告解者(大門剛明)
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僕は「更生」という言葉に、なんとなく違和感を覚えてしまう。
「更生」という言葉を使う場合、「良い状態」と「悪い状態」がはっきりと区別されているイメージがある。たとえば本書のように犯罪を例に取ろう。犯罪を犯していない状態が「良い状態」で、そこから犯罪を犯すことで「悪い状態」へと移る。そしてそこから、完全には無理でも、犯罪を犯していないのと同等の「良い状態」へと戻ること。これを「更生」と呼んでいるのだろうと僕は解釈している。
でも、本当に「良い状態」と「悪い状態」ははっきり区別できるのだろうか?つまり僕が問いかけたいのは、犯罪を犯していない人間が常に「良い状態」と捉えられるべきなのか、ということだ。
僕は、すべての人間は常に「良い状態」と「悪い状態」のミックスなのだと思う。犯罪を犯していようが犯していなかろうが、どんな人間も常に「良い状態」と「悪い状態」を持っている。そして、犯罪を犯した者だけが、見えるところに「悪い状態」というラベルを貼られる、というだけなのだ。
一度犯罪を犯した人間を怖れる気持ちは、分からないわけではない。確かに、ほとんど病気のように犯罪を繰り返す者もいるのだろう。そして、どの犯罪者が病気のようであるのか判断つかないわけだから、一緒くたに括って怖がろうという態度は分からないではない。あるいは、犯罪を犯したことがあるという事実で、それ以降のどんな人間性も否定したいという気持ちになる人もいるのだろう。僕の中にはたぶんそういう気持ちはないが、まあ分からないではないと思う。
ただ、一度犯罪を犯した人間を怖れるのならば、それと同じくらい、一度も犯罪を犯したことがない人間も恐れなければおかしい、と僕は思ってしまう。世の中の犯罪すべてが、かつて犯罪を犯したことがある人間のみによって行われているのであれば、その態度は理解できる。しかし実際には、過去に一度も犯罪を犯したことがない人間が何らかの犯罪に手を染める絶対数の方が多いのではないかと思う。
「更生」という言葉を使う時、それは、人間の絶対的な評価のように聞こえる。人間が、悪から善へと変わる、そしてそれが外から誰によっても判断できる。そういうものとして「更生」というのは捉えられているように思う。
しかし僕には、「更生」というのは、相対的な評価でしかないと思う。犯罪で言えば、加害者と被害者、あるいは被害者家族との間の問題でしかないのではないかと思う。加害者と被害者の間で何らかの納得があればそれは「更生」だろうし、どれだけ素晴らしい振る舞いをしようが、加害者の振る舞いを被害者が許せなければ「更生」は達成できなかったと判断するしかないのではないか。
『更生の理想像を追いすぎることがかえって出所者の更生を阻んでいる気がする』
僕の意見とはまた違った文脈で出てくる文章だが、僕もそんな風に思う。「更生」というのは、無関係の人間が外から見て判断できるような絶対的な評価ではない。当事者同士の納得という点に根ざした相対的な評価でしかない。本書で描かれるのとはまるで違う結論だが、僕は本書を読んでそんな風に感じた。
さてその上で、自分が犯罪被害者になった場合、加害者をどう許すだろうか、という問いかけを自分にしてみる。
やはりそれは分からないな、と思う。
自分が被害に遭ったのか、自分ではない誰かが被害に遭ったのか。取り返しのつく被害なのか、そうではないのか。様々に状況があって、イメージ出来ない。けど、なんとなく僕のイメージは、相手を許しもしないし憎みもしない、という状態になるようにも思う。
憎しみという感情は、疲れる。
『遺族会を辞めたのは怒ることが、マイナスになるとしか思えなかったからだ』
憎しみそれ自体が生きるエネルギーを生み出す、ということもあるのかもしれないけど、僕はあまりそのイメージが出来ない。僕の場合は、相手に憎しみの感情を抱くために自分のエネルギーが吸い取られていくという感じになるだろう。それが僕にとって、継続できる状態であるようには思えない。
それでいて、相手を許すことはしないんだろう、という気もする。なんとなく、許してしまったらそこで終わってしまう気がするのだ。許したところから新しい関係性が始まる、なんていうこともあるのかもしれないのだけど、僕にはイメージ出来ない。結局、他人というものを信頼していないのだろう。許さない、という選択をすることで、何かを(何なのかは分からないけど)終わらせない、という選択をする。僕はそういう行動を取りそうな気がするな、と思う。
『更生した―そんな言い方がそもそもおかしいんじゃないですか?更生ってものはいつも途中。決して完成なんてしないものなんです。今自分の中に心からの謝罪の思いがないからといって絶望する必要なんてない。毎日必死で頑張って前に進もうと努力する…地味な行為の積み重ねの中に更生はあるんです。更生した、しない…白か黒かで見るものではないんです』
更生、というのは、日常の中でなかなか考えることがない問題だ。それは幸せなことなのだろうが、一方で、そうであるが故に議論も深まらない。そういう部分もあるだろう。だから、誰もが手探りで進んでいかなくてはいけないのだろう。
内容に入ろうと思います。
金沢市の中心部から離れた町にある鶴来寮。ここは、去年古い教会を改築して出来た更生保護施設だ。刑務所を出たが身元引受人がいない者を一時的に受け入れている。期間は2ヶ月。その間に就職活動をし、家などを借りて自立する準備を整えていく。更生保護施設は全国に100ほどあり、刑務所を出た4人に1人はこの更生保護施設を利用しているという。地域住民の反対に遭いながら、信念を貫いてこの更生保護施設を作り上げた越村育子所長は、さらなる計画へと邁進するが、しかし前途は多難のようだ。
そんな鶴来寮で深津さくらは働いている。29歳。60歳を超えた職員ばかりの中で、さくらは異質な存在だ。社会福祉士でもあるさくらはここで、補導員として働いている。寮生の世話などをする係だ。
鶴来寮は比較的軽微な犯罪を犯したものが送られる施設だが、ある日所長から、23年前に強盗殺人を犯した男が今度入所するという話を聞かされる。久保島健悟、43歳。どんな人物だろうかと若干の不安もありながら入寮までの日々を過ごすさくらだったが、実際に目にした久保島はとても過去に殺人を犯したとは思えない誠実な男で、さくらは久保島に好感を持つ。
一方で、鶴来寮からそう遠くない場所である日、能崎亘という男が殺されているのが発見された。梶輝夫は、山内裕貴と共にこの事件の捜査に関わることになるが、容疑者はなかなか見つからない。かつて金沢周辺に存在し、ある人物が復活させたSWORDという暴走族との関連が疑われているが…。
というような話です。
重いテーマの物語をうまく読ませる物語に落とし込んで、エンタメ作品としても良質に仕上げた作品だと思いました。
まず、「更生」というテーマを非常にうまく扱っている。ただ単に犯罪者は更生保護施設を背景にして物語を描いたというだけではなく、「更生」というものが物語の中でかなり重要なモチーフとなっている。ストーリーと分かちがたく結びついていて、ストーリー展開と共に、「更生」というものの現実やあり方について自然と考えさせられる。
特にそれを体現するのが久保島というキャラクターだ。物語の中心であり、さらに「更生」というものについて考えさせられる中心人物でもある。久保島は何をしたのか、そして何をしなかったのか。鶴来寮で働き始めて半年、それなりに多くの犯罪者を目にしてきたさくらの心を揺れ動かした男は一体何を抱えているのか。物語は最後までどう着地するのか分からずにハラハラさせられ、その展開が「更生」というものの意味を改めて考えさせるのだ。
『君の行為は何があっても許せない。だが君という人物は別だ。私に見せて欲しい、ありのままの君を。君が更生したかどうか、そんなことは知ったことではない。だけど君と向き合うことで私は戦いたい、怒りと。見極めたい、赦すことに本当に意味があるのかを!』
『仮釈放者がまず考えることは生きること。つまり社会復帰。被害者のことを思うことはどうしても二の次になる。それが現実です』
『人間簡単に更生できるもんじゃない。そういうことだ』
犯罪や犯罪者と様々な立場で関わる者達が、自分の境遇や経験を背景に、自分なりの考えを披瀝する。どれが正しいということはないし、どれが間違っているということもない。少なくとも、加害者でも被害者でもない人間が言えることは多くはないだろう。
『犯罪者が自由に出入りできるなんて危険すぎる。せっかく子供の教育を考えて自然の豊かなここ鶴来に新居を構えたのに困る、鶴来から出て行け』
仮出所者は、こういう意見とも戦っていかなくてはいけない。犯罪を犯していなくても、普通に生きていくことが大変になりつつある世の中。犯罪者が生きていくのは容易ではないでしょう。そういう現実も、本書ではしっかりと描かれていく。犯罪者の人生について、普段考えることはない。本書は、それを知るいいきっかけになるだろう。
久保島の行動をどう捉えるか。これはなかなか難しい問題だと思う。久保島の行為は、当然、明らかに悪だ。犯罪だ。しかし行為そのものには賛同できなくても、久保島の気持ちに共感できる人というのは多いのではないか。正直に言うと、僕には久保島の気持ちがよく分からないのだが(具体的には書かないが、久保島の行動のベースになっている感情が僕の中にはあまりない)、理解できる人もいるはずだ。実際、久保島と敵対するはずのある人物は、途中から久保島への共感の気持ちが膨らんでいく。許される行為ではないが、しかし仕方ない事情があった、と考えたくなる自分を認めている。
『蛾はどこまで行っても蛾よ、決して蝶にはなれない』
難しい問いをエンタメの中にうまく混ぜ込み、あらゆるページで読者へ答えのない問いを突きつけてくる物語です。
大門剛明「告解者」
哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン(マーク・ローランズ)
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他者と生活を共にするという経験が、自分自身の輪郭をくっきりさせることに繋がる、というのは、わかるような気がする。
僕はそもそも、それが人間であれ動物であれ、他者と生活を共にするというのが恐ろしく苦手なので、実体験としてそれを感じた経験はほとんどない。ただ、「他者と生活を共にすることが苦手なんだ」と気づく前の経験であればある。
子供の頃僕は実家が嫌いで嫌いで、どうにか早く家から出たいと思っていた。その当時は、両親のことが嫌いだと思ってたのだけど、大人になって振り返って考えてみると、誰であれ、誰かと一緒に生活をすることが無理だったんだろうな、と気付かされた。
他者の存在は僕に、「常に見られていること」を意識させられる。これは、他者が僕を常に見ていなくても、なんならすぐ傍にいなくても、僕にはそう感じられてしまう。そして、「常に見られていること」を意識させられると僕は、自分を取り繕うとしてしまうのだ。
取り繕うことそれ自体は、大した問題ではない。重要なことは、取り繕うということは、取り繕う対象である「自分自身」のことも一緒に意識される、ということだ。
一人でいる時、僕は「自分自身」のことを意識しない。けど、他者がいて、「常に見られていること」を意識させられることで、「自分自身」を取り繕う、という動機によって、「自分自身」のことが意識されるのだ。
取り繕うことそのものよりも、その際に「自分自身」が意識されてしまうのが嫌なんだろうな、という気がする。取り繕うことも確かにめんどくさいのだけど、それはまあテクニックでどうにでもなる。自分なりに経験を積んでいるから、その経験値も活かすことが出来る。でも、「自分自身」というのは僕にとって、ちゃんと見たくないものなんだろうと思う。出来るだけ考えないでおきたい、意識しないでおきたい、見ないでおきたい。そういうものなんだろうと思う。
だから、他者の存在が面倒に感じられるし、他者の存在が常に意識される空間はしんどいのだろうな、と思う。
こんな風に、自分自身について文章を書いていることと何が違うんだ、と今ふと思った。でも、やはりそれは違うのだ。こうやって、自分で自分のことを書く時には、自分の見たいものだけ選り分けて見ることが出来る。無意識の内に見たくないと思っているものは、見ないようにすることが出来る。でも、他者の存在が意識させる「自分自身」は、どんな姿が現れるか想像がつかない。自分が見たくないものを見させられるかもしれない。そして僕は、僕自身をまるで信頼していないので、「自分自身」には見たくない部分がたくさんあると信じている。それを、不意打ちみたいな形で意識させられるのは、嫌だなと思う。
著者は、「オオカミ」という他者と生活を共にすることで、自分自身の輪郭を、そしてさらに、人間という存在の輪郭をはっきりさせることが出来た。本書は、その記録である。
著者は、アラバマ大学の准教授だった頃に、「オオカミの子ども売ります」という新聞広告を目にする。彼は、500ドルでそのオオカミの子どもを買い受け、ブレニンという名前をつける。ブレニンは家に着くや大暴れし、部屋中をかき回した。そこから著者の、10年以上に渡るブレニンとの共同生活が始まる。
著者は、犬のしつけと同じようにしてブレニンをしつけ、それにより、外を歩く時も綱に繋ぐことがなかった。ブレニンを一人にすると部屋が荒らされることを知った著者は、どこに行くのにもブレニンを連れて行くことにした。もちろん、大学の講義にも。そして、著者の職場がワールドワイドに変わる度に、ブレニンもワールドワイドに引っ越しをすることになった。アメリカ、アイルランド、イギリス、そしてフランス。色んな過程から新たな仲間も増え、一方著者自身はまるで世捨て人であるかのように人間社会から遠のき、ブレナンとの濃密な時間を過ごしていく。
最後ブレナンが癌で息を引き取るまでを描き出していく。
こう書くと本書は、著者とオオカミの共同生活の記録作品だと思うだろう。確かに、そういう側面はある。しかしそれだけではない。本書は、著者がオオカミと共同生活を続けることで、自分自身、そして人間という種について考察した記録でもあるのだ。
『この本ではまた、人間であるということが何を意味するのかについても語りたい。といっても、生物学的な存在としての人間ではなく、他の生き物にはできないことができる生き物としての人間である。』
著者は哲学の教授として著名で、本も多数出している。本書でなされる議論の中にも、哲学的な要素はかなり含まれている。しかし著者は、本書は哲学の本ではないと言う。
『この本は哲学の本でもない。少なくとも、わたしが訓練を受けてきたような哲学、そして、わたしの同業者たちが評価するであろう狭い意味での哲学の本ではない。ここには議論が登場する。けれども、前提から結論にいたるきちんとした進捗はない。生きるということは、前提や結論をするにはあまりにもつかみどころがないのだ』
この点について、著者は巻末の謝辞にこんなことを書いている。
『本書の出版を最初に依頼してくれたのは、グランタ出版のジョージ・ミラー氏だった。これは、ジョージがわたしに盲目的な信頼を寄せてくれていたからにほかならない。というのも、この本の初期の草稿を読んだ人はみな、何を言いたいのか分からないという点で意見が一致していたからである』
本書を読めばわかるが、著者とブレニンは、ペットと言うにはあまりにもかけ離れた関係性を築いていた。家族でも、ここまでの時間を一緒には過ごさないだろう、というほどの関わり方だ。そんな存在がいなくなってしまった後での思考だ。混乱もあっただろう。しかしそれ以上に著者は、僕らが人間社会に生きているだけでは、そもそも捉えがたい問題、そして見つけにくい解決について書いている、という点も大きいのだろうと思う。
『同様に、わたしがブレニンから学んだレッスンと言うとき、こうしたレッスンは直感的なものであって、基本的には非認識的なものだった。これらのレッスンはブレニンを研究することから学んだのではなく、生活を共にすることから学んだ。そして、レッスンの多くを私がやっと理解したときには、もはやブレニンはいなかった』
本書に書かれていることは、ブレニンと生活している時リアルタイムで思考していたことではないという。後から振り返って、ああそうだったのかと考えるに至った思考を展開させている。ブレニンと一緒に過ごしていた時に直感的に捉えていたことを、言葉で捉え直す作業をしたのだろう。それはある意味で著者にとって、ブレニンとの時間を再構築する時間だっただろう。ある意味で著者は、思考し書くことで、ブレニンの喪失に対処しようとしたのかもしれない。
『ブレニンがいつもそばにいることが、嬉しかったというだけではない(もちろん、嬉しかったが)。自分がどう生きるべきか、どう行動すべきかということの多くは、この十一年間に学んだ。人生とその意義についてわたしが知っていることの多くは、ブレニンから学んだ。人間であるということは何なのか、これをオオカミから学んだのだ。ブレニンは、わたしの人生のあらゆる側面にあまりに包括的に入り込み、わたしたちの生活はあまりに境界なく、お互いにからみあったので、自分自身をブレニンとの関係で理解し、定義すらするようになった』
さて以下では、本書でどんな議論が展開されていくのか書いていきたいところなのだけど、ところどころ難しくて、色んな議論を理解しきれていない。例えば後半で、「人間にとって、死は、死んでいく人間にとってどう重要なのか?」という問いがなされる。残される者にとってではなく、死んでいく者にとってどう重要なのか、だ。これに対して著者は、人間(サル)とオオカミの時間に対する捉え方の違いを分析することで議論を展開していく。大雑把にわかる部分もあったけど、全体的には著者が言っていることは難しくてなかなか捉えきれなかった。
僕が理解できて面白いと感じたのは、著者が言う「内なるサル」の話である。オオカミと生活をすることで著者は、自分が、そして人間という種が、やはり「サル」なのだ、ということを認識するようになる。そして、自分の内側に残っているサル的な部分を「内なるサル」と呼ぶのだ。
そしてサルが、オオカミとは違って、そして他のどんな種とも違って高い知能を獲得した理由はなんだったのだろうか、と問い掛ける。高い知能というのは、人間と他の種とを区別するはっきりとした要素だが、しかしその高い知能はどんな理由で獲得されたのだろうか。
『かつて人間は、知能はたんに自然界とうまくやっていく能力だと考えていた』
そして人間は、群れで生活する種の方が単独行動する種よりも知能が高いことを発見する。人間はこれを、知能が高いから群れで生活できるだけの社会性の高い動物になったのだと考えたがる。しかし実際は、社会的な生活を通じて知能が高くなったと考える方が自然だと言う。
『そして、ここから群れ生活における第一の必要事項が出てくる。仲間のサルよりも高いコストをかけて、仲間よりわずかな利益しか得られなくなってはまずい。だから、群れ生活を営む者は、自分がダマサれているということに気づけるほど、十分に賢くなければならない。その結果、自分は騙されずに、相手を騙さなければならない必要性に駆りたてられて、知能はエスカレートする。サルの進化の途上では、嘘をつく能力と嘘を見抜く能力が手に手をとって発達したのである。必然的に後者は前者よりも優れることになる。』
『手短に言えば、ほかの社会的動物には見られないような知能の発達を類人猿や有尾類が達成できたのは、二重の必要性にかられた結果だ。自分を謀ろうとしている他者よりも、もっと巧みな戦略をする必要性と、自分が欺かれるよりももっとうまく相手をアザmク必要性だ。これらの必要性によって、サルの知能の正確は動かしがたく形づくられている。わたしたちは、自分の仲間の心をより良く理解し、それによって仲間を欺き、自分の目的のために利用できるように(もちろん、まさに同じことを仲間もわたしたちに対してしようとする)、知能を発達させた。これら以外のこと、たとえば自然世界に対するすばらしい理解、知的かつ芸術的な創造力といったものは、これらの帰結としてその後に生じたのである』
サルは、相手を欺き、自分が欺かれないために知能を発達させた、というのが著者の主張である。確かにサルは知能が高いが、それはこういう背景から生み出されているのだ、と。オオカミは、知能は高くないかもしれないが、しかし誰かを欺いたりするために行動することはない。欺くための能力こそが、サル(人間)と他の種を明確に区別する要因なんだと。そのことを著者はこんな風に表現する。
『わたしたちがもつ最高のものは、わたしたちがもつ最悪なものから生じた。これは必ずしも悪いことではないが、この点をわたしたちは肝に銘じなければならない』
さらに、何故オオカミはサルのような進化を選択しなかったのかという問いに対して、暴力とセックスという答えを挙げ、特にサルは、生殖とセックスの関係性を反転させたという話に繋がっていくのだけど、その辺りは割愛しよう。
これはなかなか面白い話だと感じました。確かに、元々知能が高かったから社会性のある動物になったという説明よりも、その逆の方が説得力がある気がするし、欺く力が社会の中での地位を決するのも確かだろうと思いました。
こんな風に著者は、オオカミという他者と、生活のほとんどを共有するような生活を続けることで、「内なるサル」を抱えた人間だけの世界で生きているのでは発見できなかっただろう様々な事柄を見つけ出す。それらが、ブレニンとの生活における様々なエピソードの合間合間に挟み込まれ、展開されていく構成はなかなか面白い。
こういう哲学風の議論はなかなか難しいのだけど、でも、著者とブレニンの様々なエピソードは、微笑ましく読むことが出来る。オオカミではなく大型犬だと偽って飼っている話、しつけは困難だと言われるオオカミをしつけるやり方、ブレニンの破壊行動や犬との敵対行動、ブレニンとの生活によって著者が人間社会から孤立していく過程など、どの話も面白い。それもこれも著者が、ペットを飼っている、という以上の関わり方でもってブレニンとの生活を維持し続けたからだ。大学の講義にまでオオカミを連れてくる教授が、世界中どこにいるだろうか?
著者がブレニンとの生活に慣れ、同時に、人間社会から孤立していくことを実感する過程における文章には、共感してしまうものが多い。
『わずかな例外を除いては、他人と関わっているときにはいつも、自分がしていることは時間つぶしだという感覚、あいまいで物思いに沈んだ状態が、付きまとった』
『落ち度は、わたしが友人と呼んできた人々にあるのではなく、わたし自身にある。わたしには何かが欠けている』
この辺りの感覚は、凄くわかる。もしかしたら僕も、オオカミとうまく暮らしていくことが出来るだろうか?
『両親はわたしのことをとても心配した。両親の元に行くのはますますまれになったが、たまに行くと、父母は決まってこう言った。「そんな生活をして、どうやって幸せになれるの?」』
ここから、人間にとっての幸せの話が展開され、「人間は幸せのジャンキーだ」という話になっていく。人間は幸せを実感することが出来ない動物なのだ、という考察は、半分ぐらいしか理解できていないと思うけど、なるほど確かにそうかもしれないと思わせるものだった。
生きていること、そして人間であるということ。そういう、僕らが普段生活の中で考えない思考を、ブレニンというオオカミとの共同生活という特殊な実践から導き出した、非常に特殊で、一方で普遍性を持ちうる議論だと思いました。
マーク・ローランズ「哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン」
山羊座の友人(原作:乙一 マンガ:ミヨカワ将)
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祈るしかない。理不尽に出会わないように、と。理不尽に目をつけられないように、と。
『僕たちはただ、この怪物の次のターゲットにならないように、息を殺し、頭を低くして生活するしかなかった』
理不尽なものというのは、世の中に様々に転がっているだろう。それが、自分が招いた理不尽なら、諦めもつく。
しかし、自分に非がないのにもたらされる理不尽は、本当に、ただ不運でしかない。
そんな理不尽に囚われた時、人間はどう振る舞うべきなのだろうか?
この辺りのことは、社会の中で、「不運な例外」として残酷に無視されているように感じることがある。建前上は、すべての人間を幸福にするために社会は存在するはずだが、誰もそんなことを信じてはいないだろう。ある程度の犠牲は仕方がない、切り捨てられる部分があっても、そんなものかと思うしかない。
それが、自分でない限りは。
人間はみな、自分は大丈夫だと楽観しているから、この不安定な社会を消極的に肯定しているに過ぎない。社会が、構成員すべてを幸福にすべきだ、というのは理想に過ぎないよ、なんて口を利けるのは、自分が切り捨てられる側にならない、根拠のない自信があるからに過ぎない。
で、不運にも、自分に理不尽が降りかかってきた時に、慌てふためく。自分には降りかかってこないと思ってたから、この社会の仕組みをとりあえず承認してただけなのに…と後悔にさらされる。
僕らは、そんなことを繰り返して、忘れて、また繰り返して、忘れての連続の中にいる。忘れてしまわなければ、この理不尽を消去出来ない不出来な社会を、とりあえずにせよ容認出来なくなってしまうからだ。
『結局僕は…かわらないんだ。生きてる限りずっと…』
理不尽にさらされた時、さらされた当人、そしてその周囲の人間はどう振る舞うべきか。
『僕はずっと、自分じゃなくて良かったって思ってたんだ』
僕は、逃げるだろう。自分がさらされた当人でも、周囲の人間でも。
『自分が生き残るために』
高校生の松田ユウヤは、平凡な学生として過ごしている。友達もいて、なんとなく喋る女子もいる。不良もいじめも視界に入る場所にあるが、しかしそれは自分には関係ない。そう思い込むことでささやかな高校生活を維持しようとしている。
ユウヤが特異な点は、自宅にある。高台にあるその家は、風の通り道になっているようで、ベランダには様々なものが飛んで来る。卒業アルバム、タケコプター、生きた小犬。ユウヤは、同じクラスの本庄ノゾミにだけは、その特殊なベランダの話をしていた。小犬の引き取り手を探すポスター作りを手伝ってくれた時に話した。それから本庄さんには、面白いものが飛んできた時には話すことにしていた。
ただ、あの新聞の話はしなかった。別に“面白い”わけじゃなかったからだ。
今から一月先の新聞。ある日ユウヤのベランダに、それが飛んできた。その記事を信じるなら、未来に殺人事件が起こることになる。
夜。ユウヤは、金城という暴君にいじめの標的にされている若槻ナオトに遭遇した。
血まみれのバットを持ったナオトと。
乙一の小説を久しく読んでいないなと思うのだけど、久々に乙一らしい物語を読んだな、という感じです。
乙一は、「ベランダに謎のものが飛んで来る」みたいな、非現実的な要素を物語に入れ込んでくることが多い印象がある。しかし、完全にファンタジーにはしない。物語を構成する要素の一部を非現実にするのだ。そしてそれ以外は、リアルさを貫く。そうすることで、乙一が描き出すリアルが、生々しくなりすぎない。物語として受け入れやすい。
このマンガで描かれるリアルの部分は、普通に描き出せばとても生々しい。同じ学校に殺人犯がいた。少年がいじめられている場面は、多くの生徒が目撃している。殺人、いじめ、同級生の逮捕…。感情をはっきりと露わにしなかったり、判断基準に合理性がなかったりと、なんとなく現代の若者らしいと僕がイメージする“リアル”な登場人物たちがその事件の中に放り込まれていく。普通に描けば、重たくなる話だ。
しかし、「ベランダに謎のものが飛んで来る」という設定が、その重苦しさを柔らかくする。重苦しい描写が続いても、ベランダの設定のお陰で、描かれている事柄をリアルに捉えすぎずに済む。ワンクッション置いて、物語なのだ、という捉え方が出来る。それでいて、リアルな部分の重苦しさ自体を取り除いているわけではないから、重苦しい感覚は残る。瞬間的に、見えなくしているだけだ。そうやって、描写の軽重を調整しながら物語を進めていく上で、このベランダの設定は実にうまく活きてくると思った。
『松田くんは、生きてる実感て感じたことある?』
“普通”の人間は、そういう問いを発しない。何故なら、生きていることが当然だからだ。しかし、理不尽にさらされた人間は、自分が生きていて当然ではない状況に追い込まれているからこそ、生きている実感に思いを巡らす。
ナオトは、金城は生きている実感がなかったから、ナオトに猫を殺させたのだろう、と推測する。命を奪うことで、生きてる自分を確かめたかったのだろう、と。
金城は、何故生きている実感がなかったのだろうか?生きていることに疑問を持たない“普通”の人間であれば、そんなこと考えることもないだろうに。
金城にも事情があったのだ、と金城を庇い立てしたいわけではない。しかし、生きている実感を感じられないその背景に何があったのだろう、と気になった。金城に生きている実感があれば、きっと、金城も暴君のように振る舞わずに、誰も被害を受けずに済んだのではないか、と。
『僕も、自分はなんのために生まれてきたんだろうっていつも考えてた。でも、あの夜わかったんだ。
僕はこのために生まれてきたんだって』
僕がユウヤだったら、どうしただろう、と考える。
ユウヤと同じことをしただろうか?それとも、しなかっただろうか?
きっと、しないだろう。僕はしない。
じゃあ、ナオトと同じことは?
きっと、それもしないだろう。
正しいことをしたいと思うけど、それはとても難しい。
そしてもっとも難しいことは、何が正しいのかを判断することだ。
ユウヤの行動は?ナオトの行動は?正しかったのか、正しくなかったのか。
間違っててもいいから、どちらかに断言できる人間になりたいものだ、と思う。
原作:乙一 マンガ:ミヨカワ将「山羊座の友人」
ゴースト≠ノイズ(リダクション)(十市社)
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子供の頃、子供でいることがとても苦痛だった。
『彼女の言葉は子供なら誰もが漠然と抱く大人への疑念の一部を的確に言い表している気がした。大人たちがつくばればれの嘘―ばればれなのに、こちらの未熟さのために論破するすべのない嘘。論破できないことを見透かしてぞんざいに放たれる、羊を追いたてる牧羊犬みたいに子供を柵の中へ押し戻そうとする嘘。かつては同じ疑念を抱いていたはずの大人たちはどうして、いつからそんな嘘を億面もなくつきはじめるのだろう、と前々から僕は思っていた』
大人の世界から逃れる術がない、という事実が苦痛で仕方なかった。大人の庇護下にいなければならない、という事実が嫌でたまらなかった。
『「子供はさ、親に感謝するべきだよ」新しい付箋をカラー写真のページに貼りつけながら、高町は柔らかい声でぼくを諭した。「好きでも嫌いでも、たとえば尊敬できなかったとしても…優しくても厳しくても、一つくらいだめなところがあったとしても、足が臭くても―大抵のことには目をつぶってさ・なにしろ、育ててもらってるんだから」たった今貼った付箋を剥がし、隣のページに貼りなおして、弱まった接着面を親指でそっと押さえた。「そうでなきゃ、せっかく一緒に暮らしてるのに、あんまり悲しいじゃん」』
親に守られているから自分が生きているのだ、という自覚はきちんとあった。子供の頃の僕は、引っ込み思案で優柔不断で、自分で決断して行動するなんてことはほとんど出来なかった。どれほどそれなりの環境が用意されようとも、僕が親の庇護下から離れて生きていける可能性はほとんどなかっただろう。
だとしても僕は、実際にそういう行動に移すかどうかはともかくとして、親の庇護下から逃れる手段がないという事実に絶望していた。
『父のようにはなりたくない。
今まで、そんな感情は全く自覚したことがなかった。』
子供の頃に戻りたい、という意見を聞くことがあるけど、僕にはまるで理解できない。大学進学で実家を出るまでの期間が、一番しんどかった。別に、虐待とか育児放棄とか、そういうはっきりとした分かりやすい何かがあったわけではない。妹と弟に聞いても、僕が感じていたことはきっと理解できないだろう。
『今はちょっと、それもわかる気がする。誇りも希望も失ったあとで生きていくのは大変なんだってことが』
僕はたぶん、どんな環境に生まれたとしても、その場その場に応じた葛藤にさいなまれただろう。今なら、そんな風に思える。子供の頃は違った。両親が、家族の雰囲気が悪いんだ、と思っていた。だから自分はこんな風に苦しいんだ、と。すべてを他人のせいにしていた。そして、ここから抜け出せれば、問題はすべて解決するはずなんだ、と思っていた。
『息継ぎの苦手な生き物が海で生きるのを諦めることがそんなに悪いことだろうか?』
僕はこの社会に適合するには色々と欠陥があるようだ。そう自覚するようになってから、考え方を変えた。悪いのは周りではなくて僕だ。だから、僕の振る舞いを変えれば問題は解決するし、どうしても振る舞いを変えられないなら諦めよう。
『「もし本当に、相手を巣の外に追い落としたとしたら」と、興味深そうにぼくの話を聞いたあと、高町は言った。「その最初の生存競争には勝てたとしても、そうする前の自分にはさ、きっともう二度と戻れないんだろうね」』
幸運だったことに、僕は自分の振る舞いを変えることが出来た。周りが悪いわけではなく、そして周りが変わらないのだとすれば、じゃあ自分が変わろう―そうやって僕は、どんな場所にでも瞬時に適応する力を磨いていった。今では、どこに行っても驚かれる。僕があまりにも、どんな環境や状況にもすんなり馴染んでしまうことに。
でもそれは、自分を見失ったからこそ出来ることだ。
もう僕は、昔の自分―本当の自分のことを忘れてしまった。誰かといる時の僕は、基本的には嘘つきだ。その場に適応するために自分自身をどんなピースに作り変えればいいのかばかり考えているモンスターだ。一人でいる時の僕は…どんな顔をしてるんだろう?
受け入れられることは、同時に、拒絶される可能性を生み出す。受け入れられもしなかった相手から、拒絶されることはない。形の上で拒絶されることがあっても、そもそも受け入れられてはいなかったのだからさほどどうということもないだろう。しかし、一旦受け入れられれば、拒絶される可能性を永遠に内包することになる。
『夏帆ちゃんのことを知ったあとでは、あの三人と楽しそうに話しているときでさえ、無心で笑っているようには見えなかった。まるで感情のブレーキレバーに常に指をかけているみたいに』
それが人間関係なんだ、と言われたらそれまでだ。けど、だったら、受け入れられなくていい、と思ってしまうことは頻繁にある。結婚届を書くのと同時に離婚届にも記入しておくようなやり取りに、僕には見えてしまう。
『架は行き止まりだから。私がなんの気兼ねもなく、どんなことを口走っても、どこにも広まる心配がないでしょ?』
だから僕は、お互い受け入れ合わないまま、一緒にいられる関係というのが理想的に思えてしまう。そして、この物語の主人公二人、一居士架と玖波高町の関係は、そういうものであるように思えて、僕にはとても羨ましく思える。
一年A組の教室で、僕は存在しないものとして扱われている。入学してから一月。僕は見事に、クラス全員から存在を感知されない人間になった。席替えの度に僕の定位置になっている窓際の最後列の席で、ひたすら存在を消して椅子に座るだけの日々。周囲の会話や物音がノイズのように一体のものとしか聞こえなくなることが度々あって、そんなノイズに悩まされると、心を消して窓の外を眺め続ける。
また席替えが行われて、相変わらず僕は定位置のままだったのだけど、今度の席替えではどうやら何か起こったようだ。逃避のために屋上に行っていた間に何かがあったらしく、教室の雰囲気が微妙だ。そしてしばらくして、その原因が分かった。
僕の目の前の席になった少女。真っすぐの黒髪の少女は、玖波高町というようだ。何故かは分からないが、クラスの視線を集めているように思える。
しばらく後ろの席から高町を観察し続けたが、どうやら何か事情を抱えているらしい、ということ以外はっきりとしたことは分からなかった。しかしそんなある日、衝撃的な出来事が起こる。
高町が僕に話しかけてきたのだ。
クラスの誰からも存在を認められない立場に、否応無しに慣れたつもりではいた。しかし、高町から存在を認知され、声を掛けられた僕は、喜びが溢れ出るのを留めることが出来なかった。高町は、近づいてきた文化祭の準備と称して、ぼくを放課後の図書室に連れだした。
その日以来僕は、学校に行くのが楽しみになった。
ここで内容紹介を止めると、ただの学園小説に思えるだろう。色々あって作品の中身について具体的に触れることが難しいが、この物語は、家族の物語だ。
物語は、架の一人称で進んでいくが、物語の中心人物は高町の方だ。高町は一見、どこにでもいる女の子のように見える。友達がいて、友達と楽しそうに喋って、適度に授業を聞き流して。学校を頻繁に休む、という点を除けば、特に目立つような何かを持っているように見えはしない。
しかし高町は、その背中に、相当なものを背負い込んでいる。
非常に繊細に作られた物語なので、内容に具体的に踏み込まない。だから、高町が一体何を抱えているのか、それは基本的にここには書かない。
高町が背負ったものは、非常に重い。物語では、高町が背負ったものが少しずつ明らかにされていく構成になっているが、それらはすべて基本的に繋がっており、同じ根っこを持っている。
『「根っこをぎゅって握ってるみたいに」と高町は表現した。「それ以上のものになれるなんて勘違いしないように、自分で自分を限定しはじめるきっかけになった最初の出来事が、誰にでもあるはずなんだよ」』
高町は、自分の背負ったものに完全に囚われてしまっている。高町は、それを当然のものとして受け入れようとしている。そういう風にして生きるのが、自分の役目なのだと。そうするしかないのだと。それが高町の、生きていく上での基本原理になっている。
『自分の状況で精一杯なときでも、案外まだ、ほかの誰かに同情できちゃったりするんだよね』
そして架は、傍観者として物語に登場する。“幽霊”と呼ばれる彼は、突然高町と喋るようになるまで、教室の中でいないものとして扱われていた。親以外の他者と関わらない生活にあまりにも慣れていて、他者との距離の取り方や詰め方を忘れてしまっている。
だから、傍観者。そして傍観者だとわかっているからこそ、高町は架を選んだのだ。
同情や労りや、その他どんな好意的な感情も面倒だと感じる少女と、他者と関わらなすぎてまともな関係性を築けない少年は、お互いにとってピッタリくる存在だった。高町にとって架は、どんな姿でも見せられる気安い存在だ。架にどんな自分を見せても、架以外のどんな他者にも影響がない。そして架にとっては、たとえ高町が人目を気にしながら接しているとはいえ、あらゆる人間から感知されないまま過ごしていた日常を良い意味でぶち壊してくれた存在である高町は、涙が出るほど喜ばしい存在なのだ。
受け入れられることは、拒絶を内包する。だから高町は、仲良くしている女子三人に対して、スイッチを入れるようにして自分の中の何かを切り替えながら接する。その三人は、高町の事情を知っており、その事情も含めて高町を受け入れようとする。しかし高町は、そんな彼女たちの好意を、バリアを張るようにしてやんわりと拒絶する。相手に、拒絶したことが伝わらないようなやり方で。それは、傍観者である架だからこそ気づくことが出来るものだ。
高町が架を選んだのは、架が何も知らないからだ。そして、“幽霊”だから、高町が抱える事情を知ったとしても、何もしないだろうと思えたからだろう。
『幽霊じゃなくなった架に友達でいる価値何てあると思ってるの?』
二人はもの凄く欠けていて、傷ついていた。でも、お互いの存在が、お互いの欠けた部分にぴったりとハマりこんだ。だから彼らは、関係を続けることが出来た。
物語が進む過程で、高町が抱える問題が徐々に明らかになっていく。そしてそれらが、高町という人格をどう蝕んでいったのかも。そして、それを知れば知るほど、そして高町の置かれた状況を想像すればするほど、架は傍観者ではいられなくなっていく。架に傍観者であることを望む高町と、高町のためになりたいと傍観者であることを捨てようとする架。欠けた部分にぴったりとハマり込んでいたはずの二人は、徐々に不協和音を奏でるようになる。
架の、そして高町の、それぞれの場面での選択が正しかったのか。それは、読者一人一人にとって答えは違うだろう。しかしながら、結果的に彼らが行き着いてしまった場所は、決してそこを目指していたわけではないにせよ結果的にそうなってしまった終着点は、彼らを“大人”へと引き上げていく。
『本物の大人なんてものがほんとにいると思う?』
高町の言う「本物の大人」が何を指すのか、はっきりとは分からないけど、彼らは、幾多の選択を繰り返した結果、結果的に“大人”へと一歩踏み出した。
『その最初の生存競争には勝てたとしても、そうする前の自分にはさ、きっともう二度と戻れないんだろうね』
それまでの自分には、もう戻ることが出来ない。
自分を支えてくれていた大人、あるいは反面教師としての大人の存在を、彼らは長い旅路の果てに振り落としていく。虚構を生み出し、それを維持し、その虚構の中に子供を閉じ込めようとする大人の存在から、彼らは自由になろうとする。そこにしかいられないのだ、いるしかないのだ、という思い込みから解放され、自分の意志で前に進もうとする。重いものを背負っていた少女も、ただの傍観者であった少年も、共にそういう一歩を踏み出すことになる。
『そのあいだ、ぼくはいつか高町がしていた想像力と経験の話を思い出していた。ぼくたちぐらいの年代は、まだ想像力と経験のどちらも選びとれる位置にいると高町は言った。もしかしたら、彼女はすでに選んでしまったのだろうか?クッキーの型抜きか音楽データの圧縮みたいに、経験によって想像力が秘める無限の広がりを―知覚はできなくても思考や人格形成に貴重な役割を果たしているかもしれない余白部分を切り捨ててしまうことがあると承知の上で、それでもなお経験がもつ圧倒的な優位性に―効率という利点に―大人がしかけた罠の甘い匂いに、危険なその魅力に―あらがえなかったのだろうか。』
彼らは、経験を通ってきてしまった。もう、想像するだけの世界には、戻れない。
生まれてきたこと、家族と関わること、生き続けること。高校生であれば、まだまだ背負わなくていいはずの重い現実に囚われながら、自分という今ある存在に踏ん張って留まり続けようとした少女。そして、自分の輪郭を見失ったことにさえ諦念していながらも、少女を守りたいという気持ちが膨らみ、それまでに自分の有り様を捨て去る決意をした少年。二人の関係性は、歪であり、健全である。高町と架の世界では、彼らの関係は破綻するしかなかった。出会った瞬間から、破綻が内包されていた。
『だけど、お願い。これで最後だから。あとすこしだけ―この家をでるまでのあいだだけでいいから、このまま―私の友達のままの架でいて』
破綻を乗り越えた先、彼らの関係は一体どうなるのだろうか?
『次に会うときまで』
再び会うことがあれば、彼らなら、破綻を内包しない関係性を作り出せるのかもしれない。
とてもとても、素晴らしい作品だった。
十市社「ゴースト≠ノイズ(リダクション)」
「スポットライト 世紀のスクープ」を観に行ってきました
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『神様に嫌と言えますか?』
タイムズ紙の傘下に入った、ボストンの地元紙「ボストン・グローブ紙」が、教会が何十年も隠蔽してきた暗部を暴きだした。
『教会は何でもできる。何でも』
その権力は、強大だ。
『教会は何世紀も存在している。
新聞社が勝てると?』
教区内の神父が、男女問わず子どもたちに性的虐待を加えている。それは、枢機卿も知っており、教会全体で隠蔽工作をしている。「ボストン・グローブ紙」が暴きだした真実は、衝撃的なものだった。
『奴は神父だ。従うしかない』
2002年、「ボストン・グローブ紙」がこの記事を掲載したことで、ボストン教区内で249人の神父が性的虐待に関わり、被害者は1000人以上に上ることが判明した。
『教会は人が作った組織だ。いずれ滅びる。
けど、信仰は永遠だ』
「ボストン・グローブ紙」の読者の53%はカトリック信者。記者の一人であるサーシャの祖母も、熱心に教会に通っている。
『貧しい家の子には、教会は重要だ』
教会の存在は、地域に、深く深く根付いている。
『だが、人々に教会は必要だ。
少しの悪のために多くの善は捨てられない』
真っ黒に汚れた教会であったとしても?
目の前にいるのが、子どもをレイプした鬼畜であっても?
『教会に行かなくなったのは、大した理由じゃない。
本当に、また教会に行くと思っていたんだ。いずれ、きっと行くんだと。
でも、あの手紙を読んだら、俺の中で何かが壊れた。』
例え失われるものが膨大であっても、真実は知られるべきだ。
『何も諦めてはいない。
私たちは、逃げない』
警察も、裁判所も、弁護士も、皆知っていた。新聞社でさえ、知っていた。しかし何もしなかった。
『何かあると知りながら、何もしなかった。
それも、俺達で終わりだ。』
彼らは、教会という強大な権力を向こうに回して、真実を、そして真実を確信させてくれる証拠を掴んだ。
『私たちは毎日、闇の中を手探りで歩いている。
そこに光が差すことで、我々は間違っていたとわかる』
すべてを乗り越えて、世紀のスクープは世に出る。
『私達の仕事は、こんな記事を書くことだ』
前局長の定年退職に伴って、タイムズ紙から新たな局長が送られてきた。
マーティ・バロン。
独身のユダヤ人である彼は、グローブ紙がかつて取り上げたゲーガン事件に着目する。ゲーガン神父が子どもに性的虐待をした、という記事だ。バロンはスポットライトのチームに、この事件はまだ掘り下げられていないと指摘する。
スポットライト。
グローブ紙に長く存在する特集欄だ。ネタを見つけたら二ヶ月掛けて取材をし、それから向こう一年間連載を継続する。グローブ紙の、花形だ。
教会を訴えるのか?
取材を始めたレゼンデスやサーシャらは、次第にこの闇が奥深いものだと気づく。教会は、ほんの一部の神父だけが悪いのだと思わせたがっている。しかし、実際は違う。取材を進める過程で、ボストン区内に存在するはずの、性的虐待に手を染めたと思われる神父の推定数はどんどんと膨れ上がっていく。
これは、神父ではなく、教会という組織の問題だ。
彼らは再発防止のため、教会に打撃を与えられる確実な証拠を手にするまで、粘り強く取材を続ける…。
映画を見ながら僕は、アメリカにおける教会の存在は、日本だと何に該当するだろうか、と考えていた。小さな子どもが一定数以上集まるという意味では、塾や子供会なんかも該当するだろうが、決定的に違う点が一つある。
それは、神父は神だ、ということだ。
『目をかけてもらったら有頂天だ。
神父に可愛がられて、ワナにはまるんです』
神にレイプされる。それに該当しそうな存在は、日本ではちょっと思い当たらない。
だからこそこのグローブ紙の記事は、日本人が想像するよりも遥かに壮絶でショッキングなものだったのだろうと思う。
『おふくろは舞い上がったさ。神様が来たんだからね』
神父は、神様のような扱いをされる。さらに、教会という組織は絶対的な権力を持っている。「教会は何でもできる。何でも」というのは、決して大げさではない。教会は、裁判所に提出された証拠さえ、隠すことが出来る。
被害者が声を上げないのは、当然だ。ボストンだけで、表に出ただけで1000人以上の被害者が、グローブ紙の記事掲載後に判明した。恐らく、もっといるだろう。
この映画の中では、性的虐待の被害者も何人も登場する。彼らは、何が起こっているのか分からないまま、神父の行為を受け入れざるを得なかった。例えば、ゲーガン神父が標的にしていたのは、「貧困 親不在 家庭崩壊」の子どもたち。教会にしか居場所がない子どもたちを狙っている。大人になり、性的虐待の被害者であることを隠したまま社会の中で生きている被害者たちは、まだその経験を自分の中で消化出来ていない。
しかし、そういう被害者はまだましな方なのだ。
『彼は幸運な方だ。まだ生きてる』
これ以上この点については触れられないが、恐らく悩み苦しんで自殺してしまった被害者が数多くいたのだろう。死者すら出すような闇を、教会は少なくとも30年以上に渡って隠し続けてきた。
問題は、性的虐待という部分に留まらない。教会がこの事実をいかに隠蔽してきたのか。グローブ紙の記者たちは、その点も追求していく。存在しない裁判記録、機密保持が条件に含まれた示談。その影には、教会の隠蔽工作を手助けする様々な人間の存在が浮かび上がる。
取材は困難を極める。
もちろんそれは、教会が強大な権力を持っている、ということにも起因する。彼らは、その絶対的な権力を行使して、なんだってやる。彼らに、出来ないことはない。警察だって裁判所だって弁護士だって、自分たちの都合の良いように動かせるのだ。
しかしそれ以上にグローブ紙の記者にとっては、教会が地域と密接に結びついているという点が問題になる。グローブ紙は、基本地元紙であるが故に、記者もほとんどがボストン出身だ。地元であるボストンの、地域に密着している教会を叩く。それは、そこにこれからも住み続ける者に、逡巡を与える。
『バロンは余所者だ。2年もすれば、他所へ行く。
でも、君はどこへ出て行く?』
しかしそれでも、彼らは知ってしまった真実を世に出す。それが何を破壊することになろうと。
『「この文書を記事にした場合、誰が責任を取る?」
「じゃあ、記事にしなかった場合の責任は誰が取るんだ?」』
彼らは、執念で取材を続ける。教会から圧力が掛かり、口を閉ざす者ばかり。被害者を探しだして当たるも、快く話してくれる人は多くないばかりか、放っておけと追い出される始末。開示されているはずの情報も、すんなりとは手に入らない。
そんな中で彼らは、表沙汰になっていない、性的虐待に関わった神父の名前をあぶり出すために、恐ろしく地味な作業に手を付ける。膨大な時間を掛けて、公開情報だけを頼りに、彼らは悪い神父の名前を炙りだしていく。
途中で、9.11のテロが起こる。機動力は、そちらの取材にも割かなければならない。近い内に記事になるはずだと思っていた人たちの気持ちを波立たせることにもなる。
それでも彼らはやりきった。
この映画の描かれ方が良いのは、新聞社が正義を振りかざしているようには見えないことだ。
小説や映画でマスコミが描かれる場合、特に日本ではそういう印象があるが、マスコミ人は“正義”を錦の御旗として掲げて取材を続ける。自分たちがやっていることは正義のためなのだ。多少強引な部分があっても、それは真実を引きずり出すために仕方のないことなのだ、という傲慢さが透けて見える描写になることが多い印象がある。
この映画の場合、そういう雰囲気はない。
実際のグローブ紙の記者による取材がどうだったかは分からない。多くのマスコミ同様、正義を振りかざし、強引に取材を進めた記者もいたかもしれない。それは分からないのだけど、でもこの映画での描き方はとても良かった。
彼らも、戸惑いながら取材を続けている。実際グローブ紙も、かつて神父の性的虐待を記事で取り上げたことはある。事例として、そういう事件があったという意識はあった。しかし、取材を進めていく中で、彼らは事件の全貌が、構図がはっきり見えてくる。それは、彼らの想像を遥かに超えていた。彼らにとって教会というのは、子どもの頃から親しんできた馴染みの場所だ。そんな教会が、これほどの規模で犯罪を犯し、隠蔽している。そんな事実を彼らも、信じられない思いを抱えながら取材を続けているのだろう。
さらに彼らは、自分たちの過ちをきちんと捉えている。特にそれを意識しているのが、スポットライト欄のデスクであるロビーだ。
『俺達はどうだ。
情報は集まっていた。けど、何もしなかった。』
ロビーは、もっと早くから出来ることがあったはずだ、と思っている。今回はたまたま、新たな局長がやってきて、その局長の指示で取材が始まった。スポットライト欄は通例記者がテーマを決めることになっているから、異例だ。しかし、そのきっかけがなければ、この真実は表に出るのがもっと遅かったかもしれない。被害者がもっと増えたかもしれない。いや、もし自分たちがもっと早くから気付いて動き出していれば、もっと被害者は少なくて済んだかもしれない。そして、それが出来るはずの環境は整っていたのだ。ロビーには、そういう後悔がある。
だからこそロビーは、徹底的に教会と戦う決意をする。その時点でも絶対的なスクープだったものを、さらに熟成させる決断をする。この暗部の責任を、神父や枢機卿という個人ではなく、教会という組織全体に負わせるために。
この記事の後、ボストン以外の様々な地域で、同様の性的虐待の被害が確認されたという。そういうスキャンダルを超えて今、教会と人々の関係はどうなっているのだろうか?
恐らく、何も変わっていないのだろうと僕は思う。
日本にはかつて、オウム真理教という宗教団体が存在した。キリスト教と比較するのは歴史も規模もまるで違うだろうが、オウム真理教程度の歴史の浅い宗教団体でさえ、殺人事件への関与や死者を多数出したテロ事件などを引き起こしながら、名前を変えて未だに団体としては存在している。かつてのオウム真理教の行いを知らない若者たちが、その名前を変えた団体に多く入信するようになっている、というニュースも昔見た記憶がある。
グローブ紙は、教会という権威に、絶大なるダメージを与えた。しかし結局、教会という権威は揺るがないのだろう。特にアメリカは日本とは違って、信仰というものがそもそも日常の中に存在している国だ。仮にキリスト教という団体を捨てることが出来たとしても、信仰する気持ちを捨て去ることは難しいだろう。であれば、結局その最大の受け皿はキリスト教ということになる。きっと、何も変わっていないだろう。
だからきっと、彼らはまた繰り返す。今度は、より巧妙に。
当時ボストン教区にいたロウ枢機卿は、グローブ紙の記事後、ボストン教区を離れ、より高位のヴァチカンにある教区に転属になったと言う。
「スポットライト 世紀のスクープ」を観に行ってきました
キラキラ(三池ろむこ)
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僕がBLを読む時に最も重視するのは、「男同士の物語でなければ成立しえないかどうか」だ。
僕は別に、特段BLというジャンルが好きというわけではない。そもそも男だし。でもまあ、マンガでも小説でも映画でも、物語というのは好きだから、そういうものの一つとしてBLを捉えている。
例えば、「カレーが好き」というのを考えてみる。海軍カレーでもインドカレーでも定食屋のカレーでもCoCo壱番屋のカレーでも、基本的にカレーなら好き、というスタンスだとしてみよう。
で、たとえばインドに行くことになったとする。別になんのカレーも好きなんだけど、わざわざインドに行くなら、インドでしか食べられないカレーを食べよう、となる。インドで(あるかどうかはともかく)CoCo壱番屋のカレーをわざわざ食べる必要はない。
僕にとってBLというのはそういう感覚で捉えている。BLというジャンルに手を出すなら、男同士じゃないと成り立たない物語が読みたいなぁ、と思うのだ。
そういう意味で本書は、ちょっと僕の中では不満があった。BLが好きな人からは異論もあるだろうけど、僕は本書は、男同士でなくても別に成立してしまう話に思えた。
もちろん、完全にとは言わない。男女の場合、引越し先のシェアハウスでいきなり同じ部屋に住むなんて展開にはならない。他にも、パッとは浮かばないけど、男女ではいきなりそうはならないだろう、という設定や展開は多少あるはずだ。
それでも、やっぱりちょっと僕の中では弱いかなぁ、と思った。どの話も、どっちかを女性に置き換えてもそのまますんなり成立してしまう物語に思えた。それだと、BLに対して「男同士でなければ成立しない物語」を求めている僕にはちょっと物足りない感じになった。
舞台は、芸術家方面の仕事をしている人たちが入れ替わりで住んでいくシェアハウス。そこの住人である面々が、仕事で付き合いのある人や、息抜きで訪れる喫茶店などで、様々な人間関係を展開していくのだけど、冒頭でメインで描かれるのは、自称カメラマンである加持遼太と、飲食店でアルバイトをしている宮田真人だ。
彼らは以前からの知り合いだ。高校時代、一つ上の先輩だった宮田に、鍛冶が告白したことがあったのだ。
『正直迷惑としか思えない。俺はお前のことよくしらないし。お前が俺の何を好きと言っているのかわからない。俺のコトなんて全然知らないくせに』
そんな風にこっぴどくフラれた鍛冶。以来関わることもなかった宮田先輩が、突然鍛冶の目の前に現れる。しかも、前の住民が出て行くまでの間、鍛冶の部屋に住むことになった。
6年ぶりに突然現れた宮田先輩。もう会うこともないと思っていた相手だけど、やっぱりこうしていると、好きだなと思う。
というような話です。
先程、BLとしては物足りない、という話を書いた。でも、BLではなく、男女でも成立するような恋愛物語と捉えれば、なかなか良かったと思う。
どの話も、恋が始まるまでのその直前の雰囲気をうまく描き出している。
元々関わりがあった人同士(同じところに住んでいるとか、仕事上の付き合いとか)の話では、元からあった関係性を壊すことになるんじゃないかとい葛藤と、それでも相手に自分の気持ちを伝えたいという気持ちが交錯していく。
鍛冶と宮田の物語では、好きな場面がある。
『俺は…鍛冶といると居心地が良くて。
なにもなかったような顔をして。
ずっと彼に甘えていたのかもしれない』
宮田が、鍛冶からの好意に気付いた後でこう考える場面がある。僕は、全然頻繁にではないけど、ごく稀に誰かからの好意を感じることがある(気のせいかもしれないけど)。そういう時僕は、意識的にその好意を無視するようにしている。一緒にいて居心地が良い相手とは恋愛関係にならない方がいい、というのが、僕の少ない経験から導かれた結論で(どうしてもうまくいかなくなる)、だからなんとなくそういう好意を感じるようなことがあっても、気づかないフリをするようになった。そうやって、相手の好意をうまく利用して(言い方は悪いけど)生きている自覚があるので、このシーンはなんか琴線に触れた。
元々関わりがなかった人との関係が進展する物語もある。そういう話では、距離の詰め方がなかなか良いと思う。積極的な好意というわけではないきっかけから関係性が始まっていき、関わりが強くなっていく。そういう過程をきちんと描いている感じがする。
BLとしてはちょっとあんまりという感じだったけど、恋愛物語として捉えれば割といいんじゃないかなと思います。
三池ろむこ「キラキラ」
爆撃聖徳太子(町井登志夫)
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珍しく先にこういうことを書いておくと、
この作品、超絶的に面白かった!
読む前の期待値が限りなくゼロに近かったから、というのもあるかもしれないけど、久々にこんなに面白い小説を読んだ、という感じだった。古代史を新解釈する意欲的な内容ながら、超弩級のエンタメ小説で、歴史のことなんかまるで知らない僕でも450ページ以上の作品を一気に読めてしまった。
物語は、西暦607年、小野妹子が倭国外交使節団代表として、当時の超大国・隋国の皇帝・煬帝に謁見する場面から始まる。
『皇帝が支配する隋国は、この時代の倭人にとって、世界の大部分と言っても過言ではなかった』
『対するに、妹子の倭国。辺境の島。文化程度においては、おそらく朝鮮の田舎にも劣るだろう』
それほど国力に差があった隋と倭国。
小野妹子は倭国の代表として皇帝煬帝に謁見するわけだが、この任につくに当たって一つ奇妙な命令を受けた。
皇帝に渡す国書を、読んではいけない。
一抹の不安が過ぎる。国書は、形式は推古天皇の手によるものだが、実際は、あの男、厩戸皇子、またの名を聖徳太子が書いたものなのだ。
『日、出ずるところの天子、日、没するところの天子に書を致す。つつがなきや』
こう書かれた国書に、皇帝は激怒。小野妹子は捉えられてしまうのだ。
時は遡って西暦590年。20歳になる前の小野妹子は北九州の秦王国にいた。秦河勝が治める、実に栄えた土地だ。しかし今この地は、海岸を人が埋め尽くしている。大陸が統一され、蛮族の支配に入るのを拒んだ者達が船で倭国まで逃げてきているのだ。
その後飛鳥に戻った小野妹子は、朝廷から緊急の呼び出しが掛かる。倭国の最大の権力者である蘇我馬子が、小野妹子を呼んでいるのだという。
北九州の使いから、一万の兵を寄越すよう要求があったのだが、何か事情を知らないか、と探られる。状況が分からないまま再度秦王国へと出向くことになった小野妹子は、そこで驚愕することになる。
つい先ごろ秦王国を訪れた時に見かけた、視線が定まらず、奇声を発していた男。大陸から流れ着いた流浪の民だとばかり思い込んでいたあの奇人が、実は皇族である厩戸皇子、つまり聖徳太子だったのだ。
小野妹子と聖徳太子の縁はそこから始まる。聖徳太子は、超大国である隋に対して一人喧嘩を吹っ掛けるという、世界中誰もやっていない手に打って出る。そんな混乱に否応無しに巻き込まれた小野妹子は、生死の境を何度も潜ることになる…。
というような話です。
もう一度書きますが、超面白い作品でした。
まずなによりも、聖徳太子の造型が素晴らしい。聖徳太子というのはそもそも謎めいた人物のようで、その実在さえも疑われているほど。数多くの謎を残しているようなのだけど(その謎そのものは僕は知らない)、それらの謎に著者なりの回答を提示している。
聖徳太子は、「うるさいうるさい」と常にわめいていて、また誰もが秘密にしているどんなことも筒抜けになってしまう。それ故聖徳太子は、様々な人間の弱みを握って意のままに操る。これらに著者は、理由を与える。その理由は、聖徳太子の「10人の話を同時に聞ける」という逸話の説明も兼ねてしまう。また、日本書紀の中の些細な記述を頼りに、奇想を膨らませて聖徳太子の造型に利用したりもする。
聖徳太子は、登場シーンから最後の最後まで、基本的に頭が狂っているかのような振る舞いをするのだけど、それらにちゃんと理由が与えられるので、聖徳太子という人物の造型が破綻していないように見える(人格的にはもちろん破綻しているんだけど、人物像そのものは破綻していない)。さらに、聖徳太子のこの人物像をリアルに見せている背景がある。
それが、超大国・隋の存在である。
当時、倭国に限らず、世界中の国が隋に対して朝貢や和平交渉をした。贈り物をし、交易を続けますんで攻撃はしないでくださいね、というやり取りを交わすのだ。当時、隋を敵に回すことは、国家の死を意味していたと言っても言い過ぎではない。倭国も当然、小野妹子を代表として、隋との関係を構築しようとする。
しかしそんな中で、ただ一人聖徳太子だけが、隋との闘いに挑む。冒頭の、「日、出ずるところの天子、日、没するところの天子に書を致す。つつがなきや」という国書も、聖徳太子から皇帝煬帝への宣戦布告のようなものである。
『厩戸皇子は、隋と戦う気だ』
小野妹子には、なぜ聖徳太子が隋に闘いを挑もうとするのかまるで理解できない。もちろん、隋と関わりを持たずに済むならそれがベストだが、そうもいかない以上、良好な関係を築いておくべきだと小野妹子は考えるのだが、聖徳太子の中にはそんな理屈はないようだ。
『「皇太子、あなたは何を考えてるんですか」
「僕が考えているのは、つねに愛と平和だ」』
そう聖徳太子は答えるのだが、小野妹子からすれば聖徳太子がやっているのは、最も愛と平和から程遠い行為に思えてならないのだ。
やはり聖徳太子は、気が触れているだけのただのアホなのか?
誰もがそう思いたくなる。しかし、読み進めていく内に徐々に、聖徳太子が世界をどう捉えているのかが見えてくる。それと同時に、聖徳太子が見ている未来も徐々に明らかになっていく。
そうするにつれて、読者はこう思うようになるだろう。
聖徳太子、すげぇ。
そして、この隋との闘いという要素が、気が触れているようにしか見えない聖徳太子の人物像を荒唐無稽に思わせないのだ。
何故なら、気が触れているぐらいの男じゃなければ、隋と戦おうなんていう発想にならないからだ。
聖徳太子は、確かにイカれているのだけど、だからこそ隋と事を構えるなんていう大それた発想が出来た。聖徳太子のイカれた描写は、教科書に載るほどの偉業を成し遂げた人物だとは思えないほど衝撃的なのだけど、次第に、この狂気こそが隋を滅亡させる原動力だったのだ、と思えるようになる。聖徳太子が実際にこの作品で描かれているような奇人変人だったのか、それは分からない。けどでも本書を読むと、そんな奇人変人だったからこそ隋を壊滅させ、倭国を守ったのだ、と思いたくなる。倭国が隋に喧嘩を売るなんて、アリがイノシシに喧嘩を売るようなものだ。そんなこと、狂ってないと出来ないだろう。
実際に聖徳太子が暗躍したお陰で隋が滅亡に追い込まれたという記録が残っているのかどうか、それは知らない。恐らく著者の奇想なのではないかと思う。ホントに聖徳太子が本書で描かれるような人物だったら、ちょっとヤバイ。ヤバイけど、でもそうだったら面白いなぁと思ってしまうし、本書での聖徳太子・小野妹子の活躍を見ていると、なんだかそうであって欲しいと思いたくなってしまう部分もある。
小野妹子は家族思いで、家族のために身を粉にして働き、可能な限り家族と共に過ごしたいと願う、割とどこにでもいる真面目な豪族だ。しかし、聖徳太子と出会ってしまったが故に、まるで聖徳太子のパシリのように扱われ、もう死ぬ以外ないだろという窮地を幾度もくぐり抜けることになる。
中でも圧巻だったのが、高句麗での死闘である。
聖徳太子は、倭国を守るための最重要防衛ラインを高句麗と捉えていた。高句麗は、朝鮮半島の北部にあり、首都は平壌。小野妹子にとっては、母方の祖父の生まれの地でもある。
高句麗が落ちれば倭国も危うい。だからこそここの防衛に倭国も支援を惜しまない。物資の輸送のために高句麗に入った小野妹子は、そのまま戦闘に巻き込まれてしまう。
高句麗の兵士1万。対して隋国の兵士100万。端から勝ち目なんかない。高句麗は天然の要塞を有し、城はある程度堅牢である。しかし、倒しても倒してもなお数で圧倒する隋軍に対して、有効な手立てはほとんどない。
こんな状況でいかに勝利を掴み取るのか。奇策に奇策で応じる激しい応酬が繰り広げられ、何度も死を覚悟した小野妹子。どう考えても勝てるはずのない闘いに高句麗軍と小野妹子はどう挑んだのか。本書の読みどころの一つです。
ラストの方で、聖徳太子が何故奇人に見えてしまうのかという説明がなされ、なるほど!と納得させられる。この解釈は凄いと思う。また、日本書紀に残っているらしい様々な謎めいた記述に描写を与えて、聖徳太子という人物をより強烈に描き出していく。まさかあの当時、あれが存在して、聖徳太子が空からやってくるなんて、誰も思いつかないでしょう、そんなアホみたいなこと。そういうことを著者はさらっとやってしまう。人間としては完全に破綻していながら、小説の登場人物としては破綻していない、というかメチャクチャ魅力的な聖徳太子の言動と、それに振り回される小野妹子のドタバタを楽しむ作品だ。
『「聖徳太子、お前は人間というものを信頼していないのか」
「あんたは信じているのか。生きている限り、まだまだやるか」』
ラストもラスト、聖徳太子と皇帝煬帝のやり取りはなかなか印象的だった。先の先まで読み、人間を基本的に信頼していない聖徳太子と、先を見据えてはいるが人間を基本的に信じている皇帝煬帝。二人が見ている世界はまるで違う。
この聖徳太子と皇帝煬帝のやり取りの中に、歴史というものを学ぶ価値を見出すヒントがあるように感じられた。人類の歴史を知ることは、人類が犯してきた失敗の歴史を知ることだ。その点で、聖徳太子の方に軍配が上がったということだろう。
『逆だろぉぉぉぉぉぉっ。僕はこぉんなちっちゃい頃からあんたの心配なかりしていたよ。もう四十の大人だ。僕の人生返せってぉぉぉぉのぉつ』
こんな聖徳太子ですが、凄いやつです。歴史が好きな人はむしろ、荒唐無稽すぎると感じることもあるかもしれません。僕は超面白かったです。もしかしたら、狂人・聖徳太子のお陰で、今も日本は存続しているのかもしれない。そんな風に妄想したくなる作品でした。
町井登志夫「爆撃聖徳太子」
「EX大衆2016年5月号 齋藤飛鳥ロングインタビュー」を読んで
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『最初の頃は「THEアイドル」になろうとしてたんですけど、王道じゃなくても受け入れてくれる人がいることを知って、その理想像はなくなりました。』
このインタビューの中で一番意外だったのは、この部分だ。
インタビューアーによると、齋藤飛鳥は乃木坂46加入前、AKB48やSUPER☆GiRLSが好きだったという。アイドルに対する憧れがあったから、乃木坂46のオーディションを受けたのだろう。僕の中で、齋藤飛鳥はどうしてアイドルのオーディションを受けたのかがイマイチしっくりきていない部分があった。それは、齋藤飛鳥はアイドル的なものに興味がないのだろう、と思い込んでいたからだ。齋藤飛鳥が元々アイドルに興味があったなら、不自然なところは何もない。
『アイドルらしくない道もあると分かった途端、(THEアイドルを目指していた自分が)どうやっていたのかも忘れてしまって(笑)。最近は、「自分はアイドルなんだ」とはあまり意識していないというか』
だからこそ多くの人に受け入れられているのだろう、というインタビューアーの感覚には、僕も賛成する。以前「「乃木坂46の「の」 20160313 伊藤万理華・齋藤飛鳥」を聞いて」という記事の中で、「齋藤飛鳥の自然体と“自然体”」についての話を書いたことがある。齋藤飛鳥は、“自然体”という演技をしている、という話なのだけど、齋藤飛鳥の振る舞いが、見ている人からは自然体だと思える。その振る舞いに齋藤飛鳥の魅力があるのではないか、と僕も思います。
インタビューアーも、今の齋藤飛鳥からは「アイドル好き感」が出ていない、と言い、それに対して齋藤飛鳥はこんな風に答えている。
『アイドルは好きだけど、女子の集団は苦手だし、人見知りしてしまうんです。』
『(共演している子でも)しばらく会ってないと心の扉が閉ざされてしまう』
齋藤飛鳥は人見知りだったり対人関係が苦手だったりという発言をよくする。そのきっかけになった出来事をこのインタビューの中で少し語っている。僕が目にした範囲では、自分の性格が変わっていった具体的なエピソードを語っている齋藤飛鳥はこれが初な気がする。
具体的、とはいえ、何か特定の出来事があったわけではない。恐らく女子の世界だったら、世の中の女子全員ではないけど、女子の半分ぐらいは何らかの形で経験しているのではないかと思う、女子同士のちょっとめんどくさい関係性が積み重なって今に至る、という感じのようだ。本人としても説明しにくいだろう。具体的なわかりやすいエピソードがある方が楽だなと感じている部分もあるだろうけど、そこで適当にあしらわないのは良い。
『同級生で取り立てて仲のいい子もいなかったし、いじめられるわけじゃなかったけど、女子って面倒くさいので少しずつみんなとずれていったというか』
僕は比較的女性と恋愛的な意味ではなく距離を詰められる方だと思っているんだけど、それが出来るタイプというのが、女子同士の関係がめんどくさい、と言っている女性だ。僕が割と仲がいいと思っている女性は、大体そういうことを言う。女友達よりも男友達の方が多いタイプ。齋藤飛鳥は恐らく、男友達だって多くないだろうけど、タイプとしては男の中にいる方が楽なんじゃないかな、と思う。
女子同士の関係でこじれたメンバーには、西野七瀬や白石麻衣などがいる。共に、ドキュメンタリー映画「悲しみの忘れ方」の中で、部活での女子同士の関係性から他人との人間関係がうまくいかなくなった、というような発言をしている。齋藤飛鳥もそういうタイプだろうし、彼女たちほどではないにせよ、乃木坂46にはそういうタイプの女子が集まっているのだろう。「女子の集団は苦手」という齋藤飛鳥がアイドルグループの中でやっていけているのは、乃木坂46というアイドルグループの雰囲気あってのことなのだろう、と再確認させられた。
『みんな元気なのがしんどいなと感じてきちゃったんです』
中学校時代の人間関係を聞かれてそう答える齋藤飛鳥。こういうことをはっきりと口に出せる女の子が、アイドルとして人前に立ってスポットライトを浴びている。そのことが与える勇気、みたいなものは確実にあるはずだ、と僕は感じる。
『でも結果的に期待はずれになることも多いと分かったので、いまは「世の中そんなもん精神」がより強固になっています』
期待が裏切られた時に最もストレスが掛かる、という心理学の研究結果を知って納得した齋藤飛鳥は、物事に期待しなくなった。どれだけアイドルとして人気を得ようとも、どれだけ多くの人にその容姿を羨ましがられようとも、齋藤飛鳥はそのスタンスを崩さない。
自分の心の弱さをきちんと理解している、というのは大事なことだと僕は思う。そして、それに対処する方法を自分なりに見つけることも。僕は、自分の心の弱さは相当早くから認識していたのだけど、それにどう対処したらいいかは全然分からないで逃げてばかりいた。ようやく自分なりに先手を打って対処出来るようになったのは25歳ぐらいじゃないかな。齋藤飛鳥は、アイドルという厳しい環境に身を置いていたとはいえ、たった17歳で既に自分の扱い方を習得している。そして、楽観的に物事に臨むでもなく、かと言って悲観的すぎもせず、「世の中そんなもん」と思いながら目の前に現れた現実をそのまま受け入れていくスタンスが、多くの人から受け入れられていく。齋藤飛鳥も、初めからこういう好循環の中に身を置くことが出来たわけではないだろう。少なくとも「THEアイドル」を目指していた頃は、こういう好循環はありえなかったはずだ。齋藤飛鳥の中でどのような変化があって、結果的にこういう好循環の中にいられるようになったのか。齋藤飛鳥のその軌跡はとても気になる。
『小さいことで「うれしい」と大きく感じることもできるようになりました。「世の中そんなもん精神」があるから何に対しても高望みしないので、うまくやれている部分もあるのかなと思ってます』
「がんばった日はイクラのおにぎりを食べることにしている」という齋藤飛鳥。これも、小さな幸せだろう。このインタビューの直後のページに、コンビニおにぎりの特集があるので、この発言言わされてるのか?とちょっと疑ってしまう部分もあったけど、そういう小さな幸せで日常を乗り越えていける人のままでいて欲しいなと思う。【汚れなきものなんて大人が求める幻想】だけど。
『特定のイメージをつけられたくなかったという気持ちはありました』
アンダーから選抜へと上がる過程で、齋藤飛鳥はそういうことを意識していた、という発言をしていた。モデルの撮影でも、雑誌ごとのイメージに自分を染める、感じの意識なのだろう。自分自身の色を持たない。まさに乃木坂46のファーストアルバムの「透明な色」というタイトルそのものの体現、という感じもする。
だから、こうして僕が齋藤飛鳥について文章を書くことは、齋藤飛鳥からすれば邪魔でしかないだろうな、という意識もある。もちろん、僕の文章の影響力なんてほぼゼロに等しいから気にならないだろうけど、イメージがないことを目指している人からすればちょっとした色付けも邪魔かもしれない。まあ、この文章がたとえ齋藤飛鳥の邪魔になっていたとしても、そんなこととは関係なしに僕は文章を書き続けるのだけど。
僕は、基本的に自分が書いている齋藤飛鳥評は、すべて的外れだろうな、と思っている。基本的には、自分の性格に引き寄せて齋藤飛鳥を理解したつもりになっているだけで、たぶん齋藤飛鳥のことは全然掴めていない。まあ、でもそれでいいんです、僕は。齋藤飛鳥というのは僕にとって、何か書きたくなってしまう対象であって、それが不正解でも僕にとっては問題ありません。自分の小説が国語の問題に採用された小説家が、「下線部における作者の気持ちを答えなさい」という問題に答えられないのと同じように、齋藤飛鳥というテキストはきっと齋藤飛鳥自身にもきちんとは読み解けていないはず。だからそもそも不正解なんて存在しないんだ、という強弁を振るって有耶無耶にしようと思います。
僕は、自分自身は出来るだけ一貫性のある人間でありたいと思うし、他人を見る時も、一貫性のある人がいいなと思う。でも、齋藤飛鳥には、一貫性はなくてもいいかも、と感じてしまう。もっと僕をざわざわさせるような違和感を放出して、齋藤飛鳥をうまく読み解けない苦悩を楽しみたい気がします。自分でも、変な感覚だなと思います。
「EX大衆2016年5月号 齋藤飛鳥ロングインタビュー」を読んで
夜露死苦現代詩(都築響一)
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『誰もが愛しているのに、プロだけが愛さないもの。書くほうも、読むほうも「文学」だなんて思いもしないまま、文学が本来果たすべき役割を、黙って引き受けているもの。そして採集、保存すべき人たちがその責務をまるで果たさないから(学者とはそういう職業ではなかったか)、いつのまにか消え去り、失われてしまうもの。そういうものを毎月ひとつずつ拾い上げ、「新潮」という純文学誌で連載したのが、本書の元になった。』
本書は、タイトルに「現代詩」と付きはするが、「現代詩」と聞いてイメージするようなものは載っていない。例えば痴呆老人のたわ言、あるいはアダルトサイトの広告フレーズ、あるいはワープロの誤変換、あるいは暴走族の特攻服…。まさに、「書くほうも、読むほうも「文学」だなんて思いもしない」ものたちだ。
著者はそこに「詩」を見る。そして、いわゆる「現代詩」と聞いてイメージするものは、業界としてほとんど成立しておらず、「現代」に存在する「詩」はまさにここにあるのだという意味で、本書に掲載されている様々なものを『現代詩』と呼んでいる。
『行き詰った業界人はいつでもどこでも、「難しくする」ことで生き残ろうとする。「わからないのは、お前に教養がないせいだ。だからオレサマが書いた本を読め、教えてやるから学校に入れ、美術館に来て入場料払え」というわけだ。そうやって、聞いてもちっとも気持ちよくない現代音楽や、見ても楽しくない現代美術のように、読んでもわからない現代詩が、業界の中だけで細々と生き延びている』
『詩は死んでなんかいない、死んでいるのは現代詩業界だけだ。そんな小さな世界の外で、ストリートという生きた時間が流れる場所で、詩人とは一生呼ばれない人たちが、現代詩だなんてまわりも本人も思ってもいないまま、こっちに言葉の直球勝負を挑んでくる。リアリテイとは、そういうものだ。』
もちろん、ここで紹介されているものが「詩」だとは思えないという人もいるだろう。それは別にいい。受けとり方は人それぞれだ。僕は著者の、『業界にはいくつもの現代詩の賞があるが、そこでいちばんになった作品を読んで、ほんとにわかったと思った経験が、僕にはもう20年以上ない』という感覚がよく分かる。昔から、詩を読んでもよく分からなかった。積極的に読むこともないから、僕が詩に触れた経験なんて学校の教科書ぐらいでのものだけど、そういう、いわゆる「現代詩」よりも、ここに載っている『現代詩』の方が、遥かに面白いし興味を惹かれる。
『詩を書いていると、書いている主体、統一された「詩人格」がなければいけないという考え方があるんです。僕もそう考えています。「夜露死苦現代詩」は言語プロパーとして見た場合非常に面白いんだけども、それを発している人たちは痴呆であったり、精神を病んでいたり、純粋に商業的な動機があったりする。我々詩を書いている人間からすると、そこに違和感があります。詩人格がないのに詩と言えるかどうかと。もしまともに批評するんだったら、これは詩とか文学のジャンルではなくて、言語学とか社会学のほうの批評になるんじゃないかな』
本書には著者と詩人の谷川俊太郎の対談も収録されており、そこからの引用である。一応書いておくが、谷川俊太郎は、「夜露死苦現代詩」という本を基本的に好意的に捉えている。ただ、詩人格という観点から見た場合難しい、という話をしている。
この「詩人格」という概念を知って、なるほど「夜露死苦現代詩」に収録されているものは、結果的に詩になっているから面白いのかもしれない、と感じもした。もちろん本書には、予め自己を表現するものとして放出される言葉もある(死刑囚の俳句やラッパーのリリックなど)。しかし多くは、言葉が発生に至る何らかの経緯があり、その結果その言葉たちが詩になっている。詩人格という観点から詩かどうか判断する、という点では詩ではないのかもしれないが、本書に載っている言葉たちが力を持つのは、それが意図せずに詩になっている、という点にもあるのかもしれない。
本書に掲載されているものすべて気に入ったわけではない。好みではないものも多くあった。僕が強く関心を惹かれたのは、「餓死した親子の母が書き続けていた日記」と「死刑囚の俳句」です。
「日記」の方は、1996年4付き27日、池袋のとあるアパートの一室で発見された。老婆と中年男性が死んでおり、死因は餓死と推定された。残っていたのは僅かなお茶っ葉と28円の小銭。そして、10冊の日記帳だけだった。
この親子は、家賃や光熱費などの滞納は一切なく、最後まで新聞は取り続けていた。周囲からは、困窮しているようには見えなかったという。その日記には、風呂にも入れず、暖房もない寒い中で過ごし、食べるものもほとんどない生活がひたすらに綴られていた。本書に抜粋されている、全体からすればほんの僅かな部分を読むだけでも、なんだか気持ちがささくれだってくる感じだ。彼らは、声を上げさえすれば死なない選択肢もあったはずだと思う。しかし彼らは、そうしなかった。律儀にお金だけは払いつつ、食べるものが徐々になくなり、死までのカウントダウンをするような生活を続けた。それを「意志」と呼んでいいのか悩むところだが、その強い「意志」が文字から、言葉から、行間からにじみ出ているようで、凄みを感じる。死に向かいつつ、何かを留めるかのようにして書き続けられた文字は、読む者の心を掴む。
「死刑囚の俳句」は、制度が変わる前のものだ。1963年の法務省の通達により、教誨師以外死刑囚と接触することは出来なくなった。それ以前は規則が緩く、有志によって死刑囚を集めての句会も開かれていたという。そういう時代に作られた俳句が、本になって出版されている。
『綱
よごすまじく首拭く
寒の水』
この俳句は凄いなぁ、と思いました。まさに死刑が執行されるその日、自分の首に掛かる綱を汚さないように、冷たい水で首を洗う。市井の人間にはまず詠めない俳句だろうと思う。
死刑囚という、環境の変化が極端に少ない場に置かれた者たちは、俳句を間に挟むことによって、日常の僅かな変化を捕まえることが出来るようになる。
『俳句はさびしい私のきもちを一ばんよくしってくれる友だちです。俳句をならったおかげで蝿ともたのしくあそぶことができます。火取虫がぶんぶんと電とうのまわりをとんでいるのも私をなぐさめてくれるとおもうとうれしいです。運動じょの青葉にとまってちゅうちゅうないている雀もやねでくうくうないている鳩もみんな私の友だちです。』
菊生という朝鮮人の死刑囚は、日本語を話すこともたどたどしい状態から俳句を習い始め、死刑執行までの5ヶ月でメキメキと力をつけた。俳句を介することで、変化の少ない日常に彩りを見出すことが出来る。死刑囚にとって俳句とは、そういうものとして捉えられていたようだ。
まさに死に向かっているという現状、そして僅かばかりの変化しか見いだせない日常。そういう環境が死刑囚たちに、ハッとさせるような俳句を作らせるのだろうと思う。
作品ではなく、取り上げられ方が気になったのは、相田みつをだ。相田みつをは、現代詩の業界からは完全に無視されている。死後大分経つのに、未だに本格的な相田みつを論が存在しない。しかし、相田みつを美術館は、年間で40万人ものお客さんを動員する凄まじい集客力を見せている。書籍だけで累計750万部以上を売り上げている。このギャップに、都築響一は食いつく。
相田みつをは僕の中でもなんとなく、レベルが低いという印象を持っていた。別に、何と比較しているわけでもない。なんとなく、世間の空気にそのまま従っていただけだ。そのことに、本書を読んで気付かされた。
『便所と病室にいちばん似合うのがみつをの書だと、多くの人が知っている。立派な掛け軸になって茶室に収まるのではなく、糞尿や芳香剤や消毒剤の匂いがしみついた場所に。そしてだれもがひとりになって自分と向き合わざるをえない場所に。そういう場所で輝く言葉を、もしくだらないとけなすのだったら、居酒屋の頑固オヤジやホスピスで闘病生活を送る末期患者を、なるほどと納得させられるだけのけなしかたをしなくてはならないだろう。それができないから、プロは相田みつをを誉めもしなければ、けなしもしない。ただ眼をつぶって、耳をそむけて、きょうも美術館の前を早足で通り過ぎるだけだ。』
僕の中にも、高尚に思える「現代詩」の方が良いものだ、という先入観があったのだろう。相田みつをを積極的に好きになるつもりはないが、ただ相田みつをだからというだけでけなしたり無視したりはしないようにしよう、と思った。
先程も少し触れたが、本書には著者と谷川俊太郎との対談も収録されている。この対談も非常に面白かった。
この対談が伝えるところは一つ。「谷川俊太郎は、現代詩業界の常識とは違うステージで詩を書いてきた」ということだ。そのスタンスが、「夜露死苦現代詩」という作品のスタンスとマッチしているという感じがする。「現代詩」というルールは存在しないのに、その狭い範囲に収まろうとするのではなく、衝動や病気や死への意識が放出させた言葉たちが、あるいは表現というものを突き詰めた先に生み出された言葉たちが、結果的に詩として立ち上がってくる。そういう部分があるように思う。
『詩人というのは、自己表現の欲求が非常に強いのだと思います。僕はそれが希薄なんですよ。自分の中でこれだけは言いたいとかがほとんどない』
谷川俊太郎は、言葉そのものが持つ力とか、表現の可能性みたいなものに関心があるようだ。自分が、日本語という巨大な総体の中に巫女のように入り込んで、言葉を組み合わせることで詩を生み出せるのではないか、と。確かにそれは、自己表現欲求の強い人とはまるで違った詩作になるだろうし、他の詩人とも話合わないだろうなぁ、と。
谷川俊太郎の言葉で一番面白かったのはこれだ。
『ジャーナリズムの決まり文句で「谷川さんのこの詩のメッセージは何ですか」という質問がよくあるんですが、あれはカッとしますね。詩はメッセージじゃない、メッセージを伝えたいなら簡潔に散文で言いますよ。(中略)僕は詩というのはメッセージじゃなくて言葉の存在感だと思っている。目の前にあるコップと同じくらい確実にそこに言葉を存在させたい、しかもそれが美しい言葉でありたいというのは基本的な考えです。』
詩とは何なのか。それは明確に定義することは難しいだろうけど、言葉が何らかの形で誰かに届く、というとても広い意味で捉えれば、僕らの日常は詩にあふれている。本書は、そういうことを気づかせてくれる作品ではないかと思う。
都築響一「夜露死苦現代詩」
「マネーショート 華麗なる大逆転」を観に行ってきました
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この映画は、サブプライム危機によって世界経済を破綻させたアメリカ市場を描くノンフィクションのような映画だ。しかし、だからと言って、経済に関心のある者だけが見ればいい映画というわけではない。
この映画が描き出す教訓は多い。それらは様々に表現できるだろうが、僕はこう書く。
「信じるな」
そして
「考えろ」
僕たちは普段から、様々な選択や判断をして生きている。何を食べようか、どんな服を着ようか。どんな職に就こうか、家を買おうか。などなど。大小様々な判断の上に僕らの人生は成り立っている。
それらを、僕らはどんな風に決断しているだろうか?
食べたいものや着たい服なんてのは、まあどう決断したっていい。公衆の面前でもの凄く臭いものを食べるとか、ほとんど裸みたいな服で街を歩くなど、他人に迷惑が掛かるような決断じゃなければ、別に判断の基準なんてあってないようなものだ。好きにすればいい。
仕事を選ぶ、家を買う、結婚する、こういったことはなかなか決断が難しい。何故なら、概ね人生の中で一回、あるいは数回しか決断をしないものであるし、選択を間違えた時のリスクが大きいように思えるからだ。
じゃあどうするか?
信頼の出来る専門家に話を聞く、過去の事例を調べる、ちょっと試してみてから決断する…。様々なやり方があるだろうけど、しかし人々は最終的には、愚かなやり方を選択する傾向が高いと僕は感じている。
それは、「他者を信じる」あるいは「自分で考えない」というやり方だ。
ランキングで人気上位の会社の面接を受ける、売り手側の言いなりになって家を買う、親が薦めてきた相手と結婚する。最終的には、自分で決断をしない。他者にその決断を委ねてしまう。あまりにも大きな決断の場合、自分で判断することが出来なくなってしまう。
僕も、感覚としてはその気持ちは分かる。僕も、なるべくなら自分で決断したくない人間だ。決断しないで済むならそれに越したことはない。
けど僕は、他人に決断を委ねるのは怖い、と感じる人間でもある。
僕は、就活はしないとい決断をして大学を辞め、家は絶対に買うまいと決めていて(そもそも買えないけど、変える立場でも買わないという意味)、結婚もまあしないだろうと思っている(こちらは、出来るかもしれないがしないと決めている)。これらはすべて、自分の決断だ。就活で良い会社に入り、家を買い、結婚して家族を持つことが幸せだと考えられている(一応まだそう考えられているだろう)時代に逆行するかのような決断をしている。
僕の決断が正しいかどうか。まあそれは死ぬまで結論は出ないだろう。それでも、僕は自分のこの決断を、今のところ後悔はしていない。今後どうなるか分からないが、後悔することはないのではないかという気がしている。
大多数の人間が信じていることを信じることは、楽だ。自分で考えずに、流されるようにして生きていける。大多数がそうであれば、社会が多数派に合わせて組み上げられる。多数派に従っておけば、社会的な恩恵を受けられる可能性も増すだろう。
しかし、わからないもの、捉えきれないものを信じることのリスクが常に付きまとう。
この映画で指摘しているのは、まさにそういうことだ。この映画では、経済や資本主義という、世の中のほとんどの人が信じていたシステムの崩壊が描かれる。有史以来、人類を発展させ続けてきた資本主義という仕組みが敗北する瞬間を、僕らは経験したのだ。
そしてそれは、決して経済だけに留まらないだろう。世の中のあらゆるシステムが、もしかしたら幻想によって支えられているかもしれない。システムを根本から理解することが出来ない場合、その可能性は常に付きまとう。僕達は、そのことをもっと意識して生きていくべきなのではないか、と思う。
アメリカは、サブプライム危機を経験した。日本人もかつて、バブル崩壊を経験している。また、九州ではしばらく起こらないと思われていた地震がつい先ごろ起きた。ギリシャという一つの国が破綻するかもしれない、という話題も記憶に新しい。
僕らは既に、様々なシステムに依存して生きている。それは空気のように、普段から意識することもなく存在し、寄りかかっているつもりもなく依存している。インターネット、通貨、政治システム、学校教育、結婚制度、ローン、言語…。これらは、当然に存在するものではない。人類が生活のために組み上げ、大勢の共同幻想によって存在が許容されているシステムでしかない。それらは、いつでも崩壊しうる。多くの人がその存在を信じなくなったら、許容しなくなったら、瞬時に消えてなくなってしまうものでしかない。
この映画を見て、僕は、僕らがどれだけ脆弱なシステムの上に乗っかって生活をしているのか、そのことを痛感させられた。
この映画で扱われるのは、MBS(モーゲージ債)と呼ばれる金融商品だ。MBSがなんなのか、僕には詳しく説明できないが、住宅市場と連動している債権、というぐらいの理解でとりあえずいい。
以下、僕なりの理解で金融的な部分の説明を書くけど、恐らく間違いだらけだと思うので雰囲気だけ受け取って欲しい。
MBSは30年前、L・ラニエーリという男が生み出した。70年代、銀行というのは退屈な場所で、大金とは無縁の仕事だった。安全を売って僅かな手数料を得ていたのだ。しかしラニエーリがその状況を一変させる。住宅市場と連動するMBSとを売りまくることで銀行は莫大な利益を得ることが出来た。
MBSは、格付け機関によって格付けされた、AAAランクからBB、Bランクぐらいまで、様々な債権によって成り立っている。表向きにはMBSは、65%以上がランクAAAの債権で成り立っているとされた。しかし現実には、95%以上が低所得者向けのサブプライムローン(ランクBやBB)で占められていた。これはつまり、低所得者がローンの返済に行き詰まれば、住宅市場と連動しているMBSも無傷では済まないということだ。
さらにウォール街は、CDO(債務担保証券)と呼ばれるものを売りだした。
『CDOこそが住宅市場を混乱に陥れた張本人だ』
映画の中でそう評されるほど最悪な金融商品だったCDO。これは、MBSでBやBBとランク付けされた債権を寄せ集め、格付け機関にランクAAAを付けさせた詐欺的な商品だった。古くなった魚は、刺し身では出せないが、スープに入れてしまえば美味しい料理に変わる。まさにそういう風にしてクズみたいな債権がCDOという名前を付けられて最高ランクの格付けと共に売りだされていたのだ。
低所得者がローンの返済に行き詰まり、住宅市場に影響が出れば、CDOやMBSは確実に破綻する。CDOの2006年頃の販売額は年間で5000億ドル。とんでもない額だ。住宅市場の動向次第で、これがすべて紙くずになる。
そのことに気付いたクレイジーな連中が、何人かいた。この映画は、彼らを描く物語だ。
『不動産市場の活況は一生続くと思われていた』
金融機関にいるほぼすべての人間がそう考えていた。住宅市場は安定だ、下落するなんてことはありえない。誰もがそう信じていた。
マイケル・バーリは、医師から投資会社を設立するに至った変わり種だ。常に爆音で音楽を聞きながらパソコンに向かうバーリ。彼は、様々な指標から、MBSが確実に破綻することに気がついた。彼は、あらゆる大銀行を回り、MBSのCDS(債権の保険契約)を買いまくった。CDSは、対象となる金融商品が下落した場合にリターンがある。しかし、下落しなかったり上昇すれば、相応の保険料を支払わなくてはならない。バーリは、合計で13億ドルものCDSを買い漁る。保険料だけで年間8000万~9000万ドル掛かる。バーリは、顧客から罵詈雑言を浴びせられながらも、自分の信じた投資を続ける。
ドイツ銀行のシャレド・ベネットは、同僚から、MBSのCDSを買いまくってる狂った男がいる、という話を聞かされる。ベネットはその話に関心を持ち調べ始め、やがて世界経済の破綻に賭けたCDSの販売を始めることになる。
ベネットが間違えて電話を掛けた先にいたのが、マーク・バウムがいる投資会社だ。金儲けが下手なせいでモルガン・スタンレーの傘下に収まることになったバウム率いる投資チームは、ベネットの話を聞き、住宅市場について調べ始める。不正や詐欺を一切許さない高潔な男であるバウムは、住宅市場を中心にして行われている様々な金融取引が、まさに詐欺であることを確信し、CDSの空売りに踏み切る。
チャーリー・ゲラーとジェイミー・シプリーの二人は、JPモルガンに出向いていた。ISDAの同意書を手に入れるためだ。この同意書がなければ、大きな取引が出来ないことになっている。11万ドルの資金を数年で3000万ドルまで引き上げた彼らは、しかしまだその同意書を手にすることは出来なかった。
しかし彼らはJPモルガンのロビーで偶然、MBSの破綻を予測する資料を発見する(しかしこの、資料を発見したという件は虚構だ。実話ではない)。彼らは独自に調査を初め、世界経済の破綻に賭けることに決める。ISDAの同意書を得られないでいた彼らは、元JPモルガンのデイトレーダーであるベン・リカートに協力を仰ぐことにする。
もし彼らの読み通り世界経済が破綻すれば、信じられない額の金が手に入る。しかし、読みを外せば破産だ。賭けに乗った面々は、その日が来るのを信じて待つ…。
というような話です。
僕は以前、この映画の原作である「世紀の空売り」という作品を読んだことがある。しかし、本で読んでも結局、MBSなどの仕組みについてはイマイチ理解できなかった。映画では、原作よりも遥かに経済的な部分は抑え目に作られているが、それでもやはり難しい。
だから映画ではその説明をかなり工夫している。作中で三度、“観客”に向けて経済的な部分に説明が挿入される。最初はバスタブに入った裸の女性、次は一流レストランのシェフ、そして最後にカジノの客二人。彼らが、“観客”に向けて、理解し難いがストーリー上知っておいた方がいい知識について説明してくれる。
それらは、映画の流れを確かにぶった切る形で挿入されるのだけど、しかし映画の雰囲気を壊すようなものではない。映画の中から“観客”に向けた説明が挿入される映画なんて、僕はたぶん見たことがないから非常に面白いと思った。全編、ある種の狂乱に包まれながら展開していく映画にあって、唐突に挿入されるその三つの“観客”への説明がうまく馴染んでいる。最初のバスタブの女性の登場はちょっと唐突だったと思うけど、シェフがCDOという詐欺のような金融商品について説明するくだり、そしてカジノの客が合成CDOという狂った仕組みの金融商品を説明するくだりは、非常に分かりやすかった。正確さを無視して、しかも映画全体の流れを切ることなく、難しい知識を“観客”に説明した、という点で非常によく出来た部分だったと思う。
また、“観客”への説明は、経済的な部分の説明に留まらない。時々、先に名前を挙げた主人公級の人物たちが“観客”に向けて話し始めるのだ。例えば先に書いた、JPモルガンのロビーで資料を拾った話。これは、ゲラーとシプリー、どっちだったか忘れたけど、唐突に“観客”に向けて、「これは虚構だ。実際は、シプリーが友人から話を聞いて調べ始めた」みたいなことを言い出す。こういう場面が作中にいくつかある。
また、映像がドキュメンタリー風に撮られているようにも感じられた。固定のカメラできっちり撮るのではなく、手持ち風のちょっとぶれたような感じで、しかもピント合わせもちょっと戸惑うみたいな、ドキュメンタリー映画でよく見るような感じの映像が結構出てきた。
“観客”に向けて話すのも、映像をドキュメンタリー風にするのも、共に、この映画はフィクションだが、実際に起こったことをベースにしているのだ、ということを演出しているのかな、と受け取った。実際に、すべてのシーンではもちろんないが、ドキュメンタリーを見ているような錯覚に陥ることは度々あった。フィクションらしい、わざとらしい展開がなかったこともあって、リアルな出来事として映画を受け取ることが出来たように思う。
作中では、先に名を挙げた人たちが、MBSやCDOがいかに酷い商品であるかを、そしてウォール街がやっている経済行為がいかに詐欺的であるのかを言い募った様々な表現が登場する。
『市場を下支えしているのはサブプライムローンだ。時限爆弾だ』
『燃え盛る家の前で、火災保険を勧めている』
『CDOは国債並の評価だが、いずれゴミになる』
『ウォール街がどでかいミスをした』
『合成CDOは、爆発寸前の原子爆弾だ』
『資本主義の終焉だ』
『ウォール街の前例のない犯罪行為だ』
彼らは、事実を知れば知るほど、いかに馬鹿げたシステムにこの国の経済が乗っかっているのかに気づく。そして、誰もその事実に気づいていないことに唖然とする。
人々は、前提とする様々な考え方を“信じて”自らの決断をする。前提となる考え方を疑うことはほとんどない。しかし、まさにサブプライム危機は、世の中のほとんどの人がその前提を疑わなかったが故に起こった。
東日本大震災の際、「想定外」という言葉を頻繁に耳にした。確かに、想定できない出来事は起こりうる。しかしそれは、自らが前提とする考え方を精査してから言うべき言葉だ。前提を無条件に信じた上での「想定外」など、存在し得ない。
サブプライム危機が一段落した時、5兆ドルの年金が失われ、800万人が職を失い、600万人が家を失ったという。失ったものはあまりにも大きい。しかし銀行は、名前を変えただけでCDOとまったく同じ金融商品をまた売り始めているとのこと。人間が愚かである以上、そして有史以来人間は愚かであり続けたはずだが、人間はまた同じことを繰り返すのだろう。
映画を見ながら、もし自分が彼らとまったく同じ情報を手にできたとして、彼らと同じように世界経済の破綻に賭けた空売りが出来たか、と自身に問うていた。何度問うても、無理だな、という結論に達する。どれだけそれが確実な未来であると確信出来ても、大金をそこにつぎ込む事はできないだろう。だから、基本的に部屋から出ず、ネット上で手に入る情報だけから判断し、13億ドルものCDSを空売りしたバーリには驚愕する。バーリ以外は、様々な人に会ったり調査をしたりして、住宅市場がバブルであること、そして世界経済が破綻するしかないことを確信する証拠を少しずつ積み上げていくのに、バーリだけはそれをしない。恐らく世界で初めて世界経済の破綻を予測し、大金を投じた。そのクソ度胸は、どうやっても僕の内側からは探し出せないものだ。
最終的にバーリは、489%という驚異的なリターンを得て、ファンドを閉じることに決める。「この2年間は、内蔵が蝕まれるような思いだった」と語ったバーリ。表にはそんな素振りは見せないが、確信があったとしても不安はあっただろう。それでもバーリは、一度たりとも弱気を見せることなく、自分の考えを貫く。作中で最もクレイジーだったのは、間違いなくバーリだろう。
そんなクレイジーな生き方を、僕もしてみたいものである。
「マネーショート 華麗なる大逆転」を観に行ってきました
「乃木坂46の「の」 #158 160410(堀未央奈MC、齋藤飛鳥、渡辺みり愛)」を聞いて
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齋藤飛鳥が出ているので、4月10日の「乃木坂46の「の」」を聞いてみました。
今回面白かったのは、「犬系男子と猫系男子のどっちが好きですか?また、他の◯◯系男子で気になるものはありますか?」というリスナーからの質問に対する答え。
齋藤飛鳥は、犬系でも猫系でもなく、ワニ系がいいと語ります。
齋藤飛鳥は、自分がツンデレ、つまり猫系であると言われることが多いから、同じ猫系だとうまくいかないかもしれない。けど、犬系男子にワンワン懐かれるのもまためんどくさい。
ワニ系男子というのは、齋藤飛鳥が言うには、普段は静かなんだけど突然顔を出す感じだそうだ。犬系のように懐いてほしくはないから、猫系のような静かさは欲しい。でもそもそも、相手の方から来てくれないと自分からはいけないから、肉食的な部分はあってほしい。そういう意味を込めてのワニ系だそうです。瞬時に思いついたにしてはなかなか良い表現だったと齋藤飛鳥自身語っています。
また同じく髪型について質問された時は、「雑誌とかでも同じ質問されることがあるけど、本当に分かんない」と答えていました。特別これという好みはない、という意味に受けとりました。MCの堀未央奈が、じゃあロングで真っ白な髪でもいいの?と聞くと、真っ白はともかく又吉さんみたいなロングは全然許容範囲、と言っていました。ちなみに渡辺みり愛は、自分は黒髪がいいけど男子は茶髪であって欲しい(ただし、ワックスは使わないで欲しい。寝ぐせはアリ)とのことです。
あと今回のラジオでは、コーナー名は忘れてしまったけど、「聞き慣れない変わった単語について想像で話す」というものがあって、これがなかなか面白かったです。
与えられたお題は「クビワペッカリー」と「カラテオドリ」の二つ。齋藤飛鳥は「でまかせクイーン」と呼ばれているようで、特に「クビワペッカリー」の方ではなかなか面白い話をしていました。
「クビワペッカリー」はタイで人気のアクセサリーみたいなもの、という話をしていました。その話の内容そのものよりも、考える時間を確保するための会話のつなぎ方(未央奈がたぶん好きなやつだよ、みたいな話を振って時間を稼ぐ)や、堀未央奈をうまく巻き込んでいく展開のさせ方など、自分の話に聴いている人間を惹きつける話し方の方が興味深かったです。「カラテオドリ」の方は、ちょっと手を抜いたかな、と思ってしまったけど(笑)。ちなみに「カラテオドリ」は外国の数学者の名前だと知ってかなり驚きました。まじかよ。
前回の「乃木坂46の「の」」で、一年もこのラジオに呼んでもらえなかったことをかなり嘆いていたから今回突然呼んでもらえた、と言っていた齋藤飛鳥。堀未央奈と渡辺みり愛は家族のように仲がいいらしいんだけど、そんな中に私なんかがいていいのかな、みたいなことを言ってて、相変わらずのスタンスでいいなと思います。EX大衆2016年5月号のロングインタビューの中で「主役とか考えたこともないです。こっそり動いてるだけです(笑)」と語っている齋藤飛鳥。確かに齋藤飛鳥は、主役ではない立ち位置にいる方が映えそうだな、という雰囲気を感じます。そんな齋藤飛鳥が主役に立ったらどうなるか。興味は尽きません。
「乃木坂46の「の」 #158 160410(堀未央奈MC、齋藤飛鳥、渡辺みり愛)」を聞いて
キャッスルマンゴー(絵:小椋ムク 原作:木原音瀬)
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高校生の城崎万は、母親が経営しているラブホテル「キャッスルマンゴー」の最上階に、弟の悟と共に暮らしている。父親は、10年前に死んだ。以来、母がラブホテルの経営を引き継ぎ、なんとか生活している。
万は高校で成績トップであり、奨学生だ。希望大学は、難関のT大学であり、万は日々勉強を怠らない。母の手助けとしてラブホテルの経営面でも知恵を絞る万は、「世界一のラブホテルを作りたい」という夢を持っていた。しかしその夢は、学校の教師にやんわりとたしなめられて以来心の奥底にしまっている。「ラブホテルは愛が育まれる場所なんだ」とかつて語った父。そんな父と、普段からホテル経営を頑張ってくれている母の背中を見ながら抱いた夢なのに、万の夢は世間では蔑まれるものであるらしい。
キャッスルマンゴーにAVの撮影にやってくる会社がある。そこで、良い映像を撮ることで人気のあるAV監督・十亀が撮影をしている。キャッスルマンゴーは現代風ではない、内装に趣向を凝らしたラブホテルで、現代では希少な存在だ。そんなホテルを舞台にしたAVは人気があるらしい。そのAVを見てホテルに足を運んでくれる客も少しずつ増えているようだ。
万と十亀の出会いは最悪だった。万のことを高校生だと思わなかった十亀は(経営者の息子ではなく、大学生のアルバイトか何かだと思った)、急遽人手が足りなくなった現場で万を見つけ男優として使おうとする。いきなりズボンを下ろされた万は、怒って部屋を出て行く。
十亀がゲイだと知った万は、十亀が頻繁に悟と関わりを持っているのが気に障る。まさかあいつ、悟に手を出そうとしてるんじゃないよな…。
だから万は一計を案じた。職場の飲み会で酔いつぶれた十亀を泊めてくれと頼まれた万は、十亀と同じ部屋で寝た。目を覚ました十亀に、「昨夜セックスをした」と嘘をつき、罪悪感から十亀が万と付き合うように仕向けた。
悟から遠ざけるために。
適当なところで別れればいい。万はそんな風に思っていたのだが…。
というような話です。
しばらくずっと借りたBLを読んでいるのだけど、BLというのは本当に奥が深いなと思っている。
BLを読み始める前の僕のイメージは、まあエロ本なんだろう、という程度のものだった。女性がそのエロ的な部分に飛びついているのかどうかはともかくとして、とにかくエロなんだろう、と。男同士のエロがいいのは、男女だと自分の体験や経験なんかが邪魔をして世界に浸れないからで、とりあえずエロなんだろう、と思っていたと思う。
BLを読みはじめてからも、まあやっぱりエロなんだろう、と思う作品はある。特に、人のオススメを聞かないで自分で適当に選んだBLは大体エロで満たされている。先日、以前バイト先が同じで、今はBLの小説やコミックを出す出版社で編集をやってる女の子と飲んだんだけど、基本的にエロがないと売れない、と言ってた。まあそうなんだろう。BLを読む女性にしたって、やっぱりエロを求めているんだ、と(エロの求め方が男と同じ感じなのかはよくわからないけど)。
とはいえ、エロだけではないBLというのもやっぱりある。僕は、出来るだけそういう作品を借りて読んでいる。僕は別にエロを求めてBLを読んでいるわけではないからだ。
そしてそういう、エロだけではないBLというのは、本当に深い世界を描き出すな、と思うのだ。
これは偏見だけど、どうしても男である僕の中には、「男が男を好きになること」が凄いことだという感覚がある。もちろん、そもそも男が好きだ、という場合は別だ。いわゆるホモとかゲイみたいな人に対しては、別にどうとも思わない。嫌悪感もないし、大歓迎でもない。ただ、基本的に女性のことが好きなのに男に惹かれる、ということが、僕には凄いことに思えるのだ。
だから、ノンケとゲイの物語に惹かれるのだろう。ゲイ側の好意を、ノンケがどういう過程で受け入れていくのか。本来であれば女性の方が好きなのに、しかしそのゲイだけは受け入れてしまう。その過程に非常に興味がある。
そしてそういう物語は往々にして、一般的に「BL」と聞いて思い浮かべるような作品にはならないことが多い。ゲイの好意をノンケが受け入れる過程が描かれるが故に、肉体的に結ばれるのは物語の後半になる。それまでは、ゲイ側がどうアプローチするか、そしてノンケ側がどう価値観や思考を乗り越えてゲイを受け入れるか。そういう心情を描く部分がメインになっていく。ゲイ側は、男が好きなわけではない相手とどう関わっていくのか、そしてノンケ側は、人としての好きと恋としての好きを混同していないか、気持ち的に好きと肉体的に好きを一致させられるかなど悩みながらお互いの距離を縮めていく過程を描き出していく。それは、BLはエロだ、という偏見でしか見ていない人間には想像もつかないほど、人間の人間らしい部分がえぐり出される部分でもあるのだ。
ノンケとゲイの物語では、物語の展開の中で、読者をうまく誘導する(騙す)部分に力を入れて欲しいと僕は思ってしまう。重要視するのは二点。「ノンケではない男がゲイと関わる自然に思える流れ」と「ノンケがゲイの気持ちを受け入れる自然に思える流れ」だ。
本書では、この二点が実によく描かれていると思う。だから僕はこの作品が好きだ。
「ノンケではない男がゲイと関わる自然に思える流れ」というのは、特にノンケとゲイの物語では難しいポイントだ。ごく一般的な生活をしている限り、ノンケとゲイが“出会う”ことはない。つまり、ノンケがゲイのことをゲイだと認識して出会うことが少ない、という意味だ。大体ゲイは、自分がゲイであることを隠しているだろう(特にノンケに対しては)。だから、ゲイ側はノンケ側に対して、好意があったとしてもそれが相手に伝わる形で出会うことは難しい。
だから普通にしていたら、ノンケとゲイの物語というのはスタートしない。そこをどう自然に思える流れに乗せるのか。僕が思う、作者の最初の関門がこの部分だと思う。
本書の場合それは、「弟をゲイから守るため」という形で描かれていく。それは、不自然な選択や決断かもしれないが、BLという物語を駆動させるという意味で、ある程度の不自然さは仕方ない(この不自然さを許容しなければ、BLはもっとつまらないものになってしまうだろう)。だからある程度の不自然さは仕方ないとして、その中でどれだけ自然に思える流れを生み出せるかが大事だと僕は思う。
そういう意味で僕の中ではこの流れは自然に思えるものだ。弟のことは自分が守ってやらなければならないという思い込みを持つ万が、出会いが最悪だった、しかも後からゲイだと分かった十亀を弟に近づけたくない、と考えるのは自然だろう。それを防ぐために、十亀を罠に嵌めて付き合う、という選択は突拍子もないものだが、万にしたってきちっと策略を立てて望んだ計画ではない。たまたま状況が整ったからやってみたというだけであって、その行き当たりばったり感が不自然に感じさせないポイントだと思う。
そうやって、好意ではないところから関係性を持ち始めた二人が、そこからどんな風にして距離を詰めていくのか。十亀の方は、なかなか複雑な過去を持ち、「俺は誰にも期待してないんだよ」と言ってしまうほど人生に達観している男だ。十亀の右腕のような男も、「あの人執着しない、ていうか諦めよすぎるから」と評する。普通に考えれば、十亀のことが好きなわけでもない万と、執着しない十亀の関係は続くわけがない。
しかし、万の母が倒れたり、十亀が仕事でチャンスを得たりと、お互いにそれぞれ環境の変化がある。物語上、万と十亀が直接関わる部分は、後半に行けば行くほど減っていくんだけど、ギリギリの細い糸がどうにか繋がって二人の関係は進展していく。好きか嫌いか、というステージの話ではなく、過去からすべてひっくるめて、どんな風に生きていくのか、という問いを二人は突きつけられることになる。その問いの答えの延長線上にお互いが存在する。いつの間にか、特に万にとって十亀はそういう相手となる。その過程がなかなか丁寧に描かれていて良い。
原作の木原音瀬があとがきで書いていたけど、この物語は万目線で進んでいくから、十亀目線が気になるなら小説の形で出ている、とのこと。確かに、十亀目線は面白そうな気がする。十亀の何にも期待しない生き方とか、過去に何があったのかなど、十亀に関しては欠落が多いので、いずれそちらの物語も読んでみるかもしれない。
小椋ムク(原作:木原音瀬)「キャッスルマンゴー」
「乃木坂工事中160410 齋藤飛鳥独り立ち計画 初めての◯◯」を見て
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2016年4月10日の「乃木坂工事中」が、齋藤飛鳥特集でした。少なくとも僕が「乃木坂って、どこ?」「乃木坂工事中」を見始めてから、齋藤飛鳥が一人で特集されるのは初めてです。たぶんそれまでもなかったんじゃないか、と思います。
企画は、「齋藤飛鳥独り立ち計画 初めての◯◯」と題して、齋藤飛鳥が一人では出来ないこと、やったことないことを、メンバーからのタレコミや実験なんかを交えながら紹介していく、という内容です。
まずざっと、番組の中で取り上げられていた、「齋藤飛鳥が一人ではできないこと、やったことないこと」を挙げてみます
◯服を一人では買えない(ちょっと前まで買い物自体一人で出来なかった)
◯朝ごはんを一人では食べられない(母親に食べさせてもらっている)
◯ご飯を炊いたことがない(手伝いではなく、一品自分で完成させる、という意味での料理はしたことがない)
◯高校生になるまで缶ジュースを開けられなかった(缶詰はこの企画の日まで開けられなかった)
なかなか斬新です。スタジオでも、バナナマンを初め、メンバーもかなり驚いていました。もちろん僕も驚きました。
それぞれのエピソードそのものももちろん面白いです。黒か白、どちらの猫耳をつけるかで母親と3時間悩んだり、詰めが剥がれそうになるから缶ジュースは一生開けられないと思ってたとか、朝ごはんを食べさせてもらってるのは髪を乾かすあいだにご飯を済ませたいという時短の意識なんだとか、それぞれの話でぶっこんでくるエピソード自体ももちろん面白いんです。
でもそれ以上に僕は、それを喋ってる齋藤飛鳥のスタンスがいなと思って見ていました。こう、どのエピソードも、「え、別に普通だけど」みたいなスタンスで話すんです。殊更に変わってる部分をアピールするでもなく、かと言ってもちろん自分のやり方が普通であることを力説するでもなく、割と淡々に、えぇ私はこうですから、みたいな雰囲気を自然と醸し出す。
僕は、子供の頃は、周りと違うことをかなり恐れているようなところがあったので、周りから「えっ?」って言われるだろうエピソードは積極的に話せなかったし、今は今で、自分のおかしな部分を積極的に出すことで対人関係の防御にしているような部分があるので、ナチュラルな感じで自分の行動や選択を話せない。齋藤飛鳥は割とそういうものとは無縁で、自分にとってそれが日常であるからそうなのだ、周りからどう思われてもいいし、別に自分からアピールもしませんよ、というスタンスが表によく出ている感じがして凄く良かったな、と。齋藤飛鳥を語る時にいつも年齢のことを出してしまうんだけど、よくもまあ17歳でそういうスタンスを身につけられているものだな、と感心しました。
しかし齋藤飛鳥というのは不思議な子だな、と。奥が深い。こういう底の知れない人間には益々興味が湧いてしまう。
服を自分で選べないとか、ご飯を一人で食べられないという話からは、齋藤飛鳥の主体性のなさを感じる。自分の意志がない、こうしたいああしたいという欲求に欠けている、そんな風に見えなくもない。でも、そういう見方をすると齋藤飛鳥を捉え間違えるんだろうな、という気もする。
齋藤飛鳥は、主体性を持つ対象が限られているのだ、と僕は捉えている。そしてそれぞれに対して0か100かのレベルで主体性を持っているのではないか、と思う。
齋藤飛鳥が主体性を持たないと判断している対象に対しては、本当に主体性0で臨む。それが、服を自分で選べないという行動に繋がっていく。そこに自分の意志を一切介在させない。そのすべてを他者に委ねてしまう。
そして齋藤飛鳥が主体性を発揮すると判断している対象に対しては、主体性100で臨む。
齋藤飛鳥は、仕事で疲れている日は、家に帰る前に母親に「今日は疲れているので話しかけないで下さい」というメールを送るという。齋藤家は、母も二番目の兄も陽気なのだそうで、二人のやり取りはネタみたいだという。普段はそれに突っ込む齋藤飛鳥だが、疲れている時はそれをやりたくないから先に宣言しておくのだ、と。
これなどまさに、主体性100の事例だろう。齋藤飛鳥は家では、本を読むか携帯をいじるかしかしない、と齋藤飛鳥母は言っていたが(番組に電話で、齋藤飛鳥母が登場した)、自分はこうしたいと思う対象に関しては妥協せずに自分の意志を貫く。
そして恐らくだが、齋藤飛鳥には、その中間の主体性というのはないのではないかと思う。そんな雰囲気を感じる。主体性40とか主体性70みたいなことはなくて、何に対しても0か100。そんな風に決めているから、外から見た時にちぐはぐな印象を与える結果になるのかもしれない、と思う。
主体性を0か100のどちらかに振り分けるというのは僕もやっている。それは、人間関係をどうにかこなしていくのに都合のいいやり方なのだ。
主体性0でいることは、他者の判断や価値観をそのまま受け入れることだ。僕は、食べたいものもやりたいことも行きたい場所もなく、「ご飯をどこに食べにいくか?」「どこに遊びに行くか?」「どこに旅行に行くか?」というような判断の際に自分の意見を言わない。意見があるのに言い出せないのではなく、自分には一切意見がない、ということを常日頃からアピールしていて、どんな判断でも文句をいわずに受け入れるというスタンスを貫いている。実際僕には、一切の文句がない。主体性0で行くと決めているので、自分の意見を出さないでいられるというのが一番の理想状態であり楽な展開なのだ。
主体性30ぐらいとかで臨むと、自分にも決断の責任が振り分けられる。だったら、自分の意志をゼロにして、主体性なく関わるのだというスタンスをアピールして他者と関わる方が楽な状況は多い。僕は、世の中の大半の事柄に対してそういうスタンスで臨んでいる。
しかし、それだけではどうしてもしんどくなることはある。だから、主体性100で臨む領域を確保するようにしている。主体性100で臨むということは、他者を一切関わらせない、ということだ。これは逆に、すべてを自分で決めるということだが、他者の判断や選択に後悔することもないし、すべての責任を自分で受け入れればいいだけなので、これも実は楽な選択なのだ。
社会の中で生きていく上で、すべての事柄に対して主体性100で臨むことはしんどい。だから大半の事柄に対しては主体性0で臨む。他者と関わる際には、自分の意志を一切介在させないことで楽に乗り切ろう、という判断だ。しかしそれだけだと自分の心が死ぬ。だから、主体性100、つまり他者の意志を一切介在させない領域をきちんと確保しておく。そういう意識を常に持っている。
齋藤飛鳥が同じスタンスでいるかどうかは判断できないけど、近いものを感じはする。齋藤飛鳥はそろそろ部屋を借りて一人で住むことも検討しているという。その環境の変化が、主体性の判断基準に影響するかもしれない。それまで、生活全般は主体性0の対象だったが、一人暮らしをすることで主体性100に変わるものも出てくるかもしれない。齋藤飛鳥母は、齋藤飛鳥はやれば出来るのにやらないだけなんだ、と語る。主体性0で臨む時は、やれるけどやらない、という判断になるのは当然だ。やらなければならない、という状態になった時、齋藤飛鳥の主体性はどんな風に変化していくのか、楽しみである。
齋藤飛鳥本人と関係ない部分で面白かったのが、料理のナレーションと、齋藤飛鳥母の最後の言葉だ。
齋藤飛鳥が初めて料理をする(チャーハンを作る)という企画では、ナレーションが秀逸だった。
『玄米を炊飯器に直接、「まいっか」と思える量いれます』
『炊飯器に油を適量入れ、適当な設定でスタートさせます』
『にんじんの皮むきでは、一周回ったことに気づかないのでずっと剥き続けます』
『絶望的な弱火で、油を引かずにご飯を炒め始めます』
『奇跡的に火力が強くなったので、炒めている音がし始めます』
『しょうゆ レタス 塩コショウ の順で味付けをします』
最初から最後までこんな感じのナレーションが続いていきます。齋藤飛鳥の手順の変な部分を大げさに取り上げるのではなくて、さも普通に調理をしているかのようなテンションで齋藤飛鳥の調理を描写することで、齋藤飛鳥の異常さがより際立つ形になったのではないかと思いました。
あと、齋藤飛鳥母の最後の言葉は、スタジオでも大爆笑でした。齋藤飛鳥はやれば出来るんだ、私が病気で寝込んだ時には色々手伝ってくれる、という話の流れで、「私はおかゆが好きなので」と齋藤飛鳥母が言うが、これが凄く面白かった。おかゆが好きと以前番組でも言っていたし、チャーハンを作っている時にも、みんなパラパラのご飯が良いっていうけど私はべちょべちょが好き、という齋藤飛鳥。そのおかゆ好きが遺伝だったのか!という面白さがありました。
「常識はちゃんとある」と繰り返し主張していた齋藤飛鳥。この企画からは、常識の持ち主であるという雰囲気はまるで感じられないわけだけど、この感じのスタンスでこれからもやっていって欲しいなぁ、と思う回でした。
「乃木坂工事中160410 齋藤飛鳥独り立ち計画 初めての◯◯」を見て
ラメルノエリキサ(渡辺優)
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復讐、というものをする自分の姿が、想像出来ない。
別に、良い人ぶろうというつもりはない。ただ、めんどくさいだけだ。復讐なんてものに労力を掛ける気力がない。もちろん、自分に何かした相手が自然災害や事故で何らかのダメージを追えば、ざまぁみろと思うだろう。だからそういう、相手を貶めたい、という気持ちがないわけではない。でも、自分でそれをする気力がない。
『復讐など無益だと、人は言う。
人と言っても別に私が直接具体的な誰かにそんなことを言われた訳じゃなくて、たとえば本や映画の中ではそんな風に書いてあった。
誰かとても大切な人を殺された復讐をもくろむ人には、そんなことをしても亡くなった人は喜ばないとか。誰かとてもとても大切な人に裏切られた復讐をもくろむ人には、君が幸せになることが一番の復讐になるのさとか。
私は小さいころからそういった反復讐論的なお話にはなかなかピンとこなくって、そんな的はずれな説得でおよよと泣き崩れてしまうような復讐者にはもやっとした反感を抱いていた。
私にとって、復讐とはどこまでも自分だけの為に行うものだ。自分がすっきりする為のもの。すっきりするっていうのは、人が生きていく上でとても大切で重要なことだと私gは思う。たまった澱を洗い流し、擦り付けられた泥を落とし、歪められた軸を真っ直ぐに伸ばす。すっきりしないままでいたら、人はどんどん重く汚くぐにゃぐにゃになって、私はそうはなりたくない。
私は自分が好きだから、大切な自分のためにいつでもすっきりしていたい。復讐とは誰かの為じゃない。大切な自分のすっきりの為のもの。』
本書は冒頭から、こんな書き出しで進んでいく。スパっとした、なかなかクールな正確の主人公である。復讐がテーマなのにクールというのもおかしい気がするけど、ジメッとした重苦しい雰囲気ではなく、クールでポップに復讐を捉え、実行に移す女の子の振る舞いはなかなか面白い。
小峰りなは、偏執的に復讐を実行してしまう。自分がどれだけ不快になったかによって、相手への復讐度合いが変わる。指針としているのは、子供の頃お姉ちゃんから教えてもらったハンムラビ法典。目には目を歯には歯を。同じぐらいやり返しましょうという意味ではなく、やり過ぎないようにしましょうという戒め。オーケー。教えてくれてありがとう、お姉ちゃん。
りなの復讐癖(癖なんて言っちゃっていいのかな)を知ってるのは数人。お姉ちゃんと、あとは学校の友達。たぶんほとんどの人は気づいてない。元カレに復讐した時も気づかれなかった。美しくて完璧なお母さんも、絶対に気づいてない。
ある日りなは、学校からの帰り道、右の腰辺りを刺された。感じたことのないような感覚があって、痛みがやってくる。襲撃者の顔は見なかった。でも、声は聞いた。
「ラメルノエリキサのためなんです、すいません」
襲撃者が残したその言葉だけを頼りに、りなは襲撃者探しを開始する。警察に?言うわけない。だって私は奴に、自分で復讐したいんだもん。「ラメルノエリキサ」なんて、言うわけない。
でも、「ラメルノエリキサ」ってなんなんだろう?全然分かんない。
というような感じで物語は進んでいく。
復讐の部分に焦点を当てて感想を書き始めたが、本書のポイントはそこではない。復讐というモチーフは、小峰りなというキャラクターを軽やかに動かすガソリンみたいなもので、エンジンはもう少し別のところにある。
この物語のエンジンは、家族との関わり合いだ。
『私はマザコンだ。
ママが大好きで大好きでしょうがなくてなんでもママの言うことを聞いちゃういわゆるマザコンではなくて、本気でママにコンプレックスを抱いてる、マザコン。』
りなは、母親に対して屈折した感情を抱いている。女性にとって母親というのは、なかなか難しい存在なのだろうということは、これまで色んな本を読んでなんとなく知っている(理解していると言うつもりはない)。男にとっての父親とはまるで意味の違う存在であり、どんな娘とどんな母親の組み合わせなのかによって、母娘の関係というのは相当の振り幅を持つことになる。
本書の主人公は、母親との関係が拗れているタイプと言える。しかし、表面上は穏やかなのだ。表面上、主人公は母親のことが好きだし、母親のことを自慢にも思っている。しかし、母親側からの主人公に対するアプローチに対して信頼を持てないでいる。
『ママは別に、私を愛しているわけじゃない』
この一文の後、主人公が母親からの扱われ方をどう捉えているのか続く。それは、被害妄想だと言えるものであるかもしれないし、主人公の捉え方が真実である可能性ももちろんある。読者がそれを判断できるほど、母親に関する描写が多いわけでもない。
とはいえ大事なことは、主人公は母親からの愛をそんな風に捉えているということだ。
『だから、そんなふうに私を大切みたいに扱うのはもうやめて欲しい。大好きなママ。』
主人公の母親の態度は、付け入る隙がない。主人公が「完璧」と表現するように、一見するとパーフェクトにしか思えないのだ。しかし主人公は、その完璧さの中に綻びを見つける。あるいは、見つけたような気になる。あるいは、見つけようと躍起になっている。「完璧」なのだけど、自分の理想通りではない母親に対して、文句を言うのは筋違いだと感じて八つ当たりもできない。
僕自身がこの母親の息子だったとしたら、息苦しいだろうと思う。この母親が体現する「完璧さ」は、なんとなく、「現実」や「日常」というものにそぐわない。はみ出してしまって、違和感を残す。だから僕は、主人公の抱く違和感が分かるように思う。しかし、「完璧」であるが故に、非難出来ない。周りを味方につけることができない。だから母親のことを「大好き」と言うしかない。実際に主人公は母親のことが好きだが、しかし、好きだと思い込もうとしている自分と区別することは出来ない。「完璧な」母親を持つが故に囚われ続けるそんな思考に、主人公は常にさいなまれている、と言っていいだろう。
主人公は、姉に対しても複雑な感情を抱く。
『相変わらず絵になる姉だった。
家の中だというのに、お姉ちゃんは全くスキがなかった。
(中略)
リビングのドアに立った私を見て、お姉ちゃんが微笑む。ママそっくりの完璧な慈悲スマイル。お姉ちゃんの中で、ママに似ている、という部分を私は嫌悪していたけれど、それ以外の部分は概ねだいたい大好きだった。けれど、最近のお姉ちゃんは、そのお姉ちゃん的な部分をよく隠す』
主人公の内面をかき回すのが母親だとすれば、主人公の行動をかき回すのが姉だと区別してもいいかもしれない。作中に母親はほとんど登場しないが、しかし主人公は事あるごとに、母親に対する何らかの感情に囚われ思考を占拠される。一方で姉は作中に頻繁に登場し、そして主に主人公の行動に制限を加えようとして介入してくる。その過程で、姉の行動原理というものが少しずつ見えてくる。
主人公にとって母親は、好きだけれど敵であり、姉は、好きでかつ仲間だと感じている相手だ。主人公のそうした捉え方が、主人公がのめり込む復讐の過程で若干変化していく。物語上、直接的に母親や姉と対立関係に陥るわけではないが、主人公の復讐行為が間接的に媒介となって、家族というものへの複雑な感情が炙りだされていく。それを、実にポップに描き出していくので、家族を描く時にありがちな、湿っぽくぐちゃっとした感じにならない。家族のことを描きながらポップさを維持しているという点で伊坂幸太郎のような雰囲気を感じるし、文章の軽妙さなんかも近いものがあるかもしれないと思う。
本書はとにかく、主人公の価値観の放出が一番興味深く面白いポイントだと思う。主人公の「思考」そのものではなく、「思考の過程」がリアルタイムで描き出されていくような雰囲気の小説で、そうやって放出される価値観が面白い。完全に論理的なわけでもなく、かといって感情だけに支配されているわけでもなく、人間というものが自然に発露するファジーさや揺らぎみたいなものを無視せずに描き出している。周りとは違うという大人びた感覚や、現実的にはまだ高校生であるという幼い部分、さらに母親へのコンプレックスや姉に対する仲間意識などが入り混じり、それらが「復讐」という行動の周囲に雪崩れ込むことで喚起される思考や価値観が本書の最大の魅力だと僕は思う。主人公の考え方にどこかしら共感できる人は、楽しく読める小説だろうと思う。
そういう意味で、ストーリーに重点を置いて物語を読むと、ちょっと肩透かしを食らうかもしれない。復讐を土台にしたストーリーそのものは、正直そこまで大した話ではない。「ラメルノエリキサ」という謎めいた単語は魅力的だし、復讐をポップにやろうとする主人公のテンションも面白いのだけど、ストーリーそのものに物語を自立させる力はないと思う。そこがこの作品の弱点ではある。とはいえ、人間をポップに、しかしそれでいて軽すぎずに描き出す力は素晴らしいと思うし、これからに期待できる作家だと思う。
渡辺優「ラメルノエリキサ」
別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 Vol.1
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『ここに並んだ文字を読んで、私という人間を見透かされるんじゃないか。文章を書きながらふとそう思いました。
が、読み返し、安心しています。いつの間にか私は私の誤魔化しかたを覚えていました。』
「別冊カドカワ」で1冊丸々乃木坂46が特集された号が出た。定期的に出るようで、次号は初夏の発売予定だそうだ。
その「別冊カドカワ」に、僕がずっと待望していた齋藤飛鳥のエッセイが掲載されている。齋藤飛鳥は絶対に文章を書ける人だと僕は思っている。だから今回の機会はとても嬉しい。齋藤飛鳥は、ブログでも文章は書いているはが、全体的に「報告」感が強い。今回のエッセイのタイトルは、「齋藤飛鳥について書いてみる。」だ。常に内省的な雰囲気を漂わせ、自分自身も含めて様々な事柄について思考しているだろう齋藤飛鳥がどんなことを書くのか楽しみだった。
冒頭の引用は、そのエッセイの後半部分に登場する。『いつの間にか私は私の誤魔化しかたを覚えていました。』という一文は、凄くいいなと思う。『私は私を信用していないのです。』『私は自分に自信を持つことができていません。』と語るように、齋藤飛鳥は自分をとても低く見積もっている。その気持ちは、とても良くわかる。そして、自分を強く出しきれないその弱さみたいなものが、先の一文に色濃く現れているのだろうと思う。
ただ僕は知ってほしいと思った。
文章を書くことは、ある種の煙幕にもなるのだ、ということを。
先の一文は、「自分自身を表に出すことの怖さ」から来ている。文章を書くことは、確かにある一面では「自分自身を表に出すこと」だ。しかし、文章を書き続けることは、「自分自身を隠す手段」にもなりうるのだ、ということを齋藤飛鳥には感じて欲しいと思う。
文章を書き始めの頃は、書いた文章の少なさのせいで、文章が孤独を感じる。スクランブル交差点に一人で立っているようなものだ。しかし、文章を書き続けることで、スクランブル交差点に“自分という名の他人”が増える。それが増えれば増えるほど、自分が“自分という名の他人”に紛れ込み、自分自身を見えにくくしてくれる。僕はそう思っている。
何故文章を書き続けることで“自分”ではなく“自分という名の他人”が増えるのか。
それは、人間の価値観は常に変化するからだ。
その時々の価値観に沿って文章を書くと、それぞれの文章が違った自立の仕方をする。そして、それぞれの文章が他者に与える印象も、文章ごとに変化する。一徹した価値観でブレずに文章を書き続けられる人が、そう多くいるとは思えない。僕は、自分が昔書いた文章を読み返して驚くことがしばしばある。だから、文章を書くという行為を続けることで、“自分という名の他人”の中に紛れることが出来るのだ。
文章は、文字という形で定着して残る。だからこそ“自分という名の他人”が消えずに自立し続ける。喋った言葉ではそうはいかない。
もちろん、アイドルのような人に見られる仕事をしていれば、喋った言葉が文字として定着する機会も多いだろう。そういう意味で言えば、わざわざ文章を書かなくても“自分という名の他人”を生み出すことが出来る稀有な立ち位置であるとも言える。しかし、齋藤飛鳥は文章を書くべきだと思う。
何故か。
『乃木坂46に加入して約5年。私は、人に見られることはすごく怖いことだと感じています』
その通り。だからこそ、文章を書くべきなのだ。何故なら、書いた文章は「見られる」ものではなく「見せる」ものだと思うからだ。
姿形の場合、映る自分のすべてをコントロールすることは難しい。
『動画で撮影された自分を見たとき、自分の容姿について気になる部分がありました。
しかし、鏡で自分を見るとき、それはさほど気になりません。
ならば写真はどうでしょう
【盛る】という言葉の通り、うつりによって見え方が変わります。
動画だって、うつりかたさえ覚えれば見せ方は変えられます。』
そう齋藤飛鳥は書くが、しかし、自分の姿形がどう映るのか、完璧にコントロールするのは不可能だと思う。だから、姿形の場合は、「見られる」という行為になる。
文章は違う。チャットや速記をしているならともかく、文章というのは、何を見せるのか自分がかなり完璧にコントロールすることが出来る。書き、推敲し、チェックし、それから表に出すことが出来る。だから、文章の場合は「見られる」ではなく「見せる」になる。
「見られる」ことに恐怖を感じるならば、「見せる」ことに強くなればいい。姿形よりも文章の方がやりやすいはずだ。そういう意味で、文章を書くというのは齋藤飛鳥の武器になる。鉾にも盾にもなりうるのだ。だから是非これからも、齋藤飛鳥には文章を書き続けて欲しいと思う。
齋藤飛鳥の文章からは、“読者である齋藤飛鳥”の存在が見え隠れするように思う。
『私はわたしを信用していないのです。
なので、ここにある情報も、信じすぎないでくださいね!』
“書き手である齋藤飛鳥”が文章を書く。そしてそれをすぐさま“読書である齋藤飛鳥”がチェックをする。そして“読者である齋藤飛鳥”のチェックを通った文章だけが表に出る。そういう“読者である齋藤飛鳥”の存在を強く感じる。
だからエッセイを読んでいてもどかしさを感じる。もっと書けるだろう、と思えてしまう。
『先程述べた、周りがつけた私のイメージ。否定する気は一切ありません。見た人がそう感じたならばそれでいい。実際は全然違うとしても、自分の本性を見せる必要はそこまでないのかも』
齋藤飛鳥には、文章を書くことへの躊躇がある。というか、自分を見せること全般に対する躊躇がある。文章だけに限らない。これは、“自分が自分をどう見るか”という客観視の話なのだ。
“他人からどう見られるか”という客観視をする人は多くいるだろう。むしろ現代は、その客観視に多くの人が縛られている時代だと言ってもいいかもしれない。他人に対して自分をどう見せるか、その文脈の中で様々な言動が選び取られていく。
しかし齋藤飛鳥がやっているのはそれだけではない。僕もそうだが、“自分が自分をどう見るか”という客観視も同時に行っている。芸能人が時々テレビで、「もう一人の自分が(頭の後ろの方を指して)この辺からいつも見ている」みたいなことを言うことがある。その感覚は、僕も凄く分かる。恐らく齋藤飛鳥にも、その“もう一人の自分”がいるだろう。そしてその客観視している“もう一人の自分”が常に自分の行動をチェックしているのだ。
僕は、“他人からどう見られるか”という呪縛からは、以前と比べればかなり逃れることが出来るようになったと思う。しかし、“自分が自分をどう見るか”という呪縛からは、恐らく一生逃れられないだろう。
『元々万人受けするタイプじゃ無いのも承知しています。もっとも、したいとは思いません』
“もう一人の自分”が、文章を書く時には“読者である齋藤飛鳥”となって、“書き手である齋藤飛鳥”の邪魔をする。“書き手である齋藤飛鳥”は、恐らくもっと書けるのだけど、それを“読者である齋藤飛鳥”が止めている。
その“読者である齋藤飛鳥”をどうやって制御するか。今後文章を書く上での最大の障壁となるのがその点かな、と感じた。“読者である齋藤飛鳥”を打ち破る日が来てくれるといいなぁ。
語尾が統一されていない印象を受けたり、接続詞のセレクトに違和感があったりと、惜しいなと感じてしまう部分もあるのだけど、でもそれらは瑣末な部分だ。文章を書くというのは、一面では単純に技術の問題であって、その部分は書き続ければどうにかなる。
その上で、“文章を書く”というのは、“考える”と同義だと僕は感じている。考えたことを文章にする、のではない。書くことを通じて考える、あるいは、書くという習慣を手に入れることで考える習慣を持つということだ。文章という形に落としこむ行為は単純に技術の範疇だが、文章という形に落としこむ以前の部分は思考力に依存している。
そして齋藤飛鳥は、考えられる人だ。自分自身を客観的に捉え、内側に生じた感覚に最も近い言葉を選び取る。そしてさらに、読書を通じて常に、自分の内側の言葉の豊かさを更新する。そういう行為の繰り返しによって、文章というものが生まれうる場が生じる。そこに技術が加わることで、文章が生み出されるのだ。
だから齋藤飛鳥は、もっと書けると思う。
しかし、そういう風に期待されるのは嫌だろう、とも思う。僕もそうだ。
『私は世の中に期待をしていません。
どうしてか。それは、ストレスが怖いからです。』
いつも同じようなことを書くが、齋藤飛鳥のこの感覚はとても共感できる。
僕も、いつの頃からか、期待をしないようになった。
『そこで。
もしも元から期待をしていなかったら?
それならば、失望感もストレスも起こらないと思うのです。』
僕もずっと、そんな風にして生きてきた。
『期待をするという行為は、人間の勝手な支配欲でしか無い。はず!』と齋藤飛鳥は書く。齋藤飛鳥は、その支配欲自体を否定することはない。しかし、『勝手な』ものなのだから、本来的に「支配欲が満たされなくて絶望する」というのは身勝手なのだ、と悟るのだ。とはいえ、そういう自分を押しとどめることは難しい。『私は自分に自信を持つことができていません。なので執着をしてしまうのだろうと思います』と、自分自身をきちんと分析している。
「期待する=支配する」という行為をすれば、それが満たされなかった時の絶望は回避出来ない。そういう自分の性質のことは知っている。だからこそ、「期待する=支配する」という行為そのものを手放そうと決意する。僕自身がそういう価値観を選択してきたこともあって、17歳という若さで、しかも現時点でトップアイドルである乃木坂46のメンバーでありながら、一方でそういう後ろ向きな決断をする齋藤飛鳥に、僕は惹かれる。
ただ、先程少し書いたように、僕は「期待する」ことだけではなく、「期待される」ことも苦手だ。
「期待される」ことは、ありがたいことだ。そう思うことは出来る。しかし、「期待される」ことで、「裏切ることになるかもしれない」という選択肢が生まれてしまう。齋藤飛鳥が『私は私を信用していないのです。』と言うように、僕も自分のことをまるで信用していない。人生のあらゆる局面で逃げ続けてきている自分自身のことを、信用することは出来ない。誰かの期待に応えている自分ではなく、誰かの期待に応えていない自分の方が真っ先に思い浮かぶ。だから「期待される」ことが怖くなる。
「期待される」ことから逃れるために、自分を低く見せようとしてしまう。絶対的な評価で高いか低いか、そういうことはどうでもいい。現時点で自分がどこに立っていようと、現時点の自分よりも自分自身を低く見せる。そういう態度が染み付いてしまっている。
齋藤飛鳥も同じはずだ。しかしこのエッセイで、「期待される」ことについては触れていない。そういう性質が齋藤飛鳥にはないのか、あるいは敢えて書かなかったのか。分からないが、後者だとすれば、それはアイドルという『見られることが仕事』であるが故の自制なのだろうと思う。
アイドルであるということは、期待してくれている人の存在の上に立つ、ということだ。それはもう、アイドルという存在の宿命だろう。期待してくれる人の存在を、ないものとして扱うことは出来ない。だから、自分がどう思っているかはともかくとして、「期待される」ことは引き受けるしかない。このエッセイの中で、「期待する」ことには触れ、「期待される」ことには触れない理由を、僕はそんな風に想像した。
『元々万人受けするタイプじゃ無いのも承知しています。もっとも、したいとは思いません』
他人とは分かり合えない。これは僕の基本的な価値観だ。だから僕にとってコミュニケーションの目的や到達点は“共感”ではない。“共感”は、なくても構わない。分かり合えなくても同じ空間にいられる。それこそが一つの理想なのだと、僕は考えている。だから現代の、“共感”を通貨として他人との関わりが成立していくような雰囲気にどうも馴染めない。
齋藤飛鳥の『元々万人受けするタイプじゃ無いのも承知しています。もっとも、したいとは思いません』という文章は、自分の性格を表現している文章ではない。それは一つの宣言だ。“共感”という通貨に手を伸ばしません、という宣言だと僕は捉えた。『誰かに褒められると嬉しい。相手が誰であれ好意を持たれると嬉しい。でも、それらを信じすぎてしまうという(意外とピュアな、子供らしい)癖があります。』と書く齋藤飛鳥だが、それは、「自分は“共感”を拒否しているのだから共感されにくいはずだ」という思い込み故の反動だろうと感じる。
僕は齋藤飛鳥に“共感”を抱く。しかし、齋藤飛鳥の“共感”を求めているつもりはないし、齋藤飛鳥に共感できない部分があっても自分の気持ちが揺らぐことはない。むしろどんどん、共感できない部分が出てきて欲しいと思いさえする。齋藤飛鳥に対しては、こういう捻れた、複雑な感情を抱きたくなる。
さて、ここまでで齋藤飛鳥のエッセイについての文章は終わりだ。この時点で既に僕の文章は5000字強。恐らく齋藤飛鳥のエッセイの字数を超えていることだろう。
「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 Vol.1」は、様々な方向から乃木坂46を描き出す。インタビューや著名人からのコメントや絵、メンバー同士の対談や趣味を突き詰めた企画、お気に入りの曲紹介やメンバーが撮った写真など、様々な企画が載っている。僕自身は、乃木坂46の視覚的な部分ではなくて、内面に迫る言葉に惹かれる部分があり、そういう意味で、写真がメインではなく文字がメインであるこの特集号はとても良いと感じる。
その中で、齋藤飛鳥のエッセイ以外で非常に面白いと思ったのが、「ミッツ・マングローブ×生駒里奈」の対談と、「乃木坂46のクリエイションについて考える」の「タイポグラフィ」の話だ。どちらの企画にしても、惹かれたのは乃木坂46のメンバー自身の言葉ではなく、その点が少し残念だったが、乃木坂46というものを外から捉えた時に出てくる言葉もまた非常に興味深いものがあるな、と感じた。
ミッツ・マングローブという人に特段のイメージは持っていなかったが、物事を見る視点や、目の前の現実を切り取る言葉が実に素晴らしかった。感覚で捉えたものを論理の力で言葉として放出する、その凄さみたいなものをこの対談から感じた。
『今はステージと客席の“段差”が無いようなもので、テレビ画面とお茶の間の距離も無くなってきてるでしょ。これは大きい意味で、芸能の質を下げちゃうと思う。シビアに“区別”しないと、お客さんが楽しみ方を忘れちゃうから。こっちでピシッと線を引いてあげることが、芸事をする上の義務だと思う。線を引いた上で「観たいならお金を払って!」「お金を払っていただいたらキッチリ満足させますから」って仕事をするの』
「会いにいけるアイドル」としてAKB48が生まれ、そのライバルとして登場した乃木坂46としては、『ステージと客席の“段差”が無い』という話は、スッと入ってくるものではないだろう。何故なら彼女たちにとって、そういう時代がもう当たり前だったからだ。当たり前であることに違和感を持ったり、腑に落ちたりという感覚を抱くことは難しい。専用の劇場を持たない乃木坂46には、その段差の無さを如実に実感する機会は少ないかもしれない。しかしそれでも、感覚的には段差が無い状態の方が自然に思えるだろう。そういう時代なのだ。生駒里奈も、『そういう発想は全然なかったです』と言っている通り、これは新しい視点を獲得するきっかけになっただろう。
昔のアイドルとの違いでは、ミッツ・マングローブがこんな風に言う場面もある。
『ひとつの課題をクリアするとすぐに次の課題を自分の中で持たなきゃいけないなんて、今のアイドルは過酷だよね。』
昔のことは僕はよく知らないが、昔のアイドルの場合、「アイドルとしてデビューする」ことが一つの目標であっただろう。さらにそこから「どう芸能界で残っていくか」「アイドルを辞めたら何をするか」という問いが突きつけられる日が来るのだろうけど、それまでは目の前にある仕事を全力でこなせばいい。
ただ、モーニング娘。の成長がテレビ番組で逐一放送されたり、選抜という仕組みによって競争が激しくなったりする中で、「アイドルとしてデビューする」というのが一つの通過点に過ぎない現実が徐々に明確になっていく。彼女たちは、常に何かに追われているのだ。
さらに、現在の選抜が基本にあるシステムの中では、必ずしも努力が結果に結びつくわけではない、という点も彼女たちを苦しめる。選抜されるかどうか、という場は与えられる。しかし、何をすればそこで選抜に残れるのか、という具体的な指針はない。そういう中で彼女たちは、自分で課題を発見し、それを克服し、さらに別の課題を見つけ…という繰り返しの中に自分の身を置かざるを得なくなっていくのだ。
『ただ、それは聖子ちゃんが制服を着るために“一生懸命に頑張っている”ってわけじゃないの。本当のアイドルって、“アイドルになろうと一生懸命に頑張らなくてもいい人”なのよ。
もちろん努力はするんだよ。だけど、「一生懸命やってるからアイドルとして認めてください」っていうのは矛盾でしかなくて。アイドルって“存在”や“在りよう”だからね。俳優でもスポーツ選手でも、努力した上で他の誰にもない力を発揮して、それを観たお客さんが「この人はアイドルだ」って感じるものなんだよ。例えば、羽生結弦くんは存在の仕方としてアイドルだと思うし、古いところでは長嶋(茂雄)さんだってそうだから』
努力を否定はしない。しかし、努力を超えた先にあるものがアイドルなのだ、という話を明確にする。
現代では、『一生懸命やってる』ことが、アイドルを推す一つの理由になっているようには思う。そこは時代の変化なのだろうけど、でもそうであるが故に、誰の中にも当然存在するような“アイドルとしてのアイコン”のような存在がいなくなった、と見ることも出来るかもしれない。もちろん今のアイドルのありようを否定するわけではないけど、アイドルというのは存在そのものがアイドルなのだ、そこには努力だけでは決して辿り着けないのだ、という話には納得させられた。
今のアイドルにはあまり興味はないし、パッと目に入ってくる子じゃないと覚えられない、と語るミッツ・マングローブは、しかし生駒里奈のことはすぐさま覚えたと言う。
『芸能の世界の勝負ってそういうことだと思うの。まずは覚えてもらえるかどうか。そこは努力してどうにかなるものじゃなくて、天賦の才なんだよね。』
『最近のアイドルには、いわゆる“アイドル性”が無いからこそ、昔のアイドルを知っている大人たちが面白がれるんじゃないかな』と言うミッツ・マングローブは、生駒里奈の中に何らかの“アイドル性”を見出し、注目した。僕にとっても、ドキュメンタリー映画「悲しみの忘れ方」の中で最も強いインパクトを残したのが生駒里奈だった(僕はその時点で、生駒里奈がデビュー当時センターを連続して経験した、という事実さえ知らなかったので、メンバーそれぞれをフラットに見れていたと思う)。確かに生駒里奈は、取り上げられる場面がとても多かった。その回数に比例して印象に残った可能性もあるけど、でも僕も生駒里奈に、何か持ってる子なんだな、という雰囲気を感じたのだと思う。
ミッツ・マングローブが、「トップアイドルであるということ」を、非常に面白い表現で語っている部分がある。
『乃木坂のファンじゃない若い子たちが、社会人になってカラオケに行った時に、「なんか昔、シャンプーの歌あったよね」って。
そういうふうに残っていくことがトップアイドルの宿命だし、義務でもあると思うの。』
意識を向けていない人にも残る存在。それがトップアイドルだと、ミッツ・マングローブは指摘する。そしてそこに向かうためには、時には非情にならなければならない場面も来るはずだ、と生駒里奈に語る。
『幸福論を語るつもりはないけどさ、本当にこの世界で幸せになりたいなら、人を出し抜くことも必要だと思うのね。でも生駒ちゃんはそういうことに抵抗を感じるタイプの人間でしょ?もし、そんなふうに感じてしまうことがあったら、そのときは私とご飯でも行きましょう』
ミッツ・マングローブのことがとても好きになる対談だった。
さて、もう一方の「タイポグラフィ」の話に移る。正直この部分を読み始める前は、「いくら乃木坂46に関係する話とはいえ、タイポグラフィの話はないでしょ」と思っていた。しかし予想以上に面白かったので、ある意味で拾い物だったと言えるだろう。
タイポグラフィに関しては、3名(3グループという表記の方が正確だろうか)の登壇者がいるのだが、その中で、有馬トモユキ氏の考察が非情に面白かった。
有馬トモユキ氏は、乃木坂46のCDジャケットについて考察をするのがど、その中で非常に面白い指摘だと感じた点が2点ある。「ウェブ時代のジャケット制作」と「ルールの明示」だ。
「ウェブ時代のジャケット制作」に関しては、言われれば確かにその通りと思うし、むしろ、こういうことを他のクリエイターがまだそこまでやっていないとすればその方が意外だ、と感じるものだった。
乃木坂46のCDジャケットは、ウェブ上で見られることを大前提にして制作されている、と有馬氏は指摘する。
『今、いちばん見ている媒体はスマホの画面ですから。それに最適化したジャケットって何だとなれば、最新のスマホのフレームにあてはめて美しいのはどれだということになる。乃木坂46のCDジャケットはそこをすでに捉えています』
なるほど、と思った。CDのジャケットは、確かにCDのジャケットとして認識されることもあるが、それ以上に、何らかの形でウェブ上で見られる機会の方が圧倒的に多い、そんな世の中になっている。その中で、ウェブで見た時に最も美しいデザインになるように作る、というのは、非常に納得感のある話だった。
もう一つの「ルールの明示」は少し説明が必要になる。
『デザインがルールを語っている。ファンに対してどこで遊んでいいのか、どうコミュニケーションしていったらいいのかということをジャケットで提示しています。デザインが、ルールブックとしても機能している気がします』
そう有馬氏は主張する。
有馬氏はまず、「乃木坂46」というロゴそのものの分析をする。その分析も面白いのだが、さらにそこから、「乃木坂46では、CDジャケットごとにロゴを作り変えている」という点に着目する。
僕はほとんどCDを買わないし、CDジャケットもちゃんと見ることがないので分からないが、本書の書きぶりでは、ミュージシャンの公式のロゴを、それぞれのCDジャケットにも統一で載せる、というのが一般的なやり方なのだろう、と理解した。しかし乃木坂46はそうではない。CDジャケット毎に違ったロゴを作り出している。その作品の世界観やCDジャケットの雰囲気に合わせて、「乃木坂46」というロゴが毎回変わる。
そしてこの点が、「どこまで遊んでいいのかというルールを明示する」という機能になっているのではないか、と有馬氏は言うのだ。
実際に乃木坂46のCDジャケットを制作している人たちがそういう意図でデザインをしているのか、それは本書からだけではわからないが、その指摘自体にはなるほどと思えた。
『乃木坂46の場合、“学校”っていうフレームから飛び出さない限りはほぼ自由なのでしょう』
その点がファン側にきちんと伝わっているかどうかはともかくとして、作り手側がそういう意図を持ってデザインをしているとしたら、凄く面白いなと思った。専用の劇場を持たない乃木坂46は、常時ファンと接する場を持てるわけではない。その交流の不足を、CDジャケットのデザインで補おう、という発想なのだとしたら、専用の劇場を持たなかったことが乃木坂46というグループをさらに特異にする要素になるのだな、と思わされた。
『デザインにおいて、「ただなんとなく」は絶対に成立しません。少なくともデザインした人はあらゆることを考えているし、クライアントに理由をプレゼンしているはずですから』
これは有馬氏の言葉ではなく、大日本タイポ組合の塚田氏の言葉だ。今までデザインというのは、センスがなければ捉えられないものだと思っていたけど、芸術はともかく、商業デザインであれば、デザインの意味を言葉で捉えることが出来るのか!という新しい発見のある企画で、実に面白かった。
他に気になった言葉をいくつか拾ってみる。
まず、イベントで乃木坂46とコラボしたことのある騎士団の綾小路翔。
『(乃木坂46にオファーをした理由を問われ)この時期、いろいろな意味で飽和化し始めたような空気が漂っていたアイドルシーンにおいて、「真っ当である」ということで逆に違和感や異質感を放つ彼女たちに興味を持ち、活動をチェックするようになりました』
『(乃木坂46の魅力を問われ)実は泥臭いとこ。何かそこはかとなく野暮ったいんですよね。全員ルックスが良過ぎて世間的には騙せてるのかもしれないけど、実は田舎者臭がほんのり漂う感じ。あのギャップがいいですね』
次は、ロックバンド「THE COLLECTORS」のボーカリストであり、多くのアーティストに楽曲や歌詞を提供している加藤ひさし。
『(「君の名は希望」を聞いて)アイドルはおちゃらけてて、ロックバンドのディープなヤツらが文学的だと持てはやされた傾向があったけど、そんな連中も太刀打ちできないぐらいすごいところに来てると感じました、乃木坂46自体が。また、歌ってる本人たちがそれに気付いてなくて歌ってるような純真さ、イノセントぶりが余計恐ろしさを生んでるんです。もしロックバンドがこういう歌詞を歌ったら、「これが俺の青春だ!」と言わんばかりに感情移入して暑苦しくなると思うんです。気持ちが空回りしちゃって、聴いてるほうも「ハイハイ、わかったよ。ずいぶんツラかったんだね」って。でもアイドルってそういうところが二次元的だから、気持ち悪いぐらい真っすぐ心に入ってくるんです。』
全体的に、乃木坂46以外の人間の言葉に惹かれてしまったな、という印象だった。でも、僕もそうだが、乃木坂46の魅力の一つは、そういう、なんか語りたくなる部分がある、っていうことなのかな、という気もする。それは、一つの個性としてとても魅力的だな、と。本人たちがあれこれ語らなくても、周りが語りだしてしまう。そういう魅力を持った乃木坂46に、これからも注目していこうと思う。
「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 Vol.1」
コンカッション(ジーン・マリー・ラスカス)
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もしこの作品を“物語”として見た場合、実に良く出来ている。巨大な権力に立ち向かう青年、その青年は未だ根強く続く人種差別によって虐げられるナイジェリア出身の医師だ。巨大組織が隠蔽しそうとする“真実”と、その“真実”を明らかにしようとする個人の集団の対立の中に、アメリカンドリームを成し遂げながら、そうと知らずに“パンドラの箱”を開けてしまった男の人生の動揺や困惑が挿入され、大きな“物語”として見事に自立している、と言える。
しかし本書は“物語”ではない。“現実”だ。この作品を“現実”と捉えた時、出来過ぎているという感じもする。物語として出来過ぎている。もちろんこの評価は、この作品を貶めるものではない。よくもまあこれだけの現実が存在したものだという嘆息である。
アメリカで大人気のスポーツであるフットボール。国中が盛り上がるこのスポーツにおいては、離婚の際にシーズンチケットの所有権で揉めるという。それほどまでに加熱的な人気を誇るスポーツだ。
そのフットボールを束ねているのが、NFLという組織だ。独占放映権を有し、様々な形で年間80億ドル以上も叩き出す巨大組織。しかし、その甘い汁を吸おうと群がる人間にとって、NFLというのは大きな利権の一つだ。
そのNFLに、結果的に噛みつくことになった一人の青年がいる。ベネット・オマル。ナイジェリアからやってきた、医学の分野で様々な学位を有する、実に優秀な医師だ。彼はピッツバーグの遺体安置所で監察医を務めることになった。そこで出会ったのが、上司のウェクトだ。ウェクトはベネットを利用して大量の仕事を捌いて名声を上げ、ベネットはウェクトからの信頼を得ることで研究のための自由な時間と金銭的余裕を手に入れた。ウェクトは検死解剖界のスーパースターであり、その名声をうまく利用することで、ベネットも一種のアメリカンドリームを体現するまでになったのだ。
そんなある日のこと。ベネットは、これまで誰も発見したことがない、死者の脳の中のある異変を見つけるに至った。
きっかけは、夫からの暴力で外傷性脳損傷を負い植物状態となり、4年後に死亡した44歳の女性の脳の中に、アルツハイマー病の病変を発見したことだった。文献を読んで、外傷性脳損傷がアルツハイマー病変を引き起こすことは知識で知っていたが、実際に目にするのは、これまでに山程死体を扱ってきたベネットにとっても初めての経験だった。
そしてある日、ベネットは、マイク・ウェブスターの脳と出会うことになる。
マイク・ウェブスターは、フットボール界のヒーローだった。史上最高のフットボーラーと称され、輝かしい戦績を収めてきた。しかしマイクは引退後、奇行が目立つようになる。食事を捕るのを忘れ、徘徊を繰り返すようになり、オーヴンに小便をすることもあった。眠るためには、腹と腿にスタンガンを当てて意識を飛ばすしかなかった。そんなマイクが心臓発作で亡くなり、ベネットのいる遺体安置所に運ばれてきた。
ベネットはマイクの脳を取り出して検査し、がっかりした。マイクの脳は、見た目からはなんの損傷も見て取れなかったのだ。通常であればここで頭蓋内に脳を戻し、遺体は遺族の元に戻される。しかしベネットは、“なんとなく”マイクの脳を保存することに決めた。上司の許可を取り、自分の自由になる時間でマイクの脳を徹底的に調べてやろうと、自宅にマイクの脳を保管した。
やがて彼はマイクの脳に、いくつもの黒い“しみ”を発見した。外見からは異常が見られない脳からこれだけの黒い“しみ”が見つかるのは異様なことだった。何かが起きている…。死者の思いを代弁すべく、ベネットは、彼が“CTE(慢性外傷性脳症)”と名付けた病変がフットボールによって引き起こされていることを証明すべく奔走することになる…。
この作品を読むと、権力の恐ろしさを実感させられる。そしてそれは、3.11直後の国の対応をも連想させる。フットボールと原子力という、まったく違うものでありながら、利権とそれにぶら下がる人たちが事実を捻じ曲げ、権力と集金機能を維持しようとするあり方はまさに同じだと感じさせられた。
NFLは、ベネットの発見に対して、ありとあらゆる手段を講じて、フットボールとの関連性を否定する。何故なら、フットボールがCTEのような危険な病変を引き起こす危険なスポーツであることが分かってしまったら、フットボーラーになろうとする人が減るという将来的な不安に加えて、CTEを患い奇行を繰り返すようになってしまった元選手たちへの巨額の賠償を行わなければならないからだ。この点も、原発事故に通じるものがある。健康被害と原子力発電所との関連を認めてしまえば、甘い汁を吸える“原発村”の維持は困難になり、さらに天文学的な賠償金を支払わなければならない問題が発生する。
だからNFLは、NFLが資金援助をしていないすべての研究者の研究を「無関係だ」として一刀両断し、自分たちが組織したチームに安全性を強調させる。
『私は思いました。あのNFLが私を追い詰めようとしている?私にはNFLが何を考えているのかさっぱり理解できませんでした。それで、すごく不安になり、動揺しました。どうして彼らはぼくの論文に反論するためにこんなに長い手紙を書いてきたんだろう?ぼくは自分の論文が彼らの助けになると信じていたのに!なぜ彼らがこんな反応をするのか理解に苦しみました』
ベネットは、NFLを告発しようとしたわけではない、という点がよりこの展開を面白くしている。ベネットは、フットボールの良さも知らなかったし、マイク・ウェブスターというフットボーラーのことも知らなかった。だから、アメリカ国民にとってフットボールというものがどんな存在なのか、理解していなかった。NFLが膨大な利権の集合体であり、選手たちの健康よりも、フットボールの人気を維持することが遥かに優先的な課題だと感じていることも理解できなかった。さらにベネットは、CTEの病変を発見した人物であるという点で間違いなくこの話の中心ではあるのだが、NFLやアメリカ社会を巻き込んだ大論争に発展したのには、ベネットではない様々なプレーヤーの多方面に渡る行動がベースにあった。CTEの発見者であるベネットは次第にこの問題の中心から外れていく。この作品は、そんな忘れ去られつつあったベネットという男に再度光を当てる役割を演じたのだという。
しかし本書を読んで、フットボール経験者がこれほどまでに障害を負っているのかと恐ろしくなった。それは、フットボールで長くプロ選手としてやってきた者だけに限らない。期間の長短に関わらず、CTEによるものと思われる障害は引き起こされるのだ。しかもそれは、遅効性の毒のようなもので、フットボールを止めてから相当時間が経過してから発病することもある。そういうこともあって、フットボールとの関係性が否定されてきたのだ。
NFLは、マスコミなどからの突き上げを受けて、激しいぶつかり合いを禁止する通達を出した。しかしそれに対しファンや選手たちは、『そんなのフットボールじゃない』と反応する。一方で、この問題は広くアメリカ社会で共有され、この問題についてオバマ大統領がコメントすることもあった。曰く、『自分に息子がいたら、フットボールをプレーすることを許可しないだろう』
ベネットが引き金を引いたこの問題は、フットボールの世界に多大な変化をもたらした。
『その後、NFLを告訴する選手は次から次へと現われ、やがて三千人にという数に達する。それは存命選手の四分の一にあたる人数で、その数はその後さらにその倍近くにまでふくれ上がる。弁護士たちがそれを統合した結果、六千人近い選手がNFLを告訴するという一大訴訟に発展する』
『それから二年のあいだに、約二万五千人の子供たちがアメリカ最大のフットボールのユース育成プログラム<ポップ・ワーナー>を脱退した―プログラム参加人数の約一〇%の減少であり、これは<ポップ・ワーナー>八十五年の歴史上、最大の減少率となる』
しかし、こうした事態を引き起こすまでに、ベネットを初めこの問題に関わった人間は、実に不愉快な思いを何度もさせられることになる。論文の撤回を要求され、誹謗中傷にさらされ、無益な仲間割れを経験する。ただ真実を世の中に提示したかっただけのベネットは、様々な勢力の様々な思惑に巻き込まれ、疲弊していく。騒動の最中、ベネットは、ワシントンDCの検死局長にならないかというオファーを受けた。それは、法医病理学者が望みうる最高の地位と言って良かった。しかしベネットはそのオファーを蹴る。妻のプレマのこの言葉が最終的に決め手となった。『そんな地位に就いたら、あとは政治に追われるだけよ』
この物語は、NFLの不正を暴く過程を追うノンフィクションである一方で、人種差別的要素も含まれている。
『私も理解しようとはしてるんです。でも、どうしてみな死者の話に耳を傾けようとしないのか、それについてはどんな説明も思いつきません。すると、こんな疑問が頭をもたげるのです、これは人種差別と関係があるのだろうかって。これは人種差別以外の何物でもないのではないだろうかって。黒人はアメリカ社会のメインストリームから組織ぐるみで―一貫して―排除されているのではないかって。
そのことを直接私に言ってきた人たちもいます。彼らは言いました、「ベネット、わかってるだろうが、もしきみが白人だったら、白人男性だったら、全世界が―これだけの研究を成し遂げたきみをものすごい高みにまで持ち上げていただろうよ」って』
僕は自分の中には、あまり差別的な感情はないと思っている。誰に対しても分け隔てなく、ということはないが、“正常”と呼ばれるもの(それは“大多数”と言い換えてもいい)から外れてしまっている何かを持つというだけの理由でその人に対する悪感情を抱かないようにしよう、という意識はしている。ただそれは、僕の日常に、そういう“正常”から外れた者がほとんどいないからかもしれない。自分の日常に、外国人や被差別部落出身の方や、何らかの障害を持った人がいた場合、自分がそういう人に対してどういう感情を抱くのかはっきりとは分からない。
だから、本書でベネットに対して信頼を置かない人たちを、上から目線で非難することは僕には出来ない。ただ、自分がそういう状況に絶対に陥らないという自信があるわけではないが、やはり本書を読む限り、ベネットが拒絶される理由がよく分からない。確かに死体ばっかりとかかずらっているという点でちょっと普通ではないが、しかし基本的に真面目で優秀な男だ。それを肌の色の違いだけで排除出来てしまうのは凄いな、と。
ただ、“積極的に人種差別をした”というのとはもう少し違う見方も出来る。ベネットに反対した人たちはみな、“自らの信じるものをただ守りたかった”だけとも言える。彼らにとって大事なことは、フットボールという文化(あるいはビジネス)を維持することであって、その手段として人種差別をうまく利用した、とも言える。とはいえやはり、人種差別が手段として成立してしまう社会が存在するという事実が喜ばしいことではない。
『あらゆることをほんとうに面倒なものにしていたのが人種差別でした。私は人種差別のことをまだ理解できずにいました。その歳になるまで、アメリカの奴隷制度と人種差別の歴史に関する本をあまり読んでいなかったからです。それでそうした本を読むようになりました。正直に言って、アメリカに来るまえにそこに書かれていたことを全部知っていたら、私は渡米しなかったでしょう。強い嫌悪感を覚えて、ナイジェリアにとどまる決断をしていたのでしょう。でも、このことに関してなにより皮肉なのは、アメリカはキリスト教の教義にもとづいて建てられたキリスト教国家だということです!キリスト教を国教とする国がいったいどうしたらそんな邪悪な考えを何世紀にもわたって持ちつづけられるのか。私にはりかいできませんでした』
本書はウィル・スミス主演で映画化された。今季アカデミー賞の主演男優賞最有力候補とまで言われていたと言う。しかしウィル・スミスはノミネートさえされなかった。アカデミー賞では近年、「黒人外し」が話題になっている。ノミネートされるのがみな白人ばかりだという批判がある。アカデミーは今後黒人やマイノリティの人種も取り込んでいくと発表しているようだが、人種差別を訴える側面も持つ作品が、やはり人種差別を理由に虐げられている可能性があるという現実には、痛烈な皮肉を感じさせられる。
ここで描かれている物語は、ここ10年ほどの、実に最近の物語だ。僕は本書を読んで、ラグビーはどうなっているのだろう?と感じた。フットボールと同様、激しいタックルが何度も繰り返される。フットボールのようにヘルメットはつけていないので、頭部への衝撃という意味でフットボールよりもルール上の制約が設けられているのかもしれないが、しかし、頭部への直接的な刺激でなくても、継続した比較的小規模な振動がCTEを誘発する可能性もある、という研究もあるという。NFLは出来るだけ早く膿を出し切って健全なスタートを切るべきだと思うが、選手の健康を守るべきという点では、他のスポーツでも無関心ではいられない出来事だろうと思う。スポーツにはさほど関心はないとは言え、スポーツのあり方を考えさせられる一冊だった。
ジーン・マリー・ラスカス「コンカッション」
猫の時間(柄刀一)
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内容に入ろうと思います。
本書は、猫をテーマにした7篇の短編が収録された短編集です。
「ネコの時間」
真子が子供の頃から飼いはじめた「みゃー」は、よく喋る猫だった。みゃーがなんて言っているのかは分からないが、人間の言葉に反応して言葉を返しているように思える。みゃーと共に成長していった真子だが、人間の4倍のスピードで猫が年を取ると知り、みゃーとの時間を大切にしようと考えるようになった。
「千を超えても」
三宅はある日、猫を飼うことになった。勝手に家までついてきたのだ。人馴れしていて、誰かの飼猫だったはずだけど、よくわからない。色んな振る舞いから元の飼い主を想像してみるんだけど、ある時長いこと戻ってこなくて…。
「決壊と真珠貝」
光奈は、生まれたばかりの娘・未来を抱えて暮らしている。夫を海の事故で亡くしている。姉の行動に苛立ちを感じつつ、ある日光奈は、家先に置かれた子猫を発見する…
「旅するトパーズ」
認知症で徘徊してしまうおじいちゃんについていく性質のある飼い猫・トパーズにGPS発信機をつけて、おじいちゃんを探せるようにしていた。小学生の篤人は、またいなくなってしまったおじいちゃんを探すために外に出掛けていくのだけど…
「作曲家の香水」
谷山は調香師をしている。恋人に、念願だったオリジナルの香水をプレゼントしたのだが、恋人の反応が芳しくないように思えた。その直後、恋人は怪我をしてしまい、その時のことをまだ聞き出せてないのだけど…。
「見つめ合い」
愛里は、盲目の猫を飼いはじめた。盲目であることに対応するために、あらゆる面に注意を向けた。しかし困った。新しく出来た恋人が、猫が嫌いらしい…。
「ずっとの時間」
みゃーを介して知り合った私設図書館の人々。彼らも猫を飼っていて、祖母と実に仲がいいというが…
ここまでダメだった作品はちょっと久しぶりかも、という感じがします。
冒頭の「ネコの時間」はまあまあ良かったかなと思うけど、全体的に厳しかった。文章もどうしてだかこなれている感じがしないし(作家歴が長いはずなのに、という意味)、物語もなんだかなぁ、という感じ。猫が好きだったりすればまたちょっと感じ方違うのかなぁと思ったりもするけど、僕は、小説としてちょっとレベルが低いと感じてしまった。
柄刀一と言えば、本格ミステリ作家として著名で、僕は「密室キングダム」という大著を昔読んでその凄さに圧倒されたことがある。だからこの著者の、作家としての力量を低く捉えているつもりはない。ただ、この作品はちょっとダメだと思う。農家が魚を釣ろうとしているみたいなもので、畑違い感が甚だしいと感じられてしまった。餅は餅屋ということで、やはりこの著者には、本格ミステリに専念して欲しいと思ってしまった。
柄刀一「猫の時間」
短歌ください 君の抜け殻篇(穂村弘)
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今回の記事は、感想というよりは、ちょっとした報告、という感じです。
最近、「短歌ください 君の抜け殻篇」という本が発売になりました。これは、月刊誌「ダ・ヴィンチ」で穂村弘がコーナーを持っている「短歌ください」を書籍化したものです。穂村弘が一般の人から短歌を募集し、それを講評するようなコーナーです。
この本の中に、僕が作った短歌が二首掲載されています。ありがたいことです。
【「絶対」と名付けた犬に行き先を決めてもらってやっと進める】(P122)
【真空で死なない虫がいる そんな些細なことでまだ生きられる】(P146)
僕は、それまで短歌など作ったこともなく、読んだことさえほとんどなかったのに、2014年の1月から唐突に短歌を始めてみました。色々あって、ずっと続けてきた読書を一旦止めてみるか、と思い立ちまして、じゃあ何をしようか、と考え始めました。前の職場のスタッフに聞いてみたところ、俳句とか短歌がいいんじゃない?というアイデアが出てきました。
そう言われた時点で、俳句にも短歌にもまるで興味はなかったですが、とりあえず千野帽子の「俳句いきなり入門」(感想はこちら)という本を読んでみました。その本が結構面白くて、超絶初心者でもなんかやれそうだ、と思わせてくれました。ただ俳句は、季語や切れ字などルールが多くて難しそうだなと思ったので、じゃあ短歌だなと決めたのでした。
ちゃんと数えたわけではありませんけど、一年間で恐らく700~1000首ぐらいは作ったんじゃないかな、と思います。当時作った短歌の中から、自分なりに良く出来たと思うもの、印象深いものをまとめた「2014の短歌まとめ」という記事も以前書いたので見てみてください。
自分でも時々見返してみると、よくこんなん考えたな、と思えてきます。短歌をやっていた年は、本当にひたすら短歌のことを考え続けていたなぁ、と。作り方なんてまるで分からない頃から、とりあえず分からないなりに作りまくることで、それなりの歌も作れるようになるものだな、と。なんだかんだ、雑誌に掲載していただいた歌もありますし。凄く面白かったです。また本を読みはじめたり、環境が変わったりと、短歌は一年で止めてしまったけど、またやりたいなぁ、と思ったりします。
「短歌ください」を見てみるとわかりますが、結構若い世代の人の投稿が多いです。20代30代の投稿が結構な割合を占めています。僕が短歌をやっていた頃、ネット上で様々に短歌を投稿する場がありましたけど、そこでも若い世代の人が多かった印象がありました。俳句や短歌というと、年配の方の趣味、というイメージがあるかもしれませんけど、ネットが普及したことで短歌をやれる場がかなり増えたのでしょう。短歌は31文字という短さだからSNSとも相性がいいし、作り手の顔が見えない方が純粋に歌を評価しやすくなるという側面もあるだろうから、ネットで歌会をやるというのは環境として良いのだろうと思います。
難しそうなイメージがあるかもしれませんけど、短歌は本当に、「五七五七七」以外のルールはないと言っていいです。その文字数の中に言葉を収めて、そしてその中で何を表現するか、という遊びなので、やったことがない、という人も気軽にチャレンジしてみてください。
ネットで歌会に参加したい、という方は、まず「うたの日」というサイトを覗いて見て下さい。毎日歌会が開かれていて、誰でも参加できます。作った短歌がその日の内に評価される、という環境はそうそうないので、短歌を作り続けるモチベーションを維持しやすいと思います。短歌をやっている人のサイトへのリンクや、関連ツイートやツイッターアカウントも分かるので、ネットで短歌を始めたいという人の良いガイドになると思います。
「短歌ください 君の抜け殻篇」の話に戻ろうと思います。
僕の歌に穂村弘がつけてくれた講評も引用してみようと思います。
【「絶対」と名付けた犬に行き先を決めてもらってやっと進める】
『私も言葉を持たない「犬」や猫の行動の確かさに憧れることがあります。言葉で考えれば考えるほど、判断の精度が下がっていくような気がして。と云いつつ、「絶対」という「名付け」もまた言葉によるもの。』
【真空で死なない虫がいる そんな些細なことでまだ生きられる】
『想像を超えた生き物が実在する。そう思うことで閉塞感が薄らぐ。まだ見ぬ世界の可能性が広がるのでしょう』
嬉しいですね。ありがたいです。
短歌が面白いなと思うのは、作り手の意図とは違う受け取られ方をしても、それはまた面白い、ということです。例えば【「絶対」と名付けた犬に行き先を決めてもらってやっと進める】の歌は、僕の感覚では、「やっと進める」主体(主体というのは、歌の中の主人公、ぐらいの意味です)の弱さの方に力点を置いているつもりでした。ただ穂村弘氏はこの歌を、言葉を持たない犬の強さ、に力点を置いて読んでくれているように思います。
短歌を作り、それが評価される、という経験を繰り返すと、自分自身と他者との価値観の差異を意識することが出来る。僕らはみんな、自分なりの常識を持っていて、普段はそれを意識することはない。でも、短歌という、三十一文字しかない表現を作って提示し、そしてその受け取られ方を知ることで、自分が持っている常識が他人の持っている常識と違うのだと気付かされる瞬間がある。短く、いかようにでも受け取れる短歌という表現だからこそ、差異が浮き彫りになる。
前述した「俳句いきなり入門」の中には、「他人の句を読んで投票し、句評すること」ことにこそ俳句という活動の真髄がある、というような趣旨の文章があります。極端に言えば、俳句を作らなくても俳句という活動に関われるのだ、と。これは僕も実感していて、自分で作れなくても、他者の俳句や短歌を取り込んで、どう感じたのかを文章にすることで、自分自身にも作り手にも価値をもたらすことが出来る、という点が面白いなと思います。
僕はもう止めてしまってるからあんまり説得力はないかもしれないけど、短歌はとても面白いので、今まるで興味がない、という人も、触れたり作ったり評価したりしてみてほしいなと思います。
くらやみにストロボ(ハヤカワノジコ)
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最近BLを読んでいるのは、BLを貸してくれる人がいるからだ。
僕はその人に、僕が好きそうなBLの感じを伝えて、それを元に結構な量の選書をしてもらった。それを今読んでいるんだけど、でもその時にもう一つお願いしたこともある。
僕が好きなわけじゃなさそうな、普通のBLも混ぜて、と。普通の、と書くと、ちょっと語弊があるかもしれないけど。
自分に合いそうな、あるいは、誰かが素晴らしいと感じているような、そういう作品ばっかり読んでいると、自分の中で基準が分からなくなる。普段読んでる小説なんかは、昔から自分で選んで、自分なりに良い作品、悪い作品に出会って、そういう中で自分なりの基準が出来ていったからいいんだけど、人から勧めてもらう時は、良いものだけ読み過ぎると良く分からなくなってしまう。だから、普通のも混ぜて欲しいとお願いした。
本書は、その人から特別勧められたわけじゃない、普通の方のBLだ。
やはりこれまで、自分で選んで読んだ作品も、勧められて読んだ作品も、基本的に傑作クラスのものが多かったのだろう。本書はやはり、BLとしては自分の中にグッと入ってくる作品ではなかった。
榊新(さかきあらた)は高校で写真部に所属している。父親が写真屋である関係で、自分で現像まで出来る。専ら男の写真を撮り、それを女子に売りつけている。一番人気は、バスケ部のスーパールーキーであり、新の幼なじみでもある宮本正太郎だ。
新は常に、正太郎にファインダーを向けている。表向きは、女子たちに売るためだ。正太郎の写真は人気がある。しかしそれだけじゃない。新はずっと正太郎に、想いを寄せているのだ。
校内の人気者である正太郎は、頻繁に女子から告白を受ける。新はそれを、常に陰から盗み聞きしている。正太郎は、常に女の子の告白を断る。ある時正太郎が、好きな人がいるんだ、と言っているのを聞く。そうだったのか、知らなかった…。
こんな風に盗み聞きして、女々しく嫉妬して、正太郎のことは好きなんだけど、でも周りから気持ち悪いって思われるだろうし、あーこんなこと考えてる俺って最低だと、新はいつも自己嫌悪にさいなまれている。
僕がBLに関心があるポイントは、男同士の恋であることが、何らかの障害になっている、という点だ。本書にも、そういう要素がないとは言わないが、これまで僕が読んだ作品と比べるとやっぱり薄い。新の方は思い悩むのだけど、正太郎の方が新の苦悩などお構いなしに扉をこじ開けてくるので(まあそのお陰で物語が進んでいくわけなんだけど)、新の葛藤が作品の中で強い重力を持つに至らない。
とはいえ、新が持つ、男が好きなことはおかしいことなんだ、フツーじゃないんだという葛藤がきちんと描かれているのは良かった。今の僕はもはや、フツーって何、みたいな葛藤に囚われることはないんだけど、子供の頃はフツーではいられない自分(誤解されそうだから書いておくけど、別に僕は男が好きで悩んでたとかじゃない)に苦しんでたこともある。だから、新の葛藤は分かるような気がする。周りの目が気になって、フツーでいられないことを責めて、どうしたらいいか分からなくてもがく。そんなフツーに囚われている新を、正太郎が天然全開でこじ開けていく感じはなかなか面白かったです。
さて、僕が本書で面白いと思った点が二つある。
「写真を撮るということ」と「長谷浩一という男」の二つだ。
『女子は自分の見せ方を知っている。だからつまらないんだよなぁ。
その点男は、カメラを向けても素のままっつーか、レンズ通して伝わるものとかあって』
新が、頼まれて女子の写真を撮るようになった時にこう述懐する場面がある。
新が感じているのとまったくぴったりではないけど、僕も近いことを感じたことがある。
僕は高校に入学する際に、一眼レフのカメラを買ってもらった。それで写真を撮りまくっていた時期があったんだけど、人間の写真を撮る時にどうしても不満があった。
カメラ目線の写真が全然面白くないのだ。
だから僕はいつの頃からか、勝手にカメラを向けて、勝手に写真を撮るようになった。周囲の人間からは「盗撮」と言われた。まあ、まさにその通りだったと思う。被写体に、撮る前も撮った後も一切許可を取らないまま、カメラ目線ではない写真を撮りたいというただそれだけの理由で「盗撮」を続けていた。
誰かに怒られたり、それが原因で嫌われたりした記憶がないから(陰でどう言われていたかは知らないけど)、周囲も僕の「盗撮」を普通に受け入れていたのではないかという気がする。どうして受け入れられたのか、その点はよく覚えていないんだけど、よく許してもらえたもんだなと今なら思う。まあ別に、スカートの中とか胸のアップとかを撮ってたわけじゃないし、別に大して気にしてなかったぐらいのことだと思うけど。
その当時撮った写真は、ネガも含めて一切残っていない。実家の奥底に眠ってたりするのかなぁ。ちょっと分からない。せめてネガだけでもいいから手元に残したいのだけど。
カメラ目線じゃない写真は、少なくとも僕の中では凄く良かった。それは、人間を人間として撮るのではなく、人間を風景の一部として撮るという感覚だった。人間を撮るためにカメラを向けているのではなくて、人間を含めた風景そのものを切り取っている感覚。それももちろん良かったんだけど、もう一つ覚えている感覚がある。
それは、撮影者である僕自身が「透明になる」という感覚だ。
カメラ目線の写真を撮っていると、どうしても撮影者である自分の存在が意識されてしまう。被写体は、カメラを、そしてカメラを通じて僕を見ている。僕のことは別に意識して見てないかもしれないけど、僕にはそう受け取られる。その視線によって、僕自身の存在を意識させられる。それは僕にとって、居心地のいい感覚ではなかった。
でも、カメラ目線ではない写真では、撮影者である僕自身の存在は意識されない。僕自身が透明になることが出来る。カメラを境に、レンズの向こうの風景と自分自身が切り離されているような、自分がまるでその世界に存在していないかのような感覚になれた。
この感覚は、人間の写っていないただの風景を撮る時には感じられないものだ。カメラ目線ではない人間が風景の一部として写っているからこそ感じられる感覚だった。僕はその感覚が好きで、ずっと写真を撮り続けていたような気がする。
僕は、カメラ目線か否かを基準にしていたけど、新はそれを男女で区別していた。それは、僕のカメラ目線云々の話に通じる。女子は、自分をどう見せるかをきちんと知っているから、当然カメラ目線だし、カメラ目線だというだけではなく自分自身を作りこんでカメラの前に立つ。しかし男の場合は、新の感覚では「素」、それはカメラ目線ではないことも含むだろう。だから、新が男女の違いとして受け取った差異に、僕は共感することが出来たのだと思う。
新は、自分が撮られることは苦手だ。僕もそうだが、その感覚は、カメラ目線によって撮影者である自分自身が意識されることを拒絶する感覚に通じる。新の、写真と関わる感覚は、なんだか凄くよく分かる。
さてもう一方の「長谷浩一という男」の方である。
新と正太郎は、長谷と澤山という四人でいることが多い。新と正太郎が付き合っていると知った二人の反応は対照的だった。澤山は、恐らく気持ち悪いという意識が先に立ったのだろう、二人のことを拒絶するようになる(それを解消するために新が澤山に切り込んでいった場面はとても良かった)。一方長谷の反応はこうである。
『おまえらがいーなら、オレはいいと思うよ』
僕も基本的なスタンスは同じだ。
僕自身が、男から好意を受ける場合はまた別だが、僕の関係ないところで男同士がくっつこうがなんだろうが、別にどうでもいい。それで付き合いが変わるとか、避けようとするとか、別にそういうことはないだろうと思う。僕自身も、色んな場面でフツーに馴染めないままここまで生きてきた人間だ。そもそもフツーって何?という感覚もあるし、フツーじゃなくたって別にいいと思ってる。
長谷は当初、物語の中にほとんど出てこなかった。さっきの「おまえらがいーなら、オレはいいと思うよ」という場面以外では、さほど大した役割を果たさない。それでも、その場面がなかなか印象的だったので、出番はほとんどないながらも、長谷に対する好感はあった。
後半でなんと、長谷がメインで登場する話が出てくる。ここでの長谷が、とてもいい。
『お前は俺のこと嫌いだろうけど、俺はお前のことけっこー好きだから、さ。まずはお友達からはじめてみようぜ』
長谷が澤山に対して言う(一応書いておくと、この二人は特にBL的な関係ではない。しかし腐女子がこの二人をどう読むかと言えば、まあBL的関係として捉えるんだろうか)。新・正太郎・長谷・澤山の四人はよくつるんでいるけど、長谷と澤山はそこまで仲良くない。でも、新と正太郎が抜けてしまう状況が最近多いから、二人きりになって気まずいという、澤山視点の物語が展開される中でのことだ。
長谷は、何に囚われることもない。そういう意味で、澤山とは真逆だ。澤山が「真っ当」な立ち位置でいようとするのに対し、長谷は、目の前の状況を何でも受け入れますよ、という余裕がある。それはある種の無関心の裏返しでもあるのだけど、ただの無関心ではない。その辺のひねくれた感じがさらりと描かれていて面白い。僕の中では、長谷のように振る舞ったり生きたりするのは、ある種の理想だ。
『俺さぁ、ダメなんだよね。グイグイ来られんの。引くっつーか』
すげぇ分かるなぁ。
BLとしては、あまりグッとこなかったけど、作品のメインではない要素がなかなかよくて、全体としての印象は悪くないです。ってかむしろ、長谷と澤山の関係(別にBL的な関係に着地することを望んでるわけじゃない)を読みたいなぁ。番外編としてちょろっと載ってるだけなのは勿体無い。
ハヤカワノジコ「くらやみにストロボ」
みんなが聞きたい安倍総理への質問(山本太郎)
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びっくりした。
初めて知った。
山本太郎って、凄い男だったんだな、と。
凄い政治家だったんだな、と。
山本太郎に抱いていたイメージは、正直、特になかった。天皇に直接手紙を渡したという出来事も忘れていた。原発の反対運動をしていたことは記憶にあったし、政治家になって政党の名前が変だったこともなんとなく覚えていた。でも、それぐらいの認識だった。僕にとっては、割とどうでもいい人だった。関心を抱かせない人だった。
本書を読むまでは。
『こういうポジションの政治家は、まあほかにはいないでしょうね』
本書は、国会での質疑応答を文字に起こした作品だ。下段に用語の注釈があるが、基本的には、山本太郎の質問と、その時々の回答者からの回答で構成されている(巻末に少し、山本太郎の支援者が語る、山本太郎像についての文章が併録されている)。
面白くなさそう、と思うだろう。国会での質疑応答なんて、面白いのか?と。そう思う気持ちは分かる。僕も、人から勧められなかったら、絶対に読まなかったと思う。
『水上が関心しているのは、普通の議員ではとうてい質問できないテーマのものを、山本は理詰めで固めた上に、細かな時間調整までして、最終的には一種の「ドラマ」として市民に届けようとしたことである』
『事前練習でも本番でもつねにストップウォッチを持って質問に挑み、ボクサーが1ラウンド三分の感覚をスパークリングで体得するように、時間の感覚を身体に刷り込ませた』
山本太郎は政治家になった当初無所属であり、所属できた委員会は一つだけだった。しかしその時から山本太郎は、議場での質問にこだわり続けた。周囲からは、何故そこに注力するのかと思われたというが、山本太郎は、いつか総理と直接対決をする日が来ると考え、その下準備をしていたのだ。
『ここで山本が重視したのはテレビ中継の存在だった。それまでにも街宣活動に力を入れていたが、駅前に立つにしても千人の徴収を集めることは困難である。しかし、テレビならばたとえ1%の視聴率でも百万人が見ている。そもそもが高校時代にテレビ番組に出演して人気を博したことが世に出るきっかけであった。その特性はつかんでいる。中継の入る日に最も重要だと思う質問をぶつけることで問題を喚起させることを考えた』
山本太郎の基本的なスタンスは、ショーアップである。自分が質問し、回答者に回答させる、その一連のやり取りを、テレビの前の視聴者にショーとして見せる。そのために相当苦心している。
『本番での質問について、心がけていることがあるという。
「一番大事にしているのは、自分の主張をただぶつけるのではなく、ン見ている人にそこで起きていることを、前後の流れも含めて、ストーリーとして理解してもらえるようにすることです。(中略)」
野党の政治家ならばまずは反意の主張だが、そうではない。主眼を置くのは、あくまでも「政治」を見てもらうことなのだ。
「それは僕自身、かつてまったく政治に無関心なところから始まっているので、政治に、国会に関心を持てない人の気持ちもわかるからなんです。これでもまだしゃべっている言葉が難しすぎると思っています」』
こういう山本太郎のスタンスは、本書を読んでいるとよく伝わってくる。例えば質疑応答の最中に、こんな発言を入れ込む。
『ということなんですが、今の答弁はあまりにも長過ぎて、テレビを御覧の方は何を言っているか全く分からなかった方、大勢いらっしゃると思います。要は、~』
山本太郎は、常に見ている人のことを意識している。テレビの向こう側でこのやり取りを見ている人のことを意識している。彼らに関心を持ってもらいたい、このやり取りを理解してもらいたい。そういう思いで山本太郎は国会での質疑応答に臨んでいる。
しかし、ショーだからと言って、お遊びみたいな質問をしているわけでは当然ない。むしろ、誰もが出来ない切り込み方で、権力者や責任者に牙を剥く。それを理詰めでやる知性が山本太郎にはある。
『そもそも質問の組み立てがすごく理性的なんですよ。私は法律家だから演説の勢いよりも文章としてのロジックや行間を読みます。政府の出してくる条文を読めば、その背景の思想もわかる。私は今までに他の政治家の質問も嫌と言うほど聞いています。そうすると山本さんの質問って、すごく言葉遣いが丁寧だし、相当細かくロジックを踏んでいることがわかります。そして決めつけが少ないんですよ。たとえば野党がよくやる「こうなんでしょ、どうせ」ってけっして言わない。』
印象的だった質疑応答がある。安保関連法案に関係して、イラク戦争でアメリカ軍が行った戦争犯罪と、安保関連法案によって自衛隊がその戦争犯罪に加担することになってしまう危惧を明確に示して見せた質疑応答がある。
まず山本太郎は、「ジュネーブ条約などの国際人道法違反を行えば、それがたとえ米軍でも支援、協力はしない」という総理の言質を取る。その上で、フリージャーナリストの志葉玲氏が撮影したイラク戦争での写真を元に、「アメリカ軍が明らかに民間人を殺している、これは国際法違反だろう」と詰め寄る。総理は、「この事案について承知していないので答えられない」と逃げるのだが、さらに山本太郎がした質問が見事だ。
『では、分かりました。じゃ、何が戦争犯罪かということをもっと分かりやすいたとえ、総理には必要だなということを今感じたので、お聞きしたいと思います。
米軍による爆撃、我が国も受けております。広島、長崎、それだけじゃない、東京大空襲、そして日本中が空爆、爆撃をされた。それによって五十万人以上の方々が亡くなっていますよ。この五十万人の中に、そのほとんどを占めるのが一般市民じゃないですか。子供、女性、民間人への無差別攻撃、アメリカによる広島、長崎の原爆投下、それだけじゃなく、東京大空襲を含む日本全国の空襲、民間人の大虐殺、これは戦争犯罪ですよね、国際法違反ですよね、いかがですか。』
本書の巻末には、この質問に対するこんな評価が載っている。
『冒頭、「米軍による広島、長崎への原爆投下は戦争犯罪です。総理、お答えください。違いますか、これ」という質問をぶつけた。議事を進行していた鴻池議長が後に、「あの質問に答えられないのが保守の堕落や」と記者団に向けて山本の質問を称賛したという幕開けだった』
この一連の質問から、山本太郎は、「アメリカが戦争犯罪に加担した時、総理は自衛隊を撤退させられるのか」「自衛隊の活動範囲を広げようとするならば、過去の戦争の検証がまず先にあるべきだろう」という問題提起をする。この一連の流れは本当に見事だと感じた。山本太郎の圧勝という感じである。
山本太郎は、安保関連法案にだけ噛み付いているわけではない。沖縄の基地問題、ジャパンハンドラーズというタブー、貧困層を自衛隊に取り込もうとする経済的徴兵制など、その時その時で山本太郎が重要だと感じた問題について詰め寄っていく。恐らく本書は、安保関連法案や戦争、自衛隊、そういう周辺の問題についての質疑応答に絞って書籍化されているはずだ。恐らく山本太郎は、もっと幅広い問題について議論を戦わせている。
そしてそれは、確実な証拠こそないが、現実を動かしている。山本太郎が国会議員として初めて行った質疑で、原発作業員の日当の搾取問題を取り上げた。その三日後、東京電力は下請け作業員の日当を一万円増額すると発表した。また、雇用保険給付の申請期間が伸びたのも、山本太郎の事務所が厚生労働省にしつこくアプローチしたことで実現したという。一つ一つは小さな成果かもしれないが、山本太郎が質問を繰り出すことで、確実に社会が良い方向に変わっているのだ。
国会質問の前に、「質問取り」というシステムがある。これは、質問者がどんな質問をしようとしているのかを先に知る、というものだ。その方が回答者は対処しやすいし、質問者としても、事前に準備してもらえる方が正確なデータを知れて良い。
山本太郎が国会で、度肝を抜くような質疑応答をするにつれて、この質問取りに来る人数がもの凄く増えたという。山本太郎は何を聞いてくるか分からない、という恐れが、回答者側を動かすのだ。それはつまり、それだけ回答者側が、山本太郎の質問を警戒していることの現れでもある。
この質問取りで山本太郎は、相手に失礼な態度を取らないと決めている。山本太郎側としては、妨害されたくない気持ちから、出来るだけ質問が分からないようにしておきたいが、その辺りはバランスを考えて穏やかになるようにしているのだと言う。そういう真摯な態度が、人を動かすこともある。
『質問取りではない通常のレクチャーの際だったが、議論していた経済産業省の官僚が、去り際にぽつりと「妻が原発に反対していて、山本さんのファンなんですよ」と言って帰っていったことがあった』
【知識を備えた上での“無知”は最強だ】
本書を読んで僕は、強くそう感じた。
『山本が外部の人々と繋がるのは、自身の事務所を開かれたものにしたいという本人の強い意志の表れでもあるが、他方、あまりにも山本が何も知らずに政治の世界に飛び込んだことを知った人々が、さすがにこれは放っておけない、という危機感から自然と集まってきた、というのも実情である』
彼のブレーンの一人となった雨宮処凛は、こんな風に語っている。
『でも、ある脱原発のイベントではじめて会って、ああこれは全然本気でやっているんだな、と本当にびっくりしました。まだ議員になる前のことでした。いずれにしても、今の日本でああいう(芸能の)世界で育ってきたら、絶対自己保身というか、大人の作法を身につけているじゃないですか。たとえば私なんかは、何に反対したって何のリスクもないし、それが逆に仕事になっているようなところもある。なのに彼は、自分のそれまでの仕事すべてを失ってまで、やるわけです。そしてまったく冷笑的なところがない人。自分の言うことにいちいち照れないし、かつ、けっしてあきらめない。まっすぐすぎて、衝撃でした』
『そのあと、彼が選挙に出るって聞いたときは、さすがにちゃんとしたバックがいてお金もあるんだ、と思ったけど、じつはこの人、本当に何もないんだ、というのがわかってきた。そのときは当然のようにして落選して、ああやっぱりこの人は何も知らないんだ、ってことにはっきりと気がついたんです。それでこれはマジでヤバい、と思って、いろんな人を引き合わせたりしました。気がついたら巻き込まれているというか、逃げ遅れているというか(笑)』
まったく何も知らなかった山本太郎が、国会の質疑応答で、回答者の矛盾を突き、回答者の曖昧な回答を一刀両断し、理詰めで相手を追い詰めていく。理詰めで正論をいいながらも、堅苦しくしすぎず、テレビの向こう側の一般市民にも届く言葉で語る。相当勉強しただろう。熱意だけでここまで知識を吸収し、自分のものにし、さらにパフォーマンスとして昇華させることが出来るのか、と驚かされる。
『山本は孤立をまったく恐れていないんですね』
山本太郎は、安保関連法案の議決投票の際、たった一人で牛歩を行った。一人で牛歩をしても多勢に無勢と山本太郎自身も当然わかっていただろうが、それでも、罵詈雑言を浴びながらも、山本太郎は牛歩をやりきった。そして演台で彼はスピーチする。
『アメリカと経団連にコントロールされた政治は止めろ
組織票が欲しいか
ポジションが欲しいか
誰のための政治をやってる
外の声が聞こえないか
外の声が聞こえないんだったら政治家なんか辞めた方がいいだろう
違憲立法までして
自分が議員でいたいか
みんなこの国変えましょうよ
いつまで植民地でいるんですか
本気出しましょうよ
安倍総理
いいお土産が出来ましたね
ニューヨークに行くのに
ひっくり返しますからね』
山本太郎は、まだ諦めていない。
僕らも、まだ諦めるべきではないだろう。
何を目標にして政治に関わるか、と問われた山本太郎は、こう返す。
『一番は、あなたは生まれてきただけで価値があるんですよ、と思わせてくれるような社会を作りたいということですかね。当たり前のことだと思うんですけれど、生まれてきてよかった、とみんなが思えるのがいい。そのためには、私という存在が認められなければないけないし、あなたという存在を認めたいんだ、と。』
あまりにも真っ直ぐすぎて、普段の僕はこういう発言は好きになれない。しかし、山本太郎のそのあまりに真っ直ぐな、しかし情熱だけではなく知識と覚悟と戦略に満ち溢れた質疑応答を読んだ今、山本太郎になら何か出来るのではないかと思えるし、山本太郎のその真っ直ぐ過ぎる発言を、そのまま受け入れてもいいかという気持ちになっている自分がいる。山本太郎の質疑応答を実際に見てみたくなるし、山本太郎がこれからどんな風に社会を変えていくのか非常に関心がある。
この感想では、山本太郎の質疑応答そのものについてはほとんど触れなかった。是非とも本書を読んでそのやり取りを実感して欲しい。
凄い男がいたものだ。当然、彼一人では社会を変えることは出来ない。僕は、直接的に何が出来るかはともかく、山本太郎を応援しようと思う。そしてそういう人が少しずつでも増えていくことが、山本太郎の力になり、そして日本が変わる可能性になるだろう。その第一歩として、是非この作品を読んで欲しい。そう切に願う。
山本太郎「みんなが聞きたい安倍総理への質問」