彼女は嘘をついている(小泉知樹)
女性が男の人生を終わらせるの簡単である。電車の中で、この人痴漢です、といえばいい。それがどれだけ無茶苦茶な嘘であっても、自称「被害者」の意見が通ることが多い。
日本の法律というのは、もはやそういう状況にある。
もちろんあらかじめ断っておくが、世の中には実際痴漢の被害に遭っている人はいるのだろうし、そういう人からすれば本当に痴漢は憎らしいことだろう。僕だって痴漢は酷いと思うし、なくなるべきだと思うのだ。しかしだからと言って、痴漢をしていない人間が罪に問われるような社会でいいはずがない。
またこれもあらかじめ断っておくが、本作の著者が間違いなく100%無実であるのかどうかということは決しては判断は出来ない。一方的な話だけを聞いて物事を判断することはしてはいけないだろうし、不可能だろう。しかし僕は本作を読んで、この人は本当にやってないのだろうなと印象を得た。それは、裁判の過程で明らかにされていったいくつかの事実からでも明らかで、何故裁判所がそれぐらいの判断も出来ないのだろうかと不思議に思ったほどである。本作の著者が無実であるということは、どう見ても明らかであるように僕には思えてしまうのだ。もちろん、決して断定は出来ないのだけど。
いつも思うことなのだが、法律というのは誰をあるいは何を守っているのだろう、ということだ。これが僕には未だに分からないのだ。
例えば本作ではこんな風に書かれている部分がある。罪を犯した人間でも、それを認め反省しているということであれば執行猶予がつく。しかし、やってもいないのに犯罪者にされ、やっていないからやっていないと主張しているだけなのに刑務所に行かなくてはいけない。
現在の日本にはこういう現実が確かにあって、とすれば法律は、犯罪者に甘いということになりはしないか。犯罪者を守っていると言われても仕方がないのではないか。
確かに世の中には犯罪が溢れている。刑務所だってもう一杯一杯だという話を聞いたことがある。そんな中で、裁判自体も無数にあるのだろう。刑事や検事や裁判官にしてみれば、昨日も今日も変わることのない退屈で日常的な裁判をただこなしているだけという感覚なのだろう。
しかし、こと法律に関わるということは、それぞれの人が人生を背負っているということなのだ。法律と関わって裁判に至るというのは、一般人にしてみればあまりに非日常であって、しかも人生の白黒がはっきりと分かれる非常に重要な場なのである。僕には、法律や裁判に携わる人間にその意識が欠けているのではないかとしか思えないのである。
実際本作では、自称「被害者」が供述したような痴漢行為を著者が実際することが出来るのか、という検証を行ったし、産婦人科医の協力を得て医学的な文書も出した。しかしどちらも証拠として採用されずに判決が下されたのだ。その検証や医学的文書を読む限り、まともな判断力を持ち合わせた人間であれば、著者が痴漢行為をしていないということは明白であるはずだ。しかし、それすらもまともに取り合おうとしない。僕は正直言って、司法というものが恐ろしくなった。
日本の裁判は、99%が有罪で確定すると言われている。つまり、有罪に持ち込めないだろうと思われる案件については起訴しないというのが普通らしい。しかし時には、起訴した段階でこれはまずいかもしれないという案件もあるだろう。それでも検察は有罪にしようとする。恐らく、無罪判決になると評価が下がるのであろう。そうやって冤罪は生まれていくのではないか。
そろそろ裁判員制度が始まる。僕は正直この制度は、めんどくさいだけで一定以上の効果を上げることは出来ないのではないか、と思ってきた。普通の人が事件についてなにがしかの判断を下すなんて、難しいだろうと思っていた。
しかし本作を読んで大分考えが変わった。なるほど、裁判官というのは、もちろん人にもよるだろうが普通とはどうも常識が違うようだ。勉強のしすぎで何か大切なものを失ってしまったのかもしれない。常識的に普通に考えれば当然であることが、司法の世界では当然のこととしては扱われないのである。
恐らくこの著者の裁判を裁判員制度の場で裁くことがあったら、間違いなく無罪になっていることだろう。それくらい、僕には明らかに冤罪であるという印象を持つことが出来る。しかし、システムの中に組み込まれてしまったからなのか、現在の司法制度ではその当たり前の普通の判断というのが出来ないようだ。恐ろしいものである。裁判員制度によって、少しでも司法に風穴を開け、少しでも冤罪を減らすことが出来ればいい、とそんな風に思う。
法律は一体何を守っているのか。そう考えると、結局それは、司法制度そのものを守っているのだろう。国民を守るのではなく、現在ある司法制度を維持するためだけに法律というものが存在するのだ。本末転倒であるとしかいいようがない。恐ろしい社会であるが、しかしその中で僕等は生きていかなくてはいけない。本当に、出来るだけ法律というものと関わらずに済むように祈りながら暮らしていくしかないだろう。怖い社会である。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、電車内で痴漢をされたと訴えた女子学生の証言によって逮捕されてしまった著者が、やっていないものはやっていないと信念を貫き、最高裁まで裁判を戦い抜くその過程の物語です。
そもそもの始まりは、毎朝通勤で使っている混雑した電車の中で、突然女子学生に手を掴まれ、「痴漢です」と言われたことに端を発する。著者は、何を言っているんだと憤慨し、自ら率先して無実を証明するために進んで駅事務所まで行き、その後自らの意思で事情を説明するために警察署まで行った。
しかしその時点で著者は、既に逮捕されていたらしいのだ。著者はただ事情を説明しに来ただけのつもりだったのに、である。
相手の「被害者」がどんな証言をしているかも知らないまま取調べを受けるのだが、やっていないものはやっていないと主張。そのまま拘置所での生活が始まることになった。そのうちに相手側の言い分が伝わってくるようになるが、これがもう酷いを通り越して無茶苦茶な内容だったのだ。何度も同じ人間に痴漢されていた、膣の中に指を入れられた、などありえないことがひたすら書かれていたのである。そこに至ってようやく著者は自分の立場を理解することが出来た。
示談という手もあった。しかし著者はそれをしなかった。やっていないものはやっていない。たとえ何年掛かっても、自分の無実を証明してみせる…。
それから著者の、長くて苦しい戦いの道が始まるのだが…。
という話です。
いやホント酷い話でした。何が酷いかっていうと、結局この著者は有罪が確定して刑務所に送られることになってしまったわけです。本作を読んだ限りで判断するに、著者はどう考えても痴漢をしていないのに、有罪になってしまったのだ。驚きを通り越してホント呆れてしまうような話だった。
なので著者はこの本を刑務所の中で書いたようである。発端から事細かな部分まであらゆることを真摯に綴った作品で、また司法制度への怒りが隠すこともなく書かれている。まあそれはそうだろう。これだけの騒動に巻き込まれては、司法制度への理不尽な怒りを抱くことになっても仕方ないだろう。
本作の半分くらいが裁判の過程を描いたものなのだけど、この裁判がホントいい加減なものなのである。確かに著者の方にも不利な点はあって、一審の際に痴漢裁判に慣れた弁護士ではなく知人の弁護士に依頼をしてしまったために有効な議論にならなかったというところがある。しかしそれでも二審以降はまともな論点を見出すことが出来た。その論点とは以下の通りである。
①著者は以前事故によって手首を損傷し、普通の人よりも曲がり難い。それは医学的な検査によっても証明されたことであって、著者の稼働範囲であれば、「被害者」が証言するような痴漢行為は不可能
②産婦人科医の協力の元、セックス経験のない少女の膣に指を入れた場合の刺激について説明。「被害者」はセックス経験がないといい、であれば指を入れられれば相当苦痛を生じるはずだがそんな証言はなかった。
二審以降ではこういった部分を積極的に押していったのだが、しかしこれらの議論をしてもなお、有罪の判決は覆らないのである。
衝撃的だったのは二審の裁判官で(まあ一審の裁判官も酷かったと思うのだが)、上記①の議論をしている際に、「これこれこういう体勢でこういう手の動きをすれば可能ですよね?」というような発言をしているのだ。その裁判官の主張する状況は、「被害者」が主張する状況とはかけ離れているものであるのに、「こうすれば可能だ」という一方的な判断を裁判官がし、「被害者」の主張とはまるで関係のない事実を組み込んで判決を出したということである。そのやり取りを見て、本当に裁判というのは適当に行われるのだな、と心底恐ろしくなった。
本作を読むと、司法に対する怒りで満ちてくる。なんだこれは、と思ってしまう。もちろん、犯罪を犯した人間は悪いのだし裁かれるべきだろう。しかし同時に、犯罪を犯していない人間は救われるべきなのだ。裁判を行っている段階では、まだ犯罪者ではない。被告に罪があるのかどうかを判断するのが裁判所の役割である。しかしその役割が満たされているとは到底思えない。裁判所だけではなく、検事や刑事というような人々にも問題があって、法に関わるものとしての自覚を持って欲しいと思う。
本作の著者が恵まれていてのは、周囲の理解を得られたことだろう。妻はもちろんのことだが(しかし世の中には、妻も信じてくれなかったということもあるだろうから、それだけでも僥倖かもしれない)、会社までも著者をバックアップしたのだ。拘置所に拘束されている期間は、有給休暇を消化した後も、基本給の7割の給料を支払う。だから、無罪を証明するために頑張ってくれ、ということだ。著者の人柄も良かったのだろうが、しかしこの会社はすごいと思った。なかなか出来ることではない。たはり人に恵まれたということが非常に大きかっただろうと思う。
あと考えてしまったのが、僕ならどうするだろうか、ということだ。恐らく僕も、示談という道を選ばずに、闘う道を選ぶのではないか、と思う。もちろん、闘っても得られるものは何もない。示談にして僅かなお金を払う方がどれだけ楽か分からない。しかし、それでも僕は、自分の中の何かを曲げて生きていくことは出来ないと思うのだ。だから、何も残らないことを承知で闘うのではないだろうか。恐らくものすごく悩むだろうし、後悔もするのだろうが、しかしそんな自分を変えられそうにはないと思う。
今の司法の現実と限界がここに示されています。裁判員制度も近いうちに始まります。こういう本を読んで、司法によって涙をのんでいる人が世の中にいるのだということを知っておくべきではないか、と思います。是非とも読んで欲しい本です。
小泉知樹「彼女は嘘をついている」
日本の法律というのは、もはやそういう状況にある。
もちろんあらかじめ断っておくが、世の中には実際痴漢の被害に遭っている人はいるのだろうし、そういう人からすれば本当に痴漢は憎らしいことだろう。僕だって痴漢は酷いと思うし、なくなるべきだと思うのだ。しかしだからと言って、痴漢をしていない人間が罪に問われるような社会でいいはずがない。
またこれもあらかじめ断っておくが、本作の著者が間違いなく100%無実であるのかどうかということは決しては判断は出来ない。一方的な話だけを聞いて物事を判断することはしてはいけないだろうし、不可能だろう。しかし僕は本作を読んで、この人は本当にやってないのだろうなと印象を得た。それは、裁判の過程で明らかにされていったいくつかの事実からでも明らかで、何故裁判所がそれぐらいの判断も出来ないのだろうかと不思議に思ったほどである。本作の著者が無実であるということは、どう見ても明らかであるように僕には思えてしまうのだ。もちろん、決して断定は出来ないのだけど。
いつも思うことなのだが、法律というのは誰をあるいは何を守っているのだろう、ということだ。これが僕には未だに分からないのだ。
例えば本作ではこんな風に書かれている部分がある。罪を犯した人間でも、それを認め反省しているということであれば執行猶予がつく。しかし、やってもいないのに犯罪者にされ、やっていないからやっていないと主張しているだけなのに刑務所に行かなくてはいけない。
現在の日本にはこういう現実が確かにあって、とすれば法律は、犯罪者に甘いということになりはしないか。犯罪者を守っていると言われても仕方がないのではないか。
確かに世の中には犯罪が溢れている。刑務所だってもう一杯一杯だという話を聞いたことがある。そんな中で、裁判自体も無数にあるのだろう。刑事や検事や裁判官にしてみれば、昨日も今日も変わることのない退屈で日常的な裁判をただこなしているだけという感覚なのだろう。
しかし、こと法律に関わるということは、それぞれの人が人生を背負っているということなのだ。法律と関わって裁判に至るというのは、一般人にしてみればあまりに非日常であって、しかも人生の白黒がはっきりと分かれる非常に重要な場なのである。僕には、法律や裁判に携わる人間にその意識が欠けているのではないかとしか思えないのである。
実際本作では、自称「被害者」が供述したような痴漢行為を著者が実際することが出来るのか、という検証を行ったし、産婦人科医の協力を得て医学的な文書も出した。しかしどちらも証拠として採用されずに判決が下されたのだ。その検証や医学的文書を読む限り、まともな判断力を持ち合わせた人間であれば、著者が痴漢行為をしていないということは明白であるはずだ。しかし、それすらもまともに取り合おうとしない。僕は正直言って、司法というものが恐ろしくなった。
日本の裁判は、99%が有罪で確定すると言われている。つまり、有罪に持ち込めないだろうと思われる案件については起訴しないというのが普通らしい。しかし時には、起訴した段階でこれはまずいかもしれないという案件もあるだろう。それでも検察は有罪にしようとする。恐らく、無罪判決になると評価が下がるのであろう。そうやって冤罪は生まれていくのではないか。
そろそろ裁判員制度が始まる。僕は正直この制度は、めんどくさいだけで一定以上の効果を上げることは出来ないのではないか、と思ってきた。普通の人が事件についてなにがしかの判断を下すなんて、難しいだろうと思っていた。
しかし本作を読んで大分考えが変わった。なるほど、裁判官というのは、もちろん人にもよるだろうが普通とはどうも常識が違うようだ。勉強のしすぎで何か大切なものを失ってしまったのかもしれない。常識的に普通に考えれば当然であることが、司法の世界では当然のこととしては扱われないのである。
恐らくこの著者の裁判を裁判員制度の場で裁くことがあったら、間違いなく無罪になっていることだろう。それくらい、僕には明らかに冤罪であるという印象を持つことが出来る。しかし、システムの中に組み込まれてしまったからなのか、現在の司法制度ではその当たり前の普通の判断というのが出来ないようだ。恐ろしいものである。裁判員制度によって、少しでも司法に風穴を開け、少しでも冤罪を減らすことが出来ればいい、とそんな風に思う。
法律は一体何を守っているのか。そう考えると、結局それは、司法制度そのものを守っているのだろう。国民を守るのではなく、現在ある司法制度を維持するためだけに法律というものが存在するのだ。本末転倒であるとしかいいようがない。恐ろしい社会であるが、しかしその中で僕等は生きていかなくてはいけない。本当に、出来るだけ法律というものと関わらずに済むように祈りながら暮らしていくしかないだろう。怖い社会である。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、電車内で痴漢をされたと訴えた女子学生の証言によって逮捕されてしまった著者が、やっていないものはやっていないと信念を貫き、最高裁まで裁判を戦い抜くその過程の物語です。
そもそもの始まりは、毎朝通勤で使っている混雑した電車の中で、突然女子学生に手を掴まれ、「痴漢です」と言われたことに端を発する。著者は、何を言っているんだと憤慨し、自ら率先して無実を証明するために進んで駅事務所まで行き、その後自らの意思で事情を説明するために警察署まで行った。
しかしその時点で著者は、既に逮捕されていたらしいのだ。著者はただ事情を説明しに来ただけのつもりだったのに、である。
相手の「被害者」がどんな証言をしているかも知らないまま取調べを受けるのだが、やっていないものはやっていないと主張。そのまま拘置所での生活が始まることになった。そのうちに相手側の言い分が伝わってくるようになるが、これがもう酷いを通り越して無茶苦茶な内容だったのだ。何度も同じ人間に痴漢されていた、膣の中に指を入れられた、などありえないことがひたすら書かれていたのである。そこに至ってようやく著者は自分の立場を理解することが出来た。
示談という手もあった。しかし著者はそれをしなかった。やっていないものはやっていない。たとえ何年掛かっても、自分の無実を証明してみせる…。
それから著者の、長くて苦しい戦いの道が始まるのだが…。
という話です。
いやホント酷い話でした。何が酷いかっていうと、結局この著者は有罪が確定して刑務所に送られることになってしまったわけです。本作を読んだ限りで判断するに、著者はどう考えても痴漢をしていないのに、有罪になってしまったのだ。驚きを通り越してホント呆れてしまうような話だった。
なので著者はこの本を刑務所の中で書いたようである。発端から事細かな部分まであらゆることを真摯に綴った作品で、また司法制度への怒りが隠すこともなく書かれている。まあそれはそうだろう。これだけの騒動に巻き込まれては、司法制度への理不尽な怒りを抱くことになっても仕方ないだろう。
本作の半分くらいが裁判の過程を描いたものなのだけど、この裁判がホントいい加減なものなのである。確かに著者の方にも不利な点はあって、一審の際に痴漢裁判に慣れた弁護士ではなく知人の弁護士に依頼をしてしまったために有効な議論にならなかったというところがある。しかしそれでも二審以降はまともな論点を見出すことが出来た。その論点とは以下の通りである。
①著者は以前事故によって手首を損傷し、普通の人よりも曲がり難い。それは医学的な検査によっても証明されたことであって、著者の稼働範囲であれば、「被害者」が証言するような痴漢行為は不可能
②産婦人科医の協力の元、セックス経験のない少女の膣に指を入れた場合の刺激について説明。「被害者」はセックス経験がないといい、であれば指を入れられれば相当苦痛を生じるはずだがそんな証言はなかった。
二審以降ではこういった部分を積極的に押していったのだが、しかしこれらの議論をしてもなお、有罪の判決は覆らないのである。
衝撃的だったのは二審の裁判官で(まあ一審の裁判官も酷かったと思うのだが)、上記①の議論をしている際に、「これこれこういう体勢でこういう手の動きをすれば可能ですよね?」というような発言をしているのだ。その裁判官の主張する状況は、「被害者」が主張する状況とはかけ離れているものであるのに、「こうすれば可能だ」という一方的な判断を裁判官がし、「被害者」の主張とはまるで関係のない事実を組み込んで判決を出したということである。そのやり取りを見て、本当に裁判というのは適当に行われるのだな、と心底恐ろしくなった。
本作を読むと、司法に対する怒りで満ちてくる。なんだこれは、と思ってしまう。もちろん、犯罪を犯した人間は悪いのだし裁かれるべきだろう。しかし同時に、犯罪を犯していない人間は救われるべきなのだ。裁判を行っている段階では、まだ犯罪者ではない。被告に罪があるのかどうかを判断するのが裁判所の役割である。しかしその役割が満たされているとは到底思えない。裁判所だけではなく、検事や刑事というような人々にも問題があって、法に関わるものとしての自覚を持って欲しいと思う。
本作の著者が恵まれていてのは、周囲の理解を得られたことだろう。妻はもちろんのことだが(しかし世の中には、妻も信じてくれなかったということもあるだろうから、それだけでも僥倖かもしれない)、会社までも著者をバックアップしたのだ。拘置所に拘束されている期間は、有給休暇を消化した後も、基本給の7割の給料を支払う。だから、無罪を証明するために頑張ってくれ、ということだ。著者の人柄も良かったのだろうが、しかしこの会社はすごいと思った。なかなか出来ることではない。たはり人に恵まれたということが非常に大きかっただろうと思う。
あと考えてしまったのが、僕ならどうするだろうか、ということだ。恐らく僕も、示談という道を選ばずに、闘う道を選ぶのではないか、と思う。もちろん、闘っても得られるものは何もない。示談にして僅かなお金を払う方がどれだけ楽か分からない。しかし、それでも僕は、自分の中の何かを曲げて生きていくことは出来ないと思うのだ。だから、何も残らないことを承知で闘うのではないだろうか。恐らくものすごく悩むだろうし、後悔もするのだろうが、しかしそんな自分を変えられそうにはないと思う。
今の司法の現実と限界がここに示されています。裁判員制度も近いうちに始まります。こういう本を読んで、司法によって涙をのんでいる人が世の中にいるのだということを知っておくべきではないか、と思います。是非とも読んで欲しい本です。
小泉知樹「彼女は嘘をついている」
ゆっくり歩け、空を見ろ(そのまんま東)
親との関係だったら、僕だってそうは負けてはいないと思う。
もう既にこの感想で何度も書いているけども、また書いてしまおう。
僕は今では、親とはほとんど連絡を取っていない。時々ポツリと父親からメールが来るくらいで、それに僕もポツリとした返事を返すくらいである。母親とのやり取りはない。最後に母親と何らかのやり取りを交わしたのは、去年の夏くらいの祖父の葬式のために地元に戻った時である。ここ5年間くらいで、母とやり取りを交わしたのはその時くらいではないだろうか。
僕にはいまいち、家族というものの存在が理解できないでいるのだ。もしかしたら今後、万が一にも結婚するようなことがあり、自分自身の家族を持つようなことがあれば何らかの形で理解できたりすることなのかもしれないが、しかし物心ついた頃から今現在まで、家族のありがたみやその確かさみたいなものについて何か意味のあることを感じたことは一度もない。
出来るだけ家族とは深入りしたくはなかったし、出来る限り関わりたくないと思っていた。
特別何があったというわけではなかったと思う。確かに子供の頃、両親はよく喧嘩をしていた。子供の判断であったのでなんとも言えないが、僕にはその喧嘩は、母親が理不尽な理由で父親を一方的に責めているように感じられた。もしかしたら僕が知らないなんらの事情があったのかもしれないが、その印象が消えることは決してないだろう。
しかし、僕への接し方は普通だったし、あるいは普通以上に優しいものであったかもしれない。僕には妹と弟がいるのだが、恐らく僕が一番ちゃんと扱われていたと思うし、恐らく何らかの形で期待をしていたのではなかったかと思う。つまり、僕自身親に何か厭なことをされたということは決してなかったということである。
しかしそれでも僕は、気づけば親のことが嫌いだった。
それは、単純な反抗期というものとは違うように今でも思う。というか表面上、僕には反抗期はなかったはずだ。親に反抗したことはほとんどないし、親の前では幾重にも仮面を被ってはいい子を演じていた自信がある。後年、子供の頃から親のことが嫌いだったと両親に告白したのだが、心底驚いたような顔をしていたものだ。
ただ反抗したかったから嫌いになったというような単純なものではない。僕は冷静に自分自身の内面を見据え、本当の意味で親のことが嫌いであるということを何度も確認したくらいである。そうやって僕は、ゆっくりとしかし確実に、内心では親への態度を硬化させていったのだ。
今では当時のことを振り返ることはほとんどないが、しかし考えてみると、僕は○○(母の名前)と○○(父の名前)が嫌いだったというのではなく、親という存在そのものを嫌悪していたのだろう、と思うようになった。僕の両親と、親ではない別の形で知り合っていたとしたら、恐らく嫌いになることはなかったのではないか、と思う。○○と○○が残念ながら僕の両親であったがために、僕は彼等を嫌いになってしまったのだろうな、と。
僕にとって家族というのは、どうしても近すぎる存在なのである。生きてきた背景も年齢も価値観も積み重ねてきたものもすべて違うのに、ただ血が繋がっているというだけで近い関係にまとめられてしまうことにどうしても僕は納得がいかないのだ。僕にとって家族というのは、いつまでも分かり合うことが出来ない永遠の他人でしかないのに、社会が勝手に親族という括りでまとめあげてしまうのだ。恐らく僕はそれに反発したかったのだし、今でも反発し続けているのだろうと思う。人間の関係性は、与えられるものでは決してないのだということを、なんとか証明しようとしているのかもしれない。
そう考えると、多少ではあるが両親に申し訳ないという気持ちも生まれてくる。はっきり言ってしまえば、僕の子供じみた張り合いのせいで、僕は両親と対峙しているということになる。こんな馬鹿馬鹿しいことに巻き込んでしまうのは、悪いのかもしれない。しかし、僕にはそれを改善しようという意思は全然ないし、どうやったって親を好きになったり近い存在であると認識することは出来ないのである。まあ運が悪かったと思って諦めてもらうしかない。
親とこのままの関係を続けていってもどこにもたどり着かないことは分かっている。それでも僕は、このままの道をまっすぐ進み続けることだろう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、そのまんま東が「僕」という一人称で書いた自伝的小説です。長いこと会っていない父親を探しに行くというのが大筋の話です。
僕はある日、ニュースに自分の名前が出てきて大層驚いた。そのニュースは、とある風俗店で未成年が働いていたというものだったが、その風俗店に通っていたということで僕の名前が出たのだ。
以来僕の居場所はなくなった。家に帰ればマスコミが寄ってくるのでホテルを転々とした。母や姉にこれでもかと詰られた。仕事もこなくなった。ただ街をあてどもなく歩くしかなかった。
父親を探しに行こうか。
ふと思ったことだった。今息子が8歳になった。父親と離れ離れになったのも8歳の頃だった。今息子が自分を見たら、それは僕が父親を見るようなものなのだろうか。そんな連想もあった。
飛行機に乗り、故郷である宮崎へと向かった。父親の足跡を辿りながら、僕は子供の頃を思い出していた。
土地を持っていたために裕福であった父親と、その「妾」として生きていくことを決めた母、そして僕と姉の生活だった。
世話好きで話が面白く、山に詳しかった父。お金はあるのにいつも下女のような格好で生活をしていた母。父に気に入られていた姉。そして僕。金銭的には裕福であったが何故か余裕のなかった日々。両親の激しい喧嘩。妾という立場の母と、妾の子という立場の自分。そうした果てにあった、父親との別離。
今の自分を乗り越えるためには、父親を探し出して殺すしかない。そう決意し、宮崎の地を駆け回る…。
というような話です。
僕は正直、かなりキワモノの本かと思っていたんですけど、全然そんなことはなく、むしろ結構レベルの高い小説だなと思いました。例えば芸人が書いた本ということで比較をすれば、千原ジュニアの「14歳」や品川ヒロシの「ドロップ」なんかよりは全然いいと思います。まあ、劇団ひとりの「陰日向に咲く」にはやはり劣ると思いますが。
また、自分の過去を親というテーマで自伝的に語るという構成が、リリー・フランキーの「東京タワー」に少し似てるなという風にも思いました。もちろん「東京タワー」には及ばないですけど、でもなかなかいい作品だと思います。
ほとんど回想がメインの小説なのだけど、その回想部分が非常にいい雰囲気をかもし出している作品です。一つ一つの出来事が非常に繊細に描かれていて、一つ一つのエピソード自体はなんということもないのだけど、それらをいくつもいくつも積み上げていって当時のことを描き出しているうちに、次第に過去が現在を侵食してくるようなそんな感触がありました。それくらい細かなエピソードをいくつも積み上げていて、しかもそれら一つ一つのエピソードについて、自分がどう感じたのかということを丁寧に描写していて、なかなかのものだなと思いました。
しかしまあ思うことは、よくもまあそんなに昔のことを覚えているな、ということです。本作は恐らく自伝的な小説であって、書いてあることも概ね実際のことなんだろうと思うんですが、昔のことなどからきし忘れてしまっている僕としては驚くばかりです。まあもしかしたらほとんど創作だったりするのかもしれないけど、でもそれだったらそっちの方がさらにすごいですね。普通に作家としてやっていけると思います。
また文章そのものがなかなかうまくて、びっくりしました。的確に物事を表現しているなと思わせる文章が多くて、しかも無駄がないな、と思いました。作家以外の人が書いた小説というのは、話自体は面白くても文章が結構致命的だったりするんだけど、本作は全然そんなことがなくて僕はうまいな、と思いました。まあ、心のどこかで、芸人の文章にしてはうまいな、とか思っているのかもしれませんけど。
あと読んでいて、あぁこれは僕と同じだなと感じた部分があるので抜き出して書いてみます。
『僕はこの頃、外敵から自分を守る手段として、成績優秀というバリアを張ることを決めていた。有無を言わせない圧倒的成績がきっと僕を守ってくれるに違いないと信じていた。「たなか」の姉さんたちの匂いのように。
お陰で、国家の子を育成しようとするだけの無能な教師達は、僕に有能とか俊才とかいう称号を持ちきれない程与えてくれたが、代わりに僕は幾つか重要なものを無くした。具体的に言えば、澄んだ空を謳歌する気持ちとか風を素直に感じる心とか人の死を心から悼むといった、抽象的だけど何かまっすぐなもの…上手く説明できないが、周りの「風景」とかそういったものを感じる心だった。』
なるほど、と思いました。確かにそうだ、と僕も思いました。
かつては芸人として、そして今では知事として活躍しているわけですが、その陰にこれだけの少年時代があったのかという感じがします。感動というのとは少し違うけど、じわじわとした何かが押し寄せてくるようなそんな作品だと思いました。薄い本だし、結構オススメです。読んでみてください。
それにしても一番納得いかないのは本作の装丁です。帯がある状態ならいいんだけど、帯を外した時の本のマヌケさといったら…。これはちょっと失敗でしょう。
そのまんま東「ゆっくり歩け、空を見ろ」
もう既にこの感想で何度も書いているけども、また書いてしまおう。
僕は今では、親とはほとんど連絡を取っていない。時々ポツリと父親からメールが来るくらいで、それに僕もポツリとした返事を返すくらいである。母親とのやり取りはない。最後に母親と何らかのやり取りを交わしたのは、去年の夏くらいの祖父の葬式のために地元に戻った時である。ここ5年間くらいで、母とやり取りを交わしたのはその時くらいではないだろうか。
僕にはいまいち、家族というものの存在が理解できないでいるのだ。もしかしたら今後、万が一にも結婚するようなことがあり、自分自身の家族を持つようなことがあれば何らかの形で理解できたりすることなのかもしれないが、しかし物心ついた頃から今現在まで、家族のありがたみやその確かさみたいなものについて何か意味のあることを感じたことは一度もない。
出来るだけ家族とは深入りしたくはなかったし、出来る限り関わりたくないと思っていた。
特別何があったというわけではなかったと思う。確かに子供の頃、両親はよく喧嘩をしていた。子供の判断であったのでなんとも言えないが、僕にはその喧嘩は、母親が理不尽な理由で父親を一方的に責めているように感じられた。もしかしたら僕が知らないなんらの事情があったのかもしれないが、その印象が消えることは決してないだろう。
しかし、僕への接し方は普通だったし、あるいは普通以上に優しいものであったかもしれない。僕には妹と弟がいるのだが、恐らく僕が一番ちゃんと扱われていたと思うし、恐らく何らかの形で期待をしていたのではなかったかと思う。つまり、僕自身親に何か厭なことをされたということは決してなかったということである。
しかしそれでも僕は、気づけば親のことが嫌いだった。
それは、単純な反抗期というものとは違うように今でも思う。というか表面上、僕には反抗期はなかったはずだ。親に反抗したことはほとんどないし、親の前では幾重にも仮面を被ってはいい子を演じていた自信がある。後年、子供の頃から親のことが嫌いだったと両親に告白したのだが、心底驚いたような顔をしていたものだ。
ただ反抗したかったから嫌いになったというような単純なものではない。僕は冷静に自分自身の内面を見据え、本当の意味で親のことが嫌いであるということを何度も確認したくらいである。そうやって僕は、ゆっくりとしかし確実に、内心では親への態度を硬化させていったのだ。
今では当時のことを振り返ることはほとんどないが、しかし考えてみると、僕は○○(母の名前)と○○(父の名前)が嫌いだったというのではなく、親という存在そのものを嫌悪していたのだろう、と思うようになった。僕の両親と、親ではない別の形で知り合っていたとしたら、恐らく嫌いになることはなかったのではないか、と思う。○○と○○が残念ながら僕の両親であったがために、僕は彼等を嫌いになってしまったのだろうな、と。
僕にとって家族というのは、どうしても近すぎる存在なのである。生きてきた背景も年齢も価値観も積み重ねてきたものもすべて違うのに、ただ血が繋がっているというだけで近い関係にまとめられてしまうことにどうしても僕は納得がいかないのだ。僕にとって家族というのは、いつまでも分かり合うことが出来ない永遠の他人でしかないのに、社会が勝手に親族という括りでまとめあげてしまうのだ。恐らく僕はそれに反発したかったのだし、今でも反発し続けているのだろうと思う。人間の関係性は、与えられるものでは決してないのだということを、なんとか証明しようとしているのかもしれない。
そう考えると、多少ではあるが両親に申し訳ないという気持ちも生まれてくる。はっきり言ってしまえば、僕の子供じみた張り合いのせいで、僕は両親と対峙しているということになる。こんな馬鹿馬鹿しいことに巻き込んでしまうのは、悪いのかもしれない。しかし、僕にはそれを改善しようという意思は全然ないし、どうやったって親を好きになったり近い存在であると認識することは出来ないのである。まあ運が悪かったと思って諦めてもらうしかない。
親とこのままの関係を続けていってもどこにもたどり着かないことは分かっている。それでも僕は、このままの道をまっすぐ進み続けることだろう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、そのまんま東が「僕」という一人称で書いた自伝的小説です。長いこと会っていない父親を探しに行くというのが大筋の話です。
僕はある日、ニュースに自分の名前が出てきて大層驚いた。そのニュースは、とある風俗店で未成年が働いていたというものだったが、その風俗店に通っていたということで僕の名前が出たのだ。
以来僕の居場所はなくなった。家に帰ればマスコミが寄ってくるのでホテルを転々とした。母や姉にこれでもかと詰られた。仕事もこなくなった。ただ街をあてどもなく歩くしかなかった。
父親を探しに行こうか。
ふと思ったことだった。今息子が8歳になった。父親と離れ離れになったのも8歳の頃だった。今息子が自分を見たら、それは僕が父親を見るようなものなのだろうか。そんな連想もあった。
飛行機に乗り、故郷である宮崎へと向かった。父親の足跡を辿りながら、僕は子供の頃を思い出していた。
土地を持っていたために裕福であった父親と、その「妾」として生きていくことを決めた母、そして僕と姉の生活だった。
世話好きで話が面白く、山に詳しかった父。お金はあるのにいつも下女のような格好で生活をしていた母。父に気に入られていた姉。そして僕。金銭的には裕福であったが何故か余裕のなかった日々。両親の激しい喧嘩。妾という立場の母と、妾の子という立場の自分。そうした果てにあった、父親との別離。
今の自分を乗り越えるためには、父親を探し出して殺すしかない。そう決意し、宮崎の地を駆け回る…。
というような話です。
僕は正直、かなりキワモノの本かと思っていたんですけど、全然そんなことはなく、むしろ結構レベルの高い小説だなと思いました。例えば芸人が書いた本ということで比較をすれば、千原ジュニアの「14歳」や品川ヒロシの「ドロップ」なんかよりは全然いいと思います。まあ、劇団ひとりの「陰日向に咲く」にはやはり劣ると思いますが。
また、自分の過去を親というテーマで自伝的に語るという構成が、リリー・フランキーの「東京タワー」に少し似てるなという風にも思いました。もちろん「東京タワー」には及ばないですけど、でもなかなかいい作品だと思います。
ほとんど回想がメインの小説なのだけど、その回想部分が非常にいい雰囲気をかもし出している作品です。一つ一つの出来事が非常に繊細に描かれていて、一つ一つのエピソード自体はなんということもないのだけど、それらをいくつもいくつも積み上げていって当時のことを描き出しているうちに、次第に過去が現在を侵食してくるようなそんな感触がありました。それくらい細かなエピソードをいくつも積み上げていて、しかもそれら一つ一つのエピソードについて、自分がどう感じたのかということを丁寧に描写していて、なかなかのものだなと思いました。
しかしまあ思うことは、よくもまあそんなに昔のことを覚えているな、ということです。本作は恐らく自伝的な小説であって、書いてあることも概ね実際のことなんだろうと思うんですが、昔のことなどからきし忘れてしまっている僕としては驚くばかりです。まあもしかしたらほとんど創作だったりするのかもしれないけど、でもそれだったらそっちの方がさらにすごいですね。普通に作家としてやっていけると思います。
また文章そのものがなかなかうまくて、びっくりしました。的確に物事を表現しているなと思わせる文章が多くて、しかも無駄がないな、と思いました。作家以外の人が書いた小説というのは、話自体は面白くても文章が結構致命的だったりするんだけど、本作は全然そんなことがなくて僕はうまいな、と思いました。まあ、心のどこかで、芸人の文章にしてはうまいな、とか思っているのかもしれませんけど。
あと読んでいて、あぁこれは僕と同じだなと感じた部分があるので抜き出して書いてみます。
『僕はこの頃、外敵から自分を守る手段として、成績優秀というバリアを張ることを決めていた。有無を言わせない圧倒的成績がきっと僕を守ってくれるに違いないと信じていた。「たなか」の姉さんたちの匂いのように。
お陰で、国家の子を育成しようとするだけの無能な教師達は、僕に有能とか俊才とかいう称号を持ちきれない程与えてくれたが、代わりに僕は幾つか重要なものを無くした。具体的に言えば、澄んだ空を謳歌する気持ちとか風を素直に感じる心とか人の死を心から悼むといった、抽象的だけど何かまっすぐなもの…上手く説明できないが、周りの「風景」とかそういったものを感じる心だった。』
なるほど、と思いました。確かにそうだ、と僕も思いました。
かつては芸人として、そして今では知事として活躍しているわけですが、その陰にこれだけの少年時代があったのかという感じがします。感動というのとは少し違うけど、じわじわとした何かが押し寄せてくるようなそんな作品だと思いました。薄い本だし、結構オススメです。読んでみてください。
それにしても一番納得いかないのは本作の装丁です。帯がある状態ならいいんだけど、帯を外した時の本のマヌケさといったら…。これはちょっと失敗でしょう。
そのまんま東「ゆっくり歩け、空を見ろ」
がらくた(江國香織)
僕は、所有されたくないといつも思っている。
社会からも法律からも、常識からも恋愛からも、友人からも家族からも、ありとあらゆるものから所有されたくない、と思う。
他人との人間関係の中で、自分の立ち位置が決まっていく。世の中とは大半がそういうものだということは分かっている。でもその中で僕は、出来る限り他人との関係に依存しすぎない、依って立つ場所ではなく自らの足で立てるような、そんなあり方を望んでいる。
まあ、それはなかなか難しいものだ。
所有されるというのは、僕には何かを奪われてしまうという感覚がある。その何かというのはうまく言葉にすることは出来ないけど、その何かが奪われることで、自分自身の形が変わってしまうような気がするのだ。ちょうど、角砂糖に水を掛けたように、ゆっくりと自分の存在が溶け出して、元の形が失われてしまうような気がするのだ。
自分自身の形を元に戻すだけの力を持っている人はいい。そういう人は、例えどれだけ所有されどれだけ変形しても、時間と共にまた元の自分に戻ることが出来る。あるいは、いつでも戻すことが出来るという安心感の中で変わらずにいることが出来ると思う。ある意味で、しっかりと自分自身を持っているからこそ、誰かに所有されることが出来るのだと思うのだ。
僕の場合、自分自身の形というのがよく分からない。はっきりとした輪郭どころか、そもそも形があるのかどうかも分からない。それでも、変化には気づくのだ。誰かに引きずられることによって、自分の形がどんどんと変わっていることには気づいてしまうのだ。輪郭のないはっきりとしない形しか持てない僕は、他人の影響によってその形をどんどんと崩されていってしまう。それが僕には怖いのだ。
恋愛においても僕は、所有されるのが好きではない。そもそも結婚という制度そのものが好きになれないし、恋愛をすることで相手を所有した気になっているような人々もどうも好きになれない。
人は誰のものにもなれないし、誰にも捧げることなど出来はしないだろう。変わり果ててしまった自分自身の形を見て嘆くくらいなら、誰からも所有されないように静かに生きている方がまだ賢明かもしれない。そんな風に思ってしまう。
結婚をしている人達は、お互いがお互いを所有しているような気分になるものなのだろうか?だとしたら結婚とは、なんとおぞましいものだろうか、と思ってしまう。人は、どれだけ一緒に生きていようが、結局は他人だ。僕は、そう思って生きている方が、相手との距離はどんどん狭めることが出来る、と思っている。
所有することが恋愛ではないし、ましてや結婚でもない。所有を避けることで、よりお互いに近づくことが、恋愛であり結婚ではないのだろうか。
そろそろ内容に入ろうと思います。
柊子は、母桐子との旅行中に一人の少女と出会う。ミミという名のその少女を観察し、次第に話すようになっていった。また、そのミミの父親を含めて食事をするようなこともあった。そんなこともありながら、概ね旅行は満足出来るものだった。
旅行の最中、柊子の心は常に夫に向けられていた。いや、常に夫とともにあったと言ってもいいかもしれない。これだけ離れていても、夫は私の心を震わせる。早く夫に会いたい。柊子はそう思っている。
帰国してしばらくした頃、ミミと再会する。旅先で出会った人間関係から、いくつもの恋愛未満が生まれては消えていく…。
というような話です。
江國香織の作品は僕の中で、読んでいてぴったりと完全に入り込んでしまう話と、どうにも入り込むことが出来ない作品と二つに分かれます。ぴったりと入り込む作品は、まるで吸い付くようにしてぴったりと寄り添い、その世界で僕を隙間なく埋めていくようなものなのですが、どうにも入り込めない作品は、目の前に鉄格子でもあるかのようで、体の一部しかその世界に浸すことが出来ない感じです。
今回の作品は後者で、ちょっと入り込めない作品でした。
入り込める作品とそうでない作品でどこが違うのかということが未だによく説明が出来ないのだけど、たぶんほんの些細なことが原因なのだろうなとか思います。柊子と夫の関係にちょっとだけ引いてしまったとか、桐子という女性を好きになれなかったとか、テレビ局に勤めてるという設定がどうもなぁとか、そういう些細なことではないかなとか思います。どれなのか、というのはよくわからないのだけど。
江國香織の作品はどれも、文章はすごく好きだなと思うんです。読んでいて、いつもの自分とは違うリズムで時間が刻まれるような感覚があるし、体中を新鮮な血液が循環しているのを感じられるような瑞々しさみたいなものを与えてくれるといつも思います。
しかしストーリーということになると作品毎にどうも好みが出てしまうようで、今回のストーリーはちょっと僕には合わなかったようです。
江國香織の文章は、その淡々としているところとか比喩表現の面白さとか会話の物足りなさみたいなところもいいのだけど、一番好きなのは固有名詞がほとんど出てこないことですね。人の名前は出てくるけど、それ以外の地名とかブランド名とか何かの商品名とか曲名みたいなものがほとんど出てこなくて、江國香織はそれらを自分独自の言葉で表現しているのが僕は好きだったりします。そういう、固有名詞に引きずられるイメージに頼るのではなく、あくまでも自分の言葉で世界を創り出そうとしているようなところがいいなぁと思います。
まあそんなわけで、今回はちょっとあんまり好きになれない作品でした。でも好きな人は好きかもしれません。ちょっと江國香織の作品を評価するのは難しいですけど、どうなんでしょうね。
江國香織「がらくた」
社会からも法律からも、常識からも恋愛からも、友人からも家族からも、ありとあらゆるものから所有されたくない、と思う。
他人との人間関係の中で、自分の立ち位置が決まっていく。世の中とは大半がそういうものだということは分かっている。でもその中で僕は、出来る限り他人との関係に依存しすぎない、依って立つ場所ではなく自らの足で立てるような、そんなあり方を望んでいる。
まあ、それはなかなか難しいものだ。
所有されるというのは、僕には何かを奪われてしまうという感覚がある。その何かというのはうまく言葉にすることは出来ないけど、その何かが奪われることで、自分自身の形が変わってしまうような気がするのだ。ちょうど、角砂糖に水を掛けたように、ゆっくりと自分の存在が溶け出して、元の形が失われてしまうような気がするのだ。
自分自身の形を元に戻すだけの力を持っている人はいい。そういう人は、例えどれだけ所有されどれだけ変形しても、時間と共にまた元の自分に戻ることが出来る。あるいは、いつでも戻すことが出来るという安心感の中で変わらずにいることが出来ると思う。ある意味で、しっかりと自分自身を持っているからこそ、誰かに所有されることが出来るのだと思うのだ。
僕の場合、自分自身の形というのがよく分からない。はっきりとした輪郭どころか、そもそも形があるのかどうかも分からない。それでも、変化には気づくのだ。誰かに引きずられることによって、自分の形がどんどんと変わっていることには気づいてしまうのだ。輪郭のないはっきりとしない形しか持てない僕は、他人の影響によってその形をどんどんと崩されていってしまう。それが僕には怖いのだ。
恋愛においても僕は、所有されるのが好きではない。そもそも結婚という制度そのものが好きになれないし、恋愛をすることで相手を所有した気になっているような人々もどうも好きになれない。
人は誰のものにもなれないし、誰にも捧げることなど出来はしないだろう。変わり果ててしまった自分自身の形を見て嘆くくらいなら、誰からも所有されないように静かに生きている方がまだ賢明かもしれない。そんな風に思ってしまう。
結婚をしている人達は、お互いがお互いを所有しているような気分になるものなのだろうか?だとしたら結婚とは、なんとおぞましいものだろうか、と思ってしまう。人は、どれだけ一緒に生きていようが、結局は他人だ。僕は、そう思って生きている方が、相手との距離はどんどん狭めることが出来る、と思っている。
所有することが恋愛ではないし、ましてや結婚でもない。所有を避けることで、よりお互いに近づくことが、恋愛であり結婚ではないのだろうか。
そろそろ内容に入ろうと思います。
柊子は、母桐子との旅行中に一人の少女と出会う。ミミという名のその少女を観察し、次第に話すようになっていった。また、そのミミの父親を含めて食事をするようなこともあった。そんなこともありながら、概ね旅行は満足出来るものだった。
旅行の最中、柊子の心は常に夫に向けられていた。いや、常に夫とともにあったと言ってもいいかもしれない。これだけ離れていても、夫は私の心を震わせる。早く夫に会いたい。柊子はそう思っている。
帰国してしばらくした頃、ミミと再会する。旅先で出会った人間関係から、いくつもの恋愛未満が生まれては消えていく…。
というような話です。
江國香織の作品は僕の中で、読んでいてぴったりと完全に入り込んでしまう話と、どうにも入り込むことが出来ない作品と二つに分かれます。ぴったりと入り込む作品は、まるで吸い付くようにしてぴったりと寄り添い、その世界で僕を隙間なく埋めていくようなものなのですが、どうにも入り込めない作品は、目の前に鉄格子でもあるかのようで、体の一部しかその世界に浸すことが出来ない感じです。
今回の作品は後者で、ちょっと入り込めない作品でした。
入り込める作品とそうでない作品でどこが違うのかということが未だによく説明が出来ないのだけど、たぶんほんの些細なことが原因なのだろうなとか思います。柊子と夫の関係にちょっとだけ引いてしまったとか、桐子という女性を好きになれなかったとか、テレビ局に勤めてるという設定がどうもなぁとか、そういう些細なことではないかなとか思います。どれなのか、というのはよくわからないのだけど。
江國香織の作品はどれも、文章はすごく好きだなと思うんです。読んでいて、いつもの自分とは違うリズムで時間が刻まれるような感覚があるし、体中を新鮮な血液が循環しているのを感じられるような瑞々しさみたいなものを与えてくれるといつも思います。
しかしストーリーということになると作品毎にどうも好みが出てしまうようで、今回のストーリーはちょっと僕には合わなかったようです。
江國香織の文章は、その淡々としているところとか比喩表現の面白さとか会話の物足りなさみたいなところもいいのだけど、一番好きなのは固有名詞がほとんど出てこないことですね。人の名前は出てくるけど、それ以外の地名とかブランド名とか何かの商品名とか曲名みたいなものがほとんど出てこなくて、江國香織はそれらを自分独自の言葉で表現しているのが僕は好きだったりします。そういう、固有名詞に引きずられるイメージに頼るのではなく、あくまでも自分の言葉で世界を創り出そうとしているようなところがいいなぁと思います。
まあそんなわけで、今回はちょっとあんまり好きになれない作品でした。でも好きな人は好きかもしれません。ちょっと江國香織の作品を評価するのは難しいですけど、どうなんでしょうね。
江國香織「がらくた」
変な学術研究1 光るウサギ、火星人のおなら、叫ぶ冷蔵庫(エドゥアール・ロネ)
科学者というのは、本当に面白い人種である。とにかく、自分が知りたいと思ったことについて徹底的であり、妥協がない。好奇心が強く、探求心の塊りである。
以前ある新書の帯に、これが出来ればあなたも科学者だ、というようなことが載っていた。それは
①何か問いを自分で作り出す
②その問いに自分で答える
だそうだ。なるほど、確かにこれさえ出来れば科学者と名乗ることは出来るかもしれない。これまで様々な科学者が、天体の運行を解明したり、原子の存在を確認したり、あるいは宇宙の始まりに思いを巡らせたりしてきたものだ。それらはすべて、ふとした疑問に端を発するものであり、科学者たちはその疑問に一身に取り組んだのである。
しかし世の中には一風変わった問いに思いを巡らせる人々もいるのである。まあそうかもしれない。世の中にはこれだけ多くの人がいるのだ。何に興味を持ったっておかしくはないだろう。
それを独自に研究することも、まあいいだろう。別に趣味の範囲でやっていただければ、他人に迷惑さえ掛けなければなんの問題も起こらない。例えそれがどんなに社会の役にも立たない、あるいは多くの人の興味を惹かない研究であったとしても、その人個人が満足してやっているなら誰も文句をつけようがないだろう。
しかしどういうわけか世の中には、そういう成果を発表する学術雑誌が存在するようなのである。
まあ様々な学術雑誌が存在するのは構わないし、そこに載るほとんどの論文は何らかの形で意義のあるものなのだろうと思う。研究発表をする場があるからこそ研究に身が入るという科学者だっているだろうし、だから学術雑誌の存在は重要なのだろうとは思う。
しかし中には、本作に登場するように、?がいくつも連続してしまうような研究が学術雑誌に載ってしまうというようなことになるのである。
とはいえ、こういった科学者を一概には非難できないのかもしれないとも思う。
例えば科学の世界では、長らく「エーテル」という物質の存在が信じられてきた。詳しくは書かないが、つまり光などの波を伝える媒体が宇宙空間には存在するべきで、それが「エーテル」である、というのだ。
しかし結局「エーテル」は存在しなかった。それを証明したのが、かのアインシュタインである。
最先端の科学の現場でも、こういうことはよく起こるのだ。実在しないものを、理論だけから判断して実在すると断じてしまうようなことが。
そう考えれば、本作で紹介されている数々の学術研究も、もしかしたら将来何らかの形で役に立ったりするのかもしれない。そこには、世の中のどんなことであっても、実験なしに判断してはいけないという科学者の気概とでもいうべきものを感じることが出来るからである。なるほど、その気概があれば、科学というのはいつまでも進歩し続けることが出来るのかもしれない。
しかしまあ、よくもまあこれだけ奇妙な研究を思いつくことが出来るものだと、ある意味で科学者の想像力に脱帽である。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、世の中に実在するありとあらゆる学術誌に実際に載った、世にも奇妙な一風変わった研究の数々を紹介している作品である。
さてというわけで、駆け足でざっと内容に触れよう。章ごとのタイトルとその簡単な内容をざっと書く。
「自殺の饗宴」奇妙な自殺の研究
「おあつらえの羊」毛を刈りやすい羊、食用部分の多い羊の開発の研究
「美術鑑定士ハト」モネとピカソの絵をハトが判定する
「13日の金曜日」世の中の迷信を科学する
「ロック・アラウンド・ザ・ドッグ」犬に音楽を聞かせたらどうなるか?
「21時8分のヴァン・ゴッホ」ゴッホの「月の出」は、何年何月何日何時何分に描かれたのか?
「ペンギンは空を見上げて転ぶのか」タイトル通り
「ダーウィン君、お口をあけなさい」好き嫌いとダーウィンの関係
「綿菓子のなぞ」いかにして綿菓子を日持ちさせるか
「世界は楕円形」ラグビーのキッカーの科学
「毛深くなくてよかった」何故人間は毛がないのか?
「侮辱の教授」言語学による侮辱の研究
「マーフィーの食卓」パンはマーガリンを塗った面を下にして落ちるのか?
「未確認飛行ウイルス」SARSは宇宙から飛来したウイルスによるものだ
「串刺し事件」奇妙な死亡事故の研究
「知性ゼロ」株の科学
「星の数ほど、砂の数ほど」星の数と砂の数はどっちが多い?
「リアリーダー診療科」チアリーダーは案外怪我が多い
…
ってな具合で、こういう話が54編も載っている。本当は全部書こうと思ったのだけど、めんどくさくなった。以下、ちょっと面白いと思うものだけ書きます。
「魚が泣いている」魚は痛みを感じるか?
「キリンはくさい」キリンは臭いらしい
「ノンアレルギー・キャット」アレルギー反応の出ない猫を作ろう
「ニワトリの歯」ニワトリに歯を生やさせた
「ブランコの新しい揺らし方」5歳の子供が取得した特許
「キャット・タイピング」猫がキーボードをいじっても大丈夫なソフトの開発
「左利きは短命」左利きは寿命が短い
「ゾウの運動学」ゾウは走るのか
「しゃっくりのなぞ」何故人はしゃっくりをするのか?
まあこんな感じですね。
どれもこれもまあくだらない内容なんだけど、やってる人は本気なんだろうなと思うとちょっとおかしいですね。
個人的に面白いと思ったものを挙げると、「ゴッホの絵はいつ描かれたのか」と「食パンのマーフィーの法則」と「株の科学」ですね。
「ゴッホの絵」は、ゴッホがそれを描いた場所へ行き、また天文学の知識を駆使して時間まで割り出すのだけど、どう考えたって描いてるゴッホだってそこまで正確に描いたわけでもないでしょうに、と思ってしまいます。
「食パン」の話はかなりよかったですね。テーブルから食パンが落ちる時は、かなりの確率でマーガリンの塗った方が下になる、ということを実験で証明したわけです。なるほど、これは無駄だけどかなり面白い話だなぁ。トリビアとかに出したら採用されそう。
「株の科学」は、株のプロに銘柄を選んでもらった場合と、サルにダーツをさせて適当に選んだ銘柄を買った場合とでは、利益に差がないという研究でした。これも非常に面白い話ですね。株の世界は、知識や経験などの「知性」をまったく必要としないモデルであっても十分に通用する世界であるということが示されたようで、なるほどこれは株を買う際の参考になりますね。なんと言っても、適当に買ってもそれなりに儲かるよ、ということなのだから。
まあそんな具合で奇妙な研究がいくつも載っています。まあ真剣に読むような本でもないので、トイレにでも置いておいて、毎回一章ずつ読む、みたいな読み方でもいいかもしれません。そういう、ゆるい本だと思います。
エドゥアール・ロネ「変な学術研究1 光るウサギ、火星人のおなら、叫ぶ冷蔵庫」
以前ある新書の帯に、これが出来ればあなたも科学者だ、というようなことが載っていた。それは
①何か問いを自分で作り出す
②その問いに自分で答える
だそうだ。なるほど、確かにこれさえ出来れば科学者と名乗ることは出来るかもしれない。これまで様々な科学者が、天体の運行を解明したり、原子の存在を確認したり、あるいは宇宙の始まりに思いを巡らせたりしてきたものだ。それらはすべて、ふとした疑問に端を発するものであり、科学者たちはその疑問に一身に取り組んだのである。
しかし世の中には一風変わった問いに思いを巡らせる人々もいるのである。まあそうかもしれない。世の中にはこれだけ多くの人がいるのだ。何に興味を持ったっておかしくはないだろう。
それを独自に研究することも、まあいいだろう。別に趣味の範囲でやっていただければ、他人に迷惑さえ掛けなければなんの問題も起こらない。例えそれがどんなに社会の役にも立たない、あるいは多くの人の興味を惹かない研究であったとしても、その人個人が満足してやっているなら誰も文句をつけようがないだろう。
しかしどういうわけか世の中には、そういう成果を発表する学術雑誌が存在するようなのである。
まあ様々な学術雑誌が存在するのは構わないし、そこに載るほとんどの論文は何らかの形で意義のあるものなのだろうと思う。研究発表をする場があるからこそ研究に身が入るという科学者だっているだろうし、だから学術雑誌の存在は重要なのだろうとは思う。
しかし中には、本作に登場するように、?がいくつも連続してしまうような研究が学術雑誌に載ってしまうというようなことになるのである。
とはいえ、こういった科学者を一概には非難できないのかもしれないとも思う。
例えば科学の世界では、長らく「エーテル」という物質の存在が信じられてきた。詳しくは書かないが、つまり光などの波を伝える媒体が宇宙空間には存在するべきで、それが「エーテル」である、というのだ。
しかし結局「エーテル」は存在しなかった。それを証明したのが、かのアインシュタインである。
最先端の科学の現場でも、こういうことはよく起こるのだ。実在しないものを、理論だけから判断して実在すると断じてしまうようなことが。
そう考えれば、本作で紹介されている数々の学術研究も、もしかしたら将来何らかの形で役に立ったりするのかもしれない。そこには、世の中のどんなことであっても、実験なしに判断してはいけないという科学者の気概とでもいうべきものを感じることが出来るからである。なるほど、その気概があれば、科学というのはいつまでも進歩し続けることが出来るのかもしれない。
しかしまあ、よくもまあこれだけ奇妙な研究を思いつくことが出来るものだと、ある意味で科学者の想像力に脱帽である。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、世の中に実在するありとあらゆる学術誌に実際に載った、世にも奇妙な一風変わった研究の数々を紹介している作品である。
さてというわけで、駆け足でざっと内容に触れよう。章ごとのタイトルとその簡単な内容をざっと書く。
「自殺の饗宴」奇妙な自殺の研究
「おあつらえの羊」毛を刈りやすい羊、食用部分の多い羊の開発の研究
「美術鑑定士ハト」モネとピカソの絵をハトが判定する
「13日の金曜日」世の中の迷信を科学する
「ロック・アラウンド・ザ・ドッグ」犬に音楽を聞かせたらどうなるか?
「21時8分のヴァン・ゴッホ」ゴッホの「月の出」は、何年何月何日何時何分に描かれたのか?
「ペンギンは空を見上げて転ぶのか」タイトル通り
「ダーウィン君、お口をあけなさい」好き嫌いとダーウィンの関係
「綿菓子のなぞ」いかにして綿菓子を日持ちさせるか
「世界は楕円形」ラグビーのキッカーの科学
「毛深くなくてよかった」何故人間は毛がないのか?
「侮辱の教授」言語学による侮辱の研究
「マーフィーの食卓」パンはマーガリンを塗った面を下にして落ちるのか?
「未確認飛行ウイルス」SARSは宇宙から飛来したウイルスによるものだ
「串刺し事件」奇妙な死亡事故の研究
「知性ゼロ」株の科学
「星の数ほど、砂の数ほど」星の数と砂の数はどっちが多い?
「リアリーダー診療科」チアリーダーは案外怪我が多い
…
ってな具合で、こういう話が54編も載っている。本当は全部書こうと思ったのだけど、めんどくさくなった。以下、ちょっと面白いと思うものだけ書きます。
「魚が泣いている」魚は痛みを感じるか?
「キリンはくさい」キリンは臭いらしい
「ノンアレルギー・キャット」アレルギー反応の出ない猫を作ろう
「ニワトリの歯」ニワトリに歯を生やさせた
「ブランコの新しい揺らし方」5歳の子供が取得した特許
「キャット・タイピング」猫がキーボードをいじっても大丈夫なソフトの開発
「左利きは短命」左利きは寿命が短い
「ゾウの運動学」ゾウは走るのか
「しゃっくりのなぞ」何故人はしゃっくりをするのか?
まあこんな感じですね。
どれもこれもまあくだらない内容なんだけど、やってる人は本気なんだろうなと思うとちょっとおかしいですね。
個人的に面白いと思ったものを挙げると、「ゴッホの絵はいつ描かれたのか」と「食パンのマーフィーの法則」と「株の科学」ですね。
「ゴッホの絵」は、ゴッホがそれを描いた場所へ行き、また天文学の知識を駆使して時間まで割り出すのだけど、どう考えたって描いてるゴッホだってそこまで正確に描いたわけでもないでしょうに、と思ってしまいます。
「食パン」の話はかなりよかったですね。テーブルから食パンが落ちる時は、かなりの確率でマーガリンの塗った方が下になる、ということを実験で証明したわけです。なるほど、これは無駄だけどかなり面白い話だなぁ。トリビアとかに出したら採用されそう。
「株の科学」は、株のプロに銘柄を選んでもらった場合と、サルにダーツをさせて適当に選んだ銘柄を買った場合とでは、利益に差がないという研究でした。これも非常に面白い話ですね。株の世界は、知識や経験などの「知性」をまったく必要としないモデルであっても十分に通用する世界であるということが示されたようで、なるほどこれは株を買う際の参考になりますね。なんと言っても、適当に買ってもそれなりに儲かるよ、ということなのだから。
まあそんな具合で奇妙な研究がいくつも載っています。まあ真剣に読むような本でもないので、トイレにでも置いておいて、毎回一章ずつ読む、みたいな読み方でもいいかもしれません。そういう、ゆるい本だと思います。
エドゥアール・ロネ「変な学術研究1 光るウサギ、火星人のおなら、叫ぶ冷蔵庫」
相対論がもたらした時空の奇妙な幾何学(アミール・D・アクゼル)
いやはや、思うのだが、そろそろ先端物理を理解するのは難しいということである。いや、学校で習うような普通の物理だってもう碌に覚えちゃいないのだけど、そういう知識の問題ではなくて、イメージできるかどうかの話だ。結局のところ物理学というのは現実に起こっている出来事を記述する学問であるはずなのに、そろそろ普通の人間には想像力の及ばない部分にまで足を踏み入れていくようになってしまった。
ちょっと前であれば物理学だってまだ身近なものを対象にしていたはずだ。光がどうだのとかバネがどうだのといったようなことについて、どんな仕組みなのだろうと考える学問だったはずだ。
しかし今物理学で主流なのは、やはり宇宙と量子だろう。
どちらも既に、僕等の実生活からはかけ離れた、想像力の及ばない世界の話である。宇宙がどうのと言われても、僕等には天体がどうのこうのというくらいの話しか理解できないし、量子論の話をされてももはやイメージ出来るようなことは何もない。猫が死んだり死ななかったり、神様がサイコロを振ったり振らなかったりするような学問なのだ。
しかし何だかんだ言って僕は、そういう世界の出来事に惹かれてしまう。全然理解できないし、理解するために勉強をしようなどとはさらさら思わないのだが、しかし自分が分かる範囲でなんとか理解をしたいという風に思うのだ。
今僕等がこうして生きている宇宙のことだって、その背後にあり理屈については分からなくても、何が起こってこうなったのか、そして今何が起きているのかということぐらいは理解できるだろうし、そういう話は大好きである。
宇宙は膨張しているらしい、ということを発見したのは、あのハッブル望遠鏡で有名なハッブルである。これだけでも、当時の科学者たちを大いに驚かせる大発見であったのだが、近年(と言っても10年くらい前のことだけど)さらに驚くべき事実が発見されたのである。
それは、宇宙の膨張速度は加速しているということである。大昔よりも今の方が速いスピードで膨張しているし、これからそのスピードはもっともっと速くなるということである。
さてこれが何故驚くべき大発見であるのかということは、アインシュタインがかつて発表して歴史にその名を残した、一般性相対性理論と関わりがある。宇宙の膨張速度が加速しているという事実は、アインシュタインがかつて自ら誤りを認めたある理論を蘇らせることになるかもしれないのだ。
アインシュタインは、重力について記述した重力方程式を導き出し、それを一般性相対性理論の骨組みにしたのであるが、その後アインシュタインはその重力方程式に、「宇宙定数」と後に呼ばれることになるある定数を組み込んだのである。
それによってアインシュタインが何をしたかったかと言えば、定常的な宇宙モデルを生み出すことである。アインシュタインは、宇宙が収束したり膨張したりと言ったことは好まなかったし、宇宙は定常的であるべきだと考えていた。しかし、アインシュタインが初めに提唱した重力方程式からは、どうしても膨張する宇宙が導きだされてしまう。アインシュタインはその答えを、直感的に間違っていると考えた。だからこそ、膨張しない定常的な宇宙モデルの解が生み出されるように、重力方程式の記述を変えたのである。その際に組み込んだのが、「宇宙定数」である。
その後アインシュタインはいくつかの出来事によって、その「宇宙定数」を引っ込め、人生最大の誤りであったと発表したのである。
しかしその「宇宙定数」が、今また取りざたされようとしている。
その理由は、現在の物理学では「何が宇宙の膨張速度を加速させているのか」という問いに答えることが出来ないからである。宇宙には、宇宙の膨張速度を加速させるような奇妙な力が存在しており、それは「宇宙定数」によって説明することが可能なのではないか、と考えられているのである。
かくして、かつて生みの親によって誤りだと断じられた「宇宙定数」が、今また蘇りつつある。アインシュタインは、その死後も物理学の世界に大きな影響を与え続けているのである。なるほど、重力方程式が「神の方程式」と呼ばれるのも、分かるような気がするというものである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
とはいうものの、なんとも本作の内容は説明しづらい感じです。
日本語のタイトルは、「相対論がもたらした時空の奇妙な幾何学」となっていますが、本作ではそこまで幾何学の話が扱われるわけではありません。まあ、宇宙物理系の本にしては確かに幾何学の話は多いような気がするけど、しかしあくまでもメインは相対論であり宇宙であると思います。
結局のところ、何故宇宙の膨張は加速しているのか、という問いに端を発し、その問題とアインシュタインの相対性理論がいかに関わってくるのか、ということをメインに据えた作品なのでしょうけど、どうも焦点がぼやけているという感じがしました。僕の理解力がないだけかもしれませんが、メインとなる話が何なのかが見えづらく、かつ筋道もあまりはっきりしない作品であるような気がしました。
何よりも、普通の人が読むにはちょっと難しい気がします。ちょっとついていけないところも多々あって、ところどころ飛ばし読みをしました。特に最先端の物理学について書かれているところは、まあ仕方ないことなのでしょうがかなり記述が難しく、読むのが結構大変だと思いました。
ただこういう作品を読むといろんなことに気づかされるのだけど、科学者というのは本当にすごいなぁと相変わらず思うわけです。
本作を読んでいて分かりやすくそれを感じたのは、宇宙の膨張が加速していることを発見した場面における記述です。本文から抜き出した以下の文章をまず読んでみてください。
『遠くの超新星―およびそれが宿る銀河―は、予期したよりも遅く地球から遠ざかっている。この速さは、もっと近くの銀河の後退速度よりも遅い。したがって、得られる結論はただ一つ―彼は結論づけた―宇宙は膨張を加速している。』
どうだろうか、この文章の意味が分かるだろうか?僕は正直、初めは文章が間違っているのだと思った。何度も読み返したのだけど、意味が分からないのである。だって、近くの銀河より遠くの銀河の方が遅く遠ざかっているのに、どうしてそれが宇宙が膨張を加速しているという話になるのだろうか?
しかし、続く文章を読んでようやく理解できたのだ。
『天文学者が70億光年離れた銀河を観測するとき、彼あるいは彼女はそれを70億年前、光がそこを離れてわれわれに向かったときのありさまで見ている。だから、その銀河が離れる速度を、観測された赤方偏移から計算すれば、得られるのは70億年前に銀河がわれわれから遠ざかっていた速度だ。同じように、10億光年離れた銀河の後退速度は、10億年前の膨張の速度である。さて、もし遠くの銀河が近くの銀河よりも遅くわれわれから動き去るならば、70億年前の後退速度―宇宙の膨張の速さ―は、10億年前の宇宙の膨張の速さよりも遅いのである。いいかえると、宇宙の膨張は加速されているのだ。』
どうだろうか、意味が分かるだろうか?つまり、70億年前に時速50キロ(まあそんな遅いわけはないけど)で遠ざかっており、さらに10億年前に時速100キロで遠ざかっていたなら、膨張の速度は上がっているでしょ、ということである。ここの部分を読んで、なるほどと思った。確かに説明されればそうだけど、でも自分でそれに気づくのは難しいなぁ、と。やはり科学者というのはすごいものだ、と僕はこんなことからも思ってしまうのである。
まあそんなわけで、全体としてはちょっと難しい感じがして、しかも全体の流れを掴むことがなかなか難しい作品かなと思いました。それぞれの章毎で見れば面白い話は多々あったのだけど、全体としてみるとちょっとダメかなと思いました。あんまりオススメは出来ない作品です。結構難しくてもついていける人ならいいかもしれません。
アミール・D・アクゼル「相対論がもたらした時空の奇妙な幾何学」
ちょっと前であれば物理学だってまだ身近なものを対象にしていたはずだ。光がどうだのとかバネがどうだのといったようなことについて、どんな仕組みなのだろうと考える学問だったはずだ。
しかし今物理学で主流なのは、やはり宇宙と量子だろう。
どちらも既に、僕等の実生活からはかけ離れた、想像力の及ばない世界の話である。宇宙がどうのと言われても、僕等には天体がどうのこうのというくらいの話しか理解できないし、量子論の話をされてももはやイメージ出来るようなことは何もない。猫が死んだり死ななかったり、神様がサイコロを振ったり振らなかったりするような学問なのだ。
しかし何だかんだ言って僕は、そういう世界の出来事に惹かれてしまう。全然理解できないし、理解するために勉強をしようなどとはさらさら思わないのだが、しかし自分が分かる範囲でなんとか理解をしたいという風に思うのだ。
今僕等がこうして生きている宇宙のことだって、その背後にあり理屈については分からなくても、何が起こってこうなったのか、そして今何が起きているのかということぐらいは理解できるだろうし、そういう話は大好きである。
宇宙は膨張しているらしい、ということを発見したのは、あのハッブル望遠鏡で有名なハッブルである。これだけでも、当時の科学者たちを大いに驚かせる大発見であったのだが、近年(と言っても10年くらい前のことだけど)さらに驚くべき事実が発見されたのである。
それは、宇宙の膨張速度は加速しているということである。大昔よりも今の方が速いスピードで膨張しているし、これからそのスピードはもっともっと速くなるということである。
さてこれが何故驚くべき大発見であるのかということは、アインシュタインがかつて発表して歴史にその名を残した、一般性相対性理論と関わりがある。宇宙の膨張速度が加速しているという事実は、アインシュタインがかつて自ら誤りを認めたある理論を蘇らせることになるかもしれないのだ。
アインシュタインは、重力について記述した重力方程式を導き出し、それを一般性相対性理論の骨組みにしたのであるが、その後アインシュタインはその重力方程式に、「宇宙定数」と後に呼ばれることになるある定数を組み込んだのである。
それによってアインシュタインが何をしたかったかと言えば、定常的な宇宙モデルを生み出すことである。アインシュタインは、宇宙が収束したり膨張したりと言ったことは好まなかったし、宇宙は定常的であるべきだと考えていた。しかし、アインシュタインが初めに提唱した重力方程式からは、どうしても膨張する宇宙が導きだされてしまう。アインシュタインはその答えを、直感的に間違っていると考えた。だからこそ、膨張しない定常的な宇宙モデルの解が生み出されるように、重力方程式の記述を変えたのである。その際に組み込んだのが、「宇宙定数」である。
その後アインシュタインはいくつかの出来事によって、その「宇宙定数」を引っ込め、人生最大の誤りであったと発表したのである。
しかしその「宇宙定数」が、今また取りざたされようとしている。
その理由は、現在の物理学では「何が宇宙の膨張速度を加速させているのか」という問いに答えることが出来ないからである。宇宙には、宇宙の膨張速度を加速させるような奇妙な力が存在しており、それは「宇宙定数」によって説明することが可能なのではないか、と考えられているのである。
かくして、かつて生みの親によって誤りだと断じられた「宇宙定数」が、今また蘇りつつある。アインシュタインは、その死後も物理学の世界に大きな影響を与え続けているのである。なるほど、重力方程式が「神の方程式」と呼ばれるのも、分かるような気がするというものである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
とはいうものの、なんとも本作の内容は説明しづらい感じです。
日本語のタイトルは、「相対論がもたらした時空の奇妙な幾何学」となっていますが、本作ではそこまで幾何学の話が扱われるわけではありません。まあ、宇宙物理系の本にしては確かに幾何学の話は多いような気がするけど、しかしあくまでもメインは相対論であり宇宙であると思います。
結局のところ、何故宇宙の膨張は加速しているのか、という問いに端を発し、その問題とアインシュタインの相対性理論がいかに関わってくるのか、ということをメインに据えた作品なのでしょうけど、どうも焦点がぼやけているという感じがしました。僕の理解力がないだけかもしれませんが、メインとなる話が何なのかが見えづらく、かつ筋道もあまりはっきりしない作品であるような気がしました。
何よりも、普通の人が読むにはちょっと難しい気がします。ちょっとついていけないところも多々あって、ところどころ飛ばし読みをしました。特に最先端の物理学について書かれているところは、まあ仕方ないことなのでしょうがかなり記述が難しく、読むのが結構大変だと思いました。
ただこういう作品を読むといろんなことに気づかされるのだけど、科学者というのは本当にすごいなぁと相変わらず思うわけです。
本作を読んでいて分かりやすくそれを感じたのは、宇宙の膨張が加速していることを発見した場面における記述です。本文から抜き出した以下の文章をまず読んでみてください。
『遠くの超新星―およびそれが宿る銀河―は、予期したよりも遅く地球から遠ざかっている。この速さは、もっと近くの銀河の後退速度よりも遅い。したがって、得られる結論はただ一つ―彼は結論づけた―宇宙は膨張を加速している。』
どうだろうか、この文章の意味が分かるだろうか?僕は正直、初めは文章が間違っているのだと思った。何度も読み返したのだけど、意味が分からないのである。だって、近くの銀河より遠くの銀河の方が遅く遠ざかっているのに、どうしてそれが宇宙が膨張を加速しているという話になるのだろうか?
しかし、続く文章を読んでようやく理解できたのだ。
『天文学者が70億光年離れた銀河を観測するとき、彼あるいは彼女はそれを70億年前、光がそこを離れてわれわれに向かったときのありさまで見ている。だから、その銀河が離れる速度を、観測された赤方偏移から計算すれば、得られるのは70億年前に銀河がわれわれから遠ざかっていた速度だ。同じように、10億光年離れた銀河の後退速度は、10億年前の膨張の速度である。さて、もし遠くの銀河が近くの銀河よりも遅くわれわれから動き去るならば、70億年前の後退速度―宇宙の膨張の速さ―は、10億年前の宇宙の膨張の速さよりも遅いのである。いいかえると、宇宙の膨張は加速されているのだ。』
どうだろうか、意味が分かるだろうか?つまり、70億年前に時速50キロ(まあそんな遅いわけはないけど)で遠ざかっており、さらに10億年前に時速100キロで遠ざかっていたなら、膨張の速度は上がっているでしょ、ということである。ここの部分を読んで、なるほどと思った。確かに説明されればそうだけど、でも自分でそれに気づくのは難しいなぁ、と。やはり科学者というのはすごいものだ、と僕はこんなことからも思ってしまうのである。
まあそんなわけで、全体としてはちょっと難しい感じがして、しかも全体の流れを掴むことがなかなか難しい作品かなと思いました。それぞれの章毎で見れば面白い話は多々あったのだけど、全体としてみるとちょっとダメかなと思いました。あんまりオススメは出来ない作品です。結構難しくてもついていける人ならいいかもしれません。
アミール・D・アクゼル「相対論がもたらした時空の奇妙な幾何学」
きみはポラリス(三浦しをん)
恋をするにはエネルギーが必要である。
僕にはどうも、そのエネルギーが欠けているようだ。
そもそも僕の場合、人生に対するエネルギーに著しく欠けている人間である。出来る限り、省エネで生きていたいと思っているし、というかそもそもエネルギーの総量が少ないと自覚しているから、恋愛に回せる配分というのはなかなか少なくなってしまうものである。
普通の人は、どこから恋愛へのエネルギーを生み出しているのだろうか。
生きていることと恋愛をすることが結びついている人であるならいいのだ。生きることのエネルギーそのものを、恋愛に回せばいい。もちろんそのせいで、生きていることそのものに支障が出る可能性はあるが、しかしそういう生き方しかできない人だからそれは仕方ない。
また、エネルギーがそもそもありあまっている人というのも問題ない。世の中には、ホント人のエネルギーを奪い取って生きているのではないだろうかと思うほど活発な人間というのがいて、いつ寝てるんだろうとかよく体がもつなと思うような生き方をしている。そんな人なら、いくらでも恋愛は出来るだろうし、恋愛をしてさらに余力を持たせることだって出来ることだろう。
でも世の中そんな人間ばかりではない。
僕が周囲の人間を見る限り、最近エネルギーが足りないなと思う人間が増えてきているように思うのだ。もちろん僕もその一人であるが、全般的にそんな風に感じる。特に若い世代に多い気がする。
また同時に、自分の持っているエネルギーの配分の仕方が分からない人というのも増えているような気がするのだ。自分の興味のあることばかりにエネルギーを注ぎすぎて、対人的な関係に費やせるエネルギーが足りなくなってしまっているような人が多いような気がする。
だからいつも思うのだ。街中でもどこでもいいのだがカップルの姿を見ると、すごいな、と。友人同士のカップルでもいいのだが、すごいな、と思うのだ。どこからそのエネルギーが湧いて出てくるのだろう、と。
僕の方がおかしいのだろうか。
どうしても僕の場合、人生の中で恋愛が優先にならないのだ。優先にならないという言い方はおかしいのかもしれないけど、まあなくても別にいいだろうとか思ってしまうのだ。それもちょっと違うかもしれないが、なんだろうか、どう説明すればいいのか分からないが、とにかく僕にとって恋愛というのはそういう存在である。
イメージ出来てしまう。例えばものすごく好きな人が出来たとして、いろんな幸運があってその人と付き合うことが出来るようになったとするだろう。しかししばらくして気づくのだ。やばい、どんどんエネルギーが減ってるな俺、と。このまま減り続けたら、ちょっとヤバイかもな、と。で、恋愛を終わらせてしまう。
そんなイメージが、僕の中にある。
ここまで書いてみてそうかと思ったことがある。恐らく普通の人は、恋愛をしながらエネルギーを得ているのだろうな、と思う。なるほど、そうか。恋愛をすることでどんどんエネルギーが蓄えられるから、だからこそ恋愛をしていないと逆に辛い状態になるのか。
僕の場合、どうだろう。恋愛をしながらエネルギーをもらうことなど出来るのだろうか。恋愛の経験というのが本当に少ないので分からないが、しかし僕の正確から言ってそれは難しいかもしれない。いつまでも僕は、恋愛にエネルギーを吸い取られてしまって、恋愛を長続きさせることが出来ないのではないか、と思ってしまう。
恋愛はありとあらゆる形になって現れる。その中には、僕にぴったりと合う形の恋愛もあるのかもしれない。エネルギーを減らすことなく、逆にもらい受けるような恋愛が、出来たりするかもしれない。それを期待して、まあ密やかに人を好きになっていこうか、とそんな風に思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ショートショートや短編を11編収録した作品になっています。それぞれの内容を紹介しようと思います。
「永遠に完成しない二通の手紙」
岡田の部屋に寺島がやってきた。また誰かを好きになったようで、でまた手紙を書くのを手伝ってくれ、という。岡田の手紙はいつまで経っても投函されないというのに…。
「裏切らないこと」
マンションの管理会社に勤める男は、女が身内の男に向ける信頼というものを不思議に感じている。妻が息子に向ける視線、姉が弟に向ける視線。そうしたものに、どうしても違和感を感じてしまうのだ。
そんな日常感じる些細な違和感から男は、かつて子供だった頃にお世話になった、ある老夫婦のことを思い出す…。
「私たちがしたこと」
喫茶店で料理を作っている私は、友人が結婚式で着るドレスを作っている。友人と一緒に作る中で、その友人が過去のある出来事について聞いてきた。ずっと気にしていたのだろうことが分かる聞き方だった。だから私は話すことにした。
高校時代付き合っていた彼とした、かつてのあの出来事を。
「夜にあふれるもの」
ミッション系の高校に通っていた私の友人に真理子という女の子がいた。信者でもないのにミサを見て失神するような子だった。普通の人とは別の意味で、神との関わり方を直感的に知っているこだった。
大人になって結婚した真理子だが、その夫が私の元にやってきた。妊娠してからというもの、真理子の様子がおかしいというのだ…。
「骨片」
大学の恩師が死んだ。それを知った私は、恩師の骨を一欠けら持ち帰り、小瓶に入れてそれを持ち続けている。
大学を卒業し、実家のあんこ屋の手伝いをするようになった。穏やかで何でもない日常。ずっと昔から病気でもないのに寝たきりだった祖母。持ち込まれる縁談。そして恩師の骨。
「ペーパークラフト」
夫のかつての後輩で、今ではペーパークラフト作家をやっているという男と出会うことになった。初めは水族館で、そしてそれから家にまで来るようになった。男は次第に、夫がいない時にもやってくるようになった。夫が出張に行ったその合間に…。
「森を歩く」
あるパーティーで知り合った男と今一緒に暮らしている。どんな仕事をしているのかさっぱり分からない。年に一回くらい50万円くらい渡されるだけである。また、行き先も告げずにどこかにふらりと行ってしまう。そんな男と何故か一緒に暮らしているし、まだ出してはいないものの婚姻届にも判を押している。
ある日私は思った。彼の後をつけてみることにしよう…。
「優雅な生活」
仕事先の同僚がみんなロハス的な生活にはまっている。確かに健康的になっているようだ。私もロハス的な生活をはじめてみることにした。
しかし、一緒に暮らしている彼がどうも協力的ではない。ライターをしている彼は、タバコも吸うし、玄米にも文句をつける。
しかしあることをきっかけにして、彼等の生活は一変する…。
「春太の毎日」
麻子と出会ってから春太の生活は変わった。春太は麻子のことが一番だし、麻子だって春太のことが一番なのだ。
しかしそんな生活に、米倉という男が割って入ってくるようになった。春太がいるのに、麻子は米倉を家に入れもてなすのだ。
でもまあ仕方ないか。春太は麻子が一番だし、その麻子が幸せならまあ仕方ない。でもなぁ…。
「冬の一等星」
あれはなんだったのかと言われれば、やはりあれは誘拐だった。母親の乗る車の後部座席に勝手に忍び込んだら、いつの間にか知らない男の人が運転をしていた。要するに、車を盗まれたらしい。
でも怖いことなど何もなかった。今でもあの時のことを思い出す。思い出して、車の後部座席で今でも寝たりするのだ…。
「永遠につづく手紙の最初の一文」
岡田と寺島は、体育倉庫にいた。先生が知らない間に鍵を閉めてしまったのだ。
二人は出られない中で、どうということのない時間を過ごした。連絡を取ることも出来ず、時間だけが過ぎていく。寺島は付き合っている彼女との約束に行けなくてイライラしている…。
というような感じです。
三浦しをんの恋愛小説は、どこか奇妙な深さというものがあります。巻末で三浦しをんは、恋愛をテーマにした短編小説を依頼されることが多いようなのだけど、しかしそのどれもが普通の恋愛ではない。
僕の中で普通の恋愛小説というのは、村山由佳や唯川恵や(と言ってもこの二人の作品は読んだことがないけど)林真理子のような作家の作品を指すのだけど、三浦しをんの恋愛小説はそうした普通のものとはどことなく違うのだ。
しかしどう違うのかと言われれば、それは説明するのが非常に難しい。
それでもなんとか頑張ってみると、要するに恋愛小説でありながら恋愛がメインではないというところにあるのではないだろうかと思うのだ。普通の恋愛小説の場合、人と人の関係があって、それが恋愛になって小説のメインになる。しかし三浦しをんの場合、状況そのものが恋愛を感じさせるという感じがする。そこにはもちろん人間もいて様々に人間関係があるのだが、しかしそれだけでは三浦しをんの恋愛は成立しない。それを取りまくいくつもの状況が重なり合うことで、その状況そのものが恋愛をかもし出すような感じがするのである。
僕は、人間同士の恋愛関係には限界があると思っている。どれだけいろんなアイデアをつぎ込んでも、どこまでもパターン化されてしまうような気がする。
しかし三浦しをんの恋愛小説の場合、まず状況がメインになる。その状況そのものが恋愛をかもし出すわけで、それは無限の可能性があるのではないか、と僕は思っているのである。
実際本作に収録された作品は、どれもが違う雰囲気を感じさせる作品だ。人間同士の関係よりも、まず状況や環境が優先されて描かれているような感じがする。
三浦しをんのお得意の男同士の関係を扱ったものもあれば、禁忌とも言える恋愛を扱っているものもある。三角関係や夫婦という普通の題材を取っていても、その料理の仕方は普通とは大きく変わっている。また、他の作家であれば恋愛小説に仕立てることは難しいだろうなと思わせるものでも、きっちりと恋愛小説にしてしまうのである。
その一番の例が、「優雅な生活」だろう。物語の始まりは、ロハスな生活を始めようというもので、同棲している彼氏の存在はあったものの、そこには恋愛が踏み込む要素はなかったはずである。しかし途中から、ロハスな生活を成分として恋愛的な要素が生み出されていくのである。すごいな、と思った。
また、「冬の一等星」も普通では恋愛には昇華しづらい作品だろう。誘拐と恋愛というのは結構結びつく題材かもしれないが、本作ではそういうベタな雰囲気はない。高尚とでも呼ぶべき恋愛がそこにひっそりと佇んでいることを感じさせる作品なのである。
「裏切らないこと」「私たちがしたこと」「夜にあふれるもの」「骨片」などは、かなり禁忌に近いモチーフを扱っていると言えるだろう。特に「裏切らないこと」はなかなかすごい作品だと思った。特に老夫婦の話はなるほどと思ったし、女親の息子に対する態度への違和感みたいなものを、女性作家が男の視点を使ってあそこまでうまく書くことが出来るものだろうか、と感心してしまった。「私たちがしたこと」も、凡庸な作家が書けばよく分からない作品になっただろうが、そこはさすが三浦しをん、描き方がうまいな、と思った。
冒頭と最後で描かれる、岡田と寺島の話は、三浦しをんお得意の男同士の話である。まあ相変わらずBL的なものの良さが分からない僕だけれども、この二作はなかなか面白く読んだ。あまり露骨過ぎないところもいいのだろうし、ちゃんと恋愛という形になっているからいいのだろうなと思った。岡田みたいな風に感じている男は、結構いたりするのだろうか、とか思ってしまう。
また恋愛という括りにしていいのか微妙ではあるけど、でも「春太の毎日」もなかなかよかった。でも僕にしては珍しく、読み初めでネタが大体分かってしまったのだけど。
「ペーパークラフト」と「森を歩く」は、まあまあだったかなという感じです。この二作については、特別どうということもないかなという感じでした。
というわけで、かなりいい作品だと思います。そこらの軽薄でありきたりのそれでいて純愛だとかなんとか言われるような凡庸な恋愛小説よりもよっぽどレベルが高いいい作品だと思います。割と雰囲気としては江國香織に近いのかなと思ったりします。
かなりいいと思います。タイトルの「ポラリス」というのが何かは分かりませんけど。お勧めです。読んでみてください。
三浦しをん「きみはポラリス」
小説 こちら葛飾区亀有公園前派出所(日本推理作家協会監修;大沢在昌・石田衣良・今野敏・柴田よしき・京極夏彦・逢坂剛・東野圭吾著)
確か最近154巻が出たのだったと思う。
こち亀の話である。
正しくは、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」である。長いタイトルの漫画である。
もちろんすべて読んでいるというわけではないし、というか読んでいないものの方が多いだろうが、それなりにこち亀を読んでいたりするのである。
昔から漫画はあんまり読まないのであるが、でも時々集めて読んでみたりする。「マジック快斗」とか「ルパン三世」とか「コナン」とか「金田一」とか「YAIBA」とかである。
その中に、こち亀もあったわけである。
僕が読んでいたのは、作者である秋本治氏が自らセレクトした(のだった気がする)、全26巻の文庫版のやつである。確か自分で買ったのではなかっただろうか。今でも実家にあるかもしれない。
ジャンプで連載がスタートして30周年だそうだ。コミック誌への連載記録はもちろんトップであるし、連載開始以来、一度も連載を止めたことがないというから驚きである。何かで読んだのであるが、連載開始当時秋本氏は無茶苦茶な生活をしていたらしい。アシスタントもいなくすべて自分で描いていたため、一日22時間ぐらい漫画を描いていたらしい。よくそんな生活が出来たものだと思うが、しかし何はともあれ未だに続いているのだからすごいものである。タモリの「いいとも」とか、黒柳徹子のなんとか(あぁ、ど忘れした)みたいなものである。何であれ、長く続いているものは凄いと思う。
こち亀の内容は説明するまでもないだろうが、浅草にある派出所を舞台にした、警察のてんやわんやを描いた作品である。超がいくつついてもつけたりないくらいの大金持ち二人を部下に持っているという時点でアホみたいな設定であるのだが、両津勘吉というキャラクターそのものがもはやありえないもので、その破天荒ぶりはなかなか見ていて面白いものがある。また警察のドタバタの話だけでなく、浅草を舞台にした両さんの子供時代の話であるとか、プラモやGIジョーなどのマニアックな世界の話までありとあらゆる分野を網羅するその好奇心の強さみたいなものには、本当に関心するのである。
これもどこかで読んだ話であるが、とにかく秋本氏は取材をものすごく丁寧にするらしい。週刊での連載でそこまできっちり取材をし続けるのはかなりきついと思うのだが、しかしそれが苦にならないくらい好奇心旺盛だということだろう。こち亀ではある回、リカちゃん人形がテーマだったのだが、リカちゃん人形について少年誌でここまで詳しく書いてあるのはこれまでありえなかった、みたいなことをどこかで読んだ気がする。
昔から長いこと続いている漫画といえば、「サザエさん」や「ドラえもん」などが浮かぶけれども、恐らくこち亀もそういうレベルに達しつつあるだろうな、と思うのだ。何せ、既にコミックが154巻も(6/4に155巻が出るらしい)出ているのである。既にこれは歴史的事件であると言ってしまっても言い過ぎではないだろう。
両さんみたいな人が実際にいたら楽しいだろうなと思う反面、実際両さんみたいな人と関わらなくてはいけないとしたら大変だな、とも思う。そんな両さんが、稀代の作家達によって小説上で命を与えられるのである。より両さんという存在が現実的になりそうな気はしないだろうか。
そろそろ内容に入ろうと思います。しかし今回の前書きは、ちょっと適当すぎだなぁ。反省。
本作はものすごい企画本であって、日本推理作家協会設立60周年と、こち亀連載30周年を記念した、漫画と小説のコラボというなかなかの大プロジェクトです。
どの辺りが「大」なのかと言えば、それは今回執筆陣に加えられた作家達です。
だって、京極夏彦ですよ?東野圭吾ですよ?石田衣良ですよ?いやはや、こんな豪華な本はないですね、ホント。
本作では、7人の作家が、こち亀の世界を踏まえ、作家によっては自著で生み出した世界観と融合させながら、両さんを描いていく、というそういう趣向の作品です。
それぞれの作家の作品を紹介しようと思います。
大沢在昌「幼な馴染み」
鮫島は、晶からの誘いで浅草の浅草寺に初詣に出かけることになってしまった。まあ新宿に出てチンピラに絡まれるよりはいいか…。藪という鑑識の男が浅草辺りの出身らしく、藪も一緒に連れて行くことになった。
三人で浅草を歩いていると、目の前でスリ寸前の状況が展開していた。通りがかりのおじさんの一声によって被害はなかったものの、ハコ師と呼ばれるプロのスリ師ではなく、荒業で金を抜き取ろうとする連中が跋扈しているようだ。
藪の勧めで、うまいと評判のつくだ煮屋に寄っていくことになったのだけど…。
石田衣良「池袋⇔亀有エキスプレス」
マコトが店先で果物を並べていると、コートにサングラスという出で立ちの奇妙な男がいた。どうやら俺のことを探しているらしい。めんどうに巻き込まれたくなかったが…、残念、付き合わされる羽目になった。
その男は両津勘吉という警官だそうだが、知り合いの刑事に池袋に詳しい人間を紹介して欲しいと聞いたところマコトの名前を出されたのだという。
両津の頼みはこうだった。ある料理屋のお運びさんが悪い男に騙されているようだが、身元が分からない。名前と池袋周辺に住んでいるということまでは分かっているのだが…。
マコトは手を貸してやることにした。
今野敏「キング・タイガー」
ノンキャリアで警視まで登りつめ、先日退官した刑事は、退官後の生活について考えを巡らせていた。再就職の話もあるにはあったが、これまで家族を顧みずにここまで走ってきた。とりあえずゆっくりしよう。どうせならプラモデルでも作ろうか、とそんなことを思う。
とりあえず模型屋に行くことにしたのだが、そこで驚くほど精巧に作られた模型を見つけてしまった。聞けば、両津という名の警官が趣味で作っているのだそうだ。
これは負けられない。
なんとかして、その両津という男の作品に負けないだけのものを作ってみたい…。
柴田よしき「一杯の賭け蕎麦―花咲慎一郎、両津勘吉に遭遇す―」
無認可で母子家庭の子供たちばかり預かっている保育園を運営している花咲慎一郎。もちろん、万年赤字経営だ。相場より安めに設定している料金すら滞納されているのだ。それで仕方なく、副業として探偵もやっているのである。
ある日俺の経営する保育園に、一人の巨乳の婦警がやってきた。秋本麗子と名乗ったその婦警は、俺の保育園で預かっている小鞠を連れに来たのだ、という。状況はさっぱり分からないがとにかく引っ張られるようにしてパトカーに乗せられる俺。
派出所に連れて行かれると、そこには眉毛の繋がった警官が、無銭飲食をしたという老人と対峙していた。どうやらその老人が小鞠の祖父らしい。
それで、いろいろあれやこれやとあって…、おいおいなんで俺が蕎麦を食わなきゃならんのだ?
京極夏彦「ぬらりひょんの褌」
大原大二郎は、部下である寺井洋一を伴って中野の街を訪れた。古本屋を探しにやってきたのだが、どうも見つからない。東京の地理には詳しいだろうと連れてきたものの、寺井もどうにも役に立たない。
この辺りだろうと目処をつけたところに公園があり、二人はそこで一服することにした。
そこで大原は、かつて中野に一週間だけ住んでいた頃に出くわしたぬらりひょん騒ぎについて語るのである。
家賃の驚くほど安いボロアパートを借りて住むことにしたのだが、玄関の鍵は閉まった状態で、窓は開いてはいるものの3/4は壁に隠れて出入りが出来ないという密室状況にも関わらず、中の食べ物だけが綺麗に漁られていたという事件である。
不思議なことがあったものだ、と思っていると、そこに…。
逢坂剛「決闘、二対三!の巻」
梢田と斉木のいる御茶ノ水生活安全課に、何故か二名の研修生が送り込まれることになった。何でも、刑事になるための勉強がしたい、とのことである。
その二人とは、両津勘吉と秋本麗子である。
二人はつくなり早々、梢田と斉木に賭けを持ちかける。早く拳銃の摘発が出来た方が15万円をもらえる、という賭けである。当然梢田と斉木はその賭けに乗ったのだが…。
東野圭吾「目指せ乱歩賞!」
中川が派出所で推理小説なんか読んでいた。聞けば、江戸川乱歩賞を受賞した作品であるようだ。賞金は一千万、10万部売れば印税が一千五百万、計二千五百万の大金が入ってくることを知った両津は、締め切りが明日であるにも関わらず、両手両足を駆使して原稿を書き上げるのだが…。
というような話です。
さてこの中で最も素晴らしい作品を一点挙げろと言われれば迷うことなく選ぶことが出来ます。
それは、京極夏彦が書いた「ぬらりひょんの褌」です。
この作品のレベルの高さはとんでもないもので、他の6名の作家の作品の点数がそれぞれ10点だとすれば、京極夏彦の作品は100点という、それくらい差が開きまくってる感じがあります。
京極夏彦はどうやらこち亀フリークであるようで、全単行本を読破しているらしいです。だからこの短い作品中に、こち亀の細かいネタがたくさん詰まっています。
またぬらりひょん騒ぎの真相も、こち亀の話に絡めたオチになっていて、すごいと思いました。このオチの元になった話を僕は読んだことがあるのだけど、なるほどなぁという感じです。
しかも、集英社から出ている本なのにあのセリフ、またあの男とあの男が関係しているとか、あの小説家があの男と関わっていたとか、とにかくそんな京極ファンなら垂涎の話もチラホラ出てきます。それに、こち亀の世界を踏襲しているはずなのに、やはり京極夏彦が描く世界観の方が遥かに強いという感じで、もうこれはホント素晴らしい作品であると思いました。本作品中、文句なしのトップ賞です。
さて次に、最も両津勘吉というキャラクターをうまく描けている作品を選ぶとすれば、東野圭吾の「目指せ乱歩賞!」でしょうか。すべての行動が、「あぁ、両さんならまじでやりそうだわ」と思わせるもので、本当に面白い話でした。確かこち亀本編でも、両さんが作家としてデビューする話があったけど、それとはまた全然違う展開になっています。また東野圭吾の作品はラストがなかなか秀逸で、文壇への皮肉とも取れるようなオチになっています。これも読んでいて面白いなと思いました。
で、意外と言っては失礼なんだろうけど、柴田よしきの「一杯の賭け蕎麦」はかなりよかったです。僕がこの、花咲が主人公であるシリーズの一作目「フォー・ディア・ライフ」を読んでいたということもあるのかもしれないけど、両さんも結構両さんらしい感じだったし、また蕎麦に至る展開は無茶苦茶ながら、それまでの状況設定もなかなかうまくて、特に両さんが無銭飲食犯にとうとうと説教する件はかなり好きです。
というわけで、小説として面白かったのは上記三つでしょうか。
大沢在昌の「幼な馴染み」と石田衣良の「池袋⇔亀有エキスプレス」は、どうも両さんの描き方が微妙だった気がします。特長を掴めていない印象で、別に両さんでなくても別にいいのではないか、というストーリーでした。
逢坂剛の「決闘、二対三!の巻」もなんだか中途半端な感じがしたし、今野敏の「キング・タイガー」に至っては、ちょっとそれは違うだろう、という感じがしました。
というわけで、7作のうち半分以上があんまりだったなという感じですが、しかし上記で書いた京極夏彦・東野圭吾・柴田よしきの3作を読めるだけでも充分元の取れる作品だと僕は思います。
というわけで、こち亀のことを多少知っていて(まったく知らないというのはちょっと厳しいかも)、また本作に執筆している作家のうち一人でも読んだことがあるという人であれば、結構読んだら楽しめる作品になるのではないかな、と思います。また、この作品をきっかけにして、逆にこち亀を読んでみたり、あるいは本作で出てくる作家のシリーズ物を読んでみたりという流れでもいいかもしれません。読んでみてください。
日本推理作家協会監修;大沢在昌・石田衣良・今野敏・柴田よしき・京極夏彦・逢坂剛・東野圭吾著「小説 こちら葛飾区亀有公園前派出所」
こち亀の話である。
正しくは、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」である。長いタイトルの漫画である。
もちろんすべて読んでいるというわけではないし、というか読んでいないものの方が多いだろうが、それなりにこち亀を読んでいたりするのである。
昔から漫画はあんまり読まないのであるが、でも時々集めて読んでみたりする。「マジック快斗」とか「ルパン三世」とか「コナン」とか「金田一」とか「YAIBA」とかである。
その中に、こち亀もあったわけである。
僕が読んでいたのは、作者である秋本治氏が自らセレクトした(のだった気がする)、全26巻の文庫版のやつである。確か自分で買ったのではなかっただろうか。今でも実家にあるかもしれない。
ジャンプで連載がスタートして30周年だそうだ。コミック誌への連載記録はもちろんトップであるし、連載開始以来、一度も連載を止めたことがないというから驚きである。何かで読んだのであるが、連載開始当時秋本氏は無茶苦茶な生活をしていたらしい。アシスタントもいなくすべて自分で描いていたため、一日22時間ぐらい漫画を描いていたらしい。よくそんな生活が出来たものだと思うが、しかし何はともあれ未だに続いているのだからすごいものである。タモリの「いいとも」とか、黒柳徹子のなんとか(あぁ、ど忘れした)みたいなものである。何であれ、長く続いているものは凄いと思う。
こち亀の内容は説明するまでもないだろうが、浅草にある派出所を舞台にした、警察のてんやわんやを描いた作品である。超がいくつついてもつけたりないくらいの大金持ち二人を部下に持っているという時点でアホみたいな設定であるのだが、両津勘吉というキャラクターそのものがもはやありえないもので、その破天荒ぶりはなかなか見ていて面白いものがある。また警察のドタバタの話だけでなく、浅草を舞台にした両さんの子供時代の話であるとか、プラモやGIジョーなどのマニアックな世界の話までありとあらゆる分野を網羅するその好奇心の強さみたいなものには、本当に関心するのである。
これもどこかで読んだ話であるが、とにかく秋本氏は取材をものすごく丁寧にするらしい。週刊での連載でそこまできっちり取材をし続けるのはかなりきついと思うのだが、しかしそれが苦にならないくらい好奇心旺盛だということだろう。こち亀ではある回、リカちゃん人形がテーマだったのだが、リカちゃん人形について少年誌でここまで詳しく書いてあるのはこれまでありえなかった、みたいなことをどこかで読んだ気がする。
昔から長いこと続いている漫画といえば、「サザエさん」や「ドラえもん」などが浮かぶけれども、恐らくこち亀もそういうレベルに達しつつあるだろうな、と思うのだ。何せ、既にコミックが154巻も(6/4に155巻が出るらしい)出ているのである。既にこれは歴史的事件であると言ってしまっても言い過ぎではないだろう。
両さんみたいな人が実際にいたら楽しいだろうなと思う反面、実際両さんみたいな人と関わらなくてはいけないとしたら大変だな、とも思う。そんな両さんが、稀代の作家達によって小説上で命を与えられるのである。より両さんという存在が現実的になりそうな気はしないだろうか。
そろそろ内容に入ろうと思います。しかし今回の前書きは、ちょっと適当すぎだなぁ。反省。
本作はものすごい企画本であって、日本推理作家協会設立60周年と、こち亀連載30周年を記念した、漫画と小説のコラボというなかなかの大プロジェクトです。
どの辺りが「大」なのかと言えば、それは今回執筆陣に加えられた作家達です。
だって、京極夏彦ですよ?東野圭吾ですよ?石田衣良ですよ?いやはや、こんな豪華な本はないですね、ホント。
本作では、7人の作家が、こち亀の世界を踏まえ、作家によっては自著で生み出した世界観と融合させながら、両さんを描いていく、というそういう趣向の作品です。
それぞれの作家の作品を紹介しようと思います。
大沢在昌「幼な馴染み」
鮫島は、晶からの誘いで浅草の浅草寺に初詣に出かけることになってしまった。まあ新宿に出てチンピラに絡まれるよりはいいか…。藪という鑑識の男が浅草辺りの出身らしく、藪も一緒に連れて行くことになった。
三人で浅草を歩いていると、目の前でスリ寸前の状況が展開していた。通りがかりのおじさんの一声によって被害はなかったものの、ハコ師と呼ばれるプロのスリ師ではなく、荒業で金を抜き取ろうとする連中が跋扈しているようだ。
藪の勧めで、うまいと評判のつくだ煮屋に寄っていくことになったのだけど…。
石田衣良「池袋⇔亀有エキスプレス」
マコトが店先で果物を並べていると、コートにサングラスという出で立ちの奇妙な男がいた。どうやら俺のことを探しているらしい。めんどうに巻き込まれたくなかったが…、残念、付き合わされる羽目になった。
その男は両津勘吉という警官だそうだが、知り合いの刑事に池袋に詳しい人間を紹介して欲しいと聞いたところマコトの名前を出されたのだという。
両津の頼みはこうだった。ある料理屋のお運びさんが悪い男に騙されているようだが、身元が分からない。名前と池袋周辺に住んでいるということまでは分かっているのだが…。
マコトは手を貸してやることにした。
今野敏「キング・タイガー」
ノンキャリアで警視まで登りつめ、先日退官した刑事は、退官後の生活について考えを巡らせていた。再就職の話もあるにはあったが、これまで家族を顧みずにここまで走ってきた。とりあえずゆっくりしよう。どうせならプラモデルでも作ろうか、とそんなことを思う。
とりあえず模型屋に行くことにしたのだが、そこで驚くほど精巧に作られた模型を見つけてしまった。聞けば、両津という名の警官が趣味で作っているのだそうだ。
これは負けられない。
なんとかして、その両津という男の作品に負けないだけのものを作ってみたい…。
柴田よしき「一杯の賭け蕎麦―花咲慎一郎、両津勘吉に遭遇す―」
無認可で母子家庭の子供たちばかり預かっている保育園を運営している花咲慎一郎。もちろん、万年赤字経営だ。相場より安めに設定している料金すら滞納されているのだ。それで仕方なく、副業として探偵もやっているのである。
ある日俺の経営する保育園に、一人の巨乳の婦警がやってきた。秋本麗子と名乗ったその婦警は、俺の保育園で預かっている小鞠を連れに来たのだ、という。状況はさっぱり分からないがとにかく引っ張られるようにしてパトカーに乗せられる俺。
派出所に連れて行かれると、そこには眉毛の繋がった警官が、無銭飲食をしたという老人と対峙していた。どうやらその老人が小鞠の祖父らしい。
それで、いろいろあれやこれやとあって…、おいおいなんで俺が蕎麦を食わなきゃならんのだ?
京極夏彦「ぬらりひょんの褌」
大原大二郎は、部下である寺井洋一を伴って中野の街を訪れた。古本屋を探しにやってきたのだが、どうも見つからない。東京の地理には詳しいだろうと連れてきたものの、寺井もどうにも役に立たない。
この辺りだろうと目処をつけたところに公園があり、二人はそこで一服することにした。
そこで大原は、かつて中野に一週間だけ住んでいた頃に出くわしたぬらりひょん騒ぎについて語るのである。
家賃の驚くほど安いボロアパートを借りて住むことにしたのだが、玄関の鍵は閉まった状態で、窓は開いてはいるものの3/4は壁に隠れて出入りが出来ないという密室状況にも関わらず、中の食べ物だけが綺麗に漁られていたという事件である。
不思議なことがあったものだ、と思っていると、そこに…。
逢坂剛「決闘、二対三!の巻」
梢田と斉木のいる御茶ノ水生活安全課に、何故か二名の研修生が送り込まれることになった。何でも、刑事になるための勉強がしたい、とのことである。
その二人とは、両津勘吉と秋本麗子である。
二人はつくなり早々、梢田と斉木に賭けを持ちかける。早く拳銃の摘発が出来た方が15万円をもらえる、という賭けである。当然梢田と斉木はその賭けに乗ったのだが…。
東野圭吾「目指せ乱歩賞!」
中川が派出所で推理小説なんか読んでいた。聞けば、江戸川乱歩賞を受賞した作品であるようだ。賞金は一千万、10万部売れば印税が一千五百万、計二千五百万の大金が入ってくることを知った両津は、締め切りが明日であるにも関わらず、両手両足を駆使して原稿を書き上げるのだが…。
というような話です。
さてこの中で最も素晴らしい作品を一点挙げろと言われれば迷うことなく選ぶことが出来ます。
それは、京極夏彦が書いた「ぬらりひょんの褌」です。
この作品のレベルの高さはとんでもないもので、他の6名の作家の作品の点数がそれぞれ10点だとすれば、京極夏彦の作品は100点という、それくらい差が開きまくってる感じがあります。
京極夏彦はどうやらこち亀フリークであるようで、全単行本を読破しているらしいです。だからこの短い作品中に、こち亀の細かいネタがたくさん詰まっています。
またぬらりひょん騒ぎの真相も、こち亀の話に絡めたオチになっていて、すごいと思いました。このオチの元になった話を僕は読んだことがあるのだけど、なるほどなぁという感じです。
しかも、集英社から出ている本なのにあのセリフ、またあの男とあの男が関係しているとか、あの小説家があの男と関わっていたとか、とにかくそんな京極ファンなら垂涎の話もチラホラ出てきます。それに、こち亀の世界を踏襲しているはずなのに、やはり京極夏彦が描く世界観の方が遥かに強いという感じで、もうこれはホント素晴らしい作品であると思いました。本作品中、文句なしのトップ賞です。
さて次に、最も両津勘吉というキャラクターをうまく描けている作品を選ぶとすれば、東野圭吾の「目指せ乱歩賞!」でしょうか。すべての行動が、「あぁ、両さんならまじでやりそうだわ」と思わせるもので、本当に面白い話でした。確かこち亀本編でも、両さんが作家としてデビューする話があったけど、それとはまた全然違う展開になっています。また東野圭吾の作品はラストがなかなか秀逸で、文壇への皮肉とも取れるようなオチになっています。これも読んでいて面白いなと思いました。
で、意外と言っては失礼なんだろうけど、柴田よしきの「一杯の賭け蕎麦」はかなりよかったです。僕がこの、花咲が主人公であるシリーズの一作目「フォー・ディア・ライフ」を読んでいたということもあるのかもしれないけど、両さんも結構両さんらしい感じだったし、また蕎麦に至る展開は無茶苦茶ながら、それまでの状況設定もなかなかうまくて、特に両さんが無銭飲食犯にとうとうと説教する件はかなり好きです。
というわけで、小説として面白かったのは上記三つでしょうか。
大沢在昌の「幼な馴染み」と石田衣良の「池袋⇔亀有エキスプレス」は、どうも両さんの描き方が微妙だった気がします。特長を掴めていない印象で、別に両さんでなくても別にいいのではないか、というストーリーでした。
逢坂剛の「決闘、二対三!の巻」もなんだか中途半端な感じがしたし、今野敏の「キング・タイガー」に至っては、ちょっとそれは違うだろう、という感じがしました。
というわけで、7作のうち半分以上があんまりだったなという感じですが、しかし上記で書いた京極夏彦・東野圭吾・柴田よしきの3作を読めるだけでも充分元の取れる作品だと僕は思います。
というわけで、こち亀のことを多少知っていて(まったく知らないというのはちょっと厳しいかも)、また本作に執筆している作家のうち一人でも読んだことがあるという人であれば、結構読んだら楽しめる作品になるのではないかな、と思います。また、この作品をきっかけにして、逆にこち亀を読んでみたり、あるいは本作で出てくる作家のシリーズ物を読んでみたりという流れでもいいかもしれません。読んでみてください。
日本推理作家協会監修;大沢在昌・石田衣良・今野敏・柴田よしき・京極夏彦・逢坂剛・東野圭吾著「小説 こちら葛飾区亀有公園前派出所」
シンデレラ・ティース(坂木司)
これまでの人生の中で、歯医者には二回しか行ったことがない。なので、歯医者の話というのはあまり出来ないのである。
とりあえずその二回の話でもしましょうか。
一回目は、矯正をしようかどうしようかという話になって、とりあえず型を取るだかレントゲンを取るだかで一回行ったのである。僕はもうかなりひどい歯並びをしているのだけど(前歯二本が大きすぎて、その両サイドの歯が奥にずれ込んでいるとでも言えばいいか)、でも結局どういう理由でかは分からないけど矯正はしないことになったようである。まあ正直めんどくさいし男だしお金かかるし、まあいっかと両親も思ったのであろう。その時に歯の型を取ったのかどうか正確な記憶がないのであるが、もし取っていたとしたら震災で死んでも身元は特定されることでしょう。
もう一回は、これも原因はよく分からないのだけど、歯茎が無茶苦茶痛くなって歯医者に行ったのである。覚えているのはその待合室みたいなところに迷路の本があって、子供の頃から迷路の本が大好きだった僕は、それを見て結構楽しんでいたものである。
さてそんなわけだから、歯医者に対して怖いとか感じたことはないのである。キュイィィンという音を聞いたこともなければ、痛い思いをしたこともないのである。そういえば小学生の頃、「良い歯のコンクール」か何かで賞状をもらったような記憶もある。まああれは、虫歯がないということを表彰されたのだろうけど、しかし歯並びから考えたらどう見ても良い歯ではないわけで、複雑である。
もう少し虫歯の話をしましょう。虫歯というのは虫歯菌が原因で起こるらしいのだけど、生まれつきもっているわけではないようである。ではどうやって虫歯菌が口に入るようになるかというと、それは親とのコミュニケーションからくるらしい。口同士でキスをしたりと言ったようなことで虫歯菌は移ってしまうらしい。ある年齢を過ぎればもう大丈夫なようであるが、つまり虫歯にならない僕は親からあまり可愛がられていなかったということかもしれないなぁ、なんて思ったり。だから悲しい、とかいう話では全然なく、いや寧ろ虫歯菌なくて最高!って感じですけど。これから子育てという方は気をつけてみたらいいかもしれませんね。
で歯医者の話だけれども、歯医者恐怖症という病気が実際に存在するくらい怖がられる存在であるらしい。やはり子供の頃痛いことをされたというトラウマであるのかもしれないけど、やはり僕にはなかなか怖さがわからない。
どちらかと言えば普通の病院の方がよっぽど怖いと思う。僕の実家の近くには結構大きな病院があって、よく子供の頃はそこで遊んでいたのだけど、結構怖い。一度、霊安室を探そうという話になったのだけど、探し出す前にその案は消えてしまった。たぶんみんな怖かったのだろうと思う。
病院では日常的に人が死んでいくけど、歯医者ではほとんど死なない(確かアナフィラキシーショックが原因で歯医者でも死亡事故があったような気がするけど)。それだけでも充分歯医者は安全だと思うのだけど。一度悪いイメージに取り付かれるとなかなか抜けないものなのかもしれない。
悪いイメージと言えば、昨日久々に家でゴキブリを見つけてしまったのだけど、やはりあれは気持ち悪い。どう見ても気持ち悪いし、不快な感じがする。でも同時に思うのである。ゴキブリを気持ち悪く感じるのは、そういう情報が世の中に氾濫しているがためであって、ただの錯覚ではないのか、と。実際ゴキブリというのはそこまで気持ち悪い存在ではないのに、実際以上に気持ち悪く見えてしまうだけなのではないか、と。
そう思ってゴキブリを見て見るのだけど、やっぱりこれが気持ち悪い。激しく気持ち悪いし不快感マックスである。
歯医者が嫌いな人というのもそういう感じなのかもしれないな、と思いました。それにしても歯科医関係者の方すみません。歯医者をゴキブリに例えてしまいました。バイト先の人に歯医者で働いている人がいるのだけど、その人に怒られてしまうなぁ。
まあそんなわけで、歯医者とはかなり無縁の人生を歩んできました。これからも出来れば無縁の人生を歩んでいきたいものであると思います。しかしあれはちょっとやってみたいですね、歯のクリーニング。なんかやっぱ歯って汚いのはどうもねって感じするし。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は歯医者を舞台にした連作短編集となっています。それぞれの内容を紹介する前に大枠の設定を。
夏休みを間近にしてアルバイトを探すことにした咲子とその友人のヒロちゃん。ヒロちゃんは夏休み中石垣島でバイトをすることに決めてしまったのだけど、優柔不断な咲子はなかなかバイトを決められない。
そんな折、母親からいいバイトがあるからと紹介された。受付嬢で時給もいい。渡りに船だと面接へ行ってみることにしたのだけど…。
いやはや、とんでもなかった。そこは、な、なんと、歯医者だったのである!
子供の頃のトラウマが未だに根強く、咲子は歯医者が大の苦手である。苦手というより恐怖していると言っていい。キュイィィィーンという音を聞くだけで縮こまってしまうし、治療するなんて想像も出来ない。
しかし成り行きで、なんと苦手で苦手で仕方のない歯医者で受付嬢として働くことになってしまったのである…。
「シンデレラ・ティース」
歯の詰め物が取れたと言って来院された女性のお客様。なんのことはない、ただの患者さんであるのだけど、ある日その彼氏らしき人が乗り込んできた。薬を与えすぎだ、治療の時間が長すぎるetc
言われていることがさっぱり分からない咲子を尻目に、歯科技師である四谷さんが、患者さんの抱える問題を見抜く。
「ファントムvsファントム」
ある日治療の予約の電話が掛かって来た。非常に感じのいい人だなと思ったのだが、しかし来院された患者さんの印象はまるで違った。必要最小限の言葉しか発しないし、始終イライラしている感じ。治療中も、口を開けたくないと言い張って手を焼かせたらしい。咲子もそんな患者さんに違和感を感じ続けるが、しかし謎は解けない。
それをまたしても四谷さんが鮮やかに解きほぐす。
「オランダ人のお買い物」
おやつの時間にケーキを買出しに出かけた咲子は、にわか雨に振られて雨宿り。そこへ一緒に雨宿りした結構かっこいい一人の男性。さりげない会話をしつつその場は別れる。
さてその後、その雨宿りの人が咲子のいる歯医者にやってくるのだけど…。
同じ頃、咲子には気になるもう一人の患者さんがいた。常に二人連れで、診療室にも付き添おうとする。会話がかみ合わないし、診療室で怒鳴ってもいるようだけど、でも別に応対は普通だ。何なのだろう…。
「遊園地のお姫様」
だんだんと四谷さんとの恋も進展しつつある今日この頃。デートだって何回かしたのである。
さてそんなある日、咲子のいる歯医者に一人の若い女性がやってきた。医院のスタッフとも顔見知りのようで、四谷さんとも仲が良さそう。四谷さんのことをけんちゃんなんて呼んでベタベタしている。
なんで?っていうか、何これ?
それに、あるお客様から受けた指摘にもヘコんだりして…。
「フレッチャーさんからの伝言」
四谷さんがドイツに留学してしまうことを知りがっくり来たものの、気持ちを切り替えて仕事に臨んだある日のこと。
一人の患者さんが来たのだけど、どうもおかしい。どうしても抜けられない仕事があるとかで毎回遅刻してくるし、その癖遅刻したお詫びにケーキをくれる。仕事が忙しいはずなのに運動をして疲れきっているし、それなのに服からはコロンの香りが漂っている。
なんだかチグハグな感じなんだけど、診療室では特におかしなところのない普通の患者さんらしい。でも咲子はある推理を働かせ、それを解決するためにある行動に出ることになるのだが…。
というような感じです。
相変わらず坂木司の小説はいい感じです。どんな話を読んでも心がすっきりと晴れやかになるような感じの作品が多い気がします。特に「切れない糸」と「シンデレラ・ティース」の特殊な職業系の作品は非常にいいです。
今回は舞台が歯科医院ですが、相変わらず設定をうまく活かした日常の謎を生み出す作家だなと思いました。前作の「切れない糸」ではクリーニング屋でしたが、そこでもその職業ならではの謎が満載で、この<職業>シリーズとでも呼べそうな作品群でしばらく作品を出せるのではないか、と思います。
坂木司の作品はディテールが非常によくて、その細かな部分の描写が作品に奥行きを与えている。例えばだけど、作品中に出てくる食べ物は非常に美味しそうで、それ自体は物語の進行と特に関係ないのだけど、でも食べ物が美味しそうだというディテールが作品をより深くしている、という感じがあるのである。また人間心理の細かなところまで描写してみたり、本筋とは関係ない小ネタを挟んでみたりと、というような部分がとてもいいと思いました。
またこれも坂木司の作品に共通していることですが、登場人物が非常にいいですね。本作でもなかなかバラエティに富んだ登場人物がわんさかと出てきて非常に面白いです。女王様系やアニメ声、軟派な感じだったり講釈好きだったりと様々ですが、どのキャラクターも基本的にいい人で、しかもただいいだけの人ではないというそのバランスが非常に好きだなと僕は思います。
話として好きなのは、「ファントムvsファントム」です。これは謎の提示の仕方も面白いし、解決の仕方も非常に面白いと思います。ミステリ的にはなかなかない型(つまり、ないはずの問題をあることにして問題に対処するという方法)で、非常に面白いなと感じました。
というわけで、かなり自信を持ってお勧めできる作品です。是非読んでみてください。かなりいいと思いますよ。
坂木司「シンデレラ・ティース」
とりあえずその二回の話でもしましょうか。
一回目は、矯正をしようかどうしようかという話になって、とりあえず型を取るだかレントゲンを取るだかで一回行ったのである。僕はもうかなりひどい歯並びをしているのだけど(前歯二本が大きすぎて、その両サイドの歯が奥にずれ込んでいるとでも言えばいいか)、でも結局どういう理由でかは分からないけど矯正はしないことになったようである。まあ正直めんどくさいし男だしお金かかるし、まあいっかと両親も思ったのであろう。その時に歯の型を取ったのかどうか正確な記憶がないのであるが、もし取っていたとしたら震災で死んでも身元は特定されることでしょう。
もう一回は、これも原因はよく分からないのだけど、歯茎が無茶苦茶痛くなって歯医者に行ったのである。覚えているのはその待合室みたいなところに迷路の本があって、子供の頃から迷路の本が大好きだった僕は、それを見て結構楽しんでいたものである。
さてそんなわけだから、歯医者に対して怖いとか感じたことはないのである。キュイィィンという音を聞いたこともなければ、痛い思いをしたこともないのである。そういえば小学生の頃、「良い歯のコンクール」か何かで賞状をもらったような記憶もある。まああれは、虫歯がないということを表彰されたのだろうけど、しかし歯並びから考えたらどう見ても良い歯ではないわけで、複雑である。
もう少し虫歯の話をしましょう。虫歯というのは虫歯菌が原因で起こるらしいのだけど、生まれつきもっているわけではないようである。ではどうやって虫歯菌が口に入るようになるかというと、それは親とのコミュニケーションからくるらしい。口同士でキスをしたりと言ったようなことで虫歯菌は移ってしまうらしい。ある年齢を過ぎればもう大丈夫なようであるが、つまり虫歯にならない僕は親からあまり可愛がられていなかったということかもしれないなぁ、なんて思ったり。だから悲しい、とかいう話では全然なく、いや寧ろ虫歯菌なくて最高!って感じですけど。これから子育てという方は気をつけてみたらいいかもしれませんね。
で歯医者の話だけれども、歯医者恐怖症という病気が実際に存在するくらい怖がられる存在であるらしい。やはり子供の頃痛いことをされたというトラウマであるのかもしれないけど、やはり僕にはなかなか怖さがわからない。
どちらかと言えば普通の病院の方がよっぽど怖いと思う。僕の実家の近くには結構大きな病院があって、よく子供の頃はそこで遊んでいたのだけど、結構怖い。一度、霊安室を探そうという話になったのだけど、探し出す前にその案は消えてしまった。たぶんみんな怖かったのだろうと思う。
病院では日常的に人が死んでいくけど、歯医者ではほとんど死なない(確かアナフィラキシーショックが原因で歯医者でも死亡事故があったような気がするけど)。それだけでも充分歯医者は安全だと思うのだけど。一度悪いイメージに取り付かれるとなかなか抜けないものなのかもしれない。
悪いイメージと言えば、昨日久々に家でゴキブリを見つけてしまったのだけど、やはりあれは気持ち悪い。どう見ても気持ち悪いし、不快な感じがする。でも同時に思うのである。ゴキブリを気持ち悪く感じるのは、そういう情報が世の中に氾濫しているがためであって、ただの錯覚ではないのか、と。実際ゴキブリというのはそこまで気持ち悪い存在ではないのに、実際以上に気持ち悪く見えてしまうだけなのではないか、と。
そう思ってゴキブリを見て見るのだけど、やっぱりこれが気持ち悪い。激しく気持ち悪いし不快感マックスである。
歯医者が嫌いな人というのもそういう感じなのかもしれないな、と思いました。それにしても歯科医関係者の方すみません。歯医者をゴキブリに例えてしまいました。バイト先の人に歯医者で働いている人がいるのだけど、その人に怒られてしまうなぁ。
まあそんなわけで、歯医者とはかなり無縁の人生を歩んできました。これからも出来れば無縁の人生を歩んでいきたいものであると思います。しかしあれはちょっとやってみたいですね、歯のクリーニング。なんかやっぱ歯って汚いのはどうもねって感じするし。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は歯医者を舞台にした連作短編集となっています。それぞれの内容を紹介する前に大枠の設定を。
夏休みを間近にしてアルバイトを探すことにした咲子とその友人のヒロちゃん。ヒロちゃんは夏休み中石垣島でバイトをすることに決めてしまったのだけど、優柔不断な咲子はなかなかバイトを決められない。
そんな折、母親からいいバイトがあるからと紹介された。受付嬢で時給もいい。渡りに船だと面接へ行ってみることにしたのだけど…。
いやはや、とんでもなかった。そこは、な、なんと、歯医者だったのである!
子供の頃のトラウマが未だに根強く、咲子は歯医者が大の苦手である。苦手というより恐怖していると言っていい。キュイィィィーンという音を聞くだけで縮こまってしまうし、治療するなんて想像も出来ない。
しかし成り行きで、なんと苦手で苦手で仕方のない歯医者で受付嬢として働くことになってしまったのである…。
「シンデレラ・ティース」
歯の詰め物が取れたと言って来院された女性のお客様。なんのことはない、ただの患者さんであるのだけど、ある日その彼氏らしき人が乗り込んできた。薬を与えすぎだ、治療の時間が長すぎるetc
言われていることがさっぱり分からない咲子を尻目に、歯科技師である四谷さんが、患者さんの抱える問題を見抜く。
「ファントムvsファントム」
ある日治療の予約の電話が掛かって来た。非常に感じのいい人だなと思ったのだが、しかし来院された患者さんの印象はまるで違った。必要最小限の言葉しか発しないし、始終イライラしている感じ。治療中も、口を開けたくないと言い張って手を焼かせたらしい。咲子もそんな患者さんに違和感を感じ続けるが、しかし謎は解けない。
それをまたしても四谷さんが鮮やかに解きほぐす。
「オランダ人のお買い物」
おやつの時間にケーキを買出しに出かけた咲子は、にわか雨に振られて雨宿り。そこへ一緒に雨宿りした結構かっこいい一人の男性。さりげない会話をしつつその場は別れる。
さてその後、その雨宿りの人が咲子のいる歯医者にやってくるのだけど…。
同じ頃、咲子には気になるもう一人の患者さんがいた。常に二人連れで、診療室にも付き添おうとする。会話がかみ合わないし、診療室で怒鳴ってもいるようだけど、でも別に応対は普通だ。何なのだろう…。
「遊園地のお姫様」
だんだんと四谷さんとの恋も進展しつつある今日この頃。デートだって何回かしたのである。
さてそんなある日、咲子のいる歯医者に一人の若い女性がやってきた。医院のスタッフとも顔見知りのようで、四谷さんとも仲が良さそう。四谷さんのことをけんちゃんなんて呼んでベタベタしている。
なんで?っていうか、何これ?
それに、あるお客様から受けた指摘にもヘコんだりして…。
「フレッチャーさんからの伝言」
四谷さんがドイツに留学してしまうことを知りがっくり来たものの、気持ちを切り替えて仕事に臨んだある日のこと。
一人の患者さんが来たのだけど、どうもおかしい。どうしても抜けられない仕事があるとかで毎回遅刻してくるし、その癖遅刻したお詫びにケーキをくれる。仕事が忙しいはずなのに運動をして疲れきっているし、それなのに服からはコロンの香りが漂っている。
なんだかチグハグな感じなんだけど、診療室では特におかしなところのない普通の患者さんらしい。でも咲子はある推理を働かせ、それを解決するためにある行動に出ることになるのだが…。
というような感じです。
相変わらず坂木司の小説はいい感じです。どんな話を読んでも心がすっきりと晴れやかになるような感じの作品が多い気がします。特に「切れない糸」と「シンデレラ・ティース」の特殊な職業系の作品は非常にいいです。
今回は舞台が歯科医院ですが、相変わらず設定をうまく活かした日常の謎を生み出す作家だなと思いました。前作の「切れない糸」ではクリーニング屋でしたが、そこでもその職業ならではの謎が満載で、この<職業>シリーズとでも呼べそうな作品群でしばらく作品を出せるのではないか、と思います。
坂木司の作品はディテールが非常によくて、その細かな部分の描写が作品に奥行きを与えている。例えばだけど、作品中に出てくる食べ物は非常に美味しそうで、それ自体は物語の進行と特に関係ないのだけど、でも食べ物が美味しそうだというディテールが作品をより深くしている、という感じがあるのである。また人間心理の細かなところまで描写してみたり、本筋とは関係ない小ネタを挟んでみたりと、というような部分がとてもいいと思いました。
またこれも坂木司の作品に共通していることですが、登場人物が非常にいいですね。本作でもなかなかバラエティに富んだ登場人物がわんさかと出てきて非常に面白いです。女王様系やアニメ声、軟派な感じだったり講釈好きだったりと様々ですが、どのキャラクターも基本的にいい人で、しかもただいいだけの人ではないというそのバランスが非常に好きだなと僕は思います。
話として好きなのは、「ファントムvsファントム」です。これは謎の提示の仕方も面白いし、解決の仕方も非常に面白いと思います。ミステリ的にはなかなかない型(つまり、ないはずの問題をあることにして問題に対処するという方法)で、非常に面白いなと感じました。
というわけで、かなり自信を持ってお勧めできる作品です。是非読んでみてください。かなりいいと思いますよ。
坂木司「シンデレラ・ティース」
6時間後に君は死ぬ(高野和明)
ちょっと前に、未来予知というものについて仮説を考えてみたことがある。
僕は、別に未来予知を積極的に信じているわけではないのだけれども、でもまあ別に否定するようなことでもないかもなとも思う。やろうと思えば、多少こじつけであっても、科学的な説明がつけられるんではないか、と思ったりしているのだ。
僕の考えた仮設というのは、物理の知識のない人には多少馴染みのない用語が出てくるし、僕もそれらの言葉を正しい意味で使えているか自信がないというお粗末なものだけど、まあ書いてみようかなと思います。
僕が考えた未来予知の仮説は、こんな感じです。
まず時間というものを、同じ間隔で飛び飛びに連続した一本の線、という風に考えるわけです。つまり、点線のようなものであって、直線のように切れ目なく続いているわけではなく、点線のように断続的にある一定の間隔を持っていると考えます。映画のコマ割のようなものだと考えてくれてもいいです。物理学的に言えば、量子論的、ということになりますが。
で、その飛び飛びの時間の間隔を飛び越えるにはある一定のエネルギーが必要なわけだけど、そのエネルギーが一瞬だけ膨大なものになって、間隔をいくつも一気に飛び越してしまう、というような現象が量子論的な話であります。トンネル効果というのだけど、ある一瞬エネルギー状態が飛躍的に大きくなり、量子的な飛び飛びの間隔を一気に飛び越えてしまう現象です。
そのトンネル効果が時間にも適応できて、つまり時間の一つの間隔を飛び越えるエネルギーを遥かに超えるエネルギー状態に達して、その結果一瞬だけ未来の時間まで飛躍してしまうのではないか。
というのが僕の仮説です。まあ本職の物理学者が見たら、何を言ってるんだこいつは、という話でしょうが、でもまだ時間の正体だって誰も分かっていないわけで、絶対に間違っているということもないような気がします。
まあそんなわけで、未来を予知するということについて考えてみたわけだけど、でもそもそも時間というものが不思議なものだなと思うわけです。
上記で書いた、未来予知を信じていないわけでもない、という発言と矛盾するかもしれないのだけど、僕は時間というものは、『今』という瞬間瞬間にしか存在していないと思うんです。そこには『過去』という時間も『未来』という時間もなく、ただ『今』だけが永遠に連続し、『今』ではなくなった時間は無に帰するというかなかったことになるかそういう感じではないのかな、と思います。
僕らの記憶にいろいろと『過去』の情報が残っているが故に、『過去』という時間が存在するような錯覚に陥りがちだけど、それは違うのではないかな、と思うんです。よく言われるように、世界が5分前に生まれたかもしれない、という仮説だって成り立つわけです。その場合、5分前に生まれた僕は、この24年間のあらゆる出来事の記憶を持って生まれた、ということになるわけです。だから、『過去』の記憶を持っていることと、『過去』という時間が存在したことというのは、必ずしも等価ではないと思うのです。
同じように、『未来』という時間も存在しないと僕は思っています。可能性が無限に分岐していてそのすべてを追うことは出来ないから『未来』という時間はないも同然だ、というような意味ではなく、本当にそんな時間は存在しないのだと思います。
ドミノで譬えて見ると僕の言っていることは分かりやすいかもしれません。普通ドミノ倒しのあのドミノは、全工程を組み上げてから一番初めのドミノを倒します。まあつまりこれが、『未来』という時間があると考えるケースですね。要するに、その時倒れているドミノが『今』という時間であり、既に倒れているドミノが『過去』という時間であり、まだ倒れていないで並んでいるドミノが『未来』という時間です。
しかし僕は、実際の時間というのはそういうものではないと考えます。
つまり、スタートもゴールもなく、常にドミノは倒れ続けているわけです。しかも常にドミノは一つだけしか見えません。その瞬間に倒れているドミノが『今』であり、その前後には何もありません。その一つのドミノが倒れるとそのドミノは消え、その一つ先にまたドミノが現れ、そのドミノがまた倒れ…という繰り返しによって時間というものは成立しているような気がします。
だから僕は、将来どんなに技術が向上しても、タイムマシンというものは成立しないだろうな、と思います。何故なら、『過去』という時間も『未来』という時間も存在しないのだから、例え時間を移動できる手段を手に入れても、どこへもたどり着かないだろうと思うからです。
まあここまで書いたことはあくまでも僕の仮説で、時間の正体というのはまだまだ謎のままです。時間はループしていると考える科学者もいるし、他にもいろんな仮説を持った科学者が世界中にいることでしょう。これも、いつか誰か天才が現れて、時間の正体というものを解明してくれることを願っています。
運命という言葉があるけど、それは変えられない未来に対して使われる言葉であるように思います。あるいは、既に起こってしまった過去を諦めるための言葉でしょうか。どちらにしても、『今』という時間しかないと思って生きていくことが出来れば、運命などに頼らずに生きていけるかもしれませんね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、あの「13階段」で江戸川乱歩賞を受賞してデビューした高野和明の、デビュー直後に書いた短編を含む短編集となっています。
山葉圭史という、他人の未来のビジョンが見えてしまう男がすべての短編に登場しますが、しかし連作短編集というわけではなく、主人公は皆違います。
それぞれの内容を紹介しようと思います。
「6時間後に君は死ぬ」
あと6時間で25歳の誕生日を迎える原田美緒は、友達との待ち合わせに向かう途中で一人の男に声を掛けられた。江戸川圭史と名乗るその男は、あなたは6時間後に死にます、と告げたのだ。冗談だと思った美緒は相手にしなかったが、しかしその男の言っていることを信じざるおえない状況があり、詳しく話を聞くことにした。どうやら自分はナイフで刺されることになるらしい。美緒は自分の身を守るために犯人を探し出すことにした。
一方で警察は、女性が被害者となる通り魔事件の捜査をしている。これまでの被害者二人は、誕生日になった瞬間に殺されていることまた同じデートクラブで働いていたなどの共通点があったのだが…。
「時の魔法使い」
プロットライターという仕事をする朝岡未来は、毎回毎回採用されるかどうかも分からないプロットを書き続けている日々に疲れきっていた。脚本家になれる近道だと言われてこの道を走ってきたが、どうもうまく行きそうにない。お金にも困る生活で、未来の心は荒んでいた。
ある日未来は思い立った。子供の頃に住んでいた町へと行ってみよう。電車賃がもったいないが、しかし気分が晴れるなら安いものだ。
そうして久々に降り立った町で、未来はかつて不思議な出来事があった神社の防空壕へと行ってみた。防空壕で遊んでいたはずの未来は、丸一日神隠しに遭ったかのように姿をくらませてしまったのだ。向かった防空壕で未来は一人の女の子を見つけるのだが…。
「恋をしてはいけない日」
男と付き合ってはすぐに別れるというような淡白でつれない恋愛を繰り返してきた未亜は、久々に彼氏のいない時間を過ごすことになった。そんなある日、友人のつてで未来予知が出来るという男性と会ったのだが、その時に「水曜日にだけは恋をしてはいけないよ」と言われてしまった。
そしてその水曜日。交通事故を目撃した未亜はその場で気分が悪くなってしまった。それを介抱してくれた男性に恋をしてしまったことに気づいたのだ。まずい、水曜日に恋をしてしまった。でも、今までこんな恋愛を出来たことなんてなかった。この人と離れたくない…。
「ドールハウスのダンサー」
とある田舎の山奥にあるドールハウスを展示している美術館には、奇妙なドールハウスがある。20年前に作られたのに明らかに現代風のモチーフで、一人のダンサーを描いたいくつものドールハウスで成り立っているものだ。
その美術館には、館長の叔母の個人的な美術館なのだが、開館の時点で閉館の日が決まっているという奇妙な話もあった。しかも、最後の日にやってくる人のために作ったのだ、と。
香坂美帆はダンサーを目指して日々オーディションを繰り返している。実力がないわけではないと思うのだが、オーディションに通ったことはない。両親はダンサーを目指すことに反対だし、そもそも生活が結構厳しい。でも夢を諦めたくはない。
時々、デジャヴのような感覚に襲われることがある。あれは一体なんなんだろう。
「3時間後に僕は死ぬ」
結構披露宴のスタッフとして働き始めた原田美緒は、その日の招待客の中に「山葉圭史」の名前を見つけて喜んだ。やっと再会できる。
でも山葉と再会した美緒は、山葉から不吉なビジョンを聞かされることになる。
今から3時間後に僕はここで死ぬ。
今まで山葉のビジョンが外れたことはない。運命は変えられないのかもしれない。でも美緒は出来る限りのことをしたかった。山葉と二人で未来を変えるべく、思いつく限りの可能性を潰していくのだけど…。
「エピローグ 未来の日記帳」
小道具屋で見つけた日記帳に書かれていた不思議な日記の話。
という感じです。
僕は、高野和明のデビュー作の「13階段」を読んでかなり素晴らしい作品だと思ったわけですが、この作品もかなりいい作品だと思いました。
未来予知というコンセプトをいろんな方向に転化させて違った物語をいくつも作るというのはなかなかすごいもので、しかもどの話もミステリとして非常に良く出来ているという感じがします。いやお見事でした。
一番好きなのは「恋をしてはいけない日」です。これは素晴らしいと思いました。こう途中で鮮やかに物語が反転するその快感というのを味あわせてくれる作品でした。
あと「6時間後に君は死ぬ」と「3時間後に僕は死ぬ」の二つもかなりいいです。どちらも、未来に誰かが死ぬのだけどそれをなんとか阻止しようとする話で、この二つもミステリとして非常に良く出来ている作品でした。特に「6時間後」の方は、冒頭の設定でグググッと惹きつけられてしまいました。「3時間後」の方も、短編の中でいくつかのストーリーが折り重なっていて素晴らしいと思いました。
あとミステリ的ではないけど、「時の魔法使い」もよかったです。心が荒んでいる主人公を自分自身で癒す物語で、ふんわりとしたいい話です。
全体の中では「ドールハウスの中のダンサー」があんまり面白くなかったかなと思うけど、でもそれでも作品全体のレベルを下げるようなものではないと思います。
それぞれの作品で、時間を改変できる立場にいる人間が悩む場面が出てきます。運命に逆らって変えていいのかとか、未来を知っているからこそ余計なことをしているのだろうかとか。現実的には未来予知というのはなかなか出来ないわけで、となれば持ちようのない悩みではあるのだけど、でも考えてみるのも面白いかもしれないな、と思いました。
僕はすごく面白い作品だと思いました。是非とも読んで欲しいと思います。高野和明は未だに健在だなぁ、と思いました。
高野和明「6時間後に君は死ぬ」
僕は、別に未来予知を積極的に信じているわけではないのだけれども、でもまあ別に否定するようなことでもないかもなとも思う。やろうと思えば、多少こじつけであっても、科学的な説明がつけられるんではないか、と思ったりしているのだ。
僕の考えた仮設というのは、物理の知識のない人には多少馴染みのない用語が出てくるし、僕もそれらの言葉を正しい意味で使えているか自信がないというお粗末なものだけど、まあ書いてみようかなと思います。
僕が考えた未来予知の仮説は、こんな感じです。
まず時間というものを、同じ間隔で飛び飛びに連続した一本の線、という風に考えるわけです。つまり、点線のようなものであって、直線のように切れ目なく続いているわけではなく、点線のように断続的にある一定の間隔を持っていると考えます。映画のコマ割のようなものだと考えてくれてもいいです。物理学的に言えば、量子論的、ということになりますが。
で、その飛び飛びの時間の間隔を飛び越えるにはある一定のエネルギーが必要なわけだけど、そのエネルギーが一瞬だけ膨大なものになって、間隔をいくつも一気に飛び越してしまう、というような現象が量子論的な話であります。トンネル効果というのだけど、ある一瞬エネルギー状態が飛躍的に大きくなり、量子的な飛び飛びの間隔を一気に飛び越えてしまう現象です。
そのトンネル効果が時間にも適応できて、つまり時間の一つの間隔を飛び越えるエネルギーを遥かに超えるエネルギー状態に達して、その結果一瞬だけ未来の時間まで飛躍してしまうのではないか。
というのが僕の仮説です。まあ本職の物理学者が見たら、何を言ってるんだこいつは、という話でしょうが、でもまだ時間の正体だって誰も分かっていないわけで、絶対に間違っているということもないような気がします。
まあそんなわけで、未来を予知するということについて考えてみたわけだけど、でもそもそも時間というものが不思議なものだなと思うわけです。
上記で書いた、未来予知を信じていないわけでもない、という発言と矛盾するかもしれないのだけど、僕は時間というものは、『今』という瞬間瞬間にしか存在していないと思うんです。そこには『過去』という時間も『未来』という時間もなく、ただ『今』だけが永遠に連続し、『今』ではなくなった時間は無に帰するというかなかったことになるかそういう感じではないのかな、と思います。
僕らの記憶にいろいろと『過去』の情報が残っているが故に、『過去』という時間が存在するような錯覚に陥りがちだけど、それは違うのではないかな、と思うんです。よく言われるように、世界が5分前に生まれたかもしれない、という仮説だって成り立つわけです。その場合、5分前に生まれた僕は、この24年間のあらゆる出来事の記憶を持って生まれた、ということになるわけです。だから、『過去』の記憶を持っていることと、『過去』という時間が存在したことというのは、必ずしも等価ではないと思うのです。
同じように、『未来』という時間も存在しないと僕は思っています。可能性が無限に分岐していてそのすべてを追うことは出来ないから『未来』という時間はないも同然だ、というような意味ではなく、本当にそんな時間は存在しないのだと思います。
ドミノで譬えて見ると僕の言っていることは分かりやすいかもしれません。普通ドミノ倒しのあのドミノは、全工程を組み上げてから一番初めのドミノを倒します。まあつまりこれが、『未来』という時間があると考えるケースですね。要するに、その時倒れているドミノが『今』という時間であり、既に倒れているドミノが『過去』という時間であり、まだ倒れていないで並んでいるドミノが『未来』という時間です。
しかし僕は、実際の時間というのはそういうものではないと考えます。
つまり、スタートもゴールもなく、常にドミノは倒れ続けているわけです。しかも常にドミノは一つだけしか見えません。その瞬間に倒れているドミノが『今』であり、その前後には何もありません。その一つのドミノが倒れるとそのドミノは消え、その一つ先にまたドミノが現れ、そのドミノがまた倒れ…という繰り返しによって時間というものは成立しているような気がします。
だから僕は、将来どんなに技術が向上しても、タイムマシンというものは成立しないだろうな、と思います。何故なら、『過去』という時間も『未来』という時間も存在しないのだから、例え時間を移動できる手段を手に入れても、どこへもたどり着かないだろうと思うからです。
まあここまで書いたことはあくまでも僕の仮説で、時間の正体というのはまだまだ謎のままです。時間はループしていると考える科学者もいるし、他にもいろんな仮説を持った科学者が世界中にいることでしょう。これも、いつか誰か天才が現れて、時間の正体というものを解明してくれることを願っています。
運命という言葉があるけど、それは変えられない未来に対して使われる言葉であるように思います。あるいは、既に起こってしまった過去を諦めるための言葉でしょうか。どちらにしても、『今』という時間しかないと思って生きていくことが出来れば、運命などに頼らずに生きていけるかもしれませんね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、あの「13階段」で江戸川乱歩賞を受賞してデビューした高野和明の、デビュー直後に書いた短編を含む短編集となっています。
山葉圭史という、他人の未来のビジョンが見えてしまう男がすべての短編に登場しますが、しかし連作短編集というわけではなく、主人公は皆違います。
それぞれの内容を紹介しようと思います。
「6時間後に君は死ぬ」
あと6時間で25歳の誕生日を迎える原田美緒は、友達との待ち合わせに向かう途中で一人の男に声を掛けられた。江戸川圭史と名乗るその男は、あなたは6時間後に死にます、と告げたのだ。冗談だと思った美緒は相手にしなかったが、しかしその男の言っていることを信じざるおえない状況があり、詳しく話を聞くことにした。どうやら自分はナイフで刺されることになるらしい。美緒は自分の身を守るために犯人を探し出すことにした。
一方で警察は、女性が被害者となる通り魔事件の捜査をしている。これまでの被害者二人は、誕生日になった瞬間に殺されていることまた同じデートクラブで働いていたなどの共通点があったのだが…。
「時の魔法使い」
プロットライターという仕事をする朝岡未来は、毎回毎回採用されるかどうかも分からないプロットを書き続けている日々に疲れきっていた。脚本家になれる近道だと言われてこの道を走ってきたが、どうもうまく行きそうにない。お金にも困る生活で、未来の心は荒んでいた。
ある日未来は思い立った。子供の頃に住んでいた町へと行ってみよう。電車賃がもったいないが、しかし気分が晴れるなら安いものだ。
そうして久々に降り立った町で、未来はかつて不思議な出来事があった神社の防空壕へと行ってみた。防空壕で遊んでいたはずの未来は、丸一日神隠しに遭ったかのように姿をくらませてしまったのだ。向かった防空壕で未来は一人の女の子を見つけるのだが…。
「恋をしてはいけない日」
男と付き合ってはすぐに別れるというような淡白でつれない恋愛を繰り返してきた未亜は、久々に彼氏のいない時間を過ごすことになった。そんなある日、友人のつてで未来予知が出来るという男性と会ったのだが、その時に「水曜日にだけは恋をしてはいけないよ」と言われてしまった。
そしてその水曜日。交通事故を目撃した未亜はその場で気分が悪くなってしまった。それを介抱してくれた男性に恋をしてしまったことに気づいたのだ。まずい、水曜日に恋をしてしまった。でも、今までこんな恋愛を出来たことなんてなかった。この人と離れたくない…。
「ドールハウスのダンサー」
とある田舎の山奥にあるドールハウスを展示している美術館には、奇妙なドールハウスがある。20年前に作られたのに明らかに現代風のモチーフで、一人のダンサーを描いたいくつものドールハウスで成り立っているものだ。
その美術館には、館長の叔母の個人的な美術館なのだが、開館の時点で閉館の日が決まっているという奇妙な話もあった。しかも、最後の日にやってくる人のために作ったのだ、と。
香坂美帆はダンサーを目指して日々オーディションを繰り返している。実力がないわけではないと思うのだが、オーディションに通ったことはない。両親はダンサーを目指すことに反対だし、そもそも生活が結構厳しい。でも夢を諦めたくはない。
時々、デジャヴのような感覚に襲われることがある。あれは一体なんなんだろう。
「3時間後に僕は死ぬ」
結構披露宴のスタッフとして働き始めた原田美緒は、その日の招待客の中に「山葉圭史」の名前を見つけて喜んだ。やっと再会できる。
でも山葉と再会した美緒は、山葉から不吉なビジョンを聞かされることになる。
今から3時間後に僕はここで死ぬ。
今まで山葉のビジョンが外れたことはない。運命は変えられないのかもしれない。でも美緒は出来る限りのことをしたかった。山葉と二人で未来を変えるべく、思いつく限りの可能性を潰していくのだけど…。
「エピローグ 未来の日記帳」
小道具屋で見つけた日記帳に書かれていた不思議な日記の話。
という感じです。
僕は、高野和明のデビュー作の「13階段」を読んでかなり素晴らしい作品だと思ったわけですが、この作品もかなりいい作品だと思いました。
未来予知というコンセプトをいろんな方向に転化させて違った物語をいくつも作るというのはなかなかすごいもので、しかもどの話もミステリとして非常に良く出来ているという感じがします。いやお見事でした。
一番好きなのは「恋をしてはいけない日」です。これは素晴らしいと思いました。こう途中で鮮やかに物語が反転するその快感というのを味あわせてくれる作品でした。
あと「6時間後に君は死ぬ」と「3時間後に僕は死ぬ」の二つもかなりいいです。どちらも、未来に誰かが死ぬのだけどそれをなんとか阻止しようとする話で、この二つもミステリとして非常に良く出来ている作品でした。特に「6時間後」の方は、冒頭の設定でグググッと惹きつけられてしまいました。「3時間後」の方も、短編の中でいくつかのストーリーが折り重なっていて素晴らしいと思いました。
あとミステリ的ではないけど、「時の魔法使い」もよかったです。心が荒んでいる主人公を自分自身で癒す物語で、ふんわりとしたいい話です。
全体の中では「ドールハウスの中のダンサー」があんまり面白くなかったかなと思うけど、でもそれでも作品全体のレベルを下げるようなものではないと思います。
それぞれの作品で、時間を改変できる立場にいる人間が悩む場面が出てきます。運命に逆らって変えていいのかとか、未来を知っているからこそ余計なことをしているのだろうかとか。現実的には未来予知というのはなかなか出来ないわけで、となれば持ちようのない悩みではあるのだけど、でも考えてみるのも面白いかもしれないな、と思いました。
僕はすごく面白い作品だと思いました。是非とも読んで欲しいと思います。高野和明は未だに健在だなぁ、と思いました。
高野和明「6時間後に君は死ぬ」
ウランバーナの森(奥田英朗)
死んだ人間に会えるとしたら…という質問が意味を成すくらいまでまだ生きてはいけないので、なかなか答えることは難しい。
自分の人生の中で多少なりとも関わりのあった死といえば、高校時代に同級生の父親が自殺したこと、大学時代の先輩が死んだこと、そして祖父が死んだこと。多いのか少ないのか判断できないが、そう多くはないだろうと思う。
人が死ぬというのはかなり大きな出来事であるような気がするのだが、正直言って大抵の場合そうでもない。もちろん世の中には、海の向こうの子供たちが死んだというニュースを見るだけで自分のことのように心を痛めることが出来る人もいるのだろうけど、僕はそういう人間ではない。多少知っている程度の人間であればそこまで悲しいと思わないだろうし、よく知っている人間でも、付き合いが絶えていたら同じかもしれない。本当に、ごくごく身近な人間が死んで、ようやくその死を意識することが出来ると思うし、何かを実感できるのだろうと思う。
だから、死んだ人間に会いたいという感覚を自分が持つことになるのか、それはちょっと分からない。
幽霊や霊魂はいるのかという話はする気はないのでそういう非科学的だというような議論はひとまず置いておいて、何らかの形で死者と会うことが出来るとして、それを自分は望むだろうか。
信憑性はともかくとして、例えばイタコのような人に会って死んだ人間を読んで欲しいというような感覚を、僕は持つことがあるだろうか。
いや、それはないだろうなとやはり思うのである。
死んだ人間はもう死んでしまっているわけで、そこで自分との関係は切れている、と僕は思うのだ。例えば極端な話、自分の過ちによって誰かを死なせてしまったとしても、その死なせた当人に対して強く何かを思うことはないかもしれない。もう死んでしまっているからである。考えたり悩んだりしても仕方がないのだ。相手に届くわけがないし、死んでしまった時点で関係性がもはや変わらないことが決定してしまっているのである。そういう風に強く考えているからこそ、死者と会って許してもらいたいとかそういう感覚にはならないのだろうな、と思います。もちろん今言ったケースであれば、自分が死なせてしまった相手の家族や友人なんかには当然申し訳ないと思うだろうけど、死んだ本人についてはもはや考えても仕方がないと思うだろうということです。
日本にはお盆という習慣があって、まあ先祖の霊が戻ってくる時期だとされている。田舎ではまだまだどうか知らないけど、少なくとも僕の周囲ではお盆というのはただの長期休暇であり、墓参りがどうとか先祖がどうとかというようなことにはならないのだが、しかしお盆に帰省して墓参りをするという人はまだいるだろう。
先祖を大切にするという感覚はいいと思うしもちろん決して悪いものではないのだろうけど、しかし僕は死んだ人間なんかに囚われたくないと思う。もちろん、お盆の習慣を継続している人だって、年中先祖のことを考えているわけではないはずだし、年に一回お盆という時期があるからこそ、ならその時期ぐらいは先祖のことを考えてあげましょうかね、ということなんだと思うのだけど、それぐらいのことでも僕は厭だなぁ、と思うのだ。
死んでまで、誰かの心に残りたくはない、と思ってしまうのだ。なんか未練がましいし、そもそも生きている人間は死んでいる人間なんかに囚われている場合ではないと思うのだ。死んだら、肉体と共に記憶や思い出もあっさり消去してしまう。ふと思い出すようなことはあったとしても、死んだ人間のことを意識的に考えたりしない。
それくらいのあり方がいいなぁ、と僕なんかは思ってしまいます。
死者がお盆に戻ってくるのは、誰か呼ぶ人間がいるからだということのようです。お盆に限らず、幽霊や霊魂というのは、それを求める人間、呼ぶ人間がいるからこそ存在するものだと思います。呼ばれる側だって、まあいい迷惑かもしれないですしね。
まあ、死んだ人間のことなど忘れてしまえばいい、という僕のこの発想は、薄情で冷たいものでしょうか?
そろそろ内容に入ろうと思います。
世界中で愛され、世界中にファンを持ち、世界を大いに熱狂させ続けた四人組のロックバンドの一人であったジョンは、1979年のその夏4度目の日本での滞在となった。日本の避暑地として知られる軽井沢で、妻のケイコと息子と共にゆったりと日々を過ごすことにしたのである。まあケイコはここで執筆活動を同時にすることにしたらしいけど。
音楽活動を完全に止めてしまったジョンは、作るべき音楽もなく、聞かせるべき音楽もなく、ただ漫然とゆったりとのんびりと日々を過ごせばいい…はずだった。
しかし、ありえない便秘と謎の発作によって苦しめられることとなった。いくらきばっても出てくる気配のまったくないしつこい便秘と、息が苦しくなり心臓が早鳴りするような動悸が襲ってきて、ついにジョンは病院に行くことにした。
その病院は、夏だけ軽井沢で開業するという変わった病院で、しかも森の奥の人目につかないところにあった。不思議な感じもしたが、その病院に行くと気が楽になるのでジョンは病院通いが日課になった。
そしてもう一つ日課になったことが。
病院からの帰り道に、過去からの亡霊がジョンを訪れるのだ。かつてジョンは横暴な人間であり、多くの人間をむやみやたらに傷つけてきた。その被害を受けた人々が、お盆だからなのか、ジョンの前に次々と姿を現して…。
というような話です。
恥ずかしながらわたくし、このジョンが誰なのか最後まで分からず、著者によるあとがきを見てようやく分かるという体たらくでした。なるほど僕はその四人組について特にくわしくはないのだけど、それっぽい感じは随所にあったかもなぁ、と思ったりもしました。
この作品で著者がやろうとしたことというのは、だからものすごいことですね。実在の人物の空白の期間のストーリーをフィクションで埋めてしまおうというその試みはすごいと思うし、成功しているのかどうか僕にはちゃんとは判断できないけど、しかしその試みと同時に小説としての面白さも追及しているわけで、お見事というしかないな、と思いました。
現在の奥田英朗というのは、かなりユーモアにいろんなものを描くという作風だと思うけど、もちろんその片鱗は随所に見えるのだけど、でもちょっと今の作風とは違う感じがします。まあそのあとであの「最悪」を書くわけで、作風が固定していなかったのだろうなとも思うのだけど、でもこういうのもなかなかいいと思います。特に最後の最後でジョンの正体が分かると、全編を貫いてジョンがしてきた間抜けなことがさらにマヌケに思えてきて面白いな、と思いました。
本作中には、どこか外国(恐らくイギリス)の回想シーンみたいなものが結構出てきて、知識のない僕としてはそこまで面白いと思える場面ではなかったのだけど、知っている人が読めばきっと面白いのでしょうね。本作を読むと、何となく彼らについて知った気になれるかもしれないな、と思いました。
しかしあのジョンに、全編便秘で悩ます役を与えるとは…。奥田英朗のセンスはすごいですね。もちろん、ジョンの大ファンとかからすればかなりムカツク描き方なにかもしれないけど、僕は逆にそういうところが無性にリアリティみたいなものを感じさせていいなぁ、と思いました。あのジョンがひと夏ひたすら便秘で悩んでいたなんて…、もちろん実際そんなことはなかっただろうけど、想像すると楽しいですね。
そんなわけで、今や押しも押されぬ人気作家になった奥田英朗のデビュー作です。現在の片鱗を感じさせながらも微妙に作風の違うなかなか新鮮な作品だなと僕は思いました。誰もが知っているあのジョンに親近感を感じることも出来るでしょう。しかも便秘ですからね。ホント、面白いですよ。是非読んでみてください。
奥田英朗「ウランバーナの森」
自分の人生の中で多少なりとも関わりのあった死といえば、高校時代に同級生の父親が自殺したこと、大学時代の先輩が死んだこと、そして祖父が死んだこと。多いのか少ないのか判断できないが、そう多くはないだろうと思う。
人が死ぬというのはかなり大きな出来事であるような気がするのだが、正直言って大抵の場合そうでもない。もちろん世の中には、海の向こうの子供たちが死んだというニュースを見るだけで自分のことのように心を痛めることが出来る人もいるのだろうけど、僕はそういう人間ではない。多少知っている程度の人間であればそこまで悲しいと思わないだろうし、よく知っている人間でも、付き合いが絶えていたら同じかもしれない。本当に、ごくごく身近な人間が死んで、ようやくその死を意識することが出来ると思うし、何かを実感できるのだろうと思う。
だから、死んだ人間に会いたいという感覚を自分が持つことになるのか、それはちょっと分からない。
幽霊や霊魂はいるのかという話はする気はないのでそういう非科学的だというような議論はひとまず置いておいて、何らかの形で死者と会うことが出来るとして、それを自分は望むだろうか。
信憑性はともかくとして、例えばイタコのような人に会って死んだ人間を読んで欲しいというような感覚を、僕は持つことがあるだろうか。
いや、それはないだろうなとやはり思うのである。
死んだ人間はもう死んでしまっているわけで、そこで自分との関係は切れている、と僕は思うのだ。例えば極端な話、自分の過ちによって誰かを死なせてしまったとしても、その死なせた当人に対して強く何かを思うことはないかもしれない。もう死んでしまっているからである。考えたり悩んだりしても仕方がないのだ。相手に届くわけがないし、死んでしまった時点で関係性がもはや変わらないことが決定してしまっているのである。そういう風に強く考えているからこそ、死者と会って許してもらいたいとかそういう感覚にはならないのだろうな、と思います。もちろん今言ったケースであれば、自分が死なせてしまった相手の家族や友人なんかには当然申し訳ないと思うだろうけど、死んだ本人についてはもはや考えても仕方がないと思うだろうということです。
日本にはお盆という習慣があって、まあ先祖の霊が戻ってくる時期だとされている。田舎ではまだまだどうか知らないけど、少なくとも僕の周囲ではお盆というのはただの長期休暇であり、墓参りがどうとか先祖がどうとかというようなことにはならないのだが、しかしお盆に帰省して墓参りをするという人はまだいるだろう。
先祖を大切にするという感覚はいいと思うしもちろん決して悪いものではないのだろうけど、しかし僕は死んだ人間なんかに囚われたくないと思う。もちろん、お盆の習慣を継続している人だって、年中先祖のことを考えているわけではないはずだし、年に一回お盆という時期があるからこそ、ならその時期ぐらいは先祖のことを考えてあげましょうかね、ということなんだと思うのだけど、それぐらいのことでも僕は厭だなぁ、と思うのだ。
死んでまで、誰かの心に残りたくはない、と思ってしまうのだ。なんか未練がましいし、そもそも生きている人間は死んでいる人間なんかに囚われている場合ではないと思うのだ。死んだら、肉体と共に記憶や思い出もあっさり消去してしまう。ふと思い出すようなことはあったとしても、死んだ人間のことを意識的に考えたりしない。
それくらいのあり方がいいなぁ、と僕なんかは思ってしまいます。
死者がお盆に戻ってくるのは、誰か呼ぶ人間がいるからだということのようです。お盆に限らず、幽霊や霊魂というのは、それを求める人間、呼ぶ人間がいるからこそ存在するものだと思います。呼ばれる側だって、まあいい迷惑かもしれないですしね。
まあ、死んだ人間のことなど忘れてしまえばいい、という僕のこの発想は、薄情で冷たいものでしょうか?
そろそろ内容に入ろうと思います。
世界中で愛され、世界中にファンを持ち、世界を大いに熱狂させ続けた四人組のロックバンドの一人であったジョンは、1979年のその夏4度目の日本での滞在となった。日本の避暑地として知られる軽井沢で、妻のケイコと息子と共にゆったりと日々を過ごすことにしたのである。まあケイコはここで執筆活動を同時にすることにしたらしいけど。
音楽活動を完全に止めてしまったジョンは、作るべき音楽もなく、聞かせるべき音楽もなく、ただ漫然とゆったりとのんびりと日々を過ごせばいい…はずだった。
しかし、ありえない便秘と謎の発作によって苦しめられることとなった。いくらきばっても出てくる気配のまったくないしつこい便秘と、息が苦しくなり心臓が早鳴りするような動悸が襲ってきて、ついにジョンは病院に行くことにした。
その病院は、夏だけ軽井沢で開業するという変わった病院で、しかも森の奥の人目につかないところにあった。不思議な感じもしたが、その病院に行くと気が楽になるのでジョンは病院通いが日課になった。
そしてもう一つ日課になったことが。
病院からの帰り道に、過去からの亡霊がジョンを訪れるのだ。かつてジョンは横暴な人間であり、多くの人間をむやみやたらに傷つけてきた。その被害を受けた人々が、お盆だからなのか、ジョンの前に次々と姿を現して…。
というような話です。
恥ずかしながらわたくし、このジョンが誰なのか最後まで分からず、著者によるあとがきを見てようやく分かるという体たらくでした。なるほど僕はその四人組について特にくわしくはないのだけど、それっぽい感じは随所にあったかもなぁ、と思ったりもしました。
この作品で著者がやろうとしたことというのは、だからものすごいことですね。実在の人物の空白の期間のストーリーをフィクションで埋めてしまおうというその試みはすごいと思うし、成功しているのかどうか僕にはちゃんとは判断できないけど、しかしその試みと同時に小説としての面白さも追及しているわけで、お見事というしかないな、と思いました。
現在の奥田英朗というのは、かなりユーモアにいろんなものを描くという作風だと思うけど、もちろんその片鱗は随所に見えるのだけど、でもちょっと今の作風とは違う感じがします。まあそのあとであの「最悪」を書くわけで、作風が固定していなかったのだろうなとも思うのだけど、でもこういうのもなかなかいいと思います。特に最後の最後でジョンの正体が分かると、全編を貫いてジョンがしてきた間抜けなことがさらにマヌケに思えてきて面白いな、と思いました。
本作中には、どこか外国(恐らくイギリス)の回想シーンみたいなものが結構出てきて、知識のない僕としてはそこまで面白いと思える場面ではなかったのだけど、知っている人が読めばきっと面白いのでしょうね。本作を読むと、何となく彼らについて知った気になれるかもしれないな、と思いました。
しかしあのジョンに、全編便秘で悩ます役を与えるとは…。奥田英朗のセンスはすごいですね。もちろん、ジョンの大ファンとかからすればかなりムカツク描き方なにかもしれないけど、僕は逆にそういうところが無性にリアリティみたいなものを感じさせていいなぁ、と思いました。あのジョンがひと夏ひたすら便秘で悩んでいたなんて…、もちろん実際そんなことはなかっただろうけど、想像すると楽しいですね。
そんなわけで、今や押しも押されぬ人気作家になった奥田英朗のデビュー作です。現在の片鱗を感じさせながらも微妙に作風の違うなかなか新鮮な作品だなと僕は思いました。誰もが知っているあのジョンに親近感を感じることも出来るでしょう。しかも便秘ですからね。ホント、面白いですよ。是非読んでみてください。
奥田英朗「ウランバーナの森」
シシリエンヌ(嶽本野ばら)
しかし、今回の感想はちょっと書くのがなぁ…。
まさかこんな話だとは…。
…。
何によって満足を得るかというのは人それぞれ違っている。食事によって満たされたり、友人によって満たされたり、恋人によって満たされたり、娯楽によって満たされたり、まあいろいろとあるだろう。
世の中には、セックスでなければ満たされないという人がいるようである。セックスが人生のすべてであって、それがなくなってしまうことは考えられない、とう人である。
うーむ、この話を続けて書いていくのはどうかなぁ。
僕の印象では、そういう人は女性に多いような感じがする。男だってもちろん、セックスは快感だししたいと思うだろうけど、しかしそれは突き詰められば気持ちいいからであるというそれだけの理由でしかない。やりたいからやる、ということであって、つまりそれがなくてはどこか満たされない部分があるというようなものではないと思うのである。
しかし女性の中には、セックスをしなくては絶対に満たされない部分が自分の中にはある、というような人がいるような気がする。その部分は、他の何によっても生めることは出来ないし、埋めることが出来ないのなら欠落として認識されてしまうような場所である。そういう女性は、もちろん快楽を求めるためにセックスをするのだろうけど、しかしそれ以上に、その欠落を埋めたい、満たされたい、という強迫観念みたいなものに支配されているような気がするし、セックスがなくては生きていけないのだろうな、という感じがしてしまう。
僕の価値観では、人生の大部分がセックスによって占められてしまうというのは、ちょっと厭だなと思うのである。甘ったれたことを言うかもしれないけれども、やはり体と体の関係というのは、直接過ぎて安易であるが故に脆いような気がするし、その脆弱さの上にすべての快楽を並べ立てなくてはいけないという不安定感があんまり得意ではないのだと思う。いやもちろんこれは、セックスが嫌いだというような話ではなくて、セックスによって人生が占められるのは厭だという話だけれども。
どんな形から入ろうが、どんな形で継続されていこうが恋愛は恋愛だと思うけど、しかし体と体の関係によって強く固定されてしまった恋愛というのはある意味で不幸ではないのかとも思う。単純で分かりやすいが故に、体と体の関係は引き剥がすことが難しい。体によって心が支配されるようになってしまえば、より間違った方向へと進んでしまっているような感じになってしまうような気がするのだ。
まあ僕にはセックスをするような機会はそうないので全然大丈夫なのだけど、まあこれからもセックスはあくまで人生の脇役、決して主役にはなりえないというような生き方をしていこうと、まあそんなことを思いました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
一人の男が、かつて愛した貴方との回想録を綴るという形式で物語が進んでいきます。
ただの高校生であった主人公は、常に叔母が経営する美容院で髪を切ってもらっていたが、ある日その美容院に、パリから10年ぶりに戻ってきたという美貌の従姉妹がいた。いろいろとあって彼女と関係を持つことになってしまった。深く深く絡めとるようにして快楽の世界へと溺れさせていく従姉妹に、僕は虜になっていく。
しかしある出来事をきっかけに事態は一変する。二人の関係の崩壊の音が、少しずつ大きくなっていく…。
というような話です。
本作中半分近くがセックスの描写ではないかという感じなのだけど、セックスしてるのを文字で読むのはいかんな、ととにかく思いました。
いやもちろん、興奮しようという目的であれば別に問題はないんです。そういう目的のために、セックスの描写のある文章を読めば、まあそれはそれでいいかもしれません。
しかしセックスの描写を読んでいても、どうしても読書をしているという気分にならないわけです。興奮させるという目的にはいいかもしれないけど、読書を愉しむという点では本作はちょっとキツイな、という風に感じました。
ホントとにかく執拗にセックスの描写が続く作品で、途中でうんざりしてきます。まあ作品全体の性質を考えると、そういう描写は必然であるのかもしれないのだけど、それにしてもという感じがしました。
従姉妹のキャラクターはなかなかに魅力的であるし、後半に出てくる館という設定もまあ悪くはないのかもしれないけど、しかし全体としてどうにも好きにはなれない作品でした。あと、最後の結末は…まああれも一つの終わらせ方だとは思うけど、どうもなぁという気もします。
まあそんなわけで、ちょっとオススメ出来ない作品です。別の嶽本野ばら作品を読むことをオススメします。
嶽本野ばら「シシリエンヌ」
まさかこんな話だとは…。
…。
何によって満足を得るかというのは人それぞれ違っている。食事によって満たされたり、友人によって満たされたり、恋人によって満たされたり、娯楽によって満たされたり、まあいろいろとあるだろう。
世の中には、セックスでなければ満たされないという人がいるようである。セックスが人生のすべてであって、それがなくなってしまうことは考えられない、とう人である。
うーむ、この話を続けて書いていくのはどうかなぁ。
僕の印象では、そういう人は女性に多いような感じがする。男だってもちろん、セックスは快感だししたいと思うだろうけど、しかしそれは突き詰められば気持ちいいからであるというそれだけの理由でしかない。やりたいからやる、ということであって、つまりそれがなくてはどこか満たされない部分があるというようなものではないと思うのである。
しかし女性の中には、セックスをしなくては絶対に満たされない部分が自分の中にはある、というような人がいるような気がする。その部分は、他の何によっても生めることは出来ないし、埋めることが出来ないのなら欠落として認識されてしまうような場所である。そういう女性は、もちろん快楽を求めるためにセックスをするのだろうけど、しかしそれ以上に、その欠落を埋めたい、満たされたい、という強迫観念みたいなものに支配されているような気がするし、セックスがなくては生きていけないのだろうな、という感じがしてしまう。
僕の価値観では、人生の大部分がセックスによって占められてしまうというのは、ちょっと厭だなと思うのである。甘ったれたことを言うかもしれないけれども、やはり体と体の関係というのは、直接過ぎて安易であるが故に脆いような気がするし、その脆弱さの上にすべての快楽を並べ立てなくてはいけないという不安定感があんまり得意ではないのだと思う。いやもちろんこれは、セックスが嫌いだというような話ではなくて、セックスによって人生が占められるのは厭だという話だけれども。
どんな形から入ろうが、どんな形で継続されていこうが恋愛は恋愛だと思うけど、しかし体と体の関係によって強く固定されてしまった恋愛というのはある意味で不幸ではないのかとも思う。単純で分かりやすいが故に、体と体の関係は引き剥がすことが難しい。体によって心が支配されるようになってしまえば、より間違った方向へと進んでしまっているような感じになってしまうような気がするのだ。
まあ僕にはセックスをするような機会はそうないので全然大丈夫なのだけど、まあこれからもセックスはあくまで人生の脇役、決して主役にはなりえないというような生き方をしていこうと、まあそんなことを思いました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
一人の男が、かつて愛した貴方との回想録を綴るという形式で物語が進んでいきます。
ただの高校生であった主人公は、常に叔母が経営する美容院で髪を切ってもらっていたが、ある日その美容院に、パリから10年ぶりに戻ってきたという美貌の従姉妹がいた。いろいろとあって彼女と関係を持つことになってしまった。深く深く絡めとるようにして快楽の世界へと溺れさせていく従姉妹に、僕は虜になっていく。
しかしある出来事をきっかけに事態は一変する。二人の関係の崩壊の音が、少しずつ大きくなっていく…。
というような話です。
本作中半分近くがセックスの描写ではないかという感じなのだけど、セックスしてるのを文字で読むのはいかんな、ととにかく思いました。
いやもちろん、興奮しようという目的であれば別に問題はないんです。そういう目的のために、セックスの描写のある文章を読めば、まあそれはそれでいいかもしれません。
しかしセックスの描写を読んでいても、どうしても読書をしているという気分にならないわけです。興奮させるという目的にはいいかもしれないけど、読書を愉しむという点では本作はちょっとキツイな、という風に感じました。
ホントとにかく執拗にセックスの描写が続く作品で、途中でうんざりしてきます。まあ作品全体の性質を考えると、そういう描写は必然であるのかもしれないのだけど、それにしてもという感じがしました。
従姉妹のキャラクターはなかなかに魅力的であるし、後半に出てくる館という設定もまあ悪くはないのかもしれないけど、しかし全体としてどうにも好きにはなれない作品でした。あと、最後の結末は…まああれも一つの終わらせ方だとは思うけど、どうもなぁという気もします。
まあそんなわけで、ちょっとオススメ出来ない作品です。別の嶽本野ばら作品を読むことをオススメします。
嶽本野ばら「シシリエンヌ」
爆笑問題 太田光自伝(太田光)
僕はお笑い芸人というのは結構すごいと思っているのである。
世の中には様々な表現手段というものがあって、絵や音楽や映画や小説やその他もろもろ様々あるのだけど、その中にあって、お笑いというのはもっとも難しくてハードルの高いものなのではないか、と僕は思っているわけです。
東野圭吾という作家の作品に「毒笑小説」という本があるのだけど、その巻末に京極夏彦との対談が載っているのだけど、そこで「笑い」についての話がされている。泣かせることよりも感動させることよりも、とにかく笑わせる小説を書くのは本当に大変だという話だった。しかもそれほど大変であるのに、笑える小説の評価というのは低いという話もあった。確かに、泣けるとか感動できるという部分ばかりがもてはやされているような気がする。
と話はずれたけれども、そんなわけで「笑わせる」というのはどんな分野の表現を用いても困難なのだろうと思うのです。小説でも演劇でも映画でも、ましてや音楽や絵なんかでも、とにかく笑わせるというのはハードルが高いことだと思います。
お笑い芸人というのは、笑わせることだけを目指して表現を磨いている人達なわけで、それはすごいだろう、と思うわけです。
僕はそこまでお笑い芸人に詳しくないし、そういう番組やライブなんかもあんまり見たことがないのだけど、それでもテレビなんかを見ていて、この人はすごいなぁと思うお笑い芸人はいたりする。
まずはダウンタウンの松本人志です。最近「大日本人」という映画を監督して、カンヌで大絶賛をかっさらったというような話があるけれども、お笑いに限らずあらゆる分野で才能を発揮していると思います。松本人志が書いた本も何作か読んだことがありますが、やっぱり普通とは感覚が違うのだな、と。どこがどうすごいのかということはうまく言えないのだけど、お笑いというのに限らず、何かを表現するということに絶大なる才能を発揮できる人なのだろうと思います。
あと島田紳助です。この人の喋りは本当にすごいなといつも思います。松本人志のような「表現者」という感じの芸人ではないですけど、とにかく頭の回転が速いと思うし、どんなことでも話術で笑いに持っていけるあの喋りは天才的だと思います。
そうしてもう一人。爆笑問題の太田光ですね。
この人は、テレビで見る度にふざけているような印象しかない人ですが、でも「表現者」という意味でかなりすごい人なんだろうなと思います。テレビで見せるふざけた面と、テレビ以外の場で見せる真面目な面とが違和感なく共存している感じです。しかも、その真面目な面というのが最近かなり多方面に渡って活動を広げていて、お笑いだけではなくて政治的な部分への発言力みたいなものも有してきているような感じがします。すごいものだ、と思います。
お笑い芸人というのは、とにかくいかに表現するか、そしてそれによっていかに笑いを取るかということを考えているわけで、だからこそ表現するということに人一倍強い関心があるのだろうと思います。最近お笑い芸人がお笑いの世界に留まらずにあらゆる分野で活躍する機会が増えてきて、役者をやる人間とか小説を書く人間とかが出てきています。僕は本当に、お笑い芸人で一流であるということは、表現者として一流であるのだろうなという風に感じるし、その才能や感性を羨ましく思ったりします。
昔は、何か表現したいことがあれば文学に傾倒するしかなかったでしょう。自分の思っていること、悩んでいること、考えていることを、いかに文学という枠に落とし込むかということで表現者となりえたのだろうと思います。しかし現代では、何か表現したいことがあればお笑い芸人になるというのもある意味正しい道のような気がします。そこで一流と認められれば、恐らく他のどんな表現の分野でも活躍することが出来るでしょう。まあ、芸人の道は厳しいみたいですけどね…。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、インタビュー形式で進行する、太田光の自伝になっています。0歳から35歳までのそれぞれの年代を振り返って話を聞く、というスタイルを取っています。単行本で出た時は、「カラス」というタイトルだったようです。
読むと、相変わらず適当なこと書いてるなぁ、とか思いますね。だって0歳の頃の記憶とか普通ないじゃないですか(まあ生まれた時の記憶がある人もいるらしいけど)。どこまでホントなのかよくわからないのだけど、まだまだ意識もちゃんとしているのかも危ういような年代の頃の感情なんかを答えていて、ホントかよ、とか思ってしまいました。
それにしても、太田光の記憶力というのはすごいもので、小学校中学校の頃の同級生の名前を今でもすべて言えるらしいし、その当時の出来事も詳細に覚えているらしいです。すごいですね。僕なんか、2,3人思い出せれば御の字と言ったところでしょうか。当時の出来事なんかほぼ覚えていません。
逆に、高校時代のことはスポンと抜け落ちているようです。よく話に聞くように。無茶苦茶暗い高校時代だったようで、高校時代ほとんど誰とも喋らなかったというからすごいですね。
とまあそんな感じで年代ごとにいろいろと話をしていくのだけど、いくつもの細かなエピソードを積み重ねていくことで(まあそれがホントの話なのかどうかは怪しいのだけど)、太田光という人間を一から再構成しているような感じで、読んでて面白かったなぁ、と思います。
芸人になってからのことも、田中とは違っていろいろ考えているんだなぁとか(笑)、やはり表現者としてやりたいことはたくさんあるのだなぁとか思いながら読みました。特に、昔は映画を撮ることに興味があったようだけど、最近は小説に興味があるようで、もし出るなら読んでみたいですね。まあ芸人の小説がいろいろ出ていてそれに乗っかったみたいな形に見られそうだけど、でもありとあらゆる文学作品を読み倒している太田光の場合、やはりバックボーンが違うだろうから、そこらの芸人作家とは大きく違った作品になるのでしょうね。まあ楽しみにしておこうと思います。でも案外、人と同じことをしてても仕方ないとかなんとか言って、結局書かなそうだけど。
これからどんな分野で活躍していくのか結構楽しみな芸人ですけど、まあいろいろと暴れまわって欲しいなと思いますね。僕はまあ普通からかなり外れた異端児が好きなんですけど、これからも異端児っぷりを発揮していってほしいなと思います。
まあそんなわけで、軽く読めてなかなか面白い本だと思います。太田光をテレビで何回か見たことある、みたいな人でも、読めば面白いと思いますよ。
太田光「爆笑問題 太田光自伝」
爆笑問題 太田光自伝文庫
世の中には様々な表現手段というものがあって、絵や音楽や映画や小説やその他もろもろ様々あるのだけど、その中にあって、お笑いというのはもっとも難しくてハードルの高いものなのではないか、と僕は思っているわけです。
東野圭吾という作家の作品に「毒笑小説」という本があるのだけど、その巻末に京極夏彦との対談が載っているのだけど、そこで「笑い」についての話がされている。泣かせることよりも感動させることよりも、とにかく笑わせる小説を書くのは本当に大変だという話だった。しかもそれほど大変であるのに、笑える小説の評価というのは低いという話もあった。確かに、泣けるとか感動できるという部分ばかりがもてはやされているような気がする。
と話はずれたけれども、そんなわけで「笑わせる」というのはどんな分野の表現を用いても困難なのだろうと思うのです。小説でも演劇でも映画でも、ましてや音楽や絵なんかでも、とにかく笑わせるというのはハードルが高いことだと思います。
お笑い芸人というのは、笑わせることだけを目指して表現を磨いている人達なわけで、それはすごいだろう、と思うわけです。
僕はそこまでお笑い芸人に詳しくないし、そういう番組やライブなんかもあんまり見たことがないのだけど、それでもテレビなんかを見ていて、この人はすごいなぁと思うお笑い芸人はいたりする。
まずはダウンタウンの松本人志です。最近「大日本人」という映画を監督して、カンヌで大絶賛をかっさらったというような話があるけれども、お笑いに限らずあらゆる分野で才能を発揮していると思います。松本人志が書いた本も何作か読んだことがありますが、やっぱり普通とは感覚が違うのだな、と。どこがどうすごいのかということはうまく言えないのだけど、お笑いというのに限らず、何かを表現するということに絶大なる才能を発揮できる人なのだろうと思います。
あと島田紳助です。この人の喋りは本当にすごいなといつも思います。松本人志のような「表現者」という感じの芸人ではないですけど、とにかく頭の回転が速いと思うし、どんなことでも話術で笑いに持っていけるあの喋りは天才的だと思います。
そうしてもう一人。爆笑問題の太田光ですね。
この人は、テレビで見る度にふざけているような印象しかない人ですが、でも「表現者」という意味でかなりすごい人なんだろうなと思います。テレビで見せるふざけた面と、テレビ以外の場で見せる真面目な面とが違和感なく共存している感じです。しかも、その真面目な面というのが最近かなり多方面に渡って活動を広げていて、お笑いだけではなくて政治的な部分への発言力みたいなものも有してきているような感じがします。すごいものだ、と思います。
お笑い芸人というのは、とにかくいかに表現するか、そしてそれによっていかに笑いを取るかということを考えているわけで、だからこそ表現するということに人一倍強い関心があるのだろうと思います。最近お笑い芸人がお笑いの世界に留まらずにあらゆる分野で活躍する機会が増えてきて、役者をやる人間とか小説を書く人間とかが出てきています。僕は本当に、お笑い芸人で一流であるということは、表現者として一流であるのだろうなという風に感じるし、その才能や感性を羨ましく思ったりします。
昔は、何か表現したいことがあれば文学に傾倒するしかなかったでしょう。自分の思っていること、悩んでいること、考えていることを、いかに文学という枠に落とし込むかということで表現者となりえたのだろうと思います。しかし現代では、何か表現したいことがあればお笑い芸人になるというのもある意味正しい道のような気がします。そこで一流と認められれば、恐らく他のどんな表現の分野でも活躍することが出来るでしょう。まあ、芸人の道は厳しいみたいですけどね…。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、インタビュー形式で進行する、太田光の自伝になっています。0歳から35歳までのそれぞれの年代を振り返って話を聞く、というスタイルを取っています。単行本で出た時は、「カラス」というタイトルだったようです。
読むと、相変わらず適当なこと書いてるなぁ、とか思いますね。だって0歳の頃の記憶とか普通ないじゃないですか(まあ生まれた時の記憶がある人もいるらしいけど)。どこまでホントなのかよくわからないのだけど、まだまだ意識もちゃんとしているのかも危ういような年代の頃の感情なんかを答えていて、ホントかよ、とか思ってしまいました。
それにしても、太田光の記憶力というのはすごいもので、小学校中学校の頃の同級生の名前を今でもすべて言えるらしいし、その当時の出来事も詳細に覚えているらしいです。すごいですね。僕なんか、2,3人思い出せれば御の字と言ったところでしょうか。当時の出来事なんかほぼ覚えていません。
逆に、高校時代のことはスポンと抜け落ちているようです。よく話に聞くように。無茶苦茶暗い高校時代だったようで、高校時代ほとんど誰とも喋らなかったというからすごいですね。
とまあそんな感じで年代ごとにいろいろと話をしていくのだけど、いくつもの細かなエピソードを積み重ねていくことで(まあそれがホントの話なのかどうかは怪しいのだけど)、太田光という人間を一から再構成しているような感じで、読んでて面白かったなぁ、と思います。
芸人になってからのことも、田中とは違っていろいろ考えているんだなぁとか(笑)、やはり表現者としてやりたいことはたくさんあるのだなぁとか思いながら読みました。特に、昔は映画を撮ることに興味があったようだけど、最近は小説に興味があるようで、もし出るなら読んでみたいですね。まあ芸人の小説がいろいろ出ていてそれに乗っかったみたいな形に見られそうだけど、でもありとあらゆる文学作品を読み倒している太田光の場合、やはりバックボーンが違うだろうから、そこらの芸人作家とは大きく違った作品になるのでしょうね。まあ楽しみにしておこうと思います。でも案外、人と同じことをしてても仕方ないとかなんとか言って、結局書かなそうだけど。
これからどんな分野で活躍していくのか結構楽しみな芸人ですけど、まあいろいろと暴れまわって欲しいなと思いますね。僕はまあ普通からかなり外れた異端児が好きなんですけど、これからも異端児っぷりを発揮していってほしいなと思います。
まあそんなわけで、軽く読めてなかなか面白い本だと思います。太田光をテレビで何回か見たことある、みたいな人でも、読めば面白いと思いますよ。
太田光「爆笑問題 太田光自伝」
爆笑問題 太田光自伝文庫
鉄塔 武蔵野線(銀林みのる)
僕は出不精が服を着ているような人間なんですが、昨日は浅草の浅草寺で執り行われた三社祭に行ってみました。日曜日は惰眠を貪っているか本をダラダラ読んでいるだけの僕にしてはかなり珍しいことです。
朝から繰り出したんですがこれがなかなかの人出で、仲見世通りはもちろんのこと、ありとあらゆるところそこら中に人がうようよとのたっていました。出店もたくさん出ていて、また半被を着た老若男女が街中のあちこちに集っていて、お祭気分を盛りたてていました。
まあおみくじを引いたり(二回引いてみたんですけど、一回目が凶二回目が小吉とさんざんな結果でした)賽銭を投げてお参りをしたりとまあいろいろやっていたわけですけど、何よりも面白かったのがお神輿ですね。
街をあるけば神輿に当たる、と言っても言い過ぎではないくらいあちこちで神輿を見かけました。ふんどしに半被を着ただけの人々が、男も女も関係なく神輿を担いでいて、威勢のいい掛け声と共に街中を神輿が練り歩いているのはなかなか爽快なものでした。大きな道路も時間になれば車両通行が禁止になりそこを堂々と神輿が通るわけです。タイミング悪くその道に入ってくることになったバスが、お客さんを全員下ろして「回送」の表示を出していたのはかなり笑いました。すごいな、と思いました。
その神輿の周囲には、同じく半被を来たたくさんの人や観光客がひしめいていて、それはもう大変な状況になっていました。午前中に遭遇した神輿は、まだ朝早かったせいかまだそこまで人も多くなく、気軽な感じで追走してその喧騒に書き込まれていられたんですけど、午後になると急に人出が増して、道一杯に人が広がりちびりちびりとしか前進できないという状態になっていました。それでもそんな中で神輿を追いかけるのはなかなかに面白いものでした。
まあそんな三社祭だったわけですけど、何もまったく関係ない話を唐突にしているというわけではないのです。
その三社祭に一緒に行った子というのが結構変わった子で、仏像だとか寺だとか盆栽だとか、そういう割と渋めなものに興味を持つようなそんな子なわけです。
世の中にはまあ、いろんなものに興味を持つ人がいるわけで、そんな世界もあるのか!と驚くようなことがありますね。
ほら、繋がったでしょう?
世の中には本当に様々な趣味趣向を持っている人というのがいて、それは本当に幅広いよなぁとか思ってしまいます。
最近結構取りざたされるのは、鉄道マニアの人々ですね。「カラスヤサトシ」や「鉄子の旅」みたいなコミックも出ているし、関連書籍もたくさんあります(新書なんかで結構多いですね)。「電車でGO」(古いかな)みたいなゲームもあったし、鉄道の前景を映しただけのビデオも出ているし(以前「タモリ倶楽部」っていう番組でやっていた)、かなり認知されているだろうな、と思います。女性専用車両の存在と鉄道マニアの人の存在が相容れないというようなことも起こって(女性専用車両は先頭車両にあることが多いらしいんですけど、鉄道マニアの人はその先頭車両に乗って電車からの風景を楽しみたいわけです)、微妙に社会問題になったりもしていたりします。
まあそんなマイナーだけどメジャーになりつつあるようなものもあるけど、世の中には変わったものはまだまだありますね。
僕が知っている限りだと、廃工場マニアだとか(潰れた工場の跡地に入り写真を撮ったりする。写真集も出ていたりする)、ダムマニアだとか(石原良純がダムマニアらしいし、こちらも写真集が出ていたりする)などがあって、どこがいいのかわからない人間からしてみればよくわからない趣味趣向ではあるけれども、しかしやっている本人からすればすごく面白いのだろうし、誰とも共有できないとしてもやり続けるだけの価値があることなんだろうな、と思ったりします。
僕の場合、昔から何かに一筋ということはなくて、そういうマニア気質みたいなものはないみたいです。結構飽きっぽいしやり続けられない人間なので、割とすぐ諦めてしまいます。行動力もなければそもそもめんどくさがり屋なので、マニアにはなれないんでしょうね。
こういうマニア的な特質は、昔から結構男が持っているものだと言われます。コインや切手を蒐集したりするのも大抵男なら、何らかのマニアと言われる傾向は大抵男にあるようです。よくはわかりませんが、女性はそういう一つのことに集中したりするのが苦手なんでしょうか。まあそうだとすれば、僕も女性気質ということになるんでしょうけど。
でも最近は、女性でも結構マニア的な気質を持つ人が出てきているような気がします。よく分かりませんが、今までは何らかの形で抑圧されたりしていたのかもしれませんね。
さて本作でマニアの対象にされているものは、鉄塔です。僕も子供の頃は、近くにあった鉄塔に行ってはその異形を見ていたりその周辺で遊んだりみたいなことをしていたような気もしますが、だんだんとそんなこともなくなっていき、今では鉄塔というものを殊更に意識しないような生活になっています。まあそれはそれで何も困ることはないんですけど、なるほど鉄塔に興味を持つような人もいるのか、と新鮮な気持ちになりました。
価値観が多様化し、趣味趣向がありとあらゆる方向にどんどんと広がっていきました。しかもインターネットという発表の場があり、またインターネット上であれば仲間を見つけやすいということもあって、これからもどんどんと趣味趣向は拡散していく流れになるのだろうな、と思います。リアルな世界で話が合う人がどんどんいなくなってしまうかもしれませんね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
ミハルは子供の頃から鉄塔に魅せられていました。休日の度に父親は東京のいろんな鉄塔を見せに電車に乗せてくれたりしたものですが、その素晴らしさに見飽きるということはありませんでした。
夏休みが終われば別の学校に転校することになっているミハルは、夏休みの終わり頃にふと思いついたことがありました。
それは、自分の家の近くのあの鉄塔から電線伝いに鉄塔を追いかけていけば、どこに行くのだろう、というものでした。きっと、原子力発電所に違いない。そう決め込んだミハルは、鉄塔を順に追いかけていく旅に出ることを決断しました。
二歳年下のアキラを誘い、すべての鉄塔の下に王冠を埋めるというただそれだけの冒険のために、二人は1号の鉄塔を、そして原子力発電所を目指して自転車をこぎ続ける…。
というような話です。
全体をひと言で評すれば、とにかくシュールだ、ということです。ホント、先ほども話に出しましたが、深夜番組として昔から変わらないテイストでやり続けている「タモリ倶楽部」という番組に非常に似ている感じのする作品でした。
鉄塔を男性型鉄塔、女性型鉄塔、婆ちゃん鉄塔、怪獣鉄塔などと呼んでみたり、「結界」だの「蛹点」だの「ひがしでん」だのという新しい言葉を生み出したりして、とにかく鉄塔の魅力についてひたすらに語っているだけの作品なわけです。もちろん、ミハルとアキラの幼い子供にとっては大冒険であるその道程というのもストーリーとしては確かにあるんですけど、しかし全編を貫いているのは鉄塔への偏愛であり、それがすべてと言っても言い過ぎではないと思います。
正直、小説として面白いかどうかと言われると、まあ微妙だと言わざるおえないところです。ミハルとアキラのやり取りの妙みたいなものは結構いいですけど、鉄塔の外観やその美しさについて書かれてもあんまり興味が持てないし、結構読み飛ばしたりしてしまいました。それでも、鉄塔がすべて繋がっていて、その先がどこかにある、という風ロマンみたいなものは感じることが出来て、鉄塔一つ一つについてはちょっと共感は出来ないものの、鉄塔そのものについてはなるほど面白い対象かもしれななどと思ったりもしました。
本作は、日本ファンタジーノベル大賞を受賞した作品なんですが、その選評でも初めは結構戸惑いのようなものがあったみたいです。これは小説なのか、面白いのだろうか、と言った葛藤があったみたいです。しかし最終的には、世界初の「鉄塔文学」であり、評価すべき作品だということで意見の一致を見たようです。
その選評の中で、「これまで鉄塔を”見た”ことはなかったが、それをこの作品は”見せて”くれた」というようなものがあって、これはなるほどと思いました。確かに冒頭でも書いたように、普段僕も鉄塔のことなど意識していないし、視界に入ったとしても”見て”はいないものです。しかし本作を読むと、なるほど世界が変わったようで、恐らくこれからどこかで鉄塔を見かけるようなことがあれば、「あれは男性型だろうか女性型だろうか」などと考えてしまうことでしょう。そういう、今まで”見え”ていなかった新しい世界を切り開く作品なのだから素晴らしいのだ、という評価はなるほどそうかもしれないな、と思いました。
本作は著者自身が撮影したという鉄塔の写真が随所に掲載されていて、写真ありの小説などというのはかなり珍しいと思うのですごいなと思いました。また映画化もされたようで、撮影には著者自身もくっついて言ってあれこれ助言をしたとのことです。本当に鉄塔が好きな人なんだろうな、と思いました。
著者は本作以降本を出していないようですが、まあそれもしょうがないでしょうね。鉄塔への偏愛のために本を書いただけであって、小説家というものに興味があったわけではないのでしょう。
小説として面白いかどうかは非常に微妙ですが、しかしこういうマニアックなものへの偏愛を持っている人であればかなり共感することが出来る作品かもしれません。もちろん鉄塔好きであれば必読でしょう。まあ普通の人は、手を出さなくてもいい作品でしょう。
銀林みのる「鉄塔 武蔵野線」
朝から繰り出したんですがこれがなかなかの人出で、仲見世通りはもちろんのこと、ありとあらゆるところそこら中に人がうようよとのたっていました。出店もたくさん出ていて、また半被を着た老若男女が街中のあちこちに集っていて、お祭気分を盛りたてていました。
まあおみくじを引いたり(二回引いてみたんですけど、一回目が凶二回目が小吉とさんざんな結果でした)賽銭を投げてお参りをしたりとまあいろいろやっていたわけですけど、何よりも面白かったのがお神輿ですね。
街をあるけば神輿に当たる、と言っても言い過ぎではないくらいあちこちで神輿を見かけました。ふんどしに半被を着ただけの人々が、男も女も関係なく神輿を担いでいて、威勢のいい掛け声と共に街中を神輿が練り歩いているのはなかなか爽快なものでした。大きな道路も時間になれば車両通行が禁止になりそこを堂々と神輿が通るわけです。タイミング悪くその道に入ってくることになったバスが、お客さんを全員下ろして「回送」の表示を出していたのはかなり笑いました。すごいな、と思いました。
その神輿の周囲には、同じく半被を来たたくさんの人や観光客がひしめいていて、それはもう大変な状況になっていました。午前中に遭遇した神輿は、まだ朝早かったせいかまだそこまで人も多くなく、気軽な感じで追走してその喧騒に書き込まれていられたんですけど、午後になると急に人出が増して、道一杯に人が広がりちびりちびりとしか前進できないという状態になっていました。それでもそんな中で神輿を追いかけるのはなかなかに面白いものでした。
まあそんな三社祭だったわけですけど、何もまったく関係ない話を唐突にしているというわけではないのです。
その三社祭に一緒に行った子というのが結構変わった子で、仏像だとか寺だとか盆栽だとか、そういう割と渋めなものに興味を持つようなそんな子なわけです。
世の中にはまあ、いろんなものに興味を持つ人がいるわけで、そんな世界もあるのか!と驚くようなことがありますね。
ほら、繋がったでしょう?
世の中には本当に様々な趣味趣向を持っている人というのがいて、それは本当に幅広いよなぁとか思ってしまいます。
最近結構取りざたされるのは、鉄道マニアの人々ですね。「カラスヤサトシ」や「鉄子の旅」みたいなコミックも出ているし、関連書籍もたくさんあります(新書なんかで結構多いですね)。「電車でGO」(古いかな)みたいなゲームもあったし、鉄道の前景を映しただけのビデオも出ているし(以前「タモリ倶楽部」っていう番組でやっていた)、かなり認知されているだろうな、と思います。女性専用車両の存在と鉄道マニアの人の存在が相容れないというようなことも起こって(女性専用車両は先頭車両にあることが多いらしいんですけど、鉄道マニアの人はその先頭車両に乗って電車からの風景を楽しみたいわけです)、微妙に社会問題になったりもしていたりします。
まあそんなマイナーだけどメジャーになりつつあるようなものもあるけど、世の中には変わったものはまだまだありますね。
僕が知っている限りだと、廃工場マニアだとか(潰れた工場の跡地に入り写真を撮ったりする。写真集も出ていたりする)、ダムマニアだとか(石原良純がダムマニアらしいし、こちらも写真集が出ていたりする)などがあって、どこがいいのかわからない人間からしてみればよくわからない趣味趣向ではあるけれども、しかしやっている本人からすればすごく面白いのだろうし、誰とも共有できないとしてもやり続けるだけの価値があることなんだろうな、と思ったりします。
僕の場合、昔から何かに一筋ということはなくて、そういうマニア気質みたいなものはないみたいです。結構飽きっぽいしやり続けられない人間なので、割とすぐ諦めてしまいます。行動力もなければそもそもめんどくさがり屋なので、マニアにはなれないんでしょうね。
こういうマニア的な特質は、昔から結構男が持っているものだと言われます。コインや切手を蒐集したりするのも大抵男なら、何らかのマニアと言われる傾向は大抵男にあるようです。よくはわかりませんが、女性はそういう一つのことに集中したりするのが苦手なんでしょうか。まあそうだとすれば、僕も女性気質ということになるんでしょうけど。
でも最近は、女性でも結構マニア的な気質を持つ人が出てきているような気がします。よく分かりませんが、今までは何らかの形で抑圧されたりしていたのかもしれませんね。
さて本作でマニアの対象にされているものは、鉄塔です。僕も子供の頃は、近くにあった鉄塔に行ってはその異形を見ていたりその周辺で遊んだりみたいなことをしていたような気もしますが、だんだんとそんなこともなくなっていき、今では鉄塔というものを殊更に意識しないような生活になっています。まあそれはそれで何も困ることはないんですけど、なるほど鉄塔に興味を持つような人もいるのか、と新鮮な気持ちになりました。
価値観が多様化し、趣味趣向がありとあらゆる方向にどんどんと広がっていきました。しかもインターネットという発表の場があり、またインターネット上であれば仲間を見つけやすいということもあって、これからもどんどんと趣味趣向は拡散していく流れになるのだろうな、と思います。リアルな世界で話が合う人がどんどんいなくなってしまうかもしれませんね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
ミハルは子供の頃から鉄塔に魅せられていました。休日の度に父親は東京のいろんな鉄塔を見せに電車に乗せてくれたりしたものですが、その素晴らしさに見飽きるということはありませんでした。
夏休みが終われば別の学校に転校することになっているミハルは、夏休みの終わり頃にふと思いついたことがありました。
それは、自分の家の近くのあの鉄塔から電線伝いに鉄塔を追いかけていけば、どこに行くのだろう、というものでした。きっと、原子力発電所に違いない。そう決め込んだミハルは、鉄塔を順に追いかけていく旅に出ることを決断しました。
二歳年下のアキラを誘い、すべての鉄塔の下に王冠を埋めるというただそれだけの冒険のために、二人は1号の鉄塔を、そして原子力発電所を目指して自転車をこぎ続ける…。
というような話です。
全体をひと言で評すれば、とにかくシュールだ、ということです。ホント、先ほども話に出しましたが、深夜番組として昔から変わらないテイストでやり続けている「タモリ倶楽部」という番組に非常に似ている感じのする作品でした。
鉄塔を男性型鉄塔、女性型鉄塔、婆ちゃん鉄塔、怪獣鉄塔などと呼んでみたり、「結界」だの「蛹点」だの「ひがしでん」だのという新しい言葉を生み出したりして、とにかく鉄塔の魅力についてひたすらに語っているだけの作品なわけです。もちろん、ミハルとアキラの幼い子供にとっては大冒険であるその道程というのもストーリーとしては確かにあるんですけど、しかし全編を貫いているのは鉄塔への偏愛であり、それがすべてと言っても言い過ぎではないと思います。
正直、小説として面白いかどうかと言われると、まあ微妙だと言わざるおえないところです。ミハルとアキラのやり取りの妙みたいなものは結構いいですけど、鉄塔の外観やその美しさについて書かれてもあんまり興味が持てないし、結構読み飛ばしたりしてしまいました。それでも、鉄塔がすべて繋がっていて、その先がどこかにある、という風ロマンみたいなものは感じることが出来て、鉄塔一つ一つについてはちょっと共感は出来ないものの、鉄塔そのものについてはなるほど面白い対象かもしれななどと思ったりもしました。
本作は、日本ファンタジーノベル大賞を受賞した作品なんですが、その選評でも初めは結構戸惑いのようなものがあったみたいです。これは小説なのか、面白いのだろうか、と言った葛藤があったみたいです。しかし最終的には、世界初の「鉄塔文学」であり、評価すべき作品だということで意見の一致を見たようです。
その選評の中で、「これまで鉄塔を”見た”ことはなかったが、それをこの作品は”見せて”くれた」というようなものがあって、これはなるほどと思いました。確かに冒頭でも書いたように、普段僕も鉄塔のことなど意識していないし、視界に入ったとしても”見て”はいないものです。しかし本作を読むと、なるほど世界が変わったようで、恐らくこれからどこかで鉄塔を見かけるようなことがあれば、「あれは男性型だろうか女性型だろうか」などと考えてしまうことでしょう。そういう、今まで”見え”ていなかった新しい世界を切り開く作品なのだから素晴らしいのだ、という評価はなるほどそうかもしれないな、と思いました。
本作は著者自身が撮影したという鉄塔の写真が随所に掲載されていて、写真ありの小説などというのはかなり珍しいと思うのですごいなと思いました。また映画化もされたようで、撮影には著者自身もくっついて言ってあれこれ助言をしたとのことです。本当に鉄塔が好きな人なんだろうな、と思いました。
著者は本作以降本を出していないようですが、まあそれもしょうがないでしょうね。鉄塔への偏愛のために本を書いただけであって、小説家というものに興味があったわけではないのでしょう。
小説として面白いかどうかは非常に微妙ですが、しかしこういうマニアックなものへの偏愛を持っている人であればかなり共感することが出来る作品かもしれません。もちろん鉄塔好きであれば必読でしょう。まあ普通の人は、手を出さなくてもいい作品でしょう。
銀林みのる「鉄塔 武蔵野線」
俺が俺に殺されて(蒼井上鷹)
もしも誰かと人格がそのまま入れ替わってしまったとしたら…。
まあ古今東西こうした状況は様々に生み出されてきたわけだけれども、まあちょっと考えてみようかな、と思います。
もし誰かと、外見だけはそのままで中身だけそっくりそのまま入れ替わってしまった、という風なことを考えてみましょう。
まあもちろん元に戻る方法を模索するでしょうけど、でもその方法が見つかるまでは(あるいは見つからないかもしれない)、その成り代わった人物の人格のまま生きていかなくてはいけないわけです。
これはなかなか辛いですね。
いやもちろん、僕の人格と福山雅治の人格が入れ替わる、というのならいいですよ。要するに、顔は福山雅治だけど中身は僕、というのが生まれるわけで、まあもちろん難問は山積でしょうけど(ギターが弾けないとか、歌がうまくないとか、顔はいいのにファッションセンスがない、とか要するにそういうこと)、でも顔が福山雅治になるんだったら、そりゃあ何の問題があろうか、という感じです。まあありえないことだと分かっていても、いろいろと想像してしまいますね。そういえば最近読んだ本に、嶽本野ばらの「変身」という本がありますけど、あれも朝起きたら超イケメンになっていた、という話で、まあ似ているところはありますね。
しかしまあ実際そういう入れ替わりみたいな状況になるとすれば、そううまく福山雅治と入れ替われるわけがありません。まあいろんな意味で自分と同程度の人間との入れ替わりであれば、多少の理不尽さやめんどくささを感じても、しかしまあしょうがないこれはこれとして受け入れるしかあるまい、と思ってなんとか努力しようとするでしょう。
しかし最悪なケースは、自分が嫌っている誰かと入れ替わりが起こってしまった場合です。
いやホント、僕は結構すぐ人を嫌いになるんですけど、そういう誰かと入れ替わりが起こってしまったと想像してみただけで、あぁホントこれは厳しいな、という風に思ったりします。
「人は見た目が9割」という本があるように、やはり人は外見からの情報にすべてを頼るわけです。中身がいくら僕であっても、周囲の人間はそれを別の人間だと思って見るわけです。これはきついですね。
もっと厳しいのは、周囲の誰からも嫌われている人間と入れ替わりをしてしまった場合で、とにかくそうなった瞬間から、僕の言い分は誰も聞いてくれなくなることでしょう。
そういう感じで、もしも嫌いな人間と入れ替わりをしてしまったらどうするだろうな、と考えてみました。
やはり、入れ替わりが起こったのだ、ということを周囲に納得させる方法を取るだろうなと思います。お互いに嫌いな人間なわけで、そんな二人が無意味な嘘をついてまで入れ替わりなんて言う話をでっち上げることはないだろう、という風に思わせられるのではないかと思うからです。お互いが嫌い合っているという状況だからこそ割と成立するのかもしれないな、と思います。
しかしそれでもダメそうなら、まあどこか遠くへと失踪するでしょうね。ちょっと入れ替わった相手の人間として生きていくというのは、やっぱり無理な気がします。それならば、自分(とその相手)のことを何も知らないところへと逃げて、一から新しい関係を築いていくしかないだろうな、と思います。
まあこういう「もしも」について考えるのはかなり無意味なことなんですけど、でも人間の意識なんてまだよくわかってなくて曖昧なものなわけで、起こっても不思議ではないかもしれないとも思ったりします。要するに、多重人格の特殊版だと考えればありうるかな、と。僕の中に別の人格が生み出されて、それがある相手の影響を受けてその相手の性格に酷似していく。同時にその相手にも別人格が生まれて、僕の影響を受けて僕の性格に酷似していくようになる。そうしてお互いの主人格がなんらかの理由で喪われれば…、人格の入れ替わりみたいな状況にもなったりするでしょう。まあかなりありえないステップですけど、でも決してゼロではないだろうな、とも思います。
ホント、どうせ入れ替わるなら福山雅治と入れ替わりたいものです。まあ福山雅治からしたら相当不幸でしょうけど(笑)。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、蒼井上鷹の最新刊なんですけど、実はまだ発売されていない本だったりします。なんだか知らないけど、出版社の営業の人が、まだ本になっていない段階での原稿(ゲラというんですけど)をくれました。ラッキー、とか思って読んだ次第です。
さて物語は、作家志望のフリーターである小笠原英次(俺)が、作品執筆のために自主的に缶詰生活に入るところから始まります。父親が持っている空きビルの地下を私的に使っていて、今回の缶詰生活もそこで過ごそうと決めていたのである。
さて周囲には、自転車でどこかをふらりと旅をしてくる、と告げていたのだけど、一人だけ自分の居場所を知らせておいた人間がいる。
それが、英次がバイトをしているバーのマスターである別所である。世界で…とは言いすぎかもしれないが、俺が最も嫌いとする人間の一人である。
何故別所にだけは教えていたかと言えば、自分の中のある仕掛けの成功の可否を知りたかったからだが、まあその話は後だ。
結局、別所はある日その地下室にやってきた。そして、何故か俺は別所に殺されてしまった…。
そしてそしてさらに、何故だか分からないが俺の人格が別所の体に入れ替わってしまったようなのだ!つまり俺は、英次(自分)を殺した犯人である別所として生きていかなくてはいけなくなったのだ!自分が捕まることを避けるために死体を冷蔵庫の中に押し込んで急場を凌ぐが、しかし状況が酷くヤバイことに段々と気づいてくる。
実は同じ頃、兄である優一が階段から転落して死んだというのだ。そして状況から考えて、どうやら別所が疑われているらしい。俺は、別所が俺を殺したことを隠匿するために(つまり別所として生きることになった俺が警察につかまらないようにするために)、別所の無実を証明しなくてはいけない状況に追い込まれてしまったのだ!
被害者であり犯人でありかつ探偵でもある「俺」が、事件を前に右往左往する物語。
と言ったところです。
本作は、被害者かつ犯人かつ探偵という一人三役というレベルではなく、最終的には一人五役をこなすことになるというとんでもないストーリーなんですけど、そんなかなり際どいストーリーになりそうな設定を、かなりうまいことラストまで持っていっている作品だと思いました。
冒頭で提示される状況は見事だと思いました。俺は被害者であるのに、加害者(別所)に乗り移ってしまったがために別所が俺を殺したことはなんとか隠匿しなくてはいけない。しかしそれを隠匿しようとすると、優一殺害時の別所のアリバイがなくなってしまう。優一殺害の嫌疑からも逃れるためにはどうすればいいのだろう、という閉鎖的な状況に追い込まれるわけですけど、この設定がかなりうまかったなと思います。別所は憎い、でもそんな別所に入れ替わってしまったのだから憎いと言っているわけにもいかない。そんな葛藤がうまく活かされている感じがします。
ストーリー中に、まあちょっと無理があるなとか、ここは弱いなと思う点もいくつかあったりしたわけですけど(優一殺害に関して考察する殺害方法なんかはかなりお粗末な感じはしてしまうし、東京ヒーローズに関するジンクスはかなりストーリーに都合がいいような無理矢理感のあるものになっているなど)、でもまあここまで不可解でかつ魅力的な状況設定を提示したわけで、途中の無理矢理感はまあ多少しょうがない部分はあるよな、とか思いながら読んでいました。まあすごく気になるかというとそこまでではないし。
それに、ラストの解決に至る辺りでの二転三転は見事だなという感じがしました。ネタバレになるので詳しくは書けないですけど、誤解から余計なことをしてしまったというようなところとか、あるいは何故俺は別所に殺されなくてはいけなかったのかという部分とか、なるほどうまく物語を着地させているな、という感じがしました。物語として弱い部分は多々あるかもしれないけど、でもミステリとしてはかなり上出来な部類に入るのではないか、という風に思ったりします。
ただラストは、微妙にトンデモ落ち的な要素があって(正直よく分かっていないのだけど、あれはどういうことなんだろう)、あれでいいのかと思う人もいるんではないかなと思います。
まあ一人五役という、かなり高すぎるハードルに挑んでいる作品です。細かい部分には目をつぶって読むと面白く読める作品だろうな、という気がします。
蒼井上鷹「俺が俺に殺されて」
まあ古今東西こうした状況は様々に生み出されてきたわけだけれども、まあちょっと考えてみようかな、と思います。
もし誰かと、外見だけはそのままで中身だけそっくりそのまま入れ替わってしまった、という風なことを考えてみましょう。
まあもちろん元に戻る方法を模索するでしょうけど、でもその方法が見つかるまでは(あるいは見つからないかもしれない)、その成り代わった人物の人格のまま生きていかなくてはいけないわけです。
これはなかなか辛いですね。
いやもちろん、僕の人格と福山雅治の人格が入れ替わる、というのならいいですよ。要するに、顔は福山雅治だけど中身は僕、というのが生まれるわけで、まあもちろん難問は山積でしょうけど(ギターが弾けないとか、歌がうまくないとか、顔はいいのにファッションセンスがない、とか要するにそういうこと)、でも顔が福山雅治になるんだったら、そりゃあ何の問題があろうか、という感じです。まあありえないことだと分かっていても、いろいろと想像してしまいますね。そういえば最近読んだ本に、嶽本野ばらの「変身」という本がありますけど、あれも朝起きたら超イケメンになっていた、という話で、まあ似ているところはありますね。
しかしまあ実際そういう入れ替わりみたいな状況になるとすれば、そううまく福山雅治と入れ替われるわけがありません。まあいろんな意味で自分と同程度の人間との入れ替わりであれば、多少の理不尽さやめんどくささを感じても、しかしまあしょうがないこれはこれとして受け入れるしかあるまい、と思ってなんとか努力しようとするでしょう。
しかし最悪なケースは、自分が嫌っている誰かと入れ替わりが起こってしまった場合です。
いやホント、僕は結構すぐ人を嫌いになるんですけど、そういう誰かと入れ替わりが起こってしまったと想像してみただけで、あぁホントこれは厳しいな、という風に思ったりします。
「人は見た目が9割」という本があるように、やはり人は外見からの情報にすべてを頼るわけです。中身がいくら僕であっても、周囲の人間はそれを別の人間だと思って見るわけです。これはきついですね。
もっと厳しいのは、周囲の誰からも嫌われている人間と入れ替わりをしてしまった場合で、とにかくそうなった瞬間から、僕の言い分は誰も聞いてくれなくなることでしょう。
そういう感じで、もしも嫌いな人間と入れ替わりをしてしまったらどうするだろうな、と考えてみました。
やはり、入れ替わりが起こったのだ、ということを周囲に納得させる方法を取るだろうなと思います。お互いに嫌いな人間なわけで、そんな二人が無意味な嘘をついてまで入れ替わりなんて言う話をでっち上げることはないだろう、という風に思わせられるのではないかと思うからです。お互いが嫌い合っているという状況だからこそ割と成立するのかもしれないな、と思います。
しかしそれでもダメそうなら、まあどこか遠くへと失踪するでしょうね。ちょっと入れ替わった相手の人間として生きていくというのは、やっぱり無理な気がします。それならば、自分(とその相手)のことを何も知らないところへと逃げて、一から新しい関係を築いていくしかないだろうな、と思います。
まあこういう「もしも」について考えるのはかなり無意味なことなんですけど、でも人間の意識なんてまだよくわかってなくて曖昧なものなわけで、起こっても不思議ではないかもしれないとも思ったりします。要するに、多重人格の特殊版だと考えればありうるかな、と。僕の中に別の人格が生み出されて、それがある相手の影響を受けてその相手の性格に酷似していく。同時にその相手にも別人格が生まれて、僕の影響を受けて僕の性格に酷似していくようになる。そうしてお互いの主人格がなんらかの理由で喪われれば…、人格の入れ替わりみたいな状況にもなったりするでしょう。まあかなりありえないステップですけど、でも決してゼロではないだろうな、とも思います。
ホント、どうせ入れ替わるなら福山雅治と入れ替わりたいものです。まあ福山雅治からしたら相当不幸でしょうけど(笑)。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、蒼井上鷹の最新刊なんですけど、実はまだ発売されていない本だったりします。なんだか知らないけど、出版社の営業の人が、まだ本になっていない段階での原稿(ゲラというんですけど)をくれました。ラッキー、とか思って読んだ次第です。
さて物語は、作家志望のフリーターである小笠原英次(俺)が、作品執筆のために自主的に缶詰生活に入るところから始まります。父親が持っている空きビルの地下を私的に使っていて、今回の缶詰生活もそこで過ごそうと決めていたのである。
さて周囲には、自転車でどこかをふらりと旅をしてくる、と告げていたのだけど、一人だけ自分の居場所を知らせておいた人間がいる。
それが、英次がバイトをしているバーのマスターである別所である。世界で…とは言いすぎかもしれないが、俺が最も嫌いとする人間の一人である。
何故別所にだけは教えていたかと言えば、自分の中のある仕掛けの成功の可否を知りたかったからだが、まあその話は後だ。
結局、別所はある日その地下室にやってきた。そして、何故か俺は別所に殺されてしまった…。
そしてそしてさらに、何故だか分からないが俺の人格が別所の体に入れ替わってしまったようなのだ!つまり俺は、英次(自分)を殺した犯人である別所として生きていかなくてはいけなくなったのだ!自分が捕まることを避けるために死体を冷蔵庫の中に押し込んで急場を凌ぐが、しかし状況が酷くヤバイことに段々と気づいてくる。
実は同じ頃、兄である優一が階段から転落して死んだというのだ。そして状況から考えて、どうやら別所が疑われているらしい。俺は、別所が俺を殺したことを隠匿するために(つまり別所として生きることになった俺が警察につかまらないようにするために)、別所の無実を証明しなくてはいけない状況に追い込まれてしまったのだ!
被害者であり犯人でありかつ探偵でもある「俺」が、事件を前に右往左往する物語。
と言ったところです。
本作は、被害者かつ犯人かつ探偵という一人三役というレベルではなく、最終的には一人五役をこなすことになるというとんでもないストーリーなんですけど、そんなかなり際どいストーリーになりそうな設定を、かなりうまいことラストまで持っていっている作品だと思いました。
冒頭で提示される状況は見事だと思いました。俺は被害者であるのに、加害者(別所)に乗り移ってしまったがために別所が俺を殺したことはなんとか隠匿しなくてはいけない。しかしそれを隠匿しようとすると、優一殺害時の別所のアリバイがなくなってしまう。優一殺害の嫌疑からも逃れるためにはどうすればいいのだろう、という閉鎖的な状況に追い込まれるわけですけど、この設定がかなりうまかったなと思います。別所は憎い、でもそんな別所に入れ替わってしまったのだから憎いと言っているわけにもいかない。そんな葛藤がうまく活かされている感じがします。
ストーリー中に、まあちょっと無理があるなとか、ここは弱いなと思う点もいくつかあったりしたわけですけど(優一殺害に関して考察する殺害方法なんかはかなりお粗末な感じはしてしまうし、東京ヒーローズに関するジンクスはかなりストーリーに都合がいいような無理矢理感のあるものになっているなど)、でもまあここまで不可解でかつ魅力的な状況設定を提示したわけで、途中の無理矢理感はまあ多少しょうがない部分はあるよな、とか思いながら読んでいました。まあすごく気になるかというとそこまでではないし。
それに、ラストの解決に至る辺りでの二転三転は見事だなという感じがしました。ネタバレになるので詳しくは書けないですけど、誤解から余計なことをしてしまったというようなところとか、あるいは何故俺は別所に殺されなくてはいけなかったのかという部分とか、なるほどうまく物語を着地させているな、という感じがしました。物語として弱い部分は多々あるかもしれないけど、でもミステリとしてはかなり上出来な部類に入るのではないか、という風に思ったりします。
ただラストは、微妙にトンデモ落ち的な要素があって(正直よく分かっていないのだけど、あれはどういうことなんだろう)、あれでいいのかと思う人もいるんではないかなと思います。
まあ一人五役という、かなり高すぎるハードルに挑んでいる作品です。細かい部分には目をつぶって読むと面白く読める作品だろうな、という気がします。
蒼井上鷹「俺が俺に殺されて」
編集者という病い(見城徹)
僕は、もう何度も書いているけれども、人と積極的に付き合いたいという風には思わない。人間関係が煩わしいと思ってしまう。めんどくさい。自分をさらけ出すことも、相手を受け入れることも、簡単には出来ない。出来るだけ少ない人数の人とだけ関わって生きていたい、と思っている。
世の中には、とにかく人と会うのが好きだという人種がいる。そういう人は、もちろん人見知りなんかしないし、初めて会った人とも何の問題もなく会話を交わす。いつの間にか親しくなっているし、自分のペースに巻き込んだり相手のペースに巻き込まれたりしながら、いい関係を築くことが出来る人間というのがいる。
一体僕とそういう人とを分けるものはなんなんだろうとか思うのだが、結局のところ、自分と誰かとの間で起こるある種の「反応」に期待して、またありとあらゆる「反応」に出会いたいという欲求の差なのだろうなという風に思う。
僕らは普通に生きていれば、まあそれなりの人間関係を築くことは出来るし、それなりに交友関係も広がっていく。驚くほど気の合う人間もいれば、全然仲良くなれない人もいて様々であるが、まあそこそこの人間と出会い、そこそこの波乱があり、そこそこのまとまりがあり、そういうそこそこの人間関係みたいなものはまあ誰でも持っているものだ。
しかし、そこそこではない人間関係を目指そうと思えば、それは並大抵のことではない。一人の人間とそういう関係を目指そうとすれば、それはまあ出来ないこともないだろう。しかし圧倒的多数の、しかも普通とはかなり違った人間達と、そこそこではない圧倒的な人間関係を築くのは、ほとんど人間の所業として常軌を逸しているとしか言いようがないと思う。
本作の著者である見城徹という人は、それをやってのけた、そして今なおやってのけ続けている人間である。
見城徹は、文芸作品を中心とした編集者である。という説明で説明できるのは、見城徹の5%以下ぐらいだろう。それぐらい、見城徹という人は外れまくった編集者である。
もともとは、廣済堂出版という出版社の編集者であった。実用書系の本を出すところである。その出版社で、入社1年目からベストセラーを生み出す。当時まだ有名ではなかった公文式のノウハウを本にしたもので、見城徹のお陰で公文式はここまで発展したと言っても過言ではないらしい。
それから紆余曲折を経て角川書店の社員になった。そこでもとにかく無茶苦茶なことばかりやり続けている。「角川書店でなら本を出します」という人とは徹底的に付き合わない。つまり「角川書店なんかから本を出すかよ」という作家を口説き落としてナンボだと考え、これまで諸先輩編集者が原稿を取ることが出来なかった作家から次々に原稿を取ってくる。また、アーティストとコラボレーションして本を出した先駆者も見城であり、尾崎豊やユーミンらの本を出してはベストセラーにした。
とにかく「角川書店に見城徹あり」と言われるほど有名な編集者であったようで、角川書店の中でも常に最年少であらゆる地位についたようだが、次第にそんな自分に嫌気が指してくる。こんなぬるま湯に浸かった編集人生は厭だ、もっと外に飛び出し、新しい才能を発掘し、全身をひりつかせながら本を出したい。
そう思い、最年少で取締役になりながらも、角川春樹前社長の逮捕をきっかけとして角川書店を辞める。
そしてそれから、幻冬社という出版社を立ち上げる。
立ち上げの際、ありとあらゆる人間に「失敗するから止めろ」と言われたらしい。「百人いたら百人が失敗するというぞ」とも。それでも見城は前を向いて走り出した。角川書店時代の仲間を引き連れたった6人で出発した幻冬社は、会社設立から6年で6作のミリオンセラーを生み出した。これは、過去幻冬社以外には成しえていない偉業らしい。
会社創立からたった3年で文庫市場に殴りこみをかける。その時点で最後に大手で文庫を出したのが光文社で、6億円規模で31点創刊した。ならばうちはその倍、12億の規模で62点出すと決めその通り実行した。また、郷ひろみの「ダディ」を初回50万部刷るなど無茶苦茶なことをやり続けた。生涯編集者として、今でも無茶苦茶なことをやり続けている。
彼が編集者としての基本にしているのは、とにもかくにも人との関係である。これなくして見城徹はありえない。とにかくどんな分野でもいい、音楽でも芝居でもなんでもいいから、とにかくこの人だと思ったら、何が何でもその人と会う。尾崎豊やユーミンにもそうして出会ったし、つかこうへいなど無名だった時期から目を掛け、20年間角川書店以外から本は出さないという誓約書にサインをさせたりもした。
そしてとにかく会ったら、相手に自分への関心を向ける努力をする。表現者に対して全力でぶつかり、相手を刺激する言葉を繰り続け、手紙を厭というほど送り、相手がして欲しいと思うことが100あればその100をすべてやる。お互いの内臓をつかみ合うようにして深く深く切り結び、逃げない。逃げたくても逃げない。相手がどんなに自分に酷いことを言おうが、あるいは迷惑を掛けようが、表現者として尊敬している人間であれば厭わない。常に全力で相手と人間関係を築き、持続させ、そして自らの切り札とする。
尾崎豊との関係がまさにそうだった。尾崎豊は人間不信に陥り、自分だけを愛してくれる人間でないと一緒に仕事も出来ないありさまだった。編集部内で暴れたり、自動販売機を壊すなど日常茶飯事だった。日本全国でコンサートをやるとなれば、そのすべての会場に見城がいないと気が済まない。見城も一時期尾崎とだけの関係にすべてを注いでいた時期があった。それは心を激しく疲労させる関係であり、そしてまた同時に表現者との関係としてものすごく刺激的な関係でもあった。尾崎豊が死んだ時、見城は「ほっとした」と思ったらしい。それだけ全身で尾崎豊と向かい合った人間だからこそ抱くことが出来る想いだろう。
普通編集者と作家との関係を考えると、作品というのはあくまでも作家の側にあるのだろうと思う。作家が作品を書く。編集者はあくまでもそれに外部からの視点を与えるだけであり、作品そのものは常に作家の側にある。作家という内部にある作品に、編集者という外部が口を出す、という構図なのだろうと思う。
しかし見城という編集者の場合は違う。見城にとって作品とは、作家と見城の間にあるものなのだ。だから、見城が生み出した作品は、作家だけのものではないしもちろん見城だけのものでもない。それは、作家と見城という関係性の中にしか存在しえないものであると言えるだろう。
これは化学反応に譬えると面白い。
普通の編集者であれば、作家と編集者が化学反応を起こして作品を生み出す、という図式になるのだろう。しかし見城の場合は違う気がするのだ。見城の場合、作家と編集者の反応に作家という触媒を加えて、より深い人間関係を生み出しているのではないか、という気がする。見城と作家との関係は、作品を生み出すための過程ではなく、作品を一つの触媒にしてさらに深い関係を築こうとする過程であるように思えるのだ。
そうやって世の中に出てくる作品であるからこそ売れるのであろうし、多くの人が見城となら仕事をしたいと思うのであろう。
相手の懐に飛び込んでいく。「顰蹙は金を出してでも買え」というフレーズを生み出したように、とにかく相手に一歩でも二歩でも近づく。近づくことで返り血を浴びるかもしれないし、擦過傷を負うかもしれない。それでも怖れずに近づく。そうして、相手の傷口に塩を送り込むようにして関係を続けていく。そのうちに、タイミングが合えば仕事をする。そうやって見城という男は生きてきた。
毎日が憂鬱で、角川書店を辞め幻冬社を立ち上げて以来、心が晴れることは一度もないらしい。自らを臆病者と呼び、あらゆる不安を抱えながら、それでも「無謀」を演出するために無理矢理前へ進んでいくその姿は、華やかであるように見えるが、実は傷だらけであるのだろう。
本作は、そんな見城徹があらゆる媒体に書いてきた文章を一冊にまとめたものです。内容が随所で被っているし、文体もぐちゃぐちゃで統一性がないんですけど、でも一人の巨大な編集者が歩んできた長く険しく、まさに薄氷を踏むような人生の軌跡を感じ取ることが出来る作品だと思います。
毎日ありとあらゆる新刊が出されては消えていく。その内で、見城ほどに努力を重ねて本を生み出している編集者が何人いるだろう。本の価値は、編集者がどれだけ努力したかということは関係ないし、そもそも編集者の功績が表に出てくることもない。本はあくまでも内容が面白ければ、そして売れれば勝ちであり、それ以外の価値などないだろう。
それでも、見城ほどの編集者になると、作品に与える影響も並大抵ではないのだろう。誰もが見城と共に仕事をしたいと思うのも当然だろうという気がする。
本を生み出すということがまさに死闘であるということがよく分かった一冊だった。まさにタイトル通り、これは「病い」なのだなという風に思う。本を作るということにとりつかれた男の勇敢なアルバムです。読めばなんらかの刺激を受けるのではないでしょうか。とにかく、あらゆる出版社の編集者には読んで欲しいですね。是非いい本を生み出して行って下さい。
見城徹「編集者という病い」
世の中には、とにかく人と会うのが好きだという人種がいる。そういう人は、もちろん人見知りなんかしないし、初めて会った人とも何の問題もなく会話を交わす。いつの間にか親しくなっているし、自分のペースに巻き込んだり相手のペースに巻き込まれたりしながら、いい関係を築くことが出来る人間というのがいる。
一体僕とそういう人とを分けるものはなんなんだろうとか思うのだが、結局のところ、自分と誰かとの間で起こるある種の「反応」に期待して、またありとあらゆる「反応」に出会いたいという欲求の差なのだろうなという風に思う。
僕らは普通に生きていれば、まあそれなりの人間関係を築くことは出来るし、それなりに交友関係も広がっていく。驚くほど気の合う人間もいれば、全然仲良くなれない人もいて様々であるが、まあそこそこの人間と出会い、そこそこの波乱があり、そこそこのまとまりがあり、そういうそこそこの人間関係みたいなものはまあ誰でも持っているものだ。
しかし、そこそこではない人間関係を目指そうと思えば、それは並大抵のことではない。一人の人間とそういう関係を目指そうとすれば、それはまあ出来ないこともないだろう。しかし圧倒的多数の、しかも普通とはかなり違った人間達と、そこそこではない圧倒的な人間関係を築くのは、ほとんど人間の所業として常軌を逸しているとしか言いようがないと思う。
本作の著者である見城徹という人は、それをやってのけた、そして今なおやってのけ続けている人間である。
見城徹は、文芸作品を中心とした編集者である。という説明で説明できるのは、見城徹の5%以下ぐらいだろう。それぐらい、見城徹という人は外れまくった編集者である。
もともとは、廣済堂出版という出版社の編集者であった。実用書系の本を出すところである。その出版社で、入社1年目からベストセラーを生み出す。当時まだ有名ではなかった公文式のノウハウを本にしたもので、見城徹のお陰で公文式はここまで発展したと言っても過言ではないらしい。
それから紆余曲折を経て角川書店の社員になった。そこでもとにかく無茶苦茶なことばかりやり続けている。「角川書店でなら本を出します」という人とは徹底的に付き合わない。つまり「角川書店なんかから本を出すかよ」という作家を口説き落としてナンボだと考え、これまで諸先輩編集者が原稿を取ることが出来なかった作家から次々に原稿を取ってくる。また、アーティストとコラボレーションして本を出した先駆者も見城であり、尾崎豊やユーミンらの本を出してはベストセラーにした。
とにかく「角川書店に見城徹あり」と言われるほど有名な編集者であったようで、角川書店の中でも常に最年少であらゆる地位についたようだが、次第にそんな自分に嫌気が指してくる。こんなぬるま湯に浸かった編集人生は厭だ、もっと外に飛び出し、新しい才能を発掘し、全身をひりつかせながら本を出したい。
そう思い、最年少で取締役になりながらも、角川春樹前社長の逮捕をきっかけとして角川書店を辞める。
そしてそれから、幻冬社という出版社を立ち上げる。
立ち上げの際、ありとあらゆる人間に「失敗するから止めろ」と言われたらしい。「百人いたら百人が失敗するというぞ」とも。それでも見城は前を向いて走り出した。角川書店時代の仲間を引き連れたった6人で出発した幻冬社は、会社設立から6年で6作のミリオンセラーを生み出した。これは、過去幻冬社以外には成しえていない偉業らしい。
会社創立からたった3年で文庫市場に殴りこみをかける。その時点で最後に大手で文庫を出したのが光文社で、6億円規模で31点創刊した。ならばうちはその倍、12億の規模で62点出すと決めその通り実行した。また、郷ひろみの「ダディ」を初回50万部刷るなど無茶苦茶なことをやり続けた。生涯編集者として、今でも無茶苦茶なことをやり続けている。
彼が編集者としての基本にしているのは、とにもかくにも人との関係である。これなくして見城徹はありえない。とにかくどんな分野でもいい、音楽でも芝居でもなんでもいいから、とにかくこの人だと思ったら、何が何でもその人と会う。尾崎豊やユーミンにもそうして出会ったし、つかこうへいなど無名だった時期から目を掛け、20年間角川書店以外から本は出さないという誓約書にサインをさせたりもした。
そしてとにかく会ったら、相手に自分への関心を向ける努力をする。表現者に対して全力でぶつかり、相手を刺激する言葉を繰り続け、手紙を厭というほど送り、相手がして欲しいと思うことが100あればその100をすべてやる。お互いの内臓をつかみ合うようにして深く深く切り結び、逃げない。逃げたくても逃げない。相手がどんなに自分に酷いことを言おうが、あるいは迷惑を掛けようが、表現者として尊敬している人間であれば厭わない。常に全力で相手と人間関係を築き、持続させ、そして自らの切り札とする。
尾崎豊との関係がまさにそうだった。尾崎豊は人間不信に陥り、自分だけを愛してくれる人間でないと一緒に仕事も出来ないありさまだった。編集部内で暴れたり、自動販売機を壊すなど日常茶飯事だった。日本全国でコンサートをやるとなれば、そのすべての会場に見城がいないと気が済まない。見城も一時期尾崎とだけの関係にすべてを注いでいた時期があった。それは心を激しく疲労させる関係であり、そしてまた同時に表現者との関係としてものすごく刺激的な関係でもあった。尾崎豊が死んだ時、見城は「ほっとした」と思ったらしい。それだけ全身で尾崎豊と向かい合った人間だからこそ抱くことが出来る想いだろう。
普通編集者と作家との関係を考えると、作品というのはあくまでも作家の側にあるのだろうと思う。作家が作品を書く。編集者はあくまでもそれに外部からの視点を与えるだけであり、作品そのものは常に作家の側にある。作家という内部にある作品に、編集者という外部が口を出す、という構図なのだろうと思う。
しかし見城という編集者の場合は違う。見城にとって作品とは、作家と見城の間にあるものなのだ。だから、見城が生み出した作品は、作家だけのものではないしもちろん見城だけのものでもない。それは、作家と見城という関係性の中にしか存在しえないものであると言えるだろう。
これは化学反応に譬えると面白い。
普通の編集者であれば、作家と編集者が化学反応を起こして作品を生み出す、という図式になるのだろう。しかし見城の場合は違う気がするのだ。見城の場合、作家と編集者の反応に作家という触媒を加えて、より深い人間関係を生み出しているのではないか、という気がする。見城と作家との関係は、作品を生み出すための過程ではなく、作品を一つの触媒にしてさらに深い関係を築こうとする過程であるように思えるのだ。
そうやって世の中に出てくる作品であるからこそ売れるのであろうし、多くの人が見城となら仕事をしたいと思うのであろう。
相手の懐に飛び込んでいく。「顰蹙は金を出してでも買え」というフレーズを生み出したように、とにかく相手に一歩でも二歩でも近づく。近づくことで返り血を浴びるかもしれないし、擦過傷を負うかもしれない。それでも怖れずに近づく。そうして、相手の傷口に塩を送り込むようにして関係を続けていく。そのうちに、タイミングが合えば仕事をする。そうやって見城という男は生きてきた。
毎日が憂鬱で、角川書店を辞め幻冬社を立ち上げて以来、心が晴れることは一度もないらしい。自らを臆病者と呼び、あらゆる不安を抱えながら、それでも「無謀」を演出するために無理矢理前へ進んでいくその姿は、華やかであるように見えるが、実は傷だらけであるのだろう。
本作は、そんな見城徹があらゆる媒体に書いてきた文章を一冊にまとめたものです。内容が随所で被っているし、文体もぐちゃぐちゃで統一性がないんですけど、でも一人の巨大な編集者が歩んできた長く険しく、まさに薄氷を踏むような人生の軌跡を感じ取ることが出来る作品だと思います。
毎日ありとあらゆる新刊が出されては消えていく。その内で、見城ほどに努力を重ねて本を生み出している編集者が何人いるだろう。本の価値は、編集者がどれだけ努力したかということは関係ないし、そもそも編集者の功績が表に出てくることもない。本はあくまでも内容が面白ければ、そして売れれば勝ちであり、それ以外の価値などないだろう。
それでも、見城ほどの編集者になると、作品に与える影響も並大抵ではないのだろう。誰もが見城と共に仕事をしたいと思うのも当然だろうという気がする。
本を生み出すということがまさに死闘であるということがよく分かった一冊だった。まさにタイトル通り、これは「病い」なのだなという風に思う。本を作るということにとりつかれた男の勇敢なアルバムです。読めばなんらかの刺激を受けるのではないでしょうか。とにかく、あらゆる出版社の編集者には読んで欲しいですね。是非いい本を生み出して行って下さい。
見城徹「編集者という病い」
腐女子彼女。(ぺんたぶ)
さて、「腐女子」と聞いてどんな人達のことを思い浮かべるだろうか…。
まあ知らない人には想像は出来ないだろうけど、「腐女子」というのは、いわゆるオタクの女子版だと思ってくれればいいと思う。あの秋葉原に集うようなオタクである。男の場合は秋葉原に集うが、女子の場合は池袋に集う、という違いはあるが、しかしオタクであることには変わりはない。
また「腐女子」というのは、かつては「やおい系」と呼ばれていた。今の人は「やおい」なんて言葉は知らないだろうけど(僕も知らない)、さてなんのことだろうか。
BLである。
BLと聞いて「ボーイズラブ」とすぐさま変換できる人はかなり「腐女子度」が高いと言えるだろう。そういえば本作中にも、「腐女子」であるかどうかを判断するテスト、というのが載っていた。
さて、BLである。
今このBLは、恐ろしい勢いで世の中を席捲しつつある。本当に恐ろしい。小説にしてもコミックにしても、それ系の作品が日々バンバン出てくる。本当に、矢継ぎ早に、という表現が大げさではないくらいである。
友人に携帯の広告の仕事をしている人間がいるが、彼曰く、現在携帯コンテンツで最も伸びがいいのがこのBLであるらしい。つまり、携帯の画面でBLのコミックなりを読む、ということらしい。本当に、すごすぎる。
というわけでここまで、BL、すなわちボーイズラブがなんなのか説明せずに書いてきたけど、さてBLとは何ぞやと言うと、名前の通り男同士のあぁんなことを題材にしたもの、である。
いやはや、正直僕にはBLのよさみたいなものがさっぱりわからないのである。
いや、女性にとってのBLというのは、男にとってのレズだろう、という風に考えてみる。なるほど、まあ別にレズというのも悪くないかもしれない。実際世の中のレズの人達がどんな風にあぁんなことをしているのかは知らないが、まあその状況を見て確かに男は興奮できるかもしれない。
しかし、その状況で男が感じる興奮と、女子がBLに感じる興奮というのは明らかに違うと思うのだ。
男の場合とにかく単純である。要するに、女性が裸になっていさえすればいいのである。だから、女性と男のあぁんなことであろうが、女性同士のあぁんなことであろうが、まあどっちでもいい。まあ一応、女性同士のあぁんの方が、女性の裸が二人分だからちょっとお得かな、くらいなものだと思う。まあもちろん世の中には、レズ的な状況にしか興奮できない俺は!というような男もいるのかもしれないが、それはまあ明らかに少数派なのであって、特に考慮する必要はないと思う。
女子のBLに対する熱の入れ方は、とにかくそういうものではないのだ。つまり、男と女性があぁんなことをしているよりも男同士のあぁんの方が裸の男が二人いるからお得だ、みたいな発想でBLが隆盛を極めてるわけではない、と思うのだ。
しかしそこではたと僕の思考は止まるのである。ならば何故女子にここまでボーイズラブというのは浸透しているのだろうか、と。
以前ある女性のブログにこんなことが書いてあった。
男友達に頼み込んで、アダルトビデオの鑑賞会に混ぜてもらったことがあるらしい(その発想と行動力に脱帽である)。その時の感想が、女はこれじゃあ興奮できない、ということだった。それは男向けに作られたアダルトビデオを見ても女性は興奮できないという意味ではなくて、男向けに作られるような構成で女性用のアダルトビデオを作っても女性は興奮できない、という意味らしい。
どういうことかと言うと、とにかくそこに物語があるかどうか、ということらしい。
男の場合は本当に単純で、女性が裸になってあぁんなことをしてさえいれば基本的にノープロブレムである。もちろん、そこに至る過程で様々な趣味趣向に分かれることだろう。コスプレがいいだとか妹だのツンデレだのまあ様々なフェチというものが存在するわけだけど、でも何にしても最終的にはどんな形であれ、裸になってあぁんなことをしていればいいわけで、そこに特別物語が必要だとも思えない。学校だとか病院だとかという設定があっても、それは小道具だとか冒頭の入りだけのことであって、そこに物語が介在する余地はない。
しかし女性の場合は、ただあぁんなことをしているだけではダメなのだそうだ。そこには歴然とした確固たる物語が存在し、その過程を潜り抜けた上であぁんなことをしてくれないと興奮できないらしい。
僕は少女コミックなどほとんど読まないけれども、要するに艱難辛苦を乗り越えて結ばれた二人があぁんなことをする、というストーリーがあってこそ興奮できるということなのでしょう。
というようなことを思い出し考察してみたのだけど、しかしこれがどうBLに関係するのかは分からない。あぁんなことに至るために物語が必要であるというだけなら、巷にあふれ返っている少女コミックで充分だろう。何故そこから、男同士があぁんなことをするというBLの世界へと転換してしまうのか、それが分からない。
昔、講談社が出している「ファウスト」という文芸誌のvol.6side-Aの中で、森川嘉一郎という人がBLについて考察をしていたことを思い出した。その時に、なるほどと思った文章をちょっと抜き出して書いてみようと思う。
『ここで、男性向けの官能小説に目を転じてみると、そこにも定番なパターンがある。貞淑な女が、絶倫男に強姦されるうちに、本人の意思を裏切る形で、感じてしまうというものである。そこでは、女の愛が、性欲によってねじ曲げられる。その征服的な転倒が、男性読者を興奮させる仕組みになっている。
やおいも、位相としては、これと極めて似ている。つまり、本来は女に向かって発動されるはずの男の性欲が、恋情に屈服し、男に対して向けられるのである。女性から見たら、男が女に寄せる恋心は、少なからず性欲によってドライブされている。美しい女性が対象化され、セックスにいたる恋愛物語の場合、なおさらその感が否めない。ところが、対象を男にすげ替えたとたんに、それは「恋愛にドライブ」された性欲へと転倒されるのである。』
この文章の中で、恋心が男から女性に向けられるとそれは性欲であるが、それが男から男に向けられると恋愛になるのだ、という主張があって、なるほどBLに嵌まる人というのは、とにかく恋愛という純粋な物語を読みたいということなのだろうか、と納得したものだ。まあ腐女子の方々が本当にこんなことを思ってBLを読んでいるかどうかは不明だが。
そのファウストの同じページに、げんしけんというコミックのワンカットが載っていた。そのカットは、顔を赤らめた女子が手を握り締め、声高にこう主張している。
『ホモが嫌いな女子なんかいません!!!!』
本当だろうか?もしそうだとすれば、多少怖い気がする…。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、見た目はギャルでありながら、中身はバリバリの腐女子だったという年上の彼女を持ってしまったある男の戦いの記録です。今流行のブログ本で、Y子と呼ばれる腐女子である彼女と、オタクなことにはまったく関心がなかったのに、日々Y子との戦いによってその道へ引きずり込まれて行く男の話が綴られています。
いやはや、ホント無茶苦茶面白いですね、これは。
僕はブログ本というのを非常に高く評価していて、とにかくどれを読んでも平均以上に面白いと思います。やっぱり世の中面白い人はたくさんいるんだな、と思えてきます。
本作も、そりゃあもう面白いですね。僕は歩きながらも本を読むんですけど、読むたびに爆笑してしまうので、恐らく通行人に変な人だと思われたことでしょう。しかもカバーを掛けずに本を読むので、「腐女子って何…」みたいな目で見られていたかもしれません。まあ気にしませんが。
本作ではもうとにかく、Y子のキャラクターがぶっ飛んでいる感じです。腐女子であるということはあまり多くの人にはカミングアウトしてないみたいだけど、カミングアウトしている人の前ではとにかく欲望に忠実で、池袋にある乙女ロードには行くし、アマゾンでエロゲーは買うし、彼氏のことをセバスチャンとかセバスとか受けセバスとか呼ぶしで(しかしセバスチャンが誰なのか、最後まで分からず。恐らくBLの世界では有名なキャラクターなんでしょう)、もう無茶苦茶という感じがします。
しかしまあ同時に羨ましいなぁと思うこともあって、メイドとか猫耳ナース(ATフィールド=ブルマ付き)とかダボダボシャツとか…。いやいや、一般的な価値観で言ってね、そういうのはいいと思うわけですよ。はい、あくまでも一般論ですね。しかしまあなんだか知らないがそういうコスプレ的なことにも積極的で、それは非常にいい。まあ、スーツとか学ランに萌えられても困ってしまうところはあるのだけど…。
まあ読んでいると、まあなんだかんだといろいろ大変なことはあるみたいだけど、でも羨ましいカップルではないかコノヤロー羨ましいぞチクショウ、というような話ですね。
腐女子であるとかBLが好きだというのは、現在ではかなり市民権を得てきた感がありますが、しかしそれでも自分が腐女子であるということを隠している人は多いのでしょうね。本作でも、もし彼氏が出来ても腐女子であることを隠す女子は多いんではないか、というようなことが書いてあります。
なんかそんなことを言われると、大学時代の友人はどうだろうとか、バイト先の人はどうだろう、とか考えてしまいます。いやほんと、大学時代の友人の誰かが、ホントは腐女子だったとか判明したら、ちょっとビビりますね。どうしよう、そんなことが起こったら。
まあ僕としては、BLが好きだという女子を特別どうと思うことはないんですけど、でも本屋にいると微妙に偏見を持ったりすることになります。というのも、BL系の小説やコミックを買っていく人って、みんな同じような雰囲気がするんですもん。いや、その特長みたいなのは書かないですけどね。だからちょっとなぁ、と思ったりもします。バイト先のある人は、BLが好きだという女性はちょっと自分的にない、と言っていました。まあそういう男もいるでしょうね。
まあそんなわけで、腐女子やBLについて何も知らなくても面白く読める本です。やっぱブログ本はいいですね。これまでいくつかブログ本を読んできましたが、外れた試しがないですね。皆さんも、是非読んでみてください。
ぺんたぶ「腐女子彼女。」
まあ知らない人には想像は出来ないだろうけど、「腐女子」というのは、いわゆるオタクの女子版だと思ってくれればいいと思う。あの秋葉原に集うようなオタクである。男の場合は秋葉原に集うが、女子の場合は池袋に集う、という違いはあるが、しかしオタクであることには変わりはない。
また「腐女子」というのは、かつては「やおい系」と呼ばれていた。今の人は「やおい」なんて言葉は知らないだろうけど(僕も知らない)、さてなんのことだろうか。
BLである。
BLと聞いて「ボーイズラブ」とすぐさま変換できる人はかなり「腐女子度」が高いと言えるだろう。そういえば本作中にも、「腐女子」であるかどうかを判断するテスト、というのが載っていた。
さて、BLである。
今このBLは、恐ろしい勢いで世の中を席捲しつつある。本当に恐ろしい。小説にしてもコミックにしても、それ系の作品が日々バンバン出てくる。本当に、矢継ぎ早に、という表現が大げさではないくらいである。
友人に携帯の広告の仕事をしている人間がいるが、彼曰く、現在携帯コンテンツで最も伸びがいいのがこのBLであるらしい。つまり、携帯の画面でBLのコミックなりを読む、ということらしい。本当に、すごすぎる。
というわけでここまで、BL、すなわちボーイズラブがなんなのか説明せずに書いてきたけど、さてBLとは何ぞやと言うと、名前の通り男同士のあぁんなことを題材にしたもの、である。
いやはや、正直僕にはBLのよさみたいなものがさっぱりわからないのである。
いや、女性にとってのBLというのは、男にとってのレズだろう、という風に考えてみる。なるほど、まあ別にレズというのも悪くないかもしれない。実際世の中のレズの人達がどんな風にあぁんなことをしているのかは知らないが、まあその状況を見て確かに男は興奮できるかもしれない。
しかし、その状況で男が感じる興奮と、女子がBLに感じる興奮というのは明らかに違うと思うのだ。
男の場合とにかく単純である。要するに、女性が裸になっていさえすればいいのである。だから、女性と男のあぁんなことであろうが、女性同士のあぁんなことであろうが、まあどっちでもいい。まあ一応、女性同士のあぁんの方が、女性の裸が二人分だからちょっとお得かな、くらいなものだと思う。まあもちろん世の中には、レズ的な状況にしか興奮できない俺は!というような男もいるのかもしれないが、それはまあ明らかに少数派なのであって、特に考慮する必要はないと思う。
女子のBLに対する熱の入れ方は、とにかくそういうものではないのだ。つまり、男と女性があぁんなことをしているよりも男同士のあぁんの方が裸の男が二人いるからお得だ、みたいな発想でBLが隆盛を極めてるわけではない、と思うのだ。
しかしそこではたと僕の思考は止まるのである。ならば何故女子にここまでボーイズラブというのは浸透しているのだろうか、と。
以前ある女性のブログにこんなことが書いてあった。
男友達に頼み込んで、アダルトビデオの鑑賞会に混ぜてもらったことがあるらしい(その発想と行動力に脱帽である)。その時の感想が、女はこれじゃあ興奮できない、ということだった。それは男向けに作られたアダルトビデオを見ても女性は興奮できないという意味ではなくて、男向けに作られるような構成で女性用のアダルトビデオを作っても女性は興奮できない、という意味らしい。
どういうことかと言うと、とにかくそこに物語があるかどうか、ということらしい。
男の場合は本当に単純で、女性が裸になってあぁんなことをしてさえいれば基本的にノープロブレムである。もちろん、そこに至る過程で様々な趣味趣向に分かれることだろう。コスプレがいいだとか妹だのツンデレだのまあ様々なフェチというものが存在するわけだけど、でも何にしても最終的にはどんな形であれ、裸になってあぁんなことをしていればいいわけで、そこに特別物語が必要だとも思えない。学校だとか病院だとかという設定があっても、それは小道具だとか冒頭の入りだけのことであって、そこに物語が介在する余地はない。
しかし女性の場合は、ただあぁんなことをしているだけではダメなのだそうだ。そこには歴然とした確固たる物語が存在し、その過程を潜り抜けた上であぁんなことをしてくれないと興奮できないらしい。
僕は少女コミックなどほとんど読まないけれども、要するに艱難辛苦を乗り越えて結ばれた二人があぁんなことをする、というストーリーがあってこそ興奮できるということなのでしょう。
というようなことを思い出し考察してみたのだけど、しかしこれがどうBLに関係するのかは分からない。あぁんなことに至るために物語が必要であるというだけなら、巷にあふれ返っている少女コミックで充分だろう。何故そこから、男同士があぁんなことをするというBLの世界へと転換してしまうのか、それが分からない。
昔、講談社が出している「ファウスト」という文芸誌のvol.6side-Aの中で、森川嘉一郎という人がBLについて考察をしていたことを思い出した。その時に、なるほどと思った文章をちょっと抜き出して書いてみようと思う。
『ここで、男性向けの官能小説に目を転じてみると、そこにも定番なパターンがある。貞淑な女が、絶倫男に強姦されるうちに、本人の意思を裏切る形で、感じてしまうというものである。そこでは、女の愛が、性欲によってねじ曲げられる。その征服的な転倒が、男性読者を興奮させる仕組みになっている。
やおいも、位相としては、これと極めて似ている。つまり、本来は女に向かって発動されるはずの男の性欲が、恋情に屈服し、男に対して向けられるのである。女性から見たら、男が女に寄せる恋心は、少なからず性欲によってドライブされている。美しい女性が対象化され、セックスにいたる恋愛物語の場合、なおさらその感が否めない。ところが、対象を男にすげ替えたとたんに、それは「恋愛にドライブ」された性欲へと転倒されるのである。』
この文章の中で、恋心が男から女性に向けられるとそれは性欲であるが、それが男から男に向けられると恋愛になるのだ、という主張があって、なるほどBLに嵌まる人というのは、とにかく恋愛という純粋な物語を読みたいということなのだろうか、と納得したものだ。まあ腐女子の方々が本当にこんなことを思ってBLを読んでいるかどうかは不明だが。
そのファウストの同じページに、げんしけんというコミックのワンカットが載っていた。そのカットは、顔を赤らめた女子が手を握り締め、声高にこう主張している。
『ホモが嫌いな女子なんかいません!!!!』
本当だろうか?もしそうだとすれば、多少怖い気がする…。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、見た目はギャルでありながら、中身はバリバリの腐女子だったという年上の彼女を持ってしまったある男の戦いの記録です。今流行のブログ本で、Y子と呼ばれる腐女子である彼女と、オタクなことにはまったく関心がなかったのに、日々Y子との戦いによってその道へ引きずり込まれて行く男の話が綴られています。
いやはや、ホント無茶苦茶面白いですね、これは。
僕はブログ本というのを非常に高く評価していて、とにかくどれを読んでも平均以上に面白いと思います。やっぱり世の中面白い人はたくさんいるんだな、と思えてきます。
本作も、そりゃあもう面白いですね。僕は歩きながらも本を読むんですけど、読むたびに爆笑してしまうので、恐らく通行人に変な人だと思われたことでしょう。しかもカバーを掛けずに本を読むので、「腐女子って何…」みたいな目で見られていたかもしれません。まあ気にしませんが。
本作ではもうとにかく、Y子のキャラクターがぶっ飛んでいる感じです。腐女子であるということはあまり多くの人にはカミングアウトしてないみたいだけど、カミングアウトしている人の前ではとにかく欲望に忠実で、池袋にある乙女ロードには行くし、アマゾンでエロゲーは買うし、彼氏のことをセバスチャンとかセバスとか受けセバスとか呼ぶしで(しかしセバスチャンが誰なのか、最後まで分からず。恐らくBLの世界では有名なキャラクターなんでしょう)、もう無茶苦茶という感じがします。
しかしまあ同時に羨ましいなぁと思うこともあって、メイドとか猫耳ナース(ATフィールド=ブルマ付き)とかダボダボシャツとか…。いやいや、一般的な価値観で言ってね、そういうのはいいと思うわけですよ。はい、あくまでも一般論ですね。しかしまあなんだか知らないがそういうコスプレ的なことにも積極的で、それは非常にいい。まあ、スーツとか学ランに萌えられても困ってしまうところはあるのだけど…。
まあ読んでいると、まあなんだかんだといろいろ大変なことはあるみたいだけど、でも羨ましいカップルではないかコノヤロー羨ましいぞチクショウ、というような話ですね。
腐女子であるとかBLが好きだというのは、現在ではかなり市民権を得てきた感がありますが、しかしそれでも自分が腐女子であるということを隠している人は多いのでしょうね。本作でも、もし彼氏が出来ても腐女子であることを隠す女子は多いんではないか、というようなことが書いてあります。
なんかそんなことを言われると、大学時代の友人はどうだろうとか、バイト先の人はどうだろう、とか考えてしまいます。いやほんと、大学時代の友人の誰かが、ホントは腐女子だったとか判明したら、ちょっとビビりますね。どうしよう、そんなことが起こったら。
まあ僕としては、BLが好きだという女子を特別どうと思うことはないんですけど、でも本屋にいると微妙に偏見を持ったりすることになります。というのも、BL系の小説やコミックを買っていく人って、みんな同じような雰囲気がするんですもん。いや、その特長みたいなのは書かないですけどね。だからちょっとなぁ、と思ったりもします。バイト先のある人は、BLが好きだという女性はちょっと自分的にない、と言っていました。まあそういう男もいるでしょうね。
まあそんなわけで、腐女子やBLについて何も知らなくても面白く読める本です。やっぱブログ本はいいですね。これまでいくつかブログ本を読んできましたが、外れた試しがないですね。皆さんも、是非読んでみてください。
ぺんたぶ「腐女子彼女。」
日本でいちばん小さな出版社(佃由美子)
大学時代の友人の一人が、ある超有名な出版社に就職した。名前を聞けば誰でも知っている出版社で、いやはや羨ましいものだ、と思ったものです。
今僕は書店員として本というものと関わっています。もちろん、本を売るというのも非常に面白い仕事だし、やりがいを感じてもいます。
でも、たぶん本屋での仕事を経験したからかもしれませんが、昔以上に、本を作ることに関わってみたいものだ、という風に思ったりもします。自分の手で、これは売れると思う本を、自分の力で生み出す仕事というのは、本当に楽しそうだなぁ、なんてのんきに思ったりします。
でも同時に、本を作るというのはやっぱ遠い世界だよなぁ、とか思ったりします。
実際問題、本を作ることに携わっている人間はそう多くはないでしょう。出版社に就職しても、営業になるかもしれないしそれ以外の部署になるかもしれないし、あるいは編集に配属になっても雑誌を作るところかもしれないし、あるいは自分のあんまり興味のない、新書やビジネス書を作るところだったりするかもしれません。
まあそんなわけで、世の中に自分の生み出したいと思う本を実際に作れている人というのは本当に僅かだと思うんですけど、でもそういう実際的な問題ではなくて、イメージとしてどうしても本を作るというのは遠い世界の話の気がします。
本って、とにかくどこにでもあるわけで、もちろん程度の差はありますけど、でも書店にも並んでいるし図書館にもある。しかも「消しゴム」とかみたいに誰が作ったかとかどういう特色があるとかということが分からないような匿名性のある商品ではなくて、タイトルも出版社も分かって、誰が作ったのかも結局は分かるという商品であって、そういうものを自分で生み出すというのがなかなか想像できないんだよなぁ、とか思ったりします。
でもだからこそ、自分で作った本が世の中に出ると、それはそれは面白いんだろうな、という風にも思ったりしますけど。
一説によれば、書店に流通している新刊点数は、1日に200点を超えると言われています。もちろん書店の規模によって配本されない本もあるわけですが、しかし世の中では毎日それだけの新刊が生み出されているわけです。これは昔と比べてもかなり増えているし、今の状況であればこれからますます増えていくことでしょう。
現状ではとにかく出版社というのは、新しい新刊を出し続けないと資金繰りが出来ないという、まさに自転車操業の様相を呈しているとのことです。いい本かどうか、ということが主眼に置かれるのではなく、とにかく何でもいいから新刊を、どんな企画でもいいから新刊を、という発想でどんどんと本が世の中に生み出されていきます。そうした本も、たまにウルトラメガヒットを飛ばすようなこともありますが、でもそんなことは稀なので、そうして生み出された新刊たちはどんどんと返品され、そして裁断という運命が待っているわけです。
僕はこうして日々本を読んでいるし、とにかく本が好きということに関しては結構人に負けないつもりです。だからこそ、今の出版の現状を危惧してもいます。
とにかく僕は、じっくりと企画を練っていい本を出す、ということがとにかく先決ではないか、と思います。出版業界というのは、まあ他の業界も大同小異でしょうが、独特の商習慣みたいなものがあって、いろいろな点で変えていくのは難しいようです(森博嗣という作家は、イラストレータに対する待遇について出版社の編集部に不満を持っていて、「編集部も民営化するべきではないか」なんて形容をしたりしています)。しかしそれでも、現状が正しいとはどうしても思えません。何とかして自転車操業から脱し、新刊を出し続けなくても健全な経営が出来るようにしてから、いい企画の本を出す、これしかないと思います。もちろん、すぐになんとかするのは難しいんでしょうけど。
ある意味で今の出版業界できちんと生き残り、かつきちんとした本を出すためには、本作の著者のようなあり方というのは一つの形になるのかもしれないなぁ、と思ったりします。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「アニカ」というたった一人ですべてをこなす出版社の社長(というか、編集者兼営業マン兼経理兼他みたいな人だけど)が書いた、出版奮闘記です。もともとブログでいろいろ書いていたらしいのですが、それを再構成して文章を起こして本にしたようです。それを、晶文社という、自社以外の出版社から出しています。
さてこの佃由美子という人なんですけど、面白い人です。
もともとこの方は、出版社をやるつもりは特になかったわけです。大学を中退後オーストラリアへ留学し、そこで永住権を取得ししばらく滞在。向こうでゼネコンの会社に就職するが、その後帰国。友人と二人で、システム開発や翻訳なんかを請け負う会社を立ち上げた…。
というような経歴の持ち主で、まあそこまでは全然いいんですけど、そこから畑違いの出版という分野に乗り出すことになります。
きっかけは、本作にも「松ちゃん」という名前で出てくる人物の一声です。この人は、友人と立ち上げた会社の先輩とでもいう人で、普段から何かと助けてもらっているらしいんですが、この人が資格系の本も出しているのである。で、その松ちゃんが本を出している出版社が今度潰れることになったから、あんたが出版社を作って俺の本を出してくれないか、という話になるわけです。唐突です。しかしその松ちゃんという人は押しが強い人らしく、また佃さんという人も、出版業界については無知だけど本を読むこと自体は大好きらしいので、まあなるようになるだろう、というわけで話に乗ることにしたわけです。
さて出版社というのは、どうであれ取次というところと講座を開かなくてはいけません。出版業界というのはとにかく、この取次というところが非常に大きな力を持っている業界で、まあそれがいろいろと歪んだ状況を生み出している(らしい)のですが、まあそれは置いといて、とにかく新しく出版社を立ち上げようという人には一つの大きな壁になるわけです。何故なら取次は、規模の小さい、すぐに潰れそうな出版社と取引を開始するのを嫌がるからです。
しかし、押しの強い松ちゃんと一緒に行ったお陰か、トーハンと日販という、日本の二大取次(この二つで日本の書籍の取り扱いの70%を超すらしい)との口座を開くことが出来た。これはすごいことなのだが、しかし出版業界に疎い佃さんにはそんなことすらよくわからない。よしよし、とにかく出版の権利を手に入れたのだから本を出そう、とまあそんな感じである。
しかし待てど暮らせど松ちゃんの資格の本の原稿は入ってこない。まあとりあえず何も本を出さないのもマズイと思って、とにかく企画を考え文章を書き、印刷会社を適当に見つけ出し、適当に刷り部数を決め、注文が来ているかどうか取次に日参する、みたいな生活が始まった。
さてそんなある日松ちゃんにこんなことを告げられる。潰れるはずだった出版社が息を吹き返したから、やっぱりちょっと本は出せなくなった…。おいおい、そんなんアリかよ、とか思いながら、まあいいかと自分でいろいろ本を出し続けることに決める。
とにかく、何も知らないわけで、電話注文が来た時に「番線」と言われてそれが何か分からなかったし(「番線」というのは、書店がそれぞれ持っている書店番号みたいなもので、それで日本全国どこの本屋であるか特定するもの)、本なんて出せば売れると思っていたから返品がどっさりと来て驚いたとか、とてもこれから本を出そうと思っている人間の話とは思えないようなエピソードが満載なのである。
しかし、大きく儲けようと思っているわけではないので、一冊当たりに掛かる製造コストを出来るだけ下げ(ほとんど自分でやっているので、著者印税と印刷代くらいで済む)、損益分岐点をなるべく低い冊数に設定できるようにして、かつあまり多く刷らない。10年で1万部売れるくらいのゆったりとしたペースで売り続けたい、というようなコンセプトで本を作っているのは、非常にのんびりとしているけれども、しかしこれからの出版社のあり方としては非常にいいなぁ、という風に思います。世の中に不要な本を乱発していくよりは、年に2冊くらいしか出せないけど、でも一冊一冊丁寧に作っている本の方が、これから生き残っていくだろう、と僕なんかは思います。
しかし本作を読んで思ったことは、本というのはやろうと思えば一人でも作れるのだなぁ、ということである。佃さんが外注することと言えば印刷くらいで(これはさすがに個人では出来ない)、それ以外のことはどんなことでも自分でやる。もちろんパソコンの知識がそこそこないとダメだし、イラストも描けないといけないしといろいろ勉強したのだろうけど、でも自費出版ではない、ちゃんと書店に流通する本を、たった一人で作れてしまうものなのか、と感心しました。営業は嫌いであんまり行かないらしいんだけど、まあ本を作る方に専念してくれたらいいんじゃないかな、と思います。
僕はこの本を、ある出版社に勤務している(だろう)人のブログを見て知ったのですが、その人のブログには、出版関係にいる人には是非読んで欲しい、みたいなことが書いてありました。その人曰く、割と大きな出版社は全部分業制になっているから、他の部署がどんなことをやっているのか正直知らない。そういう意味でも、本作を読むといろいろ面白いことがあるらしい。まあでもとにかく、普通の人が読んだって無茶苦茶面白い本であることには変わりはない。
佃さんは今でもブログを書いていて、僕はそれを最近毎日見ているわけですが(毎日更新しているわけではないですけど)、なかなか面白いブログです。これからも頑張って欲しいものだなぁ、と思います。
というわけで、本に関わる人(もちろん本を読むのが好きな人を含む)には是非読んで欲しい本です。書店の話を面白おかしく描いた傑作コミックに「暴れん坊本屋さん」というのがありますけど、それの出版社版と言えなくもない作品ではないかな、と思います。是非読んでみてください。
佃由美子「日本でいちばん小さな出版社」
今僕は書店員として本というものと関わっています。もちろん、本を売るというのも非常に面白い仕事だし、やりがいを感じてもいます。
でも、たぶん本屋での仕事を経験したからかもしれませんが、昔以上に、本を作ることに関わってみたいものだ、という風に思ったりもします。自分の手で、これは売れると思う本を、自分の力で生み出す仕事というのは、本当に楽しそうだなぁ、なんてのんきに思ったりします。
でも同時に、本を作るというのはやっぱ遠い世界だよなぁ、とか思ったりします。
実際問題、本を作ることに携わっている人間はそう多くはないでしょう。出版社に就職しても、営業になるかもしれないしそれ以外の部署になるかもしれないし、あるいは編集に配属になっても雑誌を作るところかもしれないし、あるいは自分のあんまり興味のない、新書やビジネス書を作るところだったりするかもしれません。
まあそんなわけで、世の中に自分の生み出したいと思う本を実際に作れている人というのは本当に僅かだと思うんですけど、でもそういう実際的な問題ではなくて、イメージとしてどうしても本を作るというのは遠い世界の話の気がします。
本って、とにかくどこにでもあるわけで、もちろん程度の差はありますけど、でも書店にも並んでいるし図書館にもある。しかも「消しゴム」とかみたいに誰が作ったかとかどういう特色があるとかということが分からないような匿名性のある商品ではなくて、タイトルも出版社も分かって、誰が作ったのかも結局は分かるという商品であって、そういうものを自分で生み出すというのがなかなか想像できないんだよなぁ、とか思ったりします。
でもだからこそ、自分で作った本が世の中に出ると、それはそれは面白いんだろうな、という風にも思ったりしますけど。
一説によれば、書店に流通している新刊点数は、1日に200点を超えると言われています。もちろん書店の規模によって配本されない本もあるわけですが、しかし世の中では毎日それだけの新刊が生み出されているわけです。これは昔と比べてもかなり増えているし、今の状況であればこれからますます増えていくことでしょう。
現状ではとにかく出版社というのは、新しい新刊を出し続けないと資金繰りが出来ないという、まさに自転車操業の様相を呈しているとのことです。いい本かどうか、ということが主眼に置かれるのではなく、とにかく何でもいいから新刊を、どんな企画でもいいから新刊を、という発想でどんどんと本が世の中に生み出されていきます。そうした本も、たまにウルトラメガヒットを飛ばすようなこともありますが、でもそんなことは稀なので、そうして生み出された新刊たちはどんどんと返品され、そして裁断という運命が待っているわけです。
僕はこうして日々本を読んでいるし、とにかく本が好きということに関しては結構人に負けないつもりです。だからこそ、今の出版の現状を危惧してもいます。
とにかく僕は、じっくりと企画を練っていい本を出す、ということがとにかく先決ではないか、と思います。出版業界というのは、まあ他の業界も大同小異でしょうが、独特の商習慣みたいなものがあって、いろいろな点で変えていくのは難しいようです(森博嗣という作家は、イラストレータに対する待遇について出版社の編集部に不満を持っていて、「編集部も民営化するべきではないか」なんて形容をしたりしています)。しかしそれでも、現状が正しいとはどうしても思えません。何とかして自転車操業から脱し、新刊を出し続けなくても健全な経営が出来るようにしてから、いい企画の本を出す、これしかないと思います。もちろん、すぐになんとかするのは難しいんでしょうけど。
ある意味で今の出版業界できちんと生き残り、かつきちんとした本を出すためには、本作の著者のようなあり方というのは一つの形になるのかもしれないなぁ、と思ったりします。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「アニカ」というたった一人ですべてをこなす出版社の社長(というか、編集者兼営業マン兼経理兼他みたいな人だけど)が書いた、出版奮闘記です。もともとブログでいろいろ書いていたらしいのですが、それを再構成して文章を起こして本にしたようです。それを、晶文社という、自社以外の出版社から出しています。
さてこの佃由美子という人なんですけど、面白い人です。
もともとこの方は、出版社をやるつもりは特になかったわけです。大学を中退後オーストラリアへ留学し、そこで永住権を取得ししばらく滞在。向こうでゼネコンの会社に就職するが、その後帰国。友人と二人で、システム開発や翻訳なんかを請け負う会社を立ち上げた…。
というような経歴の持ち主で、まあそこまでは全然いいんですけど、そこから畑違いの出版という分野に乗り出すことになります。
きっかけは、本作にも「松ちゃん」という名前で出てくる人物の一声です。この人は、友人と立ち上げた会社の先輩とでもいう人で、普段から何かと助けてもらっているらしいんですが、この人が資格系の本も出しているのである。で、その松ちゃんが本を出している出版社が今度潰れることになったから、あんたが出版社を作って俺の本を出してくれないか、という話になるわけです。唐突です。しかしその松ちゃんという人は押しが強い人らしく、また佃さんという人も、出版業界については無知だけど本を読むこと自体は大好きらしいので、まあなるようになるだろう、というわけで話に乗ることにしたわけです。
さて出版社というのは、どうであれ取次というところと講座を開かなくてはいけません。出版業界というのはとにかく、この取次というところが非常に大きな力を持っている業界で、まあそれがいろいろと歪んだ状況を生み出している(らしい)のですが、まあそれは置いといて、とにかく新しく出版社を立ち上げようという人には一つの大きな壁になるわけです。何故なら取次は、規模の小さい、すぐに潰れそうな出版社と取引を開始するのを嫌がるからです。
しかし、押しの強い松ちゃんと一緒に行ったお陰か、トーハンと日販という、日本の二大取次(この二つで日本の書籍の取り扱いの70%を超すらしい)との口座を開くことが出来た。これはすごいことなのだが、しかし出版業界に疎い佃さんにはそんなことすらよくわからない。よしよし、とにかく出版の権利を手に入れたのだから本を出そう、とまあそんな感じである。
しかし待てど暮らせど松ちゃんの資格の本の原稿は入ってこない。まあとりあえず何も本を出さないのもマズイと思って、とにかく企画を考え文章を書き、印刷会社を適当に見つけ出し、適当に刷り部数を決め、注文が来ているかどうか取次に日参する、みたいな生活が始まった。
さてそんなある日松ちゃんにこんなことを告げられる。潰れるはずだった出版社が息を吹き返したから、やっぱりちょっと本は出せなくなった…。おいおい、そんなんアリかよ、とか思いながら、まあいいかと自分でいろいろ本を出し続けることに決める。
とにかく、何も知らないわけで、電話注文が来た時に「番線」と言われてそれが何か分からなかったし(「番線」というのは、書店がそれぞれ持っている書店番号みたいなもので、それで日本全国どこの本屋であるか特定するもの)、本なんて出せば売れると思っていたから返品がどっさりと来て驚いたとか、とてもこれから本を出そうと思っている人間の話とは思えないようなエピソードが満載なのである。
しかし、大きく儲けようと思っているわけではないので、一冊当たりに掛かる製造コストを出来るだけ下げ(ほとんど自分でやっているので、著者印税と印刷代くらいで済む)、損益分岐点をなるべく低い冊数に設定できるようにして、かつあまり多く刷らない。10年で1万部売れるくらいのゆったりとしたペースで売り続けたい、というようなコンセプトで本を作っているのは、非常にのんびりとしているけれども、しかしこれからの出版社のあり方としては非常にいいなぁ、という風に思います。世の中に不要な本を乱発していくよりは、年に2冊くらいしか出せないけど、でも一冊一冊丁寧に作っている本の方が、これから生き残っていくだろう、と僕なんかは思います。
しかし本作を読んで思ったことは、本というのはやろうと思えば一人でも作れるのだなぁ、ということである。佃さんが外注することと言えば印刷くらいで(これはさすがに個人では出来ない)、それ以外のことはどんなことでも自分でやる。もちろんパソコンの知識がそこそこないとダメだし、イラストも描けないといけないしといろいろ勉強したのだろうけど、でも自費出版ではない、ちゃんと書店に流通する本を、たった一人で作れてしまうものなのか、と感心しました。営業は嫌いであんまり行かないらしいんだけど、まあ本を作る方に専念してくれたらいいんじゃないかな、と思います。
僕はこの本を、ある出版社に勤務している(だろう)人のブログを見て知ったのですが、その人のブログには、出版関係にいる人には是非読んで欲しい、みたいなことが書いてありました。その人曰く、割と大きな出版社は全部分業制になっているから、他の部署がどんなことをやっているのか正直知らない。そういう意味でも、本作を読むといろいろ面白いことがあるらしい。まあでもとにかく、普通の人が読んだって無茶苦茶面白い本であることには変わりはない。
佃さんは今でもブログを書いていて、僕はそれを最近毎日見ているわけですが(毎日更新しているわけではないですけど)、なかなか面白いブログです。これからも頑張って欲しいものだなぁ、と思います。
というわけで、本に関わる人(もちろん本を読むのが好きな人を含む)には是非読んで欲しい本です。書店の話を面白おかしく描いた傑作コミックに「暴れん坊本屋さん」というのがありますけど、それの出版社版と言えなくもない作品ではないかな、と思います。是非読んでみてください。
佃由美子「日本でいちばん小さな出版社」
追憶のかけら(貫井徳郎)
朝目覚ましがなると、遅刻だということに気づく。僕が普段乗っている電車には到底間に合わない。その普段なら乗っているはずの、普段なら坐っているはずの座席に、今日は別の人間が坐る。普段なら電車の中で立っているのだが、たまたま空きを見つけて坐ることができたのだ。ラッキーだと思っていると、疲れていたのか降りるべき駅を乗り過ごしてしまった。しまった。これから乗る予定だった飛行機に間に合わない。仕方ない、キャンセルにしよう。その飛行機のキャンセル枠に滑り込んだ女性が一人。よかった。なんとか席を確保出来た。その飛行機で隣り合った男性と親しく会話を交わすことになり、結局結婚することになった。どこに縁があるかわからない。二人の間には子供が生まれた。しかしその子供を交通事故で亡くしてしまった。事故を起こしたのはある小さな会社を経営する社長で、多額の賠償請求に耐え切れず会社を倒産させてしまった。そこの社員の一人であったある男性は、会社が倒産したことを悲観し、家族と共に心中をすることにした…。
さてこんな出来事がもしあったとしよう。さてこの時、最後の心中した家族を殺した遠縁には、僕が遅刻をしたということも含まれるだろうか?
一応理屈ではそういうことになるだろう。僕が遅刻さえしなければ、電車に乗っていた人はいつ通り座席に座ることなく立っていたわけで、乗り過ごすこともなかった。飛行機にも間に合ったし、そうなれば二人の男女は出会うこともなかった。子供も生まれなかったし、交通事故も起こらなかったし、会社が倒産することもなかったし、だとすれば心中することもなかったわけである。
しかしまあ当然の話であるが、そこまで面倒みてられないだろう。
アメリカで蝶々が羽ばたけば…というような「バタフライ効果」と名付けられた現象もあるのだろうけど、しかしそこまでいくと、風が吹けば桶屋が儲かる、というのとほとんど変わらなくなる。
しかし間違いなく言えることは、今僕がこうして普通に生きているだけで、誰かを傷つけているし、誰かを殺しているかもしれないということだ。
上記のような薄氷を踏むようなケースでなくたって、そういう例はいくらでも挙げられる。例えば僕らが住んでいる家を建てるために、どこかの国の森林が伐採されているのかもしれない。あるいは、僕らが日々恩恵を受けている石油燃料を巡って争いが起きたりしているのだろう。
たとえ意識して誰にも迷惑を掛けないように生きていこうと決心したところで、それはまったく達成されない。自分の周囲の人間についてならば可能であるかもしれないが、自分とは全然無関係の誰かが、僕が生きているというだけの理由で不自由を甘受しなくてはならなくなっているという現実は確かにある。
まあ別にそれはどうしようもないことであるし、気にしてもしょうがないことだし、そもそも僕は偽善者であるのでそういうことを特に気にしているわけでもないのだけど、でもこういう風には考えてしまう。わざわざ人に迷惑を掛けてまで生きている価値はあるんだろうか、と。
世の中には、人に迷惑を掛けてでも生きている価値のある人というのはたぶんいるのだろう。どういう人かよくわからないが、より多くの人間にとって何らかの価値を持つ人間、ということだ。しかしそうではない僕のような人間は、人に迷惑を掛けてまで生きていることにしがみついていていいんだろうか、と思ってしまう。
それにもしかしたら、僕が生きているということが、顔も知らないだれかだけではなく、身近にいる顔の分かる誰かをも傷つけたりしているのだとしたら、なおさら心苦しいというものだ。
本当に気づかないうちに人を不快にしているものだ。本人としてはそんなつもりはまるでないのだが、意図しないうちに誰かを不快にさせている。そういうことを考えると本当に怖いと思うのだ。出来るだけそういう部分には敏感であろうと思っているのだけど、しかしそれでも防げるものではない。
よく人に嫌われている人を見かけると、本人はそれに気づいていないのだろうな、と思う。概してそういう傾向がある。周囲から見て、明らかに嫌われているという人でも、本人はそれにまったく気づいていないということは普通だ。実は自分もそういう状況にあるんではないか、とか考えてしまうと、思考のラビリンスである。
一番いいのは、なるべく人と関わらないことである。とにかく静かに、ひっそりと生きていき、自分の存在が何かのきっかけになるようなことがないように祈りながら生活をしていくのがいいだろう。
まあなるべくそれを実践したいと思っているのだけれども、実際のところなかなか難しいものである…。
そろそろ内容に入ろうと思います。
大学で講師をしながら国文学について研究をしている松嶋は、現在義父母との関係で微妙な立場に置かれている。あることをきっかけにして妻を怒らせ、子供と共に実家に帰ってしまったのだが、その帰省の際に交通事故に遭い命を落としてしまったのだ。以来一人娘は義父母の家に預けられたまま取り返すことは出来ていないし、義父母との仲もギクシャクしたままである。特に義父は、同じ大学の直属の教授でもあるので問題は深刻だ。
そんな折、ふとしたことから松嶋は、佐脇依彦という作家の未発表の手記を手に入れることになった。佐脇依彦というのは戦後の作家で、そこまで知名度があるわけではないが、しかし未発表の原稿であるならば面白い。義父との関係が微妙であり、出来ればここらで一発論文で当てて別の大学にでも移ろうかと考えていたので、渡りに船とも言えるものだった。
早速手記を読んでみるのだが、それは佐脇が死に至るまでの回想録という形のものだった。自分がどうして死を選択することになったのか、ということが綴られるのだが、その内容がまさにミステリとしか形容しようがないものであった。
ある男と出会ったことをきっかけにして一人の女性を探すことになったのであるが、しかしその後周囲を含めて様々な嫌がらせを受けることになり、その積み重ねの結果死を選ぶことにした、という内容であった。
松嶋はその内容に、そしてそれを使って書けるだろう論文のことを思って興奮したのだが、論文の発表には条件があると言われ…。
というような話です。
いやぁ、なかなか面白い話でした。最近こういうちゃんとしたミステリから遠ざかっていたというのもあるかもしれないですけど、やっぱりこう二転三転するミステリというのは読み応えがありますね。
未発表の手記を見つけて、それを発表して名声を得ようとするだけの話であったはずなのに、物語がどんどんと思わぬ方向へと進んでいってしまいます。ミステリなので詳しく書けないですけど、後半幾度もどんでん返しがあり、さすが貫井徳郎だと思いました。
その手記を巡って何度も解決らしきところに落ち着きそうになるんですけど、しかしさらにそこからひっくり返し、まだひっくり返すか、という感じで、お見事と言った感じでした。
最終的に行き着いた結論は、正直理解しがたいと言った感じではありますが、しかしそれまでの伏線を見事にまとめ、かつ多少無理があるような気はしないではないけどそこまで破綻のない結末で、何度もどんでん返しをした後で最後のあの結末を用意出来るのはさすがだな、と思いました。
状況の設定もお見事で、詳しくはやっぱり書けないけれども、本作に現れるありとあらゆる状況や人間関係が意味のある伏線で、手記の存在を含めてうまく道具を使い切ったなぁ、という感じはします。
まあ欠点も挙げておきましょう。僕が読んだ中では、手記の部分が途中ちょっとダルいな、という感じがしました。人探しが中心の手記なのだけど、その人探しの部分が冗長というかちょっと退屈な部分はあるな、という気はします。まあ必要な部分ではあると思いますけど、そこが難点かな、と思いました。
けど、その手記も、旧仮名遣いで書かれているのにすごく読みやすくて驚きました。僕は古典とかかなり苦手だったんで、あぁ旧仮名遣いの文章があるのか、これはちょっと読むのに時間が掛かるかもしれないなぁ、と思っていたんですけど、全然そんなことはなくて、普通の文章と同じように読めました。
まあそんなわけで、貫井徳郎の作品の中でもかなり好きな部類に入ります。僕の中で貫井徳郎という作家は、かなり当たり外れの大きい作家だという認識なんですけど、今回は大当たりの部類でした。多少長いとは思いますけど、かなり面白い楽しめる作品だと思います。是非読んでみてください。
貫井徳郎「追憶のかけら」
さてこんな出来事がもしあったとしよう。さてこの時、最後の心中した家族を殺した遠縁には、僕が遅刻をしたということも含まれるだろうか?
一応理屈ではそういうことになるだろう。僕が遅刻さえしなければ、電車に乗っていた人はいつ通り座席に座ることなく立っていたわけで、乗り過ごすこともなかった。飛行機にも間に合ったし、そうなれば二人の男女は出会うこともなかった。子供も生まれなかったし、交通事故も起こらなかったし、会社が倒産することもなかったし、だとすれば心中することもなかったわけである。
しかしまあ当然の話であるが、そこまで面倒みてられないだろう。
アメリカで蝶々が羽ばたけば…というような「バタフライ効果」と名付けられた現象もあるのだろうけど、しかしそこまでいくと、風が吹けば桶屋が儲かる、というのとほとんど変わらなくなる。
しかし間違いなく言えることは、今僕がこうして普通に生きているだけで、誰かを傷つけているし、誰かを殺しているかもしれないということだ。
上記のような薄氷を踏むようなケースでなくたって、そういう例はいくらでも挙げられる。例えば僕らが住んでいる家を建てるために、どこかの国の森林が伐採されているのかもしれない。あるいは、僕らが日々恩恵を受けている石油燃料を巡って争いが起きたりしているのだろう。
たとえ意識して誰にも迷惑を掛けないように生きていこうと決心したところで、それはまったく達成されない。自分の周囲の人間についてならば可能であるかもしれないが、自分とは全然無関係の誰かが、僕が生きているというだけの理由で不自由を甘受しなくてはならなくなっているという現実は確かにある。
まあ別にそれはどうしようもないことであるし、気にしてもしょうがないことだし、そもそも僕は偽善者であるのでそういうことを特に気にしているわけでもないのだけど、でもこういう風には考えてしまう。わざわざ人に迷惑を掛けてまで生きている価値はあるんだろうか、と。
世の中には、人に迷惑を掛けてでも生きている価値のある人というのはたぶんいるのだろう。どういう人かよくわからないが、より多くの人間にとって何らかの価値を持つ人間、ということだ。しかしそうではない僕のような人間は、人に迷惑を掛けてまで生きていることにしがみついていていいんだろうか、と思ってしまう。
それにもしかしたら、僕が生きているということが、顔も知らないだれかだけではなく、身近にいる顔の分かる誰かをも傷つけたりしているのだとしたら、なおさら心苦しいというものだ。
本当に気づかないうちに人を不快にしているものだ。本人としてはそんなつもりはまるでないのだが、意図しないうちに誰かを不快にさせている。そういうことを考えると本当に怖いと思うのだ。出来るだけそういう部分には敏感であろうと思っているのだけど、しかしそれでも防げるものではない。
よく人に嫌われている人を見かけると、本人はそれに気づいていないのだろうな、と思う。概してそういう傾向がある。周囲から見て、明らかに嫌われているという人でも、本人はそれにまったく気づいていないということは普通だ。実は自分もそういう状況にあるんではないか、とか考えてしまうと、思考のラビリンスである。
一番いいのは、なるべく人と関わらないことである。とにかく静かに、ひっそりと生きていき、自分の存在が何かのきっかけになるようなことがないように祈りながら生活をしていくのがいいだろう。
まあなるべくそれを実践したいと思っているのだけれども、実際のところなかなか難しいものである…。
そろそろ内容に入ろうと思います。
大学で講師をしながら国文学について研究をしている松嶋は、現在義父母との関係で微妙な立場に置かれている。あることをきっかけにして妻を怒らせ、子供と共に実家に帰ってしまったのだが、その帰省の際に交通事故に遭い命を落としてしまったのだ。以来一人娘は義父母の家に預けられたまま取り返すことは出来ていないし、義父母との仲もギクシャクしたままである。特に義父は、同じ大学の直属の教授でもあるので問題は深刻だ。
そんな折、ふとしたことから松嶋は、佐脇依彦という作家の未発表の手記を手に入れることになった。佐脇依彦というのは戦後の作家で、そこまで知名度があるわけではないが、しかし未発表の原稿であるならば面白い。義父との関係が微妙であり、出来ればここらで一発論文で当てて別の大学にでも移ろうかと考えていたので、渡りに船とも言えるものだった。
早速手記を読んでみるのだが、それは佐脇が死に至るまでの回想録という形のものだった。自分がどうして死を選択することになったのか、ということが綴られるのだが、その内容がまさにミステリとしか形容しようがないものであった。
ある男と出会ったことをきっかけにして一人の女性を探すことになったのであるが、しかしその後周囲を含めて様々な嫌がらせを受けることになり、その積み重ねの結果死を選ぶことにした、という内容であった。
松嶋はその内容に、そしてそれを使って書けるだろう論文のことを思って興奮したのだが、論文の発表には条件があると言われ…。
というような話です。
いやぁ、なかなか面白い話でした。最近こういうちゃんとしたミステリから遠ざかっていたというのもあるかもしれないですけど、やっぱりこう二転三転するミステリというのは読み応えがありますね。
未発表の手記を見つけて、それを発表して名声を得ようとするだけの話であったはずなのに、物語がどんどんと思わぬ方向へと進んでいってしまいます。ミステリなので詳しく書けないですけど、後半幾度もどんでん返しがあり、さすが貫井徳郎だと思いました。
その手記を巡って何度も解決らしきところに落ち着きそうになるんですけど、しかしさらにそこからひっくり返し、まだひっくり返すか、という感じで、お見事と言った感じでした。
最終的に行き着いた結論は、正直理解しがたいと言った感じではありますが、しかしそれまでの伏線を見事にまとめ、かつ多少無理があるような気はしないではないけどそこまで破綻のない結末で、何度もどんでん返しをした後で最後のあの結末を用意出来るのはさすがだな、と思いました。
状況の設定もお見事で、詳しくはやっぱり書けないけれども、本作に現れるありとあらゆる状況や人間関係が意味のある伏線で、手記の存在を含めてうまく道具を使い切ったなぁ、という感じはします。
まあ欠点も挙げておきましょう。僕が読んだ中では、手記の部分が途中ちょっとダルいな、という感じがしました。人探しが中心の手記なのだけど、その人探しの部分が冗長というかちょっと退屈な部分はあるな、という気はします。まあ必要な部分ではあると思いますけど、そこが難点かな、と思いました。
けど、その手記も、旧仮名遣いで書かれているのにすごく読みやすくて驚きました。僕は古典とかかなり苦手だったんで、あぁ旧仮名遣いの文章があるのか、これはちょっと読むのに時間が掛かるかもしれないなぁ、と思っていたんですけど、全然そんなことはなくて、普通の文章と同じように読めました。
まあそんなわけで、貫井徳郎の作品の中でもかなり好きな部類に入ります。僕の中で貫井徳郎という作家は、かなり当たり外れの大きい作家だという認識なんですけど、今回は大当たりの部類でした。多少長いとは思いますけど、かなり面白い楽しめる作品だと思います。是非読んでみてください。
貫井徳郎「追憶のかけら」
第四間氷期(安部公房)
断絶した未来かぁ。
なるほど、という感じである。
江戸時代の人間が、今の僕らの生活を何らかの形で知った、と考えてみよう。江戸時代に生きる人々にとって、僕らの生活は幸せに映るだろうか、あるいは不幸に映るだろうか。
僕自身が江戸時代の生活についてあんまり知識を持っていないのだけど、恐らく不幸に映るのではないか、と思う。というか、あまりに何をやっているのかわからなすぎて、どう判断していいのかわからなくなるだろう。インターネットだの携帯電話だのが普及し、人々が自動車を乗り回して空気を汚し、戦争を繰り返し、株などという実態の見えないものを操ってはお金をやり取りする。なるほど、意味不明に違いない。
これが、断絶した未来、ということである。
意識したこともなかったけれども、僕らが未来を想像する時には、現在の延長線でどうしても考えてしまう。今ある技術がどう進化するのか、今ある常識がどう変化するのか。そういった視点で未来を捉えようとしがちである。
しかし未来というのは、現在の延長にはない、と考えるべきなのだろう。安部公房自身の言葉を借りれば、日常的連続感に埋没するようなものではないのである。
それは非常に面白い視点であって、なるほどこんなことを考える人間がいるのか、と思ったものだ。僕らは未来というものを、肯定的なものかあるいは否定的なものとして捉えたがる。技術がものすごく進化し、より住みやすい世界になることを望む肯定的な未来か、あるいは自然を破壊し尽くして地球にはもう住めなくなり、火星などに移住するというような否定的な未来に大別されることだろう。
どちらも、未来予測としては正確だったりするのかもしれないし、実際そういう枠に嵌まるような未来がやってくるのかもしれない、とも思う。振り返ってみれば、なるほど連続的にここまで推移してきたのだな、という風に感じられる未来になっているのかもしれないとも思う。
しかしそれは、やはり未来から過去を見た場合のことであって、逆に現在から未来を見た場合には、そこには大きな断絶があるのだと思うのだ。というか、その断絶を認めるところから、未来というのは開けていくのかもしれないとも思う。
もし未来を予測する機械というものが開発されたとしよう。恐らくどんな科学をもってしても絶対に作ることが出来ないものだとは思うが(そもそも機械がある予測をしたとして、一体その真偽をどう検証するというのだろうか。結局のところ、テレビに出てくるような胡散臭い占い師やスピリチュアルなんとかみたいなものになりそうだ)、でもまあそういう機械が存在すると仮定するのだ。あるいはタイムマシンを開発し、それで未来に行くというのでもいい。
さてその機械によって予言された未来を、僕らは信じることが出来るのだろうか。
結局人間は、信じたいものしか信じないように出来ているのだろう。占いを見ても、自分に都合のいい占い結果だけを信じる人が結構多いように、未来予測にしても、都合の悪いことは信じないという態度を取るのではないだろうか。そうして、その予測された受け入れがたい未来を否定するために、なんとか行動を取ろうとするかもしれない。
しかし考えて見れば、未来に生きる人々からすればその世界は快適であるのかもしれないのだ。どんなに現代に生きる僕らが受け入れることが出来ない世界であっても、その世界に慣れきっている未来に人間からすれば、その未来を消し去ろうなどという行動はお節介なものに過ぎないのだろう。
僕は、本作に出てくる勝見という人間の行動を理解することが出来るし、正しいとも思う。恐らく正常であると言ってもいいだろう。しかし同時に、今生きる人間の勝手な行動のせいで、未来を殺してしまうのは正しい判断なのだろうか、と感じもした。まさに中絶の論理と同じであって、なかなか考えさせる問題だな、と思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
中央計算技術研究所の所長である勝見率いるプロジェクトチームは、未来を予測する機械を開発することに成功した。が、ロシアとの関係もあって、その予言機械を政治的な目的に使用することがなかなか出来ないでいた。勝見としては、とにかく何でもいいから未来予測機械の正しさを実証するために実験をしたいのだが、その機械の運用の決定権を持つ委員会の承認が一向に降りず、膠着状態に陥っている。
しかし、政治的なことではなく、ある一個人の未来予測をするというアイデアが浮かび、委員会にも承認されることになった。早速サンプルとなる人間を探し出すために街を歩き回るが、なかなかこれという人間に出会わない。しかしある喫茶店で見つけた中年のサラリーマンが適任ではないかと判断し、もう少し様子を探るために尾行を続けることにした。
が、なんと翌日の新聞に、なんとその中年のサラリーマンが死体で発見されたとの記事が載った。彼を尾行していたこともあって、勝見らが疑われる可能性も充分にある。勝見は先手を打つことにし、未来予測機械を、その中年サラリーマン殺害の犯人を見つけ出すために使用することを思いつき調査を開始するのだが…。
というような話です。
本作は、冒頭こそ未来を予測する機械が出てきて非常にSFっぽく展開する雰囲気なんですけど、でも主軸はミステリだと言っていいんじゃないかな、と思います。いやまさかこんな展開になるとは思ってもいませんでした。未来予測の機械が主軸に置かれて、殺人事件はそれを盛り上げるためのオマケであるのかと思っていたら、実はその殺人事件の方が主軸でした、というような感じです。
しかも後半、未来予測とは別の意味でまたSF的な展開が現れて、しかもそれが見方によってはホラーでもあるというそんな話でした。SFっぽく始まり、ミステリの手法で展開し、またSFに戻ったかと思えばホラーも交え、最後にはミステリ的にすべてが明かされる、とそんな話でした。いや、なかなか面白い作品でした。
本作は今から50年くらい前に雑誌に連載された作品なんですが、そこまで古さを感じない作品です。もちろん本作をSF作品として捉えた場合、世に出ている様々なSF作品と比較して若干劣りはするのだろうけど(やはり物理的な知識の問題でそれは仕方がないと思うのだけど)、しかし多少無理があるなという部分を除けば現在でも全然普通に読める作品です。
しかも、さすが東大医学部を出ているだけのことはあって、生物学的な難しい話が随所に出てきて、多少難しいところはありましたけど、でもリアリティのためにかなり調べて書いているのだろうな、という感じがしました。後半で展開されるSF的な話は、倫理的な問題を別にすれば、なるほどどこかで研究されていてもおかしくはないのかもしれないな、と思うものであったし、それをベースにした未来の展開みたいなものも、確かに存在してもおかしくはないのかもしれないな、と思わせるものでした。
しかしまあなんと言っても本作の場合、ミステリ的な展開が非常に僕はいいと思いました。勝見という人間の視点で物語が進んでいくのだけど、勝見はどんどんと周囲に対して疑心暗鬼になっていくわけです。周囲は周囲で、実は勝見のためを思って行動をしていたのだけど、それがどんどん擦れ違っていく、というような感じでした。
実際本作を読んで、勝見の側と勝見以外の側の対立みたいなものが浮き彫りになってくるのだけど、僕は正直勝見の側に肩入れをしたい、という風に思います。詳しい対立の内容はネタバレになってしまうので書かないけれども、勝見が抱く未来への不安みたいなものは、現代に生きる僕らの共通する意見であるような気がします。確かに僕だって、勝見のような立場に立たされたら、彼と同じ行動を選択してしまうかもしれません。
しかし一方で、納得は出来ないけれども勝見以外の側の主張も分からなくはないわけです。確かに、現在の価値観で未来を判断することは出来ないというのはその通りだし、論理的には納得できます。確かに、江戸時代の人間に携帯電話の価値を江戸時代の価値判断でされてもどうしようもない、というのと同じことでしょう。だから、勝見以外の側の主張も分かるつもりではあります。
それでも、感情的にはどうしても、勝見の側につきたいな、と思ってしまいます。断絶した未来というものを、僕もなかなか受け入れられそうにありません。
まあそんなわけで、実際にそれで悩むことはないけど、しかし考えると深いという問題が隠された作品だと思います。未来というものを安直に考えていてはいけないのだ、という警鐘でもあるのでしょうね。
非常に文章は読みやすいし、途中知識的にあるいは論理的に難しい部分も出てくるのだけど、でも全体的には分かりやすい話であると思います。結構オススメ出来る作品です。是非読んでみてください。
安部公房「第四間氷期」
なるほど、という感じである。
江戸時代の人間が、今の僕らの生活を何らかの形で知った、と考えてみよう。江戸時代に生きる人々にとって、僕らの生活は幸せに映るだろうか、あるいは不幸に映るだろうか。
僕自身が江戸時代の生活についてあんまり知識を持っていないのだけど、恐らく不幸に映るのではないか、と思う。というか、あまりに何をやっているのかわからなすぎて、どう判断していいのかわからなくなるだろう。インターネットだの携帯電話だのが普及し、人々が自動車を乗り回して空気を汚し、戦争を繰り返し、株などという実態の見えないものを操ってはお金をやり取りする。なるほど、意味不明に違いない。
これが、断絶した未来、ということである。
意識したこともなかったけれども、僕らが未来を想像する時には、現在の延長線でどうしても考えてしまう。今ある技術がどう進化するのか、今ある常識がどう変化するのか。そういった視点で未来を捉えようとしがちである。
しかし未来というのは、現在の延長にはない、と考えるべきなのだろう。安部公房自身の言葉を借りれば、日常的連続感に埋没するようなものではないのである。
それは非常に面白い視点であって、なるほどこんなことを考える人間がいるのか、と思ったものだ。僕らは未来というものを、肯定的なものかあるいは否定的なものとして捉えたがる。技術がものすごく進化し、より住みやすい世界になることを望む肯定的な未来か、あるいは自然を破壊し尽くして地球にはもう住めなくなり、火星などに移住するというような否定的な未来に大別されることだろう。
どちらも、未来予測としては正確だったりするのかもしれないし、実際そういう枠に嵌まるような未来がやってくるのかもしれない、とも思う。振り返ってみれば、なるほど連続的にここまで推移してきたのだな、という風に感じられる未来になっているのかもしれないとも思う。
しかしそれは、やはり未来から過去を見た場合のことであって、逆に現在から未来を見た場合には、そこには大きな断絶があるのだと思うのだ。というか、その断絶を認めるところから、未来というのは開けていくのかもしれないとも思う。
もし未来を予測する機械というものが開発されたとしよう。恐らくどんな科学をもってしても絶対に作ることが出来ないものだとは思うが(そもそも機械がある予測をしたとして、一体その真偽をどう検証するというのだろうか。結局のところ、テレビに出てくるような胡散臭い占い師やスピリチュアルなんとかみたいなものになりそうだ)、でもまあそういう機械が存在すると仮定するのだ。あるいはタイムマシンを開発し、それで未来に行くというのでもいい。
さてその機械によって予言された未来を、僕らは信じることが出来るのだろうか。
結局人間は、信じたいものしか信じないように出来ているのだろう。占いを見ても、自分に都合のいい占い結果だけを信じる人が結構多いように、未来予測にしても、都合の悪いことは信じないという態度を取るのではないだろうか。そうして、その予測された受け入れがたい未来を否定するために、なんとか行動を取ろうとするかもしれない。
しかし考えて見れば、未来に生きる人々からすればその世界は快適であるのかもしれないのだ。どんなに現代に生きる僕らが受け入れることが出来ない世界であっても、その世界に慣れきっている未来に人間からすれば、その未来を消し去ろうなどという行動はお節介なものに過ぎないのだろう。
僕は、本作に出てくる勝見という人間の行動を理解することが出来るし、正しいとも思う。恐らく正常であると言ってもいいだろう。しかし同時に、今生きる人間の勝手な行動のせいで、未来を殺してしまうのは正しい判断なのだろうか、と感じもした。まさに中絶の論理と同じであって、なかなか考えさせる問題だな、と思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
中央計算技術研究所の所長である勝見率いるプロジェクトチームは、未来を予測する機械を開発することに成功した。が、ロシアとの関係もあって、その予言機械を政治的な目的に使用することがなかなか出来ないでいた。勝見としては、とにかく何でもいいから未来予測機械の正しさを実証するために実験をしたいのだが、その機械の運用の決定権を持つ委員会の承認が一向に降りず、膠着状態に陥っている。
しかし、政治的なことではなく、ある一個人の未来予測をするというアイデアが浮かび、委員会にも承認されることになった。早速サンプルとなる人間を探し出すために街を歩き回るが、なかなかこれという人間に出会わない。しかしある喫茶店で見つけた中年のサラリーマンが適任ではないかと判断し、もう少し様子を探るために尾行を続けることにした。
が、なんと翌日の新聞に、なんとその中年のサラリーマンが死体で発見されたとの記事が載った。彼を尾行していたこともあって、勝見らが疑われる可能性も充分にある。勝見は先手を打つことにし、未来予測機械を、その中年サラリーマン殺害の犯人を見つけ出すために使用することを思いつき調査を開始するのだが…。
というような話です。
本作は、冒頭こそ未来を予測する機械が出てきて非常にSFっぽく展開する雰囲気なんですけど、でも主軸はミステリだと言っていいんじゃないかな、と思います。いやまさかこんな展開になるとは思ってもいませんでした。未来予測の機械が主軸に置かれて、殺人事件はそれを盛り上げるためのオマケであるのかと思っていたら、実はその殺人事件の方が主軸でした、というような感じです。
しかも後半、未来予測とは別の意味でまたSF的な展開が現れて、しかもそれが見方によってはホラーでもあるというそんな話でした。SFっぽく始まり、ミステリの手法で展開し、またSFに戻ったかと思えばホラーも交え、最後にはミステリ的にすべてが明かされる、とそんな話でした。いや、なかなか面白い作品でした。
本作は今から50年くらい前に雑誌に連載された作品なんですが、そこまで古さを感じない作品です。もちろん本作をSF作品として捉えた場合、世に出ている様々なSF作品と比較して若干劣りはするのだろうけど(やはり物理的な知識の問題でそれは仕方がないと思うのだけど)、しかし多少無理があるなという部分を除けば現在でも全然普通に読める作品です。
しかも、さすが東大医学部を出ているだけのことはあって、生物学的な難しい話が随所に出てきて、多少難しいところはありましたけど、でもリアリティのためにかなり調べて書いているのだろうな、という感じがしました。後半で展開されるSF的な話は、倫理的な問題を別にすれば、なるほどどこかで研究されていてもおかしくはないのかもしれないな、と思うものであったし、それをベースにした未来の展開みたいなものも、確かに存在してもおかしくはないのかもしれないな、と思わせるものでした。
しかしまあなんと言っても本作の場合、ミステリ的な展開が非常に僕はいいと思いました。勝見という人間の視点で物語が進んでいくのだけど、勝見はどんどんと周囲に対して疑心暗鬼になっていくわけです。周囲は周囲で、実は勝見のためを思って行動をしていたのだけど、それがどんどん擦れ違っていく、というような感じでした。
実際本作を読んで、勝見の側と勝見以外の側の対立みたいなものが浮き彫りになってくるのだけど、僕は正直勝見の側に肩入れをしたい、という風に思います。詳しい対立の内容はネタバレになってしまうので書かないけれども、勝見が抱く未来への不安みたいなものは、現代に生きる僕らの共通する意見であるような気がします。確かに僕だって、勝見のような立場に立たされたら、彼と同じ行動を選択してしまうかもしれません。
しかし一方で、納得は出来ないけれども勝見以外の側の主張も分からなくはないわけです。確かに、現在の価値観で未来を判断することは出来ないというのはその通りだし、論理的には納得できます。確かに、江戸時代の人間に携帯電話の価値を江戸時代の価値判断でされてもどうしようもない、というのと同じことでしょう。だから、勝見以外の側の主張も分かるつもりではあります。
それでも、感情的にはどうしても、勝見の側につきたいな、と思ってしまいます。断絶した未来というものを、僕もなかなか受け入れられそうにありません。
まあそんなわけで、実際にそれで悩むことはないけど、しかし考えると深いという問題が隠された作品だと思います。未来というものを安直に考えていてはいけないのだ、という警鐘でもあるのでしょうね。
非常に文章は読みやすいし、途中知識的にあるいは論理的に難しい部分も出てくるのだけど、でも全体的には分かりやすい話であると思います。結構オススメ出来る作品です。是非読んでみてください。
安部公房「第四間氷期」
バルタザールの遍歴(佐藤亜紀)
昔、「さまよえる銀狼」だか「よみがえる金狼」だかというようなタイトルのドラマがあった。誰が主演だったかも覚えていないし、話も正確には覚えていないけど、確か二重人格の話だった気がする。何かきっかけがあるともう一つの人格に切り替わってしまう主人公の話だったような気がする。うーむ、懐かしいものを思い出したものだ。
二重人格、あるいは多重人格というのは、話にはよく聞くが実際に会ったことはない。まあ大半の人がそうだろう。
多重人格というのは本当にどんな気分がするのだろう、と考えてみるのだけど、やはり想像は難しい。だって、気づいたら意識を失って別の人格に切り替わっているのだろうし、もう別の人格が表に出ている時はそのことを覚えていないケースも多いようだ。
主に虐待を受けた子供に起こるようだ。今虐待を受けているのは自分ではない、という思い込みが、別の人格を生み出すのだという。ということであれば、多重人格というのは後天的なものなのだろうけど、では先天的な多重人格というのは存在するのだろうか。
本作では、先天的な二重人格である男が主人公になっている。しかも、ただの二重人格ではないのだ。
通常であれば、一方の人格が表に出ている時はもう一方は引っ込んでいる。つまり表面上、常にどちらかの人格が表に出ているはずである。
しかし本作の主人公は、常に同時に二つの人格が表に出ている、という設定である。本当にこんな症例があるのだろうか。
もし自分が二重人格だったら…とか考えてみるのだけど、まあ正直なところ人間誰しも多重人格だと言えなくもないわけで、あーもういいや。ちょっと今回は感想を長く書く気力がありません。
というわけで内容に入ろうと思います。
たぶん舞台はドイツ。1900年代初頭。ハプスブルグ家に連なる家系に生れ落ちた、肉体は一つでありながら双子であるバルタザールとメルヒオール。彼らは今船に乗りながら、これまで彼らが歩んできた人生についての回顧録を書いているところだ。
家が没落し、様々に転々とし続ける二人が、いろんな場所でいろんなことに巻き込まれる物語。
という感じです。
本作は、うーん面白いのかもしれないのだけど、とにかく僕の知識不足のためにやはり面白いとは思えませんでした。
僕は、何度もここに書いているけれども、とにかく歴史というものがダメな人間で、ほとんど何も知らないと言っても言いすぎではないくらいです。例えば、鎌倉時代が西暦で言うと何年くらいの時代なのか、ということすらさっぱり知らないし、徳川将軍の名前なんて徳川家康くらいしか知りません。それくらい歴史については無知です。
本作は、1900年代初頭のウィーン(ウィーンってどこに国ですか?)とかパリとかを舞台にした作品なんだけど、僕の貧弱な知識では、その歴史的背景がまったくわからないので、やっぱり面白いと思えませんでした。
いろいろなことが起こるのだけど、その一つ一つが当時どんな意味を持っていて、人々がどんな価値観を持っていたのかということも分からないし、共産主義だとかナチだとかそういうことすら基本的に知らないので、とりあえず話を追っかけていくのが精一杯でした。
まあそういう知識的な部分を除けば文章は読みやすいと思うんですが、やっぱり知識不足は否めないですね。
あと、これもいつもの通りですが、外国人の名前が覚えられなくてかなり苦労しました。こればっかりはもうどうしようもないですね。
まあそんなわけで、1900年代のヨーロッパについて他所知識を持っていないと読んでても面白くない気がします。まあ高校で習う程度の知識があれば大丈夫そうな気はしますが。そういう話が大好きだ、という人は、読んだらかなり楽しめるかもしれません。僕はオススメはしませんが、いろんな評価を見る限り内容自体はすごくいいようなので、合う人は合うのではないかと思います。
佐藤亜紀「バルタザールの遍歴」
二重人格、あるいは多重人格というのは、話にはよく聞くが実際に会ったことはない。まあ大半の人がそうだろう。
多重人格というのは本当にどんな気分がするのだろう、と考えてみるのだけど、やはり想像は難しい。だって、気づいたら意識を失って別の人格に切り替わっているのだろうし、もう別の人格が表に出ている時はそのことを覚えていないケースも多いようだ。
主に虐待を受けた子供に起こるようだ。今虐待を受けているのは自分ではない、という思い込みが、別の人格を生み出すのだという。ということであれば、多重人格というのは後天的なものなのだろうけど、では先天的な多重人格というのは存在するのだろうか。
本作では、先天的な二重人格である男が主人公になっている。しかも、ただの二重人格ではないのだ。
通常であれば、一方の人格が表に出ている時はもう一方は引っ込んでいる。つまり表面上、常にどちらかの人格が表に出ているはずである。
しかし本作の主人公は、常に同時に二つの人格が表に出ている、という設定である。本当にこんな症例があるのだろうか。
もし自分が二重人格だったら…とか考えてみるのだけど、まあ正直なところ人間誰しも多重人格だと言えなくもないわけで、あーもういいや。ちょっと今回は感想を長く書く気力がありません。
というわけで内容に入ろうと思います。
たぶん舞台はドイツ。1900年代初頭。ハプスブルグ家に連なる家系に生れ落ちた、肉体は一つでありながら双子であるバルタザールとメルヒオール。彼らは今船に乗りながら、これまで彼らが歩んできた人生についての回顧録を書いているところだ。
家が没落し、様々に転々とし続ける二人が、いろんな場所でいろんなことに巻き込まれる物語。
という感じです。
本作は、うーん面白いのかもしれないのだけど、とにかく僕の知識不足のためにやはり面白いとは思えませんでした。
僕は、何度もここに書いているけれども、とにかく歴史というものがダメな人間で、ほとんど何も知らないと言っても言いすぎではないくらいです。例えば、鎌倉時代が西暦で言うと何年くらいの時代なのか、ということすらさっぱり知らないし、徳川将軍の名前なんて徳川家康くらいしか知りません。それくらい歴史については無知です。
本作は、1900年代初頭のウィーン(ウィーンってどこに国ですか?)とかパリとかを舞台にした作品なんだけど、僕の貧弱な知識では、その歴史的背景がまったくわからないので、やっぱり面白いと思えませんでした。
いろいろなことが起こるのだけど、その一つ一つが当時どんな意味を持っていて、人々がどんな価値観を持っていたのかということも分からないし、共産主義だとかナチだとかそういうことすら基本的に知らないので、とりあえず話を追っかけていくのが精一杯でした。
まあそういう知識的な部分を除けば文章は読みやすいと思うんですが、やっぱり知識不足は否めないですね。
あと、これもいつもの通りですが、外国人の名前が覚えられなくてかなり苦労しました。こればっかりはもうどうしようもないですね。
まあそんなわけで、1900年代のヨーロッパについて他所知識を持っていないと読んでても面白くない気がします。まあ高校で習う程度の知識があれば大丈夫そうな気はしますが。そういう話が大好きだ、という人は、読んだらかなり楽しめるかもしれません。僕はオススメはしませんが、いろんな評価を見る限り内容自体はすごくいいようなので、合う人は合うのではないかと思います。
佐藤亜紀「バルタザールの遍歴」