伊坂幸太郎
今回は伊坂幸太郎を紹介したいと思います。
さて、伊坂幸太郎という名前を聞いたことがあるでしょうかね?ミステリ界では急成長の注目株、気鋭の若手作家なんだけど、一般にはそんなでもないかもしれない、と思う。
デビュー作は、新潮ミステリ倶楽部賞という新人賞を受賞した「オーデュボンの祈り」である。あらすじだけでも結構読みたい、と思ってしまうのではないかと思うぐらい、ストーリー自体面白い。
仙台在住だった男は、知らぬ間にいつのまにかある島で目が覚めた。その島は、そこに住んでいる人に言わせれば、「日本」という国からは鎖国状態なのだという。その島にはさまざま不思議な人間が揃い踏みで、嘘しか言わない画家、殺人を許された男、食べ過ぎて動くことの出来なくなった八百屋のおばさん、など。
その中にいて、最も不思議な存在は、人の言葉を喋り、未来を見通すことのできる「カカシ」だ。優午というそのカカシはしかし、ある日バラバラにされて頭を持ち去られているのが発見される。さて、未来を知ることの出来るカカシは、一体何故自分の死を知ることが出来なかったのか・・・
どうでしょうか?誰がこんな不思議でシュールな設定の話を考えることができるでしょう。ある意味ファンタジーでありながら、間違いなくミステリーでもあり、どのページを読んでもワクワクし、すぐにでもページを捲りたくなる。
それ以上に、彼が紡ぎだす文章というのが独特で、とにかく魅力的だ。どことなくふんわりふわふわしているのに、掴みところがないということもなく、ふとした思考の転換や発想の奇妙さが、どこにもかしこにもちりばめられている。
特に会話が果てしなく魅力的で、どの会話を切り取っても、自分の自分の人生にはありえなかったしこれからもありえないだろう会話だし、あーそんな会話してみたいなと思わせてくれる。自分の人生に貼り付けてみたらどうにも違和感の残る会話であるのだが、その会話が不自然ではない世界を作り上げてしまう。
そういう魅力的な作品である。
デビュー時そこまで騒がれなかったような気もするが、その後出した「重力ピエロ」「ラッシュライフ」が出世作となった。
その内、「ラッシュライフ」の方はまだ読んでいないのだが、「重力ピエロ」は読んだ。作家紹介なわけで、作品紹介ではないから少し控えるけど、放火と兄弟の優しい物語だ。会話や世界はまさに伊坂テイストであり、しかもミステリーとしても飛躍し、それ以後「このミステリーがすごい!」というエンターテイメント系のランキングで毎年の常連なったし、「重力ピエロ」では直木賞候補になった。
その後、「陽気なギャングが地球を回す」「チルドレン」「グラスホッパー」「アヒルと鴨のコインロッカー」と立て続けに作品を発表し、今年発表した三作全て「このミス」のランキング20位以内に入った。「チルドレン」「グラスホッパー」は直木賞候補になり、「アヒルと鴨のコインロッカー」では吉川英字文学新人賞を受賞。短編でも日本推理作家協会賞を受賞し、今最ものっている作家である。
仙台在住で、作品のほとんどが仙台を舞台にしている。1971年の生まれでかなり若い。「重力ピエロ」で直木賞候補になった時は、70年代生まれで初めての直木賞候補だった。
俺は、本当にどれでもいいから伊坂の作品に触れて欲しいと思います。といっても古本屋ではなかなか見付かりません。最近、半額でもいいから買おう、とおもっているけど、全然見つけられません。未だに「オーデュボンの祈り」「重力ピエロ」「陽気なギャングが地球を回す」の三作しか読んでいません。
というわけで、お金に余裕がある方は是非新刊で買ってください。そしてそれを古本屋に流してください。それを俺が買いますので。お願いします。
伊坂幸太郎私設ファンサイト
Books and Cafe
DOG IN YARD!
さて、伊坂幸太郎という名前を聞いたことがあるでしょうかね?ミステリ界では急成長の注目株、気鋭の若手作家なんだけど、一般にはそんなでもないかもしれない、と思う。
デビュー作は、新潮ミステリ倶楽部賞という新人賞を受賞した「オーデュボンの祈り」である。あらすじだけでも結構読みたい、と思ってしまうのではないかと思うぐらい、ストーリー自体面白い。
仙台在住だった男は、知らぬ間にいつのまにかある島で目が覚めた。その島は、そこに住んでいる人に言わせれば、「日本」という国からは鎖国状態なのだという。その島にはさまざま不思議な人間が揃い踏みで、嘘しか言わない画家、殺人を許された男、食べ過ぎて動くことの出来なくなった八百屋のおばさん、など。
その中にいて、最も不思議な存在は、人の言葉を喋り、未来を見通すことのできる「カカシ」だ。優午というそのカカシはしかし、ある日バラバラにされて頭を持ち去られているのが発見される。さて、未来を知ることの出来るカカシは、一体何故自分の死を知ることが出来なかったのか・・・
どうでしょうか?誰がこんな不思議でシュールな設定の話を考えることができるでしょう。ある意味ファンタジーでありながら、間違いなくミステリーでもあり、どのページを読んでもワクワクし、すぐにでもページを捲りたくなる。
それ以上に、彼が紡ぎだす文章というのが独特で、とにかく魅力的だ。どことなくふんわりふわふわしているのに、掴みところがないということもなく、ふとした思考の転換や発想の奇妙さが、どこにもかしこにもちりばめられている。
特に会話が果てしなく魅力的で、どの会話を切り取っても、自分の自分の人生にはありえなかったしこれからもありえないだろう会話だし、あーそんな会話してみたいなと思わせてくれる。自分の人生に貼り付けてみたらどうにも違和感の残る会話であるのだが、その会話が不自然ではない世界を作り上げてしまう。
そういう魅力的な作品である。
デビュー時そこまで騒がれなかったような気もするが、その後出した「重力ピエロ」「ラッシュライフ」が出世作となった。
その内、「ラッシュライフ」の方はまだ読んでいないのだが、「重力ピエロ」は読んだ。作家紹介なわけで、作品紹介ではないから少し控えるけど、放火と兄弟の優しい物語だ。会話や世界はまさに伊坂テイストであり、しかもミステリーとしても飛躍し、それ以後「このミステリーがすごい!」というエンターテイメント系のランキングで毎年の常連なったし、「重力ピエロ」では直木賞候補になった。
その後、「陽気なギャングが地球を回す」「チルドレン」「グラスホッパー」「アヒルと鴨のコインロッカー」と立て続けに作品を発表し、今年発表した三作全て「このミス」のランキング20位以内に入った。「チルドレン」「グラスホッパー」は直木賞候補になり、「アヒルと鴨のコインロッカー」では吉川英字文学新人賞を受賞。短編でも日本推理作家協会賞を受賞し、今最ものっている作家である。
仙台在住で、作品のほとんどが仙台を舞台にしている。1971年の生まれでかなり若い。「重力ピエロ」で直木賞候補になった時は、70年代生まれで初めての直木賞候補だった。
俺は、本当にどれでもいいから伊坂の作品に触れて欲しいと思います。といっても古本屋ではなかなか見付かりません。最近、半額でもいいから買おう、とおもっているけど、全然見つけられません。未だに「オーデュボンの祈り」「重力ピエロ」「陽気なギャングが地球を回す」の三作しか読んでいません。
というわけで、お金に余裕がある方は是非新刊で買ってください。そしてそれを古本屋に流してください。それを俺が買いますので。お願いします。
伊坂幸太郎私設ファンサイト
Books and Cafe
DOG IN YARD!
墜ちていく僕たち(森博嗣)
またまた、というかたまたま、というかやっぱりというか、とにかく森博嗣です。猫ひろしとか五木ひろしとかヒロシとか割と無関係で、芸人でも歌手でもなくてちゃんと作家だったりするのです。
ラーメンと性という、これ以上ない取り合わせですよね。例えば、メロンに生ハム的な印象っていうかね。あれよ、食べたことないよ、僕は・・・って僕って何?自分への突っ込み?それじゃあ芸人じゃないさ。ヒロシだよね。猫でもいいけど。
って脱線脱線。まあどこかの線の上を走っているつもりはないけどさ、一応副題がさ「Falling Ropewalkers」だったり。だから線じゃないけど、ロープの上を歩いてるってわけ。誰が?なんて思っちゃだめよ。そんなまともなこと考えられるほど脳みそばっちりじゃないかんね。
そうそう、生ハムとメロンの話ね。甘い塩味なんか想像できる?それぐらいの取り合わせじゃない、ラーメンと性って?わかる?わかんないよね。っていうかもっと微妙な取り合わせだよね、きっと。
よし、軌道修正よーい、ドン!なんか、ラーメンを食べると性が逆転しちゃう話なんだな、これが。シュールだね。シュメールとかジュールじゃないよ。シャガールでもリキュールでも・・・反省。
短編集で、まあどれもこれもそんな話なんだな。でもさ、まあ普通っていうか、それはさ話が面白くないとかいうわけでもなくて、なんか性が変わっても普通なんだな。
そりゃあさ、突然性が変わったら、そこそこ、そこここ、ロココ調に驚くだろうけどさ、でも驚いてるだけでお腹が一杯になるなら苦労しないわけじゃん。突然ブラジャーが必要になっても働かなきゃ生きていけないし、突然タンポンが要らなくなったって腹は減るしね。
結構まともじゃない人達がさ、まあそりゃあもちろん一般的な判断基準に沿ってまともじゃないわけで、まあ一般的ってのはさもっとも暴力的だったりするんだけど、そんなこと無視しちゃってさ、そういうある意味変わった人たちがさ、異性に変わっちゃうんだな。あれ?ってなもんだよね。それでもさ、時間が止まってくれるわけでもないしね。墜ちたことがさ、いい場合なんてのも、時にはあったりするかもだし。
あー、なんかすげー無意味な文章書いている気がする。そう、だから言葉になんか意味なんてないのさ、ってこれまた無意味な言葉を重ねてみたくなっちゃう僕ちゃんなんだな。もう開き直りだよ、僕ちゃんなんて使うの。
えぇぇ、そんな感じです。
さて、これからはさらに脱線タイムで、もうどこでも走っちゃうよ、みたいな状態です。
まじ今回大爆笑した場面があってさ、もちろんさこんなところで笑う人間なんて100人に6人ぐらいだと思うけどさ、まじで久々に腹から笑ったっての、もしかして腹が笑ってたのかもしれないけどさ、もうグハグハのワハハハみたいな。
まあどうってことない場面なんだけどね。
『メガネを外しているモッチャンを、私は眺めていた。なかなか、新たな感動というか開拓というか、味覚じゃないけど、えっと、美味しそうな、あれ、変な感じだな。
可愛らしいな。
白い頬が少し紅潮していて・・・、
触りたいな。
「おっさんか、俺は」
「え?」ラーメンすすり途中のモッチャンが顔を上げる。「酸化オレゴン?」』
わかる?わかんなかな?俺この場面を読んで爆笑して、この場面を書いたというだけでやっぱ森博嗣っていいななんて思ったりしたぐらいなんだけどさ。
やっぱ変かな?
あともう一個言いたいことあったりするんだな。別に俺のブログなんだしね、誰に許可取らなくちゃいけないなんてこともないけどさ、一応俺って優しい風装ってるしさ、読んでて苦痛ならさ止めよっかな、みたいなさ思いやり精神なんだよ。
森博嗣ってさ、単語の最後の「ー」って書かないンだよね。「エレベータ」とか「マスタ」とかさ。でも今回、もしかしたら初かもだよ。「ー」使ってたんだよ。
「コーヒー」
確かに「コーヒ」って微妙かもとか思うよね。合否、みたいなさ。受験生諸君ファイトー、みたいなさ、っていうかファイト、だね。
大阪人はさアイスコーヒーのこと「レイコー」っていうんだよね。なんかさ変なこと考えちゃったんだ。
普通の作家ならこう書くよね。
「レイコー一つ頼むわ」
これならさ、「アイスコーヒー一つお願い」ってなるじゃん。
でもさ、森博嗣ならこうだよ。
「レイコ一つ頼むわ」
これだとさ、「レイコ(人の名前だよ)ちょっと頼むわ」みたいなニュアンスになるじゃん。・
これ使ったらさ、一個ミステリー書けそうじゃない?ダメかな。ってかダメに決まってるけどさ。
あー、すげー駄文って感じ。ザブンでドボンでズブンみたいな。でもいいや、それなりに自己満足かも。
森博嗣「墜ちていく僕たち」
ラーメンと性という、これ以上ない取り合わせですよね。例えば、メロンに生ハム的な印象っていうかね。あれよ、食べたことないよ、僕は・・・って僕って何?自分への突っ込み?それじゃあ芸人じゃないさ。ヒロシだよね。猫でもいいけど。
って脱線脱線。まあどこかの線の上を走っているつもりはないけどさ、一応副題がさ「Falling Ropewalkers」だったり。だから線じゃないけど、ロープの上を歩いてるってわけ。誰が?なんて思っちゃだめよ。そんなまともなこと考えられるほど脳みそばっちりじゃないかんね。
そうそう、生ハムとメロンの話ね。甘い塩味なんか想像できる?それぐらいの取り合わせじゃない、ラーメンと性って?わかる?わかんないよね。っていうかもっと微妙な取り合わせだよね、きっと。
よし、軌道修正よーい、ドン!なんか、ラーメンを食べると性が逆転しちゃう話なんだな、これが。シュールだね。シュメールとかジュールじゃないよ。シャガールでもリキュールでも・・・反省。
短編集で、まあどれもこれもそんな話なんだな。でもさ、まあ普通っていうか、それはさ話が面白くないとかいうわけでもなくて、なんか性が変わっても普通なんだな。
そりゃあさ、突然性が変わったら、そこそこ、そこここ、ロココ調に驚くだろうけどさ、でも驚いてるだけでお腹が一杯になるなら苦労しないわけじゃん。突然ブラジャーが必要になっても働かなきゃ生きていけないし、突然タンポンが要らなくなったって腹は減るしね。
結構まともじゃない人達がさ、まあそりゃあもちろん一般的な判断基準に沿ってまともじゃないわけで、まあ一般的ってのはさもっとも暴力的だったりするんだけど、そんなこと無視しちゃってさ、そういうある意味変わった人たちがさ、異性に変わっちゃうんだな。あれ?ってなもんだよね。それでもさ、時間が止まってくれるわけでもないしね。墜ちたことがさ、いい場合なんてのも、時にはあったりするかもだし。
あー、なんかすげー無意味な文章書いている気がする。そう、だから言葉になんか意味なんてないのさ、ってこれまた無意味な言葉を重ねてみたくなっちゃう僕ちゃんなんだな。もう開き直りだよ、僕ちゃんなんて使うの。
えぇぇ、そんな感じです。
さて、これからはさらに脱線タイムで、もうどこでも走っちゃうよ、みたいな状態です。
まじ今回大爆笑した場面があってさ、もちろんさこんなところで笑う人間なんて100人に6人ぐらいだと思うけどさ、まじで久々に腹から笑ったっての、もしかして腹が笑ってたのかもしれないけどさ、もうグハグハのワハハハみたいな。
まあどうってことない場面なんだけどね。
『メガネを外しているモッチャンを、私は眺めていた。なかなか、新たな感動というか開拓というか、味覚じゃないけど、えっと、美味しそうな、あれ、変な感じだな。
可愛らしいな。
白い頬が少し紅潮していて・・・、
触りたいな。
「おっさんか、俺は」
「え?」ラーメンすすり途中のモッチャンが顔を上げる。「酸化オレゴン?」』
わかる?わかんなかな?俺この場面を読んで爆笑して、この場面を書いたというだけでやっぱ森博嗣っていいななんて思ったりしたぐらいなんだけどさ。
やっぱ変かな?
あともう一個言いたいことあったりするんだな。別に俺のブログなんだしね、誰に許可取らなくちゃいけないなんてこともないけどさ、一応俺って優しい風装ってるしさ、読んでて苦痛ならさ止めよっかな、みたいなさ思いやり精神なんだよ。
森博嗣ってさ、単語の最後の「ー」って書かないンだよね。「エレベータ」とか「マスタ」とかさ。でも今回、もしかしたら初かもだよ。「ー」使ってたんだよ。
「コーヒー」
確かに「コーヒ」って微妙かもとか思うよね。合否、みたいなさ。受験生諸君ファイトー、みたいなさ、っていうかファイト、だね。
大阪人はさアイスコーヒーのこと「レイコー」っていうんだよね。なんかさ変なこと考えちゃったんだ。
普通の作家ならこう書くよね。
「レイコー一つ頼むわ」
これならさ、「アイスコーヒー一つお願い」ってなるじゃん。
でもさ、森博嗣ならこうだよ。
「レイコ一つ頼むわ」
これだとさ、「レイコ(人の名前だよ)ちょっと頼むわ」みたいなニュアンスになるじゃん。・
これ使ったらさ、一個ミステリー書けそうじゃない?ダメかな。ってかダメに決まってるけどさ。
あー、すげー駄文って感じ。ザブンでドボンでズブンみたいな。でもいいや、それなりに自己満足かも。
森博嗣「墜ちていく僕たち」
魔法飛行(加納朋子)
<私>・正ちゃん・江美ちゃんとくれば「北村薫」。この作品からは、<私>シリーズと同じ香りがする(解説の有栖川氏も同じことを書いているし、北村薫の<私>シリーズに触れたことのある人はみな同じ感想を抱くだろうと思う)。
いつの日か、<入江駒子>・愛ちゃん・ふみさんで「加納朋子」という連想が、誰の頭にも浮かぶような、そんな作品になって欲しいと思う。
本作は、加納氏のデビュー作「ななつのこ」の続編である。「ななつのこ」で魅せた、あの秀逸な構成も、全てではないが踏襲されている。短編集であり、一つ一つの短編が見事であるのに、さらに全体を貫く「何か」が用意されている、という構成。見事としかいいようがない。
設定は、「ななつのこ」以後ということであるので、簡単に「ななつのこ」の説明をしようと思う。
入江駒子はある童話作家の童話を読み感動し、ファンレターを出すことから始まる。ファンレターに駒子の周りで起こった不思議な出来事を書くと、そのファンレターの返信で見事その謎が解かれている、といった内容である。七つの短編で構成されており、童話作家と駒子のストーリーの終局は見事なものがあった。
本作はその続きである。短大生である駒子は、同じ大学の友人である愛ちゃんやふみさん、また美術学校に通うたまちゃんという友人らと過ごす日常を切り取り、短い物語を書くようになる。それを「ななつのこ」での童話作家に送り見てもらう、という趣向である。
駒子の書く物語と、童話作家からの返信(つまり謎の解決)が交互に繰り返されるというスタイルだが、今回はさらに、誰が出したのか分からない謎の手紙が各章の終わりごとに付けられている。最終章で明かされる真実は、全編を貫く見事なものである。
女子大生駒子の描くささやかな日常が瑞々しく、ほのぼのとする。駒子が提示する謎も不思議なら、童話作家の推理(本人は空想と呼ぶ)がまた優しい。
特に、表題作である「魔法飛行」で明かされる真実は、透き通っていてふんわりと美しい。この作品は是非読んで欲しいよ思う。
もちろんミステリとして秀逸であることは言うまでもない。しかしそれ以上に、読んでよかったと思わせる何かがある作品です。「ななつのこ」「魔法飛行」というに作は、是非手に取って読んでみてください。
ちなみに余談ですが、加納氏の作品の表紙は大抵、色鉛筆で書いたようなパステル調のもので、加納氏の作品の雰囲気をよく表している。装丁が美しい、というのも加納氏の作品の特長である。
加納朋子「魔法飛行」
ささらさや(加納朋子)
ささらさや 「ささら」は「佐々良」で 「さや」は「サヤ」
「佐々良」というのは舞台となる町の名前で、「サヤ」というのは主人公となる女性の名前です。いつもながら加納朋子は、語感のいい言葉を使ってきます。
連作短編集で、日常の謎を描く作者として大分定着してきたと思われる加納氏ですが、今回の作品もまた秀逸です。
始まりこそ、なんとも残酷な幕開けになります。なんと、大好きで仕方ない夫を、目の前で交通事故で失ってしまいます。
夫の忘れ形見である、わが子「ユウ坊」。か弱くお人よしで騙されやすい「サヤ」だけど、わが子を一人で守るためにしっかり生きていこう、と決意する。
と、そんな決意を失わせるかのように、「サヤ」にとっては嫌な出来事が周りで起こっていく。中でも、「ユウ坊」を死んだ夫の姉夫婦が引き取りたい、と言ってきて、その義父母を巻き込んだ攻勢から逃げるようにして、「サヤ」は親族の中で最も親切にしてくれた伯母が住んでいた「佐々良」という町に辿り着く。
夫は死してもなお「サヤ」のことが心配で仕方ない。
「馬鹿っサヤ」と言ってしまうくらい夫にとって「サヤ」は弱弱しく頼りなげで、そんな「サヤ」の身に何か起こる度に、夫は「サヤ」を助けようと・・・
誰かの身に乗り移る。
死んだ夫の姿を見ることのできる人というのが中にはいて(何故かサヤには見ることができない)、そういう人の体を一度だけ借りて「サヤ」に接触することができる。「サヤ」だけでは解決できないことに、死んだ夫が生者の体を借りて助けに行く、とそういう話です。
いつも思うけど、加納朋子の作品は優しい。白い画用紙の上に、大目の水で溶いた絵の具で絵を描いたかのように透明感がある。
つまり、下地の画用紙の白が透けて見えるように、加納氏の作品からは作者自身の優しさが透けて見えるような気がする。
「ユウ坊」と二人きりで始まった生活も、色々な出来事や時間を経て、いつしか「サヤ」の周りには、少し口は悪いけど大勢の頼もしい仲間達が集うようになっている。死んだ夫のことは忘れられないけど、大事な仲間が側にいる生活を「サヤ」自身頼もしく楽しく思い、夫もその姿を見て、自分の身の振り方を考える。
俺が読んでいてとてもいいなと思ったのは、途中から出てくる「エリカ」という女性です。「エリカ」が出てくるようになってから、物語は格段に面白くなったような気がします。
張り詰めた生活や気苦労の多い社会に疲れた時、怒りっぽくなってイライラして少しでも優しい気持ちになりたい時、静かで穏やかな自分だけの時間を最高の小説と共に過ごしたい時、そんな時にお勧めの小説であり、お勧めの作家です。
加納朋子「ささらさや」
「佐々良」というのは舞台となる町の名前で、「サヤ」というのは主人公となる女性の名前です。いつもながら加納朋子は、語感のいい言葉を使ってきます。
連作短編集で、日常の謎を描く作者として大分定着してきたと思われる加納氏ですが、今回の作品もまた秀逸です。
始まりこそ、なんとも残酷な幕開けになります。なんと、大好きで仕方ない夫を、目の前で交通事故で失ってしまいます。
夫の忘れ形見である、わが子「ユウ坊」。か弱くお人よしで騙されやすい「サヤ」だけど、わが子を一人で守るためにしっかり生きていこう、と決意する。
と、そんな決意を失わせるかのように、「サヤ」にとっては嫌な出来事が周りで起こっていく。中でも、「ユウ坊」を死んだ夫の姉夫婦が引き取りたい、と言ってきて、その義父母を巻き込んだ攻勢から逃げるようにして、「サヤ」は親族の中で最も親切にしてくれた伯母が住んでいた「佐々良」という町に辿り着く。
夫は死してもなお「サヤ」のことが心配で仕方ない。
「馬鹿っサヤ」と言ってしまうくらい夫にとって「サヤ」は弱弱しく頼りなげで、そんな「サヤ」の身に何か起こる度に、夫は「サヤ」を助けようと・・・
誰かの身に乗り移る。
死んだ夫の姿を見ることのできる人というのが中にはいて(何故かサヤには見ることができない)、そういう人の体を一度だけ借りて「サヤ」に接触することができる。「サヤ」だけでは解決できないことに、死んだ夫が生者の体を借りて助けに行く、とそういう話です。
いつも思うけど、加納朋子の作品は優しい。白い画用紙の上に、大目の水で溶いた絵の具で絵を描いたかのように透明感がある。
つまり、下地の画用紙の白が透けて見えるように、加納氏の作品からは作者自身の優しさが透けて見えるような気がする。
「ユウ坊」と二人きりで始まった生活も、色々な出来事や時間を経て、いつしか「サヤ」の周りには、少し口は悪いけど大勢の頼もしい仲間達が集うようになっている。死んだ夫のことは忘れられないけど、大事な仲間が側にいる生活を「サヤ」自身頼もしく楽しく思い、夫もその姿を見て、自分の身の振り方を考える。
俺が読んでいてとてもいいなと思ったのは、途中から出てくる「エリカ」という女性です。「エリカ」が出てくるようになってから、物語は格段に面白くなったような気がします。
張り詰めた生活や気苦労の多い社会に疲れた時、怒りっぽくなってイライラして少しでも優しい気持ちになりたい時、静かで穏やかな自分だけの時間を最高の小説と共に過ごしたい時、そんな時にお勧めの小説であり、お勧めの作家です。
加納朋子「ささらさや」
暗黒童話(乙一)
乙一は天才と称される。彼の作品を読めば、それを認めざるおえなくなる。
最高です。まじで最高です。本当に読んでよかったと思える作品です。本当に是非読んで欲しい一冊です。
乙一は、俺の知っている限り二作しか長編を出していないと思います。「暗いところで待ち合わせ」と本作「暗黒童話」です。どちらも素晴らしい出来で、出合うべき作品です。
乙一は短編のホラー作家だと言われます。確かにホラーという分類は間違っていないように思いますが、他のホラー作品、いわゆる「リング」「らせん」とかそういった感じの作品ではまったくありません。
先にあらすじ的なものを紹介しておきましょう。
女子高生の菜深は、ある日突然の不幸から左目と記憶を失ってしまいます。臓器移植により死者の眼球を移植したの菜深。しかし記憶は元には戻りません。以前と変わったと、周囲から孤立していく菜深。居場所をどんどん失いつつありました。
菜深には、眼球の移植後から不思議な映像が見えるようになりました。それも左目だけにです。きっかけとなる何かが視界に入ると突然流れ出す映像。そしてある時菜深は気づいてしまいます。
これは、左目が記憶していた映像だ、と。
映像を手がかりに菜深は眼球の提供者の生前住んでいた町に辿り着きます。記憶をなくしてから味わうことのなかった人の温かさに思いがけず触れ、菜深の心は安らいでいきます。
でも菜深はその町へ、ある決意を持って再び赴くことになるのです。そう、提供者の意志を継ぐかのように菜深は行動していく・・・
というような話です。
はっきり言って怖いです。でもその怖さはなかなか表現できないほど新鮮なものです。
怖い場面も優しい場面も同じく淡々と描いているから怖いのかもしれない。悪く言えば抑揚のない文章ということになるのかもしれないけど、その平板で起伏のない文章で描かれる彼の物語というのは、やはり圧倒的に怖い。
こういう状況を想像してほしい。
あなたは学校へいつも同じ道を通っていきます。毎日少しも変わらずに。ある日、学校に着くと、一人の男があなたにこう言いました。
「今日、お前がいつも通る道に地雷を仕掛けていたんだ。踏まなくてよかったな」と。
乙一のホラーには、そういう怖さがあります。確かに、何か怖いものに直面する怖さというのもありますが、ふと気づくと目の前まで近付いていた、というそういう恐怖感の方が強いです。目隠しをして歩かされ、止まったところで「お前の一歩先は崖だよ」と言われるような、そういう恐怖感。
怖がらせよう、という意図を持って描かれたホラーではなく、何故か怖い話になってしまった、みたいなそんな感じ。だから、普通のホラーのような、ああこれで怖がらせようとしてるんだな、的な場面はない。
そしてさらにすごいことにミステリーでもある。乙一はホラー作家として浸透しているから、彼の作品を読むときは、ホラーなんだろうな、というモードで読むから、ミステリーでもあることがわかった時の驚きは普通のミステリーを読む場合の二倍にも三倍にもなる。この作品は紛れもなくミステリーでもあって、美しくまとまっている。
この作品、いろいろ理由はあるけど、映像化して欲しくない。その一番の理由は、映像にした場合との「怖さ」の質の違いがあまりにも大きいと思うからだ。
映像にしたら確かにこの作品は怖い作品になるだろう。でもその「怖さ」は、どう想像しても文章を読んで感じる「怖さ」とは異なるように思う。映像的なおぞましい怖さではなく、この話には上品で美しく優しい怖さがあり、それをなかなか映像的に表現するのは難しいんではないかな、と感じてしまう。文体や文章の感じを映像に転写できないと思う。
この感想を読んで惹かれなくても、とにかくこの作品は読んで欲しい。それぐらいいい作品だと思う。分量も短いし、文章もとても読みやすい。難しい言葉や想像しずらい横文字なんか出てこないで、本当に普通の言葉で文章を綴っている。それでいて凡庸な文章でない点が素晴らしい。
とにかく、本当にお勧めです。是非読んでください。
ちなみに、この作品には「アイのメモリー」というのがあるんだけど、それもいい話です。
乙一「暗黒童話」
最高です。まじで最高です。本当に読んでよかったと思える作品です。本当に是非読んで欲しい一冊です。
乙一は、俺の知っている限り二作しか長編を出していないと思います。「暗いところで待ち合わせ」と本作「暗黒童話」です。どちらも素晴らしい出来で、出合うべき作品です。
乙一は短編のホラー作家だと言われます。確かにホラーという分類は間違っていないように思いますが、他のホラー作品、いわゆる「リング」「らせん」とかそういった感じの作品ではまったくありません。
先にあらすじ的なものを紹介しておきましょう。
女子高生の菜深は、ある日突然の不幸から左目と記憶を失ってしまいます。臓器移植により死者の眼球を移植したの菜深。しかし記憶は元には戻りません。以前と変わったと、周囲から孤立していく菜深。居場所をどんどん失いつつありました。
菜深には、眼球の移植後から不思議な映像が見えるようになりました。それも左目だけにです。きっかけとなる何かが視界に入ると突然流れ出す映像。そしてある時菜深は気づいてしまいます。
これは、左目が記憶していた映像だ、と。
映像を手がかりに菜深は眼球の提供者の生前住んでいた町に辿り着きます。記憶をなくしてから味わうことのなかった人の温かさに思いがけず触れ、菜深の心は安らいでいきます。
でも菜深はその町へ、ある決意を持って再び赴くことになるのです。そう、提供者の意志を継ぐかのように菜深は行動していく・・・
というような話です。
はっきり言って怖いです。でもその怖さはなかなか表現できないほど新鮮なものです。
怖い場面も優しい場面も同じく淡々と描いているから怖いのかもしれない。悪く言えば抑揚のない文章ということになるのかもしれないけど、その平板で起伏のない文章で描かれる彼の物語というのは、やはり圧倒的に怖い。
こういう状況を想像してほしい。
あなたは学校へいつも同じ道を通っていきます。毎日少しも変わらずに。ある日、学校に着くと、一人の男があなたにこう言いました。
「今日、お前がいつも通る道に地雷を仕掛けていたんだ。踏まなくてよかったな」と。
乙一のホラーには、そういう怖さがあります。確かに、何か怖いものに直面する怖さというのもありますが、ふと気づくと目の前まで近付いていた、というそういう恐怖感の方が強いです。目隠しをして歩かされ、止まったところで「お前の一歩先は崖だよ」と言われるような、そういう恐怖感。
怖がらせよう、という意図を持って描かれたホラーではなく、何故か怖い話になってしまった、みたいなそんな感じ。だから、普通のホラーのような、ああこれで怖がらせようとしてるんだな、的な場面はない。
そしてさらにすごいことにミステリーでもある。乙一はホラー作家として浸透しているから、彼の作品を読むときは、ホラーなんだろうな、というモードで読むから、ミステリーでもあることがわかった時の驚きは普通のミステリーを読む場合の二倍にも三倍にもなる。この作品は紛れもなくミステリーでもあって、美しくまとまっている。
この作品、いろいろ理由はあるけど、映像化して欲しくない。その一番の理由は、映像にした場合との「怖さ」の質の違いがあまりにも大きいと思うからだ。
映像にしたら確かにこの作品は怖い作品になるだろう。でもその「怖さ」は、どう想像しても文章を読んで感じる「怖さ」とは異なるように思う。映像的なおぞましい怖さではなく、この話には上品で美しく優しい怖さがあり、それをなかなか映像的に表現するのは難しいんではないかな、と感じてしまう。文体や文章の感じを映像に転写できないと思う。
この感想を読んで惹かれなくても、とにかくこの作品は読んで欲しい。それぐらいいい作品だと思う。分量も短いし、文章もとても読みやすい。難しい言葉や想像しずらい横文字なんか出てこないで、本当に普通の言葉で文章を綴っている。それでいて凡庸な文章でない点が素晴らしい。
とにかく、本当にお勧めです。是非読んでください。
ちなみに、この作品には「アイのメモリー」というのがあるんだけど、それもいい話です。
乙一「暗黒童話」
百鬼夜行-陰-(京極夏彦)
もし世の中に、京極作品の中で本作を一番初めに読んだ人がいるとしたら、その人にとってこの小説はかなり意味不明なものだっただろうと思う。
友達に、森博嗣のS&Mシリーズの「今はもうない」を一番初めに読んだというつわものがいるが、そういう感じだと思う。
この作品は、これまでのいわゆる<京極堂>シリーズといわれている作品、つまり「姑獲鳥の夏」「魍魎の匣」「狂骨の夢」「鉄鼠の檻」「絡新婦の理」「塗仏の宴」の作品に出てくる、今まで視点を獲得したことのなかった登場人物たち。いわば、「ストーリー上重要人物だが視点を獲得したことのない端役」という感じの登場人物。そうした彼らを主人公に据えた、著者初の短編集である(「塗仏の宴-宴の支度」は短編集だったかもしれないが、「-始末-」と合わせて一作品と認識しているので短編集ではないとします)。
だからこそ、これをはじめて読んだ人は、出てくる登場人物が誰なのかわからないし、その背景もさっぱりわからない(というかこの作品で描かれている部分こそ背景なのだが、初めて読んだ人間にそれがわかるはずもない)。だからある意味混乱するでしょう。
裏表紙には、「人が出合う「恐怖」の形を多様に描き出す十の怪異譚」と書かれているが、そうしたホラーだとか恐怖小説だとかいう範疇ではなく、これは紛れもなく<京極堂>シリーズの番外編であるし、描かれなかったわけではないが、その彼らの過去を彼らの視点で再度認識するための物語だと言えると思う。
ただ、俺は人よりも感覚を詰めて<京極堂>シリーズを読んだと思うけど、それでも時折これが何の作品のどの登場人物だったのかわからないものもあった。
森博嗣と京極夏彦のそれぞれのシリーズを読んでいていつも思うのは、シリーズを一気に再読したいな、ということ。忘れかけてたり認識すらしていなかったシリーズ間の繋がりをきっと見出せると思うし、より楽しめるような気がする。
けど、再読するよりも読む本があるから仕方ない。
さて、短編集はいつも紹介が難しくて困るけど、今回は紹介しない。なぜなら、それぞれの短編を紹介するということは、その登場人物が出てくる作品の内容に触れなくてはいけないし、それは激しくめんどくさいから。
ただ、作品中なるほどと思える箇所があったので、それだけ紹介しようかと思います。
京極夏彦の作品は<妖怪>シリーズとも呼ばれていて、いつもよその作品に合った妖怪の解説が長々と書かれるわけです。今回さすがにそういうことはなかったけど、一編だけ、「鬼」に関する考察があって、なかなか面白かったです。
鬼を初め妖怪だとか神だとか幽霊だとかいろろいるわけだけど、それでは鬼固有の性質とはなんだろう、という話になります。角があることが鬼なのではないか、という男の問に対して、しばらく問答をした末、薫紫亭は「心を鬼にする」という言葉を引き合いに出します。
「心を鬼にし」て悪いことをする人はいないでしょう。大抵厳しい態度で誰かのためになることをするものです。それから考えれば、鬼というのは、やれば出来るけどなかなか出来ないことをやってのける、というのが固有の性質なんではないだろうか、と薫紫亭は言います。
不可能なことや奇跡を起こすのは神だけど、鬼はやろうと思えばできるけどなかなか出来ないことをあっさりやってしまう。だから鬼は人を喰うのだと。そういう、できるけどしたくないことをやってしまう存在のことを「鬼」と呼ぶようになったのだろう、と。
こんな感じの考察です。これを読んでいる時、京極夏彦はやはり頭がいいな、ということと、京極夏彦は本当に妖怪とか民俗とかが好きなんだな、と思います。
さて、今回の作品はそこまでお勧めはできません。もちろん悪くはありませんが、他の京極作品と比べてしまうと見劣りします。短編だから、長い作品を書く京極作品の中でもとっつきやすいだろう、と考えて本作を手に取るのは止めた方がいいと思います。シリーズを「宴」まで読み終えた人なら、それなりに楽しめると思います。
京極夏彦「百鬼夜行-陰-」
友達に、森博嗣のS&Mシリーズの「今はもうない」を一番初めに読んだというつわものがいるが、そういう感じだと思う。
この作品は、これまでのいわゆる<京極堂>シリーズといわれている作品、つまり「姑獲鳥の夏」「魍魎の匣」「狂骨の夢」「鉄鼠の檻」「絡新婦の理」「塗仏の宴」の作品に出てくる、今まで視点を獲得したことのなかった登場人物たち。いわば、「ストーリー上重要人物だが視点を獲得したことのない端役」という感じの登場人物。そうした彼らを主人公に据えた、著者初の短編集である(「塗仏の宴-宴の支度」は短編集だったかもしれないが、「-始末-」と合わせて一作品と認識しているので短編集ではないとします)。
だからこそ、これをはじめて読んだ人は、出てくる登場人物が誰なのかわからないし、その背景もさっぱりわからない(というかこの作品で描かれている部分こそ背景なのだが、初めて読んだ人間にそれがわかるはずもない)。だからある意味混乱するでしょう。
裏表紙には、「人が出合う「恐怖」の形を多様に描き出す十の怪異譚」と書かれているが、そうしたホラーだとか恐怖小説だとかいう範疇ではなく、これは紛れもなく<京極堂>シリーズの番外編であるし、描かれなかったわけではないが、その彼らの過去を彼らの視点で再度認識するための物語だと言えると思う。
ただ、俺は人よりも感覚を詰めて<京極堂>シリーズを読んだと思うけど、それでも時折これが何の作品のどの登場人物だったのかわからないものもあった。
森博嗣と京極夏彦のそれぞれのシリーズを読んでいていつも思うのは、シリーズを一気に再読したいな、ということ。忘れかけてたり認識すらしていなかったシリーズ間の繋がりをきっと見出せると思うし、より楽しめるような気がする。
けど、再読するよりも読む本があるから仕方ない。
さて、短編集はいつも紹介が難しくて困るけど、今回は紹介しない。なぜなら、それぞれの短編を紹介するということは、その登場人物が出てくる作品の内容に触れなくてはいけないし、それは激しくめんどくさいから。
ただ、作品中なるほどと思える箇所があったので、それだけ紹介しようかと思います。
京極夏彦の作品は<妖怪>シリーズとも呼ばれていて、いつもよその作品に合った妖怪の解説が長々と書かれるわけです。今回さすがにそういうことはなかったけど、一編だけ、「鬼」に関する考察があって、なかなか面白かったです。
鬼を初め妖怪だとか神だとか幽霊だとかいろろいるわけだけど、それでは鬼固有の性質とはなんだろう、という話になります。角があることが鬼なのではないか、という男の問に対して、しばらく問答をした末、薫紫亭は「心を鬼にする」という言葉を引き合いに出します。
「心を鬼にし」て悪いことをする人はいないでしょう。大抵厳しい態度で誰かのためになることをするものです。それから考えれば、鬼というのは、やれば出来るけどなかなか出来ないことをやってのける、というのが固有の性質なんではないだろうか、と薫紫亭は言います。
不可能なことや奇跡を起こすのは神だけど、鬼はやろうと思えばできるけどなかなか出来ないことをあっさりやってしまう。だから鬼は人を喰うのだと。そういう、できるけどしたくないことをやってしまう存在のことを「鬼」と呼ぶようになったのだろう、と。
こんな感じの考察です。これを読んでいる時、京極夏彦はやはり頭がいいな、ということと、京極夏彦は本当に妖怪とか民俗とかが好きなんだな、と思います。
さて、今回の作品はそこまでお勧めはできません。もちろん悪くはありませんが、他の京極作品と比べてしまうと見劣りします。短編だから、長い作品を書く京極作品の中でもとっつきやすいだろう、と考えて本作を手に取るのは止めた方がいいと思います。シリーズを「宴」まで読み終えた人なら、それなりに楽しめると思います。
京極夏彦「百鬼夜行-陰-」
福井晴敏
自分の好きな作家を紹介するカテゴリーを作りました。不定期に更新しようと思います。
というわけで今回は福井晴敏です。
今まで500冊以上の本を読んできました。そのジャンルは多岐に渡り、ミステリーだけでなく、ホラーもサスペンスも冒険も、さらに文学っぽいものや児童文学賞を受賞しているものも読んだりしています。まあ最近はジャンルボーダレスで、ジャンルに分類するなんていう行為は無意味になんですが。
その中で一番よかった作品は、といわれれば、迷わず「終戦のローレライ」を選択します。「よかった作品」の定義は難しいですが、読んだ後どれだけ読んでよかったと思えたか、ぐらいの意味だと思ってください。
かなり長い作品で、読むのに躊躇う人が多い作品かもしれませんが、是非挑戦して欲しいと思います。今月文庫が発売されて、全四巻なんだけど、1・2巻が今月、3・4巻が来月でます。そして三月には映画「ローレライ」が公開されます。
さてそんな福井晴敏ですが、デビューは江戸川乱歩賞です。この賞を受賞してデビューした作家には、西村京太郎・東野圭吾・森村誠一・栗本薫・野沢尚・桐野夏生・真保裕一など大御所が揃う、ミステリー系の新人賞の中でも最も権威のある賞だと言っていいでしょう。
その江戸川乱歩賞を「Twelve Y.O.」で受賞します。ちなみに前年にも「川の深さは」で江戸川乱歩賞に応募しましたが、野沢尚の「破線のマリス」に破れます。このとき、福井の作品を受賞作にすべきかどうかは今でも語り草になっているそうです。ちなみにその応募作は、手を加えて出版されています。
江戸川乱歩賞受賞の翌年、「亡国のイージス」を発表します。この作品で一躍進化したと言ってもいいでしょう。乱歩賞受賞作は「このミス」でも文章的に難があるという評価をされていたし、俺もそんなに面白いとは思わなかったのだけど、この「亡国のイージス」は傑作です。俺の中でのランキングでも5位以内の作品です。
「亡国のイージス」で大藪春彦賞・日本冒険小説協会賞・日本推理作家賞をトリプル受賞し、直木賞候補にもなるという快挙を成し遂げたあと、数年間沈黙します。そして、その沈黙は「終戦のローレライ」で破られます。
「終戦のローレライ」は他を完全に圧倒させ沈黙してしまうほどの傑作です。最高です。これには裏話があって、何とかという監督が「亡国のイージス」を読んで感動し、映画化することを前提として作品を書いてくれ、と打診して福井が書いたのが「終戦のローレライ」だという話があります。
「終戦のローレライ」でも、日本冒険小説協会賞と吉川英字文学新人賞を受賞し、直木賞候補になりました。すごいものです。
異色作は「∀ガンダム」という作品です。無類のガンダム好きだという著者は、ガンダムシリーズの中の「∀ガンダム」の設定を借り、まるで別の作品(というのはどこかに書いてあったことで、俺はガンダムシリーズの方の「∀ガンダム」を知りません)を書き上げました。これも読みましたが、ガンダムを一切まったく知らない俺でも、かなり感動できました。すごいです。筆力が圧倒的で、登場人物が魅力的です。ガンダムが好きな人は(そうでない人も)読んでみてください。
ちなみに俺が持っているのは新書版ですが、文庫はタイトルが違います。幻冬社文庫で「月に繭 地には果実」です。
さて、今年は福井年です。既刊の「終戦のローレライ」「亡国にイージス」は映画化され、さらに「戦国自衛隊」という、かなり昔に映画になった作品を、福井が新たに手を加え脚本を書き上げたものが映画化されます。期待大です。
最新作は「6ステイン」という著者初の短編集で、何故か帯が縦についているという変り種です。この作品も直木賞候補になっていますが、受賞には至りませんでした。
次どんな作品を書くのか、とても気になる作家です。
福井晴敏オフィシャルサイト
jidori
福井晴敏情報局
甘栗屋
椿星
というわけで今回は福井晴敏です。
今まで500冊以上の本を読んできました。そのジャンルは多岐に渡り、ミステリーだけでなく、ホラーもサスペンスも冒険も、さらに文学っぽいものや児童文学賞を受賞しているものも読んだりしています。まあ最近はジャンルボーダレスで、ジャンルに分類するなんていう行為は無意味になんですが。
その中で一番よかった作品は、といわれれば、迷わず「終戦のローレライ」を選択します。「よかった作品」の定義は難しいですが、読んだ後どれだけ読んでよかったと思えたか、ぐらいの意味だと思ってください。
かなり長い作品で、読むのに躊躇う人が多い作品かもしれませんが、是非挑戦して欲しいと思います。今月文庫が発売されて、全四巻なんだけど、1・2巻が今月、3・4巻が来月でます。そして三月には映画「ローレライ」が公開されます。
さてそんな福井晴敏ですが、デビューは江戸川乱歩賞です。この賞を受賞してデビューした作家には、西村京太郎・東野圭吾・森村誠一・栗本薫・野沢尚・桐野夏生・真保裕一など大御所が揃う、ミステリー系の新人賞の中でも最も権威のある賞だと言っていいでしょう。
その江戸川乱歩賞を「Twelve Y.O.」で受賞します。ちなみに前年にも「川の深さは」で江戸川乱歩賞に応募しましたが、野沢尚の「破線のマリス」に破れます。このとき、福井の作品を受賞作にすべきかどうかは今でも語り草になっているそうです。ちなみにその応募作は、手を加えて出版されています。
江戸川乱歩賞受賞の翌年、「亡国のイージス」を発表します。この作品で一躍進化したと言ってもいいでしょう。乱歩賞受賞作は「このミス」でも文章的に難があるという評価をされていたし、俺もそんなに面白いとは思わなかったのだけど、この「亡国のイージス」は傑作です。俺の中でのランキングでも5位以内の作品です。
「亡国のイージス」で大藪春彦賞・日本冒険小説協会賞・日本推理作家賞をトリプル受賞し、直木賞候補にもなるという快挙を成し遂げたあと、数年間沈黙します。そして、その沈黙は「終戦のローレライ」で破られます。
「終戦のローレライ」は他を完全に圧倒させ沈黙してしまうほどの傑作です。最高です。これには裏話があって、何とかという監督が「亡国のイージス」を読んで感動し、映画化することを前提として作品を書いてくれ、と打診して福井が書いたのが「終戦のローレライ」だという話があります。
「終戦のローレライ」でも、日本冒険小説協会賞と吉川英字文学新人賞を受賞し、直木賞候補になりました。すごいものです。
異色作は「∀ガンダム」という作品です。無類のガンダム好きだという著者は、ガンダムシリーズの中の「∀ガンダム」の設定を借り、まるで別の作品(というのはどこかに書いてあったことで、俺はガンダムシリーズの方の「∀ガンダム」を知りません)を書き上げました。これも読みましたが、ガンダムを一切まったく知らない俺でも、かなり感動できました。すごいです。筆力が圧倒的で、登場人物が魅力的です。ガンダムが好きな人は(そうでない人も)読んでみてください。
ちなみに俺が持っているのは新書版ですが、文庫はタイトルが違います。幻冬社文庫で「月に繭 地には果実」です。
さて、今年は福井年です。既刊の「終戦のローレライ」「亡国にイージス」は映画化され、さらに「戦国自衛隊」という、かなり昔に映画になった作品を、福井が新たに手を加え脚本を書き上げたものが映画化されます。期待大です。
最新作は「6ステイン」という著者初の短編集で、何故か帯が縦についているという変り種です。この作品も直木賞候補になっていますが、受賞には至りませんでした。
次どんな作品を書くのか、とても気になる作家です。
福井晴敏オフィシャルサイト
jidori
福井晴敏情報局
甘栗屋
椿星
ソウ-SAW-(行川渉)
久しぶりに最低の作品を読んだ。文章がひどい。よくこれで出版されたな、と思う。普通の人が映像を文章に直しただけ、という印象。直しきれてもいないけど。
誤解して欲しくないのは、別に映画自体を非難しているわけではないということ。映画はそもそも見ていないし、映像ならもう少し面白いかもしれない、とは思った。
さて、「ソウ-SAW-」と言えば映画で結構話題になった作品だと思うけど、話としてはこういう感じ。
アダムとゴードンという男二人は、意識を取り戻すと何故か監禁されていた。足首は鎖でつながれていて、二人の間には血まみれで男が横たわっている。テープレコーダーに収められていた、いくつかの指示。鍵が見付かり、でも鎖からは解放されない。糸鋸を見つけるが、鎖は切れない。足首を切れ、ということなのか?
ゴードンは家族を人質にとられており、アダムを殺せば家族は助かる、という選択肢を与えられる。
限られた条件の中で、二人はどう行動するのか?そして犯人は一体誰で何処にいるのか?
そんな話です。
なんというか、この人が書いたからだろうけど、とてつもなくつまらなかった。
映画と小説の共有部分しか書いていない、という印象を抱いた。
数学の集合のように、円が一部重なっているのを思い浮かべて欲しい。一方の円が映画であり、もう一方が小説である。
それぞれは完全に一致することはありえないけど、重ならないということはない。ただこの作者は、その重なった部分しか描いていないような気がする。だからこそ、映画の雰囲気を伝えきれないばかりか、小説としてもそもそも成立していない、という印象を与えてしまうのだと思う。
これは俺の持論だけど、映画などのノベライズは、まったく別のものにしてやろう、という意気込みがなければいいものは書けないんではないかと思います。元ネタがある時点でそもそものストーリーから大きく逸脱できるはずがないわけだから、その中で最大限変えてやろうと努力するべきだと思います。
この作者は、映像を見て、見た通りに文章にしている感じがするので、とてもつまらないです。
是非この作品に触れる際は、映画かDVDかビデオをお勧め致します。
行川渉「ソウ-SAW-」
誤解して欲しくないのは、別に映画自体を非難しているわけではないということ。映画はそもそも見ていないし、映像ならもう少し面白いかもしれない、とは思った。
さて、「ソウ-SAW-」と言えば映画で結構話題になった作品だと思うけど、話としてはこういう感じ。
アダムとゴードンという男二人は、意識を取り戻すと何故か監禁されていた。足首は鎖でつながれていて、二人の間には血まみれで男が横たわっている。テープレコーダーに収められていた、いくつかの指示。鍵が見付かり、でも鎖からは解放されない。糸鋸を見つけるが、鎖は切れない。足首を切れ、ということなのか?
ゴードンは家族を人質にとられており、アダムを殺せば家族は助かる、という選択肢を与えられる。
限られた条件の中で、二人はどう行動するのか?そして犯人は一体誰で何処にいるのか?
そんな話です。
なんというか、この人が書いたからだろうけど、とてつもなくつまらなかった。
映画と小説の共有部分しか書いていない、という印象を抱いた。
数学の集合のように、円が一部重なっているのを思い浮かべて欲しい。一方の円が映画であり、もう一方が小説である。
それぞれは完全に一致することはありえないけど、重ならないということはない。ただこの作者は、その重なった部分しか描いていないような気がする。だからこそ、映画の雰囲気を伝えきれないばかりか、小説としてもそもそも成立していない、という印象を与えてしまうのだと思う。
これは俺の持論だけど、映画などのノベライズは、まったく別のものにしてやろう、という意気込みがなければいいものは書けないんではないかと思います。元ネタがある時点でそもそものストーリーから大きく逸脱できるはずがないわけだから、その中で最大限変えてやろうと努力するべきだと思います。
この作者は、映像を見て、見た通りに文章にしている感じがするので、とてもつまらないです。
是非この作品に触れる際は、映画かDVDかビデオをお勧め致します。
行川渉「ソウ-SAW-」
ガラスのハンマー(貴志祐介)
これほど精密に作られた密室殺人はなかなか稀だと思う。
貴志祐介と言えば、あのホラー小説「黒い家」でデビューし、「青の炎」を最後に四年近く沈黙していた作家。その作家の初の本格ミステリ作品だ。
舞台は六本木センタービルという架空の建物。10階から12階までのフロアを占める介護サービス会社「ベイリーフ」は、12階に社長室を初め、重役の集まる部屋が集中している。警備はかなり厳重で、12階にあがるためにはエレベーター内で暗証番号を押さなくてはいけないし、12階のフロアには防犯カメラが備え付けられている。
ある日。株式上場を控えた「ベイリーフ」は、休み返上で重役や秘書は出勤している。いつものように仕事をこなしていくが、その日常は突如破られる。
社長室から社長の遺体が発見されたのである。
当初事故かと思われたが、打撲痕の不自然さから殺人として捜査がなされるが、防犯カメラに犯人の姿はなく、社長室に続くドアのある専務室に寝ていた専務が、唯一犯行の機会があったとして容疑者にされてしまう。
専務の無実を晴らすべく、弁護士の青砥が立ち上がる。紹介された防犯エキスパートの榎本とともに、閉ざされた密室への道を探し当てようと奮闘するが、なかなかうまくはいかない。
様々な仮説を立てては試し、ダメだと分かるとまた別の・・・という風に調査は続けられていき、ようやく榎本は真相に行き当たる・・・
そんな感じの話です。
さて、本書の特長はまさにこの「密室」にあります。大抵本格ミステリで密室とくれば、「特殊な状況」というのを設定しなくてはもはや話を作ることはできないでしょう。密室のトリックを考え、そのトリックが使える状況を設定する、というのが常道だと思います。
あの密室ばかりを書き続ける森博嗣も、トリックの成立する条件を満たす状況を設定する、という方法で作品を書いているはずですし、これだけトリックの出尽くされている中では、それは仕方のないことだと思います。
しかし、著者はこの作品でまるで逆のアプローチをしました。もちろん多少の制約はありますが、著者は現実世界に存在しうる、しかもかなりセキュリティ的に頑丈なビルを舞台に密室殺人を書き上げました。これはなかなかできるものではないと思います。
詳しいことはわかりませんが、恐らく本書に書かれているビルの条件以下であれば(そんなビルは数多くあるとは思うけど)、このトリックは実現しうるのではないかと思います。それくらい現実世界で通用するトリックだと思うし、そんな作品はかなり珍しいと思います。
ただ残念なこともあって、中盤話を盛り上げるために様々な仮説を出しては壊すのですが、その仮説を成立させるために色々な状況が設定されているな、と感じてしまうことです。確かにそこまで不自然ではないにしろ、この仮説を出させるためのこの状況なんだな、と思ってしまう部分が何度かあって、それは残念でした。
それでも、これほど精緻に現実世界で通用するトリックを書き尽くした作品はかなり珍しいと思います。異能の防犯探偵と弁護士というコンビもなかなか珍しいように思うし、本格ミステリという分野が好きではない人も(その理由は大抵現実的ではないということだと思うので)、結構楽しめるのではないかと思います。
しかも、かなりセキュリティについて詳しくなれますよ。防犯には万全を。
貴志祐介「ガラスのハンマー」
貴志祐介と言えば、あのホラー小説「黒い家」でデビューし、「青の炎」を最後に四年近く沈黙していた作家。その作家の初の本格ミステリ作品だ。
舞台は六本木センタービルという架空の建物。10階から12階までのフロアを占める介護サービス会社「ベイリーフ」は、12階に社長室を初め、重役の集まる部屋が集中している。警備はかなり厳重で、12階にあがるためにはエレベーター内で暗証番号を押さなくてはいけないし、12階のフロアには防犯カメラが備え付けられている。
ある日。株式上場を控えた「ベイリーフ」は、休み返上で重役や秘書は出勤している。いつものように仕事をこなしていくが、その日常は突如破られる。
社長室から社長の遺体が発見されたのである。
当初事故かと思われたが、打撲痕の不自然さから殺人として捜査がなされるが、防犯カメラに犯人の姿はなく、社長室に続くドアのある専務室に寝ていた専務が、唯一犯行の機会があったとして容疑者にされてしまう。
専務の無実を晴らすべく、弁護士の青砥が立ち上がる。紹介された防犯エキスパートの榎本とともに、閉ざされた密室への道を探し当てようと奮闘するが、なかなかうまくはいかない。
様々な仮説を立てては試し、ダメだと分かるとまた別の・・・という風に調査は続けられていき、ようやく榎本は真相に行き当たる・・・
そんな感じの話です。
さて、本書の特長はまさにこの「密室」にあります。大抵本格ミステリで密室とくれば、「特殊な状況」というのを設定しなくてはもはや話を作ることはできないでしょう。密室のトリックを考え、そのトリックが使える状況を設定する、というのが常道だと思います。
あの密室ばかりを書き続ける森博嗣も、トリックの成立する条件を満たす状況を設定する、という方法で作品を書いているはずですし、これだけトリックの出尽くされている中では、それは仕方のないことだと思います。
しかし、著者はこの作品でまるで逆のアプローチをしました。もちろん多少の制約はありますが、著者は現実世界に存在しうる、しかもかなりセキュリティ的に頑丈なビルを舞台に密室殺人を書き上げました。これはなかなかできるものではないと思います。
詳しいことはわかりませんが、恐らく本書に書かれているビルの条件以下であれば(そんなビルは数多くあるとは思うけど)、このトリックは実現しうるのではないかと思います。それくらい現実世界で通用するトリックだと思うし、そんな作品はかなり珍しいと思います。
ただ残念なこともあって、中盤話を盛り上げるために様々な仮説を出しては壊すのですが、その仮説を成立させるために色々な状況が設定されているな、と感じてしまうことです。確かにそこまで不自然ではないにしろ、この仮説を出させるためのこの状況なんだな、と思ってしまう部分が何度かあって、それは残念でした。
それでも、これほど精緻に現実世界で通用するトリックを書き尽くした作品はかなり珍しいと思います。異能の防犯探偵と弁護士というコンビもなかなか珍しいように思うし、本格ミステリという分野が好きではない人も(その理由は大抵現実的ではないということだと思うので)、結構楽しめるのではないかと思います。
しかも、かなりセキュリティについて詳しくなれますよ。防犯には万全を。
貴志祐介「ガラスのハンマー」
電子の星-池袋ウエストゲートパークⅣ-(石田衣良)
久々にIWGPシリーズを読んだ。もう四作目。
というわけで、このIWGPシリーズの基本的な設定から書こうかと思う。
池袋を中心としたギャンググループ「Gボーイズ」。天才的なカリスマ性を持つタカシ率いるそのグループは、池袋の若者に絶大な組織力を持ち、タカシの一言であらゆることに首を突っ込む集団だ。
池袋で実家の果物屋の手伝いをしているマコトは、タカシからGボーイズに入らないかと常日頃誘われるがそれをしない。それでもタカシとはツーカーで、Gボーイズにも顔が利く。
ひょんなことから他人のトラブルを引き受けたことから、池袋のトラブルシューターとして一部で有名になったマコトは、いつだって何らかのトラブルに巻き込まれ、それを解決している。悪ぶって見えるファッションからは描けない優しさや甘さを持っていて、依頼も含めてマコトはいつも忙しい。というような基本設定。
今回もマコトはトラブルシューターとして動き回る。
ミステリーには「フーダニット」「ホワイダニット」「ハウダニット」、つまり「誰がやった」「何故やった」「どうやった」、という三つの書き方があって、大体のミステリーはこのどれかに分類されると思うけど、このシリーズは珍しくどれにも該当しない。まあこのシリーズがミステリーではないという意見もきっとあるとは思うけど(初期の頃は結構ミステリー色が強かったはずだけど、だんだんその色が薄れていっている)、とにかくこのシリーズは「いかに解決するか」という点に焦点を絞っている。まさにトラブルシューターだ。
だから、何かトラブルに巻き込まれても、犯人だとかそういう謎的な部分は比較的早くわかる。それで引っ張ろうとしていないからまあ当然だろう。マコトは、引き受けてしまったトラブルを、どう解決すれば自分の大切な仲間や知り合いにとっていいのかを必至で考え計画を立て、自ら体を張って行動し、周りを動かし、全てをうまきう収める。そのための仲間やネットワークや情報がマコトには次第に増えていき、深い考えなくトラブルに巻き込まれるマコトを最後はなんとかしてくれる。
そして、それだけ色々手を尽くすくせに、報酬はほとんど受け取らない。現金ではまず受け取らなくて、現金以外の何らかの好意という形でマコトに還元されるくらいだ。
池袋という世界に傍目から見れば見事に溶け込んでいるマコトは、しかし池袋という場所には珍しいとも思えるイイ奴なのだ。
このシリーズを魅力的にしている要素には、街をきちんと描いている、という点がある。俺は池袋とかほとんどいったことないし、よく知らないわけだけど、ふとした町並みや、特にその変化がよく描かれていて、シリーズを通して「池袋」という街が、実際知っている以上に成長する様を見ているような気がする。
というわけで、四篇ある短編をそれぞれ紹介することにしよう。とても紹介しやすい内容だから、すごく短くて済みそうだ。
「東口ラーメンライン」
そのタイトルの通り、池袋にひしめくラーメン屋の話。元Gボーイズだった双子がこの激戦区に店をオープンし、なかなか繁盛していたが、ネットなどで嫌がらせを受けるようになった。その犯人探しの依頼をマコトが受ける。
「ワルツ・フォー・ベビー」
ある日道端で出会ったおっちゃん。息子を殺されたその場所でたたずむ姿を目にしたマコトは彼の話を聞く。息子は上野でチームの頭をやっていたらしいが、調べていくうちにどうもその息子の話がタブー視されていることに気づき体を張って調べるマコト。
「黒いフードの夜」
果物屋の店先に突如現れたビルマ人。14歳で体を売ってお金を稼ぐ彼を目にし、彼の父親の話を聞き、彼のために自分は何が出来るかを考え行動する。
「電子の星」
東京の専門学校に通う同郷の友人と連絡が取れない、探してくれ、とトラブルシューターの元へと山形からやってきた男。イイ奴マコトは断りきれずに依頼を受けるが、失踪した男の部屋で見つけた映像に池袋の、いや東京の深い闇を見せ付けられる。危ない橋をギリギリで渡りながらも、男をほんものの負け犬にするための熱い夏をマコトが動く。
インパクトには欠けるけど、どれもいい話です。出来ればシリーズ一作目から読むことをお勧めします。ドラマで見た人もいるでしょうが、原作もいいですよ。
石田衣良「電子の星-池袋ウエストゲートパークⅣ-」
というわけで、このIWGPシリーズの基本的な設定から書こうかと思う。
池袋を中心としたギャンググループ「Gボーイズ」。天才的なカリスマ性を持つタカシ率いるそのグループは、池袋の若者に絶大な組織力を持ち、タカシの一言であらゆることに首を突っ込む集団だ。
池袋で実家の果物屋の手伝いをしているマコトは、タカシからGボーイズに入らないかと常日頃誘われるがそれをしない。それでもタカシとはツーカーで、Gボーイズにも顔が利く。
ひょんなことから他人のトラブルを引き受けたことから、池袋のトラブルシューターとして一部で有名になったマコトは、いつだって何らかのトラブルに巻き込まれ、それを解決している。悪ぶって見えるファッションからは描けない優しさや甘さを持っていて、依頼も含めてマコトはいつも忙しい。というような基本設定。
今回もマコトはトラブルシューターとして動き回る。
ミステリーには「フーダニット」「ホワイダニット」「ハウダニット」、つまり「誰がやった」「何故やった」「どうやった」、という三つの書き方があって、大体のミステリーはこのどれかに分類されると思うけど、このシリーズは珍しくどれにも該当しない。まあこのシリーズがミステリーではないという意見もきっとあるとは思うけど(初期の頃は結構ミステリー色が強かったはずだけど、だんだんその色が薄れていっている)、とにかくこのシリーズは「いかに解決するか」という点に焦点を絞っている。まさにトラブルシューターだ。
だから、何かトラブルに巻き込まれても、犯人だとかそういう謎的な部分は比較的早くわかる。それで引っ張ろうとしていないからまあ当然だろう。マコトは、引き受けてしまったトラブルを、どう解決すれば自分の大切な仲間や知り合いにとっていいのかを必至で考え計画を立て、自ら体を張って行動し、周りを動かし、全てをうまきう収める。そのための仲間やネットワークや情報がマコトには次第に増えていき、深い考えなくトラブルに巻き込まれるマコトを最後はなんとかしてくれる。
そして、それだけ色々手を尽くすくせに、報酬はほとんど受け取らない。現金ではまず受け取らなくて、現金以外の何らかの好意という形でマコトに還元されるくらいだ。
池袋という世界に傍目から見れば見事に溶け込んでいるマコトは、しかし池袋という場所には珍しいとも思えるイイ奴なのだ。
このシリーズを魅力的にしている要素には、街をきちんと描いている、という点がある。俺は池袋とかほとんどいったことないし、よく知らないわけだけど、ふとした町並みや、特にその変化がよく描かれていて、シリーズを通して「池袋」という街が、実際知っている以上に成長する様を見ているような気がする。
というわけで、四篇ある短編をそれぞれ紹介することにしよう。とても紹介しやすい内容だから、すごく短くて済みそうだ。
「東口ラーメンライン」
そのタイトルの通り、池袋にひしめくラーメン屋の話。元Gボーイズだった双子がこの激戦区に店をオープンし、なかなか繁盛していたが、ネットなどで嫌がらせを受けるようになった。その犯人探しの依頼をマコトが受ける。
「ワルツ・フォー・ベビー」
ある日道端で出会ったおっちゃん。息子を殺されたその場所でたたずむ姿を目にしたマコトは彼の話を聞く。息子は上野でチームの頭をやっていたらしいが、調べていくうちにどうもその息子の話がタブー視されていることに気づき体を張って調べるマコト。
「黒いフードの夜」
果物屋の店先に突如現れたビルマ人。14歳で体を売ってお金を稼ぐ彼を目にし、彼の父親の話を聞き、彼のために自分は何が出来るかを考え行動する。
「電子の星」
東京の専門学校に通う同郷の友人と連絡が取れない、探してくれ、とトラブルシューターの元へと山形からやってきた男。イイ奴マコトは断りきれずに依頼を受けるが、失踪した男の部屋で見つけた映像に池袋の、いや東京の深い闇を見せ付けられる。危ない橋をギリギリで渡りながらも、男をほんものの負け犬にするための熱い夏をマコトが動く。
インパクトには欠けるけど、どれもいい話です。出来ればシリーズ一作目から読むことをお勧めします。ドラマで見た人もいるでしょうが、原作もいいですよ。
石田衣良「電子の星-池袋ウエストゲートパークⅣ-」
暗闇の中で子供-The Childish Darkness-(舞城王太郎)
ヤッホーイ!おいコラ舞城、それやりすぎじゃろが!俺にはさっぱり意味分からんのじゃい!
あーあーあーあー一体何なんだこの話は!一体誰がどうしてどうなったんじゃい!誰の物語なんじゃボケッ!
あの伝説のデビュー作「煙か土か食い物」の続編ってことぐらいわわかるでよそりゃおれにだって。奈津川家の馬鹿どもが福井県西暁市を舞台に喧嘩して喧嘩して愛して喧嘩して無残にも崩壊して馬鹿な殺人者によってバシバシいろんなもん失ったその奈津川家のその後の物語何だろうさい。
で?で?で?
天才的で暴力的だった四男四郎視点の物語「煙か土か食い物」に対して「暗闇の中で子供」は三男三郎視点。奈津川家きっての価値なし男にして三文ミステリ作家である三郎が愛と暴力に彩られた世界を突っ走っていく。
さて俺は一体何をどう書けばいいんじゃい!ユリオがマネキン埋めたこともどっかの馬鹿が意味不明に人殺したことも楓の腕に子供が出来たことも三郎がラフマニノフを弾けることも母親が失踪したこともユリオがわけわかんなくなることもレクター博士の幻想を見ることも二郎の影がちらちら見えることも三郎がユリオを愛してしまうこともその愛を懸命に消化しようとしていることも三郎が友達の奥さんや彼女とするのが好きなこともなんていうか一切合財・・・どーでもいいんじゃねえか。
そうやで舞城の作品はやっぱその文章読んでみんと雰囲気感じ取れんもんやで。無理無理他人の書いた感想なんかでやっぱ舞城を知ることは無理やわ。
村上春樹以上に意味不明な言動や設定や展開やパターンのなさやシステムや構造や論理や倫理。なんも形にならんとなんもまとまらんとただひたすら言葉達を飲み込んでいくしかないんやで。飲み込んだ言葉はどうしたって消化できんけどそのままにしとくしかねえで。
村上春樹の世界より舞城の世界の方が好きなんはなんでやろか。
唯一なるほどなと思えるまともな箇所があったで。「ある種の真実は、嘘でしか語れないのだ。」これは三郎の物語に対する価値観やでこうも書いてる。作家が物語を選ぶのではなく、物語によって作家が選ばれるのだ。そして物語は嘘によって真実を伝えるのだ。なるほど。そうかもしれん。
ふー、頑張って舞城風に文章を書こうとすると、普段の二倍は疲れる。ってか、今回の作品はあんまりお勧め出来ないかな。俺としては、あのデビュー作「煙か土か食い物」で止めておいた方がいいような気もするんだな。
だって、誰が一体この世界を理解できるんだろう。俺にはさっぱり何を言っているのやらわかりませんでした。もし万が一読んでみることがあったら、どう理解したのか教えて欲しいです。
舞城王太郎「暗闇の中で子供-The Childish Darkness-」
あーあーあーあー一体何なんだこの話は!一体誰がどうしてどうなったんじゃい!誰の物語なんじゃボケッ!
あの伝説のデビュー作「煙か土か食い物」の続編ってことぐらいわわかるでよそりゃおれにだって。奈津川家の馬鹿どもが福井県西暁市を舞台に喧嘩して喧嘩して愛して喧嘩して無残にも崩壊して馬鹿な殺人者によってバシバシいろんなもん失ったその奈津川家のその後の物語何だろうさい。
で?で?で?
天才的で暴力的だった四男四郎視点の物語「煙か土か食い物」に対して「暗闇の中で子供」は三男三郎視点。奈津川家きっての価値なし男にして三文ミステリ作家である三郎が愛と暴力に彩られた世界を突っ走っていく。
さて俺は一体何をどう書けばいいんじゃい!ユリオがマネキン埋めたこともどっかの馬鹿が意味不明に人殺したことも楓の腕に子供が出来たことも三郎がラフマニノフを弾けることも母親が失踪したこともユリオがわけわかんなくなることもレクター博士の幻想を見ることも二郎の影がちらちら見えることも三郎がユリオを愛してしまうこともその愛を懸命に消化しようとしていることも三郎が友達の奥さんや彼女とするのが好きなこともなんていうか一切合財・・・どーでもいいんじゃねえか。
そうやで舞城の作品はやっぱその文章読んでみんと雰囲気感じ取れんもんやで。無理無理他人の書いた感想なんかでやっぱ舞城を知ることは無理やわ。
村上春樹以上に意味不明な言動や設定や展開やパターンのなさやシステムや構造や論理や倫理。なんも形にならんとなんもまとまらんとただひたすら言葉達を飲み込んでいくしかないんやで。飲み込んだ言葉はどうしたって消化できんけどそのままにしとくしかねえで。
村上春樹の世界より舞城の世界の方が好きなんはなんでやろか。
唯一なるほどなと思えるまともな箇所があったで。「ある種の真実は、嘘でしか語れないのだ。」これは三郎の物語に対する価値観やでこうも書いてる。作家が物語を選ぶのではなく、物語によって作家が選ばれるのだ。そして物語は嘘によって真実を伝えるのだ。なるほど。そうかもしれん。
ふー、頑張って舞城風に文章を書こうとすると、普段の二倍は疲れる。ってか、今回の作品はあんまりお勧め出来ないかな。俺としては、あのデビュー作「煙か土か食い物」で止めておいた方がいいような気もするんだな。
だって、誰が一体この世界を理解できるんだろう。俺にはさっぱり何を言っているのやらわかりませんでした。もし万が一読んでみることがあったら、どう理解したのか教えて欲しいです。
舞城王太郎「暗闇の中で子供-The Childish Darkness-」
出口のない海(横山秀夫)
初めてかもしれない。読んでいて涙を流した作品というのは。
不意打ちだったということもあるかもしれない。突然一拍心臓の鼓動が体内に響き、それに押し出されるかのように涙が溜まり溢れ出た。びっくりした。俺も泣くんだ、と思った。しかもその後も二回ほど泣いた。
泣いた場面は言ってしまえばそんなに大した場面ではなかったかもしれない。でも俺はトシ坊に泣き、ボレロに泣き、そして魔球に泣いた。どうしてなのかわからないが、それだけの作品だということだろう。
始まりこそ現代だが、舞台は戦争直前から戦争直後まで。話は大まかに前半後半に分かれる。
前半は野球の話がメイン。
A大野球部。名の知れたわけでもないその野球部に、甲子園で名を馳せた一人の投手が入部する。並木浩二。誰もが期待したその男を不運が襲う。
肘の怪我。リハビリを繰り返し再起を図るが、再度肘を痛め、そのまま最後の年にまで上がってしまった。
そんなある日、女房役の剛原を呼び、久々に投球をした並木。受けている剛原は嫌でもその力のなさを感じ取ってしまう程の衰えよう。絶望。そう感じ取った剛原を困惑させるように並木は笑っていた。
「俺、魔球をつくる」
そう宣言した日、奇しくも太平洋戦争が幕を開けた。真珠湾の奇襲が、並木の人生を狂わせていく。
学生の徴兵がまだ禁止されていた。快進撃を続ける日本を誰もが喜び、それは野球部の面々も変わらなかった。議論し野球し、戦争を背景に彼らの生活はそこまで変わることはない。
だが、戦局が暗くなるにつれ、学生でいることが息苦しくなっていく。そして、学生の徴兵が解禁されると、皆軍隊へと道を進むことになる・・・
後半は戦争へと進む並木の視点を中心に話は展開していく。
海軍を志願する並木。日々訓練に明け暮れ、殴られ、軍人として修正されていく。
そんな中、海軍士にある話がもたらされる。軍最高の秘密兵器で敵を倒す。志願する者はその紙に名前と○を書け。どんな兵器なのかは知らされていない。ただ周りは、秘密兵器で敵をやっつけるという響きに浮かれて○を書く。並木は迷う。どうすべきか。結局は○を書いて紙を出す決断をする。
回天。
神風特攻隊と対をなす海の特攻。爆薬を載せ敵艦に突っ込んで敵艦を沈没させる、まさに秘密兵器。
志願した中から数十人が選抜される。並木もその中に選ばれる。
死を約束された残りの人生。砂時計のようにいつかは尽きる時間。その時間が間近であることを知らされた日々。
訓練の厳しさは尋常ではなく、埋没していく日々のなか、並木は魔球への夢を諦めていない。死ぬことを認めなくてはいけない時間のなか、死ぬことに抵抗するかのようにボールを投げ続ける。戦局はますます悪化し、ついに並木に特攻出陣が命じられる・・・
戦争という、いつの世も小説に据えられる背景。今では戦争を体験している人が戦争を書くことの方が少なくなっていることだろう。戦争体験者から見れば、甘い部分も不自然な部分もきっとあることだろう。
それでも、圧倒される。並木だけでなく、野球部のメンバー、陸上部の北、海軍士仲間、幼なじみ鳴海美奈子、喫茶「ボレロ」のマスター、そうした誰もが端役ではない登場人物達が、本の厚さ以上に作品を厚くしている。登場人物達は、誰もが生きている理由を与えられている。作品の中で役割が与えられているとか、存在する理由があるとかいうのではなく、作品の中で生きている理由がある。誰もが人生を持ち、誰もが誰かと関わり、苦しみ悩み、それでも生きている。
並木が、回天に乗ることに今ってからの逡巡は相当のリアルさがある。生きることとは、死ぬこととは。もはや何も選択することのできない決められた運命の中で、どう自分を納得させるのか。逃げるために、守るために、夢のために、克服するために、そして自分の中で「特攻で死ぬとはどういうことか」を突き詰めていく。
海にはさまざまな死骸がころがっている。海難事故や自殺者もいるだろう。もちろん戦争で命を落とした人もいるだろう。でもその中で、死ぬことに対してこれほど向き合った人間がいたことも忘れてはいけないな、と思った。
あと、前半の野球メインの場面。野球部にもいろんな人間がいるが、もう最高にみんな馬鹿だ。馬鹿、という言葉が誉め言葉になるような集団。ほんとに羨ましい。俺も常にそんな場にいられればいいなと思う。
最後に。「ボレロ」のマスターはかなり最高だ。かっこいい。無口で静かだけど、作品の中で強烈な存在感を放っている。「ボレロ」の行く末もいい。
何故か各種ランキングには入っていないみたいだけど、かなりいい作品です。
横山秀夫「出口のない海」
不意打ちだったということもあるかもしれない。突然一拍心臓の鼓動が体内に響き、それに押し出されるかのように涙が溜まり溢れ出た。びっくりした。俺も泣くんだ、と思った。しかもその後も二回ほど泣いた。
泣いた場面は言ってしまえばそんなに大した場面ではなかったかもしれない。でも俺はトシ坊に泣き、ボレロに泣き、そして魔球に泣いた。どうしてなのかわからないが、それだけの作品だということだろう。
始まりこそ現代だが、舞台は戦争直前から戦争直後まで。話は大まかに前半後半に分かれる。
前半は野球の話がメイン。
A大野球部。名の知れたわけでもないその野球部に、甲子園で名を馳せた一人の投手が入部する。並木浩二。誰もが期待したその男を不運が襲う。
肘の怪我。リハビリを繰り返し再起を図るが、再度肘を痛め、そのまま最後の年にまで上がってしまった。
そんなある日、女房役の剛原を呼び、久々に投球をした並木。受けている剛原は嫌でもその力のなさを感じ取ってしまう程の衰えよう。絶望。そう感じ取った剛原を困惑させるように並木は笑っていた。
「俺、魔球をつくる」
そう宣言した日、奇しくも太平洋戦争が幕を開けた。真珠湾の奇襲が、並木の人生を狂わせていく。
学生の徴兵がまだ禁止されていた。快進撃を続ける日本を誰もが喜び、それは野球部の面々も変わらなかった。議論し野球し、戦争を背景に彼らの生活はそこまで変わることはない。
だが、戦局が暗くなるにつれ、学生でいることが息苦しくなっていく。そして、学生の徴兵が解禁されると、皆軍隊へと道を進むことになる・・・
後半は戦争へと進む並木の視点を中心に話は展開していく。
海軍を志願する並木。日々訓練に明け暮れ、殴られ、軍人として修正されていく。
そんな中、海軍士にある話がもたらされる。軍最高の秘密兵器で敵を倒す。志願する者はその紙に名前と○を書け。どんな兵器なのかは知らされていない。ただ周りは、秘密兵器で敵をやっつけるという響きに浮かれて○を書く。並木は迷う。どうすべきか。結局は○を書いて紙を出す決断をする。
回天。
神風特攻隊と対をなす海の特攻。爆薬を載せ敵艦に突っ込んで敵艦を沈没させる、まさに秘密兵器。
志願した中から数十人が選抜される。並木もその中に選ばれる。
死を約束された残りの人生。砂時計のようにいつかは尽きる時間。その時間が間近であることを知らされた日々。
訓練の厳しさは尋常ではなく、埋没していく日々のなか、並木は魔球への夢を諦めていない。死ぬことを認めなくてはいけない時間のなか、死ぬことに抵抗するかのようにボールを投げ続ける。戦局はますます悪化し、ついに並木に特攻出陣が命じられる・・・
戦争という、いつの世も小説に据えられる背景。今では戦争を体験している人が戦争を書くことの方が少なくなっていることだろう。戦争体験者から見れば、甘い部分も不自然な部分もきっとあることだろう。
それでも、圧倒される。並木だけでなく、野球部のメンバー、陸上部の北、海軍士仲間、幼なじみ鳴海美奈子、喫茶「ボレロ」のマスター、そうした誰もが端役ではない登場人物達が、本の厚さ以上に作品を厚くしている。登場人物達は、誰もが生きている理由を与えられている。作品の中で役割が与えられているとか、存在する理由があるとかいうのではなく、作品の中で生きている理由がある。誰もが人生を持ち、誰もが誰かと関わり、苦しみ悩み、それでも生きている。
並木が、回天に乗ることに今ってからの逡巡は相当のリアルさがある。生きることとは、死ぬこととは。もはや何も選択することのできない決められた運命の中で、どう自分を納得させるのか。逃げるために、守るために、夢のために、克服するために、そして自分の中で「特攻で死ぬとはどういうことか」を突き詰めていく。
海にはさまざまな死骸がころがっている。海難事故や自殺者もいるだろう。もちろん戦争で命を落とした人もいるだろう。でもその中で、死ぬことに対してこれほど向き合った人間がいたことも忘れてはいけないな、と思った。
あと、前半の野球メインの場面。野球部にもいろんな人間がいるが、もう最高にみんな馬鹿だ。馬鹿、という言葉が誉め言葉になるような集団。ほんとに羨ましい。俺も常にそんな場にいられればいいなと思う。
最後に。「ボレロ」のマスターはかなり最高だ。かっこいい。無口で静かだけど、作品の中で強烈な存在感を放っている。「ボレロ」の行く末もいい。
何故か各種ランキングには入っていないみたいだけど、かなりいい作品です。
横山秀夫「出口のない海」
螢(麻耶雄嵩)
本格ミステリ界の重鎮、沈黙を破る。
まず著者の紹介をするべきだろうか。麻耶雄嵩と言えば本格ミステリ界では知らぬ者はいない。京都大学在学中にデビュー作「翼ある闇-メルカトル鮎最後の事件-」を発表し、本格ミステリ界に衝撃を与える。その古典的な舞台設定に斬新なアイデアをのせたその作品は作家や書評家に支持される。続く二作目「夏と冬の奏鳴曲」には、ミステリ界の誰もが衝撃を受け、麻耶雄嵩は本格ミステリの牽引車に登り詰める。その後何作か作品を発表し、そして「鴉」を発表後、長編としては本作「螢」まで七年間完全に沈黙していた。
その七年の沈黙を破り、本格ミステリの異端児が今年発表した新作がこの「螢」である。
舞台は、京都の山奥の奥の奥に聳え立つ「ファイアーフライ館」、つまり「螢館」である。そこは、加賀螢司という著名な音楽家だった男が建てた別荘だった。加賀は他7人のメンバーとともにオーケストラを組んでいて、そこでよく合宿を行っていた。
惨劇は突然起きた。
加賀はその「ファイアーフライ館」で、そのオーケストラ員を次々と殺害し、三日間部屋に籠もったまま自分の作曲した曲を聴き続け、「螢が止まらない」という謎の言葉を残して逮捕、その後衰弱死した。
しばらく廃墟と化していたその館を、佐世保という一山当てて大儲けした男が買った。佐世保はアキリーズクラブという、幽霊屋敷や廃墟を巡るサークルのOBで、その関係で今では夏合宿の場所として、加賀が殺人を犯して籠もり続けた期間合宿をすることが定番になっている。
今年もやってきたアキリーズのメンバー。だが今年は勝手が少し違う。前年、当時メンバーだった対馬つぐみという女性が、ジョージと名付けられた殺人鬼に殺されていたのだ。時折思い出すことになるその事実に少し悪くなる空気を振り切って、合宿は始まる。
そしてそんな中、第一の殺人が起こってしまう。とまどうメンバー。推理をし始める二人によって少しずつ真相に肉薄していくのだが・・・
雨降りしきる中、唯一の通路である橋が増水によって通れなくなる。電話も切られ、携帯も圏外。雨が止むまでその場から動けないし、誰も呼ぶことができない、というまさに「嵐の山荘もの」の定番のような設定の中で、メンバー達が過ごしていく話。
さすがは麻耶、という構成だった。なるほど、そうか、という感じ。
ただ、さすがに古臭い感は否めない。警察の介入することのない嵐の山荘もの。悪くはない。寧ろそうした話は好きだが、でもどこか現実離れしている感がある。
ストーリーはすっきりスマートでいいが、こじんまりまとまり過ぎているような気もして、七年の沈黙の割には、という感じがする。
しかしまあ、読者以外を騙すトリックが仕掛けられているとは誰も思わないだろう。そこはさすが、という感じがした。
伏線がかなり多く、再読しない俺としては少しもったいな作品ではある。いい作品は何度でも読み返してしまう、という人にはいいかもしれない。
何にしても、麻耶雄嵩が長編を出した、ということがいいことだ。
麻耶雄嵩「螢」
まず著者の紹介をするべきだろうか。麻耶雄嵩と言えば本格ミステリ界では知らぬ者はいない。京都大学在学中にデビュー作「翼ある闇-メルカトル鮎最後の事件-」を発表し、本格ミステリ界に衝撃を与える。その古典的な舞台設定に斬新なアイデアをのせたその作品は作家や書評家に支持される。続く二作目「夏と冬の奏鳴曲」には、ミステリ界の誰もが衝撃を受け、麻耶雄嵩は本格ミステリの牽引車に登り詰める。その後何作か作品を発表し、そして「鴉」を発表後、長編としては本作「螢」まで七年間完全に沈黙していた。
その七年の沈黙を破り、本格ミステリの異端児が今年発表した新作がこの「螢」である。
舞台は、京都の山奥の奥の奥に聳え立つ「ファイアーフライ館」、つまり「螢館」である。そこは、加賀螢司という著名な音楽家だった男が建てた別荘だった。加賀は他7人のメンバーとともにオーケストラを組んでいて、そこでよく合宿を行っていた。
惨劇は突然起きた。
加賀はその「ファイアーフライ館」で、そのオーケストラ員を次々と殺害し、三日間部屋に籠もったまま自分の作曲した曲を聴き続け、「螢が止まらない」という謎の言葉を残して逮捕、その後衰弱死した。
しばらく廃墟と化していたその館を、佐世保という一山当てて大儲けした男が買った。佐世保はアキリーズクラブという、幽霊屋敷や廃墟を巡るサークルのOBで、その関係で今では夏合宿の場所として、加賀が殺人を犯して籠もり続けた期間合宿をすることが定番になっている。
今年もやってきたアキリーズのメンバー。だが今年は勝手が少し違う。前年、当時メンバーだった対馬つぐみという女性が、ジョージと名付けられた殺人鬼に殺されていたのだ。時折思い出すことになるその事実に少し悪くなる空気を振り切って、合宿は始まる。
そしてそんな中、第一の殺人が起こってしまう。とまどうメンバー。推理をし始める二人によって少しずつ真相に肉薄していくのだが・・・
雨降りしきる中、唯一の通路である橋が増水によって通れなくなる。電話も切られ、携帯も圏外。雨が止むまでその場から動けないし、誰も呼ぶことができない、というまさに「嵐の山荘もの」の定番のような設定の中で、メンバー達が過ごしていく話。
さすがは麻耶、という構成だった。なるほど、そうか、という感じ。
ただ、さすがに古臭い感は否めない。警察の介入することのない嵐の山荘もの。悪くはない。寧ろそうした話は好きだが、でもどこか現実離れしている感がある。
ストーリーはすっきりスマートでいいが、こじんまりまとまり過ぎているような気もして、七年の沈黙の割には、という感じがする。
しかしまあ、読者以外を騙すトリックが仕掛けられているとは誰も思わないだろう。そこはさすが、という感じがした。
伏線がかなり多く、再読しない俺としては少しもったいな作品ではある。いい作品は何度でも読み返してしまう、という人にはいいかもしれない。
何にしても、麻耶雄嵩が長編を出した、ということがいいことだ。
麻耶雄嵩「螢」
ルー=ガルー―忌避すべき狼―(京極夏彦)
こんな世界は嫌だ。本当に「忌避」したい。
京極夏彦と言えば、過去を舞台とし、妖怪を絡めた探偵小説である<京極堂>シリーズで有名だ。しかし、今回はまったく違う趣向の作品になっている。
少女が主人公で、探偵小説ではない、そして、
未来の話。
正確な年号は不明だが、20世紀終わり生まれの人間が30~40歳なんだから、2050年を越えていることはない。割と近い未来を舞台としている。
それでも世界はガラリと変わっている。とりわけ登場人物の半分ぐらいを占める少女達を取り巻く状況は様変わりしている。
学校という制度がなくなり、教育という概念が無くなり、未成年は全て児童と呼ばれ、自宅で通信端末を利用し勉強をし、外にはほとんどでない。コミュニティセンターというものが作られ、物理的接触の少なくなった児童達にコミュニケーションの場として、週一回コミュニケーション指導の講座が開かれる。
児童に限らず人は皆端末と呼ばれるものを持ち歩き、それは通信によって常にどこかと接続している。時間や位置の管理はもちろん、人との通信やなにやら、とにかく生活のほとんどが端末があれば出来てしまう。
IDカードのようなものを所有し、買い物や入館などあらゆる場面で使われる。それがなくてはトイレにすら行くことができない。公共の場での会話や映像は全て記録され、一定期間保管される。メディカルチェックなども頻繁に行われる。
そうした、完全に端末によって管理されている世界における物語。
児童が次々に殺されていく。共通項は当初年齢ぐらいしか見出せずに警察の捜査は難航する。
視点は一章ごとに、コミュニティセンターのカウンセラー不破静枝と、普通の児童である牧野葉月が交互に入れ替わる。不破はカウンセラーとしての立場で意見し、子供達が殺されている状況が嫌で、それでもsこから現実逃避したがっている。はみ出し者の刑事と行動を共にするようになり、事件の核心に段々巻き込まれていき、汚らわしいものへと近付いていく。
葉月はそれまで、ほとんど他人と物理的接触をしなく、友達と呼べるような存在もいなかったが、神埜歩未と都筑美緒と行動を共にしていくうちに、どんどん事件に巻き込まれて行ってしまう。逃げ追い戦い傷付き、それでも彼女等は何が敵なのかわからない状況の中で彷徨い続けていく。
さて、いつものように、京極の作品は説明がしづらくてしかたない。
見当違いな感想かもしれないけど、これを読んで、無駄なものはなくしてはいけないな、と思った。
「無駄」をどう定義するかはまあ置いておくとして、とにかくまだ今の時代「無駄」が溢れている。この作品の設定からすればだけど、人と直接会うことも、会議をすることも、受験勉強をすることも、動物を殺すことも、真実を追い求めることも、人間関係も、全て「無駄」なものだ。それらを一切の「無駄」を排除してしまうからこそ、この作品に描かれているような世界になってしまうのだろう、と。
ただ、無駄を無くす方向性は失ってはいけないだろうな、とも思う。これは別に根拠があって言うわけではないけど、無駄を排除しようと努力し続け、それでも無駄はなくならない、というのが理想だ。そもそもそうした行動自体が「無駄」だし。
一切合財を全てシンプルにして管理する、というシステムは絶対にうまくいかない。どうせ管理する存在も人間なんだ。いくらどうしたって、つるつるに研かれたボールは坂を転がるし、転がり始めればとまらない。デコボコがあるほうが予期せぬ動きをするし、下り坂でも止まるかもしれない。それぐらいの方がきっといい。
進歩進歩というけど、それがいいことなのかというのは浸透してみなくてはわからない。寧ろ進歩が過去になってみなければきっと評価なんかできないだろう。何かの進歩で未来が切り開ける、という幻想は捨てた方がいい。進歩とは結局のところ速度であって、方向とは関係ない。
と、まったく本の感想になっていないけど、神埜という少女は最高だ。コナンの灰原哀を連想させる。物静かで繊細で、でも大胆で簡潔。別に少女趣味とかではなく、こんな感じの成人女性がいるなら、是非会って話してみたいものだと思う。
まあだから、読んでください。
京極夏彦「ルー=ガルー―忌避すべき狼―」
京極夏彦と言えば、過去を舞台とし、妖怪を絡めた探偵小説である<京極堂>シリーズで有名だ。しかし、今回はまったく違う趣向の作品になっている。
少女が主人公で、探偵小説ではない、そして、
未来の話。
正確な年号は不明だが、20世紀終わり生まれの人間が30~40歳なんだから、2050年を越えていることはない。割と近い未来を舞台としている。
それでも世界はガラリと変わっている。とりわけ登場人物の半分ぐらいを占める少女達を取り巻く状況は様変わりしている。
学校という制度がなくなり、教育という概念が無くなり、未成年は全て児童と呼ばれ、自宅で通信端末を利用し勉強をし、外にはほとんどでない。コミュニティセンターというものが作られ、物理的接触の少なくなった児童達にコミュニケーションの場として、週一回コミュニケーション指導の講座が開かれる。
児童に限らず人は皆端末と呼ばれるものを持ち歩き、それは通信によって常にどこかと接続している。時間や位置の管理はもちろん、人との通信やなにやら、とにかく生活のほとんどが端末があれば出来てしまう。
IDカードのようなものを所有し、買い物や入館などあらゆる場面で使われる。それがなくてはトイレにすら行くことができない。公共の場での会話や映像は全て記録され、一定期間保管される。メディカルチェックなども頻繁に行われる。
そうした、完全に端末によって管理されている世界における物語。
児童が次々に殺されていく。共通項は当初年齢ぐらいしか見出せずに警察の捜査は難航する。
視点は一章ごとに、コミュニティセンターのカウンセラー不破静枝と、普通の児童である牧野葉月が交互に入れ替わる。不破はカウンセラーとしての立場で意見し、子供達が殺されている状況が嫌で、それでもsこから現実逃避したがっている。はみ出し者の刑事と行動を共にするようになり、事件の核心に段々巻き込まれていき、汚らわしいものへと近付いていく。
葉月はそれまで、ほとんど他人と物理的接触をしなく、友達と呼べるような存在もいなかったが、神埜歩未と都筑美緒と行動を共にしていくうちに、どんどん事件に巻き込まれて行ってしまう。逃げ追い戦い傷付き、それでも彼女等は何が敵なのかわからない状況の中で彷徨い続けていく。
さて、いつものように、京極の作品は説明がしづらくてしかたない。
見当違いな感想かもしれないけど、これを読んで、無駄なものはなくしてはいけないな、と思った。
「無駄」をどう定義するかはまあ置いておくとして、とにかくまだ今の時代「無駄」が溢れている。この作品の設定からすればだけど、人と直接会うことも、会議をすることも、受験勉強をすることも、動物を殺すことも、真実を追い求めることも、人間関係も、全て「無駄」なものだ。それらを一切の「無駄」を排除してしまうからこそ、この作品に描かれているような世界になってしまうのだろう、と。
ただ、無駄を無くす方向性は失ってはいけないだろうな、とも思う。これは別に根拠があって言うわけではないけど、無駄を排除しようと努力し続け、それでも無駄はなくならない、というのが理想だ。そもそもそうした行動自体が「無駄」だし。
一切合財を全てシンプルにして管理する、というシステムは絶対にうまくいかない。どうせ管理する存在も人間なんだ。いくらどうしたって、つるつるに研かれたボールは坂を転がるし、転がり始めればとまらない。デコボコがあるほうが予期せぬ動きをするし、下り坂でも止まるかもしれない。それぐらいの方がきっといい。
進歩進歩というけど、それがいいことなのかというのは浸透してみなくてはわからない。寧ろ進歩が過去になってみなければきっと評価なんかできないだろう。何かの進歩で未来が切り開ける、という幻想は捨てた方がいい。進歩とは結局のところ速度であって、方向とは関係ない。
と、まったく本の感想になっていないけど、神埜という少女は最高だ。コナンの灰原哀を連想させる。物静かで繊細で、でも大胆で簡潔。別に少女趣味とかではなく、こんな感じの成人女性がいるなら、是非会って話してみたいものだと思う。
まあだから、読んでください。
京極夏彦「ルー=ガルー―忌避すべき狼―」
熊の場所(舞城王太郎)
久々の舞城。短編集で表題作の「熊の場所」はなんと三島由紀夫賞候補ってもはや文学じゃん。ミステリーででたはずなのにいつのまにどこがどうしてそうなっちゃったんだ。
舞城の文章は「圧倒的な文圧」って言われて本当に何かおしつぶされんじゃねえのってばりの文章を書き殴る。書き殴るって表現は舞城のためにきっと用意された言葉のはずだ。書き殴る書き殴る書き殴るってそして実際に何かを殴りまくって何かを表現しようとする作家。
村上春樹の文章に文圧を加えてゴニゴニグニュグニュ攪拌して解体してくっ付けて引き裂いて叩きつけたような文章でもう本当に何を言いたいのかさっぱりわからんくて意味不明の領域。それでも舞城の作品は結構好きだったりするし少なくとも村上春樹よりも何かが伝わってくるような気がするのは俺だけかも。
なんてえかロックのビートに乗せてラップを歌ってるような文章でビートって言葉の意味特に分かってないで使ってたりするけどそんな感じでリズム感が結構あるような気がしてスピードはマックス。ヤク中の独り言をテープに録音したような人の思考をマルマルズバット抜き出したような何かを省いたりせずに全部載せの文章がやっぱ文圧を引き出したりしてんだろうな。
作品は表題作である「熊の場所」と「バット男」と「ピコーン!」の三作。
「熊の場所」は小学生の主人公がクラスメイトの猫殺しに気づいちゃってめっちゃ怖くなったんだけど親父の言葉を思い出してそれってのは昔山で熊に襲われたときの話で怖くなって逃げて森から抜け出したけどこのまま逃げたままだと一生恐怖は拭えなくてだから拳銃を持ってまた森に入って熊を殺したって話。恐怖を消し去るにはその源の場所にすぐ戻らねばならないっていう親父の言葉を思い出してそいつんちの直行。ちょー綺麗な母ちゃんが不釣合いで天才的なサッカーテクを持つそいつにひるみながらサッカーでボロボロになって克服。何となく仲良くなって家とか行ったりするけどでも観察は止められなくて猫を殺すとことか見たいけどそんな場面には出くわさなくてでもその内犬もいなくなったりして・・・みたいな話。
「バット男」はバットを持って街で人を脅すんだけどでも小心者で結局バット奪われて殴られるバット男ってのが有名になってでもそいつある日ぶっ殺されちゃう。それだけなら主人公の生活に無関係だったのに、同じバスケ部だった奴の彼女が4万でそのバット男とセックスしちゃったりしてたから大変。彼氏はバスケにしか興味なくて彼女はでもそんな彼氏のことが好きでたまらなくて気を引こうとしてバスケ部の先輩とかと寝ちゃうんだけど周りの皆が気づいてもそいつだけは気づかないようなバスケバカ。主人公は相談を受けたりしてイヤイヤだけどアドバイスしたりしてでもそれでも全然どうにもならなくてそんなわけで4万でバット男とセックスしちゃうわけ。で結局誰が父親なのか不明なまま彼女は妊娠で彼氏は高校辞めて結婚することにして出版社で雑誌記者として働き始めて割と成功してでも家庭では諍いがもうめちゃくちゃでお互い両思いなのに何故か足りなかったり届かなかったりしてすれ違いでそれでも子供が出来て期待したのに全然ダメで彼女は子供を連れて失踪・・・みたいな話。
「ピコーン!」は暴走族みたいな集団にあるカップルがいて彼氏は浮気と喧嘩を繰り返してて彼女は浮気相手の女をメッタメタにぼこしてそれでも彼氏のことは殴らずに大好きででもそんな生活からなんとか抜け出したいけどまともになれるはずのない彼氏に代わってかなりIQ一杯の彼女が大検を受けることを決意する。それを彼氏に話すとおどおどしながらもフェラチオ100万回を要求。なにをしてもそれを撤回しないので仕方なくフェラチオの奉仕者になり不断の練習を重ね努力し抜きまくりそのうちマスターし一人前のフェラチオ師になってでも同時に勉強もバイトもしてその内彼氏もバイト始めて真面目になってフェラチオもいいよなっていいだしてでも続けてそんなある日彼氏が無茶苦茶な格好で殺されているのが見付かる。もう取り乱して泣き崩れる彼女だが犯人を見つけようと自慢の頭をフルフルフル回転させて捜査捜査捜査。ピコーン!と何度か閃いて犯人みつけちゃるぞ・・・みたいな話。
さてこんな感想を読んでこの本を読みたくなる人がいるのだろうか少し心配だけどまあ彼の(というか男なのかどうかも不明だけど。覆面作家だったりする)作品をなんか1個読んでみたら世界が開けるかもです。
舞城王太郎「熊の場所」
舞城の文章は「圧倒的な文圧」って言われて本当に何かおしつぶされんじゃねえのってばりの文章を書き殴る。書き殴るって表現は舞城のためにきっと用意された言葉のはずだ。書き殴る書き殴る書き殴るってそして実際に何かを殴りまくって何かを表現しようとする作家。
村上春樹の文章に文圧を加えてゴニゴニグニュグニュ攪拌して解体してくっ付けて引き裂いて叩きつけたような文章でもう本当に何を言いたいのかさっぱりわからんくて意味不明の領域。それでも舞城の作品は結構好きだったりするし少なくとも村上春樹よりも何かが伝わってくるような気がするのは俺だけかも。
なんてえかロックのビートに乗せてラップを歌ってるような文章でビートって言葉の意味特に分かってないで使ってたりするけどそんな感じでリズム感が結構あるような気がしてスピードはマックス。ヤク中の独り言をテープに録音したような人の思考をマルマルズバット抜き出したような何かを省いたりせずに全部載せの文章がやっぱ文圧を引き出したりしてんだろうな。
作品は表題作である「熊の場所」と「バット男」と「ピコーン!」の三作。
「熊の場所」は小学生の主人公がクラスメイトの猫殺しに気づいちゃってめっちゃ怖くなったんだけど親父の言葉を思い出してそれってのは昔山で熊に襲われたときの話で怖くなって逃げて森から抜け出したけどこのまま逃げたままだと一生恐怖は拭えなくてだから拳銃を持ってまた森に入って熊を殺したって話。恐怖を消し去るにはその源の場所にすぐ戻らねばならないっていう親父の言葉を思い出してそいつんちの直行。ちょー綺麗な母ちゃんが不釣合いで天才的なサッカーテクを持つそいつにひるみながらサッカーでボロボロになって克服。何となく仲良くなって家とか行ったりするけどでも観察は止められなくて猫を殺すとことか見たいけどそんな場面には出くわさなくてでもその内犬もいなくなったりして・・・みたいな話。
「バット男」はバットを持って街で人を脅すんだけどでも小心者で結局バット奪われて殴られるバット男ってのが有名になってでもそいつある日ぶっ殺されちゃう。それだけなら主人公の生活に無関係だったのに、同じバスケ部だった奴の彼女が4万でそのバット男とセックスしちゃったりしてたから大変。彼氏はバスケにしか興味なくて彼女はでもそんな彼氏のことが好きでたまらなくて気を引こうとしてバスケ部の先輩とかと寝ちゃうんだけど周りの皆が気づいてもそいつだけは気づかないようなバスケバカ。主人公は相談を受けたりしてイヤイヤだけどアドバイスしたりしてでもそれでも全然どうにもならなくてそんなわけで4万でバット男とセックスしちゃうわけ。で結局誰が父親なのか不明なまま彼女は妊娠で彼氏は高校辞めて結婚することにして出版社で雑誌記者として働き始めて割と成功してでも家庭では諍いがもうめちゃくちゃでお互い両思いなのに何故か足りなかったり届かなかったりしてすれ違いでそれでも子供が出来て期待したのに全然ダメで彼女は子供を連れて失踪・・・みたいな話。
「ピコーン!」は暴走族みたいな集団にあるカップルがいて彼氏は浮気と喧嘩を繰り返してて彼女は浮気相手の女をメッタメタにぼこしてそれでも彼氏のことは殴らずに大好きででもそんな生活からなんとか抜け出したいけどまともになれるはずのない彼氏に代わってかなりIQ一杯の彼女が大検を受けることを決意する。それを彼氏に話すとおどおどしながらもフェラチオ100万回を要求。なにをしてもそれを撤回しないので仕方なくフェラチオの奉仕者になり不断の練習を重ね努力し抜きまくりそのうちマスターし一人前のフェラチオ師になってでも同時に勉強もバイトもしてその内彼氏もバイト始めて真面目になってフェラチオもいいよなっていいだしてでも続けてそんなある日彼氏が無茶苦茶な格好で殺されているのが見付かる。もう取り乱して泣き崩れる彼女だが犯人を見つけようと自慢の頭をフルフルフル回転させて捜査捜査捜査。ピコーン!と何度か閃いて犯人みつけちゃるぞ・・・みたいな話。
さてこんな感想を読んでこの本を読みたくなる人がいるのだろうか少し心配だけどまあ彼の(というか男なのかどうかも不明だけど。覆面作家だったりする)作品をなんか1個読んでみたら世界が開けるかもです。
舞城王太郎「熊の場所」
第三の時効(横山秀夫)
著者のフィールドである、警察の短編小説である。
短編ではあるが、舞台は一つだ。F県警捜査一課強行犯係に属する刑事達の物語。一斑班長:朽木、二班班長:楠見、三班班長村瀬という、類稀で超人的な捜査のプロを中心に、一課長田畑や各班の主任や刑事達を交え、県内県外で起こる事件を解決する。
それぞれの班長の特徴を軽く書いておこう。朽木は冷徹で一切笑わない男。「F県警の青鬼」と県内外を問わず恐れられている。検挙率10割を誇る無敗の指揮官。
楠見は公安上がりの捜一刑事。公安時代の些細なミスから管理畑を回されたが、何故か一気に強行犯係の班長になった男。計略家、策略家であり、謀略を巡らせて事件を解決する男。私的なことだけでなく、捜査に関することも秘密主義で、部下からの信頼はない。朽木と同じく検挙率10割。
村瀬は「捜査の天才」と称される。他班も一目置くその「動物的カン」は、捜査の始めに村瀬の「第一声」として現れ、三班の捜査方針を大きく形作る。朽木・楠見と違ってまだ感情が読み取れる方らしい。村瀬も、担当した事件一件を除いて全て解決している。
それぞれまったく違う捜査方法を持ち、一課長の指示など聞かない。各班ともに仲が悪く、他班を出し抜こう、勝とう、そんなことばかり考えている殺伐としたF県警捜査一課。そこを舞台にした短編だ。
どれもこれも見事だ。探偵小説のように、トリックだとかが主ではない。そういったことも出てこなくはないが、むしろ「捜査」という、彼らの日常であり全てであるその行為自体を丁寧に描こうとしている。
これだけ警察が頼りがいがあればいいな、と思わせる。まあ内部でのいざこざはもっとなくなればいいが、士気を相殺するようなものでもないらしいから、あったほうがいいのかもしれない。
短編集と言うのは、読む分にはいいけど、紹介するには、全てを取りあげるのがめんどくさい、という難点がある。俺が気に入った作品は、表題作である「第三の時効」、それと「囚人のジレンマ」と「ペルソナの微笑」だ。
「第三の時効」は、楠見率いる(まあ率いてはいないけど)二班の物語。15年前、親友に強姦され、さらに夫を殺された本間ゆき絵。指名手配されたその親友の時効がまさに成立しようとしている。時効は、海外にいる間はカウントされないという条文がある。事件発生からちょうど15年目を「第一の時効」、海外逃亡の期間を考慮した本当の時効成立の日を「第二の時効」とし、犯人がこの知識を持っていないことに賭け、本間邸で張り込みをしている。指揮官である楠見は現場に顔を見せない。意味深な楠見のセリフ。一体「第三の時効」とは何なのだろうか・・・
「囚人のジレンマ」は、短期間に三つの殺人が起きた話。主婦殺しを一斑、証券マン殺しを三班、調理師殺しを二班が担当している。既に犯人は上がっているが自供しない主婦殺し、ホシは上がっていないが保険金殺人の可能性がある調理師殺し、何もわからず長引きそうな証券マン殺し。各班それぞれがそれぞれの思惑を抱えながら捜査を進めていく。一方、その全ての事件を見てまわる一課長の田畑の元に、記者から様々な情報が入る。囚人のジレンマ―共犯者がいる事件の場合、相手がゲロしたと聞かされた時の被疑者の抱えるジレンマ―を、部下である強行犯係の刑事達に抱いてしまう田畑は・・・
「ペルソナの微笑み」は、13年前に起きたアオ―青酸カリ―を使った残忍な事件に端を発する。子供に、足の臭いをとる魔法の薬と称して与えた青酸カリを父親の酒の中に入れてしまい、父親を殺してしまった少年。青酸カリを渡したおじさんの似顔絵などの証言もしたが、結局未解決のまま今に至る。そして、13年後また青酸カリを使った殺人が発生した。被害者はホームレス。そして、犯行一週間前に目撃されたおとこの似顔絵は、13年前のそれとそっくりだった。同一犯による殺人なのか?朽木の指示により13年前父親を殺してしまった少年に似顔絵を見せに行くのだが・・・
是非、一読あれ。
横山秀夫「第三の時効」
短編ではあるが、舞台は一つだ。F県警捜査一課強行犯係に属する刑事達の物語。一斑班長:朽木、二班班長:楠見、三班班長村瀬という、類稀で超人的な捜査のプロを中心に、一課長田畑や各班の主任や刑事達を交え、県内県外で起こる事件を解決する。
それぞれの班長の特徴を軽く書いておこう。朽木は冷徹で一切笑わない男。「F県警の青鬼」と県内外を問わず恐れられている。検挙率10割を誇る無敗の指揮官。
楠見は公安上がりの捜一刑事。公安時代の些細なミスから管理畑を回されたが、何故か一気に強行犯係の班長になった男。計略家、策略家であり、謀略を巡らせて事件を解決する男。私的なことだけでなく、捜査に関することも秘密主義で、部下からの信頼はない。朽木と同じく検挙率10割。
村瀬は「捜査の天才」と称される。他班も一目置くその「動物的カン」は、捜査の始めに村瀬の「第一声」として現れ、三班の捜査方針を大きく形作る。朽木・楠見と違ってまだ感情が読み取れる方らしい。村瀬も、担当した事件一件を除いて全て解決している。
それぞれまったく違う捜査方法を持ち、一課長の指示など聞かない。各班ともに仲が悪く、他班を出し抜こう、勝とう、そんなことばかり考えている殺伐としたF県警捜査一課。そこを舞台にした短編だ。
どれもこれも見事だ。探偵小説のように、トリックだとかが主ではない。そういったことも出てこなくはないが、むしろ「捜査」という、彼らの日常であり全てであるその行為自体を丁寧に描こうとしている。
これだけ警察が頼りがいがあればいいな、と思わせる。まあ内部でのいざこざはもっとなくなればいいが、士気を相殺するようなものでもないらしいから、あったほうがいいのかもしれない。
短編集と言うのは、読む分にはいいけど、紹介するには、全てを取りあげるのがめんどくさい、という難点がある。俺が気に入った作品は、表題作である「第三の時効」、それと「囚人のジレンマ」と「ペルソナの微笑」だ。
「第三の時効」は、楠見率いる(まあ率いてはいないけど)二班の物語。15年前、親友に強姦され、さらに夫を殺された本間ゆき絵。指名手配されたその親友の時効がまさに成立しようとしている。時効は、海外にいる間はカウントされないという条文がある。事件発生からちょうど15年目を「第一の時効」、海外逃亡の期間を考慮した本当の時効成立の日を「第二の時効」とし、犯人がこの知識を持っていないことに賭け、本間邸で張り込みをしている。指揮官である楠見は現場に顔を見せない。意味深な楠見のセリフ。一体「第三の時効」とは何なのだろうか・・・
「囚人のジレンマ」は、短期間に三つの殺人が起きた話。主婦殺しを一斑、証券マン殺しを三班、調理師殺しを二班が担当している。既に犯人は上がっているが自供しない主婦殺し、ホシは上がっていないが保険金殺人の可能性がある調理師殺し、何もわからず長引きそうな証券マン殺し。各班それぞれがそれぞれの思惑を抱えながら捜査を進めていく。一方、その全ての事件を見てまわる一課長の田畑の元に、記者から様々な情報が入る。囚人のジレンマ―共犯者がいる事件の場合、相手がゲロしたと聞かされた時の被疑者の抱えるジレンマ―を、部下である強行犯係の刑事達に抱いてしまう田畑は・・・
「ペルソナの微笑み」は、13年前に起きたアオ―青酸カリ―を使った残忍な事件に端を発する。子供に、足の臭いをとる魔法の薬と称して与えた青酸カリを父親の酒の中に入れてしまい、父親を殺してしまった少年。青酸カリを渡したおじさんの似顔絵などの証言もしたが、結局未解決のまま今に至る。そして、13年後また青酸カリを使った殺人が発生した。被害者はホームレス。そして、犯行一週間前に目撃されたおとこの似顔絵は、13年前のそれとそっくりだった。同一犯による殺人なのか?朽木の指示により13年前父親を殺してしまった少年に似顔絵を見せに行くのだが・・・
是非、一読あれ。
横山秀夫「第三の時効」
クライマーズハイ(横山秀夫)
圧巻だ。小説としてのレベルが違う。
著者は、警察ものの短編作家としてデビューし、その方面で有名だ。本作は、その警察とも短編とも離れた、初の長編小説だ。
舞台は二つ。「今」の方は山。死んだ友人の息子と山へ、というか岸壁を登る、というそういうシーン。
一方、その間の回想として語られる「過去」は、1985年に起きた世界最大の飛行機事故である、御巣鷹山の日航機事故を取材する新聞社が舞台だ。
その二つの章が交互に語られていくが、メインはやはり「過去」の方だ。
安西という販売局の人間と山登りをするようになっていた、編集局所属の悠木。翌日、数々のクライマーを魅了して止まない「衝立岩」に登ることになっていたその日、安西は何故山に登るのか、という悠木の問に対し、「下りるために登るんさ」という謎の言葉を残す。そして同じ日、駅での集合直前に、日航機事故の一報が入る。
悠木は、古参の記者にしては珍しく、いわゆる「遊軍」だ。デスクでも長でもなく、なんでもこなすフリーの記者。その悠木に、突然「日航全権デスク」、つまり日航機事故に関する紙面の全ての責任を持つデスクの任が降って掛かり、悠木はそれを受ける。
独りで山に行ったんだろうと思っていた安西は何故か歓楽街で倒れていた。その一報を聞くや病院に向かった悠木は、目を開けたまま文字通り「眠っている」安西の姿を目にする。
それでも悠木は新聞を作り続ける。
本当はこれだけでは何も説明できていないけれど、言葉を尽くしても表現できないものがこの小説にはある。
新聞を作る、というその全てがこんなにもドラマティックだったのか、と思う。その緊迫感、緊張感、いがみ、争い、想い、そうした全ての描写が圧巻だった。
二種類の映像でこれを説明してみようと思う。
新聞社を舞台にした映画を作るとしよう。普通に作るならば、脚本があって、役者がいて、321で始まってカットで終わった「虚構」を繋ぎ合わせて、限りなくリアルに近いものを作り出す、そういうこと。あらゆる数字を複雑な連立方程式にぶち込んで、近似値を出そうとするような映像。
そんな物とはまるで違う。
例えば新聞社の至るところにカメラを仕掛けるとしよう。そこにいる誰もが撮られていることを知らない。24時間365日カメラを回し続けて得た全ての「リアル」を単純な方程式に入れてほぼ完全な答えを出そうとするような映像。時折カメラから人が見切れたり、音の聞こえなくなる瞬間があったり、見せるべきではない瞬間があったり、そうした「操作されていない」映像からしか感じることの出来ない殺気や空気感。
そういう、レベルの違う雰囲気をこの小説から感じた。まるで、自分が記者の一人になって、その場にいるかのようなリアル感。
著者はもともと記者だった。東京の大学を出た後。上毛新聞社(どうも日航機事故のあった群馬にあるらしい)に入り、そこで12年間記者として勤め上げた人だ。恐らく、日航機事故の際には脂の乗った記者で、最前線で取材をしたのではないかと思う。
だからこれは、小説の形を借りた自叙伝なのだろう、と思ってみたりする。
新聞を作るというのは、だからそもそもドラマを生み出す要素があるということだろう。毎日締め切りがあり、それまでに狂ったように走り周り、時にはじっと待ち、仕掛け外し、そしてあらゆることの決断に迫られながらその日の新聞を送り出していく。野球が終わった後トンボでグラウンドを整備するように、シャッターに書かれた落書きを無駄だと知っていて消すように、昨日とは少しだけ違った毎日を塗りつぶすように生きている人々。この世界自体に、ドラマの要素がきっと内包されている。
そういう世界は他にもきっとあるだろう。でも多くはない。そんな非日常を日常として消化してきた著者だからこそ形に出来た作品だろうと思う。
思わず目が潤んだ場面もある。そこまでの積み重ねがあるからこそ届く文章があった。
家族とは何だ、人の死とは何だ、新聞とは何だ、そして登るべき山はどこだ。あらゆる文章がそう問うている。
本当に読んで欲しい作品だ。最高だった。
決断し続け、その決断を実行し続ける人生は俺にはできない。でも、誰もが出来ないからこそもがいているんだろうな、とそう思った。
横山秀夫「クライマーズハイ」
著者は、警察ものの短編作家としてデビューし、その方面で有名だ。本作は、その警察とも短編とも離れた、初の長編小説だ。
舞台は二つ。「今」の方は山。死んだ友人の息子と山へ、というか岸壁を登る、というそういうシーン。
一方、その間の回想として語られる「過去」は、1985年に起きた世界最大の飛行機事故である、御巣鷹山の日航機事故を取材する新聞社が舞台だ。
その二つの章が交互に語られていくが、メインはやはり「過去」の方だ。
安西という販売局の人間と山登りをするようになっていた、編集局所属の悠木。翌日、数々のクライマーを魅了して止まない「衝立岩」に登ることになっていたその日、安西は何故山に登るのか、という悠木の問に対し、「下りるために登るんさ」という謎の言葉を残す。そして同じ日、駅での集合直前に、日航機事故の一報が入る。
悠木は、古参の記者にしては珍しく、いわゆる「遊軍」だ。デスクでも長でもなく、なんでもこなすフリーの記者。その悠木に、突然「日航全権デスク」、つまり日航機事故に関する紙面の全ての責任を持つデスクの任が降って掛かり、悠木はそれを受ける。
独りで山に行ったんだろうと思っていた安西は何故か歓楽街で倒れていた。その一報を聞くや病院に向かった悠木は、目を開けたまま文字通り「眠っている」安西の姿を目にする。
それでも悠木は新聞を作り続ける。
本当はこれだけでは何も説明できていないけれど、言葉を尽くしても表現できないものがこの小説にはある。
新聞を作る、というその全てがこんなにもドラマティックだったのか、と思う。その緊迫感、緊張感、いがみ、争い、想い、そうした全ての描写が圧巻だった。
二種類の映像でこれを説明してみようと思う。
新聞社を舞台にした映画を作るとしよう。普通に作るならば、脚本があって、役者がいて、321で始まってカットで終わった「虚構」を繋ぎ合わせて、限りなくリアルに近いものを作り出す、そういうこと。あらゆる数字を複雑な連立方程式にぶち込んで、近似値を出そうとするような映像。
そんな物とはまるで違う。
例えば新聞社の至るところにカメラを仕掛けるとしよう。そこにいる誰もが撮られていることを知らない。24時間365日カメラを回し続けて得た全ての「リアル」を単純な方程式に入れてほぼ完全な答えを出そうとするような映像。時折カメラから人が見切れたり、音の聞こえなくなる瞬間があったり、見せるべきではない瞬間があったり、そうした「操作されていない」映像からしか感じることの出来ない殺気や空気感。
そういう、レベルの違う雰囲気をこの小説から感じた。まるで、自分が記者の一人になって、その場にいるかのようなリアル感。
著者はもともと記者だった。東京の大学を出た後。上毛新聞社(どうも日航機事故のあった群馬にあるらしい)に入り、そこで12年間記者として勤め上げた人だ。恐らく、日航機事故の際には脂の乗った記者で、最前線で取材をしたのではないかと思う。
だからこれは、小説の形を借りた自叙伝なのだろう、と思ってみたりする。
新聞を作るというのは、だからそもそもドラマを生み出す要素があるということだろう。毎日締め切りがあり、それまでに狂ったように走り周り、時にはじっと待ち、仕掛け外し、そしてあらゆることの決断に迫られながらその日の新聞を送り出していく。野球が終わった後トンボでグラウンドを整備するように、シャッターに書かれた落書きを無駄だと知っていて消すように、昨日とは少しだけ違った毎日を塗りつぶすように生きている人々。この世界自体に、ドラマの要素がきっと内包されている。
そういう世界は他にもきっとあるだろう。でも多くはない。そんな非日常を日常として消化してきた著者だからこそ形に出来た作品だろうと思う。
思わず目が潤んだ場面もある。そこまでの積み重ねがあるからこそ届く文章があった。
家族とは何だ、人の死とは何だ、新聞とは何だ、そして登るべき山はどこだ。あらゆる文章がそう問うている。
本当に読んで欲しい作品だ。最高だった。
決断し続け、その決断を実行し続ける人生は俺にはできない。でも、誰もが出来ないからこそもがいているんだろうな、とそう思った。
横山秀夫「クライマーズハイ」
恋恋蓮歩の演習(森博嗣)
また森博嗣。
今回の話は船の中でのお話だけど、そこに至るまでしばらく掛かる。
大笛梨枝は、羽村怜人という男と出会う。めくるめく、というような、静かでつましく、ゆったりとそれでいて激しい恋愛をしていく、わけです。梨枝は瀬在丸と知り合い、恋愛の話しをし、羽村と船に乗ることになって、かなりの豪華客船で、うきうき、ということ。
一方、いつもの悪巧み男保呂草は、今回もまたよろしくない仕事を引き受ける。前作で出てきた関根という画家の初期の自画像が、ある船で取引される云々。それを盗むよう以来を受けた保呂草は、一方で鈴鹿という大富豪の家を香具山とともに張り込みをしたりする。仕事、ということで保呂草と一緒に船に乗ることになった香具山はうきうきで、夢心地。
そんなわけで舞台は揃い、大笛やら羽村やら、鈴鹿一家やらフランスの大富豪やら、そして香具山、保呂草だけでなく、何故か無賃乗船で小鳥無と瀬在丸のおまけつき。銃声と共に羽村とおぼしき男が船外へ落ちるのが目撃され、行方を捜すも見付からず。おまけに鈴鹿氏が船内に持ち込んだ、あの関根の自画像が盗まれるに至り、飛行機で何故か現れた愛知県警の祖父江を筆頭に、絵と人の捜索が行われるも見付からず・・・というようなお話。
いつものことだけど、森博嗣のミステリーは(森博嗣の作品は、とは言っていない)、見える現象をどう見るか、ということで様相が一変してしまうところがいい。推理だとか捜査だとか、そういう過程が綺麗に省略あるいは簡潔にされているのもいい。探偵役は何かを立証しようとするわけでもなく、ただ解釈のみを与える。時には本人の独断で、恣意的に別の物語を語ることさえある。それが優しさであることに後から気づくので、悪い気はしない。
今回の作品は、消えたもの二つの対比がなかなか綺麗で、消えたものはなかったり、なかったものはあったり、そういう美しさをやはり追求しているんだろうな、と思う。
まあ、やはりそんなに出来のよくないと思うVシリーズだけど、まあまあかな、と思う。
今回保呂草は、少しだけいい奴。悪くない。
ただ一つ、とても気になることがあって、人物一覧表では「松村」となっている登場人物が、本文中では「村松」になっていること。森博嗣のことだからなんか意味があるのかと思っていたけど、恐らく誤植だろうと思う。珍しい。
というわけで、いつものように、気になったことなんかをざっと。今回は多いかも。
(前略)たとえば私の場合、孤独の信号を感じるときというのは、身近に大勢の人間たちがいる、そんな状況がほとんどなのだ。(中略)
つまりそれが、孤独の力。
貴重なその暗さと軋みを、実際に肌で感じた最初のときには、それらはただのマークだった。その記憶が、いつのまにか記号になる。文字になる。それが孤独というものの性格だ。
独り船に乗り、大海をさまよっている。周囲のどこにも逃げ場はない。助けてくれる仲間もいない。そんな状況が孤独だと勘違いしている者が多いようだ。まったく違う。それは孤独とは別のものである。
場所など、どこであっても同じこと。私たちの周囲には、そもそも逃げ場など存在しない環境ばかりだ。(中略)
むしろ、そういった逃げ場のない設定こそが、人間に「安心」という幻想を見せる条件でさえあるのだ。周囲のどちらへもいける自由とは、すなわち砂漠の真ん中に取り残された夜のようなもので、つまりそれが、孤独の必要条件でもある。
だから、自由と孤独は切り放せない。
道が一本あれば行く手は自然にその一つに決まる。選択する機会が失われる。その不自由さに、人は安堵して、歩み続けるだろう。立ち尽くすよりも歩く方が楽だからだ。
そして、その歩かされている営みを「意志」だと思い込み、その楽さ加減を、「幸せ」だと錯覚する。
孤独という自由を、人は恐れ、
その価値を評価しないよう、
真の意志の存在を忘れるよう、人は努力する。
(後略)
(前略)
つまり、物語とは、それを語る人物(すなわち私)が意図的に線を引き、輪を描いて囲ったうえで、ばらばらに存在する内容物を都合良く順序づけて並べた記号である。
おおかたは、事実に沿っているといえるが、
だが、文字にした瞬間、
文章にした段階で、
それは確実に虚構のものとなる。
たとえば、自分が認識した順に性格に情報を記述することは不可能である。文章に現れる単語の順に人は世界を観察しているわけではない。文法に従って活動しているものなどないからだ。そもそも、言葉によって物体を認識するわけでもない。
すなわち、文字に変換したとき、すべては嘘になる。
たとえ文章にしなくても、
文字にしなくても、
認識し記憶したものが既に、
現実からは乖離しているはずだ。
(後略)
(前略)
アパートに帰り、玄関で靴の紐を解いたとき、いつもなら少し無理をして足を抜いてしまうのに、何故か今夜は、手間をかけてやろう、細かいことを無視しないで、生活からこぼれ落ちているものたちを拾ってやりたい、と彼女は思った。
(後略)
(前略)
どうして変化に対して人は臆病になるのだろうか、と考える。そんなことを考える自分を自覚して驚く。きっと、失敗したとき元どおりに戻れない、という心配(あるいは予測)があるからだろう。結局のところ、失敗の大きさをどう見積もるか、にすべての判断が帰着するように思える。しかし、人はどんなときでも、逆戻りはできないのだから、永遠に真の答えなど得られない。
(後略)
(前略)
人は、自分と比較しないと他人を認識できない。
同様に、他人と比較しないと、自分を評価できない。
自分の存在の大部分が、他人との関係の上に成り立っている。そんな相対的な自己存在に対して、とても抵抗を感じる。だが、それ以外の方法はないようにも思える。きっとないだろう。
(後略)
(前略)
「人が人を殺すことって、実はとても簡単なことなの」紅子は優しい口調だった。「難しいと思っているだけ。人間だけが、その価値も、その怖さも、知っている。難しいものだと思い込もうとしている」
(後略)
「(前略)私なんか、もう何もないのよ。全部なくなってしまった。全部取られてしまったのよ。だけどね、どうしても取られないもの、誰にも渡せないものがあります。それが、人の価値を決めるものです。それだけは、最後まで、死ぬまで、誰のものでもありません。立ち上がりなさい。人の誇りを持ちなさい!」
(後略)
(前略)甘えられる人がいなければ、結局、人は泣き続けたりはしないものだ。
(後略)
森博嗣「恋恋蓮歩の演習」
今回の話は船の中でのお話だけど、そこに至るまでしばらく掛かる。
大笛梨枝は、羽村怜人という男と出会う。めくるめく、というような、静かでつましく、ゆったりとそれでいて激しい恋愛をしていく、わけです。梨枝は瀬在丸と知り合い、恋愛の話しをし、羽村と船に乗ることになって、かなりの豪華客船で、うきうき、ということ。
一方、いつもの悪巧み男保呂草は、今回もまたよろしくない仕事を引き受ける。前作で出てきた関根という画家の初期の自画像が、ある船で取引される云々。それを盗むよう以来を受けた保呂草は、一方で鈴鹿という大富豪の家を香具山とともに張り込みをしたりする。仕事、ということで保呂草と一緒に船に乗ることになった香具山はうきうきで、夢心地。
そんなわけで舞台は揃い、大笛やら羽村やら、鈴鹿一家やらフランスの大富豪やら、そして香具山、保呂草だけでなく、何故か無賃乗船で小鳥無と瀬在丸のおまけつき。銃声と共に羽村とおぼしき男が船外へ落ちるのが目撃され、行方を捜すも見付からず。おまけに鈴鹿氏が船内に持ち込んだ、あの関根の自画像が盗まれるに至り、飛行機で何故か現れた愛知県警の祖父江を筆頭に、絵と人の捜索が行われるも見付からず・・・というようなお話。
いつものことだけど、森博嗣のミステリーは(森博嗣の作品は、とは言っていない)、見える現象をどう見るか、ということで様相が一変してしまうところがいい。推理だとか捜査だとか、そういう過程が綺麗に省略あるいは簡潔にされているのもいい。探偵役は何かを立証しようとするわけでもなく、ただ解釈のみを与える。時には本人の独断で、恣意的に別の物語を語ることさえある。それが優しさであることに後から気づくので、悪い気はしない。
今回の作品は、消えたもの二つの対比がなかなか綺麗で、消えたものはなかったり、なかったものはあったり、そういう美しさをやはり追求しているんだろうな、と思う。
まあ、やはりそんなに出来のよくないと思うVシリーズだけど、まあまあかな、と思う。
今回保呂草は、少しだけいい奴。悪くない。
ただ一つ、とても気になることがあって、人物一覧表では「松村」となっている登場人物が、本文中では「村松」になっていること。森博嗣のことだからなんか意味があるのかと思っていたけど、恐らく誤植だろうと思う。珍しい。
というわけで、いつものように、気になったことなんかをざっと。今回は多いかも。
(前略)たとえば私の場合、孤独の信号を感じるときというのは、身近に大勢の人間たちがいる、そんな状況がほとんどなのだ。(中略)
つまりそれが、孤独の力。
貴重なその暗さと軋みを、実際に肌で感じた最初のときには、それらはただのマークだった。その記憶が、いつのまにか記号になる。文字になる。それが孤独というものの性格だ。
独り船に乗り、大海をさまよっている。周囲のどこにも逃げ場はない。助けてくれる仲間もいない。そんな状況が孤独だと勘違いしている者が多いようだ。まったく違う。それは孤独とは別のものである。
場所など、どこであっても同じこと。私たちの周囲には、そもそも逃げ場など存在しない環境ばかりだ。(中略)
むしろ、そういった逃げ場のない設定こそが、人間に「安心」という幻想を見せる条件でさえあるのだ。周囲のどちらへもいける自由とは、すなわち砂漠の真ん中に取り残された夜のようなもので、つまりそれが、孤独の必要条件でもある。
だから、自由と孤独は切り放せない。
道が一本あれば行く手は自然にその一つに決まる。選択する機会が失われる。その不自由さに、人は安堵して、歩み続けるだろう。立ち尽くすよりも歩く方が楽だからだ。
そして、その歩かされている営みを「意志」だと思い込み、その楽さ加減を、「幸せ」だと錯覚する。
孤独という自由を、人は恐れ、
その価値を評価しないよう、
真の意志の存在を忘れるよう、人は努力する。
(後略)
(前略)
つまり、物語とは、それを語る人物(すなわち私)が意図的に線を引き、輪を描いて囲ったうえで、ばらばらに存在する内容物を都合良く順序づけて並べた記号である。
おおかたは、事実に沿っているといえるが、
だが、文字にした瞬間、
文章にした段階で、
それは確実に虚構のものとなる。
たとえば、自分が認識した順に性格に情報を記述することは不可能である。文章に現れる単語の順に人は世界を観察しているわけではない。文法に従って活動しているものなどないからだ。そもそも、言葉によって物体を認識するわけでもない。
すなわち、文字に変換したとき、すべては嘘になる。
たとえ文章にしなくても、
文字にしなくても、
認識し記憶したものが既に、
現実からは乖離しているはずだ。
(後略)
(前略)
アパートに帰り、玄関で靴の紐を解いたとき、いつもなら少し無理をして足を抜いてしまうのに、何故か今夜は、手間をかけてやろう、細かいことを無視しないで、生活からこぼれ落ちているものたちを拾ってやりたい、と彼女は思った。
(後略)
(前略)
どうして変化に対して人は臆病になるのだろうか、と考える。そんなことを考える自分を自覚して驚く。きっと、失敗したとき元どおりに戻れない、という心配(あるいは予測)があるからだろう。結局のところ、失敗の大きさをどう見積もるか、にすべての判断が帰着するように思える。しかし、人はどんなときでも、逆戻りはできないのだから、永遠に真の答えなど得られない。
(後略)
(前略)
人は、自分と比較しないと他人を認識できない。
同様に、他人と比較しないと、自分を評価できない。
自分の存在の大部分が、他人との関係の上に成り立っている。そんな相対的な自己存在に対して、とても抵抗を感じる。だが、それ以外の方法はないようにも思える。きっとないだろう。
(後略)
(前略)
「人が人を殺すことって、実はとても簡単なことなの」紅子は優しい口調だった。「難しいと思っているだけ。人間だけが、その価値も、その怖さも、知っている。難しいものだと思い込もうとしている」
(後略)
「(前略)私なんか、もう何もないのよ。全部なくなってしまった。全部取られてしまったのよ。だけどね、どうしても取られないもの、誰にも渡せないものがあります。それが、人の価値を決めるものです。それだけは、最後まで、死ぬまで、誰のものでもありません。立ち上がりなさい。人の誇りを持ちなさい!」
(後略)
(前略)甘えられる人がいなければ、結局、人は泣き続けたりはしないものだ。
(後略)
森博嗣「恋恋蓮歩の演習」
魔剣天翔(森博嗣)
久々の森博嗣Vシリーズ。
小鳥無の少林寺拳法の先輩である関根杏奈は、フランスから帰国した飛行機のアクロバット集団「エンジェルマヌーバ」のメンバーの一人。小鳥無はそのイベントの招待状をもらい、いつものメンバー、つまり保呂草・瀬在丸・香具山やその周囲の人間に配る。
一方保呂草は仕事で各務というジャーナリストに会う。用件は唯一つ。その世界でも名の知れた有名な美術品「エンジェルマヌーバ」を手に入れること。噂ではその「エンジェルマヌーバ」は、関根杏奈の父であり世界的に有名な画家である関根朔太が所有しているということになっている。もちろん否定しているのだが。
そうしてイベント当日。保呂草を除いた面々が揃い、アクロバット飛行を瀬在丸の解説付きで見ている。そんな中、関根杏奈の所属する「エンジェルマヌーバ」の飛行機二機が墜落する。そこからごたごた色々あって、小鳥無は大分巻き込まれ、保呂草は依頼人に振り回され、祖父江と瀬在丸は相変わらずで、そうして最終的に事件の幕(まあ幕らしきもの)を瀬在丸が下ろす、みたいな話。
さて今回は何がどう密室かというと、墜落した二機の飛行機のうち一機から死体が発見された。飛行機は前後二人乗りで、後ろが操縦席になっている。死亡したのはパイロットであり、死因は銃で胸を撃たれたことによるもの。そして、背中から撃たれている。
これが今回の密室。後ろで飛行機を操縦していたはずのパイロットをどうやって後ろから撃ち殺したのか。
まあ解決は、俺は思いつかなかったけど、なるほどな、という感じ。
なんかまだまだわからないことが多くて、でもそれはなんとなく次の「恋恋蓮歩の演習」で明かされそうだから、早く読みたいな。
まあでも、そこまでそんなにいいか?って感じの話。あんまりって感じ。やっぱVシリーズを読んでて思うのは、S&Mシリーズの方が圧倒的に面白かったよな、ということ。
というわけで、森博嗣の本を読むときのお決まりで、気に入ったページを折ってしまうので、いつものようにそれらを抜き出してみましょう。今回はあまり多くない。
(前略)ファスナをいっぱいに開けたナップサックのようなものだ。その柔軟さは、すなわち曖昧な「形」に象徴される。何か大きなものを中に入れれば、その形になるだろう。ファスナが閉まらないうちなら、放り出して身軽になることだってできる。それが「若い」という意味だろう。
(後略)
(前略)つまり、偶然というのは、人が偶然だと感じる、ただそれだけの評価であって、その気になって観察すれば、自然界のいたるところに偶然は存在する。木の葉は偶然にも、私の足もとに舞い降りる。こんな奇跡的なことが無限に発生して、日常を形成するのだ。
(後略)
(前略)「命をかけるものが、あるからこそ、人は生きているんです」
(後略)
森博嗣「魔剣天翔」
小鳥無の少林寺拳法の先輩である関根杏奈は、フランスから帰国した飛行機のアクロバット集団「エンジェルマヌーバ」のメンバーの一人。小鳥無はそのイベントの招待状をもらい、いつものメンバー、つまり保呂草・瀬在丸・香具山やその周囲の人間に配る。
一方保呂草は仕事で各務というジャーナリストに会う。用件は唯一つ。その世界でも名の知れた有名な美術品「エンジェルマヌーバ」を手に入れること。噂ではその「エンジェルマヌーバ」は、関根杏奈の父であり世界的に有名な画家である関根朔太が所有しているということになっている。もちろん否定しているのだが。
そうしてイベント当日。保呂草を除いた面々が揃い、アクロバット飛行を瀬在丸の解説付きで見ている。そんな中、関根杏奈の所属する「エンジェルマヌーバ」の飛行機二機が墜落する。そこからごたごた色々あって、小鳥無は大分巻き込まれ、保呂草は依頼人に振り回され、祖父江と瀬在丸は相変わらずで、そうして最終的に事件の幕(まあ幕らしきもの)を瀬在丸が下ろす、みたいな話。
さて今回は何がどう密室かというと、墜落した二機の飛行機のうち一機から死体が発見された。飛行機は前後二人乗りで、後ろが操縦席になっている。死亡したのはパイロットであり、死因は銃で胸を撃たれたことによるもの。そして、背中から撃たれている。
これが今回の密室。後ろで飛行機を操縦していたはずのパイロットをどうやって後ろから撃ち殺したのか。
まあ解決は、俺は思いつかなかったけど、なるほどな、という感じ。
なんかまだまだわからないことが多くて、でもそれはなんとなく次の「恋恋蓮歩の演習」で明かされそうだから、早く読みたいな。
まあでも、そこまでそんなにいいか?って感じの話。あんまりって感じ。やっぱVシリーズを読んでて思うのは、S&Mシリーズの方が圧倒的に面白かったよな、ということ。
というわけで、森博嗣の本を読むときのお決まりで、気に入ったページを折ってしまうので、いつものようにそれらを抜き出してみましょう。今回はあまり多くない。
(前略)ファスナをいっぱいに開けたナップサックのようなものだ。その柔軟さは、すなわち曖昧な「形」に象徴される。何か大きなものを中に入れれば、その形になるだろう。ファスナが閉まらないうちなら、放り出して身軽になることだってできる。それが「若い」という意味だろう。
(後略)
(前略)つまり、偶然というのは、人が偶然だと感じる、ただそれだけの評価であって、その気になって観察すれば、自然界のいたるところに偶然は存在する。木の葉は偶然にも、私の足もとに舞い降りる。こんな奇跡的なことが無限に発生して、日常を形成するのだ。
(後略)
(前略)「命をかけるものが、あるからこそ、人は生きているんです」
(後略)
森博嗣「魔剣天翔」
模倣犯(宮部みゆき)
長い話だった。と同時にここに書く感想も長くなりそうな気がする。
まず一言で言えば、いい作品だった。
基本的に宮部の作品はあまりいい印象がない。悪くない作品は一杯あるけど、これだって言えるような作品に出会えたことがなかった。初めて宮部の作品で、読んでよかったと思える作品に出会えた気がする。
実はテレビで模倣犯の映画をちらちら見てて、それなりに内容を知ってたんだけど、それでも全然面白かった。
というわけで構成と内容をざっと。
まず構成としては三部構成。
この作品はある事件を中心にして話が進んでいく。公園である日突然女性の腕が発見される。一緒に見付かったハンドバッグ、被害者の家族へのボイスチェンジャーによる電話、さらに増える死体。目的も動機ももちろん犯人も不明のままただ時間が過ぎていくのを見守っていることしかできない社会。そういう事件が突然始まってしまう。
第一部はその事件の被害者や捜査する側の人間達が描かれる。被害者の悲しみや社会に与えた影響、捜査の困難さなんかを描きながら、既に様々な人間がそれぞれの人生というドラマを大きく狂わされている。理不尽なまでに傷付き悲しみ後悔し自分を責め運命を呪う被害者の家族。自分には関係ないと思いたいがためになんだかんだと解釈や理由や言い訳や非難を与えようとする社会やマスコミ。犯人に翻弄され欺かれいいように振り回されながらも追い回し粘り尻尾を掴もうと奔走する警察。そうした様々な登場人物達が様々な想いを抱えていく。
第一部は、犯人と思しき二人組が自動車事故で死ぬことで幕を引く。
第二部は逆に犯人側の視点で描かれていく。主犯であるピース・従犯だが本人は対等な立場と疑わない栗橋浩美・栗橋やピースと同級生で、栗橋が事件に関わっているのではないかと疑い思い悩みそのせいで死ぬことになる高井和明。この三人を中心にして第二部は進んでいく。ピースが事件の図面を引き、栗橋をうまく操り、栗橋は栗橋で高井をうまく操り翻弄し、高井は悩み苦しみ、でも誰にも言えないまま時間だけが過ぎていく。犯人達が何をしたいのか、ということが次第に明らかになっていき、と同時にゲームのように人を殺していくその嗜好についていけなくなる。もちろん第一部に出てきた人間達も随分と巻き込みながら、犯人側は犯人側でより混迷としていき、ピースの冷酷さが際立っていくように思う。
そしてやはり第二部も、高井と栗橋が死に、二人が連続殺人の犯人にされるところで終わる。
第三部は、それからの話。視点は常に様々な人間に入れ替わり、犯人側もそうでない側も交じり合って描かれる。それぞれの登場人物が交差していくようになり、そのせいなのかどんどん人間関係がややこしくなっていく。
高井の妹は兄の無実を訴え、フリーライターの前畑は事件についてのルポを書き、被害者の祖父である有馬義男は真実を求め、腕の第一発見者である塚田真一は逃げることをやめ、刑事の意見は割れ始め、社会は与えられた答えに納得し、
そしてピースはテレビに出るようになる。
やがてピースの嘘は崩れはじめ、収束していく。
まあそんな感じの話。
とにかく人間が恐ろしくしっかり描かれていて、その心の有り様にもそれなりに共感できる。それぞれの抱える想いを深く掘り下げて押し出し、吐き出させている。それがこの作品の実際の厚さ以上に厚みを与えているように思う。
この起きた犯罪に対する感想は特にはない。ピースの作り上げた犯罪は起こりえるかもしれないし、行為だけ見ればそれよりも残虐な事件は実際に起きているだろうと思う。
そう、この事件は、ピースという謂わば演出家の存在があまりに特異なわけで、この本を読み終えた今でもやはりこんなことをする人間は出てこないだろうな、と思う。出てきた時点で、日本がというよりも人間が終わるように思う。
あと読んでて思ったことは、読者はピースが犯人だと分かっているのに、登場人物達はそれを知らない、という状況が大分長く続く。その間の登場人物達の言動がやはりおかしく見えてしかたなかった。茶番、という言葉はあんまり当てはまらないけど、それに近い。イライラする、ということはないけど、なんかその不思議な感じが悪くなくて、届かないことを承知で、それでもなんとか登場人物たちにそのことを伝えてやれたらと思った。
この本を読むと、人間同士大分離れて生きているな、と感じた。それぞれ人の間には深い深い溝があるイメージ。生まれた時からそこにある。ただ人はそれを直視したくない、と本能的に感じている。だから望遠鏡で相手を見るように、間にある溝を見ないようにして生きていく。
でも何かのきっかけでその溝の存在を知ってしまうことがある。この作品の中で言えばつまり事件のこと。それをきっかけに、ああこんなにも溝があったんだ、としみじみ感じることになる。
人はわかりあうことができない。分かり合えている、というのは生きていくための幻想でしかなくて、幻想が崩れる出来事が起こってしまえばその事実に直面することになる。
人はそれを恐れ、だからこそ溝の存在を忘れようとする。騙し絵のように、一度見えるようになってしまえばもう意識しないでいることは難しい。そういう類のものだと思う。
さて、大分長く書いてきたけど、最後に何人か印象に残る登場人物がいたので、その人たちについての感想を書こうと思う。
まずはピース。最も共感できる。それは、犯した犯罪そのものに対する共感ではもちろんない。
ピースは相手の望む自分を設定し、それを演じきってしまうことができる人間だ。ある意味その能力があったからこそ、そして自分の手で何かとてつもないでかいものを動かしてみたいというただそれだけの理由で連続殺人を引き起こした男。
自分と同じだ、と思う。俺も、相手の望む自分を設定しようと相手を観察し、その自分になるために演じる。その繰り返しで人間関係をやってきた。目的や程度こそ違うけど、ピースと俺のやっていることは基本的には変わらない。まあだからといって犯罪は犯さないけど。
そして、だからこそ、つまり自分のような人間が他にもいると思うからこそ俺は人が怖い。逆説的だけど。
有馬義男。孫娘を無残にも殺されながらも犯人と電話などでやりあった。気骨のある老人で、中立で冷静であろうとする真摯な態度がとても好きだ。登場人物の中でもっとも好感を持ち、最も頑張って欲しいと思った人。こういう人間に接してこれればよかったな、と思えるような人。
高井和明。栗橋が事件に関わっているかもしれないと悩み最後には殺されてしまった人。
嫌な言い方になるけど、高井のような人間は好きになれない。どこがどう、と言われるととても困るが、うじうじしているところや優柔不断なところ、状況に甘んじてしまうところが自分に似ていると感じるせいかもしれない。
ただ、盲目的に人を信じることは時に愚かなことだけど、見方を変えればとても美しい。自分には出来そうにない、という点では、いい人間なのかもしれないとも思う。まあ好きにはなれないだろうけど。
栗橋浩美。結局ピースにいいように使われた駒。
栗橋浩美自身についての感想は特にないけど、俺はいつもこの栗橋のようになっていないだろうか、つまり誰かに操られていたり、勝手にレールに乗せられていたり、そんなことをされていないだろうか、と不安になる。騙されているかどうか、というのは騙されているうちは判断がつかないわけで、それでもなんとかして自分が騙されていないことを確認しようとする。なんか止められないし、不安感はいつも消えないのだけど。
さて最後に。この作品を読んで、初めて捜査本部にデスクという担当があることを知った。結構かっこいいポジションのように俺には見えた。警察の知らない一面が見えた気がした。
そんな感じです。長くなりました。
宮部みゆき「模倣犯」
まず一言で言えば、いい作品だった。
基本的に宮部の作品はあまりいい印象がない。悪くない作品は一杯あるけど、これだって言えるような作品に出会えたことがなかった。初めて宮部の作品で、読んでよかったと思える作品に出会えた気がする。
実はテレビで模倣犯の映画をちらちら見てて、それなりに内容を知ってたんだけど、それでも全然面白かった。
というわけで構成と内容をざっと。
まず構成としては三部構成。
この作品はある事件を中心にして話が進んでいく。公園である日突然女性の腕が発見される。一緒に見付かったハンドバッグ、被害者の家族へのボイスチェンジャーによる電話、さらに増える死体。目的も動機ももちろん犯人も不明のままただ時間が過ぎていくのを見守っていることしかできない社会。そういう事件が突然始まってしまう。
第一部はその事件の被害者や捜査する側の人間達が描かれる。被害者の悲しみや社会に与えた影響、捜査の困難さなんかを描きながら、既に様々な人間がそれぞれの人生というドラマを大きく狂わされている。理不尽なまでに傷付き悲しみ後悔し自分を責め運命を呪う被害者の家族。自分には関係ないと思いたいがためになんだかんだと解釈や理由や言い訳や非難を与えようとする社会やマスコミ。犯人に翻弄され欺かれいいように振り回されながらも追い回し粘り尻尾を掴もうと奔走する警察。そうした様々な登場人物達が様々な想いを抱えていく。
第一部は、犯人と思しき二人組が自動車事故で死ぬことで幕を引く。
第二部は逆に犯人側の視点で描かれていく。主犯であるピース・従犯だが本人は対等な立場と疑わない栗橋浩美・栗橋やピースと同級生で、栗橋が事件に関わっているのではないかと疑い思い悩みそのせいで死ぬことになる高井和明。この三人を中心にして第二部は進んでいく。ピースが事件の図面を引き、栗橋をうまく操り、栗橋は栗橋で高井をうまく操り翻弄し、高井は悩み苦しみ、でも誰にも言えないまま時間だけが過ぎていく。犯人達が何をしたいのか、ということが次第に明らかになっていき、と同時にゲームのように人を殺していくその嗜好についていけなくなる。もちろん第一部に出てきた人間達も随分と巻き込みながら、犯人側は犯人側でより混迷としていき、ピースの冷酷さが際立っていくように思う。
そしてやはり第二部も、高井と栗橋が死に、二人が連続殺人の犯人にされるところで終わる。
第三部は、それからの話。視点は常に様々な人間に入れ替わり、犯人側もそうでない側も交じり合って描かれる。それぞれの登場人物が交差していくようになり、そのせいなのかどんどん人間関係がややこしくなっていく。
高井の妹は兄の無実を訴え、フリーライターの前畑は事件についてのルポを書き、被害者の祖父である有馬義男は真実を求め、腕の第一発見者である塚田真一は逃げることをやめ、刑事の意見は割れ始め、社会は与えられた答えに納得し、
そしてピースはテレビに出るようになる。
やがてピースの嘘は崩れはじめ、収束していく。
まあそんな感じの話。
とにかく人間が恐ろしくしっかり描かれていて、その心の有り様にもそれなりに共感できる。それぞれの抱える想いを深く掘り下げて押し出し、吐き出させている。それがこの作品の実際の厚さ以上に厚みを与えているように思う。
この起きた犯罪に対する感想は特にはない。ピースの作り上げた犯罪は起こりえるかもしれないし、行為だけ見ればそれよりも残虐な事件は実際に起きているだろうと思う。
そう、この事件は、ピースという謂わば演出家の存在があまりに特異なわけで、この本を読み終えた今でもやはりこんなことをする人間は出てこないだろうな、と思う。出てきた時点で、日本がというよりも人間が終わるように思う。
あと読んでて思ったことは、読者はピースが犯人だと分かっているのに、登場人物達はそれを知らない、という状況が大分長く続く。その間の登場人物達の言動がやはりおかしく見えてしかたなかった。茶番、という言葉はあんまり当てはまらないけど、それに近い。イライラする、ということはないけど、なんかその不思議な感じが悪くなくて、届かないことを承知で、それでもなんとか登場人物たちにそのことを伝えてやれたらと思った。
この本を読むと、人間同士大分離れて生きているな、と感じた。それぞれ人の間には深い深い溝があるイメージ。生まれた時からそこにある。ただ人はそれを直視したくない、と本能的に感じている。だから望遠鏡で相手を見るように、間にある溝を見ないようにして生きていく。
でも何かのきっかけでその溝の存在を知ってしまうことがある。この作品の中で言えばつまり事件のこと。それをきっかけに、ああこんなにも溝があったんだ、としみじみ感じることになる。
人はわかりあうことができない。分かり合えている、というのは生きていくための幻想でしかなくて、幻想が崩れる出来事が起こってしまえばその事実に直面することになる。
人はそれを恐れ、だからこそ溝の存在を忘れようとする。騙し絵のように、一度見えるようになってしまえばもう意識しないでいることは難しい。そういう類のものだと思う。
さて、大分長く書いてきたけど、最後に何人か印象に残る登場人物がいたので、その人たちについての感想を書こうと思う。
まずはピース。最も共感できる。それは、犯した犯罪そのものに対する共感ではもちろんない。
ピースは相手の望む自分を設定し、それを演じきってしまうことができる人間だ。ある意味その能力があったからこそ、そして自分の手で何かとてつもないでかいものを動かしてみたいというただそれだけの理由で連続殺人を引き起こした男。
自分と同じだ、と思う。俺も、相手の望む自分を設定しようと相手を観察し、その自分になるために演じる。その繰り返しで人間関係をやってきた。目的や程度こそ違うけど、ピースと俺のやっていることは基本的には変わらない。まあだからといって犯罪は犯さないけど。
そして、だからこそ、つまり自分のような人間が他にもいると思うからこそ俺は人が怖い。逆説的だけど。
有馬義男。孫娘を無残にも殺されながらも犯人と電話などでやりあった。気骨のある老人で、中立で冷静であろうとする真摯な態度がとても好きだ。登場人物の中でもっとも好感を持ち、最も頑張って欲しいと思った人。こういう人間に接してこれればよかったな、と思えるような人。
高井和明。栗橋が事件に関わっているかもしれないと悩み最後には殺されてしまった人。
嫌な言い方になるけど、高井のような人間は好きになれない。どこがどう、と言われるととても困るが、うじうじしているところや優柔不断なところ、状況に甘んじてしまうところが自分に似ていると感じるせいかもしれない。
ただ、盲目的に人を信じることは時に愚かなことだけど、見方を変えればとても美しい。自分には出来そうにない、という点では、いい人間なのかもしれないとも思う。まあ好きにはなれないだろうけど。
栗橋浩美。結局ピースにいいように使われた駒。
栗橋浩美自身についての感想は特にないけど、俺はいつもこの栗橋のようになっていないだろうか、つまり誰かに操られていたり、勝手にレールに乗せられていたり、そんなことをされていないだろうか、と不安になる。騙されているかどうか、というのは騙されているうちは判断がつかないわけで、それでもなんとかして自分が騙されていないことを確認しようとする。なんか止められないし、不安感はいつも消えないのだけど。
さて最後に。この作品を読んで、初めて捜査本部にデスクという担当があることを知った。結構かっこいいポジションのように俺には見えた。警察の知らない一面が見えた気がした。
そんな感じです。長くなりました。
宮部みゆき「模倣犯」