「無限」に魅入られた天才数学者たち(アミール・D・アクゼル)
「明日からキツいぞ。マジでげんなりするわ」
「何でですか?」
「そうか。お前は知らなかったんだっけ、無限マンションのこと」
「無限マンション?」
「そうだ。うちの営業部は、無限年に一度、無限マンションに営業に行くことになってるんだ。それが明日から始まる無限年続くんだよ。キツイぞ、これは。何しろ無限年掛けて無限マンションを回るんだからな」
「無限マンションって何ですか?」
「要するにだな、部屋数が無限にあるんだ。無限だぞ、無限。いつ終わるんだよ。まったく社長もアホなことを始めてくれたもんだよ」
「田中さんはこれまで無限マンションで営業をしたことってあるんですか?」
「あるわけないだろ。無限マンションの営業を始めたら、無限年営業を続けなくちゃいけないんだ。お前、どうしてうちの会社に社長の姿がないか、考えたことあるか?」
「そうなんですよね。僕も入社以来一度も社長の姿を見かけてないんです」
「そうだろ?何せ無限マンションでの営業を初めてやったのは社長だからな。未だに社長は無限ホテルでの営業を続けてるはずさ」
「なるほど。でもだったら、僕らが営業する必要なんてないじゃないですか?だって、社長がすべての部屋を一つずつ順番に回っていけば、すべての部屋を営業できることになるんでしょ?どうせ無限年の時間が掛かるわけだし」
「それがそうでもないんだな。無限マンションにはさ、部屋番号が1号2号3号って全部通し番号になってるわけだ。社長も、とにかく無限の部屋を営業に回るっていうのに不安だったんだろうな。だから社長はルールを決めたんだ」
「ルール?」
「あぁ。社長は自分で、部屋番号が1と素数であるすべての部屋を営業することに決めたんだ。これだけでももちろん無限の部屋数があるわけだけど、でも全部の部屋を回るよりはましだろ?で社長は残りの部屋をどうやって回るか、指示を残したんだ。次に営業に回る者は、残った部屋の内、部屋番号から2を引いた数が素数になる部屋を回る。その次は部屋番号から3を引いた数が素数になる部屋…、と続いていくんだ。これから俺らが営業に行く部屋はさ、部屋番号から43を引いた数が素数になる部屋だよ」
「…カントールって知ってますか?」
「誰だそれ。歌手の名前か?」
「違います。昔の有名な数学者です。無限について先駆的な研究をした人なんですけど、そのカントールは、整数の集合と素数の集合は同じだと証明しました」
「は?どういうことだ?」
「つまりですね、整数の数と素数の数は同じだっていうことなんです」
「そんなわけないだろ!整数より素数の方が少ないに決まってるじゃないか」
「僕に言われても困りますけど、そういうもんなんです。だから初めっから社長が順番通りに一つずつ営業をしてくれれば、僕らが後からこうやって営業に行く必要なんてなかったはずなんだけどなぁ…」
一銃「無限」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「無限」というものがいかにして数として認められるようになっていったのか、その歴史について描かれている本です。無限に関しては、カントールという数学者が独創的な仕事を成すわけですが、それまでは無限というものについてはほとんど深く考えられることはありませんでした。
古代から、無限という概念については知られていました。しかしそれは、現在では「可能無限」と呼ばれる概念でした。「可能無限」というのは、『ある正方形を無限の小さな正方形に分割する』という風に使うときの無限であり、うまく説明できないけど、イメージ的にはある一定の上限があるような、そんな限られた無限なわけです。
カントールが現れるまで、数学者は皆この可能無限のレベルに留まっていました。そもそも無限について考えると何らかのパラドックスが生まれてしまうわけで、無限についてはあまり深く考えないようにしていたようです。
しかし、カントールの仕事により、無限に関する考察が、数学の根幹を成すほど重要なものであるという風に認識されるようになりました。カントールが生涯を掛けて証明しようと努力し(そのために精神を病んでしまった)、ゲーデルがその証明は現在ある数学の枠組みの中では証明できない、ということを証明した『連続体仮説』は、ヒルベルトという有名な数学者がとある学会で発表した最優先でとかれるべき23の問題の1番目の問題として取り上げられるほどでした。
カントールはまあいろんなことを考えたわけですが、それらはどうも、僕らのイメージからするりと抜けてしまうような、漠然としたものばかりです。例えば冒頭の話に書いた「無限マンション」(これはヒルベルトが好んで話していたという無限ホテルをパクったものですが)の話がいい例ですね。実際の無限ホテルの話はこうです。無限ホテルは現在満員ですが、そこに無限人の新たな宿泊客がやってきた。ホテルは満員なのだから当然入れるはずはないのだけど、しかし支配人は一計を案じます。現在無限ホテルに宿泊している人を、以下のルールで別の部屋に移すわけです。即ち、部屋番号1の人を2へ、部屋番号2の人を4へ、部屋番号3の人を6へ移します。すると新たな無限人の宿泊客を、奇数の部屋番号の部屋へと見事入れることが出来るわけです。
これは一体何の話かといえば、偶数・奇数ともに加算無限である、ということです。素数も有理数も加算無限です。加算無限というのは、整数と一対一の対応をつけることが出来る、つまり整数と同じ数だけ存在する、という意味です。整数と偶数が同じ数、というのは僕らの想像を越えた話ですが(普通に考えれば、整数は偶数の二倍の数なくてはおかしいですよね)、しかしこれはカントールが正しいと示したわけなんです。
僕はカントールの名前を知っていましたが、それは整数と超越数が一対一の対応付けができない、つまり超越数は不可算無限であるという証明を何かで読んだことがあるからです。この証明法には感動しましたね。ここでは詳しく書きませんが、ある小数の集合があって、その小数の集合からある一定の法則によって別の小数を作り出すことが出来る、というところから矛盾を導き出し、背理法によって証明するんですけど、お見事という感じでした。
カントールはある時期から精神をおかしくしてしまいます。それにはいろんな理由があったとされますが、その内の一つが学生時代の先生だったクロネッカーという有名な数学者からの悪意ある攻撃であり、もう一つが彼が生涯を掛けて証明しようとした『連続体仮説』だったといわれているようです。クロネッカーからの攻撃はまあ分かりますが、『連続体仮説』が精神に不安定をきたすというのはなかなか納得しがたいものがありますね。しかしこれにはもう一つの例があります。不完全性定理という、ある公理系の内部には、真偽を判定することが出来ない問題が含まれる、という驚くべき証明を若干26歳という若さで成し遂げたゲーデルも、『連続体仮説』と取り組んだために精神を病み、やがて自ら餓死を選択して死んでしまうことになります。『連続体仮説』は、二人の超有名な数学者の精神をおかしくした、まさに奇問なわけです。
『連続体仮説』については、ゲーデルともう一人の数学者の仕事によって、今採用されている公理系では真偽が判定できない、ということが証明されたようです。しかしこの『連続体仮説』は、数学の根幹と大きく結びついていて、ありとあらゆる証明が、『連続体仮説』の真偽に拠っている、つまり『連続体仮説』の真偽が判明しないとその真偽も確定しない証明が山のようにあるんだそうです。そういう重要な仮設の真偽が判定できないというのも、面白いなぁと思いました。
数学を扱った本というのは割と厚いものが多いイメージが僕にはありますが、本作は250ページほどで、分量的には割と軽いですね。また、難しい数式が必要とされる分野ではないので、うまくイメージできるかどうかは別として、数学の素養がそんなにない人でも十分読める本だと思います。無限という、普段の僕らの生活にはほぼ無関係なこの数字に隠された神秘をちょっとは感じてみるというのも面白いかもしれませんよ。興味がある人は読んでみてください。
アミール・D・アクゼル「「無限」に魅入られた天才数学者たち」
「何でですか?」
「そうか。お前は知らなかったんだっけ、無限マンションのこと」
「無限マンション?」
「そうだ。うちの営業部は、無限年に一度、無限マンションに営業に行くことになってるんだ。それが明日から始まる無限年続くんだよ。キツイぞ、これは。何しろ無限年掛けて無限マンションを回るんだからな」
「無限マンションって何ですか?」
「要するにだな、部屋数が無限にあるんだ。無限だぞ、無限。いつ終わるんだよ。まったく社長もアホなことを始めてくれたもんだよ」
「田中さんはこれまで無限マンションで営業をしたことってあるんですか?」
「あるわけないだろ。無限マンションの営業を始めたら、無限年営業を続けなくちゃいけないんだ。お前、どうしてうちの会社に社長の姿がないか、考えたことあるか?」
「そうなんですよね。僕も入社以来一度も社長の姿を見かけてないんです」
「そうだろ?何せ無限マンションでの営業を初めてやったのは社長だからな。未だに社長は無限ホテルでの営業を続けてるはずさ」
「なるほど。でもだったら、僕らが営業する必要なんてないじゃないですか?だって、社長がすべての部屋を一つずつ順番に回っていけば、すべての部屋を営業できることになるんでしょ?どうせ無限年の時間が掛かるわけだし」
「それがそうでもないんだな。無限マンションにはさ、部屋番号が1号2号3号って全部通し番号になってるわけだ。社長も、とにかく無限の部屋を営業に回るっていうのに不安だったんだろうな。だから社長はルールを決めたんだ」
「ルール?」
「あぁ。社長は自分で、部屋番号が1と素数であるすべての部屋を営業することに決めたんだ。これだけでももちろん無限の部屋数があるわけだけど、でも全部の部屋を回るよりはましだろ?で社長は残りの部屋をどうやって回るか、指示を残したんだ。次に営業に回る者は、残った部屋の内、部屋番号から2を引いた数が素数になる部屋を回る。その次は部屋番号から3を引いた数が素数になる部屋…、と続いていくんだ。これから俺らが営業に行く部屋はさ、部屋番号から43を引いた数が素数になる部屋だよ」
「…カントールって知ってますか?」
「誰だそれ。歌手の名前か?」
「違います。昔の有名な数学者です。無限について先駆的な研究をした人なんですけど、そのカントールは、整数の集合と素数の集合は同じだと証明しました」
「は?どういうことだ?」
「つまりですね、整数の数と素数の数は同じだっていうことなんです」
「そんなわけないだろ!整数より素数の方が少ないに決まってるじゃないか」
「僕に言われても困りますけど、そういうもんなんです。だから初めっから社長が順番通りに一つずつ営業をしてくれれば、僕らが後からこうやって営業に行く必要なんてなかったはずなんだけどなぁ…」
一銃「無限」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「無限」というものがいかにして数として認められるようになっていったのか、その歴史について描かれている本です。無限に関しては、カントールという数学者が独創的な仕事を成すわけですが、それまでは無限というものについてはほとんど深く考えられることはありませんでした。
古代から、無限という概念については知られていました。しかしそれは、現在では「可能無限」と呼ばれる概念でした。「可能無限」というのは、『ある正方形を無限の小さな正方形に分割する』という風に使うときの無限であり、うまく説明できないけど、イメージ的にはある一定の上限があるような、そんな限られた無限なわけです。
カントールが現れるまで、数学者は皆この可能無限のレベルに留まっていました。そもそも無限について考えると何らかのパラドックスが生まれてしまうわけで、無限についてはあまり深く考えないようにしていたようです。
しかし、カントールの仕事により、無限に関する考察が、数学の根幹を成すほど重要なものであるという風に認識されるようになりました。カントールが生涯を掛けて証明しようと努力し(そのために精神を病んでしまった)、ゲーデルがその証明は現在ある数学の枠組みの中では証明できない、ということを証明した『連続体仮説』は、ヒルベルトという有名な数学者がとある学会で発表した最優先でとかれるべき23の問題の1番目の問題として取り上げられるほどでした。
カントールはまあいろんなことを考えたわけですが、それらはどうも、僕らのイメージからするりと抜けてしまうような、漠然としたものばかりです。例えば冒頭の話に書いた「無限マンション」(これはヒルベルトが好んで話していたという無限ホテルをパクったものですが)の話がいい例ですね。実際の無限ホテルの話はこうです。無限ホテルは現在満員ですが、そこに無限人の新たな宿泊客がやってきた。ホテルは満員なのだから当然入れるはずはないのだけど、しかし支配人は一計を案じます。現在無限ホテルに宿泊している人を、以下のルールで別の部屋に移すわけです。即ち、部屋番号1の人を2へ、部屋番号2の人を4へ、部屋番号3の人を6へ移します。すると新たな無限人の宿泊客を、奇数の部屋番号の部屋へと見事入れることが出来るわけです。
これは一体何の話かといえば、偶数・奇数ともに加算無限である、ということです。素数も有理数も加算無限です。加算無限というのは、整数と一対一の対応をつけることが出来る、つまり整数と同じ数だけ存在する、という意味です。整数と偶数が同じ数、というのは僕らの想像を越えた話ですが(普通に考えれば、整数は偶数の二倍の数なくてはおかしいですよね)、しかしこれはカントールが正しいと示したわけなんです。
僕はカントールの名前を知っていましたが、それは整数と超越数が一対一の対応付けができない、つまり超越数は不可算無限であるという証明を何かで読んだことがあるからです。この証明法には感動しましたね。ここでは詳しく書きませんが、ある小数の集合があって、その小数の集合からある一定の法則によって別の小数を作り出すことが出来る、というところから矛盾を導き出し、背理法によって証明するんですけど、お見事という感じでした。
カントールはある時期から精神をおかしくしてしまいます。それにはいろんな理由があったとされますが、その内の一つが学生時代の先生だったクロネッカーという有名な数学者からの悪意ある攻撃であり、もう一つが彼が生涯を掛けて証明しようとした『連続体仮説』だったといわれているようです。クロネッカーからの攻撃はまあ分かりますが、『連続体仮説』が精神に不安定をきたすというのはなかなか納得しがたいものがありますね。しかしこれにはもう一つの例があります。不完全性定理という、ある公理系の内部には、真偽を判定することが出来ない問題が含まれる、という驚くべき証明を若干26歳という若さで成し遂げたゲーデルも、『連続体仮説』と取り組んだために精神を病み、やがて自ら餓死を選択して死んでしまうことになります。『連続体仮説』は、二人の超有名な数学者の精神をおかしくした、まさに奇問なわけです。
『連続体仮説』については、ゲーデルともう一人の数学者の仕事によって、今採用されている公理系では真偽が判定できない、ということが証明されたようです。しかしこの『連続体仮説』は、数学の根幹と大きく結びついていて、ありとあらゆる証明が、『連続体仮説』の真偽に拠っている、つまり『連続体仮説』の真偽が判明しないとその真偽も確定しない証明が山のようにあるんだそうです。そういう重要な仮設の真偽が判定できないというのも、面白いなぁと思いました。
数学を扱った本というのは割と厚いものが多いイメージが僕にはありますが、本作は250ページほどで、分量的には割と軽いですね。また、難しい数式が必要とされる分野ではないので、うまくイメージできるかどうかは別として、数学の素養がそんなにない人でも十分読める本だと思います。無限という、普段の僕らの生活にはほぼ無関係なこの数字に隠された神秘をちょっとは感じてみるというのも面白いかもしれませんよ。興味がある人は読んでみてください。
アミール・D・アクゼル「「無限」に魅入られた天才数学者たち」
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