そして、警官は奔る(日明恩)
「法の番人」という言葉がある。誰のことを指した言葉かは忘れてしまったが、確か裁判官のことだっただろうか。
ともかく、言葉尻を捉えるならば、どうも「法」自体そのものが「守られる」べき存在、であるかのような言葉ではないだろうか?
「法」そのものは確かに守られるべき存在かもしれない。それがなければどうなるか。なかった時代も、あってなかったような時代もあったわけで、ここで書くまでもないだろうけど、それは想像に難くない。侵すべきではない、まさに「聖域」と呼ぶべき存在。それが「法」なのかもしれない。
しかし、やはりそれは本末転倒だ、と僕は思う。救うべき存在があってことの「法」の存在であり、まず「法」を、というのは違うのではないか、と思う。
「法の番人」は「法」を守る。それはいいだろう。だとすれば、「法」は、一体どんな存在を守ってくれるのだろうか?
そもそも「法」とは、一体何であって、誰のためのものなのだろうか?
僕が身近で感じることを書いてみようと思う。ものすごく些細なことすぎて恐縮ではあるのだけれども。
世の中には様々な税金が存在する。それらは、ある一定のシステムに、つまりは「法」の存在によって規定され、回収されていく。それは揺るがない。納税は国民の義務である。
しかし、どうにも遠いように僕には感じられてしまうのだ。サラリーマンは源泉徴収で、何でも会社が手続きを受け持ってくれるのだろうけど、フリーターの僕としては、どうにもそれらの手続きを自分でしなければならないらしい。そうしてみて初めて、納税一つとってもシステムが複雑すぎるな、と感じたわけです。
「法」の話をするのにあまり適切な話題ではないかもしれないけど、こういったように、現実的に直接的に国民には関係ない事柄(納税の話で言えば、そこまでの手続きのことについて言っているわけで、納税が不必要だ、とは言っていません)を規定した「法」が存在し、その現実的ではない「法」の存在により、不具合を感じたり、あるいは現実的な正当性を持つ行動が制限されたりする。「法」に縛られている、という状態だ。
「法」の存在を否定するつもりはまったくないけれども、まず「法」ありき、という姿勢には納得がいきません。よく言われることだけれども、もう何十年も前に決められた法律に未だに従っている、というところが驚きです。
ただ、これもまた真実です。つまり、日本に生まれたからには、日本の法律を守らなければいけない、と。どんなに不条理であっても、それは仕方のないことだし、嫌ならばそこから抜け出すことだって不可能ではないのですから。
さてもう一つ。国籍ということについても少し書きたいと思います。
「日本人」に生まれた、ということに対して、僕たちは特にどうとも思っていないと思います。「日本人」に生まれてよかった、などという感想は、ニュースなどによって流れる外国の情勢などを見て口に出すことはないけど、本心からそう感じられることは少ないと思います。
本作中にも出てきましたが、そもそも僕たちは「国籍」ということに対してあまりにも無知だろうと思います。法律では、どういう人物が「日本人」なのか、という明確な定義がなされていて、僕等はそんな文章を読まなくても知らなくても自然と「日本人」なわけだけど、正直考えれば考えるほど難しいし複雑だな、と思います。
国籍一つで何が変わる、と言われれば、正直実感を伴った感想は持ちえません。例えば、戸籍を見たら実は僕はロシア国籍でした、とわかっても、じゃあ明日から何か生活が変わるか、と言われればまあ特に変わらないでしょう。
なのに、その国籍のために他の何もかもを見失ってしまう人、というのも悲しいかな少なくなく存在します。「日本人」でありたいと願うこと。それは決して悪いことではないはずですが、「法」の壁は厳しいものがあります。
本作中にとてもいい言葉があります。正確な引用ではないので、こんな内容です、ということを書きます。
「(法は犯しているけど、心情的には助けてやりたいし、実質的な被害者もいないし、それどころか助かっている人がいるというケースについて問われた時の、武本という刑事の返答)法を犯したものを見逃すわけにはいきません。法に触れると分かっているならば、法に触れずになんとかできる手段を探すべきです。その努力を怠っているなら、自分は許しません」
なるほど、と思いました。確かに、「法」の不備を指摘することは簡単です。自分にとってこれは不都合だ、と言っていればいいだけなのですから。そこから一歩進み、「法」を学び、「法」と相容れる形でのあり方を模索する努力をするべきだ、という武本の主張は、胸をうつものがあります。
そろそろ内容にはいります。
まずは主な登場人物について紹介します。本作は、デビュー作「それでも、警官は微笑う」の続編であり、共通の登場人物は二人です。
一人は、元池袋署(確か)にいて、国際組織犯罪特別捜査隊というところに配属され、さらにそこから現在は蒲田署に在籍している武本という刑事である。同じく蒲田署の和田という奇矯な刑事と組み、日々犯罪捜査に勤しんでいる。
武本は、昇進にはまったく興味のなく、早期の事件解決にしか興味はない。部や課毎の軋轢や非協力的な面に憤りを感じているものの、だからといって特に自己主張するでもない。常に最良の部品であろうとする武本は、しかし何故か周囲と相容れない場合が多い。
もう一人は、武本と同じ池袋署(確か)に在籍していた潮崎という元刑事である。では今は何かといえば、無職である。実は、実家があまりにも有名な茶道の家元であり、超をいくつつけても足りないくらいのおぼっちゃんなのである。警察ミステリーにのめり込み刑事になったものの、親や家柄が常について周り、真面目に刑事を志す潮崎は警察の治外法権と言われるようになっていく。武本と追っていたある事件を機に、考えるところがあって一旦刑事を辞め、今度はキャリアとして警察に乗り込むために勉強を続けていた国家公務員試験を突破、来年春からは晴れて警察庁に入庁、という身分である。
明るくお喋りで、武本とは正反対の性格ながら、実は気苦労を重ねてきた人物で、こと家柄に関しては、どうにもならないと諦めているとはいえ、溜息をついてしまうほどだ。武本の父親のモットーである、「やらずに後悔するならやって後悔しろ」を座右の銘に、今回は立場としては民間人ながらも、事件に深く関わっていくことになる。
発端は、蒲田署に直接来たある主婦の訴えだった。隣の建物から、いるはずのない女の子の声が聞こえる、と。テープに録音されたその声を確かに聞いた武本は、和田とともに歯科医師宅を張り込むことに。
そこで目にしたのは、人身売買という悲しい犯罪の姿だった。売られていたのは不法滞在の外国人の子供であり、また幼女を映したポルノビデオの存在も明らかになり、生活安全課や暴力犯係を巻き込んでの捜査を始めることになる。
どこから手をつけていいのかわからない武本に、生活安全課にこの人ありと言われた、あと半年で定年という小菅が、ある人物を紹介してくれた。羽川のぞみというその女性に会いに教えられた場所へ向かうと、そこでは日本人男性、外国人女性、日本人女性の三人の争いが起こっていた。その日本人女性が羽川のぞみだった。
武本は人身売買を始めとする関連した事件の捜査を続けながら、一方で潮崎は、不法滞在の外国人女性の子供の面倒を見ているというのぞみの手伝いをするようになる。
不法滞在という「法」を犯している者がいて、さらにそれを手助けしている者がいる。「法」に照らせば明らかに間違っていることをしているのに、被害者らしき人もいなければ、助かっている人もいる。それでも人は、そして警察官は、犯罪を犯罪として取り締まるべきなのか…
様々な立場の刑事や元刑事が、「法」という存在に対してあらゆる感慨を抱く。その多くは、無力感、という言葉で纏めることができるかもしれない。「法」の限界を、その限界点ギリギリまでも見てしまった男たちの、それでも揺るがすわけにはいかない警察官という立場を再認識する。そんな物語です。
まず本作は、武本という刑事の存在が際立っています。帯には、作家横山秀夫がこう書いています。
「ほかのどのヒーローでもなく、私は「武本」を相棒に選ぶだろう」
武本という男は、実直という言葉を絵に書いたような男で、それは不器用と言い換えても全然間違えではない。わからないことにはわからないというが、自分の決めていることがあるならばそこから揺らぐことはない。本当に揺らがない存在であり、他の誰もがこの事件のどこかに対して揺れ続けているにも関わらず、武本は事件に関してはほとんど揺らぐことがなかった。唯一、潮崎の扱いについて多少揺らいだぐらいだろうか。
揺らがない、というのは、強さでもあり弱さでもあると思う。柔軟さがないというのは、時として命取りであるが、武本という存在は、その欠点を補っても余りある強さを備えている。そう思える。
そして、潮崎という男もかなりいい。できることをやる、という男であり、違法を合法にする手段をひたすらに追い求めるひたむきさは、やはりなかなか見られない稀有な存在だろうと感じた。
日明の作品はどれも、常に何らかの問いかけがなされている。普段普通に生きている分にはさして触れることもない、しかし見逃してはならない、そんな問題に対して、物語という手段を使って、大きなクエスチョンマークを投げかけているのである。
本作でも、様々な問いかけがされた。僕は正直に言って、その一つ一つについて、少しでも説得力のある答えを持たない。これからも、よほどのことがない限り答えが見つかることも、こんなことを言ってはダメだけど、積極的に探す努力もしないだろう。
ただ、投げかけられた疑問については忘れてはならない、とそう思っている。何か答えをみつけだすことはできなくても、覚え意識し考え続けることが大事なこともきっとある。そう思わせてくれる作品でもあります。
別に、問いかけがあるからといって堅い小説ではありません。読む分にはとても面白いエンターテイメントに仕上がっていると思います。皆さんも、ちょっと長いけど本作を読んで、少しでも何か考える姿勢を持ってくれたらな、と偉そうなことを書いてみました。面白い作品なので、是非どうぞ。
日明恩「そして、警官は奔る」
ともかく、言葉尻を捉えるならば、どうも「法」自体そのものが「守られる」べき存在、であるかのような言葉ではないだろうか?
「法」そのものは確かに守られるべき存在かもしれない。それがなければどうなるか。なかった時代も、あってなかったような時代もあったわけで、ここで書くまでもないだろうけど、それは想像に難くない。侵すべきではない、まさに「聖域」と呼ぶべき存在。それが「法」なのかもしれない。
しかし、やはりそれは本末転倒だ、と僕は思う。救うべき存在があってことの「法」の存在であり、まず「法」を、というのは違うのではないか、と思う。
「法の番人」は「法」を守る。それはいいだろう。だとすれば、「法」は、一体どんな存在を守ってくれるのだろうか?
そもそも「法」とは、一体何であって、誰のためのものなのだろうか?
僕が身近で感じることを書いてみようと思う。ものすごく些細なことすぎて恐縮ではあるのだけれども。
世の中には様々な税金が存在する。それらは、ある一定のシステムに、つまりは「法」の存在によって規定され、回収されていく。それは揺るがない。納税は国民の義務である。
しかし、どうにも遠いように僕には感じられてしまうのだ。サラリーマンは源泉徴収で、何でも会社が手続きを受け持ってくれるのだろうけど、フリーターの僕としては、どうにもそれらの手続きを自分でしなければならないらしい。そうしてみて初めて、納税一つとってもシステムが複雑すぎるな、と感じたわけです。
「法」の話をするのにあまり適切な話題ではないかもしれないけど、こういったように、現実的に直接的に国民には関係ない事柄(納税の話で言えば、そこまでの手続きのことについて言っているわけで、納税が不必要だ、とは言っていません)を規定した「法」が存在し、その現実的ではない「法」の存在により、不具合を感じたり、あるいは現実的な正当性を持つ行動が制限されたりする。「法」に縛られている、という状態だ。
「法」の存在を否定するつもりはまったくないけれども、まず「法」ありき、という姿勢には納得がいきません。よく言われることだけれども、もう何十年も前に決められた法律に未だに従っている、というところが驚きです。
ただ、これもまた真実です。つまり、日本に生まれたからには、日本の法律を守らなければいけない、と。どんなに不条理であっても、それは仕方のないことだし、嫌ならばそこから抜け出すことだって不可能ではないのですから。
さてもう一つ。国籍ということについても少し書きたいと思います。
「日本人」に生まれた、ということに対して、僕たちは特にどうとも思っていないと思います。「日本人」に生まれてよかった、などという感想は、ニュースなどによって流れる外国の情勢などを見て口に出すことはないけど、本心からそう感じられることは少ないと思います。
本作中にも出てきましたが、そもそも僕たちは「国籍」ということに対してあまりにも無知だろうと思います。法律では、どういう人物が「日本人」なのか、という明確な定義がなされていて、僕等はそんな文章を読まなくても知らなくても自然と「日本人」なわけだけど、正直考えれば考えるほど難しいし複雑だな、と思います。
国籍一つで何が変わる、と言われれば、正直実感を伴った感想は持ちえません。例えば、戸籍を見たら実は僕はロシア国籍でした、とわかっても、じゃあ明日から何か生活が変わるか、と言われればまあ特に変わらないでしょう。
なのに、その国籍のために他の何もかもを見失ってしまう人、というのも悲しいかな少なくなく存在します。「日本人」でありたいと願うこと。それは決して悪いことではないはずですが、「法」の壁は厳しいものがあります。
本作中にとてもいい言葉があります。正確な引用ではないので、こんな内容です、ということを書きます。
「(法は犯しているけど、心情的には助けてやりたいし、実質的な被害者もいないし、それどころか助かっている人がいるというケースについて問われた時の、武本という刑事の返答)法を犯したものを見逃すわけにはいきません。法に触れると分かっているならば、法に触れずになんとかできる手段を探すべきです。その努力を怠っているなら、自分は許しません」
なるほど、と思いました。確かに、「法」の不備を指摘することは簡単です。自分にとってこれは不都合だ、と言っていればいいだけなのですから。そこから一歩進み、「法」を学び、「法」と相容れる形でのあり方を模索する努力をするべきだ、という武本の主張は、胸をうつものがあります。
そろそろ内容にはいります。
まずは主な登場人物について紹介します。本作は、デビュー作「それでも、警官は微笑う」の続編であり、共通の登場人物は二人です。
一人は、元池袋署(確か)にいて、国際組織犯罪特別捜査隊というところに配属され、さらにそこから現在は蒲田署に在籍している武本という刑事である。同じく蒲田署の和田という奇矯な刑事と組み、日々犯罪捜査に勤しんでいる。
武本は、昇進にはまったく興味のなく、早期の事件解決にしか興味はない。部や課毎の軋轢や非協力的な面に憤りを感じているものの、だからといって特に自己主張するでもない。常に最良の部品であろうとする武本は、しかし何故か周囲と相容れない場合が多い。
もう一人は、武本と同じ池袋署(確か)に在籍していた潮崎という元刑事である。では今は何かといえば、無職である。実は、実家があまりにも有名な茶道の家元であり、超をいくつつけても足りないくらいのおぼっちゃんなのである。警察ミステリーにのめり込み刑事になったものの、親や家柄が常について周り、真面目に刑事を志す潮崎は警察の治外法権と言われるようになっていく。武本と追っていたある事件を機に、考えるところがあって一旦刑事を辞め、今度はキャリアとして警察に乗り込むために勉強を続けていた国家公務員試験を突破、来年春からは晴れて警察庁に入庁、という身分である。
明るくお喋りで、武本とは正反対の性格ながら、実は気苦労を重ねてきた人物で、こと家柄に関しては、どうにもならないと諦めているとはいえ、溜息をついてしまうほどだ。武本の父親のモットーである、「やらずに後悔するならやって後悔しろ」を座右の銘に、今回は立場としては民間人ながらも、事件に深く関わっていくことになる。
発端は、蒲田署に直接来たある主婦の訴えだった。隣の建物から、いるはずのない女の子の声が聞こえる、と。テープに録音されたその声を確かに聞いた武本は、和田とともに歯科医師宅を張り込むことに。
そこで目にしたのは、人身売買という悲しい犯罪の姿だった。売られていたのは不法滞在の外国人の子供であり、また幼女を映したポルノビデオの存在も明らかになり、生活安全課や暴力犯係を巻き込んでの捜査を始めることになる。
どこから手をつけていいのかわからない武本に、生活安全課にこの人ありと言われた、あと半年で定年という小菅が、ある人物を紹介してくれた。羽川のぞみというその女性に会いに教えられた場所へ向かうと、そこでは日本人男性、外国人女性、日本人女性の三人の争いが起こっていた。その日本人女性が羽川のぞみだった。
武本は人身売買を始めとする関連した事件の捜査を続けながら、一方で潮崎は、不法滞在の外国人女性の子供の面倒を見ているというのぞみの手伝いをするようになる。
不法滞在という「法」を犯している者がいて、さらにそれを手助けしている者がいる。「法」に照らせば明らかに間違っていることをしているのに、被害者らしき人もいなければ、助かっている人もいる。それでも人は、そして警察官は、犯罪を犯罪として取り締まるべきなのか…
様々な立場の刑事や元刑事が、「法」という存在に対してあらゆる感慨を抱く。その多くは、無力感、という言葉で纏めることができるかもしれない。「法」の限界を、その限界点ギリギリまでも見てしまった男たちの、それでも揺るがすわけにはいかない警察官という立場を再認識する。そんな物語です。
まず本作は、武本という刑事の存在が際立っています。帯には、作家横山秀夫がこう書いています。
「ほかのどのヒーローでもなく、私は「武本」を相棒に選ぶだろう」
武本という男は、実直という言葉を絵に書いたような男で、それは不器用と言い換えても全然間違えではない。わからないことにはわからないというが、自分の決めていることがあるならばそこから揺らぐことはない。本当に揺らがない存在であり、他の誰もがこの事件のどこかに対して揺れ続けているにも関わらず、武本は事件に関してはほとんど揺らぐことがなかった。唯一、潮崎の扱いについて多少揺らいだぐらいだろうか。
揺らがない、というのは、強さでもあり弱さでもあると思う。柔軟さがないというのは、時として命取りであるが、武本という存在は、その欠点を補っても余りある強さを備えている。そう思える。
そして、潮崎という男もかなりいい。できることをやる、という男であり、違法を合法にする手段をひたすらに追い求めるひたむきさは、やはりなかなか見られない稀有な存在だろうと感じた。
日明の作品はどれも、常に何らかの問いかけがなされている。普段普通に生きている分にはさして触れることもない、しかし見逃してはならない、そんな問題に対して、物語という手段を使って、大きなクエスチョンマークを投げかけているのである。
本作でも、様々な問いかけがされた。僕は正直に言って、その一つ一つについて、少しでも説得力のある答えを持たない。これからも、よほどのことがない限り答えが見つかることも、こんなことを言ってはダメだけど、積極的に探す努力もしないだろう。
ただ、投げかけられた疑問については忘れてはならない、とそう思っている。何か答えをみつけだすことはできなくても、覚え意識し考え続けることが大事なこともきっとある。そう思わせてくれる作品でもあります。
別に、問いかけがあるからといって堅い小説ではありません。読む分にはとても面白いエンターテイメントに仕上がっていると思います。皆さんも、ちょっと長いけど本作を読んで、少しでも何か考える姿勢を持ってくれたらな、と偉そうなことを書いてみました。面白い作品なので、是非どうぞ。
日明恩「そして、警官は奔る」
遠い太鼓(村上春樹)
旅行というのは、僕にとってなかなか苦手なものだ。
誰かといく旅行、というのはまあいい。その場合僕にとっては、「どこに行くか」よりも「何をするか」よりも、「誰と行くか」という点が重要になる。それは一緒に行く人にもよるけども、楽しいし結構好きなものである。
ただ、誰かと一緒に行くような場合でも、旅行の本質とでも言うべき、どこかに訪れ何かをしたり見たりする、という行為が、僕にはとても苦手だ。僕には、「誰かとどこかで何かをする」ということに楽しみを見出せるけど、「そこに行かなければ見たり経験したりできないものに触れる」ということには、特に興味がなかったりする。
言うまでもなく、一人で行く旅行、なんてのも僕にはほぼ不可能に近い。よくバックパックなんて言葉もあるし、前にバイトしていたファミレスに、バイトしまくって溜めたお金で東南アジア的な物価の安い地域をバックパックで旅行する、なんていう女性がいたりもしたけど、でも僕には何が楽しいのか理解できない。
普通の観光で数日外国に行く、なんていう場合、やはり人は予定を目一杯詰め込みたくなるものなのだろう。昔読んだこち亀の中に、ヨーロッパ旅行のシリーズが確かあって、そこでは予定を詰め込みすぎて、美術館のモナリザを1秒しか見れなかったり、土産を買うのに時間制限があったりしていたけど、まあそこまで大げさではないにしろ、僕にとって数日間の旅行というのは、そういう慌しい印象がある。
もちろん、外国に行ったこともないし、国内に限ってもたいした旅行をしたことはないけれども、やはり疑問を抱く。
果たしてそんなものが楽しいのだろうか。
そもそも僕には、普通の人が持つ欲、というのがかなりない。美味しいものを食べたいだとか、豪華な宿に泊まりたいだとか、有名な場所を写真に撮りたいだとか、世界中の人と触れ合いたいだとか、とにかくそうしたもろもろのことに、特別興味はない。人があっての旅行なら楽しめるが、旅行そのものが目的の旅行はダメである。
僕は、旅行の本来の目的は、某かの変化を見ることにあるのではないかと思っている。普段僕等が旅行だと思っているものでは、今現在その瞬間にある世界の姿しか見ることはない。そこには何の変化もなく、たったの一瞬の一面しか覗くことなく終わってしまう。そこにしばらく滞在し、日々の変化や動きを見定めること。異国での生活に、そこでの生活の「日常」を見つけ出すこと。それこそが、旅行の醍醐味であり、面白さではないか、と思う。もちろん、普通の人になかなかそんなことできるわけがない、というのもまた事実だと思うけれども。
さて、本作は、作家村上春樹が妻と共に、ある一定期間日本を離れヨーロッパで生活をしていた頃の旅行記である。
と紹介してみるけれども、どうにも語弊があるだろう。本作は、旅行記として書かれているのだけれども、内容的にはそんな感じがしない。確かに、村上春樹自身の旅行の話が描かれているし、実際に経験したことを元に書かれているはずだろうけど、でも旅行記という言葉の印象からはかけ離れた印象を僕は抱いた。正確にどうとはいえないけど、でも本当に、自分を主人公にした小説を書き上げたのではないか、というような疑問を抱いてしまうような、そんな作品だった。決して悪いと言っているわけではなく、寧ろ作品自体はとてもよかった。
時期としては、1986年から1989年までの三年間の話である。その間ずっとヨーロッパにいたというわけではなく、仕事のために時折日本に帰ることもあったが、でもほとんどの期間をヨーロッパで過ごしたことになる。
時代としては、僕は正確には知らないから本作に書かれていたことを書き連ねるが、三浦和義や田中角栄や宮崎勤や大韓航空機や、まあ日本ではそういった感じの時期だったようだ。
村上春樹自身は、この期間に37歳から40歳になった。ヨーロッパ滞在中に「ノルウェイの森」と「ダンス・ダンス・ダンス」という二本の長編を仕上げた、そんな時期でもある。
僕は今まで村上春樹の小説を読んできて、まったく理解できなかったり、少しは理解できたり共感できたり、とそんな感じだけれども、どの作品も普通じゃないな、という印象を常に持っていた。それはまあ誰だって同じだろうと思う。だから、作者はどんな人間なんだろう、と思うこともよくあった。ただ、顔写真もほとんど載ってないし、略歴も少ない。本人によるHPもないし、作品には解説がない。つまり、村上春樹という存在を少しでも感じさせる要素がことごとく排除されていたのである。確かにそれで、村上春樹の神秘性というものは高まったかもしれないけれども、とてもとても遠い存在のように思えてしまう。
しかし、本作でなんだかそれがすっきりする。あくまでも本作が村上春樹自身による小説ではないと仮定して(僕は実は結構疑り深い)、さらにれっきとした旅行記であるにしても村上春樹がその思考や生活を出来る限り忠実に文章にしたものと仮定して(ここまでくるとうざい)ではあるが、本作はもう見事に村上春樹という存在が浮き上がっている。普段、作品からはまったく感じることのできない著者の存在を軽やかに感じることができる。どんなことに対してどう感じ、どんなことを普段考え、彼にとっての日常がどう過ぎていくのか。そうしたことがよくわかる作品になっている。
その作品の不可思議さに反して、村上春樹は至って普通の人物である。平均的な日本人かどうかはわからないけど(というのも、後に書くつもりだけど、ヨーロッパの様々な国の人の描写を見ていると、余りにも様々な個性的な人々が出てきて、その人々と比較するしかないので、村上春樹が日本人の中でどのくらいか、という判断がなかなか難しい)、少なくとも僕にも理解の及ぶ人格だし存在だ、という風に感じました。
文章については、本当に村上春樹的だな、という感じです。もうこればかりは、村上春樹の紡ぎだす小説の文体、世界観、印象から抜け出すことはできません。村上春樹の翻訳した外国作品というのを読んだことはないけど、それもきっと同じような印象を、つまり村上春樹の作品であるかのような錯覚を抱くのだろうな、という気がします。
村上春樹の文章は、村上春樹の文章から抜け出していません。これはある意味ですごいことなのではないか、と思います。どんな文章を書いても村上春樹的になるということは、小説を書くときでさえ、自然体の文章で作品が成立する、ということだから。あるいはもしかすると、作家になった時点で、書く文章全て村上春樹的になるように常に意識しているのかもしれないけど。どちらにしてもすごいことだと思います。
さて本作は旅行記なわけで、当然様々な国の話(大別するとイタリア・ギリシャ)が出てくるわけだけれども、本作を読んで、絶対に関わりたくない、と思う国が一つできました。それがイタリアです。
もちろん本作は20年近く前の描写であり、今は大幅に変わっているのかもしれないけど、本作を読む限りにおいてはそんな期待は無駄ではないか、と思えてきます。
イタリアという国は、ローマを初めとする歴史ある都市をいくつも抱えているけれども、その国民性は目にあまるものがあります。食事と女と休暇のことしか考えていなく、家族以外の他人に何が起こっても見てみぬ振り、役所がまったく機能せず、アンダーグラウンドが勢力を持ち、生きるのにかなりサバイバルな、イタリアという国はそんな国のようです。
印象的な話が三つほどありました。駐車場がまったくないローマという都市での路上駐車のひどさ、遅れて届いたりまったく届かなかったりするイタリアの郵便事情のひどさ、ちょっと気を抜くとひったくりに会う治安の悪さ。どれも、人ごとだと思っていられるうちはもう抱腹絶倒の話です。イタリアという国がここまでひどい国だとは知らなかったし、イタリアとは絶対に関わりたくない、と心底思いました。
とにかく、イタリアだけでなく色々な国の人間の国民性が、エピソードを元にしっかりと描かれていて、とても面白いです。
この旅行記には、有名な遺跡だの有名なホテルだの、そんなものはでてきません。オペラや劇場やコンサートやそういう話は出てくるけど、基本的にはあらゆる街のどこのガイドブックにも載ってないような素晴らしい旅館やレストランや、あるいは美術館や島など、そうしたものが沢山載っています。当初は一つの家にずっといる計画だったらしいのだけれども、三年間それはもういろいろあってヨーロッパを放浪するはめになって、それだからこそ生まれた素晴らしい旅行記だと言えるでしょう。
村上春樹の作品が好きな人には、著者の顔が見える作品として、村上春樹なんて知らないという人には普通以上に面白い旅行記として楽しめると思います。特に後者の人は、本作を読んだらきっと、村上春樹の作品の一つを、「ノルウェイの森」か「ダンス・ダンス・ダンス」でも読みたくなるかもしれません。とにかく、ただの旅行記と思って侮るなかれ、かなり面白い作品なので是非読んでみて欲しいと思います。
村上春樹「遠い太鼓」
誰かといく旅行、というのはまあいい。その場合僕にとっては、「どこに行くか」よりも「何をするか」よりも、「誰と行くか」という点が重要になる。それは一緒に行く人にもよるけども、楽しいし結構好きなものである。
ただ、誰かと一緒に行くような場合でも、旅行の本質とでも言うべき、どこかに訪れ何かをしたり見たりする、という行為が、僕にはとても苦手だ。僕には、「誰かとどこかで何かをする」ということに楽しみを見出せるけど、「そこに行かなければ見たり経験したりできないものに触れる」ということには、特に興味がなかったりする。
言うまでもなく、一人で行く旅行、なんてのも僕にはほぼ不可能に近い。よくバックパックなんて言葉もあるし、前にバイトしていたファミレスに、バイトしまくって溜めたお金で東南アジア的な物価の安い地域をバックパックで旅行する、なんていう女性がいたりもしたけど、でも僕には何が楽しいのか理解できない。
普通の観光で数日外国に行く、なんていう場合、やはり人は予定を目一杯詰め込みたくなるものなのだろう。昔読んだこち亀の中に、ヨーロッパ旅行のシリーズが確かあって、そこでは予定を詰め込みすぎて、美術館のモナリザを1秒しか見れなかったり、土産を買うのに時間制限があったりしていたけど、まあそこまで大げさではないにしろ、僕にとって数日間の旅行というのは、そういう慌しい印象がある。
もちろん、外国に行ったこともないし、国内に限ってもたいした旅行をしたことはないけれども、やはり疑問を抱く。
果たしてそんなものが楽しいのだろうか。
そもそも僕には、普通の人が持つ欲、というのがかなりない。美味しいものを食べたいだとか、豪華な宿に泊まりたいだとか、有名な場所を写真に撮りたいだとか、世界中の人と触れ合いたいだとか、とにかくそうしたもろもろのことに、特別興味はない。人があっての旅行なら楽しめるが、旅行そのものが目的の旅行はダメである。
僕は、旅行の本来の目的は、某かの変化を見ることにあるのではないかと思っている。普段僕等が旅行だと思っているものでは、今現在その瞬間にある世界の姿しか見ることはない。そこには何の変化もなく、たったの一瞬の一面しか覗くことなく終わってしまう。そこにしばらく滞在し、日々の変化や動きを見定めること。異国での生活に、そこでの生活の「日常」を見つけ出すこと。それこそが、旅行の醍醐味であり、面白さではないか、と思う。もちろん、普通の人になかなかそんなことできるわけがない、というのもまた事実だと思うけれども。
さて、本作は、作家村上春樹が妻と共に、ある一定期間日本を離れヨーロッパで生活をしていた頃の旅行記である。
と紹介してみるけれども、どうにも語弊があるだろう。本作は、旅行記として書かれているのだけれども、内容的にはそんな感じがしない。確かに、村上春樹自身の旅行の話が描かれているし、実際に経験したことを元に書かれているはずだろうけど、でも旅行記という言葉の印象からはかけ離れた印象を僕は抱いた。正確にどうとはいえないけど、でも本当に、自分を主人公にした小説を書き上げたのではないか、というような疑問を抱いてしまうような、そんな作品だった。決して悪いと言っているわけではなく、寧ろ作品自体はとてもよかった。
時期としては、1986年から1989年までの三年間の話である。その間ずっとヨーロッパにいたというわけではなく、仕事のために時折日本に帰ることもあったが、でもほとんどの期間をヨーロッパで過ごしたことになる。
時代としては、僕は正確には知らないから本作に書かれていたことを書き連ねるが、三浦和義や田中角栄や宮崎勤や大韓航空機や、まあ日本ではそういった感じの時期だったようだ。
村上春樹自身は、この期間に37歳から40歳になった。ヨーロッパ滞在中に「ノルウェイの森」と「ダンス・ダンス・ダンス」という二本の長編を仕上げた、そんな時期でもある。
僕は今まで村上春樹の小説を読んできて、まったく理解できなかったり、少しは理解できたり共感できたり、とそんな感じだけれども、どの作品も普通じゃないな、という印象を常に持っていた。それはまあ誰だって同じだろうと思う。だから、作者はどんな人間なんだろう、と思うこともよくあった。ただ、顔写真もほとんど載ってないし、略歴も少ない。本人によるHPもないし、作品には解説がない。つまり、村上春樹という存在を少しでも感じさせる要素がことごとく排除されていたのである。確かにそれで、村上春樹の神秘性というものは高まったかもしれないけれども、とてもとても遠い存在のように思えてしまう。
しかし、本作でなんだかそれがすっきりする。あくまでも本作が村上春樹自身による小説ではないと仮定して(僕は実は結構疑り深い)、さらにれっきとした旅行記であるにしても村上春樹がその思考や生活を出来る限り忠実に文章にしたものと仮定して(ここまでくるとうざい)ではあるが、本作はもう見事に村上春樹という存在が浮き上がっている。普段、作品からはまったく感じることのできない著者の存在を軽やかに感じることができる。どんなことに対してどう感じ、どんなことを普段考え、彼にとっての日常がどう過ぎていくのか。そうしたことがよくわかる作品になっている。
その作品の不可思議さに反して、村上春樹は至って普通の人物である。平均的な日本人かどうかはわからないけど(というのも、後に書くつもりだけど、ヨーロッパの様々な国の人の描写を見ていると、余りにも様々な個性的な人々が出てきて、その人々と比較するしかないので、村上春樹が日本人の中でどのくらいか、という判断がなかなか難しい)、少なくとも僕にも理解の及ぶ人格だし存在だ、という風に感じました。
文章については、本当に村上春樹的だな、という感じです。もうこればかりは、村上春樹の紡ぎだす小説の文体、世界観、印象から抜け出すことはできません。村上春樹の翻訳した外国作品というのを読んだことはないけど、それもきっと同じような印象を、つまり村上春樹の作品であるかのような錯覚を抱くのだろうな、という気がします。
村上春樹の文章は、村上春樹の文章から抜け出していません。これはある意味ですごいことなのではないか、と思います。どんな文章を書いても村上春樹的になるということは、小説を書くときでさえ、自然体の文章で作品が成立する、ということだから。あるいはもしかすると、作家になった時点で、書く文章全て村上春樹的になるように常に意識しているのかもしれないけど。どちらにしてもすごいことだと思います。
さて本作は旅行記なわけで、当然様々な国の話(大別するとイタリア・ギリシャ)が出てくるわけだけれども、本作を読んで、絶対に関わりたくない、と思う国が一つできました。それがイタリアです。
もちろん本作は20年近く前の描写であり、今は大幅に変わっているのかもしれないけど、本作を読む限りにおいてはそんな期待は無駄ではないか、と思えてきます。
イタリアという国は、ローマを初めとする歴史ある都市をいくつも抱えているけれども、その国民性は目にあまるものがあります。食事と女と休暇のことしか考えていなく、家族以外の他人に何が起こっても見てみぬ振り、役所がまったく機能せず、アンダーグラウンドが勢力を持ち、生きるのにかなりサバイバルな、イタリアという国はそんな国のようです。
印象的な話が三つほどありました。駐車場がまったくないローマという都市での路上駐車のひどさ、遅れて届いたりまったく届かなかったりするイタリアの郵便事情のひどさ、ちょっと気を抜くとひったくりに会う治安の悪さ。どれも、人ごとだと思っていられるうちはもう抱腹絶倒の話です。イタリアという国がここまでひどい国だとは知らなかったし、イタリアとは絶対に関わりたくない、と心底思いました。
とにかく、イタリアだけでなく色々な国の人間の国民性が、エピソードを元にしっかりと描かれていて、とても面白いです。
この旅行記には、有名な遺跡だの有名なホテルだの、そんなものはでてきません。オペラや劇場やコンサートやそういう話は出てくるけど、基本的にはあらゆる街のどこのガイドブックにも載ってないような素晴らしい旅館やレストランや、あるいは美術館や島など、そうしたものが沢山載っています。当初は一つの家にずっといる計画だったらしいのだけれども、三年間それはもういろいろあってヨーロッパを放浪するはめになって、それだからこそ生まれた素晴らしい旅行記だと言えるでしょう。
村上春樹の作品が好きな人には、著者の顔が見える作品として、村上春樹なんて知らないという人には普通以上に面白い旅行記として楽しめると思います。特に後者の人は、本作を読んだらきっと、村上春樹の作品の一つを、「ノルウェイの森」か「ダンス・ダンス・ダンス」でも読みたくなるかもしれません。とにかく、ただの旅行記と思って侮るなかれ、かなり面白い作品なので是非読んでみて欲しいと思います。
村上春樹「遠い太鼓」
人間は考えるFになる(森博嗣×土屋賢二)
学問というのは、大まかに分けて二種類ある。文系と理系だ。
僕は、完全に理系の人間である。とにかく、文系科目は大の苦手で大嫌いだった。歴史の年号だの人物だのを覚えるのも、現代国語で一つに決まるはずのない解答を無理矢理に追い回したり、古文や漢文の意味不明な漢字や文字の並びを眺めたり、もうとにかくそういった全てのことが僕には理解不能で意味不明で、まったく面白くなかったし、なんでそんな教科が存在するのか理解できないような、そんな人間だった。考えてみれば、現代国語なんて、本嫌いにさせる最大の関門ではないかとすら僕には思えてしまう。まあ僕は本を読んでいたけど。
変わって理系科目はもう大好きだった。まず何が素晴らしいって、答えが一つ決まる、というところだった。もちろん、最先端の分野の研究ではその一つに決まるはずの答えを見つけることが大変なわけだし、数学では答えが一つに決まらないことが証明された問題も確かあったような気がするので、一概には言えないけど、しかし学生のレベルや、あるいは日常生活のレベルでは、理系科目で答えが一つに決まらないことなんかありえないし、そこに至るまでの論理性や整合性にとてつもなく惹かれたものでした。今では、数学や物理そのものには触れないけど、そこで学んだ考え方は、後々に随分と役に立っている、という風に感じます。
しかし、突き詰めて考えれば、学問というのは一つのもので、皆結局は同じ事をしているのだということがわかります。到達点までに敷く道筋にかなりの差があるだけで、その道をどう歩くかとか、どんな障害があるかとか、結局そんなところはどれも同じなはずだな、と思う。
本作を読んで、よりその印象は強まった気がします。
哲学、という分野があります。僕の中では、文系の最たる極地だと思うし、全然関わりすらなかった分野なわけです。
哲学って一体なんだろうか?僕はそのところからよくわかりません。アリストテレスの有名なパラドックスも、「人間は考える葦である」や「我思う、故に我あり」という言葉は知ってますし、名前を聞けば分かる先達の哲学者というのも何人かいるだろうけど、それでも一体何をしているのか、全然わかりません。
何かを考えているんだろうな、というあまりに漠然とした印象はあります。もっと言えば、考えることのみによって何かを導き出す、というスタンスでしょう。そこがまず他の学問にはない点だろうし、だからこそのわかりにくさなのだと思います。
昔テレビ番組で、「お厚いのがお好き?」というのがあって、昔の文学や哲学なんかをわかりやすく紹介する、といった内容だったわけだけれども、そこでも何度も哲学関係の話題が取り上げられていました。今では何が取り上げられていたのかすら思い出せませんが、なかなか面白かった印象があります。
到達点がかなり分かりにくい分野で、実際的にも役に立ちそうもない哲学とい学問ですけど、少しは興味があるし、本作を読んでさらにほんの少しだけ興味を持つことができたような気がします。
さて、本作は名古屋大学工学部助教授にして作家の森博嗣と、御茶ノ水大学教授にしてエッセイストの土屋賢二の対談集です。二人が、大学・私生活・執筆業・人間関係・常識・専門分野・趣味・社会などのテーマについて、自由にやり取りを交わす、というスタイルになっています。
二人とも考え方がかなり変わっていて、極端です。文系の極地と理系の極地の対談なので、その違いなんかもかなり楽しく読めます。特にやはり森博嗣の考え方は最強に変わっていて、そんな人間が存在しうるのか、と驚愕してしまいます。
その驚愕したポイントを何点か。まず小説の書き方についてで、これは様々なところで書いたり言ったりしているようで僕も知っていたけど、森博嗣は書き始めるまでトリックも設定も何もないのだそうです。とりあえず文章を書き始める。書いてから、流れに沿って人物が増えたり人間関係が決まったり事件が決まったり事件が解決されたりする、らしい。それでいて、シリーズを通じた伏線なんかも見事で、やはり森博嗣は驚愕だな、と思います。
また、知識がかなりない、という点も明かされます。漢字については、読めても書けないものが多いようで(そもそもやはり、国語の授業というのが大嫌いだったらしい)、パソコンのお陰でなんとかなっている、と。また、「スーツ」がなんなのかわからなかったらしく、上下同じ布で出来たものがスーツだ、と説明されると、本当に知らなかった、と返します。森博嗣の小説を読んでいると、語彙もあるし、何でも知っているような印象を受けるのだけれども、見事に読者を欺いているのだな、と思いました。
対談自体は軽く読めるし、森博嗣や土屋賢二の著作を呼んでいなくても(実際僕は土屋賢二の著作を読んだことはない)、全然楽しめます。内容もしっかりしているので、特に森博嗣を知らない人に是非読んで欲しいな、と思います。
また本作には、それぞれが短編小説を一本ずつ書いています。土屋賢二は小説処女作のようです。それぞれ内容を説明しましょう。
土屋賢二「消えたボールペンの謎」
O大学に勤める教授は、ある日授業で一本のボールペンの価値について話していた。「パーカーの限定品で、100万円の価値がある」という内容だ。そして同じ日に、その件のボールペンがなくなった。まるで論理的でない推論と、その推論に基づいた議論や尋問によりボールペンの所在を見つけ出そうとする教授の物語。
哲学、というものがどういうものかわからないけど、こういうものなのかな、という漠然とした印象を抱ける作品になっています。とにかく、恐らく哲学的な考え方が背景にあるだろう会話や描写がかなりあって、それは結構楽しめました。話自体はそれほどでもないけど、でもまあ小説処女作なわけで、大目に見ていいのではないかと思います。
森博嗣「そこに論点があるか、あるいは何もないか」
会話文だけによる作品です。森・土屋に加え、編集者である唐木・栗城・森澤の三人での対談、という形態をとっています。編集者の三人がテーマを出し、森・土屋の両名がそれに答える、という内容です。
しかしいつもながらに森博嗣は侮れません。全然侮れません。なるほどです。かなり短いですが、さすが森博嗣、という内容になっています。
一冊の本として、結構悪くはないと思います。僕としては、森博嗣の小説作品にまずは手を出してほしいと思うので、気が向けば読んでください、という感じです。
森博嗣×土屋賢二「人間は考えるFになる」
僕は、完全に理系の人間である。とにかく、文系科目は大の苦手で大嫌いだった。歴史の年号だの人物だのを覚えるのも、現代国語で一つに決まるはずのない解答を無理矢理に追い回したり、古文や漢文の意味不明な漢字や文字の並びを眺めたり、もうとにかくそういった全てのことが僕には理解不能で意味不明で、まったく面白くなかったし、なんでそんな教科が存在するのか理解できないような、そんな人間だった。考えてみれば、現代国語なんて、本嫌いにさせる最大の関門ではないかとすら僕には思えてしまう。まあ僕は本を読んでいたけど。
変わって理系科目はもう大好きだった。まず何が素晴らしいって、答えが一つ決まる、というところだった。もちろん、最先端の分野の研究ではその一つに決まるはずの答えを見つけることが大変なわけだし、数学では答えが一つに決まらないことが証明された問題も確かあったような気がするので、一概には言えないけど、しかし学生のレベルや、あるいは日常生活のレベルでは、理系科目で答えが一つに決まらないことなんかありえないし、そこに至るまでの論理性や整合性にとてつもなく惹かれたものでした。今では、数学や物理そのものには触れないけど、そこで学んだ考え方は、後々に随分と役に立っている、という風に感じます。
しかし、突き詰めて考えれば、学問というのは一つのもので、皆結局は同じ事をしているのだということがわかります。到達点までに敷く道筋にかなりの差があるだけで、その道をどう歩くかとか、どんな障害があるかとか、結局そんなところはどれも同じなはずだな、と思う。
本作を読んで、よりその印象は強まった気がします。
哲学、という分野があります。僕の中では、文系の最たる極地だと思うし、全然関わりすらなかった分野なわけです。
哲学って一体なんだろうか?僕はそのところからよくわかりません。アリストテレスの有名なパラドックスも、「人間は考える葦である」や「我思う、故に我あり」という言葉は知ってますし、名前を聞けば分かる先達の哲学者というのも何人かいるだろうけど、それでも一体何をしているのか、全然わかりません。
何かを考えているんだろうな、というあまりに漠然とした印象はあります。もっと言えば、考えることのみによって何かを導き出す、というスタンスでしょう。そこがまず他の学問にはない点だろうし、だからこそのわかりにくさなのだと思います。
昔テレビ番組で、「お厚いのがお好き?」というのがあって、昔の文学や哲学なんかをわかりやすく紹介する、といった内容だったわけだけれども、そこでも何度も哲学関係の話題が取り上げられていました。今では何が取り上げられていたのかすら思い出せませんが、なかなか面白かった印象があります。
到達点がかなり分かりにくい分野で、実際的にも役に立ちそうもない哲学とい学問ですけど、少しは興味があるし、本作を読んでさらにほんの少しだけ興味を持つことができたような気がします。
さて、本作は名古屋大学工学部助教授にして作家の森博嗣と、御茶ノ水大学教授にしてエッセイストの土屋賢二の対談集です。二人が、大学・私生活・執筆業・人間関係・常識・専門分野・趣味・社会などのテーマについて、自由にやり取りを交わす、というスタイルになっています。
二人とも考え方がかなり変わっていて、極端です。文系の極地と理系の極地の対談なので、その違いなんかもかなり楽しく読めます。特にやはり森博嗣の考え方は最強に変わっていて、そんな人間が存在しうるのか、と驚愕してしまいます。
その驚愕したポイントを何点か。まず小説の書き方についてで、これは様々なところで書いたり言ったりしているようで僕も知っていたけど、森博嗣は書き始めるまでトリックも設定も何もないのだそうです。とりあえず文章を書き始める。書いてから、流れに沿って人物が増えたり人間関係が決まったり事件が決まったり事件が解決されたりする、らしい。それでいて、シリーズを通じた伏線なんかも見事で、やはり森博嗣は驚愕だな、と思います。
また、知識がかなりない、という点も明かされます。漢字については、読めても書けないものが多いようで(そもそもやはり、国語の授業というのが大嫌いだったらしい)、パソコンのお陰でなんとかなっている、と。また、「スーツ」がなんなのかわからなかったらしく、上下同じ布で出来たものがスーツだ、と説明されると、本当に知らなかった、と返します。森博嗣の小説を読んでいると、語彙もあるし、何でも知っているような印象を受けるのだけれども、見事に読者を欺いているのだな、と思いました。
対談自体は軽く読めるし、森博嗣や土屋賢二の著作を呼んでいなくても(実際僕は土屋賢二の著作を読んだことはない)、全然楽しめます。内容もしっかりしているので、特に森博嗣を知らない人に是非読んで欲しいな、と思います。
また本作には、それぞれが短編小説を一本ずつ書いています。土屋賢二は小説処女作のようです。それぞれ内容を説明しましょう。
土屋賢二「消えたボールペンの謎」
O大学に勤める教授は、ある日授業で一本のボールペンの価値について話していた。「パーカーの限定品で、100万円の価値がある」という内容だ。そして同じ日に、その件のボールペンがなくなった。まるで論理的でない推論と、その推論に基づいた議論や尋問によりボールペンの所在を見つけ出そうとする教授の物語。
哲学、というものがどういうものかわからないけど、こういうものなのかな、という漠然とした印象を抱ける作品になっています。とにかく、恐らく哲学的な考え方が背景にあるだろう会話や描写がかなりあって、それは結構楽しめました。話自体はそれほどでもないけど、でもまあ小説処女作なわけで、大目に見ていいのではないかと思います。
森博嗣「そこに論点があるか、あるいは何もないか」
会話文だけによる作品です。森・土屋に加え、編集者である唐木・栗城・森澤の三人での対談、という形態をとっています。編集者の三人がテーマを出し、森・土屋の両名がそれに答える、という内容です。
しかしいつもながらに森博嗣は侮れません。全然侮れません。なるほどです。かなり短いですが、さすが森博嗣、という内容になっています。
一冊の本として、結構悪くはないと思います。僕としては、森博嗣の小説作品にまずは手を出してほしいと思うので、気が向けば読んでください、という感じです。
森博嗣×土屋賢二「人間は考えるFになる」
蛇にピアス(金原ひとみ)
人間、壊れるのは結構簡単だ。というか、その境は一瞬でしかないと思う。自分が壊れていない世界から、自分が壊れている世界への移行。それは、寄りかかっていた壁が突然なくなってしまうような、それぐらいの気軽さで瞬時になされるはずだ。
視覚的に見る限りでは、人間は緩やかに、カーブでも描くかのようにゆったりと変化しているように見える。小さな音を立てて破片が零れ落ちるような、そんな緩やかな変化にしか見えない。
しかし、方向が決まるのは常に一瞬だ。何かのきっかけに、秤がどちらかに傾くようにすばやく、どこに向かうべきか方向が決まる。決まってしまえば、例え視覚的な変化が緩やかでも、それは不可逆で、誰にも止められない。
壊れることと、恋することは似ているような気がする。表と裏、という関係になるのかもしれない。
将棋についてわかる人は将棋盤を思い浮かべてほしい。将棋というのは、駒を一番初めに配置した時が防御が完璧だ、と言われる。その状態から一駒も動かさなければ、防御は強い。しかし、それでは相手に攻め入ることはできない。自分の陣地の防御を弱めながら、相手の陣地へと攻め入っていく。それが将棋である。
崩壊と恋の関係は、この将棋に似ているような気がする。恋をしていない状態では、人間という存在は完璧だ。ある意味で隙がない。ただ、恋をするとその完璧な自分という存在を突き崩さなければならなくなる。相手に攻め入るために、そして相手を誘い込むために。そうして、自分という存在は壊れていく。
なんだかそんな気がする。
だから、恋をすれば壊れる。人間が変わる。何かを失う。得られるのは、配置の変わった自分の陣地と、奪った相手の駒と、攻め入った相手の陣地。そこに釣り合いを見出せる人は、恋に積極的だし、つまりは自分を壊すことに積極的だ。
僕はどうかと考える。僕は、将棋という盤上では自分を壊さない。僕は、盤上以外の場所でいつも壊れ続けていて、変わり続けている。盤上で壊れているだけの余裕がない。
自分を壊そうとしないまま、恋だけはしようとしている。それが僕の形。だから、どこかで何かが破綻する。そうなのかもしれない。
将棋の優れた点は、奪った駒を再度使うことが出来るという点だ。展開される駒の配置は無限大だ。可能性が無限だというのは、何にしてもいい。
奪った駒を、自分という存在を立て直すのに使うか、あるいは相手を攻め入るのに使うか。そこも人によって違うだろう。僕はきっと、自分を立て直すのに使っているのだろうな。
ルイはパンクなアマと出会った。舌を蛇のように二股にした男。髪は赤で刺青のある男。ルイは、アマにというよりもその舌に惚れて、アマと一緒に住むようになる。自分も舌を二股にしようとする。
堀り師でピアスもあけるシバさんと出会う。アマの知り合い。舌にピアスをしてもらって、それから刺青の相談にも乗ってもらう。
アマはルイを愛している。見た目はパンクだけど中身はへなちょこの子ども。なんだか付き合っているわけじゃないけどSEXはするし一緒に住んでいるしいつも一緒にいる。アマは嫉妬深い。
絡まれたルイを助けようとして、アマは人を殴る。歯を抜く。
新聞に載った殺人の記事に、ルイは怖くなる。
ルイという女を軸に、アマとシバさんの二人の男がいる。いろいろに恋の方向があり、ルイはしっかり壊れていく。ピアスとか刺青とかの痛みなんか忘れちゃうくらい、なんだか痛い。
そんな感じの話です。
本作は、綿矢りさの「蹴りたい背中」と同時に芥川賞を受賞し、受賞当時の年齢も若かったことからかなり評判になった作品で、タイトルぐらい知っている人も多いと思うけど、でも「蹴りたい背中」と比べてしまうと明らかに見劣りする。というか、本作を読むと、無意識のうちに比較してしまうのだろう、綿矢りさの文章や世界がどれだけ見事なものかわかる。同時に芥川賞を受賞したとは思えない作品だ。作品自体は決して悪いというわけではないのだが、レベルが遥かに違うように感じる。
文章的には、特に目立った特長があるわけではない。その年代にしてもまあ普通の文章で綴られている。表現の面白さ、ということも特にない。
ただ、暴力的な表現や流れがうまくできている気がする。外面的というか、直接的な暴力にはあまり接点のない生活をしているので、感じ方として正確なのかはわからないけど、暴力的な激しさや虚しさや痛さというのは、さりげない表現から結構伝わってきたかな、という感じです。
ストーリー自体は、恋愛小説が苦手なためかそこまで入り込めないものだけど、悪くはないように思います。どこがどう、という風になかなか言えないのだけれども。
個人的には、ルイのような女性は好きではありません。どこにも繋がれていない室外犬のような自由さを持っているように見えて、実は深いところでどこかに縛られていて、霧が晴れていくように世界が本当の姿を見せたときに戸惑ってしまうような感じがして、その自由に見える不自由さがどうにも受け入れがたいような気がします。壊れ方も、どうも美しくない気がします。
また、アマのような男も苦手だったりします。肉体的にも精神的にも束縛を要求するようなそんな男は嫌いだし、絶対になりたくない、と思います。僕にとって、束縛というのは最も嫌悪する状態だし言葉です。
一番いいのはシバさんですかね。かなりハードなSだけど、一番ちゃんとしているような気がします。もちろん、全然ちゃんとしてないんだけど、ちゃんとしているように見える、という点は結構重要だったりします。
そんな感じです。本当はもっとちゃんと感想を書こうと思うのだけど、連ちゃんで二つ感想を書いているし、眠いのでこの辺にしておきます。お手軽な値段で古本屋にあれば、まあ手を出してもいいのでは?という感じの小説です。
金原ひとみ「蛇にピアス」
視覚的に見る限りでは、人間は緩やかに、カーブでも描くかのようにゆったりと変化しているように見える。小さな音を立てて破片が零れ落ちるような、そんな緩やかな変化にしか見えない。
しかし、方向が決まるのは常に一瞬だ。何かのきっかけに、秤がどちらかに傾くようにすばやく、どこに向かうべきか方向が決まる。決まってしまえば、例え視覚的な変化が緩やかでも、それは不可逆で、誰にも止められない。
壊れることと、恋することは似ているような気がする。表と裏、という関係になるのかもしれない。
将棋についてわかる人は将棋盤を思い浮かべてほしい。将棋というのは、駒を一番初めに配置した時が防御が完璧だ、と言われる。その状態から一駒も動かさなければ、防御は強い。しかし、それでは相手に攻め入ることはできない。自分の陣地の防御を弱めながら、相手の陣地へと攻め入っていく。それが将棋である。
崩壊と恋の関係は、この将棋に似ているような気がする。恋をしていない状態では、人間という存在は完璧だ。ある意味で隙がない。ただ、恋をするとその完璧な自分という存在を突き崩さなければならなくなる。相手に攻め入るために、そして相手を誘い込むために。そうして、自分という存在は壊れていく。
なんだかそんな気がする。
だから、恋をすれば壊れる。人間が変わる。何かを失う。得られるのは、配置の変わった自分の陣地と、奪った相手の駒と、攻め入った相手の陣地。そこに釣り合いを見出せる人は、恋に積極的だし、つまりは自分を壊すことに積極的だ。
僕はどうかと考える。僕は、将棋という盤上では自分を壊さない。僕は、盤上以外の場所でいつも壊れ続けていて、変わり続けている。盤上で壊れているだけの余裕がない。
自分を壊そうとしないまま、恋だけはしようとしている。それが僕の形。だから、どこかで何かが破綻する。そうなのかもしれない。
将棋の優れた点は、奪った駒を再度使うことが出来るという点だ。展開される駒の配置は無限大だ。可能性が無限だというのは、何にしてもいい。
奪った駒を、自分という存在を立て直すのに使うか、あるいは相手を攻め入るのに使うか。そこも人によって違うだろう。僕はきっと、自分を立て直すのに使っているのだろうな。
ルイはパンクなアマと出会った。舌を蛇のように二股にした男。髪は赤で刺青のある男。ルイは、アマにというよりもその舌に惚れて、アマと一緒に住むようになる。自分も舌を二股にしようとする。
堀り師でピアスもあけるシバさんと出会う。アマの知り合い。舌にピアスをしてもらって、それから刺青の相談にも乗ってもらう。
アマはルイを愛している。見た目はパンクだけど中身はへなちょこの子ども。なんだか付き合っているわけじゃないけどSEXはするし一緒に住んでいるしいつも一緒にいる。アマは嫉妬深い。
絡まれたルイを助けようとして、アマは人を殴る。歯を抜く。
新聞に載った殺人の記事に、ルイは怖くなる。
ルイという女を軸に、アマとシバさんの二人の男がいる。いろいろに恋の方向があり、ルイはしっかり壊れていく。ピアスとか刺青とかの痛みなんか忘れちゃうくらい、なんだか痛い。
そんな感じの話です。
本作は、綿矢りさの「蹴りたい背中」と同時に芥川賞を受賞し、受賞当時の年齢も若かったことからかなり評判になった作品で、タイトルぐらい知っている人も多いと思うけど、でも「蹴りたい背中」と比べてしまうと明らかに見劣りする。というか、本作を読むと、無意識のうちに比較してしまうのだろう、綿矢りさの文章や世界がどれだけ見事なものかわかる。同時に芥川賞を受賞したとは思えない作品だ。作品自体は決して悪いというわけではないのだが、レベルが遥かに違うように感じる。
文章的には、特に目立った特長があるわけではない。その年代にしてもまあ普通の文章で綴られている。表現の面白さ、ということも特にない。
ただ、暴力的な表現や流れがうまくできている気がする。外面的というか、直接的な暴力にはあまり接点のない生活をしているので、感じ方として正確なのかはわからないけど、暴力的な激しさや虚しさや痛さというのは、さりげない表現から結構伝わってきたかな、という感じです。
ストーリー自体は、恋愛小説が苦手なためかそこまで入り込めないものだけど、悪くはないように思います。どこがどう、という風になかなか言えないのだけれども。
個人的には、ルイのような女性は好きではありません。どこにも繋がれていない室外犬のような自由さを持っているように見えて、実は深いところでどこかに縛られていて、霧が晴れていくように世界が本当の姿を見せたときに戸惑ってしまうような感じがして、その自由に見える不自由さがどうにも受け入れがたいような気がします。壊れ方も、どうも美しくない気がします。
また、アマのような男も苦手だったりします。肉体的にも精神的にも束縛を要求するようなそんな男は嫌いだし、絶対になりたくない、と思います。僕にとって、束縛というのは最も嫌悪する状態だし言葉です。
一番いいのはシバさんですかね。かなりハードなSだけど、一番ちゃんとしているような気がします。もちろん、全然ちゃんとしてないんだけど、ちゃんとしているように見える、という点は結構重要だったりします。
そんな感じです。本当はもっとちゃんと感想を書こうと思うのだけど、連ちゃんで二つ感想を書いているし、眠いのでこの辺にしておきます。お手軽な値段で古本屋にあれば、まあ手を出してもいいのでは?という感じの小説です。
金原ひとみ「蛇にピアス」
トンちゃん(中村葉子)
僕の友達がこんなことを言っていたことがある。
「渋谷の街を歩いてるのは、みんなエキストラだぜ。渋谷を、活気ある街に見せかけるための作戦だ」と。
こういうひねくれたものの見方は嫌いじゃないし、聞いてなるほどそれはありえるな、と正直思った。渋谷の街を、渋谷を活気ある街に見せかけるためだけにどこかに雇われたエキストラが歩いている。全然ありえる。
渋谷だけじゃなくて、自分以外の誰もがエキストラなのかもしれない。むしろ、その方が自然な考え方というものかもしれない。
その場合、世界は一人のために動いている。たった一人のために他の全ての人がいて、何らかの役割を忠実にこなしながらも、その一人のためだけに世界を創り見せている。まるで、腐りかけのかぼちゃにスープを注ぎ込むような、そんな感覚で。
明確に否定できる人はいないと思う。自分こそがその一人かもしれないのだから、自分がエキストラでなくてもこの仮説は全然ありえる。
まあ普通に考えればありえないけど。
役割が与えられないと不安に感じる人が結構いるように思う。自分は何のためにこの世界にいるのか、という明確な何かを人は求める。他の誰かは、どこかからか何かの役割を与えられているのかもしれない。自分には与えられない、世界を動かすのにとても大事な何かの役割を。世界のねじを巻いたり、空を塗り分けたり、そういったことをしている人がどこかにはいるのかもしれない。そこまで極端ではないにしろ、役割が与えられているのといないのとでは、感じ方が大きく違うだろうと思う。
自分で見つけることができればいい。自分に合った役割をきちんと身に付けることができればいい。それができないと、世界から見放されたような気になるのは、どうしてだろうか。
本作は、周りの人がエキストラに見えてしまう、常に入れ替わる何らかの役割を与えられた人の集合として捉えてしまう女の子の物語である。あるいは、本当にエキストラなのかもしれない世界での物語だ。
わたしは、家族の誰もをトンちゃんと呼んでいた。お父さんもお母さんもお兄ちゃんもぬいぐるみも、そして自分も。みんなトンちゃんだった。
魚屋のおばさんは昔わたしのお父さんだった人で、ジムのお姉さんはいつかスチュワーデスとして再会するかもしれない。誰もが、何かの役割を与えられた人であり、名前は関係ない。誰であっても、誰でもない。
周りにいる人はみんなエキストラで、夜になるとみんな、どこかにある別の街へ帰るのだ。だから、夜は時間が止まるし、電車は動かないし、人もいない。わたしが眠ると夜になり、起きると朝になる。
あなたは誰?わたしも一体誰なの?
とにかく、内容を説明することがほぼ不可能です。
この作品には、本当に何もありません。時間も場所も名前も人も物語空間も世界も記号も意味も、それら全てが一切ありません。
あるのは、「絶対的な中心」だけです。「『何もない』の中心」かもしれません。とにかく、物語自体が中心であり、他の何にも置換することができません。中心であるが故に一定であり、裏も表もなく、過去も未来もなく、原因も結果もなく、善も悪もなく、定量で定性です。自分で書いていてよくわかりません。
僕には、本作はまったく意味がわかりませんでした。何が描かれていて、何を伝えたくて、何が残って、何が溶けているのか、一切わかりません。そこにはただ文章があり文字があり、そしてページを捲る音があるだけです。何もかもが何も意味を結ばないので、読んでいて退屈だし、あまりにもつまらなかったです。
帯には、モニター読者の声が載っていて、そこには、絶賛と表現していいだろう様々な文句が載っています。「ひとつの宇宙の誕生」「深く揺さぶられる」「切ない」など。もちろん、いい評価のものだけ集めたのでしょうが、僕にはそれらの評価がひどくまぬけなものに見えて仕方ありませんでした。
ストーリーがどうとか、文章がどうとか、そもそもそういうレベルにすら達していない、そんな感想を持ちました。
僕はまったくお勧めしません。奇妙な小説を読みたい、という方はチャレンジしてみてもいいかもしれません。
中村葉子「トンちゃん」
「渋谷の街を歩いてるのは、みんなエキストラだぜ。渋谷を、活気ある街に見せかけるための作戦だ」と。
こういうひねくれたものの見方は嫌いじゃないし、聞いてなるほどそれはありえるな、と正直思った。渋谷の街を、渋谷を活気ある街に見せかけるためだけにどこかに雇われたエキストラが歩いている。全然ありえる。
渋谷だけじゃなくて、自分以外の誰もがエキストラなのかもしれない。むしろ、その方が自然な考え方というものかもしれない。
その場合、世界は一人のために動いている。たった一人のために他の全ての人がいて、何らかの役割を忠実にこなしながらも、その一人のためだけに世界を創り見せている。まるで、腐りかけのかぼちゃにスープを注ぎ込むような、そんな感覚で。
明確に否定できる人はいないと思う。自分こそがその一人かもしれないのだから、自分がエキストラでなくてもこの仮説は全然ありえる。
まあ普通に考えればありえないけど。
役割が与えられないと不安に感じる人が結構いるように思う。自分は何のためにこの世界にいるのか、という明確な何かを人は求める。他の誰かは、どこかからか何かの役割を与えられているのかもしれない。自分には与えられない、世界を動かすのにとても大事な何かの役割を。世界のねじを巻いたり、空を塗り分けたり、そういったことをしている人がどこかにはいるのかもしれない。そこまで極端ではないにしろ、役割が与えられているのといないのとでは、感じ方が大きく違うだろうと思う。
自分で見つけることができればいい。自分に合った役割をきちんと身に付けることができればいい。それができないと、世界から見放されたような気になるのは、どうしてだろうか。
本作は、周りの人がエキストラに見えてしまう、常に入れ替わる何らかの役割を与えられた人の集合として捉えてしまう女の子の物語である。あるいは、本当にエキストラなのかもしれない世界での物語だ。
わたしは、家族の誰もをトンちゃんと呼んでいた。お父さんもお母さんもお兄ちゃんもぬいぐるみも、そして自分も。みんなトンちゃんだった。
魚屋のおばさんは昔わたしのお父さんだった人で、ジムのお姉さんはいつかスチュワーデスとして再会するかもしれない。誰もが、何かの役割を与えられた人であり、名前は関係ない。誰であっても、誰でもない。
周りにいる人はみんなエキストラで、夜になるとみんな、どこかにある別の街へ帰るのだ。だから、夜は時間が止まるし、電車は動かないし、人もいない。わたしが眠ると夜になり、起きると朝になる。
あなたは誰?わたしも一体誰なの?
とにかく、内容を説明することがほぼ不可能です。
この作品には、本当に何もありません。時間も場所も名前も人も物語空間も世界も記号も意味も、それら全てが一切ありません。
あるのは、「絶対的な中心」だけです。「『何もない』の中心」かもしれません。とにかく、物語自体が中心であり、他の何にも置換することができません。中心であるが故に一定であり、裏も表もなく、過去も未来もなく、原因も結果もなく、善も悪もなく、定量で定性です。自分で書いていてよくわかりません。
僕には、本作はまったく意味がわかりませんでした。何が描かれていて、何を伝えたくて、何が残って、何が溶けているのか、一切わかりません。そこにはただ文章があり文字があり、そしてページを捲る音があるだけです。何もかもが何も意味を結ばないので、読んでいて退屈だし、あまりにもつまらなかったです。
帯には、モニター読者の声が載っていて、そこには、絶賛と表現していいだろう様々な文句が載っています。「ひとつの宇宙の誕生」「深く揺さぶられる」「切ない」など。もちろん、いい評価のものだけ集めたのでしょうが、僕にはそれらの評価がひどくまぬけなものに見えて仕方ありませんでした。
ストーリーがどうとか、文章がどうとか、そもそもそういうレベルにすら達していない、そんな感想を持ちました。
僕はまったくお勧めしません。奇妙な小説を読みたい、という方はチャレンジしてみてもいいかもしれません。
中村葉子「トンちゃん」
女子大生会計士の事件簿DX.2 騒がしい探偵や怪盗たち(山田真哉)
僕は、果てしなく大雑把だけど家計簿をつけている。食費と雑費と交際費っていう分類しかないけど、でも毎日の支出は書いているし(収入は書いてないけど)、月ごとにまとめたりもしている。
会社や法人の会計だって、大雑把に言ってしまえば、こういう個人レベルでの家計簿と大して変わらないはずだろうと思う。どれくらい収入があって、どのくらい支出があるか。どのくらい利益が出ているのか、あるいは損失があるのか。突き詰めればそれだけのはずだ。
しかし、会計士が存在するから会計が複雑なのか、会計が複雑になったから会計士が必要とされたのかはよくわからないけど、実際の会計はとてつもなく煩雑だ。システムや法を悪用して都合のいいように作り変えることはどこの世界でもよくあることだけれども、会計の世界も例に漏れることはないようである。
実際的ではない、計算のための数字をうまく操作することによって、見せ掛けの実体を作り出す。会社側が不正をしようと思えばその点をつくし、会計士もその点を見極める。その騙しあいが、確かにミステリという要素を含んでいて、会計に関する実際的な知識を持っていなかったからだろうけど、会計に関する小説、とくにミステリがあまり多くないことに、寧ろ驚いたくらいである。
そういえば、学校の授業で経済がないのは何故だろう、とも考えた。ここ最近になって、株のシュミレーションをするような授業や、班ごとに生産や販売などを通じて経済の仕組みを理解するような架空の経済シュミレーションのような授業を採用するところもでてきたみたいだけれども、まだまだ統一的ではない。教え方によってはとても面白い分野だと思うし、より実際的な教育だと思うのに、どうして学校では採用されないのか、不思議に思った。
基本的に、DX.1とほとんど同じような作品で、感じたことも似たようなものなので、早速内容に入ろうと思う。
本作も前作と同様、主人公は会計士である女子大生・藤原萌実と、新米会計士補・柿本一麻の二人である。時期は前作よりも前に設定されていて、萌実と一麻の最初の出会いのシーンから始まっている。
ストーリーは前作と同じく、萌実と一麻の二人が、監査に赴くその先で、奇妙な事件に出くわす、といったもの。新米の一麻の疑問がそのまま読者の疑問と重なり、萌身がきちんと説明してくれる。事件を解くのも、つまり探偵役も萌実である。
それぞれの内容を紹介しようと思います。
<競艇場から生まれた>事件―領収書の話―
不自然な領収書とはどんなもの?萌実と一麻の出会いの話です。
<不器用なエンゲージリング>事件―売上と借入金・貸付金の話―
宝石業界という特殊な世界に潜む落とし穴とは?一途な恋の物語です。
<「綺麗だね」と僕が言った!?>事件―商品の評価の話―
この店はどうして潰れたの?数字に隠された背景を探る物語。
<騒がしい探偵や怪盗たち>事件―インターネットとインサイダー取引の話―
ある企業の最重要機密をネットで流して株価を吊り上げている<株式探偵>は一体誰で、その目的は?
<幸運を呼ぶおサルさん>事件―資金管理の話―
間違った引き落としに隠されたある不正。数字をごまかすのは案外簡単のようです。
<十二月の祝祭>事件―数字の話―
萌実の実家のある神戸での物語。萌実の姉の体験談。著者の最も思い入れのある作品だそうです。
<遅れてきたクリスマス>事件―棚卸立会・売上原価の話―
売上に対して利益が少なく見える、そのトリックとは?
女子大生会計士の事件後2
それぞれの物語の総括的なものです。
今回は、前作よりも会計的手法がよく出ていて、そんな風にしても数字をいじったり不正を隠したり実態をごまかしたりできるのか、と感心できるような話が多いです。守秘義務があるため、自分が関わったケースはモデルにしていないようなので、会計という世界は言わば、ミステリのネタの宝庫、なのかもしれません(さすがに言いすぎですね)。
テンポのいいストーリー運びと、会計的な知識とがうまく合わさって、前作同様かなり好きな作品です。それぞれの話は短いですが、ストーリー運びも決して陳腐ではなく、まとまりのいい作品だと思います。お勧めします。
最後に、特に意図はありませんが、著者のちょっと変わった略歴を。今でこそ日本で一番有名と言ってもいい公認会計士ですが、昔は歴史学者を志していたそうです。大阪大学の文学部を卒業し、一般企業を経てから会計士になる、というかなり異色の経歴だと思います。
また、あの阪神大震災を神戸で体験したらしく、そのこともあって、「<十二月の祝祭>事件」という作品には思い入れがあるのだそうです。
皆さんも、会計に詳しくなって、株でも始めてみたらどうでしょうか?
山田真哉「女子大生会計士の事件簿DX.2」
会社や法人の会計だって、大雑把に言ってしまえば、こういう個人レベルでの家計簿と大して変わらないはずだろうと思う。どれくらい収入があって、どのくらい支出があるか。どのくらい利益が出ているのか、あるいは損失があるのか。突き詰めればそれだけのはずだ。
しかし、会計士が存在するから会計が複雑なのか、会計が複雑になったから会計士が必要とされたのかはよくわからないけど、実際の会計はとてつもなく煩雑だ。システムや法を悪用して都合のいいように作り変えることはどこの世界でもよくあることだけれども、会計の世界も例に漏れることはないようである。
実際的ではない、計算のための数字をうまく操作することによって、見せ掛けの実体を作り出す。会社側が不正をしようと思えばその点をつくし、会計士もその点を見極める。その騙しあいが、確かにミステリという要素を含んでいて、会計に関する実際的な知識を持っていなかったからだろうけど、会計に関する小説、とくにミステリがあまり多くないことに、寧ろ驚いたくらいである。
そういえば、学校の授業で経済がないのは何故だろう、とも考えた。ここ最近になって、株のシュミレーションをするような授業や、班ごとに生産や販売などを通じて経済の仕組みを理解するような架空の経済シュミレーションのような授業を採用するところもでてきたみたいだけれども、まだまだ統一的ではない。教え方によってはとても面白い分野だと思うし、より実際的な教育だと思うのに、どうして学校では採用されないのか、不思議に思った。
基本的に、DX.1とほとんど同じような作品で、感じたことも似たようなものなので、早速内容に入ろうと思う。
本作も前作と同様、主人公は会計士である女子大生・藤原萌実と、新米会計士補・柿本一麻の二人である。時期は前作よりも前に設定されていて、萌実と一麻の最初の出会いのシーンから始まっている。
ストーリーは前作と同じく、萌実と一麻の二人が、監査に赴くその先で、奇妙な事件に出くわす、といったもの。新米の一麻の疑問がそのまま読者の疑問と重なり、萌身がきちんと説明してくれる。事件を解くのも、つまり探偵役も萌実である。
それぞれの内容を紹介しようと思います。
<競艇場から生まれた>事件―領収書の話―
不自然な領収書とはどんなもの?萌実と一麻の出会いの話です。
<不器用なエンゲージリング>事件―売上と借入金・貸付金の話―
宝石業界という特殊な世界に潜む落とし穴とは?一途な恋の物語です。
<「綺麗だね」と僕が言った!?>事件―商品の評価の話―
この店はどうして潰れたの?数字に隠された背景を探る物語。
<騒がしい探偵や怪盗たち>事件―インターネットとインサイダー取引の話―
ある企業の最重要機密をネットで流して株価を吊り上げている<株式探偵>は一体誰で、その目的は?
<幸運を呼ぶおサルさん>事件―資金管理の話―
間違った引き落としに隠されたある不正。数字をごまかすのは案外簡単のようです。
<十二月の祝祭>事件―数字の話―
萌実の実家のある神戸での物語。萌実の姉の体験談。著者の最も思い入れのある作品だそうです。
<遅れてきたクリスマス>事件―棚卸立会・売上原価の話―
売上に対して利益が少なく見える、そのトリックとは?
女子大生会計士の事件後2
それぞれの物語の総括的なものです。
今回は、前作よりも会計的手法がよく出ていて、そんな風にしても数字をいじったり不正を隠したり実態をごまかしたりできるのか、と感心できるような話が多いです。守秘義務があるため、自分が関わったケースはモデルにしていないようなので、会計という世界は言わば、ミステリのネタの宝庫、なのかもしれません(さすがに言いすぎですね)。
テンポのいいストーリー運びと、会計的な知識とがうまく合わさって、前作同様かなり好きな作品です。それぞれの話は短いですが、ストーリー運びも決して陳腐ではなく、まとまりのいい作品だと思います。お勧めします。
最後に、特に意図はありませんが、著者のちょっと変わった略歴を。今でこそ日本で一番有名と言ってもいい公認会計士ですが、昔は歴史学者を志していたそうです。大阪大学の文学部を卒業し、一般企業を経てから会計士になる、というかなり異色の経歴だと思います。
また、あの阪神大震災を神戸で体験したらしく、そのこともあって、「<十二月の祝祭>事件」という作品には思い入れがあるのだそうです。
皆さんも、会計に詳しくなって、株でも始めてみたらどうでしょうか?
山田真哉「女子大生会計士の事件簿DX.2」
女子大生会計士の事件簿DX.1 ベンチャーの王子様(山田真哉)
経済というのはなかなかに複雑な世界だ。普段経済なんかとはほぼ接しない僕のような人間にもそうだけど、会社勤めのサラリーマンだって、実際はどういう仕組みで会社が会計がお金が成り立っているのか、ちゃんとわかっている人は少ないだろう。本作でも出てくるけれども、社長ですら会計の基礎も知らない、というような場合だってある。
しかし、最近は経済的なニュースでかなり面白いものがあった。あのホリエモンこと堀江社長を巡る様々だ。初めは近鉄バッファローズの買収に乗り出そうとし、そして企業買収について一般の人の関心を大いに高めたであろう、フジテレビとの応酬など、見ている側としてはエンターテイメントとして楽しみながら経済の一端に触れることのできた出来事だった。
しかしいざ会計の仕組みを学ぼう、と思ってもなかなか難しい。僕は、公認会計士という職業を大学に入ってから知ったけれども、その難関さは弁護士並かそれ以上らしく、試験の合格率も格段に低い狭き門なのだそうだ。受かれば一生困ることはないそうだけれども。
最近では、デイトレといった手軽に出来る株式なども人気のようで、株に関する本が売れていたり、より手軽に株を買えるような仕組みになっていたりしている。公認会計士になろう、なんてのはかなりハードな難関だけど、経済について広く浅く知りたい、という欲求はここ最近高まっているのかもしれない。
今ベストセラー街道をひた走っていて、恐らく誰もが書店で一度は見かけたことはあるのではないか、と思う本に、「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」という本がある。そろそろ100万部が見えてきた、電車男にも匹敵するような大ベストセラーだけれども、その著者も山田真哉という。
同じ著者の作品である。
こちらの「女子大生~」の方が先に書かれた作品で、たぶんデビュー作だ。TACという資格のダブルスクールが出している「TACNEWS」という新聞のようなものに、会計の世界を知ってもらおう、という意図で連載を始めた作品だそうで、小説の形態を取っているけども、間違いなく会計の本である。寧ろビジネス書と呼んでも間違ってはないと思う。
主人公は、女子大生にして公認会計士試験に合格し、未だに現役の女子大生というキュートな女性・藤原萌実と、入所一年目の新米会計士補・柿本一麻の二人である。二人はコンビを組んで様々な会社の監査(その会社の会計がちゃんと正確に行われているかをチェックすること)に出掛け、行く先々で会計的なミステリーに出会い、それを見事萌実が解決する、というストーリーの連作短編集である。
それぞれ短い話ながらも、会計上の知識や表裏が様々に描かれていて勉強になる。ちょっと難しい部分はあるけど、それでも普通のビジネス書を開くよりは遥かに手軽である。
小説としては、萌実と一麻の関係が多少ありきたりだけれども、あとがきにも書かれているように、「読む本」としてではなく、「使う本」として書かれていて、その手段として小説という手法を用いたのだから、その辺りは多少目を瞑るべきだし、まあ正直そこまで気にならない。
ミステリーとして読むと、伏線もちゃんと張られているし、しっかり作られているように思います。
ただ、名探偵のように悪の告発はしない、という点があります。僕は会計士の仕事を、不正をしていれば警察や社会に告発する、ものだと思っていたけど、そうではないらしい。あくまでも間違いや不正を見つけ、みつけたあとは、修正するかどうか会社の判断に任せるのだそうだ。もちろん、修正しなかった場合、あそこの会社の会計の正確さを会計士として保証しない、ということになるのだけれども。
ではそれぞれの内容をざっと書きたいと思います。
<北アルプス絵はがき>事件―簿外入金・架空出金の話―
隠された裏金は一体どこにあるのか?
<株と法律と恋愛相談>事件―債務保証・商法の話―
自社株を投資集団に大量に購入された会社が陥る罠とは…
<桜の頃、サクラ工場、さくら吹雪>事件―未収入金・未払金の話―
花見存続のためにサクラ工場を是非黒字に。その過程でみつけたある背景とは…
<かぐや姫を追いかけて>事件―固定資産の話―
かぐや姫の物語になぞらえた五つの会社に隠された謎とは…
<美味しいたこ焼き>事件―売掛金の話―
口座を一つしか持っていないはず銀行に、その会社名義の口座がもう一つ見つかった。しかも1000万円ものお金が…
<死那葉草の草原>事件―土地の評価の話―
購入金額と評価額にかなり開きのでた土地と、老齢の会長が口にした<死那葉草>にまつわる物語。
<ベンチャーの王子様>事件―SPC(特別目的会社)の話―
借入金ゼロで固定資産もない、しかも業績もいい技術力の高いソフト会社に秘められた謎とは…
女子大生会計士の事件後
それぞれの物語を振り返っての番外編、のようなものです。
余談ですが、表紙に描かれた女性、恐らくこれが藤原萌実なのでしょうが、なかなかいい感じです。かなり好きなタイプですね。特に足とか。とこんなことを書くと、萌系の作品だと思われてしまうでしょうか…
是非にとは言わないけど、読んで損する作品ではないし、会計入門としてはかなりいいのではないかと思います。
山田真哉「女子大生会計士の事件簿DX.1」
しかし、最近は経済的なニュースでかなり面白いものがあった。あのホリエモンこと堀江社長を巡る様々だ。初めは近鉄バッファローズの買収に乗り出そうとし、そして企業買収について一般の人の関心を大いに高めたであろう、フジテレビとの応酬など、見ている側としてはエンターテイメントとして楽しみながら経済の一端に触れることのできた出来事だった。
しかしいざ会計の仕組みを学ぼう、と思ってもなかなか難しい。僕は、公認会計士という職業を大学に入ってから知ったけれども、その難関さは弁護士並かそれ以上らしく、試験の合格率も格段に低い狭き門なのだそうだ。受かれば一生困ることはないそうだけれども。
最近では、デイトレといった手軽に出来る株式なども人気のようで、株に関する本が売れていたり、より手軽に株を買えるような仕組みになっていたりしている。公認会計士になろう、なんてのはかなりハードな難関だけど、経済について広く浅く知りたい、という欲求はここ最近高まっているのかもしれない。
今ベストセラー街道をひた走っていて、恐らく誰もが書店で一度は見かけたことはあるのではないか、と思う本に、「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」という本がある。そろそろ100万部が見えてきた、電車男にも匹敵するような大ベストセラーだけれども、その著者も山田真哉という。
同じ著者の作品である。
こちらの「女子大生~」の方が先に書かれた作品で、たぶんデビュー作だ。TACという資格のダブルスクールが出している「TACNEWS」という新聞のようなものに、会計の世界を知ってもらおう、という意図で連載を始めた作品だそうで、小説の形態を取っているけども、間違いなく会計の本である。寧ろビジネス書と呼んでも間違ってはないと思う。
主人公は、女子大生にして公認会計士試験に合格し、未だに現役の女子大生というキュートな女性・藤原萌実と、入所一年目の新米会計士補・柿本一麻の二人である。二人はコンビを組んで様々な会社の監査(その会社の会計がちゃんと正確に行われているかをチェックすること)に出掛け、行く先々で会計的なミステリーに出会い、それを見事萌実が解決する、というストーリーの連作短編集である。
それぞれ短い話ながらも、会計上の知識や表裏が様々に描かれていて勉強になる。ちょっと難しい部分はあるけど、それでも普通のビジネス書を開くよりは遥かに手軽である。
小説としては、萌実と一麻の関係が多少ありきたりだけれども、あとがきにも書かれているように、「読む本」としてではなく、「使う本」として書かれていて、その手段として小説という手法を用いたのだから、その辺りは多少目を瞑るべきだし、まあ正直そこまで気にならない。
ミステリーとして読むと、伏線もちゃんと張られているし、しっかり作られているように思います。
ただ、名探偵のように悪の告発はしない、という点があります。僕は会計士の仕事を、不正をしていれば警察や社会に告発する、ものだと思っていたけど、そうではないらしい。あくまでも間違いや不正を見つけ、みつけたあとは、修正するかどうか会社の判断に任せるのだそうだ。もちろん、修正しなかった場合、あそこの会社の会計の正確さを会計士として保証しない、ということになるのだけれども。
ではそれぞれの内容をざっと書きたいと思います。
<北アルプス絵はがき>事件―簿外入金・架空出金の話―
隠された裏金は一体どこにあるのか?
<株と法律と恋愛相談>事件―債務保証・商法の話―
自社株を投資集団に大量に購入された会社が陥る罠とは…
<桜の頃、サクラ工場、さくら吹雪>事件―未収入金・未払金の話―
花見存続のためにサクラ工場を是非黒字に。その過程でみつけたある背景とは…
<かぐや姫を追いかけて>事件―固定資産の話―
かぐや姫の物語になぞらえた五つの会社に隠された謎とは…
<美味しいたこ焼き>事件―売掛金の話―
口座を一つしか持っていないはず銀行に、その会社名義の口座がもう一つ見つかった。しかも1000万円ものお金が…
<死那葉草の草原>事件―土地の評価の話―
購入金額と評価額にかなり開きのでた土地と、老齢の会長が口にした<死那葉草>にまつわる物語。
<ベンチャーの王子様>事件―SPC(特別目的会社)の話―
借入金ゼロで固定資産もない、しかも業績もいい技術力の高いソフト会社に秘められた謎とは…
女子大生会計士の事件後
それぞれの物語を振り返っての番外編、のようなものです。
余談ですが、表紙に描かれた女性、恐らくこれが藤原萌実なのでしょうが、なかなかいい感じです。かなり好きなタイプですね。特に足とか。とこんなことを書くと、萌系の作品だと思われてしまうでしょうか…
是非にとは言わないけど、読んで損する作品ではないし、会計入門としてはかなりいいのではないかと思います。
山田真哉「女子大生会計士の事件簿DX.1」
蹴りたい背中(綿矢りさ)
液体のように。水槽の底に敷き詰められた小石の間を静やかに埋める水のように。人と人の間に満たされたものも、そんな風に滑らかであってほしかった。限りなくゼロに近い摩擦や、もったりとした浮遊感を伴ったもので満たされたかった。
現実には違う。誰かとの間にあるのは、砂浜に無造作に置かれたテトラポットのように、ごつごつとした形のはっきりした何かでしかない。動くたびに痛みを伴い、どこかしらが擦り切れ、何のために近づこうとしているのかも忘れてしまうような、そんな罪悪なもので。
人はいつだって何かを埋めようとしている。生きるために埋めているのか、埋めるために生きているのか区別がつかなくなるほどに。
埋めているものは、大局的には人と人との間の距離だろう。会話の途中の沈黙を埋め、夏休みのスケジュールを埋め、らしさという個性を埋め、自分の中の何か大切なものを埋める。僕等はそうやって、そうやっていくことで、誰かと適度な距離を保つことができるし、うまい関係を築くことができている、はずだ。
人と人の間にあるものが、液体のように滑らかならば、僕等は何かを埋めなければと焦る必要はなかったはずだ。しかし実際にあるのは、隙間だらけのテトラポット。僕たちは、小石でもコンクリートでもビニールでも何でもいい。とにかくその隙間を隠すように埋め、それでも相手から遠ざかることもなく、絶妙な距離を保ったままで、時空を移動し続ける。
なんて不器用なんだろう、と思う。昔は昔は、なんていうと年をとったことを感じるけど、でもきっと昔はそうじゃなかったんだろうな。きっと、人の間を占めていたのは、テトラポットなんていうごついものじゃなくて、もっと穏やかなものだったのだろう。
人間関係が得意な人はいい。得意であることに自覚がない人はもっといい。自分がうまくできないだけに、特にそう思う。手の届く範囲に、目の届く範囲に人がいないと不安になるくせに、近づかれすぎると無意味に緊張するような人だってきっと沢山いるし、それをうまく取り繕うことのできない人だっていっぱいいるはずだ。
僕も振り返ってみれば、いっぱい緊張していたんだと思う。背中に長い棒が一本入っているようなそんな緊張感じゃなくて、いつお化けがでるかびくびくしている、お化け屋敷の中の女の子が感じるような緊張感。点滅する信号機のようにいつも周りを見渡していたし、風見鶏みたいにその場の空気を読んでいたりしていたはず。結構頑張ってたんだな俺、ってちょっと褒めてあげたい気分。
人間関係って難しい。そのことに思い至るのはとっても簡単なのに、それを乗り越えるのはとても難しい。いつだって難問は、誰かの内側にある。泡のように表面に浮き上がるのは、進むべき方向の定まったものだけだ。
ハツは女子高生。うまくはいえないけど、割った卵の中に殻が混じってしまうような、そんな煮え切らない毎日を送っている。高校生活はもう二ヶ月も過ぎているのに、まだ馴染めない。この空気にもクラスメイトにも。「仲間」なんて言葉をさらりと口に出せてしまう中学の頃の友達は、どこかに留まろうとして揺れているハツを置いて、一人グループの中に薄まっていってしまった。
理科の実験の授業で、何もわかっていない教師から放たれた「適当に」の言葉に潜む緊張感の中、班が組まれる。余ってしまうハツは、同じく余ったらしい男子と一緒に、どこかの班に組み込まれた。悪質なリフォームで組み込まれる不要な部品のように。
その男子はにな川という名前。理科の実験中に女性誌を読んでいる。ツワ者だ。負けたかも。ふとその女性誌の中に現れた一人のモデル。出会ったことのある顔と苦々しい記憶が蘇る。オリチャン―後になって知るそう呼ばれるモデルのファンだというにな川のために、彼の家へ行き、出会った場所の地図を書いた。
その日から、少しずつ薄くなっていくモザイクのように、日常が変化していく。もしかしたら濃くなっているのかもしれない。彼女をあわよくば置き去りにして、日常も、にな川との関係も変わっていく。
そんなハツとにな川の不思議な関係と、人間との間に滑らかさを作り出せない不器用なハツの日常がリアルに描かれた作品である。
前に読んだ「インストール」もだったけど、かなりいい作品だった。かなり好きな作品で、読んでよかったと思える。
「インストール」の感想でも書いたけど、文章が無茶苦茶うまい。もはや文章力のレベルではなく、見ている世界が違うのだろうと思えるほど。周りの人とは別の角度から世界を眺めているのだろう。友達にも一人そういう奴がいるけど、はっとさせられる言動に時々出会うし、それが新鮮だったりする。本作を読んで、そんな感覚を久々に味わった。
女の子のリアルな感情がここにあるか、と言われたら僕には答えようはないけど、少なくても男が読んでも楽しめる作品だと思います。僕にはわからないけど、もしかしたら少し年上の人が読むと、若い世代の感性についていけないのかもしれない、とは思うけれども。
ハツから見た世界は、曇りガラスを通してみたような、雑音の多いラジオを聞いているような、そんな気がする。ものの形が曖昧になり、音の輪郭が崩れてきて、認識できるものと存在するものとの間に明確な差異ができるような、そんな視点にハツはいる。世界が閉じていくのを黙って眺めているようなもどかしさを感じながらも、開いた扉に手を掛けることに躊躇うようなそんなハツの言動に、僕は同調できる。僕はハツと同じ人種だったし、今でも間違いなくそうだろうと思う。どこでもない、どこにもない世界を手に入れようと、今手に出来る世界を否定し手放し突き放すようなそんな衝動に、僕だって駆られる。
躓いたことを笑うものはいても、そこから起き上がることを笑うものはいない。そう思えるようになったのはいつの頃からだっただろうか。いや、完全にはまだそうは思えていないのかもしれない。
本作は、「インストール」とは違って、終わっているようで終わっていないと思います。にな川の物語は少し完結するけど、ハツの物語はたぶん閉じてない。ハツの開いていない扉に手を掛けた時が、僕等が変われるときなのかもしれない、と読んでそんな風に思った。完結していないがために、読者を完結させるのだ、と。
今さら僕がお勧めするまでもないとは思うけど、是非読んで欲しい作品です。お勧めです。
綿矢りさ「蹴りたい背中」
現実には違う。誰かとの間にあるのは、砂浜に無造作に置かれたテトラポットのように、ごつごつとした形のはっきりした何かでしかない。動くたびに痛みを伴い、どこかしらが擦り切れ、何のために近づこうとしているのかも忘れてしまうような、そんな罪悪なもので。
人はいつだって何かを埋めようとしている。生きるために埋めているのか、埋めるために生きているのか区別がつかなくなるほどに。
埋めているものは、大局的には人と人との間の距離だろう。会話の途中の沈黙を埋め、夏休みのスケジュールを埋め、らしさという個性を埋め、自分の中の何か大切なものを埋める。僕等はそうやって、そうやっていくことで、誰かと適度な距離を保つことができるし、うまい関係を築くことができている、はずだ。
人と人の間にあるものが、液体のように滑らかならば、僕等は何かを埋めなければと焦る必要はなかったはずだ。しかし実際にあるのは、隙間だらけのテトラポット。僕たちは、小石でもコンクリートでもビニールでも何でもいい。とにかくその隙間を隠すように埋め、それでも相手から遠ざかることもなく、絶妙な距離を保ったままで、時空を移動し続ける。
なんて不器用なんだろう、と思う。昔は昔は、なんていうと年をとったことを感じるけど、でもきっと昔はそうじゃなかったんだろうな。きっと、人の間を占めていたのは、テトラポットなんていうごついものじゃなくて、もっと穏やかなものだったのだろう。
人間関係が得意な人はいい。得意であることに自覚がない人はもっといい。自分がうまくできないだけに、特にそう思う。手の届く範囲に、目の届く範囲に人がいないと不安になるくせに、近づかれすぎると無意味に緊張するような人だってきっと沢山いるし、それをうまく取り繕うことのできない人だっていっぱいいるはずだ。
僕も振り返ってみれば、いっぱい緊張していたんだと思う。背中に長い棒が一本入っているようなそんな緊張感じゃなくて、いつお化けがでるかびくびくしている、お化け屋敷の中の女の子が感じるような緊張感。点滅する信号機のようにいつも周りを見渡していたし、風見鶏みたいにその場の空気を読んでいたりしていたはず。結構頑張ってたんだな俺、ってちょっと褒めてあげたい気分。
人間関係って難しい。そのことに思い至るのはとっても簡単なのに、それを乗り越えるのはとても難しい。いつだって難問は、誰かの内側にある。泡のように表面に浮き上がるのは、進むべき方向の定まったものだけだ。
ハツは女子高生。うまくはいえないけど、割った卵の中に殻が混じってしまうような、そんな煮え切らない毎日を送っている。高校生活はもう二ヶ月も過ぎているのに、まだ馴染めない。この空気にもクラスメイトにも。「仲間」なんて言葉をさらりと口に出せてしまう中学の頃の友達は、どこかに留まろうとして揺れているハツを置いて、一人グループの中に薄まっていってしまった。
理科の実験の授業で、何もわかっていない教師から放たれた「適当に」の言葉に潜む緊張感の中、班が組まれる。余ってしまうハツは、同じく余ったらしい男子と一緒に、どこかの班に組み込まれた。悪質なリフォームで組み込まれる不要な部品のように。
その男子はにな川という名前。理科の実験中に女性誌を読んでいる。ツワ者だ。負けたかも。ふとその女性誌の中に現れた一人のモデル。出会ったことのある顔と苦々しい記憶が蘇る。オリチャン―後になって知るそう呼ばれるモデルのファンだというにな川のために、彼の家へ行き、出会った場所の地図を書いた。
その日から、少しずつ薄くなっていくモザイクのように、日常が変化していく。もしかしたら濃くなっているのかもしれない。彼女をあわよくば置き去りにして、日常も、にな川との関係も変わっていく。
そんなハツとにな川の不思議な関係と、人間との間に滑らかさを作り出せない不器用なハツの日常がリアルに描かれた作品である。
前に読んだ「インストール」もだったけど、かなりいい作品だった。かなり好きな作品で、読んでよかったと思える。
「インストール」の感想でも書いたけど、文章が無茶苦茶うまい。もはや文章力のレベルではなく、見ている世界が違うのだろうと思えるほど。周りの人とは別の角度から世界を眺めているのだろう。友達にも一人そういう奴がいるけど、はっとさせられる言動に時々出会うし、それが新鮮だったりする。本作を読んで、そんな感覚を久々に味わった。
女の子のリアルな感情がここにあるか、と言われたら僕には答えようはないけど、少なくても男が読んでも楽しめる作品だと思います。僕にはわからないけど、もしかしたら少し年上の人が読むと、若い世代の感性についていけないのかもしれない、とは思うけれども。
ハツから見た世界は、曇りガラスを通してみたような、雑音の多いラジオを聞いているような、そんな気がする。ものの形が曖昧になり、音の輪郭が崩れてきて、認識できるものと存在するものとの間に明確な差異ができるような、そんな視点にハツはいる。世界が閉じていくのを黙って眺めているようなもどかしさを感じながらも、開いた扉に手を掛けることに躊躇うようなそんなハツの言動に、僕は同調できる。僕はハツと同じ人種だったし、今でも間違いなくそうだろうと思う。どこでもない、どこにもない世界を手に入れようと、今手に出来る世界を否定し手放し突き放すようなそんな衝動に、僕だって駆られる。
躓いたことを笑うものはいても、そこから起き上がることを笑うものはいない。そう思えるようになったのはいつの頃からだっただろうか。いや、完全にはまだそうは思えていないのかもしれない。
本作は、「インストール」とは違って、終わっているようで終わっていないと思います。にな川の物語は少し完結するけど、ハツの物語はたぶん閉じてない。ハツの開いていない扉に手を掛けた時が、僕等が変われるときなのかもしれない、と読んでそんな風に思った。完結していないがために、読者を完結させるのだ、と。
今さら僕がお勧めするまでもないとは思うけど、是非読んで欲しい作品です。お勧めです。
綿矢りさ「蹴りたい背中」
砂の女(安部公房)
僕はまだ20代前半で、人生は始まったばかり、だということもできる。そんなスタートを切ったばかりのマラソン選手のような僕の人生の中で、脱出というのは、一つ大きなテーマとして、常に僕の前に存在していた。
今から考えてみると、何から脱出したかったのか、一言で言葉に表すのは難しい。そもそも、自由になりたかったのか、あるいはまとわりつくロープをただ振りほどきたかっただけなのか、それすらも曖昧だ。
そのままの自分で生きることが窮屈である、ということに気付いたのはいつのことだっただろうか。かなり昔のことだった気がする。ともすれば小学生時代に遡れるくらい昔。
なんだか、ずっと生きるのが窮屈だった。身の丈に合わない服を着させられているような、そんな圧迫感が常にあったような気がする。そのままの、ありのままの自分で素直に生きていると、なんだかあちこちぶつけてしまうようだ。とにかくそんな感覚に気付いた。
だから、僕は自分を偽る努力をし続けた。本来の自分ではない自分へと少しずつ移行し、それが自然であるかのように振舞えるまでずっと、ある意味で無駄な努力を続けてきたという自覚がある。
本来の自分がいるべき場所を見つけ出すために、今いる環境から脱出したかったのかもしれないし、そもそも偽っている偽の自分から脱出したかったのかもしれない。世界の全てから、自分を取り巻く何もかもから脱出したかったのかもしれない。
僕のそんなささやかな努力が、どこまで報われていたか、正直なところわからない。それでも、常に僕の周りには、僕を押しつぶそうとする何かが立ち聳えていたし、それを乗り越えようか突き崩そうか考えているうちに選択肢が狭まってしまうような、そんな理不尽な時間が流れていたように思う。
もちろん、物質的に肉体的に精神的に、僕なんかよりも遥かに大変な人生を歩んできた人だって、それは大勢いることだろう。しかし、こと脱出という点にかけて言えば、僕だって少しは負けないと思う。
ある時期僕を、絶望という名の壁が取り囲んでいたことがある。迫り来る壁から身を守るために、自らがいくつもの壁の中に身を隠し、そうして生きてた時期が確かにあった。今ではそこからの脱出に、どうにか成功しているように思う。少なくとも、出口の選択肢があるだけ、脱出には希望が持てる。
こんなことを考えることがたまにある。世界という世界から完全に脱出する、つまり繋がりを断つことはできるだろうか、と。人間関係が希薄になった現代でさえも、完全にそれをやり遂げることは難しいだろう。
本作はもしかすると、世界からの脱出に成功し、自由を獲得した男の、その自由からの脱出を描いた作品なのかもしれない。男は一見完全に自由を奪われているように見えるが、もしかすると、制限され限定された世界でのみ、自由は実現しうるのではないか。他との関係が持続した世界では、現実的に自由は手に入れることはできないのではないか。なんだか、そんな風にも思った。
ある一人の男が、ある日突然一切の連絡を断ったまま行方がわからなくなり、7年の時を経て死亡が認定された。
男は教師である。昆虫採集を趣味としており、特に新種の発見に心血を注いでいる。独自の理論に基づいて男は、砂地に新種のハエがいるはずだと睨み、限りなく砂地の続く一帯へと足を踏み入れた。
そこは限りない果てしない圧倒的な砂で埋め尽くされた世界であった。初めは民家が少し砂に埋もれている程度だったにも関わらず、次第に丘陵を登るにつれて、砂の壁に囲まれた深い穴の底に家があるといったような始末で、ひどいところでは穴の淵から屋根までが20mというようなところもある。よくもまあそんなところで生活ができるものである。
男はそこで、ある女の家に一泊泊めてもらうことにした。砂に埋もれ、縄梯子を使わないと下りられず、家は傾き、中にまで砂は進入し、木材や畳は腐りかけているといった有様だが、まあ一泊だけだと思えば…と思っていた。男は、女が日常的に行っているらしい砂掻きの仕事を手伝ったりした。
しかし翌日、帰ろうと思い砂の壁を見ても、どこにも縄梯子がない。まさか…まさか…まさか…
どうやら男は、地域の人間全てに騙されてこの砂の壁の取り囲む家に、半ば強引に監禁させられることになったようだ。怒り狂う男。理不尽で理解できない仕打ちに怒りをたぎらせるが、事態はまるで好転しない。どうやら、ここでの暮らしは大変で、砂掻きにも男手が必要だ…というようなことらしい。
それから、閉じ込められた男と、一緒になって出ることのできない女と、上から見下ろす地域の住民の間の、時に激しく、時に穏やかなやりとりや攻防が描かれる。脱出ということに対する執念と、自由を渇望する思い。あまりに理不尽な状況に戸惑い狂う男の心情を描ききった見事な作品。
まず本作は、なかなか面白いと思いました。文学としてではなく、エンターテイメントとして。ちょっと前に読んだ「箱男」は、まったく意味不明だったけれども、今回の「砂の女」は、分かりやすい状況設定と、滑らかなストーリー展開で、読みやすい作品でした。比喩がかなり多くて、多少分かりにくい部分もあったけれども、大筋でかなり的確な比喩が使われていて、素晴らしいと思いました。
本作を読むと、砂という存在の圧倒さをよく思い知らされます。映像などで、アフリカなどに広がる砂漠を見たことはあり、それでも充分に砂のすごさはわかったけど、文章で、しかも砂に対峙した人間とセットで描かれると、その脅威がよくわかります。砂という存在が流動するのではなく、流動そのものが存在なのだ、というような感想にも、頷けます。
先ほども少し書いたけど、自由というのは何なのだろう、ということについても考えさせられるのではないかと思います。
既に世界と繋がりがある時点で自由ではない。なんだかそんなことを伝えられているような気がします。つまり、本当の自由など手に入れることは出来ないのだと。自由というのは、いかに何かを獲得するかではなく、いかに何かを放棄するか、によって変わるものであり、自らの存在以外に自らを規定するものが何もなくなった時点で自由、ということなのかもしれません。それこそ、砂の壁に囲まれた家で一人で生活する。そんなことが可能なら、まさしくそれが自由そのものなのでしょう。僕は、そんな形の自由はいりませんけど。
僕は本作を結構楽しめたけれども、でもだからと言ってその全ての内容を理解できたわけではないと思います。世界中で翻訳され読み継がれているからには、そこに何らかの真理が含まれているに違いありません。それを僕が見つけ出せるかはわからないけど、僕も何か書くことによってそこにたどり着けたらいいな、とそんな漠然とした希望を抱いていたりします。
読んでみる価値のある作品だと思います。是非どうぞ。
安部公房「砂の女」
今から考えてみると、何から脱出したかったのか、一言で言葉に表すのは難しい。そもそも、自由になりたかったのか、あるいはまとわりつくロープをただ振りほどきたかっただけなのか、それすらも曖昧だ。
そのままの自分で生きることが窮屈である、ということに気付いたのはいつのことだっただろうか。かなり昔のことだった気がする。ともすれば小学生時代に遡れるくらい昔。
なんだか、ずっと生きるのが窮屈だった。身の丈に合わない服を着させられているような、そんな圧迫感が常にあったような気がする。そのままの、ありのままの自分で素直に生きていると、なんだかあちこちぶつけてしまうようだ。とにかくそんな感覚に気付いた。
だから、僕は自分を偽る努力をし続けた。本来の自分ではない自分へと少しずつ移行し、それが自然であるかのように振舞えるまでずっと、ある意味で無駄な努力を続けてきたという自覚がある。
本来の自分がいるべき場所を見つけ出すために、今いる環境から脱出したかったのかもしれないし、そもそも偽っている偽の自分から脱出したかったのかもしれない。世界の全てから、自分を取り巻く何もかもから脱出したかったのかもしれない。
僕のそんなささやかな努力が、どこまで報われていたか、正直なところわからない。それでも、常に僕の周りには、僕を押しつぶそうとする何かが立ち聳えていたし、それを乗り越えようか突き崩そうか考えているうちに選択肢が狭まってしまうような、そんな理不尽な時間が流れていたように思う。
もちろん、物質的に肉体的に精神的に、僕なんかよりも遥かに大変な人生を歩んできた人だって、それは大勢いることだろう。しかし、こと脱出という点にかけて言えば、僕だって少しは負けないと思う。
ある時期僕を、絶望という名の壁が取り囲んでいたことがある。迫り来る壁から身を守るために、自らがいくつもの壁の中に身を隠し、そうして生きてた時期が確かにあった。今ではそこからの脱出に、どうにか成功しているように思う。少なくとも、出口の選択肢があるだけ、脱出には希望が持てる。
こんなことを考えることがたまにある。世界という世界から完全に脱出する、つまり繋がりを断つことはできるだろうか、と。人間関係が希薄になった現代でさえも、完全にそれをやり遂げることは難しいだろう。
本作はもしかすると、世界からの脱出に成功し、自由を獲得した男の、その自由からの脱出を描いた作品なのかもしれない。男は一見完全に自由を奪われているように見えるが、もしかすると、制限され限定された世界でのみ、自由は実現しうるのではないか。他との関係が持続した世界では、現実的に自由は手に入れることはできないのではないか。なんだか、そんな風にも思った。
ある一人の男が、ある日突然一切の連絡を断ったまま行方がわからなくなり、7年の時を経て死亡が認定された。
男は教師である。昆虫採集を趣味としており、特に新種の発見に心血を注いでいる。独自の理論に基づいて男は、砂地に新種のハエがいるはずだと睨み、限りなく砂地の続く一帯へと足を踏み入れた。
そこは限りない果てしない圧倒的な砂で埋め尽くされた世界であった。初めは民家が少し砂に埋もれている程度だったにも関わらず、次第に丘陵を登るにつれて、砂の壁に囲まれた深い穴の底に家があるといったような始末で、ひどいところでは穴の淵から屋根までが20mというようなところもある。よくもまあそんなところで生活ができるものである。
男はそこで、ある女の家に一泊泊めてもらうことにした。砂に埋もれ、縄梯子を使わないと下りられず、家は傾き、中にまで砂は進入し、木材や畳は腐りかけているといった有様だが、まあ一泊だけだと思えば…と思っていた。男は、女が日常的に行っているらしい砂掻きの仕事を手伝ったりした。
しかし翌日、帰ろうと思い砂の壁を見ても、どこにも縄梯子がない。まさか…まさか…まさか…
どうやら男は、地域の人間全てに騙されてこの砂の壁の取り囲む家に、半ば強引に監禁させられることになったようだ。怒り狂う男。理不尽で理解できない仕打ちに怒りをたぎらせるが、事態はまるで好転しない。どうやら、ここでの暮らしは大変で、砂掻きにも男手が必要だ…というようなことらしい。
それから、閉じ込められた男と、一緒になって出ることのできない女と、上から見下ろす地域の住民の間の、時に激しく、時に穏やかなやりとりや攻防が描かれる。脱出ということに対する執念と、自由を渇望する思い。あまりに理不尽な状況に戸惑い狂う男の心情を描ききった見事な作品。
まず本作は、なかなか面白いと思いました。文学としてではなく、エンターテイメントとして。ちょっと前に読んだ「箱男」は、まったく意味不明だったけれども、今回の「砂の女」は、分かりやすい状況設定と、滑らかなストーリー展開で、読みやすい作品でした。比喩がかなり多くて、多少分かりにくい部分もあったけれども、大筋でかなり的確な比喩が使われていて、素晴らしいと思いました。
本作を読むと、砂という存在の圧倒さをよく思い知らされます。映像などで、アフリカなどに広がる砂漠を見たことはあり、それでも充分に砂のすごさはわかったけど、文章で、しかも砂に対峙した人間とセットで描かれると、その脅威がよくわかります。砂という存在が流動するのではなく、流動そのものが存在なのだ、というような感想にも、頷けます。
先ほども少し書いたけど、自由というのは何なのだろう、ということについても考えさせられるのではないかと思います。
既に世界と繋がりがある時点で自由ではない。なんだかそんなことを伝えられているような気がします。つまり、本当の自由など手に入れることは出来ないのだと。自由というのは、いかに何かを獲得するかではなく、いかに何かを放棄するか、によって変わるものであり、自らの存在以外に自らを規定するものが何もなくなった時点で自由、ということなのかもしれません。それこそ、砂の壁に囲まれた家で一人で生活する。そんなことが可能なら、まさしくそれが自由そのものなのでしょう。僕は、そんな形の自由はいりませんけど。
僕は本作を結構楽しめたけれども、でもだからと言ってその全ての内容を理解できたわけではないと思います。世界中で翻訳され読み継がれているからには、そこに何らかの真理が含まれているに違いありません。それを僕が見つけ出せるかはわからないけど、僕も何か書くことによってそこにたどり着けたらいいな、とそんな漠然とした希望を抱いていたりします。
読んでみる価値のある作品だと思います。是非どうぞ。
安部公房「砂の女」
インストール(綿矢りさ)
例えばこんな話がある。心臓を移植した患者の話である。
臓器移植によって他人の心臓を手に入れた患者が、手術前後で性格がまるで変わってしまった、という話である。食べものの嗜好も、記憶すらも変化し、調べてみると、その手術後の患者の有様は、その心臓の元の持ち主の生前のものと同じだった、という。
内臓やら脳みそやらを、誰かのものとまるきり変えてしまえば、まったく別の人間になることも、もしかしたらあるのかもしれない。理屈はわからないけど、肉体的な変化によって、人間というものは、容易くとはいえないまでも、変わるものなのかもしれない。
しかし、常識的な範囲で考えれば、人間が変わるのはなかなか難しい。何によって定められているかは定かではないけど、成長の過程で得た性格や特質を、結局そのまま続けることになるはずだ。短気な人はずっと短気だし、食べるのが好きな人はずっと食べ続ける。
人は、何によって、大きな、根本的な変化を起こすのだろうか?
僕自身のことで考えてみる。僕はこれまでにもいろいろ(といえるほどでもないのかもしれないけど)なことがあったけれども、基本的には今の自分は、中学や高校の頃の自分と大して変わらない。外面的に、つまり他人からの客観的な判断は多少変化しているかもしれないし、その変化を促すような言動をしている自覚もあるけれども、自分の根本の部分は何も変わっていない。
僕は、就職活動というものを一切した経験がないので、あくまでも想像だけれども、就職活動の過程で人は皆自分のことを見つめなおし、その結果、自分という存在が昔とほとんど変わりなく、ただ外面を繕う技術に長けていただけだ、ということに気付いたのではないか、と思う。そもそもそういう機会でもない限り、自分のことを見つめなおしたり振り返ったりするようなことはほとんどないわけで、変化しているように見えて実は何も変わっていない自分には、なかなか気付かないものかもしれない。
話を戻そう。一体人は何によって根本的に変化するのか?内臓やら脳みそやらを変えるでもなく、また洗脳などによって無理矢理変わるのでもなく。
実はきっと、些細なことなのだろう。言葉にしてしまえばそれは、「今いる世界とはまるで別の世界に触れた時」ということになるだろう。
人間が一生のうちに接することの出来る世界はかなり限られている。例えば僕で言えば、今まで外国に行ったことはないし、これからも特に行く予定はない。そのまま一生を終えれば、僕は日本以外の国というものを経験することなく人生を閉じることになる。
もちろん世界というのは人の数だけあるといっても過言ではなくて、出生や家柄、学校や就職、病気や天災、そうした様々に彩られる人生の、ほんの一部のパターンしか知ることがない。
自分の知らない、知っていても見たことも経験したことのない世界がやまほどあるということだ。そして、今生きているその世界とはまるで違う、次元やベクトルがまったく違う世界に触れた時、人は根本から変化する機会を得るのではないか。そう思った。
主人公は野田朝子。高校生。なんだかよくわからないうちに、友達の光一にそそのかされてとも言うか、登校拒否アンド引きこもりになった。
さてまずは、部屋の片付けか…。部屋のもの全部捨てる。本当に何もかも、ピアノも机もパソコンも全部捨てる。自分一人でマンションのゴミ捨て場に運ぶ。一苦労。
そこで、名もなき少年に出会う。捨てようとしていたパソコンを欲しいらしい。パソコンはろくに使えもしないし、壊れているのだし、捨てようと思っていたのだから、あげた。
それからは、親を騙しての引きこもり生活。そしてそのうちに、なんだか知らない間に、あの名もなき少年(青木かずよしという名前)と再会する。どうやらパソコンを直したらしく(というか実は壊れてなかった)、ネットも繋がっている。少年から、二人でできるアルバイトの話を聞き、あれよという間に即席の風俗チャットレディになりました。
初めて覗く性の世界。知らなかった新鮮な世界。そんな朝子の、新しい自分をインストールする物語。
まずは著者について触れないわけにはいかないだろう。
「蹴りたい背中」で最年少で芥川賞を受賞した著者のデビュー作。当時高校三年生、18歳。本作で文藝賞を受賞しデビューした。
デビュー当時高校生、という作家を僕は三人しか知らない。「夏と花火と私の死体」で17歳でデビューした乙一、「黒冷水」で18歳でデビューした羽田圭介、そして本作でデビューした綿矢りさである。
最近はとにかく、若い作家がどんどんデビューしているけれども、でも本作は別格という感じがする。文章がこなれているし、流れるように自然に物語は展開していく。
18歳にしては、などと書くと高校生を過小評価しすぎなのかもしれないけど、でも本当にその年齢にしてはあらゆるものを越えすぎているな、という気がする。
文学という観点は苦手なので、本作を文学的に見てどうか、なんて視点で何かを書くことはできないけど、読み物として、あるいはエンターテイメントとして本作を読む分には、充分すぎるほど水準をクリアしていると思う。
朝子もかなりいいけれど、少年の造型がとてもいい。達観しているようで幼い部分もある、という印象だ。僕は映画の「インストール」は見てないけど、朝子役が上戸彩で、少年役が神木隆之介だったと思う。本当に本作の少年の印象は、まさに神木隆之介そのままだと思う。
ただ、もう少し長くてもいいのにな、と思いました。どの部分をどう、ということは言えないけど。ただそれは、もっと長くこの物語を読んでいたかった、という僕の個人的な要望なだけかもしれないけれども。
かなりいい作品だと思います。「蹴りたい背中」も読んでみたいし、以降の作品があるならかなり期待したいと思います。そろそろ文庫になるはずなので、みなさん是非読んでみてください。
綿矢りさ「インストール」
臓器移植によって他人の心臓を手に入れた患者が、手術前後で性格がまるで変わってしまった、という話である。食べものの嗜好も、記憶すらも変化し、調べてみると、その手術後の患者の有様は、その心臓の元の持ち主の生前のものと同じだった、という。
内臓やら脳みそやらを、誰かのものとまるきり変えてしまえば、まったく別の人間になることも、もしかしたらあるのかもしれない。理屈はわからないけど、肉体的な変化によって、人間というものは、容易くとはいえないまでも、変わるものなのかもしれない。
しかし、常識的な範囲で考えれば、人間が変わるのはなかなか難しい。何によって定められているかは定かではないけど、成長の過程で得た性格や特質を、結局そのまま続けることになるはずだ。短気な人はずっと短気だし、食べるのが好きな人はずっと食べ続ける。
人は、何によって、大きな、根本的な変化を起こすのだろうか?
僕自身のことで考えてみる。僕はこれまでにもいろいろ(といえるほどでもないのかもしれないけど)なことがあったけれども、基本的には今の自分は、中学や高校の頃の自分と大して変わらない。外面的に、つまり他人からの客観的な判断は多少変化しているかもしれないし、その変化を促すような言動をしている自覚もあるけれども、自分の根本の部分は何も変わっていない。
僕は、就職活動というものを一切した経験がないので、あくまでも想像だけれども、就職活動の過程で人は皆自分のことを見つめなおし、その結果、自分という存在が昔とほとんど変わりなく、ただ外面を繕う技術に長けていただけだ、ということに気付いたのではないか、と思う。そもそもそういう機会でもない限り、自分のことを見つめなおしたり振り返ったりするようなことはほとんどないわけで、変化しているように見えて実は何も変わっていない自分には、なかなか気付かないものかもしれない。
話を戻そう。一体人は何によって根本的に変化するのか?内臓やら脳みそやらを変えるでもなく、また洗脳などによって無理矢理変わるのでもなく。
実はきっと、些細なことなのだろう。言葉にしてしまえばそれは、「今いる世界とはまるで別の世界に触れた時」ということになるだろう。
人間が一生のうちに接することの出来る世界はかなり限られている。例えば僕で言えば、今まで外国に行ったことはないし、これからも特に行く予定はない。そのまま一生を終えれば、僕は日本以外の国というものを経験することなく人生を閉じることになる。
もちろん世界というのは人の数だけあるといっても過言ではなくて、出生や家柄、学校や就職、病気や天災、そうした様々に彩られる人生の、ほんの一部のパターンしか知ることがない。
自分の知らない、知っていても見たことも経験したことのない世界がやまほどあるということだ。そして、今生きているその世界とはまるで違う、次元やベクトルがまったく違う世界に触れた時、人は根本から変化する機会を得るのではないか。そう思った。
主人公は野田朝子。高校生。なんだかよくわからないうちに、友達の光一にそそのかされてとも言うか、登校拒否アンド引きこもりになった。
さてまずは、部屋の片付けか…。部屋のもの全部捨てる。本当に何もかも、ピアノも机もパソコンも全部捨てる。自分一人でマンションのゴミ捨て場に運ぶ。一苦労。
そこで、名もなき少年に出会う。捨てようとしていたパソコンを欲しいらしい。パソコンはろくに使えもしないし、壊れているのだし、捨てようと思っていたのだから、あげた。
それからは、親を騙しての引きこもり生活。そしてそのうちに、なんだか知らない間に、あの名もなき少年(青木かずよしという名前)と再会する。どうやらパソコンを直したらしく(というか実は壊れてなかった)、ネットも繋がっている。少年から、二人でできるアルバイトの話を聞き、あれよという間に即席の風俗チャットレディになりました。
初めて覗く性の世界。知らなかった新鮮な世界。そんな朝子の、新しい自分をインストールする物語。
まずは著者について触れないわけにはいかないだろう。
「蹴りたい背中」で最年少で芥川賞を受賞した著者のデビュー作。当時高校三年生、18歳。本作で文藝賞を受賞しデビューした。
デビュー当時高校生、という作家を僕は三人しか知らない。「夏と花火と私の死体」で17歳でデビューした乙一、「黒冷水」で18歳でデビューした羽田圭介、そして本作でデビューした綿矢りさである。
最近はとにかく、若い作家がどんどんデビューしているけれども、でも本作は別格という感じがする。文章がこなれているし、流れるように自然に物語は展開していく。
18歳にしては、などと書くと高校生を過小評価しすぎなのかもしれないけど、でも本当にその年齢にしてはあらゆるものを越えすぎているな、という気がする。
文学という観点は苦手なので、本作を文学的に見てどうか、なんて視点で何かを書くことはできないけど、読み物として、あるいはエンターテイメントとして本作を読む分には、充分すぎるほど水準をクリアしていると思う。
朝子もかなりいいけれど、少年の造型がとてもいい。達観しているようで幼い部分もある、という印象だ。僕は映画の「インストール」は見てないけど、朝子役が上戸彩で、少年役が神木隆之介だったと思う。本当に本作の少年の印象は、まさに神木隆之介そのままだと思う。
ただ、もう少し長くてもいいのにな、と思いました。どの部分をどう、ということは言えないけど。ただそれは、もっと長くこの物語を読んでいたかった、という僕の個人的な要望なだけかもしれないけれども。
かなりいい作品だと思います。「蹴りたい背中」も読んでみたいし、以降の作品があるならかなり期待したいと思います。そろそろ文庫になるはずなので、みなさん是非読んでみてください。
綿矢りさ「インストール」
箱男(安部公房)
匿名性について論じようと思うのだが、なかなか難しい。
まず言葉遊びになるが、「匿名性」とはそもそも「目立たない」というような意味合いであるはずで、それを性質として保持している、という状況そのものがまず何かおかしさをまとっているような気もしないではない。
現代社会において、匿名性を獲得することは余りに容易である。技術の進化は、人間的な生き方の進化となりえたのか、あるいは退化を促しただけなのか、そのあたりのことを断じるのは難しいのだが、ともかくその恩恵の元に匿名性は成り立っている。識別のための名前を持つ個人としてではなく、社会という海原に浮かぶ一切れの木切れとして存在することができるようになってきているのである。
その最たるものが、インターネットによる世界である。そこはまさに、個人をほぼ分解しきることの出来る場である。徐々に匿名性を与える場に成長してきた、というのではなく、誕生したその段階から、匿名性という揺るぎなき性質を持っており、人々がその価値に気付いた、ということだろう。
今僕もこうして文章を書いています。このブログを読んでいる人は、僕のことを「本屋で働いている比較的若い男性」だと思っていることでしょう。しかし実際に僕が、「銀行で働いている中年女性」であっても、問題ないどころか、寧ろ自然とさえ取られてしまうような、そんな世界がすぐ手の届く範囲に広がっているのである。
しかし、少し前までは決してそうではなかった。
それは単に、インターネットが存在しなかった、というだけの問題ではなく、環境全般としてのあり方がまさにそうであった、ということだ。
少し前の社会では、小さなコミュニティの中で、名前以上の様々な識別が与えられ、濃密で親密な人間関係が形成されていたのだろうと思う。
もしも、そんな社会の中で「匿名性」を獲得したい、と考えた場合、一体どうすればいいだろうか?
唯一というわけではなく、寧ろかなり奇策ではあるが、本作で登場する、頭からダンボール箱を被って生活する、というスタイルは、確かにかなりの匿名性を与えたことだろう。残念ながら、今の社会では寧ろ逆効果で、果てしのない特殊性を帯びてしまうだろうけど。
さて、本作の内容を紹介したいと思うのだけれども、正直言って、まったく理解できていない。初めの内はまだついていけたのだけれども、中盤から後半にかけて、現実なのか奇想なのかの区別がつかなかったり、視点が激しく動き回ったり、そもそも箱男の存在が何だったかという点を見失ったりしてしまったため、物語に取り残される結果となった。
まず、主人公が誰なのかよくわからない。とにかく「ぼく」が主人公であり記述者のようである。記述者、というのは、本作は「ぼく」がノートだかどこだかに書いた文章そのもの、という体裁をとっているようで(恐らく)、その記述者という意味である。
ぼくは即ち箱男である。カメラマンだったのだが、いおいろあって今では箱男になっている。腰ほどまである箱を頭から被り、生活に最低限必要なものを箱の中に詰め、屋外で生活をしている。
そんな箱男は、あるきっかけからその箱を五万円で売ってくれるように頼まれる。その過程で出会う贋箱男との関係と、看護婦への熱烈な恋心。箱から抜け出すか否か、という選択肢を迫られているのだろう、と思う。
その後視点は様々に移り飛び、状況は次々と変遷を遂げ、次第についていけなくなり、追いつけないまま物語は閉じてしまった、という次第である。
解説を読んで少し分かったことがあるのだけれども、それでも完全にはわからない。
どうやら本作では、箱男という存在を、「見る」のと「見られる」の二つの観点から描いている、のだそうだ。つまり、「見られる」ことを恐れるが故に自らを隠し、「見る」ことを目的として自らを隠す。「見る」ことにより「贋」が登場し、その反転の関係が続く中で、同化するように視点も移動している、のだそうだ。自分で書いていることもわからないし、そもそも理解しないままに書いているのでどうしようもない。
箱を被って生活する、という形態は、結構悪くないだろうな、という感じが少しする。あくまでもそれが日常ではなく、非日常で非連続な瞬間としての有時間を僅か過ごすのならば、ということだが。視界が狭まることにより、あるいは匿名性を獲得することにより、世界が違って見えるというのは、確かなことかもしれない。
ただ、そんな箱男の存在を、奇妙なものとして扱っていない点が、なんだが不思議だな、という気がした。もちろん、箱男自身の視点で物語は進んでいるわけで、当然といえば当然だけれども、それでも奇妙さをほぼ完全に打ち消してしまうあたり、なかなかユニークな気がした。
僕は、この作品は、というか安部公房自体が、かなり古い存在だと思っていたのだけれども、本作の発行は昭和48年だし、著者は1993年まで存命だったというから、決してそこまで古いというわけではないのだな、と思った。初めのうち読んでいて、昔っぽさというか、文学的な古臭さをまったく感じなかくて、それは現代に近い作品とはいえ、なかなか驚くべき点ではないか、と思いました。
どうにも評価の難しい作品ですが、今の僕にはその大筋を理解することはできませんでした。実験的な部分についても、某かの理解を深めることはできてないと思います。読むようにお勧めすることはできないけど、でも教養のために読んでみてもいいのではないか、とそんな感じです。
安部公房「箱男」
まず言葉遊びになるが、「匿名性」とはそもそも「目立たない」というような意味合いであるはずで、それを性質として保持している、という状況そのものがまず何かおかしさをまとっているような気もしないではない。
現代社会において、匿名性を獲得することは余りに容易である。技術の進化は、人間的な生き方の進化となりえたのか、あるいは退化を促しただけなのか、そのあたりのことを断じるのは難しいのだが、ともかくその恩恵の元に匿名性は成り立っている。識別のための名前を持つ個人としてではなく、社会という海原に浮かぶ一切れの木切れとして存在することができるようになってきているのである。
その最たるものが、インターネットによる世界である。そこはまさに、個人をほぼ分解しきることの出来る場である。徐々に匿名性を与える場に成長してきた、というのではなく、誕生したその段階から、匿名性という揺るぎなき性質を持っており、人々がその価値に気付いた、ということだろう。
今僕もこうして文章を書いています。このブログを読んでいる人は、僕のことを「本屋で働いている比較的若い男性」だと思っていることでしょう。しかし実際に僕が、「銀行で働いている中年女性」であっても、問題ないどころか、寧ろ自然とさえ取られてしまうような、そんな世界がすぐ手の届く範囲に広がっているのである。
しかし、少し前までは決してそうではなかった。
それは単に、インターネットが存在しなかった、というだけの問題ではなく、環境全般としてのあり方がまさにそうであった、ということだ。
少し前の社会では、小さなコミュニティの中で、名前以上の様々な識別が与えられ、濃密で親密な人間関係が形成されていたのだろうと思う。
もしも、そんな社会の中で「匿名性」を獲得したい、と考えた場合、一体どうすればいいだろうか?
唯一というわけではなく、寧ろかなり奇策ではあるが、本作で登場する、頭からダンボール箱を被って生活する、というスタイルは、確かにかなりの匿名性を与えたことだろう。残念ながら、今の社会では寧ろ逆効果で、果てしのない特殊性を帯びてしまうだろうけど。
さて、本作の内容を紹介したいと思うのだけれども、正直言って、まったく理解できていない。初めの内はまだついていけたのだけれども、中盤から後半にかけて、現実なのか奇想なのかの区別がつかなかったり、視点が激しく動き回ったり、そもそも箱男の存在が何だったかという点を見失ったりしてしまったため、物語に取り残される結果となった。
まず、主人公が誰なのかよくわからない。とにかく「ぼく」が主人公であり記述者のようである。記述者、というのは、本作は「ぼく」がノートだかどこだかに書いた文章そのもの、という体裁をとっているようで(恐らく)、その記述者という意味である。
ぼくは即ち箱男である。カメラマンだったのだが、いおいろあって今では箱男になっている。腰ほどまである箱を頭から被り、生活に最低限必要なものを箱の中に詰め、屋外で生活をしている。
そんな箱男は、あるきっかけからその箱を五万円で売ってくれるように頼まれる。その過程で出会う贋箱男との関係と、看護婦への熱烈な恋心。箱から抜け出すか否か、という選択肢を迫られているのだろう、と思う。
その後視点は様々に移り飛び、状況は次々と変遷を遂げ、次第についていけなくなり、追いつけないまま物語は閉じてしまった、という次第である。
解説を読んで少し分かったことがあるのだけれども、それでも完全にはわからない。
どうやら本作では、箱男という存在を、「見る」のと「見られる」の二つの観点から描いている、のだそうだ。つまり、「見られる」ことを恐れるが故に自らを隠し、「見る」ことを目的として自らを隠す。「見る」ことにより「贋」が登場し、その反転の関係が続く中で、同化するように視点も移動している、のだそうだ。自分で書いていることもわからないし、そもそも理解しないままに書いているのでどうしようもない。
箱を被って生活する、という形態は、結構悪くないだろうな、という感じが少しする。あくまでもそれが日常ではなく、非日常で非連続な瞬間としての有時間を僅か過ごすのならば、ということだが。視界が狭まることにより、あるいは匿名性を獲得することにより、世界が違って見えるというのは、確かなことかもしれない。
ただ、そんな箱男の存在を、奇妙なものとして扱っていない点が、なんだが不思議だな、という気がした。もちろん、箱男自身の視点で物語は進んでいるわけで、当然といえば当然だけれども、それでも奇妙さをほぼ完全に打ち消してしまうあたり、なかなかユニークな気がした。
僕は、この作品は、というか安部公房自体が、かなり古い存在だと思っていたのだけれども、本作の発行は昭和48年だし、著者は1993年まで存命だったというから、決してそこまで古いというわけではないのだな、と思った。初めのうち読んでいて、昔っぽさというか、文学的な古臭さをまったく感じなかくて、それは現代に近い作品とはいえ、なかなか驚くべき点ではないか、と思いました。
どうにも評価の難しい作品ですが、今の僕にはその大筋を理解することはできませんでした。実験的な部分についても、某かの理解を深めることはできてないと思います。読むようにお勧めすることはできないけど、でも教養のために読んでみてもいいのではないか、とそんな感じです。
安部公房「箱男」
薬指の標本(小川洋子)
自分だけで抱えていたいこと、抱えなくてはいけないこと。人にはそれぞれ、自分の中だけで処理し、完結させなくてはならない様々なことがあるだろうと思う。
それぞれの人の中で、それがどういう形となって納められているのかはわからない。名前のついた感情として、形ある物質に依存する形で、時間の狭間に潜む暗闇のように。語るべき言葉として表現できる場合なら、まだなんとかうまく扱うことはできるかもしれないが、言葉にできない、あるいはしたとたんに嘘になってしまうような、そんな繊細なものも多くあるはずだ。
人はそうした様々なモノを、実際的にどう扱っているのだろうか。本作を読んでそんな疑問を持った。
僕の場合で言えば、かなり抽象的な話になってしまうけれども、そのモノのためのスペースを何とか作り出してそこに納め、場合によっては何度か取り出して眺め、場合によっては二度と見ないように忘れようと努力する。そうしたことをしているような気がする。
何かに打ち込むことで忘れようとする。そのモノの存在するスペースを奪い、初めからなかったかのように振舞う。自らに何かを課すかのように、あからさまな形でわかりやすくしておく。そうした人それぞれのやり方はあるのだろう。
しかしそうした処理は、あくまでも外側とは繋がっていない。自分の中で、内部で、内側のみで行われることであり、べきことでもあるはずだ。抱える、という行為そのものに既に、外部に出さないという意味合いが含まれているとでも言うように、それは自らの中でひっそりと行われる。
しかしもしも、同じだけの静けさを保ったまま、それを外部で行うことが出来るとすれば、あなたはそれに頼ろうとするだろうか?頼りたいと願う気持ちを許容できるだろうか?
本作はそうした、自ら抱えたものを外部に委託するような、そんな少し奇妙でしかし穏やかな物語である。
本作は短編集であるが、収録されているのは二作だけである。どちらの話も結構悪くなくて、いいなと思った。決して分かりやすいわけじゃないし、僕の得意ではない恋愛小説っぽい作品だけど、それにしてはよかったなと思う。
まずそれぞれの作品を紹介しようと思う。
「薬指の標本」
今のわたしの職場は、標本室だ。以前までは、果樹園に囲まれた清涼飲料水工場でサイダーを作っていて、その時の事故で、薬指の先を少しだけ失った。
標本室には、様々な人が、様々なものを標本してもらいにやってくる。わたしはそれらを預かり、また何故そのものがここにやってくるに至ったか、という依頼人の話を慎ましやかに聞き、そして標本技術者である弟子丸氏に預ける。それが今のわたしの仕事。
弟子丸氏は、建物内の風呂場で、私に合う靴をプレゼントしてくれた。まるで、私の足に同化するようなぴったりした靴を…
標本、というアイデアはとてもいいな、と思いました。誰もが恐らく抱えている、処分するわけにもいかず、しかしもっていたくもないモノ。それらを標本にすることで、処分はしていないし、いつでも見に来ることはできる。しかし手元にはない、という絶妙の距離感を生み出すことができています。僕には今、特別に標本にしたいものがあるわけではないけど、こういう標本室があったらいいなと思います。
しかし、わたしと弟子丸氏の関係がなかなか難しいな、という感じです。火傷の女の子についても気になりますし。帯に書いてあるように、「フェティッシュ」な恋愛なのでしょう。
それでも、結構好きな話です。
「六角形の小部屋」
わたしは、デートの前によったトレーニングジムでミドリさんに出会った。背中の痛みのために、リハビリとして水泳をするようになったのだが、その日は、恋人になるかならないか、という男性とデートの約束があったにも関わらず、しかも自分は積極的に人間関係を築こうとする人間でもないにも関わらず、何故だか彼女に話し掛けていた。
ある日買い物をしているミドリさんを見つけてしまい、後をつけることに。迷いのないその足取りで向かったのは、人気のない、しかし敷地だけは広いうち捨てられたような建物だった。
そこでわたしは見つけることになる。六角形の小部屋を。ただ中に入って語るための部屋であり、以降そこに通い、思っていることを吐き出すように語るようになった…
抱えているものを外部で処理する、という基本的なスタイルは同じですが、こちらの方がやや実際的な感じがします。現実にあってもぜんぜん不自然ではない気がします。
実際今の生活の中では、周囲を一切気にすることなく一人きりで語ることのできるスペースなどどこにもないような気がします。語らいの相手としてペットを飼ったりするぐらいです。現実にあったらいいかもしれません。
こちらも、曖昧な印象が漠然と残る程度ですが、でも作品の印象としては嫌いではありません。
小川洋子の作品は結構読んでいますが、それも僕にあまり合わなそうなストーリーであり設定であるような気がするのだけれども、でも不思議とはまってしまいます。直接的に何かを描こうとしない回りくどさは多少苦手なはずなのに、小川洋子の作品の場合大丈夫な気がします。自分の中では不思議です。
「六角形の小部屋」の中で、運命や偶然についての話が出てきました。僕は偶然なんてものはあまり信じません。例え会話や文章の中で「偶然」という単語を使っていても、それは何かを強調していたり、あるいは他の意味で使っていたりする場合がほとんどだと思います。
僕は、未来は決まっているという風に考えています。遠い先の先まで未来は確定していて、僕らはその上をなぞるようにして生きているのだと。いじわるな存在が僕らに未来を教えてくれないだけで、本当は全て何もかも決まっているんだと。そう思っている方が、なんだかいろいろ安心な気がします。皆さんはどうでしょうか?
「薬指の標本」ですが、映画化されるようです。しかも日本でではなくフランスでだそうです。なんかすごい気がします。僕はその情報を、文庫の帯で見ただけなので、映画化されたのか、公開中なのか、撮影中なにかはっきりは知りませんが。
本作も含め、小川洋子の作品はお勧めです。一つにはまれば、他のどの作品にもはまることができるのではないかと思います。是非、何でもいいので一冊読んでみて欲しいと思います。
小川洋子「薬指の標本」
それぞれの人の中で、それがどういう形となって納められているのかはわからない。名前のついた感情として、形ある物質に依存する形で、時間の狭間に潜む暗闇のように。語るべき言葉として表現できる場合なら、まだなんとかうまく扱うことはできるかもしれないが、言葉にできない、あるいはしたとたんに嘘になってしまうような、そんな繊細なものも多くあるはずだ。
人はそうした様々なモノを、実際的にどう扱っているのだろうか。本作を読んでそんな疑問を持った。
僕の場合で言えば、かなり抽象的な話になってしまうけれども、そのモノのためのスペースを何とか作り出してそこに納め、場合によっては何度か取り出して眺め、場合によっては二度と見ないように忘れようと努力する。そうしたことをしているような気がする。
何かに打ち込むことで忘れようとする。そのモノの存在するスペースを奪い、初めからなかったかのように振舞う。自らに何かを課すかのように、あからさまな形でわかりやすくしておく。そうした人それぞれのやり方はあるのだろう。
しかしそうした処理は、あくまでも外側とは繋がっていない。自分の中で、内部で、内側のみで行われることであり、べきことでもあるはずだ。抱える、という行為そのものに既に、外部に出さないという意味合いが含まれているとでも言うように、それは自らの中でひっそりと行われる。
しかしもしも、同じだけの静けさを保ったまま、それを外部で行うことが出来るとすれば、あなたはそれに頼ろうとするだろうか?頼りたいと願う気持ちを許容できるだろうか?
本作はそうした、自ら抱えたものを外部に委託するような、そんな少し奇妙でしかし穏やかな物語である。
本作は短編集であるが、収録されているのは二作だけである。どちらの話も結構悪くなくて、いいなと思った。決して分かりやすいわけじゃないし、僕の得意ではない恋愛小説っぽい作品だけど、それにしてはよかったなと思う。
まずそれぞれの作品を紹介しようと思う。
「薬指の標本」
今のわたしの職場は、標本室だ。以前までは、果樹園に囲まれた清涼飲料水工場でサイダーを作っていて、その時の事故で、薬指の先を少しだけ失った。
標本室には、様々な人が、様々なものを標本してもらいにやってくる。わたしはそれらを預かり、また何故そのものがここにやってくるに至ったか、という依頼人の話を慎ましやかに聞き、そして標本技術者である弟子丸氏に預ける。それが今のわたしの仕事。
弟子丸氏は、建物内の風呂場で、私に合う靴をプレゼントしてくれた。まるで、私の足に同化するようなぴったりした靴を…
標本、というアイデアはとてもいいな、と思いました。誰もが恐らく抱えている、処分するわけにもいかず、しかしもっていたくもないモノ。それらを標本にすることで、処分はしていないし、いつでも見に来ることはできる。しかし手元にはない、という絶妙の距離感を生み出すことができています。僕には今、特別に標本にしたいものがあるわけではないけど、こういう標本室があったらいいなと思います。
しかし、わたしと弟子丸氏の関係がなかなか難しいな、という感じです。火傷の女の子についても気になりますし。帯に書いてあるように、「フェティッシュ」な恋愛なのでしょう。
それでも、結構好きな話です。
「六角形の小部屋」
わたしは、デートの前によったトレーニングジムでミドリさんに出会った。背中の痛みのために、リハビリとして水泳をするようになったのだが、その日は、恋人になるかならないか、という男性とデートの約束があったにも関わらず、しかも自分は積極的に人間関係を築こうとする人間でもないにも関わらず、何故だか彼女に話し掛けていた。
ある日買い物をしているミドリさんを見つけてしまい、後をつけることに。迷いのないその足取りで向かったのは、人気のない、しかし敷地だけは広いうち捨てられたような建物だった。
そこでわたしは見つけることになる。六角形の小部屋を。ただ中に入って語るための部屋であり、以降そこに通い、思っていることを吐き出すように語るようになった…
抱えているものを外部で処理する、という基本的なスタイルは同じですが、こちらの方がやや実際的な感じがします。現実にあってもぜんぜん不自然ではない気がします。
実際今の生活の中では、周囲を一切気にすることなく一人きりで語ることのできるスペースなどどこにもないような気がします。語らいの相手としてペットを飼ったりするぐらいです。現実にあったらいいかもしれません。
こちらも、曖昧な印象が漠然と残る程度ですが、でも作品の印象としては嫌いではありません。
小川洋子の作品は結構読んでいますが、それも僕にあまり合わなそうなストーリーであり設定であるような気がするのだけれども、でも不思議とはまってしまいます。直接的に何かを描こうとしない回りくどさは多少苦手なはずなのに、小川洋子の作品の場合大丈夫な気がします。自分の中では不思議です。
「六角形の小部屋」の中で、運命や偶然についての話が出てきました。僕は偶然なんてものはあまり信じません。例え会話や文章の中で「偶然」という単語を使っていても、それは何かを強調していたり、あるいは他の意味で使っていたりする場合がほとんどだと思います。
僕は、未来は決まっているという風に考えています。遠い先の先まで未来は確定していて、僕らはその上をなぞるようにして生きているのだと。いじわるな存在が僕らに未来を教えてくれないだけで、本当は全て何もかも決まっているんだと。そう思っている方が、なんだかいろいろ安心な気がします。皆さんはどうでしょうか?
「薬指の標本」ですが、映画化されるようです。しかも日本でではなくフランスでだそうです。なんかすごい気がします。僕はその情報を、文庫の帯で見ただけなので、映画化されたのか、公開中なのか、撮影中なにかはっきりは知りませんが。
本作も含め、小川洋子の作品はお勧めです。一つにはまれば、他のどの作品にもはまることができるのではないかと思います。是非、何でもいいので一冊読んでみて欲しいと思います。
小川洋子「薬指の標本」
神の子どもたちはみな踊る(村上春樹)
僕は書店で文庫担当をしているのだけれども、スタッフの仕事場に無造作に置かれていた、司馬遼太郎のハードカバー(タイトルは忘れたけど、エッセイか短編を纏めたものだったように思う)の帯に、短編小説についての言があったので、思い出せる限り引用してみようと思う。
「短編小説を書くのには、空気中におかれた手ぬぐいから水を搾り出すぐらいの努力が必要だ」
正確な引用ではないので微妙ですが、こんな感じの文章がありました。
僕は、今でこそこうして様々に本を読んでいますが、大学に入るまでは、ある限られた範囲の限られた小説しか読んでいませんでした。短編小説を読んだことがあるか、も不明です。
ただ、こんな印象を持っていたことだけは確かだろうと思います。
短編小説を書く方が簡単だろう。何せ、それだけ書く文章が少なくて済むのだから、と。
大学のある時から無差別に様々な本を読むようになり、多く短編小説を読み、またあとがきや著者のインタビューなどを読むことで、ようやく僕も、短編小説を書くほうが難しいのかもしれない、と思えるようになりました。どこがどう大変なのかを説明することは難しいのですが。
例えばこんな風に考えたこともあります。長編小説を著者が削りに削れば短編小説になるだろう、と。しかし恐らくそれは間違いでしょう。しかし、その逆はありえるだろうと思います。横山秀夫のように、短編を組み合わせて長編にしたり、梅原克文のように、まず短い作品を書き、それを何段階かに分けて膨らませる、というやり方をする作家もいるぐらいです。
実際、何が難しいのでしょうか。作家によっても違うことでしょう。書きたいことがありすぎて削れない人もいれば(まあそういう人は長編を書けばいいのですが)、あるいは長編とはまったく別の作り方をしているからなのかもしれません。
読者の一人として短編小説について書くとすれば、基本的には、無駄がなさ過ぎて物足りない、という感想を抱くことが多いような気がします。もちろんいい作品はいっぱいありますし、短編で好きな作家や作品というのもいますが。やはりそれは、短いストーリーの中に、無駄をどのくらい残すことができるか、という勝負であり、そこが大変だ、ということなのかもしれません。
村上春樹の短編も何作か読みました。「蛍」や「回転木馬」で、本作で三冊目です。
しかし、どうも村上春樹の短編は理解できません。先ほど僕が書いた例を出すならば、無駄でない部分がどこなのか判断することができずに、その区別をつけられないまま物語が閉じてしまう、ということだと思います。
もちろん文章やリズムがいいのだ、という人はいるでしょう。また、一度読むだけで理解できる作品こそダメなのだという人もあるかもしれないし、人によっては理解できてしまう人もいるのでしょう。
しかし、僕には村上春樹の短編は合いません。僕にとっては、村上春樹の、長い長い物語を拾い上げている途中でようやく作品に入り込むことができ、終盤に差し掛かると否応なく抜け出せなくなり、最後には感銘している、というパターンがほとんどです。なので、短い作品で、その世界に入り込む前に閉じてしまうような短編は合わない、ということなのでしょう。
というわけで本作も、全般的には理解しがたい、そしてなかなか入り込むことも難しい作品でした。
本作は、それぞれの作品が、あの阪神大震災と何らかの関係があるように描かれた作品です。「ように」というのは、僕自身がその関係を充分に理解することができていないためです。「新潮」という雑誌で発表された、「地震のあとで」と題された作品を集めたものです。
とりあえずおおまかにざっと、それぞれの作品を紹介しようと思います。
「UFOが釧路に降りる」
阪神大震災が起こってからそのニュースを見続けた妻が突然書置きを残していなくなった。そこで有給休暇をとりあえずとることに。同僚に旅行でもどうですかと言われ、もし北海道に行ってくれるなら、ちょっとした荷物を釧路まで届けてほしい、と頼まれる。快く引き受けるとそのまま北海道へ行く。
「アイロンのある風景」
高校の頃に家出をした順子は、コンビニのアルバイト先で見かける三宅のおじさんと知り合いになる。冷蔵庫が嫌いで、仕方なく毎日三回食材を買いに来ているのだ。三宅のおじさんは焚き火が好きで、というか達人で、浜辺に寝そべる流木を集めては、順子を呼び焚き火をしている。
「神の子どもたちはみな踊る」
「あなたは天の『あの方』の子どもなのよ」神の子どもだと言われて育った善也は、ある時母親の信じている信仰から抜けた。耳の欠けた、完璧な避妊を行う産婦人科医の子どものようで、街で見かけた耳の欠けた男の後を何故か追うことに。
「タイランド」
学会のためにタイを訪れたさつきは、そのまましばらくタイで休暇を取ることに。ニミットというタイ人の案内でタイでの休暇を充分に満喫することができる。ニミットはかなり優秀だ。滞在最終日、そのニミットが会わせたい人がいる、と言ってきた。
「かえるくん、東京を救う」
家に帰ると、二足立ちしたその背丈がゆうに2mを越す蛙がいた。自分のことはかえるくんと呼んでください、とその蛙は言い、東京安全信用金庫新宿支店融資管理課の係長補佐である片桐とともに、東京を地震から救うため、みみずくんと戦わなくてはいけないのだ、と言う。
「蜂蜜パイ」
大学時代から仲の良かった小夜子と順平と高槻。高槻と小夜子は結婚をし、子どもをもうけ、それでも三人は以前と同じような付き合いをしていた。それが何故か順平は今、夢に出てくる地震男のせいで家中をチェックする、小夜子の娘沙羅に、即興で熊のまさきちの話をしている。
震災の話はそれぞれにちらりと出てきます。しかしそれは決して物語の本筋にはなりえず、寧ろその世界を正しく組み合わせるための一部品として扱われている印象があります。著者の中で、どのように本筋と強く結びついているのかわかりませんが、僕にはちょっとわかりませんでした。
短編小説の場合、意図的に描かれないことが多いような気がします。しかし、村上春樹の場合、長編であっても意図的に描かれないことはよくあるので、短編だからというわけではなさそうで、その辺も少しだけ混同しそうになります。
それぞれの短編を読むと、形はないけど、しかし感触だけはある、というようなそんな物体を掴んだ気になります。暗闇の中で何かを掴んだり、あるいは雲のように、形の一定でないものを掴んでいるのかもしれません。ともかく、掴んだものが何かわからず、どこから見ればその形がわかるのか、どう見据えれば展開できるのかすらもわからず、そのために何も掴めない場合以上に不安定な感じが残るような気がします。
まあ難しいことを言わずに書けば、正直よくわからなかったということです。
本作で、それでも結構好きだな、と思ったのは、「かえるくん、東京を救う」と「蜂蜜パイ」です。「かえるくん~」は、とにかく出だしのインパクトとありえない設定に、「蜂蜜~」は作中の熊のまさきちの話が面白いなと思いました。
僕としては、ちょっとお勧めはできない作品です。読んで悪いということはありませんが。そんな感じです。
村上春樹「神の子どもたちはみな踊る」
「短編小説を書くのには、空気中におかれた手ぬぐいから水を搾り出すぐらいの努力が必要だ」
正確な引用ではないので微妙ですが、こんな感じの文章がありました。
僕は、今でこそこうして様々に本を読んでいますが、大学に入るまでは、ある限られた範囲の限られた小説しか読んでいませんでした。短編小説を読んだことがあるか、も不明です。
ただ、こんな印象を持っていたことだけは確かだろうと思います。
短編小説を書く方が簡単だろう。何せ、それだけ書く文章が少なくて済むのだから、と。
大学のある時から無差別に様々な本を読むようになり、多く短編小説を読み、またあとがきや著者のインタビューなどを読むことで、ようやく僕も、短編小説を書くほうが難しいのかもしれない、と思えるようになりました。どこがどう大変なのかを説明することは難しいのですが。
例えばこんな風に考えたこともあります。長編小説を著者が削りに削れば短編小説になるだろう、と。しかし恐らくそれは間違いでしょう。しかし、その逆はありえるだろうと思います。横山秀夫のように、短編を組み合わせて長編にしたり、梅原克文のように、まず短い作品を書き、それを何段階かに分けて膨らませる、というやり方をする作家もいるぐらいです。
実際、何が難しいのでしょうか。作家によっても違うことでしょう。書きたいことがありすぎて削れない人もいれば(まあそういう人は長編を書けばいいのですが)、あるいは長編とはまったく別の作り方をしているからなのかもしれません。
読者の一人として短編小説について書くとすれば、基本的には、無駄がなさ過ぎて物足りない、という感想を抱くことが多いような気がします。もちろんいい作品はいっぱいありますし、短編で好きな作家や作品というのもいますが。やはりそれは、短いストーリーの中に、無駄をどのくらい残すことができるか、という勝負であり、そこが大変だ、ということなのかもしれません。
村上春樹の短編も何作か読みました。「蛍」や「回転木馬」で、本作で三冊目です。
しかし、どうも村上春樹の短編は理解できません。先ほど僕が書いた例を出すならば、無駄でない部分がどこなのか判断することができずに、その区別をつけられないまま物語が閉じてしまう、ということだと思います。
もちろん文章やリズムがいいのだ、という人はいるでしょう。また、一度読むだけで理解できる作品こそダメなのだという人もあるかもしれないし、人によっては理解できてしまう人もいるのでしょう。
しかし、僕には村上春樹の短編は合いません。僕にとっては、村上春樹の、長い長い物語を拾い上げている途中でようやく作品に入り込むことができ、終盤に差し掛かると否応なく抜け出せなくなり、最後には感銘している、というパターンがほとんどです。なので、短い作品で、その世界に入り込む前に閉じてしまうような短編は合わない、ということなのでしょう。
というわけで本作も、全般的には理解しがたい、そしてなかなか入り込むことも難しい作品でした。
本作は、それぞれの作品が、あの阪神大震災と何らかの関係があるように描かれた作品です。「ように」というのは、僕自身がその関係を充分に理解することができていないためです。「新潮」という雑誌で発表された、「地震のあとで」と題された作品を集めたものです。
とりあえずおおまかにざっと、それぞれの作品を紹介しようと思います。
「UFOが釧路に降りる」
阪神大震災が起こってからそのニュースを見続けた妻が突然書置きを残していなくなった。そこで有給休暇をとりあえずとることに。同僚に旅行でもどうですかと言われ、もし北海道に行ってくれるなら、ちょっとした荷物を釧路まで届けてほしい、と頼まれる。快く引き受けるとそのまま北海道へ行く。
「アイロンのある風景」
高校の頃に家出をした順子は、コンビニのアルバイト先で見かける三宅のおじさんと知り合いになる。冷蔵庫が嫌いで、仕方なく毎日三回食材を買いに来ているのだ。三宅のおじさんは焚き火が好きで、というか達人で、浜辺に寝そべる流木を集めては、順子を呼び焚き火をしている。
「神の子どもたちはみな踊る」
「あなたは天の『あの方』の子どもなのよ」神の子どもだと言われて育った善也は、ある時母親の信じている信仰から抜けた。耳の欠けた、完璧な避妊を行う産婦人科医の子どものようで、街で見かけた耳の欠けた男の後を何故か追うことに。
「タイランド」
学会のためにタイを訪れたさつきは、そのまましばらくタイで休暇を取ることに。ニミットというタイ人の案内でタイでの休暇を充分に満喫することができる。ニミットはかなり優秀だ。滞在最終日、そのニミットが会わせたい人がいる、と言ってきた。
「かえるくん、東京を救う」
家に帰ると、二足立ちしたその背丈がゆうに2mを越す蛙がいた。自分のことはかえるくんと呼んでください、とその蛙は言い、東京安全信用金庫新宿支店融資管理課の係長補佐である片桐とともに、東京を地震から救うため、みみずくんと戦わなくてはいけないのだ、と言う。
「蜂蜜パイ」
大学時代から仲の良かった小夜子と順平と高槻。高槻と小夜子は結婚をし、子どもをもうけ、それでも三人は以前と同じような付き合いをしていた。それが何故か順平は今、夢に出てくる地震男のせいで家中をチェックする、小夜子の娘沙羅に、即興で熊のまさきちの話をしている。
震災の話はそれぞれにちらりと出てきます。しかしそれは決して物語の本筋にはなりえず、寧ろその世界を正しく組み合わせるための一部品として扱われている印象があります。著者の中で、どのように本筋と強く結びついているのかわかりませんが、僕にはちょっとわかりませんでした。
短編小説の場合、意図的に描かれないことが多いような気がします。しかし、村上春樹の場合、長編であっても意図的に描かれないことはよくあるので、短編だからというわけではなさそうで、その辺も少しだけ混同しそうになります。
それぞれの短編を読むと、形はないけど、しかし感触だけはある、というようなそんな物体を掴んだ気になります。暗闇の中で何かを掴んだり、あるいは雲のように、形の一定でないものを掴んでいるのかもしれません。ともかく、掴んだものが何かわからず、どこから見ればその形がわかるのか、どう見据えれば展開できるのかすらもわからず、そのために何も掴めない場合以上に不安定な感じが残るような気がします。
まあ難しいことを言わずに書けば、正直よくわからなかったということです。
本作で、それでも結構好きだな、と思ったのは、「かえるくん、東京を救う」と「蜂蜜パイ」です。「かえるくん~」は、とにかく出だしのインパクトとありえない設定に、「蜂蜜~」は作中の熊のまさきちの話が面白いなと思いました。
僕としては、ちょっとお勧めはできない作品です。読んで悪いということはありませんが。そんな感じです。
村上春樹「神の子どもたちはみな踊る」
レテの支流(早瀬乱)
忘れてしまいたい過去、やり直したい過去がある場合、人は何を望むだろうか?
現実には不可能だけれども、小説ではそういうケースはよく扱われる。
一つは、タイムマシンやその他の方法により過去へと行き、そこで過去を変える、という発想である。
そしてもう一つは、過去の記憶を消去してしまう、という発想である。
記憶というのはなかなか複雑で難しいものであり、そもそも脳というものが未だによくわかっていない存在である。現実的に、記憶のある一部分だけを消してしまう、なんてことは不可能である。
しかし、もしもそんな技術が開発されたとして、あなたは一体どんな記憶を消したいと思うだろうか?
改めてそういわれると、少し考えてしまうように思う。記憶を消すことで全てを解決することが出来るのだろうか、という問題が常に残るような気がするのだ。本作を読んで尚更そう思った。
本作では、感情を伴うエピソード記憶を消去し、それに関する知識だけを意味記憶として再学習する、というやり方で、記憶の連続性を保とうとしている。記憶を消してしまうことによって、日常生活に支障をきたさないためである。
しかし、再学習用の意味記憶に嘘を交えることも、そもそも再学習をしないという選択肢もできるはずだ。
それでも、忘れたことに対して、日常に齟齬がでなければ問題ない。しかしもしそうなったら、忘れようとして消した記憶を、自ら求めるという、奇妙な結果に陥ってしまうだろう。それは嫌だと思う。
よくわからないけど、結局そんな技術が開発されないことが一番良いだろうと思う。人間は弱いし、短絡的な思考をしてしまうのだから、そんな技術ができれば、やりたいと望む人は多いだろうし、後悔する人も多く出るだろう。
本作は、記憶を消すことのできる技術を持つ世界での物語である。
怜治は、S大医学部で脳を研究している友人山村の協力の元、自らの記憶を消すことに決めた。消す記憶は、一時期一世を風靡したロックバンド「レテ」のボーカルとして活躍した栄光の二年間の記憶だった。その栄光の記憶が邪魔をして、凋落した今となっても自分を苦しめている。怜治はそう考えていた。
望み通り記憶を消し、過去と決別した怜治は、今までとは違う自分を経験する。
ただ、高校の同級生だった小山悟を見かけた時から、彼の周囲では異常な出来事が多発するようになる。事故や病気で相次いで死んでいく友人。思いがけない記憶の喪失。
一体今何が起きていて、過去には一体何があったのか。失われた記憶を求めて怜治は彷徨い、そしてその果てに、驚くべき事実を知ることになる…。
本作で使われているアイデアについては割りと面白いな、と思いました。なるほど、こういう解釈はまあありえるかな、と。
しかし、それをうまく扱いこなせていない、という印象をうけました。特徴的な欠陥が特にあるわけでもないんだけど、でも全然面白くない。
全然お勧めできない作品なので、まあ読まなくていいと思います。
早瀬乱「レテの支流」
現実には不可能だけれども、小説ではそういうケースはよく扱われる。
一つは、タイムマシンやその他の方法により過去へと行き、そこで過去を変える、という発想である。
そしてもう一つは、過去の記憶を消去してしまう、という発想である。
記憶というのはなかなか複雑で難しいものであり、そもそも脳というものが未だによくわかっていない存在である。現実的に、記憶のある一部分だけを消してしまう、なんてことは不可能である。
しかし、もしもそんな技術が開発されたとして、あなたは一体どんな記憶を消したいと思うだろうか?
改めてそういわれると、少し考えてしまうように思う。記憶を消すことで全てを解決することが出来るのだろうか、という問題が常に残るような気がするのだ。本作を読んで尚更そう思った。
本作では、感情を伴うエピソード記憶を消去し、それに関する知識だけを意味記憶として再学習する、というやり方で、記憶の連続性を保とうとしている。記憶を消してしまうことによって、日常生活に支障をきたさないためである。
しかし、再学習用の意味記憶に嘘を交えることも、そもそも再学習をしないという選択肢もできるはずだ。
それでも、忘れたことに対して、日常に齟齬がでなければ問題ない。しかしもしそうなったら、忘れようとして消した記憶を、自ら求めるという、奇妙な結果に陥ってしまうだろう。それは嫌だと思う。
よくわからないけど、結局そんな技術が開発されないことが一番良いだろうと思う。人間は弱いし、短絡的な思考をしてしまうのだから、そんな技術ができれば、やりたいと望む人は多いだろうし、後悔する人も多く出るだろう。
本作は、記憶を消すことのできる技術を持つ世界での物語である。
怜治は、S大医学部で脳を研究している友人山村の協力の元、自らの記憶を消すことに決めた。消す記憶は、一時期一世を風靡したロックバンド「レテ」のボーカルとして活躍した栄光の二年間の記憶だった。その栄光の記憶が邪魔をして、凋落した今となっても自分を苦しめている。怜治はそう考えていた。
望み通り記憶を消し、過去と決別した怜治は、今までとは違う自分を経験する。
ただ、高校の同級生だった小山悟を見かけた時から、彼の周囲では異常な出来事が多発するようになる。事故や病気で相次いで死んでいく友人。思いがけない記憶の喪失。
一体今何が起きていて、過去には一体何があったのか。失われた記憶を求めて怜治は彷徨い、そしてその果てに、驚くべき事実を知ることになる…。
本作で使われているアイデアについては割りと面白いな、と思いました。なるほど、こういう解釈はまあありえるかな、と。
しかし、それをうまく扱いこなせていない、という印象をうけました。特徴的な欠陥が特にあるわけでもないんだけど、でも全然面白くない。
全然お勧めできない作品なので、まあ読まなくていいと思います。
早瀬乱「レテの支流」
天使のナイフ(薬丸岳)
可塑性、という言葉を、聞いたことがないではなかったけど、でもその言葉が、まさか少年法という舞台で使われるとは思わなかった。
可塑性、というのは、粘土に例えると分かりやすい。粘土は、一度形を作っても、気に入らなければその形を変えることができる。柔軟性ともいえるだろうか、そうした性質のことを、可塑性というらしい。
少年法は、少年の可塑性に期待してそもそも作られている。
少年は、まだ形が定まっていない。一度間違いを犯したからと言って、その形のままであるということはない。教育を施し、更正によって新たな形を手に入れることができれば、再びやり直せるのだ、と。
しかし、こうした法律は、かなり昔に作られたものであるということを忘れてはいけないと思う。確かに、昔の少年はそうだったかもしれない。しかし、少年のそもそもの質が変わってきた今、その法律がどれだけ有効か、僕にはわからない。
少年法に対する僕の考え方は、以前に「さまよう刃」の感想で書いた。存在自体を否定するつもりはない。しかし、年齢の設定に関してはもっと柔軟性があるべきではないか、と。
誰にとっても素晴らしい法律なんかありえないことはわかっている。それは理想であり、理想では社会は作れない。
それでも、加害者よりも被害者が苦しみ、加害者の方が守られるような法律は、やはり間違っているように思う。
現行の少年法の場合、例えどれだけ計画的で悪意を持った犯行であっても、ある年齢以下の人間の犯行ならば、罪には問われない、ということになっている。でも、普通に考えてやはりそれは間違っていると思う。しっかりと自分のしたことを認識させ、それに対しての罰を与えてから、それから教育をすればいいのではないか。僕はそんな風に思ってしまう。
本作中に、何度かいい文章があったので、抜き出してみようと思う。
(前略)
さらに少年審判は非公開で、被疑者やその家族ですら傍聴することができない。調査官は被疑者の家族である桧山の慟哭に耳を傾けることもなく、被疑者の苦悩を裁判官に届けることもしないのだ。(中略)
そんな中で果たして、少年たちは被害者の苦しみを本当に理解して、改悛するというのだろうか。
(後略)
確かに、被害者という存在と向き合うことなく、罪の大きさを知り、その深さを実感することはできるのだろうか?
(前略)
罪を犯した者が勉学に励み、真っ当な仕事に就くことが更正なのだろうか。二度と刑罰法令に触れる行為を行わないということを更正というのだろうか。確かに社会にとってはそれも重要なことだろう。しかし、桧山は違うと思った。これから自分がどう生きていくかという前に、自分が犯してしまった過ちに、真正面から向き合うということが、真の更正なのではないだろうか。そして、そう導いていくことが、本当の矯正教育なのではないかと。
(後略)
個人のためではなく、社会のために法律はある。それが如実に感じられる言葉であり、現実だと思う。
「(前略)人生につけてしまった黒い染みは、自分では拭えないとな。少年だろうと未熟だろうと、自分で勝手に拭っちゃいけないんだ。それを拭ってくれるのは、自分が傷つけてしまった被害者やその家族だけなんだ。被害者が本当に許してくれるまで償い続けるのが本当の更正なんだとな。勝手に忘れちゃいけないんだ!」
(後略)
勝手に消えるものでも、自分で消せるものでもない。それが罪ということであり、同時に罰でもあるのだろう。人は弱いから、その罰から逃げようとする。
幸いにも、普通の刑法にすら関わるような経験はない。友達で司法試験の勉強をしている人間がいるぐらいだ。ただ、法という世界に引きずり込まれてしまったら最後、結局人は成す術なく引き下がることしかできないのかもしれない。
本作は、「少年法」というものを真正面に扱いながらも、起伏あるミステリー性の高いストーリーである。
妻祥子を、少年三人組に殺された、コーヒーショップの店長桧山。当時犯行を行った少年らは、少年法の恩恵の元に、大した罪に問われぬまま、社会に戻ってきた。桧山は、妻を殺されたにも関わらず大した情報を得ることもできずに、怒りの矛先をどこに向けていいのかわからないまま、それ以来止まってしまった時間と、否応なく進み続ける時間の中で、懸命にふんばってきた。
今桧山は、一人娘の愛美とともに、穏やかな生活を送っている。愛美の通う保育園の保育士であるみゆきや、コーヒーショップの昔からのバイトである福井らに支えられながら日常を送っている。
そんな穏やかな日常は、刑事の登場によって一気に突き崩される。当時、祥子の事件を担当していた刑事がコーヒーショップにやってきて、こう告げた。
少年Bが殺された。
少年Bとは、祥子を殺した少年三人のうちの一人。コーヒーショップ付近にある公園で殺されているのが見つかったのだという。
一体誰が何のために少年Bを殺したのか…。桧山は、少年Bが過ごした更正施設や、少年AやCについても調べていくようになる。今起きている事件は一体何なのか。そして、過去のあの事件は一体何だったのか…。
桧山という男が、少年法や社会という壁に立ちすくみ、それでも前進に繋がると信じて行動を起こす物語である。
正直に言って、読み終えて驚いた。
江戸川乱歩賞は、かなり知名度もあり、かつ実力者を輩出している歴史ある賞であることは間違いないのだが、それでもやはり新人賞であることは間違いない。新人の手になる作品、ということで、やはりそこまで期待しないで読む向きがかなりあったと思う。
だからこそ普段以上に余計に驚いたのかもしれないけど、かなり水準が高い作品であることは間違いない。
少年法というものをまずしっかりと描いているし、一人よがりになっていない。桧山という男の苦悩や叫びを緻密に描いているし、そもそもミステリーとしての完成度がめちゃくちゃ高い。確かに序盤は少し退屈かもしれないが、中盤から終盤にかけての展開の速さと見事さには舌を巻かれる。それこそ、前半の少し退屈な部分など吹き飛んでしまうように。
本当に、まさかまさかの連続で、きっと驚くと思います。
文章的にも、ある選考委員は少し難をつけていたけど、全然問題ないと思った。普通の作家並かそれ以上にちゃんとしている。綾辻行人よりもちゃんとした文章を書いているように思える。
「13階段」や「脳男」に匹敵する、あるいはそれ以上に感じる人もいるかもしれないというぐらい見事な作品です。是非是非読んでください。お勧めです。
薬丸岳「天使のナイフ」
可塑性、というのは、粘土に例えると分かりやすい。粘土は、一度形を作っても、気に入らなければその形を変えることができる。柔軟性ともいえるだろうか、そうした性質のことを、可塑性というらしい。
少年法は、少年の可塑性に期待してそもそも作られている。
少年は、まだ形が定まっていない。一度間違いを犯したからと言って、その形のままであるということはない。教育を施し、更正によって新たな形を手に入れることができれば、再びやり直せるのだ、と。
しかし、こうした法律は、かなり昔に作られたものであるということを忘れてはいけないと思う。確かに、昔の少年はそうだったかもしれない。しかし、少年のそもそもの質が変わってきた今、その法律がどれだけ有効か、僕にはわからない。
少年法に対する僕の考え方は、以前に「さまよう刃」の感想で書いた。存在自体を否定するつもりはない。しかし、年齢の設定に関してはもっと柔軟性があるべきではないか、と。
誰にとっても素晴らしい法律なんかありえないことはわかっている。それは理想であり、理想では社会は作れない。
それでも、加害者よりも被害者が苦しみ、加害者の方が守られるような法律は、やはり間違っているように思う。
現行の少年法の場合、例えどれだけ計画的で悪意を持った犯行であっても、ある年齢以下の人間の犯行ならば、罪には問われない、ということになっている。でも、普通に考えてやはりそれは間違っていると思う。しっかりと自分のしたことを認識させ、それに対しての罰を与えてから、それから教育をすればいいのではないか。僕はそんな風に思ってしまう。
本作中に、何度かいい文章があったので、抜き出してみようと思う。
(前略)
さらに少年審判は非公開で、被疑者やその家族ですら傍聴することができない。調査官は被疑者の家族である桧山の慟哭に耳を傾けることもなく、被疑者の苦悩を裁判官に届けることもしないのだ。(中略)
そんな中で果たして、少年たちは被害者の苦しみを本当に理解して、改悛するというのだろうか。
(後略)
確かに、被害者という存在と向き合うことなく、罪の大きさを知り、その深さを実感することはできるのだろうか?
(前略)
罪を犯した者が勉学に励み、真っ当な仕事に就くことが更正なのだろうか。二度と刑罰法令に触れる行為を行わないということを更正というのだろうか。確かに社会にとってはそれも重要なことだろう。しかし、桧山は違うと思った。これから自分がどう生きていくかという前に、自分が犯してしまった過ちに、真正面から向き合うということが、真の更正なのではないだろうか。そして、そう導いていくことが、本当の矯正教育なのではないかと。
(後略)
個人のためではなく、社会のために法律はある。それが如実に感じられる言葉であり、現実だと思う。
「(前略)人生につけてしまった黒い染みは、自分では拭えないとな。少年だろうと未熟だろうと、自分で勝手に拭っちゃいけないんだ。それを拭ってくれるのは、自分が傷つけてしまった被害者やその家族だけなんだ。被害者が本当に許してくれるまで償い続けるのが本当の更正なんだとな。勝手に忘れちゃいけないんだ!」
(後略)
勝手に消えるものでも、自分で消せるものでもない。それが罪ということであり、同時に罰でもあるのだろう。人は弱いから、その罰から逃げようとする。
幸いにも、普通の刑法にすら関わるような経験はない。友達で司法試験の勉強をしている人間がいるぐらいだ。ただ、法という世界に引きずり込まれてしまったら最後、結局人は成す術なく引き下がることしかできないのかもしれない。
本作は、「少年法」というものを真正面に扱いながらも、起伏あるミステリー性の高いストーリーである。
妻祥子を、少年三人組に殺された、コーヒーショップの店長桧山。当時犯行を行った少年らは、少年法の恩恵の元に、大した罪に問われぬまま、社会に戻ってきた。桧山は、妻を殺されたにも関わらず大した情報を得ることもできずに、怒りの矛先をどこに向けていいのかわからないまま、それ以来止まってしまった時間と、否応なく進み続ける時間の中で、懸命にふんばってきた。
今桧山は、一人娘の愛美とともに、穏やかな生活を送っている。愛美の通う保育園の保育士であるみゆきや、コーヒーショップの昔からのバイトである福井らに支えられながら日常を送っている。
そんな穏やかな日常は、刑事の登場によって一気に突き崩される。当時、祥子の事件を担当していた刑事がコーヒーショップにやってきて、こう告げた。
少年Bが殺された。
少年Bとは、祥子を殺した少年三人のうちの一人。コーヒーショップ付近にある公園で殺されているのが見つかったのだという。
一体誰が何のために少年Bを殺したのか…。桧山は、少年Bが過ごした更正施設や、少年AやCについても調べていくようになる。今起きている事件は一体何なのか。そして、過去のあの事件は一体何だったのか…。
桧山という男が、少年法や社会という壁に立ちすくみ、それでも前進に繋がると信じて行動を起こす物語である。
正直に言って、読み終えて驚いた。
江戸川乱歩賞は、かなり知名度もあり、かつ実力者を輩出している歴史ある賞であることは間違いないのだが、それでもやはり新人賞であることは間違いない。新人の手になる作品、ということで、やはりそこまで期待しないで読む向きがかなりあったと思う。
だからこそ普段以上に余計に驚いたのかもしれないけど、かなり水準が高い作品であることは間違いない。
少年法というものをまずしっかりと描いているし、一人よがりになっていない。桧山という男の苦悩や叫びを緻密に描いているし、そもそもミステリーとしての完成度がめちゃくちゃ高い。確かに序盤は少し退屈かもしれないが、中盤から終盤にかけての展開の速さと見事さには舌を巻かれる。それこそ、前半の少し退屈な部分など吹き飛んでしまうように。
本当に、まさかまさかの連続で、きっと驚くと思います。
文章的にも、ある選考委員は少し難をつけていたけど、全然問題ないと思った。普通の作家並かそれ以上にちゃんとしている。綾辻行人よりもちゃんとした文章を書いているように思える。
「13階段」や「脳男」に匹敵する、あるいはそれ以上に感じる人もいるかもしれないというぐらい見事な作品です。是非是非読んでください。お勧めです。
薬丸岳「天使のナイフ」
τになるまで待って PLEASE STAY UNTIL τ(森博嗣)
超能力の存在を完全に否定するつもりはないけど、やはりその可能性はかなり低いだろうな、と思う。
いきなり蛇足だけど、「~でない」ことを証明することは、「~である」ことに比べたら遥かに難しいわけで、何かを否定することは、物理や数学の世界でしか恐らく不可能だろう、と思っているわけですが。
結局全ての現象は、それに接した者がどう解釈するか、というその一点のみに限定されて論じられるべきだろうと思います。起こったことそのものよりも、起こったことをどう解釈するか、で世界そのものが全て規定されている、と言っても大きな間違いはないでしょう。物理や数学の理論だって、目で見て認識することが出来さえすれば、理論の形で存在する必要性はあまりないだろうと思いますし。
超能力とマジックの差異は結局、それを行う前に観客に与える前提と、その前提を崩さない瑣末な演出が違うだけで、行為や結果に特に違いがあるわけではないでしょう。そんなことは、わざわざ言葉にして説明するまでもありません。
だからこそ、僕は超能力がどう、とか言っている人が嫌いですね。欺瞞を真実として披露する手法は、超能力を除いても数多くあるだろうけど、それらもあまり好きではないですね。ワイドショーとか。欺瞞を欺瞞として見せるからこそ、エンターテイメントになるし、時に真実にもなるわけです。お笑い番組みたいに。
この件で最も悲しいことは、本当に普通の人が持っていない能力を持っている超能力者でしょう。僕は、かなり本は読んでいるけどどちらかと言えば理系の人間だけれども、それでも科学で全てが説明できると思っている人間ではありません。自分以外の人が、同じ景色を見ているのかを観察・証明することが不可能なように、証明することが出来ないことは世の中に数多くあると思うし、どれだけ時間が経過してもそれは残ると思います。
だから、人並みではない能力を持つ存在を決して否定しはしないし、そんな存在が世界に有益に貢献できる世の中だといいなと、ささやかに望んでいたりもします。
いつものように、よくわからなくなってきたので、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、Gシリーズの第三弾。「G」は、ギリシャ文字の「G」だそうで、タイトルには、「φ」「θ」「τ」と、理系に明るくない人には読めない文字が含まれているシリーズです。
シリーズの主な登場人物は、大学二年生の加部谷恵美と海月及介と、大学院一年目の山吹早月の三人で、他にも、S&Mシリーズでお馴染みの、犀川・西之園・国枝・諏訪野・近藤・鵜飼・佐々木なんかも出てきたりします。
赤柳初朗という、山吹の友人の隣人である探偵から、バイトをしないかと誘われた三人は、愛知県と岐阜県の県境に位置する、山奥も山奥という、秘境と呼んでもふさわしいような所に建つ、<伽羅離館>という名の建物を訪れることになる。そこは、神居静哉というなの、自称超能力者が住む場所で、窓の数が極端に少なく、一階の窓には全て鉄格子がつけられているという、なかなか閉鎖的な空間である。
同じ日にその建物を訪れた、不動産業者・新聞記者・カメラマンの三人と合流し、<伽羅離館>に住む、神居の信者だという二人の女性を加えた、計10人の人間がその建物に集まったことになる。
赤柳から言われたバイトは、<伽羅離館>内の図書室にある蔵書の中から、<MNI><佐織宗尊><真賀田四季>に関係あるものをピックアップし、パソコンに取り込む、というものだった。
加部谷は早速神居によって異界に連れて行かれ、神居の予言通り嵐になり、内側の閂以外鍵のない出入り口の扉が開かなくなり、元々電話はなく、建物内では携帯電話も繋がらない。
そんな、まさしく<嵐の山荘>と言った条件の中、密室となった<伽羅離館>内のある一室で、神居が倒れているのが発見される。ほぼ間違いなく他殺に違いないのだが、その部屋は内側から閂がされており、扉を無理矢理にしてこじ開けなくてはいけないほどだった。窓には鉄格子。どこかに秘密の経路がありそうな気配はない。神居が超能力でも使ったか…
自身も、<伽羅離館>という密室に閉じ込められたいつもの三人が、密室の謎に挑む。
まず本作では、「τ」がどこで出てくるかと言えば、神居と信者二人が、神居が殺される直前に聞いていたラジオのタイトルが「τになるまで待って」なのである。本編の殺人とはまるで一切合切まったく関係ない。
僕が思うに、このGシリーズは、Vシリーズ以上にトリックなどがしょぼいように思う。なんというか、割と普通だし、森博嗣の他の作品と比べてしまうと、普通以下ではないか、という見方もできないではない。
でも、このギリシャ文字に関する疑問というか謎というか、そうしたものがどこに行き着くのか、という点は非常に興味があります。
また、本作でさらに本シリーズへの興味が湧いた点は、<真賀田四季>の名前が出てきたことです。しかも、<MNI><佐織宗尊>の名前も出てきました。
知らない人のために簡単に説明をしておくと、<真賀田四季>はデビュー作「すべてがFになる」で余りにも衝撃的に登場した天才博士、<MNI>は、四季シリーズで出てくるある組織の名前で、真賀田四季をバックアップしていたことがあります。そして、その元トップだった男が、<佐織宗尊>というわけです。
この、講談社ノベルスで発売されるシリーズは本当にどれもがリンクしていて、その多層的な世界観は見事だと思います。作品一つとしても、シリーズとしても、またシリーズの繋がりも楽しめる、果てしなく重層で豪華な作品群だといえるでしょう。Gシリーズでは、作品それ自体のレベルはかなり落ちている気はしますが、それでも期待感はそこまで失われないでいます。
ある意味で、<真賀田四季>を中心に据えたこの一連の作品群が、どこへ行き着くのかは定かではないけれども、そもそも完結するのかもかなり不明だけれども、楽しみにしていこうと思います。
Gシリーズから読み始めることはお勧めしません。一連の作品群を読んだその先にこの作品があると思って、前の作品から着実に読んでいって欲しいなと思います。
それではいつものを。
(前略)
「一人でいるときには、能力を確認することはできません」神居はゆっくりとした口調で話した。「子供のときは、数々の能力を誰もが持っています。自覚はできますが、しかし、他人から見れば、単なる一人遊びの領域を出ないものです。相手が関心を示さないことで自分を修正し、また大人に指摘されて、共通する最低限の感覚しか持ってはいけない、ということを子供は学ぶのです。それによって、自らの能力を封じ込める」
(後略)
(前略)「それから、方角や、あるいは生まれ年などによる占いの類も、まったく意味がありません。そういったものは、もっと別の次元で生じている物理現象を、間違った角度から不十分に観察して生じた誤解です」
(後略)
(前略)目を開けると、再び西之園萌絵の顔が近くにあった。目が怒っている。一・十二・十三の直角三角形を思い出した。二乗してピタゴラスの定理を試す。
(後略)
(前略)
「時間を気にしていては、できないことがあります」
「時間を気にしていないとできないことの方が、やや多いと思うな」
(後略)
(前略)
「思考というのは、既に知っていることによって限定され、不自由になる」犀川が煙草を消しながら言った。「まっさらで素直に考えることは、けっこう難しい。重要なことは、立ち入らないことだ。(後略)」
森博嗣「τになるまで待って」
いきなり蛇足だけど、「~でない」ことを証明することは、「~である」ことに比べたら遥かに難しいわけで、何かを否定することは、物理や数学の世界でしか恐らく不可能だろう、と思っているわけですが。
結局全ての現象は、それに接した者がどう解釈するか、というその一点のみに限定されて論じられるべきだろうと思います。起こったことそのものよりも、起こったことをどう解釈するか、で世界そのものが全て規定されている、と言っても大きな間違いはないでしょう。物理や数学の理論だって、目で見て認識することが出来さえすれば、理論の形で存在する必要性はあまりないだろうと思いますし。
超能力とマジックの差異は結局、それを行う前に観客に与える前提と、その前提を崩さない瑣末な演出が違うだけで、行為や結果に特に違いがあるわけではないでしょう。そんなことは、わざわざ言葉にして説明するまでもありません。
だからこそ、僕は超能力がどう、とか言っている人が嫌いですね。欺瞞を真実として披露する手法は、超能力を除いても数多くあるだろうけど、それらもあまり好きではないですね。ワイドショーとか。欺瞞を欺瞞として見せるからこそ、エンターテイメントになるし、時に真実にもなるわけです。お笑い番組みたいに。
この件で最も悲しいことは、本当に普通の人が持っていない能力を持っている超能力者でしょう。僕は、かなり本は読んでいるけどどちらかと言えば理系の人間だけれども、それでも科学で全てが説明できると思っている人間ではありません。自分以外の人が、同じ景色を見ているのかを観察・証明することが不可能なように、証明することが出来ないことは世の中に数多くあると思うし、どれだけ時間が経過してもそれは残ると思います。
だから、人並みではない能力を持つ存在を決して否定しはしないし、そんな存在が世界に有益に貢献できる世の中だといいなと、ささやかに望んでいたりもします。
いつものように、よくわからなくなってきたので、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、Gシリーズの第三弾。「G」は、ギリシャ文字の「G」だそうで、タイトルには、「φ」「θ」「τ」と、理系に明るくない人には読めない文字が含まれているシリーズです。
シリーズの主な登場人物は、大学二年生の加部谷恵美と海月及介と、大学院一年目の山吹早月の三人で、他にも、S&Mシリーズでお馴染みの、犀川・西之園・国枝・諏訪野・近藤・鵜飼・佐々木なんかも出てきたりします。
赤柳初朗という、山吹の友人の隣人である探偵から、バイトをしないかと誘われた三人は、愛知県と岐阜県の県境に位置する、山奥も山奥という、秘境と呼んでもふさわしいような所に建つ、<伽羅離館>という名の建物を訪れることになる。そこは、神居静哉というなの、自称超能力者が住む場所で、窓の数が極端に少なく、一階の窓には全て鉄格子がつけられているという、なかなか閉鎖的な空間である。
同じ日にその建物を訪れた、不動産業者・新聞記者・カメラマンの三人と合流し、<伽羅離館>に住む、神居の信者だという二人の女性を加えた、計10人の人間がその建物に集まったことになる。
赤柳から言われたバイトは、<伽羅離館>内の図書室にある蔵書の中から、<MNI><佐織宗尊><真賀田四季>に関係あるものをピックアップし、パソコンに取り込む、というものだった。
加部谷は早速神居によって異界に連れて行かれ、神居の予言通り嵐になり、内側の閂以外鍵のない出入り口の扉が開かなくなり、元々電話はなく、建物内では携帯電話も繋がらない。
そんな、まさしく<嵐の山荘>と言った条件の中、密室となった<伽羅離館>内のある一室で、神居が倒れているのが発見される。ほぼ間違いなく他殺に違いないのだが、その部屋は内側から閂がされており、扉を無理矢理にしてこじ開けなくてはいけないほどだった。窓には鉄格子。どこかに秘密の経路がありそうな気配はない。神居が超能力でも使ったか…
自身も、<伽羅離館>という密室に閉じ込められたいつもの三人が、密室の謎に挑む。
まず本作では、「τ」がどこで出てくるかと言えば、神居と信者二人が、神居が殺される直前に聞いていたラジオのタイトルが「τになるまで待って」なのである。本編の殺人とはまるで一切合切まったく関係ない。
僕が思うに、このGシリーズは、Vシリーズ以上にトリックなどがしょぼいように思う。なんというか、割と普通だし、森博嗣の他の作品と比べてしまうと、普通以下ではないか、という見方もできないではない。
でも、このギリシャ文字に関する疑問というか謎というか、そうしたものがどこに行き着くのか、という点は非常に興味があります。
また、本作でさらに本シリーズへの興味が湧いた点は、<真賀田四季>の名前が出てきたことです。しかも、<MNI><佐織宗尊>の名前も出てきました。
知らない人のために簡単に説明をしておくと、<真賀田四季>はデビュー作「すべてがFになる」で余りにも衝撃的に登場した天才博士、<MNI>は、四季シリーズで出てくるある組織の名前で、真賀田四季をバックアップしていたことがあります。そして、その元トップだった男が、<佐織宗尊>というわけです。
この、講談社ノベルスで発売されるシリーズは本当にどれもがリンクしていて、その多層的な世界観は見事だと思います。作品一つとしても、シリーズとしても、またシリーズの繋がりも楽しめる、果てしなく重層で豪華な作品群だといえるでしょう。Gシリーズでは、作品それ自体のレベルはかなり落ちている気はしますが、それでも期待感はそこまで失われないでいます。
ある意味で、<真賀田四季>を中心に据えたこの一連の作品群が、どこへ行き着くのかは定かではないけれども、そもそも完結するのかもかなり不明だけれども、楽しみにしていこうと思います。
Gシリーズから読み始めることはお勧めしません。一連の作品群を読んだその先にこの作品があると思って、前の作品から着実に読んでいって欲しいなと思います。
それではいつものを。
(前略)
「一人でいるときには、能力を確認することはできません」神居はゆっくりとした口調で話した。「子供のときは、数々の能力を誰もが持っています。自覚はできますが、しかし、他人から見れば、単なる一人遊びの領域を出ないものです。相手が関心を示さないことで自分を修正し、また大人に指摘されて、共通する最低限の感覚しか持ってはいけない、ということを子供は学ぶのです。それによって、自らの能力を封じ込める」
(後略)
(前略)「それから、方角や、あるいは生まれ年などによる占いの類も、まったく意味がありません。そういったものは、もっと別の次元で生じている物理現象を、間違った角度から不十分に観察して生じた誤解です」
(後略)
(前略)目を開けると、再び西之園萌絵の顔が近くにあった。目が怒っている。一・十二・十三の直角三角形を思い出した。二乗してピタゴラスの定理を試す。
(後略)
(前略)
「時間を気にしていては、できないことがあります」
「時間を気にしていないとできないことの方が、やや多いと思うな」
(後略)
(前略)
「思考というのは、既に知っていることによって限定され、不自由になる」犀川が煙草を消しながら言った。「まっさらで素直に考えることは、けっこう難しい。重要なことは、立ち入らないことだ。(後略)」
森博嗣「τになるまで待って」
ニンギョウがニンギョウ(西尾維新)
物語だとか小説だとかストーリーだとか、呼び方は様々に存在するけれども、荒削りにまとめてしまえば、どれも同じモノである。時間という器の中に、人というスープを注ぎ込み、かき混ぜてかき混ぜて、ともすれば色合いや質感まですら変貌させてしまう、その行為過程自体をそう呼べばよいのだろう。要するに、目の前に移った自分の後頭部のようなものだろう。
名称に差異がなければという仮定の元にだが、「物語」という呼称を使わせてもらえば、それはもはやどこにでも存在すると言ってしまっていいだろう。骨や大地や紙や画面といった制限を加えずとも、飴玉のように飲み込んだ言葉を、CDでも回すように頭の中で繋げば、それだけで既に物語が、次元の大小はあるにせよ、存在していると規定してもいいだろう。鳶が鷹を産むようにしては、物語は出来上がらない。
媒体としての記号は、あくまでも共通認識下におけるシステムに組み込まれるべきであり、その使用の如何を問わず、あるいは問わないからこそ、私たちは物語というものを共有することができるわけである。自明の理とはまさにこのことを指してしかるべしである。
ただ、含有されるべき個性の質は、その時代や空間に、即ち一言で環境と言い表される概念に影響を与えまた与えられるべきである。記号によって成り立った世界が、あくまでも現実と区別されうるのはそのためである。増殖によってその領域を獲得してきた世界にしてみれば、寝耳に水どころか、鼻水すら乾く勢いである。
才能は時間を歪める、とはよく言ったもので、見えないものをさらに覆うかのように、時に時間を置き去りにし、時に時間に追い抜かれながらも、鳥の頭のような均衡を保とうとする。そもそも時間とは意味そのものであり、意味に意味がないように、時間の中にも時間は存在し得ないのである。その錯覚を都合のいいように利用し、また駆使しながら生きてきた人間にしてみれば、そこからの脱却が、ある意味で才能への開花に繋がる、と信じられていても、空洞のない煙突ほどのおかしさも見出すことはできないであろう。まさに、時は金どころか、鐘ですらない、という証左であろうか。
時間を飛び越えるために必要なものは、必要であるという概念がまず必要であるのと同じくらいの自明さで、本流に対しての支流であろう。見出せるか否かは、ラクダのこぶを開けてみるしか、確かめようがない。
意味のない文章を、論理なき繋がりで繋ごうとする試みは、なかなか疲れるものである。だが、私の受けた印象を的確に速やかに書き表すには、これしか術なかったように思う。
本作には、時間も、明確な論理も、日常も常識も、それどころか、物語にとって必要不可分であると思われるありとあらゆるものがない、と言ってもいいだろうと思う。欠落故に欠陥である、というありきたりの論理ではなく、そもそもそこには論理など存在せず、ただ、何もないところに、物語だけが存在する、とそう言ってしまっていいのかもしれない。
なんとも珍妙な作品だ。
まず登場人物に名前がない。「私」である「兄」と、23人いる「妹」、そして熊の少女といったような面々で物語が存在する。妹は、何番目の妹、という形で呼ばれ、「兄」たる私はなんと、まだ会ったこともない「妹」もいるという。
17番目の妹がまた死んでしまう。これで通算四度目である。妹にも様々個性があり、いいも悪いもあるが、どうしても17番目の妹だけはすぐに死んでしまう。17番目の妹が戻ってくる前に、つまり今日、私は映画を観なくてはいけない…
と言った感じで物語がスタートする、四編からなる連作短編集である。物語のないようについてはこれ以上文字を重ねてもまず間違いなく理解してもらうことはできないし、理解してもらうように書こうとすれば、本作の文字数を優に遥かに圧倒する文章を費やさなくてはならないことは、また自明である。そもそも僕には、この物語がどういったもので何なのかきちんとしかるべき理解ができていないわけで、それなのに他人への理解のために文章を書けるはずもない、というのが道理である。
ただ、理解こそできていないのだが、本作は好きではないかと言えばどうにも首肯しかねる。もちろん、好きかと問われればなお思案せねばならぬところだけれども。
つまり、作品への評価を完全に閉ざしている作品ではないか、というのが僕の印象である。物語というのは、多かれ少なかれ人の目に触れ、触れることで評価され淘汰されるべきであり、つまり作者以外の視点がその物語を物語足らしめているというわけなのだが、本作はどうも、他者の視線なしに美しく完結し、一切の評価も裁定も、内外を問わずに包括されていない、つまり許されていないのではないか、ということだ。物語自体にその素質なり個性なり資質がある、ということだろう。
本作と似たような印象を残す作品を読んだことがある。それはサリンジャーの「ナイン・ストーリーズ」である。あの作品を読んだとき、溶け出した脳みそが循環するような、そんな不合理で理不尽な感想を持ったわけだけれども、本作も似たような余韻を残す。有体に言ってしまえば、この短い作品の中に、いくつもの比喩暗喩癒着がありえるのかもしれないし、それにより本作の観念的でない厚さ以上の世界が広がっているものなのかもしれないが、所詮それは理解できる人にしか理解できないものであって、極稀である。自惚れは時場所を問わず大抵において躊躇すべきであるし、そこまでの勇ましさはないからこそ、こうしてささやかに駄文を連ねているわけだけれども。
帯には、昔の文学の原文のような、右から左に書かれた文章でこうあります。
「最早只事デハナイ 想像力ノ奔流
未ダ 誰モ 見タコトノナイ
西尾維新ノ時間ノ先端。」
わかるようなわからないような、そんな文句ではあります。
こうして文章を書くことで改めて気付くことだけれども、本作は僕の手に余ります。両手で抱えるようにして持とうとしてもその1割にしか触れることが出来ないくらい余ります。9割の見えない世界を保持しているという前向きな考え方もできるわけですが、そこまでポジティブだと罰が当たるというものでしょう。既にここまでの駄文ですら、罰すれすれと言ったところでしょうか。
最後に、本作の特徴たる特徴を幾つか記して終わろうと思います。
まず文章的には、「」のついた会話文が、それこそ一文もありません。登場人物に名前がないのはさっき言った通りで、西尾維新らしく戯言というか言葉遊び的な部分が多いです。
外観的には、まず小中高学校卒業の際に渡されるアルバムのように、外箱があります。箱は緑の唐草模様のような色合いで、そこから本体を取り出すと、拳銃でも包んでいそうな油紙、あるいはトレーシングペーパーのように薄い、黄土色の紙のカバーが掛かっています。なんとも仰々しいです。
仰々しいのは外観だけでなく、値段もです。かなり薄いにも関わらず、1500円とかなりのお値段だったりします。
本作に関して言えば、是非読んで欲しいとか、そうしたことはなかなか言えません。ただ一つ言える事は、他の西尾維新の作品を一つも読んでいない状態で本作を読むのはあまりお勧めしない、ということです。出来れば、戯言シリーズを少しでも読んでから、という感じがいいのではないでしょうか。そしてみなさん、読んだら感想を教えてください。
西尾維新「ニンギョウがニンギョウ」
名称に差異がなければという仮定の元にだが、「物語」という呼称を使わせてもらえば、それはもはやどこにでも存在すると言ってしまっていいだろう。骨や大地や紙や画面といった制限を加えずとも、飴玉のように飲み込んだ言葉を、CDでも回すように頭の中で繋げば、それだけで既に物語が、次元の大小はあるにせよ、存在していると規定してもいいだろう。鳶が鷹を産むようにしては、物語は出来上がらない。
媒体としての記号は、あくまでも共通認識下におけるシステムに組み込まれるべきであり、その使用の如何を問わず、あるいは問わないからこそ、私たちは物語というものを共有することができるわけである。自明の理とはまさにこのことを指してしかるべしである。
ただ、含有されるべき個性の質は、その時代や空間に、即ち一言で環境と言い表される概念に影響を与えまた与えられるべきである。記号によって成り立った世界が、あくまでも現実と区別されうるのはそのためである。増殖によってその領域を獲得してきた世界にしてみれば、寝耳に水どころか、鼻水すら乾く勢いである。
才能は時間を歪める、とはよく言ったもので、見えないものをさらに覆うかのように、時に時間を置き去りにし、時に時間に追い抜かれながらも、鳥の頭のような均衡を保とうとする。そもそも時間とは意味そのものであり、意味に意味がないように、時間の中にも時間は存在し得ないのである。その錯覚を都合のいいように利用し、また駆使しながら生きてきた人間にしてみれば、そこからの脱却が、ある意味で才能への開花に繋がる、と信じられていても、空洞のない煙突ほどのおかしさも見出すことはできないであろう。まさに、時は金どころか、鐘ですらない、という証左であろうか。
時間を飛び越えるために必要なものは、必要であるという概念がまず必要であるのと同じくらいの自明さで、本流に対しての支流であろう。見出せるか否かは、ラクダのこぶを開けてみるしか、確かめようがない。
意味のない文章を、論理なき繋がりで繋ごうとする試みは、なかなか疲れるものである。だが、私の受けた印象を的確に速やかに書き表すには、これしか術なかったように思う。
本作には、時間も、明確な論理も、日常も常識も、それどころか、物語にとって必要不可分であると思われるありとあらゆるものがない、と言ってもいいだろうと思う。欠落故に欠陥である、というありきたりの論理ではなく、そもそもそこには論理など存在せず、ただ、何もないところに、物語だけが存在する、とそう言ってしまっていいのかもしれない。
なんとも珍妙な作品だ。
まず登場人物に名前がない。「私」である「兄」と、23人いる「妹」、そして熊の少女といったような面々で物語が存在する。妹は、何番目の妹、という形で呼ばれ、「兄」たる私はなんと、まだ会ったこともない「妹」もいるという。
17番目の妹がまた死んでしまう。これで通算四度目である。妹にも様々個性があり、いいも悪いもあるが、どうしても17番目の妹だけはすぐに死んでしまう。17番目の妹が戻ってくる前に、つまり今日、私は映画を観なくてはいけない…
と言った感じで物語がスタートする、四編からなる連作短編集である。物語のないようについてはこれ以上文字を重ねてもまず間違いなく理解してもらうことはできないし、理解してもらうように書こうとすれば、本作の文字数を優に遥かに圧倒する文章を費やさなくてはならないことは、また自明である。そもそも僕には、この物語がどういったもので何なのかきちんとしかるべき理解ができていないわけで、それなのに他人への理解のために文章を書けるはずもない、というのが道理である。
ただ、理解こそできていないのだが、本作は好きではないかと言えばどうにも首肯しかねる。もちろん、好きかと問われればなお思案せねばならぬところだけれども。
つまり、作品への評価を完全に閉ざしている作品ではないか、というのが僕の印象である。物語というのは、多かれ少なかれ人の目に触れ、触れることで評価され淘汰されるべきであり、つまり作者以外の視点がその物語を物語足らしめているというわけなのだが、本作はどうも、他者の視線なしに美しく完結し、一切の評価も裁定も、内外を問わずに包括されていない、つまり許されていないのではないか、ということだ。物語自体にその素質なり個性なり資質がある、ということだろう。
本作と似たような印象を残す作品を読んだことがある。それはサリンジャーの「ナイン・ストーリーズ」である。あの作品を読んだとき、溶け出した脳みそが循環するような、そんな不合理で理不尽な感想を持ったわけだけれども、本作も似たような余韻を残す。有体に言ってしまえば、この短い作品の中に、いくつもの比喩暗喩癒着がありえるのかもしれないし、それにより本作の観念的でない厚さ以上の世界が広がっているものなのかもしれないが、所詮それは理解できる人にしか理解できないものであって、極稀である。自惚れは時場所を問わず大抵において躊躇すべきであるし、そこまでの勇ましさはないからこそ、こうしてささやかに駄文を連ねているわけだけれども。
帯には、昔の文学の原文のような、右から左に書かれた文章でこうあります。
「最早只事デハナイ 想像力ノ奔流
未ダ 誰モ 見タコトノナイ
西尾維新ノ時間ノ先端。」
わかるようなわからないような、そんな文句ではあります。
こうして文章を書くことで改めて気付くことだけれども、本作は僕の手に余ります。両手で抱えるようにして持とうとしてもその1割にしか触れることが出来ないくらい余ります。9割の見えない世界を保持しているという前向きな考え方もできるわけですが、そこまでポジティブだと罰が当たるというものでしょう。既にここまでの駄文ですら、罰すれすれと言ったところでしょうか。
最後に、本作の特徴たる特徴を幾つか記して終わろうと思います。
まず文章的には、「」のついた会話文が、それこそ一文もありません。登場人物に名前がないのはさっき言った通りで、西尾維新らしく戯言というか言葉遊び的な部分が多いです。
外観的には、まず小中高学校卒業の際に渡されるアルバムのように、外箱があります。箱は緑の唐草模様のような色合いで、そこから本体を取り出すと、拳銃でも包んでいそうな油紙、あるいはトレーシングペーパーのように薄い、黄土色の紙のカバーが掛かっています。なんとも仰々しいです。
仰々しいのは外観だけでなく、値段もです。かなり薄いにも関わらず、1500円とかなりのお値段だったりします。
本作に関して言えば、是非読んで欲しいとか、そうしたことはなかなか言えません。ただ一つ言える事は、他の西尾維新の作品を一つも読んでいない状態で本作を読むのはあまりお勧めしない、ということです。出来れば、戯言シリーズを少しでも読んでから、という感じがいいのではないでしょうか。そしてみなさん、読んだら感想を教えてください。
西尾維新「ニンギョウがニンギョウ」
暗黒館の殺人(綾辻行人)
「建物」というのは、人と共に生きるのだろうと思う。誰が住むか、どう住むかによって、性格が変わっていくような。
僕は、基本的に衣食住には興味がない。だから、自分の家だとか部屋だとか、そうしたことにも大して興味はない。雨風が凌げて、寝ることができ、本を置くことができればまあ基本的にはそれで充分だ。
だけれども、世の中には「マイホーム」を望む人がやはり多いような印象を、僕は受ける。
「自分の家を持つこと」こそが幸せの証だ、というような価値観は、ある時期の日本のサラリーマンに、それこそなんらかの意図を持って植え付けられた、一種の集団催眠のようなものでしかないような気が僕はしている。無理して残業して、無理してローンを組んで、無理して少し高いマイホームに手を出して、あとはずっとローンの返済に明け暮れる。お金に余裕のある人ならいざ知らず、普通の人にはどこが幸せなのかわからない。
家、というのは、自分のものであるかどうかで様々なことがきまるわけではないはずだと思う。そこにどれだけの愛着を持ち、どれだけ親しみを持って扱えるか、ということであって、自分の持ち物であればよりそう思える可能性が高い、ということだろう。
いや、自分の物であればあるほど、家自体に普通ではない何かが立ち現れるのかもしれないけれども。
建物は、基本的には機能性が重視されることだろう。いかに使いやすく、いかに住みやすいか。
ただ時に、機能性よりもデザインを、使い勝手よりも装飾を、という傾向もあるかもしれない。建物自体の存在になんらかの意味を付与する、ということだろう。
いつもなら、こうやって文章を書いているうちにまとまってくるものなんだけど、どうにもうまくいかない。
とにかく、妄執というか、妄念というか、ある種の建造物には、その使われ方によって、そうしたものが残るのだろう、きっと。
よくわからなくなってきたのでとりあえずこの辺で切り上げて、内容に入ろうと思います。
とはいうものの、本作の内容紹介はとてつもなく難しいです。というわけでまずは、知っている人もいるかもしれないけど、綾辻行人の<館>シリーズの基本的な設定から紹介しようと思います。
<館>シリーズは今までに6作出ていて、「十角館」「水車館」「迷路館」「人形館」「時計館」「黒猫館」とあり、7作目が本作「暗黒館」です。
本シリーズに出てくる館は全て、中村青司という建築家だ。数々の風変わりな建築物を設計した男で、自らも、自身で設計し、「角島」という島に建設した「青屋敷」に住んでいたが、火災により死亡した。天才肌の建築家である。
ことの始まりは「十角館」での殺人であり、その事件に、当時大学生であった江南孝明は関わりを持った。それ以降も中村青司の設計した建造物で、次々と不可解な殺人や事件が起き、その魅力に、出版社に勤務するようになる江南と、その関係で知り合った推理作家鹿谷門実は関わるようになっていく。中村青司という男にとりつかれるようにして。
そして物語は、1991年9月23日に、熊本県の山奥の奥、人里離れたという表現では追いつかないくらいの場所に建つ「暗黒館」へ、江南が車で向かっている。そんなシーンから始まるのである。
暗黒館はその名の通り、外観内装を含めて全てが真っ黒という、異様の建造物である。和洋折衷とでもいうような建物である。四つの建物から成るが、中村青司が全ての設計を担当したわけではない。そんな屋敷が舞台である。
江南は、暗黒館の敷地内にある十角塔ところから落下し、意識は取り戻したまま記憶を失ってしまった。とある事情から暗黒館に招かれた、同じく一時的に記憶を失っていた「中也」と呼ばれる男と、彼を招いた、現暗黒館の当主・浦登柳士郎の息子に当たる玄児という男が彼を発見する。屋敷内には他にも、浦登家の親戚筋や使用人、親交のある医師が集っている。翌9月24日は「ダリアの日」と呼ばれ、特別な儀式が行われるためである。
屋敷に隠された意匠、浦登家の秘密、「ダリアの宴」の謎、失われた記憶、必然性の感じられない殺人、18年前の殺人と人間消失。その場にいる人間の何もかもを飲み込むような圧倒的な存在の暗黒館と、そこで繰り広げられる数奇とも悲哀とも呼べるいくつもの悲劇。全ての<館>シリーズを一気に貫く、長大深遠にして驚愕の物語。
本作を読んだ印象を書こうと思います。
それまでの<館>シリーズは、「~館」の部分よりも、「殺人」の方に重きを置いていたような気がします。殺人、という行為を、より複雑に、より怪奇に見せるために、館という装置を作り上げ描き上げる。そうした印象がありました。言ってしまえば、「殺人」のために「館」がある、と。
しかし本作は、寧ろ「館」のために「殺人」がある、といったような作品になっていると思います。あくまでも「館」が主であり、その「館」に取り込まれるように、あたかも「館」に組み込まれた装置であるかのように、「殺人」という行為があるような気がします。それが今までのシリーズとの最大の違いだと思うし、本作を読んでの印象です。
本作は、ありとあらゆるところに「驚き」が仕掛けられています。もちろんそれまでの<館>シリーズでも「驚き」は幾度もありましたが、質的にも量的にも本作は見事です。ただ長いだけの作品では決してなく、ミステリ的な論理に裏打ちされた隙のない見事な作りで、後半様々なことが明らかにされていく過程で、幾度も驚かされることかと思います。もちろん、その全てがとはいいませんが、それまでの<館>シリーズは一通り読んでおくことをお勧めしますが。
もちろん、後半でそれだけ「驚き」があるということは、前半は「伏線」の連続であるということで、確かに前半部分のストーリーの進行の遅さやまどろっこしさは否めません。だから、もしかしたら前半部分を、つまり上巻の途中まで読んで止めてしまうような人もいるかもしれないけど、結構もったいないと思うので是非読みきって欲しいと思います。
できることなら、その「ネタばれ」部分の内容について、これについてはこう思うとか、これはちょっと、みたいなことも書きたいとは思うのだけれども、やはりその辺のどこに触れようと思っても「ネタばれ」になってしまいそうなので止めておきましょう。がちがちの本格ミステリの感想を書くのは、なかなか難しいものです。
しかし、構想から上梓まで8年掛かったというけれど、8年掛かってもこれだけの作品が書けるというのはやはりすごいものだと思います。これで<館>シリーズが終わるわけではないようですが、もはや集大成と言ってもいいぐらいの物語であり、その緻密さに驚かされることでしょう。
もちろん不満の部分もありますが。まずは、現在進行形で起こる殺人についてです。これに関しては、結末がちょっとな、という感じが僕はしました。暗黒館や浦登家や18年前の殺人なんかは結構よかっただけに、ちょっと残念でした。
長さについては議論があるかもしれないけど、僕はあれぐらい長くてもいいんではないか、と思っています。もちろん、現在進行形の殺人に関しては微妙で、だから作品の結構な部分を占める探偵小説的な部分もちょっとな、という感じになってしまうわけだけれども、作品全体としてみた時には、あれぐらいの長さで、長さによって雰囲気を出す、というのも決して悪くはないだろう、と思います。特別無駄だと思えるような箇所があったわけではないし、現在進行形の殺人にかんしてはそうだけど、でもまあそれがなければ物語にならないだろうし、だからまあ、妥当ではないかな、と。
不満の二点目としては、これは致し方ないと言えばそうなのだけど、文章や会話がまったく面白くありません。会話は、友達や家族といった関係を感じさせない、あまりにも堅苦しすぎるものだし、地の文も特別魅力があるわけではありません。もちろん、伏線をちりばめなくてはいけないし、説明的にならざるおえない部分があることは仕方ないとは思うのだけれども。
往々にしてよく言われることで、ミステリ作家、特に新本格と言われるような、がちがちのトリック重視の作家の作品に、文章の面白さを求めてはいけない、ということだけど、まあだからその辺は僕はあまり期待しないで読んでいるけど、やっぱり小説は文章がよくないと、という人には、やっぱりお勧めはできないですね。
出来れば<館>シリーズを全部読んでから挑戦して欲しいですが、読もうかなと思っている人はそのまま読んでしまってさほど困らないとは思います。きっと、本作を読めば、それまでの作品を全て読みたいと思うはずです。かなり長くて、読む前からちょっと諦めたくなるような作品ではあるけれども、是非挑戦してみてください。著者は、どこか一箇所でも驚いてくれれば、などと控えめに言っていますが、その全てで驚くこと請け合いです。是非どうぞ。
綾辻行人「暗黒館の殺人」
僕は、基本的に衣食住には興味がない。だから、自分の家だとか部屋だとか、そうしたことにも大して興味はない。雨風が凌げて、寝ることができ、本を置くことができればまあ基本的にはそれで充分だ。
だけれども、世の中には「マイホーム」を望む人がやはり多いような印象を、僕は受ける。
「自分の家を持つこと」こそが幸せの証だ、というような価値観は、ある時期の日本のサラリーマンに、それこそなんらかの意図を持って植え付けられた、一種の集団催眠のようなものでしかないような気が僕はしている。無理して残業して、無理してローンを組んで、無理して少し高いマイホームに手を出して、あとはずっとローンの返済に明け暮れる。お金に余裕のある人ならいざ知らず、普通の人にはどこが幸せなのかわからない。
家、というのは、自分のものであるかどうかで様々なことがきまるわけではないはずだと思う。そこにどれだけの愛着を持ち、どれだけ親しみを持って扱えるか、ということであって、自分の持ち物であればよりそう思える可能性が高い、ということだろう。
いや、自分の物であればあるほど、家自体に普通ではない何かが立ち現れるのかもしれないけれども。
建物は、基本的には機能性が重視されることだろう。いかに使いやすく、いかに住みやすいか。
ただ時に、機能性よりもデザインを、使い勝手よりも装飾を、という傾向もあるかもしれない。建物自体の存在になんらかの意味を付与する、ということだろう。
いつもなら、こうやって文章を書いているうちにまとまってくるものなんだけど、どうにもうまくいかない。
とにかく、妄執というか、妄念というか、ある種の建造物には、その使われ方によって、そうしたものが残るのだろう、きっと。
よくわからなくなってきたのでとりあえずこの辺で切り上げて、内容に入ろうと思います。
とはいうものの、本作の内容紹介はとてつもなく難しいです。というわけでまずは、知っている人もいるかもしれないけど、綾辻行人の<館>シリーズの基本的な設定から紹介しようと思います。
<館>シリーズは今までに6作出ていて、「十角館」「水車館」「迷路館」「人形館」「時計館」「黒猫館」とあり、7作目が本作「暗黒館」です。
本シリーズに出てくる館は全て、中村青司という建築家だ。数々の風変わりな建築物を設計した男で、自らも、自身で設計し、「角島」という島に建設した「青屋敷」に住んでいたが、火災により死亡した。天才肌の建築家である。
ことの始まりは「十角館」での殺人であり、その事件に、当時大学生であった江南孝明は関わりを持った。それ以降も中村青司の設計した建造物で、次々と不可解な殺人や事件が起き、その魅力に、出版社に勤務するようになる江南と、その関係で知り合った推理作家鹿谷門実は関わるようになっていく。中村青司という男にとりつかれるようにして。
そして物語は、1991年9月23日に、熊本県の山奥の奥、人里離れたという表現では追いつかないくらいの場所に建つ「暗黒館」へ、江南が車で向かっている。そんなシーンから始まるのである。
暗黒館はその名の通り、外観内装を含めて全てが真っ黒という、異様の建造物である。和洋折衷とでもいうような建物である。四つの建物から成るが、中村青司が全ての設計を担当したわけではない。そんな屋敷が舞台である。
江南は、暗黒館の敷地内にある十角塔ところから落下し、意識は取り戻したまま記憶を失ってしまった。とある事情から暗黒館に招かれた、同じく一時的に記憶を失っていた「中也」と呼ばれる男と、彼を招いた、現暗黒館の当主・浦登柳士郎の息子に当たる玄児という男が彼を発見する。屋敷内には他にも、浦登家の親戚筋や使用人、親交のある医師が集っている。翌9月24日は「ダリアの日」と呼ばれ、特別な儀式が行われるためである。
屋敷に隠された意匠、浦登家の秘密、「ダリアの宴」の謎、失われた記憶、必然性の感じられない殺人、18年前の殺人と人間消失。その場にいる人間の何もかもを飲み込むような圧倒的な存在の暗黒館と、そこで繰り広げられる数奇とも悲哀とも呼べるいくつもの悲劇。全ての<館>シリーズを一気に貫く、長大深遠にして驚愕の物語。
本作を読んだ印象を書こうと思います。
それまでの<館>シリーズは、「~館」の部分よりも、「殺人」の方に重きを置いていたような気がします。殺人、という行為を、より複雑に、より怪奇に見せるために、館という装置を作り上げ描き上げる。そうした印象がありました。言ってしまえば、「殺人」のために「館」がある、と。
しかし本作は、寧ろ「館」のために「殺人」がある、といったような作品になっていると思います。あくまでも「館」が主であり、その「館」に取り込まれるように、あたかも「館」に組み込まれた装置であるかのように、「殺人」という行為があるような気がします。それが今までのシリーズとの最大の違いだと思うし、本作を読んでの印象です。
本作は、ありとあらゆるところに「驚き」が仕掛けられています。もちろんそれまでの<館>シリーズでも「驚き」は幾度もありましたが、質的にも量的にも本作は見事です。ただ長いだけの作品では決してなく、ミステリ的な論理に裏打ちされた隙のない見事な作りで、後半様々なことが明らかにされていく過程で、幾度も驚かされることかと思います。もちろん、その全てがとはいいませんが、それまでの<館>シリーズは一通り読んでおくことをお勧めしますが。
もちろん、後半でそれだけ「驚き」があるということは、前半は「伏線」の連続であるということで、確かに前半部分のストーリーの進行の遅さやまどろっこしさは否めません。だから、もしかしたら前半部分を、つまり上巻の途中まで読んで止めてしまうような人もいるかもしれないけど、結構もったいないと思うので是非読みきって欲しいと思います。
できることなら、その「ネタばれ」部分の内容について、これについてはこう思うとか、これはちょっと、みたいなことも書きたいとは思うのだけれども、やはりその辺のどこに触れようと思っても「ネタばれ」になってしまいそうなので止めておきましょう。がちがちの本格ミステリの感想を書くのは、なかなか難しいものです。
しかし、構想から上梓まで8年掛かったというけれど、8年掛かってもこれだけの作品が書けるというのはやはりすごいものだと思います。これで<館>シリーズが終わるわけではないようですが、もはや集大成と言ってもいいぐらいの物語であり、その緻密さに驚かされることでしょう。
もちろん不満の部分もありますが。まずは、現在進行形で起こる殺人についてです。これに関しては、結末がちょっとな、という感じが僕はしました。暗黒館や浦登家や18年前の殺人なんかは結構よかっただけに、ちょっと残念でした。
長さについては議論があるかもしれないけど、僕はあれぐらい長くてもいいんではないか、と思っています。もちろん、現在進行形の殺人に関しては微妙で、だから作品の結構な部分を占める探偵小説的な部分もちょっとな、という感じになってしまうわけだけれども、作品全体としてみた時には、あれぐらいの長さで、長さによって雰囲気を出す、というのも決して悪くはないだろう、と思います。特別無駄だと思えるような箇所があったわけではないし、現在進行形の殺人にかんしてはそうだけど、でもまあそれがなければ物語にならないだろうし、だからまあ、妥当ではないかな、と。
不満の二点目としては、これは致し方ないと言えばそうなのだけど、文章や会話がまったく面白くありません。会話は、友達や家族といった関係を感じさせない、あまりにも堅苦しすぎるものだし、地の文も特別魅力があるわけではありません。もちろん、伏線をちりばめなくてはいけないし、説明的にならざるおえない部分があることは仕方ないとは思うのだけれども。
往々にしてよく言われることで、ミステリ作家、特に新本格と言われるような、がちがちのトリック重視の作家の作品に、文章の面白さを求めてはいけない、ということだけど、まあだからその辺は僕はあまり期待しないで読んでいるけど、やっぱり小説は文章がよくないと、という人には、やっぱりお勧めはできないですね。
出来れば<館>シリーズを全部読んでから挑戦して欲しいですが、読もうかなと思っている人はそのまま読んでしまってさほど困らないとは思います。きっと、本作を読めば、それまでの作品を全て読みたいと思うはずです。かなり長くて、読む前からちょっと諦めたくなるような作品ではあるけれども、是非挑戦してみてください。著者は、どこか一箇所でも驚いてくれれば、などと控えめに言っていますが、その全てで驚くこと請け合いです。是非どうぞ。
綾辻行人「暗黒館の殺人」
送り火(重松清)
街って、ほんと生き物みたいだよな、って思う。
なんだか、人の成長に似てなくもない。始めは、本当の本当に初めは何にもなくて、でもそこに人が住み始める。家が建ち、生活に必要なものが周囲に現れ、そしてそこに、人間の背骨のような線路が出来て、関節のように駅が出来、関節の部分に疲労が溜まるように人が集まってくる。背骨をなす線路を起点として、街は成長していく。病気や骨折のように廃墟が現れ、かと思えば脳のように重要な施設が集中した場所が現れたり、ほんと、人間と変わらないんじゃないかな、って気もする。
街を造るのは人間だ、って自負がきっと、意識しないまでも人々の中にはあるだろうと思う。人が建物を建て、道路を敷き、橋を架け、人々の生活を支えている、とみんなきっと思っている。
でもそうじゃない気がするのは僕だけだろうか?街にはきっと意志がある。人が建物を建てたいとか道路を敷きたい、とか思うよりも以前に、街自体がそういう意志を持っていて、そうなるように人間を操作している、だけなのかもしれない。
街には個性がある。というか、そのまま差があると言ってもいいだろう。それは、人間にも個人差があるようなものかもしれない。例えば、渋谷という街は、人間で言えば目立ちたがり屋で功名心が強かったのだろうと思う。だから、自分が注目を浴びるように、街自身頑張ったのではないか?僕の生まれ育った街は、町と書いた方が正しいようなところで、きっとそういうところの街は、消極的で人見知りで、ひっそりと生きていたいな、なんて思ったのかもしれない。
なんかそれぐらい、街というものの持つ力って大きいと思う。
人々は、自分の望む土地を作っているつもりでも、ただ街の意向に従っているだけで、結局人は、自分に合う街を、造るのではなく探さなくてはいけない羽目になる。人が街を拒絶するのではなく街に拒絶される。もはや人の力では、街をどうこうすることは出来ない。
なんか、人間って不器用だよな、ってこういう時に思ったりする。努力すればするほど、望まないものを手に入れていく、というかね。なんか、ちょっと悲しい。
書いていることがよくわからなくなってきたので(ちょっと個人的なことを言えば、仕事から帰ってきて、メチャクチャ疲れていたりするわけで)、あんまり適当にはしたくないんだけど、この辺で内容にはいります。
本作は、<武蔵電鉄富士見線>という路線を持つ街を舞台にした短編集です。重松清には珍しく、というか初のようですが、ホラーチックな作品になっています。
ホラーと言っても、怪物とか迷信とか妖怪とか呪いとか、そんな話ではありません。富士見線と共に生きる人々の、隠し持った気持ちやらよくない想像だとか、なんだかそういったものを集めた、という感じです。確かに怖い話もありますが、どちらかと言えば、切なくなる、というのに近いホラーではないかと思います。
というわけで、それぞれの内容を簡単に紹介します。
「フジミ荘奇譚」
浮気がばれて、離婚して、職も失い、友人や金融機関からの借金から逃れるために、家賃一万円の「富士見荘」に入居することになった男。そこで出会う、浮浪者のようななりをした老婆5人。一人ぼっちで長いこと生きてると猫になれるんだ。あんたも一人ぼっちだろ…
ホラーという意味ではこれが一番怖いのかもしれません。本作中の、ホラーらしいホラーです。
「ハードラック・ウーマン」
フリーの雑誌記者の女。タッグを組んで長い知り合いの副編集長と今やっているのは、街の噂を集めて特集するコーナー。またネタがない…そんな彼女が思いついたのが、「富士見地蔵」。ある駅にいた浮浪者らしき老婆をモチーフに作られた、彼女にとってはささやかな嘘だったのに…
噂と街というのは切っても切り離せないような気がします。しかも、ツールの進化と共に、噂の広まるスピードはどんどん速くなり、たかが噂、といえない感じになってくることもあります。みんな、何かやっぱり救いを求めてるのかな、と思える作品です。
「かげぜん」
息子を失った夫婦。息子の名前で届くダイレクトメールに、初めこそ怒りを覚えていたものの、名簿の中に息子が生きている、というような一種の希望をそこに見出すように。行動と思いのばらばらな妻を案じ、それとなく諭す夫。妻は、何を望むのか…
実際に子供がいないので想像は難しいけど、そうなってもおかしくはないような気はします。冗談。その口調に隠した本心は、隠されたままどんどんと成長していってしまうのでしょう。まるで、死んでしまった息子が名簿の中だけで成長するように…
「漂流記」
子育てにいいだろう…敷地の四割が自然で、公園も多いニュータウン。入居を決めた妻は、早速公園デビューを果たす。でも、なんだかおかしくない…敷地内の公園を漂流する妻と子。
この、主婦の世界、というのは、男にしたら本当に創造は難しいんだろうけど、単純に想像するに、なんだか大変そうな気がします。子供が中心であり、同時に母親が中心でもある、歪な空間なきがします。
「よーそろ」
学校でいじめられていて、死んじゃってもいいかなって思っている少年。自殺者をいちはやく察知できてしまう駅員。二人を繋ぐものは、ある人が書いた、旅行記。世界中を旅して回って、様々に諭そうとするそのHPに、多くの人が救われていく。
結構好きな話です。その旅行記を書いている人がなかなかいかしています。僕もこうして文章を書いているのですから、誰かを救えたらいいと思うのですけど…
「シド・ヴィシャスから遠く離れて」
パンクを愛し、なんだかわからないけど怒っていた、その怒りを文章にしてきたケニー佐藤。パンクを愛し、その生き方を愛し、三年後には死ぬと言い切ったもとパンクバンドの男。長い年月を経、どちらも父親として、幼稚園で再会した。パンクとは、死に方だ。彼等が残してきた生き方は、一体…
音楽というものに、造詣どころか特別興味もないので、そこまでわからないけど、人は時とともに意見を変えていくし、変えていかなければ生きていけない、と思える作品でした。
「送り火」
昔、遊園地のすぐ側で生活していた女。今は1児の母として生活している。母を同居させる。そう意気込んで、電話では何度も断られていたから、実家である、まさに遊園地のそばの家に戻ってきた。遊園地は潰れ、廃墟のようになっていたが。
なんか、家族ってなんだろう、って感じます。なんか、ちょっと悲しい。でも、本作は正直、ちょっとよくわからなかったです。
「家路」
些細なことの積み重ねから別居することになった夫婦。夫は、なんだってあんなに混んだ電車で、しかも遠い家まで、しかも毎日帰らなければいけないんだ、と思っている。だけど、帰りを待つ人のいない生活はどこか寂しい。そんな中、駅で地縛霊に会う。私は、帰りたかったのに、帰れなかったと嘆く地縛霊と。
これも、ちょっとよくわからなかったけど、確かに普通に普通に考えて、サラリーマンの父親って、あほみたいなことしてるよな、って思う。例えそれが家族のためだとしても。
「もういくつ寝ると」
ガンで余命幾ばくもない父のために、富士山の見える墓地を探すことになった。夫とはどうも意見が合わない。悪い人ではないんだけど…。お墓にまつわる、それぞれ個人の切ない物語。
僕個人的な意見では、お墓なんてどうでもいいと思うし、というか、人生において一度も墓参りに行ったことがない(どこに誰のお墓があるのかも知らない)ので、どうもピンときません。だからなのか、小野田さんの考え方は結構好きだったりします。
普段の重松清らしくない作品ですが、そつなくまとまっている、という感じです。悪くはないけど、そこまで、っていう感じです。でも、どこにでも恐怖は転がっているんだな、と思いました。それを皆が恐怖と感じるかどうかは別として。
本作と直接関係あるわけでもないんですが、僕個人的な意見としては、短編集のタイトルに、収録された短編のどれかのタイトルをつける、というやり方が、どうもあんまり好きではありません。、収録された作品全体を通して一つの作品であり、それに見合ったタイトルをつけてほしいのにな、と短編集を読むたびにちらりと思います。思い出して、とりあえずそのことを書いてみました。
表紙が綺麗です。緑色の夜の風景、とでもいいましょうか。なんだか、次の日に期待していいのか悪いのか微妙な感じの色ですが、綺麗です。結構好きです。
ちょっと違った重松清を体験してみるのもいいかもしれません。
重松清「送り火」
なんだか、人の成長に似てなくもない。始めは、本当の本当に初めは何にもなくて、でもそこに人が住み始める。家が建ち、生活に必要なものが周囲に現れ、そしてそこに、人間の背骨のような線路が出来て、関節のように駅が出来、関節の部分に疲労が溜まるように人が集まってくる。背骨をなす線路を起点として、街は成長していく。病気や骨折のように廃墟が現れ、かと思えば脳のように重要な施設が集中した場所が現れたり、ほんと、人間と変わらないんじゃないかな、って気もする。
街を造るのは人間だ、って自負がきっと、意識しないまでも人々の中にはあるだろうと思う。人が建物を建て、道路を敷き、橋を架け、人々の生活を支えている、とみんなきっと思っている。
でもそうじゃない気がするのは僕だけだろうか?街にはきっと意志がある。人が建物を建てたいとか道路を敷きたい、とか思うよりも以前に、街自体がそういう意志を持っていて、そうなるように人間を操作している、だけなのかもしれない。
街には個性がある。というか、そのまま差があると言ってもいいだろう。それは、人間にも個人差があるようなものかもしれない。例えば、渋谷という街は、人間で言えば目立ちたがり屋で功名心が強かったのだろうと思う。だから、自分が注目を浴びるように、街自身頑張ったのではないか?僕の生まれ育った街は、町と書いた方が正しいようなところで、きっとそういうところの街は、消極的で人見知りで、ひっそりと生きていたいな、なんて思ったのかもしれない。
なんかそれぐらい、街というものの持つ力って大きいと思う。
人々は、自分の望む土地を作っているつもりでも、ただ街の意向に従っているだけで、結局人は、自分に合う街を、造るのではなく探さなくてはいけない羽目になる。人が街を拒絶するのではなく街に拒絶される。もはや人の力では、街をどうこうすることは出来ない。
なんか、人間って不器用だよな、ってこういう時に思ったりする。努力すればするほど、望まないものを手に入れていく、というかね。なんか、ちょっと悲しい。
書いていることがよくわからなくなってきたので(ちょっと個人的なことを言えば、仕事から帰ってきて、メチャクチャ疲れていたりするわけで)、あんまり適当にはしたくないんだけど、この辺で内容にはいります。
本作は、<武蔵電鉄富士見線>という路線を持つ街を舞台にした短編集です。重松清には珍しく、というか初のようですが、ホラーチックな作品になっています。
ホラーと言っても、怪物とか迷信とか妖怪とか呪いとか、そんな話ではありません。富士見線と共に生きる人々の、隠し持った気持ちやらよくない想像だとか、なんだかそういったものを集めた、という感じです。確かに怖い話もありますが、どちらかと言えば、切なくなる、というのに近いホラーではないかと思います。
というわけで、それぞれの内容を簡単に紹介します。
「フジミ荘奇譚」
浮気がばれて、離婚して、職も失い、友人や金融機関からの借金から逃れるために、家賃一万円の「富士見荘」に入居することになった男。そこで出会う、浮浪者のようななりをした老婆5人。一人ぼっちで長いこと生きてると猫になれるんだ。あんたも一人ぼっちだろ…
ホラーという意味ではこれが一番怖いのかもしれません。本作中の、ホラーらしいホラーです。
「ハードラック・ウーマン」
フリーの雑誌記者の女。タッグを組んで長い知り合いの副編集長と今やっているのは、街の噂を集めて特集するコーナー。またネタがない…そんな彼女が思いついたのが、「富士見地蔵」。ある駅にいた浮浪者らしき老婆をモチーフに作られた、彼女にとってはささやかな嘘だったのに…
噂と街というのは切っても切り離せないような気がします。しかも、ツールの進化と共に、噂の広まるスピードはどんどん速くなり、たかが噂、といえない感じになってくることもあります。みんな、何かやっぱり救いを求めてるのかな、と思える作品です。
「かげぜん」
息子を失った夫婦。息子の名前で届くダイレクトメールに、初めこそ怒りを覚えていたものの、名簿の中に息子が生きている、というような一種の希望をそこに見出すように。行動と思いのばらばらな妻を案じ、それとなく諭す夫。妻は、何を望むのか…
実際に子供がいないので想像は難しいけど、そうなってもおかしくはないような気はします。冗談。その口調に隠した本心は、隠されたままどんどんと成長していってしまうのでしょう。まるで、死んでしまった息子が名簿の中だけで成長するように…
「漂流記」
子育てにいいだろう…敷地の四割が自然で、公園も多いニュータウン。入居を決めた妻は、早速公園デビューを果たす。でも、なんだかおかしくない…敷地内の公園を漂流する妻と子。
この、主婦の世界、というのは、男にしたら本当に創造は難しいんだろうけど、単純に想像するに、なんだか大変そうな気がします。子供が中心であり、同時に母親が中心でもある、歪な空間なきがします。
「よーそろ」
学校でいじめられていて、死んじゃってもいいかなって思っている少年。自殺者をいちはやく察知できてしまう駅員。二人を繋ぐものは、ある人が書いた、旅行記。世界中を旅して回って、様々に諭そうとするそのHPに、多くの人が救われていく。
結構好きな話です。その旅行記を書いている人がなかなかいかしています。僕もこうして文章を書いているのですから、誰かを救えたらいいと思うのですけど…
「シド・ヴィシャスから遠く離れて」
パンクを愛し、なんだかわからないけど怒っていた、その怒りを文章にしてきたケニー佐藤。パンクを愛し、その生き方を愛し、三年後には死ぬと言い切ったもとパンクバンドの男。長い年月を経、どちらも父親として、幼稚園で再会した。パンクとは、死に方だ。彼等が残してきた生き方は、一体…
音楽というものに、造詣どころか特別興味もないので、そこまでわからないけど、人は時とともに意見を変えていくし、変えていかなければ生きていけない、と思える作品でした。
「送り火」
昔、遊園地のすぐ側で生活していた女。今は1児の母として生活している。母を同居させる。そう意気込んで、電話では何度も断られていたから、実家である、まさに遊園地のそばの家に戻ってきた。遊園地は潰れ、廃墟のようになっていたが。
なんか、家族ってなんだろう、って感じます。なんか、ちょっと悲しい。でも、本作は正直、ちょっとよくわからなかったです。
「家路」
些細なことの積み重ねから別居することになった夫婦。夫は、なんだってあんなに混んだ電車で、しかも遠い家まで、しかも毎日帰らなければいけないんだ、と思っている。だけど、帰りを待つ人のいない生活はどこか寂しい。そんな中、駅で地縛霊に会う。私は、帰りたかったのに、帰れなかったと嘆く地縛霊と。
これも、ちょっとよくわからなかったけど、確かに普通に普通に考えて、サラリーマンの父親って、あほみたいなことしてるよな、って思う。例えそれが家族のためだとしても。
「もういくつ寝ると」
ガンで余命幾ばくもない父のために、富士山の見える墓地を探すことになった。夫とはどうも意見が合わない。悪い人ではないんだけど…。お墓にまつわる、それぞれ個人の切ない物語。
僕個人的な意見では、お墓なんてどうでもいいと思うし、というか、人生において一度も墓参りに行ったことがない(どこに誰のお墓があるのかも知らない)ので、どうもピンときません。だからなのか、小野田さんの考え方は結構好きだったりします。
普段の重松清らしくない作品ですが、そつなくまとまっている、という感じです。悪くはないけど、そこまで、っていう感じです。でも、どこにでも恐怖は転がっているんだな、と思いました。それを皆が恐怖と感じるかどうかは別として。
本作と直接関係あるわけでもないんですが、僕個人的な意見としては、短編集のタイトルに、収録された短編のどれかのタイトルをつける、というやり方が、どうもあんまり好きではありません。、収録された作品全体を通して一つの作品であり、それに見合ったタイトルをつけてほしいのにな、と短編集を読むたびにちらりと思います。思い出して、とりあえずそのことを書いてみました。
表紙が綺麗です。緑色の夜の風景、とでもいいましょうか。なんだか、次の日に期待していいのか悪いのか微妙な感じの色ですが、綺麗です。結構好きです。
ちょっと違った重松清を体験してみるのもいいかもしれません。
重松清「送り火」
イニシエーションラブ(乾くるみ)
今回は、完敗だ。しかも二つのことに。
一つはいうまでもなく、この作品自体にだ。なんて驚愕な作品なんだろう、って思った。なんか、素晴らしいっていうよりも、驚愕とか衝撃とか仰天とか、そういう作品だ。
僕はミステリーばっか読んでるし、そのトリックは大抵いつもわからない。基本的に、解こうと思って読んでなくて、出された解答を、なるほどね~って言って読むのが僕のスタイルだ。それでも、ミステリーを読んで普段は別に「負けた」なんて思わない。なるほどそうくるか、とは思っても、やられた、とおもっても、負けたとは思わない。
しかし、今回は、なんか完敗って気分で、つまりそれは、僕が謎自体にも気付かずに最終ページまで行ってしまったからだろうと思う。正直に言えば、読み終わってからも、謎があることはわかるんだけど、どこにあるのかわからない、と言った始末で、慌ててネタばれのHPを探して読んで、ようやく、なるほどね~となることができた、という作品なのである。
だから完敗だ。
一読して、謎に気付くこと自体がかなり難しいのではないかと思います。と言い訳をしてみます。でも正直、「これ何がミステリーなんだろうな~」って思って、「ああつまんなかった」で終わってしまう人もいるのではないか、と思うくらいです。
そう、始めに、「素晴らしいというか…」と言ったのはまさにその点にあって、本作は、そのミステリ的な伏線とか誤誘導とか、そういった部分に気付かなければ、平凡以下の特に面白くもない恋愛小説なんです。もちろん、これだけの伏線と誤誘導をちりばめていたら、さらに話を面白くしよう、なんてのはかなり難しいのだと思うし、著者自身も、ストーリー自体が平凡で面白くない、という批判は甘んじて受け入れる覚悟のようなので、まあいいのかな、とも思いますが。
とその内容ですが、どうしようかと思っています。恐らく、本の感想を書くHPなりブログを持っている人で、本作を読んだ人は必ずその感想のなかにこう書くでしょう。
「何を書いてもネタばれになる」
もちろん僕もそう思っているので、今回は、表紙を捲った折り返しの部分にあるあらすじをそのまま丸写しにすることで、内容の紹介を終わらせたいと思います。
大学四年の僕(たっくん)が彼女(マユ)に出会ったのは、代打出場の合コンの席。
やがてふたりはつき合うようになり、夏休み、クリスマス、学生時代最後の年をともに過ごした。
マユのために東京の大企業を蹴って地元静岡の会社に就職したたっくん。ところがいきなり東京勤務を命じられてしまう。週末だけの長距離恋愛になってしまい、いつしかふたりに隙間が生じていって…。
まあ、確かにこんな話だったりします。内容については以上。
著者乾くるみは、静岡大学理学部数学科卒という経歴です。名前からして恐らく女性だと思いますが、これは偏見ですけど、女性で数学科というのは、素晴らしく稀な感じがします。そもそも、数学科を専攻するというだけでもかなり稀な気がします。本作のまさに緻密としか言えない構成や論理性は、数学を得意とする著者だからこそ成しえたものなのかもしれません。普通の人に、そもそもこれだけの話を組み上げることは出来ないだろうと思います。本当に一言、すごいです。
本作は、舞台が静岡で、静岡出身の僕には、それなりに懐かしい地名や方言が出てきて、結構いいなと思いました。とはいえ僕は、大雑把に言って富士山の近く(富士川町というところ)の出身で、位置的にも静岡の中心部の静岡市(確か今は、静岡市と清水市が合併して静岡市になったような気がするけど)、そのネタばれのHPを読んで知った部分も多かったんですけど。静岡出身の人には、出てくる地名や苗字や方言やそういうところも楽しめるのではないかと思います。
さて、ここで話を戻して、僕が完敗した二つ目を書こうと思いますが、それは本作「イニシエーションラブ」の感想です。
僕は読了後、本当にどういうことなのかわからず、とにかくネットでネタばれのページを探しました。そこで、もう「ネタばれ」というか、「完全解説」というか、「解体新書」的なHPがあって、その中身の素晴らしさに完敗した、という次第です。なので今回は、僕がこんなところでグダグダ感想を書いても、どうやってもあのHPの内容には勝てない、と判断して、僕は今回本作の感想を、割と手を抜いた感じで書いたりしています。しかしまあ、一つの作品で二度も完敗を喫するとは…
さて、そのHPのアドレスを以下に載せようと思いますが、本作を読む可能性が僅かでも残されている方は、絶対にクリックしないでください。恋人に、「「イニシエーションラブ」っていう面白い小説があるから読んで。読んでくれないと別れるよ」とか言われても、臨終間際の祖父母に、「私の形見の「イニシエーションラブ」を大事に読んで」とか言われても絶対に本を読まないという人や、文字を見るとじんましんが出るから本は読めない、というような人ならクリックしてくれてかまいませんが(まあそんな人がこのブログを見るとは思えないけど)、それこそ宝くじ一等に当たるくらいの確率でもいいから、読む可能性があるというなら、絶対に見ないでください。それくらい、詳しすぎないそれ、というような解説で、本作を読む前に見ても無意味どころかマイナスですが、本作を読んだ後に見ると、驚愕かつ感動すると思います。
というわけでそのサイトです。
「イニシエーションラブ」完全ネタばれ解説解体新書HP注)未読の方は絶対に見ないように
というわけで、今回はかなり適当な感じだったけど、一作読んで二度も完敗してうちひしがれている、と理解してください。
ミステリが好きな人には、かなりの衝撃を与える作品ではないかと思います。そして、ミステリが嫌いだという人は、残念ですが読まない方がいいと思います。そして、その中間ぐらいだという人は、ちょっと試してみてください。という感じです。
乾くるみ「イニシエーションラブ」
一つはいうまでもなく、この作品自体にだ。なんて驚愕な作品なんだろう、って思った。なんか、素晴らしいっていうよりも、驚愕とか衝撃とか仰天とか、そういう作品だ。
僕はミステリーばっか読んでるし、そのトリックは大抵いつもわからない。基本的に、解こうと思って読んでなくて、出された解答を、なるほどね~って言って読むのが僕のスタイルだ。それでも、ミステリーを読んで普段は別に「負けた」なんて思わない。なるほどそうくるか、とは思っても、やられた、とおもっても、負けたとは思わない。
しかし、今回は、なんか完敗って気分で、つまりそれは、僕が謎自体にも気付かずに最終ページまで行ってしまったからだろうと思う。正直に言えば、読み終わってからも、謎があることはわかるんだけど、どこにあるのかわからない、と言った始末で、慌ててネタばれのHPを探して読んで、ようやく、なるほどね~となることができた、という作品なのである。
だから完敗だ。
一読して、謎に気付くこと自体がかなり難しいのではないかと思います。と言い訳をしてみます。でも正直、「これ何がミステリーなんだろうな~」って思って、「ああつまんなかった」で終わってしまう人もいるのではないか、と思うくらいです。
そう、始めに、「素晴らしいというか…」と言ったのはまさにその点にあって、本作は、そのミステリ的な伏線とか誤誘導とか、そういった部分に気付かなければ、平凡以下の特に面白くもない恋愛小説なんです。もちろん、これだけの伏線と誤誘導をちりばめていたら、さらに話を面白くしよう、なんてのはかなり難しいのだと思うし、著者自身も、ストーリー自体が平凡で面白くない、という批判は甘んじて受け入れる覚悟のようなので、まあいいのかな、とも思いますが。
とその内容ですが、どうしようかと思っています。恐らく、本の感想を書くHPなりブログを持っている人で、本作を読んだ人は必ずその感想のなかにこう書くでしょう。
「何を書いてもネタばれになる」
もちろん僕もそう思っているので、今回は、表紙を捲った折り返しの部分にあるあらすじをそのまま丸写しにすることで、内容の紹介を終わらせたいと思います。
大学四年の僕(たっくん)が彼女(マユ)に出会ったのは、代打出場の合コンの席。
やがてふたりはつき合うようになり、夏休み、クリスマス、学生時代最後の年をともに過ごした。
マユのために東京の大企業を蹴って地元静岡の会社に就職したたっくん。ところがいきなり東京勤務を命じられてしまう。週末だけの長距離恋愛になってしまい、いつしかふたりに隙間が生じていって…。
まあ、確かにこんな話だったりします。内容については以上。
著者乾くるみは、静岡大学理学部数学科卒という経歴です。名前からして恐らく女性だと思いますが、これは偏見ですけど、女性で数学科というのは、素晴らしく稀な感じがします。そもそも、数学科を専攻するというだけでもかなり稀な気がします。本作のまさに緻密としか言えない構成や論理性は、数学を得意とする著者だからこそ成しえたものなのかもしれません。普通の人に、そもそもこれだけの話を組み上げることは出来ないだろうと思います。本当に一言、すごいです。
本作は、舞台が静岡で、静岡出身の僕には、それなりに懐かしい地名や方言が出てきて、結構いいなと思いました。とはいえ僕は、大雑把に言って富士山の近く(富士川町というところ)の出身で、位置的にも静岡の中心部の静岡市(確か今は、静岡市と清水市が合併して静岡市になったような気がするけど)、そのネタばれのHPを読んで知った部分も多かったんですけど。静岡出身の人には、出てくる地名や苗字や方言やそういうところも楽しめるのではないかと思います。
さて、ここで話を戻して、僕が完敗した二つ目を書こうと思いますが、それは本作「イニシエーションラブ」の感想です。
僕は読了後、本当にどういうことなのかわからず、とにかくネットでネタばれのページを探しました。そこで、もう「ネタばれ」というか、「完全解説」というか、「解体新書」的なHPがあって、その中身の素晴らしさに完敗した、という次第です。なので今回は、僕がこんなところでグダグダ感想を書いても、どうやってもあのHPの内容には勝てない、と判断して、僕は今回本作の感想を、割と手を抜いた感じで書いたりしています。しかしまあ、一つの作品で二度も完敗を喫するとは…
さて、そのHPのアドレスを以下に載せようと思いますが、本作を読む可能性が僅かでも残されている方は、絶対にクリックしないでください。恋人に、「「イニシエーションラブ」っていう面白い小説があるから読んで。読んでくれないと別れるよ」とか言われても、臨終間際の祖父母に、「私の形見の「イニシエーションラブ」を大事に読んで」とか言われても絶対に本を読まないという人や、文字を見るとじんましんが出るから本は読めない、というような人ならクリックしてくれてかまいませんが(まあそんな人がこのブログを見るとは思えないけど)、それこそ宝くじ一等に当たるくらいの確率でもいいから、読む可能性があるというなら、絶対に見ないでください。それくらい、詳しすぎないそれ、というような解説で、本作を読む前に見ても無意味どころかマイナスですが、本作を読んだ後に見ると、驚愕かつ感動すると思います。
というわけでそのサイトです。
「イニシエーションラブ」完全ネタばれ解説解体新書HP注)未読の方は絶対に見ないように
というわけで、今回はかなり適当な感じだったけど、一作読んで二度も完敗してうちひしがれている、と理解してください。
ミステリが好きな人には、かなりの衝撃を与える作品ではないかと思います。そして、ミステリが嫌いだという人は、残念ですが読まない方がいいと思います。そして、その中間ぐらいだという人は、ちょっと試してみてください。という感じです。
乾くるみ「イニシエーションラブ」