少し変わった子あります(森博嗣)
昔は、二人きりという状況が、ひどく苦手だった。
僕は、人見知りをする性格である。とにかく引っ込み思案で、人と接することが苦手だった。少なくとも、自分ではそう認識していた。それでいて、学級委員などに立候補したりするのだから、我ながら矛盾したものだと思う。
昔はだから、二人きりになると、どうしていいのかわからなかった。二人きりと言っても、意図的にそなるわけではない。彼女がいたわけでもないので、ふとした偶然から、取り残されるようにして、その空間に二人きりしかいない。そんな状況に時々なる。そんな時、どうすればいいのか分からなかった。
話題が豊富な人間ではない。何を話そうか、とまず迷う。その上、人見知りである。普段集団でいる時には何でもない友達でも、いざ二人きりになると何を話していいか分からなくなる。何か話そうとすれば不自然になるし、そのまま話し続けようとすれば、何か決定的におかしくなってしまう。
沈黙も、苦手である。
僕は常々、沈黙が許容される人間関係を求めてきた。僕にとって、人間関係の最終目標はそこである。お互いが同じ空間にいて、それでいて沈黙を許容することができる。いや、むしろ、沈黙を楽しむことができればもっといいと思う。とにかく、空気みたいに接することができる関係。それを僕は、いつだって求めている。
ただ、沈黙というものは、それが許容できない関係性の間では、酷く歪な存在として立ち現れる。親しくないわけではないが、黙っていていいわけでもない関係。やはり人間関係というのは、どうにもそういうところに落ち着いていくもののようだ。だからこそ、喋らなくてはいけない、と僕は焦る。焦ってもいい結果はうまれないと分かっていても、焦らずにはいられない。
そんな、落ち着かない状況を生み出すのが、つまり二人きりという状態なのである。昔はそれが、堪らなく苦痛だった。三人いればいい。三人いれば、僕以外の二人が喋ってくれることを期待できる。しかし、二人きりであれば、僕が話さないわけにはいかない。
どうでもいい話だが、ものすごく変なことを思い出した。
たぶん、中学生の頃である。教室で、僕と、その当時僕が割と好きだった女の子が、何故だか残った。そんな時、その女の子が、僕の背中に覆い被さるようにしてそっと抱きついてきて、そして何かを口にしたのだ。言葉は思い出せない。「あなただったらいい」という感じのないようだった気がするが、何がいいのかさっぱり思い出せない。
たぶんこれは僕の身に実際起こったことだと思うのだが、もしかしたら夢かもしれない。とにかく、何となくだが、そんなことがあったなぁ、ということを思い出した。
さて、しかし最近は、状況にもよるが、むしろ二人きりであるという方が安心できる、という風に感じられるようになった。
この変化は、決して僕が社交的になった、ということではない。今でも僕は、人からどう思われているかはわからないけど、人見知りであるという自覚に変化はないし、喋ることは今でもそんなに得意ではない。
ただ変化したのは、なんと言えばいいのだろう、他者の視線をどれだけ意識するか、ということのような気がする。
最近では、誰かがいる前で他の誰かと喋る、ということが、酷く恥ずかしく感じられるようになった。つまり、何について話しているのか、他者に聞かれたくない、という感情が、最近僕の中で育ってきているのである。
何故だかは分からない。他者の視線を意識するという意味での自意識だったら、恐らく昔の方が強かったと思う。昔は、人の目ばかり気にして行動している子供だったのだ。
だから今では、二人きりという状況の方が、僕は喋りやすい。もちろん、緊張することは今でも変わらない。二人きりの時に一体何を話せばいいのか、こんな話をしてつまらないだろうか。そうしたことは、いつだって考える。しかしそれでも、二人きりという状況になると、多少ほっとしている自分がいることに時々気づく。そこまで外に出したい言葉があるわけでもないのに、これでやっと喋れる、という風に考えるのだろうか。不思議なものである。
あるいは、二人きりという状況が、孤独を薄めるからかもしれない。
僕は、孤独というものと、結構長いこと付き合ってきたつもりである。割とうまくやってきたと思うし、かなり無理をしたり複雑に物事を考えたりしたこともあるけれども、孤独をもてあましたり、孤独に打ちひしがれたり、といったことは、特になかったはずだ。
しかし、もしかしたら最近、孤独との付き合いをうまくできなくなっているのかもしれない。
大勢の人間と喋っていると、僕は喋る機会が少ない。というか、人の話を聞いている方が好きだし、僕が喋るよりも周りの人間が喋っている方が明らかに面白いという判断もある。
しかし、昔からそういう人間だったはずなのに、そういう状況で僕は、もしかしたら孤独を強めているのかもしれない。
大勢の人間の中で喋っていない、という事実が、僕自身の孤独を不当に強めているような気もしないでもない。排除されているというのとは違って、紙に水が染み込むように、じわじわ失われていくような、そんな感じがするのかもしれない。
だからこそ僕は、二人きりという状況を望むのかもしれない。
二人きりという状況であれば、二人で会話をするしかない。その分、僕が感じる孤独は薄まる、と考えているのかもしれない。あくまでも推測である。自分でもよくわからない。
僕は、孤独は好きである。それは、美しいものだと思うし、上質な孤独であればあるほど、なかなか実現しないものだと思っている。
ただ、粗悪な孤独というものが、世の中に広がりすぎているようにも思う。芸術的でも現実的でもない、ただ単に独りであるというだけの孤独が、蔓延しているように思う。
その、粗悪な孤独には捕まりたくないと思う。矜持のある、美しい孤独に囚われて生きていたい、とそう願っている。もちろんそれは、どこかに落ちているわけではないだろう。自らの手で、掴み取らなくてはいけない。それだけの価値がある。そう僕は思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
小山は、大学の教官である。多少地位は高いが、どこにでもいる、ごく普通の大学の教官だ。
始まりは、後輩である荒木から聞いた話だった。その荒木は、今では行方不明になっている。誰も、その行方を知らない。警察にも、失踪届が出ているようだ。
二人で飲んでいる時に出た話だ。どうにも奇妙な店があるのだ、という話だった。その店は、一人で行くことが条件であり、連れを連れて行けない。場所も、常に変わる。店の名前はない。女将が一人いて、料理を出してくれる。それを、その静かな空間でただ食べる。ただ、それだけの店だ、というのである。
そこまでならば、珍しい話ではない。そういう類の高級料亭は、ないではない。しかし荒木という男は、その店のサービスに対してある変化をもたらした、というのだ。
それは、一人の女性と共に一緒に食事をする。そういうサービスである。
二人分の食事代を支払って、ただ一緒に食事を摂るだけである。他には何もない。ただそれだけだ。
そんな奇妙な店の話を、荒木が失踪したという話を聞いた後に思い出した。
行ってみようか…そう思い、その店の電話番号の載った荒木からの古いメールを引っ張り出す。
いつでも予約は取れた。専用の車が大学までやってきて、毎回違う場所まで送ってくれる。付き添って食事をする女性も毎回違う。違うのだけれども、特に特徴があるわけでもなく、ごく普通の女性である。不思議な店である。
ただ小山は、この店の雰囲気にどんどんと惹き込まれていく自分を認識している。どこが、ど指摘するのは難しい。ただ女性と食事をするだけだし、女性と会話すらしないこともある。ただここにいると、人間というものの本質が見えてくるような気がするし、孤独という形がはっきりと浮かび上がるような気もするのだ。まあ、気のせいかもしれないのだが。
そうして小山はその店に、何度も通うことになる…。
という感じです。
僕の中では、非常に面白い作品だな、と思いました。森博嗣の作品としてはかなり珍しいもので、これまでのどの作品とも似てないですね。醸し出す雰囲気は、「スカイクロラ」シリーズのようですが、大分趣は違います。
本作の中で、この料理を食べる空間を、芸術かもしれない、と指摘する文章がある。
『なるほど、これは芸術かもしれないな、と私は思い至った。芸術が成立する条件とは、第一に、それが人間が成したものであること。第二に、無駄な消費であること。これが私の定義である。まさに、今日のこの部屋の沈黙こそが、芸術そのものではないだろうか。』
この指摘は、大げさな表現になるが、非常に美しいと思った。なるほど、芸術とは、そこまで範囲を広げられるのだな、と純粋に思った。確かに、本作で読む限り、この空間そのものが芸術だと感じられる。その非日常性、日常の中では恐らく獲得することは不可能な何かが、その空間に充填されている。その密度が、その空間を芸術として成立させているのだと、僕は感じた。
その空間の中では、何か目新しいことが起こるわけでも、面白い話が聞けるわけでもない。女性の故人的な情報はわからないし、聞いてはいけないルールだ。特に共通点はないのだが、とにかく食事を食べる仕草、その全般が美しい女性たちである。その食事の仕草を見ているだけで満足できるほどの優雅さが、彼女達には備わっている。そういう空間である。
正直、かなり行ってみたいと思った。興味がある。その空間は、僕に優しいような気がするのだ。冒頭で、二人きりになることについて書いた。最近では慣れていると感じられるけれども、しかしそれも、この空間に比すれば、まったく別の価値観であろう。沈黙や孤独すらまるで不自然ではない空間。初めてあった者同士なのに、既に関係性が出来上がっているような、それでいて繋がっていないような、そういう不思議な空間が生み出されている。そこは、心地よさそうな感じである。ありきたりの表現だが、まるで子宮の中にいる感覚を覚えるかもしれない。
とにかく、美しい物語だと思った。かなり抽象的な世界観だし、抽象的な観念がいくつも思考される。それらが、まとわりつくようなべたつかさを持たずに、僕の周りを漂う。心地いい感覚だ。小説を読んでこんな気分になることは、珍しい。綺麗な世界に触れたからだろう。
森博嗣は、自作について評価しない。しかし以前一度だけ、「STAR EGG」という絵本について、初めて人に勧めたいと思う作品だ、と評価した。
本作についても森博嗣は珍しく自己評価している。確か、MLAの日記に書いてあったはずだ。曰く、恥ずかしくない作品、だそうだ。確かに、これまでの森博嗣の小説のどの方向とも平行にはなりえないし、だからと言って直角に交わっているわけでもない。あらたなベクトルを生み出し、その方向へと前進している。そんな作品に思える。
とにかく上質な体験だったと思う。僕としては、かなり満足できた。奇妙な店の空間も、そこに現れる女性も、小山の日常も、抽象的な思考も、ラストの終わり方も、僕としてはどれもが満足だった。森博嗣の作品で、久々の大当たりだと言ってもいいだろう。
是非とも読んで欲しい作品です。森博嗣をミステリを書く作家だと思っている人は、本作を読んで戸惑うかもしれないけど、「スカイクロラ」なんかを読んでいる人には、面白いかどうかは別として受け入れられる作品だと思います。是非とも読んで欲しいと思います。素晴らしい作品でした。
久々に、気になった言葉を抜き出して終わりにします。
(前略)料理について、材料や製法などの説明をあれこれ受けることは、非常に退屈だと私は常々考えていたからだ。そんなことはどうだっていい。何故なら、一口食べればすべてがわかる。それ以外に料理の価値があろうはずもないではないか。
女将が部屋から出ていったとき、私はふと気がついた。人間に対しても、同じことがいえるかもしれないと。つまり、あれこれ説明を受ける必要などない。どんな名前で、年齢はいくつで、出身はどこで、どんな身分で、どんな生活をしているのか、どんなことを考えているのか、そういった説明的な情報によって、その人間の味わいが変わるだろうか。それが、人の本当の価値だろうか。そんな情報は、いくらでも捏造することができる。そういった情報に、普段どれだけ私たちは惑わされているだろう。
(後略)
(前略)
「ここにいる空気たちが、ずっと昔は、私の周りにいました」
(後略)
(前略)けれども、このエゴこそが個人の起源ではないのか。あらゆる権力者が、すべての冨を投じて、殺戮と搾取を繰り返し、結局最後に手に入れたものが、人間の孤独だったように。王家の墓に眠っている莫大な財宝が長い眠りの末に証明した唯一が、個人の名前だったように。
(後略)
(前略)
「以下になって振り返れば、そのとおりです。教育者であることも、あるいは、研究者であることも、つまり、何者でも同じですが、自分をなにか一つの者だと認識すれば、即座にそれは堕落です。何故なら、何者かになることが、停止した状態を私にイメージさせるからです。私は、何者かになりたかったのではなく、何者かに憧れ、そちらへ向かいたい、そのために前進がしたかったのです。私が思い描いている姿とは、つまりそういうものです、常に変わりたい。止まりたくないのです」
(後略)
森博嗣「少し変わった子あります」
僕は、人見知りをする性格である。とにかく引っ込み思案で、人と接することが苦手だった。少なくとも、自分ではそう認識していた。それでいて、学級委員などに立候補したりするのだから、我ながら矛盾したものだと思う。
昔はだから、二人きりになると、どうしていいのかわからなかった。二人きりと言っても、意図的にそなるわけではない。彼女がいたわけでもないので、ふとした偶然から、取り残されるようにして、その空間に二人きりしかいない。そんな状況に時々なる。そんな時、どうすればいいのか分からなかった。
話題が豊富な人間ではない。何を話そうか、とまず迷う。その上、人見知りである。普段集団でいる時には何でもない友達でも、いざ二人きりになると何を話していいか分からなくなる。何か話そうとすれば不自然になるし、そのまま話し続けようとすれば、何か決定的におかしくなってしまう。
沈黙も、苦手である。
僕は常々、沈黙が許容される人間関係を求めてきた。僕にとって、人間関係の最終目標はそこである。お互いが同じ空間にいて、それでいて沈黙を許容することができる。いや、むしろ、沈黙を楽しむことができればもっといいと思う。とにかく、空気みたいに接することができる関係。それを僕は、いつだって求めている。
ただ、沈黙というものは、それが許容できない関係性の間では、酷く歪な存在として立ち現れる。親しくないわけではないが、黙っていていいわけでもない関係。やはり人間関係というのは、どうにもそういうところに落ち着いていくもののようだ。だからこそ、喋らなくてはいけない、と僕は焦る。焦ってもいい結果はうまれないと分かっていても、焦らずにはいられない。
そんな、落ち着かない状況を生み出すのが、つまり二人きりという状態なのである。昔はそれが、堪らなく苦痛だった。三人いればいい。三人いれば、僕以外の二人が喋ってくれることを期待できる。しかし、二人きりであれば、僕が話さないわけにはいかない。
どうでもいい話だが、ものすごく変なことを思い出した。
たぶん、中学生の頃である。教室で、僕と、その当時僕が割と好きだった女の子が、何故だか残った。そんな時、その女の子が、僕の背中に覆い被さるようにしてそっと抱きついてきて、そして何かを口にしたのだ。言葉は思い出せない。「あなただったらいい」という感じのないようだった気がするが、何がいいのかさっぱり思い出せない。
たぶんこれは僕の身に実際起こったことだと思うのだが、もしかしたら夢かもしれない。とにかく、何となくだが、そんなことがあったなぁ、ということを思い出した。
さて、しかし最近は、状況にもよるが、むしろ二人きりであるという方が安心できる、という風に感じられるようになった。
この変化は、決して僕が社交的になった、ということではない。今でも僕は、人からどう思われているかはわからないけど、人見知りであるという自覚に変化はないし、喋ることは今でもそんなに得意ではない。
ただ変化したのは、なんと言えばいいのだろう、他者の視線をどれだけ意識するか、ということのような気がする。
最近では、誰かがいる前で他の誰かと喋る、ということが、酷く恥ずかしく感じられるようになった。つまり、何について話しているのか、他者に聞かれたくない、という感情が、最近僕の中で育ってきているのである。
何故だかは分からない。他者の視線を意識するという意味での自意識だったら、恐らく昔の方が強かったと思う。昔は、人の目ばかり気にして行動している子供だったのだ。
だから今では、二人きりという状況の方が、僕は喋りやすい。もちろん、緊張することは今でも変わらない。二人きりの時に一体何を話せばいいのか、こんな話をしてつまらないだろうか。そうしたことは、いつだって考える。しかしそれでも、二人きりという状況になると、多少ほっとしている自分がいることに時々気づく。そこまで外に出したい言葉があるわけでもないのに、これでやっと喋れる、という風に考えるのだろうか。不思議なものである。
あるいは、二人きりという状況が、孤独を薄めるからかもしれない。
僕は、孤独というものと、結構長いこと付き合ってきたつもりである。割とうまくやってきたと思うし、かなり無理をしたり複雑に物事を考えたりしたこともあるけれども、孤独をもてあましたり、孤独に打ちひしがれたり、といったことは、特になかったはずだ。
しかし、もしかしたら最近、孤独との付き合いをうまくできなくなっているのかもしれない。
大勢の人間と喋っていると、僕は喋る機会が少ない。というか、人の話を聞いている方が好きだし、僕が喋るよりも周りの人間が喋っている方が明らかに面白いという判断もある。
しかし、昔からそういう人間だったはずなのに、そういう状況で僕は、もしかしたら孤独を強めているのかもしれない。
大勢の人間の中で喋っていない、という事実が、僕自身の孤独を不当に強めているような気もしないでもない。排除されているというのとは違って、紙に水が染み込むように、じわじわ失われていくような、そんな感じがするのかもしれない。
だからこそ僕は、二人きりという状況を望むのかもしれない。
二人きりという状況であれば、二人で会話をするしかない。その分、僕が感じる孤独は薄まる、と考えているのかもしれない。あくまでも推測である。自分でもよくわからない。
僕は、孤独は好きである。それは、美しいものだと思うし、上質な孤独であればあるほど、なかなか実現しないものだと思っている。
ただ、粗悪な孤独というものが、世の中に広がりすぎているようにも思う。芸術的でも現実的でもない、ただ単に独りであるというだけの孤独が、蔓延しているように思う。
その、粗悪な孤独には捕まりたくないと思う。矜持のある、美しい孤独に囚われて生きていたい、とそう願っている。もちろんそれは、どこかに落ちているわけではないだろう。自らの手で、掴み取らなくてはいけない。それだけの価値がある。そう僕は思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
小山は、大学の教官である。多少地位は高いが、どこにでもいる、ごく普通の大学の教官だ。
始まりは、後輩である荒木から聞いた話だった。その荒木は、今では行方不明になっている。誰も、その行方を知らない。警察にも、失踪届が出ているようだ。
二人で飲んでいる時に出た話だ。どうにも奇妙な店があるのだ、という話だった。その店は、一人で行くことが条件であり、連れを連れて行けない。場所も、常に変わる。店の名前はない。女将が一人いて、料理を出してくれる。それを、その静かな空間でただ食べる。ただ、それだけの店だ、というのである。
そこまでならば、珍しい話ではない。そういう類の高級料亭は、ないではない。しかし荒木という男は、その店のサービスに対してある変化をもたらした、というのだ。
それは、一人の女性と共に一緒に食事をする。そういうサービスである。
二人分の食事代を支払って、ただ一緒に食事を摂るだけである。他には何もない。ただそれだけだ。
そんな奇妙な店の話を、荒木が失踪したという話を聞いた後に思い出した。
行ってみようか…そう思い、その店の電話番号の載った荒木からの古いメールを引っ張り出す。
いつでも予約は取れた。専用の車が大学までやってきて、毎回違う場所まで送ってくれる。付き添って食事をする女性も毎回違う。違うのだけれども、特に特徴があるわけでもなく、ごく普通の女性である。不思議な店である。
ただ小山は、この店の雰囲気にどんどんと惹き込まれていく自分を認識している。どこが、ど指摘するのは難しい。ただ女性と食事をするだけだし、女性と会話すらしないこともある。ただここにいると、人間というものの本質が見えてくるような気がするし、孤独という形がはっきりと浮かび上がるような気もするのだ。まあ、気のせいかもしれないのだが。
そうして小山はその店に、何度も通うことになる…。
という感じです。
僕の中では、非常に面白い作品だな、と思いました。森博嗣の作品としてはかなり珍しいもので、これまでのどの作品とも似てないですね。醸し出す雰囲気は、「スカイクロラ」シリーズのようですが、大分趣は違います。
本作の中で、この料理を食べる空間を、芸術かもしれない、と指摘する文章がある。
『なるほど、これは芸術かもしれないな、と私は思い至った。芸術が成立する条件とは、第一に、それが人間が成したものであること。第二に、無駄な消費であること。これが私の定義である。まさに、今日のこの部屋の沈黙こそが、芸術そのものではないだろうか。』
この指摘は、大げさな表現になるが、非常に美しいと思った。なるほど、芸術とは、そこまで範囲を広げられるのだな、と純粋に思った。確かに、本作で読む限り、この空間そのものが芸術だと感じられる。その非日常性、日常の中では恐らく獲得することは不可能な何かが、その空間に充填されている。その密度が、その空間を芸術として成立させているのだと、僕は感じた。
その空間の中では、何か目新しいことが起こるわけでも、面白い話が聞けるわけでもない。女性の故人的な情報はわからないし、聞いてはいけないルールだ。特に共通点はないのだが、とにかく食事を食べる仕草、その全般が美しい女性たちである。その食事の仕草を見ているだけで満足できるほどの優雅さが、彼女達には備わっている。そういう空間である。
正直、かなり行ってみたいと思った。興味がある。その空間は、僕に優しいような気がするのだ。冒頭で、二人きりになることについて書いた。最近では慣れていると感じられるけれども、しかしそれも、この空間に比すれば、まったく別の価値観であろう。沈黙や孤独すらまるで不自然ではない空間。初めてあった者同士なのに、既に関係性が出来上がっているような、それでいて繋がっていないような、そういう不思議な空間が生み出されている。そこは、心地よさそうな感じである。ありきたりの表現だが、まるで子宮の中にいる感覚を覚えるかもしれない。
とにかく、美しい物語だと思った。かなり抽象的な世界観だし、抽象的な観念がいくつも思考される。それらが、まとわりつくようなべたつかさを持たずに、僕の周りを漂う。心地いい感覚だ。小説を読んでこんな気分になることは、珍しい。綺麗な世界に触れたからだろう。
森博嗣は、自作について評価しない。しかし以前一度だけ、「STAR EGG」という絵本について、初めて人に勧めたいと思う作品だ、と評価した。
本作についても森博嗣は珍しく自己評価している。確か、MLAの日記に書いてあったはずだ。曰く、恥ずかしくない作品、だそうだ。確かに、これまでの森博嗣の小説のどの方向とも平行にはなりえないし、だからと言って直角に交わっているわけでもない。あらたなベクトルを生み出し、その方向へと前進している。そんな作品に思える。
とにかく上質な体験だったと思う。僕としては、かなり満足できた。奇妙な店の空間も、そこに現れる女性も、小山の日常も、抽象的な思考も、ラストの終わり方も、僕としてはどれもが満足だった。森博嗣の作品で、久々の大当たりだと言ってもいいだろう。
是非とも読んで欲しい作品です。森博嗣をミステリを書く作家だと思っている人は、本作を読んで戸惑うかもしれないけど、「スカイクロラ」なんかを読んでいる人には、面白いかどうかは別として受け入れられる作品だと思います。是非とも読んで欲しいと思います。素晴らしい作品でした。
久々に、気になった言葉を抜き出して終わりにします。
(前略)料理について、材料や製法などの説明をあれこれ受けることは、非常に退屈だと私は常々考えていたからだ。そんなことはどうだっていい。何故なら、一口食べればすべてがわかる。それ以外に料理の価値があろうはずもないではないか。
女将が部屋から出ていったとき、私はふと気がついた。人間に対しても、同じことがいえるかもしれないと。つまり、あれこれ説明を受ける必要などない。どんな名前で、年齢はいくつで、出身はどこで、どんな身分で、どんな生活をしているのか、どんなことを考えているのか、そういった説明的な情報によって、その人間の味わいが変わるだろうか。それが、人の本当の価値だろうか。そんな情報は、いくらでも捏造することができる。そういった情報に、普段どれだけ私たちは惑わされているだろう。
(後略)
(前略)
「ここにいる空気たちが、ずっと昔は、私の周りにいました」
(後略)
(前略)けれども、このエゴこそが個人の起源ではないのか。あらゆる権力者が、すべての冨を投じて、殺戮と搾取を繰り返し、結局最後に手に入れたものが、人間の孤独だったように。王家の墓に眠っている莫大な財宝が長い眠りの末に証明した唯一が、個人の名前だったように。
(後略)
(前略)
「以下になって振り返れば、そのとおりです。教育者であることも、あるいは、研究者であることも、つまり、何者でも同じですが、自分をなにか一つの者だと認識すれば、即座にそれは堕落です。何故なら、何者かになることが、停止した状態を私にイメージさせるからです。私は、何者かになりたかったのではなく、何者かに憧れ、そちらへ向かいたい、そのために前進がしたかったのです。私が思い描いている姿とは、つまりそういうものです、常に変わりたい。止まりたくないのです」
(後略)
森博嗣「少し変わった子あります」
カブールの本屋―アフガニスタンのある家族の物語―(アスネ・セイエルスタッド)
『若い女は、物や金で取引される対象にすぎない。結婚は家同士の、あるいは一族の中での契約なのだ。』
素直に思うが、僕は日本という国に生まれて、本当に幸せだったな、と思う。もちろん、日々些細な不満はある。出来ないこともあるし、手に入らないものもある。誰だって、まあ同じものだろう。何とも比較せず、絶対的な基準で自分を幸せだと思える人間は、そういないだろう。
しかし、どこかと、誰かと比較してみれば、幸せというものは案外簡単に認識できるものだ。
そういう意味で僕は、日本という国は幸せだと思うのだ。
国によって、様々な面で違いがある。と書いてはみるものの、それすら憶測でしかない。僕らは、日本という国がどういう国なのかすら、まともに知らないのだ。それなのに、他の国との違いについて、きちんと把握できているわけがない。
ただ、国同士大きな違いがあるという前提で話をすれば、その違いは一体どこからくるのだろうか?
日本という国は、国土がどこの国とも接していない。なので、国境を越えた国との違いみたいなものについて、わからない。とはいえ、少し考えてみると、やはり国の違いは、宗教と社会の存在だろうな、と思うのである。
宗教というのは、日本人にはなかなか馴染みがない。日本は、世界でも珍しく無宗教だと言われるからだ。僕はそこがすごくいいと思っているのだが、外国から見ると奇妙なのだという。
宗教は、人を大きく規定する。服装や習慣だけでなく、価値観や思想までも規定する。誰もが、一つの方向へ向かって、同じような足取りで進んでいくことが求められる。僕には、ちょっと受け入れられない世界である。
僕は、宗教に対してあまりいい感情を持っていない。それは、次のような理由による。
もし人々が、宗教というものに対して、理由という形で接するなら、僕は宗教というものはそんなに悪いものではないと思っている。どういうことかといえば、何かをしようと思ったときに、この宗教ではこういう教えだからやろうとか、これは禁止されているから止めようとか、そういう判断の基準として接するならいいと思うのだ。
しかし、僕のイメージでは、そういう人は多くない。というか、宗教に深く接している人の場合は、そうでない人が多いと思う。
多くの人は、宗教を前提として接してしまう。つまり、この宗教ではこう説いているからこれをやろう、という発想である。僕は、こういう考え方がどうにもまずいのではないか、と思ってしまうのである。
思想や価値観がある方向に規定されてしまうことは、人間として大きな損失ではないか、と思うのだ。極端なことを言ってしまえば、ある宗教に属している人がみな、ほとんど同じような価値判断をするとしよう。だとすれば、その集団を一人とみなすしかない。人間というのは、異なる思想や価値観を持っているからこそ、その存在に価値があるはずだ、と僕は思っているので、それが統一されてしまえば、存在価値はどんどん薄まってしまうと思うのだ。
恐らく、宗教を信じる人にも、こういうことはわかっているのだろう。その上で、宗教というものを信じるということが、僕には理解することが難しい。
宗教を信じている人を非難できるわけではない。そんな視覚は僕にはないが、宗教というものは、どれだけ注意してもしたりないくらい、慎重に接するものではないか、と僕は思う。
社会というものは、ある意味で宗教とは別のベクトルだと言えるかもしれない。
宗教というのが、同じ器の中にいる人の価値観を統一しよう、という方向なのに対して、社会というのは、まるで異なる価値観を持った人々を同じ器に入れよう、という方向である。
つまり、社会と宗教は本来、明確に区別されるべきものだと思う。宗教が社会を規定するような世界は、どこかに歪みが生じるはずだ。
社会というものは、自由と不自由とを調整するバルブのようなものだと思う。そのバランスを、どの程度に決めるのか。その調整を行うのが、社会というものの役割だろうと思う。
一般に、先進国と呼ばれるような国は、自由のバランスが多く取られていると思う。日本もそうだ。あらゆることが、かなり自由になる。日本では、女性が肌を見せることも、凧揚げも、ひげを剃ることも、全部自由である(上記に挙げたことは、アフガニスタンでは一時期犯罪だった。今では、どうかはわからないが、恐らく変わっているだろう)。
社会が、人々の生活の自由を奪うよな状況は、ひどく貧しいと僕は思う。比較して初めて感じることだが、生きていく上で重要なことは、お金でも親でもなく、自由なのだと思う。肉体的にも精神的にも、どれだけ自由でいられるかということが、豊かさの一つの指標だと言ってもいいだろう。
宗教と社会によって、国が規定されていく。それは、その中にまで入っていかなくては、わからないものだ。だからこそ、他の国についてわからないということは仕方がない。
僕は、別にいいと思うのだ。日本という豊かで自由な国の中で、他の国のことなど何も考えずに生きていくことは、別に悪いことでは決してない。他の国について考えたところで、出来ることは多くないし、考えるだけ無駄だとは言わないけれども、それでどうなるわけでもない。
しかし、知る機会があるならば、知っておいて損はない。自分の外側に、幸せに関する評価基準を設けることが出来るからである。自分より何らかの意味で低い存在を意識することで、逆に自分を幸せだと感じる状況は、いささか貧しいと感じるけれども、そうでもしなければ幸せを実感することも難しい世の中になってきているのだから、それも仕方ないのかな、と思う。
というわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。なんか、今日の文章はちょっと失敗だな。もっと別な方向で文章を書くべきだったか(と勝手に反省)。
本作は、アフガニスタンのある家族と共に一時期暮らしていたある女性ジャーナリストが書いた、その家族の生活とその周辺を描いたノンフィクションです。
アフガニスタンと言えば、僕らが思いつけるのは、オサマ・ビンラディンぐらいでしょうか。9.11やイラク戦争で急速に知名度は上がったものの、ではアフガニスタンという国はどんな国なのか、どんな生活をしているのか、と聞かれると、誰も答えることなど出来ないだろう。
著者も恐らくそう考えて、ある家族と共に生活をするということを思い立ったのだろう。
冒頭で著者はこう書いている。
『私がここに書いたのは、あくまでアフガニスタンの一つの家族の物語にすぎない。この国には、ほかに何百万という家族がある私が起居しを共にした家族は、アフガン家庭の典型でもない。アフガニスタンでこういう表現が適切かどうか分からないが、カーン家あ一種の中産階級だ。家族の中には、教育を受けた者がいて、何人かは読み書きもできた。金回りはよく、食うに困ることは絶対になかった。
取材対象は一般的なアフガン家庭にすべきと考えるなら、誰も読み書きできず、毎日行き抜くのに精一杯という田舎の大家族と暮らしただろう。ただ私は、この国の典型例として、カーン家を選んだのではない。心に感じるものがあったからなのだ。』
本作は、ノンフィクションとしては珍しく、小説風に描かれている。つまり、著者の視点からの文章ではなく、彼女が接したありとあらゆる人物の視点をそ時々で使い分け、文章を書いているのである。
僕は、この試みが成功しているとはちょっと思えない。著者が小説家ではないからか、あるいは外国の作品では一般的なのか、文章の途中で結構視点が変わる。僕としてはまずそれがあまり好きではなかったのだけれども、さらに、それぞれの心情描写について、どこまで信頼できるのか、と思えてしまう。
冒頭で著者はこう書いている。
『本書は小説風に書いたが、内容は実際の出来事であり、関係者の話に基づいている。誰かの考えや感情を書く時も、それぞれの状況の中で何を考え感じたか、当事者が語ってくれたことを踏まえている。』
ということだそうだが、それでも聞いたことからその時の心情を言葉で書けるようになるとは僕には思えない。まして、ちゃんとした通訳がいるわけではなく、彼女と、カーン家の中で多少英語ができる人間とのやりとりの中での話なのである。僕としては、この小説風にノンフィクションを描くという形式は、新しいしそれなりに成果はあったとは思うけれども、ちょっと納得いかなかった。
さて、大体の本作の内容を書いてみよう。
まずカーン家の紹介を。タイトルの通り、カーン家は本屋を営んでいる。アフガニスタンでもかなり有数の本屋で、かなり力を持っている。だからカーン家は中産階級なのである。
では本作は、本屋のことを中心に書いているかというと、特にそんなことはない。たまたま著者が住み着いたのが本屋の家族だったというだけの話で、アフガニスタンでの本屋事情というものがそこまで描かれるわけではない。この点も、「本屋」というキーワードに惹かれて買った僕としては、ちょっと期待はずれだったかな、と思う。
家族は、もうたくさんいすぎて名前を挙げることも難しい。とにかく、たくさんだ。全員が同じ屋根の下で暮らしているわけではないが、大家族であることには違いない。
アフガニスタンという国は、完全な男社会である。冒頭でも書いたが、とにかく女の地位というものは低い。結婚させるための対象でしかなく、息子をたくさん産んだ母親は賞賛されるが、娘ばかり産んだ母親は息子を産まなくてはと焦る。そんな国である。
家の中では、家長の意見が絶対だ。大抵家長は、一家の父親であることが多い。家長の意見に従わないものは、家族を追い出されることもある。恐ろしい世界である。
男女の色恋については、厳しい制限がある。結婚前の女性は、家族以外の男性に顔を見せてはいけない。もちろん、会ってもいけないし、話をしてもいけない。
本作では、こんな状況が描かれる。
結婚したある女性がいる。この女性は、旦那が一時期国を離れていた時を見計らって、ある男性と密通していた。それを警官に目撃されたのだ。
その女性は、どうなったか。
その後、事故で死んだ、ということになった。
実際は、その女性の母親が、殺すようにと息子に告げたのだ。結婚した女性の密通は、家族の評判をも一気に貶める。家族の評判を回復させるには、娘を殺すしかないのである。
そんな世界だ。
また本作には、カーン家の一番下の娘、ライラという女性が出てくる。一家の中で一番下の娘は、幼い頃から召使いのようにして育てられる。家事全般をやらされるのだ。ひたすら毎日、何も考えることなく家事だけを続け、外に出ることもなく、そんな人生を送る。ライラは、そんな人生とはおさらばしたいと考えていたが、どうにかなるものではない。
そんな折、ある男性がライラに求婚してきた。アフガニスタンでは、男性は直接女性に求婚できない。男性の家族の誰か女性が、相手の家族にお願いに行くのである。そんな状況が何度か続き、ある時相手の男は、ライラと話す機会を持つことができた。その時の会話を以下に書く。
『「君の答えはどうなんだい?」とカリムが聞く。
「お答えできないです」とライラ。
「でも、君はどうしたいんだい?」
「私が何かをしたいと思うこともできないんですって」
「僕を好きでいてくれる?」
「ですから、お答えできません」
「プロポーズしたら、うんと言ってくれる?」
「ですから、お答えするのは私じゃないんです」
「また会ってくれる?」
「無理です」
「どうして、もう少し優しくしてくれないんだい?僕のこと嫌いなの?」
「あなたを好きになるかどうかは、家族が決めることです」』
この、『「あなたを好きになるかどうかは、家族が決めることです」』ということを、普通に口に出せるということ。それだけでもう、僕らとは大きな壁があるな、という感じである。
こういう風に、アフガニスタンという国における生活というものを、本屋の一家であるカーン家の生活を中心にしながら、描き出していく。そのどれもが、僕がいる世界では考えられないものばかりなのであるが、しかし、向こうからすれば、僕らのような生活こそ考えられないものだろう。何せ、異教徒は悪、だそうだから。
多様な価値観が存在することは、決して悪いことではないと思う。しかし、僕が読んで勝手に思う限りは、アフガニスタンの価値観というものは、世界から大きく遅れてしまっているように思う。決して間違いだと言っているわけではない。誰もが納得いく社会など作れるはずはないし、不満はどこにでも存在するだろう。しかしそれでも、アフガニスタンという国は、もっと成熟するべきだ、と思えてしまう。
本作は、アフガニスタンという、僕らにはまるで未知の世界の生活を教えてくれる。こういう世界もまだあるのだ、と知ることは、いいことだと思う。手放しで素晴らしいと言える作品ではないのだけど、読んでみてもいい作品だとは思う。あまりにも違いすぎる価値観の存在を、体験してみてはどうでしょうか?
アスネ・セイエルスタッド「カブールの本屋―アフガニスタンのある家族の物語―」
素直に思うが、僕は日本という国に生まれて、本当に幸せだったな、と思う。もちろん、日々些細な不満はある。出来ないこともあるし、手に入らないものもある。誰だって、まあ同じものだろう。何とも比較せず、絶対的な基準で自分を幸せだと思える人間は、そういないだろう。
しかし、どこかと、誰かと比較してみれば、幸せというものは案外簡単に認識できるものだ。
そういう意味で僕は、日本という国は幸せだと思うのだ。
国によって、様々な面で違いがある。と書いてはみるものの、それすら憶測でしかない。僕らは、日本という国がどういう国なのかすら、まともに知らないのだ。それなのに、他の国との違いについて、きちんと把握できているわけがない。
ただ、国同士大きな違いがあるという前提で話をすれば、その違いは一体どこからくるのだろうか?
日本という国は、国土がどこの国とも接していない。なので、国境を越えた国との違いみたいなものについて、わからない。とはいえ、少し考えてみると、やはり国の違いは、宗教と社会の存在だろうな、と思うのである。
宗教というのは、日本人にはなかなか馴染みがない。日本は、世界でも珍しく無宗教だと言われるからだ。僕はそこがすごくいいと思っているのだが、外国から見ると奇妙なのだという。
宗教は、人を大きく規定する。服装や習慣だけでなく、価値観や思想までも規定する。誰もが、一つの方向へ向かって、同じような足取りで進んでいくことが求められる。僕には、ちょっと受け入れられない世界である。
僕は、宗教に対してあまりいい感情を持っていない。それは、次のような理由による。
もし人々が、宗教というものに対して、理由という形で接するなら、僕は宗教というものはそんなに悪いものではないと思っている。どういうことかといえば、何かをしようと思ったときに、この宗教ではこういう教えだからやろうとか、これは禁止されているから止めようとか、そういう判断の基準として接するならいいと思うのだ。
しかし、僕のイメージでは、そういう人は多くない。というか、宗教に深く接している人の場合は、そうでない人が多いと思う。
多くの人は、宗教を前提として接してしまう。つまり、この宗教ではこう説いているからこれをやろう、という発想である。僕は、こういう考え方がどうにもまずいのではないか、と思ってしまうのである。
思想や価値観がある方向に規定されてしまうことは、人間として大きな損失ではないか、と思うのだ。極端なことを言ってしまえば、ある宗教に属している人がみな、ほとんど同じような価値判断をするとしよう。だとすれば、その集団を一人とみなすしかない。人間というのは、異なる思想や価値観を持っているからこそ、その存在に価値があるはずだ、と僕は思っているので、それが統一されてしまえば、存在価値はどんどん薄まってしまうと思うのだ。
恐らく、宗教を信じる人にも、こういうことはわかっているのだろう。その上で、宗教というものを信じるということが、僕には理解することが難しい。
宗教を信じている人を非難できるわけではない。そんな視覚は僕にはないが、宗教というものは、どれだけ注意してもしたりないくらい、慎重に接するものではないか、と僕は思う。
社会というものは、ある意味で宗教とは別のベクトルだと言えるかもしれない。
宗教というのが、同じ器の中にいる人の価値観を統一しよう、という方向なのに対して、社会というのは、まるで異なる価値観を持った人々を同じ器に入れよう、という方向である。
つまり、社会と宗教は本来、明確に区別されるべきものだと思う。宗教が社会を規定するような世界は、どこかに歪みが生じるはずだ。
社会というものは、自由と不自由とを調整するバルブのようなものだと思う。そのバランスを、どの程度に決めるのか。その調整を行うのが、社会というものの役割だろうと思う。
一般に、先進国と呼ばれるような国は、自由のバランスが多く取られていると思う。日本もそうだ。あらゆることが、かなり自由になる。日本では、女性が肌を見せることも、凧揚げも、ひげを剃ることも、全部自由である(上記に挙げたことは、アフガニスタンでは一時期犯罪だった。今では、どうかはわからないが、恐らく変わっているだろう)。
社会が、人々の生活の自由を奪うよな状況は、ひどく貧しいと僕は思う。比較して初めて感じることだが、生きていく上で重要なことは、お金でも親でもなく、自由なのだと思う。肉体的にも精神的にも、どれだけ自由でいられるかということが、豊かさの一つの指標だと言ってもいいだろう。
宗教と社会によって、国が規定されていく。それは、その中にまで入っていかなくては、わからないものだ。だからこそ、他の国についてわからないということは仕方がない。
僕は、別にいいと思うのだ。日本という豊かで自由な国の中で、他の国のことなど何も考えずに生きていくことは、別に悪いことでは決してない。他の国について考えたところで、出来ることは多くないし、考えるだけ無駄だとは言わないけれども、それでどうなるわけでもない。
しかし、知る機会があるならば、知っておいて損はない。自分の外側に、幸せに関する評価基準を設けることが出来るからである。自分より何らかの意味で低い存在を意識することで、逆に自分を幸せだと感じる状況は、いささか貧しいと感じるけれども、そうでもしなければ幸せを実感することも難しい世の中になってきているのだから、それも仕方ないのかな、と思う。
というわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。なんか、今日の文章はちょっと失敗だな。もっと別な方向で文章を書くべきだったか(と勝手に反省)。
本作は、アフガニスタンのある家族と共に一時期暮らしていたある女性ジャーナリストが書いた、その家族の生活とその周辺を描いたノンフィクションです。
アフガニスタンと言えば、僕らが思いつけるのは、オサマ・ビンラディンぐらいでしょうか。9.11やイラク戦争で急速に知名度は上がったものの、ではアフガニスタンという国はどんな国なのか、どんな生活をしているのか、と聞かれると、誰も答えることなど出来ないだろう。
著者も恐らくそう考えて、ある家族と共に生活をするということを思い立ったのだろう。
冒頭で著者はこう書いている。
『私がここに書いたのは、あくまでアフガニスタンの一つの家族の物語にすぎない。この国には、ほかに何百万という家族がある私が起居しを共にした家族は、アフガン家庭の典型でもない。アフガニスタンでこういう表現が適切かどうか分からないが、カーン家あ一種の中産階級だ。家族の中には、教育を受けた者がいて、何人かは読み書きもできた。金回りはよく、食うに困ることは絶対になかった。
取材対象は一般的なアフガン家庭にすべきと考えるなら、誰も読み書きできず、毎日行き抜くのに精一杯という田舎の大家族と暮らしただろう。ただ私は、この国の典型例として、カーン家を選んだのではない。心に感じるものがあったからなのだ。』
本作は、ノンフィクションとしては珍しく、小説風に描かれている。つまり、著者の視点からの文章ではなく、彼女が接したありとあらゆる人物の視点をそ時々で使い分け、文章を書いているのである。
僕は、この試みが成功しているとはちょっと思えない。著者が小説家ではないからか、あるいは外国の作品では一般的なのか、文章の途中で結構視点が変わる。僕としてはまずそれがあまり好きではなかったのだけれども、さらに、それぞれの心情描写について、どこまで信頼できるのか、と思えてしまう。
冒頭で著者はこう書いている。
『本書は小説風に書いたが、内容は実際の出来事であり、関係者の話に基づいている。誰かの考えや感情を書く時も、それぞれの状況の中で何を考え感じたか、当事者が語ってくれたことを踏まえている。』
ということだそうだが、それでも聞いたことからその時の心情を言葉で書けるようになるとは僕には思えない。まして、ちゃんとした通訳がいるわけではなく、彼女と、カーン家の中で多少英語ができる人間とのやりとりの中での話なのである。僕としては、この小説風にノンフィクションを描くという形式は、新しいしそれなりに成果はあったとは思うけれども、ちょっと納得いかなかった。
さて、大体の本作の内容を書いてみよう。
まずカーン家の紹介を。タイトルの通り、カーン家は本屋を営んでいる。アフガニスタンでもかなり有数の本屋で、かなり力を持っている。だからカーン家は中産階級なのである。
では本作は、本屋のことを中心に書いているかというと、特にそんなことはない。たまたま著者が住み着いたのが本屋の家族だったというだけの話で、アフガニスタンでの本屋事情というものがそこまで描かれるわけではない。この点も、「本屋」というキーワードに惹かれて買った僕としては、ちょっと期待はずれだったかな、と思う。
家族は、もうたくさんいすぎて名前を挙げることも難しい。とにかく、たくさんだ。全員が同じ屋根の下で暮らしているわけではないが、大家族であることには違いない。
アフガニスタンという国は、完全な男社会である。冒頭でも書いたが、とにかく女の地位というものは低い。結婚させるための対象でしかなく、息子をたくさん産んだ母親は賞賛されるが、娘ばかり産んだ母親は息子を産まなくてはと焦る。そんな国である。
家の中では、家長の意見が絶対だ。大抵家長は、一家の父親であることが多い。家長の意見に従わないものは、家族を追い出されることもある。恐ろしい世界である。
男女の色恋については、厳しい制限がある。結婚前の女性は、家族以外の男性に顔を見せてはいけない。もちろん、会ってもいけないし、話をしてもいけない。
本作では、こんな状況が描かれる。
結婚したある女性がいる。この女性は、旦那が一時期国を離れていた時を見計らって、ある男性と密通していた。それを警官に目撃されたのだ。
その女性は、どうなったか。
その後、事故で死んだ、ということになった。
実際は、その女性の母親が、殺すようにと息子に告げたのだ。結婚した女性の密通は、家族の評判をも一気に貶める。家族の評判を回復させるには、娘を殺すしかないのである。
そんな世界だ。
また本作には、カーン家の一番下の娘、ライラという女性が出てくる。一家の中で一番下の娘は、幼い頃から召使いのようにして育てられる。家事全般をやらされるのだ。ひたすら毎日、何も考えることなく家事だけを続け、外に出ることもなく、そんな人生を送る。ライラは、そんな人生とはおさらばしたいと考えていたが、どうにかなるものではない。
そんな折、ある男性がライラに求婚してきた。アフガニスタンでは、男性は直接女性に求婚できない。男性の家族の誰か女性が、相手の家族にお願いに行くのである。そんな状況が何度か続き、ある時相手の男は、ライラと話す機会を持つことができた。その時の会話を以下に書く。
『「君の答えはどうなんだい?」とカリムが聞く。
「お答えできないです」とライラ。
「でも、君はどうしたいんだい?」
「私が何かをしたいと思うこともできないんですって」
「僕を好きでいてくれる?」
「ですから、お答えできません」
「プロポーズしたら、うんと言ってくれる?」
「ですから、お答えするのは私じゃないんです」
「また会ってくれる?」
「無理です」
「どうして、もう少し優しくしてくれないんだい?僕のこと嫌いなの?」
「あなたを好きになるかどうかは、家族が決めることです」』
この、『「あなたを好きになるかどうかは、家族が決めることです」』ということを、普通に口に出せるということ。それだけでもう、僕らとは大きな壁があるな、という感じである。
こういう風に、アフガニスタンという国における生活というものを、本屋の一家であるカーン家の生活を中心にしながら、描き出していく。そのどれもが、僕がいる世界では考えられないものばかりなのであるが、しかし、向こうからすれば、僕らのような生活こそ考えられないものだろう。何せ、異教徒は悪、だそうだから。
多様な価値観が存在することは、決して悪いことではないと思う。しかし、僕が読んで勝手に思う限りは、アフガニスタンの価値観というものは、世界から大きく遅れてしまっているように思う。決して間違いだと言っているわけではない。誰もが納得いく社会など作れるはずはないし、不満はどこにでも存在するだろう。しかしそれでも、アフガニスタンという国は、もっと成熟するべきだ、と思えてしまう。
本作は、アフガニスタンという、僕らにはまるで未知の世界の生活を教えてくれる。こういう世界もまだあるのだ、と知ることは、いいことだと思う。手放しで素晴らしいと言える作品ではないのだけど、読んでみてもいい作品だとは思う。あまりにも違いすぎる価値観の存在を、体験してみてはどうでしょうか?
アスネ・セイエルスタッド「カブールの本屋―アフガニスタンのある家族の物語―」
神様のパズル(機本伸司)
何故自分は生まれたのか。
何故自分は生きているのか。
そういう疑問を抱くのは、ごく普通のことだ。誰だって人生の中で、一度くらいそんなことを考えたことはあるだろう。
しかしその疑問を、何故宇宙は誕生したのか、と結びつけて考える人は、そう多くはないだろう。
宇宙というものがあるから、そこから派生して、自分という存在が生まれたのだ。だからこそ、宇宙について理解しなくては。
すごい発想である。確かに、行き着くところまで行ってしまえば、そうなるしかないだろうが。
古来、ありとあらゆる形で、自分の存在というものに対して解答が模索されてきた。哲学でも、宗教でも、小説でも。しかし、それらの分野は、明確な唯一の答えを導き出すものではない。
しかし、物理は違う。物理は、それが真実だと確定するまでには紆余曲折あるが、基本的に答えは一つに決まる。矛盾する二つの考えが混在することはありえないのである。
そこに、自らの存在の理由を求める。なるほど、確かに合理的なのかもしれない。
さて、宇宙の話である。
僕は、詳しくはないけれども、物理の話は好きなのである。宇宙の話ももちろん大好きだ。相対性理論やビッグバンなど、人に説明するほど理解できているわけではないけど、でも大枠くらいはそこそこわかっているつもりである。
ただ、物理学というのは、宇宙誕生ということに関して、かなり暗礁に乗り上げている感はある。
アインシュタインが提唱した相対性理論により、宇宙そのものについての性質や理解がどんどん進んでいき、また、ハッブル天文台などの様々な天文台の観測により、過去や現在における宇宙のあらゆるものを観察できるようになり、それによりあらたな事実や理論が様々に生み出されてきた。
しかし、にも関わらず、宇宙が始まった瞬間については、まだ未知のままなのである。
宇宙がビッグバンから始まったというのは、科学者の大半のコンセンサスになっている。しかし、僕らが時間を遡ることができるのは、そのビッグバン開始直後までである。それ以前は、時間や空間という概念が存在せず、ありとあらゆる物理法則が適応されない世界なのである。ありとあらゆる物理法則が適応できないのだから、今の物理の力でどうにかなるものではない。
ビッグバンは、非常に小さく密度は無限大の粒子が、多大なエネルギーでもって爆発(爆発というのはあくまでもイメージだけど)して起こったと言われている。ならば、その粒子は一体どこからやってきたのか、ビッグバンが起こるにはどんな条件が必要なのか、ビッグバンのスタートのきっかけになるものは一体なんなのか。こうした疑問に、今の物理学は答えを出すことは出来ないでいる。
もちろん、いくつか仮説は提唱されている。僕が知っている話では、あの車椅子の物理学者として有名なホーキングが提唱した、トンネル効果によって始まりの粒子がどこから来たのか説明する仮説がある。
微細な粒子というのは、僕らが知っているような普通の物理法則ではなく、量子論という物理法則に従って運動が決まる。その量子論の中に、トンネル効果というものがある。これは、粒子が取りうるエネルギー状態が、基底状態を上回るという状態で、この時粒子は、まるで見えないトンネルを潜るようにして、ある空間から別の空間へと移動するのだという。こうして、宇宙創生時には「無」だったはずの空間に、トンネル効果によって粒子がやってきて、ビッグバンが始まった、というのである(ここでの説明は、基本的に何も見ずに、僕のうろ覚えな知識だけで書いているので、大分間違っているかもしれませんが)。
もちろん、それも仮説である。というか、宇宙の始まりについての理論を、一体どう実証すればいいというのだろうか。誰もがその答えを知りたいと願っている、宇宙誕生の瞬間の理論の記述。世界中のあらゆる知能がそれにチャレンジしているというのに、未だにそれは現実のものとならない。
僕の考えでは、やはり創造主のような存在はいるのだろう、と思う。僕は宗教には無関心だし、神の存在を信じるかと言われれば信じないけど、プログラマという意味での創造主の存在は信じてもいい。ドミノだって、途中の経過を見ていればドミノ同士が勝手に倒れているように見えるけれども、やはり一番初めのドミノは誰かが倒しているはずなのだ。その、一番初めのドミノを倒したはずの創造主に会えれば面白いのにな、と思う。
僕らは、無謀にも世界を知りたいと望む。世界を記述したいと望む。それが、科学の最終目標だと言ってもいい。
僕は、個人的にパズルを作ることが趣味だった時期がある。パズル誌なんかに投稿もしていた。パズルを作ると分かるのだが、理論的に解けるように作らなくてはいけない。当たり前だ。そして、出来るだけ難しいものを考えようと思うが、しかし最終的には解いて欲しいと思って作っている。
創造主だって、同じことを考えただろう。確かに、自分が考えたパズルは、ちょっと難しいかもしれない。でも、解けるようには作ったつもりだ。だから皆、頑張ってね。創造主だって、そんな風に思っているかもしれない。
宇宙が誕生してから、150億年が経ったとも言われている。僕らにとっては、果てしなく長い時間だ。しかし、創造主からすれば、大したことはないのかもしれない。そうだとすれば、僕が生きているうちに宇宙誕生の謎が解明されるのは…難しいだろうなぁ。
というわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
本作のメインのテーマは、「人間が宇宙を作ることは出来るか?」である。大それたテーマではあるが、これがなかなか面白い。
舞台は、ちょっと先の未来。2020年代とか30年代とか、たぶんそれくらいである。主人公の綿貫が書く日記という形で物語は進んでいく。
ダメ大学生である綿貫基一は、今割とピンチである。必修科目である量子力学Ⅰの単位を落としてしまい、しかも事情があって、厳しいと言われているゼミに入ろうとしているのである。まあ事情というのは、好きな女の子のお尻を追いかけるっていうことなんだけど。
結局その鳩村ゼミという厳しいゼミに入ることにした。気になっている穂積さんとも同じゼミになれたので、とりあえず満足ではある。卒業はちょっと危ないし、就職活動もしなきゃだし、全然ダメなんだけど。
ゼミの顔合わせの日。鳩村教授から呼び出された。何だろう、と不安に思っていると、穂瑞沙羅華についてだった。
穂瑞は、この大学でもちょっとした有名人だった。人工授精によって生まれた超天才児で、特例による飛び級に飛び級で、16歳にして大学4年生である。事情により今は不登校なのだが、これも事情があって鳩村ゼミに回された。ついては、是非君に、穂瑞さんをゼミに連れてきて欲しい、というのである。何で僕なんかに…と思うのだが、少しでも単位のプラスになるのなら、と引き受けることに。
穂瑞の自宅に向かう。メディアで知っていたよりも無表情でとっつきにくい。これでは自分に説得などは無理だ…。そう思いつつも、雑談を交えながらも、ゼミにきて欲しいという話を伝える。
一方で、大学の講義を受講していたある老人と話す機会があった。その老人は、宇宙がどうして出来たのかをどうしても知りたいと語り、「宇宙が無から生まれたというが、それならば人間にも作れるのか?」と疑問を発した。そこでその老人を穂瑞と引き合わせたのだが、天才である穂瑞でも、きちんと答えることはできなかった。
さて、ゼミには、ゼミ生同士である一つのテーマについて研究発表するというものがある。そのテーマを決める話し合いの場に、なんと穂瑞がやってきた。ゼミの研究テーマについて希望を聞かれ、穂瑞はこう答えた。
「宇宙の作り方」
それから穂瑞と綿貫は、いかにして宇宙を作るのかということを考えていくことになるのだが…。
本作は小松左京賞受賞作で、この賞はSF系の賞なので本作もSFと言われる感じですけど、あんまりSF色はないような気がしますね。ちょっと先の未来に設定していることと、宇宙の作り方を考える、という部分がSF的なのかもしれないけど、畑仕事が出てくるなど、全然普通の日常がベースになっている作品です。
僕は本作を買うときに、裏の内容紹介を見て、「宇宙の作り方を考える」的なことが書いてあったのを見て、すごいSF的な荒唐無稽な感じの作品なんだろうな、と思ったのだが、もうまったく違ったのである。
バリバリの物理の知識のオンパレードである。つまり、具体的に、物理という学問の範囲の中で、多少の飛躍はあるかもしれないけどその中で宇宙を作り出すことが出来るかどうか、という検証をしているのである。
だからこそ、本作で描かれる知識は、少々難しい。解説では、その辺を易しくうまく描いている、なんて書いてあるけど、いやいやそんなことはないと思う。もし本作に書かれている内容をきちんと理解した上で本作を読もうとしたら、大学の物理系の専門課程、もしかしたら大学院生くらいの知識は必要かもしれない。僕も、名前だけ聞いたことのある言葉や、名前すら一度も聞いたことのない言葉のオンパレードで、まったくついていけませんでした。
しかし、こういう作品のお約束として、主人公も充分頭が悪いので(ミステリでいえば、ワトソン役ですな)だから、天才穂瑞の言っていることを理解できなくても、主人公の綿貫も理解できてないわけだからまあいいんじゃないか、という感じである。だから、物理的な部分についていけなくても、まあ特に問題はないと思う。まあ疑問なのは、本作は日記という形式なわけで、後から穂瑞とのやりとりを思い出してこれを書いているはずなのに、あれだけわけわからん単語オンパレードの文章を書けるんだろうか、と思ってしまうが、まあそこは小説なのでいいとしよう。
本作の物理的な部分で、大半は理解できなかったのだけど、一つだけすごいなと思った発想がある。本作中で「光子場理論」と名付けられた理論で(もちろんそんな理論は世の中には存在しない)、これはどういうことかと言えば、光子と場はそもそも同じものである、という考え方である。この発想には驚いた。
光子というのは、速度は高速で大きさも質量も0という性質を持つ物質である。本作中で穂瑞は、ならばもし、光子の速度が0になったらどうなるのだろう、と考える。その場合、ある一定の大きさを持つ場になるのではないか、と考えたのだ。そこから派生して、またわけのわからない理論の説明になっていくのだけど、この「光子場理論」の発想だけでも、充分著者は頑張ったなぁ、という感じがするのである。素晴らしい。
本作はもちろん、そういう「いかにして宇宙を作るか?」という部分も非常に面白いが、学園モノとしてもなかなか面白い作品だ。ダメ学生である綿貫は、なんだかいつも貧乏くじを引かされるハメになるし、バイトで田んぼの世話をすることになったり、ゼミ生や教授たちとの微妙な関わり合いがあったり、そういう人間関係的な部分もいいと思う。
しかし何よりもいいのが、穂瑞という存在である。僕はとにかく天才というのが大好きなので、穂瑞というキャラはすごくいいと思う。しかも、今流行のツンデレである。しかも、デレの部分がほぼない、かなりクールなキャラで、冷たい人間が好きな僕としては、なかなかいいなぁ、と思ってしまう。まあ、穂積さんもちょっと気になるところではあるのだけど。
今僕はこの作品を、ライトノベルのところに出して売っています。まあその方が売れる(表紙がライトノベル的なものは、内容がどうだろうとライトノベルのところに置くほうが売れるのである)からなのだけど、まあツンデレみたいな部分ではライトノベル的かもだけど、普通のところに置いて一般の読者にもアピールしてみようかな、と思う。なんか、ゲーム化・映画化が決まっているようで、ちょっとした話題になりそうな感じである。久々に、角川春樹事務所から出たベストセラーになるかもしれないなぁ。というわけで、今後の動向にちょっと注意しておこうと思います。
なかなか面白い作品です。表紙だけ見るとちょっと手に取りにくいかもしれないけど、読んでみてください。物理的な単語を一つでも見るとジンマシンが出る、という人は止めておいた方がいいかもしれないけど。
機本伸司「神様のパズル」
何故自分は生きているのか。
そういう疑問を抱くのは、ごく普通のことだ。誰だって人生の中で、一度くらいそんなことを考えたことはあるだろう。
しかしその疑問を、何故宇宙は誕生したのか、と結びつけて考える人は、そう多くはないだろう。
宇宙というものがあるから、そこから派生して、自分という存在が生まれたのだ。だからこそ、宇宙について理解しなくては。
すごい発想である。確かに、行き着くところまで行ってしまえば、そうなるしかないだろうが。
古来、ありとあらゆる形で、自分の存在というものに対して解答が模索されてきた。哲学でも、宗教でも、小説でも。しかし、それらの分野は、明確な唯一の答えを導き出すものではない。
しかし、物理は違う。物理は、それが真実だと確定するまでには紆余曲折あるが、基本的に答えは一つに決まる。矛盾する二つの考えが混在することはありえないのである。
そこに、自らの存在の理由を求める。なるほど、確かに合理的なのかもしれない。
さて、宇宙の話である。
僕は、詳しくはないけれども、物理の話は好きなのである。宇宙の話ももちろん大好きだ。相対性理論やビッグバンなど、人に説明するほど理解できているわけではないけど、でも大枠くらいはそこそこわかっているつもりである。
ただ、物理学というのは、宇宙誕生ということに関して、かなり暗礁に乗り上げている感はある。
アインシュタインが提唱した相対性理論により、宇宙そのものについての性質や理解がどんどん進んでいき、また、ハッブル天文台などの様々な天文台の観測により、過去や現在における宇宙のあらゆるものを観察できるようになり、それによりあらたな事実や理論が様々に生み出されてきた。
しかし、にも関わらず、宇宙が始まった瞬間については、まだ未知のままなのである。
宇宙がビッグバンから始まったというのは、科学者の大半のコンセンサスになっている。しかし、僕らが時間を遡ることができるのは、そのビッグバン開始直後までである。それ以前は、時間や空間という概念が存在せず、ありとあらゆる物理法則が適応されない世界なのである。ありとあらゆる物理法則が適応できないのだから、今の物理の力でどうにかなるものではない。
ビッグバンは、非常に小さく密度は無限大の粒子が、多大なエネルギーでもって爆発(爆発というのはあくまでもイメージだけど)して起こったと言われている。ならば、その粒子は一体どこからやってきたのか、ビッグバンが起こるにはどんな条件が必要なのか、ビッグバンのスタートのきっかけになるものは一体なんなのか。こうした疑問に、今の物理学は答えを出すことは出来ないでいる。
もちろん、いくつか仮説は提唱されている。僕が知っている話では、あの車椅子の物理学者として有名なホーキングが提唱した、トンネル効果によって始まりの粒子がどこから来たのか説明する仮説がある。
微細な粒子というのは、僕らが知っているような普通の物理法則ではなく、量子論という物理法則に従って運動が決まる。その量子論の中に、トンネル効果というものがある。これは、粒子が取りうるエネルギー状態が、基底状態を上回るという状態で、この時粒子は、まるで見えないトンネルを潜るようにして、ある空間から別の空間へと移動するのだという。こうして、宇宙創生時には「無」だったはずの空間に、トンネル効果によって粒子がやってきて、ビッグバンが始まった、というのである(ここでの説明は、基本的に何も見ずに、僕のうろ覚えな知識だけで書いているので、大分間違っているかもしれませんが)。
もちろん、それも仮説である。というか、宇宙の始まりについての理論を、一体どう実証すればいいというのだろうか。誰もがその答えを知りたいと願っている、宇宙誕生の瞬間の理論の記述。世界中のあらゆる知能がそれにチャレンジしているというのに、未だにそれは現実のものとならない。
僕の考えでは、やはり創造主のような存在はいるのだろう、と思う。僕は宗教には無関心だし、神の存在を信じるかと言われれば信じないけど、プログラマという意味での創造主の存在は信じてもいい。ドミノだって、途中の経過を見ていればドミノ同士が勝手に倒れているように見えるけれども、やはり一番初めのドミノは誰かが倒しているはずなのだ。その、一番初めのドミノを倒したはずの創造主に会えれば面白いのにな、と思う。
僕らは、無謀にも世界を知りたいと望む。世界を記述したいと望む。それが、科学の最終目標だと言ってもいい。
僕は、個人的にパズルを作ることが趣味だった時期がある。パズル誌なんかに投稿もしていた。パズルを作ると分かるのだが、理論的に解けるように作らなくてはいけない。当たり前だ。そして、出来るだけ難しいものを考えようと思うが、しかし最終的には解いて欲しいと思って作っている。
創造主だって、同じことを考えただろう。確かに、自分が考えたパズルは、ちょっと難しいかもしれない。でも、解けるようには作ったつもりだ。だから皆、頑張ってね。創造主だって、そんな風に思っているかもしれない。
宇宙が誕生してから、150億年が経ったとも言われている。僕らにとっては、果てしなく長い時間だ。しかし、創造主からすれば、大したことはないのかもしれない。そうだとすれば、僕が生きているうちに宇宙誕生の謎が解明されるのは…難しいだろうなぁ。
というわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
本作のメインのテーマは、「人間が宇宙を作ることは出来るか?」である。大それたテーマではあるが、これがなかなか面白い。
舞台は、ちょっと先の未来。2020年代とか30年代とか、たぶんそれくらいである。主人公の綿貫が書く日記という形で物語は進んでいく。
ダメ大学生である綿貫基一は、今割とピンチである。必修科目である量子力学Ⅰの単位を落としてしまい、しかも事情があって、厳しいと言われているゼミに入ろうとしているのである。まあ事情というのは、好きな女の子のお尻を追いかけるっていうことなんだけど。
結局その鳩村ゼミという厳しいゼミに入ることにした。気になっている穂積さんとも同じゼミになれたので、とりあえず満足ではある。卒業はちょっと危ないし、就職活動もしなきゃだし、全然ダメなんだけど。
ゼミの顔合わせの日。鳩村教授から呼び出された。何だろう、と不安に思っていると、穂瑞沙羅華についてだった。
穂瑞は、この大学でもちょっとした有名人だった。人工授精によって生まれた超天才児で、特例による飛び級に飛び級で、16歳にして大学4年生である。事情により今は不登校なのだが、これも事情があって鳩村ゼミに回された。ついては、是非君に、穂瑞さんをゼミに連れてきて欲しい、というのである。何で僕なんかに…と思うのだが、少しでも単位のプラスになるのなら、と引き受けることに。
穂瑞の自宅に向かう。メディアで知っていたよりも無表情でとっつきにくい。これでは自分に説得などは無理だ…。そう思いつつも、雑談を交えながらも、ゼミにきて欲しいという話を伝える。
一方で、大学の講義を受講していたある老人と話す機会があった。その老人は、宇宙がどうして出来たのかをどうしても知りたいと語り、「宇宙が無から生まれたというが、それならば人間にも作れるのか?」と疑問を発した。そこでその老人を穂瑞と引き合わせたのだが、天才である穂瑞でも、きちんと答えることはできなかった。
さて、ゼミには、ゼミ生同士である一つのテーマについて研究発表するというものがある。そのテーマを決める話し合いの場に、なんと穂瑞がやってきた。ゼミの研究テーマについて希望を聞かれ、穂瑞はこう答えた。
「宇宙の作り方」
それから穂瑞と綿貫は、いかにして宇宙を作るのかということを考えていくことになるのだが…。
本作は小松左京賞受賞作で、この賞はSF系の賞なので本作もSFと言われる感じですけど、あんまりSF色はないような気がしますね。ちょっと先の未来に設定していることと、宇宙の作り方を考える、という部分がSF的なのかもしれないけど、畑仕事が出てくるなど、全然普通の日常がベースになっている作品です。
僕は本作を買うときに、裏の内容紹介を見て、「宇宙の作り方を考える」的なことが書いてあったのを見て、すごいSF的な荒唐無稽な感じの作品なんだろうな、と思ったのだが、もうまったく違ったのである。
バリバリの物理の知識のオンパレードである。つまり、具体的に、物理という学問の範囲の中で、多少の飛躍はあるかもしれないけどその中で宇宙を作り出すことが出来るかどうか、という検証をしているのである。
だからこそ、本作で描かれる知識は、少々難しい。解説では、その辺を易しくうまく描いている、なんて書いてあるけど、いやいやそんなことはないと思う。もし本作に書かれている内容をきちんと理解した上で本作を読もうとしたら、大学の物理系の専門課程、もしかしたら大学院生くらいの知識は必要かもしれない。僕も、名前だけ聞いたことのある言葉や、名前すら一度も聞いたことのない言葉のオンパレードで、まったくついていけませんでした。
しかし、こういう作品のお約束として、主人公も充分頭が悪いので(ミステリでいえば、ワトソン役ですな)だから、天才穂瑞の言っていることを理解できなくても、主人公の綿貫も理解できてないわけだからまあいいんじゃないか、という感じである。だから、物理的な部分についていけなくても、まあ特に問題はないと思う。まあ疑問なのは、本作は日記という形式なわけで、後から穂瑞とのやりとりを思い出してこれを書いているはずなのに、あれだけわけわからん単語オンパレードの文章を書けるんだろうか、と思ってしまうが、まあそこは小説なのでいいとしよう。
本作の物理的な部分で、大半は理解できなかったのだけど、一つだけすごいなと思った発想がある。本作中で「光子場理論」と名付けられた理論で(もちろんそんな理論は世の中には存在しない)、これはどういうことかと言えば、光子と場はそもそも同じものである、という考え方である。この発想には驚いた。
光子というのは、速度は高速で大きさも質量も0という性質を持つ物質である。本作中で穂瑞は、ならばもし、光子の速度が0になったらどうなるのだろう、と考える。その場合、ある一定の大きさを持つ場になるのではないか、と考えたのだ。そこから派生して、またわけのわからない理論の説明になっていくのだけど、この「光子場理論」の発想だけでも、充分著者は頑張ったなぁ、という感じがするのである。素晴らしい。
本作はもちろん、そういう「いかにして宇宙を作るか?」という部分も非常に面白いが、学園モノとしてもなかなか面白い作品だ。ダメ学生である綿貫は、なんだかいつも貧乏くじを引かされるハメになるし、バイトで田んぼの世話をすることになったり、ゼミ生や教授たちとの微妙な関わり合いがあったり、そういう人間関係的な部分もいいと思う。
しかし何よりもいいのが、穂瑞という存在である。僕はとにかく天才というのが大好きなので、穂瑞というキャラはすごくいいと思う。しかも、今流行のツンデレである。しかも、デレの部分がほぼない、かなりクールなキャラで、冷たい人間が好きな僕としては、なかなかいいなぁ、と思ってしまう。まあ、穂積さんもちょっと気になるところではあるのだけど。
今僕はこの作品を、ライトノベルのところに出して売っています。まあその方が売れる(表紙がライトノベル的なものは、内容がどうだろうとライトノベルのところに置くほうが売れるのである)からなのだけど、まあツンデレみたいな部分ではライトノベル的かもだけど、普通のところに置いて一般の読者にもアピールしてみようかな、と思う。なんか、ゲーム化・映画化が決まっているようで、ちょっとした話題になりそうな感じである。久々に、角川春樹事務所から出たベストセラーになるかもしれないなぁ。というわけで、今後の動向にちょっと注意しておこうと思います。
なかなか面白い作品です。表紙だけ見るとちょっと手に取りにくいかもしれないけど、読んでみてください。物理的な単語を一つでも見るとジンマシンが出る、という人は止めておいた方がいいかもしれないけど。
機本伸司「神様のパズル」
発表!輝くバカテスト大賞(爆笑問題のバク天!)
昔は勉強ばっかしてたよなぁ、と振り返ってみてそう思う。
もう、ひたすら勉強ばっかりやってた。それこそ、こいつは頭がおかしくなったんじゃないか、ってくらい。まあ、多少は勉強好きだったけど、おれだけじゃ決してなかった。いろんな理由があって、僕は勉強していた。まあ、もっと学生時代にいろいろ楽しいこと出来たかなぁ、とも思うけど、僕の性格的にそれもまた難しかっただろうし、だったらまあ後悔というほどでもない。
でも、学校の勉強はほどほどにしておいた方がいいなぁ、と今では思う。もし自分に子供が出来るようなことになれば、子供には無理して勉強させないことにしよう。それが一番いいと思う。
結局、学校での勉強って、全然役に立たないのだ。もちろん、役に立てるためだけに勉強をしているわけではない。勉強をするということそのものへの努力や、勉強を通じて世界を広げる、なんていう意図もまああるのだろう。しかし、学校での勉強そのものを抜き出してみてみると、全然役に立たないのだ。
計算する力みたいなものはまあ必要だとして、後の教科は大して必要ではないな。
一番最悪なのが、国語ですね。あれほど最低な授業はないでしょう。あれで、読書嫌いになる子供がどれだけいるか。夏休みの読書感想文もその温床の一つだろうけど、国語という授業はもう少し考えた方がいいのではないか、と僕は思いますね。
僕は今さら思うのだが、学校での勉強をちゃんとすることが大事なのではなく、何か勉強したいことを見つけるということが一番大事なんだろうな、ということだ。
もちろん、人によってはこう言うだろう。学校での勉強もちゃんとやっていい大学に行かなきゃ、勉強したいことがあったってちゃんと勉強できない、と。
しかし、いやいやそんなことはないだろう。勉強したいということが見つかりさえすれば、どんな環境でだって勉強できる。
だから子供の頃というのは、もっと興味の幅を広げるべきだと僕は思うのだ。
ゲームがいいとは言わないけど、でもゲームにのめりこむのだって決して悪くはない。そこから、グラフィック的なことに興味を持って勉強したいと思えば、それでいいと思う。
僕は、昔から興味の対象が狭かったのか、あるいは勉強ばっかりしてきて興味を持つということをしなかったのか、とにかくあらゆることに無関心である。勉強したいなぁ、なんて思うことは、もう全然ない。僕は理系の学生だったのだけど、理系というのはとにかく、自分で研究のテーマを見つけなくてはならない(まあ別にどこでもそうなんだろうけど)。僕にはそういうのが全然なくて、まあ結局逃げたので何も研究していないのだけど、そんな感じである。
学校の勉強が完全に無意味だとは言わない。ああいう知識は、常識として必要だと思う。しかし、そればかりに掛かりきりにさせる教育はどうかと思う。もっと、子供の興味の幅を持たせてやるだけの余裕が必要だろう。
それを学校にやらせようとして、ゆとり教育なんて変な制度ができた。そうじゃない。それは、親の役目だと僕は思う。
さてそろそろ内容に入ろうと思います。しかし、眠いなぁ。半分寝ながらこの感想を書いてるので、文章がおかしいかも。
さて本作は、「爆笑問題のバク天!」というテレビ番組の1コーナーだった、テストのバカな解答を紹介するというものを本にしたものです。
とにかく、爆笑解答のオンパレードですね。
本作を読むと、勉強はあんまりしなくていい、という前言を撤回したくもなりますが、いやでも、これぐらいのユーモアがある方がのちのちうまく生き残れるかもなぁ、とも思うわけで…。とにかくごたごた言っていても仕方ないので、僕が面白いなと思ったものを下に書き連ねてみます。一応、バカ解答は背景と同色にしてみました。反転してみてください。
問:空欄を埋めて英文を完成させなさい。
これは机です。 [ ]is [ ]desk.
正解:[This] is [a] desk.
バカ解答:[Th]is [is] desk.
問:607年、聖徳太子の命により遣隋使として隋に赴いた人物を答えなさい。
解答:小野妹子
バカ解答:小野桃子
問:次の[ ]に当てはまる語句を答えなさい。
[ ]年、源頼朝は朝廷から征夷大将軍に任命され、[ ]に幕府を開いた。
解答:1192/鎌倉
バカ解答:2960/すぐ
問:次の擬態語を使って短文を作りなさい。
『すかっと』
解答例:スポーツをすると、すかっとした気分になる。
バカ解答:ますかっと
問:空欄に語句を入れて俳句を完成させなさい。
夏草や兵どもが[ ]
解答:夢の跡
バカ解答:ケミストリー
問:「猫をかぶる」の意味を答えなさい。
解答例:本性を表さずに、表面は優しそうに装うこと。
バカ解答:ひどく暑い
問:次の敬語の文章を、普通の言い方に改めなさい
①もうお目にかかりました。
②先生は、今日和服をおめしになっています。
③山田様がロビーでお待ちになっています。
解答:めんどくさいので省略
バカ解答:
①もう目にかかるじゃねえかよ!
②先生、今日和服でめしくってたよ!
③山田がロビーでおもちみたいになってるってさ!
問:文中の[ ]に入る適当な語句を書きなさい。
1853年、浦賀沖にペリーが来航し[ ]した。
解答:開国を要求
バカ解答:ま
問:下線部Aの板垣退助が~負傷した時に言ったとされる有名な言葉を答えなさい。
解答:板垣死すとも自由は死せず
バカ解答:ぐへっ
問:次の文の[ ]に当てはまる文を答えなさい。
※答えは一種類とは限らない。
塩酸に[ ]を入れると[ ]を発する。
解答例:石灰石/二酸化炭素
バカ解答:生き物/大声
問:次の文の空欄に当てはまる語句を入れなさい。
三角柱では、二つの底面は[ ]大きさで、[ ]になっている。また、側面と[ ]になっている。
解答:同じ/平行/垂直
バカ解答:すごい/話題/噂
問:次の文の空欄に当てはまる語句を入れなさい。
2本の直線が[ ]に交わる時、この2本の直線は[ ]であるといいます。
解答:直角/垂直
バカ解答:静かに/もはや一本
しかし、お馬鹿な解答満載ですね。面白いものはまだまだ一杯ありますよ。
しかしちょっと悔しいのは、本当の正解を自分でも答えられない問題があった、ってことですね。たぶんここに載ってるのは、小中学生くらいの問題だと思うんだけど、わからない問題があるっていうのはちょっと哀しかったですね。
まあそんなわけで、学生でなくなるととたんにやる機会のなくなるテストですが、昔を思い出してみながら本作で爆笑してみてはどうでしょうか?
爆笑問題のバク天!「発表!輝くバカテスト大賞」
もう、ひたすら勉強ばっかりやってた。それこそ、こいつは頭がおかしくなったんじゃないか、ってくらい。まあ、多少は勉強好きだったけど、おれだけじゃ決してなかった。いろんな理由があって、僕は勉強していた。まあ、もっと学生時代にいろいろ楽しいこと出来たかなぁ、とも思うけど、僕の性格的にそれもまた難しかっただろうし、だったらまあ後悔というほどでもない。
でも、学校の勉強はほどほどにしておいた方がいいなぁ、と今では思う。もし自分に子供が出来るようなことになれば、子供には無理して勉強させないことにしよう。それが一番いいと思う。
結局、学校での勉強って、全然役に立たないのだ。もちろん、役に立てるためだけに勉強をしているわけではない。勉強をするということそのものへの努力や、勉強を通じて世界を広げる、なんていう意図もまああるのだろう。しかし、学校での勉強そのものを抜き出してみてみると、全然役に立たないのだ。
計算する力みたいなものはまあ必要だとして、後の教科は大して必要ではないな。
一番最悪なのが、国語ですね。あれほど最低な授業はないでしょう。あれで、読書嫌いになる子供がどれだけいるか。夏休みの読書感想文もその温床の一つだろうけど、国語という授業はもう少し考えた方がいいのではないか、と僕は思いますね。
僕は今さら思うのだが、学校での勉強をちゃんとすることが大事なのではなく、何か勉強したいことを見つけるということが一番大事なんだろうな、ということだ。
もちろん、人によってはこう言うだろう。学校での勉強もちゃんとやっていい大学に行かなきゃ、勉強したいことがあったってちゃんと勉強できない、と。
しかし、いやいやそんなことはないだろう。勉強したいということが見つかりさえすれば、どんな環境でだって勉強できる。
だから子供の頃というのは、もっと興味の幅を広げるべきだと僕は思うのだ。
ゲームがいいとは言わないけど、でもゲームにのめりこむのだって決して悪くはない。そこから、グラフィック的なことに興味を持って勉強したいと思えば、それでいいと思う。
僕は、昔から興味の対象が狭かったのか、あるいは勉強ばっかりしてきて興味を持つということをしなかったのか、とにかくあらゆることに無関心である。勉強したいなぁ、なんて思うことは、もう全然ない。僕は理系の学生だったのだけど、理系というのはとにかく、自分で研究のテーマを見つけなくてはならない(まあ別にどこでもそうなんだろうけど)。僕にはそういうのが全然なくて、まあ結局逃げたので何も研究していないのだけど、そんな感じである。
学校の勉強が完全に無意味だとは言わない。ああいう知識は、常識として必要だと思う。しかし、そればかりに掛かりきりにさせる教育はどうかと思う。もっと、子供の興味の幅を持たせてやるだけの余裕が必要だろう。
それを学校にやらせようとして、ゆとり教育なんて変な制度ができた。そうじゃない。それは、親の役目だと僕は思う。
さてそろそろ内容に入ろうと思います。しかし、眠いなぁ。半分寝ながらこの感想を書いてるので、文章がおかしいかも。
さて本作は、「爆笑問題のバク天!」というテレビ番組の1コーナーだった、テストのバカな解答を紹介するというものを本にしたものです。
とにかく、爆笑解答のオンパレードですね。
本作を読むと、勉強はあんまりしなくていい、という前言を撤回したくもなりますが、いやでも、これぐらいのユーモアがある方がのちのちうまく生き残れるかもなぁ、とも思うわけで…。とにかくごたごた言っていても仕方ないので、僕が面白いなと思ったものを下に書き連ねてみます。一応、バカ解答は背景と同色にしてみました。反転してみてください。
問:空欄を埋めて英文を完成させなさい。
これは机です。 [ ]is [ ]desk.
正解:[This] is [a] desk.
バカ解答:[Th]is [is] desk.
問:607年、聖徳太子の命により遣隋使として隋に赴いた人物を答えなさい。
解答:小野妹子
バカ解答:小野桃子
問:次の[ ]に当てはまる語句を答えなさい。
[ ]年、源頼朝は朝廷から征夷大将軍に任命され、[ ]に幕府を開いた。
解答:1192/鎌倉
バカ解答:2960/すぐ
問:次の擬態語を使って短文を作りなさい。
『すかっと』
解答例:スポーツをすると、すかっとした気分になる。
バカ解答:ますかっと
問:空欄に語句を入れて俳句を完成させなさい。
夏草や兵どもが[ ]
解答:夢の跡
バカ解答:ケミストリー
問:「猫をかぶる」の意味を答えなさい。
解答例:本性を表さずに、表面は優しそうに装うこと。
バカ解答:ひどく暑い
問:次の敬語の文章を、普通の言い方に改めなさい
①もうお目にかかりました。
②先生は、今日和服をおめしになっています。
③山田様がロビーでお待ちになっています。
解答:めんどくさいので省略
バカ解答:
①もう目にかかるじゃねえかよ!
②先生、今日和服でめしくってたよ!
③山田がロビーでおもちみたいになってるってさ!
問:文中の[ ]に入る適当な語句を書きなさい。
1853年、浦賀沖にペリーが来航し[ ]した。
解答:開国を要求
バカ解答:ま
問:下線部Aの板垣退助が~負傷した時に言ったとされる有名な言葉を答えなさい。
解答:板垣死すとも自由は死せず
バカ解答:ぐへっ
問:次の文の[ ]に当てはまる文を答えなさい。
※答えは一種類とは限らない。
塩酸に[ ]を入れると[ ]を発する。
解答例:石灰石/二酸化炭素
バカ解答:生き物/大声
問:次の文の空欄に当てはまる語句を入れなさい。
三角柱では、二つの底面は[ ]大きさで、[ ]になっている。また、側面と[ ]になっている。
解答:同じ/平行/垂直
バカ解答:すごい/話題/噂
問:次の文の空欄に当てはまる語句を入れなさい。
2本の直線が[ ]に交わる時、この2本の直線は[ ]であるといいます。
解答:直角/垂直
バカ解答:静かに/もはや一本
しかし、お馬鹿な解答満載ですね。面白いものはまだまだ一杯ありますよ。
しかしちょっと悔しいのは、本当の正解を自分でも答えられない問題があった、ってことですね。たぶんここに載ってるのは、小中学生くらいの問題だと思うんだけど、わからない問題があるっていうのはちょっと哀しかったですね。
まあそんなわけで、学生でなくなるととたんにやる機会のなくなるテストですが、昔を思い出してみながら本作で爆笑してみてはどうでしょうか?
爆笑問題のバク天!「発表!輝くバカテスト大賞」
神様からひと言(荻原浩)
誰もが一度は思ったことがあるのではないだろうか。
サラリーマンなんか、嫌だよなぁ、と。
僕は、昔からずっと思っていたと思う。サラリーマンはやだなぁ、と。
特別きっかけがあったわけではないと思うが、やはり父親の姿を見てそう思ったのだろう。一言で言えば、酷使されてるなぁ、という感じだった。搾取、と言ってもいいかもしれないけど。とにかく、サラリーマンにはなりたくなかった。
大抵の人はそれでも、結局はサラリーマンになる。嫌だとか、かっこ悪いだとか、そんなことを言ったところで、誰だってみんな生きていかなきゃいけないし、別のことが出来るだけの才能があるわけでもない。持っていたはずの夢はいつのまにか消え、現実という大きなステージに翻弄されるうちに、いつの間にかスーツにネクタイというスタイルが似合ってきてしまう。まあ誰だってそんなもんだろう。
僕は基本的にドロップアウトしているわけで、サラリーマンではない。僕は今振り返って考えて見るに、サラリーマンになりたくなくて(まあ正確に言えば、面接を受けたくなくて)、ドロップアウトしたんじゃないかなぁ、なんて思うのだが、どうだろうか。
いやでも、そう思ってもおかしくないくらい、僕にとってはサラリーマンというのはダメなのだ。
つまり、組織というものが果てしなく苦手なのである。
僕は、どんな組織にいてもそうなのだが、上にいる人間と対立してしまう。もうこれは絶対で、そうじゃなかったことなど一度もないのではないかと思う。学生の時に担任の教師に反抗したり、大学の時に入っていたサークルで先輩に反抗したり、そんなことばかりだった。言ってしまえば、両親に反抗していたのも、家族という組織の上にいる人間だったからなのかもしれない。
とにかく、組織の理不尽さというものに我慢することができないのだ。
組織は、でかくなればでかくなるほど、矛盾を抱えるものだ。もう、それは仕方のないことで、組織というのは生き物なのではないかと時々僕は思う。その中で、一個の歯車として、可もなく不可もなく、ただ壊れることなく動き続けることを要求されるのが、サラリーマンという存在である。
しかし僕は、組織の中にいると、ただの歯車としてい続けることができなくなってしまう。いろんなものが見えてしまうし、いろんなことを感じてしまう。その中で、理不尽なことや矛盾なんかを我慢することができなくなってしまうのである。
損な性格だなと自分でも思うが、どうにも仕方がない。
今のバイト先でも、上の人間に楯突いているのだけれども、バイト先ではそこそこ力を持つことができているはずなので(たぶん)、辞めさせられたりということは恐らくないだろう。
しかしサラリーマンというのは、矛盾を指摘したり、理不尽に寛容でなかったりするだけで、左遷されたり嫌がらせをされたり、そのまま辞めさせられたりする。恐ろしい組織だと思う。絶対服従、とまではいかないけど、うちのやり方はこうなんだと言われれば、はいと言って従うしかない。
恐らくサラリーマンは皆、会社に対して言いたいことがたくさんあるのだろう。しかしそれを、少なくとも会社では言わず腹の中に収め、会社とは無関係な場で発散する。非効率だが、それが出来ているうちはいいと思う。
僕には、そういう我慢ができない。僕は、自分がサラリーマンになった場合のことを、容易に想像することができる。上司の理不尽な言いつけに、最初こそ従うだろうけど、次第に仕事が出来るようになるにつれて、我慢ができなくなっていく。そして、ちょっとしたきっかけで言い合いになり、上司に嫌われ、それと共に同僚にも嫌われ、居場所がなくなり…みたいなことになるだろう。うん、間違いない。
昔とは大分変わったのだろうけど、日本のサラリーマンはやはりすごいと思う。自分一人ではどうにもならない組織という中にあって、自分を殺して仕事をしている。
恐らく、守るべきものがきちんとわかっているからこそ、そういう生き方ができるのだろうと思う。ある意味でそれは羨ましいと思うが、しかしやはり、サラリーマンにはなりたくないものだよな、と思ってしまうのである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
大手広告代理店をとある理由で辞め、「珠川食品」に再就職した佐倉涼平。ラーメンや漬物なんかを扱っている会社で、おじさんばかりの古い体質の会社だ。
その中で涼平は、新企画のカップラーメンのネーミングを立案するという仕事を任された。そして今日がその発表の場、販売会議。佐倉は、4ヶ月準備してきたことをきちんと形にしようと意気込むが、何がどうなったのか、佐倉はその販売会議で問題を起こしてしまう。
処分は、お客様相談室への異動。社内で、「リストラ要因収容所」と恐れられる部署だ。
その名の通り、お客様からの相談を受ける部署だ。しかし、相談などという生易しいものではない。苦情、クレームの連発である。新入りの涼平は、何もわからないまま電話を取らされ、知らないうちに戦場へと放り込まれていた。髪の毛がごそっと抜けるだの、胃に穴が空くだの、そんな悪い噂しか聞かないところだったけど、まさかここまでとは…。
一方プライベートでは、4年間一緒に住んでたリンコが、半年前に突然いなくなった。結婚していたわけではない、恋人だ。原因は…よくわからない。折れたと思われたくなくて自分から探しもしなかったが、いつの間にか半年が過ぎてしまっていた。
リンコはいないし、家賃は払わなくちゃいけない。ギターもローンで買っちゃったっけ…。
そんなハードな毎日を送る涼平。しかし、お客様相談室の奇妙なメンバーとしばらく仕事をするうちに、涼平自身大きく変わっていって…。
というような話です。
とにかく僕からすれば、サラリーマンにならなくてよかったなぁ、と思う作品だし、サラリーマンからすれば、涼平よりは自分はまだましだな、と思えるかもしれません。
とにかく、毎日掛かってくるクレームの電話。これだけで僕は逃げたくなりますね。今のバイト先でも、そんなに数は多くないけど、時々クレームみたいなものがあります。そういうのには、何とか自分で対応したり、しきれない場合は助けを求めたりするのだけど、それでもそんなに頻繁にあるわけではないので、まだなんとかなっている。本作みたいに、日に何本もクレームの電話を受けなきゃいけないと思うと…想像するだけで胃に穴が空くような気がします。
それに、組織というものがいかにダメか、というのが非常によくわかりますね。
僕も、何度も経験はあるけど、組織というものを変えようとしても、一人の力では本当にどうにもならないんですね。絶対無理です。組織には、復元力みたいなものがあって、長年慣習になっているものをいきなり止めるなんていうことは出来るはずがないんですね。
しかしそれでもなんとか機能してしまうのが、組織というもので、実際どんなに無能な人間がゴロゴロいても、組織というのはなんとか潰れないものなのですね。本当に、不思議なものです。
誰もが、守るべきものを自覚し、それを優先していく。失いたくないものが多すぎて、大切なものを見失っていく。そうした連中が組織の上の方にいるわけで、変えようと思って変えられるものではないんですね。
本作には、こんな言葉がありました。
『「手の中に握ってるものが、たいしたもんじゃないってことを知ってるのに、手のひらを開くのが怖いんだ。全部こぼれ出ちまうのが。本当にたいしたもんじゃなかったってことを知っちゃうのをさ。誰も彼も、俺も」』
大したものじゃないはずなのに、誰もがそれを守ろうとして、一番大事なものを失っていく。サラリーマンって、なんかそんな感じがします。
さて、本作の中で僕がとにかく最高だと思うのが、篠崎という男ですね。この男は、本当にすごい。
お客様相談室の重鎮にして遅刻魔、そしてギャンブラーである篠崎は、しかし誰もが認める謝罪のプロである。
どこで覚えたのか、ありとあらゆる状況に対して、常に的確な対応を見せる。その手腕は本当に見事なもので、普段はちゃらんぽらんしている男なのに、謝罪ということになれば最強の威力を発揮する、その才能を羨ましく思いました。
クレームを言ってくる人というのには様々な人間がいて、対応を一つ誤ると大変なことになる。しかし篠崎は、どんな場面でも丸く収めてしまうのである。本作の中でも、お客様相談室最大の危機だっただろう、ヤのつく人との揉め事の時にも、ものすごく楽しそうに対応をしていて、これだけ余裕を持てる人になれたら、そしてこの人みたいに楽観的な人間になれたら、どんなに楽だろうな、と思いました。本当に、篠崎という男はすごいと思うし、羨ましいな、と思いました。
あと、水沢というラーメン店の店主が出てくるんだけど、このキャラもなかなか捨てがたいですね。そんなに登場場面は多くないんだけど、印象に残るキャラクターで、生きているということの重みを実感させます。
あとは、リンコというキャラもいいですね。僕は、実際一緒に暮らすとなったら大変なんだろうけど、リンコみたいなキャラクターの女性は結構好きです。印象としては、新宿鮫シリーズの晶にちょっと似てるな、なんて思いましたけど。全然女性らしくない生き方っていうのが、すごくいいなぁ、と思いました。
時折、コメディを見ているようなコミカルな場面もあるんだけど、全体的には結構真面目な、サラリーマンって大変だよね、という感じの小説です。これを読めば、まあ明日からも頑張ろうかな、と思えるかもしれません。いい話だなと思いました。サラリーマンで、なんで俺はサラリーマンをやってるんだろう、なんて思ってしまっている方、読んでみてはどうでしょうか?もちろん、サラリーマンじゃない人でも楽しめると思いますけどね。
荻原浩「神様からひと言」
サラリーマンなんか、嫌だよなぁ、と。
僕は、昔からずっと思っていたと思う。サラリーマンはやだなぁ、と。
特別きっかけがあったわけではないと思うが、やはり父親の姿を見てそう思ったのだろう。一言で言えば、酷使されてるなぁ、という感じだった。搾取、と言ってもいいかもしれないけど。とにかく、サラリーマンにはなりたくなかった。
大抵の人はそれでも、結局はサラリーマンになる。嫌だとか、かっこ悪いだとか、そんなことを言ったところで、誰だってみんな生きていかなきゃいけないし、別のことが出来るだけの才能があるわけでもない。持っていたはずの夢はいつのまにか消え、現実という大きなステージに翻弄されるうちに、いつの間にかスーツにネクタイというスタイルが似合ってきてしまう。まあ誰だってそんなもんだろう。
僕は基本的にドロップアウトしているわけで、サラリーマンではない。僕は今振り返って考えて見るに、サラリーマンになりたくなくて(まあ正確に言えば、面接を受けたくなくて)、ドロップアウトしたんじゃないかなぁ、なんて思うのだが、どうだろうか。
いやでも、そう思ってもおかしくないくらい、僕にとってはサラリーマンというのはダメなのだ。
つまり、組織というものが果てしなく苦手なのである。
僕は、どんな組織にいてもそうなのだが、上にいる人間と対立してしまう。もうこれは絶対で、そうじゃなかったことなど一度もないのではないかと思う。学生の時に担任の教師に反抗したり、大学の時に入っていたサークルで先輩に反抗したり、そんなことばかりだった。言ってしまえば、両親に反抗していたのも、家族という組織の上にいる人間だったからなのかもしれない。
とにかく、組織の理不尽さというものに我慢することができないのだ。
組織は、でかくなればでかくなるほど、矛盾を抱えるものだ。もう、それは仕方のないことで、組織というのは生き物なのではないかと時々僕は思う。その中で、一個の歯車として、可もなく不可もなく、ただ壊れることなく動き続けることを要求されるのが、サラリーマンという存在である。
しかし僕は、組織の中にいると、ただの歯車としてい続けることができなくなってしまう。いろんなものが見えてしまうし、いろんなことを感じてしまう。その中で、理不尽なことや矛盾なんかを我慢することができなくなってしまうのである。
損な性格だなと自分でも思うが、どうにも仕方がない。
今のバイト先でも、上の人間に楯突いているのだけれども、バイト先ではそこそこ力を持つことができているはずなので(たぶん)、辞めさせられたりということは恐らくないだろう。
しかしサラリーマンというのは、矛盾を指摘したり、理不尽に寛容でなかったりするだけで、左遷されたり嫌がらせをされたり、そのまま辞めさせられたりする。恐ろしい組織だと思う。絶対服従、とまではいかないけど、うちのやり方はこうなんだと言われれば、はいと言って従うしかない。
恐らくサラリーマンは皆、会社に対して言いたいことがたくさんあるのだろう。しかしそれを、少なくとも会社では言わず腹の中に収め、会社とは無関係な場で発散する。非効率だが、それが出来ているうちはいいと思う。
僕には、そういう我慢ができない。僕は、自分がサラリーマンになった場合のことを、容易に想像することができる。上司の理不尽な言いつけに、最初こそ従うだろうけど、次第に仕事が出来るようになるにつれて、我慢ができなくなっていく。そして、ちょっとしたきっかけで言い合いになり、上司に嫌われ、それと共に同僚にも嫌われ、居場所がなくなり…みたいなことになるだろう。うん、間違いない。
昔とは大分変わったのだろうけど、日本のサラリーマンはやはりすごいと思う。自分一人ではどうにもならない組織という中にあって、自分を殺して仕事をしている。
恐らく、守るべきものがきちんとわかっているからこそ、そういう生き方ができるのだろうと思う。ある意味でそれは羨ましいと思うが、しかしやはり、サラリーマンにはなりたくないものだよな、と思ってしまうのである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
大手広告代理店をとある理由で辞め、「珠川食品」に再就職した佐倉涼平。ラーメンや漬物なんかを扱っている会社で、おじさんばかりの古い体質の会社だ。
その中で涼平は、新企画のカップラーメンのネーミングを立案するという仕事を任された。そして今日がその発表の場、販売会議。佐倉は、4ヶ月準備してきたことをきちんと形にしようと意気込むが、何がどうなったのか、佐倉はその販売会議で問題を起こしてしまう。
処分は、お客様相談室への異動。社内で、「リストラ要因収容所」と恐れられる部署だ。
その名の通り、お客様からの相談を受ける部署だ。しかし、相談などという生易しいものではない。苦情、クレームの連発である。新入りの涼平は、何もわからないまま電話を取らされ、知らないうちに戦場へと放り込まれていた。髪の毛がごそっと抜けるだの、胃に穴が空くだの、そんな悪い噂しか聞かないところだったけど、まさかここまでとは…。
一方プライベートでは、4年間一緒に住んでたリンコが、半年前に突然いなくなった。結婚していたわけではない、恋人だ。原因は…よくわからない。折れたと思われたくなくて自分から探しもしなかったが、いつの間にか半年が過ぎてしまっていた。
リンコはいないし、家賃は払わなくちゃいけない。ギターもローンで買っちゃったっけ…。
そんなハードな毎日を送る涼平。しかし、お客様相談室の奇妙なメンバーとしばらく仕事をするうちに、涼平自身大きく変わっていって…。
というような話です。
とにかく僕からすれば、サラリーマンにならなくてよかったなぁ、と思う作品だし、サラリーマンからすれば、涼平よりは自分はまだましだな、と思えるかもしれません。
とにかく、毎日掛かってくるクレームの電話。これだけで僕は逃げたくなりますね。今のバイト先でも、そんなに数は多くないけど、時々クレームみたいなものがあります。そういうのには、何とか自分で対応したり、しきれない場合は助けを求めたりするのだけど、それでもそんなに頻繁にあるわけではないので、まだなんとかなっている。本作みたいに、日に何本もクレームの電話を受けなきゃいけないと思うと…想像するだけで胃に穴が空くような気がします。
それに、組織というものがいかにダメか、というのが非常によくわかりますね。
僕も、何度も経験はあるけど、組織というものを変えようとしても、一人の力では本当にどうにもならないんですね。絶対無理です。組織には、復元力みたいなものがあって、長年慣習になっているものをいきなり止めるなんていうことは出来るはずがないんですね。
しかしそれでもなんとか機能してしまうのが、組織というもので、実際どんなに無能な人間がゴロゴロいても、組織というのはなんとか潰れないものなのですね。本当に、不思議なものです。
誰もが、守るべきものを自覚し、それを優先していく。失いたくないものが多すぎて、大切なものを見失っていく。そうした連中が組織の上の方にいるわけで、変えようと思って変えられるものではないんですね。
本作には、こんな言葉がありました。
『「手の中に握ってるものが、たいしたもんじゃないってことを知ってるのに、手のひらを開くのが怖いんだ。全部こぼれ出ちまうのが。本当にたいしたもんじゃなかったってことを知っちゃうのをさ。誰も彼も、俺も」』
大したものじゃないはずなのに、誰もがそれを守ろうとして、一番大事なものを失っていく。サラリーマンって、なんかそんな感じがします。
さて、本作の中で僕がとにかく最高だと思うのが、篠崎という男ですね。この男は、本当にすごい。
お客様相談室の重鎮にして遅刻魔、そしてギャンブラーである篠崎は、しかし誰もが認める謝罪のプロである。
どこで覚えたのか、ありとあらゆる状況に対して、常に的確な対応を見せる。その手腕は本当に見事なもので、普段はちゃらんぽらんしている男なのに、謝罪ということになれば最強の威力を発揮する、その才能を羨ましく思いました。
クレームを言ってくる人というのには様々な人間がいて、対応を一つ誤ると大変なことになる。しかし篠崎は、どんな場面でも丸く収めてしまうのである。本作の中でも、お客様相談室最大の危機だっただろう、ヤのつく人との揉め事の時にも、ものすごく楽しそうに対応をしていて、これだけ余裕を持てる人になれたら、そしてこの人みたいに楽観的な人間になれたら、どんなに楽だろうな、と思いました。本当に、篠崎という男はすごいと思うし、羨ましいな、と思いました。
あと、水沢というラーメン店の店主が出てくるんだけど、このキャラもなかなか捨てがたいですね。そんなに登場場面は多くないんだけど、印象に残るキャラクターで、生きているということの重みを実感させます。
あとは、リンコというキャラもいいですね。僕は、実際一緒に暮らすとなったら大変なんだろうけど、リンコみたいなキャラクターの女性は結構好きです。印象としては、新宿鮫シリーズの晶にちょっと似てるな、なんて思いましたけど。全然女性らしくない生き方っていうのが、すごくいいなぁ、と思いました。
時折、コメディを見ているようなコミカルな場面もあるんだけど、全体的には結構真面目な、サラリーマンって大変だよね、という感じの小説です。これを読めば、まあ明日からも頑張ろうかな、と思えるかもしれません。いい話だなと思いました。サラリーマンで、なんで俺はサラリーマンをやってるんだろう、なんて思ってしまっている方、読んでみてはどうでしょうか?もちろん、サラリーマンじゃない人でも楽しめると思いますけどね。
荻原浩「神様からひと言」
うちのネコが訴えられました!?(山田タロウ)
昨日書いた、三浦しをんの「まほろ駅前多田便利軒」の感想の中で僕は、天才と変人は大好きだ、というようなことを書いた。
さてでは、バカはどうかというと、もう大きっらいなのである。バカは世の中から駆逐されればいい、と本気で思っている。
いやいやあれだ、こういう多種多様な人間がいるからこそ、人類はこうして発展を遂げることができたのだよ。バカな人間がいるからこそ発展した部分もあるだろうし、そうそう一概にかれらを一刀両断することはできないのだよ。
そうだ、アリの法則というのもあるぞ。アリというのは集団で行動する昆虫だが、その集団は、よく働くアリ:普通のアリ:ダメなアリ、という割合が、2:6:2なんだって。その、よく働くアリだけを抜き取って一つのグループにしてみても、その集団はまたやっぱり2:6:2に分かれちゃうんだって。だから、しょうがないんだよ。バカってのはもう、集団で生きている限りどうしても発生してしまうわけで、もう僕らは寛大な心で接してあげるしかないのだよ…。
などと自分を説得する理屈をいろいろと拵えることはできるのだが、いやいやどうして、そんな理屈でどうにかなるものではない。
バカはバカだし、憎むべき存在だし、駆逐されるべきである。
さて僕がバカだと思う人間は、一言でいうとこうなる。
『想像力のない人』
もう世の中には、想像力のない人間というのが多すぎるのである!
例えば、どうやらこの噂は嘘のようなのだが(昔やってた「200X」という番組で検証してた)、「ネコを電子レンジで乾かしたら死んじゃったから企業に賠償責任裁判を起こした」みたいな噂を聞いたことはないだろうか。
要するに僕が言いたいのは、そういう人種のことである。いいか、考えてもみろ。ネコを電子レンジに入れたら、どう考えてもいい結果にはならないとわかるだろう…。
という想像が、そういう人種には出来ないのである。
もちろん、そんないっちゃってるレベルまで行かなくても、想像力のない人というのは世の中に転がっているものである。
例えば本屋で働いてて一番違いが分かるのは、お客さんの問い合わせの仕方である。
例えば、優秀なお客さんの例で言えば、例えば欲しい本のタイトルを紙に書いて持ってくるとか、携帯のメール画面とかを見せる、というものだ。そこに出版社とか著者名とか書いてあったりする人もいて、こういうお客さんは助かる。また、新聞広告を持ってくる、というのももちろんいいお客さんである。
では普通のお客さんの場合。スタッフに探しているタイトルを言うのである。これがもうとにかく普通のやり方だ。こういう人も、全然普通に対応できるのでいい。
さて次は、ちょっとダメなパターンである。それは、「○○出版の本ってどこにありますか?」とか、「○○っていう人の本どこにありますか?」と言ったものだ。本屋を見てくれれば分かるとは思うが、出版社ごとに本を並べているわけではないし、著者名順で並べてはいるけれども、版型(文庫やハードカバーなど)もいろいろあるわけで、とにかくそれだけどはいここです、と案内できるわけがない。こういうお客さんだと、もう少しわかりやすく言ってくれよな、と思ってしまうのだ。
さて最後に、最悪なパターンである。こういうお客さんは、結構な頻度でいる。それは、「タイトルはわからないんですけど、これくらいの大きさで、いくらぐらいの本」とか、「タイトルはわからないんだけど、この前新聞に載ってたんだけど」とかである。
もちろん、タイトルがわからないとか、タイトルが正確にわからない、というお客さんはよく来る。でもそういう場合でも、著者名だとか出版社名だとか、あとはその著者が書いてる他の本とかの名前を言ってくれるので(まあこちらが聞き出すのだが)、なんとか検索できたりする。
しかし、本の大きさと値段だけ、あるいは、新聞に載っていたという情報だけでは、どうやったって本を探しようがないのである。これだけの情報しか持たずに本屋にやってくる人を接客すると、なんて想像力がない人なんだ、と思ってしまう。
まあそんなわけで本屋のお客さんについていろいろ書いたが、そういうネタは、「暴れん坊本屋さん」というコミックに詳しい。漫画家でかつ本屋のスタッフであるという著者が、本屋の裏側を書いている、もう書店員なら爆笑必死の本です。こちらもどうぞ。
一緒に仕事をする、という関係になると、想像力のあるなしというのが本当に重要になってくる。僕なんかは、そういう想像力のないスタッフ(こういうスタッフは、僕よりも前からずっといたスタッフに多いから余計にムカツク)に日々イライラしている。なんでそんなことが出来ないのだろうかとか、なんでそんなこともわからないのだろうかとか、そんなことはしょちゅうである。あぁもう、なんとかならないものだろうか。
人間として違う価値観を持っていることはもちろん当然だと思うし、それをどうこう言うつもりはまったくない。しかし、自分がどんな価値観を持っていようと、それと人とは違うのだということをまずはわかってほしい。これを当然だと思っている人からすれば、こいつは何を言っているんだという感じかもしれないが、世の中には、自分の価値観=周りの人間の価値観という人間が多いのだ。
その上で、自分と他人との価値観の相違を、想像力によって埋める努力をしなくてはいけない。それが、人間関係の本質だと僕は思っている。それができない人間を僕はバカと呼ぶし、この世から駆逐されればいいのに、と思っている。
ふー。また血液型の話だが、僕はA型なので、他人との関係に関してはかなり几帳面だと自覚している(自分に対してはかなりズボラなのだが)。だから、人のそういう想像力のなさにも余計にイライラしてしまうのだろうか、と思う。なんだかなぁ、である。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、山田タロウという人が、ある日突然訴えられた、その裁判の過程をブログで公開し、それを書籍化したものです。
さて一体何について訴えられたのかと言えば…ネコである。山田タロウさんの飼い猫が、うちの車を傷つけたんで、賠償してください、という裁判なのである。
では双方のプロフェ―ルを少し。
山田タロウさんは、三代続く老舗の料理屋を経営。32歳で子供は二人、ニャン太というネコを飼っている。料理屋ともあって近所との関係は非常に友好で、平穏な生活をしている。
さて訴えた側だが、名前を川畑という。川畑は、山田タロウさんの店の裏手にある駐車場を借りていて、居酒屋を経営している。それまで山田タロウさんはこの川畑という男をまるで知らなかったのだが、近所の人の話によれば、人付き合いの苦手そうなタイプ、なのだそうだ。
そしてこの川畑、バカなのである。もう最高にバカで、どうしようかというくらいである。自分の近くにいたらはったおしたくなるだろうが、こうして本で読んでいる限りは、この川畑、最高に面白い。
まあそんなわけで、山田タロウさんの家に突然訴状が届くところから話は始まるのだけれど、しょっぱなから川畑はミス。
訴えた相手が、既に死んでいる祖父の名前になっている。
まあそんなどうしようもないスタートから始まったネコ裁判だが、山田タロウさんは裁判の前から勝てる気満々である。それは何故かといえば…とまあそれは書かないことにするが、とにかくこの裁判、山田タロウさんの一人勝ちはもう目に見えているのである。
それは、実際に裁判が始まってからの展開からもわかることで、裁判官や秘書官もあきれ返るような主張・論理・手続きのオンパレードで、冒頭で書かれているが、最終的に裁判は、裁判官のイライラの発露、という形で終わりを迎えるのである。
そんな、もうとにかくどうしようもないなぁ、という裁判の顛末の描かれた作品です。
とにかくこの作品、もうべらぼうに面白かった!もう一気読みで、いつの間にか読み終えてしまっていた。爆笑である。最高である。くだらないけど、もうとにかく読んでもらいたい!
本作は、まず裁判というものがもう少し身近にわかる。日本はアメリカのように訴訟大国ではないので(あぁでも、川畑のようなバカがたくさん増殖すると、日本も訴訟大国になりかねないが)、まあ裁判の知識というのはそう必要ないかもしれないが、いやいやそうでもなかった。忘れていたが、裁判員制度というのが始まるんだった。というか、もう始まったっけ?というくらいの知識のなさだが、とにかく一般人が裁判に関わるようになるのだから、裁判についての知識は持っていてもいいだろう。というか冒頭で、裁判員制度について書けばよかったかなぁ。
とにかく、山田タロウさんが頭がいいのである。山田タロウさんももちろん裁判というものは始めてだそうだが、とにかく論理的で口が立つ。準備書面もバッチリで、もう付け入る隙がないのである。バカな川畑が何人集まって立ち向かっても敵うはずがないのである。この、優秀VSバカによる裁判の進行は、法廷モノの小説につきもののハラハラドキドキは決してないが、それを超えるくらいの衝撃が待ち構えていると言ってもまあ言い過ぎではないだろう。
僕は学生時代、少しだけディベートというものをやったことがあるのだが、あれはすごく苦手だった。裁判というのはつまるところディベートであって、山田タロウさんはそのディベートのツボをうまく押さえて裁判を戦った(戦うという表現がぴったりこないが)。ちょっと僕だったらああはいかないだろうな、と思ってしまった。羨ましい限りである。僕は、バカは嫌いだけど優秀な人間は好きなんで、そういう部分を読むという点でも本作は面白かった。これは言いすぎだとは思うが、本作をディベート入門として読んでみるのも、ある意味面白いかななんて思ってみたりした。
とにかく、内容が面白すぎるのである。さくっと読めてしまうし、是非とも読んで欲しいものである。山田タロウさんは、ある意味で川畑に感謝しなければいけないだろう。だって、確かに言いがかりのような裁判で多少の費用は失ったが、こんなに面白いブログを書いて、本にもなって、しかもこの本、僕の予想だけど、結構地味に売れそうな気がする。だから、印税はそこそこ入るだろうし、いやいいですなぁ。
最近ブログを本にするというのが盛んだけど、やはり本になるものは結構レベルが高いな、という感想です。「電車男」から始まった、このネットコンテンツの書籍化という動きは、今かなり主流になりつつあると思いますね。本作もそうだし、僕が今年No.1と言って憚らない、「私を 見て、ぎゅっと 愛して」という作品もネットコンテンツでした。恐らくこれからも、ネットから生まれる作品というのはどんどんと出てくることでしょう。しばらく注目してチェックしていこうと思います。
とにかく、もう面白いです。最高です。爆笑です。是非読んでください。まじ。
山田タロウ「うちのネコが訴えられました!?」
さてでは、バカはどうかというと、もう大きっらいなのである。バカは世の中から駆逐されればいい、と本気で思っている。
いやいやあれだ、こういう多種多様な人間がいるからこそ、人類はこうして発展を遂げることができたのだよ。バカな人間がいるからこそ発展した部分もあるだろうし、そうそう一概にかれらを一刀両断することはできないのだよ。
そうだ、アリの法則というのもあるぞ。アリというのは集団で行動する昆虫だが、その集団は、よく働くアリ:普通のアリ:ダメなアリ、という割合が、2:6:2なんだって。その、よく働くアリだけを抜き取って一つのグループにしてみても、その集団はまたやっぱり2:6:2に分かれちゃうんだって。だから、しょうがないんだよ。バカってのはもう、集団で生きている限りどうしても発生してしまうわけで、もう僕らは寛大な心で接してあげるしかないのだよ…。
などと自分を説得する理屈をいろいろと拵えることはできるのだが、いやいやどうして、そんな理屈でどうにかなるものではない。
バカはバカだし、憎むべき存在だし、駆逐されるべきである。
さて僕がバカだと思う人間は、一言でいうとこうなる。
『想像力のない人』
もう世の中には、想像力のない人間というのが多すぎるのである!
例えば、どうやらこの噂は嘘のようなのだが(昔やってた「200X」という番組で検証してた)、「ネコを電子レンジで乾かしたら死んじゃったから企業に賠償責任裁判を起こした」みたいな噂を聞いたことはないだろうか。
要するに僕が言いたいのは、そういう人種のことである。いいか、考えてもみろ。ネコを電子レンジに入れたら、どう考えてもいい結果にはならないとわかるだろう…。
という想像が、そういう人種には出来ないのである。
もちろん、そんないっちゃってるレベルまで行かなくても、想像力のない人というのは世の中に転がっているものである。
例えば本屋で働いてて一番違いが分かるのは、お客さんの問い合わせの仕方である。
例えば、優秀なお客さんの例で言えば、例えば欲しい本のタイトルを紙に書いて持ってくるとか、携帯のメール画面とかを見せる、というものだ。そこに出版社とか著者名とか書いてあったりする人もいて、こういうお客さんは助かる。また、新聞広告を持ってくる、というのももちろんいいお客さんである。
では普通のお客さんの場合。スタッフに探しているタイトルを言うのである。これがもうとにかく普通のやり方だ。こういう人も、全然普通に対応できるのでいい。
さて次は、ちょっとダメなパターンである。それは、「○○出版の本ってどこにありますか?」とか、「○○っていう人の本どこにありますか?」と言ったものだ。本屋を見てくれれば分かるとは思うが、出版社ごとに本を並べているわけではないし、著者名順で並べてはいるけれども、版型(文庫やハードカバーなど)もいろいろあるわけで、とにかくそれだけどはいここです、と案内できるわけがない。こういうお客さんだと、もう少しわかりやすく言ってくれよな、と思ってしまうのだ。
さて最後に、最悪なパターンである。こういうお客さんは、結構な頻度でいる。それは、「タイトルはわからないんですけど、これくらいの大きさで、いくらぐらいの本」とか、「タイトルはわからないんだけど、この前新聞に載ってたんだけど」とかである。
もちろん、タイトルがわからないとか、タイトルが正確にわからない、というお客さんはよく来る。でもそういう場合でも、著者名だとか出版社名だとか、あとはその著者が書いてる他の本とかの名前を言ってくれるので(まあこちらが聞き出すのだが)、なんとか検索できたりする。
しかし、本の大きさと値段だけ、あるいは、新聞に載っていたという情報だけでは、どうやったって本を探しようがないのである。これだけの情報しか持たずに本屋にやってくる人を接客すると、なんて想像力がない人なんだ、と思ってしまう。
まあそんなわけで本屋のお客さんについていろいろ書いたが、そういうネタは、「暴れん坊本屋さん」というコミックに詳しい。漫画家でかつ本屋のスタッフであるという著者が、本屋の裏側を書いている、もう書店員なら爆笑必死の本です。こちらもどうぞ。
一緒に仕事をする、という関係になると、想像力のあるなしというのが本当に重要になってくる。僕なんかは、そういう想像力のないスタッフ(こういうスタッフは、僕よりも前からずっといたスタッフに多いから余計にムカツク)に日々イライラしている。なんでそんなことが出来ないのだろうかとか、なんでそんなこともわからないのだろうかとか、そんなことはしょちゅうである。あぁもう、なんとかならないものだろうか。
人間として違う価値観を持っていることはもちろん当然だと思うし、それをどうこう言うつもりはまったくない。しかし、自分がどんな価値観を持っていようと、それと人とは違うのだということをまずはわかってほしい。これを当然だと思っている人からすれば、こいつは何を言っているんだという感じかもしれないが、世の中には、自分の価値観=周りの人間の価値観という人間が多いのだ。
その上で、自分と他人との価値観の相違を、想像力によって埋める努力をしなくてはいけない。それが、人間関係の本質だと僕は思っている。それができない人間を僕はバカと呼ぶし、この世から駆逐されればいいのに、と思っている。
ふー。また血液型の話だが、僕はA型なので、他人との関係に関してはかなり几帳面だと自覚している(自分に対してはかなりズボラなのだが)。だから、人のそういう想像力のなさにも余計にイライラしてしまうのだろうか、と思う。なんだかなぁ、である。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、山田タロウという人が、ある日突然訴えられた、その裁判の過程をブログで公開し、それを書籍化したものです。
さて一体何について訴えられたのかと言えば…ネコである。山田タロウさんの飼い猫が、うちの車を傷つけたんで、賠償してください、という裁判なのである。
では双方のプロフェ―ルを少し。
山田タロウさんは、三代続く老舗の料理屋を経営。32歳で子供は二人、ニャン太というネコを飼っている。料理屋ともあって近所との関係は非常に友好で、平穏な生活をしている。
さて訴えた側だが、名前を川畑という。川畑は、山田タロウさんの店の裏手にある駐車場を借りていて、居酒屋を経営している。それまで山田タロウさんはこの川畑という男をまるで知らなかったのだが、近所の人の話によれば、人付き合いの苦手そうなタイプ、なのだそうだ。
そしてこの川畑、バカなのである。もう最高にバカで、どうしようかというくらいである。自分の近くにいたらはったおしたくなるだろうが、こうして本で読んでいる限りは、この川畑、最高に面白い。
まあそんなわけで、山田タロウさんの家に突然訴状が届くところから話は始まるのだけれど、しょっぱなから川畑はミス。
訴えた相手が、既に死んでいる祖父の名前になっている。
まあそんなどうしようもないスタートから始まったネコ裁判だが、山田タロウさんは裁判の前から勝てる気満々である。それは何故かといえば…とまあそれは書かないことにするが、とにかくこの裁判、山田タロウさんの一人勝ちはもう目に見えているのである。
それは、実際に裁判が始まってからの展開からもわかることで、裁判官や秘書官もあきれ返るような主張・論理・手続きのオンパレードで、冒頭で書かれているが、最終的に裁判は、裁判官のイライラの発露、という形で終わりを迎えるのである。
そんな、もうとにかくどうしようもないなぁ、という裁判の顛末の描かれた作品です。
とにかくこの作品、もうべらぼうに面白かった!もう一気読みで、いつの間にか読み終えてしまっていた。爆笑である。最高である。くだらないけど、もうとにかく読んでもらいたい!
本作は、まず裁判というものがもう少し身近にわかる。日本はアメリカのように訴訟大国ではないので(あぁでも、川畑のようなバカがたくさん増殖すると、日本も訴訟大国になりかねないが)、まあ裁判の知識というのはそう必要ないかもしれないが、いやいやそうでもなかった。忘れていたが、裁判員制度というのが始まるんだった。というか、もう始まったっけ?というくらいの知識のなさだが、とにかく一般人が裁判に関わるようになるのだから、裁判についての知識は持っていてもいいだろう。というか冒頭で、裁判員制度について書けばよかったかなぁ。
とにかく、山田タロウさんが頭がいいのである。山田タロウさんももちろん裁判というものは始めてだそうだが、とにかく論理的で口が立つ。準備書面もバッチリで、もう付け入る隙がないのである。バカな川畑が何人集まって立ち向かっても敵うはずがないのである。この、優秀VSバカによる裁判の進行は、法廷モノの小説につきもののハラハラドキドキは決してないが、それを超えるくらいの衝撃が待ち構えていると言ってもまあ言い過ぎではないだろう。
僕は学生時代、少しだけディベートというものをやったことがあるのだが、あれはすごく苦手だった。裁判というのはつまるところディベートであって、山田タロウさんはそのディベートのツボをうまく押さえて裁判を戦った(戦うという表現がぴったりこないが)。ちょっと僕だったらああはいかないだろうな、と思ってしまった。羨ましい限りである。僕は、バカは嫌いだけど優秀な人間は好きなんで、そういう部分を読むという点でも本作は面白かった。これは言いすぎだとは思うが、本作をディベート入門として読んでみるのも、ある意味面白いかななんて思ってみたりした。
とにかく、内容が面白すぎるのである。さくっと読めてしまうし、是非とも読んで欲しいものである。山田タロウさんは、ある意味で川畑に感謝しなければいけないだろう。だって、確かに言いがかりのような裁判で多少の費用は失ったが、こんなに面白いブログを書いて、本にもなって、しかもこの本、僕の予想だけど、結構地味に売れそうな気がする。だから、印税はそこそこ入るだろうし、いやいいですなぁ。
最近ブログを本にするというのが盛んだけど、やはり本になるものは結構レベルが高いな、という感想です。「電車男」から始まった、このネットコンテンツの書籍化という動きは、今かなり主流になりつつあると思いますね。本作もそうだし、僕が今年No.1と言って憚らない、「私を 見て、ぎゅっと 愛して」という作品もネットコンテンツでした。恐らくこれからも、ネットから生まれる作品というのはどんどんと出てくることでしょう。しばらく注目してチェックしていこうと思います。
とにかく、もう面白いです。最高です。爆笑です。是非読んでください。まじ。
山田タロウ「うちのネコが訴えられました!?」
まほろ駅前多田便利軒(三浦しをん)
僕はとにかく、天才と変人が大好きなのである。
天才と言えば森博嗣で真賀田四季…と天才についてあれこれ書くことも出来るのだけど、まあ本作には天才は出てこないので変人の話をしようと思う。
僕はまあ、変人とまではいかなくても、変な人というのには惹かれてしまう。とにかく、普通であるということがつまらないんだろうな、と思う。
例えばいきなり女性の話をすれば、ただ綺麗なだけの人を好きになるということは僕はない。芸能人で言えば、エビちゃんとか山田優とかそういうモデル的な人を含め綺麗な人は腐るほどいると思うけど、でもあんまり興味がなかったりする。
僕は、中谷美紀とか柴崎コウとか小西真奈美とか、なんとなくわかるだろうか、綺麗な人なんだけど、この人ちょっと変じゃないか、という人が好きなのである。
どんどん関係ない話に迷い込んでいくけど、だから僕は、一目惚れというのをなかなかしないのだと思う。綺麗な人がいても、あぁ綺麗だなぁとしか思わない。僕の場合は、しばらく近くで一緒にいて、相手のことをそれなりに知って、あぁこの人は変な人なんだなと思って初めて人を好きになるようである。まあどうでもいい話でした。
閑話休題。
変さというのは、もちろんだけれども、狂っているというのとは違うのである。この辺の説明をするのがなかなか難しいのだけれども、要するに、価値観が少しずれている、というのを、僕は変だと呼んでいるのだと思う。
例えば、何でまたそっちの話に戻ってしまうかわからないが、また女性の話である。僕はとにかく、女性らしい女性というのを好きになることはあまりない。これはどういうことかと言えば、おしとやかだとか清楚だとか、要するにそんな感じの女性ということである。あるいは、ファッションばかりにかまけているとか、ブランドであれば欲しいとか、そういう女性のことである。
なんか、そういう他の女性と同じような判断をする人というのを、どうにも面白いと感じられないのである。言ってみれば、情報誌やテレビによって価値観を固められている人、というのが苦手なのである。雑誌に載っていること、テレビでやっていたこと、そんなの真似してどうするんだ、みたいな。
例えば僕がよく言うのは、一人でラーメン屋に行けたり、パジャマでコンビニに行けたりする女性が好き、という感じだ。こういうのは、全然女性らしくない。そういう、普通とは違うところにぐっと来るのである。
しかし何故女性の話ばかりになってしまうのだろうか。
とにかく、価値観が普通の人とずれている人、というのは楽しい。話をしていても、相手がどう返すのかが予測がつかないし、そういう瞬間に出会うたびに、あぁこの人は面白いなぁ、と思えるのである。
ただやっぱり、世間一般の常識というものを兼ね備えていない人だと、現実的には厳しい。書店で働いていると(まあ他の小売店にも様々な客は来るだろうけど)、とにかくいろんなお客さんに出会う。中には、この人には常識というものはないのだろうか、というお客さんにも出会う。そういう人は、いくら価値観が他の人とずれているからと言って、面白いとは思えない。逆に痛々しいのである。この辺のバランスが難しいところである。
しかし、小説の中でなら、どれだけ常識がなかろうともうそんなことは問題ない。もう、いくらでも変人でいてくれ、という感じである。
変人小説(なんてジャンルはないだろうが)として名を馳せるのは、奥田英朗の<伊良部>シリーズである。「インザプール」から始まる3作が出ているが、もうとにかく、精神科医である伊良部という男がハチャメチャなのである。もう、常識がないとかいうレベルの問題ではない。狙ってやっているのか、と突っ込みたくなるくらいの天然だし、破天荒である。ああいう変人が実際近くにいたら、僕はもうイライラしてむかついて絞め殺したくなるだろうけど、小説で読んでいる分にはゲラゲラ笑えるのである。だから、変人の出てくる小説は面白いな、と僕は思っている。
なかなかそこまでアクの強いキャラクターが出てくる作品というのはない。今年出た「チーム・バチスタの栄光」の白鳥って男は、久々に出てきた変人キャラクターだったけど、もっといろんな小説にどんどんと変人を投入してもらいたいものだな、と僕は思う。もちろん、天才も募集中だけど。
そうそう、最後の最後でまた女性の話に戻るけど、僕が今まで出会ってきた変な人というのは、結構な確率でAB型が多かった気がする。偏見ではあるけれども(というか僕の視点で言えばそれは偏見ではないけど)、やはりAB型というのは変人が多いのだろうか、と思う次第である(何度も言うが、僕の中で変人というのは、最上級の誉め言葉である)。
というわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、今年の直木賞を受賞した作品です。もちろん、直木賞を獲っていなければ、まあ読まなかったかもですね。
本作は連作短編集の形式を取っているのだけど、とりあえず大枠の設定だけ書いておこうと思います。
多田は、まほろ市という街の駅前で、便利屋を開いている。昔は車の営業で、妻も子供もいた。今は、便利屋で、妻も子供もいない。独りである。
仕事は、とにかく1時間2000円という料金で、何でもこなす。ペットを預かったり、引越しの手伝いをしたり、草むしりをしたり、つまりそういうことである。「自分でやれよ」と言いたくなるようなことを便利屋が代わりにやるのである。
さてそんなある日、多田は旧友と再会することになる。しかし、この旧友という言葉、正確ではない。高校時代の知り合いなのだが、在学中に言葉を交わしたことはない。というか、その<旧友>は、在学中に一度しか言葉を発したことのないという変人だったのである。
名前は、行天春彦。在学中、工芸の時間に小指を切断してしまい、「痛い」と発した、それが唯一の言葉であるという変人は、再会するやお喋りになっていた。
行くところがないのだという。成り行きで、行天と二人で生活をすることになった。しかしこの行天という男、仕事はできないわ行動は奇妙だわ、はたまた厄介な事件に巻き込まれるわで、碌なことをしない。偽りであっても平穏だったはずの多田の日常が、行天によってひっかきまわされていく…という感じです。
それではそれぞれの内容を紹介しようと思います。
「多田便利軒、繁盛中」
便利屋は1月と2月は比較的暇なのであるが、今年はちょっと違った。年末に突然、犬を預かることになったのだ。犬は、しかも小型犬は苦手だ。しかし、仕事なのだから、仕方ない。こうして年末はチワワと共に過ごす羽目になった。
犬を返すことになっている前日、お得意さんから仕事の依頼。岡という男は、自宅付近を通過するバスが間引き運転を絶対にしていると言い張って、庭掃除なんかをしながらバスの運行をチェックしろ、とまあそんな依頼だった。
さてそんなわけで一日中バス停を見ていたわけだが、さて帰ろうという時になって連れてきていた犬が見当たらない。うろうろと探していると、バス停に人影。どうやら、チワワを抱えている。
それが、行天との再会だった。
行天は、奇妙な風体で、行くところがないのだと語った。仕方なく便利屋の事務所に連れて行くことにした。
さて翌日。犬を返そうと家まで行くと、なんとその家はもぬけの殻だった。どうやら、夜逃げするに当たってもう飼えなくなった犬を押し付けられた、ということだったらしい…。
「行天には、謎がある」
さてそんなわけで始まった行天との共同生活。とにかくそれに必要なのは、諦念だった。ありとあらゆることを諦めなくては、行天との生活は立ち行かない。
多田は、もろもろの事情から、チワワの飼い主を探すことになった。それを、居候である行天にやらせようとしたのだが、やはり考えることとんちんかんで、どうにも使えない。
さて、ある時事務所に、一本の電話。チワワの飼い主を探しているなら欲しい、ということだった。事務所に来るように言うと、コロンビア人と名乗る、明らかにコロンビア人ではない女がやってきた。どうやら、立ちんぼの女性であるようだ。
多田としては、そのルルと名乗る偽コロンビア人にチワワを託すことには反対だった。ちゃんとした飼い主を見つけて上げなくてはいけない。しかし行天の考えは違うようで…。
「働く車は、満身創痍」
世の中は、お受験が盛んなわけで、塾というのが大盛況である。
さてそんな中、ちょっと変な依頼がやってくる。塾からの帰りの迎えを頼みたい、ということだった。子供に関心のなさそうな親と、親の愛情に飢えていそうだけど素直じゃない子供。なんともやっかいそうだが、仕事は引き受けた。
由良という名の子供は、なかなかの食わせ物だった。迎えを無視しようとする、文句を垂れる。まあそれでも仕事は仕事だ。
ある日多田は、普段乗らないバスに乗って、そこで由良を見つける。見るともなく見ていると、どうもおかしな行動をしている。なるほど…。
行天に意見を聞いてみることにした。
「犯罪に加担しているやつを見かけたら、おまえどうする」
「放っとく」
「走れ、便利屋」
その日行天は、人を殺そうとしていたのだという。
すべて、後から訊いた話である。
多田はその日、墓参りに行き、その後依頼主である岡の元へ向かった。また、バスの間引き運転の調査である。その最中、熱中症で倒れてしまう。
その成り行きで出会ったのが、行天の元妻だという女だ。子供を連れている。とにかく、複雑な事情があるようだ。行天という男について、ちょっと知ることになる。
行天はその日、チワワの元飼い主を、現飼い主の元へ案内するという役目を仰せつかった。しかし、事態は何故か変な方向へと転んでいき、行天は一人で勝手に、何やら行動を起こしていくのだが…
「事実は、ひとつ」
事情があって入院していた行天がようやく退院した。まあ厄介な男である。
いろんな縁で関わりのある星という男から多田に依頼がある。一人女子高生を匿ってくれ、というものだった。
というのも、その女子高生は、ある事件のためにマスコミに追われているのだ。
まほろ市で殺人事件が起きた。連日トップニュースで伝えられるくらいの大事件である。両親が殺害され、その娘である女子高生が現在行方不明、その娘を犯人と目して捜査をしている、という状況で、星という男から預かることになった女性構成は、その友達である。
女子高生と生活するという変な状況の中、刻々と変わる状況にあって、行天は真相を暴いてみせるのだけど…
「あのバス停で、また会おう」
恋人と別れたい、という依頼を行天に任せたら、案の定大変なことになった。まったくである。
さて、納屋の整理をして欲しい、という依頼がきた。納屋を取り壊したいのだが、中のものを捨てたり整理したりしたい、というのである。多田はその仕事を引き受けた。
何日かに分けて仕事を分散することにしたその初日、二人は依頼主の家の前で変な男に出会う。二人に、依頼主の生活を教えて欲しい、と言ってきたのだ。
事情を聞くと、どうやらこういうことらしい。
その男は最近盲腸の手術をした。その際、自分の血液型が両親からは生まれるはずのないものだと判明した。母親は浮気をするような人ではないと断言できる。つまり、病院で獲り違いがあったとしか思えないのだ。
つてを辿って調べてみると、どうやらその取り替わったかもしれないのが、二人の依頼主の息子なのである。
男は今度結婚するのだという。その前に、もしかしたら自分の両親かもしれない家族の生活について知りたくなった、ということだ。
多田は悩んだ。行天が勝手に安請け合いをしてしまったが、多田は悩んでいた。自分の過去を行天に話してしまうくらい、多田は悩んでいた…。
こんな感じですね。
本作は、ストーリーは非常にうまく出来ているお思いますね。事件を解決するというような、すぱっとしたミステリ仕立ての話ではなく、便利屋という立場の中で、物事をどう解決するのか、というところに焦点が当たっていて、いろんな事情や人間関係を考慮しながら解決を模索するという当たりがいい。僕は、探偵が「犯人はお前だ!」と言って事件を解決する話も好きだけど、実際問題ああいう話は、とにかく事件を解決すればいいというスタンスで、それが焦点になっている。どうまるく収めるか、というところを考えていない分無神経だと言える。その点本作は、別の意味で無神経ではあるけれども、物事をどうまるく収めるかを考えていて、作品としての雰囲気はまるで違うけれども、京極夏彦の<巷説>シリーズに構造が似ているな、と思った。
また、行天という変人キャラがとにかく最高で、ああいう人間と一緒に暮らせはしないだろうけど(たぶんものすごくイライラしてしまうだろう)、小説で読んでいる分には楽しい。ただ変人なだけではなく、人の心の機微に聡かったり、いつの間にか相手の懐に入り込めてしまったり、なんとも人間味溢れる男である。多田との関係も一筋縄ではなくて、行天自身の過去も一筋縄ではなくて、とにかくいろいろある男ではあるが、読んでいる限り憎めない男である。
便利屋という仕事を通じていやがうえにでも覗いてしまえる他人の生活や人生。そうしたものに、いかに踏み込まないか、いかに踏み込むか。そういうところをいろいろと考えさせられる作品だな、と思った。
しかし本作は、僕的にどうしてもダメな部分がある。
それは、なんというか、表現としては間違っているのだが、ボーイズラブ的な部分である。
本作にはボーイズラブ的な要素はまったくない。男同士の絡みがあるわけでは決してない。しかしなんというか、作品の雰囲気からボーイズラブ的なものを感じ取れてしまうのである。もしかしたら、中に書かれているイラストのせいなのかもしれないけど。
その感覚は、坂木司の「青空の卵」を読んだときの感じに似ている。あちらも、別にボーイズラブ的な要素はまったくないのだが、雰囲気的にそんな感じを醸し出す作品なのである。
その点だけが僕にはちょっとダメだった。男からすれば、ボーイズラブ的なものの何がいいのか、まるでさっぱり理解できないわけで、むしろ気持ち悪かったりする。
男同士の友情はいいのだが、男からすると、この二人の距離感というのは、ちょっと近すぎるような気がする。それが、ボーイズラブ的な雰囲気を醸し出しているのかもしれない。女性が男の友情を書くと、こんな感じになるのだろうか。男というのは、男ともう少し距離を取る生き物だと僕は思っているのだけど。
まあそんなわけで、ストーリーに文句はありません。女性が読めば、かなりピッと来る作品かもしれません。男からすると、ちょっと違和感のある作品もしれないけど、でもまあ読んで損することはないでしょう。
しかし三浦しをんは、ホントいろんな作品を書くなぁ、と思った。
あと思ったのは、まほろ市って、もちろん架空の知名だろうけど、祥伝社から出ている文庫で、「まほろ市~」みたいな作品が四つあって、あれと関係あるんかなぁ、と思ったりした。どうなんだろう。
まあそんな感じです。
三浦しをん「まほろ駅前多田便利軒」
天才と言えば森博嗣で真賀田四季…と天才についてあれこれ書くことも出来るのだけど、まあ本作には天才は出てこないので変人の話をしようと思う。
僕はまあ、変人とまではいかなくても、変な人というのには惹かれてしまう。とにかく、普通であるということがつまらないんだろうな、と思う。
例えばいきなり女性の話をすれば、ただ綺麗なだけの人を好きになるということは僕はない。芸能人で言えば、エビちゃんとか山田優とかそういうモデル的な人を含め綺麗な人は腐るほどいると思うけど、でもあんまり興味がなかったりする。
僕は、中谷美紀とか柴崎コウとか小西真奈美とか、なんとなくわかるだろうか、綺麗な人なんだけど、この人ちょっと変じゃないか、という人が好きなのである。
どんどん関係ない話に迷い込んでいくけど、だから僕は、一目惚れというのをなかなかしないのだと思う。綺麗な人がいても、あぁ綺麗だなぁとしか思わない。僕の場合は、しばらく近くで一緒にいて、相手のことをそれなりに知って、あぁこの人は変な人なんだなと思って初めて人を好きになるようである。まあどうでもいい話でした。
閑話休題。
変さというのは、もちろんだけれども、狂っているというのとは違うのである。この辺の説明をするのがなかなか難しいのだけれども、要するに、価値観が少しずれている、というのを、僕は変だと呼んでいるのだと思う。
例えば、何でまたそっちの話に戻ってしまうかわからないが、また女性の話である。僕はとにかく、女性らしい女性というのを好きになることはあまりない。これはどういうことかと言えば、おしとやかだとか清楚だとか、要するにそんな感じの女性ということである。あるいは、ファッションばかりにかまけているとか、ブランドであれば欲しいとか、そういう女性のことである。
なんか、そういう他の女性と同じような判断をする人というのを、どうにも面白いと感じられないのである。言ってみれば、情報誌やテレビによって価値観を固められている人、というのが苦手なのである。雑誌に載っていること、テレビでやっていたこと、そんなの真似してどうするんだ、みたいな。
例えば僕がよく言うのは、一人でラーメン屋に行けたり、パジャマでコンビニに行けたりする女性が好き、という感じだ。こういうのは、全然女性らしくない。そういう、普通とは違うところにぐっと来るのである。
しかし何故女性の話ばかりになってしまうのだろうか。
とにかく、価値観が普通の人とずれている人、というのは楽しい。話をしていても、相手がどう返すのかが予測がつかないし、そういう瞬間に出会うたびに、あぁこの人は面白いなぁ、と思えるのである。
ただやっぱり、世間一般の常識というものを兼ね備えていない人だと、現実的には厳しい。書店で働いていると(まあ他の小売店にも様々な客は来るだろうけど)、とにかくいろんなお客さんに出会う。中には、この人には常識というものはないのだろうか、というお客さんにも出会う。そういう人は、いくら価値観が他の人とずれているからと言って、面白いとは思えない。逆に痛々しいのである。この辺のバランスが難しいところである。
しかし、小説の中でなら、どれだけ常識がなかろうともうそんなことは問題ない。もう、いくらでも変人でいてくれ、という感じである。
変人小説(なんてジャンルはないだろうが)として名を馳せるのは、奥田英朗の<伊良部>シリーズである。「インザプール」から始まる3作が出ているが、もうとにかく、精神科医である伊良部という男がハチャメチャなのである。もう、常識がないとかいうレベルの問題ではない。狙ってやっているのか、と突っ込みたくなるくらいの天然だし、破天荒である。ああいう変人が実際近くにいたら、僕はもうイライラしてむかついて絞め殺したくなるだろうけど、小説で読んでいる分にはゲラゲラ笑えるのである。だから、変人の出てくる小説は面白いな、と僕は思っている。
なかなかそこまでアクの強いキャラクターが出てくる作品というのはない。今年出た「チーム・バチスタの栄光」の白鳥って男は、久々に出てきた変人キャラクターだったけど、もっといろんな小説にどんどんと変人を投入してもらいたいものだな、と僕は思う。もちろん、天才も募集中だけど。
そうそう、最後の最後でまた女性の話に戻るけど、僕が今まで出会ってきた変な人というのは、結構な確率でAB型が多かった気がする。偏見ではあるけれども(というか僕の視点で言えばそれは偏見ではないけど)、やはりAB型というのは変人が多いのだろうか、と思う次第である(何度も言うが、僕の中で変人というのは、最上級の誉め言葉である)。
というわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、今年の直木賞を受賞した作品です。もちろん、直木賞を獲っていなければ、まあ読まなかったかもですね。
本作は連作短編集の形式を取っているのだけど、とりあえず大枠の設定だけ書いておこうと思います。
多田は、まほろ市という街の駅前で、便利屋を開いている。昔は車の営業で、妻も子供もいた。今は、便利屋で、妻も子供もいない。独りである。
仕事は、とにかく1時間2000円という料金で、何でもこなす。ペットを預かったり、引越しの手伝いをしたり、草むしりをしたり、つまりそういうことである。「自分でやれよ」と言いたくなるようなことを便利屋が代わりにやるのである。
さてそんなある日、多田は旧友と再会することになる。しかし、この旧友という言葉、正確ではない。高校時代の知り合いなのだが、在学中に言葉を交わしたことはない。というか、その<旧友>は、在学中に一度しか言葉を発したことのないという変人だったのである。
名前は、行天春彦。在学中、工芸の時間に小指を切断してしまい、「痛い」と発した、それが唯一の言葉であるという変人は、再会するやお喋りになっていた。
行くところがないのだという。成り行きで、行天と二人で生活をすることになった。しかしこの行天という男、仕事はできないわ行動は奇妙だわ、はたまた厄介な事件に巻き込まれるわで、碌なことをしない。偽りであっても平穏だったはずの多田の日常が、行天によってひっかきまわされていく…という感じです。
それではそれぞれの内容を紹介しようと思います。
「多田便利軒、繁盛中」
便利屋は1月と2月は比較的暇なのであるが、今年はちょっと違った。年末に突然、犬を預かることになったのだ。犬は、しかも小型犬は苦手だ。しかし、仕事なのだから、仕方ない。こうして年末はチワワと共に過ごす羽目になった。
犬を返すことになっている前日、お得意さんから仕事の依頼。岡という男は、自宅付近を通過するバスが間引き運転を絶対にしていると言い張って、庭掃除なんかをしながらバスの運行をチェックしろ、とまあそんな依頼だった。
さてそんなわけで一日中バス停を見ていたわけだが、さて帰ろうという時になって連れてきていた犬が見当たらない。うろうろと探していると、バス停に人影。どうやら、チワワを抱えている。
それが、行天との再会だった。
行天は、奇妙な風体で、行くところがないのだと語った。仕方なく便利屋の事務所に連れて行くことにした。
さて翌日。犬を返そうと家まで行くと、なんとその家はもぬけの殻だった。どうやら、夜逃げするに当たってもう飼えなくなった犬を押し付けられた、ということだったらしい…。
「行天には、謎がある」
さてそんなわけで始まった行天との共同生活。とにかくそれに必要なのは、諦念だった。ありとあらゆることを諦めなくては、行天との生活は立ち行かない。
多田は、もろもろの事情から、チワワの飼い主を探すことになった。それを、居候である行天にやらせようとしたのだが、やはり考えることとんちんかんで、どうにも使えない。
さて、ある時事務所に、一本の電話。チワワの飼い主を探しているなら欲しい、ということだった。事務所に来るように言うと、コロンビア人と名乗る、明らかにコロンビア人ではない女がやってきた。どうやら、立ちんぼの女性であるようだ。
多田としては、そのルルと名乗る偽コロンビア人にチワワを託すことには反対だった。ちゃんとした飼い主を見つけて上げなくてはいけない。しかし行天の考えは違うようで…。
「働く車は、満身創痍」
世の中は、お受験が盛んなわけで、塾というのが大盛況である。
さてそんな中、ちょっと変な依頼がやってくる。塾からの帰りの迎えを頼みたい、ということだった。子供に関心のなさそうな親と、親の愛情に飢えていそうだけど素直じゃない子供。なんともやっかいそうだが、仕事は引き受けた。
由良という名の子供は、なかなかの食わせ物だった。迎えを無視しようとする、文句を垂れる。まあそれでも仕事は仕事だ。
ある日多田は、普段乗らないバスに乗って、そこで由良を見つける。見るともなく見ていると、どうもおかしな行動をしている。なるほど…。
行天に意見を聞いてみることにした。
「犯罪に加担しているやつを見かけたら、おまえどうする」
「放っとく」
「走れ、便利屋」
その日行天は、人を殺そうとしていたのだという。
すべて、後から訊いた話である。
多田はその日、墓参りに行き、その後依頼主である岡の元へ向かった。また、バスの間引き運転の調査である。その最中、熱中症で倒れてしまう。
その成り行きで出会ったのが、行天の元妻だという女だ。子供を連れている。とにかく、複雑な事情があるようだ。行天という男について、ちょっと知ることになる。
行天はその日、チワワの元飼い主を、現飼い主の元へ案内するという役目を仰せつかった。しかし、事態は何故か変な方向へと転んでいき、行天は一人で勝手に、何やら行動を起こしていくのだが…
「事実は、ひとつ」
事情があって入院していた行天がようやく退院した。まあ厄介な男である。
いろんな縁で関わりのある星という男から多田に依頼がある。一人女子高生を匿ってくれ、というものだった。
というのも、その女子高生は、ある事件のためにマスコミに追われているのだ。
まほろ市で殺人事件が起きた。連日トップニュースで伝えられるくらいの大事件である。両親が殺害され、その娘である女子高生が現在行方不明、その娘を犯人と目して捜査をしている、という状況で、星という男から預かることになった女性構成は、その友達である。
女子高生と生活するという変な状況の中、刻々と変わる状況にあって、行天は真相を暴いてみせるのだけど…
「あのバス停で、また会おう」
恋人と別れたい、という依頼を行天に任せたら、案の定大変なことになった。まったくである。
さて、納屋の整理をして欲しい、という依頼がきた。納屋を取り壊したいのだが、中のものを捨てたり整理したりしたい、というのである。多田はその仕事を引き受けた。
何日かに分けて仕事を分散することにしたその初日、二人は依頼主の家の前で変な男に出会う。二人に、依頼主の生活を教えて欲しい、と言ってきたのだ。
事情を聞くと、どうやらこういうことらしい。
その男は最近盲腸の手術をした。その際、自分の血液型が両親からは生まれるはずのないものだと判明した。母親は浮気をするような人ではないと断言できる。つまり、病院で獲り違いがあったとしか思えないのだ。
つてを辿って調べてみると、どうやらその取り替わったかもしれないのが、二人の依頼主の息子なのである。
男は今度結婚するのだという。その前に、もしかしたら自分の両親かもしれない家族の生活について知りたくなった、ということだ。
多田は悩んだ。行天が勝手に安請け合いをしてしまったが、多田は悩んでいた。自分の過去を行天に話してしまうくらい、多田は悩んでいた…。
こんな感じですね。
本作は、ストーリーは非常にうまく出来ているお思いますね。事件を解決するというような、すぱっとしたミステリ仕立ての話ではなく、便利屋という立場の中で、物事をどう解決するのか、というところに焦点が当たっていて、いろんな事情や人間関係を考慮しながら解決を模索するという当たりがいい。僕は、探偵が「犯人はお前だ!」と言って事件を解決する話も好きだけど、実際問題ああいう話は、とにかく事件を解決すればいいというスタンスで、それが焦点になっている。どうまるく収めるか、というところを考えていない分無神経だと言える。その点本作は、別の意味で無神経ではあるけれども、物事をどうまるく収めるかを考えていて、作品としての雰囲気はまるで違うけれども、京極夏彦の<巷説>シリーズに構造が似ているな、と思った。
また、行天という変人キャラがとにかく最高で、ああいう人間と一緒に暮らせはしないだろうけど(たぶんものすごくイライラしてしまうだろう)、小説で読んでいる分には楽しい。ただ変人なだけではなく、人の心の機微に聡かったり、いつの間にか相手の懐に入り込めてしまったり、なんとも人間味溢れる男である。多田との関係も一筋縄ではなくて、行天自身の過去も一筋縄ではなくて、とにかくいろいろある男ではあるが、読んでいる限り憎めない男である。
便利屋という仕事を通じていやがうえにでも覗いてしまえる他人の生活や人生。そうしたものに、いかに踏み込まないか、いかに踏み込むか。そういうところをいろいろと考えさせられる作品だな、と思った。
しかし本作は、僕的にどうしてもダメな部分がある。
それは、なんというか、表現としては間違っているのだが、ボーイズラブ的な部分である。
本作にはボーイズラブ的な要素はまったくない。男同士の絡みがあるわけでは決してない。しかしなんというか、作品の雰囲気からボーイズラブ的なものを感じ取れてしまうのである。もしかしたら、中に書かれているイラストのせいなのかもしれないけど。
その感覚は、坂木司の「青空の卵」を読んだときの感じに似ている。あちらも、別にボーイズラブ的な要素はまったくないのだが、雰囲気的にそんな感じを醸し出す作品なのである。
その点だけが僕にはちょっとダメだった。男からすれば、ボーイズラブ的なものの何がいいのか、まるでさっぱり理解できないわけで、むしろ気持ち悪かったりする。
男同士の友情はいいのだが、男からすると、この二人の距離感というのは、ちょっと近すぎるような気がする。それが、ボーイズラブ的な雰囲気を醸し出しているのかもしれない。女性が男の友情を書くと、こんな感じになるのだろうか。男というのは、男ともう少し距離を取る生き物だと僕は思っているのだけど。
まあそんなわけで、ストーリーに文句はありません。女性が読めば、かなりピッと来る作品かもしれません。男からすると、ちょっと違和感のある作品もしれないけど、でもまあ読んで損することはないでしょう。
しかし三浦しをんは、ホントいろんな作品を書くなぁ、と思った。
あと思ったのは、まほろ市って、もちろん架空の知名だろうけど、祥伝社から出ている文庫で、「まほろ市~」みたいな作品が四つあって、あれと関係あるんかなぁ、と思ったりした。どうなんだろう。
まあそんな感じです。
三浦しをん「まほろ駅前多田便利軒」
カクレカラクリ(森博嗣)
モノを生み出すという行為は、人の強い意志によって支えられている。
僕らは普段から、あらゆるモノに囲まれて生きている。多くは工業製品だと言っていいだろう。それは僕の中では、生み出されたものではなく作り出されたもの、である。とりあえずこのニュアンスはわかるだろうか。
例えば、刀鍛冶や陶芸家みたいな人がいる。芸術家でもいい。かれらは、唯一無二のものを生み出そうとしている。それに成功しようとどうしようと、そこには強い意志がある。
僕は、その意思が好きなのである。例えば僕は、刀を見てこれはいい刀だなとか、絵画を見てこれは傑作だ、なんて思える審美眼を持っているわけではない。しかし、素晴らしい作品から染み出る作者の意思というものは、少なからず読み取れるものではないか、と思っている。その意思に触れることは、高級な娯楽だと言ってもいいだろう。なかなかそんな機会はないのだけど。本を読む、という行為もあるいは、その意思に触れようとする顕れなのかもしれない。
僕は、芸術家でもなんでもないので、モノを生み出すということを日常的にしているわけではない。けど、得意かどうかは別として、モノを生み出す行為は結構好きなのである。
これもいろんな感想で書いていることだけど、僕は大学時代ちょっとだけ演劇に関わったことがあって、小道具を作るセクションにいた。そこで一回、馬車を作った経験がある。馬車は小道具なのか、という突っ込みはなしということで。
馬車を作ったくらいではモノを生み出したことにはならないかもしれないが、僕としては非常に楽しい時間だった。馬車なんて、作り方も何もまったくわからない状態から、ネットで何かを調べたりするわけでもなく、ただある一枚の馬車の写真(こんな感じのを作ってくれと言って渡されたもの)だけから、紙と鉛筆を駆使して設計をしたのである。事情があって、解体出来て組み立てられるような設計にしなくてはならず、しかももちろん人は乗る。そんな条件の中で、何も調べることなく(まあ調べたところで、馬車の作り方なんていう情報はそう見つからないだろうけど)ひたすら考えに考えて、完成形の絵をまず書き、そこから何枚も部品の絵を書き、寸法を決め、作る手順を考え、期間内に作り上げる。こうした一連の行為がとにかくもう楽しくて、またあんなことが出来たらいいなぁ、と思う。やはりああいう工作的なことは、時間と場所とお金がかなり必要なのである。
僕は芸術家肌というわけでも天才でもないので、作るという行為そのものだけで満足してしまう。意志を細部に宿らせるということが出来ないのである。そういう意味で僕は、モノを生み出すには相応しくない人間だと思うけど、まあいまさら何か出来るとも思えないので問題はないだろう。
小説を書こうと思い、実際に書いたこともある。これは、もう本当に絶望的なくらい最低な仕上がりだったので(小説と呼ぶのもおぞましいくらい)完全に封印して以後小説を書くということはしていないのだけど、これもいずれできればいいな、と思っている。
現代は、消費の時代である。作り出されたものだろうと生み出されたものだろうと、とにかく日々消費され、その形を失っていく。あるいは、形は残っても、そこに残された意思は残らない。
日々多くのものが失われ続けていく現代だからこそ、本当に素晴らしいもの、本物の意思というものを、もっと大切にしていくべきなのだろうな、と思った。
というわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
まず本作の成立過程から。
本作は、コカ・コーラ生誕120周年を記念して書き下ろされた小説です。
なんだそら、って感じですよね。なんだか、こういうことらしいです。
つまり、森博嗣が、コカ・コーラというブランドを好き、ということらしい。よくわからないけど、だからコカ・コーラ以外からの依頼なら断っていたのだろう。コカ・コーラだったから仕方あるまい、ということのようだ。
さらに本作は、初めから映像化を前提なのである。もちろんそれも、コカ・コーラ生誕120周年記念企画ということだろう。森博嗣の小説が映像になるのはこれが初めてなのでそういう意味でも面白いが、そもそも映像化を前提にして本が書き下ろされるというのも、恐らく前代未聞ではないかと思う(いやもしかしたら前例はあるのかもしれないが)。というわけで本作は、そういう過程を経た、割と貴重な作品なのである。
というわけで内容に入ります。
大学生の郡司朋成と栗城洋輔は、いわゆる廃墟マニアである。壊れているもの、古いものにとにかく目がない人間で、そこにロマンを感じる。
さてそんな彼らに魅力的に移る廃墟が、同じ大学に通う真知花梨の実家近くにあるということで、花梨に招かれて二人は、真知家に泊まりながら廃墟探訪を楽しむことになった。
花梨の住む鈴鳴村は、真知家と山添家という二つの家系が力を持った土地だ。この二つの家系は、とにかくも仲が悪い、ようだ。郡司や栗城にはなかなか理解は難しいが、もうずっとずっと大昔から仲が悪く、今でも疎遠な関係なのだという。
さてそんな鈴鳴村には、ある奇妙な伝説がある。
今から120年前に、ある天才絡繰り師が、隠れ絡繰りを作り、120年後の今年作動するようにした、というものである。隠れ絡繰りというのはその名の通り、隠れている絡繰りということであって、どんなものなのかもわかっていない。人形なのか、あるシステムなのか。そして、120年後の今年作動したらどうなるのか。誰もそれを知らないが、隠れ絡繰りと共にお宝が隠されているのだろう、と人々は噂をしている。
しかし村の人々は、どうもこの伝説を信じていないようだ。誰も真剣に探そうとはしない。
そこにやってきたのが郡司と栗城だった。二人はその隠れ絡繰りの話を聞いて、多少なりとも興味を持った。好奇心旺盛と言った感じの、常にコカ・コーラのペットを首から下げている、花梨の妹玲奈も加わって、まあのんびりと村の生活を満喫しながら、のんびり廃墟探訪をしつつ、のんびり隠れ絡繰りでも探しましょうか、という話である。
本作に対する僕の評価を一言で言葉にすればこうなる。
本作は、まあ森博嗣でなくても書けるかな。
別に、つまらないとかそういうことではない。森博嗣だけあって、最低限の水準はもちろんクリアしている。しかし本作は、森博嗣らしさがちょっと感じられないかな、と思ってしまった。
森博嗣は日記などでも繰り返し書いているように、同じような作品を書いてもしかたがない、という考えだ。どれだけS&Mのような作品を読みたいと願っても、森博嗣としては別の方向を常に模索している。だからこそあれだけの多様性を意図的に生み出すことが出来たのだろうけど、しかし本作は、そういう森博嗣の考えを背景にしても、ちょっと森博嗣らしくないな、と感じられてしまった。
僕は、森博嗣の小説の特徴というのは、登場人物の誰かの価値観のせめぎあい、と言ったところにあると思っている。例えばS&Mでは、犀川という価値観と、特殊な思想を持った犯罪者という価値観のせめぎあいだったし、スカイクロラシリーズでは、キルドレという価値観と世界とのせめぎあいの物語だと思う。とにかく前提として、圧倒的な価値観の表出というのが、森博嗣の作品に対する魅力だと僕は思っている。
そう考えると、本作は少し弱い。天才絡繰り師の意思といったものは多少感じられるのだけれども、それ以外にはない。森博嗣じゃなくても書ける作品、と言ったのは、そういうことである。
ただ、120年間止まらずに動き続ける絡繰りの存在、というのは、ものすごく魅力的な設定だった。いかにして、120年という時間をカウントし、いかにそれを作動させるのか。こういうのを考えるのは、非常に面白いだろうな、と思う。
キャラクターは、森博嗣の作品らしく、割とクールな感じで、結構好きである。天然だったりお転婆だったりまあいろいろだが、基本的なクールさというのは、森博嗣の生み出すキャラクターに共通していて、そういうところは好きである。
あと、鈴鳴村というところは、ちょっと行ってみたいな、という気がした。というか、真知家に行ってみたい。なんかすごそう。料理は美味しそうだし、五右衛門風呂っぽいし、姉妹は綺麗そうだし、ちょっと変わってるし、そんなところは魅力的である。
あと、本作の暗号的なものは、簡単過ぎないだろうか、と思ってしまった。僕は、ミステリを読んでても大抵何もわからない人間なので、僕にも分かるということは誰にでも分かると思ってしまうのだが…。一つ目の暗号は、見た瞬間分かったし、二つ目はちょっと考えてわかった。三つ目の意味は結局最後までわからなかったけど、まあむしろわからなくても別に問題はなかったし(まあ三つ目の暗号の解釈は非常に美しいと思ったけど)、だからこれは、他の人もすぐわかってしまうのではないか、とちょっと思ってしまった。どうなんだろう。それとも珍しく僕は冴えていたのだろうか(なんてね)。
本作はドラマになるので、本作で初めて森博嗣という作家を知る、という人もかなりいるのだろう。そうだとすれば、多少物足りない作品かもしれないけど、それでも決して悪くはないだろう。ドラマ化を受けて、さらに森博嗣という作家の知名度が上がればいいな、と思う。
すごくいいというわけではないけど、まあ読んで損するということは特にないでしょう。そもそも本作はめちゃ安いし(定価1000円。やはり映像化が前提になっているので、本の値段を下げられたのだろうか)、まあ読んでみてください。
森博嗣「カクレカラクリ」
カクレカラクリハード
僕らは普段から、あらゆるモノに囲まれて生きている。多くは工業製品だと言っていいだろう。それは僕の中では、生み出されたものではなく作り出されたもの、である。とりあえずこのニュアンスはわかるだろうか。
例えば、刀鍛冶や陶芸家みたいな人がいる。芸術家でもいい。かれらは、唯一無二のものを生み出そうとしている。それに成功しようとどうしようと、そこには強い意志がある。
僕は、その意思が好きなのである。例えば僕は、刀を見てこれはいい刀だなとか、絵画を見てこれは傑作だ、なんて思える審美眼を持っているわけではない。しかし、素晴らしい作品から染み出る作者の意思というものは、少なからず読み取れるものではないか、と思っている。その意思に触れることは、高級な娯楽だと言ってもいいだろう。なかなかそんな機会はないのだけど。本を読む、という行為もあるいは、その意思に触れようとする顕れなのかもしれない。
僕は、芸術家でもなんでもないので、モノを生み出すということを日常的にしているわけではない。けど、得意かどうかは別として、モノを生み出す行為は結構好きなのである。
これもいろんな感想で書いていることだけど、僕は大学時代ちょっとだけ演劇に関わったことがあって、小道具を作るセクションにいた。そこで一回、馬車を作った経験がある。馬車は小道具なのか、という突っ込みはなしということで。
馬車を作ったくらいではモノを生み出したことにはならないかもしれないが、僕としては非常に楽しい時間だった。馬車なんて、作り方も何もまったくわからない状態から、ネットで何かを調べたりするわけでもなく、ただある一枚の馬車の写真(こんな感じのを作ってくれと言って渡されたもの)だけから、紙と鉛筆を駆使して設計をしたのである。事情があって、解体出来て組み立てられるような設計にしなくてはならず、しかももちろん人は乗る。そんな条件の中で、何も調べることなく(まあ調べたところで、馬車の作り方なんていう情報はそう見つからないだろうけど)ひたすら考えに考えて、完成形の絵をまず書き、そこから何枚も部品の絵を書き、寸法を決め、作る手順を考え、期間内に作り上げる。こうした一連の行為がとにかくもう楽しくて、またあんなことが出来たらいいなぁ、と思う。やはりああいう工作的なことは、時間と場所とお金がかなり必要なのである。
僕は芸術家肌というわけでも天才でもないので、作るという行為そのものだけで満足してしまう。意志を細部に宿らせるということが出来ないのである。そういう意味で僕は、モノを生み出すには相応しくない人間だと思うけど、まあいまさら何か出来るとも思えないので問題はないだろう。
小説を書こうと思い、実際に書いたこともある。これは、もう本当に絶望的なくらい最低な仕上がりだったので(小説と呼ぶのもおぞましいくらい)完全に封印して以後小説を書くということはしていないのだけど、これもいずれできればいいな、と思っている。
現代は、消費の時代である。作り出されたものだろうと生み出されたものだろうと、とにかく日々消費され、その形を失っていく。あるいは、形は残っても、そこに残された意思は残らない。
日々多くのものが失われ続けていく現代だからこそ、本当に素晴らしいもの、本物の意思というものを、もっと大切にしていくべきなのだろうな、と思った。
というわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
まず本作の成立過程から。
本作は、コカ・コーラ生誕120周年を記念して書き下ろされた小説です。
なんだそら、って感じですよね。なんだか、こういうことらしいです。
つまり、森博嗣が、コカ・コーラというブランドを好き、ということらしい。よくわからないけど、だからコカ・コーラ以外からの依頼なら断っていたのだろう。コカ・コーラだったから仕方あるまい、ということのようだ。
さらに本作は、初めから映像化を前提なのである。もちろんそれも、コカ・コーラ生誕120周年記念企画ということだろう。森博嗣の小説が映像になるのはこれが初めてなのでそういう意味でも面白いが、そもそも映像化を前提にして本が書き下ろされるというのも、恐らく前代未聞ではないかと思う(いやもしかしたら前例はあるのかもしれないが)。というわけで本作は、そういう過程を経た、割と貴重な作品なのである。
というわけで内容に入ります。
大学生の郡司朋成と栗城洋輔は、いわゆる廃墟マニアである。壊れているもの、古いものにとにかく目がない人間で、そこにロマンを感じる。
さてそんな彼らに魅力的に移る廃墟が、同じ大学に通う真知花梨の実家近くにあるということで、花梨に招かれて二人は、真知家に泊まりながら廃墟探訪を楽しむことになった。
花梨の住む鈴鳴村は、真知家と山添家という二つの家系が力を持った土地だ。この二つの家系は、とにかくも仲が悪い、ようだ。郡司や栗城にはなかなか理解は難しいが、もうずっとずっと大昔から仲が悪く、今でも疎遠な関係なのだという。
さてそんな鈴鳴村には、ある奇妙な伝説がある。
今から120年前に、ある天才絡繰り師が、隠れ絡繰りを作り、120年後の今年作動するようにした、というものである。隠れ絡繰りというのはその名の通り、隠れている絡繰りということであって、どんなものなのかもわかっていない。人形なのか、あるシステムなのか。そして、120年後の今年作動したらどうなるのか。誰もそれを知らないが、隠れ絡繰りと共にお宝が隠されているのだろう、と人々は噂をしている。
しかし村の人々は、どうもこの伝説を信じていないようだ。誰も真剣に探そうとはしない。
そこにやってきたのが郡司と栗城だった。二人はその隠れ絡繰りの話を聞いて、多少なりとも興味を持った。好奇心旺盛と言った感じの、常にコカ・コーラのペットを首から下げている、花梨の妹玲奈も加わって、まあのんびりと村の生活を満喫しながら、のんびり廃墟探訪をしつつ、のんびり隠れ絡繰りでも探しましょうか、という話である。
本作に対する僕の評価を一言で言葉にすればこうなる。
本作は、まあ森博嗣でなくても書けるかな。
別に、つまらないとかそういうことではない。森博嗣だけあって、最低限の水準はもちろんクリアしている。しかし本作は、森博嗣らしさがちょっと感じられないかな、と思ってしまった。
森博嗣は日記などでも繰り返し書いているように、同じような作品を書いてもしかたがない、という考えだ。どれだけS&Mのような作品を読みたいと願っても、森博嗣としては別の方向を常に模索している。だからこそあれだけの多様性を意図的に生み出すことが出来たのだろうけど、しかし本作は、そういう森博嗣の考えを背景にしても、ちょっと森博嗣らしくないな、と感じられてしまった。
僕は、森博嗣の小説の特徴というのは、登場人物の誰かの価値観のせめぎあい、と言ったところにあると思っている。例えばS&Mでは、犀川という価値観と、特殊な思想を持った犯罪者という価値観のせめぎあいだったし、スカイクロラシリーズでは、キルドレという価値観と世界とのせめぎあいの物語だと思う。とにかく前提として、圧倒的な価値観の表出というのが、森博嗣の作品に対する魅力だと僕は思っている。
そう考えると、本作は少し弱い。天才絡繰り師の意思といったものは多少感じられるのだけれども、それ以外にはない。森博嗣じゃなくても書ける作品、と言ったのは、そういうことである。
ただ、120年間止まらずに動き続ける絡繰りの存在、というのは、ものすごく魅力的な設定だった。いかにして、120年という時間をカウントし、いかにそれを作動させるのか。こういうのを考えるのは、非常に面白いだろうな、と思う。
キャラクターは、森博嗣の作品らしく、割とクールな感じで、結構好きである。天然だったりお転婆だったりまあいろいろだが、基本的なクールさというのは、森博嗣の生み出すキャラクターに共通していて、そういうところは好きである。
あと、鈴鳴村というところは、ちょっと行ってみたいな、という気がした。というか、真知家に行ってみたい。なんかすごそう。料理は美味しそうだし、五右衛門風呂っぽいし、姉妹は綺麗そうだし、ちょっと変わってるし、そんなところは魅力的である。
あと、本作の暗号的なものは、簡単過ぎないだろうか、と思ってしまった。僕は、ミステリを読んでても大抵何もわからない人間なので、僕にも分かるということは誰にでも分かると思ってしまうのだが…。一つ目の暗号は、見た瞬間分かったし、二つ目はちょっと考えてわかった。三つ目の意味は結局最後までわからなかったけど、まあむしろわからなくても別に問題はなかったし(まあ三つ目の暗号の解釈は非常に美しいと思ったけど)、だからこれは、他の人もすぐわかってしまうのではないか、とちょっと思ってしまった。どうなんだろう。それとも珍しく僕は冴えていたのだろうか(なんてね)。
本作はドラマになるので、本作で初めて森博嗣という作家を知る、という人もかなりいるのだろう。そうだとすれば、多少物足りない作品かもしれないけど、それでも決して悪くはないだろう。ドラマ化を受けて、さらに森博嗣という作家の知名度が上がればいいな、と思う。
すごくいいというわけではないけど、まあ読んで損するということは特にないでしょう。そもそも本作はめちゃ安いし(定価1000円。やはり映像化が前提になっているので、本の値段を下げられたのだろうか)、まあ読んでみてください。
森博嗣「カクレカラクリ」
カクレカラクリハード
幼な子われらに生まれ(重松清)
僕には、どうしてもわからないのである。
家族って、一体なんなんだろう。
僕はこの本の感想の中で、自分の家族について触れた文章を結構書いてきた。既に重複しているものもあるだろう。しかし今回は、敢えてこの感想の中で、自分の家族も含めた文章を書こうと思う。
家族とは、血の繋がった他人である。
僕は、ずっとそう思ってきた。性別も年代も経歴も、なんの共通点もない人々の集まり。唯一、血が繋がっている、というだけの理由で一つの社会を作っている集まり。僕にはそれが、どうにも不自然に思えてしかたがなかった。
血が繋がっている、ということがなんだというのだろう。
いろんな場面で、血が繋がっている、ということが重視される。重役を血縁のみで占める会社もあるだろうし、犯罪が起きれば加害者の家族への取材が殺到する。
それらはすべて、血が繋がっている、という理由でしかない。それが一体、どれほどのものなのか、僕にはまるでわからないのである。
血が繋がっているから、という理由で、思考停止しているとしか思えない。血は争えない、という言葉もあるが、犯罪が起きれば加害者の家族も非難を受ける。血が繋がっている、というだけの理由でだ。どんなに理不尽なことか。なんなんだそれは。
東野圭吾の「手紙」という作品を思い出した。確か、弟のために兄がある殺人を犯して、今は刑務所にいる。弟は、「殺人を犯した身内」ということで、人生を狂わされる、という話だった。
なんの関係があるんだろう、と僕は正直思ってしまう。気持ちが理解できないわけではない。わからなくはないがしかし、殺人を犯した兄と何もしていない弟は、やはり分けて考えるべきだと僕は思う。
だから、こんな言葉も僕には理解できない。
『「…あたしのパパだもん、ほんもののパパなんだもん、会いたいに決まってるじゃん。赤の他人と一緒にいるより、ほんもののパパのほうがいいに決まってるじゃん…」』
本作中で、薫という小学五年生の娘が、血の繋がりのない父親に向かっていう言葉である。
血が繋がっていないと『ほんもの』ではないのだろうか?この『ほんもの』という言葉には、子供は親を選ぶことはできない、という発想が染みついている。しかし、気の持ちようではないだろうか?自分が父親を、誰が父親なのかを決めてやる。それが、『ほんもの』なのではないだろうか?
あるいは、血が繋がっていないと『赤の他人』なのだろうか?それも、僕はおかしいと思う。血が繋がっていようが、『赤の他人』である。血が繋がっているから他人ではない、という方が、僕はよっぽどおかしいと思う。
僕は、ちょっと想像してみる。例えば、僕が両親の子ではない、と親に打ち明けられたとしたら…。
どうということはないだろう。全然、問題ない。それはもちろん、僕が両親のことをそもそも好きではない、というところにも理由はあるだろう。僕がもしそんな打ち明けをされたとしても、別の人生もあったのだな、とは思うかもしれないが、ショックだとか哀しいだとか、そんなことは思わなかっただろう。何にしたところで、自分を育てている人間が親なのである。そこで、血が繋がっていないだのといわれたところで、なんということはない。ただ、例えばその打ち明けをされた後で、僕がなんらかの問題を起こしたりするとしよう。そうした時、『やっぱり血が繋がってないことを話したからだろうか』と両親に思われるのはすごく嫌だろう。
家族というのは、本当に不思議だと僕は思うのだ。血が繋がっているという以外の共通項を持たない人々の集まりなのだ。それは、無理も生じるだろう。家族という幻想が、きっと多くの人には美しく見えているのだろうと思う。
本作中にこんな言葉がある。
『私もそうだ。1日分どころではない。四年分張り詰めていたものが切れてしまったようだった。張り詰めていたのだ、とあらためて気づくと、滑稽で、むなあしくて、足がぴたりと止まってしまう。張り詰めていなければ保てない家族の繋がりに、いったい何の価値があったのだろう。』
僕は断言できるのだが、実家にいた頃は常に張り詰めていた。家族という形の歪さに気づいてしまっていたし、どうしようもなく息苦しい空間だったし、逃げ出したかった。張り詰めて自分の心を守らなければ、とても生きていられる環境ではなかったのだ。
両親も、恐らく張り詰めていたのだろう。理由はわからない。仕事でイライラしていたのかもしれないし、家事に疲れたのかもしれない。あるいは、僕の知らないところで何か大きな問題が起きていたのかもしれない。とにかく僕には、両親も家族という形を維持するのに疲れているように見えたものだ。
偽善である。今現在どうかは知らないが、僕が実家にいた当時、誰もが疲れていたと思う。家族という一員を演じることに。それはもはや適性の問題であって、誰かが責められる問題ではないのかもしれない。ただ問題は、人間の多くは家族という形から逃れることはできない、ということだ。特に子供の頃は。だから、無理をして演じてでも、家族という形に収まらなくてはならない。
当時僕は、一人で生きていくことのできない子供という自分を、ひどく哀しんだ。こんなに居心地の悪い空間なのに、こんなに不自然な場所なのに、僕はここから逃げ出すことができない。そう思うだけで、哀しくなった。何度も逃げ出そうとは思ったのだ。しかし、勇気がでなかった。あの当時、一人で生きていくという選択は、やはり無謀だったと思う。
結婚率が下がっているだの晩婚だのと言われているけれども、人々の多くは、幸せな家庭を築くことを目標に生きている人は多いのだろう。よく出来た妻、かっこいい旦那、可愛い子供、綺麗な家。みんな、そういったものに憧れているのだろう。
僕にはそれが、蜃気楼のようにしか思えない。この世に、幸せな家族なんてものが存在するということが信じられないのである。それはまさしく幻想であり、夢である。
誰も無理をしないで成立する家族なんて、ありえない。常に誰かが、時には誰もが無理をして、家族という形を生み出している。人々は、それでもいいから家族という形を作りたいと願うのだろう。僕は、それがどうにも理解できない。
これは何度も書いていることだけど、また書くことにしよう。僕が万が一結婚することになって、万が一子供が出来るようなことがあったとしよう。そしたら僕は、子供に名前で呼ばせる。「パパ」とか「お父さん」とかでは呼ばせない。そう決めている。
父親という役割から、せめて名前だけでも抜け出したいという感情の表れかもしれない。親として子供に接することのできない言い訳を先にしているのかもしれない。でも僕はこう考えている。
できれば、子供とは友達でいたい。
親子という関係が、僕にはどうしてもうそ臭く、不自然に見えてしまうのである。責任はもちろん持つ。その上で、自分の子供とは友達という関係でありたい。僕はそんな風に思っている。
そろそろ内容に入ろうと思います。
私は、37歳のサラリーマンだ。妻がいて、二人の娘がいる。
しかし、お互いに再婚の身だ。私は、前妻の友佳と一人娘だった沙織と別れ、妻である菜苗も前夫の沢田隆司と離婚し、薫と恵理子という二人の娘を連れて、そうして再婚した。
生活は、どこにでもある家族のものだった。長女の薫は、わたしが『ほんもの』の父親でないことは知っているが、結婚当初はなついてくれていた。下の娘の理恵子はその事実を知らず、まとわりつくようにして私に接してくる。菜苗には特に恋愛感情はなかったが、彼女とならちゃんとした家庭を作れる、そう思って結婚した。
でも、どこかおかしい。
違和感の正体に気づいているのに気づかないフリをして、私は家族と共に過ごす時間を大切にしてきた。残業はなるべくせず、有給休暇も欠かさず取り、飲み会も1次会で切り上げる。父親として、ちゃんとやっている。そう思う。
私は今も、沙織と会っている。離婚の時の条件で年4回しか会えないのだが、自分と血の繋がった唯一の娘だという思いが、沙織を愛しく思わせる。薫と沙織を比べてしまうことも、時々ではなくある。
一応平衡は保っていた日常だった。愚かだけどそれなりに幸せで、不自然だけどそれなりに満足な日常。私は努力によってその生活を掴み取ってきた。
菜苗が妊娠した。
その事実で、今それがあっさりと崩れ去ろうとしている…。
というような話です。
とにかく、家族というものを深く深く考えさせられる話です。家族っていうのは、脆くてあっさり壊れてしまう、ということを痛感させられるし、血の繋がりって一体なんなんだろう、という風にも思わされると思います。
実際、これと似たような境遇の人というのは、世の中に数多くいるのでしょう。ただ冒頭でも書いたけど、親と血が繋がっていないということがそれほどショックなことなのか、僕にはどうにも理解できないのですね。ドラマでもよく、戸籍を見て初めて知ってショックで、みたいな展開はあるけど、本当にそうなのだろうか?ショックを受けるのだとすれば、どの部分にショックなのだろうか。
そういう意味で、僕は薫の考えていることが理解できない。薫は、私が本当の父親ではないと知っていてそれを妹にいじわるく伝えようとしたり、私に向かって意固地な態度を続けたりもする。『ほんもの』父親に会いたい、と言ってみたりもする。
そういう言動が、どういう考えから来るものなのか、正直うまく理解できない。全然わからないというわけではないけど、少なくとも僕の中にはない考えだし感情だ。血の繋がりとは本当になんなのだろう。
そういえば僕は、桐野夏生の「ダーク」の感想の中で、血の繋がりというものに興味がないからこそ子供に興味がないのであり、だからこそ長生きすることに興味がないのだ、というようなことを書いた記憶がある。そんなことを思い出した。
さて逆に僕は、薫の言動そのものは、すごく理解できてしまう。僕は正直、両親に対してああいう反抗的な態度をとって来たかった、と思っている。当時も思っていた。でも出来なかったのである。
僕も、ほんの少し何かが狂っていたら、薫のような言動をする子供になっていただろう。不機嫌で常に不満があって、意固地な態度を崩さずに長い冷戦のような状況になっていただろう。しかし僕は、そうしたいという感情を奥底に沈めて、自分を偽って過ごしてきた。いかに大過なく実家での生活をやり過ごすか。そればかり考えていたのだから、両親と正面切って対立しようなんて発想にならなかったのである。
本作中の言葉でこんなものがある。私が、意固地な態度を続ける薫に向かっていうセリフだ。
『「なんでもいいから、言ってみなよ。いまのウチのどこが嫌か、どんなふうになれば薫は一番いいのか、怒ったりなんかしないから、思ったことを全部話してみろよ」』
この部分を読んだとき、僕は鳥肌が立つような思いをした。
まるで、僕の父親が喋りそうなセリフではないか。
正直、昔の記憶は日々薄れているので、父親が実際僕に向かってこんなことを言ったことがあるのかどうか、それは思い出せない。しかし、うちの父親なら、寸分たがわず同じことを言ってもおかしくないと思う。
そうじゃないんだ、と僕は思うし、きっと薫も思ったことだろう。大人は、話さえきいてやればなんとか解決できる、と思っている。時間さえかけて話を聞いてやれば、なんとかなると。
そうじゃないんだ。そんな物分りのいい風をして近づいてこられても困るんだ。怒らないからとか、俺がどうしたいとかじゃないんだ。そうじゃないんだ。俺らは今、大きな深い溝の前にいるんだよ。そこで向き合って話してる。俺としてはあんたに近づいてほしくはない。あんたもこっちには来たくないだろう。だからそうやって、溝の向こうで声だけ届かせようとしてるんだ。でもそうじゃないんだよ。溝を越える気がないなら話し掛けないでくれ。俺と話がしたいなら、無理矢理にでも溝を乗り越えなきゃダメだろうが。俺らが今、どうしようもなくわかりあえないということをちゃんと認めた上で、その上で0から始めようって思ってくれよ。あんたのその言葉は、俺らの間の関係性をまだ利用しようとしてるだろ。親子であるという繋がりに託そうとしてるだろ。そうじゃないんだよ。それを一旦リセットして、初めて出会った二人みたいに、もう一回0から始めるしかないんだよ。
薫に掛けられたのと同じ言葉を言われたら、僕はこんな風に思うだろうし、こんな風に言い返すかもしれない。大人はいつから子供の気持ちを忘れてしまうのだろう。自分だって、子供だったはずなのに。同じ事を言われたらむかついたはずなのに。
本作は、家族というだけでなく、夫婦についてもあれこれ考えさせる作品だ。
その中でも一番なるほどと思った言葉がある。私の前妻である友佳が私に向かっていうセリフだ。
『「昔からよ。あなた、理由は訊くくせに、気持ちは訊かないの」』
これは、男と女という違いをつよく印象付ける言葉だった。確かに、男が興味があるのは理由だ。理屈の世界で生きている男としては、理由に納得がいけばいいし、納得できなければ困る。それが判断のほぼすべてだろう。
しかし、女性はそうではない。理由なんてむしろどうでもいい。その時どう思ったのか、それを大切にしている。
こういう短いセリフからも、いろんなことを考えることが出来る。とにかく本作は、誰が読んでも、どんな境遇の人が読んでも、いろんなことを考えさせられる作品だと思う。
家族を持っている人も持っていない人も、子供との関係に悩んでいるひともいない人も、とにかく読んでみてください。心が揺さぶられるのではないかと思います。家族や夫婦ということについて考えるきっかけにもなるでしょう。是非とも読んでみてください。
重松清「幼な子われらに生まれ」
家族って、一体なんなんだろう。
僕はこの本の感想の中で、自分の家族について触れた文章を結構書いてきた。既に重複しているものもあるだろう。しかし今回は、敢えてこの感想の中で、自分の家族も含めた文章を書こうと思う。
家族とは、血の繋がった他人である。
僕は、ずっとそう思ってきた。性別も年代も経歴も、なんの共通点もない人々の集まり。唯一、血が繋がっている、というだけの理由で一つの社会を作っている集まり。僕にはそれが、どうにも不自然に思えてしかたがなかった。
血が繋がっている、ということがなんだというのだろう。
いろんな場面で、血が繋がっている、ということが重視される。重役を血縁のみで占める会社もあるだろうし、犯罪が起きれば加害者の家族への取材が殺到する。
それらはすべて、血が繋がっている、という理由でしかない。それが一体、どれほどのものなのか、僕にはまるでわからないのである。
血が繋がっているから、という理由で、思考停止しているとしか思えない。血は争えない、という言葉もあるが、犯罪が起きれば加害者の家族も非難を受ける。血が繋がっている、というだけの理由でだ。どんなに理不尽なことか。なんなんだそれは。
東野圭吾の「手紙」という作品を思い出した。確か、弟のために兄がある殺人を犯して、今は刑務所にいる。弟は、「殺人を犯した身内」ということで、人生を狂わされる、という話だった。
なんの関係があるんだろう、と僕は正直思ってしまう。気持ちが理解できないわけではない。わからなくはないがしかし、殺人を犯した兄と何もしていない弟は、やはり分けて考えるべきだと僕は思う。
だから、こんな言葉も僕には理解できない。
『「…あたしのパパだもん、ほんもののパパなんだもん、会いたいに決まってるじゃん。赤の他人と一緒にいるより、ほんもののパパのほうがいいに決まってるじゃん…」』
本作中で、薫という小学五年生の娘が、血の繋がりのない父親に向かっていう言葉である。
血が繋がっていないと『ほんもの』ではないのだろうか?この『ほんもの』という言葉には、子供は親を選ぶことはできない、という発想が染みついている。しかし、気の持ちようではないだろうか?自分が父親を、誰が父親なのかを決めてやる。それが、『ほんもの』なのではないだろうか?
あるいは、血が繋がっていないと『赤の他人』なのだろうか?それも、僕はおかしいと思う。血が繋がっていようが、『赤の他人』である。血が繋がっているから他人ではない、という方が、僕はよっぽどおかしいと思う。
僕は、ちょっと想像してみる。例えば、僕が両親の子ではない、と親に打ち明けられたとしたら…。
どうということはないだろう。全然、問題ない。それはもちろん、僕が両親のことをそもそも好きではない、というところにも理由はあるだろう。僕がもしそんな打ち明けをされたとしても、別の人生もあったのだな、とは思うかもしれないが、ショックだとか哀しいだとか、そんなことは思わなかっただろう。何にしたところで、自分を育てている人間が親なのである。そこで、血が繋がっていないだのといわれたところで、なんということはない。ただ、例えばその打ち明けをされた後で、僕がなんらかの問題を起こしたりするとしよう。そうした時、『やっぱり血が繋がってないことを話したからだろうか』と両親に思われるのはすごく嫌だろう。
家族というのは、本当に不思議だと僕は思うのだ。血が繋がっているという以外の共通項を持たない人々の集まりなのだ。それは、無理も生じるだろう。家族という幻想が、きっと多くの人には美しく見えているのだろうと思う。
本作中にこんな言葉がある。
『私もそうだ。1日分どころではない。四年分張り詰めていたものが切れてしまったようだった。張り詰めていたのだ、とあらためて気づくと、滑稽で、むなあしくて、足がぴたりと止まってしまう。張り詰めていなければ保てない家族の繋がりに、いったい何の価値があったのだろう。』
僕は断言できるのだが、実家にいた頃は常に張り詰めていた。家族という形の歪さに気づいてしまっていたし、どうしようもなく息苦しい空間だったし、逃げ出したかった。張り詰めて自分の心を守らなければ、とても生きていられる環境ではなかったのだ。
両親も、恐らく張り詰めていたのだろう。理由はわからない。仕事でイライラしていたのかもしれないし、家事に疲れたのかもしれない。あるいは、僕の知らないところで何か大きな問題が起きていたのかもしれない。とにかく僕には、両親も家族という形を維持するのに疲れているように見えたものだ。
偽善である。今現在どうかは知らないが、僕が実家にいた当時、誰もが疲れていたと思う。家族という一員を演じることに。それはもはや適性の問題であって、誰かが責められる問題ではないのかもしれない。ただ問題は、人間の多くは家族という形から逃れることはできない、ということだ。特に子供の頃は。だから、無理をして演じてでも、家族という形に収まらなくてはならない。
当時僕は、一人で生きていくことのできない子供という自分を、ひどく哀しんだ。こんなに居心地の悪い空間なのに、こんなに不自然な場所なのに、僕はここから逃げ出すことができない。そう思うだけで、哀しくなった。何度も逃げ出そうとは思ったのだ。しかし、勇気がでなかった。あの当時、一人で生きていくという選択は、やはり無謀だったと思う。
結婚率が下がっているだの晩婚だのと言われているけれども、人々の多くは、幸せな家庭を築くことを目標に生きている人は多いのだろう。よく出来た妻、かっこいい旦那、可愛い子供、綺麗な家。みんな、そういったものに憧れているのだろう。
僕にはそれが、蜃気楼のようにしか思えない。この世に、幸せな家族なんてものが存在するということが信じられないのである。それはまさしく幻想であり、夢である。
誰も無理をしないで成立する家族なんて、ありえない。常に誰かが、時には誰もが無理をして、家族という形を生み出している。人々は、それでもいいから家族という形を作りたいと願うのだろう。僕は、それがどうにも理解できない。
これは何度も書いていることだけど、また書くことにしよう。僕が万が一結婚することになって、万が一子供が出来るようなことがあったとしよう。そしたら僕は、子供に名前で呼ばせる。「パパ」とか「お父さん」とかでは呼ばせない。そう決めている。
父親という役割から、せめて名前だけでも抜け出したいという感情の表れかもしれない。親として子供に接することのできない言い訳を先にしているのかもしれない。でも僕はこう考えている。
できれば、子供とは友達でいたい。
親子という関係が、僕にはどうしてもうそ臭く、不自然に見えてしまうのである。責任はもちろん持つ。その上で、自分の子供とは友達という関係でありたい。僕はそんな風に思っている。
そろそろ内容に入ろうと思います。
私は、37歳のサラリーマンだ。妻がいて、二人の娘がいる。
しかし、お互いに再婚の身だ。私は、前妻の友佳と一人娘だった沙織と別れ、妻である菜苗も前夫の沢田隆司と離婚し、薫と恵理子という二人の娘を連れて、そうして再婚した。
生活は、どこにでもある家族のものだった。長女の薫は、わたしが『ほんもの』の父親でないことは知っているが、結婚当初はなついてくれていた。下の娘の理恵子はその事実を知らず、まとわりつくようにして私に接してくる。菜苗には特に恋愛感情はなかったが、彼女とならちゃんとした家庭を作れる、そう思って結婚した。
でも、どこかおかしい。
違和感の正体に気づいているのに気づかないフリをして、私は家族と共に過ごす時間を大切にしてきた。残業はなるべくせず、有給休暇も欠かさず取り、飲み会も1次会で切り上げる。父親として、ちゃんとやっている。そう思う。
私は今も、沙織と会っている。離婚の時の条件で年4回しか会えないのだが、自分と血の繋がった唯一の娘だという思いが、沙織を愛しく思わせる。薫と沙織を比べてしまうことも、時々ではなくある。
一応平衡は保っていた日常だった。愚かだけどそれなりに幸せで、不自然だけどそれなりに満足な日常。私は努力によってその生活を掴み取ってきた。
菜苗が妊娠した。
その事実で、今それがあっさりと崩れ去ろうとしている…。
というような話です。
とにかく、家族というものを深く深く考えさせられる話です。家族っていうのは、脆くてあっさり壊れてしまう、ということを痛感させられるし、血の繋がりって一体なんなんだろう、という風にも思わされると思います。
実際、これと似たような境遇の人というのは、世の中に数多くいるのでしょう。ただ冒頭でも書いたけど、親と血が繋がっていないということがそれほどショックなことなのか、僕にはどうにも理解できないのですね。ドラマでもよく、戸籍を見て初めて知ってショックで、みたいな展開はあるけど、本当にそうなのだろうか?ショックを受けるのだとすれば、どの部分にショックなのだろうか。
そういう意味で、僕は薫の考えていることが理解できない。薫は、私が本当の父親ではないと知っていてそれを妹にいじわるく伝えようとしたり、私に向かって意固地な態度を続けたりもする。『ほんもの』父親に会いたい、と言ってみたりもする。
そういう言動が、どういう考えから来るものなのか、正直うまく理解できない。全然わからないというわけではないけど、少なくとも僕の中にはない考えだし感情だ。血の繋がりとは本当になんなのだろう。
そういえば僕は、桐野夏生の「ダーク」の感想の中で、血の繋がりというものに興味がないからこそ子供に興味がないのであり、だからこそ長生きすることに興味がないのだ、というようなことを書いた記憶がある。そんなことを思い出した。
さて逆に僕は、薫の言動そのものは、すごく理解できてしまう。僕は正直、両親に対してああいう反抗的な態度をとって来たかった、と思っている。当時も思っていた。でも出来なかったのである。
僕も、ほんの少し何かが狂っていたら、薫のような言動をする子供になっていただろう。不機嫌で常に不満があって、意固地な態度を崩さずに長い冷戦のような状況になっていただろう。しかし僕は、そうしたいという感情を奥底に沈めて、自分を偽って過ごしてきた。いかに大過なく実家での生活をやり過ごすか。そればかり考えていたのだから、両親と正面切って対立しようなんて発想にならなかったのである。
本作中の言葉でこんなものがある。私が、意固地な態度を続ける薫に向かっていうセリフだ。
『「なんでもいいから、言ってみなよ。いまのウチのどこが嫌か、どんなふうになれば薫は一番いいのか、怒ったりなんかしないから、思ったことを全部話してみろよ」』
この部分を読んだとき、僕は鳥肌が立つような思いをした。
まるで、僕の父親が喋りそうなセリフではないか。
正直、昔の記憶は日々薄れているので、父親が実際僕に向かってこんなことを言ったことがあるのかどうか、それは思い出せない。しかし、うちの父親なら、寸分たがわず同じことを言ってもおかしくないと思う。
そうじゃないんだ、と僕は思うし、きっと薫も思ったことだろう。大人は、話さえきいてやればなんとか解決できる、と思っている。時間さえかけて話を聞いてやれば、なんとかなると。
そうじゃないんだ。そんな物分りのいい風をして近づいてこられても困るんだ。怒らないからとか、俺がどうしたいとかじゃないんだ。そうじゃないんだ。俺らは今、大きな深い溝の前にいるんだよ。そこで向き合って話してる。俺としてはあんたに近づいてほしくはない。あんたもこっちには来たくないだろう。だからそうやって、溝の向こうで声だけ届かせようとしてるんだ。でもそうじゃないんだよ。溝を越える気がないなら話し掛けないでくれ。俺と話がしたいなら、無理矢理にでも溝を乗り越えなきゃダメだろうが。俺らが今、どうしようもなくわかりあえないということをちゃんと認めた上で、その上で0から始めようって思ってくれよ。あんたのその言葉は、俺らの間の関係性をまだ利用しようとしてるだろ。親子であるという繋がりに託そうとしてるだろ。そうじゃないんだよ。それを一旦リセットして、初めて出会った二人みたいに、もう一回0から始めるしかないんだよ。
薫に掛けられたのと同じ言葉を言われたら、僕はこんな風に思うだろうし、こんな風に言い返すかもしれない。大人はいつから子供の気持ちを忘れてしまうのだろう。自分だって、子供だったはずなのに。同じ事を言われたらむかついたはずなのに。
本作は、家族というだけでなく、夫婦についてもあれこれ考えさせる作品だ。
その中でも一番なるほどと思った言葉がある。私の前妻である友佳が私に向かっていうセリフだ。
『「昔からよ。あなた、理由は訊くくせに、気持ちは訊かないの」』
これは、男と女という違いをつよく印象付ける言葉だった。確かに、男が興味があるのは理由だ。理屈の世界で生きている男としては、理由に納得がいけばいいし、納得できなければ困る。それが判断のほぼすべてだろう。
しかし、女性はそうではない。理由なんてむしろどうでもいい。その時どう思ったのか、それを大切にしている。
こういう短いセリフからも、いろんなことを考えることが出来る。とにかく本作は、誰が読んでも、どんな境遇の人が読んでも、いろんなことを考えさせられる作品だと思う。
家族を持っている人も持っていない人も、子供との関係に悩んでいるひともいない人も、とにかく読んでみてください。心が揺さぶられるのではないかと思います。家族や夫婦ということについて考えるきっかけにもなるでしょう。是非とも読んでみてください。
重松清「幼な子われらに生まれ」
銀の犬(光原百合)
大昔、ある天文学者はこう考えていたと言われている。
天空には音楽が満ちている。
あるいは、
星には固有の音楽がある。
音楽こそが世界の理であり、音楽を読み解きさえすれば世界の理屈を統べることができる。そう考えていたという。
今の常識から考えれば、それはありえないことだと一笑されることだろう。しかし、ロマン溢れる発想ではないか。音の調べが空を多い、世界の理を生み出している。その美しい発想は、真理であるとすら錯覚させる。
音楽というのは、そういう何か特別なものとして、古来から考えられてきたのだろう。
音楽は、形としてこの世に残すことができない、という特殊さを持っている。もちろん、楽譜という形で残すことはできる。しかし、楽譜は楽譜であり、それは音楽ではない。音楽というものは、奏者の存在と共に、時を越えることなく、一時の儚さを兼ね備えている。
その儚さに、人は魅了されていったのかもしれない。
僕は正直、音楽というものとはほぼ関わりなく生きてきた。歌が好きなわけでもなければ、楽器が弾けるわけでもない。日常において、音楽を聞くということがそもそもない。
そういう存在であるけれども、しかし音楽というものは、某かの力を持っているかもしれないな、と思う。その力を実感したことはかつてないけれども、優しい音楽が世界を包み込んでいると錯覚して生きてみるのも、また面白いかもしれないな、と思う。
そんなわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、口のきけない楽人とその相棒の物語です。ケルト民話を題材にした話のようで、妖精や呪術の存在が許された世界での物語です。
オシアンという口のきけない楽人は、「祓いの楽人」と呼ばれている。これは、同じ世に5人といないと言われる存在で、音楽によって歪んだものを正しい形へと戻すことのできる力を有している。氾濫した川を鎮めたり、死者の魂を成仏させたり、そういう力を持っている。
ブランはオシアンの相棒である。まだ小さな子供だが、口のきけないオシアンに代わって、周囲の人間との関係を築くのがブランの役目だ。
「僕の命はオシアンのものだから」
そうさらりと言ってのけるほどの信頼関係の中にいる。
二人は、さすらいの旅を続けながら、「祓いの楽人」の力を必要としている人々を救済していく。
大まかな設定はこんな感じです。
というわけで、それぞれの短編の内容を紹介しようと思います。
「声なき楽人」
村一番の楽人であり、モードの婚約者であったフィル。そのフィルが、何者かによって惨殺されたのは一年近くも前のこと。
モードはある噂を聞いてここにやってきた。恨みを抱えたフィルが、大好きだったはずの音楽を使って人々を苦しめているのだ、と。そんなはずはない、と思いながらも、フィルが死ぬ間際に作っていたという、完成するまでは誰にも聞かせるつもりのないという音楽を、その悪霊は弾いてみせるのだという…。
「恋を歌うもの」
妖精であるガンコナーは、その歌い奏でる音楽によって、ありとあらゆる種の雌を誘惑する力を持っていた。その力を使いガンコナーは、ありとあらゆる種の雌と、耽美で感応的な関係を結び、快楽の中に生きてきた。
ある時ふとしたことから知り合ったロージィ。人間である彼女は、手負いのガンコナーを看病するも、どうも彼の歌の効き目がないようだ。突然もう会わないと言われたガンコナーは、最後の手段としてロージィに呪いを掛けて服従させるのだが…。
「水底の街」
ロディは幻の街イースを目指して旅を続けている。そこでは、失われたものを再び取り戻すとができる、といわれているのだ。
ロディは、愛する妻アーニャを失った悲しみから、イースの街を目指す。激しい後悔の中、もう一度やり直したいと切に願っている。
イースの街に辿り着いたロディは、もう一度アーニャと出会いなおすことができた。しかし、何一つ言動を変えることができない。永遠に繰り返されることになる出会いと別れの時間にロディは囚われていく…。
「銀の犬」
リネットの付き添いで、リネットの婚約者であるオズウィンの元から帰る途中のブリジットは、銀色の毛をした大きな体の犬に遭遇した。そこを助けてくれたジョーという名の獣使いは、殺してしまった銀の犬の子供を是非引き取ってくれるよう、リネットの家族に懇願する。自分の術によって、いい犬にしてみせるから、と。仔犬は、クーと名付けられた。
しばらくしてジョーは村を去り、時は流れていく。久しぶりにリネットの元を訪れたブリジットは、使い魔ジョーの霊と遭遇することでジョーの死を知ることになる。
その夜。主人に忠実なはずのクーが突然牙を向き、リネットをかみ殺してしまった…。
「三つの星」
不幸な出来事により命を落としてしまった三人の人間がかつていた。
ある国の王子であったトゥリン。トゥリンを兄のように慕って育ち、トゥリンの方も目をかけて期待していたフィン。そして、トゥリンの婚約者として幼い頃から育てられていたディアドラ。三人の霊は、悲しみを湛えたまま、未だに成仏することが出来ずにいる。
それぞれ霊たちに、かつてのことを思いださせ、心を開かせようとするのであるが…。
本作は、僕にはちょっと面白くない作品でした。
というのも、民話が元になっているからなのか、やはりどうしても古臭い感じがしてしまうのですね。大げさに言ってしまえば、ヒストリカルロマンスみたいな(そんな小説は読んだことないですけど)そんな感じの設定を感じてしまって、ちょっと僕には合わないな、と思いました。
声の出ない楽人とその相棒という設定自体は面白いと思うし、それぞれの物語で明かされる真の事実と言ったものも悪くはない展開だと思うのだけど、どうもこういう世界の雰囲気というのが苦手なので、ちょっとダメでしたね。
キャラクター的には、ブランと、途中から出てくるヒューという獣使いの掛け合いが面白かったなぁ、と思います。あとは、「恋を歌うもの」に出てきたロージィもちょっと印象的だったかな。
僕はちょっとダメでしたが、こういう作品を好きだという人はいると思います。ファンタジーというのとは少し違うのだろうけど、読んだことはないけど「ナルニア国物語」とかが好きならいいのかもしれませんね。物語自体はしっかりしていると思うので、こういう世界観が大丈夫だという人は読んでみてください。
光原百合「銀の犬」
天空には音楽が満ちている。
あるいは、
星には固有の音楽がある。
音楽こそが世界の理であり、音楽を読み解きさえすれば世界の理屈を統べることができる。そう考えていたという。
今の常識から考えれば、それはありえないことだと一笑されることだろう。しかし、ロマン溢れる発想ではないか。音の調べが空を多い、世界の理を生み出している。その美しい発想は、真理であるとすら錯覚させる。
音楽というのは、そういう何か特別なものとして、古来から考えられてきたのだろう。
音楽は、形としてこの世に残すことができない、という特殊さを持っている。もちろん、楽譜という形で残すことはできる。しかし、楽譜は楽譜であり、それは音楽ではない。音楽というものは、奏者の存在と共に、時を越えることなく、一時の儚さを兼ね備えている。
その儚さに、人は魅了されていったのかもしれない。
僕は正直、音楽というものとはほぼ関わりなく生きてきた。歌が好きなわけでもなければ、楽器が弾けるわけでもない。日常において、音楽を聞くということがそもそもない。
そういう存在であるけれども、しかし音楽というものは、某かの力を持っているかもしれないな、と思う。その力を実感したことはかつてないけれども、優しい音楽が世界を包み込んでいると錯覚して生きてみるのも、また面白いかもしれないな、と思う。
そんなわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、口のきけない楽人とその相棒の物語です。ケルト民話を題材にした話のようで、妖精や呪術の存在が許された世界での物語です。
オシアンという口のきけない楽人は、「祓いの楽人」と呼ばれている。これは、同じ世に5人といないと言われる存在で、音楽によって歪んだものを正しい形へと戻すことのできる力を有している。氾濫した川を鎮めたり、死者の魂を成仏させたり、そういう力を持っている。
ブランはオシアンの相棒である。まだ小さな子供だが、口のきけないオシアンに代わって、周囲の人間との関係を築くのがブランの役目だ。
「僕の命はオシアンのものだから」
そうさらりと言ってのけるほどの信頼関係の中にいる。
二人は、さすらいの旅を続けながら、「祓いの楽人」の力を必要としている人々を救済していく。
大まかな設定はこんな感じです。
というわけで、それぞれの短編の内容を紹介しようと思います。
「声なき楽人」
村一番の楽人であり、モードの婚約者であったフィル。そのフィルが、何者かによって惨殺されたのは一年近くも前のこと。
モードはある噂を聞いてここにやってきた。恨みを抱えたフィルが、大好きだったはずの音楽を使って人々を苦しめているのだ、と。そんなはずはない、と思いながらも、フィルが死ぬ間際に作っていたという、完成するまでは誰にも聞かせるつもりのないという音楽を、その悪霊は弾いてみせるのだという…。
「恋を歌うもの」
妖精であるガンコナーは、その歌い奏でる音楽によって、ありとあらゆる種の雌を誘惑する力を持っていた。その力を使いガンコナーは、ありとあらゆる種の雌と、耽美で感応的な関係を結び、快楽の中に生きてきた。
ある時ふとしたことから知り合ったロージィ。人間である彼女は、手負いのガンコナーを看病するも、どうも彼の歌の効き目がないようだ。突然もう会わないと言われたガンコナーは、最後の手段としてロージィに呪いを掛けて服従させるのだが…。
「水底の街」
ロディは幻の街イースを目指して旅を続けている。そこでは、失われたものを再び取り戻すとができる、といわれているのだ。
ロディは、愛する妻アーニャを失った悲しみから、イースの街を目指す。激しい後悔の中、もう一度やり直したいと切に願っている。
イースの街に辿り着いたロディは、もう一度アーニャと出会いなおすことができた。しかし、何一つ言動を変えることができない。永遠に繰り返されることになる出会いと別れの時間にロディは囚われていく…。
「銀の犬」
リネットの付き添いで、リネットの婚約者であるオズウィンの元から帰る途中のブリジットは、銀色の毛をした大きな体の犬に遭遇した。そこを助けてくれたジョーという名の獣使いは、殺してしまった銀の犬の子供を是非引き取ってくれるよう、リネットの家族に懇願する。自分の術によって、いい犬にしてみせるから、と。仔犬は、クーと名付けられた。
しばらくしてジョーは村を去り、時は流れていく。久しぶりにリネットの元を訪れたブリジットは、使い魔ジョーの霊と遭遇することでジョーの死を知ることになる。
その夜。主人に忠実なはずのクーが突然牙を向き、リネットをかみ殺してしまった…。
「三つの星」
不幸な出来事により命を落としてしまった三人の人間がかつていた。
ある国の王子であったトゥリン。トゥリンを兄のように慕って育ち、トゥリンの方も目をかけて期待していたフィン。そして、トゥリンの婚約者として幼い頃から育てられていたディアドラ。三人の霊は、悲しみを湛えたまま、未だに成仏することが出来ずにいる。
それぞれ霊たちに、かつてのことを思いださせ、心を開かせようとするのであるが…。
本作は、僕にはちょっと面白くない作品でした。
というのも、民話が元になっているからなのか、やはりどうしても古臭い感じがしてしまうのですね。大げさに言ってしまえば、ヒストリカルロマンスみたいな(そんな小説は読んだことないですけど)そんな感じの設定を感じてしまって、ちょっと僕には合わないな、と思いました。
声の出ない楽人とその相棒という設定自体は面白いと思うし、それぞれの物語で明かされる真の事実と言ったものも悪くはない展開だと思うのだけど、どうもこういう世界の雰囲気というのが苦手なので、ちょっとダメでしたね。
キャラクター的には、ブランと、途中から出てくるヒューという獣使いの掛け合いが面白かったなぁ、と思います。あとは、「恋を歌うもの」に出てきたロージィもちょっと印象的だったかな。
僕はちょっとダメでしたが、こういう作品を好きだという人はいると思います。ファンタジーというのとは少し違うのだろうけど、読んだことはないけど「ナルニア国物語」とかが好きならいいのかもしれませんね。物語自体はしっかりしていると思うので、こういう世界観が大丈夫だという人は読んでみてください。
光原百合「銀の犬」
ロミオとロミオは永遠に(恩田陸)
未来、という言葉を聞くと、どういったイメージを持つだろうか?
僕らは、これは無意識の内に刷り込まれたのだとしか僕には思えないのだが、未来、という言葉を聞くと、発展というイメージを強く連想すると思う。
人類は、特に日本という国は、近年まれに見る発展を遂げて来た。歴史的に見ても、これほどの飛躍的な発展を遂げたことは、かつてなかったことだろう。
すでに、誰もが歩きながら電話をすることの出来る機械を持ち、鉄のかたまりが空を飛び、不治の病と言われた病気のいくつかも治せるような、そんな社会を当たり前に享受して生きている。
だからこそ僕らは、未来はもっともっとすごい世界になるだろうと、無条件の内に思っているはずなのだ。空飛ぶ車が出来るかもしれない、3Dのテレビが出来るかもしれない、寿命が呆れるほど延びるかもしれない。そんな、荒唐無稽かもしれない(しかし、50年前の人からすれば、今の世界は明らかに荒唐無稽だろう)期待を、未来という世界に抱いているはずだ。
しかし、それは本当に正しい予測なのだろうか?
誰もが未来という時間に対して否定的なイメージを持たないが、本当はもっと恐ろしい世界になるのではないだろうか?
懸念されることは様々にある。人口増加による食糧不足、環境破壊、地球温暖化、核廃棄物の処理、国家間の経済格差。とにかく人間というのは、ギリギリのところで今を保つような生活をしている。未来も、環境的な条件は今と大して変わらないはずだ、という楽観的な予測を持っている。
ただ、日本で起きた経済バブルのように、何かが発展し続けるということはありえないことだ。今世界は、発展バブルに陥っているのかもしれない。いつかその均衡が崩れて、崩壊の時代に転ずるのかもしれない。発展バブルが弾けるなど、今は誰も信じていない。自分達は、どこまでも進化できるはずだと信じている。しかし、恐らくどこかの時で、発展バブルは弾け、世界はマイナスの方向へと進んでいくことになるだろう。恐らくこれが、正しい未来の予測である。
僕らは、消費するという行動を通じて、少しずつ何かを壊し続けているのである。それは、形あるものかもしれないし、形のないものかもしれない。目に見えるものを壊しても見ないフリをし、目に見えないものを壊しているという実感はそもそも持たれない。そうやって、大事なものを皆で少しずつ取り壊しながら生きている。
いつか壊せるものが何もなくなってしまった時。それが、発展バブルの終焉の時だろう。そこからは、消費という行動が制限され、マイナスになってしまったその大事なものを取り戻す方向へ世界は変わっていくことだろう。
そんな世界に、生きていくということ。僕らから数えてどれくらい先の世代かはわからないが、確実にそういう時代をすごす世代が現れるだろう。
だからと言って、僕らは消費を止められるわけではない。現代というのは、消費すべきサブカルチャーに無駄に溢れている。誰もが、感覚を刺激されるようにして、本能を貫かれるようにして、サブカルチャーというカタマリを消化しつくそうとしている。
誰にもそれを止めることはできないだろう。携帯電話が登場してしまった世界から、携帯電話を駆逐することが絶対に不可能なように。
世界は不可逆であり、壊れてしまったものは元には戻らない。それをわかっていて、僕らはそれでも消費をするのである。人間という生き物は、どうにもいただけないな、と思ってしまう。
恐らく、僕らが生きているうちは、発展バブルが弾けることはないだろう。僕らは、死ぬまで享楽的に生きていくことができるだろう。それが、未来の世代の犠牲の上に成り立っていたとしても。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、未来の地球が舞台になっています。
その世界では、地球には日本人しか残っていません。他の国の人々は、「新地球」と呼ばれる別の惑星へと移住し、日本人だけが地球に居残り、膨大な化学物質や産業廃棄物の処理に従事させられている。
もはや日本には希望はなく、ありとあらゆることが政府によって制限されている。娯楽の大半は禁じられたし、仕事を持つことの許されない人もいる。化学物質などの処理に、早くても数百年は掛かるだろうと言われ、それ故に何の希望も存在しない日本。
その中にあって、唯一凡人がエリートを目指すことのできる道が残されている。
それが、「大東京学園」の卒業総代になることである。卒業総代になりさえすれば、家族を含めた一生の生活が保障され、子供を作ることも許され、ありとあらゆるものを手にすることができる。全国から、ありとあらゆる選抜を潜り抜けて選ばれる入学生たちが、さらにその中で競い合って、たった一つの椅子である卒業総代を目指すのである。
アキラとシゲルも、いろいろに事情を抱えながら「大東京学園」に入学した。憧れだった学園に入学できた二人だが、その中はどうにも歪な世界であった。禁じられたはずの前世紀のサブカルチャーがはびこり、意味があるとは思えない試験を繰り返す日々。二人は、違和感だらけの日々を送ることになる。
そのうちアキラは、とある事情から、最下級である「新宿」クラスのメンバーと接触することになり、そこから学園からの「脱走」という、新たな道へと進んでいくのであるが…。
僕は正直に言えば、恩田陸という作家がダメなんです。もう、何を読んでもダメで、「象と耳鳴り」と「ドミノ」はまあ悪くなかったけど、もうそれ以外は、一体何が面白いのだろう、と思うような作家でした。
しかしこの恩田陸、売れるんですね。だから僕も、書店員としての責務から(大げさですけどね)、ダメだろうなと思いつつも恩田陸の作品を何度も手にする破目になるのです。
さてそんなわけで本作ですが、まあ読めた方ですね。全体的に読みやすいし、20世紀のサブカルチャーの奔流みたいなものがごっちゃになっているのは面白いかな、と思いました。中の下、と言った感じです。
途中の展開はなかなかいいと思いました。「大東京学園」の設定も、そこでの人間関係も、最下級の「新宿」クラスという扱いも、「大東京学園」という歪みも、そういうところはなかなかうまくできているなと思いました。
ただなんというか、キャラクターをそこまで好きになれなかったので、ちょっとな、という感じです。僕が本作で一番印象に残っているのは、オカマみたいな喋り口調のアタミである。あと、オチャノミズのキャラもよかったかな。でもどちらにしてもメインのキャラじゃないわけで、メインであるアキラとシゲルについては、まあありきたりというか普通というか、まあ学園モノならこんなのいるよな的なそんなキャラで、別に面白くなかったですね。
設定は面白いなと思ったけど、中身がついていかなかったかな、という感じです。
面白いなと思ったのは、あとがきの中で著者が、なんでこのタイトルなのか未だにわからない、と何度も繰り返しているそうですね。本作の冒頭のシーンが浮かんだと同時に、「ロミオとロミオは永遠に」というタイトルも浮かんだのだそうです。それにどんな意味があるかを書きながら考えようとしていたらしいのですが、最後まで思い浮かばなかった、ということでした。いや、素直でよろしい。タイトルは、結構いいと思うんですよね。インパクト、あります。
そんなわけで、僕が読んできた恩田陸作品の中では、まあ悪くない方ですね。といってオススメするわけではありませんけど。恩田陸が好きな人は読んでみたらいいかと思います。恩田陸を読んだことがない人は、そろそろ映画にも文庫にもなる「夜のピクニック」を読んだらいいかもですね(僕もまだ読んでないんですけど。文庫になったら読もうかな)。そんな感じです。
恩田陸「ロミオとロミオは永遠に」
僕らは、これは無意識の内に刷り込まれたのだとしか僕には思えないのだが、未来、という言葉を聞くと、発展というイメージを強く連想すると思う。
人類は、特に日本という国は、近年まれに見る発展を遂げて来た。歴史的に見ても、これほどの飛躍的な発展を遂げたことは、かつてなかったことだろう。
すでに、誰もが歩きながら電話をすることの出来る機械を持ち、鉄のかたまりが空を飛び、不治の病と言われた病気のいくつかも治せるような、そんな社会を当たり前に享受して生きている。
だからこそ僕らは、未来はもっともっとすごい世界になるだろうと、無条件の内に思っているはずなのだ。空飛ぶ車が出来るかもしれない、3Dのテレビが出来るかもしれない、寿命が呆れるほど延びるかもしれない。そんな、荒唐無稽かもしれない(しかし、50年前の人からすれば、今の世界は明らかに荒唐無稽だろう)期待を、未来という世界に抱いているはずだ。
しかし、それは本当に正しい予測なのだろうか?
誰もが未来という時間に対して否定的なイメージを持たないが、本当はもっと恐ろしい世界になるのではないだろうか?
懸念されることは様々にある。人口増加による食糧不足、環境破壊、地球温暖化、核廃棄物の処理、国家間の経済格差。とにかく人間というのは、ギリギリのところで今を保つような生活をしている。未来も、環境的な条件は今と大して変わらないはずだ、という楽観的な予測を持っている。
ただ、日本で起きた経済バブルのように、何かが発展し続けるということはありえないことだ。今世界は、発展バブルに陥っているのかもしれない。いつかその均衡が崩れて、崩壊の時代に転ずるのかもしれない。発展バブルが弾けるなど、今は誰も信じていない。自分達は、どこまでも進化できるはずだと信じている。しかし、恐らくどこかの時で、発展バブルは弾け、世界はマイナスの方向へと進んでいくことになるだろう。恐らくこれが、正しい未来の予測である。
僕らは、消費するという行動を通じて、少しずつ何かを壊し続けているのである。それは、形あるものかもしれないし、形のないものかもしれない。目に見えるものを壊しても見ないフリをし、目に見えないものを壊しているという実感はそもそも持たれない。そうやって、大事なものを皆で少しずつ取り壊しながら生きている。
いつか壊せるものが何もなくなってしまった時。それが、発展バブルの終焉の時だろう。そこからは、消費という行動が制限され、マイナスになってしまったその大事なものを取り戻す方向へ世界は変わっていくことだろう。
そんな世界に、生きていくということ。僕らから数えてどれくらい先の世代かはわからないが、確実にそういう時代をすごす世代が現れるだろう。
だからと言って、僕らは消費を止められるわけではない。現代というのは、消費すべきサブカルチャーに無駄に溢れている。誰もが、感覚を刺激されるようにして、本能を貫かれるようにして、サブカルチャーというカタマリを消化しつくそうとしている。
誰にもそれを止めることはできないだろう。携帯電話が登場してしまった世界から、携帯電話を駆逐することが絶対に不可能なように。
世界は不可逆であり、壊れてしまったものは元には戻らない。それをわかっていて、僕らはそれでも消費をするのである。人間という生き物は、どうにもいただけないな、と思ってしまう。
恐らく、僕らが生きているうちは、発展バブルが弾けることはないだろう。僕らは、死ぬまで享楽的に生きていくことができるだろう。それが、未来の世代の犠牲の上に成り立っていたとしても。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、未来の地球が舞台になっています。
その世界では、地球には日本人しか残っていません。他の国の人々は、「新地球」と呼ばれる別の惑星へと移住し、日本人だけが地球に居残り、膨大な化学物質や産業廃棄物の処理に従事させられている。
もはや日本には希望はなく、ありとあらゆることが政府によって制限されている。娯楽の大半は禁じられたし、仕事を持つことの許されない人もいる。化学物質などの処理に、早くても数百年は掛かるだろうと言われ、それ故に何の希望も存在しない日本。
その中にあって、唯一凡人がエリートを目指すことのできる道が残されている。
それが、「大東京学園」の卒業総代になることである。卒業総代になりさえすれば、家族を含めた一生の生活が保障され、子供を作ることも許され、ありとあらゆるものを手にすることができる。全国から、ありとあらゆる選抜を潜り抜けて選ばれる入学生たちが、さらにその中で競い合って、たった一つの椅子である卒業総代を目指すのである。
アキラとシゲルも、いろいろに事情を抱えながら「大東京学園」に入学した。憧れだった学園に入学できた二人だが、その中はどうにも歪な世界であった。禁じられたはずの前世紀のサブカルチャーがはびこり、意味があるとは思えない試験を繰り返す日々。二人は、違和感だらけの日々を送ることになる。
そのうちアキラは、とある事情から、最下級である「新宿」クラスのメンバーと接触することになり、そこから学園からの「脱走」という、新たな道へと進んでいくのであるが…。
僕は正直に言えば、恩田陸という作家がダメなんです。もう、何を読んでもダメで、「象と耳鳴り」と「ドミノ」はまあ悪くなかったけど、もうそれ以外は、一体何が面白いのだろう、と思うような作家でした。
しかしこの恩田陸、売れるんですね。だから僕も、書店員としての責務から(大げさですけどね)、ダメだろうなと思いつつも恩田陸の作品を何度も手にする破目になるのです。
さてそんなわけで本作ですが、まあ読めた方ですね。全体的に読みやすいし、20世紀のサブカルチャーの奔流みたいなものがごっちゃになっているのは面白いかな、と思いました。中の下、と言った感じです。
途中の展開はなかなかいいと思いました。「大東京学園」の設定も、そこでの人間関係も、最下級の「新宿」クラスという扱いも、「大東京学園」という歪みも、そういうところはなかなかうまくできているなと思いました。
ただなんというか、キャラクターをそこまで好きになれなかったので、ちょっとな、という感じです。僕が本作で一番印象に残っているのは、オカマみたいな喋り口調のアタミである。あと、オチャノミズのキャラもよかったかな。でもどちらにしてもメインのキャラじゃないわけで、メインであるアキラとシゲルについては、まあありきたりというか普通というか、まあ学園モノならこんなのいるよな的なそんなキャラで、別に面白くなかったですね。
設定は面白いなと思ったけど、中身がついていかなかったかな、という感じです。
面白いなと思ったのは、あとがきの中で著者が、なんでこのタイトルなのか未だにわからない、と何度も繰り返しているそうですね。本作の冒頭のシーンが浮かんだと同時に、「ロミオとロミオは永遠に」というタイトルも浮かんだのだそうです。それにどんな意味があるかを書きながら考えようとしていたらしいのですが、最後まで思い浮かばなかった、ということでした。いや、素直でよろしい。タイトルは、結構いいと思うんですよね。インパクト、あります。
そんなわけで、僕が読んできた恩田陸作品の中では、まあ悪くない方ですね。といってオススメするわけではありませんけど。恩田陸が好きな人は読んでみたらいいかと思います。恩田陸を読んだことがない人は、そろそろ映画にも文庫にもなる「夜のピクニック」を読んだらいいかもですね(僕もまだ読んでないんですけど。文庫になったら読もうかな)。そんな感じです。
恩田陸「ロミオとロミオは永遠に」
月とアルマジロ(樋口直哉)
人との繋がりっていうのは、正直なかなかめんどくさい。
僕は、人に合わせてしまう性格だから、めんどくさく感じるのだろうな、と最近は思う。
僕は、人によって自分の見せ方とか対応とか、そういうのを変える。この人はこういう人だからとか、この人はこういうところを嫌がるからとか、そういうことを考えながら、対応を変えてしまうのである。小心者なのだ。
でも、このやり方だと、付き合う人間が増えていくことで、どんどんと無理が生じてくることになる。あの人はどうだとか、この人はどうだとか、そんなことを考えながら人付き合いをしていくのは、すごく疲れてしまうのだ。
だから、僕は人との繋がりが面倒臭く感じてしまうのである。
人によっては、絶対的な自分というものを持っている人がいる。誰に対しても、その絶対的な自分というものを崩すことなくいられる。そういうのは、すごく羨ましいと思う。自分には、できるものではないのだなぁ。
やっぱり、人に嫌われるというのを恐れるんだろう。すべての人に好かれることは無理だとわかっていても、やはり人に嫌われるのは嫌なものである。
僕は、人に嫌われるのを恐れるがあまり、世界中の人から嫌われている、と思うようにした、という経緯がある。つまり、『嫌われる』という変化を恐れているわけで、元から嫌われているなら、それ以上変化が起きようがない。だったら安心できるのではないか、という発想である。こう考えたのは中学の頃で、その時にはそこまで理詰めで理由が存在していたわけではないけど、今振り返ってみると、そういうことだったのだろうなと思う。
例えば、誰とも繋がりを持たずに生きていくことの出来る環境というものがあったとしよう。僕はそれを望むかどうか。
人間というのはうまく出来たもので、やはり孤独という奴とはうまく付き合っていくことはできないようだ。いくら人と繋がることが面倒臭くても、人と繋がれなくなれば孤独を感じる。
勝手なものである。そこに折り合いをつけて生きていかなくてはならないのはわかるけれども、なんだか何かに操られているような気がして嫌である。
携帯電話なんていうものが世の中に出来てしまった。ほんの十年くらい前にはなかったものだ。それが今や、コミュニケーションの代名詞になっている。
携帯電話というのは、人をより孤独にするツールだなとおもう。携帯電話とうまく付き合っていける人間はいいのだ。そういう人は、携帯電話のお陰でより多くの人と知り合えるし、孤独とも無縁でいられる。
しかし、まだ生まれて間もないものだからだろうか、それともそもそも携帯電話としての宿命なのか、携帯電話とうまく付き合っていくことのできない人というのも確実にいる。どちらかと言えば、僕もそっちの人間だろう。
そういう人間にとって携帯電話とは、コミュニケーションの代名詞ではなく、孤独の代名詞に成り代わる。鳴らない携帯電話を所有しているということが孤独感そのものなのである。持たない、という判断を下せればいいのだが、なかなかそう決断できるものでもない。実際、携帯電話とうまく付き合えない人も、携帯電話がないと不便な社会になっているのである。
携帯電話のアドレスを埋めるために、携帯電話の着信を増やすために、人との繋がりを持とうとする。そういう考えは、実際増えてきているような気がする。そういう姿勢そのものが孤独の象徴のような気がするけれども、恐らく多くの人間はそれに気づいていないだろう。
携帯電話の存在していなかった時代というのを思い出してみて欲しい。僕の場合、ちょうど中学生くらいの頃から携帯電話というものが世の中に出始めたような気がする。それまでの世界というものは、もう失われてしまった。二度と元に戻ることはないだろう。記憶も既に曖昧だ。携帯電話なしに、どうやって待ち合わせをしていたんだろう、とか。
ただ、やはり思ってしまうのである。携帯電話の登場は、物質的に孤独男というものを現出させてしまった、その記念すべき発明なのではないか、と。携帯電話は日進月歩での大きさが小さくなっていく。まるで、孤独なんて、手のひらに乗っかるくらいちっぽけなものなんだよ、と言いたげである。それでも僕らはもはや、その存在を受け入れるしかない。なんか、悔しいなぁ。
そろそろ内容に入ろうと思います。
ぼくは、特に何も仕事をしないで生きている。ニート、というのだろうか。親の遺産を食いつぶして生きている。
そんな何もしていない僕に、大学時代の<友人>が連絡をしてきた。カッコ付きなのは、全然親しくなかったからだ。だから、連絡があった時には驚いた。
その友人に会ってみると、なにやら頼みがあるようだ。それがなんと、アルマジロを預かって欲しい、というものなのだ。犬や猫ならわかるが、何故アルマジロ…。アメリカに出張に行くのだというその友人は、一日二万という条件で、ぼくに仕事を依頼した。まあいいか、と思ってぼくはそれを引き受ける。
アルマジロは、ダンボールに入って、宅配便で送られてきた。アルマジロのいる部屋というのはどこか変な感じで、でもすぐに慣れてしまった。
突然、ぼくの携帯が<圏外>の表示になった。ネットで調べても、別にそんなニュースはない。どうやらぼくの電話だけが<圏外>のようだ。
そこで、自分の電話番号に掛けてみた。昔携帯電話を持つきっかけになった都市伝説を思い出したのだ。携帯で自分の番号に掛けると自分が出る。突然だけど、それをやってみようと思ったのだ。
電話は繋がった。繋がった?誰と?電話の向こうの声は、女の子の声だった。ぼくはこの女の子を知っている、と思った。けれども、名前が思い出せない。誰だっただろうか?
ぼくは、その女の子に心を奪われている自分に気づく。アルマジロが来てから、なんだかぼくの世界は変わってしまったみたいだ…。
そんな感じの話です。
正直言って、特に面白いと思えるような話ではありませんでした。
日常と非日常の融合てきな部分は、悪くないと思いました。アルマジロがやってきてからの彼の周りの非日常性は、どこがというわけではなくなんとなく面白いし、おおげさに言ってしまえば村上春樹っぽいな、と思ったりもしました。
しかし、日常だけ切り取ってみると、どうも幼いという感じがしてしまうのですね。
それは、著者の年令を先に知ってしまっていたからかもしれません。81年生まれで、僕よりも2つか3つ上ぐらいの年令です。25歳とかでしょうかね。僕は若い作家の作品を殊更嫌いだということはないのですが、しかしその内容や文章に染み付く幼さというのは、どうにも好きになれないんですね。その幼さを感じさせない若い作家の作品ならいいんですが、幼さがにじみ出てしまっている作品は、やはりちょっとダメです。
例えば、綿矢りさの作品からは、幼さを感じることはありません。まだ二作しか出していませんが、すごく好きな作家です。あと、西尾維新も大分若い作家だと思うのですが、幼さを感じることはありません。
しかし、例えばですが、山田悠介とか(リアル鬼ごっこしか読んでないけど)、羽田圭介とか(黒冷水を読みました)、ちょっと読んでて、幼いなと感じてしまうのです。
そのにじみ出るような幼さというものが本作にも染み付いていて、だからちょっと好きになれない作品でした。
ただ、著者の経歴はちょっと面白いです。今、出張料理人、なんだそうです。舞城王太郎の「LOVE」という小説の中で出張料理人というのが出てくるけど、まあまさか外で料理を作るって訳ではないんだろうけど、本当に出張料理人なんて職業があるんだな、と感心しました。でもその割には、本作の中で描かれる料理が美味しそうということはありませんでした。やはり、料理を作ることと料理を表現することは違うのでしょうね。
そんなわけで、特にオススメではありません。
樋口直哉「月とアルマジロ」
僕は、人に合わせてしまう性格だから、めんどくさく感じるのだろうな、と最近は思う。
僕は、人によって自分の見せ方とか対応とか、そういうのを変える。この人はこういう人だからとか、この人はこういうところを嫌がるからとか、そういうことを考えながら、対応を変えてしまうのである。小心者なのだ。
でも、このやり方だと、付き合う人間が増えていくことで、どんどんと無理が生じてくることになる。あの人はどうだとか、この人はどうだとか、そんなことを考えながら人付き合いをしていくのは、すごく疲れてしまうのだ。
だから、僕は人との繋がりが面倒臭く感じてしまうのである。
人によっては、絶対的な自分というものを持っている人がいる。誰に対しても、その絶対的な自分というものを崩すことなくいられる。そういうのは、すごく羨ましいと思う。自分には、できるものではないのだなぁ。
やっぱり、人に嫌われるというのを恐れるんだろう。すべての人に好かれることは無理だとわかっていても、やはり人に嫌われるのは嫌なものである。
僕は、人に嫌われるのを恐れるがあまり、世界中の人から嫌われている、と思うようにした、という経緯がある。つまり、『嫌われる』という変化を恐れているわけで、元から嫌われているなら、それ以上変化が起きようがない。だったら安心できるのではないか、という発想である。こう考えたのは中学の頃で、その時にはそこまで理詰めで理由が存在していたわけではないけど、今振り返ってみると、そういうことだったのだろうなと思う。
例えば、誰とも繋がりを持たずに生きていくことの出来る環境というものがあったとしよう。僕はそれを望むかどうか。
人間というのはうまく出来たもので、やはり孤独という奴とはうまく付き合っていくことはできないようだ。いくら人と繋がることが面倒臭くても、人と繋がれなくなれば孤独を感じる。
勝手なものである。そこに折り合いをつけて生きていかなくてはならないのはわかるけれども、なんだか何かに操られているような気がして嫌である。
携帯電話なんていうものが世の中に出来てしまった。ほんの十年くらい前にはなかったものだ。それが今や、コミュニケーションの代名詞になっている。
携帯電話というのは、人をより孤独にするツールだなとおもう。携帯電話とうまく付き合っていける人間はいいのだ。そういう人は、携帯電話のお陰でより多くの人と知り合えるし、孤独とも無縁でいられる。
しかし、まだ生まれて間もないものだからだろうか、それともそもそも携帯電話としての宿命なのか、携帯電話とうまく付き合っていくことのできない人というのも確実にいる。どちらかと言えば、僕もそっちの人間だろう。
そういう人間にとって携帯電話とは、コミュニケーションの代名詞ではなく、孤独の代名詞に成り代わる。鳴らない携帯電話を所有しているということが孤独感そのものなのである。持たない、という判断を下せればいいのだが、なかなかそう決断できるものでもない。実際、携帯電話とうまく付き合えない人も、携帯電話がないと不便な社会になっているのである。
携帯電話のアドレスを埋めるために、携帯電話の着信を増やすために、人との繋がりを持とうとする。そういう考えは、実際増えてきているような気がする。そういう姿勢そのものが孤独の象徴のような気がするけれども、恐らく多くの人間はそれに気づいていないだろう。
携帯電話の存在していなかった時代というのを思い出してみて欲しい。僕の場合、ちょうど中学生くらいの頃から携帯電話というものが世の中に出始めたような気がする。それまでの世界というものは、もう失われてしまった。二度と元に戻ることはないだろう。記憶も既に曖昧だ。携帯電話なしに、どうやって待ち合わせをしていたんだろう、とか。
ただ、やはり思ってしまうのである。携帯電話の登場は、物質的に孤独男というものを現出させてしまった、その記念すべき発明なのではないか、と。携帯電話は日進月歩での大きさが小さくなっていく。まるで、孤独なんて、手のひらに乗っかるくらいちっぽけなものなんだよ、と言いたげである。それでも僕らはもはや、その存在を受け入れるしかない。なんか、悔しいなぁ。
そろそろ内容に入ろうと思います。
ぼくは、特に何も仕事をしないで生きている。ニート、というのだろうか。親の遺産を食いつぶして生きている。
そんな何もしていない僕に、大学時代の<友人>が連絡をしてきた。カッコ付きなのは、全然親しくなかったからだ。だから、連絡があった時には驚いた。
その友人に会ってみると、なにやら頼みがあるようだ。それがなんと、アルマジロを預かって欲しい、というものなのだ。犬や猫ならわかるが、何故アルマジロ…。アメリカに出張に行くのだというその友人は、一日二万という条件で、ぼくに仕事を依頼した。まあいいか、と思ってぼくはそれを引き受ける。
アルマジロは、ダンボールに入って、宅配便で送られてきた。アルマジロのいる部屋というのはどこか変な感じで、でもすぐに慣れてしまった。
突然、ぼくの携帯が<圏外>の表示になった。ネットで調べても、別にそんなニュースはない。どうやらぼくの電話だけが<圏外>のようだ。
そこで、自分の電話番号に掛けてみた。昔携帯電話を持つきっかけになった都市伝説を思い出したのだ。携帯で自分の番号に掛けると自分が出る。突然だけど、それをやってみようと思ったのだ。
電話は繋がった。繋がった?誰と?電話の向こうの声は、女の子の声だった。ぼくはこの女の子を知っている、と思った。けれども、名前が思い出せない。誰だっただろうか?
ぼくは、その女の子に心を奪われている自分に気づく。アルマジロが来てから、なんだかぼくの世界は変わってしまったみたいだ…。
そんな感じの話です。
正直言って、特に面白いと思えるような話ではありませんでした。
日常と非日常の融合てきな部分は、悪くないと思いました。アルマジロがやってきてからの彼の周りの非日常性は、どこがというわけではなくなんとなく面白いし、おおげさに言ってしまえば村上春樹っぽいな、と思ったりもしました。
しかし、日常だけ切り取ってみると、どうも幼いという感じがしてしまうのですね。
それは、著者の年令を先に知ってしまっていたからかもしれません。81年生まれで、僕よりも2つか3つ上ぐらいの年令です。25歳とかでしょうかね。僕は若い作家の作品を殊更嫌いだということはないのですが、しかしその内容や文章に染み付く幼さというのは、どうにも好きになれないんですね。その幼さを感じさせない若い作家の作品ならいいんですが、幼さがにじみ出てしまっている作品は、やはりちょっとダメです。
例えば、綿矢りさの作品からは、幼さを感じることはありません。まだ二作しか出していませんが、すごく好きな作家です。あと、西尾維新も大分若い作家だと思うのですが、幼さを感じることはありません。
しかし、例えばですが、山田悠介とか(リアル鬼ごっこしか読んでないけど)、羽田圭介とか(黒冷水を読みました)、ちょっと読んでて、幼いなと感じてしまうのです。
そのにじみ出るような幼さというものが本作にも染み付いていて、だからちょっと好きになれない作品でした。
ただ、著者の経歴はちょっと面白いです。今、出張料理人、なんだそうです。舞城王太郎の「LOVE」という小説の中で出張料理人というのが出てくるけど、まあまさか外で料理を作るって訳ではないんだろうけど、本当に出張料理人なんて職業があるんだな、と感心しました。でもその割には、本作の中で描かれる料理が美味しそうということはありませんでした。やはり、料理を作ることと料理を表現することは違うのでしょうね。
そんなわけで、特にオススメではありません。
樋口直哉「月とアルマジロ」
ライトノベルを書く!(ガガガ文庫編集部・編)
ライトノベル、と言って、どんなジャンルの本かわかるだろうか?
知らない人は恐らくまったくわからない世界だろうと思う。ライトノベルってなんだ、と。僕も、書店で働くようになるまでは、ライトノベルというものについてほとんど知らなかった。人によっては中高生時代に読むのかもしれないけど、僕はライトノベルではない小説をひたすら読んでいたので、その存在を知ることはなかったのである。
さてでは、ライトノベルとは何か、と説明しようとすると、これがすこぶる難しい。実際、ライトノベルに関わっている人ですら、ライトノベルというものの定義というのが未だに出来ていない、という状況なのである。
本作に、佐藤大という名前の、経歴を読んでもどんな人物なのかよくわからない人間が出てくるのだけど、彼がライトノベルというものをざっくり定義したものを書こうと思う。
『主に少年少女向けの、イラスト入りエンターテイメント小説』
だそうである。
余談ではあるが、この『主に少年少女向け』という言葉、僕が書店で働いている印象からすればまったくずれている、という感じがする。もちろん、うちの店は比較的航行が近くにあるので、学生も来る、来るけれども、それでもライトノベルというジャンルを買うのは、圧倒的にサラリーマンやおばさんが多い。しかも、新刊の発売日になると、おいおいそれもしかして全部種類持ってきたのか?と思うくらい、抱えるようにして持ってくるサラリーマンなんかざらにいる。大丈夫かなぁ、と憂えているのであるが。
まあそんなことはいいとして、ライトノベルである。
西尾維新という作家がいて、氏の人気シリーズである「戯言シリーズ」というのが、確か去年だかの「このライトノベルがすごい!」で総合1位になった。そこで西尾維新へのインタビュー、みたいな企画があったのであるが、そこで西尾維新は、ライトノベルというものについて語っていた。氏の考えはこうなる。
『ライトノベルはレーベルである』
どういうことかというと、ライトノベルというのは、ある決まったレーベル(電撃文庫だとか富士見ファンタジア文庫だとか)から出ているものの総称だ、というのである。何故こんなことを言ったのかと言えば、西尾維新の「戯言シリーズ」というのは、講談社ノベルスという、ライトノベルとはまるで無関係のレーベルから発売されているからである。というわけで、ライトノベルをどう捉えるかは、人によって大きく違う。
例えば、舞城王太郎をライトノベル出身だと考える人もいるし(僕はそんなことはまったくないと思っているが)、米澤穂信という作家はライトノベルの作家だと未だに認識されている気がする(僕の中では文芸を書く作家なのだけど)。
あるいは、桜庭一樹、桜坂洋、橋本紡、有川浩と言ったような、ライトノベルで活躍していた作家が、最近めざましく文芸の分野に進出するようになってきた。文芸の世界でも、様々なボーダーレスが行われているけれども、中でもこの、ライトノベル出身者がライトノベルレーベル以外で本を出版するという流れが、かなり大きな変化と言えるかもしれない。
僕が文庫の担当になった時は、今ほどにライトノベルというものが大きな流れとして存在してはいなかったように思う。もちろん、知識がなかったというのもあるけど、それでも、既存の大きなレーベルががっちりと市場を抑えていて(中でもとにかく電撃文庫は異常な強さを誇っていた)、新しいレーベルが作られるというようなことはなかった。
しかしここ一年くらいで、とにかくありとあらゆる出版社が、このライトノベルという流れに乗ろうとして、ライトノベルのレーベルを盛んに作ってきている。正確な数字を出すことはできないが、僕が文庫の担当になった時から比較して、レーベルの数だけでいうならば、1.5倍くらいになっているのではないかと思う。もちろん今のところは、それまでの勢力図を塗り替えるようなレーベルは登場していない。作ったレーベルをすぐに閉じざる終えない、という状況にもなってくるだろう。
それくらいの激戦になってきている。作り出す側も激戦ではあるが、読む側ももはやすべてに対応することなどできる状況ではなくなってしまった。売り手市場、というのだろうか、これからライトノベルという市場が、どのような変化を遂げていくのか。注目だと僕は思う。
僕自身の話をすれば、とにかくライトノベルというジャンルを読んでこなかった。書店員になってから、書店のスタッフに勧められて、時雨沢恵一の「キノの旅」を5巻まで読んだのだが、僕はあまり好きになれなかった。逆に、前出した、文芸に進出した作家の中で、桜庭一樹の「砂糖菓子の弾丸は貫けない」や、有川浩の「塩の街」なんかは結構いいなと思った。やはり、純粋にライトノベルである、という作品とは、うまく合わないのかもしれないな、と思っていた。
しかし、本作を読んで、ちょっとライトノベルを読んでみたくなったのも事実である。本作中にも書かれていたが、ライトノベルを、文章がスカスカな読み物だと思っている人は多い。しかし、そのスカスカな文章を、ちゃんと言えば読みやすい文章を、意図して書くのはすごく難しいのである、という話があって、なるほどそれはそうかもしれないな、と思ったものである。
本作中には何人かの作家のインタビューが収録されていて、それぞれ創作のスタンスは違うのだけれども、何も考えずにダラダラ書いているわけではないのだな(失礼な話だけど、ライトノベルはそういうやり方でも書けちゃうんだろうななんて思っていた)と思ったのである。
本作に短編を寄せている乙一が語っていることだが、文芸の編集者はあまり作品に口を出してこないので不安になる。逆にライトノベルの編集者は、あれこれ口を出すので面白い、みたいなことを言っている。つまり、考えようによっては、ライトノベルの方が厳しい選別をクリアして製品になっていると考えることも出来るのである。あながちライトノベルというものをバカにはできないな、と本作を読んで感じたものである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、まあいろんな内容があるのだけれども、大雑把に言うと、乙一の短編とライトノベル作家のインタビューが収録されたもの、という感じですかね。まあ、以下にそれぞれ内容を書き出してみようと思います。
短編小説:「UTOPIA」 乙一
妖精と竜の存在する国で、ニートのような生活をしているアレクは、いつものように浜辺で釣りをしていると、倒れている少女を発見した。少女は、その国の言葉ではない言葉を話し、ニホンという国の話をした。名前は、タナカ・マリヤというようだ。言葉も徐々に覚え、アレクの家の宿屋を手伝うようになっていく。
マリヤをニホンに戻すために、アレクはマリヤを魔術師の元に連れて行くことにする。高名な魔術師でもすぐに方法はわからないが、やり方を探してみようと請け負ってくれた。
しかし、平和だったはずの国が、ある日突然混乱に見舞われる。隣の国が攻めてきたというのである。そして、この国を守ってくれるはずの魔術師が殺されたのだとも…
初めこの作品を読んだときは、ちょっとうーんって思ってしまいました。乙一らしい作品ではあるのだけど、ちょっとどうなんだろうな、と。途中の転換はすごく好きで、うまいなと思ったのだけど、最後がちょっと僕にはやりすぎだったかな、と思ってしまいました。
しかし、後にある、乙一がいかにしてこの短編を書いたのかという過程が書かれた部分があって、そこを読むと、あぁなるほど、こういうことを考えてこんな物語になったのか、とわかって、そう考えてみるとなるほど面白い話かもしれない、なんて風に思うようになりました。
インタビュー:GAGAGA INTERVIEW 小説術講義
このインタビューの章では、ライトノベルを中心に作品を発表し続ける8人の作家への、小説の書き方を中心としたインタビューとなっています。まずはその8人の名前を挙げようと思います。
賀東招二(フルメタル・パニックシリーズなど)
川上稔(終わりのクロニクルなど)
桑島由一(神様家族など)
新城カズマ(サマー/タイム/トラベラーなど)
鋼屋ジン(デモンベインシリーズなど)
山下卓(果南の地など)
清水マリコ(ゼロヨンイチロクなど)
野村美月(”文学少女”と死にたがりの道化など)
僕は正直言ってこの本を、乙一の短編のためだけに買ったので、それ以降のライトノベル云々のところは興味がなかったのですが、一応読んでみました。しかしこれが結構面白くて、というかこの部分、ライトノベルに限らず、小説を書こうと思っている人には、かなり有益な内容なんじゃないかな、と思います。
僕がとにかく読んでいて面白いなと思ったのが、賀東招二と川上稔の話ですね。
賀東招二は、ほんとに新刊が出るたびにありえないくらい売れる<フルメタル・パニック>シリーズ出しているのだけど、一番驚くのは、それほどの売れっ子でも、編集者との話し合いでストーリーが決まっていく、という部分です。というのも、例えば文芸の世界なら、売れる作家の作品なんかもう、原稿がもらえるだけで御の字みたいな世界だと思うわけで、もちろん口出ししないことはないだろうけど、あまり多くはないだろうと思うんです。その点ライトノベルという世界は、どんなに売れっ子でも、作家と編集者が二人三脚で作品を作っている。この辺の感覚というのが、いいなと思いました。
また、このインタビューの初めだったこともあるかもしれないけど、ライトノベルの作家もいろんなことを考えながら作品を書いてるんだなと、ホントそういう意味ですごく感心したし、ただ理由もなく漠然と怪物的なシリーズが出来上がったわけではないのだな、と認識を改めました。
賀東招二のインタビューの中で、先ほど指摘した「スカスカの文章」についての言及があるのだけど、そこをちょっと抜き出してみましょう。
『(前略)ライトノベル作家志望のひとたちに勘違いしないでほしい点なんですが、たしかにライトノベルは「文章スカスカでセリフばっかり」とよく言われる。でも、そういう「スイスイ読めちゃう文章」を書くのは、実はものすごく大変なんです。どうやったらスイスイ読んでもらえるか、リズムはもちろん、一ページのなかにどれぐらい余白をいれるか、といった視覚的なところまで考えなければいけない。』
なるほど、ライトノベルを書くというのは、ものすごく大変なんだな、と思ったものです。
川上稔のライトノベルを書く方法論は、これは本当にライトノベル以外の小説を書こうと思っている人にも有益なものだと思います。
川上稔という作家は、「終わりのクロニクル」という全7巻のシリーズを出しています。しかし、6巻まではすべて上下巻に分かれていて、そのそれぞれが、京極夏彦の「姑獲鳥の夏」よりも長い。7巻は上下巻に分かれてないけど、総ページ数が1000ページを超えるというありえない作品で、これだけの作品を作り出すその方法が書かれています。
とにかく、書く前に詳細にプロットを作り出すようで、何度も何度もそれを繰り返す。もうこれでいいかな、と思ったところももう一回やるというのだから、もう尋常ではありません。そうやって作った「終わりのクロニクル」のプロットは、プロットだけで原稿用紙1000枚を超えたというのだから、もうありえないですよね。
8人の中でも、まずプロットを作る作家と、作らない作家と分かれているし、どちらがよりいいということはないとは思うけど、ここまでやるかというくらいの川上稔のやり方には、本当に脱帽でした。
他にも、各インタビューの中で、それぞれの作家がいろいろと面白いことを言っています。それは、小説を書く上での方法論だったり、作家としての心構えだったりいろいろだけど、とにかく広い意味で作家になろうと思っている人には、面白いかもしれません。
このインタビューの中で、もう一箇所気になったところがあったので抜き出します。山下卓とのインタビューで、死の描写についての話です。
『死を表現するにあたっては、むしろ、ひとが死んだあとに、残された周りの人間が感じる「欠落感」をきちんと表現できなければダメなんです。死んでしまったキャラがもう作品世界に存在しないということを、本当に読者が実感できないと。』
いろんなことを考えて作品を書いているのだな、と思いました。
このインタビューに挟みこむようにして、いくつか小さな企画があります。「創作のための読書案内」とか「イラストギャラリー」とか「GAGAGA的ライトノベル課外授業」とかです。
小説作成過程:「UTOPIA DOCUMENT」 乙一×望月ミツル(ガガガ文庫編集者)
これはかなり面白い企画だな、と本作を買う前にも思ったし、読んだ後はなおさらそう思ったのですが、いい企画ですね。袋とじっていうのも、まあ納得です。
どんな企画かと言えば、さっきもちょっと書いたけど、乙一が本作に寄せた短編「UTOPIA」の製作過程を載せたもので、元々乙一には、短編依頼とセットで、この製作過程も載せるという企画が提示されたのでした。
乙一という作家は、「Wordのイルカに叱られちゃう」と書いているように文章の細部にも気を遣っているようだし、また内容についても、かなり詳細にプロットを作ってから書き始めるようで、その過程がすべて(ではないと思うけど)載っているのを読むというのは、本当に面白い経験でした。
乙一という作家の中で、一つの作品が生み出され、ちゃんと完結されるまでの中身というものがなんとなくわかる気がして、これ以上この部分について内容をあれこれ書くのは難しいところなのですが、とにかく買って読んでみてください、としかいいようがないですね。
あと、本作では、イラストレーターである中央東口さんとの話し合いも載っているのだけど、このイラストを載せるということについても詳細な打ち合わせがなされているのだなと初めて実感できて、ライトノベルというメディアは、本当に面白い形式を採用しているな、と思いました。
この「UTOPIA DOCUMENT」の後にまた、「イラストギャラリー」があります。
対談:ガガガトーク
佐藤大という、前出したよくわからない人間が、三種類の対談をするみたいな企画で、まあとりあえずメンツを書いてみましょう。
対談1:佐藤大×神山健治×冲方丁
対談2:佐藤大×東裕紀×イシイジロウ
対談3:佐藤大×大槻ケンジ×劇団ひとり
もはやめんどくさいので、各人の経歴なんかは載せないけど、よく知らない人が多いですね。
対談は、まあそんなに面白いもんではないけど、劇団ひとりと大槻ケンジの奴はまあ読んでもいいかなって感じですね。
まあそんなわけで、大体こんな感じですね。本作は、乙一が好きな人、ライトノベルに限らず作家になろうとおもっている人には、結構いいと思いますよ。買って損はないでしょう。逆に、ライトノベルにはすごく興味があるけど、別に作家になりたいわけじゃないとか、乙一はそんなに好きじゃないという人が買っても面白くはないでしょうね(って当たり前ですね)。
まあそんなわけで、読んでみてください。
ガガガ文庫編集部・編「ライトノベルを書く!」
知らない人は恐らくまったくわからない世界だろうと思う。ライトノベルってなんだ、と。僕も、書店で働くようになるまでは、ライトノベルというものについてほとんど知らなかった。人によっては中高生時代に読むのかもしれないけど、僕はライトノベルではない小説をひたすら読んでいたので、その存在を知ることはなかったのである。
さてでは、ライトノベルとは何か、と説明しようとすると、これがすこぶる難しい。実際、ライトノベルに関わっている人ですら、ライトノベルというものの定義というのが未だに出来ていない、という状況なのである。
本作に、佐藤大という名前の、経歴を読んでもどんな人物なのかよくわからない人間が出てくるのだけど、彼がライトノベルというものをざっくり定義したものを書こうと思う。
『主に少年少女向けの、イラスト入りエンターテイメント小説』
だそうである。
余談ではあるが、この『主に少年少女向け』という言葉、僕が書店で働いている印象からすればまったくずれている、という感じがする。もちろん、うちの店は比較的航行が近くにあるので、学生も来る、来るけれども、それでもライトノベルというジャンルを買うのは、圧倒的にサラリーマンやおばさんが多い。しかも、新刊の発売日になると、おいおいそれもしかして全部種類持ってきたのか?と思うくらい、抱えるようにして持ってくるサラリーマンなんかざらにいる。大丈夫かなぁ、と憂えているのであるが。
まあそんなことはいいとして、ライトノベルである。
西尾維新という作家がいて、氏の人気シリーズである「戯言シリーズ」というのが、確か去年だかの「このライトノベルがすごい!」で総合1位になった。そこで西尾維新へのインタビュー、みたいな企画があったのであるが、そこで西尾維新は、ライトノベルというものについて語っていた。氏の考えはこうなる。
『ライトノベルはレーベルである』
どういうことかというと、ライトノベルというのは、ある決まったレーベル(電撃文庫だとか富士見ファンタジア文庫だとか)から出ているものの総称だ、というのである。何故こんなことを言ったのかと言えば、西尾維新の「戯言シリーズ」というのは、講談社ノベルスという、ライトノベルとはまるで無関係のレーベルから発売されているからである。というわけで、ライトノベルをどう捉えるかは、人によって大きく違う。
例えば、舞城王太郎をライトノベル出身だと考える人もいるし(僕はそんなことはまったくないと思っているが)、米澤穂信という作家はライトノベルの作家だと未だに認識されている気がする(僕の中では文芸を書く作家なのだけど)。
あるいは、桜庭一樹、桜坂洋、橋本紡、有川浩と言ったような、ライトノベルで活躍していた作家が、最近めざましく文芸の分野に進出するようになってきた。文芸の世界でも、様々なボーダーレスが行われているけれども、中でもこの、ライトノベル出身者がライトノベルレーベル以外で本を出版するという流れが、かなり大きな変化と言えるかもしれない。
僕が文庫の担当になった時は、今ほどにライトノベルというものが大きな流れとして存在してはいなかったように思う。もちろん、知識がなかったというのもあるけど、それでも、既存の大きなレーベルががっちりと市場を抑えていて(中でもとにかく電撃文庫は異常な強さを誇っていた)、新しいレーベルが作られるというようなことはなかった。
しかしここ一年くらいで、とにかくありとあらゆる出版社が、このライトノベルという流れに乗ろうとして、ライトノベルのレーベルを盛んに作ってきている。正確な数字を出すことはできないが、僕が文庫の担当になった時から比較して、レーベルの数だけでいうならば、1.5倍くらいになっているのではないかと思う。もちろん今のところは、それまでの勢力図を塗り替えるようなレーベルは登場していない。作ったレーベルをすぐに閉じざる終えない、という状況にもなってくるだろう。
それくらいの激戦になってきている。作り出す側も激戦ではあるが、読む側ももはやすべてに対応することなどできる状況ではなくなってしまった。売り手市場、というのだろうか、これからライトノベルという市場が、どのような変化を遂げていくのか。注目だと僕は思う。
僕自身の話をすれば、とにかくライトノベルというジャンルを読んでこなかった。書店員になってから、書店のスタッフに勧められて、時雨沢恵一の「キノの旅」を5巻まで読んだのだが、僕はあまり好きになれなかった。逆に、前出した、文芸に進出した作家の中で、桜庭一樹の「砂糖菓子の弾丸は貫けない」や、有川浩の「塩の街」なんかは結構いいなと思った。やはり、純粋にライトノベルである、という作品とは、うまく合わないのかもしれないな、と思っていた。
しかし、本作を読んで、ちょっとライトノベルを読んでみたくなったのも事実である。本作中にも書かれていたが、ライトノベルを、文章がスカスカな読み物だと思っている人は多い。しかし、そのスカスカな文章を、ちゃんと言えば読みやすい文章を、意図して書くのはすごく難しいのである、という話があって、なるほどそれはそうかもしれないな、と思ったものである。
本作中には何人かの作家のインタビューが収録されていて、それぞれ創作のスタンスは違うのだけれども、何も考えずにダラダラ書いているわけではないのだな(失礼な話だけど、ライトノベルはそういうやり方でも書けちゃうんだろうななんて思っていた)と思ったのである。
本作に短編を寄せている乙一が語っていることだが、文芸の編集者はあまり作品に口を出してこないので不安になる。逆にライトノベルの編集者は、あれこれ口を出すので面白い、みたいなことを言っている。つまり、考えようによっては、ライトノベルの方が厳しい選別をクリアして製品になっていると考えることも出来るのである。あながちライトノベルというものをバカにはできないな、と本作を読んで感じたものである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、まあいろんな内容があるのだけれども、大雑把に言うと、乙一の短編とライトノベル作家のインタビューが収録されたもの、という感じですかね。まあ、以下にそれぞれ内容を書き出してみようと思います。
短編小説:「UTOPIA」 乙一
妖精と竜の存在する国で、ニートのような生活をしているアレクは、いつものように浜辺で釣りをしていると、倒れている少女を発見した。少女は、その国の言葉ではない言葉を話し、ニホンという国の話をした。名前は、タナカ・マリヤというようだ。言葉も徐々に覚え、アレクの家の宿屋を手伝うようになっていく。
マリヤをニホンに戻すために、アレクはマリヤを魔術師の元に連れて行くことにする。高名な魔術師でもすぐに方法はわからないが、やり方を探してみようと請け負ってくれた。
しかし、平和だったはずの国が、ある日突然混乱に見舞われる。隣の国が攻めてきたというのである。そして、この国を守ってくれるはずの魔術師が殺されたのだとも…
初めこの作品を読んだときは、ちょっとうーんって思ってしまいました。乙一らしい作品ではあるのだけど、ちょっとどうなんだろうな、と。途中の転換はすごく好きで、うまいなと思ったのだけど、最後がちょっと僕にはやりすぎだったかな、と思ってしまいました。
しかし、後にある、乙一がいかにしてこの短編を書いたのかという過程が書かれた部分があって、そこを読むと、あぁなるほど、こういうことを考えてこんな物語になったのか、とわかって、そう考えてみるとなるほど面白い話かもしれない、なんて風に思うようになりました。
インタビュー:GAGAGA INTERVIEW 小説術講義
このインタビューの章では、ライトノベルを中心に作品を発表し続ける8人の作家への、小説の書き方を中心としたインタビューとなっています。まずはその8人の名前を挙げようと思います。
賀東招二(フルメタル・パニックシリーズなど)
川上稔(終わりのクロニクルなど)
桑島由一(神様家族など)
新城カズマ(サマー/タイム/トラベラーなど)
鋼屋ジン(デモンベインシリーズなど)
山下卓(果南の地など)
清水マリコ(ゼロヨンイチロクなど)
野村美月(”文学少女”と死にたがりの道化など)
僕は正直言ってこの本を、乙一の短編のためだけに買ったので、それ以降のライトノベル云々のところは興味がなかったのですが、一応読んでみました。しかしこれが結構面白くて、というかこの部分、ライトノベルに限らず、小説を書こうと思っている人には、かなり有益な内容なんじゃないかな、と思います。
僕がとにかく読んでいて面白いなと思ったのが、賀東招二と川上稔の話ですね。
賀東招二は、ほんとに新刊が出るたびにありえないくらい売れる<フルメタル・パニック>シリーズ出しているのだけど、一番驚くのは、それほどの売れっ子でも、編集者との話し合いでストーリーが決まっていく、という部分です。というのも、例えば文芸の世界なら、売れる作家の作品なんかもう、原稿がもらえるだけで御の字みたいな世界だと思うわけで、もちろん口出ししないことはないだろうけど、あまり多くはないだろうと思うんです。その点ライトノベルという世界は、どんなに売れっ子でも、作家と編集者が二人三脚で作品を作っている。この辺の感覚というのが、いいなと思いました。
また、このインタビューの初めだったこともあるかもしれないけど、ライトノベルの作家もいろんなことを考えながら作品を書いてるんだなと、ホントそういう意味ですごく感心したし、ただ理由もなく漠然と怪物的なシリーズが出来上がったわけではないのだな、と認識を改めました。
賀東招二のインタビューの中で、先ほど指摘した「スカスカの文章」についての言及があるのだけど、そこをちょっと抜き出してみましょう。
『(前略)ライトノベル作家志望のひとたちに勘違いしないでほしい点なんですが、たしかにライトノベルは「文章スカスカでセリフばっかり」とよく言われる。でも、そういう「スイスイ読めちゃう文章」を書くのは、実はものすごく大変なんです。どうやったらスイスイ読んでもらえるか、リズムはもちろん、一ページのなかにどれぐらい余白をいれるか、といった視覚的なところまで考えなければいけない。』
なるほど、ライトノベルを書くというのは、ものすごく大変なんだな、と思ったものです。
川上稔のライトノベルを書く方法論は、これは本当にライトノベル以外の小説を書こうと思っている人にも有益なものだと思います。
川上稔という作家は、「終わりのクロニクル」という全7巻のシリーズを出しています。しかし、6巻まではすべて上下巻に分かれていて、そのそれぞれが、京極夏彦の「姑獲鳥の夏」よりも長い。7巻は上下巻に分かれてないけど、総ページ数が1000ページを超えるというありえない作品で、これだけの作品を作り出すその方法が書かれています。
とにかく、書く前に詳細にプロットを作り出すようで、何度も何度もそれを繰り返す。もうこれでいいかな、と思ったところももう一回やるというのだから、もう尋常ではありません。そうやって作った「終わりのクロニクル」のプロットは、プロットだけで原稿用紙1000枚を超えたというのだから、もうありえないですよね。
8人の中でも、まずプロットを作る作家と、作らない作家と分かれているし、どちらがよりいいということはないとは思うけど、ここまでやるかというくらいの川上稔のやり方には、本当に脱帽でした。
他にも、各インタビューの中で、それぞれの作家がいろいろと面白いことを言っています。それは、小説を書く上での方法論だったり、作家としての心構えだったりいろいろだけど、とにかく広い意味で作家になろうと思っている人には、面白いかもしれません。
このインタビューの中で、もう一箇所気になったところがあったので抜き出します。山下卓とのインタビューで、死の描写についての話です。
『死を表現するにあたっては、むしろ、ひとが死んだあとに、残された周りの人間が感じる「欠落感」をきちんと表現できなければダメなんです。死んでしまったキャラがもう作品世界に存在しないということを、本当に読者が実感できないと。』
いろんなことを考えて作品を書いているのだな、と思いました。
このインタビューに挟みこむようにして、いくつか小さな企画があります。「創作のための読書案内」とか「イラストギャラリー」とか「GAGAGA的ライトノベル課外授業」とかです。
小説作成過程:「UTOPIA DOCUMENT」 乙一×望月ミツル(ガガガ文庫編集者)
これはかなり面白い企画だな、と本作を買う前にも思ったし、読んだ後はなおさらそう思ったのですが、いい企画ですね。袋とじっていうのも、まあ納得です。
どんな企画かと言えば、さっきもちょっと書いたけど、乙一が本作に寄せた短編「UTOPIA」の製作過程を載せたもので、元々乙一には、短編依頼とセットで、この製作過程も載せるという企画が提示されたのでした。
乙一という作家は、「Wordのイルカに叱られちゃう」と書いているように文章の細部にも気を遣っているようだし、また内容についても、かなり詳細にプロットを作ってから書き始めるようで、その過程がすべて(ではないと思うけど)載っているのを読むというのは、本当に面白い経験でした。
乙一という作家の中で、一つの作品が生み出され、ちゃんと完結されるまでの中身というものがなんとなくわかる気がして、これ以上この部分について内容をあれこれ書くのは難しいところなのですが、とにかく買って読んでみてください、としかいいようがないですね。
あと、本作では、イラストレーターである中央東口さんとの話し合いも載っているのだけど、このイラストを載せるということについても詳細な打ち合わせがなされているのだなと初めて実感できて、ライトノベルというメディアは、本当に面白い形式を採用しているな、と思いました。
この「UTOPIA DOCUMENT」の後にまた、「イラストギャラリー」があります。
対談:ガガガトーク
佐藤大という、前出したよくわからない人間が、三種類の対談をするみたいな企画で、まあとりあえずメンツを書いてみましょう。
対談1:佐藤大×神山健治×冲方丁
対談2:佐藤大×東裕紀×イシイジロウ
対談3:佐藤大×大槻ケンジ×劇団ひとり
もはやめんどくさいので、各人の経歴なんかは載せないけど、よく知らない人が多いですね。
対談は、まあそんなに面白いもんではないけど、劇団ひとりと大槻ケンジの奴はまあ読んでもいいかなって感じですね。
まあそんなわけで、大体こんな感じですね。本作は、乙一が好きな人、ライトノベルに限らず作家になろうとおもっている人には、結構いいと思いますよ。買って損はないでしょう。逆に、ライトノベルにはすごく興味があるけど、別に作家になりたいわけじゃないとか、乙一はそんなに好きじゃないという人が買っても面白くはないでしょうね(って当たり前ですね)。
まあそんなわけで、読んでみてください。
ガガガ文庫編集部・編「ライトノベルを書く!」
生協の白石さん(白石昌則)
『モノを売るのは、本当に難しいと感じております。』
本作中、白石さんの手になる文章がいくつかあるのだが、そこから抜き出した言葉である。
本作の内容そのものとはちょっと離れることになるが、これについて書いてみようと思う。
本当に、モノを売ることは難しいのである。
僕は今本屋で働いていて、文庫と新書の担当をしています。何を仕入れるのか、どこに置くのか、どれを返品するのか。すべてを自分で決めることができるので、非常にやりがいのある面白い仕事だと思っているのですが、反面、売るということが楽ではないな、ということを本当に痛感させられる毎日です。
別に、文庫や新書が売れなかったところで、時給が下がるとか始末書がなんとやらとか、そんな話にはなったりしません。他の店はどうか知りませんが、うちの店はかなりゆるいと思うので、誰にも何も言われません。そういう意味ではプレッシャーがなくて、自由にやれるという点でいいのですが、だからと言って売らなくていいということにはなりません。
僕は担当になって以来、どうやったら売上を伸ばすことができるだろうか、と常に考えてきました。時間がなくて、文庫の方しか考えることはできていないのですが、それでも悪戦苦闘の日々です。前の担当者よりも恒常的に売上を伸ばすことはできましたが、まだまだ売れると感じています。
なんでそんな風に思うかと言えば、今年の書店界のエポックメイキングとでも言うべき怪物文庫、「ダヴィンチコード」の存在があるからです。
この作品は、普段本を読まない人も積極的に買ったと思われ、普通に売れる文庫の10倍以上の売れ行きとなっています。この「ダヴィンチコード」の売れ行きを見て僕は思ったものです。普段本を読まない人を、いかに引き寄せることができるか、という点が勝負なのだな、と。それから試行錯誤して、いろいろと新しいアイデアは出てきてはいるのですが、なかなか思う通りにはいかないものです。
非常に余談ではありますが、今僕は、「私を 見て、ぎゅっと 愛して」という本を積極的に売ろうと頑張っています(これは文庫ではないのですが)。皆さん是非、この作品を読んでみてください。今年の僕のナンバーワンです。
とまあそんな余計な話はいいとして、白石さんはもうひとつ、モノを売るということについて面白い示唆をしています。
『売れるモノは、売る側ではなく買う側が決めるのだ』
この話は、白石さんが勤める生協で、バッグのデザインを学生から募集しよう、というところから始まります。
募集したところ、一番人気は牛柄でした。生協側では、牛のデザインなんか売れるのか…という否定的な意見が占めたのですが、しかし学生の希望ということなので作りました。するとその牛柄のバッグが、他のデザインを10倍以上も引き離して売れた、というのです。
これは、書店にいるとよくわかることです。
本というのは、買う前に内容がわかりません(例えば音楽などは、買う前に中身を聞くことも可能ですが、本の場合、買う前に内容を全部知ることは無理ですし、立ち読みでそれを達成したらその本を買わないでしょう)。なので、他人の評価というものが売れ行きを大きく左右します。
例えばなのですが、僕が読んでものすごくつまらなかった本、というのがあります。恩田陸の「ライオンハート」と、蓮見圭一の「水曜の朝、午前三時」という文庫なのですが、今この二作はもうべらぼうに売れています。
もちろん、僕が読んでダメだったからと言って駄作だと言いたいわけではありません。ただこの二作は、普通ならばそんなに売れないだろう、という本なのに、ある理由によってそれぞれメチャクチャ売れているのです。
「ライオンハート」の方は、昨年の新潮文庫の好きな作家ランキングで、恩田陸が一位になったことを受けて、この作品が売れ出しました。「水曜の朝、午前三時」の方は、児玉清が読んで感動したという出版社が作ったPOPをつけて売り出した途端売れ出しました。
本の場合、内容がどんなによくても、売れない本は売れません。また、内容がどんなにダメでも、売れてしまう本は売れてしまいます。僕としては、できるだけ内容の素晴らしい本をたくさん売りたいところなのですが、なかなか難しいところです。これも、『売れるモノは、売る側ではなく買う側が決めるのだ』という一例だと言えるでしょう。
モノを売るということは、難しいからこそ逆に面白いのだと僕は思います。これからも、いろんなことを考えて、出来るだけいろんな本を売っていこうと思う次第です。
そんなわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、今さらこれを読むのかよ、と三村に突っ込まれてもおかしくないくらい、一時期無茶苦茶に流行った本です。僕は、流行っているものに流行っているうちに触れるのはどうにも好きではなく、逆に今さらかよ、という方が好きなので、今さら読んでみました。
まず、生協の白石さんこと白石昌則さんについて少し書きましょう。
白石さんは、元々早稲田大学の生協にいて、それから現在の東京農工大の生協に移りました。移ってからの仕事の一つに、学生からの希望を取り入れるための「一言カード」への返信というものが加わりました。
通常は、生協に置いて欲しいものなどの要望についての返信をするためのカードなのですが、時には変わった質問も混じってきます。それらの変わった質問にも、白石さんは独自の感性で粋な返答を続け、それが話題になり本作にまとまった、という感じです。
話は少し逸れますが、大学生協というところは、かなり風通しのいいところなのだな、と感じました。僕もまあ大学にいたことはあるし、生協も利用したことはあるけど、一言カードに何かを書いたようなことはありませんでした。どの大学でもそうなのかそれはわかりませんが、少なくとも本作を読む限り、学生の出した要望というのは、不可能でないかぎり大抵叶えられると、そういうことになっているようです。
いくら非営利団体だとは言え、利益を生み出さないでもいいということはありえません。利益を生み出しつつも学生の要望に応えるというのは本当に大変だろうな、と僕なんかは思ってしまいます。大学生協というところはすごかったんだなと、本作を読んで改めてそんなことを思いました。
そんなわけで本作の内容紹介ですが、本作に収録されたやり取りの中で、僕が面白いなと思ったものだけを抜き出して書く、という形でやっていこうかなと思います。
Q「ローカですれちがうだけで、プーさんがアクティブにからんできます。どうしたらいいですか?」
A「プーさんとは”くまのプーさん”ですか?
そうですか。アクティブに絡んできますか。子羊さんも命懸けですね。
手助けしたいのもやまやまですが、食物連鎖に手を加えてしまうと、自然のバランスが損なわれてしまい、生協の理念にも反してしまうので、ここは温かく見守る事とします。」
質問も質問だけど、食物連鎖という回答を生み出す白石さんのひらめきが素敵です。
Q「愛は売っていないのですか?」
A「どうやら、愛は非売品のようです。
もし、どこかで販売していたとしたら、それは何かの罠かと思われます。
くれぐれもご注意下さい。」
何かの罠かと思われます、としたり顔で言うところがいいですね。
Q「ロックの三大要素をおしえてください←200字以内」
A「焼酎・梅酒・ウイスキー。
200字も使わず失礼致しました。」
このセンス、最高ですね。
Q「15cm定規を、取り扱って欲しいです。(18cmは、生協で買ったふでバコに入らないので…)。」
これは、回答がどうというよりも、質問がなるほどでしたね。確かに、と思ってしまいました。
Q「ナブラチローワ」
A「ほぼ無敵の強さを誇り、一時代を築いた女子テニスプレーヤー、ナブラチロワ。(後略)」
「ナブラチローワ」といわれてテニスプレーヤーだとすぐに分かるところがすごい。白石さんは、いろんな方面の知識があってすごいと思う。
Q「白石さんのプロフィールを教えてください。性別、年令、身長、趣味など」
A「(前略)
母親の名前…崎子
(後略)」
プロフィールと聞かれて、母親の名前を書くあたり、レベル高いですね。
Q「オラオラオラオラオラー!!
裁くのは俺のスタンドだー!!」
A「勇ましい意思表明、何よりです。
このような裁判官がいたら、かのマイケル・ジャクソンもムーンウォークで逃げ出したに違いありません。
しかし、ここは生協の掲示板です。折角の志高き思い、当店でくすぶるよりも広く全世界に発信してみてはいかがでしょうか?」
ユーモアと真面目さが素晴らしく融合していて、白石さんの人のよさがにじみ出るようです。
Q「学長の日程おしえてー」
A「細かいことはわかりかねますが、色々とお忙しいようです。」
白石さん、ファイト、って感じです。
Q「もういやだ
死にたい」
A「生協という字は「生きる」「協力する」という字を使います。だからといって、何がどうだという事もございません。このように、人間は他人の生死に関し、呆れる程無力なものです。
本人にとっては深刻な問題なのに、何だか悔しいじゃないですか。生き続けて見返しましょう!」
この回答は、もう本当に素晴らしいなと思いました。普通なら、死ぬんじゃないとか、生きてればいいことはある、とかそういう言葉で逃げるのに、白石さんは、基本的に追いもせず、かと言って突き放しもせず、絶妙なバランスでこの難しい問いに立ち向かっています。ちょっとこの回答には、本当に感動しました。白石さん、本当に人生相談おかできそうですね。
Q「8月になったので、約束のプールに行きましょう♪」
A「涼しげなお誘い、ありがとうございます。しかし、生協一同の誰もが、上記の約束を思い出せずにいます。
このままでは待ち合わせの場所にすら行けそうにありませんが、どうぞ気にせず先に行って下さい。」
白石さんは本当にいい人です。
Q「白石さん、好きっす」
A「光栄っす」
爆笑っす(笑)
さて、本作と対比させて語りたい本に、森博嗣の、「臨機応答・変問自在」という本があります。こちらも、森博嗣が、とにかくいろんな質問に鋭く答えるという内容なのですが、かなり対照的な作品だな、と思います。
森博嗣の方は、とにかく無駄の入り込む余地はありません。ユーモアはありますが、どちらかといえば皮肉的に使われることが多いです。
白石さんの方は、とにかく無駄をどこまで突き詰めることができるか、というところが勝負になっています。ユーモアも、とにかく回答を盛り上げる一助として使っている感じです。
どちらも、質問に対する回答の鋭さで言えば同じくらいなのに、出来上がった本というのは本当に対照的だな、と思ったりしました。
本作は、まあ話題になっただけというのもおかしいけれど、面白かったです。読んでみる価値はあるでしょう。自分だったらどう答えるかを考えてみるのもいいでしょうし、白石さんに聞いてみたい質問を考えるでもいいでしょう。
もうすぐ読めます。強烈にオススメはしないけでお、癒されますよ。どうぞ読んでみてください。
白石昌則「生協の白石さん」
本作中、白石さんの手になる文章がいくつかあるのだが、そこから抜き出した言葉である。
本作の内容そのものとはちょっと離れることになるが、これについて書いてみようと思う。
本当に、モノを売ることは難しいのである。
僕は今本屋で働いていて、文庫と新書の担当をしています。何を仕入れるのか、どこに置くのか、どれを返品するのか。すべてを自分で決めることができるので、非常にやりがいのある面白い仕事だと思っているのですが、反面、売るということが楽ではないな、ということを本当に痛感させられる毎日です。
別に、文庫や新書が売れなかったところで、時給が下がるとか始末書がなんとやらとか、そんな話にはなったりしません。他の店はどうか知りませんが、うちの店はかなりゆるいと思うので、誰にも何も言われません。そういう意味ではプレッシャーがなくて、自由にやれるという点でいいのですが、だからと言って売らなくていいということにはなりません。
僕は担当になって以来、どうやったら売上を伸ばすことができるだろうか、と常に考えてきました。時間がなくて、文庫の方しか考えることはできていないのですが、それでも悪戦苦闘の日々です。前の担当者よりも恒常的に売上を伸ばすことはできましたが、まだまだ売れると感じています。
なんでそんな風に思うかと言えば、今年の書店界のエポックメイキングとでも言うべき怪物文庫、「ダヴィンチコード」の存在があるからです。
この作品は、普段本を読まない人も積極的に買ったと思われ、普通に売れる文庫の10倍以上の売れ行きとなっています。この「ダヴィンチコード」の売れ行きを見て僕は思ったものです。普段本を読まない人を、いかに引き寄せることができるか、という点が勝負なのだな、と。それから試行錯誤して、いろいろと新しいアイデアは出てきてはいるのですが、なかなか思う通りにはいかないものです。
非常に余談ではありますが、今僕は、「私を 見て、ぎゅっと 愛して」という本を積極的に売ろうと頑張っています(これは文庫ではないのですが)。皆さん是非、この作品を読んでみてください。今年の僕のナンバーワンです。
とまあそんな余計な話はいいとして、白石さんはもうひとつ、モノを売るということについて面白い示唆をしています。
『売れるモノは、売る側ではなく買う側が決めるのだ』
この話は、白石さんが勤める生協で、バッグのデザインを学生から募集しよう、というところから始まります。
募集したところ、一番人気は牛柄でした。生協側では、牛のデザインなんか売れるのか…という否定的な意見が占めたのですが、しかし学生の希望ということなので作りました。するとその牛柄のバッグが、他のデザインを10倍以上も引き離して売れた、というのです。
これは、書店にいるとよくわかることです。
本というのは、買う前に内容がわかりません(例えば音楽などは、買う前に中身を聞くことも可能ですが、本の場合、買う前に内容を全部知ることは無理ですし、立ち読みでそれを達成したらその本を買わないでしょう)。なので、他人の評価というものが売れ行きを大きく左右します。
例えばなのですが、僕が読んでものすごくつまらなかった本、というのがあります。恩田陸の「ライオンハート」と、蓮見圭一の「水曜の朝、午前三時」という文庫なのですが、今この二作はもうべらぼうに売れています。
もちろん、僕が読んでダメだったからと言って駄作だと言いたいわけではありません。ただこの二作は、普通ならばそんなに売れないだろう、という本なのに、ある理由によってそれぞれメチャクチャ売れているのです。
「ライオンハート」の方は、昨年の新潮文庫の好きな作家ランキングで、恩田陸が一位になったことを受けて、この作品が売れ出しました。「水曜の朝、午前三時」の方は、児玉清が読んで感動したという出版社が作ったPOPをつけて売り出した途端売れ出しました。
本の場合、内容がどんなによくても、売れない本は売れません。また、内容がどんなにダメでも、売れてしまう本は売れてしまいます。僕としては、できるだけ内容の素晴らしい本をたくさん売りたいところなのですが、なかなか難しいところです。これも、『売れるモノは、売る側ではなく買う側が決めるのだ』という一例だと言えるでしょう。
モノを売るということは、難しいからこそ逆に面白いのだと僕は思います。これからも、いろんなことを考えて、出来るだけいろんな本を売っていこうと思う次第です。
そんなわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、今さらこれを読むのかよ、と三村に突っ込まれてもおかしくないくらい、一時期無茶苦茶に流行った本です。僕は、流行っているものに流行っているうちに触れるのはどうにも好きではなく、逆に今さらかよ、という方が好きなので、今さら読んでみました。
まず、生協の白石さんこと白石昌則さんについて少し書きましょう。
白石さんは、元々早稲田大学の生協にいて、それから現在の東京農工大の生協に移りました。移ってからの仕事の一つに、学生からの希望を取り入れるための「一言カード」への返信というものが加わりました。
通常は、生協に置いて欲しいものなどの要望についての返信をするためのカードなのですが、時には変わった質問も混じってきます。それらの変わった質問にも、白石さんは独自の感性で粋な返答を続け、それが話題になり本作にまとまった、という感じです。
話は少し逸れますが、大学生協というところは、かなり風通しのいいところなのだな、と感じました。僕もまあ大学にいたことはあるし、生協も利用したことはあるけど、一言カードに何かを書いたようなことはありませんでした。どの大学でもそうなのかそれはわかりませんが、少なくとも本作を読む限り、学生の出した要望というのは、不可能でないかぎり大抵叶えられると、そういうことになっているようです。
いくら非営利団体だとは言え、利益を生み出さないでもいいということはありえません。利益を生み出しつつも学生の要望に応えるというのは本当に大変だろうな、と僕なんかは思ってしまいます。大学生協というところはすごかったんだなと、本作を読んで改めてそんなことを思いました。
そんなわけで本作の内容紹介ですが、本作に収録されたやり取りの中で、僕が面白いなと思ったものだけを抜き出して書く、という形でやっていこうかなと思います。
Q「ローカですれちがうだけで、プーさんがアクティブにからんできます。どうしたらいいですか?」
A「プーさんとは”くまのプーさん”ですか?
そうですか。アクティブに絡んできますか。子羊さんも命懸けですね。
手助けしたいのもやまやまですが、食物連鎖に手を加えてしまうと、自然のバランスが損なわれてしまい、生協の理念にも反してしまうので、ここは温かく見守る事とします。」
質問も質問だけど、食物連鎖という回答を生み出す白石さんのひらめきが素敵です。
Q「愛は売っていないのですか?」
A「どうやら、愛は非売品のようです。
もし、どこかで販売していたとしたら、それは何かの罠かと思われます。
くれぐれもご注意下さい。」
何かの罠かと思われます、としたり顔で言うところがいいですね。
Q「ロックの三大要素をおしえてください←200字以内」
A「焼酎・梅酒・ウイスキー。
200字も使わず失礼致しました。」
このセンス、最高ですね。
Q「15cm定規を、取り扱って欲しいです。(18cmは、生協で買ったふでバコに入らないので…)。」
これは、回答がどうというよりも、質問がなるほどでしたね。確かに、と思ってしまいました。
Q「ナブラチローワ」
A「ほぼ無敵の強さを誇り、一時代を築いた女子テニスプレーヤー、ナブラチロワ。(後略)」
「ナブラチローワ」といわれてテニスプレーヤーだとすぐに分かるところがすごい。白石さんは、いろんな方面の知識があってすごいと思う。
Q「白石さんのプロフィールを教えてください。性別、年令、身長、趣味など」
A「(前略)
母親の名前…崎子
(後略)」
プロフィールと聞かれて、母親の名前を書くあたり、レベル高いですね。
Q「オラオラオラオラオラー!!
裁くのは俺のスタンドだー!!」
A「勇ましい意思表明、何よりです。
このような裁判官がいたら、かのマイケル・ジャクソンもムーンウォークで逃げ出したに違いありません。
しかし、ここは生協の掲示板です。折角の志高き思い、当店でくすぶるよりも広く全世界に発信してみてはいかがでしょうか?」
ユーモアと真面目さが素晴らしく融合していて、白石さんの人のよさがにじみ出るようです。
Q「学長の日程おしえてー」
A「細かいことはわかりかねますが、色々とお忙しいようです。」
白石さん、ファイト、って感じです。
Q「もういやだ
死にたい」
A「生協という字は「生きる」「協力する」という字を使います。だからといって、何がどうだという事もございません。このように、人間は他人の生死に関し、呆れる程無力なものです。
本人にとっては深刻な問題なのに、何だか悔しいじゃないですか。生き続けて見返しましょう!」
この回答は、もう本当に素晴らしいなと思いました。普通なら、死ぬんじゃないとか、生きてればいいことはある、とかそういう言葉で逃げるのに、白石さんは、基本的に追いもせず、かと言って突き放しもせず、絶妙なバランスでこの難しい問いに立ち向かっています。ちょっとこの回答には、本当に感動しました。白石さん、本当に人生相談おかできそうですね。
Q「8月になったので、約束のプールに行きましょう♪」
A「涼しげなお誘い、ありがとうございます。しかし、生協一同の誰もが、上記の約束を思い出せずにいます。
このままでは待ち合わせの場所にすら行けそうにありませんが、どうぞ気にせず先に行って下さい。」
白石さんは本当にいい人です。
Q「白石さん、好きっす」
A「光栄っす」
爆笑っす(笑)
さて、本作と対比させて語りたい本に、森博嗣の、「臨機応答・変問自在」という本があります。こちらも、森博嗣が、とにかくいろんな質問に鋭く答えるという内容なのですが、かなり対照的な作品だな、と思います。
森博嗣の方は、とにかく無駄の入り込む余地はありません。ユーモアはありますが、どちらかといえば皮肉的に使われることが多いです。
白石さんの方は、とにかく無駄をどこまで突き詰めることができるか、というところが勝負になっています。ユーモアも、とにかく回答を盛り上げる一助として使っている感じです。
どちらも、質問に対する回答の鋭さで言えば同じくらいなのに、出来上がった本というのは本当に対照的だな、と思ったりしました。
本作は、まあ話題になっただけというのもおかしいけれど、面白かったです。読んでみる価値はあるでしょう。自分だったらどう答えるかを考えてみるのもいいでしょうし、白石さんに聞いてみたい質問を考えるでもいいでしょう。
もうすぐ読めます。強烈にオススメはしないけでお、癒されますよ。どうぞ読んでみてください。
白石昌則「生協の白石さん」
ダーク(桐野夏生)
『四十歳になったら死のうと思っている』
本作の書き出しの一文だ。
この文章は、僕を強烈に魅了する。
何故なら、僕も同じことを考えているからだ。
四十歳は早いかもしれない。ただ、五十歳くらいまでには、死のうと思っている。死にたい。
ただ、どうしようもなく死ねないということも、すでに僕は知ってしまっている。事故や病気で死ねるのなら素敵だ。しかし、五十歳になるまで事故にも病気にも遭わないとしたら、僕は死ねないだろう。死ぬ、ということへの徒な恐怖が、いつのまにか、どこかしらか、僕の人生の中で僕の中に植え付けられてしまっている。
これは本能だろうか?死ぬことへの恐怖というのは、生まれた時から備わっている本能なのだろうか?それに、しばらくは無自覚なまま、いつしか浮き上がるようにして表面に浮上するのだろうか。
だとしたら、なんとも馬鹿馬鹿しいことだ。何故死ぬことに恐怖を覚えなくてはならないのか。強烈に死にたい欲求に駆られた時、その本能が僕を邪魔するだろう。そんなジレンマは、ふさわしくない。何にどうふさわしくないのかはわからないが、とにかくふさわしくない。
長生きしたい、と人々はいう。僕には、それがどうしても理解できない。どう考えても、早く死ぬ方が正しい生き方だと、僕には思えしまう。
長く生きることで、何がどうなるのだろうか?無駄に時間を重ねて、無駄に衰えて、できることなど限られて、楽しみも少なくなり、いつしか生きるというそのことだけで精一杯になる、そんな日々のどこに希望があるのだろう?
僕にはどうしてもわからない。死にたくないという、死への恐怖の裏返しなのだろうか。長く生きる、ということに希望を見出すのではなく、長いこと死なない、ということに希望を見出しているのだろうか。だとすれば、なんとも不遇な希望といわざる終えないだろう。
あるいはもしかしたら、と僕は考える。血というものに対する執着が人々にはあるのかもしれないな、と思う。
僕は、子供を作る、ということに関して、まるで一切合切関心がない。むしろ、子供など欲しくない。例えば、万が一その可能性があるとして、結婚することまではいいと思う(特に結婚願望があるわけではないけど)。しかし、子供はまったく欲しくない。子供という存在そのものが特に好きではないのだが、それ以上に、自分の子供という存在に対して、なんの想像もできないのである。自分の血が繋がっていくこと、自分の肉体を継いだ存在がいるということ。そのことに対して、不快感こそ抱くかもしれないが、快感を抱くということはまずないだろうと思う。
もう少し具体的な想像をしてみると、例えば、子供が初めて喋ったとか初めて歩いたとか、人々はそういう小さなことに一喜一憂して子育てをするのだろう。しかし僕には、子供が喋ろうが立とうが歩こうが、別にどうってことはない。そりゃあ、いつか喋るだろうし立つだろうし歩くだろう。それがいつだって別に構わない、と思う。
こういう風に考えることは冷たいのだろうか。しかし僕は思う。人間であれば、誰もが子供が好きだ、という考えの方が、よほど残酷だと。
自分の子供、ということを中心に考えると、長生きしたいという発想も、少しは具体的な形として見えてくるかもしれない。子供を作ることで、自分の血を繋げていく。僕にはまったくない欲求ではあるけれど、自分の血がどこまで繋がっていくのか、その血がどう拡散し、どう変化するのかできるだけ見届けたい、と考える人は多いのかもしれない。だとすれば、出来るだけ長生きすることが必要なのだろう。
僕にはそう考えると、長生きする理由が特にない。今生きているのは、会って楽しいと思える友達がいるということ、やっていて楽しいと思える仕事があるということ、そしてそんなに頑張らなくてもなんとか生きていけるということ。この三点ぐらいだろうか。友達は、長いこと時間が経てば、残念だがその関係も薄れていくだろう。仕事も、時と共に出来なくなっていくだろう。年を取れば、生きていることそのものが面倒臭くなっていくだろう。今はまだいい。しかし、僕からは確実に、生きている理由が失われていくのである。
五十歳になったら死のうと思っている。死ねないことは既に充分すぎるほどわかっている。だから結局僕は、五十歳になっても醜く生き続けるだろう。しかし、体の機能がどうであれ、僕の精神は五十歳を境に恐らく死ぬだろう。それでいい、と今は思える。肉体的には死ねないかもしれない。中身だけが死んでしまうことで、より複雑な生き方を強いられるのかもしれないが、それも仕方がないだろう。
生きたいというその理由。あなたは、どれほど強く持っていますか?
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、桐野夏生作品のシリーズキャラクター、村野ミロの物語です。が、本作単独で読んでも充分楽しめるでしょう(僕自身、ミロシリーズは、「顔に降りかかる雨」と「天使に見捨てられた夜」しか読んでいません)。
物語は、どうやら「顔に降りかかる雨」の後日談、という形でスタートするようです(どうやら、というのは、僕自身、「顔に降りかかる雨」の内容をまったく覚えていないからです)。物語の前提として、村野ミロは、以前の恋人で仕事の相棒であった成瀬という男の出所を待っていた。成瀬を刑務所に送ったのはミロ自身であったが、それでも成瀬の出所を待つことで、探偵業も続けることができた。生きている理由のすべてが、成瀬を待つことだったと言ってもいい。そんな背景がある。成瀬を待って六年という月日が過ぎている。
物語は、村野ミロが一通の葉書を受け取るところから始まる。それは、成瀬によって殺された幼馴染、宇野正子の母親からであり、老人ホームに入居することになったから一度顔を見せてくれないか、ということであった。あまり気乗りはしなかったが、それでもミロは母親に会いに行くことにした。
そこで幾ばくかの話をする中で、ミロは驚くべき事実を耳にする。成瀬は四年前に獄中自殺していた、というのである。
『私の中の何かが死んだ』
成瀬が自殺したということを、義父の善三は知っていた。知っていて、ミロには伝えなかった。激しい憤り。
ミロは、すべてを捨てて義父を殺しに行くことにした。事務所も売り払い、かき集められるだけの金を集めて。北海道に隠居した義父の元へと、ミロは向かった。
そうやってミロは、自らの人生を悪の方へとどんどん切り開いていきながら、周囲に災厄を振りまいていく。
幼い頃からミロを知る老ヤクザ、元隣人のホモ、義父の盲目の内妻。様々な人が、ミロを恨み、ミロを追いかけようとする。ミロはひたすらに逃げる。相変わらず災厄を振りまき続けながら…。
というような話です。
ミロというのは、これまで二作読んだ僕の印象だと、アンダーグラウンドにいながら、ギリギリ探偵としての矜持を持っていたような、境界に立つ存在のような感じだったので、本作でいともあっさりと境界を越えてしまうのには、ちょっと驚きました。
冒頭での、四十歳までには死のうと思っているというところから始まって、でもミロは、四十歳までは生きようとする。その微妙なバランスというものが言葉できちんと描かれることはないのだけど、それも全然構わないと僕は思う。とにかく、四十歳になったら死ぬ。それだけを抱えて生きているミロは、ひたすらに強い。何もかも捨て、何もかも失い、それでもミロは、逃げることを諦めることはない。その意思というものが、ある意味で滑稽に見えて、ミロという人間の人間らしさというものが伝わってくるような気がした。
他の登場人物も、なかなか濃い人間が多い。老ヤクザは、自分が既に力を失っていることに気づかないという意味で滑稽だし、元隣人のホモは、定まらない芯のなさというものがとにかく滑稽だ。人間、悪に携わると本性が出るような気がするけど、本作はまさにそのことを体現しているような作品だ。悪というものを前にして人がいかに変わるか、ということを如実に物語っている。
そんな中で、本作の中で最も強く、ミロを最も追い詰めたのが、盲目の内妻である久恵だろう。ミロの義父である善三との閉鎖的な世界がすべてだった女で、その世界をミロにぶち壊しにされた怒りで生きている。とにかく、どんな悪の前でもひるまない女で、久恵の前では、悪の方が逆に怯むのではないかと思わせるほどである。芯がありすぎる女で、敵にしても味方にしても恐ろしい存在で、久恵は怖いな、と思った。
また後半でミロは、心の底から愛することの出来る男と出会うことになる。この物語の急転は、しかしミロの人生を好転するものでは決してないのだが、それでも、ミロという人生の歯車を回し続ける役には立ったといえるだろう。僕も、五十歳までに、人生の歯車を回し続けるだけの何かと出会うことができるだろうか、と思った。そうすれば、肉体も精神も死なないまま、五十歳を超えることができるだろう。
本作は、タイトルの通り、とにかくダークな作品です。馳星周的と言えば乱暴な言い方だけど、とにかく救いがまったくない。エンターテイメントなのかという疑問すら浮かぶけれども、しかしとにかく読ませるのである。救いのまったくないダークな物語で、しかも言ってしまえば、物語的にはそこらへんのノアールと大した違いはないのかもしれない。しかしそれでも、桐野夏生は読ませる文章を書く。グイグイ読んでしまう。文章のどこにそんな力があるのか、言葉できちんと指摘できないのだが、とにかく力強い文章で読者をひたすらに引っ張っていく。
とにかく読む価値のある作品だと思います。恐らく物語のどこかしらに、何かしら反応するのではないか、と思います。どす黒い内面を見事に表に出し切った物語は、読後感がいいとは決して言えないけど、読んでよかったと思わせる何かがあります。読んでみてください。
桐野夏生「ダーク」
本作の書き出しの一文だ。
この文章は、僕を強烈に魅了する。
何故なら、僕も同じことを考えているからだ。
四十歳は早いかもしれない。ただ、五十歳くらいまでには、死のうと思っている。死にたい。
ただ、どうしようもなく死ねないということも、すでに僕は知ってしまっている。事故や病気で死ねるのなら素敵だ。しかし、五十歳になるまで事故にも病気にも遭わないとしたら、僕は死ねないだろう。死ぬ、ということへの徒な恐怖が、いつのまにか、どこかしらか、僕の人生の中で僕の中に植え付けられてしまっている。
これは本能だろうか?死ぬことへの恐怖というのは、生まれた時から備わっている本能なのだろうか?それに、しばらくは無自覚なまま、いつしか浮き上がるようにして表面に浮上するのだろうか。
だとしたら、なんとも馬鹿馬鹿しいことだ。何故死ぬことに恐怖を覚えなくてはならないのか。強烈に死にたい欲求に駆られた時、その本能が僕を邪魔するだろう。そんなジレンマは、ふさわしくない。何にどうふさわしくないのかはわからないが、とにかくふさわしくない。
長生きしたい、と人々はいう。僕には、それがどうしても理解できない。どう考えても、早く死ぬ方が正しい生き方だと、僕には思えしまう。
長く生きることで、何がどうなるのだろうか?無駄に時間を重ねて、無駄に衰えて、できることなど限られて、楽しみも少なくなり、いつしか生きるというそのことだけで精一杯になる、そんな日々のどこに希望があるのだろう?
僕にはどうしてもわからない。死にたくないという、死への恐怖の裏返しなのだろうか。長く生きる、ということに希望を見出すのではなく、長いこと死なない、ということに希望を見出しているのだろうか。だとすれば、なんとも不遇な希望といわざる終えないだろう。
あるいはもしかしたら、と僕は考える。血というものに対する執着が人々にはあるのかもしれないな、と思う。
僕は、子供を作る、ということに関して、まるで一切合切関心がない。むしろ、子供など欲しくない。例えば、万が一その可能性があるとして、結婚することまではいいと思う(特に結婚願望があるわけではないけど)。しかし、子供はまったく欲しくない。子供という存在そのものが特に好きではないのだが、それ以上に、自分の子供という存在に対して、なんの想像もできないのである。自分の血が繋がっていくこと、自分の肉体を継いだ存在がいるということ。そのことに対して、不快感こそ抱くかもしれないが、快感を抱くということはまずないだろうと思う。
もう少し具体的な想像をしてみると、例えば、子供が初めて喋ったとか初めて歩いたとか、人々はそういう小さなことに一喜一憂して子育てをするのだろう。しかし僕には、子供が喋ろうが立とうが歩こうが、別にどうってことはない。そりゃあ、いつか喋るだろうし立つだろうし歩くだろう。それがいつだって別に構わない、と思う。
こういう風に考えることは冷たいのだろうか。しかし僕は思う。人間であれば、誰もが子供が好きだ、という考えの方が、よほど残酷だと。
自分の子供、ということを中心に考えると、長生きしたいという発想も、少しは具体的な形として見えてくるかもしれない。子供を作ることで、自分の血を繋げていく。僕にはまったくない欲求ではあるけれど、自分の血がどこまで繋がっていくのか、その血がどう拡散し、どう変化するのかできるだけ見届けたい、と考える人は多いのかもしれない。だとすれば、出来るだけ長生きすることが必要なのだろう。
僕にはそう考えると、長生きする理由が特にない。今生きているのは、会って楽しいと思える友達がいるということ、やっていて楽しいと思える仕事があるということ、そしてそんなに頑張らなくてもなんとか生きていけるということ。この三点ぐらいだろうか。友達は、長いこと時間が経てば、残念だがその関係も薄れていくだろう。仕事も、時と共に出来なくなっていくだろう。年を取れば、生きていることそのものが面倒臭くなっていくだろう。今はまだいい。しかし、僕からは確実に、生きている理由が失われていくのである。
五十歳になったら死のうと思っている。死ねないことは既に充分すぎるほどわかっている。だから結局僕は、五十歳になっても醜く生き続けるだろう。しかし、体の機能がどうであれ、僕の精神は五十歳を境に恐らく死ぬだろう。それでいい、と今は思える。肉体的には死ねないかもしれない。中身だけが死んでしまうことで、より複雑な生き方を強いられるのかもしれないが、それも仕方がないだろう。
生きたいというその理由。あなたは、どれほど強く持っていますか?
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、桐野夏生作品のシリーズキャラクター、村野ミロの物語です。が、本作単独で読んでも充分楽しめるでしょう(僕自身、ミロシリーズは、「顔に降りかかる雨」と「天使に見捨てられた夜」しか読んでいません)。
物語は、どうやら「顔に降りかかる雨」の後日談、という形でスタートするようです(どうやら、というのは、僕自身、「顔に降りかかる雨」の内容をまったく覚えていないからです)。物語の前提として、村野ミロは、以前の恋人で仕事の相棒であった成瀬という男の出所を待っていた。成瀬を刑務所に送ったのはミロ自身であったが、それでも成瀬の出所を待つことで、探偵業も続けることができた。生きている理由のすべてが、成瀬を待つことだったと言ってもいい。そんな背景がある。成瀬を待って六年という月日が過ぎている。
物語は、村野ミロが一通の葉書を受け取るところから始まる。それは、成瀬によって殺された幼馴染、宇野正子の母親からであり、老人ホームに入居することになったから一度顔を見せてくれないか、ということであった。あまり気乗りはしなかったが、それでもミロは母親に会いに行くことにした。
そこで幾ばくかの話をする中で、ミロは驚くべき事実を耳にする。成瀬は四年前に獄中自殺していた、というのである。
『私の中の何かが死んだ』
成瀬が自殺したということを、義父の善三は知っていた。知っていて、ミロには伝えなかった。激しい憤り。
ミロは、すべてを捨てて義父を殺しに行くことにした。事務所も売り払い、かき集められるだけの金を集めて。北海道に隠居した義父の元へと、ミロは向かった。
そうやってミロは、自らの人生を悪の方へとどんどん切り開いていきながら、周囲に災厄を振りまいていく。
幼い頃からミロを知る老ヤクザ、元隣人のホモ、義父の盲目の内妻。様々な人が、ミロを恨み、ミロを追いかけようとする。ミロはひたすらに逃げる。相変わらず災厄を振りまき続けながら…。
というような話です。
ミロというのは、これまで二作読んだ僕の印象だと、アンダーグラウンドにいながら、ギリギリ探偵としての矜持を持っていたような、境界に立つ存在のような感じだったので、本作でいともあっさりと境界を越えてしまうのには、ちょっと驚きました。
冒頭での、四十歳までには死のうと思っているというところから始まって、でもミロは、四十歳までは生きようとする。その微妙なバランスというものが言葉できちんと描かれることはないのだけど、それも全然構わないと僕は思う。とにかく、四十歳になったら死ぬ。それだけを抱えて生きているミロは、ひたすらに強い。何もかも捨て、何もかも失い、それでもミロは、逃げることを諦めることはない。その意思というものが、ある意味で滑稽に見えて、ミロという人間の人間らしさというものが伝わってくるような気がした。
他の登場人物も、なかなか濃い人間が多い。老ヤクザは、自分が既に力を失っていることに気づかないという意味で滑稽だし、元隣人のホモは、定まらない芯のなさというものがとにかく滑稽だ。人間、悪に携わると本性が出るような気がするけど、本作はまさにそのことを体現しているような作品だ。悪というものを前にして人がいかに変わるか、ということを如実に物語っている。
そんな中で、本作の中で最も強く、ミロを最も追い詰めたのが、盲目の内妻である久恵だろう。ミロの義父である善三との閉鎖的な世界がすべてだった女で、その世界をミロにぶち壊しにされた怒りで生きている。とにかく、どんな悪の前でもひるまない女で、久恵の前では、悪の方が逆に怯むのではないかと思わせるほどである。芯がありすぎる女で、敵にしても味方にしても恐ろしい存在で、久恵は怖いな、と思った。
また後半でミロは、心の底から愛することの出来る男と出会うことになる。この物語の急転は、しかしミロの人生を好転するものでは決してないのだが、それでも、ミロという人生の歯車を回し続ける役には立ったといえるだろう。僕も、五十歳までに、人生の歯車を回し続けるだけの何かと出会うことができるだろうか、と思った。そうすれば、肉体も精神も死なないまま、五十歳を超えることができるだろう。
本作は、タイトルの通り、とにかくダークな作品です。馳星周的と言えば乱暴な言い方だけど、とにかく救いがまったくない。エンターテイメントなのかという疑問すら浮かぶけれども、しかしとにかく読ませるのである。救いのまったくないダークな物語で、しかも言ってしまえば、物語的にはそこらへんのノアールと大した違いはないのかもしれない。しかしそれでも、桐野夏生は読ませる文章を書く。グイグイ読んでしまう。文章のどこにそんな力があるのか、言葉できちんと指摘できないのだが、とにかく力強い文章で読者をひたすらに引っ張っていく。
とにかく読む価値のある作品だと思います。恐らく物語のどこかしらに、何かしら反応するのではないか、と思います。どす黒い内面を見事に表に出し切った物語は、読後感がいいとは決して言えないけど、読んでよかったと思わせる何かがあります。読んでみてください。
桐野夏生「ダーク」
愚行録(貫井徳郎)
人間という生き物はやはり、見た目だけでは決して分からないものである。
「人は見た目が9割」という新書が売れているのだけれども、これはどうだろな、という感じはする。確かに、「人は見た目が9割で判断される」というのは間違いない。世の中がそうなっているのだから、仕方ない。しかし、「人は見た目が9割実際と一致している」ということは、ほぼありえないだろう。
誰もが、外側の自分と内側の自分を持っている。人によってその使い分け方は様々だろうし、その両者にほとんど違いがないという人もいるだろう。
ただ大抵の人は、社会の中である程度の折り合いをつけるために外側の自分を注意深く構築し、内側の自分をある程度まで制御する、というような生き方をしているのではないか、と思う。
正直、僕自身がそういう人間である。
僕は基本的に、わかりずらい人間だと言われることが多い。何を考えているのか、何を感じているのかよくわからない、と。まあ、そういう風に外側の自分を作っているので、比較的成功だと言えば成功なわけです。まあ最近は、その外側の僕に、内側の本音をいろいろ織り交ぜながら、という感じになってきていますけど。今のバイト先で結構慣れてきたし、無駄に力もあるので、そういうことが出来るようになってきました。
僕がそうやって内面を隠して生きているような人間なので、他の人を見るときも、どこまでが作られた人格なのかな、ということを考えながら接する癖みたいなものが出来てしまっています。
例えばだけど僕は、他人が僕を誉める言葉をあまり信頼しないようにしています。まあ、お世辞だろう、と思うようにしているんです。誰だってそういう面はあるだろうけど、一応結構徹底してそれは意識するようにしています。まあ逆に、自分に対する悪い評価というのは、素直に耳に入れるのですが(まあそれを聞いて改善するかどうかはまた別の話)。
で、話は多少逸れるのですが、僕はそうやって内面をうまく隠せてしまう人っていうのがすごく好きなんですよね。なんていうか、そういう人ってすごく『冷たい』ていう印象になるんです。僕はその冷たさが結構好きなんですね。女性でも、冷たそうな人が好きですね。笑ってない小西真奈美とか最高ですね。笑ってる小西真奈美はあんまり好きじゃないんですけど(笑)。
それに、内面を隠せる人って、やっぱ頭いいなと感じることが多いですね。こういう言い方は悪く聞こえるかもしれないけど、計算が出来るというか、そういう印象ってすごく僕にはいいんです。男って、自分より頭のいい女性は苦手だ、みたいな風に聞くけど、僕は全然そんなことないですね。勉強が出来るという意味ではなく、頭がいい女性というのはいいと思いますよ。自分より頭がいいならなおさら魅力的ですね。
まあそんな僕の好みの女性の話なんかどうでもいいんですけど、とにかく人は内面を隠して生きている、という話でしたね。
でもそういう生き方ってやっぱ、どこかで無理が生じてくるんですね。それはもう仕方ないんです。本来の自分を押し隠して外側の自分で社会と対峙しているわけで、本当なら自分はこんなことしないのにとか、本当なら自分はこんなこと言わないのにとか、そういうことが日常茶飯事ですね。もちろん、慣れてくれば表面上はなんでもない感じになっていきますけど、でもやっぱりどこかで、ちょっとずつ何かが溜まっていっているんでしょうね。
僕は自分では、結構嘘をつくのがうまいと思っているんです。僕は、なるべく嘘をつかないように生きていこう(と書くとすごくいい人みたいですけど、正直に言えば、嘘をつく勇気がないということですね)思っているのですが、でも本気で嘘をつこうと思えば、結構ばれない自身はあります。
それと同じく、悪意だとかそういう感情も、結構悟られないように持ち続けることができるような気がします。自分でも怖いと思いますけどね。でも実際僕のような人はいると思いますね、たくさん。
いい人に見える人ほど危険だな、と僕は思います。とてもいい人に見える人っていうのは、完璧に自分を制御できる人なんです。だから、すごくいい人に見える人ほど、内面にドロドロしたものを抱えていたりすることが多いんではないかな、と思ったりします。
かなり脈絡のない話をいくつか書いたような気がします。まとまりがつかなくなるので、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、全編独白のみで構成された、ある事件にまつわる物語です。
まずはその事件について書きましょう。
閑静な住宅街に住むある4人家族が、何者かに惨殺される、という事件が起きました。両親と幼い子供二人という家族で、いずれも刃物でメッタ刺しか鈍器で執拗に殴られるなど、酷い殺され方でした。物盗りの犯行とも怨恨での犯行とも判断のつかない事件で、未だ解決されていません。
そして、その事件について、ノンフィクションライターと思われる男に対して、あらゆる人が被害者について語る、という独白と、妹がお兄ちゃんという人に語る独白という二つの独白によって全編構成されています。
ノンフィクションライターと思われる男が話を聞きに行くのは、被害者である田向浩樹と田向友季恵(旧姓夏原)の二人の同僚やかつての友人、と言った人々です。大学時代の友達もいれば、最近の知り合いもいる。いろんな時代の被害者たちの証言というものが積み重なっていきます。
独白という形式をとっているので、その語る人が持つフィルターというものをどうしても通った情報になります。自分に都合のいいように情報を、過去を解釈し、その印象のまま語ります。
このあらゆる人の独白によって、二人の被害者の姿というものがすこしずつ浮き彫りになっていきます。田向浩樹と田向友季恵という二人は、そういういろんな人の独白の中からしか姿が見えてこない存在で、印象ががらりと変わる、ということもしばしばです。
さて一方の妹の独白というのは、ろくでもない両親の元に生まれた自らの境遇と、お兄ちゃんという人をどれだけ頼りにしているか、どれだけ大切にしているか、と言ったことが語られていきます。父親にヤられたり、母親に虐待されたりと、不遇な人生を語っていきます。
そうした二つの独白が最後に交錯し、事件の真相が浮かび上がる…。
といった感じです。
読んでいて思ったのが、東野圭吾の「白夜行」に構図が似てるな、ということでした。「白夜行」は、二人の男女の内面描写を一切しないで、その周辺の人間の視点のみから二人の存在を際立たせていた傑作ですが、本作も、人の独白から、既に死んでいる被害者二人の姿を立ち上らせるという手法で、漠然とですが、似ているなと思いました。
すべての独白がそうというわけではないのですが、彼らの独白には一様に共通点があります。それは、語っている本人は悪く言っているつもりはないのに、聞いている人からすれば悪口に聞こえる、ということです。つまり、それぞれ独白をする人というのは、被害者のどちらかと関わりのある人なんだけども、その人について特別悪い感情を持っているわけではないのです。しかし、具体的なエピソードで彼らのことを語ろうとすると、何故か印象を悪くするような話をしてしまう、というパターンで、そういう、非常に些細だけど割と明確な悪意というものが、様々な独白によって積み上げられていって、被害者二人の姿というものが作られていく過程というのが、すごく面白いな、と思いました。
本作を読んだ僕の印象では、被害者の二人はどちらとも、内面を完璧に制御できる人だったのだと思います。もちろん、独白中にそうした表現もありましたが。だからこそ逆に、内に悪意を秘めているような人で、深く接している人間は実は気づかないのだけど、ちょっと離れたところにいる人は気づく、という距離感がうまいのだろうな、と思います。だからこそ、独白をする人というのは、被害者二人に対して基本的に悪い感情を持っていないのでしょう。
僕からすれば、田向浩樹は、非常に合理的で理屈っぽくて、本来ならば好きな部類の人間ですが、本作を読んだ印象では、ちょっとやりすぎだな、という感じがしてしまいました。だからあんまり好きじゃないですね。
田向友季恵の方は、こっちは本当に怖いですね。でも、接している時にその怖さに気づくことができたら、恐らく僕は惚れてしまうでしょう。むしろ、お嬢様的でセンスがよくてなんでもそつなくこなせてしまう、という人にはあまり興味がないので、本作で描かれたような日常だったとするならば、綺麗な人だなぐらいは思うだろうけど、あんまり関心は持たなかったかもしれないですね。
僕は正直に言うと、貫井徳郎の作品が結構苦手なんですけど、本作は結構面白かったですね。「慟哭」と「プリズム」は結構好きだったんだけど、他に読んだ作品がどうもそんなによくなくてダメだったんだけど、今回は当たりでした。東京創元社から出る貫井作品はいいですね。
あとどうでもいいことなんだけど、本作を読むと、慶応大学というのはなんて大学だ、と思う人が出てくるかもしれません。僕は、慶応大学に二年ほどいたのですけど、いや本作に書かれているようなことは僕の周囲ではまったくなかったですね。もちろん、本作で語られる慶応大学というのは今から少なくても10年以上前のものだし、僕が在籍していた頃内部生と言われる人とほとんど接点がなかった(内部生をそもそも見かけなかったという意味)ので確かなことは言えないのだけど、でも今の慶応大学は本作に描かれるような感じでは決してないと思いますね。男が女のカバンを持っているとこなんて見たことないし。そんなわけで本作を読んで、慶応大学というのは頭のおかしい大学なんだと思わないでもらえたらな、と勝手に思いました。
これ、最後の終わり方にちょっとなという感想を抱く人はいるかもしれないけど、僕は結構楽しめました。久しぶりに貫井作品で当たりだったから、ということもあるかもしれないけど。是非ともとまでは言わないけど、読んでみてください。
貫井徳郎「愚行録」
「人は見た目が9割」という新書が売れているのだけれども、これはどうだろな、という感じはする。確かに、「人は見た目が9割で判断される」というのは間違いない。世の中がそうなっているのだから、仕方ない。しかし、「人は見た目が9割実際と一致している」ということは、ほぼありえないだろう。
誰もが、外側の自分と内側の自分を持っている。人によってその使い分け方は様々だろうし、その両者にほとんど違いがないという人もいるだろう。
ただ大抵の人は、社会の中である程度の折り合いをつけるために外側の自分を注意深く構築し、内側の自分をある程度まで制御する、というような生き方をしているのではないか、と思う。
正直、僕自身がそういう人間である。
僕は基本的に、わかりずらい人間だと言われることが多い。何を考えているのか、何を感じているのかよくわからない、と。まあ、そういう風に外側の自分を作っているので、比較的成功だと言えば成功なわけです。まあ最近は、その外側の僕に、内側の本音をいろいろ織り交ぜながら、という感じになってきていますけど。今のバイト先で結構慣れてきたし、無駄に力もあるので、そういうことが出来るようになってきました。
僕がそうやって内面を隠して生きているような人間なので、他の人を見るときも、どこまでが作られた人格なのかな、ということを考えながら接する癖みたいなものが出来てしまっています。
例えばだけど僕は、他人が僕を誉める言葉をあまり信頼しないようにしています。まあ、お世辞だろう、と思うようにしているんです。誰だってそういう面はあるだろうけど、一応結構徹底してそれは意識するようにしています。まあ逆に、自分に対する悪い評価というのは、素直に耳に入れるのですが(まあそれを聞いて改善するかどうかはまた別の話)。
で、話は多少逸れるのですが、僕はそうやって内面をうまく隠せてしまう人っていうのがすごく好きなんですよね。なんていうか、そういう人ってすごく『冷たい』ていう印象になるんです。僕はその冷たさが結構好きなんですね。女性でも、冷たそうな人が好きですね。笑ってない小西真奈美とか最高ですね。笑ってる小西真奈美はあんまり好きじゃないんですけど(笑)。
それに、内面を隠せる人って、やっぱ頭いいなと感じることが多いですね。こういう言い方は悪く聞こえるかもしれないけど、計算が出来るというか、そういう印象ってすごく僕にはいいんです。男って、自分より頭のいい女性は苦手だ、みたいな風に聞くけど、僕は全然そんなことないですね。勉強が出来るという意味ではなく、頭がいい女性というのはいいと思いますよ。自分より頭がいいならなおさら魅力的ですね。
まあそんな僕の好みの女性の話なんかどうでもいいんですけど、とにかく人は内面を隠して生きている、という話でしたね。
でもそういう生き方ってやっぱ、どこかで無理が生じてくるんですね。それはもう仕方ないんです。本来の自分を押し隠して外側の自分で社会と対峙しているわけで、本当なら自分はこんなことしないのにとか、本当なら自分はこんなこと言わないのにとか、そういうことが日常茶飯事ですね。もちろん、慣れてくれば表面上はなんでもない感じになっていきますけど、でもやっぱりどこかで、ちょっとずつ何かが溜まっていっているんでしょうね。
僕は自分では、結構嘘をつくのがうまいと思っているんです。僕は、なるべく嘘をつかないように生きていこう(と書くとすごくいい人みたいですけど、正直に言えば、嘘をつく勇気がないということですね)思っているのですが、でも本気で嘘をつこうと思えば、結構ばれない自身はあります。
それと同じく、悪意だとかそういう感情も、結構悟られないように持ち続けることができるような気がします。自分でも怖いと思いますけどね。でも実際僕のような人はいると思いますね、たくさん。
いい人に見える人ほど危険だな、と僕は思います。とてもいい人に見える人っていうのは、完璧に自分を制御できる人なんです。だから、すごくいい人に見える人ほど、内面にドロドロしたものを抱えていたりすることが多いんではないかな、と思ったりします。
かなり脈絡のない話をいくつか書いたような気がします。まとまりがつかなくなるので、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、全編独白のみで構成された、ある事件にまつわる物語です。
まずはその事件について書きましょう。
閑静な住宅街に住むある4人家族が、何者かに惨殺される、という事件が起きました。両親と幼い子供二人という家族で、いずれも刃物でメッタ刺しか鈍器で執拗に殴られるなど、酷い殺され方でした。物盗りの犯行とも怨恨での犯行とも判断のつかない事件で、未だ解決されていません。
そして、その事件について、ノンフィクションライターと思われる男に対して、あらゆる人が被害者について語る、という独白と、妹がお兄ちゃんという人に語る独白という二つの独白によって全編構成されています。
ノンフィクションライターと思われる男が話を聞きに行くのは、被害者である田向浩樹と田向友季恵(旧姓夏原)の二人の同僚やかつての友人、と言った人々です。大学時代の友達もいれば、最近の知り合いもいる。いろんな時代の被害者たちの証言というものが積み重なっていきます。
独白という形式をとっているので、その語る人が持つフィルターというものをどうしても通った情報になります。自分に都合のいいように情報を、過去を解釈し、その印象のまま語ります。
このあらゆる人の独白によって、二人の被害者の姿というものがすこしずつ浮き彫りになっていきます。田向浩樹と田向友季恵という二人は、そういういろんな人の独白の中からしか姿が見えてこない存在で、印象ががらりと変わる、ということもしばしばです。
さて一方の妹の独白というのは、ろくでもない両親の元に生まれた自らの境遇と、お兄ちゃんという人をどれだけ頼りにしているか、どれだけ大切にしているか、と言ったことが語られていきます。父親にヤられたり、母親に虐待されたりと、不遇な人生を語っていきます。
そうした二つの独白が最後に交錯し、事件の真相が浮かび上がる…。
といった感じです。
読んでいて思ったのが、東野圭吾の「白夜行」に構図が似てるな、ということでした。「白夜行」は、二人の男女の内面描写を一切しないで、その周辺の人間の視点のみから二人の存在を際立たせていた傑作ですが、本作も、人の独白から、既に死んでいる被害者二人の姿を立ち上らせるという手法で、漠然とですが、似ているなと思いました。
すべての独白がそうというわけではないのですが、彼らの独白には一様に共通点があります。それは、語っている本人は悪く言っているつもりはないのに、聞いている人からすれば悪口に聞こえる、ということです。つまり、それぞれ独白をする人というのは、被害者のどちらかと関わりのある人なんだけども、その人について特別悪い感情を持っているわけではないのです。しかし、具体的なエピソードで彼らのことを語ろうとすると、何故か印象を悪くするような話をしてしまう、というパターンで、そういう、非常に些細だけど割と明確な悪意というものが、様々な独白によって積み上げられていって、被害者二人の姿というものが作られていく過程というのが、すごく面白いな、と思いました。
本作を読んだ僕の印象では、被害者の二人はどちらとも、内面を完璧に制御できる人だったのだと思います。もちろん、独白中にそうした表現もありましたが。だからこそ逆に、内に悪意を秘めているような人で、深く接している人間は実は気づかないのだけど、ちょっと離れたところにいる人は気づく、という距離感がうまいのだろうな、と思います。だからこそ、独白をする人というのは、被害者二人に対して基本的に悪い感情を持っていないのでしょう。
僕からすれば、田向浩樹は、非常に合理的で理屈っぽくて、本来ならば好きな部類の人間ですが、本作を読んだ印象では、ちょっとやりすぎだな、という感じがしてしまいました。だからあんまり好きじゃないですね。
田向友季恵の方は、こっちは本当に怖いですね。でも、接している時にその怖さに気づくことができたら、恐らく僕は惚れてしまうでしょう。むしろ、お嬢様的でセンスがよくてなんでもそつなくこなせてしまう、という人にはあまり興味がないので、本作で描かれたような日常だったとするならば、綺麗な人だなぐらいは思うだろうけど、あんまり関心は持たなかったかもしれないですね。
僕は正直に言うと、貫井徳郎の作品が結構苦手なんですけど、本作は結構面白かったですね。「慟哭」と「プリズム」は結構好きだったんだけど、他に読んだ作品がどうもそんなによくなくてダメだったんだけど、今回は当たりでした。東京創元社から出る貫井作品はいいですね。
あとどうでもいいことなんだけど、本作を読むと、慶応大学というのはなんて大学だ、と思う人が出てくるかもしれません。僕は、慶応大学に二年ほどいたのですけど、いや本作に書かれているようなことは僕の周囲ではまったくなかったですね。もちろん、本作で語られる慶応大学というのは今から少なくても10年以上前のものだし、僕が在籍していた頃内部生と言われる人とほとんど接点がなかった(内部生をそもそも見かけなかったという意味)ので確かなことは言えないのだけど、でも今の慶応大学は本作に描かれるような感じでは決してないと思いますね。男が女のカバンを持っているとこなんて見たことないし。そんなわけで本作を読んで、慶応大学というのは頭のおかしい大学なんだと思わないでもらえたらな、と勝手に思いました。
これ、最後の終わり方にちょっとなという感想を抱く人はいるかもしれないけど、僕は結構楽しめました。久しぶりに貫井作品で当たりだったから、ということもあるかもしれないけど。是非ともとまでは言わないけど、読んでみてください。
貫井徳郎「愚行録」
世田谷一家殺人事件―侵入者たちの告白―(斎藤寅)
日本の安全神話は、すっかり崩れ去っている。
安心して生活を送るというその一点に関して、日本も他の国と大差のない状況になってきてしまっている。
僕は、正確なデータを持っているわけではない。以前と比較して、犯罪の検挙率が下がってきている、というデータは知っているけど、犯罪が増加しているのかどうかはわからない。それに、もし数字の上で犯罪が増加していても、時代背景も犯罪の質も違う中で、以前と単純に比較することはできないだろう。
しかしそれでも僕は、印象としては、犯罪が増加しているのではないか、と思う。しかも、凶悪な犯罪が。
僕が思う凶悪な犯罪というのは、犯罪を犯す動機を理解することができない犯罪、ということである。動機を理解できれば犯罪を犯してもいいということでは決してない。今日もニュースで、突然家庭内暴力を始めた娘に手を焼いて殺してしまった両親の話が流れていたけども、何にしても殺してはいけないだろうと思う。
最近は、そんな理由で人を殺すのか、という事件が多いような気がする。それは特に、少年犯罪と外国人犯罪に多いような気がする。少年は、単なる興味から人を殺し、外国人は、些細な金のために人を殺す。なんとも殺伐とした世の中になったものである。本当に自分がいつ被害者になるかわからないし、隣人がいつ加害者になるかもわからない、そんな世の中なのである。
犯罪に手を染めてしまうその心理を、僕はどうしても理解することが出来ない。どんな場合でも、その犯罪を犯すよりももっといい選択肢があるはずだ、と僕は思っている。もちろんその道は厳しい道かもしれないが、それでも犯罪に走ってしまうよりはましだろうと僕は思ってしまうのだ。
ただ一方で、ほんの些細なことから犯罪という深淵にはまってしまうということもあるのかもしれない、と思う。以前、桐野夏生の「OUT」という作品を読んだ。この作品は、なんでもないただの主婦が、ある日突然人をバラバラに解体して捨てる、ということをやってのける、という話で、何でもなかったはずの日常から、一転犯罪という世界へ踏み込んでしまうその境界が、実は案外すぐ身近にあるのかもしれないな、と思ったものである。
今も毎日、ありとあらゆる犯罪のニュースが世間を騒がせている。マスコミは、新しい事件が起きるとそれまでの事件をなかったことのように扱う。だからこそ一般の人も、どれだけ大事件が起きても、すぐに忘れてしまう。
常にそこには被害者がいて、加害者がいる。その事件に一生心を痛める人もいるし、実りのない捜査を永遠続けている人もいる。僕らは、そういう人に思いを馳せることがあまりない。すぐに忘れてしまう。
だからこそ、時にはこうして、かつての事件を振り返ってみる、ということも、大事なのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、2000年12月30日という世紀末に起きた、世田谷一家殺人事件と称されるあの凶悪な事件についてのノンフィクションである。
帯にはこうある。
「ついに犯人を突き止めた!」
僕の中で犯罪ノンフィクションのイメージというのは、既に犯人が捕まっていて、その犯人の生い立ちやら犯罪に至るまでの軌跡何かを取材して本にしたもの、という感じだった。また確かに、下山事件などのように、未解決で犯人は誰なのだろうか、と推測するようなノンフィクションもある。しかしそういう作品は、大抵昔の事件を扱ったもので、しかも戦時下や国の陰謀などが絡んだ感じだったような感じがするので、本作のように、最近の事件を題に取り、その未解決である事件の犯人を探し出す、というスタイルの本は、結構新しいのではないか、と思う。
冒頭、被害者の母親という人との邂逅が描かれる。事件発生以降、決して表に出ることのなかったその母親と、著者は偶然出会うことが出来た。その時彼女の口から出た言葉。その言葉を聞いて著者は、この事件についてかなり真剣に取材をしなくてはいけないな、と心に決めたのだという。
世田谷一家殺人事件という事件を少しおさらいしよう。2000年12月30日に発生したその事件は、翌31日に遺体が発見された。両親と幼い子供2人の計4人が、むごたらしいやり方で惨殺された。
当初、事件解決は容易だと思われていた。それは、現場に残された大量の遺留品のためである。血のついた凶器を始め、靴や衣服などありとあらゆるものが残されていた。そして何よりも、犯人の指紋が残されていたのだというから、解決が容易だと思ったのも仕方がないだろう。
しかし、捜査は難航した。犯行直後の犯人の異常な行動なども次第に明らかになっていったのだが、それでも、犯人に至る道はまるでひらけていかなかった。
そうこうしているうちに約6年。未だに犯人逮捕というニュースはない。
さて、著者はこの事件に対してどうアプローチし、どうやって犯人を突き止めるに至ったのか、というのが本作のメインの内容であるが、その最初のアプローチだけ書いておこうと思う。
つまりそれは、アジア各国からの留学生による、クリミナルグループの存在である。著者は、このクリミナルグループを追った。世田谷一家殺人事件とはまるで関係ないと思われたいくつかの事件が繋がり、また著者のアンダーグラウンドな人脈をいくつも駆使して、このクリミナルグループの実態というものに迫っていく。
本作を読むと分かるが、日本におけるこのクリミナルグループによる犯罪は、悪化の一途を辿っているといえるようだ。彼らは、カネのためだけに集まる。他のどんな理由もなく、人をあっけなく殺す。そんな無慈悲な事件がこれから日本でも頻発するだろうと思うと、ちょっと恐ろしいと感じてしまう。
さてというわけで大体本作の内容を紹介したが、まあ悪くない作品だと思う。冒頭で、
「捜査関係者のなかには、私が導きだした結論を一笑に付す者がいるかもしれない。」
と書いているが、本作に書かれている取材の経緯がすべて真実であるならば、著者が導き出したこの結論を否定する論拠はないように思う。何しろ、指紋の一致という明確な証拠があるのである。今警察が本作をどう捉えているか知らないが、何人かの刑事を巻き込んで得られたこの結論は、正しいのではないだろうか。
もちろん本作はすべて、著者の視点である。情報も、著者の色眼鏡で選び取られている。だから完全にこれが真実であると言ってしまうこともまた危険なのであるが。
ただ本作を読むと、警察という組織の硬直さということがやはり捜査に大きく支障をきたしているのだな、と思う。縄張り意識やエリート意識などによって、漏れのない捜査というものがどうにも実現されないのである。なんとかならないものなのだろうが、なんとかしてほしいものである。
さて、本作の欠点を二つ挙げようと思う。
一つは、文章である。僕にはどうにも、稚拙に感じられてしまった。
自分はジャーナリストであるという自負でもあるのか、とにかく難しい言葉を連発したがるようだ。僕は、ノンフィクションというものは、誇張な難解さなどを一切省いた、平易で客観的な文章であるべきだと思うのに、本作では随所に、無駄に難しい言葉が使われていて、難しい言葉を知っていることを自慢したいのだろうか、と思ってしまった。かと思えば一方で、そうした難解な言葉を散見させているとは思えないほど稚拙な表現が混じっていたりで、本当にこれは、校正をした作品なんだろうか、と思った。なんというか、本にするのならば、もう少し文章に気を遣って欲しかったな、と僕は思いました。
もう一つは、何が事実なのか分かりにくい、ということです。本作中に何度も、ある事件における犯人視点の描写、というものが出てきます。それらは、何の説明もなく唐突に描かれるのですが、これは憶測なのか伝聞なのか、想像なのか事実なのか、まったくわからないままで読むという状況でした。普通に考えれば、犯人視点の描写など出来るわけがないので、これは何なんだ、とずっと思っていました。かなり後になって、それらの描写について説明がちょっとされるのですが、やはりその描写に入る前の段階で、これはこれこれこう言う形での情報です、みたいなことを書くべきだったのではないか、と思いました。構成が悪い、ということですね。
まあそういう欠点はあるにしろ、内容的には決して悪くはないな、と思います。本作の内容が真実なのかどうなのか、それは僕にはわかりませんが、まあ読んでみるだけの価値はある作品ではないかな、と思います。
斎藤寅「世田谷一家殺人事件―侵入者たちの告白―」
安心して生活を送るというその一点に関して、日本も他の国と大差のない状況になってきてしまっている。
僕は、正確なデータを持っているわけではない。以前と比較して、犯罪の検挙率が下がってきている、というデータは知っているけど、犯罪が増加しているのかどうかはわからない。それに、もし数字の上で犯罪が増加していても、時代背景も犯罪の質も違う中で、以前と単純に比較することはできないだろう。
しかしそれでも僕は、印象としては、犯罪が増加しているのではないか、と思う。しかも、凶悪な犯罪が。
僕が思う凶悪な犯罪というのは、犯罪を犯す動機を理解することができない犯罪、ということである。動機を理解できれば犯罪を犯してもいいということでは決してない。今日もニュースで、突然家庭内暴力を始めた娘に手を焼いて殺してしまった両親の話が流れていたけども、何にしても殺してはいけないだろうと思う。
最近は、そんな理由で人を殺すのか、という事件が多いような気がする。それは特に、少年犯罪と外国人犯罪に多いような気がする。少年は、単なる興味から人を殺し、外国人は、些細な金のために人を殺す。なんとも殺伐とした世の中になったものである。本当に自分がいつ被害者になるかわからないし、隣人がいつ加害者になるかもわからない、そんな世の中なのである。
犯罪に手を染めてしまうその心理を、僕はどうしても理解することが出来ない。どんな場合でも、その犯罪を犯すよりももっといい選択肢があるはずだ、と僕は思っている。もちろんその道は厳しい道かもしれないが、それでも犯罪に走ってしまうよりはましだろうと僕は思ってしまうのだ。
ただ一方で、ほんの些細なことから犯罪という深淵にはまってしまうということもあるのかもしれない、と思う。以前、桐野夏生の「OUT」という作品を読んだ。この作品は、なんでもないただの主婦が、ある日突然人をバラバラに解体して捨てる、ということをやってのける、という話で、何でもなかったはずの日常から、一転犯罪という世界へ踏み込んでしまうその境界が、実は案外すぐ身近にあるのかもしれないな、と思ったものである。
今も毎日、ありとあらゆる犯罪のニュースが世間を騒がせている。マスコミは、新しい事件が起きるとそれまでの事件をなかったことのように扱う。だからこそ一般の人も、どれだけ大事件が起きても、すぐに忘れてしまう。
常にそこには被害者がいて、加害者がいる。その事件に一生心を痛める人もいるし、実りのない捜査を永遠続けている人もいる。僕らは、そういう人に思いを馳せることがあまりない。すぐに忘れてしまう。
だからこそ、時にはこうして、かつての事件を振り返ってみる、ということも、大事なのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、2000年12月30日という世紀末に起きた、世田谷一家殺人事件と称されるあの凶悪な事件についてのノンフィクションである。
帯にはこうある。
「ついに犯人を突き止めた!」
僕の中で犯罪ノンフィクションのイメージというのは、既に犯人が捕まっていて、その犯人の生い立ちやら犯罪に至るまでの軌跡何かを取材して本にしたもの、という感じだった。また確かに、下山事件などのように、未解決で犯人は誰なのだろうか、と推測するようなノンフィクションもある。しかしそういう作品は、大抵昔の事件を扱ったもので、しかも戦時下や国の陰謀などが絡んだ感じだったような感じがするので、本作のように、最近の事件を題に取り、その未解決である事件の犯人を探し出す、というスタイルの本は、結構新しいのではないか、と思う。
冒頭、被害者の母親という人との邂逅が描かれる。事件発生以降、決して表に出ることのなかったその母親と、著者は偶然出会うことが出来た。その時彼女の口から出た言葉。その言葉を聞いて著者は、この事件についてかなり真剣に取材をしなくてはいけないな、と心に決めたのだという。
世田谷一家殺人事件という事件を少しおさらいしよう。2000年12月30日に発生したその事件は、翌31日に遺体が発見された。両親と幼い子供2人の計4人が、むごたらしいやり方で惨殺された。
当初、事件解決は容易だと思われていた。それは、現場に残された大量の遺留品のためである。血のついた凶器を始め、靴や衣服などありとあらゆるものが残されていた。そして何よりも、犯人の指紋が残されていたのだというから、解決が容易だと思ったのも仕方がないだろう。
しかし、捜査は難航した。犯行直後の犯人の異常な行動なども次第に明らかになっていったのだが、それでも、犯人に至る道はまるでひらけていかなかった。
そうこうしているうちに約6年。未だに犯人逮捕というニュースはない。
さて、著者はこの事件に対してどうアプローチし、どうやって犯人を突き止めるに至ったのか、というのが本作のメインの内容であるが、その最初のアプローチだけ書いておこうと思う。
つまりそれは、アジア各国からの留学生による、クリミナルグループの存在である。著者は、このクリミナルグループを追った。世田谷一家殺人事件とはまるで関係ないと思われたいくつかの事件が繋がり、また著者のアンダーグラウンドな人脈をいくつも駆使して、このクリミナルグループの実態というものに迫っていく。
本作を読むと分かるが、日本におけるこのクリミナルグループによる犯罪は、悪化の一途を辿っているといえるようだ。彼らは、カネのためだけに集まる。他のどんな理由もなく、人をあっけなく殺す。そんな無慈悲な事件がこれから日本でも頻発するだろうと思うと、ちょっと恐ろしいと感じてしまう。
さてというわけで大体本作の内容を紹介したが、まあ悪くない作品だと思う。冒頭で、
「捜査関係者のなかには、私が導きだした結論を一笑に付す者がいるかもしれない。」
と書いているが、本作に書かれている取材の経緯がすべて真実であるならば、著者が導き出したこの結論を否定する論拠はないように思う。何しろ、指紋の一致という明確な証拠があるのである。今警察が本作をどう捉えているか知らないが、何人かの刑事を巻き込んで得られたこの結論は、正しいのではないだろうか。
もちろん本作はすべて、著者の視点である。情報も、著者の色眼鏡で選び取られている。だから完全にこれが真実であると言ってしまうこともまた危険なのであるが。
ただ本作を読むと、警察という組織の硬直さということがやはり捜査に大きく支障をきたしているのだな、と思う。縄張り意識やエリート意識などによって、漏れのない捜査というものがどうにも実現されないのである。なんとかならないものなのだろうが、なんとかしてほしいものである。
さて、本作の欠点を二つ挙げようと思う。
一つは、文章である。僕にはどうにも、稚拙に感じられてしまった。
自分はジャーナリストであるという自負でもあるのか、とにかく難しい言葉を連発したがるようだ。僕は、ノンフィクションというものは、誇張な難解さなどを一切省いた、平易で客観的な文章であるべきだと思うのに、本作では随所に、無駄に難しい言葉が使われていて、難しい言葉を知っていることを自慢したいのだろうか、と思ってしまった。かと思えば一方で、そうした難解な言葉を散見させているとは思えないほど稚拙な表現が混じっていたりで、本当にこれは、校正をした作品なんだろうか、と思った。なんというか、本にするのならば、もう少し文章に気を遣って欲しかったな、と僕は思いました。
もう一つは、何が事実なのか分かりにくい、ということです。本作中に何度も、ある事件における犯人視点の描写、というものが出てきます。それらは、何の説明もなく唐突に描かれるのですが、これは憶測なのか伝聞なのか、想像なのか事実なのか、まったくわからないままで読むという状況でした。普通に考えれば、犯人視点の描写など出来るわけがないので、これは何なんだ、とずっと思っていました。かなり後になって、それらの描写について説明がちょっとされるのですが、やはりその描写に入る前の段階で、これはこれこれこう言う形での情報です、みたいなことを書くべきだったのではないか、と思いました。構成が悪い、ということですね。
まあそういう欠点はあるにしろ、内容的には決して悪くはないな、と思います。本作の内容が真実なのかどうなのか、それは僕にはわかりませんが、まあ読んでみるだけの価値はある作品ではないかな、と思います。
斎藤寅「世田谷一家殺人事件―侵入者たちの告白―」
金閣寺(三島由紀夫)
美とはなんだろうか、と思う。
美しさというものは、人によって大きく違う。まさにそれは認識であり、絶対的な基準など存在することはない。
太古の昔から、黄金率というものは知られていた。黄金率というある一定の比率に配置されたものは、人間が見て美しさを感じるものだということを、古代の人は知っていた。だからこそ黄金率は、芸術などに盛んに取り入れられたし、自然界の中に黄金率の配置を見つけては、これこそ真理だという風な確信を強めていったことだろう。
しかしそれは、価値観がすでに刷り込まれた状態での鑑賞にしかならないのではないか、と僕なんかは思ってしまう。確かに、黄金率という発想がなかった頃は、黄金率の配置のものがなんとなく美しいなと、無意識のうちに感じていたのだろう。しかし、黄金率に配置されたものは美しい、という考えが広まれば、今度は、これは黄金率の配置だからこそ美しい、という発想に切り替わってしまいかねない。
つまり、美というのは、根底となる価値観をどれだけ共有・浸透するかによって、絶対さが身に付くのではないか、と思ってしまう。
今でも、綺麗な女性たちがモデルとして、テレビや雑誌などに登場する。しかしそれも、価値観の共有による、絶対さの浸透だろう。こういう女性が美しいのだ、という価値観を共有することで、人は美を鑑賞し、美を追求することができるのだ。よく言われるように、かつては小野小町が美しいと言われた。しかし小野小町は、現代の基準から言えば決して美人とはいえない風貌だったようだ。時代によって美は変わるものだが、美の基準に振り回される人の在り様は変わることがない。
森博嗣という作家が面白いことを言っている。氏はかつて、大学の建築学科の助教授であり、自宅の設計をした経験がある。その際に、こんなようなことを言っていた。
『最近の住宅は、自然光を取り入れた明るさを強調することが多いが、僕は暗い家の方が好きだ。明るい家こそ善だという考えに人は振り回されている。』
大分ニュアンスは違うかもしれないが、大体こんな感じである。
美というものは、その背後にある基準抜きにして語ることのできないものだ。時代や環境によって、美の基準というものは大きく変化してしまう。美の基準という背景に置かれた、かりそめの絶対性というものが、なるほど美というものの本質なのかもしれない。その儚さが人を魅了し、人を引き寄せるのかもしれない。
ただ、これだけは明確に言えるかもしれない。それは、美しいものを完膚なきまでに破壊してしまいたいという欲求。それこそは、人間の悪しき衝動として、心の奥底にひっそりと潜んでいるだろう、と。その衝動を突き動かされるような美に出会うことこそが、人生の間違いであり、また人生の耽美さでもあるだろう。美しいものを壊したいという不変の欲求こそが、美を世界に留めているのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ある一人の禅僧が、金閣寺を燃やすに至るまでの内面の葛藤を描いた作品です。
というだけの説明ではなんともあれなので、もう少し書きましょう。
本作は、実際にあった事件を元にして描かれた作品です。昭和25年7月1日に、寺僧が鹿苑寺の有名なあの金閣を燃やし消失させたという事件。その事件の犯人の生い立ちにどこまで忠実なのか(あるいは設定だけを借りて実際とはまるで無関係な物語なのか)本作を読んだだけではわからないのですが、金閣寺を燃やしてしまう禅僧の子供時代からの生い立ちをつぶさに追って、その変遷や葛藤や苦悩や快楽を描いています。
とにかく本作を読んだ僕の第一の感想は、眠かったなぁ、というものです。疲れていた時期に読んだというのもあるのだろうけども、とにかく読んでいると眠くなってきて、なんども目を閉じてしまいました。ちゃんと読もうと思うのだけど、文章がなかなか入ってこなくて、気づくと数行文章の意味を理解しないまま読んでいたりして、ちょっと戻るみたいなことを繰り返していたので、どうにも内容をうまくつかめませんでした。
とにかく、国語の授業が大嫌いだったので、教科書の文章を読んでいるような本作は、どうにも馴染めないものでした。やっぱり、昔の文章というのは読むのが難しいですね。間に旅行を挟んだというのもあるけど、読むのにすごく時間が掛かりました。
金閣寺を燃やそうとする男は、かなり屈折していて(まあ屈折しているという一言で片付けられるものでもないのだろうけど)、その男の心の揺れ方というのは、ちょっと面白いなと思いました。日常の中の些細な出来事から、心の触れ幅が微妙に変化していって、親や友人や老師との関係の中で立ち現れる様々な感情の軌跡が、彼の歩む先を僅かに揺らし続けるといったような按配で、始終落ち着くことのない立ち位置は、読んでいる者の世界の足場も揺らすような感じで、その危うい不安定さがいいなと思いました。
ただ結局、本作中の男が何故金閣寺に火をつけなくてはならなかったのか、それはよくわからなかったですね。もちろんそれは、一言で言葉に出来るようなものではないのだろうけど(それなら小説はいらないわけで)、それでも、なんというかその断片でも掴みきれなかったな、という感じです。美しいものを破壊したいという破壊衝動は理解できるし、彼にとって美とはすなわち金閣だったというのも理解できるけど、その美に突き動かされるべき彼の内面の衝動というものが、うまく理解できませんでした。
まあなんというか、やはり難しい作品でした。古典にはやはりあまり手を出さないようにしよう、と思いました。
最後に、本作中でちょっとこれはいいなと思う文章を2、3抜き出して終わろうと思います。
(前略)これが私のわるい性格だ。一つの正直な感情を、いろんな理由づけで正当化しているうちはいいが、時には、自分の頭脳の編み出した無数の理由が、自分でも思いがけない感情を私に強いるようになる。その感情は本来の私のものではないのである。
(後略)
(前略)
なぜ露出した腸が凄惨なのだろう。何故人間の内側を見て、悚然として、目を覆ったりしなければならないのだろう。何故血の流出が、人に衝撃を与えるのだろう。何故人間の内臓が醜いのだろう。…それはつやつやした若々しい皮膚の美しさと、全く同質のものではないか。(後略)
「(前略)
人の苦悶と血と断末魔の呻きを見ることは、人間を謙虚にし、人の心を繊細に、明るく、和やかにするんだのに。俺達が残虐になったり、殺伐になったりするのは、決してそんなときではない。俺たちが突如として残虐になるのは、たとえばこんなうららかな春の午後、よく刈り込まれた芝生の上に、木洩れ日の戯れているのをぼんやり眺めているときのような、そういう瞬間だと思わないかね。
世界中のありとあらゆる悪夢、歴史上のありとあらゆる悪夢はそういう風にして生まれたんだ。しかし白日の下に、血みどろになって悶絶する人の姿は、悪夢にはっきりした輪郭を与え、悪夢を部室かしてしまう。悪夢はわれわれの苦悩ではなく、他人の烈しい肉体的苦痛にすぎなくなる。ところで他人の痛みは、われわれには感じられない。なんという救いだろう!」
(後略)
(前略)
小刻みにゆく塩垂れた帯の背を眺めながら、母を殊更醜くしているものはなんだと私は考えた。母を醜くしているのは、…それは希望だった。(後略)
三島由紀夫「金閣寺」
美しさというものは、人によって大きく違う。まさにそれは認識であり、絶対的な基準など存在することはない。
太古の昔から、黄金率というものは知られていた。黄金率というある一定の比率に配置されたものは、人間が見て美しさを感じるものだということを、古代の人は知っていた。だからこそ黄金率は、芸術などに盛んに取り入れられたし、自然界の中に黄金率の配置を見つけては、これこそ真理だという風な確信を強めていったことだろう。
しかしそれは、価値観がすでに刷り込まれた状態での鑑賞にしかならないのではないか、と僕なんかは思ってしまう。確かに、黄金率という発想がなかった頃は、黄金率の配置のものがなんとなく美しいなと、無意識のうちに感じていたのだろう。しかし、黄金率に配置されたものは美しい、という考えが広まれば、今度は、これは黄金率の配置だからこそ美しい、という発想に切り替わってしまいかねない。
つまり、美というのは、根底となる価値観をどれだけ共有・浸透するかによって、絶対さが身に付くのではないか、と思ってしまう。
今でも、綺麗な女性たちがモデルとして、テレビや雑誌などに登場する。しかしそれも、価値観の共有による、絶対さの浸透だろう。こういう女性が美しいのだ、という価値観を共有することで、人は美を鑑賞し、美を追求することができるのだ。よく言われるように、かつては小野小町が美しいと言われた。しかし小野小町は、現代の基準から言えば決して美人とはいえない風貌だったようだ。時代によって美は変わるものだが、美の基準に振り回される人の在り様は変わることがない。
森博嗣という作家が面白いことを言っている。氏はかつて、大学の建築学科の助教授であり、自宅の設計をした経験がある。その際に、こんなようなことを言っていた。
『最近の住宅は、自然光を取り入れた明るさを強調することが多いが、僕は暗い家の方が好きだ。明るい家こそ善だという考えに人は振り回されている。』
大分ニュアンスは違うかもしれないが、大体こんな感じである。
美というものは、その背後にある基準抜きにして語ることのできないものだ。時代や環境によって、美の基準というものは大きく変化してしまう。美の基準という背景に置かれた、かりそめの絶対性というものが、なるほど美というものの本質なのかもしれない。その儚さが人を魅了し、人を引き寄せるのかもしれない。
ただ、これだけは明確に言えるかもしれない。それは、美しいものを完膚なきまでに破壊してしまいたいという欲求。それこそは、人間の悪しき衝動として、心の奥底にひっそりと潜んでいるだろう、と。その衝動を突き動かされるような美に出会うことこそが、人生の間違いであり、また人生の耽美さでもあるだろう。美しいものを壊したいという不変の欲求こそが、美を世界に留めているのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ある一人の禅僧が、金閣寺を燃やすに至るまでの内面の葛藤を描いた作品です。
というだけの説明ではなんともあれなので、もう少し書きましょう。
本作は、実際にあった事件を元にして描かれた作品です。昭和25年7月1日に、寺僧が鹿苑寺の有名なあの金閣を燃やし消失させたという事件。その事件の犯人の生い立ちにどこまで忠実なのか(あるいは設定だけを借りて実際とはまるで無関係な物語なのか)本作を読んだだけではわからないのですが、金閣寺を燃やしてしまう禅僧の子供時代からの生い立ちをつぶさに追って、その変遷や葛藤や苦悩や快楽を描いています。
とにかく本作を読んだ僕の第一の感想は、眠かったなぁ、というものです。疲れていた時期に読んだというのもあるのだろうけども、とにかく読んでいると眠くなってきて、なんども目を閉じてしまいました。ちゃんと読もうと思うのだけど、文章がなかなか入ってこなくて、気づくと数行文章の意味を理解しないまま読んでいたりして、ちょっと戻るみたいなことを繰り返していたので、どうにも内容をうまくつかめませんでした。
とにかく、国語の授業が大嫌いだったので、教科書の文章を読んでいるような本作は、どうにも馴染めないものでした。やっぱり、昔の文章というのは読むのが難しいですね。間に旅行を挟んだというのもあるけど、読むのにすごく時間が掛かりました。
金閣寺を燃やそうとする男は、かなり屈折していて(まあ屈折しているという一言で片付けられるものでもないのだろうけど)、その男の心の揺れ方というのは、ちょっと面白いなと思いました。日常の中の些細な出来事から、心の触れ幅が微妙に変化していって、親や友人や老師との関係の中で立ち現れる様々な感情の軌跡が、彼の歩む先を僅かに揺らし続けるといったような按配で、始終落ち着くことのない立ち位置は、読んでいる者の世界の足場も揺らすような感じで、その危うい不安定さがいいなと思いました。
ただ結局、本作中の男が何故金閣寺に火をつけなくてはならなかったのか、それはよくわからなかったですね。もちろんそれは、一言で言葉に出来るようなものではないのだろうけど(それなら小説はいらないわけで)、それでも、なんというかその断片でも掴みきれなかったな、という感じです。美しいものを破壊したいという破壊衝動は理解できるし、彼にとって美とはすなわち金閣だったというのも理解できるけど、その美に突き動かされるべき彼の内面の衝動というものが、うまく理解できませんでした。
まあなんというか、やはり難しい作品でした。古典にはやはりあまり手を出さないようにしよう、と思いました。
最後に、本作中でちょっとこれはいいなと思う文章を2、3抜き出して終わろうと思います。
(前略)これが私のわるい性格だ。一つの正直な感情を、いろんな理由づけで正当化しているうちはいいが、時には、自分の頭脳の編み出した無数の理由が、自分でも思いがけない感情を私に強いるようになる。その感情は本来の私のものではないのである。
(後略)
(前略)
なぜ露出した腸が凄惨なのだろう。何故人間の内側を見て、悚然として、目を覆ったりしなければならないのだろう。何故血の流出が、人に衝撃を与えるのだろう。何故人間の内臓が醜いのだろう。…それはつやつやした若々しい皮膚の美しさと、全く同質のものではないか。(後略)
「(前略)
人の苦悶と血と断末魔の呻きを見ることは、人間を謙虚にし、人の心を繊細に、明るく、和やかにするんだのに。俺達が残虐になったり、殺伐になったりするのは、決してそんなときではない。俺たちが突如として残虐になるのは、たとえばこんなうららかな春の午後、よく刈り込まれた芝生の上に、木洩れ日の戯れているのをぼんやり眺めているときのような、そういう瞬間だと思わないかね。
世界中のありとあらゆる悪夢、歴史上のありとあらゆる悪夢はそういう風にして生まれたんだ。しかし白日の下に、血みどろになって悶絶する人の姿は、悪夢にはっきりした輪郭を与え、悪夢を部室かしてしまう。悪夢はわれわれの苦悩ではなく、他人の烈しい肉体的苦痛にすぎなくなる。ところで他人の痛みは、われわれには感じられない。なんという救いだろう!」
(後略)
(前略)
小刻みにゆく塩垂れた帯の背を眺めながら、母を殊更醜くしているものはなんだと私は考えた。母を醜くしているのは、…それは希望だった。(後略)
三島由紀夫「金閣寺」
英雄の哲学(イチロー×矢沢永吉)
天才っていう存在は、結構いると思う。思うのだ。それは、どこかの感想にも書いた。あれだ、西尾維新のデスノートのノベライズだ。
まあそれはいいのだけど、でもじゃあ、英雄って呼ばれる人はどうだろう。ヒーローって呼ばれる人はどうだろう、って考えてみると、これはかなり少ないだろう。
ぱっと思いつくのは、もう歴史上の人物になっちゃったりする。もはや、英雄なんて、そういう存在である。
天才と英雄の違いはなんだろうか。
天才というのは、純粋に能力の問題なんだと思う。例えばありきたりだけど、計算が速くできるとか、歌がめちゃくちゃうまいとか、そういう能力の問題。それは、先天的なものでも努力によるものでもいいんだけど、人よりずば抜けた能力を持っているということが重要である。
しかし英雄となると、能力だけの問題というわけにはいかない。むしろ、英雄であるために、能力はいらないのかもしれないのかもしれないとさえ思う。
英雄とは、生き方だと思う。どれだけ多くの人間に、その生き方を認められるか、支持されるか。これが、英雄としての唯一にして最大の条件だろうな、と思う。だから、能力が伴わなくても、全然問題ない。全然ダメ人間でも、でもその生き方が熱狂的に支持されたりすれば、それはもうヒーローだと僕は思うのだ。まあ、そんなことはほとんどないと思うのだけど。
そう考えると、ヒーローの生まれにくい時代になったな、と思う。
昔は、それほど多くの人間の生き方に触れられるわけではなかった。情報を得る機会が少なかったし、そうなると、より情報が多く流れる人々に熱中していくのは、当然だろう。例えば、ビートルズはヒーローだと思うけど、あれだって、情報をもたらす人間がみんなビートルズの方ばっか向いてたんだから、受け取る人間だってそりゃあ熱狂するだろう、とそういうことだったんではないかと思う。
しかし今は、あらゆる手段によって、ありとあらゆる人の生き方を知ることができるような世の中になった。だから人々はそれぞれ、自分の中のヒーローを見つけ出して、それを応援していくようになる。あの人の魅力は、まだ世間には認められてないけど、いいの私だけがわかってれば。あなたは私のヒーローなんだから。まあ要するに、こんな感じである。
そうなると、社会全体としてのヒーローというのは生まれにくい。みんながてんでバラバラの方向を向いているわけで、熱狂がどんどんと分散されていってしまう。そうなれば、ヒーローでありえた人はヒーローになり損ねるし、ヒーローになりたければ、血の滲むような努力をするか、ありえない幸運を待つしかない感じになっている。
でも、やはり時代を象徴するヒーローは生まれるものだ。
時代を象徴するヒーローというのも、人によって答えは変わるだろう、美空ひばりだったり、長嶋監督だったり、X JAPANだったり、村上春樹だったり、まあいろいろあるかもしれない。
ただ、本作の二人、イチローと矢沢永吉をヒーローではない、と言う人は、そんなに多くないだろうな、と思う。
二人とも、紛れもなく、今の時代を象徴するヒーローである。
僕は、矢沢永吉については、ほんの些細なことすら知らないのだけど(基本的に音楽には興味がない)、イチローのことは、まあニュースなんかでたまに出るから知っている。イチローという存在を見ていると、ああなるほど、彼には哲学があるのだな、と思ったりする。他にも、中田英寿や古田敦也なんかを見ても、ああ哲学があるのだろうな、と思うのだけど。
本作でも少し触れられているけれども、人に見られ続けるという存在は、本当に特殊で、それに疑問を感じることもあると二人はいう。演技をして「イチロー」や「永ちゃん」を見せるのか、あるいは「鈴木一郎」や「矢沢永吉」を見せるのか。そういう葛藤が存在するらしい。
生き方に他人の目が加わるという経験は、なかなかできるものではない。その上に築かれた彼らの哲学は、やはり英雄としてのそれなのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、BSデジタル放送5局が共同で製作した特別番組の内容を本としてまとめたもので、全編、イチローと矢沢永吉の対談という形式を取っています。
とにかく、生き方について、いろんなことを語っています。分野は違うけれど、第一線で活躍している二人が、まあ比較的本音で喋っているのだろうなという感じのするトークで、自らの生き方を提示しようとしています。
正直な感想を言えば、本作はちょっと期待はずれでした。それは、島田紳助と松本人志の「哲学」という文庫本と比較してそう感じました。
本作と、松紳の「哲学」は、体裁としてはほぼ同じ本です。松紳の「哲学」の方は、まあ対談ではないとは言え、お互いがお互いのことを真面目に書いています。
でどちらが素晴らしいかといえば、松紳の「哲学」の方ですね。何故かと考えてみた時に、やはり島田紳助と松本人志は、言葉を操る仕事をしているからだろうな、と思いました。
いくらイチローと矢沢永吉がすごい人間でも、普段から言葉を駆使して仕事をしているわけではないはずです。イチローの場合は、自身の名言を集めた本なんかが出版されているけども、それでもやはり、言葉を武器にして仕事をしているお笑い芸人には勝てません。
そういう意味で、松紳の方が自分の得意分野で勝負している、という点で、松紳の「哲学」の方が遥かに質が高かったな、と思いました。
本作は、ちょっと言葉にキレが感じられませんでした。映像として流す場合は、彼らの動きも一緒に見ることができるわけで、そこまで足りなさを感じることはないのかもしれないけど、文章だけで読むと、ちょっと彼らの言葉は、キレてないな、とそんな印象を持ちました。対談という形式が、それをさらに助長しているのかもしれないけど。
あとは、分量が短すぎますね。ちょっとこれはひどいような気がします。どうでしょうか?
というわけで、オススメできない作品です。是非、松紳の「哲学」の方を読んでみてください。まあ、読み比べてもらってもいいですけどね。
イチロー×矢沢永吉「英雄の哲学」
まあそれはいいのだけど、でもじゃあ、英雄って呼ばれる人はどうだろう。ヒーローって呼ばれる人はどうだろう、って考えてみると、これはかなり少ないだろう。
ぱっと思いつくのは、もう歴史上の人物になっちゃったりする。もはや、英雄なんて、そういう存在である。
天才と英雄の違いはなんだろうか。
天才というのは、純粋に能力の問題なんだと思う。例えばありきたりだけど、計算が速くできるとか、歌がめちゃくちゃうまいとか、そういう能力の問題。それは、先天的なものでも努力によるものでもいいんだけど、人よりずば抜けた能力を持っているということが重要である。
しかし英雄となると、能力だけの問題というわけにはいかない。むしろ、英雄であるために、能力はいらないのかもしれないのかもしれないとさえ思う。
英雄とは、生き方だと思う。どれだけ多くの人間に、その生き方を認められるか、支持されるか。これが、英雄としての唯一にして最大の条件だろうな、と思う。だから、能力が伴わなくても、全然問題ない。全然ダメ人間でも、でもその生き方が熱狂的に支持されたりすれば、それはもうヒーローだと僕は思うのだ。まあ、そんなことはほとんどないと思うのだけど。
そう考えると、ヒーローの生まれにくい時代になったな、と思う。
昔は、それほど多くの人間の生き方に触れられるわけではなかった。情報を得る機会が少なかったし、そうなると、より情報が多く流れる人々に熱中していくのは、当然だろう。例えば、ビートルズはヒーローだと思うけど、あれだって、情報をもたらす人間がみんなビートルズの方ばっか向いてたんだから、受け取る人間だってそりゃあ熱狂するだろう、とそういうことだったんではないかと思う。
しかし今は、あらゆる手段によって、ありとあらゆる人の生き方を知ることができるような世の中になった。だから人々はそれぞれ、自分の中のヒーローを見つけ出して、それを応援していくようになる。あの人の魅力は、まだ世間には認められてないけど、いいの私だけがわかってれば。あなたは私のヒーローなんだから。まあ要するに、こんな感じである。
そうなると、社会全体としてのヒーローというのは生まれにくい。みんながてんでバラバラの方向を向いているわけで、熱狂がどんどんと分散されていってしまう。そうなれば、ヒーローでありえた人はヒーローになり損ねるし、ヒーローになりたければ、血の滲むような努力をするか、ありえない幸運を待つしかない感じになっている。
でも、やはり時代を象徴するヒーローは生まれるものだ。
時代を象徴するヒーローというのも、人によって答えは変わるだろう、美空ひばりだったり、長嶋監督だったり、X JAPANだったり、村上春樹だったり、まあいろいろあるかもしれない。
ただ、本作の二人、イチローと矢沢永吉をヒーローではない、と言う人は、そんなに多くないだろうな、と思う。
二人とも、紛れもなく、今の時代を象徴するヒーローである。
僕は、矢沢永吉については、ほんの些細なことすら知らないのだけど(基本的に音楽には興味がない)、イチローのことは、まあニュースなんかでたまに出るから知っている。イチローという存在を見ていると、ああなるほど、彼には哲学があるのだな、と思ったりする。他にも、中田英寿や古田敦也なんかを見ても、ああ哲学があるのだろうな、と思うのだけど。
本作でも少し触れられているけれども、人に見られ続けるという存在は、本当に特殊で、それに疑問を感じることもあると二人はいう。演技をして「イチロー」や「永ちゃん」を見せるのか、あるいは「鈴木一郎」や「矢沢永吉」を見せるのか。そういう葛藤が存在するらしい。
生き方に他人の目が加わるという経験は、なかなかできるものではない。その上に築かれた彼らの哲学は、やはり英雄としてのそれなのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、BSデジタル放送5局が共同で製作した特別番組の内容を本としてまとめたもので、全編、イチローと矢沢永吉の対談という形式を取っています。
とにかく、生き方について、いろんなことを語っています。分野は違うけれど、第一線で活躍している二人が、まあ比較的本音で喋っているのだろうなという感じのするトークで、自らの生き方を提示しようとしています。
正直な感想を言えば、本作はちょっと期待はずれでした。それは、島田紳助と松本人志の「哲学」という文庫本と比較してそう感じました。
本作と、松紳の「哲学」は、体裁としてはほぼ同じ本です。松紳の「哲学」の方は、まあ対談ではないとは言え、お互いがお互いのことを真面目に書いています。
でどちらが素晴らしいかといえば、松紳の「哲学」の方ですね。何故かと考えてみた時に、やはり島田紳助と松本人志は、言葉を操る仕事をしているからだろうな、と思いました。
いくらイチローと矢沢永吉がすごい人間でも、普段から言葉を駆使して仕事をしているわけではないはずです。イチローの場合は、自身の名言を集めた本なんかが出版されているけども、それでもやはり、言葉を武器にして仕事をしているお笑い芸人には勝てません。
そういう意味で、松紳の方が自分の得意分野で勝負している、という点で、松紳の「哲学」の方が遥かに質が高かったな、と思いました。
本作は、ちょっと言葉にキレが感じられませんでした。映像として流す場合は、彼らの動きも一緒に見ることができるわけで、そこまで足りなさを感じることはないのかもしれないけど、文章だけで読むと、ちょっと彼らの言葉は、キレてないな、とそんな印象を持ちました。対談という形式が、それをさらに助長しているのかもしれないけど。
あとは、分量が短すぎますね。ちょっとこれはひどいような気がします。どうでしょうか?
というわけで、オススメできない作品です。是非、松紳の「哲学」の方を読んでみてください。まあ、読み比べてもらってもいいですけどね。
イチロー×矢沢永吉「英雄の哲学」
しをんのしおり(三浦しをん)
妄想に没頭できるっていうのは、すごく羨ましいな、と僕なんかは思う。僕はどうも、そういうのが苦手なのである。
妄想が趣味だ、みたいな人とか時々いて(と書いてみたけど、実際自分の周りにいるかといわれれば、いないかも)、そういう人は、これがこうだったらとか、みたいな風にしてあれこれ考えるのだろうけど、楽しそうだよな、と思う。
僕は、まずどうにも設定が浮かばないのである。こう、妄想をしようと思っても(まあそんな風に思うこと自体まず間違っているけれども)、次々に設定を繰り出すことが出来ずに、だからテンポが悪いのである。なんとも、乗り切れない。
それに、言ってしまえば、男がする妄想なんてのは、大抵エロっちぃものでしかないのである。突然部屋にメイドがやってきたらとか、道端で倒れている女性を見つけたらどうするかとか、そういう、なんとも頭の足りない妄想しかできないものだ。
そこへ行くと女性というのは、僕のイメージだが、妄想が素晴らしい人が多いような気がするのである。yっぱりあれだろうか、子供の頃にままごと(とかしないか、最近は)とかして、いろんな設定を膨らませる遊びをしたりするからなんだろうか。
女性というのは、男とは違って、エロっちくない妄想についても、どんどん展開できる。僕は思うのだけど、女性同士の会話というのは際限なく果てしなく無限に続いていくけれども、あれも、基本的には妄想の応酬ではないのか、と思っている。そうでなければ、あんなに長いこと喋っていられるはずがない、と勝手に思っているわけだ。
というのが僕の中での女性のイメージだったりするのだけど、違うかな。まあ、違う人も大勢いるとは思うけど、こういう女性って結構いるんじゃなかろうか?バイト先の女の子も、友達と喋ってて、「将来の夢を」という話から、「世界の千手観音」みたいな話になった、みたいな話をしていた。なんだそりゃ、という感じだけど、考えるに、女性同士の会話というのも、側で聞いてたら結構面白いんだろうな、と思う。
あぁそういえば、僕もたま~に変な妄想をしたりするなぁ、と今思い出した。例えば、こんなことを考える。今もし地震が起きたら、俺は一体どうするか。今もし暴漢に襲われたらどうするか(連れがいるバージョン、というのもあったりする)。みたいな。
でも僕の場合は、実際にそれが起こったときのシュミレーションという方が近い気がするわけで(実際的かどうかはともかくとして)、妄想とはやっぱり少し違うのかな、と思ったりもするのだが。
妄想が出来ると、とにかく日々楽しくて仕方がないのではないかと思う。だって、どんな設定からでも、無限の物語を作ることができるわけで、それって最高だな、と。そういえば、米澤穂信という作家は、空想が趣味だったらしく、それを生かして作家になったらしい、と何かに書いてあった。うむむ、妄想侮れないなぁ。
妄想というと、なんとも暗いイメージになるけれども、本作を読むと、すげーな妄想って、って思うでしょう。三浦しをん、すげーな、と。僕も、もっと妄想の出来る体質だったらよかったな、と思いました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、Webで連載されていたエッセイをまとめたものです。とにかく、日常のどうでもいいことから、その延長としてくだらない面白さを追求している作品で、いやどうでもいい日常をよくもここまで面白おかし描けるものだな、と思った。
三浦しをんというのは、基本的に古書店でアルバイトをしていたらしく(当時は。今は辞めたようだ)、バリバリの漫画オタクである。とにかく、世界の中心は漫画でできている、と言わんばかりの漫画好きで、大阪までライブを見に行ったはずなのに、その帰りに古本屋を巡り巡り、帰りには大量の漫画を持って帰るというようなことをしている人である。また、コミケなんかにも出没するらしい。
基本的には少女漫画をこよなく愛するようだが(僕の中では少女漫画というのは、等しく宝塚的なイメージなのだが、まあ最近はそうでもないのかなぁ。本作には、宝塚のベルバラの話なんかも出てくる)、少年漫画もちゃんと読む。何故か、バイト先でひたすら読み耽っていたようだが…。
漫画の登場人物では誰が好きか、みたいなことも超真剣に話をしたりするような人で、いやー、正直、僕はちょっとついていけない人格かもな、と思いました。
まあそんなわけで、そんな古書店のバイト仲間や追っかけ仲間、あるいは家族なんかとのさりげない日常をまったくさりげなくなく描いている作品で、その流れるような文体と相まって、結構爆笑してしまうのである。
そして、妄想である。
三浦しをんはもう、すごい妄想力なのである。
まず一番に最高だった妄想は、高倉健の日常、という奴である。高倉健を心の底からこよなく愛しているらしい三浦しをんは、高倉健の日常生活についてなんの情報もない癖に、すごい妄想を展開していく。これはもう圧巻で、しかも続きを200枚は軽く書けると豪語してさえいるのである。いや、マジすげーわ。
あとは、その辺にいる人の会話に勝手にアテレコしてみたり、無茶苦茶な設定の戦隊ヒーローものを考案してみたりと、とにかく日々妄想である。すごい。
しかし、読んでて思うのだが、女性としてこれで大丈夫だろうか…と勝手に心配してしまったりもする。僕は、まあ女性っぽくない女性が好きなのだけども、でも三浦しをんはちょっと難しいな、と勝手に思ってしまったぞ。
まあそんなわけで、ホントにくだらないエッセイです。京都に旅行に行ったのに、京都らしいことなんか何にも書かない旅行記、なんてのもあったりで、とにかく面白いです。軽~く、すんなり読めちゃう作品だと思います。読んでみてください。三浦しをんって、結構多才だなぁ。直木賞も獲ったし。
三浦しをん「しをんのしおり」
妄想が趣味だ、みたいな人とか時々いて(と書いてみたけど、実際自分の周りにいるかといわれれば、いないかも)、そういう人は、これがこうだったらとか、みたいな風にしてあれこれ考えるのだろうけど、楽しそうだよな、と思う。
僕は、まずどうにも設定が浮かばないのである。こう、妄想をしようと思っても(まあそんな風に思うこと自体まず間違っているけれども)、次々に設定を繰り出すことが出来ずに、だからテンポが悪いのである。なんとも、乗り切れない。
それに、言ってしまえば、男がする妄想なんてのは、大抵エロっちぃものでしかないのである。突然部屋にメイドがやってきたらとか、道端で倒れている女性を見つけたらどうするかとか、そういう、なんとも頭の足りない妄想しかできないものだ。
そこへ行くと女性というのは、僕のイメージだが、妄想が素晴らしい人が多いような気がするのである。yっぱりあれだろうか、子供の頃にままごと(とかしないか、最近は)とかして、いろんな設定を膨らませる遊びをしたりするからなんだろうか。
女性というのは、男とは違って、エロっちくない妄想についても、どんどん展開できる。僕は思うのだけど、女性同士の会話というのは際限なく果てしなく無限に続いていくけれども、あれも、基本的には妄想の応酬ではないのか、と思っている。そうでなければ、あんなに長いこと喋っていられるはずがない、と勝手に思っているわけだ。
というのが僕の中での女性のイメージだったりするのだけど、違うかな。まあ、違う人も大勢いるとは思うけど、こういう女性って結構いるんじゃなかろうか?バイト先の女の子も、友達と喋ってて、「将来の夢を」という話から、「世界の千手観音」みたいな話になった、みたいな話をしていた。なんだそりゃ、という感じだけど、考えるに、女性同士の会話というのも、側で聞いてたら結構面白いんだろうな、と思う。
あぁそういえば、僕もたま~に変な妄想をしたりするなぁ、と今思い出した。例えば、こんなことを考える。今もし地震が起きたら、俺は一体どうするか。今もし暴漢に襲われたらどうするか(連れがいるバージョン、というのもあったりする)。みたいな。
でも僕の場合は、実際にそれが起こったときのシュミレーションという方が近い気がするわけで(実際的かどうかはともかくとして)、妄想とはやっぱり少し違うのかな、と思ったりもするのだが。
妄想が出来ると、とにかく日々楽しくて仕方がないのではないかと思う。だって、どんな設定からでも、無限の物語を作ることができるわけで、それって最高だな、と。そういえば、米澤穂信という作家は、空想が趣味だったらしく、それを生かして作家になったらしい、と何かに書いてあった。うむむ、妄想侮れないなぁ。
妄想というと、なんとも暗いイメージになるけれども、本作を読むと、すげーな妄想って、って思うでしょう。三浦しをん、すげーな、と。僕も、もっと妄想の出来る体質だったらよかったな、と思いました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、Webで連載されていたエッセイをまとめたものです。とにかく、日常のどうでもいいことから、その延長としてくだらない面白さを追求している作品で、いやどうでもいい日常をよくもここまで面白おかし描けるものだな、と思った。
三浦しをんというのは、基本的に古書店でアルバイトをしていたらしく(当時は。今は辞めたようだ)、バリバリの漫画オタクである。とにかく、世界の中心は漫画でできている、と言わんばかりの漫画好きで、大阪までライブを見に行ったはずなのに、その帰りに古本屋を巡り巡り、帰りには大量の漫画を持って帰るというようなことをしている人である。また、コミケなんかにも出没するらしい。
基本的には少女漫画をこよなく愛するようだが(僕の中では少女漫画というのは、等しく宝塚的なイメージなのだが、まあ最近はそうでもないのかなぁ。本作には、宝塚のベルバラの話なんかも出てくる)、少年漫画もちゃんと読む。何故か、バイト先でひたすら読み耽っていたようだが…。
漫画の登場人物では誰が好きか、みたいなことも超真剣に話をしたりするような人で、いやー、正直、僕はちょっとついていけない人格かもな、と思いました。
まあそんなわけで、そんな古書店のバイト仲間や追っかけ仲間、あるいは家族なんかとのさりげない日常をまったくさりげなくなく描いている作品で、その流れるような文体と相まって、結構爆笑してしまうのである。
そして、妄想である。
三浦しをんはもう、すごい妄想力なのである。
まず一番に最高だった妄想は、高倉健の日常、という奴である。高倉健を心の底からこよなく愛しているらしい三浦しをんは、高倉健の日常生活についてなんの情報もない癖に、すごい妄想を展開していく。これはもう圧巻で、しかも続きを200枚は軽く書けると豪語してさえいるのである。いや、マジすげーわ。
あとは、その辺にいる人の会話に勝手にアテレコしてみたり、無茶苦茶な設定の戦隊ヒーローものを考案してみたりと、とにかく日々妄想である。すごい。
しかし、読んでて思うのだが、女性としてこれで大丈夫だろうか…と勝手に心配してしまったりもする。僕は、まあ女性っぽくない女性が好きなのだけども、でも三浦しをんはちょっと難しいな、と勝手に思ってしまったぞ。
まあそんなわけで、ホントにくだらないエッセイです。京都に旅行に行ったのに、京都らしいことなんか何にも書かない旅行記、なんてのもあったりで、とにかく面白いです。軽~く、すんなり読めちゃう作品だと思います。読んでみてください。三浦しをんって、結構多才だなぁ。直木賞も獲ったし。
三浦しをん「しをんのしおり」