天国はまだ遠く(瀬尾まいこ)
本当に死のうと思ったことがある。
という話は、このブログで何度も書いているから、またかと思っていただける人もまあいるかもしれない。しかし今回は、まさにそこから始まる作品なので、まあ仕方ないということで。
なんであの時死のうと思ったんだろうな、と考える。最近はさすがに考えることも少なくなったけど、でも時々ふと浮かぶ。
何で死にたくなったのかなんていうのは、正直言ってなんとも言葉にすることは出来ない。自分にだってよくわからないし、未だにわからない。考えてもわからないし、悩んでもわからない。
ただ一つだけ言えることは、あの時死にたかった自分は正しかったということだ。僕は、今の生活にはまあそれなりに満足しているし、未来に対して特に展望はないとはいえ、生きていてよかったな、と思いもする。しかし同時に、あの時あの段階で死んでしまっている自分も、また正しいと思えるのである。
死のうと思った理由については、こんな風に考えている。釣り合いを取ろうとしたのと、針路を変更しようとしたのと。この二つの理由だったんじゃないかと思う。
釣り合いを取ろうとしたというのはこういうことだ。
よく、何か事件が起きると、社長が辞任したりする。それを見て、いやいや別に辞めても何も変わらないし、むしろそのまま残って問題を改善するべきでは?とか思う。
しかし、僕がやろうとしたこともたぶん、それと同じことだったのだろう。
生きていく中で、どんどんといろんなものが重くなってしまった。この感覚は、分かる人には分かるだろうし、分からない人には分からないだろうけど、とにかくいろんなものが重くなっていった。自分の言動や考え、他人の存在、将来のこと、その他何でもないようないろんなことまで含めて、そういったことが全部のしかかり、負担に感じられるようになった。天秤の片方だけが異常に重くなって、釣り合いも何もない状態になったようなものである。
さてそんな時、天秤のもう片側に一体何を載せれば釣り合うだろうか、という発想になる。
本当であれば、長い時間を掛けてその傾きを直していくべきなんだろう。先ほど例に挙げた辞任する社長の話の場合も、辞めるのではなく、残ることで少しずつ天秤のもう片側に載せられるものを増やしていくべきなのだろう。
しかし、天秤自体が、片側に寄り切ってしまったその重さに耐えられなくなってしまうのだ。出来れば、一刻も早くこの傾きをなんとかしたい、と思ってしまうのだ。そうでなければ、天秤が壊れてしまう。
そう考えると、その傾きを一瞬で直せるような重さを持つものは、自殺ぐらいしか考えられなくなってしまう。死にたいわけではない。しかし、その傾きを直さないと許されないような気になってくるし、その重さ自体にもどんどん耐えられなくなってしまうのである。これが一つ目の理由。
もう一つは針路変更の話である。
僕は、高校生くらいから、ちゃんと言えば受験を意識するようになってから、よく思っていたことがある。
あぁ、僕はこのまま進んでいったらダメになるな、と。
僕がいた高校は進学校で、まあ受験もバリバリやる雰囲気だった。特に将来の希望もなかった僕としては、まあ出来る限りいい大学にでも行こうか、という感じで、周りに流されるようにしてその針路に乗った。
しかし同時に、僕にはこの道は辛いな、と直感したのである。このままいけば、いい大学に入り、それからいい会社に入ることを期待されるだろう。そこで、きちんと仕事をして、きちんとした人生を歩むことを期待されるだろう。
しかしそれは、僕にとっては心苦しいことであったのだ。やりたいことも望んでいることもなかった僕は、しかし外側だけはきちんと出来てしまっていた。まるで小学生がスーツを着ているような違和感を僕はずっと感じていたのだけど、しかし周りの人間はそれに気付かなかった。いくら僕が、いやいや見た目通りの人間ではないんですよ、と言っても誰も受け入れてはくれないだろう。
とにかく、このままの針路で進んでいけば、僕は確実にダメになることがわかっていた。きちんと大学を卒業して、きちんと会社に就職してなんていうのは、僕には無理だということはもうずっと前からわかっていた。
しかし同時に、やりたいことも何もない人間としては、針路の変更をしようがない。このまま前には進みたくないのに、でも前以外に行きたい方向もない。そんな状態で、前に進まないことを選択するのはどうしても出来なかった。
だからこそ、意図的に脱線してみせた。脱線すれば、前に進まなくてもいいし、別の方向にも進まなくてもいい。それは、僕には最良の選択肢に思えたのである。
たぶんあの当時、こんなことを考えて僕は死ぬことを決めたのではないかと思う。全部後付けだし、想像だからなんとも言えないけど、でもこんな感じだろう。
今でも、死ねればいいな、とは思う。事故とか災害とかで、あっさりと死ねたらそれはいいだろうな、と。でも、これだけは分かっている。自殺は出来ないな、と。自殺だけは出来ないということを、僕はもうきちんと知っている。自分をあそこまで追い詰めて、ギリギリまで努力したのに、それでも死ねなかったのだから、自殺など僕に出来るわけがない。
今は、自分には自殺は出来るわけがない、という背景の中で生きている。つまり、死ねないなら生きていくしかない、という考えの中で生きている。生きていかなくてはいけないなら、それなりに生きていかなくてはいけない。だから今は、まあなんとか生きている。
でも、ちゃんと生きなくてもいいなら、それはそれで羨ましくも思える。
例えば、死のうと思ったその後、しばらく僕は引きこもっていた。激しく怠惰で、激しく何もしない日常であった。ただ無駄に時間を消費するだけの日々で、何も生み出さず、何も考えず、何もしないで、ただ扉を閉ざしたまま生きていたことがある。
あの頃に戻りたいとはもちろん思わない。しかし、ああやって、何にもしないで、社会とも関わりを持たないで、時間をただ消費するだけの生活というのもいいなぁ、と思うのだ。
状況が許せば、僕は扉を開けなかっただろう。閉ざされた空間の中で、ずっと息を潜めて生活していただろう。僕が今の生活を出来ているのは、引きこもりの生活から実家へと強制的に引き戻されたからだ。実家での日々があまりにも嫌で、だから今の僕の生活がある。そう考えれば、実家に戻ったあの短い日々も悪くなかったと思える。
本作の主人公は、ものすごく居心地のいい場所で生活を続ける。その中で、自分はここにいてはいけないと気付き、自らの力でそこから出ることに決める。これはすごいと思った。僕なら出来ないだろう。居心地がよければずっとい続けてしまうだろう怠惰な人間には。
そろそろ内容に入ろうと思います。
私はもう、日常に疲れてしまった。仕事では契約が取れずに上司に怒られ、友人とは疎遠になり、何もかもがうまくいかない。周りの人間すべてから疎まれている気がして、体もどんどん不調になっていく。明日が来ることを恐れ、今日が終わることをホッとする。そんな生活。
もう限界だ。
死ぬしか、ないよなぁ。
私は今、北に向かっている。私のことを誰も知らない遠くの場所で、一人でひっそりと死んでしまおう。それしかない。
そうして辿り着いたのが、「民宿たむら」という名の民宿。そこにいた若い男は田村といい、久々の客だということでいろんなことがよくわかっていないようだったが、それでもちゃんと私を泊めてくれた。
死のう。もう死ぬしかない。後には引けないんだ。この睡眠薬をちゃんと飲んで、それで死のう。
………。
でも、死にきれなかった。
自殺を諦めた私は、そのもんのすごくド田舎での生活を楽しむことにした。20分足らずで回れてしまう小さな村を散歩し、日がな一日ボーっとしては、民宿たむらでご飯を食べ、早くに寝る。あまりに健康的な生活だ。
田村さんとも打ち解け、ここでの生活がすごく気に入った。楽しい。テレビもコンビニも何にもないのに、こんなにも楽しい。
でもしばらくすると気付いてしまうのだ。ここには私の居場所はないんだって。ここにいてはいけないんだって。
というような話です。
これは、僕の物語だと思いました。死のうとしたこととか、でもそれが出来なかったこととか、その後しばらく社会との関わりを断っていたこととか、そういう状況的なものも似ているのだけど、主人公とも結構似ていると思う。
田村さんが私にこんなことを言う。
『「そやな。それに、あんたって、自分が思ってるんとは全然違うしな」
田村さんはそう言いながら、けたけた笑った。
「どういう意味ですか?」
「あんた、自分のこと繊細やとか、気が弱いとか言うとるけど、えらい率直やし、適当にわがままやし、ほんま気楽な人やで」』
これを読んで、あぁきっと僕もそうなのだろうな、と思ったものだ。僕も自分では自分のことを、繊細だとか気が弱いとか暗いとか人見知りだとか引きこもりだとかそんな風に思っているのだけど、でもたぶん周りは全然そんな風に思ってない。たぶん、本質的なところでは僕も、えらい率直で適当にわがままなのだろうと思う。
一番初めの、死ななきゃいけないんだ、と追い詰められるところもよく分かるし、ド田舎での生活でゆったりしているところもすごく分かる。
そういういろんな部分を含めて、この小説は僕の物語だな
と思った。
本作は、ほぼ登場人物が二人しか出てこない。これはすごいことで、東野圭吾の「むかし僕が死んだ家」以来かもしれない。「むかし~」の方が、ミステリだしもっと長いのでもっとすごいとは思うのだけど、でもたった二人だけの登場人物の中で、ここまで物語をうまく転がすことが出来るものなのか、と思った。主人公と田村さんは、別に何をするでもなく、ただ日常を過ごしているだけだ。たまに釣りに行ったり飲み会に出たりするけど、それ以外は特別なことなんか何もしないで、ただ流れる時間のままにゆったり過ごしているだけである。それで、これだけ面白い小説が出来上がるのだから、本当にすごいものだと思う。
主人公と田村さんの関係もすごくよくて、昨日「海の仙人」の感想の中で、男と女の友情みたいな話を書いたけど、本作での二人はまさにそんな関係になれているな、と思った。お互いに気を遣うでもなく、すんなりと一緒にいられる関係で、すごく羨ましい。なんだかんだ、言いたいことをズバズバ言ってるし。
でも最後にこんな会話がある。
『「それじゃわかんないです。人じゃなくて、私が帰るのはどうですか?って聞いてるのに」
「じゃあ、俺が帰らんといてって言ったら、あんたはここにいてくれんの?」
「じゃあ、私がここにいたいって言ったら、田村さん置いてくれるんですか?」
「そりゃ、そうや。俺の家は民宿やからな」
「そっか…。そうですよね」』
ここで、「俺の家は民宿やからな」と言った田村さんの優しさがいいなぁ、と思った。お互いにそれなりに長い時間を一緒に過ごして、情みたいなものもある。でも同時に田村さんは、私がここにいてはいけないということも充分分かっている。だからこそ、「俺の家は民宿やからな」なのである。出来れば一緒にいたいが、でも引き止めてしまうのはもっとダメだ、という逡巡が、そんな答えを生み出したのだろう。
そう思えば、本作も孤独に支配された物語だ。何もかもうまく行かず、一度は死ぬことまで決意した不安定な孤独と、自らの意思でド田舎に住み、そこでの生活に満足しながらも、時々はかつての生活に思いを馳せる田村さんの安定した孤独が、二人が出会うことでうまく交じり合い、お互いにいい影響を与えたのだろう。最後には結局、その二つの孤独はまた別々に分かれなくてはならないのだけど、それでも一緒にいた時間だけは、お互いの孤独でお互いを暖めあうことが出来たのだろうと思います。
すごくいい話だと思いました。村を出た私が、その後どう生きていくのか気になるところだけど、なにがしかの形でうまく前に進めていればいいなぁ、と思います。日常に疲れている人、読んでみてはどうでしょうか?
瀬尾まいこ「天国はまだ遠く」
という話は、このブログで何度も書いているから、またかと思っていただける人もまあいるかもしれない。しかし今回は、まさにそこから始まる作品なので、まあ仕方ないということで。
なんであの時死のうと思ったんだろうな、と考える。最近はさすがに考えることも少なくなったけど、でも時々ふと浮かぶ。
何で死にたくなったのかなんていうのは、正直言ってなんとも言葉にすることは出来ない。自分にだってよくわからないし、未だにわからない。考えてもわからないし、悩んでもわからない。
ただ一つだけ言えることは、あの時死にたかった自分は正しかったということだ。僕は、今の生活にはまあそれなりに満足しているし、未来に対して特に展望はないとはいえ、生きていてよかったな、と思いもする。しかし同時に、あの時あの段階で死んでしまっている自分も、また正しいと思えるのである。
死のうと思った理由については、こんな風に考えている。釣り合いを取ろうとしたのと、針路を変更しようとしたのと。この二つの理由だったんじゃないかと思う。
釣り合いを取ろうとしたというのはこういうことだ。
よく、何か事件が起きると、社長が辞任したりする。それを見て、いやいや別に辞めても何も変わらないし、むしろそのまま残って問題を改善するべきでは?とか思う。
しかし、僕がやろうとしたこともたぶん、それと同じことだったのだろう。
生きていく中で、どんどんといろんなものが重くなってしまった。この感覚は、分かる人には分かるだろうし、分からない人には分からないだろうけど、とにかくいろんなものが重くなっていった。自分の言動や考え、他人の存在、将来のこと、その他何でもないようないろんなことまで含めて、そういったことが全部のしかかり、負担に感じられるようになった。天秤の片方だけが異常に重くなって、釣り合いも何もない状態になったようなものである。
さてそんな時、天秤のもう片側に一体何を載せれば釣り合うだろうか、という発想になる。
本当であれば、長い時間を掛けてその傾きを直していくべきなんだろう。先ほど例に挙げた辞任する社長の話の場合も、辞めるのではなく、残ることで少しずつ天秤のもう片側に載せられるものを増やしていくべきなのだろう。
しかし、天秤自体が、片側に寄り切ってしまったその重さに耐えられなくなってしまうのだ。出来れば、一刻も早くこの傾きをなんとかしたい、と思ってしまうのだ。そうでなければ、天秤が壊れてしまう。
そう考えると、その傾きを一瞬で直せるような重さを持つものは、自殺ぐらいしか考えられなくなってしまう。死にたいわけではない。しかし、その傾きを直さないと許されないような気になってくるし、その重さ自体にもどんどん耐えられなくなってしまうのである。これが一つ目の理由。
もう一つは針路変更の話である。
僕は、高校生くらいから、ちゃんと言えば受験を意識するようになってから、よく思っていたことがある。
あぁ、僕はこのまま進んでいったらダメになるな、と。
僕がいた高校は進学校で、まあ受験もバリバリやる雰囲気だった。特に将来の希望もなかった僕としては、まあ出来る限りいい大学にでも行こうか、という感じで、周りに流されるようにしてその針路に乗った。
しかし同時に、僕にはこの道は辛いな、と直感したのである。このままいけば、いい大学に入り、それからいい会社に入ることを期待されるだろう。そこで、きちんと仕事をして、きちんとした人生を歩むことを期待されるだろう。
しかしそれは、僕にとっては心苦しいことであったのだ。やりたいことも望んでいることもなかった僕は、しかし外側だけはきちんと出来てしまっていた。まるで小学生がスーツを着ているような違和感を僕はずっと感じていたのだけど、しかし周りの人間はそれに気付かなかった。いくら僕が、いやいや見た目通りの人間ではないんですよ、と言っても誰も受け入れてはくれないだろう。
とにかく、このままの針路で進んでいけば、僕は確実にダメになることがわかっていた。きちんと大学を卒業して、きちんと会社に就職してなんていうのは、僕には無理だということはもうずっと前からわかっていた。
しかし同時に、やりたいことも何もない人間としては、針路の変更をしようがない。このまま前には進みたくないのに、でも前以外に行きたい方向もない。そんな状態で、前に進まないことを選択するのはどうしても出来なかった。
だからこそ、意図的に脱線してみせた。脱線すれば、前に進まなくてもいいし、別の方向にも進まなくてもいい。それは、僕には最良の選択肢に思えたのである。
たぶんあの当時、こんなことを考えて僕は死ぬことを決めたのではないかと思う。全部後付けだし、想像だからなんとも言えないけど、でもこんな感じだろう。
今でも、死ねればいいな、とは思う。事故とか災害とかで、あっさりと死ねたらそれはいいだろうな、と。でも、これだけは分かっている。自殺は出来ないな、と。自殺だけは出来ないということを、僕はもうきちんと知っている。自分をあそこまで追い詰めて、ギリギリまで努力したのに、それでも死ねなかったのだから、自殺など僕に出来るわけがない。
今は、自分には自殺は出来るわけがない、という背景の中で生きている。つまり、死ねないなら生きていくしかない、という考えの中で生きている。生きていかなくてはいけないなら、それなりに生きていかなくてはいけない。だから今は、まあなんとか生きている。
でも、ちゃんと生きなくてもいいなら、それはそれで羨ましくも思える。
例えば、死のうと思ったその後、しばらく僕は引きこもっていた。激しく怠惰で、激しく何もしない日常であった。ただ無駄に時間を消費するだけの日々で、何も生み出さず、何も考えず、何もしないで、ただ扉を閉ざしたまま生きていたことがある。
あの頃に戻りたいとはもちろん思わない。しかし、ああやって、何にもしないで、社会とも関わりを持たないで、時間をただ消費するだけの生活というのもいいなぁ、と思うのだ。
状況が許せば、僕は扉を開けなかっただろう。閉ざされた空間の中で、ずっと息を潜めて生活していただろう。僕が今の生活を出来ているのは、引きこもりの生活から実家へと強制的に引き戻されたからだ。実家での日々があまりにも嫌で、だから今の僕の生活がある。そう考えれば、実家に戻ったあの短い日々も悪くなかったと思える。
本作の主人公は、ものすごく居心地のいい場所で生活を続ける。その中で、自分はここにいてはいけないと気付き、自らの力でそこから出ることに決める。これはすごいと思った。僕なら出来ないだろう。居心地がよければずっとい続けてしまうだろう怠惰な人間には。
そろそろ内容に入ろうと思います。
私はもう、日常に疲れてしまった。仕事では契約が取れずに上司に怒られ、友人とは疎遠になり、何もかもがうまくいかない。周りの人間すべてから疎まれている気がして、体もどんどん不調になっていく。明日が来ることを恐れ、今日が終わることをホッとする。そんな生活。
もう限界だ。
死ぬしか、ないよなぁ。
私は今、北に向かっている。私のことを誰も知らない遠くの場所で、一人でひっそりと死んでしまおう。それしかない。
そうして辿り着いたのが、「民宿たむら」という名の民宿。そこにいた若い男は田村といい、久々の客だということでいろんなことがよくわかっていないようだったが、それでもちゃんと私を泊めてくれた。
死のう。もう死ぬしかない。後には引けないんだ。この睡眠薬をちゃんと飲んで、それで死のう。
………。
でも、死にきれなかった。
自殺を諦めた私は、そのもんのすごくド田舎での生活を楽しむことにした。20分足らずで回れてしまう小さな村を散歩し、日がな一日ボーっとしては、民宿たむらでご飯を食べ、早くに寝る。あまりに健康的な生活だ。
田村さんとも打ち解け、ここでの生活がすごく気に入った。楽しい。テレビもコンビニも何にもないのに、こんなにも楽しい。
でもしばらくすると気付いてしまうのだ。ここには私の居場所はないんだって。ここにいてはいけないんだって。
というような話です。
これは、僕の物語だと思いました。死のうとしたこととか、でもそれが出来なかったこととか、その後しばらく社会との関わりを断っていたこととか、そういう状況的なものも似ているのだけど、主人公とも結構似ていると思う。
田村さんが私にこんなことを言う。
『「そやな。それに、あんたって、自分が思ってるんとは全然違うしな」
田村さんはそう言いながら、けたけた笑った。
「どういう意味ですか?」
「あんた、自分のこと繊細やとか、気が弱いとか言うとるけど、えらい率直やし、適当にわがままやし、ほんま気楽な人やで」』
これを読んで、あぁきっと僕もそうなのだろうな、と思ったものだ。僕も自分では自分のことを、繊細だとか気が弱いとか暗いとか人見知りだとか引きこもりだとかそんな風に思っているのだけど、でもたぶん周りは全然そんな風に思ってない。たぶん、本質的なところでは僕も、えらい率直で適当にわがままなのだろうと思う。
一番初めの、死ななきゃいけないんだ、と追い詰められるところもよく分かるし、ド田舎での生活でゆったりしているところもすごく分かる。
そういういろんな部分を含めて、この小説は僕の物語だな
と思った。
本作は、ほぼ登場人物が二人しか出てこない。これはすごいことで、東野圭吾の「むかし僕が死んだ家」以来かもしれない。「むかし~」の方が、ミステリだしもっと長いのでもっとすごいとは思うのだけど、でもたった二人だけの登場人物の中で、ここまで物語をうまく転がすことが出来るものなのか、と思った。主人公と田村さんは、別に何をするでもなく、ただ日常を過ごしているだけだ。たまに釣りに行ったり飲み会に出たりするけど、それ以外は特別なことなんか何もしないで、ただ流れる時間のままにゆったり過ごしているだけである。それで、これだけ面白い小説が出来上がるのだから、本当にすごいものだと思う。
主人公と田村さんの関係もすごくよくて、昨日「海の仙人」の感想の中で、男と女の友情みたいな話を書いたけど、本作での二人はまさにそんな関係になれているな、と思った。お互いに気を遣うでもなく、すんなりと一緒にいられる関係で、すごく羨ましい。なんだかんだ、言いたいことをズバズバ言ってるし。
でも最後にこんな会話がある。
『「それじゃわかんないです。人じゃなくて、私が帰るのはどうですか?って聞いてるのに」
「じゃあ、俺が帰らんといてって言ったら、あんたはここにいてくれんの?」
「じゃあ、私がここにいたいって言ったら、田村さん置いてくれるんですか?」
「そりゃ、そうや。俺の家は民宿やからな」
「そっか…。そうですよね」』
ここで、「俺の家は民宿やからな」と言った田村さんの優しさがいいなぁ、と思った。お互いにそれなりに長い時間を一緒に過ごして、情みたいなものもある。でも同時に田村さんは、私がここにいてはいけないということも充分分かっている。だからこそ、「俺の家は民宿やからな」なのである。出来れば一緒にいたいが、でも引き止めてしまうのはもっとダメだ、という逡巡が、そんな答えを生み出したのだろう。
そう思えば、本作も孤独に支配された物語だ。何もかもうまく行かず、一度は死ぬことまで決意した不安定な孤独と、自らの意思でド田舎に住み、そこでの生活に満足しながらも、時々はかつての生活に思いを馳せる田村さんの安定した孤独が、二人が出会うことでうまく交じり合い、お互いにいい影響を与えたのだろう。最後には結局、その二つの孤独はまた別々に分かれなくてはならないのだけど、それでも一緒にいた時間だけは、お互いの孤独でお互いを暖めあうことが出来たのだろうと思います。
すごくいい話だと思いました。村を出た私が、その後どう生きていくのか気になるところだけど、なにがしかの形でうまく前に進めていればいいなぁ、と思います。日常に疲れている人、読んでみてはどうでしょうか?
瀬尾まいこ「天国はまだ遠く」
海の仙人(絲山秋子)
男と女の友情はありえるか、という話がある。時々議論される話なので、そんな議論を一度くらいしたことがある人は多いだろうと思う。
僕は、男と女の友情はありえると思うのである。しかし、一点条件がある。それは、セックスはありだ、ということだ。
今回はまあ、そんな風な話をしようかと思います。
通常、男と女の友情の話になると、セックスの有無が重要になってくるのだろうと思うのだ。つまり、セックスをしないで異性との友情を保つことが出来るのか、あるいはそれは出来ないのか、という話に最終的にはなっていく。
しかし、それは違わないだろうか、と僕は思うのである。
最近ネットの日記で、それについて書いてあるものを読みました。その人の意見では、異性同士お互いに気を許し合って友人関係であるわけで、それならば、例え相手に対して特別な感情がなかったとしても、セックスまで行き着いてしまうのは不自然ではないのではないか、という話だった。
それを読んで、僕と似ているなぁ、と思いました。
僕も、そんな風に思うわけです。友人だからセックスをしてはいけない、セックスをした途端、それは友人ではない別の関係になるのだ、というような関係は、ちょっと違わないかなぁ、と思います。
こんなことを言っていますが、別に僕は友人とセックスをしたいと言っているわけではないですよ。僕は自信がありますが、女友達と同じベッドで寝ていても、相手に指一本触れないでいることは全然余裕で出来ると思います(ただ単に臆病者だと言われそうですが)。その上で、上記のようなことを言っているわけです。
確かに、友達とセックスをするというのは、なかなか想像できるものではないですね。別に、全然友達だとしか思っていなかった人と、なんとなくなりゆきでセックスをしてみる、みたいなことは、恐らく自分の身には起こらないと思うので、想像できないのだろうな、と思います。
どうして人々は、セックスをしてしまった時点で友人ではなくなってしまう、と考えるのでしょうか。セックスをするなら、やはりお互いに特別な感情をずっと持っていたのだ、みたいな風に思われるんでしょうか。
それが、ずっと仲がよくて、一緒にいて楽で、一緒にいて楽しくて、みたいな異性であれば、特別な感情抜きでも、セックスまで行き着いてしまうのは、全然不自然なことではない、と僕は思うんですけど。
さてでもそんなことを言っても、この考えが普通ではないとは思っているので、セックスなしの異性間の友情についても考えて見ることにしましょう。
それについても、僕は別に全然ありえる、と思います。
セックスをしたいと思うことで崩れてしまうような友情があるのなら、僕は全然しないでいられるし、そうであれば、普通の男友達と何が違うんだ、という感じです。男と女の友情は成立しない、という意見は、一体どういう理屈で生まれるのか、きちんとはわからないですね。
しかし、こう思うことはあります。つまり、お互いに相手を特になんとも思っていないように振舞うけど、実はどちらかは相手のことを好き、というパターンです。たぶん僕の場合、それを勘違いする、ということはありえると思います。
つまり、可能性としては限りなく低いけど、僕は相手を友達だと思っているけど、相手は僕のことを好きでいてくれる、みたいな状況の時に、僕はそれに気づかないだろうし、気付いても気付かなかったフリをするだろうな、という風に思います。そういう形で成立している関係を友情と呼ぶことが出来るかどうか。それは、なかなか難しい問題だな、という風に思います。
女性の皆様、こんな風には思っていないですか?男は、ただヤリたいだけだと。いやいや、そんなことはないですよ。そうではない男というのもちゃんと存在しているわけです。だからどう、ということはないのだけど。
というわけで、僕と友人でいてくれるという女性、大募集です。いやもちろん、彼女になってくれるというならそれはそれで素晴らしいですけどね。ついでのように、もちろん、男友達も大歓迎ですよ。
そろそろ内容に入ろうと思います。
河野は、宝くじが当たったのを機に、海が気に入って敦賀に移り住んだ。そこでまさしく、「海の仙人」のように、日がな一日何をするわけでもなく、釣りをしたりのんびりしたりして過ごしていた。
そんな彼の元に、「ファンタジー」が現れた。ファンタジーは神様の仲間で、その仲間の中では最も出来が悪い、という、いいのか悪いのかよくわからない存在である。見えない人には見えないそのファンタジーと、一緒に住むことになった。
それから河野は、一人の女性と出会うことになる。すぐに打ち解けあい、すぐに惹かれてしまった。岐阜から旅行で来たという彼女と定期的に会うようになるまで、時間は掛からなかった。
一方で、長期休暇の折に、かつての同僚だった片桐が敦賀にやってきた。片桐は、ずっと河野に片想いをしているのだが、それが実ることはない。
孤独を抱えた人々が、それぞれの形で人生を生き、それぞれの形で孤独を埋めようとする、そんな物語。
というような話です。
結構好きな感じの話でした。
本作に、こんな会話があります。
『「ファンタジーも孤独なんだね」片桐が言った。
「誰もが孤独なのだ」
すると、澤田が言った。
「だけんね、結婚していようが、子供がいようが、孫がいようが、孤独はずっと付きまとう。ばってん何かの集団、会社にしても宗教にしても政党にせいてもNGOにしても属しとったら、安易な帰属感は得られるっちゃろうね」
「いや」
片桐が言った。
「孤独ってえのがそもそも、心の輪郭なんじゃないか?外との関係じゃなくて、自噴のあり方だよ。背負っていかなくちゃいけない最低限の荷物だよ。例えばあたしだ。あたしは一人だ、それに気がついているだけマシだ」』
澤田の言っていることはすごくよくわかる。どこに属していても、一人から逃れることは出来ない。だからこそ人は、さらにどこかに属そうとする。そうすることで、孤独を埋め合わせることが出来ると多くの人が信じている。それを、「安易」と表現しているところから考えて、もちろん澤田もそれを否定する考えを持っているのだろうけど、多くの人は、という形で語っているのだろう。
しかし、片桐はそれに反論しようとする。そもそも孤独は外側にあるのではない。外側がいくら形が変わろうとも、孤独はなくなりはしない。そもそも、いつだって背負っていなくてはいけない荷物なのだ。それを降ろせる、という幻想の中に逃げ込むのではなく、降ろすことはできない、ずっと背負っておかなくてはいけないのだ、とわかっている自分は、そうでない人よりは少しは正しい。そんなような言い方で自分の考えを主張する。
この片桐の考え方というのがすごく共感できて、なるほど、背負っておかなくてはいけない最低限の荷物か、面白い表現だな、と思ったりしたものである。
実際、どれだけ多くの人に囲まれていようと、どれだけ慕われていようと、どれだけ友達がいようと、孤独はいつだって隙間を見つけては僕らの人生に擦り寄ってくる。どんなに遠くに打ち返したつもりでも、ボール自体にゴムがついているから必ず戻ってきてしまうようなものだ。
ならば、そのボールを無闇に打つのはやめて、自分の範囲内のどの場所に置いておくのが一番安全かを考える方が賢いだろう。僕はそれをわかっているつもりだし、ずっとそうして生きてきたつもりだけど、本作を読んで改めて、孤独というものを考えさせられたな、と言う風に思いました。
様々な人間が孤独を抱えていて、その孤独をどうしたらいいのかわからないでいる。誰かにちょっと預けることも、誰かに丸投げしてしまうことも出来ずに、かといってそれを我慢するのも難しくて、でも行動に移せなくて。そういう心の逡巡みたいなものがすごくよくわかる小説だった。すごく共感できる部分がたくさんあった。
あと、ファンタジーのセリフで気に入っているものがある。
『「そうだ。だから思い出せないのが一番正しいのだ。真実とはすなわち忘却のなかにあるものなのだ」』
ファンタジーというキャラクターは人間ではないので、時々とぼけたことをいう。このセリフもまあそんなものの一つだとは思うのだけど、でも面白い。
それが正しいとするならば、人間はいつまでも真実に辿り着くことが出来ないということになる。忘れていないうちはそれは真実ではないし、忘れてしまえば自分の中からそれは消えてしまうのだから。
忘れようとする努力が真実を生むのか、あるいは、忘れてしまったというその結果こそが真実なのか、そういうところはわからないけど、でも含蓄のある言葉だな、という風に思った。
本作では、ファンタジーという特殊なキャラクターが、なんの違和感もなく突然現れるのだけど、完全に浮いたキャラクターであるのに、著者が紡ぐ世界そのものがどこか歪んでいるために、ファンタジーの存在がまるで異質ではない。どこにいても、まるでなんでもないかのように自然に存在しているところが、すごく面白かった。なんとなくだけど、伊坂幸太郎の「死神の精度」に出てくる死神に似てるな、と思った。
淡々としていて、特別な何かが起こるわけでもない小説なのだけど、でもぐいぐい読まされてしまう。それは、解説で指摘されているように、新人離れした文章力がそうさせるのかもしれないけど、しかし、著者の作り出す世界観そのものが、ある種の魔法を掛けるのではないかと思っている。日常の延長線上にあるように見えながらも、蜃気楼のようにいつまでも近づくことのできない、そんな不安定ながらも存在感だけはある世界をきちんと描いている。そんな感じがしました。
ラストまで読んでも、なんというかストーリー的にはしっくりこないのだけど、でも読み終わって満足感が残ります。不思議な物語だと思います。ちょっと読んでみて欲しいな、と思います。恐らくいろんな人がいろんなことを感じ、いろんな捉え方をする作品ではないかと思います。読んでみてください。絲山秋子という作家は益々注目だな、と思いました。
絲山秋子「海の仙人」
僕は、男と女の友情はありえると思うのである。しかし、一点条件がある。それは、セックスはありだ、ということだ。
今回はまあ、そんな風な話をしようかと思います。
通常、男と女の友情の話になると、セックスの有無が重要になってくるのだろうと思うのだ。つまり、セックスをしないで異性との友情を保つことが出来るのか、あるいはそれは出来ないのか、という話に最終的にはなっていく。
しかし、それは違わないだろうか、と僕は思うのである。
最近ネットの日記で、それについて書いてあるものを読みました。その人の意見では、異性同士お互いに気を許し合って友人関係であるわけで、それならば、例え相手に対して特別な感情がなかったとしても、セックスまで行き着いてしまうのは不自然ではないのではないか、という話だった。
それを読んで、僕と似ているなぁ、と思いました。
僕も、そんな風に思うわけです。友人だからセックスをしてはいけない、セックスをした途端、それは友人ではない別の関係になるのだ、というような関係は、ちょっと違わないかなぁ、と思います。
こんなことを言っていますが、別に僕は友人とセックスをしたいと言っているわけではないですよ。僕は自信がありますが、女友達と同じベッドで寝ていても、相手に指一本触れないでいることは全然余裕で出来ると思います(ただ単に臆病者だと言われそうですが)。その上で、上記のようなことを言っているわけです。
確かに、友達とセックスをするというのは、なかなか想像できるものではないですね。別に、全然友達だとしか思っていなかった人と、なんとなくなりゆきでセックスをしてみる、みたいなことは、恐らく自分の身には起こらないと思うので、想像できないのだろうな、と思います。
どうして人々は、セックスをしてしまった時点で友人ではなくなってしまう、と考えるのでしょうか。セックスをするなら、やはりお互いに特別な感情をずっと持っていたのだ、みたいな風に思われるんでしょうか。
それが、ずっと仲がよくて、一緒にいて楽で、一緒にいて楽しくて、みたいな異性であれば、特別な感情抜きでも、セックスまで行き着いてしまうのは、全然不自然なことではない、と僕は思うんですけど。
さてでもそんなことを言っても、この考えが普通ではないとは思っているので、セックスなしの異性間の友情についても考えて見ることにしましょう。
それについても、僕は別に全然ありえる、と思います。
セックスをしたいと思うことで崩れてしまうような友情があるのなら、僕は全然しないでいられるし、そうであれば、普通の男友達と何が違うんだ、という感じです。男と女の友情は成立しない、という意見は、一体どういう理屈で生まれるのか、きちんとはわからないですね。
しかし、こう思うことはあります。つまり、お互いに相手を特になんとも思っていないように振舞うけど、実はどちらかは相手のことを好き、というパターンです。たぶん僕の場合、それを勘違いする、ということはありえると思います。
つまり、可能性としては限りなく低いけど、僕は相手を友達だと思っているけど、相手は僕のことを好きでいてくれる、みたいな状況の時に、僕はそれに気づかないだろうし、気付いても気付かなかったフリをするだろうな、という風に思います。そういう形で成立している関係を友情と呼ぶことが出来るかどうか。それは、なかなか難しい問題だな、という風に思います。
女性の皆様、こんな風には思っていないですか?男は、ただヤリたいだけだと。いやいや、そんなことはないですよ。そうではない男というのもちゃんと存在しているわけです。だからどう、ということはないのだけど。
というわけで、僕と友人でいてくれるという女性、大募集です。いやもちろん、彼女になってくれるというならそれはそれで素晴らしいですけどね。ついでのように、もちろん、男友達も大歓迎ですよ。
そろそろ内容に入ろうと思います。
河野は、宝くじが当たったのを機に、海が気に入って敦賀に移り住んだ。そこでまさしく、「海の仙人」のように、日がな一日何をするわけでもなく、釣りをしたりのんびりしたりして過ごしていた。
そんな彼の元に、「ファンタジー」が現れた。ファンタジーは神様の仲間で、その仲間の中では最も出来が悪い、という、いいのか悪いのかよくわからない存在である。見えない人には見えないそのファンタジーと、一緒に住むことになった。
それから河野は、一人の女性と出会うことになる。すぐに打ち解けあい、すぐに惹かれてしまった。岐阜から旅行で来たという彼女と定期的に会うようになるまで、時間は掛からなかった。
一方で、長期休暇の折に、かつての同僚だった片桐が敦賀にやってきた。片桐は、ずっと河野に片想いをしているのだが、それが実ることはない。
孤独を抱えた人々が、それぞれの形で人生を生き、それぞれの形で孤独を埋めようとする、そんな物語。
というような話です。
結構好きな感じの話でした。
本作に、こんな会話があります。
『「ファンタジーも孤独なんだね」片桐が言った。
「誰もが孤独なのだ」
すると、澤田が言った。
「だけんね、結婚していようが、子供がいようが、孫がいようが、孤独はずっと付きまとう。ばってん何かの集団、会社にしても宗教にしても政党にせいてもNGOにしても属しとったら、安易な帰属感は得られるっちゃろうね」
「いや」
片桐が言った。
「孤独ってえのがそもそも、心の輪郭なんじゃないか?外との関係じゃなくて、自噴のあり方だよ。背負っていかなくちゃいけない最低限の荷物だよ。例えばあたしだ。あたしは一人だ、それに気がついているだけマシだ」』
澤田の言っていることはすごくよくわかる。どこに属していても、一人から逃れることは出来ない。だからこそ人は、さらにどこかに属そうとする。そうすることで、孤独を埋め合わせることが出来ると多くの人が信じている。それを、「安易」と表現しているところから考えて、もちろん澤田もそれを否定する考えを持っているのだろうけど、多くの人は、という形で語っているのだろう。
しかし、片桐はそれに反論しようとする。そもそも孤独は外側にあるのではない。外側がいくら形が変わろうとも、孤独はなくなりはしない。そもそも、いつだって背負っていなくてはいけない荷物なのだ。それを降ろせる、という幻想の中に逃げ込むのではなく、降ろすことはできない、ずっと背負っておかなくてはいけないのだ、とわかっている自分は、そうでない人よりは少しは正しい。そんなような言い方で自分の考えを主張する。
この片桐の考え方というのがすごく共感できて、なるほど、背負っておかなくてはいけない最低限の荷物か、面白い表現だな、と思ったりしたものである。
実際、どれだけ多くの人に囲まれていようと、どれだけ慕われていようと、どれだけ友達がいようと、孤独はいつだって隙間を見つけては僕らの人生に擦り寄ってくる。どんなに遠くに打ち返したつもりでも、ボール自体にゴムがついているから必ず戻ってきてしまうようなものだ。
ならば、そのボールを無闇に打つのはやめて、自分の範囲内のどの場所に置いておくのが一番安全かを考える方が賢いだろう。僕はそれをわかっているつもりだし、ずっとそうして生きてきたつもりだけど、本作を読んで改めて、孤独というものを考えさせられたな、と言う風に思いました。
様々な人間が孤独を抱えていて、その孤独をどうしたらいいのかわからないでいる。誰かにちょっと預けることも、誰かに丸投げしてしまうことも出来ずに、かといってそれを我慢するのも難しくて、でも行動に移せなくて。そういう心の逡巡みたいなものがすごくよくわかる小説だった。すごく共感できる部分がたくさんあった。
あと、ファンタジーのセリフで気に入っているものがある。
『「そうだ。だから思い出せないのが一番正しいのだ。真実とはすなわち忘却のなかにあるものなのだ」』
ファンタジーというキャラクターは人間ではないので、時々とぼけたことをいう。このセリフもまあそんなものの一つだとは思うのだけど、でも面白い。
それが正しいとするならば、人間はいつまでも真実に辿り着くことが出来ないということになる。忘れていないうちはそれは真実ではないし、忘れてしまえば自分の中からそれは消えてしまうのだから。
忘れようとする努力が真実を生むのか、あるいは、忘れてしまったというその結果こそが真実なのか、そういうところはわからないけど、でも含蓄のある言葉だな、という風に思った。
本作では、ファンタジーという特殊なキャラクターが、なんの違和感もなく突然現れるのだけど、完全に浮いたキャラクターであるのに、著者が紡ぐ世界そのものがどこか歪んでいるために、ファンタジーの存在がまるで異質ではない。どこにいても、まるでなんでもないかのように自然に存在しているところが、すごく面白かった。なんとなくだけど、伊坂幸太郎の「死神の精度」に出てくる死神に似てるな、と思った。
淡々としていて、特別な何かが起こるわけでもない小説なのだけど、でもぐいぐい読まされてしまう。それは、解説で指摘されているように、新人離れした文章力がそうさせるのかもしれないけど、しかし、著者の作り出す世界観そのものが、ある種の魔法を掛けるのではないかと思っている。日常の延長線上にあるように見えながらも、蜃気楼のようにいつまでも近づくことのできない、そんな不安定ながらも存在感だけはある世界をきちんと描いている。そんな感じがしました。
ラストまで読んでも、なんというかストーリー的にはしっくりこないのだけど、でも読み終わって満足感が残ります。不思議な物語だと思います。ちょっと読んでみて欲しいな、と思います。恐らくいろんな人がいろんなことを感じ、いろんな捉え方をする作品ではないかと思います。読んでみてください。絲山秋子という作家は益々注目だな、と思いました。
絲山秋子「海の仙人」
ミーナの行進(小川洋子)
家族というのは不思議なものだ、と思う。
子供の頃は、自分の家族こそが世界のすべてであり、そこで起きていることがすべて正しい。そんな風に思うものだろうと思う。外から見ればそれがどんなに変な習慣であろうと、意味のわからないルールだろうと、その家族にとっては大事なもので、意味のあるものだ。
大人になって、子供の頃はこうだった、なんていう話をすると、大抵いろんな部分で食い違う。一番食い違いが大きいのは食べ物の話で、この前も、雑煮の話を友達としたら、どこもまるで違う感じだった。僕は、雑煮というのは味噌汁に餅が入っているものだと思っていたのだけど(しかも煮た餅)、醤油味だというところもあり、焼いた餅を入れるとこもあり、なんとあんころ餅が入っているというとこもあった。驚くべきことである。
そんな風にして、家族というのは、その中でのみ通用するルールみたいなものを必ず持っているのである。
しかし、不思議だな、と思うのである。
この年になると周りも結婚がどうの、という話がちらほら聞こえてくる。僕の場合、まあ結婚することはなさそうだけど、しかしまあそれがありえたとして、自分が家族を作る、なんていうのがどうも想像出来ないのだ。
それは誰もが同じではないかと思うのだ。誰もが、家族の中にいたことはあっても、家族を作ったことはないはずである。皆初心者なのである。
不思議なのは、初心者が作るものなのに、どうしてこれだけの多様性が生み出されるのかな、ということだ。
例えば、小学校の宿題か何かで、初めて父親の絵を描かなくてはいけない、ということになったとしよう。その時、それぞれの子供が描く絵に大きな違いを見出すことは出来ない、と思う。それはもちろん、それぞれに個性はあるだろう。しかし、顔が大きく、手足はただの線で、真正面を向いていて、というようなそういう部分は皆共通だろう。まさか、横顔を描いてみたり、あるいは顔と体のバランスが完璧な絵を描くような子供はいないだろう。
何でもそうだけど、初めての分野というのは、それを行う人間の間で多様性は薄れるものだと思う。大体似通った結果になるし、大体同じような形になる。
しかし、家族というものだけは、皆初心者のはずなのに、どの家庭も大きく違ったものになる、とそんな風に思う。
これは、多様性を生み出すことで人類の進化と発展を促すという意味で遺伝子に組み込まれていることなのだろうか?あるいは、なんらかの必然なのだろうか?
ただ、家族の多様性が人間の多様性を生み出していることだけは事実だろうと思う。最近では、家族そのものに問題があることが多くなってきて(DVとか虐待とかそういうこと)、不必要な多様性が広まっているようにも思うけれども。
そろそろ内容に入ろうと思います。
母が東京の裁縫学校で一年間勉強することになり、その間私は、フレッシーというジュースを製造する会社の二代目の社長であった伯父さんの家に預けられることになった。
泣いている母と別れ、一人新幹線に乗っている時も、私は全然悲しいとは思わなかった。むしろ、ドイツ人の奥さんと結婚したことで、親戚中で常に話題になっていた一家に初めて会うことが出来る、という興奮で一杯だった。
車で迎えに来てくれた素敵な伯父さんと共に、家に向かった。そこは、お屋敷と呼んでも全然大げさではない建物で、私は圧倒されるばかりであった。
私を迎えてくれたのは、伯父さんの母親のローザおばあさん、伯父さんの奥さん、伯父さんの娘のミーナ、家政婦の米田さん、庭師の小林さん、そしてカバのポチ子である。髪の色も言葉のイントネーションもばらばらな人達で、だから私は、この中にだったらどこか居場所を作ることが出来るかもしれない、と安心した。
それから私は一年間、ここで生活をした。その時の思い出は、今でも深く深く私の胸の中にある。あの時撮った写真や、ミーナからもらったマッチを見るたびにいつでも思い出す…。
というような話です。
本屋大賞の候補10作品のうち、唯一読んでいなかった作品が本作なので読んでみたのですが、ちょっと僕には合わない作品でした。
こういう淡々とした何も起こらないただの日常を描いた作品というのは、昔はダメだったけど今では大丈夫なので、そういうジャンルがダメだということではないと思います。
何がダメだったのか考えると、ちょっとゆったり過ぎたのと、あまりに何も起こらなさすぎたのと、ミーナにあまり魅力を感じられなかった、という感じではないかと思います。
ストーリーは、淡々としているというよりは寧ろ単調という感じで、冗長ささえ感じられました。カバのポチ子の歩みのようにのんびりのんびりしていて、そのゆったりしたスピードにちょっと着いていけなかった気がします。また、本当に特に何が起こるわけでもなく、誰の何の話、と聞かれても答えようがありません。伯父さんはいつも何をしているのか、とか、ミーナの恋の行方は、とか、様々に広げる方向はあるのに、それを積極的に広げることはしないで、物語のゆったりさに重点を置いたような、そんな感じでした。
ミーナという女の子にそこまで興味が持てなかったのは、なんでだろう。読んでいても、強く印象に残る感じじゃなかったんですよね。朱肉が切れ掛かった状態でハンコを押してる感じというか、色褪せて何が写っているのかよくわからない写真みたいというか…。
でも、ミーナを含めた家族そのものは、結構面白かったな、という風には思います。様々な部分で、微妙なズレみたいなものが積み重なっていって(カバを飼ってるとか、伯母さんが誤植を探すのが好きだとか、奇妙な健康法を信じているとかそういうこと)、そういう「不思議な家族の物語」という点では、まあ悪くなかったかな、という気がします。
というわけで、比較的評判のいい作品ではありますが、僕はちょっとダメでした。「博士の愛した数式」の方が断然いいと思うし、それ以外のちょっとダークさを含んだような作品の方が面白いと思いました。というわけで、僕はオススメはしないですが、興味のある人は読んでみてください。合う人は合うと思います。
小川洋子「ミーナの行進」
子供の頃は、自分の家族こそが世界のすべてであり、そこで起きていることがすべて正しい。そんな風に思うものだろうと思う。外から見ればそれがどんなに変な習慣であろうと、意味のわからないルールだろうと、その家族にとっては大事なもので、意味のあるものだ。
大人になって、子供の頃はこうだった、なんていう話をすると、大抵いろんな部分で食い違う。一番食い違いが大きいのは食べ物の話で、この前も、雑煮の話を友達としたら、どこもまるで違う感じだった。僕は、雑煮というのは味噌汁に餅が入っているものだと思っていたのだけど(しかも煮た餅)、醤油味だというところもあり、焼いた餅を入れるとこもあり、なんとあんころ餅が入っているというとこもあった。驚くべきことである。
そんな風にして、家族というのは、その中でのみ通用するルールみたいなものを必ず持っているのである。
しかし、不思議だな、と思うのである。
この年になると周りも結婚がどうの、という話がちらほら聞こえてくる。僕の場合、まあ結婚することはなさそうだけど、しかしまあそれがありえたとして、自分が家族を作る、なんていうのがどうも想像出来ないのだ。
それは誰もが同じではないかと思うのだ。誰もが、家族の中にいたことはあっても、家族を作ったことはないはずである。皆初心者なのである。
不思議なのは、初心者が作るものなのに、どうしてこれだけの多様性が生み出されるのかな、ということだ。
例えば、小学校の宿題か何かで、初めて父親の絵を描かなくてはいけない、ということになったとしよう。その時、それぞれの子供が描く絵に大きな違いを見出すことは出来ない、と思う。それはもちろん、それぞれに個性はあるだろう。しかし、顔が大きく、手足はただの線で、真正面を向いていて、というようなそういう部分は皆共通だろう。まさか、横顔を描いてみたり、あるいは顔と体のバランスが完璧な絵を描くような子供はいないだろう。
何でもそうだけど、初めての分野というのは、それを行う人間の間で多様性は薄れるものだと思う。大体似通った結果になるし、大体同じような形になる。
しかし、家族というものだけは、皆初心者のはずなのに、どの家庭も大きく違ったものになる、とそんな風に思う。
これは、多様性を生み出すことで人類の進化と発展を促すという意味で遺伝子に組み込まれていることなのだろうか?あるいは、なんらかの必然なのだろうか?
ただ、家族の多様性が人間の多様性を生み出していることだけは事実だろうと思う。最近では、家族そのものに問題があることが多くなってきて(DVとか虐待とかそういうこと)、不必要な多様性が広まっているようにも思うけれども。
そろそろ内容に入ろうと思います。
母が東京の裁縫学校で一年間勉強することになり、その間私は、フレッシーというジュースを製造する会社の二代目の社長であった伯父さんの家に預けられることになった。
泣いている母と別れ、一人新幹線に乗っている時も、私は全然悲しいとは思わなかった。むしろ、ドイツ人の奥さんと結婚したことで、親戚中で常に話題になっていた一家に初めて会うことが出来る、という興奮で一杯だった。
車で迎えに来てくれた素敵な伯父さんと共に、家に向かった。そこは、お屋敷と呼んでも全然大げさではない建物で、私は圧倒されるばかりであった。
私を迎えてくれたのは、伯父さんの母親のローザおばあさん、伯父さんの奥さん、伯父さんの娘のミーナ、家政婦の米田さん、庭師の小林さん、そしてカバのポチ子である。髪の色も言葉のイントネーションもばらばらな人達で、だから私は、この中にだったらどこか居場所を作ることが出来るかもしれない、と安心した。
それから私は一年間、ここで生活をした。その時の思い出は、今でも深く深く私の胸の中にある。あの時撮った写真や、ミーナからもらったマッチを見るたびにいつでも思い出す…。
というような話です。
本屋大賞の候補10作品のうち、唯一読んでいなかった作品が本作なので読んでみたのですが、ちょっと僕には合わない作品でした。
こういう淡々とした何も起こらないただの日常を描いた作品というのは、昔はダメだったけど今では大丈夫なので、そういうジャンルがダメだということではないと思います。
何がダメだったのか考えると、ちょっとゆったり過ぎたのと、あまりに何も起こらなさすぎたのと、ミーナにあまり魅力を感じられなかった、という感じではないかと思います。
ストーリーは、淡々としているというよりは寧ろ単調という感じで、冗長ささえ感じられました。カバのポチ子の歩みのようにのんびりのんびりしていて、そのゆったりしたスピードにちょっと着いていけなかった気がします。また、本当に特に何が起こるわけでもなく、誰の何の話、と聞かれても答えようがありません。伯父さんはいつも何をしているのか、とか、ミーナの恋の行方は、とか、様々に広げる方向はあるのに、それを積極的に広げることはしないで、物語のゆったりさに重点を置いたような、そんな感じでした。
ミーナという女の子にそこまで興味が持てなかったのは、なんでだろう。読んでいても、強く印象に残る感じじゃなかったんですよね。朱肉が切れ掛かった状態でハンコを押してる感じというか、色褪せて何が写っているのかよくわからない写真みたいというか…。
でも、ミーナを含めた家族そのものは、結構面白かったな、という風には思います。様々な部分で、微妙なズレみたいなものが積み重なっていって(カバを飼ってるとか、伯母さんが誤植を探すのが好きだとか、奇妙な健康法を信じているとかそういうこと)、そういう「不思議な家族の物語」という点では、まあ悪くなかったかな、という気がします。
というわけで、比較的評判のいい作品ではありますが、僕はちょっとダメでした。「博士の愛した数式」の方が断然いいと思うし、それ以外のちょっとダークさを含んだような作品の方が面白いと思いました。というわけで、僕はオススメはしないですが、興味のある人は読んでみてください。合う人は合うと思います。
小川洋子「ミーナの行進」
ぼくのメジャースプーン(辻村深月)
悪意というものについて考えてみたい。
悪意の感情は、誰しもが内側に持っているものではある。悪意など持っていない、と言い切れる人間はいないだろうし、もしも万が一そんな人間が世の中にいるとしたら、申し訳ないが僕はその人を信用したりはしないだろう。
悪意とは、ほんの些細なことから生まれてしまうものだ。これだけの人間が、大勢ひしめきあって生活をしているのである。気の合わない人間もいれば、不快に感じる人間もいる。また、人間にではなく、自然や社会そのものに対して悪意を感じたりすることもあるだろう。
そういう悪意を感じる自分の存在について、悩む時期というのもきっとあるだろう。僕も、きちんとは覚えていないけども、あったと思う。昔から、表には出さないけど、周囲の人間に対して悪意を抱いているような人間だった。そんな自分に不安を感じていた時期があったと思う。周りの人間も、そんな風に思っているのだろうか。僕だけがこんな風に悪意を抱えているのではないだろうか。そんな不安は、間違いなく僕の中にあったと思う。まあ、誰しもが一度は悩んだりするのだろう。
どうして人間は悪意という感情を抱えるのだろうか。そう考えた時に思い浮かぶのは、汚い話になるが、排泄物のようなものなのだろう、ということだ。
人間は、食べ物を摂取して、それを体の中に取り込む。その上で、取り込むことの出来なかった分が、排泄物となって体の外に出る。
悪意というものも、似たようなものなのだろうな、と思うことがある。人間は生きている中で、あらゆるものと接し、あらゆるものを取り込むことで、様々な感情を生み出していく。そうして生まれた感情は、僕らの人生の中に組み込まれ、人生をよりよくするために生かされていく。
しかし、その中で、どうしても自分の中に組み込めない感情というものが生まれでてしまう。副産物のようなもので、どうしようもないものだ。それが悪意と呼ばれるものであって、きちんとそれを処理する仕方を知っておかないと、どんどんと病気になっていってしまうことだろう。
そんなわけで、悪意というものは、ありきたりで誰しもが持っているものだと僕は思うのだけど、しかし世の中には、圧倒的な悪意というものも、間違いなく存在するのである。
それは、悪意という感情を、きちんと処理することのできなかった、そのなれの果てではないか、と思う。もてあました悪意がどんどんと蓄積されていき、もともとの悪意の形とは大きく変わった、まったく別の種類の恐ろしいものへと変化してしまうのではないか、と。
世の中には残念なことに、こうした圧倒的な悪意に溢れている。犯罪、というものがその一つの大きな形であるし、あるいは、戦争というものもその大きな形だと言っていいだろうと思う。
そうした圧倒的な悪意は、防ごうと思って防げるものではない。交通事故のようなもので、そんな悪意にさらされてしまった人は、その不幸を嘆くことぐらいしかできない。身近な人を理不尽な理由で失う、大切にしていたものを些細な理由で壊される。そんな不幸は、その中に溢れている。
そんな不幸に出くわしてしまった時、復讐を考えることが出来るか。本作では、それを中心に据えていると思います。誰かのために、あるいは自分のために、圧倒的な悪意をもたらした人間に、復讐をすることが出来るのか。
僕には、出来ないだろうな、と思います。復讐は、虚しさしかもたらさないだろう、と僕は思うのです。夢は叶うまでが楽しい、ということはよく言われますが、復讐の場合も似たようなものがあります。復讐が実現してしまった後には、虚しさしか残らないのですから。
しかし、ここで本作はもう一つの条件を提示します。
もしあなたが、特殊な能力を持っていたとしたら…。
これは、仮定して考えてもどこにも行き着かない話ではありますが、でも考えてみるのは面白いかもしれないですね。例えば、「DEATH NOTE」をあなたが持っていたとしたら、誰かの名前をそこに書くことが出来ますか?
そろそろ内容に入ろうと思います。
小学生の僕には、友達だけどちょっと憧れてもいる、そんな同級生がいます。
ふみちゃんというその女の子は、クラスの人気者です。レンズの厚い眼鏡を掛けているし、歯の矯正をしたりしているので、外見は大人しそうな感じに見えるのだけど、実際は話し好きで、しかも運動も勉強も何でも出来るのです。僕は、そんなふみちゃんと友達であることが自慢です。
ふみちゃんはうさぎが大好きで、早く四年生になれるのを楽しみにしていました。というのも、うさぎの世話は四年生の仕事だからです。だから僕らが四年生になってから、ふみちゃんは毎日のように朝早く来て、うさぎの世話をしていました。
しかしある日、酷いことが起こったのです。
熱を出して学校を休むことにしたその日、僕はうさぎの世話の当番の日でした。だから、ふみちゃんに電話をして、うさぎの世話にいけないからお願い、という電話をしました。
ちょうどその日、どこかの医学部に在籍する青年が、僕らの学校のうさぎを惨殺する、という事件が起きていました。
ふみちゃんは、バラバラになったうさぎの有り様を見て、血だらけになりながらうさぎを抱きかかえて、
そうして、心を閉ざしてしまいました。その事件以来、虚ろな目をして、話し掛けても何も喋らず、学校にも来なくなってしまいました。
うさぎを殺したその大学生は、器物損壊の罪に問われましたが、しかし執行猶予がつくだけで、刑務所に行くわけではありません。今でも、のうのうとゲームをしているのかもしれません。
そう考えると僕の心は煮えくり返るようでした。ふみちゃんをあんな風にしたのに、それをした当人はのうのうと生きている。
許せない。そう思った僕は、その大学生に復讐を誓いました。
僕には、他の人にはない不思議な力があるのです。相手に何らかの条件を科し、それが出来なければ罪を与える、ということを、言葉一つで出来るのです。その力を使って、犯人に復讐をしようと決めました。
母親は、そんな息子の決意を察し、僕をある人に会わせることに決めました。その人は、僕と同じ力を持っている人で、だから力の使い方をきちんと学んできなさい、ということです。
それから僕は、その「先生」と一緒に、復讐について考えることになりました…。
というような話です。
まあ悪くはないな、という感じの作品、というのが僕の評価です。この作品は、僕が知る限り比較的評判のいい作品なんですが、そこまで言うほどでもなかったかな、という感じはしました。
僕が読んでて思ったのは、ちょっとだけ「DEATH NOTE」に似てるな、ということです。本作の主人公であるぼくは、「DEATH NOTE」ほど強い力を持っているわけでもないし(使い方によっては同等の力を引き出せる能力ではあるのだけど)、またライトのような、世界をまっとうにしよう、みたいな発想を持っているわけでもないのだけど、でも雰囲気的にちょっとだけ似てると思いました。本作の大半は、ぼくが持っている能力をいかに使って、いかに適切な罰を犯人に下すか、というディスカッションを「先生」とする、という部分なのだけど、そういう真摯な点は、「DEATH NOTE」とは違いますね。
この作家のデビュー作を読んだ印象からすれば、素直な青春小説、という感じです。この作家の作品は、デビュー作しか読んだことがなかったので、ミステリっぽくいくのかなと思っていたけど、割とそうでもなかったですね。もちろん、ラストの展開はミステリ的な感じはして、ラストは結構好きです。なるほど、と思いました。その決断は、僕にはきっと出来ないと思うけど、ぼくがした最後の決断は、素敵だと思いました。正しいか正しくないかで議論すれば正しくないだろうけど、でも美しいな、と。
印象的なのは、ぼくの先生役を買って出た秋山という大学教授です。この秋山という先生とぼくとの会話は、なかなかにいろんなことを考えさせるものを含んでいます。悪とは何か、悪意とは何か、復讐とは何か、みたいなことを、結構鋭く議論しています。小学生相手の議論じゃないよな、とか思いながら、でも力を持つ者同士の話としてはまあいのかもしれません。
秋山先生が印象的なのは、その人柄の善悪がなかなかわかりづらいからです。秋山先生は、口調はものすごく丁寧だし、気遣いもそつなく出来るので、そういう部分だけ見ればすごくいい人なのだけど、しかし、悪意や復讐や彼らが持つ力の話に及ぶと、途端にその印象が薄れてしまいます。発言の内容も、その立ち位置も、なんとなく悪寄りな感じがして、初めの印象からすると不自然な感じがします。でも、秋山先生が語るその内容は、隠し事をしない正直なもので、内容そのものについても結構共感できる部分があって、だから全体的には好感の持てるキャラクターです。僕は、ああいう大人が増えれば、世の中はまともになるのにな、という風に読んでいて思いました。
僕の中では、悪くはなかったけど、スラスラと特に引っかかることもなく読めてしまった作品です。デビュー作である「冷たい校舎の時が止まる」の方が断然に好きですね。でも、世間的に割と評判のいい作品なので、読んでみてもいいとは思います。何らかの「被害者」である、という意識のある人は、読んでみたらいろいろ考えさせられるものがあるかもしれません。
辻村深月「ぼくのメジャースプーン」
悪意の感情は、誰しもが内側に持っているものではある。悪意など持っていない、と言い切れる人間はいないだろうし、もしも万が一そんな人間が世の中にいるとしたら、申し訳ないが僕はその人を信用したりはしないだろう。
悪意とは、ほんの些細なことから生まれてしまうものだ。これだけの人間が、大勢ひしめきあって生活をしているのである。気の合わない人間もいれば、不快に感じる人間もいる。また、人間にではなく、自然や社会そのものに対して悪意を感じたりすることもあるだろう。
そういう悪意を感じる自分の存在について、悩む時期というのもきっとあるだろう。僕も、きちんとは覚えていないけども、あったと思う。昔から、表には出さないけど、周囲の人間に対して悪意を抱いているような人間だった。そんな自分に不安を感じていた時期があったと思う。周りの人間も、そんな風に思っているのだろうか。僕だけがこんな風に悪意を抱えているのではないだろうか。そんな不安は、間違いなく僕の中にあったと思う。まあ、誰しもが一度は悩んだりするのだろう。
どうして人間は悪意という感情を抱えるのだろうか。そう考えた時に思い浮かぶのは、汚い話になるが、排泄物のようなものなのだろう、ということだ。
人間は、食べ物を摂取して、それを体の中に取り込む。その上で、取り込むことの出来なかった分が、排泄物となって体の外に出る。
悪意というものも、似たようなものなのだろうな、と思うことがある。人間は生きている中で、あらゆるものと接し、あらゆるものを取り込むことで、様々な感情を生み出していく。そうして生まれた感情は、僕らの人生の中に組み込まれ、人生をよりよくするために生かされていく。
しかし、その中で、どうしても自分の中に組み込めない感情というものが生まれでてしまう。副産物のようなもので、どうしようもないものだ。それが悪意と呼ばれるものであって、きちんとそれを処理する仕方を知っておかないと、どんどんと病気になっていってしまうことだろう。
そんなわけで、悪意というものは、ありきたりで誰しもが持っているものだと僕は思うのだけど、しかし世の中には、圧倒的な悪意というものも、間違いなく存在するのである。
それは、悪意という感情を、きちんと処理することのできなかった、そのなれの果てではないか、と思う。もてあました悪意がどんどんと蓄積されていき、もともとの悪意の形とは大きく変わった、まったく別の種類の恐ろしいものへと変化してしまうのではないか、と。
世の中には残念なことに、こうした圧倒的な悪意に溢れている。犯罪、というものがその一つの大きな形であるし、あるいは、戦争というものもその大きな形だと言っていいだろうと思う。
そうした圧倒的な悪意は、防ごうと思って防げるものではない。交通事故のようなもので、そんな悪意にさらされてしまった人は、その不幸を嘆くことぐらいしかできない。身近な人を理不尽な理由で失う、大切にしていたものを些細な理由で壊される。そんな不幸は、その中に溢れている。
そんな不幸に出くわしてしまった時、復讐を考えることが出来るか。本作では、それを中心に据えていると思います。誰かのために、あるいは自分のために、圧倒的な悪意をもたらした人間に、復讐をすることが出来るのか。
僕には、出来ないだろうな、と思います。復讐は、虚しさしかもたらさないだろう、と僕は思うのです。夢は叶うまでが楽しい、ということはよく言われますが、復讐の場合も似たようなものがあります。復讐が実現してしまった後には、虚しさしか残らないのですから。
しかし、ここで本作はもう一つの条件を提示します。
もしあなたが、特殊な能力を持っていたとしたら…。
これは、仮定して考えてもどこにも行き着かない話ではありますが、でも考えてみるのは面白いかもしれないですね。例えば、「DEATH NOTE」をあなたが持っていたとしたら、誰かの名前をそこに書くことが出来ますか?
そろそろ内容に入ろうと思います。
小学生の僕には、友達だけどちょっと憧れてもいる、そんな同級生がいます。
ふみちゃんというその女の子は、クラスの人気者です。レンズの厚い眼鏡を掛けているし、歯の矯正をしたりしているので、外見は大人しそうな感じに見えるのだけど、実際は話し好きで、しかも運動も勉強も何でも出来るのです。僕は、そんなふみちゃんと友達であることが自慢です。
ふみちゃんはうさぎが大好きで、早く四年生になれるのを楽しみにしていました。というのも、うさぎの世話は四年生の仕事だからです。だから僕らが四年生になってから、ふみちゃんは毎日のように朝早く来て、うさぎの世話をしていました。
しかしある日、酷いことが起こったのです。
熱を出して学校を休むことにしたその日、僕はうさぎの世話の当番の日でした。だから、ふみちゃんに電話をして、うさぎの世話にいけないからお願い、という電話をしました。
ちょうどその日、どこかの医学部に在籍する青年が、僕らの学校のうさぎを惨殺する、という事件が起きていました。
ふみちゃんは、バラバラになったうさぎの有り様を見て、血だらけになりながらうさぎを抱きかかえて、
そうして、心を閉ざしてしまいました。その事件以来、虚ろな目をして、話し掛けても何も喋らず、学校にも来なくなってしまいました。
うさぎを殺したその大学生は、器物損壊の罪に問われましたが、しかし執行猶予がつくだけで、刑務所に行くわけではありません。今でも、のうのうとゲームをしているのかもしれません。
そう考えると僕の心は煮えくり返るようでした。ふみちゃんをあんな風にしたのに、それをした当人はのうのうと生きている。
許せない。そう思った僕は、その大学生に復讐を誓いました。
僕には、他の人にはない不思議な力があるのです。相手に何らかの条件を科し、それが出来なければ罪を与える、ということを、言葉一つで出来るのです。その力を使って、犯人に復讐をしようと決めました。
母親は、そんな息子の決意を察し、僕をある人に会わせることに決めました。その人は、僕と同じ力を持っている人で、だから力の使い方をきちんと学んできなさい、ということです。
それから僕は、その「先生」と一緒に、復讐について考えることになりました…。
というような話です。
まあ悪くはないな、という感じの作品、というのが僕の評価です。この作品は、僕が知る限り比較的評判のいい作品なんですが、そこまで言うほどでもなかったかな、という感じはしました。
僕が読んでて思ったのは、ちょっとだけ「DEATH NOTE」に似てるな、ということです。本作の主人公であるぼくは、「DEATH NOTE」ほど強い力を持っているわけでもないし(使い方によっては同等の力を引き出せる能力ではあるのだけど)、またライトのような、世界をまっとうにしよう、みたいな発想を持っているわけでもないのだけど、でも雰囲気的にちょっとだけ似てると思いました。本作の大半は、ぼくが持っている能力をいかに使って、いかに適切な罰を犯人に下すか、というディスカッションを「先生」とする、という部分なのだけど、そういう真摯な点は、「DEATH NOTE」とは違いますね。
この作家のデビュー作を読んだ印象からすれば、素直な青春小説、という感じです。この作家の作品は、デビュー作しか読んだことがなかったので、ミステリっぽくいくのかなと思っていたけど、割とそうでもなかったですね。もちろん、ラストの展開はミステリ的な感じはして、ラストは結構好きです。なるほど、と思いました。その決断は、僕にはきっと出来ないと思うけど、ぼくがした最後の決断は、素敵だと思いました。正しいか正しくないかで議論すれば正しくないだろうけど、でも美しいな、と。
印象的なのは、ぼくの先生役を買って出た秋山という大学教授です。この秋山という先生とぼくとの会話は、なかなかにいろんなことを考えさせるものを含んでいます。悪とは何か、悪意とは何か、復讐とは何か、みたいなことを、結構鋭く議論しています。小学生相手の議論じゃないよな、とか思いながら、でも力を持つ者同士の話としてはまあいのかもしれません。
秋山先生が印象的なのは、その人柄の善悪がなかなかわかりづらいからです。秋山先生は、口調はものすごく丁寧だし、気遣いもそつなく出来るので、そういう部分だけ見ればすごくいい人なのだけど、しかし、悪意や復讐や彼らが持つ力の話に及ぶと、途端にその印象が薄れてしまいます。発言の内容も、その立ち位置も、なんとなく悪寄りな感じがして、初めの印象からすると不自然な感じがします。でも、秋山先生が語るその内容は、隠し事をしない正直なもので、内容そのものについても結構共感できる部分があって、だから全体的には好感の持てるキャラクターです。僕は、ああいう大人が増えれば、世の中はまともになるのにな、という風に読んでいて思いました。
僕の中では、悪くはなかったけど、スラスラと特に引っかかることもなく読めてしまった作品です。デビュー作である「冷たい校舎の時が止まる」の方が断然に好きですね。でも、世間的に割と評判のいい作品なので、読んでみてもいいとは思います。何らかの「被害者」である、という意識のある人は、読んでみたらいろいろ考えさせられるものがあるかもしれません。
辻村深月「ぼくのメジャースプーン」
浮世の画家(カズオ・イシグロ)
過去を振り返った時、それは一体どんな形をしているだろうか。
過去を再構築しようとした時、そこには一体何が残るだろうか。
例えば今、僕は自分の過去を振り返ってみるとする。振り返るような過去は特にはないのだが、現在の自分に至るまでの、自分という一人の人間を形成したその痕跡のようなものを辿ろうとすれば、自ずと何かしらの道筋は見えてくるものかもしれない。
しかし、その回想、もしくはその再構築が、常に自分にとって誠実であるかというと、それは難しいかもしれないと思うのだ。つまり、過去を思い出すという行為には、必然的に自分自身の思惑や何らかの意図が混じってしまう。完全に正しいものをきちんと抜き出すことは、ほとんど無理ではないかと思うのだ…。
というような形で、いつものように僕の駄文を書き連ねることもやぶさかではないのであるが、本作に関して言えば、小野正嗣という作家による解説の文章が、カズオ・イシグロの作品について、ひいては、カズオ・イシグロという作家そのものについて、かなり鋭くわかりやすい考察をしていると思うので、それを抜き出して書くことで前書きとしたい、という風に思います。
というわけで以下、小野正嗣による、本作の解説です。ところどろこ省略しながら書こうとは思いますが。
『カズオ・イシグロは本当に不思議な作家である。
すごく乱暴な言い方をすれば、イシグロはいるも「同じ」である。「同じ」なのに、いつも「ちがう」のである。
イシグロの長編小説は一人称で―つまり「わたし」で―書かれている。なるほど、この「わたし」はいつも異なる。「わたし」は未亡人かもしれないし、引退した画家かもしれないし、元執事かもしれないし、ピアニストかもしれないし、私立探偵かもしれないし、介護人かもしれない。それぞれの作品の舞台は、国もちがえば時代もちがう。しかしこの異なる相貌の「わたし」が基本的には同じことをしているという印象を読者は受ける。では何をしているのか?「語る」ことである。
一人称の小説において、作品世界で起こっているすべての出来事は、「語り手」の「声」を通過しなければ、私達にはけっして見えることはない。読者は語り手の視点を通して世界を眺めることを余儀なくされる。物語が魅力的であればあるほど、「語る」行為そのものは、それが記述する一連の出来事や行動および嗜好や感情の流れの背後に退いて、私たちの視界から消える。実際、そのようにして「語り」を忘れさせてくれる一人称の小説はいくらでもある。
ところがイシグロにおいては、やや事情が異なる。イシグロを読んでいると、「語る」ということ自体の肌理が目につきはじめる。そしてそれが私たちに与える、けっして心地よいものではない感触がきになってくるのである。どうしてこの「わたし」は語るのか?どうしてこんな語り方なのか?
イシグロの作品群を貫く中心的な主題があるとすれば、それは語り手の「記憶」の曖昧さ、より正確に言えば、その記憶のなかで知覚され、認識された「現実」の不確実性である。イシグロの語り手たちはみな、身辺に起こった過去の数々の出来事を、「語る」ことによって再構築しようとする。過去を語ること、語らずにはおられないことには、重なり合う二つのことが前提とされる。ひとつは、現在の自分のことがよくわからにということ。そしてもうひとつは、私たちのいまこの瞬間の「自己」は、過去における「自己」との「連続性」によって構築されているという確信である。自己同一性とはこの「連続性」のことである。「起源」というものは定義からして「過去」にしか位置づけられない。過去を問い直すことの根幹には、アイデンティティーの探求が必ず含意されていると言える―イシグロ作品の「語り手」たちがやっているのは、いつもこれなのである。(中略)
したがってイシグロの私たちをつねに驚嘆させる凄まじさは、各作品にあらわれる中心的なモチーフが同じだと感じられるにもかかわらず、そのつど固有のリアリティの厚みを備えたまったく別個の「語り手」を創造する、というよりも「語り手」になる能力―類稀な「他者化」の能力―にあると言える。ふつう一人称の語りの場合、語り手の視点に「作者」の思考や感情は投影されがちである(たとえば「私小説」を考えてみればよい)。ところがイシグロの場合、作者イシグロの姿は完全に消えている。その気配はどこにも感じられない。それくらい見事にイシグロは語り手の仮面をかぶっている。いや、仮面になりきっているどころか、その仮面にイシグロが乗っ取られているかのようだ。
(以下略)』
小野正嗣によって語られるカズオ・イシグロの姿というものは、僕がその作品を読んだ印象と違わない。それを、僕は明確に言葉で表すことは出来ないが、さすがに作家である、僕の感じた、いや恐らくイシグロ作品を読んだ多くの人が感じているだろうことを、明確に表現している、と思うのである。
イシグロの作品では常に、「語り手」が過去を「語る」。その過程で、記憶を再構築し、現在の自分への道筋、あるいは現在の自分を生み出した何か、それを見つけ出そうとする。
過去を回想することで、生み出されるものはないだろう。過去を反省し、過去を振り返ることで、何かが産まれ出たような、あるいは何か新しい発見をしたかのような、そんな感覚に囚われるかもしれない。しかしそれは、ただの幻想であると僕は思う。回想することで得られたと思ったことは、既に自分自身が得ていたものであり、それを忘れていたか、あるいは忘れようとしていたかのどちらかであるはずだ。
だからこそ、過去を回想することに、僕は大きな意味を見出すことは出来ない。忘れていたものを思い出すことに、大きな意義を感じる人はいるかもしれない。しかし、自分の中の総量といったようなものに変化はないのである。ならば、少しでも前を向いた方がいいのではないか。というようなことを、僕のような後ろ向きの人間が言っても、まるで説得力はないのであるが。
例えば、過去に自分がした、些細ではあるのだけど恥ずかしいこと、というのを時々思い出す。それは、自分にとっては恥ずかしいことであったが、実は周囲の人間はそんなことを思えていないものである。そういうことは、たくさんある。とにかく、自分の記憶は、自分だけのものである、と思っている方が無難である。回想することで、それがより浮き彫りになる、と僕は思う。それは、少しだけ寂しいことではないか、とも思うのだ。
それでも、人は回想するのだろう。僕も、時が経つにつれ、昔のことを思い出すことになるのだろう。それは、自分の中の想像としては不快な部類に入るが、しかし受け入れていくしかないのだろう。
イシグロ作品の「語り手」のように、深く深く細部に渡るまで回想したくはない。それだけを願っておこう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
これも、小野正嗣が解説に書いた内容紹介が優れていると僕は思うので(なんだか手抜きをしているように思われそうで悲しいが、本当にこの小野正嗣氏による解説はかなりいいと思う。江國香織の「号泣する準備はできていた」の文庫版の解説以来ぶりにいい解説だと思う)、またしても氏の文章を使わせていただこうと思う。実際こうして、勝手に文章を載せてしまうことはまずいのかもしれないけど、どうなのだろう。
以下小野正嗣氏の文章。
『「浮世の画家」において、イシグロが選んだ仮面は、小野益次という引退した日本人画家である。この小説では、戦後間もない日本が舞台となっている。小野は、娘の紀子の縁談が一度結婚寸前で破談になってしまったことの理由がどうやら自分の過去に関係していることに気づいている。そこから戦前、そして戦中へと思いを馳せ、数多くいた弟子たちとの関係、幼年期、みずからの修行時代などを回想していく。ところがその語りを聞いていくうちに、読者どうも大切なことがぼかされているような気がしてくる。(中略)といった言い方にうかがえるように、他者の目に映った自己像をとみずからが抱く自己像とのズレや記憶の不確かさを白状する小野の語り口は一見誠実なもののように見える。しかし、彼の言葉に耳を傾ければ傾けるほど、決定的に重要なことが故意に言い落とされているような印象は深まるばかりである。
例えば、弟子たち―信太郎と黒田―との関係にしても訣別の理由ははっきりと語られない。また小野は自分の過去を誇らしく思うと言うわりには、いったい何を誇りに思っていたのかは言明されない。そして小野は、自分が過去に犯した過ちを認めると述べた上でこう続ける。「過去の責任をとることは必ずしも容易なことではないが、人生行路のあちこちで犯した自分の過ちを堂々と直視すれば、確実に満足感が得られ、自尊心が高まるはずだ。とにかく、強固な新年のゆえに犯してしまった過ちなら、そう深く恥じ入るにも及ぶまい。むしろ、そういう過ちを自分では認められない、あるいは認めたくないというほうが、よほどはずかしいことに違いない」(一八七頁)。ところが、その罪とは具体的にどのようなものだったのかが一切言及されないのである。小野は何かを読者の目から遠ざけようとしている。しかし隠そうとする仕草自体が隠されているものをよりいっそう際立たせずにはおかないのである。イシグロ独特の技法とは「普遍的で明確なテーマを、いわば現実の陰翳だけで浮かび上がらせる」ことであるとは、訳者飛田茂雄氏の言葉だが、付言すれば、この「現実」は「語り」によってのみ構成されている。「浮世の画家」においては、この「語り」がはらむ「陰影」こそが、「本体」を、つまり小野益次という人間とは何者かをあらわにするのである。』
僕はこれまで、本作を含めて三作のイシグロ作品を読みましたが、構成は本当にどれも同じです。様々な「語り手」が、自らの過去を回想する、というその手法こそが、イシグロ作品の骨頂なのでしょう。
それでいて、本当にどの作品も別々の印象をもたらします。それまでの二作がイギリスを舞台にしたものだったのに対して、本作は舞台が日本である、ということもその違いを打ち出す理由の一つになっているのかもしれないけど、それ以上に、解説で小野氏が書いているように、イシグロ氏が、作家とという視点を完全に脱ぎ捨て、「語り手」に完全になりきっているその姿勢こそが、その違いを明確にしているのではないか、と思います。つまり、「語り手」の個性の違いがそのまま、作品それぞれの違いになっているのだろう、と思います。
また本作では、同じく小野氏が指摘しているように、回想、あるいは独白であるのにも関わらず、何か大事なことが隠されている、という印象が強くあります。考えてみれば、これまでに読んだ二作でも同じような印象を受けたような気がします。「私を離さないで」ではヘールシャムでの生活での微妙な雰囲気が、「日の名残り」ではダーリントン卿についての情報が、どうも独白の中で意図的に隠されている、という印象がありました。
しかしそれは、ある意味でリアリティの追求と言えるのかもしれません。イシグロ作品では、「語り手」は常に自分の記憶そのものについて批判性を持っています。これが正しい記憶なのか、あるいは自分が捏造した記憶なのか、ということを、誠実に自らに問いかけ、またその点を確認しようとします。
そういう傾向と同じように、重要な部分を意図的に隠したまま回想をするというのも、人間にはよくあることなのかもしれないと思います。その「語り手」になりきった時に、きっとこういう部分は外して回想をするはずだ、というような確信がイシグロ氏にあったのだろうと思います。それは読んでいる側にも、違和感を与えはしますが、不自然さは感じさせないのではないか、と思います。
本作は、英国で最も権威ある賞であるブッカー賞の候補になり、また次いで権威のあると言われるウィットブレッド賞を受賞した作品です。正直僕は、「私を離さないで」や「日の名残り」の方がいい作品だと思いますが、本作もイシグロ作品らしい見事な作品になっています。是非、と強くオススメすることはしませんが、機会があれば読んでみてほしい作品です。「私を離さないで」と「日の名残り」は是非読んで欲しい作品ですね。
カズオ・イシグロ「浮世の画家」
過去を再構築しようとした時、そこには一体何が残るだろうか。
例えば今、僕は自分の過去を振り返ってみるとする。振り返るような過去は特にはないのだが、現在の自分に至るまでの、自分という一人の人間を形成したその痕跡のようなものを辿ろうとすれば、自ずと何かしらの道筋は見えてくるものかもしれない。
しかし、その回想、もしくはその再構築が、常に自分にとって誠実であるかというと、それは難しいかもしれないと思うのだ。つまり、過去を思い出すという行為には、必然的に自分自身の思惑や何らかの意図が混じってしまう。完全に正しいものをきちんと抜き出すことは、ほとんど無理ではないかと思うのだ…。
というような形で、いつものように僕の駄文を書き連ねることもやぶさかではないのであるが、本作に関して言えば、小野正嗣という作家による解説の文章が、カズオ・イシグロの作品について、ひいては、カズオ・イシグロという作家そのものについて、かなり鋭くわかりやすい考察をしていると思うので、それを抜き出して書くことで前書きとしたい、という風に思います。
というわけで以下、小野正嗣による、本作の解説です。ところどろこ省略しながら書こうとは思いますが。
『カズオ・イシグロは本当に不思議な作家である。
すごく乱暴な言い方をすれば、イシグロはいるも「同じ」である。「同じ」なのに、いつも「ちがう」のである。
イシグロの長編小説は一人称で―つまり「わたし」で―書かれている。なるほど、この「わたし」はいつも異なる。「わたし」は未亡人かもしれないし、引退した画家かもしれないし、元執事かもしれないし、ピアニストかもしれないし、私立探偵かもしれないし、介護人かもしれない。それぞれの作品の舞台は、国もちがえば時代もちがう。しかしこの異なる相貌の「わたし」が基本的には同じことをしているという印象を読者は受ける。では何をしているのか?「語る」ことである。
一人称の小説において、作品世界で起こっているすべての出来事は、「語り手」の「声」を通過しなければ、私達にはけっして見えることはない。読者は語り手の視点を通して世界を眺めることを余儀なくされる。物語が魅力的であればあるほど、「語る」行為そのものは、それが記述する一連の出来事や行動および嗜好や感情の流れの背後に退いて、私たちの視界から消える。実際、そのようにして「語り」を忘れさせてくれる一人称の小説はいくらでもある。
ところがイシグロにおいては、やや事情が異なる。イシグロを読んでいると、「語る」ということ自体の肌理が目につきはじめる。そしてそれが私たちに与える、けっして心地よいものではない感触がきになってくるのである。どうしてこの「わたし」は語るのか?どうしてこんな語り方なのか?
イシグロの作品群を貫く中心的な主題があるとすれば、それは語り手の「記憶」の曖昧さ、より正確に言えば、その記憶のなかで知覚され、認識された「現実」の不確実性である。イシグロの語り手たちはみな、身辺に起こった過去の数々の出来事を、「語る」ことによって再構築しようとする。過去を語ること、語らずにはおられないことには、重なり合う二つのことが前提とされる。ひとつは、現在の自分のことがよくわからにということ。そしてもうひとつは、私たちのいまこの瞬間の「自己」は、過去における「自己」との「連続性」によって構築されているという確信である。自己同一性とはこの「連続性」のことである。「起源」というものは定義からして「過去」にしか位置づけられない。過去を問い直すことの根幹には、アイデンティティーの探求が必ず含意されていると言える―イシグロ作品の「語り手」たちがやっているのは、いつもこれなのである。(中略)
したがってイシグロの私たちをつねに驚嘆させる凄まじさは、各作品にあらわれる中心的なモチーフが同じだと感じられるにもかかわらず、そのつど固有のリアリティの厚みを備えたまったく別個の「語り手」を創造する、というよりも「語り手」になる能力―類稀な「他者化」の能力―にあると言える。ふつう一人称の語りの場合、語り手の視点に「作者」の思考や感情は投影されがちである(たとえば「私小説」を考えてみればよい)。ところがイシグロの場合、作者イシグロの姿は完全に消えている。その気配はどこにも感じられない。それくらい見事にイシグロは語り手の仮面をかぶっている。いや、仮面になりきっているどころか、その仮面にイシグロが乗っ取られているかのようだ。
(以下略)』
小野正嗣によって語られるカズオ・イシグロの姿というものは、僕がその作品を読んだ印象と違わない。それを、僕は明確に言葉で表すことは出来ないが、さすがに作家である、僕の感じた、いや恐らくイシグロ作品を読んだ多くの人が感じているだろうことを、明確に表現している、と思うのである。
イシグロの作品では常に、「語り手」が過去を「語る」。その過程で、記憶を再構築し、現在の自分への道筋、あるいは現在の自分を生み出した何か、それを見つけ出そうとする。
過去を回想することで、生み出されるものはないだろう。過去を反省し、過去を振り返ることで、何かが産まれ出たような、あるいは何か新しい発見をしたかのような、そんな感覚に囚われるかもしれない。しかしそれは、ただの幻想であると僕は思う。回想することで得られたと思ったことは、既に自分自身が得ていたものであり、それを忘れていたか、あるいは忘れようとしていたかのどちらかであるはずだ。
だからこそ、過去を回想することに、僕は大きな意味を見出すことは出来ない。忘れていたものを思い出すことに、大きな意義を感じる人はいるかもしれない。しかし、自分の中の総量といったようなものに変化はないのである。ならば、少しでも前を向いた方がいいのではないか。というようなことを、僕のような後ろ向きの人間が言っても、まるで説得力はないのであるが。
例えば、過去に自分がした、些細ではあるのだけど恥ずかしいこと、というのを時々思い出す。それは、自分にとっては恥ずかしいことであったが、実は周囲の人間はそんなことを思えていないものである。そういうことは、たくさんある。とにかく、自分の記憶は、自分だけのものである、と思っている方が無難である。回想することで、それがより浮き彫りになる、と僕は思う。それは、少しだけ寂しいことではないか、とも思うのだ。
それでも、人は回想するのだろう。僕も、時が経つにつれ、昔のことを思い出すことになるのだろう。それは、自分の中の想像としては不快な部類に入るが、しかし受け入れていくしかないのだろう。
イシグロ作品の「語り手」のように、深く深く細部に渡るまで回想したくはない。それだけを願っておこう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
これも、小野正嗣が解説に書いた内容紹介が優れていると僕は思うので(なんだか手抜きをしているように思われそうで悲しいが、本当にこの小野正嗣氏による解説はかなりいいと思う。江國香織の「号泣する準備はできていた」の文庫版の解説以来ぶりにいい解説だと思う)、またしても氏の文章を使わせていただこうと思う。実際こうして、勝手に文章を載せてしまうことはまずいのかもしれないけど、どうなのだろう。
以下小野正嗣氏の文章。
『「浮世の画家」において、イシグロが選んだ仮面は、小野益次という引退した日本人画家である。この小説では、戦後間もない日本が舞台となっている。小野は、娘の紀子の縁談が一度結婚寸前で破談になってしまったことの理由がどうやら自分の過去に関係していることに気づいている。そこから戦前、そして戦中へと思いを馳せ、数多くいた弟子たちとの関係、幼年期、みずからの修行時代などを回想していく。ところがその語りを聞いていくうちに、読者どうも大切なことがぼかされているような気がしてくる。(中略)といった言い方にうかがえるように、他者の目に映った自己像をとみずからが抱く自己像とのズレや記憶の不確かさを白状する小野の語り口は一見誠実なもののように見える。しかし、彼の言葉に耳を傾ければ傾けるほど、決定的に重要なことが故意に言い落とされているような印象は深まるばかりである。
例えば、弟子たち―信太郎と黒田―との関係にしても訣別の理由ははっきりと語られない。また小野は自分の過去を誇らしく思うと言うわりには、いったい何を誇りに思っていたのかは言明されない。そして小野は、自分が過去に犯した過ちを認めると述べた上でこう続ける。「過去の責任をとることは必ずしも容易なことではないが、人生行路のあちこちで犯した自分の過ちを堂々と直視すれば、確実に満足感が得られ、自尊心が高まるはずだ。とにかく、強固な新年のゆえに犯してしまった過ちなら、そう深く恥じ入るにも及ぶまい。むしろ、そういう過ちを自分では認められない、あるいは認めたくないというほうが、よほどはずかしいことに違いない」(一八七頁)。ところが、その罪とは具体的にどのようなものだったのかが一切言及されないのである。小野は何かを読者の目から遠ざけようとしている。しかし隠そうとする仕草自体が隠されているものをよりいっそう際立たせずにはおかないのである。イシグロ独特の技法とは「普遍的で明確なテーマを、いわば現実の陰翳だけで浮かび上がらせる」ことであるとは、訳者飛田茂雄氏の言葉だが、付言すれば、この「現実」は「語り」によってのみ構成されている。「浮世の画家」においては、この「語り」がはらむ「陰影」こそが、「本体」を、つまり小野益次という人間とは何者かをあらわにするのである。』
僕はこれまで、本作を含めて三作のイシグロ作品を読みましたが、構成は本当にどれも同じです。様々な「語り手」が、自らの過去を回想する、というその手法こそが、イシグロ作品の骨頂なのでしょう。
それでいて、本当にどの作品も別々の印象をもたらします。それまでの二作がイギリスを舞台にしたものだったのに対して、本作は舞台が日本である、ということもその違いを打ち出す理由の一つになっているのかもしれないけど、それ以上に、解説で小野氏が書いているように、イシグロ氏が、作家とという視点を完全に脱ぎ捨て、「語り手」に完全になりきっているその姿勢こそが、その違いを明確にしているのではないか、と思います。つまり、「語り手」の個性の違いがそのまま、作品それぞれの違いになっているのだろう、と思います。
また本作では、同じく小野氏が指摘しているように、回想、あるいは独白であるのにも関わらず、何か大事なことが隠されている、という印象が強くあります。考えてみれば、これまでに読んだ二作でも同じような印象を受けたような気がします。「私を離さないで」ではヘールシャムでの生活での微妙な雰囲気が、「日の名残り」ではダーリントン卿についての情報が、どうも独白の中で意図的に隠されている、という印象がありました。
しかしそれは、ある意味でリアリティの追求と言えるのかもしれません。イシグロ作品では、「語り手」は常に自分の記憶そのものについて批判性を持っています。これが正しい記憶なのか、あるいは自分が捏造した記憶なのか、ということを、誠実に自らに問いかけ、またその点を確認しようとします。
そういう傾向と同じように、重要な部分を意図的に隠したまま回想をするというのも、人間にはよくあることなのかもしれないと思います。その「語り手」になりきった時に、きっとこういう部分は外して回想をするはずだ、というような確信がイシグロ氏にあったのだろうと思います。それは読んでいる側にも、違和感を与えはしますが、不自然さは感じさせないのではないか、と思います。
本作は、英国で最も権威ある賞であるブッカー賞の候補になり、また次いで権威のあると言われるウィットブレッド賞を受賞した作品です。正直僕は、「私を離さないで」や「日の名残り」の方がいい作品だと思いますが、本作もイシグロ作品らしい見事な作品になっています。是非、と強くオススメすることはしませんが、機会があれば読んでみてほしい作品です。「私を離さないで」と「日の名残り」は是非読んで欲しい作品ですね。
カズオ・イシグロ「浮世の画家」
潜入ルポ アマゾン・ドット・コム(横田増生)
アマゾンで本を買ったことがあるだろうか?
僕は今までで、一度だけある。特別な理由があったわけでもなく、古本屋でなかなか見つからない東野圭吾原作の絵本を、ならアマゾンで買ってみようか、と思っただけのことである。1500円以上で送料が無料になるということなので、同時に、「嫌われ松子の一年」という、「嫌われ松子の一生」という映画の主役だった中谷美紀が書いた、同映画の撮影中に書いたエッセイも一緒に買ってみた。
やはり一番初めは、きちんと届くのか不安なものである。何しろ、本を一度も見ていないし、アマゾンという名前だけで、きちんと届く保証などどこにもないのである。
しかししばらくすると本が届いた。確か、それほど早くなかったような気がするが、それは一緒に頼んだ「嫌われ松子の一生」が、当時結構品薄だったからだろうと思う。何にせよ、アマゾンできちんと本を注文し、それが届くということを確認できたわけである。
しかし、僕はアマゾンをこれから頻繁には利用しないだろうな、という風に思った。
それは何故なら、結局のところ、自分で選びたいからなのだ、と思う。
例えば、ネット書店とリアル書店の違いをこんな風に表現できるかもしれない。
ネット書店の場合はこうだ。あなたは今、一つのものすごく大きな部屋の中にいる。そこは、壁中に無数のドアが備え付けられた部屋で、それぞれのドアは閉ざされている。あなたは、いくつかのドアの鍵を持っている。それぞれの鍵でドアを開ければ、そこにはあなたが欲しいと思っている本がやまほどある。簡単に見つかるし、欲しい本が次から次へと現れる。しかし、鍵を持っていない部屋には決して入ることはできない。
リアル書店の場合はこうだ。あなたは今、一つのそこまで広いとはいえない部屋にいる。こじんまりした、と表現してもいいくらいの大きさの部屋だ。壁中にドアがあるわけでもない。しかしその部屋には、雑多な本がたくさん置いてある。ジャンルも趣味もまるでばらばらだけれども、しかしその部屋にあるものは制限なく見ることが出来る。
なんとなく、言いたいことはわかっていただけるだろうか。
アマゾンの最大の利点は、欲しい本がすぐに見つかり、すぐに手に入る、という点である。この点において、リアル書店は逆立ちしてもアマゾンには勝てないだろう。今後勝てる見込みも、恐らくない。また、個人の嗜好をシステムが把握し、こういう本もお好みではないですか?と勧めてくる。これもまた、アマゾンが持つ魅力の一つである。どんどんいろんな本を勧められて、欲しくなってしまう。
しかし、そのアマゾンの利点は、僕から言わせてもらえば同時にマイナスも含んでいると思う。
先ほど、ドアの鍵、という表現をしたけども、まさにその点である。アマゾンを利用するには、利用者が数多くの鍵を持っていなくてはいけないのである。
例えば、ファンタジー好きの読者がいるとしよう。この「ファンタジー」というキーワードが鍵である。アマゾンはその読者の嗜好を容易に知ることが出来るだろう。そこで、ファンタジーに関わる本をどんどん勧めてくる。
しかし、それが限界なのである。その読者には、ミステリーや時代小説や恋愛小説などに触れる機会というものはまるでなくなってしまう。もちろん、ファンタジーが好きなのだから、それでもいいという考えもあるかもしれない。しかし、本来本を選ぶというのはそういうことではないと思うのだ。何でアレ、出会いというものが大事だと僕は思うのである。
アマゾンの場合、利用する側がいかに多くの鍵を持っているかで、出会いの確率というのが変わってくる。今の自分の嗜好にあった作品を紹介してくれるシステムというのは、いわば、新たな出会いを封じるという意味でもあるのである。
僕がリアル書店に期待している(あるいはリアル書店で働いている身として、目指すべき)ことは、鍵を持たずに演出することの出来る出会いの場である、ということである。ファンタジーにしか興味のない人間でも、リアル書店へ行けばミステリーでも恋愛小説でも時代小説でも触れることが出来る。その中には、知らないだけで、自分が面白いと感じる作品も混じっているかもしれないのである。そういう出会いを演出することこそが、リアル書店の役割であり、またアマゾンと勝負できる唯一の点ではないかと思うのである。
実際、欲しい本が決まっていて、それを注文したいというのであれば、アマゾンで注文する方が断然早い。書店で注文する(これを客注というのだが)と、僕がいる店では10日前後掛かる、というアナウンスをする。実際それよりも早く入ってくることの方が多いのだが、しかし確約ができない。どうしてもそれくらいの余裕を持って伝えるしかないのである。
しかし、アマゾンというのは、3日以内とかで出荷してしまう。驚異的な早さである。このスピードには、現在のリアル書店を取りまく流通はついていくことは出来ない。それがリアル書店の限界である。
しかし、欲しい本が決まっていない場合は、まだリアル書店に分があると僕は思っている。何か面白い本はないかな、と思ってリアル書店に足を運ぶお客さんの行動は、なかなかアマゾンでは実現できない。アマゾンでは、自分の嗜好にあった本や、アマゾンで今売れている本、というのを検索することは出来るけれども、そういうものではない、なんとなく自分の琴線に触れる本を探したい、という欲求を叶えることはまだ出来ていないだろう。もしバーチャルリアリティの技術が進めばそういうことも可能になるかもしれないが、さすがにまだそれを心配することもないだろう。リアル書店も、まだまだ負けていられないと思う。
しかし、リアル書店の体力はどんどん衰えていっていると、僕は思う。正確な数字を知っているわけではないけど、リアル書店を取り巻く現実は、なかなか厳しいはずだ。
それは恐らく、リアル書店の努力が大きく足りないからではないかと思うのだ。通り一遍の本しか並べず、金太郎飴のようにどこにでもある本屋を作るのでは、もうこれからを生き抜いていくことは難しい。いかにして特色を打ち出し、何か面白い本はないかな、と思ってやってくるお客さんをいかに取り込むことが出来るか、ということが、これからのリアル書店の課題になっていくことだろう。僕自身、出来ているかといわれればなかなか難しいところであるが、でも出来る限り努力するしかないのは間違いないことである。
少しだけ話は変わるが、アマゾンはリアル書店の敵だろうか、あるいは味方だろうか。つまりそれは、単純に売上を横取りしていく敵なのか、あるいはライバルと言えるよきパートナーとなりえるのか、ということだ。
この質問に答えることはなかなか難しいのではないかと思う。単純に、アマゾンはリアル書店の敵だ、と言うことが出来ないだけの力を、既にアマゾンが持っているのではないかと思うのだ。それはつまり、アマゾンという存在があるからこそ、本市場というものが底上げされ、結果的にリアル書店への風向きもよくなっている、といえなくもないのではないか、ということだ。ただその風にリアル書店が乗り切れていないだけで、実際アマゾンという黒船が作り出した風は、本業界を活況させているのではないか。
実際どうなのかわからないが、ただアマゾンを敵視するだけではどうにもならないだけの深い現実が存在していることだけは間違いないのである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ジャーナリストである著者が、ある一定期間、アマゾンの配送業務を請け負う配送センターでも潜入アルバイトをすることで、アマゾンの内実を内側から探ろうと試みたノンフィクションである。
アマゾンという会社は、とにかく秘密主義を貫く会社だそうで、実際的な数字や内実というものが一切見えてこないようです。アマゾンの広報はもちろん、取次ぎや出版社配送を請け負う日通などに聞いても一切口を開かないほどの徹底ぶりで、日本でのアマゾンの売上がどのくらいなのかということすらわからないほどだそうです(決算は、アマゾンで一括で発表するので、各国別のデータというのは公表し兄ようです)。でも様々なデータから、日本でのアマゾンの売上は500億くらいと言われ、これは1000億の売上を誇る紀伊国屋書店や丸善に次いで、二番手集団に入っていることを示しています。
僅か数年でそこまでのシェアを獲得するに至ったアマゾンの手法というものを、できるだけ内側から覗いてみようという試みで、このルポは始まりました。
配送センターでは、カースト制の如く序列が決まっていて、入りたてのアルバイトはその最下層で、ピッキングという作業をひたすらやらされます。
アマゾンほどの企業ならば、配送などは全自動で、すべて機械がやっているのだろう、というのは大間違いで、様々な事情があって機械化できないその作業のほとんどを人力でやっているのです。その、お客さんからの注文を棚から見つけ出してピックアップする作業が、ピッキングです。
アマゾンは、システムで保っていると言われるように、とにかくそのシステムはすさまじいものがあります。このピッキングについても、アルバイトに本の知識が一切なくても出来るようになっていて、そのシステムは素晴らしいのひと言です。
簡単に説明すれば、要するに棚に入れる時にもそのデータをコンピュータに取り込む、ということですね。これによって、棚に本を置く人が、どこにどんな順番で本を置こうとも、コンピュータがそれをすべて記憶しているので、あとはそのデータを打ち出すだけで本の場所がわかるという仕組みです。ジャンルや著者別に分類する必要もなく、アルバイトに一切に知識を要求しないこのシステムによって、配送センターが稼働しています。
そこでは、ピッキングという、ただノルマを管理され、やりがいもなく、昇給もないという、本当にただの単純労働に従事する人ばかりで、アルバイトも1年と保たないそうです。アマゾンとしても、アルバイトなど使い捨てだと思っているわけで、本当に殺伐とした雰囲気が伝わってきました。
著者はその現場で、ピッキングという作業を通じて、またアマゾンや日通の社員、あるいは同業のアルバイトたちとの接触を通じて、アマゾンという組織のあり方や配送の仕組み、またそこで働く人々の気持ちやアマゾンを取り巻く疑惑など、様々なことを見つめ考えていきます。
潜入レポと呼べるほど緊迫感や危険があるわけではないのだけど、秘密のベールに包まれたようなアマゾンという会社に肉薄するという手段としての潜入なので、その点は別段問題ないし、内容的にも、アマゾンという集団を少しは深く掘り下げられている感じだったので、よかったと思います。本屋で働いている人間としては、このアマゾンの台頭というのは全く楽観できない状況で、関心も非常に高いので、本作は非常に面白い作品だと思いました。
本作を読んで一番強く思ったのは、やっぱり本は、本好きの人間が売って欲しいな、ということです。アマゾンの配送センターで働く人間は、皆アマゾンで本は買ったことがないと言うし、本もあまり読んでいなさそうです。アマゾンの社員にしたところで、それは同じような状況かもしれません。とても、本好きの集団とは思えません。そんな集団が本をバンバン売ってしまうのだから、本好きはアマゾンというシステムに負けているということなのでしょうね。
甘い考えと言われるかもしれないけど、やはり本が好きな人が本を選び、その本を本が好きな人が買う、というのが理想的だな、と思います。ただなんとなく本を売っているのではなく、本が好きだからという強い気持ちを持って本を売って欲しい。それを強く思いました。実際リアル書店でも、本を読まないスタッフが増えてきているのだろうと思います。そんな状況では、アマゾンと勝負することは出来ないと僕は思いました。
本作を読むと、どんどんと不安になっていきます。リアル書店は本当に生き残れるのだろうか、と。リアル書店の生き残る道は、本当に残されているのか、と。それほどまでに、アマゾンという集団の持つ力のすさまじさは如実に現れているのです。さらなる努力が必要だな、と痛感したし、やはりまずは、どうすればアマゾンにお客さんを奪われないようにすることが出来るのかを考えなくてはいけないな、という風に思いました。
携帯電話は、登場した時は使いづらく持ち運びづらく、本当に必要とする人しか持たなかったけど、今となっては計帯電話は、必要なくてもなくてはならなくなった、そんなツールになりました。アマゾンという集団も、携帯電話のように、本を売るという点でなくてはならない存在になりつつあります。携帯電話の台頭により、固定電話や公衆電話は本当に姿を消しつつあります。リアル書店がそれと同じ道を辿らないように、努力を怠ることはできないな、思いました。
ちょっとアマゾンの配送センターでアルバイトしてみたから本でも書こうか、というようなノリではなく、かなり硬派で真剣な内容です。アマゾンに興味のある人も、あるいはリアル書店に興味がある人も、読んでみたら結構面白いと思います。個人的には、何でそこまで秘密主義を通さなくてはいけないの?という感じが強くしました。読んでみてください。
そうそう、面白いことが書いてありました。アマゾンのランキングは、売れた冊数ではなく、注文回数によって決まるそうです。だから、一人の人が同じ本を一度に100冊注文しても、それは注文回数一回としてしかカウントされないようです。著者の方がランキングを上げるためによくそういうことをするようですが、意味がないそうですね。ご愁傷様です。そんな感じでした。
横田増生「潜入ルポ アマゾン・ドット・コム」
僕は今までで、一度だけある。特別な理由があったわけでもなく、古本屋でなかなか見つからない東野圭吾原作の絵本を、ならアマゾンで買ってみようか、と思っただけのことである。1500円以上で送料が無料になるということなので、同時に、「嫌われ松子の一年」という、「嫌われ松子の一生」という映画の主役だった中谷美紀が書いた、同映画の撮影中に書いたエッセイも一緒に買ってみた。
やはり一番初めは、きちんと届くのか不安なものである。何しろ、本を一度も見ていないし、アマゾンという名前だけで、きちんと届く保証などどこにもないのである。
しかししばらくすると本が届いた。確か、それほど早くなかったような気がするが、それは一緒に頼んだ「嫌われ松子の一生」が、当時結構品薄だったからだろうと思う。何にせよ、アマゾンできちんと本を注文し、それが届くということを確認できたわけである。
しかし、僕はアマゾンをこれから頻繁には利用しないだろうな、という風に思った。
それは何故なら、結局のところ、自分で選びたいからなのだ、と思う。
例えば、ネット書店とリアル書店の違いをこんな風に表現できるかもしれない。
ネット書店の場合はこうだ。あなたは今、一つのものすごく大きな部屋の中にいる。そこは、壁中に無数のドアが備え付けられた部屋で、それぞれのドアは閉ざされている。あなたは、いくつかのドアの鍵を持っている。それぞれの鍵でドアを開ければ、そこにはあなたが欲しいと思っている本がやまほどある。簡単に見つかるし、欲しい本が次から次へと現れる。しかし、鍵を持っていない部屋には決して入ることはできない。
リアル書店の場合はこうだ。あなたは今、一つのそこまで広いとはいえない部屋にいる。こじんまりした、と表現してもいいくらいの大きさの部屋だ。壁中にドアがあるわけでもない。しかしその部屋には、雑多な本がたくさん置いてある。ジャンルも趣味もまるでばらばらだけれども、しかしその部屋にあるものは制限なく見ることが出来る。
なんとなく、言いたいことはわかっていただけるだろうか。
アマゾンの最大の利点は、欲しい本がすぐに見つかり、すぐに手に入る、という点である。この点において、リアル書店は逆立ちしてもアマゾンには勝てないだろう。今後勝てる見込みも、恐らくない。また、個人の嗜好をシステムが把握し、こういう本もお好みではないですか?と勧めてくる。これもまた、アマゾンが持つ魅力の一つである。どんどんいろんな本を勧められて、欲しくなってしまう。
しかし、そのアマゾンの利点は、僕から言わせてもらえば同時にマイナスも含んでいると思う。
先ほど、ドアの鍵、という表現をしたけども、まさにその点である。アマゾンを利用するには、利用者が数多くの鍵を持っていなくてはいけないのである。
例えば、ファンタジー好きの読者がいるとしよう。この「ファンタジー」というキーワードが鍵である。アマゾンはその読者の嗜好を容易に知ることが出来るだろう。そこで、ファンタジーに関わる本をどんどん勧めてくる。
しかし、それが限界なのである。その読者には、ミステリーや時代小説や恋愛小説などに触れる機会というものはまるでなくなってしまう。もちろん、ファンタジーが好きなのだから、それでもいいという考えもあるかもしれない。しかし、本来本を選ぶというのはそういうことではないと思うのだ。何でアレ、出会いというものが大事だと僕は思うのである。
アマゾンの場合、利用する側がいかに多くの鍵を持っているかで、出会いの確率というのが変わってくる。今の自分の嗜好にあった作品を紹介してくれるシステムというのは、いわば、新たな出会いを封じるという意味でもあるのである。
僕がリアル書店に期待している(あるいはリアル書店で働いている身として、目指すべき)ことは、鍵を持たずに演出することの出来る出会いの場である、ということである。ファンタジーにしか興味のない人間でも、リアル書店へ行けばミステリーでも恋愛小説でも時代小説でも触れることが出来る。その中には、知らないだけで、自分が面白いと感じる作品も混じっているかもしれないのである。そういう出会いを演出することこそが、リアル書店の役割であり、またアマゾンと勝負できる唯一の点ではないかと思うのである。
実際、欲しい本が決まっていて、それを注文したいというのであれば、アマゾンで注文する方が断然早い。書店で注文する(これを客注というのだが)と、僕がいる店では10日前後掛かる、というアナウンスをする。実際それよりも早く入ってくることの方が多いのだが、しかし確約ができない。どうしてもそれくらいの余裕を持って伝えるしかないのである。
しかし、アマゾンというのは、3日以内とかで出荷してしまう。驚異的な早さである。このスピードには、現在のリアル書店を取りまく流通はついていくことは出来ない。それがリアル書店の限界である。
しかし、欲しい本が決まっていない場合は、まだリアル書店に分があると僕は思っている。何か面白い本はないかな、と思ってリアル書店に足を運ぶお客さんの行動は、なかなかアマゾンでは実現できない。アマゾンでは、自分の嗜好にあった本や、アマゾンで今売れている本、というのを検索することは出来るけれども、そういうものではない、なんとなく自分の琴線に触れる本を探したい、という欲求を叶えることはまだ出来ていないだろう。もしバーチャルリアリティの技術が進めばそういうことも可能になるかもしれないが、さすがにまだそれを心配することもないだろう。リアル書店も、まだまだ負けていられないと思う。
しかし、リアル書店の体力はどんどん衰えていっていると、僕は思う。正確な数字を知っているわけではないけど、リアル書店を取り巻く現実は、なかなか厳しいはずだ。
それは恐らく、リアル書店の努力が大きく足りないからではないかと思うのだ。通り一遍の本しか並べず、金太郎飴のようにどこにでもある本屋を作るのでは、もうこれからを生き抜いていくことは難しい。いかにして特色を打ち出し、何か面白い本はないかな、と思ってやってくるお客さんをいかに取り込むことが出来るか、ということが、これからのリアル書店の課題になっていくことだろう。僕自身、出来ているかといわれればなかなか難しいところであるが、でも出来る限り努力するしかないのは間違いないことである。
少しだけ話は変わるが、アマゾンはリアル書店の敵だろうか、あるいは味方だろうか。つまりそれは、単純に売上を横取りしていく敵なのか、あるいはライバルと言えるよきパートナーとなりえるのか、ということだ。
この質問に答えることはなかなか難しいのではないかと思う。単純に、アマゾンはリアル書店の敵だ、と言うことが出来ないだけの力を、既にアマゾンが持っているのではないかと思うのだ。それはつまり、アマゾンという存在があるからこそ、本市場というものが底上げされ、結果的にリアル書店への風向きもよくなっている、といえなくもないのではないか、ということだ。ただその風にリアル書店が乗り切れていないだけで、実際アマゾンという黒船が作り出した風は、本業界を活況させているのではないか。
実際どうなのかわからないが、ただアマゾンを敵視するだけではどうにもならないだけの深い現実が存在していることだけは間違いないのである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ジャーナリストである著者が、ある一定期間、アマゾンの配送業務を請け負う配送センターでも潜入アルバイトをすることで、アマゾンの内実を内側から探ろうと試みたノンフィクションである。
アマゾンという会社は、とにかく秘密主義を貫く会社だそうで、実際的な数字や内実というものが一切見えてこないようです。アマゾンの広報はもちろん、取次ぎや出版社配送を請け負う日通などに聞いても一切口を開かないほどの徹底ぶりで、日本でのアマゾンの売上がどのくらいなのかということすらわからないほどだそうです(決算は、アマゾンで一括で発表するので、各国別のデータというのは公表し兄ようです)。でも様々なデータから、日本でのアマゾンの売上は500億くらいと言われ、これは1000億の売上を誇る紀伊国屋書店や丸善に次いで、二番手集団に入っていることを示しています。
僅か数年でそこまでのシェアを獲得するに至ったアマゾンの手法というものを、できるだけ内側から覗いてみようという試みで、このルポは始まりました。
配送センターでは、カースト制の如く序列が決まっていて、入りたてのアルバイトはその最下層で、ピッキングという作業をひたすらやらされます。
アマゾンほどの企業ならば、配送などは全自動で、すべて機械がやっているのだろう、というのは大間違いで、様々な事情があって機械化できないその作業のほとんどを人力でやっているのです。その、お客さんからの注文を棚から見つけ出してピックアップする作業が、ピッキングです。
アマゾンは、システムで保っていると言われるように、とにかくそのシステムはすさまじいものがあります。このピッキングについても、アルバイトに本の知識が一切なくても出来るようになっていて、そのシステムは素晴らしいのひと言です。
簡単に説明すれば、要するに棚に入れる時にもそのデータをコンピュータに取り込む、ということですね。これによって、棚に本を置く人が、どこにどんな順番で本を置こうとも、コンピュータがそれをすべて記憶しているので、あとはそのデータを打ち出すだけで本の場所がわかるという仕組みです。ジャンルや著者別に分類する必要もなく、アルバイトに一切に知識を要求しないこのシステムによって、配送センターが稼働しています。
そこでは、ピッキングという、ただノルマを管理され、やりがいもなく、昇給もないという、本当にただの単純労働に従事する人ばかりで、アルバイトも1年と保たないそうです。アマゾンとしても、アルバイトなど使い捨てだと思っているわけで、本当に殺伐とした雰囲気が伝わってきました。
著者はその現場で、ピッキングという作業を通じて、またアマゾンや日通の社員、あるいは同業のアルバイトたちとの接触を通じて、アマゾンという組織のあり方や配送の仕組み、またそこで働く人々の気持ちやアマゾンを取り巻く疑惑など、様々なことを見つめ考えていきます。
潜入レポと呼べるほど緊迫感や危険があるわけではないのだけど、秘密のベールに包まれたようなアマゾンという会社に肉薄するという手段としての潜入なので、その点は別段問題ないし、内容的にも、アマゾンという集団を少しは深く掘り下げられている感じだったので、よかったと思います。本屋で働いている人間としては、このアマゾンの台頭というのは全く楽観できない状況で、関心も非常に高いので、本作は非常に面白い作品だと思いました。
本作を読んで一番強く思ったのは、やっぱり本は、本好きの人間が売って欲しいな、ということです。アマゾンの配送センターで働く人間は、皆アマゾンで本は買ったことがないと言うし、本もあまり読んでいなさそうです。アマゾンの社員にしたところで、それは同じような状況かもしれません。とても、本好きの集団とは思えません。そんな集団が本をバンバン売ってしまうのだから、本好きはアマゾンというシステムに負けているということなのでしょうね。
甘い考えと言われるかもしれないけど、やはり本が好きな人が本を選び、その本を本が好きな人が買う、というのが理想的だな、と思います。ただなんとなく本を売っているのではなく、本が好きだからという強い気持ちを持って本を売って欲しい。それを強く思いました。実際リアル書店でも、本を読まないスタッフが増えてきているのだろうと思います。そんな状況では、アマゾンと勝負することは出来ないと僕は思いました。
本作を読むと、どんどんと不安になっていきます。リアル書店は本当に生き残れるのだろうか、と。リアル書店の生き残る道は、本当に残されているのか、と。それほどまでに、アマゾンという集団の持つ力のすさまじさは如実に現れているのです。さらなる努力が必要だな、と痛感したし、やはりまずは、どうすればアマゾンにお客さんを奪われないようにすることが出来るのかを考えなくてはいけないな、という風に思いました。
携帯電話は、登場した時は使いづらく持ち運びづらく、本当に必要とする人しか持たなかったけど、今となっては計帯電話は、必要なくてもなくてはならなくなった、そんなツールになりました。アマゾンという集団も、携帯電話のように、本を売るという点でなくてはならない存在になりつつあります。携帯電話の台頭により、固定電話や公衆電話は本当に姿を消しつつあります。リアル書店がそれと同じ道を辿らないように、努力を怠ることはできないな、思いました。
ちょっとアマゾンの配送センターでアルバイトしてみたから本でも書こうか、というようなノリではなく、かなり硬派で真剣な内容です。アマゾンに興味のある人も、あるいはリアル書店に興味がある人も、読んでみたら結構面白いと思います。個人的には、何でそこまで秘密主義を通さなくてはいけないの?という感じが強くしました。読んでみてください。
そうそう、面白いことが書いてありました。アマゾンのランキングは、売れた冊数ではなく、注文回数によって決まるそうです。だから、一人の人が同じ本を一度に100冊注文しても、それは注文回数一回としてしかカウントされないようです。著者の方がランキングを上げるためによくそういうことをするようですが、意味がないそうですね。ご愁傷様です。そんな感じでした。
横田増生「潜入ルポ アマゾン・ドット・コム」
シャドウ(道尾秀介)
人間の精神というものは複雑すぎるのだろう、と思う。それが、人間という種をここまで繁栄させた大きな要因の一つだろうけども、しかし同時にそれは、人間にとっても大きな弱点になってしまった、ということだろう。
例えば、最近の電化製品というのはものすごく性能がいい。大きさもどんどん小さくなっていって、軽量化という観点からも日々進歩が進んでいる。
しかし、電化製品が進化すればするほど、壊れやすくなるし、壊れた時の対処が難しい。これが、まさに人間の精神のようではないだろうか。
一昔の電化製品ならば、分解して中を見れば、小学生でもその仕組みはなんとなくわかったそうだし(ラジオを分解したことがある、という世代はあるのだろう)、直そうと思えばなんとか自力で直せたようだ。恐らく人間という種も、初めはこれぐらいのスペックだったのだろうと思う。複雑な精神を持つことはなく、動物らしい、本能的な行動に支配されていた頃というのは間違いなくあっただろう。どちらがよかったか、という話ではなく。
進化した電化製品が壊れやすく直しにくいように、人間の複雑な精神も、壊れやすく直しにくい。ちょっとしたことで混乱を起こし、それを解消するのは並大抵のことではない。
精神を病んだり、あるいは器質的に脳に障害があったりなどという形で、今ではありとあらゆる病気が見つかっている。有名なのは多重人格(統合失調症というのだっけ)や幻覚などだろう。かなり稀なものとしては、人の顔を識別できなくなるとか、自分が誰かに操られていると感じる病気とか、近しい人が誰かのなりすましであると思い込んだりする病気など、様々なものがある。
これらの病気の発症は、ある意味で人間を守るための一種の機構なのだろうとは思う。例えば人間は、痛みというものを感じることによって、危険から遠ざかろうという本能がある。痛みを感じない、という病気もあるが、そういう病気を持つ人は、危険なことの区別をすることが出来ない。熱いものを触ったり、何かで体をぶつけても痛みを感じないので、それを危険なことだと認識できない。痛みがあるお陰で僕らは危険から守られているといえる。
それと同じく、精神を病むというのは、一種の防衛だろうと思う。そのままでいれば、さらに悪い状態になると判断した意識だか無意識だかが、とりあえず分かりやすい形でそれを表面化して悪化を回避しようという本能が、そういう病気の発症を促すのだろうと思う。まあブレーカーが落ちるようなものだろうか。
いずれにしても、精神を病んでしまうのは恐ろしいことだ。一番恐ろしいのは、自分を客観的に見ておかしいという風に思えなくなることだ。今の僕は、自分を客観的に見ておかしいと思っている。それは、非常に正常なことだと思う。精神を病むことで、これが期待できなくなってしまうということが一番恐ろしい。
そうした病気が、いつ自分に忍び寄ってくるのか、本当にわからない。僕も一時期、精神を病んでいたな、と軽く思うような時期があった。なかなか大変だった。周囲にもかなりの迷惑を掛けた。もうああいうのは嫌だな、と思う。
自らの意思で避けることが出来るものとは思えないけど、なんとか正常な精神のまま生き続けていたいものである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
我茂鳳介は小学生で、今は父洋一郎と二人で暮らしている。母咲枝は、ついこの間死んでしまった。癌だった。人は死んだらどうなるの、と母に聞いてから三年。いなくなって、それだけなの、と答えた母は、死んでしまった。
母の死からしばらくして、小学校の同級生である水城亜紀の母親が死んだ。屋上から飛び降りたようだ。どうやら、自殺らしい。その後、続くようにして亜紀が車にはねられて怪我を負う。
母が死んでから、日常の様々な場面で気に掛かることが増えた。それぞれは、些細な大したことないものなのだけど、積もり積もってなんだか不思議な感じになっている。
一体僕の周りで、何が起こっているのだろう…。
というような感じです。内容紹介が、ちょっと難しい。
この作品は、まあまあという感じでした。多少期待しすぎたからかもしれないですね、思ったほどではなかったです。
この道尾秀介という作家は、今年のこのミスで20位以内に二作がランクインした作家で、作家別得票数では1位を獲得するというめざましい活躍をした作家です。本作も、このミスの3位にランクインした作品で、期待して読んだんですが、自分の期待した方向には進まなかった感じがします。
ミステリとしては、本当にすごい作品だと思います。まず絶対にラストを予測出来る人間はいないと思うし、伏線の張り巡らせ方が本当にうまいと思いました。二重三重にミスリードを促すような伏線の配置と、それぞれがまったく不自然ではない伏線の配置には、驚きました。最近ミステリをあんまり読んでなかったこともあるかもしれないけど、ここまで伏線の処理のうまい作家も珍しいな、と思いました。
ただ、伏線関係で一つ不満があるとすれば、張り巡らせた伏線が一つに収束しない、ということですね。いろんな伏線が様々なところにあるのだけど、それらが、ただ一つの場所へ収束するわけではなく、いくつかの謎(細かいものも含めて)のそれぞれの伏線、という形だったことです。本筋に関係のある伏線はいいのだけど、本筋とはあまり関係のない伏線というのもたくさんあって、ストーリー的にはそれは面白いとは思ったけど、ミステリとしてはどうかな、と思いました。
というわけで、ミステリとしてはかなり評価できるし、この作家の別の作品も読んでみたいな、という風に思ったんですけど、でもストーリー的にちょっと淡々としすぎているな、という感じがありました。たぶん、伏線をいかに配するかということに囚われすぎて、ストーリーの展開というところまで回らなかったのだとは思うのだけど、もう少し起伏のある物語だったらよかったのにな、と思いました。
あと一点どうしても気になったのが、人称の問題です。本作は、章ごとに視点が変わる一人称の小説なのだけど、誰に視点からでも地の分での各登場人物の呼び方が変わらないです。例えば、鳳介が母親のこと「咲枝」と呼んだり、父親のことを「洋一郎」と呼んだりします。高校生とか大学生ぐらいの設定ならまだ分かるけど、鳳介はまだ小学生なわけで、父とか母とか呼ばせればいいんじゃないか、と思いました。なんだか、最後までその人称というか呼称というかそういうところが気になってしまいました。
僕の中では、もう少し何かがうまく変わればすごい作品だっただろうな、というような微妙な残念さがあって、それがこの作品をうまく評価することを妨げているような気がします。
ただ、ラストは本当に見事だと思ったしミステリとして読めば出来はかなり高いと思います。ちょっとこれからも注目したいところです。特に、「向日葵の咲かない夏」がかなり気になります。これは是非読みたいところです。これを読んでみて、道尾秀介という作家の評価が決まるかな、という感じです。
まあ、ミステリが好きという人には悪くないかもです。でも、このミス3位だからと言って、過剰な期待をすると外れるかもしれないです。
道尾秀介「シャドウ」
例えば、最近の電化製品というのはものすごく性能がいい。大きさもどんどん小さくなっていって、軽量化という観点からも日々進歩が進んでいる。
しかし、電化製品が進化すればするほど、壊れやすくなるし、壊れた時の対処が難しい。これが、まさに人間の精神のようではないだろうか。
一昔の電化製品ならば、分解して中を見れば、小学生でもその仕組みはなんとなくわかったそうだし(ラジオを分解したことがある、という世代はあるのだろう)、直そうと思えばなんとか自力で直せたようだ。恐らく人間という種も、初めはこれぐらいのスペックだったのだろうと思う。複雑な精神を持つことはなく、動物らしい、本能的な行動に支配されていた頃というのは間違いなくあっただろう。どちらがよかったか、という話ではなく。
進化した電化製品が壊れやすく直しにくいように、人間の複雑な精神も、壊れやすく直しにくい。ちょっとしたことで混乱を起こし、それを解消するのは並大抵のことではない。
精神を病んだり、あるいは器質的に脳に障害があったりなどという形で、今ではありとあらゆる病気が見つかっている。有名なのは多重人格(統合失調症というのだっけ)や幻覚などだろう。かなり稀なものとしては、人の顔を識別できなくなるとか、自分が誰かに操られていると感じる病気とか、近しい人が誰かのなりすましであると思い込んだりする病気など、様々なものがある。
これらの病気の発症は、ある意味で人間を守るための一種の機構なのだろうとは思う。例えば人間は、痛みというものを感じることによって、危険から遠ざかろうという本能がある。痛みを感じない、という病気もあるが、そういう病気を持つ人は、危険なことの区別をすることが出来ない。熱いものを触ったり、何かで体をぶつけても痛みを感じないので、それを危険なことだと認識できない。痛みがあるお陰で僕らは危険から守られているといえる。
それと同じく、精神を病むというのは、一種の防衛だろうと思う。そのままでいれば、さらに悪い状態になると判断した意識だか無意識だかが、とりあえず分かりやすい形でそれを表面化して悪化を回避しようという本能が、そういう病気の発症を促すのだろうと思う。まあブレーカーが落ちるようなものだろうか。
いずれにしても、精神を病んでしまうのは恐ろしいことだ。一番恐ろしいのは、自分を客観的に見ておかしいという風に思えなくなることだ。今の僕は、自分を客観的に見ておかしいと思っている。それは、非常に正常なことだと思う。精神を病むことで、これが期待できなくなってしまうということが一番恐ろしい。
そうした病気が、いつ自分に忍び寄ってくるのか、本当にわからない。僕も一時期、精神を病んでいたな、と軽く思うような時期があった。なかなか大変だった。周囲にもかなりの迷惑を掛けた。もうああいうのは嫌だな、と思う。
自らの意思で避けることが出来るものとは思えないけど、なんとか正常な精神のまま生き続けていたいものである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
我茂鳳介は小学生で、今は父洋一郎と二人で暮らしている。母咲枝は、ついこの間死んでしまった。癌だった。人は死んだらどうなるの、と母に聞いてから三年。いなくなって、それだけなの、と答えた母は、死んでしまった。
母の死からしばらくして、小学校の同級生である水城亜紀の母親が死んだ。屋上から飛び降りたようだ。どうやら、自殺らしい。その後、続くようにして亜紀が車にはねられて怪我を負う。
母が死んでから、日常の様々な場面で気に掛かることが増えた。それぞれは、些細な大したことないものなのだけど、積もり積もってなんだか不思議な感じになっている。
一体僕の周りで、何が起こっているのだろう…。
というような感じです。内容紹介が、ちょっと難しい。
この作品は、まあまあという感じでした。多少期待しすぎたからかもしれないですね、思ったほどではなかったです。
この道尾秀介という作家は、今年のこのミスで20位以内に二作がランクインした作家で、作家別得票数では1位を獲得するというめざましい活躍をした作家です。本作も、このミスの3位にランクインした作品で、期待して読んだんですが、自分の期待した方向には進まなかった感じがします。
ミステリとしては、本当にすごい作品だと思います。まず絶対にラストを予測出来る人間はいないと思うし、伏線の張り巡らせ方が本当にうまいと思いました。二重三重にミスリードを促すような伏線の配置と、それぞれがまったく不自然ではない伏線の配置には、驚きました。最近ミステリをあんまり読んでなかったこともあるかもしれないけど、ここまで伏線の処理のうまい作家も珍しいな、と思いました。
ただ、伏線関係で一つ不満があるとすれば、張り巡らせた伏線が一つに収束しない、ということですね。いろんな伏線が様々なところにあるのだけど、それらが、ただ一つの場所へ収束するわけではなく、いくつかの謎(細かいものも含めて)のそれぞれの伏線、という形だったことです。本筋に関係のある伏線はいいのだけど、本筋とはあまり関係のない伏線というのもたくさんあって、ストーリー的にはそれは面白いとは思ったけど、ミステリとしてはどうかな、と思いました。
というわけで、ミステリとしてはかなり評価できるし、この作家の別の作品も読んでみたいな、という風に思ったんですけど、でもストーリー的にちょっと淡々としすぎているな、という感じがありました。たぶん、伏線をいかに配するかということに囚われすぎて、ストーリーの展開というところまで回らなかったのだとは思うのだけど、もう少し起伏のある物語だったらよかったのにな、と思いました。
あと一点どうしても気になったのが、人称の問題です。本作は、章ごとに視点が変わる一人称の小説なのだけど、誰に視点からでも地の分での各登場人物の呼び方が変わらないです。例えば、鳳介が母親のこと「咲枝」と呼んだり、父親のことを「洋一郎」と呼んだりします。高校生とか大学生ぐらいの設定ならまだ分かるけど、鳳介はまだ小学生なわけで、父とか母とか呼ばせればいいんじゃないか、と思いました。なんだか、最後までその人称というか呼称というかそういうところが気になってしまいました。
僕の中では、もう少し何かがうまく変わればすごい作品だっただろうな、というような微妙な残念さがあって、それがこの作品をうまく評価することを妨げているような気がします。
ただ、ラストは本当に見事だと思ったしミステリとして読めば出来はかなり高いと思います。ちょっとこれからも注目したいところです。特に、「向日葵の咲かない夏」がかなり気になります。これは是非読みたいところです。これを読んでみて、道尾秀介という作家の評価が決まるかな、という感じです。
まあ、ミステリが好きという人には悪くないかもです。でも、このミス3位だからと言って、過剰な期待をすると外れるかもしれないです。
道尾秀介「シャドウ」
日の名残り(カズオ・イシグロ)
イギリス人といえば、英語の教科書を思い出す。
中学だったか高校だったかは定かではないし、そこでどんな内容が書かれていたのか全部は思い出せないのだが、イギリス人についての英文を読んだ記憶がある。
その中で唯一覚えているのが、見知らぬイギリス人同士が道で会えば、必ず天気の話をする、という話である。他の国の人々は、初対面でももっと踏み込んだ話をするものだけど、イギリス人は慎み深いから初対面でそうはいかない。その日の天気の話をするのがせいぜいだ、というような内容だったと思います。その文章の中で、日本人との比較がされていたかどうか覚えていないですが、日本人と似てるなぁ、と当時の僕は思ったような気がします。
もちろん僕は、イギリスという国について詳しく何かをしっているわけではないけど、恐らくその文章を読んだからでしょうか、イギリス人というのは、慎ましく穏やかで品格のある人々なのだろう、というイメージがあります。
そういえば、また別の機会にイギリス人についての話を読んだ気がします。たぶんだけど、あの「国家の品格」を書いた藤原正彦の著作のどれかだったような気がします。
そこでは、イギリス人が重んじるものが書かれていました。他の国の人は、名誉よりもお金を重視するし、それを得ようと努力する。しかし、イギリス人だけは、お金よりも名誉を重視するのだそうだ。お金はないけど名誉はある、という旧家などが、今でも尊敬を集めるような、そんなお国柄なのだそうです。
そういう断片的な情報しか僕は知らないわけですけど、なるほどイギリス人というのは、誇り高い人種なのだな、という風に思ったりします。
今でもイギリスという国が、そういう誇りや品格のようなものを重視する国なのかはわからないけど、でもそれは素晴らしいことのように思えます。日本という国は、商業主義が隅々にまではびこってしまったがために、勝ち組負け組と呼ばれるような差が生まれ始めました。これはすなわち、お金を持っているかどうか、というだけで人間的な何かが判断される世の中になってしまった、ということです。少なくともそのような国に品格があるということは難しいのではないか、という風に思います。古来日本に伝統的に継承されてきたような品格というものが、現代ではどんどん失われているような感じがして、なんとなく日本人として寂しい感じがしています。
自らを律し、名誉を高めることで人間的な価値を得るというあり方は、ものすごく理想的だと思うし、素晴らしいことではないかと思います。少なくとも性質的に、日本人にはそれが出来るはずだ、と僕は思えるのです。懐古主義だといわれてしまうかもしれませんが、品格のあった日本を少しでも見ることができていたらな、と思わずにはいられません。
恐らくイギリスという国も、いつか伝統や品格を手放さなくてはいけない日がやってきてしまうでしょう。それは、伝統や品格だけではどうにもならないほど、世界が複雑になってしまったからです。守り続けてきたものを手放してまで、世界にしがみつく必要があるのかといわれれば、それは既に個人で答えられる範囲を超えていると思うけども、しかし、伝統や品格があって世界から取り残されているというのは、透明人間が服を着て歩いているような、そんな違和感を抱かせるのではないか、という風に感じます。
世界がどんどんと均一になってしまうのは憂うべきことだと思いますが、世界の流れを個人でどうにかすることが出来るわけでもありません。なるほど、これこそスティーブンスの後悔の一つかもしれない、という風にも思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
わたくしスティーブンスは、かつてダーリントン卿という高貴なお方が住まわれていたダーリントン・ホールで、ずっと執事をしてきた男です。今ではダーリントン・ホールはファラディ様というアメリカ人の手に渡り、ファラディ様が現在のわたくしの主人ということになります。
そのファラディ様がちょっと家を空けるということでございまして、その間私に暇を出されました。屋敷にばかり籠っていないで、たまにはイギリスの素晴らしい景色でも見に行ってくればいい、と。
初めはその申し出を固辞するつもりでありましたが、かつてダーリントン・ホールでメイドをしておりましたミス・ケントンから来た手紙をきっかけに考えが変わりました。旅行のついでに、ミス・ケントンに会うというのはどうだろうか。
というのも、現在のダーリントン・ホールとの状況とも少し関わりがあるのです。現在のダーリントン・ホールは、かつて栄華を極めた頃とは大きく変わり、かなり人手不足でございます。ファラディ様は、まあなんとかその人数でやってみて、というようなことを申されますが、細かな部分にまで配慮を行き届かすというのがなかなか難しくなってまいります。
そこへ、ミス・ケントンからの手紙です。もしミス・ケントンがダーリントン・ホールに戻りたいという意向を持っているのならば、これほどに心強いことはありません。これは一つ、打診してみる価値はあるのではありますまいか。
というわけで、自動車での旅に出た次第でございます。慣れない旅にまごつく場面も多々ありましたが、概ね順調に旅をすることが出来ています。
その過程で、どうしてでしょうか、昔のことを思い出すことが増えてまいりました。栄華を極めた、あのダーリントン卿にお仕えしていた頃のことです。様々なことがありました。もしここでこうしていたら、ということもございました。わたくしの執事人生は、どうだったのでございましょうか?
というような話です。
素晴らしい作品ですね。とにかく、素晴らしいです。
僕は、「ただ~なだけの小説」と表現できる小説が結構好きです。例えば、「ただ歩くだけの小説」である、恩田陸の「夜のピクニック」、「ただ走るだけの小説」である、三浦しをんの「風が強く吹いている」などです。本作は、「ただドライブするだけの小説」で、本当に特に何も起こりません。ミス・ケントンに会いに行くためにドライブをするだけで、目立った出来事が起こるわけでは全然ありません。もちろん、そのドライブの最中に回想するその内容がある意味で物語の本筋ではあるのですが、その回想場面でさえも、何か目立った出来事が展開するわけではないのです。執事としての自分の仕事振りや執事としての品格、ダーリントン卿のお人柄、ミス・ケントンとの関わり。そういったことをただ書き連ねているだけの小説です。
しかし、これが本当に素晴らしい内容になっています。
まず、スティーブンスの語り口調が素敵です。一応内容紹介の文章で、その雰囲気だけを真似てみましたけど、全編そんな感じで、もの凄く丁寧な敬語口調で展開していきます。ものすごく真面目な思考で、例えば新たに主人となったアメリカ人のファラディ様との会話で、ジョークを磨かなくてはいけないと思ったスティーブンスは、実際ラジオを使ってジョークの練習をしているのだ、というようなことを至極真面目な口調で書いていて、ある意味でとぼけた印象を与えるこの優秀な執事の独白という形態がすごく作品とぴったりしているな、という感じがしました。
また、スティーブンスが回想する過去のそれぞれが、本当に細かなところまで描かれていて、ものすごくリアルなのです。僕は歴史に疎いので、本作に描かれている人のどこまでが実際に歴史上存在した人なのかわからないのだけど(そもそもダーリントン卿というのは実在した人なのか?)、しかし本作はかなり史実も交えて描かれているようで、そういう時代をうまく切り取っている辺りも、本作をよく見せている要因だろうと思います。
また、これは解説でも書かれていることですが、時間の扱われ方が複雑なのにも関わらず、全然混乱することなく読めるその筆力が素晴らしいと思いました。本作では、旅行をしている現在があり、そこで過去を回想する。一方で、現在からほんの少し前の過去というのも同時に描いていく、というような話を書いているのだけど、全然混乱せずに読めるあたり、作家としての力量が違うのだな、という風に思いました。
淡々と物語は進んでいくのだけど、どの場面も飽きることなく読ませます。さらに、その淡々さが、最後の最後に結実し収斂していく時、奥底から湧き上がってくるような、何か深いものがこみ上げてきます。それは、感動でもあり悲しみでもあり、そうではない別の何かであったりします。スティーブンスが、自らが歩んできた人生について何を思うのか、というその一点に収斂していく物語が、本当に深いものを引き出しているように思えます。
本当に、何も起こらない、ただの執事の独白なのだけど、本当に面白い作品です。英国で最高に名誉のある文学賞であるブッカー賞を受賞している作品でもあります。淡々とした物語ですが、そこには本当に深い何かが隠されていると思います。これは、是非読んで欲しい作品です。オススメです。是非どうぞ。
カズオ・イシグロ「日の名残り」
中学だったか高校だったかは定かではないし、そこでどんな内容が書かれていたのか全部は思い出せないのだが、イギリス人についての英文を読んだ記憶がある。
その中で唯一覚えているのが、見知らぬイギリス人同士が道で会えば、必ず天気の話をする、という話である。他の国の人々は、初対面でももっと踏み込んだ話をするものだけど、イギリス人は慎み深いから初対面でそうはいかない。その日の天気の話をするのがせいぜいだ、というような内容だったと思います。その文章の中で、日本人との比較がされていたかどうか覚えていないですが、日本人と似てるなぁ、と当時の僕は思ったような気がします。
もちろん僕は、イギリスという国について詳しく何かをしっているわけではないけど、恐らくその文章を読んだからでしょうか、イギリス人というのは、慎ましく穏やかで品格のある人々なのだろう、というイメージがあります。
そういえば、また別の機会にイギリス人についての話を読んだ気がします。たぶんだけど、あの「国家の品格」を書いた藤原正彦の著作のどれかだったような気がします。
そこでは、イギリス人が重んじるものが書かれていました。他の国の人は、名誉よりもお金を重視するし、それを得ようと努力する。しかし、イギリス人だけは、お金よりも名誉を重視するのだそうだ。お金はないけど名誉はある、という旧家などが、今でも尊敬を集めるような、そんなお国柄なのだそうです。
そういう断片的な情報しか僕は知らないわけですけど、なるほどイギリス人というのは、誇り高い人種なのだな、という風に思ったりします。
今でもイギリスという国が、そういう誇りや品格のようなものを重視する国なのかはわからないけど、でもそれは素晴らしいことのように思えます。日本という国は、商業主義が隅々にまではびこってしまったがために、勝ち組負け組と呼ばれるような差が生まれ始めました。これはすなわち、お金を持っているかどうか、というだけで人間的な何かが判断される世の中になってしまった、ということです。少なくともそのような国に品格があるということは難しいのではないか、という風に思います。古来日本に伝統的に継承されてきたような品格というものが、現代ではどんどん失われているような感じがして、なんとなく日本人として寂しい感じがしています。
自らを律し、名誉を高めることで人間的な価値を得るというあり方は、ものすごく理想的だと思うし、素晴らしいことではないかと思います。少なくとも性質的に、日本人にはそれが出来るはずだ、と僕は思えるのです。懐古主義だといわれてしまうかもしれませんが、品格のあった日本を少しでも見ることができていたらな、と思わずにはいられません。
恐らくイギリスという国も、いつか伝統や品格を手放さなくてはいけない日がやってきてしまうでしょう。それは、伝統や品格だけではどうにもならないほど、世界が複雑になってしまったからです。守り続けてきたものを手放してまで、世界にしがみつく必要があるのかといわれれば、それは既に個人で答えられる範囲を超えていると思うけども、しかし、伝統や品格があって世界から取り残されているというのは、透明人間が服を着て歩いているような、そんな違和感を抱かせるのではないか、という風に感じます。
世界がどんどんと均一になってしまうのは憂うべきことだと思いますが、世界の流れを個人でどうにかすることが出来るわけでもありません。なるほど、これこそスティーブンスの後悔の一つかもしれない、という風にも思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
わたくしスティーブンスは、かつてダーリントン卿という高貴なお方が住まわれていたダーリントン・ホールで、ずっと執事をしてきた男です。今ではダーリントン・ホールはファラディ様というアメリカ人の手に渡り、ファラディ様が現在のわたくしの主人ということになります。
そのファラディ様がちょっと家を空けるということでございまして、その間私に暇を出されました。屋敷にばかり籠っていないで、たまにはイギリスの素晴らしい景色でも見に行ってくればいい、と。
初めはその申し出を固辞するつもりでありましたが、かつてダーリントン・ホールでメイドをしておりましたミス・ケントンから来た手紙をきっかけに考えが変わりました。旅行のついでに、ミス・ケントンに会うというのはどうだろうか。
というのも、現在のダーリントン・ホールとの状況とも少し関わりがあるのです。現在のダーリントン・ホールは、かつて栄華を極めた頃とは大きく変わり、かなり人手不足でございます。ファラディ様は、まあなんとかその人数でやってみて、というようなことを申されますが、細かな部分にまで配慮を行き届かすというのがなかなか難しくなってまいります。
そこへ、ミス・ケントンからの手紙です。もしミス・ケントンがダーリントン・ホールに戻りたいという意向を持っているのならば、これほどに心強いことはありません。これは一つ、打診してみる価値はあるのではありますまいか。
というわけで、自動車での旅に出た次第でございます。慣れない旅にまごつく場面も多々ありましたが、概ね順調に旅をすることが出来ています。
その過程で、どうしてでしょうか、昔のことを思い出すことが増えてまいりました。栄華を極めた、あのダーリントン卿にお仕えしていた頃のことです。様々なことがありました。もしここでこうしていたら、ということもございました。わたくしの執事人生は、どうだったのでございましょうか?
というような話です。
素晴らしい作品ですね。とにかく、素晴らしいです。
僕は、「ただ~なだけの小説」と表現できる小説が結構好きです。例えば、「ただ歩くだけの小説」である、恩田陸の「夜のピクニック」、「ただ走るだけの小説」である、三浦しをんの「風が強く吹いている」などです。本作は、「ただドライブするだけの小説」で、本当に特に何も起こりません。ミス・ケントンに会いに行くためにドライブをするだけで、目立った出来事が起こるわけでは全然ありません。もちろん、そのドライブの最中に回想するその内容がある意味で物語の本筋ではあるのですが、その回想場面でさえも、何か目立った出来事が展開するわけではないのです。執事としての自分の仕事振りや執事としての品格、ダーリントン卿のお人柄、ミス・ケントンとの関わり。そういったことをただ書き連ねているだけの小説です。
しかし、これが本当に素晴らしい内容になっています。
まず、スティーブンスの語り口調が素敵です。一応内容紹介の文章で、その雰囲気だけを真似てみましたけど、全編そんな感じで、もの凄く丁寧な敬語口調で展開していきます。ものすごく真面目な思考で、例えば新たに主人となったアメリカ人のファラディ様との会話で、ジョークを磨かなくてはいけないと思ったスティーブンスは、実際ラジオを使ってジョークの練習をしているのだ、というようなことを至極真面目な口調で書いていて、ある意味でとぼけた印象を与えるこの優秀な執事の独白という形態がすごく作品とぴったりしているな、という感じがしました。
また、スティーブンスが回想する過去のそれぞれが、本当に細かなところまで描かれていて、ものすごくリアルなのです。僕は歴史に疎いので、本作に描かれている人のどこまでが実際に歴史上存在した人なのかわからないのだけど(そもそもダーリントン卿というのは実在した人なのか?)、しかし本作はかなり史実も交えて描かれているようで、そういう時代をうまく切り取っている辺りも、本作をよく見せている要因だろうと思います。
また、これは解説でも書かれていることですが、時間の扱われ方が複雑なのにも関わらず、全然混乱することなく読めるその筆力が素晴らしいと思いました。本作では、旅行をしている現在があり、そこで過去を回想する。一方で、現在からほんの少し前の過去というのも同時に描いていく、というような話を書いているのだけど、全然混乱せずに読めるあたり、作家としての力量が違うのだな、という風に思いました。
淡々と物語は進んでいくのだけど、どの場面も飽きることなく読ませます。さらに、その淡々さが、最後の最後に結実し収斂していく時、奥底から湧き上がってくるような、何か深いものがこみ上げてきます。それは、感動でもあり悲しみでもあり、そうではない別の何かであったりします。スティーブンスが、自らが歩んできた人生について何を思うのか、というその一点に収斂していく物語が、本当に深いものを引き出しているように思えます。
本当に、何も起こらない、ただの執事の独白なのだけど、本当に面白い作品です。英国で最高に名誉のある文学賞であるブッカー賞を受賞している作品でもあります。淡々とした物語ですが、そこには本当に深い何かが隠されていると思います。これは、是非読んで欲しい作品です。オススメです。是非どうぞ。
カズオ・イシグロ「日の名残り」
螺鈿迷宮(海堂尊)
自分の死に方というものを想像したことはあるだろうか。
どう死にたいか、という問題は、なかなか生きている間に考えることは少ないかもしれない。特に、若いうちはそうだ。生きていることに精一杯で、死ぬことについてなんか真剣に考えられるものでもないだろう。
僕は、結構よく考える。死というものが、生と対極ではなく、むしろ生と寄り添うものである、という風に考えているからかもしれない。
僕は、出来ることならば一瞬で死にたい、と思うのだ。
死後の尊厳などというものは、もはやどうでもいい。どれだけ死体がグチャグチャであろうとも、どれだけその死を蹂躙されようとも、そんなことはむしろどうでもいい。死体を丁寧に埋葬するような、そんな必要すら僕には感じられない。
だからこそ、何かの大事故で一瞬で死ぬ、みたいな最後が素敵である。あるいは、脳卒中なんかで一瞬で死んでしまうのもいい。これから自分は近いうちに死ぬのだな、と意識してから死ぬまでの時間が短ければ短いほどいい、と思う。死の本当の恐ろしさというのは、死そのものではなく、死にゆく過程で、自らがそれを意識し認めていかなくてはいけない現実にあると思うからである。
しかし、まあ現実的にはそううまくはいかないだろう。病気を患って長く苦しむかもしれない、思いのほか長生きしてしまい、老衰で死ぬ、みたいなこともあるかもしれない。どちらも最悪な最後であるが、しかし死を自らで選ぶことは難しい。
例えば、癌になった時、自分はどうするのか、と考える。
初期のもので、簡単な手術さえ受ければまあ完治するというものであれば、仕方なく手術を受けるだろう。しかし、もう手遅れであったり、あるいは完治するかどうか微妙な状態ということであれば、僕としては寧ろそこから何もしないことを望むだろう。放射線治療などもちろん受けず、出来るだけモルヒネで痛みを緩和して、そのまま死んでいきたいと思う。
それがきっと、生と寄り添った死、という形なのだろうと僕は思う。つまり、生と死を明確に区別するのではなく、混合した状態もきちんと受け入れよう、という意識があるからこそ、そういう発想になるのだろうと思う。
人によっては、放射線治療を受ける、という人もいるだろう。恐らくそういう人は、生の対極として死を認識しているのだと思う。死とは、抗い退けるものであって、そこから脱出して初めて生という世界に戻ることが出来る、と考えているのだろう。どちらがいいという話ではない。
死と闘うのではなく、例えそれがどんなにかりそめのものであっても、死の瞬間まで生者として生きたいなと思うのだ。それこそが尊厳という意味だと僕は思うし、人間らしいとも思う。
なるほどそう考えると、やはり本作で描かれる病院のシステムは面白い。
それは、入院患者にも病院内の雑務を負担してもらうことで、院内の効率化を図ると共に、まさに死に行こうとしている者を最後まで生者として扱うことが出来る、というシステムだ。
病人だからと言って、ベッドに縛り付けておくから余計に悪くなるのだ、という持論のもと、病人にも仕事を分担する。それによって、生き甲斐のようなものを得ることが出来、もう少し生きたいという願いから生が少しずつ延びていく。最後の最後まで生者として生き続けることができる。本作では、様々に問題を孕んだシステムではあったのだが、しかしこのシステムは、僕には魅力的に映るし、多くの病人にとって望まれるものではないか、と思う。
死がどんな形で訪れようとも、病院のベッドの上でただ漫然とそれを待っているだけというのは望ましくない。仕方なく病院のベッドで死ぬとしても、最後まで生者として、病人としてではなく生者として扱われたいと思う。その上で、死を享受できれば、それは恐らく幸せだろうと思う。誰にでも死は訪れるからこそ、死だけはすべて平等であって欲しいと思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
小学校からの同級生であり、時風新報という弱小新聞社の社会部主任補佐でもある葉子が、またいつものように僕に仕事を押し付けようとしている。取材で何か必要があると、いつも僕を呼び出すのだ。まあ僕も、留年ばかりを繰り返しているダメ医学生の身、時間だけは腐るほどあるので文句を言うことでもないのだが。
今回の話は、医療法人碧翠院桜宮病院への潜入取材、である。厚生労働省からの取材以来から端を発した話ではあるが、どうやらかなりワケありの、怪しい話らしい。それを葉子がしなくてはいけないのは、上司が葉子に丸投げしたからだが、それを葉子は僕に今まさに丸投げしようとしているのである。
何故潜入取材なのかといえば、桜宮病院への取材依頼が完璧に断られたからで、ならばと、桜宮病院で募集していたボランティアに潜り込む、というのが今回の話だ。へっ、ボランティアと来たもんだ。僕がやるわけないだろう。葉子からの依頼は、完璧に撥ねつけたのである。
しかし、様々な予想外の現実の前に、僕は桜宮病院への潜入取材を受け入れなくてはいけなくなった。しかも、別のミッションをオプションにつけて。やれやれ、なんてことだ。
入ってみると、桜宮病院というのは、落ちこぼれ医学生から見てもかなり異常な病院だった。寺院と火葬場を併設する病院で、終末医療を掲げ、死んだ後も面倒をみてくれる、ということで評判はいいのだが、黒い噂が渦巻いているらしい。それに、病人を会社のスタッフとして雇用し雑用を任せたり、あるいは人が死にすぎていたりと、不審な点ばかりである。
また僕も、姫宮という超どんくさい看護婦のあらゆるミスのために、桜宮病院に長期入院することになり、その深みへとどんどんと入り込んでいくことになるのだけど…。
今回の作品も面白いと僕は思いました。今までの作品の順位を決めれば、
バチスタ>螺鈿>ナイチンゲール
という感じですね。
まず、桜宮病院の設定がすごく面白いと思いました。先ほども書いたけど、患者に雑用をやらせるというシステムは、やり方の問題はあるのだろうけどすごく面白いシステムだと思うし、終末医療にも積極的に取り組み(多少表現に語弊があることは否めないけど)、終末医療という問題にも深く考えさせられる感じでした。性格的にはホスピスのような病院なのだけど、しかしそこで入院している人間は皆端から見れば元気で、とてもこれから死を迎えようとしている人間とは思えないくらいです。そういう人であれば、むしろ何か仕事をさせるくらいの方が生き甲斐を見出せるというのは当然で、なるほど本当に面白い発想だ、という風に思いました。
また、病院での死亡時の解剖実績が5%にも満たないこの時代に、解剖率100%を誇り、死んでから即解剖、そして隣の火葬場で即焼却、そして隣の寺で即葬儀、という流れ作業のようなシステムも、まあこれも問題を孕んでいるのだけど、しかしただそれだけを見る分には面白いと思ったし、現実に採用してもいいようなアイデアだな、と思いました。
ストーリー的には、派手な事件は特に起こらなくて、これは「バチスタ」の時と同じですね。本作では、桜宮病院がちょっと怪しいから調べてきて、という始まりで、でそこからも、ちょっとずつ怪しいなぁ、みたいな断片が見え隠れするだけで、派手に死体が見つかったり、ものすごい展開がある、ということもありません。
それでも、読ませますね。特に何も起こらないくせに面白い。キャラクターがそれぞれに良いのもあるけど、やっぱり著者の文章のテンポがいいんだろうな、と思います。多彩な比喩表現と、リズム感のいい言葉の繰り出しのお陰で、軽やかに文章を読み進められるな、という印象があります。これはもちろん、デビュー作の時からそうだったわけで、すごい作家だなとあらためて思います。
本作にも、あのモンスター白鳥が出てくるし、またこれまでのシリーズの中で、白鳥の唯一の部下であるという形で名前だけ出てきた姫宮も登場ということで、一層面白いという感じです、また、「ナイチンゲール」の時は、視点があちこち入れ替わってちょっと読みにくさを感じたりもしたけど、でも本作ではほぼ「僕」の一人称で、そういう意味でも読みやすい作品だと思います。
出来れば、少なくとも「バチスタ」を読んでから読んで欲しい作品ではあるけど、本作単体でも充分に楽しめます(白鳥のキャラクターは、やはり「バチスタ」の時が最高潮に全開なので、その白鳥を先に知って欲しいというのはあるけども)。相変わらず面白い作品なので、是非読んでみてください。
海堂尊「螺鈿迷宮」
どう死にたいか、という問題は、なかなか生きている間に考えることは少ないかもしれない。特に、若いうちはそうだ。生きていることに精一杯で、死ぬことについてなんか真剣に考えられるものでもないだろう。
僕は、結構よく考える。死というものが、生と対極ではなく、むしろ生と寄り添うものである、という風に考えているからかもしれない。
僕は、出来ることならば一瞬で死にたい、と思うのだ。
死後の尊厳などというものは、もはやどうでもいい。どれだけ死体がグチャグチャであろうとも、どれだけその死を蹂躙されようとも、そんなことはむしろどうでもいい。死体を丁寧に埋葬するような、そんな必要すら僕には感じられない。
だからこそ、何かの大事故で一瞬で死ぬ、みたいな最後が素敵である。あるいは、脳卒中なんかで一瞬で死んでしまうのもいい。これから自分は近いうちに死ぬのだな、と意識してから死ぬまでの時間が短ければ短いほどいい、と思う。死の本当の恐ろしさというのは、死そのものではなく、死にゆく過程で、自らがそれを意識し認めていかなくてはいけない現実にあると思うからである。
しかし、まあ現実的にはそううまくはいかないだろう。病気を患って長く苦しむかもしれない、思いのほか長生きしてしまい、老衰で死ぬ、みたいなこともあるかもしれない。どちらも最悪な最後であるが、しかし死を自らで選ぶことは難しい。
例えば、癌になった時、自分はどうするのか、と考える。
初期のもので、簡単な手術さえ受ければまあ完治するというものであれば、仕方なく手術を受けるだろう。しかし、もう手遅れであったり、あるいは完治するかどうか微妙な状態ということであれば、僕としては寧ろそこから何もしないことを望むだろう。放射線治療などもちろん受けず、出来るだけモルヒネで痛みを緩和して、そのまま死んでいきたいと思う。
それがきっと、生と寄り添った死、という形なのだろうと僕は思う。つまり、生と死を明確に区別するのではなく、混合した状態もきちんと受け入れよう、という意識があるからこそ、そういう発想になるのだろうと思う。
人によっては、放射線治療を受ける、という人もいるだろう。恐らくそういう人は、生の対極として死を認識しているのだと思う。死とは、抗い退けるものであって、そこから脱出して初めて生という世界に戻ることが出来る、と考えているのだろう。どちらがいいという話ではない。
死と闘うのではなく、例えそれがどんなにかりそめのものであっても、死の瞬間まで生者として生きたいなと思うのだ。それこそが尊厳という意味だと僕は思うし、人間らしいとも思う。
なるほどそう考えると、やはり本作で描かれる病院のシステムは面白い。
それは、入院患者にも病院内の雑務を負担してもらうことで、院内の効率化を図ると共に、まさに死に行こうとしている者を最後まで生者として扱うことが出来る、というシステムだ。
病人だからと言って、ベッドに縛り付けておくから余計に悪くなるのだ、という持論のもと、病人にも仕事を分担する。それによって、生き甲斐のようなものを得ることが出来、もう少し生きたいという願いから生が少しずつ延びていく。最後の最後まで生者として生き続けることができる。本作では、様々に問題を孕んだシステムではあったのだが、しかしこのシステムは、僕には魅力的に映るし、多くの病人にとって望まれるものではないか、と思う。
死がどんな形で訪れようとも、病院のベッドの上でただ漫然とそれを待っているだけというのは望ましくない。仕方なく病院のベッドで死ぬとしても、最後まで生者として、病人としてではなく生者として扱われたいと思う。その上で、死を享受できれば、それは恐らく幸せだろうと思う。誰にでも死は訪れるからこそ、死だけはすべて平等であって欲しいと思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
小学校からの同級生であり、時風新報という弱小新聞社の社会部主任補佐でもある葉子が、またいつものように僕に仕事を押し付けようとしている。取材で何か必要があると、いつも僕を呼び出すのだ。まあ僕も、留年ばかりを繰り返しているダメ医学生の身、時間だけは腐るほどあるので文句を言うことでもないのだが。
今回の話は、医療法人碧翠院桜宮病院への潜入取材、である。厚生労働省からの取材以来から端を発した話ではあるが、どうやらかなりワケありの、怪しい話らしい。それを葉子がしなくてはいけないのは、上司が葉子に丸投げしたからだが、それを葉子は僕に今まさに丸投げしようとしているのである。
何故潜入取材なのかといえば、桜宮病院への取材依頼が完璧に断られたからで、ならばと、桜宮病院で募集していたボランティアに潜り込む、というのが今回の話だ。へっ、ボランティアと来たもんだ。僕がやるわけないだろう。葉子からの依頼は、完璧に撥ねつけたのである。
しかし、様々な予想外の現実の前に、僕は桜宮病院への潜入取材を受け入れなくてはいけなくなった。しかも、別のミッションをオプションにつけて。やれやれ、なんてことだ。
入ってみると、桜宮病院というのは、落ちこぼれ医学生から見てもかなり異常な病院だった。寺院と火葬場を併設する病院で、終末医療を掲げ、死んだ後も面倒をみてくれる、ということで評判はいいのだが、黒い噂が渦巻いているらしい。それに、病人を会社のスタッフとして雇用し雑用を任せたり、あるいは人が死にすぎていたりと、不審な点ばかりである。
また僕も、姫宮という超どんくさい看護婦のあらゆるミスのために、桜宮病院に長期入院することになり、その深みへとどんどんと入り込んでいくことになるのだけど…。
今回の作品も面白いと僕は思いました。今までの作品の順位を決めれば、
バチスタ>螺鈿>ナイチンゲール
という感じですね。
まず、桜宮病院の設定がすごく面白いと思いました。先ほども書いたけど、患者に雑用をやらせるというシステムは、やり方の問題はあるのだろうけどすごく面白いシステムだと思うし、終末医療にも積極的に取り組み(多少表現に語弊があることは否めないけど)、終末医療という問題にも深く考えさせられる感じでした。性格的にはホスピスのような病院なのだけど、しかしそこで入院している人間は皆端から見れば元気で、とてもこれから死を迎えようとしている人間とは思えないくらいです。そういう人であれば、むしろ何か仕事をさせるくらいの方が生き甲斐を見出せるというのは当然で、なるほど本当に面白い発想だ、という風に思いました。
また、病院での死亡時の解剖実績が5%にも満たないこの時代に、解剖率100%を誇り、死んでから即解剖、そして隣の火葬場で即焼却、そして隣の寺で即葬儀、という流れ作業のようなシステムも、まあこれも問題を孕んでいるのだけど、しかしただそれだけを見る分には面白いと思ったし、現実に採用してもいいようなアイデアだな、と思いました。
ストーリー的には、派手な事件は特に起こらなくて、これは「バチスタ」の時と同じですね。本作では、桜宮病院がちょっと怪しいから調べてきて、という始まりで、でそこからも、ちょっとずつ怪しいなぁ、みたいな断片が見え隠れするだけで、派手に死体が見つかったり、ものすごい展開がある、ということもありません。
それでも、読ませますね。特に何も起こらないくせに面白い。キャラクターがそれぞれに良いのもあるけど、やっぱり著者の文章のテンポがいいんだろうな、と思います。多彩な比喩表現と、リズム感のいい言葉の繰り出しのお陰で、軽やかに文章を読み進められるな、という印象があります。これはもちろん、デビュー作の時からそうだったわけで、すごい作家だなとあらためて思います。
本作にも、あのモンスター白鳥が出てくるし、またこれまでのシリーズの中で、白鳥の唯一の部下であるという形で名前だけ出てきた姫宮も登場ということで、一層面白いという感じです、また、「ナイチンゲール」の時は、視点があちこち入れ替わってちょっと読みにくさを感じたりもしたけど、でも本作ではほぼ「僕」の一人称で、そういう意味でも読みやすい作品だと思います。
出来れば、少なくとも「バチスタ」を読んでから読んで欲しい作品ではあるけど、本作単体でも充分に楽しめます(白鳥のキャラクターは、やはり「バチスタ」の時が最高潮に全開なので、その白鳥を先に知って欲しいというのはあるけども)。相変わらず面白い作品なので、是非読んでみてください。
海堂尊「螺鈿迷宮」
ファウストvol.4(太田克史編集長)
合宿というのは、響きがいいなぁ、と思う。
今ではもう、合宿のような何らかの目的を持って集まって何晩も共に過ごすみたいなことは全然しなくなってしまったけど、しかし学生時代は、合宿という名前でこそなかったものの、合宿らしいことを何度も経験した。それは、大変だったけど、すごく楽しいものだったし、今でも楽しい記憶である。
そのほとんどは大学時代でのことだけども、今思い出しても無茶苦茶なことをよくやっていたものだ、という風に思う。
例えば、朝起きてから寝るまでひたすら英語しか使ってはいけない、という合宿があった。勘違いしてはいけないが、だからと言って僕は英語は全然出来ないのだが、そんなことをやったりしていた。明らかに不自然だし、明らかに大変だったし、うまく説明できない部分での大変さもそこかしこにあったのだけど、それでもまあ振り返ってみれば、それはなかなか楽しいものだったと思う。
また、これは非常に説明しづらいが、ある理論を煮詰めるためだけの合宿、というのもあった。その理論というのは、数学だの物理だの経済だのと言った学問とはまるで関係ないもので、言ってしまえば砂上の楼閣のようなものなのだけど、その掴めそうで掴めない、しかしそもそも掴んだところでどうなるわけでもない理論を深めるというためだけに集まっていたこともあった。それも、振り返ってみればなんと馬鹿馬鹿しいことをしていたのだろうと思うのだが、やっぱり何だかんだと面白かったと思う。
また、演劇をやっている時なんかは、作っている小道具の製作が思うようにいかず、何晩も夜を徹して作業したりしたものである。あんな経験も、もう出来ないのだろうな、と思う。
合宿というのは、決して効率のいいものではないと思う。合宿をするよりは、個々人が勝手に分担して進めた方が能率がいいものは多々あるし、合宿をやることによる能率面でのメリットというのは大してないだろう、と思う。
しかしそれでも、僕は合宿というのはいいなぁ、と思うのだ。それは、今まで曖昧だった輪郭線をくっきり浮かび上がらせるような効果をもたらし、人々の間に横たわっていた微妙な距離感を少しだけ埋め、また非日常という環境の中でしか発想することの出来ない奇抜さを生み出すことが出来るだろう。また、合宿をした、という経験それ自体が、何らかの活力になったりいい思い出になったりするだろう。大きな視点からみれば明らかに無駄と言って切り捨てることの出来るのだろうけど、しかしさらに大きな視点から見れば、それは他のどんな状況でも代替不可能な反応を生み出すのではないか、と思うのだ。
企業の中にも、合宿というものを取り入れているところがある。
僕が知っている限りの知識でしかないのだが、以前「iCon」という、アップル社のスティーブ・ジョブズについてのノンフィクションを読んだ時に、アップル社も時々合宿をしている、というようなことが書いてあったような気がする。また、日本の「はてな」という会社があるのだが、そこでは、合宿というのが比較的日常的に業務に取り入れられている、という話をどこかで読んだ記憶がある。
効率や能率を求められる企業であっても、その合宿というものが持つ力というものを認めているのだな、と思う。
今の僕がいる環境では、合宿というのはまず実現しないと思う。でも、どこかで「書店員合宿」みたいな企画があれば、ちょっと参加してみたいかもしれない、と思ったりする。きっと、参加したところで何がどうなるというわけでもないのだろうが、しかし、合宿に参加したということそのものが、何か新しいものを生み出してくれそうな気がするのである。あったらいいなぁ、「書店員合宿」。あったりするかなぁ。
合宿でしか生み出せないものがある。合宿でしか味わえないものがある。小説にも、確かにそれがあると、本作を読んで僕は知った。
そろそろ内容に入ろうと思います。
新しい号を古本屋で見つける度に読んでいる「ファウスト」のvol.4です。ざっと収録されている作品について書きましょう。
405「スタート」:マンガ
数ページのカラーイラスト。部屋着が体操服にブルマなのが気になる。
toi8「Beltway」:マンガ
この人のマンガはいつもよくわからないので読まない。
やまさきもへじ「井筒」:マンガ
なんともいえない。
MAGAKI ZANZO「EVIL GALE」:マンガ
なんともいえない。
西島大介「満漢全席」:マンガ
なんか戦ってる。
企画「文芸合宿」
沖縄の地で、乙一・北山猛邦・佐藤友哉・滝本竜彦・西尾維新という五人の作家が、三泊四日で約100時間という時間の中で小説を完成させるという企画である。
彼らに与えられたミッションは二つ。
一つ目は、「上京」というお題に対して、原稿用紙30枚程度の作品を書くこと。ちなみに、それぞれの作品のイラストは、すべて舞城王太郎氏である。
もう一つは、五人がリレー形式で小説を書くこと。一人当たり原稿用紙10枚程度、計50枚の作品を完成させる。各順番は、著者名あいうえお順である。
乙一「子供は遠くへ行った」
ある事情から東京に二ヶ月ほど上京していた娘が、母親に宛てて手紙を書く、という趣向で物語が進んでいく。
彼女には彼氏がいましたが、本格的に音楽活動をやりたいということで東京に行ってしまいました。それでも付き合いを続けていたのだけど、次第に彼に別の女性の影が見え隠れするようになりました。
そこでそれを確かめたくて、自分も東京に行くことにしました。家族にはやりたいことがあるとだけ告げ、彼氏にも内緒で、一人で東京にやってきました…。
講評で、唯一東氏が大絶賛した、乙一の作品です。面白いです。
北山猛邦「こころの最後の距離」
ココロは、どうしても東京に行きたいと思っていた。メモリという名の執事と共に、あらゆる手段で東京を目指すのだが、必ずその途中で何らかの事故に巻き込まれ、いつも死んでしまう。それなのに翌日、必ず自分はベッドの上で目を覚まし、その事故のことはなかったことになっているのである…。
実験的で面白いと思ったけど、それだけかな。
佐藤友哉「地獄の島の少女」
姉である亜哉子は、生まれつき手足が短いという障害を持っていた。しかし、そのために彼女は女王であり続けた。学校でも家でも、誰もが彼女をあがめ、誰もが彼女の奴隷であろうとした。弟である僕も。
亜哉子と僕と、そして亜哉子の奴隷である僕の友人二人の計4人は、無人島に辿り着いた。元の世界になんとか戻って、姉にきちんとした義足をつけたいと望む僕を尻目に、彼女は島で女王として君臨する生活をすっかり好きになってしまったようで…。
東氏には、「上京」とは関係ないと言われていたけど、これはこれで作品としては好きです。
滝本竜彦「新世紀レッド手ぬぐいマフラー」
弱みを握られたが故に、少女マンガ的妄想で一杯の志奈子のその妄想に青春時代を付き合わされることになった俺。しかし、そんあ生活も今日で終わりだ。なんと言っても、今日で高校を卒業。俺は、志奈子の設定通り受けた東京の大学になんと受かったので、もう志奈子と会うこともないのだ。素晴らしい!
しかし、東京で最低の生活をしている俺の元へ、なんと約束通り志奈子はやってきたのである。しかも、尽くす女とダメ男という新たな設定の中で、二人はどんどんダメになっていき…。
これも、「上京」とはあんまり関係さそうなんだけど、結構面白かったです。
西尾維新「携帯リスナー」
大学進学を機に上京することになり、そこで初めてその事実に気がついた。
そうか、これまで聞いていたラジオを、もう聞けなくなってしまうのか。そう考えると、自分の生活が酷くどうしようもないものに思えてきた。
しかしそんな生活を、一本の電話が変えてくれたのだ。夜突然掛かって来た電話に出てみると、そこからはなんとラジオ番組が流れてくる。悪戯だと初めは思ったが、どうもそうでもなさそうだ。どこで調べても放送局すらわからないそのラジオが、唯一の頼りになった…。
さすが西尾維新です。これだけの作品をなんと1日で書いてしまうわけで。さすがです。
競作「誰にも続かない」
高専から大学に編入した僕は、文学部が発行している「それいけ文芸部!」というふざけた名前の冊子を手に取った。そのほとんどがどうでもいい作品だったが、アキヒロという名の人物が書いた作品が僕の興味を惹いた。
これを書いた人間は、間違いなく中島美紀子のファンだ。題材や文章など、ありとあらゆる部分がそっくりで。恐ろしいくらいであった。
それから僕は、文芸部に入部した。文芸部には、お互いをペンネームで呼び合う習慣があり、僕も「ヨウイチ先輩」と呼ばれて戸惑うのだが、これまた本名ではないらしい「ユキコ」という部員とよく話すようになった。しかしそれでも、アキヒロという人物については謎のままだった。その間にもアキヒロは、現在中島美紀子が連載している小説の先読みをするような作品を載せ、僕の興味はますます募っていく…。
乙一が先頭でその設定を考えたのだけど、その設定が素晴らしくいいですね。自由度も高いし、何よりも面白い。この「誰にも続かない」という作品はすごく面白いのだけど、本当に乙一の功績が大きいな、と思いました。この文芸合宿を通じて、やはり乙一というのはすごい作家なのだ、と改めて思いました。
北山猛邦「廃線上のアリア」:小説
物理トリックの北山と呼ばれている作家の作品。
雨が降り続く、廃線ばかりの小さな町に転校してきた少女。同級生の男子と知り合うが、お互いにそっけない。
その町では、イルカの集団死を初め、煙突ジャックや十字架に貫かれて死んだ男など、様々な奇妙な事件が起きていた。それらについて調べていた私は、ついに犯人を追い詰めるが…。
そこそこです。トリックは、ちょっと無理があるかと。
浦賀和宏「ポケットに君とアメリカをつめて」:小説
このシリーズは、前に読んだファウストで読んで挫折したので、今回は読んでません。
舞城王太郎「夜中に井戸がやってくる」:小説
僕の家の背戸と呼ばれるところには井戸があって、姉ちゃんはよくその井戸にまつわる怖い話を僕にしてくる。井戸が真夜中にやってきて中に入れと言ってくる話はすごく怖くて、その日以来僕は夜眠れなくなり、姉ちゃんと一緒に寝ることにした。
姉ちゃんはいつの間にか完璧に引きこもりになって、ほとんど僕としか喋らないようになったんだけど、そんな生活も普通になっちゃって、でも僕はどうにかしたいとずっと思ってて、でもどうにもならなくて、いつしか一緒にお風呂に入るのどうよ?って年齢にお互いがなってしまって…。
なかなか面白い作品でした。勝手に、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」の井戸を思い出しました。
巽昌章「あの人の手が最後につかむもの」:講評
北山・浦賀・舞城という三人の作品を講評している。あんまりちゃんとは読んでない。
P涼院流P×ヤバ井勝士「ヤバ井でSHOW」:企画もの
写真を見てあれこれヤバイと言いまくる企画。
渡辺浩弐「Hな人」:ショートショート
これは結構いつも面白い。引きこもり的な題材でショートショートを2・3編載せている。
滝本竜彦「ECCO」:小説
この世はECCOに支配されている、という持論を語り、そのまま僕の前から姿を消してしまったソフィアのことが忘れられない。変な女と関わって、水着を盗んだという濡れ衣を背景に、好きでもない女に告白を迫られたりしている僕は、一体なんなんだ…。
一応シリーズもので、前に読んだ、ソフィアが出てくる方が話としては面白かった気がします。
西尾維新「新本格魔法少女りすか」:小説
単行本になってから読むつもりなので読んでません。
東浩紀「メタリアル・フィクションの誕生」:?
読んでません。
西島大介「遊星からの物体SEX」:マンガ
いつものように、あらゆるSEXについて考えるマンガです。
佐藤友哉「佐藤友哉の人生・相談」:人生相談?
佐藤友哉のいつものコーナーです。まあ雑談みたいなものですね。
清涼院流水「成功学キャラ教授」:小説
読んでません。
太田克史×矢野優「EDITOR×EDITOR」:対談
雑誌「新潮」の新編集長になった矢野優と太田氏の対談です。割と面白かったです。巻末に、東浩紀氏が矢野優氏について文章を寄せています。
上遠野浩平「Beyond Gruding Moment」:音楽の話
読んでません。
枕木憂士「もの思う葦」:映画の話
ちゃんとは読んでません。
森川嘉一郎「国際芸術祭とおたく」:?
読んでません。
更科修一郎「実録!ファウスト人生劇場」:?
読んでません。
はやみねかおる(絵・箸井地図)「夢水清志郎事件ノート」:マンガ
なかなか面白いと思いました。
今回のファウストは、とにかく「文芸合宿」の企画が読めたというだけで、他のファウストとは群を抜いて素晴らしい号でした。とにかくあの「文芸合宿」という企画は、これからもやって欲しいし、是非ファウスト以外でもやってほしいな、と思いました。まあ、現実にはいろいろ難しいだろうけど。
特に、競作小説を読めたのが一番よかったですね。あれは、最終的に単行本になるのかどうか、その辺りもよくわからいけど、どんな形であれ、そのライブ感とともに競作小説を味わうことが出来るのは、このファウストだけでしょう。そういう意味で、すごくいいなと思いました。これは結構買いだと思いますよ。かなりオススメです。是非この「文芸合宿」を体験してみてください。
太田克史編集長「ファウストvol.4」
今ではもう、合宿のような何らかの目的を持って集まって何晩も共に過ごすみたいなことは全然しなくなってしまったけど、しかし学生時代は、合宿という名前でこそなかったものの、合宿らしいことを何度も経験した。それは、大変だったけど、すごく楽しいものだったし、今でも楽しい記憶である。
そのほとんどは大学時代でのことだけども、今思い出しても無茶苦茶なことをよくやっていたものだ、という風に思う。
例えば、朝起きてから寝るまでひたすら英語しか使ってはいけない、という合宿があった。勘違いしてはいけないが、だからと言って僕は英語は全然出来ないのだが、そんなことをやったりしていた。明らかに不自然だし、明らかに大変だったし、うまく説明できない部分での大変さもそこかしこにあったのだけど、それでもまあ振り返ってみれば、それはなかなか楽しいものだったと思う。
また、これは非常に説明しづらいが、ある理論を煮詰めるためだけの合宿、というのもあった。その理論というのは、数学だの物理だの経済だのと言った学問とはまるで関係ないもので、言ってしまえば砂上の楼閣のようなものなのだけど、その掴めそうで掴めない、しかしそもそも掴んだところでどうなるわけでもない理論を深めるというためだけに集まっていたこともあった。それも、振り返ってみればなんと馬鹿馬鹿しいことをしていたのだろうと思うのだが、やっぱり何だかんだと面白かったと思う。
また、演劇をやっている時なんかは、作っている小道具の製作が思うようにいかず、何晩も夜を徹して作業したりしたものである。あんな経験も、もう出来ないのだろうな、と思う。
合宿というのは、決して効率のいいものではないと思う。合宿をするよりは、個々人が勝手に分担して進めた方が能率がいいものは多々あるし、合宿をやることによる能率面でのメリットというのは大してないだろう、と思う。
しかしそれでも、僕は合宿というのはいいなぁ、と思うのだ。それは、今まで曖昧だった輪郭線をくっきり浮かび上がらせるような効果をもたらし、人々の間に横たわっていた微妙な距離感を少しだけ埋め、また非日常という環境の中でしか発想することの出来ない奇抜さを生み出すことが出来るだろう。また、合宿をした、という経験それ自体が、何らかの活力になったりいい思い出になったりするだろう。大きな視点からみれば明らかに無駄と言って切り捨てることの出来るのだろうけど、しかしさらに大きな視点から見れば、それは他のどんな状況でも代替不可能な反応を生み出すのではないか、と思うのだ。
企業の中にも、合宿というものを取り入れているところがある。
僕が知っている限りの知識でしかないのだが、以前「iCon」という、アップル社のスティーブ・ジョブズについてのノンフィクションを読んだ時に、アップル社も時々合宿をしている、というようなことが書いてあったような気がする。また、日本の「はてな」という会社があるのだが、そこでは、合宿というのが比較的日常的に業務に取り入れられている、という話をどこかで読んだ記憶がある。
効率や能率を求められる企業であっても、その合宿というものが持つ力というものを認めているのだな、と思う。
今の僕がいる環境では、合宿というのはまず実現しないと思う。でも、どこかで「書店員合宿」みたいな企画があれば、ちょっと参加してみたいかもしれない、と思ったりする。きっと、参加したところで何がどうなるというわけでもないのだろうが、しかし、合宿に参加したということそのものが、何か新しいものを生み出してくれそうな気がするのである。あったらいいなぁ、「書店員合宿」。あったりするかなぁ。
合宿でしか生み出せないものがある。合宿でしか味わえないものがある。小説にも、確かにそれがあると、本作を読んで僕は知った。
そろそろ内容に入ろうと思います。
新しい号を古本屋で見つける度に読んでいる「ファウスト」のvol.4です。ざっと収録されている作品について書きましょう。
405「スタート」:マンガ
数ページのカラーイラスト。部屋着が体操服にブルマなのが気になる。
toi8「Beltway」:マンガ
この人のマンガはいつもよくわからないので読まない。
やまさきもへじ「井筒」:マンガ
なんともいえない。
MAGAKI ZANZO「EVIL GALE」:マンガ
なんともいえない。
西島大介「満漢全席」:マンガ
なんか戦ってる。
企画「文芸合宿」
沖縄の地で、乙一・北山猛邦・佐藤友哉・滝本竜彦・西尾維新という五人の作家が、三泊四日で約100時間という時間の中で小説を完成させるという企画である。
彼らに与えられたミッションは二つ。
一つ目は、「上京」というお題に対して、原稿用紙30枚程度の作品を書くこと。ちなみに、それぞれの作品のイラストは、すべて舞城王太郎氏である。
もう一つは、五人がリレー形式で小説を書くこと。一人当たり原稿用紙10枚程度、計50枚の作品を完成させる。各順番は、著者名あいうえお順である。
乙一「子供は遠くへ行った」
ある事情から東京に二ヶ月ほど上京していた娘が、母親に宛てて手紙を書く、という趣向で物語が進んでいく。
彼女には彼氏がいましたが、本格的に音楽活動をやりたいということで東京に行ってしまいました。それでも付き合いを続けていたのだけど、次第に彼に別の女性の影が見え隠れするようになりました。
そこでそれを確かめたくて、自分も東京に行くことにしました。家族にはやりたいことがあるとだけ告げ、彼氏にも内緒で、一人で東京にやってきました…。
講評で、唯一東氏が大絶賛した、乙一の作品です。面白いです。
北山猛邦「こころの最後の距離」
ココロは、どうしても東京に行きたいと思っていた。メモリという名の執事と共に、あらゆる手段で東京を目指すのだが、必ずその途中で何らかの事故に巻き込まれ、いつも死んでしまう。それなのに翌日、必ず自分はベッドの上で目を覚まし、その事故のことはなかったことになっているのである…。
実験的で面白いと思ったけど、それだけかな。
佐藤友哉「地獄の島の少女」
姉である亜哉子は、生まれつき手足が短いという障害を持っていた。しかし、そのために彼女は女王であり続けた。学校でも家でも、誰もが彼女をあがめ、誰もが彼女の奴隷であろうとした。弟である僕も。
亜哉子と僕と、そして亜哉子の奴隷である僕の友人二人の計4人は、無人島に辿り着いた。元の世界になんとか戻って、姉にきちんとした義足をつけたいと望む僕を尻目に、彼女は島で女王として君臨する生活をすっかり好きになってしまったようで…。
東氏には、「上京」とは関係ないと言われていたけど、これはこれで作品としては好きです。
滝本竜彦「新世紀レッド手ぬぐいマフラー」
弱みを握られたが故に、少女マンガ的妄想で一杯の志奈子のその妄想に青春時代を付き合わされることになった俺。しかし、そんあ生活も今日で終わりだ。なんと言っても、今日で高校を卒業。俺は、志奈子の設定通り受けた東京の大学になんと受かったので、もう志奈子と会うこともないのだ。素晴らしい!
しかし、東京で最低の生活をしている俺の元へ、なんと約束通り志奈子はやってきたのである。しかも、尽くす女とダメ男という新たな設定の中で、二人はどんどんダメになっていき…。
これも、「上京」とはあんまり関係さそうなんだけど、結構面白かったです。
西尾維新「携帯リスナー」
大学進学を機に上京することになり、そこで初めてその事実に気がついた。
そうか、これまで聞いていたラジオを、もう聞けなくなってしまうのか。そう考えると、自分の生活が酷くどうしようもないものに思えてきた。
しかしそんな生活を、一本の電話が変えてくれたのだ。夜突然掛かって来た電話に出てみると、そこからはなんとラジオ番組が流れてくる。悪戯だと初めは思ったが、どうもそうでもなさそうだ。どこで調べても放送局すらわからないそのラジオが、唯一の頼りになった…。
さすが西尾維新です。これだけの作品をなんと1日で書いてしまうわけで。さすがです。
競作「誰にも続かない」
高専から大学に編入した僕は、文学部が発行している「それいけ文芸部!」というふざけた名前の冊子を手に取った。そのほとんどがどうでもいい作品だったが、アキヒロという名の人物が書いた作品が僕の興味を惹いた。
これを書いた人間は、間違いなく中島美紀子のファンだ。題材や文章など、ありとあらゆる部分がそっくりで。恐ろしいくらいであった。
それから僕は、文芸部に入部した。文芸部には、お互いをペンネームで呼び合う習慣があり、僕も「ヨウイチ先輩」と呼ばれて戸惑うのだが、これまた本名ではないらしい「ユキコ」という部員とよく話すようになった。しかしそれでも、アキヒロという人物については謎のままだった。その間にもアキヒロは、現在中島美紀子が連載している小説の先読みをするような作品を載せ、僕の興味はますます募っていく…。
乙一が先頭でその設定を考えたのだけど、その設定が素晴らしくいいですね。自由度も高いし、何よりも面白い。この「誰にも続かない」という作品はすごく面白いのだけど、本当に乙一の功績が大きいな、と思いました。この文芸合宿を通じて、やはり乙一というのはすごい作家なのだ、と改めて思いました。
北山猛邦「廃線上のアリア」:小説
物理トリックの北山と呼ばれている作家の作品。
雨が降り続く、廃線ばかりの小さな町に転校してきた少女。同級生の男子と知り合うが、お互いにそっけない。
その町では、イルカの集団死を初め、煙突ジャックや十字架に貫かれて死んだ男など、様々な奇妙な事件が起きていた。それらについて調べていた私は、ついに犯人を追い詰めるが…。
そこそこです。トリックは、ちょっと無理があるかと。
浦賀和宏「ポケットに君とアメリカをつめて」:小説
このシリーズは、前に読んだファウストで読んで挫折したので、今回は読んでません。
舞城王太郎「夜中に井戸がやってくる」:小説
僕の家の背戸と呼ばれるところには井戸があって、姉ちゃんはよくその井戸にまつわる怖い話を僕にしてくる。井戸が真夜中にやってきて中に入れと言ってくる話はすごく怖くて、その日以来僕は夜眠れなくなり、姉ちゃんと一緒に寝ることにした。
姉ちゃんはいつの間にか完璧に引きこもりになって、ほとんど僕としか喋らないようになったんだけど、そんな生活も普通になっちゃって、でも僕はどうにかしたいとずっと思ってて、でもどうにもならなくて、いつしか一緒にお風呂に入るのどうよ?って年齢にお互いがなってしまって…。
なかなか面白い作品でした。勝手に、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」の井戸を思い出しました。
巽昌章「あの人の手が最後につかむもの」:講評
北山・浦賀・舞城という三人の作品を講評している。あんまりちゃんとは読んでない。
P涼院流P×ヤバ井勝士「ヤバ井でSHOW」:企画もの
写真を見てあれこれヤバイと言いまくる企画。
渡辺浩弐「Hな人」:ショートショート
これは結構いつも面白い。引きこもり的な題材でショートショートを2・3編載せている。
滝本竜彦「ECCO」:小説
この世はECCOに支配されている、という持論を語り、そのまま僕の前から姿を消してしまったソフィアのことが忘れられない。変な女と関わって、水着を盗んだという濡れ衣を背景に、好きでもない女に告白を迫られたりしている僕は、一体なんなんだ…。
一応シリーズもので、前に読んだ、ソフィアが出てくる方が話としては面白かった気がします。
西尾維新「新本格魔法少女りすか」:小説
単行本になってから読むつもりなので読んでません。
東浩紀「メタリアル・フィクションの誕生」:?
読んでません。
西島大介「遊星からの物体SEX」:マンガ
いつものように、あらゆるSEXについて考えるマンガです。
佐藤友哉「佐藤友哉の人生・相談」:人生相談?
佐藤友哉のいつものコーナーです。まあ雑談みたいなものですね。
清涼院流水「成功学キャラ教授」:小説
読んでません。
太田克史×矢野優「EDITOR×EDITOR」:対談
雑誌「新潮」の新編集長になった矢野優と太田氏の対談です。割と面白かったです。巻末に、東浩紀氏が矢野優氏について文章を寄せています。
上遠野浩平「Beyond Gruding Moment」:音楽の話
読んでません。
枕木憂士「もの思う葦」:映画の話
ちゃんとは読んでません。
森川嘉一郎「国際芸術祭とおたく」:?
読んでません。
更科修一郎「実録!ファウスト人生劇場」:?
読んでません。
はやみねかおる(絵・箸井地図)「夢水清志郎事件ノート」:マンガ
なかなか面白いと思いました。
今回のファウストは、とにかく「文芸合宿」の企画が読めたというだけで、他のファウストとは群を抜いて素晴らしい号でした。とにかくあの「文芸合宿」という企画は、これからもやって欲しいし、是非ファウスト以外でもやってほしいな、と思いました。まあ、現実にはいろいろ難しいだろうけど。
特に、競作小説を読めたのが一番よかったですね。あれは、最終的に単行本になるのかどうか、その辺りもよくわからいけど、どんな形であれ、そのライブ感とともに競作小説を味わうことが出来るのは、このファウストだけでしょう。そういう意味で、すごくいいなと思いました。これは結構買いだと思いますよ。かなりオススメです。是非この「文芸合宿」を体験してみてください。
太田克史編集長「ファウストvol.4」
独白するユニバーサル横メルカトル(平山夢明)
狂ってしまえたら楽なんだろうな、と思うことはある。
狂気の世界に取り込まれてしまえばいいなぁ、と思うことはある。
そこはもう、すべてが無であり、世界が完全に閉じている、素晴らしい世界ではないかと思うのだ。外からの影響を全く受けないまま、狂ってしまった自分のその世界だけであらゆるすべてが完結するというのは、いいかもしれない。
もちろん、周囲の人間は大変だろう。狂った人間に、常識も論理も通じない。制御することも抑えることもできない。ただ祈るしかないだろう。僕なら、まあそれは嫌だなと思う。
狂った世界というのは、なんでもアリで、なんでも揃っていて、それでいて不要なものはすべて排除出来るわけで、ある意味でユートピアではないだろうか、と思うのだ。
進んで狂った人間になりたいとは思わないけど、しかし狂ってしまうのが仕方ないのならば、それはそれで幸せに思えるかもしれないと思う。
なんというか、本作に関して書くことがないので、このミスの話でもしようと思う。
「このミステリーがすごい」という本がある。名前の通り、1年間に出たミステリーの中から面白かったものを、書評家などへのアンケートから選出し、順位付けをするような、そんな本である。毎年年末辺りに発売され、ミステリー好きとしては、今年はどんなランキングになっているのか、楽しみにしている人も多いのではないかと思う。
1位に選ばれた作品というのは、商業的にも大分成功が約束されていて、ある意味でそこらの賞を受賞するよりも、このミスで1位になる方が本は売れる、と言われているくらいである。
さて、僕もミステリーが基本的に好きだし、このミスも毎年楽しみに待っている人間だけれども、しかしそのランキングが必ずしも適切かどうかということは、なかなか難しいものがあるのである。
例えば、一昨年のこのミスで1位になった、法月綸太郎の「生首に聞いてみろ」は、僕は全然面白いと思えない作品だったのである。他にも、2001年の1位である、泡坂妻夫の「奇術探偵 曾我佳城全集」、1995年の1位である、山口雅也の「ミステリーズ」、1993年の1位である、船戸与一の「砂のクロニクル」、1992年の1位である、志水辰夫の「行きずりの街」などは、その面白さが僕には全然わからなかったものである。
もちろん、人によって好みは違うわけで、僕の意見だけでどうこう言うことは出来ないのだけど、しかし、こういう特に面白いとも思えないような作品が1位になってしまうと、なんだか少しだけ損をしたような気分になってしまうのである。
もちろん、1位の作品は大抵面白いし、1位以下の作品でも充分面白いものはたくさんあるわけで、このミスの存在自体は有意義であると思うのだけど、しかしまあそういう風に思うこともある。
さてそして今年である。今年はなんと、本作「独白するユニバーサル横メルカトル」が1位なのである。
さて、賢明な読者諸賢であれば、僕がここで何を言いたいのかは充分に察することは出来るだろう。つまり、本作もつまらなかったということである。どこをどうすれば本作をここまで評価することが出来るのか僕にはわからないので、困ったなぁ、とまあそんな風に思っているわけです。
まあそんなわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、8編の短編を収録した短編集になっています。それぞれの内容を、本当にざっと紹介しようかと。
「C10H14N2と少年ー乞食と老婆」
学校でいじめられている少年が、湖のほとりに住む乞食と出会う話。なんだかよくわからないうちに終わった。
「Ωの聖餐」
死体を食べることで処理する、Ωと呼ばれている人間と、その世話係りになった人間の話。これは、悪くなかったと思う。
「無垢の祈り」
学校でいじめられ、家でも虐待されている少女が、巷で噂になっている連続殺人事件の犯人と接触を図ろうとする話。いつのまにか終わった。
「オペラントの肖像」
規律で人間を完全に条件付け(オペラント)するようになった世界で、悪とされる旧芸術を取り締まる人間の話。というか、わからないではないけど、設定がいまいちよくわからなかった。
「卵男」
現場に卵の殻を残すことからそう呼ばれるようになった、卵男という殺人鬼と、彼を捕まえた刑事、そして彼と隣室になった死刑囚の話。多少悪くないと思った。
「すまじき熱帯」
ある男を殺して大金を得るためにはるばるある国の奥地まで乗り込んだ男二人の物語。なんのことやらさっぱりわからない。
「独白するユニバーサル横メルカトル」
ユニバーサル横メルカトル図法で描かれた地図が一人称の物語。その地図の元のご主人の使命と、その使命を継いだかに思えるその息子を巡る物語。内容は悪くなかったと思うけど、タイトルが面白いと思う。
「怪物のような顔の女と溶けた時計のような頭の男」
男が女を拷問する話。この話は、最初から最後までよくわからなかった。
まあそんな短編集でした。
とにかくはっきり言って、何でこれがこのミス1位なの?という作品でした。表題作に至っては、日本推理作家協会賞まで受賞しているのだけど、どの辺りが評価されたのかイマイチよくわかりませんでした。
これを読んでよかったと言う人は、一体どの辺りがよかったのだろう。それを聞いてみたいものである。
あと引っかかったのは、句点の位置がかなり不自然に感じられたことです。そこに句点打たないの?とか、そこの句点はいらなくないか?というような箇所ばかりで、違和感満載でした。そういう点を取って見ても、評価すべき点がよくわかりません。
というわけで、まったくオススメしません。人によってはいいかもしれないけど、一般には受けないと思います。どうしても興味があるという人だけ読んでくれればいいと思います。
平山夢明「独白するユニバーサル横メルカトル」
狂気の世界に取り込まれてしまえばいいなぁ、と思うことはある。
そこはもう、すべてが無であり、世界が完全に閉じている、素晴らしい世界ではないかと思うのだ。外からの影響を全く受けないまま、狂ってしまった自分のその世界だけであらゆるすべてが完結するというのは、いいかもしれない。
もちろん、周囲の人間は大変だろう。狂った人間に、常識も論理も通じない。制御することも抑えることもできない。ただ祈るしかないだろう。僕なら、まあそれは嫌だなと思う。
狂った世界というのは、なんでもアリで、なんでも揃っていて、それでいて不要なものはすべて排除出来るわけで、ある意味でユートピアではないだろうか、と思うのだ。
進んで狂った人間になりたいとは思わないけど、しかし狂ってしまうのが仕方ないのならば、それはそれで幸せに思えるかもしれないと思う。
なんというか、本作に関して書くことがないので、このミスの話でもしようと思う。
「このミステリーがすごい」という本がある。名前の通り、1年間に出たミステリーの中から面白かったものを、書評家などへのアンケートから選出し、順位付けをするような、そんな本である。毎年年末辺りに発売され、ミステリー好きとしては、今年はどんなランキングになっているのか、楽しみにしている人も多いのではないかと思う。
1位に選ばれた作品というのは、商業的にも大分成功が約束されていて、ある意味でそこらの賞を受賞するよりも、このミスで1位になる方が本は売れる、と言われているくらいである。
さて、僕もミステリーが基本的に好きだし、このミスも毎年楽しみに待っている人間だけれども、しかしそのランキングが必ずしも適切かどうかということは、なかなか難しいものがあるのである。
例えば、一昨年のこのミスで1位になった、法月綸太郎の「生首に聞いてみろ」は、僕は全然面白いと思えない作品だったのである。他にも、2001年の1位である、泡坂妻夫の「奇術探偵 曾我佳城全集」、1995年の1位である、山口雅也の「ミステリーズ」、1993年の1位である、船戸与一の「砂のクロニクル」、1992年の1位である、志水辰夫の「行きずりの街」などは、その面白さが僕には全然わからなかったものである。
もちろん、人によって好みは違うわけで、僕の意見だけでどうこう言うことは出来ないのだけど、しかし、こういう特に面白いとも思えないような作品が1位になってしまうと、なんだか少しだけ損をしたような気分になってしまうのである。
もちろん、1位の作品は大抵面白いし、1位以下の作品でも充分面白いものはたくさんあるわけで、このミスの存在自体は有意義であると思うのだけど、しかしまあそういう風に思うこともある。
さてそして今年である。今年はなんと、本作「独白するユニバーサル横メルカトル」が1位なのである。
さて、賢明な読者諸賢であれば、僕がここで何を言いたいのかは充分に察することは出来るだろう。つまり、本作もつまらなかったということである。どこをどうすれば本作をここまで評価することが出来るのか僕にはわからないので、困ったなぁ、とまあそんな風に思っているわけです。
まあそんなわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、8編の短編を収録した短編集になっています。それぞれの内容を、本当にざっと紹介しようかと。
「C10H14N2と少年ー乞食と老婆」
学校でいじめられている少年が、湖のほとりに住む乞食と出会う話。なんだかよくわからないうちに終わった。
「Ωの聖餐」
死体を食べることで処理する、Ωと呼ばれている人間と、その世話係りになった人間の話。これは、悪くなかったと思う。
「無垢の祈り」
学校でいじめられ、家でも虐待されている少女が、巷で噂になっている連続殺人事件の犯人と接触を図ろうとする話。いつのまにか終わった。
「オペラントの肖像」
規律で人間を完全に条件付け(オペラント)するようになった世界で、悪とされる旧芸術を取り締まる人間の話。というか、わからないではないけど、設定がいまいちよくわからなかった。
「卵男」
現場に卵の殻を残すことからそう呼ばれるようになった、卵男という殺人鬼と、彼を捕まえた刑事、そして彼と隣室になった死刑囚の話。多少悪くないと思った。
「すまじき熱帯」
ある男を殺して大金を得るためにはるばるある国の奥地まで乗り込んだ男二人の物語。なんのことやらさっぱりわからない。
「独白するユニバーサル横メルカトル」
ユニバーサル横メルカトル図法で描かれた地図が一人称の物語。その地図の元のご主人の使命と、その使命を継いだかに思えるその息子を巡る物語。内容は悪くなかったと思うけど、タイトルが面白いと思う。
「怪物のような顔の女と溶けた時計のような頭の男」
男が女を拷問する話。この話は、最初から最後までよくわからなかった。
まあそんな短編集でした。
とにかくはっきり言って、何でこれがこのミス1位なの?という作品でした。表題作に至っては、日本推理作家協会賞まで受賞しているのだけど、どの辺りが評価されたのかイマイチよくわかりませんでした。
これを読んでよかったと言う人は、一体どの辺りがよかったのだろう。それを聞いてみたいものである。
あと引っかかったのは、句点の位置がかなり不自然に感じられたことです。そこに句点打たないの?とか、そこの句点はいらなくないか?というような箇所ばかりで、違和感満載でした。そういう点を取って見ても、評価すべき点がよくわかりません。
というわけで、まったくオススメしません。人によってはいいかもしれないけど、一般には受けないと思います。どうしても興味があるという人だけ読んでくれればいいと思います。
平山夢明「独白するユニバーサル横メルカトル」
ηなのに夢のよう(森博嗣)
最近僕が住む家の近くで殺人事件があったようだ。
近くとは言っても、電車で3・4駅ほど離れているところだし、具体的にどの辺なのかもよくわからないのだが、しかしまあ近いことは近い。少なくとも、自分の動く範囲内にはある、と思う。
その殺人事件について詳しくは知らない。それを聞いたのは、バイト先のある女性からである。その女性が住んでいるほんのすぐ側で起きた事件らしい。
さてその話をバイト先の休憩室でしていたのであるが、その際の、その女性と周囲の人間の反応というのが皆同じであった。
「怖い」
それはつまり、自分の近くで起きた事件だから怖い、ということのようだ。普段ニュースで見慣れている殺人事件でも、自分のいる範囲内でそれが起きると、それはまた違う風に感じるものらしい。
どうだろう。共感できるだろうか?
僕には、それは不自然ではないか、と思えてしまうのだ。近くで起きた事件だから怖い、という発想は、どこか違うだろう、という気になってしまう。
恐らく多くの人々は、殺人事件というものを自分の世界の外側にあるものだ、と思いたいのであろう。だからこそ、自分の身近でそれが起こると、自分の世界の外側にあったものなのにすごく近くに来てしまった、だから怖い、ということになると思う。
しかし、そもそも殺人事件なんてありふれたもので、言ってしまえば宝くじよりもよく当たるだろう。僕は少なくともそう思っている。だからこそ、近くで起きたから怖いという発想に、多少違和感を感じる。
こういうことは、世の中にも結構多くある。
例えば、ある学校の生徒が登下校中に何か事件に巻き込まれたりする。するとその学校は、突然集団下校を始めたり、親が送り迎えしたりと言ったことをするようになるのである。
気持ちはわからないでもないが、それは意味のある対策だとは僕には思えない。その事件をきっかけに、全国的に集団投稿を実施する、というのならば理解できるのだけど、その事件のあった周囲だけやってもどうしようもないだろう、と思う。
動機がわからない事件への反応も同じである。例えばある殺人事件があって、その犯人が捕まるのだけど、しかしその動機が意味不明で理解できないとする。すると人々は、そういう犯人に対して一層の恐怖を抱くことになる。私には理解できない理由で殺人を犯した、というレッテルを貼って怖がるのである。明確な理由で殺人を犯したのでなければ、こっちは防ぎようがないではないか、という理屈である。
しかしこれも、違うと思うのだ。これは、本作からの完全な受け売りだが、結局その動機を納得できるか出来ないかというのは、それを防ぐことは可能かどうか、という基準によるのである。だから例えば、怨恨による殺人であれば、なるほど恨みをかわないようにすれば大丈夫だ、と思えるのだが、人を殺してみたくなったんで、ということなら、防げないではないか、と納得できないのである。犯人が、本当にどう思ってそれをしたかを問題にしているのではない。聞く側が、それを防ぐことが可能かどうかで納得の基準を勝手に決めているだけなのである。
世間というのはいつの間にか意見を作り上げるものだけど、昨今の世間が生み出す意見というのは、ちょっとズレているな、という風に思えてしまうのである。そんな細かいところどうでもええがなと思ったり、その問題はそこが焦点ではないんだけどとか、そっちの問題よりこっちの問題の方が遥かに重要ではないかとか、そんな風にズレを感じさせる意見がたくさんあると思う。ここ最近で一番それを感じたのは、紅白歌合戦のDJOZMA問題だけど。あんなの、問題にする方がおかしいと僕は思うのだけど、どうだろうか。
自分の意見を持たないというのは日本人らしい特徴だけど、しかしそれでも世間は意見を持つ。意見を持たない日本人だからこそ、世間の意見に追従してしまう。僕自身にも言えることだけど、もう少し頭を使って考えて生きていかなくてはいけないだろう、と思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
一番初めに発見された死体は、松の木の枝で首を吊った状態だった。奇妙だったのは、首を吊っていた場所が、地上12メートルの高さであった、ということ。自殺にしても他殺にしても、どうやってそんな高さまで登ったのか、そしてどうしてそんなことをしたのか、という謎が残る。
そしてさらなる謎は、「ηなのに夢のよう」と書かれた絵馬。
以降、「ηなのに夢のよう」と書かれた何かと共に首吊り死体が発見されるようになった。加部谷と山吹と海月は、これがあの一連の何かだということに気付き、この事件について議論を交わす。真賀田四季の関与も噂される、ギリシャ文字の関わるこの一連の何かは、一体誰がどんな意図でやっているのか、さっぱりわからない。警察にも、真賀田四季を捜査しているところはあるのだが、果果しい成果はない。
という事件がメインになる話かと思ったら、本作はちょっと違った。
萌絵の親友である反町愛の彼氏である金子勇二が突然、萌絵の両親を奪った飛行機事故について言及する。その話題をなるべく避けて生きてきた萌絵としては驚くべき事実であった。今でこそ、ようやく整理することが出来るというものだが、しかし久しぶりにそういった方面のことを考える。
もし、両親を殺害した犯人がここにいたら、私はその人を撃つことが出来るのか。
もしそれが、あの天才だったとしたら…。
というような話です。
本作は、まさにGシリーズのターニングポイントと呼ぶべき作品になっていて、Gシリーズ中最も面白かったです。
初めはいつものように、ギリシャ文字に関わる事件が起きて、でそれについていつものメンバーが議論をする、という形で進んでいくのだけど、本作ではいつの間にかその事件が置き去りにされて、どんどんS$Mシリーズのような展開になっていきます。萌絵と犀川が頻繁に出てくるし、あの人やあの人やあの人まで出てきたりして、もうなんというかすごいです。思わせぶりに出てきたあの人は一体何の関係があるのだろう、とか、あの人はもしかしたら今までシリーズの中で出てきた誰かの別名なのか、とか、あぁ久しぶりにあの人出てきたな、とか、もうそういう森博嗣のS$Mシリーズから読み続けている人にはウキウキするような作品でした。
しかしまあ、本作の終わらせ方というか謎解きの部分には賛否両論あるでしょうね。どうだろうか。Gシリーズでは、謎解きの要素が大分少ないとは言え、本作ではほぼゼロというすごいことになっていて、「えっ?」とか「はっ?」とか思う読者は出てくるのではないか、と思います。
しかし、まさかこの段階で、萌絵の両親の命を奪った飛行機事故の話題が出てくるとは思いませんでした。なんというか、いろんなものが収束していきそうな気配がすごくしてきました。
というわけで本作は、S&Mから読み続けている人にはすごく面白いと思います。逆にGシリーズで初めて森博嗣を読むという人には、ちょっと面白くないかもしれないですね。本編であるはずの話が途中でうっちゃられていくので。しかしでも、ここからどうなっていくのか、ますます楽しみになっていきました。最後、すごく悲しい結末があるのだけど(これも、まあそうか時間を考えればそろそろそうかもしれないな、と思うのだけど、悲しい話です)、しかし萌絵に関する驚くべき展開も待っていたりして、予断を許さないようなそんな感じです。ますます楽しみです。是非読んでみてください。
というわけで、本作の気になった言葉を抜き出して見ます。
(前略)
「難しい手続きウこそが、生きていくこと、行き続けることの象徴だからだろう」
(後略)
(前略)「静けさをときどき愛してあげたいかなって」
(後略)
(前略)
「僕は復讐するだろう。西之園先生の命は、僕にとっては、それだけの価値が充分にあった」犀川は言った。
「でも、銃で撃てば、またもう一人死ぬんですよ」
「ああ」犀川は頷く。
「それが、真賀田四季だったら?」西之園は尋ねた。自分は最初からその条件で考えていたのだ。
「撃たない」犀川は答える。
(後略)
「(前略)どういった種類のものが動機として認められるのか。それは、加害者にもなんらかの正当性がある、という観測あるいは評価だ。たとえば、復讐で殺す、というのは、加害者が過去に負った不利益が原因で、辛い目に遭ったのだから、殺そうと考えても仕方がない。つまり、ある程度は同情することができる。そういった種類のものだ」
(後略)
(前略)
人を殴れば逮捕され牢屋に入れられるのに、大勢に武器を持たせて無断で他国へ侵攻しても誰一人罰せられない社会。大勢が、その手法を正しいとさえ感じている。この方法でしか解決ができない。悪魔を取り除くためには、生きた人間を生け贄に捧げなくてはならない。そうすることで、知らず知らずに人間は悪魔になっていく。
(後略)
(前略)悲しいというのは、解決がない、という意味なのだ。
(後略)
「(前略)一回生きて、一回死んだのです。同じじゃありませんか?」
(後略)
森博嗣「ηなのに夢のよう」
近くとは言っても、電車で3・4駅ほど離れているところだし、具体的にどの辺なのかもよくわからないのだが、しかしまあ近いことは近い。少なくとも、自分の動く範囲内にはある、と思う。
その殺人事件について詳しくは知らない。それを聞いたのは、バイト先のある女性からである。その女性が住んでいるほんのすぐ側で起きた事件らしい。
さてその話をバイト先の休憩室でしていたのであるが、その際の、その女性と周囲の人間の反応というのが皆同じであった。
「怖い」
それはつまり、自分の近くで起きた事件だから怖い、ということのようだ。普段ニュースで見慣れている殺人事件でも、自分のいる範囲内でそれが起きると、それはまた違う風に感じるものらしい。
どうだろう。共感できるだろうか?
僕には、それは不自然ではないか、と思えてしまうのだ。近くで起きた事件だから怖い、という発想は、どこか違うだろう、という気になってしまう。
恐らく多くの人々は、殺人事件というものを自分の世界の外側にあるものだ、と思いたいのであろう。だからこそ、自分の身近でそれが起こると、自分の世界の外側にあったものなのにすごく近くに来てしまった、だから怖い、ということになると思う。
しかし、そもそも殺人事件なんてありふれたもので、言ってしまえば宝くじよりもよく当たるだろう。僕は少なくともそう思っている。だからこそ、近くで起きたから怖いという発想に、多少違和感を感じる。
こういうことは、世の中にも結構多くある。
例えば、ある学校の生徒が登下校中に何か事件に巻き込まれたりする。するとその学校は、突然集団下校を始めたり、親が送り迎えしたりと言ったことをするようになるのである。
気持ちはわからないでもないが、それは意味のある対策だとは僕には思えない。その事件をきっかけに、全国的に集団投稿を実施する、というのならば理解できるのだけど、その事件のあった周囲だけやってもどうしようもないだろう、と思う。
動機がわからない事件への反応も同じである。例えばある殺人事件があって、その犯人が捕まるのだけど、しかしその動機が意味不明で理解できないとする。すると人々は、そういう犯人に対して一層の恐怖を抱くことになる。私には理解できない理由で殺人を犯した、というレッテルを貼って怖がるのである。明確な理由で殺人を犯したのでなければ、こっちは防ぎようがないではないか、という理屈である。
しかしこれも、違うと思うのだ。これは、本作からの完全な受け売りだが、結局その動機を納得できるか出来ないかというのは、それを防ぐことは可能かどうか、という基準によるのである。だから例えば、怨恨による殺人であれば、なるほど恨みをかわないようにすれば大丈夫だ、と思えるのだが、人を殺してみたくなったんで、ということなら、防げないではないか、と納得できないのである。犯人が、本当にどう思ってそれをしたかを問題にしているのではない。聞く側が、それを防ぐことが可能かどうかで納得の基準を勝手に決めているだけなのである。
世間というのはいつの間にか意見を作り上げるものだけど、昨今の世間が生み出す意見というのは、ちょっとズレているな、という風に思えてしまうのである。そんな細かいところどうでもええがなと思ったり、その問題はそこが焦点ではないんだけどとか、そっちの問題よりこっちの問題の方が遥かに重要ではないかとか、そんな風にズレを感じさせる意見がたくさんあると思う。ここ最近で一番それを感じたのは、紅白歌合戦のDJOZMA問題だけど。あんなの、問題にする方がおかしいと僕は思うのだけど、どうだろうか。
自分の意見を持たないというのは日本人らしい特徴だけど、しかしそれでも世間は意見を持つ。意見を持たない日本人だからこそ、世間の意見に追従してしまう。僕自身にも言えることだけど、もう少し頭を使って考えて生きていかなくてはいけないだろう、と思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
一番初めに発見された死体は、松の木の枝で首を吊った状態だった。奇妙だったのは、首を吊っていた場所が、地上12メートルの高さであった、ということ。自殺にしても他殺にしても、どうやってそんな高さまで登ったのか、そしてどうしてそんなことをしたのか、という謎が残る。
そしてさらなる謎は、「ηなのに夢のよう」と書かれた絵馬。
以降、「ηなのに夢のよう」と書かれた何かと共に首吊り死体が発見されるようになった。加部谷と山吹と海月は、これがあの一連の何かだということに気付き、この事件について議論を交わす。真賀田四季の関与も噂される、ギリシャ文字の関わるこの一連の何かは、一体誰がどんな意図でやっているのか、さっぱりわからない。警察にも、真賀田四季を捜査しているところはあるのだが、果果しい成果はない。
という事件がメインになる話かと思ったら、本作はちょっと違った。
萌絵の親友である反町愛の彼氏である金子勇二が突然、萌絵の両親を奪った飛行機事故について言及する。その話題をなるべく避けて生きてきた萌絵としては驚くべき事実であった。今でこそ、ようやく整理することが出来るというものだが、しかし久しぶりにそういった方面のことを考える。
もし、両親を殺害した犯人がここにいたら、私はその人を撃つことが出来るのか。
もしそれが、あの天才だったとしたら…。
というような話です。
本作は、まさにGシリーズのターニングポイントと呼ぶべき作品になっていて、Gシリーズ中最も面白かったです。
初めはいつものように、ギリシャ文字に関わる事件が起きて、でそれについていつものメンバーが議論をする、という形で進んでいくのだけど、本作ではいつの間にかその事件が置き去りにされて、どんどんS$Mシリーズのような展開になっていきます。萌絵と犀川が頻繁に出てくるし、あの人やあの人やあの人まで出てきたりして、もうなんというかすごいです。思わせぶりに出てきたあの人は一体何の関係があるのだろう、とか、あの人はもしかしたら今までシリーズの中で出てきた誰かの別名なのか、とか、あぁ久しぶりにあの人出てきたな、とか、もうそういう森博嗣のS$Mシリーズから読み続けている人にはウキウキするような作品でした。
しかしまあ、本作の終わらせ方というか謎解きの部分には賛否両論あるでしょうね。どうだろうか。Gシリーズでは、謎解きの要素が大分少ないとは言え、本作ではほぼゼロというすごいことになっていて、「えっ?」とか「はっ?」とか思う読者は出てくるのではないか、と思います。
しかし、まさかこの段階で、萌絵の両親の命を奪った飛行機事故の話題が出てくるとは思いませんでした。なんというか、いろんなものが収束していきそうな気配がすごくしてきました。
というわけで本作は、S&Mから読み続けている人にはすごく面白いと思います。逆にGシリーズで初めて森博嗣を読むという人には、ちょっと面白くないかもしれないですね。本編であるはずの話が途中でうっちゃられていくので。しかしでも、ここからどうなっていくのか、ますます楽しみになっていきました。最後、すごく悲しい結末があるのだけど(これも、まあそうか時間を考えればそろそろそうかもしれないな、と思うのだけど、悲しい話です)、しかし萌絵に関する驚くべき展開も待っていたりして、予断を許さないようなそんな感じです。ますます楽しみです。是非読んでみてください。
というわけで、本作の気になった言葉を抜き出して見ます。
(前略)
「難しい手続きウこそが、生きていくこと、行き続けることの象徴だからだろう」
(後略)
(前略)「静けさをときどき愛してあげたいかなって」
(後略)
(前略)
「僕は復讐するだろう。西之園先生の命は、僕にとっては、それだけの価値が充分にあった」犀川は言った。
「でも、銃で撃てば、またもう一人死ぬんですよ」
「ああ」犀川は頷く。
「それが、真賀田四季だったら?」西之園は尋ねた。自分は最初からその条件で考えていたのだ。
「撃たない」犀川は答える。
(後略)
「(前略)どういった種類のものが動機として認められるのか。それは、加害者にもなんらかの正当性がある、という観測あるいは評価だ。たとえば、復讐で殺す、というのは、加害者が過去に負った不利益が原因で、辛い目に遭ったのだから、殺そうと考えても仕方がない。つまり、ある程度は同情することができる。そういった種類のものだ」
(後略)
(前略)
人を殴れば逮捕され牢屋に入れられるのに、大勢に武器を持たせて無断で他国へ侵攻しても誰一人罰せられない社会。大勢が、その手法を正しいとさえ感じている。この方法でしか解決ができない。悪魔を取り除くためには、生きた人間を生け贄に捧げなくてはならない。そうすることで、知らず知らずに人間は悪魔になっていく。
(後略)
(前略)悲しいというのは、解決がない、という意味なのだ。
(後略)
「(前略)一回生きて、一回死んだのです。同じじゃありませんか?」
(後略)
森博嗣「ηなのに夢のよう」
刀語第一話 絶刀・鉋(西尾維新)
日本刀というのは、本当に素晴らしいものなのだろうな、と思う。
僕は、その本物を間近で見るような経験はこれまでにないけれども、しかし日本刀というのは美しいものだと思う。人を殺すための道具として生まれたにも関わらず、皮肉にも人を魅了するだけの美しさを兼ね備えているという辺り、なかなかやるではないか、と思うのだ。
そういえば思い出したことがある。
昔僕は、まあいろいろあって、普通の大学には進みたくないなとか思った時期があった。写真の専門学校の体験入学に親に無断で出てみたり、別の学校の案内について調べたり、なんていうことをまあしていたわけだ。結局、普通の大学に行ったわけだけど。
当時も今も変わらないのが、将来特にやりたいこともなりたいこともなかったということであって、そんな辺りでうろうろと彷徨っていたわけだけど、血迷ったことに、これはなってみてもいいなぁ、と思えるものがあったのである。
それが、刀鍛冶である。はい、もう明らかに血迷ってます。
刀鍛冶というのはかっこいいよなぁ、とか思ったものである。ただの鉄から、一振りの刀を生み出す。作る人間の精神状態すらも仕上がりに影響すると言われるほど繊細な刀鍛冶などにまあなれるわけがないのであるが、かっこいいなぁなりたいなぁ、とアホみたいに思った時期があるのは確かである。
それも考えてみれば、「YAIBA」という、青山剛昌の昔のマンガを読んで影響されたのではないかと思うのだが、どうだっただろうか。「YAIBA」は面白かったなぁ。
まあそんなわけで、まるで日本刀とは縁のない僕ですが(まあ縁のある方が稀だと思うけど)、見る人を本当に虜にし、斬る人を本当に嘆息せしめる、名刀と呼ばれる日本刀を、まあ機会があれば見てみたいものだと思う。まあ、どの辺りが名刀なのか、僕には恐らく分からないだろうけど。
今となっては日常で見ることも使うこともなくなった日本刀。持っているだけで犯罪になってしまうのでおいそれと関わるわけにはいかないのだろうけども、その技術がどんどん廃れてしまう一方であるのは哀しいことだと思う。かと言って、日本刀を日常でバンバン使うような世の中にはなって欲しくない。難しいところである。
今では、その美しさを鑑賞するだけの対象になってしまった日本刀だが、やはり刀自身としては、本来的な使われ方を望んでいるものだろうか。その本来的な勇士を見ることは出来ないだろうけど、そのどこに秘められているのかなんとも説明のしがたい美しさを湛えた日本刀という美術が、これからも残っていけばいいなぁ、と思うのである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
内容紹介に入る前に、本シリーズの説明から。
本シリーズはなんと、前代未聞とも言うべき、12ヶ月連続刊行という、無茶苦茶なシリーズです。一ヶ月に一冊新刊が発売されるという無茶苦茶なシリーズです。ファンとしては快哉を叫びたいところですが、西尾維新は大丈夫だろうか、と心配してしまいます。
さてそんなわけで内容です。本シリーズは、西尾維新初登なる時代モノです。
鑢七花は不承島というほぼ無人の島に住んでいる。以前は、父六枝を含めた三人暮らしだったが、父が死んだ今では、姉である七実との二人暮しである。彼らがそんな無人の島で暮らすようになったそもそものきっかけは、父が島流しにあったからである。何があったのか、詳しくは知らないのだが。
七花は、虚刀流という、伝説と言われたある流派の第七代目の継承者である。虚刀流とはその名の通り、刀を用いずに剣士と相対する流派であり、その技は血族以外には伝わらない秘伝のものであった。七花はそれを父から学び、今も修練の身ではあるが、しかし外敵も刃物も一切ないこの島の中では、録に役に立たない。
毎日、慎ましいけども穏やかな生活をしていた二人の元に、ある日女がやってきた。突然刀を振りかざしてきたそのとがめという名の女は、聞けば虚刀流を求めてこの島までやってきたという。
四季崎記紀という、かつて伝説と言われた刀鍛冶がいた。彼は1000本の刀を作ったが、その中でも12本の刀はかなり特殊でまた力のあるものだという。とがめは幕府の人間で、988本までを収集した四季崎の刀の残り12本を是非集めて欲しいのだ、という依頼をしにやってきたのだ。
面倒臭い話が嫌いな七花としては、乗るかどうか悩むところだったが、その時家を何者かに襲撃され…。
というような話です。
相変わらず、西尾維新最高です!まあいつも同じことばっか言ってますが、本当のことだから仕方ないですね。素晴らしいです。現代モノだけではなく、時代モノでも面白いわけで、さすがです。ブラボー!まあ、時代モノとは言うものの、舞台が昔だよというだけの話で、あとは普段の西尾維新の小説なのだけれども。
第一話だから、七花というこれから主人公になって行きそうな男の紹介や、奇策師を名乗るとがめの抱える背景だったりとか、そういう説明的な部分の多い内容だったけれども、しかし西尾維新らしく、物語の展開はスピーディーで、さらに刺激的。短い話の中でも起伏が富んでいて、読んでいてワクワクしてきます。なるほど、そういう形でこれから11話話が続いていくのですね、ということが分かるし、四季崎の剣というものもすごく興味があるし、七花がそれをどうやって手に入れるのかも興味がある。奇策師のとがめが、戯言シリーズ史上かなり人気トップにランクインされるだろうあの策師・萩原子萩と重なっていくのかなぁ、なんて思ったりもしながら、まためんどくさがり屋で物事を考えるのが得意ではない七花がこれから成長したりするのかなぁ、なんて思いつつ、まあいろんな方向に興味が尽きないですね。
戦闘シーンも、読んだことはないけど、たぶん「ジョジョ」みたいな感じで、奇策師であるとがめの作戦を盛り込みながらの、結構頭脳戦になっていくんではないか、と楽しみです。
まあそんなわけで、まずそもそも12ヶ月連続できちんと出せるのか、というところが大きな関門ですが、まあ西尾維新ならばやってくれることでしょう。それよりも不安なのは、イラストの竹さんです。本作のイラストを見る限りでも、結構限界なんではないか、という感じがしてしまいます。明らかに、時間ないんじゃ…と心配してしまうような感じでした。戯言シリーズの最終巻の表紙のような気合はさすがに無理で、時代モノっぽくないゆるい感じの絵になているのが不安です。西尾維新的には出来るかもだけど、竹さんはどうなんでしょうか?不安です。
まあしかしでも、毎月西尾維新の小説が読めるのだから、こんなに素晴らしいことはないですね。皆さんも、是非読んでみましょう。素晴らしいです。薄いし読みやすいし楽しいですよ。是非是非!
西尾維新「刀語第一話 絶刀・鉋」
僕は、その本物を間近で見るような経験はこれまでにないけれども、しかし日本刀というのは美しいものだと思う。人を殺すための道具として生まれたにも関わらず、皮肉にも人を魅了するだけの美しさを兼ね備えているという辺り、なかなかやるではないか、と思うのだ。
そういえば思い出したことがある。
昔僕は、まあいろいろあって、普通の大学には進みたくないなとか思った時期があった。写真の専門学校の体験入学に親に無断で出てみたり、別の学校の案内について調べたり、なんていうことをまあしていたわけだ。結局、普通の大学に行ったわけだけど。
当時も今も変わらないのが、将来特にやりたいこともなりたいこともなかったということであって、そんな辺りでうろうろと彷徨っていたわけだけど、血迷ったことに、これはなってみてもいいなぁ、と思えるものがあったのである。
それが、刀鍛冶である。はい、もう明らかに血迷ってます。
刀鍛冶というのはかっこいいよなぁ、とか思ったものである。ただの鉄から、一振りの刀を生み出す。作る人間の精神状態すらも仕上がりに影響すると言われるほど繊細な刀鍛冶などにまあなれるわけがないのであるが、かっこいいなぁなりたいなぁ、とアホみたいに思った時期があるのは確かである。
それも考えてみれば、「YAIBA」という、青山剛昌の昔のマンガを読んで影響されたのではないかと思うのだが、どうだっただろうか。「YAIBA」は面白かったなぁ。
まあそんなわけで、まるで日本刀とは縁のない僕ですが(まあ縁のある方が稀だと思うけど)、見る人を本当に虜にし、斬る人を本当に嘆息せしめる、名刀と呼ばれる日本刀を、まあ機会があれば見てみたいものだと思う。まあ、どの辺りが名刀なのか、僕には恐らく分からないだろうけど。
今となっては日常で見ることも使うこともなくなった日本刀。持っているだけで犯罪になってしまうのでおいそれと関わるわけにはいかないのだろうけども、その技術がどんどん廃れてしまう一方であるのは哀しいことだと思う。かと言って、日本刀を日常でバンバン使うような世の中にはなって欲しくない。難しいところである。
今では、その美しさを鑑賞するだけの対象になってしまった日本刀だが、やはり刀自身としては、本来的な使われ方を望んでいるものだろうか。その本来的な勇士を見ることは出来ないだろうけど、そのどこに秘められているのかなんとも説明のしがたい美しさを湛えた日本刀という美術が、これからも残っていけばいいなぁ、と思うのである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
内容紹介に入る前に、本シリーズの説明から。
本シリーズはなんと、前代未聞とも言うべき、12ヶ月連続刊行という、無茶苦茶なシリーズです。一ヶ月に一冊新刊が発売されるという無茶苦茶なシリーズです。ファンとしては快哉を叫びたいところですが、西尾維新は大丈夫だろうか、と心配してしまいます。
さてそんなわけで内容です。本シリーズは、西尾維新初登なる時代モノです。
鑢七花は不承島というほぼ無人の島に住んでいる。以前は、父六枝を含めた三人暮らしだったが、父が死んだ今では、姉である七実との二人暮しである。彼らがそんな無人の島で暮らすようになったそもそものきっかけは、父が島流しにあったからである。何があったのか、詳しくは知らないのだが。
七花は、虚刀流という、伝説と言われたある流派の第七代目の継承者である。虚刀流とはその名の通り、刀を用いずに剣士と相対する流派であり、その技は血族以外には伝わらない秘伝のものであった。七花はそれを父から学び、今も修練の身ではあるが、しかし外敵も刃物も一切ないこの島の中では、録に役に立たない。
毎日、慎ましいけども穏やかな生活をしていた二人の元に、ある日女がやってきた。突然刀を振りかざしてきたそのとがめという名の女は、聞けば虚刀流を求めてこの島までやってきたという。
四季崎記紀という、かつて伝説と言われた刀鍛冶がいた。彼は1000本の刀を作ったが、その中でも12本の刀はかなり特殊でまた力のあるものだという。とがめは幕府の人間で、988本までを収集した四季崎の刀の残り12本を是非集めて欲しいのだ、という依頼をしにやってきたのだ。
面倒臭い話が嫌いな七花としては、乗るかどうか悩むところだったが、その時家を何者かに襲撃され…。
というような話です。
相変わらず、西尾維新最高です!まあいつも同じことばっか言ってますが、本当のことだから仕方ないですね。素晴らしいです。現代モノだけではなく、時代モノでも面白いわけで、さすがです。ブラボー!まあ、時代モノとは言うものの、舞台が昔だよというだけの話で、あとは普段の西尾維新の小説なのだけれども。
第一話だから、七花というこれから主人公になって行きそうな男の紹介や、奇策師を名乗るとがめの抱える背景だったりとか、そういう説明的な部分の多い内容だったけれども、しかし西尾維新らしく、物語の展開はスピーディーで、さらに刺激的。短い話の中でも起伏が富んでいて、読んでいてワクワクしてきます。なるほど、そういう形でこれから11話話が続いていくのですね、ということが分かるし、四季崎の剣というものもすごく興味があるし、七花がそれをどうやって手に入れるのかも興味がある。奇策師のとがめが、戯言シリーズ史上かなり人気トップにランクインされるだろうあの策師・萩原子萩と重なっていくのかなぁ、なんて思ったりもしながら、まためんどくさがり屋で物事を考えるのが得意ではない七花がこれから成長したりするのかなぁ、なんて思いつつ、まあいろんな方向に興味が尽きないですね。
戦闘シーンも、読んだことはないけど、たぶん「ジョジョ」みたいな感じで、奇策師であるとがめの作戦を盛り込みながらの、結構頭脳戦になっていくんではないか、と楽しみです。
まあそんなわけで、まずそもそも12ヶ月連続できちんと出せるのか、というところが大きな関門ですが、まあ西尾維新ならばやってくれることでしょう。それよりも不安なのは、イラストの竹さんです。本作のイラストを見る限りでも、結構限界なんではないか、という感じがしてしまいます。明らかに、時間ないんじゃ…と心配してしまうような感じでした。戯言シリーズの最終巻の表紙のような気合はさすがに無理で、時代モノっぽくないゆるい感じの絵になているのが不安です。西尾維新的には出来るかもだけど、竹さんはどうなんでしょうか?不安です。
まあしかしでも、毎月西尾維新の小説が読めるのだから、こんなに素晴らしいことはないですね。皆さんも、是非読んでみましょう。素晴らしいです。薄いし読みやすいし楽しいですよ。是非是非!
西尾維新「刀語第一話 絶刀・鉋」
夜は短し歩けよ乙女(森見登美彦)
黒髪の乙女。
なんといい響きではないだろうか。素晴らしい。
なんという書き出しから、一体何を書くのかと言えば。
もちろん、黒髪についてである!乙女は、黒髪でなくてはいけないのである!黒髪以外の髪は邪道なのである!
…こいつは、体調が悪くておかしくなったのか、あるいは、エジプトに行って狂ってしまったのか、と思われる向きもあるかもしれない。
そんなことはない。僕は、至って正常である。
女性の髪は、とにかく黒髪に限る、と僕は思っているのである。僕が好きになる女性は、まあ必ずとは言えないけど、まず間違いなく黒髪の女性である。茶色だの金だのというのはもっての他である。乙女は、黒でなくてはならない。
何故黒髪がいいのか、という理屈を今から無理矢理ひり出そうと思うのであるが、これが正直なかなか難しいものである。
うむ、思いつかない。
まあいいか、そんなことは。とにかく、僕は黒髪の女性が好きだということである。例えばそれは日本人ではなく外国人でも同じで、もともと髪が黒い人種であると、よりぐっと来るものである。何故だろう。エキゾチックな感じがする、と書いておこう。
逆に、何故女性は髪を染めてしまうのだろうか、と僕は不思議に思うのである。どうしてだろう。そんなにも美しい黒髪を持っていながら、どうして髪の色を変えるという蛮行に及んでしまうのだろうか。
僕には、正直理解できないのである。
自分を変えたいとか、ちょっとイメチェンしたいとか、まあそういう理由なのだろうけど、しかし、髪の色を変えて、黒髪の時よりもよくなっている人というのを、僕はあまり知らない。僕の好みの問題でもあるのだけど、でも色を変えることで何かがそこまで大きく変わると思っているのだろうか。
それよりも、もっと黒であることを主張して欲しいくらいである。艶やかで艶やかで、見るだけで心が和み、触れるだけで心が飛翔し、愛でることで心と溶け合うような、そんな魅力的で魅惑溢れる黒髪を追求して欲しいものだ、と思うのだ。
西洋人は、日本人女性の黒髪に憧れているのだ、という話を聞いたことがある。結局のところ、隣の芝は青い、ということなのだろう。日本人は隣の西洋人に憧れ、西洋人は日本人に憧れる。まあわからなくもないが、僕は断然黒髪がいいと思う。
よってここに、日本黒髪普及連合の発足を宣言する!
…というのはもちろん嘘であるが、しかし最近、眼鏡をアピールする眼鏡党みたいなグループが出来たくらいである。どこかに、黒髪党みたいなものがあってもいいのではないだろうか。活動内容は不明だが、街中を行く異色髪の乙女を捕まえては、強制的に黒髪に戻したり、あるいは街中にはびこる異色髪を有するポスターをすべて破棄する、などであろうか。うん、まず間違いなく捕まるな。
まあそんな適当なことを書いているわけですけど、どうでしょうか、世の男性諸君、黒髪がいいとは思わないでしょうか?
こういう、男性と女性の好みの食い違い的なものは他にも聞いたことがあって、僕的に有名だと思っているものに、ワイシャツの色がある。女性としては、いろんな色のワイシャツを着たいと考えているのに対して、男は女性に対して、白のワイシャツを着て欲しい、と考えている、というものである。わかる。わかるぞ、その気持ち!黒髪の乙女が白のワイシャツであれば、もう言うことはないではないか!
あまりにもくだらないことを書きすぎているのでそろそろこんな馬鹿げた話も終わりにしようと思うのだけど、女性の皆さん、とにかく黒髪がいいです。日本女性総黒髪とかならいいのに、とか思います。法律とか出来たり…しないわな、そら。
まあそんなわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、4編の短編を収録した連作短編集になっています。それぞれの内容を紹介しましょう。
「夜は短し歩けよ乙女」
春のことである。ある飲み会の席で、僕はクラブの後輩である「黒髪の乙女」に恋をしてしまった。一目惚れ、というやつである。二次会に参加しないらしい彼女を追って夜の京都を歩くのだが、いつしか彼女の姿を見失ってしまう。
僕は僕で散々な目に遭いながら、ただひたすらに彼女の姿を追いかけるのであるが、「黒髪の乙女」はこちらでなかなかオモチロイ夜を過ごすことになる。胸を揉んで来る東堂という男に出逢ったことを皮切りに、歯科衛生士であるという大酒飲みの羽貫さんや、天狗と名乗る飄々とした浴衣姿の樋口さん、果ては先斗町界隈を牛耳るという謎の金貸しや李白氏まで現れて、入り乱れてぐちゃぐちゃむんむん。
「深海魚たち」
夏のことである。下鴨神社の糺の森にて行われる納涼古本市に、あの「黒髪の乙女」が顔を出すという情報を聞きつけた僕は、苦手とする古本市へ嫌々足を運ぶことになるのだが、彼女を見かけたまさにその瞬間にクソ生意気な小僧に捕まり、彼女を捕らえそこなう。そこから彼は、あれよあれよという間に、なんと命を掛けるほどの大勝負の舞台に立つことに。
一方彼女は、沸き立つような興奮の中、古本市の雰囲気を楽しんでいました。そんな中でふと彼女の脳裏を過ぎった一冊の絵本。
そう、子供の頃に読んだ記憶のある美しい絵本「ラ・タ・タ・タム」。あの絵本を探そうではありませんか!
そうやってうろうろしておりましたです。
「御都合主義者かく語りき」
秋のことである。秋と言えば、聞くのも煩わしい学園祭の季節であるが、あの「黒髪の乙女」が足を運ぶという噂を聞けば、行くしかない。
しかし今年の学園祭、どうにも珍事件があちこちで勃発しているようである。中でも珍妙なのは、神出鬼没に現れてはその辺の人に鍋を食わせる「韋駄天コタツ」と、ゲリラ的にあちこちで短い連続した劇を上映することで話題になっている「偏屈王」である。しかしどちらにしても、学園祭らしい、阿呆な話であることには変わりはない。
一方彼女の方はと言えば、のっけから射的で大きな緋鯉のぬいぐるみをゲットし、ウキウキです。それをよいしょと背中に背負った姿は、とても目立ちます。そうやって、興味の赴くままに学園祭を堪能していたのですが、やがて彼女は「偏屈王」のヒロイン、「プリンセス・ダルマ」の役をやることになり…。
「魔風邪恋風邪」
冬のことである。「黒髪の乙女」との関係も、ひたすら外堀を埋めるだけに終始していたこの一年。なんとか実りある結末を、と願うのであるが、なかなか勇気が出ないことである。そんなことをグダグダと考えているうちに、周りの人間がバタバタと風邪で倒れ、自分もその毒牙に掛かってしまう。異常な勢いで伝染する風邪は、ついに京都の街から人の姿を消してしまうまでである。
一方で彼女の方はと言えば、風邪の神様に嫌われているようで、一向に風邪を引く気配がない。そこで、得意のお見舞い攻勢を日々続けているのだけれども、いろんなところにいくにつれ、なるほどこの風邪の元凶が分かり…。
そんなわけで、「黒髪の乙女」と、彼女に恋をしてしまった「先輩」の二人が、京都を舞台に織り成す恋愛小説です。
いや~、もうべらぼうに面白かったです。森見登美彦の作品は初めて読みましたけど、かなりいいですね。
何がいいかと言えば、やはり「黒髪の乙女」のキャラクターが最高なんです!これは、マジで萌えますね。こんな娘がいたら、マジで恋してしまうと思われます。はい。
彼女の視線を通すと、何もかもがウキウキして見えてくるんです。まるで、ほこりを被った電燈の笠をピカピカに磨いたかのような新鮮さがこみ上げてきて、読んでいるうちにこっちまでウキウキピカピカとしてくるようなのです。
「黒髪の乙女」は、大雑把に言ってしまえば、天然で鈍くて優しくて好奇心が旺盛、という感じで、今時こんな女の子はいないよなぁ、とはまあわかってはいるのだけど、でもいて欲しいなぁ、と願いたくなるような、そんな女の子です。
また、他にも魅力的なキャラクターがわんさか出てくるのです。「先輩」の悶々とした雰囲気もいいし、羽貫さんの豪快さも素晴らしいし、樋口さんのつかみ所のなさもいいし、李白さんの存在感も素晴らしいです。また、「パンツ総番長」だの「古本市の神様」だの「「象のお尻」の人」だのと、ネーミングが面白い人もたくさん出てきて、それはそれは愉快な物語でした。
文体もすごく面白くて、これまで読んだ事のないような新鮮さがありました。難しい言葉を使いながらもさらりと読めてしまう不思議さと、そんな受け答えはありえないだろ、というような会話なのになぜかするりと入ってくる不思議さとが渾然一体となり、また、「先輩」の方の文章では「葛藤」が、「黒髪の乙女」の方の文章では「好奇心」や「感動」がすごくうまく表現されていて、とても読み応えのある面白い文体だな、と思いました。著者の知識も本当に豊富で、使い方を知らない言葉がたくさん出てきて、すごいな、と思いました。
内容的には、本当にマンガみたいな感じです。僕はほとんどマンガを読んだことがないのであまり参考にしないで欲しいのだけど、僕の印象では「らんま1/2」みたいな話だな、と思いました。恋愛のあれこれを主軸に毎回なんか問題が起きて、あれよという間に一応解決している、みたいな、そんなストーリー展開が似てるかな、と思いました。
とにかく、これは是非とも読んで欲しい作品ですね。「全日本啓蒙かつ発展的な浸透を広く目指す黒髪普及連合会」の会長としても、是非オススメしたい作品です。「黒髪の乙女」に萌え燃えになること間違いないでしょう。読んでみてください。森見登美彦、これからも注目しようと思います。
森見登美彦「夜は短し歩けよ乙女」
なんといい響きではないだろうか。素晴らしい。
なんという書き出しから、一体何を書くのかと言えば。
もちろん、黒髪についてである!乙女は、黒髪でなくてはいけないのである!黒髪以外の髪は邪道なのである!
…こいつは、体調が悪くておかしくなったのか、あるいは、エジプトに行って狂ってしまったのか、と思われる向きもあるかもしれない。
そんなことはない。僕は、至って正常である。
女性の髪は、とにかく黒髪に限る、と僕は思っているのである。僕が好きになる女性は、まあ必ずとは言えないけど、まず間違いなく黒髪の女性である。茶色だの金だのというのはもっての他である。乙女は、黒でなくてはならない。
何故黒髪がいいのか、という理屈を今から無理矢理ひり出そうと思うのであるが、これが正直なかなか難しいものである。
うむ、思いつかない。
まあいいか、そんなことは。とにかく、僕は黒髪の女性が好きだということである。例えばそれは日本人ではなく外国人でも同じで、もともと髪が黒い人種であると、よりぐっと来るものである。何故だろう。エキゾチックな感じがする、と書いておこう。
逆に、何故女性は髪を染めてしまうのだろうか、と僕は不思議に思うのである。どうしてだろう。そんなにも美しい黒髪を持っていながら、どうして髪の色を変えるという蛮行に及んでしまうのだろうか。
僕には、正直理解できないのである。
自分を変えたいとか、ちょっとイメチェンしたいとか、まあそういう理由なのだろうけど、しかし、髪の色を変えて、黒髪の時よりもよくなっている人というのを、僕はあまり知らない。僕の好みの問題でもあるのだけど、でも色を変えることで何かがそこまで大きく変わると思っているのだろうか。
それよりも、もっと黒であることを主張して欲しいくらいである。艶やかで艶やかで、見るだけで心が和み、触れるだけで心が飛翔し、愛でることで心と溶け合うような、そんな魅力的で魅惑溢れる黒髪を追求して欲しいものだ、と思うのだ。
西洋人は、日本人女性の黒髪に憧れているのだ、という話を聞いたことがある。結局のところ、隣の芝は青い、ということなのだろう。日本人は隣の西洋人に憧れ、西洋人は日本人に憧れる。まあわからなくもないが、僕は断然黒髪がいいと思う。
よってここに、日本黒髪普及連合の発足を宣言する!
…というのはもちろん嘘であるが、しかし最近、眼鏡をアピールする眼鏡党みたいなグループが出来たくらいである。どこかに、黒髪党みたいなものがあってもいいのではないだろうか。活動内容は不明だが、街中を行く異色髪の乙女を捕まえては、強制的に黒髪に戻したり、あるいは街中にはびこる異色髪を有するポスターをすべて破棄する、などであろうか。うん、まず間違いなく捕まるな。
まあそんな適当なことを書いているわけですけど、どうでしょうか、世の男性諸君、黒髪がいいとは思わないでしょうか?
こういう、男性と女性の好みの食い違い的なものは他にも聞いたことがあって、僕的に有名だと思っているものに、ワイシャツの色がある。女性としては、いろんな色のワイシャツを着たいと考えているのに対して、男は女性に対して、白のワイシャツを着て欲しい、と考えている、というものである。わかる。わかるぞ、その気持ち!黒髪の乙女が白のワイシャツであれば、もう言うことはないではないか!
あまりにもくだらないことを書きすぎているのでそろそろこんな馬鹿げた話も終わりにしようと思うのだけど、女性の皆さん、とにかく黒髪がいいです。日本女性総黒髪とかならいいのに、とか思います。法律とか出来たり…しないわな、そら。
まあそんなわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、4編の短編を収録した連作短編集になっています。それぞれの内容を紹介しましょう。
「夜は短し歩けよ乙女」
春のことである。ある飲み会の席で、僕はクラブの後輩である「黒髪の乙女」に恋をしてしまった。一目惚れ、というやつである。二次会に参加しないらしい彼女を追って夜の京都を歩くのだが、いつしか彼女の姿を見失ってしまう。
僕は僕で散々な目に遭いながら、ただひたすらに彼女の姿を追いかけるのであるが、「黒髪の乙女」はこちらでなかなかオモチロイ夜を過ごすことになる。胸を揉んで来る東堂という男に出逢ったことを皮切りに、歯科衛生士であるという大酒飲みの羽貫さんや、天狗と名乗る飄々とした浴衣姿の樋口さん、果ては先斗町界隈を牛耳るという謎の金貸しや李白氏まで現れて、入り乱れてぐちゃぐちゃむんむん。
「深海魚たち」
夏のことである。下鴨神社の糺の森にて行われる納涼古本市に、あの「黒髪の乙女」が顔を出すという情報を聞きつけた僕は、苦手とする古本市へ嫌々足を運ぶことになるのだが、彼女を見かけたまさにその瞬間にクソ生意気な小僧に捕まり、彼女を捕らえそこなう。そこから彼は、あれよあれよという間に、なんと命を掛けるほどの大勝負の舞台に立つことに。
一方彼女は、沸き立つような興奮の中、古本市の雰囲気を楽しんでいました。そんな中でふと彼女の脳裏を過ぎった一冊の絵本。
そう、子供の頃に読んだ記憶のある美しい絵本「ラ・タ・タ・タム」。あの絵本を探そうではありませんか!
そうやってうろうろしておりましたです。
「御都合主義者かく語りき」
秋のことである。秋と言えば、聞くのも煩わしい学園祭の季節であるが、あの「黒髪の乙女」が足を運ぶという噂を聞けば、行くしかない。
しかし今年の学園祭、どうにも珍事件があちこちで勃発しているようである。中でも珍妙なのは、神出鬼没に現れてはその辺の人に鍋を食わせる「韋駄天コタツ」と、ゲリラ的にあちこちで短い連続した劇を上映することで話題になっている「偏屈王」である。しかしどちらにしても、学園祭らしい、阿呆な話であることには変わりはない。
一方彼女の方はと言えば、のっけから射的で大きな緋鯉のぬいぐるみをゲットし、ウキウキです。それをよいしょと背中に背負った姿は、とても目立ちます。そうやって、興味の赴くままに学園祭を堪能していたのですが、やがて彼女は「偏屈王」のヒロイン、「プリンセス・ダルマ」の役をやることになり…。
「魔風邪恋風邪」
冬のことである。「黒髪の乙女」との関係も、ひたすら外堀を埋めるだけに終始していたこの一年。なんとか実りある結末を、と願うのであるが、なかなか勇気が出ないことである。そんなことをグダグダと考えているうちに、周りの人間がバタバタと風邪で倒れ、自分もその毒牙に掛かってしまう。異常な勢いで伝染する風邪は、ついに京都の街から人の姿を消してしまうまでである。
一方で彼女の方はと言えば、風邪の神様に嫌われているようで、一向に風邪を引く気配がない。そこで、得意のお見舞い攻勢を日々続けているのだけれども、いろんなところにいくにつれ、なるほどこの風邪の元凶が分かり…。
そんなわけで、「黒髪の乙女」と、彼女に恋をしてしまった「先輩」の二人が、京都を舞台に織り成す恋愛小説です。
いや~、もうべらぼうに面白かったです。森見登美彦の作品は初めて読みましたけど、かなりいいですね。
何がいいかと言えば、やはり「黒髪の乙女」のキャラクターが最高なんです!これは、マジで萌えますね。こんな娘がいたら、マジで恋してしまうと思われます。はい。
彼女の視線を通すと、何もかもがウキウキして見えてくるんです。まるで、ほこりを被った電燈の笠をピカピカに磨いたかのような新鮮さがこみ上げてきて、読んでいるうちにこっちまでウキウキピカピカとしてくるようなのです。
「黒髪の乙女」は、大雑把に言ってしまえば、天然で鈍くて優しくて好奇心が旺盛、という感じで、今時こんな女の子はいないよなぁ、とはまあわかってはいるのだけど、でもいて欲しいなぁ、と願いたくなるような、そんな女の子です。
また、他にも魅力的なキャラクターがわんさか出てくるのです。「先輩」の悶々とした雰囲気もいいし、羽貫さんの豪快さも素晴らしいし、樋口さんのつかみ所のなさもいいし、李白さんの存在感も素晴らしいです。また、「パンツ総番長」だの「古本市の神様」だの「「象のお尻」の人」だのと、ネーミングが面白い人もたくさん出てきて、それはそれは愉快な物語でした。
文体もすごく面白くて、これまで読んだ事のないような新鮮さがありました。難しい言葉を使いながらもさらりと読めてしまう不思議さと、そんな受け答えはありえないだろ、というような会話なのになぜかするりと入ってくる不思議さとが渾然一体となり、また、「先輩」の方の文章では「葛藤」が、「黒髪の乙女」の方の文章では「好奇心」や「感動」がすごくうまく表現されていて、とても読み応えのある面白い文体だな、と思いました。著者の知識も本当に豊富で、使い方を知らない言葉がたくさん出てきて、すごいな、と思いました。
内容的には、本当にマンガみたいな感じです。僕はほとんどマンガを読んだことがないのであまり参考にしないで欲しいのだけど、僕の印象では「らんま1/2」みたいな話だな、と思いました。恋愛のあれこれを主軸に毎回なんか問題が起きて、あれよという間に一応解決している、みたいな、そんなストーリー展開が似てるかな、と思いました。
とにかく、これは是非とも読んで欲しい作品ですね。「全日本啓蒙かつ発展的な浸透を広く目指す黒髪普及連合会」の会長としても、是非オススメしたい作品です。「黒髪の乙女」に萌え燃えになること間違いないでしょう。読んでみてください。森見登美彦、これからも注目しようと思います。
森見登美彦「夜は短し歩けよ乙女」
レキオス(池上永一)
皆様、お久しぶりでございます。エジプトから無事帰って来ました。
というわけで、本作について書けることもちょっとないということで、エジプト旅行について少しだけ書いてみようかと思います。
どこに行ったとかそういうことはまあ割愛させてもらうとして、エジプトの印象みたいなものをざっくり書ければいいかな、と。
向こうは今冬に当たる時期だそうで、暑いという感じは全然ありませんでした。日中数時間は日差しもつよく、半袖でも過ごせるのだけど、朝晩を含むそれ以外の時間帯は、寧ろ肌寒いくらいで、長袖でないとちょっときついな、という感じでした。朝晩冷える、という話は聞いていたけど、自分が予想していたよりも涼しくて、ちょっとびっくりしました。
初めに回ったのは、いわゆる田舎の辺りです。高い建物もなく、人もそんなに多くなく、のんびりとした田園風景、という感じでした。羊がその辺で放し飼いになっていたり、どこに行ってもナイル川が視界に入ったりという感じでした。
そういう田舎のあちこちにいろんな遺跡があって、そういうところをグルグルと回っていました。
そしてそれから、いわゆる都市部の方へと行くのだけど、これがまたなかなかすごいです。人がうじゃうじゃいるし、高い建物も結構あったりで、発展してるな、という感じがしました。
今回の旅行で最も苦労し、かつ面白いなと思ったのが、買い物ですね。
向こうでは、定価でものを売る、という発想ではなくて、ほとんどすべてが交渉制です。だから、商店なんかを流して、欲しいものが何かあったら、いくらなのか聞いて、そこから交渉する、というわけです。
これは、本当に大変で、基本的に僕は何かを買うのを諦めました。大体どのくらいの値段が目安なのかもまったくわからないし、交渉するのも下手だからです。僕みたいな人は、向こうで何か買い物をするのは、本当に大変だと思います。
それでも、人が交渉しているのを見たり、あるいは何も買わなくても商店のある辺りをブラブラ流しているだけで、充分に面白かったです。彼らは、どこで覚えたんだか知らないけど、巧みに日本語を織り交ぜては、僕らの気を引こうとします。向こうにいる間に聞いた日本語を覚えている限りざっと書くと、
「キムタク」「浜田」「山本山」「ヤクザ」「さらばじゃ」
という感じです。もっともっとあったんだけど、今すぐには思い出せませんでした。
また彼らは常に、「1ダラー(1$)」と言ってきます。明らかに1$では売ってないだろ、みたいなものを見せてきては、1ダラー、と声を掛けてきます。エジプト滞在中に最も多く聞いた言葉がこの「1ダラー」で、だんだんそれは、「いらっしゃいませ」みたいなものなんだな、と思えるようになってきました。
話を変えて、エジプトの交通事情みたいな話をしましょう。
僕らは基本的に、ツアーの皆とバスで移動するのだけど、とにかく彼らの運転が半端ないです。まず、スピードがすごいです。田舎の、全然人も車もいないような道とかならまだわからなくもないのだけど(それでも、対向車と擦れ違う時なんか、お互いハイスピードで接触しそうな感じですごかったけど)、これが人も車も半端なくたくさんあるところでも変わらずスピードを出します。時々、ホントに危ないみたいなことも何度かあって、冷や汗ものでした。
基本的に向こうは、車優先の社会で、歩行者のことなど考えた運転はしません。横断歩道なんかあるわけないですから、向こうの人は、車がビュンビュン走っている中、車の間を縫うようにして道を渡っていきます。とてもじゃないけど真似できないな、と思います。
とにかくそんな感じで、交通事情は本当にすごいな、と思いました。
あとは最後にガイドさんの話をしましょう。向こうで、エジプト人の現地ガイド女性と行動を共にしていたんだけど、ものすごく日本語がうまくてびっくりしました。日常会話はもちろんのこと、メモなどまるで見ることなく遺跡の説明をしたり、また漢字の説明なんかもしたりで、すごかったです。「しばれる(北海道の方言で「寒い」という意味)」なんて言葉も知ってるくらいで、びっくりし通しでした。
そんなエジプト旅行でした。初めての海外でエジプトというのもなかなかチャレンジャーだと思うけど、面白い旅でした。でも、あれだけ長い時間飛行機に乗っていないといけないのはやっぱりキツイので、まあエジプトにはもう行くことはないでしょう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
とはいうものの、ちょっと僕には本作の内容紹介が出来そうにないですね。突き抜けすぎているというか、ちょっと僕の理解の及ばない物語でした。
とにかく言えることは、沖縄を舞台にして、多くの人々が、レキオスと呼ばれる何かを追い求めて、あるいは追い求める者を阻止しようとして奮闘する話、という感じです。時空をあっさりと超えて、史実みたいなものも巧みに織りあわせつつ、レキオスとは何なのか、ということを突き詰めていく話です。
僕はこの本を、分量のある文庫だから、というだけの理由で、エジプト旅行に持っていきました。それは、まあある意味で正解だったかな、と思います。普段の日常の中で読んでいたら、読みきれていた自信はちょっとないかもですね。エジプトの行き帰りの飛行機の中という、他に何ともしようのない時間だからこそ読めたような気がします。
なんというか、複雑すぎるんですね。オルレンショーという、コスプレ好きの変態科学者が、新時代を担う新理論の証明を目指しているかと思えば、沖縄のバカ女子高生が突然ハイパーコンピューターになったり、ユタと呼ばれる沖縄の伝統的な祈祷師のような存在が軸として重要になるかと思えば、沖縄の在日米軍がふんだんに絡んできたり、またCIAだのよくわからない組織だのが台頭して、もうぐっちゃぐちゃという感じですね。巻末で、大森望と豊崎由美が本作について対談をしているのだけど、その中で、いろいろな伏線が最後にすべて回収されていく、みたいな風に書かれているのだけど、僕にはどの伏線がどう機能して、物語がどう着地したのかちょっとなんともわからない話でした。
本作で僕が充分に評価できるのは、キャラクターですね。さっきも書いた、コスプレ好きの変態科学者のキャラクターはもう強烈だし、それ以外にも、魅力的なキャラクターがバンバン出てきます。彼らが何をし何を求めているのかはよくわからなかったけど、でも彼らの動きや会話を追っているだけでもまあなかなか面白いかな、という感じでした。
本作は、大絶賛された「シャングリ・ラ」の原型を成す物語なのだそうだけど、まあそういうところもよくわからなかったです。僕としては、「シャングリ・ラ」もなかなか複雑で難しい話だったけど、でも本作の方が遥かに複雑だな、という風に思います。
僕にはちょっと合わない作品だったけど、まあこういう話が好きな人はいるかもしれないですね。わからないけど、長いのでなかなか読む気になれないとは思うので、僕としては「シャングリ・ラ」をオススメしようと思います。
池上永一「レキオス」
というわけで、本作について書けることもちょっとないということで、エジプト旅行について少しだけ書いてみようかと思います。
どこに行ったとかそういうことはまあ割愛させてもらうとして、エジプトの印象みたいなものをざっくり書ければいいかな、と。
向こうは今冬に当たる時期だそうで、暑いという感じは全然ありませんでした。日中数時間は日差しもつよく、半袖でも過ごせるのだけど、朝晩を含むそれ以外の時間帯は、寧ろ肌寒いくらいで、長袖でないとちょっときついな、という感じでした。朝晩冷える、という話は聞いていたけど、自分が予想していたよりも涼しくて、ちょっとびっくりしました。
初めに回ったのは、いわゆる田舎の辺りです。高い建物もなく、人もそんなに多くなく、のんびりとした田園風景、という感じでした。羊がその辺で放し飼いになっていたり、どこに行ってもナイル川が視界に入ったりという感じでした。
そういう田舎のあちこちにいろんな遺跡があって、そういうところをグルグルと回っていました。
そしてそれから、いわゆる都市部の方へと行くのだけど、これがまたなかなかすごいです。人がうじゃうじゃいるし、高い建物も結構あったりで、発展してるな、という感じがしました。
今回の旅行で最も苦労し、かつ面白いなと思ったのが、買い物ですね。
向こうでは、定価でものを売る、という発想ではなくて、ほとんどすべてが交渉制です。だから、商店なんかを流して、欲しいものが何かあったら、いくらなのか聞いて、そこから交渉する、というわけです。
これは、本当に大変で、基本的に僕は何かを買うのを諦めました。大体どのくらいの値段が目安なのかもまったくわからないし、交渉するのも下手だからです。僕みたいな人は、向こうで何か買い物をするのは、本当に大変だと思います。
それでも、人が交渉しているのを見たり、あるいは何も買わなくても商店のある辺りをブラブラ流しているだけで、充分に面白かったです。彼らは、どこで覚えたんだか知らないけど、巧みに日本語を織り交ぜては、僕らの気を引こうとします。向こうにいる間に聞いた日本語を覚えている限りざっと書くと、
「キムタク」「浜田」「山本山」「ヤクザ」「さらばじゃ」
という感じです。もっともっとあったんだけど、今すぐには思い出せませんでした。
また彼らは常に、「1ダラー(1$)」と言ってきます。明らかに1$では売ってないだろ、みたいなものを見せてきては、1ダラー、と声を掛けてきます。エジプト滞在中に最も多く聞いた言葉がこの「1ダラー」で、だんだんそれは、「いらっしゃいませ」みたいなものなんだな、と思えるようになってきました。
話を変えて、エジプトの交通事情みたいな話をしましょう。
僕らは基本的に、ツアーの皆とバスで移動するのだけど、とにかく彼らの運転が半端ないです。まず、スピードがすごいです。田舎の、全然人も車もいないような道とかならまだわからなくもないのだけど(それでも、対向車と擦れ違う時なんか、お互いハイスピードで接触しそうな感じですごかったけど)、これが人も車も半端なくたくさんあるところでも変わらずスピードを出します。時々、ホントに危ないみたいなことも何度かあって、冷や汗ものでした。
基本的に向こうは、車優先の社会で、歩行者のことなど考えた運転はしません。横断歩道なんかあるわけないですから、向こうの人は、車がビュンビュン走っている中、車の間を縫うようにして道を渡っていきます。とてもじゃないけど真似できないな、と思います。
とにかくそんな感じで、交通事情は本当にすごいな、と思いました。
あとは最後にガイドさんの話をしましょう。向こうで、エジプト人の現地ガイド女性と行動を共にしていたんだけど、ものすごく日本語がうまくてびっくりしました。日常会話はもちろんのこと、メモなどまるで見ることなく遺跡の説明をしたり、また漢字の説明なんかもしたりで、すごかったです。「しばれる(北海道の方言で「寒い」という意味)」なんて言葉も知ってるくらいで、びっくりし通しでした。
そんなエジプト旅行でした。初めての海外でエジプトというのもなかなかチャレンジャーだと思うけど、面白い旅でした。でも、あれだけ長い時間飛行機に乗っていないといけないのはやっぱりキツイので、まあエジプトにはもう行くことはないでしょう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
とはいうものの、ちょっと僕には本作の内容紹介が出来そうにないですね。突き抜けすぎているというか、ちょっと僕の理解の及ばない物語でした。
とにかく言えることは、沖縄を舞台にして、多くの人々が、レキオスと呼ばれる何かを追い求めて、あるいは追い求める者を阻止しようとして奮闘する話、という感じです。時空をあっさりと超えて、史実みたいなものも巧みに織りあわせつつ、レキオスとは何なのか、ということを突き詰めていく話です。
僕はこの本を、分量のある文庫だから、というだけの理由で、エジプト旅行に持っていきました。それは、まあある意味で正解だったかな、と思います。普段の日常の中で読んでいたら、読みきれていた自信はちょっとないかもですね。エジプトの行き帰りの飛行機の中という、他に何ともしようのない時間だからこそ読めたような気がします。
なんというか、複雑すぎるんですね。オルレンショーという、コスプレ好きの変態科学者が、新時代を担う新理論の証明を目指しているかと思えば、沖縄のバカ女子高生が突然ハイパーコンピューターになったり、ユタと呼ばれる沖縄の伝統的な祈祷師のような存在が軸として重要になるかと思えば、沖縄の在日米軍がふんだんに絡んできたり、またCIAだのよくわからない組織だのが台頭して、もうぐっちゃぐちゃという感じですね。巻末で、大森望と豊崎由美が本作について対談をしているのだけど、その中で、いろいろな伏線が最後にすべて回収されていく、みたいな風に書かれているのだけど、僕にはどの伏線がどう機能して、物語がどう着地したのかちょっとなんともわからない話でした。
本作で僕が充分に評価できるのは、キャラクターですね。さっきも書いた、コスプレ好きの変態科学者のキャラクターはもう強烈だし、それ以外にも、魅力的なキャラクターがバンバン出てきます。彼らが何をし何を求めているのかはよくわからなかったけど、でも彼らの動きや会話を追っているだけでもまあなかなか面白いかな、という感じでした。
本作は、大絶賛された「シャングリ・ラ」の原型を成す物語なのだそうだけど、まあそういうところもよくわからなかったです。僕としては、「シャングリ・ラ」もなかなか複雑で難しい話だったけど、でも本作の方が遥かに複雑だな、という風に思います。
僕にはちょっと合わない作品だったけど、まあこういう話が好きな人はいるかもしれないですね。わからないけど、長いのでなかなか読む気になれないとは思うので、僕としては「シャングリ・ラ」をオススメしようと思います。
池上永一「レキオス」
押入れのちよ(荻原浩)
怖いものは、結構得意な方だと思う。
雷だとかジェットコースターとか高いところのような、危険に対して感じる恐怖は、昔から全然大丈夫だ。全然怖くない。むしろ結構好きだったりするかもしれない。バンジージャンプもしてみたいくらいである。今日飛行機に乗る予定なのだけど、ハイジャックとかあったら楽しいだろうな、とか思っているような人間である。
これはきっと、全部予測出来るからだと思う。どんな危険に対しても、何がどうなるのか大体わかっているのである。あとは、注意していさえすればいい。大した問題ではない。こういうものを怖がる気持ちは、あんまりわからない。
幽霊だとかそういったものも、特に怖いと思うことはない。こちらに関しては、昔は結構苦手だったような気もする。暗いところとかで一人でいると多少怖かったりしたし、受験があることを理由に実家への帰省旅行に行かず、初めて一人で夜を過ごした時なんかは、実は結構怖かったような気もする。もちろんそんなそぶりはおくびにも出さないけど。あと、お風呂に入っていて頭を洗うときに目をつむるのが怖かったり(目を開けたら目の前に何かいたら怖いな、とか)、鏡を見るのがちょっと嫌だな(変なものが映ってたら嫌だな、とか)みたいなことは、昔は思っていたかもしれないと思う。
そういえばきっと誰も信じないだろうから言ったことはないのだけど、火の玉をみたことがある。あれは、幼稚園の頃のなんかのイベントでお寺に泊まっていた時のことだと思う(幼稚園の目の前が寺で、墓場もばっちりあるのだ)。例によって肝試しなんかがあったのだけど、そこで見たのだ。まあ、脅かそうと思って用意した小道具だったかもしれないけど、未だに覚えている。
今では、全然余裕である。映画は昔から見てこなかったのでなんとも言えないけど、ホラー映画だって余裕で見れるだろう。あの、貞子がテレビから出てきたのにはビビったけど。
これも、怖さを感じるのは人間の想像力によるものだ、ということが分かっているから怖くないのだろう。全部、気のせいである。合理的な説明がつけられないからと言って怖がる必要はまったくないのである。それは、ただあなたが知らないだけか、あるいはまだ誰も知らないだけかのどちらかでしかないだろう。
しかし、怖いなと思うものが一つだけある。一つという数え方でいいのかわからないけど、それは、人間の悪意である。
人間の悪意ほど怖いものはないと思う。何よりもそれは、予想することが出来ないし、人間の妄想から生まれるものでもないからである。それは、無限の広がりをもった、限りなく現実に存在しているものだからだ。
僕は、人間の悪意に弱い。悪意でなくとも、人間そのものに弱い。人間という生き物が、悪意を溜め込む器のように思えてしまうからではないかと思う。悪意をまったく持っていないと言い切れる人間は、この世に一人もいないだろう。どんな形でそれが現れるのかわからないだけに、怖いなと思ってしまう。
昔から、「地震雷火事親父」などとも言われる。この世の中で怖いもの、ということだ。その言で言えば、一番怖いのは親父だろう(多少ニュアンスは違うが)。人間の怖さは、底がないだけに無限だ。果てしない。つくづく、恐ろしいものだ、と思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、9編の短編を収録した短編集です。それぞれの内容を紹介しようと思います。
「お母さまのロシアのスープ」
わたしとソーニャは双子だ。中国の山奥で質素に暮らしている。ソビエトという国から逃げてきたらしい。
今日はマァさんが来る日だ。マァさんの姿は決して見てはいけないと言われている。そのためにわたしとソーニャは、家の外の物置小屋に行くように言われたのだ。
マァさんが帰った後の今日の料理はごちそうだ。マァさんは、ここまで食材なんかを届けてくれる。その対価に何か金目のものをうちから持っていくから、家の中はもうがらんどうだ。
ある日うちに、絵本でしか見たことのない「じどうしゃ」がやってきた。お母さんの顔色が変わる。部屋に行って、目と耳を塞いでいなさい、と言われたけど…。
「コール」
美雪が実家に帰ってしまう。夫の雄二を亡くしたからだ。その墓参りに、今向かっているところだ。
美雪と雄二と僕は、大学時代からの友人だった。よくつるんでいろんなところに行っては遊んでいた。大事な仲間だった。
二人とも美雪を好きになったことはわかっていた。だから、どちらが先に美雪に想いを伝えるのか、ポーカーで決めることになったんだ。それで、僕は負けたんだけど…。
「押入れのちよ」
失業中の僕は、とにかく格安の物件を見つけなくてはいけなかった。家賃はなるべく低く、でも風呂付きであることは外せない。そういうと不動産屋は、あそこなら、と言って、一軒の物件を紹介したのだった。
そこは、傍目にも結構ぼろぼろの建物だが、広いしまあ悪くない。隣人も変な感じだけど、まあいい。交際中の彼女とは今うまく行っていないけど、これで仕事を見つければ大丈夫だろう。
…全然大丈夫じゃなかった。その風呂付で格安だったその部屋の押入れには、ちよという名の幽霊がいたのだった…。
「老猫」
近親がいないという理由で、先ごろ死んだ叔父の一軒家を手に入れることになった僕。妻に話すと、二つ返事で引越しを決めた。前々から気に入っていたらしい。
その家には、叔父が飼っていただろう猫が棲みついていた。太っていて、皮膚の爛れた醜い猫だ。しかし、娘がその猫に執着した。膿が出ている肌など気にもせずに可愛がっている。
おかしい、と思い始めたのは、叔父の遺したアルバムと、自称画家だった叔父が遺した絵を見た時だった。そこには、今我が家にいるのとまったく同じに見える猫が描かれていた。一応、会社の猫好きの後輩に聞いてみたが、猫の寿命は長くても20年ほどだという。どういうことだろうか…。
「殺意のレシピ」
今日こそは、と文彦は思っている。反りが合わずに喧嘩ばかりしている妻を、もう殺すしかない。
完全犯罪を目論んだ。一般には毒を持っているとは思われていない「アレ」を食べさせればいい。釣りから帰ってきた文彦を、三日前の喧嘩など忘れたかのように笑顔で迎えた妻の、やり直そうと考えているその気持ちに負けそうになるが、やるしかないんだ、と自らを奮い立たせる…。
「介護の鬼」
夫の父親の介護をする日々が続いている。苑子はそのことに苛立っている。日々、舅に虐待を加えることで憂さ晴らしをしている。熱いお粥を垂らしたり、氷水に浸したタオルで体を拭いたり、顔に落書きをしたり。ボケる前は、柔道で鍛えた体を自慢していたものだが、今となっては介護しにくいだけのその体にも苛立ちを覚える。
ふと目を離した隙に、寝たきりで動けないはずの舅の姿が見えない。なんてこと。早いところ見つけてお仕置きをしないと。そんな風に呑気に構えていたのだが…。
「予期せぬ訪問者」
そんなつもりはなかったのだ。と言っても通用しないだろう。
不倫相手を殺してしまった。殺すつもりはなかったのだが、当たり所が悪かったのだ。
死体を始末しなくてはいけない。ぎっくり腰になった体のことを思うと、死体はバラバラにしないといけないだろう。そうして死体を風呂場へと運んだその時。
呼び鈴が鳴った。やり過ごそうとするが、帰る気配がない。仕方なく出ると、清掃の無料サービスだという。追い返すことが出来ずに彼を家に上げるのだが、怪しいいい繕いを繰り返すはめになり…。
「木下闇」
十五年前、当時六歳だった妹の弥生が失踪した。当時八歳だった私は、妹が姿を消した、夏休みの度に訪れていた母の生家を訪ねてみることにした。
以前と変わらぬたたずまいで残る生家には、いとこが一人で住んでいた。特に交わすような会話もないまま、台風が近づいたその日は、泊めてもらうことにした。
敷地内に聳え立つ大木を中心に不審なことが続き、私は決めた。この木に登ってみよう。そうすれば、何かわかるのではないか…。
「しんちゃんの自転車」
夜十一時。子供にとっては真夜中であるその時間に、しんちゃんが自転車を漕いでやってきた。遊ぼう、ということらしい。しんちゃんらしい。行方不明になった神主さんがいるという噂の祠に行きたいようです。
しんちゃんの漕ぐ自転車の荷台にのって、真っ暗な道を進んでいきます。しんちゃんは相変わらず変なことばかり言うし、変な言葉を教えようとします。それでも、しんちゃんに会えて、私は嬉しいのです…。
というような感じです。
たぶん、荻原浩初の短編集ではないでしょうか(たぶんだけど)。短編でもその面白さは全然変わらずに、さすがだな、という感じがします。
さらに本作は、今まで荻原浩が書いていなかったホラーテイストの作品で、それもまた新境地だなと思います。けど、荻原浩節とでも言うのか、文章の雰囲気やユーモアの感じなんかは相変わらずで、だからホラー作品を読んでいる感じがあまりしません。一番雰囲気の近い作品を挙げると、東野圭吾の「毒笑小説」「怪笑小説」「黒笑小説」みたいな感じでしょうか。まあ、収録された短編すべてがそんな感じではないんですけど。
一番好きな話は、「殺意のレシピ」と「介護の鬼」ですね。この二つは、僕が怖いと思う「人間の悪意」みたいなものが全開になっている作品で、結構怖いですね。「殺意のレシピ」はまだユーモアチックに描かれているけど、「介護の鬼」の方は完全にホラーですね。結構怖いです。
表題作である「押入れのちよ」もいいですね。幽霊であるちよのキャラクターが絶妙で、ほのぼのしている感じがします。
「予期せぬ訪問者」もブラックでユーモアな作品で好きだし、「しんちゃんの自転車」はまた違った感じの作品でいいな、と思います。
逆にダメだったのが、「お母さまのロシアのスープ」と「コール」ですね。「お母さまのロシアのスープ」は、話自体は悪くないと思うけど、最後のネタがかなり初めの方でわかってしまったのでちょっと面白くなかった、という感じです。「コール」は、未だに人称が誰がどれなのかよくわからない作品で、読んでいてちょっと戸惑いました。
全般的に面白い作品です。ホラーっぽい作品を書いても、荻原浩の作品は荻原浩らしいです。時に切なく、時に笑えて、時に怖い、そんな作品です。是非是非読んでみてください。
荻原浩「押入れのちよ」
雷だとかジェットコースターとか高いところのような、危険に対して感じる恐怖は、昔から全然大丈夫だ。全然怖くない。むしろ結構好きだったりするかもしれない。バンジージャンプもしてみたいくらいである。今日飛行機に乗る予定なのだけど、ハイジャックとかあったら楽しいだろうな、とか思っているような人間である。
これはきっと、全部予測出来るからだと思う。どんな危険に対しても、何がどうなるのか大体わかっているのである。あとは、注意していさえすればいい。大した問題ではない。こういうものを怖がる気持ちは、あんまりわからない。
幽霊だとかそういったものも、特に怖いと思うことはない。こちらに関しては、昔は結構苦手だったような気もする。暗いところとかで一人でいると多少怖かったりしたし、受験があることを理由に実家への帰省旅行に行かず、初めて一人で夜を過ごした時なんかは、実は結構怖かったような気もする。もちろんそんなそぶりはおくびにも出さないけど。あと、お風呂に入っていて頭を洗うときに目をつむるのが怖かったり(目を開けたら目の前に何かいたら怖いな、とか)、鏡を見るのがちょっと嫌だな(変なものが映ってたら嫌だな、とか)みたいなことは、昔は思っていたかもしれないと思う。
そういえばきっと誰も信じないだろうから言ったことはないのだけど、火の玉をみたことがある。あれは、幼稚園の頃のなんかのイベントでお寺に泊まっていた時のことだと思う(幼稚園の目の前が寺で、墓場もばっちりあるのだ)。例によって肝試しなんかがあったのだけど、そこで見たのだ。まあ、脅かそうと思って用意した小道具だったかもしれないけど、未だに覚えている。
今では、全然余裕である。映画は昔から見てこなかったのでなんとも言えないけど、ホラー映画だって余裕で見れるだろう。あの、貞子がテレビから出てきたのにはビビったけど。
これも、怖さを感じるのは人間の想像力によるものだ、ということが分かっているから怖くないのだろう。全部、気のせいである。合理的な説明がつけられないからと言って怖がる必要はまったくないのである。それは、ただあなたが知らないだけか、あるいはまだ誰も知らないだけかのどちらかでしかないだろう。
しかし、怖いなと思うものが一つだけある。一つという数え方でいいのかわからないけど、それは、人間の悪意である。
人間の悪意ほど怖いものはないと思う。何よりもそれは、予想することが出来ないし、人間の妄想から生まれるものでもないからである。それは、無限の広がりをもった、限りなく現実に存在しているものだからだ。
僕は、人間の悪意に弱い。悪意でなくとも、人間そのものに弱い。人間という生き物が、悪意を溜め込む器のように思えてしまうからではないかと思う。悪意をまったく持っていないと言い切れる人間は、この世に一人もいないだろう。どんな形でそれが現れるのかわからないだけに、怖いなと思ってしまう。
昔から、「地震雷火事親父」などとも言われる。この世の中で怖いもの、ということだ。その言で言えば、一番怖いのは親父だろう(多少ニュアンスは違うが)。人間の怖さは、底がないだけに無限だ。果てしない。つくづく、恐ろしいものだ、と思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、9編の短編を収録した短編集です。それぞれの内容を紹介しようと思います。
「お母さまのロシアのスープ」
わたしとソーニャは双子だ。中国の山奥で質素に暮らしている。ソビエトという国から逃げてきたらしい。
今日はマァさんが来る日だ。マァさんの姿は決して見てはいけないと言われている。そのためにわたしとソーニャは、家の外の物置小屋に行くように言われたのだ。
マァさんが帰った後の今日の料理はごちそうだ。マァさんは、ここまで食材なんかを届けてくれる。その対価に何か金目のものをうちから持っていくから、家の中はもうがらんどうだ。
ある日うちに、絵本でしか見たことのない「じどうしゃ」がやってきた。お母さんの顔色が変わる。部屋に行って、目と耳を塞いでいなさい、と言われたけど…。
「コール」
美雪が実家に帰ってしまう。夫の雄二を亡くしたからだ。その墓参りに、今向かっているところだ。
美雪と雄二と僕は、大学時代からの友人だった。よくつるんでいろんなところに行っては遊んでいた。大事な仲間だった。
二人とも美雪を好きになったことはわかっていた。だから、どちらが先に美雪に想いを伝えるのか、ポーカーで決めることになったんだ。それで、僕は負けたんだけど…。
「押入れのちよ」
失業中の僕は、とにかく格安の物件を見つけなくてはいけなかった。家賃はなるべく低く、でも風呂付きであることは外せない。そういうと不動産屋は、あそこなら、と言って、一軒の物件を紹介したのだった。
そこは、傍目にも結構ぼろぼろの建物だが、広いしまあ悪くない。隣人も変な感じだけど、まあいい。交際中の彼女とは今うまく行っていないけど、これで仕事を見つければ大丈夫だろう。
…全然大丈夫じゃなかった。その風呂付で格安だったその部屋の押入れには、ちよという名の幽霊がいたのだった…。
「老猫」
近親がいないという理由で、先ごろ死んだ叔父の一軒家を手に入れることになった僕。妻に話すと、二つ返事で引越しを決めた。前々から気に入っていたらしい。
その家には、叔父が飼っていただろう猫が棲みついていた。太っていて、皮膚の爛れた醜い猫だ。しかし、娘がその猫に執着した。膿が出ている肌など気にもせずに可愛がっている。
おかしい、と思い始めたのは、叔父の遺したアルバムと、自称画家だった叔父が遺した絵を見た時だった。そこには、今我が家にいるのとまったく同じに見える猫が描かれていた。一応、会社の猫好きの後輩に聞いてみたが、猫の寿命は長くても20年ほどだという。どういうことだろうか…。
「殺意のレシピ」
今日こそは、と文彦は思っている。反りが合わずに喧嘩ばかりしている妻を、もう殺すしかない。
完全犯罪を目論んだ。一般には毒を持っているとは思われていない「アレ」を食べさせればいい。釣りから帰ってきた文彦を、三日前の喧嘩など忘れたかのように笑顔で迎えた妻の、やり直そうと考えているその気持ちに負けそうになるが、やるしかないんだ、と自らを奮い立たせる…。
「介護の鬼」
夫の父親の介護をする日々が続いている。苑子はそのことに苛立っている。日々、舅に虐待を加えることで憂さ晴らしをしている。熱いお粥を垂らしたり、氷水に浸したタオルで体を拭いたり、顔に落書きをしたり。ボケる前は、柔道で鍛えた体を自慢していたものだが、今となっては介護しにくいだけのその体にも苛立ちを覚える。
ふと目を離した隙に、寝たきりで動けないはずの舅の姿が見えない。なんてこと。早いところ見つけてお仕置きをしないと。そんな風に呑気に構えていたのだが…。
「予期せぬ訪問者」
そんなつもりはなかったのだ。と言っても通用しないだろう。
不倫相手を殺してしまった。殺すつもりはなかったのだが、当たり所が悪かったのだ。
死体を始末しなくてはいけない。ぎっくり腰になった体のことを思うと、死体はバラバラにしないといけないだろう。そうして死体を風呂場へと運んだその時。
呼び鈴が鳴った。やり過ごそうとするが、帰る気配がない。仕方なく出ると、清掃の無料サービスだという。追い返すことが出来ずに彼を家に上げるのだが、怪しいいい繕いを繰り返すはめになり…。
「木下闇」
十五年前、当時六歳だった妹の弥生が失踪した。当時八歳だった私は、妹が姿を消した、夏休みの度に訪れていた母の生家を訪ねてみることにした。
以前と変わらぬたたずまいで残る生家には、いとこが一人で住んでいた。特に交わすような会話もないまま、台風が近づいたその日は、泊めてもらうことにした。
敷地内に聳え立つ大木を中心に不審なことが続き、私は決めた。この木に登ってみよう。そうすれば、何かわかるのではないか…。
「しんちゃんの自転車」
夜十一時。子供にとっては真夜中であるその時間に、しんちゃんが自転車を漕いでやってきた。遊ぼう、ということらしい。しんちゃんらしい。行方不明になった神主さんがいるという噂の祠に行きたいようです。
しんちゃんの漕ぐ自転車の荷台にのって、真っ暗な道を進んでいきます。しんちゃんは相変わらず変なことばかり言うし、変な言葉を教えようとします。それでも、しんちゃんに会えて、私は嬉しいのです…。
というような感じです。
たぶん、荻原浩初の短編集ではないでしょうか(たぶんだけど)。短編でもその面白さは全然変わらずに、さすがだな、という感じがします。
さらに本作は、今まで荻原浩が書いていなかったホラーテイストの作品で、それもまた新境地だなと思います。けど、荻原浩節とでも言うのか、文章の雰囲気やユーモアの感じなんかは相変わらずで、だからホラー作品を読んでいる感じがあまりしません。一番雰囲気の近い作品を挙げると、東野圭吾の「毒笑小説」「怪笑小説」「黒笑小説」みたいな感じでしょうか。まあ、収録された短編すべてがそんな感じではないんですけど。
一番好きな話は、「殺意のレシピ」と「介護の鬼」ですね。この二つは、僕が怖いと思う「人間の悪意」みたいなものが全開になっている作品で、結構怖いですね。「殺意のレシピ」はまだユーモアチックに描かれているけど、「介護の鬼」の方は完全にホラーですね。結構怖いです。
表題作である「押入れのちよ」もいいですね。幽霊であるちよのキャラクターが絶妙で、ほのぼのしている感じがします。
「予期せぬ訪問者」もブラックでユーモアな作品で好きだし、「しんちゃんの自転車」はまた違った感じの作品でいいな、と思います。
逆にダメだったのが、「お母さまのロシアのスープ」と「コール」ですね。「お母さまのロシアのスープ」は、話自体は悪くないと思うけど、最後のネタがかなり初めの方でわかってしまったのでちょっと面白くなかった、という感じです。「コール」は、未だに人称が誰がどれなのかよくわからない作品で、読んでいてちょっと戸惑いました。
全般的に面白い作品です。ホラーっぽい作品を書いても、荻原浩の作品は荻原浩らしいです。時に切なく、時に笑えて、時に怖い、そんな作品です。是非是非読んでみてください。
荻原浩「押入れのちよ」
優しい音楽(瀬尾まいこ)
きちんと考えてみれば当たり前のことなんだけど、なんとなくありそうなもの、というのは、実際のところどこにもないのだろうな、と思う。世の中は、目の前にあるものとどこにもないものとで出来ていて、だから結局、自分の目の前にあるものがすべてなんだろうな、ということだ。
目の前になければ、僕らは空想する。あんなのがどこかにあるかもしれない。こんなのがどこかにあったらいいな。そんな風にして僕らは、目の前にないものを空想してみる。
でも、やっぱりそれはないのである。実にありそうで、実に現実的だけど、でもやはりそれはないのである。
絵葉書の写真のようなものだろう。
それは、実際この世の中のどこかで撮っているわけだから、まあ存在すると言えば存在するのだけど、それは写真の中だけの存在である。まったく同じ場所へ行ってみても、写真の通りの光景に出会えることはまずない。少しずつ何かが違うし、決定的に違うと思わせるような何かがそこには必ずあるはずだと思う。ありそうなものというのは、そういう絵葉書の写真に似ていると思う。
でも、実際のところ世の中というのは、そういうありそうでないものから出来ているのだろうとも思うのだ。いやそうではなく、そこに生きる人々が、ありそうでないものを夢想し、それを追いかけることで、世界というものが成り立っているのではないかと思うのだ。
改めて考えるまでもなく、僕らが生きる世界というのは狭いものだ。日常生活は、どんなに広く捉えたところで、県内と言ったレベルで収まってしまう。そこから外に出るような日常というのはなかなかない。
考えてみれば不思議なもので、そんな僕らがいる世界と同じどこかで、誰かが剣を振るい、誰かがパンを求めているのである。僕らはそれを知っているつもりだけど、でも見たことはない。目の前にはない。空想だ。その空想はすべて、ありそうでないものでしかない。どんなにリアルな空想でも、ありそうでないものなのだ。
そんな大きなことを考えなくてもいい。例えば、隣の家というのはもはや、ありそうでないものでしかない。そこでの生活を、僕が知ることはない。すべて、空想でしかない。それは、どんなにきちんと調べたところで、ありそうでないものなのである。
ありそうでないものというのは、人を結構惹き付ける。目の前にある世界とは違う世界が広がっているに違いない、という期待があるからだ。どんな世界が広がっているのだろう、という好奇心があるからだ。
そうして、ありそうでないものというのは、僕らの世界の中でゆっくりと大きくなっていくのである。それは、独りでに成長を続け、また別のありそうでないものを生み出すかもしれない。
恐らく、小説というのは、その残滓を集めたものなのだろう、と思う。ありそうでないものの欠片を拾い集め、なんとなくきちんとした形に組み上げたものが小説なのだ。
ありそうでないものが僕らに迫ってくる。不安定で、でも魅力的な何かを孕んだ世界が、僕らの前に広がっていく。それは、どこまでも星が見える夜のようにしゃんとしている。だからきっと、小説を読むのかもしれないな、と思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、三篇の短編を収録した短編集になっています。それぞれの内容を紹介しようと思います。
「優しい音楽」
千波とは、ある日突然出逢った。駅のホームで彼女が僕を見つけたのだ。じろじろと顔を見られる。僕も戸惑っていたが、彼女も戸惑っていた。要領の得ない説明が続く。
結局よくわからないままに、僕は彼女のことを好きになってしまった。彼女も、相変わらず要領を得ないが、付き合ってくれるという。そうして僕たちは恋人になった。
二人は、相性がよかった。すごくよかった。でも、一つだけ千波が拒否することがあるのだ。
それは、僕が千波の家族に会うということ。
でも、無理を言ってようやく、彼女の家族に会える日が来た…。
「タイムラグ」
平太はずるい。平太の頼みは断れないと知ってて、こんなことを頼んでくる。私の気持ちなんて、全然考えてもくれない。でも、結局は押し切られてしまうのだ。平太のことが好きだから。
一日だけ、子供を預かって欲しい、というのだ。
平太と私は付き合っているが、平太には奥さんも子供もいる。いろいろ理屈を捏ねていたが、結局のところ平太は奥さんと二人で旅行に行くのだ。子供を置いて。子供の世話を、不倫相手の私に押し付けて。
そうして旅行当日。平太の子供がやってきた。不機嫌そうで会話がなかなか弾まない。それでも次第に打ち解けて、豪遊しようという話になるのだけど…。
「がらくた効果」
家に帰った僕は、同棲相手のはな子が、「拾ってきちゃった」というのを聞く。
はな子は、何でも拾ってくる。もらったり買ってきたりというのもあって、部屋にはがらくたが雑然と増え続けている。今回もまあ、そんな類のものだろうと思っていた。
しかし甘かった。今回はな子が拾ってきたものは、今までのそれらとはまるで違うものだった。
佐々木さん、という名前のおじさんだった。はな子は、おじさんを拾ってきた、というのである。
要領の得ない説明を聞き、結局押し込められる形でおじさんとの共同生活が始まることになるのだが…。
というような話です。
どの話も、僕の好きなタイプでした。ちょっとずれてるというか、ちょっと非日常というか、そういう不可思議感みたいなものが作品から滲み出ていて、すごくいいな、と思いました。
一番好きな話は「がらくた効果」ですね。突然おじさんを拾ってきた、なんていう設定からして度肝を抜かれるけど、それだけではなく、おじさんとの共同生活が実にいい感じで進むのである。居候なのにあっさり慣れてしまう佐々木さんもいいし、そんな佐々木さんとの共同生活に戸惑いながらも慣れていく僕もいい。なんだかんだでうまくいき、またはな子のがらくた集めも、最終的に話にオチをつける形になって、うまいなぁ、という感じがした。
「優しい音楽」も、千波が何かを隠しているのがわかるんだけど、読みはじめではそれがなんだかわからない。わからないから、会話がチグハグなものに聞こえて、それがおかしい。読んでる側からしてもおかしな会話なのに、千波だけはそうは思っていないところが面白い。その謎が明かされてから千波の家族と関わる辺りもなかなかのもので、ラストもいい。
「タイムラグ」は、平太の子供のキャラクターが本当にいい。すごくいい子なんだけど、ちょっと変わっていて、ちゃんとしてるんだけど、どこか抜けてるみたいな、そんなとぼけたキャラクターがよかったですね。その後の展開も、なんでこんなことになっているんだろう、みたいなことになってきて、面白かったです。
瀬尾まいこの作品は、本作とあと「幸福な食卓」しか読んだことがないけど、瀬尾まいこの小説に流れる雰囲気みたいなものは本当に好きだな、と思いました。ちょっと変わったキャラクターが出てきて、ストーリーも、捻ってあるわけではないんだけど、どこか普通じゃないみたいなところがいいです。なんか不思議な感じです。
すごくサラリと読める作品で、でもどこか深く感じいる部分のある作品ではないかと思います。僕はすごく好きです。これからも瀬尾まいこの小説はガンガン読んでいこうと思います。皆さんも、是非読んでみてください。
瀬尾まいこ「優しい音楽」
目の前になければ、僕らは空想する。あんなのがどこかにあるかもしれない。こんなのがどこかにあったらいいな。そんな風にして僕らは、目の前にないものを空想してみる。
でも、やっぱりそれはないのである。実にありそうで、実に現実的だけど、でもやはりそれはないのである。
絵葉書の写真のようなものだろう。
それは、実際この世の中のどこかで撮っているわけだから、まあ存在すると言えば存在するのだけど、それは写真の中だけの存在である。まったく同じ場所へ行ってみても、写真の通りの光景に出会えることはまずない。少しずつ何かが違うし、決定的に違うと思わせるような何かがそこには必ずあるはずだと思う。ありそうなものというのは、そういう絵葉書の写真に似ていると思う。
でも、実際のところ世の中というのは、そういうありそうでないものから出来ているのだろうとも思うのだ。いやそうではなく、そこに生きる人々が、ありそうでないものを夢想し、それを追いかけることで、世界というものが成り立っているのではないかと思うのだ。
改めて考えるまでもなく、僕らが生きる世界というのは狭いものだ。日常生活は、どんなに広く捉えたところで、県内と言ったレベルで収まってしまう。そこから外に出るような日常というのはなかなかない。
考えてみれば不思議なもので、そんな僕らがいる世界と同じどこかで、誰かが剣を振るい、誰かがパンを求めているのである。僕らはそれを知っているつもりだけど、でも見たことはない。目の前にはない。空想だ。その空想はすべて、ありそうでないものでしかない。どんなにリアルな空想でも、ありそうでないものなのだ。
そんな大きなことを考えなくてもいい。例えば、隣の家というのはもはや、ありそうでないものでしかない。そこでの生活を、僕が知ることはない。すべて、空想でしかない。それは、どんなにきちんと調べたところで、ありそうでないものなのである。
ありそうでないものというのは、人を結構惹き付ける。目の前にある世界とは違う世界が広がっているに違いない、という期待があるからだ。どんな世界が広がっているのだろう、という好奇心があるからだ。
そうして、ありそうでないものというのは、僕らの世界の中でゆっくりと大きくなっていくのである。それは、独りでに成長を続け、また別のありそうでないものを生み出すかもしれない。
恐らく、小説というのは、その残滓を集めたものなのだろう、と思う。ありそうでないものの欠片を拾い集め、なんとなくきちんとした形に組み上げたものが小説なのだ。
ありそうでないものが僕らに迫ってくる。不安定で、でも魅力的な何かを孕んだ世界が、僕らの前に広がっていく。それは、どこまでも星が見える夜のようにしゃんとしている。だからきっと、小説を読むのかもしれないな、と思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、三篇の短編を収録した短編集になっています。それぞれの内容を紹介しようと思います。
「優しい音楽」
千波とは、ある日突然出逢った。駅のホームで彼女が僕を見つけたのだ。じろじろと顔を見られる。僕も戸惑っていたが、彼女も戸惑っていた。要領の得ない説明が続く。
結局よくわからないままに、僕は彼女のことを好きになってしまった。彼女も、相変わらず要領を得ないが、付き合ってくれるという。そうして僕たちは恋人になった。
二人は、相性がよかった。すごくよかった。でも、一つだけ千波が拒否することがあるのだ。
それは、僕が千波の家族に会うということ。
でも、無理を言ってようやく、彼女の家族に会える日が来た…。
「タイムラグ」
平太はずるい。平太の頼みは断れないと知ってて、こんなことを頼んでくる。私の気持ちなんて、全然考えてもくれない。でも、結局は押し切られてしまうのだ。平太のことが好きだから。
一日だけ、子供を預かって欲しい、というのだ。
平太と私は付き合っているが、平太には奥さんも子供もいる。いろいろ理屈を捏ねていたが、結局のところ平太は奥さんと二人で旅行に行くのだ。子供を置いて。子供の世話を、不倫相手の私に押し付けて。
そうして旅行当日。平太の子供がやってきた。不機嫌そうで会話がなかなか弾まない。それでも次第に打ち解けて、豪遊しようという話になるのだけど…。
「がらくた効果」
家に帰った僕は、同棲相手のはな子が、「拾ってきちゃった」というのを聞く。
はな子は、何でも拾ってくる。もらったり買ってきたりというのもあって、部屋にはがらくたが雑然と増え続けている。今回もまあ、そんな類のものだろうと思っていた。
しかし甘かった。今回はな子が拾ってきたものは、今までのそれらとはまるで違うものだった。
佐々木さん、という名前のおじさんだった。はな子は、おじさんを拾ってきた、というのである。
要領の得ない説明を聞き、結局押し込められる形でおじさんとの共同生活が始まることになるのだが…。
というような話です。
どの話も、僕の好きなタイプでした。ちょっとずれてるというか、ちょっと非日常というか、そういう不可思議感みたいなものが作品から滲み出ていて、すごくいいな、と思いました。
一番好きな話は「がらくた効果」ですね。突然おじさんを拾ってきた、なんていう設定からして度肝を抜かれるけど、それだけではなく、おじさんとの共同生活が実にいい感じで進むのである。居候なのにあっさり慣れてしまう佐々木さんもいいし、そんな佐々木さんとの共同生活に戸惑いながらも慣れていく僕もいい。なんだかんだでうまくいき、またはな子のがらくた集めも、最終的に話にオチをつける形になって、うまいなぁ、という感じがした。
「優しい音楽」も、千波が何かを隠しているのがわかるんだけど、読みはじめではそれがなんだかわからない。わからないから、会話がチグハグなものに聞こえて、それがおかしい。読んでる側からしてもおかしな会話なのに、千波だけはそうは思っていないところが面白い。その謎が明かされてから千波の家族と関わる辺りもなかなかのもので、ラストもいい。
「タイムラグ」は、平太の子供のキャラクターが本当にいい。すごくいい子なんだけど、ちょっと変わっていて、ちゃんとしてるんだけど、どこか抜けてるみたいな、そんなとぼけたキャラクターがよかったですね。その後の展開も、なんでこんなことになっているんだろう、みたいなことになってきて、面白かったです。
瀬尾まいこの作品は、本作とあと「幸福な食卓」しか読んだことがないけど、瀬尾まいこの小説に流れる雰囲気みたいなものは本当に好きだな、と思いました。ちょっと変わったキャラクターが出てきて、ストーリーも、捻ってあるわけではないんだけど、どこか普通じゃないみたいなところがいいです。なんか不思議な感じです。
すごくサラリと読める作品で、でもどこか深く感じいる部分のある作品ではないかと思います。僕はすごく好きです。これからも瀬尾まいこの小説はガンガン読んでいこうと思います。皆さんも、是非読んでみてください。
瀬尾まいこ「優しい音楽」
使命と魂のリミット(東野圭吾)
人に憎しみを抱くという経験は、なかなか出来るものではないだろう。
人を嫌いになる、ということは日常茶飯事だ。イライラしたりムカついたり腹が立ったり、なんでもいいのだけれども、あらゆる形で僕は人を嫌いになる。人間関係が苦手というのもあるのだけど、そもそも人間があんまり好きじゃないのだろうな、と思う。
ただ、嫌いになるということと憎しみを抱くというのとは、大分違う話である。
嫌いな相手というのは、基本的に自分の世界から追い出すようにすることが出来るし、接点をもとうという発想にならないものだ。遠ざけることによって、うまく関係を築こうとするし、そもそもいないものとして認識するように努力することが出来るものである。
嫌いな人間というのはとかく鬱陶しいものだけど、こちら側がなんとか努力をすれば、関係を断ち切ることだって難しいことではない。要は言ってしまえば、嫌いな相手というのは、こちらの一方的な思い込みによる一方的な関係なのである。
しかし、憎い相手はそうはいかないものだ。
憎い相手の場合、その存在は、勝手に僕らの世界に入り込んでいるのである。いや、その言い方は違うかもしれない。ある日突然、その存在が世界に組み込まれてしまうのである。自分の世界が、その存在がいる前提で存在してしまう。避けようにも遠ざけようにも、がっちりと世界に組み込まれてしまっているのでそういうわけにもいかない。見たくなくても、聞きたくなくても、意識したくなくても、その存在感が消えることはない。
だから、その関係を断ち切ることも容易ではない。もはやそれは、一方的な関係ではない。何らかの理由で深く繋がれてしまったのであって、こちらが努力しただけではその関係を切ることは難しいのである。
だからこそ人は、復讐というものを考えるのかもしれない。どうしようもなく繋がってしまった関係を断ち切りたいがために、世界に勝手に存在を始めたその鬱陶しさを忘れたいがために、人は復讐という手段を思いつくのかもしれない。
人を憎いと思ったことも、復讐をしたいと思ったことも、恐らくないだろう。嫌いという感情がかなり大きく膨らんで、それに近いものになったことは何度もあるような気がするけど、でもやはりそれは憎しみではないと言える。結局、断ち切ろうと思えば自らの努力で断ち切れるものだったと思うからだ。
人を憎いと思う感情は、一体どんなものなのだろうか。関わりたくないのに、常に自分の世界の中に大きく存在する。意識したくないのに、その相手のことばかり浮かぶ。忘れたいのに忘れることが出来ない。常にそんな思いにさいなまれながら日々を過ごすことになるのだろう。
そうしてそんな日々が常態になれば、いつしか考えることだろう。この憎しみの感情を消せないだろうか、と。
恐らく、どんな手段を以っても消すことは出来ないのだろう。一度憎いと思ってしまった相手を、どんな形であれきちんと許すことは難しいだろうし、またどうやっても自分の世界から完全に消え去ることもない。
消すことも忘れることも出来ない憎しみという感情。しかし、消すことが出来るかもしれない、と人は虚しい空想を抱いてしまうのだ。
復讐することで、この憎しみが消えるかもしれない、と。
そんなわけはないだろう。憎しみというものは、今現在の相手に対してもそうだろうが、それ以上に、終わってしまったかつての相手に対して強く抱いているものだろう。今現在の相手に復讐を出来たとしても、かつての相手に復讐をすることは出来ない。だからこそ、憎しみという感情は消えることはないのである。
それでも人は復讐を考える。なんとなくその状況は、ビル火災に似ているな、と思う。高層階に取り残された人間は、後ろから迫り来る火を見て考える。ここから飛び降りたら助かるのではないか、と。最善の策は、その場で動かず救助を待つことだろう。しかし、迫り来る火を前に人は穏やかではいられない。飛び降りることで、火からは逃れられるが、命が助かる保証はない。それでも人は、その状況になれば必ず、飛び降りた方がいいだろうか、と考えることだろう。
復讐もそれに似ている。憎しみという感情を背にして、人は考える。復讐という手段を採ったら、今より楽になれるのではないか、と。それは、一時の幻想に過ぎないのだが、迫り来る憎しみという感情の前で、人はどこかに救いを求めるものなのだ。
復讐をすることの善悪を問うつもりはない。しかし考えてみれば、復讐がなんと虚しいものかということは分かるだろう。何も解決をもたらさないし、前に進むこともない。ただ、さらに誰かを傷つけることになるだけだ。
それでも、復讐に手を染める人間を弱いとするのは酷だな、とも思う。憎しみという、消去出来ない感情をもてあまし、消すことが出来ないことにも悩みつつ、前に進めるかもしれない、と期待して復讐をするのだから。
諍いや争いは絶えることはないし、不幸な事故もなくなることはない。人が生きている限り、どこかで日々憎しみという感情が生まれていく。消えることのないその感情は、つもりにつもって世界を淀ませることだろう。その淀みこそが、人を復讐に駆り立ててしまうのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
氷室夕紀は研修医だ。医師免許を取得し、今は様々な科を回りながら、様々なことを学んでいる。女性の研修医ということで患者から軽んじられることも多いが、それはそれで仕方ないと諦めて、今は心臓血管外科で日々仕事に勤しんでいる。
彼女が医師を志したのにはわけがある。
子供の頃に父が死んだ。心臓の病気だった。難しい手術だが、心臓手術の名医が手術をしてくれることになって大丈夫だろうと思っていたのに、手術をして死んだのである。
初めは、難しい手術だったのだから、と思った。しかしその後、執刀した西園という医師と自分の母親がいい仲になっていることを知り、夕紀の中に黒い疑惑が湧きあがる。
母と一緒になるために、わざと手術に失敗したのではないか…。
その疑惑から離れられなくなった夕紀は、医師を、心臓血管外科医を目指すことにした。そうすれば、あの時手術室で何が起こったのかわかるかもしれないからだ。そして今夕紀は、当時父の執刀医だった西園の元で、心臓外科を学んでいる。
そんな夕紀が研修医として働く病院で、不審な事件が頻発するようになる。
一番初めは警告文だった。病院の敷地内に繋がれた飼い犬の首輪に挟まれていたのを、偶然夕紀が見つけたのである。そこには、今まで隠してきた医療ミスを公表しろ。さもなくば病院を破壊する。という内容の文章が書かれていた。
該当するような医療ミスに心当たりはなく、また「破壊する」という言葉にも不審なものを感じたが、当初は悪戯だと考える向きが強かった。しかし、その楽観をよそに、病院を舞台にさらに不審な事件が続いていくことになる。
病院に対して警告文などを仕掛けている直井譲治は、ある計画を胸に秘めている。そのために、うまいこと知り合うことになった看護婦と付き合って情報を得、また心臓血管手術について調べ、そして様々な器機を駆使しながら、自らの計画を少しずつ完成させていく。
譲治の目的は、一体何なのだろうか…。
というような話です。
もうさすが東野圭吾、と言ったところです。抜群に面白い作品だと思います。
本作は、前作「赤い指」と同様、一般に「倒叙モノ」と呼ばれる形態です。これはつまり、犯人が最初から分かっていて、その犯人の視点から物語が進んでいく、みたいな感じのもので、わかりやすく言えば古畑任三郎みたいな感じです。
本作でも、病院に不審な仕掛けを施している犯人は、冒頭から分かります。つまり、犯人が誰なのか、ということをメインにした作品ではありません。
この「倒叙モノ」という作品は、犯人は誰か、という点で読者を引っ張れない点でなかなか難しいのだけど、しかしさすがに東野圭吾はやりますね。ぐいぐい読者を引っ張っていきます。譲治が一体何を目的にしているのか、という点が最大の謎で、そこに収束する過程もすごくうまいし、譲治の犯行を追いかける警察の動きも丁寧です。また、譲治を中心とした事件だけを主題に書くのではなく、父親を見殺しにしたのかもしれない執刀医西園と、その下で研修医として学ぶ夕紀という人間ドラマも織り込んで、本当に深みのある作品になっていると思います。
譲治の目的が少しずつ明かされていく過程は、さすがミステリ作家の大御所というような緻密なもので、読みながらワクワクしてしまいます。また、最後の最後の手術をいかに乗り切るかという緊迫感や、その手術にこめられた意味など、物語に多様性を持たせているところも、本当にさすがだな、と思います。
また、本作の前半は、基本的に特に何も起こらなくて、80ページくらい読んでようやく警告文が出てくるのだけど、それでも全然読ませますね。病院や登場人物の紹介や、譲治の計画の進み具合なんかをちょろちょろと書いてあるだけのくだりなのに、全然面白くて、トリックだとか事件だとかに拠らずに読者を引っ張っていくことの出来るだけの力量が、東野圭吾にはあるのだろうな、という感じがしました。
譲治が犯行を決意するそのきっかけとなった事件は、さすがに逆恨みという感じがして、そのためにあんな大それたことが出来るだろうか、という気がしないでもなかったのだけど、でもある意味で現代的な動機だとも思いました。そういうこともあるだろうし、そういう人もいるだろうな、と。
ただ僕が本作で最も残念だなと思うのは、そのタイトルです。僕は、これまでの東野圭吾の作品のタイトルは、単純で短いけど、本質を突いた真っ直ぐでいいなと思っていたのだけど、本作のタイトルは、まあ内容には合ってるかもしれないけど、でもスマートさが足りないな、という気がしてしまいました。まあ、貶すところがないから無理矢理貶すところを探してみました、みたいな感じではありますけど。
さすが東野圭吾、という作品です。帯の、
「あの日、手術室で何があったのか?
今日、手術室で何が起きるのか?」
という文句もなかなか秀逸だと思います。いい作品です。読んでみてください。
東野圭吾「使命と魂のリミット」
人を嫌いになる、ということは日常茶飯事だ。イライラしたりムカついたり腹が立ったり、なんでもいいのだけれども、あらゆる形で僕は人を嫌いになる。人間関係が苦手というのもあるのだけど、そもそも人間があんまり好きじゃないのだろうな、と思う。
ただ、嫌いになるということと憎しみを抱くというのとは、大分違う話である。
嫌いな相手というのは、基本的に自分の世界から追い出すようにすることが出来るし、接点をもとうという発想にならないものだ。遠ざけることによって、うまく関係を築こうとするし、そもそもいないものとして認識するように努力することが出来るものである。
嫌いな人間というのはとかく鬱陶しいものだけど、こちら側がなんとか努力をすれば、関係を断ち切ることだって難しいことではない。要は言ってしまえば、嫌いな相手というのは、こちらの一方的な思い込みによる一方的な関係なのである。
しかし、憎い相手はそうはいかないものだ。
憎い相手の場合、その存在は、勝手に僕らの世界に入り込んでいるのである。いや、その言い方は違うかもしれない。ある日突然、その存在が世界に組み込まれてしまうのである。自分の世界が、その存在がいる前提で存在してしまう。避けようにも遠ざけようにも、がっちりと世界に組み込まれてしまっているのでそういうわけにもいかない。見たくなくても、聞きたくなくても、意識したくなくても、その存在感が消えることはない。
だから、その関係を断ち切ることも容易ではない。もはやそれは、一方的な関係ではない。何らかの理由で深く繋がれてしまったのであって、こちらが努力しただけではその関係を切ることは難しいのである。
だからこそ人は、復讐というものを考えるのかもしれない。どうしようもなく繋がってしまった関係を断ち切りたいがために、世界に勝手に存在を始めたその鬱陶しさを忘れたいがために、人は復讐という手段を思いつくのかもしれない。
人を憎いと思ったことも、復讐をしたいと思ったことも、恐らくないだろう。嫌いという感情がかなり大きく膨らんで、それに近いものになったことは何度もあるような気がするけど、でもやはりそれは憎しみではないと言える。結局、断ち切ろうと思えば自らの努力で断ち切れるものだったと思うからだ。
人を憎いと思う感情は、一体どんなものなのだろうか。関わりたくないのに、常に自分の世界の中に大きく存在する。意識したくないのに、その相手のことばかり浮かぶ。忘れたいのに忘れることが出来ない。常にそんな思いにさいなまれながら日々を過ごすことになるのだろう。
そうしてそんな日々が常態になれば、いつしか考えることだろう。この憎しみの感情を消せないだろうか、と。
恐らく、どんな手段を以っても消すことは出来ないのだろう。一度憎いと思ってしまった相手を、どんな形であれきちんと許すことは難しいだろうし、またどうやっても自分の世界から完全に消え去ることもない。
消すことも忘れることも出来ない憎しみという感情。しかし、消すことが出来るかもしれない、と人は虚しい空想を抱いてしまうのだ。
復讐することで、この憎しみが消えるかもしれない、と。
そんなわけはないだろう。憎しみというものは、今現在の相手に対してもそうだろうが、それ以上に、終わってしまったかつての相手に対して強く抱いているものだろう。今現在の相手に復讐を出来たとしても、かつての相手に復讐をすることは出来ない。だからこそ、憎しみという感情は消えることはないのである。
それでも人は復讐を考える。なんとなくその状況は、ビル火災に似ているな、と思う。高層階に取り残された人間は、後ろから迫り来る火を見て考える。ここから飛び降りたら助かるのではないか、と。最善の策は、その場で動かず救助を待つことだろう。しかし、迫り来る火を前に人は穏やかではいられない。飛び降りることで、火からは逃れられるが、命が助かる保証はない。それでも人は、その状況になれば必ず、飛び降りた方がいいだろうか、と考えることだろう。
復讐もそれに似ている。憎しみという感情を背にして、人は考える。復讐という手段を採ったら、今より楽になれるのではないか、と。それは、一時の幻想に過ぎないのだが、迫り来る憎しみという感情の前で、人はどこかに救いを求めるものなのだ。
復讐をすることの善悪を問うつもりはない。しかし考えてみれば、復讐がなんと虚しいものかということは分かるだろう。何も解決をもたらさないし、前に進むこともない。ただ、さらに誰かを傷つけることになるだけだ。
それでも、復讐に手を染める人間を弱いとするのは酷だな、とも思う。憎しみという、消去出来ない感情をもてあまし、消すことが出来ないことにも悩みつつ、前に進めるかもしれない、と期待して復讐をするのだから。
諍いや争いは絶えることはないし、不幸な事故もなくなることはない。人が生きている限り、どこかで日々憎しみという感情が生まれていく。消えることのないその感情は、つもりにつもって世界を淀ませることだろう。その淀みこそが、人を復讐に駆り立ててしまうのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
氷室夕紀は研修医だ。医師免許を取得し、今は様々な科を回りながら、様々なことを学んでいる。女性の研修医ということで患者から軽んじられることも多いが、それはそれで仕方ないと諦めて、今は心臓血管外科で日々仕事に勤しんでいる。
彼女が医師を志したのにはわけがある。
子供の頃に父が死んだ。心臓の病気だった。難しい手術だが、心臓手術の名医が手術をしてくれることになって大丈夫だろうと思っていたのに、手術をして死んだのである。
初めは、難しい手術だったのだから、と思った。しかしその後、執刀した西園という医師と自分の母親がいい仲になっていることを知り、夕紀の中に黒い疑惑が湧きあがる。
母と一緒になるために、わざと手術に失敗したのではないか…。
その疑惑から離れられなくなった夕紀は、医師を、心臓血管外科医を目指すことにした。そうすれば、あの時手術室で何が起こったのかわかるかもしれないからだ。そして今夕紀は、当時父の執刀医だった西園の元で、心臓外科を学んでいる。
そんな夕紀が研修医として働く病院で、不審な事件が頻発するようになる。
一番初めは警告文だった。病院の敷地内に繋がれた飼い犬の首輪に挟まれていたのを、偶然夕紀が見つけたのである。そこには、今まで隠してきた医療ミスを公表しろ。さもなくば病院を破壊する。という内容の文章が書かれていた。
該当するような医療ミスに心当たりはなく、また「破壊する」という言葉にも不審なものを感じたが、当初は悪戯だと考える向きが強かった。しかし、その楽観をよそに、病院を舞台にさらに不審な事件が続いていくことになる。
病院に対して警告文などを仕掛けている直井譲治は、ある計画を胸に秘めている。そのために、うまいこと知り合うことになった看護婦と付き合って情報を得、また心臓血管手術について調べ、そして様々な器機を駆使しながら、自らの計画を少しずつ完成させていく。
譲治の目的は、一体何なのだろうか…。
というような話です。
もうさすが東野圭吾、と言ったところです。抜群に面白い作品だと思います。
本作は、前作「赤い指」と同様、一般に「倒叙モノ」と呼ばれる形態です。これはつまり、犯人が最初から分かっていて、その犯人の視点から物語が進んでいく、みたいな感じのもので、わかりやすく言えば古畑任三郎みたいな感じです。
本作でも、病院に不審な仕掛けを施している犯人は、冒頭から分かります。つまり、犯人が誰なのか、ということをメインにした作品ではありません。
この「倒叙モノ」という作品は、犯人は誰か、という点で読者を引っ張れない点でなかなか難しいのだけど、しかしさすがに東野圭吾はやりますね。ぐいぐい読者を引っ張っていきます。譲治が一体何を目的にしているのか、という点が最大の謎で、そこに収束する過程もすごくうまいし、譲治の犯行を追いかける警察の動きも丁寧です。また、譲治を中心とした事件だけを主題に書くのではなく、父親を見殺しにしたのかもしれない執刀医西園と、その下で研修医として学ぶ夕紀という人間ドラマも織り込んで、本当に深みのある作品になっていると思います。
譲治の目的が少しずつ明かされていく過程は、さすがミステリ作家の大御所というような緻密なもので、読みながらワクワクしてしまいます。また、最後の最後の手術をいかに乗り切るかという緊迫感や、その手術にこめられた意味など、物語に多様性を持たせているところも、本当にさすがだな、と思います。
また、本作の前半は、基本的に特に何も起こらなくて、80ページくらい読んでようやく警告文が出てくるのだけど、それでも全然読ませますね。病院や登場人物の紹介や、譲治の計画の進み具合なんかをちょろちょろと書いてあるだけのくだりなのに、全然面白くて、トリックだとか事件だとかに拠らずに読者を引っ張っていくことの出来るだけの力量が、東野圭吾にはあるのだろうな、という感じがしました。
譲治が犯行を決意するそのきっかけとなった事件は、さすがに逆恨みという感じがして、そのためにあんな大それたことが出来るだろうか、という気がしないでもなかったのだけど、でもある意味で現代的な動機だとも思いました。そういうこともあるだろうし、そういう人もいるだろうな、と。
ただ僕が本作で最も残念だなと思うのは、そのタイトルです。僕は、これまでの東野圭吾の作品のタイトルは、単純で短いけど、本質を突いた真っ直ぐでいいなと思っていたのだけど、本作のタイトルは、まあ内容には合ってるかもしれないけど、でもスマートさが足りないな、という気がしてしまいました。まあ、貶すところがないから無理矢理貶すところを探してみました、みたいな感じではありますけど。
さすが東野圭吾、という作品です。帯の、
「あの日、手術室で何があったのか?
今日、手術室で何が起きるのか?」
という文句もなかなか秀逸だと思います。いい作品です。読んでみてください。
東野圭吾「使命と魂のリミット」
図書館戦争(有川浩)
本を読む、ということに、人々は何を求めているのだろうか。
これは、本を読む人間と本を読まない人間とで、大きくことなるのだろう。
本を読む人間からすれば、本を読むことはひたすら娯楽である。もちろん、人によっては情報を得るためだったり、あるいは共通の話題を得るためだったりするかもしれないとは思う。しかし、基本的には娯楽である。どんな文学作品を読もうが、どんなグロテスクな作品を読もうが、それが楽しいからこそ読んでいるわけである。これは、本読みから、今さら何を言っているのだ、と言われそうなくらい当たり前なことだし、わざわざそんなことを確認しなくてはいけないのか、と言うほど普通なことである。
しかし、本を読まない人間、本をあまり読まない人間からすれば、それがそう当たり前のことでもないようだ、ということを知ることになるのである。
これはまあどういう状況かと言えば、例えば親が子供に本を読ませるだとか、教師が生徒に本を読ませるだとか、そういう状況である。
そういう、誰かに本を読ませる、という状況になった時、人は、読書というものを単なる娯楽とは捉えないようである。何か、本を読むことを、高尚なものとして捉えたがるのである。
だからこそ、「有害図書」などという言葉が生まれたりするのである。
本を読むということに、有害も何もない、と僕は思うのである。読んでいる本人からすれば、どんな本であろうが、有害もへったくれもない。純粋に、それが面白いかどうか、ということが重要なのであって、それ以外は大した問題ではないはずである。
しかし、それを外から見る人間はそう思わない。やれ残虐なシーンがあるだとか、やれエッチなシーンがあるだとか、そんな部分だけをあげつらって文句を言うのである。なんともおかしなものだ、と僕は思うのだ。
それに、感動を強要されたりすることも、僕としては不本意なのである。
ここからは、学生時代の国語の授業批判になるのだけど、あの国語というのは、僕から言わせてもらえれば、感動の押し付けでしかなかったと思うのだ。
太宰治だの夏目漱石だの森鴎外だのという文豪の作品が教科書に載っていて、それを読まされるわけだけど、僕からすればそんな作品はまるで面白くないし、感動も出来ないし、何も感じることなどないのである。
しかしそれを教師は、名作だという言葉で良さを押し付けるのだ。そうは口に出さないけど、この作品に感動しないなんて、日本人としてありえない、みたいなそんな雰囲気を感じるのである。
そうではないだろう、と僕は思うのである。
素晴らしいと言われる作品の良さを押し付けるのではなく、それぞれが持つ感受性の志向というものをもっと伸ばすのが教育というものではないかと思うのである。人はそれぞれ、感受性の志向が違うはずなのである。それを画一的な方向へと導くのではなく、個性を認める形で読書を勧めて欲しかったなぁ、と思うのである。
なんだか、初めの話から大分離れた話になってきたけど、とにかく、読書というものはもっと自由であるべきだと僕は思うのである。
幸いにして僕は、今自由に読書を楽しんでいる。名作を読めと強要されることもなければ、有害図書だからダメだと制限を加えられることもない。何を読んでもいいし、何で楽しんでもいい。やはり、読書というのは、こういう自由さと共になくてはいけないと思うのである。
もし、読む本に何らかの制限を加えられたら、と想像してみる。あらすじを読んだり、あるいは人からの評判を聞いたりして、すごく面白そうな小説があるのに、それを自分は何らかの理由で読むことができないとしたら…。
それは、今の僕にはこの上ない不幸である。読めない本が一冊とかならまだ諦めるかもしれないが、その冊数がどんどん増えていけば、めんどくさいがり屋の僕でさえ、なんらかの抗議行動をするだろうと思えるくらいに、僕は不幸を感じるだろうと思う。
憲法では確か、表現の自由なんかを認めている。それは、一部では加熱する報道合戦の最中に、報道側が屁理屈として捏ねる材料にもなってしまうけども、やはりこの表現の自由というのは素晴らしい。どんな知識であっても、得ようと思いさえすれば手に入れることが出来るというのはやはり素晴らしい。
昔出版され、非難の対象になった、「完全自殺マニュアル」という本があった。確かにあれば、内容的に問題があったかもしれない。しかし、やはり、それを知りたいと思う人には読ませるべきであると思う。問題なのは、そういう状況に読者を追いやった環境であって、本そのものではないのである。
読書の自由というものが今のところは保証されている。しかし、戦時中など、それが保証されていなかった時代は確かに存在した。これからも、この状況が永遠に続くとは、誰にも言えないだろう。本を読む自由が与えられている今を謳歌して、充分にその自由を享受しようではないですか(って大げさですね 笑)。
そろそろ内容に入ろうと思います。
時は、正化31年。昭和が終わってから30年あまりが経ったという設定の異世界である。
メディア良化法が制定されたのは、昭和最終年度のことである。公序良俗を乱し、人権を侵害する表現を取り締まる法律であり、検閲の合法化は意見であるという反対派の意見を押し切って制定されたその法律は、拡大解釈が可能な余地が多く、実質上どんなメディアでも検閲が可能な根拠を与えることになってしまったのである。
これに対抗したのが、「図書館の自由法」である。既存の図書館法第三章に付け加える形で成立した図書館法第四章である。内容はつまり、図書館はいかなる資料であっても収集の自由があり、それを提供する自由もある、というものである。
この二法が成立したことにより、メディア良化法をその根拠としたメディア良化委員会と、図書館の自由法を根拠とした図書館の対立は、どんどんと深まっていくのである。
「日野の悪夢」と呼ばれる事件を境にして、図書館側も武装を強化するようになり、今では図書館は、自衛隊にも勝るとも劣らない軍事力を備えた組織にまで成長を遂げたのである。
そんな図書館の軍事部を第一志望に入ってきたのが、笠原郁である。女性で軍事部を第一志望というのは前代未聞で、その存在は上官らに広く知られることになった。
笠原は、幼い頃に出会った図書館員に憧れて図書館を目指したのだが、身体能力はズバ抜けているのに知能の方がなかなか追いつかない、ひと言で言えばあまり優秀ではない隊員なのだが、まあいろいろあって、図書特殊部隊に任命されることになる。
個性的な上官や反りの合わない同僚、また辛辣な同室の友達なんかに囲まれながら、様々なミスを重ねながらも、笠原は図書館を守る人間として成長していく。
というような物語です。
この作品は、去年本の雑誌が選ぶ上半期エンターテイメントで1位を獲得し、様々な方面で話題になっていた作品で、是非読みたいと思っていたところ、ようやく手に入ったのである。
読んでみて、なるほどさすがに面白いな、と思った。
この著者の作品を読むのは三作目だけど、正直に言ってしまえば「空の中」の方が僕は好きだけど、でも本作も充分に面白いと思う。というか、普通に面白い。関係ない話だが、この「普通に~」という表現は、どうも年配の人には通じない表現らしい。一応補足すると、これは、すごく面白い、という表現である。
さてまあそんなことはどうでもいいとして。本作は、その設定ももちろんのことながら、やはり一番に面白いのはそのキャラクターである。
これまで読んできたこの著者のどの作品でもそうだったけど、キャラクターがいいと思う。主人公の笠原郁は、ドジでマヌケで物覚えも悪いんだけど、どこまでも真っ直ぐで憎めない。やってることは馬鹿ばっかで怒られてばっかなんだけど、でも誰も見捨てようとしないし、ここぞという時には役に立つ。運動は出来るけど恋愛ごとには奥手で鈍くて、それでまあいろいろあったりする。
笠原の上官である堂上もいいキャラクターをしている。研修の頃から笠原を目の敵とばかりに扱いながらも、一方でものすごく気に掛けもしていて、普段は厳しくて意地悪なのに、絶妙なタイミングで優しくなる堂上に、笠原は時々やられてしまうのである。
他にも、笠原の同僚で、笠原を素直に受け入れることの出来ない手塚とか、同じく上官で、正論とフォローを巧みに使い分ける笑い上戸小牧とか、笠原と同室で、辛辣だけどある意味優しく、図書館内の事情通である柴崎とか、脇を固めるキャラクターも秀逸で、ライトノベル出身というのもあるのかもしれないけど、本当にキャラクターを作るのがうまいなぁ、と思ってしまう。ここでは挙げなかったキャラクターも含め、どのキャラクターも好感が持てるし、読んでいて楽しい。
もちろん、キャラクターだけで引っ張る小説というわけでもない。「図書館戦争」というタイトル通りの設定が本当にうまくてしかも細かくて、さすがだと思わせてくれる。
よく知らなかった図書館を取り巻く状況も、まあ多少は脚色されているだろうとは言えよく分かるし、もし本当に「メディア良化法」なんて法律が出来たら、こんな世界になったりしちゃうかもしれないな、と思えるような設定で、面白いなと思いました。
メディア良化委員会と図書館のまさしく「戦争」は、実際問題として行き過ぎだと思うけど、でもありえるかもしれないとも思ってしまう。現実世界の戦争も、元はどうでもいいような些細なことから始まっているものだと思う。当人同士としてはどうでもいいとは言い切れない問題でも、端から見ればそんなこと、というようなきっかけでしかないのだ。だからこそ、本作で描かれているような戦争も、実にリアルに感じられると思う。
結局、元々の論点を見失うかのように過激になっていく一方で、終着点も見えず、ある意味惰性で戦争を続けていって終わることができないみたいなのも、現実の戦争に似ているように思うし、本作も、それを悲惨な形で描いていないだけで、本来的な、本質的な戦争の姿を描き出しているのだろうな、と思う。まあ、戦争というものをリアルに経験していない世代がこんなことを言うのも変な話だとは思うけど。
図書館の役割みたいなものも描かれていて面白い。僕は、図書館を利用することはほとんどないのだけど、その存在意義みたいなものはすごく大きいと思う。読書の自由について初めの方で触れたけど、やはり読書というものを広く一般に開放するために、図書館というものは欠かせないと思う。本作では、実際に戦うという形で本を守っているのだけど、現実の世界でも、図書館というのは本を守っているのだな、と思うと、これからも頑張って欲しいなと思う。
本作は純然たるエンターテイメントで、読んでいて本当に楽しいと思うけど、一方でいろいろと考えるべきこともあったりして、ある意味社会派だったりする部分もあると思う。後半で、小学生が研究発表する場面があるのだけど、そこだけ切り取ってみても学ぶべき点は多いなぁ、とか思ってしまう。
あとそうだ。いつも思うのは、この著者は軍的なものに造型が深いなぁ、ということである。軍的なものが好きだ、ということをどこかに書いていたような気がするけど、本作でも、階級だとか武器だとか訓練だとかそういう場面で軍的な描写が結構あって、本当に好きなんだな、とか思う。
とにかく面白い作品です。ランキングで1位という評価はちょっと高すぎかなという気はしないではないけど、でも標準以上の面白さは確実に保証できると思います。純粋に読んでて面白いエンターテイメントです。読んでみてください。
有川浩「図書館戦争」
これは、本を読む人間と本を読まない人間とで、大きくことなるのだろう。
本を読む人間からすれば、本を読むことはひたすら娯楽である。もちろん、人によっては情報を得るためだったり、あるいは共通の話題を得るためだったりするかもしれないとは思う。しかし、基本的には娯楽である。どんな文学作品を読もうが、どんなグロテスクな作品を読もうが、それが楽しいからこそ読んでいるわけである。これは、本読みから、今さら何を言っているのだ、と言われそうなくらい当たり前なことだし、わざわざそんなことを確認しなくてはいけないのか、と言うほど普通なことである。
しかし、本を読まない人間、本をあまり読まない人間からすれば、それがそう当たり前のことでもないようだ、ということを知ることになるのである。
これはまあどういう状況かと言えば、例えば親が子供に本を読ませるだとか、教師が生徒に本を読ませるだとか、そういう状況である。
そういう、誰かに本を読ませる、という状況になった時、人は、読書というものを単なる娯楽とは捉えないようである。何か、本を読むことを、高尚なものとして捉えたがるのである。
だからこそ、「有害図書」などという言葉が生まれたりするのである。
本を読むということに、有害も何もない、と僕は思うのである。読んでいる本人からすれば、どんな本であろうが、有害もへったくれもない。純粋に、それが面白いかどうか、ということが重要なのであって、それ以外は大した問題ではないはずである。
しかし、それを外から見る人間はそう思わない。やれ残虐なシーンがあるだとか、やれエッチなシーンがあるだとか、そんな部分だけをあげつらって文句を言うのである。なんともおかしなものだ、と僕は思うのだ。
それに、感動を強要されたりすることも、僕としては不本意なのである。
ここからは、学生時代の国語の授業批判になるのだけど、あの国語というのは、僕から言わせてもらえれば、感動の押し付けでしかなかったと思うのだ。
太宰治だの夏目漱石だの森鴎外だのという文豪の作品が教科書に載っていて、それを読まされるわけだけど、僕からすればそんな作品はまるで面白くないし、感動も出来ないし、何も感じることなどないのである。
しかしそれを教師は、名作だという言葉で良さを押し付けるのだ。そうは口に出さないけど、この作品に感動しないなんて、日本人としてありえない、みたいなそんな雰囲気を感じるのである。
そうではないだろう、と僕は思うのである。
素晴らしいと言われる作品の良さを押し付けるのではなく、それぞれが持つ感受性の志向というものをもっと伸ばすのが教育というものではないかと思うのである。人はそれぞれ、感受性の志向が違うはずなのである。それを画一的な方向へと導くのではなく、個性を認める形で読書を勧めて欲しかったなぁ、と思うのである。
なんだか、初めの話から大分離れた話になってきたけど、とにかく、読書というものはもっと自由であるべきだと僕は思うのである。
幸いにして僕は、今自由に読書を楽しんでいる。名作を読めと強要されることもなければ、有害図書だからダメだと制限を加えられることもない。何を読んでもいいし、何で楽しんでもいい。やはり、読書というのは、こういう自由さと共になくてはいけないと思うのである。
もし、読む本に何らかの制限を加えられたら、と想像してみる。あらすじを読んだり、あるいは人からの評判を聞いたりして、すごく面白そうな小説があるのに、それを自分は何らかの理由で読むことができないとしたら…。
それは、今の僕にはこの上ない不幸である。読めない本が一冊とかならまだ諦めるかもしれないが、その冊数がどんどん増えていけば、めんどくさいがり屋の僕でさえ、なんらかの抗議行動をするだろうと思えるくらいに、僕は不幸を感じるだろうと思う。
憲法では確か、表現の自由なんかを認めている。それは、一部では加熱する報道合戦の最中に、報道側が屁理屈として捏ねる材料にもなってしまうけども、やはりこの表現の自由というのは素晴らしい。どんな知識であっても、得ようと思いさえすれば手に入れることが出来るというのはやはり素晴らしい。
昔出版され、非難の対象になった、「完全自殺マニュアル」という本があった。確かにあれば、内容的に問題があったかもしれない。しかし、やはり、それを知りたいと思う人には読ませるべきであると思う。問題なのは、そういう状況に読者を追いやった環境であって、本そのものではないのである。
読書の自由というものが今のところは保証されている。しかし、戦時中など、それが保証されていなかった時代は確かに存在した。これからも、この状況が永遠に続くとは、誰にも言えないだろう。本を読む自由が与えられている今を謳歌して、充分にその自由を享受しようではないですか(って大げさですね 笑)。
そろそろ内容に入ろうと思います。
時は、正化31年。昭和が終わってから30年あまりが経ったという設定の異世界である。
メディア良化法が制定されたのは、昭和最終年度のことである。公序良俗を乱し、人権を侵害する表現を取り締まる法律であり、検閲の合法化は意見であるという反対派の意見を押し切って制定されたその法律は、拡大解釈が可能な余地が多く、実質上どんなメディアでも検閲が可能な根拠を与えることになってしまったのである。
これに対抗したのが、「図書館の自由法」である。既存の図書館法第三章に付け加える形で成立した図書館法第四章である。内容はつまり、図書館はいかなる資料であっても収集の自由があり、それを提供する自由もある、というものである。
この二法が成立したことにより、メディア良化法をその根拠としたメディア良化委員会と、図書館の自由法を根拠とした図書館の対立は、どんどんと深まっていくのである。
「日野の悪夢」と呼ばれる事件を境にして、図書館側も武装を強化するようになり、今では図書館は、自衛隊にも勝るとも劣らない軍事力を備えた組織にまで成長を遂げたのである。
そんな図書館の軍事部を第一志望に入ってきたのが、笠原郁である。女性で軍事部を第一志望というのは前代未聞で、その存在は上官らに広く知られることになった。
笠原は、幼い頃に出会った図書館員に憧れて図書館を目指したのだが、身体能力はズバ抜けているのに知能の方がなかなか追いつかない、ひと言で言えばあまり優秀ではない隊員なのだが、まあいろいろあって、図書特殊部隊に任命されることになる。
個性的な上官や反りの合わない同僚、また辛辣な同室の友達なんかに囲まれながら、様々なミスを重ねながらも、笠原は図書館を守る人間として成長していく。
というような物語です。
この作品は、去年本の雑誌が選ぶ上半期エンターテイメントで1位を獲得し、様々な方面で話題になっていた作品で、是非読みたいと思っていたところ、ようやく手に入ったのである。
読んでみて、なるほどさすがに面白いな、と思った。
この著者の作品を読むのは三作目だけど、正直に言ってしまえば「空の中」の方が僕は好きだけど、でも本作も充分に面白いと思う。というか、普通に面白い。関係ない話だが、この「普通に~」という表現は、どうも年配の人には通じない表現らしい。一応補足すると、これは、すごく面白い、という表現である。
さてまあそんなことはどうでもいいとして。本作は、その設定ももちろんのことながら、やはり一番に面白いのはそのキャラクターである。
これまで読んできたこの著者のどの作品でもそうだったけど、キャラクターがいいと思う。主人公の笠原郁は、ドジでマヌケで物覚えも悪いんだけど、どこまでも真っ直ぐで憎めない。やってることは馬鹿ばっかで怒られてばっかなんだけど、でも誰も見捨てようとしないし、ここぞという時には役に立つ。運動は出来るけど恋愛ごとには奥手で鈍くて、それでまあいろいろあったりする。
笠原の上官である堂上もいいキャラクターをしている。研修の頃から笠原を目の敵とばかりに扱いながらも、一方でものすごく気に掛けもしていて、普段は厳しくて意地悪なのに、絶妙なタイミングで優しくなる堂上に、笠原は時々やられてしまうのである。
他にも、笠原の同僚で、笠原を素直に受け入れることの出来ない手塚とか、同じく上官で、正論とフォローを巧みに使い分ける笑い上戸小牧とか、笠原と同室で、辛辣だけどある意味優しく、図書館内の事情通である柴崎とか、脇を固めるキャラクターも秀逸で、ライトノベル出身というのもあるのかもしれないけど、本当にキャラクターを作るのがうまいなぁ、と思ってしまう。ここでは挙げなかったキャラクターも含め、どのキャラクターも好感が持てるし、読んでいて楽しい。
もちろん、キャラクターだけで引っ張る小説というわけでもない。「図書館戦争」というタイトル通りの設定が本当にうまくてしかも細かくて、さすがだと思わせてくれる。
よく知らなかった図書館を取り巻く状況も、まあ多少は脚色されているだろうとは言えよく分かるし、もし本当に「メディア良化法」なんて法律が出来たら、こんな世界になったりしちゃうかもしれないな、と思えるような設定で、面白いなと思いました。
メディア良化委員会と図書館のまさしく「戦争」は、実際問題として行き過ぎだと思うけど、でもありえるかもしれないとも思ってしまう。現実世界の戦争も、元はどうでもいいような些細なことから始まっているものだと思う。当人同士としてはどうでもいいとは言い切れない問題でも、端から見ればそんなこと、というようなきっかけでしかないのだ。だからこそ、本作で描かれているような戦争も、実にリアルに感じられると思う。
結局、元々の論点を見失うかのように過激になっていく一方で、終着点も見えず、ある意味惰性で戦争を続けていって終わることができないみたいなのも、現実の戦争に似ているように思うし、本作も、それを悲惨な形で描いていないだけで、本来的な、本質的な戦争の姿を描き出しているのだろうな、と思う。まあ、戦争というものをリアルに経験していない世代がこんなことを言うのも変な話だとは思うけど。
図書館の役割みたいなものも描かれていて面白い。僕は、図書館を利用することはほとんどないのだけど、その存在意義みたいなものはすごく大きいと思う。読書の自由について初めの方で触れたけど、やはり読書というものを広く一般に開放するために、図書館というものは欠かせないと思う。本作では、実際に戦うという形で本を守っているのだけど、現実の世界でも、図書館というのは本を守っているのだな、と思うと、これからも頑張って欲しいなと思う。
本作は純然たるエンターテイメントで、読んでいて本当に楽しいと思うけど、一方でいろいろと考えるべきこともあったりして、ある意味社会派だったりする部分もあると思う。後半で、小学生が研究発表する場面があるのだけど、そこだけ切り取ってみても学ぶべき点は多いなぁ、とか思ってしまう。
あとそうだ。いつも思うのは、この著者は軍的なものに造型が深いなぁ、ということである。軍的なものが好きだ、ということをどこかに書いていたような気がするけど、本作でも、階級だとか武器だとか訓練だとかそういう場面で軍的な描写が結構あって、本当に好きなんだな、とか思う。
とにかく面白い作品です。ランキングで1位という評価はちょっと高すぎかなという気はしないではないけど、でも標準以上の面白さは確実に保証できると思います。純粋に読んでて面白いエンターテイメントです。読んでみてください。
有川浩「図書館戦争」
棚。は生きている(青田恵一)
本を売る、というのは、本当に難しいことである。
僕は、本屋で働き始めて3年目になる。入って半年で文庫の担当になったので、文庫の売り場をいろいろ考え始めてから2年ちょっとということになるだろうか。
僕は常に、本を売りたいと思っている。それは、店の売上がどうのという話ではない。これだけ売らなければいけないとか、売上が下がっているとかいう形で、上からせっつかれているからというわけでもない。ただ単純に、本を、文庫を売りたいのである。
本を読むようになって、特に小説というのは本当に面白いものだな、と思うようになりました。世の中には数多く娯楽はあるけれども、でも読書というのは案外主流になりきれていない感じがある。多くの人は、ゲームだのコミックだのドラマだの映画だのというような、話題性があってわかりやすいものにすぐ飛びついていくような感じがするのだ。
それが、どうにも哀しく感じられてしまう。もちろん、ゲームやコミックやドラマや映画も面白いだろう。でも、本だってものすごく面白いのだよ、ということを伝えたいのである。
ただ、これは本当に難しいのである。
自分のことを考えても、それはわかる。僕は、人から勧められても、ゲームはしないしコミックはほとんど読まないし、ドラマも映画も観ない。確かに面白いのかもしれないのだけど、でもなかなかそちらに手を出すことができない。本を読むので手一杯というのもある。
自分でもそんな感じなので、人に何かを勧めることの難しさというのはそれなりにわかっているつもりである。
それでも、一人でも多くの人に本に接してもらい、その面白さをわかってもらいたいな、と思うのである。
しかし、これがなかなか難しいのである。どうすれば、お客さんに興味を持たれる売り場を作ることができるのか。何を見てお客さんは本を買おうと思うのか。そういうことからして全然わからないのである。
それに加え、これは言い訳だけれども、時間がないということもある。書店というのは本当に今厳しくて、ルーティンの仕事を回すだけで精一杯という現状がある。僕も、日々しなければならない仕事をするのに手一杯で、よりよく本を売るための努力に、時間を割くことが出来ないでいる。
僕は、本だけは読んでいるので、知識はあるつもりである。しかし、それをどう活かして売り場を作ればいいのかわからないし、さらにそれに費やすための時間をなかなか取ることが出来ないという現状もある。
もちろん、打てる手はいくらでもあるのだろうし、努力すれば時間を生み出すことも出来るだろう。すべて言い訳なのはわかっているのだけれども、なかなかうまくいかないのも事実である。
出版不況と言われて久しい。昔に比べて、一日に出る新刊の点数は格段に増えているにも関わらず、業界全体の売上は下がっているのだという。供給過剰であり、どれを買っていいのかわからず、本を買うことを諦めてしまう購買層も多くあるだろう。
その中で、書店の役割というのは大きく変わらざる終えなくなっている。これまでは、それなりの知識でそれなりの本を置いていればよかったものを、今では、確かな知識と魅力的な売り場作りで、お客さんに書店が何らかの提案をしていかなくてはいけない時代になってきたのだ。
今この時代を書店が生き抜くのは本当に難しい。超大型店舗の出店やアマゾンなどのオンラインショップの台頭で、中小の書店は大きな打撃を被っている。金太郎飴のように特長がなくなっていると言われる書店において、なんらかの形で店独自の特長を打ち出していくことが必要だと言えるだろう。
しかし一方で、書店のスタッフのレベルというのは下がっている。僕も人のことは言えないけれども、しかし、商品知識のない書店員が増えてきた。僕が働いている本屋でも、本を読まないスタッフが多くいる。こうした現状が、日本中の書店で今広がっているのである。
有効で即効性のある打開策があるわけもない。地道で基本に沿った対策を繰り返す中で、店の独自性について考えていくしかないのだろう。
僕は、一書店員であり、ただのアルバイトである。僕が一人でできることは、あまり多くない。しかし、周りが動かないのなら、なんとか僕だけでも動かなくてはいけない、とも思うのだ。どうすればいいのかはよくわからないが、無駄で非効率な結果になっても、攻めの姿勢を失うことなく、出来る限りのことをやっていきたいと思うのである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
著者の青田恵一氏は、現在は「青田コーポレーション」の代表取締役として、書店のアドバイザーとしての仕事をしている。アルバイトから入った書店業界で、各店の店長や本部などの仕事を経て今に至っている。
その青田氏が、出版業界紙などに寄稿した様々な文章に、書き下ろしを加えて本にしたものが本作である。
内容はまあ多岐に渡るが、基本的に書店員やその周辺にいる人々向けに書かれている文章です。出版業界というものを大きな視点で捉えたものから、売り場というものをどうやって蘇らせるかという多少具体的なアドバイス、また売り場に特長のある書店を巡っての探訪紀など、様々なことを文章にしている。
書店ではなく、出版業界全体についての話については、まだそこまで僕は興味が持てないのだけど(責任販売制についての話など、出版業界を取りまく変化はいろいろあるのだけど)、書店に照準の当たった文章は、結構面白いものがありました。
ただ、ここに書かれていることをそのまま実行して効果があるのかというと、それも少し疑問だ、という感じです。もともと本作はそういう、こうしろああしろ的な本ではないので仕方ないとは思うし、書店業務にマニュアル的なものはないとも思うので難しいのですが。
書店業務に関して、本作でしきりに訴えていたことは、つまり、自店の客層や売れ筋などをきちんと分析をした上で、それに合った売り場作りやフェア展開などをすることで、店の独自性を出していきなさいよ、ということである。当たり前のことだけど、それが難しいのである。その例として、様々な書店の取り組みみたいなものを挙げているのだけど、出店の段階から構想しないと難しいものばかりで、売り場を今の状況で限定された中で何が出来るか、ということについて、有効な手立ては書かれていないと思います。まあ、それは仕方ないと思うのですが。
本作でもう一つしきりに訴えていることは、基本を忠実に守るように、ということである。棚ならば、売れ筋をきちんと入れることや、探しやすい売り場であることなど、そういった基本的なことをきちんと踏まえられているかもう一度自店を見て確認してみましょう、ということが書かれている。
いずれにしても、書かれていることはごく当たり前のことなのだが、確かにその当たり前のことが出来ていないので、読む価値はあると思う。当たり前のことの重要さをもう一度確かめ、それをきちんとやりきるという決意を新たにするためにも、本作のような存在はいいかもしれない。
本作を読み終わった今でも、どういう方向に進んでいけばいいのかよくわからないのだけれども、それでも何かしなくてはという気持ちにはなっている。それだけでも、まあ読んだ価値はあるだろうか。まあ、本作のような作品を読むと必ずそう思うのだが、なかなか長続きしないのも問題であるが…。
一つ驚いたことが、本作中に、僕が働いている本屋も加盟している、NET21というグループが少し取り上げられていたことだ。なるほど、僕はなかなか面白いところで働いているのだな、と改めてそんな風に思ったりしました。
出版業界人や書店員以外の人には全然読んでも面白くないと思うけど、出版に関わる人が読んだら何かしら得るものがありそうな作品です。どうでしょうか。
青田恵一「棚。は生きている」
僕は、本屋で働き始めて3年目になる。入って半年で文庫の担当になったので、文庫の売り場をいろいろ考え始めてから2年ちょっとということになるだろうか。
僕は常に、本を売りたいと思っている。それは、店の売上がどうのという話ではない。これだけ売らなければいけないとか、売上が下がっているとかいう形で、上からせっつかれているからというわけでもない。ただ単純に、本を、文庫を売りたいのである。
本を読むようになって、特に小説というのは本当に面白いものだな、と思うようになりました。世の中には数多く娯楽はあるけれども、でも読書というのは案外主流になりきれていない感じがある。多くの人は、ゲームだのコミックだのドラマだの映画だのというような、話題性があってわかりやすいものにすぐ飛びついていくような感じがするのだ。
それが、どうにも哀しく感じられてしまう。もちろん、ゲームやコミックやドラマや映画も面白いだろう。でも、本だってものすごく面白いのだよ、ということを伝えたいのである。
ただ、これは本当に難しいのである。
自分のことを考えても、それはわかる。僕は、人から勧められても、ゲームはしないしコミックはほとんど読まないし、ドラマも映画も観ない。確かに面白いのかもしれないのだけど、でもなかなかそちらに手を出すことができない。本を読むので手一杯というのもある。
自分でもそんな感じなので、人に何かを勧めることの難しさというのはそれなりにわかっているつもりである。
それでも、一人でも多くの人に本に接してもらい、その面白さをわかってもらいたいな、と思うのである。
しかし、これがなかなか難しいのである。どうすれば、お客さんに興味を持たれる売り場を作ることができるのか。何を見てお客さんは本を買おうと思うのか。そういうことからして全然わからないのである。
それに加え、これは言い訳だけれども、時間がないということもある。書店というのは本当に今厳しくて、ルーティンの仕事を回すだけで精一杯という現状がある。僕も、日々しなければならない仕事をするのに手一杯で、よりよく本を売るための努力に、時間を割くことが出来ないでいる。
僕は、本だけは読んでいるので、知識はあるつもりである。しかし、それをどう活かして売り場を作ればいいのかわからないし、さらにそれに費やすための時間をなかなか取ることが出来ないという現状もある。
もちろん、打てる手はいくらでもあるのだろうし、努力すれば時間を生み出すことも出来るだろう。すべて言い訳なのはわかっているのだけれども、なかなかうまくいかないのも事実である。
出版不況と言われて久しい。昔に比べて、一日に出る新刊の点数は格段に増えているにも関わらず、業界全体の売上は下がっているのだという。供給過剰であり、どれを買っていいのかわからず、本を買うことを諦めてしまう購買層も多くあるだろう。
その中で、書店の役割というのは大きく変わらざる終えなくなっている。これまでは、それなりの知識でそれなりの本を置いていればよかったものを、今では、確かな知識と魅力的な売り場作りで、お客さんに書店が何らかの提案をしていかなくてはいけない時代になってきたのだ。
今この時代を書店が生き抜くのは本当に難しい。超大型店舗の出店やアマゾンなどのオンラインショップの台頭で、中小の書店は大きな打撃を被っている。金太郎飴のように特長がなくなっていると言われる書店において、なんらかの形で店独自の特長を打ち出していくことが必要だと言えるだろう。
しかし一方で、書店のスタッフのレベルというのは下がっている。僕も人のことは言えないけれども、しかし、商品知識のない書店員が増えてきた。僕が働いている本屋でも、本を読まないスタッフが多くいる。こうした現状が、日本中の書店で今広がっているのである。
有効で即効性のある打開策があるわけもない。地道で基本に沿った対策を繰り返す中で、店の独自性について考えていくしかないのだろう。
僕は、一書店員であり、ただのアルバイトである。僕が一人でできることは、あまり多くない。しかし、周りが動かないのなら、なんとか僕だけでも動かなくてはいけない、とも思うのだ。どうすればいいのかはよくわからないが、無駄で非効率な結果になっても、攻めの姿勢を失うことなく、出来る限りのことをやっていきたいと思うのである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
著者の青田恵一氏は、現在は「青田コーポレーション」の代表取締役として、書店のアドバイザーとしての仕事をしている。アルバイトから入った書店業界で、各店の店長や本部などの仕事を経て今に至っている。
その青田氏が、出版業界紙などに寄稿した様々な文章に、書き下ろしを加えて本にしたものが本作である。
内容はまあ多岐に渡るが、基本的に書店員やその周辺にいる人々向けに書かれている文章です。出版業界というものを大きな視点で捉えたものから、売り場というものをどうやって蘇らせるかという多少具体的なアドバイス、また売り場に特長のある書店を巡っての探訪紀など、様々なことを文章にしている。
書店ではなく、出版業界全体についての話については、まだそこまで僕は興味が持てないのだけど(責任販売制についての話など、出版業界を取りまく変化はいろいろあるのだけど)、書店に照準の当たった文章は、結構面白いものがありました。
ただ、ここに書かれていることをそのまま実行して効果があるのかというと、それも少し疑問だ、という感じです。もともと本作はそういう、こうしろああしろ的な本ではないので仕方ないとは思うし、書店業務にマニュアル的なものはないとも思うので難しいのですが。
書店業務に関して、本作でしきりに訴えていたことは、つまり、自店の客層や売れ筋などをきちんと分析をした上で、それに合った売り場作りやフェア展開などをすることで、店の独自性を出していきなさいよ、ということである。当たり前のことだけど、それが難しいのである。その例として、様々な書店の取り組みみたいなものを挙げているのだけど、出店の段階から構想しないと難しいものばかりで、売り場を今の状況で限定された中で何が出来るか、ということについて、有効な手立ては書かれていないと思います。まあ、それは仕方ないと思うのですが。
本作でもう一つしきりに訴えていることは、基本を忠実に守るように、ということである。棚ならば、売れ筋をきちんと入れることや、探しやすい売り場であることなど、そういった基本的なことをきちんと踏まえられているかもう一度自店を見て確認してみましょう、ということが書かれている。
いずれにしても、書かれていることはごく当たり前のことなのだが、確かにその当たり前のことが出来ていないので、読む価値はあると思う。当たり前のことの重要さをもう一度確かめ、それをきちんとやりきるという決意を新たにするためにも、本作のような存在はいいかもしれない。
本作を読み終わった今でも、どういう方向に進んでいけばいいのかよくわからないのだけれども、それでも何かしなくてはという気持ちにはなっている。それだけでも、まあ読んだ価値はあるだろうか。まあ、本作のような作品を読むと必ずそう思うのだが、なかなか長続きしないのも問題であるが…。
一つ驚いたことが、本作中に、僕が働いている本屋も加盟している、NET21というグループが少し取り上げられていたことだ。なるほど、僕はなかなか面白いところで働いているのだな、と改めてそんな風に思ったりしました。
出版業界人や書店員以外の人には全然読んでも面白くないと思うけど、出版に関わる人が読んだら何かしら得るものがありそうな作品です。どうでしょうか。
青田恵一「棚。は生きている」