり良い作品だったんだけどなぁ。
最後の最後だけ不満がありましたけど、全体的にはメチャクチャ面白い作品でした。
相場英雄「トップリーグ」
ダンデライオン(中田永一)
昔なにかの本で、「朝目が覚めた時、前日の夜眠った自分と意識が繋がっているように感じられるのは何故だろう?」と書かれているのを読んで、確かにそうだな、と思った記憶がある。
例えば、DVDやCDと比較して考えてみよう。そういう電子媒体は基本的に、組成が変わらない。昨日と今日で、DVDやCDとの表面に印刷された凹凸が変わったりしない。だからこそ、いつどんな時に再生しても、同じものが流れるし、何らかの形で傷がついたりすれば、映像や音楽が乱れたりするだろう。
しかし脳は違う。脳は、日々組成が変わる。シナプスの数や結合の仕方、どこにどんな強さで電流が流れるのかなど、脳そのものの物理特性も変わるし、また、どんな記憶がどこに保存されているのかという面でも日々変化がある。脳というのは、一瞬前とは別の物質になっているはずなのだ。
なのに、意識は連続している。連続しているように感じられる。これは、とても不思議なことだ。
意識というものがどんな風に生み出されているのか、まだ解明されていないはずだが、意識というのはそもそも<物質>ではなく<状態>なのだから、電気刺激のちょっとした変化で激変する可能性はある。これから科学技術が進歩すれば、例えば<アインシュタインの意識>なんていうのを疑似体験出来るようになるかもしれない。アインシュタインはもう死んでいるから無理かもしれないけど、その技術が出来た時点での世界的な天才の意識を体験する、ということなら現実的だろう。
そして、意識が<物質>ではなく<状態>である以上、時空を越えられる可能性はある。
そんな風に考えると、本書のような設定も、あながち荒唐無稽ではないのかもしれない、なんて思えてくるのである。
内容に入ろうと思います。
本書はいわゆる「タイムリープもの」で、主人公の意識がある一日入れ替わってしまう。野球をしていた下野蓮司(以後【蓮司(11歳)と書く】)と、公園のベンチで座っていた下野蓮司(以後【蓮司(31歳)】と書く)の意識が入れ替わる。
蓮司(11歳)は、1999年宮城県に住んでいる。毎日白球を追いかける生活をしていて、その日4月25日は練習試合をしていた。その最中、蓮司(11歳)は頭にボールが当たり、意識を失ってしまう。
蓮司(11歳)が病院のベッドの上で目を覚ました時、様々な違和感があった。背が伸びている。声が低い。医者は、ここは2019年の新宿だという。どうやら記憶が混濁しているようだね、と言われるのだが、何故かお腹に貼られていたという封筒を開けてみると、中からテープレコーダーが現れた。そしてその中には、蓮司(31歳)だと名乗る未来の自分が、今何が起こっているのか説明してくれていた。その説明の通りに、西園小春と名乗る女性が病室にやってきて、蓮司(11歳)を連れ出した。小春は蓮司(31歳)の婚約者なのだという。もう何がなんだか分からない。とにかく蓮司(11歳)は、小春に言われるがまま動き、また小春から様々な話を聞くことになる。
一方、蓮司(31歳)は、2019年10月21日になったばかりの時刻に、公園のベンチに座っていた。彼は知っている。今からここで三人の若者に殴られて意識を失う、ということを。必要な準備は、すべてしたはずだ。20年前、不可思議な体験をしてから、蓮司(31歳)はどうすべきかずっと考えてきた。まさにその成果を発揮する時だ。
蓮司(31歳)は、初めから分かっていた通りに、若者に殴られた後、1999年4月25日で意識を取り戻した。兄が手に入れたばかりだというゲーム機を懐かしがったり、実家のある風景をしみじみと眺めたりしていたが、そんなことをしている余裕はない。彼はこれからどうにかして、鎌倉まで行かなければならないのだ。
そう、やがて結婚することになる少女を救うために。
というような話です。
これは面白かったなぁ。さすが中田永一という感じの作品でした。
とにかく、「よく出来てるなぁ」というのが一番強く出てくる感想です。細部まで色々考えられていて、「意識が一日交換されてしまう」という部分だけは現実的じゃないわけですけど、その設定を飲み込んだ上であれば、全体的には非常に理屈の通った、細かな部分まで辻褄の合った作品、という感じがしました。
(これ以下で書いたことは、僕の勘違いでした。でもそのまま残しておきます⇒)と言ってすぐに否定するんだけど(笑)、一点だけ、僕にはどうしても理解できない部分がありました。ネタバレになるから具体的には書けないけど、「蓮司は何故あのことをすぐに誰かに言わなかったのだろう?」ということです。確かに作中で、「忘れてしまった」的なことが書かれていたような気がするんだけど、それはちょっと無理があるんじゃないかな、と。それ以外の細部については相当詳しく覚えていたわけだし、それを元に蓮司(31歳)は20年前に意識が戻ってしまう日の準備を進めていくわけです。また、蓮司が言わなかった「あのこと」というのは、彼らにとって非常に重要な部分であって、いくら衝撃的だったとはいえ、「忘れてしまった」というので通すにはちょっと無理があるように感じました。
あるいはこうも考えました。要するに本書で描かれているタイムリープは、イレギュラーなことが起こったバージョンなのだ、と。本書を読む限り、彼らのタイムリープは永遠に続いていくんだと思うんだけど、細部まですべて同じ、というわけではないだろう、と彼らは推量している(実際に蓮司にしても、タイムリープを一度しか体験出来ないわけだから、他にサンプルがなくて断言出来ない)。『観測された方向に未来は収束する。その可能性が高い』ということぐらいは言えるけど、それ以上のことは分からない。すべてのタイムリープがまったく同じ、という可能性ももちろんあるんだけど、大きな方向性は同じだけど細部は全部ちょっとずつ違っている、という可能性もある。
そういう中で、本書で切り取られているタイムリープは、蓮司(31歳)がイレギュラーなことをしたことによって、違うことが起こったのでは?と考えたのだ。
図なしで説明するのは無理だろう、と思いつつ、僕がどう考えたのかを書いてみる。
まず紙に、横線を何本か引いて欲しい。上からA・B・C・D…と名付けよう。これらの線が、時間軸だ。そして、時間軸Aの蓮司A(11歳)の意識は、蓮司B(31歳)の意識と入れ替わる、としよう。だとすると、蓮司B(11歳)は、蓮司C(31歳)と入れ替わる。もし時間軸C上で「あのこと」が起こっていなかったとすれば、蓮司C(11歳)も蓮司C(31歳)も「あのこと」を知らず、つまり蓮司B(11歳)も「あのこと」を知る由もなく、であれば蓮司B(31歳)も「あのこと」を知らない、ということになる。しかし、実は時間軸Aでは「あのこと」は起こっていて、蓮司A(11歳)の意識と入れ替わることになる蓮司B(31歳)が、そのことを知らないまま大変な目に遭った、というのがこの小説なのではないか…。つまり、本書は、蓮司A(11歳)と蓮司B(31歳)の物語なのではないか、ということです。
と一応書いてみましたけど、伝わりませんよね(笑)
まあともかく、蓮司が「あのこと」を言わなかった理由、というのがイマイチ得心できなくてモヤモヤするのだけど、その点を除けば非常に面白く読めました。
もしこんなタイムリープがあったら確かにこんな風に行動するんだろうな、というような描写は多々あったし、なるほどそれとそれが繋がるのか!みたいな話もたくさんあって、そういう意味で「良く出来てる」と感じたし、タイムリープによって蓮司(11歳)の微妙な不安感や納得できない感じみたいなのも面白く描かれていて良かったです。細かな話が出来ないのでボヤッとした感想になりますけど、中田永一らしい繊細さもあったりして、面白い小説でした。
中田永一「ダンデライオン」
例えば、DVDやCDと比較して考えてみよう。そういう電子媒体は基本的に、組成が変わらない。昨日と今日で、DVDやCDとの表面に印刷された凹凸が変わったりしない。だからこそ、いつどんな時に再生しても、同じものが流れるし、何らかの形で傷がついたりすれば、映像や音楽が乱れたりするだろう。
しかし脳は違う。脳は、日々組成が変わる。シナプスの数や結合の仕方、どこにどんな強さで電流が流れるのかなど、脳そのものの物理特性も変わるし、また、どんな記憶がどこに保存されているのかという面でも日々変化がある。脳というのは、一瞬前とは別の物質になっているはずなのだ。
なのに、意識は連続している。連続しているように感じられる。これは、とても不思議なことだ。
意識というものがどんな風に生み出されているのか、まだ解明されていないはずだが、意識というのはそもそも<物質>ではなく<状態>なのだから、電気刺激のちょっとした変化で激変する可能性はある。これから科学技術が進歩すれば、例えば<アインシュタインの意識>なんていうのを疑似体験出来るようになるかもしれない。アインシュタインはもう死んでいるから無理かもしれないけど、その技術が出来た時点での世界的な天才の意識を体験する、ということなら現実的だろう。
そして、意識が<物質>ではなく<状態>である以上、時空を越えられる可能性はある。
そんな風に考えると、本書のような設定も、あながち荒唐無稽ではないのかもしれない、なんて思えてくるのである。
内容に入ろうと思います。
本書はいわゆる「タイムリープもの」で、主人公の意識がある一日入れ替わってしまう。野球をしていた下野蓮司(以後【蓮司(11歳)と書く】)と、公園のベンチで座っていた下野蓮司(以後【蓮司(31歳)】と書く)の意識が入れ替わる。
蓮司(11歳)は、1999年宮城県に住んでいる。毎日白球を追いかける生活をしていて、その日4月25日は練習試合をしていた。その最中、蓮司(11歳)は頭にボールが当たり、意識を失ってしまう。
蓮司(11歳)が病院のベッドの上で目を覚ました時、様々な違和感があった。背が伸びている。声が低い。医者は、ここは2019年の新宿だという。どうやら記憶が混濁しているようだね、と言われるのだが、何故かお腹に貼られていたという封筒を開けてみると、中からテープレコーダーが現れた。そしてその中には、蓮司(31歳)だと名乗る未来の自分が、今何が起こっているのか説明してくれていた。その説明の通りに、西園小春と名乗る女性が病室にやってきて、蓮司(11歳)を連れ出した。小春は蓮司(31歳)の婚約者なのだという。もう何がなんだか分からない。とにかく蓮司(11歳)は、小春に言われるがまま動き、また小春から様々な話を聞くことになる。
一方、蓮司(31歳)は、2019年10月21日になったばかりの時刻に、公園のベンチに座っていた。彼は知っている。今からここで三人の若者に殴られて意識を失う、ということを。必要な準備は、すべてしたはずだ。20年前、不可思議な体験をしてから、蓮司(31歳)はどうすべきかずっと考えてきた。まさにその成果を発揮する時だ。
蓮司(31歳)は、初めから分かっていた通りに、若者に殴られた後、1999年4月25日で意識を取り戻した。兄が手に入れたばかりだというゲーム機を懐かしがったり、実家のある風景をしみじみと眺めたりしていたが、そんなことをしている余裕はない。彼はこれからどうにかして、鎌倉まで行かなければならないのだ。
そう、やがて結婚することになる少女を救うために。
というような話です。
これは面白かったなぁ。さすが中田永一という感じの作品でした。
とにかく、「よく出来てるなぁ」というのが一番強く出てくる感想です。細部まで色々考えられていて、「意識が一日交換されてしまう」という部分だけは現実的じゃないわけですけど、その設定を飲み込んだ上であれば、全体的には非常に理屈の通った、細かな部分まで辻褄の合った作品、という感じがしました。
(これ以下で書いたことは、僕の勘違いでした。でもそのまま残しておきます⇒)と言ってすぐに否定するんだけど(笑)、一点だけ、僕にはどうしても理解できない部分がありました。ネタバレになるから具体的には書けないけど、「蓮司は何故あのことをすぐに誰かに言わなかったのだろう?」ということです。確かに作中で、「忘れてしまった」的なことが書かれていたような気がするんだけど、それはちょっと無理があるんじゃないかな、と。それ以外の細部については相当詳しく覚えていたわけだし、それを元に蓮司(31歳)は20年前に意識が戻ってしまう日の準備を進めていくわけです。また、蓮司が言わなかった「あのこと」というのは、彼らにとって非常に重要な部分であって、いくら衝撃的だったとはいえ、「忘れてしまった」というので通すにはちょっと無理があるように感じました。
あるいはこうも考えました。要するに本書で描かれているタイムリープは、イレギュラーなことが起こったバージョンなのだ、と。本書を読む限り、彼らのタイムリープは永遠に続いていくんだと思うんだけど、細部まですべて同じ、というわけではないだろう、と彼らは推量している(実際に蓮司にしても、タイムリープを一度しか体験出来ないわけだから、他にサンプルがなくて断言出来ない)。『観測された方向に未来は収束する。その可能性が高い』ということぐらいは言えるけど、それ以上のことは分からない。すべてのタイムリープがまったく同じ、という可能性ももちろんあるんだけど、大きな方向性は同じだけど細部は全部ちょっとずつ違っている、という可能性もある。
そういう中で、本書で切り取られているタイムリープは、蓮司(31歳)がイレギュラーなことをしたことによって、違うことが起こったのでは?と考えたのだ。
図なしで説明するのは無理だろう、と思いつつ、僕がどう考えたのかを書いてみる。
まず紙に、横線を何本か引いて欲しい。上からA・B・C・D…と名付けよう。これらの線が、時間軸だ。そして、時間軸Aの蓮司A(11歳)の意識は、蓮司B(31歳)の意識と入れ替わる、としよう。だとすると、蓮司B(11歳)は、蓮司C(31歳)と入れ替わる。もし時間軸C上で「あのこと」が起こっていなかったとすれば、蓮司C(11歳)も蓮司C(31歳)も「あのこと」を知らず、つまり蓮司B(11歳)も「あのこと」を知る由もなく、であれば蓮司B(31歳)も「あのこと」を知らない、ということになる。しかし、実は時間軸Aでは「あのこと」は起こっていて、蓮司A(11歳)の意識と入れ替わることになる蓮司B(31歳)が、そのことを知らないまま大変な目に遭った、というのがこの小説なのではないか…。つまり、本書は、蓮司A(11歳)と蓮司B(31歳)の物語なのではないか、ということです。
と一応書いてみましたけど、伝わりませんよね(笑)
まあともかく、蓮司が「あのこと」を言わなかった理由、というのがイマイチ得心できなくてモヤモヤするのだけど、その点を除けば非常に面白く読めました。
もしこんなタイムリープがあったら確かにこんな風に行動するんだろうな、というような描写は多々あったし、なるほどそれとそれが繋がるのか!みたいな話もたくさんあって、そういう意味で「良く出来てる」と感じたし、タイムリープによって蓮司(11歳)の微妙な不安感や納得できない感じみたいなのも面白く描かれていて良かったです。細かな話が出来ないのでボヤッとした感想になりますけど、中田永一らしい繊細さもあったりして、面白い小説でした。
中田永一「ダンデライオン」
童の神(今村翔吾)
これは凄い物語だったなぁ。
自分では、なるべく気をつけているつもりだ。基本的に、人を差別しない、と。意識はしている。でも、恐らく全然出来ていないだろう。
悪意がなければいいのか、というとそういうことでもなくて、むしろ悪意なく差別する方が厄介だったりするだろう。だから、悪意のあるなしで判定することも出来ない。それに、日常的に出会わないタイプの人と会った時、自分がどう反応するかも分からない。そういう意味で、常に気をつけていないといけないな、と思ってはいる。
僕は、「努力でなんとか出来ることなのか」という部分で人を判断することが多い。もちろん、外から見るだけで相手の過去や状況がすべて分かるわけではないから、「色んな事情があって努力出来ない状態だった」ということはどんな人にも当てはまるだろうけど、でもやはり、努力によって太刀打ち出来るはずのことをやっていない人には、ちょっと優しく出来ない自分がいることを自覚している。生まれ持ったものや環境などに固定されて仕方なかったような部分については、人間的に不備があってもあまりどうとも思わないのだけど、それは努力でどうにかなるでしょう、と感じてしまう不備がある人には、ちょっと厳しくなる。
とはいえ、「努力出来るかどうか」という要素すらも、環境による。以前、子どもの貧困を扱った本の中で、「貧困家庭に育つと、努力して状況を改善しようという意欲がそもそも生まれないことが多い」というようなことが書かれていて、なるほど確かにそうであれば難しいと感じる。「努力するかどうか」という段階以前に、「本来であれば改善したいと思うはずの状況をすんなりと受け入れてしまう」という問題があるようで、「努力」で物事を判断する僕の基準もなかなか難しい。
とはいえ、どんな状況であれ正しいと認められるべきは、「努力でどうにも出来ないことで差別するのはダメだ」ということだ。そしてこれは、現代も含め、歴史上どんな時代にも存在した、人間の歴史とは切っても切り離せない問題だ。
【卿は人の醜さを知っておられる。蔑む者がいてこそ、民の心は安らぎを得ることを。そうでなくては民に生まれる不平不満は行き場をなくして上へ向かう。さすれば一族の万世の安寧はないとお考えだ】
こういう考え方に引きずられて、「迫害されて当然の存在がいる」「差別を受けても仕方がない存在がいる」という思考に陥ってしまうことは、悲しいことだと思う。人の好き嫌いは当然あっていい。好き嫌いで人との関わりを判断するならいいだろう。でも、差別というのは、「自分の好き嫌いの問題ではなく、排除すべき存在であるかどうかの問題」ということになってしまう。排除することに、何か真っ当な理由でもあるかのような理屈を作り上げて、「嫌いだから排除するんじゃありませんよ」という体裁を整えた上で排除する、というのは、ダサいなぁ、と思う。「
せめて僕は、人との関わりを「好き嫌い」で判断したいものだと思う。相手に非があるかのような風に見せるのではなく、自分の責任で相手を嫌いになるのだ、という自覚を常に持っていたいと思う。
内容に入ろうと思います。
舞台は平安時代の京。969年から物語は始まる。安倍晴明は皐月という女と関係を持ち、子を成したが、実はその女が、洛中を騒がす群盗「滝夜叉」の女頭目だったのだ。さらに皐月は、朝廷に楯突いた大謀反人である平将門の子であるという。晴明は、こっそりと皐月との関係を続け、時折娘の如月に会うという生活をしていた。
969年のある日、左大臣源高明の従者を務めていた藤原千春から思いもよらない話が持ちかけられる。京には京人だけではなく、土蜘蛛・鬼・夷…など様々な呼ばれ方(総称して「童」と呼ばれている)をしている先住の民がいる。京人はそんな童たちを蔑んでいるが、源高明は彼らを京へと迎え入れ、天下和同を目指すつもりなのだという。しかし、それを阻む者がいる。右大臣の藤原師尹だ。だから、土蜘蛛ら童たちと、滝夜叉たちを集め、共闘して師尹を討とう、そうすれば天下泰平の世がやってくる、というのだ。その話を皐月にし、童と呼ばれる面々が一致団結して戦うことを決めたが、しかし実はその話は罠であった。安倍晴明は、皐月との関係を失ってしまったが、6年の月日を経たある日、日食が起こった。天文博士であった晴明は、これが自然現象だと理解していたが、「これは凶事の前触れだ。だから、普段ならば釈放されないような者にも恩赦を与えよ」という、偽りの上奏文を書き上げた。これが、晴明が出来る、皐月への精一杯の償いである。
さて、そんな「有史以来最悪の凶事」とされた日食の日に生まれた男がいる。桜暁丸である。彼は、「禍の子」と呼ばれて陰口を叩かれた。理由はもう一つある。桜暁丸は、異国人とのハーフであり、鼻が高く肌は白く目は茶色がかっていた。母親のそんな性質を桜暁丸も受け継いだため、他の者と大きく違う容姿によっても敬遠されているのだ。桜暁丸の父は、夷と呼ばれるものたちに手心を加え、最終的には自らの村に迎え入れるという、当時としては驚くべきことをやった。しかしそのことでお上から目をつけられ、結果的に桜暁丸は、父と、そして剣術などの師である蓮茂を喪い、蓮茂から形見として受け取った神息という刀を持って一人生きていくこととなった。
その後桜暁丸は、世間から「花天狗」と呼ばれるようになる、夜回りする検非違使や武官しか狙わない兇賊となった。同じ頃、同じく京で跋扈していた袴垂と呼ばれる盗賊もいて、そいつは貴族しか狙わなかった。やがて桜暁丸は、ひょんなことから袴垂と出会い、協力するようになるが…。
というような話です。
かなり長く内容紹介を書いたのに、それでも、本書の核となる部分には全然たどり着かない感じです。この物語は、桜暁丸がとある山に籠もるようになってからの展開が圧巻なのだけど、その部分についてはほぼ触れられませんでした。
いやしかし、冒頭でも書いたけど、ホントに凄い物語でした!新人賞に応募された新人の作品とはとても思えないレベルの高さです。正直に言えば僕は、冒頭の描写は結構厳しかったです。物語が始まったばっかりなのに、僕の知らない人物名(基本的に歴史のことはさっぱり分からないので、世間一般では常識的な知識も僕の頭の中にはないのです)がバンバン登場して、よく分からないまま戦闘の描写に入って、こりゃあキツイな、と思いながら読み始めました。でも、桜暁丸が登場してからはスイスイ読めたし、中盤から後半にかけては、ホントに一気読み!という感じでした。
何が凄いかというと、虐げられている者たちの挟持です。平安時代においては、京人と童ではまったく存在が違いました。出自が童である、というだけで、ただそれだけの理由で迫害されるのです。彼らは、何度も叫びます。
【同じ赤い血が流れているのに、なぜ我々だけが蔑まれ、虐げられねばならないのですか】
しかし、そんな訴えは、京人たちにはまったく届きません。彼らには、「童など滅ぼしてしまえ」という感覚しかなくて、まっとうな理屈もないまま、童に対して酷い扱いをするのです。
しかし、童たちは、どれほど京人たちから人以下の扱いを受けても、彼ら自身は人間としての挟持をきちんと守っています。自分を殺そうと向かってくる者は殺さざるを得ないが、そうでない者はトドメを刺すことなく解放する。自分たちがどれほど酷い扱いを受けようとも、同じやり方をしてしまえば結局京人と同じになってしまう。それを潔しとしない、真っ当で高潔な者たちが、「普通に生きる」という、誰もが望む当たり前のことを勝ち取るために闘い続ける、という物語なわけです。
主人公は桜暁丸であり、前半は桜暁丸がどういう経緯を経て、童が蔑まれているこの世の中の流れを変えようと行動に移したのか、その流れが描かれていく。彼自身、童の出自ではないが蔑まれる立場であったこともあり、またその後関わることになった多くの人たちとの関係性の中で、彼は自分の行く末を見定めていくことになる。RPGのように、最初は敵だったり、あるいは無関心を貫かれていた相手を少しずつ攻略して仲間にし、やがて大きな流れを生み出していく描写は見事だったし、桜暁丸だけではなく、彼の周りにいるたくさんの人物それぞれにきちんと物語があり、個人の生き様が集団の大きく反映されていくことになる。
桜暁丸が妹として育てることになる穂鳥、やがて戦力となる皐月の孫である葉月、葛城山に住む土蜘蛛のトップである毬人、そしてその息子である兄弟の欽賀と星哉、当初は桜暁丸の提案をにべもなくはねのけた大江山の民のトップである虎前などなど、魅力的な面々がたくさんいる。みな、それぞれの想いを持って、桜暁丸の無謀な挑戦に乗っかった者たちだ。
また、敵側にも個別の物語が用意されている。中でも一際目立つのが、坂田金時、あの昔話で有名な金太郎である。坂田金時は、足柄山に住まっていた「やまお」という童の出自であるのだが、「やまお」が京人に恭順を決め、またその力を見込まれた坂田金時は家臣として迎えられるという形で彼は京人となった。とはいえ、元は童の出自である。そうすんなり馴染めるわけでもない。渡辺綱のような、誰にでも別け隔てなく接する者も中にはいるが、大半は、坂田金時を同胞と扱っているとは思えない態度で接した。そんな坂田金時が、京人から蔑まれていることに憤慨し蜂起している者たちの鎮圧に駆り出されるのだ。そこにもやはり、物語が生まれることになる。
京人が共存の意志を持てれば、お互いはお互いの領域を脅かすことなく生活することが出来るはずなのに、京人たちの、すべてを支配下におかなければ気が済まないというような愚かな発想によって、無駄な血が流れ出る。客観的に見た場合、どう考えても人間的に優れているのは、「鬼」などとも呼ばれている童たちの方だ。京人たちは、人道に悖るやり方を平気で使う。この理不尽さに、憤りを感じながら読み続けた。
非常に印象的な場面がある。どういう流れでそうなるのか、ここでは書かないが、ある一行が京の町を練り歩き、そこで京の住民たちと一体となるような場面があるのだ。あの場面は、正直ちょっと泣きそうになった。融和も断絶も、ほんの些細なことで起こるのだし、そのホントに些細な事柄に、生涯を振り回されることになる人たちが、平安の世だけではなく現代にもいるのだろうと思うと、なんか凄く切なくなった。
凄い作品でした。ちょっとこの衝撃を体感して欲しいと思います。
今村翔吾「童の神」
自分では、なるべく気をつけているつもりだ。基本的に、人を差別しない、と。意識はしている。でも、恐らく全然出来ていないだろう。
悪意がなければいいのか、というとそういうことでもなくて、むしろ悪意なく差別する方が厄介だったりするだろう。だから、悪意のあるなしで判定することも出来ない。それに、日常的に出会わないタイプの人と会った時、自分がどう反応するかも分からない。そういう意味で、常に気をつけていないといけないな、と思ってはいる。
僕は、「努力でなんとか出来ることなのか」という部分で人を判断することが多い。もちろん、外から見るだけで相手の過去や状況がすべて分かるわけではないから、「色んな事情があって努力出来ない状態だった」ということはどんな人にも当てはまるだろうけど、でもやはり、努力によって太刀打ち出来るはずのことをやっていない人には、ちょっと優しく出来ない自分がいることを自覚している。生まれ持ったものや環境などに固定されて仕方なかったような部分については、人間的に不備があってもあまりどうとも思わないのだけど、それは努力でどうにかなるでしょう、と感じてしまう不備がある人には、ちょっと厳しくなる。
とはいえ、「努力出来るかどうか」という要素すらも、環境による。以前、子どもの貧困を扱った本の中で、「貧困家庭に育つと、努力して状況を改善しようという意欲がそもそも生まれないことが多い」というようなことが書かれていて、なるほど確かにそうであれば難しいと感じる。「努力するかどうか」という段階以前に、「本来であれば改善したいと思うはずの状況をすんなりと受け入れてしまう」という問題があるようで、「努力」で物事を判断する僕の基準もなかなか難しい。
とはいえ、どんな状況であれ正しいと認められるべきは、「努力でどうにも出来ないことで差別するのはダメだ」ということだ。そしてこれは、現代も含め、歴史上どんな時代にも存在した、人間の歴史とは切っても切り離せない問題だ。
【卿は人の醜さを知っておられる。蔑む者がいてこそ、民の心は安らぎを得ることを。そうでなくては民に生まれる不平不満は行き場をなくして上へ向かう。さすれば一族の万世の安寧はないとお考えだ】
こういう考え方に引きずられて、「迫害されて当然の存在がいる」「差別を受けても仕方がない存在がいる」という思考に陥ってしまうことは、悲しいことだと思う。人の好き嫌いは当然あっていい。好き嫌いで人との関わりを判断するならいいだろう。でも、差別というのは、「自分の好き嫌いの問題ではなく、排除すべき存在であるかどうかの問題」ということになってしまう。排除することに、何か真っ当な理由でもあるかのような理屈を作り上げて、「嫌いだから排除するんじゃありませんよ」という体裁を整えた上で排除する、というのは、ダサいなぁ、と思う。「
せめて僕は、人との関わりを「好き嫌い」で判断したいものだと思う。相手に非があるかのような風に見せるのではなく、自分の責任で相手を嫌いになるのだ、という自覚を常に持っていたいと思う。
内容に入ろうと思います。
舞台は平安時代の京。969年から物語は始まる。安倍晴明は皐月という女と関係を持ち、子を成したが、実はその女が、洛中を騒がす群盗「滝夜叉」の女頭目だったのだ。さらに皐月は、朝廷に楯突いた大謀反人である平将門の子であるという。晴明は、こっそりと皐月との関係を続け、時折娘の如月に会うという生活をしていた。
969年のある日、左大臣源高明の従者を務めていた藤原千春から思いもよらない話が持ちかけられる。京には京人だけではなく、土蜘蛛・鬼・夷…など様々な呼ばれ方(総称して「童」と呼ばれている)をしている先住の民がいる。京人はそんな童たちを蔑んでいるが、源高明は彼らを京へと迎え入れ、天下和同を目指すつもりなのだという。しかし、それを阻む者がいる。右大臣の藤原師尹だ。だから、土蜘蛛ら童たちと、滝夜叉たちを集め、共闘して師尹を討とう、そうすれば天下泰平の世がやってくる、というのだ。その話を皐月にし、童と呼ばれる面々が一致団結して戦うことを決めたが、しかし実はその話は罠であった。安倍晴明は、皐月との関係を失ってしまったが、6年の月日を経たある日、日食が起こった。天文博士であった晴明は、これが自然現象だと理解していたが、「これは凶事の前触れだ。だから、普段ならば釈放されないような者にも恩赦を与えよ」という、偽りの上奏文を書き上げた。これが、晴明が出来る、皐月への精一杯の償いである。
さて、そんな「有史以来最悪の凶事」とされた日食の日に生まれた男がいる。桜暁丸である。彼は、「禍の子」と呼ばれて陰口を叩かれた。理由はもう一つある。桜暁丸は、異国人とのハーフであり、鼻が高く肌は白く目は茶色がかっていた。母親のそんな性質を桜暁丸も受け継いだため、他の者と大きく違う容姿によっても敬遠されているのだ。桜暁丸の父は、夷と呼ばれるものたちに手心を加え、最終的には自らの村に迎え入れるという、当時としては驚くべきことをやった。しかしそのことでお上から目をつけられ、結果的に桜暁丸は、父と、そして剣術などの師である蓮茂を喪い、蓮茂から形見として受け取った神息という刀を持って一人生きていくこととなった。
その後桜暁丸は、世間から「花天狗」と呼ばれるようになる、夜回りする検非違使や武官しか狙わない兇賊となった。同じ頃、同じく京で跋扈していた袴垂と呼ばれる盗賊もいて、そいつは貴族しか狙わなかった。やがて桜暁丸は、ひょんなことから袴垂と出会い、協力するようになるが…。
というような話です。
かなり長く内容紹介を書いたのに、それでも、本書の核となる部分には全然たどり着かない感じです。この物語は、桜暁丸がとある山に籠もるようになってからの展開が圧巻なのだけど、その部分についてはほぼ触れられませんでした。
いやしかし、冒頭でも書いたけど、ホントに凄い物語でした!新人賞に応募された新人の作品とはとても思えないレベルの高さです。正直に言えば僕は、冒頭の描写は結構厳しかったです。物語が始まったばっかりなのに、僕の知らない人物名(基本的に歴史のことはさっぱり分からないので、世間一般では常識的な知識も僕の頭の中にはないのです)がバンバン登場して、よく分からないまま戦闘の描写に入って、こりゃあキツイな、と思いながら読み始めました。でも、桜暁丸が登場してからはスイスイ読めたし、中盤から後半にかけては、ホントに一気読み!という感じでした。
何が凄いかというと、虐げられている者たちの挟持です。平安時代においては、京人と童ではまったく存在が違いました。出自が童である、というだけで、ただそれだけの理由で迫害されるのです。彼らは、何度も叫びます。
【同じ赤い血が流れているのに、なぜ我々だけが蔑まれ、虐げられねばならないのですか】
しかし、そんな訴えは、京人たちにはまったく届きません。彼らには、「童など滅ぼしてしまえ」という感覚しかなくて、まっとうな理屈もないまま、童に対して酷い扱いをするのです。
しかし、童たちは、どれほど京人たちから人以下の扱いを受けても、彼ら自身は人間としての挟持をきちんと守っています。自分を殺そうと向かってくる者は殺さざるを得ないが、そうでない者はトドメを刺すことなく解放する。自分たちがどれほど酷い扱いを受けようとも、同じやり方をしてしまえば結局京人と同じになってしまう。それを潔しとしない、真っ当で高潔な者たちが、「普通に生きる」という、誰もが望む当たり前のことを勝ち取るために闘い続ける、という物語なわけです。
主人公は桜暁丸であり、前半は桜暁丸がどういう経緯を経て、童が蔑まれているこの世の中の流れを変えようと行動に移したのか、その流れが描かれていく。彼自身、童の出自ではないが蔑まれる立場であったこともあり、またその後関わることになった多くの人たちとの関係性の中で、彼は自分の行く末を見定めていくことになる。RPGのように、最初は敵だったり、あるいは無関心を貫かれていた相手を少しずつ攻略して仲間にし、やがて大きな流れを生み出していく描写は見事だったし、桜暁丸だけではなく、彼の周りにいるたくさんの人物それぞれにきちんと物語があり、個人の生き様が集団の大きく反映されていくことになる。
桜暁丸が妹として育てることになる穂鳥、やがて戦力となる皐月の孫である葉月、葛城山に住む土蜘蛛のトップである毬人、そしてその息子である兄弟の欽賀と星哉、当初は桜暁丸の提案をにべもなくはねのけた大江山の民のトップである虎前などなど、魅力的な面々がたくさんいる。みな、それぞれの想いを持って、桜暁丸の無謀な挑戦に乗っかった者たちだ。
また、敵側にも個別の物語が用意されている。中でも一際目立つのが、坂田金時、あの昔話で有名な金太郎である。坂田金時は、足柄山に住まっていた「やまお」という童の出自であるのだが、「やまお」が京人に恭順を決め、またその力を見込まれた坂田金時は家臣として迎えられるという形で彼は京人となった。とはいえ、元は童の出自である。そうすんなり馴染めるわけでもない。渡辺綱のような、誰にでも別け隔てなく接する者も中にはいるが、大半は、坂田金時を同胞と扱っているとは思えない態度で接した。そんな坂田金時が、京人から蔑まれていることに憤慨し蜂起している者たちの鎮圧に駆り出されるのだ。そこにもやはり、物語が生まれることになる。
京人が共存の意志を持てれば、お互いはお互いの領域を脅かすことなく生活することが出来るはずなのに、京人たちの、すべてを支配下におかなければ気が済まないというような愚かな発想によって、無駄な血が流れ出る。客観的に見た場合、どう考えても人間的に優れているのは、「鬼」などとも呼ばれている童たちの方だ。京人たちは、人道に悖るやり方を平気で使う。この理不尽さに、憤りを感じながら読み続けた。
非常に印象的な場面がある。どういう流れでそうなるのか、ここでは書かないが、ある一行が京の町を練り歩き、そこで京の住民たちと一体となるような場面があるのだ。あの場面は、正直ちょっと泣きそうになった。融和も断絶も、ほんの些細なことで起こるのだし、そのホントに些細な事柄に、生涯を振り回されることになる人たちが、平安の世だけではなく現代にもいるのだろうと思うと、なんか凄く切なくなった。
凄い作品でした。ちょっとこの衝撃を体感して欲しいと思います。
今村翔吾「童の神」
血の雫(相場英雄)
内容に入ろうと思います。
東京で、刺殺事件が相次いでいる。証拠などから同一犯によるものと考えられているのだが、被害者に接点らしい接点を見出すことが出来ない。モデルの河田光子、タクシー運転手の平岩定夫、定年退職し悠々自適な生活を送る粟野大紀。
かつてSITに所属していたが、とあるネットに絡んだ事情に巻き込まれて心身を病んでしまった田伏恵介は、今回この事件を担当することになった。しかし、復帰したばかりということで、一風変わった相棒と組まされることとなった。生活安全課のサイバー犯罪対策課にいた長峰勝利だ。今回、あまりにも被害者同士の繋がりがないことから、彼らがやっていたSNSから何か情報が取れないかと、長峰を捜査チームに組み込んだのだ。とはいえ、復帰したばかりの元SITと、捜査のイロハを知らないサイバー担当者は、歴戦の捜査一課では身の置きどころがない。自然彼らは、独自の方向から捜査を進めることになる。
長峰のネットを使いこなす才能により、通常の捜査では見えてこなかった様々な事柄が判明するが、一方で長峰は、事件捜査でありながら、定時で帰るという姿勢を崩さない、田伏がこれまで出会ったことのないタイプの刑事だった。考え方が大きくすれ違いつつ、同じ目的で捜査に望む二人。やがてお互いを理解できるようになり、少しずつ歯車は噛み合っていくが、しかし捜査の糸口はまるで見えてこない。
<ひまわり>と言う名でマスコミに自らが犯人であると名乗りを上げた犯人は、マスコミやネットを巻き込んで、壮大な劇場型犯罪を仕掛けていく。その背景には…。
というような話です。
やりたいことは分かる、という感じの作品でした。この作品で、書きたいことははっきり分かる。でも、それが上手くハマってないというか、それありきになっているというか、どうもチグハグな感じが否めないなと思ってしまいました。
その「描きたいこと」というのは、本書の核となる部分なのでここでは明言しないけど、やはり「これが描きたいんだ」という主張が強すぎて、作品の中で浮いている感じがしました。それを描くために事件や捜査の展開を作り上げている、ということがはっきりと分かってしまうような作品で、どうにもしっくりきませんでした。
やはり警察小説を書くのであれば、まず「警察小説としての佇まい」みたいなものをちゃんとして欲しいんですね。で、その上で、上手く「書きたいこと」を組み込んでいく。でもこの作品の場合は、明らかに「書きたいこと」優先で、それをうまく描くためにどう全体を構築するかという順序で考えているよなぁ、というのがはっきりと見えてしまうところが辛かったです。
最後の方の展開は、本書のもう一つのテーマである「ネット」と、犯人の憎悪とがうまく結びついて、なかなか印象的な展開になって行きますけど、そこまでの立ち上がりみたいなものがやっぱり厳しいので、遅きに失するという感じでした。
素材は悪くないと思うし、きっと素材の組み合わせも悪くないんだと思うんですよね。だから、もうちょっと上手くやってほしいなぁ、と残念な気持ちになりました。
相場英雄「血の雫」
東京で、刺殺事件が相次いでいる。証拠などから同一犯によるものと考えられているのだが、被害者に接点らしい接点を見出すことが出来ない。モデルの河田光子、タクシー運転手の平岩定夫、定年退職し悠々自適な生活を送る粟野大紀。
かつてSITに所属していたが、とあるネットに絡んだ事情に巻き込まれて心身を病んでしまった田伏恵介は、今回この事件を担当することになった。しかし、復帰したばかりということで、一風変わった相棒と組まされることとなった。生活安全課のサイバー犯罪対策課にいた長峰勝利だ。今回、あまりにも被害者同士の繋がりがないことから、彼らがやっていたSNSから何か情報が取れないかと、長峰を捜査チームに組み込んだのだ。とはいえ、復帰したばかりの元SITと、捜査のイロハを知らないサイバー担当者は、歴戦の捜査一課では身の置きどころがない。自然彼らは、独自の方向から捜査を進めることになる。
長峰のネットを使いこなす才能により、通常の捜査では見えてこなかった様々な事柄が判明するが、一方で長峰は、事件捜査でありながら、定時で帰るという姿勢を崩さない、田伏がこれまで出会ったことのないタイプの刑事だった。考え方が大きくすれ違いつつ、同じ目的で捜査に望む二人。やがてお互いを理解できるようになり、少しずつ歯車は噛み合っていくが、しかし捜査の糸口はまるで見えてこない。
<ひまわり>と言う名でマスコミに自らが犯人であると名乗りを上げた犯人は、マスコミやネットを巻き込んで、壮大な劇場型犯罪を仕掛けていく。その背景には…。
というような話です。
やりたいことは分かる、という感じの作品でした。この作品で、書きたいことははっきり分かる。でも、それが上手くハマってないというか、それありきになっているというか、どうもチグハグな感じが否めないなと思ってしまいました。
その「描きたいこと」というのは、本書の核となる部分なのでここでは明言しないけど、やはり「これが描きたいんだ」という主張が強すぎて、作品の中で浮いている感じがしました。それを描くために事件や捜査の展開を作り上げている、ということがはっきりと分かってしまうような作品で、どうにもしっくりきませんでした。
やはり警察小説を書くのであれば、まず「警察小説としての佇まい」みたいなものをちゃんとして欲しいんですね。で、その上で、上手く「書きたいこと」を組み込んでいく。でもこの作品の場合は、明らかに「書きたいこと」優先で、それをうまく描くためにどう全体を構築するかという順序で考えているよなぁ、というのがはっきりと見えてしまうところが辛かったです。
最後の方の展開は、本書のもう一つのテーマである「ネット」と、犯人の憎悪とがうまく結びついて、なかなか印象的な展開になって行きますけど、そこまでの立ち上がりみたいなものがやっぱり厳しいので、遅きに失するという感じでした。
素材は悪くないと思うし、きっと素材の組み合わせも悪くないんだと思うんですよね。だから、もうちょっと上手くやってほしいなぁ、と残念な気持ちになりました。
相場英雄「血の雫」
「若おかみは小学生!」を観に行ってきました
いやー、ビックリした!
メチャクチャ良い映画だった!
普段ならまず見ない映画なんだけど、
ヤフーニュースで「大人がハマっている」という記事を見かけたので、
試しに見てみることにしたんですけど、
超良かったです!
後で理由を含めて書くつもりですけど、
この映画、子ども向けっぽく見せてるけど、実は大人向けだなと思いました。
っていうか、子どもは子どもで、大人と違った見方をして楽しめる作品かもしれないけど、
大人は大人で、大人だからこその楽しみ方が出来る作品だなと感じました。
とりあえず内容を紹介しましょう。
主人公の関織子(おっこ)は小学生。おばあちゃんが女将として切り盛りしている、花の湯温泉にある春の屋という旅館に家族で遊びに行った帰り、交通事故に巻き込まれて両親を亡くしてしまう。奇跡的に無傷だったおっこは、春の屋に引き取られることになった。
玄関先で蜘蛛やヤモリを見かけて奇声を上げるおっこ。そんなおっこが離れに用意してもらった自室へと向かうと、どこからか声がする。見上げると、天井に浮かんでいる少年が!なんと彼、幽霊らしく、しかも女将でありおばあちゃんである峰子さんの古くからの知り合いなんだという。おっこにしか見えないその少年の幽霊とともに、仲居さんや料理長に挨拶に行くと、誠というその少年からの問い掛けに素っ頓狂に答える内に、おっこは春の屋の若おかみを目指す、ということになってしまった。不服のあるおっこだったが、誠が驚く程に喜んでいる姿を見て、嫌とは言えなくなってしまう。
早速旅館の仕事を手伝うことになるおっこだったが、おっちょこちょいでドジばかりという始末。とはいえ、お客様に喜んでもらえることの嬉しさを感じる日々に、少しずつ若おかみとしての自覚が芽生えていくことになる。
転校先の小学校でクラスメイトになった秋野真月は、花の湯温泉を牽引してきた秋好温泉の跡取り娘で、同じく小学生ながら抜群のアイデアで、秋好温泉をもり立てるプランを実現していく。二人は事あるごとにぶつかりあうことになるのだけど、お互いに老舗の旅館を守っていくのだという気概だけは共通している。
両親を喪った悲しみを表に出さないようにしながら、誠や、次々に増えていく「目に見えない存在」たちと関わりながら、若おかみとしての修行をしていく…。
という話です。
ストーリーや設定は、非常にシンプルです。原作の小説が、元々小学生向けに書かれているものだし、映画も表向きは子ども向けに作られているから、そんなに複雑な設定が出てくるわけもありません。ただ、いくつかの要因が、この映画を「大人が鑑賞するに耐えうる作品」に仕立て上げていて、そのことが高評価に繋がっているんだろうな、という感じがします。
僕が感じる一番の要因は、「小学生が大人の世界で頑張っている」ということです。この設定が、非常に秀逸だなと感じました。
この映画はかなり、「どストレートなセリフ」で作られていると言っていいと思います。喜怒哀楽のすべてが、シンプルで分かりやすい感情表現で表されている、ということです。これも、原作が小学生向けだということで、当たり前と言えば当たり前ではあります。でも、ちょっと考えてみると、この「どストレートなセリフ」で作られている映画って、普通はちょっと受け入れがたくなっちゃうと思うんです。大人の世界では、色んな理由から喜怒哀楽を単純に表に出すことが出来なかったりするし、仕草とか表情とか、そういう部分の僅かな揺れみたいなもので感情を表したりします。「どストレートなセリフ」で作られている映画って、ラブコメみたいな作品だとよくありそうですけど、そういう作品は、大人からしたらちょっと引いちゃうというか、簡単には受け入れがたく感じられちゃうと思うんです。
でもこの映画は、主人公のこっこが「小学生」で、かつ「大人の世界」で働いているわけです。だから、「大人の世界」で起こる様々な事柄に対して、「小学生」的な反応を見せてもまったく不自然ではないんです。というか、「小学生」的な反応じゃない方が不自然だな、という感じなんですね。
この点が、僕は一番見事だと感じました。喜怒哀楽をシンプルに表現する「小学生」的な反応で、「大人の世界」の辛さやトラブルなんかに対峙していく、という展開が、大人だけの世界ではなかなか実現し得ないものだと大人の観客には分かるし、だからこそおっこの喜怒哀楽がシンプルにストレートに突き刺さってくるんだと思います。
で、まさにこの点が、この映画が「大人向け」だと感じられる理由なんです。というのも、こういう見方は、大人が小学生に対して抱く「小学生っぽさ」みたいな幻想をベースにしないと成り立たないからです。
子どもにだって実際は色々あって、喜怒哀楽をシンプルに表に出せないことだっていっぱいあります。僕らも子どもだった頃、そういう時間を乗り越えてきたはずなんだけど、どうも大人になるとそういうことは忘れてしまう。なんとなく、「小学生は喜怒哀楽をシンプルに表に出せる存在だよね」なんていう幻想をいつの間にか持っちゃうわけなんです。で、そういう幻想ベースの視点でこの映画を見るからこそ、おっこの存在が不自然に見えないし、感情がストレートにバーンって入ってきて気持ちいいんですね。
だから子どもがこの映画を見たら、また別の見方になるだろうと思います。子ども自身は、大人が持っているようなそういう「小学生っぽさ」みたいな幻想は持ってないわけだから、おっこの素直な喜怒哀楽の表出がどう映るのかは分からないなぁ、と思います。
で、誠や他の「目に見えない存在」という設定も秀逸だったなと思います。何故なら、彼ら「目に見えない存在」は、「若おかみであるおっこ」の存在を不自然に見せない効果があるからです。
「小学生が若おかみになる」という設定は、正直なところちょっと無理があるように感じますよね。いくら両親を事故で亡くして、旅館をやっているおばあちゃんのところに引き取られたと言っても、ただそれだけでおっこが若おかみになることが正当化されるわけじゃないでしょう。実際におっこは、春の屋に着いた当初は、若おかみなんて目指すつもりはまったくなかったわけです。
けど、誠の存在がかなり大きくて、おっこは若おかみの道を目指すことになります。誠の「峰子ちゃんを助けてやってくれ」という強い想いに押されるようにして、おっこは旅館の手伝いをするようになるわけです。これが、誠の存在がなく、「おっこが最初からやる気満々で若おかみを目指していた」とか、あるいは「おっこが嫌々ながら無理やり若おかみをやらされた」とかいう設定だったら、全然違った物語になっていたでしょう。おっこが若おかみとしての道を歩んでいくことをごく自然に受け入れさせるために、誠の存在は非常に重要でした。
また「目に見えない存在」のもう一つの効果は、両親を喪ったばかりのおっこのメンタル面での支えになっている、ということです。おっこは、大好きだった両親を亡くし、馴染みのない土地に引っ越して新たな生活が始まります。転校した学校での雰囲気も悪くないですけど、すぐに夏休みになっちゃうこともあって、当初はクラスメイトたちとの関わりがメインにはなりません。旅館で働いているから、普段関わる人は大人ばかりです。そういう中で、誠を初めとした「目に見えない存在」が常に周りにいることで、おっこにメンタル的な支えがいるという状態になり、これもまたおっこが若おかみとして働くことを自然に見せているな、と感じました。
そんなわけで、「小学生が若おかみとして働く」とか「幽霊が出てくる」とか、ちょっと荒唐無稽な設定が出てくるんだけど、でも実はそれらの設定が実に見事にハマって、むしろ大人の鑑賞に耐えうる作品に仕上がっている、というのが僕の分析です。
そんなわけで、おっこのどストレートな感情表出にやられて、なんというか、ほぼずっと泣きっぱなしでした(笑)。最初の方から凄くいいんですけど、最後の最後は、ちょっとヤバかったですね。そう来るか!という展開と、その展開の中でおっこが急速に成長して、「若おかみであることの自覚」を一気に目覚めさせた感じは、そりゃあ泣きますわ、って感じでした。
旅館でのおっこの成長っぷりも色々面白いんだけど、秋野真月との絡みも面白いですね。真月は、いつもフリフリピンクのドレスを着ていて周りから浮いているんだけど、超努力家で、妥協を知らない感じ。小学生とはいえ、創業家の娘だからという理由でなくて、実力で様々な企画を立案して実行に移している。ある場面では、恐らく洋書だろう本を読んでたんだけど、そのタイトルが「Homo Deus」。これって、あの「サピエンス全史」の人の最新刊???とか思いながら見てました。もしそうだとしたら、それを原書で読めるって、相当の英語力だなぁ、とか。
そんな真月と事あるごとに対立してしまうおっこなんだけど、でもおっこは、何が一番大事かということをちゃんと理解している。おっこは若おかみとして働く中で、「お客さんに喜んでもらうのが何よりも大事なこと」と肌感覚で理解していて、そのためにやれることがあるなら自分のプライドや意地は捨てられる、というところがまた凄くいいなと思いました。
どうせ子ども向けの映画だろ、と思っちゃうような映画ですけど、予想を裏切る良作なので、是非見てみてください。
「若おかみは小学生!」を観に行ってきました
メチャクチャ良い映画だった!
普段ならまず見ない映画なんだけど、
ヤフーニュースで「大人がハマっている」という記事を見かけたので、
試しに見てみることにしたんですけど、
超良かったです!
後で理由を含めて書くつもりですけど、
この映画、子ども向けっぽく見せてるけど、実は大人向けだなと思いました。
っていうか、子どもは子どもで、大人と違った見方をして楽しめる作品かもしれないけど、
大人は大人で、大人だからこその楽しみ方が出来る作品だなと感じました。
とりあえず内容を紹介しましょう。
主人公の関織子(おっこ)は小学生。おばあちゃんが女将として切り盛りしている、花の湯温泉にある春の屋という旅館に家族で遊びに行った帰り、交通事故に巻き込まれて両親を亡くしてしまう。奇跡的に無傷だったおっこは、春の屋に引き取られることになった。
玄関先で蜘蛛やヤモリを見かけて奇声を上げるおっこ。そんなおっこが離れに用意してもらった自室へと向かうと、どこからか声がする。見上げると、天井に浮かんでいる少年が!なんと彼、幽霊らしく、しかも女将でありおばあちゃんである峰子さんの古くからの知り合いなんだという。おっこにしか見えないその少年の幽霊とともに、仲居さんや料理長に挨拶に行くと、誠というその少年からの問い掛けに素っ頓狂に答える内に、おっこは春の屋の若おかみを目指す、ということになってしまった。不服のあるおっこだったが、誠が驚く程に喜んでいる姿を見て、嫌とは言えなくなってしまう。
早速旅館の仕事を手伝うことになるおっこだったが、おっちょこちょいでドジばかりという始末。とはいえ、お客様に喜んでもらえることの嬉しさを感じる日々に、少しずつ若おかみとしての自覚が芽生えていくことになる。
転校先の小学校でクラスメイトになった秋野真月は、花の湯温泉を牽引してきた秋好温泉の跡取り娘で、同じく小学生ながら抜群のアイデアで、秋好温泉をもり立てるプランを実現していく。二人は事あるごとにぶつかりあうことになるのだけど、お互いに老舗の旅館を守っていくのだという気概だけは共通している。
両親を喪った悲しみを表に出さないようにしながら、誠や、次々に増えていく「目に見えない存在」たちと関わりながら、若おかみとしての修行をしていく…。
という話です。
ストーリーや設定は、非常にシンプルです。原作の小説が、元々小学生向けに書かれているものだし、映画も表向きは子ども向けに作られているから、そんなに複雑な設定が出てくるわけもありません。ただ、いくつかの要因が、この映画を「大人が鑑賞するに耐えうる作品」に仕立て上げていて、そのことが高評価に繋がっているんだろうな、という感じがします。
僕が感じる一番の要因は、「小学生が大人の世界で頑張っている」ということです。この設定が、非常に秀逸だなと感じました。
この映画はかなり、「どストレートなセリフ」で作られていると言っていいと思います。喜怒哀楽のすべてが、シンプルで分かりやすい感情表現で表されている、ということです。これも、原作が小学生向けだということで、当たり前と言えば当たり前ではあります。でも、ちょっと考えてみると、この「どストレートなセリフ」で作られている映画って、普通はちょっと受け入れがたくなっちゃうと思うんです。大人の世界では、色んな理由から喜怒哀楽を単純に表に出すことが出来なかったりするし、仕草とか表情とか、そういう部分の僅かな揺れみたいなもので感情を表したりします。「どストレートなセリフ」で作られている映画って、ラブコメみたいな作品だとよくありそうですけど、そういう作品は、大人からしたらちょっと引いちゃうというか、簡単には受け入れがたく感じられちゃうと思うんです。
でもこの映画は、主人公のこっこが「小学生」で、かつ「大人の世界」で働いているわけです。だから、「大人の世界」で起こる様々な事柄に対して、「小学生」的な反応を見せてもまったく不自然ではないんです。というか、「小学生」的な反応じゃない方が不自然だな、という感じなんですね。
この点が、僕は一番見事だと感じました。喜怒哀楽をシンプルに表現する「小学生」的な反応で、「大人の世界」の辛さやトラブルなんかに対峙していく、という展開が、大人だけの世界ではなかなか実現し得ないものだと大人の観客には分かるし、だからこそおっこの喜怒哀楽がシンプルにストレートに突き刺さってくるんだと思います。
で、まさにこの点が、この映画が「大人向け」だと感じられる理由なんです。というのも、こういう見方は、大人が小学生に対して抱く「小学生っぽさ」みたいな幻想をベースにしないと成り立たないからです。
子どもにだって実際は色々あって、喜怒哀楽をシンプルに表に出せないことだっていっぱいあります。僕らも子どもだった頃、そういう時間を乗り越えてきたはずなんだけど、どうも大人になるとそういうことは忘れてしまう。なんとなく、「小学生は喜怒哀楽をシンプルに表に出せる存在だよね」なんていう幻想をいつの間にか持っちゃうわけなんです。で、そういう幻想ベースの視点でこの映画を見るからこそ、おっこの存在が不自然に見えないし、感情がストレートにバーンって入ってきて気持ちいいんですね。
だから子どもがこの映画を見たら、また別の見方になるだろうと思います。子ども自身は、大人が持っているようなそういう「小学生っぽさ」みたいな幻想は持ってないわけだから、おっこの素直な喜怒哀楽の表出がどう映るのかは分からないなぁ、と思います。
で、誠や他の「目に見えない存在」という設定も秀逸だったなと思います。何故なら、彼ら「目に見えない存在」は、「若おかみであるおっこ」の存在を不自然に見せない効果があるからです。
「小学生が若おかみになる」という設定は、正直なところちょっと無理があるように感じますよね。いくら両親を事故で亡くして、旅館をやっているおばあちゃんのところに引き取られたと言っても、ただそれだけでおっこが若おかみになることが正当化されるわけじゃないでしょう。実際におっこは、春の屋に着いた当初は、若おかみなんて目指すつもりはまったくなかったわけです。
けど、誠の存在がかなり大きくて、おっこは若おかみの道を目指すことになります。誠の「峰子ちゃんを助けてやってくれ」という強い想いに押されるようにして、おっこは旅館の手伝いをするようになるわけです。これが、誠の存在がなく、「おっこが最初からやる気満々で若おかみを目指していた」とか、あるいは「おっこが嫌々ながら無理やり若おかみをやらされた」とかいう設定だったら、全然違った物語になっていたでしょう。おっこが若おかみとしての道を歩んでいくことをごく自然に受け入れさせるために、誠の存在は非常に重要でした。
また「目に見えない存在」のもう一つの効果は、両親を喪ったばかりのおっこのメンタル面での支えになっている、ということです。おっこは、大好きだった両親を亡くし、馴染みのない土地に引っ越して新たな生活が始まります。転校した学校での雰囲気も悪くないですけど、すぐに夏休みになっちゃうこともあって、当初はクラスメイトたちとの関わりがメインにはなりません。旅館で働いているから、普段関わる人は大人ばかりです。そういう中で、誠を初めとした「目に見えない存在」が常に周りにいることで、おっこにメンタル的な支えがいるという状態になり、これもまたおっこが若おかみとして働くことを自然に見せているな、と感じました。
そんなわけで、「小学生が若おかみとして働く」とか「幽霊が出てくる」とか、ちょっと荒唐無稽な設定が出てくるんだけど、でも実はそれらの設定が実に見事にハマって、むしろ大人の鑑賞に耐えうる作品に仕上がっている、というのが僕の分析です。
そんなわけで、おっこのどストレートな感情表出にやられて、なんというか、ほぼずっと泣きっぱなしでした(笑)。最初の方から凄くいいんですけど、最後の最後は、ちょっとヤバかったですね。そう来るか!という展開と、その展開の中でおっこが急速に成長して、「若おかみであることの自覚」を一気に目覚めさせた感じは、そりゃあ泣きますわ、って感じでした。
旅館でのおっこの成長っぷりも色々面白いんだけど、秋野真月との絡みも面白いですね。真月は、いつもフリフリピンクのドレスを着ていて周りから浮いているんだけど、超努力家で、妥協を知らない感じ。小学生とはいえ、創業家の娘だからという理由でなくて、実力で様々な企画を立案して実行に移している。ある場面では、恐らく洋書だろう本を読んでたんだけど、そのタイトルが「Homo Deus」。これって、あの「サピエンス全史」の人の最新刊???とか思いながら見てました。もしそうだとしたら、それを原書で読めるって、相当の英語力だなぁ、とか。
そんな真月と事あるごとに対立してしまうおっこなんだけど、でもおっこは、何が一番大事かということをちゃんと理解している。おっこは若おかみとして働く中で、「お客さんに喜んでもらうのが何よりも大事なこと」と肌感覚で理解していて、そのためにやれることがあるなら自分のプライドや意地は捨てられる、というところがまた凄くいいなと思いました。
どうせ子ども向けの映画だろ、と思っちゃうような映画ですけど、予想を裏切る良作なので、是非見てみてください。
「若おかみは小学生!」を観に行ってきました
「告白小説、その結末」を観に行ってきました
普段は感想を書く前にネットで調べたりしないのだけど、今回は自力では物語を理解できなかったので、この映画について調べてみた。
なるほどなぁ、という感じだった。そういう映画だったのか。
そう言われれば、納得感もある。いや、色々気になるところも出てくるのだけど、映画の大枠としては、スッキリする感じ。
しかし、なかなか不思議な映画だったし、良かったと聞かれるとちょっと返答に困る感じではある。
内容に入ろうと思います。
自殺した母親をモチーフにした小説が大ヒットしたデルフィーヌは、サイン会の場で一人の美しい女性と出会う。「エル(※フランス語で「彼女」という意味)」と名乗った女性とその後度々会うことになり、仲良くなっていく。デルフィーヌは当時スランプで、小説が書けない状態に陥っていた。エルは、ファンの一人としてそんなデルフィーヌを支えようとし、徐々にデルフィーヌの生活圏に入り込んでいく。デルフィーヌには、別れて暮らしている夫がいて、彼にエルのことを時々話すが、夫はその女性の存在を快く思っていないようだ。
しかしデルフィーヌは、パソコンのパスワードを教えたり、家を空けなければならないというエルを一時的に住まわせたりと、エルを日常に引き入れていくことになる。
しかし、エルと関わるようになってから、デルフィーヌの周辺でちょっと変わったことが頻発するようになった。家族を売ってベストセラーとなったことを非難する手紙が送られてきたり、バッグが切られ小説用のメモノートが紛失したりしてしまう。エルも、時折デルフィーヌに対して凶暴性を発揮し、デルフィーヌに理解できない行動を取るようになる。
ある事情からデルフィーヌとエルは、郊外の一軒家でしばらく生活することとなった。二人の生活はうまく行っているように思えたが…。
というような話です。
映画を観ている観客の興味は、「エルは一体何者で、どんな動機で行動しているのか?」という一点に尽きるだろう。最初の出会いから最後の最後まで、エルは謎めいた存在として描かれていくことになる。読解力のある人なら、エルに関する疑問の答えを自分で見つけ出せるかもしれないけど、僕にはそれが出来なかった。だから、割と消化不良な感じで映画を見終わってしまった。
しかし、エル役の女優さんは、非常に良い感じだった。「妖艶」という感じの美しさで、でも謎めいていて何を考えているか分からない。そういうミステリアスな存在として描かれている感じが、彼女自身の容姿と相まって、非常に良い雰囲気を醸し出していると感じました。
デルフィーヌもエルも、内面がほとんど伝わってこない感じで、そういう部分は結構好きだった。色んな場面で違和感があって、でもそれがほとんど説明されない。なんだかよく分からない、不穏さを残したままストーリーが進んでいく感じは、僕としては結構好きでした。
なかなかオススメはしにくいけど、読解力のある人なら、映画の構造みたいなものを自力で捉えられると思います。
「告白小説、その結末」を観に行ってきました
なるほどなぁ、という感じだった。そういう映画だったのか。
そう言われれば、納得感もある。いや、色々気になるところも出てくるのだけど、映画の大枠としては、スッキリする感じ。
しかし、なかなか不思議な映画だったし、良かったと聞かれるとちょっと返答に困る感じではある。
内容に入ろうと思います。
自殺した母親をモチーフにした小説が大ヒットしたデルフィーヌは、サイン会の場で一人の美しい女性と出会う。「エル(※フランス語で「彼女」という意味)」と名乗った女性とその後度々会うことになり、仲良くなっていく。デルフィーヌは当時スランプで、小説が書けない状態に陥っていた。エルは、ファンの一人としてそんなデルフィーヌを支えようとし、徐々にデルフィーヌの生活圏に入り込んでいく。デルフィーヌには、別れて暮らしている夫がいて、彼にエルのことを時々話すが、夫はその女性の存在を快く思っていないようだ。
しかしデルフィーヌは、パソコンのパスワードを教えたり、家を空けなければならないというエルを一時的に住まわせたりと、エルを日常に引き入れていくことになる。
しかし、エルと関わるようになってから、デルフィーヌの周辺でちょっと変わったことが頻発するようになった。家族を売ってベストセラーとなったことを非難する手紙が送られてきたり、バッグが切られ小説用のメモノートが紛失したりしてしまう。エルも、時折デルフィーヌに対して凶暴性を発揮し、デルフィーヌに理解できない行動を取るようになる。
ある事情からデルフィーヌとエルは、郊外の一軒家でしばらく生活することとなった。二人の生活はうまく行っているように思えたが…。
というような話です。
映画を観ている観客の興味は、「エルは一体何者で、どんな動機で行動しているのか?」という一点に尽きるだろう。最初の出会いから最後の最後まで、エルは謎めいた存在として描かれていくことになる。読解力のある人なら、エルに関する疑問の答えを自分で見つけ出せるかもしれないけど、僕にはそれが出来なかった。だから、割と消化不良な感じで映画を見終わってしまった。
しかし、エル役の女優さんは、非常に良い感じだった。「妖艶」という感じの美しさで、でも謎めいていて何を考えているか分からない。そういうミステリアスな存在として描かれている感じが、彼女自身の容姿と相まって、非常に良い雰囲気を醸し出していると感じました。
デルフィーヌもエルも、内面がほとんど伝わってこない感じで、そういう部分は結構好きだった。色んな場面で違和感があって、でもそれがほとんど説明されない。なんだかよく分からない、不穏さを残したままストーリーが進んでいく感じは、僕としては結構好きでした。
なかなかオススメはしにくいけど、読解力のある人なら、映画の構造みたいなものを自力で捉えられると思います。
「告白小説、その結末」を観に行ってきました
あの頃、君を追いかけた(九把刀)
普段なら、たぶん読まない小説だろうなぁ、と思う。
読み終えた今も、やっぱりそう思う。
いや、別に作品が悪かったとか、つまらなかったとか、そういう話じゃない。
ただ、好んで読むタイプの小説ではなかった、ということだ。
僕は、乃木坂46の齋藤飛鳥が好きで、その齋藤飛鳥が主演を務めた同名の映画を見た。というか、映画を見てから小説を読もう、と思っていた。映画は、主演の齋藤飛鳥と、ヒロインの早瀬真愛のキャラクターが非常にフィットしていて楽しんで見ることが出来た。
その映画は、台湾で大ヒットを記録した映画のリメイク作であり、そしてその台湾で作られた本家の映画の原作が、本書の台湾語版というわけである。映画の監督も、この著者が務めている。台湾では、10人に1人が見たと言われるほどの空前の大ヒットだったという。二本に置き換えると、1000万人が見た、というようなレベルか。恐らく「君の名は」でも、そこまでは行ってないだろう。
本書はまた、著者の実話をベースにしているという。というか、結構変わった構成の作品で、「現在の著者自身の文章」というのが、小説の合間合間に挿入されるのだ。現在の「九把刀」が、当時の自分たちの記憶を振り返ったり、あるいは当時の仲間たちの最新情報を書いたりしている。うまく説明出来ないが、なかなか見たことがない構成の作品だ。これも、「後に小説家となった著者自身の過去の体験をベースにしている」からこそのものだろう。
本書の執筆には、相当の時間が掛かったという(という話も、あとがきとかではなく、小説内に書かれているのだ)。著者はネット小説出身で、書くのが早いようで、既に79作品も出版しているという。大体20年ぐらいで80作品と考えると、年間4作品ペースだ。結構な量産型だと言えるだろう。
その著者が、この作品には相当時間が掛かったという。理由はこうだ。
【しかし、この青春ドキュメンタリーは、リアリティのある空気で満たしたいがために、結末の決定打に欠けておち、このストーリーに「どのように呼吸させるのか」が俺は分からず、筆が遅々として進まなかった】
著者は、たくさん小説を書く中で、「こんな風に展開して、こんな風に伏線を置いていけばラストでうまくまとまる」という感覚がかなり身についたという。そして、そういう判断をベースにした時、実話を基にしたこの作品は、ラストのまとめ方に欠けていたというのだ。リアリティを何よりも重視しているから、嘘のエンディングにはしたくなかったのだろう。しかし、じゃあどこに落とし所を見い出せばいいのかは見えていなかった。そんな著者が、ダラダラと長い年月を掛けて書き続けてきた小説がようやくエンディングを迎えたのは、この小説のラストでもあるとある出来事が起こったからだ。それが何なのかは、是非読んでみて欲しい。
とりあえず、内容をざっと書いておこう。
柯景騰(コーチントン)は、彰化誠中学に通う男子生徒で、おふざけとマンガが得意な問題児。学校で問題行動を起こすブラックリストに常に載っていて、同じくブラックリスト入りしている仲間たちと、アホみたいなことをして過ごしている。もちろん、勉強は苦手。
ある日担任の教師から、「柯景騰は沈佳儀の前に座るように」と言われる。沈佳儀は、クラス一の優等生で、勉強ができて、人気もあって、女子が嫉妬を抱きようがないほどの女の子だ。しかし柯景騰は、フザケ倒している日々の言動を「幼稚」と言われるため、彼女のことを「天敵」と考えている。
しかし、突然クラス分けがあることが発表され、それに伴って勉強せざるを得ない状況が生まれた。というか、何故か沈佳儀が柯景騰に無理やり勉強させようとするのだ。彼女は毎朝早くから学校に来て一人で勉強しているのだが、彼も同じように勉強することになった。そして次第に、彼女に惹かれている自分に気づき、しかし、勉強以外にまったく興味がなさそうな彼女の迷惑にならぬよう、「一番仲の良い友だち」という役回りを完璧にこなすための作戦を日々練り続けることとなった。
その後、同じ高校に進学したが、文系と理系で分かれてしまい、普段の関わりはあまりない。それでも、猛勉強の末成績優秀者となっていた柯景騰は、沈佳儀とテストで勝負することに。そんな風にして、また少しずつ関わりを持つようになっていくが…。
というような話です。
先に見ていた映画と比べると、結構違う部分もあるな、と思いました。どう違うのか、ということはここでは触れないようにするけど、一番違うかな、と思ったのが沈佳儀のキャラクターでした。この原作に結構忠実に台湾版の映画が作られているとしたら(著者と監督が同じだからその可能性が高いと思うけど)、日本版の映画のヒロインは、主演の齋藤飛鳥のキャラクターに大分寄せたのかもなぁ、と思いながら読んでいました。
実話ベースらしく、そこでこういう展開にはならないんだな、と思う箇所が結構あって、リアル感があるな、と感じました。
凄く印象的だったセリフが2つあります。
一つは柯景騰のセリフ。
【恋において、知恵を振り絞って相手を打ち負かす策略を考えることも重要だが、より重要なのは自分らしくいることだ。
いや、もともとそれが一番重要なのかもしれない。
「もし最終的に沈佳儀が愛してくれた俺が本当の俺じゃなかったら、すべての行動に何の意味もなくなってしまう」俺は許博淳の肩を叩いた】
これはその通りだよなぁ、と思います。相手を振り向かせたり、ライバルを蹴落としたりすることも確かに必要かもしれないけど、一番大事なのは、その人の前で自分がこうありたいという自分のまま、相手の前にいられることだな、と。それが出来ないまま一緒にいられることになっても、辛いだけだからなぁ。分かるわぁ、と思いました。
もう一つは沈佳儀のセリフ。たぶんこのセリフは、ネタバレ的な観点から言うと引用しちゃいけないと思います。でも、なんか凄く良いセリフで、自分の中で記録として残したいなと思ってしまったので、ダメだろうなと思いつつ書いてしまいます。
【本当はこういうの良くないって私だって分かるんだけど、別れを切り出さずにはいられなかった。あなたみたいに私のことを好きでいてくれる人を知ったら、私のことを好きだという他の人の気持ちを、どうしてもあなたと比べちゃう】
これは凄いセリフですね。このセリフがどんな場面で発せられ、この後どうなっていくのかということには触れないけど、それらを合わせると、より凄いな、という感じのセリフです。凄くいいなぁと思いました。
小説として面白かったのか、というのは、正直うまく判断出来ないけど(小説を読みながら、映画のあの場面だな、とか思っていたので、純粋に小説としての評価はしにくい)、「これが実際に起こったことなのだ」と思いながら読むと、普段小説を読む時とはまた違った感じで物語を受け取れるのではないかと思います。
九把刀「あの頃、君を追いかけた」
読み終えた今も、やっぱりそう思う。
いや、別に作品が悪かったとか、つまらなかったとか、そういう話じゃない。
ただ、好んで読むタイプの小説ではなかった、ということだ。
僕は、乃木坂46の齋藤飛鳥が好きで、その齋藤飛鳥が主演を務めた同名の映画を見た。というか、映画を見てから小説を読もう、と思っていた。映画は、主演の齋藤飛鳥と、ヒロインの早瀬真愛のキャラクターが非常にフィットしていて楽しんで見ることが出来た。
その映画は、台湾で大ヒットを記録した映画のリメイク作であり、そしてその台湾で作られた本家の映画の原作が、本書の台湾語版というわけである。映画の監督も、この著者が務めている。台湾では、10人に1人が見たと言われるほどの空前の大ヒットだったという。二本に置き換えると、1000万人が見た、というようなレベルか。恐らく「君の名は」でも、そこまでは行ってないだろう。
本書はまた、著者の実話をベースにしているという。というか、結構変わった構成の作品で、「現在の著者自身の文章」というのが、小説の合間合間に挿入されるのだ。現在の「九把刀」が、当時の自分たちの記憶を振り返ったり、あるいは当時の仲間たちの最新情報を書いたりしている。うまく説明出来ないが、なかなか見たことがない構成の作品だ。これも、「後に小説家となった著者自身の過去の体験をベースにしている」からこそのものだろう。
本書の執筆には、相当の時間が掛かったという(という話も、あとがきとかではなく、小説内に書かれているのだ)。著者はネット小説出身で、書くのが早いようで、既に79作品も出版しているという。大体20年ぐらいで80作品と考えると、年間4作品ペースだ。結構な量産型だと言えるだろう。
その著者が、この作品には相当時間が掛かったという。理由はこうだ。
【しかし、この青春ドキュメンタリーは、リアリティのある空気で満たしたいがために、結末の決定打に欠けておち、このストーリーに「どのように呼吸させるのか」が俺は分からず、筆が遅々として進まなかった】
著者は、たくさん小説を書く中で、「こんな風に展開して、こんな風に伏線を置いていけばラストでうまくまとまる」という感覚がかなり身についたという。そして、そういう判断をベースにした時、実話を基にしたこの作品は、ラストのまとめ方に欠けていたというのだ。リアリティを何よりも重視しているから、嘘のエンディングにはしたくなかったのだろう。しかし、じゃあどこに落とし所を見い出せばいいのかは見えていなかった。そんな著者が、ダラダラと長い年月を掛けて書き続けてきた小説がようやくエンディングを迎えたのは、この小説のラストでもあるとある出来事が起こったからだ。それが何なのかは、是非読んでみて欲しい。
とりあえず、内容をざっと書いておこう。
柯景騰(コーチントン)は、彰化誠中学に通う男子生徒で、おふざけとマンガが得意な問題児。学校で問題行動を起こすブラックリストに常に載っていて、同じくブラックリスト入りしている仲間たちと、アホみたいなことをして過ごしている。もちろん、勉強は苦手。
ある日担任の教師から、「柯景騰は沈佳儀の前に座るように」と言われる。沈佳儀は、クラス一の優等生で、勉強ができて、人気もあって、女子が嫉妬を抱きようがないほどの女の子だ。しかし柯景騰は、フザケ倒している日々の言動を「幼稚」と言われるため、彼女のことを「天敵」と考えている。
しかし、突然クラス分けがあることが発表され、それに伴って勉強せざるを得ない状況が生まれた。というか、何故か沈佳儀が柯景騰に無理やり勉強させようとするのだ。彼女は毎朝早くから学校に来て一人で勉強しているのだが、彼も同じように勉強することになった。そして次第に、彼女に惹かれている自分に気づき、しかし、勉強以外にまったく興味がなさそうな彼女の迷惑にならぬよう、「一番仲の良い友だち」という役回りを完璧にこなすための作戦を日々練り続けることとなった。
その後、同じ高校に進学したが、文系と理系で分かれてしまい、普段の関わりはあまりない。それでも、猛勉強の末成績優秀者となっていた柯景騰は、沈佳儀とテストで勝負することに。そんな風にして、また少しずつ関わりを持つようになっていくが…。
というような話です。
先に見ていた映画と比べると、結構違う部分もあるな、と思いました。どう違うのか、ということはここでは触れないようにするけど、一番違うかな、と思ったのが沈佳儀のキャラクターでした。この原作に結構忠実に台湾版の映画が作られているとしたら(著者と監督が同じだからその可能性が高いと思うけど)、日本版の映画のヒロインは、主演の齋藤飛鳥のキャラクターに大分寄せたのかもなぁ、と思いながら読んでいました。
実話ベースらしく、そこでこういう展開にはならないんだな、と思う箇所が結構あって、リアル感があるな、と感じました。
凄く印象的だったセリフが2つあります。
一つは柯景騰のセリフ。
【恋において、知恵を振り絞って相手を打ち負かす策略を考えることも重要だが、より重要なのは自分らしくいることだ。
いや、もともとそれが一番重要なのかもしれない。
「もし最終的に沈佳儀が愛してくれた俺が本当の俺じゃなかったら、すべての行動に何の意味もなくなってしまう」俺は許博淳の肩を叩いた】
これはその通りだよなぁ、と思います。相手を振り向かせたり、ライバルを蹴落としたりすることも確かに必要かもしれないけど、一番大事なのは、その人の前で自分がこうありたいという自分のまま、相手の前にいられることだな、と。それが出来ないまま一緒にいられることになっても、辛いだけだからなぁ。分かるわぁ、と思いました。
もう一つは沈佳儀のセリフ。たぶんこのセリフは、ネタバレ的な観点から言うと引用しちゃいけないと思います。でも、なんか凄く良いセリフで、自分の中で記録として残したいなと思ってしまったので、ダメだろうなと思いつつ書いてしまいます。
【本当はこういうの良くないって私だって分かるんだけど、別れを切り出さずにはいられなかった。あなたみたいに私のことを好きでいてくれる人を知ったら、私のことを好きだという他の人の気持ちを、どうしてもあなたと比べちゃう】
これは凄いセリフですね。このセリフがどんな場面で発せられ、この後どうなっていくのかということには触れないけど、それらを合わせると、より凄いな、という感じのセリフです。凄くいいなぁと思いました。
小説として面白かったのか、というのは、正直うまく判断出来ないけど(小説を読みながら、映画のあの場面だな、とか思っていたので、純粋に小説としての評価はしにくい)、「これが実際に起こったことなのだ」と思いながら読むと、普段小説を読む時とはまた違った感じで物語を受け取れるのではないかと思います。
九把刀「あの頃、君を追いかけた」
ノックの音が(星新一)
内容に入ろうと思います。
本書は、ショートショートの第一人者である星新一のショートショート集です。
本書には、ある特徴があります。それは、15編あるすべてのショートショートの出だしが「ノックの音がした。」から始まるということです。
どの話も、12ページ(挿絵を入れると13ページ)で終わります。一幕モノというか、場面転換も時間の跳躍もなく、舞台を見ているような感じで物語が始まって終わっていきます。
展開が予想出来るものもあったり、なるほどそんな展開になるのかと感じるものもあったり、この分量でこの物語はちょっと複雑すぎるなぁと思うものもあったりで、ノックから始まる物語の割になかなかバラエティに富んでいると感じました。
全部の内容紹介はしませんが、気になったものをいくつか。
「夢の大金」
金が無くなり死のうと思っている老人の家に、謎の二人組がやってくるところから物語が始まる。予期せぬ一発逆転、という感じが面白い。
「和解の神」
旅館の一室で妻を待つ男。しばらく前に、喧嘩の勢いでつい「出て行け!」と言ってしまい、本当に家を出てしまった妻から手紙が…という感じの話。お互いの性格がうまく物語に組み込まれている。
「計略と結果」
「猟銃が爆発して」と言って怪我の治療にきた男女の正体が…という話だが、最後のオチがなかなか面白かった。なるほど、これは二律背反という感じだなぁ。
「しなやかな手」
低俗な雑誌社を経営する男の家に、女性がやってくるところから物語は始まる。実はこの女性、殺し屋なのだけど、男はちょっと予想外の反撃をする。しかし…という最後のオチもなかなか。
あと一点。「なるほどなぁ」と感じた点について書こうと思います。
何かで読みましたけど、星新一は「古びない作品を書く」ことをいつも意識していたそうです。本書のあとがきにも、『作品は風俗の部分から、まず古びてゆくのである』と書いてある。
その意識を強く感じたのが、『高額紙幣』という表記だ。「高額紙幣」というのは、時代によって変わるものだ。今は1万円札が最高だが、もしかしたら5万円札なんてのが刷られていたかもしれない。まあ、紙幣・硬貨以外の支払いが増えていくだろうから、今後1万円札を超える高額紙幣が登場する可能性は少ないだろうけど、こういうところからも、作品を古びさせない工夫を感じました。
星新一「ノックの音が」
本書は、ショートショートの第一人者である星新一のショートショート集です。
本書には、ある特徴があります。それは、15編あるすべてのショートショートの出だしが「ノックの音がした。」から始まるということです。
どの話も、12ページ(挿絵を入れると13ページ)で終わります。一幕モノというか、場面転換も時間の跳躍もなく、舞台を見ているような感じで物語が始まって終わっていきます。
展開が予想出来るものもあったり、なるほどそんな展開になるのかと感じるものもあったり、この分量でこの物語はちょっと複雑すぎるなぁと思うものもあったりで、ノックから始まる物語の割になかなかバラエティに富んでいると感じました。
全部の内容紹介はしませんが、気になったものをいくつか。
「夢の大金」
金が無くなり死のうと思っている老人の家に、謎の二人組がやってくるところから物語が始まる。予期せぬ一発逆転、という感じが面白い。
「和解の神」
旅館の一室で妻を待つ男。しばらく前に、喧嘩の勢いでつい「出て行け!」と言ってしまい、本当に家を出てしまった妻から手紙が…という感じの話。お互いの性格がうまく物語に組み込まれている。
「計略と結果」
「猟銃が爆発して」と言って怪我の治療にきた男女の正体が…という話だが、最後のオチがなかなか面白かった。なるほど、これは二律背反という感じだなぁ。
「しなやかな手」
低俗な雑誌社を経営する男の家に、女性がやってくるところから物語は始まる。実はこの女性、殺し屋なのだけど、男はちょっと予想外の反撃をする。しかし…という最後のオチもなかなか。
あと一点。「なるほどなぁ」と感じた点について書こうと思います。
何かで読みましたけど、星新一は「古びない作品を書く」ことをいつも意識していたそうです。本書のあとがきにも、『作品は風俗の部分から、まず古びてゆくのである』と書いてある。
その意識を強く感じたのが、『高額紙幣』という表記だ。「高額紙幣」というのは、時代によって変わるものだ。今は1万円札が最高だが、もしかしたら5万円札なんてのが刷られていたかもしれない。まあ、紙幣・硬貨以外の支払いが増えていくだろうから、今後1万円札を超える高額紙幣が登場する可能性は少ないだろうけど、こういうところからも、作品を古びさせない工夫を感じました。
星新一「ノックの音が」
焦心日記(少年アヤ)
【世間の期待に応えたい、応えなければ居場所はない。しかし、そうやって獲得した居場所に安住できることはなかった。当時の私は、ブスのオカマであるという現実を克服し、逆手に取って笑いを取るくらいの余裕が自分にはあると思っていたのです。しかし実際は、改めて人からブスだと笑われるたびに傷ついたし、ブスじゃないと否定してもらってもショックでした。まったく関係のない他人からいきなり「オカマ」と呼ばれるのも苦痛でしたし、要するにまったく覚悟もなく、名乗った記号が放つ意味も把握しないまま、返ってきたリアクションに傷ついたという、なんとも間抜けなお話です。】
自分がどういう人間で、何が好きで、何が辛くて、今何を考えていて、どう行動したくて、何が怖くて、何が楽しくて、どこに向かっているのか…みたいなことを昔はよく考えていた。それらについて考えている時には、自分のことはうまく理解できていなかったような気がするけど、そういう時期を脱して、冷静に振り返ってみると、そんな風に自分を捕まえようとしたのは、自分が「みんな」から外れないようにということだったんだと思う。
【全収入を投げ売ってタクヤを追いかけ、とうとう預金残高十一円になった五月の夕暮れ。私はガタガタ足を震わせながら、このままでは命が危ないと思った。そしてなるべく自分から目を放さないよう、一年間、毎日、日記をつけることにした。】
僕は、「みんな」の中にいるために、結構努力を要した。シンプルに言って、大変だった。「みんな」は、僕にはなかなか理解不能な集合で、それらが楽しいと思うこと、悔しいと思うこと、辛いと思うこと、恥ずかしいと思うことが、どうも僕には理解できないものばかりだった。だから僕は、「みんな」をきちんと捉え、その中に「僕」を適切にはめ込むために、「僕」をちゃんと捉えなければならないと思っていたんだと思う。
その当時は大変だったし、絶対に戻りたいとは思わないけど、でもそういう経験を経たお陰で、僕は、人間や価値観を言葉で捉えやすくなったな、と感じる。
【「こじらせ」って一部だけに起きている現象ではなく、きっとこの国に生きるほとんどの女子たちが患っている自意識の病なんだと思います。社会からの抑圧だとか、役割だとかをクリアしていくにはハードルがいくつも待ち構えており、女子たちはみんなどこかしらにつまずき、引っ掛かり、倒し、時には走るのを止めてしまったり、コースから離脱したりしているのです。そんななか、この「こじらせ」という言葉は、意図せずレールから外れてしまった自分、もしくは自分たちを笑ってみるという発想に基づいて生まれた発明品であり、もしかしたら紫式部や清少納言が活動していたころから待望されていた言葉なのかもしれません。
願わくば「毒母」なんかと同じで、何かを気付かせ、場合によっては啓発させていくためのきっかけになる言葉として定着していって欲しいですが、どうなんでしょう。少なくとも、やっと言葉のついたそれを、特に理由もなく「ケッ」とか言いたがるような、そんなつまんない人たちには負けないでほしいです】
自分が今陥っている状況、行き詰まっている現状、どこにも進んでいけない閉塞、みたいなものを日常の中で感じているからこそ、考えるし、感じるし、そして言葉に変換しようと思う。彼(僕は著者のことを“彼”と呼ぼう)は、「こじらせ」はほとんどの女子が患っている病と書くが、僕は単純には賛同出来ない。何故なら、「ほとんどの女子が患っている病」だとしたら、とっくの昔に名前が与えられていたはずだと思うからです。いや、違うか。「ほとんどの女子が患っている病」であるとすれば、あまりに当たり前すぎて名前が与えられないのではないかと思います。
「こじらせ」という言葉が生まれたからには、そういう言葉を生み出す以外には表現できない、人とは違った感覚を誰かが持っていたはずです。その「こじらせ」が、ほとんどの女子に広がっているとすれば、つまり、「こじらせ」という言葉の意味が急速に拡大した、ということでしょう。「こじらせ」という単語は既に、その言葉が生まれた時に指し示していた範囲を大いに逸脱して、より後半な領域を指し示す言葉になったということだと思います。
大分脱線しましたが、つまりこんな風にして、自分の違和感を突き詰めていくことが避けがたい人というのはいるし、そういう人は考えて感じて苦しんで、そんな風に言語化していきながら自分を捉えようとする。
彼が自らを捉えようとする姿は、本書の核の一つだが、それは「アイドルへの信仰」という形を取って行われる。
【確かに私は、超特急にハマって以降、韓流に対する興味を急激に失っており、かと言って飽きてしまったわけでは決してなく、その原因はやはり、より強くコンプレックスを刺激する存在(タクヤ)が表れてしまったからという他にないのだった。とにかく私の信仰は完全に「理想の自分」という一点のみを動機にしているので、楽曲のクオリティだとか、サービスの質なんて、どうでもいいのです】
彼は超特急(という名前の男性アイドルグループ)を好きなった理由を、「コンプレックス」という言葉で捉えようとする。この記述は、最初はうまく理解できなかったのだけど、この文章を読んでなんとなく理解した。
【タクヤはもう、私が乗り込める艦隊ではなくなってしまった。だってタクヤ、いきなり「ボディーをパンプアップしたい」とか言い始めるんだもん。ムキムキの韓流スターに憧れちゃってるんだもん。そんな筋肉ムキムキのタクヤへは、「理想の自分」を投影できない。そういえば、今まで自己投影してきたアイドルたちも、さんざん乗り回して暴れたあげく、少しでも自分の理想から外れた途端、ポイッと道端に乗り捨ててきたっけ。つくづく、私は神に対して潔癖だ。】
なるほど、彼が崇拝する「タクヤ」というのは、彼が「こうなりたい」と思える理想であり、だからこそ「コンプレックス」という言葉で信仰を表現していたのだ。
とはいえ彼は、「ただ単純にタクヤになりたい」というわけではないのだ。
【マジ恋という沼を這い出し、泥だらけのままタクヤという艦隊に帰還した私ですが、もう快適すぎて死にそう。沼の中では重く、エラー状態になっていたユースケへの恋心が、サクサク送信できてしまうこの感じ。これこれ、これが無敵の艦隊・タクヤの乗り心地。タクヤとしてなら、誰にも怒られず、警察にも捕まらず、堂々とユースケとのデートを楽しめるし、花火にだって行けるし、神社の裏で同じかき氷を食べることだって出来る。私はまた、無敵になったのだ】
この文章は、理解しにくいという人もいるだろうから、引用していない部分の情報を補いつつ説明してみる。
まず彼は、超特急の中で「タクヤ」と「ユースケ」という二人が好きである。超特急ファンの間では、「ユータク」というカップリング(ボーイズラブ的な用語である)が有名らしく、彼もそのカップリングで楽しんでいる。「ユータク」に萌えているファンは、「タクヤ」と「ユースケ」が仲良さそうにしていたり、逆に喧嘩っぽくなっていたりする雰囲気を察知して、(何があったんだろう?)と妄想したりするようだ(この辺は、僕が持っている拙いBL的な知識を入れ込みながら書いてみた)。
で、彼が「タクヤ」になりたい理由は、「タクヤ」そのものへの憧れというよりは、「タクヤ」としての自分で「ユースケ」と関わりたい、という欲求があるのだという。「マジ恋」というのは、「アイドルにマジで恋してしまうこと」を指すが、その主体は自分自身、つまり「自分がユースケを好きになる」という意味だ。この状態は「重く、エラー状態」だったわけで、結構辛かった。でも、「タクヤという艦隊に帰還」、つまり、「タクヤになりきった自分の視点でユースケを見る」というそれまでの在り方に戻った途端、「恋心が、サクサク送信できてしまう」という状態になった、ということだ。
つまり、繰り返すが、彼の「タクヤ」への憧れというのは、「タクヤ」そのものへの憧れというよりは、「タクヤになってユースケに愛されたい」という欲望なわけで、なかなか複雑なわけです。
アイドルを好きになる自分をそこまで冷静に分析できるなんて、もの凄く客観性があると僕は思うのですが、自分ではそういう認識ではないようです。
【友人から「自分と向き合うって苦しくないか」と訊かれた。しかし、本当に向き合っていたらそもそもアイドル依存なんかしないわけで、もし私に客観性があるとしたら、それは何もないところから必死にひねり出した、インチキで粗悪なものであるに違いありません。そうして自分を縛っておかないと、どこまでも飛んでいってしまいそうで怖い】
なるほど、言っていることは分からないでもない気がするが、しかしやはり彼には、「アイドルに心底没頭している自分」と「そんな自分を冷静に客観的に見ている自分」が共存しているように思える。
【アイドルの前でお化粧が崩れるくらいなら、熱中症で倒れたほうがマシ。ぐるりと会場を囲む建物は、コロセウムを思わせた。
通りがかった人たちは、熱中症のリスクを負ってまでアイドルを狂信する私たちの姿に、必ずといって良いほど苦笑するが、端から見て異様であればあるほど、私たちの信心はピンと張りつめて、ステージに延びていく。アイドルたちだって命懸けだ。お互い命を削って、ファンは残高まで削って、フラフラになりながら魂をぶつけあう。たとえその先でなにかを得られなくても、辿り着くゴールが更地でも、きっと私たちは叫び続けるんだろう。それぞれの信仰のために】
【私もいつか来るべき時(超特急総選挙)が来たら、全収入を捧げられるようになりたい、なるべき、いや、ならなければ、と思った。だから、やっぱり私、恋愛とか言ってブレてる場合じゃない。担当の男性編集者を見て勃起している場合でもない。なぜなら私という個人のつまらない人生より、アイドルの人生のほうがよっぽど美しくて刹那的で貴重だからです】
そんな風にアイドルに全精力を傾けながら、彼は「何も得られないこと」をきちんと理解している。
【私がしているのは、アイドル本人やコンテンツに対するものではなく、アイドルに投影した自分自身の欲望の狂信。つまり私が映写機で、アイドルは真っ白なスクリーンのようなもの。実体は自分のなかにしかなく、いくらそれをアイドルに求めても満たされることはない。】
凄いな。正直、これほど客観的に自分のやっていることを理解しながら、それでも、刹那的になのかもしれないけど、「信仰」と呼べるほどアイドルに没頭できる瞬間を得られるというのは、凄まじい気がする。
本書はもちろん、アイドルの話ばかりではない。彼が生きていく中で引っかかってしまうこと、躓いてしまうこと、辛いこと、楽しいこと、虚しいこと、分かり合えないこと…そういうことを、ねっとりしつつ麗しい文章で切り取っていくのだ。
【仕事先で「オカマなのにどうして女装しないんですか!?」なんて言われてしまい、つくづく「オカマ」ってジェンダー化してるよなーと思いました。きっと私より上の世代のオカマたちは、とにかくオカマという生き物・生き方がこの世に存在しているということを叫ぶのに必死で、おかげでこうして私も堂々と世間を闊歩出来ているのだと思いますが、世間は過剰にキャラクター化されたそれをとりあえず認識することしか出来ず、「色々なオカマがいる」と想像するまでには至らなかったのかも。だとしたら、それを広く認知させることが私たち世代の役目なのかもしれませんが、圧倒的マジョリティである男ジェンダーや女ジェンダーが苦戦しているところを見ると、やはり前途多難という感じがします】
【赤ちゃんと触れ合ったときの幸福感は、感じれば感じるほど惨めになるので、ここ数年意識的に不快なものとして処理していたのですが、その瞬間油断していたこともあり、ついうっかり「ああ幸せだ」なんて思ってしまった】
【古びたおもちゃ屋さんに入ってみたところ、ものすごい宝の山で、急いでお金をおろしにコンビニへ走ったのですが、ATMのミラーで見た自分の目が爛々と輝いていてゾッとした。何かに似てると思ったら、去年遭遇して一目惚れしてしまった露出狂の目だった】
【中くらいの人間に限って、自分より下だと認定した者に対する拒絶反応が強い。自力で上には昇っていけないから、下の人間を「作る」ことで上に立つしかないからなのだと思いますが、それにしても嫌悪感丸出しなあの表情の下には、どこか怯えがある気がする。もしかして、踏みつけた人間から、足を引っ張られる恐怖なのだろうか。】
自身や世間を捉える視点が鋭く、さらにそれを、絶妙な“醜さ”をブレンドした可憐な文章で綴るので、なんとなく陶酔するような感覚に襲われる。日記の後半は、事実なんだか分からないような、ポエムチックな文章が続くようになってしまい、個人的にはそこだけ不満が残るのだけど(でも、そういう部分を読んで、もしかしてこの本は、本当の日記ではなくて、小説なのか?と思ったりした。もし本書が小説であるなら、それはそれで驚愕する)、全体的には、過剰な自意識に埋もれるようにして窒息死寸前の人間が、息も絶え絶えなんとか呼吸しながらこの日常の中で生き延びていく様が丁寧に綴られていて、非常に面白く作品でした。
少年アヤ「焦心日記」
自分がどういう人間で、何が好きで、何が辛くて、今何を考えていて、どう行動したくて、何が怖くて、何が楽しくて、どこに向かっているのか…みたいなことを昔はよく考えていた。それらについて考えている時には、自分のことはうまく理解できていなかったような気がするけど、そういう時期を脱して、冷静に振り返ってみると、そんな風に自分を捕まえようとしたのは、自分が「みんな」から外れないようにということだったんだと思う。
【全収入を投げ売ってタクヤを追いかけ、とうとう預金残高十一円になった五月の夕暮れ。私はガタガタ足を震わせながら、このままでは命が危ないと思った。そしてなるべく自分から目を放さないよう、一年間、毎日、日記をつけることにした。】
僕は、「みんな」の中にいるために、結構努力を要した。シンプルに言って、大変だった。「みんな」は、僕にはなかなか理解不能な集合で、それらが楽しいと思うこと、悔しいと思うこと、辛いと思うこと、恥ずかしいと思うことが、どうも僕には理解できないものばかりだった。だから僕は、「みんな」をきちんと捉え、その中に「僕」を適切にはめ込むために、「僕」をちゃんと捉えなければならないと思っていたんだと思う。
その当時は大変だったし、絶対に戻りたいとは思わないけど、でもそういう経験を経たお陰で、僕は、人間や価値観を言葉で捉えやすくなったな、と感じる。
【「こじらせ」って一部だけに起きている現象ではなく、きっとこの国に生きるほとんどの女子たちが患っている自意識の病なんだと思います。社会からの抑圧だとか、役割だとかをクリアしていくにはハードルがいくつも待ち構えており、女子たちはみんなどこかしらにつまずき、引っ掛かり、倒し、時には走るのを止めてしまったり、コースから離脱したりしているのです。そんななか、この「こじらせ」という言葉は、意図せずレールから外れてしまった自分、もしくは自分たちを笑ってみるという発想に基づいて生まれた発明品であり、もしかしたら紫式部や清少納言が活動していたころから待望されていた言葉なのかもしれません。
願わくば「毒母」なんかと同じで、何かを気付かせ、場合によっては啓発させていくためのきっかけになる言葉として定着していって欲しいですが、どうなんでしょう。少なくとも、やっと言葉のついたそれを、特に理由もなく「ケッ」とか言いたがるような、そんなつまんない人たちには負けないでほしいです】
自分が今陥っている状況、行き詰まっている現状、どこにも進んでいけない閉塞、みたいなものを日常の中で感じているからこそ、考えるし、感じるし、そして言葉に変換しようと思う。彼(僕は著者のことを“彼”と呼ぼう)は、「こじらせ」はほとんどの女子が患っている病と書くが、僕は単純には賛同出来ない。何故なら、「ほとんどの女子が患っている病」だとしたら、とっくの昔に名前が与えられていたはずだと思うからです。いや、違うか。「ほとんどの女子が患っている病」であるとすれば、あまりに当たり前すぎて名前が与えられないのではないかと思います。
「こじらせ」という言葉が生まれたからには、そういう言葉を生み出す以外には表現できない、人とは違った感覚を誰かが持っていたはずです。その「こじらせ」が、ほとんどの女子に広がっているとすれば、つまり、「こじらせ」という言葉の意味が急速に拡大した、ということでしょう。「こじらせ」という単語は既に、その言葉が生まれた時に指し示していた範囲を大いに逸脱して、より後半な領域を指し示す言葉になったということだと思います。
大分脱線しましたが、つまりこんな風にして、自分の違和感を突き詰めていくことが避けがたい人というのはいるし、そういう人は考えて感じて苦しんで、そんな風に言語化していきながら自分を捉えようとする。
彼が自らを捉えようとする姿は、本書の核の一つだが、それは「アイドルへの信仰」という形を取って行われる。
【確かに私は、超特急にハマって以降、韓流に対する興味を急激に失っており、かと言って飽きてしまったわけでは決してなく、その原因はやはり、より強くコンプレックスを刺激する存在(タクヤ)が表れてしまったからという他にないのだった。とにかく私の信仰は完全に「理想の自分」という一点のみを動機にしているので、楽曲のクオリティだとか、サービスの質なんて、どうでもいいのです】
彼は超特急(という名前の男性アイドルグループ)を好きなった理由を、「コンプレックス」という言葉で捉えようとする。この記述は、最初はうまく理解できなかったのだけど、この文章を読んでなんとなく理解した。
【タクヤはもう、私が乗り込める艦隊ではなくなってしまった。だってタクヤ、いきなり「ボディーをパンプアップしたい」とか言い始めるんだもん。ムキムキの韓流スターに憧れちゃってるんだもん。そんな筋肉ムキムキのタクヤへは、「理想の自分」を投影できない。そういえば、今まで自己投影してきたアイドルたちも、さんざん乗り回して暴れたあげく、少しでも自分の理想から外れた途端、ポイッと道端に乗り捨ててきたっけ。つくづく、私は神に対して潔癖だ。】
なるほど、彼が崇拝する「タクヤ」というのは、彼が「こうなりたい」と思える理想であり、だからこそ「コンプレックス」という言葉で信仰を表現していたのだ。
とはいえ彼は、「ただ単純にタクヤになりたい」というわけではないのだ。
【マジ恋という沼を這い出し、泥だらけのままタクヤという艦隊に帰還した私ですが、もう快適すぎて死にそう。沼の中では重く、エラー状態になっていたユースケへの恋心が、サクサク送信できてしまうこの感じ。これこれ、これが無敵の艦隊・タクヤの乗り心地。タクヤとしてなら、誰にも怒られず、警察にも捕まらず、堂々とユースケとのデートを楽しめるし、花火にだって行けるし、神社の裏で同じかき氷を食べることだって出来る。私はまた、無敵になったのだ】
この文章は、理解しにくいという人もいるだろうから、引用していない部分の情報を補いつつ説明してみる。
まず彼は、超特急の中で「タクヤ」と「ユースケ」という二人が好きである。超特急ファンの間では、「ユータク」というカップリング(ボーイズラブ的な用語である)が有名らしく、彼もそのカップリングで楽しんでいる。「ユータク」に萌えているファンは、「タクヤ」と「ユースケ」が仲良さそうにしていたり、逆に喧嘩っぽくなっていたりする雰囲気を察知して、(何があったんだろう?)と妄想したりするようだ(この辺は、僕が持っている拙いBL的な知識を入れ込みながら書いてみた)。
で、彼が「タクヤ」になりたい理由は、「タクヤ」そのものへの憧れというよりは、「タクヤ」としての自分で「ユースケ」と関わりたい、という欲求があるのだという。「マジ恋」というのは、「アイドルにマジで恋してしまうこと」を指すが、その主体は自分自身、つまり「自分がユースケを好きになる」という意味だ。この状態は「重く、エラー状態」だったわけで、結構辛かった。でも、「タクヤという艦隊に帰還」、つまり、「タクヤになりきった自分の視点でユースケを見る」というそれまでの在り方に戻った途端、「恋心が、サクサク送信できてしまう」という状態になった、ということだ。
つまり、繰り返すが、彼の「タクヤ」への憧れというのは、「タクヤ」そのものへの憧れというよりは、「タクヤになってユースケに愛されたい」という欲望なわけで、なかなか複雑なわけです。
アイドルを好きになる自分をそこまで冷静に分析できるなんて、もの凄く客観性があると僕は思うのですが、自分ではそういう認識ではないようです。
【友人から「自分と向き合うって苦しくないか」と訊かれた。しかし、本当に向き合っていたらそもそもアイドル依存なんかしないわけで、もし私に客観性があるとしたら、それは何もないところから必死にひねり出した、インチキで粗悪なものであるに違いありません。そうして自分を縛っておかないと、どこまでも飛んでいってしまいそうで怖い】
なるほど、言っていることは分からないでもない気がするが、しかしやはり彼には、「アイドルに心底没頭している自分」と「そんな自分を冷静に客観的に見ている自分」が共存しているように思える。
【アイドルの前でお化粧が崩れるくらいなら、熱中症で倒れたほうがマシ。ぐるりと会場を囲む建物は、コロセウムを思わせた。
通りがかった人たちは、熱中症のリスクを負ってまでアイドルを狂信する私たちの姿に、必ずといって良いほど苦笑するが、端から見て異様であればあるほど、私たちの信心はピンと張りつめて、ステージに延びていく。アイドルたちだって命懸けだ。お互い命を削って、ファンは残高まで削って、フラフラになりながら魂をぶつけあう。たとえその先でなにかを得られなくても、辿り着くゴールが更地でも、きっと私たちは叫び続けるんだろう。それぞれの信仰のために】
【私もいつか来るべき時(超特急総選挙)が来たら、全収入を捧げられるようになりたい、なるべき、いや、ならなければ、と思った。だから、やっぱり私、恋愛とか言ってブレてる場合じゃない。担当の男性編集者を見て勃起している場合でもない。なぜなら私という個人のつまらない人生より、アイドルの人生のほうがよっぽど美しくて刹那的で貴重だからです】
そんな風にアイドルに全精力を傾けながら、彼は「何も得られないこと」をきちんと理解している。
【私がしているのは、アイドル本人やコンテンツに対するものではなく、アイドルに投影した自分自身の欲望の狂信。つまり私が映写機で、アイドルは真っ白なスクリーンのようなもの。実体は自分のなかにしかなく、いくらそれをアイドルに求めても満たされることはない。】
凄いな。正直、これほど客観的に自分のやっていることを理解しながら、それでも、刹那的になのかもしれないけど、「信仰」と呼べるほどアイドルに没頭できる瞬間を得られるというのは、凄まじい気がする。
本書はもちろん、アイドルの話ばかりではない。彼が生きていく中で引っかかってしまうこと、躓いてしまうこと、辛いこと、楽しいこと、虚しいこと、分かり合えないこと…そういうことを、ねっとりしつつ麗しい文章で切り取っていくのだ。
【仕事先で「オカマなのにどうして女装しないんですか!?」なんて言われてしまい、つくづく「オカマ」ってジェンダー化してるよなーと思いました。きっと私より上の世代のオカマたちは、とにかくオカマという生き物・生き方がこの世に存在しているということを叫ぶのに必死で、おかげでこうして私も堂々と世間を闊歩出来ているのだと思いますが、世間は過剰にキャラクター化されたそれをとりあえず認識することしか出来ず、「色々なオカマがいる」と想像するまでには至らなかったのかも。だとしたら、それを広く認知させることが私たち世代の役目なのかもしれませんが、圧倒的マジョリティである男ジェンダーや女ジェンダーが苦戦しているところを見ると、やはり前途多難という感じがします】
【赤ちゃんと触れ合ったときの幸福感は、感じれば感じるほど惨めになるので、ここ数年意識的に不快なものとして処理していたのですが、その瞬間油断していたこともあり、ついうっかり「ああ幸せだ」なんて思ってしまった】
【古びたおもちゃ屋さんに入ってみたところ、ものすごい宝の山で、急いでお金をおろしにコンビニへ走ったのですが、ATMのミラーで見た自分の目が爛々と輝いていてゾッとした。何かに似てると思ったら、去年遭遇して一目惚れしてしまった露出狂の目だった】
【中くらいの人間に限って、自分より下だと認定した者に対する拒絶反応が強い。自力で上には昇っていけないから、下の人間を「作る」ことで上に立つしかないからなのだと思いますが、それにしても嫌悪感丸出しなあの表情の下には、どこか怯えがある気がする。もしかして、踏みつけた人間から、足を引っ張られる恐怖なのだろうか。】
自身や世間を捉える視点が鋭く、さらにそれを、絶妙な“醜さ”をブレンドした可憐な文章で綴るので、なんとなく陶酔するような感覚に襲われる。日記の後半は、事実なんだか分からないような、ポエムチックな文章が続くようになってしまい、個人的にはそこだけ不満が残るのだけど(でも、そういう部分を読んで、もしかしてこの本は、本当の日記ではなくて、小説なのか?と思ったりした。もし本書が小説であるなら、それはそれで驚愕する)、全体的には、過剰な自意識に埋もれるようにして窒息死寸前の人間が、息も絶え絶えなんとか呼吸しながらこの日常の中で生き延びていく様が丁寧に綴られていて、非常に面白く作品でした。
少年アヤ「焦心日記」
「音量を上げろタコ!なに歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!!」を観に行ってきました
メジャーの映画で、このフザケ感は凄いなぁ、という感じがしました。
っていうか、メジャーだからここまでフザケられるのかな???
個人的には、うまく面白さを理解しにくいなぁ、という映画でした。
たぶん作り手側が、「分かる人に分かってくれたらいい」という遊びをふんだんに取り入れているんだろうし、たぶんそういう遊びについていける人は楽しく観れるんだろうけど、置き去りにされる人もいるだろうなぁ、と思ったりします。だからってこの映画がダメだとかそんな風に言いたいわけではないんだけど、僕にはちょっと合わなかったかな。
内容に入ろうと思います。
人間離れした爆声で歌い人気を博しているロックバンドのボーカル・シンは、「声帯ドーピング」という違法なやり方でその驚異の声を作り出している。筋肉増強剤で声帯を強くするが故に、その声帯に引っ張られる形で喉が裂け始めており、シンの喉はもう限界に近づきつつある。ライブ中に血を吐くことも多く、社長から歌うなと言われているが、シンは歌う。ライブ後、ピザ屋のバイクを借りて夜の町を疾走する。
一方、路上ライブをしているバンドのボーカルであるふうかは、歌っている声が小さくて歌声が聞こえないと言われてしまう始末。ずっと活動を続けてきたバンドだったが、「声が小さいこと」を理由に解散、ふうかはソロになった。バンドを解散した夜、ふうかは夜の町をとぼとぼと歩いている。
そんな二人が、工事現場近くで遭遇する。普段バリバリのメイクをしているシンだが、工事現場から吹き出した水でメイクが落ち、ふうかにはそれが誰なのか分からない。とりあえず、口から血を流している男を連れて帰り、知り合いの医者に見せた。
そこから、シンとふうかの奇妙な関わりが始まっていくのだが…。
というような話です。
ノリとテンションはほぼずっとトップスピードで、そういう映画を求めているならなかなか面白く見れると思います。ただ僕は、やっぱりなんというのか、人的な部分を見ちゃうんで、「ん?ここの感情はどう繋がってるんだ?」みたいに感じるシーンが結構多くて、立ち止まっちゃうことが多かったです。
え、なんでここで泣いてるの?とか、え、なんでここで○○してるの?とか、え、なんでここでこうなってるの?みたいな、疑問続出の展開が、少なくとも僕にとっては結構あって、気になっちゃいました。まあそういうことを気にして見る映画ではないんだろうなぁ、と思いはするんだけど、まあ気になっちゃうんですよねぇ。
音楽が好きな人なら、たぶん色んな場面で色々思ったり感じたりすることはあるんだろうけど、音楽的な素養も知識もない僕には、音楽的な方面で書けることが特にありません。
吉岡里帆は良い感じでした。
「音量を上げろタコ!なに歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!!」を観に行ってきました
っていうか、メジャーだからここまでフザケられるのかな???
個人的には、うまく面白さを理解しにくいなぁ、という映画でした。
たぶん作り手側が、「分かる人に分かってくれたらいい」という遊びをふんだんに取り入れているんだろうし、たぶんそういう遊びについていける人は楽しく観れるんだろうけど、置き去りにされる人もいるだろうなぁ、と思ったりします。だからってこの映画がダメだとかそんな風に言いたいわけではないんだけど、僕にはちょっと合わなかったかな。
内容に入ろうと思います。
人間離れした爆声で歌い人気を博しているロックバンドのボーカル・シンは、「声帯ドーピング」という違法なやり方でその驚異の声を作り出している。筋肉増強剤で声帯を強くするが故に、その声帯に引っ張られる形で喉が裂け始めており、シンの喉はもう限界に近づきつつある。ライブ中に血を吐くことも多く、社長から歌うなと言われているが、シンは歌う。ライブ後、ピザ屋のバイクを借りて夜の町を疾走する。
一方、路上ライブをしているバンドのボーカルであるふうかは、歌っている声が小さくて歌声が聞こえないと言われてしまう始末。ずっと活動を続けてきたバンドだったが、「声が小さいこと」を理由に解散、ふうかはソロになった。バンドを解散した夜、ふうかは夜の町をとぼとぼと歩いている。
そんな二人が、工事現場近くで遭遇する。普段バリバリのメイクをしているシンだが、工事現場から吹き出した水でメイクが落ち、ふうかにはそれが誰なのか分からない。とりあえず、口から血を流している男を連れて帰り、知り合いの医者に見せた。
そこから、シンとふうかの奇妙な関わりが始まっていくのだが…。
というような話です。
ノリとテンションはほぼずっとトップスピードで、そういう映画を求めているならなかなか面白く見れると思います。ただ僕は、やっぱりなんというのか、人的な部分を見ちゃうんで、「ん?ここの感情はどう繋がってるんだ?」みたいに感じるシーンが結構多くて、立ち止まっちゃうことが多かったです。
え、なんでここで泣いてるの?とか、え、なんでここで○○してるの?とか、え、なんでここでこうなってるの?みたいな、疑問続出の展開が、少なくとも僕にとっては結構あって、気になっちゃいました。まあそういうことを気にして見る映画ではないんだろうなぁ、と思いはするんだけど、まあ気になっちゃうんですよねぇ。
音楽が好きな人なら、たぶん色んな場面で色々思ったり感じたりすることはあるんだろうけど、音楽的な素養も知識もない僕には、音楽的な方面で書けることが特にありません。
吉岡里帆は良い感じでした。
「音量を上げろタコ!なに歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!!」を観に行ってきました
「判決、ふたつの希望」を観に行ってきました
この映画を観るには、僕にはちょっと知識が無さすぎた。
それでも、凄い映画だということは分かる。
見て良かった。
個人には、どうにもならないことがある。
例えば、「災害」などはその最たるものだろう。
もちろん、自然災害にも、「人災」に近いものはあるかもしれない。地球温暖化など、人間が地球に負担を掛けていることが、遠回りして自然災害として僕らに返ってきている、ということはあるだろう。しかしそうである場合、先進国に生きる人間は全員加害者ということになるだろうし、それを原因とした対立は生まれないように思う。
戦争や革命などは、個人にはどうにもならないことではあるが、自然災害とはまたちょっと違う。「アラブの春」のような、特定の誰かが主導したわけではない革命もあるが、大体の場合、戦争や革命には、それを引き起こした個人や団体がいる。イデオロギーや宗教などによって「正しさ」は様々だが、戦争や革命などは、明確に「人間」が引き起こしているものだ、と判断できる。
そういうものに巻き込まれた時、個人にはなす術がない。
抗ったり、主張したり、守ったり、戦ったり、勝ったり負けたり、そういうことは、個人の努力でどうにか出来る領域ではなくなってしまう。戦争や革命という外枠に遮られて、「個人」というものがどこまでもないがしろにされていく。そういう現実の中を生きなければならない。
僕は、個人的には、そういう経験をしたことがない。本や映像で、そういう出来事に巻き込まれた人や状況について知識を知っているだけだ。そしてそれらは、どうしても「遠い情報」になってしまう。日本には民族的な対立も、内乱も、目に見える範囲では存在しない。もちろん、どこかには必ずあるのだろうが、はっきりと誰もが認識出来るような形でそれらが社会の中に存在しているわけではない。
だからこそ、想像しにくい。「遠い情報」として、頭で理解するしかない。
この映画の凄さは、そういう「民族的な対立」や「内乱」が、「個人間の争い」として理解出来ることだ。
個人の物語として、民族的な対立や内乱が立ち上がってくるので、「遠い情報」にならずに、その状況を受け入れることが出来る。もちろん、彼らが立つ場所の背景は恐ろしく複雑だ。背景をちゃんと理解しようとすれば、分厚い本を何冊も読まなければならないだろう。しかし、そういう複雑な背景が、「ご近所トラブルに端を発する問題」という、非常にミニマムな世界から湧き上がってくるのだ。
物理学の二大理論として、「相対性理論」と「量子論」がある。大雑把に言うと、相対性理論は惑星などのメチャクチャ大きな対象に、量子論は原子などのメチャクチャ小さな対象に適応する。そして、現在の物理学の難問は、この両者が混じり合わないことなのだ。相対性理論の常識は量子論の世界では通用しないし、量子論の常識は相対性理論の世界では通用しない。科学者たちは今、この二つの理論を融合させようと必死になっている。
この映画からも、似たような印象を受けた。ご近所トラブルは、「量子論」のように小さな世界の話だ。しかし難民や虐殺などは、「相対性理論」のように大きな世界の話。それぞれの領域の内側であれば、適切な解決法が存在するかもしれないが、量子論的な話を相対性理論的な世界で解決しようとすると途端に難しくなっていく。
しかし、現実は現実だ。映画の中の世界(それはつまり、中東の今の現実ということだが)では、量子論的な世界の中に、あっさりと相対性理論的な世界が割り込んでくる。それぞれを分離して、単独で扱うことが出来なくなっている。
その困難さが、この映画では実に見事に描かれている、と感じた。
内容に入ろうと思います(映画では、レバノン人にとって常識であることは当然描かれません。なので、設定などの説明は、僕が映画を見ながらおそらくこうだろうと理解したことを書いています。事実と違っていたらすいません)。
舞台はレバノン。内戦の続く中東の国であり、現在はレバノン人と、国内の難民キャンプで暮らすパレスチナ人が住んでいる。レバノンは「レバノン軍団」という、先の内乱で最も苛烈な虐殺を行ったとされる政治団体が政権を握っており、対立の火種はくすぶったままだ。
自動車修理工場を営むトニーは、そんなレバノン軍団の党員だ。パレスチナ人への異様な敵愾心がある。レバノン軍団の演説を終始テレビで見て、当主の顔写真を家に飾っている。妻のシリーンはそんな夫をそこまで快くは思っていない。それもあって、首都のベイルートではなく、トニーの出身地であるダムールに引っ越したいと言うのだが、にべもなく断られる。
一方、パレスチナ難民であるヤーセルは、不法就労ではあるが、とある工事請負会社で現場監督を務めている。仕事ぶりは実直で、必ず工期内に作業を終わらせると評判だ。
ヤーセルは今、市内の違法建築を修繕する仕事に取り掛かっており、ちょうどトニーの家の真下で作業していた。トニーは日課である水やりをしていたが、バルコニー(これはレバノンでは違法建築だ)に取り付けた排水管から階下に水が流れ、ヤーセルに掛かった。ヤーセルはトニーの自宅を訪れ、違法建築を修繕する目的で排水管を見せてほしいと言ったが、トニーに断られたので、無断で排水管を付け替えた。しかしそのことにトニーは激怒し、付け替えたばかりの排水管を破壊。そのことで頭に血が上ったヤーセルは、トニーに向かって「クズ野郎」と言い放つ。
トニーは侮辱されたことを事務所に抗議した。ヤーセルが謝罪しなければ訴えると伝え、所長はヤーセルに謝罪をさせようと手を尽くすが、色々なすれ違いがあり、ヤーセルはトニーを殴り、肋骨を二本折る怪我をさせてしまった。
やがて裁判が行われた。双方とも代理人を立てずに争ったが、話を聞いた裁判官は、「トニーがヤーセルに対して何らかの暴言(ヤーセルが裁判で明かさなかったので裁判官にはそれがどんな暴言であるか分からない)を向けたことで暴力に至った」と認定。ヤーセルを無罪とする判決を出した。この判決に納得がいかないトニーは、優秀な弁護士と共に控訴審を起こすことになるのだが、この裁判が国を揺るがす大騒動へと発展していく…。
というような物語です。
これは考えさせる物語だったなぁ。正直なところ、背景的なことは知りません。これは映画が悪いわけではなく、僕の知識不足です。おそらく一般的には、世界史や現代史の授業で、大雑把な概要は習うものなんでしょう。僕は、パレスチナやパレスチナ人について、漠然としたおぼろげな知識はありますが、詳しいことはわかりません。そういう状態でこの映画を見ているので、恐らく深いところまでは理解できていないでしょう。
それでも、トニーとヤーセルをとりまく状況が、個人の思惑を離れてどんどん大きくなってしまっている状況に、複雑な感覚を抱くことが出来ます。
正直、争っているトニーとヤーセルのどちらに正義があるのか、僕には分かりません。「どんな理由があれ暴力を振るうのは許されない」という話も分かるし、「暴力を振るわざるを得ないほどの状況はあるし、仕方ない暴力は許容されることもある」という話も分かります。トニーもヤーセルも、世の中のほとんどの人がそうであるように、単純に善悪で切り分けられる存在ではなく、ある場面では悪寄りだし、ある場面では善寄りです。「どちらが正しいのか」という話は、そういう意味で非常に判断が難しい問題です。
ただ、一つだけはっきりしているシンプルな事柄があります。それは、「トニーが求めていたことは謝罪だけである」ということです。これは一貫しています。トニーは、どこかの段階で謝罪をしてくれていれば裁判など起こさなかったと語っています。そう、ヤーセルは、頑なに謝罪しませんでした。その理由も恐らく、過去の歴史や民族的な対立に根ざしているものでしょうから、部外者の僕がどうこう言う話ではありません。ただ、単純な事実として、「トニーは謝罪のみを求めている」し、「ヤーセルが謝罪すればすべて終わる」ということです。
さて、そういう状況の中で始まった裁判ですが、状況は個人の思惑を超えた不可解なものへと進展していくことになります。
裁判という「戦場」においては、「勝つ」か「負ける」かのどちらかしかありません。そして弁護人(代理人?)は、勝つためにあらゆる手を尽くすことになります。しかし…その手段が、原告・被告ともに望んでいないものへと発展していきます。トニーは謝罪だけを求めているし、ヤーセルは実は自分が有罪であることを認めています。しかし、第一審後に起こった状況の変化が、ヤーセルに厳しい現実を突きつけます。詳しいことは書きませんが、ヤーセルは「負ければ過失致死罪として長く刑務所に入れられるかもしれない」という、当初からは想像もつかない難しい立場に置かれることになります。だからこそ、自分の有罪を認めていながらも、裁判の場において戦わざるを得ないという、苦しい立場に置かれます。
苦しいのはトニーも同じです。こちらも詳しいことは書きませんが、トニーにとっても「そんなことをしてまで勝ちたくない」と思えるような、辛く厳しい状況が目の前に現れることになります。「法廷戦術だ」と言われればそれまでですが、個人の感情としては受け入れがたい状況に置かれることになります。
それ以外にも、様々なことが起こります。そのほぼすべてが「場外乱闘」というべきもので、トニー・ヤーセル両者のことは置き去りにされていきます。
そういう中で、置き去りにされた両者が「個人」としてどう振る舞うのか。これについては深く描かれるわけではありませんが、後半のあるシーンで、観る者は二人が置かれた状況の異様さを強く認識するのではないかと思います。
個人という実に小さな世界の物語が、様々なフィルターを通り抜けることで、民族や国家という非常に大きなものと直結し、そうなったが故に個人が置き去りにされていく、という矛盾みたいなものを明確に突きつける映画だと感じました。前半は、トニーもヤーセルもたくさん喋りましたが、後半はほぼ喋る機会がなかった、という意味でも、個人がないがしろにされている状況がうまく描かれていると感じました。
「判決、ふたつの希望」を観に行ってきました
それでも、凄い映画だということは分かる。
見て良かった。
個人には、どうにもならないことがある。
例えば、「災害」などはその最たるものだろう。
もちろん、自然災害にも、「人災」に近いものはあるかもしれない。地球温暖化など、人間が地球に負担を掛けていることが、遠回りして自然災害として僕らに返ってきている、ということはあるだろう。しかしそうである場合、先進国に生きる人間は全員加害者ということになるだろうし、それを原因とした対立は生まれないように思う。
戦争や革命などは、個人にはどうにもならないことではあるが、自然災害とはまたちょっと違う。「アラブの春」のような、特定の誰かが主導したわけではない革命もあるが、大体の場合、戦争や革命には、それを引き起こした個人や団体がいる。イデオロギーや宗教などによって「正しさ」は様々だが、戦争や革命などは、明確に「人間」が引き起こしているものだ、と判断できる。
そういうものに巻き込まれた時、個人にはなす術がない。
抗ったり、主張したり、守ったり、戦ったり、勝ったり負けたり、そういうことは、個人の努力でどうにか出来る領域ではなくなってしまう。戦争や革命という外枠に遮られて、「個人」というものがどこまでもないがしろにされていく。そういう現実の中を生きなければならない。
僕は、個人的には、そういう経験をしたことがない。本や映像で、そういう出来事に巻き込まれた人や状況について知識を知っているだけだ。そしてそれらは、どうしても「遠い情報」になってしまう。日本には民族的な対立も、内乱も、目に見える範囲では存在しない。もちろん、どこかには必ずあるのだろうが、はっきりと誰もが認識出来るような形でそれらが社会の中に存在しているわけではない。
だからこそ、想像しにくい。「遠い情報」として、頭で理解するしかない。
この映画の凄さは、そういう「民族的な対立」や「内乱」が、「個人間の争い」として理解出来ることだ。
個人の物語として、民族的な対立や内乱が立ち上がってくるので、「遠い情報」にならずに、その状況を受け入れることが出来る。もちろん、彼らが立つ場所の背景は恐ろしく複雑だ。背景をちゃんと理解しようとすれば、分厚い本を何冊も読まなければならないだろう。しかし、そういう複雑な背景が、「ご近所トラブルに端を発する問題」という、非常にミニマムな世界から湧き上がってくるのだ。
物理学の二大理論として、「相対性理論」と「量子論」がある。大雑把に言うと、相対性理論は惑星などのメチャクチャ大きな対象に、量子論は原子などのメチャクチャ小さな対象に適応する。そして、現在の物理学の難問は、この両者が混じり合わないことなのだ。相対性理論の常識は量子論の世界では通用しないし、量子論の常識は相対性理論の世界では通用しない。科学者たちは今、この二つの理論を融合させようと必死になっている。
この映画からも、似たような印象を受けた。ご近所トラブルは、「量子論」のように小さな世界の話だ。しかし難民や虐殺などは、「相対性理論」のように大きな世界の話。それぞれの領域の内側であれば、適切な解決法が存在するかもしれないが、量子論的な話を相対性理論的な世界で解決しようとすると途端に難しくなっていく。
しかし、現実は現実だ。映画の中の世界(それはつまり、中東の今の現実ということだが)では、量子論的な世界の中に、あっさりと相対性理論的な世界が割り込んでくる。それぞれを分離して、単独で扱うことが出来なくなっている。
その困難さが、この映画では実に見事に描かれている、と感じた。
内容に入ろうと思います(映画では、レバノン人にとって常識であることは当然描かれません。なので、設定などの説明は、僕が映画を見ながらおそらくこうだろうと理解したことを書いています。事実と違っていたらすいません)。
舞台はレバノン。内戦の続く中東の国であり、現在はレバノン人と、国内の難民キャンプで暮らすパレスチナ人が住んでいる。レバノンは「レバノン軍団」という、先の内乱で最も苛烈な虐殺を行ったとされる政治団体が政権を握っており、対立の火種はくすぶったままだ。
自動車修理工場を営むトニーは、そんなレバノン軍団の党員だ。パレスチナ人への異様な敵愾心がある。レバノン軍団の演説を終始テレビで見て、当主の顔写真を家に飾っている。妻のシリーンはそんな夫をそこまで快くは思っていない。それもあって、首都のベイルートではなく、トニーの出身地であるダムールに引っ越したいと言うのだが、にべもなく断られる。
一方、パレスチナ難民であるヤーセルは、不法就労ではあるが、とある工事請負会社で現場監督を務めている。仕事ぶりは実直で、必ず工期内に作業を終わらせると評判だ。
ヤーセルは今、市内の違法建築を修繕する仕事に取り掛かっており、ちょうどトニーの家の真下で作業していた。トニーは日課である水やりをしていたが、バルコニー(これはレバノンでは違法建築だ)に取り付けた排水管から階下に水が流れ、ヤーセルに掛かった。ヤーセルはトニーの自宅を訪れ、違法建築を修繕する目的で排水管を見せてほしいと言ったが、トニーに断られたので、無断で排水管を付け替えた。しかしそのことにトニーは激怒し、付け替えたばかりの排水管を破壊。そのことで頭に血が上ったヤーセルは、トニーに向かって「クズ野郎」と言い放つ。
トニーは侮辱されたことを事務所に抗議した。ヤーセルが謝罪しなければ訴えると伝え、所長はヤーセルに謝罪をさせようと手を尽くすが、色々なすれ違いがあり、ヤーセルはトニーを殴り、肋骨を二本折る怪我をさせてしまった。
やがて裁判が行われた。双方とも代理人を立てずに争ったが、話を聞いた裁判官は、「トニーがヤーセルに対して何らかの暴言(ヤーセルが裁判で明かさなかったので裁判官にはそれがどんな暴言であるか分からない)を向けたことで暴力に至った」と認定。ヤーセルを無罪とする判決を出した。この判決に納得がいかないトニーは、優秀な弁護士と共に控訴審を起こすことになるのだが、この裁判が国を揺るがす大騒動へと発展していく…。
というような物語です。
これは考えさせる物語だったなぁ。正直なところ、背景的なことは知りません。これは映画が悪いわけではなく、僕の知識不足です。おそらく一般的には、世界史や現代史の授業で、大雑把な概要は習うものなんでしょう。僕は、パレスチナやパレスチナ人について、漠然としたおぼろげな知識はありますが、詳しいことはわかりません。そういう状態でこの映画を見ているので、恐らく深いところまでは理解できていないでしょう。
それでも、トニーとヤーセルをとりまく状況が、個人の思惑を離れてどんどん大きくなってしまっている状況に、複雑な感覚を抱くことが出来ます。
正直、争っているトニーとヤーセルのどちらに正義があるのか、僕には分かりません。「どんな理由があれ暴力を振るうのは許されない」という話も分かるし、「暴力を振るわざるを得ないほどの状況はあるし、仕方ない暴力は許容されることもある」という話も分かります。トニーもヤーセルも、世の中のほとんどの人がそうであるように、単純に善悪で切り分けられる存在ではなく、ある場面では悪寄りだし、ある場面では善寄りです。「どちらが正しいのか」という話は、そういう意味で非常に判断が難しい問題です。
ただ、一つだけはっきりしているシンプルな事柄があります。それは、「トニーが求めていたことは謝罪だけである」ということです。これは一貫しています。トニーは、どこかの段階で謝罪をしてくれていれば裁判など起こさなかったと語っています。そう、ヤーセルは、頑なに謝罪しませんでした。その理由も恐らく、過去の歴史や民族的な対立に根ざしているものでしょうから、部外者の僕がどうこう言う話ではありません。ただ、単純な事実として、「トニーは謝罪のみを求めている」し、「ヤーセルが謝罪すればすべて終わる」ということです。
さて、そういう状況の中で始まった裁判ですが、状況は個人の思惑を超えた不可解なものへと進展していくことになります。
裁判という「戦場」においては、「勝つ」か「負ける」かのどちらかしかありません。そして弁護人(代理人?)は、勝つためにあらゆる手を尽くすことになります。しかし…その手段が、原告・被告ともに望んでいないものへと発展していきます。トニーは謝罪だけを求めているし、ヤーセルは実は自分が有罪であることを認めています。しかし、第一審後に起こった状況の変化が、ヤーセルに厳しい現実を突きつけます。詳しいことは書きませんが、ヤーセルは「負ければ過失致死罪として長く刑務所に入れられるかもしれない」という、当初からは想像もつかない難しい立場に置かれることになります。だからこそ、自分の有罪を認めていながらも、裁判の場において戦わざるを得ないという、苦しい立場に置かれます。
苦しいのはトニーも同じです。こちらも詳しいことは書きませんが、トニーにとっても「そんなことをしてまで勝ちたくない」と思えるような、辛く厳しい状況が目の前に現れることになります。「法廷戦術だ」と言われればそれまでですが、個人の感情としては受け入れがたい状況に置かれることになります。
それ以外にも、様々なことが起こります。そのほぼすべてが「場外乱闘」というべきもので、トニー・ヤーセル両者のことは置き去りにされていきます。
そういう中で、置き去りにされた両者が「個人」としてどう振る舞うのか。これについては深く描かれるわけではありませんが、後半のあるシーンで、観る者は二人が置かれた状況の異様さを強く認識するのではないかと思います。
個人という実に小さな世界の物語が、様々なフィルターを通り抜けることで、民族や国家という非常に大きなものと直結し、そうなったが故に個人が置き去りにされていく、という矛盾みたいなものを明確に突きつける映画だと感じました。前半は、トニーもヤーセルもたくさん喋りましたが、後半はほぼ喋る機会がなかった、という意味でも、個人がないがしろにされている状況がうまく描かれていると感じました。
「判決、ふたつの希望」を観に行ってきました
「あの頃、君を追いかけた。」を観に行ってきました
さて僕は、主演の齋藤飛鳥が好きなので、この映画は正直純粋に観ることは難しい。いやこれは、「つまらなかった」とか「別の主演で冷静にストーリーを堪能したかった」みたいな意味では全然なくて、個人的にはこの映画を楽しんで観ることが出来て実に満足なのだけど、でも「僕が感じた面白さ」は、齋藤飛鳥ファンではない人にはなかなか共有してもらいにくいだろうから、こんな書き出しから始めてみました。
僕は映画を観る前に、雑誌やネットで結構齋藤飛鳥のインタビューを読みました。この映画にどう臨んだのか、演技に対してどう感じたのかなど色んなことが語られているのだけど、その中で結構触れられていたのが、監督から言われたスタンスについてでした。
齋藤飛鳥は、舞台経験はあるものの、映像での演技は(確か)初、もちろん主演も初めてです。だから、どんな風にやればいいのか悩みながら撮影に臨んだと言います。最初は、「早瀬真愛」というキャラクターを良く理解して、作り込んで現場入りしなければならない、と考えていたそうですが、監督から「なるべく作り込まずに、素のままで演じて欲しい」と言われたそうです。
だからでしょう。僕が観る限り、「早瀬真愛」は、まさに齋藤飛鳥そのものだったな、と感じました。
説明の必要はないでしょうが、一応。僕がここで「齋藤飛鳥そのもの」と書いているのは、あくまでも「僕の頭の中の齋藤飛鳥のイメージそのもの」ということです。僕は握手会にもコンサートにも行ったことがなく、齋藤飛鳥のことはテレビか雑誌のインタビューぐらいでしか知りません。もちろん、直接会うことがあったところで大した差はないでしょうが、とりあえずそんな風に、テレビや雑誌から得た知識で「自分なりの齋藤飛鳥像」を作っていて、それと比べて、という話です。
素のままの齋藤飛鳥で「早瀬真愛」を演じていた、ということと、僕の「自分なりの齋藤飛鳥像」という話から、非常に印象的なセリフを抜き出してみます。
『私のこと、良く思いすぎてない?たぶん、美化してる』
『あなたが好きになったのは、想像の中の私かも』
齋藤飛鳥も、凄く言いそうなセリフですよね。僕は以前からこういう、「自分の中の自信のなさから他者の好意を素直に受けとめきれない」「自分に都合が良すぎる状況を信じたために裏切られるのが怖くて信じきれない」みたいな発言を、齋藤飛鳥のインタビューの中で見ていたので、あのシーンでの「早瀬真愛」の感覚が凄く理解できた気がしたんだけど、齋藤飛鳥という人を知らないまま映画を観ている場合どうなんだろうな、という感じはしました。そこまでのストーリー的に、「早瀬真愛」は確かに他者とあまり関わりを持とうとしてこなかったけど、それは「自信のなさ」というより「自分なりの生き方を貫いている」という風に見えていたからです。
こんなセリフが印象的でした。
「水島浩介」が「早瀬真愛」に、「何故親切な命令をしてくれるの?」と聞く場面があります。自作の数学のテストを浩介に渡して、浩介が嫌がるシーンです。
「早瀬真愛」の返答はこうでした。
『軽蔑したくないから。(浩介が、「数学のテストの点数なんかで軽蔑されるのかよ」と返すと、)私が軽蔑するのは、努力していないのに人の努力を軽んじる人よ』
こういうシーンが結構あるんですよね。もちろん、映画後半の変化からすると、最初の方のこういうシーンは実は照れ隠しで、最初から浩介のことが好きだったけどそれを素直に表に出すのが怖いという自信のなさの表れだったのかもしれないとも思う。けど、うーん、どうなんかな?
他にも、齋藤飛鳥が言いそうだなぁ、というセリフが色々ありました。例えばこんな場面。
『(数学が人生の何の役に立つんだ、という浩介の疑問を受けて)見返りを求めない努力が人生には必要なんだと思う。それに、幼稚なことばっかり言って何が人生の役に立つの?』
まあここまで苛烈なことをはっきりと口に出すことはないでしょうけど、心の中ではこんな風に思ってるだろうなぁ、という気がしました。
そんなわけで僕はこの映画をずっと、齋藤飛鳥だと思って観ていました。たぶんこれは、齋藤飛鳥自身にとってはあまり嬉しくない評価かもなぁ、と思います。いくら素でやってくれと言われたと言っても、彼女は「早瀬真愛」というキャラクターを演じているわけだから、恐らく「早瀬真愛」を齋藤飛鳥本人と観るような見られ方は好まないような気がします。でも、セリフとか表情とかから、やっぱり齋藤飛鳥感が強く滲み出ていたなと思いました。特に笑い方なんか、僕がテレビとかでよく見る齋藤飛鳥そのものという感じでした。上手く説明できないけど、息を吐き出すような笑い方じゃなくて、息を吸うような笑い方をするようなイメージがあって、映画でもそういう笑い方をしていたなと思いました。
この映画に関連するインタビューの中で、齋藤飛鳥本人も、また共演者も、「齋藤飛鳥の壁」の話をしていました。齋藤飛鳥本人は、他の共演者に対して壁を作っていたつもりはなかったらしいけど、普段の齋藤飛鳥のままでいたら、そりゃあ壁があるように見えるだろうな、と。他の共演者は、その壁が厚すぎて、この映画無理なんじゃないか、と思っていたみたいな発言をしていました。でも、映画を撮影していく中で徐々に共演者たちと打ち解けていくことが出来て、それが映画のストーリーとうまくシンクロしていって良かった、というようなことも言っていました。
そういう意味でもこの映画は、まさに齋藤飛鳥らしさ全開と言えるでしょう。映画の中でマドンナ的な立場である「早瀬真愛」は、多くの人から注目を集める存在でありながら、「昭和の道徳」と言われる古風な言動と、他人に心を開かないあり方から、特に男子は近づけないでいる存在。現実の齋藤飛鳥も、乃木坂46のメンバーと一緒にいてさえそこまで馴れ合った関係にならない、という色んなメンバーからの証言がある通り、女性であっても他者との関係を築き上げていくのに時間が掛かるタイプ。それが、映画の中の時間、そして撮影の中の時間が経過していくにつれて少しずつ変化していくという流れが垣間見れたような感じがして、とても良かったです。パンフレットによれば、齋藤飛鳥はクランクアップの時泣いたと言います。その涙には色んな理由があったと本人は書いているけど、どんな理由であれ、「感情がこみ上げてきて涙する」というのは、僕がイメージする齋藤飛鳥像では相当レアな事柄なので、この映画の撮影を通じてまた変わった部分があるのかもしれないな、と思いました。
あと余談だけど、齋藤飛鳥絡みで言えば、映画の中で「カップスター」やパソコンの「mouse」なんかが、実にさりげない感じで登場していて、齋藤飛鳥の(というか乃木坂46)のファンだったら気づけるようなちょっとしたアクセントになっています。あと、映画の中で「水島浩介」が「なんでしゅか?」と返す場面があるんだけど、あれは齋藤飛鳥のニックネームの一つである「あしゅ」と関係あるんだろうか?とか考えてしまいました。
内容に入ろうと思います。
北島康介が「なんも言えねぇ」と言った少し後、スカイツリーの工事が始まった頃、まだガラケーが主流だった頃の地方の高校が舞台。校則が厳しい学校で、「天然パーマ証明書」を提出しなければならない水島浩介は、しかし教師からの再三の催促を無視する、割と問題児。授業中後ろの壁の方を向いていろと言われたりすることもザラで、もちろん成績も良くはない。幼稚園の頃から幼馴染の小松原詩子や、クラスメイトの陽平・健人・寿音・一樹らと、受験勉強もロクにせずにふざけてばかりいる。
早瀬真愛は、学校一のマドンナで、詩子と仲がいい。脳の半分が男だと自覚している詩子とは違って、真愛は町医者の娘で学年一の成績優秀者。浩介とはまるで関わりのない存在だったし、浩介としては融通が利かない“深窓の令嬢”とはあまり関わりたくないと思っていたのだが、ある日教師から、真愛に勉強を教えてもらえと、浩介は真愛の前の席に座らされることになった。
休み時間にアホみたいな会話をしている浩介たちを「幼稚」と突き放す真愛だったが、ある日、普段忘れることのない教科書を忘れてしまったところ、浩介が自分の教科書を真愛に渡し、身代わりとして教師に怒られてくれた。恩義に感じた真愛は、勉強を全然しない浩介のために数学のテストを作成、勉強も見てあげることになるのだが…。
というような話です。
冒頭でも書いた通り、僕はこの映画を純粋には見れません。僕は「齋藤飛鳥ファン」としてこの映画を観てしまったので、一般的にこの映画がどう受け取られるのかちょっと分かりません。僕は、「早瀬真愛」と齋藤飛鳥をシンクロさせて見ることで、とても楽しめる映画でしたが、冷静な視点で見た場合、「早瀬真愛」という人物の内面の変化というのはちょっと分かりにくいんじゃないか、という気もしました。
僕がうまく掴めなかったのは、真愛がいつ浩介を好きになったのか、ということ。もちろん、「好きになった瞬間」などというのはなくて、結果的に長い時間を過ごすことになる中で少しずつ、という答えなのかもしれないけど、それでもこういう物語の場合、「ここがそのポイントです!」的な描写って割とされがちかな、と思いました。僕としては、そういうポイントがはっきり描かれることはなかったと感じたので、ある意味でそれはリアルだ、現実らしさだ、とも受け取れましたけど、一方で、真愛という人物の分からなさにも繋がったかな、と。僕は「早瀬真愛」というキャラクターの中に齋藤飛鳥という人格を入れ込んでみていたので、そんなに違和感はありませんでしたけど(齋藤飛鳥であれば、「早瀬真愛」のような振る舞いは自然だな、という意味です)、ただ、ビジュアルはともかく、「齋藤飛鳥」というキャラクターはそこまで広く浸透しているわけではないだろうから、「早瀬真愛」に齋藤飛鳥のキャラクターを重ねずに観ていた人がどう感じるのかはちょっと僕には想像出来ないな、と思いました。
齋藤飛鳥自身もインタビューの中で何度も発言していましたが、僕自身も、こういういわゆる「ザ・青春」のような時間を過ごしたことがないので、「なんか眩しいなぁ」という風にこの映画を観ていました。羨ましい気もするけど、でもそれは決して羨ましいばっかりなわけではない。この時間がずっと続くなら確かに最高なんだけど、そんなわけはないし、かつて自分の手のひらの上にあった何か、あるいは自分のすぐ傍にあった体温とかが、時間とともに「失われた」という感覚になってしまうことが、その後の長い長い人生の中でどう消化(あるいは昇華)出来るのか、イメージできないなという感覚もあります。ただ、「早瀬真愛」あるいは齋藤飛鳥のような人と、人生のごく短い期間であっても関わることが出来る、というのはやっぱり羨ましいよなぁ、という気もするし、そういうヤキモキした感じを、映画中感じていたような気がします。
最後に、この映画のオリジナルについても触れておきましょう。元々は台湾の映画で、2011年に公開されると、ほぼ無名のキャストながら社会現象をまきおこす大ヒット。台湾では10人に1人が観たと言われているそうです。香港では「カンフーハッスル」の記録を塗り替えて、中国語映画の歴代興収ナンバーワンを記録した、とか。この映画は、原作・脚本・監督を自ら務めたギデンズ・コーの実際の物語をベースにしているそうです。実話ベースなのかよ、なんか羨ましいな、という感じがしました。
「あの頃、君を追いかけた。」を観に行ってきました
僕は映画を観る前に、雑誌やネットで結構齋藤飛鳥のインタビューを読みました。この映画にどう臨んだのか、演技に対してどう感じたのかなど色んなことが語られているのだけど、その中で結構触れられていたのが、監督から言われたスタンスについてでした。
齋藤飛鳥は、舞台経験はあるものの、映像での演技は(確か)初、もちろん主演も初めてです。だから、どんな風にやればいいのか悩みながら撮影に臨んだと言います。最初は、「早瀬真愛」というキャラクターを良く理解して、作り込んで現場入りしなければならない、と考えていたそうですが、監督から「なるべく作り込まずに、素のままで演じて欲しい」と言われたそうです。
だからでしょう。僕が観る限り、「早瀬真愛」は、まさに齋藤飛鳥そのものだったな、と感じました。
説明の必要はないでしょうが、一応。僕がここで「齋藤飛鳥そのもの」と書いているのは、あくまでも「僕の頭の中の齋藤飛鳥のイメージそのもの」ということです。僕は握手会にもコンサートにも行ったことがなく、齋藤飛鳥のことはテレビか雑誌のインタビューぐらいでしか知りません。もちろん、直接会うことがあったところで大した差はないでしょうが、とりあえずそんな風に、テレビや雑誌から得た知識で「自分なりの齋藤飛鳥像」を作っていて、それと比べて、という話です。
素のままの齋藤飛鳥で「早瀬真愛」を演じていた、ということと、僕の「自分なりの齋藤飛鳥像」という話から、非常に印象的なセリフを抜き出してみます。
『私のこと、良く思いすぎてない?たぶん、美化してる』
『あなたが好きになったのは、想像の中の私かも』
齋藤飛鳥も、凄く言いそうなセリフですよね。僕は以前からこういう、「自分の中の自信のなさから他者の好意を素直に受けとめきれない」「自分に都合が良すぎる状況を信じたために裏切られるのが怖くて信じきれない」みたいな発言を、齋藤飛鳥のインタビューの中で見ていたので、あのシーンでの「早瀬真愛」の感覚が凄く理解できた気がしたんだけど、齋藤飛鳥という人を知らないまま映画を観ている場合どうなんだろうな、という感じはしました。そこまでのストーリー的に、「早瀬真愛」は確かに他者とあまり関わりを持とうとしてこなかったけど、それは「自信のなさ」というより「自分なりの生き方を貫いている」という風に見えていたからです。
こんなセリフが印象的でした。
「水島浩介」が「早瀬真愛」に、「何故親切な命令をしてくれるの?」と聞く場面があります。自作の数学のテストを浩介に渡して、浩介が嫌がるシーンです。
「早瀬真愛」の返答はこうでした。
『軽蔑したくないから。(浩介が、「数学のテストの点数なんかで軽蔑されるのかよ」と返すと、)私が軽蔑するのは、努力していないのに人の努力を軽んじる人よ』
こういうシーンが結構あるんですよね。もちろん、映画後半の変化からすると、最初の方のこういうシーンは実は照れ隠しで、最初から浩介のことが好きだったけどそれを素直に表に出すのが怖いという自信のなさの表れだったのかもしれないとも思う。けど、うーん、どうなんかな?
他にも、齋藤飛鳥が言いそうだなぁ、というセリフが色々ありました。例えばこんな場面。
『(数学が人生の何の役に立つんだ、という浩介の疑問を受けて)見返りを求めない努力が人生には必要なんだと思う。それに、幼稚なことばっかり言って何が人生の役に立つの?』
まあここまで苛烈なことをはっきりと口に出すことはないでしょうけど、心の中ではこんな風に思ってるだろうなぁ、という気がしました。
そんなわけで僕はこの映画をずっと、齋藤飛鳥だと思って観ていました。たぶんこれは、齋藤飛鳥自身にとってはあまり嬉しくない評価かもなぁ、と思います。いくら素でやってくれと言われたと言っても、彼女は「早瀬真愛」というキャラクターを演じているわけだから、恐らく「早瀬真愛」を齋藤飛鳥本人と観るような見られ方は好まないような気がします。でも、セリフとか表情とかから、やっぱり齋藤飛鳥感が強く滲み出ていたなと思いました。特に笑い方なんか、僕がテレビとかでよく見る齋藤飛鳥そのものという感じでした。上手く説明できないけど、息を吐き出すような笑い方じゃなくて、息を吸うような笑い方をするようなイメージがあって、映画でもそういう笑い方をしていたなと思いました。
この映画に関連するインタビューの中で、齋藤飛鳥本人も、また共演者も、「齋藤飛鳥の壁」の話をしていました。齋藤飛鳥本人は、他の共演者に対して壁を作っていたつもりはなかったらしいけど、普段の齋藤飛鳥のままでいたら、そりゃあ壁があるように見えるだろうな、と。他の共演者は、その壁が厚すぎて、この映画無理なんじゃないか、と思っていたみたいな発言をしていました。でも、映画を撮影していく中で徐々に共演者たちと打ち解けていくことが出来て、それが映画のストーリーとうまくシンクロしていって良かった、というようなことも言っていました。
そういう意味でもこの映画は、まさに齋藤飛鳥らしさ全開と言えるでしょう。映画の中でマドンナ的な立場である「早瀬真愛」は、多くの人から注目を集める存在でありながら、「昭和の道徳」と言われる古風な言動と、他人に心を開かないあり方から、特に男子は近づけないでいる存在。現実の齋藤飛鳥も、乃木坂46のメンバーと一緒にいてさえそこまで馴れ合った関係にならない、という色んなメンバーからの証言がある通り、女性であっても他者との関係を築き上げていくのに時間が掛かるタイプ。それが、映画の中の時間、そして撮影の中の時間が経過していくにつれて少しずつ変化していくという流れが垣間見れたような感じがして、とても良かったです。パンフレットによれば、齋藤飛鳥はクランクアップの時泣いたと言います。その涙には色んな理由があったと本人は書いているけど、どんな理由であれ、「感情がこみ上げてきて涙する」というのは、僕がイメージする齋藤飛鳥像では相当レアな事柄なので、この映画の撮影を通じてまた変わった部分があるのかもしれないな、と思いました。
あと余談だけど、齋藤飛鳥絡みで言えば、映画の中で「カップスター」やパソコンの「mouse」なんかが、実にさりげない感じで登場していて、齋藤飛鳥の(というか乃木坂46)のファンだったら気づけるようなちょっとしたアクセントになっています。あと、映画の中で「水島浩介」が「なんでしゅか?」と返す場面があるんだけど、あれは齋藤飛鳥のニックネームの一つである「あしゅ」と関係あるんだろうか?とか考えてしまいました。
内容に入ろうと思います。
北島康介が「なんも言えねぇ」と言った少し後、スカイツリーの工事が始まった頃、まだガラケーが主流だった頃の地方の高校が舞台。校則が厳しい学校で、「天然パーマ証明書」を提出しなければならない水島浩介は、しかし教師からの再三の催促を無視する、割と問題児。授業中後ろの壁の方を向いていろと言われたりすることもザラで、もちろん成績も良くはない。幼稚園の頃から幼馴染の小松原詩子や、クラスメイトの陽平・健人・寿音・一樹らと、受験勉強もロクにせずにふざけてばかりいる。
早瀬真愛は、学校一のマドンナで、詩子と仲がいい。脳の半分が男だと自覚している詩子とは違って、真愛は町医者の娘で学年一の成績優秀者。浩介とはまるで関わりのない存在だったし、浩介としては融通が利かない“深窓の令嬢”とはあまり関わりたくないと思っていたのだが、ある日教師から、真愛に勉強を教えてもらえと、浩介は真愛の前の席に座らされることになった。
休み時間にアホみたいな会話をしている浩介たちを「幼稚」と突き放す真愛だったが、ある日、普段忘れることのない教科書を忘れてしまったところ、浩介が自分の教科書を真愛に渡し、身代わりとして教師に怒られてくれた。恩義に感じた真愛は、勉強を全然しない浩介のために数学のテストを作成、勉強も見てあげることになるのだが…。
というような話です。
冒頭でも書いた通り、僕はこの映画を純粋には見れません。僕は「齋藤飛鳥ファン」としてこの映画を観てしまったので、一般的にこの映画がどう受け取られるのかちょっと分かりません。僕は、「早瀬真愛」と齋藤飛鳥をシンクロさせて見ることで、とても楽しめる映画でしたが、冷静な視点で見た場合、「早瀬真愛」という人物の内面の変化というのはちょっと分かりにくいんじゃないか、という気もしました。
僕がうまく掴めなかったのは、真愛がいつ浩介を好きになったのか、ということ。もちろん、「好きになった瞬間」などというのはなくて、結果的に長い時間を過ごすことになる中で少しずつ、という答えなのかもしれないけど、それでもこういう物語の場合、「ここがそのポイントです!」的な描写って割とされがちかな、と思いました。僕としては、そういうポイントがはっきり描かれることはなかったと感じたので、ある意味でそれはリアルだ、現実らしさだ、とも受け取れましたけど、一方で、真愛という人物の分からなさにも繋がったかな、と。僕は「早瀬真愛」というキャラクターの中に齋藤飛鳥という人格を入れ込んでみていたので、そんなに違和感はありませんでしたけど(齋藤飛鳥であれば、「早瀬真愛」のような振る舞いは自然だな、という意味です)、ただ、ビジュアルはともかく、「齋藤飛鳥」というキャラクターはそこまで広く浸透しているわけではないだろうから、「早瀬真愛」に齋藤飛鳥のキャラクターを重ねずに観ていた人がどう感じるのかはちょっと僕には想像出来ないな、と思いました。
齋藤飛鳥自身もインタビューの中で何度も発言していましたが、僕自身も、こういういわゆる「ザ・青春」のような時間を過ごしたことがないので、「なんか眩しいなぁ」という風にこの映画を観ていました。羨ましい気もするけど、でもそれは決して羨ましいばっかりなわけではない。この時間がずっと続くなら確かに最高なんだけど、そんなわけはないし、かつて自分の手のひらの上にあった何か、あるいは自分のすぐ傍にあった体温とかが、時間とともに「失われた」という感覚になってしまうことが、その後の長い長い人生の中でどう消化(あるいは昇華)出来るのか、イメージできないなという感覚もあります。ただ、「早瀬真愛」あるいは齋藤飛鳥のような人と、人生のごく短い期間であっても関わることが出来る、というのはやっぱり羨ましいよなぁ、という気もするし、そういうヤキモキした感じを、映画中感じていたような気がします。
最後に、この映画のオリジナルについても触れておきましょう。元々は台湾の映画で、2011年に公開されると、ほぼ無名のキャストながら社会現象をまきおこす大ヒット。台湾では10人に1人が観たと言われているそうです。香港では「カンフーハッスル」の記録を塗り替えて、中国語映画の歴代興収ナンバーワンを記録した、とか。この映画は、原作・脚本・監督を自ら務めたギデンズ・コーの実際の物語をベースにしているそうです。実話ベースなのかよ、なんか羨ましいな、という感じがしました。
「あの頃、君を追いかけた。」を観に行ってきました
熟練校閲者が教える間違えやすい日本語実例集(講談社校閲部)
内容的には、まさにタイトルのまんま、という感じです。面白かった!
タイトルの話で言えば、本書の親本のタイトルは「日本語課外講座 名門校に席をおくな!」だったそうです。「席」の部分に赤丸がされていて、ここが間違っているよ、ということなんだけど分かりますか?答えは「籍」。これは、本書に登場する校閲者の一人が、かつて気づかずに通してしまった間違いだそうです。
で、こんなタイトルにしたばっかりに、書店で進学コーナーに置かれたりもしたそうです(笑)。まあそんな事情もあってか、文庫化に当たりタイトルが変わった、ということでしょうか。
【ていうかホント損ですよね、まず「お褒め」はなくて「お叱り」ですから。問題ないのが当たり前、減点主義で判断されるしかないですからね】
と書いている通り、なかなか大変なお仕事です。校閲者の一人は、かつて「いちぢく(本当は「いちじく」)」を作家に指摘したところ、現在では大家となったその作家は「校閲の分際でこんな生意気な赤字を入れおって」みたいなことを、読者の多い雑誌の座談会で言われて傷ついた、なんてことを書いています。いやはや、大変でございますね、ホント。
最近では、校閲がドラマになったし、あるいはかつて僕は「セブンルール」という番組で女性校閲者が採り上げられていたのを途中から見たこともありますけど、こんな風に「校閲」という仕事が以前よりは世間に認知されている、と言えるかもしれません。あくまでも憶測ですが、その背景には、ネット社会の広がりが関係しているんじゃないか、とも思います。かつて何らかの形で人目に触れる文章は、個人のガリ版刷りみたいなものを除けば、基本的には出版社などのものが主だったでしょう。それらはきちんと校閲されてから世に出るわけです。しかし、ネットが生まれ、SNSやブログが広がったことで、個人が発信できるルールが広がった。そのため、以前にも増して「言葉の取り違え」や「意味の転換」みたいなものが加速しているんじゃないか、と思っています。そういう背景の中で、「校閲」という仕事の重要さみたいなものが改めて認識されているのかもしれない、と思ったりもします。
本書でも、「昔とは違った使い方や表記をされることが多い言葉」が多々紹介されています。「耳ざわり」「棹さす」「ダンボール(段ボール)」「さぼる(サボる)」など、本来の意味や本来の表記から離れた言葉というのはたくさんあって、言葉は時代と共に変わっていくのだということがよく分かります。だからこそ彼らも、
【どちらにも解釈できるケースも多いわけで、どうしても引っ掛かる場合を除けば筆者の語感が尊重されるべきだ、というのが出版人の基本的なスタンスだね】
という形で仕事をしているようです。
もちろん悩むことも多いようで、
【ひとつのことば、ひとつの文章についてさんざん逡巡した挙げ句に思い切って「えいやっ」と直すケース、あるいは逆にためらい傷のように赤ペンをゲラに突いた跡を残しつつ直さなかったケース…、本来の用法と違うことを指摘したほうがよいのか、これも日本語の豊かさのひとつとして許容してよいのか…。校閲者が苦悩するさまは、この本のそこここに載っています】
だそうです。
というわけで、本書で紹介されている事例を様々に採り上げてみようと思いますが、まず本書を読んで一番衝撃的だった言葉から始めましょう。
それは「世間ずれ」です。
多くの人はこの言葉を、「世の中の考え方外れている」と解釈するでしょう。僕もその一人です。実際に文化庁が2014年に調査した結果でも、そう解釈する人が55.2%に上っていました。
しかしこの「世間ずれ」という言葉、「ずれ」を漢字に直すと「擦れ」、つまり「世間と擦れている」という意味なんだそうです。世の中でもまれたため純真さが薄れ、世知にたけている、というのが「世間ずれ」という言葉の本来の意味なんだそうです。そういう正しい捉え方をしている人が、先ほどの調査では35.6%だったとのこと。
いやぁ、これは知らなかったなぁ。本書を読んでて、とにかくこれが一番驚きました。分からないものですね。自分が「正しい」と思っていることが実は間違っている可能性がある、なんてことは、僕は普段から意識しているつもりですけど、まさか「世間ずれ」が間違っているとは思っていなかったので、衝撃でした。
他にも本書で扱われている間違いは色々あって、その中には、「説明されるまで何が間違っているのか分からなかったもの」も多々ありました。いくつか書き出してみます(書いたものが、間違った表記です)
「御頭付きの鯛」「悪どい」「寺小屋」「万事窮す」「写真の修正」
どうでしょうか?何が間違っているか分かるでしょうか?答えはここでは書きませんので考えて見てください。
また、意味をちゃんと理解していなかった言葉もありました。例えば、「一姫二太郎」とか「小春日和」です。「小春日和」って、何月のことを指しているか知ってますか?なんと11月頃だそうですよ。寒くなっていく時期に、時々春のように暖かい日が来ることを「小春日和」と言うんだそうです。ほぇ~。
また、言葉の切り方の無知もありました。例えば僕は、「間髪を入れず」を「間、髪を入れず」と読むことは知っていました。でも、「きら星のごとく」を「きら、星のごとく」、「習性となる」を「習い、性となる」と読むことは知りませんでした。どちらも、「きら星」「習い性」という単語があると思っていましたが、元々はそんな単語はないんだそうです。「習い性」っていうのは、今ではもう辞書に載ってるみたいですけどね。
あと面白かったのが、印刷の限界の話。例えば、「刺身」の「刺」という字と、「溌剌」の「剌」という字は、別の字だけど、文字の小さな印刷だと分からないからいいやと通したことがある、という話。また、究極だというのが「杮落とし(こけらおとし)」の「杮」という漢字。果物の「柿」という字と違う、ということも本書を読むまで知りませんでしたが、本書によると、「こけら」より「かき」の方が一画多いそうです。本書では、どこが違うのか教えてくれなかったですが、気になるなこれ。
また本書には、言葉の語源も色んなところに載っていました。一番へぇと思ったのが、歌舞伎界を指す「梨園」という言葉。これは、等の玄宗皇帝が梨を多く植えた庭園で楽土の子弟を自ら指導した故事にちなんでいるそうです。
そんなわけで、日本語に関する深い知識を学ぶことが出来る一冊です。
講談社校閲部「熟練校閲者が教える間違えやすい日本語実例集」
タイトルの話で言えば、本書の親本のタイトルは「日本語課外講座 名門校に席をおくな!」だったそうです。「席」の部分に赤丸がされていて、ここが間違っているよ、ということなんだけど分かりますか?答えは「籍」。これは、本書に登場する校閲者の一人が、かつて気づかずに通してしまった間違いだそうです。
で、こんなタイトルにしたばっかりに、書店で進学コーナーに置かれたりもしたそうです(笑)。まあそんな事情もあってか、文庫化に当たりタイトルが変わった、ということでしょうか。
【ていうかホント損ですよね、まず「お褒め」はなくて「お叱り」ですから。問題ないのが当たり前、減点主義で判断されるしかないですからね】
と書いている通り、なかなか大変なお仕事です。校閲者の一人は、かつて「いちぢく(本当は「いちじく」)」を作家に指摘したところ、現在では大家となったその作家は「校閲の分際でこんな生意気な赤字を入れおって」みたいなことを、読者の多い雑誌の座談会で言われて傷ついた、なんてことを書いています。いやはや、大変でございますね、ホント。
最近では、校閲がドラマになったし、あるいはかつて僕は「セブンルール」という番組で女性校閲者が採り上げられていたのを途中から見たこともありますけど、こんな風に「校閲」という仕事が以前よりは世間に認知されている、と言えるかもしれません。あくまでも憶測ですが、その背景には、ネット社会の広がりが関係しているんじゃないか、とも思います。かつて何らかの形で人目に触れる文章は、個人のガリ版刷りみたいなものを除けば、基本的には出版社などのものが主だったでしょう。それらはきちんと校閲されてから世に出るわけです。しかし、ネットが生まれ、SNSやブログが広がったことで、個人が発信できるルールが広がった。そのため、以前にも増して「言葉の取り違え」や「意味の転換」みたいなものが加速しているんじゃないか、と思っています。そういう背景の中で、「校閲」という仕事の重要さみたいなものが改めて認識されているのかもしれない、と思ったりもします。
本書でも、「昔とは違った使い方や表記をされることが多い言葉」が多々紹介されています。「耳ざわり」「棹さす」「ダンボール(段ボール)」「さぼる(サボる)」など、本来の意味や本来の表記から離れた言葉というのはたくさんあって、言葉は時代と共に変わっていくのだということがよく分かります。だからこそ彼らも、
【どちらにも解釈できるケースも多いわけで、どうしても引っ掛かる場合を除けば筆者の語感が尊重されるべきだ、というのが出版人の基本的なスタンスだね】
という形で仕事をしているようです。
もちろん悩むことも多いようで、
【ひとつのことば、ひとつの文章についてさんざん逡巡した挙げ句に思い切って「えいやっ」と直すケース、あるいは逆にためらい傷のように赤ペンをゲラに突いた跡を残しつつ直さなかったケース…、本来の用法と違うことを指摘したほうがよいのか、これも日本語の豊かさのひとつとして許容してよいのか…。校閲者が苦悩するさまは、この本のそこここに載っています】
だそうです。
というわけで、本書で紹介されている事例を様々に採り上げてみようと思いますが、まず本書を読んで一番衝撃的だった言葉から始めましょう。
それは「世間ずれ」です。
多くの人はこの言葉を、「世の中の考え方外れている」と解釈するでしょう。僕もその一人です。実際に文化庁が2014年に調査した結果でも、そう解釈する人が55.2%に上っていました。
しかしこの「世間ずれ」という言葉、「ずれ」を漢字に直すと「擦れ」、つまり「世間と擦れている」という意味なんだそうです。世の中でもまれたため純真さが薄れ、世知にたけている、というのが「世間ずれ」という言葉の本来の意味なんだそうです。そういう正しい捉え方をしている人が、先ほどの調査では35.6%だったとのこと。
いやぁ、これは知らなかったなぁ。本書を読んでて、とにかくこれが一番驚きました。分からないものですね。自分が「正しい」と思っていることが実は間違っている可能性がある、なんてことは、僕は普段から意識しているつもりですけど、まさか「世間ずれ」が間違っているとは思っていなかったので、衝撃でした。
他にも本書で扱われている間違いは色々あって、その中には、「説明されるまで何が間違っているのか分からなかったもの」も多々ありました。いくつか書き出してみます(書いたものが、間違った表記です)
「御頭付きの鯛」「悪どい」「寺小屋」「万事窮す」「写真の修正」
どうでしょうか?何が間違っているか分かるでしょうか?答えはここでは書きませんので考えて見てください。
また、意味をちゃんと理解していなかった言葉もありました。例えば、「一姫二太郎」とか「小春日和」です。「小春日和」って、何月のことを指しているか知ってますか?なんと11月頃だそうですよ。寒くなっていく時期に、時々春のように暖かい日が来ることを「小春日和」と言うんだそうです。ほぇ~。
また、言葉の切り方の無知もありました。例えば僕は、「間髪を入れず」を「間、髪を入れず」と読むことは知っていました。でも、「きら星のごとく」を「きら、星のごとく」、「習性となる」を「習い、性となる」と読むことは知りませんでした。どちらも、「きら星」「習い性」という単語があると思っていましたが、元々はそんな単語はないんだそうです。「習い性」っていうのは、今ではもう辞書に載ってるみたいですけどね。
あと面白かったのが、印刷の限界の話。例えば、「刺身」の「刺」という字と、「溌剌」の「剌」という字は、別の字だけど、文字の小さな印刷だと分からないからいいやと通したことがある、という話。また、究極だというのが「杮落とし(こけらおとし)」の「杮」という漢字。果物の「柿」という字と違う、ということも本書を読むまで知りませんでしたが、本書によると、「こけら」より「かき」の方が一画多いそうです。本書では、どこが違うのか教えてくれなかったですが、気になるなこれ。
また本書には、言葉の語源も色んなところに載っていました。一番へぇと思ったのが、歌舞伎界を指す「梨園」という言葉。これは、等の玄宗皇帝が梨を多く植えた庭園で楽土の子弟を自ら指導した故事にちなんでいるそうです。
そんなわけで、日本語に関する深い知識を学ぶことが出来る一冊です。
講談社校閲部「熟練校閲者が教える間違えやすい日本語実例集」
「クワイエットプレイス」を観に行ってきました
いやぁ、怖かった!!
ストーリーとか設定とかそういうことじゃなくて、とにかく「怖がらせること」「驚かせること」に異様に特化した映画だな、と思います。
面白かった。
物語は、リトルフォールズという名前の荒廃した街から始まる。信号は消え、店先には行方不明者の顔写真が大量に貼られている。街中には、ほぼ人影はない。内部がぐちゃぐちゃになっている薬局に、一組の家族がいる。長男の具合が悪く、薬を探しているのだ。長女と次男は、店内で遊んでいる。しかし、音は一切立てない。立ててはいけないのだ。家族はみな、手話で会話をしている。長女は、どうやら耳が聞こえないようだ。しかし、家族がみな手話で会話をするから、支障はない。
次男が、音の出るスペースシャトルのおもちゃを持って帰ろうとする。4歳で、まだまだ小さいから、音を出してはいけないことがうまく理解できないのだ。父親にダメだと言われたおもちゃを、長女は電池を抜いた状態で渡す。(内緒だよ)という手話と共に。ただ次男はこっそり、電池も一緒に持って返ってしまう。
一家の家は、街から離れた場所にあるようだ。両親はザックに大荷物を入れている。川に架かった橋を渡っている時、次男がおもちゃの音を鳴らしてしまった…。
何かの日(あの出来事があった日だろうか?)から472日が経過した。家族は、平原にポツンと立つ家で静かに暮らしていた。静かに家事をし、静かに遊び、静かに暮らす。父親は、様々な国際短波周波数に「SOS」というモールス信号を打ち続けている。しかし、一度も返事が返ってきたことはない。部屋には、かつての新聞が貼られている。「NY封鎖」「上海で多数の犠牲者」「音だ!」「奴らは音に反応する」
母親が血圧を測り、カレンダーに記入している。数週間先に、「出産予定日」の印がある。
というような話です。
最初から最後まで、割と緊張しっぱなしでした。「うわぁ、絶対なんか起こるじゃん!」みたいな予感が満載なんですよね。手話以外のセリフがほぼない中で、重低音を響かせる音楽が、「悪いこと起こりまっせ!」っていう予感をびしびしさせます。それに、映像的にも、「あぁ、これがこうってことは、後々絶対こうなるじゃん。止めて!」みたいな感じの描写が多くて、「止めて止めて!」みたいな感じでずっと待ってました。怖かったなぁ。
とにかく、「奴ら」が何なのかは、さっぱり分かりません。彼ら以外の人々がどうなったのかも、「奴ら」についてどんな研究・対処がされてきたのかも、ストーリーでは描かれません。とにかくこの映画では、「音に反応して捕食する化け物と戦う家族を描く」という部分にかなり全精力を傾けている、という感じがしました。
しかし、凄いですわ。絶体絶命でしょ!っていう場面が何度もありながらも、なんとかするんですよね。それが、物語的にはちゃんと必然性がある感じで、凄く良かったです。
説明的な描写がほぼないので、そういう意味でモヤモヤしてしまう人もいるかもしれないけど、そういうことは気にせず、「ハラハラドキドキの90分を体感する」という感じで映画を観に行くと、結構満足度が高いんじゃないかと思います。
「クワイエットプレイス」を観に行ってきました
ストーリーとか設定とかそういうことじゃなくて、とにかく「怖がらせること」「驚かせること」に異様に特化した映画だな、と思います。
面白かった。
物語は、リトルフォールズという名前の荒廃した街から始まる。信号は消え、店先には行方不明者の顔写真が大量に貼られている。街中には、ほぼ人影はない。内部がぐちゃぐちゃになっている薬局に、一組の家族がいる。長男の具合が悪く、薬を探しているのだ。長女と次男は、店内で遊んでいる。しかし、音は一切立てない。立ててはいけないのだ。家族はみな、手話で会話をしている。長女は、どうやら耳が聞こえないようだ。しかし、家族がみな手話で会話をするから、支障はない。
次男が、音の出るスペースシャトルのおもちゃを持って帰ろうとする。4歳で、まだまだ小さいから、音を出してはいけないことがうまく理解できないのだ。父親にダメだと言われたおもちゃを、長女は電池を抜いた状態で渡す。(内緒だよ)という手話と共に。ただ次男はこっそり、電池も一緒に持って返ってしまう。
一家の家は、街から離れた場所にあるようだ。両親はザックに大荷物を入れている。川に架かった橋を渡っている時、次男がおもちゃの音を鳴らしてしまった…。
何かの日(あの出来事があった日だろうか?)から472日が経過した。家族は、平原にポツンと立つ家で静かに暮らしていた。静かに家事をし、静かに遊び、静かに暮らす。父親は、様々な国際短波周波数に「SOS」というモールス信号を打ち続けている。しかし、一度も返事が返ってきたことはない。部屋には、かつての新聞が貼られている。「NY封鎖」「上海で多数の犠牲者」「音だ!」「奴らは音に反応する」
母親が血圧を測り、カレンダーに記入している。数週間先に、「出産予定日」の印がある。
というような話です。
最初から最後まで、割と緊張しっぱなしでした。「うわぁ、絶対なんか起こるじゃん!」みたいな予感が満載なんですよね。手話以外のセリフがほぼない中で、重低音を響かせる音楽が、「悪いこと起こりまっせ!」っていう予感をびしびしさせます。それに、映像的にも、「あぁ、これがこうってことは、後々絶対こうなるじゃん。止めて!」みたいな感じの描写が多くて、「止めて止めて!」みたいな感じでずっと待ってました。怖かったなぁ。
とにかく、「奴ら」が何なのかは、さっぱり分かりません。彼ら以外の人々がどうなったのかも、「奴ら」についてどんな研究・対処がされてきたのかも、ストーリーでは描かれません。とにかくこの映画では、「音に反応して捕食する化け物と戦う家族を描く」という部分にかなり全精力を傾けている、という感じがしました。
しかし、凄いですわ。絶体絶命でしょ!っていう場面が何度もありながらも、なんとかするんですよね。それが、物語的にはちゃんと必然性がある感じで、凄く良かったです。
説明的な描写がほぼないので、そういう意味でモヤモヤしてしまう人もいるかもしれないけど、そういうことは気にせず、「ハラハラドキドキの90分を体感する」という感じで映画を観に行くと、結構満足度が高いんじゃないかと思います。
「クワイエットプレイス」を観に行ってきました
無痛の子(リサ・ガードナー)
欠損は、その重要性を浮き彫りにする。
【急に腹が立ってきた。自分の呪われた遺伝子に。このおかげで、わたしは永遠にのけ者だ。わたしが何をなげうってでも感じたい、たったひとつの感覚に苦しむ患者たちとすごしていても、わたしの世界には安全を守ってくれるメルヴィンはいない。だからすべてを拒絶しなければならない。趣味も、浜辺を散歩することも。愛も。子供も。子猫も。
わたしはビニールに包まれたおもちゃのようなものだ。壊れないように永遠に棚に置かれたまま、そこからおろされることも、遊ばれることもない。
おもちゃでいたくない。人間でいたい。本物の生きた人間。あちこちを切ったり傷をつくったりして、戦いの古傷や心の傷をかかえた人間。笑い、傷つき、治って生きていく人間。】
主人公の一人は、SCN9A遺伝子の異常により、「痛み」を一切感じない。あまり深く考えなければ、それは羨ましいことのように思えるだろう。転んでも、カッターで切っても、骨折してもまったく痛くないなんて素敵、と。
実際はそうはいかない。まず痛覚のない子供は、3歳までに死んでしまうことが多い。致命傷になる怪我を負っていても、本人がそれに気づけないから手遅れになってしまうのだ。また怪我をしなかったとしても、体温の上昇に気づけずに、熱中症になって命を落としてしまうという。
この主人公は、注意深い養父から様々なことを教わり、注意してきたお陰で、子供の内に命を落とすことはなかった。しかし、生き延びるためには、様々なことを諦めなければならなかった。「趣味も、浜辺を散歩することも。愛も。子供も。子猫も。」である。例えば猫。猫に引っかかれたところで通常は大したことはないし、結構深手を負えば、消毒したり病院に行ったり出来る。でも彼女は、どんな種類の傷にも気づくことが出来ない。だから、猫を飼うことで傷を負い、感染症に罹って命を落とすことがある。護身用にとナイフや銃の扱い方を学ぶことも出来ない。ナイフや銃を扱っている際に何か間違いが起こって自身を傷つけないとも限らないからだ。
普段僕たちは、痛みを嫌なものだと感じる。怪我や病気による痛みに腹を立てたくなる。しかし、痛みを欠損した人物の物語を読むと、痛みのありがたさが分かる。
【姉はあなたやわたしとは違う。あなたやわたしみたいに人に愛着を感じたり、共感をおぼえたり、慰めを得たりすることはないの。姉はひとりだからって寂しいわけじゃない。混雑した部屋に立ってても、姉を愛してると言う男性の腕のなかにいても変わらないのよ。それが姉の人格障害の一部なの】
登場人物の一人は、重度の反社会性パーソナリティ障害を抱えている。正確な表現であるか自信はないが、つまり「感情を欠損している」ということだろう。いや、「寂しさ」は感じないけど「退屈」は感じるらしいから、「他人と関わる上で重要な感情を欠損している」と言うべきだろうか。
ここでは深く触れないが、彼女の欠損は、彼女の人生に大きな困難をもたらす結果となった。
僕たちは普段、自分が、そして周りの多くが当たり前に持っているものについて考えることがない。痛みも感情も、大抵みんな感じる(感じているように見える)ものだ。だから、その重要性について考えることはない。あって当たり前だし、なくなるはずがないと思っているから、ある意味で安心しきっていると言えるだろう。
確かに、痛みや感情がなくなる可能性は低いかもしれない。でも、大体の人が普通に持っているもので、でも失われてもおかしくないもの、というのはあると思う。
例えば、「家族との繋がり」なんてのはどうだろう。
家族との関係が良好であるかどうかは関係なく、繋がりがあるかどうか。皆、誰かの子供として生まれてくるわけだから、生まれた時点ではほぼ確実に家族との繋がりはある。しかし、生きている間に失われてしまうことは充分にあり得る。
僕たちは生きている中で、そういうものへの過信を抱いているように思う。自分も持っているし、周りも大体持っているんだから、失われることはないだろう、というような。
欠損の物語を読んで、何だかそんなことを考えた。
内容に入ろうと思います。
ボストン市警殺人課の部長刑事であるD・D・ウォレンは、シリアルキラーによるものと思しき殺人現場にいた。ナイトテーブルにはシャンパンボトル、血まみれの腹の上には一輪の薔薇。ボトルの横には、毛皮で裏張りされた手錠。そして何よりも、皮膚が何本もの薄いリボン状に剥がれて反り返った死体。
その日の捜査を終えて、皆を帰したD・Dだったが、自身は現場へと戻った。そしてそこで、“何か”が起こった。
気がついたらD・Dは、現場から落ち、左の上腕骨の欠片が剥離骨折した。D・Dは全身の激痛と戦わなければならなくなった。そしてさらに、第一の事件と似たような状態の被害者が発見された。
一方、精神科医であるアデライン・グレンは、マサチューセッツ州刑務所へと向かった。月に1度の、姉との面会日だ。姉のシェイナは14歳で初めて人を殺して、大人と同様に裁かれるという異例の措置が取られ、刑務所へと入った。そして刑務所で刑務官を殺し、一生刑務所から出られないことが決まった。重度の反社会性パーソナリティ障害を患う姉は、他人を操ることに長けており、刑務所内でも常時要注意人物として扱われている。
そんな姉を見舞うアデラインは、先天性無痛症を患っている。痛みを感じられないまま長く生き延びることは難しいが、彼女を引き取ってくれた年配の遺伝学者である養父のお陰で、なんとかここまでやってこれた。
そう、アデラインもシェイナも、まだ幼い頃に両親と離れ離れになった。実は彼らの父は、当時その名を轟かせたシリアルキラーであり、逮捕される直前に風呂場で自殺したのだ。父親が殺人を犯す時、4歳だったシェイナは父と一緒に、そして1歳だったアデラインはクローゼットに隠された。シェイナはある意味で、父親の素質を受け継いでいる、と言えるのかもしれない。
痛みを感じられないアデラインは、それ故に、痛みをコントロールするメンタルテクニックの専門家であり、アデラインの患者として、ボストン市警のD・Dがやってくることとなった。D・Dはアデラインから、「痛みに名前をつけること」と言われ困惑するが、彼女はそれを「メルヴィン」と呼ぶことに決めた。アデラインの指導により、確かにD・Dの激痛は和らぎ、D・Dはこの精神科医を信頼することに決めた。
ボストン市警の調査により、「皮膚が何本もの薄いリボン状に剥がされる」という殺害方法が、過去のデータベースと一致した。それがハリー・デイ、アデラインとシェイナな父親だ。アデラインとハリー・デイの繋がりを知ったD・Dは、長年獄中にいるシェイナに疑いの目を向けるが…。
というような話です。
なかなか面白い作品でした。とにかく、設定が凄い。「父はシリアルキラー、姉は反社会性パーソナリティ障害で殺人犯、妹は先天性無痛症」なんていう、まあ普通はあり得ないだろう設定が、物語上とても良く活かされている。シリアルキラーである父の犯罪は、物語の冒頭からこの作品の土台となっているものであるし、反社会性パーソナリティ障害を患う姉の存在は、(見たことはないけど)「ハンニバル博士」のような異様な存在感があって印象的だ。また、先天性無痛症である妹が、怪我を負って激痛と戦わなければならないD・Dとやり取りする場面はなかなか面白し、そこから事件の捜査が姉のシェイナへと伸びていく展開も良い。また本書のある場面は、反社会性パーソナリティ障害である姉と、先天性無痛症である妹が協力しなければ不可能なものであり、そういう意味でも設定が良く活かされていると思う。
正直に言えば、本筋のストーリーライン、つまり、「この連続殺人事件は誰がどんな理由で起こしているのか」という部分は、そこまで面白いとは思えなかった。ストーリー的にはまとまってると思うんだけど、「なんかそうじゃねぇんだよなぁ」と思ってしまった。そう思ってしまった理由は、「アデラインとD・D」「アデラインとシェイナ」「シェイナと捜査陣」みたいな、本筋のストーリーラインの周辺にある物語の方が圧倒的に魅力があるからだろう。そりゃあそうだ。反社会性パーソナリティ障害の姉と、先天性無痛症の妹の周辺の物語の方が面白いに決まってるだろう。
だから、600ページ弱というページ数も、長く感じてしまった。本筋のストーリーラインに直接関係する通常の捜査の描写は、やはりそこまで惹かれなかった。物語的にちゃんと着地させるためには必要な分量である、とは分かっていても、やはり、周辺の物語の方が面白いので、長いなぁ、と思ってしまいました。
しかし、アデラインとシェイナのやり取りは、なかなか興味深かったなぁ。「姉妹」という単純な括りではもちろん捉えられない。とはいえ、「反社会性パーソナリティ障害と精神科医」というだけの関係でももちろんない。「シリアルキラーである父ハリー・デイの娘」という共闘が出来るわけでもないし、「一生刑務所から出られない重犯罪者と、月1度の面会人」という薄い関係性でもない。姉の内面は不明だが、アデラインに関しては、姉に対する複雑な感情が描かれ、しかもそれが様々な出来事をきっかけにすることでちょっとずつ変化していく。相手は反社会性パーソナリティ障害でかつ殺人犯だ、という意識はもちろんあり、一方で唯一の肉親であるという感覚もあるのだが、さらに姉には、巷で起こっている連続殺人事件の首謀者かもしれない、という疑いさえある。シェイナ・デイという存在を、様々な立場から見なければならないアデラインは、その複雑な状況下で真っ当な感覚を保てなくなってしまうのだ。
その揺らぎに、D・Dを始めとする捜査員や、刑務所所長なんかも翻弄されることになる。アデラインの葛藤を軸にした人間関係の複雑性みたいなものは、かなり楽しめました。
リサ・ガードナー「無痛の子」
【急に腹が立ってきた。自分の呪われた遺伝子に。このおかげで、わたしは永遠にのけ者だ。わたしが何をなげうってでも感じたい、たったひとつの感覚に苦しむ患者たちとすごしていても、わたしの世界には安全を守ってくれるメルヴィンはいない。だからすべてを拒絶しなければならない。趣味も、浜辺を散歩することも。愛も。子供も。子猫も。
わたしはビニールに包まれたおもちゃのようなものだ。壊れないように永遠に棚に置かれたまま、そこからおろされることも、遊ばれることもない。
おもちゃでいたくない。人間でいたい。本物の生きた人間。あちこちを切ったり傷をつくったりして、戦いの古傷や心の傷をかかえた人間。笑い、傷つき、治って生きていく人間。】
主人公の一人は、SCN9A遺伝子の異常により、「痛み」を一切感じない。あまり深く考えなければ、それは羨ましいことのように思えるだろう。転んでも、カッターで切っても、骨折してもまったく痛くないなんて素敵、と。
実際はそうはいかない。まず痛覚のない子供は、3歳までに死んでしまうことが多い。致命傷になる怪我を負っていても、本人がそれに気づけないから手遅れになってしまうのだ。また怪我をしなかったとしても、体温の上昇に気づけずに、熱中症になって命を落としてしまうという。
この主人公は、注意深い養父から様々なことを教わり、注意してきたお陰で、子供の内に命を落とすことはなかった。しかし、生き延びるためには、様々なことを諦めなければならなかった。「趣味も、浜辺を散歩することも。愛も。子供も。子猫も。」である。例えば猫。猫に引っかかれたところで通常は大したことはないし、結構深手を負えば、消毒したり病院に行ったり出来る。でも彼女は、どんな種類の傷にも気づくことが出来ない。だから、猫を飼うことで傷を負い、感染症に罹って命を落とすことがある。護身用にとナイフや銃の扱い方を学ぶことも出来ない。ナイフや銃を扱っている際に何か間違いが起こって自身を傷つけないとも限らないからだ。
普段僕たちは、痛みを嫌なものだと感じる。怪我や病気による痛みに腹を立てたくなる。しかし、痛みを欠損した人物の物語を読むと、痛みのありがたさが分かる。
【姉はあなたやわたしとは違う。あなたやわたしみたいに人に愛着を感じたり、共感をおぼえたり、慰めを得たりすることはないの。姉はひとりだからって寂しいわけじゃない。混雑した部屋に立ってても、姉を愛してると言う男性の腕のなかにいても変わらないのよ。それが姉の人格障害の一部なの】
登場人物の一人は、重度の反社会性パーソナリティ障害を抱えている。正確な表現であるか自信はないが、つまり「感情を欠損している」ということだろう。いや、「寂しさ」は感じないけど「退屈」は感じるらしいから、「他人と関わる上で重要な感情を欠損している」と言うべきだろうか。
ここでは深く触れないが、彼女の欠損は、彼女の人生に大きな困難をもたらす結果となった。
僕たちは普段、自分が、そして周りの多くが当たり前に持っているものについて考えることがない。痛みも感情も、大抵みんな感じる(感じているように見える)ものだ。だから、その重要性について考えることはない。あって当たり前だし、なくなるはずがないと思っているから、ある意味で安心しきっていると言えるだろう。
確かに、痛みや感情がなくなる可能性は低いかもしれない。でも、大体の人が普通に持っているもので、でも失われてもおかしくないもの、というのはあると思う。
例えば、「家族との繋がり」なんてのはどうだろう。
家族との関係が良好であるかどうかは関係なく、繋がりがあるかどうか。皆、誰かの子供として生まれてくるわけだから、生まれた時点ではほぼ確実に家族との繋がりはある。しかし、生きている間に失われてしまうことは充分にあり得る。
僕たちは生きている中で、そういうものへの過信を抱いているように思う。自分も持っているし、周りも大体持っているんだから、失われることはないだろう、というような。
欠損の物語を読んで、何だかそんなことを考えた。
内容に入ろうと思います。
ボストン市警殺人課の部長刑事であるD・D・ウォレンは、シリアルキラーによるものと思しき殺人現場にいた。ナイトテーブルにはシャンパンボトル、血まみれの腹の上には一輪の薔薇。ボトルの横には、毛皮で裏張りされた手錠。そして何よりも、皮膚が何本もの薄いリボン状に剥がれて反り返った死体。
その日の捜査を終えて、皆を帰したD・Dだったが、自身は現場へと戻った。そしてそこで、“何か”が起こった。
気がついたらD・Dは、現場から落ち、左の上腕骨の欠片が剥離骨折した。D・Dは全身の激痛と戦わなければならなくなった。そしてさらに、第一の事件と似たような状態の被害者が発見された。
一方、精神科医であるアデライン・グレンは、マサチューセッツ州刑務所へと向かった。月に1度の、姉との面会日だ。姉のシェイナは14歳で初めて人を殺して、大人と同様に裁かれるという異例の措置が取られ、刑務所へと入った。そして刑務所で刑務官を殺し、一生刑務所から出られないことが決まった。重度の反社会性パーソナリティ障害を患う姉は、他人を操ることに長けており、刑務所内でも常時要注意人物として扱われている。
そんな姉を見舞うアデラインは、先天性無痛症を患っている。痛みを感じられないまま長く生き延びることは難しいが、彼女を引き取ってくれた年配の遺伝学者である養父のお陰で、なんとかここまでやってこれた。
そう、アデラインもシェイナも、まだ幼い頃に両親と離れ離れになった。実は彼らの父は、当時その名を轟かせたシリアルキラーであり、逮捕される直前に風呂場で自殺したのだ。父親が殺人を犯す時、4歳だったシェイナは父と一緒に、そして1歳だったアデラインはクローゼットに隠された。シェイナはある意味で、父親の素質を受け継いでいる、と言えるのかもしれない。
痛みを感じられないアデラインは、それ故に、痛みをコントロールするメンタルテクニックの専門家であり、アデラインの患者として、ボストン市警のD・Dがやってくることとなった。D・Dはアデラインから、「痛みに名前をつけること」と言われ困惑するが、彼女はそれを「メルヴィン」と呼ぶことに決めた。アデラインの指導により、確かにD・Dの激痛は和らぎ、D・Dはこの精神科医を信頼することに決めた。
ボストン市警の調査により、「皮膚が何本もの薄いリボン状に剥がされる」という殺害方法が、過去のデータベースと一致した。それがハリー・デイ、アデラインとシェイナな父親だ。アデラインとハリー・デイの繋がりを知ったD・Dは、長年獄中にいるシェイナに疑いの目を向けるが…。
というような話です。
なかなか面白い作品でした。とにかく、設定が凄い。「父はシリアルキラー、姉は反社会性パーソナリティ障害で殺人犯、妹は先天性無痛症」なんていう、まあ普通はあり得ないだろう設定が、物語上とても良く活かされている。シリアルキラーである父の犯罪は、物語の冒頭からこの作品の土台となっているものであるし、反社会性パーソナリティ障害を患う姉の存在は、(見たことはないけど)「ハンニバル博士」のような異様な存在感があって印象的だ。また、先天性無痛症である妹が、怪我を負って激痛と戦わなければならないD・Dとやり取りする場面はなかなか面白し、そこから事件の捜査が姉のシェイナへと伸びていく展開も良い。また本書のある場面は、反社会性パーソナリティ障害である姉と、先天性無痛症である妹が協力しなければ不可能なものであり、そういう意味でも設定が良く活かされていると思う。
正直に言えば、本筋のストーリーライン、つまり、「この連続殺人事件は誰がどんな理由で起こしているのか」という部分は、そこまで面白いとは思えなかった。ストーリー的にはまとまってると思うんだけど、「なんかそうじゃねぇんだよなぁ」と思ってしまった。そう思ってしまった理由は、「アデラインとD・D」「アデラインとシェイナ」「シェイナと捜査陣」みたいな、本筋のストーリーラインの周辺にある物語の方が圧倒的に魅力があるからだろう。そりゃあそうだ。反社会性パーソナリティ障害の姉と、先天性無痛症の妹の周辺の物語の方が面白いに決まってるだろう。
だから、600ページ弱というページ数も、長く感じてしまった。本筋のストーリーラインに直接関係する通常の捜査の描写は、やはりそこまで惹かれなかった。物語的にちゃんと着地させるためには必要な分量である、とは分かっていても、やはり、周辺の物語の方が面白いので、長いなぁ、と思ってしまいました。
しかし、アデラインとシェイナのやり取りは、なかなか興味深かったなぁ。「姉妹」という単純な括りではもちろん捉えられない。とはいえ、「反社会性パーソナリティ障害と精神科医」というだけの関係でももちろんない。「シリアルキラーである父ハリー・デイの娘」という共闘が出来るわけでもないし、「一生刑務所から出られない重犯罪者と、月1度の面会人」という薄い関係性でもない。姉の内面は不明だが、アデラインに関しては、姉に対する複雑な感情が描かれ、しかもそれが様々な出来事をきっかけにすることでちょっとずつ変化していく。相手は反社会性パーソナリティ障害でかつ殺人犯だ、という意識はもちろんあり、一方で唯一の肉親であるという感覚もあるのだが、さらに姉には、巷で起こっている連続殺人事件の首謀者かもしれない、という疑いさえある。シェイナ・デイという存在を、様々な立場から見なければならないアデラインは、その複雑な状況下で真っ当な感覚を保てなくなってしまうのだ。
その揺らぎに、D・Dを始めとする捜査員や、刑務所所長なんかも翻弄されることになる。アデラインの葛藤を軸にした人間関係の複雑性みたいなものは、かなり楽しめました。
リサ・ガードナー「無痛の子」