「人間失格」を観に行ってきました
才能を信じることも、また才能か。
観ていて、そのことを一番強く感じた。
【壊しなさい、私たちを】
状況を詳しく説明するわけにはいかないが、このセリフには痺れた。凄い。こんなことを言える人間は、なかなかいないだろう。
僕は、太宰治の作品を、ほとんど読んだことがない。古典作品が基本的に苦手で、「人間失格」だけは読んでみたけど、「読んだ」といえるほど理解できたわけでもないし、やっぱり読みにくいなぁ、なんて思いながらざっと目を通した程度だ。
だから、太宰治が天才なのかどうか、才能があるのかどうか、僕自身の判断として言えることは何もない。
しかしこの映画を観て感じたことは、「才能というのは、才能がある、と信じる他者の存在なしには成り立たないのだろう」ということだ。
ゴッホが生前、まったく評価されなかったのは、「才能がある、と信じる他者」が不幸にもいなかったからだろう。ゴッホが死に、絵自体はまったく変わっていないのに、「才能がある、と信じる他者」がゴッホの絵を評価することで、ゴッホはその偉大さが認められることとなった。
太宰治に才能があったのかどうか、それは僕には分からないが、太宰治には「才能がある、と信じる他者」がいた、ということだけは分かった。
もちろん、「斜陽」で爆発的なヒットを飛ばした太宰治の元には、原稿をほしくて列を成す編集者たちがたくさんいたし、彼らは当然、太宰治の才能を褒めそやした。しかし彼らは、「才能がある、と信じる他者」には成れていない。一人、太宰治と正面からぶつかる新潮社の編集者が出てくる。彼は、その他大勢の編集者とはちょっと違うが、その他大勢の編集者は、太宰治の才能を心から信じていたとしても、太宰にとって「才能がある、と信じる他者」ではあり得なかっただろう。
坂口安吾と、バーでこんなやり取りをする場面がある。
【馬鹿が読んでも凄まじいって小説を書けってことだ】
これは、坂口安吾のセリフだ。「斜陽」が世の中に誤読されている状況を嘆き、しかし、読者にレベルの高さを期待するのではなく、レベルが低くても心震えるものを書け、と太宰に発破をかけている。なかなか傲慢なセリフだが、言いたいことは分からないでもない。
太宰にとって恐らく多くの人間が、この「馬鹿」に当てはまるんだろう、と思う。後半、ある人物(一応名前は伏せる)が出てきて、太宰にこんな議論をふっかける。
【虚しくはないんですか?何を書いたって本当には理解しない。それが分かってて、何で書くんですか?】
太宰は、自分の作品を大衆が理解しないことを理解している。それでも彼は書く。何故なのかは分からないが、やはりそこは、書きたいという衝動から逃れられない、ということだろう(金を稼がないといけない、みたいな切羽詰まった理由も当然あるだろうけど)。
坂口安吾は、こうも言っていた。
【自分で自分を解剖する。そんな悪魔みたいな仕事ができたら、死んでもいいねぇ】
作家の性というのは凄まじいものだが、当時の文学の世界というのは、こういう感覚が当たり前に存在したのだろう。自分を切り刻んで、地獄の奥底で悩み抜きながら書く。そうやって生み出されたものでなければ文学ではない、というような。そういう世の中で、「才能」のある無しを議論するのは容易いことではないが、そうやってお互いを罵倒しあいながら、高みを目指していたのだろう。
さて、大分話が脱線したが、僕が言いたいことは、太宰治に才能があるかどうかは分からないが、「才能がある、と信じる他者」と出会う才能(あるいは強運)については議論の余地がない、ということだ。もちろん、太宰はそういう他者と多々出会うことによって追い詰められ、ボロボロになっていくわけだが、しかしそういう他者の存在が、満身創痍の太宰をして、小説に向かわせる原動力であったことは間違いないと思う。
【仕方ないね。もう恋しちゃったから】
映画の中で、太宰も太宰を追う女性も、皆「恋」という言葉を使う。この「恋」の意味は、人によって違う。そして一番本来の意味からかけ離れた使い方をしていたのが、恐らく太宰だろう。太宰にとって「恋」とは、恐ろしく下世話な表現をすれば「小説のネタ」だった。少なくとも、この映画を見る限り、そう受け取るしかない、と僕は思う。太宰はいつだって、本来の意味での「恋」には熱心ではなかったと思う。映画の中で、「太宰は書くためだったらなんでもする」という罵倒が出てくるが、まさにその通りだろう。
【みんな可愛いんだよ。みんな、俺を求めてくるんだ。応えるしかないだろ】
太宰治はきっと、文学の才能があるのだろう。しかしそれ以上に、他人を破滅の道へと引きずり込む天才だった。そして、その過程こそを小説にした。そういうことが出来る、という意味で、紛れもなく天才だっただろうと思う。
内容に入ろうと思います。
史実を元にしたフィクション、ということで、恐らく概ね史実に沿っているのだろうから、あまり具体的には書きません。時系列的には、太田静子と出会う少し前から、入水自殺して亡くなるまでを描く作品です。その間に、「ヴィヨンの妻」「斜陽」「人間失格」を書く、という感じです。
この映画では、3人の女性が中心に物語が展開していきます。実際の名前が僕にはちゃんと分からないので、役者名で書きます。宮沢りえ、沢尻エリカ、二階堂ふみです。
宮沢りえは、太宰治の妻です。太宰治が有名な作家になるずっと前から見合いで結婚していて、2人の子供を育てている。太宰の書く小説をまったく褒めないが、フラフラと飲み歩き、女性とも奔放にやっている太宰を献身的に支えている。
沢尻エリカは、上流階級に属する女性だが、太宰治との文通を通じて親しくなり、芸術のために恋をする。太宰は、彼女が書いた日記を見たいと思って近づくが、赤ちゃんがほしいと言われてセックスし、子供を宿すことになる。子供が出来たことを連絡した途端、太宰と連絡が取れなくなる。
二階堂ふみは、太宰がよく行く飲み屋で知り合った。太宰から「大丈夫、君は僕が好きだよ」と言われて無理やりキスをされるが、その後むしろ、彼女の方が太宰にどっぷりハマってしまう。一緒にいてくれないと死ぬ、という彼女と共に生活するようになり、妻のいる自宅には戻らなくなる。
この中で沢尻エリカの有り様が、最も納得感があります。
沢尻エリカは、「芸術のために恋をする」と言い。途中不本意な展開もありながらも、最終的には「斜陽のモデルであるという事実」と「太宰との子供」という揺るぎないものを手に入れる。彼女は、「太宰治という個人」ではなく「太宰治という才能」に恋をしたのであって、そういう意味で、最終的には望み通りのものを手に入れたということになる。
さて、この沢尻エリカと対比する形で、あとの2人について書いてみよう。
まず二階堂ふみは、「太宰治という個人」に恋をした女性だ。もちろん、太宰治という作家に対する才能や尊敬を感じていただろうが、しかしそれ以上に、「太宰治という個人」を熱烈に愛した。
彼女がもし、「太宰治という才能」をより強く愛していれば、入水自殺という結末はあり得なかっただろう。何故なら、入水自殺は、「太宰治という才能」を永遠に消し去ってしまうからだ。もちろん、入水自殺は「太宰治という個人」を消し去る行為でもあるわけだが、彼女は、2人で一緒に死ぬことで、死んだ後も一緒にいられる、と考えていた。そこは、大きく違うだろう。
また彼女は、「斜陽」という小説があったことで狂ってしまった、といえる。それは、僕の解釈では、激しい嫉妬だ。
沢尻エリカは、「斜陽」という作品が世にでたことで、「斜陽のモデル」という立ち位置を手に入れることになった。それは、ごく一般的な人間が、望んでも望んでもまず手に入らない立ち位置だ。そして、そんな普通には手に入らないものを手に入れた女性が、太宰との子供までもうけている。そのことは、「太宰治という個人」を死ぬ気で愛している二階堂ふみにとって、絶望的なまでの差だった。太宰は二階堂ふみに、「出会うのが2ヶ月早かったら沢尻エリカとは会っていなかった」という趣旨の発言をしている。それが本当がどうかは分からないが、しかし2ヶ月早く出会っていれば、もしかしたら「斜陽」という作品は生まれていなかったかもしれない。そして、「斜陽」が存在していなければ、二階堂ふみが絶望的な嫉妬に駆られることもなかっただろうし、結果的に入水自殺に至ることはなかったんじゃないか、と思う。「斜陽」という小説の存在が、二階堂ふみという一人の女性の運命を変えてしまったんだな、と映画を見て感じた。
宮沢りえは対照的に、「太宰治という才能」を愛し抜いた人だった。それがどの程度のものなのか、ここで書くわけにはいかないが、はっきり言って常軌を逸している。もちろん彼女も、平気の証左でそんな振る舞いが出来ているわけではない。太宰治のいないところで、ふと苦悩のつぶやきをもらしたり、止めようのない涙を流すこともある。
しかしそれでも彼女が、自分の苦しい気持ちを徹底的に抑え込んでまで太宰治の振る舞いを許容するのは、彼女が太宰治に圧倒的な才能を感じているからだ。それは、沢尻エリカが太宰治に抱いている気持ちなど比べ物にならないレベルで圧倒的なものだ。後半は、そんな宮沢りえの、ある種「狂気」とも言える有り様が描かれていく。これは、圧巻だったなぁ。太宰治が次第に死に近づいていく中で、夫の才能を信じ、「書かせる」ということに徹底した彼女の姿は見事だったと思います。
この映画を見て、「ヴィヨンの妻」「斜陽」「人間失格」を読んでみたくなりました。どういう背景の中でこれらの作品が生まれたのかを理解した上で読むと、また違った感覚になりそうだと思いました。
映像は、さすが蜷川実花、美しかったです。時代考証を大幅に無視してるってことはたぶんないと思うんだけど、恐らく、映像的にこっちの方がいいから、という理由で、時代考証を敢えて取り外しているような部分は多々あるだろう、と思いました。そして個人的には、そういうやり方は正解だったと思います。やはり映像の美しさは、場面場面の強さに変換されるし、太宰治を中心とした異様な関係性を妖しく浮かび上がらせている、と思いました。
ただ、「CGが雑だなぁ(祭りのシーンとか)」とか「明らかにセットで撮ってるな」と感じる場面があって、それは凄くもったいない気がしました。全体的に映像を綺麗に作ってるから、その辺りはもうちょっとちゃんとやった方が良かったんじゃないかなぁ、と。
全体的には、面白い映画でした。
「人間失格」を観に行ってきました
観ていて、そのことを一番強く感じた。
【壊しなさい、私たちを】
状況を詳しく説明するわけにはいかないが、このセリフには痺れた。凄い。こんなことを言える人間は、なかなかいないだろう。
僕は、太宰治の作品を、ほとんど読んだことがない。古典作品が基本的に苦手で、「人間失格」だけは読んでみたけど、「読んだ」といえるほど理解できたわけでもないし、やっぱり読みにくいなぁ、なんて思いながらざっと目を通した程度だ。
だから、太宰治が天才なのかどうか、才能があるのかどうか、僕自身の判断として言えることは何もない。
しかしこの映画を観て感じたことは、「才能というのは、才能がある、と信じる他者の存在なしには成り立たないのだろう」ということだ。
ゴッホが生前、まったく評価されなかったのは、「才能がある、と信じる他者」が不幸にもいなかったからだろう。ゴッホが死に、絵自体はまったく変わっていないのに、「才能がある、と信じる他者」がゴッホの絵を評価することで、ゴッホはその偉大さが認められることとなった。
太宰治に才能があったのかどうか、それは僕には分からないが、太宰治には「才能がある、と信じる他者」がいた、ということだけは分かった。
もちろん、「斜陽」で爆発的なヒットを飛ばした太宰治の元には、原稿をほしくて列を成す編集者たちがたくさんいたし、彼らは当然、太宰治の才能を褒めそやした。しかし彼らは、「才能がある、と信じる他者」には成れていない。一人、太宰治と正面からぶつかる新潮社の編集者が出てくる。彼は、その他大勢の編集者とはちょっと違うが、その他大勢の編集者は、太宰治の才能を心から信じていたとしても、太宰にとって「才能がある、と信じる他者」ではあり得なかっただろう。
坂口安吾と、バーでこんなやり取りをする場面がある。
【馬鹿が読んでも凄まじいって小説を書けってことだ】
これは、坂口安吾のセリフだ。「斜陽」が世の中に誤読されている状況を嘆き、しかし、読者にレベルの高さを期待するのではなく、レベルが低くても心震えるものを書け、と太宰に発破をかけている。なかなか傲慢なセリフだが、言いたいことは分からないでもない。
太宰にとって恐らく多くの人間が、この「馬鹿」に当てはまるんだろう、と思う。後半、ある人物(一応名前は伏せる)が出てきて、太宰にこんな議論をふっかける。
【虚しくはないんですか?何を書いたって本当には理解しない。それが分かってて、何で書くんですか?】
太宰は、自分の作品を大衆が理解しないことを理解している。それでも彼は書く。何故なのかは分からないが、やはりそこは、書きたいという衝動から逃れられない、ということだろう(金を稼がないといけない、みたいな切羽詰まった理由も当然あるだろうけど)。
坂口安吾は、こうも言っていた。
【自分で自分を解剖する。そんな悪魔みたいな仕事ができたら、死んでもいいねぇ】
作家の性というのは凄まじいものだが、当時の文学の世界というのは、こういう感覚が当たり前に存在したのだろう。自分を切り刻んで、地獄の奥底で悩み抜きながら書く。そうやって生み出されたものでなければ文学ではない、というような。そういう世の中で、「才能」のある無しを議論するのは容易いことではないが、そうやってお互いを罵倒しあいながら、高みを目指していたのだろう。
さて、大分話が脱線したが、僕が言いたいことは、太宰治に才能があるかどうかは分からないが、「才能がある、と信じる他者」と出会う才能(あるいは強運)については議論の余地がない、ということだ。もちろん、太宰はそういう他者と多々出会うことによって追い詰められ、ボロボロになっていくわけだが、しかしそういう他者の存在が、満身創痍の太宰をして、小説に向かわせる原動力であったことは間違いないと思う。
【仕方ないね。もう恋しちゃったから】
映画の中で、太宰も太宰を追う女性も、皆「恋」という言葉を使う。この「恋」の意味は、人によって違う。そして一番本来の意味からかけ離れた使い方をしていたのが、恐らく太宰だろう。太宰にとって「恋」とは、恐ろしく下世話な表現をすれば「小説のネタ」だった。少なくとも、この映画を見る限り、そう受け取るしかない、と僕は思う。太宰はいつだって、本来の意味での「恋」には熱心ではなかったと思う。映画の中で、「太宰は書くためだったらなんでもする」という罵倒が出てくるが、まさにその通りだろう。
【みんな可愛いんだよ。みんな、俺を求めてくるんだ。応えるしかないだろ】
太宰治はきっと、文学の才能があるのだろう。しかしそれ以上に、他人を破滅の道へと引きずり込む天才だった。そして、その過程こそを小説にした。そういうことが出来る、という意味で、紛れもなく天才だっただろうと思う。
内容に入ろうと思います。
史実を元にしたフィクション、ということで、恐らく概ね史実に沿っているのだろうから、あまり具体的には書きません。時系列的には、太田静子と出会う少し前から、入水自殺して亡くなるまでを描く作品です。その間に、「ヴィヨンの妻」「斜陽」「人間失格」を書く、という感じです。
この映画では、3人の女性が中心に物語が展開していきます。実際の名前が僕にはちゃんと分からないので、役者名で書きます。宮沢りえ、沢尻エリカ、二階堂ふみです。
宮沢りえは、太宰治の妻です。太宰治が有名な作家になるずっと前から見合いで結婚していて、2人の子供を育てている。太宰の書く小説をまったく褒めないが、フラフラと飲み歩き、女性とも奔放にやっている太宰を献身的に支えている。
沢尻エリカは、上流階級に属する女性だが、太宰治との文通を通じて親しくなり、芸術のために恋をする。太宰は、彼女が書いた日記を見たいと思って近づくが、赤ちゃんがほしいと言われてセックスし、子供を宿すことになる。子供が出来たことを連絡した途端、太宰と連絡が取れなくなる。
二階堂ふみは、太宰がよく行く飲み屋で知り合った。太宰から「大丈夫、君は僕が好きだよ」と言われて無理やりキスをされるが、その後むしろ、彼女の方が太宰にどっぷりハマってしまう。一緒にいてくれないと死ぬ、という彼女と共に生活するようになり、妻のいる自宅には戻らなくなる。
この中で沢尻エリカの有り様が、最も納得感があります。
沢尻エリカは、「芸術のために恋をする」と言い。途中不本意な展開もありながらも、最終的には「斜陽のモデルであるという事実」と「太宰との子供」という揺るぎないものを手に入れる。彼女は、「太宰治という個人」ではなく「太宰治という才能」に恋をしたのであって、そういう意味で、最終的には望み通りのものを手に入れたということになる。
さて、この沢尻エリカと対比する形で、あとの2人について書いてみよう。
まず二階堂ふみは、「太宰治という個人」に恋をした女性だ。もちろん、太宰治という作家に対する才能や尊敬を感じていただろうが、しかしそれ以上に、「太宰治という個人」を熱烈に愛した。
彼女がもし、「太宰治という才能」をより強く愛していれば、入水自殺という結末はあり得なかっただろう。何故なら、入水自殺は、「太宰治という才能」を永遠に消し去ってしまうからだ。もちろん、入水自殺は「太宰治という個人」を消し去る行為でもあるわけだが、彼女は、2人で一緒に死ぬことで、死んだ後も一緒にいられる、と考えていた。そこは、大きく違うだろう。
また彼女は、「斜陽」という小説があったことで狂ってしまった、といえる。それは、僕の解釈では、激しい嫉妬だ。
沢尻エリカは、「斜陽」という作品が世にでたことで、「斜陽のモデル」という立ち位置を手に入れることになった。それは、ごく一般的な人間が、望んでも望んでもまず手に入らない立ち位置だ。そして、そんな普通には手に入らないものを手に入れた女性が、太宰との子供までもうけている。そのことは、「太宰治という個人」を死ぬ気で愛している二階堂ふみにとって、絶望的なまでの差だった。太宰は二階堂ふみに、「出会うのが2ヶ月早かったら沢尻エリカとは会っていなかった」という趣旨の発言をしている。それが本当がどうかは分からないが、しかし2ヶ月早く出会っていれば、もしかしたら「斜陽」という作品は生まれていなかったかもしれない。そして、「斜陽」が存在していなければ、二階堂ふみが絶望的な嫉妬に駆られることもなかっただろうし、結果的に入水自殺に至ることはなかったんじゃないか、と思う。「斜陽」という小説の存在が、二階堂ふみという一人の女性の運命を変えてしまったんだな、と映画を見て感じた。
宮沢りえは対照的に、「太宰治という才能」を愛し抜いた人だった。それがどの程度のものなのか、ここで書くわけにはいかないが、はっきり言って常軌を逸している。もちろん彼女も、平気の証左でそんな振る舞いが出来ているわけではない。太宰治のいないところで、ふと苦悩のつぶやきをもらしたり、止めようのない涙を流すこともある。
しかしそれでも彼女が、自分の苦しい気持ちを徹底的に抑え込んでまで太宰治の振る舞いを許容するのは、彼女が太宰治に圧倒的な才能を感じているからだ。それは、沢尻エリカが太宰治に抱いている気持ちなど比べ物にならないレベルで圧倒的なものだ。後半は、そんな宮沢りえの、ある種「狂気」とも言える有り様が描かれていく。これは、圧巻だったなぁ。太宰治が次第に死に近づいていく中で、夫の才能を信じ、「書かせる」ということに徹底した彼女の姿は見事だったと思います。
この映画を見て、「ヴィヨンの妻」「斜陽」「人間失格」を読んでみたくなりました。どういう背景の中でこれらの作品が生まれたのかを理解した上で読むと、また違った感覚になりそうだと思いました。
映像は、さすが蜷川実花、美しかったです。時代考証を大幅に無視してるってことはたぶんないと思うんだけど、恐らく、映像的にこっちの方がいいから、という理由で、時代考証を敢えて取り外しているような部分は多々あるだろう、と思いました。そして個人的には、そういうやり方は正解だったと思います。やはり映像の美しさは、場面場面の強さに変換されるし、太宰治を中心とした異様な関係性を妖しく浮かび上がらせている、と思いました。
ただ、「CGが雑だなぁ(祭りのシーンとか)」とか「明らかにセットで撮ってるな」と感じる場面があって、それは凄くもったいない気がしました。全体的に映像を綺麗に作ってるから、その辺りはもうちょっとちゃんとやった方が良かったんじゃないかなぁ、と。
全体的には、面白い映画でした。
「人間失格」を観に行ってきました
「見えない目撃者」を観に行ってきました
面白かったなぁ。
あの場面で、自分だったら動けるか、と何度も思った。
無理だろうな。
怖ぇよ。
もちろん、物語だからこそ、登場人物たちは向かっていけるわけなんだけど、
にしたって怖ぇよ。
と何度も思った。
僕は、割と、誰かのためになりたい、と思っている人間だ。
見知らぬ誰か、まで救おうと思えるかどうかは、あまり経験がないから分からないけど、
自分の身の回りにいる人であれば、
自分に多少の不利益があろうとも、その人のためになりたい、という気持ちはある。
けど、
そう思ってても、動けない時ってあるだろうな、と思う。
そういう指標で「強さ」を判定するのはたぶん良くないけど、
でも、
強くなりたいなぁ、と思った。
内容に入ろうと思います。
浜中なつめは、警察学校に入学し、無事卒業。明日から交番勤務が始まる、というその夜に、ちょっとした不注意から車で事故を起こしてしまう。同乗していた最愛の弟を亡くし、自身も視力を失い、絶望の淵に立たされた。
それから3年が経ち、彼女は盲導犬と共に生活し、タイピングの仕事もするという日常を送ることが出来ている。薬は手放せず、通院もしているという状況で、決して安泰というわけではないが。
そんな折、夜道を歩いている時、彼女は不審な車に遭遇する。アルコールの匂い、大音量のラジオ、窓を叩く音。そして、車の中から少女の声。「助けて」という少女の声が耳に残る。すぐさま警察に連絡するも、視覚障害者の証言ということで、まともに受け取られない。なつめは、ちょうど同じタイミングでその場所を通りかかったスケボー乗りの男性がいるはず、その人も何か見ているはずと訴える。
半信半疑ながらスケボー男を探す警察は、国崎春馬という高校生に行き当たる。確かに夜、車にぶつかりそうになったが、女の子の姿など見ていない、という。結局警察では、なつみの「聞き間違い」ということで処理されることとなった。
納得のいかないなつめは、自ら春馬を見つけ出し、話を聞く。他人や世の中に関心を持っていない春馬は、なつめの訴えに大した関心も無さそうにあしらうばかりだったが、しばらくして気が変わり、なつめの「妄想」にしばらく付き合ってあげることにした。
二人は独自に「捜査」を続ける中で、「キューサマ」という言葉に行き当たる。「救様」と書き、風俗業界から抜け出させてくれる神様のような存在として、都市伝説のように広まっているのだという。
果たして「救様」など存在するのか?行方不明だろうと思われる少女たちは、どうしているのか?
というような話です。
面白かったなぁ。正直、映画を見て、特に残るものは無いっちゃ無い。けど、物語が面白かった。ちゃんとストーリーを精査したら粗っぽいところもきっとあるんだと思うけど、でも、面白かった。
とにかくまず、主人公の造型が見事でした。警察官を拝命し、いざ交番勤務という時に事故を起こし依願退職、自責の念に駆られながら日々を過ごしている女性。この設定は、主人公のなつめという女性の中に、「強さ」と「弱さ」がキメラの如く入り混じっている、という状態を違和感なく与えてくれます。だから、物語の中で、物凄く勇敢な場面があったり、物凄く不安定な場面があったりするのだけど、この「浜中なつめは」という登場人物の場合、そのどちらに対しても違和感がない。どういう振る舞いにも、彼女なりの強さ/弱さの背景があるということが観客に伝わるので、非常に納得感を持って映画を見れるんじゃないかと思います。
さらにその上でなつめには、「目が見えない」という条件がある。この条件もまた、物語の中で大きな要素となる。「目が見えないのに」という表現は、時に視覚障害者を殊更に低く見るような物言いになりかねないけど、なつめの場合は「目が見えないのに」と言っても許されるだろうと思うくらい、いやいやそれは無茶でしょ、という行動を取る。そもそも普通だったら、「警察が事件性を判断せず、捜査しないと決まった」となった時点で諦めてしまうでしょう。目が見えようが見えなかろうが関係なく、そうなってしまうと思います。それなのに彼女は、目が見えないという大きなハンデを物ともせずに行動する。映画を最後まで見れば分かるが、なんなら彼女は、目が見えないという事実をプラスに利用しさえしようとする。
ストーリーがほぼ同じで、主人公の目が見えたとしても、それなりに面白い物語に仕上げることは出来ると思います。ただ、目が見えない主人公を設定することで、非常にスリリングな展開をもたらすことが出来ていると感じます。
相棒的な感じで捜査に協力する春馬との関係もなかなかいいです。「いや、そんなの俺には関係ないから」というところから、あそこまで協力的になるという部分の繋がりはちょっと飛躍を感じてしまったけど、二人の関係性はいいじゃないかと感じました。
警察の描き方には、きっと、現実と齟齬がある部分もあるだろうな、と思ったけど、少なくとも、ミステリ小説をそこそこ読んでる、という程度の人間に明確に指摘できるほどの違和感はなかったんで、普通に楽しめるんじゃないかなと思います。いや、さすがに令状無しで○○しちゃうのはマズイっしょ、とは思ったけど。
物語のクライマックスは、犯人が判明してからの展開で、いやーここは手に汗握る的なやつでした。「頼むから車の中で待っててくれ」と何度も思ったし、あの場面で自分だったらああ行動出来るかと聞かれたらたぶん無理だと思うけど、でも、今ここで行動しなかったら後で後悔する、という感覚も分かる気がするし、きっと彼らも、そういう感覚に突き動かされたんだろうな、と思います。
ハラハラドキドキさせる、非常に面白いエンタメ作品でした。
あの場面で、自分だったら動けるか、と何度も思った。
無理だろうな。
怖ぇよ。
もちろん、物語だからこそ、登場人物たちは向かっていけるわけなんだけど、
にしたって怖ぇよ。
と何度も思った。
僕は、割と、誰かのためになりたい、と思っている人間だ。
見知らぬ誰か、まで救おうと思えるかどうかは、あまり経験がないから分からないけど、
自分の身の回りにいる人であれば、
自分に多少の不利益があろうとも、その人のためになりたい、という気持ちはある。
けど、
そう思ってても、動けない時ってあるだろうな、と思う。
そういう指標で「強さ」を判定するのはたぶん良くないけど、
でも、
強くなりたいなぁ、と思った。
内容に入ろうと思います。
浜中なつめは、警察学校に入学し、無事卒業。明日から交番勤務が始まる、というその夜に、ちょっとした不注意から車で事故を起こしてしまう。同乗していた最愛の弟を亡くし、自身も視力を失い、絶望の淵に立たされた。
それから3年が経ち、彼女は盲導犬と共に生活し、タイピングの仕事もするという日常を送ることが出来ている。薬は手放せず、通院もしているという状況で、決して安泰というわけではないが。
そんな折、夜道を歩いている時、彼女は不審な車に遭遇する。アルコールの匂い、大音量のラジオ、窓を叩く音。そして、車の中から少女の声。「助けて」という少女の声が耳に残る。すぐさま警察に連絡するも、視覚障害者の証言ということで、まともに受け取られない。なつめは、ちょうど同じタイミングでその場所を通りかかったスケボー乗りの男性がいるはず、その人も何か見ているはずと訴える。
半信半疑ながらスケボー男を探す警察は、国崎春馬という高校生に行き当たる。確かに夜、車にぶつかりそうになったが、女の子の姿など見ていない、という。結局警察では、なつみの「聞き間違い」ということで処理されることとなった。
納得のいかないなつめは、自ら春馬を見つけ出し、話を聞く。他人や世の中に関心を持っていない春馬は、なつめの訴えに大した関心も無さそうにあしらうばかりだったが、しばらくして気が変わり、なつめの「妄想」にしばらく付き合ってあげることにした。
二人は独自に「捜査」を続ける中で、「キューサマ」という言葉に行き当たる。「救様」と書き、風俗業界から抜け出させてくれる神様のような存在として、都市伝説のように広まっているのだという。
果たして「救様」など存在するのか?行方不明だろうと思われる少女たちは、どうしているのか?
というような話です。
面白かったなぁ。正直、映画を見て、特に残るものは無いっちゃ無い。けど、物語が面白かった。ちゃんとストーリーを精査したら粗っぽいところもきっとあるんだと思うけど、でも、面白かった。
とにかくまず、主人公の造型が見事でした。警察官を拝命し、いざ交番勤務という時に事故を起こし依願退職、自責の念に駆られながら日々を過ごしている女性。この設定は、主人公のなつめという女性の中に、「強さ」と「弱さ」がキメラの如く入り混じっている、という状態を違和感なく与えてくれます。だから、物語の中で、物凄く勇敢な場面があったり、物凄く不安定な場面があったりするのだけど、この「浜中なつめは」という登場人物の場合、そのどちらに対しても違和感がない。どういう振る舞いにも、彼女なりの強さ/弱さの背景があるということが観客に伝わるので、非常に納得感を持って映画を見れるんじゃないかと思います。
さらにその上でなつめには、「目が見えない」という条件がある。この条件もまた、物語の中で大きな要素となる。「目が見えないのに」という表現は、時に視覚障害者を殊更に低く見るような物言いになりかねないけど、なつめの場合は「目が見えないのに」と言っても許されるだろうと思うくらい、いやいやそれは無茶でしょ、という行動を取る。そもそも普通だったら、「警察が事件性を判断せず、捜査しないと決まった」となった時点で諦めてしまうでしょう。目が見えようが見えなかろうが関係なく、そうなってしまうと思います。それなのに彼女は、目が見えないという大きなハンデを物ともせずに行動する。映画を最後まで見れば分かるが、なんなら彼女は、目が見えないという事実をプラスに利用しさえしようとする。
ストーリーがほぼ同じで、主人公の目が見えたとしても、それなりに面白い物語に仕上げることは出来ると思います。ただ、目が見えない主人公を設定することで、非常にスリリングな展開をもたらすことが出来ていると感じます。
相棒的な感じで捜査に協力する春馬との関係もなかなかいいです。「いや、そんなの俺には関係ないから」というところから、あそこまで協力的になるという部分の繋がりはちょっと飛躍を感じてしまったけど、二人の関係性はいいじゃないかと感じました。
警察の描き方には、きっと、現実と齟齬がある部分もあるだろうな、と思ったけど、少なくとも、ミステリ小説をそこそこ読んでる、という程度の人間に明確に指摘できるほどの違和感はなかったんで、普通に楽しめるんじゃないかなと思います。いや、さすがに令状無しで○○しちゃうのはマズイっしょ、とは思ったけど。
物語のクライマックスは、犯人が判明してからの展開で、いやーここは手に汗握る的なやつでした。「頼むから車の中で待っててくれ」と何度も思ったし、あの場面で自分だったらああ行動出来るかと聞かれたらたぶん無理だと思うけど、でも、今ここで行動しなかったら後で後悔する、という感覚も分かる気がするし、きっと彼らも、そういう感覚に突き動かされたんだろうな、と思います。
ハラハラドキドキさせる、非常に面白いエンタメ作品でした。
カエルの小指(道尾秀介)
嘘つきばっかり出てくる小説なのに、凄く優しい物語だ。
自分のためにつく嘘は、いつだって醜い。
もちろん、嘘をつかなければ乗り越えられない状況もあるし、耐えられない現実もある。そのことは分かっていても、やはり、なるべく自分のために嘘はつきたくない、と思う。
ただ、誰かのことを思った嘘は、時に優しい。もちろん、その嘘がすれ違いを生むこともあるし、的外れな親切だったりすることもあるだろう。しかし、そうであったとしても僕は、誰かのためを思ってつく嘘は、許容したいと思ってしまう。
【詐欺師なんて、人間の屑です】
確かに、そう吐き捨てるように言われても仕方のない人生を歩んできた面々ではある。それぞれに、切実な事情があったとはいえ、まっとうに日向を歩くことが叶わず、這いつくばるようにして生きなければならない現実の中で、他人を陥れてでも金を奪う人生を、なかなか許容することは出来ない。
ただそれが、誰かを救うためのものなら話は別だ。
【俺たちは泥棒じゃねえんだぞ】
なんのために嘘をつくのか明確に意識し、その意識を共有し、慎重に行動し、己の欲望をきちんと切り離すことが出来れば、その大嘘は「勇気」や「挑戦」と呼ばれもするだろう。
【自分のことも、生かしてほしいと思っただけです】
現実は、知れば知るほど辛い。どこまでもどこまでも辛い現実がある。そして、その現実を生きなければならない者がいる。そこに想像が及ぶ時、「嘘をつく」ということが新たな価値を持つだろう。
まあ、この作品では、色んな人間が様々な理由から嘘に嘘を重ねすぎて、些細なすれ違いが大きなズレになってしまうんだけど。
内容に入ろうと思います。
武沢竹夫は、十数年前のあの一件以来、詐欺稼業から足を洗った。真っ当に生きてみせると誓ったものの、肉体労働はなかなか続かない。そんな時に見つけたのが、実演販売の仕事だ。専門の派遣業者に登録し、スーパーなどの一角で実演販売をする。口先は得意、というか、口先ぐらいしか得意なものがない武沢にとって、ある意味天職のようなものであり、仕事以外に特に何もない日常ではあるが、以前と比べれば明らかに真っ当な生活を送れるようになっていた。
そんなある日のこと。武沢の実演販売を見ている中学生が気になった。どこかで見たことがある顔な気がするが、思い出せない。するとその中学生が、ここぞというタイミングで邪魔をしてきて、その日の販売は散々だった。その後、その中学生の話を聞くことになった。ふと思い出した15年前の記憶から、気まぐれになぞなぞを出したせいだった。キョウと名乗ったその中学生は、そのなぞなぞに一瞬で正解した。
キョウの望みは、武沢から実演販売を教わることだった。人気タレントの瀬谷ワタルが司会を務める「発掘!天才キッズ」という番組に出場したいのだ、という。よくよく話を聞いてみると、恋愛詐欺に引っかかり、結果的に実家の呉服屋を倒産に追い込んでしまったキョウの母親は、ある日フードコートから飛び降りたのだという。キョウは、恐らく偽名だろう「ナガミネマサト」という男を探し出すために金が必要で、そのために「発掘!天才キッズ」の賞金がほしいのだという。
普段なら、こんなややこしい話に首を突っ込みはしないが、武沢は既に確信していた。キョウは、15年前自殺しようとしていたあの女の子供だ。仕方無しにキョウの頼みを聞いてやる武沢だが…。
というような話です。
本書は、「カラスの親指」の続編で、「カラスの親指」に登場した、貫太郎・まひろ・やひろなんかも出てきます。ただ、もちろん「カラスの親指」を読んでいる方がより楽しめるだろうが、ストーリーだけで言えば本書だけで十分に理解できるし、本書を読んだ後で、彼らにどんな過去があったのか?という関心から「カラスの親指」を読んでもいい、と思う。
物語の初めから、完全に読者を騙しに掛かっているので、油断のならない作品だけど、ストーリー全体の構成としてはシンプルだ。要するに、キョウという明らかな被害者がいて、その被害者をペテンで救済しよう、ということだ。その救済の過程で、不法侵入したり金を盗ったりしてるんで、そういう意味で真っ当ではないのだけど、それらの行動を貫く彼らの想いみたいなものは非常に純粋だと言っていい。
僕は前作「カラスの親指」を読んだ際、「他人同士でも家族になれるのか?」という問題提起を受け取ったのだけど、同じことは本書を読んでいても感じた。
「家族」という括りは、時代によって様々に変化してきたと思うが、そんな長い歴史を持つ「家族」という括りは、どんどんと対象とする範囲が狭まっているように僕には感じられる。僕は、自分の子供がいるわけではないので、あくまでも勝手な印象に過ぎないが、DNA鑑定によって親子であることを証明する、ということに意味を感じない。血が繋がってなかったら、家族じゃないんだろうか?「家族」という言葉はどんどんと、「そうではない人を排除する言葉」になってしまっていると思う。もっと広く、どんな立場の人とだって「家族」になれるんだ、と思うことが出来れば、「家族」に関わる色んな問題が解消されるんじゃないか、と思っている。
本書においては、色んな場面で「家族」というものの在り方が問われる。捨てた親、捨てられた子供、血の繋がりのない関係性。ある意味で「家族」という言葉が呪縛のようになってしまっている中で、その呪縛から逃れるために必死になっている面々が描かれていく。
本書に出てくる、ヤドクガエルの話が印象的だった。
【いつだったか、深夜につけたドキュメンタリー番組でやっていた。たしかヤドクガエルの仲間で、なかなかカラフルなやつだったが、オタマジャクシはやはり黒かった。そのカエルは、卵が孵ると、父ガエルがオタマジャクシたちを背中に乗せ、水たまりを探しに出かけるのだという。一つの水たまりに一匹といった感じで、父ガエルはオタマジャクシを水中に放っていくのだが、たまに、どういうわけかすべての子供が1ヶ所に放たれることがある。水たまりの食べ物はみるみるなくなってしまい、そうなると、オタマジャクシたちは一斉に共食いをはじめる。その光景をとらえたVTRは、なかなか強烈だった。
しかし、そこへカエルを一匹入れてみるとどうなるか。
オタマジャクシたちは我先にカエルを目指して泳ぎ、必死でその背中へ逃げようとする。面白いことに、このカエルはどんな種類でも構わないらしい。たとえ赤の他人の背中であっても、オタマジャクシはそこへ乗って逃げようとするのだ】
カエルと人間を単純に比較するわけにはいかないが、血が繋がっているかどうかなんてどうでもよくなる状況というのはあるはずだと思う。もっとそれが、当たり前になってもいいんじゃないか、と僕は思っている。血の繋がりでしか「家族」を確定できないとしたら、それはなんか、敗北な気さえする。
まあこんなことは、子育てをしたことがない人間の戯言だと言われてしまえばその通りだし、僕だって自分の子供が出来ればまったく考え方が変わるかもしれない。ただ、永遠に変えることが出来ないことを判断基準に据えるより、未来において変えうる要素を基準にした方がいいんじゃないか、とは思うのだ。
【人間、どこから来たかより、どこへ行くのかが大事ですから】
ホントその通りだよな、と思う。
内容に触れると、ネタバレを避けるのが非常に難しい作品なのでそうはしなかった。ここまでの文章を読んでも、ほとんど内容が理解できないだろう。それでいい。よくわからないまま、なんなら「カラスの親指」を読まないまま、本書に手を伸ばしてみるのは面白いと思う。自分だったらこの場でどう行動するだろうか、という難しい選択肢をいくつも越えながら、同時に、伏線の嵐を通り抜けて驚かされる読書体験を、ぜひ試してみてください。
道尾秀介「カエルの小指」
自分のためにつく嘘は、いつだって醜い。
もちろん、嘘をつかなければ乗り越えられない状況もあるし、耐えられない現実もある。そのことは分かっていても、やはり、なるべく自分のために嘘はつきたくない、と思う。
ただ、誰かのことを思った嘘は、時に優しい。もちろん、その嘘がすれ違いを生むこともあるし、的外れな親切だったりすることもあるだろう。しかし、そうであったとしても僕は、誰かのためを思ってつく嘘は、許容したいと思ってしまう。
【詐欺師なんて、人間の屑です】
確かに、そう吐き捨てるように言われても仕方のない人生を歩んできた面々ではある。それぞれに、切実な事情があったとはいえ、まっとうに日向を歩くことが叶わず、這いつくばるようにして生きなければならない現実の中で、他人を陥れてでも金を奪う人生を、なかなか許容することは出来ない。
ただそれが、誰かを救うためのものなら話は別だ。
【俺たちは泥棒じゃねえんだぞ】
なんのために嘘をつくのか明確に意識し、その意識を共有し、慎重に行動し、己の欲望をきちんと切り離すことが出来れば、その大嘘は「勇気」や「挑戦」と呼ばれもするだろう。
【自分のことも、生かしてほしいと思っただけです】
現実は、知れば知るほど辛い。どこまでもどこまでも辛い現実がある。そして、その現実を生きなければならない者がいる。そこに想像が及ぶ時、「嘘をつく」ということが新たな価値を持つだろう。
まあ、この作品では、色んな人間が様々な理由から嘘に嘘を重ねすぎて、些細なすれ違いが大きなズレになってしまうんだけど。
内容に入ろうと思います。
武沢竹夫は、十数年前のあの一件以来、詐欺稼業から足を洗った。真っ当に生きてみせると誓ったものの、肉体労働はなかなか続かない。そんな時に見つけたのが、実演販売の仕事だ。専門の派遣業者に登録し、スーパーなどの一角で実演販売をする。口先は得意、というか、口先ぐらいしか得意なものがない武沢にとって、ある意味天職のようなものであり、仕事以外に特に何もない日常ではあるが、以前と比べれば明らかに真っ当な生活を送れるようになっていた。
そんなある日のこと。武沢の実演販売を見ている中学生が気になった。どこかで見たことがある顔な気がするが、思い出せない。するとその中学生が、ここぞというタイミングで邪魔をしてきて、その日の販売は散々だった。その後、その中学生の話を聞くことになった。ふと思い出した15年前の記憶から、気まぐれになぞなぞを出したせいだった。キョウと名乗ったその中学生は、そのなぞなぞに一瞬で正解した。
キョウの望みは、武沢から実演販売を教わることだった。人気タレントの瀬谷ワタルが司会を務める「発掘!天才キッズ」という番組に出場したいのだ、という。よくよく話を聞いてみると、恋愛詐欺に引っかかり、結果的に実家の呉服屋を倒産に追い込んでしまったキョウの母親は、ある日フードコートから飛び降りたのだという。キョウは、恐らく偽名だろう「ナガミネマサト」という男を探し出すために金が必要で、そのために「発掘!天才キッズ」の賞金がほしいのだという。
普段なら、こんなややこしい話に首を突っ込みはしないが、武沢は既に確信していた。キョウは、15年前自殺しようとしていたあの女の子供だ。仕方無しにキョウの頼みを聞いてやる武沢だが…。
というような話です。
本書は、「カラスの親指」の続編で、「カラスの親指」に登場した、貫太郎・まひろ・やひろなんかも出てきます。ただ、もちろん「カラスの親指」を読んでいる方がより楽しめるだろうが、ストーリーだけで言えば本書だけで十分に理解できるし、本書を読んだ後で、彼らにどんな過去があったのか?という関心から「カラスの親指」を読んでもいい、と思う。
物語の初めから、完全に読者を騙しに掛かっているので、油断のならない作品だけど、ストーリー全体の構成としてはシンプルだ。要するに、キョウという明らかな被害者がいて、その被害者をペテンで救済しよう、ということだ。その救済の過程で、不法侵入したり金を盗ったりしてるんで、そういう意味で真っ当ではないのだけど、それらの行動を貫く彼らの想いみたいなものは非常に純粋だと言っていい。
僕は前作「カラスの親指」を読んだ際、「他人同士でも家族になれるのか?」という問題提起を受け取ったのだけど、同じことは本書を読んでいても感じた。
「家族」という括りは、時代によって様々に変化してきたと思うが、そんな長い歴史を持つ「家族」という括りは、どんどんと対象とする範囲が狭まっているように僕には感じられる。僕は、自分の子供がいるわけではないので、あくまでも勝手な印象に過ぎないが、DNA鑑定によって親子であることを証明する、ということに意味を感じない。血が繋がってなかったら、家族じゃないんだろうか?「家族」という言葉はどんどんと、「そうではない人を排除する言葉」になってしまっていると思う。もっと広く、どんな立場の人とだって「家族」になれるんだ、と思うことが出来れば、「家族」に関わる色んな問題が解消されるんじゃないか、と思っている。
本書においては、色んな場面で「家族」というものの在り方が問われる。捨てた親、捨てられた子供、血の繋がりのない関係性。ある意味で「家族」という言葉が呪縛のようになってしまっている中で、その呪縛から逃れるために必死になっている面々が描かれていく。
本書に出てくる、ヤドクガエルの話が印象的だった。
【いつだったか、深夜につけたドキュメンタリー番組でやっていた。たしかヤドクガエルの仲間で、なかなかカラフルなやつだったが、オタマジャクシはやはり黒かった。そのカエルは、卵が孵ると、父ガエルがオタマジャクシたちを背中に乗せ、水たまりを探しに出かけるのだという。一つの水たまりに一匹といった感じで、父ガエルはオタマジャクシを水中に放っていくのだが、たまに、どういうわけかすべての子供が1ヶ所に放たれることがある。水たまりの食べ物はみるみるなくなってしまい、そうなると、オタマジャクシたちは一斉に共食いをはじめる。その光景をとらえたVTRは、なかなか強烈だった。
しかし、そこへカエルを一匹入れてみるとどうなるか。
オタマジャクシたちは我先にカエルを目指して泳ぎ、必死でその背中へ逃げようとする。面白いことに、このカエルはどんな種類でも構わないらしい。たとえ赤の他人の背中であっても、オタマジャクシはそこへ乗って逃げようとするのだ】
カエルと人間を単純に比較するわけにはいかないが、血が繋がっているかどうかなんてどうでもよくなる状況というのはあるはずだと思う。もっとそれが、当たり前になってもいいんじゃないか、と僕は思っている。血の繋がりでしか「家族」を確定できないとしたら、それはなんか、敗北な気さえする。
まあこんなことは、子育てをしたことがない人間の戯言だと言われてしまえばその通りだし、僕だって自分の子供が出来ればまったく考え方が変わるかもしれない。ただ、永遠に変えることが出来ないことを判断基準に据えるより、未来において変えうる要素を基準にした方がいいんじゃないか、とは思うのだ。
【人間、どこから来たかより、どこへ行くのかが大事ですから】
ホントその通りだよな、と思う。
内容に触れると、ネタバレを避けるのが非常に難しい作品なのでそうはしなかった。ここまでの文章を読んでも、ほとんど内容が理解できないだろう。それでいい。よくわからないまま、なんなら「カラスの親指」を読まないまま、本書に手を伸ばしてみるのは面白いと思う。自分だったらこの場でどう行動するだろうか、という難しい選択肢をいくつも越えながら、同時に、伏線の嵐を通り抜けて驚かされる読書体験を、ぜひ試してみてください。
道尾秀介「カエルの小指」
「蜜蜂と遠雷」を観に行ってきました
【悔しいけど、俺にもわからないよ。あっち側の世界は】
天才になりたい、とずっと思っている。
そう思っている時点で、天才でもないし、天才にもなれない。
そんなことは十分分かっている。
それでも、天才になりたい、という思いは、自分の中にずっとある。
天才にしか辿り着けない地平がある。
天才にしか見えない景色がある。
僕は、それを知りたいと思う。
天才であることの、天才であり続けることのデメリットをすべて引き受けてでも、
それを知ってみたい、と思ってしまう。
だから、「悔しい」という気持ちが、僕の中にも少しだけある。
少しだけ。
映画を見ながら、「悔しい」と感じる場面がちょこちょこあった。
冒頭の引用のシーンもそうだ。
楽器店店主で、父親でもあるコンクール挑戦者が、天才たちの戯れを目にして言ったセリフだ。
同じコンクールに出場する。
そんなレベルにいる者であっても絶望的な差を感じさせるもの。
それはどれほどの経験だろう。
僕には恐らく、一生経験出来ないんだと思う。
それを経験するためには、圧倒的を通り越した絶対的な努力が必要だからだ。
努力して努力して努力して、それでもなお掴めない、辿り着けない、という絶望。
その絶望さえ感じることが出来ない「悔しさ」も、僕の中にはある。
「天才」をどう定義するかは難しいが、
僕は印象として
「いつ何時でも楽しめる人」
「いつでも戦える人」
という印象を持っている。
どちらかであれば、僕は「天才」だと感じる。
【野原にピアノが置いてあれば、世界中に僕一人しかいなくたって、僕はきっとピアノを弾くよ】
楽しめる人は、強い。何故なら、努力を努力と思っていないからだ。他人から見れば圧倒的な絶対的な努力に見えることが、本人には努力でもなんでもない。むしろ、悦びであり、ギフトなのだ。
そういう人間には、勝てない。勝とうと思って勝てる相手じゃない。そういう天才に、僕はどうしても憧れみたいなものを感じてしまうけど、絶対にそうはなれないことは十分に理解しているから、まあしょうがない。
でも、「いつでも戦える人」にはなれるんじゃないか、とちょっと思っている。「天才」ではないが、「いつでも戦える人」にはなれるんじゃないか、と。僕はしばらくの間、そういう方向性を目指している。
高校時代、天才的に頭が良いやつがいた。進学校だったが、学校中の誰よりもずば抜けて頭が良かった。しかも、勉強している気配がない、という男だ。僕は、必死で勉強をして学力を維持していた人間だから、そういう努力を怠れば、戦いの場に出られない人間に落ちていってしまう。しかしそいつは、たとえ勉強からしばらく遠ざかっていたって、ほんの僅かな準備で戦いの場に出られるだろう。本当に、あいつは天才だったなと思う。
ただ、努力を維持し続ければ、いつでも戦いの場に出られる人で居続けることは出来る。
それは確かに、凄く大変なことだ。とはいえ、世の「天才」たちだって、本人がそれを努力だと思っているかどうかはともかくとして、努力を怠ればきっと戦えない人になってしまうだろう。だったら、天才にはなれないかもしれないけど、努力を継続することで、「いつでも戦える人」でありつづける。
今はそんな風に考えている。
【我々が試されているのだ】
本当に、そう言われるような存在に、なってみたいものだ。
内容に入ろうと思います。
10回目を数える芳ヶ江国際ピアノコンクール。国際的にも評価が高まり、若手の登竜門として注目されているコンクールに成長したが、今年はさらに大きな意味合いを持つコンクールとなった。
音楽会の至宝であるホフマンが亡くなった年なのだ。ホフマンを敬愛するものたちが関わるコンクールでは、今年のコンクールに重々しいものを感じている。
それに呼応するかのように、コンクールの応募者のレベルは例年以上であり、近年まれにみるハイレベルな争いとなった。去年の優勝者でも、今年の最終審査には残れなかったんじゃないか、という程のレベルである。
メインで描かれるのは4人。
栄伝亜夜は、幼い頃から天才少女と呼ばれ、中学生の頃には既に自身のコンサートを行っていたが、7年前、母の死を境にピアノが弾けなくなり、コンサートをドタキャン。以後7年間表舞台に出てくることはなかった。今回のコンクールを最後のチャンスと考えており、優勝できなければピアノから離れる覚悟だ。
マサル・カルロス・レヴィ・アナトールは、ジュリアード音楽院期待の星で、ルックスの良さも相まって、既に多くのファンを獲得している。彼は子供の頃、亜夜の近くに住んでいて、亜夜の母親からピアノを教わった。亜夜の背中を追いかけるようにピアノの練習を続けたという彼は、亜夜との久々の再会を喜んでいる。
高島明石は、岩手県の楽器店で働きながらこのコンクールを目指していた。28歳という年齢制限ギリギリでの挑戦ということで、最後のチャンスと捉えている。「生活者の音楽」というものを考え続けていて、ピアノに詳しくない者や子供でも楽しめるピアノを弾けることを目標にしている。音楽だけを生業にしている人間には出せない、地に足のついた人間にしか出せない音を目指して、家族の協力の元、日々の忙しい仕事の合間を縫って練習に励んできた。
そして、風間塵。映画では詳しく描かれていないが、原作を読んだ知識を合わせて紹介する。彼は4歳で養蜂家である父親の都合でヨーロッパに渡り、あちこちを転々とすることになる。そしてホフマンと出会い、彼からもらった無音鍵盤を使って日々ピアノの練習をしている。コンクールで優勝したら父親がピアノを買ってくれる、というのがコンクール出場の理由の一つであり、音楽を学んできた者たちからすればあまりに異端な道のりを歩んできている。彼はホフマンの秘蔵っ子であり、今回の芳ヶ江国際ピアノコンクールに出場するまで、公式にはピアノを弾いた経験がゼロである。予選で彼のピアノを聞いた審査員の意見は真っ二つに割れ、「あんな弾き方、冒涜だ」と言う者もいれば、「とんでもない才能の持ち主だ」という者もいる。議論は紛糾するが、しかし審査員の元に、ホフマンからの直筆の推薦状が届いていることが判明し、現代の評価軸では収まらない彼も、本線へと駒を進めることになる。
ライバルでありながら、それぞれの人生が緩やかに折り重なってく物語の中で、ピアノというものと様々な形で向き合ってきた者たちの苦悩や悦びが描かれていく。コンクールという、勝敗が明確に決する場が描かれる中にあって、仲間や協調と言った物語が織り込まれていく。
というような話です。
原作も良かったけど、映画も良かったです。ただ、どちらが良かったかと言われれば、やっぱり原作の方が良かったかな。
先にその辺りの話をしましょう。
その理由は、大きく分けて2つあります。
1つ目は、僕の個人的な理由で、「僕が音楽の良し悪しがちゃんと分かる人間ではない」ということ。これは、「羊と鋼の森」の映画を見た時にも、同じ理由で難しさを感じた部分でした。
小説の中では、すべてを言葉で説明してくれるので、登場人物たちが弾いている曲を自分で受け取る必要がなくて、著者の描写を受け入れればいい。けど映画の場合、実際そこに音楽を載せることが出来るわけだから、作り方としては当然、言葉による描写・評価は減ります。それは、音楽に素養のある人間にとっては良いことでしょうけど、音楽に素養のない僕には、逆に難しくなってしまう要因となります。
今回の映画でも、2次審査で、宮沢賢治の「春と修羅」をモチーフにした課題曲が与えられますが、その中で、カデンツァという、奏者自身が作曲するパートが存在します。そこでどういうオリジナリティを出していくのか、ということが審査のポイントになるわけですが、やはり音楽ド素人の僕には、「みんな凄いな~」みたいなふわっとした感想しか持てずに、それぞれの違いみたいなものを、言語化出来るレベルで捉えられないな、と感じました。
あと、同じような話ですけど、原作を読んでいる僕は、「風間塵の音楽は、聴衆に衝撃を与える斬新さだ」ということを、知識として知っています。しかし、やはり音楽になってしまうと、自分の感覚としてはそこに辿り着けないんですね。風間塵が、どう斬新なのか、僕自身では受け取れない。これも、言葉で説明してくれれば、「なるほど、風間塵は斬新なんだ!」と分かりますが、実際の音楽だと自分でそれを受け取らなければいけないんで大変だな、と。
音楽が主軸となる映画の場合、この難しさが僕には常につきまといます。
2つ目は、やはり分量の問題があります。原作の小説は、文庫で上下巻に分かれるくらいのかなりの分量があります。それを2時間に収めようとすれば、やはりかなり大きく削っていかなくてはいけません。この映画の場合、演奏シーンは非常に重要なので、ある程度のボリュームを維持せざるを得ません。となると削られるのは、登場人物たちのエピソードの部分、ということになります。
原作を読んでいる身としては特に、風間塵の背景が描かれなさすぎる、と感じました。というか映画では、栄伝亜夜が主人公、というような形で物語が進んでいく感じがあります。それは別にいいんですけど、ただやっぱり原作を読んで、「風間塵」という異形の存在感が物語の重要な核としてあったと感じたので、その部分はあまり描かれていないことは、正直不満に感じました。もう少し、映画が長くなってもいいから、風間塵という人物を深く描き出すような描写があればよかったなぁ、という感じはします。
とまあ、あれこれ書きましたけど、とはいえ凄く良い映画でした。冒頭で少し書きましたけど、やはり「悔しい」と感じる場面がちょくちょくあって、それと関係するのか、別に泣けるようなシーンでもないのに、ちょっとウルッとしている自分がいました。ここまで真剣に、圧倒的に、そして真っ当に全力でいられることって、いいよなぁ、なんて思ったりしました。
観ていて感じたのは、「好き」からは逃れられないよなぁ、ということ。やっぱり、「好き」というのが何よりも強いな、と思わされました。僕自身は、「好き」と感じる対象がほとんどなくて、昔からそこまで強い感情を持てたことがないんで、「好き」と強く思えること、言葉に出して言えることがそもそも羨ましいな、と思ってしまうのだけど、そういうものと出会えている、ということは、もちろん様々な困難との出会いでもあるのだけど、基本的には、凄く羨ましいことだな、と感じます。
物語とは関係ない部分で感じたことも書いておきます。
この映画は、演技にそこまで詳しくない僕の意見でしかありませんが、「演技してるっぽさ」が凄く少ない、と感じました。というか、役者がみんな「自然体」のままカメラの前にいるような、そんな錯覚を抱かせる映画でした。
僕がそう感じたのは、松岡茉優が好きだから、というのもあるかもしれません。僕は結構、松岡茉優が出ている映画とか見るんですけど、この映画の中の松岡茉優は、「松岡茉優のまんま」という感じがしたんです。もちろん、松岡茉優と知り合いでもなんでもないし、だから「松岡茉優のまんま」をそもそも知ってるわけではないんですけど、僕のイメージの中の「松岡茉優」と、この映画の中の「栄伝亜夜」は、ほぼ同じという感じがしました。
で、そういう視点で映画を見始めたからか、他の役者たちも、なんだか演技をしてる感じに見えないっていうか、役者=登場人物みたいな感じがするなぁ、と思えるようになってきました。
さらにその印象を強めたのが、風間塵を演じた鈴鹿央士です。
テレビで見て知りましたけど、この鈴鹿央士というのは、広瀬アリスがスカウトし、この映画で初主演(というか、たぶん役者が初めて)という人物です。そしてその設定が、「蜜蜂と遠雷」の中の「風間塵」という役柄に、非常に重なるんですね。それまで公式にピアノを弾いたことがない、誰にも知られていなかった男が、突然コンクールに出てきて驚くような演奏をする、というのと、これまで演技の経験もなく、大抜擢された鈴鹿央士、というのがダブるんですね。
で、鈴鹿央士の演技がうまいのかどうなのか、僕にはわかりませんけど、でもなんとなく、「すっごい素の感じっぽいなぁ」って思ったんです。松岡茉優と鈴鹿央士の2人から、「演技してないっぽい感じ」を強く感じたので、それもあって、他の役者たちにも同じような印象を受けたのかもしれません。
「栄伝亜夜という名前だけど、松岡茉優がそこにいる」という感覚、そして「登場人物の設定同様、来歴不明の存在として現れ、登場人物同様、肩の力を抜いて楽しげに演技をする鈴鹿央士」という2人の存在が僕の中では凄く際立っていたので、まるでドキュメンタリーでも見ているような感覚でした。もちろん、カット割りなんかが明らかにドキュメンタリータッチではないんで、ドキュメンタリーと錯覚したなんてわけではないんだけど、役者たちの有り様を見ていると、あれ、ドキュメンタリーなのかなこれ、と感じてしまうような瞬間は何度かありました。なんとなく、「物語に触れている感覚」が凄く薄くて、原作を読んでいるから、明らかに物語だと分かっているのに、僕の中でも不思議な感覚でした。
ドキュメンタリーっぽい、という感覚は、恐らく僕の個人的なものだと思いますけど、そういうものを抜きにしても、物語や人間同士のやり取りなどに非常に打たれる作品だと思います。
「蜜蜂と遠雷」を観に行ってきました
天才になりたい、とずっと思っている。
そう思っている時点で、天才でもないし、天才にもなれない。
そんなことは十分分かっている。
それでも、天才になりたい、という思いは、自分の中にずっとある。
天才にしか辿り着けない地平がある。
天才にしか見えない景色がある。
僕は、それを知りたいと思う。
天才であることの、天才であり続けることのデメリットをすべて引き受けてでも、
それを知ってみたい、と思ってしまう。
だから、「悔しい」という気持ちが、僕の中にも少しだけある。
少しだけ。
映画を見ながら、「悔しい」と感じる場面がちょこちょこあった。
冒頭の引用のシーンもそうだ。
楽器店店主で、父親でもあるコンクール挑戦者が、天才たちの戯れを目にして言ったセリフだ。
同じコンクールに出場する。
そんなレベルにいる者であっても絶望的な差を感じさせるもの。
それはどれほどの経験だろう。
僕には恐らく、一生経験出来ないんだと思う。
それを経験するためには、圧倒的を通り越した絶対的な努力が必要だからだ。
努力して努力して努力して、それでもなお掴めない、辿り着けない、という絶望。
その絶望さえ感じることが出来ない「悔しさ」も、僕の中にはある。
「天才」をどう定義するかは難しいが、
僕は印象として
「いつ何時でも楽しめる人」
「いつでも戦える人」
という印象を持っている。
どちらかであれば、僕は「天才」だと感じる。
【野原にピアノが置いてあれば、世界中に僕一人しかいなくたって、僕はきっとピアノを弾くよ】
楽しめる人は、強い。何故なら、努力を努力と思っていないからだ。他人から見れば圧倒的な絶対的な努力に見えることが、本人には努力でもなんでもない。むしろ、悦びであり、ギフトなのだ。
そういう人間には、勝てない。勝とうと思って勝てる相手じゃない。そういう天才に、僕はどうしても憧れみたいなものを感じてしまうけど、絶対にそうはなれないことは十分に理解しているから、まあしょうがない。
でも、「いつでも戦える人」にはなれるんじゃないか、とちょっと思っている。「天才」ではないが、「いつでも戦える人」にはなれるんじゃないか、と。僕はしばらくの間、そういう方向性を目指している。
高校時代、天才的に頭が良いやつがいた。進学校だったが、学校中の誰よりもずば抜けて頭が良かった。しかも、勉強している気配がない、という男だ。僕は、必死で勉強をして学力を維持していた人間だから、そういう努力を怠れば、戦いの場に出られない人間に落ちていってしまう。しかしそいつは、たとえ勉強からしばらく遠ざかっていたって、ほんの僅かな準備で戦いの場に出られるだろう。本当に、あいつは天才だったなと思う。
ただ、努力を維持し続ければ、いつでも戦いの場に出られる人で居続けることは出来る。
それは確かに、凄く大変なことだ。とはいえ、世の「天才」たちだって、本人がそれを努力だと思っているかどうかはともかくとして、努力を怠ればきっと戦えない人になってしまうだろう。だったら、天才にはなれないかもしれないけど、努力を継続することで、「いつでも戦える人」でありつづける。
今はそんな風に考えている。
【我々が試されているのだ】
本当に、そう言われるような存在に、なってみたいものだ。
内容に入ろうと思います。
10回目を数える芳ヶ江国際ピアノコンクール。国際的にも評価が高まり、若手の登竜門として注目されているコンクールに成長したが、今年はさらに大きな意味合いを持つコンクールとなった。
音楽会の至宝であるホフマンが亡くなった年なのだ。ホフマンを敬愛するものたちが関わるコンクールでは、今年のコンクールに重々しいものを感じている。
それに呼応するかのように、コンクールの応募者のレベルは例年以上であり、近年まれにみるハイレベルな争いとなった。去年の優勝者でも、今年の最終審査には残れなかったんじゃないか、という程のレベルである。
メインで描かれるのは4人。
栄伝亜夜は、幼い頃から天才少女と呼ばれ、中学生の頃には既に自身のコンサートを行っていたが、7年前、母の死を境にピアノが弾けなくなり、コンサートをドタキャン。以後7年間表舞台に出てくることはなかった。今回のコンクールを最後のチャンスと考えており、優勝できなければピアノから離れる覚悟だ。
マサル・カルロス・レヴィ・アナトールは、ジュリアード音楽院期待の星で、ルックスの良さも相まって、既に多くのファンを獲得している。彼は子供の頃、亜夜の近くに住んでいて、亜夜の母親からピアノを教わった。亜夜の背中を追いかけるようにピアノの練習を続けたという彼は、亜夜との久々の再会を喜んでいる。
高島明石は、岩手県の楽器店で働きながらこのコンクールを目指していた。28歳という年齢制限ギリギリでの挑戦ということで、最後のチャンスと捉えている。「生活者の音楽」というものを考え続けていて、ピアノに詳しくない者や子供でも楽しめるピアノを弾けることを目標にしている。音楽だけを生業にしている人間には出せない、地に足のついた人間にしか出せない音を目指して、家族の協力の元、日々の忙しい仕事の合間を縫って練習に励んできた。
そして、風間塵。映画では詳しく描かれていないが、原作を読んだ知識を合わせて紹介する。彼は4歳で養蜂家である父親の都合でヨーロッパに渡り、あちこちを転々とすることになる。そしてホフマンと出会い、彼からもらった無音鍵盤を使って日々ピアノの練習をしている。コンクールで優勝したら父親がピアノを買ってくれる、というのがコンクール出場の理由の一つであり、音楽を学んできた者たちからすればあまりに異端な道のりを歩んできている。彼はホフマンの秘蔵っ子であり、今回の芳ヶ江国際ピアノコンクールに出場するまで、公式にはピアノを弾いた経験がゼロである。予選で彼のピアノを聞いた審査員の意見は真っ二つに割れ、「あんな弾き方、冒涜だ」と言う者もいれば、「とんでもない才能の持ち主だ」という者もいる。議論は紛糾するが、しかし審査員の元に、ホフマンからの直筆の推薦状が届いていることが判明し、現代の評価軸では収まらない彼も、本線へと駒を進めることになる。
ライバルでありながら、それぞれの人生が緩やかに折り重なってく物語の中で、ピアノというものと様々な形で向き合ってきた者たちの苦悩や悦びが描かれていく。コンクールという、勝敗が明確に決する場が描かれる中にあって、仲間や協調と言った物語が織り込まれていく。
というような話です。
原作も良かったけど、映画も良かったです。ただ、どちらが良かったかと言われれば、やっぱり原作の方が良かったかな。
先にその辺りの話をしましょう。
その理由は、大きく分けて2つあります。
1つ目は、僕の個人的な理由で、「僕が音楽の良し悪しがちゃんと分かる人間ではない」ということ。これは、「羊と鋼の森」の映画を見た時にも、同じ理由で難しさを感じた部分でした。
小説の中では、すべてを言葉で説明してくれるので、登場人物たちが弾いている曲を自分で受け取る必要がなくて、著者の描写を受け入れればいい。けど映画の場合、実際そこに音楽を載せることが出来るわけだから、作り方としては当然、言葉による描写・評価は減ります。それは、音楽に素養のある人間にとっては良いことでしょうけど、音楽に素養のない僕には、逆に難しくなってしまう要因となります。
今回の映画でも、2次審査で、宮沢賢治の「春と修羅」をモチーフにした課題曲が与えられますが、その中で、カデンツァという、奏者自身が作曲するパートが存在します。そこでどういうオリジナリティを出していくのか、ということが審査のポイントになるわけですが、やはり音楽ド素人の僕には、「みんな凄いな~」みたいなふわっとした感想しか持てずに、それぞれの違いみたいなものを、言語化出来るレベルで捉えられないな、と感じました。
あと、同じような話ですけど、原作を読んでいる僕は、「風間塵の音楽は、聴衆に衝撃を与える斬新さだ」ということを、知識として知っています。しかし、やはり音楽になってしまうと、自分の感覚としてはそこに辿り着けないんですね。風間塵が、どう斬新なのか、僕自身では受け取れない。これも、言葉で説明してくれれば、「なるほど、風間塵は斬新なんだ!」と分かりますが、実際の音楽だと自分でそれを受け取らなければいけないんで大変だな、と。
音楽が主軸となる映画の場合、この難しさが僕には常につきまといます。
2つ目は、やはり分量の問題があります。原作の小説は、文庫で上下巻に分かれるくらいのかなりの分量があります。それを2時間に収めようとすれば、やはりかなり大きく削っていかなくてはいけません。この映画の場合、演奏シーンは非常に重要なので、ある程度のボリュームを維持せざるを得ません。となると削られるのは、登場人物たちのエピソードの部分、ということになります。
原作を読んでいる身としては特に、風間塵の背景が描かれなさすぎる、と感じました。というか映画では、栄伝亜夜が主人公、というような形で物語が進んでいく感じがあります。それは別にいいんですけど、ただやっぱり原作を読んで、「風間塵」という異形の存在感が物語の重要な核としてあったと感じたので、その部分はあまり描かれていないことは、正直不満に感じました。もう少し、映画が長くなってもいいから、風間塵という人物を深く描き出すような描写があればよかったなぁ、という感じはします。
とまあ、あれこれ書きましたけど、とはいえ凄く良い映画でした。冒頭で少し書きましたけど、やはり「悔しい」と感じる場面がちょくちょくあって、それと関係するのか、別に泣けるようなシーンでもないのに、ちょっとウルッとしている自分がいました。ここまで真剣に、圧倒的に、そして真っ当に全力でいられることって、いいよなぁ、なんて思ったりしました。
観ていて感じたのは、「好き」からは逃れられないよなぁ、ということ。やっぱり、「好き」というのが何よりも強いな、と思わされました。僕自身は、「好き」と感じる対象がほとんどなくて、昔からそこまで強い感情を持てたことがないんで、「好き」と強く思えること、言葉に出して言えることがそもそも羨ましいな、と思ってしまうのだけど、そういうものと出会えている、ということは、もちろん様々な困難との出会いでもあるのだけど、基本的には、凄く羨ましいことだな、と感じます。
物語とは関係ない部分で感じたことも書いておきます。
この映画は、演技にそこまで詳しくない僕の意見でしかありませんが、「演技してるっぽさ」が凄く少ない、と感じました。というか、役者がみんな「自然体」のままカメラの前にいるような、そんな錯覚を抱かせる映画でした。
僕がそう感じたのは、松岡茉優が好きだから、というのもあるかもしれません。僕は結構、松岡茉優が出ている映画とか見るんですけど、この映画の中の松岡茉優は、「松岡茉優のまんま」という感じがしたんです。もちろん、松岡茉優と知り合いでもなんでもないし、だから「松岡茉優のまんま」をそもそも知ってるわけではないんですけど、僕のイメージの中の「松岡茉優」と、この映画の中の「栄伝亜夜」は、ほぼ同じという感じがしました。
で、そういう視点で映画を見始めたからか、他の役者たちも、なんだか演技をしてる感じに見えないっていうか、役者=登場人物みたいな感じがするなぁ、と思えるようになってきました。
さらにその印象を強めたのが、風間塵を演じた鈴鹿央士です。
テレビで見て知りましたけど、この鈴鹿央士というのは、広瀬アリスがスカウトし、この映画で初主演(というか、たぶん役者が初めて)という人物です。そしてその設定が、「蜜蜂と遠雷」の中の「風間塵」という役柄に、非常に重なるんですね。それまで公式にピアノを弾いたことがない、誰にも知られていなかった男が、突然コンクールに出てきて驚くような演奏をする、というのと、これまで演技の経験もなく、大抜擢された鈴鹿央士、というのがダブるんですね。
で、鈴鹿央士の演技がうまいのかどうなのか、僕にはわかりませんけど、でもなんとなく、「すっごい素の感じっぽいなぁ」って思ったんです。松岡茉優と鈴鹿央士の2人から、「演技してないっぽい感じ」を強く感じたので、それもあって、他の役者たちにも同じような印象を受けたのかもしれません。
「栄伝亜夜という名前だけど、松岡茉優がそこにいる」という感覚、そして「登場人物の設定同様、来歴不明の存在として現れ、登場人物同様、肩の力を抜いて楽しげに演技をする鈴鹿央士」という2人の存在が僕の中では凄く際立っていたので、まるでドキュメンタリーでも見ているような感覚でした。もちろん、カット割りなんかが明らかにドキュメンタリータッチではないんで、ドキュメンタリーと錯覚したなんてわけではないんだけど、役者たちの有り様を見ていると、あれ、ドキュメンタリーなのかなこれ、と感じてしまうような瞬間は何度かありました。なんとなく、「物語に触れている感覚」が凄く薄くて、原作を読んでいるから、明らかに物語だと分かっているのに、僕の中でも不思議な感覚でした。
ドキュメンタリーっぽい、という感覚は、恐らく僕の個人的なものだと思いますけど、そういうものを抜きにしても、物語や人間同士のやり取りなどに非常に打たれる作品だと思います。
「蜜蜂と遠雷」を観に行ってきました
青い眼がほしい(トニ・モリスン)
やっぱり難しいなぁ、外文は。
今回必要があって読んだ本なのだけど、やっぱり「ちゃんと読めなかったなぁ」という感覚がとても強かった。
「青い眼がほしい」というタイトルからなんとなく想像できるだろうが、本書は、黒人の女の子が、自身の境遇に嫌気が差し、白人のように青い眼を欲する、という小説です。
いわゆる「文学」と呼ばれるジャンルの本だと思いますけど、改めて「文学」ってダメだなぁ、って感じました。
本書を読んで感じた難しさを説明してみます。
「文学」というのは、数枚の写真が並んでいて、その写真の並び方、見ている人が様々なものを補いながら、自ら「物語」を読み取っていくものなんだろうなぁ、と本書を読んで感じました。本書も、情景の描写とか、登場人物たちの行動とかが細密に描かれるのだけど、著者は「小説」の中に明確に「物語」を埋め込んでいないように感じます。まさに、一瞬を切り取った写真が整然と並んでいるという感じで、それは動画じゃない。動画じゃないから、自分で隙間を補って「物語」を感じとるしかない。
僕が読める小説は、静止画の羅列じゃなくて、動画にしてくれるものだ。ちゃんと動画にして、「物語」を埋め込んでくれていれば、もちろんちゃんと読める。でもやっぱり、自分で「物語」を読み取る力はないなぁ、と思いました。
ノーベル賞を受賞した作家のデビュー作で、恐らく読む力がある人が読めば、この小説からきちんとした何かを取り出せるんだろうと思います。ただやっぱり、僕には、それは出来なかったなぁ。そもそも「物語」をうまく取り出せてないから、テーマや問題提起などもうまく取り出せない。裏表紙の内容紹介には、「白人が定めた価値観を痛烈に問いただす」と書いてあるんだけど、そういう感覚は僕には取り出せなかったな、と。
改めて、こういう物語がちゃんと読める人間になりたいなぁ、と思ったものでした。そういう意味では、本書のタイトルである「青い眼がほしい」という感覚は、僅かに理解できる気がします。
トニ・モリスン「青い眼がほしい」
今回必要があって読んだ本なのだけど、やっぱり「ちゃんと読めなかったなぁ」という感覚がとても強かった。
「青い眼がほしい」というタイトルからなんとなく想像できるだろうが、本書は、黒人の女の子が、自身の境遇に嫌気が差し、白人のように青い眼を欲する、という小説です。
いわゆる「文学」と呼ばれるジャンルの本だと思いますけど、改めて「文学」ってダメだなぁ、って感じました。
本書を読んで感じた難しさを説明してみます。
「文学」というのは、数枚の写真が並んでいて、その写真の並び方、見ている人が様々なものを補いながら、自ら「物語」を読み取っていくものなんだろうなぁ、と本書を読んで感じました。本書も、情景の描写とか、登場人物たちの行動とかが細密に描かれるのだけど、著者は「小説」の中に明確に「物語」を埋め込んでいないように感じます。まさに、一瞬を切り取った写真が整然と並んでいるという感じで、それは動画じゃない。動画じゃないから、自分で隙間を補って「物語」を感じとるしかない。
僕が読める小説は、静止画の羅列じゃなくて、動画にしてくれるものだ。ちゃんと動画にして、「物語」を埋め込んでくれていれば、もちろんちゃんと読める。でもやっぱり、自分で「物語」を読み取る力はないなぁ、と思いました。
ノーベル賞を受賞した作家のデビュー作で、恐らく読む力がある人が読めば、この小説からきちんとした何かを取り出せるんだろうと思います。ただやっぱり、僕には、それは出来なかったなぁ。そもそも「物語」をうまく取り出せてないから、テーマや問題提起などもうまく取り出せない。裏表紙の内容紹介には、「白人が定めた価値観を痛烈に問いただす」と書いてあるんだけど、そういう感覚は僕には取り出せなかったな、と。
改めて、こういう物語がちゃんと読める人間になりたいなぁ、と思ったものでした。そういう意味では、本書のタイトルである「青い眼がほしい」という感覚は、僅かに理解できる気がします。
トニ・モリスン「青い眼がほしい」
まほり(高田大介)
僕は「歴史」というものが基本的には好きではない。その理由はシンプルで、「書き残されたものがどうして”正しい”と言えるのか」という疑問が根底にある。
例えばツイッターなんかを考えてみてもよく分かる。デマや流言なんか、あちらこちらで飛び交っている。もちろんこれは、「誰もが発信者になれる時代ゆえの現象だ」と捉えることも可能だ。昔は、文字を読める人も書ける人も少なかったのだから、同列に論じることは意味がないという主張もあるだろう。しかし一方で、「歴史とは勝者が残すものだ」とも言われるし、勝者にとって都合の悪い歴史は残りにくいのもまた事実だろう。また、「聖徳太子はいなかった」「鎌倉幕府の始まりは1192年じゃなかった」など、教科書に書かれていた事実がどんどんと改定されていく。そういう部分への「不信感」みたいなものもある。
僕は、「歴史学」について詳しい知識があるわけでもないので、勝手な憶測を積み重ねた上での忌避でしかないのだけど、そんな風に考えて、僕は「歴史の正しさ」みたいなものが信用できない。
本書では、そんな僕の「歴史への疑い」がちょっと変容するようなことが結構描かれている。そういう意味でも本書は面白い作品だと思った。
【史料の伝存自体がすでに書いたものの底意、保存したものの意志の働きを帯びているということです。そしてそれを出来うる限り客観的な形で今日に読み解き、将来に向けて紹介伝承していこうとする我々史学者の営みもまた、同じくなんらかの底意、なんらかの意志の働きを免れえないということなんですよ。史学そのものが透明なものではありえない、史学こそが、何らかの歴史、何らかの事実というご大層なものが形作られ、維持されていくのに手を貸してしまわざるをえないという、この背理に自覚的でなければならない理屈でしょ。歴史学は廉潔であろうとすればするだけ、客観性という幻想に対して慎重であらねばならない】
作中に登場するある史学者の言葉だが、この言葉から僕は、量子論の「観測問題」を思い出した。
ここで指摘されていることは、「なんらかの形で史料に接しようとする人間の意志が、史料の客観性を失わせる」ということだと思うが、同じようなことは、物理学でもある。「量子」というのは、原子などの非常に小さいものを指すが、それを扱う「量子論」では、「量子を観測するという行為が、量子の存在状態に影響を与えてしまう」と解釈されており(まだこの「観測問題」は決着がついていない)、つまり、「観測するという行為が量子の状態を変化させてしまうから、我々は量子を正確に”観測”することができない」と、現在では結論されている(ハイゼンベルクの不確定性原理)。
これは先程引用した話と、ほとんど同じといえるだろう。
別の箇所で、主人公がこんなことを言っている。
【(今調べている歴史的な事柄が)事実であったとしてもだよ、他でもないこの一事ばかりを追究するということが、とっくに俺の主観に彩られているだろう。何故この事ばかりを問題にするのか―そうした俺の拘りが既にして問題を主観的にしてしまっているんだ。歴史が残る、歴史を残すということ自体が無垢の客観性を保証してはくれない、むしろそこに意図と動機を刻んでしまう…】
これについても、現代的な例証を引っ張ってくることが出来る。例えば、ワイドショーなんかでよくある不倫報道。僕は、不倫が殊更に悪いものだと思っていないが、とりあえず世間では悪いことということになっている(まあ、不倫というのが、誰かを叩いたり貶めたりするのにうってつけの題材であり、それが故に、叩いたり貶めたりしている自分を正当化するために、不倫を殊更に悪者扱いしている、という側面はあると思うけど)。で、世の中に出てくる不倫報道って、数年前のものだったりすることもある。もちろん、事実は数年前でも、情報提供がなされたのが最近だ、というケースももちろんあるだろう。しかし不倫報道の中には、「対象となる人物の悪評が、その人物に最もダメージを与えるタイミング」で報じられるものもある。出馬しようとしているタイミングや、新しい番組が始まろうとしているタイミングなどである。もちろん報じる側は、雑誌の売上や視聴率なんかを見込んでそういうタイミングを選んでいるわけだけど、これなどまさに、「事実が主観によって歪められている事例」と言っていいだろう。事実そのものが変わるわけではないが、その事実を捉え、報じる側の人間がどういう主観を持っているかによって、その事実の受け取られ方は大きく変わっていく。
先の主人公のセリフも、そういう意味がある。僕らはなんとなく、「歴史的事実は固定的なものだ」という印象を持ちがちではないかと思う。大昔に起こったことであるし、「歴史的事実」が「固定的」なものなんであれば、どういう掘り出し方をしたって「変わらない」と思うのはある意味で当然だと言えるだろう。しかし、そうとも限らない。というか、そうではない。「掘り出し方」によって、「事実」の捉えられ方は明白に変わってしまう。
本書は、古文書の記述なんかが出てくる、ちょっとハードな民俗学ミステリで、正直、ちょっとついていけない部分もあった。しかし、そういう「過去の時間軸」に存在するものはともかくとして、「現在の時間軸」に存在する、「歴史というものとどう向き合い、どう掘り出していくべきかを考える人々」の話は、非常に興味深かった。「歴史」というものには今まで苦手意識しかなかったが、やはりそこには「食わず嫌い」的な要素があったようだ。もちろん、「歴史の教科書」は、まだ全然好きになれないけど、「歴史」というものと様々なスタンスで関わろうとする人々の物語を読んで、なるほど、一概に忌避するのも違うかもしれないな、という気分になれた。
内容に入ろうと思います。
大学生の勝山裕は、大学院進学を目指して勉強中だ。とりあえず大学に入った、というチャラチャラした連中とはあまりソリが合わないのだが、ひょんなことからある卒研グループの飲み会に誘われることになった。都市伝説をテーマに研究をまとめようとしているが、そもそもの研究手法からおぼつかない連中に、初歩の手ほどきをしただけであったが、その会話の中で裕は気になる話を耳にした。裕の出身に近い上州のある村で、子どもたちが二重丸が書かれた紙がそこかしこに貼られていることに気づいた、という話だ。その話自体は、明確なオチがあるわけでもなく、二重丸の正体も不明なままだったが、裕は、その話の出どころである、まさに子どもの頃に二重丸の紙をみんなで探したという張本人からも話を聞いた。何故そこまでこの話に興味を持ったのか。その二重丸の紙は、「こんぴらさん」と関係があるとされていたのだが、その表記が「琴平」だった。そしてその名前は、裕の母親と関係があるかもしれないのだ。裕の母親は幼い頃に亡くなっているのだが、父親からも、あるいは戸籍上からも、母親に関して確たる情報が得られない。唯一、旧姓が「琴平」あるいは「毛利」と関係するかもしれない、という話を知っているのみだ。そんな僅かな手がかりでしかなかったが、裕は夏休みのついでに帰郷し、調べることにしてみたのだった。帰郷に際して、近在の図書館に足を運ぶと、そこに偶然、高校時代に塾で仲良くなった飯山香織が働いていた。裕は香織にその都市伝説の話をしたところ、香織は裕の調査を手伝うという。古文書などを元に、神社の由縁などを調べる裕たちだったが、その調査の過程で一人の少年と出会う。なんと、裕たちが行き着いたある曰く付きの村に、同じく注目し、独自に調査をしているようなのだ。その少年曰く、その村には、”馬鹿(知的障害者を指す方言)”の女の子が監禁されている、というのだが…。
というような話です。
面白かった。面白かったけど、色々言いたいこともある。手放しで褒められるかというと、そうではないのだ。その辺りの話を色々書いていこう。
まず、物語全体としては、非常に良く出来ていると思う。導入の都市伝説の話から、まさかこんな展開になるとは、という感じだ。裕たちは正直、この物語の本丸のことは知らずに調査を始めた。「本丸」というのは要するに、少女の監禁だ。裕たちは、そんなことが行われているとはつゆ知らず、別の動機(母親に繋がる何かがないか)から調査を進めるのだ。一方で、少年(淳という)は、最初から「本丸」をめがけて調査をしていた。しかし悲しいかな、子どもに出来ることには限界がある。この「裕たちの文献方面からの知識」と「淳の実地調査の知識」が組み合わさることで、普通には捉えられない「歴史の暗部」に迫ることが出来るのだ。
【歴史は遡ればきっと何らかの…残酷無残に行き当たるもんですよ。歴史に分け入れば、そうした時代の無残、時代の酷薄に迫ることになる。どこか猟奇趣味めいた気味を帯びてくるのは普通です】
この構成は上手いなと思ったし、「歴史」が「現在」と接続されている怖さ、みたいなものも感じ取れる。実際に、本書で描かれているようなことが、日本のどこかで行われていないとは、誰にも断言できないだろう。
またそれは、「書かれなかった歴史」についても深堀りすることになる。
【大文字の『歴史』に翻弄されながら、左右されながら、それなのに日々変わりなく、年々変化なく過ごされていた大衆の生活というものがあったはずですよね。それを看過して、大文字の『歴史』に目を奪われていたのでは、これは大きな見過ごしになると思うんですよ】
ここではまだ穏やかに、「文字として記録されていない生活史」みたいな話として言及されているが、本書ではさらに、「記録に残すわけにはいかない残虐史」みたいなものに話が及んでいく。今でこそ、普通なら人に話せないようなことも、匿名のブログやSNSなどに書く人たちがたくさんいるが、昔であればあるほど、陰惨な事柄であればあるほど口を噤み、記録に残らないだろう。そういう「書かれなかった歴史」にどうアプローチすべきなのか、ということについて、学者の見解や裕たちの行動などから色々と考えさせられる。そういうテーマが浮かび上がってくるところも面白い。
ただ、そういう歴史学の困難さ、不完全さみたいなものをちゃんと描こうとすればするほど、古文書の記述なんかがバンバン出てきて、ついていくのがしんどくなる。確かに、最後まで読めば、本書で何故これほどまでに古文書が登場するのか理解できる。本書をミステリとして捉えた場合、その「解決」は古文書の記述からなされるのだ。しかし、だからこそ、本書は分かりづらくもある。
確かに、最終的に裕がある解決を見る場面における論理的な展開は非常に面白い。スゴいなと思う。まさにこれは、「古文書」というデータ群の中に、「書かれていない歴史」を見出す「文献探偵」みたいなものだ(裕と香織だけで成し遂げたわけではないが)。古文書単体では分からないが、それらを複数突き合わせ、様々なジャンルにおける知識を積み重ねることで、裕たちは「一定の確度を持った歴史的事実」を探り当てる。実際それは、本書で繰り返し釘を差しているように、「歴史学の中では客観的な事実とは認められない」類のものだ。しかし裕たちは別に、論文を書こうとしているわけではない。だから「一定の確度を持った」という程度で十分なのだ。そういう、古文書を突き合わせた解決は見事だと思う。
ただ、やっぱりなかなかスッとは頭に入ってくれない。理屈は分かるけど、それは主人公が説明してくれているからであって、自分の頭で、提示されたデータを理解して導いたわけではない。ミステリを読む人は、提示された伏線を自ら読み解きながら、結局果たせず、最終的に探偵の解決に委ねる、という読み方をすることが多いだろうけど、本書の場合それをやるためには、本書に登場する古文書をかなりちゃんと読み込まなければならないだろう。そういう意味で、ハードルは高い。
また本書は、文章的にもちょっとハードルがある。「現代もの」で「若い男女」が主人公なのに、「記述が古臭い」のだ。
著者のデビュー作である「図書館の魔女」にも、言ってしまえば記述の古臭さがあったのだけど、しかしそれは、僕は問題に感じなかった。何故なら「図書館の魔女」は、「異世界ファンタジー」だったからだ。「現代」を舞台にする以上、自分が持っている「現代」に関する常識で物事を判断するが、「異世界」を舞台にする場合、その常識の当てはめは有効ではない。だから僕は、「図書館の魔女」においては古臭さは感じなかった。
一方本書は「現代もの」だ。時代は特定されていないと思うが、小学生(かな?)の少年が携帯電話を持っている以上、そう昔ではありえない。で、そうだとすると、裕と香織のやり取りや会話なんかに、どうしても古臭さを感じてしまう。全体として、そこはちょっと難があるなぁ、と感じた。もったいない。
というわけで、全体として、面白いんだけど勧めにくい本だな、という印象だ。「古文書」という要素は、物語の根幹に関わるので仕方ないとはいえ、「古臭さ」はどうにかならなかったかなぁ、と思う。たぶん、年配の人が読む分には、違和感を感じない作りになってるんだろうし、それを狙ってやっているとするなら、それは正解なのだけど。
高田大介「まほり」
例えばツイッターなんかを考えてみてもよく分かる。デマや流言なんか、あちらこちらで飛び交っている。もちろんこれは、「誰もが発信者になれる時代ゆえの現象だ」と捉えることも可能だ。昔は、文字を読める人も書ける人も少なかったのだから、同列に論じることは意味がないという主張もあるだろう。しかし一方で、「歴史とは勝者が残すものだ」とも言われるし、勝者にとって都合の悪い歴史は残りにくいのもまた事実だろう。また、「聖徳太子はいなかった」「鎌倉幕府の始まりは1192年じゃなかった」など、教科書に書かれていた事実がどんどんと改定されていく。そういう部分への「不信感」みたいなものもある。
僕は、「歴史学」について詳しい知識があるわけでもないので、勝手な憶測を積み重ねた上での忌避でしかないのだけど、そんな風に考えて、僕は「歴史の正しさ」みたいなものが信用できない。
本書では、そんな僕の「歴史への疑い」がちょっと変容するようなことが結構描かれている。そういう意味でも本書は面白い作品だと思った。
【史料の伝存自体がすでに書いたものの底意、保存したものの意志の働きを帯びているということです。そしてそれを出来うる限り客観的な形で今日に読み解き、将来に向けて紹介伝承していこうとする我々史学者の営みもまた、同じくなんらかの底意、なんらかの意志の働きを免れえないということなんですよ。史学そのものが透明なものではありえない、史学こそが、何らかの歴史、何らかの事実というご大層なものが形作られ、維持されていくのに手を貸してしまわざるをえないという、この背理に自覚的でなければならない理屈でしょ。歴史学は廉潔であろうとすればするだけ、客観性という幻想に対して慎重であらねばならない】
作中に登場するある史学者の言葉だが、この言葉から僕は、量子論の「観測問題」を思い出した。
ここで指摘されていることは、「なんらかの形で史料に接しようとする人間の意志が、史料の客観性を失わせる」ということだと思うが、同じようなことは、物理学でもある。「量子」というのは、原子などの非常に小さいものを指すが、それを扱う「量子論」では、「量子を観測するという行為が、量子の存在状態に影響を与えてしまう」と解釈されており(まだこの「観測問題」は決着がついていない)、つまり、「観測するという行為が量子の状態を変化させてしまうから、我々は量子を正確に”観測”することができない」と、現在では結論されている(ハイゼンベルクの不確定性原理)。
これは先程引用した話と、ほとんど同じといえるだろう。
別の箇所で、主人公がこんなことを言っている。
【(今調べている歴史的な事柄が)事実であったとしてもだよ、他でもないこの一事ばかりを追究するということが、とっくに俺の主観に彩られているだろう。何故この事ばかりを問題にするのか―そうした俺の拘りが既にして問題を主観的にしてしまっているんだ。歴史が残る、歴史を残すということ自体が無垢の客観性を保証してはくれない、むしろそこに意図と動機を刻んでしまう…】
これについても、現代的な例証を引っ張ってくることが出来る。例えば、ワイドショーなんかでよくある不倫報道。僕は、不倫が殊更に悪いものだと思っていないが、とりあえず世間では悪いことということになっている(まあ、不倫というのが、誰かを叩いたり貶めたりするのにうってつけの題材であり、それが故に、叩いたり貶めたりしている自分を正当化するために、不倫を殊更に悪者扱いしている、という側面はあると思うけど)。で、世の中に出てくる不倫報道って、数年前のものだったりすることもある。もちろん、事実は数年前でも、情報提供がなされたのが最近だ、というケースももちろんあるだろう。しかし不倫報道の中には、「対象となる人物の悪評が、その人物に最もダメージを与えるタイミング」で報じられるものもある。出馬しようとしているタイミングや、新しい番組が始まろうとしているタイミングなどである。もちろん報じる側は、雑誌の売上や視聴率なんかを見込んでそういうタイミングを選んでいるわけだけど、これなどまさに、「事実が主観によって歪められている事例」と言っていいだろう。事実そのものが変わるわけではないが、その事実を捉え、報じる側の人間がどういう主観を持っているかによって、その事実の受け取られ方は大きく変わっていく。
先の主人公のセリフも、そういう意味がある。僕らはなんとなく、「歴史的事実は固定的なものだ」という印象を持ちがちではないかと思う。大昔に起こったことであるし、「歴史的事実」が「固定的」なものなんであれば、どういう掘り出し方をしたって「変わらない」と思うのはある意味で当然だと言えるだろう。しかし、そうとも限らない。というか、そうではない。「掘り出し方」によって、「事実」の捉えられ方は明白に変わってしまう。
本書は、古文書の記述なんかが出てくる、ちょっとハードな民俗学ミステリで、正直、ちょっとついていけない部分もあった。しかし、そういう「過去の時間軸」に存在するものはともかくとして、「現在の時間軸」に存在する、「歴史というものとどう向き合い、どう掘り出していくべきかを考える人々」の話は、非常に興味深かった。「歴史」というものには今まで苦手意識しかなかったが、やはりそこには「食わず嫌い」的な要素があったようだ。もちろん、「歴史の教科書」は、まだ全然好きになれないけど、「歴史」というものと様々なスタンスで関わろうとする人々の物語を読んで、なるほど、一概に忌避するのも違うかもしれないな、という気分になれた。
内容に入ろうと思います。
大学生の勝山裕は、大学院進学を目指して勉強中だ。とりあえず大学に入った、というチャラチャラした連中とはあまりソリが合わないのだが、ひょんなことからある卒研グループの飲み会に誘われることになった。都市伝説をテーマに研究をまとめようとしているが、そもそもの研究手法からおぼつかない連中に、初歩の手ほどきをしただけであったが、その会話の中で裕は気になる話を耳にした。裕の出身に近い上州のある村で、子どもたちが二重丸が書かれた紙がそこかしこに貼られていることに気づいた、という話だ。その話自体は、明確なオチがあるわけでもなく、二重丸の正体も不明なままだったが、裕は、その話の出どころである、まさに子どもの頃に二重丸の紙をみんなで探したという張本人からも話を聞いた。何故そこまでこの話に興味を持ったのか。その二重丸の紙は、「こんぴらさん」と関係があるとされていたのだが、その表記が「琴平」だった。そしてその名前は、裕の母親と関係があるかもしれないのだ。裕の母親は幼い頃に亡くなっているのだが、父親からも、あるいは戸籍上からも、母親に関して確たる情報が得られない。唯一、旧姓が「琴平」あるいは「毛利」と関係するかもしれない、という話を知っているのみだ。そんな僅かな手がかりでしかなかったが、裕は夏休みのついでに帰郷し、調べることにしてみたのだった。帰郷に際して、近在の図書館に足を運ぶと、そこに偶然、高校時代に塾で仲良くなった飯山香織が働いていた。裕は香織にその都市伝説の話をしたところ、香織は裕の調査を手伝うという。古文書などを元に、神社の由縁などを調べる裕たちだったが、その調査の過程で一人の少年と出会う。なんと、裕たちが行き着いたある曰く付きの村に、同じく注目し、独自に調査をしているようなのだ。その少年曰く、その村には、”馬鹿(知的障害者を指す方言)”の女の子が監禁されている、というのだが…。
というような話です。
面白かった。面白かったけど、色々言いたいこともある。手放しで褒められるかというと、そうではないのだ。その辺りの話を色々書いていこう。
まず、物語全体としては、非常に良く出来ていると思う。導入の都市伝説の話から、まさかこんな展開になるとは、という感じだ。裕たちは正直、この物語の本丸のことは知らずに調査を始めた。「本丸」というのは要するに、少女の監禁だ。裕たちは、そんなことが行われているとはつゆ知らず、別の動機(母親に繋がる何かがないか)から調査を進めるのだ。一方で、少年(淳という)は、最初から「本丸」をめがけて調査をしていた。しかし悲しいかな、子どもに出来ることには限界がある。この「裕たちの文献方面からの知識」と「淳の実地調査の知識」が組み合わさることで、普通には捉えられない「歴史の暗部」に迫ることが出来るのだ。
【歴史は遡ればきっと何らかの…残酷無残に行き当たるもんですよ。歴史に分け入れば、そうした時代の無残、時代の酷薄に迫ることになる。どこか猟奇趣味めいた気味を帯びてくるのは普通です】
この構成は上手いなと思ったし、「歴史」が「現在」と接続されている怖さ、みたいなものも感じ取れる。実際に、本書で描かれているようなことが、日本のどこかで行われていないとは、誰にも断言できないだろう。
またそれは、「書かれなかった歴史」についても深堀りすることになる。
【大文字の『歴史』に翻弄されながら、左右されながら、それなのに日々変わりなく、年々変化なく過ごされていた大衆の生活というものがあったはずですよね。それを看過して、大文字の『歴史』に目を奪われていたのでは、これは大きな見過ごしになると思うんですよ】
ここではまだ穏やかに、「文字として記録されていない生活史」みたいな話として言及されているが、本書ではさらに、「記録に残すわけにはいかない残虐史」みたいなものに話が及んでいく。今でこそ、普通なら人に話せないようなことも、匿名のブログやSNSなどに書く人たちがたくさんいるが、昔であればあるほど、陰惨な事柄であればあるほど口を噤み、記録に残らないだろう。そういう「書かれなかった歴史」にどうアプローチすべきなのか、ということについて、学者の見解や裕たちの行動などから色々と考えさせられる。そういうテーマが浮かび上がってくるところも面白い。
ただ、そういう歴史学の困難さ、不完全さみたいなものをちゃんと描こうとすればするほど、古文書の記述なんかがバンバン出てきて、ついていくのがしんどくなる。確かに、最後まで読めば、本書で何故これほどまでに古文書が登場するのか理解できる。本書をミステリとして捉えた場合、その「解決」は古文書の記述からなされるのだ。しかし、だからこそ、本書は分かりづらくもある。
確かに、最終的に裕がある解決を見る場面における論理的な展開は非常に面白い。スゴいなと思う。まさにこれは、「古文書」というデータ群の中に、「書かれていない歴史」を見出す「文献探偵」みたいなものだ(裕と香織だけで成し遂げたわけではないが)。古文書単体では分からないが、それらを複数突き合わせ、様々なジャンルにおける知識を積み重ねることで、裕たちは「一定の確度を持った歴史的事実」を探り当てる。実際それは、本書で繰り返し釘を差しているように、「歴史学の中では客観的な事実とは認められない」類のものだ。しかし裕たちは別に、論文を書こうとしているわけではない。だから「一定の確度を持った」という程度で十分なのだ。そういう、古文書を突き合わせた解決は見事だと思う。
ただ、やっぱりなかなかスッとは頭に入ってくれない。理屈は分かるけど、それは主人公が説明してくれているからであって、自分の頭で、提示されたデータを理解して導いたわけではない。ミステリを読む人は、提示された伏線を自ら読み解きながら、結局果たせず、最終的に探偵の解決に委ねる、という読み方をすることが多いだろうけど、本書の場合それをやるためには、本書に登場する古文書をかなりちゃんと読み込まなければならないだろう。そういう意味で、ハードルは高い。
また本書は、文章的にもちょっとハードルがある。「現代もの」で「若い男女」が主人公なのに、「記述が古臭い」のだ。
著者のデビュー作である「図書館の魔女」にも、言ってしまえば記述の古臭さがあったのだけど、しかしそれは、僕は問題に感じなかった。何故なら「図書館の魔女」は、「異世界ファンタジー」だったからだ。「現代」を舞台にする以上、自分が持っている「現代」に関する常識で物事を判断するが、「異世界」を舞台にする場合、その常識の当てはめは有効ではない。だから僕は、「図書館の魔女」においては古臭さは感じなかった。
一方本書は「現代もの」だ。時代は特定されていないと思うが、小学生(かな?)の少年が携帯電話を持っている以上、そう昔ではありえない。で、そうだとすると、裕と香織のやり取りや会話なんかに、どうしても古臭さを感じてしまう。全体として、そこはちょっと難があるなぁ、と感じた。もったいない。
というわけで、全体として、面白いんだけど勧めにくい本だな、という印象だ。「古文書」という要素は、物語の根幹に関わるので仕方ないとはいえ、「古臭さ」はどうにかならなかったかなぁ、と思う。たぶん、年配の人が読む分には、違和感を感じない作りになってるんだろうし、それを狙ってやっているとするなら、それは正解なのだけど。
高田大介「まほり」