「ぼくのお日さま」を観に行ってきました
なるほどなぁ、そんな話なのか。ちょっとビックリした。この作品については、映画館で何度も観たが、こんな感じの物語だとは想像できなかった。
とても良かったなと思う。
本作はとにかく、フィギュアスケートというモチーフがとても良い。作中ある人物が、「フィギュアスケートは女のスポーツ」と口にするのだが、確かに大雑把にはそんな印象があるだろう。また、これはフィギュアスケートのコーチ・荒川のキャラクター造形に関係するのかもしれないが、ある場面で彼が2つ折の携帯電話をチェックしていた。恐らく、ガラケーなんじゃないか、と。もしそうだとしたら、本作の舞台は今ではなく、少し前ということになるだろう。そしてだとすれば、余計に「フィギュアスケートは女のスポーツ」という印象が強かったかもしれない。
そしてこのことが、物語全体において結構重要な要素になっていくのだ。いや、なるほどなぁ、という感じだった。
さて、本作については、僕はもしかしたら予告を観てなかったら、物語をちゃんと捉えきれなかったかもしれないと思う。本作の予告では確か、「雪が積もってから溶けるまでの、3つの恋の物語」みたいなナレーションが入っていたように思うのだが、映画を観ながら僕は「3つの恋?」と思っていたのだ。
どこに3つもあるのだろう、と。
1つははっきり分かる。小学6年生のタクヤが、フィギュアスケートの練習をするさくらに心を奪われるのだ。これはメチャクチャ分かりやすい。
そしてしばらくして、もう1つの恋も分かった。こちらについては、映画を観ながら、最初の内は全然理解できなかった。「家族と住んでいる」みたいに思っていたからだ。ただ途中で、「なるほど、これが2つ目か」と思った。
そして.3つ目については、「3つの恋」という事前の情報があったから分かったという感じである。消去法で考えれば、それしかない。ただ、もしも「3つの恋」という情報を知らずに観ていたら、この3つ目の恋には気づかなかったかもしれない。いや、確かにそう言われれば、それを示唆する場面を思い出すことは出来る。でも、「そこまでの感じ」とは思っていなかった。
さて、この3つの恋は、実に興味深い形で展開されていく。「興味深い」と書いたのはネタバレを避けるためで、別に「面白い」という意味ではない。この3つの恋は、ちょっと思いがけない展開を見せるのである。
そして、ある意味でそのきっかけとなったのが、「タクヤがさくらを好きになったこと」だと言えるだろう。本作の物語の起点でもあり、3つの恋の「結末」が始まる起点でもある。もちろん、「タクヤがさくらを好きになったこと」自体は何も悪くない。「何も悪くない」と書いている時点で3つの恋の展開がある程度予想できるかもしれないが、まあとにかく、タクヤは全然悪くない。
そして、その「タクヤの恋」を起点にして、タクヤ・さくら・荒川の物語が、静かに静かに展開していく。どこかの場面でゴトッと音を立てて物語が進展していくみたいなことはない。いや、なくはないのだが、それは「最後の一撃」みたいな部分であり、その「最後の一撃」に至る前の過程は、スケートリンクの上を滑らかに滑るみたいな感じで進んでいくのである。
しかも、「タクヤの恋」を起点に始まった関係性であるにも拘らず、状況の変化に対したタクヤはある種の「傍観者」的な立ち位置にいることになってしまう。タクヤの視点からすれば、「意味が分からないことだらけ」だろう。何がどうなってそうなったのか、理解できなかったはずだ。だから彼には、「起点が自分である」ということも分からないままだろう。それはタクヤにとって良かったことなのかどうなのか。
非常に繊細な物語で、この3人だからこそたどり着けた関係性なのに、この3人だったせいで崩れてしまったという、矛盾だらけの展開だった。「どうにかなる可能性はあっただろうか?」と考えたくなるが、3人の誰もが「自らの価値観に正直に生きる」という選択をする以上、「どうにかなる可能性」は無かったんだろうなと思えてしまう。
そして、その事実がとてもとても淋しいことのように感じられた。
「もしフィギュアスケートじゃなかったら?」とも思う。何か状況は変わっただろうか、と。しかし、フィギュアスケートじゃなかった場合、「アイスダンス」も無くなってしまう。となれば、3人があれほどの多幸感を醸し出すような関係になることも、やはりなかっただろうと思うのだ。だからやはり、フィギュアスケートじゃなければならなかったし、フィギュアスケートだったからこそこうなってしまったのである。
僕はいつも、「名前の付かない関係性」に惹かれる。それは別に物語に限らず、リアルの世界でもだ。そして彼ら3人の関係は、結果として名前が付くことはなかった。それは良かったのかどうなのか。「名前が付かない関係性」の方が良いなと思っているが、本作の場合は、「名前が付いてほしい」とも感じた。しかしそれもまた難しい。「すべての関係に名前が付く」ことはあり得ないからだ。ここにも、なんとも言えないややこしさがある。
本作を観ながら僕は、ずっとそんなモヤモヤした気持ちを抱かされてしまった。それを、「フィギュアスケートやアイスダンスの練習」というほぼそれだけの世界観の中だけで描き出してしまうのだから、その「巧みさ」に驚かされてしまった。舞台設定もメインの登場人物の数もとにかくミニマムながら、実に奥行きの広い物語を描いていて、凄く良かったと思う。全体的には、映画『PERFECT DAYS』の雰囲気に近いだろうか。「何も描いていないのに、そんな映像から何かが浮かび上がってくる」みたいな感じ。圧倒的だった。
さて、普段僕は、映画を観ていても「音楽」や「映像」にあまり反応しないのだが、本作は「音楽」も「映像」もとても良かったなと思う。
まず本作では、荒川が選手時代にこの曲に合わせて踊っていたという、ドビュッシーの『月の光』が随所に登場する。これが、「フィギュアスケートを優雅に踊っている感じ」とか「3人の関係性が静かに進展していく感じ」ととても合うのだ。また、曲調が凄くゆったりしているので、雪降る冬の北海道(だと思う。船のシーンがあったので)のゆったりした雰囲気が伝わってくる感じもある。あるいは、「3人の関係性が遅々として進まない」みたいな状況さえも丸ごと包容していくみたいな感じがあって、凄く良かった。
また、湖に向かう途中の車内でかけた音楽が、湖のシーンでもそのまま連続的に使われたと思うのだけど、あのシーンも好きだったなぁ。曲の雰囲気と3人の関係性の感じが合っているのは当然として、それまではどうにもぎこちなかった3人が、この瞬間を境に殻を脱ぎ捨てたみたいな雰囲気も音楽と共に伝わってきて、これも良かったなぁという感じだった。
映像の話で言えばまず、「なんかいつもの映画と違う気がする」と思ったのだが、割と早い段階で「画面が1:1の正方形」になっていることに気づいた。普段はもっと横長の画面な気がするので、良い意味で違和感があったのだ。
米津玄師の『Lemon』のMVが同じく正方形だが、以前この点に関して何か記事を流し読みしたことがあり、「正方形にしたのは、いつの時代の人が観ても普遍性を感じてもらいやすいため」みたいに誰か(監督かな?)が答えていたのを目にした記憶がある。正方形だと普遍性を感じられるのかは分からないが、普通の映画の横長や、スマホの縦長とは違う、普段目にすることのない正方形の画面は、「今でも過去でも未来でもない」みたいな雰囲気を与え得るのかもしれない。先程、「ガラケーを使っていたから本作の舞台設定は少し前かもしれない」と書いたが、そうであってもなくても、本作は全体的な雰囲気としても、「今でも過去でも未来でもない」みたいな雰囲気を有している気がするし、やはりそれは、正方形の画面によるところもあるのかもしれないと思う。
あと、これは自分で気づいたわけではなく、Filmarksの感想をチラ見していてなるほどと思ったことなのだけど、本作は「自然光」を使ったシーンが結構ある。そして、そんなシーンはやはり、かなり美しいなと思う。エイア像は全体的に美しいなと思うんだけど、スケートリンクなど室内のシーンよりも、やはり外のシーンの方が綺麗で、なるほど日光を上手く使ってるからなのか、と感じた。
池松壮亮はもちろん抜群の安定感だったが、タクヤとさくらを演じた2人は本作が初主演、さくらを演じた中西希亜良に至っては案技経験ゼロなのだそうだ。さくらは決してセリフが多い役ではなかったものの、物語の展開においてメチャクチャ重要なシーンを担う人物でもあるし、そもそも「喋り以外で感情を伝えること」だって難しいはずだ。またタクヤは「少し吃音がある」という役で、こちらもなかなか難しい。この2人が絶妙な雰囲気を醸し出していたからこそ本作のテイストが生まれていると思うし、とても良かったなと思う。
あと驚いたのは、タクヤを演じた越山敬達が4歳からフィギュアスケートを習っていたということ。というのもタクヤは最初「フィギュアスケートが上手く出来ない」というところから始まるからだ。「滑れる人間が、滑れない演技をする」というのも、難しいだろうなと思った。またそういう意味で言うなら、池松壮亮はコーチで元選手ということもあり、スケートが上手くないと成り立たないキャラクターなのだが、さすが、とても上手かったなと思う。
あと、役者の話で言うなら、エンドロールを観てメチャクチャ驚かされた。「若葉竜也」の名前がクレジットされていたからだ。「若葉竜也」の名前を観た瞬間、「えっ、どこに出てたっけ?」と思ったのだが、その次の瞬間に「あー!あいつか!」となった。ホントに、若葉竜也とか菅田将暉とかは、主演も出来るし、脇役として出てくると全然気付けないみたいな感じがあって、いつもビックリさせられてしまう。
本作は、大学在学中に撮った映画『僕はイエス様が嫌い』でデビューした奥山大史の2作目の長編映画であり、そしてカンヌ国際映画祭で日本作品として唯一オフィシャル作品に選出された。凄いものだなと思う。
実に素敵な作品である。
「ぼくのお日さま」を観に行ってきました
とても良かったなと思う。
本作はとにかく、フィギュアスケートというモチーフがとても良い。作中ある人物が、「フィギュアスケートは女のスポーツ」と口にするのだが、確かに大雑把にはそんな印象があるだろう。また、これはフィギュアスケートのコーチ・荒川のキャラクター造形に関係するのかもしれないが、ある場面で彼が2つ折の携帯電話をチェックしていた。恐らく、ガラケーなんじゃないか、と。もしそうだとしたら、本作の舞台は今ではなく、少し前ということになるだろう。そしてだとすれば、余計に「フィギュアスケートは女のスポーツ」という印象が強かったかもしれない。
そしてこのことが、物語全体において結構重要な要素になっていくのだ。いや、なるほどなぁ、という感じだった。
さて、本作については、僕はもしかしたら予告を観てなかったら、物語をちゃんと捉えきれなかったかもしれないと思う。本作の予告では確か、「雪が積もってから溶けるまでの、3つの恋の物語」みたいなナレーションが入っていたように思うのだが、映画を観ながら僕は「3つの恋?」と思っていたのだ。
どこに3つもあるのだろう、と。
1つははっきり分かる。小学6年生のタクヤが、フィギュアスケートの練習をするさくらに心を奪われるのだ。これはメチャクチャ分かりやすい。
そしてしばらくして、もう1つの恋も分かった。こちらについては、映画を観ながら、最初の内は全然理解できなかった。「家族と住んでいる」みたいに思っていたからだ。ただ途中で、「なるほど、これが2つ目か」と思った。
そして.3つ目については、「3つの恋」という事前の情報があったから分かったという感じである。消去法で考えれば、それしかない。ただ、もしも「3つの恋」という情報を知らずに観ていたら、この3つ目の恋には気づかなかったかもしれない。いや、確かにそう言われれば、それを示唆する場面を思い出すことは出来る。でも、「そこまでの感じ」とは思っていなかった。
さて、この3つの恋は、実に興味深い形で展開されていく。「興味深い」と書いたのはネタバレを避けるためで、別に「面白い」という意味ではない。この3つの恋は、ちょっと思いがけない展開を見せるのである。
そして、ある意味でそのきっかけとなったのが、「タクヤがさくらを好きになったこと」だと言えるだろう。本作の物語の起点でもあり、3つの恋の「結末」が始まる起点でもある。もちろん、「タクヤがさくらを好きになったこと」自体は何も悪くない。「何も悪くない」と書いている時点で3つの恋の展開がある程度予想できるかもしれないが、まあとにかく、タクヤは全然悪くない。
そして、その「タクヤの恋」を起点にして、タクヤ・さくら・荒川の物語が、静かに静かに展開していく。どこかの場面でゴトッと音を立てて物語が進展していくみたいなことはない。いや、なくはないのだが、それは「最後の一撃」みたいな部分であり、その「最後の一撃」に至る前の過程は、スケートリンクの上を滑らかに滑るみたいな感じで進んでいくのである。
しかも、「タクヤの恋」を起点に始まった関係性であるにも拘らず、状況の変化に対したタクヤはある種の「傍観者」的な立ち位置にいることになってしまう。タクヤの視点からすれば、「意味が分からないことだらけ」だろう。何がどうなってそうなったのか、理解できなかったはずだ。だから彼には、「起点が自分である」ということも分からないままだろう。それはタクヤにとって良かったことなのかどうなのか。
非常に繊細な物語で、この3人だからこそたどり着けた関係性なのに、この3人だったせいで崩れてしまったという、矛盾だらけの展開だった。「どうにかなる可能性はあっただろうか?」と考えたくなるが、3人の誰もが「自らの価値観に正直に生きる」という選択をする以上、「どうにかなる可能性」は無かったんだろうなと思えてしまう。
そして、その事実がとてもとても淋しいことのように感じられた。
「もしフィギュアスケートじゃなかったら?」とも思う。何か状況は変わっただろうか、と。しかし、フィギュアスケートじゃなかった場合、「アイスダンス」も無くなってしまう。となれば、3人があれほどの多幸感を醸し出すような関係になることも、やはりなかっただろうと思うのだ。だからやはり、フィギュアスケートじゃなければならなかったし、フィギュアスケートだったからこそこうなってしまったのである。
僕はいつも、「名前の付かない関係性」に惹かれる。それは別に物語に限らず、リアルの世界でもだ。そして彼ら3人の関係は、結果として名前が付くことはなかった。それは良かったのかどうなのか。「名前が付かない関係性」の方が良いなと思っているが、本作の場合は、「名前が付いてほしい」とも感じた。しかしそれもまた難しい。「すべての関係に名前が付く」ことはあり得ないからだ。ここにも、なんとも言えないややこしさがある。
本作を観ながら僕は、ずっとそんなモヤモヤした気持ちを抱かされてしまった。それを、「フィギュアスケートやアイスダンスの練習」というほぼそれだけの世界観の中だけで描き出してしまうのだから、その「巧みさ」に驚かされてしまった。舞台設定もメインの登場人物の数もとにかくミニマムながら、実に奥行きの広い物語を描いていて、凄く良かったと思う。全体的には、映画『PERFECT DAYS』の雰囲気に近いだろうか。「何も描いていないのに、そんな映像から何かが浮かび上がってくる」みたいな感じ。圧倒的だった。
さて、普段僕は、映画を観ていても「音楽」や「映像」にあまり反応しないのだが、本作は「音楽」も「映像」もとても良かったなと思う。
まず本作では、荒川が選手時代にこの曲に合わせて踊っていたという、ドビュッシーの『月の光』が随所に登場する。これが、「フィギュアスケートを優雅に踊っている感じ」とか「3人の関係性が静かに進展していく感じ」ととても合うのだ。また、曲調が凄くゆったりしているので、雪降る冬の北海道(だと思う。船のシーンがあったので)のゆったりした雰囲気が伝わってくる感じもある。あるいは、「3人の関係性が遅々として進まない」みたいな状況さえも丸ごと包容していくみたいな感じがあって、凄く良かった。
また、湖に向かう途中の車内でかけた音楽が、湖のシーンでもそのまま連続的に使われたと思うのだけど、あのシーンも好きだったなぁ。曲の雰囲気と3人の関係性の感じが合っているのは当然として、それまではどうにもぎこちなかった3人が、この瞬間を境に殻を脱ぎ捨てたみたいな雰囲気も音楽と共に伝わってきて、これも良かったなぁという感じだった。
映像の話で言えばまず、「なんかいつもの映画と違う気がする」と思ったのだが、割と早い段階で「画面が1:1の正方形」になっていることに気づいた。普段はもっと横長の画面な気がするので、良い意味で違和感があったのだ。
米津玄師の『Lemon』のMVが同じく正方形だが、以前この点に関して何か記事を流し読みしたことがあり、「正方形にしたのは、いつの時代の人が観ても普遍性を感じてもらいやすいため」みたいに誰か(監督かな?)が答えていたのを目にした記憶がある。正方形だと普遍性を感じられるのかは分からないが、普通の映画の横長や、スマホの縦長とは違う、普段目にすることのない正方形の画面は、「今でも過去でも未来でもない」みたいな雰囲気を与え得るのかもしれない。先程、「ガラケーを使っていたから本作の舞台設定は少し前かもしれない」と書いたが、そうであってもなくても、本作は全体的な雰囲気としても、「今でも過去でも未来でもない」みたいな雰囲気を有している気がするし、やはりそれは、正方形の画面によるところもあるのかもしれないと思う。
あと、これは自分で気づいたわけではなく、Filmarksの感想をチラ見していてなるほどと思ったことなのだけど、本作は「自然光」を使ったシーンが結構ある。そして、そんなシーンはやはり、かなり美しいなと思う。エイア像は全体的に美しいなと思うんだけど、スケートリンクなど室内のシーンよりも、やはり外のシーンの方が綺麗で、なるほど日光を上手く使ってるからなのか、と感じた。
池松壮亮はもちろん抜群の安定感だったが、タクヤとさくらを演じた2人は本作が初主演、さくらを演じた中西希亜良に至っては案技経験ゼロなのだそうだ。さくらは決してセリフが多い役ではなかったものの、物語の展開においてメチャクチャ重要なシーンを担う人物でもあるし、そもそも「喋り以外で感情を伝えること」だって難しいはずだ。またタクヤは「少し吃音がある」という役で、こちらもなかなか難しい。この2人が絶妙な雰囲気を醸し出していたからこそ本作のテイストが生まれていると思うし、とても良かったなと思う。
あと驚いたのは、タクヤを演じた越山敬達が4歳からフィギュアスケートを習っていたということ。というのもタクヤは最初「フィギュアスケートが上手く出来ない」というところから始まるからだ。「滑れる人間が、滑れない演技をする」というのも、難しいだろうなと思った。またそういう意味で言うなら、池松壮亮はコーチで元選手ということもあり、スケートが上手くないと成り立たないキャラクターなのだが、さすが、とても上手かったなと思う。
あと、役者の話で言うなら、エンドロールを観てメチャクチャ驚かされた。「若葉竜也」の名前がクレジットされていたからだ。「若葉竜也」の名前を観た瞬間、「えっ、どこに出てたっけ?」と思ったのだが、その次の瞬間に「あー!あいつか!」となった。ホントに、若葉竜也とか菅田将暉とかは、主演も出来るし、脇役として出てくると全然気付けないみたいな感じがあって、いつもビックリさせられてしまう。
本作は、大学在学中に撮った映画『僕はイエス様が嫌い』でデビューした奥山大史の2作目の長編映画であり、そしてカンヌ国際映画祭で日本作品として唯一オフィシャル作品に選出された。凄いものだなと思う。
実に素敵な作品である。
「ぼくのお日さま」を観に行ってきました
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