ぼくらの七日間戦争(宗田理)
よかった、まだ「痛快」の側でいられました。
僕はとにかく『大人』にはなりたくなくて、なんとかそれに抗おうと思っています。
僕の言う『大人』というのは、年を取りたくないとか働きたくないとか責任を取りたくないとか、そういうことではありません。僕の中で『大人』というのは、子供を理解しない存在、ということなのです。
『大人』というのは、ホントいつだって同じようなことしかいいません。
「大人の言うことを聞いていればいい」
「勉強しなさい」
「子供の幸せを一番に考えているんだ」
とにかく、子供に理解がある人間、子供の幸せを一番に考えている存在、だと信じているわけです。
もちろん、本人はそう思い込んでいるだろう。自分は、子供のことに理解があるし、子供のことを一番に考えている、と。今は子供にとっては理解できないかもしれないけど、でも将来的にきっと自分が正しかったと信じてくれるはずだ、と。
しかし、そんな意見を耳にする度に、いつも思ってしまうことがあるのである。
『大人』は、自分が子供だった頃のことを忘れてしまっているのかな、と。
子供というのは、決して未熟な存在ではない、と僕は思っている。もちろん、人間として完成されているかと言えば、もちろんそんなことはないが、しかしそれは『大人』にだって同じことが言えるというだけの話だ。
『大人』と子供を分けるのは、その人間としての完成度や経験などではなく、唯一社会性という問題である。『大人』の背景には常に社会が存在し、子供の背景にはそれがない、というだけの話である。
『大人』は、社会を背負っているという自負があり、そんな自分のことを正しいと思っているのだろう。会社で働く自分、家庭を守る自分。そんな自分自身が社会の代弁者であり責任者であり、一人の人間として正しい、とそんな風に思っているに違いない。
だからこそ、逆説的にこう考えるのだ。社会を背負っていない子供は、間違いを犯すに違いない。ここは、社会を背負っている我々が、彼らを教育しなくてはいけない、と。
しかし、子供というのは、社会を背負っていないだけで、きちんと判断も出来れば正しいことも出来る。『大人』と変わらない複雑な世界の中で生きているし(場合によっては『大人』の社会より学校の世界の方がより複雑で大変かもしれない)、人知れず苦労だってしている。それなのに、社会性を帯びているかどうかだけで、『大人』と子供を隔てようとするのだ。
もう一つ思うことがある。それは、『大人』は子供を一まとめにして見ようとしている、ということだ。
例えば、大人でも犯罪を犯す人間はたくさんいる。悪い人間もたくさんいる。しかし『大人』は、彼ら犯罪者を『大人』として一括りにはしようとしない。そうすれば、自分達も同じである、ということになって不利益を被るからだ。『大人』は犯罪者を、彼はこれこれこうでこうだから、彼女はあれこれどうでああだったから、といろいろ理屈を捏ねては、自分達『大人』と違う枠で捉えようとする。
しかし、例えば子供が犯罪を犯した時、大人の反応は一様である。つまり、『子供が犯罪を犯した』というその点に集中するのだ。『大人』は、子供というのを一つの集団として扱おうとする。だからこそ、子供に害悪のあるゲームや映画はよくないなんていう、不毛な議論が巻き起こったりするのである。
子供にだっていろいろ違いはあるし事情もある。同じ子供で括られたくはないだろう。同じゲームや映画を見たってほとんど凶悪な感情を持つことはないのに、ほんのわずかそういう人間がいるからと言って子供全体にそれを禁止するのは、どう考えてもおかしい。『大人』だってそうだろう。あるゲームをやって犯罪にのめり込んだ『大人』の犯罪者がいて、そのためにそのゲームを禁止されることになったら、そんなバカな、と思うだろう。子供だって、もちろん同じだ。
自分が子供だった頃のことなんてすっかり忘れて、『大人』はいつの間にか『大人』になっている。最悪だ。そんな存在には、出来るだけなりたくない。子供を、一人のきちんとした人格であると捉え、間違ったことも時にはするけど未熟ではない、という視点で見ることの出来る人間でいたいと思う。
いつしか僕も『大人』になってしまう時が来るかもしれないけど、それを自覚するようなことがあれば、きっとショックだろうな。出来るだけ、先延ばしにしたいものである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
明日から夏休みだという終業式当日。東京の下町にある中学校の1年2組の男子生徒全員が忽然と姿を消した。それぞれの親がその状況に気付き、あれこれ考えてみるも、どうなっているのかわからない。まさか誘拐されたのではないだろうか、という話にもなり、親達は一時期混乱した。
しかしその夜、ラジオのミニFM放送を利用した「解放区放送」が流され、ようやく事態が飲み込めるようになった。
男子生徒は、河川敷にある工場跡地に立て篭もり、そこに解放区を作ったと宣言したのだ。大人を排除し、学校の息苦しい管理から逃れるため、ということなど何も考えず、ただ面白そうだからという理由で解放区を作った彼ら。相原という男が計画し、菊池がそれに乗ったことで、計画がスタートした。
しかし、予想外の事態も起こる。なんと、柿沼という男子生徒が実際に誘拐されてしまった、というのだ。その情報を、男子とは別に外に残り、情報を集める部隊として活躍する女子から聞いた面々は、解放区にいながらにして柿沼を救い出す計画を立て始める。
一方で、解放区にやってくる教師をコテンパに叩きのめしたり、テレビを呼んで大暴れしたり、花火だの迷路だの楽しげなことを次々に思いついては実行した。
彼らの解放区での七日間を、面白おかしく全力で描いた傑作です。
というような感じです。
僕はこの宗田治の「ぼくらのシリーズ」というのに中学の頃にモロ嵌まりして、ひたすらこのシリーズばっかり読んでました。相原と菊地を中心とした悪ガキたちがひたすら大暴れしながら、時に人助けをし、時に大人をバカにし、と言った内容で、もう無茶苦茶面白くて読み耽っていました。彼らみたいなことが出来たらいいなぁ、といつも思いながらも、思うだけで何も出来ない自分が取り残されるばかりで、少しだけ悲しかったですけど。
本作はその「ぼくらのシリーズ」の第一弾で、すべての始まりでもあります。宮沢りえ主演で映画にもなって、そっちの映画の方で知っている人も多いのかもですけど、僕は見たことがありません。
相変わらず面白い作品でした。いろんな小説を読むようになったから分かることですが、この「ぼくらのシリーズ」というのはとにかく読みやすいです。悪い例かもだけど、今のライトノベルのような感じなんだろうと思います。会話が多くて、テンポがいい。本作は多視点の物語で、視点がどんどん入れ替わっていくくせに、全然スラスラ読める。たぶん、普段小説を読む1.5倍くらいのスピードで読めたと思います。
やっぱ彼らのやってることは羨ましいですね。工場跡地に立て篭もって一週間篭城する、なんて考えただけでも面白いし、そこで大人をバカにしたりいろんな話をしたり友人を救ったりするのはもっと楽しいだろうな、と思います。
本作に出てくる大人は、冒頭で僕が書いたような『大人』ばかりで、読んでて腹が立ってきますね。教師が特に最悪で、もうどうしょもないです。でも、西脇先生はいいですね。
本作は、僕が中学生の頃に読んでいたくらいなので結構前の作品なんだけど、それでも今でも全然読める作品だと思います。体罰なんかがまだ全然残ってる学校が舞台だったりするので、いろいろ古いなと思うような箇所はたくさんあるのだけど、それでも子供が『大人』に立ち向かっていくというストーリーは不変だろうし普遍だろうし、楽しめると思います。
僕は、また機会があればこのシリーズを読んでみようと思います。読んだ事のない方は、是非本作ぐらいは読んで見てください。
宗田理「ぼくらの七日間戦争」
ぼくらの七日間戦争文庫
僕はとにかく『大人』にはなりたくなくて、なんとかそれに抗おうと思っています。
僕の言う『大人』というのは、年を取りたくないとか働きたくないとか責任を取りたくないとか、そういうことではありません。僕の中で『大人』というのは、子供を理解しない存在、ということなのです。
『大人』というのは、ホントいつだって同じようなことしかいいません。
「大人の言うことを聞いていればいい」
「勉強しなさい」
「子供の幸せを一番に考えているんだ」
とにかく、子供に理解がある人間、子供の幸せを一番に考えている存在、だと信じているわけです。
もちろん、本人はそう思い込んでいるだろう。自分は、子供のことに理解があるし、子供のことを一番に考えている、と。今は子供にとっては理解できないかもしれないけど、でも将来的にきっと自分が正しかったと信じてくれるはずだ、と。
しかし、そんな意見を耳にする度に、いつも思ってしまうことがあるのである。
『大人』は、自分が子供だった頃のことを忘れてしまっているのかな、と。
子供というのは、決して未熟な存在ではない、と僕は思っている。もちろん、人間として完成されているかと言えば、もちろんそんなことはないが、しかしそれは『大人』にだって同じことが言えるというだけの話だ。
『大人』と子供を分けるのは、その人間としての完成度や経験などではなく、唯一社会性という問題である。『大人』の背景には常に社会が存在し、子供の背景にはそれがない、というだけの話である。
『大人』は、社会を背負っているという自負があり、そんな自分のことを正しいと思っているのだろう。会社で働く自分、家庭を守る自分。そんな自分自身が社会の代弁者であり責任者であり、一人の人間として正しい、とそんな風に思っているに違いない。
だからこそ、逆説的にこう考えるのだ。社会を背負っていない子供は、間違いを犯すに違いない。ここは、社会を背負っている我々が、彼らを教育しなくてはいけない、と。
しかし、子供というのは、社会を背負っていないだけで、きちんと判断も出来れば正しいことも出来る。『大人』と変わらない複雑な世界の中で生きているし(場合によっては『大人』の社会より学校の世界の方がより複雑で大変かもしれない)、人知れず苦労だってしている。それなのに、社会性を帯びているかどうかだけで、『大人』と子供を隔てようとするのだ。
もう一つ思うことがある。それは、『大人』は子供を一まとめにして見ようとしている、ということだ。
例えば、大人でも犯罪を犯す人間はたくさんいる。悪い人間もたくさんいる。しかし『大人』は、彼ら犯罪者を『大人』として一括りにはしようとしない。そうすれば、自分達も同じである、ということになって不利益を被るからだ。『大人』は犯罪者を、彼はこれこれこうでこうだから、彼女はあれこれどうでああだったから、といろいろ理屈を捏ねては、自分達『大人』と違う枠で捉えようとする。
しかし、例えば子供が犯罪を犯した時、大人の反応は一様である。つまり、『子供が犯罪を犯した』というその点に集中するのだ。『大人』は、子供というのを一つの集団として扱おうとする。だからこそ、子供に害悪のあるゲームや映画はよくないなんていう、不毛な議論が巻き起こったりするのである。
子供にだっていろいろ違いはあるし事情もある。同じ子供で括られたくはないだろう。同じゲームや映画を見たってほとんど凶悪な感情を持つことはないのに、ほんのわずかそういう人間がいるからと言って子供全体にそれを禁止するのは、どう考えてもおかしい。『大人』だってそうだろう。あるゲームをやって犯罪にのめり込んだ『大人』の犯罪者がいて、そのためにそのゲームを禁止されることになったら、そんなバカな、と思うだろう。子供だって、もちろん同じだ。
自分が子供だった頃のことなんてすっかり忘れて、『大人』はいつの間にか『大人』になっている。最悪だ。そんな存在には、出来るだけなりたくない。子供を、一人のきちんとした人格であると捉え、間違ったことも時にはするけど未熟ではない、という視点で見ることの出来る人間でいたいと思う。
いつしか僕も『大人』になってしまう時が来るかもしれないけど、それを自覚するようなことがあれば、きっとショックだろうな。出来るだけ、先延ばしにしたいものである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
明日から夏休みだという終業式当日。東京の下町にある中学校の1年2組の男子生徒全員が忽然と姿を消した。それぞれの親がその状況に気付き、あれこれ考えてみるも、どうなっているのかわからない。まさか誘拐されたのではないだろうか、という話にもなり、親達は一時期混乱した。
しかしその夜、ラジオのミニFM放送を利用した「解放区放送」が流され、ようやく事態が飲み込めるようになった。
男子生徒は、河川敷にある工場跡地に立て篭もり、そこに解放区を作ったと宣言したのだ。大人を排除し、学校の息苦しい管理から逃れるため、ということなど何も考えず、ただ面白そうだからという理由で解放区を作った彼ら。相原という男が計画し、菊池がそれに乗ったことで、計画がスタートした。
しかし、予想外の事態も起こる。なんと、柿沼という男子生徒が実際に誘拐されてしまった、というのだ。その情報を、男子とは別に外に残り、情報を集める部隊として活躍する女子から聞いた面々は、解放区にいながらにして柿沼を救い出す計画を立て始める。
一方で、解放区にやってくる教師をコテンパに叩きのめしたり、テレビを呼んで大暴れしたり、花火だの迷路だの楽しげなことを次々に思いついては実行した。
彼らの解放区での七日間を、面白おかしく全力で描いた傑作です。
というような感じです。
僕はこの宗田治の「ぼくらのシリーズ」というのに中学の頃にモロ嵌まりして、ひたすらこのシリーズばっかり読んでました。相原と菊地を中心とした悪ガキたちがひたすら大暴れしながら、時に人助けをし、時に大人をバカにし、と言った内容で、もう無茶苦茶面白くて読み耽っていました。彼らみたいなことが出来たらいいなぁ、といつも思いながらも、思うだけで何も出来ない自分が取り残されるばかりで、少しだけ悲しかったですけど。
本作はその「ぼくらのシリーズ」の第一弾で、すべての始まりでもあります。宮沢りえ主演で映画にもなって、そっちの映画の方で知っている人も多いのかもですけど、僕は見たことがありません。
相変わらず面白い作品でした。いろんな小説を読むようになったから分かることですが、この「ぼくらのシリーズ」というのはとにかく読みやすいです。悪い例かもだけど、今のライトノベルのような感じなんだろうと思います。会話が多くて、テンポがいい。本作は多視点の物語で、視点がどんどん入れ替わっていくくせに、全然スラスラ読める。たぶん、普段小説を読む1.5倍くらいのスピードで読めたと思います。
やっぱ彼らのやってることは羨ましいですね。工場跡地に立て篭もって一週間篭城する、なんて考えただけでも面白いし、そこで大人をバカにしたりいろんな話をしたり友人を救ったりするのはもっと楽しいだろうな、と思います。
本作に出てくる大人は、冒頭で僕が書いたような『大人』ばかりで、読んでて腹が立ってきますね。教師が特に最悪で、もうどうしょもないです。でも、西脇先生はいいですね。
本作は、僕が中学生の頃に読んでいたくらいなので結構前の作品なんだけど、それでも今でも全然読める作品だと思います。体罰なんかがまだ全然残ってる学校が舞台だったりするので、いろいろ古いなと思うような箇所はたくさんあるのだけど、それでも子供が『大人』に立ち向かっていくというストーリーは不変だろうし普遍だろうし、楽しめると思います。
僕は、また機会があればこのシリーズを読んでみようと思います。読んだ事のない方は、是非本作ぐらいは読んで見てください。
宗田理「ぼくらの七日間戦争」
ぼくらの七日間戦争文庫
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Comment
[1640]
[1641]
こんばんわ。
左利きに代えるというアイデアはなかなかいいですね!森博嗣という作家は子供の頃、意識的に利き手ではない方の手も使い、今は両利きだそうです。便利でしょうね。
「理」でしたね…。これは失態ですね。直さなくては。
大人を一かたまりで見ているという指摘は、なるほど確かにそうでした。それを指摘してくれたのはなかなか嬉しい限りです。そうですね、僕も感想中で、「大人は子供を一まとめにしてみてる」とか書いておきながら、ダメですね。
でもまあ一応言い訳ですけど、感想の中で書いた『大人』というのは、ただ年上というだけの話でもないつもりではありますが。
宗田理は基本的に、そういう「大人対子供」や「悪対善」みたいな話を中心にした社会派の作品を書いていたようですね。それを、子供向けのシリーズでも敷衍したというところがなかなか面白いのだと思います。中学生たちの発想とかやり方みたいなものがなかなか面白くて、いいですね。まさに「痛快」でした。
本作に出てくる『大人』みたいにはなりたくないものですね。
そういえば、宗田理は、デビュー作が直木賞候補だったようです。それもすごい話ですよね。
「海の底」、読みたいですねぇ。警察と自衛隊の守備範囲ですか。なるほど、言われてみれば確かに気になりますね。きっと、微妙な部分とかあるんでしょうね。この領域は本来警察の領域だけど、伝統的に自衛隊がやってる、みたいな。
「怠惰な主婦」という表現はまあ謙遜でしょうが(僕は、主婦業をちゃんとやってる人は怠惰になりえないと思っているので)、やっぱ趣味なんでしょう。軍事オタクは、アニメオタクとかフィギュアオタクとかよりは全然健全な気がしますね(偏見でしょうか 笑)
「一人日和」はそういう作品なんですね。最近は淡々とした作品も全然いけるので(作品によりますけど)、ちょっと興味アリです。日常というのは、昨日と今日と明日で大した違いはないだろう、という意識があるからこそ、逆に小さな変化に驚いたりするものですよね。
直木賞は、ホント誰かが獲るべきだったと思います。ダメダメですね、選考委員は。
dradonworldさんなら、「太陽の塔」はすぐに読めてしまうでしょう。またコメント待ってますね。
左利きに代えるというアイデアはなかなかいいですね!森博嗣という作家は子供の頃、意識的に利き手ではない方の手も使い、今は両利きだそうです。便利でしょうね。
「理」でしたね…。これは失態ですね。直さなくては。
大人を一かたまりで見ているという指摘は、なるほど確かにそうでした。それを指摘してくれたのはなかなか嬉しい限りです。そうですね、僕も感想中で、「大人は子供を一まとめにしてみてる」とか書いておきながら、ダメですね。
でもまあ一応言い訳ですけど、感想の中で書いた『大人』というのは、ただ年上というだけの話でもないつもりではありますが。
宗田理は基本的に、そういう「大人対子供」や「悪対善」みたいな話を中心にした社会派の作品を書いていたようですね。それを、子供向けのシリーズでも敷衍したというところがなかなか面白いのだと思います。中学生たちの発想とかやり方みたいなものがなかなか面白くて、いいですね。まさに「痛快」でした。
本作に出てくる『大人』みたいにはなりたくないものですね。
そういえば、宗田理は、デビュー作が直木賞候補だったようです。それもすごい話ですよね。
「海の底」、読みたいですねぇ。警察と自衛隊の守備範囲ですか。なるほど、言われてみれば確かに気になりますね。きっと、微妙な部分とかあるんでしょうね。この領域は本来警察の領域だけど、伝統的に自衛隊がやってる、みたいな。
「怠惰な主婦」という表現はまあ謙遜でしょうが(僕は、主婦業をちゃんとやってる人は怠惰になりえないと思っているので)、やっぱ趣味なんでしょう。軍事オタクは、アニメオタクとかフィギュアオタクとかよりは全然健全な気がしますね(偏見でしょうか 笑)
「一人日和」はそういう作品なんですね。最近は淡々とした作品も全然いけるので(作品によりますけど)、ちょっと興味アリです。日常というのは、昨日と今日と明日で大した違いはないだろう、という意識があるからこそ、逆に小さな変化に驚いたりするものですよね。
直木賞は、ホント誰かが獲るべきだったと思います。ダメダメですね、選考委員は。
dradonworldさんなら、「太陽の塔」はすぐに読めてしまうでしょう。またコメント待ってますね。
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『ぼくらの七日間戦争』、おもしろかったそうで、好かったですね。
《痛快》と感じられる感性があるのは、心がピュアな証拠です。
ただ、年齢だけは充分大人の立場から言うと、ここに登場する大人って、ご都合主義の胡散臭いだけの大人ですよね。西脇先生以外は。
やはり、大人を十把一絡げで考えるのは不公平ですよ。(と、いかにも大人代表のような意見になっていますが…)
宗田さんの話の展開は、本当に分かりやすいですよね。(そういえば「治」ではなく「理」です)
【子供 VS 大人(親・先生)】、これ以外ありません。【善 VS 悪】とも置き換えられます。
大人達がプライドを棄て、なりふり構わず翻弄される様は、年輩の大人である私が読んでも小気味好いですよ。溜飲が下がる、思いです。
胡散臭い大人でいてはいけないな、とちょっと苦い思いもしますが…。また、子ども達の知能や大胆な行動力にも驚かされますね。
私もいくつになっても、《痛快》と感じる大人でいたいと思います。
『海の底』、読み終えました。やはり、好かったですよ。警察と自衛隊の守備範囲の問題なども興味を覚えました。本筋の部分は、敢えて省略しますので…。
有川さん本人の後書きに
>ちょっと(かなり)怠惰めな主婦として関西暮らし十余年目。
と、あります。この怠惰な(?)時間にひたすら戦闘機や潜水艦のデータ収集をされていたのでしょうか? だとしたら、この作品にも登場する軍事オタクと一緒です。いやぁ、畏るべし!です。
『ひとり日和』も文春で読みました。芥川賞って、やはり新人発掘なんですね。ちょっと私小説っぽい雰囲気で、一年間の日常が熱くなく淡々と展開していました。ハッとする部分が時々登場するところに、彼女の感性を感じました。審査委員が、ちょっと冗長、と評していたのも納得できました。直木賞も、どなたかに獲らせてあげれば好かったのに…と、私は今でも不満です。
では、この辺で。『太陽の塔』も今夜から読み始めます。またコメントしますが、この作品はコメント数が2ケタになりましたね。すばらしいことです!