「ラ・メゾン 小説家と娼婦」を観に行ってきました
以前友人の女性から、「風俗店で働いている」と教えてもらったことがある。彼女は風俗ではない仕事もしていて、僕はそちらの方で知り合ったのだけど、僕には話しても大丈夫だろうと判断してもらえたのだろう。女性にも男性にも、基本的に周りの人には話していないと言っていた。
彼女からは、「なかなか奇妙なお客さんの話」や「凄かったエピソード」など色々聞いたし、それはそれで面白かったのだけど、僕が印象的に覚えていることはそういうことではない。
彼女は、次のような話をしていたのだ。
【私は「普通」の社会には上手く馴染めない。どこにいても、浮いてしまう。けど、風俗の世界は「普通じゃない人」がたくさんいる。だから私は、風俗の世界にいる時は息がしやすい。】
彼女がセックス的なものを好きだったのか、そういうことは突っ込んで聞いたことはなかったけど、いずれにしても彼女は「自ら望んで風俗の世界にいる」ということだけは確かだと言っていいだろう。
作中でも、作家だが娼婦の世界を描きたいと自ら娼婦として働く主人公(この物語は、実話だそうだ)が、こんなことを言う場面がある。
『周りからの同情心こそが問題なの。女が好きなように生きて、何が悪い?』
本作では、主人公のエマが、「取材」のつもりで始めたことではあるが、性に合っていたというのか馴染んでいるというのか、当初2週間の予定だった「体験」を2年も続けてしまう様が描かれる。そしてその過程で、周囲の人間からあれこれ言われる。一緒に住む妹からは頻繁に「理解できない」と言われ喧嘩になるし、同業者で既婚者の親友でセフレでもある男も止めてほしいという話をする。また、物語の後半で恋人が出来るのだが、その恋人ともあーだこーだある。
そういう中で、僕が興味深いと感じたのが、「『取材である』というエクスキューズをつけなければ、娼婦として働く自分を正当化できない」という主人公の葛藤である。
僕が映画を観た限りの感想では、エマは娼婦という仕事が「好き」だし「合っている」のだと思う。しかし一方で、「そういう風に言ってはいけないのだろう」という自制心も持ち合わせている。だから彼女は、あくまでも「取材のため」という「テイ」で働き続けているのだ。いや、実際にモデルとなった作家は、自身の体験を作品にまとめ、それが本作の原作にもなっているのだから、「取材のため」というのは正しいわけだが、しかしより重要だったのは、「娼婦の世界が合っていた」ということだと僕は思う。
エマを描く描写では、「妹やセフレ、恋人との日常」と「娼婦として客や同僚と関わる日常」が描かれていくわけだが、全体として、「妹やセフレ、恋人との日常」の方にいざこざや言い争いが起こる印象がある。もちろん、客とヤバい状況に陥ったり、同僚と言い争いになったりすることもある。ただ、観客の立場からエマの状況を見た時、「客や同僚との間で嫌なことが起こったら、エマは辞めればいい」という風にしか見えない。別に、娼婦として働くことを誰かに強制されているわけでもないし、大きな借金があるわけでもないのだ。しかしそれでもエマは、娼婦の世界に留まる。まさにそれは、「娼婦の世界が合っている」と言えるのだと思う。
一方、妹との関係は切れないし、恋人は取り替えが利くかもしれないが、しかし彼女は、仮に恋人の方を取り替えたところで、自分が「いい恋人」にはなれないことを自覚しているため、問題は解決しない。彼女にとって、こっちの日常は「辞められない」のだ。そして、そちらの方でいざこざや言い争いを抱えてしまうことになる。
と考えるとむしろ、娼婦の仕事は、「しんどい日常の逃避先」とさえ認識されていた可能性もある。そうだとすれば本当に、冒頭で紹介した女友達の話と近いものがあるだろう。
作中にも出てくるが、エマ(店での名前はたしかジュスティーヌのはず)は「どうしてこんなところで働いてるの?」と聞かれる。この言葉には明らかに、「あなたには相応しくないのにどうして?」という意味が込められているだろう。そして、「あなたには相応しくない」という決めつけに、苛立ちを覚えてしまう人がいるだろうことは想像できる。
息が吸いやすいと感じる場所が、たまたま娼婦という仕事だった、みたいなことだってあるはずなのだが、そういうことはどうも想定されない。「娼婦として働いているのには、何かよんどころない事情があるはずだ」という思い込みが先行するのである。
そしてこのような違和感は、そういう性風俗で働く人だけに向けられるのではなく、いわゆる「負け組」みたいな見られ方をする人全般に対して向けられていると思う。例えば、以前ほどそういう視線は減っただろうが、未だにやはり「結婚していない人は、結婚している人より不幸だ」みたいな感覚があるだろう。「結婚しないことを選び取っている」だけなのに、「結婚出来なかった」みたいな見られ方が先行することは多い。そういう状況に違和感を覚えることは僕も多いので、そういう意味でエマに共感できると感じた。
特段何が起こるというわけでもない物語であり、メチャクチャ面白かったというわけではないのだが、ジェンダーだとか性風俗だとかに収まらない問題を提示しているように僕には感じられたし、なかなか興味深い作品だった。
「ラ・メゾン 小説家と娼婦」を観に行ってきました
彼女からは、「なかなか奇妙なお客さんの話」や「凄かったエピソード」など色々聞いたし、それはそれで面白かったのだけど、僕が印象的に覚えていることはそういうことではない。
彼女は、次のような話をしていたのだ。
【私は「普通」の社会には上手く馴染めない。どこにいても、浮いてしまう。けど、風俗の世界は「普通じゃない人」がたくさんいる。だから私は、風俗の世界にいる時は息がしやすい。】
彼女がセックス的なものを好きだったのか、そういうことは突っ込んで聞いたことはなかったけど、いずれにしても彼女は「自ら望んで風俗の世界にいる」ということだけは確かだと言っていいだろう。
作中でも、作家だが娼婦の世界を描きたいと自ら娼婦として働く主人公(この物語は、実話だそうだ)が、こんなことを言う場面がある。
『周りからの同情心こそが問題なの。女が好きなように生きて、何が悪い?』
本作では、主人公のエマが、「取材」のつもりで始めたことではあるが、性に合っていたというのか馴染んでいるというのか、当初2週間の予定だった「体験」を2年も続けてしまう様が描かれる。そしてその過程で、周囲の人間からあれこれ言われる。一緒に住む妹からは頻繁に「理解できない」と言われ喧嘩になるし、同業者で既婚者の親友でセフレでもある男も止めてほしいという話をする。また、物語の後半で恋人が出来るのだが、その恋人ともあーだこーだある。
そういう中で、僕が興味深いと感じたのが、「『取材である』というエクスキューズをつけなければ、娼婦として働く自分を正当化できない」という主人公の葛藤である。
僕が映画を観た限りの感想では、エマは娼婦という仕事が「好き」だし「合っている」のだと思う。しかし一方で、「そういう風に言ってはいけないのだろう」という自制心も持ち合わせている。だから彼女は、あくまでも「取材のため」という「テイ」で働き続けているのだ。いや、実際にモデルとなった作家は、自身の体験を作品にまとめ、それが本作の原作にもなっているのだから、「取材のため」というのは正しいわけだが、しかしより重要だったのは、「娼婦の世界が合っていた」ということだと僕は思う。
エマを描く描写では、「妹やセフレ、恋人との日常」と「娼婦として客や同僚と関わる日常」が描かれていくわけだが、全体として、「妹やセフレ、恋人との日常」の方にいざこざや言い争いが起こる印象がある。もちろん、客とヤバい状況に陥ったり、同僚と言い争いになったりすることもある。ただ、観客の立場からエマの状況を見た時、「客や同僚との間で嫌なことが起こったら、エマは辞めればいい」という風にしか見えない。別に、娼婦として働くことを誰かに強制されているわけでもないし、大きな借金があるわけでもないのだ。しかしそれでもエマは、娼婦の世界に留まる。まさにそれは、「娼婦の世界が合っている」と言えるのだと思う。
一方、妹との関係は切れないし、恋人は取り替えが利くかもしれないが、しかし彼女は、仮に恋人の方を取り替えたところで、自分が「いい恋人」にはなれないことを自覚しているため、問題は解決しない。彼女にとって、こっちの日常は「辞められない」のだ。そして、そちらの方でいざこざや言い争いを抱えてしまうことになる。
と考えるとむしろ、娼婦の仕事は、「しんどい日常の逃避先」とさえ認識されていた可能性もある。そうだとすれば本当に、冒頭で紹介した女友達の話と近いものがあるだろう。
作中にも出てくるが、エマ(店での名前はたしかジュスティーヌのはず)は「どうしてこんなところで働いてるの?」と聞かれる。この言葉には明らかに、「あなたには相応しくないのにどうして?」という意味が込められているだろう。そして、「あなたには相応しくない」という決めつけに、苛立ちを覚えてしまう人がいるだろうことは想像できる。
息が吸いやすいと感じる場所が、たまたま娼婦という仕事だった、みたいなことだってあるはずなのだが、そういうことはどうも想定されない。「娼婦として働いているのには、何かよんどころない事情があるはずだ」という思い込みが先行するのである。
そしてこのような違和感は、そういう性風俗で働く人だけに向けられるのではなく、いわゆる「負け組」みたいな見られ方をする人全般に対して向けられていると思う。例えば、以前ほどそういう視線は減っただろうが、未だにやはり「結婚していない人は、結婚している人より不幸だ」みたいな感覚があるだろう。「結婚しないことを選び取っている」だけなのに、「結婚出来なかった」みたいな見られ方が先行することは多い。そういう状況に違和感を覚えることは僕も多いので、そういう意味でエマに共感できると感じた。
特段何が起こるというわけでもない物語であり、メチャクチャ面白かったというわけではないのだが、ジェンダーだとか性風俗だとかに収まらない問題を提示しているように僕には感じられたし、なかなか興味深い作品だった。
「ラ・メゾン 小説家と娼婦」を観に行ってきました
「ヴァル・キルマー/映画に人生を捧げた男」を観に行ってきました
さて、特に興味のない人のドキュメンタリー映画を観に行っている僕が悪いわけだけど、そこまで面白い作品ではなかった。
相変わらず、ヴァル・キルマーという人については何も知らなかったわけだけど、『トップガン』とか『バットマン』とかで有名な人のようだ。咽頭がんにかかり、放射線治療と化学療法によって声を失ったこの俳優は、ビデオカメラというものが世の中に出始めた頃から、自身や自身の周囲のことを映像に記録し続けていた。その映像記録を随時折込ながら、ヴァル・キルマーという俳優の現在地に至るまでの来歴を追う作品だ。
興味深いのはやはり、幼い頃からの映像記録が大量に存在することであり、そういう意味ではかなり稀有なドキュメンタリー映画だと言えるだろう。
ヴァル・キルマーに興味がある人なら面白く観られるんじゃないかと思う。
「ヴァル・キルマー/映画に人生を捧げた男」を観に行ってきました
相変わらず、ヴァル・キルマーという人については何も知らなかったわけだけど、『トップガン』とか『バットマン』とかで有名な人のようだ。咽頭がんにかかり、放射線治療と化学療法によって声を失ったこの俳優は、ビデオカメラというものが世の中に出始めた頃から、自身や自身の周囲のことを映像に記録し続けていた。その映像記録を随時折込ながら、ヴァル・キルマーという俳優の現在地に至るまでの来歴を追う作品だ。
興味深いのはやはり、幼い頃からの映像記録が大量に存在することであり、そういう意味ではかなり稀有なドキュメンタリー映画だと言えるだろう。
ヴァル・キルマーに興味がある人なら面白く観られるんじゃないかと思う。
「ヴァル・キルマー/映画に人生を捧げた男」を観に行ってきました
「枯れ葉」を観に行ってきました
さて、良いんだか悪いんだかなんだかなぁ、という感じだった。正直、どうして評価されているのか、ちょっとよく分からない。
『枯れ葉』の予告は、映画館で散々観た。どの映画館でも、公開のちょっと前辺りから、『枯れ葉』の予告を流さないことがないぐらい、とにかく散々観た。ただ、僕はこの映画を全然観るつもりがなかった。特に惹かれる部分がなかったからだ。アキ・カウリスマキって監督のことも知らなかったし。
ただ、公開後、Filmarksの評価がメチャクチャ高くて、うーんどうするかなぁ、と考え直す。で、年末年始でちょうど時間的な余裕があることもあって、まあ観てみるかという感じだった。
で、観てみて、うーんって感じだった。別に全然悪くはなかったけど、だからと言って、この作品がどうして高く評価されてるんだろうなぁ、と思った。まあたぶん、「アキ・カウリスマキ監督」にファンが多くいて、しかも「監督引退宣言をしていたけど戻ってきた」みたいな情報だけは知ってたから、「うぉー、あの監督の新作だぁーーー!!!」みたいな感じで盛り上がってるのかなぁ、という感じがした。
いやこれは別に、『枯れ葉』を良いと感じた人のことをけなしているとか馬鹿にしているみたいなことでは全然ないのだけど。
個人的にメチャクチャびっくりしたのは、『デッド・ドント・ダイ』っていう映画のワンシーンがそのまま『枯れ葉』の中に挿入されていたこと。公式HPによると、『デッド・ドント・ダイ』の監督とは盟友だそうで、それでこのようなやり方になったのだろう。
そんな感じでした。
「枯れ葉」を観に行ってきました
『枯れ葉』の予告は、映画館で散々観た。どの映画館でも、公開のちょっと前辺りから、『枯れ葉』の予告を流さないことがないぐらい、とにかく散々観た。ただ、僕はこの映画を全然観るつもりがなかった。特に惹かれる部分がなかったからだ。アキ・カウリスマキって監督のことも知らなかったし。
ただ、公開後、Filmarksの評価がメチャクチャ高くて、うーんどうするかなぁ、と考え直す。で、年末年始でちょうど時間的な余裕があることもあって、まあ観てみるかという感じだった。
で、観てみて、うーんって感じだった。別に全然悪くはなかったけど、だからと言って、この作品がどうして高く評価されてるんだろうなぁ、と思った。まあたぶん、「アキ・カウリスマキ監督」にファンが多くいて、しかも「監督引退宣言をしていたけど戻ってきた」みたいな情報だけは知ってたから、「うぉー、あの監督の新作だぁーーー!!!」みたいな感じで盛り上がってるのかなぁ、という感じがした。
いやこれは別に、『枯れ葉』を良いと感じた人のことをけなしているとか馬鹿にしているみたいなことでは全然ないのだけど。
個人的にメチャクチャびっくりしたのは、『デッド・ドント・ダイ』っていう映画のワンシーンがそのまま『枯れ葉』の中に挿入されていたこと。公式HPによると、『デッド・ドント・ダイ』の監督とは盟友だそうで、それでこのようなやり方になったのだろう。
そんな感じでした。
「枯れ葉」を観に行ってきました
「PERFECT DAYS」を観に行ってきました
良い映画だったなぁ。
しかし、何が良かったのか、正直よく分からない。最初から最後まで何も起こらないと言えば何も起こらないからだ。ある初老と言っていい男が、渋谷区のトイレ掃除をしながら、淡々とした日常を過ごすだけの物語である。
しかし、これが実に良い。なんというか、「沁みるなぁ」という感じの作品なのだ。ずっと観てられるなぁと感じたし、全然飽きなかった。
まあ、その最大の理由は、やはり主演の役所広司にあるだろう。もし平山を演じたのが役所広司じゃなかったら、また違った印象になっていただろうと思う。
本作を観る前、監督のヴィム・ヴェンダースが役所広司について、こんなことを言っている番組を観た。
【役者なら誰でも、平山を演じられたかもしれない。
しかし役所広司は、平山そのものだった。】
ホントに、この言葉がとてもピッタリ来る作品だった。まさに役所広司が平山そのものだったし、ちょっと他の人では作品が成り立たないような印象がある。
役所広司の何が良かったのか、上手く説明できないが、やはり「トイレの清掃員に見える」というのが強いと思う。本作には、三浦友和も出演しているが、もし三浦友和が平山を演じていたとして、「トイレの清掃員に見える」かと言われると、ちょっとなんとも言えない。映画の主演を張るような人はやはり「名優」と呼ばれる人が多いだろうし、そしてそういう人はやはり、「トイレの清掃員」にはなかなか見えないものだと思う。
また、平山はスカイツリーのお膝元、おそらく墨田区辺りに住んでいると思うのだけど(映画の中でよく登場するのは浅草が多いが)、そういう「下町」の雰囲気にも違和感なく溶け込んでいる。なんにせよ全体的に、「こういう人、いるだろうなぁ」という雰囲気が凄く強いと思う。
だからこそ、ほぼ口を開かない平山が主人公の物語でも「成立」するのだ。凄いものだと思う。
平山の「喋らない」という要素は、実はとても重要だ。そもそも、「平山が何故トイレの清掃員の仕事をしているのか」という説得力になっていると言えるだろう。詳しくは触れないが、平山はどうやら、そのような生活をしなくても大丈夫な境遇にいるらしい。しかし、ほとんど描かれないので具体的には分からないが、色々あったようだ。そして、「人とほとんど関わらずに出来る仕事」という意味で、トイレの清掃員はうってつけだったのだろう。
また、「喋らない」ことで、ある意味で人が寄ってくることにもなる。そのことをある種対比的に描くために登場するのが、平山の後輩であるタカシだろう。彼はお調子者で仕事はサボリ気味でとにかくよく喋る。しかし、「喋りすぎだから」というわけでもないのかもしれないが、思いを寄せている人からはつれない態度を取られてしまう。
一方平山は、とにかく喋らない。質問にも答えなかったりするレベルだ。しかし、人によっては、「喋らないことの心地よさ」みたいなものを感じるだろう。音楽テープのやり取りをするアヤとか、予期せぬ関わりとなったニコとか、平山が通う居酒屋のママとか、そういう人たちが、「平山の周囲に漂う『静かな雰囲気』」を求めて集まってくる、のだと思う。まさに「沈黙は金、雄弁は銀」と言ったところだろうか。
特に、ニコにとって平山は、とても大切な「逃げ場」として認識されたように思う。ニコについてもその背景はほとんど描かれないのだが、なんとなく察するに、ニコは自分が置かれている境遇に馴染めなさを感じているはずだ。そして同時に、平山の生活空間にこそ居心地の良さを感じている。
僕は別に決して、ニコに平山のような人生を勧めたいわけではないが、ただ、若い頃に色んな世界の存在を知ることが出来るのはとても良いことだと思う。恐らくニコの生活圏には、平山のような人はいない。だから、ニコが平山の元へやってくることなく大人になってしまったら、「平山のような世界がある」ということを知る機会さえなかったかもしれない。さらにニコは平山の部屋にあった短編集の中のある短編(確か、パトリシア・ハイスミス『11の物語』の「すっぽん」だと思う)に強く共感していた。この本もまた、ニコの生活圏では出会えなかったものだと思う。「すっぽん」の内容をざっくりネットで調べてみたが、なるほど、ニコがこのような状況にいてもおかしくはない、と感じるものだった。
人間は大体、何らかの「枠」に囚われているものだが、同時に、「囚われている」という感覚さえ持たないまま生きている。しかし何かの拍子にふと、その「枠」の外側に出たりすることがあり、その時に「自分は囚われていたんだ」と気づくことが出来る。ニコにとって平山との出会いはそういうものだったはずだし、それはアヤも、あるいは昼飯を食べる神社で日々顔を合わせる、結局関わりを持つことがなかったOLも、同じなのではないかと思う。
そして割と僕も、そういう存在、つまり、「僕と関わることで『枠の外』に出られた」と感じてもらえるような存在でありたいといつも思っている。そういう点で、僕にとって平山はある種の理想でもある。
世の中には、「一定の『枠の中』に押し込めようとする言説」が蔓延っている。「これが流行っている」「これを買うべきだ」「こうしないと危険だ」「あれは危ないから止めておけ」などはすべて、人々をある枠組みの中に閉じ込めようとするものだ。
そして平山は、そういう動きとは無縁だ。なにせ平山は、ガラケーこそ持っているがスマホは無く、家にはテレビもパソコンもない。フィルムカメラで木漏れ日を撮影し、家ではもっぱら本を読んでいるのである。ニコから「Spotify」の話が出ると、「ショップの名前」だと勘違いしたほどだ。
だから、平山と喋る(まあ、平山は黙っているので「喋る」はおかしいかもしれないが)ことは、そういう言説に疲れている人々にとっては、ある意味で癒やしになっているのだと思う。そういう感覚は、とてもよく理解できる。
また、「一定の『枠の中』に押し込めようとする言説」と無縁の存在として、作中にはホームレスも登場する。映画を観ながら途中で、「あぁ、田中泯だ」と気づいた。彼についても深く掘り下げられることはないが、平山はどことなく彼に共感を抱いているように見える。そしてそれは、「枠の外」にはみ出した者同士の連帯感みたいなものではないかと僕は感じた。ホームレスのその存在感と、田中泯が持つ存在感がダブるところもまた、面白いポイントだと思う。
平山が、「この世界は、色んなところで繋がっているようで、実は繋がっていない世界もあるんだ」みたいなことを言う場面がある。確か、予告でも使われている場面だったように思う。まさにその通り。そして、これは僕の印象だが、世の中の人の多くは、「その事実に気づいていない」か、あるいは「繋がっていない世界のことは攻撃しても良いと勘違いしている」かのどちらかであるように感じられる。
そうじゃないだろ。
僕は、平山のような人間がきちんと社会にも認識され、その状態のまま放っておいてもらえるような世界であることが望ましいと感じている。そして本作では、平山が恐らくかなり努力して作り上げてきたのだろう、そのような状態の日常が描かれていく。
平山は、これでいいのだと思う。同情も批判も不要だ。そのことが、役所広司の演技からじんわりと伝わってくる感じが、とても良かった。
良い映画だったなぁ。
「PERFECT DAYS」を観に行ってきました
しかし、何が良かったのか、正直よく分からない。最初から最後まで何も起こらないと言えば何も起こらないからだ。ある初老と言っていい男が、渋谷区のトイレ掃除をしながら、淡々とした日常を過ごすだけの物語である。
しかし、これが実に良い。なんというか、「沁みるなぁ」という感じの作品なのだ。ずっと観てられるなぁと感じたし、全然飽きなかった。
まあ、その最大の理由は、やはり主演の役所広司にあるだろう。もし平山を演じたのが役所広司じゃなかったら、また違った印象になっていただろうと思う。
本作を観る前、監督のヴィム・ヴェンダースが役所広司について、こんなことを言っている番組を観た。
【役者なら誰でも、平山を演じられたかもしれない。
しかし役所広司は、平山そのものだった。】
ホントに、この言葉がとてもピッタリ来る作品だった。まさに役所広司が平山そのものだったし、ちょっと他の人では作品が成り立たないような印象がある。
役所広司の何が良かったのか、上手く説明できないが、やはり「トイレの清掃員に見える」というのが強いと思う。本作には、三浦友和も出演しているが、もし三浦友和が平山を演じていたとして、「トイレの清掃員に見える」かと言われると、ちょっとなんとも言えない。映画の主演を張るような人はやはり「名優」と呼ばれる人が多いだろうし、そしてそういう人はやはり、「トイレの清掃員」にはなかなか見えないものだと思う。
また、平山はスカイツリーのお膝元、おそらく墨田区辺りに住んでいると思うのだけど(映画の中でよく登場するのは浅草が多いが)、そういう「下町」の雰囲気にも違和感なく溶け込んでいる。なんにせよ全体的に、「こういう人、いるだろうなぁ」という雰囲気が凄く強いと思う。
だからこそ、ほぼ口を開かない平山が主人公の物語でも「成立」するのだ。凄いものだと思う。
平山の「喋らない」という要素は、実はとても重要だ。そもそも、「平山が何故トイレの清掃員の仕事をしているのか」という説得力になっていると言えるだろう。詳しくは触れないが、平山はどうやら、そのような生活をしなくても大丈夫な境遇にいるらしい。しかし、ほとんど描かれないので具体的には分からないが、色々あったようだ。そして、「人とほとんど関わらずに出来る仕事」という意味で、トイレの清掃員はうってつけだったのだろう。
また、「喋らない」ことで、ある意味で人が寄ってくることにもなる。そのことをある種対比的に描くために登場するのが、平山の後輩であるタカシだろう。彼はお調子者で仕事はサボリ気味でとにかくよく喋る。しかし、「喋りすぎだから」というわけでもないのかもしれないが、思いを寄せている人からはつれない態度を取られてしまう。
一方平山は、とにかく喋らない。質問にも答えなかったりするレベルだ。しかし、人によっては、「喋らないことの心地よさ」みたいなものを感じるだろう。音楽テープのやり取りをするアヤとか、予期せぬ関わりとなったニコとか、平山が通う居酒屋のママとか、そういう人たちが、「平山の周囲に漂う『静かな雰囲気』」を求めて集まってくる、のだと思う。まさに「沈黙は金、雄弁は銀」と言ったところだろうか。
特に、ニコにとって平山は、とても大切な「逃げ場」として認識されたように思う。ニコについてもその背景はほとんど描かれないのだが、なんとなく察するに、ニコは自分が置かれている境遇に馴染めなさを感じているはずだ。そして同時に、平山の生活空間にこそ居心地の良さを感じている。
僕は別に決して、ニコに平山のような人生を勧めたいわけではないが、ただ、若い頃に色んな世界の存在を知ることが出来るのはとても良いことだと思う。恐らくニコの生活圏には、平山のような人はいない。だから、ニコが平山の元へやってくることなく大人になってしまったら、「平山のような世界がある」ということを知る機会さえなかったかもしれない。さらにニコは平山の部屋にあった短編集の中のある短編(確か、パトリシア・ハイスミス『11の物語』の「すっぽん」だと思う)に強く共感していた。この本もまた、ニコの生活圏では出会えなかったものだと思う。「すっぽん」の内容をざっくりネットで調べてみたが、なるほど、ニコがこのような状況にいてもおかしくはない、と感じるものだった。
人間は大体、何らかの「枠」に囚われているものだが、同時に、「囚われている」という感覚さえ持たないまま生きている。しかし何かの拍子にふと、その「枠」の外側に出たりすることがあり、その時に「自分は囚われていたんだ」と気づくことが出来る。ニコにとって平山との出会いはそういうものだったはずだし、それはアヤも、あるいは昼飯を食べる神社で日々顔を合わせる、結局関わりを持つことがなかったOLも、同じなのではないかと思う。
そして割と僕も、そういう存在、つまり、「僕と関わることで『枠の外』に出られた」と感じてもらえるような存在でありたいといつも思っている。そういう点で、僕にとって平山はある種の理想でもある。
世の中には、「一定の『枠の中』に押し込めようとする言説」が蔓延っている。「これが流行っている」「これを買うべきだ」「こうしないと危険だ」「あれは危ないから止めておけ」などはすべて、人々をある枠組みの中に閉じ込めようとするものだ。
そして平山は、そういう動きとは無縁だ。なにせ平山は、ガラケーこそ持っているがスマホは無く、家にはテレビもパソコンもない。フィルムカメラで木漏れ日を撮影し、家ではもっぱら本を読んでいるのである。ニコから「Spotify」の話が出ると、「ショップの名前」だと勘違いしたほどだ。
だから、平山と喋る(まあ、平山は黙っているので「喋る」はおかしいかもしれないが)ことは、そういう言説に疲れている人々にとっては、ある意味で癒やしになっているのだと思う。そういう感覚は、とてもよく理解できる。
また、「一定の『枠の中』に押し込めようとする言説」と無縁の存在として、作中にはホームレスも登場する。映画を観ながら途中で、「あぁ、田中泯だ」と気づいた。彼についても深く掘り下げられることはないが、平山はどことなく彼に共感を抱いているように見える。そしてそれは、「枠の外」にはみ出した者同士の連帯感みたいなものではないかと僕は感じた。ホームレスのその存在感と、田中泯が持つ存在感がダブるところもまた、面白いポイントだと思う。
平山が、「この世界は、色んなところで繋がっているようで、実は繋がっていない世界もあるんだ」みたいなことを言う場面がある。確か、予告でも使われている場面だったように思う。まさにその通り。そして、これは僕の印象だが、世の中の人の多くは、「その事実に気づいていない」か、あるいは「繋がっていない世界のことは攻撃しても良いと勘違いしている」かのどちらかであるように感じられる。
そうじゃないだろ。
僕は、平山のような人間がきちんと社会にも認識され、その状態のまま放っておいてもらえるような世界であることが望ましいと感じている。そして本作では、平山が恐らくかなり努力して作り上げてきたのだろう、そのような状態の日常が描かれていく。
平山は、これでいいのだと思う。同情も批判も不要だ。そのことが、役所広司の演技からじんわりと伝わってくる感じが、とても良かった。
良い映画だったなぁ。
「PERFECT DAYS」を観に行ってきました
「エターナル・ドーター」を観に行ってきました
いやー、A24の映画、またしても意味分からず。なんのこっちゃねん。結局最後まで、なんの話か分からなかった。
今、感想を書くために、『エターナル・ドーター』の内容紹介を読んでいたんだけど、「母」役と「娘」役が同一人物だと今知って驚いた。いや確かに、「メチャクチャ似てる人だなぁ」とは思ってたんだけど、まさか一人二役だったとは。そりゃあ似てるわけだわ。とにかくそれが一番驚いた。
あと、同じく内容紹介を読んでいる時に、タイトルが『エターナル・ドーター』だと知った。観る前はずっと『エターナル・ドクター』だと思ってたから、「医者出てこねぇなぁ」と思ってたんだよなぁ。なるほど、「娘」なら納得のタイトルである。
「エターナル・ドーター」を観に行ってきました
今、感想を書くために、『エターナル・ドーター』の内容紹介を読んでいたんだけど、「母」役と「娘」役が同一人物だと今知って驚いた。いや確かに、「メチャクチャ似てる人だなぁ」とは思ってたんだけど、まさか一人二役だったとは。そりゃあ似てるわけだわ。とにかくそれが一番驚いた。
あと、同じく内容紹介を読んでいる時に、タイトルが『エターナル・ドーター』だと知った。観る前はずっと『エターナル・ドクター』だと思ってたから、「医者出てこねぇなぁ」と思ってたんだよなぁ。なるほど、「娘」なら納得のタイトルである。
「エターナル・ドーター」を観に行ってきました
「ファースト・カウ」を観に行ってきました
さて、決して悪くはなかったのだけど、うーんという感じではあった。メチャクチャ面白かった、みたいな感じにはならないなぁ。
アメリカンドリームを目指して、未開拓の地へとやってきた料理人のクッキーと中国人移民のキング・ルーが主人公。この地で幅を利かす権力者の仲買商が雌牛を1頭連れてきたことで物語が動き出す。主人公の2人は、何かチャンスはないかといろいろ考えるが、ある日、その雌牛から勝手にとったミルクでクッキーがドーナツを作り、これでいけるとキング・ルーが確信を持つ。甘いドーナツはすぐさま評判となり売れていくが、やがて仲買商から、ウチに来てカラフティを作ってくれないかと頼まれ……。
というような話です。
派手さのない映画だろうと想像していたから、その点は想像通りだったのだけど、しかしそれにしても特に何が起こるわけでもない物語で、ちょっと僕的には退屈だった。別にサスペンスフルな展開を求めているとかではないけど、もう少し何かあってもいいんじゃないかという気がした。
あと、これも「電気が存在しなかった当時のリアル」という意味では正しいと理解してはいるけど、ただ、「とにかく画面がひたすら暗い」のが大変だった。特に夜のシーンは、本当にほぼ何も見えないぐらい。最初、2人で夜中に雌牛の乳を絞りに行く場面など、牛の姿がちゃんと映るまで、マジで何をやってるんだかさっぱり分からなかった。もしかしたら「映画館で観るのに向いてない作品」だったりするかもなぁ。いや、分からんけど。
こういう作品が評価されるのはなんとなく分からないではないけど、やっぱり「玄人向けだなぁ」と感じてしまうし、ちょっと僕には合わなかったかな。
「ファースト・カウ」を観に行ってきました
アメリカンドリームを目指して、未開拓の地へとやってきた料理人のクッキーと中国人移民のキング・ルーが主人公。この地で幅を利かす権力者の仲買商が雌牛を1頭連れてきたことで物語が動き出す。主人公の2人は、何かチャンスはないかといろいろ考えるが、ある日、その雌牛から勝手にとったミルクでクッキーがドーナツを作り、これでいけるとキング・ルーが確信を持つ。甘いドーナツはすぐさま評判となり売れていくが、やがて仲買商から、ウチに来てカラフティを作ってくれないかと頼まれ……。
というような話です。
派手さのない映画だろうと想像していたから、その点は想像通りだったのだけど、しかしそれにしても特に何が起こるわけでもない物語で、ちょっと僕的には退屈だった。別にサスペンスフルな展開を求めているとかではないけど、もう少し何かあってもいいんじゃないかという気がした。
あと、これも「電気が存在しなかった当時のリアル」という意味では正しいと理解してはいるけど、ただ、「とにかく画面がひたすら暗い」のが大変だった。特に夜のシーンは、本当にほぼ何も見えないぐらい。最初、2人で夜中に雌牛の乳を絞りに行く場面など、牛の姿がちゃんと映るまで、マジで何をやってるんだかさっぱり分からなかった。もしかしたら「映画館で観るのに向いてない作品」だったりするかもなぁ。いや、分からんけど。
こういう作品が評価されるのはなんとなく分からないではないけど、やっぱり「玄人向けだなぁ」と感じてしまうし、ちょっと僕には合わなかったかな。
「ファースト・カウ」を観に行ってきました
「ザ・ヒューマンズ」を観に行ってきました
いやー、恐ろしい。何故なら、最初から最後までちゃんと観たのに、ストーリーが1ミリも理解できなかったからだ。恐ろしい。
確かに途中ちょっとうたた寝したりする場面もあったけど、一瞬だったし、物語全体を捉えるのには影響はなかったはず。それなのに、まったく何の話だったのか理解できなかった。
物語は、ほぼ室内のみで展開される。ある一家が(の娘夫婦が?)引っ越しをし、そのタイミングで久々(なのかな?)に集まった家族で食事をする一夜の話である。引っ越してきた家は、どうやら上階の住人がドスンドスンとしているらしく、時々大きな音がする。しかしそれ以外は、特に何が起こるでもなく、家族がひたすら会話をしているだけの物語だ。
その会話が、とにかく全然分からない。もちろん、普通の家族の会話など、傍から聞いてたって意味不明なものだろうから、そういう意味でリアリティがあるとは言えるだろう。ただ、「ストーリーを理解させる」という意味では、ほぼ何の機能も果たしていないように思う。徐々に、登場人物それぞれが抱える苦労なり現状なりが理解できるようになっていくのだが、「だから何?」という感じだった。
ホントに、何1つ書けることがないくらい、何の話だったのか理解できなかった。マジでなんなんだこの映画。
「ザ・ヒューマンズ」を観に行ってきました
確かに途中ちょっとうたた寝したりする場面もあったけど、一瞬だったし、物語全体を捉えるのには影響はなかったはず。それなのに、まったく何の話だったのか理解できなかった。
物語は、ほぼ室内のみで展開される。ある一家が(の娘夫婦が?)引っ越しをし、そのタイミングで久々(なのかな?)に集まった家族で食事をする一夜の話である。引っ越してきた家は、どうやら上階の住人がドスンドスンとしているらしく、時々大きな音がする。しかしそれ以外は、特に何が起こるでもなく、家族がひたすら会話をしているだけの物語だ。
その会話が、とにかく全然分からない。もちろん、普通の家族の会話など、傍から聞いてたって意味不明なものだろうから、そういう意味でリアリティがあるとは言えるだろう。ただ、「ストーリーを理解させる」という意味では、ほぼ何の機能も果たしていないように思う。徐々に、登場人物それぞれが抱える苦労なり現状なりが理解できるようになっていくのだが、「だから何?」という感じだった。
ホントに、何1つ書けることがないくらい、何の話だったのか理解できなかった。マジでなんなんだこの映画。
「ザ・ヒューマンズ」を観に行ってきました
「ティル」を観に行ってきました
本作で描かれている事件やその顛末、そしてその後についてはもちろん、誰もが知るべきことだと思う。1955年、当時14歳だったエメット・ティル(作中では「ボー」という愛称で呼ばれている)が、従兄弟に会うために、黒人差別が特に厳しかったアメリカ南部、ミシシッピ州マネーを訪れ、ほんの些細なことをきっかけに白人に「リンチ」され、死亡してしまったのだ。アメリカでの「リンチ」は、日本語のそれとは意味が異なり、「白人が黒人に暴力を振るう」ことを意味する。そして当時のアメリカでは、「白人が黒人を殺害しても無罪判決が出る」ような時代だったのだ。
そのような状況の中、母親のメイミー・ティルが立ち上がり、結果として「公民権法」の制定にまで繋がった、その実話を基に描かれる作品だ。
映画の最後には、こんな字幕も表示された。
『エメット・ティル反リンチ法が、2022年3月29日に制定された。事件から実に67年後のことである。』
このような背景もあるため、特にアメリカではよく知られた事件なのだと思う。まったくタイプが異なるので比較するのは正しくないかもしれないが、ただ「知名度」という点で言うなら、日本の「三億円事件」や「グリコ・森永事件」などに近いんじゃないかと想像した。
さてしかし、こういうことを書くのはちょっと気が引けるのだが、正直なところ、「映画としてはさほど面白くなかった」という感じだった。いや、ホント、こんな風に感じない自分でいられたら良かったのだけど、仕方ない。
本作が「実話である」という事実を一旦無視して、単に「物語」であると捉えてみると、基本的には「そういう展開になるよね」という描写の積み重ねという感じだった。もちろん、実話なのだからそれでいいのだし、そこに何かを求めても仕方ないのだが、やはり「物語」という意味でいうと物足りなさを感じてしまった。
少し違う話をしよう。僕は以前、アメリカの秘密を暴露したエドワード・スノーデンの映画を観たことがある。ドキュメンタリー映画の『シチズンフォー』と、フィクション映画の『スノーデン』である。そして、ドキュメンタリー映画をよく観る僕としてはかなり珍しいことに、この2作を比較した時に、フィクション映画の『スノーデン』の方が面白いと感じた。
つまり、「事実そのものがどれだけ強力でも、フィクションの方がより強いインパクトを与えられることもある」というわけだ。
そして、本作『ティル』は、ちょっとそういう感じにはなっていなかったと私には思えてしまった。扱っているテーマは重厚だし、主演女優の演技も凄かったと思うが、それでも僕的にはどうしても、「凄く良かった」という風には感じられなかった。
個人的に最も驚かされたのは、最後に表記された字幕の中の1つ。結局、少年を殺害した2人は無罪になるのだが、その後雑誌で「少年を殺したこと」を告白、それによって4000ドルを手に入れ、生涯自由人として過ごした、という内容だった。なんとも胸糞悪い話だ。
「ティル」を観に行ってきました
そのような状況の中、母親のメイミー・ティルが立ち上がり、結果として「公民権法」の制定にまで繋がった、その実話を基に描かれる作品だ。
映画の最後には、こんな字幕も表示された。
『エメット・ティル反リンチ法が、2022年3月29日に制定された。事件から実に67年後のことである。』
このような背景もあるため、特にアメリカではよく知られた事件なのだと思う。まったくタイプが異なるので比較するのは正しくないかもしれないが、ただ「知名度」という点で言うなら、日本の「三億円事件」や「グリコ・森永事件」などに近いんじゃないかと想像した。
さてしかし、こういうことを書くのはちょっと気が引けるのだが、正直なところ、「映画としてはさほど面白くなかった」という感じだった。いや、ホント、こんな風に感じない自分でいられたら良かったのだけど、仕方ない。
本作が「実話である」という事実を一旦無視して、単に「物語」であると捉えてみると、基本的には「そういう展開になるよね」という描写の積み重ねという感じだった。もちろん、実話なのだからそれでいいのだし、そこに何かを求めても仕方ないのだが、やはり「物語」という意味でいうと物足りなさを感じてしまった。
少し違う話をしよう。僕は以前、アメリカの秘密を暴露したエドワード・スノーデンの映画を観たことがある。ドキュメンタリー映画の『シチズンフォー』と、フィクション映画の『スノーデン』である。そして、ドキュメンタリー映画をよく観る僕としてはかなり珍しいことに、この2作を比較した時に、フィクション映画の『スノーデン』の方が面白いと感じた。
つまり、「事実そのものがどれだけ強力でも、フィクションの方がより強いインパクトを与えられることもある」というわけだ。
そして、本作『ティル』は、ちょっとそういう感じにはなっていなかったと私には思えてしまった。扱っているテーマは重厚だし、主演女優の演技も凄かったと思うが、それでも僕的にはどうしても、「凄く良かった」という風には感じられなかった。
個人的に最も驚かされたのは、最後に表記された字幕の中の1つ。結局、少年を殺害した2人は無罪になるのだが、その後雑誌で「少年を殺したこと」を告白、それによって4000ドルを手に入れ、生涯自由人として過ごした、という内容だった。なんとも胸糞悪い話だ。
「ティル」を観に行ってきました
「ゴジラ-1.0」を観に行ってきました
これはなかなか良かったなぁ。正直、観る予定じゃなかったんだけど、ちょうど「観る予定の映画」が無くなって、『ゴジラ-1.0』『首』『ナポレオン』のどれにするか考えてゴジラを観た。ストーリー的には「まあそうなるよね」って感じだったし、ベタっちゃあベタな物語なんだけど、ベタだからこそ分かりやすく感動できる物語だし、全体的にはとても良かった。
物語は、1945年の大戸島から始まる。特攻機が故障した際の不時着地になっていたこの島に、敷島浩一が降り立つ。整備士の橘からは「故障箇所が見当たらない」と指摘されるが、別の整備士からは、「負けるのは確定なんだし、わざわざ死ぬことはない」と声を掛けてもらえたりした。
その大戸島に、謎の巨大怪獣が現れた。現地住民から「ゴジラ」と呼ばれているそうで、深海魚が海面に浮かぶ日に決まって現れるのだそうだ。為す術もなく隠れる敷島と整備士たち。その時、島にあった零戦の機銃の先にゴジラがやってくるのを見た橘は、敷島に「あれを撃ってゴジラを倒せ」と頼まれる。しかし敷島は結局撃てず、大戸島にいた者は敷島と橘を除いて全員亡くなった。
戦争が終わり、家に戻った敷島は、両親の死を知る。そんなある日、前から男たちに追われた女性が走ってきた。たまたま彼女の通り道にいた敷島は、女性から何かを預かってしまったのだが、なんとそれは赤ん坊だった。そんな縁で、敷島は典子と名乗った女性と共に、戦後の厳しい時代を一緒に生き抜くことになった。
どうしても金が要ると、敷島が見つけてきたのは、復員省お墨付きの仕事。手付金だけでも破格の値段なのだが、相応の理由がある。戦時中に、海中に投下された機雷を処理する仕事なのだ。危険な仕事だと知り敷島を止める典子だったが、「絶対に死ぬわけではない」とその仕事を引き受けるつもりであることを伝える。
「完璧な装備のある船」と聞いていたのだが、目の前にあるのはボロい木造船。しかしそこには理由がある。海には磁気式の機雷も多くあり、金属製の船がその上を通るだけで爆発するのだ。機雷の処理に、木造船はうってつけというわけだ。
戦時中兵器の開発に携わっていた野田、船長の秋津、見習いとして乗っている水島の4人で機雷処理を行っているのだが、そんなある日彼らは、ある特殊任務に駆り出されることになり……。
というような話です。
まず上手いなと思ったのは、物語のかなり早い段階で「ゴジラ」を登場させたこと。本作の場合、「戦後日本で生きる人々の苦労」みたいなものもちゃんと描いているため、もし大戸島でゴジラを登場させなかった場合、ゴジラの初登場が、映画の中盤辺りになることになる。まあそれでも良かったかもしれないが、特にゴジラの場合は「往年のファン」も多いだろうから、「ゴジラ映画なのにゴジラが全然出てこないじゃないか」みたいに感じる人もいたかもしれない。まず大戸島で、ゴジラをきちんと登場させたというのが、物語の構成上、とても良かったなと思う。
あと個人的に感心したのが「わだつみ作戦」だ。つまり「ゴジラを倒すための作戦」である。
映画を観ていて途中から、「これ、どうやって終わらせるんだろうなぁ」と思っていた。舞台は戦後の日本だ。高度な科学技術が無いばかりか、終戦直後であらゆる物資が足りない。そういう中で、出来ることはかなり限られていると言っていいだろう。だから、「ゴジラをどうにかしないと物語が終わらないはずだけど、でもこれ、どうにかする方法あるか?」と感じていたのだ。
物語の中盤以降で、野田が立案した「わだつみ作戦」が説明されるのだけど、これはホント見事だったなと思う。誰が考えたんだろう。オーバーテクノロジーなわけでもなく、ギリギリ「終戦直後の日本」でも可能な作戦に感じられた。恐らく「終戦直後を舞台にゴジラを描く」上での最大の障壁が、「どうやってゴジラを倒すのか」だと思うので、この「わだつみ作戦」がとても重要だったんじゃないかと思う。
しかもその「わだつみ作戦」があった上での最後のあの展開は、それまでの物語の要素をまるっと全部ひっくるめて回収するみたいなところがあって、それも上手かったと思う。いやホント、もちろんVFXが凄い作品なんだと思うけど、ストーリーがちゃんと良かった。もちろん、「単にゴジラが出てきてみんながワイワイするだけの物語」だなんて思ってたわけじゃないけど、思ってた以上に「人間ドラマ」を作り込んでいて、それを「ゴジラ」を軸にちゃんとまとめているのが上手いなと思う。
なかなか良い映画を観れたなという感じだった。
「ゴジラ-1.0」を観に行ってきました
物語は、1945年の大戸島から始まる。特攻機が故障した際の不時着地になっていたこの島に、敷島浩一が降り立つ。整備士の橘からは「故障箇所が見当たらない」と指摘されるが、別の整備士からは、「負けるのは確定なんだし、わざわざ死ぬことはない」と声を掛けてもらえたりした。
その大戸島に、謎の巨大怪獣が現れた。現地住民から「ゴジラ」と呼ばれているそうで、深海魚が海面に浮かぶ日に決まって現れるのだそうだ。為す術もなく隠れる敷島と整備士たち。その時、島にあった零戦の機銃の先にゴジラがやってくるのを見た橘は、敷島に「あれを撃ってゴジラを倒せ」と頼まれる。しかし敷島は結局撃てず、大戸島にいた者は敷島と橘を除いて全員亡くなった。
戦争が終わり、家に戻った敷島は、両親の死を知る。そんなある日、前から男たちに追われた女性が走ってきた。たまたま彼女の通り道にいた敷島は、女性から何かを預かってしまったのだが、なんとそれは赤ん坊だった。そんな縁で、敷島は典子と名乗った女性と共に、戦後の厳しい時代を一緒に生き抜くことになった。
どうしても金が要ると、敷島が見つけてきたのは、復員省お墨付きの仕事。手付金だけでも破格の値段なのだが、相応の理由がある。戦時中に、海中に投下された機雷を処理する仕事なのだ。危険な仕事だと知り敷島を止める典子だったが、「絶対に死ぬわけではない」とその仕事を引き受けるつもりであることを伝える。
「完璧な装備のある船」と聞いていたのだが、目の前にあるのはボロい木造船。しかしそこには理由がある。海には磁気式の機雷も多くあり、金属製の船がその上を通るだけで爆発するのだ。機雷の処理に、木造船はうってつけというわけだ。
戦時中兵器の開発に携わっていた野田、船長の秋津、見習いとして乗っている水島の4人で機雷処理を行っているのだが、そんなある日彼らは、ある特殊任務に駆り出されることになり……。
というような話です。
まず上手いなと思ったのは、物語のかなり早い段階で「ゴジラ」を登場させたこと。本作の場合、「戦後日本で生きる人々の苦労」みたいなものもちゃんと描いているため、もし大戸島でゴジラを登場させなかった場合、ゴジラの初登場が、映画の中盤辺りになることになる。まあそれでも良かったかもしれないが、特にゴジラの場合は「往年のファン」も多いだろうから、「ゴジラ映画なのにゴジラが全然出てこないじゃないか」みたいに感じる人もいたかもしれない。まず大戸島で、ゴジラをきちんと登場させたというのが、物語の構成上、とても良かったなと思う。
あと個人的に感心したのが「わだつみ作戦」だ。つまり「ゴジラを倒すための作戦」である。
映画を観ていて途中から、「これ、どうやって終わらせるんだろうなぁ」と思っていた。舞台は戦後の日本だ。高度な科学技術が無いばかりか、終戦直後であらゆる物資が足りない。そういう中で、出来ることはかなり限られていると言っていいだろう。だから、「ゴジラをどうにかしないと物語が終わらないはずだけど、でもこれ、どうにかする方法あるか?」と感じていたのだ。
物語の中盤以降で、野田が立案した「わだつみ作戦」が説明されるのだけど、これはホント見事だったなと思う。誰が考えたんだろう。オーバーテクノロジーなわけでもなく、ギリギリ「終戦直後の日本」でも可能な作戦に感じられた。恐らく「終戦直後を舞台にゴジラを描く」上での最大の障壁が、「どうやってゴジラを倒すのか」だと思うので、この「わだつみ作戦」がとても重要だったんじゃないかと思う。
しかもその「わだつみ作戦」があった上での最後のあの展開は、それまでの物語の要素をまるっと全部ひっくるめて回収するみたいなところがあって、それも上手かったと思う。いやホント、もちろんVFXが凄い作品なんだと思うけど、ストーリーがちゃんと良かった。もちろん、「単にゴジラが出てきてみんながワイワイするだけの物語」だなんて思ってたわけじゃないけど、思ってた以上に「人間ドラマ」を作り込んでいて、それを「ゴジラ」を軸にちゃんとまとめているのが上手いなと思う。
なかなか良い映画を観れたなという感じだった。
「ゴジラ-1.0」を観に行ってきました
「ヤジと民主主義 劇場拡大版」を観に行ってきました
いやー、これはめっちゃくっちゃ面白かった! 相変わらずどんな内容なのか調べずに映画館に行くので、本作もほぼタイトルぐらいしか知らなかったし、だから正直、観ない可能性もあった。これはホント、観て良かったなぁ。めっちゃくっちゃ面白かった!
さて、本作で扱われているのは、いわゆる「ヤジ排除裁判」と呼ばれているものだ。正直僕は、この出来事のことをまったく知らなかった。新聞は読んでおらず、テレビとネットニュースで世の中の話題を拾っているのだが、少なくとも僕の記憶では、この出来事を、テレビの報道やネットニュースの記事で見た記憶がない。もちろん、僕の見ていない範囲で報道は行われていたと思うが、少なくとも、大きな扱いではなかったとは言えるだろう。
しかしこの事件、ホントに「みんな」に関係ある話だと思う。裁判の原告になったソーシャルワーカーの大杉雅栄氏は、映画の最後にこんなことを言っていた。
『私にとって、裁判で争うことのメリットってまったくないんです。ただ、私は偶然その場に居合わせて、争う責任があると感じたから、結果として原告になっているだけです。だから、最初から一貫して、私は「公共の利益」を求め続けてきました。』
確かにその通りだと思う。裁判で争われた(現在最高裁への上告中なので「争われている」が正解だが)「ヤジ排除」は、まさに「表現の自由」に関するものであり、民主主義の根幹を揺るがすものだからだ。
なんて言われても、「はいはい、政治の話ね。しかも政権の批判でしょ。どうせ、権力者に文句言いたいだけだよね、分かった分かった」みたいにしか感じられないかもしれないが、恐らく、実際の映像を観ればそんな風にはとても言えないんじゃないかと思う。今ちょっと、YouTubeで実際の映像がないか探してみたけど、ちょっと見つからなかった。ホント、「原告2人が、安倍首相にヤジを飛ばしただけで警察から排除された」という動画だけでも観てほしいなと思う(本作では冒頭で、「肩書は取材当時のもの」と表記されるので、この記事でもそれに倣うことにする)。
それでは、「ヤジ排除」が裁判に至った、その経緯について説明しようと思う。
発端は、2019年7月15日に札幌市内で行われた、安倍首相による応援演説である。その演説を見に来ていたのが、先の大杉氏と、大学生だった桃井希生氏の2人。大杉氏は元々、「皆がヤジを飛ばすようなら、自分もそれに乗っかろう」というつもりで演説会場に向かったという。2017年に秋葉原で行われた、安倍首相が「あんな人たちには負けません」と発言して話題になって、あの演説のような状況を想定していたそうだ。
しかし現場では、誰一人反対の声を上げる者がいない。彼は最初、そのまま帰ろうかと思ったそうだ。しかし、「ここで声を上げるのも最悪だが、声を上げずに帰るのはもっと最悪だ」と考え、たった1人で「安倍辞めろ」と声を上げた。ちなみに、特定の政治団体には所属していないし、デモなどに参加したこともないそうだ。
さてすると、彼はすぐに近くにいた複数の警察官に身体を押さえつけられ、そのまま演説場所から離れる方向へと強制的に移動させられたのだ。大杉氏としては意味が分からない。選挙演説中にヤジを飛ばすことが「違法」のはずがないからだ。そこで彼は、取り囲む警察官に「法的根拠」を問いただす。しかし警察官はそれにまともに答えない。「周りの人の迷惑になるから」「演説を聞きたい人がちゃんと聞けないから」みたいな漠然とした理由だけ述べ、しかも、演説会場には絶対に向かわせないように進路妨害や身体の拘束などを行っているのである。
大杉氏は「法的強制力があるんですか?」と聞くが、「無いからお願いしているんです」と言われる。それに対して「じゃあ忖度しろってことですか?」と、当時安倍政権下でよく使われていた「忖度」という言葉を使って問うが、やはり暖簾に腕押しである。そんな押し問答をしている内に演説が終わってしまう。
彼はもう帰ろうかと思っていたそうだが、警察官から「この後どうするんですか?」と聞かれたことで、「そうか、確か大通りでもまた演説をするんだったな」と思い出したそうだ。それで、警察に付きまとわれながら大通りへ向かい、またヤジを飛ばすと、同じように排除される、という結果となった。
さて、もう1人の当事者である桃井氏は、ヤジを飛ばそうなんてまったく考えずにただ演説を聞いていたのだが、大杉氏が警察(彼女はその時点では警察だと思っていなかったようだが)に排除されるのを見て、「ヤジも飛ばせないような世の中はおかしい」と感じ、彼女も1人で「増税反対」と声を上げた。すると、やはり近くにいた警察官に拘束され、無理矢理演説場所から遠ざけられた。彼女も大杉氏と同じように法的根拠などを聞くが、とにかくまったく話が通じない。
しかも彼女の場合、演説が終わった後も、2km 1時間に渡って、2人の女性警官に腕を掴まれたまま歩く羽目になる。女性警官は、「あなたとウィンウィンの関係になりたいだけ」「ジュースでも買ってあげようか」と意味不明なことばかり口にしていた。
この件を不当と判断し、大杉氏と桃井氏は、北海道警察を相手取り裁判を起こす。刑事裁判はどちらも不起訴処分となったが、舞台を民事に移し、国家賠償請求訴訟という形で続くことになる、というわけだ。
現代的なのは、この「ヤジ排除」の様子が複数のカメラに収められていたということだ。大杉氏の場合は一緒にいた友人が、桃井氏の場合は自らのスマホで、状況を撮影していた。しかしそれだけではない。安倍首相の応援演説なのだから当然、マスコミのカメラもたくさんある。そしてそのような衆人環視の中で、堂々と排除が行われたのだ。
彼らの弁護を担当した弁護士は、「もし映像が無かったら裁判を勧めなかった」と言っていた。裁判を起こすことで、警察に一定の抑止を与えることが目的なわけで、負けてしまえばその抑止が利かないどころか、警察をのさばらせることにもなる。だから、敗訴することのデメリットがとても大きな裁判だったと語っていた。
また、確か元北海道警察の原田氏(退任後に、北海道警察の裏金問題を告発したりと、警察批判をすることで知られた人物)の発言だったと思うのだけど、
『一番恐ろしいのは、これが衆人環視の中で行われたことですよ。マスコミのカメラがあってもお構いなしだった。あなたたち、無視されたんですよ』
と言っていたのが印象的だった。もちろんこのことは、ある重要な点を示唆させる。「上からの明確な指示があったこと」である。
少し想像してみてほしい。あなたが安倍首相の応援演説の警護を行う警察官だったとしよう。そもそも上から指示がなければ、ヤジを飛ばした人の排除などするはずもないが、ちょっと無理のある想像をして、「現場の警察官が独自の判断でヤジを飛ばした人物を排除しようした」と考えてみよう。まあ、そういう使命感に駆られる警察官もいるかもしれない。
しかし、当然彼らは「マスコミのカメラの存在」を知っているはずだ。そして、「上からの指示がないのに、自分の勝手な判断でヤジを飛ばした人を排除した場合、何か問題になるのではないか」と躊躇するはずだと思う。普通の人間なら、するだろう。なにせ、「法的根拠の無い行動」を取ろうとしているのだから。
一応書いておくと、刑事裁判で不起訴処分となったのは「適法行為だったから」と判断されたからで、つまり「法的根拠があった」と見做されたのだろう。一方、映画に登場する専門家らは「明らかに違法」と言っているし、まあ普通に考えれば誰もがそう感じると思う。ちなみに、「演説の妨害」については1948年に最高裁が判例を出しており、「聴衆が演説を聴くことを不可能に、あるいは困難ならしめる行為」とされている。これは普通、「複数の人間が拡声器などを使って演説を妨害した場合」などが想定されており、「たった1人で、拡声器も使わずにヤジを飛ばした人間」が「演説の妨害」と見做されることはない。
さて、「上からの指示」が無い場合、マスコミのカメラもあり、もちろん個人がスマホで動画をバンバン撮れる時代に、現場の警察官の判断だけで、法的根拠の無い「ヤジを飛ばした人の排除」など出来るものだろうか? 普通に考えてこの事実は、「上からの指示があった」ということを示唆していると考えるのが自然だろう。
そして、その「上」というのが、実は「かなり上」なのではないかと想像させる状況が存在していたのだ。
2019年当時、警察庁警備局長を務めていたのが大石吉彦という人物なのだが、彼は実は、2012年から6年間、安倍首相の総理秘書官だったのである。当日の警備計画に関する情報開示請求を誰かが行ったのだが、全ページが黒塗りにされた状態だった。しかし隠されていない部分に「大石吉彦警察庁警備局長」の名前があり(それ自体は、警備計画の責任者なのだから当然と言えば当然だが)、黒塗りにされたところには、「大石氏からの、「ヤジを飛ばした人間を排除しろ」という指示が書かれているのではないか」と容易に推察される状況と言えるのである。
Wikipediaによると、彼は後に警視総監になっているそうだ。もちろん、警察庁警備局長という立場も警察内部では相当の立ち位置だろう。そんな人物からもし「通達」があったとすれば、そりゃあ現場としてはマスコミのカメラがあろうがなんだろうが、お構いなしに指示に従おうとするだろう。それが、映像に収められた「法的根拠がまったくないのに、問答無用で個人の権利を侵害し、強制力をもって拘束する」という行為に繋がっているとしか僕には考えられないのだ。
先程紹介した原田氏は、海部総理の警護に関わった経験があるそうだ。現職総理が来るとなれば、それはもう綿密な警護計画が策定されるという。まあ当然だろう。だから彼は、「現場の警察官の独断でやったなんてことはあり得ない」と断言していた。まあ、そりゃあそうだろうと僕も思う。
さて、裁判において警察はどのような主張をしたのかも確認しておこう。彼らとしてももちろん、「演説の妨害に対処しようとした」などという主張が通らないことは理解していたので、別の理屈を持ち出してきた。それが「警察官職務執行法」の第4条と第5条である。
ちょっと長いが、それぞれ条文をコピペしてみよう(「e-Gov法令検索」より)。
第4条 避難等の措置
『警察官は、人の生命若しくは身体に危険を及ぼし、又は財産に重大な損害を及ぼす虞のある天災、事変、工作物の損壊、交通事故、危険物の爆発、狂犬、奔馬の類等の出現、極端な雑踏等危険な事態がある場合においては、その場に居合わせた者、その事物の管理者その他関係者に必要な警告を発し、及び特に急を要する場合においては、危害を受ける虞のある者に対し、その場の危害を避けしめるために必要な限度でこれを引き留め、若しくは避難させ、又はその場に居合わせた者、その事物の管理者その他関係者に対し、危害防止のため通常必要と認められる措置をとることを命じ、又は自らその措置をとることができる。』
第5条 犯罪の予防及び制止
『警察官は、犯罪がまさに行われようとするのを認めたときは、その予防のため関係者に必要な警告を発し、又、もしその行為により人の生命若しくは身体に危険が及び、又は財産に重大な損害を受ける虞があつて、急を要する場合においては、その行為を制止することができる。』
ざっくり言うと、第4条は「津波や爆発などの危険がある時には、人々の安全を確保するために、無理矢理避難させてもいいよ」、第5条は「まさに犯罪が行われようとしているのを防ぐためなら、強制的に静止してもいいよ」ということだ。北海道警察は、堂々とこのような条文を持ち出してきて、「職務は適法だった」と主張したのである。
普通に考えて、第4条が当てはまらないのは明らかだろう。要するに、「メチャクチャ危険な状況だったら、強制力を行使してもいいよ」ということだからだ。ヤジを飛ばした人が拘束された状況は、どう拡大解釈しようが、第4条に当てはまるわけがない。
また、第5条については、映画の中で専門家が「具体的な犯罪が行われようとしている状況」でなければ当てはまらないと言っていた。「何か犯罪が起こるかもしれない」という漠然とした状況ではなく、「このような犯罪が行われるだろうという強い確信」みたいなものが必要だというのである。
さて、この第5条に関係する話として、映画の中でも触れられているが、安倍元首相の銃撃事件や岸田総理の演説会場での爆発事件などが取り上げられている。僕はまったく知らなかったのだが、これらの事件を受けて、「札幌地裁の判決のせいで警備が後手に周り、このような事件が起こったのだ」という批判が上がっていたというのだ。
大杉氏と桃井氏が起こした民事裁判では、一審において「原告側の主張がほぼ100%受け入れられた判決」が出されていた。つまり、「ヤジを飛ばす行為は何ら問題はなく、警察官の行為は明らかに違法だった」という判決が下ったのである。そしてネットで批判していた者たちは、「この判決のせいで銃撃事件などが起こってしまったのだ」と言っているのである。
しかし当然だが、そんなわけがない。弁護を担当した弁護士は、「ヤジ排除」では「やるべきではないことをやったこと」が、そして「銃撃事件」では「やるべきことをやっていなかったこと」が問題なわけで、まったく性質が異なる、と言っていた。僕もそう思う。
しかも、札幌地裁の判決は実は、警察官の行為を「適法」と認めている箇所もある。それは、大杉氏が街宣車に向かって走り出そうとする場面で警察官が彼を取り押さえた場面だ。裁判官は、「この場面では、警察官が『原告が街宣車の人物に対して危害を加えようとしている』と判断するのは妥当」としており、この時の警察官の行為は「適法」だと考えていると判決の中で述べているのだ。別に札幌地裁の裁判官は「警備をするな」などと言っているわけではないのである。
しかし、事情はともかくとして、元首相の銃撃事件は起こってしまったわけで、その影響は控訴審にも及んだ。「及んだ」というのはあくまでも原告側がそう考えているという話なのだが、まあ確かに印象としてはそうならざるを得ないだろう。控訴審では、一審判決とは大分異なる結果が出てしまった。弁護士は、「こんな恣意的な判断がまかり通るなら、何のための司法か」と、記者会見でその憤りを表明していた。
控訴審では、北海道警察が新たな証拠を出してきた。それは、「大杉氏の近くにいた自民党員が、大杉氏に2度拳をついている」という映像である。北海道警察はこの映像を持って、「大杉氏が被害を受けるような犯罪が起こり得ることは明白であり、その予防的措置として大杉氏を引き離したのだ」という主張したのである。
しかし、僕が驚いたのは、「何故この証拠を一審で提出しなかったのか」である。その理由は、「映像に映った自民党員を犯罪者にしないため」である。北海道警察のこの主張を通すためには、「大杉氏を拳で2度ついた自民党員」を「大杉氏に暴行を加えた」と認定しなければならなくなる。だから、この自民党員の行為が時効になるのを待ってから映像を証拠として提出したというのだ。ホントに、国家権力というのはやりたい放題だなと感じた。
この点について、桃井氏が記者会見の場で実に的確なことを言っていた。
『北海道警察のこの主張が通るなら、例えば私が自民党員だとしてですよ、ヤジを飛ばしている人に暴行すれば、警察が排除してくれるわけですよね? そしたらみんな、暴行しませんか? なにせ、この自民党員の方は、なんとお咎めもないんですから』
確かにその通りだろう。また、「札幌地裁の判決のせいで銃撃事件が起こってしまった」みたいな関連性についての指摘についても、彼女は実に的確なことを口にしていた。
『初めは全然関係ないって思ってたんですけど、例えばですよ、ヤジさえ飛ばせない世の中だからこそ、暴力で自分の主張を通さなければならないと考える人が出てくる、とも解釈出来るわけですよね。そういう意味で、今ではむしろ関係あるんじゃないかと考えています』
と言っていた。こちらも実に「なるほど」という主張である。
映画の冒頭で、マルティン・ニーメラーという人物が遺したのだろう言葉が表示される。
『ナチスが共産主義者を連れて行った時、私は黙っていた。
共産主義者ではなかったからだ。
社会民主主義者が締め出された時、私は黙っていた。
社会民主主義者ではなかったからだ。
労働組合員が連れて行かれた時、私は黙っていた。
労働組合員ではなかったからだ。
そして、彼らが私を追ってきた時、私のために声をあげる者はもう誰一人残っていなかった。』
まさにこの言葉は、この映画で描かれる状況を示唆していると言えるだろう。マルティン・ニーメラーの視点は、この映画を観る私たちのものと同じかもしれないからだ。自分がこの「ヤジ排除」に関わっているわけではないから、別に声を上げなくてもいいだろう。そんな風に考えていると、やがてその問題が自分にも及んできた時には手遅れになっている、というわけだ。
映画には、桃井氏が警察官に拘束された際たまたますぐ近くにいたこともあり、裁判で証人として出廷した女性も登場した。彼女は「警察が主張するような危険な状況などではまったくなかった」と証言したのだが、さらに彼女は、
『周りの人は誰も何もしようとしなかったですね。ちょっと笑ってるみたいな人もいて、馬鹿にしているような感じでした。でも、私も何もしませんでしたからね。反省しています』
1人の女子学生を大勢の警察官が取り囲んでいる状況で市民に出来ることはほとんど無いとは思うが、いずれにせよ彼女の「私も何もしませんでした」という自覚は非常に重要なものだと思う。「自分ごととして捉えている」からだ。この映画で描かれていることを「他人ごと」だと思っていると、いつか実際に具体的な実害を自分が被ることになるかもしれない。そういう認識を持つことはとても大事だと思う。
元北海道警察の原田氏は、
『警察には、「治安維持のためなら、多少のやり過ぎや違法行為は許されるんじゃないか」という風潮がある』
と言っていた。そのような風潮も怖いし、僕はそもそも、「あのような行為を、当日現場にいた警察官は、何の疑問も抱かずに、それが正義であると信じてやっていたのかだろうか」みたいなことを考えてしまう。もしもそうだとしたら、本当にそれは恐ろしいことだなと思う。
世の中には、「世のため人のために働きたい」と考えている人はいるはずだし、そういう人が警察官を目指したりもするはずだが、しかし「上からの命令であまりに理不尽なこともやらなければならなくなる」という実態を知ってしまえば、警察官になりたいと考える人も減るんじゃないかと思う。「ヤジ排除」にしても、結果として裁判に発展し、北海道を巻き込む大きな問題に発展したわけで、むしろ何もしないでヤジを放置しておいた方が良かったのではないかとさえ思える状況になってしまっていると思う。
ホントに、「真っ当なことを真っ当にやろうよ」と感じてしまったし、自分がこんな国に住んでいるんだなと実感させられたことは、非常に残念だった。
「ヤジと民主主義 劇場拡大版」を観に行ってきました
さて、本作で扱われているのは、いわゆる「ヤジ排除裁判」と呼ばれているものだ。正直僕は、この出来事のことをまったく知らなかった。新聞は読んでおらず、テレビとネットニュースで世の中の話題を拾っているのだが、少なくとも僕の記憶では、この出来事を、テレビの報道やネットニュースの記事で見た記憶がない。もちろん、僕の見ていない範囲で報道は行われていたと思うが、少なくとも、大きな扱いではなかったとは言えるだろう。
しかしこの事件、ホントに「みんな」に関係ある話だと思う。裁判の原告になったソーシャルワーカーの大杉雅栄氏は、映画の最後にこんなことを言っていた。
『私にとって、裁判で争うことのメリットってまったくないんです。ただ、私は偶然その場に居合わせて、争う責任があると感じたから、結果として原告になっているだけです。だから、最初から一貫して、私は「公共の利益」を求め続けてきました。』
確かにその通りだと思う。裁判で争われた(現在最高裁への上告中なので「争われている」が正解だが)「ヤジ排除」は、まさに「表現の自由」に関するものであり、民主主義の根幹を揺るがすものだからだ。
なんて言われても、「はいはい、政治の話ね。しかも政権の批判でしょ。どうせ、権力者に文句言いたいだけだよね、分かった分かった」みたいにしか感じられないかもしれないが、恐らく、実際の映像を観ればそんな風にはとても言えないんじゃないかと思う。今ちょっと、YouTubeで実際の映像がないか探してみたけど、ちょっと見つからなかった。ホント、「原告2人が、安倍首相にヤジを飛ばしただけで警察から排除された」という動画だけでも観てほしいなと思う(本作では冒頭で、「肩書は取材当時のもの」と表記されるので、この記事でもそれに倣うことにする)。
それでは、「ヤジ排除」が裁判に至った、その経緯について説明しようと思う。
発端は、2019年7月15日に札幌市内で行われた、安倍首相による応援演説である。その演説を見に来ていたのが、先の大杉氏と、大学生だった桃井希生氏の2人。大杉氏は元々、「皆がヤジを飛ばすようなら、自分もそれに乗っかろう」というつもりで演説会場に向かったという。2017年に秋葉原で行われた、安倍首相が「あんな人たちには負けません」と発言して話題になって、あの演説のような状況を想定していたそうだ。
しかし現場では、誰一人反対の声を上げる者がいない。彼は最初、そのまま帰ろうかと思ったそうだ。しかし、「ここで声を上げるのも最悪だが、声を上げずに帰るのはもっと最悪だ」と考え、たった1人で「安倍辞めろ」と声を上げた。ちなみに、特定の政治団体には所属していないし、デモなどに参加したこともないそうだ。
さてすると、彼はすぐに近くにいた複数の警察官に身体を押さえつけられ、そのまま演説場所から離れる方向へと強制的に移動させられたのだ。大杉氏としては意味が分からない。選挙演説中にヤジを飛ばすことが「違法」のはずがないからだ。そこで彼は、取り囲む警察官に「法的根拠」を問いただす。しかし警察官はそれにまともに答えない。「周りの人の迷惑になるから」「演説を聞きたい人がちゃんと聞けないから」みたいな漠然とした理由だけ述べ、しかも、演説会場には絶対に向かわせないように進路妨害や身体の拘束などを行っているのである。
大杉氏は「法的強制力があるんですか?」と聞くが、「無いからお願いしているんです」と言われる。それに対して「じゃあ忖度しろってことですか?」と、当時安倍政権下でよく使われていた「忖度」という言葉を使って問うが、やはり暖簾に腕押しである。そんな押し問答をしている内に演説が終わってしまう。
彼はもう帰ろうかと思っていたそうだが、警察官から「この後どうするんですか?」と聞かれたことで、「そうか、確か大通りでもまた演説をするんだったな」と思い出したそうだ。それで、警察に付きまとわれながら大通りへ向かい、またヤジを飛ばすと、同じように排除される、という結果となった。
さて、もう1人の当事者である桃井氏は、ヤジを飛ばそうなんてまったく考えずにただ演説を聞いていたのだが、大杉氏が警察(彼女はその時点では警察だと思っていなかったようだが)に排除されるのを見て、「ヤジも飛ばせないような世の中はおかしい」と感じ、彼女も1人で「増税反対」と声を上げた。すると、やはり近くにいた警察官に拘束され、無理矢理演説場所から遠ざけられた。彼女も大杉氏と同じように法的根拠などを聞くが、とにかくまったく話が通じない。
しかも彼女の場合、演説が終わった後も、2km 1時間に渡って、2人の女性警官に腕を掴まれたまま歩く羽目になる。女性警官は、「あなたとウィンウィンの関係になりたいだけ」「ジュースでも買ってあげようか」と意味不明なことばかり口にしていた。
この件を不当と判断し、大杉氏と桃井氏は、北海道警察を相手取り裁判を起こす。刑事裁判はどちらも不起訴処分となったが、舞台を民事に移し、国家賠償請求訴訟という形で続くことになる、というわけだ。
現代的なのは、この「ヤジ排除」の様子が複数のカメラに収められていたということだ。大杉氏の場合は一緒にいた友人が、桃井氏の場合は自らのスマホで、状況を撮影していた。しかしそれだけではない。安倍首相の応援演説なのだから当然、マスコミのカメラもたくさんある。そしてそのような衆人環視の中で、堂々と排除が行われたのだ。
彼らの弁護を担当した弁護士は、「もし映像が無かったら裁判を勧めなかった」と言っていた。裁判を起こすことで、警察に一定の抑止を与えることが目的なわけで、負けてしまえばその抑止が利かないどころか、警察をのさばらせることにもなる。だから、敗訴することのデメリットがとても大きな裁判だったと語っていた。
また、確か元北海道警察の原田氏(退任後に、北海道警察の裏金問題を告発したりと、警察批判をすることで知られた人物)の発言だったと思うのだけど、
『一番恐ろしいのは、これが衆人環視の中で行われたことですよ。マスコミのカメラがあってもお構いなしだった。あなたたち、無視されたんですよ』
と言っていたのが印象的だった。もちろんこのことは、ある重要な点を示唆させる。「上からの明確な指示があったこと」である。
少し想像してみてほしい。あなたが安倍首相の応援演説の警護を行う警察官だったとしよう。そもそも上から指示がなければ、ヤジを飛ばした人の排除などするはずもないが、ちょっと無理のある想像をして、「現場の警察官が独自の判断でヤジを飛ばした人物を排除しようした」と考えてみよう。まあ、そういう使命感に駆られる警察官もいるかもしれない。
しかし、当然彼らは「マスコミのカメラの存在」を知っているはずだ。そして、「上からの指示がないのに、自分の勝手な判断でヤジを飛ばした人を排除した場合、何か問題になるのではないか」と躊躇するはずだと思う。普通の人間なら、するだろう。なにせ、「法的根拠の無い行動」を取ろうとしているのだから。
一応書いておくと、刑事裁判で不起訴処分となったのは「適法行為だったから」と判断されたからで、つまり「法的根拠があった」と見做されたのだろう。一方、映画に登場する専門家らは「明らかに違法」と言っているし、まあ普通に考えれば誰もがそう感じると思う。ちなみに、「演説の妨害」については1948年に最高裁が判例を出しており、「聴衆が演説を聴くことを不可能に、あるいは困難ならしめる行為」とされている。これは普通、「複数の人間が拡声器などを使って演説を妨害した場合」などが想定されており、「たった1人で、拡声器も使わずにヤジを飛ばした人間」が「演説の妨害」と見做されることはない。
さて、「上からの指示」が無い場合、マスコミのカメラもあり、もちろん個人がスマホで動画をバンバン撮れる時代に、現場の警察官の判断だけで、法的根拠の無い「ヤジを飛ばした人の排除」など出来るものだろうか? 普通に考えてこの事実は、「上からの指示があった」ということを示唆していると考えるのが自然だろう。
そして、その「上」というのが、実は「かなり上」なのではないかと想像させる状況が存在していたのだ。
2019年当時、警察庁警備局長を務めていたのが大石吉彦という人物なのだが、彼は実は、2012年から6年間、安倍首相の総理秘書官だったのである。当日の警備計画に関する情報開示請求を誰かが行ったのだが、全ページが黒塗りにされた状態だった。しかし隠されていない部分に「大石吉彦警察庁警備局長」の名前があり(それ自体は、警備計画の責任者なのだから当然と言えば当然だが)、黒塗りにされたところには、「大石氏からの、「ヤジを飛ばした人間を排除しろ」という指示が書かれているのではないか」と容易に推察される状況と言えるのである。
Wikipediaによると、彼は後に警視総監になっているそうだ。もちろん、警察庁警備局長という立場も警察内部では相当の立ち位置だろう。そんな人物からもし「通達」があったとすれば、そりゃあ現場としてはマスコミのカメラがあろうがなんだろうが、お構いなしに指示に従おうとするだろう。それが、映像に収められた「法的根拠がまったくないのに、問答無用で個人の権利を侵害し、強制力をもって拘束する」という行為に繋がっているとしか僕には考えられないのだ。
先程紹介した原田氏は、海部総理の警護に関わった経験があるそうだ。現職総理が来るとなれば、それはもう綿密な警護計画が策定されるという。まあ当然だろう。だから彼は、「現場の警察官の独断でやったなんてことはあり得ない」と断言していた。まあ、そりゃあそうだろうと僕も思う。
さて、裁判において警察はどのような主張をしたのかも確認しておこう。彼らとしてももちろん、「演説の妨害に対処しようとした」などという主張が通らないことは理解していたので、別の理屈を持ち出してきた。それが「警察官職務執行法」の第4条と第5条である。
ちょっと長いが、それぞれ条文をコピペしてみよう(「e-Gov法令検索」より)。
第4条 避難等の措置
『警察官は、人の生命若しくは身体に危険を及ぼし、又は財産に重大な損害を及ぼす虞のある天災、事変、工作物の損壊、交通事故、危険物の爆発、狂犬、奔馬の類等の出現、極端な雑踏等危険な事態がある場合においては、その場に居合わせた者、その事物の管理者その他関係者に必要な警告を発し、及び特に急を要する場合においては、危害を受ける虞のある者に対し、その場の危害を避けしめるために必要な限度でこれを引き留め、若しくは避難させ、又はその場に居合わせた者、その事物の管理者その他関係者に対し、危害防止のため通常必要と認められる措置をとることを命じ、又は自らその措置をとることができる。』
第5条 犯罪の予防及び制止
『警察官は、犯罪がまさに行われようとするのを認めたときは、その予防のため関係者に必要な警告を発し、又、もしその行為により人の生命若しくは身体に危険が及び、又は財産に重大な損害を受ける虞があつて、急を要する場合においては、その行為を制止することができる。』
ざっくり言うと、第4条は「津波や爆発などの危険がある時には、人々の安全を確保するために、無理矢理避難させてもいいよ」、第5条は「まさに犯罪が行われようとしているのを防ぐためなら、強制的に静止してもいいよ」ということだ。北海道警察は、堂々とこのような条文を持ち出してきて、「職務は適法だった」と主張したのである。
普通に考えて、第4条が当てはまらないのは明らかだろう。要するに、「メチャクチャ危険な状況だったら、強制力を行使してもいいよ」ということだからだ。ヤジを飛ばした人が拘束された状況は、どう拡大解釈しようが、第4条に当てはまるわけがない。
また、第5条については、映画の中で専門家が「具体的な犯罪が行われようとしている状況」でなければ当てはまらないと言っていた。「何か犯罪が起こるかもしれない」という漠然とした状況ではなく、「このような犯罪が行われるだろうという強い確信」みたいなものが必要だというのである。
さて、この第5条に関係する話として、映画の中でも触れられているが、安倍元首相の銃撃事件や岸田総理の演説会場での爆発事件などが取り上げられている。僕はまったく知らなかったのだが、これらの事件を受けて、「札幌地裁の判決のせいで警備が後手に周り、このような事件が起こったのだ」という批判が上がっていたというのだ。
大杉氏と桃井氏が起こした民事裁判では、一審において「原告側の主張がほぼ100%受け入れられた判決」が出されていた。つまり、「ヤジを飛ばす行為は何ら問題はなく、警察官の行為は明らかに違法だった」という判決が下ったのである。そしてネットで批判していた者たちは、「この判決のせいで銃撃事件などが起こってしまったのだ」と言っているのである。
しかし当然だが、そんなわけがない。弁護を担当した弁護士は、「ヤジ排除」では「やるべきではないことをやったこと」が、そして「銃撃事件」では「やるべきことをやっていなかったこと」が問題なわけで、まったく性質が異なる、と言っていた。僕もそう思う。
しかも、札幌地裁の判決は実は、警察官の行為を「適法」と認めている箇所もある。それは、大杉氏が街宣車に向かって走り出そうとする場面で警察官が彼を取り押さえた場面だ。裁判官は、「この場面では、警察官が『原告が街宣車の人物に対して危害を加えようとしている』と判断するのは妥当」としており、この時の警察官の行為は「適法」だと考えていると判決の中で述べているのだ。別に札幌地裁の裁判官は「警備をするな」などと言っているわけではないのである。
しかし、事情はともかくとして、元首相の銃撃事件は起こってしまったわけで、その影響は控訴審にも及んだ。「及んだ」というのはあくまでも原告側がそう考えているという話なのだが、まあ確かに印象としてはそうならざるを得ないだろう。控訴審では、一審判決とは大分異なる結果が出てしまった。弁護士は、「こんな恣意的な判断がまかり通るなら、何のための司法か」と、記者会見でその憤りを表明していた。
控訴審では、北海道警察が新たな証拠を出してきた。それは、「大杉氏の近くにいた自民党員が、大杉氏に2度拳をついている」という映像である。北海道警察はこの映像を持って、「大杉氏が被害を受けるような犯罪が起こり得ることは明白であり、その予防的措置として大杉氏を引き離したのだ」という主張したのである。
しかし、僕が驚いたのは、「何故この証拠を一審で提出しなかったのか」である。その理由は、「映像に映った自民党員を犯罪者にしないため」である。北海道警察のこの主張を通すためには、「大杉氏を拳で2度ついた自民党員」を「大杉氏に暴行を加えた」と認定しなければならなくなる。だから、この自民党員の行為が時効になるのを待ってから映像を証拠として提出したというのだ。ホントに、国家権力というのはやりたい放題だなと感じた。
この点について、桃井氏が記者会見の場で実に的確なことを言っていた。
『北海道警察のこの主張が通るなら、例えば私が自民党員だとしてですよ、ヤジを飛ばしている人に暴行すれば、警察が排除してくれるわけですよね? そしたらみんな、暴行しませんか? なにせ、この自民党員の方は、なんとお咎めもないんですから』
確かにその通りだろう。また、「札幌地裁の判決のせいで銃撃事件が起こってしまった」みたいな関連性についての指摘についても、彼女は実に的確なことを口にしていた。
『初めは全然関係ないって思ってたんですけど、例えばですよ、ヤジさえ飛ばせない世の中だからこそ、暴力で自分の主張を通さなければならないと考える人が出てくる、とも解釈出来るわけですよね。そういう意味で、今ではむしろ関係あるんじゃないかと考えています』
と言っていた。こちらも実に「なるほど」という主張である。
映画の冒頭で、マルティン・ニーメラーという人物が遺したのだろう言葉が表示される。
『ナチスが共産主義者を連れて行った時、私は黙っていた。
共産主義者ではなかったからだ。
社会民主主義者が締め出された時、私は黙っていた。
社会民主主義者ではなかったからだ。
労働組合員が連れて行かれた時、私は黙っていた。
労働組合員ではなかったからだ。
そして、彼らが私を追ってきた時、私のために声をあげる者はもう誰一人残っていなかった。』
まさにこの言葉は、この映画で描かれる状況を示唆していると言えるだろう。マルティン・ニーメラーの視点は、この映画を観る私たちのものと同じかもしれないからだ。自分がこの「ヤジ排除」に関わっているわけではないから、別に声を上げなくてもいいだろう。そんな風に考えていると、やがてその問題が自分にも及んできた時には手遅れになっている、というわけだ。
映画には、桃井氏が警察官に拘束された際たまたますぐ近くにいたこともあり、裁判で証人として出廷した女性も登場した。彼女は「警察が主張するような危険な状況などではまったくなかった」と証言したのだが、さらに彼女は、
『周りの人は誰も何もしようとしなかったですね。ちょっと笑ってるみたいな人もいて、馬鹿にしているような感じでした。でも、私も何もしませんでしたからね。反省しています』
1人の女子学生を大勢の警察官が取り囲んでいる状況で市民に出来ることはほとんど無いとは思うが、いずれにせよ彼女の「私も何もしませんでした」という自覚は非常に重要なものだと思う。「自分ごととして捉えている」からだ。この映画で描かれていることを「他人ごと」だと思っていると、いつか実際に具体的な実害を自分が被ることになるかもしれない。そういう認識を持つことはとても大事だと思う。
元北海道警察の原田氏は、
『警察には、「治安維持のためなら、多少のやり過ぎや違法行為は許されるんじゃないか」という風潮がある』
と言っていた。そのような風潮も怖いし、僕はそもそも、「あのような行為を、当日現場にいた警察官は、何の疑問も抱かずに、それが正義であると信じてやっていたのかだろうか」みたいなことを考えてしまう。もしもそうだとしたら、本当にそれは恐ろしいことだなと思う。
世の中には、「世のため人のために働きたい」と考えている人はいるはずだし、そういう人が警察官を目指したりもするはずだが、しかし「上からの命令であまりに理不尽なこともやらなければならなくなる」という実態を知ってしまえば、警察官になりたいと考える人も減るんじゃないかと思う。「ヤジ排除」にしても、結果として裁判に発展し、北海道を巻き込む大きな問題に発展したわけで、むしろ何もしないでヤジを放置しておいた方が良かったのではないかとさえ思える状況になってしまっていると思う。
ホントに、「真っ当なことを真っ当にやろうよ」と感じてしまったし、自分がこんな国に住んでいるんだなと実感させられたことは、非常に残念だった。
「ヤジと民主主義 劇場拡大版」を観に行ってきました
「市子」を観に行ってきました
とにかく、「杉咲花が圧巻」の作品だった。たぶんだけど、杉咲花じゃないと成立しないんじゃないかと思う。
物語そのものについて、書けることはほとんどない。物語はとにかく、「市子は一体、どんな過去を背負っているのか」にそのほとんどの焦点が当たっていると言える。もちろん、「そんな市子を助けようとする者」の熱量や狂気みたいなものも映し出されるわけだが、やはりそれは「市子という存在感あっての付属物」みたいなものと言える。そして、物語のまさにその中心に「市子の核」があり、それが明らかになっていく過程こそ体感すべき物語なので、ほとんど書けることがなくなってしまう。とにかく、「市子はしんどい過去を背負っていた」ぐらいしか書けない。
さて、その点に触れないとすれば、この物語を「長谷川義則」視点で紹介するしかない。何故なら彼は、市子について何も知らなかったからだ。というわけで、長谷川義則には何が見えていたのかという点に絞って、内容に触れようと思う。
物語は、2015年8月13日に始まる。その日、仕事を終えて家に戻った長谷川は、部屋にいるはずの市子がいないことに気づく。開け放たれたベランダには、市子の荷物が詰まったバッグが置かれていた。そしてそのまま、市子は長谷川の前から姿を消した。3年間一緒に暮らしていた時間が、終わってしまった。
その前日の8月12日、給料日前で苦しいから肉が少ないシチューを食べながら、子どもの頃に好きだったものの話になった。長谷川は「肉」と答え、市子は「味噌汁」と答えた。市子にとって味噌汁は「幸せの匂い」なのだそうだ。それを聞いた長谷川が、バッグから何かを取り出す。婚姻届だ。「結婚して下さい」という長谷川の言葉に、困惑した表情を浮かべつつも、彼女は泣きながら「嬉しい」と答えた。
8月21日。家に後藤という刑事がやってきた。市子のことを探しているのだそうだ。何か事件に関係しているようだが、事情はよく分からない。刑事から色々聞かれるが、「あんまりお互いのこと、話したことがなくて」と、提供できる情報はほとんどない。そんな長谷川に刑事は、長谷川が撮影した川辺市子の写真を見せながら、「彼女、どうも存在せぇへんのですよ」と、よく分からないことを口にする。
その後、かつて市子が働いていた新聞配達所の人から、当時同じ寮で暮らしていたパティシエの存在を知り、その女性から聞いた情報を元に、長谷川は後藤と交渉をする。僕が知っている情報を教えるので、市子のことを教えて下さい、と。
映画を観ながらずっと、「もし自分が市子と同じ立場にいたらどうしただろうか」と考えてしまった。
この映画を観て、「法律的にも倫理的にもアウトなんだから、市子のやったことは到底許容できない」としか感じられない人は、ちょっと想像力が無さすぎるように思えてしまう。もちろん公権力、本作で言うなら後藤のような人間であれば、「個人的な感情はともかく、職務としてそう判断せざるを得ない」と考えるだろうし、それはもちろん仕方ないと思う。しかし、そのような立場にいない一個人は、もっと色んなことを想像すべきだと思う。
2015年8月13日に市子が失踪した時点で、長谷川の認識では、市子は28歳だったそうだ。そして、市子が辿った28年間を想像することは、とても難しい。特に、2015年の他に作中で2008年から2010年に掛けてなのだが、この頃までの20年強の市子の人生は、ちょっと想像に余りある。
しかし、具体的なことを書かないのでそう理解してもらうことは難しいだろうが、映画を観れば、市子のような存在は、世の中に一定数いてもおかしくないと感じる。まったく同じような状況になることはなかなか無いとは思うが、市子が抱える「根本的な困難さ」と同じ境遇にいる人はきっとたくさんいるだろうし、「川辺家が抱えていた困難さ」と種類は違っても、色んな形で複層的な困難を抱えざるを得ない状況は容易に想像出来る。
だから決して、「川辺市子」はフィクショナルな存在でも、誇張された人物像でもない。そしてだからこそ、普通に生きていたらまず知ることはない「川辺市子」のような存在について、このような映画を観た機会に考えを巡らすべきだと思う。
僕は正直「生きたい」という強い欲求に欠ける人間であり、だから、そんなスタンスでしか生きてこなかった「僕」が「市子と同じ立場」に置かれたらどうなるか、という想像にはあまり意味はないだろう。だから、「もしも自分が、生きたいと強く強く願いながらも、市子と同じ立場に置かれてしまったらどうか」と考えてみる。
なかなか想像は難しいのだが、もしそういう設定で想像するなら、やはり、「市子のような生き方・決断をするかもしれない」と思う。
何せ、「市子がそのような状況に置かれている」という事実に、市子の関与は一切無いのだ。市子に何か非があってそのような状況に置かれているというのであれば、またちょっと違う判断になるかもしれない。しかし、実際にはそうではない。どう考えてもやはり、市子の境遇には、市子の非は一切無い。市子は、「単にそういう状況に生まれてしまっただけ」であり、ありきたりな言葉で表現するなら「不運だった」ということに過ぎないのだ。
そして、「不運だった」と片付けるには、あまりに重いものを背負わされているのである。僕だったら、やってられない。市子だって当然、そう考えただろう。
自分は何も悪くないのに、あまりにも酷い状況に置かれている。市子は一度、この状況を脱するために、ある支援団体を頼ろうとしたが、結局止めてしまった。市子が自身の境遇を脱する「真っ当な手段」はそれしか無いと言っていいのだが、しかし市子にはどうしても許容出来ないことがあったのだ。どんな判断を優先するかはもちろん人それぞれであり、市子からすれば、「自分が置かれて境遇を真っ当に脱すること」以上に優先すべきことがあったというわけだ。
そして、その支援を受けないと決断するのであれば、「大きすぎる制約を受け入れる」か「一線を越えた手段を取る」かしか選択肢が無くなってしまう。
そしてそのような状況の中で、「大きすぎる制約を受け入れる」という世界の中で生きていくのは、あまりにもしんどいだろう。だから、もちろん良いか悪いかで言えば圧倒的に悪いわけだが、それでも、「一線を越えた手段を取る」こともまた、市子の選択としては仕方ないと感じられてしまう。
さて、そんな市子が「生き延びる」ためには、他人を「利用」するしかなかった。「利用」と括弧で括ったのは、市子にその意識があったかどうか分からないからだ。市子はただ「必死だった」だけであり、結果としてそれが「利用」になってしまっただけかもしれない。その辺りのことは、映画を観ているだけでは判断できないだろう。本作は、そのほとんどが「誰かが市子を見ている」という視点で描かれるからだ。他人が誰もおらず、市子だけをカメラ(神の視点)が捉えているみたいな場面は、映画の中にほとんどなかったと思うし、だからこそ、「市子がその時何を考えていたのか」みたいなことは、そのすべての場面において不明だ。
しかし、映画の中ではっきりと示される市子のある「感覚」がある。それは、「誰かの庇護の下でしか生きられない人生はごめんだ」というものだ。この点については、かなり明確に描かれる。作中で、ある人物がはっきりと「拒絶」されるのだが、まさにその理由もこの点にあったと思う。
もちろん、市子の人生を知れば、その理由も理解できるように思う。具体的には書かないので理解してもらうのは難しいが、市子はその生涯のほとんどを、ある意味で「誰かの庇護の下」にいたと言えるからだ。それは別に、決して「子どもだから、誰かに養育されなければならない」みたいな意味ではない。「川辺市子」という存在はそもそもが、単体では成立し得ないものだったのだ。
だから、「どうにかしてそのような状況を抜け出したい」と考えたのだろう。だからこそ彼女は、ある時点を境に、あらゆる不利益が生じることが分かった上で「川辺市子」として生きていく決断をしたのだし(この記事だけ読んでいる人には意味不明な文章だろうが、間違いではない)、「俺が守ったるから」という言葉が全然響かなかったりもするのだ。
まさにそれこそが、彼女が望む「自由」なのだろうし、そういう「自由」が得られないなら、「生きててもしゃーない」みたいな感じなんじゃないかと思う。だから、幸せな3年間を捨ててでも、失踪する決断が出来たのだろう。そして、そういう「自由」を得るためなら「なんでもしてやる」という覚悟を持って生きているように思う。
市子から「拒絶された男」については、作中で「ある示唆」がなされるのだが、しかし、何がどうなってそうなるのかはちょっと想像しにくい。もちろん、「市子のために」という想いの強い人物ではあるが、そうだとしても「そういう決断になり得るだろうか?」と感じてしまった。
ただ、「それもあり得る」と感じさせるところが「川辺市子」であり、その存在感を杉咲花が凄まじく醸し出していると思う。それが凄い。杉咲花でなければ成立しないのではないかと感じるのは、この点にある。
「川辺市子」という女性には、「この人を、何があっても助けたい」と思わせるような雰囲気がなければならない。そうじゃなければ、この『市子』という映画の説得力が薄れてしまうからだ。わかりやすく「魔性」という言葉を使うが、市子がそのような「魔性」を有しているからこそ、長谷川は彼女のことをずっと追いかけ続けるのだし、別の人物も「凄まじい手助け」をしてまで市子に関わろうとする。
長谷川は「3年間同棲した恋人」なのだから、「突然いなくなった恋人を探し続ける」ことにも一定の説得力があるかもしれないが、もう1人の人物についてはまったくそういうことはない。だから、特にその人物にとっては、「何がなんでも市子に関与しよう」と思える「何か」が必要なのであり、それが川辺市子が持つ「魔性」なのである。だからこそ、杉咲花がその「魔性」を醸し出せなければ、映画『市子』は成立しない。
そして、杉咲花は見事にその「魔性」を放っている。この点が、とにかく圧巻だった。並の役者では無理だろう。同世代の役者では本当に、数えるほどぐらいしか候補がいないんじゃないかと思う。川辺市子を杉咲花に託したことは、大正解だったと思う。とにかく、杉咲花の演技の「説得力」が凄かった。
さて、そんな杉咲花の凄まじい演技を観ながら、「もし自分の目の前に『市子』がいたら、僕はどう関与するだろうか?」とも考えてしまった。
僕も、市子のような人間に惹かれるタイプだ。もし近くに市子がいたら、「いいなぁ」「関わりたいなぁ」と思っただろうし、酷い状況に置かれていると知ったら「何か助けになることがあればやりたい」とも考えただろう。
しかし、どこまで踏み込めるだろうか、とも考えてしまった。それは結局、「何が市子にとって最善なのか」の判断で迷ってしまうだろうな、ということだ。
作中のある人物は、ある場面で判断を迷わなかった。自分がそう行動することが、市子にとって「最善である」と迷うことなく考えたのだ。あるいは長谷川も、警察が川辺市子を追っていることを知りながら、「市子が捕まらないこと」を願って行動する。その方が市子のためになると判断しているのだ。
ただ僕は、その判断で揺らいでしまうだろうと思った。これも、具体的なことを書かないので伝えるのが難しいが、総合的に考えれば、「市子は捕まってしまった方がいいんじゃないか」という気がするからだ。具体的な手続きのことは知らないが、恐らく、市子は逮捕されると同時に、市子が根本的に抱える問題が解決するように思う。さらに、そもそも長谷川は、市子の過去をすべて知った上で市子を追うと決めているのだし、恐らく市子が逮捕されようが気持ちが変わることはないだろう。市子には「情状酌量の余地」がありそうだし、普通よりは刑期も短いだろう。とすれば、「逮捕され、出所後に長谷川と一緒に暮らす」という選択が、最も合理的に思えてしまう。
しかし同時に、「恐らく市子は、それを『最善』とは考えないだろう」とも想像できてしまう。そして、長谷川ももう1人も、市子のそんな感覚を理解しているからこそ、彼らなりの「市子にとっての最善」に向かって行動できるのだと思う。
それが良いことなのかどうか、よく分からないが、羨ましいかどうか言えば、長谷川たちのような判断が出来ることが、僕にはちょっとうらやましく感じられる。僕はきっと、「市子のためになることをしたい」と考えつつも、同時に、「『その時の市子が最善と信じている選択肢』に賛同できない」可能性があるからだ。そこできっと、僕は揺らいでしまい、結局何の行動も起こさずに終わるだろう。
なんとなくそういう未来が想像できてしまうからこそ、最終的に僕は、「市子のような人には関わらない方がいいんだろう」と思ってしまいそうな気がする。
「市子にとっての正解」は、恐らく「社会にとっての不正解」であり、だからこそとても難しい。「市子にとっての正解」を優先することが市子にとって本当に最善なのか、僕には分からない。そして、そういうことで揺らがない人間が、市子にとっての「ヒーロー」になれるのだろう。
作中には、印象的なシーンは様々に存在したが、一番複雑な感情を抱かされたのは、ある人物が「市子、ありがとうな」と口にする場面。ホントにこれは、なんとも言いようがない、何をどう感じたらいいのか分からない場面だった。
以前読んだ、内田樹の『そのうちなんとかなるだろう』という本の中に、次のような文章があったことを思い出す。
【さあ、この先どちらの道を行ったらいいのかと悩むというのは、どちらの道もあまり「ぜひ採りたい選択肢」ではないからです。どちらかがはっきりと魅力的な選択肢だったら、迷うことはありません。迷うのは「右に行けばアナコンダがいます。左にゆくとアリゲーターがいます。どちらがいいですか?」というような場合です。そういう選択肢しか示されないということは、それよりだいぶ手前ですでに「入ってはいけないほうの分かれ道」に入ってしまったからです。
決断をくださなければいけない状況に立ち入ったというのは、いま悩むべき「問題」ではなくて、実はこれまでしてきたことの「答え」なのです。今はじめて遭遇した「問題」ではなく、これまでの失敗の積み重ねが出した「答え」なのです。
ですから「正しい決断」を下さねばならないとか「究極の選択」をしなければならないというのは、そういう状況に遭遇したというだけで、すでにかなり「後手に回っている」ということです。
決断や選択はしないに越したことはない。
ですから、「決断したり、選択したりすることを一生しないで済むように生きる」というのが武道家としての自戒になるわけです。】
この文章だけ読めば、多くの人が「なるほど」と感じるのではないかと思う。「嫌な決断をしなければならない」という状況は、「解決すべき『問題』」なのではなく、「今までの選択の積み重ねがもたらしさ『答え』」だというわけだ。確かに、その通りだなという感じがする。
しかし、この考えを市子に当てはめることは難しい。彼女が「市子、ありがとうな」と言われた際の決断は、一体何の「答え」だったのか? 彼女の人生をどこまで遡れば、「そういう決断をせずに済む道」があったというのだろうか?
新聞配達時代、寮の市子の部屋には花が飾られていた。同僚から「花、好きなん?」と聞かれた市子は、
『うん、ちゃんと水あげへんと枯れるのが好き』
と答える。これも、彼女の人生を知ると、非常に示唆的と言えるだろう。もちろん、彼女がどんな意味でそんなことを言ったのか分からない。ある種の贖罪なのか、あるいはかつての自分を思い出しているのか、あるはもっと別の何かなのか。しかし間違いなく言えることは、この花のくだりは、「市子、ありがとうな」の場面に結びついているということだ。
なんとなく僕は、自分の過去を忘れないために花を飾り、その上で「それでも私は進んでいく」という決意を奮い立たせているのではないかと感じた。
とにかく、凄まじい物語だった。
最後に、物語そのものと全然関係ないことを書くが、出てくる役者たちの「今泉力哉感」が強い。長谷川を演じた若葉竜也は今泉力哉作品の常連だし、中村ゆり、倉悠貴は『窓辺にて』に、中村青渚は『街の上で』に出ている。だからなんだって話だが、今泉力哉作品が好きな僕としては、役者の人選的にも結構好きな作品だったなと感じた。本作ではちょい役だけど、石川瑠華も『うみべの女の子』の人だし、渡辺大知も僕が観てる作品に結構出てくるので、杉咲花だけでなく、役者も全体的に良かった。
「市子」を観に行ってきました
物語そのものについて、書けることはほとんどない。物語はとにかく、「市子は一体、どんな過去を背負っているのか」にそのほとんどの焦点が当たっていると言える。もちろん、「そんな市子を助けようとする者」の熱量や狂気みたいなものも映し出されるわけだが、やはりそれは「市子という存在感あっての付属物」みたいなものと言える。そして、物語のまさにその中心に「市子の核」があり、それが明らかになっていく過程こそ体感すべき物語なので、ほとんど書けることがなくなってしまう。とにかく、「市子はしんどい過去を背負っていた」ぐらいしか書けない。
さて、その点に触れないとすれば、この物語を「長谷川義則」視点で紹介するしかない。何故なら彼は、市子について何も知らなかったからだ。というわけで、長谷川義則には何が見えていたのかという点に絞って、内容に触れようと思う。
物語は、2015年8月13日に始まる。その日、仕事を終えて家に戻った長谷川は、部屋にいるはずの市子がいないことに気づく。開け放たれたベランダには、市子の荷物が詰まったバッグが置かれていた。そしてそのまま、市子は長谷川の前から姿を消した。3年間一緒に暮らしていた時間が、終わってしまった。
その前日の8月12日、給料日前で苦しいから肉が少ないシチューを食べながら、子どもの頃に好きだったものの話になった。長谷川は「肉」と答え、市子は「味噌汁」と答えた。市子にとって味噌汁は「幸せの匂い」なのだそうだ。それを聞いた長谷川が、バッグから何かを取り出す。婚姻届だ。「結婚して下さい」という長谷川の言葉に、困惑した表情を浮かべつつも、彼女は泣きながら「嬉しい」と答えた。
8月21日。家に後藤という刑事がやってきた。市子のことを探しているのだそうだ。何か事件に関係しているようだが、事情はよく分からない。刑事から色々聞かれるが、「あんまりお互いのこと、話したことがなくて」と、提供できる情報はほとんどない。そんな長谷川に刑事は、長谷川が撮影した川辺市子の写真を見せながら、「彼女、どうも存在せぇへんのですよ」と、よく分からないことを口にする。
その後、かつて市子が働いていた新聞配達所の人から、当時同じ寮で暮らしていたパティシエの存在を知り、その女性から聞いた情報を元に、長谷川は後藤と交渉をする。僕が知っている情報を教えるので、市子のことを教えて下さい、と。
映画を観ながらずっと、「もし自分が市子と同じ立場にいたらどうしただろうか」と考えてしまった。
この映画を観て、「法律的にも倫理的にもアウトなんだから、市子のやったことは到底許容できない」としか感じられない人は、ちょっと想像力が無さすぎるように思えてしまう。もちろん公権力、本作で言うなら後藤のような人間であれば、「個人的な感情はともかく、職務としてそう判断せざるを得ない」と考えるだろうし、それはもちろん仕方ないと思う。しかし、そのような立場にいない一個人は、もっと色んなことを想像すべきだと思う。
2015年8月13日に市子が失踪した時点で、長谷川の認識では、市子は28歳だったそうだ。そして、市子が辿った28年間を想像することは、とても難しい。特に、2015年の他に作中で2008年から2010年に掛けてなのだが、この頃までの20年強の市子の人生は、ちょっと想像に余りある。
しかし、具体的なことを書かないのでそう理解してもらうことは難しいだろうが、映画を観れば、市子のような存在は、世の中に一定数いてもおかしくないと感じる。まったく同じような状況になることはなかなか無いとは思うが、市子が抱える「根本的な困難さ」と同じ境遇にいる人はきっとたくさんいるだろうし、「川辺家が抱えていた困難さ」と種類は違っても、色んな形で複層的な困難を抱えざるを得ない状況は容易に想像出来る。
だから決して、「川辺市子」はフィクショナルな存在でも、誇張された人物像でもない。そしてだからこそ、普通に生きていたらまず知ることはない「川辺市子」のような存在について、このような映画を観た機会に考えを巡らすべきだと思う。
僕は正直「生きたい」という強い欲求に欠ける人間であり、だから、そんなスタンスでしか生きてこなかった「僕」が「市子と同じ立場」に置かれたらどうなるか、という想像にはあまり意味はないだろう。だから、「もしも自分が、生きたいと強く強く願いながらも、市子と同じ立場に置かれてしまったらどうか」と考えてみる。
なかなか想像は難しいのだが、もしそういう設定で想像するなら、やはり、「市子のような生き方・決断をするかもしれない」と思う。
何せ、「市子がそのような状況に置かれている」という事実に、市子の関与は一切無いのだ。市子に何か非があってそのような状況に置かれているというのであれば、またちょっと違う判断になるかもしれない。しかし、実際にはそうではない。どう考えてもやはり、市子の境遇には、市子の非は一切無い。市子は、「単にそういう状況に生まれてしまっただけ」であり、ありきたりな言葉で表現するなら「不運だった」ということに過ぎないのだ。
そして、「不運だった」と片付けるには、あまりに重いものを背負わされているのである。僕だったら、やってられない。市子だって当然、そう考えただろう。
自分は何も悪くないのに、あまりにも酷い状況に置かれている。市子は一度、この状況を脱するために、ある支援団体を頼ろうとしたが、結局止めてしまった。市子が自身の境遇を脱する「真っ当な手段」はそれしか無いと言っていいのだが、しかし市子にはどうしても許容出来ないことがあったのだ。どんな判断を優先するかはもちろん人それぞれであり、市子からすれば、「自分が置かれて境遇を真っ当に脱すること」以上に優先すべきことがあったというわけだ。
そして、その支援を受けないと決断するのであれば、「大きすぎる制約を受け入れる」か「一線を越えた手段を取る」かしか選択肢が無くなってしまう。
そしてそのような状況の中で、「大きすぎる制約を受け入れる」という世界の中で生きていくのは、あまりにもしんどいだろう。だから、もちろん良いか悪いかで言えば圧倒的に悪いわけだが、それでも、「一線を越えた手段を取る」こともまた、市子の選択としては仕方ないと感じられてしまう。
さて、そんな市子が「生き延びる」ためには、他人を「利用」するしかなかった。「利用」と括弧で括ったのは、市子にその意識があったかどうか分からないからだ。市子はただ「必死だった」だけであり、結果としてそれが「利用」になってしまっただけかもしれない。その辺りのことは、映画を観ているだけでは判断できないだろう。本作は、そのほとんどが「誰かが市子を見ている」という視点で描かれるからだ。他人が誰もおらず、市子だけをカメラ(神の視点)が捉えているみたいな場面は、映画の中にほとんどなかったと思うし、だからこそ、「市子がその時何を考えていたのか」みたいなことは、そのすべての場面において不明だ。
しかし、映画の中ではっきりと示される市子のある「感覚」がある。それは、「誰かの庇護の下でしか生きられない人生はごめんだ」というものだ。この点については、かなり明確に描かれる。作中で、ある人物がはっきりと「拒絶」されるのだが、まさにその理由もこの点にあったと思う。
もちろん、市子の人生を知れば、その理由も理解できるように思う。具体的には書かないので理解してもらうのは難しいが、市子はその生涯のほとんどを、ある意味で「誰かの庇護の下」にいたと言えるからだ。それは別に、決して「子どもだから、誰かに養育されなければならない」みたいな意味ではない。「川辺市子」という存在はそもそもが、単体では成立し得ないものだったのだ。
だから、「どうにかしてそのような状況を抜け出したい」と考えたのだろう。だからこそ彼女は、ある時点を境に、あらゆる不利益が生じることが分かった上で「川辺市子」として生きていく決断をしたのだし(この記事だけ読んでいる人には意味不明な文章だろうが、間違いではない)、「俺が守ったるから」という言葉が全然響かなかったりもするのだ。
まさにそれこそが、彼女が望む「自由」なのだろうし、そういう「自由」が得られないなら、「生きててもしゃーない」みたいな感じなんじゃないかと思う。だから、幸せな3年間を捨ててでも、失踪する決断が出来たのだろう。そして、そういう「自由」を得るためなら「なんでもしてやる」という覚悟を持って生きているように思う。
市子から「拒絶された男」については、作中で「ある示唆」がなされるのだが、しかし、何がどうなってそうなるのかはちょっと想像しにくい。もちろん、「市子のために」という想いの強い人物ではあるが、そうだとしても「そういう決断になり得るだろうか?」と感じてしまった。
ただ、「それもあり得る」と感じさせるところが「川辺市子」であり、その存在感を杉咲花が凄まじく醸し出していると思う。それが凄い。杉咲花でなければ成立しないのではないかと感じるのは、この点にある。
「川辺市子」という女性には、「この人を、何があっても助けたい」と思わせるような雰囲気がなければならない。そうじゃなければ、この『市子』という映画の説得力が薄れてしまうからだ。わかりやすく「魔性」という言葉を使うが、市子がそのような「魔性」を有しているからこそ、長谷川は彼女のことをずっと追いかけ続けるのだし、別の人物も「凄まじい手助け」をしてまで市子に関わろうとする。
長谷川は「3年間同棲した恋人」なのだから、「突然いなくなった恋人を探し続ける」ことにも一定の説得力があるかもしれないが、もう1人の人物についてはまったくそういうことはない。だから、特にその人物にとっては、「何がなんでも市子に関与しよう」と思える「何か」が必要なのであり、それが川辺市子が持つ「魔性」なのである。だからこそ、杉咲花がその「魔性」を醸し出せなければ、映画『市子』は成立しない。
そして、杉咲花は見事にその「魔性」を放っている。この点が、とにかく圧巻だった。並の役者では無理だろう。同世代の役者では本当に、数えるほどぐらいしか候補がいないんじゃないかと思う。川辺市子を杉咲花に託したことは、大正解だったと思う。とにかく、杉咲花の演技の「説得力」が凄かった。
さて、そんな杉咲花の凄まじい演技を観ながら、「もし自分の目の前に『市子』がいたら、僕はどう関与するだろうか?」とも考えてしまった。
僕も、市子のような人間に惹かれるタイプだ。もし近くに市子がいたら、「いいなぁ」「関わりたいなぁ」と思っただろうし、酷い状況に置かれていると知ったら「何か助けになることがあればやりたい」とも考えただろう。
しかし、どこまで踏み込めるだろうか、とも考えてしまった。それは結局、「何が市子にとって最善なのか」の判断で迷ってしまうだろうな、ということだ。
作中のある人物は、ある場面で判断を迷わなかった。自分がそう行動することが、市子にとって「最善である」と迷うことなく考えたのだ。あるいは長谷川も、警察が川辺市子を追っていることを知りながら、「市子が捕まらないこと」を願って行動する。その方が市子のためになると判断しているのだ。
ただ僕は、その判断で揺らいでしまうだろうと思った。これも、具体的なことを書かないので伝えるのが難しいが、総合的に考えれば、「市子は捕まってしまった方がいいんじゃないか」という気がするからだ。具体的な手続きのことは知らないが、恐らく、市子は逮捕されると同時に、市子が根本的に抱える問題が解決するように思う。さらに、そもそも長谷川は、市子の過去をすべて知った上で市子を追うと決めているのだし、恐らく市子が逮捕されようが気持ちが変わることはないだろう。市子には「情状酌量の余地」がありそうだし、普通よりは刑期も短いだろう。とすれば、「逮捕され、出所後に長谷川と一緒に暮らす」という選択が、最も合理的に思えてしまう。
しかし同時に、「恐らく市子は、それを『最善』とは考えないだろう」とも想像できてしまう。そして、長谷川ももう1人も、市子のそんな感覚を理解しているからこそ、彼らなりの「市子にとっての最善」に向かって行動できるのだと思う。
それが良いことなのかどうか、よく分からないが、羨ましいかどうか言えば、長谷川たちのような判断が出来ることが、僕にはちょっとうらやましく感じられる。僕はきっと、「市子のためになることをしたい」と考えつつも、同時に、「『その時の市子が最善と信じている選択肢』に賛同できない」可能性があるからだ。そこできっと、僕は揺らいでしまい、結局何の行動も起こさずに終わるだろう。
なんとなくそういう未来が想像できてしまうからこそ、最終的に僕は、「市子のような人には関わらない方がいいんだろう」と思ってしまいそうな気がする。
「市子にとっての正解」は、恐らく「社会にとっての不正解」であり、だからこそとても難しい。「市子にとっての正解」を優先することが市子にとって本当に最善なのか、僕には分からない。そして、そういうことで揺らがない人間が、市子にとっての「ヒーロー」になれるのだろう。
作中には、印象的なシーンは様々に存在したが、一番複雑な感情を抱かされたのは、ある人物が「市子、ありがとうな」と口にする場面。ホントにこれは、なんとも言いようがない、何をどう感じたらいいのか分からない場面だった。
以前読んだ、内田樹の『そのうちなんとかなるだろう』という本の中に、次のような文章があったことを思い出す。
【さあ、この先どちらの道を行ったらいいのかと悩むというのは、どちらの道もあまり「ぜひ採りたい選択肢」ではないからです。どちらかがはっきりと魅力的な選択肢だったら、迷うことはありません。迷うのは「右に行けばアナコンダがいます。左にゆくとアリゲーターがいます。どちらがいいですか?」というような場合です。そういう選択肢しか示されないということは、それよりだいぶ手前ですでに「入ってはいけないほうの分かれ道」に入ってしまったからです。
決断をくださなければいけない状況に立ち入ったというのは、いま悩むべき「問題」ではなくて、実はこれまでしてきたことの「答え」なのです。今はじめて遭遇した「問題」ではなく、これまでの失敗の積み重ねが出した「答え」なのです。
ですから「正しい決断」を下さねばならないとか「究極の選択」をしなければならないというのは、そういう状況に遭遇したというだけで、すでにかなり「後手に回っている」ということです。
決断や選択はしないに越したことはない。
ですから、「決断したり、選択したりすることを一生しないで済むように生きる」というのが武道家としての自戒になるわけです。】
この文章だけ読めば、多くの人が「なるほど」と感じるのではないかと思う。「嫌な決断をしなければならない」という状況は、「解決すべき『問題』」なのではなく、「今までの選択の積み重ねがもたらしさ『答え』」だというわけだ。確かに、その通りだなという感じがする。
しかし、この考えを市子に当てはめることは難しい。彼女が「市子、ありがとうな」と言われた際の決断は、一体何の「答え」だったのか? 彼女の人生をどこまで遡れば、「そういう決断をせずに済む道」があったというのだろうか?
新聞配達時代、寮の市子の部屋には花が飾られていた。同僚から「花、好きなん?」と聞かれた市子は、
『うん、ちゃんと水あげへんと枯れるのが好き』
と答える。これも、彼女の人生を知ると、非常に示唆的と言えるだろう。もちろん、彼女がどんな意味でそんなことを言ったのか分からない。ある種の贖罪なのか、あるいはかつての自分を思い出しているのか、あるはもっと別の何かなのか。しかし間違いなく言えることは、この花のくだりは、「市子、ありがとうな」の場面に結びついているということだ。
なんとなく僕は、自分の過去を忘れないために花を飾り、その上で「それでも私は進んでいく」という決意を奮い立たせているのではないかと感じた。
とにかく、凄まじい物語だった。
最後に、物語そのものと全然関係ないことを書くが、出てくる役者たちの「今泉力哉感」が強い。長谷川を演じた若葉竜也は今泉力哉作品の常連だし、中村ゆり、倉悠貴は『窓辺にて』に、中村青渚は『街の上で』に出ている。だからなんだって話だが、今泉力哉作品が好きな僕としては、役者の人選的にも結構好きな作品だったなと感じた。本作ではちょい役だけど、石川瑠華も『うみべの女の子』の人だし、渡辺大知も僕が観てる作品に結構出てくるので、杉咲花だけでなく、役者も全体的に良かった。
「市子」を観に行ってきました
「最悪な子どもたち」を観に行ってきました
ある意味で凄い映画だった。というのも、映画を最後まで観ても、「フィクション」なのか「ドキュメンタリー」なのか分からなかったからだ。
いつもの如く、映画の内容をまったく知らないまま観に行った。ただなんとなく想像としては「フィクション」だと思っていた。で、映画の冒頭、粗っぽい画質の映像で、どうやら「オーディション」の様子が映し出される。それを観て、「そうか、ドキュメンタリーだったのか」と感じた。映画の始まり方は、間違いなくドキュメンタリーである。
しかしその後、フィクションっぽく映像が展開していく。先程オーディションのカメラの映っていた子どもたちが演技をしているようだ。それで僕は、「なるほど、冒頭のオーディションシーンがちょっとイレギュラーだっただけで、全体としてはフィクションなんだな」と理解した。撮影している映画のタイトルは、『北風に逆らえば』だそうだ。
しかしその後、監督の「カット!」という声が入り、そこから「『北風に逆らえば』を撮影している様子」が映し出される。これは、映像の感じからすると決してドキュメンタリーには見えないのだが、しかし「ドキュメンタリーかもしれない」と思わせるような要素がある。
というのも、『北風に逆らえば』という作品は、主演の少年少女4人の「実際の人生」を組み込んだ物語になっていることが理解できるようになってくるからだ。これは、単に「役者が映画撮影している様を外側から撮っている」みたいなことではない。「『ほぼ本人役』みたいな役柄を演じる映画撮影と、彼らの日常との境界線が薄れていく」みたいな感じなのだ。
この時点で僕には、この作品が「フィクション」なのか「ドキュメンタリー」なのかまったく分からなくなり、結局最後まで分からないままだった。
考えようによっては、色んな解釈が可能だ。ここまでの話をまとめると、本作『最悪な子どもたち』は、以下の3つの要素で成り立っている。
①冒頭のオーディションシーン
②映画『北風に逆らえば』の映像
③映画『北風に逆らえば』を撮影している様子を撮影した映像
では、考え得る可能性についてちょっと思案してみよう。
可能性1:
オーディションを含め、『最悪な子どもたち』で描かれていることはすべてフィクション。
可能性2:
オーディションは実際に行ったので、①だけはドキュメンタリーだが、②③はフィクション。
可能性3:
実際にオーディションを行い、『北風に逆らえば』の撮影をしており、その様子をドキュメンタリー的に撮ったメイキング映像を挿入している(つまり、①③がドキュメンタリー、②がフィクション)
なんの情報も知らないまま本作を観ると、この3つの可能性のどれなのかを絞ることはたぶん出来ないと思う。まあ実際には、③の映像はかなりフィクションっぽいので、「可能性3」である確率は低いと思ったが、まあ可能性としてはゼロではないだろう。で、結局観終えた時点でも判断できなかったので、公式HPを見てみた。
公式HPを読んでもイマイチはっきりしたことは分からないのだが、恐らく「可能性2」と捉えるのが正解なんだと思う。ただ、オーディションは「演技未経験者」を対象に行われたようで、そう考えると、②はともかく、③を完全に「フィクション」と捉えるのも正しくないのかもしれない。「可能性2」と「可能性3」の中間あたりと捉えておくのが一番近いだろう。
というように、本作は、今まで観たことのない「背景」を持つ作品だと言える。物語がメチャクチャ面白いとか、演技に凄くグッと来るとかではないのだけど、ただ、「えっマジなんなのこれ???」みたいな感覚が最後の最後まで続くという意味では圧巻だったなと思う。なかなかこんな感覚を味わうことは出来ないだろう。まあ公式HPによると、映画の中で「監督役」を演じたのが、ヨハン・ヘルデンベルグという有名な役者らしいので、この役者のことを知っていれば、「フィクション寄りの作品である」ことは早い段階で確信できるとは思うが。僕は当然、その人のことは知らなかったので、「『最悪な子どもたち』の監督」なんだろうと思っていた。
特に印象的だったのは、映画のメインビジュアルにも映る少年ライアンと、『北風に逆らえば』の中では彼の姉役であるリリの2人だ。先程少し触れたが、『北風に逆らえば』の設定は、メインの役者個々の性格や人生を反映しているので、その点も踏まえると、ライアンはまず、「衝動をコントロールするのが難しい」みたいな性質があるようだ。ADHDとかそういう何かなのだと思う。家庭環境も複雑で、夫に捨てられて精神を病んでしまった母親の元を離れ、今は姉と2人で暮らしているようだ。オーディションでは、「相手が挑発してくるから喧嘩になるのに、いつも僕が悪いことにされる」と不満をもらしていた。
リリは、「ビッチ」とあだ名され、男関係が盛んだと噂されている。しかし本人的にはその噂はまったく実態とは異なるもので、しかしそういう風にしか自分を見ない周囲の人間に常に苛立ちを覚えている。とても可愛らしい女の子なので、同世代の女の子の妬みから来るものだろうが、映画の撮影の舞台となったピカソ地区が「荒れた地区」であることも関係しているだろう。
映画全体としては、特にこの2人に焦点が強く当たる。そして、この2人の「変化」が実に興味深い。特にそれを感じさせられるのは、まさに映画のラストシーンだ。具体的には触れないが、『北風に逆らえば』のワンシーンが流れる。そして、そのシーンの撮影が終わった直後、演技から離れたライアンが発する言葉が、なんか凄くグッと来る。僕の勝手な予想だが、これは恐らく、用意されたセリフではなく、ライアン本人の実感が思わず出たみたいな、要するに「ドキュメンタリー的なシーン」なんではないかと思う。分からないが。
とまあ、色々書いてはみたものの、僕の文章を読んだところで、どんな作品なのかよく分からないだろう。で、観たら分かるのかと言うと、それも怪しい。ただ、それでいいんじゃないか、という気がする。少なくとも僕は、「分かる」とか「理解できる」とか「共感できる」みたいなことに、さほど重きを置いていない。とにかくこの作品においては、「一般的な映画からは感じられない、なかなか名付けようのない感覚」が得られるということに価値があると思う。
しかしホントに、変な映画だった。とてもチャレンジングな映画であり、「映画の可能性」みたいなものをほんのちょっと広げたみたいな感じもあるんじゃないかと思う。
「最悪な子どもたち」を観に行ってきました
いつもの如く、映画の内容をまったく知らないまま観に行った。ただなんとなく想像としては「フィクション」だと思っていた。で、映画の冒頭、粗っぽい画質の映像で、どうやら「オーディション」の様子が映し出される。それを観て、「そうか、ドキュメンタリーだったのか」と感じた。映画の始まり方は、間違いなくドキュメンタリーである。
しかしその後、フィクションっぽく映像が展開していく。先程オーディションのカメラの映っていた子どもたちが演技をしているようだ。それで僕は、「なるほど、冒頭のオーディションシーンがちょっとイレギュラーだっただけで、全体としてはフィクションなんだな」と理解した。撮影している映画のタイトルは、『北風に逆らえば』だそうだ。
しかしその後、監督の「カット!」という声が入り、そこから「『北風に逆らえば』を撮影している様子」が映し出される。これは、映像の感じからすると決してドキュメンタリーには見えないのだが、しかし「ドキュメンタリーかもしれない」と思わせるような要素がある。
というのも、『北風に逆らえば』という作品は、主演の少年少女4人の「実際の人生」を組み込んだ物語になっていることが理解できるようになってくるからだ。これは、単に「役者が映画撮影している様を外側から撮っている」みたいなことではない。「『ほぼ本人役』みたいな役柄を演じる映画撮影と、彼らの日常との境界線が薄れていく」みたいな感じなのだ。
この時点で僕には、この作品が「フィクション」なのか「ドキュメンタリー」なのかまったく分からなくなり、結局最後まで分からないままだった。
考えようによっては、色んな解釈が可能だ。ここまでの話をまとめると、本作『最悪な子どもたち』は、以下の3つの要素で成り立っている。
①冒頭のオーディションシーン
②映画『北風に逆らえば』の映像
③映画『北風に逆らえば』を撮影している様子を撮影した映像
では、考え得る可能性についてちょっと思案してみよう。
可能性1:
オーディションを含め、『最悪な子どもたち』で描かれていることはすべてフィクション。
可能性2:
オーディションは実際に行ったので、①だけはドキュメンタリーだが、②③はフィクション。
可能性3:
実際にオーディションを行い、『北風に逆らえば』の撮影をしており、その様子をドキュメンタリー的に撮ったメイキング映像を挿入している(つまり、①③がドキュメンタリー、②がフィクション)
なんの情報も知らないまま本作を観ると、この3つの可能性のどれなのかを絞ることはたぶん出来ないと思う。まあ実際には、③の映像はかなりフィクションっぽいので、「可能性3」である確率は低いと思ったが、まあ可能性としてはゼロではないだろう。で、結局観終えた時点でも判断できなかったので、公式HPを見てみた。
公式HPを読んでもイマイチはっきりしたことは分からないのだが、恐らく「可能性2」と捉えるのが正解なんだと思う。ただ、オーディションは「演技未経験者」を対象に行われたようで、そう考えると、②はともかく、③を完全に「フィクション」と捉えるのも正しくないのかもしれない。「可能性2」と「可能性3」の中間あたりと捉えておくのが一番近いだろう。
というように、本作は、今まで観たことのない「背景」を持つ作品だと言える。物語がメチャクチャ面白いとか、演技に凄くグッと来るとかではないのだけど、ただ、「えっマジなんなのこれ???」みたいな感覚が最後の最後まで続くという意味では圧巻だったなと思う。なかなかこんな感覚を味わうことは出来ないだろう。まあ公式HPによると、映画の中で「監督役」を演じたのが、ヨハン・ヘルデンベルグという有名な役者らしいので、この役者のことを知っていれば、「フィクション寄りの作品である」ことは早い段階で確信できるとは思うが。僕は当然、その人のことは知らなかったので、「『最悪な子どもたち』の監督」なんだろうと思っていた。
特に印象的だったのは、映画のメインビジュアルにも映る少年ライアンと、『北風に逆らえば』の中では彼の姉役であるリリの2人だ。先程少し触れたが、『北風に逆らえば』の設定は、メインの役者個々の性格や人生を反映しているので、その点も踏まえると、ライアンはまず、「衝動をコントロールするのが難しい」みたいな性質があるようだ。ADHDとかそういう何かなのだと思う。家庭環境も複雑で、夫に捨てられて精神を病んでしまった母親の元を離れ、今は姉と2人で暮らしているようだ。オーディションでは、「相手が挑発してくるから喧嘩になるのに、いつも僕が悪いことにされる」と不満をもらしていた。
リリは、「ビッチ」とあだ名され、男関係が盛んだと噂されている。しかし本人的にはその噂はまったく実態とは異なるもので、しかしそういう風にしか自分を見ない周囲の人間に常に苛立ちを覚えている。とても可愛らしい女の子なので、同世代の女の子の妬みから来るものだろうが、映画の撮影の舞台となったピカソ地区が「荒れた地区」であることも関係しているだろう。
映画全体としては、特にこの2人に焦点が強く当たる。そして、この2人の「変化」が実に興味深い。特にそれを感じさせられるのは、まさに映画のラストシーンだ。具体的には触れないが、『北風に逆らえば』のワンシーンが流れる。そして、そのシーンの撮影が終わった直後、演技から離れたライアンが発する言葉が、なんか凄くグッと来る。僕の勝手な予想だが、これは恐らく、用意されたセリフではなく、ライアン本人の実感が思わず出たみたいな、要するに「ドキュメンタリー的なシーン」なんではないかと思う。分からないが。
とまあ、色々書いてはみたものの、僕の文章を読んだところで、どんな作品なのかよく分からないだろう。で、観たら分かるのかと言うと、それも怪しい。ただ、それでいいんじゃないか、という気がする。少なくとも僕は、「分かる」とか「理解できる」とか「共感できる」みたいなことに、さほど重きを置いていない。とにかくこの作品においては、「一般的な映画からは感じられない、なかなか名付けようのない感覚」が得られるということに価値があると思う。
しかしホントに、変な映画だった。とてもチャレンジングな映画であり、「映画の可能性」みたいなものをほんのちょっと広げたみたいな感じもあるんじゃないかと思う。
「最悪な子どもたち」を観に行ってきました
「女優は泣かない」を観に行ってきました
いやー、これは良い映画だったなぁ。これと言って何かがあるというわけでもないし、メチャクチャミニマムな物語なんだけど、それでも、笑いあり涙あり(あぁ、定型文を使ってしまった)の映画で、「いいねぇ、こういう物語」と感じさせる作品だった。とにかく、メインで出てくる蓮佛美沙子、伊藤万理華、上川周作が大変良かった。
物語は、スキャンダルによって落ち目になった、デビュー10年目の女優・安藤梨花(本名:園田梨枝)が、再起を賭ける仕事として社長から言われたドキュメンタリーの撮影のために、地元・熊本に帰るところから始まる。当初付く予定だったマネージャーは別現場へ派遣され、彼女の元には誰も来ない。社長に文句を言うも、「これから調整する」と言われた後、電話が繋がらなくなる始末だ。
そこにやってきたのが、イダテレのディレクターである瀬野咲。プロデューサーはいないのかと聞かれた彼女は、「予算が無いんで」と口にする。その後彼女は、あらゆる場面で「予算」を口にする。
「事務所の社長から、園田さんは実家に泊まると聞いていた」と言う瀬野に、梨枝「自分で出すからどこかホテルへ連れてって」と頼むが、着いた先はなんとラブホテル。瀬野はここに泊まるそうだ。さすがにそれは無理だと思い、自分で探すと言ってラブホテルを後にした梨枝は、どうにか捕まえたタクシーでどこかのホテルを目指す。しかし、なんとそのタクシー運転手が、高校の同級生の猿渡拓郎だった。そして彼はなんと、梨枝を実家に送り届けるのである。
10年前、啖呵を切って飛び出した実家の玄関を久々にくぐる。帰ってきた弟に、「真希姉には帰ってきたこと黙ってて」と頼み込み、そのままドキュメンタリーの撮影に入るのだが、バラエティ畑にいた瀬野は、「ドキュメンタリーにも演出は必要なんで」を繰り返しながら、とても「ドキュメンタリー」とは言えない映像ばかり撮っていき……。
というような話です。
とにかく冒頭からしばらくは、割とコメディタッチで物語が進んでいく。明らかにむちゃくちゃな指示を出す瀬野に振り回される梨枝という構図がなかなか面白い。しかも、割とキャリアのある女優に対してどうしてそんな態度で行けるのかと言えば、スキャンダルで失墜した梨枝にとっては、これが這い上がるチャンスになるかもしれないからだ。明らかに「ドキュメンタリー」を理解していない瀬野の指示に従うのは癪だが、しかし、さりとて他にやれることもない。だから、多少のプライドを捨ててでもやるしかない、という状況にいるのだ。
で、しばらくすると、実は瀬野も似たような状況にいることが理解できるようになっていく。彼女はドラマ志望なのだが、配属されたのはバラエティ。どうにも向いていないと思うのだが、上司からは「与えられた仕事で結果を出せ」と言われるばかり。そんな中、園田梨枝のドキュメンタリーの話が湧いて出てくる。そして、「これで上手く行ったら、ドラマ班に俺から推薦してやるから」と言われ、なんとしてでも結果を出さなければならない状況にいるのである。
どちらも割と、崖っぷちにいるというわけだ。
その上でさらに、大きな軸として描かれるのが、園田梨枝の家族の話である。こちらについては、物語がしばらく展開されないと詳しい状況が明らかにならないので、あまり書きすぎないようにするが、割と最初の方で明らかになることにまず触れると、「10年前に、父親の反対を押し切って、高校を中退してまで上京し女優を目指した」ということ。そして、弟との会話からどうやら、長姉との関係がかなり悪いということが伝わってくる。
そして、ドキュメンタリーの撮影が次第に、梨枝の家族の話と混じり合っていくのだ。そしてそうなってくると、全体のトーンがシリアスで、ちょっと泣けるテイストになっていく。それまでの割とコメディタッチの物語が結構ガラッと変わっていくというわけだ。
そして上手いのが、蓮佛美沙子・伊藤万理華・上川周作はそれぞれ、どっちのトーンの物語にも上手く馴染んでいくのだ。だから、途中で一気に物語のトーンが変わっても、それが違和感として現れることがない。この辺りのバランスがとても絶妙だったなぁ、と思う。
シリアスなトーンになってからは、結構涙腺が刺激される展開が多くて、実際に客席からは、結構すすり泣くみたいな声が散発的に上がっていた。僕も割とウルウル来ていたので人のことは言えないのだけど。ベタっちゃあベタな話ではあるのだけど、ただ「家族」の話の中に、「女優として生きる」みたいな要素が加わることで、やっぱりちょっと変化球っぽくなる。特に長姉との確執は、まさに「梨枝が女優をやっていること」がベースにあるわけで、これが、「ありがちな家族の話」を絶妙にねじれさせて、「ありがち」からちょっと浮き上がる感じになっている。
そして、これも物語的に上手いのだが、ある事情から、「家族との関係が悪化したこと」によって、同時に「瀬野との関係も悪化する」ことになっていく。最初から関係としては悪かった2人が、一層悪い状態に陥っていくことになるのだ。
さて、ここから物語はどうなっていくんやろ、みたいな感じで、それからの展開もとても良く、全体のまとまりも含めて、素敵な物語だったなぁと思う。
しかしホント、蓮佛美沙子は良い。メチャクチャ好きみたいなことではないんだけど、雰囲気とかも含めて素敵な女優だなぁと思っていたし、本作での佇まいもとても素敵だった。特に本作では、いやーな感じの雰囲気を出す時の存在感が絶妙に良かった。分かんないけど、なかなかこういう雰囲気を出すのは難しいんじゃないかなと思う。
あと、さるたく(猿渡拓郎)も良かったなぁ。梨枝と瀬野だけだったら絶対に成立しない状況が、さるたくがいることによって成り立つ感じは、ホントに上手かった。正直、そういう感じだけの役柄なのかと思っていたけど、割と後半で、運転中にメチャクチャ良いことを言う場面もあって、それも含めて、本作におけるかなり重要な存在感を担っていたと思います。
しかし、ファミレスのあれがまさかあー繋がるとはなぁ、みたいなこともあったりして、物語的にもとても面白かったし、とにかく、とても良い映画だった。冒頭で「これと言って何かがあるというわけでもない」と書いたけど、逆に言えば「割と誰にでも勧めやすい作品」とも言えるし、あまりこういう表現は使いたくないのだけど、「万人受けする作品」と言えるかもしれない。
とても素敵な映画でした。
「女優は泣かない」を観に行ってきました
物語は、スキャンダルによって落ち目になった、デビュー10年目の女優・安藤梨花(本名:園田梨枝)が、再起を賭ける仕事として社長から言われたドキュメンタリーの撮影のために、地元・熊本に帰るところから始まる。当初付く予定だったマネージャーは別現場へ派遣され、彼女の元には誰も来ない。社長に文句を言うも、「これから調整する」と言われた後、電話が繋がらなくなる始末だ。
そこにやってきたのが、イダテレのディレクターである瀬野咲。プロデューサーはいないのかと聞かれた彼女は、「予算が無いんで」と口にする。その後彼女は、あらゆる場面で「予算」を口にする。
「事務所の社長から、園田さんは実家に泊まると聞いていた」と言う瀬野に、梨枝「自分で出すからどこかホテルへ連れてって」と頼むが、着いた先はなんとラブホテル。瀬野はここに泊まるそうだ。さすがにそれは無理だと思い、自分で探すと言ってラブホテルを後にした梨枝は、どうにか捕まえたタクシーでどこかのホテルを目指す。しかし、なんとそのタクシー運転手が、高校の同級生の猿渡拓郎だった。そして彼はなんと、梨枝を実家に送り届けるのである。
10年前、啖呵を切って飛び出した実家の玄関を久々にくぐる。帰ってきた弟に、「真希姉には帰ってきたこと黙ってて」と頼み込み、そのままドキュメンタリーの撮影に入るのだが、バラエティ畑にいた瀬野は、「ドキュメンタリーにも演出は必要なんで」を繰り返しながら、とても「ドキュメンタリー」とは言えない映像ばかり撮っていき……。
というような話です。
とにかく冒頭からしばらくは、割とコメディタッチで物語が進んでいく。明らかにむちゃくちゃな指示を出す瀬野に振り回される梨枝という構図がなかなか面白い。しかも、割とキャリアのある女優に対してどうしてそんな態度で行けるのかと言えば、スキャンダルで失墜した梨枝にとっては、これが這い上がるチャンスになるかもしれないからだ。明らかに「ドキュメンタリー」を理解していない瀬野の指示に従うのは癪だが、しかし、さりとて他にやれることもない。だから、多少のプライドを捨ててでもやるしかない、という状況にいるのだ。
で、しばらくすると、実は瀬野も似たような状況にいることが理解できるようになっていく。彼女はドラマ志望なのだが、配属されたのはバラエティ。どうにも向いていないと思うのだが、上司からは「与えられた仕事で結果を出せ」と言われるばかり。そんな中、園田梨枝のドキュメンタリーの話が湧いて出てくる。そして、「これで上手く行ったら、ドラマ班に俺から推薦してやるから」と言われ、なんとしてでも結果を出さなければならない状況にいるのである。
どちらも割と、崖っぷちにいるというわけだ。
その上でさらに、大きな軸として描かれるのが、園田梨枝の家族の話である。こちらについては、物語がしばらく展開されないと詳しい状況が明らかにならないので、あまり書きすぎないようにするが、割と最初の方で明らかになることにまず触れると、「10年前に、父親の反対を押し切って、高校を中退してまで上京し女優を目指した」ということ。そして、弟との会話からどうやら、長姉との関係がかなり悪いということが伝わってくる。
そして、ドキュメンタリーの撮影が次第に、梨枝の家族の話と混じり合っていくのだ。そしてそうなってくると、全体のトーンがシリアスで、ちょっと泣けるテイストになっていく。それまでの割とコメディタッチの物語が結構ガラッと変わっていくというわけだ。
そして上手いのが、蓮佛美沙子・伊藤万理華・上川周作はそれぞれ、どっちのトーンの物語にも上手く馴染んでいくのだ。だから、途中で一気に物語のトーンが変わっても、それが違和感として現れることがない。この辺りのバランスがとても絶妙だったなぁ、と思う。
シリアスなトーンになってからは、結構涙腺が刺激される展開が多くて、実際に客席からは、結構すすり泣くみたいな声が散発的に上がっていた。僕も割とウルウル来ていたので人のことは言えないのだけど。ベタっちゃあベタな話ではあるのだけど、ただ「家族」の話の中に、「女優として生きる」みたいな要素が加わることで、やっぱりちょっと変化球っぽくなる。特に長姉との確執は、まさに「梨枝が女優をやっていること」がベースにあるわけで、これが、「ありがちな家族の話」を絶妙にねじれさせて、「ありがち」からちょっと浮き上がる感じになっている。
そして、これも物語的に上手いのだが、ある事情から、「家族との関係が悪化したこと」によって、同時に「瀬野との関係も悪化する」ことになっていく。最初から関係としては悪かった2人が、一層悪い状態に陥っていくことになるのだ。
さて、ここから物語はどうなっていくんやろ、みたいな感じで、それからの展開もとても良く、全体のまとまりも含めて、素敵な物語だったなぁと思う。
しかしホント、蓮佛美沙子は良い。メチャクチャ好きみたいなことではないんだけど、雰囲気とかも含めて素敵な女優だなぁと思っていたし、本作での佇まいもとても素敵だった。特に本作では、いやーな感じの雰囲気を出す時の存在感が絶妙に良かった。分かんないけど、なかなかこういう雰囲気を出すのは難しいんじゃないかなと思う。
あと、さるたく(猿渡拓郎)も良かったなぁ。梨枝と瀬野だけだったら絶対に成立しない状況が、さるたくがいることによって成り立つ感じは、ホントに上手かった。正直、そういう感じだけの役柄なのかと思っていたけど、割と後半で、運転中にメチャクチャ良いことを言う場面もあって、それも含めて、本作におけるかなり重要な存在感を担っていたと思います。
しかし、ファミレスのあれがまさかあー繋がるとはなぁ、みたいなこともあったりして、物語的にもとても面白かったし、とにかく、とても良い映画だった。冒頭で「これと言って何かがあるというわけでもない」と書いたけど、逆に言えば「割と誰にでも勧めやすい作品」とも言えるし、あまりこういう表現は使いたくないのだけど、「万人受けする作品」と言えるかもしれない。
とても素敵な映画でした。
「女優は泣かない」を観に行ってきました
「春画先生」を観に行ってきました
いやーしかし、むちゃくちゃな話だったな。特段これと言ってどんな想像もしていなかったが、しかし、全然想像していたのと違う物語だった。
物語は、喫茶店で働く春野弓子が、近所で有名な「春画先生」から店内で話しかけられたことから始まる。喫茶店のテーブルで春画を広げていた、春画先生こと芳賀一郎は、弓子の視線が春画に一瞬注がれたのを見逃さなかったのか、「もっと春画が観たければここに来るといい」と言って名刺を渡す。弓子は翌日、名刺を頼りに春画先生を訪ね、そこで前置きも無しに色んな春画を目にし、すぐさま「お手伝いさん兼弟子」の立場になった。
しかし弓子には、春画以上に心惹かれる存在があった。それは、春画先生その人である。
ある日、春画とワインを楽しむパーティーに参加するため、弓子は先生からあるドレスを着るよう言われる。亡き妻のものだそうだ。伊都という女性はとても美しいのだが、7年も前に亡くなってしまった。そんな亡き妻のドレスを着て、パーティーに参加。そこで彼女は、先生が語る「伝説の7日間」のエピソードを知る。
その後、先生の屋敷に勝手に上がり込んだ男と共に、かつて先生が在籍していたという大学へと向かうことに、出版社の編集者だという辻村俊介は、夜のバーで弓子が知りたがっていた先生の亡き妻の話を滔々と語るのだが……。
というような話です。
なんと言ったらいいのかよく分からないけど、とにかく「偏愛」の物語であることは確かである。しかし、その「偏愛」は決して、「春画」だけに向けられているわけではない。作中では、様々な形で「偏愛」が描かれていく。そしてそのどれもが「奇妙奇天烈」という感じなのである。
そもそも冒頭の2人が出会うシーンからしてむちゃくちゃというか、「普通はそこ、もうちょっと描かないと成立しないでしょ」みたいな感じで始まる。本作では随所にそういう「省略」があり、「問答無用で好きだから」みたいなある種の「暴論」で話が進んでいく。この感じが好きかどうかで、作品の受け取り方が変わるだろうなぁ。一種の「ファンタジー」だと受け取って楽しめればいいけど、そうでないと「なにこれ?」みたいな感じになってしまいそうな気がする。
僕は、最初こそ面食らったけど、途中からは「そういうルールで展開される物語なんだな」と受け入れて、割りかし楽しめた。しかし、辻村俊介の存在感とか、先生との「密約」とか、物語の最後の「むちゃくちゃな展開」とか、結構ギリギリのライン際を攻めているというか、むしろアウトなんじゃないかみたいな感じもあって、そういう部分も結構賛否分かれそうだ。特に、女性からは受け入れられないような感じもするんだけど、どうなんだろうか。
しかし素晴らしかったのは柄本佑。辻村俊介という役柄は、本当に上手くやらないと「単に嫌な奴」で終わってしまうと思うんだけど、柄本佑が絶妙に演じることで、僕の感覚では「ギリギリセーフ側にいる」という感じがした。ホント上手いよなぁ、柄本佑。「実際にこういう人いそうだよなぁ」という雰囲気の醸し出し方も含めて、見事だったと思う。
むちゃくちゃ良かった、というわけではないが、「笑い絵」と称される春画のように、肩の力を抜いて観る分にはなかなか楽しめる映画じゃないかと思う。また個人的には、この作品に出てくるような「変人」は結構好きなので、割と関わりたいタイプの人たちでもある。まあ、春画にはさほど興味は持てないが。
「春画先生」を観に行ってきました
物語は、喫茶店で働く春野弓子が、近所で有名な「春画先生」から店内で話しかけられたことから始まる。喫茶店のテーブルで春画を広げていた、春画先生こと芳賀一郎は、弓子の視線が春画に一瞬注がれたのを見逃さなかったのか、「もっと春画が観たければここに来るといい」と言って名刺を渡す。弓子は翌日、名刺を頼りに春画先生を訪ね、そこで前置きも無しに色んな春画を目にし、すぐさま「お手伝いさん兼弟子」の立場になった。
しかし弓子には、春画以上に心惹かれる存在があった。それは、春画先生その人である。
ある日、春画とワインを楽しむパーティーに参加するため、弓子は先生からあるドレスを着るよう言われる。亡き妻のものだそうだ。伊都という女性はとても美しいのだが、7年も前に亡くなってしまった。そんな亡き妻のドレスを着て、パーティーに参加。そこで彼女は、先生が語る「伝説の7日間」のエピソードを知る。
その後、先生の屋敷に勝手に上がり込んだ男と共に、かつて先生が在籍していたという大学へと向かうことに、出版社の編集者だという辻村俊介は、夜のバーで弓子が知りたがっていた先生の亡き妻の話を滔々と語るのだが……。
というような話です。
なんと言ったらいいのかよく分からないけど、とにかく「偏愛」の物語であることは確かである。しかし、その「偏愛」は決して、「春画」だけに向けられているわけではない。作中では、様々な形で「偏愛」が描かれていく。そしてそのどれもが「奇妙奇天烈」という感じなのである。
そもそも冒頭の2人が出会うシーンからしてむちゃくちゃというか、「普通はそこ、もうちょっと描かないと成立しないでしょ」みたいな感じで始まる。本作では随所にそういう「省略」があり、「問答無用で好きだから」みたいなある種の「暴論」で話が進んでいく。この感じが好きかどうかで、作品の受け取り方が変わるだろうなぁ。一種の「ファンタジー」だと受け取って楽しめればいいけど、そうでないと「なにこれ?」みたいな感じになってしまいそうな気がする。
僕は、最初こそ面食らったけど、途中からは「そういうルールで展開される物語なんだな」と受け入れて、割りかし楽しめた。しかし、辻村俊介の存在感とか、先生との「密約」とか、物語の最後の「むちゃくちゃな展開」とか、結構ギリギリのライン際を攻めているというか、むしろアウトなんじゃないかみたいな感じもあって、そういう部分も結構賛否分かれそうだ。特に、女性からは受け入れられないような感じもするんだけど、どうなんだろうか。
しかし素晴らしかったのは柄本佑。辻村俊介という役柄は、本当に上手くやらないと「単に嫌な奴」で終わってしまうと思うんだけど、柄本佑が絶妙に演じることで、僕の感覚では「ギリギリセーフ側にいる」という感じがした。ホント上手いよなぁ、柄本佑。「実際にこういう人いそうだよなぁ」という雰囲気の醸し出し方も含めて、見事だったと思う。
むちゃくちゃ良かった、というわけではないが、「笑い絵」と称される春画のように、肩の力を抜いて観る分にはなかなか楽しめる映画じゃないかと思う。また個人的には、この作品に出てくるような「変人」は結構好きなので、割と関わりたいタイプの人たちでもある。まあ、春画にはさほど興味は持てないが。
「春画先生」を観に行ってきました
「メンゲレと私」を観に行ってきました
作品はとても良かったのだけど、タイトルが良くない。「メンゲレ」というのは、アウシュビッツ強制収容所で「神」と呼ばれていた「イカれた医師」の名前なのだが、本作にはメンゲレの話はほとんど出てこない。基本的には、語り部であるダニエル・ハノッホの人生の話である。だから、英題である『A Boy’s Life』が適切なタイトルと言えるだろう。
もちろん、こういうタイトルになった理由は分かる。本作は、『ゲッベルスと私』『ユダヤ人の私』に続く3部作目なのだ。だから、『~私』というタイトルで統一したかったのだろうし、だとしたら「メンゲレ」の名前を出すしかない。ただ、『メンゲレと私』というタイトルにするなら、もう少しメンゲレの話に言及があるべきだよなぁ、と思う。
さてまずは、本作の中で最も印象的だった話から始めよう。
ダニエル・ハノッホは8歳の時にゲットーに入れられ、その後アウシュビッツ強制収容所に送られた。マウトハウゼンという、「重労働による絶滅」を掲げた唯一の収容所なども経験しつつ、彼はそのような環境で44ヶ月を生き延び、生還した。米軍が来て解放された時、13歳だったそうだ。
さて、そんな彼は解放後、米軍の配給や赤十字の小包を断ったそうだ。理由ははっきりと分からなかったが、恐らくそこには彼なりの信念があったのだと思う。後で触れるが、「生き延びるために、とにかくしこたま考えた」そうだ。「与えられたもの」ではなく、「自ら手に入れたもの」で生き延びるみたいな思考が染み付いていたのかもしれない。
もちろん、彼はお腹が空いていた。確か、ドイツ兵の死体のポケットに入っていたサンドイッチが、解放後最初に口に入れた食べ物だ、みたいなことを言っていたように思う。その後ももちろん、食料を探しに行くのだが、それ以上に彼が求めたものがあった。
それが「紙と鉛筆」である。
収容所では、紙と鉛筆を持つことは禁じられていたそうだ。だから彼は解放後、ある会社(彼とどのような関係があるのか分からなかった)に行き、そこで目にした紙と鉛筆で、思う存分文字を書いたり絵を描いたりしたそうだ。その時のことについて、「一種の解放感」「自由の象徴だった」と語っていたし、さらに、
『(文字を書いたり絵を書いたり出来る)そんな人間に戻れて、私は満足だった』
とさえ言っていた。これは凄く印象に残る話だった。「食べること」以上に、「人間らしさ」みたいなものを取り戻したいと考えたというわけだ。
もちろん、そんな風に感じた理由も分からないではない。というのも彼は、凄まじい光景を目にしているからだ。
「酷い光景」は彼にとって日常だった。彼は降荷場で働いていた。色んな「荷物」が届く場所だ。もちろん、人間も。そして彼はそこで、「これから死にに行く者たち」を見続けた。映画の中で彼が「最も辛い瞬間だった」と語っていたのが、「処理場」へと向かう道すがら、パンをもらったことだったという。「僕はもう要らないから」と言われたそうだ。つまりその人物は、これから自分が死ぬことを理解していたのである。
ダニエル・ハノッホにとっては、これが日常だった。
しかし、そんなこととは比べ物にならないぐらい、おぞましく狂気的な状況を目にしたという。僕は、ホロコーストに関するドキュメンタリー映画や、ホロコーストを扱ったフィクション映画などを結構観ているが、それでも、彼が語った話は初めて知った。
それは「カニバリズム」、つまり「人肉を食べる行為」である。
その話が出てきたのは、終戦が近づいている頃のことで、連合軍の大砲が「意図せずに囚人に当たって命を落とすことがある」という話に続くものだった。そのような死体がフェンスに引っかかっていることがあるのだが、それをハンガリー人(彼ははっきり、ハンガリー人と言っていた)が回収し、食べていたというのである。
彼はこの点については「ホロコーストの話としてあまり語られていない」と指摘していたし、「ありとあらゆる他の残虐な行為とは比べ物にならないくらい酷い」と糾弾していた。その通りだろう。ちょっと信じがたい話である。
さて、そんな彼がアウシュビッツを生き延びることが出来たのには理由がある。とにかく「考え続けた」のである。
最初のきっかけは、「コブノ・ゲットー」での経験だった。ここでは「労働不能」と「選別」されると、第9要塞で殺されるというルールがあったようだ。その際はまだ、兄のウリと一緒で、兄が積極的に動いて、彼を屋根裏部屋に隠してくれたのだそうだ。
しかしある日、その屋根裏部屋にドイツ兵がやってきて、「全員表に出ろ」と言われた。その瞬間、彼は、「出たら殺される」ことが分かったという。そこで、どうにか屋根裏部屋から下に降りられる扉を探し、下でタバコを吸っていた親衛隊員にぶつかりながらも、どうにか逃げ切ったのだそうだ。
この経験から彼は、「命令には従わない」という絶対的なルールを認識した。そしてその認識のことを「道具」と呼び、その「道具」のお陰で44ヶ月を生き延びられたと語っていた。
メンゲレという医師は、自ら志願してアウシュヴィッツに配属されたそうで、子どもたちを使って人体実験を行っていた。目玉をくり抜くなど非人道的なことが日々行われていたし、メンゲレは特に双子に興味を示し、1400組もの双子に様々な実験を行ったそうだ。
そしてダニエル・ハノッホ、このメンゲレから「気に入られる」という特異な立ち位置で収容所生活を送っていた。彼は吐き捨てるように話していたが、収容所には時々赤十字の人がやってきたそうだ。そしてそういう時に、メンゲレは彼を「見本」として見せていたという。「ユダヤ人の子どもたちを、丁寧に扱っていますよ」という「見本」である。彼は、赤十字の助けを期待していたが、「彼らは何もしてくれなかった」と厳しく断罪している。
では、彼はどのようにしてメンゲレに気に入られたのか。決して偶然ではない、思考力の賜物である。
『私は彼に、元気で有益であるように見せようとした。彼が人々を「用途」で観ていたのを知っていたからだ。
「選別」の際も、恐怖を出さず、まっすぐ背筋を伸ばし、強い人間であることをアピールした。
だから私は残れたのだろう。』
また彼は、「空想」の助けも借りていたと言っていた。収容所の中で「空想」を駆使することによって、「生きる希望」を得ていたというのだ。仲間と会話することよりも、「空想」の方が重要だったそうだ。事実彼は、可能な限り独りでいたと証言している。
当時まだ、10歳前後の少年である。そんな少年の言葉とは思えない力強さに満ちていた。
少年とは思えないという話で言えば、彼はこんな風にも言っていた。彼はとにかく「泣かなかった」そうなのだ。それは「子どもだから」という理由では説明できないくらいで、彼は自身のことを「普通とは違う」と表現していた。
屋根裏部屋で窮地に陥った際も、彼は、
『ここでも私は無関心だった。私には他人事だったのだ。現実感が無かった』
みたいな言い方をしている。また別の場面では、
『泣くのは弱さの表れだ。泣いたって何の役にも立たない』
と言っている。子どもの頃など、「泣いたって何の役にも立たない」と思っていたって泣きたくなったりするだろうに、やはりちょっと普通の子どもとは違ったようだ。
それは、収容所を経験したことで一層増したと言っていいだろう。彼はある場面で、
『奇妙に聞こえるかもしれないが、アウシュビッツは良い学校だった。ビルケナウもだ。』
という言い方をしている。それに続けて、
『収容所の”卒業生”は、ものの見方や哲学がどこか他の人と異なるのだ。アウトサイダーなのである』
みたいなことも言っていた。これも、「結果的にそうなってしまった」のか、あるいは「そういう人間だからこそ生き延びられた」のか分からないが、いずれにしても凄まじい話である。
当然だが、彼は随所で、ホロコーストやメンゲレについての感想を口にする。
『あんな生き物が何故この世に存在できたのだろうかと時々考えてしまう』
『殺人場のような場所はビルケナウだけだった。他の国ではあり得ない』
『(ドイツ人が命令に従ってユダヤ人を機械的に殺したことについて)自ら戒める機能を持つのが人間なのではないか?』
凄まじい経験をせざるを得なかった1人の少年の壮絶な経験を、傍目には「軽妙に」とさえ映る雰囲気で語る作品である。
「メンゲレと私」を観に行ってきました
もちろん、こういうタイトルになった理由は分かる。本作は、『ゲッベルスと私』『ユダヤ人の私』に続く3部作目なのだ。だから、『~私』というタイトルで統一したかったのだろうし、だとしたら「メンゲレ」の名前を出すしかない。ただ、『メンゲレと私』というタイトルにするなら、もう少しメンゲレの話に言及があるべきだよなぁ、と思う。
さてまずは、本作の中で最も印象的だった話から始めよう。
ダニエル・ハノッホは8歳の時にゲットーに入れられ、その後アウシュビッツ強制収容所に送られた。マウトハウゼンという、「重労働による絶滅」を掲げた唯一の収容所なども経験しつつ、彼はそのような環境で44ヶ月を生き延び、生還した。米軍が来て解放された時、13歳だったそうだ。
さて、そんな彼は解放後、米軍の配給や赤十字の小包を断ったそうだ。理由ははっきりと分からなかったが、恐らくそこには彼なりの信念があったのだと思う。後で触れるが、「生き延びるために、とにかくしこたま考えた」そうだ。「与えられたもの」ではなく、「自ら手に入れたもの」で生き延びるみたいな思考が染み付いていたのかもしれない。
もちろん、彼はお腹が空いていた。確か、ドイツ兵の死体のポケットに入っていたサンドイッチが、解放後最初に口に入れた食べ物だ、みたいなことを言っていたように思う。その後ももちろん、食料を探しに行くのだが、それ以上に彼が求めたものがあった。
それが「紙と鉛筆」である。
収容所では、紙と鉛筆を持つことは禁じられていたそうだ。だから彼は解放後、ある会社(彼とどのような関係があるのか分からなかった)に行き、そこで目にした紙と鉛筆で、思う存分文字を書いたり絵を描いたりしたそうだ。その時のことについて、「一種の解放感」「自由の象徴だった」と語っていたし、さらに、
『(文字を書いたり絵を書いたり出来る)そんな人間に戻れて、私は満足だった』
とさえ言っていた。これは凄く印象に残る話だった。「食べること」以上に、「人間らしさ」みたいなものを取り戻したいと考えたというわけだ。
もちろん、そんな風に感じた理由も分からないではない。というのも彼は、凄まじい光景を目にしているからだ。
「酷い光景」は彼にとって日常だった。彼は降荷場で働いていた。色んな「荷物」が届く場所だ。もちろん、人間も。そして彼はそこで、「これから死にに行く者たち」を見続けた。映画の中で彼が「最も辛い瞬間だった」と語っていたのが、「処理場」へと向かう道すがら、パンをもらったことだったという。「僕はもう要らないから」と言われたそうだ。つまりその人物は、これから自分が死ぬことを理解していたのである。
ダニエル・ハノッホにとっては、これが日常だった。
しかし、そんなこととは比べ物にならないぐらい、おぞましく狂気的な状況を目にしたという。僕は、ホロコーストに関するドキュメンタリー映画や、ホロコーストを扱ったフィクション映画などを結構観ているが、それでも、彼が語った話は初めて知った。
それは「カニバリズム」、つまり「人肉を食べる行為」である。
その話が出てきたのは、終戦が近づいている頃のことで、連合軍の大砲が「意図せずに囚人に当たって命を落とすことがある」という話に続くものだった。そのような死体がフェンスに引っかかっていることがあるのだが、それをハンガリー人(彼ははっきり、ハンガリー人と言っていた)が回収し、食べていたというのである。
彼はこの点については「ホロコーストの話としてあまり語られていない」と指摘していたし、「ありとあらゆる他の残虐な行為とは比べ物にならないくらい酷い」と糾弾していた。その通りだろう。ちょっと信じがたい話である。
さて、そんな彼がアウシュビッツを生き延びることが出来たのには理由がある。とにかく「考え続けた」のである。
最初のきっかけは、「コブノ・ゲットー」での経験だった。ここでは「労働不能」と「選別」されると、第9要塞で殺されるというルールがあったようだ。その際はまだ、兄のウリと一緒で、兄が積極的に動いて、彼を屋根裏部屋に隠してくれたのだそうだ。
しかしある日、その屋根裏部屋にドイツ兵がやってきて、「全員表に出ろ」と言われた。その瞬間、彼は、「出たら殺される」ことが分かったという。そこで、どうにか屋根裏部屋から下に降りられる扉を探し、下でタバコを吸っていた親衛隊員にぶつかりながらも、どうにか逃げ切ったのだそうだ。
この経験から彼は、「命令には従わない」という絶対的なルールを認識した。そしてその認識のことを「道具」と呼び、その「道具」のお陰で44ヶ月を生き延びられたと語っていた。
メンゲレという医師は、自ら志願してアウシュヴィッツに配属されたそうで、子どもたちを使って人体実験を行っていた。目玉をくり抜くなど非人道的なことが日々行われていたし、メンゲレは特に双子に興味を示し、1400組もの双子に様々な実験を行ったそうだ。
そしてダニエル・ハノッホ、このメンゲレから「気に入られる」という特異な立ち位置で収容所生活を送っていた。彼は吐き捨てるように話していたが、収容所には時々赤十字の人がやってきたそうだ。そしてそういう時に、メンゲレは彼を「見本」として見せていたという。「ユダヤ人の子どもたちを、丁寧に扱っていますよ」という「見本」である。彼は、赤十字の助けを期待していたが、「彼らは何もしてくれなかった」と厳しく断罪している。
では、彼はどのようにしてメンゲレに気に入られたのか。決して偶然ではない、思考力の賜物である。
『私は彼に、元気で有益であるように見せようとした。彼が人々を「用途」で観ていたのを知っていたからだ。
「選別」の際も、恐怖を出さず、まっすぐ背筋を伸ばし、強い人間であることをアピールした。
だから私は残れたのだろう。』
また彼は、「空想」の助けも借りていたと言っていた。収容所の中で「空想」を駆使することによって、「生きる希望」を得ていたというのだ。仲間と会話することよりも、「空想」の方が重要だったそうだ。事実彼は、可能な限り独りでいたと証言している。
当時まだ、10歳前後の少年である。そんな少年の言葉とは思えない力強さに満ちていた。
少年とは思えないという話で言えば、彼はこんな風にも言っていた。彼はとにかく「泣かなかった」そうなのだ。それは「子どもだから」という理由では説明できないくらいで、彼は自身のことを「普通とは違う」と表現していた。
屋根裏部屋で窮地に陥った際も、彼は、
『ここでも私は無関心だった。私には他人事だったのだ。現実感が無かった』
みたいな言い方をしている。また別の場面では、
『泣くのは弱さの表れだ。泣いたって何の役にも立たない』
と言っている。子どもの頃など、「泣いたって何の役にも立たない」と思っていたって泣きたくなったりするだろうに、やはりちょっと普通の子どもとは違ったようだ。
それは、収容所を経験したことで一層増したと言っていいだろう。彼はある場面で、
『奇妙に聞こえるかもしれないが、アウシュビッツは良い学校だった。ビルケナウもだ。』
という言い方をしている。それに続けて、
『収容所の”卒業生”は、ものの見方や哲学がどこか他の人と異なるのだ。アウトサイダーなのである』
みたいなことも言っていた。これも、「結果的にそうなってしまった」のか、あるいは「そういう人間だからこそ生き延びられた」のか分からないが、いずれにしても凄まじい話である。
当然だが、彼は随所で、ホロコーストやメンゲレについての感想を口にする。
『あんな生き物が何故この世に存在できたのだろうかと時々考えてしまう』
『殺人場のような場所はビルケナウだけだった。他の国ではあり得ない』
『(ドイツ人が命令に従ってユダヤ人を機械的に殺したことについて)自ら戒める機能を持つのが人間なのではないか?』
凄まじい経験をせざるを得なかった1人の少年の壮絶な経験を、傍目には「軽妙に」とさえ映る雰囲気で語る作品である。
「メンゲレと私」を観に行ってきました
「戦場のピアニスト 4Kリマスター版」を観に行ってきました
いやー、この映画、マジで今日観て良かったなぁ。
という話から始めようと思う。
まず、いつものことだが、僕は『戦場のピアニスト』という作品について何も知らずに観たので、そもそも「そうか、ユダヤ人の話だったのか」と見始めに思ったぐらいだ。で、そんな状態で観たので、「実話を基にしている」ということも知らなかった。そのことを知ったのは、映画の最後、映画の主人公であるウワディスワフ・シュピルマンが「2000年7月6日に89歳で亡くなった」という字幕が表示された時だ。ホント、映画の最後の最後まで、そのことを知らなかった。
で、僕が今日観たのは『戦場のピアニスト 4Kリマスター版』であり、その上映を記念してのことだろう、上映後にトークイベントが行われた。僕も、映画のチケットを取る段階で「上映後にトークイベントがある」ということは知っていたのだけど、普段から何も調べないので、「ゲストとして誰が登壇するのか」についても知らないままだった。
で、映画が終わると、1人の外国人が壇上に上がったのだ(まあ正確に言うと、「座ると言葉が出なくなる」と言って、壇上には上がらず、床上に立って話をしていたのだけど)。初めは「監督なのか?」とも思ったのだけど、そうではなく、なんとこの方、ウワディスワフ・シュピルマンの息子のクリストファー・シュピルマンだったのだ。しかもこの人、日本語がペラペラ。奥さんが日本人で、長いこと日本に住んでいるとかで、もちろん通訳無しでメチャクチャ面白くトークをしていくのだ。「生まれた時のことはですね、さすがに三島由紀夫のようには覚えてないですが」なんてジョークもさらっと入れ込んだりして、面白かったなぁ。
全然狙ってトークイベントの回を観に行ったわけでもないし、そして、その登壇者を知らずにいたからこそ、映画が実話をベースにしていることも知らずに観れたので、なんというかメチャクチャ得した気分である。いやー、今日観て良かった。
しかしホント、クリストファーさんは日本語が上手くて、「神妙な」「嬉しい次第です」みたいな、日本人だって使いこなせない人もいるだろう表現も普通に使うし、奥さんのことを「家内」と読んでいたのもなんか印象的だった。
さて、まずは一応、映画の内容に触れておこう。
ウワディスワフ・シュピルマンは、ポーランド・ワルシャワでピアニストとして知られる存在だった。普段は局内でピアノ演奏をしてラジオで音色を届けるなど、芸術家として過ごしていたのだ。
しかし1939年に第二次世界大戦が勃発し、ラジオ局近くが爆撃されるなど、戦争の陰がどんどんと押し寄せていた。一家は逃げようと考えていたのだが、ラジオ放送でイギリスがナチスドイツに宣戦布告したこと、フランスも近く参戦するだろうと伝えられると一転、喚起に湧く。ドイツ軍を抑え込んでくれると考えていたからだ。
しかし状況はどんどんと悪化していく。ユダヤ人だったシュピルマン一家は、ユダヤ人特別区(ゲットー)に押し込まれ、周囲を壁で覆われて出入りが制限されてしまう。ドイツ人が気まぐれにユダヤ人を殺していくような酷い惨状の中、芸術家であるために不向きな力仕事をこなしながら、どうにか生き延びていく。
しかし次第に、ユダヤ人が東部へと送られるという噂が流れる。「ドイツ人のために働いている」ことを示す雇用証明書があればどうにかなるはずと書類集めに奔走するも、やはり話はそう簡単ではなく、シュピルマン一家もぎゅうぎゅう詰めの列車に乗せられてしまうのだが……。
実話だと知らずに観ていたのだけど、ただもちろん、「こういうことが現実にあったんだろうなぁ」という受け取り方はしていた。まったく本当に、酷い世界だった。何が酷いかって、「酷い現実を目の前にしても、ユダヤ人たちが反応出来なくなっている様」が何よりも酷いと感じた。それはつまり、「死に直結するような酷さが、日常茶飯事だった」ということを意味するからだ。あるいは、「周りと違った反応をすれば、すぐに殺されてしまう」という事情もあっただろう。ある場面では、「私たちはどこに行くんですか?」とドイツ兵に質問しただけの女性が、即座に銃殺されてしまった。
主人公には途中まで、「家族がいるから生きていられる」というような環境にあったと思う。両親と兄弟姉妹は、辛い状況が様々に直面しつつも、どうにか助け合って生きてきた。しかし、どうしてそうなったのかには具体的には一応触れないことにするが、主人公はある時点から、家族と離れ離れになってしまうのである。
そうなって以降、「生きる希望」を見出すことはなかなか難しかっただろう。しかしそれでも彼は、どうにか生き延びる方策を探る。この点については、映画を観ているだけではちゃんとは捉えきれなかったが、トークイベントで語られた話を補助線にすると見えて来やすいかもしれない。
息子のクリストファーさんは、「父親はユダヤ人だったが、宗教的にはほぼ無宗教と言ってよかったと思う。強いて言うなら、音楽が宗教だった」みたいなことを言っていた。そのエピソードとして、ピアノを習うことになった時の話をしていた。
クリストファーさんは父親からではなく、女性の先生からピアノを習っていたそうだが、6~7歳の頃の彼にはピアノがどうにもつまらなく、レッスンを止めてしまったのだそうだ。しかしその後14歳になって、音楽への興味が湧いてきた。そこで父親に「ピアノを習いたい」と言ったところ「ダメだ」と言われたのだという。
父親としては、「遊びでピアノをやるのはけしからん」ということだったようだ。真剣にやるなら、6~7歳の頃から叩き込むしかない。しかしそれをやらなかったお前は、もう14歳なのだから、ピアノをやるには遅い、というわけだ。クリストファーさんは、「別に楽しみのためにピアノを始めてもいいと思うんですけどね」なんて言っていたが、まあその通りだと思う。しかし、父親にとって「音楽」というのは神聖なものだったため、そうは考えられなかったそうだ。
また、「音楽を聴く時は話してはいけない」というルールもあったのだという。他の家では、音楽をBGMにしながらお喋りをしているのに、ウチではダメだったんだ、みたいなことも言っていた。これもまた、音楽を神聖視するが故のスタンスだったのだろう。
主人公は、寒さに震え、食べるものがない状況においても、やはり「ピアノを弾くこと」への情熱を忘れない。そう示唆されるような場面も度々映し出されていく。そして、これが実話だとはとても信じられないのだが、ピアノを介してちょっと信じがたい展開が待ち受けているのだ。ある意味では、「ピアノが弾けたから生き延びることが出来た」とも解釈出来るような場面であり、実話だと思っていなかったから「なるほど、こういう展開にするのね」ぐらいに受け取っていたが、まさかこれも実話だとは信じられない想いだった。
しかし、観客は、主人公が体験した時間を細切れに飛び飛びで観ているに過ぎないが、それでもあまりの壮絶さに観ているこっちが絶望したくなるような状況が描かれていく。まして主人公は、そのような状況をほぼ5年に渡って生き延びたのだ。家族と離れ離れになってからだと2年ぐらいだろうか。最後の最後、本当に一人ぼっちになってしまってからだって、少なくとも2週間以上はその状態だったはずである。
トークイベントでクリストファーさんは、「ほぼ5年に渡って、自分がいつ死ぬか分からない状況に置かれ続けたことは、私には想像が及ばない」みたいなことを言っていたが、本当にその通りだ。生前父親は、戦争のことについてほとんどクリストファーさんに話さなかったそうだが、80歳でピアニストをやめた後は時間に余裕が出来たのか、少し話をするようになったという。その時に、「僕もみんなと一緒に死ぬべきだった」みたいなことを言っていたのを覚えているそうだ。もちろん、「本心からそう思っていたのかは分からない」とも言っていたが、映画を観ているだけの観客だって「死んだ方がマシ」と感じるような状況だったのだから、当事者がそう感じてしまうのも当然のことだと思う。
さて、実話だということを後で知って納得出来た場面がある。ゲットーに押し込められた主人公が、ユダヤ人が集まるレストランでピアノを弾く仕事をしていた時のことだ。ある男性2人組のお客さんから、「ピアノを弾くのを止めてくれ」と頼まれるシーンがあるのだ。どうしてなのかと見てみると、2人はテーブルクロスをめくり、木のテーブルの上に複数の金貨を落として音を聞いていたのだ。恐らく、本物の金貨なのか確かめていたのだろう。
僕の感触では、これがフィクションだとしたら、ちょっと凄いリアリティの描き方だな、と感じていた。「金貨の音を確かめるためにピアノの音を止める」なんていうのは、なかなか想像では描けない描写に感じるのだ。だから、後で実話を基にしていることを知って、このシーンにも納得がいった。実際に、主人公がそのような状況を経験したというのであれば、なるほどという感じである。
同じように感じるシーンは結構多い。例えば冒頭の方で、シュピルマン家である揉め事が起こる。今手元に5003ズウォティス(ネットで調べると、ポーランドの通貨の単位は「ズウォティ」らしいけど、字幕では「ズウォティス」ってなってた気がする)あるが、ユダヤ人は2000ズウォティスしか持ってはいけないことになっている。じゃあ残りの3003ズウォティスをどこに隠すか、みたいな話になるのだ。これもまた、実際にあったことだからこそのリアリティに感じられた。
映画の撮影手法でいうと、戦争によって街が破壊されたあのワルシャワの街並みは一体どんな風に撮ったのだろうと思う。全部セットで作ったのだとしたら、スタジオに作ったにしたってとんでもない規模に思える。ネットで調べると、「CG説」「実際に戦争で破壊尽くされた街を探し出して撮った説」などが出てきたが、よく分からない。
この「廃墟の街並み」のシーンは、「こんな何もかもが存在しない場所で、ピアニストという以外なんの属性も持たない男が生き延びなければならない」という絶望を一瞬で伝える効果があったし、映画全体の中でもとても印象的だった。そしてその後も、本当に「ただ生きるためだけに生きている」みたいな凄まじい状況が続いていく。正直、どこかで気持ちが切れてしまってもおかしくはなかったと思う。それでも、どうにか「生きること」を手繰り寄せていく主人公の姿には、圧倒されっぱなしだった。
「4Kリマスター版」用の公式HPが新たに作られているのだが、そこには、監督のロマン・ポランスキーが、自身も幼い頃にゲットーで過ごし、母親を収容所で亡くしている、と書かれている。だからこそ、これほどリアルな映画が作れるのだ、と。そしてそれでいて、全体的に映像に「美しさ」がある。これは不思議な感覚だが、終始「残酷さ」「不条理」ばかりが描かれるのだが、その上で「映像の美しさ」もまた際立っていると感じるのだ。
クリストファーさんによると、父親は「神経質」で「悪夢をよく見ていた」そうで、戦後もずっと長く後遺症に苦しんでいたと今なら理解できると言っていた(子どもの頃は、つまらない父親だと思っていたそうだが)。そんな父親が1946年に発売し、ポーランドでベストセラーになった本(トークイベントの中で『ある年の歌』と言ってたが、恐らくポーランド語のタイトルを邦訳するならそういうタイトルになる、ということなのだろう)がベースに本作が作られているそうだ。
ちなみに、クリストファーさんの弟が、父親のその本をドイツで出版しようと奔走し、ついに1998年にそれが実現したのだそうだが、その際に、「どうしてこんな本が今まで埋もれていたんだ」という声がたくさん上がったそうだ。弟は、「共産主義が父親の本を潰したんだ」と言っていたそうだが、恐らくそれは、本を売るための宣伝文句でしかなく、クリストファーさんは嘘だろうと言っていた。実際のところは彼にも分からないみたいだが、理由の1つとして、父親がそれを望まなかったのではないか、と語っていた。
恐らく父親は、「自分の経験したことを頭の中から出し切りたい」と思って本を書いたのだが、しかしその後、自分が書いた本に関わることで、自分の辛い記憶が蘇ってくるのを恐れたのではないか、と。だから、自宅の本棚には自身が出版した本は並んでいなかったと言っていた。12歳のクリストファー少年がそれを見つけたのは、屋根裏部屋だったそうだ。
そして、ドイツで出版されたことがきっかけだったのかは不明だが、1999年にロマン・ポランスキーが父親と会い、映画化が決まった。その際に、「主演俳優が決まったら会わせますね」という約束をしていたそうだ。しかしその後、思いがけず父親の体調が急変し、入院。病院からは「心配ないです」と連絡をもらっていたものの、その後1週間ぐらいで亡くなってしまったそうだ。結局父親は、本編を観れなかったどころか、主演俳優も知らずにこの世を去った。
その主演俳優についてクリストファーさんが「懐かしい気分がした」と、映画を観た感想について触れていた。主演俳優は背が高いのだが、父親は実は背が低かったという。だから見た目はあまり似ていないのだが、仕草や雰囲気は父親を思わせるものがあったという。恐らく、偶然だろうと言っていたが。
さて最後に、クリストファーさんが最終的に日本までやってくることになった遠因について触れて終わろう。
父親は作曲もやっており、日本でいう歌謡曲のような一般向けの曲も作り、ポーランド国内ではヒットを飛ばしていたそうだ。だからクリストファーさんは、学校なんかで名字を言うと、「あの曲の息子だ」という反応になったという。それが嫌だったというのが、ポーランドを出た理由の1つだったと言っていた。
その後イギリス・タイ・アメリカなどを経て日本に住むことになったわけだが、そうこうしている内に『戦場のピアニスト』が公開され、世界中で評価されるようになった。それ自体はとても良いことだが、結局「あの『戦場のピアニスト』の息子だ」という見られ方に戻ってしまった。それについてクリストファーさんは、「父親がまた僕のことを追いかけてきて、逃げ場がない」と言っていた。最後まで面白い話し方をする人で、良いトークイベントだったと思う。
とても良い映画だったし、とても良いトークイベントだったし、大満足だった。
「戦場のピアニスト 4Kリマスター版」を観に行ってきました
という話から始めようと思う。
まず、いつものことだが、僕は『戦場のピアニスト』という作品について何も知らずに観たので、そもそも「そうか、ユダヤ人の話だったのか」と見始めに思ったぐらいだ。で、そんな状態で観たので、「実話を基にしている」ということも知らなかった。そのことを知ったのは、映画の最後、映画の主人公であるウワディスワフ・シュピルマンが「2000年7月6日に89歳で亡くなった」という字幕が表示された時だ。ホント、映画の最後の最後まで、そのことを知らなかった。
で、僕が今日観たのは『戦場のピアニスト 4Kリマスター版』であり、その上映を記念してのことだろう、上映後にトークイベントが行われた。僕も、映画のチケットを取る段階で「上映後にトークイベントがある」ということは知っていたのだけど、普段から何も調べないので、「ゲストとして誰が登壇するのか」についても知らないままだった。
で、映画が終わると、1人の外国人が壇上に上がったのだ(まあ正確に言うと、「座ると言葉が出なくなる」と言って、壇上には上がらず、床上に立って話をしていたのだけど)。初めは「監督なのか?」とも思ったのだけど、そうではなく、なんとこの方、ウワディスワフ・シュピルマンの息子のクリストファー・シュピルマンだったのだ。しかもこの人、日本語がペラペラ。奥さんが日本人で、長いこと日本に住んでいるとかで、もちろん通訳無しでメチャクチャ面白くトークをしていくのだ。「生まれた時のことはですね、さすがに三島由紀夫のようには覚えてないですが」なんてジョークもさらっと入れ込んだりして、面白かったなぁ。
全然狙ってトークイベントの回を観に行ったわけでもないし、そして、その登壇者を知らずにいたからこそ、映画が実話をベースにしていることも知らずに観れたので、なんというかメチャクチャ得した気分である。いやー、今日観て良かった。
しかしホント、クリストファーさんは日本語が上手くて、「神妙な」「嬉しい次第です」みたいな、日本人だって使いこなせない人もいるだろう表現も普通に使うし、奥さんのことを「家内」と読んでいたのもなんか印象的だった。
さて、まずは一応、映画の内容に触れておこう。
ウワディスワフ・シュピルマンは、ポーランド・ワルシャワでピアニストとして知られる存在だった。普段は局内でピアノ演奏をしてラジオで音色を届けるなど、芸術家として過ごしていたのだ。
しかし1939年に第二次世界大戦が勃発し、ラジオ局近くが爆撃されるなど、戦争の陰がどんどんと押し寄せていた。一家は逃げようと考えていたのだが、ラジオ放送でイギリスがナチスドイツに宣戦布告したこと、フランスも近く参戦するだろうと伝えられると一転、喚起に湧く。ドイツ軍を抑え込んでくれると考えていたからだ。
しかし状況はどんどんと悪化していく。ユダヤ人だったシュピルマン一家は、ユダヤ人特別区(ゲットー)に押し込まれ、周囲を壁で覆われて出入りが制限されてしまう。ドイツ人が気まぐれにユダヤ人を殺していくような酷い惨状の中、芸術家であるために不向きな力仕事をこなしながら、どうにか生き延びていく。
しかし次第に、ユダヤ人が東部へと送られるという噂が流れる。「ドイツ人のために働いている」ことを示す雇用証明書があればどうにかなるはずと書類集めに奔走するも、やはり話はそう簡単ではなく、シュピルマン一家もぎゅうぎゅう詰めの列車に乗せられてしまうのだが……。
実話だと知らずに観ていたのだけど、ただもちろん、「こういうことが現実にあったんだろうなぁ」という受け取り方はしていた。まったく本当に、酷い世界だった。何が酷いかって、「酷い現実を目の前にしても、ユダヤ人たちが反応出来なくなっている様」が何よりも酷いと感じた。それはつまり、「死に直結するような酷さが、日常茶飯事だった」ということを意味するからだ。あるいは、「周りと違った反応をすれば、すぐに殺されてしまう」という事情もあっただろう。ある場面では、「私たちはどこに行くんですか?」とドイツ兵に質問しただけの女性が、即座に銃殺されてしまった。
主人公には途中まで、「家族がいるから生きていられる」というような環境にあったと思う。両親と兄弟姉妹は、辛い状況が様々に直面しつつも、どうにか助け合って生きてきた。しかし、どうしてそうなったのかには具体的には一応触れないことにするが、主人公はある時点から、家族と離れ離れになってしまうのである。
そうなって以降、「生きる希望」を見出すことはなかなか難しかっただろう。しかしそれでも彼は、どうにか生き延びる方策を探る。この点については、映画を観ているだけではちゃんとは捉えきれなかったが、トークイベントで語られた話を補助線にすると見えて来やすいかもしれない。
息子のクリストファーさんは、「父親はユダヤ人だったが、宗教的にはほぼ無宗教と言ってよかったと思う。強いて言うなら、音楽が宗教だった」みたいなことを言っていた。そのエピソードとして、ピアノを習うことになった時の話をしていた。
クリストファーさんは父親からではなく、女性の先生からピアノを習っていたそうだが、6~7歳の頃の彼にはピアノがどうにもつまらなく、レッスンを止めてしまったのだそうだ。しかしその後14歳になって、音楽への興味が湧いてきた。そこで父親に「ピアノを習いたい」と言ったところ「ダメだ」と言われたのだという。
父親としては、「遊びでピアノをやるのはけしからん」ということだったようだ。真剣にやるなら、6~7歳の頃から叩き込むしかない。しかしそれをやらなかったお前は、もう14歳なのだから、ピアノをやるには遅い、というわけだ。クリストファーさんは、「別に楽しみのためにピアノを始めてもいいと思うんですけどね」なんて言っていたが、まあその通りだと思う。しかし、父親にとって「音楽」というのは神聖なものだったため、そうは考えられなかったそうだ。
また、「音楽を聴く時は話してはいけない」というルールもあったのだという。他の家では、音楽をBGMにしながらお喋りをしているのに、ウチではダメだったんだ、みたいなことも言っていた。これもまた、音楽を神聖視するが故のスタンスだったのだろう。
主人公は、寒さに震え、食べるものがない状況においても、やはり「ピアノを弾くこと」への情熱を忘れない。そう示唆されるような場面も度々映し出されていく。そして、これが実話だとはとても信じられないのだが、ピアノを介してちょっと信じがたい展開が待ち受けているのだ。ある意味では、「ピアノが弾けたから生き延びることが出来た」とも解釈出来るような場面であり、実話だと思っていなかったから「なるほど、こういう展開にするのね」ぐらいに受け取っていたが、まさかこれも実話だとは信じられない想いだった。
しかし、観客は、主人公が体験した時間を細切れに飛び飛びで観ているに過ぎないが、それでもあまりの壮絶さに観ているこっちが絶望したくなるような状況が描かれていく。まして主人公は、そのような状況をほぼ5年に渡って生き延びたのだ。家族と離れ離れになってからだと2年ぐらいだろうか。最後の最後、本当に一人ぼっちになってしまってからだって、少なくとも2週間以上はその状態だったはずである。
トークイベントでクリストファーさんは、「ほぼ5年に渡って、自分がいつ死ぬか分からない状況に置かれ続けたことは、私には想像が及ばない」みたいなことを言っていたが、本当にその通りだ。生前父親は、戦争のことについてほとんどクリストファーさんに話さなかったそうだが、80歳でピアニストをやめた後は時間に余裕が出来たのか、少し話をするようになったという。その時に、「僕もみんなと一緒に死ぬべきだった」みたいなことを言っていたのを覚えているそうだ。もちろん、「本心からそう思っていたのかは分からない」とも言っていたが、映画を観ているだけの観客だって「死んだ方がマシ」と感じるような状況だったのだから、当事者がそう感じてしまうのも当然のことだと思う。
さて、実話だということを後で知って納得出来た場面がある。ゲットーに押し込められた主人公が、ユダヤ人が集まるレストランでピアノを弾く仕事をしていた時のことだ。ある男性2人組のお客さんから、「ピアノを弾くのを止めてくれ」と頼まれるシーンがあるのだ。どうしてなのかと見てみると、2人はテーブルクロスをめくり、木のテーブルの上に複数の金貨を落として音を聞いていたのだ。恐らく、本物の金貨なのか確かめていたのだろう。
僕の感触では、これがフィクションだとしたら、ちょっと凄いリアリティの描き方だな、と感じていた。「金貨の音を確かめるためにピアノの音を止める」なんていうのは、なかなか想像では描けない描写に感じるのだ。だから、後で実話を基にしていることを知って、このシーンにも納得がいった。実際に、主人公がそのような状況を経験したというのであれば、なるほどという感じである。
同じように感じるシーンは結構多い。例えば冒頭の方で、シュピルマン家である揉め事が起こる。今手元に5003ズウォティス(ネットで調べると、ポーランドの通貨の単位は「ズウォティ」らしいけど、字幕では「ズウォティス」ってなってた気がする)あるが、ユダヤ人は2000ズウォティスしか持ってはいけないことになっている。じゃあ残りの3003ズウォティスをどこに隠すか、みたいな話になるのだ。これもまた、実際にあったことだからこそのリアリティに感じられた。
映画の撮影手法でいうと、戦争によって街が破壊されたあのワルシャワの街並みは一体どんな風に撮ったのだろうと思う。全部セットで作ったのだとしたら、スタジオに作ったにしたってとんでもない規模に思える。ネットで調べると、「CG説」「実際に戦争で破壊尽くされた街を探し出して撮った説」などが出てきたが、よく分からない。
この「廃墟の街並み」のシーンは、「こんな何もかもが存在しない場所で、ピアニストという以外なんの属性も持たない男が生き延びなければならない」という絶望を一瞬で伝える効果があったし、映画全体の中でもとても印象的だった。そしてその後も、本当に「ただ生きるためだけに生きている」みたいな凄まじい状況が続いていく。正直、どこかで気持ちが切れてしまってもおかしくはなかったと思う。それでも、どうにか「生きること」を手繰り寄せていく主人公の姿には、圧倒されっぱなしだった。
「4Kリマスター版」用の公式HPが新たに作られているのだが、そこには、監督のロマン・ポランスキーが、自身も幼い頃にゲットーで過ごし、母親を収容所で亡くしている、と書かれている。だからこそ、これほどリアルな映画が作れるのだ、と。そしてそれでいて、全体的に映像に「美しさ」がある。これは不思議な感覚だが、終始「残酷さ」「不条理」ばかりが描かれるのだが、その上で「映像の美しさ」もまた際立っていると感じるのだ。
クリストファーさんによると、父親は「神経質」で「悪夢をよく見ていた」そうで、戦後もずっと長く後遺症に苦しんでいたと今なら理解できると言っていた(子どもの頃は、つまらない父親だと思っていたそうだが)。そんな父親が1946年に発売し、ポーランドでベストセラーになった本(トークイベントの中で『ある年の歌』と言ってたが、恐らくポーランド語のタイトルを邦訳するならそういうタイトルになる、ということなのだろう)がベースに本作が作られているそうだ。
ちなみに、クリストファーさんの弟が、父親のその本をドイツで出版しようと奔走し、ついに1998年にそれが実現したのだそうだが、その際に、「どうしてこんな本が今まで埋もれていたんだ」という声がたくさん上がったそうだ。弟は、「共産主義が父親の本を潰したんだ」と言っていたそうだが、恐らくそれは、本を売るための宣伝文句でしかなく、クリストファーさんは嘘だろうと言っていた。実際のところは彼にも分からないみたいだが、理由の1つとして、父親がそれを望まなかったのではないか、と語っていた。
恐らく父親は、「自分の経験したことを頭の中から出し切りたい」と思って本を書いたのだが、しかしその後、自分が書いた本に関わることで、自分の辛い記憶が蘇ってくるのを恐れたのではないか、と。だから、自宅の本棚には自身が出版した本は並んでいなかったと言っていた。12歳のクリストファー少年がそれを見つけたのは、屋根裏部屋だったそうだ。
そして、ドイツで出版されたことがきっかけだったのかは不明だが、1999年にロマン・ポランスキーが父親と会い、映画化が決まった。その際に、「主演俳優が決まったら会わせますね」という約束をしていたそうだ。しかしその後、思いがけず父親の体調が急変し、入院。病院からは「心配ないです」と連絡をもらっていたものの、その後1週間ぐらいで亡くなってしまったそうだ。結局父親は、本編を観れなかったどころか、主演俳優も知らずにこの世を去った。
その主演俳優についてクリストファーさんが「懐かしい気分がした」と、映画を観た感想について触れていた。主演俳優は背が高いのだが、父親は実は背が低かったという。だから見た目はあまり似ていないのだが、仕草や雰囲気は父親を思わせるものがあったという。恐らく、偶然だろうと言っていたが。
さて最後に、クリストファーさんが最終的に日本までやってくることになった遠因について触れて終わろう。
父親は作曲もやっており、日本でいう歌謡曲のような一般向けの曲も作り、ポーランド国内ではヒットを飛ばしていたそうだ。だからクリストファーさんは、学校なんかで名字を言うと、「あの曲の息子だ」という反応になったという。それが嫌だったというのが、ポーランドを出た理由の1つだったと言っていた。
その後イギリス・タイ・アメリカなどを経て日本に住むことになったわけだが、そうこうしている内に『戦場のピアニスト』が公開され、世界中で評価されるようになった。それ自体はとても良いことだが、結局「あの『戦場のピアニスト』の息子だ」という見られ方に戻ってしまった。それについてクリストファーさんは、「父親がまた僕のことを追いかけてきて、逃げ場がない」と言っていた。最後まで面白い話し方をする人で、良いトークイベントだったと思う。
とても良い映画だったし、とても良いトークイベントだったし、大満足だった。
「戦場のピアニスト 4Kリマスター版」を観に行ってきました
「モナ・リザアンドザブラッドムーン」を観に行ってきました
いやー、これは面白かった!ここまで清々しく冒頭から「意味不明」だと、「もうちょっと説明してくれよ」なんて感じるヒマもないって感じがした。
まずは内容についてざっと紹介しておこう。
とある精神病院のさらにその奥、厳重に鍵が掛けられた向こう側の「特別警戒区域」に収容されているアジア系の少女。彼女は拘禁服を着せられ、ベッドぐらいしかない部屋の中で何をするでもなく過ごしている。後に分かることではあるが、モナ・リザ・リーという名前の韓国人であり、10歳からこの精神病院にいるという。
ガムを噛みながらモナ・リザの部屋にやってきた女性職員は、モナ・リザの足の爪を切り始める。「調子はどう? バカ」「お前の爪を切って得た金でネイルにいくんだ」と、彼女のことを雑に扱っていく。しかし、モナ・リザが女性職員と目を合わせると、不思議なことが起こる。なんと、爪切りを持っていたその職員が、モナ・リザの首の動きに合わせるように、自ら爪切りを太ももに突き立てていくのだ。助けてくれと懇願する職員に、「拘禁服を解け」と命じ、モナ・リザはあっさりと精神病院を抜け出す。その日は、満月だった。
10歳から精神病院にいた彼女には、社会のことはほとんど理解できないのだが、夜の街にいたちょっとアブナそうな若者から靴や食べ物、Tシャツなんかを手に入れながら、彼女はフラフラとどこかへ向かう。そして、通りかかったハンバーガーショップで、突然覚醒した自身の能力を駆使して人助けをし、ハンバーガーを奢ってもらう。
ハンバーガーを奢ったのは、ストリップ嬢として働くボニー・ベル。彼女はモナ・リザの特異な才能を使えば楽に金が手に入ると気付き、彼女をしばらく家に住まわせることにする。そこで、ボニーの幼い息子チャーリーと出会う。
一方、酔っぱらいの相手に駆り出されたハロルド巡査は、その時にたまたま見かけた少女を保護しようと追いかけていた。しかし、安全のための手錠を掛けようとすると、突然巡査は自ら拳銃を抜き、自ら膝に発砲した。もちろん、モナ・リザの仕業である。ハロルドは大怪我を負い杖をつきながらも、この危険な「悪魔」を追い詰めるべく捜査を開始する……。
というような話です。
いやー、素晴らしかった。ホント、設定がハチャメチャで、結局「モナ・リザがどうして覚醒したのか」「彼女は何故超能力のような力を持っているのか」みたいな説明は一切されない。普通の物語だと、そういう「投げっぱなし」の感じでは上手く成立しない印象があるのだけど、本作の場合は「ンなことどうでもいい!」ってなる感じがある。そして、その要素を一手に引き受けているのが、モナ・リザを演じたチョン・ジョンソだと思う。
とにかく彼女の存在感が半端ない。「統合失調症のため、10歳から精神病院に入院している」という、かなり難しい役柄だと思うのだけど、「まさにそういう人なんだろうな」というような雰囲気で存在している。精神病院の職員が「生きた死人みたい」というぐらい、当初は感情らしい感情もないのだが、しばらくして、人と喋ったり、テレビでニュースを観たりすることで知識や価値観が増えて、ちょっとずつ人間っぽくなっていく。その過程もとても魅力的である。
モナ・リザは、本当に「何を考えているんだか分からない」という佇まいを最後の最後まで見せるのだが、そう感じさせる演技がとにかくずば抜けて上手かった。
しかも、この映画の場合、「モナ・リザ役がアジア人である」という点はとても重要だと感じた。上手くは説明できないのだが、仮にモナ・リザ役が白人だったら、悪い意味で大分違う印象になったと思う。黒人でもハマったかもしれないが、しかしアジア系の方が、モナ・リザが醸し出す「ミステリアス感」をより強く見せられるように思う。それを、同じアジア人である僕が感じるというのもおかしな話だが、でもそんな気がするのだ。
この「『モナ・リザ役がアジア人である』という点が重要」という要素は、作品にとって大きな意味を持つと思う。この説明のためにまず、僕が「ポリティカル・コレクトネス」に対して抱いてしまう違和感について触れよう。
映画の感想の中で度々書くことではあるのだけど、最近特に、「この作品はちゃんとポリコレを意識していますよ」とあからさまに訴えかけるような設定・配役が増えたように感じる。もちろんそれは、僕が過剰に受け取り過ぎているだけかもしれないが、特に欧米の主に白人が出てくる映画の場合、アジア系や黒人を満遍なく配置するような”配慮”がなされているように感じられるのだ。恐らくそれは、時代の流れの中でそうしないと批判されるとか、あるいはアカデミー賞争いに絡めないなど、色んな理由があるのだと思う。
ただ、そういうこと関係なく観ている側としては、「そういう”配慮”ってうぜーんだよなぁ」と感じてしまうこともある。というか、僕はよくそんな風に感じる。
ただ、本作の場合、モナ・リザ役にアジア系を配するというのがあまりにもハマっていると僕は感じたので、そういうポリコレ的要素を感じることはなかった。そういう風に感じさせるのは、作品にとってはとてもプラスであるように思う。
また、ポリコレとは関係ないのだけど話の流れでいうと、本作でちょっと皮肉的に面白いのは、「モナ・リザを助ける者の多くが、社会のはみ出し者である」という点だろう。恐らく、この点は結構意識して作られているように思う。
例えば、病院を抜け出してすぐ出会った、夜道で酒を飲んでいた若者3人は、裸足だったモナ・リザに靴をくれた。コンビニ的な店の脇でたむろしていた若者たちの1人は、お金を持っていないモナ・リザの代わりに支払いをしてくれ、またほとんど奪ったようなものだが、Tシャツもくれた。「助けた」という表現が適切なのか分からないが、モナ・リザを家に住まわせることにしたボニーは、ストリップ劇場の中でも嫌われているようなはみ出しっぷりである。
モナ・リザには善悪や良し悪しの価値基準がないため、人を見た目で判断するみたいな偏見がまったくない。だから、何らかの形で関わる人たちを結構信頼して、すっと入り込んでしまう。
ただ一方で、「長い間自分を拘束し続けた精神病院」を連想させる状況には強く拒絶反応を示してしまう。彼女にとって、唯一「悪」と判断する基準と言えるだろう。だから、普通は市民を守ったり助けたりする警察が、モナ・リザにとっては「悪」に映る。手錠で拘束しようとするからだ。
このように、モナ・リザの視点で物語を捉えると、善悪の判断があっさりと歪んでいく感じがとても面白い。モナ・リザにとっては「普通」という感覚がなさすぎるが故に、直面する状況に対する価値判断が僕らのものと大きく異なるし、しかしそういう判断や振る舞いをほぼ無表情のまま当然のように突き進んでいく感じがめちゃくちゃクールで良いのだ。
モナ・リザは、普通の価値基準を持たないから、普通に考えたら危ない状況にも躊躇なく踏み込んでいく。もちろん、彼女の場合最終的に、持ってる特殊能力で状況をどうにか出来てしまうから出来ることだとも言えるのだけど、でも映画を観ながら、「彼女みたいに偏見を持たずに、ほぼノールックで他人や状況と関われたら平和かもしれないな」と思ったりもした。物語の中では、モナ・リザは「状況を混沌とさせていく悪魔」みたいな描かれ方がなされるのだけど、見方を変えれば「世界を平和に導く天使」みたいにも感じられると思う。
映画の最後、空港でのシーンは、ちょっとなんとも言えない感じがしたなぁ。チャーリーのある決断には割と色んな捉え方があって、観る人によって受け取り方が変わりそう。僕は「モナ・リザのためにやった」と受け取っているけど、「怖くなったのを誤魔化した」みたいな解釈も可能だろう。これもまた、モナ・リザが何を考えているのか分からないが故の揺らぎみたいなものだが、随所にそういう場面が散りばめられていてとても良かった。
しかしホント、チョン・ジョンソが抜群だったなぁ。何が起こるのか分からないストーリーそのものももちろん面白かったけど、やっぱり、どう考えても現実離れしたモナ・リザという存在をリアルなものとして感じさせたチョン・ジョンソの佇まいと演技力に圧倒されてしまった。いやはや、お見事。
「モナ・リザアンドザブラッドムーン」を観に行ってきました
まずは内容についてざっと紹介しておこう。
とある精神病院のさらにその奥、厳重に鍵が掛けられた向こう側の「特別警戒区域」に収容されているアジア系の少女。彼女は拘禁服を着せられ、ベッドぐらいしかない部屋の中で何をするでもなく過ごしている。後に分かることではあるが、モナ・リザ・リーという名前の韓国人であり、10歳からこの精神病院にいるという。
ガムを噛みながらモナ・リザの部屋にやってきた女性職員は、モナ・リザの足の爪を切り始める。「調子はどう? バカ」「お前の爪を切って得た金でネイルにいくんだ」と、彼女のことを雑に扱っていく。しかし、モナ・リザが女性職員と目を合わせると、不思議なことが起こる。なんと、爪切りを持っていたその職員が、モナ・リザの首の動きに合わせるように、自ら爪切りを太ももに突き立てていくのだ。助けてくれと懇願する職員に、「拘禁服を解け」と命じ、モナ・リザはあっさりと精神病院を抜け出す。その日は、満月だった。
10歳から精神病院にいた彼女には、社会のことはほとんど理解できないのだが、夜の街にいたちょっとアブナそうな若者から靴や食べ物、Tシャツなんかを手に入れながら、彼女はフラフラとどこかへ向かう。そして、通りかかったハンバーガーショップで、突然覚醒した自身の能力を駆使して人助けをし、ハンバーガーを奢ってもらう。
ハンバーガーを奢ったのは、ストリップ嬢として働くボニー・ベル。彼女はモナ・リザの特異な才能を使えば楽に金が手に入ると気付き、彼女をしばらく家に住まわせることにする。そこで、ボニーの幼い息子チャーリーと出会う。
一方、酔っぱらいの相手に駆り出されたハロルド巡査は、その時にたまたま見かけた少女を保護しようと追いかけていた。しかし、安全のための手錠を掛けようとすると、突然巡査は自ら拳銃を抜き、自ら膝に発砲した。もちろん、モナ・リザの仕業である。ハロルドは大怪我を負い杖をつきながらも、この危険な「悪魔」を追い詰めるべく捜査を開始する……。
というような話です。
いやー、素晴らしかった。ホント、設定がハチャメチャで、結局「モナ・リザがどうして覚醒したのか」「彼女は何故超能力のような力を持っているのか」みたいな説明は一切されない。普通の物語だと、そういう「投げっぱなし」の感じでは上手く成立しない印象があるのだけど、本作の場合は「ンなことどうでもいい!」ってなる感じがある。そして、その要素を一手に引き受けているのが、モナ・リザを演じたチョン・ジョンソだと思う。
とにかく彼女の存在感が半端ない。「統合失調症のため、10歳から精神病院に入院している」という、かなり難しい役柄だと思うのだけど、「まさにそういう人なんだろうな」というような雰囲気で存在している。精神病院の職員が「生きた死人みたい」というぐらい、当初は感情らしい感情もないのだが、しばらくして、人と喋ったり、テレビでニュースを観たりすることで知識や価値観が増えて、ちょっとずつ人間っぽくなっていく。その過程もとても魅力的である。
モナ・リザは、本当に「何を考えているんだか分からない」という佇まいを最後の最後まで見せるのだが、そう感じさせる演技がとにかくずば抜けて上手かった。
しかも、この映画の場合、「モナ・リザ役がアジア人である」という点はとても重要だと感じた。上手くは説明できないのだが、仮にモナ・リザ役が白人だったら、悪い意味で大分違う印象になったと思う。黒人でもハマったかもしれないが、しかしアジア系の方が、モナ・リザが醸し出す「ミステリアス感」をより強く見せられるように思う。それを、同じアジア人である僕が感じるというのもおかしな話だが、でもそんな気がするのだ。
この「『モナ・リザ役がアジア人である』という点が重要」という要素は、作品にとって大きな意味を持つと思う。この説明のためにまず、僕が「ポリティカル・コレクトネス」に対して抱いてしまう違和感について触れよう。
映画の感想の中で度々書くことではあるのだけど、最近特に、「この作品はちゃんとポリコレを意識していますよ」とあからさまに訴えかけるような設定・配役が増えたように感じる。もちろんそれは、僕が過剰に受け取り過ぎているだけかもしれないが、特に欧米の主に白人が出てくる映画の場合、アジア系や黒人を満遍なく配置するような”配慮”がなされているように感じられるのだ。恐らくそれは、時代の流れの中でそうしないと批判されるとか、あるいはアカデミー賞争いに絡めないなど、色んな理由があるのだと思う。
ただ、そういうこと関係なく観ている側としては、「そういう”配慮”ってうぜーんだよなぁ」と感じてしまうこともある。というか、僕はよくそんな風に感じる。
ただ、本作の場合、モナ・リザ役にアジア系を配するというのがあまりにもハマっていると僕は感じたので、そういうポリコレ的要素を感じることはなかった。そういう風に感じさせるのは、作品にとってはとてもプラスであるように思う。
また、ポリコレとは関係ないのだけど話の流れでいうと、本作でちょっと皮肉的に面白いのは、「モナ・リザを助ける者の多くが、社会のはみ出し者である」という点だろう。恐らく、この点は結構意識して作られているように思う。
例えば、病院を抜け出してすぐ出会った、夜道で酒を飲んでいた若者3人は、裸足だったモナ・リザに靴をくれた。コンビニ的な店の脇でたむろしていた若者たちの1人は、お金を持っていないモナ・リザの代わりに支払いをしてくれ、またほとんど奪ったようなものだが、Tシャツもくれた。「助けた」という表現が適切なのか分からないが、モナ・リザを家に住まわせることにしたボニーは、ストリップ劇場の中でも嫌われているようなはみ出しっぷりである。
モナ・リザには善悪や良し悪しの価値基準がないため、人を見た目で判断するみたいな偏見がまったくない。だから、何らかの形で関わる人たちを結構信頼して、すっと入り込んでしまう。
ただ一方で、「長い間自分を拘束し続けた精神病院」を連想させる状況には強く拒絶反応を示してしまう。彼女にとって、唯一「悪」と判断する基準と言えるだろう。だから、普通は市民を守ったり助けたりする警察が、モナ・リザにとっては「悪」に映る。手錠で拘束しようとするからだ。
このように、モナ・リザの視点で物語を捉えると、善悪の判断があっさりと歪んでいく感じがとても面白い。モナ・リザにとっては「普通」という感覚がなさすぎるが故に、直面する状況に対する価値判断が僕らのものと大きく異なるし、しかしそういう判断や振る舞いをほぼ無表情のまま当然のように突き進んでいく感じがめちゃくちゃクールで良いのだ。
モナ・リザは、普通の価値基準を持たないから、普通に考えたら危ない状況にも躊躇なく踏み込んでいく。もちろん、彼女の場合最終的に、持ってる特殊能力で状況をどうにか出来てしまうから出来ることだとも言えるのだけど、でも映画を観ながら、「彼女みたいに偏見を持たずに、ほぼノールックで他人や状況と関われたら平和かもしれないな」と思ったりもした。物語の中では、モナ・リザは「状況を混沌とさせていく悪魔」みたいな描かれ方がなされるのだけど、見方を変えれば「世界を平和に導く天使」みたいにも感じられると思う。
映画の最後、空港でのシーンは、ちょっとなんとも言えない感じがしたなぁ。チャーリーのある決断には割と色んな捉え方があって、観る人によって受け取り方が変わりそう。僕は「モナ・リザのためにやった」と受け取っているけど、「怖くなったのを誤魔化した」みたいな解釈も可能だろう。これもまた、モナ・リザが何を考えているのか分からないが故の揺らぎみたいなものだが、随所にそういう場面が散りばめられていてとても良かった。
しかしホント、チョン・ジョンソが抜群だったなぁ。何が起こるのか分からないストーリーそのものももちろん面白かったけど、やっぱり、どう考えても現実離れしたモナ・リザという存在をリアルなものとして感じさせたチョン・ジョンソの佇まいと演技力に圧倒されてしまった。いやはや、お見事。
「モナ・リザアンドザブラッドムーン」を観に行ってきました