幼な子われらに生まれ(重松清)
僕には、どうしてもわからないのである。
家族って、一体なんなんだろう。
僕はこの本の感想の中で、自分の家族について触れた文章を結構書いてきた。既に重複しているものもあるだろう。しかし今回は、敢えてこの感想の中で、自分の家族も含めた文章を書こうと思う。
家族とは、血の繋がった他人である。
僕は、ずっとそう思ってきた。性別も年代も経歴も、なんの共通点もない人々の集まり。唯一、血が繋がっている、というだけの理由で一つの社会を作っている集まり。僕にはそれが、どうにも不自然に思えてしかたがなかった。
血が繋がっている、ということがなんだというのだろう。
いろんな場面で、血が繋がっている、ということが重視される。重役を血縁のみで占める会社もあるだろうし、犯罪が起きれば加害者の家族への取材が殺到する。
それらはすべて、血が繋がっている、という理由でしかない。それが一体、どれほどのものなのか、僕にはまるでわからないのである。
血が繋がっているから、という理由で、思考停止しているとしか思えない。血は争えない、という言葉もあるが、犯罪が起きれば加害者の家族も非難を受ける。血が繋がっている、というだけの理由でだ。どんなに理不尽なことか。なんなんだそれは。
東野圭吾の「手紙」という作品を思い出した。確か、弟のために兄がある殺人を犯して、今は刑務所にいる。弟は、「殺人を犯した身内」ということで、人生を狂わされる、という話だった。
なんの関係があるんだろう、と僕は正直思ってしまう。気持ちが理解できないわけではない。わからなくはないがしかし、殺人を犯した兄と何もしていない弟は、やはり分けて考えるべきだと僕は思う。
だから、こんな言葉も僕には理解できない。
『「…あたしのパパだもん、ほんもののパパなんだもん、会いたいに決まってるじゃん。赤の他人と一緒にいるより、ほんもののパパのほうがいいに決まってるじゃん…」』
本作中で、薫という小学五年生の娘が、血の繋がりのない父親に向かっていう言葉である。
血が繋がっていないと『ほんもの』ではないのだろうか?この『ほんもの』という言葉には、子供は親を選ぶことはできない、という発想が染みついている。しかし、気の持ちようではないだろうか?自分が父親を、誰が父親なのかを決めてやる。それが、『ほんもの』なのではないだろうか?
あるいは、血が繋がっていないと『赤の他人』なのだろうか?それも、僕はおかしいと思う。血が繋がっていようが、『赤の他人』である。血が繋がっているから他人ではない、という方が、僕はよっぽどおかしいと思う。
僕は、ちょっと想像してみる。例えば、僕が両親の子ではない、と親に打ち明けられたとしたら…。
どうということはないだろう。全然、問題ない。それはもちろん、僕が両親のことをそもそも好きではない、というところにも理由はあるだろう。僕がもしそんな打ち明けをされたとしても、別の人生もあったのだな、とは思うかもしれないが、ショックだとか哀しいだとか、そんなことは思わなかっただろう。何にしたところで、自分を育てている人間が親なのである。そこで、血が繋がっていないだのといわれたところで、なんということはない。ただ、例えばその打ち明けをされた後で、僕がなんらかの問題を起こしたりするとしよう。そうした時、『やっぱり血が繋がってないことを話したからだろうか』と両親に思われるのはすごく嫌だろう。
家族というのは、本当に不思議だと僕は思うのだ。血が繋がっているという以外の共通項を持たない人々の集まりなのだ。それは、無理も生じるだろう。家族という幻想が、きっと多くの人には美しく見えているのだろうと思う。
本作中にこんな言葉がある。
『私もそうだ。1日分どころではない。四年分張り詰めていたものが切れてしまったようだった。張り詰めていたのだ、とあらためて気づくと、滑稽で、むなあしくて、足がぴたりと止まってしまう。張り詰めていなければ保てない家族の繋がりに、いったい何の価値があったのだろう。』
僕は断言できるのだが、実家にいた頃は常に張り詰めていた。家族という形の歪さに気づいてしまっていたし、どうしようもなく息苦しい空間だったし、逃げ出したかった。張り詰めて自分の心を守らなければ、とても生きていられる環境ではなかったのだ。
両親も、恐らく張り詰めていたのだろう。理由はわからない。仕事でイライラしていたのかもしれないし、家事に疲れたのかもしれない。あるいは、僕の知らないところで何か大きな問題が起きていたのかもしれない。とにかく僕には、両親も家族という形を維持するのに疲れているように見えたものだ。
偽善である。今現在どうかは知らないが、僕が実家にいた当時、誰もが疲れていたと思う。家族という一員を演じることに。それはもはや適性の問題であって、誰かが責められる問題ではないのかもしれない。ただ問題は、人間の多くは家族という形から逃れることはできない、ということだ。特に子供の頃は。だから、無理をして演じてでも、家族という形に収まらなくてはならない。
当時僕は、一人で生きていくことのできない子供という自分を、ひどく哀しんだ。こんなに居心地の悪い空間なのに、こんなに不自然な場所なのに、僕はここから逃げ出すことができない。そう思うだけで、哀しくなった。何度も逃げ出そうとは思ったのだ。しかし、勇気がでなかった。あの当時、一人で生きていくという選択は、やはり無謀だったと思う。
結婚率が下がっているだの晩婚だのと言われているけれども、人々の多くは、幸せな家庭を築くことを目標に生きている人は多いのだろう。よく出来た妻、かっこいい旦那、可愛い子供、綺麗な家。みんな、そういったものに憧れているのだろう。
僕にはそれが、蜃気楼のようにしか思えない。この世に、幸せな家族なんてものが存在するということが信じられないのである。それはまさしく幻想であり、夢である。
誰も無理をしないで成立する家族なんて、ありえない。常に誰かが、時には誰もが無理をして、家族という形を生み出している。人々は、それでもいいから家族という形を作りたいと願うのだろう。僕は、それがどうにも理解できない。
これは何度も書いていることだけど、また書くことにしよう。僕が万が一結婚することになって、万が一子供が出来るようなことがあったとしよう。そしたら僕は、子供に名前で呼ばせる。「パパ」とか「お父さん」とかでは呼ばせない。そう決めている。
父親という役割から、せめて名前だけでも抜け出したいという感情の表れかもしれない。親として子供に接することのできない言い訳を先にしているのかもしれない。でも僕はこう考えている。
できれば、子供とは友達でいたい。
親子という関係が、僕にはどうしてもうそ臭く、不自然に見えてしまうのである。責任はもちろん持つ。その上で、自分の子供とは友達という関係でありたい。僕はそんな風に思っている。
そろそろ内容に入ろうと思います。
私は、37歳のサラリーマンだ。妻がいて、二人の娘がいる。
しかし、お互いに再婚の身だ。私は、前妻の友佳と一人娘だった沙織と別れ、妻である菜苗も前夫の沢田隆司と離婚し、薫と恵理子という二人の娘を連れて、そうして再婚した。
生活は、どこにでもある家族のものだった。長女の薫は、わたしが『ほんもの』の父親でないことは知っているが、結婚当初はなついてくれていた。下の娘の理恵子はその事実を知らず、まとわりつくようにして私に接してくる。菜苗には特に恋愛感情はなかったが、彼女とならちゃんとした家庭を作れる、そう思って結婚した。
でも、どこかおかしい。
違和感の正体に気づいているのに気づかないフリをして、私は家族と共に過ごす時間を大切にしてきた。残業はなるべくせず、有給休暇も欠かさず取り、飲み会も1次会で切り上げる。父親として、ちゃんとやっている。そう思う。
私は今も、沙織と会っている。離婚の時の条件で年4回しか会えないのだが、自分と血の繋がった唯一の娘だという思いが、沙織を愛しく思わせる。薫と沙織を比べてしまうことも、時々ではなくある。
一応平衡は保っていた日常だった。愚かだけどそれなりに幸せで、不自然だけどそれなりに満足な日常。私は努力によってその生活を掴み取ってきた。
菜苗が妊娠した。
その事実で、今それがあっさりと崩れ去ろうとしている…。
というような話です。
とにかく、家族というものを深く深く考えさせられる話です。家族っていうのは、脆くてあっさり壊れてしまう、ということを痛感させられるし、血の繋がりって一体なんなんだろう、という風にも思わされると思います。
実際、これと似たような境遇の人というのは、世の中に数多くいるのでしょう。ただ冒頭でも書いたけど、親と血が繋がっていないということがそれほどショックなことなのか、僕にはどうにも理解できないのですね。ドラマでもよく、戸籍を見て初めて知ってショックで、みたいな展開はあるけど、本当にそうなのだろうか?ショックを受けるのだとすれば、どの部分にショックなのだろうか。
そういう意味で、僕は薫の考えていることが理解できない。薫は、私が本当の父親ではないと知っていてそれを妹にいじわるく伝えようとしたり、私に向かって意固地な態度を続けたりもする。『ほんもの』父親に会いたい、と言ってみたりもする。
そういう言動が、どういう考えから来るものなのか、正直うまく理解できない。全然わからないというわけではないけど、少なくとも僕の中にはない考えだし感情だ。血の繋がりとは本当になんなのだろう。
そういえば僕は、桐野夏生の「ダーク」の感想の中で、血の繋がりというものに興味がないからこそ子供に興味がないのであり、だからこそ長生きすることに興味がないのだ、というようなことを書いた記憶がある。そんなことを思い出した。
さて逆に僕は、薫の言動そのものは、すごく理解できてしまう。僕は正直、両親に対してああいう反抗的な態度をとって来たかった、と思っている。当時も思っていた。でも出来なかったのである。
僕も、ほんの少し何かが狂っていたら、薫のような言動をする子供になっていただろう。不機嫌で常に不満があって、意固地な態度を崩さずに長い冷戦のような状況になっていただろう。しかし僕は、そうしたいという感情を奥底に沈めて、自分を偽って過ごしてきた。いかに大過なく実家での生活をやり過ごすか。そればかり考えていたのだから、両親と正面切って対立しようなんて発想にならなかったのである。
本作中の言葉でこんなものがある。私が、意固地な態度を続ける薫に向かっていうセリフだ。
『「なんでもいいから、言ってみなよ。いまのウチのどこが嫌か、どんなふうになれば薫は一番いいのか、怒ったりなんかしないから、思ったことを全部話してみろよ」』
この部分を読んだとき、僕は鳥肌が立つような思いをした。
まるで、僕の父親が喋りそうなセリフではないか。
正直、昔の記憶は日々薄れているので、父親が実際僕に向かってこんなことを言ったことがあるのかどうか、それは思い出せない。しかし、うちの父親なら、寸分たがわず同じことを言ってもおかしくないと思う。
そうじゃないんだ、と僕は思うし、きっと薫も思ったことだろう。大人は、話さえきいてやればなんとか解決できる、と思っている。時間さえかけて話を聞いてやれば、なんとかなると。
そうじゃないんだ。そんな物分りのいい風をして近づいてこられても困るんだ。怒らないからとか、俺がどうしたいとかじゃないんだ。そうじゃないんだ。俺らは今、大きな深い溝の前にいるんだよ。そこで向き合って話してる。俺としてはあんたに近づいてほしくはない。あんたもこっちには来たくないだろう。だからそうやって、溝の向こうで声だけ届かせようとしてるんだ。でもそうじゃないんだよ。溝を越える気がないなら話し掛けないでくれ。俺と話がしたいなら、無理矢理にでも溝を乗り越えなきゃダメだろうが。俺らが今、どうしようもなくわかりあえないということをちゃんと認めた上で、その上で0から始めようって思ってくれよ。あんたのその言葉は、俺らの間の関係性をまだ利用しようとしてるだろ。親子であるという繋がりに託そうとしてるだろ。そうじゃないんだよ。それを一旦リセットして、初めて出会った二人みたいに、もう一回0から始めるしかないんだよ。
薫に掛けられたのと同じ言葉を言われたら、僕はこんな風に思うだろうし、こんな風に言い返すかもしれない。大人はいつから子供の気持ちを忘れてしまうのだろう。自分だって、子供だったはずなのに。同じ事を言われたらむかついたはずなのに。
本作は、家族というだけでなく、夫婦についてもあれこれ考えさせる作品だ。
その中でも一番なるほどと思った言葉がある。私の前妻である友佳が私に向かっていうセリフだ。
『「昔からよ。あなた、理由は訊くくせに、気持ちは訊かないの」』
これは、男と女という違いをつよく印象付ける言葉だった。確かに、男が興味があるのは理由だ。理屈の世界で生きている男としては、理由に納得がいけばいいし、納得できなければ困る。それが判断のほぼすべてだろう。
しかし、女性はそうではない。理由なんてむしろどうでもいい。その時どう思ったのか、それを大切にしている。
こういう短いセリフからも、いろんなことを考えることが出来る。とにかく本作は、誰が読んでも、どんな境遇の人が読んでも、いろんなことを考えさせられる作品だと思う。
家族を持っている人も持っていない人も、子供との関係に悩んでいるひともいない人も、とにかく読んでみてください。心が揺さぶられるのではないかと思います。家族や夫婦ということについて考えるきっかけにもなるでしょう。是非とも読んでみてください。
重松清「幼な子われらに生まれ」
家族って、一体なんなんだろう。
僕はこの本の感想の中で、自分の家族について触れた文章を結構書いてきた。既に重複しているものもあるだろう。しかし今回は、敢えてこの感想の中で、自分の家族も含めた文章を書こうと思う。
家族とは、血の繋がった他人である。
僕は、ずっとそう思ってきた。性別も年代も経歴も、なんの共通点もない人々の集まり。唯一、血が繋がっている、というだけの理由で一つの社会を作っている集まり。僕にはそれが、どうにも不自然に思えてしかたがなかった。
血が繋がっている、ということがなんだというのだろう。
いろんな場面で、血が繋がっている、ということが重視される。重役を血縁のみで占める会社もあるだろうし、犯罪が起きれば加害者の家族への取材が殺到する。
それらはすべて、血が繋がっている、という理由でしかない。それが一体、どれほどのものなのか、僕にはまるでわからないのである。
血が繋がっているから、という理由で、思考停止しているとしか思えない。血は争えない、という言葉もあるが、犯罪が起きれば加害者の家族も非難を受ける。血が繋がっている、というだけの理由でだ。どんなに理不尽なことか。なんなんだそれは。
東野圭吾の「手紙」という作品を思い出した。確か、弟のために兄がある殺人を犯して、今は刑務所にいる。弟は、「殺人を犯した身内」ということで、人生を狂わされる、という話だった。
なんの関係があるんだろう、と僕は正直思ってしまう。気持ちが理解できないわけではない。わからなくはないがしかし、殺人を犯した兄と何もしていない弟は、やはり分けて考えるべきだと僕は思う。
だから、こんな言葉も僕には理解できない。
『「…あたしのパパだもん、ほんもののパパなんだもん、会いたいに決まってるじゃん。赤の他人と一緒にいるより、ほんもののパパのほうがいいに決まってるじゃん…」』
本作中で、薫という小学五年生の娘が、血の繋がりのない父親に向かっていう言葉である。
血が繋がっていないと『ほんもの』ではないのだろうか?この『ほんもの』という言葉には、子供は親を選ぶことはできない、という発想が染みついている。しかし、気の持ちようではないだろうか?自分が父親を、誰が父親なのかを決めてやる。それが、『ほんもの』なのではないだろうか?
あるいは、血が繋がっていないと『赤の他人』なのだろうか?それも、僕はおかしいと思う。血が繋がっていようが、『赤の他人』である。血が繋がっているから他人ではない、という方が、僕はよっぽどおかしいと思う。
僕は、ちょっと想像してみる。例えば、僕が両親の子ではない、と親に打ち明けられたとしたら…。
どうということはないだろう。全然、問題ない。それはもちろん、僕が両親のことをそもそも好きではない、というところにも理由はあるだろう。僕がもしそんな打ち明けをされたとしても、別の人生もあったのだな、とは思うかもしれないが、ショックだとか哀しいだとか、そんなことは思わなかっただろう。何にしたところで、自分を育てている人間が親なのである。そこで、血が繋がっていないだのといわれたところで、なんということはない。ただ、例えばその打ち明けをされた後で、僕がなんらかの問題を起こしたりするとしよう。そうした時、『やっぱり血が繋がってないことを話したからだろうか』と両親に思われるのはすごく嫌だろう。
家族というのは、本当に不思議だと僕は思うのだ。血が繋がっているという以外の共通項を持たない人々の集まりなのだ。それは、無理も生じるだろう。家族という幻想が、きっと多くの人には美しく見えているのだろうと思う。
本作中にこんな言葉がある。
『私もそうだ。1日分どころではない。四年分張り詰めていたものが切れてしまったようだった。張り詰めていたのだ、とあらためて気づくと、滑稽で、むなあしくて、足がぴたりと止まってしまう。張り詰めていなければ保てない家族の繋がりに、いったい何の価値があったのだろう。』
僕は断言できるのだが、実家にいた頃は常に張り詰めていた。家族という形の歪さに気づいてしまっていたし、どうしようもなく息苦しい空間だったし、逃げ出したかった。張り詰めて自分の心を守らなければ、とても生きていられる環境ではなかったのだ。
両親も、恐らく張り詰めていたのだろう。理由はわからない。仕事でイライラしていたのかもしれないし、家事に疲れたのかもしれない。あるいは、僕の知らないところで何か大きな問題が起きていたのかもしれない。とにかく僕には、両親も家族という形を維持するのに疲れているように見えたものだ。
偽善である。今現在どうかは知らないが、僕が実家にいた当時、誰もが疲れていたと思う。家族という一員を演じることに。それはもはや適性の問題であって、誰かが責められる問題ではないのかもしれない。ただ問題は、人間の多くは家族という形から逃れることはできない、ということだ。特に子供の頃は。だから、無理をして演じてでも、家族という形に収まらなくてはならない。
当時僕は、一人で生きていくことのできない子供という自分を、ひどく哀しんだ。こんなに居心地の悪い空間なのに、こんなに不自然な場所なのに、僕はここから逃げ出すことができない。そう思うだけで、哀しくなった。何度も逃げ出そうとは思ったのだ。しかし、勇気がでなかった。あの当時、一人で生きていくという選択は、やはり無謀だったと思う。
結婚率が下がっているだの晩婚だのと言われているけれども、人々の多くは、幸せな家庭を築くことを目標に生きている人は多いのだろう。よく出来た妻、かっこいい旦那、可愛い子供、綺麗な家。みんな、そういったものに憧れているのだろう。
僕にはそれが、蜃気楼のようにしか思えない。この世に、幸せな家族なんてものが存在するということが信じられないのである。それはまさしく幻想であり、夢である。
誰も無理をしないで成立する家族なんて、ありえない。常に誰かが、時には誰もが無理をして、家族という形を生み出している。人々は、それでもいいから家族という形を作りたいと願うのだろう。僕は、それがどうにも理解できない。
これは何度も書いていることだけど、また書くことにしよう。僕が万が一結婚することになって、万が一子供が出来るようなことがあったとしよう。そしたら僕は、子供に名前で呼ばせる。「パパ」とか「お父さん」とかでは呼ばせない。そう決めている。
父親という役割から、せめて名前だけでも抜け出したいという感情の表れかもしれない。親として子供に接することのできない言い訳を先にしているのかもしれない。でも僕はこう考えている。
できれば、子供とは友達でいたい。
親子という関係が、僕にはどうしてもうそ臭く、不自然に見えてしまうのである。責任はもちろん持つ。その上で、自分の子供とは友達という関係でありたい。僕はそんな風に思っている。
そろそろ内容に入ろうと思います。
私は、37歳のサラリーマンだ。妻がいて、二人の娘がいる。
しかし、お互いに再婚の身だ。私は、前妻の友佳と一人娘だった沙織と別れ、妻である菜苗も前夫の沢田隆司と離婚し、薫と恵理子という二人の娘を連れて、そうして再婚した。
生活は、どこにでもある家族のものだった。長女の薫は、わたしが『ほんもの』の父親でないことは知っているが、結婚当初はなついてくれていた。下の娘の理恵子はその事実を知らず、まとわりつくようにして私に接してくる。菜苗には特に恋愛感情はなかったが、彼女とならちゃんとした家庭を作れる、そう思って結婚した。
でも、どこかおかしい。
違和感の正体に気づいているのに気づかないフリをして、私は家族と共に過ごす時間を大切にしてきた。残業はなるべくせず、有給休暇も欠かさず取り、飲み会も1次会で切り上げる。父親として、ちゃんとやっている。そう思う。
私は今も、沙織と会っている。離婚の時の条件で年4回しか会えないのだが、自分と血の繋がった唯一の娘だという思いが、沙織を愛しく思わせる。薫と沙織を比べてしまうことも、時々ではなくある。
一応平衡は保っていた日常だった。愚かだけどそれなりに幸せで、不自然だけどそれなりに満足な日常。私は努力によってその生活を掴み取ってきた。
菜苗が妊娠した。
その事実で、今それがあっさりと崩れ去ろうとしている…。
というような話です。
とにかく、家族というものを深く深く考えさせられる話です。家族っていうのは、脆くてあっさり壊れてしまう、ということを痛感させられるし、血の繋がりって一体なんなんだろう、という風にも思わされると思います。
実際、これと似たような境遇の人というのは、世の中に数多くいるのでしょう。ただ冒頭でも書いたけど、親と血が繋がっていないということがそれほどショックなことなのか、僕にはどうにも理解できないのですね。ドラマでもよく、戸籍を見て初めて知ってショックで、みたいな展開はあるけど、本当にそうなのだろうか?ショックを受けるのだとすれば、どの部分にショックなのだろうか。
そういう意味で、僕は薫の考えていることが理解できない。薫は、私が本当の父親ではないと知っていてそれを妹にいじわるく伝えようとしたり、私に向かって意固地な態度を続けたりもする。『ほんもの』父親に会いたい、と言ってみたりもする。
そういう言動が、どういう考えから来るものなのか、正直うまく理解できない。全然わからないというわけではないけど、少なくとも僕の中にはない考えだし感情だ。血の繋がりとは本当になんなのだろう。
そういえば僕は、桐野夏生の「ダーク」の感想の中で、血の繋がりというものに興味がないからこそ子供に興味がないのであり、だからこそ長生きすることに興味がないのだ、というようなことを書いた記憶がある。そんなことを思い出した。
さて逆に僕は、薫の言動そのものは、すごく理解できてしまう。僕は正直、両親に対してああいう反抗的な態度をとって来たかった、と思っている。当時も思っていた。でも出来なかったのである。
僕も、ほんの少し何かが狂っていたら、薫のような言動をする子供になっていただろう。不機嫌で常に不満があって、意固地な態度を崩さずに長い冷戦のような状況になっていただろう。しかし僕は、そうしたいという感情を奥底に沈めて、自分を偽って過ごしてきた。いかに大過なく実家での生活をやり過ごすか。そればかり考えていたのだから、両親と正面切って対立しようなんて発想にならなかったのである。
本作中の言葉でこんなものがある。私が、意固地な態度を続ける薫に向かっていうセリフだ。
『「なんでもいいから、言ってみなよ。いまのウチのどこが嫌か、どんなふうになれば薫は一番いいのか、怒ったりなんかしないから、思ったことを全部話してみろよ」』
この部分を読んだとき、僕は鳥肌が立つような思いをした。
まるで、僕の父親が喋りそうなセリフではないか。
正直、昔の記憶は日々薄れているので、父親が実際僕に向かってこんなことを言ったことがあるのかどうか、それは思い出せない。しかし、うちの父親なら、寸分たがわず同じことを言ってもおかしくないと思う。
そうじゃないんだ、と僕は思うし、きっと薫も思ったことだろう。大人は、話さえきいてやればなんとか解決できる、と思っている。時間さえかけて話を聞いてやれば、なんとかなると。
そうじゃないんだ。そんな物分りのいい風をして近づいてこられても困るんだ。怒らないからとか、俺がどうしたいとかじゃないんだ。そうじゃないんだ。俺らは今、大きな深い溝の前にいるんだよ。そこで向き合って話してる。俺としてはあんたに近づいてほしくはない。あんたもこっちには来たくないだろう。だからそうやって、溝の向こうで声だけ届かせようとしてるんだ。でもそうじゃないんだよ。溝を越える気がないなら話し掛けないでくれ。俺と話がしたいなら、無理矢理にでも溝を乗り越えなきゃダメだろうが。俺らが今、どうしようもなくわかりあえないということをちゃんと認めた上で、その上で0から始めようって思ってくれよ。あんたのその言葉は、俺らの間の関係性をまだ利用しようとしてるだろ。親子であるという繋がりに託そうとしてるだろ。そうじゃないんだよ。それを一旦リセットして、初めて出会った二人みたいに、もう一回0から始めるしかないんだよ。
薫に掛けられたのと同じ言葉を言われたら、僕はこんな風に思うだろうし、こんな風に言い返すかもしれない。大人はいつから子供の気持ちを忘れてしまうのだろう。自分だって、子供だったはずなのに。同じ事を言われたらむかついたはずなのに。
本作は、家族というだけでなく、夫婦についてもあれこれ考えさせる作品だ。
その中でも一番なるほどと思った言葉がある。私の前妻である友佳が私に向かっていうセリフだ。
『「昔からよ。あなた、理由は訊くくせに、気持ちは訊かないの」』
これは、男と女という違いをつよく印象付ける言葉だった。確かに、男が興味があるのは理由だ。理屈の世界で生きている男としては、理由に納得がいけばいいし、納得できなければ困る。それが判断のほぼすべてだろう。
しかし、女性はそうではない。理由なんてむしろどうでもいい。その時どう思ったのか、それを大切にしている。
こういう短いセリフからも、いろんなことを考えることが出来る。とにかく本作は、誰が読んでも、どんな境遇の人が読んでも、いろんなことを考えさせられる作品だと思う。
家族を持っている人も持っていない人も、子供との関係に悩んでいるひともいない人も、とにかく読んでみてください。心が揺さぶられるのではないかと思います。家族や夫婦ということについて考えるきっかけにもなるでしょう。是非とも読んでみてください。
重松清「幼な子われらに生まれ」
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Comment
[1225]
[1226]
いえいえ全然まったく気にしないでください。僕としては、重松清の本は結構読みたい本だったわけで、でもdradonworldさんにオススメされなければもうしばらく先まで読まなかっただろうと思うので(読む順番は、とにかく新しく買った本がどんどん優先されていくわけで)、逆によかったなぁ、という感じなんです。
完璧な家族はないとわかっているんですけど、何せ人間は、普通は一つの家族しか経験できないわけじゃないですか。だから、もはや何が完璧なのかもわからない状態で、最後は本当に、そこで自分が納得できるかどうか、ということなんだと思います。客観的な判断が出来ないが故に、主観的な判断で満足するしかないのでしょうね。
血の繋がりは本当に僕には不思議なものですね。実際なったらどうかはわかりませんが、今想像するに、自分に子供ができたとしても、よその子と接し方に大差はないだろうな、と思ってしまうんですね。それくらい、血の繋がりというものに何かを感じることができないです。沙織が義父の死に泣く。僕は、こういう形の方がむしろ自然で、大げさに言えば正しいことなんじゃないかって思います。
>家族とは(血の繋がりの有無に関わらず)相手の存在を必要とする人達の小集団、という定義でいかがでしょうか?
この定義は、やはりさすが家庭を持っている人だけのことはあるな、という感じです(偉そうにすみません)。血の繋がりを強く意識するよりも、一緒にいたいのかどうか、というその一点だけを重視して家族というものが形成されていけばいいのにな、と本当に思います。でも本当に家族って、『永遠の開発途上』ですよね。僕の家族も、僕自身はそう感じられないけれども、やはり家族としての形はまだ残っているのでしょうしね。まだ開発の余地はあるのだろうか(笑)
重松清は、本当に家族というものを深く描く作家ですよね。これから家族を持とうと考えている人にはむしろ重い内容なのかもしれないけど(僕は家庭を持とうなんて思ってないので問題ないんですけど 笑)、でも読んで考えておくべきだな、という風には思います。
とりあえずおせっかいですけど、dradonworldさんの家族が幸せでいられるように、ささやかながら願っておきます。
完璧な家族はないとわかっているんですけど、何せ人間は、普通は一つの家族しか経験できないわけじゃないですか。だから、もはや何が完璧なのかもわからない状態で、最後は本当に、そこで自分が納得できるかどうか、ということなんだと思います。客観的な判断が出来ないが故に、主観的な判断で満足するしかないのでしょうね。
血の繋がりは本当に僕には不思議なものですね。実際なったらどうかはわかりませんが、今想像するに、自分に子供ができたとしても、よその子と接し方に大差はないだろうな、と思ってしまうんですね。それくらい、血の繋がりというものに何かを感じることができないです。沙織が義父の死に泣く。僕は、こういう形の方がむしろ自然で、大げさに言えば正しいことなんじゃないかって思います。
>家族とは(血の繋がりの有無に関わらず)相手の存在を必要とする人達の小集団、という定義でいかがでしょうか?
この定義は、やはりさすが家庭を持っている人だけのことはあるな、という感じです(偉そうにすみません)。血の繋がりを強く意識するよりも、一緒にいたいのかどうか、というその一点だけを重視して家族というものが形成されていけばいいのにな、と本当に思います。でも本当に家族って、『永遠の開発途上』ですよね。僕の家族も、僕自身はそう感じられないけれども、やはり家族としての形はまだ残っているのでしょうしね。まだ開発の余地はあるのだろうか(笑)
重松清は、本当に家族というものを深く描く作家ですよね。これから家族を持とうと考えている人にはむしろ重い内容なのかもしれないけど(僕は家庭を持とうなんて思ってないので問題ないんですけど 笑)、でも読んで考えておくべきだな、という風には思います。
とりあえずおせっかいですけど、dradonworldさんの家族が幸せでいられるように、ささやかながら願っておきます。
[1227]
書きたい事がいっぱい、自分のブログと違うのに、すみません。
まず、言われましたよ、私、父親に。「悪い所があるなら言ってくれ、謝る。直せるなら直す…」みたいな手紙。謝って済む問題じゃないし、還暦過ぎて孫もいて今さら直すって、はぁ?だ。
貧しさと戦後の混沌から高度経済成長の流れに乗って、この幸運を逃すまいと必死だったろう父。その父の、暴力を含むストレス発散の受皿を担いつつ、マイホームという夢の為に節約しまくった母。そんな親の圧力ビンビンの家、一方、学校では自由と平等と主体性を学ぶ子。
世の中は変わっていく、子は最新のまた先の理想を求め、親は古き封建的家長制の実現に励む。違うのだ。
一緒にやっていくには合わせるしかない。マジョリティにその気がなければマイノリティが合わせざるを得ない。そして自己崩壊(無気力無感情=奴隷化)か、模倣(より弱者へのパワハラ)か、脱出あるいは反撃の機を狙って耐えるか。学校も会社も国家も。
それと、家族/家庭は2つ経験できますよ。子として生まれ育つ家、親として産み育てる家。産み育てるのは人間の子に限らず、作品だったり思想だったり出逢いだったり。
う、薫の「ほんもの」についても書きたかったな。
まず、言われましたよ、私、父親に。「悪い所があるなら言ってくれ、謝る。直せるなら直す…」みたいな手紙。謝って済む問題じゃないし、還暦過ぎて孫もいて今さら直すって、はぁ?だ。
貧しさと戦後の混沌から高度経済成長の流れに乗って、この幸運を逃すまいと必死だったろう父。その父の、暴力を含むストレス発散の受皿を担いつつ、マイホームという夢の為に節約しまくった母。そんな親の圧力ビンビンの家、一方、学校では自由と平等と主体性を学ぶ子。
世の中は変わっていく、子は最新のまた先の理想を求め、親は古き封建的家長制の実現に励む。違うのだ。
一緒にやっていくには合わせるしかない。マジョリティにその気がなければマイノリティが合わせざるを得ない。そして自己崩壊(無気力無感情=奴隷化)か、模倣(より弱者へのパワハラ)か、脱出あるいは反撃の機を狙って耐えるか。学校も会社も国家も。
それと、家族/家庭は2つ経験できますよ。子として生まれ育つ家、親として産み育てる家。産み育てるのは人間の子に限らず、作品だったり思想だったり出逢いだったり。
う、薫の「ほんもの」についても書きたかったな。
[1228]
親からそんな手紙もらったら、ちょっと嫌ですね。
親としては、関係を改善したくてそういう手紙を出しているんでしょうkど、やっぱ違いますよね、それって。
どういうやり方がベストなのかはよく分からないけど、それが違うということは僕にも分かります。
家族というのは結局、親の価値観みたいなもので決まってしまうようなところがありますよね。
それが子どもの価値観と合うかどうかは基本的には考慮されない。
親自身は、自分の価値観が正しいと思っているし、子どももそれを正しいと思っているに違いないと思っているはず。
でも子どもは子どもでいろんなところから別の価値観を吸収してくる。
だから家族って窮屈なんだろうなという気もします。
たまたま親の価値観と子どもの価値観が合っている、あるいはそこまでいかなくてもお互いの価値観がたまたま反り合わないような場合だけ、
平穏な家族を築けるのではないかなとか思います。
なるほど、作品を生み出すのも家庭ですか。まあでも作品は、僕に文句とか言ってこないんで楽ですよ(笑)。
それこそ自分の好きなように出来ますからね。
実際の家族もそうであれば、少しは結婚してもいいかなとか思うんだけど、
そんなことありえないしなぁ。
親としては、関係を改善したくてそういう手紙を出しているんでしょうkど、やっぱ違いますよね、それって。
どういうやり方がベストなのかはよく分からないけど、それが違うということは僕にも分かります。
家族というのは結局、親の価値観みたいなもので決まってしまうようなところがありますよね。
それが子どもの価値観と合うかどうかは基本的には考慮されない。
親自身は、自分の価値観が正しいと思っているし、子どももそれを正しいと思っているに違いないと思っているはず。
でも子どもは子どもでいろんなところから別の価値観を吸収してくる。
だから家族って窮屈なんだろうなという気もします。
たまたま親の価値観と子どもの価値観が合っている、あるいはそこまでいかなくてもお互いの価値観がたまたま反り合わないような場合だけ、
平穏な家族を築けるのではないかなとか思います。
なるほど、作品を生み出すのも家庭ですか。まあでも作品は、僕に文句とか言ってこないんで楽ですよ(笑)。
それこそ自分の好きなように出来ますからね。
実際の家族もそうであれば、少しは結婚してもいいかなとか思うんだけど、
そんなことありえないしなぁ。
[1229]
お言葉に甘えて
作品自体(自身)は文句言って来なくても、受け手(読者視聴者…)の反応があります(無反応という反応も含め)。それと、作品も、自立とは違うかもですが、一人歩きするそうです。作者の意図とは違う受け取り方をされたり、思わぬ方向へ展開していったり。の、方が怖い、生身の人間より。と、思いません?
でも、それは、作品が素晴らしいからこそで、作者としては喜ぶべきで。だけど、淋しい悔しい…
ね?似てるでしょ?
薫さんの「ほんもの」について
隠したりするからですよ。血が繋がっていないならいないと妹ちゃんにも伝えるべきです。嘘の加担を強いられる、そうなった原因とは無関係なのに!大人の身勝手だ。それと、やはり好きじゃないって事でしょう、嫌いではないにしても。生まれたとき既にそうだったなら、唯一の存在ならば受け入れるしかない。(受け入れた上で違う形で抵抗したでしょう。)が、後から入って来られては、ねぇ。比較対象も在るし、ねっ。(物語だけども)
「血」は口実だと思います。結局は、親として子として、一人の人として好きじゃない、一緒に暮らしたい程には。って事だと。繋がっていても暮らしたくない親もいる。その逆も。
口実さ
作品自体(自身)は文句言って来なくても、受け手(読者視聴者…)の反応があります(無反応という反応も含め)。それと、作品も、自立とは違うかもですが、一人歩きするそうです。作者の意図とは違う受け取り方をされたり、思わぬ方向へ展開していったり。の、方が怖い、生身の人間より。と、思いません?
でも、それは、作品が素晴らしいからこそで、作者としては喜ぶべきで。だけど、淋しい悔しい…
ね?似てるでしょ?
薫さんの「ほんもの」について
隠したりするからですよ。血が繋がっていないならいないと妹ちゃんにも伝えるべきです。嘘の加担を強いられる、そうなった原因とは無関係なのに!大人の身勝手だ。それと、やはり好きじゃないって事でしょう、嫌いではないにしても。生まれたとき既にそうだったなら、唯一の存在ならば受け入れるしかない。(受け入れた上で違う形で抵抗したでしょう。)が、後から入って来られては、ねぇ。比較対象も在るし、ねっ。(物語だけども)
「血」は口実だと思います。結局は、親として子として、一人の人として好きじゃない、一緒に暮らしたい程には。って事だと。繋がっていても暮らしたくない親もいる。その逆も。
口実さ
[1230]
小説を読むことはすべて誤読だ、なんていう意見があります。
つまりすべての読者は、著者の意図通りには読んでいない、と。
確かにそれはありうるな、と思っています。
確かにそういうのは、家族みたいなものと似てるのかもしれないですね。
ストーリーはちょっと覚えていないんで、うまくコメント出来ないですけど、
「血」が口実というのは面白いですね。
なるほど、実際は一人の人間として好きじゃないんだ、と。
そういう場合、「血」というのは、自分を正当化するのに都合いいですからね。
この前テレビで、イギリスのデータらしいんですけど、
遺伝子検査とかをすると、母親の5%~10%が、父親(旦那)とは違う男の子どもを産んでいるんだそうです。つまり、父親の5%~10%は、自分とは血の繋がっていない子どもを育てているみたいです。
なんかそれはそれですごいなと思いました。
つまりすべての読者は、著者の意図通りには読んでいない、と。
確かにそれはありうるな、と思っています。
確かにそういうのは、家族みたいなものと似てるのかもしれないですね。
ストーリーはちょっと覚えていないんで、うまくコメント出来ないですけど、
「血」が口実というのは面白いですね。
なるほど、実際は一人の人間として好きじゃないんだ、と。
そういう場合、「血」というのは、自分を正当化するのに都合いいですからね。
この前テレビで、イギリスのデータらしいんですけど、
遺伝子検査とかをすると、母親の5%~10%が、父親(旦那)とは違う男の子どもを産んでいるんだそうです。つまり、父親の5%~10%は、自分とは血の繋がっていない子どもを育てているみたいです。
なんかそれはそれですごいなと思いました。
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『幼な子われらに生まれ』のご感想を、読ませていただきました。
急かせてしまい、本当に心苦しく思います。そして、ありがとうございました。
私も、自分の読書メモ(そんなに大それたものではありません)を開きました。
最初、子供の虐待シーンが出てくるのかな、と思って読むのをためらっていましたが、手に取って読むうちに、それが自分の全くの誤解であることが分かりました。
通りすがりさんは、家族の確執のような事を時々書いていらっしゃるようですが、完全な(完璧な)家庭は世の中に存在しないのではないか、と思います。
血の繋がりって何でしょうね。「本当のお父さんじゃないから、(死んだって)悲しくないや。」と言っていた沙織が、義父の死に立ち会い号泣する場面がありましたね。
>自分に一番近い人が、一番好きな人
とも、言っていました。
薫が、誕生をあんなに嫌っていたはずの弟を「つばさ」と名づけ、これから可愛がる予兆を感じる辺りで、この物語は終わりましたが、家族とは(血の繋がりの有無に関わらず)相手の存在を必要とする人達の小集団、という定義でいかがでしょうか?
この繋がりの濃淡は、時期によってかなり変わるかも知れませんね。
理想は「空気のような存在」でしょうが、現実はなかなか難しいです。永遠の課題とも言えるでしょう。完全な恋愛がないのと同じように、家族も不完全なものなので、これだけ多くの作品が世に出て、読まれているのでしょう。
私は重松さんの作品を読んだ後は、必ず家族について考えさせられます。この父親のように、良きパパになろうとひたすら自分を捨てて暮らすのもちょっと切ないですし、自分の夫だったら止めてもらいたいです。
家族っていつまで経っても未完成なものです。(永遠の開発途上?)
紆余曲折しながら、軌道修正しつつ、肩の力を抜いてゆったり暮らしたいと私は常々思っています。永久に完成しないものだと痛感しながら…。