下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち(内田樹)
内容に入ろうと思います。
本書は、まさにタイトル通りの作品で、「権利であるはずの『教育』をなぜ子どもが放棄するようになっているのか」「すぐ転職したりニートになったりして、労働を拒絶してしまう若者がなぜ増えたのか」に、非常に明快な論理で仮説を提唱する作品です。
内田樹の作品は、読むたびに鱗がボロボロ落ちますけど、この作品も素晴らしいなんてもんじゃありませんでした!やっぱりスゲェっす、内田樹。
さて、僕は本書を、以下のような人達に読んで欲しいと思っています。
① 会社・家庭・学校などで、「理解できない人種」と関わっているという実感のある人
② これから子どもを育てる人、今子どもを育てている最中の人
①と②は重なる部分もありますけど、まあ細かいことは気にしないでください。
①については、具体的には、【部下】や【息子/娘】や【生徒】の行動原理がまるで理解できないという方に。そして同時に、【上司】や【親】や【教師】が何を言っているのかさっぱり理解できないという方に、是非とも読んで欲しい。お互いを『異質だ』と捉えてしまう人達の間で、どんな認識のギャップが存在するのか。その衝撃的な仮説には驚かされることでしょう。
②については、現在の日本の『教育』に関する非常に深刻な問題が提示されてるので、「覚悟を決めるため」に、是非とも読むことをオススメします。本書を読んだところで、全体の大きな流れに抗うための方策が示されているわけではありません。それでも、「どうしてこんなことになってしまったのか?」という背景を押さえておくというのは非常に重要なことなのではないかと思います。いや、ホントに、恐ろしいですよ、こんな世の中で子どもを育てなくてはいけないのは。
とはいえ、子育てに関しては、「家庭での問題」も指摘されるので、読むことで対処可能な部分も見つけることは出来るでしょう。あとで書きますが、学校教育に参加する遥か以前に、子どもたちの特殊な主体性が確立されてしまうがために、「学びからの逃走」という奇妙な出来事が起きているわけです。
さて、これから内容に触れていきますが、このブログでは、「初めの60Pの内容」だけにしか触れません。というのも、あまりにも鱗がボロボロ落ちすぎて、内容すべてに触れようとすると本書で書かれていること全部書いちゃうだろうなという危機感があるのと、もう一つ、初めの60Pで書かれていることで、本書における「最重要な骨格」の構造は、はっきりと示すことが出来るからです。
さて、では内容について色々書いて行きましょう。
まず本書では、「教育現場や生徒の現状がどうなっているのか」という実情が様々に語られていきます。
注意しなくてはいけないのは、本書で描かれている「実情」は、本書の親本が出版された2005年当時のもの、ということです。既に8年前の話ですね。8年前と現在でどれほどの変化があったのか、それは分かりませんが、時々報じられるニュースや、なんとなくの実感を元に、勝手に推測すると、8年前よりも一層状況は悪くなっているのではないか、という印象があります。
『学ばないこと、労働しないことを「誇らしく思う」とか、それが「自己評価の高さに結びつく」というようなことは近代日本社会においてはありえないことでした。しかし、今、その常識が覆りつつある。教育関係者たちの証言を信じればそういうことが起きています。』
『間違いなく、今の日本の子どもたちは全世界的な水準から見て、もっとも勉強しない集団なのです。』
『子どもたち自身の学力についての自己評価がかなり不正確だということもその一つです。学力が集団的に落ちているから、学力が低下していることを本人はそれほど痛切には自覚できない。』
『無意識的かもしれませんが、競争ということを優先的に配慮した場合、同学齢集団の学力がどんどん下がることを、子ども自身もその親たちも実は願っているのです。』
『自分たちのいちばん身近にある活字媒体の中の文章さえ平気でスキップしていくということは、これはもう「能力」と行ってよいと思うのです。
つまり、この方たちは意味がわからないことにストレスを感じないということです。』
『若い人たちにとっては、世界そのものが意味の穴だらけなのです。チーズみたいに。そこらじゅうにぼこぼこ意味の空白がある。世界そのものが穴だらけだから、そこにまた一つ「意味のわからないもの」が出現しても、チーズの穴が一個増えただけのことですから、軽くスキップできる。たぶん、どこかの段階で、「意味のわからないもの」が彼らの世界で意味を失ってしまったのです』
さて、こういう現状の中で、内田樹はあるきっかけで、これはただの学力低下と呼ぶのは不都合なのではないかと感じます。それは、著者が勤めていた大学(英語教育で有名だそう)の大学生が、内田樹の時代であったら「中学二年生程度の学力」しかない、という話を聞いたことです。
『中学高校と六年間英語をやってきて、中学二年生程度の英語力しかないというのは、怠惰とか注意力不足というのとはちょっと違うのではないかとその時に思いました。変な言い方ですけれど、かなり努力しないとそこまで学力を低く維持するのはむずかしいと思うからです。』
ここから内田樹は、何故彼らが「努力して学ばない」のか、という謎めいた行動を取るようになったのか、思考を巡らすことになります。
そして、それを説明する仮説として、
【子どもたちが、「経済合理性」を価値判断基準として、「教育」を「等価交換のサービス」と捉え始めている】
と考えます。
『学校の話に戻しますと、諏訪さんも、知り合いの教師たちと子どもたちの変貌について、いったいどうして、こんなことになってしまったのかずいぶん議論し、考えられたそうです。その結果、これは諏訪さんの洞察だと思うのですけれども、「この子たちは等価交換をしようとしているのではないか」という仮説を立てた。』
『「苦痛」や「忍耐」というかたちをした「貨幣」を教師に支払っている。だから、それに対して、どのような財貨やサービスが「等価交換」されるのかを彼らは問うているわけです。「僕らはこれだけ払うんだけど、それに対して先生は何をくれるの?」と子どもたちは訊いている。』
『そして、この最初の成功の記憶によって、子どもたちは以後あらゆることについて、「それが何の役に立つんですか?それが私にどんな『いいこと』をもたらすんですか?」と訊ねるようになります。その答えが気に入れば「やる」し、気に入らなければ「やらない」。そういう採否の基準を人生の早い時期に身体化してしまう。
こうやって「等価交換する子どもたち」が誕生します』
しかし著者は、「教育」は「等価交換されるサービスとしては、原理的に提供しえない」という持論を展開します。これについては、作中の様々な場所で、様々な形で繰り返し登場します。「時間」という概念との関連の話なんかは非常に示唆に富むし、「師弟関係のあり方」についての話も興味深い。だから本書で是非読んで欲しいんだけど、とりあえず一つだけ引用します。
『そのような問いかけに対して、教師は答えることができない。できるはずがない。これはできないのが当然なのです。そんな問いが子どもの側から出てくるはずがない、ということが教育制度の前提だからです』
この、「等価交換する子どもたち」は、「目に見える価値」がわからないものについては「取引」をしようとしないし、また「有利に取引を成立させる」ために、「その商品には興味がない」ことを精一杯誇示しようとします。
『等価交換的な取引のいちばん大きな特徴は、買い手はあたかも自分が買う商品の価値を熟知しているかのようにふるまう、ということです。
当たり前のことですけれど、人間はその価値を知らない商品は買いません』
『消費主体は、自分の前に差し出されたものを何よりもまず「商品」としてとらえる。そして、それが約束するサービスや機能が支払う代価に対して適切かどうかを判断し、取引として適切であると思えば金を出して商品を手に入れる。
消費主体にとって、「自分にその価値や有用性が理解できない商品」というのは、存在しないのです』
『そして、この幼い消費主体は「価値や有用性」が理解できない商品には当然「買う価値がない」と判断します。』
『というのは、商取引の場では、買い手はその商品の有用性(あるいは無用性)について熟知しているかのようにふるまい、「その商品には興味がない」という無関心を誇示することで取引を有利に進めることができると知っているからです。』
まとめると、子どもたちにとって「教育」とは、こういうものとして捉えられている。
『彼らは学校に不快に耐えるためにやってくる。教育サービスは彼らの不快と引き換えに提供されるものとして観念されている。
ですから、教室は不快と教育サービスの等価交換の場となるわけです』
だからこそ彼らは、「自分は今不快である」ということを、全力で示そうとします。それは、「彼らがそうしたいから」であなく、ほとんど自律的に「そうするように要請されている」からこそそうしているのです。
『せっかく十円に値切って買うことにした商品に二十円を差し出すことは許されません。それは商取引のルールに悖るからです。ですから、いったん「この授業は十分程度の価値しかない」と判断したあとは、残り四十分を「授業を聞かない」ということに全力を傾注しなければならない。私語をするのは「したいからしている」というより、「しなければならないからしている」のです。』
『「きちんとした動作をしたせいで、うっかり教師に敬意を示していると誤解される余地がないように」この生徒たちは全力を尽くしている。ただ怠惰であるだけだったら、人間がこれほど緩慢には動けません。必要以上に緩慢に動く方がもちろん筋肉や骨格への負担は大きい。ですから、これを生徒たちが生理的に弛緩していると解釈してはならない。これは明確な意志をもって行われている記号的な身体運用なんです』
彼らにとって、教室内では、『「自分の不快に対して等価である教育サービス」だけを求めている』のであり、問題は『等価交換が適正に行われること』であって、『彼らにはそれが何よりも重要なんです』。彼らは、『消費者マインドで学校教育に対峙しているのです』
これが、子どもたちが「学びから逃走」してしまう理由です。彼らにとっては、「そうすること」が、【「経済合理性」を価値判断基準として、「教育」を「等価交換のサービス」と捉えた】時、もっとも合理的な判断・行動だからこそそうしているわけです。
この仮説は、本当にしっくりくるし、そして同時に、凄い社会になったなと感じました。自分にも、そういう価値判断がないわけではない、という自覚もあるので、より一層怖いなという感じがします。
さて本書では、じゃあ何故子どもたちは、【「経済合理性」を価値判断基準として、「教育」を「等価交換のサービス」と捉える】ようになったのでしょうか。
それは、
『おそらく、この等価交換のやり方を子どもたちは家庭の中で、両親の間で行われる取引のやり方を通じて学んだのではないか』
と著者は考えます。
つまり、
『子どもたちは、就学以前に消費主体として自己を確立している』
ということです。
『今の子どもたちと、今から三十年ぐらい前の子どもたちの間のいちばん大きな違いは何かというと、それは社会関係に入っていくときに、労働から入ったか、消費から入ったかの違いだと思います。』
『ところが、今はそうではない。今の子どもたちは、労働主体というかたちで社会的な承認を得て、自らを立ち上げるということができない。そういう機会をほとんど構造的に奪われている。』
『ですから、社会的能力がほとんどゼロである子どもが、潤沢なおこづかいを手にして消費主体として市場に登場したとき、彼らが最初に感じたのは法外な全能感だったはずです。子どもでも、お金さえあれば大人と同じサービスを受けることができる。このような全能感は僕たちの時代の子どもがおそらくまったく経験したことのなかった質のものだと思います』
『幼い子どもがこの快感を一度知ってしまったら、どんなことになるのかは想像に難くありません。子どもたちはそれからあと、どのような場面でも、まず「買い手」として名乗りを上げること、何よりもまず対面的状況において自らを消費主体として位置づける方法を探すようになるでしょう。当然、学校でも子どもたちは、「教育サービスの買い手」というポジションを無意識のうちに先取しようとします』
さて、ここまでの話が、本書の大きな枠組です。もちろん、ここで書かれていない話も多々出てくるわけなんですが、本書を貫く基本的な考え方はこれで大体説明できたような気がします。どうでしょうか?非常に納得感があって、世代にもよるでしょうが、若い世代がこれを読んでいれば、自分もそんな価値判断の元で行動していると思うかもしれないし、上の世代であれば、なるほど彼らはこんな風に考えて行動しているのか、と思わされるのではないでしょうか。
僕は本書を読みながら、「そうだよなぁ、こんな世の中になっちゃったら、本読む人間だって減るよなぁ」と感じていました(と思って読んでいたら、最後の方でちょっとだけ、読書についての話が出て来ました。)
そんな風に僕が考えたのは、
「読書は、読んですぐにリターンが得られるような営みではない」
からです。
もちろん、「読んですぐにリターンを得られる、本屋で売っているもの」もたくさんあります。即効性を謳うダイエット本やビジネス書なんかはそういう類のものでしょう。別にそういうものを否定するつもりはまったくないんだけど、でも本には、「いつ役に立つのかわからないし、もしかしたら一生役に立たないかもしれないけど、それでも読む価値のあるもの」というのがたくさんあるはずです。
でも、「等価交換する子どもたち」(まあこれは既に、子どもだけの問題ではないと思いますけど)は、「自分にその価値を理解することが出来ないものに投資はしない」という経済合理的な判断を下します。経済合理的な判断基準に沿えば、それは非常に正しい判断です。
でも、本書でも繰り返し書かれていることですが、「教育」や「学び」というものはそもそも、「それを受け始める時にはその価値がわからず、受け終わってから、なるほどこういうものだったのかとわかる」類のものです。つまり、「あらかじめ価値がわからない」ということにこそ、「教育」や「学び」の価値はあるわけです。「本を読む」という行為もそうでしょう。読む前に分かる価値も、読んですぐに分かる価値も、ない場合の方が多い。しかしだからと言って、それを「無価値」と言って退けてしまうのはもったいないわけです。
でも、現状こういう世の中になってしまっている。そういう世の中で本を売っている人間としては、「彼らにいかに本を買ってもらうか」を考えなくてはいけない。こうやって、「買い手の行動原理」を理解することが出来たという点でも、本書は非常に有用だったなと個人的には思います。
本当に、僕がここで拾いきれなかった様々な話題が多方面に展開され、それがどれも非常に納得感のある話で、やっぱり内田樹は凄いなと思います。最近こんなことばっかり書いてますけど、またほぼ全ページをドッグ・イヤーしてしまいました。自分たちが「どういう社会の中」に生きているのか、それを掴み取ることは、経済活動や教育に限らず、あらゆる方面で意味があるでしょう。とまあ、僕もこうやって、「本書を読んだら、すぐにどんな利益が得られるか」みたいなことを書いちゃうわけなんですけど(笑)、まあそれは、長いこと書店で本を売ってきた人間のクセみたいなもんだと思って流してください。初めの方で書いた、「行動原理の理解できない人」を理解するため、そして「子育てをしている人」に、本当に是非とも読んで欲しい作品です!
追記)amazonのレビューには、「検証不可能な議論で、あまり納得できない」という意見もある。確かにそれはそうで、「等価交換する子どもたち」という発想には、それを支えるだけの現実的な根拠はない。でも、僕はそれは当然として読んでいたというか、この本は論文とかじゃなくて、「俺はこう思うよ!」っていう意見を表明している作品なわけで、別にそこを非難することはないんじゃないかなぁー、っていうのが僕の立場です。
内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち」
映画『TED』 備忘録
ツイッターで水道橋博士が「TED」を絶賛するツイートをしてて、観に行きたくなっちゃたのですよね。小説にしても映画にしてもそうなんだけど、ホント最近、ツイッターで何らかの形で話題に上がってると、気になって仕方ないんだよなぁ。
というわけで、観に行ってきちゃいました、「TED」。有吉弘行が吹き替えやってるっていうんで、吹き替えの方でみてきましたよ。
これがメッチャ面白かったんですよね!観に行って良かったな~。
ストーリーは、もう超単純。たぶん3行ぐらいで(もっと短くてもいけるかな)ストーリーは説明できちゃうんじゃないかな。まあ、子供の頃から27年間親友だった「喋る」テディベアのぬいぐるみと、4年前から付き合い始めてずっと愛し続けてる彼女、どっちが大事よ?っていう感じの話なんですね。
テッドって呼ばれてるぬいぐるみは、8歳のクリスマスプレゼントでもらった(そして祈りが通じて喋りめた)頃は、凄く可愛かった。テレビにも出たりして超人気ものになったんだけど、でも主人公の一番の親友だっていう部分はずっと変わらなかった。
でも、27年も経って、主人公が35歳になると、テッドも相当変わる。芸能界の美女たちと浮名を流し、普段はクスリをバチッときめて、映画や音楽みたいなサブカルチックなものに主人公と一緒にどっぷりはまりこんでいる、そんな「可愛くない」ぬいぐるみになっちまった。とはいえ、どっちがどんな影響を与えたのか、主人公もそんな感じの日常を送ってるから、二人は今でも超仲のいい親友だ。
4年前から付き合ってる彼女も、そんなテッドと3人での付き合いをずっと続けてきたんだけど、でもやっぱり限界もある。そろそろ結婚だって考える。いつまでもあなたは、あのぬいぐるみと一緒にいるの?
っていうような板挟みの関係の中で、それはもう色んなことが起こって、ドタバタで、3人の関係がハチャメチャに変わっていくぜ、みたいな話なんですけど、まあこれが凄くいい話なんですよね。ストーリーはとにかくシンプルで、王道っていう感じなんだけど、だからって退屈なわけじゃなくて、王道のストーリーを巧く料理したなぁという感じがしました。
冒頭からとにかくひたすら笑わせてくれるネタが様々に散りばめられていて、そういう「過剰な装飾」とでもいう部分が本当に凄いなと思いました。映画とか音楽に詳しい人ならもっと色々拾えたのかもしれないけど、そういう方面に超疎い僕には、元ネタが何なのか分からない話も結構ありましたけどね。でも、その時の勢いなんかも含めて、なんか笑わされてしまう感じがしました。
翻訳も、元のセリフの直訳じゃなくて、日本向けに変えてるんだなって思わされる部分がいくつかありました。一つだけネタバレしちゃうと、会話の中で「星一徹」が出てきますからね。他にも、まさかあのキャラの名前が出るとは!って思っちゃった重量級の奴もいます。
最初から最後まで笑わされっぱなしだし、ストーリーもなかなかしんみりするような展開もあって、「王道のストーリー」に「過剰な装飾」をぶち込んでハチャメチャにした感じです。メッチャ面白いです。有吉の吹き替えも、僕はハマってると思いました。普段アニメとか洋画とか見ないから、気にならないだけかもしれないけど。オススメです!
というわけで、観に行ってきちゃいました、「TED」。有吉弘行が吹き替えやってるっていうんで、吹き替えの方でみてきましたよ。
これがメッチャ面白かったんですよね!観に行って良かったな~。
ストーリーは、もう超単純。たぶん3行ぐらいで(もっと短くてもいけるかな)ストーリーは説明できちゃうんじゃないかな。まあ、子供の頃から27年間親友だった「喋る」テディベアのぬいぐるみと、4年前から付き合い始めてずっと愛し続けてる彼女、どっちが大事よ?っていう感じの話なんですね。
テッドって呼ばれてるぬいぐるみは、8歳のクリスマスプレゼントでもらった(そして祈りが通じて喋りめた)頃は、凄く可愛かった。テレビにも出たりして超人気ものになったんだけど、でも主人公の一番の親友だっていう部分はずっと変わらなかった。
でも、27年も経って、主人公が35歳になると、テッドも相当変わる。芸能界の美女たちと浮名を流し、普段はクスリをバチッときめて、映画や音楽みたいなサブカルチックなものに主人公と一緒にどっぷりはまりこんでいる、そんな「可愛くない」ぬいぐるみになっちまった。とはいえ、どっちがどんな影響を与えたのか、主人公もそんな感じの日常を送ってるから、二人は今でも超仲のいい親友だ。
4年前から付き合ってる彼女も、そんなテッドと3人での付き合いをずっと続けてきたんだけど、でもやっぱり限界もある。そろそろ結婚だって考える。いつまでもあなたは、あのぬいぐるみと一緒にいるの?
っていうような板挟みの関係の中で、それはもう色んなことが起こって、ドタバタで、3人の関係がハチャメチャに変わっていくぜ、みたいな話なんですけど、まあこれが凄くいい話なんですよね。ストーリーはとにかくシンプルで、王道っていう感じなんだけど、だからって退屈なわけじゃなくて、王道のストーリーを巧く料理したなぁという感じがしました。
冒頭からとにかくひたすら笑わせてくれるネタが様々に散りばめられていて、そういう「過剰な装飾」とでもいう部分が本当に凄いなと思いました。映画とか音楽に詳しい人ならもっと色々拾えたのかもしれないけど、そういう方面に超疎い僕には、元ネタが何なのか分からない話も結構ありましたけどね。でも、その時の勢いなんかも含めて、なんか笑わされてしまう感じがしました。
翻訳も、元のセリフの直訳じゃなくて、日本向けに変えてるんだなって思わされる部分がいくつかありました。一つだけネタバレしちゃうと、会話の中で「星一徹」が出てきますからね。他にも、まさかあのキャラの名前が出るとは!って思っちゃった重量級の奴もいます。
最初から最後まで笑わされっぱなしだし、ストーリーもなかなかしんみりするような展開もあって、「王道のストーリー」に「過剰な装飾」をぶち込んでハチャメチャにした感じです。メッチャ面白いです。有吉の吹き替えも、僕はハマってると思いました。普段アニメとか洋画とか見ないから、気にならないだけかもしれないけど。オススメです!
もし小学生に「どうしてマイナス×マイナスはプラスになるの?」と聞かれたら、僕ならこう答える
【はじめに】
なんとなく思いついて、こんな文章を書いてみることにしました。元々数学は好きで、子供の頃から同級生に教えていたりもしました。人に教えるのは割と好きで、僕が「努力して勉強が出来るようになった人間」なので、分からない人のことも理解できる、ということなのかな、となんとなく思っています。ただまあ、教えるのがうまいかどうかっていうのは、自分ではなんともわからないですけどね。
ここではタイトルの通り、
『もし小学生に「どうしてマイナス×マイナスはプラスになるの?」と聞かれたら、僕ならこう答える』
という文章を書いていきます。でも、ほとんど「算数」の話は出て来ません。
なるべく正確なことを書きたい思っていますが、間違えがあるかもしれません。あと、小学生が自分で検索してこのページにたどり着いたとしても読めるような文章で書くつもりでいます(どこまでうまくいくかわかりませんけど)。
さて、では始めます。
どうして【マイナス×マイナスはプラスになるのか?】っていう質問は、けっこう難しいんだ。
あとで理由は色々書くけど、僕はこんな風に答えようと思っています。
【そういうルールになってるから】
…ちょっと待って!ちゃんと説明するから、話を聞いてくださいな。
突然だけど、英語の話をするよ。小学校では、もう英語の授業とかはやってるのかな?例えば、「Apple」っていう単語があるよね。パソコンの方の「アップル」が思い浮かんでもいいんだけど、まあこれは「リンゴ」だよね。
じゃあ、僕の質問に答えて欲しい。
【どうして、「A・p・p・l・e」っていう5個のアルファベットが繋がると「リンゴ」っていう意味になるの?】
どうだろう?この質問に、答えられるかな?
僕は知らないけど、たぶん「Apple」っていう単語にも語源(その単語が生まれる元になった言葉や出来事)があって、その語源を使って「これこれこういう理由だ」なんてことは言えるかもしれない。でも結局、「じゃあどうしてその語源から「Apple」っていう単語が生まれたのか?」は分からないよね。
つまり、こういうこと。友達のあだ名をつけるのがうまい奴(A君)がいて、そいつが「B君のあだ名は◯◯だ!」って言ったらB君のあだ名は決まっちゃうでしょ?きっとA君には何か理由があって、「ほらB君はこれこれだからこのあだ名ピッタリだよな!」っていうかもしれないけど、でもそのあだ名じゃなくたって、B君にピッタリのあだ名は他にもきっとあったと思う。じゃあどうしてそのあだ名なの?って聞かれると、やっぱりちゃんとは答えられないよね。
結局この、【どうして、「A・p・p・l・e」っていう5個のアルファベットが繋がると「リンゴ」っていう意味になるの?】っていう質問には、こう答えるしかないんだ。
【そういうルールになってるから】
どう、納得できる?出来ないかなぁ…。
【マイナス×マイナスはプラスになるのか?】っていう質問に【そういうルールになってるから】って答えたのも、これに結構近いんだ。
別の話をしようか。例えば、コーラの缶を超振ってプルタブを開けると、ブシャーって吹き出すじゃん?質問の形にすると、
【なんでコーラの缶を振ってからプルタブを開けると吹き出すの?】
ってことになるけど、これにはちゃんとした答えを出せる。まあ詳しくは書かないけど、物理学っていう学問の知識があったら、「これこれがこうなってこうだからブシャーって吹き出すんだよ」って説明できる。
じゃあ例えば、サッカーのルールはどうだろう?サッカーは、キーパー以外手を使っちゃいけない。質問の形にすると、
【なんでサッカーでは、キーパー以外は手を使ってはいけないの?】
ってことになるけど、どうだろう、この質問にはどう答えようか。ちょっと考えてみて。
手を使ったらダメってことになってるけど、別に「手を使うと怪我をするから」とか、「手を使うと芝生が荒れるから」みたいな、「こうだからこう!」っていう理由があるわけじゃないよね?この質問にも結局、
【そういうルールになってるから】
って答えるしかないんだ。
世の中には色んなタイプの質問があるけど、どうやら、【どうして?】って聞いた時に、「これこれこうなんだよ」と答えられる質問(「コーラ」タイプの質問)と、「そういうルールになってるから」って答えるしかない質問(「サッカー」タイプの質問)があるみたいだね。
その二つは何が違うのかっていうと、すごくザックリ言っちゃうと、
『人間が決めてるかどうか』
ってことになるんだと思う。たぶんだけど。
コーラが吹き出しちゃうっていうのは、人間が決めたルールじゃないよね?自然がそうなってる、って話だ。でも、「Apple」っていう単語とか、サッカーのハンドのルールなんかは、人間が決めたものだよね?
で、算数のルールも、実は人間が決めたものなんだ。
…って書いちゃうと、実はちょっと正確じゃないんだけどね。数学者(算数の進化版みたいな学問を研究してる人)の中には、「数学は神様が作った」って考えている人もいるんだ。つまり、コーラがブシャーってなっちゃうのが「自然がそうなってる」ように、数学も「自然がそうなってる」、って考えてる人もいる。だからここでは、
『算数のルールは、人間が決めたものなんだと思おう』
っていう感じにしとこうか。
もうちょっと違った表現をすると、
『そういうルールに決めたとしたら、その世界はどんな風になる?』
ってことなんだ。
ほら、サッカーの場合はさ、「キーパー以外は手を使っちゃいけない」っていう「ルール」を決めたから「面白いスポーツ」になったわけじゃん。算数も同じ。「マイナス×マイナスはプラス」っていうルールを決めたら、何か面白いことがあるかな?っていうことを考えるのが大事なんだ。
凄く大事なことを言うと、「算数を勉強する」っていうのは「道具の使い方を学ぶ」ってことなんだ。
算数の知識っていうのは、数学の世界を探検するために必要な「道具」なんだ。例えば、ゲームの世界で色んなところを探検するにも、「剣」とか「よろい」とか「薬草」とか、そういう「道具」がたくさん必要だろう?「たし算」とか「ひき算」とかも同じように、数学の世界を探検するための「道具」なんだ。ちょっとイメージしにくいかもしれないけどね。
それで、例えばさ、野球のバットって、どんな風に持つかでスイングが変わるでしょう?グリップを短くもったら早く振れるとか、長く持ったら遅くなるとかね(女の子にはイメージしにくいかな?ちょっと女の子向けのうまい例を思いつかないから、誰か男子に聞いてみて)。
そういうのってさ、やっぱりバットを何度も振って、バットっていう「道具」の使い方を身につけていくと、自然と分かるようになっていくよね。
算数も同じ。「たし算」とか「ひき算」とかは、「道具の使い方」を練習しているんだ。計算の練習をたくさんすると、素振りをするのと同じように、その道具の使い方が色々わかってくる。その道具を使って何をするのか?っていうのが大事なんだ。バットを振る練習をして試合に出るのと同じように、「たし算」とか「ひき算」とかを使って数学の世界を探検できるようになる、っていうのが目的なんだ。
でもきっと、俺別に数学の世界なんか探検したくねーぜ、っていう子もいるだろう。まあそうだよね。
でもさ、野球の選手になるつもりがなくたって、バットを振って素振りの練習をしてたら、腕に筋肉がついたり、腰が強くなったりするよね、きっと。体を鍛えるのに、役立つはずなんだ。それと同じで、算数の道具の使い方を練習することは、別に数学の世界を探検しなくたって意味のあることなんだ。頭を鍛えられるし、きっとそれ以外にも意味がある。なかなかどんな意味があるのか、気づきにくいかもしれないけどね。
さて、もう一つ、大事なことを書かなくっちゃいけない。
それは、
『なんでも【そういうルールになってるから】で済ませちゃうのはよくない』
ってことだ。
昔、頭のいいオッサンたちがいたんだ。このオッサンたちは、『非ユークリッド幾何学』っていう数学の新しい分野を見つけるっていう凄いことをしちゃったんだけど(名前は覚えなくていいよ)、それがどう凄いのかっていうと、
『【そういうルールになってるから】ってみんな思ってて、絶対正しいってずーっと思い込んでたことが、正しくない場合もあることを発見した』
ってことなんだ。凄くない?これはつまりさ、
『みんな【マイナス×マイナスはプラスになる】って言ってるけど、俺【マイナス×マイナスがマイナスになる場合見つけちゃったもんねー】』
みたいな感じなんだ(もちろんこれは嘘だよ)。ね、凄くない?
算数の世界だけじゃないけど、こういうことは凄くたくさんある。【そういうルールになってるから】っていうのは、みんながそう思っているだけで、実は違うかもしれない、と考えるのはとても大事なことなんだ。勉強の話だけじゃなくってね。
最後に、これは強調しておきたいからもう一回書くんだけど、
『疑問を持つことはとっても大事』
なんだ。【そういうルールになってるから】って言って、なんでもただ覚えればいいってもんじゃない。やっぱり、どうしてそうなっているのかっていうことも考えて、分からなかったら質問して、そうやって前に進んでいってほしい。
でも、君が疑問に思うことの中には、
【そういうルールになってるから】
としか答えようがないものもある。それは仕方ないんだ。そういうものは、なるほどそういう設定の「道具」なんだなと思って使って欲しい。
さて、どうだろう?納得してもらえるかな?
この辺が理解できないとか、
ここの記述はおかしいんじゃないか?とか、
何かそういうツッコミなんかがあればドシドシお願い致します!
なんとなく思いついて、こんな文章を書いてみることにしました。元々数学は好きで、子供の頃から同級生に教えていたりもしました。人に教えるのは割と好きで、僕が「努力して勉強が出来るようになった人間」なので、分からない人のことも理解できる、ということなのかな、となんとなく思っています。ただまあ、教えるのがうまいかどうかっていうのは、自分ではなんともわからないですけどね。
ここではタイトルの通り、
『もし小学生に「どうしてマイナス×マイナスはプラスになるの?」と聞かれたら、僕ならこう答える』
という文章を書いていきます。でも、ほとんど「算数」の話は出て来ません。
なるべく正確なことを書きたい思っていますが、間違えがあるかもしれません。あと、小学生が自分で検索してこのページにたどり着いたとしても読めるような文章で書くつもりでいます(どこまでうまくいくかわかりませんけど)。
さて、では始めます。
どうして【マイナス×マイナスはプラスになるのか?】っていう質問は、けっこう難しいんだ。
あとで理由は色々書くけど、僕はこんな風に答えようと思っています。
【そういうルールになってるから】
…ちょっと待って!ちゃんと説明するから、話を聞いてくださいな。
突然だけど、英語の話をするよ。小学校では、もう英語の授業とかはやってるのかな?例えば、「Apple」っていう単語があるよね。パソコンの方の「アップル」が思い浮かんでもいいんだけど、まあこれは「リンゴ」だよね。
じゃあ、僕の質問に答えて欲しい。
【どうして、「A・p・p・l・e」っていう5個のアルファベットが繋がると「リンゴ」っていう意味になるの?】
どうだろう?この質問に、答えられるかな?
僕は知らないけど、たぶん「Apple」っていう単語にも語源(その単語が生まれる元になった言葉や出来事)があって、その語源を使って「これこれこういう理由だ」なんてことは言えるかもしれない。でも結局、「じゃあどうしてその語源から「Apple」っていう単語が生まれたのか?」は分からないよね。
つまり、こういうこと。友達のあだ名をつけるのがうまい奴(A君)がいて、そいつが「B君のあだ名は◯◯だ!」って言ったらB君のあだ名は決まっちゃうでしょ?きっとA君には何か理由があって、「ほらB君はこれこれだからこのあだ名ピッタリだよな!」っていうかもしれないけど、でもそのあだ名じゃなくたって、B君にピッタリのあだ名は他にもきっとあったと思う。じゃあどうしてそのあだ名なの?って聞かれると、やっぱりちゃんとは答えられないよね。
結局この、【どうして、「A・p・p・l・e」っていう5個のアルファベットが繋がると「リンゴ」っていう意味になるの?】っていう質問には、こう答えるしかないんだ。
【そういうルールになってるから】
どう、納得できる?出来ないかなぁ…。
【マイナス×マイナスはプラスになるのか?】っていう質問に【そういうルールになってるから】って答えたのも、これに結構近いんだ。
別の話をしようか。例えば、コーラの缶を超振ってプルタブを開けると、ブシャーって吹き出すじゃん?質問の形にすると、
【なんでコーラの缶を振ってからプルタブを開けると吹き出すの?】
ってことになるけど、これにはちゃんとした答えを出せる。まあ詳しくは書かないけど、物理学っていう学問の知識があったら、「これこれがこうなってこうだからブシャーって吹き出すんだよ」って説明できる。
じゃあ例えば、サッカーのルールはどうだろう?サッカーは、キーパー以外手を使っちゃいけない。質問の形にすると、
【なんでサッカーでは、キーパー以外は手を使ってはいけないの?】
ってことになるけど、どうだろう、この質問にはどう答えようか。ちょっと考えてみて。
手を使ったらダメってことになってるけど、別に「手を使うと怪我をするから」とか、「手を使うと芝生が荒れるから」みたいな、「こうだからこう!」っていう理由があるわけじゃないよね?この質問にも結局、
【そういうルールになってるから】
って答えるしかないんだ。
世の中には色んなタイプの質問があるけど、どうやら、【どうして?】って聞いた時に、「これこれこうなんだよ」と答えられる質問(「コーラ」タイプの質問)と、「そういうルールになってるから」って答えるしかない質問(「サッカー」タイプの質問)があるみたいだね。
その二つは何が違うのかっていうと、すごくザックリ言っちゃうと、
『人間が決めてるかどうか』
ってことになるんだと思う。たぶんだけど。
コーラが吹き出しちゃうっていうのは、人間が決めたルールじゃないよね?自然がそうなってる、って話だ。でも、「Apple」っていう単語とか、サッカーのハンドのルールなんかは、人間が決めたものだよね?
で、算数のルールも、実は人間が決めたものなんだ。
…って書いちゃうと、実はちょっと正確じゃないんだけどね。数学者(算数の進化版みたいな学問を研究してる人)の中には、「数学は神様が作った」って考えている人もいるんだ。つまり、コーラがブシャーってなっちゃうのが「自然がそうなってる」ように、数学も「自然がそうなってる」、って考えてる人もいる。だからここでは、
『算数のルールは、人間が決めたものなんだと思おう』
っていう感じにしとこうか。
もうちょっと違った表現をすると、
『そういうルールに決めたとしたら、その世界はどんな風になる?』
ってことなんだ。
ほら、サッカーの場合はさ、「キーパー以外は手を使っちゃいけない」っていう「ルール」を決めたから「面白いスポーツ」になったわけじゃん。算数も同じ。「マイナス×マイナスはプラス」っていうルールを決めたら、何か面白いことがあるかな?っていうことを考えるのが大事なんだ。
凄く大事なことを言うと、「算数を勉強する」っていうのは「道具の使い方を学ぶ」ってことなんだ。
算数の知識っていうのは、数学の世界を探検するために必要な「道具」なんだ。例えば、ゲームの世界で色んなところを探検するにも、「剣」とか「よろい」とか「薬草」とか、そういう「道具」がたくさん必要だろう?「たし算」とか「ひき算」とかも同じように、数学の世界を探検するための「道具」なんだ。ちょっとイメージしにくいかもしれないけどね。
それで、例えばさ、野球のバットって、どんな風に持つかでスイングが変わるでしょう?グリップを短くもったら早く振れるとか、長く持ったら遅くなるとかね(女の子にはイメージしにくいかな?ちょっと女の子向けのうまい例を思いつかないから、誰か男子に聞いてみて)。
そういうのってさ、やっぱりバットを何度も振って、バットっていう「道具」の使い方を身につけていくと、自然と分かるようになっていくよね。
算数も同じ。「たし算」とか「ひき算」とかは、「道具の使い方」を練習しているんだ。計算の練習をたくさんすると、素振りをするのと同じように、その道具の使い方が色々わかってくる。その道具を使って何をするのか?っていうのが大事なんだ。バットを振る練習をして試合に出るのと同じように、「たし算」とか「ひき算」とかを使って数学の世界を探検できるようになる、っていうのが目的なんだ。
でもきっと、俺別に数学の世界なんか探検したくねーぜ、っていう子もいるだろう。まあそうだよね。
でもさ、野球の選手になるつもりがなくたって、バットを振って素振りの練習をしてたら、腕に筋肉がついたり、腰が強くなったりするよね、きっと。体を鍛えるのに、役立つはずなんだ。それと同じで、算数の道具の使い方を練習することは、別に数学の世界を探検しなくたって意味のあることなんだ。頭を鍛えられるし、きっとそれ以外にも意味がある。なかなかどんな意味があるのか、気づきにくいかもしれないけどね。
さて、もう一つ、大事なことを書かなくっちゃいけない。
それは、
『なんでも【そういうルールになってるから】で済ませちゃうのはよくない』
ってことだ。
昔、頭のいいオッサンたちがいたんだ。このオッサンたちは、『非ユークリッド幾何学』っていう数学の新しい分野を見つけるっていう凄いことをしちゃったんだけど(名前は覚えなくていいよ)、それがどう凄いのかっていうと、
『【そういうルールになってるから】ってみんな思ってて、絶対正しいってずーっと思い込んでたことが、正しくない場合もあることを発見した』
ってことなんだ。凄くない?これはつまりさ、
『みんな【マイナス×マイナスはプラスになる】って言ってるけど、俺【マイナス×マイナスがマイナスになる場合見つけちゃったもんねー】』
みたいな感じなんだ(もちろんこれは嘘だよ)。ね、凄くない?
算数の世界だけじゃないけど、こういうことは凄くたくさんある。【そういうルールになってるから】っていうのは、みんながそう思っているだけで、実は違うかもしれない、と考えるのはとても大事なことなんだ。勉強の話だけじゃなくってね。
最後に、これは強調しておきたいからもう一回書くんだけど、
『疑問を持つことはとっても大事』
なんだ。【そういうルールになってるから】って言って、なんでもただ覚えればいいってもんじゃない。やっぱり、どうしてそうなっているのかっていうことも考えて、分からなかったら質問して、そうやって前に進んでいってほしい。
でも、君が疑問に思うことの中には、
【そういうルールになってるから】
としか答えようがないものもある。それは仕方ないんだ。そういうものは、なるほどそういう設定の「道具」なんだなと思って使って欲しい。
さて、どうだろう?納得してもらえるかな?
この辺が理解できないとか、
ここの記述はおかしいんじゃないか?とか、
何かそういうツッコミなんかがあればドシドシお願い致します!
わかりあえないことから(平田オリザ)
内容に入ろうと思います。
本書は、劇作家として著名である平田オリザが、講談社のPR誌に連載し続けた文章をまとめた作品です。『コミュニケーション教育に直接携わる者として、そこに感じる違和感を中心に書き進めてきた』というスタンスがまえがきで書かれている。
とにかく素晴らしい作品だったんです!昨日僕は「恋とセックスで幸せになる秘密」という作品の感想の中で、「これまで読んできた本の中で最大のドッグイヤーをした」ということを書いた。ほぼ全ページの端を折ってしまったのだ。でも、本書も、それと負けず劣らずで、相当数のページをドッグイヤーしてしまった。
そんなわけで、この作品の素晴らしさを伝えたいところなんだけど、話が非常に多岐に渡るので、簡単には内容を紹介できない。というか、「コミュニケーション」というテーマを軸に、ここまで多様な話題に触れられるものなのか、そしてそれらを違和感なく有機的に結びつけて一つの作品として仕上げることができるのか、という点にとても驚かされたのでした。
そんなわけで、この作品の全体像に触れることは諦めます。まだ本書を読んでいないという方、作品のほんの一部にしか触れられないこんなブログの文章なんて読まないで、とにかく一刻も早く本書を手に入れて読み始めることをオススメします。
さて、このブログでは、『教育現場におけるコミュニケーション教育』というものに的を絞って、本書の内容に触れて行きたいと思います。実際本書では、「社会や企業で求められるコミュニケーション能力への違和感」、「著者が教育現場で実践してきた演劇的メソッド」「著者が教授として働く大阪大学での演劇的教育の実践」「医療現場や子供との会話などでの豊富な実例」「演劇における言葉と、それが何故社会で役立つコミュニケーション能力の育成に役立つのかという考察」「コミュニケーションをデザインするという試み」など、とにかく様々な話題がてんこ盛りになっている作品で、本書を読まなくていい人の存在を思い描けないほど、どんな人間にも関わりあいのある話題が提供されるだろうと思います。そもそも、「コミュニケーション」をしないで生きていられる人はいないわけです(引きこもりになる人だって、生まれたその瞬間から引きこもりになるわけではないでしょう)。「言葉」だとか「会話」だとか言った、あまりにも自然にある/やる存在であるが故になかなか意識できず、意識できないが故に「ずれ」が大きくなっていく「コミュニケーション」というものの本質について、本書は非常に多くの示唆を与えてくれる作品です。今から、『教育現場におけるコミュニケーション教育』というものを中心に色々書いていきますが、もう学校は卒業したしとか、別に俺は教師じゃないし、というような人にも本書は非常にためになる作品のはずなので、僕が書く内容に関わらず(だから、さっき言った通り、こんなブログの文章なんか読まないで)、是非今すぐにでも本書を読み始めて欲しいと思います。
本書ではまず、「若者のコミュニケーションにおける問題点」をはっきりさせようとします。そしてそれらは、当然のことながら、教育の問題と絡み合っていきます。
著者は、「意欲の低下」と「コミュニケーション教育は人格教育ではない」という二つの話をします。
『いまの子どもたちは競争社会に生きていないから、コミュニケーションに対する欲求、あるいは必要性が低下しているのではないか』
『日本では、コミュニケーション能力を先天的で決定的な個人の資質、あるいは本人の努力など人格に関わる深刻なものと捉える傾向があり、それが問題を無用に複雑にしていると私は感じている』
「意欲の低下」に関しては、非常に納得させられる例が提示される。
例えば、一人っ子が多くなったために、親が子供の言葉を子供が喋る言葉以上に汲み取ってしまう。子供が「ケーキ!」と言えば、ケーキを出してしまう。「ケーキがどうしたの?」と問うことがコミュニケーションに繋がるのだが、その機会が失われている。
また、少子化の影響で、小学一年生から中学三年生まで、30人1クラス、ずっとクラス替えがないという地域がたくさんあるそうなのだ。そういうクラスで、「じゃあ太郎君、今から3分間スピーチね」と言われても、太郎君には喋ることがないのだ。
何故なら、
『表現とは、他者を必要とする。しかし、教室に他者はいない』
からである。
『しかし、そういった「伝える技術」をどれだけ教え込もうとしたところで、「伝えたい」という気持ちが子供の側にないのなら、その技術は定着していかない。では、その「伝えたい」という気持ちはどこから来るのだろう。私は、それは、「伝わらない」という経験からしか来ないのではないかと思う。
いまの子どもたちには、この「伝わらない」という経験が、決定的に不足している』
これは、子どもだけではなくて、僕ら大人にも十分当てはまるだろうと個人的には思う。
なんというか、「異質な他者がいない場」か、「異質な他者をいないものとして扱えてしまう場」しか、僕らの周りにはないような気がしている。
「異質な他者がいない場」というのは、分かりやすくいうとフェイスブックやツイッターなどのことを想定している。自分が良いと感じる人達だけで集まれ、あるいは自分が良いと感じることを言ってくれる人の文章だけを追うことが出来るツールが異様に発達している。フェイスブックやツイッターでは、わざわざ「異質な他者」と関わる必要がない。「異質ではない他者」と繋がるために使われているツールなのだから当然だ。そうなると当然、そこで交わされる会話は「伝わる」会話ばかりになり、「伝わらない」という経験は蓄積されない。
一方「異質なものをいないものとして扱えてしまう場」というのは、なんとなく会社のことを想定している。サラリーマンをやったことがない僕にはこの想像は間違っているのかもしれないけど、今は「パワハラ」みたいな言葉が定着して上司が気軽に部下とコミュニケーションが取りにくかったり、会社では与えられた仕事をこなすだけでコミュニケーションなんて要らないなんていう態度の人間が結構出てき始めているのではないかと思う。かつては「異質な他者と関わらざるを得なかった場」であった会社という場所が、今では「異質な他者をいないものとして扱えてしまう場」に変化し始めているのではないか、となんとなく勝手に感じている。
「異質な他者」と関わることを強く勧めるのが、瀧本哲史だ。氏の著作である「武器としての交渉思考」は、交渉のテクニック本という一面は当然備えつつ、その実、「いかに異質な他者と関わることが重要であるか」を説く啓発本でもある。こういう本が出るということ自体が、現代社会における「異質な他者との関わりの薄さ」を示唆しているのではないかと勝手に感じている。
僕は、なんとなくそういう「異質ではない他者とばかり関わる」風潮に馴染めなくて、出来るだけ「異質な他者」と関わろうという意識を持っているつもりでいる。自分自身に積極性はないのだけど、なるべく知らない場に躊躇しないという意識でいるつもりだし、よく知っている場に留まり過ぎないように気をつけてもいるつもりだ。自分の中で言語化したことはなかったのだけど、「異質な他者」とのコミュニケーションにおける「伝わらない」という感覚を失わないようにしようとしていたのかもしれない。
さて、話を戻そう。もう一つの「コミュニケーション教育は人格教育ではない」という話だ。
これは、どんなに教育を熱心にやろうが、社会の背景がどうなろうが、ある一定数「口下手」な人間は出てくる、という実感に拠っている。
「コミュニケーション能力の欠如」は、決して人格の問題と直結しない。理科の授業が多少苦手だからって、リコーダーが吹けないからって、普通その人の人格に問題があるとは考えない。でも、何故かこと「コミュニケーション」に関しては、それがうまく出来ないと人格に問題があるかのような見方をされてしまうことが多い。
アメリカ人はエレベーターの中で他者に話しかけるが、日本人はそうはしないという話に続いて、こんな文章も出てくる。
『さて、では、エレベーターの中で見知らぬ人と挨拶をするアメリカ人は、とてもコミュニケーション能力が高くて、私たち日本人はコミュニケーション能力のないダメみんぞくなのだろうか。私は、どうも、そういう話ではないような気がしている。
アメリカは、そうせざるをえない社会なのではないか。これは多民族国家の宿命で、自分が相手に対して悪意を持っていない(好意を持っているのではなく)ということを、早い段階でわざわざ声に出して表さないと、人間関係の中で緊張感、ストレスがたまってしまうのだ。一方、本書でも繰り返し書いてきたように、私たち日本人はシマ国・ムラ社会で、比較的のんびり暮らしてきたので、そういうことを声や形にして表すのは野暮だという文化の中で育ってきた』
ここでも、同じことがアメリカ人と日本人の比較の中で語られている。つまり、「コミュニケーション能力の良し悪しは、人格とはあまり関係がない」ということだ。
これまで日本では、「コミュニケーション教育」を「人格教育」のような形で行なってきた。しかし、それは間違っているのではないか。教育は、そこまで求められているのだろうか?
『コミュニケーション教育に、過度な期待をしてはならない』
『ペラペラと喋れるようになる必要はない。きちんと自己紹介ができる。必要に応じて大きな声が出せる。繰り返すが、「その程度のこと」でいいのだ。』
しかし、「その程度のこと」ではあるが、やはりそれは教育が担わねばならないと著者は言う。
大阪大学で大学院生向けに演劇をベースにコミュニケーション教育を行なっている著者は、批判にさらされることがある。「遊んでいるだけではないのか」「大学院は教養を身につける場ではないのか」と言ったものだ。その批判の中の一つに、「昔はそんなもんは現場で学んだもんですけどなぁ」というものがある。要するに、大学院生が様々な場所へ就職していく、その現場でコミュニケーションのいろはなど学んだ、という批判だ。
この批判に対して著者は、学校教育の場でコミュニケーション教育を行わなければならない理由として、こう書いている。
『こうして時代が変わった以上、あるいは、こういった少子化、核家族化の社会を作ってしまった以上、私たちは、これまでの社会では子どもたちが無意識に経験できた様々な社会経験の機能や監修を、公教育のシステムの中に組み込んでいかざるをえない状況になっている』
また、別の側面もある。
著者は、日本が持つ独特なコミュニケーション文化は尊重されるべきだと書く。アメリカのコミュニケーション文化が正しいわけでも、日本のコミュニケーション文化が間違っているわけでもない。
ただ、日本人は、自分たちのコミュニケーション文化が「少数派」であるという意識は持たなければならない。
『コミュニケーション教育、異文化理解能力が大事だと世間では言うが、それは別に、日本人が西洋人、白人のように喋れるようになれということではない。欧米のコミュニケーションが、とりたてて優れているわけでもない。だが多数派は向こうだ。多数派の理屈を学んでおいて損はない』
そしてその上で、多くの日本人がこんな風に感じているのではないかと指摘する。
『その上で、多くの人が感じているのは、擁するに、「日本もそうも言っていられない社会になってきた」ということではあるまいか。そして、少なくともコミュニケーション教育に関わる人間は、この「そうも言っていられない」という点を、きちんと分析し、問題を切り分けていく必要がある。「TPPもくるし、いろいろたいへんだ、ワッハッハ」といった居酒屋談義で済ますのではなく、私たちが培ってきたコミュニケーション文化の、何を残し、何を変えていかざるをえないのかを、真剣に考える必要がある。』
そしてそのための大きな前提となるかもしれない考え方を、著者はこんな風に書く。
『心からわかりあえることを前提とし、最終目標としてコミュニケーションというものを考えるのか、「いやいや人間はわかりあえない。でもわかりあえない人間同士が、どうにかして共有できる部分を見つけて、それを広げていくことならできるかもしれない」と考えるのか』
当然著者は、後者の態度であるべきだと考えているのだ。
これは、先ほども指摘した通り、シマ国・ムラ社会で生きてきた日本人には、大きな認識の転換を迫るものだ。相手が自分と酷くかけ離れた価値観を持っているわけではない、という前提のもと、「阿吽の呼吸」だの「野暮」だのといった、日本独特のコミュニケーションが育まれてきた。しかし、それは、「人間はわかりあえない」という前提を持っている人間には通用しないコミュニケーションだ。僕らはもう「そうも言っていられない」世の中に生きているのだし、そして残念ながら僕らは「少数派」だ。であれば、痛みを伴いながらも、僕らが変わっていくしかない。
さてでは、そのために学校教育はどうあるべきだろうか。
これが、なかなか難しい。
『日本語教育に関わる多くの教員が、自分の使用するテキストを「自然な日本語ではない」と感じている。』
『この指導法は、主に以下の二つの点で間違っていると私は思う。
一つは、表現という、極めて主観性の強い事柄について、あらかじめ固定された言語規範を示し、あたかもそれだけが正解のように強要してしまう点。
もう一つは、これまで述べてきたように、その言語規範自体が、まったく根拠のない、また現実に話される日本語の話し言葉ともかけ離れた、間違った概念に基づく「架空の話し言葉」に拠っている点』
恐らくちょっと脱線すると思うのだけど、僕自身の話を書きたい。
僕はとにかく、国語の授業が嫌いで嫌いで仕方がなかった。特に国語のテストが嫌いで嫌いで仕方がなかった。
本書は「コミュニケーション」の話であって、国語のテストの話は出てこない。でも、「国語という授業内でのコミュニケーション教育」の根幹と、「国語のテスト」の根幹はそう大きくかけ離れてはいないはずで、だからこの話を書きたかった。
僕はどうしても、「国語のテストに正解がある」という事実が許せなかったのだ。
何故読み方がひと通りに定められてしまうのか、僕にはそれが子どもの頃から現在まで一貫して理解できないでいる。別にどんな本をどんな読み方をしてもいいはずだ、と僕は思う。その時の主人公の気持ちがどうであるかなんていうのは、たとえ著者が意図した通りの読み方でなくても、自分がどう感じたかの方が圧倒的に大事だろう、とずっと思っていたのだ。
だけど、何故か国語のテストには「正解」があって、そしてみんなその「正解」を導き出せるのだよね。
本当に、あれほど意味不明なものはなかったと思う。僕には、何故それが正解なのかさえわからないのだ。真剣に答えを出そうとして(一応書いておくと、結構真面目で、自分で言うのもなんですが優秀な学生だったのですよ)必死で文章を読むんだけど、さーっぱりわからない。「国語の試験は簡単だった」なんていう人間の話を聞くと、エイリアンと話しているような感じがした(いや、さすがにそれは大げさか)。
だけど、大人になって、こうやってブログに文章を書くようになってようやく、「国語の試験が解けなくて良かった」と思うようになっている。
僕は、「自分が本をどんな風に読み、捉えたかを文章にして提示することに臆すること」はまったくない。それは、「正しい読み方なんてものが存在しない」という信念があるからだ。どんな本であっても、その本を「正しく読む」ことなどできない。どんな読まれ方をしても、その本の解釈としてはどれも許容されるべきと僕は思っている。
だから、ブログでこうやって感想を書くことに、特別な躊躇はない。著者が自分の感想を読んでも、あまり気になない。それは、「誰がその作品をどんな風に評価しようとも、あるいは、著者がその作品をどんな風に読まれたいと思って書いていても、僕が読んだ読み方が僕にとっては絶対的に正しい」と思っているからです。たぶんこれは、国語のテストがすいすい解けてしまっていたら、なかなか持てなかった感覚なんじゃないかな、という気はします。どうしても、「正解の読み方がある」という感覚に囚われてしまうような気がするから。
さて、話を戻そう。著者はじゃあ、国語教育はどうあるべきと書いているのか。
なかなか刺激的なこんな一文がある。
『私自身は、もはや「国語」という科目は、その歴史的使命を終えたと考えている』
著者が訪れたことのある、スイスのある小学校には、科目という概念がもうほとんどなくなっていた、という。著者も、横断的な教育を推奨するが、しかしそれはすぐには無理だろう。著者の主張では、「国語」という科目を「表現」と「ことば」に分けるべきだというが、この変化でさえ、すぐには起こり得ないだろう。
『もしこれを国語の授業でやるとするなら、きちんと書く、論理的に話すといった従来の国語教育を、抜本的に解体しなければならない。擁するに無前提に「正しい言語」が存在し、その「正しい言語規範」を教員が生徒に教えるのが国語教育だという考え方自体を、完全に払拭しなければならない。そうして、国語教育を、身体性を伴った教育プログラム、「喋らない」も「いない」も表現だと言えるような教育プログラムに編みなおしていかなければならない。
このことはまた、すべての国語教員が、「正しい言語」が自明のものとしてあるという考え方を捨てて、言語というものは、曖昧で、無駄が多く、とらえどころのない不安定なものだという覚悟を持つということを意味する。』
さて、これが、本書の内容のごくごく一部である『教育現場におけるコミュニケーション教育』の話を大雑把にしたものです。これだけでも十分に密度が濃いでしょう。本書には、さらに様々な知見が縦横無尽に話題を行き来しながら語られていきます。凄いです。僕は元々「ことば」というものに関心がある人間で、演劇とことばの関係みたいな、直接日常生活に関わらないような話も凄く楽しめました。
著者は最後の方で、日本人にこんな檄を飛ばす。
『ただ、いまの日本社会では、僧籍や鴎外が背負った十字架を、日本人全員が等しく背負わなければならない。かつては知識階級だけが味わった苦悩を、いまは多くの人びとが、苦悩だと意識さえしないままに背負わされる。漱石ほどの天才でも、ロンドンでノイローゼになったのだ。鴎外ほどの秀才が、「かのように生きる」と覚悟を決めなければ、このダブルバインドを乗り越えることはできなかったのだ。』
我々を取り巻く環境は刻々と変化し、その変化はどんどんと僕らに苦悩を強いるものになってきている。それは誰もが漠然と感じてきていることだろう。しかし、漱石や鴎外が苦しめられた苦悩を無意識の内に背負わされていたとは…。
コミュニケーションというのは、僕らの日々の営みであり、だからその変化は容易には見えにくい。平田オリザという、演劇から「ことば」や「コミュニケーション」を考え続けた人間だからこそ到達できた様々な知見は、なんとなく違和感はあるんだけど何がおかしいのかよくわからない、という僕らの感覚をうまく掬ってくれます。本当にこれは、凄い作品だなと思いました。是非是非是非読んでみてください!
平田オリザ「わかりあえないことから」
本書は、劇作家として著名である平田オリザが、講談社のPR誌に連載し続けた文章をまとめた作品です。『コミュニケーション教育に直接携わる者として、そこに感じる違和感を中心に書き進めてきた』というスタンスがまえがきで書かれている。
とにかく素晴らしい作品だったんです!昨日僕は「恋とセックスで幸せになる秘密」という作品の感想の中で、「これまで読んできた本の中で最大のドッグイヤーをした」ということを書いた。ほぼ全ページの端を折ってしまったのだ。でも、本書も、それと負けず劣らずで、相当数のページをドッグイヤーしてしまった。
そんなわけで、この作品の素晴らしさを伝えたいところなんだけど、話が非常に多岐に渡るので、簡単には内容を紹介できない。というか、「コミュニケーション」というテーマを軸に、ここまで多様な話題に触れられるものなのか、そしてそれらを違和感なく有機的に結びつけて一つの作品として仕上げることができるのか、という点にとても驚かされたのでした。
そんなわけで、この作品の全体像に触れることは諦めます。まだ本書を読んでいないという方、作品のほんの一部にしか触れられないこんなブログの文章なんて読まないで、とにかく一刻も早く本書を手に入れて読み始めることをオススメします。
さて、このブログでは、『教育現場におけるコミュニケーション教育』というものに的を絞って、本書の内容に触れて行きたいと思います。実際本書では、「社会や企業で求められるコミュニケーション能力への違和感」、「著者が教育現場で実践してきた演劇的メソッド」「著者が教授として働く大阪大学での演劇的教育の実践」「医療現場や子供との会話などでの豊富な実例」「演劇における言葉と、それが何故社会で役立つコミュニケーション能力の育成に役立つのかという考察」「コミュニケーションをデザインするという試み」など、とにかく様々な話題がてんこ盛りになっている作品で、本書を読まなくていい人の存在を思い描けないほど、どんな人間にも関わりあいのある話題が提供されるだろうと思います。そもそも、「コミュニケーション」をしないで生きていられる人はいないわけです(引きこもりになる人だって、生まれたその瞬間から引きこもりになるわけではないでしょう)。「言葉」だとか「会話」だとか言った、あまりにも自然にある/やる存在であるが故になかなか意識できず、意識できないが故に「ずれ」が大きくなっていく「コミュニケーション」というものの本質について、本書は非常に多くの示唆を与えてくれる作品です。今から、『教育現場におけるコミュニケーション教育』というものを中心に色々書いていきますが、もう学校は卒業したしとか、別に俺は教師じゃないし、というような人にも本書は非常にためになる作品のはずなので、僕が書く内容に関わらず(だから、さっき言った通り、こんなブログの文章なんか読まないで)、是非今すぐにでも本書を読み始めて欲しいと思います。
本書ではまず、「若者のコミュニケーションにおける問題点」をはっきりさせようとします。そしてそれらは、当然のことながら、教育の問題と絡み合っていきます。
著者は、「意欲の低下」と「コミュニケーション教育は人格教育ではない」という二つの話をします。
『いまの子どもたちは競争社会に生きていないから、コミュニケーションに対する欲求、あるいは必要性が低下しているのではないか』
『日本では、コミュニケーション能力を先天的で決定的な個人の資質、あるいは本人の努力など人格に関わる深刻なものと捉える傾向があり、それが問題を無用に複雑にしていると私は感じている』
「意欲の低下」に関しては、非常に納得させられる例が提示される。
例えば、一人っ子が多くなったために、親が子供の言葉を子供が喋る言葉以上に汲み取ってしまう。子供が「ケーキ!」と言えば、ケーキを出してしまう。「ケーキがどうしたの?」と問うことがコミュニケーションに繋がるのだが、その機会が失われている。
また、少子化の影響で、小学一年生から中学三年生まで、30人1クラス、ずっとクラス替えがないという地域がたくさんあるそうなのだ。そういうクラスで、「じゃあ太郎君、今から3分間スピーチね」と言われても、太郎君には喋ることがないのだ。
何故なら、
『表現とは、他者を必要とする。しかし、教室に他者はいない』
からである。
『しかし、そういった「伝える技術」をどれだけ教え込もうとしたところで、「伝えたい」という気持ちが子供の側にないのなら、その技術は定着していかない。では、その「伝えたい」という気持ちはどこから来るのだろう。私は、それは、「伝わらない」という経験からしか来ないのではないかと思う。
いまの子どもたちには、この「伝わらない」という経験が、決定的に不足している』
これは、子どもだけではなくて、僕ら大人にも十分当てはまるだろうと個人的には思う。
なんというか、「異質な他者がいない場」か、「異質な他者をいないものとして扱えてしまう場」しか、僕らの周りにはないような気がしている。
「異質な他者がいない場」というのは、分かりやすくいうとフェイスブックやツイッターなどのことを想定している。自分が良いと感じる人達だけで集まれ、あるいは自分が良いと感じることを言ってくれる人の文章だけを追うことが出来るツールが異様に発達している。フェイスブックやツイッターでは、わざわざ「異質な他者」と関わる必要がない。「異質ではない他者」と繋がるために使われているツールなのだから当然だ。そうなると当然、そこで交わされる会話は「伝わる」会話ばかりになり、「伝わらない」という経験は蓄積されない。
一方「異質なものをいないものとして扱えてしまう場」というのは、なんとなく会社のことを想定している。サラリーマンをやったことがない僕にはこの想像は間違っているのかもしれないけど、今は「パワハラ」みたいな言葉が定着して上司が気軽に部下とコミュニケーションが取りにくかったり、会社では与えられた仕事をこなすだけでコミュニケーションなんて要らないなんていう態度の人間が結構出てき始めているのではないかと思う。かつては「異質な他者と関わらざるを得なかった場」であった会社という場所が、今では「異質な他者をいないものとして扱えてしまう場」に変化し始めているのではないか、となんとなく勝手に感じている。
「異質な他者」と関わることを強く勧めるのが、瀧本哲史だ。氏の著作である「武器としての交渉思考」は、交渉のテクニック本という一面は当然備えつつ、その実、「いかに異質な他者と関わることが重要であるか」を説く啓発本でもある。こういう本が出るということ自体が、現代社会における「異質な他者との関わりの薄さ」を示唆しているのではないかと勝手に感じている。
僕は、なんとなくそういう「異質ではない他者とばかり関わる」風潮に馴染めなくて、出来るだけ「異質な他者」と関わろうという意識を持っているつもりでいる。自分自身に積極性はないのだけど、なるべく知らない場に躊躇しないという意識でいるつもりだし、よく知っている場に留まり過ぎないように気をつけてもいるつもりだ。自分の中で言語化したことはなかったのだけど、「異質な他者」とのコミュニケーションにおける「伝わらない」という感覚を失わないようにしようとしていたのかもしれない。
さて、話を戻そう。もう一つの「コミュニケーション教育は人格教育ではない」という話だ。
これは、どんなに教育を熱心にやろうが、社会の背景がどうなろうが、ある一定数「口下手」な人間は出てくる、という実感に拠っている。
「コミュニケーション能力の欠如」は、決して人格の問題と直結しない。理科の授業が多少苦手だからって、リコーダーが吹けないからって、普通その人の人格に問題があるとは考えない。でも、何故かこと「コミュニケーション」に関しては、それがうまく出来ないと人格に問題があるかのような見方をされてしまうことが多い。
アメリカ人はエレベーターの中で他者に話しかけるが、日本人はそうはしないという話に続いて、こんな文章も出てくる。
『さて、では、エレベーターの中で見知らぬ人と挨拶をするアメリカ人は、とてもコミュニケーション能力が高くて、私たち日本人はコミュニケーション能力のないダメみんぞくなのだろうか。私は、どうも、そういう話ではないような気がしている。
アメリカは、そうせざるをえない社会なのではないか。これは多民族国家の宿命で、自分が相手に対して悪意を持っていない(好意を持っているのではなく)ということを、早い段階でわざわざ声に出して表さないと、人間関係の中で緊張感、ストレスがたまってしまうのだ。一方、本書でも繰り返し書いてきたように、私たち日本人はシマ国・ムラ社会で、比較的のんびり暮らしてきたので、そういうことを声や形にして表すのは野暮だという文化の中で育ってきた』
ここでも、同じことがアメリカ人と日本人の比較の中で語られている。つまり、「コミュニケーション能力の良し悪しは、人格とはあまり関係がない」ということだ。
これまで日本では、「コミュニケーション教育」を「人格教育」のような形で行なってきた。しかし、それは間違っているのではないか。教育は、そこまで求められているのだろうか?
『コミュニケーション教育に、過度な期待をしてはならない』
『ペラペラと喋れるようになる必要はない。きちんと自己紹介ができる。必要に応じて大きな声が出せる。繰り返すが、「その程度のこと」でいいのだ。』
しかし、「その程度のこと」ではあるが、やはりそれは教育が担わねばならないと著者は言う。
大阪大学で大学院生向けに演劇をベースにコミュニケーション教育を行なっている著者は、批判にさらされることがある。「遊んでいるだけではないのか」「大学院は教養を身につける場ではないのか」と言ったものだ。その批判の中の一つに、「昔はそんなもんは現場で学んだもんですけどなぁ」というものがある。要するに、大学院生が様々な場所へ就職していく、その現場でコミュニケーションのいろはなど学んだ、という批判だ。
この批判に対して著者は、学校教育の場でコミュニケーション教育を行わなければならない理由として、こう書いている。
『こうして時代が変わった以上、あるいは、こういった少子化、核家族化の社会を作ってしまった以上、私たちは、これまでの社会では子どもたちが無意識に経験できた様々な社会経験の機能や監修を、公教育のシステムの中に組み込んでいかざるをえない状況になっている』
また、別の側面もある。
著者は、日本が持つ独特なコミュニケーション文化は尊重されるべきだと書く。アメリカのコミュニケーション文化が正しいわけでも、日本のコミュニケーション文化が間違っているわけでもない。
ただ、日本人は、自分たちのコミュニケーション文化が「少数派」であるという意識は持たなければならない。
『コミュニケーション教育、異文化理解能力が大事だと世間では言うが、それは別に、日本人が西洋人、白人のように喋れるようになれということではない。欧米のコミュニケーションが、とりたてて優れているわけでもない。だが多数派は向こうだ。多数派の理屈を学んでおいて損はない』
そしてその上で、多くの日本人がこんな風に感じているのではないかと指摘する。
『その上で、多くの人が感じているのは、擁するに、「日本もそうも言っていられない社会になってきた」ということではあるまいか。そして、少なくともコミュニケーション教育に関わる人間は、この「そうも言っていられない」という点を、きちんと分析し、問題を切り分けていく必要がある。「TPPもくるし、いろいろたいへんだ、ワッハッハ」といった居酒屋談義で済ますのではなく、私たちが培ってきたコミュニケーション文化の、何を残し、何を変えていかざるをえないのかを、真剣に考える必要がある。』
そしてそのための大きな前提となるかもしれない考え方を、著者はこんな風に書く。
『心からわかりあえることを前提とし、最終目標としてコミュニケーションというものを考えるのか、「いやいや人間はわかりあえない。でもわかりあえない人間同士が、どうにかして共有できる部分を見つけて、それを広げていくことならできるかもしれない」と考えるのか』
当然著者は、後者の態度であるべきだと考えているのだ。
これは、先ほども指摘した通り、シマ国・ムラ社会で生きてきた日本人には、大きな認識の転換を迫るものだ。相手が自分と酷くかけ離れた価値観を持っているわけではない、という前提のもと、「阿吽の呼吸」だの「野暮」だのといった、日本独特のコミュニケーションが育まれてきた。しかし、それは、「人間はわかりあえない」という前提を持っている人間には通用しないコミュニケーションだ。僕らはもう「そうも言っていられない」世の中に生きているのだし、そして残念ながら僕らは「少数派」だ。であれば、痛みを伴いながらも、僕らが変わっていくしかない。
さてでは、そのために学校教育はどうあるべきだろうか。
これが、なかなか難しい。
『日本語教育に関わる多くの教員が、自分の使用するテキストを「自然な日本語ではない」と感じている。』
『この指導法は、主に以下の二つの点で間違っていると私は思う。
一つは、表現という、極めて主観性の強い事柄について、あらかじめ固定された言語規範を示し、あたかもそれだけが正解のように強要してしまう点。
もう一つは、これまで述べてきたように、その言語規範自体が、まったく根拠のない、また現実に話される日本語の話し言葉ともかけ離れた、間違った概念に基づく「架空の話し言葉」に拠っている点』
恐らくちょっと脱線すると思うのだけど、僕自身の話を書きたい。
僕はとにかく、国語の授業が嫌いで嫌いで仕方がなかった。特に国語のテストが嫌いで嫌いで仕方がなかった。
本書は「コミュニケーション」の話であって、国語のテストの話は出てこない。でも、「国語という授業内でのコミュニケーション教育」の根幹と、「国語のテスト」の根幹はそう大きくかけ離れてはいないはずで、だからこの話を書きたかった。
僕はどうしても、「国語のテストに正解がある」という事実が許せなかったのだ。
何故読み方がひと通りに定められてしまうのか、僕にはそれが子どもの頃から現在まで一貫して理解できないでいる。別にどんな本をどんな読み方をしてもいいはずだ、と僕は思う。その時の主人公の気持ちがどうであるかなんていうのは、たとえ著者が意図した通りの読み方でなくても、自分がどう感じたかの方が圧倒的に大事だろう、とずっと思っていたのだ。
だけど、何故か国語のテストには「正解」があって、そしてみんなその「正解」を導き出せるのだよね。
本当に、あれほど意味不明なものはなかったと思う。僕には、何故それが正解なのかさえわからないのだ。真剣に答えを出そうとして(一応書いておくと、結構真面目で、自分で言うのもなんですが優秀な学生だったのですよ)必死で文章を読むんだけど、さーっぱりわからない。「国語の試験は簡単だった」なんていう人間の話を聞くと、エイリアンと話しているような感じがした(いや、さすがにそれは大げさか)。
だけど、大人になって、こうやってブログに文章を書くようになってようやく、「国語の試験が解けなくて良かった」と思うようになっている。
僕は、「自分が本をどんな風に読み、捉えたかを文章にして提示することに臆すること」はまったくない。それは、「正しい読み方なんてものが存在しない」という信念があるからだ。どんな本であっても、その本を「正しく読む」ことなどできない。どんな読まれ方をしても、その本の解釈としてはどれも許容されるべきと僕は思っている。
だから、ブログでこうやって感想を書くことに、特別な躊躇はない。著者が自分の感想を読んでも、あまり気になない。それは、「誰がその作品をどんな風に評価しようとも、あるいは、著者がその作品をどんな風に読まれたいと思って書いていても、僕が読んだ読み方が僕にとっては絶対的に正しい」と思っているからです。たぶんこれは、国語のテストがすいすい解けてしまっていたら、なかなか持てなかった感覚なんじゃないかな、という気はします。どうしても、「正解の読み方がある」という感覚に囚われてしまうような気がするから。
さて、話を戻そう。著者はじゃあ、国語教育はどうあるべきと書いているのか。
なかなか刺激的なこんな一文がある。
『私自身は、もはや「国語」という科目は、その歴史的使命を終えたと考えている』
著者が訪れたことのある、スイスのある小学校には、科目という概念がもうほとんどなくなっていた、という。著者も、横断的な教育を推奨するが、しかしそれはすぐには無理だろう。著者の主張では、「国語」という科目を「表現」と「ことば」に分けるべきだというが、この変化でさえ、すぐには起こり得ないだろう。
『もしこれを国語の授業でやるとするなら、きちんと書く、論理的に話すといった従来の国語教育を、抜本的に解体しなければならない。擁するに無前提に「正しい言語」が存在し、その「正しい言語規範」を教員が生徒に教えるのが国語教育だという考え方自体を、完全に払拭しなければならない。そうして、国語教育を、身体性を伴った教育プログラム、「喋らない」も「いない」も表現だと言えるような教育プログラムに編みなおしていかなければならない。
このことはまた、すべての国語教員が、「正しい言語」が自明のものとしてあるという考え方を捨てて、言語というものは、曖昧で、無駄が多く、とらえどころのない不安定なものだという覚悟を持つということを意味する。』
さて、これが、本書の内容のごくごく一部である『教育現場におけるコミュニケーション教育』の話を大雑把にしたものです。これだけでも十分に密度が濃いでしょう。本書には、さらに様々な知見が縦横無尽に話題を行き来しながら語られていきます。凄いです。僕は元々「ことば」というものに関心がある人間で、演劇とことばの関係みたいな、直接日常生活に関わらないような話も凄く楽しめました。
著者は最後の方で、日本人にこんな檄を飛ばす。
『ただ、いまの日本社会では、僧籍や鴎外が背負った十字架を、日本人全員が等しく背負わなければならない。かつては知識階級だけが味わった苦悩を、いまは多くの人びとが、苦悩だと意識さえしないままに背負わされる。漱石ほどの天才でも、ロンドンでノイローゼになったのだ。鴎外ほどの秀才が、「かのように生きる」と覚悟を決めなければ、このダブルバインドを乗り越えることはできなかったのだ。』
我々を取り巻く環境は刻々と変化し、その変化はどんどんと僕らに苦悩を強いるものになってきている。それは誰もが漠然と感じてきていることだろう。しかし、漱石や鴎外が苦しめられた苦悩を無意識の内に背負わされていたとは…。
コミュニケーションというのは、僕らの日々の営みであり、だからその変化は容易には見えにくい。平田オリザという、演劇から「ことば」や「コミュニケーション」を考え続けた人間だからこそ到達できた様々な知見は、なんとなく違和感はあるんだけど何がおかしいのかよくわからない、という僕らの感覚をうまく掬ってくれます。本当にこれは、凄い作品だなと思いました。是非是非是非読んでみてください!
平田オリザ「わかりあえないことから」
恋とセックスで幸せになる秘密(二村ヒトシ)
内容に入ろうと思います。
本書は、AV監督であり(女性の皆様、この部分で引かないで下さいね、ホントに!)、また男性向けのモテ本(という姿を借りた生き方指南本)である「すべてはモテるためである」という本を出版している著者による、女性向けの恋愛指南本です。
僕は別に、女性誌の恋愛特集だとか、女性向けの恋愛指南本を読んだりしているわけではないんですけど、でもこれはハッキリと断言してしまいましょう。
女性の皆さん、女性向けの恋愛指南本は、これ一冊で完璧です!
本当に、この本だけ読んでいればもう間違いないと思います。素晴らしすぎました!こんなに「心の奥深くまでずっしり届いて」、かつ「実際に行動に移すことが出来るぐらいに具体的に書かれている」恋愛指南本って、本当に存在しないんじゃないかと思います。
ちょっといくら絶賛してもしたりない気持ちなんですけど、でも本当にこう叫びたいです。
この作品はちょっと素晴らしすぎます!!!
僕は、小説以外の本を読む時は、ドッグイヤー(気になったページの端っこを折る)っていうのをやっちゃうんですけど、本書は、過去僕が読んだすべての本の中で、最高数のドッグイヤーを記録した本ではないかと思います。なんせ、ほぼ全ページドッグイヤーしましたからね。どこを読んでも、本当に素晴らしいことが書かれているんで、ビックリします。これだけ絶賛していると、なんだよ二村ヒトシの信者かよ、キモいな、みたいな風に思われるかもですけど、いや、もはや信者でもいいかって感じさえしてきます(笑)。この人の考え方はホント好きだなぁ。「すべてはモテるためである」も超絶素晴らしい作品でしたけど、さらにそれ以上に素晴らしい作品で、本当にビックリしました。
さてじゃあ、まえがきの文章をかなり長々と引用してみましょう。
『あなたは「私のことを好きになってくれない人を、好きになっちゃう」とか「向こうから好きだって言ってくれる人は、なぜか、好きになれない」ことが多くありませんか?
「私は自分がキライ…。でも、そんな自分が大好き」って思うこと、ありませんか?
うまくいかない恋愛や、理想的な結婚ができないことや、そもそも出会いがないこと、そして自分を好きだったりキライだったりで心が不安定になることには、理由があります。
それは、あなたが「男産んが悪いから」「性格が悪いから」では、ありません。「魅力がないから」でもありません。そういう単純な理由じゃないんです。
そして「あなただけのせい」でもありません。
(中略)
何年か前に、ある有名な女性誌のセックス特集で取材を受けました。内容は「男性を気持ちよくさせて女性も楽しめるテクニックを教えてほしい」というものでした。
とてもまじめに取材してくれて、僕が話したとおり文章にしてくれました。ところが、できあがって送られてきた雑誌を見た僕は「あれっ?なんか変だ」と感じたんです。
僕が話した言葉も含めて、そのセックス特集全体が「男性に空きられないように、捨てられないために、セックスをがんばろう」という雰囲気になっていたからです。
それって「二人が愛しあって、セックスを楽しんでること」に、なるんでしょうか?
それから僕は、女性向けの「恋愛や結婚やセックスに関する記事」が、なんだか気になるようになりました。
よく読んでみると、そこにはかならず「愛されるファッション」とか「恋する女性は美しい」とか「モテの極意」とかは書いてあるんですが、恋愛の相手を「愛することができる女になろう」とは、どこにも書いていないんです。
(中略)
あなたが苦しいのは、あなたが悪いからではありません。
でも残念ながら、他の誰かが「なんとかしてくれる」わけでも、ありません。
この本では恋の苦しさの秘密をひとつひとつ解きあかして、あなたが幸せを感じられるようになるための手助けをしていきます。
「どうしたら幸せになれるのか」の秘密が、きっと、わかると思います。』
さて、どうでしょうか?このまえがきだけでも、女性的にはかなり気になる感じじゃないかと思います。
さて本書には、男性向けのまえがき、というのも存在していて、そこにはこんな風に書かれています。
『この本は、恋愛やセックスに悩む女性にための本ですが、そんな女性のことを好きになってしまったマジメで不器用なモテない男性にも、
そういう女性たちを苦しませながらセックスをしつづけてきて「そろそろ、そういうの卒業して大人にならないと、自分の人生もヤバい…」と思い始めている不マジメなのにモテる男性にも役立つ本です』
そしてさらに、本書には直接的には「あなたも読者ですよ」と書かれていませんが、僕は、「今恋愛に悩んでいる女性」だけではなく、「結婚して子供を育てている母親」にも、この本を読んでほしいと思っています。
あとで書きますが、女性が苦しいのは、親との関係で心に穴が空くからです。その仕組みを解説し、親との関係をどうしていくべきなのかという話が描かれます。そしてそれは、親側から子供を育てる時にも、とても重要な知見だと僕は感じたのでした。
そしてまた、母親との関係に悩まされてきた「娘としての自分」という立ち位置から読んでも、非常にためになる作品だと感じました。
表紙は相当女性向けに振っているんで、男はなかなか買いにくいだろうし、「恋とセックス」についての話を子供を育ててる私がねぇ…なんていう風に感じちゃう人もいるでしょうけど、でも是非読んでほしいなと思います
さて、本書を書店なんかで手に取る機会がある方にまずやって欲しいことは、P10~P13を開くということです。
この本は、内容も素晴らしいんですけど、本の造り的にも実に素晴らしいのです。P10~P13には何が書かれているかというと、「こんな女性はこのページをとりあえず読んでみてはいかが?」というような選択肢が35個も載っています。例えば、「愛してくれない人ばかり好きになっちゃう」とか、「私はめんどくさい女だ」とか、「親がキツい」とか、「彼に選ばれなかった私は「女としての価値がない」と思う」とか、そういう色んなあり方について、まずとりあえずここを読んでみたらいいよ、というページを示してくれています。
もちろん、そのページだけ読んでも分からない文章もあるでしょう。頭の方から順々に一つ一つ細かく色んなものを積み上げていきながら話を展開させているので、唐突に出てきた単語や概念をそのページだけからはつかみとれないこともあるかもしれません。でも、きっとそのページには、あなたの心に突き刺さる文章があることでしょう。そうしたら、悩むことはありません。安心してその本をレジに持って行きましょう。他のページにも、あなたの心に突き刺さる言葉が山ほど詰まっていることを保障しましょう。
たとえば、作中にこんなフレーズが出てくる。
『自分のして欲しいことを要求したり、愛されるために無理して相手の要求をのんだりして、やがて傷ついていくのが恋です。
「私のやりたいことが、彼のして欲しいこと」に、「彼のやりたいことが、私のして欲しいこと」に、なっていくのが愛です』
もうこんなん、痺れますがな、ホント!
さてというわけで、長々と色んなことを書きましたけど、ようやく内容に入りましょう。でも、気をつけないと。僕的にこの本が素晴らしすぎて、うっかりすると内容を書きすぎたり引用し過ぎたりしちゃいそうだから、なるべく抑え気味にいかないとマズイ。気をつけろよ、俺。
まず第一章の「なぜ、あなたの恋は「うまくいかない」のか?」。ここでは、「ほら、女性って、こんな恋愛になっちゃうことって、多いじゃん?」みたいなことが描かれていきます。
自分のことを愛してくれない人を何故か好きになってしまって辛くなったり、自分にダメ出ししてくれる男性に男らしさを感じたり(そして、ダメ出しをされることで、自分は女として価値が低いんじゃないかと凹んだり)、相手に尽くしすぎて辛くなったり、傷つけられることでしか恋愛している実感が持てなかったり。
でも、そういうのは「愛」じゃないんだよ、んで、この本を読んだらそれい気づけるからね、と優しく諭してくれるのが第一章です。
作中にこんな文章があります。
『恋というものは、いつかかならず「終わる」のです。恋のままで一生つづくということは、ありません。
一緒にいると傷つくことの方が多い相手だとわかって「恋がやぶれる」か。
おたがいを肯定しあえて「恋が愛に変わる」か。どちらかです』
「愛」にたどり着くまでにはもちろん「恋」を経なければいけない。だからこそ、まず「恋」の段階でうまくいかないと「愛」にはたどり着かないんだよ、ということです。
今自分がしている「恋」が、「愛」にたどり着くものなのかどうか。本書を読んで考えていきましょう。
第二章の「「恋する女は美しい」は、嘘」では、じゃあどうして第一章みたいな「恋」になっちゃうの?という原因に切り込んでいきます。
そのキーワードが「ナルシシズム」と「自己肯定」です。
『自分を認めていない女性は、むしろ「恋をすることでダメになっていく」のです』
「ナルシシズム」も「自己肯定」も、どちらも「自分を好き」という現れですけど、その二つは大きく違います。そして、この二つとうまく折り合いをつけることが出来ないからこそ(それは、本人のせいもありますけど、社会のせいだったり親のせいだったり付き合っている相手のせいだったりもします)。
「自己肯定」とは、「自分を認めて、愛してあげること」
「ナルシシズム」とは、「自分に恋をしていること」
『「私は自分が好きなのに、同時に、すごく自分がキライ」と思ったこと、ありませんか?
これは矛盾しているようですが(そしてあなたは「私って、なんて『あまのじゃく』なんだろう」と思いつづけてきたことでしょうが)じつは矛盾してないんです。
あなたが「自分を浮き」なのはナルシシズムの意味で好きなのだし、
「自分を嫌い」なのは自己肯定できていないという意味で嫌いなのです。』
そして、あなたが恋愛で辛くなってしまうのは、
『今の自分を認めていないのに、ナルシシズムが強すぎる』
からなわけです。
『あなたが「今の自分」を好きになれなくて(自己肯定)できなくて、あなたに恋してくれる人を愛せないのは、なぜでしょう?
それは、あなたが「今より、もっと幸せになりたい」と願いつづけていることに原因がありそうです。
もちろん「幸せになろうとする」のは悪いことではありません。ただ、ここでちょっと考えてみてほしいのは、あなたが思う「もっと幸せ」が、いったいどんな幸せなのか、ということです。
あなたはそれを「いい女になって、いつかは出会うはずの『私が好きな理想の男性』から愛される。そこから始まる幸せ」と思っていないでしょうか?
自分の気に入らない部分(容姿や性格や、現在の生活など)を受け入れられないあなたは「理想の彼の隣にいる、未来の自分」に、憧れているのではありませんか?』
『あなたが恋している男性は、彼が「あなたを愛さないでいる」かぎり、理想の男性であり続けるでしょう。
ところが、もし彼が「今のあなた」を愛し始めてしまったら?
たとえ、彼がどんなにイケメンで、お金持ちで、優しかったとしても、あなたが自分を愛せないでいるかぎり、やがて彼から逃げ出したくなってしまうはずです』
そして第三章の「恋しても「心の穴」は埋まらない」です。ここで、「心の穴」という概念を使って、「ナルシシズム」と「自己肯定」の現れ方をよりシンプルに解き明かしていこうとします。
「心の穴」について、著者はこんな風に書いています。
『自分の心のまんなか、あなた自身の中心に「ぽっかり、穴があいている」のをイメージしてみてください。
あなたの「生きづらさ」や「さみしさ」、劣等感、不安、嫉妬、憎しみ、罪悪感といった、自分ではコントロールすることができない感情や考えが、その穴から湧いて出てきているのを想像してみてください。
それが、あなたが埋めようとしている穴です。』
『心の穴から湧いてくるものは、ネガティブな感情だけではありません。他人から見たあなたの魅力も、やはり心の穴から生まれてきます』
そして著者は、恋愛によってその「心の穴」を塞ぐのは無理だと書きます。
『心のどこかで、そう思いながら恋をしているとしたら、あなたは自分の心の穴を忘れたくて、恋の相手を穴の中に詰め込もうとしているのです。
でも、どんな相手であっても、現実に生きている一人の人間である以上、あなたの心の穴にピッタリはまって、ふさいでもらうのは不可能です』
『恋愛することで「さみしさ」を感じなくなるのも、自分のネガティブな部分を忘れて「より良い自分」になれたと思えるのも、錯覚にすぎません。
むしろ、心の穴を埋めるために恋愛をしていると、かならず「しっぺがえし」をくらいます。
「心の穴を埋める」ということは、自分が自分を肯定していないのをごまかして、苦しみを相手のせいにすることだからです』
じゃあ、「心の穴」をどうすればいいのか。「心の穴は恋愛では塞げない」と言っているのだから、これはもはや恋愛の話ではなくて、生き方の話になります。
『幸せそうな人には、心の穴がないように思えるかもしれませんが、そうではありません。自分を愛すること(肯定すること)ができてる「幸せそうな人」とは、自分の心の穴を塞いだり無理にコントロールしようとしたりせず、おりあいをつけている人なのです』
『あなたが「自己肯定できるようになるために、するべきこと」は、恋人の存在を使って心の穴をふさごうとすることではなくて、まず「自分の心の穴のかたちを、ちゃんと知ることです」』
『穴を「ふさごう」とせずに「かたちを知ろう」とする。
かたちが分かってくれば、やがて心の穴は、あなたを以前ほどには苦しめなくなっていくはずです。
それは「自己肯定できるようになっていく」ということなのです。』
そして、「心の穴」と「恋」の関係を、こんな風に表現します。
『あなたが「彼に恋をした」ということは、あなたが「彼にあいている心の穴に、反応した」ということです。
彼の特徴で、あなたが「気に入ってる」か「気になってた」ところは、あなたが自分で気づいていない「自分に『ない』と思ってる」ところか「自分と似た」ところです』
こんな言葉も、あなたの心に刺さるでしょうか。
『「私には、あの人が必要なんだ!」「私は、あのひとを強く愛してる!」と思っている人のほとんどは、相手を愛せていません。ただ「求めて、執着している」だけです』
『あなたが人から「恋されるけど(または、セックスは求められるけど)愛されない」としたら、あなたが「自分に恋していて、自分を愛せていない」からです。
「自分自身に恋しているけれど、自分自身を愛していない人」は、相手から「恋は」されますが「愛される」ことはありません。
人間は、自分で自分をあつかっているようにしか、他人からあつかわれないのです』
4章と5章は飛ばします。内容が悪いとかそういうことではないですよ。
6章の「すべての「親」は子供の心に穴をあける。」は、何故女性に「心の穴」が空いてしまうのか、その原因を親に求める展開になります(男にも心の穴は空いているんですけど、まあともかく)。
この6章は、恋愛がどうとかってことでもなく、母親との関係に悩んできた、今も悩んでいるという女性に、本当に読んで欲しいと思います。そして、親になることを恐れている人や、もう親になったという女性にも。母娘の関係というのは、様々な小説や漫画や映画なんかで描かれる普遍のテーマですけど、ここでは「心の穴」というキーワードを元に、母娘の関係を読み解いていきます。
『心の穴は、あなたがまだ幼く心がやわらかいころ、自我が固まる前に、あなたの「親」または「親がわりに育ててくれた人」によって、あけられたのです。』
こう書くと、娘にとって「悪い親」だけが「心の穴」を空けるかのようですけど、そうじゃない。「良い親」だって、子供の心に穴を空ける。
この章では、様々な母親のタイプを取り上げて、そういう母親が娘にどんな「心の穴」を空けるのか、ということが描かれていく。あなたの劣等感や罪悪感や、そういう「心の穴」から湧き出してくる感情のすべては、その心の穴を空けた親の影響が強いのです。
だから著者は、「一旦すべて親のせいにしよう」と提案します。
『親を疑ったことのない人は「自分が自己肯定できない原因が、親にある」とは夢にも思っていませんから、ただただ「穴から出てくる劣等感・罪悪感と・さみしさ・恋の相手への怒り」に苦しめられるだけで、そのみなもとの穴のかたちまでは気がつきにくいかもしれません。
しかし、あなたの親がどんなに「やさしい親」で「すてきな良心」だったとしても、たとえ「ものすごく苦労して、あなたを育ててくれた」のだとしても、親は、あなたの心にかならず穴をあけています』
『親を疑ったことのない人も、親を憎み続けている人も、自己肯定できなくて恋愛で苦しんでいるとしたら「自分の心の穴のかたちが見えていない」という点では同じです。
「親が自分にどんな心の穴をあけたのか」を知って、「自分は人から、どんなことをされると傷つくのか」「自分は、どのように人を傷つけてしまうのか」ということに気づくことが大切なんです』
7章は「いいセックスをするために」。ここでは「セックスで満たされないのは何故か?どうしたらセックスで満たされるのか?」が書かれていきます。
『恋した相手と「セックスできた」のに、こんなふうに苦しんでいる女性が多いようです。それは、男に「相手を傷つけてしまう心の穴が」があいているのと同時に、彼女が自分の体やセックスを「恋愛のエサ」にしていたからです。』
『自分を肯定してく入れるかどうかわからない相手に、肯定してもらう(愛してもらう)ためにエサとして体だけを毎回おそるおそる差し出していただ、それは精神的に不安定にもなるし、気持よくないにきまっています。』
心当たりのある女性は、多いのではないでしょうか?(わかりませんが)
『セックスというのは、ただ身体が接触するだけではなく「心の穴に触ってもらえて、それを一瞬ふさぐことができたような気がする」ことです。肯定しあえている相手と、おたがいの心のかたちを触りあい、おたがいの欲望を肯定しあうから、体だけじゃなく、心も気持ちいいんです』
『忘れてはならないのは「セックスで心の穴がふさがったような気がする」のは、あくまでも「その瞬間、そんな気がする」だけだということです。
どんなに愛しあえて、理想的なセックスができて、その瞬間は満たされたとしても、それであなたの「劣等感」や「さみしさ」が永遠に消えるわけではありません。
だから「穴をセックスでふさごう」とは考えない方がいいのです』
『セックスの醍醐味は「彼が、私の行為と私の体で、気持ちよくなったこと」が私に伝わることであり、「私gは、彼の行為と体で、気持ちよくなったこと」が彼に伝わることです』
そして8章「自分を愛せるようになるための7つの方法」では、要するにこれまでの話を踏まえつつ、いかに「自己肯定」できる女性になるか、というためのアドバイスです。
是非とも隅々まで読んで実践して欲しいと思うのだけど、これだけは抜き出しておこうと思うものを少しだけ。
『みんな「未来」という言葉に、縛られすぎてるんじゃないでしょうか。
未来というのは、そこで何が起こるかわからないから「未来」なのです。
「何歳までに、こうなっていたい」「何歳までに、こうなっていなければならない」「クリスマスまでに彼氏が欲しい」というのはそれは未来じゃなくて、予定か強迫観念です。』
『そして「未来の自分が、できるようになりたいこと」ではなく「今の自分が無理なく(がんばらずに)できること、やりたいこと」と、「人に頼まれなくても、放っておかれても、してしまうこと」を、どんどん、していってください』
9章も省略しようかな。
前に「すべてはモテるためである」の感想でも同じことを書いたんだけど、本書も、「恋愛指南本」という外見を装った「生き方指南本」です。現代社会を生きていく中で、女性がなぜ生きづらさを感じてしまうのか、なぜ恋愛でうまくいかないのか、女らしさということに悩むのか、罪悪感を覚えたり価値がない存在だと感じてしまうのか。そういう、女性が生きていく上でぶつかり、悩み、転げまわる様々なことがらについて、「こういうことなんじゃないかな」という押し付けがましくないスタンスであなたを救ってくれます。本当に、ありとあらゆる女性を救う救済の書だと僕は感じました。大げさではありません。一刻も早く、多くの女性に届けなくては、という使命感に駆られております。是非是非是非是非読んでみてください!
二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密」
パンドラの匣(太宰治)
内容に入ろうと思います。
本書は、2編の中編が収録された作品です。
「正義と微笑」
芹川進という少年が、ある日突然始めた日記だけで構成されている作品。「わが混沌の思想統一の手助けになるように」、そして「わが日常生活の反省の資料にもなるように」、そして「わが青春のなつかしい記録として」日記を書くことにした進少年の悩める日々が描かれていく。
父を亡くし、病床につく母とその母を介護し続けて婚期を遅らせてしまった姉。小説を書いている聡明な兄と、書生やお手伝いさん。中学生である進少年の学校への幻滅や、大学への入学、そしてついに自らの道を進み始めるまでの内心の葛藤が描かれていく。
「パンドラの匣」
健康道場という、結核患者のための医療施設に長期入院することになった少年が、友人に宛てた手紙だけで構成されている作品。そこは、死と隣合わせの世界である、決して楽しい環境ではないのだけど、しかし少年はそういう暗い雰囲気を手紙に反映させまいとする。いかに、この「健康道場」で面白おかしい日常が繰り広げられているのか。死を待つ少年が見据える、患者と看護婦たちのささやかで暖かな交流の物語。
というような話です。
僕は、何度も何度も書いていることだけど、本当に古典作品が読めない人間です。文章が全然頭に入ってこない。いわゆる「文豪」と呼ばれている作家の作品は、基本的に難しくって全然ダメなんです。時々チャレンジしてみるんですけど、なかなか僕がまともに読めそうな作品ってなかったんですね。
でも、本書は凄く面白かったです。っていうか、とにかく読みやすくてびっくりしました。
太宰治を真っ当に読んだのは初めてかもしれません。過去、森見登美彦が太宰治の短編を集めて一冊の文庫にした作品は読んだことがあるんですけど、それぐらいです。
本書は、どちらも少年が描いている日記/手紙という形式です。少年らしい言葉で、少年らしい感情のほとぼりが描かれていく感じで、凄く読みやすい。なんとなく太宰治って暗い作品が多いっていう印象だったんだけど、この作品はどちらも凄く明るくて、なんかウキウキしたような気分で読み進めることが出来ました。文豪の作品を読んで、こんなに面白かったのは初めてだなぁ。なんとなく今年は、「太宰治」と「ウィトゲンシュタイン」の作品を読む、っていうのが漠然とした目標としてあったんだけど、太宰治はどうにかタイミングを見つけてあと何作か読んでみたいなと思わされます。
本書が凄くいいのは、「本当の日記/手紙」だと思わせられる点です。
これまでも僕は、もちろん主に現代作家の作品ですけど、日記や手紙だけで構成された小説というのを読んだことがあります。でも、そういう作品は、やっぱりどうしても「なんらかのストーリー」を伝える物語であって、どうしても「日記」や「手紙」としてのリアリティには欠けてしまう印象があるんですね。
本書ではどちらも、特別なストーリーはなくて、本当に少年たちが自分たちの日常を書き綴っているのだな、と思わされるような記述になっていて、とにかく僕はそこが素晴らしいなと思いました。
実際本書はどちらの話も、元になる日記/手紙が存在するんだそうです。
解説によると、「正義と微笑」は、
「太宰治の許に出入りし、小説の指導を受けていた文学仲間であり弟子であった堤重久氏の弟の、堤康久氏の昭和十年前後の16歳から17際にかけての日記」
を元にしているようだ。そして「パンドラの匣」の方は、
「昭和十八年に肺結核で死去した木村庄助氏の闘病日記」
を元に描かれているようだ。木村庄助氏についてはほとんど何も知られていない無名の人物だが、太宰治の小説のファンであり、また自身で書いた作品をいくつか太宰治に送り、太宰治はその文才を素直に褒めていたそうだ。
実在の日記を元にしているという点が、本書のリアリティ形成に大きく関わっているのは間違いないだろう。本当に、小説として読んだというよりは、他人の日記/手紙を盗み読みしているような感覚のまま読み進める感じで、その点が面白かったというわけでは決してないのだけど、やはりリアリティの表出のさせ方は見事だなぁという風に感じました。
内容についてはどんな風に触れたらいいのかちょっと分からないので諦めるんだけど、文豪の作品でこれだけ読みやすい作品に初めて出会ったし、そしてとても面白かった。日記文学という観点から見ても、そのリアルさは見事なもので、小説である、ということを忘れさせるほどの力はさすがだなという感じがしました。文豪の作品は、読んでみてはやっぱりダメだった…ということをこれまで繰り返してきましたけど、太宰治はもう何作か読んでみたいと思わされました。是非読んでみてください。
太宰治「パンドラの匣」
本書は、2編の中編が収録された作品です。
「正義と微笑」
芹川進という少年が、ある日突然始めた日記だけで構成されている作品。「わが混沌の思想統一の手助けになるように」、そして「わが日常生活の反省の資料にもなるように」、そして「わが青春のなつかしい記録として」日記を書くことにした進少年の悩める日々が描かれていく。
父を亡くし、病床につく母とその母を介護し続けて婚期を遅らせてしまった姉。小説を書いている聡明な兄と、書生やお手伝いさん。中学生である進少年の学校への幻滅や、大学への入学、そしてついに自らの道を進み始めるまでの内心の葛藤が描かれていく。
「パンドラの匣」
健康道場という、結核患者のための医療施設に長期入院することになった少年が、友人に宛てた手紙だけで構成されている作品。そこは、死と隣合わせの世界である、決して楽しい環境ではないのだけど、しかし少年はそういう暗い雰囲気を手紙に反映させまいとする。いかに、この「健康道場」で面白おかしい日常が繰り広げられているのか。死を待つ少年が見据える、患者と看護婦たちのささやかで暖かな交流の物語。
というような話です。
僕は、何度も何度も書いていることだけど、本当に古典作品が読めない人間です。文章が全然頭に入ってこない。いわゆる「文豪」と呼ばれている作家の作品は、基本的に難しくって全然ダメなんです。時々チャレンジしてみるんですけど、なかなか僕がまともに読めそうな作品ってなかったんですね。
でも、本書は凄く面白かったです。っていうか、とにかく読みやすくてびっくりしました。
太宰治を真っ当に読んだのは初めてかもしれません。過去、森見登美彦が太宰治の短編を集めて一冊の文庫にした作品は読んだことがあるんですけど、それぐらいです。
本書は、どちらも少年が描いている日記/手紙という形式です。少年らしい言葉で、少年らしい感情のほとぼりが描かれていく感じで、凄く読みやすい。なんとなく太宰治って暗い作品が多いっていう印象だったんだけど、この作品はどちらも凄く明るくて、なんかウキウキしたような気分で読み進めることが出来ました。文豪の作品を読んで、こんなに面白かったのは初めてだなぁ。なんとなく今年は、「太宰治」と「ウィトゲンシュタイン」の作品を読む、っていうのが漠然とした目標としてあったんだけど、太宰治はどうにかタイミングを見つけてあと何作か読んでみたいなと思わされます。
本書が凄くいいのは、「本当の日記/手紙」だと思わせられる点です。
これまでも僕は、もちろん主に現代作家の作品ですけど、日記や手紙だけで構成された小説というのを読んだことがあります。でも、そういう作品は、やっぱりどうしても「なんらかのストーリー」を伝える物語であって、どうしても「日記」や「手紙」としてのリアリティには欠けてしまう印象があるんですね。
本書ではどちらも、特別なストーリーはなくて、本当に少年たちが自分たちの日常を書き綴っているのだな、と思わされるような記述になっていて、とにかく僕はそこが素晴らしいなと思いました。
実際本書はどちらの話も、元になる日記/手紙が存在するんだそうです。
解説によると、「正義と微笑」は、
「太宰治の許に出入りし、小説の指導を受けていた文学仲間であり弟子であった堤重久氏の弟の、堤康久氏の昭和十年前後の16歳から17際にかけての日記」
を元にしているようだ。そして「パンドラの匣」の方は、
「昭和十八年に肺結核で死去した木村庄助氏の闘病日記」
を元に描かれているようだ。木村庄助氏についてはほとんど何も知られていない無名の人物だが、太宰治の小説のファンであり、また自身で書いた作品をいくつか太宰治に送り、太宰治はその文才を素直に褒めていたそうだ。
実在の日記を元にしているという点が、本書のリアリティ形成に大きく関わっているのは間違いないだろう。本当に、小説として読んだというよりは、他人の日記/手紙を盗み読みしているような感覚のまま読み進める感じで、その点が面白かったというわけでは決してないのだけど、やはりリアリティの表出のさせ方は見事だなぁという風に感じました。
内容についてはどんな風に触れたらいいのかちょっと分からないので諦めるんだけど、文豪の作品でこれだけ読みやすい作品に初めて出会ったし、そしてとても面白かった。日記文学という観点から見ても、そのリアルさは見事なもので、小説である、ということを忘れさせるほどの力はさすがだなという感じがしました。文豪の作品は、読んでみてはやっぱりダメだった…ということをこれまで繰り返してきましたけど、太宰治はもう何作か読んでみたいと思わされました。是非読んでみてください。
太宰治「パンドラの匣」
死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日(門田隆将)
これは、日本を「最悪」から救った男たちの物語だ。
著者は、本書のスタンスをこう書いている。
『本書は、原発の是非を問うものではない。あえて原発に賛成か、反対か、といった是非論には踏み込まない。なぜなら、原発に「賛成」か「反対」か、というイデオロギーからの視点では、彼らが死を賭して闘った「人として」の意味が、逆に見えにくくなるからである。
私はあの時、ただ何が起き、現場が何を思い、どう闘ったか、その事実だけを描きたいと思う。原発に反対の人にも、逆に賛成の人にも、あの巨大震災と大津波のな中で、「何があったのか」を是非、知っていただきたいと思う。』
本書は、「いつ、どこで、誰が、何を、どんな風にしていたのか」が、それが徹底的に語られていく。
しかし、無味乾燥な「事実の羅列」なわけではもちろんない。「時系列に沿って何が起こっていたのか」は、もちろん詳細に扱われる。しかしそれ以上に、福島第一原発という「死の淵」に踏みとどまり、そこで闘い続けた人間たちの「極限の姿」が多く描かれていく。
僕はこれまでにも、震災や原発に関する本をそれなりには読んできたつもりだ。そういう本を読むと、やっぱりこういうことは「知っておかなくてはいけない」と感じる。日本人として、知らないで過ごすわけにはいかないだろうな、と感じることがとても多いのだ。
だからそういう本の感想にも僕は、そういうようなことを書く。「日本人として、知っておかなくてはいけない事実なのだから読みましょう」というようなことを。
本書は、もう少し違う薦め方が出来る。
それは、「信頼力」を身につけることが出来る、というものだ。
僕は震災当時も今も関東に住んでいて、福島第一原発のことはテレビやネットの情報などで断片的に知っていただけだった。
あの当時、本当に色んな人が、色んなことを言っていた。
これは危険じゃないのか?本当に安全なのか?これこれはどうなっているんだ?何故これはこうではない?…
テレビでも、色んなことをやっていた。遠くから見える僅かな変化と、大量の憶測で、色んなことを言っていた。
もちろんそれは、不安で仕方がなかったからだ。誰もが不安で、その不安を抑えきれなかったし、その不安を解消してもらいたくて色んな人に聞くし、そういう要望があるならテレビでも不安を取り除こうとする説明をしようとする。だから、そういうことが悪いわけじゃない。
でも、もっと「信頼」してもいいのだと、本書を読んで改めて思った。
現場は、凄いぞ。
僕らは結局、テレビやネットで流れた情報しか知らない。本書でもちょっと触れられているのだけど、福島第一原発で二人作業員が行方不明になった時に、「その二人は福島第一原発から逃げたんだ」というデマがネット上で流れたらしい。何を考えてそんな嘘を言えるのかはよく分からないのだけど、まあでも、そういうデマがある程度真実味を帯びて拡散されてしまうほどには、皆「信頼」していなかっただろうと思う。
僕もそうだったかもしれない。
当時は情報が混乱していただろうし、国民に情報を伝える立場の人間が情報をほとんど持っていないということが非常に多かった。僕らには、結局そこしか見えない。そこしか見えないから不安になって、そうやってどんどん雰囲気が悪くなっていく。
本書を読むと、現場の凄さが分かる。僕らの視界には入っていなかったとは言え、この人達のことを「信頼」していなかったのかと思うと恥ずかしい気持ちになるほどに、現場は凄い。
彼らは本当に、自分の命を賭けて「日本を守った」のだ。
本書を読めばわかるが、吉田昌郎所長を始め、数多くの人間の冷静な決断と、勇気ある行動と、プロフェッショナルな知識と、そして「死ぬ覚悟」が結集して、どうにか「チェルノブイリ×10以上」という、最低最悪の事態は回避することが出来た。
彼らが、どんな思いでそこを目指し、そしてどれだけボロボロになりながらそこにたどり着いたのか。
もちろん僕も、本書を読むまで知らなかった。誰かがやったのだろうという、「顔も名前も見えない誰か」の奮闘ぶりをぼんやりと想像することぐらいしかしていなかったと思う。
でも本書を読んで、顔はともかく、あの当時誰が一体何をしたのかということが詳細にわかる。そして、その一つ一つの凄さが改めて理解することが出来る。
これからも、災害を始めとして様々な事態に襲われるだろう。その時きっと僕らはまた、無知故に不安になり、その不安を解消しようとして全体を悪循環に巻き込んでしまうことだろう。
だから、本書を読んで、現場を「信頼する」力を身につけてほしい。僕が本書を読んでほしい一番の理由は、そこにある。
何かがあった時、直接それに関わっていない人間には、ほとんど情報が届かないことだろう。僕らに見える範囲にいる人達が、酷い有様であることもきっと多いだろう。それでも、現場の人間だけは信じよう。事態が起こっている最中、僕らにはその現場の人間の姿を見ることは出来ないし、現場がどうなっているのかも知り得ないけど、それでも、現場の人間だけは信じよう。そう、強く思うことが出来る作品です。
内容については、出来るだけ具体的には触れないことにしよう。出来事の経緯は、日本中の人間が知っていることだ。そして、事態がどう展開したのか、その時誰がどんな想いでいたのかというのは、やはり読んでほしい。凄いとしか言いようがない。
いくつか印象的だった場面を抜書きするのと、吉田昌郎について書いて、感想は終えようと思う。
凄い場面は、本当にいくつもある。ギリギリの判断を迫られる場面、すべてを諦めたり受け入れたりする場面、思いもしなかった展開になる場面など、本当に山ほどある。
その中から、吉田昌郎の話を除いて、二つだけ抜き書きしよう。
一つ目は、中央制御室に詰めていた若い運転員が発したセリフから始まる。
『当直長、俺たちがここにいる意味があるんでしょうか』
すでに非常用の電源も落ち、作業自体は大幅に減っていた。しかも、原子炉内部に潜入しなくてはいけない『決死隊』には、若い人間は入れないと決められていた。中央制御室は、ただ待つしかないという硬直した時間に支配されていたのだ。
そこで、若い運転員が、若い世代を代表するような形でそんな発言をする。
それに対して、中央制御室の当直長であった伊沢は、絞りだすようにこう語る。
『ここから退避するということは、もうこの発電所の地域、まわりのところをみんな見放すことになる…
今、避難している地域の人たちは、われわれに何とかしてくれという気持ちで見てるんだ。
だから…だから、俺たちは、ここを出るわけにはいかない。
頼む。
君たちを危険なところに行かせはしない。そういう状況になったら、所長がなんと言おうと、俺の権限で君たちを退避させる。それまでは…
頼む。残ってくれ』
しかしそう発言する伊沢は、もう大分前から、若い人は避難させたいと思っている。思っているのだけど、立場上それを言うわけにはいかない。
原子炉の暴走と対処している福島第一原発の面々たちは、もちろん様々な数値や肉眼で見える範囲の変化を捉えようとしている。しかし同時に、これまでずっと一緒に働いてきた仲間に複雑な想いを抱いてもいる。上の立場の人間であればあるほど、自分はもうここに残るしかない、ここから出られないと感じている。しかしそれと同時に、自分以外の人間はどうにかして出してあげたいとも思っている。そういう場面は幾度もやってくるのだけど、この場面は印象的だった。
さらにもう一つ印象的だった場面が、吉田昌郎所長が「最少人数を残して退避」と告げ、技術を持つ人間と管理職以外の多くの人達が福島第一原発を去った後である。
残っている人間は全員、「死」を覚悟している。そんな中、先ほどの伊沢は、こんな風に思っていたという。
『それより、こいつまで殺しちゃうのか、と心配しなくちゃいけない人間はみんないなくなって、”死んでいい人間”だけになりましたから。悲壮感っていうよりも、どこか爽やかな感じがありました』
もちろん、残っていた全員がこういう感じだったのかはわからない。しかし、もう自分は死ぬと思っている状況の中で仲間のことを考えることが出来る、逃げてくれてよかったと思っている、そういう気持ちは本当に凄いと感じました。
さて、吉田昌郎所長についても書きましょう。
ある場面で、大熊町の元町長である志賀が、こんなことを言う。
『あの原発に吉田さんという所長がいたでしょう。東電の人が、あのひとが所長でなかったら、社員は動かなかったべっていうのを私はこの耳で聞きました。』
確かに、本書を読むだけでもそれは十分に伝わってくる。もし他の人が所長だったら…というifは考えても仕方ないけど、でももし吉田昌郎が所長じゃなければ、原子炉を抑えこむことは出来なかったかもしれない。
本当に凄い人です。
非常用電源が落ちたそのすぐ後ぐらいに、消防車を手配しなくてはと想像し、実際に手配の指示を出している。そして、早い段階でその指示を出していたことが、ギリギリのところで事故の拡大を止めることになったという。
とにかく、ないものはないままやるしかない、という考えの元、絶対に人を失わず、そして原子炉も守る、という執念で事態に当たっていた。采配はアイデアだけではなく、社員たちの精神的支柱としても、吉田昌郎という人物は非常に頼りにされていたのだなと感じさせる。
その吉田昌郎が関わる場面で、やはり一番衝撃的なのは、帯にも書かれているこの場面だ。
『私はあの時、自分と一緒に”死んでくれる”人間の顔を思い浮かべていた』
この場面は、本当に凄い。それまで決して諦めることのなかった吉田昌郎が、諦めの境地に片足を突っ込んだ場面だ。吉田昌郎という人物は、本書を読むだけでも、器が物凄い大きい大人物であることがわかる。その吉田昌郎でさえ、諦めかけてしまう。その現実の凄まじさみたいなものを、改めて実感させられました。
内容ではなく、本の造りに関して一点言いたいのは、巻末に二つ地図が掲載されているのだけど、これは巻頭に持ってきて欲しかったなということ。読み終わるまで、その存在に気づけませんでした。
凄いとしか言いようのない作品でした。あまりこういうことは書きたくないんだけど、最後の方はやっぱりどうしても涙が止まりませんでした。あとがきに、こんな文章がある。
『その時のことをきこうと取材で彼らに接触した時、私が最も驚いたのは、彼らがその行為を「当然のこと」と捉え、今もって敢えて話すほどでもないことだと思っていたことだ。』
そんな、「当然のこと」なわけないんです。彼らは、とんでもなく凄いことをやっています。だからこそ、彼らの勇気を知りましょう。そして、どんな状況であっても、その事態に最前線で対処している現場のことは「信頼」できるようになりましょう。そのために、是非本書を読んでください。
門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日」
著者は、本書のスタンスをこう書いている。
『本書は、原発の是非を問うものではない。あえて原発に賛成か、反対か、といった是非論には踏み込まない。なぜなら、原発に「賛成」か「反対」か、というイデオロギーからの視点では、彼らが死を賭して闘った「人として」の意味が、逆に見えにくくなるからである。
私はあの時、ただ何が起き、現場が何を思い、どう闘ったか、その事実だけを描きたいと思う。原発に反対の人にも、逆に賛成の人にも、あの巨大震災と大津波のな中で、「何があったのか」を是非、知っていただきたいと思う。』
本書は、「いつ、どこで、誰が、何を、どんな風にしていたのか」が、それが徹底的に語られていく。
しかし、無味乾燥な「事実の羅列」なわけではもちろんない。「時系列に沿って何が起こっていたのか」は、もちろん詳細に扱われる。しかしそれ以上に、福島第一原発という「死の淵」に踏みとどまり、そこで闘い続けた人間たちの「極限の姿」が多く描かれていく。
僕はこれまでにも、震災や原発に関する本をそれなりには読んできたつもりだ。そういう本を読むと、やっぱりこういうことは「知っておかなくてはいけない」と感じる。日本人として、知らないで過ごすわけにはいかないだろうな、と感じることがとても多いのだ。
だからそういう本の感想にも僕は、そういうようなことを書く。「日本人として、知っておかなくてはいけない事実なのだから読みましょう」というようなことを。
本書は、もう少し違う薦め方が出来る。
それは、「信頼力」を身につけることが出来る、というものだ。
僕は震災当時も今も関東に住んでいて、福島第一原発のことはテレビやネットの情報などで断片的に知っていただけだった。
あの当時、本当に色んな人が、色んなことを言っていた。
これは危険じゃないのか?本当に安全なのか?これこれはどうなっているんだ?何故これはこうではない?…
テレビでも、色んなことをやっていた。遠くから見える僅かな変化と、大量の憶測で、色んなことを言っていた。
もちろんそれは、不安で仕方がなかったからだ。誰もが不安で、その不安を抑えきれなかったし、その不安を解消してもらいたくて色んな人に聞くし、そういう要望があるならテレビでも不安を取り除こうとする説明をしようとする。だから、そういうことが悪いわけじゃない。
でも、もっと「信頼」してもいいのだと、本書を読んで改めて思った。
現場は、凄いぞ。
僕らは結局、テレビやネットで流れた情報しか知らない。本書でもちょっと触れられているのだけど、福島第一原発で二人作業員が行方不明になった時に、「その二人は福島第一原発から逃げたんだ」というデマがネット上で流れたらしい。何を考えてそんな嘘を言えるのかはよく分からないのだけど、まあでも、そういうデマがある程度真実味を帯びて拡散されてしまうほどには、皆「信頼」していなかっただろうと思う。
僕もそうだったかもしれない。
当時は情報が混乱していただろうし、国民に情報を伝える立場の人間が情報をほとんど持っていないということが非常に多かった。僕らには、結局そこしか見えない。そこしか見えないから不安になって、そうやってどんどん雰囲気が悪くなっていく。
本書を読むと、現場の凄さが分かる。僕らの視界には入っていなかったとは言え、この人達のことを「信頼」していなかったのかと思うと恥ずかしい気持ちになるほどに、現場は凄い。
彼らは本当に、自分の命を賭けて「日本を守った」のだ。
本書を読めばわかるが、吉田昌郎所長を始め、数多くの人間の冷静な決断と、勇気ある行動と、プロフェッショナルな知識と、そして「死ぬ覚悟」が結集して、どうにか「チェルノブイリ×10以上」という、最低最悪の事態は回避することが出来た。
彼らが、どんな思いでそこを目指し、そしてどれだけボロボロになりながらそこにたどり着いたのか。
もちろん僕も、本書を読むまで知らなかった。誰かがやったのだろうという、「顔も名前も見えない誰か」の奮闘ぶりをぼんやりと想像することぐらいしかしていなかったと思う。
でも本書を読んで、顔はともかく、あの当時誰が一体何をしたのかということが詳細にわかる。そして、その一つ一つの凄さが改めて理解することが出来る。
これからも、災害を始めとして様々な事態に襲われるだろう。その時きっと僕らはまた、無知故に不安になり、その不安を解消しようとして全体を悪循環に巻き込んでしまうことだろう。
だから、本書を読んで、現場を「信頼する」力を身につけてほしい。僕が本書を読んでほしい一番の理由は、そこにある。
何かがあった時、直接それに関わっていない人間には、ほとんど情報が届かないことだろう。僕らに見える範囲にいる人達が、酷い有様であることもきっと多いだろう。それでも、現場の人間だけは信じよう。事態が起こっている最中、僕らにはその現場の人間の姿を見ることは出来ないし、現場がどうなっているのかも知り得ないけど、それでも、現場の人間だけは信じよう。そう、強く思うことが出来る作品です。
内容については、出来るだけ具体的には触れないことにしよう。出来事の経緯は、日本中の人間が知っていることだ。そして、事態がどう展開したのか、その時誰がどんな想いでいたのかというのは、やはり読んでほしい。凄いとしか言いようがない。
いくつか印象的だった場面を抜書きするのと、吉田昌郎について書いて、感想は終えようと思う。
凄い場面は、本当にいくつもある。ギリギリの判断を迫られる場面、すべてを諦めたり受け入れたりする場面、思いもしなかった展開になる場面など、本当に山ほどある。
その中から、吉田昌郎の話を除いて、二つだけ抜き書きしよう。
一つ目は、中央制御室に詰めていた若い運転員が発したセリフから始まる。
『当直長、俺たちがここにいる意味があるんでしょうか』
すでに非常用の電源も落ち、作業自体は大幅に減っていた。しかも、原子炉内部に潜入しなくてはいけない『決死隊』には、若い人間は入れないと決められていた。中央制御室は、ただ待つしかないという硬直した時間に支配されていたのだ。
そこで、若い運転員が、若い世代を代表するような形でそんな発言をする。
それに対して、中央制御室の当直長であった伊沢は、絞りだすようにこう語る。
『ここから退避するということは、もうこの発電所の地域、まわりのところをみんな見放すことになる…
今、避難している地域の人たちは、われわれに何とかしてくれという気持ちで見てるんだ。
だから…だから、俺たちは、ここを出るわけにはいかない。
頼む。
君たちを危険なところに行かせはしない。そういう状況になったら、所長がなんと言おうと、俺の権限で君たちを退避させる。それまでは…
頼む。残ってくれ』
しかしそう発言する伊沢は、もう大分前から、若い人は避難させたいと思っている。思っているのだけど、立場上それを言うわけにはいかない。
原子炉の暴走と対処している福島第一原発の面々たちは、もちろん様々な数値や肉眼で見える範囲の変化を捉えようとしている。しかし同時に、これまでずっと一緒に働いてきた仲間に複雑な想いを抱いてもいる。上の立場の人間であればあるほど、自分はもうここに残るしかない、ここから出られないと感じている。しかしそれと同時に、自分以外の人間はどうにかして出してあげたいとも思っている。そういう場面は幾度もやってくるのだけど、この場面は印象的だった。
さらにもう一つ印象的だった場面が、吉田昌郎所長が「最少人数を残して退避」と告げ、技術を持つ人間と管理職以外の多くの人達が福島第一原発を去った後である。
残っている人間は全員、「死」を覚悟している。そんな中、先ほどの伊沢は、こんな風に思っていたという。
『それより、こいつまで殺しちゃうのか、と心配しなくちゃいけない人間はみんないなくなって、”死んでいい人間”だけになりましたから。悲壮感っていうよりも、どこか爽やかな感じがありました』
もちろん、残っていた全員がこういう感じだったのかはわからない。しかし、もう自分は死ぬと思っている状況の中で仲間のことを考えることが出来る、逃げてくれてよかったと思っている、そういう気持ちは本当に凄いと感じました。
さて、吉田昌郎所長についても書きましょう。
ある場面で、大熊町の元町長である志賀が、こんなことを言う。
『あの原発に吉田さんという所長がいたでしょう。東電の人が、あのひとが所長でなかったら、社員は動かなかったべっていうのを私はこの耳で聞きました。』
確かに、本書を読むだけでもそれは十分に伝わってくる。もし他の人が所長だったら…というifは考えても仕方ないけど、でももし吉田昌郎が所長じゃなければ、原子炉を抑えこむことは出来なかったかもしれない。
本当に凄い人です。
非常用電源が落ちたそのすぐ後ぐらいに、消防車を手配しなくてはと想像し、実際に手配の指示を出している。そして、早い段階でその指示を出していたことが、ギリギリのところで事故の拡大を止めることになったという。
とにかく、ないものはないままやるしかない、という考えの元、絶対に人を失わず、そして原子炉も守る、という執念で事態に当たっていた。采配はアイデアだけではなく、社員たちの精神的支柱としても、吉田昌郎という人物は非常に頼りにされていたのだなと感じさせる。
その吉田昌郎が関わる場面で、やはり一番衝撃的なのは、帯にも書かれているこの場面だ。
『私はあの時、自分と一緒に”死んでくれる”人間の顔を思い浮かべていた』
この場面は、本当に凄い。それまで決して諦めることのなかった吉田昌郎が、諦めの境地に片足を突っ込んだ場面だ。吉田昌郎という人物は、本書を読むだけでも、器が物凄い大きい大人物であることがわかる。その吉田昌郎でさえ、諦めかけてしまう。その現実の凄まじさみたいなものを、改めて実感させられました。
内容ではなく、本の造りに関して一点言いたいのは、巻末に二つ地図が掲載されているのだけど、これは巻頭に持ってきて欲しかったなということ。読み終わるまで、その存在に気づけませんでした。
凄いとしか言いようのない作品でした。あまりこういうことは書きたくないんだけど、最後の方はやっぱりどうしても涙が止まりませんでした。あとがきに、こんな文章がある。
『その時のことをきこうと取材で彼らに接触した時、私が最も驚いたのは、彼らがその行為を「当然のこと」と捉え、今もって敢えて話すほどでもないことだと思っていたことだ。』
そんな、「当然のこと」なわけないんです。彼らは、とんでもなく凄いことをやっています。だからこそ、彼らの勇気を知りましょう。そして、どんな状況であっても、その事態に最前線で対処している現場のことは「信頼」できるようになりましょう。そのために、是非本書を読んでください。
門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日」
「心の時代」にモノを売る方法 変わりゆく消費者の欲求とビジネスの未来(小阪裕司)
内容に入ろうと思います。
本書は、人の「感性」と「行動」を軸としたビジネスにあり方を20年前から思考・実践し、現在に至るまで大きな成果を上げている著者による最新作です。以前同著者の「「買いたい!」のスイッチを押す方法」という新書を読んでかなり感銘を受けたので、また読んでみました。
ざっくり言うと、本書は『全体的な枠組みを言葉に変換する』というタイプの記述が多かった印象があります。
さて、ざっくりと内容に触れて行きましょう。
本書で、とにかく著者が一番主張したいことは、「消費のあり方が、これまでとはまったく変わっている」ということです。この現状を様々な言葉で語り、さらにそれに対処するためにどうあるべきか、という姿勢を説く内容になっています。
さて、大前提として著者は、本書を読むに当たって、この点に着目して読んでほしい、ということを冒頭で書いています。それは、
『これらは「起こった出来事を解説した」のではなく、われわれ自身が「計画して起こしてきた・起こしている出来事」だ。』
ということです。
ビジネスの世界を描写するやり方として、「これこれこんなことが起こった。きっとそれはこういう背景があって、こういう事情でこうなっているんだろう」というやり方がある。きっと、多くの本や分析がそんな風になっているのではないかと思います。でも本書の場合、「こういう結果を引き起こすことになるだろうという計画に基いて実行している」という点が重要です。それを実現するためには、「起こった出来事を解説する」より遥かに高い精度で現状を分析していかなくてはいけないからです。
本書で重要ばキーワードとなってくるのが、
『「心の豊かさ」と「毎日の精神的充足感」』
である。つまり人々は、この二つに対して「お金を払う」という動機を持っているのであり、それ以外の消費に価値を見出すことが出来ない人が多い、ということだ。
これは、内閣府が行なっている日本国民の意識調査「国民生活に関する世論調査」からも読み取れるという。
この調査では、「物質的にある程度豊かになった今、これからは心の豊かさやゆとりある生活をすることに重きを置きたいか、それともまだ物質的な面で生活を豊かにすることに重きを置きたいか」について尋ねているという(たぶんこれは実際の調査における質問文とは違うと思うけど)。
その調査によると、1980年頃を境にして、「心の豊かさ」と「物の豊かさ」が逆転し、最新データでは、「心の豊かさ」に重きを置きたいと考える人が過去最高の64%に達したという。
そんな時代における消費行動を、著者は「Beingの消費」と名付けた。これは、「「買いたい!」~」でも出てきた話だ。
「Beingの消費」というのは、「いかに生きるか」というような欲求を満たしてくれるものにお金を払うというような消費行動であり、近年この動きがかなり顕著に見られるのだという。そして売り手側としては、この現状を理解し、そして対処することが出来ていますか?と問われ続けているのである。
このBeingの消費には、一つ面白い特徴がある。それは、「分かっている!」という感覚である。
主婦向け雑誌として一人勝ちという状況だという「Mart」の編集長との話で出てきたのが、この「分かっている!」という感覚だ。
『今の消費者は、自分たちの気分をわかってくれていると感じた店やブランドに全力で寄り添っていく』
『今、彼女たちの評価は、「安い」とか「高級」とかではなく、「わかってる」という基準でくだされているのだ』
さて、この特徴は、一つ大きな問題を引き起こす。それは、「需要をあらかじめ予測することが出来ない」ということだ。
これまでは、アンケートなどから、消費者の需要を掘り起こすことが出来ていた。消費者は、製品やサービスとして反映しやすい分かりやすい不満を持っていて(それは、時代や技術によって、製品やサービスがまだまだ未熟だったせいだろう)、それを聞くことで需要を把握することが出来た。
『わかりやすく言えば、買いに来た人が誰であれ、その人の求めるものを売ることが命題だった。誰が来ようと、買いに来たものがそこにないことは、ここではいけないことだった。
このような社会では、品揃えを幅広くすることがお客さんにとっての善となる』
しかし、それを見た瞬間に「わかっている」という評価が下される時代においては、それを見る以前に、消費者自身にさえ、何が欲しいと思っているのかわからない。
『だから、何をもって心が豊かになるのかはっきりとはわからない。心の豊かさを求める消費者自身、自分が何を買いたいのか具体的にはわかっていない』
需要のないところに需要を作る。「心の豊かさ」を求める消費者に対して、売り手側が出来ることは、まさにそれなのである。だからこそ売り手側は、
『何がお客さんの心を豊かにできるのか、やってみなければわからない。また、それが今日豊かさをお届けできたとしても、では明日も同じものが通用するかというとその確実性はなく、常に動いている状態なので、これで決定とはならず、決定打は毎回変わる』
ということを意識して置かなくてはならないのだ。
もちろん、「心の豊かさ」だけを提供すればいいわけではない。
『もちろん、「便利さ」が必要なくなり、すべて「嬉しい」になったわけではない。それらは同時に存在しているし、これからもそうだろう。』
しかし、著者はこう続ける。
『ただ、「心の豊かさ」への希求が主流になり、それが新しい消費社会をけん引している今日、その期待に応えるビジネスは、それ以前のものとは存在する目的みお異なるし、原理が異なるという点には着目しなければならない。「便利さ」をもたらすビジネスと、「嬉しい」を生み出すビジネスは、根本的に異なるのである』
僕たちは恐らく、消費者として新しい時代に生きていることを、なんとなく漠然と感じていると思う。僕も、本書で書かれているようなことは、自分の内側でハッキリとは言語化したことはなかったにせよ、なんとなく、そうだろうなーという漠然とした方向性だけはあった。でも、売り手側としてそれを「売り方」に反映させることが出来ているかというと、それは非常に難しいだろう。僕も、消費者として感じる変化を、売り手として売り場に落とし込もうと色々日々奮闘しているのだけど、なかなか難しい。
そうだ、付け加えておかなければいけないけど、本書は、決して「最終的な提供者(小売店など)」だけに関わる話ではない。物を作る人にも大きく関わってくることだろう。つまり、どう売るか・どう売れるかを意識してものを作らないと、これからはもっと売れなくなっていくということなのだ。
本書は、消費者として漠然とその変化を感じつつも、本当にそうなんだろうかと不安に思っている人の背中を押す作品でもあるだろう。
本書のスタンスについても触れておこう。
僕の勝手な印象では、こういうビジネスに関係する本は、「(具体的に)こうしたらいい!」という話が数多く載っているという印象がある。
でも本書は、そういうタイプの本ではない。
確かに、具体的な話は載っている。しかしそれは、本当に「具体例」だ。実際に、こういうことをやっている店がありますよ、という紹介は結構掲載されている。
しかし、そこから著者が敷衍して、「だから(具体的に)こんな風にした方がいい」というアイデアはほとんど載っていない。
それは、「具体的なことは自分で考えなくては意味がない」という著者のスタンスを明確に表しているだろう。
小手先だけ真似をしても、ニセモノであることがすぐに分かってしまう。表面的な部分だけを見て、なるほどそうすれば売れるのか、という思考では意味がない。そうではなくて、それぞれの事例から、あるいは著者が語るもっと大きな話から、自分の店ではどうするべきだろうかという部分を、自分自身で発想していかなくてはうまくいかないのだということが伝わってきます。
僕も、長いことずっと書店で働いていて、自分の裁量で売り場をあれこれ出来る立ち位置にいたりするのだけど、同じ業界の同業者が言う言葉に結果的に背を向けつつ、自分が正しいはずと思う方向に進んできているつもりだ。
それがうまくいっているのかどうかは、未だによくわからないのだけど。
ただ、「消費者にも、欲しいものがなんなのかわかっていない」という部分に関しては、ずっと昔からそういう意識でずっとやってきたつもりだ。つまり、「欲しいものを探せる売り場」ではなく、「売り場を歩いていたら欲しいものが見つかるような売り場」を目指してやってきたつもりだ。
本書を読んで、いくつか思い浮かぶものがあった。
例えば、先日の選挙の際に、池上彰がテレ東で大暴れしたというのが話題になっていた。
切れ味が抜群すぎた『テレビ東京 池上彰の総選挙TV』
あるいはテレ東は、他の局が一斉に同じニュースを流している時にアニメをやっている、なんていうことでも話題になることがある。
また、ここ最近ラーメン屋が色々特集されたりするが、ラーメン屋の壁にポエムみたいなものが書いてあったり、店主のキャラクターや店の来歴なんかがアピールされているような店もあるだろう。
あるいは、昔読んだ、「風に吹かれて豆腐屋ジョニー」を書いた伊藤信吾氏が代表を務める「男前豆腐店」も、豆腐を売るという部分から異様に逸脱したスタイルで、豆腐業界に衝撃を与えたりしている。
たぶん、僕らが既にどっぷり浸かっているはずの消費社会というのは、こういうスタイルがもてはやされるのだろうと僕は思う。
それを、僕なりのキーワードで語るとすれば、
『誰かに話したくなる体験』
ということだ。
本書に、こんな例が載っている。
とある子供服&雑貨屋では、布団も売っているのだけど(それだけで十分おかしいけど)、さらにその店舗には布団の在庫はない(これもとてもおかしい)。さて、ある女性のお客さんが、その店で売っている布団のパンフレットを欲しいと言ってくる。母に薦めたいのだそうだ。その女性がハサミを貸してくれというので貸すと、パンフレットからメーカー名やメーカーの連絡先を切り取っているという。
「母がこのメーカーに連絡して、この店で買わなくなったら意味がないですから」と。
店主が、布団は重いから、メーカーから直接ご自宅にお送りすることもできますよというと、
「それじゃダメなんです!ここで買わないと!」という反応が返ってくるのだという。
この店は、お客さんにそう思わせるだけの体験を与えることが出来ているということだ。
また本書には、ル・クルーゼという鍋の例も出てくる。
この鍋は、確かに実用品としても重宝するのだろうけど、購入者の主な目的は、「キッチンに飾ること」だそうだ。
『だって、リビングに座ったときキッチンを見て、これがずらりと並んでいたら、幸せっていう感じがするじゃない』
そして、その陳列の様子をネットにアップして、誰かとその体験を共有しもするのである。
これが、僕らがずっぽりと浸かっているはずの、今の消費社会である。
この中にあって、売り手側として一体何が出来るのか。それは、各々が様々な要因を考慮しつつ模索し続けていかなくてはいけない。本書はそのきっかけとなるだろう。個人的には、(あまり内容は覚えていないんだけど)「「買いたい!」のスイッチを押す方法」の方が面白かった印象があるけど、まあともかく、この著者の作品をとりあえず何か一つでも読んでみるというのは非常に参考になるだろうと思います。是非読んでみてください。
小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法 変わりゆく消費者の欲求とビジネスの未来」
本書は、人の「感性」と「行動」を軸としたビジネスにあり方を20年前から思考・実践し、現在に至るまで大きな成果を上げている著者による最新作です。以前同著者の「「買いたい!」のスイッチを押す方法」という新書を読んでかなり感銘を受けたので、また読んでみました。
ざっくり言うと、本書は『全体的な枠組みを言葉に変換する』というタイプの記述が多かった印象があります。
さて、ざっくりと内容に触れて行きましょう。
本書で、とにかく著者が一番主張したいことは、「消費のあり方が、これまでとはまったく変わっている」ということです。この現状を様々な言葉で語り、さらにそれに対処するためにどうあるべきか、という姿勢を説く内容になっています。
さて、大前提として著者は、本書を読むに当たって、この点に着目して読んでほしい、ということを冒頭で書いています。それは、
『これらは「起こった出来事を解説した」のではなく、われわれ自身が「計画して起こしてきた・起こしている出来事」だ。』
ということです。
ビジネスの世界を描写するやり方として、「これこれこんなことが起こった。きっとそれはこういう背景があって、こういう事情でこうなっているんだろう」というやり方がある。きっと、多くの本や分析がそんな風になっているのではないかと思います。でも本書の場合、「こういう結果を引き起こすことになるだろうという計画に基いて実行している」という点が重要です。それを実現するためには、「起こった出来事を解説する」より遥かに高い精度で現状を分析していかなくてはいけないからです。
本書で重要ばキーワードとなってくるのが、
『「心の豊かさ」と「毎日の精神的充足感」』
である。つまり人々は、この二つに対して「お金を払う」という動機を持っているのであり、それ以外の消費に価値を見出すことが出来ない人が多い、ということだ。
これは、内閣府が行なっている日本国民の意識調査「国民生活に関する世論調査」からも読み取れるという。
この調査では、「物質的にある程度豊かになった今、これからは心の豊かさやゆとりある生活をすることに重きを置きたいか、それともまだ物質的な面で生活を豊かにすることに重きを置きたいか」について尋ねているという(たぶんこれは実際の調査における質問文とは違うと思うけど)。
その調査によると、1980年頃を境にして、「心の豊かさ」と「物の豊かさ」が逆転し、最新データでは、「心の豊かさ」に重きを置きたいと考える人が過去最高の64%に達したという。
そんな時代における消費行動を、著者は「Beingの消費」と名付けた。これは、「「買いたい!」~」でも出てきた話だ。
「Beingの消費」というのは、「いかに生きるか」というような欲求を満たしてくれるものにお金を払うというような消費行動であり、近年この動きがかなり顕著に見られるのだという。そして売り手側としては、この現状を理解し、そして対処することが出来ていますか?と問われ続けているのである。
このBeingの消費には、一つ面白い特徴がある。それは、「分かっている!」という感覚である。
主婦向け雑誌として一人勝ちという状況だという「Mart」の編集長との話で出てきたのが、この「分かっている!」という感覚だ。
『今の消費者は、自分たちの気分をわかってくれていると感じた店やブランドに全力で寄り添っていく』
『今、彼女たちの評価は、「安い」とか「高級」とかではなく、「わかってる」という基準でくだされているのだ』
さて、この特徴は、一つ大きな問題を引き起こす。それは、「需要をあらかじめ予測することが出来ない」ということだ。
これまでは、アンケートなどから、消費者の需要を掘り起こすことが出来ていた。消費者は、製品やサービスとして反映しやすい分かりやすい不満を持っていて(それは、時代や技術によって、製品やサービスがまだまだ未熟だったせいだろう)、それを聞くことで需要を把握することが出来た。
『わかりやすく言えば、買いに来た人が誰であれ、その人の求めるものを売ることが命題だった。誰が来ようと、買いに来たものがそこにないことは、ここではいけないことだった。
このような社会では、品揃えを幅広くすることがお客さんにとっての善となる』
しかし、それを見た瞬間に「わかっている」という評価が下される時代においては、それを見る以前に、消費者自身にさえ、何が欲しいと思っているのかわからない。
『だから、何をもって心が豊かになるのかはっきりとはわからない。心の豊かさを求める消費者自身、自分が何を買いたいのか具体的にはわかっていない』
需要のないところに需要を作る。「心の豊かさ」を求める消費者に対して、売り手側が出来ることは、まさにそれなのである。だからこそ売り手側は、
『何がお客さんの心を豊かにできるのか、やってみなければわからない。また、それが今日豊かさをお届けできたとしても、では明日も同じものが通用するかというとその確実性はなく、常に動いている状態なので、これで決定とはならず、決定打は毎回変わる』
ということを意識して置かなくてはならないのだ。
もちろん、「心の豊かさ」だけを提供すればいいわけではない。
『もちろん、「便利さ」が必要なくなり、すべて「嬉しい」になったわけではない。それらは同時に存在しているし、これからもそうだろう。』
しかし、著者はこう続ける。
『ただ、「心の豊かさ」への希求が主流になり、それが新しい消費社会をけん引している今日、その期待に応えるビジネスは、それ以前のものとは存在する目的みお異なるし、原理が異なるという点には着目しなければならない。「便利さ」をもたらすビジネスと、「嬉しい」を生み出すビジネスは、根本的に異なるのである』
僕たちは恐らく、消費者として新しい時代に生きていることを、なんとなく漠然と感じていると思う。僕も、本書で書かれているようなことは、自分の内側でハッキリとは言語化したことはなかったにせよ、なんとなく、そうだろうなーという漠然とした方向性だけはあった。でも、売り手側としてそれを「売り方」に反映させることが出来ているかというと、それは非常に難しいだろう。僕も、消費者として感じる変化を、売り手として売り場に落とし込もうと色々日々奮闘しているのだけど、なかなか難しい。
そうだ、付け加えておかなければいけないけど、本書は、決して「最終的な提供者(小売店など)」だけに関わる話ではない。物を作る人にも大きく関わってくることだろう。つまり、どう売るか・どう売れるかを意識してものを作らないと、これからはもっと売れなくなっていくということなのだ。
本書は、消費者として漠然とその変化を感じつつも、本当にそうなんだろうかと不安に思っている人の背中を押す作品でもあるだろう。
本書のスタンスについても触れておこう。
僕の勝手な印象では、こういうビジネスに関係する本は、「(具体的に)こうしたらいい!」という話が数多く載っているという印象がある。
でも本書は、そういうタイプの本ではない。
確かに、具体的な話は載っている。しかしそれは、本当に「具体例」だ。実際に、こういうことをやっている店がありますよ、という紹介は結構掲載されている。
しかし、そこから著者が敷衍して、「だから(具体的に)こんな風にした方がいい」というアイデアはほとんど載っていない。
それは、「具体的なことは自分で考えなくては意味がない」という著者のスタンスを明確に表しているだろう。
小手先だけ真似をしても、ニセモノであることがすぐに分かってしまう。表面的な部分だけを見て、なるほどそうすれば売れるのか、という思考では意味がない。そうではなくて、それぞれの事例から、あるいは著者が語るもっと大きな話から、自分の店ではどうするべきだろうかという部分を、自分自身で発想していかなくてはうまくいかないのだということが伝わってきます。
僕も、長いことずっと書店で働いていて、自分の裁量で売り場をあれこれ出来る立ち位置にいたりするのだけど、同じ業界の同業者が言う言葉に結果的に背を向けつつ、自分が正しいはずと思う方向に進んできているつもりだ。
それがうまくいっているのかどうかは、未だによくわからないのだけど。
ただ、「消費者にも、欲しいものがなんなのかわかっていない」という部分に関しては、ずっと昔からそういう意識でずっとやってきたつもりだ。つまり、「欲しいものを探せる売り場」ではなく、「売り場を歩いていたら欲しいものが見つかるような売り場」を目指してやってきたつもりだ。
本書を読んで、いくつか思い浮かぶものがあった。
例えば、先日の選挙の際に、池上彰がテレ東で大暴れしたというのが話題になっていた。
切れ味が抜群すぎた『テレビ東京 池上彰の総選挙TV』
あるいはテレ東は、他の局が一斉に同じニュースを流している時にアニメをやっている、なんていうことでも話題になることがある。
また、ここ最近ラーメン屋が色々特集されたりするが、ラーメン屋の壁にポエムみたいなものが書いてあったり、店主のキャラクターや店の来歴なんかがアピールされているような店もあるだろう。
あるいは、昔読んだ、「風に吹かれて豆腐屋ジョニー」を書いた伊藤信吾氏が代表を務める「男前豆腐店」も、豆腐を売るという部分から異様に逸脱したスタイルで、豆腐業界に衝撃を与えたりしている。
たぶん、僕らが既にどっぷり浸かっているはずの消費社会というのは、こういうスタイルがもてはやされるのだろうと僕は思う。
それを、僕なりのキーワードで語るとすれば、
『誰かに話したくなる体験』
ということだ。
本書に、こんな例が載っている。
とある子供服&雑貨屋では、布団も売っているのだけど(それだけで十分おかしいけど)、さらにその店舗には布団の在庫はない(これもとてもおかしい)。さて、ある女性のお客さんが、その店で売っている布団のパンフレットを欲しいと言ってくる。母に薦めたいのだそうだ。その女性がハサミを貸してくれというので貸すと、パンフレットからメーカー名やメーカーの連絡先を切り取っているという。
「母がこのメーカーに連絡して、この店で買わなくなったら意味がないですから」と。
店主が、布団は重いから、メーカーから直接ご自宅にお送りすることもできますよというと、
「それじゃダメなんです!ここで買わないと!」という反応が返ってくるのだという。
この店は、お客さんにそう思わせるだけの体験を与えることが出来ているということだ。
また本書には、ル・クルーゼという鍋の例も出てくる。
この鍋は、確かに実用品としても重宝するのだろうけど、購入者の主な目的は、「キッチンに飾ること」だそうだ。
『だって、リビングに座ったときキッチンを見て、これがずらりと並んでいたら、幸せっていう感じがするじゃない』
そして、その陳列の様子をネットにアップして、誰かとその体験を共有しもするのである。
これが、僕らがずっぽりと浸かっているはずの、今の消費社会である。
この中にあって、売り手側として一体何が出来るのか。それは、各々が様々な要因を考慮しつつ模索し続けていかなくてはいけない。本書はそのきっかけとなるだろう。個人的には、(あまり内容は覚えていないんだけど)「「買いたい!」のスイッチを押す方法」の方が面白かった印象があるけど、まあともかく、この著者の作品をとりあえず何か一つでも読んでみるというのは非常に参考になるだろうと思います。是非読んでみてください。
小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法 変わりゆく消費者の欲求とビジネスの未来」
藝人春秋(水道橋博士)
内容に入ろうと思います。
本書は、お笑い芸人である浅草キッド・水道橋博士による、14人の芸能人を描き出したルポルタージュ+αという内容の作品です。
まず、本書で取り上げられる14人を箇条書きにしてみます。
そのまんま東(東国原英夫)
甲本ヒロト
石倉三郎
草野仁
古舘伊知郎
三又又三
堀江貴文
湯浅卓
苫米地英人
テリー伊藤
ポール牧
北野武
松本人志
稲川淳二
各々の詳しい内容は後で紹介するとして、本書を読んだ全体的な感想から先に書こうと思う。
本書を読んで、著者による人物描写を形容する二つのモノが思い浮かんだ。「懐中電灯」と「鑿(ノミ)」である。
先に「懐中電灯」の方から。
本書では、著者自身が「懐中電灯」となって、対象となる人物を照らし出している、そんな印象を受けた。光を当てることで対象をくっきりとさせ、その上で描写していく、というような。
そして、「光を当てる」ことで最も重要な点が、「影が出来る」という点だと思う。
著者は、どんな角度から、どんな方向から光を当てるかによって、そこにどんな「影」を生み出すか、冷静に見極めているような感じがする。
短い文章の中で、その人物のすべてを描き出すことなど、もちろん不可能だ。どうしたって、一部分だけになってしまう。人物を切り取るというのは、どんな一部分を描き出すかということでもあるのだろう。そういう意味で、光を当てることで陰影をはっきりさせ、特に「影」をいかに引き出すか、それを常に模索しているように思う。
それは、「文章を書く」という行為だけで出来るわけではない。
著者は、とにかく変わった人が好きなようだ。そして、変わった人と知り合うと、色々質問したり、相手を掘り下げていったりしてしまう。
著者にとって「取材」とも呼べないような、そういう普段の日常の中の(あるいは仕事を通じた)やりとりの中で、「相手に強い光を当てる」ような質問や接触を繰り返し、そうやってその人物のことを見極めていく。普段なかなか見えてこない「影」の部分をいかにして捉えるか。その部分に対する好奇心に強さを僕は感じました。
さて、もう一つの「鑿(ノミ)」の方。
著者の人物描写は、ただの木片に「鑿」を押し当てて削っていく中で、少しずつ造形をしていくような、そんな印象も受けた。
これは、自らの意思で対象となる人物の「形」を決める、ということである。
結局僕らは、自分が捉えられるものしか把握出来ない。当たり前だ。しかし、それを明確に自覚している人は、実はそう多くないのではないかと思う。自分が捉えたことだけではなく、誰かの言葉や態度みたいな、自分の外側の何かによって対象の存在を把握する、なんていうことはよくあることだろう。
しかし、著者はそれをしない。「自分が捉えられるものしか把握出来ない」ということに、非常に自覚的なのだろうなという印象を受けた。
自分が捉えられるものしか把握出来ない、ということはつまり、対象の「形」を自分で決めている、ということではないかと思う。「相手の本質」や「本当の姿」などというまやかしに騙されることはない。著者は、自らが捉えたものを自らの内で再構成し、そうやって相手の形を見定めている。
それはまるで、何の形も成していなかった木片を削りとって何かの形を切り出すようなものではないだろうか。
著者はきっと文章を書く前に、何の形も成していない木片を前に、これをどう削りだすべきか悩んでいるのではないか。そして、悩みに悩んで、そして削り始めた途端、悩みを一切消し去って一気に形を仕上げるのではないか。なんとなくそんな印象を受けた。
著者が対象となる人物を「見る」視点は、なんというかとてもフェアな気がする。何かの枠を嵌めて捉えようとするでもなく、何かを押し付けて見極めようとするでもなく、かと言って「相手の本質を見極めよう」なんていうスタンスというわけでもなく、目の前にあるものをただあるがままに受け取っている。そんな感じがする。もちろん、「ただあるがまま」なんてことはなかなかありえない。そこには著者なりの解釈が必ず混じる。そもその僕は、「自らの意思で対象となる人物の「形」を決める」なんて言っている。でも、なんというか、それとは矛盾しない形で、フラットに余計な添加物を加えないままで、あるがまま風に対象となる人物を捉えているような気がするのだ。
あるがままの姿をあるがままに捉えているのだけど、でも著者には一つ大きな動機があるのだろうと思う。
それは、「この人達の、テレビだけでは捉えきれない姿を自分が活写せねば」という思いである。それは、結構強く感じた。
そう思って見てみれば、本書で取り上げられている人たちは、一般の人が何らかの先入観を抱きやすい人、と言い換えることが出来るかもしれない。全員が全員ではないかもしれないけど、かなり個性的で、テレビを通じた姿がどこかに振り切った形で固定されている人が多いような印象がある。
テレビというのは、役割を固着させ、分かりやすい関係性を一瞬で提示しながら進んでいくものだろうから、まあそれはある程度仕方ないのだろうけども、本書で描かれている人達は特に振り切れ方が凄いような気がする。
そういう人達の、恐らくテレビを通じては一生見られないだろう部分を、著者は切り取ろうとする。自分が伝えなければ誰にもそれは伝えられないのではないか、というような使命感さえ感じる。
だからこそ著者の人物描写には、『まさにここ』を描き出したいのだ、という部分が明確にあるように思う。しかし、それそのものをズバリと分かりやすい言葉で表現してしまったりはしない。そうではなくて、読んでいく中で、なんとなく、人によってはズバリとそれが伝わるような、そういう描き方をしているように思う。こういうのが、話芸なんだろうなぁ、という感じがする。
さてそんなわけで、ここの人物の話を、なるべく書きすぎてしまわない程度に紹介してみよう。
本書で僕が一番痺れたのが、「甲本ヒロト」である。僕は音楽とかホントに知らなくて、甲本ヒロトについても、色んなバンドをやってる人だよなぁぐらいのイメージしかないのだけど、この人ホントに凄い。
本書の中で、甲本ヒロトというのは結構異色のラインナップな気がするけど、それもそうだろう。何故なら、甲本ヒロトと著者は、中学時代の同級生という繋がりだからだ。芸能界の中で直接的な関わりは深くなくても、同級生という括りで二人は話をすることが出来る。
甲本ヒロトがいかにしてロックと出会い救われたのかという話や、第一線で走り続けることがどういうことなのかという話で盛り上がるのだけど、いちいち甲本ヒロトが言うセリフがカッコイイのだ!
その中でも、一つだけを厳選した引用しよう。
『それは、のたうちまわるよ。みんな当然だよ。いつも曲を作ると、もう二度と出来ないんじゃないかと思うよ。だから、「俺は特別に苦しんでる」なんて思ってる人は、すごい簡単な話で、やめればいいんだよ。誰も義務なんか課してないし、あなたに歌えなんて言ってないんだから。高校行かないでいいってのと同じだよ。「何枚かアルバム出したら次も出さなきゃ」って思ってるだけで、別にやらなくてもいいんだよ。そんな法律ないんだもん』
やっぱりもう一個書いちゃお。
『でもさ、芸事とかクリエイティブな仕事に就くと、まず自分の好きな表現スタイルを模倣しようとするじゃん。その模倣のレベルのチャンネルを一つ変えるんだぁ。例えばギタリストがギターを持って「アイツの鳴らしたあの音を自分でも鳴らしたい」って思っちゃもうダメなんだよぁ。アイツがあの音を鳴らした時の”気持ち”をコピーするんだよ。衝動を。そうやっていくとオリジナルで一生現役でいられるんだぁ』
いやはや、ホントカッコイイ人です。なのに、自分を飾りすぎず、昔は暗くてダメだったなんていう話をするところも素敵だ。そしてそんな「永遠の14歳」を前に、その輝きに圧倒されてたじろいでいる風の著者の姿も、とても面白いのだ。
「そのまんま東」は、芸人にはよく見られるらしい『性格的二面性』がとても強調された人物だとして描かれる。芸人としての大馬鹿と、政治家になってしまうような大真面目さが、一つの人格の中でアンビバレントな同居をしていると著者は語ります。
そしてさらに、そのまんま東が飲み会の席で、後輩ではなく先輩に絡んでいく姿を見て、そのまんま東という人間の深層を一つ剥ぎ取ろうとする。
「石倉三郎」は、ビートたけしの数少ない浅草時代からの芸人仲間である。石倉三郎が描かれる話は、著者自身が主演したドラマでの出来事がメインとなっていて、しかもその役柄が浅草時代のビートたけしという、ビートたけしを敬愛して弟子入りした著者にとっては色んな形で思い入れのあるドラマだった。
そのドラマで共演したのが石倉三郎であり、撮影の合間合間にこぼれ出る人柄が描き出されていく。
ラスト、浅草キッドの疑問に答える石倉三郎の姿は、なんかカッコイイ。
「草野仁」については、数々の伝説が描かれていくことになる。
草野仁がまだ「超堅物人間」というパブリック・イメージしかなかった時代に、浅草キッドは草野仁とバラエティをやることになった。その番組は、草野仁という人間の新たな面を引き出したとして評判になるのだけど、その収録の中で、草野仁に関する数多くの伝説について語られる。
これが本当にとんでもないものばかりで、東大からアナウンサーにならなくても、草野仁の人生には数多くの可能性の芽があったのだなと思わされる。ホント、衝撃的なエピソードだらけです。
「古舘伊知郎」については、著者なりに対抗心めいたものが存在するのだろう、と漠然と思う。著者は、芸人ではあるが、「言葉」というフィールドで戦う男でもある。そして古舘伊知郎と言えば、圧倒的な技術と才能を持つ「言葉の魔術師」である。プロレスファンでもある著者は、古舘伊知郎が持ち込んだ新たな実況のスタイルに衝撃を受けるが、その冷徹な有り様とのギャップに戸惑いを見せもする。喋りで笑わせる芸人とはまったく違う、喋るということで新たな空間を生み出すような、誰も踏み込まなかった地平を切り開いた古舘伊知郎という人間に迫っていく。
個人的に興味深かったのは、古舘伊知郎がフリーになると同時に作った「古舘プロジェクト」という事務所について。ここに放送作家集団がいて、言葉の弾丸、フレーズ作りの後方支援をしているんだそうだ。そうだよなぁ、その場で思いついたことを喋ってるわけないよなぁ、と思った次第。
「三又又三」は、また別の意味で本書のラインナップの中では浮いていると思うのだけど(格の違い、とでも言おうか)、とはいえ本書を読むと、三又又三という人間に対する印象は大きく変わる。
人見知りとは程遠い、どんな相手、どんな空間であっても自分のスタイルを保ち続け、誰彼かまわず突進していくことが出来、またどんな状況であろうとも場を持たせることが出来る人間であるようだ。
この話は、オチがなんだか見事に決まっている感がある。
「堀江貴文」の章は、個人的には印象が薄い。それはやはり、テレビで見る堀江貴文という存在以上の姿が見えて来なかったからかもしれない。
とはいえ、この指摘は面白いと思った。
『だが考えて見れば、宮路社長なり、鈴木その子社長なり、今までテレビ的にブレークした社長は、ほとんどすべてが非公開会社のオーナーであり、テレビ演出上のワンマン、独断専行もある意味許された。
しかしホリエモンの場合、上場企業の社長である(以下略)』
「湯浅卓」と「苫米地英人」の二人は、対になる話として描かれている。なんでこの二人が対になるのか?どちらも、超をいくつつけてもまだ足りないほどの変人であり、また超をいくつつけても足りないくらいの秀才なのだけど、さらに「ロックフェラーセンター」という共通項があるのだ。
「湯浅卓」の章には「ロックフェラーセンター・売ります」と、そして「苫米地英人」の章には「ロックフェラーセンター・買います」という副題がついている。
なんでも本人たちいわく、湯浅卓は三菱地所がロックフェラーセンタービルを買い取った時の、アメリカ側の代理人であったという。そして苫米地英人は、三菱財閥系列の一族の血を引くサラブレッドであり、個人的にロックフェラーとも交友があったとかで、当時三菱の社員であった苫米地英人は日本側として交渉に関わったというのだ。
そして、真偽はともかくも、この二人の話がとにかく凄い。次から次へととんでもない話がポンポン飛び出してくる。湯浅卓は、「少なくとも財務省や金融庁にワタシの東大の成績を超える人はいません!」と豪語し、苫米地英人は「気づいたら飛び級してた」なんていう。ホントに、山ほどある『自慢話』の山に感心するわ辟易するわって感じなんだけど、とにかくとんでもない個性の持ち主で、なんとなくこの二人には、ちょっと表現しがたい関心を抱くようになってしまった。
「テリー伊藤」は、僕が大人しいテリー伊藤しか見たことがないからだろう、こんなにハチャメチャな人間なのか、と驚かされた。テリー伊藤のハチャメチャさを知っている人間が読んだらどうかわからないけど、僕にはなかなか衝撃的な話だった。とんでもないことを言ってる風で、いや実際にとんでもないことを言ってるんだけど、でも最後の挨拶の話なんかはかなり真っ当で、不思議な人間だなと思う。
「ポール牧」についても、ちょっと印象は薄い。元々僕が、ポール牧という人物に対する印象を何も持っていないからかもしれない。指パッチンをしている人、ぐらいのイメージしかない。たぶんテレビで活躍していた時代もあったのだろうし、本書でもそういう描写はあるのだけど、僕はよく知らない。やはり、描かれる人物について読者がどんな印象を持っているかで、読み方が大分変わってくるだろうなと思う。
「北野武と松本人志」は同じ章で並列で描かれていく。どちらも、お笑いというフィールドで孤高のトップランナーとしてひた走り続けている人物であり、「一生ついていくと決めたビートたけし」と、「テレビタレントの端くれとして共演しないことを決めた松本人志(ダウンタウン)」という、距離感としては大分差のある二人を、お笑いや映画という共通項で括りつつも、どうしてもそこからはみ出してしまう大きさみたいなものを描こうとしている。
そして最後にもう「稲川淳二」が描かれるのだけど、その前に、プラスαについて書こう。
本書には「爆笑”いじめ”問題」という章がある。これは、爆笑問題を描いた章ではなく(ただ、太田光は若干登場する)、2012年にも大きく問題となった「いじめ問題」について、著者が思うところを綴った文章である。
これが、とてもいい。
実はこの文章、僕は既に一度読んでいた。というのも、著者が、電子書籍として配信していたこの文章を、夏休みの間だけネットで無料公開していたからだ。
著者は、「お笑い芸人のネタいじめを助長している」という風評に敢えて切り込む。いじめ問題をめぐって、大物芸能人たちによる発言が様々な物議を醸し出している現状を引き合いに出し、そして中身のない言葉をうわ言のように繰り返す大人に苦言を呈す。
その話の中で、やっぱり一番ズン!と届くのは、ピエール瀧と伊集院光がラジオで喋ってたというトークのやりとりだ。確かに、この二人の会話は、非常に印象的だし、そして『届く』言葉だと思う。
この章は、全体からすると非常に浮いた章ではあるのだけど、非常に大切なことを言っている。
そして最後に「稲川淳二」だ。この章を最後に持ってくる構成は、的確だけど、ズルい。
内容にはほとんど触れないことにしよう。
一つだけ。本書の単行本化は、ずっと以前から話としてはあったのだけど、この「稲川淳二」の話に対する自分なりのモヤモヤを消化することが出来ないでいて、単行本化に踏み切れないでいた。「稲川淳二」の章だけを外して単行本化というのも、自分的にナシだ。でも、状況が変わり、自分の中の踏ん切りが付き、単行本化に至ったという。
そして最後のあとがきで、亡くなった児玉清とのたった一度の印象的な関わりを描き出して本作を終えている。
テレビに出るような人たちと普段から仕事をし、間近で観察し、さらにそれを的確な文章にまとめ上げることが出来る人というのは、きっとそう多くはないだろう。そういう意味で、この評伝はなかなか独特の存在感を放っている。芸能人への興味から読んでも面白いだろうし、しっかりとしたルポルタージュとして読んでも楽しめる。是非読んでみてください。
水道橋博士「藝人春秋」
本書は、お笑い芸人である浅草キッド・水道橋博士による、14人の芸能人を描き出したルポルタージュ+αという内容の作品です。
まず、本書で取り上げられる14人を箇条書きにしてみます。
そのまんま東(東国原英夫)
甲本ヒロト
石倉三郎
草野仁
古舘伊知郎
三又又三
堀江貴文
湯浅卓
苫米地英人
テリー伊藤
ポール牧
北野武
松本人志
稲川淳二
各々の詳しい内容は後で紹介するとして、本書を読んだ全体的な感想から先に書こうと思う。
本書を読んで、著者による人物描写を形容する二つのモノが思い浮かんだ。「懐中電灯」と「鑿(ノミ)」である。
先に「懐中電灯」の方から。
本書では、著者自身が「懐中電灯」となって、対象となる人物を照らし出している、そんな印象を受けた。光を当てることで対象をくっきりとさせ、その上で描写していく、というような。
そして、「光を当てる」ことで最も重要な点が、「影が出来る」という点だと思う。
著者は、どんな角度から、どんな方向から光を当てるかによって、そこにどんな「影」を生み出すか、冷静に見極めているような感じがする。
短い文章の中で、その人物のすべてを描き出すことなど、もちろん不可能だ。どうしたって、一部分だけになってしまう。人物を切り取るというのは、どんな一部分を描き出すかということでもあるのだろう。そういう意味で、光を当てることで陰影をはっきりさせ、特に「影」をいかに引き出すか、それを常に模索しているように思う。
それは、「文章を書く」という行為だけで出来るわけではない。
著者は、とにかく変わった人が好きなようだ。そして、変わった人と知り合うと、色々質問したり、相手を掘り下げていったりしてしまう。
著者にとって「取材」とも呼べないような、そういう普段の日常の中の(あるいは仕事を通じた)やりとりの中で、「相手に強い光を当てる」ような質問や接触を繰り返し、そうやってその人物のことを見極めていく。普段なかなか見えてこない「影」の部分をいかにして捉えるか。その部分に対する好奇心に強さを僕は感じました。
さて、もう一つの「鑿(ノミ)」の方。
著者の人物描写は、ただの木片に「鑿」を押し当てて削っていく中で、少しずつ造形をしていくような、そんな印象も受けた。
これは、自らの意思で対象となる人物の「形」を決める、ということである。
結局僕らは、自分が捉えられるものしか把握出来ない。当たり前だ。しかし、それを明確に自覚している人は、実はそう多くないのではないかと思う。自分が捉えたことだけではなく、誰かの言葉や態度みたいな、自分の外側の何かによって対象の存在を把握する、なんていうことはよくあることだろう。
しかし、著者はそれをしない。「自分が捉えられるものしか把握出来ない」ということに、非常に自覚的なのだろうなという印象を受けた。
自分が捉えられるものしか把握出来ない、ということはつまり、対象の「形」を自分で決めている、ということではないかと思う。「相手の本質」や「本当の姿」などというまやかしに騙されることはない。著者は、自らが捉えたものを自らの内で再構成し、そうやって相手の形を見定めている。
それはまるで、何の形も成していなかった木片を削りとって何かの形を切り出すようなものではないだろうか。
著者はきっと文章を書く前に、何の形も成していない木片を前に、これをどう削りだすべきか悩んでいるのではないか。そして、悩みに悩んで、そして削り始めた途端、悩みを一切消し去って一気に形を仕上げるのではないか。なんとなくそんな印象を受けた。
著者が対象となる人物を「見る」視点は、なんというかとてもフェアな気がする。何かの枠を嵌めて捉えようとするでもなく、何かを押し付けて見極めようとするでもなく、かと言って「相手の本質を見極めよう」なんていうスタンスというわけでもなく、目の前にあるものをただあるがままに受け取っている。そんな感じがする。もちろん、「ただあるがまま」なんてことはなかなかありえない。そこには著者なりの解釈が必ず混じる。そもその僕は、「自らの意思で対象となる人物の「形」を決める」なんて言っている。でも、なんというか、それとは矛盾しない形で、フラットに余計な添加物を加えないままで、あるがまま風に対象となる人物を捉えているような気がするのだ。
あるがままの姿をあるがままに捉えているのだけど、でも著者には一つ大きな動機があるのだろうと思う。
それは、「この人達の、テレビだけでは捉えきれない姿を自分が活写せねば」という思いである。それは、結構強く感じた。
そう思って見てみれば、本書で取り上げられている人たちは、一般の人が何らかの先入観を抱きやすい人、と言い換えることが出来るかもしれない。全員が全員ではないかもしれないけど、かなり個性的で、テレビを通じた姿がどこかに振り切った形で固定されている人が多いような印象がある。
テレビというのは、役割を固着させ、分かりやすい関係性を一瞬で提示しながら進んでいくものだろうから、まあそれはある程度仕方ないのだろうけども、本書で描かれている人達は特に振り切れ方が凄いような気がする。
そういう人達の、恐らくテレビを通じては一生見られないだろう部分を、著者は切り取ろうとする。自分が伝えなければ誰にもそれは伝えられないのではないか、というような使命感さえ感じる。
だからこそ著者の人物描写には、『まさにここ』を描き出したいのだ、という部分が明確にあるように思う。しかし、それそのものをズバリと分かりやすい言葉で表現してしまったりはしない。そうではなくて、読んでいく中で、なんとなく、人によってはズバリとそれが伝わるような、そういう描き方をしているように思う。こういうのが、話芸なんだろうなぁ、という感じがする。
さてそんなわけで、ここの人物の話を、なるべく書きすぎてしまわない程度に紹介してみよう。
本書で僕が一番痺れたのが、「甲本ヒロト」である。僕は音楽とかホントに知らなくて、甲本ヒロトについても、色んなバンドをやってる人だよなぁぐらいのイメージしかないのだけど、この人ホントに凄い。
本書の中で、甲本ヒロトというのは結構異色のラインナップな気がするけど、それもそうだろう。何故なら、甲本ヒロトと著者は、中学時代の同級生という繋がりだからだ。芸能界の中で直接的な関わりは深くなくても、同級生という括りで二人は話をすることが出来る。
甲本ヒロトがいかにしてロックと出会い救われたのかという話や、第一線で走り続けることがどういうことなのかという話で盛り上がるのだけど、いちいち甲本ヒロトが言うセリフがカッコイイのだ!
その中でも、一つだけを厳選した引用しよう。
『それは、のたうちまわるよ。みんな当然だよ。いつも曲を作ると、もう二度と出来ないんじゃないかと思うよ。だから、「俺は特別に苦しんでる」なんて思ってる人は、すごい簡単な話で、やめればいいんだよ。誰も義務なんか課してないし、あなたに歌えなんて言ってないんだから。高校行かないでいいってのと同じだよ。「何枚かアルバム出したら次も出さなきゃ」って思ってるだけで、別にやらなくてもいいんだよ。そんな法律ないんだもん』
やっぱりもう一個書いちゃお。
『でもさ、芸事とかクリエイティブな仕事に就くと、まず自分の好きな表現スタイルを模倣しようとするじゃん。その模倣のレベルのチャンネルを一つ変えるんだぁ。例えばギタリストがギターを持って「アイツの鳴らしたあの音を自分でも鳴らしたい」って思っちゃもうダメなんだよぁ。アイツがあの音を鳴らした時の”気持ち”をコピーするんだよ。衝動を。そうやっていくとオリジナルで一生現役でいられるんだぁ』
いやはや、ホントカッコイイ人です。なのに、自分を飾りすぎず、昔は暗くてダメだったなんていう話をするところも素敵だ。そしてそんな「永遠の14歳」を前に、その輝きに圧倒されてたじろいでいる風の著者の姿も、とても面白いのだ。
「そのまんま東」は、芸人にはよく見られるらしい『性格的二面性』がとても強調された人物だとして描かれる。芸人としての大馬鹿と、政治家になってしまうような大真面目さが、一つの人格の中でアンビバレントな同居をしていると著者は語ります。
そしてさらに、そのまんま東が飲み会の席で、後輩ではなく先輩に絡んでいく姿を見て、そのまんま東という人間の深層を一つ剥ぎ取ろうとする。
「石倉三郎」は、ビートたけしの数少ない浅草時代からの芸人仲間である。石倉三郎が描かれる話は、著者自身が主演したドラマでの出来事がメインとなっていて、しかもその役柄が浅草時代のビートたけしという、ビートたけしを敬愛して弟子入りした著者にとっては色んな形で思い入れのあるドラマだった。
そのドラマで共演したのが石倉三郎であり、撮影の合間合間にこぼれ出る人柄が描き出されていく。
ラスト、浅草キッドの疑問に答える石倉三郎の姿は、なんかカッコイイ。
「草野仁」については、数々の伝説が描かれていくことになる。
草野仁がまだ「超堅物人間」というパブリック・イメージしかなかった時代に、浅草キッドは草野仁とバラエティをやることになった。その番組は、草野仁という人間の新たな面を引き出したとして評判になるのだけど、その収録の中で、草野仁に関する数多くの伝説について語られる。
これが本当にとんでもないものばかりで、東大からアナウンサーにならなくても、草野仁の人生には数多くの可能性の芽があったのだなと思わされる。ホント、衝撃的なエピソードだらけです。
「古舘伊知郎」については、著者なりに対抗心めいたものが存在するのだろう、と漠然と思う。著者は、芸人ではあるが、「言葉」というフィールドで戦う男でもある。そして古舘伊知郎と言えば、圧倒的な技術と才能を持つ「言葉の魔術師」である。プロレスファンでもある著者は、古舘伊知郎が持ち込んだ新たな実況のスタイルに衝撃を受けるが、その冷徹な有り様とのギャップに戸惑いを見せもする。喋りで笑わせる芸人とはまったく違う、喋るということで新たな空間を生み出すような、誰も踏み込まなかった地平を切り開いた古舘伊知郎という人間に迫っていく。
個人的に興味深かったのは、古舘伊知郎がフリーになると同時に作った「古舘プロジェクト」という事務所について。ここに放送作家集団がいて、言葉の弾丸、フレーズ作りの後方支援をしているんだそうだ。そうだよなぁ、その場で思いついたことを喋ってるわけないよなぁ、と思った次第。
「三又又三」は、また別の意味で本書のラインナップの中では浮いていると思うのだけど(格の違い、とでも言おうか)、とはいえ本書を読むと、三又又三という人間に対する印象は大きく変わる。
人見知りとは程遠い、どんな相手、どんな空間であっても自分のスタイルを保ち続け、誰彼かまわず突進していくことが出来、またどんな状況であろうとも場を持たせることが出来る人間であるようだ。
この話は、オチがなんだか見事に決まっている感がある。
「堀江貴文」の章は、個人的には印象が薄い。それはやはり、テレビで見る堀江貴文という存在以上の姿が見えて来なかったからかもしれない。
とはいえ、この指摘は面白いと思った。
『だが考えて見れば、宮路社長なり、鈴木その子社長なり、今までテレビ的にブレークした社長は、ほとんどすべてが非公開会社のオーナーであり、テレビ演出上のワンマン、独断専行もある意味許された。
しかしホリエモンの場合、上場企業の社長である(以下略)』
「湯浅卓」と「苫米地英人」の二人は、対になる話として描かれている。なんでこの二人が対になるのか?どちらも、超をいくつつけてもまだ足りないほどの変人であり、また超をいくつつけても足りないくらいの秀才なのだけど、さらに「ロックフェラーセンター」という共通項があるのだ。
「湯浅卓」の章には「ロックフェラーセンター・売ります」と、そして「苫米地英人」の章には「ロックフェラーセンター・買います」という副題がついている。
なんでも本人たちいわく、湯浅卓は三菱地所がロックフェラーセンタービルを買い取った時の、アメリカ側の代理人であったという。そして苫米地英人は、三菱財閥系列の一族の血を引くサラブレッドであり、個人的にロックフェラーとも交友があったとかで、当時三菱の社員であった苫米地英人は日本側として交渉に関わったというのだ。
そして、真偽はともかくも、この二人の話がとにかく凄い。次から次へととんでもない話がポンポン飛び出してくる。湯浅卓は、「少なくとも財務省や金融庁にワタシの東大の成績を超える人はいません!」と豪語し、苫米地英人は「気づいたら飛び級してた」なんていう。ホントに、山ほどある『自慢話』の山に感心するわ辟易するわって感じなんだけど、とにかくとんでもない個性の持ち主で、なんとなくこの二人には、ちょっと表現しがたい関心を抱くようになってしまった。
「テリー伊藤」は、僕が大人しいテリー伊藤しか見たことがないからだろう、こんなにハチャメチャな人間なのか、と驚かされた。テリー伊藤のハチャメチャさを知っている人間が読んだらどうかわからないけど、僕にはなかなか衝撃的な話だった。とんでもないことを言ってる風で、いや実際にとんでもないことを言ってるんだけど、でも最後の挨拶の話なんかはかなり真っ当で、不思議な人間だなと思う。
「ポール牧」についても、ちょっと印象は薄い。元々僕が、ポール牧という人物に対する印象を何も持っていないからかもしれない。指パッチンをしている人、ぐらいのイメージしかない。たぶんテレビで活躍していた時代もあったのだろうし、本書でもそういう描写はあるのだけど、僕はよく知らない。やはり、描かれる人物について読者がどんな印象を持っているかで、読み方が大分変わってくるだろうなと思う。
「北野武と松本人志」は同じ章で並列で描かれていく。どちらも、お笑いというフィールドで孤高のトップランナーとしてひた走り続けている人物であり、「一生ついていくと決めたビートたけし」と、「テレビタレントの端くれとして共演しないことを決めた松本人志(ダウンタウン)」という、距離感としては大分差のある二人を、お笑いや映画という共通項で括りつつも、どうしてもそこからはみ出してしまう大きさみたいなものを描こうとしている。
そして最後にもう「稲川淳二」が描かれるのだけど、その前に、プラスαについて書こう。
本書には「爆笑”いじめ”問題」という章がある。これは、爆笑問題を描いた章ではなく(ただ、太田光は若干登場する)、2012年にも大きく問題となった「いじめ問題」について、著者が思うところを綴った文章である。
これが、とてもいい。
実はこの文章、僕は既に一度読んでいた。というのも、著者が、電子書籍として配信していたこの文章を、夏休みの間だけネットで無料公開していたからだ。
著者は、「お笑い芸人のネタいじめを助長している」という風評に敢えて切り込む。いじめ問題をめぐって、大物芸能人たちによる発言が様々な物議を醸し出している現状を引き合いに出し、そして中身のない言葉をうわ言のように繰り返す大人に苦言を呈す。
その話の中で、やっぱり一番ズン!と届くのは、ピエール瀧と伊集院光がラジオで喋ってたというトークのやりとりだ。確かに、この二人の会話は、非常に印象的だし、そして『届く』言葉だと思う。
この章は、全体からすると非常に浮いた章ではあるのだけど、非常に大切なことを言っている。
そして最後に「稲川淳二」だ。この章を最後に持ってくる構成は、的確だけど、ズルい。
内容にはほとんど触れないことにしよう。
一つだけ。本書の単行本化は、ずっと以前から話としてはあったのだけど、この「稲川淳二」の話に対する自分なりのモヤモヤを消化することが出来ないでいて、単行本化に踏み切れないでいた。「稲川淳二」の章だけを外して単行本化というのも、自分的にナシだ。でも、状況が変わり、自分の中の踏ん切りが付き、単行本化に至ったという。
そして最後のあとがきで、亡くなった児玉清とのたった一度の印象的な関わりを描き出して本作を終えている。
テレビに出るような人たちと普段から仕事をし、間近で観察し、さらにそれを的確な文章にまとめ上げることが出来る人というのは、きっとそう多くはないだろう。そういう意味で、この評伝はなかなか独特の存在感を放っている。芸能人への興味から読んでも面白いだろうし、しっかりとしたルポルタージュとして読んでも楽しめる。是非読んでみてください。
水道橋博士「藝人春秋」
王妃の帰還(柚木麻子)
内容に入ろうと思います。
舞台は、お嬢様学校として知られている聖鏡女学園の中等部。お金を持っている父親と、専業主婦の母親というセットが基本で、「働いている母親なんて」と蔑まれるような環境の中で、範子たち四人はある種異端児ではある。
ノリスケ(前原範子)は、女性誌の編集長を務める母親と二人暮らし。チヨジ(遠藤千代子)は、新聞社の整理部で働く父親と二人暮らし。スーさん(鈴木玲子)はなんと、聖鏡女学園大学の理事長にして名物教授である父を持つ。リンダさん(リンダ・ハルストレム)は、建築家夫婦として有名なスウェーデン人の父と日本人の母を持つ。四人は、クラスの中でも最下層のグループだったが、四人でいる空間の居心地の良さは何にも代えがたいほどで、中等部二年から高等部卒業までクラス替えのない彼女たちにとっては、とても安泰な環境である。
はずだった。
そんな穏やかな秩序を、「王妃」が崩しさってしまったのだ!
王妃というのは、ノリスケだけが心の内でだけ呼んでいる名前で、クラス内の最大権力グループのトップに立つ超絶美貌の少女なのであった。滝沢というその少女に、ノリスケは憧れていた。歴史好きな彼女は、マリー・アントワネットが大好きで、滝沢さんに王妃マリー・アントワネットを重ねてうっとりしていたのだった。
ついこの間までは。
クラスでとんでもない事態が持ち上がった。なんと王妃が、安藤さんのバッグに自分の時計を忍ばせて、盗人呼ばわりしたと、学級会で糾弾されたのだ。その瞬間、王妃は泣き、陥落した。
それは、クラスの底辺として、クラス内の派閥争いにまるで関与して来なかったノリスケたちに、驚愕の変化をもたらすことになる。
なんと、王位がグループから追放されて、その受け入れ先としてノリスケたちのグループを検討しているというのだ!
まさか!憧れの王妃と喋れるのはドキドキするけど、でもあのとんでもない性格の女の子とどうにか仲良く出来るだろうか。っていうか、これまでの穏やかな日常を壊すようなことは止めてほしい!
…とは言え、結局王妃をなし崩し的に受け入れることになった彼女たちは、自分たちが王妃とはまるで違うと思い知らされ、またこれまでの穏やかだった日常が案の定グチャグチャに崩されていく日常を体験することになる。
そしてノリスケたちは決意するのだ。知恵を絞って作戦を立てて、私たちの手で、王妃を城に戻そう!と。かくして「プリンセス帰還作戦」が展開されるのだが…。
というような話です。
柚木麻子の作品を読むのは二度目ですけど、やっぱり面白いなぁ!なんとなく印象として、柚木麻子の作品には「白柚木」と「黒柚木」があるイメージがあって、僕はたぶんまだ「白柚木」の作品しか読んでいないような気がします。本書も、恐らく「白柚木」に分類していい作品でしょう。悪意はそこかしこに充満しているのだけど、でもなんかとても良い話です。
まずこの、クラス内カーストの描写がとても面白い。冒頭の初っ端から王妃が陥落するシーンで始まるわけなんだけど、そこから王妃はまさかまさかの最下層グループへの強制編入という状況に陥る。これが、どちらにとっても不幸でしかないという、非常に痛苦しい状況である。王妃からすれば、それまでクラス内で威張り散らしていたのに、突然最下層グループにしか相手にされなくなってしまった強烈なストレスから素直になれないでいる。一方でノリスケたちは、四人だけですこぶる穏やかな空間をこれまで作り上げてきたというのに、それが王妃の編入によって一瞬で崩れ去ってしまう。どちらにとっても不幸な結びつきでしかないのに、女子の世界では「一人ぼっちのはみ出し者」を生み出す方が両者にとってさらなるストレスを生み出すのである。その辺りの微妙な関係性が凄く面白いんです。
でも、さすがに本書のような展開は、誇張だよなぁ、という感じはします。女子高って、僕の想像の埒外の世界だったりしますけど、本書のようなハチャメチャな展開になりえるんかなぁ、という感じはします。いや、そう思ったからと言って、リアリティがどうとかなんて話をしたいわけではないんです。別に、そういう次元を超越している作品という感じがします。うまく説明できないけど、本質的な部分を、形を一切変えないままで10倍ぐらいに膨らませた、みたいな印象です。実際にここまでにはならないけど、でも一歩間違えればそうなる可能性はゼロではないし、みたいな絶妙な感じをキープしているような感じがしました。
しかし、作中でとある登場人物も、彼女たち中学生を「悪魔みたい」と表現する場面があるんだけど、本当にそう思います。ってか、女子ってすげぇなぁ。中学生男子なんて、マジでアホだからね。もちろん男子の世界にだってカースト的なものはあったりするし、色々面倒なこともあるだろうけど、でもやっぱり男子と女子の関係性って全然違うなという感じがします。女子の場合、日本の政党みたいに離合集散が(実際に起こるかどうかは別として)起こりやすい感じはある気がします。まあもちろん、自分が中学生だった時に周囲の女子を観察して得た結論ではなくて、これまで色んな小説を読んできて感じた印象でしかないんだけど、でも、昨日まで反目し合ってた相手と仲良くすることも出来れば、昨日まで凄く仲の良かった相手を無視することだって出来る。そういうのって、あんまり男子にはない感じがするんだよなぁ。そういうところが、特に男から見れば理解不能だし、怖いっていう印象になるんだろうなぁ、という感じがしました。
僕も学生時代は、ノリスケたちみたいに、クラスの中の空気を読むことだけで生き残ってきた人間なんで、ノリスケたちには凄く共感が持てます。今の僕の性格のまんま学生時代に戻れたら、たぶん周りからの評価なんて特に気にしないでやりたいように振る舞えると思うんだけど(そういう風な性格に、少なくとも外面だけでも頑張って変えたお陰で、今どうにか生きています)、やっぱり当時は無理だったよなぁ。学校っていう狭い空間の中での価値観がやっぱりどうしても比重として高くなっちゃうし、ビクビクしながら毎日いたような気がするなぁ、と思います。
ノリスケを主人公として、めまぐるしく状況が変化していくんだけど、なんかホントに凄いです。陳腐な表現だけど、まるでジェットコースターに乗っているかのようなその恐ろしい変化は、ノリスケを疲弊させます。
さらにノリスケを疲弊させるとんでもない事態まで勃発!学校の外にもリングは存在していたようで、ノリスケは王妃の陥落をきっかけとして、それまでの生活からガラリと変わってしまいます。安住の地がない、というような表現をノリスケはするのだけど、確かにノリスケは休まることがない日々だったでしょう。
ノリスケだけではなくて、チヨジもスーさんもリンダさんもみんな個性的で、それぞれに見せ場というか盛り上がりポイントがある。王妃の陥落から玉突きのようにして、その影響が彼女たちにも順繰りで関わってきて、もうなんだかひっちゃかめっちゃか。
そのひっちゃかめっちゃかな状況を、まあどうにか収めちゃうんだから、なんか柚木麻子って凄いなっていう感じがします。このカオスは、普通はまとまらないぜよ。
失って初めて大切なものに気づく、みたいな、要約しちゃうと凄くありきたりな物語な感じがしちゃうんだけど、これがなかなか面白い作品です。ヒエラルキーが高い層に今でも特別関心が持てないというか、どちらかというと嫌悪しちゃう天邪鬼な僕としては、ノリスケら四人は凄く好きだし、時間が経つに連れて変化していく王妃も結構好きだったりします。何でみんな平等ではいられないんだろうね、なんていう嘆きが作中で登場するけど、ホントそうだよなぁって思います。まあ、分かる気もするけど。やっぱり、自分より下がいるっていう安心感も、自分より上は遠すぎて無関係っていう距離感も、集団が狭い空間で生きていく中で必要なものだし、そういう感情が最も出やすいのが教室なんだろうなという感じもしました。「地味キャラが陥落した王妃をまたクラスの人気者に!」っていう設定も凄く分かりやすいし、タイトルもまさにズバリっていう感じで、本を手に取らせるというところでのことも考えてるんだろうなぁ、という感じがしました。是非読んでみてください。
柚木麻子「王妃の帰還」
舞台は、お嬢様学校として知られている聖鏡女学園の中等部。お金を持っている父親と、専業主婦の母親というセットが基本で、「働いている母親なんて」と蔑まれるような環境の中で、範子たち四人はある種異端児ではある。
ノリスケ(前原範子)は、女性誌の編集長を務める母親と二人暮らし。チヨジ(遠藤千代子)は、新聞社の整理部で働く父親と二人暮らし。スーさん(鈴木玲子)はなんと、聖鏡女学園大学の理事長にして名物教授である父を持つ。リンダさん(リンダ・ハルストレム)は、建築家夫婦として有名なスウェーデン人の父と日本人の母を持つ。四人は、クラスの中でも最下層のグループだったが、四人でいる空間の居心地の良さは何にも代えがたいほどで、中等部二年から高等部卒業までクラス替えのない彼女たちにとっては、とても安泰な環境である。
はずだった。
そんな穏やかな秩序を、「王妃」が崩しさってしまったのだ!
王妃というのは、ノリスケだけが心の内でだけ呼んでいる名前で、クラス内の最大権力グループのトップに立つ超絶美貌の少女なのであった。滝沢というその少女に、ノリスケは憧れていた。歴史好きな彼女は、マリー・アントワネットが大好きで、滝沢さんに王妃マリー・アントワネットを重ねてうっとりしていたのだった。
ついこの間までは。
クラスでとんでもない事態が持ち上がった。なんと王妃が、安藤さんのバッグに自分の時計を忍ばせて、盗人呼ばわりしたと、学級会で糾弾されたのだ。その瞬間、王妃は泣き、陥落した。
それは、クラスの底辺として、クラス内の派閥争いにまるで関与して来なかったノリスケたちに、驚愕の変化をもたらすことになる。
なんと、王位がグループから追放されて、その受け入れ先としてノリスケたちのグループを検討しているというのだ!
まさか!憧れの王妃と喋れるのはドキドキするけど、でもあのとんでもない性格の女の子とどうにか仲良く出来るだろうか。っていうか、これまでの穏やかな日常を壊すようなことは止めてほしい!
…とは言え、結局王妃をなし崩し的に受け入れることになった彼女たちは、自分たちが王妃とはまるで違うと思い知らされ、またこれまでの穏やかだった日常が案の定グチャグチャに崩されていく日常を体験することになる。
そしてノリスケたちは決意するのだ。知恵を絞って作戦を立てて、私たちの手で、王妃を城に戻そう!と。かくして「プリンセス帰還作戦」が展開されるのだが…。
というような話です。
柚木麻子の作品を読むのは二度目ですけど、やっぱり面白いなぁ!なんとなく印象として、柚木麻子の作品には「白柚木」と「黒柚木」があるイメージがあって、僕はたぶんまだ「白柚木」の作品しか読んでいないような気がします。本書も、恐らく「白柚木」に分類していい作品でしょう。悪意はそこかしこに充満しているのだけど、でもなんかとても良い話です。
まずこの、クラス内カーストの描写がとても面白い。冒頭の初っ端から王妃が陥落するシーンで始まるわけなんだけど、そこから王妃はまさかまさかの最下層グループへの強制編入という状況に陥る。これが、どちらにとっても不幸でしかないという、非常に痛苦しい状況である。王妃からすれば、それまでクラス内で威張り散らしていたのに、突然最下層グループにしか相手にされなくなってしまった強烈なストレスから素直になれないでいる。一方でノリスケたちは、四人だけですこぶる穏やかな空間をこれまで作り上げてきたというのに、それが王妃の編入によって一瞬で崩れ去ってしまう。どちらにとっても不幸な結びつきでしかないのに、女子の世界では「一人ぼっちのはみ出し者」を生み出す方が両者にとってさらなるストレスを生み出すのである。その辺りの微妙な関係性が凄く面白いんです。
でも、さすがに本書のような展開は、誇張だよなぁ、という感じはします。女子高って、僕の想像の埒外の世界だったりしますけど、本書のようなハチャメチャな展開になりえるんかなぁ、という感じはします。いや、そう思ったからと言って、リアリティがどうとかなんて話をしたいわけではないんです。別に、そういう次元を超越している作品という感じがします。うまく説明できないけど、本質的な部分を、形を一切変えないままで10倍ぐらいに膨らませた、みたいな印象です。実際にここまでにはならないけど、でも一歩間違えればそうなる可能性はゼロではないし、みたいな絶妙な感じをキープしているような感じがしました。
しかし、作中でとある登場人物も、彼女たち中学生を「悪魔みたい」と表現する場面があるんだけど、本当にそう思います。ってか、女子ってすげぇなぁ。中学生男子なんて、マジでアホだからね。もちろん男子の世界にだってカースト的なものはあったりするし、色々面倒なこともあるだろうけど、でもやっぱり男子と女子の関係性って全然違うなという感じがします。女子の場合、日本の政党みたいに離合集散が(実際に起こるかどうかは別として)起こりやすい感じはある気がします。まあもちろん、自分が中学生だった時に周囲の女子を観察して得た結論ではなくて、これまで色んな小説を読んできて感じた印象でしかないんだけど、でも、昨日まで反目し合ってた相手と仲良くすることも出来れば、昨日まで凄く仲の良かった相手を無視することだって出来る。そういうのって、あんまり男子にはない感じがするんだよなぁ。そういうところが、特に男から見れば理解不能だし、怖いっていう印象になるんだろうなぁ、という感じがしました。
僕も学生時代は、ノリスケたちみたいに、クラスの中の空気を読むことだけで生き残ってきた人間なんで、ノリスケたちには凄く共感が持てます。今の僕の性格のまんま学生時代に戻れたら、たぶん周りからの評価なんて特に気にしないでやりたいように振る舞えると思うんだけど(そういう風な性格に、少なくとも外面だけでも頑張って変えたお陰で、今どうにか生きています)、やっぱり当時は無理だったよなぁ。学校っていう狭い空間の中での価値観がやっぱりどうしても比重として高くなっちゃうし、ビクビクしながら毎日いたような気がするなぁ、と思います。
ノリスケを主人公として、めまぐるしく状況が変化していくんだけど、なんかホントに凄いです。陳腐な表現だけど、まるでジェットコースターに乗っているかのようなその恐ろしい変化は、ノリスケを疲弊させます。
さらにノリスケを疲弊させるとんでもない事態まで勃発!学校の外にもリングは存在していたようで、ノリスケは王妃の陥落をきっかけとして、それまでの生活からガラリと変わってしまいます。安住の地がない、というような表現をノリスケはするのだけど、確かにノリスケは休まることがない日々だったでしょう。
ノリスケだけではなくて、チヨジもスーさんもリンダさんもみんな個性的で、それぞれに見せ場というか盛り上がりポイントがある。王妃の陥落から玉突きのようにして、その影響が彼女たちにも順繰りで関わってきて、もうなんだかひっちゃかめっちゃか。
そのひっちゃかめっちゃかな状況を、まあどうにか収めちゃうんだから、なんか柚木麻子って凄いなっていう感じがします。このカオスは、普通はまとまらないぜよ。
失って初めて大切なものに気づく、みたいな、要約しちゃうと凄くありきたりな物語な感じがしちゃうんだけど、これがなかなか面白い作品です。ヒエラルキーが高い層に今でも特別関心が持てないというか、どちらかというと嫌悪しちゃう天邪鬼な僕としては、ノリスケら四人は凄く好きだし、時間が経つに連れて変化していく王妃も結構好きだったりします。何でみんな平等ではいられないんだろうね、なんていう嘆きが作中で登場するけど、ホントそうだよなぁって思います。まあ、分かる気もするけど。やっぱり、自分より下がいるっていう安心感も、自分より上は遠すぎて無関係っていう距離感も、集団が狭い空間で生きていく中で必要なものだし、そういう感情が最も出やすいのが教室なんだろうなという感じもしました。「地味キャラが陥落した王妃をまたクラスの人気者に!」っていう設定も凄く分かりやすいし、タイトルもまさにズバリっていう感じで、本を手に取らせるというところでのことも考えてるんだろうなぁ、という感じがしました。是非読んでみてください。
柚木麻子「王妃の帰還」
北の舞姫 芙蓉千里Ⅱ(須賀しのぶ)
内容に入ろうと思います。
本書は、シリーズ第二作目です。一作目の「芙蓉千里」の感想はこちら。
前巻の大雑把な設定紹介も含めた内容紹介です。
日本で辻芸人をしていたフミは、自ら望んで大陸にやってきた。大陸一の女郎になるんだという、ちょっと変わった夢を抱いてやってきたが、小さい体で器量も特に良いわけではないフミは、赤前垂れとして雑用をやらされることになる。
しかし、辻芸人として仕込まれた角兵衛獅子を披露したことで状況が変わる。フミは、店始まって以来の芸妓として訓練を受けることになり、やがて哈爾濱(ハルビン)中の話題を掻っ攫う踊り子となっていく。
そんなフミには、山村と黒谷という二人の男が深く関わることになる。
幼い頃、数度会っただけの山村に、フミは心を奪われてしまう。何をしているのか、何をしてきたのかさっぱりわからない謎めいた男で、自分の心の内を見せない山村。しかし、そんな山村にフミは、心が掻き毟られるほどの衝動を覚えることになる。
黒谷は、黒谷商事という大会社の社長を父に持つ男で、訳あって哈爾濱でブラブラしていた。芸事に造形が深く、やがてフミのパトロンとして、フミの舞を育てていく存在となっていく。
フミが売られた妓楼「酔芙蓉」が時代の流れと共に店じまいをするというところで一巻が終わる。
本書では、相変わらずフミは哈爾濱で芸妓として活躍している。酔芙蓉はなくなり、女郎たちは散り散りになったが、フミは自分だけの夢ではない「大陸一の芸妓になる」という目標に向かって、稽古を怠らず、また様々なところに呼ばれて舞うことで、多くの人間を養っていた。
大陸を取り巻く戦況は刻々と変わり、上流階級の人間と関わることの多いフミは、会話の端々からそれを読み取ってしまう。そしてその変化は、フミの生活にも着実に影響をもたらすことになっていく。
フミにとって大きな変化となった出来事が3つある。
一つ目は、黒谷の弟である海軍士官・武臣と期せずして邂逅したこと。彼は、フミと黒谷との関係に関わる困難な決断を強いる。
二つ目は、フミの舞に対する冷静な評価だ。これまで称賛を浴び続けてきたフミだったが、フミの舞に対する客観的な評価を耳にし、さらに自身でもそれに気づいていくようになる。
そして最後は、シベリアへの軍への慰問。思うところあって、シベリア行きをフミ自ら志願したが、そこで思いも掛けない出来事にまきこまれていく。
フミの人生は、激しく流転する。立ち止まることなど出来ない、激しく熱いものを内側に持ち続けるフミは、その熱に動かされるようにして、大陸中を縦横無尽に駆け巡る…。
というような話です。
いやはや、やっぱり凄いなぁ、このシリーズ!二巻目も、圧倒的な筆力で読者を翻弄してくれます。
前作では、基本的にフミは哈爾濱から出なかった。それは、肉体的にもそうなのだけど、心もほとんど哈爾濱から出ることはなかった。それは、酔芙蓉こそがフミにとって世界の中心であって、そこだけで世界が完結していたからだ。確かに、酔芙蓉の外にも、フミの気を惹くものはあったし、時折フミはそれに想いを馳せることもあった。でも基本的には、哈爾濱という土地で、酔芙蓉という空間でいかに生きていくかというのが、フミにとっては一大事であって、人生のすべてであった。
でも、本作では、フミは肉体的にも心的にも、どんどん外へ向かっていく。それはやはり、酔芙蓉という中心を失ったことが一番大きいだろう。フミにとっては相変わらず哈爾濱が拠り所となる地ではあるのだけど、意識はどんどん外を向く。フミを引き留めるだけの「強いもの」が、近くになくなったということなのかもしれない。そう、黒谷との関係も、微妙な違いだとはいえ、本作の初めの方ではちょっと変化を見せていたわけだから。
戦争の行方も気にしなければならないし、散り散りになった女郎たちのことも時々は思い出す。しかし何よりもフミを外へと向かわせるのは、タエと約束した「大陸一の妓楼になる」という目標だ。
そう、フミは芸の道を極めようと邁進するのだが、しかし次第に歯車が合わなくなっていく。
恐らくこの描写が、本書のメインとなるだろう。本作では、フミは人生で初めてかもしれない「挫折」を味わうことになる。これまでも、フミの思うままにいかないことなど山ほどあった。しかしそれらに対しては、フミは期待を持っていなかった。幼いフミの行動原理は、「いかに生きるか」に集約されていたし、芸妓として活躍し始めてからはそれまでの人生が嘘だったかのようにあらゆることが順調に進んでいく。そんな人生の中にいた。
そんな中、フミは、自身の舞に対する手厳しい意見に触れることになる。フミにとってその意見は、聞き流すことの出来ないものだった。粋を理解しない粗野な日本軍人の意見であれば、どうせあなたには理解できまいという態度でいられたろう。しかし、フミの触れた意見は、そういう類のものではなかった。そしてそれはフミに、自分がいかに狭い範囲で自惚れていたのかを自覚させもしたのだった。
その瞬間から、フミの人生には、あらたな燃料が注ぎ込まれることになった。酔芙蓉がなくなり、日常の中に埋没しかけていたフミの心の中の炎に、また火が注ぎ込まれることになった。
目指すべき場所がクリアになった時のフミの全力は凄い。どこへ向かうべきかがはっきりしさえすれば、フミは迷うことなく駆け抜けていくことが出来る。フミにとってその道は、高く険しいものだった。既に一度高い名声を得ているが故の厳しさでもある。しかしフミは、自分自身を壊すような勢いでその道を進み続ける。
その姿が、本当にかっこいいんだ。
とにかくこのシリーズは、フミのかっこよさに支えられている。あらゆる場面で、フミは決断と行動を迫られることになるのだけど、それが本当にかっこいいのだ。例えば、フミが初めて、黒谷の弟である武臣と出会った時。あの時武臣に浴びせかけた言葉は、まさにフミが歩んできた歴史の積み重ねがあってこそ、という感じがしました。他にも、具体的には触れないけど、あらゆる場面でフミに惚れます。ホントに。
フミは、ほとんど常に、より厳しい選択肢の方へと突き進んでいく。それは、自らの望みがその方向にあるという確信を持つことが出来るからなのだろうと思う。誰もが、その場で立ちどまってしまいそうな場面であっても、フミは勇敢に決断を下す。そして、その意志を貫く。なんとなく、真っ白な雪原が思い浮かぶ。足あとも何もない、ただの真っ白な光景。フミの生き様は、そんな雪原のように美しいように僕には思える。
さて、もちろんながら本作でも、山村と黒谷との関わり合いも読ませる。フミの「挫折」ともに、本作の柱になっている物語だ。
とはいえ、前作ほど山村も黒谷も物語の中には出てこない。いや、黒谷は普通に出てくるか。山村は、本当に時々しか出て来ません。
前作でフミはある決断をし、その決断ですべては決着したはずだった。しかし、運命はフミを翻弄する。フミは図らずも、また二人の男を天秤にかけるような状態になってしまうのだ。
このヤキモキ感は、僕も楽しめたけど、きっと女性であればもっと楽しめるのだろう。あーんもう、どうしたらいいのぉ、なんていう呑気な物語では全然ないんだけど(笑)、でもそういう、身悶えるような状況に置かれているフミに共感してしまう女性は結構いるのではないかなという感じがします。
戦争という背景も、三人の関係に微妙な影を落とし続けていくことになります。
フミ・山村・黒谷の三者は、それぞれ戦争を背景に、少しずつ状況を変化させていくことになる。本作に哈爾濱という街について、こんな描写がある。
『過去も未来もなく、ただ時代から切り取られ、あらゆるものがまじりあう街』
酔芙蓉が存在し、そこでだけで生きられたフミにとっては、哈爾濱とはそういう街であったし、それは山村や黒谷にとってもそうだったかもしれない。そんな街の中だけで生きていられたからこそ、彼らは非現実的なふんわりとした世界の中で生きていくことが出来ていた。しかし、現実に放り出され(もちろんフミは幼い頃からずっと現実に放り出されてもいたわけなんだけど)、外の世界と関わりを持たなくてはならなくなっていく三人は、少しずつ自分の立ち位置が変化していくことに気付くようになる。
それは、お互いの関係性を少しずつ脅かしてもいく。
三人の関係がどんな風に展開していくのか、それは是非読んでみて欲しいのだけど、本作のラストにはきっと驚かされるでしょう。フミという小さな体の女性が、これほどの力を、これほどの熱を秘めているものなのかと、嘆息するのではないかと思います。
本作は前作に比べて、歴史色が結構強い印象があります。世界情勢がどんな風になっていて、政治的に誰がどんな風に動いていて、その結果誰にどんな風な影響があるのか、みたいなことを結構ガツガツ描写していきます。歴史に疎い僕にはそういう描写はなかなか難しくて、結構読み飛ばしちゃったりもしましたけど、歴史が好きな人ならさらに楽しめることでしょう。本当に著者は、人の動きや街の光景なんかを、その場にいたかのようにお描写する。その当時の大陸の様子なんか、写真さえまともに残っているかどうかわからないと思うのだけど、人や街や歴史が、生き物の如く存在感を保っていて、こんな風に鮮やかに描き出せる人は凄いなと思います。
フミは、あらゆる人の間を全力ですり抜けながら、目指すべき道をひた走る。その姿はカッコイイし、神々しくもある。誰にもたどり着けないような地平を目指しながら、一方で自分なりの幸せとは何か自問してしまう日々。猪突と苦悩が入り交じるごった煮のような人生の中で、フミは様々な決断をし、そして果てしない場所へとたどり着くことになる。豪快さと美しさを兼ね備えるフミの舞の如く、フミの人生も豪快さと美しさに彩られる。読むものを惚れさせるその生き様、是非読んでみてください。
須賀しのぶ「北の舞姫 芙蓉千里Ⅱ」
本書は、シリーズ第二作目です。一作目の「芙蓉千里」の感想はこちら。
前巻の大雑把な設定紹介も含めた内容紹介です。
日本で辻芸人をしていたフミは、自ら望んで大陸にやってきた。大陸一の女郎になるんだという、ちょっと変わった夢を抱いてやってきたが、小さい体で器量も特に良いわけではないフミは、赤前垂れとして雑用をやらされることになる。
しかし、辻芸人として仕込まれた角兵衛獅子を披露したことで状況が変わる。フミは、店始まって以来の芸妓として訓練を受けることになり、やがて哈爾濱(ハルビン)中の話題を掻っ攫う踊り子となっていく。
そんなフミには、山村と黒谷という二人の男が深く関わることになる。
幼い頃、数度会っただけの山村に、フミは心を奪われてしまう。何をしているのか、何をしてきたのかさっぱりわからない謎めいた男で、自分の心の内を見せない山村。しかし、そんな山村にフミは、心が掻き毟られるほどの衝動を覚えることになる。
黒谷は、黒谷商事という大会社の社長を父に持つ男で、訳あって哈爾濱でブラブラしていた。芸事に造形が深く、やがてフミのパトロンとして、フミの舞を育てていく存在となっていく。
フミが売られた妓楼「酔芙蓉」が時代の流れと共に店じまいをするというところで一巻が終わる。
本書では、相変わらずフミは哈爾濱で芸妓として活躍している。酔芙蓉はなくなり、女郎たちは散り散りになったが、フミは自分だけの夢ではない「大陸一の芸妓になる」という目標に向かって、稽古を怠らず、また様々なところに呼ばれて舞うことで、多くの人間を養っていた。
大陸を取り巻く戦況は刻々と変わり、上流階級の人間と関わることの多いフミは、会話の端々からそれを読み取ってしまう。そしてその変化は、フミの生活にも着実に影響をもたらすことになっていく。
フミにとって大きな変化となった出来事が3つある。
一つ目は、黒谷の弟である海軍士官・武臣と期せずして邂逅したこと。彼は、フミと黒谷との関係に関わる困難な決断を強いる。
二つ目は、フミの舞に対する冷静な評価だ。これまで称賛を浴び続けてきたフミだったが、フミの舞に対する客観的な評価を耳にし、さらに自身でもそれに気づいていくようになる。
そして最後は、シベリアへの軍への慰問。思うところあって、シベリア行きをフミ自ら志願したが、そこで思いも掛けない出来事にまきこまれていく。
フミの人生は、激しく流転する。立ち止まることなど出来ない、激しく熱いものを内側に持ち続けるフミは、その熱に動かされるようにして、大陸中を縦横無尽に駆け巡る…。
というような話です。
いやはや、やっぱり凄いなぁ、このシリーズ!二巻目も、圧倒的な筆力で読者を翻弄してくれます。
前作では、基本的にフミは哈爾濱から出なかった。それは、肉体的にもそうなのだけど、心もほとんど哈爾濱から出ることはなかった。それは、酔芙蓉こそがフミにとって世界の中心であって、そこだけで世界が完結していたからだ。確かに、酔芙蓉の外にも、フミの気を惹くものはあったし、時折フミはそれに想いを馳せることもあった。でも基本的には、哈爾濱という土地で、酔芙蓉という空間でいかに生きていくかというのが、フミにとっては一大事であって、人生のすべてであった。
でも、本作では、フミは肉体的にも心的にも、どんどん外へ向かっていく。それはやはり、酔芙蓉という中心を失ったことが一番大きいだろう。フミにとっては相変わらず哈爾濱が拠り所となる地ではあるのだけど、意識はどんどん外を向く。フミを引き留めるだけの「強いもの」が、近くになくなったということなのかもしれない。そう、黒谷との関係も、微妙な違いだとはいえ、本作の初めの方ではちょっと変化を見せていたわけだから。
戦争の行方も気にしなければならないし、散り散りになった女郎たちのことも時々は思い出す。しかし何よりもフミを外へと向かわせるのは、タエと約束した「大陸一の妓楼になる」という目標だ。
そう、フミは芸の道を極めようと邁進するのだが、しかし次第に歯車が合わなくなっていく。
恐らくこの描写が、本書のメインとなるだろう。本作では、フミは人生で初めてかもしれない「挫折」を味わうことになる。これまでも、フミの思うままにいかないことなど山ほどあった。しかしそれらに対しては、フミは期待を持っていなかった。幼いフミの行動原理は、「いかに生きるか」に集約されていたし、芸妓として活躍し始めてからはそれまでの人生が嘘だったかのようにあらゆることが順調に進んでいく。そんな人生の中にいた。
そんな中、フミは、自身の舞に対する手厳しい意見に触れることになる。フミにとってその意見は、聞き流すことの出来ないものだった。粋を理解しない粗野な日本軍人の意見であれば、どうせあなたには理解できまいという態度でいられたろう。しかし、フミの触れた意見は、そういう類のものではなかった。そしてそれはフミに、自分がいかに狭い範囲で自惚れていたのかを自覚させもしたのだった。
その瞬間から、フミの人生には、あらたな燃料が注ぎ込まれることになった。酔芙蓉がなくなり、日常の中に埋没しかけていたフミの心の中の炎に、また火が注ぎ込まれることになった。
目指すべき場所がクリアになった時のフミの全力は凄い。どこへ向かうべきかがはっきりしさえすれば、フミは迷うことなく駆け抜けていくことが出来る。フミにとってその道は、高く険しいものだった。既に一度高い名声を得ているが故の厳しさでもある。しかしフミは、自分自身を壊すような勢いでその道を進み続ける。
その姿が、本当にかっこいいんだ。
とにかくこのシリーズは、フミのかっこよさに支えられている。あらゆる場面で、フミは決断と行動を迫られることになるのだけど、それが本当にかっこいいのだ。例えば、フミが初めて、黒谷の弟である武臣と出会った時。あの時武臣に浴びせかけた言葉は、まさにフミが歩んできた歴史の積み重ねがあってこそ、という感じがしました。他にも、具体的には触れないけど、あらゆる場面でフミに惚れます。ホントに。
フミは、ほとんど常に、より厳しい選択肢の方へと突き進んでいく。それは、自らの望みがその方向にあるという確信を持つことが出来るからなのだろうと思う。誰もが、その場で立ちどまってしまいそうな場面であっても、フミは勇敢に決断を下す。そして、その意志を貫く。なんとなく、真っ白な雪原が思い浮かぶ。足あとも何もない、ただの真っ白な光景。フミの生き様は、そんな雪原のように美しいように僕には思える。
さて、もちろんながら本作でも、山村と黒谷との関わり合いも読ませる。フミの「挫折」ともに、本作の柱になっている物語だ。
とはいえ、前作ほど山村も黒谷も物語の中には出てこない。いや、黒谷は普通に出てくるか。山村は、本当に時々しか出て来ません。
前作でフミはある決断をし、その決断ですべては決着したはずだった。しかし、運命はフミを翻弄する。フミは図らずも、また二人の男を天秤にかけるような状態になってしまうのだ。
このヤキモキ感は、僕も楽しめたけど、きっと女性であればもっと楽しめるのだろう。あーんもう、どうしたらいいのぉ、なんていう呑気な物語では全然ないんだけど(笑)、でもそういう、身悶えるような状況に置かれているフミに共感してしまう女性は結構いるのではないかなという感じがします。
戦争という背景も、三人の関係に微妙な影を落とし続けていくことになります。
フミ・山村・黒谷の三者は、それぞれ戦争を背景に、少しずつ状況を変化させていくことになる。本作に哈爾濱という街について、こんな描写がある。
『過去も未来もなく、ただ時代から切り取られ、あらゆるものがまじりあう街』
酔芙蓉が存在し、そこでだけで生きられたフミにとっては、哈爾濱とはそういう街であったし、それは山村や黒谷にとってもそうだったかもしれない。そんな街の中だけで生きていられたからこそ、彼らは非現実的なふんわりとした世界の中で生きていくことが出来ていた。しかし、現実に放り出され(もちろんフミは幼い頃からずっと現実に放り出されてもいたわけなんだけど)、外の世界と関わりを持たなくてはならなくなっていく三人は、少しずつ自分の立ち位置が変化していくことに気付くようになる。
それは、お互いの関係性を少しずつ脅かしてもいく。
三人の関係がどんな風に展開していくのか、それは是非読んでみて欲しいのだけど、本作のラストにはきっと驚かされるでしょう。フミという小さな体の女性が、これほどの力を、これほどの熱を秘めているものなのかと、嘆息するのではないかと思います。
本作は前作に比べて、歴史色が結構強い印象があります。世界情勢がどんな風になっていて、政治的に誰がどんな風に動いていて、その結果誰にどんな風な影響があるのか、みたいなことを結構ガツガツ描写していきます。歴史に疎い僕にはそういう描写はなかなか難しくて、結構読み飛ばしちゃったりもしましたけど、歴史が好きな人ならさらに楽しめることでしょう。本当に著者は、人の動きや街の光景なんかを、その場にいたかのようにお描写する。その当時の大陸の様子なんか、写真さえまともに残っているかどうかわからないと思うのだけど、人や街や歴史が、生き物の如く存在感を保っていて、こんな風に鮮やかに描き出せる人は凄いなと思います。
フミは、あらゆる人の間を全力ですり抜けながら、目指すべき道をひた走る。その姿はカッコイイし、神々しくもある。誰にもたどり着けないような地平を目指しながら、一方で自分なりの幸せとは何か自問してしまう日々。猪突と苦悩が入り交じるごった煮のような人生の中で、フミは様々な決断をし、そして果てしない場所へとたどり着くことになる。豪快さと美しさを兼ね備えるフミの舞の如く、フミの人生も豪快さと美しさに彩られる。読むものを惚れさせるその生き様、是非読んでみてください。
須賀しのぶ「北の舞姫 芙蓉千里Ⅱ」
こんこんさま(中脇初枝)
内容に入ろうと思います。
はなは、大船駅のプラットフォームで、飛び込み自殺を見てしまった。目の前だった。一年前、大学に行くと言って実家を飛び出し、今こうやって夜の仕事をしている自分。警察の取り調べを受け、なんとなく気力が戻らないはなに、実家に戻るかという考えが浮かぶ。大船駅のひと駅隣、北鎌倉駅に実家はある。
こんこんさま。
はなの実家は、周囲の人からそう呼ばれている。平屋に増築を繰り返した不恰好な建物なのだけど、荒れ放題の庭のどこかにお稲荷様が祀ってあるのだというが、家人は誰も見たことがなかった。三河家を実質的に支配していた祖母・石は知っていたはずだが、屋根から落ちて亡くなってしまっている。
はなは、実家に向かいながら、妹のさちのことを考える。
さちが生まれてから、家族はまとまりを欠くようになった。さちは、捉えどころのない子供で、何を考えているのかわからなくて、家族はみなさちを避けた。
実家は、廃屋のように崩れかけている。
玄関を開けた途端、さちの姿が目に入る。さちが言うには、祖父・甲子はボケてしまっているという。母・都は、この崩れかけた実家の中で、石の亡霊に怯えながら暮らしている。
はなが帰ってきたのと同じタイミングで、ずっと家を留守にしていた父・主計も戻ってくる。彼は、新たな借金をこさえて、それを埋め合わせるために、実家を売り払わなくてはと考えている。
というような話です。
一読して感じたのは、恐ろしく落ち着いているな、ということ。
この作品の親本は、著者が23歳の頃に出版されている。23歳以前に書いたということなのだろうけど、それにしては落ち着き過ぎていると思う。
もちろん、あとがきで著者が「大幅に加筆修正した」と書いているので、その落ち着きは、現在の著者の加筆修正による部分も大きいのかもしれない。とはいえ、物語の骨格や展開は大きく変わってはいないだろう。23歳で、これだけ落ち着きのある物語を書けるものなのか、という驚きがまずあった。
物語は、淡々と進んでいく。視点人物をくるくると変化させながら、家族が「バラバラの方向を向いている」という事実を、少しずつ積み上げていく。
そう、彼らの有り様は、「家族の形」を成していない。
もちろん、「家族の形」ってなんだ?っていうツッコミもあるでしょう。僕も、よくわからないで書いている。「理想的な家族の形」があるなんて風に考えてるわけじゃない。家族は、家族の数だけ形があると思うし、これが正しいという形もないでしょう。「私たちは家族です」と言えれば、それが「家族の形」になりえるのだろうと思う。
そう。そこだ。その、「私たちは家族です」と言えるかどうか。
三河家の面々は、誰一人そんな風に言えないのだろう。だから彼らには、「家族の形」が存在しない。
はなは、もう実家を見限って、崩れ落ち欠けている廃屋からおさらばしている。今は、たまたま戻ってきただけだ。主計も、一家の主であるにも関わらず外に愛人を作り、何をしているのか分からない事業に首を突っ込みながら、借金だけをこさえてくる。都は、三河家を支配していた石への恐怖から、石の仕事も石に縛り付けられたまま、実家から離れることが出来ないでいる。甲子は、ボケてしまっていて、もうきちんとした認識を持てないでいる。
そして、さち。さちは、とても不憫だ。
さちはそもそも、「家族の形」を知らない。他の面々は、「今はないけれど、昔はここにあったはずの家族の形」というものを思い返すことが出来る。でも、さちにはそれが出来ない。さちには、思い出せるような「幸せな記憶」というものがない。
さちは、それが普通だと思ってずっと生きてきた。だから、さち自身の認識では、それほど不幸ではないかもしれない。いや、やはりそうではないのだけど(さちは、誰かから好意を受け取ると、困惑する。その好意は、必ず裏切られることを知っているから、期待しないように生きてきたのだ)、少なくともさちには、「幸せ」というものがどんなものか、はっきりイメージすることは難しいだろう。
そんな彼らが、物凄く久しぶりに集まることになる。近くにいようがいまいが、彼らの距離感は変わらない。「あるべき形」を失ってしまったり、あるいは初めから知らない彼らには、ひとつのまとまりとして距離を縮めることはとても難しくなってしまっている。結局、一つ屋根の下にいるというだけで、彼らの有り様は変わることはない。
そのままであれば、ずっとそうだっただろう。
変化は、さちが連れてきた。正月の縁日で出会った、「幸せの方法を知っている」という男を家まで連れてきたのだった。その男の登場が、バラバラだった家族を無理矢理くっつけるだけの出来事をもたらすことになる。
どこを見ればいいのかさえきちんと示すことが出来れば、それを見ること自体は難しくない。バラバラだった家族も、その出来事をきっかけに、『何を見ればいいのか』を共有したのだろう。彼らの有り様は、大きくは変わらない。しかし、ほんの少しでも、「家族の形」に繋がる変化がある。そういう、ささやかな物語だなと思います。
僕は『家族』というものに対して思い入れが全然なくて、その一方で『家族』という不可思議なものについて時々思考を巡らせることがあるのだけど、やっぱり一番思うことは、『家族』という幻想を人々は共有したがっているのだろうな、ということだ。
マンガや小説などの物語、あるいはテレビや新聞などのニュースで『家族』が取り上げられる時、それはどうしても『極端なもの』に焦点が当たりがちだと思う。
幸せな家族であっても、不幸せな家族であっても、両極端なものが取り上げられ、描かれることが多いだろうと思う。
僕らは日々そういう情報に接し、『家族』というものへのイメージが固定されていく。僕らが実際的にリアルに知っている『家族』は、自分の家族だけだ。そしてそれ意外に、両極端な家族の情報が入ってくる。
こういう状況は、人の判断を曇らせるのではないかなと思うのだ。
物凄く幸せな家族のことを知って、自分もああなりたいと願うだろう。でもそれは、本当に極端な存在であって、誰もがそうなれるわけではない。そして、物凄く不幸な家族のこと知って、まさかあんな風になるわけないだろうと思ってしまう。確かに、その極端な家族の有り様は、なかなか起こらないだろう。でも、「物凄く不幸な家族のことを知って、そんなことは起こらないだろう」と思ってしまうことが、「自分の家族に不幸なことが起こるはずがないだろう」に摩り替わってしまう。そうなると、危険だ。どんな形の家族であれ、大なり小なり、何らかの形でリスクはある。それを、自分には起こるはずがないと言って切り捨てるようになってしまうのは怖い。
たぶん僕たちは、『家族という幻想』に縛られているのだろうと思う。もちろん、その幻想に縛られたまま一生を終える人もいるはずだ。『家族という幻想』には良いものも悪いものもあるだろうけど、いずれにしてもその幻想に縛られたままでいられるなら、そう悪くはないだろう。
でも、実際は、『家族という幻想』は、すぐにその虚飾を剥がす。実際のデータは知らないけど、恐らく昔と比べて離婚件数は増えているのだろうと思う。それには、様々な社会的要因があるのだろうけど、この『家族という幻想』が幻想であったということを知ってしまう、ということも、きっと理由の一つとしてあるのではないかなと思う。
この物語は、『家族という幻想』が剥がれきってしまった、『家族の形』を成していない家族の物語だ。そしてそんな彼らが、『家族という幻想』に頼らずに『家族の形』を取り戻そうとする再生の物語でもある。何故か世の中には、『家族を作れて一人前』的な圧力があるように感じられるけど、でも、それだって『家族という幻想』の一要素でしかない。この物語は、極端過ぎない『家族の崩壊』を扱っているように僕には思えて、それが読む人間に訴えかける力となっていると思う。極端すぎる『家族の崩壊』は、自分自身に引き寄せてそれを飲み込むことが出来ない。本書のような形の崩壊は、もちろん物語であるから特殊さはあるとはいえ、相似形が恐らく日本中にあるのではないだろうか。僕たちはもっと、『最大公約数的な家族の形』というものにも目を向けるべきなのかもしれない。家族を作ってから後悔しないように。
中脇初枝「こんこんさま」
はなは、大船駅のプラットフォームで、飛び込み自殺を見てしまった。目の前だった。一年前、大学に行くと言って実家を飛び出し、今こうやって夜の仕事をしている自分。警察の取り調べを受け、なんとなく気力が戻らないはなに、実家に戻るかという考えが浮かぶ。大船駅のひと駅隣、北鎌倉駅に実家はある。
こんこんさま。
はなの実家は、周囲の人からそう呼ばれている。平屋に増築を繰り返した不恰好な建物なのだけど、荒れ放題の庭のどこかにお稲荷様が祀ってあるのだというが、家人は誰も見たことがなかった。三河家を実質的に支配していた祖母・石は知っていたはずだが、屋根から落ちて亡くなってしまっている。
はなは、実家に向かいながら、妹のさちのことを考える。
さちが生まれてから、家族はまとまりを欠くようになった。さちは、捉えどころのない子供で、何を考えているのかわからなくて、家族はみなさちを避けた。
実家は、廃屋のように崩れかけている。
玄関を開けた途端、さちの姿が目に入る。さちが言うには、祖父・甲子はボケてしまっているという。母・都は、この崩れかけた実家の中で、石の亡霊に怯えながら暮らしている。
はなが帰ってきたのと同じタイミングで、ずっと家を留守にしていた父・主計も戻ってくる。彼は、新たな借金をこさえて、それを埋め合わせるために、実家を売り払わなくてはと考えている。
というような話です。
一読して感じたのは、恐ろしく落ち着いているな、ということ。
この作品の親本は、著者が23歳の頃に出版されている。23歳以前に書いたということなのだろうけど、それにしては落ち着き過ぎていると思う。
もちろん、あとがきで著者が「大幅に加筆修正した」と書いているので、その落ち着きは、現在の著者の加筆修正による部分も大きいのかもしれない。とはいえ、物語の骨格や展開は大きく変わってはいないだろう。23歳で、これだけ落ち着きのある物語を書けるものなのか、という驚きがまずあった。
物語は、淡々と進んでいく。視点人物をくるくると変化させながら、家族が「バラバラの方向を向いている」という事実を、少しずつ積み上げていく。
そう、彼らの有り様は、「家族の形」を成していない。
もちろん、「家族の形」ってなんだ?っていうツッコミもあるでしょう。僕も、よくわからないで書いている。「理想的な家族の形」があるなんて風に考えてるわけじゃない。家族は、家族の数だけ形があると思うし、これが正しいという形もないでしょう。「私たちは家族です」と言えれば、それが「家族の形」になりえるのだろうと思う。
そう。そこだ。その、「私たちは家族です」と言えるかどうか。
三河家の面々は、誰一人そんな風に言えないのだろう。だから彼らには、「家族の形」が存在しない。
はなは、もう実家を見限って、崩れ落ち欠けている廃屋からおさらばしている。今は、たまたま戻ってきただけだ。主計も、一家の主であるにも関わらず外に愛人を作り、何をしているのか分からない事業に首を突っ込みながら、借金だけをこさえてくる。都は、三河家を支配していた石への恐怖から、石の仕事も石に縛り付けられたまま、実家から離れることが出来ないでいる。甲子は、ボケてしまっていて、もうきちんとした認識を持てないでいる。
そして、さち。さちは、とても不憫だ。
さちはそもそも、「家族の形」を知らない。他の面々は、「今はないけれど、昔はここにあったはずの家族の形」というものを思い返すことが出来る。でも、さちにはそれが出来ない。さちには、思い出せるような「幸せな記憶」というものがない。
さちは、それが普通だと思ってずっと生きてきた。だから、さち自身の認識では、それほど不幸ではないかもしれない。いや、やはりそうではないのだけど(さちは、誰かから好意を受け取ると、困惑する。その好意は、必ず裏切られることを知っているから、期待しないように生きてきたのだ)、少なくともさちには、「幸せ」というものがどんなものか、はっきりイメージすることは難しいだろう。
そんな彼らが、物凄く久しぶりに集まることになる。近くにいようがいまいが、彼らの距離感は変わらない。「あるべき形」を失ってしまったり、あるいは初めから知らない彼らには、ひとつのまとまりとして距離を縮めることはとても難しくなってしまっている。結局、一つ屋根の下にいるというだけで、彼らの有り様は変わることはない。
そのままであれば、ずっとそうだっただろう。
変化は、さちが連れてきた。正月の縁日で出会った、「幸せの方法を知っている」という男を家まで連れてきたのだった。その男の登場が、バラバラだった家族を無理矢理くっつけるだけの出来事をもたらすことになる。
どこを見ればいいのかさえきちんと示すことが出来れば、それを見ること自体は難しくない。バラバラだった家族も、その出来事をきっかけに、『何を見ればいいのか』を共有したのだろう。彼らの有り様は、大きくは変わらない。しかし、ほんの少しでも、「家族の形」に繋がる変化がある。そういう、ささやかな物語だなと思います。
僕は『家族』というものに対して思い入れが全然なくて、その一方で『家族』という不可思議なものについて時々思考を巡らせることがあるのだけど、やっぱり一番思うことは、『家族』という幻想を人々は共有したがっているのだろうな、ということだ。
マンガや小説などの物語、あるいはテレビや新聞などのニュースで『家族』が取り上げられる時、それはどうしても『極端なもの』に焦点が当たりがちだと思う。
幸せな家族であっても、不幸せな家族であっても、両極端なものが取り上げられ、描かれることが多いだろうと思う。
僕らは日々そういう情報に接し、『家族』というものへのイメージが固定されていく。僕らが実際的にリアルに知っている『家族』は、自分の家族だけだ。そしてそれ意外に、両極端な家族の情報が入ってくる。
こういう状況は、人の判断を曇らせるのではないかなと思うのだ。
物凄く幸せな家族のことを知って、自分もああなりたいと願うだろう。でもそれは、本当に極端な存在であって、誰もがそうなれるわけではない。そして、物凄く不幸な家族のこと知って、まさかあんな風になるわけないだろうと思ってしまう。確かに、その極端な家族の有り様は、なかなか起こらないだろう。でも、「物凄く不幸な家族のことを知って、そんなことは起こらないだろう」と思ってしまうことが、「自分の家族に不幸なことが起こるはずがないだろう」に摩り替わってしまう。そうなると、危険だ。どんな形の家族であれ、大なり小なり、何らかの形でリスクはある。それを、自分には起こるはずがないと言って切り捨てるようになってしまうのは怖い。
たぶん僕たちは、『家族という幻想』に縛られているのだろうと思う。もちろん、その幻想に縛られたまま一生を終える人もいるはずだ。『家族という幻想』には良いものも悪いものもあるだろうけど、いずれにしてもその幻想に縛られたままでいられるなら、そう悪くはないだろう。
でも、実際は、『家族という幻想』は、すぐにその虚飾を剥がす。実際のデータは知らないけど、恐らく昔と比べて離婚件数は増えているのだろうと思う。それには、様々な社会的要因があるのだろうけど、この『家族という幻想』が幻想であったということを知ってしまう、ということも、きっと理由の一つとしてあるのではないかなと思う。
この物語は、『家族という幻想』が剥がれきってしまった、『家族の形』を成していない家族の物語だ。そしてそんな彼らが、『家族という幻想』に頼らずに『家族の形』を取り戻そうとする再生の物語でもある。何故か世の中には、『家族を作れて一人前』的な圧力があるように感じられるけど、でも、それだって『家族という幻想』の一要素でしかない。この物語は、極端過ぎない『家族の崩壊』を扱っているように僕には思えて、それが読む人間に訴えかける力となっていると思う。極端すぎる『家族の崩壊』は、自分自身に引き寄せてそれを飲み込むことが出来ない。本書のような形の崩壊は、もちろん物語であるから特殊さはあるとはいえ、相似形が恐らく日本中にあるのではないだろうか。僕たちはもっと、『最大公約数的な家族の形』というものにも目を向けるべきなのかもしれない。家族を作ってから後悔しないように。
中脇初枝「こんこんさま」
天才 勝新太郎(春日太一)
内容に入ろうと思います。
本書は、映画製作に理想を追い求め、それ故「奇跡的」とも言える傑作を「奇跡的」な手法で生み出し続けながら、一方でそのために自らの理想から抜け出せなくなり身動きが取れなくなってしまった天才・勝新太郎の生涯を、勝新太郎が生涯を掛けて演じた、いや、それそのものになりきった「座頭市」を中心に描くノンフィクションです。
僕は、勝新太郎についてはほとんど知らない。勝新太郎が出ている映画なりテレビなりを、たぶん見たことがないような気がする。
本書の最後の方には、こんな記述がある。
『多くの俳優たちが「タレント」としてテレビの枠の中に小さく収まっていく中、時代に迎合しない勝は規格外のそんざいだった。だが、だからこそ、その言動はワイドショーやバラエティ番組の格好の餌食となった。少しでも勝と関わった人間は、面白おかしく勝のことを語った。そのほとんどは、豪快で金に糸目をつけない酒の飲み方や遊びに関するものばかり。勝は生きながらに伝説の存在になり、人々がそれをデコレートして語ることで、その伝説は一人歩きしていった。』
恐らく僕のイメージの中にある「勝新太郎」も、こういうテレビで誰かが語っている印象を元に作り上げられているのだろう。僕にも、そういう、飲み歩いていて豪快な人間、というイメージがあった。
しかしこの文章は、こう続く。
『勝に近づく人間はみな、その伝説を期待した。勝もまたそのことをよく知っていた。彼らに喜んでもらおうと、ブランデーを一気飲みし、金をバラまき、「世間のイメージする勝」という道化を演じた。誰も、「人間・勝新太郎」のことを見ようとはしなくなっていた。』
本書を頭から読み進めていくと、そういう「伝説化されてしまった勝新太郎」という存在に、勝新太郎がどんな風な想いを抱いていたか、ちょっとは想像できるようになる。それは、本来の勝新太郎とは、まるでかけ離れた虚像だったのだ。
勝新太郎は、かねてより編集として一緒に映画を作り続けてきた谷口に、こんなことを漏らす。
『トシちゃんはいいなあ。一つの顔しかないもんなあ。俺は勝新太郎、奥村利夫、座頭市…いろんな顔をするのは大変だよ』
勝新太郎は、杵屋勝東治という高名な長唄・三味線の師匠の息子として生まれる。その縁で、小さい頃から、歌舞伎座や国立劇場の「御簾」の裏側から、芸能史に名を残す名人たちの芝居を見続けていた。
父に弟子入りした勝新太郎は、三味線弾きとして絶大なる人気を誇るが、しかし「御簾」という裏側の世界ではなく、表側の世界で活躍したいと、俳優の道を目指すことになる。
しかし、20代の勝新太郎は、不遇をかこっていた。
当時は、市川雷蔵や長谷川一夫などが全盛期であった。同じ時期にデビューを果たした勝新太郎はまったく売れず、主演映画も鳴かず飛ばず。勝新太郎が主演だと客が入らないから市川雷蔵に変えて欲しい、なんていう要望が宣伝サイドから出るほどだったという。
しかし、30代になり、様々な偶然的な出会いのお陰で、勝新太郎は一気にブレイクする。勝新太郎がそれまで出ていたようなB級映画の一本として制作された『悪名』が、様々な幸運的出会いによって大ヒットを遂げ、そしてその直後、勝新太郎にとって人生を決定づける運命の出会いを果たすことになる。
「座頭市」である。
元々、子母澤寛の随筆集の中のほんの一遍に登場するだけであった、実在する「座頭市」という盲目のやくざについて書かれた作品に惚れたとある脚本家がイメージを膨らませ、それを読んだ勝新太郎も感化され、全盲のマッサージ師の表情を参考にしたり、目を閉じて殺陣の練習をしたりと、どんどんと座頭市にのめり込んでいくことになる。
「座頭市」が大ヒットし、しかし一方で映画業界は厳しくなっていく。当時は映画会社毎に俳優が固定されていたのだが、勝新太郎が所属していた大映も経営が厳しくなっていく。ちょうどその頃、各社のスター俳優が自らのプロダクションを立ち上げるという流れがあり、勝新太郎も大映の社内プロダクションという形で「勝プロダクション」が立ち上がる。
ここから勝新太郎は、映画に主演するだけではなく、自ら監督・演出・編集に携わるようになっていき、その徹底的なこだわりと妥協を許さない姿勢で、多くの人間を惹きつけながらも、一方で多くの人間と仲違いし、次第に映画制作に限界を感じるようになっていく。
というような話です。
冒頭でも書いたけど、本当にテレビで語られる「勝新太郎」のイメージしかなかったので、本書を読んで凄く驚きました。そもそも、勝新太郎が主演だけではなく、監督・演出・編集までも手がけていたということさえ知りませんでした。
本書のメインは、「勝新太郎がいかに座頭市にのめり込んだか」という部分なんだけど、これが本当に凄い。
何しろ、勝プロダクションが制作する「座頭市」には、脚本がなかったそうなんです。
いや、勝新太郎には、勝新太郎の座付き作家として活躍した中村努という脚本家がいたんですけど、勝新太郎は中村の脚本をことごとく切り捨てていく。
脚本を切り捨てる際の勝新太郎の言い分は、ただ一言だ。
「座頭市は、そんなことはしない」
そう、いつしか勝新太郎は、自らを座頭市そのものだと思うようになっていくのだ。
こんな場面がある。
勝新太郎はそれまでも、「座頭市が登場する場面」を撮り忘れることがよくあった。「勝新太郎=座頭市」であるので、勝新太郎の頭の中では、映像はすべて「座頭市の主観」。すなわち、その映像の中に座頭市は存在しないのだ。スタッフから指摘されて、そうだったと言って座頭市が登場する場面を撮影することもしばしば。
しかしそれ以上に凄いのが、ある現場で勝新太郎が発したこの言葉だ。
『おい!座頭市はどこだ!座頭市がいないぞ!』
そしてその後勝新太郎は、『あ…座頭市はオレか』と呟く。
スタッフの多くはそれを、勝新太郎一流のジョークだと受け止めたようだが、実際は、自分が「勝新太郎」なのか「座頭市」なのかわからなくなってしまっていたということだったようだ。
そんな勝新太郎だからこそ、「座頭市は、そんなことはしない」と言えてしまうし、そう言われたら引き下がるしかない。
中村努は、こんな風に語っている。
『私の書いた脚本を基にあれだけの作品ができたのですから、全く違うものになったとしても私は満足しています。いくら勝さんでも無から有を作ることはできません。「これは違う」という素材というかジャンプ台が必要なんです。それを提供するのが私の役割でした』
じゃあ、脚本なしでどんな風に撮影が進んでいくのか。その現場を支えたスタッフたちの並々ならぬ努力の賜物だったのだ。
いつでもどこでも思いつきでアイデアを喋る勝のためにテープレコーダーを用意し、勝のアイデアを繋ぎあわせて脚本を作る。しかし翌日その脚本は却下され、また新しいアイデアが生み出されている。必要な映像を押さえるために、お金を一切気にせずに最高のものを作らせる。勝のアイデアが決まらず、スケジュールをなかなか押さえられない人気俳優たちを何も撮影しないまま帰すこともあった。小道具はすべてトラックに積み込み、勝が思いついたものをすぐさま用意できるようにした。また木材も常に用意し、勝がここだ!と決めた場所にすぐさまセットを建てられるようにしておいた。
『勝がいつどのタイミングでセリフを言い始め、どのタイミングで動き出すかわからない。録音・カメラを始めとするスタッフたちの緊張感は尋常でないものになり、現場の集中力は高まる。その結果、スタッフと役者に間に空気で互いを感じ合うコンビネーションが生まれ、映像に迫力がもたらされていくことになる。計算された表現からは絶対に出てこない、即興の緊張感の中から生まれた表現こそが完全なものだということだ。「偶然の完全」。それが勝の目指した表現だった。』
『座頭市の芝居をする時、勝は当然のことながら目を閉じている。そのため、自分の立ち位置やカメラポジションを確認するのが困難だった。時に、「歩いてきて立ち止まり芝居をする」のが難しい。どこで立ち止まればいいのか。その位置を間違えると画面が台無しになる。そこで中岡は、市が芝居をする場所にライトを集中させることで、勝がsの光の温度を感じてキチッと止まることが出来るようにした。また、カメラを移動させながら撮影する場合には勝がどこでも芝居できるように、カメラがどこを向いてもよいようなライティングを心がけてきたという。そして、勝も、光の温度の違いを肌で感じ取って舞台空間やカメラ位置を完璧に把握、寸分の狂いのない芝居をやってのけた』
『「わすかな音で座頭市に何かを気づかせる。その音作りには苦労しました」と振り返るのは、録音技師の林土太郎。盲目の座頭市は聴覚を頼りに相手との距離感を測り、その上で動く。そのため、そうした音の世界を、「座頭市の耳に聞こえるまま」に自然に観客に伝えなければ、座頭市というキャラクターからリアリティは失われてしまう』
『「座頭市物語」は、フジテレビからの予算は通常よりはるかに大きく、しかも間に代理店のはいらない直接受注。儲けようと思えば、どこまでも儲けられるはずだった。
だが勝は、潤沢に組まれた予算の全てを現場へと注ぎこんでいく。勝には妥協する気はもう一切なくなっていた』
『こうして無事に吉永の出演シーンは撮り終える。その上で勝は、その画を活かすために後から話をつくっていった。そして、結果的に一つの物語が見事にまとまってしまったという』
『勝ちゃんは、いつも目の前にあるものを疑ってかかりました。本当に、これでいいのか?この向こうにまだ何かあるんじゃないのか、と(井上昭)』
一部を抜粋してみたけど、これだけでもいかに壮絶な現場であるかということが想像できるだろう。
こんなハチャメチャなやり方をしていたが故に、勝新太郎は多くの監督や脚本家と喧嘩することになる。監督は勝新太郎に演出の注文をつけられ、脚本家は台本を幾度となくボツにされ、亀裂が走る。あらゆる現場で、幾度と無くトラブルが発生し、それを勝新太郎を支え続けたスタッフたちがどうにか建て直しながら、突き進んでいく勝新太郎のために道を繋ぎ続けたという感じだ。勝新太郎も凄いけど、勝新太郎を支え続けたスタッフたちも本当に凄い。
一方で、そんなハチャメチャ現場は、俳優たちには愛された。決まりきったやり方の中で、型にはめられた演技しかできないでいた俳優たちは、勝新太郎の現場でのびのびと演技する快感を思い出し、一流の俳優たちが勝新太郎の映画に出たがったという。
勝新太郎は、そのこだわりが過ぎたために、映画からもテレビからも遠ざかっていくことになる。
『50歳を超えて、勝は進むべき道を完全に見失っていた。意欲だけはあるが、何をすればいいのか、いや、自分が何をしたいのか、全く分からなかった。とにかく、何をやっても不満だった。』
そんな勝新太郎は、晩年も様々な映画製作・映画主演の話が来るが、自分の理想に合わないものには妥協せず、そのため実現しないことが多かった。
『自分の現状や年齢に合わせて妥協をしなくはない。妥協するくらいなら、何もしないことを選ぶ。それが勝の生き方だった。』
勝新太郎はとにかく、映画のこと、特に「座頭市」のことしか頭にない男だった。ごく一般的な世間のイメージが、テレビによって創りだされた虚像なのだろう。そして、たとえ虚像であっても、それが求められているのであればその「勝新太郎」を演じきってしまうサービス精神が勝新太郎にはある。本書を読んで本当に、勝新太郎という人間へのイメージが変わりました。それまでは本当に、浮気者の夫を持って中村玉緒は可哀想だなぁ、みたいな印象でしかなかったですからね(笑)
映画については全然詳しくないので、他にもそれに値する人物は多々いるのかもしれないけれども、しかし間違いなく勝新太郎は「天才」だったのでしょう。編集マンが3年掛けて修得する技術を3時間で覚え、達筆な字で即興で生み出す脚本は、本職の脚本家に劣らない質だったという。天才的なセンスの持ち主であり、また徹底してリアリティにこだわり、妥協を許さなかった男。本当に凄い男の物語を読んだなと思いました。是非読んでみてください。
春日太一「天才 勝新太郎」
本書は、映画製作に理想を追い求め、それ故「奇跡的」とも言える傑作を「奇跡的」な手法で生み出し続けながら、一方でそのために自らの理想から抜け出せなくなり身動きが取れなくなってしまった天才・勝新太郎の生涯を、勝新太郎が生涯を掛けて演じた、いや、それそのものになりきった「座頭市」を中心に描くノンフィクションです。
僕は、勝新太郎についてはほとんど知らない。勝新太郎が出ている映画なりテレビなりを、たぶん見たことがないような気がする。
本書の最後の方には、こんな記述がある。
『多くの俳優たちが「タレント」としてテレビの枠の中に小さく収まっていく中、時代に迎合しない勝は規格外のそんざいだった。だが、だからこそ、その言動はワイドショーやバラエティ番組の格好の餌食となった。少しでも勝と関わった人間は、面白おかしく勝のことを語った。そのほとんどは、豪快で金に糸目をつけない酒の飲み方や遊びに関するものばかり。勝は生きながらに伝説の存在になり、人々がそれをデコレートして語ることで、その伝説は一人歩きしていった。』
恐らく僕のイメージの中にある「勝新太郎」も、こういうテレビで誰かが語っている印象を元に作り上げられているのだろう。僕にも、そういう、飲み歩いていて豪快な人間、というイメージがあった。
しかしこの文章は、こう続く。
『勝に近づく人間はみな、その伝説を期待した。勝もまたそのことをよく知っていた。彼らに喜んでもらおうと、ブランデーを一気飲みし、金をバラまき、「世間のイメージする勝」という道化を演じた。誰も、「人間・勝新太郎」のことを見ようとはしなくなっていた。』
本書を頭から読み進めていくと、そういう「伝説化されてしまった勝新太郎」という存在に、勝新太郎がどんな風な想いを抱いていたか、ちょっとは想像できるようになる。それは、本来の勝新太郎とは、まるでかけ離れた虚像だったのだ。
勝新太郎は、かねてより編集として一緒に映画を作り続けてきた谷口に、こんなことを漏らす。
『トシちゃんはいいなあ。一つの顔しかないもんなあ。俺は勝新太郎、奥村利夫、座頭市…いろんな顔をするのは大変だよ』
勝新太郎は、杵屋勝東治という高名な長唄・三味線の師匠の息子として生まれる。その縁で、小さい頃から、歌舞伎座や国立劇場の「御簾」の裏側から、芸能史に名を残す名人たちの芝居を見続けていた。
父に弟子入りした勝新太郎は、三味線弾きとして絶大なる人気を誇るが、しかし「御簾」という裏側の世界ではなく、表側の世界で活躍したいと、俳優の道を目指すことになる。
しかし、20代の勝新太郎は、不遇をかこっていた。
当時は、市川雷蔵や長谷川一夫などが全盛期であった。同じ時期にデビューを果たした勝新太郎はまったく売れず、主演映画も鳴かず飛ばず。勝新太郎が主演だと客が入らないから市川雷蔵に変えて欲しい、なんていう要望が宣伝サイドから出るほどだったという。
しかし、30代になり、様々な偶然的な出会いのお陰で、勝新太郎は一気にブレイクする。勝新太郎がそれまで出ていたようなB級映画の一本として制作された『悪名』が、様々な幸運的出会いによって大ヒットを遂げ、そしてその直後、勝新太郎にとって人生を決定づける運命の出会いを果たすことになる。
「座頭市」である。
元々、子母澤寛の随筆集の中のほんの一遍に登場するだけであった、実在する「座頭市」という盲目のやくざについて書かれた作品に惚れたとある脚本家がイメージを膨らませ、それを読んだ勝新太郎も感化され、全盲のマッサージ師の表情を参考にしたり、目を閉じて殺陣の練習をしたりと、どんどんと座頭市にのめり込んでいくことになる。
「座頭市」が大ヒットし、しかし一方で映画業界は厳しくなっていく。当時は映画会社毎に俳優が固定されていたのだが、勝新太郎が所属していた大映も経営が厳しくなっていく。ちょうどその頃、各社のスター俳優が自らのプロダクションを立ち上げるという流れがあり、勝新太郎も大映の社内プロダクションという形で「勝プロダクション」が立ち上がる。
ここから勝新太郎は、映画に主演するだけではなく、自ら監督・演出・編集に携わるようになっていき、その徹底的なこだわりと妥協を許さない姿勢で、多くの人間を惹きつけながらも、一方で多くの人間と仲違いし、次第に映画制作に限界を感じるようになっていく。
というような話です。
冒頭でも書いたけど、本当にテレビで語られる「勝新太郎」のイメージしかなかったので、本書を読んで凄く驚きました。そもそも、勝新太郎が主演だけではなく、監督・演出・編集までも手がけていたということさえ知りませんでした。
本書のメインは、「勝新太郎がいかに座頭市にのめり込んだか」という部分なんだけど、これが本当に凄い。
何しろ、勝プロダクションが制作する「座頭市」には、脚本がなかったそうなんです。
いや、勝新太郎には、勝新太郎の座付き作家として活躍した中村努という脚本家がいたんですけど、勝新太郎は中村の脚本をことごとく切り捨てていく。
脚本を切り捨てる際の勝新太郎の言い分は、ただ一言だ。
「座頭市は、そんなことはしない」
そう、いつしか勝新太郎は、自らを座頭市そのものだと思うようになっていくのだ。
こんな場面がある。
勝新太郎はそれまでも、「座頭市が登場する場面」を撮り忘れることがよくあった。「勝新太郎=座頭市」であるので、勝新太郎の頭の中では、映像はすべて「座頭市の主観」。すなわち、その映像の中に座頭市は存在しないのだ。スタッフから指摘されて、そうだったと言って座頭市が登場する場面を撮影することもしばしば。
しかしそれ以上に凄いのが、ある現場で勝新太郎が発したこの言葉だ。
『おい!座頭市はどこだ!座頭市がいないぞ!』
そしてその後勝新太郎は、『あ…座頭市はオレか』と呟く。
スタッフの多くはそれを、勝新太郎一流のジョークだと受け止めたようだが、実際は、自分が「勝新太郎」なのか「座頭市」なのかわからなくなってしまっていたということだったようだ。
そんな勝新太郎だからこそ、「座頭市は、そんなことはしない」と言えてしまうし、そう言われたら引き下がるしかない。
中村努は、こんな風に語っている。
『私の書いた脚本を基にあれだけの作品ができたのですから、全く違うものになったとしても私は満足しています。いくら勝さんでも無から有を作ることはできません。「これは違う」という素材というかジャンプ台が必要なんです。それを提供するのが私の役割でした』
じゃあ、脚本なしでどんな風に撮影が進んでいくのか。その現場を支えたスタッフたちの並々ならぬ努力の賜物だったのだ。
いつでもどこでも思いつきでアイデアを喋る勝のためにテープレコーダーを用意し、勝のアイデアを繋ぎあわせて脚本を作る。しかし翌日その脚本は却下され、また新しいアイデアが生み出されている。必要な映像を押さえるために、お金を一切気にせずに最高のものを作らせる。勝のアイデアが決まらず、スケジュールをなかなか押さえられない人気俳優たちを何も撮影しないまま帰すこともあった。小道具はすべてトラックに積み込み、勝が思いついたものをすぐさま用意できるようにした。また木材も常に用意し、勝がここだ!と決めた場所にすぐさまセットを建てられるようにしておいた。
『勝がいつどのタイミングでセリフを言い始め、どのタイミングで動き出すかわからない。録音・カメラを始めとするスタッフたちの緊張感は尋常でないものになり、現場の集中力は高まる。その結果、スタッフと役者に間に空気で互いを感じ合うコンビネーションが生まれ、映像に迫力がもたらされていくことになる。計算された表現からは絶対に出てこない、即興の緊張感の中から生まれた表現こそが完全なものだということだ。「偶然の完全」。それが勝の目指した表現だった。』
『座頭市の芝居をする時、勝は当然のことながら目を閉じている。そのため、自分の立ち位置やカメラポジションを確認するのが困難だった。時に、「歩いてきて立ち止まり芝居をする」のが難しい。どこで立ち止まればいいのか。その位置を間違えると画面が台無しになる。そこで中岡は、市が芝居をする場所にライトを集中させることで、勝がsの光の温度を感じてキチッと止まることが出来るようにした。また、カメラを移動させながら撮影する場合には勝がどこでも芝居できるように、カメラがどこを向いてもよいようなライティングを心がけてきたという。そして、勝も、光の温度の違いを肌で感じ取って舞台空間やカメラ位置を完璧に把握、寸分の狂いのない芝居をやってのけた』
『「わすかな音で座頭市に何かを気づかせる。その音作りには苦労しました」と振り返るのは、録音技師の林土太郎。盲目の座頭市は聴覚を頼りに相手との距離感を測り、その上で動く。そのため、そうした音の世界を、「座頭市の耳に聞こえるまま」に自然に観客に伝えなければ、座頭市というキャラクターからリアリティは失われてしまう』
『「座頭市物語」は、フジテレビからの予算は通常よりはるかに大きく、しかも間に代理店のはいらない直接受注。儲けようと思えば、どこまでも儲けられるはずだった。
だが勝は、潤沢に組まれた予算の全てを現場へと注ぎこんでいく。勝には妥協する気はもう一切なくなっていた』
『こうして無事に吉永の出演シーンは撮り終える。その上で勝は、その画を活かすために後から話をつくっていった。そして、結果的に一つの物語が見事にまとまってしまったという』
『勝ちゃんは、いつも目の前にあるものを疑ってかかりました。本当に、これでいいのか?この向こうにまだ何かあるんじゃないのか、と(井上昭)』
一部を抜粋してみたけど、これだけでもいかに壮絶な現場であるかということが想像できるだろう。
こんなハチャメチャなやり方をしていたが故に、勝新太郎は多くの監督や脚本家と喧嘩することになる。監督は勝新太郎に演出の注文をつけられ、脚本家は台本を幾度となくボツにされ、亀裂が走る。あらゆる現場で、幾度と無くトラブルが発生し、それを勝新太郎を支え続けたスタッフたちがどうにか建て直しながら、突き進んでいく勝新太郎のために道を繋ぎ続けたという感じだ。勝新太郎も凄いけど、勝新太郎を支え続けたスタッフたちも本当に凄い。
一方で、そんなハチャメチャ現場は、俳優たちには愛された。決まりきったやり方の中で、型にはめられた演技しかできないでいた俳優たちは、勝新太郎の現場でのびのびと演技する快感を思い出し、一流の俳優たちが勝新太郎の映画に出たがったという。
勝新太郎は、そのこだわりが過ぎたために、映画からもテレビからも遠ざかっていくことになる。
『50歳を超えて、勝は進むべき道を完全に見失っていた。意欲だけはあるが、何をすればいいのか、いや、自分が何をしたいのか、全く分からなかった。とにかく、何をやっても不満だった。』
そんな勝新太郎は、晩年も様々な映画製作・映画主演の話が来るが、自分の理想に合わないものには妥協せず、そのため実現しないことが多かった。
『自分の現状や年齢に合わせて妥協をしなくはない。妥協するくらいなら、何もしないことを選ぶ。それが勝の生き方だった。』
勝新太郎はとにかく、映画のこと、特に「座頭市」のことしか頭にない男だった。ごく一般的な世間のイメージが、テレビによって創りだされた虚像なのだろう。そして、たとえ虚像であっても、それが求められているのであればその「勝新太郎」を演じきってしまうサービス精神が勝新太郎にはある。本書を読んで本当に、勝新太郎という人間へのイメージが変わりました。それまでは本当に、浮気者の夫を持って中村玉緒は可哀想だなぁ、みたいな印象でしかなかったですからね(笑)
映画については全然詳しくないので、他にもそれに値する人物は多々いるのかもしれないけれども、しかし間違いなく勝新太郎は「天才」だったのでしょう。編集マンが3年掛けて修得する技術を3時間で覚え、達筆な字で即興で生み出す脚本は、本職の脚本家に劣らない質だったという。天才的なセンスの持ち主であり、また徹底してリアリティにこだわり、妥協を許さなかった男。本当に凄い男の物語を読んだなと思いました。是非読んでみてください。
春日太一「天才 勝新太郎」
お厚いのがお好き?(フジテレビ)
内容に入ろうと思います。
本書は、昔フジテレビで放送していた「お厚いのがお好き?」というテレビ番組を書籍化したものです。
内容はと言いますと、古今東西の様々な「分厚い本(かつ難解な本)」を、分かりやすく紹介する、というものでした。放送当時、毎回ではないですが、この番組は結構見てました。アリtoキリギリスの石井正則が出てて、なんとなく惚けたようなコメントと、コントっぽい絵で展開されていく難解本紹介は、なかなか斬新だったなと思います。
僕は、古典とか本当に苦手で、国語の授業も大嫌いだったんで、そういうものに本当に触れないで大人になってしまいました。確かに、本書で紹介されているのは、どれもなかなかの取っつきにくさで、本書で紹介されている本から、5冊読んだことがあるという人がいれば、僕は相当凄いなって感じますけどね。
まあともかく、そんな古典アレルギーのある僕なんですけど、でもやっぱりちょっと読みたいという気持ちもなきにしもあらずなわけです。だけど、何から読んだらいいかも、どう読んだらいいかもわからないわけで、そんな人間にはこういう本はなかなか助かります。
さて本書の章題は、「◯◯で読み解く☓☓(難解本のタイトル)」というような形になります。本書で紹介されている20冊それぞれについて章題を列挙して、内容紹介の代わりにしようと思います。
第一冊 ラーメンで読み解くマキャベリの「君主論」
第二冊 ダイエットで読み解くニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」
第三冊 コンビニ業界で読み解く孫氏の「兵法」
第四冊 エンターテインメントで読み解くパスカルの「パンセ」
第五冊 女子アナで読み解くサルトルの「存在と無」
第六冊 テレビ業界で読み解くフロイトの「精神分析入門」
第七冊 グラビアアイドルで読み解くプラトンの「饗宴」
第八冊 六本木ヒルズで読み解くモンテスキューの「法の精神」
第九冊 駅弁で読み解くソシュールの「一般言語学講義」
第十冊 お笑い芸人で読み解くドストエフスキーの「罪と罰」
第十一冊 日光金谷ホテルっで読み解くプルーストの「失われた時を求めて」
第十二冊 ペットで読み解くヘーゲルの「精神現象学」
第十三冊 腕時計で読み解くアダム・スミスの「国富論」
第十四冊 カメラで読み解くキルケゴールの「あれか これか」
第十五冊 バスガイドで読み解く宮本武蔵の「五輪書」
第十六冊 花火で読み解くハイデガーの「存在と時間」
第十七冊 アミューズメントパークで読み解くベンサムの「道徳及び立法の原理序論」
第十八冊 グルメで読み解く福沢諭吉の「学問のすすめ」
第十九冊 占いで読み解くカフカの「城」
第二十冊 ホテイチで読み解く羅貫中の「三国志演義」
という感じになります。
内容は、なかなか面白いです。僕は、昔見てたテレビの記憶がぼんやりとあるんですけど、ところどころ挟み込まれる脱力っぽい感じのコメントとか、なるほどそんな風に紹介するんだ、みたいな感じが結構懐かしくて面白かったです。全部が全部、取り上げられている作品を読みたくなるわけじゃないけど(好みの問題もありますしね)、でも説明はどれも巧いなぁと思います(時々強引なのもありますけどね)。
まあ、どれも長くて難解な作品なんで、作品のコア中のコアな部分だけど、色んな要素を削り落としながら紹介してるんでしょう。だから、本書を読んだだけで、取り上げられている本を読んだ気になることはまずないでしょう。とはいえ、どんな部分に着目して読んだらいいのか、重要な背景は何なのか、そういうことをあらかじめ知っておくことが出来るという点で重宝するような感じがします。
各章とも、巻末に注釈と薀蓄が載っています。注釈の方は、作品そのものだけに関係なく、説明中に出てきた固有名詞なんかを紹介しています。この部分を読むと(本書は2004年の刊行なので)、一昔前に流行していたようなものも思い出せたりするんで面白いかもしれません。薀蓄は、結構ちゃんとその作品や作者についてのもので、これはこれで結構面白いです。さらに巻末には、割と初心者向けだと思われる、オススメ哲学本のリストなんかもあったりします。結構、読んでみようかなって思わせるものが多くて素敵です。
個人的には、パスカル「パンセ」、ソシュールの「一般言語学講義」、キルケゴール「あれか これか」、カフカ「城」辺りは読みたくなりましたね。特に、言語学って元々割と興味があって、今年はウィトゲンシュタインの作品を読みたいなと思ってたんだけど、ソシュールもなんか読んでみたいような気になりました。
どれぐらいの視聴率の番組だったのか知りませんけど、放送自体は46回も続いたということで、結構人気だった番組なんじゃないかなと勝手に思っています。自分の人生にはまず関係なかろう、という20冊が紹介されているけど、読んでみるとなんとなく気になってしまう作品は結構あるんじゃないかなという感じがします。読んでみてください。
フジテレビ「お厚いのがお好き?」
本書は、昔フジテレビで放送していた「お厚いのがお好き?」というテレビ番組を書籍化したものです。
内容はと言いますと、古今東西の様々な「分厚い本(かつ難解な本)」を、分かりやすく紹介する、というものでした。放送当時、毎回ではないですが、この番組は結構見てました。アリtoキリギリスの石井正則が出てて、なんとなく惚けたようなコメントと、コントっぽい絵で展開されていく難解本紹介は、なかなか斬新だったなと思います。
僕は、古典とか本当に苦手で、国語の授業も大嫌いだったんで、そういうものに本当に触れないで大人になってしまいました。確かに、本書で紹介されているのは、どれもなかなかの取っつきにくさで、本書で紹介されている本から、5冊読んだことがあるという人がいれば、僕は相当凄いなって感じますけどね。
まあともかく、そんな古典アレルギーのある僕なんですけど、でもやっぱりちょっと読みたいという気持ちもなきにしもあらずなわけです。だけど、何から読んだらいいかも、どう読んだらいいかもわからないわけで、そんな人間にはこういう本はなかなか助かります。
さて本書の章題は、「◯◯で読み解く☓☓(難解本のタイトル)」というような形になります。本書で紹介されている20冊それぞれについて章題を列挙して、内容紹介の代わりにしようと思います。
第一冊 ラーメンで読み解くマキャベリの「君主論」
第二冊 ダイエットで読み解くニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」
第三冊 コンビニ業界で読み解く孫氏の「兵法」
第四冊 エンターテインメントで読み解くパスカルの「パンセ」
第五冊 女子アナで読み解くサルトルの「存在と無」
第六冊 テレビ業界で読み解くフロイトの「精神分析入門」
第七冊 グラビアアイドルで読み解くプラトンの「饗宴」
第八冊 六本木ヒルズで読み解くモンテスキューの「法の精神」
第九冊 駅弁で読み解くソシュールの「一般言語学講義」
第十冊 お笑い芸人で読み解くドストエフスキーの「罪と罰」
第十一冊 日光金谷ホテルっで読み解くプルーストの「失われた時を求めて」
第十二冊 ペットで読み解くヘーゲルの「精神現象学」
第十三冊 腕時計で読み解くアダム・スミスの「国富論」
第十四冊 カメラで読み解くキルケゴールの「あれか これか」
第十五冊 バスガイドで読み解く宮本武蔵の「五輪書」
第十六冊 花火で読み解くハイデガーの「存在と時間」
第十七冊 アミューズメントパークで読み解くベンサムの「道徳及び立法の原理序論」
第十八冊 グルメで読み解く福沢諭吉の「学問のすすめ」
第十九冊 占いで読み解くカフカの「城」
第二十冊 ホテイチで読み解く羅貫中の「三国志演義」
という感じになります。
内容は、なかなか面白いです。僕は、昔見てたテレビの記憶がぼんやりとあるんですけど、ところどころ挟み込まれる脱力っぽい感じのコメントとか、なるほどそんな風に紹介するんだ、みたいな感じが結構懐かしくて面白かったです。全部が全部、取り上げられている作品を読みたくなるわけじゃないけど(好みの問題もありますしね)、でも説明はどれも巧いなぁと思います(時々強引なのもありますけどね)。
まあ、どれも長くて難解な作品なんで、作品のコア中のコアな部分だけど、色んな要素を削り落としながら紹介してるんでしょう。だから、本書を読んだだけで、取り上げられている本を読んだ気になることはまずないでしょう。とはいえ、どんな部分に着目して読んだらいいのか、重要な背景は何なのか、そういうことをあらかじめ知っておくことが出来るという点で重宝するような感じがします。
各章とも、巻末に注釈と薀蓄が載っています。注釈の方は、作品そのものだけに関係なく、説明中に出てきた固有名詞なんかを紹介しています。この部分を読むと(本書は2004年の刊行なので)、一昔前に流行していたようなものも思い出せたりするんで面白いかもしれません。薀蓄は、結構ちゃんとその作品や作者についてのもので、これはこれで結構面白いです。さらに巻末には、割と初心者向けだと思われる、オススメ哲学本のリストなんかもあったりします。結構、読んでみようかなって思わせるものが多くて素敵です。
個人的には、パスカル「パンセ」、ソシュールの「一般言語学講義」、キルケゴール「あれか これか」、カフカ「城」辺りは読みたくなりましたね。特に、言語学って元々割と興味があって、今年はウィトゲンシュタインの作品を読みたいなと思ってたんだけど、ソシュールもなんか読んでみたいような気になりました。
どれぐらいの視聴率の番組だったのか知りませんけど、放送自体は46回も続いたということで、結構人気だった番組なんじゃないかなと勝手に思っています。自分の人生にはまず関係なかろう、という20冊が紹介されているけど、読んでみるとなんとなく気になってしまう作品は結構あるんじゃないかなという感じがします。読んでみてください。
フジテレビ「お厚いのがお好き?」
木暮荘物語(三浦しをん)
内容に入ろうと思います。
本書は、ボロアパートである木暮荘」に関わる人々(ほとんどが住人)を描く連作短編集です。
「シンプリーヘブン」
坂田繭は、玄関を開けて驚いた。3年前に出ていったきり音沙汰もなかった元カレの瀬戸並木がいたからだ。繭の後ろには、裸にタオルケットを掛けただけの今カレ・伊藤晃生。
並木の認識ではまだ二人は付き合っているつもりのようで、とりあえず三人でその辺りの認識を統一させる。そしてその上で並木はいう。「今日はここに泊めてくれ」。
なんだかんだ並木は、しばらくここに居座ることにしたようだ。伊藤とも、なんだか仲良くなっている。三人で夕食を食べる不思議。繭が働いているフラワーショップの佐伯さんに、時々この変な感じを相談してみる。
「心身」
木暮荘の大家である木暮は、70歳を超えて、かつて一番の親友だった友人を亡くした。とはいえ、最近では付き合いの絶えていた相手だったから、一度行ったきりの見舞いの場でも、何を話すというのでもなかった。しかし、そこで友人から唐突に聞かされた「セックス」という単語が、無性に木暮を刺激した。
セックスがしたい。性欲、というよりもむしろ、拒絶されないという安心感が欲しい。
しかし、今更どうすればいいのか。妻か?風俗か?娘夫婦がやってきたために、木暮荘の一室に単身引越した木暮は、日々モヤモヤと、セックスについて考える。
「柱の実り」
峰岸美禰はある時ホームの柱に、謎のでっぱりを見つけた。青い、何か、だ。何なのかはよくわからない。
その何かは、キノコのように次第に成長し、形を変えていった。そしてやがてそれは、男根のようになった。青い男根。
不思議なのは、これほど不可思議なものがホームの柱に生えているというのに、それに他の誰も気づいていないようだということだ。
トリマーをしている美禰は、時々通りかかる木暮荘で飼われている犬を洗いたいという衝動といつも闘っている。
ある日、青い男根を見ていると、いかつい相貌をした男が話しかけてきた。男は美禰と同じ名前のプードルを飼っているとかで、美禰の働く店にやってきた。
「黒い飲み物」
フラワーショップさえきは、元々喫茶店だったスペースの一角を区切りオープンさせたものだ。喫茶店を経営する夫は、もう三代目。無口で、喫茶店のマスターとしては優秀だろう。
最近佐伯は、夫が淹れるコーヒーがマズイ。泥の味がする。理由は、たぶん分かっている。分かっているのだけど、でも特に何が出来るわけでもない。いや、出来ないわけでもないのだろうけど、どうしたものかと思っている。
佐伯は、かつて熱病のように、取り憑かれたように、夫とセックスをしまくった時期のことを思い返している。
「穴」
木暮荘に住む神崎は、日々騒音に悩まされている。木暮荘は、壁が薄いのか、生活音の響き方が凄い。ほとんど筒抜けだ。トイレの水を流す音も、テレビの音も、「ああん ああん」という音も。
ふとしたきっかけがあって神崎は、空き部屋になっている隣の部屋を自由に使うことにした。そして神崎は、真下に住んでいる女子大生の生活を覗くことにした。
「ピース」
光子はまだセックスを一度もしたことがない頃に、妊娠できない身体だと知らされた。それまで勉強に対して何をいうわけでもなかった母は、その事実を知るや光子に猛烈に勉強させるようになった。光子が入った高校は、ミッション系の真面目な女子学生が入学するところで、あまりにも退屈すぎて光子はセックスをしまくることにした。
木暮荘に住む光子は、大学の友人の一人が妊娠していることを知り、しかもあまりに適当にやり過ごしていることを知って驚く。そしてもっと驚かされるのは、その友人がある日突然、産んだ赤ん坊を預けてどこかに行ったことだ。
「嘘の味」
並木は、諦めきれずに、繭が働くフラワーショップの近くで時々店を見ている。繭に気付かれないように。こういうのを、ストーカーっていうんだろうなぁ、と思いながら。
フラワーショップの常連らしい女が、ある日ストーキングの最中である並木に話しかけてきた。そして、何故か成り行きで、並木はその女の家に住むことになる。
不思議な女だ。
というような話です。
これは良かったなぁ。全編「Feel Love」っていう雑誌に掲載されていた作品なんだけど、三浦しをんが恋愛小説を書くと、なんというかひねくれたものが出来上がるんだなぁ、という印象です。まあ、確かに、これまで読んできた作品も、そういうのが多かったけど。「こじらせている」というのとはまた違った意味で、ちょっとまともではない恋愛の形が色々描かれていて面白いな、と思います。っていうか、「恋愛」っていう名前をつけていいのかわからないようなものもありますけどね。
僕は、『誰かに一言で説明することが出来ない関係』っていうのに、結構憧れるんです。そういう人間関係を求めている。『現存する日本語では、その関係をピタリ一言で表現する単語が存在しないような関係』とでも言ったらいいか。
本書では、そういうなんとも表現しにくい関係性がたくさん出てくる。凄く羨ましいでござる。
なんか、たぶんなんだけど、スパっと名前がついちゃう関係が窮屈なのは、「その『関係性の名前』に関係性が引き摺られるから」なんだろうなぁ、という感じがします。「そういう関係性が先にあって、それをその名前で呼ぶ」っていうのが普通のはずなんだけど、「その名前で呼ばれている関係性だからこそ、こういう感じでいなくちゃいけない」みたいな逆転の圧力みたいなものが、自分の中に沸き上がってくるのであります。なかなかめんどくさいですね。
でも、名前がついていない関係だと、その意味の分からない圧力がそもそも生まれようがないから、なんというか穏やかな気持ちでいられるような気がします。
本書では、「付き合っているカップルのところに、女の方の元カレが転がり込んで三人で穏やかに過ごす」とか、「女子大生の生活の細々しいところまで覗き見している男」とか、「何でか分からないけど自分の部屋に住むように女から誘われた男」みたいな、謎めいた人間関係がたくさん登場します。いいですなぁ。そういう、わけわからん感じは、凄くいいです。羨ましいなぁ。
基本的に変人が大好きな僕は、変人だらけの本書の登場人物は、みんな愛すべき感じです。三浦しをんの小説は、そういう変人が結構出てくるから大好きです。変人っていうのは僕の中で、「『普通』という枠を勝手に自分で設定して、その枠の中に勝手に自分を押し込める、なんてことをしない人」のことなんですけど、ホントみんな『普通』なんていう謎めいた価値観から解き放たれていて素敵です。
変な人間ばっかりなんだけど、何故か日常感が醸し出されるのも、三浦しをんのマジックのような気がします。普通に書いたら、ちょっとぶっ飛んだ感じになっちゃいそうな物語を、巧くなだめて日常というステージに留めているような感じがします。というか、僕らが普段なかなか意識できない『日常の隙間』みたいなものを見つけるのが巧いっていうことなのかもしれません。そういう『日常の隙間』にはきっと、本書のような変わった登場人物がいるんだろうなぁ。
「シンプリーヘブン」は読んでて、なんとなく昔のこと思い出しました。高校の頃、好きだった女の子Aがいて、別にそれを誰に言うでもなく、ある日友達から「俺Aのこと好きなんだけど…」と相談をされて、その相談にずっと乗る、みたいなことがありました。というと、二人がうまく行かないように悪魔のようなアドバイスをしたみたいに思われるかもだけど全然そんなことはなくて、割と普通に、うまく行ってくれればいいなぁ、なんて思ってたりしたのでした。なんかそんな昔のことを思い出させられました。
「心身」は、なかなか斬新でした。二話目に当たるんだけど、まだこの作品全体のテイストみたいなものをはっきりとは掴みきれていない段階で、この「お年寄りがセックスしたいと悶々とする話」が出てくるんで、いきなり三浦しをんに引っ掻き回されたような感じがありました。途中から出てくる女の子が、なかなか良い感じです。
「柱の実り」も、ホント変わった物語だったなぁ。っていうか、柱に出来たその妙なモノとか、どっからそんなわけわからんもの思いつくんだろう、ってなもんです。なんとなく、一番すスッキリ感のない物語である気がします。
「黒い飲み物」は、凄くシンプルでオーソドックスな感じがしました。なんとなく、奥さんの側の心理がリアルな感じがして、男の側としてはやっぱり女性ってすげぇなと思わされる物語でした。
「穴」は、とにかく羨ましいなー、なんて思いながら読んでました。僕もやりたいっす、覗きライフ!
「ピース」は、ちょっと切ない感じの物語でした。そうだよなぁ、こういうものこそ愛なのかもしれないよねぇ、なんて思っちゃいましたよ。
「嘘の味」は、とにかくフラワーショップの常連さんの女の人が変人で素敵でした。いいなぁー、俺もああいう人とかかわり合いを持ちたいものであります。
それぞれの話がちょっとずつ重なりあって、木暮荘という舞台が縦横無尽に使われていくところもとても面白いと思います。是非読んでみてください。
三浦しをん「木暮荘物語」
本書は、ボロアパートである木暮荘」に関わる人々(ほとんどが住人)を描く連作短編集です。
「シンプリーヘブン」
坂田繭は、玄関を開けて驚いた。3年前に出ていったきり音沙汰もなかった元カレの瀬戸並木がいたからだ。繭の後ろには、裸にタオルケットを掛けただけの今カレ・伊藤晃生。
並木の認識ではまだ二人は付き合っているつもりのようで、とりあえず三人でその辺りの認識を統一させる。そしてその上で並木はいう。「今日はここに泊めてくれ」。
なんだかんだ並木は、しばらくここに居座ることにしたようだ。伊藤とも、なんだか仲良くなっている。三人で夕食を食べる不思議。繭が働いているフラワーショップの佐伯さんに、時々この変な感じを相談してみる。
「心身」
木暮荘の大家である木暮は、70歳を超えて、かつて一番の親友だった友人を亡くした。とはいえ、最近では付き合いの絶えていた相手だったから、一度行ったきりの見舞いの場でも、何を話すというのでもなかった。しかし、そこで友人から唐突に聞かされた「セックス」という単語が、無性に木暮を刺激した。
セックスがしたい。性欲、というよりもむしろ、拒絶されないという安心感が欲しい。
しかし、今更どうすればいいのか。妻か?風俗か?娘夫婦がやってきたために、木暮荘の一室に単身引越した木暮は、日々モヤモヤと、セックスについて考える。
「柱の実り」
峰岸美禰はある時ホームの柱に、謎のでっぱりを見つけた。青い、何か、だ。何なのかはよくわからない。
その何かは、キノコのように次第に成長し、形を変えていった。そしてやがてそれは、男根のようになった。青い男根。
不思議なのは、これほど不可思議なものがホームの柱に生えているというのに、それに他の誰も気づいていないようだということだ。
トリマーをしている美禰は、時々通りかかる木暮荘で飼われている犬を洗いたいという衝動といつも闘っている。
ある日、青い男根を見ていると、いかつい相貌をした男が話しかけてきた。男は美禰と同じ名前のプードルを飼っているとかで、美禰の働く店にやってきた。
「黒い飲み物」
フラワーショップさえきは、元々喫茶店だったスペースの一角を区切りオープンさせたものだ。喫茶店を経営する夫は、もう三代目。無口で、喫茶店のマスターとしては優秀だろう。
最近佐伯は、夫が淹れるコーヒーがマズイ。泥の味がする。理由は、たぶん分かっている。分かっているのだけど、でも特に何が出来るわけでもない。いや、出来ないわけでもないのだろうけど、どうしたものかと思っている。
佐伯は、かつて熱病のように、取り憑かれたように、夫とセックスをしまくった時期のことを思い返している。
「穴」
木暮荘に住む神崎は、日々騒音に悩まされている。木暮荘は、壁が薄いのか、生活音の響き方が凄い。ほとんど筒抜けだ。トイレの水を流す音も、テレビの音も、「ああん ああん」という音も。
ふとしたきっかけがあって神崎は、空き部屋になっている隣の部屋を自由に使うことにした。そして神崎は、真下に住んでいる女子大生の生活を覗くことにした。
「ピース」
光子はまだセックスを一度もしたことがない頃に、妊娠できない身体だと知らされた。それまで勉強に対して何をいうわけでもなかった母は、その事実を知るや光子に猛烈に勉強させるようになった。光子が入った高校は、ミッション系の真面目な女子学生が入学するところで、あまりにも退屈すぎて光子はセックスをしまくることにした。
木暮荘に住む光子は、大学の友人の一人が妊娠していることを知り、しかもあまりに適当にやり過ごしていることを知って驚く。そしてもっと驚かされるのは、その友人がある日突然、産んだ赤ん坊を預けてどこかに行ったことだ。
「嘘の味」
並木は、諦めきれずに、繭が働くフラワーショップの近くで時々店を見ている。繭に気付かれないように。こういうのを、ストーカーっていうんだろうなぁ、と思いながら。
フラワーショップの常連らしい女が、ある日ストーキングの最中である並木に話しかけてきた。そして、何故か成り行きで、並木はその女の家に住むことになる。
不思議な女だ。
というような話です。
これは良かったなぁ。全編「Feel Love」っていう雑誌に掲載されていた作品なんだけど、三浦しをんが恋愛小説を書くと、なんというかひねくれたものが出来上がるんだなぁ、という印象です。まあ、確かに、これまで読んできた作品も、そういうのが多かったけど。「こじらせている」というのとはまた違った意味で、ちょっとまともではない恋愛の形が色々描かれていて面白いな、と思います。っていうか、「恋愛」っていう名前をつけていいのかわからないようなものもありますけどね。
僕は、『誰かに一言で説明することが出来ない関係』っていうのに、結構憧れるんです。そういう人間関係を求めている。『現存する日本語では、その関係をピタリ一言で表現する単語が存在しないような関係』とでも言ったらいいか。
本書では、そういうなんとも表現しにくい関係性がたくさん出てくる。凄く羨ましいでござる。
なんか、たぶんなんだけど、スパっと名前がついちゃう関係が窮屈なのは、「その『関係性の名前』に関係性が引き摺られるから」なんだろうなぁ、という感じがします。「そういう関係性が先にあって、それをその名前で呼ぶ」っていうのが普通のはずなんだけど、「その名前で呼ばれている関係性だからこそ、こういう感じでいなくちゃいけない」みたいな逆転の圧力みたいなものが、自分の中に沸き上がってくるのであります。なかなかめんどくさいですね。
でも、名前がついていない関係だと、その意味の分からない圧力がそもそも生まれようがないから、なんというか穏やかな気持ちでいられるような気がします。
本書では、「付き合っているカップルのところに、女の方の元カレが転がり込んで三人で穏やかに過ごす」とか、「女子大生の生活の細々しいところまで覗き見している男」とか、「何でか分からないけど自分の部屋に住むように女から誘われた男」みたいな、謎めいた人間関係がたくさん登場します。いいですなぁ。そういう、わけわからん感じは、凄くいいです。羨ましいなぁ。
基本的に変人が大好きな僕は、変人だらけの本書の登場人物は、みんな愛すべき感じです。三浦しをんの小説は、そういう変人が結構出てくるから大好きです。変人っていうのは僕の中で、「『普通』という枠を勝手に自分で設定して、その枠の中に勝手に自分を押し込める、なんてことをしない人」のことなんですけど、ホントみんな『普通』なんていう謎めいた価値観から解き放たれていて素敵です。
変な人間ばっかりなんだけど、何故か日常感が醸し出されるのも、三浦しをんのマジックのような気がします。普通に書いたら、ちょっとぶっ飛んだ感じになっちゃいそうな物語を、巧くなだめて日常というステージに留めているような感じがします。というか、僕らが普段なかなか意識できない『日常の隙間』みたいなものを見つけるのが巧いっていうことなのかもしれません。そういう『日常の隙間』にはきっと、本書のような変わった登場人物がいるんだろうなぁ。
「シンプリーヘブン」は読んでて、なんとなく昔のこと思い出しました。高校の頃、好きだった女の子Aがいて、別にそれを誰に言うでもなく、ある日友達から「俺Aのこと好きなんだけど…」と相談をされて、その相談にずっと乗る、みたいなことがありました。というと、二人がうまく行かないように悪魔のようなアドバイスをしたみたいに思われるかもだけど全然そんなことはなくて、割と普通に、うまく行ってくれればいいなぁ、なんて思ってたりしたのでした。なんかそんな昔のことを思い出させられました。
「心身」は、なかなか斬新でした。二話目に当たるんだけど、まだこの作品全体のテイストみたいなものをはっきりとは掴みきれていない段階で、この「お年寄りがセックスしたいと悶々とする話」が出てくるんで、いきなり三浦しをんに引っ掻き回されたような感じがありました。途中から出てくる女の子が、なかなか良い感じです。
「柱の実り」も、ホント変わった物語だったなぁ。っていうか、柱に出来たその妙なモノとか、どっからそんなわけわからんもの思いつくんだろう、ってなもんです。なんとなく、一番すスッキリ感のない物語である気がします。
「黒い飲み物」は、凄くシンプルでオーソドックスな感じがしました。なんとなく、奥さんの側の心理がリアルな感じがして、男の側としてはやっぱり女性ってすげぇなと思わされる物語でした。
「穴」は、とにかく羨ましいなー、なんて思いながら読んでました。僕もやりたいっす、覗きライフ!
「ピース」は、ちょっと切ない感じの物語でした。そうだよなぁ、こういうものこそ愛なのかもしれないよねぇ、なんて思っちゃいましたよ。
「嘘の味」は、とにかくフラワーショップの常連さんの女の人が変人で素敵でした。いいなぁー、俺もああいう人とかかわり合いを持ちたいものであります。
それぞれの話がちょっとずつ重なりあって、木暮荘という舞台が縦横無尽に使われていくところもとても面白いと思います。是非読んでみてください。
三浦しをん「木暮荘物語」
ニュートンと贋金づくり 天才科学者が追った世紀の大犯罪(トマス・レヴェンソン)
内容に入ろうと思います。
本書は、なかなか面白い視点のノンフィクションです。あの、リンゴが落ちたのを見て万有引力を発見したという逸話を持つ、誰もが知る偉大な天才科学者であるニュートンが、実は造幣局の監事として、贋金づくりの犯罪者を追っていた、という事実に焦点を当てた作品です。
本書は、ニュートンと、そして当時天才的な贋金づくりの才を持っていた犯罪者、ウィリアム・チャロナーそれぞれの生い立ちなどを様々な文献などから出来るだけ詳細に追いかけ、最終的に二人がどんな風に邂逅し、どんな決着を見るのかを追っていきます。
ニュートンはもちろん、当初科学者として偉大なる尊敬を集める人物となった。田舎から出てきたニュートンは、その類まれな才能と、実験などへの驚異的な集中力を持って、20代で既に当時世界最高の科学者となっていた。しかしニュートンは、自身の成果をどこにも発表しようとしなかったため、誰もそれに気づかなかった。次第にニュートンの研究の成果が世に出るようになり、また近代科学の基盤を築くことになった「プリンキピア」を発表したことで、世間にもようやくニュートンの凄さが伝わるようになった。
ニュートンが造幣局の監事となる前、科学者として名声を得るまでの過程では、とにかくニュートンの研究に対する熱心さ、のめり込み度が描かれていく。やがてそれは、まったく畑違いである犯罪者を追い詰めるという職務に対しても発揮されることになる。
チャロナーは、経済的には世界最高の都市であったロンドンで一旗上げようと目論むが、金も伝手もない彼にはハードルの高い世界であった。表の世界も裏の世界も厳密な階級制度によって支配されていて、さらに日々大量の人間が流れこむロンドンという大都市にあって、彼は上にのし上がる方策をなかなか見いだせないでいた。
しかしやがて金になる商売を思いつき、やがて贋金づくりに手を染めていくことになる。
当時のイギリスには、贋金づくりが蔓延る下地が存在した。
まず、二種類の硬貨が流通していたことだ。元からの粗雑なものと、新しく流通させ始めた機械で作られたもの。古い硬貨が駆逐されない限り(古い硬貨の方が偽造や改変がしやすいので)、贋金はなかなかなくらない。
またもう一つ、贋金づくりと直接的には関係ないのだけど、当時のイギリスを脅かす重要な問題があった。それは、他国との通貨の価値の差である。
大抵硬貨は銀製だったが、「その硬貨をイギリス国内で普通に使用する」よりも、「その硬貨を潰して銀に戻し、銀塊として他国で売りさばく」方がより多くの利益を得られる状況だった。そういう中で、イギリスの硬貨は次々と外国へ流出し、国家財政は破綻寸前であった。
贋金づくりで名を馳せたチャロナーが活躍し、また造幣局の監事としてチャロナーを追い詰めるニュートンが活躍したのも、そんなイギリスでのことだった。
科学者としての名声を手に入れたニュートンがなぜケンブリッジを離れてロンドンで造幣局の監事として働くようになったのか。チャロナーは、他の贋金づくり師とどんな点で違っていて、またニュートン相手にどんな闘いを繰り広げたのか。ニュートン=科学者というイメージしか持っていない大多数の人には、非常に新鮮なノンフィクションではないかと思います。
なかなか面白い作品でした。予想していたよりは刺激的ではなかったんだけど、でも十分楽しめる作品でした。
やはり一番に面白い点は、本書の核心たる「ニュートンが造幣局の監事として贋金づくり師を追っていた」という事実そのものですね。もうこの事実を提示してくれているという点だけで面白いと思う。だって、ニュートンと言えば、その当時だけではなく、現在にいたる科学者の中でも最高峰と呼ばれている科学者です。だから、誰かと比較してってのはなんとなく難しいんだけど、でも例えばですよ、この前iPS細胞の研究でノーベル賞を受賞した山中教授が何かそういう類の捜査をしている、なんて想像してみると近いものがあるかもしれないなと思います。
本書は、『造幣局の監事としてのニュートン』という点に焦点を当てている作品ではあるのだけど、でも決してそれだけではない。僕は科学や科学者のノンフィクションを結構読むことがあるんだけど、それでも、ニュートンという人物に対する明確なイメージというのはあまりない。まあそうでしょう。今から400年ぐらい前の人ですからね。ニュートンの伝記みたいなものも、そこまで多くは存在していないのではないかと思います。
そういう意味で本書は、『ニュートンという人物そのもの』を浮き彫りにしている作品だと言えるでしょう。「ニュートン=造幣局の監事」というインパクトだけではなく、ありとあらゆる文献などから、最高峰の科学者として名高いニュートンという人物を出来るだけ深く掘り下げようとしているところが凄くいいなと思いました。
文献の話を先に書いてしまうと、本書は非常に面白い作りになっている。普通ノンフィクションなんかで、注釈とか引用表記なんかをする際は、肩の部分とかに小さく数字が振ってあって、巻末にその一覧が載っている、みたいな感じになると思います。でも本書の場合、どこかから引用したフレーズをすべてカッコ(「」)の中に入れていて、数字の表記なんかは何もない。それで、巻末に、そのカッコ(「」)に入ったフレーズの引用先が一覧で載っているという形式になっています。どこからの引用なのか気になる人は巻末を見ればいいし、僕みたいにそういうのが気にならない人は、カッコ(「」)のことをほとんど気にしないでそのまま読み進めて行けばいいので、これはなかなか面白いやり方だなと思いました。
さて、チャロナーの方なんだけど、どっちかというとチャロナーの描写にはちょっと物足りなさを感じました。期待よりも刺激的ではなかったと書いたのは、この点がちょっと残念だったからです。
本書では、タイトルの副題でも「世紀の大犯罪」と書かれているように、チャロナーは当時の最大級の知的犯罪者だというような扱われ方をしています。いや、実際にそうだったんだろうなとは思います。確かに読んでいると、チャロナーには他の犯罪者にはない大胆さがあると思います。
でも、もう少し、チャロナーの『大犯罪っぷり』が強調されてもよかったような気がすると僕は感じました。確かに凄いことをしているんだろうけど、今ひとつその凄さが伝わりにくい感じになっているように思う。もちろんこれは無茶な要求であって、400年前の犯罪者についてもっと詳細に書けよなんてのは無茶振りだってのは分かってるんだけど、でもやっぱり、「ニュートンが自分の知性に対抗しうると認めた敵」と表現するにはどうしてもちょっと物足りなさを感じてしまいました。
これが、ノンフィクションの限界かなという感じもします。だから、本書は本書でいいんだけど、別バージョンとして、これを元にした小説みたいなものがあったら面白いと思います。本書を原作とした映画とかでもいいですけど。『現在でも参照可能な事実』だけによって、400年前の犯罪者の大胆さを表現するのはなかなか酷かもしれません。ある程度創作を組み込みつつ二人の対決を描くというのは面白いかもしれません。なんとなく、百田尚樹の「海賊とよばれた男」みたいな感じにすると面白そうだなぁと思いました。
本書では、歴史に詳しくもないし興味もない僕には良し悪しを判断できないけど、1600年代当時のイギリスの雰囲気がかなりよく描き出されているように思います。著者は、ニュートンやチャロナーに関わる文献だけではなく、その当時に生きた様々な情報をありとあらゆるところからかき集めてきたんだろうという感じがしました。当時のイギリスの貨幣制度や財務状況、一般市民の感覚や当時の雰囲気などを、可能な限り『現在でも参照可能な事実』だけで描き出そうとしている執念みたいなものはかなり凄いなという感じがしました。ホント、これ一作書くのに、どれだけ膨大な文献と格闘したんだろうなぁ、と思います。
ちょっと時間がないのでそろそろ感想を終わりにしますけど、ニュートンが贋金づくり師を追っていたというインパクトと、丹念に文献を読み込み当時のイギリスの雰囲気を醸し出しながら描かれる二人の対決が読みどころの作品だと思います。是非読んでみて下さい。
トマス・レヴェンソン「ニュートンと贋金づくり 天才科学者が追った世紀の大犯罪」
本書は、なかなか面白い視点のノンフィクションです。あの、リンゴが落ちたのを見て万有引力を発見したという逸話を持つ、誰もが知る偉大な天才科学者であるニュートンが、実は造幣局の監事として、贋金づくりの犯罪者を追っていた、という事実に焦点を当てた作品です。
本書は、ニュートンと、そして当時天才的な贋金づくりの才を持っていた犯罪者、ウィリアム・チャロナーそれぞれの生い立ちなどを様々な文献などから出来るだけ詳細に追いかけ、最終的に二人がどんな風に邂逅し、どんな決着を見るのかを追っていきます。
ニュートンはもちろん、当初科学者として偉大なる尊敬を集める人物となった。田舎から出てきたニュートンは、その類まれな才能と、実験などへの驚異的な集中力を持って、20代で既に当時世界最高の科学者となっていた。しかしニュートンは、自身の成果をどこにも発表しようとしなかったため、誰もそれに気づかなかった。次第にニュートンの研究の成果が世に出るようになり、また近代科学の基盤を築くことになった「プリンキピア」を発表したことで、世間にもようやくニュートンの凄さが伝わるようになった。
ニュートンが造幣局の監事となる前、科学者として名声を得るまでの過程では、とにかくニュートンの研究に対する熱心さ、のめり込み度が描かれていく。やがてそれは、まったく畑違いである犯罪者を追い詰めるという職務に対しても発揮されることになる。
チャロナーは、経済的には世界最高の都市であったロンドンで一旗上げようと目論むが、金も伝手もない彼にはハードルの高い世界であった。表の世界も裏の世界も厳密な階級制度によって支配されていて、さらに日々大量の人間が流れこむロンドンという大都市にあって、彼は上にのし上がる方策をなかなか見いだせないでいた。
しかしやがて金になる商売を思いつき、やがて贋金づくりに手を染めていくことになる。
当時のイギリスには、贋金づくりが蔓延る下地が存在した。
まず、二種類の硬貨が流通していたことだ。元からの粗雑なものと、新しく流通させ始めた機械で作られたもの。古い硬貨が駆逐されない限り(古い硬貨の方が偽造や改変がしやすいので)、贋金はなかなかなくらない。
またもう一つ、贋金づくりと直接的には関係ないのだけど、当時のイギリスを脅かす重要な問題があった。それは、他国との通貨の価値の差である。
大抵硬貨は銀製だったが、「その硬貨をイギリス国内で普通に使用する」よりも、「その硬貨を潰して銀に戻し、銀塊として他国で売りさばく」方がより多くの利益を得られる状況だった。そういう中で、イギリスの硬貨は次々と外国へ流出し、国家財政は破綻寸前であった。
贋金づくりで名を馳せたチャロナーが活躍し、また造幣局の監事としてチャロナーを追い詰めるニュートンが活躍したのも、そんなイギリスでのことだった。
科学者としての名声を手に入れたニュートンがなぜケンブリッジを離れてロンドンで造幣局の監事として働くようになったのか。チャロナーは、他の贋金づくり師とどんな点で違っていて、またニュートン相手にどんな闘いを繰り広げたのか。ニュートン=科学者というイメージしか持っていない大多数の人には、非常に新鮮なノンフィクションではないかと思います。
なかなか面白い作品でした。予想していたよりは刺激的ではなかったんだけど、でも十分楽しめる作品でした。
やはり一番に面白い点は、本書の核心たる「ニュートンが造幣局の監事として贋金づくり師を追っていた」という事実そのものですね。もうこの事実を提示してくれているという点だけで面白いと思う。だって、ニュートンと言えば、その当時だけではなく、現在にいたる科学者の中でも最高峰と呼ばれている科学者です。だから、誰かと比較してってのはなんとなく難しいんだけど、でも例えばですよ、この前iPS細胞の研究でノーベル賞を受賞した山中教授が何かそういう類の捜査をしている、なんて想像してみると近いものがあるかもしれないなと思います。
本書は、『造幣局の監事としてのニュートン』という点に焦点を当てている作品ではあるのだけど、でも決してそれだけではない。僕は科学や科学者のノンフィクションを結構読むことがあるんだけど、それでも、ニュートンという人物に対する明確なイメージというのはあまりない。まあそうでしょう。今から400年ぐらい前の人ですからね。ニュートンの伝記みたいなものも、そこまで多くは存在していないのではないかと思います。
そういう意味で本書は、『ニュートンという人物そのもの』を浮き彫りにしている作品だと言えるでしょう。「ニュートン=造幣局の監事」というインパクトだけではなく、ありとあらゆる文献などから、最高峰の科学者として名高いニュートンという人物を出来るだけ深く掘り下げようとしているところが凄くいいなと思いました。
文献の話を先に書いてしまうと、本書は非常に面白い作りになっている。普通ノンフィクションなんかで、注釈とか引用表記なんかをする際は、肩の部分とかに小さく数字が振ってあって、巻末にその一覧が載っている、みたいな感じになると思います。でも本書の場合、どこかから引用したフレーズをすべてカッコ(「」)の中に入れていて、数字の表記なんかは何もない。それで、巻末に、そのカッコ(「」)に入ったフレーズの引用先が一覧で載っているという形式になっています。どこからの引用なのか気になる人は巻末を見ればいいし、僕みたいにそういうのが気にならない人は、カッコ(「」)のことをほとんど気にしないでそのまま読み進めて行けばいいので、これはなかなか面白いやり方だなと思いました。
さて、チャロナーの方なんだけど、どっちかというとチャロナーの描写にはちょっと物足りなさを感じました。期待よりも刺激的ではなかったと書いたのは、この点がちょっと残念だったからです。
本書では、タイトルの副題でも「世紀の大犯罪」と書かれているように、チャロナーは当時の最大級の知的犯罪者だというような扱われ方をしています。いや、実際にそうだったんだろうなとは思います。確かに読んでいると、チャロナーには他の犯罪者にはない大胆さがあると思います。
でも、もう少し、チャロナーの『大犯罪っぷり』が強調されてもよかったような気がすると僕は感じました。確かに凄いことをしているんだろうけど、今ひとつその凄さが伝わりにくい感じになっているように思う。もちろんこれは無茶な要求であって、400年前の犯罪者についてもっと詳細に書けよなんてのは無茶振りだってのは分かってるんだけど、でもやっぱり、「ニュートンが自分の知性に対抗しうると認めた敵」と表現するにはどうしてもちょっと物足りなさを感じてしまいました。
これが、ノンフィクションの限界かなという感じもします。だから、本書は本書でいいんだけど、別バージョンとして、これを元にした小説みたいなものがあったら面白いと思います。本書を原作とした映画とかでもいいですけど。『現在でも参照可能な事実』だけによって、400年前の犯罪者の大胆さを表現するのはなかなか酷かもしれません。ある程度創作を組み込みつつ二人の対決を描くというのは面白いかもしれません。なんとなく、百田尚樹の「海賊とよばれた男」みたいな感じにすると面白そうだなぁと思いました。
本書では、歴史に詳しくもないし興味もない僕には良し悪しを判断できないけど、1600年代当時のイギリスの雰囲気がかなりよく描き出されているように思います。著者は、ニュートンやチャロナーに関わる文献だけではなく、その当時に生きた様々な情報をありとあらゆるところからかき集めてきたんだろうという感じがしました。当時のイギリスの貨幣制度や財務状況、一般市民の感覚や当時の雰囲気などを、可能な限り『現在でも参照可能な事実』だけで描き出そうとしている執念みたいなものはかなり凄いなという感じがしました。ホント、これ一作書くのに、どれだけ膨大な文献と格闘したんだろうなぁ、と思います。
ちょっと時間がないのでそろそろ感想を終わりにしますけど、ニュートンが贋金づくり師を追っていたというインパクトと、丹念に文献を読み込み当時のイギリスの雰囲気を醸し出しながら描かれる二人の対決が読みどころの作品だと思います。是非読んでみて下さい。
トマス・レヴェンソン「ニュートンと贋金づくり 天才科学者が追った世紀の大犯罪」
ワールドゲイズクリップス(五十嵐藍)
内容に入ろうと思います。
本書は、3編+αの短編が収録されたコミックです。
「放課後ロスト」
なんとなくクソッタレな日常を過ごしてる委員長。ふとしたきっかけで出会ったちょっと謎めいたクラスメート。ついうっかりどこでも勉強をしてしまう委員長と、普段何をしてるのかよくわからないクラスメート。なんとなく、日常が嫌になって、家出とか、してみる。
「ウォーキング ウィズ ア フレンド」
カラスの死体をどこかに埋めたい女の子と、成り行きでそれに付き合うことになった失恋したばかりの男の子。なんとなく、どこへ向かうともなく、埋葬場所を探して放浪する二人。森の奥の小屋で一晩明かし、カラスを埋める。
「緑雨」
子供の頃の記憶。なんか凄く思い出深い女の子の記憶が蘇るんだけど、ちゃんと思い出せない。ある日、その女の子に面影の似た子を見かける。後をつけて、話をする。人違いなのかもしれない。よくわからないけど、時々、金魚の世話をするために、彼女のところに行く。
「blue imaginary birds」
ふと青い鳥を見かけた女の子。モトサヤに戻りたい彼女は、その青い鳥を捕まえれば幸せになれると信じて追い続ける。
というような話です。
これは結構好きなコミックでした。登場人物のリアルさと、ストーリーのアンリアルさみたいなものがアンバランスで凄くいいし、基本的にぶっ飛んだ女の子は好きです。
話はどれも、淡々と進んでいく。特別な盛り上がりはない。普通のストーリーだったら、この辺で変に盛り上げるんだろうなぁ、というところでも、全然そんな雰囲気を出さない。ドラマ性を全然用意しないまま、淡々と描いていく。
その淡々とした感じが、登場人物のリアルさを醸し出すのに凄くいい雰囲気を与えている。僕らの日常は基本的に、全然ドラマチックじゃないし、そんなに面白いことなんてない。そういう『当たり前の普通』を生きる彼女たちの姿は、凄くリアルっぽい。
そのリアルっぽさは、ストーリーを伝えるための会話をしない、という点でも現れる。割と普通、物語を伝えるために、読者向けに何かを伝えるための会話みたいなのって、ストーリーの中に挟み込まれることって多い気がするんだけど、この作品ではそういうのが全然ない。だから、誰が誰とどういう関係で、今どういう状況にあって、彼女たちが何をしているのか、みたいなことを結構想像しなくちゃいけない。それが、なんかリアルっぽくていいなぁ、と思う。僕らは普段、『読者的な存在』に向けて『説明的な会話』をしたりしないですからね。
その一方で、ストーリーは結構メチャクチャです。メチャクチャというか、ある意味ではそれもリアルさの切り取り方なのかもしれないけど、なんか無茶苦茶な感じがする。特に二話目の、カラスの死体を捨てに行く話は、はっきり言ってストーリーだけとったら意味不明でしょう。そういう、何故か登場人物たちは深刻に捉えないけど、でも普通に考えたらちとそれ暴力的な理不尽さじゃないかい?みたいなストーリーが描かれていく印象があります。
その、登場人物のリアルさと、ストーリーのアンリアルさのミスマッチ感が、僕は結構好きだったりします。
それに、描かれる女の子たちが結構ぶっ飛んだ感じなんですよね。それも凄くいい。
でも、この『ぶっ飛んでる感じ』は、凄く説明しにくいんだよなぁ。
『奇抜』っていうんじゃない。確かに、読者の側からすれば奇抜に見える女の子もいるんだけど、でも作中の世界観の中では決して奇抜ではない。そこがとても重要だと僕は思ってて、その世界観の中での『奇抜さ』みたいなものを強く描き出したいわけではないと思うんですね。
僕が彼女たちのぶっ飛んでる感を表現するのに一番しっくりくる言葉は、『ダルい』です。
しかもこの『ダルい』は、『その場で立ち止まりたいよー』という『ダルい』とはちょっと違うんですよね。なんだかんだ、彼女たちは、『彼女たちが前だと思う方向』に進もうとしているし、実際に進んでもいる。立ちどまって、何もしたくないわー、っていうのとはちょっと違う。
彼女たちの『ダルい』感じは、『前に進むための理由がないこと』から来るんだろうなぁ、と思う。自分を動かす燃料がない、みたいな感じ。内側の空虚さに、否応なしに気付かされている、というような。なんとなく、前に進まないといけないような気はしている。でも、えっじゃあなんで前に進まないといけないんだっけ?みたいな部分にハマる答えを持たない。空っぽのまま、とりあえず身体だけ前に動かしている、みたいな。燃料がないまま動いているから『ダルい』。そういう印象があります。
自分の内側の空虚さを埋めたいんだけど、でも『埋めたい!』というほどの切実さもない。埋まればいいよねー、ぐらいのことしか考えてない。それは、『頭の悪い軽さ』というのともちょっと違う。自分の内側の空虚さには、何かマズイものを感じているように思うのだ。でも、それをどうにかしなきゃという気力が湧かないだけなのだ。
そんな『ダルい』感じの女の子を書くのがとても巧いと思うし、僕はそういう女の子が結構好きだったりするんですね。なんとなく、凄くしっくりくる感じがあります。
特に、「緑雨」の女の子の感じは凄くいいと思うんだよなぁ。あの『ダルさ』は素敵です。たぶんそこには、自分はあんな風には生きられないよなぁ、みたいな憧れ的な何かもあると思いますけどね。あと、「放課後ロスト」の委員長じゃない方の女の子とか、「ウォーキング ウィズ ア フレンド」の女の子とか、あぁいう感じはとても好きです。みんな、普通の人は生きていく中でどうしても絡め取られてしまった『何か』からするりと抜けだしたみたいな開放感があって素敵です。自由だなぁ。
あと、絵的なことでいうと、女の子の姿形が結構エロくて好きです。
でもこのエロさは、人によっては感じられないかも。僕は、細くてシュッとしてて胸がそんなに大きくない女の子がいいなぁって思うんだけど、そういう僕好みの女の子のエロさなんですね。あと、脚が細いところとか素敵です。他の人が、本書で描かれる女の子を見て「エロい」と感じるのかは、僕にはよくわかりません。
全体的に、僕好みの作品だったなという感じがします。空気感が素敵な作品だと思います。是非読んでみてください。
五十嵐藍「ワールドゲイズクリップス」
本書は、3編+αの短編が収録されたコミックです。
「放課後ロスト」
なんとなくクソッタレな日常を過ごしてる委員長。ふとしたきっかけで出会ったちょっと謎めいたクラスメート。ついうっかりどこでも勉強をしてしまう委員長と、普段何をしてるのかよくわからないクラスメート。なんとなく、日常が嫌になって、家出とか、してみる。
「ウォーキング ウィズ ア フレンド」
カラスの死体をどこかに埋めたい女の子と、成り行きでそれに付き合うことになった失恋したばかりの男の子。なんとなく、どこへ向かうともなく、埋葬場所を探して放浪する二人。森の奥の小屋で一晩明かし、カラスを埋める。
「緑雨」
子供の頃の記憶。なんか凄く思い出深い女の子の記憶が蘇るんだけど、ちゃんと思い出せない。ある日、その女の子に面影の似た子を見かける。後をつけて、話をする。人違いなのかもしれない。よくわからないけど、時々、金魚の世話をするために、彼女のところに行く。
「blue imaginary birds」
ふと青い鳥を見かけた女の子。モトサヤに戻りたい彼女は、その青い鳥を捕まえれば幸せになれると信じて追い続ける。
というような話です。
これは結構好きなコミックでした。登場人物のリアルさと、ストーリーのアンリアルさみたいなものがアンバランスで凄くいいし、基本的にぶっ飛んだ女の子は好きです。
話はどれも、淡々と進んでいく。特別な盛り上がりはない。普通のストーリーだったら、この辺で変に盛り上げるんだろうなぁ、というところでも、全然そんな雰囲気を出さない。ドラマ性を全然用意しないまま、淡々と描いていく。
その淡々とした感じが、登場人物のリアルさを醸し出すのに凄くいい雰囲気を与えている。僕らの日常は基本的に、全然ドラマチックじゃないし、そんなに面白いことなんてない。そういう『当たり前の普通』を生きる彼女たちの姿は、凄くリアルっぽい。
そのリアルっぽさは、ストーリーを伝えるための会話をしない、という点でも現れる。割と普通、物語を伝えるために、読者向けに何かを伝えるための会話みたいなのって、ストーリーの中に挟み込まれることって多い気がするんだけど、この作品ではそういうのが全然ない。だから、誰が誰とどういう関係で、今どういう状況にあって、彼女たちが何をしているのか、みたいなことを結構想像しなくちゃいけない。それが、なんかリアルっぽくていいなぁ、と思う。僕らは普段、『読者的な存在』に向けて『説明的な会話』をしたりしないですからね。
その一方で、ストーリーは結構メチャクチャです。メチャクチャというか、ある意味ではそれもリアルさの切り取り方なのかもしれないけど、なんか無茶苦茶な感じがする。特に二話目の、カラスの死体を捨てに行く話は、はっきり言ってストーリーだけとったら意味不明でしょう。そういう、何故か登場人物たちは深刻に捉えないけど、でも普通に考えたらちとそれ暴力的な理不尽さじゃないかい?みたいなストーリーが描かれていく印象があります。
その、登場人物のリアルさと、ストーリーのアンリアルさのミスマッチ感が、僕は結構好きだったりします。
それに、描かれる女の子たちが結構ぶっ飛んだ感じなんですよね。それも凄くいい。
でも、この『ぶっ飛んでる感じ』は、凄く説明しにくいんだよなぁ。
『奇抜』っていうんじゃない。確かに、読者の側からすれば奇抜に見える女の子もいるんだけど、でも作中の世界観の中では決して奇抜ではない。そこがとても重要だと僕は思ってて、その世界観の中での『奇抜さ』みたいなものを強く描き出したいわけではないと思うんですね。
僕が彼女たちのぶっ飛んでる感を表現するのに一番しっくりくる言葉は、『ダルい』です。
しかもこの『ダルい』は、『その場で立ち止まりたいよー』という『ダルい』とはちょっと違うんですよね。なんだかんだ、彼女たちは、『彼女たちが前だと思う方向』に進もうとしているし、実際に進んでもいる。立ちどまって、何もしたくないわー、っていうのとはちょっと違う。
彼女たちの『ダルい』感じは、『前に進むための理由がないこと』から来るんだろうなぁ、と思う。自分を動かす燃料がない、みたいな感じ。内側の空虚さに、否応なしに気付かされている、というような。なんとなく、前に進まないといけないような気はしている。でも、えっじゃあなんで前に進まないといけないんだっけ?みたいな部分にハマる答えを持たない。空っぽのまま、とりあえず身体だけ前に動かしている、みたいな。燃料がないまま動いているから『ダルい』。そういう印象があります。
自分の内側の空虚さを埋めたいんだけど、でも『埋めたい!』というほどの切実さもない。埋まればいいよねー、ぐらいのことしか考えてない。それは、『頭の悪い軽さ』というのともちょっと違う。自分の内側の空虚さには、何かマズイものを感じているように思うのだ。でも、それをどうにかしなきゃという気力が湧かないだけなのだ。
そんな『ダルい』感じの女の子を書くのがとても巧いと思うし、僕はそういう女の子が結構好きだったりするんですね。なんとなく、凄くしっくりくる感じがあります。
特に、「緑雨」の女の子の感じは凄くいいと思うんだよなぁ。あの『ダルさ』は素敵です。たぶんそこには、自分はあんな風には生きられないよなぁ、みたいな憧れ的な何かもあると思いますけどね。あと、「放課後ロスト」の委員長じゃない方の女の子とか、「ウォーキング ウィズ ア フレンド」の女の子とか、あぁいう感じはとても好きです。みんな、普通の人は生きていく中でどうしても絡め取られてしまった『何か』からするりと抜けだしたみたいな開放感があって素敵です。自由だなぁ。
あと、絵的なことでいうと、女の子の姿形が結構エロくて好きです。
でもこのエロさは、人によっては感じられないかも。僕は、細くてシュッとしてて胸がそんなに大きくない女の子がいいなぁって思うんだけど、そういう僕好みの女の子のエロさなんですね。あと、脚が細いところとか素敵です。他の人が、本書で描かれる女の子を見て「エロい」と感じるのかは、僕にはよくわかりません。
全体的に、僕好みの作品だったなという感じがします。空気感が素敵な作品だと思います。是非読んでみてください。
五十嵐藍「ワールドゲイズクリップス」
辺境ラジオ(内田樹×名越康文×西靖)
内容に入ろうと思います。
本書は、大阪の毎日放送で不定期に放送されている「辺境ラジオ」というラジオ番組を書籍化した作品です。
まず、「辺境ラジオ」というラジオ番組について説明してみます。
このラジオ番組は、なかなかに変わった番組のようで、次のような特徴があります。
・だいたい3ヶ月から半年に一度くらい、突然放送される
・放送枠は、普段何も放送されていない週末の深夜、放送業界でいう「放送休止枠」である
・いつ放送されるかは当人たちもよくわかっていないが、「そろそろだよね?」という息は不思議と合う。
なんというか、よくそんな企画が通るなぁと思うし、内田樹と名越康文っていう結構なネームバリューの二人を連れてきてそんな扱い(っていう表現もおかしいけど)っていうのも凄いし、それに公開録音とかもやってるんだけど、そんないつ放送されるのかもわからないラジオ番組をちゃんと追っかけている人がいる(公開録音には静岡から参加の方もいたそうです)っていうのも凄いなと思います。
内田樹と名越康文については、まあ大体の人が大体知っていると思いますけど、一応ざっくりと。内田樹は、長く大学教授を務め教育に携わる一方、武道を長いこと続けてきて、退職後は「凱風館」という道場を作り弟子の指導に励んでいる。名越康文は精神科医として一日に多くの患者を相手にしながら、テレビ・ラジオなどに積極的に顔を出す。両者とも、著作は多数ある方々です。
西靖というのは、毎日放送のアナウンサー。毎日放送創立60周年記念企画の一環として「60日間世界一周の旅」を行い、それは書籍化されてもいる。二人の知の巨人の会話を、「へぇそうなんですかぁ」という立ち位置で巧く操り、二人から「鵜匠」と呼ばれる。
そんな三人によるラジオ番組を書籍化した作品なんですけど、これがもうメチャクチャ面白かった!
内田樹の作品は時々読んだことがあって、その明快な主張とか分かりやすい説明なんかに凄く納得して感銘を受けることが多いんで、内田樹にはとても期待していたんですけど、名越康文も凄くいい。正直僕の中で、名越康文って、なんとなく胡散くさい印象があったんです。精神科医とかカウンセラーみたいな人をそもそも胡散くさいものとして見ている、っていうことなんだろうと思うんだけど、なんとなく出版している本のタイトルなんかを漠然と見ていると、うーんという感じの違和感を覚えることが結構あったんですね。まあ、著作は読んだことないんで、完全に先入観なんですけどね。
でも、名越康文も、内田樹と張るほどの知性の持ち主なんだなぁ、ということが分かる作品でした。
二人の話は、レベルはとても高いんだけど、高尚すぎるという印象はない。高い位置に土俵があって、何をやっているのか見えない、みたいな感じには全然ならない。そうじゃなくて、僕らと同じような目線の場所で話が展開されていく。なんとなく、「難しい言葉や言い回しを駆使することが知性だ」みたいな錯覚に陥ってしまうことってあるけど、内田樹と名越康文の会話を読んでいると、あぁやっぱり違うな、難しい言葉や言い回しを使わないで高いレベルの話が出来るというのが本当の知性なんだろうなぁ、なんて風に改めて思わされます。
何よりも素晴らしいのが、二人が実に楽しそうに話をしていることなんですね。本書の中で、テレビとラジオの違いが時々話題に出るんだけど、やはりテレビよりラジオの方が圧倒的に話しやすい、という結論になる。テレビでは台本があることが多いけど(でも、関西のテレビは、台本があってもその台本は無視されることが多いらしい)、ラジオにはそれはない。というか、既にある言葉を喋ることではリスナーを惹きつけ続けられない、と。その場で思いついた言葉を次々に繰り出さないといけないのだ、という話になって、ラジオって聞く習慣がないけど、やっぱり面白いんだろうなぁ、と思いました。
しかし、どんな話が展開されるのか、収録の前にはまったくわかっていないはずなのに、二人が資料も何もないまま、様々な知識を自分の脳味噌の引き出しから出し入れする様は、本当に驚異的だなと思います。とても高度なレベルでの会話が行われている。二人のデフォルトで持つ様々な知識が、会話をぐうんとドライブさせていく。ある一つの話題が、二人の知識によってスイングさせられることで、どんどんと曲がりうねり変質していく。そのライブ感が本当に凄いなと思います。
なにせ、2010年11月の第一回の放送で、最初の最初の話題は何かというと、『「ハエが手を擦る足を擦るはなぜか?」という新聞記事』についてなんです。このラジオは元々、
『アメリカや中国ではなく日本、東京ではなく大阪、テレビではなくラジオ、すなわち、中心ではなく端っこだからこそ見えるニュースの本質を語り合うラジオ報道番組』
という趣旨があって、番組の冒頭で読み上げられるようだ(「辺境」という言葉は、内田樹が「日本辺境論」という本を出した直後だったのでそこから借りたらしい)。2011年3月11日の東日本大震災を境に、その趣旨は若干変わってしまうわけなんだけど、元々そういう趣旨で始まった番組だから、端っこにある隙間のような話題について色々話していこう、というコンセプトがあった。
とはいえですよ、いきなり『ハエ』の話ですからね。それでそこから、面白い話題がバンバン展開されていく。
僕は、一応自分でそう思っているだけなんだけど、誰かとの会話の中で、話題をあちこちに適当に振り回すのが少しは得意だと思っているんです。一応そういう自覚のある人間からすると、この二人の会話はやっぱり凄い。圧倒的な知識量のお陰で、会話を振り回す振り幅が物凄く広いし、それでいて聞いている人間を置き去りにしないだけの整合性と一貫性を提示できる話力と言葉を持っている。
そして、あとがき代わりの対談の中で二人が語っているのが、『鵜匠』である西靖の存在の大きさであるようだ。本書を読む前にあるネットの記事を読んだのだけど(というか、その記事を読んだからこそ本書を読もうと思ったのだけど)、そこで西靖が、自分は「何も知らない」という立ち位置でいることで全体がうまく回っていたのかも、的なことを言っていたと思う(たぶん表現はもっと違ったと思うけど)。二人も、いざとなったら西靖がブレーキを掛けてくれることが分かっているからこそ、自分の中江ブレーキを書けずに突っ走れた、みたいなことを言っています。実際、内田樹と名越康文は仕事以外の場でも話す機会があるようなのだけど、二人で話している時は辺境ラジオのような感じにはならない、と言っています。本書を読んでいる限り、西靖の存在力の強さは二人が感じているほどには感じられないだろうと思うのだけど、でも化学反応における触媒のように(化学実験では、AとBという物質を何らかの形で反応させる時、Cという物質を入れることがある。Cは、AともBとも反応をしないのだけど、その化学反応そのものを促進させる効果を持つ)、西靖の存在力というのは非常に大きかったのだろうなぁ、という感じがします。
本当に事前に何も決めないで話し始めているようで、話題はあちこちに飛びまくります。一応、震災後の日本とか、その年気になったニュース、なんていうお題が設定されていたりするんだけど(そして、時々西靖がそのお題に話を戻すんだけど)、でも二人は思いつくままにあちこち飛びながら話を続ける。政治や経済や大阪という大きな話から、自分が関わってきた学生の話とか結婚の話なんていうミニマムなサイズの話まで、とにかくありとあらゆる話が展開されていきます。サンデル教授はあんまり好きじゃないんだよなぁ、みたいな、ちょっと大丈夫かな?みたいな話も出てきて面白いです。
こういう果てしない知性の持ち主の思想や考え方なんかに触れていると、ふと気付くことがあります。それは、『何か自分とは異質な意見に触れた時に、一旦立ち止まることが出来るようになる』ということです。
僕は元々、自分の認識では、異質な意見に対する許容力みたいなものは、普通の人よりはあるような気がします。というかそれは、特に自分の意見がないというだけの話で、誰の話にも、なるほど一理あるなぁ、なんて思っちゃうダメな人間なんですけど、でもやっぱり時々は、聞いた瞬間に「えーー!!」って思っちゃうような、なんか瞬間的に拒絶反応が沸き起こるような意見みたいなものもあったりするんです。でも、内田樹と名越康文は、凄く分かりやすい言葉で、色んな意見や価値観や感情の背景を提示して見せる。そういう会話をずっと読んでいると、「なるほど、どんな意見にも、それを支えるだけの背骨みたいなものがあるのだなぁ」という感覚を、それまで以上に強く持つことが出来るような気がしています。そういう意味でも、凄く有益な対談だなぁ、という感じがします。
あまりにも様々な話題に触れ、しかも鋭い知性でそれらに触れ回っていくので、具体的に内容に触れるのはなかなか難しい作品です。なので、本書からかなり気になった言葉を選別して引用して、感想を終えたいと思います。
名越『ここ150年くらい以前の重要な文化は、ほとんど「見えないもの」を追求し、感知し、声を聴き、見るために、何十万年もの歳月が費やされている。これを「文化がまだ成熟していなかったからだ」と退けられる迫力を、僕たちはもう持っていない。僕たちは何十万年も見えないものを追求してきて、偶然この100年くらいの間だけ「見えるものに限りましょう」というルールに括られてきただけ』
名越『でもね、この前に内田先生が、「教育という場、特に大学という場は、若い者がいろんな発言をする。その時に、その発言をいったん真正面から受け止める大人がいて、どんな自己表現をしても受け止めてもらえるという安心感がなければ何にも始まらない」とツイッターで書いていた。そこはやっぱり絶対必要ですよね』
内田『でも、それは別に「元気」ということじゃなくて、ただ「金があった」というだけのことでしょう。お金が余っていて、みんながじゃんじゃんお金を使っていた時期のことを「元気」だというのはおかしいでしょう。消費活動が活発であることを「元気」というのは僕はおかしいと思う』
内田『それも元をたどれば、目先の金が欲しいからなんです。金がほしい一念でみんなが必死に動いた結果、こいいう「元気のない社会」ができてしまった。』
名越『そう。「物理的に届かないものは届かないんだ」という悪い意味での科学的思考をこの歳に脱却する。祈れば必ず届くものはふんだんにあるということを一度信じてみてほしい。』
内田『周りの人たちの言動ばかり気にしている人間は、祈りなんて届かないと思ってる。自分の意向が届くのは、自分の拳骨が届く範囲内だと思っている奴は決して祈らない。でも、遠いところ、知らない人にまで思いを届けようと思ったら、祈る他ないでしょう』
内田『確かなことは、学校の先生から、知的な意味での関心や敬意を示された経験がないということ。教室で発言するのは、先生が出した問いに答える場合だけ。だから、自分の考えていることに教師が深い関心を寄せたという経験をしたことがない。大学のゼミで学生が話し出した時に、僕が身を乗り出して聞いていると、向こうはきょとんとしている。「どうしてこの先生は私の話を真面目な顔で聞いているのだろう。何か裏があるのか?」と感じている。』
名越『地震が起きた直後から、僕も及ばずながらいろいろなマスコミからメッセージを求められたんです。でも本当に言いたかったことは、「勝手にやりなさい」ということだったんです。それは「勝手にしろ」と相手を否定するのではなくて、一人ひとりがそれぞれ自分の目の前にあることを一生懸命やれば全体が回っていくという意味なんです。』
内田『僕が言いたいのは、こういう大きな事件についてはそれを自分で受け止めて言葉にできるまで、一人ひとりの中でぜんぜん違う時間が流れているということです。だから自分のペースでゆっくりと経験を咀嚼していただきたいと思います。』
内田『そういう「究極の選択」を迫られるような局面に追い込まれるということ自体が、膨大な量の失敗の蓄積の結果なんだから。そういう事態に立ち至らないために、今ここで何をするかというのが武道的な考え方なんです。』
内田『変ですよ。だって、長期的に考えたらこんなにコストに合わないものはないわけですよ。国土の一部が居住不能になってしまって、何十万人もの人たちが暮らしていた生活圏から駆逐されて、帰ることも生計の途も立てることができない。それにもしこれから先に国際賠償を要求された場合、どれぐらいの金額になるか見当もつかない。そういう時に「この冬の暖房のための電力が賄えませんから、節電にご協力を、してくれないんだったら原発を動かします」なんていう議論は、「君たちは一体何を言っているんだ」と絶句するくらいにナンセンスでしょう』
名越『胸を貼って「オレは保留だ!」と言えばいいんですよ。「保留に決まってるだろ、バカ!」って。だって一度態度を決めてしまったら、例えば「実は漏れていました」とか新しいことがわかった時に、「自分はなんてバカだったんだ」と思って心が疲れるでしょう?堂々と「そんなもん保留に決まってるだろ!」と言えば、ある時期にパッと態度が決められるかもしれませんからね。』
内田『一つの問題について語った時、「触れてよいはずなのだが、触れていない論点がある」というだけの理由で、「論が破綻している」と言えるのなら、もうこの世に破綻していない論なんて一つも存在しない』
内田『でも、ネット上の罵倒って、要するに「お前はオレが知っていることを知らない」ということに尽くされてしまうでしょう。「オレもバカだが、お前も同じくらいバカだ」というのは、確かに反論不能の真理なんです。でも、それで話を終わりにしたら、もう生産的な対話というものは存在しようがない。対話というのは本来「そこから」始まるものだから。そこで切り捨てられてしまうなら、これほど不毛なことはない。』
内田『でも、本当にそうですよね。暗い気持ちで下した決断はほとんど間違っている。明るい気持ちの時は自然過ぎて、そもそも何かについて重大な「決断する」というような局面に遭遇しないから』
内田『人間がよくわからないまま「昔からこうだったから、このままでやっていこうよ」といって何千年もずっと維持してきたものは、ある日壊してしまうと、もう二度と同じものは作れないんです』
とても素晴らしい作品だと思います。是非読んでみてください!
内田樹×名越康文×西靖「辺境ラジオ」
本書は、大阪の毎日放送で不定期に放送されている「辺境ラジオ」というラジオ番組を書籍化した作品です。
まず、「辺境ラジオ」というラジオ番組について説明してみます。
このラジオ番組は、なかなかに変わった番組のようで、次のような特徴があります。
・だいたい3ヶ月から半年に一度くらい、突然放送される
・放送枠は、普段何も放送されていない週末の深夜、放送業界でいう「放送休止枠」である
・いつ放送されるかは当人たちもよくわかっていないが、「そろそろだよね?」という息は不思議と合う。
なんというか、よくそんな企画が通るなぁと思うし、内田樹と名越康文っていう結構なネームバリューの二人を連れてきてそんな扱い(っていう表現もおかしいけど)っていうのも凄いし、それに公開録音とかもやってるんだけど、そんないつ放送されるのかもわからないラジオ番組をちゃんと追っかけている人がいる(公開録音には静岡から参加の方もいたそうです)っていうのも凄いなと思います。
内田樹と名越康文については、まあ大体の人が大体知っていると思いますけど、一応ざっくりと。内田樹は、長く大学教授を務め教育に携わる一方、武道を長いこと続けてきて、退職後は「凱風館」という道場を作り弟子の指導に励んでいる。名越康文は精神科医として一日に多くの患者を相手にしながら、テレビ・ラジオなどに積極的に顔を出す。両者とも、著作は多数ある方々です。
西靖というのは、毎日放送のアナウンサー。毎日放送創立60周年記念企画の一環として「60日間世界一周の旅」を行い、それは書籍化されてもいる。二人の知の巨人の会話を、「へぇそうなんですかぁ」という立ち位置で巧く操り、二人から「鵜匠」と呼ばれる。
そんな三人によるラジオ番組を書籍化した作品なんですけど、これがもうメチャクチャ面白かった!
内田樹の作品は時々読んだことがあって、その明快な主張とか分かりやすい説明なんかに凄く納得して感銘を受けることが多いんで、内田樹にはとても期待していたんですけど、名越康文も凄くいい。正直僕の中で、名越康文って、なんとなく胡散くさい印象があったんです。精神科医とかカウンセラーみたいな人をそもそも胡散くさいものとして見ている、っていうことなんだろうと思うんだけど、なんとなく出版している本のタイトルなんかを漠然と見ていると、うーんという感じの違和感を覚えることが結構あったんですね。まあ、著作は読んだことないんで、完全に先入観なんですけどね。
でも、名越康文も、内田樹と張るほどの知性の持ち主なんだなぁ、ということが分かる作品でした。
二人の話は、レベルはとても高いんだけど、高尚すぎるという印象はない。高い位置に土俵があって、何をやっているのか見えない、みたいな感じには全然ならない。そうじゃなくて、僕らと同じような目線の場所で話が展開されていく。なんとなく、「難しい言葉や言い回しを駆使することが知性だ」みたいな錯覚に陥ってしまうことってあるけど、内田樹と名越康文の会話を読んでいると、あぁやっぱり違うな、難しい言葉や言い回しを使わないで高いレベルの話が出来るというのが本当の知性なんだろうなぁ、なんて風に改めて思わされます。
何よりも素晴らしいのが、二人が実に楽しそうに話をしていることなんですね。本書の中で、テレビとラジオの違いが時々話題に出るんだけど、やはりテレビよりラジオの方が圧倒的に話しやすい、という結論になる。テレビでは台本があることが多いけど(でも、関西のテレビは、台本があってもその台本は無視されることが多いらしい)、ラジオにはそれはない。というか、既にある言葉を喋ることではリスナーを惹きつけ続けられない、と。その場で思いついた言葉を次々に繰り出さないといけないのだ、という話になって、ラジオって聞く習慣がないけど、やっぱり面白いんだろうなぁ、と思いました。
しかし、どんな話が展開されるのか、収録の前にはまったくわかっていないはずなのに、二人が資料も何もないまま、様々な知識を自分の脳味噌の引き出しから出し入れする様は、本当に驚異的だなと思います。とても高度なレベルでの会話が行われている。二人のデフォルトで持つ様々な知識が、会話をぐうんとドライブさせていく。ある一つの話題が、二人の知識によってスイングさせられることで、どんどんと曲がりうねり変質していく。そのライブ感が本当に凄いなと思います。
なにせ、2010年11月の第一回の放送で、最初の最初の話題は何かというと、『「ハエが手を擦る足を擦るはなぜか?」という新聞記事』についてなんです。このラジオは元々、
『アメリカや中国ではなく日本、東京ではなく大阪、テレビではなくラジオ、すなわち、中心ではなく端っこだからこそ見えるニュースの本質を語り合うラジオ報道番組』
という趣旨があって、番組の冒頭で読み上げられるようだ(「辺境」という言葉は、内田樹が「日本辺境論」という本を出した直後だったのでそこから借りたらしい)。2011年3月11日の東日本大震災を境に、その趣旨は若干変わってしまうわけなんだけど、元々そういう趣旨で始まった番組だから、端っこにある隙間のような話題について色々話していこう、というコンセプトがあった。
とはいえですよ、いきなり『ハエ』の話ですからね。それでそこから、面白い話題がバンバン展開されていく。
僕は、一応自分でそう思っているだけなんだけど、誰かとの会話の中で、話題をあちこちに適当に振り回すのが少しは得意だと思っているんです。一応そういう自覚のある人間からすると、この二人の会話はやっぱり凄い。圧倒的な知識量のお陰で、会話を振り回す振り幅が物凄く広いし、それでいて聞いている人間を置き去りにしないだけの整合性と一貫性を提示できる話力と言葉を持っている。
そして、あとがき代わりの対談の中で二人が語っているのが、『鵜匠』である西靖の存在の大きさであるようだ。本書を読む前にあるネットの記事を読んだのだけど(というか、その記事を読んだからこそ本書を読もうと思ったのだけど)、そこで西靖が、自分は「何も知らない」という立ち位置でいることで全体がうまく回っていたのかも、的なことを言っていたと思う(たぶん表現はもっと違ったと思うけど)。二人も、いざとなったら西靖がブレーキを掛けてくれることが分かっているからこそ、自分の中江ブレーキを書けずに突っ走れた、みたいなことを言っています。実際、内田樹と名越康文は仕事以外の場でも話す機会があるようなのだけど、二人で話している時は辺境ラジオのような感じにはならない、と言っています。本書を読んでいる限り、西靖の存在力の強さは二人が感じているほどには感じられないだろうと思うのだけど、でも化学反応における触媒のように(化学実験では、AとBという物質を何らかの形で反応させる時、Cという物質を入れることがある。Cは、AともBとも反応をしないのだけど、その化学反応そのものを促進させる効果を持つ)、西靖の存在力というのは非常に大きかったのだろうなぁ、という感じがします。
本当に事前に何も決めないで話し始めているようで、話題はあちこちに飛びまくります。一応、震災後の日本とか、その年気になったニュース、なんていうお題が設定されていたりするんだけど(そして、時々西靖がそのお題に話を戻すんだけど)、でも二人は思いつくままにあちこち飛びながら話を続ける。政治や経済や大阪という大きな話から、自分が関わってきた学生の話とか結婚の話なんていうミニマムなサイズの話まで、とにかくありとあらゆる話が展開されていきます。サンデル教授はあんまり好きじゃないんだよなぁ、みたいな、ちょっと大丈夫かな?みたいな話も出てきて面白いです。
こういう果てしない知性の持ち主の思想や考え方なんかに触れていると、ふと気付くことがあります。それは、『何か自分とは異質な意見に触れた時に、一旦立ち止まることが出来るようになる』ということです。
僕は元々、自分の認識では、異質な意見に対する許容力みたいなものは、普通の人よりはあるような気がします。というかそれは、特に自分の意見がないというだけの話で、誰の話にも、なるほど一理あるなぁ、なんて思っちゃうダメな人間なんですけど、でもやっぱり時々は、聞いた瞬間に「えーー!!」って思っちゃうような、なんか瞬間的に拒絶反応が沸き起こるような意見みたいなものもあったりするんです。でも、内田樹と名越康文は、凄く分かりやすい言葉で、色んな意見や価値観や感情の背景を提示して見せる。そういう会話をずっと読んでいると、「なるほど、どんな意見にも、それを支えるだけの背骨みたいなものがあるのだなぁ」という感覚を、それまで以上に強く持つことが出来るような気がしています。そういう意味でも、凄く有益な対談だなぁ、という感じがします。
あまりにも様々な話題に触れ、しかも鋭い知性でそれらに触れ回っていくので、具体的に内容に触れるのはなかなか難しい作品です。なので、本書からかなり気になった言葉を選別して引用して、感想を終えたいと思います。
名越『ここ150年くらい以前の重要な文化は、ほとんど「見えないもの」を追求し、感知し、声を聴き、見るために、何十万年もの歳月が費やされている。これを「文化がまだ成熟していなかったからだ」と退けられる迫力を、僕たちはもう持っていない。僕たちは何十万年も見えないものを追求してきて、偶然この100年くらいの間だけ「見えるものに限りましょう」というルールに括られてきただけ』
名越『でもね、この前に内田先生が、「教育という場、特に大学という場は、若い者がいろんな発言をする。その時に、その発言をいったん真正面から受け止める大人がいて、どんな自己表現をしても受け止めてもらえるという安心感がなければ何にも始まらない」とツイッターで書いていた。そこはやっぱり絶対必要ですよね』
内田『でも、それは別に「元気」ということじゃなくて、ただ「金があった」というだけのことでしょう。お金が余っていて、みんながじゃんじゃんお金を使っていた時期のことを「元気」だというのはおかしいでしょう。消費活動が活発であることを「元気」というのは僕はおかしいと思う』
内田『それも元をたどれば、目先の金が欲しいからなんです。金がほしい一念でみんなが必死に動いた結果、こいいう「元気のない社会」ができてしまった。』
名越『そう。「物理的に届かないものは届かないんだ」という悪い意味での科学的思考をこの歳に脱却する。祈れば必ず届くものはふんだんにあるということを一度信じてみてほしい。』
内田『周りの人たちの言動ばかり気にしている人間は、祈りなんて届かないと思ってる。自分の意向が届くのは、自分の拳骨が届く範囲内だと思っている奴は決して祈らない。でも、遠いところ、知らない人にまで思いを届けようと思ったら、祈る他ないでしょう』
内田『確かなことは、学校の先生から、知的な意味での関心や敬意を示された経験がないということ。教室で発言するのは、先生が出した問いに答える場合だけ。だから、自分の考えていることに教師が深い関心を寄せたという経験をしたことがない。大学のゼミで学生が話し出した時に、僕が身を乗り出して聞いていると、向こうはきょとんとしている。「どうしてこの先生は私の話を真面目な顔で聞いているのだろう。何か裏があるのか?」と感じている。』
名越『地震が起きた直後から、僕も及ばずながらいろいろなマスコミからメッセージを求められたんです。でも本当に言いたかったことは、「勝手にやりなさい」ということだったんです。それは「勝手にしろ」と相手を否定するのではなくて、一人ひとりがそれぞれ自分の目の前にあることを一生懸命やれば全体が回っていくという意味なんです。』
内田『僕が言いたいのは、こういう大きな事件についてはそれを自分で受け止めて言葉にできるまで、一人ひとりの中でぜんぜん違う時間が流れているということです。だから自分のペースでゆっくりと経験を咀嚼していただきたいと思います。』
内田『そういう「究極の選択」を迫られるような局面に追い込まれるということ自体が、膨大な量の失敗の蓄積の結果なんだから。そういう事態に立ち至らないために、今ここで何をするかというのが武道的な考え方なんです。』
内田『変ですよ。だって、長期的に考えたらこんなにコストに合わないものはないわけですよ。国土の一部が居住不能になってしまって、何十万人もの人たちが暮らしていた生活圏から駆逐されて、帰ることも生計の途も立てることができない。それにもしこれから先に国際賠償を要求された場合、どれぐらいの金額になるか見当もつかない。そういう時に「この冬の暖房のための電力が賄えませんから、節電にご協力を、してくれないんだったら原発を動かします」なんていう議論は、「君たちは一体何を言っているんだ」と絶句するくらいにナンセンスでしょう』
名越『胸を貼って「オレは保留だ!」と言えばいいんですよ。「保留に決まってるだろ、バカ!」って。だって一度態度を決めてしまったら、例えば「実は漏れていました」とか新しいことがわかった時に、「自分はなんてバカだったんだ」と思って心が疲れるでしょう?堂々と「そんなもん保留に決まってるだろ!」と言えば、ある時期にパッと態度が決められるかもしれませんからね。』
内田『一つの問題について語った時、「触れてよいはずなのだが、触れていない論点がある」というだけの理由で、「論が破綻している」と言えるのなら、もうこの世に破綻していない論なんて一つも存在しない』
内田『でも、ネット上の罵倒って、要するに「お前はオレが知っていることを知らない」ということに尽くされてしまうでしょう。「オレもバカだが、お前も同じくらいバカだ」というのは、確かに反論不能の真理なんです。でも、それで話を終わりにしたら、もう生産的な対話というものは存在しようがない。対話というのは本来「そこから」始まるものだから。そこで切り捨てられてしまうなら、これほど不毛なことはない。』
内田『でも、本当にそうですよね。暗い気持ちで下した決断はほとんど間違っている。明るい気持ちの時は自然過ぎて、そもそも何かについて重大な「決断する」というような局面に遭遇しないから』
内田『人間がよくわからないまま「昔からこうだったから、このままでやっていこうよ」といって何千年もずっと維持してきたものは、ある日壊してしまうと、もう二度と同じものは作れないんです』
とても素晴らしい作品だと思います。是非読んでみてください!
内田樹×名越康文×西靖「辺境ラジオ」
「黄金のバンタム」を破った男(百田尚樹)
内容に入ろうと思います。
本書は、敗戦から十余年。日本人にとって悲願であった「世界フライ級チャンピオン」に輝き、その後も活躍を続け、化物みたいなテレビ視聴率を稼いだり、日本人ボクサーとして唯一殿堂入りを果たすなど、世界的なボクサー・ファイティング原田を中心とした、日本ボクシングの歴史を追うノンフィクションです。
先に書いておかなければならないことがある。僕も本書を読んで初めて知ったことだが、現在と昔では、世界チャンピオンの価値がまったく違う。本書ではそれが何度も繰り返し描かれる。確かに、この事実を認識しているかどうかで、ファイティング原田の偉大さの受け止め方が大きく変わることだろう。
現在では、17の階級が存在し、さらにチャンピオンを認定する団体も増え(主要四団体)、現在ボクシングの「世界チャンピオン」は70人ほどいる。
しかし、ファイティング原田が活躍していた時代は、まったく違った。
そもそも階級は8つのみであり、それぞれの階級にたった一人しか世界チャンピオンがいなかった。つまり、ボクシングの「世界チャンピオン」は、世界でたった8人しかいなかったのである。
そんな時代に、ファイティング原田は世界チャンピオンとなった。しかも、二階級制覇である。もちろんこの二階級制覇も、現在とは比べ物にならないほどの価値があった。
視聴率の話も書いておこう。ビデオリサーチ社がモニターによる視聴率調査を初めてから50年の歴史の中で、歴代25位以内にボクシング中継は6つある。それだけで、かつてどれだけボクシングが一世を風靡していたかがわかろうというものだが、なんとその6つの試合すべてがファイティング原田の試合だという。化け物のようではないか。ファイティング原田が戦う試合の中継は、ほとんどが視聴率50%以上である。年によっては、その年の紅白歌合戦の視聴率に次いで2位ということもあったという。ファイティング原田がどれほど国民に人気だったかということがよくわかるのではないだろうか。テレビというものに対する存在感が今と昔では大きく違うとはいえ、現在どんなスポーツであっても、視聴率50%を超えられるものはちょっと思いつかない。
さて、本書は、そんなファイティング原田を中心に据えたノンフィクションではあるが、決してファイティング原田だけの物語ではない。というか本書は、戦後の日本ボクシングの歩みを描き出すノンフィクションである。
そのスタートは、白井義男が切った。白井義男こそ、日本ボクシングの歴史に燦然と輝き、その後の道を切り開いたボクサーだった。
白井義男は、日本人として初めて、ボクシング世界チャンピオンに輝いた男だ。29歳だった。
白井義男は、戦争から戻りボクシングに復帰するが、25歳の時点で自分の才能に限界を感じ、ボクサーを引退するつもりでいた。
そこで白井義男がある人物と出会わなければ、日本のボクシング界は大きく変わっていたことだろう。
たまたま白井義男の練習風景を目にした、GHQの将校だったカーン博士は、白井義男を個人的にコーチすることに決め、生涯に渡って白井義男を鍛え続けた。この出会いこそがすべてだった。カーン博士の理論的なトレーニングによってメキメキ力をつけた白井義男は、29歳で世界フライ級チャンピオンに輝くのだ。
しかしその後白井義男は防衛戦に敗れる。その時から、日本国民にとって、ボクシング世界チャンピオンの称号は『悲願』となった。
ファイティング原田は、恐ろしいほど練習をする男だった。ファイティング原田の闘い方について、本書にはこんな文章がある。
『原田のボクシング世界チャンピオンは決して見栄えの良いものではない。同時代の関光徳のようなスマートさもなく、海老原のような破壊的な凄さもなく、ひと時代前の矢尾板のような華麗なテクヌックもなかった。原田のボクシングは無骨であり、不器用だった。撃たれても撃たれても全身を止めず、決して逃げることなく、飽くなき闘争心で向かっていった。』
原田と同時代には、才能に溢れる素晴らしい選手が様々にいた。本書では、そんな彼らについても、色んな場面で描写がなされる。世界タイトル目前で引退を宣言しそれを貫き通した男、天才的な才能に恵まれながらも不運に見舞われタイトルに恵まれなかった男。そういう様々な選手の中で、原田が現在においても、ボクシング専門家から絶大なる評価を与えられるその背景には、原田の尋常ではない練習量があるのだ。
原田は、
『練習が好きだったからね』
『俺ほど練習した者はいないと思うよ』
と語る。大言壮語を吐く男ではない。彼は冷静に自己評価し、そう思っているのだ。
凄いエピソードがある。
原田を取材にやってきたとある新聞記者が、原田の練習環境の過酷さに、取材中にぶっ倒れたという話がある。何もしていない、ただ立っているだけの大の大人がぶっ倒れてしまうぐらいの環境で、原田は尋常ではないトレーニングをしていたのである。
青木という天才的なボクサーがいて、原田はその青木と対戦することになった。青木は、その天才的なセンス故、練習をあまりしたがらなかった。そんな青木との試合を前に、原田はこんな風に語ったという。
『青木にだけは絶対に負けるわけにはいかない。俺が青木に負けたら、努力するということが意味を失う。一所懸命に練習しているボクサーが、ろくに練習しないボクサーに負けるなんてことがあったら、おかしいじゃないですか』
原田は、それほどまでに自分の練習量に自信を持っていた。著者の百田尚樹は、実際に原田の試合を映像で見、その感想を頻繁に書いているが、後半のスタミナは驚異的だったという。また、試合中、ずっとつま先立ちだという。信じられないほどの体力である。
原田は、様々な運にも恵まれ(本書を読めば、実力はあっても不運であったが故に涙を飲んだ選手がたくさんいる)、決してボクサーとして素質があるわけではなかったが、世界でも賞賛されるボクサーになっている。
白井義男・ファイティング原田が歩んできた道のりは、そのまま、日本が復興していく足並みであった。多くの日本人が、白井義男・ファイティング原田の闘いに、日本人としての誇りを託していた。時代のうねりが、ボクシングを大きくし、ファイティング原田をスターにした。そんな、日本でボクシングが最盛期を誇っていた輝かしい時代を鮮やかに描き出したノンフィクション。
さすが百田尚樹、という感じがします。自分が生み出した小説内のキャラクターにせよ、実在の人物にせよ、「これぞ!」と惚れ込んだ人物を描かせたら唸る程の巧さを発揮する百田尚樹だけど、さらに百田尚樹自身が実際にボクシングをやっていたという事実も、本書の『熱さ』に影響を与えていることだろう。解説で、「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の著者である増田俊也も、『ボクシングの凄さを伝えようとする百田尚樹の熱』について語っている。本書では直接的には書かれていないけど、恐らく著者には、現在のボクシングに対する不満や嘆きがあるのだろう。「昔は良かった」的な年寄りの懐古趣味は鬱陶しいのが大半だけど、本書を読むと、確かにボクシングは昔の方が遥かに良かったのだろうと思わされる。現在のボクシング事情についても疎い僕にはなんとも言えないけど、でも確かに、世界チャンピオンが70人もいる現在よりは、世界チャンピオンがたった8人しか存在し得なかった当時の方が、やはりボクシングという競技の凄みが現れ出ただろうと思う。
実際本書を読むと、ボクシングに賭ける人、そしてボクシングを見る人、その両方の熱量が凄まじい。見る人も、会場に集まったり、テレビで見たりと、それはもの凄い関心を示すものだけど、でもやはり、ボクサーたちの覚悟も凄い。現在とはボクシングのルール自体が結構違ったようで、12ラウンドまでしかなく、またレフリーがすぐにストップを掛ける現在とは違って、15ラウンドまであり、レフリーも限界まで戦わせる当時のボクシングは、まさに死闘と呼べるものだったようだ。試合中に命を落とすものもいたほどである。また、たった8人しかなることが出来ない世界チャンピオンから落ちてしまう時のショックも、現在とは比べ物にならないだろう。今のボクシングを知らないまま比較するようなことを書いても仕方ないけど、でも当時のボクシングは本当にそれほどに緊張感のある恐ろしいものだった。そういう中で、殺人的とも言える練習をこなし、世界を相手に戦い続け、記録も記憶も残し続けたファイティング原田の偉業は輝かしい。
本書を読むと、記録を見るだけでは分からない事実というのが山ほどあるのだな、と思わされる。特に、ボクシングという「不確定要素の多いスポーツ」ではそうだ。
例えば「地元贔屓の判定」というものがある。試合を、対戦相手の地元で行った場合、審判が自国の選手に甘い判定をする、というものだ。もちろん、ボクシングの判定というのは難しい。そこに個々人の判断が含まれるのは仕方ないかもしれない。とはいえ、本書では、その「地元贔屓の判定」に泣かされたボクサーが多く描かれる。ボクシングの判定は、一度下されたら覆らない。どんな判定であろうと、涙を飲んでこらえるしかない。
また、試合に至る過程で何があったか、ということも非常に重要だ。ボクシングは、かなりメンタルなスポーツでもあるから、ちょっとしたことが試合の結果に大きな影響を及ぼすことになる。それを知っているからこそ、コーチやプロモーターなどが卑怯な手を使うこともある。それは、試合だけを見ていても、試合の結果だけを見ていてもわからない。ノンフィクションだから当然と言えば当然だが、本書ではそういう、結果の裏に隠された事実を様々に掘り起こして、人物やドラマを描き出していく。
本書は、日本ボクシングの歩みだけではなく、ボクシングという競技そのものの変遷も描かれていく。いつ生まれ、どんな風に発展し、今のような形に落ち着いたのか。本書を読めば、ボクシングそのものの歴史も学べる一冊なのである。
タイトルにある「黄金のバンタム」というのは、エデル・ジョフレという、バンタム級史上最強のボクサーのことを指している。ジョレフがいたが故に、煌めくような才能を持ちながら世界チャンピオンになれずにいたボクサーが世界中に山ほどいた。それほど強い、名だたるボクサーの前に立ちはだかる驚異のボクサーだった。
このジョレフ、なかなか凄いボクシング人生を歩んでいるので、是非本書で確かめていただきたいけど、ここで書こうと思うのはジョレフの生涯戦績だ。78戦72勝2敗4分け。ジョレフの輝かしいリング生活で喫した敗北は、唯一、ファイティング原田に敗れた2つだけだったという。これだけでも、ファイティング原田の偉大さが伝わろうというものだ。
本書には、ファイティング原田に限らず、様々なボクサーの様々なエピソードが色んな場面で描かれる。たとえば、ちあきなおみが歌手になったのは、芸能界に入れば、当時人気だったボクサー・関光徳に会えるかもしれないと考えたから、というのは有名な話らしい。また、海老原というボクサーのエピソードも凄い。現在では日本一のボクシングジムとなっている協栄ジムの初代会長である金平正紀は、自身のボクシング人生を諦めとんかつ屋を開くことにした。開店の日、店の前の張り紙を見てアルバイトにやってきた少年を一目見るなり金平正紀はとんかつ屋を畳み、ボクシングジムを作った。金平正紀とその少年の二人だけのジムである。その少年こそが海老原であったという。
そんな中で、僕が一番凄いエピソードだなと思うのが、矢尾板貞雄の引退の話である。このエピソードは、直接的にファイティング原田の世界チャンピオンに繋がる話でもあって、だから詳細は書かないのだけど、矢尾板の男気溢れる引退は、なかなかマネ出来るものではないと思う。本当に本書には、そういうドラマが山ほど溢れているのだ。
僕はボクシングにはまったく興味がないけど、そんな僕でも惹きこまれる凄まじいボクサーたちの物語に圧倒されました。惚れ込んだ人物を描かせたら絶品の稀代の語り部である百田尚樹が、彼らボクサーたちの凄絶な物語を引き出していきます。是非読んでみてください。
百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男」
本書は、敗戦から十余年。日本人にとって悲願であった「世界フライ級チャンピオン」に輝き、その後も活躍を続け、化物みたいなテレビ視聴率を稼いだり、日本人ボクサーとして唯一殿堂入りを果たすなど、世界的なボクサー・ファイティング原田を中心とした、日本ボクシングの歴史を追うノンフィクションです。
先に書いておかなければならないことがある。僕も本書を読んで初めて知ったことだが、現在と昔では、世界チャンピオンの価値がまったく違う。本書ではそれが何度も繰り返し描かれる。確かに、この事実を認識しているかどうかで、ファイティング原田の偉大さの受け止め方が大きく変わることだろう。
現在では、17の階級が存在し、さらにチャンピオンを認定する団体も増え(主要四団体)、現在ボクシングの「世界チャンピオン」は70人ほどいる。
しかし、ファイティング原田が活躍していた時代は、まったく違った。
そもそも階級は8つのみであり、それぞれの階級にたった一人しか世界チャンピオンがいなかった。つまり、ボクシングの「世界チャンピオン」は、世界でたった8人しかいなかったのである。
そんな時代に、ファイティング原田は世界チャンピオンとなった。しかも、二階級制覇である。もちろんこの二階級制覇も、現在とは比べ物にならないほどの価値があった。
視聴率の話も書いておこう。ビデオリサーチ社がモニターによる視聴率調査を初めてから50年の歴史の中で、歴代25位以内にボクシング中継は6つある。それだけで、かつてどれだけボクシングが一世を風靡していたかがわかろうというものだが、なんとその6つの試合すべてがファイティング原田の試合だという。化け物のようではないか。ファイティング原田が戦う試合の中継は、ほとんどが視聴率50%以上である。年によっては、その年の紅白歌合戦の視聴率に次いで2位ということもあったという。ファイティング原田がどれほど国民に人気だったかということがよくわかるのではないだろうか。テレビというものに対する存在感が今と昔では大きく違うとはいえ、現在どんなスポーツであっても、視聴率50%を超えられるものはちょっと思いつかない。
さて、本書は、そんなファイティング原田を中心に据えたノンフィクションではあるが、決してファイティング原田だけの物語ではない。というか本書は、戦後の日本ボクシングの歩みを描き出すノンフィクションである。
そのスタートは、白井義男が切った。白井義男こそ、日本ボクシングの歴史に燦然と輝き、その後の道を切り開いたボクサーだった。
白井義男は、日本人として初めて、ボクシング世界チャンピオンに輝いた男だ。29歳だった。
白井義男は、戦争から戻りボクシングに復帰するが、25歳の時点で自分の才能に限界を感じ、ボクサーを引退するつもりでいた。
そこで白井義男がある人物と出会わなければ、日本のボクシング界は大きく変わっていたことだろう。
たまたま白井義男の練習風景を目にした、GHQの将校だったカーン博士は、白井義男を個人的にコーチすることに決め、生涯に渡って白井義男を鍛え続けた。この出会いこそがすべてだった。カーン博士の理論的なトレーニングによってメキメキ力をつけた白井義男は、29歳で世界フライ級チャンピオンに輝くのだ。
しかしその後白井義男は防衛戦に敗れる。その時から、日本国民にとって、ボクシング世界チャンピオンの称号は『悲願』となった。
ファイティング原田は、恐ろしいほど練習をする男だった。ファイティング原田の闘い方について、本書にはこんな文章がある。
『原田のボクシング世界チャンピオンは決して見栄えの良いものではない。同時代の関光徳のようなスマートさもなく、海老原のような破壊的な凄さもなく、ひと時代前の矢尾板のような華麗なテクヌックもなかった。原田のボクシングは無骨であり、不器用だった。撃たれても撃たれても全身を止めず、決して逃げることなく、飽くなき闘争心で向かっていった。』
原田と同時代には、才能に溢れる素晴らしい選手が様々にいた。本書では、そんな彼らについても、色んな場面で描写がなされる。世界タイトル目前で引退を宣言しそれを貫き通した男、天才的な才能に恵まれながらも不運に見舞われタイトルに恵まれなかった男。そういう様々な選手の中で、原田が現在においても、ボクシング専門家から絶大なる評価を与えられるその背景には、原田の尋常ではない練習量があるのだ。
原田は、
『練習が好きだったからね』
『俺ほど練習した者はいないと思うよ』
と語る。大言壮語を吐く男ではない。彼は冷静に自己評価し、そう思っているのだ。
凄いエピソードがある。
原田を取材にやってきたとある新聞記者が、原田の練習環境の過酷さに、取材中にぶっ倒れたという話がある。何もしていない、ただ立っているだけの大の大人がぶっ倒れてしまうぐらいの環境で、原田は尋常ではないトレーニングをしていたのである。
青木という天才的なボクサーがいて、原田はその青木と対戦することになった。青木は、その天才的なセンス故、練習をあまりしたがらなかった。そんな青木との試合を前に、原田はこんな風に語ったという。
『青木にだけは絶対に負けるわけにはいかない。俺が青木に負けたら、努力するということが意味を失う。一所懸命に練習しているボクサーが、ろくに練習しないボクサーに負けるなんてことがあったら、おかしいじゃないですか』
原田は、それほどまでに自分の練習量に自信を持っていた。著者の百田尚樹は、実際に原田の試合を映像で見、その感想を頻繁に書いているが、後半のスタミナは驚異的だったという。また、試合中、ずっとつま先立ちだという。信じられないほどの体力である。
原田は、様々な運にも恵まれ(本書を読めば、実力はあっても不運であったが故に涙を飲んだ選手がたくさんいる)、決してボクサーとして素質があるわけではなかったが、世界でも賞賛されるボクサーになっている。
白井義男・ファイティング原田が歩んできた道のりは、そのまま、日本が復興していく足並みであった。多くの日本人が、白井義男・ファイティング原田の闘いに、日本人としての誇りを託していた。時代のうねりが、ボクシングを大きくし、ファイティング原田をスターにした。そんな、日本でボクシングが最盛期を誇っていた輝かしい時代を鮮やかに描き出したノンフィクション。
さすが百田尚樹、という感じがします。自分が生み出した小説内のキャラクターにせよ、実在の人物にせよ、「これぞ!」と惚れ込んだ人物を描かせたら唸る程の巧さを発揮する百田尚樹だけど、さらに百田尚樹自身が実際にボクシングをやっていたという事実も、本書の『熱さ』に影響を与えていることだろう。解説で、「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の著者である増田俊也も、『ボクシングの凄さを伝えようとする百田尚樹の熱』について語っている。本書では直接的には書かれていないけど、恐らく著者には、現在のボクシングに対する不満や嘆きがあるのだろう。「昔は良かった」的な年寄りの懐古趣味は鬱陶しいのが大半だけど、本書を読むと、確かにボクシングは昔の方が遥かに良かったのだろうと思わされる。現在のボクシング事情についても疎い僕にはなんとも言えないけど、でも確かに、世界チャンピオンが70人もいる現在よりは、世界チャンピオンがたった8人しか存在し得なかった当時の方が、やはりボクシングという競技の凄みが現れ出ただろうと思う。
実際本書を読むと、ボクシングに賭ける人、そしてボクシングを見る人、その両方の熱量が凄まじい。見る人も、会場に集まったり、テレビで見たりと、それはもの凄い関心を示すものだけど、でもやはり、ボクサーたちの覚悟も凄い。現在とはボクシングのルール自体が結構違ったようで、12ラウンドまでしかなく、またレフリーがすぐにストップを掛ける現在とは違って、15ラウンドまであり、レフリーも限界まで戦わせる当時のボクシングは、まさに死闘と呼べるものだったようだ。試合中に命を落とすものもいたほどである。また、たった8人しかなることが出来ない世界チャンピオンから落ちてしまう時のショックも、現在とは比べ物にならないだろう。今のボクシングを知らないまま比較するようなことを書いても仕方ないけど、でも当時のボクシングは本当にそれほどに緊張感のある恐ろしいものだった。そういう中で、殺人的とも言える練習をこなし、世界を相手に戦い続け、記録も記憶も残し続けたファイティング原田の偉業は輝かしい。
本書を読むと、記録を見るだけでは分からない事実というのが山ほどあるのだな、と思わされる。特に、ボクシングという「不確定要素の多いスポーツ」ではそうだ。
例えば「地元贔屓の判定」というものがある。試合を、対戦相手の地元で行った場合、審判が自国の選手に甘い判定をする、というものだ。もちろん、ボクシングの判定というのは難しい。そこに個々人の判断が含まれるのは仕方ないかもしれない。とはいえ、本書では、その「地元贔屓の判定」に泣かされたボクサーが多く描かれる。ボクシングの判定は、一度下されたら覆らない。どんな判定であろうと、涙を飲んでこらえるしかない。
また、試合に至る過程で何があったか、ということも非常に重要だ。ボクシングは、かなりメンタルなスポーツでもあるから、ちょっとしたことが試合の結果に大きな影響を及ぼすことになる。それを知っているからこそ、コーチやプロモーターなどが卑怯な手を使うこともある。それは、試合だけを見ていても、試合の結果だけを見ていてもわからない。ノンフィクションだから当然と言えば当然だが、本書ではそういう、結果の裏に隠された事実を様々に掘り起こして、人物やドラマを描き出していく。
本書は、日本ボクシングの歩みだけではなく、ボクシングという競技そのものの変遷も描かれていく。いつ生まれ、どんな風に発展し、今のような形に落ち着いたのか。本書を読めば、ボクシングそのものの歴史も学べる一冊なのである。
タイトルにある「黄金のバンタム」というのは、エデル・ジョフレという、バンタム級史上最強のボクサーのことを指している。ジョレフがいたが故に、煌めくような才能を持ちながら世界チャンピオンになれずにいたボクサーが世界中に山ほどいた。それほど強い、名だたるボクサーの前に立ちはだかる驚異のボクサーだった。
このジョレフ、なかなか凄いボクシング人生を歩んでいるので、是非本書で確かめていただきたいけど、ここで書こうと思うのはジョレフの生涯戦績だ。78戦72勝2敗4分け。ジョレフの輝かしいリング生活で喫した敗北は、唯一、ファイティング原田に敗れた2つだけだったという。これだけでも、ファイティング原田の偉大さが伝わろうというものだ。
本書には、ファイティング原田に限らず、様々なボクサーの様々なエピソードが色んな場面で描かれる。たとえば、ちあきなおみが歌手になったのは、芸能界に入れば、当時人気だったボクサー・関光徳に会えるかもしれないと考えたから、というのは有名な話らしい。また、海老原というボクサーのエピソードも凄い。現在では日本一のボクシングジムとなっている協栄ジムの初代会長である金平正紀は、自身のボクシング人生を諦めとんかつ屋を開くことにした。開店の日、店の前の張り紙を見てアルバイトにやってきた少年を一目見るなり金平正紀はとんかつ屋を畳み、ボクシングジムを作った。金平正紀とその少年の二人だけのジムである。その少年こそが海老原であったという。
そんな中で、僕が一番凄いエピソードだなと思うのが、矢尾板貞雄の引退の話である。このエピソードは、直接的にファイティング原田の世界チャンピオンに繋がる話でもあって、だから詳細は書かないのだけど、矢尾板の男気溢れる引退は、なかなかマネ出来るものではないと思う。本当に本書には、そういうドラマが山ほど溢れているのだ。
僕はボクシングにはまったく興味がないけど、そんな僕でも惹きこまれる凄まじいボクサーたちの物語に圧倒されました。惚れ込んだ人物を描かせたら絶品の稀代の語り部である百田尚樹が、彼らボクサーたちの凄絶な物語を引き出していきます。是非読んでみてください。
百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男」
ディスコ探偵水曜日(舞城王太郎)
内容に入ろうと思います。
先に書いておくと、この物語はもうちょっととんでもなさすぎるので、僕にはまったく理解できていません!内容紹介も、上巻の最初の方をチラッと、っていう感じになります。
迷子専門のアメリカ人探偵ディスコ・ウェンズデイは、子供を探す出すプロだ。もちろんアメリカ生まれでアメリカで育ったのだけど、とにかく色々あって今は東京都調布市で6歳の山岸梢と一緒に暮らしている。娘、というわけではない。山岸夫妻の依頼で探しだした娘だったのだが、事情があって引き取りを拒否、とりあえずという形でディスコが預かったまま、一緒に暮らし続けているのだ。
ディスコは梢を愛している。可愛い。何を言っているのかわけのわからない支離滅裂さだけど、でも可愛い。
でもそんな梢にある時とんでもない異変が起こる。
瞬間的に、梢が大人の身体になるのだ。
初めは幻覚か見間違えだと思った。しかし次第に大人の梢の滞在時間が長くなる。
その《梢》は、未来からやってきたという。そして、この出来事は、これからディスコと《梢》の間で交わされることになる手紙で全部わかってて、《梢》は未来でその手紙を全部読んだというのだ。
わけがわからない。しかし、とにかく梢の意識はどこかに言ってしまっているみたいだし、《梢》が未来から来たことも確かなように思えてくる。
さてどうする…、なんて考えているところで、梢にさらなる異変が訪れるのだが…。
というような話です。
とはいっても、ここで書いたのは、本書の内容の100分の1ぐらいでしょうか。そして、本書の世界観の100万分の1ぐらいかな、という感じがします。まあとにかく、僕には捉え切れない壮大な物語でした。
はっきり言ってハチャメチャで、意味不明です。でも、さすが舞城王太郎!っていう感じの作品でした。
本書は、文庫で上中下に分かれた作品なんだけど、上巻はそれなりについて行けました。子供の梢の身体に時々やってくる《梢》とのやりとりとか、パンダラヴァーの事件とか、なかなか面白く進んでいきます。子供の梢の身体に起こるとんでもない変化に、どんな風に決着がつくんだろうなぁ、みたいな興味を持ちながら、スピーディに展開する物語を読んでいけました。
途中で登場する水星Cっていうキャラも、まあ面白いんです。登場した時は、まさかこれほどまでに重要な人物になるとは思わなかったけど、この水星Cの破天荒っぷりも面白いんです。
あと、梢が結構可愛いですね。正直、この可愛い梢とのやりとりだけでも、なんらかの作品に仕立て上げられそうな感じはあります(まあ舞城王太郎の作風とはかけ離れるでしょうけど)。っていうか本書はそんな風に思わせる部分が多いんですね。ここの話だけでも長編として成立しうるんじゃないか、と思わせるようなネタがガンガン登場するんで、そういう意味でも凄く贅沢な感じはします。
上巻の途中から「パインハウス事件」と呼ばれる物語に突入することになります。この「パインハウス事件」もまあとんでもないです。
福井県西暁町(舞城王太郎の小説ではよく出てきますね)の山奥にある、小説家・暗病院終了の邸宅は、「パインハウス」と呼ばれている。それは、輪切りのパインのような形をしているからで、そのパインハウスで矢に貫かれて暗病院終了が密室の中で死んでいるのが見つかった。そこに、日本を代表する名探偵たちが集結し推理合戦を繰り広げるのだけど、間違った推理をした名探偵が次々に密室状態で目に箸を刺した状態で死んでいるのが見つかる…。
というような話で、まずそもそも、それまでの梢の話から唐突に(まあ一応ストーリー的に繋がりはあるんだけど)このパインハウス事件に飛ぶところが凄い。んで、まさに舞城王太郎の舞城王太郎らしい部分だなぁと思わせるのがこのパインハウス事件である。
このパインハウス事件は、中巻の終わりでようやく大体の解決を見るのだけど、そこまでの展開がまあしつこい(笑)。一応褒めてるんですけどね、これ。
名探偵たちによる推理が10個以上も登場するんだけど、そのどれもがまあぶっ飛んでる。よくもまあ、色んなガジェットを組み込みながら、これだけ色んな推理を展開させられるものだな、と思います。それぞれの推理は、どれもこれもまあぶっ飛んでる。正直、何でもアリっていう感じで、普通の探偵小説だと思って読むと拍子抜けするでしょう。まあ、舞城王太郎の作品に触れたことがある人なら、舞城王太郎らしいなぁ、って思えるでしょうけどね。しかし、そのハチャメチャな推理なのに、それぞれの推理の内部では論理は一貫している(ように見える。正確には僕には判断できない)。推理の度に新しい要素を追加しているわけではなくて、一度出てきた要素を別の形で使い直したりと、もうあの手この手でパインハウスでの事件にピリオドを打とうとする流れは、本当に圧巻です。
で、何よりも凄いのが、パインハウス事件の最後の最後の解決。これはマジでビビったなぁ。いや、はっきり言ってありえない解決なんだけど、この作品の中では成立する。っていうか、このパインハウス事件のラストの解決があるからこそ、下巻の展開が成立する、とも言えるかもしれない。とにかくそれぐらい斬新で、正直斬新すぎて僕の頭の中ではちゃんとは理解できなかったけど(笑)、でも最初の発想の凄さは分かるし、いやホント、よくもまあそんなメチャクチャなこと考えたもんだよなぁ、という感じでした。
一応、この中巻の最後ぐらいまでは、なんとなく物語についていけていた気がします。中巻までは、知識的に僕には理解の及ばないものは多々あったのだけど(『カバラの叡智』だの『ヘブライ文字』だの『ホロスコープ』だのと言った知識がわんさか出てくる)、そういう知識的に難ありという部分以外はある程度物語についていけたと思います。
でも下巻からは、もうそういうレベルではなくなってきます。下巻からは、概念的にもうさっぱり理解できなくなっていきます。
下巻以降の物語では、時間と空間の概念がもうグチャグチャになっていきます。著者の中ではたぶん辻褄が合ってるんだろうなー、とは思うんだけど、もう僕にはさっぱり。ディスコが、一体『いつ』『どこで』『何を』しているのかさっぱり理解できなくなってきます。
大枠では、『ディスコが世界を救う』という話。というか、もっと狭めれば、『迷子専門の探偵であるディスコが子供たちを救う』っていう展開です。ディスコは、梢がスタート地点となるとある技術によって、未来世界がとんでもないことになっていることを知る。その世界は、その世界の住人にとってはとても幸せなのだけど、ディスコには許容することは出来ない。だからこそディスコは、巨大企業を相手に個人として歯向かう決意をし、そのために何が出来るかを模索する…。
という展開なんだけど、もはや何がなんだか。こういう物語をちゃんと理解できる人って羨ましいなぁ、という感じがします。
というわけで、本作をきちんと理解できていない僕には、本作の凄さを伝えることはなかなか難しいですが、とりあえず凄いです!もう、凄いとしか言いようがないです!でも、僕にはちゃんとは理解できませんでした!っていうか、この物語、ちゃんと理解できる人ってどれぐらいいるんだろうなぁ。まあとにかく、年明け一発目から、ちょっととんでもない物語を読んでみました。いずれ、僕が暇で暇でどうしようもないようなことがあれば、また読み返したいなぁって思います。
舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日」
先に書いておくと、この物語はもうちょっととんでもなさすぎるので、僕にはまったく理解できていません!内容紹介も、上巻の最初の方をチラッと、っていう感じになります。
迷子専門のアメリカ人探偵ディスコ・ウェンズデイは、子供を探す出すプロだ。もちろんアメリカ生まれでアメリカで育ったのだけど、とにかく色々あって今は東京都調布市で6歳の山岸梢と一緒に暮らしている。娘、というわけではない。山岸夫妻の依頼で探しだした娘だったのだが、事情があって引き取りを拒否、とりあえずという形でディスコが預かったまま、一緒に暮らし続けているのだ。
ディスコは梢を愛している。可愛い。何を言っているのかわけのわからない支離滅裂さだけど、でも可愛い。
でもそんな梢にある時とんでもない異変が起こる。
瞬間的に、梢が大人の身体になるのだ。
初めは幻覚か見間違えだと思った。しかし次第に大人の梢の滞在時間が長くなる。
その《梢》は、未来からやってきたという。そして、この出来事は、これからディスコと《梢》の間で交わされることになる手紙で全部わかってて、《梢》は未来でその手紙を全部読んだというのだ。
わけがわからない。しかし、とにかく梢の意識はどこかに言ってしまっているみたいだし、《梢》が未来から来たことも確かなように思えてくる。
さてどうする…、なんて考えているところで、梢にさらなる異変が訪れるのだが…。
というような話です。
とはいっても、ここで書いたのは、本書の内容の100分の1ぐらいでしょうか。そして、本書の世界観の100万分の1ぐらいかな、という感じがします。まあとにかく、僕には捉え切れない壮大な物語でした。
はっきり言ってハチャメチャで、意味不明です。でも、さすが舞城王太郎!っていう感じの作品でした。
本書は、文庫で上中下に分かれた作品なんだけど、上巻はそれなりについて行けました。子供の梢の身体に時々やってくる《梢》とのやりとりとか、パンダラヴァーの事件とか、なかなか面白く進んでいきます。子供の梢の身体に起こるとんでもない変化に、どんな風に決着がつくんだろうなぁ、みたいな興味を持ちながら、スピーディに展開する物語を読んでいけました。
途中で登場する水星Cっていうキャラも、まあ面白いんです。登場した時は、まさかこれほどまでに重要な人物になるとは思わなかったけど、この水星Cの破天荒っぷりも面白いんです。
あと、梢が結構可愛いですね。正直、この可愛い梢とのやりとりだけでも、なんらかの作品に仕立て上げられそうな感じはあります(まあ舞城王太郎の作風とはかけ離れるでしょうけど)。っていうか本書はそんな風に思わせる部分が多いんですね。ここの話だけでも長編として成立しうるんじゃないか、と思わせるようなネタがガンガン登場するんで、そういう意味でも凄く贅沢な感じはします。
上巻の途中から「パインハウス事件」と呼ばれる物語に突入することになります。この「パインハウス事件」もまあとんでもないです。
福井県西暁町(舞城王太郎の小説ではよく出てきますね)の山奥にある、小説家・暗病院終了の邸宅は、「パインハウス」と呼ばれている。それは、輪切りのパインのような形をしているからで、そのパインハウスで矢に貫かれて暗病院終了が密室の中で死んでいるのが見つかった。そこに、日本を代表する名探偵たちが集結し推理合戦を繰り広げるのだけど、間違った推理をした名探偵が次々に密室状態で目に箸を刺した状態で死んでいるのが見つかる…。
というような話で、まずそもそも、それまでの梢の話から唐突に(まあ一応ストーリー的に繋がりはあるんだけど)このパインハウス事件に飛ぶところが凄い。んで、まさに舞城王太郎の舞城王太郎らしい部分だなぁと思わせるのがこのパインハウス事件である。
このパインハウス事件は、中巻の終わりでようやく大体の解決を見るのだけど、そこまでの展開がまあしつこい(笑)。一応褒めてるんですけどね、これ。
名探偵たちによる推理が10個以上も登場するんだけど、そのどれもがまあぶっ飛んでる。よくもまあ、色んなガジェットを組み込みながら、これだけ色んな推理を展開させられるものだな、と思います。それぞれの推理は、どれもこれもまあぶっ飛んでる。正直、何でもアリっていう感じで、普通の探偵小説だと思って読むと拍子抜けするでしょう。まあ、舞城王太郎の作品に触れたことがある人なら、舞城王太郎らしいなぁ、って思えるでしょうけどね。しかし、そのハチャメチャな推理なのに、それぞれの推理の内部では論理は一貫している(ように見える。正確には僕には判断できない)。推理の度に新しい要素を追加しているわけではなくて、一度出てきた要素を別の形で使い直したりと、もうあの手この手でパインハウスでの事件にピリオドを打とうとする流れは、本当に圧巻です。
で、何よりも凄いのが、パインハウス事件の最後の最後の解決。これはマジでビビったなぁ。いや、はっきり言ってありえない解決なんだけど、この作品の中では成立する。っていうか、このパインハウス事件のラストの解決があるからこそ、下巻の展開が成立する、とも言えるかもしれない。とにかくそれぐらい斬新で、正直斬新すぎて僕の頭の中ではちゃんとは理解できなかったけど(笑)、でも最初の発想の凄さは分かるし、いやホント、よくもまあそんなメチャクチャなこと考えたもんだよなぁ、という感じでした。
一応、この中巻の最後ぐらいまでは、なんとなく物語についていけていた気がします。中巻までは、知識的に僕には理解の及ばないものは多々あったのだけど(『カバラの叡智』だの『ヘブライ文字』だの『ホロスコープ』だのと言った知識がわんさか出てくる)、そういう知識的に難ありという部分以外はある程度物語についていけたと思います。
でも下巻からは、もうそういうレベルではなくなってきます。下巻からは、概念的にもうさっぱり理解できなくなっていきます。
下巻以降の物語では、時間と空間の概念がもうグチャグチャになっていきます。著者の中ではたぶん辻褄が合ってるんだろうなー、とは思うんだけど、もう僕にはさっぱり。ディスコが、一体『いつ』『どこで』『何を』しているのかさっぱり理解できなくなってきます。
大枠では、『ディスコが世界を救う』という話。というか、もっと狭めれば、『迷子専門の探偵であるディスコが子供たちを救う』っていう展開です。ディスコは、梢がスタート地点となるとある技術によって、未来世界がとんでもないことになっていることを知る。その世界は、その世界の住人にとってはとても幸せなのだけど、ディスコには許容することは出来ない。だからこそディスコは、巨大企業を相手に個人として歯向かう決意をし、そのために何が出来るかを模索する…。
という展開なんだけど、もはや何がなんだか。こういう物語をちゃんと理解できる人って羨ましいなぁ、という感じがします。
というわけで、本作をきちんと理解できていない僕には、本作の凄さを伝えることはなかなか難しいですが、とりあえず凄いです!もう、凄いとしか言いようがないです!でも、僕にはちゃんとは理解できませんでした!っていうか、この物語、ちゃんと理解できる人ってどれぐらいいるんだろうなぁ。まあとにかく、年明け一発目から、ちょっととんでもない物語を読んでみました。いずれ、僕が暇で暇でどうしようもないようなことがあれば、また読み返したいなぁって思います。
舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日」