愚者の毒(宇佐美まこと)
内容に入ろうと思います。
物語はいくつかの時間軸で展開されていく。ここでは、1985年春から始まる時間軸の物語のみ書いていこう。
香川葉子は、とある事情から甥っ子を一人で育てなければならず、就職先を探していた。しかし、特技があるわけでもなく、しかも子どもがいるために残業が出来ないとなると、なかなか仕事にありつけなかった。
そんなある日、いつものように面接に行くと、驚くべきことが起こった。なんと職安の人の手違いで、まったく違う人の履歴書が送られていたのだ。石川希美というらしいその女性とは、生年月日が同じなようだ。お互いに人違いのまま面接を受けるという無駄な時間を過ごし、職安の職員にひとしきり文句を言った後で、二人は親友になった。
やがて希美は、葉子にある仕事を紹介した。難波寛和という、中学校の教師をしていた先生の家の住み込みの仕事だ。今家政婦をしている藤原さんが、娘が住む大津に移住するということで話が回ってきたのだ。
難波先生は、葉子が育てている甥っ子である達也にも丁寧な口調で話しかける。達也は、心因性らしい理由によりひと言も話さない。葉子も、達也とどう接したらいいのか、ずっと分からないままだ。借金まみれだった両親(達也の母親が、葉子の妹だ)を無理心中で喪った達也が喋れなくなってしまったのも無理はないのかもしれない。しかしそんな達也の様子を気にかけることもなく難波先生はにこやかに話しかける。
難波邸には、一人息子である由起夫さんもいた。難波先生は、亡くなった奥さんとは再婚で、由起夫さんは奥さんと先夫との間の子だ。長らく消息不明だったが、癌で余命幾ばくもない妻の頼みで息子探しを始め、加藤義彦弁護士が見つけ出してきたのだ。亡くなった妻の父親が経営していた繊維関係の会社を由起夫さんが受け継ぎ、加藤弁護士を顧問としながら、順調な経営を続けているようだ。
希美と由起夫さんとは幼馴染であり、その繋がりで葉子が家政婦として収まることになった、ということらしい。
葉子は、妹夫婦が事業に失敗してからは、気の休まる時のない生活を送っていた。そして、高利貸しから逃げるようにあちこちを転々としてきたのだ。だからこそ、難波邸での穏やかな生活は、葉子にとっては心安らぐものだった。難波先生や達也をよくしてくれるし、葉子は由起夫さんに恋心を抱いている。親友の希美は加藤弁護士の事務所で働いていて、よく会うことが出来る。今までの人生が嘘みたいに、素晴らしい日々を過ごせている。
しかし、そんな穏やかな人生も、そう長くは続かなかった…。
というような話です。
非常に内容紹介が難しいのだけど、ネタバレを避けるためにはあまり書けません。本書では、第一章の「武蔵野陰影」は、前フリだと思ってください。第一章だけ読んでも、何がなんだか分からないでしょう。もちろん、何かが起こりそうな予感は、第一章の時点でもあります。ただ、実際に物語(というか舞台設定)が大きく動き出していくのは、第二章以降です。第二章は、1965年冬から始まる「筑豊挽歌」。第一章での穏やかな日常とはかけ離れた過酷な現実が描かれる第二章とが折り重なることで、物語全体の構造が見えてくるという形になっていきます。
物語の構造としては、なかなか良くできていると思いました。第一章で登場する様々な人物同士の繋がりが、第二章以降の描写によって明らかになっていきます。それが明らかになることで、第一章の見え方がガラリと変わることになります。葉子視点では穏やかに描かれていた日常が、視点をちょっと変えることで絶望が内包された世界へと様変わりしてしまう感じは、なかなか素晴らしいと思いました。
ただ、どうしてもあまりのめり込めなかったなぁ、という感覚もありました。その理由を自分の中でもうまく捉えきれていませんが、深みをあまり感じられなかったからかなぁ、と今のところは思っています。
本書は、第二章でかなり絶望的な人生が描かれることになります。確かにその悲惨さは物語から伝わるんですけど、どうも迫ってくるような描き方ではないように感じられてしまいました。第一章で、違和感はありつつも穏やかで幸せな日常を描き、第二章で圧倒的な絶望を描き、その対比によって強い世界観が生まれる構造なんだと思うのだけど、第二章がどうにも迫ってくるほどの描写ではなくて、弱いと思ってしまったのかもしれません。うーん、でもちょっと分からないなぁ。この作品をあまり高く評価できない理由を、うまく捉えきれません。
時々、同じテーマ、同じ構成で、別の作家が書いてくれたら超絶的な傑作になっただろうに、と感じる作品があります。本書も、例えばですが、同じテーマ、同じ構成で、窪美澄が書いたら、また全然違った作品になったような気もします。なんか本書に対する物足りなさみたいなものは、そういう部分なんです。個人的には、ちょっと惜しいなと感じてしまいました。
しかし、生まれる環境は選べないとはいえ、彼らのような境遇で生まれてきてしまった人たちはどう生きるべきだったのか、と考えてしまいますね。なんというか、そういうことを考えると、自分が子どもを持つことの怖さも感じてしまいます(元々欲しいとは思ってないんですけど)
宇佐美まこと「愚者の毒」
物語はいくつかの時間軸で展開されていく。ここでは、1985年春から始まる時間軸の物語のみ書いていこう。
香川葉子は、とある事情から甥っ子を一人で育てなければならず、就職先を探していた。しかし、特技があるわけでもなく、しかも子どもがいるために残業が出来ないとなると、なかなか仕事にありつけなかった。
そんなある日、いつものように面接に行くと、驚くべきことが起こった。なんと職安の人の手違いで、まったく違う人の履歴書が送られていたのだ。石川希美というらしいその女性とは、生年月日が同じなようだ。お互いに人違いのまま面接を受けるという無駄な時間を過ごし、職安の職員にひとしきり文句を言った後で、二人は親友になった。
やがて希美は、葉子にある仕事を紹介した。難波寛和という、中学校の教師をしていた先生の家の住み込みの仕事だ。今家政婦をしている藤原さんが、娘が住む大津に移住するということで話が回ってきたのだ。
難波先生は、葉子が育てている甥っ子である達也にも丁寧な口調で話しかける。達也は、心因性らしい理由によりひと言も話さない。葉子も、達也とどう接したらいいのか、ずっと分からないままだ。借金まみれだった両親(達也の母親が、葉子の妹だ)を無理心中で喪った達也が喋れなくなってしまったのも無理はないのかもしれない。しかしそんな達也の様子を気にかけることもなく難波先生はにこやかに話しかける。
難波邸には、一人息子である由起夫さんもいた。難波先生は、亡くなった奥さんとは再婚で、由起夫さんは奥さんと先夫との間の子だ。長らく消息不明だったが、癌で余命幾ばくもない妻の頼みで息子探しを始め、加藤義彦弁護士が見つけ出してきたのだ。亡くなった妻の父親が経営していた繊維関係の会社を由起夫さんが受け継ぎ、加藤弁護士を顧問としながら、順調な経営を続けているようだ。
希美と由起夫さんとは幼馴染であり、その繋がりで葉子が家政婦として収まることになった、ということらしい。
葉子は、妹夫婦が事業に失敗してからは、気の休まる時のない生活を送っていた。そして、高利貸しから逃げるようにあちこちを転々としてきたのだ。だからこそ、難波邸での穏やかな生活は、葉子にとっては心安らぐものだった。難波先生や達也をよくしてくれるし、葉子は由起夫さんに恋心を抱いている。親友の希美は加藤弁護士の事務所で働いていて、よく会うことが出来る。今までの人生が嘘みたいに、素晴らしい日々を過ごせている。
しかし、そんな穏やかな人生も、そう長くは続かなかった…。
というような話です。
非常に内容紹介が難しいのだけど、ネタバレを避けるためにはあまり書けません。本書では、第一章の「武蔵野陰影」は、前フリだと思ってください。第一章だけ読んでも、何がなんだか分からないでしょう。もちろん、何かが起こりそうな予感は、第一章の時点でもあります。ただ、実際に物語(というか舞台設定)が大きく動き出していくのは、第二章以降です。第二章は、1965年冬から始まる「筑豊挽歌」。第一章での穏やかな日常とはかけ離れた過酷な現実が描かれる第二章とが折り重なることで、物語全体の構造が見えてくるという形になっていきます。
物語の構造としては、なかなか良くできていると思いました。第一章で登場する様々な人物同士の繋がりが、第二章以降の描写によって明らかになっていきます。それが明らかになることで、第一章の見え方がガラリと変わることになります。葉子視点では穏やかに描かれていた日常が、視点をちょっと変えることで絶望が内包された世界へと様変わりしてしまう感じは、なかなか素晴らしいと思いました。
ただ、どうしてもあまりのめり込めなかったなぁ、という感覚もありました。その理由を自分の中でもうまく捉えきれていませんが、深みをあまり感じられなかったからかなぁ、と今のところは思っています。
本書は、第二章でかなり絶望的な人生が描かれることになります。確かにその悲惨さは物語から伝わるんですけど、どうも迫ってくるような描き方ではないように感じられてしまいました。第一章で、違和感はありつつも穏やかで幸せな日常を描き、第二章で圧倒的な絶望を描き、その対比によって強い世界観が生まれる構造なんだと思うのだけど、第二章がどうにも迫ってくるほどの描写ではなくて、弱いと思ってしまったのかもしれません。うーん、でもちょっと分からないなぁ。この作品をあまり高く評価できない理由を、うまく捉えきれません。
時々、同じテーマ、同じ構成で、別の作家が書いてくれたら超絶的な傑作になっただろうに、と感じる作品があります。本書も、例えばですが、同じテーマ、同じ構成で、窪美澄が書いたら、また全然違った作品になったような気もします。なんか本書に対する物足りなさみたいなものは、そういう部分なんです。個人的には、ちょっと惜しいなと感じてしまいました。
しかし、生まれる環境は選べないとはいえ、彼らのような境遇で生まれてきてしまった人たちはどう生きるべきだったのか、と考えてしまいますね。なんというか、そういうことを考えると、自分が子どもを持つことの怖さも感じてしまいます(元々欲しいとは思ってないんですけど)
宇佐美まこと「愚者の毒」
1ミリの後悔もない、はずがない(一木けい)
人を好きになるのは、苦手だ。
苦手というか、大体うまくいかない。
うまくいかないから、なるべく人を好きにならないようにしている、つもりだ。
そもそも、なかなか他人に関心を持つのが難しい人間だ。
誰かと過ごす時間は嫌いじゃないけど、相手の存在ごと共有するような時間の過ごし方は、どうもうまくいかない。
程よい距離から眺めて、時々触れられるぐらい近づいて、でも触れるわけでもなくまた離れる、ぐらいの感じが、僕には向いているなと思う。
僕がこんな風に思えるようになったのは、ちゃんと僕にも、心を掻きむしるぐらい人を好きになったことがあるからだ。
そういう自分は、なかなかうまく制御出来ない。
『ゆっくり過ぎてほしい時間なんて、桐原といるときだけだった』
『桐原に会うために疾走しているときはいつも、命を生き切っているという実感があった』
『煙草の匂いはきらいなのに、ここにいるときだけ好きになる』
自分の意思では御しがたい何かが時空を歪ませるように、日常の世界が変わる。いつもと同じ時間/空間にいるはずなのに、何かが違う。本当に、そんな気分になる。
そのことは、凄く良いことだ。自分の内側に、それまで自分が持っているとは思っていなかったような感情があることに気づいたり、自分の言動が自然と非論理的になっていく感じとかは、やはり日常の中では体験出来ないからだ。誰かを好きになることは、簡単に、あっさりと、人間の本質を変えうる。
でも、だからこそ、僕は怖いと思った。
『いつか失うくらいなら、手の届かないものを望んだりしない方がいい』
『うしなった人間に対して1ミリの後悔もないということがありうるだろうか』
あるものは、いつかなくなる。だったら、最初からない方がいいんじゃないか。僕は、手放したくないと感じるものに出会う度に、そう感じるようになっていった。その怖さは、いまでもずっと持ち続けている。それが大切で大切で、手放したくないと思えるものであればあるほど、手に入れたくない。
僕のそんな気分が、人を好きになることを遠ざけている。
でも、そう思えるようになったのも、人を好きになった経験があったからだ。そういう自分がかつていたことは、良かったと思う。誰かを好きになり、近づいて離れて、というような経験が、少ないながらもあるからこそ、人をなるべく好きにならないようにしよう、と思えるようになった。そう思えるようになった今は、生きやすくなったなと思う。
でも、こういう小説を読むと、やっぱり思う。そりゃあ、人を好きになって、自分の本質が否応なしに変化してしまうような人生の方が、楽しいかもしれないよなぁ、と。でも、同時にこうも思う。それってやっぱり、楽しいだけじゃないんだよなぁ、と。ズルい男になれば、楽しいだけでいられる可能性もある。本書にも、そういう男はちらほら登場する。でも、なるべくそういう人間にはなりたくない。
『ほんとはアウトなのに、きちんとルールを守ってる子と同じっていうのが、なんか』
『約束を破った顧問と、話を聞きもせず切り捨てた担任を、責める資格など自分にはないのかもしれない。だってあたしも卑怯だから』
こういう認識を、僕はちゃんと持ち続けながら生きていたい。
失敗したり傷ついた経験があるからこそ前に進んでいける。そういうことはある。自分を支えてくれるだけの何かにいつ出会えるか。それを知ることは誰にも出来ないから、だからこそ、いつだって僕たちは体当たりで前進しながらぶつかっていくしかない。
内容に入ろうと思います。
本書は、5編の短編が収録された連作短編集です。
「西国疾走少女」
わたしは桐原と出会った。脚が机に収まりきらないほど大柄で、中学生に見えない。わたしは、桐原の、色気としか呼びようのない何かに惹かれた。ミカ、金井、桐原の四人で一緒にいることが多くなり、自然と桐原との距離も縮まっていった。桐原と一緒にいる時は、無敵だった。それが、自分のすべてになっていった。母子家庭で、父親が生活保護を申請したという通知が届く。時折父親に会いに行っても、不快な思いをするだけ。教師も嘘つきばかり。そんなクソみたいな日常でも、桐原に会うために西国分寺を疾走しているわたしは最強だ。
「シオマネキ」
ミカは、尿意が限界でトイレを探している時、その男と出会った。正しくは再会だったが、ミカはそうと気づかなかった。高山は、中学時代のミカのスターだった。ミカにとってだけじゃない。国分寺一モテていたはずだ。その高山は、変わり果てた姿で目の前にいる。
ミカは中学時代、加奈子とよく一緒にいた。加奈子と一緒にいる時間は、快適ではなかったけど、キラキラしている加奈子からは離れられなかった。失ったら、独りになってしまうから。憧れの高山先輩を時々追いかけつつ、ミカは、金井や桐原、そして加奈子の小学校時代の同級生で、あまりの貧乏故にみんなから嫌われていたという由井とよく一緒になった。
「潮時」
僕は飛行機に乗っている。このままちゃんと家に帰れば、由井さんと河子が待っている。自分の人生をすべて変えてくれた二人、妻と子。この二人のためなら何でも出来る。だから、酸素マスクが下りてきた時は絶望的な気持ちになった。由井さんは言っていた。毎日飛行機に乗っていても事故に遭う確率は438年に一回なのだ、と。だからきっと大丈夫なはずだ。
僕は施設で育った。漁師だった父と、そんな父をきちんと支える母との生活は、貧しかったけど楽しかった。けど、母が亡くなったことで、父は僕と弟を施設に預けざるを得なかった。
加奈子は、子供を産んでから元の体重に戻らない自分と今の境遇を重ね合わせる。先日、夫が浮気をしている決定的な証拠を見つけてしまった。でも、離婚なんて言い出せない。自分には何もないからだ。夫だけが、セックスのある生活をしている。加奈子は、学生時代のことを思い出す。桐原が好きだった。でも桐原が好きになったのは、自分が嫌悪していた由井だった。そのことにずっと、打ちひしがれていた。
「穴底の部屋」
泉の夫の実家では、鍋を食べた後で、家族が皆、取り皿の汁を鍋に戻す。初めてそれを見た時は衝撃的だったし、今だってこの後のおじやを食べずに帰りたいと思っている。義母は、どうでもいいような話を延々とする。義母と一緒にいる時間は、苦痛でしかない。
泉は高山と連絡を取る。時々理由をつけては家を出て、高山の家へと向かう。コンビニのアルバイトをしている高山を見て、電流が走ったようだった。この人しかいない―そんな直感に導かれて声を掛けて、セックスをするようになった。高山といる時間は、生きている感じがする。高山は他の女とも遊んでいるし、好きだみたいなことも言ってはくれない。でも、自分にそれを求める資格はないと思っている。義母との終わりなき苦痛の時間と、高山との至福の時間。自分の中で、バランスが取れなくなっていく。
「千波万波」
河子にとって、中学進学は衝撃的だった。小学校時代親友だと思っていた女の子が、中学に入ると突然河子を切ったのだ。彼女はクラスの人気者となり、そして彼女から排除された。河子は独りぼっちだ。友達を作ることも怖いし、学校にも行きたくない。
そう両親に訴えた。パパは分かりやすいほどうろたえて、だったら転校しよう、3人で引っ越そうとうるさい。ママは逆に、何を考えているのか分からない。でも、きっぱりした声で、「河子はどうしたい?」と聞いてくれる。
パパの金沢出張についていくことにした。金曜は学校を休むことにして、ママが学校に何か言ってくれたらしい。そのまま月曜日になっても帰らずに、青春18キップで西へ西へと旅を続けた。
ちょっと寄りたい―ママがそう言うのは初めてだった。昔この辺りに住んでいたことがあるんだ。そう言ってたどり着いたのは、九州の「蛍の町」と呼ばれている、陸の孤島と言えるようなところだった。
由井は夜逃げを繰り返す中で、一時期ここに住んでいた。そこで、常楽幸太郎とその一家にお世話になった。
というような話です。
凄く良い作品でした。読みながら、色んな作家を頭に思い浮かべました。本書は、「R-18文学賞」を受賞した「西国疾走少女」が収録された作品で、「R-18文学賞」繋がりで窪美澄がまず浮かびました。さらに、本書の作風から、「女版・朝井リョウ」とも感じました。ほぼ全話で登場する「桐原」という人物の名前も、そのイメージを後押ししました(「桐島、部活やめるってよ」の「桐島」を連想したのです)。また、最後の「千波万波」からは、江國香織を連想しました。母親と娘が同じような感じで放浪するような話を読んだ記憶があったし、やはり文体や作風などから近いものを感じました。
窪美澄・朝井リョウ・江國香織と挙げた名前からもイメージ出来るでしょうが、非常に繊細で内面描写が豊かで、揺れ動く性や青春の一瞬の実像みたいなものを見事に切り取った作品だと思いました。
先程僕が書いた内容紹介を読んでもらっても分かるでしょうが、ストーリー的には正直何が起こるということもありません。各話毎に微妙に折り重なった人物たちが、それぞれの人生を絵筆としながら描き出す、瞬間瞬間の光景みたいなものを写し取っているような作品です。
ストーリー重視じゃないからこそ、どの話も、そこに前後の物語があるだろうなと予感を抱かせます。話が始まる前から彼らはそこに生きていて、話が終わった後もその世界で彼らは生きていくんだなということが、ありありと想像できる感じがします。だからこそ、それぞれの話は短いですが、奥行きを感じさせる物語に仕上がっているんだろうという感じがします。
本書には、大別すると二種類の人物が登場します。一つは、周囲を気にしない人。もう一つは、周囲を気にする人。
桐原や由井なんかが、前者の筆頭でしょう。タイプは違いますが、高山も広く括ればこちらになるでしょうか。また、加奈子や泉なんかが後者のタイプです。そして、この二つのタイプの人たちが、同じ世界の中で、お互いのどうしようもなさみたいなものを交換し合いながら、無様な日常を生きていく様が描かれているんだと思います。
僕はやっぱり、前者の周囲を気にしない人に惹かれます。というのも、僕自身昔は周囲を気にしてしまう人で、気にしないでいられたらいいなぁ、という憧れがあったからです。今では割と気にしないでいられるようになったけど、その憧れだけは今でも残っている感じですね。
特に由井はいいなぁ。不動、という感じがする。かなり辛く厳しい境遇の中で生きているはずなのに、何故だか由井からは悲壮感を感じない。それでいて、彼女のために何かしてあげたいという気分にはなる。由井も比較的どの話に中にも出てくるんだけど、どういう登場の仕方でも存在感があるなと感じました。
由井の場合、とにかく周囲からのあれやこれやに煩わされている場合じゃなかった、というのが本音でしょう。そんなことに時間を割かれているよりは、もっとやらないといけないことがある。それこそ、生き抜くために。
そしてそんな由井を支えることになったのが、桐原だった。
『桐原と出会ってはじめて得た自己肯定感は、すさまじかった。あの日々があったから、その後どんなに人に言えないような絶望があっても、わたしは生きてこられたのだと思う』
由井にとって桐原を想う気持ちは、ただ恋愛だったわけではない。それは、自分を認めるための時間だったし、自分の人生を許容する覚悟を決める時間でもあった。そのことが、羨ましいし、眩しい。まさにその一瞬にしか発することが出来ない光によって、由井は生き延びている。そのことが、なんだか凄くカッコイイと思う。
桐原も、とても良い。桐原については基本的に、誰か別の人からの描写しかないので、桐原の内面についてははっきりとは分からない。でも、自分の考えをきちんと持っているし、すべきことをすべきタイミングでする人、という感じがした。誠実、ということばだと嘘くさくなってしまうような、もう少しちゃんとしていない部分も孕んでいるような、それでいて最終的にはきちんとすべてをまとめていくような、そういう印象がありました。
一方、周囲を気にする人たちは、ずっと揺れ動いています。自分の生き方がこれで良かったのか、今自分はどうするべきなのか、あの時どうするべきだったのか―。自分自身に芯がなく、周囲の人とか常識とか当たり前とか言ったような、いつでも揺れ動いてしまうようなものに無意識的に身を任せてしまっているために、いつまで経っても落ち着かない。自分の人生を受け容れられないし、認められない。年を重ねれば重ねるほど、本当は過去のどこかの時点で取り返すべきだった負債とか後悔みたいなものがジワジワと利いてきて、出来ることと言えば、その負債や後悔を取り返せない年齢になってしまったことを嘆くことぐらい。そういう、どん詰まりみたいな生き方をせざるを得ない人も出てくる。
周囲を気にしない人と気にする人は、社会の様々な場所で交わっている。その汽水域みたいな空間を、著者は見事に描き出していく。学生時代イケイケだった人が、大人になってからパッとしなくなる―なんてことは現実にもよくある話だろうけど、本書でもまさにそんな描かれ方をする人が多く出てくる。学生時代、特に目立っていたわけではない人間としては、そんなところにも仄かな嬉しさみたいなものを感じてしまう。
皮膚を突き破ってくるかのような衝撃にビリビリと来る小説です。
一木けい「1ミリの後悔もない、はずがない」
苦手というか、大体うまくいかない。
うまくいかないから、なるべく人を好きにならないようにしている、つもりだ。
そもそも、なかなか他人に関心を持つのが難しい人間だ。
誰かと過ごす時間は嫌いじゃないけど、相手の存在ごと共有するような時間の過ごし方は、どうもうまくいかない。
程よい距離から眺めて、時々触れられるぐらい近づいて、でも触れるわけでもなくまた離れる、ぐらいの感じが、僕には向いているなと思う。
僕がこんな風に思えるようになったのは、ちゃんと僕にも、心を掻きむしるぐらい人を好きになったことがあるからだ。
そういう自分は、なかなかうまく制御出来ない。
『ゆっくり過ぎてほしい時間なんて、桐原といるときだけだった』
『桐原に会うために疾走しているときはいつも、命を生き切っているという実感があった』
『煙草の匂いはきらいなのに、ここにいるときだけ好きになる』
自分の意思では御しがたい何かが時空を歪ませるように、日常の世界が変わる。いつもと同じ時間/空間にいるはずなのに、何かが違う。本当に、そんな気分になる。
そのことは、凄く良いことだ。自分の内側に、それまで自分が持っているとは思っていなかったような感情があることに気づいたり、自分の言動が自然と非論理的になっていく感じとかは、やはり日常の中では体験出来ないからだ。誰かを好きになることは、簡単に、あっさりと、人間の本質を変えうる。
でも、だからこそ、僕は怖いと思った。
『いつか失うくらいなら、手の届かないものを望んだりしない方がいい』
『うしなった人間に対して1ミリの後悔もないということがありうるだろうか』
あるものは、いつかなくなる。だったら、最初からない方がいいんじゃないか。僕は、手放したくないと感じるものに出会う度に、そう感じるようになっていった。その怖さは、いまでもずっと持ち続けている。それが大切で大切で、手放したくないと思えるものであればあるほど、手に入れたくない。
僕のそんな気分が、人を好きになることを遠ざけている。
でも、そう思えるようになったのも、人を好きになった経験があったからだ。そういう自分がかつていたことは、良かったと思う。誰かを好きになり、近づいて離れて、というような経験が、少ないながらもあるからこそ、人をなるべく好きにならないようにしよう、と思えるようになった。そう思えるようになった今は、生きやすくなったなと思う。
でも、こういう小説を読むと、やっぱり思う。そりゃあ、人を好きになって、自分の本質が否応なしに変化してしまうような人生の方が、楽しいかもしれないよなぁ、と。でも、同時にこうも思う。それってやっぱり、楽しいだけじゃないんだよなぁ、と。ズルい男になれば、楽しいだけでいられる可能性もある。本書にも、そういう男はちらほら登場する。でも、なるべくそういう人間にはなりたくない。
『ほんとはアウトなのに、きちんとルールを守ってる子と同じっていうのが、なんか』
『約束を破った顧問と、話を聞きもせず切り捨てた担任を、責める資格など自分にはないのかもしれない。だってあたしも卑怯だから』
こういう認識を、僕はちゃんと持ち続けながら生きていたい。
失敗したり傷ついた経験があるからこそ前に進んでいける。そういうことはある。自分を支えてくれるだけの何かにいつ出会えるか。それを知ることは誰にも出来ないから、だからこそ、いつだって僕たちは体当たりで前進しながらぶつかっていくしかない。
内容に入ろうと思います。
本書は、5編の短編が収録された連作短編集です。
「西国疾走少女」
わたしは桐原と出会った。脚が机に収まりきらないほど大柄で、中学生に見えない。わたしは、桐原の、色気としか呼びようのない何かに惹かれた。ミカ、金井、桐原の四人で一緒にいることが多くなり、自然と桐原との距離も縮まっていった。桐原と一緒にいる時は、無敵だった。それが、自分のすべてになっていった。母子家庭で、父親が生活保護を申請したという通知が届く。時折父親に会いに行っても、不快な思いをするだけ。教師も嘘つきばかり。そんなクソみたいな日常でも、桐原に会うために西国分寺を疾走しているわたしは最強だ。
「シオマネキ」
ミカは、尿意が限界でトイレを探している時、その男と出会った。正しくは再会だったが、ミカはそうと気づかなかった。高山は、中学時代のミカのスターだった。ミカにとってだけじゃない。国分寺一モテていたはずだ。その高山は、変わり果てた姿で目の前にいる。
ミカは中学時代、加奈子とよく一緒にいた。加奈子と一緒にいる時間は、快適ではなかったけど、キラキラしている加奈子からは離れられなかった。失ったら、独りになってしまうから。憧れの高山先輩を時々追いかけつつ、ミカは、金井や桐原、そして加奈子の小学校時代の同級生で、あまりの貧乏故にみんなから嫌われていたという由井とよく一緒になった。
「潮時」
僕は飛行機に乗っている。このままちゃんと家に帰れば、由井さんと河子が待っている。自分の人生をすべて変えてくれた二人、妻と子。この二人のためなら何でも出来る。だから、酸素マスクが下りてきた時は絶望的な気持ちになった。由井さんは言っていた。毎日飛行機に乗っていても事故に遭う確率は438年に一回なのだ、と。だからきっと大丈夫なはずだ。
僕は施設で育った。漁師だった父と、そんな父をきちんと支える母との生活は、貧しかったけど楽しかった。けど、母が亡くなったことで、父は僕と弟を施設に預けざるを得なかった。
加奈子は、子供を産んでから元の体重に戻らない自分と今の境遇を重ね合わせる。先日、夫が浮気をしている決定的な証拠を見つけてしまった。でも、離婚なんて言い出せない。自分には何もないからだ。夫だけが、セックスのある生活をしている。加奈子は、学生時代のことを思い出す。桐原が好きだった。でも桐原が好きになったのは、自分が嫌悪していた由井だった。そのことにずっと、打ちひしがれていた。
「穴底の部屋」
泉の夫の実家では、鍋を食べた後で、家族が皆、取り皿の汁を鍋に戻す。初めてそれを見た時は衝撃的だったし、今だってこの後のおじやを食べずに帰りたいと思っている。義母は、どうでもいいような話を延々とする。義母と一緒にいる時間は、苦痛でしかない。
泉は高山と連絡を取る。時々理由をつけては家を出て、高山の家へと向かう。コンビニのアルバイトをしている高山を見て、電流が走ったようだった。この人しかいない―そんな直感に導かれて声を掛けて、セックスをするようになった。高山といる時間は、生きている感じがする。高山は他の女とも遊んでいるし、好きだみたいなことも言ってはくれない。でも、自分にそれを求める資格はないと思っている。義母との終わりなき苦痛の時間と、高山との至福の時間。自分の中で、バランスが取れなくなっていく。
「千波万波」
河子にとって、中学進学は衝撃的だった。小学校時代親友だと思っていた女の子が、中学に入ると突然河子を切ったのだ。彼女はクラスの人気者となり、そして彼女から排除された。河子は独りぼっちだ。友達を作ることも怖いし、学校にも行きたくない。
そう両親に訴えた。パパは分かりやすいほどうろたえて、だったら転校しよう、3人で引っ越そうとうるさい。ママは逆に、何を考えているのか分からない。でも、きっぱりした声で、「河子はどうしたい?」と聞いてくれる。
パパの金沢出張についていくことにした。金曜は学校を休むことにして、ママが学校に何か言ってくれたらしい。そのまま月曜日になっても帰らずに、青春18キップで西へ西へと旅を続けた。
ちょっと寄りたい―ママがそう言うのは初めてだった。昔この辺りに住んでいたことがあるんだ。そう言ってたどり着いたのは、九州の「蛍の町」と呼ばれている、陸の孤島と言えるようなところだった。
由井は夜逃げを繰り返す中で、一時期ここに住んでいた。そこで、常楽幸太郎とその一家にお世話になった。
というような話です。
凄く良い作品でした。読みながら、色んな作家を頭に思い浮かべました。本書は、「R-18文学賞」を受賞した「西国疾走少女」が収録された作品で、「R-18文学賞」繋がりで窪美澄がまず浮かびました。さらに、本書の作風から、「女版・朝井リョウ」とも感じました。ほぼ全話で登場する「桐原」という人物の名前も、そのイメージを後押ししました(「桐島、部活やめるってよ」の「桐島」を連想したのです)。また、最後の「千波万波」からは、江國香織を連想しました。母親と娘が同じような感じで放浪するような話を読んだ記憶があったし、やはり文体や作風などから近いものを感じました。
窪美澄・朝井リョウ・江國香織と挙げた名前からもイメージ出来るでしょうが、非常に繊細で内面描写が豊かで、揺れ動く性や青春の一瞬の実像みたいなものを見事に切り取った作品だと思いました。
先程僕が書いた内容紹介を読んでもらっても分かるでしょうが、ストーリー的には正直何が起こるということもありません。各話毎に微妙に折り重なった人物たちが、それぞれの人生を絵筆としながら描き出す、瞬間瞬間の光景みたいなものを写し取っているような作品です。
ストーリー重視じゃないからこそ、どの話も、そこに前後の物語があるだろうなと予感を抱かせます。話が始まる前から彼らはそこに生きていて、話が終わった後もその世界で彼らは生きていくんだなということが、ありありと想像できる感じがします。だからこそ、それぞれの話は短いですが、奥行きを感じさせる物語に仕上がっているんだろうという感じがします。
本書には、大別すると二種類の人物が登場します。一つは、周囲を気にしない人。もう一つは、周囲を気にする人。
桐原や由井なんかが、前者の筆頭でしょう。タイプは違いますが、高山も広く括ればこちらになるでしょうか。また、加奈子や泉なんかが後者のタイプです。そして、この二つのタイプの人たちが、同じ世界の中で、お互いのどうしようもなさみたいなものを交換し合いながら、無様な日常を生きていく様が描かれているんだと思います。
僕はやっぱり、前者の周囲を気にしない人に惹かれます。というのも、僕自身昔は周囲を気にしてしまう人で、気にしないでいられたらいいなぁ、という憧れがあったからです。今では割と気にしないでいられるようになったけど、その憧れだけは今でも残っている感じですね。
特に由井はいいなぁ。不動、という感じがする。かなり辛く厳しい境遇の中で生きているはずなのに、何故だか由井からは悲壮感を感じない。それでいて、彼女のために何かしてあげたいという気分にはなる。由井も比較的どの話に中にも出てくるんだけど、どういう登場の仕方でも存在感があるなと感じました。
由井の場合、とにかく周囲からのあれやこれやに煩わされている場合じゃなかった、というのが本音でしょう。そんなことに時間を割かれているよりは、もっとやらないといけないことがある。それこそ、生き抜くために。
そしてそんな由井を支えることになったのが、桐原だった。
『桐原と出会ってはじめて得た自己肯定感は、すさまじかった。あの日々があったから、その後どんなに人に言えないような絶望があっても、わたしは生きてこられたのだと思う』
由井にとって桐原を想う気持ちは、ただ恋愛だったわけではない。それは、自分を認めるための時間だったし、自分の人生を許容する覚悟を決める時間でもあった。そのことが、羨ましいし、眩しい。まさにその一瞬にしか発することが出来ない光によって、由井は生き延びている。そのことが、なんだか凄くカッコイイと思う。
桐原も、とても良い。桐原については基本的に、誰か別の人からの描写しかないので、桐原の内面についてははっきりとは分からない。でも、自分の考えをきちんと持っているし、すべきことをすべきタイミングでする人、という感じがした。誠実、ということばだと嘘くさくなってしまうような、もう少しちゃんとしていない部分も孕んでいるような、それでいて最終的にはきちんとすべてをまとめていくような、そういう印象がありました。
一方、周囲を気にする人たちは、ずっと揺れ動いています。自分の生き方がこれで良かったのか、今自分はどうするべきなのか、あの時どうするべきだったのか―。自分自身に芯がなく、周囲の人とか常識とか当たり前とか言ったような、いつでも揺れ動いてしまうようなものに無意識的に身を任せてしまっているために、いつまで経っても落ち着かない。自分の人生を受け容れられないし、認められない。年を重ねれば重ねるほど、本当は過去のどこかの時点で取り返すべきだった負債とか後悔みたいなものがジワジワと利いてきて、出来ることと言えば、その負債や後悔を取り返せない年齢になってしまったことを嘆くことぐらい。そういう、どん詰まりみたいな生き方をせざるを得ない人も出てくる。
周囲を気にしない人と気にする人は、社会の様々な場所で交わっている。その汽水域みたいな空間を、著者は見事に描き出していく。学生時代イケイケだった人が、大人になってからパッとしなくなる―なんてことは現実にもよくある話だろうけど、本書でもまさにそんな描かれ方をする人が多く出てくる。学生時代、特に目立っていたわけではない人間としては、そんなところにも仄かな嬉しさみたいなものを感じてしまう。
皮膚を突き破ってくるかのような衝撃にビリビリと来る小説です。
一木けい「1ミリの後悔もない、はずがない」
「Ryuichi Sakamoto:CODA」を観に行ってきました
印象的だったのは、ピアノという楽器について語ったこの言葉だ。
『ピアノって、工業技術によって作られているんですよね。木を鋳型に嵌めて成型したり、弦だって全部合わせれば2トンぐらいの力が掛かってる。そのピアノを人間が自然だと思うように調律している。でもそれは、人間にとっては自然でも、自然にとっては不自然な状態で、そういうものに対する違和感みたいなものが自分の中にあるんでしょうね』
冒頭で、3.11の津波で水を被ってしまった、宮城農業高等学校のピアノが登場する。そしてそのピアノは、津波によってバーンと自然に戻されたから、だからこそ今の自分にはあの津波ピアノの音は良い風に聞こえるのだ、という発言もしている。
映画全編を通じて、音楽や音というものに対する探究心の強さみたいなものを感じさせられた。見慣れぬ楽器を扱ってみたり、雨の音を録音してみたり、バケツを頭から被った状態で雨に打たれたりする。時には北極に行き、そこで太古の昔の雪が溶けて流れる音を「釣る」こともしている。
かつて僕は「すばらしき映画音楽たち」という映画を見たことがある。映画音楽に携わる人間は、古今東西ありとあらゆる楽器、あるいは日常的なものが発する音などを組み合わせながら、映画にピッタリ合う独特の音を生み出していく。
坂本龍一も、映画音楽を手がけている。「映画音楽は制約があるから不自由だ。でも、その不自由さが刺激にもなる」と語っている。ガンを患っていることが判明し、作曲活動を一旦休止している時、「レヴェナント」の監督から音楽を頼まれ断りきれなかったという話も出てくる。
映画音楽では、相当苦労した経験があるようだ。「ラストエンペラー」という映画では、当初役者としてのオファーだった。しかし役者として現地に行った後、突然作曲を頼まれたという。また、その後NYで仕事をし、ホテルを出ようとしたまさにそのタイミングでレセプションから電話があり、同じ監督から曲を作ってくれと言われたという。1週間で45曲作り、ロンドンに着いた翌日にレコーディングだったとか。
別の映画では、今からまさにオーケストラの収録をする、というその直前に監督から、このイントロは好きじゃないから直してくれと言われて、オーケストラに30分待ってもらって書き直したという。
1992年頃から、環境問題などに注目するようになったという。「ミュージシャンやアーティストは、いわば炭鉱のカナリアみたいなものですからね」と、何がどうマズイのか分からないが何かしなければならない感覚をそう表現した。それまでは政治的・社会的問題について曲を作ることを意識的に封印してきたというが、次第にそういう活動もするようになっていく。
そして、3.11を経て、原発の再稼働には明確に反対している。
個人的には、この映画にはもう少し真っ直ぐな核みたいなものがあるのかな、と思っていた。それこそ僕は、冒頭で登場した「津波ピアノ」がメインになるのだと勝手に思っていた。しかしこの映画からは、「坂本龍一という人物を切り取る」以上のテーマ性を僕は感じることが出来なかった。見る人が見れば、何か核となるものを掴めるのかもしれないが、僕には、これまでの坂本龍一の活動の断面図の積分、というような印象しかなかった。
坂本龍一自身の言葉は、一つ一つ興味深いものが多かったし、坂本龍一が関係する過去の様々な映像(坂本龍一が映画音楽を手掛けた、その映画本編の映像も挿入される)も面白いと思った。けど、映画全体としては、うーんちょっとなぁ、という印象を抱いてしまった。
もちろん、天才(と軽々しく称していいのかは分からないが)を捉えるのは難しい。それに「音楽」という、「映像」というメディアでは捉えられない(そもそも音楽は目では見えないので)芸術を生み出す者の有り様を、映像で切り取るというのはそもそも無謀なのかもしれないとも思う。あるいは、僕自身が音楽というものをそこまでちゃんと受け取れる人間でもないので、映画自体の問題ではなく僕のレベルの低さの問題ということもあるだろう(実際ネットでの評判は良い)。
やはり印象に残ったのは、65歳(だったと思う)にして、未だに創作し続けようという意欲を保ち続けている、その力強さだ。
「Ryuichi Sakamoto:CODA」を観に行ってきました
『ピアノって、工業技術によって作られているんですよね。木を鋳型に嵌めて成型したり、弦だって全部合わせれば2トンぐらいの力が掛かってる。そのピアノを人間が自然だと思うように調律している。でもそれは、人間にとっては自然でも、自然にとっては不自然な状態で、そういうものに対する違和感みたいなものが自分の中にあるんでしょうね』
冒頭で、3.11の津波で水を被ってしまった、宮城農業高等学校のピアノが登場する。そしてそのピアノは、津波によってバーンと自然に戻されたから、だからこそ今の自分にはあの津波ピアノの音は良い風に聞こえるのだ、という発言もしている。
映画全編を通じて、音楽や音というものに対する探究心の強さみたいなものを感じさせられた。見慣れぬ楽器を扱ってみたり、雨の音を録音してみたり、バケツを頭から被った状態で雨に打たれたりする。時には北極に行き、そこで太古の昔の雪が溶けて流れる音を「釣る」こともしている。
かつて僕は「すばらしき映画音楽たち」という映画を見たことがある。映画音楽に携わる人間は、古今東西ありとあらゆる楽器、あるいは日常的なものが発する音などを組み合わせながら、映画にピッタリ合う独特の音を生み出していく。
坂本龍一も、映画音楽を手がけている。「映画音楽は制約があるから不自由だ。でも、その不自由さが刺激にもなる」と語っている。ガンを患っていることが判明し、作曲活動を一旦休止している時、「レヴェナント」の監督から音楽を頼まれ断りきれなかったという話も出てくる。
映画音楽では、相当苦労した経験があるようだ。「ラストエンペラー」という映画では、当初役者としてのオファーだった。しかし役者として現地に行った後、突然作曲を頼まれたという。また、その後NYで仕事をし、ホテルを出ようとしたまさにそのタイミングでレセプションから電話があり、同じ監督から曲を作ってくれと言われたという。1週間で45曲作り、ロンドンに着いた翌日にレコーディングだったとか。
別の映画では、今からまさにオーケストラの収録をする、というその直前に監督から、このイントロは好きじゃないから直してくれと言われて、オーケストラに30分待ってもらって書き直したという。
1992年頃から、環境問題などに注目するようになったという。「ミュージシャンやアーティストは、いわば炭鉱のカナリアみたいなものですからね」と、何がどうマズイのか分からないが何かしなければならない感覚をそう表現した。それまでは政治的・社会的問題について曲を作ることを意識的に封印してきたというが、次第にそういう活動もするようになっていく。
そして、3.11を経て、原発の再稼働には明確に反対している。
個人的には、この映画にはもう少し真っ直ぐな核みたいなものがあるのかな、と思っていた。それこそ僕は、冒頭で登場した「津波ピアノ」がメインになるのだと勝手に思っていた。しかしこの映画からは、「坂本龍一という人物を切り取る」以上のテーマ性を僕は感じることが出来なかった。見る人が見れば、何か核となるものを掴めるのかもしれないが、僕には、これまでの坂本龍一の活動の断面図の積分、というような印象しかなかった。
坂本龍一自身の言葉は、一つ一つ興味深いものが多かったし、坂本龍一が関係する過去の様々な映像(坂本龍一が映画音楽を手掛けた、その映画本編の映像も挿入される)も面白いと思った。けど、映画全体としては、うーんちょっとなぁ、という印象を抱いてしまった。
もちろん、天才(と軽々しく称していいのかは分からないが)を捉えるのは難しい。それに「音楽」という、「映像」というメディアでは捉えられない(そもそも音楽は目では見えないので)芸術を生み出す者の有り様を、映像で切り取るというのはそもそも無謀なのかもしれないとも思う。あるいは、僕自身が音楽というものをそこまでちゃんと受け取れる人間でもないので、映画自体の問題ではなく僕のレベルの低さの問題ということもあるだろう(実際ネットでの評判は良い)。
やはり印象に残ったのは、65歳(だったと思う)にして、未だに創作し続けようという意欲を保ち続けている、その力強さだ。
「Ryuichi Sakamoto:CODA」を観に行ってきました
「あゝ、荒野 後編」を観に行ってきました
不思議な映画だった。
そもそも、前後編合わせて5時間もある。非常に長い映画だ。だから、ストーリー部分以外の余白がかなりあるような印象だった。ジグソーパズルの中に、不必要なピースがたくさん紛れ込んでいるような感じ。完成させるまで、どれが要らないピースなのか分からない。でも、確実に不要なピースはある。この映画でも、観ている段階では、どのシーンが浮いているのかは分からない。分からないけど、ストーリー部分に直接関係なさそうなシーンも結構出てくる。それらをどう消化するのかで、この映画の捉え方が変わるような気がする。
様々な人間の人生が交錯する。物語だから、線が重なりすぎているのは、ある程度仕方がない。不幸な生い立ち、人生の転機、震災、若者を徴兵しようとする法案、自殺者を食い止めようとする活動をする大学生、親族の死の真相―そういう様々な人間の人生が、海洋闘拳ボクシングジムを中心に交わっていく。
しかし、そのそれぞれに対して、明確な答えは用意されない。映画の中で、彼らの多くは決断をしない。まったくしないわけではないが、はっきりとこうだと分かるような、物語によくあるスパッとした決断はあまり出てこない。それが、人間らしいなと思う。ある決断をしたようでいて、突き進められない。決断を曖昧にする。決断をしないという決断をする。皆、様々な形で、クソッタレな現実を乗り切ろうとする。
そう、彼らを取り囲んでいる現実が、どうにもクソッタレなのだ。舞台は2022年。東京オリンピックが終わり、日本はいよいよ衰退期に差し掛かっている。国会では、学生の奨学金の返済を一部肩代わりする代わりに、学生を介護現場か自衛隊に押し込む「社会奉仕プログラム法」が制定され、さらに今、任意制であるはずのその法律を義務制にする議論が始まっている。自殺者は急増し、新宿でテロが発生する。登場人物の一人がこんなことを言う。「今は生きることより、死ぬことの方がお金になるんです」 風俗が介護施設となり、結婚式場が葬儀場へと変わる。何が、というハッキリとした原因が明確にあるわけではなく、ジワジワと首を絞められるようにして誰もが追いつめられていく。
そんな中で、拳一つだけでのし上がっていくボクシングは、ある種の希望として描かれているように感じられる。誰もが鬱屈している。事業はうまく行かないし、ジムの存続は危ぶまれているし、異性の気持ちがうまく理解できない。はっきりとした原因があるなら、それを叩き潰せばいい。でも、そういう分かりやすい何かがないまま、みんな追いつめられていく。闘いたくても、誰と、あるいは何と戦えばいいのかが分からない。
そんな世の中で、戦う理由がなんであれ、拳一つで相手をリングに沈めるために戦い続ける者が、何か現実に真っ向から抗ってでもいるかのような、そんな風にも見えてくる。
『何のために私たち、生きてるんですかね?』
印象的だったのが、主演の一人を務める菅田将暉の「目」だ。ボクシングをしている時の彼の目は、輝いているように見える。闘争心の塊のような、何か放射されてでもいるかのような、ギラギラした目だ。しかし、前編の菅田将暉の登場シーンや、あるいは後編でのある箇所などで、彼は死んだ魚のような目をする。生気が宿っていないような、魂が抜けてしまっているかのような、そんなおよそ生きている人間の目とは思えないような目をしている。
その目はある意味で、「何のために私たち、生きてるんですかね?」に対する一つの答えなのだと思う。答えというか、問いそのものを無効にするような現実、とでも言えばいいか。
そして、戦うというのがもう一つの答えだ。殺伐とした荒野において、戦うことを答えに据えるような生き方を選択した者たちの物語なのだ。
内容に入ろうと思います。
プロデビューした「新宿新次」と「カミソリ建二」は、海洋闘拳ボクシングジムで練習を続けている。社会は益々きな臭くなり、「社会奉仕プログラム法」の義務化が検討されている。
新次はある時、「アニキ」と慕う建二について新たな事実を知ってしまう。しかし、そのことは建二との関わりにおいて影響を及ぼさないと、新次自身確認する。
かつての仲間と気まずい再会したり、恋人の芳子の母親について聞いたりしながら、新次は、そいつとリング上で戦うためにボクシングを始めた山本との試合が決定する。
建二は、書店で助けた妊婦と関わることになり、また、ボクシングジムの運営と絡んで、建二自身大きな決断を迫られることになる。
新次も建二も、社会の動きとは関係なく、強くなるため、相手を倒すために戦い続けるが、しかしそんな彼らを中心にして、様々な人間の人生が交錯していくことになる…。
というような話です。
うまく消化できてはいないのだけど、個人的には面白い映画でした。前篇から、想像していたのとは全然違った映画で、そのことに戸惑いがありつつも、時代背景とボクシングに打ち込む男二人の成長物語を捻るようにして描き出す物語の構成は、とても良いと思いました。
前述した通り、狭い人間関係の中で人生が重なり合うことがちょっと多すぎるので、さすがにやり過ぎ感を抱いてしまう部分はあるんですが、まあそれは物語上仕方ないかなと思います。その折り重なり合う人間関係を、決して分かりやすく描くのではなく、うまく着地させることなくそれぞれの物語を閉じていく感じが、僕は結構好きでした。そういう意味で、分かりやすい決着を求める人にはあんまり向かない映画かもしれません。
色んな人生が描かれるので、どれに肩入れして見るかは人によって様々でしょうけど、僕は結構芳子のことが好きです。新次の恋人ですね。新次と出会い、関わるようになり、付き合い、繋がり続けていくその在り方が、結構いいなぁって思うんだよなぁ。
全体的な雰囲気が凄く好きな映画でした。
「あゝ、荒野 後編」を観に行ってきました
そもそも、前後編合わせて5時間もある。非常に長い映画だ。だから、ストーリー部分以外の余白がかなりあるような印象だった。ジグソーパズルの中に、不必要なピースがたくさん紛れ込んでいるような感じ。完成させるまで、どれが要らないピースなのか分からない。でも、確実に不要なピースはある。この映画でも、観ている段階では、どのシーンが浮いているのかは分からない。分からないけど、ストーリー部分に直接関係なさそうなシーンも結構出てくる。それらをどう消化するのかで、この映画の捉え方が変わるような気がする。
様々な人間の人生が交錯する。物語だから、線が重なりすぎているのは、ある程度仕方がない。不幸な生い立ち、人生の転機、震災、若者を徴兵しようとする法案、自殺者を食い止めようとする活動をする大学生、親族の死の真相―そういう様々な人間の人生が、海洋闘拳ボクシングジムを中心に交わっていく。
しかし、そのそれぞれに対して、明確な答えは用意されない。映画の中で、彼らの多くは決断をしない。まったくしないわけではないが、はっきりとこうだと分かるような、物語によくあるスパッとした決断はあまり出てこない。それが、人間らしいなと思う。ある決断をしたようでいて、突き進められない。決断を曖昧にする。決断をしないという決断をする。皆、様々な形で、クソッタレな現実を乗り切ろうとする。
そう、彼らを取り囲んでいる現実が、どうにもクソッタレなのだ。舞台は2022年。東京オリンピックが終わり、日本はいよいよ衰退期に差し掛かっている。国会では、学生の奨学金の返済を一部肩代わりする代わりに、学生を介護現場か自衛隊に押し込む「社会奉仕プログラム法」が制定され、さらに今、任意制であるはずのその法律を義務制にする議論が始まっている。自殺者は急増し、新宿でテロが発生する。登場人物の一人がこんなことを言う。「今は生きることより、死ぬことの方がお金になるんです」 風俗が介護施設となり、結婚式場が葬儀場へと変わる。何が、というハッキリとした原因が明確にあるわけではなく、ジワジワと首を絞められるようにして誰もが追いつめられていく。
そんな中で、拳一つだけでのし上がっていくボクシングは、ある種の希望として描かれているように感じられる。誰もが鬱屈している。事業はうまく行かないし、ジムの存続は危ぶまれているし、異性の気持ちがうまく理解できない。はっきりとした原因があるなら、それを叩き潰せばいい。でも、そういう分かりやすい何かがないまま、みんな追いつめられていく。闘いたくても、誰と、あるいは何と戦えばいいのかが分からない。
そんな世の中で、戦う理由がなんであれ、拳一つで相手をリングに沈めるために戦い続ける者が、何か現実に真っ向から抗ってでもいるかのような、そんな風にも見えてくる。
『何のために私たち、生きてるんですかね?』
印象的だったのが、主演の一人を務める菅田将暉の「目」だ。ボクシングをしている時の彼の目は、輝いているように見える。闘争心の塊のような、何か放射されてでもいるかのような、ギラギラした目だ。しかし、前編の菅田将暉の登場シーンや、あるいは後編でのある箇所などで、彼は死んだ魚のような目をする。生気が宿っていないような、魂が抜けてしまっているかのような、そんなおよそ生きている人間の目とは思えないような目をしている。
その目はある意味で、「何のために私たち、生きてるんですかね?」に対する一つの答えなのだと思う。答えというか、問いそのものを無効にするような現実、とでも言えばいいか。
そして、戦うというのがもう一つの答えだ。殺伐とした荒野において、戦うことを答えに据えるような生き方を選択した者たちの物語なのだ。
内容に入ろうと思います。
プロデビューした「新宿新次」と「カミソリ建二」は、海洋闘拳ボクシングジムで練習を続けている。社会は益々きな臭くなり、「社会奉仕プログラム法」の義務化が検討されている。
新次はある時、「アニキ」と慕う建二について新たな事実を知ってしまう。しかし、そのことは建二との関わりにおいて影響を及ぼさないと、新次自身確認する。
かつての仲間と気まずい再会したり、恋人の芳子の母親について聞いたりしながら、新次は、そいつとリング上で戦うためにボクシングを始めた山本との試合が決定する。
建二は、書店で助けた妊婦と関わることになり、また、ボクシングジムの運営と絡んで、建二自身大きな決断を迫られることになる。
新次も建二も、社会の動きとは関係なく、強くなるため、相手を倒すために戦い続けるが、しかしそんな彼らを中心にして、様々な人間の人生が交錯していくことになる…。
というような話です。
うまく消化できてはいないのだけど、個人的には面白い映画でした。前篇から、想像していたのとは全然違った映画で、そのことに戸惑いがありつつも、時代背景とボクシングに打ち込む男二人の成長物語を捻るようにして描き出す物語の構成は、とても良いと思いました。
前述した通り、狭い人間関係の中で人生が重なり合うことがちょっと多すぎるので、さすがにやり過ぎ感を抱いてしまう部分はあるんですが、まあそれは物語上仕方ないかなと思います。その折り重なり合う人間関係を、決して分かりやすく描くのではなく、うまく着地させることなくそれぞれの物語を閉じていく感じが、僕は結構好きでした。そういう意味で、分かりやすい決着を求める人にはあんまり向かない映画かもしれません。
色んな人生が描かれるので、どれに肩入れして見るかは人によって様々でしょうけど、僕は結構芳子のことが好きです。新次の恋人ですね。新次と出会い、関わるようになり、付き合い、繋がり続けていくその在り方が、結構いいなぁって思うんだよなぁ。
全体的な雰囲気が凄く好きな映画でした。
「あゝ、荒野 後編」を観に行ってきました
蟻地獄(板倉俊之)
内容に入ろうと思います。
二村孝次郎は、小学一年生の時に出会い、19歳の今もつるんでいる大塚修平と、パチンコやスロットなどで稼ぎながら生きていた。孝次郎は実家に毎月7万円入れており、就職していった同年代の奴らには同じことは出来ないだろうと、自分の生き方を自負している。
ある日彼は、杉田と名乗る男から、とある裏カジノの存在を教わる。この店では、<ブラックジャック>である特殊な手を作れれば(もちろん確率は低い)、倍率を20倍に設定しているのだ。そこで、カードをすり替えてイカサマが出来れば、手持ちの金を大化けさせられる。
意気込んで席につき、色々と演技をしつつ、絶妙なタイミングを狙ってイカサマを仕掛けた。狙いはドンピシャ、見事ハマったが、そう世の中うまくはいかない。とある事情でイカサマはバレており、孝次郎らは窮地に立たされることになった。
5日で300万円用意しろ。それが出来なければ、人質として手元に置いておく修平を臓器ブローカーに売り飛ばす…。孝次郎は、修平を救うために、無謀な闘いに挑まなければならなくなる…。
というような話です。
エンタメ小説として、普通に面白い作品でした。著者は、インパルスっていうお笑い芸人の人で、ネタを作ってるからかな、ストーリーは二転三転するような起伏のある感じで、読みやすいし面白いです。マンガ的だなと思う部分もあるので、「小説作品」としてどうかと聞かれると答え方が難しいですけど、エンタメ作品としては及第点以上の作品だと思いました。
ただ一点、本書の難点があるんですよね。その点さえなければ、結構誰にでも手にとってもらえる本だなぁ、と思うんだけど。
それは、「長い」ということです。
500ページ以上あります。正直、もうちょっと削れるんじゃないかなぁ、と個人的には思いました。もちろん、たくさん書いているから、情景や人物や場面設定などが分かりやすくなっている、という部分もあるでしょうけど、でも分かりやすくするためにページ数が増えてしまっているのはちょっと本末転倒感あるなぁ、と思います。個人的には、全体の分量は2/3ぐらいに出来たら、作品の質がどうなるのかは分からないけど、少なくとも手に取りやすい本にはなるよなぁ、と思いました。
孝次郎は、最初っから結構無茶な状況に陥れられます。5日で300万円作れって言われたら、ちょっと無理だろうなぁ。それこそ、修平の命を救うためにやむを得ず消費者金融から借りる、みたいなことぐらいしか思いつかない。それにしたって、300万円は無理だろうしなぁ。
それでも、孝次郎は決して諦めません。自分の倫理の許す範囲で、可能な手をひたすら打ち続けます。「自分の倫理の許す範囲で」というのが大きなポイントで、孝次郎って、基本的に「いい奴」なんです。裏カジノとか行って楽して稼ごう!みたいな短絡的な発想に行っちゃうんだけど、根は凄くいい奴です。
だからこそ、孝次郎には、犯罪方面のことは出来ない。いや、犯罪的なことに手を染めずに5日で300万円は無理なんだけど、そこが「自分の倫理の許す範囲で」なんです。300万円はなんとしてでも作らないといけない。でも、そのために、人間として越えては行けない部分はできるだけ越えたくない。孝次郎の中にはそういう葛藤がずっとあって、最後の最後までそれに苦しめられることになります。
孝次郎は、何度もその一線を越えそうになるんですけど、でも踏ん張ります。だから、300万円を作るための闘いは、全然進みません。それでも孝次郎は、次から次へとアイデアを考え出します。そして、そのアイデアがうまく行くようにかなり準備をする。
孝次郎がどんな風に奮闘していくのかは本書を読んでほしいのだけど、ラストもまたなかなか想定外な感じで面白かった。えっ、ここからどうなるわけ?みたいなところから、怒涛のラスト!みたいな展開が良く出来てたなぁ。
孝次郎は、何度も絶体絶命に直面しながらも、本人の努力と、ちょっとだけ天の配剤を味方につけて、なんとか状況を好転させようと奮闘する。その過程を面白く読ませる一冊です。
正直途中、「これヤバくなりそうな話題だなぁ…」という話も出てはきます。ただ、孝次郎自身が「自分の倫理の許す範囲で」行動しているので、想像しているようなヤバさにはなりません。そこは安心して読んでもらって大丈夫です。
板倉俊之「蟻地獄」
二村孝次郎は、小学一年生の時に出会い、19歳の今もつるんでいる大塚修平と、パチンコやスロットなどで稼ぎながら生きていた。孝次郎は実家に毎月7万円入れており、就職していった同年代の奴らには同じことは出来ないだろうと、自分の生き方を自負している。
ある日彼は、杉田と名乗る男から、とある裏カジノの存在を教わる。この店では、<ブラックジャック>である特殊な手を作れれば(もちろん確率は低い)、倍率を20倍に設定しているのだ。そこで、カードをすり替えてイカサマが出来れば、手持ちの金を大化けさせられる。
意気込んで席につき、色々と演技をしつつ、絶妙なタイミングを狙ってイカサマを仕掛けた。狙いはドンピシャ、見事ハマったが、そう世の中うまくはいかない。とある事情でイカサマはバレており、孝次郎らは窮地に立たされることになった。
5日で300万円用意しろ。それが出来なければ、人質として手元に置いておく修平を臓器ブローカーに売り飛ばす…。孝次郎は、修平を救うために、無謀な闘いに挑まなければならなくなる…。
というような話です。
エンタメ小説として、普通に面白い作品でした。著者は、インパルスっていうお笑い芸人の人で、ネタを作ってるからかな、ストーリーは二転三転するような起伏のある感じで、読みやすいし面白いです。マンガ的だなと思う部分もあるので、「小説作品」としてどうかと聞かれると答え方が難しいですけど、エンタメ作品としては及第点以上の作品だと思いました。
ただ一点、本書の難点があるんですよね。その点さえなければ、結構誰にでも手にとってもらえる本だなぁ、と思うんだけど。
それは、「長い」ということです。
500ページ以上あります。正直、もうちょっと削れるんじゃないかなぁ、と個人的には思いました。もちろん、たくさん書いているから、情景や人物や場面設定などが分かりやすくなっている、という部分もあるでしょうけど、でも分かりやすくするためにページ数が増えてしまっているのはちょっと本末転倒感あるなぁ、と思います。個人的には、全体の分量は2/3ぐらいに出来たら、作品の質がどうなるのかは分からないけど、少なくとも手に取りやすい本にはなるよなぁ、と思いました。
孝次郎は、最初っから結構無茶な状況に陥れられます。5日で300万円作れって言われたら、ちょっと無理だろうなぁ。それこそ、修平の命を救うためにやむを得ず消費者金融から借りる、みたいなことぐらいしか思いつかない。それにしたって、300万円は無理だろうしなぁ。
それでも、孝次郎は決して諦めません。自分の倫理の許す範囲で、可能な手をひたすら打ち続けます。「自分の倫理の許す範囲で」というのが大きなポイントで、孝次郎って、基本的に「いい奴」なんです。裏カジノとか行って楽して稼ごう!みたいな短絡的な発想に行っちゃうんだけど、根は凄くいい奴です。
だからこそ、孝次郎には、犯罪方面のことは出来ない。いや、犯罪的なことに手を染めずに5日で300万円は無理なんだけど、そこが「自分の倫理の許す範囲で」なんです。300万円はなんとしてでも作らないといけない。でも、そのために、人間として越えては行けない部分はできるだけ越えたくない。孝次郎の中にはそういう葛藤がずっとあって、最後の最後までそれに苦しめられることになります。
孝次郎は、何度もその一線を越えそうになるんですけど、でも踏ん張ります。だから、300万円を作るための闘いは、全然進みません。それでも孝次郎は、次から次へとアイデアを考え出します。そして、そのアイデアがうまく行くようにかなり準備をする。
孝次郎がどんな風に奮闘していくのかは本書を読んでほしいのだけど、ラストもまたなかなか想定外な感じで面白かった。えっ、ここからどうなるわけ?みたいなところから、怒涛のラスト!みたいな展開が良く出来てたなぁ。
孝次郎は、何度も絶体絶命に直面しながらも、本人の努力と、ちょっとだけ天の配剤を味方につけて、なんとか状況を好転させようと奮闘する。その過程を面白く読ませる一冊です。
正直途中、「これヤバくなりそうな話題だなぁ…」という話も出てはきます。ただ、孝次郎自身が「自分の倫理の許す範囲で」行動しているので、想像しているようなヤバさにはなりません。そこは安心して読んでもらって大丈夫です。
板倉俊之「蟻地獄」
増量 日本国憲法を口語訳してみたら(塚田薫)
本書は、まさにタイトル通りの本で、日本国憲法の口語訳(+コラム)です。口語訳、という意味で言えば、実は日本国憲法そのものが口語訳的な発想で書かれたようです。
大日本国憲法からの変更点として挙げられている中に、こんな文章がある。
『⑦言葉遣いをわかりやすくする。「国民主権を決めた憲法なのに、国民が読みにくいものだったら意味ないじゃん!」ってことで、日本国憲法は当時のほかの法律なんかに比べると、かなりわかりやすい口語体で書かれることになった。』
とはいえ、やっぱ難しいですよね、日本国憲法。本書は、左ページが口語体で、右ページに原文が載ってる。もちろん、大体分かるんだけど、言い回しが独特だったり、人生で一度も使ったことがない単語が出てきたりして、やっぱりスッとは入ってこない。だから、こんな風に、現代風に口語訳してもらえると、凄く助かる。
実際本書は、凄く面白かった。日本国憲法には色々書いてあるんだけど、個人的に面白いなと思った部分を抜き出してみる。
『全文 また戦争みたいなひどいことを起こさないって決めて、国の主権は国民にあることを、声を大にしていうぜ。それがこの憲法だ。
そもそも政治っていうのは、俺たちがよぉく考えて選んだ人を政治家として信頼して力を与えているので、本質的には俺たちのものなんだ。あれだ、リンカーンのいった「人民の、人民による、人民のための政治」ってやつ。
この考え方は人類がみんな目標にすべき基本であって、この憲法はそれにしたがうよ。そんで、それに反するようなルールとか命令は、いっさい認めない』
『全文 この理想は俺たちの国だけじゃなくて、ほかのどの国にも通用するもので、一人前の国でいたいと思うなら、これを守ることは各国の義務だよ。わかってる?
俺たちはここにかかげたことを、本気で目指すと誓う。誰に?
俺たちの名誉と世界に!』
『第1条 この国の主権は、国民のものだよ。というわけで一番偉いのは俺たちってこと。天皇は日本のシンボルで、国民がまとまってるってことを示すためのアイコンみたいなものだよ』
『第97条 この憲法が大事にしてる基本的人権っていうのは、世界中の人たちがこれまで何百年もずーっとがんばって考えて、闘って、そして勝ち取った結果だよ。これは俺たちと俺たちのガキ、またそのずっと先のガキまで永久に受け取った、誰にも侵されない超重要な権利なんだ』
『第98条 この憲法は日本で一番偉いルールだから、それに逆らうようなことを国がしたら、全部無視していいよ』
この辺りは、日本国憲法そのものや、国民であるとはどういうことなのかみたいな、日本国憲法というそもそもが大前提的存在の中でもさらに前提となるような部分で、なるほどそういうことを言っているのか、と思った。なんとなくは分かってたけど、でも「俺たちはここにかかげたことを、本気で目指すと誓う。誰に?俺たちの名誉と世界に!」みたいなのはちゃんと分かってなかったなぁ。なかなか凄いこと言ってるね!
また、口語訳の表現として面白い部分も多々あった。一部だけ抜き出してみる。
『第7条 7.偉いことをやった人をほめる(※原文 栄典を授与すること)』
『第14条 3項 いいことをやったヤツはほめるけど、それはお前が偉いってことじゃなくて、お前がいいことをやったからで、自慢していいのはお前だけだよ。子どもとか関係ないからな』
特に第14条は、口語訳にしてみると、「憲法にそんなことも書いてあるんだなぁ」なんてちょっと面白くなってしまった。当時、よっぽどいばってる二世三世がいたんだろうね(笑)
さて、本書は口語訳というライトな感じなんですが、監修者が愛知大学法学部教授・長峯信彦氏(著者のゼミの先生みたいだ)であり、内容はちゃんとしているという。長峯氏のあとがきから引用してみよう。
『(著者がネットで書いたものを読んで)正直いって、ユニークで面白いと思った。
塚田君の独特の感性がよいかたちで出ている。しかし反面、これで出版というのは、いささか粗すぎるとも思った。
ネット上で趣味的に書くのと異なり、本として出版するならば、内容をもっときちんと磨く必要があり、論理と知識を身につける厳しい覚悟が必要ではないかと思った。
一口に憲法の「わかりやすい口語訳」といっても、ただ単にわかりやすい日常の言葉に置き換えさえすればよいのでは決してなくて、細かいところまで深い意味のある憲法の一言一言を、あまたの日常語から適切に選り分けて、的確に訳語を当てていく必要がある』
そうやって慎重に検討した一例も載っている。
『あるいは憲法13条。塚田君の元の口語訳では単に「人」となっていたが、抽象的な「人」一般と、一人一人個性と人格を持った具体的存在としての人間を意味する「個人」とでは意味がかなり異なるので、憲法原文の「個人」という言葉をきちんと口語訳に残すようにした。』
どうだろうか。こんな風に僅かな表現にまで気を配っていると分かれば、ただただ読みやすいというだけではない、易しくしながらも本質を失わせまいとする配慮に溢れた作品だということが分かるだろう。
著者は、日本国憲法を口語訳してみようと思ったきっかけをこんな風に書いている。
『「これこれについて語るときはこうやらなきゃいけませんよ」みたいな不文律(特に決められているわけではないけど、なんとなくみんながそれに従っているルール)が見えたような気がすると、それにちょっかいを出さなきゃ気が済まないんだ。きっかけはイタズラ心だった』
この気持ちは、僕も凄くよく分かる。僕も天邪鬼な人間で、「そうしなければならない」という常識に反したくなる。著者は、中学もロクに行かず、高校は中退、定時制に入り直して、本書の単行本を執筆した時点で24歳の大学生だったという、なかなか回り道をしてきた人のようだ。そういう、決められたレールに乗ってきたわけじゃない来歴も、著者なりの考え方に影響を与えてきたのだろう。しかし、飲み会で憲法について聞かれたことがきっかけで本を出すまでになったというのだから、人生何が起こるか分からない。
本書には憲法にまつわるコラムも載っている。立憲主義という考え方や、人権の概念なんかが歴史的にどう生み出されてきたのかとか、日本国憲法がどんな過程で作られてきたのかなど、憲法そのものの話ももちろん出てくるんだけど、集団的自衛権とか生活保護とか皇室など、憲法に書かれている記述がダイレクトに反映されている事柄についても触れていて面白い。ここでも、例えば皇位の継承権がある「男系の男子」を説明するためにサザエさんを持ち出したりと、分かりやすく説明しようとする工夫は健在だ。
正直、期待していたよりもずっと面白かった。憲法の口語訳に関しては、衆議院やら参議院がどうちゃら、裁判官や内閣がうんちゃらみたいな部分はそこまで面白くなかったりするけど、でも欄外にコメントが付いていたりして、そのコメントが面白かったりする。今まさに憲法改正が論議されようとしていて、そういう報道の過程で改めて「憲法は国民を守るため、権力者を縛るためのもの」という認識が出来た(たぶん学校で習っただろうけど、忘れてた)。確かに日本国憲法を読むと、結構鬱陶しいぐらい「この憲法が一番偉い」「主権は国民にある」って書いてある。でも、憲法改正の議論の報道を見聞きすると、憲法を権力者側の都合の良いように変えたがっているようにも感じられる。本書を読むと、それって憲法の主義主張と違うんじゃねぇの、と思ったりして、色々考えさせられる。
日本国憲法という、僕らの人生の基本中の基本の部分を支えてくれているけどよく知らないでいるものを知るとっかかりになる本だと思います。
塚田薫「増量 日本国憲法を口語訳してみたら」
大日本国憲法からの変更点として挙げられている中に、こんな文章がある。
『⑦言葉遣いをわかりやすくする。「国民主権を決めた憲法なのに、国民が読みにくいものだったら意味ないじゃん!」ってことで、日本国憲法は当時のほかの法律なんかに比べると、かなりわかりやすい口語体で書かれることになった。』
とはいえ、やっぱ難しいですよね、日本国憲法。本書は、左ページが口語体で、右ページに原文が載ってる。もちろん、大体分かるんだけど、言い回しが独特だったり、人生で一度も使ったことがない単語が出てきたりして、やっぱりスッとは入ってこない。だから、こんな風に、現代風に口語訳してもらえると、凄く助かる。
実際本書は、凄く面白かった。日本国憲法には色々書いてあるんだけど、個人的に面白いなと思った部分を抜き出してみる。
『全文 また戦争みたいなひどいことを起こさないって決めて、国の主権は国民にあることを、声を大にしていうぜ。それがこの憲法だ。
そもそも政治っていうのは、俺たちがよぉく考えて選んだ人を政治家として信頼して力を与えているので、本質的には俺たちのものなんだ。あれだ、リンカーンのいった「人民の、人民による、人民のための政治」ってやつ。
この考え方は人類がみんな目標にすべき基本であって、この憲法はそれにしたがうよ。そんで、それに反するようなルールとか命令は、いっさい認めない』
『全文 この理想は俺たちの国だけじゃなくて、ほかのどの国にも通用するもので、一人前の国でいたいと思うなら、これを守ることは各国の義務だよ。わかってる?
俺たちはここにかかげたことを、本気で目指すと誓う。誰に?
俺たちの名誉と世界に!』
『第1条 この国の主権は、国民のものだよ。というわけで一番偉いのは俺たちってこと。天皇は日本のシンボルで、国民がまとまってるってことを示すためのアイコンみたいなものだよ』
『第97条 この憲法が大事にしてる基本的人権っていうのは、世界中の人たちがこれまで何百年もずーっとがんばって考えて、闘って、そして勝ち取った結果だよ。これは俺たちと俺たちのガキ、またそのずっと先のガキまで永久に受け取った、誰にも侵されない超重要な権利なんだ』
『第98条 この憲法は日本で一番偉いルールだから、それに逆らうようなことを国がしたら、全部無視していいよ』
この辺りは、日本国憲法そのものや、国民であるとはどういうことなのかみたいな、日本国憲法というそもそもが大前提的存在の中でもさらに前提となるような部分で、なるほどそういうことを言っているのか、と思った。なんとなくは分かってたけど、でも「俺たちはここにかかげたことを、本気で目指すと誓う。誰に?俺たちの名誉と世界に!」みたいなのはちゃんと分かってなかったなぁ。なかなか凄いこと言ってるね!
また、口語訳の表現として面白い部分も多々あった。一部だけ抜き出してみる。
『第7条 7.偉いことをやった人をほめる(※原文 栄典を授与すること)』
『第14条 3項 いいことをやったヤツはほめるけど、それはお前が偉いってことじゃなくて、お前がいいことをやったからで、自慢していいのはお前だけだよ。子どもとか関係ないからな』
特に第14条は、口語訳にしてみると、「憲法にそんなことも書いてあるんだなぁ」なんてちょっと面白くなってしまった。当時、よっぽどいばってる二世三世がいたんだろうね(笑)
さて、本書は口語訳というライトな感じなんですが、監修者が愛知大学法学部教授・長峯信彦氏(著者のゼミの先生みたいだ)であり、内容はちゃんとしているという。長峯氏のあとがきから引用してみよう。
『(著者がネットで書いたものを読んで)正直いって、ユニークで面白いと思った。
塚田君の独特の感性がよいかたちで出ている。しかし反面、これで出版というのは、いささか粗すぎるとも思った。
ネット上で趣味的に書くのと異なり、本として出版するならば、内容をもっときちんと磨く必要があり、論理と知識を身につける厳しい覚悟が必要ではないかと思った。
一口に憲法の「わかりやすい口語訳」といっても、ただ単にわかりやすい日常の言葉に置き換えさえすればよいのでは決してなくて、細かいところまで深い意味のある憲法の一言一言を、あまたの日常語から適切に選り分けて、的確に訳語を当てていく必要がある』
そうやって慎重に検討した一例も載っている。
『あるいは憲法13条。塚田君の元の口語訳では単に「人」となっていたが、抽象的な「人」一般と、一人一人個性と人格を持った具体的存在としての人間を意味する「個人」とでは意味がかなり異なるので、憲法原文の「個人」という言葉をきちんと口語訳に残すようにした。』
どうだろうか。こんな風に僅かな表現にまで気を配っていると分かれば、ただただ読みやすいというだけではない、易しくしながらも本質を失わせまいとする配慮に溢れた作品だということが分かるだろう。
著者は、日本国憲法を口語訳してみようと思ったきっかけをこんな風に書いている。
『「これこれについて語るときはこうやらなきゃいけませんよ」みたいな不文律(特に決められているわけではないけど、なんとなくみんながそれに従っているルール)が見えたような気がすると、それにちょっかいを出さなきゃ気が済まないんだ。きっかけはイタズラ心だった』
この気持ちは、僕も凄くよく分かる。僕も天邪鬼な人間で、「そうしなければならない」という常識に反したくなる。著者は、中学もロクに行かず、高校は中退、定時制に入り直して、本書の単行本を執筆した時点で24歳の大学生だったという、なかなか回り道をしてきた人のようだ。そういう、決められたレールに乗ってきたわけじゃない来歴も、著者なりの考え方に影響を与えてきたのだろう。しかし、飲み会で憲法について聞かれたことがきっかけで本を出すまでになったというのだから、人生何が起こるか分からない。
本書には憲法にまつわるコラムも載っている。立憲主義という考え方や、人権の概念なんかが歴史的にどう生み出されてきたのかとか、日本国憲法がどんな過程で作られてきたのかなど、憲法そのものの話ももちろん出てくるんだけど、集団的自衛権とか生活保護とか皇室など、憲法に書かれている記述がダイレクトに反映されている事柄についても触れていて面白い。ここでも、例えば皇位の継承権がある「男系の男子」を説明するためにサザエさんを持ち出したりと、分かりやすく説明しようとする工夫は健在だ。
正直、期待していたよりもずっと面白かった。憲法の口語訳に関しては、衆議院やら参議院がどうちゃら、裁判官や内閣がうんちゃらみたいな部分はそこまで面白くなかったりするけど、でも欄外にコメントが付いていたりして、そのコメントが面白かったりする。今まさに憲法改正が論議されようとしていて、そういう報道の過程で改めて「憲法は国民を守るため、権力者を縛るためのもの」という認識が出来た(たぶん学校で習っただろうけど、忘れてた)。確かに日本国憲法を読むと、結構鬱陶しいぐらい「この憲法が一番偉い」「主権は国民にある」って書いてある。でも、憲法改正の議論の報道を見聞きすると、憲法を権力者側の都合の良いように変えたがっているようにも感じられる。本書を読むと、それって憲法の主義主張と違うんじゃねぇの、と思ったりして、色々考えさせられる。
日本国憲法という、僕らの人生の基本中の基本の部分を支えてくれているけどよく知らないでいるものを知るとっかかりになる本だと思います。
塚田薫「増量 日本国憲法を口語訳してみたら」
老後破産 長寿という悪夢(NHKスペシャル取材班)
『「私には夢があるんです」
取材で訪れたある日、菊池さんは唐突にこう言った。
「それはね、また外に出て散歩したり、買い物したりすることなんですよ」』
『「いつか外出する時のために、買ってあるものがあるんですよ」
(中略)
その箱を開けると、中には新しい靴が入っていた。リウマチの足を傷めないように、布製のやわらかそうな真っ白な靴だった。2ヶ月ほど前に500円ぐらいで買ったという靴には、白い布地にピンク色のラインが入っている。
(中略)
「買った時は大丈夫だったのよ。履けるはずなの…よし、もう1回」
この2ヶ月で症状が悪化し、ひどくむくんだ足は明らかに靴のサイズを超えていた。
「駄目ですね…情けない。涙が出ちゃうよ」
履けなかった靴は、箱の中に戻された。その箱をマジックハンドを使って、机の下に押しやった後、奥へ奥へと押し込んだ。箱の存在を忘れてしまいたいと思っているのか、マジックハンドでも届かないところまで押し込むと、ほうっとため息をついた。靴を取り出した時の笑顔はもうなかった』
正直、お年寄りの人たちは“裕福”なんだろうと思っていた。確かに、そういうお年寄りもいるだろう。持ち家があり、年金も比較的多くもらっていて、貯蓄もしっかりしていて、とりあえず老後の生活に不自由を感じていない、という人も、もちろんいるのだと思う。
しかし、あくまでもそれは、一部のことでしかなかったのだということを本書を読んで理解した。もちろん、老後の生活が苦しいと感じている人がいるだろうとは思っていた。しかしそれは、年金をちゃんと払っていなかったり、色々あって借金をしてしまったりと、どこか本人のそれまでの人生に何らかのミスや不具合があったからなんだろう、と思っていたのだ。
しかし、どうやらそうではないようだ。
『多くの人たちは十数万円の年金をもらっていれば、それほど大変な事態に直面するとは思ってもいないだろう。しかし、十数万円の年金に加えて自宅を保有していて、ある程度の預貯金がある人でも、ジワジワと追いつめられ、「老後破産」に陥ってしまうケースが少なくないことが取材で分かってきたのだ。
「こんな老後を予想できなかった」
私たちが取材した多くの高齢者は、「老後破産」に陥ってしまうことなど、あり得ないと思って暮らしてきた人たちだ。サラリーマン、農家、自営業…それぞれ老後に備えてきたつもりの人たちが「まさか自分が『老後破産』するなんて」と呆然と話していた』
実に意外なことだが、家があって年金もちゃんともらえてある程度貯蓄があっても「老後破産」の可能性があり得るのだ。本書を読めば、その背景で何が起こっているのかが理解できる。
一つ大きな要因は、一人暮らしの高齢者が増えたことだ。
『ひとり暮らしの高齢者が600万人に迫る中、年収が生活ほど水準を下回る人はおよそ半数。このうち生活保護を受けている人は70万人。残る人たちの中には預貯金など十分な蓄えがある人もいるが、それを除くと、ざっと200万人余のひとり暮らしの高齢者は生活保護を受けずに年金だけでギリギリの生活を続けているが、病気になったり介護が必要になったりすると、とたんに生活は破綻してしまう―。』
かつては、三世代同居みたいな生活形態が当たり前だった。だからこそ、年金だけで生活が成り立っていたのだ。しかし現在は、年金をベースにしてひとり暮らしを成り立たせなくてはならない。本書の中には様々なお年寄りが登場するが、家賃などすべて込みで月8万円程度で生活しなければならない人が大半で(中には、農業を行いながらではあるが月3万円弱でやりくりしなければならない人も登場する)、正直それは現実的な生活スタイルではない。
じゃあ生活保護を受ければいい、という話になるのだが、これもまた難しい。そもそも、「年金をもらっていても生活保護ももらえる」ということが知られていない。年金をもらっていても、生活保護費との差額をもらうことが出来るのだ。しかし、その知識があっても、まだ難関はある。生活保護を受給するためには、預金や家などの資産を手放さなければならないのだが、ここに大きな抵抗があるのだ。
例えば、妻の葬儀を盛大にやりたいからと、100万円の預金に手をつけないでいる男性が登場する。この男性は、かなり困窮した生活をしているが、預金が100万円あるので生活保護を受けることが出来ない。
また、高齢者の中には、『本当に財産がゼロになっても、生活保護を受ければ暮らしていけるのか』という不安があり、それ故に預金を手放せないでいる人も多い。預金をゼロにしたところで、生活保護をもし万が一受けられなければ、その時点でアウトだ。そうなることを恐れているからこそ、預金は手放せない。
また、古くからの思い出があるため家を手放したくないという人もいる。そういう人も、生活が困窮していても生活保護を受給出来ない(とはいえ最近では、柔軟な運用がなされるようになってきているようだ)。
しかし、まだ問題はある。
『実際、「迷惑をかけるくらいなら死んだ方がマシ」だと考える高齢者は少なくない』
お年寄りの多くは、税金(生活保護)をもらってまで生きるくらいなら死んだ方がマシと感じてしまうのだ。分からなくもないような気がする。
『言い方を換えると、生活保護を受けずに自分の力で生きていきたいと頑張っている高齢者の多くたちには、安心した老後は手に入らないのだ』
現状の仕組みでは、どうやらこれが限界であるようだ。
『私たち取材スタッフの中で何度も議論したのが、「老後破産」に追いつめられていく高齢者が異口同音に発する「死にたい」という言葉だ。同じ立場に立たされた視聴者からの反響も、この言葉に触れているものが多かった。
一生懸命働けば、悠々自適の老後が待っているはずではなかったのか―そう憤っていた人もいた。
「死ぬこともひとりでは、できない」―そう言って涙を流したお年寄りもいた。
番組のポスターには「長寿という悪夢」というキャッチコピーがあった。
その言葉を見ながら、「死にたい」とつぶやいていた何人ものお年寄りの顔が浮かんでは消えた。「老後破産」に追いつめられていく日々は、まさに生き地獄であり、「長寿という悪夢」を呪っていたのではなかろうか』
本書を読みながら、僕も感じていた。こんな生活は、まさに地獄だろうな、と。お金がないが故に友人もいなくなり、お金がないから病院にも行けず、体調が悪化しても家で寝ているしかない。介護サービスもお金が掛かるから最小限度までしか頼めず、かなりの介護を必要とする人でも1日1時間程度のサービスを受ける以上のことは出来ない。散歩や買い物や釣りをまたやりたい、ということを「夢」として語り、翌朝目を覚ました時「まだ死んでなかった」とホッとする日々。
『頭痛薬を飲んで眠り込んでしまった田代さんの丸めた背中を見ながら、ふと考えた。自分だったら、この状況に耐えられるだろうか…』
取材スタッフの一人がそう感じるのも、むべなるかなという感じだ。
本書には、救命救急センターも取材している。そこの医師が言っていたことも印象的だった。
『「正直、私たちが命を救ったとしても患者を誰も引き受けてくれる人がいない場合…」
三宅医師は、そこで息をのんだ。言葉を選んでいるのか、少し間があった後、再び口を開いた。
「命を助けたとしても、本当にその人のためになるのか、悩むことも少なくないんです」』
僕だったら思っちゃうだろうなぁ。そのまま殺してくれ、って。
僕は、ずっと「長生きなんかしたくない」と言っている。最近払い始めたけど、年金も15年ぐらい払ってなかったし、そもそも長く生きることに元から関心はない。足腰が丈夫で、困窮しない程度のお金があるなら、まあ別に長生きしてもいいかもしれないけど、そうである可能性は低いことは当然分かっていたから、今も長生きしたくないと思っている。出来れば、早く死にたい。
その思いは本書を読んでより強くなったのだけど、世の中の多くの人はどうなのだろう?僕は、正直自分の周りで、長生きしたいという人の意見をあまり聞くことがない。僕らの世代(僕は今30代半ば)だと、そういう感覚があって当たり前だよなぁ、と思う。老後の生活が成り立つのって、もはやかなりのラッキーが積み上がらないと無理だろうと思う。特に、これから人口も減り、経済も衰退していくだろう日本においてはそうだろう。明るい見通しを立てられるような要素がない。
僕らからすれば、まだ恵まれた時代を生きてきた今のお年寄りが、これほど生活に困窮してしまう社会なのだ。僕らが年寄りになる頃なんて、もっと酷いだろう。本書を読めばある程度実感できてしまうだろうが、現在起こっている事態は、もはや個人のレベルで対処出来るようなものではない。仕組みや構造からガラリと変えていかないと、とてもじゃないけど無理だろう。もちろん、個人の努力によって勝ち抜け出来る人も、ごく僅かにいるだろう。しかし、自分がその僅かなところに入れるとは思わない方がいいだろうと思う。たぶん僕たちは、ある種「積極的な諦め」みたいなものをもって老後に望まなければならないのだろうと思う。
だからこそ僕は、安楽死の議論がもっとなされるべきだと思っている。自分で自分の死を決める権利は、本書に登場するお年寄りのような現状を知ってしまえば、余計に切実に必要とされているのではないかと思うのだ。
家族の繋がりがあっても、状況が好転するわけでもない。むしろ、家族の存在が足かせになるケースも増えてきているというのだ。
『本当のことを言うと、完全に孤立無援の人の方が私怨はしやすいと思うようなことも多々あるんですよ。中途半端に親族の関わりがあると、同意を得たりするにも意見の隔たりがあって、前に進まないことも少なくないんです』
少なくとも僕にとっては、老後はまだまだ未来の話だ。しかし、まさに今老後を生きている人たちの悲惨な現状を知ることで、僕らにとっての老後がより悲惨だと想像出来てしまう。僕らは、そんな未来を受け入れながら、現在を生きていかなければならない。その覚悟を持つためにも、本書は読んでおかなければならない一冊だと思う。
NHKスペシャル取材班「老後破産 長寿という悪夢」
取材で訪れたある日、菊池さんは唐突にこう言った。
「それはね、また外に出て散歩したり、買い物したりすることなんですよ」』
『「いつか外出する時のために、買ってあるものがあるんですよ」
(中略)
その箱を開けると、中には新しい靴が入っていた。リウマチの足を傷めないように、布製のやわらかそうな真っ白な靴だった。2ヶ月ほど前に500円ぐらいで買ったという靴には、白い布地にピンク色のラインが入っている。
(中略)
「買った時は大丈夫だったのよ。履けるはずなの…よし、もう1回」
この2ヶ月で症状が悪化し、ひどくむくんだ足は明らかに靴のサイズを超えていた。
「駄目ですね…情けない。涙が出ちゃうよ」
履けなかった靴は、箱の中に戻された。その箱をマジックハンドを使って、机の下に押しやった後、奥へ奥へと押し込んだ。箱の存在を忘れてしまいたいと思っているのか、マジックハンドでも届かないところまで押し込むと、ほうっとため息をついた。靴を取り出した時の笑顔はもうなかった』
正直、お年寄りの人たちは“裕福”なんだろうと思っていた。確かに、そういうお年寄りもいるだろう。持ち家があり、年金も比較的多くもらっていて、貯蓄もしっかりしていて、とりあえず老後の生活に不自由を感じていない、という人も、もちろんいるのだと思う。
しかし、あくまでもそれは、一部のことでしかなかったのだということを本書を読んで理解した。もちろん、老後の生活が苦しいと感じている人がいるだろうとは思っていた。しかしそれは、年金をちゃんと払っていなかったり、色々あって借金をしてしまったりと、どこか本人のそれまでの人生に何らかのミスや不具合があったからなんだろう、と思っていたのだ。
しかし、どうやらそうではないようだ。
『多くの人たちは十数万円の年金をもらっていれば、それほど大変な事態に直面するとは思ってもいないだろう。しかし、十数万円の年金に加えて自宅を保有していて、ある程度の預貯金がある人でも、ジワジワと追いつめられ、「老後破産」に陥ってしまうケースが少なくないことが取材で分かってきたのだ。
「こんな老後を予想できなかった」
私たちが取材した多くの高齢者は、「老後破産」に陥ってしまうことなど、あり得ないと思って暮らしてきた人たちだ。サラリーマン、農家、自営業…それぞれ老後に備えてきたつもりの人たちが「まさか自分が『老後破産』するなんて」と呆然と話していた』
実に意外なことだが、家があって年金もちゃんともらえてある程度貯蓄があっても「老後破産」の可能性があり得るのだ。本書を読めば、その背景で何が起こっているのかが理解できる。
一つ大きな要因は、一人暮らしの高齢者が増えたことだ。
『ひとり暮らしの高齢者が600万人に迫る中、年収が生活ほど水準を下回る人はおよそ半数。このうち生活保護を受けている人は70万人。残る人たちの中には預貯金など十分な蓄えがある人もいるが、それを除くと、ざっと200万人余のひとり暮らしの高齢者は生活保護を受けずに年金だけでギリギリの生活を続けているが、病気になったり介護が必要になったりすると、とたんに生活は破綻してしまう―。』
かつては、三世代同居みたいな生活形態が当たり前だった。だからこそ、年金だけで生活が成り立っていたのだ。しかし現在は、年金をベースにしてひとり暮らしを成り立たせなくてはならない。本書の中には様々なお年寄りが登場するが、家賃などすべて込みで月8万円程度で生活しなければならない人が大半で(中には、農業を行いながらではあるが月3万円弱でやりくりしなければならない人も登場する)、正直それは現実的な生活スタイルではない。
じゃあ生活保護を受ければいい、という話になるのだが、これもまた難しい。そもそも、「年金をもらっていても生活保護ももらえる」ということが知られていない。年金をもらっていても、生活保護費との差額をもらうことが出来るのだ。しかし、その知識があっても、まだ難関はある。生活保護を受給するためには、預金や家などの資産を手放さなければならないのだが、ここに大きな抵抗があるのだ。
例えば、妻の葬儀を盛大にやりたいからと、100万円の預金に手をつけないでいる男性が登場する。この男性は、かなり困窮した生活をしているが、預金が100万円あるので生活保護を受けることが出来ない。
また、高齢者の中には、『本当に財産がゼロになっても、生活保護を受ければ暮らしていけるのか』という不安があり、それ故に預金を手放せないでいる人も多い。預金をゼロにしたところで、生活保護をもし万が一受けられなければ、その時点でアウトだ。そうなることを恐れているからこそ、預金は手放せない。
また、古くからの思い出があるため家を手放したくないという人もいる。そういう人も、生活が困窮していても生活保護を受給出来ない(とはいえ最近では、柔軟な運用がなされるようになってきているようだ)。
しかし、まだ問題はある。
『実際、「迷惑をかけるくらいなら死んだ方がマシ」だと考える高齢者は少なくない』
お年寄りの多くは、税金(生活保護)をもらってまで生きるくらいなら死んだ方がマシと感じてしまうのだ。分からなくもないような気がする。
『言い方を換えると、生活保護を受けずに自分の力で生きていきたいと頑張っている高齢者の多くたちには、安心した老後は手に入らないのだ』
現状の仕組みでは、どうやらこれが限界であるようだ。
『私たち取材スタッフの中で何度も議論したのが、「老後破産」に追いつめられていく高齢者が異口同音に発する「死にたい」という言葉だ。同じ立場に立たされた視聴者からの反響も、この言葉に触れているものが多かった。
一生懸命働けば、悠々自適の老後が待っているはずではなかったのか―そう憤っていた人もいた。
「死ぬこともひとりでは、できない」―そう言って涙を流したお年寄りもいた。
番組のポスターには「長寿という悪夢」というキャッチコピーがあった。
その言葉を見ながら、「死にたい」とつぶやいていた何人ものお年寄りの顔が浮かんでは消えた。「老後破産」に追いつめられていく日々は、まさに生き地獄であり、「長寿という悪夢」を呪っていたのではなかろうか』
本書を読みながら、僕も感じていた。こんな生活は、まさに地獄だろうな、と。お金がないが故に友人もいなくなり、お金がないから病院にも行けず、体調が悪化しても家で寝ているしかない。介護サービスもお金が掛かるから最小限度までしか頼めず、かなりの介護を必要とする人でも1日1時間程度のサービスを受ける以上のことは出来ない。散歩や買い物や釣りをまたやりたい、ということを「夢」として語り、翌朝目を覚ました時「まだ死んでなかった」とホッとする日々。
『頭痛薬を飲んで眠り込んでしまった田代さんの丸めた背中を見ながら、ふと考えた。自分だったら、この状況に耐えられるだろうか…』
取材スタッフの一人がそう感じるのも、むべなるかなという感じだ。
本書には、救命救急センターも取材している。そこの医師が言っていたことも印象的だった。
『「正直、私たちが命を救ったとしても患者を誰も引き受けてくれる人がいない場合…」
三宅医師は、そこで息をのんだ。言葉を選んでいるのか、少し間があった後、再び口を開いた。
「命を助けたとしても、本当にその人のためになるのか、悩むことも少なくないんです」』
僕だったら思っちゃうだろうなぁ。そのまま殺してくれ、って。
僕は、ずっと「長生きなんかしたくない」と言っている。最近払い始めたけど、年金も15年ぐらい払ってなかったし、そもそも長く生きることに元から関心はない。足腰が丈夫で、困窮しない程度のお金があるなら、まあ別に長生きしてもいいかもしれないけど、そうである可能性は低いことは当然分かっていたから、今も長生きしたくないと思っている。出来れば、早く死にたい。
その思いは本書を読んでより強くなったのだけど、世の中の多くの人はどうなのだろう?僕は、正直自分の周りで、長生きしたいという人の意見をあまり聞くことがない。僕らの世代(僕は今30代半ば)だと、そういう感覚があって当たり前だよなぁ、と思う。老後の生活が成り立つのって、もはやかなりのラッキーが積み上がらないと無理だろうと思う。特に、これから人口も減り、経済も衰退していくだろう日本においてはそうだろう。明るい見通しを立てられるような要素がない。
僕らからすれば、まだ恵まれた時代を生きてきた今のお年寄りが、これほど生活に困窮してしまう社会なのだ。僕らが年寄りになる頃なんて、もっと酷いだろう。本書を読めばある程度実感できてしまうだろうが、現在起こっている事態は、もはや個人のレベルで対処出来るようなものではない。仕組みや構造からガラリと変えていかないと、とてもじゃないけど無理だろう。もちろん、個人の努力によって勝ち抜け出来る人も、ごく僅かにいるだろう。しかし、自分がその僅かなところに入れるとは思わない方がいいだろうと思う。たぶん僕たちは、ある種「積極的な諦め」みたいなものをもって老後に望まなければならないのだろうと思う。
だからこそ僕は、安楽死の議論がもっとなされるべきだと思っている。自分で自分の死を決める権利は、本書に登場するお年寄りのような現状を知ってしまえば、余計に切実に必要とされているのではないかと思うのだ。
家族の繋がりがあっても、状況が好転するわけでもない。むしろ、家族の存在が足かせになるケースも増えてきているというのだ。
『本当のことを言うと、完全に孤立無援の人の方が私怨はしやすいと思うようなことも多々あるんですよ。中途半端に親族の関わりがあると、同意を得たりするにも意見の隔たりがあって、前に進まないことも少なくないんです』
少なくとも僕にとっては、老後はまだまだ未来の話だ。しかし、まさに今老後を生きている人たちの悲惨な現状を知ることで、僕らにとっての老後がより悲惨だと想像出来てしまう。僕らは、そんな未来を受け入れながら、現在を生きていかなければならない。その覚悟を持つためにも、本書は読んでおかなければならない一冊だと思う。
NHKスペシャル取材班「老後破産 長寿という悪夢」
残穢(小野不由美)
比較的、「科学」が好きだ。「科学」というものを信じている。
そう書くと、じゃあ超常現象や怪奇現象の類は信じないのだろう、と思われるかもしれないが、その辺り、スパッと話すことが出来ないので、ダラダラ書いてみようと思う。
まず、整理しよう。「科学を信じているから超常現象や怪奇現象を信じない」という主張はつまり、「科学で捉えきれないものは信じない」と言っているのと同じことだ。
しかし、僕にはそういう感覚はない。これには二つの方向から説明が出来る。
一つは、科学には限界がある、ということだ。
例えば物理学に、量子論という分野がある。非常に小さな物質(原子など)に関わる理論なのだが、この量子論は、僕らの日常の感覚からは到底外れた話ばかりが出てくる。
例えば量子論は、「光というのは、波でもあり粒子でもある」と主張する。いや、そんな風に主張したいわけではない。ただ、世界中の物理学者が繰り返し何度も行った実験を解釈しようとすると、そう捉えざるを得ないような実験結果が存在するのだ。
「光は波でも粒子でもある」という状態をイメージ出来る物理学者は一人もいない。つまり誰もが、何を言っているのか自分でも分からないような世界の描像を受け入れなければならないのだ。
もちろん、本当に世界はそうなっているのだ、という可能性もある。この世界には、「光は波でも粒子でもある」という性質があって、たまたまそれが僕らの感覚とズレるだけなのだ、と。しかし一方で、これは僕らがまだ世界をきちんと捉えきれていない、ということでもあり得る。本当はもっと正しい捉え方があるのだけど、現在の物理学では、「光は波でも粒子でもある」と解釈するのが限界だ、という可能性だ。
そしてこういう話は、科学の様々な場所に偏在している。科学という物の見方は素晴らしい成果を上げてきたけど、しかしだからと言って科学という物の見方が完璧なわけでもない。科学では未だに捉えきれない状況はいくらでもある。
それらは、今後科学が発展しさえすれば、科学という物の見方を通じて理解できることかもしれない。しかし同時に、今立ち止まっている場所が科学の限界で、それより先は見ることが出来ないということが分かるかもしれない。
そういう、僕たちが感知することが出来ないでいる場所で、いわゆる超常現象や怪奇現象の類が発生しているとすれば、それは安易に否定するものではないと思う。
もう一つは、再現性に関してだ。科学という学問分野には、「再現性」と「反証可能性」の二種類があると言われている。この両方が満たされていなければ科学ではない、ということだ。「反証可能性」についてはここでは説明しないが、「再現性」というのは、別の場所で別の人が同じことをやれば同じ結果が得られる、というものだ。
そして科学という物の見方は、要するに、「再現性のある現象しか捉えられない」ということなのだ。というか、「再現性のある現象を捉えるツールを科学と呼んでいる」と表現する方が分かりやすいかもしれない。
問題は、この世の中で起こっているすべての事柄に「再現性」があるのか、ということだ。そこに「再現性」があるならば、科学というツールで捉えることが出来る。しかし、「再現性」のない現象というものも、あってもおかしくはないだろう。その場合、科学では捉えることが出来ない、ということになる。
「再現性」のない現象が存在する、という前提を受け入れれば、科学で捉えきれないからと言って、超常現象や怪奇現象を否定するということにはならないはずだ。
こんな理由から僕は、超常現象や怪奇現象を真っ向から否定するつもりはない。
とはいえ、基本的な感覚からすれば、超常現象や怪奇現象などは存在しないだろうと思っている。決して頭ごなしに否定するつもりもないが、かといって積極的に信じるつもりもない。というかむしろ、積極的に疑いを抱いている。
これが僕のスタンスだ。
そういう僕のスタンスからすると、本書は非常に好ましい作品に感じられた。例えば本書には、こんな文章がある。
『幽霊も祟りも信じていない。なのに「縁起でもない」という言葉には心が揺れる。合理的説明のつかない「何か」が、現象と現象を結び付ける―そういうことなら、あるような気がする、理屈ではなくそう感じているようだ。しかもこれは自分だけに限ったことではないらしい。私の周囲には私と同様の合理主義者が多いが、それでも「ついている」「ついていない」「縁がある」「縁がなかった」などという言葉はしばしば耳にする。夫は私以上に心霊現象完全否定論者だが、麻雀に関してだけは、「運」や「流れ」などという非合理的な言葉を大真面目に口にする』
『そうですね、と久保さんは答えたが、それでも割り切れないようだった。割り切れない気持ちは私にも分かる。久保さんを説得しながら、私自身、実は割り切れてなどいなかった。ただ、骨身に染み付いた懐疑主義が「これには何か意味がある」という結論に飛び付くことを嫌っただけだ。意味があるように見えるからこそ、あえて制動がかかる。制動のために理屈を探し出したのだ』
本書の主人公は、物事を合理的に、理性的に捉えようとする。ホラー小説をそこまで読まないから比較は出来ないが、しかしイメージとしては、ホラー小説は幽霊や祟りを積極的に信じる人間がたくさん登場するからこそ成り立つのだと思う。しかし本書は真逆だ。本書に、怪異的なものを積極的に信じようとする人間はほぼ出てこない。そこが個人的には、非常に好感が持てると感じる部分だ。
怪異など存在しない―そう決めつけるのもよくはないが、存在すると盲信してしまうのもまた困ったものだ。少なくとも僕の捉え方でいえば、怪異が存在するとすれば、現在の科学では捉えきれないものである。であれば、捉えなくてもよいのではないか―僕はそんな風に思ってしまう。
内容に入ろうと思います。
小説家である「私」(読み進めると、小野不由美本人を造型していることが分かる)は、とある事情から読者から時々怖い話が書かれた手紙が届く。かつてある文庫レーベルで仕事をしていたが、その文庫レーベルは「あとがき」を書くことが義務だった。そこで私は、怖い話を知っていたら教えて欲しい、と書いたのだ。作品自体はまだ生き残っているが、その「あとがき」が載ったバージョンは既に手に入るようなものではないのだが、それでも現在に至るまで、時々怖い話が送られてくる。
その手紙も、そんな経緯で届いた。送り主は久保さんとしておく。30代の女性で、編集プロダクションで働いているという。その久保さんが、自分の住んでいるマンションの部屋から妙な音がするのだと手紙をくれた。その音は、「疲れた女性が箒を力なく掃いている」ような音だという。
久保さんからの話を聞いて、私はある違和感を覚えた。どこかで聞いたような話に思えたのだ。
私は今引っ越しを考えていて、そのために本やら荷物やらを整理している。かつて送ってもらった怖い話の束も整理すべく引っ張り出してきたのだが、その中に、久保さんとほぼ同じ住所(部屋番号だけが違う)送り主のものを見つけた。仮に屋嶋と呼ぶことにする。屋嶋さんは1児の母であるが、その子どもが部屋にいる時に、何もない虚空を見つめていることがあるという。ある時何を見ているのか聞くと、たどたどしい言葉で「ぶらんこ」と答えたという。娘の目には、そこに何かがぶら下がっているのが見えるのだという。
同じマンション(後に岡谷マンションと呼ぶことに決めるのだが)で、多少違いはあるものの奇妙な現象が起こっている。私は久保さんと、主にホラー映画などの雑談をよくしており、その合間合間に久保さんから、謎の音に関する近況の報告がある、という感じだった。いよいよ本腰を入れて調べてみよう、ということになり、岡谷マンションの現在の住人や過去住んでいた者、あるいは同じ土地の過去の出来事などを調べていくが、次々と、関わりがありそうな出来事が見つかる。しかし、関わりがありそう、というだけで、はっきりと関連づいているわけではない。岡谷マンションのある部屋は住人が居着かないとか、岡谷マンションを出て別のアパートに移った男が自殺してしまった、などという話が色々と出て来る。掘っても掘っても、震源地らしきものが見えてこない。やはりこれらは怪異などではなく、ただの偶然が連鎖しているだけのことなのか…。
というような話です。
この作品、小説を読む前に映画を見ていました。映画を見たのはちょっと前なので正確には覚えていませんが、概ね原作通りだと感じました。
本書はまず、ノンフィクション風に描かれている点が非常に面白い。実話怪談的な雰囲気を出すためなのだろうけど、良い効果を生んでいると思う。平山夢明や福澤徹三など、実在する小説家も登場するし、「私」である小野不由美自身の話(もちろん僕にはその真偽は判断出来ないけど)もかなり盛り込まれていて、現実に著者がこういう調査に関わったかのような雰囲気が見事に作り出されている。小説なんだと頭では分かっていても、ふとどこかで、これが実際にあった出来事を事実として描いている作品だ、というような気もしてきて面白い。
また、描かれている内容も、実際にありそうなことに「抑えられていて」、それもまた本書のリアルさを増している。あまりホラー小説は読まないが、イメージは、幽霊的なやつがバーンって出てきたり、ポルターガイスト現象的なのが起こったり、呪われた体がヤバイことになったりするような気がしている。しかし本書の場合は、怪異と言えば怪異だし、そうじゃないと言えばそうじゃないと言えるような、そういうどっちつかずの現象が延々と積み重なっていく。そのことをどう評価するかは、人それぞれ様々だと思う。物足りない、と感じる読者もいるだろう。しかし僕は、はっきりと霊的な存在を打ち出すわけではなく、そう捉えようと思えば捉えられる程度の現象に「抑えている」からこそ、本書のような独特の怖さがにじみ出るのだと思っている。
とはいえ、ちょっと退屈であることも確かだ。登場人物たちがやっていることは、結局のところ「過去を掘り返していく」というだけだ。どんな風に過去を知る人物にたどり着いたのかなど、リアルさを保つために様々に工夫しているなと感じるが、やっていることは、過去を調べ、誰かに話を聞くということの繰り返しだ。どうしても単調にならざるを得ない部分はあるし、作中に登場する人物もかなりの人数になるので把握するのも難しい。そういう意味で、本書のような叙述スタイルを採ったのには、一長一短あると感じはする。
本書は、ホラー小説的な怖さではなく、作品の叙述スタイルや現象の描き方的に、「実際にあってもおかしくなさそう」と感じさせる点が怖いのだと思う。本書の長い長い調査の発端となるのは、ほんの些細な出来事だ。僕らが住んでいる家でも、実は同じようなことが起こるかもしれない―絶対にないとは、誰にも言い切れないだろう。
小野不由美「残穢」
そう書くと、じゃあ超常現象や怪奇現象の類は信じないのだろう、と思われるかもしれないが、その辺り、スパッと話すことが出来ないので、ダラダラ書いてみようと思う。
まず、整理しよう。「科学を信じているから超常現象や怪奇現象を信じない」という主張はつまり、「科学で捉えきれないものは信じない」と言っているのと同じことだ。
しかし、僕にはそういう感覚はない。これには二つの方向から説明が出来る。
一つは、科学には限界がある、ということだ。
例えば物理学に、量子論という分野がある。非常に小さな物質(原子など)に関わる理論なのだが、この量子論は、僕らの日常の感覚からは到底外れた話ばかりが出てくる。
例えば量子論は、「光というのは、波でもあり粒子でもある」と主張する。いや、そんな風に主張したいわけではない。ただ、世界中の物理学者が繰り返し何度も行った実験を解釈しようとすると、そう捉えざるを得ないような実験結果が存在するのだ。
「光は波でも粒子でもある」という状態をイメージ出来る物理学者は一人もいない。つまり誰もが、何を言っているのか自分でも分からないような世界の描像を受け入れなければならないのだ。
もちろん、本当に世界はそうなっているのだ、という可能性もある。この世界には、「光は波でも粒子でもある」という性質があって、たまたまそれが僕らの感覚とズレるだけなのだ、と。しかし一方で、これは僕らがまだ世界をきちんと捉えきれていない、ということでもあり得る。本当はもっと正しい捉え方があるのだけど、現在の物理学では、「光は波でも粒子でもある」と解釈するのが限界だ、という可能性だ。
そしてこういう話は、科学の様々な場所に偏在している。科学という物の見方は素晴らしい成果を上げてきたけど、しかしだからと言って科学という物の見方が完璧なわけでもない。科学では未だに捉えきれない状況はいくらでもある。
それらは、今後科学が発展しさえすれば、科学という物の見方を通じて理解できることかもしれない。しかし同時に、今立ち止まっている場所が科学の限界で、それより先は見ることが出来ないということが分かるかもしれない。
そういう、僕たちが感知することが出来ないでいる場所で、いわゆる超常現象や怪奇現象の類が発生しているとすれば、それは安易に否定するものではないと思う。
もう一つは、再現性に関してだ。科学という学問分野には、「再現性」と「反証可能性」の二種類があると言われている。この両方が満たされていなければ科学ではない、ということだ。「反証可能性」についてはここでは説明しないが、「再現性」というのは、別の場所で別の人が同じことをやれば同じ結果が得られる、というものだ。
そして科学という物の見方は、要するに、「再現性のある現象しか捉えられない」ということなのだ。というか、「再現性のある現象を捉えるツールを科学と呼んでいる」と表現する方が分かりやすいかもしれない。
問題は、この世の中で起こっているすべての事柄に「再現性」があるのか、ということだ。そこに「再現性」があるならば、科学というツールで捉えることが出来る。しかし、「再現性」のない現象というものも、あってもおかしくはないだろう。その場合、科学では捉えることが出来ない、ということになる。
「再現性」のない現象が存在する、という前提を受け入れれば、科学で捉えきれないからと言って、超常現象や怪奇現象を否定するということにはならないはずだ。
こんな理由から僕は、超常現象や怪奇現象を真っ向から否定するつもりはない。
とはいえ、基本的な感覚からすれば、超常現象や怪奇現象などは存在しないだろうと思っている。決して頭ごなしに否定するつもりもないが、かといって積極的に信じるつもりもない。というかむしろ、積極的に疑いを抱いている。
これが僕のスタンスだ。
そういう僕のスタンスからすると、本書は非常に好ましい作品に感じられた。例えば本書には、こんな文章がある。
『幽霊も祟りも信じていない。なのに「縁起でもない」という言葉には心が揺れる。合理的説明のつかない「何か」が、現象と現象を結び付ける―そういうことなら、あるような気がする、理屈ではなくそう感じているようだ。しかもこれは自分だけに限ったことではないらしい。私の周囲には私と同様の合理主義者が多いが、それでも「ついている」「ついていない」「縁がある」「縁がなかった」などという言葉はしばしば耳にする。夫は私以上に心霊現象完全否定論者だが、麻雀に関してだけは、「運」や「流れ」などという非合理的な言葉を大真面目に口にする』
『そうですね、と久保さんは答えたが、それでも割り切れないようだった。割り切れない気持ちは私にも分かる。久保さんを説得しながら、私自身、実は割り切れてなどいなかった。ただ、骨身に染み付いた懐疑主義が「これには何か意味がある」という結論に飛び付くことを嫌っただけだ。意味があるように見えるからこそ、あえて制動がかかる。制動のために理屈を探し出したのだ』
本書の主人公は、物事を合理的に、理性的に捉えようとする。ホラー小説をそこまで読まないから比較は出来ないが、しかしイメージとしては、ホラー小説は幽霊や祟りを積極的に信じる人間がたくさん登場するからこそ成り立つのだと思う。しかし本書は真逆だ。本書に、怪異的なものを積極的に信じようとする人間はほぼ出てこない。そこが個人的には、非常に好感が持てると感じる部分だ。
怪異など存在しない―そう決めつけるのもよくはないが、存在すると盲信してしまうのもまた困ったものだ。少なくとも僕の捉え方でいえば、怪異が存在するとすれば、現在の科学では捉えきれないものである。であれば、捉えなくてもよいのではないか―僕はそんな風に思ってしまう。
内容に入ろうと思います。
小説家である「私」(読み進めると、小野不由美本人を造型していることが分かる)は、とある事情から読者から時々怖い話が書かれた手紙が届く。かつてある文庫レーベルで仕事をしていたが、その文庫レーベルは「あとがき」を書くことが義務だった。そこで私は、怖い話を知っていたら教えて欲しい、と書いたのだ。作品自体はまだ生き残っているが、その「あとがき」が載ったバージョンは既に手に入るようなものではないのだが、それでも現在に至るまで、時々怖い話が送られてくる。
その手紙も、そんな経緯で届いた。送り主は久保さんとしておく。30代の女性で、編集プロダクションで働いているという。その久保さんが、自分の住んでいるマンションの部屋から妙な音がするのだと手紙をくれた。その音は、「疲れた女性が箒を力なく掃いている」ような音だという。
久保さんからの話を聞いて、私はある違和感を覚えた。どこかで聞いたような話に思えたのだ。
私は今引っ越しを考えていて、そのために本やら荷物やらを整理している。かつて送ってもらった怖い話の束も整理すべく引っ張り出してきたのだが、その中に、久保さんとほぼ同じ住所(部屋番号だけが違う)送り主のものを見つけた。仮に屋嶋と呼ぶことにする。屋嶋さんは1児の母であるが、その子どもが部屋にいる時に、何もない虚空を見つめていることがあるという。ある時何を見ているのか聞くと、たどたどしい言葉で「ぶらんこ」と答えたという。娘の目には、そこに何かがぶら下がっているのが見えるのだという。
同じマンション(後に岡谷マンションと呼ぶことに決めるのだが)で、多少違いはあるものの奇妙な現象が起こっている。私は久保さんと、主にホラー映画などの雑談をよくしており、その合間合間に久保さんから、謎の音に関する近況の報告がある、という感じだった。いよいよ本腰を入れて調べてみよう、ということになり、岡谷マンションの現在の住人や過去住んでいた者、あるいは同じ土地の過去の出来事などを調べていくが、次々と、関わりがありそうな出来事が見つかる。しかし、関わりがありそう、というだけで、はっきりと関連づいているわけではない。岡谷マンションのある部屋は住人が居着かないとか、岡谷マンションを出て別のアパートに移った男が自殺してしまった、などという話が色々と出て来る。掘っても掘っても、震源地らしきものが見えてこない。やはりこれらは怪異などではなく、ただの偶然が連鎖しているだけのことなのか…。
というような話です。
この作品、小説を読む前に映画を見ていました。映画を見たのはちょっと前なので正確には覚えていませんが、概ね原作通りだと感じました。
本書はまず、ノンフィクション風に描かれている点が非常に面白い。実話怪談的な雰囲気を出すためなのだろうけど、良い効果を生んでいると思う。平山夢明や福澤徹三など、実在する小説家も登場するし、「私」である小野不由美自身の話(もちろん僕にはその真偽は判断出来ないけど)もかなり盛り込まれていて、現実に著者がこういう調査に関わったかのような雰囲気が見事に作り出されている。小説なんだと頭では分かっていても、ふとどこかで、これが実際にあった出来事を事実として描いている作品だ、というような気もしてきて面白い。
また、描かれている内容も、実際にありそうなことに「抑えられていて」、それもまた本書のリアルさを増している。あまりホラー小説は読まないが、イメージは、幽霊的なやつがバーンって出てきたり、ポルターガイスト現象的なのが起こったり、呪われた体がヤバイことになったりするような気がしている。しかし本書の場合は、怪異と言えば怪異だし、そうじゃないと言えばそうじゃないと言えるような、そういうどっちつかずの現象が延々と積み重なっていく。そのことをどう評価するかは、人それぞれ様々だと思う。物足りない、と感じる読者もいるだろう。しかし僕は、はっきりと霊的な存在を打ち出すわけではなく、そう捉えようと思えば捉えられる程度の現象に「抑えている」からこそ、本書のような独特の怖さがにじみ出るのだと思っている。
とはいえ、ちょっと退屈であることも確かだ。登場人物たちがやっていることは、結局のところ「過去を掘り返していく」というだけだ。どんな風に過去を知る人物にたどり着いたのかなど、リアルさを保つために様々に工夫しているなと感じるが、やっていることは、過去を調べ、誰かに話を聞くということの繰り返しだ。どうしても単調にならざるを得ない部分はあるし、作中に登場する人物もかなりの人数になるので把握するのも難しい。そういう意味で、本書のような叙述スタイルを採ったのには、一長一短あると感じはする。
本書は、ホラー小説的な怖さではなく、作品の叙述スタイルや現象の描き方的に、「実際にあってもおかしくなさそう」と感じさせる点が怖いのだと思う。本書の長い長い調査の発端となるのは、ほんの些細な出来事だ。僕らが住んでいる家でも、実は同じようなことが起こるかもしれない―絶対にないとは、誰にも言い切れないだろう。
小野不由美「残穢」
悦ちゃん(獅子文六)
内容に入ろうと思います。
悦ちゃん、10歳。レコード歌詞の作者として生計を立てる父・碌太郎と二人暮らし。母は早くに亡くなってしまった。悦ちゃんは「碌さん」(悦ちゃんは父親のことをこう呼ぶ)が好きだし、母親がいなくて寂しさを感じることはあるけど、一応今の生活に満足している。
さて、碌太郎の方では、やはり再婚相手を見つけないとなぁ、と思っている。仕事と子育てを両立させるのはなかなか困難だ。と言って誰かいるわけでもない。大学在学中に既に子どもがいた碌太郎は、今33歳、さてどうしたもんかなぁ、と思っている。
そんな碌太郎に良い相手をと、姉である鶴代があれこれ考えている。鶴代は東邦商事の常務である大林信吾の妻であり、亡くなった碌太郎の妻が看護婦だったという理由で嫌っていた。妻の死後、相応しい令嬢を見つけてあげると言われていたが三回忌が終わるまではとのらりくらりと躱していたのだ。
しかしさすがにそうも言っていられなくなった。そこで鶴代が用意した見合い写真を見る。その中に、なんと碌太郎に興味を持っているという令嬢がいるというのだ。日下部薫という名のその女性は、碌太郎の好みにドンピシャだった。結婚するなら持参金もくれるというし、色んな事情から大林信吾としてもこの結婚は是非進めてもらいたいと考えている。
そんなこんなで、碌太郎は日下部薫と頻繁に会うようになっていくのだが、その割を食ったのが悦ちゃんだ。これまで家にいた父親が全然いなくて寂しい。もちろん悦ちゃんも、新しいお母さんは欲しいのだが、日下部薫は嫌いだ。日下部薫も悦ちゃんが好きではないようで、前途多難である。
一方悦ちゃんは、水着を買いにデパートへと行った時に対応してくれた売り子のお姉さんがお気に入りだ。池辺鏡子という名のその女性と、別の場所で偶然再開した悦ちゃんは、彼女に真剣に、私のママになってくれない?とお願いをする。
碌太郎と悦ちゃんの気持ちがすれ違ったまま、様々な話がトントン拍子に進んでいく感じだ。美女にうつつを抜かす碌太郎、寂しさを抱える悦ちゃん、そして細野夢月という作曲家(碌太郎と組んで仕事をすることもある)に気に入られたことで色んなことに巻き込まれてしまう池辺鏡子が織りなす、ドタバタ奮闘記。
という感じです。
なかなか面白い作品でした。
この作品が新聞に連載されたのは、1936年のことだったそうです。実に今から80年も前のことです。80年前の作家って、同時代にどういう人たちがいたのか、僕にはちょっと分からないのだけど、いわゆる「文豪」と呼ばれる人たちが活躍していた時代だったりするんじゃないかな、なんて思ったりします。
本書は、僕のイメージが正しければ「文豪」が活躍していただろう時代に書かれたとは思えないほど、ポップで読みやすい作品です。現代作家が書いたと言っても全然通用する作品だと思います。時代背景は確かに一昔前のものですが、現代作家でもそういう時代を舞台にした小説を書くだろうから、全然違和感はありません(でも、たまーに、やっぱり時代だなぁ、と感じる部分がありました。僕が印象的だったのは、『悦ちゃんは孫選手のように、坂道にヘビイをかけた』という部分。たぶん「孫選手」って、マラソンが超強かった孫兄弟ですよね。本書は、1969年に出た「獅子文六全集」を底本にしているらしいから、そういう表現が出て来るのかもです)
本書の舞台がどういう時代であるのかがパッと分かる部分を抜き出してみます。
『指久は、婦人雑誌など読まないから、見合い結婚と恋愛結婚の可否なんてことを、一度も考えたことはない。結婚とは、親がきめて、娘は黙って嫁ぐものだと、信じて疑わない。自分達もそうしてきたし、自分の親達も、そうして結ばれた。それで、一度もマチガイは起こらなかった。だから、自分の子も、当然そうすべきではないか―いくら、飛行機とラジが発明されたって、この理屈に変わりはなかろう』
要するに、若い世代には「恋愛結婚」というのが出始めてきているのだけど、親世代は両親が決めた相手と結婚するのが当然と考える世代で、その過渡期と言えるかもしれません。
そういう時代だからこそ、日下部薫の存在感がより際立つ、という感じがします。例えば彼女は、こんな発言をしています。
『妾(※わたし)は、いわゆる家庭的な女を、軽蔑しますわ。雛を育てることや、巣をつくることなら、動物にだってできますわ。家庭的だの、母性愛だのといえば、たいへん立派に聞こえるけれど、要するに、智性や趣味性の欠如した女のことですわ。鍋や釜のような、実用的な女のことですわ。柳さん。あなたは詩をおつくりになるくらいだから、台所道具と絵と彫刻との価値判断に、お迷いになることはないわね?』
なかなか凄まじいことを言いますよね。この日下部薫というキャラクターは、時代の変化を象徴するような人物なのでしょう。それまでの古い価値観に染まらず、新しい価値観の中で生きていくという宣言を全身で発しながら生きていく彼女は、現代の視点からすれば、ただのいけ好かない女に思えるでしょうが、当時としては、反発心もありつつも、彼女のようなスタイルに憧れるような時代の流れもあったんじゃないかなぁ、と想像します。
対照的に池辺鏡子は、その時代を象徴するような人物だったでしょう。貧乏長屋で育ちながらびっくりするぐらい健全に育ち、女性も社会に出て働くようになった時代にデパートで働くというのは、既存の価値観の枠組みの中で「上の下」あるいは「中の上」ぐらいの位置にいる、平均よりちょっと上みたいな感じだったんじゃないかなと思います。
そう考えてみると、新しい価値観と既存の価値観のどちらに軍配が上がるのか、という読み方も出来るかなと思いました。もちろん、そんなあからさまな描写はないですけど、碌太郎という優柔不断な男を主人公に据え、いくつかの価値観の間で右往左往させることで、同じ時代の中に混在する価値観を分かりやすく取り出して見せている、という印象は受けました。
色んな人物が登場するのだけど、最終的にはみんな良いやつ、という感じです。個人的にはもっと悪い人間が出てきて欲しいけど、本書の作風にはこれで合っているんだと思いました。色んなタイプの人間がいて、中にはこれはちょっとなぁ…と感じる人も出てくるんだけど、なんだかんだバランスが取れて、まあいいか、と思えるようになってくる。物語の中で、色んな人間の良い面・悪い面が出て来るんだけど、それが人間らしい感じになってよかったです。
でもやっぱり、一番魅力的なのは悦ちゃんだなぁ、と思います。寂しい時は寂しい、怒っている時は怒っている、明るい時は明るい、一歩踏み出すべき時は踏み出す、という感じで、色んな場面で色んな感情を持つのだけど、それが凄くはっきりしてるし、ブレない。子どもらしく駄々をこねるというのではなく、ちゃんと現状は理解した上で、でもやっぱりこうあって欲しいという思考を展開する。そして、ここぞという時には凄い行動力を発揮する。
なかなか不遇の人生を余儀なくされていると思うのだけど、持ち前の明るさでどうにかこうにか乗り越えていく。そして、そんな風に乗り越えって行ったからこそ辿り着けてしまう場所は、なかなか想像の斜めを行く感じで、非常に面白いと思います。
本書の解説は、作家の窪美澄が書いているのだけど、非常に良い文章があったので引用してみる。
『作者の持ち味である軽い筆致で描かれてはいるが、現実の世界ではなんらかの事情により、子どもは簡単に窮地に陥るという事実を私たちは改めて知る。それはこの物語が描かれた昭和初期だけの話ではなく、今の時代でもそうだろう。今の時代のほうがセーフティネットから零れ落ちた子どもがそこから生き延びることは難しいはずだ。けれど、血がつながっていなくても、たった一人でも、その子どもと本気で向き合う誰かがいれば、子どもは生き延びていくことができる。勝手な大人の被害者にならずにすむ。そんな大事なことをこの物語は語り続ける』
辛い境遇に陥ってしまう子どもや若者、あるいは母親を描くことの多い窪美澄ならではの視点だと感じた。
難しいことは一切考えずに、どエンタメ作品として楽しく読める作品です。そしてその中に、現代とは異なる時代背景における様々な人びとの価値観の表出と、時代が変わっても変わることがない子どもを取り巻く辛い環境の描写が現れる作品です。
獅子文六「悦ちゃん」
悦ちゃん、10歳。レコード歌詞の作者として生計を立てる父・碌太郎と二人暮らし。母は早くに亡くなってしまった。悦ちゃんは「碌さん」(悦ちゃんは父親のことをこう呼ぶ)が好きだし、母親がいなくて寂しさを感じることはあるけど、一応今の生活に満足している。
さて、碌太郎の方では、やはり再婚相手を見つけないとなぁ、と思っている。仕事と子育てを両立させるのはなかなか困難だ。と言って誰かいるわけでもない。大学在学中に既に子どもがいた碌太郎は、今33歳、さてどうしたもんかなぁ、と思っている。
そんな碌太郎に良い相手をと、姉である鶴代があれこれ考えている。鶴代は東邦商事の常務である大林信吾の妻であり、亡くなった碌太郎の妻が看護婦だったという理由で嫌っていた。妻の死後、相応しい令嬢を見つけてあげると言われていたが三回忌が終わるまではとのらりくらりと躱していたのだ。
しかしさすがにそうも言っていられなくなった。そこで鶴代が用意した見合い写真を見る。その中に、なんと碌太郎に興味を持っているという令嬢がいるというのだ。日下部薫という名のその女性は、碌太郎の好みにドンピシャだった。結婚するなら持参金もくれるというし、色んな事情から大林信吾としてもこの結婚は是非進めてもらいたいと考えている。
そんなこんなで、碌太郎は日下部薫と頻繁に会うようになっていくのだが、その割を食ったのが悦ちゃんだ。これまで家にいた父親が全然いなくて寂しい。もちろん悦ちゃんも、新しいお母さんは欲しいのだが、日下部薫は嫌いだ。日下部薫も悦ちゃんが好きではないようで、前途多難である。
一方悦ちゃんは、水着を買いにデパートへと行った時に対応してくれた売り子のお姉さんがお気に入りだ。池辺鏡子という名のその女性と、別の場所で偶然再開した悦ちゃんは、彼女に真剣に、私のママになってくれない?とお願いをする。
碌太郎と悦ちゃんの気持ちがすれ違ったまま、様々な話がトントン拍子に進んでいく感じだ。美女にうつつを抜かす碌太郎、寂しさを抱える悦ちゃん、そして細野夢月という作曲家(碌太郎と組んで仕事をすることもある)に気に入られたことで色んなことに巻き込まれてしまう池辺鏡子が織りなす、ドタバタ奮闘記。
という感じです。
なかなか面白い作品でした。
この作品が新聞に連載されたのは、1936年のことだったそうです。実に今から80年も前のことです。80年前の作家って、同時代にどういう人たちがいたのか、僕にはちょっと分からないのだけど、いわゆる「文豪」と呼ばれる人たちが活躍していた時代だったりするんじゃないかな、なんて思ったりします。
本書は、僕のイメージが正しければ「文豪」が活躍していただろう時代に書かれたとは思えないほど、ポップで読みやすい作品です。現代作家が書いたと言っても全然通用する作品だと思います。時代背景は確かに一昔前のものですが、現代作家でもそういう時代を舞台にした小説を書くだろうから、全然違和感はありません(でも、たまーに、やっぱり時代だなぁ、と感じる部分がありました。僕が印象的だったのは、『悦ちゃんは孫選手のように、坂道にヘビイをかけた』という部分。たぶん「孫選手」って、マラソンが超強かった孫兄弟ですよね。本書は、1969年に出た「獅子文六全集」を底本にしているらしいから、そういう表現が出て来るのかもです)
本書の舞台がどういう時代であるのかがパッと分かる部分を抜き出してみます。
『指久は、婦人雑誌など読まないから、見合い結婚と恋愛結婚の可否なんてことを、一度も考えたことはない。結婚とは、親がきめて、娘は黙って嫁ぐものだと、信じて疑わない。自分達もそうしてきたし、自分の親達も、そうして結ばれた。それで、一度もマチガイは起こらなかった。だから、自分の子も、当然そうすべきではないか―いくら、飛行機とラジが発明されたって、この理屈に変わりはなかろう』
要するに、若い世代には「恋愛結婚」というのが出始めてきているのだけど、親世代は両親が決めた相手と結婚するのが当然と考える世代で、その過渡期と言えるかもしれません。
そういう時代だからこそ、日下部薫の存在感がより際立つ、という感じがします。例えば彼女は、こんな発言をしています。
『妾(※わたし)は、いわゆる家庭的な女を、軽蔑しますわ。雛を育てることや、巣をつくることなら、動物にだってできますわ。家庭的だの、母性愛だのといえば、たいへん立派に聞こえるけれど、要するに、智性や趣味性の欠如した女のことですわ。鍋や釜のような、実用的な女のことですわ。柳さん。あなたは詩をおつくりになるくらいだから、台所道具と絵と彫刻との価値判断に、お迷いになることはないわね?』
なかなか凄まじいことを言いますよね。この日下部薫というキャラクターは、時代の変化を象徴するような人物なのでしょう。それまでの古い価値観に染まらず、新しい価値観の中で生きていくという宣言を全身で発しながら生きていく彼女は、現代の視点からすれば、ただのいけ好かない女に思えるでしょうが、当時としては、反発心もありつつも、彼女のようなスタイルに憧れるような時代の流れもあったんじゃないかなぁ、と想像します。
対照的に池辺鏡子は、その時代を象徴するような人物だったでしょう。貧乏長屋で育ちながらびっくりするぐらい健全に育ち、女性も社会に出て働くようになった時代にデパートで働くというのは、既存の価値観の枠組みの中で「上の下」あるいは「中の上」ぐらいの位置にいる、平均よりちょっと上みたいな感じだったんじゃないかなと思います。
そう考えてみると、新しい価値観と既存の価値観のどちらに軍配が上がるのか、という読み方も出来るかなと思いました。もちろん、そんなあからさまな描写はないですけど、碌太郎という優柔不断な男を主人公に据え、いくつかの価値観の間で右往左往させることで、同じ時代の中に混在する価値観を分かりやすく取り出して見せている、という印象は受けました。
色んな人物が登場するのだけど、最終的にはみんな良いやつ、という感じです。個人的にはもっと悪い人間が出てきて欲しいけど、本書の作風にはこれで合っているんだと思いました。色んなタイプの人間がいて、中にはこれはちょっとなぁ…と感じる人も出てくるんだけど、なんだかんだバランスが取れて、まあいいか、と思えるようになってくる。物語の中で、色んな人間の良い面・悪い面が出て来るんだけど、それが人間らしい感じになってよかったです。
でもやっぱり、一番魅力的なのは悦ちゃんだなぁ、と思います。寂しい時は寂しい、怒っている時は怒っている、明るい時は明るい、一歩踏み出すべき時は踏み出す、という感じで、色んな場面で色んな感情を持つのだけど、それが凄くはっきりしてるし、ブレない。子どもらしく駄々をこねるというのではなく、ちゃんと現状は理解した上で、でもやっぱりこうあって欲しいという思考を展開する。そして、ここぞという時には凄い行動力を発揮する。
なかなか不遇の人生を余儀なくされていると思うのだけど、持ち前の明るさでどうにかこうにか乗り越えていく。そして、そんな風に乗り越えって行ったからこそ辿り着けてしまう場所は、なかなか想像の斜めを行く感じで、非常に面白いと思います。
本書の解説は、作家の窪美澄が書いているのだけど、非常に良い文章があったので引用してみる。
『作者の持ち味である軽い筆致で描かれてはいるが、現実の世界ではなんらかの事情により、子どもは簡単に窮地に陥るという事実を私たちは改めて知る。それはこの物語が描かれた昭和初期だけの話ではなく、今の時代でもそうだろう。今の時代のほうがセーフティネットから零れ落ちた子どもがそこから生き延びることは難しいはずだ。けれど、血がつながっていなくても、たった一人でも、その子どもと本気で向き合う誰かがいれば、子どもは生き延びていくことができる。勝手な大人の被害者にならずにすむ。そんな大事なことをこの物語は語り続ける』
辛い境遇に陥ってしまう子どもや若者、あるいは母親を描くことの多い窪美澄ならではの視点だと感じた。
難しいことは一切考えずに、どエンタメ作品として楽しく読める作品です。そしてその中に、現代とは異なる時代背景における様々な人びとの価値観の表出と、時代が変わっても変わることがない子どもを取り巻く辛い環境の描写が現れる作品です。
獅子文六「悦ちゃん」
「あゝ、荒野 前編」を観に行ってきました
寺山修司の原作は、読んだことがない。
だから、この映画がどこまで原作の内容を含んでいるのか、それは判断できない。
ただ、原作そのままを映画かしているわけではない、ということは分かる。
何故ならこの映画は、2021年が舞台だからだ。
冒頭で、2021年の新宿であることが明かされる。
初め僕はそれを、特別意味のある設定だと思っていなかった。
しかし、映画が始まってすぐ、新宿・歌舞伎町で爆破事件が発生する。
なんだこれは?と僕は思った。
僕がこの映画に抱いていたイメージは、「弱者がボクシングを通じて這い上がる物語」というものだ。
確かに、それは本筋ではある。菅田将暉と、もう一人韓国人の俳優(役柄的には、日本人と韓国人のハーフ)が、弱小ボクシングジムから強くなっていく物語だ。
しかし、決してそれだけの映画ではない。
2021年。それは、東京オリンピック後の日本だ。
その日本は、今以上に社会情勢が不安定になっている(とこの映画では描いている)。
国会では、ある法案が審議されている。
それは、学生の奨学金の支払いを一部免除し、その代わり、介護業務あるいは国際平和貢献プログラムに参加させよう、というものだ。国際平和貢献プログラムは、世間では“徴兵”と呼ばれている。表向き、自然災害などへの派遣と謳われているが、実質的に自衛隊への入隊者を募っているだけだ、と見られている。
新宿では学生らが、これは経済徴兵だと言って、反対活動を繰り広げている。
また、自殺者も増えている。
この映画では、ボクシングの話の合間合間に、西山大学の学生の話が挟み込まれていく。彼らは、親族や友人を自殺によって喪った者たちだ。彼らは、自殺のような“無意味な死”を無くすべく活動をしている。街中で様々な人に「自殺したいと思ったことがあるか?」と問いかけ、映像に記録する。また、「自殺防止フェス」を企画し、そのための準備を進めている。
前編では、ボクシングの話と、社会情勢の不安定化や自殺の話がどう繋がっていくのか、はっきりとは見えてこない。一つはっきりとした繋がりは見えるのだけど、しかしその繋がりがどう物語と関係してくるのか、全然分からない。
確かに、ボクシングを通じて這い上がろうとしている二人はどちらも、これまで碌でもない人生を歩んできた。「弱者」側だと言っていい。そして一方で、奨学金の返済猶予による徴兵や自殺なども、「弱者」側の問題だ。単純に考えれば、そういう方向で両者の物語が繋がっていくと考えるのが自然だろうか、と思う。
しかし映画を見ている限り、どちらも「新宿」という空間で起こっている以上の関わり方が見いだせそうにない。
この、まったく混じり合わなそうな二つの物語が同時に進行していくというスタイルは、原作にもあるのだろうか?寺山修司が原作となる小説をいつ書いたのか知らないが、その当時の社会情勢を物語に組み込んだ、という可能性はあるだろう。後編でどんな展開になっていくのか分からないが、ボクシングだけではない物語の軸があり、その両者がどう融合するのかという点が非常に楽しみだし、何よりも、原作小説をちょっと読んでみたいという気持ちになった。
内容に入ろうと思います。
少年院から3年ぶりにシャバに戻ってきた新次は、かつての振り込め詐欺仲間と連絡を取るが、皆足を洗ってまともになっている。老人に金を出させるマニュアルを作り上げた一人である新次はまったく面白くないが、シャバに戻ったらまた振り込め詐欺で稼ぐつもりでいたアテが外れどうしたもんかと思っている。
理髪店で働く健二は、韓国人と日本人のハーフだが、吃音のためにどちらの言葉でもどもってうまく話すことが出来ない。理髪店の店長は良くしてくれるが、どもってうまく話せない自分をなんとかしたいという気持ちをずっと持っている。
二人は同じタイミングで、新宿の有名ボクシングジムの前で男からビラを受け取る。堀口という名の男は、海洋闘拳ジムという小さなボクシングジムを経営しており、人が集まらずに別のボクシングジムの前でビラ配りをしていたのだ。新次も健二も、すぐには興味を示さなかったが、新次はとある理由から全財産がなくなり、健二は父親との関係の問題から、共に堀口のボクシングジムに入ることになった。
母親に捨てられ、施設で出会った男と組んで振り込め詐欺をやっていた新次は、新次らを裏切り大人数でボコボコにした山本を壮絶に恨んでいる。山本は、堀口がビラ配りをしていたボクシングジムに所属する、プロのボクサーだ。リングの上なら殺しても許される―だから新次は強くなるための努力を惜しまない。
健二は、碌でなしの父親からの暴力に対抗したい気持ちもあって強くなろうとする。健二は、堀口も驚くほどの良いパンチを持っているのだが、試合となるとどうしても目を瞑ってしまい、実力を発揮することが出来ない。
ボクシングと出会って、碌でもない人生から足を洗う決断をした者たちの、全力を描く物語だ。
そしてこの合間合間に、冒頭で書いたような自殺防止のための活動をする学生たちの物語が挟み込まれていく。
前編を観終わった時点なので、物語がどう展開していくのかは全然分からないのだけど、とにかく現時点での満足度は非常に高い。
何が良いのかと考えてみると、作り物っぽくないように感じられるところが良いような気がする。
これは、前後編に分けたということも関わってくるかもしれない。前篇だけで2時間半もあるかなり長い映画で、だからこそ、普通の映画だったら切ってしまうような「無駄に感じられるシーン」も随所にある。それが、「物語感」をすごく薄めているように思える。彼らが新宿にいて、ちゃんと生きているような、そんな感じがするのだ。
また、やはり菅田将暉の演技の凄さみたいなものもあるのだろうと思う。この映画は全編に渡って作り物感は薄いと思うのだけど、特に菅田将暉が出ている場面はそれを強く感じる。どの映画を見ても思うけど、菅田将暉のその場に馴染む感は、やっぱり凄いなと思う。どんな役をやっていても、「そこにいる人感」が凄く出る。どこにいても、違和感がない。
あと、ユースケ・サンタマリアも実にハマり役だったと思う。ユースケ・サンタマリアの地というのか素というのか、ちょっと軽薄で浮ついてるみたいな感じが、堀口という役柄にピッタリで、映画を見ながら時々、あぁこの雰囲気はユースケ・サンタマリアにしか出せない気がするなぁ、と感じる場面があった。二人のリングネームを決める場面なんか、一番強くそれを感じた。
ボクシングの方のストーリーは、非常に王道だなという感じがする。ボクシングというのは、碌でもない人間をスターにする装置としてうってつけだ。特に新次の方は酷い人生だったが、それを払拭するようにしてボクシングに邁進する。スポーツなんかやってられるか、と思っていた新次だったが、山本をぶっ殺すためという強い動機があり、物語的にも非常に分かりやすい。
しかし、冒頭で触れた自殺防止の活動の話はそれとは逆で、まったく捉えどころがない。リーダー的な人間が何を考えているのか見えてこないし、そもそも2021年の日本の姿が様々な場面の中で断片的に描かれるだけで、全体を把握しにくい。前編での彼らの活動は、なかなか衝撃的な形に行き着くのだけど、あの後彼らがどうしていくのかも分からない。
分かりやすい縦軸に、分かりにくい横軸を組み合わせ、全体で何かを織り上げようとしている。どんな物語に織り上がっていくのか楽しみだ。
あと個人的には、音楽がほとんどなかったのが良かった。音楽が流れている場面もあったかもしれないけど、そうだとしても全然気づかないぐらい自然だった。音楽があまりなかったことも、作り物感を薄める要因だったかもしれない。
「あゝ、荒野 前編」を観に行ってきました
だから、この映画がどこまで原作の内容を含んでいるのか、それは判断できない。
ただ、原作そのままを映画かしているわけではない、ということは分かる。
何故ならこの映画は、2021年が舞台だからだ。
冒頭で、2021年の新宿であることが明かされる。
初め僕はそれを、特別意味のある設定だと思っていなかった。
しかし、映画が始まってすぐ、新宿・歌舞伎町で爆破事件が発生する。
なんだこれは?と僕は思った。
僕がこの映画に抱いていたイメージは、「弱者がボクシングを通じて這い上がる物語」というものだ。
確かに、それは本筋ではある。菅田将暉と、もう一人韓国人の俳優(役柄的には、日本人と韓国人のハーフ)が、弱小ボクシングジムから強くなっていく物語だ。
しかし、決してそれだけの映画ではない。
2021年。それは、東京オリンピック後の日本だ。
その日本は、今以上に社会情勢が不安定になっている(とこの映画では描いている)。
国会では、ある法案が審議されている。
それは、学生の奨学金の支払いを一部免除し、その代わり、介護業務あるいは国際平和貢献プログラムに参加させよう、というものだ。国際平和貢献プログラムは、世間では“徴兵”と呼ばれている。表向き、自然災害などへの派遣と謳われているが、実質的に自衛隊への入隊者を募っているだけだ、と見られている。
新宿では学生らが、これは経済徴兵だと言って、反対活動を繰り広げている。
また、自殺者も増えている。
この映画では、ボクシングの話の合間合間に、西山大学の学生の話が挟み込まれていく。彼らは、親族や友人を自殺によって喪った者たちだ。彼らは、自殺のような“無意味な死”を無くすべく活動をしている。街中で様々な人に「自殺したいと思ったことがあるか?」と問いかけ、映像に記録する。また、「自殺防止フェス」を企画し、そのための準備を進めている。
前編では、ボクシングの話と、社会情勢の不安定化や自殺の話がどう繋がっていくのか、はっきりとは見えてこない。一つはっきりとした繋がりは見えるのだけど、しかしその繋がりがどう物語と関係してくるのか、全然分からない。
確かに、ボクシングを通じて這い上がろうとしている二人はどちらも、これまで碌でもない人生を歩んできた。「弱者」側だと言っていい。そして一方で、奨学金の返済猶予による徴兵や自殺なども、「弱者」側の問題だ。単純に考えれば、そういう方向で両者の物語が繋がっていくと考えるのが自然だろうか、と思う。
しかし映画を見ている限り、どちらも「新宿」という空間で起こっている以上の関わり方が見いだせそうにない。
この、まったく混じり合わなそうな二つの物語が同時に進行していくというスタイルは、原作にもあるのだろうか?寺山修司が原作となる小説をいつ書いたのか知らないが、その当時の社会情勢を物語に組み込んだ、という可能性はあるだろう。後編でどんな展開になっていくのか分からないが、ボクシングだけではない物語の軸があり、その両者がどう融合するのかという点が非常に楽しみだし、何よりも、原作小説をちょっと読んでみたいという気持ちになった。
内容に入ろうと思います。
少年院から3年ぶりにシャバに戻ってきた新次は、かつての振り込め詐欺仲間と連絡を取るが、皆足を洗ってまともになっている。老人に金を出させるマニュアルを作り上げた一人である新次はまったく面白くないが、シャバに戻ったらまた振り込め詐欺で稼ぐつもりでいたアテが外れどうしたもんかと思っている。
理髪店で働く健二は、韓国人と日本人のハーフだが、吃音のためにどちらの言葉でもどもってうまく話すことが出来ない。理髪店の店長は良くしてくれるが、どもってうまく話せない自分をなんとかしたいという気持ちをずっと持っている。
二人は同じタイミングで、新宿の有名ボクシングジムの前で男からビラを受け取る。堀口という名の男は、海洋闘拳ジムという小さなボクシングジムを経営しており、人が集まらずに別のボクシングジムの前でビラ配りをしていたのだ。新次も健二も、すぐには興味を示さなかったが、新次はとある理由から全財産がなくなり、健二は父親との関係の問題から、共に堀口のボクシングジムに入ることになった。
母親に捨てられ、施設で出会った男と組んで振り込め詐欺をやっていた新次は、新次らを裏切り大人数でボコボコにした山本を壮絶に恨んでいる。山本は、堀口がビラ配りをしていたボクシングジムに所属する、プロのボクサーだ。リングの上なら殺しても許される―だから新次は強くなるための努力を惜しまない。
健二は、碌でなしの父親からの暴力に対抗したい気持ちもあって強くなろうとする。健二は、堀口も驚くほどの良いパンチを持っているのだが、試合となるとどうしても目を瞑ってしまい、実力を発揮することが出来ない。
ボクシングと出会って、碌でもない人生から足を洗う決断をした者たちの、全力を描く物語だ。
そしてこの合間合間に、冒頭で書いたような自殺防止のための活動をする学生たちの物語が挟み込まれていく。
前編を観終わった時点なので、物語がどう展開していくのかは全然分からないのだけど、とにかく現時点での満足度は非常に高い。
何が良いのかと考えてみると、作り物っぽくないように感じられるところが良いような気がする。
これは、前後編に分けたということも関わってくるかもしれない。前篇だけで2時間半もあるかなり長い映画で、だからこそ、普通の映画だったら切ってしまうような「無駄に感じられるシーン」も随所にある。それが、「物語感」をすごく薄めているように思える。彼らが新宿にいて、ちゃんと生きているような、そんな感じがするのだ。
また、やはり菅田将暉の演技の凄さみたいなものもあるのだろうと思う。この映画は全編に渡って作り物感は薄いと思うのだけど、特に菅田将暉が出ている場面はそれを強く感じる。どの映画を見ても思うけど、菅田将暉のその場に馴染む感は、やっぱり凄いなと思う。どんな役をやっていても、「そこにいる人感」が凄く出る。どこにいても、違和感がない。
あと、ユースケ・サンタマリアも実にハマり役だったと思う。ユースケ・サンタマリアの地というのか素というのか、ちょっと軽薄で浮ついてるみたいな感じが、堀口という役柄にピッタリで、映画を見ながら時々、あぁこの雰囲気はユースケ・サンタマリアにしか出せない気がするなぁ、と感じる場面があった。二人のリングネームを決める場面なんか、一番強くそれを感じた。
ボクシングの方のストーリーは、非常に王道だなという感じがする。ボクシングというのは、碌でもない人間をスターにする装置としてうってつけだ。特に新次の方は酷い人生だったが、それを払拭するようにしてボクシングに邁進する。スポーツなんかやってられるか、と思っていた新次だったが、山本をぶっ殺すためという強い動機があり、物語的にも非常に分かりやすい。
しかし、冒頭で触れた自殺防止の活動の話はそれとは逆で、まったく捉えどころがない。リーダー的な人間が何を考えているのか見えてこないし、そもそも2021年の日本の姿が様々な場面の中で断片的に描かれるだけで、全体を把握しにくい。前編での彼らの活動は、なかなか衝撃的な形に行き着くのだけど、あの後彼らがどうしていくのかも分からない。
分かりやすい縦軸に、分かりにくい横軸を組み合わせ、全体で何かを織り上げようとしている。どんな物語に織り上がっていくのか楽しみだ。
あと個人的には、音楽がほとんどなかったのが良かった。音楽が流れている場面もあったかもしれないけど、そうだとしても全然気づかないぐらい自然だった。音楽があまりなかったことも、作り物感を薄める要因だったかもしれない。
「あゝ、荒野 前編」を観に行ってきました
蓮の数式(遠田潤子)
理解できないものは、分かりやすい物語の中に押し込められることが多い。
ニュースの話だ。
日々、様々な事件が起こる。あぁ、そういう状況だったら、自分でもやっちゃうかもな、というような事件もある。その時その場にたまたまいたというだけで、運が悪かったと思ってしまうような事件もある。
そして、あぁなんでこんなことしたんだろう全然理解できない、と感じる事件もある。というか、やはりこう感じる場合が多いだろう。犯罪というのは、やるべきではないことだからこそ罪とされているのだし、それをしてしまう人間に共感できるケースは、やはり多くはないはずだ。
だから僕らは、事件の背景を、分かりやすい物語で埋めようとする。
本当は、そんなことする必要はないはずなのだ。別に、テレビや新聞で報じられる事件は、自分の身の回りにいる人間が起こしたわけではない。自分とは関係ないな、と思って、理解できないものは理解できないものとして放置しておくことだってできるはずなのだ。
ただ、僕らはなかなかそういう態度を取れない。何故なら、説明できないと不安だからだ。
僕らは、何か理由があって犯罪に手を染めたのだ、と思いたい。理由があれば安心だ。何故なら、その理由さえなければ、自分はその犯罪を犯さないと思えるから。僕らは、自分が犯罪に走ってしまうことを怖れる。もしかしたら、自分もやってしまうのではないか、とどこかで思っている。その気持ちを払拭するためには、犯罪者にはみな犯罪に至る理由がちゃんとあり、かつ、その理由が自分が住む世界には存在しないのだと、あるいはその理由が存在しても自分はそんな理由では犯罪には走らないと思えれば、安心できる。
だから僕らは、犯罪の背景を知りたがるし、その背景は自分を犯罪へと駆り立てるものではないと確信したい。
そういう動機があるから、僕らは事件を、分かりやすい物語に押し込めたくなってしまう。
ただ、そうやって起こった事件を自分の中で消化していっても、何の意味もない。当然だ。分かりやすい物語は、現実ではないからだ。
物語やノンフィクションを多く読んでいる人であれば、その辺りの想像はつきやすいだろう。人にはそれぞれ色んな事情がある。進学や結婚や出産など、比較的多くの人が行う事柄であれば、その背景にはある程度共通のものを想定することが出来る。しかし、犯罪というのは、ほとんどの人が経験しないことだ。軽微なものはともかく、傷害や殺人などとなると、圧倒的な少数派だ。そんな少数派の行動を見て、共通の何かを見出そうとしてもほとんど意味がない。犯罪はそれぞれ、個別の動機が生み出しているわけで、だから分かりやすい物語などにはめ込むことなど出来るはずもないのだ。
それに僕は、「犯罪を犯した者=凶悪な人間」という画一的な見方も、変だなと思っている。何故なら、人の気持ちが分かってしまう優しい人間だからこそ犯罪に手を染めざるを得なかった、という人だっていると思うからだ。安楽死などはまさにその典型だろうが、そういう分かりやすいものでなくても、優しさが引き起こす犯罪というのは間違いなくあるはずだと思う。
だから、ニュースを見て、分かった気になるのは止めようと、なるべく意識するようにしている。
内容に入ろうと思います。
安西千穂は、41歳で教育心理学の教授となった夫・真一と義母・寛子と暮らしている。真一は寛子にべったりで、結婚記念日の食事にも寛子がついてくるほどだ。家事一切は寛子が取り仕切り、何もするなと言われている千穂に課されているのは、妊娠だ。
10年間、不妊治療をして、4度流産した。35歳。真一は、まだ続けろという。
家で何もやることがないから、頼み込んでそろばん教室を開かせてもらった千穂は、なんとかここで自分の生きがいを見つける。
ある日、真一が運転中に人をはねてしまう。咄嗟に身代わりになるよう言われた千穂は、足を怪我したと思しき被害者と接触するが、彼は千穂の話を一切無視して金も受け取らない。
後日。千穂はコンビニで、その男がお金を出すのに戸惑っているのを見かけた。もしや、と思っていたが、どうやら思った通りのようだ。
ディスカリキュリア。数字や計算全般の障害で、簡単な計算や、数を数えると言ったことが出来ない。
そろばん教室を開いている千穂は、高山透と名乗ったその男に算数の勉強を教えることになったが…。
新藤賢治は、12年前妻を殺された。47歳だった。未だにその事件を引きずる賢治は、ある日テレビを見ていて驚いた。孫が好きなおもちゃを作っている会社も出展している見本市のニュース映像の中に、大西麗の姿を見たように感じたのだ。それが、弓場紀夫の近くにいたのだから、なおさらそう感じられた。
大西麗は、12年前妻が殺されたのと同じタイミングで亡くなり、弓場紀夫は彼が死んだことを証言した男だった。12年前に死んだはずの男が、テレビに映っている。まさかな…。
しかし、真実を知りたいという欲求を抑えきれない賢治は、弓場を尋ねることにするのだが…。
というような話です。
なかなか面白い作品でした。なんというのか、作品の中の「善悪」が丸ごとひっくり返っているように思わせながら、しかしそうでありながらも読ませてしまう力のある作品だなと感じました。
本書でメインで描かれる千穂は、色んな理由がありつつも、「悪」側に引きずり込まれてしまう人間です。また、千穂と共に行動することになる男も、「悪」側にいます。
彼らがしていること、やってしまったことは、明確に「悪」です。それは、衆目が知るところとなれば必ず裁きが下される類のことで、行為そのものに対しては弁解の余地がありません。
しかし、物語を読み進めていくと、明らかに「悪」側である彼らに対して、「自分でもそうしちゃうかも…」という気持ちがちょっと湧いてきます。やっていることは明らかに「悪」なのだけど、しかし人間の感情の部分で言えば、彼らの方がより人間らしいのではないか、と感じられてしまうのです。
というのも、表向き「善」でしかない人間の悪逆な部分を本書では鋭くついてくるからです。それが誰なのかはここでは触れませんが、明らかに狂気にやられている人間です。本書には様々な人間が登場しますが、恐らく彼が一番狂っているでしょう。しかし、表向き彼は、非常に「善」側の人間とみなされているのです。
そういう人はきっと、世の中に山ほどいることでしょう。犯罪者が「悪」側であることは明白ですが、しかし「善」側に見えていながら、犯罪者以上に「悪」である人間というのは、いかようにでも想像出来ます。
それ故に、普通であれば共感できるはずがない人に対して、共感のベクトルが向きそうになる…それが本書の凄いところだと感じました。
本書のラストは、色んなことが一段落してある程度時間が経った後の、ある人物の実感みたいなものが綴られます。このラストは、非常に印象的でした。まさに、どの立場からどういう風に物事を見るかによって、これほどまでに印象が変わるのだな、と感じました。
さて、少し話を変えて、千穂の絶望の話をしましょう。
千穂は、周囲から玉の輿だと言われるほどの相手と結婚し、家事など何もしないで生活しているという、見栄えだけは抜群の人生を送っています。しかし、内実はかなり悲惨です。夫からの「愛」だと思っていたものは結婚によってすぐに消え、日常のすべてを夫と義母に支配される生活。子供が出来ないことを陰に陽に責められ、あらゆる場面で便利な存在として使われ、だからと言って逃げ場もない。僕は結婚に憧れもないし、するつもりもないから、結婚すれば幸せになれる、などという戯言を信じることはないのだけど、そう信じて結婚した先にこういう生活が待ち構えている、ということは、誰にだって起こりうることだろうと思います。
そして何よりも辛いことは、千穂の絶望は誰かに話して伝わる可能性が低い、ということです。外見的には恵まれた幸せな結婚生活を送っているように見られているのだから、千穂が体験している様々な扱われ方は信じてもらえないだろうし、子供が出来ないことも、それだけ色んなことに恵まれているんだから、というような受け取り方しかされないかもしれません。現に千穂は、『自分を祝福してくれる人がいるなど考えたことがなかった』と思っているほどです。
また、千穂と共に逃げることになる男もまた、別種の絶望の中にいる。こちらは、周りからどう見られているかなどと考えることが無意味なほど、そもそもその絶望が他人に認知されない。何をどうすればそこから抜け出せるのか、そんな可能性すら見えてこないような日常を、死人のように生きている。
絶望というのは、一度取り込まれてしまうとなかなか抜け出せない。そして、深く引きずり込まれれば、周囲から見えにくくなる。まるでブラックホールのようなものだろう。絶望に近づかないのが一番の手だが、今の世の中、どこに落とし穴があってもおかしくはない。
どうにもならない絶望の中でもがいてもがいて、それでもどうにもならない真っ暗な中を、時々光が照らすことがある。本書を読みながら僕は、どうせなら僕も、そういう光側の人間でいたいものだ、と思った。
遠田潤子「蓮の数式」
ニュースの話だ。
日々、様々な事件が起こる。あぁ、そういう状況だったら、自分でもやっちゃうかもな、というような事件もある。その時その場にたまたまいたというだけで、運が悪かったと思ってしまうような事件もある。
そして、あぁなんでこんなことしたんだろう全然理解できない、と感じる事件もある。というか、やはりこう感じる場合が多いだろう。犯罪というのは、やるべきではないことだからこそ罪とされているのだし、それをしてしまう人間に共感できるケースは、やはり多くはないはずだ。
だから僕らは、事件の背景を、分かりやすい物語で埋めようとする。
本当は、そんなことする必要はないはずなのだ。別に、テレビや新聞で報じられる事件は、自分の身の回りにいる人間が起こしたわけではない。自分とは関係ないな、と思って、理解できないものは理解できないものとして放置しておくことだってできるはずなのだ。
ただ、僕らはなかなかそういう態度を取れない。何故なら、説明できないと不安だからだ。
僕らは、何か理由があって犯罪に手を染めたのだ、と思いたい。理由があれば安心だ。何故なら、その理由さえなければ、自分はその犯罪を犯さないと思えるから。僕らは、自分が犯罪に走ってしまうことを怖れる。もしかしたら、自分もやってしまうのではないか、とどこかで思っている。その気持ちを払拭するためには、犯罪者にはみな犯罪に至る理由がちゃんとあり、かつ、その理由が自分が住む世界には存在しないのだと、あるいはその理由が存在しても自分はそんな理由では犯罪には走らないと思えれば、安心できる。
だから僕らは、犯罪の背景を知りたがるし、その背景は自分を犯罪へと駆り立てるものではないと確信したい。
そういう動機があるから、僕らは事件を、分かりやすい物語に押し込めたくなってしまう。
ただ、そうやって起こった事件を自分の中で消化していっても、何の意味もない。当然だ。分かりやすい物語は、現実ではないからだ。
物語やノンフィクションを多く読んでいる人であれば、その辺りの想像はつきやすいだろう。人にはそれぞれ色んな事情がある。進学や結婚や出産など、比較的多くの人が行う事柄であれば、その背景にはある程度共通のものを想定することが出来る。しかし、犯罪というのは、ほとんどの人が経験しないことだ。軽微なものはともかく、傷害や殺人などとなると、圧倒的な少数派だ。そんな少数派の行動を見て、共通の何かを見出そうとしてもほとんど意味がない。犯罪はそれぞれ、個別の動機が生み出しているわけで、だから分かりやすい物語などにはめ込むことなど出来るはずもないのだ。
それに僕は、「犯罪を犯した者=凶悪な人間」という画一的な見方も、変だなと思っている。何故なら、人の気持ちが分かってしまう優しい人間だからこそ犯罪に手を染めざるを得なかった、という人だっていると思うからだ。安楽死などはまさにその典型だろうが、そういう分かりやすいものでなくても、優しさが引き起こす犯罪というのは間違いなくあるはずだと思う。
だから、ニュースを見て、分かった気になるのは止めようと、なるべく意識するようにしている。
内容に入ろうと思います。
安西千穂は、41歳で教育心理学の教授となった夫・真一と義母・寛子と暮らしている。真一は寛子にべったりで、結婚記念日の食事にも寛子がついてくるほどだ。家事一切は寛子が取り仕切り、何もするなと言われている千穂に課されているのは、妊娠だ。
10年間、不妊治療をして、4度流産した。35歳。真一は、まだ続けろという。
家で何もやることがないから、頼み込んでそろばん教室を開かせてもらった千穂は、なんとかここで自分の生きがいを見つける。
ある日、真一が運転中に人をはねてしまう。咄嗟に身代わりになるよう言われた千穂は、足を怪我したと思しき被害者と接触するが、彼は千穂の話を一切無視して金も受け取らない。
後日。千穂はコンビニで、その男がお金を出すのに戸惑っているのを見かけた。もしや、と思っていたが、どうやら思った通りのようだ。
ディスカリキュリア。数字や計算全般の障害で、簡単な計算や、数を数えると言ったことが出来ない。
そろばん教室を開いている千穂は、高山透と名乗ったその男に算数の勉強を教えることになったが…。
新藤賢治は、12年前妻を殺された。47歳だった。未だにその事件を引きずる賢治は、ある日テレビを見ていて驚いた。孫が好きなおもちゃを作っている会社も出展している見本市のニュース映像の中に、大西麗の姿を見たように感じたのだ。それが、弓場紀夫の近くにいたのだから、なおさらそう感じられた。
大西麗は、12年前妻が殺されたのと同じタイミングで亡くなり、弓場紀夫は彼が死んだことを証言した男だった。12年前に死んだはずの男が、テレビに映っている。まさかな…。
しかし、真実を知りたいという欲求を抑えきれない賢治は、弓場を尋ねることにするのだが…。
というような話です。
なかなか面白い作品でした。なんというのか、作品の中の「善悪」が丸ごとひっくり返っているように思わせながら、しかしそうでありながらも読ませてしまう力のある作品だなと感じました。
本書でメインで描かれる千穂は、色んな理由がありつつも、「悪」側に引きずり込まれてしまう人間です。また、千穂と共に行動することになる男も、「悪」側にいます。
彼らがしていること、やってしまったことは、明確に「悪」です。それは、衆目が知るところとなれば必ず裁きが下される類のことで、行為そのものに対しては弁解の余地がありません。
しかし、物語を読み進めていくと、明らかに「悪」側である彼らに対して、「自分でもそうしちゃうかも…」という気持ちがちょっと湧いてきます。やっていることは明らかに「悪」なのだけど、しかし人間の感情の部分で言えば、彼らの方がより人間らしいのではないか、と感じられてしまうのです。
というのも、表向き「善」でしかない人間の悪逆な部分を本書では鋭くついてくるからです。それが誰なのかはここでは触れませんが、明らかに狂気にやられている人間です。本書には様々な人間が登場しますが、恐らく彼が一番狂っているでしょう。しかし、表向き彼は、非常に「善」側の人間とみなされているのです。
そういう人はきっと、世の中に山ほどいることでしょう。犯罪者が「悪」側であることは明白ですが、しかし「善」側に見えていながら、犯罪者以上に「悪」である人間というのは、いかようにでも想像出来ます。
それ故に、普通であれば共感できるはずがない人に対して、共感のベクトルが向きそうになる…それが本書の凄いところだと感じました。
本書のラストは、色んなことが一段落してある程度時間が経った後の、ある人物の実感みたいなものが綴られます。このラストは、非常に印象的でした。まさに、どの立場からどういう風に物事を見るかによって、これほどまでに印象が変わるのだな、と感じました。
さて、少し話を変えて、千穂の絶望の話をしましょう。
千穂は、周囲から玉の輿だと言われるほどの相手と結婚し、家事など何もしないで生活しているという、見栄えだけは抜群の人生を送っています。しかし、内実はかなり悲惨です。夫からの「愛」だと思っていたものは結婚によってすぐに消え、日常のすべてを夫と義母に支配される生活。子供が出来ないことを陰に陽に責められ、あらゆる場面で便利な存在として使われ、だからと言って逃げ場もない。僕は結婚に憧れもないし、するつもりもないから、結婚すれば幸せになれる、などという戯言を信じることはないのだけど、そう信じて結婚した先にこういう生活が待ち構えている、ということは、誰にだって起こりうることだろうと思います。
そして何よりも辛いことは、千穂の絶望は誰かに話して伝わる可能性が低い、ということです。外見的には恵まれた幸せな結婚生活を送っているように見られているのだから、千穂が体験している様々な扱われ方は信じてもらえないだろうし、子供が出来ないことも、それだけ色んなことに恵まれているんだから、というような受け取り方しかされないかもしれません。現に千穂は、『自分を祝福してくれる人がいるなど考えたことがなかった』と思っているほどです。
また、千穂と共に逃げることになる男もまた、別種の絶望の中にいる。こちらは、周りからどう見られているかなどと考えることが無意味なほど、そもそもその絶望が他人に認知されない。何をどうすればそこから抜け出せるのか、そんな可能性すら見えてこないような日常を、死人のように生きている。
絶望というのは、一度取り込まれてしまうとなかなか抜け出せない。そして、深く引きずり込まれれば、周囲から見えにくくなる。まるでブラックホールのようなものだろう。絶望に近づかないのが一番の手だが、今の世の中、どこに落とし穴があってもおかしくはない。
どうにもならない絶望の中でもがいてもがいて、それでもどうにもならない真っ暗な中を、時々光が照らすことがある。本書を読みながら僕は、どうせなら僕も、そういう光側の人間でいたいものだ、と思った。
遠田潤子「蓮の数式」
「光」を観に行ってきました
「大事なもの」を持たないようにしている。なるべく。
「大事なもの」があると、自分の感情が揺さぶられる。守らなければ、と思う。でも、もし守れなかったら、絶望か後悔か、そう言った何かに襲われる。ずっとあって欲しいと思う。でも、その保証はない。何かの拍子に失われてしまうかもしれない、という怯えを捨て去ることは出来ない。「大事なもの」が傷付けられたら自分も傷付く。「大事なもの」が悲しい時は自分も悲しくなる。
もちろん、その逆もある。「大事なもの」があるからこそのプラスもあるだろう。でも、少なくとも僕は、その両者を足し合わせた時に、マイナスの方が勝つ。だったら「大事なもの」なんか要らないと思う。
『暴力に暴力で返した者は、人間の世界にいられないのかもしれない』
生得的に「暴力」が好きという人間ももちろんいるだろう。しかし「暴力」は、「大事なもの」を守るためにも発動される。「大事なもの」が自分自身であれ、誰か他の人であれ、何かのモノであれ、最終的には「暴力」で返すしか守れないものというのも、残念ながらある。
『人間のフリをするのが難しい』
「人間でありたい」と強く願うわけではない。別に人間である必要はない。でも、人間のカタチをしている以上、中身も人間である方が生きやすい。
「人間であること」を諦めざるを得なくなった時、その目に何が映るだろうか?
『死んだ方がマシって人生だってあるだろ』
内容に入ろうと思います。
東京の離島である美浜島で、中学生の信之と美花、そして小学生の輔は暮らしている。信之は、美しい美花と付き合っており、時々神社でセックスをしている。信之にとって美花はすべてだった。輔は父親から虐待を受けており、いつも傷だらけだ。そんな輔は信之を慕って、いつもくっついている。
ある日、美花と待ち合わせの場所に向かうと、そこで美花が男に犯されているのを目撃してしまう。信之は美花に頼まれ、その男を殺す。
そしてその夜。巨大な地震の後でやってきた津波で、美浜島は壊滅的な被害を被った。
25年の時が経った。市役所で働く信之は、美しい妻と5歳の娘と共に平凡な生活をしている。妻は、団地周辺での不審な出来事にちょっと神経質になっており、信之に引っ越しを検討してくれるよう頼むが、信之は意にも介さない。そんな妻は、電車に乗ってある男の部屋へと向かう。小汚いアパートにいるのは輔だ。輔は信之の妻と不倫関係にある。鉄くずの解体工場で働き、カツカツの生活をしている。
信之はリビングでテレビを見ている時、篠浦美喜という女優の特集を見かけた。美花だった。美花は、過去がほとんど明かされていない、ミステリアスな女優として紹介されていた…。
というような話です。
分かりやすい映画ではありません。小説は、エンタメと純文学なんていう区分がされることがあるけど、この映画をどちらかに区分するとしたら、純文学の方になるでしょう。信之、輔、美花の心の動きは、ほとんど明確には読み取れないまま、物語は展開されていく。何が起こっても無表情な信之、日常的に狂気に満ちた笑い声を発する輔、何を考えているのか分からない美花。彼らは、各々の人生を生きながら、同時に、25年前の出来事に囚われていく。
外から見れば、公務員であり家族もいる信之は幸せに映るだろう。しかし、信之自身はあの日以来ずっと、死んだように生きてきた。
『美花と会えなくなってから、幸も不幸もない。ただ生きてただけだ』
25年経った今も、信之の中には美花がいる。いや、美花しかいない。どれだけ恵まれた境遇にいようと、信之は何も感じない。信之の日常に、美花がいないからだ。満たされないし、意味を感じることが出来ない。
そのことは、輔から脅された信之の反応からもすぐに分かる。詳しくは書かないが、ある時まで輔の脅迫に無反応だった信之の態度が一転する。自分が生活の基盤を築いている日常に自分の軸足を置かないという狂気が、信之の在り方から染み出してくる。それは、妻との関わりの中からも感じ取ることが出来る。
輔は、単純な男に見える。楽して大金をせしめよう、という行動原理だけで動いているように思える。しかし、実際はそうではない。輔は今でも、信之に認められたい。子どもの頃、輔は信之を慕っていたが、信之は美花ばかり見て輔はかまってもらえなかった。輔はもちろん金も欲しい。しかし金のためだけだったら動かなかっただろう。相手が信之だったからこんなことをしたのだ。そういう気持ちは、ある場面で輔が呟く言葉に集約されるようにも感じられた。
『こうなれば良いと思ってたよ』
映画は信之と輔の関係性がメインであり、美花の出番は少ない。そういう意味でも、美花は捉えるのが難しい。しかし、子どもの頃はともかくとして、25年後の今、美花の中に信之がいない、ということは確かだろう。
輔が信之を想い、信之が美花を想い、美花は誰の方も向いていない。そういう構造が、彼らの、理不尽で不合理で理解不能な言動へと繋がっていく。
映画を観ながら、やはり一番の狂気は信之の中にある、と感じた。それを一番実感したのが、映画のほぼラスト、信之が「ただいま」というシーンだ。詳しくは書かないけど、それ以外に選択肢はなかったのかもしれないが、しかしそれでも、そう行動出来る信之は狂気に満ちているなと感じた。
この映画は、音楽が実に印象的だ。この映画の予告編を観ている時、「音楽 ジェフ・ミルズ」と大々的に映し出されていたので、有名な人なのだろう(僕は知らなかったけど)。
うまく説明できないが、この映画においては、映像と音楽が不協和音を奏でていたような印象が強かった。別にそれは悪いわけではない。恐らく、意図的なものだろう。普通の映画の場合、映像と音楽は合っているなと感じるのだけど、この映画では、音楽が流れると違和感を覚える。しかも、非常に強い違和感だ。音楽が主張しすぎているという感じだった。信之も輔も美花も、演技を観ているだけだと感情がないように感じられてしまうから、そういう映画全体の雰囲気をさらに誇張するという意味で、この音楽は合っていると言えるとは思う。しかし、正直もの凄い違和感だったので、よくこの音楽でGOが出たなという感じだった。正直、この映画の音楽をちゃんとは評価できないけど、全体としては成功しているのだと思う。
「光」を観に行ってきました
「大事なもの」があると、自分の感情が揺さぶられる。守らなければ、と思う。でも、もし守れなかったら、絶望か後悔か、そう言った何かに襲われる。ずっとあって欲しいと思う。でも、その保証はない。何かの拍子に失われてしまうかもしれない、という怯えを捨て去ることは出来ない。「大事なもの」が傷付けられたら自分も傷付く。「大事なもの」が悲しい時は自分も悲しくなる。
もちろん、その逆もある。「大事なもの」があるからこそのプラスもあるだろう。でも、少なくとも僕は、その両者を足し合わせた時に、マイナスの方が勝つ。だったら「大事なもの」なんか要らないと思う。
『暴力に暴力で返した者は、人間の世界にいられないのかもしれない』
生得的に「暴力」が好きという人間ももちろんいるだろう。しかし「暴力」は、「大事なもの」を守るためにも発動される。「大事なもの」が自分自身であれ、誰か他の人であれ、何かのモノであれ、最終的には「暴力」で返すしか守れないものというのも、残念ながらある。
『人間のフリをするのが難しい』
「人間でありたい」と強く願うわけではない。別に人間である必要はない。でも、人間のカタチをしている以上、中身も人間である方が生きやすい。
「人間であること」を諦めざるを得なくなった時、その目に何が映るだろうか?
『死んだ方がマシって人生だってあるだろ』
内容に入ろうと思います。
東京の離島である美浜島で、中学生の信之と美花、そして小学生の輔は暮らしている。信之は、美しい美花と付き合っており、時々神社でセックスをしている。信之にとって美花はすべてだった。輔は父親から虐待を受けており、いつも傷だらけだ。そんな輔は信之を慕って、いつもくっついている。
ある日、美花と待ち合わせの場所に向かうと、そこで美花が男に犯されているのを目撃してしまう。信之は美花に頼まれ、その男を殺す。
そしてその夜。巨大な地震の後でやってきた津波で、美浜島は壊滅的な被害を被った。
25年の時が経った。市役所で働く信之は、美しい妻と5歳の娘と共に平凡な生活をしている。妻は、団地周辺での不審な出来事にちょっと神経質になっており、信之に引っ越しを検討してくれるよう頼むが、信之は意にも介さない。そんな妻は、電車に乗ってある男の部屋へと向かう。小汚いアパートにいるのは輔だ。輔は信之の妻と不倫関係にある。鉄くずの解体工場で働き、カツカツの生活をしている。
信之はリビングでテレビを見ている時、篠浦美喜という女優の特集を見かけた。美花だった。美花は、過去がほとんど明かされていない、ミステリアスな女優として紹介されていた…。
というような話です。
分かりやすい映画ではありません。小説は、エンタメと純文学なんていう区分がされることがあるけど、この映画をどちらかに区分するとしたら、純文学の方になるでしょう。信之、輔、美花の心の動きは、ほとんど明確には読み取れないまま、物語は展開されていく。何が起こっても無表情な信之、日常的に狂気に満ちた笑い声を発する輔、何を考えているのか分からない美花。彼らは、各々の人生を生きながら、同時に、25年前の出来事に囚われていく。
外から見れば、公務員であり家族もいる信之は幸せに映るだろう。しかし、信之自身はあの日以来ずっと、死んだように生きてきた。
『美花と会えなくなってから、幸も不幸もない。ただ生きてただけだ』
25年経った今も、信之の中には美花がいる。いや、美花しかいない。どれだけ恵まれた境遇にいようと、信之は何も感じない。信之の日常に、美花がいないからだ。満たされないし、意味を感じることが出来ない。
そのことは、輔から脅された信之の反応からもすぐに分かる。詳しくは書かないが、ある時まで輔の脅迫に無反応だった信之の態度が一転する。自分が生活の基盤を築いている日常に自分の軸足を置かないという狂気が、信之の在り方から染み出してくる。それは、妻との関わりの中からも感じ取ることが出来る。
輔は、単純な男に見える。楽して大金をせしめよう、という行動原理だけで動いているように思える。しかし、実際はそうではない。輔は今でも、信之に認められたい。子どもの頃、輔は信之を慕っていたが、信之は美花ばかり見て輔はかまってもらえなかった。輔はもちろん金も欲しい。しかし金のためだけだったら動かなかっただろう。相手が信之だったからこんなことをしたのだ。そういう気持ちは、ある場面で輔が呟く言葉に集約されるようにも感じられた。
『こうなれば良いと思ってたよ』
映画は信之と輔の関係性がメインであり、美花の出番は少ない。そういう意味でも、美花は捉えるのが難しい。しかし、子どもの頃はともかくとして、25年後の今、美花の中に信之がいない、ということは確かだろう。
輔が信之を想い、信之が美花を想い、美花は誰の方も向いていない。そういう構造が、彼らの、理不尽で不合理で理解不能な言動へと繋がっていく。
映画を観ながら、やはり一番の狂気は信之の中にある、と感じた。それを一番実感したのが、映画のほぼラスト、信之が「ただいま」というシーンだ。詳しくは書かないけど、それ以外に選択肢はなかったのかもしれないが、しかしそれでも、そう行動出来る信之は狂気に満ちているなと感じた。
この映画は、音楽が実に印象的だ。この映画の予告編を観ている時、「音楽 ジェフ・ミルズ」と大々的に映し出されていたので、有名な人なのだろう(僕は知らなかったけど)。
うまく説明できないが、この映画においては、映像と音楽が不協和音を奏でていたような印象が強かった。別にそれは悪いわけではない。恐らく、意図的なものだろう。普通の映画の場合、映像と音楽は合っているなと感じるのだけど、この映画では、音楽が流れると違和感を覚える。しかも、非常に強い違和感だ。音楽が主張しすぎているという感じだった。信之も輔も美花も、演技を観ているだけだと感情がないように感じられてしまうから、そういう映画全体の雰囲気をさらに誇張するという意味で、この音楽は合っていると言えるとは思う。しかし、正直もの凄い違和感だったので、よくこの音楽でGOが出たなという感じだった。正直、この映画の音楽をちゃんとは評価できないけど、全体としては成功しているのだと思う。
「光」を観に行ってきました
シンメトリーの地図帳(マーカス・デュ・ソートイ)
久々に骨太の数学ノンフィクションを読んだけど、やっぱり面白かった。しかし、この「シンメトリー」というのを理解して説明するのは、本当に難しいなぁ。
まずは、この「シンメトリー」が、どれほど僕らの身の回りに溢れていて、重要なものであるのかということに触れてみようと思う。
『ミツバチの視覚はひどく限られている。(中略)ただひとつ、この縁の厚いメガネをかけたミツバチの目に強烈に焼き付くもの、それがシンメトリーなのである。
ミツバチは、六角形の形をしたクレマチスの花や、放射状に花弁が並ぶデイジーやヒマワリといった回転シンメトリーな形を好み、一方マルハナバチは、ランやフォックスグローブやマメ科の植物といった左右対称な鏡映シンメトリーを好む』
『そうはいっても、シンメトリーを手に入れるのはそう簡単なことではない。植物が懸命に努力し、貴重な自然資源をシンメトリーに振り向けない限り、ランやヒマワリのような美しくもバランスのとれた形は生み出せない。美しい形は、いわば贅沢だ。植物のなかでもっとも健康でもっとも生存に適した個体だけが余分なエネルギーを持っていて、それをバランスの取れた形を作ることに振り向けられる。つまり、シンメトリーな花のほうが個体として勝っているからこそ、蜜をたくさん作ることが出来て、そのうえ蜜の糖分も多くなる。シンメトリーは甘いのだ。』
『さまざまな研究の結果、われわれ人間においても、シンメトリーが強い人間のほうが早くセックスをはじめることがわかった』
『動物たちもまた、鏡映シンメトリーに引かれてきた。なぜなら、体のシンメトリーがとれていると、運動能力が高くなるからだ。シンメトリーは、完璧にバランスの取れた形と結びつくことが多い。ほとんどの運動能力において、シンメトリーなほうが、前進する力を効率的に生み出すことができる』
そんなわけで、自然界にはシンメトリーが随所に現れる。シンメトリーは「対称性」とも呼ばれるのだけど、訳者あとがきには、アインシュタインについてのこんな文章がある。
『アインシュタインは、これを受けてさらに考えを進め、できあがった理論や法則や方程式に結果として対称性が生まれるのではなく、逆に、対称性があるという前提に立つことで、自然法則や方程式が得られる、と確信するようになった。この決定的な発想の転換から生まれたのが、一般性相対性理論なのである。こうして20世紀の物理学は、まず対称性ありきで前進することとなった』
つまり、自然に対称性(シンメトリー)が存在することは必然的なことなのだ。そう考えると、シンメトリーについて理解することは非常に重要に思えてくる。
しかし数学においてシンメトリーが理解されるようになったのは、自然の観察を発端としているわけではない。数学において大きな転換点となったのは、「方程式の解の公式」である。
学生時代、誰もが「二次方程式の解の公式」を習ったはずだ。a,b,cの3つのアルファベットが含まれた長ったらしい公式を無理やり覚えた人も多いだろう。
さて、数学の歴史において、この「方程式の解の公式」というのは重要な問題だった。様々な数学者が、三次方程式や四次方程式を解くための解の公式を見つけようと奮闘し、それらはやがて果たされることとなる。しかし問題だったのが五次方程式の解の公式だ。誰も、五次方程式の解の公式を発見することが出来ないでいた。
そんな時に登場したのが、アーベルという天才数学者である。彼は、発想を変えた。そして彼は奮闘の末、「五次方程式の解の公式は存在しない」ということを証明してみせた。アーベルは、当時周辺諸国から孤立していたノルウェーの出身であり、学問の中心であるパリから程遠いところにいた。それに加え、様々な不運もあり、アーベルの業績が認められるのには長い時間が掛かったが、しかし今ではアーベルの成し遂げたことは大いに評価されている。
『数学者たちにも、アーベルの業績の美しさや深さがしだいにわかりはじめた。そしてフランスの数学者シャルル・エルミートが述べたように「アーベルが数学に残してくれたもののおかげで、数学者たちはその後500年間、忙しく過ごすことになった」。パリのアカデミーは1830年に、亡きアーベルにグランプリを与えた。今日、数学者にとって最高の名誉のひとつとされているのはノルウェーのアカデミーが授与するアーベル賞で、2003年に始まったこの賞には600万クローネの賞金がついており、ほかの科学におけるノーベル賞と並ぶ誉れ高い賞となっている』
さて、そんなアーベルの後に登場したのがガロアである。ガロアも数学者としては不遇の人生を歩んだ。有名な話だが、そもそもガロアは20歳の時に決闘で命を落としている。彼は10代で煌めくような発見をし、それを当代一の数学者に何度も送ったのだが、様々な不運により生きている間日の目を見ることがなかった。ガロアの業績が広く知られ、現在に至るまで大きな影響を与え続けているのは、ガロアの成した事をどうにか数学界に認めさせたいという情熱を持った友人のシュヴァリエのお陰だった。シュヴァリエは、ガロアの発見を理解できるほどの数学的素養は持ち合わせていなかったが、ガロアの死後も様々な数学者にガロアの業績を送り続け、ガロアが最初に論文を送ってから10年の月日が経った頃、ようやく認められるに至った。
アーベルは、五次方程式の解の公式などないと証明したが、しかし五次方程式にも「ちゃんと解ける方程式」はある。じゃあ、「ちゃんと解ける方程式」と「解けない方程式」を区別するものはなんなのか―それこそがガロアが考え始めた問いだった。そしてガロアは、その背景にシンメトリーが関わっていることを見抜き、それまで存在しなかった「群論」という新しい学問を生み出した。群論は、シンメトリーという非常に捉えにくい概念を記述可能にする言語のようなものだ。数学者はガロアの発見によってようやく、シンメトリーを数学的に記述する方法を手に入れたのだ。
『ガロアがシュヴァリエに残した文書には、自然界のもっとも基本的な概念のひとつであるシンメトリーに関するまったく新たな展望の種が含まれていた。今になってガロアのメモに目を通してみると、こんなに若い人間がここまでの洞察力を持っていたことに、ただただ目を見張るばかりだ。数学者たちはここ200年の間に、シンメトリーに関する理論において幾度となく飛躍的な全身を遂げてきたが、それもこれも元をたどれば、ガロアが書きなぐったメモに潜む奥深い発想が源なのだ。この若き革命家は、今わたしたちが毎日のように仕事で使っている数学の言語を、はじめて明確に表現した人物だったのである』
さて、シンメトリーというのはここまで、方程式が解けるか解けないかという問題に絡んでいるだけだった。ガロアは、「対象としているシンメトリー群が、より小さなシンメトリー群に分割出来るか否か」が、方程式が解けるかどうかに絡んでいると洞察した。この「分割する」というのはうまく表現できないが(そもそも僕がうまく理解できていない)、不正確な比喩でよければ数における素数のようなものを想定できる。例えば、「12」という数字は「2×2×3」という形で、より小さな数字(素数)の積に分けられる。しかし「13」という数字はこれ以上分割出来ない。これと似たようなイメージで、シンメトリー群にも「分割可能な群」と「分割不可能な群」があり、分割可能なら方程式が解けるのだ、ということが分かってきた。
そして、ガロアのメモからその着想を拾い上げ、理論を構築し始めたのがジョルダンだ。ジョルダンは、「分割不可能な群=単純群」に着目することで、シンメトリーという分野をさらに押し広げた。これによって群論学者たちは次第に、「単純群をすべて網羅する」という闘いへと挑んでいくことになる。そしてそれは、「アトラス(シンメトリーの地図帳)」という形で結実することになる。
しかし、群論によってシンメトリーをさらに深めていくためには、ケイリーという数学者が必要だった。ケイリーは弁護士だったが、弁護士の業務の傍ら膨大な数学の論文を発表した人物だ。ケイリーは、ある表を作り出した。その表を使えば、シンメトリーの性質を見事に表現でき、シンメトリーの探索を進める上で強力な言語となった。ケイリーはこんな風に評価されている。
『同時代人のジョージ・サーモンは、数学に対するケイリーの貢献を次のように要約している。
現在数学者たちが代数形式の構造に関して知っていることは、ケイリーが登場する以前の知識とはがらりと様変わりしている。ちょうど、人体を解剖したうえでその内部構造についての知識を得た人が人体について知っていることと、人体を外から見ただけの人が人体について知っていることとが、まるで違っているように』
「単純群を網羅する」というプロジェクトには、もう一つ重要な人物がいた。バーンサイドだ。彼は、「位数が二つの素数でしか割り切れない群は、辺の数が十数の正多角形の回転群から構成されている」(僕には何を言っているのか分からないけど)という定理証明したことで、単純群の性質を捉えやすくなった。さらに彼はこの定理によって、「位数が二つの素数で割り切れない群」についてもある予想を立てた。それが、「シンメトリーの総数が奇数なら、そのシンメトリー群は常に辺の数が素数の図形の単純群に分割されるだろう」というものだ(相変わらず僕には何を言っているのか分からない)。どうやらこの予想が正しいことが証明できれば、単純群の基本構成要素を完璧に分析できると多くの数学者が考えたようで、そういう楽観が、「単純群を網羅しよう」とい動きに繋がっていったのだ。
しかし物事はそう簡単ではない。マシューという数学者が奇妙なシンメトリー群を発見していたのだ。バーンサイドの定理と予想から、単純群(分割不可能な群)は捉えやすいと考えられていたが、マシューが発見したシンメトリー群は、分割不可能でありながら既存のパターンに当てはまらない奇妙なものだったのだ。そういった奇妙なシンメトリー群は、その後たくさん見つかることになるのだ。
その後、様々な数学者が変わったシンメトリー群を発見するに至り、「単純群を網羅する」という計画も単純ではないということが理解されるようになっていった。そしてここから、後々「モンスター」と名付けられることになる、ひと際奇妙なシンメトリー群の発見に至る物語が始まる。「モンスター」は、4154781481226426191177580544000000個のシンメトリーを含み、最低でも196883次元に存在するという。もはやなんのこっちゃわからんが、この「モンスター」が発見される端緒となった出来事もまた、なんのこっちゃという感じなのである。
数学には、ケプラー予想という、誰もが答えは知っていたけど証明するのが恐ろしく難しい予想というのがあった。これは、ある空間の中に球(ボール)を詰め込む時、一番たくさん入る(充填率の大きい)詰め方は何か、という問題だ。これは、六角格子と呼ばれる詰め方であることが証明された。
このケプラー予想は、3次元空間におけるものだったが、ケプラー予想が証明された後、同じことを4次元空間、5次元空間…で考える人間が現れた。次元を上げていっても、やはり六角格子が最も良い詰め方だと証明されたのだけど、24次元で奇妙なことが起こった。24次元空間においては、六角格子よりも充填率の大きい詰め方が発見されたのだ。しかもそれは、24次元でしか通用しないという。リーチ格子と呼ばれることになるこの詰め方のことを、シンメトリーを研究していたコンウェイが知ったことから、「モンスター」の発見の物語はスタートする。
コンウェイは、このリーチ格子を詳しく調べることで、それがある単純群と関係があることに気づいた。そして、もし存在するとすればどういう性質を持つシンメトリー群であるのかを調べることも出来た。そのあまりに桁違いの性質に、「モンスター」という名がつけられたのだが、しかし誰もこのシンメトリー群を現実に構築することが出来ないでいた。
やがてある数学者がそれを実際に構築出来ることを示し、「モンスター」が実際に発見されるに至った。
『ボーチャーズの計算によって、「アトラス」のモンスターに関する数値と、数論に登場するモジュラー関数を巡る数値が、なぜともに頂点作用素代数によって照らされているのかが明らかになった。こうして、紐理論を支える代数や宇宙についての物理理論とつながっていることがわかると、ムーンシャインはますます風変わりなものに見えてきた。この結びつきが噂になり、モンスターは神秘的な「宇宙のシンメトリー群」と呼ばれるようになった。19万6883次元に存在するこの奇妙なシンメトリーを持つ雪片が明らかにしているパターンは、どう考えても理論物理学の概念と響き合っているとしか考えられなかった』
僕ら凡人には理解不能としか思えないような規模や性質を持つこの「モンスター」というシンメトリー群が、相対性理論と量子論(この二つは、20世紀物理学の頂点であり、また、万物を記述する統一理論のためにはこの二つを統合しなければならないのだけど、現時点では非常に難しいと考えられている)を繋ぐと考えられている紐理論と結びついているのだという。つまりそれは、数学者が見つけた、その実在さえ想像出来ないような(何せ、196883次元だ!)ものが、現実の世界と関係している、ということなのだ。
数学に向けられる疑問としてよく、「それが何の役に立つのか」というものがある。確かに著者自身(数学者である)も、こんな風に書いている。
『数学という学問にはきわめて抽象的で浮世離れしたところがあり、ときには挫折しそうになることもある。何年にもわたってある予想を証明しようと懸命に努力を続け、やっとの思いで証明が完成しても、その証明の真価がわかる人間はせいぜい2,3人。自分が何に取り組んできたのか、家族にも友人にも、本当のところはまるでわからない』
しかし、特に数学は、発見され突き詰められた時と、それが応用されるタイミングが重なるとは限らない。ずっと昔からある数学が、突如現実の世界で活躍することだってある。その顕著な例が、RSA暗号だろう。RSA暗号は、現在の様々な暗号システム(銀行口座の暗証番号や、ネットサイトのパスワードなど)の根幹を成すものだが、その基本的な発想は、誰もが学生時代に習ったあの「因数分解」である。因数分解なんかやって、何の意味があるのかと学生時代思った人が多いだろうが、その因数分解が、現代社会を根底から支えていると言っても言い過ぎではない暗号システムのベースとなっているのだ。
本書では実用化の例として、電子通信システムの例が載っている。シンメトリーの発想が見事に実用化へと結びついた例だ。データをネット回線を通じて遠くへと送る際、どうしてもエラーが発生する。どうにかして、受け取った情報の「どこにエラーがあるか」が分かる方法はないか、あるいは「エラーがあった場合に自動的に修復してくれる」手法はないかと様々な人が考えた。そしてその構築に、当時発展目覚ましかったシンメトリーの知見が使われたのだ。
また、妊娠中のつわりを軽減するとして発売された「サリドマイド」という薬が何故奇形児を生み出すことになってしまったのかや、バクテリアとはまるで違う挙動をする生命体(後に「ウイルス」と名付けられた)を理解するために、シンメトリーという考え方が欠かせなかった。もし、「シンメトリーの研究にどんな意味があるんだ」という声が大きくなり、その研究が下火になるようなことがあれば、ネット上で動画を見るようなサイトは生まれなかったかもしれないし、「サリドマイド」やウイルスへの理解も及ばなかったに違いない。
そういう意味で、特に数学や科学という学問に対して、「それが何の意味があるのか?」と問うことは止めて欲しいなぁ、と思うのだ。
シンメトリーの話の最後に、「有限単純群の分類定理の証明」の話を書こう。これは、数十年に渡って、多数の数学者が力を合わせて成し遂げたもので、『数学史上初の、多数の数学者が協力して成し遂げたがために、特定の人物の名前をつけることができず、つけたとことで意味がない証明が誕生した』のだ。この証明は、500タイトルを超す雑誌に掲載された、延べ1万ページに渡る証明だそうで、その全文を読んだことがある人間がいるかも定かではないという。ヒルベルトという数学者は、1900年に国際数学者会議で行った有名な講演の中でこう述べたという。
『数学の理論は、その理論を通りで出くわした最初の人物に説明できるくらい明晰にできて、はじめて完璧だといえる』
そういう意味でこの定理は、まだ完全とは言えないのだろう。
さて、また訳者あとがきから引用しよう。
『本書には、シンメトリーや群論を巡るほかの著書にはない特徴がある。それは、今を生きる数学者としての自分の日常と、自分と同じことに関心を持ってきた先人たちの歴史と、自分が今現在行っている数学としての群論の三つを、ひとつの実体として伝えようとしている点だ』
確かにこの点は印象的だった。本書は、自身も数学者である著者(しかもシンメトリーを研究している)の来歴や葛藤、さらに養子をもらうという話まで載っている。本書は、シンメトリーという学問分野を貫く歴史を見せてくれる本でもあるが、同時に、マーカス・デュ・ソートイという数学者の個人的な日常を染み出させる作品でもあるのだ。
例えば、子どもの頃に数学者を志した時の心境をこう書いている。
『何としてでもこの言葉(=数学)を身につけたい、とわたしは思った。そうなると外務省には入れなくなり、スパイになる夢をあきらめなくてはならなくなるけれど、でも、スパイの世界での出来事と同じくらい心躍る秘密の暗号があるのだからそれでいい』
また、同業者に先を越されそうになった時の心境をこう書いている。
『するとフリッツはその電話で、「来週までには、クリストファーとふたりであの関数方程式を証明できると思うんだ」といった。今でも憶えているのだが、そのときわたしはパニックに陥った。喜んでしかるべきなのに、すっかり打ちのめされた。わたしが自分で証明したいと考えていたのに。自分のアイデアを人に教えるのは間違いかもしれない、とわかってはいた。でも、数学という学問のためを思って、自分が、自分が、というのは慎んでいた。だがこうなってみると、ほかの人間がその問題を証明してしまうかもしれないと考えるだけでたまらなかった』
こういう、人間味溢れる記述が随所に溢れている。数学書というと、無味乾燥な作品をイメージするかもしれないが、本書は著者のエッセイという性格も持ち合わせていて、よくある数学書とまた違った読み味だ。そういう意味でも、本書は面白く読める作品だと思う。
マーカス・デュ・ソートイ「シンメトリーの地図帳」
まずは、この「シンメトリー」が、どれほど僕らの身の回りに溢れていて、重要なものであるのかということに触れてみようと思う。
『ミツバチの視覚はひどく限られている。(中略)ただひとつ、この縁の厚いメガネをかけたミツバチの目に強烈に焼き付くもの、それがシンメトリーなのである。
ミツバチは、六角形の形をしたクレマチスの花や、放射状に花弁が並ぶデイジーやヒマワリといった回転シンメトリーな形を好み、一方マルハナバチは、ランやフォックスグローブやマメ科の植物といった左右対称な鏡映シンメトリーを好む』
『そうはいっても、シンメトリーを手に入れるのはそう簡単なことではない。植物が懸命に努力し、貴重な自然資源をシンメトリーに振り向けない限り、ランやヒマワリのような美しくもバランスのとれた形は生み出せない。美しい形は、いわば贅沢だ。植物のなかでもっとも健康でもっとも生存に適した個体だけが余分なエネルギーを持っていて、それをバランスの取れた形を作ることに振り向けられる。つまり、シンメトリーな花のほうが個体として勝っているからこそ、蜜をたくさん作ることが出来て、そのうえ蜜の糖分も多くなる。シンメトリーは甘いのだ。』
『さまざまな研究の結果、われわれ人間においても、シンメトリーが強い人間のほうが早くセックスをはじめることがわかった』
『動物たちもまた、鏡映シンメトリーに引かれてきた。なぜなら、体のシンメトリーがとれていると、運動能力が高くなるからだ。シンメトリーは、完璧にバランスの取れた形と結びつくことが多い。ほとんどの運動能力において、シンメトリーなほうが、前進する力を効率的に生み出すことができる』
そんなわけで、自然界にはシンメトリーが随所に現れる。シンメトリーは「対称性」とも呼ばれるのだけど、訳者あとがきには、アインシュタインについてのこんな文章がある。
『アインシュタインは、これを受けてさらに考えを進め、できあがった理論や法則や方程式に結果として対称性が生まれるのではなく、逆に、対称性があるという前提に立つことで、自然法則や方程式が得られる、と確信するようになった。この決定的な発想の転換から生まれたのが、一般性相対性理論なのである。こうして20世紀の物理学は、まず対称性ありきで前進することとなった』
つまり、自然に対称性(シンメトリー)が存在することは必然的なことなのだ。そう考えると、シンメトリーについて理解することは非常に重要に思えてくる。
しかし数学においてシンメトリーが理解されるようになったのは、自然の観察を発端としているわけではない。数学において大きな転換点となったのは、「方程式の解の公式」である。
学生時代、誰もが「二次方程式の解の公式」を習ったはずだ。a,b,cの3つのアルファベットが含まれた長ったらしい公式を無理やり覚えた人も多いだろう。
さて、数学の歴史において、この「方程式の解の公式」というのは重要な問題だった。様々な数学者が、三次方程式や四次方程式を解くための解の公式を見つけようと奮闘し、それらはやがて果たされることとなる。しかし問題だったのが五次方程式の解の公式だ。誰も、五次方程式の解の公式を発見することが出来ないでいた。
そんな時に登場したのが、アーベルという天才数学者である。彼は、発想を変えた。そして彼は奮闘の末、「五次方程式の解の公式は存在しない」ということを証明してみせた。アーベルは、当時周辺諸国から孤立していたノルウェーの出身であり、学問の中心であるパリから程遠いところにいた。それに加え、様々な不運もあり、アーベルの業績が認められるのには長い時間が掛かったが、しかし今ではアーベルの成し遂げたことは大いに評価されている。
『数学者たちにも、アーベルの業績の美しさや深さがしだいにわかりはじめた。そしてフランスの数学者シャルル・エルミートが述べたように「アーベルが数学に残してくれたもののおかげで、数学者たちはその後500年間、忙しく過ごすことになった」。パリのアカデミーは1830年に、亡きアーベルにグランプリを与えた。今日、数学者にとって最高の名誉のひとつとされているのはノルウェーのアカデミーが授与するアーベル賞で、2003年に始まったこの賞には600万クローネの賞金がついており、ほかの科学におけるノーベル賞と並ぶ誉れ高い賞となっている』
さて、そんなアーベルの後に登場したのがガロアである。ガロアも数学者としては不遇の人生を歩んだ。有名な話だが、そもそもガロアは20歳の時に決闘で命を落としている。彼は10代で煌めくような発見をし、それを当代一の数学者に何度も送ったのだが、様々な不運により生きている間日の目を見ることがなかった。ガロアの業績が広く知られ、現在に至るまで大きな影響を与え続けているのは、ガロアの成した事をどうにか数学界に認めさせたいという情熱を持った友人のシュヴァリエのお陰だった。シュヴァリエは、ガロアの発見を理解できるほどの数学的素養は持ち合わせていなかったが、ガロアの死後も様々な数学者にガロアの業績を送り続け、ガロアが最初に論文を送ってから10年の月日が経った頃、ようやく認められるに至った。
アーベルは、五次方程式の解の公式などないと証明したが、しかし五次方程式にも「ちゃんと解ける方程式」はある。じゃあ、「ちゃんと解ける方程式」と「解けない方程式」を区別するものはなんなのか―それこそがガロアが考え始めた問いだった。そしてガロアは、その背景にシンメトリーが関わっていることを見抜き、それまで存在しなかった「群論」という新しい学問を生み出した。群論は、シンメトリーという非常に捉えにくい概念を記述可能にする言語のようなものだ。数学者はガロアの発見によってようやく、シンメトリーを数学的に記述する方法を手に入れたのだ。
『ガロアがシュヴァリエに残した文書には、自然界のもっとも基本的な概念のひとつであるシンメトリーに関するまったく新たな展望の種が含まれていた。今になってガロアのメモに目を通してみると、こんなに若い人間がここまでの洞察力を持っていたことに、ただただ目を見張るばかりだ。数学者たちはここ200年の間に、シンメトリーに関する理論において幾度となく飛躍的な全身を遂げてきたが、それもこれも元をたどれば、ガロアが書きなぐったメモに潜む奥深い発想が源なのだ。この若き革命家は、今わたしたちが毎日のように仕事で使っている数学の言語を、はじめて明確に表現した人物だったのである』
さて、シンメトリーというのはここまで、方程式が解けるか解けないかという問題に絡んでいるだけだった。ガロアは、「対象としているシンメトリー群が、より小さなシンメトリー群に分割出来るか否か」が、方程式が解けるかどうかに絡んでいると洞察した。この「分割する」というのはうまく表現できないが(そもそも僕がうまく理解できていない)、不正確な比喩でよければ数における素数のようなものを想定できる。例えば、「12」という数字は「2×2×3」という形で、より小さな数字(素数)の積に分けられる。しかし「13」という数字はこれ以上分割出来ない。これと似たようなイメージで、シンメトリー群にも「分割可能な群」と「分割不可能な群」があり、分割可能なら方程式が解けるのだ、ということが分かってきた。
そして、ガロアのメモからその着想を拾い上げ、理論を構築し始めたのがジョルダンだ。ジョルダンは、「分割不可能な群=単純群」に着目することで、シンメトリーという分野をさらに押し広げた。これによって群論学者たちは次第に、「単純群をすべて網羅する」という闘いへと挑んでいくことになる。そしてそれは、「アトラス(シンメトリーの地図帳)」という形で結実することになる。
しかし、群論によってシンメトリーをさらに深めていくためには、ケイリーという数学者が必要だった。ケイリーは弁護士だったが、弁護士の業務の傍ら膨大な数学の論文を発表した人物だ。ケイリーは、ある表を作り出した。その表を使えば、シンメトリーの性質を見事に表現でき、シンメトリーの探索を進める上で強力な言語となった。ケイリーはこんな風に評価されている。
『同時代人のジョージ・サーモンは、数学に対するケイリーの貢献を次のように要約している。
現在数学者たちが代数形式の構造に関して知っていることは、ケイリーが登場する以前の知識とはがらりと様変わりしている。ちょうど、人体を解剖したうえでその内部構造についての知識を得た人が人体について知っていることと、人体を外から見ただけの人が人体について知っていることとが、まるで違っているように』
「単純群を網羅する」というプロジェクトには、もう一つ重要な人物がいた。バーンサイドだ。彼は、「位数が二つの素数でしか割り切れない群は、辺の数が十数の正多角形の回転群から構成されている」(僕には何を言っているのか分からないけど)という定理証明したことで、単純群の性質を捉えやすくなった。さらに彼はこの定理によって、「位数が二つの素数で割り切れない群」についてもある予想を立てた。それが、「シンメトリーの総数が奇数なら、そのシンメトリー群は常に辺の数が素数の図形の単純群に分割されるだろう」というものだ(相変わらず僕には何を言っているのか分からない)。どうやらこの予想が正しいことが証明できれば、単純群の基本構成要素を完璧に分析できると多くの数学者が考えたようで、そういう楽観が、「単純群を網羅しよう」とい動きに繋がっていったのだ。
しかし物事はそう簡単ではない。マシューという数学者が奇妙なシンメトリー群を発見していたのだ。バーンサイドの定理と予想から、単純群(分割不可能な群)は捉えやすいと考えられていたが、マシューが発見したシンメトリー群は、分割不可能でありながら既存のパターンに当てはまらない奇妙なものだったのだ。そういった奇妙なシンメトリー群は、その後たくさん見つかることになるのだ。
その後、様々な数学者が変わったシンメトリー群を発見するに至り、「単純群を網羅する」という計画も単純ではないということが理解されるようになっていった。そしてここから、後々「モンスター」と名付けられることになる、ひと際奇妙なシンメトリー群の発見に至る物語が始まる。「モンスター」は、4154781481226426191177580544000000個のシンメトリーを含み、最低でも196883次元に存在するという。もはやなんのこっちゃわからんが、この「モンスター」が発見される端緒となった出来事もまた、なんのこっちゃという感じなのである。
数学には、ケプラー予想という、誰もが答えは知っていたけど証明するのが恐ろしく難しい予想というのがあった。これは、ある空間の中に球(ボール)を詰め込む時、一番たくさん入る(充填率の大きい)詰め方は何か、という問題だ。これは、六角格子と呼ばれる詰め方であることが証明された。
このケプラー予想は、3次元空間におけるものだったが、ケプラー予想が証明された後、同じことを4次元空間、5次元空間…で考える人間が現れた。次元を上げていっても、やはり六角格子が最も良い詰め方だと証明されたのだけど、24次元で奇妙なことが起こった。24次元空間においては、六角格子よりも充填率の大きい詰め方が発見されたのだ。しかもそれは、24次元でしか通用しないという。リーチ格子と呼ばれることになるこの詰め方のことを、シンメトリーを研究していたコンウェイが知ったことから、「モンスター」の発見の物語はスタートする。
コンウェイは、このリーチ格子を詳しく調べることで、それがある単純群と関係があることに気づいた。そして、もし存在するとすればどういう性質を持つシンメトリー群であるのかを調べることも出来た。そのあまりに桁違いの性質に、「モンスター」という名がつけられたのだが、しかし誰もこのシンメトリー群を現実に構築することが出来ないでいた。
やがてある数学者がそれを実際に構築出来ることを示し、「モンスター」が実際に発見されるに至った。
『ボーチャーズの計算によって、「アトラス」のモンスターに関する数値と、数論に登場するモジュラー関数を巡る数値が、なぜともに頂点作用素代数によって照らされているのかが明らかになった。こうして、紐理論を支える代数や宇宙についての物理理論とつながっていることがわかると、ムーンシャインはますます風変わりなものに見えてきた。この結びつきが噂になり、モンスターは神秘的な「宇宙のシンメトリー群」と呼ばれるようになった。19万6883次元に存在するこの奇妙なシンメトリーを持つ雪片が明らかにしているパターンは、どう考えても理論物理学の概念と響き合っているとしか考えられなかった』
僕ら凡人には理解不能としか思えないような規模や性質を持つこの「モンスター」というシンメトリー群が、相対性理論と量子論(この二つは、20世紀物理学の頂点であり、また、万物を記述する統一理論のためにはこの二つを統合しなければならないのだけど、現時点では非常に難しいと考えられている)を繋ぐと考えられている紐理論と結びついているのだという。つまりそれは、数学者が見つけた、その実在さえ想像出来ないような(何せ、196883次元だ!)ものが、現実の世界と関係している、ということなのだ。
数学に向けられる疑問としてよく、「それが何の役に立つのか」というものがある。確かに著者自身(数学者である)も、こんな風に書いている。
『数学という学問にはきわめて抽象的で浮世離れしたところがあり、ときには挫折しそうになることもある。何年にもわたってある予想を証明しようと懸命に努力を続け、やっとの思いで証明が完成しても、その証明の真価がわかる人間はせいぜい2,3人。自分が何に取り組んできたのか、家族にも友人にも、本当のところはまるでわからない』
しかし、特に数学は、発見され突き詰められた時と、それが応用されるタイミングが重なるとは限らない。ずっと昔からある数学が、突如現実の世界で活躍することだってある。その顕著な例が、RSA暗号だろう。RSA暗号は、現在の様々な暗号システム(銀行口座の暗証番号や、ネットサイトのパスワードなど)の根幹を成すものだが、その基本的な発想は、誰もが学生時代に習ったあの「因数分解」である。因数分解なんかやって、何の意味があるのかと学生時代思った人が多いだろうが、その因数分解が、現代社会を根底から支えていると言っても言い過ぎではない暗号システムのベースとなっているのだ。
本書では実用化の例として、電子通信システムの例が載っている。シンメトリーの発想が見事に実用化へと結びついた例だ。データをネット回線を通じて遠くへと送る際、どうしてもエラーが発生する。どうにかして、受け取った情報の「どこにエラーがあるか」が分かる方法はないか、あるいは「エラーがあった場合に自動的に修復してくれる」手法はないかと様々な人が考えた。そしてその構築に、当時発展目覚ましかったシンメトリーの知見が使われたのだ。
また、妊娠中のつわりを軽減するとして発売された「サリドマイド」という薬が何故奇形児を生み出すことになってしまったのかや、バクテリアとはまるで違う挙動をする生命体(後に「ウイルス」と名付けられた)を理解するために、シンメトリーという考え方が欠かせなかった。もし、「シンメトリーの研究にどんな意味があるんだ」という声が大きくなり、その研究が下火になるようなことがあれば、ネット上で動画を見るようなサイトは生まれなかったかもしれないし、「サリドマイド」やウイルスへの理解も及ばなかったに違いない。
そういう意味で、特に数学や科学という学問に対して、「それが何の意味があるのか?」と問うことは止めて欲しいなぁ、と思うのだ。
シンメトリーの話の最後に、「有限単純群の分類定理の証明」の話を書こう。これは、数十年に渡って、多数の数学者が力を合わせて成し遂げたもので、『数学史上初の、多数の数学者が協力して成し遂げたがために、特定の人物の名前をつけることができず、つけたとことで意味がない証明が誕生した』のだ。この証明は、500タイトルを超す雑誌に掲載された、延べ1万ページに渡る証明だそうで、その全文を読んだことがある人間がいるかも定かではないという。ヒルベルトという数学者は、1900年に国際数学者会議で行った有名な講演の中でこう述べたという。
『数学の理論は、その理論を通りで出くわした最初の人物に説明できるくらい明晰にできて、はじめて完璧だといえる』
そういう意味でこの定理は、まだ完全とは言えないのだろう。
さて、また訳者あとがきから引用しよう。
『本書には、シンメトリーや群論を巡るほかの著書にはない特徴がある。それは、今を生きる数学者としての自分の日常と、自分と同じことに関心を持ってきた先人たちの歴史と、自分が今現在行っている数学としての群論の三つを、ひとつの実体として伝えようとしている点だ』
確かにこの点は印象的だった。本書は、自身も数学者である著者(しかもシンメトリーを研究している)の来歴や葛藤、さらに養子をもらうという話まで載っている。本書は、シンメトリーという学問分野を貫く歴史を見せてくれる本でもあるが、同時に、マーカス・デュ・ソートイという数学者の個人的な日常を染み出させる作品でもあるのだ。
例えば、子どもの頃に数学者を志した時の心境をこう書いている。
『何としてでもこの言葉(=数学)を身につけたい、とわたしは思った。そうなると外務省には入れなくなり、スパイになる夢をあきらめなくてはならなくなるけれど、でも、スパイの世界での出来事と同じくらい心躍る秘密の暗号があるのだからそれでいい』
また、同業者に先を越されそうになった時の心境をこう書いている。
『するとフリッツはその電話で、「来週までには、クリストファーとふたりであの関数方程式を証明できると思うんだ」といった。今でも憶えているのだが、そのときわたしはパニックに陥った。喜んでしかるべきなのに、すっかり打ちのめされた。わたしが自分で証明したいと考えていたのに。自分のアイデアを人に教えるのは間違いかもしれない、とわかってはいた。でも、数学という学問のためを思って、自分が、自分が、というのは慎んでいた。だがこうなってみると、ほかの人間がその問題を証明してしまうかもしれないと考えるだけでたまらなかった』
こういう、人間味溢れる記述が随所に溢れている。数学書というと、無味乾燥な作品をイメージするかもしれないが、本書は著者のエッセイという性格も持ち合わせていて、よくある数学書とまた違った読み味だ。そういう意味でも、本書は面白く読める作品だと思う。
マーカス・デュ・ソートイ「シンメトリーの地図帳」
「大人になりきれない人」の心理(加藤諦三)
僕は、サラリーマンになりたくなくて就活から逃げ、結婚や恋愛は無理だなと思って女性とは友だちでいたいと思っている。この裏側に、「責任を負いたくない」という気持ちがあることは、昔から分かっていた。僕は、自分に何らかの責任が課され、その責任を果たさなければならないという圧力が存在する場所がずっと嫌だった。すぐにそこに原因があると気づけたわけではない。自分が何に対して葛藤を感じているのか、理解するのにはかなり時間が掛かった。とはいえ、今では概ね理解できているし、そういう自分をどう「生きさせるか」も、自分なりに考えて実行できていると思う。
『大人になりきれていない人とはどういう人たちか。一口に言えば、自分一人が生きるのに精一杯なのに、社会的責任を負わされて生きるのが辛くて、どうにもならなくなっている人たちである。つまり、五歳児の「大人」なのである』
本書は、こんな文章から始まっている。僕にとってはなかなか納得感のある説明だ。まあそうだなと思う。僕のことも、短く説明すればこんな表現になるだろう。
そういう意味で本書は、なるほどと感じる部分はそれなりにあった。本書では繰り返し、「五歳児なのに社会的責任を負わされているから生きているのが辛いんだ」と様々な表現で書かれていて、メインの主張はほぼこれだけと言っていいのだけど、分かりやすいし納得できる。
何故生きづらいのか、何故他人に攻撃的になってしまうのか、何故現実を否定しようとするのか、そういう人たちの生態みたいなものを、「五歳児の大人」とい
切り口からわりあいうまく説明していく。実際に、自分の周りにもこういう人いるなぁ(表への現れ方は人それぞれ違うけど)と感じることもあった。
僕自身は、本書を読みながら、昔の自分はこうだったなぁ、と思っていた。僕は別に、「五歳児の大人」であることから逃れられたわけではない。僕は今でも、感覚としては「五歳児の大人」のままだと思う。ただ、自分のそういう性質とどう関わっていくのかということを、自分なりに考えて対処出来るようになっている。長い時間が掛かったし、色んな人に迷惑も掛けたけど、自分を「生きさせる」ためにあれこれ頑張ってきたお陰で、今なんとかうまくやれていると思う。
そんなわけで本書は、面白いと感じる部分も多々あったのだけど、同じく、ちょっとなぁ、と感じる部分もあった。
まずそもそも、文章が散漫だなぁ、と感じられてしまう。僕は加藤諦三の著作を読むのは二回目なのだけど、二作とも同じ感想だ。もしかしたら、どこか雑誌に連載したものをあまり手を加えずにそのまま出しているのかもしれない、とも思う。同じ話が繰り返し出て来る場面もあるし、本全体の「構成」みたいなものがあまり感じられない。個人的には、文章も構成ももう少しスッキリさせられるでしょう、と感じる。とはいえ、世間的にはこういう文章の方が読みやすい、という可能性もあるから、この点はなんとも言えない。
また、原因の捉え方が単純すぎる、という部分もある。本書では、何故「五歳児の大人」が出来上がってしまうのかという著者なりの理由付けが書かれているのだが、そのほぼすべてが「母親」と「父親」に帰するものとなっている。特に「母親」(これは性別の問題ではなく、母的な存在、というような意味で使われているのだけど)が子供とどう関わったかに問題があるのだ、としている主張が多い。
もちろん、両親の育て方という側面はあるだろう。でも、それだけじゃないだろう、と思う。別に社会批評なんかをやれとは言わないけど、まるで両親の育て方だけが問題なのだ、と言わんばかりの書きっぷりには、ちょっとなぁと感じてしまう部分もあった。
あと、これは結構致命的だと思うのだけど、分析には力を入れているのだけど、対処法がほとんど書かれていない。まあ、著者はあとがきで、
『生きるのが辛い五歳児の大人のために、この本を書いた。はしがきにも書いたが、この本を読んで、自分がなぜ生きるのがこんなにも辛いのかが分かってもらえれば、と思っている。それが分かると、周囲との関係も少しはうまくいきだすのではないか。分かればなんとかなる』
と書いていて、「分かればなんとかなる」のだからまず原因を捉えることだ、という気持ちで本書を書いたのだろうと思う。それは分かるのだけど、しかしどう対処すればいいのかにもう少し触れないと、読んだ後どうしていいか分からないだろう。
ちょっと書いてある対処法も、「信仰や祈りを持つ」「趣味を持つ」「自分を認める」「良い習慣を持っている人を見習う」などである。いや、もちろんこれらも良いんだろうけど、ちょっと雑すぎやしないか…と僕は感じる。本書を読んだ人は、「じゃあどうすればいいんだよ」と感じてしまうだろうと思う。
本書には、「少子化は制度の問題では解決できない」という見出しがあって、その中にこんな文章がある。
『今の時代を「非婚時代」と言う人たちがいるのは分かる。結婚が心理的に辛い人が多いのである。結婚したら、自分のためには生きられない。子どもができたら、自分のためには生きられない。
自分の子どものためというのが、つまりは自分のためと感じることができなければ、結婚は地獄である。自分が働いたお金を自分のために使いたいという望みを持っている人には、結婚は地獄である。
自分が働いたお金が、自分の家族のために使われることが幸せと感じられなければ、結婚は地獄である。子どもと一緒にいるのが楽しいという程度の心理状態では、結婚は地獄である』
この文章は、確かにその通りだなと感じた。僕自身もそうだし、僕の周りにもこういう風に考えて結婚が無理だろうと感じている人はいる。心理的負担を経済的負担とすり替えているのだ、という話も本書に出てくるが、確かにそうかもなと思う。経済的負担が、という話だけ聞けば、じゃあお金があれば子育て出来るんだな、と考えるかもだけど、実際には心理的負担が問題なわけで、制度では解消出来ない。
僕が周りの人と色々喋っている範囲での情報だけど、やっぱり結婚や恋愛は無理と思っている人(僕が話を聞く機会があるのは女性)が多いなという印象があって、そういう意味ではやはり、本書で指摘されている「五歳児の大人」っていうのは増えていているんだろうな、という感じはしました。
加藤諦三「「大人になりきれない人」の心理」
『大人になりきれていない人とはどういう人たちか。一口に言えば、自分一人が生きるのに精一杯なのに、社会的責任を負わされて生きるのが辛くて、どうにもならなくなっている人たちである。つまり、五歳児の「大人」なのである』
本書は、こんな文章から始まっている。僕にとってはなかなか納得感のある説明だ。まあそうだなと思う。僕のことも、短く説明すればこんな表現になるだろう。
そういう意味で本書は、なるほどと感じる部分はそれなりにあった。本書では繰り返し、「五歳児なのに社会的責任を負わされているから生きているのが辛いんだ」と様々な表現で書かれていて、メインの主張はほぼこれだけと言っていいのだけど、分かりやすいし納得できる。
何故生きづらいのか、何故他人に攻撃的になってしまうのか、何故現実を否定しようとするのか、そういう人たちの生態みたいなものを、「五歳児の大人」とい
切り口からわりあいうまく説明していく。実際に、自分の周りにもこういう人いるなぁ(表への現れ方は人それぞれ違うけど)と感じることもあった。
僕自身は、本書を読みながら、昔の自分はこうだったなぁ、と思っていた。僕は別に、「五歳児の大人」であることから逃れられたわけではない。僕は今でも、感覚としては「五歳児の大人」のままだと思う。ただ、自分のそういう性質とどう関わっていくのかということを、自分なりに考えて対処出来るようになっている。長い時間が掛かったし、色んな人に迷惑も掛けたけど、自分を「生きさせる」ためにあれこれ頑張ってきたお陰で、今なんとかうまくやれていると思う。
そんなわけで本書は、面白いと感じる部分も多々あったのだけど、同じく、ちょっとなぁ、と感じる部分もあった。
まずそもそも、文章が散漫だなぁ、と感じられてしまう。僕は加藤諦三の著作を読むのは二回目なのだけど、二作とも同じ感想だ。もしかしたら、どこか雑誌に連載したものをあまり手を加えずにそのまま出しているのかもしれない、とも思う。同じ話が繰り返し出て来る場面もあるし、本全体の「構成」みたいなものがあまり感じられない。個人的には、文章も構成ももう少しスッキリさせられるでしょう、と感じる。とはいえ、世間的にはこういう文章の方が読みやすい、という可能性もあるから、この点はなんとも言えない。
また、原因の捉え方が単純すぎる、という部分もある。本書では、何故「五歳児の大人」が出来上がってしまうのかという著者なりの理由付けが書かれているのだが、そのほぼすべてが「母親」と「父親」に帰するものとなっている。特に「母親」(これは性別の問題ではなく、母的な存在、というような意味で使われているのだけど)が子供とどう関わったかに問題があるのだ、としている主張が多い。
もちろん、両親の育て方という側面はあるだろう。でも、それだけじゃないだろう、と思う。別に社会批評なんかをやれとは言わないけど、まるで両親の育て方だけが問題なのだ、と言わんばかりの書きっぷりには、ちょっとなぁと感じてしまう部分もあった。
あと、これは結構致命的だと思うのだけど、分析には力を入れているのだけど、対処法がほとんど書かれていない。まあ、著者はあとがきで、
『生きるのが辛い五歳児の大人のために、この本を書いた。はしがきにも書いたが、この本を読んで、自分がなぜ生きるのがこんなにも辛いのかが分かってもらえれば、と思っている。それが分かると、周囲との関係も少しはうまくいきだすのではないか。分かればなんとかなる』
と書いていて、「分かればなんとかなる」のだからまず原因を捉えることだ、という気持ちで本書を書いたのだろうと思う。それは分かるのだけど、しかしどう対処すればいいのかにもう少し触れないと、読んだ後どうしていいか分からないだろう。
ちょっと書いてある対処法も、「信仰や祈りを持つ」「趣味を持つ」「自分を認める」「良い習慣を持っている人を見習う」などである。いや、もちろんこれらも良いんだろうけど、ちょっと雑すぎやしないか…と僕は感じる。本書を読んだ人は、「じゃあどうすればいいんだよ」と感じてしまうだろうと思う。
本書には、「少子化は制度の問題では解決できない」という見出しがあって、その中にこんな文章がある。
『今の時代を「非婚時代」と言う人たちがいるのは分かる。結婚が心理的に辛い人が多いのである。結婚したら、自分のためには生きられない。子どもができたら、自分のためには生きられない。
自分の子どものためというのが、つまりは自分のためと感じることができなければ、結婚は地獄である。自分が働いたお金を自分のために使いたいという望みを持っている人には、結婚は地獄である。
自分が働いたお金が、自分の家族のために使われることが幸せと感じられなければ、結婚は地獄である。子どもと一緒にいるのが楽しいという程度の心理状態では、結婚は地獄である』
この文章は、確かにその通りだなと感じた。僕自身もそうだし、僕の周りにもこういう風に考えて結婚が無理だろうと感じている人はいる。心理的負担を経済的負担とすり替えているのだ、という話も本書に出てくるが、確かにそうかもなと思う。経済的負担が、という話だけ聞けば、じゃあお金があれば子育て出来るんだな、と考えるかもだけど、実際には心理的負担が問題なわけで、制度では解消出来ない。
僕が周りの人と色々喋っている範囲での情報だけど、やっぱり結婚や恋愛は無理と思っている人(僕が話を聞く機会があるのは女性)が多いなという印象があって、そういう意味ではやはり、本書で指摘されている「五歳児の大人」っていうのは増えていているんだろうな、という感じはしました。
加藤諦三「「大人になりきれない人」の心理」
告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実(旗手啓介)
僕が生まれ育った町の名は、川の名前から取られている。その川は、今でこそ穏やかな流れだが、かつては毎年氾濫して、周辺に大打撃を与えるような、そんな荒々しい川だったという。
どうにかしようということで、その川に堤防を作ることになった。しかし、その工事は難航する。何度チャレンジしてみても、その川の勢いに押し流され、その度に作業に従事している多くの者の命が奪われたのだという。
そこで、人柱を立てる、という話になったという。
生きたまま地面に埋められ、節を取った竹筒だけを地面に伸ばして呼吸をする。確か志願したのは坊さんだったと思うのだが、その坊さんは穴のそこで木魚を叩く。木魚の音が聞こえなくなったら死んだという合図なのだ。
人柱のお陰なのかどうか、ようやくその難工事はやり遂げられ、川の氾濫が人々の生活を脅かすようなことはなくなった。
というようなことを、小学生の頃学校で習った記憶がある。一応ネットで調べてみると、概ね合っているのだけど、人柱に選ばれた人物とその経緯が違うようだ。
工事には50年の歳月が掛かったようで、それだけ時間を掛けて作った堤防は壊れてしまっては困る。そこで人柱に頼ることにしたようだ。さてその人柱はどのように選ばれたか。なんと、堤防を作った後でその堤防を通った1000人目の人間に頼んだ、という。
江戸時代の頃の話だそうだ。
まあ、いずれにしても、人柱が行われたという伝説は残されている。本当にそのようなことがあったのかどうかは分からない。とはいえ、このような伝説が生まれるのだから、当時としては「人柱」という発想はよく聞くようなものだったのだろう。
「人柱」というのは、要は「神頼み」みたいなものである。「神頼み」なんていう非科学的なやり方の是非はともかくとして、僕は考えてしまう。
個人の命を犠牲にしなければ成り立たない現実など、果たして価値があるのか、と。
話がめんどくさいので、先の堤防の話では、人柱のお陰で堤防が崩れずに済んだ、ということにしよう。つまり、人柱を立てなければ堤防が壊れていた、ということを受け入れるということだ。堤防が壊れれば、人命や作物や建物などに甚大な被害が出る。そういう意味で、「たった」一人の犠牲によって、その多大な被害を防ぐことが出来たのであれば、仕方ないと考えたくなる気持ちも、もちろんある。
しかし、でもなぁ、と思ってしまう自分もいる。
「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日」(門田隆将)を読んだ時にも、似たようなことを考えた。
吉田昌郎は、東日本大震災当時、福島第一原発の所長を務めていた人物だ。そして本書を読むと、彼が自らの命と引き換えるようにして、福島第一原発の暴発を防ぎ、日本を壊滅から救ったのだ、と感じることが出来る。本書を読めば分かるが、吉田氏は、死を覚悟する以外に福島第一原発を止める術を持たなかった。原発が暴発していれば、その被害は想像を絶するものとなっていただろう。そういう意味で、「たった」一人の犠牲によってその甚大な被害を回避することが出来たとも言える。
しかし、でもなぁ、と思ってしまうのだ。
「人柱」の場合は、所詮神頼みなので、してもしなくても結果は変わらなかったかもしれないが、吉田氏の場合は、吉田氏が決断し行動しなければ状況は収めることが出来なかった。そして、結果的にそれを吉田氏に強いたのは、安全対策を十分に行ってこなかった政治と組織だ。あらかじめ、もっと十分な準備と対策が出来ていれば、吉田氏は命を落とす必要はなかっただろう。
安全対策を十分に行ってこなかった政治と組織が個人を殺す―それは、本書で扱われている「カンボジアPKO」における文民警察官の死と同じ構造だ。
『文民警察に求められた役割は、現地警察の「指導」や「監視」だった。そして文民という名が示すように、「武器の非携行」が原則だった』
カンボジアPKOで初めて導入された「文民警察」という役割は、存在理由や定義が曖昧なまま見切り発車された。
『隊員たちのストレスの大きな要因のひとつは日本を発つ前からずっと曖昧なままだった「文民警察官とは何なのか」ということだった』
役割は曖昧だったが、確定していたことが一つだけある。それが「武器の非携行」だ。
カンボジアPKOは、1991年のパリ和平協定を受け、プノンペン政府・シアヌーク派、ソンサン派・ポルポト派の四派が停戦合意をした後に、国連が主権国家の行政を代行し、民主主義的選挙を導入することで民主国家の基礎を作るという壮大な実験だった。このカンボジアPKOに参加するために制定された「PKO協力法」には、「PKO参加五原則」が定められており、そこに「紛争当事者間の停戦合意の成立」という項目がある。
つまり、戦闘が行われていない地域に派遣するんだから、武器なんかいらないよね、という発想が根幹にあるのだ。
しかし、彼ら文民警察官が派遣された地域には、そんな建前を吹き飛ばすような現実が展開されているところもあった。
『アンピルは無法地帯というべき地域です。毎日のように殺人事件が起こっていますが、捜査はされておらず、訴追されることもなければ、罰を与えられてもいません。カンボジアの中で最も困難な地域のひとつです』
そんなところに身一つでいかなければならない―それが、文民警察官と呼ばれる人たちの役割だったのだ。
カンボジアPKOで、日本が国内だけでなく世界的に注目されたのは、やはり自衛隊だった。「PKO協力法」の国会論争でも、議論はほぼ自衛隊に関してばかりであり、その後のカンボジアPKOの報道も自衛隊に話題は集中する。
『同メモには山崎の感想が綴られている。
「政治家にとっては、実際に苦労している文民警察よりも、やはり憲法論議や次の法律改正を見据えた自衛隊施設大隊に関心が高いのかなという感想を持った」』
日本政府は、自衛隊の任地については早くから相当の根回しをし、比較的安全な地に決めることが出来た。しかし、文民警察については逆だった。様々な決定の遅れから、カンボジアPKO参加32カ国中、31番目の参加となったために、日本の文民警察に残されていた任地は、誰もが行きたくないような「ヤバイ」地域ばかりだった。隊長である山崎は、日本の自衛隊が根回しによって安全な場所を確保したことを各国が冷笑していることを知っており、それ故、どんなに危険な任地でも文句を言わず受け入れようと決めていたという。
しかし、結果として、そんな危険な任地の一つで、文民警察官の一人だった高田晴行氏が、銃撃に巻き込まれて死亡してしまった。現場にいた10名の内、1人死亡、7人重傷、という過酷な惨状だったが、しかし日本政府は「停戦合意は崩れていない」として、PKOからの引き揚げを決定しなかった。
何故か。
それは、湾岸戦争がトラウマになっていたからだ。
湾岸戦争において日本は、自衛隊の派遣を行うことが出来ず、その代わり総額130億ドル(1兆7000億円)の戦費負担をした。しかし、湾岸戦争におけるこの行動は、世界から一切評価されなかった。
日本は、世界第二位の経済大国として、きちんと世界から認められる国際貢献をしなければならない―外務省がそう考えているタイミングだったのだ。だからこそ政府としては、是が非でもカンボジアPKOで一定以上の成果を出さなければならなかった。
見方によれば、ある意味で日本の行動は、一定以上の成果と言えるものだったようだ。
『(当時、国際平和協力本部事務局長だった柳井俊二氏の話)カンボジアPKOの後、UNTACの関係者と話す機会がありました。オーストラリアの軍事部門の司令官のジョン・サンダーソンです。1993年5月4日の事件(※高田晴行氏が死亡した事件)のとき、「自分はものすごく心配した」と。「日本が遅ればせながらPKOに参加してくれるようになって、いろいろと貢献してもらっているけれども、これで撤退してしまうのではないかと思った」と言うのですね。そして彼はこういう表現をしました。「毛糸のセーターから毛糸がほつれてきて、それを引っ張るとセーター全体が崩れてしまう。もし日本があのときに撤退してしまったならば、ほかの国も撤退するところが出てくるかもしれなかった。つまりPKO全体が崩れたかもしれない。しかしよく踏みとどまってくれた」という話をされました』
カンボジアPKOについては、『UNTACによって有権者登録を行ったカンボジアの人びとの数は470万人以上。投票率は九割近くに上った。世界中のメディアが歴史的な成功だと報じた』と書かれている。そして、この大成功を結果的に導いたのは、隊員の死がありながらも日本がPKOから撤退しなかったからだ、という見方がある。
しかし、でもなぁ、と思ってしまうのだ。
高田氏の死は、カンボジアPKOを取り巻く様々な状況が生み出したものだ。国際貢献に焦っていた日本政府、PKO協力法を尊守しているという「建前」を守るために、ヘルメット一つ持って行かせないような雰囲気。政治的背景からカンボジアPKOにおける自衛隊の動向ばかりに注目していた政治家やマスコミ。それら一つ一つに、もっと冷静で真っ当な判断が出来ていれば、高田氏の死は避けられただろうと思う。しかし、文民警察官の安全を確保しようとすればするほど、「何かが失われる」と感じる人が国内外に多くいた。そのために、文民警察官の安全は考慮されず、そしてその結果として高田氏の命は奪われることとなった。
『そして隊員のひとりが村田(※国家公安委員長・大臣)に対し、こう言った。
「大臣。われわれがあと何人死んだら、日本政府は帰国させるのでしょうか」』
『「亡くなったのがひとりでよかった。複数だったら政府はもたなかった」
「亡くなったのが警察官でよかった。自衛官だったらもはや世論はもたない」
日本政府関係者の声だった』
政治や国際貢献の話は僕には分からないが、恐らく、カンボジアPKOに「きちんと」参加したことが、結果的に良い流れを生み出したのだろうとは思う。全体的に見れば「成功」だったのかもしれない。しかしそのために、「成功」を捨てさえすれば喪われずに済んだだろう命が奪われた。果たしてそれは、釣り合いが取れる論理なのだろうか、と僕は感じてしまう。
『私たちは、今回、高田晴行殺害事件に関係した人びとを取材するため各国を訪ねたが、「日本は検証を行わない国である」ということを改めて痛感することになった。
スウェーデンでもオランダでも、カンボジアPKOに関する一定の検証がなされ、そして報告書が当たり前のように公表されている事実に驚愕した』
本書はまさに、過去一度も行われたことがない「日本のカンボジアPKOの検証」と言える内容だ。カンボジアでPKOが行われたことも、自衛隊派遣が話題になったこともなんとなく覚えている。「文民警察官」という名称も、なんとなく漠然と記憶にはある気がする。しかし、「カンボジアPKOで文民警察官が殺された」というのは、明確な記憶としてはそんざいしなかった。当時僕は11歳、まあニュースをきちんと理解できなくても仕方ない年齢だと言えるかもしれないが、こういう出来事があったことを知らないでいる、ということは、やはり恥ずかしいことであるように感じられる。
『誰もが最初は「話していいのかどうか」逡巡していた。隊員のほとんどが、自身の経験を各都道府県県警の同僚はおろか、自身の家族にさえ話してこなかったからである』
23年ぶりに開かれる、その重い口から発せられる、あまりに生々しく、そして非現実的とも思えるエピソードの数々は、教科書やニュースでは決して知ることが出来ない「現実」の歪みと重みを伝えてくれる。
旗手啓介「告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実」
どうにかしようということで、その川に堤防を作ることになった。しかし、その工事は難航する。何度チャレンジしてみても、その川の勢いに押し流され、その度に作業に従事している多くの者の命が奪われたのだという。
そこで、人柱を立てる、という話になったという。
生きたまま地面に埋められ、節を取った竹筒だけを地面に伸ばして呼吸をする。確か志願したのは坊さんだったと思うのだが、その坊さんは穴のそこで木魚を叩く。木魚の音が聞こえなくなったら死んだという合図なのだ。
人柱のお陰なのかどうか、ようやくその難工事はやり遂げられ、川の氾濫が人々の生活を脅かすようなことはなくなった。
というようなことを、小学生の頃学校で習った記憶がある。一応ネットで調べてみると、概ね合っているのだけど、人柱に選ばれた人物とその経緯が違うようだ。
工事には50年の歳月が掛かったようで、それだけ時間を掛けて作った堤防は壊れてしまっては困る。そこで人柱に頼ることにしたようだ。さてその人柱はどのように選ばれたか。なんと、堤防を作った後でその堤防を通った1000人目の人間に頼んだ、という。
江戸時代の頃の話だそうだ。
まあ、いずれにしても、人柱が行われたという伝説は残されている。本当にそのようなことがあったのかどうかは分からない。とはいえ、このような伝説が生まれるのだから、当時としては「人柱」という発想はよく聞くようなものだったのだろう。
「人柱」というのは、要は「神頼み」みたいなものである。「神頼み」なんていう非科学的なやり方の是非はともかくとして、僕は考えてしまう。
個人の命を犠牲にしなければ成り立たない現実など、果たして価値があるのか、と。
話がめんどくさいので、先の堤防の話では、人柱のお陰で堤防が崩れずに済んだ、ということにしよう。つまり、人柱を立てなければ堤防が壊れていた、ということを受け入れるということだ。堤防が壊れれば、人命や作物や建物などに甚大な被害が出る。そういう意味で、「たった」一人の犠牲によって、その多大な被害を防ぐことが出来たのであれば、仕方ないと考えたくなる気持ちも、もちろんある。
しかし、でもなぁ、と思ってしまう自分もいる。
「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日」(門田隆将)を読んだ時にも、似たようなことを考えた。
吉田昌郎は、東日本大震災当時、福島第一原発の所長を務めていた人物だ。そして本書を読むと、彼が自らの命と引き換えるようにして、福島第一原発の暴発を防ぎ、日本を壊滅から救ったのだ、と感じることが出来る。本書を読めば分かるが、吉田氏は、死を覚悟する以外に福島第一原発を止める術を持たなかった。原発が暴発していれば、その被害は想像を絶するものとなっていただろう。そういう意味で、「たった」一人の犠牲によってその甚大な被害を回避することが出来たとも言える。
しかし、でもなぁ、と思ってしまうのだ。
「人柱」の場合は、所詮神頼みなので、してもしなくても結果は変わらなかったかもしれないが、吉田氏の場合は、吉田氏が決断し行動しなければ状況は収めることが出来なかった。そして、結果的にそれを吉田氏に強いたのは、安全対策を十分に行ってこなかった政治と組織だ。あらかじめ、もっと十分な準備と対策が出来ていれば、吉田氏は命を落とす必要はなかっただろう。
安全対策を十分に行ってこなかった政治と組織が個人を殺す―それは、本書で扱われている「カンボジアPKO」における文民警察官の死と同じ構造だ。
『文民警察に求められた役割は、現地警察の「指導」や「監視」だった。そして文民という名が示すように、「武器の非携行」が原則だった』
カンボジアPKOで初めて導入された「文民警察」という役割は、存在理由や定義が曖昧なまま見切り発車された。
『隊員たちのストレスの大きな要因のひとつは日本を発つ前からずっと曖昧なままだった「文民警察官とは何なのか」ということだった』
役割は曖昧だったが、確定していたことが一つだけある。それが「武器の非携行」だ。
カンボジアPKOは、1991年のパリ和平協定を受け、プノンペン政府・シアヌーク派、ソンサン派・ポルポト派の四派が停戦合意をした後に、国連が主権国家の行政を代行し、民主主義的選挙を導入することで民主国家の基礎を作るという壮大な実験だった。このカンボジアPKOに参加するために制定された「PKO協力法」には、「PKO参加五原則」が定められており、そこに「紛争当事者間の停戦合意の成立」という項目がある。
つまり、戦闘が行われていない地域に派遣するんだから、武器なんかいらないよね、という発想が根幹にあるのだ。
しかし、彼ら文民警察官が派遣された地域には、そんな建前を吹き飛ばすような現実が展開されているところもあった。
『アンピルは無法地帯というべき地域です。毎日のように殺人事件が起こっていますが、捜査はされておらず、訴追されることもなければ、罰を与えられてもいません。カンボジアの中で最も困難な地域のひとつです』
そんなところに身一つでいかなければならない―それが、文民警察官と呼ばれる人たちの役割だったのだ。
カンボジアPKOで、日本が国内だけでなく世界的に注目されたのは、やはり自衛隊だった。「PKO協力法」の国会論争でも、議論はほぼ自衛隊に関してばかりであり、その後のカンボジアPKOの報道も自衛隊に話題は集中する。
『同メモには山崎の感想が綴られている。
「政治家にとっては、実際に苦労している文民警察よりも、やはり憲法論議や次の法律改正を見据えた自衛隊施設大隊に関心が高いのかなという感想を持った」』
日本政府は、自衛隊の任地については早くから相当の根回しをし、比較的安全な地に決めることが出来た。しかし、文民警察については逆だった。様々な決定の遅れから、カンボジアPKO参加32カ国中、31番目の参加となったために、日本の文民警察に残されていた任地は、誰もが行きたくないような「ヤバイ」地域ばかりだった。隊長である山崎は、日本の自衛隊が根回しによって安全な場所を確保したことを各国が冷笑していることを知っており、それ故、どんなに危険な任地でも文句を言わず受け入れようと決めていたという。
しかし、結果として、そんな危険な任地の一つで、文民警察官の一人だった高田晴行氏が、銃撃に巻き込まれて死亡してしまった。現場にいた10名の内、1人死亡、7人重傷、という過酷な惨状だったが、しかし日本政府は「停戦合意は崩れていない」として、PKOからの引き揚げを決定しなかった。
何故か。
それは、湾岸戦争がトラウマになっていたからだ。
湾岸戦争において日本は、自衛隊の派遣を行うことが出来ず、その代わり総額130億ドル(1兆7000億円)の戦費負担をした。しかし、湾岸戦争におけるこの行動は、世界から一切評価されなかった。
日本は、世界第二位の経済大国として、きちんと世界から認められる国際貢献をしなければならない―外務省がそう考えているタイミングだったのだ。だからこそ政府としては、是が非でもカンボジアPKOで一定以上の成果を出さなければならなかった。
見方によれば、ある意味で日本の行動は、一定以上の成果と言えるものだったようだ。
『(当時、国際平和協力本部事務局長だった柳井俊二氏の話)カンボジアPKOの後、UNTACの関係者と話す機会がありました。オーストラリアの軍事部門の司令官のジョン・サンダーソンです。1993年5月4日の事件(※高田晴行氏が死亡した事件)のとき、「自分はものすごく心配した」と。「日本が遅ればせながらPKOに参加してくれるようになって、いろいろと貢献してもらっているけれども、これで撤退してしまうのではないかと思った」と言うのですね。そして彼はこういう表現をしました。「毛糸のセーターから毛糸がほつれてきて、それを引っ張るとセーター全体が崩れてしまう。もし日本があのときに撤退してしまったならば、ほかの国も撤退するところが出てくるかもしれなかった。つまりPKO全体が崩れたかもしれない。しかしよく踏みとどまってくれた」という話をされました』
カンボジアPKOについては、『UNTACによって有権者登録を行ったカンボジアの人びとの数は470万人以上。投票率は九割近くに上った。世界中のメディアが歴史的な成功だと報じた』と書かれている。そして、この大成功を結果的に導いたのは、隊員の死がありながらも日本がPKOから撤退しなかったからだ、という見方がある。
しかし、でもなぁ、と思ってしまうのだ。
高田氏の死は、カンボジアPKOを取り巻く様々な状況が生み出したものだ。国際貢献に焦っていた日本政府、PKO協力法を尊守しているという「建前」を守るために、ヘルメット一つ持って行かせないような雰囲気。政治的背景からカンボジアPKOにおける自衛隊の動向ばかりに注目していた政治家やマスコミ。それら一つ一つに、もっと冷静で真っ当な判断が出来ていれば、高田氏の死は避けられただろうと思う。しかし、文民警察官の安全を確保しようとすればするほど、「何かが失われる」と感じる人が国内外に多くいた。そのために、文民警察官の安全は考慮されず、そしてその結果として高田氏の命は奪われることとなった。
『そして隊員のひとりが村田(※国家公安委員長・大臣)に対し、こう言った。
「大臣。われわれがあと何人死んだら、日本政府は帰国させるのでしょうか」』
『「亡くなったのがひとりでよかった。複数だったら政府はもたなかった」
「亡くなったのが警察官でよかった。自衛官だったらもはや世論はもたない」
日本政府関係者の声だった』
政治や国際貢献の話は僕には分からないが、恐らく、カンボジアPKOに「きちんと」参加したことが、結果的に良い流れを生み出したのだろうとは思う。全体的に見れば「成功」だったのかもしれない。しかしそのために、「成功」を捨てさえすれば喪われずに済んだだろう命が奪われた。果たしてそれは、釣り合いが取れる論理なのだろうか、と僕は感じてしまう。
『私たちは、今回、高田晴行殺害事件に関係した人びとを取材するため各国を訪ねたが、「日本は検証を行わない国である」ということを改めて痛感することになった。
スウェーデンでもオランダでも、カンボジアPKOに関する一定の検証がなされ、そして報告書が当たり前のように公表されている事実に驚愕した』
本書はまさに、過去一度も行われたことがない「日本のカンボジアPKOの検証」と言える内容だ。カンボジアでPKOが行われたことも、自衛隊派遣が話題になったこともなんとなく覚えている。「文民警察官」という名称も、なんとなく漠然と記憶にはある気がする。しかし、「カンボジアPKOで文民警察官が殺された」というのは、明確な記憶としてはそんざいしなかった。当時僕は11歳、まあニュースをきちんと理解できなくても仕方ない年齢だと言えるかもしれないが、こういう出来事があったことを知らないでいる、ということは、やはり恥ずかしいことであるように感じられる。
『誰もが最初は「話していいのかどうか」逡巡していた。隊員のほとんどが、自身の経験を各都道府県県警の同僚はおろか、自身の家族にさえ話してこなかったからである』
23年ぶりに開かれる、その重い口から発せられる、あまりに生々しく、そして非現実的とも思えるエピソードの数々は、教科書やニュースでは決して知ることが出来ない「現実」の歪みと重みを伝えてくれる。
旗手啓介「告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実」
終活ファッションショー(安田依央)
まずは、雨宮まみ氏の解説の文章から引用してみたい。
『私はあまり、死ぬのが怖いと思ったことがなかった。けれど最近、年齢の近い女性のライターが亡くなったとき、何年も彼女と会ってすらいなかった人たちが、ネット上で彼女と会ったときのことや、彼女が何を話したか、自分とどんな関係だったかを書き連ねているのを見た。
もう、最悪にぞっとした。何年も会ってないなら、それは別に仲の良かった友だちでもなんでもないだろうし、亡くなった本人が嫌っていた呼称を平気で使っていたりして、その文章を読んだ限り彼女の思想や考えを追っているとも思えなかった。そんなものが、「彼女を知る人の言葉」として広まっていく。死者のプライバシーは踏みにじられる。こんな目に遭うくらいなら誰よりもあとに死にたい、と初めて思った』
うわぁ、これは超分かるなぁ、と思った。僕も似たようなことを感じたことがある。詳しいことは書かないが、ある人物の死に対して、あくまでも僕の主観的な捉え方からすれば、その死んだ人を悼んでいるというよりは、故人に対してきちんと感情を抱いている自分を見せようとしているかのような言動を見聞きする機会があった。いや、そういう言動をしている人からすれば、それは本心なのかもしれないが、それでも僕は、うわぁーと思ってしまったのだ。
僕も、死ぬのが怖いと思ったことはないのだけど、確かにそんな風に、自分が生きた歴史みたいなものを改変されるようなのはゴメンだし、だったら出来るだけ後で死にたいと思う。
そして同じようなことは、通夜や葬式など、死後のイベント全般に対しても感じる。
個人的には、通夜も葬式も墓も要らない。死んだら死んだきり、何も残さず、何も構わないでもらいたいなと思う。もちろん、どうしたって死体の処理だけはしてもらわないといけないから、その部分だけはお願いする形にはなるけど、燃やした後の骨なんか適当に捨てといてくれて構わない―というぐらい、自分が死んだ後の儀式にはまるで興味がない。
とはいえ、もし僕が今、明確な意志を何ら残さずに死んでしまったとすれば、間違いなく葬儀は行われるだろうし、もしかしたら、葬儀はしないでくれと頼んでもされてしまうかもしれない。
でもそれは僕にとっては、雨宮まみ氏が嫌悪した故人への軽い言葉と同じような意味合いしか持たない。そうして欲しいと望んでいないことをやられる、ということは、そういうことだ。
僕は、「伝統」というものにまったく価値を見出さないような人間ではないつもりだ。昔から連綿と継続されてる「伝統」は、それがどんなものであれ、多くの時間と人を介して続いてきたという点で多大な価値があると思う。しかし一方で「伝統」というのは、ほぼ間違いなくある程度以上の個人の犠牲によって成り立っている。現行の葬儀やお墓の仕組みも、それを「犠牲」と感じているかどうかは別として、個人を「伝統」というものに縛り付けることによって成り立っている部分がある。それを一概に否定するつもりはないのだが、せめて死ぬ時ぐらい、そういう「犠牲」から自由でいたいものだよなぁ、と思う。
内容に入ろうと思います。
独立開業するつもりなどなかったのに、当時の事務所の上司と折り合いが悪く、結果的に司法書士の事務所を開いた香川市絵、34歳。彼女は、独立開業の資金などもちろん用意できなかったが故に、周囲から「幽霊屋敷」と呼ばれている、倒壊してもおかしくないような一軒家を事務所兼住居として使っている。そこに今は、基大と二人暮らし。基大は弟ではあるが、父の再婚相手の連れ子であり、しかも市絵が20歳の頃に半年ばかり一緒に暮らしたことがある程度の、要は他人である。今では、ファッションデザイナーとしてそこそこ名が知れた存在らしい。
宣伝費もないから、日がな一日一軒家の前に机を出して座っていると、やがて占い師だという噂が広まりちらほら人が集まってくる。そんな、何をしているんだか分からないような日々の中、ある日自殺しようとしている女性を見つけてしまう。
松江波津子と名乗ったその女性は、亡くなった姑が、死んだらこれを着せて欲しいと生前願っていた着物を着せられなかったことで、義姉らから責められており、死んでお詫びするしか…と言っている。なんだかよくわからないが死ぬほどのことじゃないと思った市絵だったが、その場を収めるために思いついたことを言ってみた。
「お棺に入る時に着せてほしい服を発表するショーを開きましょう」
そんなノリで始まった「終活をテーマにしたファッションショー」の企画が、市絵の周囲の年寄りや、さらに市絵自身も大きく変えていくことになる…。
というような話です。
これはなかなか面白い作品でした。正直物語としては、なかなかの「行き当たりばったり感」があって、その部分が良いんだか悪いんだかうまく評価できない部分はあります。解説で雨宮まみ氏も、『「終活」の本質とは何なのか、というテーマを打ち出したいがゆえに、登場人物や物語がテーマの脇役になっている感も多少あるが、』と指摘していて、分かるような感じもする。ただ、「終活」と最も縁遠いと言っていいだろう「ファッションショー」を組み合わせることで、「終活」の本質をあぶり出す、という作品全体の構成はハマっていると感じるし、多少強引な部分もあるかもしれないけど、よく書ききったなという感じのする作品だ。
そもそも本書の主人公が、「終活」にまったく向いていない存在だ。34歳とまだまだ若いし、まだ死を意識する年齢ではない、ということもあるのだけど、それだけではない。そもそも生きている気力みたいなものが強くなくて、将来どうなっていたいという展望はない。結婚は恐らくしないと考えているし、「大切なひと」も思い浮かばない。市絵はそんな人物だ。
そんな人物が、集まった参加者たちに「終活」を指南するのだ。この違和感がまず面白い。「終活」の何たるかを参加者はうまく理解できていないが、それは市絵の方も同じ。市絵にしてみれば、自殺志願者をとりあえず思いとどまらせようと口が滑った程度の話であって、「終活」を布教せんという強い意志があるわけでもない。ただの成り行きだ。成り行きなのだけど、どうにも流されてしまうというか、まぁいっかーという感じえずるずる行ってしまう感じが、「34歳独身女性が終活を指南する」という一見ありえない状況を成り立たせているようにも思う。
誰も「終活」というものをうまく捉えられていないから、色んな疑問や引っかかりや問題が生まれていく。それらはまず、参加者たちが何をすればいいのか、というところから生まれて来る。何をどうやって何のためにするのか、というところをみんなでちょっとずつ前進して行く。時に衝突したり、時に感情を揺さぶられたりしながら、なかなか日常の中で考えることのない「死」というものを考えていく。その過程が、読者を置き去りにしなくていいと思う。登場人物たちが悩んだり戸惑ったりしているところで、読んでいる方も同じように悩んだり戸惑ったり出来る。本書は、特にこれと言った正解を与えてくれる作品ではない。読みながら、彼らと一緒にウロウロするために読むのだ。
さらに面白いのが、「終活」を取り巻く問題が外部からもやってくるということだ。本書の舞台設定は、まだ「終活」というものが社会に定着していない世の中だ。だからこそ、無理解から来る問題が生まれる。詳しくは書かないが、やはりこれは「死」というものをタブー視する風潮から来るのだろう。その辺りのことに関しては、本書の登場人物の一人である、日本在住の米国人ライターであるレイモンド・ローズによるコラムが非常に面白い。日本人がどのように「死」と向き合っており、それが欧米諸国と比べてどう変わっているのかという部分を的確に掬い取っている感じがして面白い。
参加者たちは、未だ慣れぬ「終活」というものに対して、それぞれなりのアプローチをしていくのだが、そうやってそれぞれの人が新しい道筋を見つけて行けている展開が良い。「死」を考えることによって「生」が際立つということが、物語を通じてすんなり受け入れられるだろう。
『何かさ。私、やっと分かった気がするわ。終活ってのはさ、死ぬためのものだけじゃないんだよね。(中略)いつ終わってもおかしくないからこそ、生き切るためにするものなんだよね』
僕自身は、生きることにも死ぬことにもさほど関心がないのだけど、世の中そうではない人の方が多いだろう。今世の中的には「終活」というのは定着したように感じられるけど、とはいえいざやろうと思ったらどうしたらいいか分からないという人も多いだろうと思う。知識は実用書から得られるだろうけど、可能性や想像力は物語を通した方が理解しやすいのではないかと思う。そういう意味で面白い一冊だと思う。
安田依央「終活ファッションショー」
『私はあまり、死ぬのが怖いと思ったことがなかった。けれど最近、年齢の近い女性のライターが亡くなったとき、何年も彼女と会ってすらいなかった人たちが、ネット上で彼女と会ったときのことや、彼女が何を話したか、自分とどんな関係だったかを書き連ねているのを見た。
もう、最悪にぞっとした。何年も会ってないなら、それは別に仲の良かった友だちでもなんでもないだろうし、亡くなった本人が嫌っていた呼称を平気で使っていたりして、その文章を読んだ限り彼女の思想や考えを追っているとも思えなかった。そんなものが、「彼女を知る人の言葉」として広まっていく。死者のプライバシーは踏みにじられる。こんな目に遭うくらいなら誰よりもあとに死にたい、と初めて思った』
うわぁ、これは超分かるなぁ、と思った。僕も似たようなことを感じたことがある。詳しいことは書かないが、ある人物の死に対して、あくまでも僕の主観的な捉え方からすれば、その死んだ人を悼んでいるというよりは、故人に対してきちんと感情を抱いている自分を見せようとしているかのような言動を見聞きする機会があった。いや、そういう言動をしている人からすれば、それは本心なのかもしれないが、それでも僕は、うわぁーと思ってしまったのだ。
僕も、死ぬのが怖いと思ったことはないのだけど、確かにそんな風に、自分が生きた歴史みたいなものを改変されるようなのはゴメンだし、だったら出来るだけ後で死にたいと思う。
そして同じようなことは、通夜や葬式など、死後のイベント全般に対しても感じる。
個人的には、通夜も葬式も墓も要らない。死んだら死んだきり、何も残さず、何も構わないでもらいたいなと思う。もちろん、どうしたって死体の処理だけはしてもらわないといけないから、その部分だけはお願いする形にはなるけど、燃やした後の骨なんか適当に捨てといてくれて構わない―というぐらい、自分が死んだ後の儀式にはまるで興味がない。
とはいえ、もし僕が今、明確な意志を何ら残さずに死んでしまったとすれば、間違いなく葬儀は行われるだろうし、もしかしたら、葬儀はしないでくれと頼んでもされてしまうかもしれない。
でもそれは僕にとっては、雨宮まみ氏が嫌悪した故人への軽い言葉と同じような意味合いしか持たない。そうして欲しいと望んでいないことをやられる、ということは、そういうことだ。
僕は、「伝統」というものにまったく価値を見出さないような人間ではないつもりだ。昔から連綿と継続されてる「伝統」は、それがどんなものであれ、多くの時間と人を介して続いてきたという点で多大な価値があると思う。しかし一方で「伝統」というのは、ほぼ間違いなくある程度以上の個人の犠牲によって成り立っている。現行の葬儀やお墓の仕組みも、それを「犠牲」と感じているかどうかは別として、個人を「伝統」というものに縛り付けることによって成り立っている部分がある。それを一概に否定するつもりはないのだが、せめて死ぬ時ぐらい、そういう「犠牲」から自由でいたいものだよなぁ、と思う。
内容に入ろうと思います。
独立開業するつもりなどなかったのに、当時の事務所の上司と折り合いが悪く、結果的に司法書士の事務所を開いた香川市絵、34歳。彼女は、独立開業の資金などもちろん用意できなかったが故に、周囲から「幽霊屋敷」と呼ばれている、倒壊してもおかしくないような一軒家を事務所兼住居として使っている。そこに今は、基大と二人暮らし。基大は弟ではあるが、父の再婚相手の連れ子であり、しかも市絵が20歳の頃に半年ばかり一緒に暮らしたことがある程度の、要は他人である。今では、ファッションデザイナーとしてそこそこ名が知れた存在らしい。
宣伝費もないから、日がな一日一軒家の前に机を出して座っていると、やがて占い師だという噂が広まりちらほら人が集まってくる。そんな、何をしているんだか分からないような日々の中、ある日自殺しようとしている女性を見つけてしまう。
松江波津子と名乗ったその女性は、亡くなった姑が、死んだらこれを着せて欲しいと生前願っていた着物を着せられなかったことで、義姉らから責められており、死んでお詫びするしか…と言っている。なんだかよくわからないが死ぬほどのことじゃないと思った市絵だったが、その場を収めるために思いついたことを言ってみた。
「お棺に入る時に着せてほしい服を発表するショーを開きましょう」
そんなノリで始まった「終活をテーマにしたファッションショー」の企画が、市絵の周囲の年寄りや、さらに市絵自身も大きく変えていくことになる…。
というような話です。
これはなかなか面白い作品でした。正直物語としては、なかなかの「行き当たりばったり感」があって、その部分が良いんだか悪いんだかうまく評価できない部分はあります。解説で雨宮まみ氏も、『「終活」の本質とは何なのか、というテーマを打ち出したいがゆえに、登場人物や物語がテーマの脇役になっている感も多少あるが、』と指摘していて、分かるような感じもする。ただ、「終活」と最も縁遠いと言っていいだろう「ファッションショー」を組み合わせることで、「終活」の本質をあぶり出す、という作品全体の構成はハマっていると感じるし、多少強引な部分もあるかもしれないけど、よく書ききったなという感じのする作品だ。
そもそも本書の主人公が、「終活」にまったく向いていない存在だ。34歳とまだまだ若いし、まだ死を意識する年齢ではない、ということもあるのだけど、それだけではない。そもそも生きている気力みたいなものが強くなくて、将来どうなっていたいという展望はない。結婚は恐らくしないと考えているし、「大切なひと」も思い浮かばない。市絵はそんな人物だ。
そんな人物が、集まった参加者たちに「終活」を指南するのだ。この違和感がまず面白い。「終活」の何たるかを参加者はうまく理解できていないが、それは市絵の方も同じ。市絵にしてみれば、自殺志願者をとりあえず思いとどまらせようと口が滑った程度の話であって、「終活」を布教せんという強い意志があるわけでもない。ただの成り行きだ。成り行きなのだけど、どうにも流されてしまうというか、まぁいっかーという感じえずるずる行ってしまう感じが、「34歳独身女性が終活を指南する」という一見ありえない状況を成り立たせているようにも思う。
誰も「終活」というものをうまく捉えられていないから、色んな疑問や引っかかりや問題が生まれていく。それらはまず、参加者たちが何をすればいいのか、というところから生まれて来る。何をどうやって何のためにするのか、というところをみんなでちょっとずつ前進して行く。時に衝突したり、時に感情を揺さぶられたりしながら、なかなか日常の中で考えることのない「死」というものを考えていく。その過程が、読者を置き去りにしなくていいと思う。登場人物たちが悩んだり戸惑ったりしているところで、読んでいる方も同じように悩んだり戸惑ったり出来る。本書は、特にこれと言った正解を与えてくれる作品ではない。読みながら、彼らと一緒にウロウロするために読むのだ。
さらに面白いのが、「終活」を取り巻く問題が外部からもやってくるということだ。本書の舞台設定は、まだ「終活」というものが社会に定着していない世の中だ。だからこそ、無理解から来る問題が生まれる。詳しくは書かないが、やはりこれは「死」というものをタブー視する風潮から来るのだろう。その辺りのことに関しては、本書の登場人物の一人である、日本在住の米国人ライターであるレイモンド・ローズによるコラムが非常に面白い。日本人がどのように「死」と向き合っており、それが欧米諸国と比べてどう変わっているのかという部分を的確に掬い取っている感じがして面白い。
参加者たちは、未だ慣れぬ「終活」というものに対して、それぞれなりのアプローチをしていくのだが、そうやってそれぞれの人が新しい道筋を見つけて行けている展開が良い。「死」を考えることによって「生」が際立つということが、物語を通じてすんなり受け入れられるだろう。
『何かさ。私、やっと分かった気がするわ。終活ってのはさ、死ぬためのものだけじゃないんだよね。(中略)いつ終わってもおかしくないからこそ、生き切るためにするものなんだよね』
僕自身は、生きることにも死ぬことにもさほど関心がないのだけど、世の中そうではない人の方が多いだろう。今世の中的には「終活」というのは定着したように感じられるけど、とはいえいざやろうと思ったらどうしたらいいか分からないという人も多いだろうと思う。知識は実用書から得られるだろうけど、可能性や想像力は物語を通した方が理解しやすいのではないかと思う。そういう意味で面白い一冊だと思う。
安田依央「終活ファッションショー」
「彼女がその名を知らない鳥たち」を観に行ってきました
実にざわざわさせられる映画だった。
僕は、何かの存在に依存するということに怖さを感じる人間だ。人でもモノでも概念(宗教など)でもなんでもいい。それがないと生きていけない、困る、苦しい…そういう存在を出来るだけ減らしたいと思ってしまう。
極端な話をすれば、「家族」というものへの嫌悪感みたいなものも、この「依存」の話で説明できてしまう。家族というのは、子供が生まれたり離婚したり誰かが死んだりすることで、どんどんと変化していく。家に帰ってくれば当たり前にいるはずの存在が、時間や状況の変化によっていなくなってしまう。たぶん僕は、そういうことが怖いんだろうなと思う。
世の中には、何かに依存しないと生きていけない人がいる。僕の周りにはそういう人はあまりいなかったけど、あまり深く関わらないながらも、近くにそういう人がいたことはある。恋愛体質だと自分で言っていて、恋愛をしていないとダメ、という女性だった。あるいは、「マザコン」みたいなのも、依存と呼んでいいだろう。
この映画の主人公である北原十和子も、そういうタイプの女性だと思う。個人的には、苦手なタイプだ。誰かの善意や好意に寄りかかりながら生きている。別に、関わっている人に迷惑を掛けていないのであれば問題ないんだろうけど、なんとなく受け入れがたい。
この映画を観てざわざわさせられたのは、佐野陣治という男の存在が大きい。陣治と十和子は一緒に暮らしている。結婚しているわけではないようだ。陣治は働き、そのお金で十和子はフラフラと遊んで暮らしている。姉から「そんなの、人間のクズじゃない」と言われながらも、陣治が優しく十和子をかばっている。
僕は、人間同士の関係に名前が付く必要はないと思っているし、むしろ名前が付かない関係の方が良いと思うタイプなのだけど、陣治と十和子の関係はなかなか難しい。十和子は陣治のことを「同居人」と呼ぶが、その釣り合わなさはなかなかのものだ。二人の年齢差は15歳、陣治は50代だ。外出する時はキレイに着飾る十和子に対して、建設現場で働く陣治は、色黒で全体的に薄汚くみすぼらしい。そんな二人が、仲睦まじいわけでもなく、陣治が一方的に十和子に好意を寄せるような形で同居が成立している。
その関係に説明がなされるでもなく、映画はどんどんと進んでいく。二人の関係性はずーっと宙ぶらりんのまま話が進んでいくのだ。
その点が、観ながらずーっと僕をざわざわさせていた。当然、二人の関係性に物語上何かあることは誰でも分かるだろうけど、それがずーっと明かされることがないから、物語をどんな立ち位置で観ていいのか分からなくなる。これは、不満ではない。その不安定感が、良かったと思う。
「あなたはこれを、愛と呼べるか」
僕の記憶が確かなら、この映画の予告でこんなフレーズがあったと思う。確かに、映画を最後まで観ると、この二人は一体なんだったんだろう、と考えてしまう。もちろん、映画を最後まで観れば、二人の関係性は分かる。分かるが、しかしだからと言ってスッキリするわけではない。これが愛なのかどうか、それは観る人によって変わるだろうが、僕は愛ではないと感じた。愛を超えてるんじゃないかなぁ、と。
自分が陣治と同じ立場だったらどうだろう、と考える。ここまで踏み込むとネタバレになりそうなのであまり詳しくは触れないが、行動が伴うかはともかく、気持ちだけは陣治と近いものを持てるかもしれない、と思った。
内容に入ろうと思います。
マンションの一室に住む十和子と陣治。十和子は、特に何もなければ一日中テレビの前に座っているような生活で、陣治と一緒に暮らしながらも、陣治のことを毛嫌いしている。十和子は陣治がマッサージしてくれる時だけ褒めるが、その理由を「陣治の顔が見えないからや」と言ってのけるほどだ。そんな扱いをされても、陣治は十和子のために何でもしてあげる。俺は十和子のためだったら何でもできるといつも言っているのだ。
十和子は今、デパートの時計売り場と時計の修理の件で揉めている。その対応のために、責任者である水島が十和子の家まで来ることになった。泣いている十和子に水島がキスをしたことで関係が始まり、十和子は水島に惹かれるようになっていく。
帰りの遅い十和子を心配した陣治が、十和子の姉であるみすずに連絡し、十和子はみすずから問い詰められることに。みすずは、十和子は黒崎とヨリを戻したのだと勝手に勘違いして憤っている。黒崎というのは、十和子がかつて付き合っていた男で、8年前に別れた。別れる際暴力を振るわれ、顔と肋骨の骨を折る重傷を負いながら、十和子は未だに黒崎への想いを消すことが出来ないでいる。
黒崎からの電話を待ち続けながら何の音沙汰もないことに悲しむ十和子は、ある日衝動的に黒崎の携帯に電話をしてしまうが…。
というような話です。
なかなか面白い映画でした。
正直に言って、クソみたいな人間ばっかり出てくるので(笑)、共感ベースで観れる物語ではないような気がする。物語の序盤から、登場人物の誰かに感情移入できる人は、ほとんどいないんじゃないかな。十和子は人の金で遊んで暮らしながら、他の男とも寝ているし、陣治はまるで奴隷のように十和子に尽くしているし、水島は既婚者なのに十和子と関係を持つし、黒崎は暴力を振るうような男だ。なんなんだこいつらは、と思いながら僕は映画を観ていた。
とはいえ、不快なのかというとそうでもない。それは、十和子のキャラクターに拠るところが大きいと思う。陣治も水島も黒崎もロクデナシなのだけど、十和子も同じくらいロクデナシなので、ロクデナシ同士がわちゃわちゃしている、という捉え方になる。ロクデナシが真っ当に生きている人間に対して何かしているのであれば、それは不快感をもたらすかもしれないのだけど、全員ロクデナシだから、普通こみ上げてくるだろう不快感がこの映画では抑えられているように思う。だから、感情移入出来るわけでもないし、ロクデナシばっかり登場するんだけど、でも不快なわけではない、という不思議な感覚のまま物語を追っていく感じになる。
物語は、先程もチラッとふれたけど、結局は十和子と陣治の関係がメインになっていく。十和子と陣治の関係性は、冒頭ではほぼ情報がないままスタートする。しかし、周囲の変化や新たに知る情報などによって状況がどんどんと変化していき、それによって少しずつ十和子と陣治の関係性のベールが剥がれていくことになる。その過程を楽しむ映画だ。一体この二人はなんなのか。何がこの二人を繋いでいるのか。十和子や陣治の振る舞いの裏側には、一体何があるのか。それらをジワジワと染み出させるようにして描き出す構成は見事だと思う。
この映画の原作は女性が書いているが、映画の監督は男性だ(脚本が男性だったか女性だったかは覚えていない)。だから、この映画にどの程度女性視点が組み込まれているのか判断は難しいのだけど、しかし映画を観ながら思った。全員ではないにせよ、やっぱり女性というのは、水島とか黒崎みたいな、ロクデナシなんだけど優しい風、イケてる風の男がいいんかねぇ、ということだ。男から見れば、水島も黒崎もロクデナシだなと思うんだけど、女性はそうとは気づけないのだろうか。それとも気づいてて、それでも良いと思ってしまうのだろうか。
まあでもこういうのは、女性側も男に対して思っているだろう。女性からすればどう観てもロクデナシな女が男からモテるというようなケースはいくらでもあるのだろう。その辺りのすれ違いが不幸を生むよなぁ、と感じたりもしました。
「彼女がその名を知らない鳥たち」を観に行ってきました
僕は、何かの存在に依存するということに怖さを感じる人間だ。人でもモノでも概念(宗教など)でもなんでもいい。それがないと生きていけない、困る、苦しい…そういう存在を出来るだけ減らしたいと思ってしまう。
極端な話をすれば、「家族」というものへの嫌悪感みたいなものも、この「依存」の話で説明できてしまう。家族というのは、子供が生まれたり離婚したり誰かが死んだりすることで、どんどんと変化していく。家に帰ってくれば当たり前にいるはずの存在が、時間や状況の変化によっていなくなってしまう。たぶん僕は、そういうことが怖いんだろうなと思う。
世の中には、何かに依存しないと生きていけない人がいる。僕の周りにはそういう人はあまりいなかったけど、あまり深く関わらないながらも、近くにそういう人がいたことはある。恋愛体質だと自分で言っていて、恋愛をしていないとダメ、という女性だった。あるいは、「マザコン」みたいなのも、依存と呼んでいいだろう。
この映画の主人公である北原十和子も、そういうタイプの女性だと思う。個人的には、苦手なタイプだ。誰かの善意や好意に寄りかかりながら生きている。別に、関わっている人に迷惑を掛けていないのであれば問題ないんだろうけど、なんとなく受け入れがたい。
この映画を観てざわざわさせられたのは、佐野陣治という男の存在が大きい。陣治と十和子は一緒に暮らしている。結婚しているわけではないようだ。陣治は働き、そのお金で十和子はフラフラと遊んで暮らしている。姉から「そんなの、人間のクズじゃない」と言われながらも、陣治が優しく十和子をかばっている。
僕は、人間同士の関係に名前が付く必要はないと思っているし、むしろ名前が付かない関係の方が良いと思うタイプなのだけど、陣治と十和子の関係はなかなか難しい。十和子は陣治のことを「同居人」と呼ぶが、その釣り合わなさはなかなかのものだ。二人の年齢差は15歳、陣治は50代だ。外出する時はキレイに着飾る十和子に対して、建設現場で働く陣治は、色黒で全体的に薄汚くみすぼらしい。そんな二人が、仲睦まじいわけでもなく、陣治が一方的に十和子に好意を寄せるような形で同居が成立している。
その関係に説明がなされるでもなく、映画はどんどんと進んでいく。二人の関係性はずーっと宙ぶらりんのまま話が進んでいくのだ。
その点が、観ながらずーっと僕をざわざわさせていた。当然、二人の関係性に物語上何かあることは誰でも分かるだろうけど、それがずーっと明かされることがないから、物語をどんな立ち位置で観ていいのか分からなくなる。これは、不満ではない。その不安定感が、良かったと思う。
「あなたはこれを、愛と呼べるか」
僕の記憶が確かなら、この映画の予告でこんなフレーズがあったと思う。確かに、映画を最後まで観ると、この二人は一体なんだったんだろう、と考えてしまう。もちろん、映画を最後まで観れば、二人の関係性は分かる。分かるが、しかしだからと言ってスッキリするわけではない。これが愛なのかどうか、それは観る人によって変わるだろうが、僕は愛ではないと感じた。愛を超えてるんじゃないかなぁ、と。
自分が陣治と同じ立場だったらどうだろう、と考える。ここまで踏み込むとネタバレになりそうなのであまり詳しくは触れないが、行動が伴うかはともかく、気持ちだけは陣治と近いものを持てるかもしれない、と思った。
内容に入ろうと思います。
マンションの一室に住む十和子と陣治。十和子は、特に何もなければ一日中テレビの前に座っているような生活で、陣治と一緒に暮らしながらも、陣治のことを毛嫌いしている。十和子は陣治がマッサージしてくれる時だけ褒めるが、その理由を「陣治の顔が見えないからや」と言ってのけるほどだ。そんな扱いをされても、陣治は十和子のために何でもしてあげる。俺は十和子のためだったら何でもできるといつも言っているのだ。
十和子は今、デパートの時計売り場と時計の修理の件で揉めている。その対応のために、責任者である水島が十和子の家まで来ることになった。泣いている十和子に水島がキスをしたことで関係が始まり、十和子は水島に惹かれるようになっていく。
帰りの遅い十和子を心配した陣治が、十和子の姉であるみすずに連絡し、十和子はみすずから問い詰められることに。みすずは、十和子は黒崎とヨリを戻したのだと勝手に勘違いして憤っている。黒崎というのは、十和子がかつて付き合っていた男で、8年前に別れた。別れる際暴力を振るわれ、顔と肋骨の骨を折る重傷を負いながら、十和子は未だに黒崎への想いを消すことが出来ないでいる。
黒崎からの電話を待ち続けながら何の音沙汰もないことに悲しむ十和子は、ある日衝動的に黒崎の携帯に電話をしてしまうが…。
というような話です。
なかなか面白い映画でした。
正直に言って、クソみたいな人間ばっかり出てくるので(笑)、共感ベースで観れる物語ではないような気がする。物語の序盤から、登場人物の誰かに感情移入できる人は、ほとんどいないんじゃないかな。十和子は人の金で遊んで暮らしながら、他の男とも寝ているし、陣治はまるで奴隷のように十和子に尽くしているし、水島は既婚者なのに十和子と関係を持つし、黒崎は暴力を振るうような男だ。なんなんだこいつらは、と思いながら僕は映画を観ていた。
とはいえ、不快なのかというとそうでもない。それは、十和子のキャラクターに拠るところが大きいと思う。陣治も水島も黒崎もロクデナシなのだけど、十和子も同じくらいロクデナシなので、ロクデナシ同士がわちゃわちゃしている、という捉え方になる。ロクデナシが真っ当に生きている人間に対して何かしているのであれば、それは不快感をもたらすかもしれないのだけど、全員ロクデナシだから、普通こみ上げてくるだろう不快感がこの映画では抑えられているように思う。だから、感情移入出来るわけでもないし、ロクデナシばっかり登場するんだけど、でも不快なわけではない、という不思議な感覚のまま物語を追っていく感じになる。
物語は、先程もチラッとふれたけど、結局は十和子と陣治の関係がメインになっていく。十和子と陣治の関係性は、冒頭ではほぼ情報がないままスタートする。しかし、周囲の変化や新たに知る情報などによって状況がどんどんと変化していき、それによって少しずつ十和子と陣治の関係性のベールが剥がれていくことになる。その過程を楽しむ映画だ。一体この二人はなんなのか。何がこの二人を繋いでいるのか。十和子や陣治の振る舞いの裏側には、一体何があるのか。それらをジワジワと染み出させるようにして描き出す構成は見事だと思う。
この映画の原作は女性が書いているが、映画の監督は男性だ(脚本が男性だったか女性だったかは覚えていない)。だから、この映画にどの程度女性視点が組み込まれているのか判断は難しいのだけど、しかし映画を観ながら思った。全員ではないにせよ、やっぱり女性というのは、水島とか黒崎みたいな、ロクデナシなんだけど優しい風、イケてる風の男がいいんかねぇ、ということだ。男から見れば、水島も黒崎もロクデナシだなと思うんだけど、女性はそうとは気づけないのだろうか。それとも気づいてて、それでも良いと思ってしまうのだろうか。
まあでもこういうのは、女性側も男に対して思っているだろう。女性からすればどう観てもロクデナシな女が男からモテるというようなケースはいくらでもあるのだろう。その辺りのすれ違いが不幸を生むよなぁ、と感じたりもしました。
「彼女がその名を知らない鳥たち」を観に行ってきました
「女神の見えざる手」を観に行ってきました
僕は映画を映画館で観るようにしてるんだけど、この映画を観ている最中、観客の一人が、「すげぇ」って呟いていました。
気持ちは超分かる。
すげぇ映画でした。
この映画を観て、「あぁ僕は勝てなくていいや」と思ってしまった。
そもそも僕は、勝ち負けにさほど執着がない。どうしても勝ちたい!と思うことがないので、将棋は好きだけど強くなれないし、ギャンブルもやらない方がいいだろうと思って手を出していない。競争心を煽られてもやる気が出るタイプではないし、負けて悔しいと感じることもあまりない。
だから、そもそも「勝てなくていいや」と思っているのだけど、しかしそういうレベルとはまたちょっと違った点で「勝てなくていいや」と感じた。それは、「ここまでやらないと勝てないなら勝てなくていいや」という感情だ。
主人公のミス・スローンは、勝つために手段を選ばない。その手段を選ばないっぷりは凄まじいものがある。使える人、使える状況、使えるモノは何でも使う。こんな台詞もあった。
『あなたの感情や人生に対して私は義務を負っていない。勝つための手段を利用しないのは、義務の放棄よ』
この台詞単体でも、なかなか凄いことを言っていると感じてもらえるでしょうが、この台詞がどの場面で出てきたのかということも併せて考えると、より凄まじさを感じてもらえるのではないかと思います。
『ロビー活動とは、予見すること。敵が切り札を見せた後で、自分の札を出す』
この映画は、こんな台詞から始まる。まさにその通りだ。彼女は、強大な敵を相手に、圧倒的な不利な状況にあるにも関わらず、先々を見通し、出来ることをすべてやり、仲間や時には自分自身さえも犠牲にしながら前進しようとする。
世の中にこんな人間がいるのだとすれば、僕は勝てなくていいや、と思ってしまう。彼女に勝つためには、彼女と同程度かそれ以上のことをしなければならない。そうしなければ勝利をもぎ取れないのであれば、勝てなくていい。とにかく映画を観ながら、そのことを強く実感させられた。
内容に入ろうと思います。
コール・クラヴィッツ=ウォーターマンという、様々なロビー活動を行う業界最大手とも言える会社で働くスローンは、その中でもやり手とされる凄腕だ。「信念のロビイスト」と呼ばれている。税と自由企業への過剰干渉を専門とし、今はインドネシアの油に対して過剰な税金を掛けようとする政府に対抗するためにロビー活動をしている。
ある日スローンは会社の重役に呼ばれ、サンフォードという人物と会うことになる。彼は、全米に影響力を持つ銃賛成派閥団体のトップで、スローンに、女性を銃賛成派に転向させて欲しいと依頼する。しかしスローンは一笑に付した上で、サンフォードの申し出を蹴る。先ごろ提出された銃規制化法案に彼女は賛成であり、個人的な信念から銃はもっと規制されるべきだと考えているからだ。
しかしその態度に怒った重役は、サンフォード氏の提案に乗らないのなら君はこの会社に要らない、と宣告されてしまう。彼女は悩んだ末、銃規制のためのロビー活動をしているピーターソン=Wへと移ることに決める。チームのメンバー全員の椅子を確保したと宣言し、私と一緒に行く者を募ると、チームは半々に分かれたが、スローンの右腕として2年間働いていた女性がスローンについていかないと決断したことで一悶着ある。しかし彼女の決断は揺るがず、スローンは右腕を欠いた状態で移籍することに。
アメリカにおける銃賛成派は強大な力を持っており、普通に考えれば銃規制化法案を議会で通すことは不可能だ。しかしスローンは、あの手この手で様々な策を仕掛け、不可能としか思えないようなロビー活動を進めていくが…。
というような話です。
正直この映画については、あまり語りたくはない。スローンの凄さについては、冒頭に書いた通りだし、映画全体の流れは是非実際に観て体感して欲しいからだ。観客の一人が「すげぇ」と呟いたその理由を、実際に映画を観て体感して欲しいからだ。だからこれ以上、この映画のメインパートに関しては書かないことにする。
僕がここで書きたいのは、アメリカにおける銃の扱いについてだ。
ニュースでも時々目にするが、アメリカでは銃乱射事件が頻発し(映画の中で、「去年1年で銃乱射事件は374件(件数はうろ覚え)あった」とニュース映像の中で言っていた場面があったと思う)、その度に銃規制のうねりが起こる。しかし、詳しいことは知らないが、憲法に銃の所持に関しての規定があるようで、銃賛成派はそれを根拠に、銃の所持を正当化しようとする。
しかし僕には、銃賛成派の議論は、破綻しているようにしか感じられない。
テレビ番組での公開討論の様子が映画の中で描かれるのだけど、銃賛成派の主張の根拠は「憲法に書いてある」ぐらいしかないな、と感じた。一方、銃規制派の主張は、「運転免許でもお金と時間を掛けて取得するのに、銃はなんの規制もなく5分で買える」「憲法に書いてある権利を侵すつもりはなく、運転免許と同じように所持するためのルールが必要」「銃を規制すると言っても銃を既に所持している人から取り上げるのではなく、犯罪者が銃を買いにくくするだけ」と、いたって真っ当に感じられる。映画の中では、世論も銃規制を望む声が多い、と描いている。
しかしそれでも、アメリカでは銃が簡単に買える。9.11以降、テロリストを排除するためにあらゆることをやっているのに、それでも、犯罪者でも簡単に銃を買えてしまう国であることは止めない。
米国憲法に銃の所持についての記載があるのは、アメリカという国を建国した当時はまだ社会情勢が物騒だったからではないか。現代はむしろ、銃の所持によって国民の安全が脅かされている。銃賛成派は、「銃があるから身の危険を守れるのだ」と主張するが、しかしそもそも銃がなければ、身を守るべき危険も減るだろう。普通に理屈で考えれば銃は規制されるべきなはずだが、その理屈をはねのけるほど銃賛成派の勢力が強いということだろう。難儀な国である。
この映画の凄さは、現実を舞台に、現実に存在する議論をベースに物語を組み立てた点だろう。相手を騙したり出し抜いたりしてスリリングな展開をもたらす物語は、特にマンガなどに多く存在するだろう。映像化もされた「ライアーゲーム」などは、まさにそういう物語の典型だろうと思う。しかし本書では、扱っている事柄がすべて現実だ。現実のルールに則って、壮絶なゲームをしている。もちろん、この映画のようなことが日常茶飯事とは思えないが、しかし程度の差こそあれ、このようなゲームは現実世界で行われているのだろう。
久々にのめり込んで観た映画でした。
「女神の見えざる手」を観に行ってきました
気持ちは超分かる。
すげぇ映画でした。
この映画を観て、「あぁ僕は勝てなくていいや」と思ってしまった。
そもそも僕は、勝ち負けにさほど執着がない。どうしても勝ちたい!と思うことがないので、将棋は好きだけど強くなれないし、ギャンブルもやらない方がいいだろうと思って手を出していない。競争心を煽られてもやる気が出るタイプではないし、負けて悔しいと感じることもあまりない。
だから、そもそも「勝てなくていいや」と思っているのだけど、しかしそういうレベルとはまたちょっと違った点で「勝てなくていいや」と感じた。それは、「ここまでやらないと勝てないなら勝てなくていいや」という感情だ。
主人公のミス・スローンは、勝つために手段を選ばない。その手段を選ばないっぷりは凄まじいものがある。使える人、使える状況、使えるモノは何でも使う。こんな台詞もあった。
『あなたの感情や人生に対して私は義務を負っていない。勝つための手段を利用しないのは、義務の放棄よ』
この台詞単体でも、なかなか凄いことを言っていると感じてもらえるでしょうが、この台詞がどの場面で出てきたのかということも併せて考えると、より凄まじさを感じてもらえるのではないかと思います。
『ロビー活動とは、予見すること。敵が切り札を見せた後で、自分の札を出す』
この映画は、こんな台詞から始まる。まさにその通りだ。彼女は、強大な敵を相手に、圧倒的な不利な状況にあるにも関わらず、先々を見通し、出来ることをすべてやり、仲間や時には自分自身さえも犠牲にしながら前進しようとする。
世の中にこんな人間がいるのだとすれば、僕は勝てなくていいや、と思ってしまう。彼女に勝つためには、彼女と同程度かそれ以上のことをしなければならない。そうしなければ勝利をもぎ取れないのであれば、勝てなくていい。とにかく映画を観ながら、そのことを強く実感させられた。
内容に入ろうと思います。
コール・クラヴィッツ=ウォーターマンという、様々なロビー活動を行う業界最大手とも言える会社で働くスローンは、その中でもやり手とされる凄腕だ。「信念のロビイスト」と呼ばれている。税と自由企業への過剰干渉を専門とし、今はインドネシアの油に対して過剰な税金を掛けようとする政府に対抗するためにロビー活動をしている。
ある日スローンは会社の重役に呼ばれ、サンフォードという人物と会うことになる。彼は、全米に影響力を持つ銃賛成派閥団体のトップで、スローンに、女性を銃賛成派に転向させて欲しいと依頼する。しかしスローンは一笑に付した上で、サンフォードの申し出を蹴る。先ごろ提出された銃規制化法案に彼女は賛成であり、個人的な信念から銃はもっと規制されるべきだと考えているからだ。
しかしその態度に怒った重役は、サンフォード氏の提案に乗らないのなら君はこの会社に要らない、と宣告されてしまう。彼女は悩んだ末、銃規制のためのロビー活動をしているピーターソン=Wへと移ることに決める。チームのメンバー全員の椅子を確保したと宣言し、私と一緒に行く者を募ると、チームは半々に分かれたが、スローンの右腕として2年間働いていた女性がスローンについていかないと決断したことで一悶着ある。しかし彼女の決断は揺るがず、スローンは右腕を欠いた状態で移籍することに。
アメリカにおける銃賛成派は強大な力を持っており、普通に考えれば銃規制化法案を議会で通すことは不可能だ。しかしスローンは、あの手この手で様々な策を仕掛け、不可能としか思えないようなロビー活動を進めていくが…。
というような話です。
正直この映画については、あまり語りたくはない。スローンの凄さについては、冒頭に書いた通りだし、映画全体の流れは是非実際に観て体感して欲しいからだ。観客の一人が「すげぇ」と呟いたその理由を、実際に映画を観て体感して欲しいからだ。だからこれ以上、この映画のメインパートに関しては書かないことにする。
僕がここで書きたいのは、アメリカにおける銃の扱いについてだ。
ニュースでも時々目にするが、アメリカでは銃乱射事件が頻発し(映画の中で、「去年1年で銃乱射事件は374件(件数はうろ覚え)あった」とニュース映像の中で言っていた場面があったと思う)、その度に銃規制のうねりが起こる。しかし、詳しいことは知らないが、憲法に銃の所持に関しての規定があるようで、銃賛成派はそれを根拠に、銃の所持を正当化しようとする。
しかし僕には、銃賛成派の議論は、破綻しているようにしか感じられない。
テレビ番組での公開討論の様子が映画の中で描かれるのだけど、銃賛成派の主張の根拠は「憲法に書いてある」ぐらいしかないな、と感じた。一方、銃規制派の主張は、「運転免許でもお金と時間を掛けて取得するのに、銃はなんの規制もなく5分で買える」「憲法に書いてある権利を侵すつもりはなく、運転免許と同じように所持するためのルールが必要」「銃を規制すると言っても銃を既に所持している人から取り上げるのではなく、犯罪者が銃を買いにくくするだけ」と、いたって真っ当に感じられる。映画の中では、世論も銃規制を望む声が多い、と描いている。
しかしそれでも、アメリカでは銃が簡単に買える。9.11以降、テロリストを排除するためにあらゆることをやっているのに、それでも、犯罪者でも簡単に銃を買えてしまう国であることは止めない。
米国憲法に銃の所持についての記載があるのは、アメリカという国を建国した当時はまだ社会情勢が物騒だったからではないか。現代はむしろ、銃の所持によって国民の安全が脅かされている。銃賛成派は、「銃があるから身の危険を守れるのだ」と主張するが、しかしそもそも銃がなければ、身を守るべき危険も減るだろう。普通に理屈で考えれば銃は規制されるべきなはずだが、その理屈をはねのけるほど銃賛成派の勢力が強いということだろう。難儀な国である。
この映画の凄さは、現実を舞台に、現実に存在する議論をベースに物語を組み立てた点だろう。相手を騙したり出し抜いたりしてスリリングな展開をもたらす物語は、特にマンガなどに多く存在するだろう。映像化もされた「ライアーゲーム」などは、まさにそういう物語の典型だろうと思う。しかし本書では、扱っている事柄がすべて現実だ。現実のルールに則って、壮絶なゲームをしている。もちろん、この映画のようなことが日常茶飯事とは思えないが、しかし程度の差こそあれ、このようなゲームは現実世界で行われているのだろう。
久々にのめり込んで観た映画でした。
「女神の見えざる手」を観に行ってきました
コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと(川上量生)
本書は、「ジブリ映画」をメインで扱いながら、「創作全般」について扱っている。創作というのは要するに、アニメ・映画・小説・音楽・ゲームなどなどのことである。それらに対して、「コンテンツ」の定義を考えたり、「クリエイター」とはどんな人であるのかを考えたりする。
さてでは、僕がこのブログで書いているような文章は、「コンテンツ」だろうか?
本書で「コンテンツ」がどんな風に定義されるのかは後で触れるけど、その定義はやはり「創作全般」に対して当てはまるものだ。しかしその定義は、創作ではないものにはうまく当てはまらないような気がする。僕が書いているような「感想」、あるいはもう少し高度な「批評」、また「エッセイ」や「論文」など、「創作」ではないような表現もある。漠然とした違いを書けば、「創作全般」は「何もないところから生み出されているように感じられるもの」であるのに対し、「感想」や「批評」なんかは「何かがあることを前提に、それに対して生み出されるもの」という感じがする。
あるいは、「CM」なんてのはどうだろう。「CM」というのは、究極的な目的は「伝達」である。映像なりラジオなり文章なりによって、「何かを買ってもらう」「何かを知ってもらう」というような「伝達」のための手段である。また、「何かがあることを前提に、それに対して生み出されるもの」でもある。そういう意味で「CM」は「創作全般」ではないように思えるが、しかし「コンテンツ」かどうかと聞かれれば、「コンテンツ」であるようにも思える。作っている人は「クリエイター」と呼ばれるだろうし。
こういうものについては、本書では触れられていない。そういう意味では、本書でなされる「コンテンツ」の定義というのは、弱いようにも感じられてしまう。
とはいえ、著者にとって本書は「不完全を承知で出すもの」という扱いである。
『本にするなら、もっと膨大な証拠を集める必要があるし、ちゃんと証明しようとすると大変な手間がかかることになるけど、そんな時間はない(から本にはできない)』
当初はそう考えていたが、気が変わって、『ジブリプロデューサー見習いの卒論』のようなつもりで書いたとのことです。なので、不完全さについて殊更に責め立てるべきではないでしょう。とはいえ、「創作全般」以外のものについても、「コンテンツ」という定義に含めて考えてくれるとなお面白かったような気はします。
のっけからマイナス要因となるようなことばかり書いていますが、別に本書全体に対する評価が低かったわけでは全然ありません。本書は、「創作全般」に対して「コンテンツ」や「クリエイター」の定義を追い求めるような中身になっていますが、さすが理系出身という感じの、明快な理屈とシンプルな説明で、様々な体験や会話を組み込みながら、ジブリプロデューサー見習いとして感じた疑問を追い続け、答えを求め続けた軌跡が描かれていきます。
まず、著者について少し触れましょう。
著者は、ドワンゴという会社の創業者(のはず)で、かつては着メロのサイトで一世を風靡し、今ではニコニコ動画を運営する会社としても知られています。そして、その代表取締役である著者が、ドワンゴに出社するのは週に1度木曜だけとし、残りはすべてジブリに通いつめ、プロデューサー見習いとして2年ほど関わりました。
その経験を元に、本書が生み出されています。
著者は、宮﨑駿、高畑勲、鈴木敏夫らジブリの超ビッグネームから、特異な才能を持つジブリのアニメーター、あるいは庵野秀明、押井守といった人たちと関わり、日々その仕事ぶりを見て、様々な質問を投げかけ、そんな風にして、彼らが何を生み出しており、そのために彼らが何をしているのかということの本質を探り出そうとします。
著者がジブリと関わりながら解き明かしたいと考えていた疑問は、3つに集約できるそうです。
1.人間の創作活動とは具体的にはどんなことをしているのだろうか?
2.人間はなぜコンテンツに心を動かされるのか
3.コンテンツを本当につくっているのは誰なのか
そしてこれらについて考える中で、著者の中で様々な考えが固まっていくことになります。
本書の中では、「コンテンツとは何か」という、定義の問題から始まります。ここで著者は、アリストテレスの話を引き合いに出しながら、「コンテンツは現実の模倣」という、とりあえずの結論に達します。しかしさらにそこから考えを深めて、「主観的情報」と「客観的情報」という2つの概念にたどり着きます。それらの詳しい説明は是非本書で読んで欲しいのだけど、大雑把に言えば、「見て脳が気持ちいいと判断する絵」と「正確に描かれた絵」はまったく違う、という話です。そして、ジブリをベースキャンプにして「コンテンツ」について考え続けた著者は、この2つの概念を使って再度「コンテンツ」を定義することになります(その定義も、ここでは触れないことにします)。
ジブリではよく「情報量」という単語が使われていたそうです。どういう意味なのか聞くと、「線の数」だという。要するに、どれだけ細かく描いているか、ということだ。宮﨑駿は、元々情報量が少ないが故に子供でも理解できて楽しめるアニメという分野で、情報量を増やすという方向に進んだ人で、だからジブリ映画は何度再放送しても視聴率が落ちないのだ、と書かれています。
本書には、面白いエピソードや考え方がたくさん出てくるのだけど、コンテンツに関してはこの話が一番興味深かった。
『鈴木敏夫さんをはじめ、いろいろなアニメ業界の人から同じ話を聞いたのですが、アニメーターの動きは現実の人間の動作を忠実に再現しても、良いものにはならないそうなのです』
ジブリでは「らしい動き」という言い方がよく登場するそうです。現実の人間の動作とは違うのだけど、それっぽく見える絵を描けるかどうか―それがジブリにとっての良いアニメーターなんだそうです。
それに関連するエピソードで、さすが宮﨑駿と感じるものがありました。
「ハウルの動く城」の中に、主人公のソフィーが荒地の魔女と一緒に階段を上る場面があります。当初宮﨑駿はこの場面に、ソフィーが荒地の魔女に手を差し伸べるシーンを入れる予定でした。
ただ、この場面を大塚伸治というアニメーターが担当すると聞いて、絵コンテを修正したそうです。どう変えたかと言えば、ソフィーが手を差し伸べるシーンをカットした、と。何故か。
ソフィーが手を差し伸べるシーンは、荒地の魔女が階段を上る苦しさを分かりやすく表現するためでした。そのシーンがないと、苦しさをうまく伝えられないだろう、と。でも宮﨑駿は、大塚伸治という人物が「らしい動き」を見事に描くアニメーターだと理解していたので、荒地の魔女にはただ階段を上らせるだけで十分と判断した、ということのようです。
こういうエピソードが存在するくらい、「らしい動き」を描くのは難しいんだそうです。非常に面白い話だなと思いました。
また次に「クリエイター」の定義をしようとします。ここでも、定義そのものは書きませんが、「クリエイター」の定義を追う過程で、脳が物事をどう判断するのか、そしてそのことが「コンテンツ」とどう関係があるのか、という話が出てきます。
脳がどう判断するのかというエピソードで面白いと思ったのが、ビーイングという音楽事務所の話と、著者自身が手がけた着メロの話です。
ビーイングは、最盛期にはミリオンヒットを連発していたそうですが、創業者は、曲に比べてボーカルの音量を大きめに設定していたと語ります。何故なら、多くの人が音楽に触れるのは街中であり、そこでちゃんと歌詞が聞こえるためにはボーカルの音量が大きい必要があるのだ、と。その設定は、音楽のプロからしたらバランスの悪いものに聞こえるのだけど、音楽を買う多くの人がそのやり方で音楽に触れ、CDを買ってくれるのだからそれは正解の一つです。
また、着メロでも同じような話があります。着メロが流行っていた当時、多くの会社はカラオケ音源をそのまま使っていたのに対し、ドワンゴは着メロ専用の音楽を作るチームを編成したといいます。多くの音大生を雇い、良い着メロを作らせたのだけど、それらはどうも高校生に評判が悪かった。色々検証してみると、音大生は耳が良すぎて、着メロをよく使う人たちの聴こえ方をうまく捉えきれなかったことに原因があるとわかりました。
結局のところ「コンテンツ」に求められるものは「分かりやすさ」が大きな要素を占めるのです。それは、脳の仕組みからして当然なのだ、と。脳は、物事を単純化してしか捉えられないので、単純なものほど受け取りやすい。そしてクリエイターと呼ばれる人たちは、脳の中にあるものを具現化しようとするのだから、どうしてもコンテンツというのはワンパターンに陥りがちになってしまうのだ、というような話が展開されていきます。
じゃあ、どうやってワンパターンを回避するのかということを色んな人が考えるわけですけど、やはり宮﨑駿が凄い。
『宮﨑駿さんの作品のつくり方は独特です。どういうことかというと、脚本なしに絵コンテから描き始めるのです。絵コンテとは作品の設計図にあたるもので、なにをどう描けばいいかを指示するものです。4コママンガみたいなものが延々と続いてストーリーを説明しているといったイメージを想像してもらえばいいんじゃないかと思います。
宮﨑駿の特徴は、ある程度の絵コンテがたまると、もう作品の制作を始めてしまうことです。同時進行なのです。
ですから、制作が始まったとき、まだ絵コンテは完成していないのです。脚本ももともとありませんから、ストーリーが最後にどうなるか、スタッフも誰も分からないまま作品をつくることになるのです。
話の展開を知っているのはじゃあ宮﨑監督ただひとり…というわけじゃなくて、実は宮崎監督も分かっていません。
「宮さんは一本の映画で連載マンガをやってんだよ」
プロデューサーの鈴木敏夫さんはそう説明してくれました。だから映画に緊張感が生まれる、とも。』
そんなやり方で、数々の傑作を最終的に完成させてしまうのだから凄いですよね。さらに、確かにこれだと、予定調和が入り込む余地がかなり少ないので、マンネリやワンパターンを回避しやすくもなるだろうな、と。しかし、メチャクチャな作り方だと思いますけどね。
そう、「天才」の定義について著者は、宮﨑駿の息子である宮崎吾朗のこんな言葉があります。
『でも日本みたいな貧しい国は、天才を使って対抗するしか戦う方法がない』
どういうことか、少し補足しましょう。この発言は、アメリカの作り方との対比から生まれています。アメリカでは、映画でもアニメでも、CGなどでプロトタイプを作り、それを見ながらみんなでやいのやいの言って最終的な形を決めていくのだとか。これは、お金も時間も掛かるけど、「天才」を必要としないやり方だ、と宮崎吾朗は言います。そして、そんなお金も時間もある国と対抗するには、宮﨑駿のような天才が必要なのだ、ということです。
また、「クリエイター」が何を生み出しているのか、という疑問の一部に答えてくれそうな、こんな話もあります。
『高畑監督にこういう問いかけをされたことがあります。
「宮さんの「魔女の宅急便」に出て来る女の子。魔法が使えなくなって飛べなくなったのに、また、最後に飛べるようになった。なぜなのか?」
一度は飛べなくなった魔女のキキが、なぜ再び飛べるようになったのか。それを、宮﨑駿は映画のなかで説明していません。なんの説明もなく、キキは再び飛ぶことができるようになった。これは「宮さんの魔法」だと高畑さんは言います
なぜ使えなくなった魔法がまた使えるようになったかは、いろんな説明が考えられるかもしれない。でも、作劇上のテクニックとして解説すると、そのとき観客は、キキに感情移入をしていて、飛んでほしいと願っていた。みんなが「ここで飛べ、飛べ」と思っていたから飛んだ。だから、そこで拍手喝采して、「ああ、よかった。よかった」とカタルシスを感じた。
願いが叶ったんだから、なぜ飛べたのかということに観客は疑問を感じない。それが魔法のトリックだと高畑さんは言うのです』
僕は書店員なので、「宮崎アニメの謎を解き明かすような本」みたいなのも結構目にする機会があります。恐らく色んな「専門家」「識者」「批評家」みたいな人たちが、ストーリーの展開や世界設定、盛り込まれている要素などから、映画の中では描かれていない色んな謎に説明をつけようとするのでしょう。しかし、少なくともこのキキの場面については、作劇上の理由があり、それ故に成り立っている、という話は非常に面白かったし、「クリエイター」が何を生み出しているのかということの、一つの解だったりするのだろうと思います。
『この本のアイデアを、ぼくの知り合いのいろいろなクリエイターに話してみました。コンテンツとはなにか、クリエイターとはどんなことをしている人なのか。ほとんどのクリエイターにはぼくの考え方についてそのとおりだと言ってもらえたのですが、二人だけちょっと足らない要素があると指摘してくれた人がいます』
多くのクリエイターは、自分自身で本書のような言語化はしていないかもしれないけど、言語化された理屈を読んで納得感があったという。そういう意味でも本書は、何かを頭の中から生み出さなければならない人たちにとっては参考になる話だろうな、と感じました。創作のための具体的な方法論が載っているわけではないですけど、最終的には感性だけど理屈もなくては出来ない「創作」というものに関わる上で、その理屈の部分を支えてくれる土台になるのではないかと感じました。
川上量生「コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと」
さてでは、僕がこのブログで書いているような文章は、「コンテンツ」だろうか?
本書で「コンテンツ」がどんな風に定義されるのかは後で触れるけど、その定義はやはり「創作全般」に対して当てはまるものだ。しかしその定義は、創作ではないものにはうまく当てはまらないような気がする。僕が書いているような「感想」、あるいはもう少し高度な「批評」、また「エッセイ」や「論文」など、「創作」ではないような表現もある。漠然とした違いを書けば、「創作全般」は「何もないところから生み出されているように感じられるもの」であるのに対し、「感想」や「批評」なんかは「何かがあることを前提に、それに対して生み出されるもの」という感じがする。
あるいは、「CM」なんてのはどうだろう。「CM」というのは、究極的な目的は「伝達」である。映像なりラジオなり文章なりによって、「何かを買ってもらう」「何かを知ってもらう」というような「伝達」のための手段である。また、「何かがあることを前提に、それに対して生み出されるもの」でもある。そういう意味で「CM」は「創作全般」ではないように思えるが、しかし「コンテンツ」かどうかと聞かれれば、「コンテンツ」であるようにも思える。作っている人は「クリエイター」と呼ばれるだろうし。
こういうものについては、本書では触れられていない。そういう意味では、本書でなされる「コンテンツ」の定義というのは、弱いようにも感じられてしまう。
とはいえ、著者にとって本書は「不完全を承知で出すもの」という扱いである。
『本にするなら、もっと膨大な証拠を集める必要があるし、ちゃんと証明しようとすると大変な手間がかかることになるけど、そんな時間はない(から本にはできない)』
当初はそう考えていたが、気が変わって、『ジブリプロデューサー見習いの卒論』のようなつもりで書いたとのことです。なので、不完全さについて殊更に責め立てるべきではないでしょう。とはいえ、「創作全般」以外のものについても、「コンテンツ」という定義に含めて考えてくれるとなお面白かったような気はします。
のっけからマイナス要因となるようなことばかり書いていますが、別に本書全体に対する評価が低かったわけでは全然ありません。本書は、「創作全般」に対して「コンテンツ」や「クリエイター」の定義を追い求めるような中身になっていますが、さすが理系出身という感じの、明快な理屈とシンプルな説明で、様々な体験や会話を組み込みながら、ジブリプロデューサー見習いとして感じた疑問を追い続け、答えを求め続けた軌跡が描かれていきます。
まず、著者について少し触れましょう。
著者は、ドワンゴという会社の創業者(のはず)で、かつては着メロのサイトで一世を風靡し、今ではニコニコ動画を運営する会社としても知られています。そして、その代表取締役である著者が、ドワンゴに出社するのは週に1度木曜だけとし、残りはすべてジブリに通いつめ、プロデューサー見習いとして2年ほど関わりました。
その経験を元に、本書が生み出されています。
著者は、宮﨑駿、高畑勲、鈴木敏夫らジブリの超ビッグネームから、特異な才能を持つジブリのアニメーター、あるいは庵野秀明、押井守といった人たちと関わり、日々その仕事ぶりを見て、様々な質問を投げかけ、そんな風にして、彼らが何を生み出しており、そのために彼らが何をしているのかということの本質を探り出そうとします。
著者がジブリと関わりながら解き明かしたいと考えていた疑問は、3つに集約できるそうです。
1.人間の創作活動とは具体的にはどんなことをしているのだろうか?
2.人間はなぜコンテンツに心を動かされるのか
3.コンテンツを本当につくっているのは誰なのか
そしてこれらについて考える中で、著者の中で様々な考えが固まっていくことになります。
本書の中では、「コンテンツとは何か」という、定義の問題から始まります。ここで著者は、アリストテレスの話を引き合いに出しながら、「コンテンツは現実の模倣」という、とりあえずの結論に達します。しかしさらにそこから考えを深めて、「主観的情報」と「客観的情報」という2つの概念にたどり着きます。それらの詳しい説明は是非本書で読んで欲しいのだけど、大雑把に言えば、「見て脳が気持ちいいと判断する絵」と「正確に描かれた絵」はまったく違う、という話です。そして、ジブリをベースキャンプにして「コンテンツ」について考え続けた著者は、この2つの概念を使って再度「コンテンツ」を定義することになります(その定義も、ここでは触れないことにします)。
ジブリではよく「情報量」という単語が使われていたそうです。どういう意味なのか聞くと、「線の数」だという。要するに、どれだけ細かく描いているか、ということだ。宮﨑駿は、元々情報量が少ないが故に子供でも理解できて楽しめるアニメという分野で、情報量を増やすという方向に進んだ人で、だからジブリ映画は何度再放送しても視聴率が落ちないのだ、と書かれています。
本書には、面白いエピソードや考え方がたくさん出てくるのだけど、コンテンツに関してはこの話が一番興味深かった。
『鈴木敏夫さんをはじめ、いろいろなアニメ業界の人から同じ話を聞いたのですが、アニメーターの動きは現実の人間の動作を忠実に再現しても、良いものにはならないそうなのです』
ジブリでは「らしい動き」という言い方がよく登場するそうです。現実の人間の動作とは違うのだけど、それっぽく見える絵を描けるかどうか―それがジブリにとっての良いアニメーターなんだそうです。
それに関連するエピソードで、さすが宮﨑駿と感じるものがありました。
「ハウルの動く城」の中に、主人公のソフィーが荒地の魔女と一緒に階段を上る場面があります。当初宮﨑駿はこの場面に、ソフィーが荒地の魔女に手を差し伸べるシーンを入れる予定でした。
ただ、この場面を大塚伸治というアニメーターが担当すると聞いて、絵コンテを修正したそうです。どう変えたかと言えば、ソフィーが手を差し伸べるシーンをカットした、と。何故か。
ソフィーが手を差し伸べるシーンは、荒地の魔女が階段を上る苦しさを分かりやすく表現するためでした。そのシーンがないと、苦しさをうまく伝えられないだろう、と。でも宮﨑駿は、大塚伸治という人物が「らしい動き」を見事に描くアニメーターだと理解していたので、荒地の魔女にはただ階段を上らせるだけで十分と判断した、ということのようです。
こういうエピソードが存在するくらい、「らしい動き」を描くのは難しいんだそうです。非常に面白い話だなと思いました。
また次に「クリエイター」の定義をしようとします。ここでも、定義そのものは書きませんが、「クリエイター」の定義を追う過程で、脳が物事をどう判断するのか、そしてそのことが「コンテンツ」とどう関係があるのか、という話が出てきます。
脳がどう判断するのかというエピソードで面白いと思ったのが、ビーイングという音楽事務所の話と、著者自身が手がけた着メロの話です。
ビーイングは、最盛期にはミリオンヒットを連発していたそうですが、創業者は、曲に比べてボーカルの音量を大きめに設定していたと語ります。何故なら、多くの人が音楽に触れるのは街中であり、そこでちゃんと歌詞が聞こえるためにはボーカルの音量が大きい必要があるのだ、と。その設定は、音楽のプロからしたらバランスの悪いものに聞こえるのだけど、音楽を買う多くの人がそのやり方で音楽に触れ、CDを買ってくれるのだからそれは正解の一つです。
また、着メロでも同じような話があります。着メロが流行っていた当時、多くの会社はカラオケ音源をそのまま使っていたのに対し、ドワンゴは着メロ専用の音楽を作るチームを編成したといいます。多くの音大生を雇い、良い着メロを作らせたのだけど、それらはどうも高校生に評判が悪かった。色々検証してみると、音大生は耳が良すぎて、着メロをよく使う人たちの聴こえ方をうまく捉えきれなかったことに原因があるとわかりました。
結局のところ「コンテンツ」に求められるものは「分かりやすさ」が大きな要素を占めるのです。それは、脳の仕組みからして当然なのだ、と。脳は、物事を単純化してしか捉えられないので、単純なものほど受け取りやすい。そしてクリエイターと呼ばれる人たちは、脳の中にあるものを具現化しようとするのだから、どうしてもコンテンツというのはワンパターンに陥りがちになってしまうのだ、というような話が展開されていきます。
じゃあ、どうやってワンパターンを回避するのかということを色んな人が考えるわけですけど、やはり宮﨑駿が凄い。
『宮﨑駿さんの作品のつくり方は独特です。どういうことかというと、脚本なしに絵コンテから描き始めるのです。絵コンテとは作品の設計図にあたるもので、なにをどう描けばいいかを指示するものです。4コママンガみたいなものが延々と続いてストーリーを説明しているといったイメージを想像してもらえばいいんじゃないかと思います。
宮﨑駿の特徴は、ある程度の絵コンテがたまると、もう作品の制作を始めてしまうことです。同時進行なのです。
ですから、制作が始まったとき、まだ絵コンテは完成していないのです。脚本ももともとありませんから、ストーリーが最後にどうなるか、スタッフも誰も分からないまま作品をつくることになるのです。
話の展開を知っているのはじゃあ宮﨑監督ただひとり…というわけじゃなくて、実は宮崎監督も分かっていません。
「宮さんは一本の映画で連載マンガをやってんだよ」
プロデューサーの鈴木敏夫さんはそう説明してくれました。だから映画に緊張感が生まれる、とも。』
そんなやり方で、数々の傑作を最終的に完成させてしまうのだから凄いですよね。さらに、確かにこれだと、予定調和が入り込む余地がかなり少ないので、マンネリやワンパターンを回避しやすくもなるだろうな、と。しかし、メチャクチャな作り方だと思いますけどね。
そう、「天才」の定義について著者は、宮﨑駿の息子である宮崎吾朗のこんな言葉があります。
『でも日本みたいな貧しい国は、天才を使って対抗するしか戦う方法がない』
どういうことか、少し補足しましょう。この発言は、アメリカの作り方との対比から生まれています。アメリカでは、映画でもアニメでも、CGなどでプロトタイプを作り、それを見ながらみんなでやいのやいの言って最終的な形を決めていくのだとか。これは、お金も時間も掛かるけど、「天才」を必要としないやり方だ、と宮崎吾朗は言います。そして、そんなお金も時間もある国と対抗するには、宮﨑駿のような天才が必要なのだ、ということです。
また、「クリエイター」が何を生み出しているのか、という疑問の一部に答えてくれそうな、こんな話もあります。
『高畑監督にこういう問いかけをされたことがあります。
「宮さんの「魔女の宅急便」に出て来る女の子。魔法が使えなくなって飛べなくなったのに、また、最後に飛べるようになった。なぜなのか?」
一度は飛べなくなった魔女のキキが、なぜ再び飛べるようになったのか。それを、宮﨑駿は映画のなかで説明していません。なんの説明もなく、キキは再び飛ぶことができるようになった。これは「宮さんの魔法」だと高畑さんは言います
なぜ使えなくなった魔法がまた使えるようになったかは、いろんな説明が考えられるかもしれない。でも、作劇上のテクニックとして解説すると、そのとき観客は、キキに感情移入をしていて、飛んでほしいと願っていた。みんなが「ここで飛べ、飛べ」と思っていたから飛んだ。だから、そこで拍手喝采して、「ああ、よかった。よかった」とカタルシスを感じた。
願いが叶ったんだから、なぜ飛べたのかということに観客は疑問を感じない。それが魔法のトリックだと高畑さんは言うのです』
僕は書店員なので、「宮崎アニメの謎を解き明かすような本」みたいなのも結構目にする機会があります。恐らく色んな「専門家」「識者」「批評家」みたいな人たちが、ストーリーの展開や世界設定、盛り込まれている要素などから、映画の中では描かれていない色んな謎に説明をつけようとするのでしょう。しかし、少なくともこのキキの場面については、作劇上の理由があり、それ故に成り立っている、という話は非常に面白かったし、「クリエイター」が何を生み出しているのかということの、一つの解だったりするのだろうと思います。
『この本のアイデアを、ぼくの知り合いのいろいろなクリエイターに話してみました。コンテンツとはなにか、クリエイターとはどんなことをしている人なのか。ほとんどのクリエイターにはぼくの考え方についてそのとおりだと言ってもらえたのですが、二人だけちょっと足らない要素があると指摘してくれた人がいます』
多くのクリエイターは、自分自身で本書のような言語化はしていないかもしれないけど、言語化された理屈を読んで納得感があったという。そういう意味でも本書は、何かを頭の中から生み出さなければならない人たちにとっては参考になる話だろうな、と感じました。創作のための具体的な方法論が載っているわけではないですけど、最終的には感性だけど理屈もなくては出来ない「創作」というものに関わる上で、その理屈の部分を支えてくれる土台になるのではないかと感じました。
川上量生「コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと」
数学の秘密の本棚(イアン・スチュアート)
内容に入ろうと思います。
本書は、「数学」に関する様々な話題を取り集めたエッセイです。内容はかなり幅広くて、簡単なパズルのようなもの、数学者のジョーク、黄金比やピタゴラスの定理など、比較的馴染みやすいものもあれば、フェルマーの最終定理やケプラー予想、ゲーデルの不完全性定理など、なかなかに歯ごたえのあるものもある。順番通り読む必要もないので、パラパラめくって気になるところを読む、というようなやり方でもいい。
著者は、訳者あとがきによると、【著者イアン・スチュアートは、イギリスでも名高いウォーリック大学の数学教授で、国内ではちょっとした有名人】だそうだ。数学に関する一般向けの本を20冊以上書いているだけではなく、数学の研究でもいくつも賞をもらっている。本書は、14歳の頃から50年以上書きためてきたネタの中から色んな話を放出しているという。
本書は、本当に短い小話の連なりという感じの本なので、実に感想が書きにくいので、内容に深く踏み込むつもりはないのだけど、僕は、比較的知っている話題が多かった。個人的な理由から、知っている話を読み返すことに意味はあったから、知っている話が多いのは問題なかったが、ある程度数学ノンフィクションやパズルに親しんでいる人であれば馴染みのある話は多いかもしれない。とはいえ、知らない話もあったし、そんなことも数学と関係してくるんだ、というようなものもあった。
個人的に印象に残っている話は、「黄金比は美とは関係ない」「『バタフライ効果』という命名の由来」「有名人の数学者」だ。特に「有名人の数学者」には、元ペルー大統領のアルベルト・フジモリ(数学の修士号取得)、バスケットボール選手のマイケル・ジョーダン(数学科入学)、爆弾魔「ユナボマー」として有名なセオドア・カジンスキー(数学の博士号取得)、『ドラキュラ』の著者であるブラム・ストーカー(数学の学位取得)など色んな人がいて面白かった。僕がいた大学にも「数学科」があったはずで、やっぱりそこにいる人はずば抜けて頭がいい、という印象だったので、数学科に在籍していたというだけで、僕としては凄さを感じる。
あと、数学の世界には色んな意味不明な理論が登場するのだけど(とはいえ、数学的に正しさは証明されているので、理解できないのは我々の頭の問題である)、本書にもそんな話が結構あった。その中で、一番理解不能だったのが、これ。
【1924年、ポーランド人数学者のステファン・バナッハとアルフレッド・タルスキーが、1個の球を有限個に分割して並べかえることで、もとと同じ大きさの球を2個作れることを証明した】
文章だけだとイメージ出来ないかもしれないが、仮に絵や映像があっても理解できないだろうから安心して欲しい。正直言って、意味不明だ。でもこれは、数学的に完全に正しいらしい。この証明によって、【複雑な立体の「体積」を僕らが理解できる形で定義するのは不可能だということを、このパラドックスは教えてくれているのだ】ということらしいのだけど、何を言っているんだかさっぱりわからない。
まあとはいえ、こういう話は、意味が分からないなりに楽しいと思うから僕は好きだ。訳が分からないから気になってしまうのだ。
難しい話も結構出てくるので、全部理解しようと思わない方がいいでしょう(そもそも、全部理解できる人間は、数学者になっていると思う)。「分からないなぁ」ということを楽しむのが数学の楽しみ方なので、そんな感じで手に取ってもらえたらいいんじゃないかなと思います。
イアン・スチュアート「数学の秘密の本棚」
本書は、「数学」に関する様々な話題を取り集めたエッセイです。内容はかなり幅広くて、簡単なパズルのようなもの、数学者のジョーク、黄金比やピタゴラスの定理など、比較的馴染みやすいものもあれば、フェルマーの最終定理やケプラー予想、ゲーデルの不完全性定理など、なかなかに歯ごたえのあるものもある。順番通り読む必要もないので、パラパラめくって気になるところを読む、というようなやり方でもいい。
著者は、訳者あとがきによると、【著者イアン・スチュアートは、イギリスでも名高いウォーリック大学の数学教授で、国内ではちょっとした有名人】だそうだ。数学に関する一般向けの本を20冊以上書いているだけではなく、数学の研究でもいくつも賞をもらっている。本書は、14歳の頃から50年以上書きためてきたネタの中から色んな話を放出しているという。
本書は、本当に短い小話の連なりという感じの本なので、実に感想が書きにくいので、内容に深く踏み込むつもりはないのだけど、僕は、比較的知っている話題が多かった。個人的な理由から、知っている話を読み返すことに意味はあったから、知っている話が多いのは問題なかったが、ある程度数学ノンフィクションやパズルに親しんでいる人であれば馴染みのある話は多いかもしれない。とはいえ、知らない話もあったし、そんなことも数学と関係してくるんだ、というようなものもあった。
個人的に印象に残っている話は、「黄金比は美とは関係ない」「『バタフライ効果』という命名の由来」「有名人の数学者」だ。特に「有名人の数学者」には、元ペルー大統領のアルベルト・フジモリ(数学の修士号取得)、バスケットボール選手のマイケル・ジョーダン(数学科入学)、爆弾魔「ユナボマー」として有名なセオドア・カジンスキー(数学の博士号取得)、『ドラキュラ』の著者であるブラム・ストーカー(数学の学位取得)など色んな人がいて面白かった。僕がいた大学にも「数学科」があったはずで、やっぱりそこにいる人はずば抜けて頭がいい、という印象だったので、数学科に在籍していたというだけで、僕としては凄さを感じる。
あと、数学の世界には色んな意味不明な理論が登場するのだけど(とはいえ、数学的に正しさは証明されているので、理解できないのは我々の頭の問題である)、本書にもそんな話が結構あった。その中で、一番理解不能だったのが、これ。
【1924年、ポーランド人数学者のステファン・バナッハとアルフレッド・タルスキーが、1個の球を有限個に分割して並べかえることで、もとと同じ大きさの球を2個作れることを証明した】
文章だけだとイメージ出来ないかもしれないが、仮に絵や映像があっても理解できないだろうから安心して欲しい。正直言って、意味不明だ。でもこれは、数学的に完全に正しいらしい。この証明によって、【複雑な立体の「体積」を僕らが理解できる形で定義するのは不可能だということを、このパラドックスは教えてくれているのだ】ということらしいのだけど、何を言っているんだかさっぱりわからない。
まあとはいえ、こういう話は、意味が分からないなりに楽しいと思うから僕は好きだ。訳が分からないから気になってしまうのだ。
難しい話も結構出てくるので、全部理解しようと思わない方がいいでしょう(そもそも、全部理解できる人間は、数学者になっていると思う)。「分からないなぁ」ということを楽しむのが数学の楽しみ方なので、そんな感じで手に取ってもらえたらいいんじゃないかなと思います。
イアン・スチュアート「数学の秘密の本棚」